
先日、「滋賀シュタイナー ちいさいおうち園」に伺い、保育の現場に3時間ほどですが、いさせていただきました。
朝、子どもたちが登園して来る前の、祈りのことばやシュタイナーの「こころのこよみ」の静かな朗唱。教師の方々とわたしは、静かさに耳を澄まします。そして、そのあと、それぞれが担う手仕事を黙々と始めるのです。
手仕事が織りなされているその幼児教育の現場は、そのとき、すでに聖なる空間へとなり変わっていて、そこへ、ひとりひとり、子どもが入って来ます。
部屋の隅で、木のおもちゃや道具をオイルで浸した布で磨く仕事をしているわたしを、子どもたちはとても純粋なまなざしで見てくれます。
そうして、早速、仲間と遊びだす子どもたち。しかし、ひとりの女の子がわたしと目が合うと、何も言わずにわたしのそばに座り、わたしがしている仕事を一緒にし始めるのでした。わたしもその子とほとんどことばは交わさず、ただ目を時々合わせながら、黙々とおよそ1時間半ほどその仕事を共にし続けたのでした。
不思議なことです。人と人との関係で、このような、ことばを介さずとも一時間半もの間、共にいられるなんて。それは、わたしにとって、こころが揺さぶられるような体験でした。
幼な子は、からだのまるごとが目であり耳であります。全身でそばにいる人やものを観ていますし、聴いています。その感官の働きは、考える働きを措いて、純粋に観て聴いて触れて味わっている。そのことをわたしは考えるよりも、感じながら、その彼女との時間をそれとなく、淡々と、穏やかに、生きさせてもらったのでした。
そう、知的に生きる以前の、原始的な、人と人との無言のかかわり。
仕事。息づかい。ほほえみ。遊び。
また、この写真のように、窓に掛けられているカーテンが淡い桃色ですが、この桃色を通して外からのお陽さまの光が部屋に差し込むと、何とも言えない、安心感に包まれるような、まるで母胎の中にいるような感覚を覚えるのでした。
このことは本で読んで知っていたことですが、頭で理解していたことであり、知ったつもりになっていたことなのでした。
しかし、実際にその桃色を通してお陽さまの光に包まれてみますと、わたしの皮膚が優しい何かに包まれ、くるまれ、護られている。さらに、わたしの内なるこころには、大人になってから久しく忘れてしまっている無垢な情が小さな花となって開きゆくのでした。
その後、先生方が導いて、おもちゃや自分が拡げた何かをこどもたちはお片付けし始めます。そのときの喜ばしい子どもたちの表情。上手に、綺麗に、片付けることが美しい。そう感じているようです。
そして、片づけられた部屋の真ん中で、輪になり、歌を歌い、お祈りをし、物語りをからだまるごとを動かせながら舞い、踊るとき、そこは小さな祝祭の場となるのでした。
そうして、お茶とおやつをいただいた子どもたちは、お外へとみんなで出てゆきます。わたしは、そこで、みんなとお別れをしました。
このような幼児教育がありうるのだ。
当たり前の言い方しかできませんが、ひとり園から歩き出しながら、そう思いました。
その場は、何によって創られるか。
それは、保育の場を担うひとりの先生によって空間のすみずみにまで注がれる意識です。そして、その意識をこころとからだで理解する補助の先生方の協力。そのチームワーク。それは靈(ひ)の光となって、すべてを暖かく明るく包み、癒し、護り、育てます。
幼児教育者の内側に流れている静かさと目覚めた意識。
この空間と時間を毎日創り続けることは、本当に深い仕事だとわたしは感じたのでした。
シュタイナーの学び、アントロポゾフィーから生まれる、人と人とが協力し合いながらなされる、地道な、けれども、おおいなる仕事の一端に触れさせてもらえたのでした。
わたしにとって、尊い尊い時間でした。
※写真は、滋賀シュタイナーちいさいおうち園のフェイスブックのページからお借りしました。


























