
『古事記(ふることぶみ)』に「黄泉(よみ)の国のくだり」があります。
そのくだりは、多くの人によく知られているところで、死んでしまった妻イザナミノミコトを夫イザナギノミコトが死の国、黄泉の国まで追いかけて行くところから始まります。
しかし、そこで妻のおそろしい姿をのぞき見してしまったイザナギノミコトは、黄泉の国の鬼とも言える醜女(しこめ)たちや八柱(やばしら)の雷神(いかづちのかみ)たちに追いかけられながらも、生の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ帰ってきます。
そして、そのくだりの最後に、夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトとが大きな岩を間に据えて向かい合い、ことばを交わし合います。
死の国の女神は申されます。「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)くびりころさむ」。
そして、生の国の男神が申されます。「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててむ」と。
最後に、靈(ひ)からのことばをもって、このくだりが閉じられます。「ここをもて一日にかならず千人(ちひと)死に、一日にかならず千五百人(ちいほひと)なも生まるる」。
15年前の東日本大震災の日を今日に迎え、また我が国の甦り(黄泉帰り)の祭りである桃の節句(旧暦3月3日)を来月4月19日に控え、今、わたしは、この我が国の神語りが伝えてくれていることにいたくこころを惹きつけられています。
それは、死(の神)と生(の神)が、大きな岩(意識)で隔てられてはいても、ことばを交わし合ったということなのです。
そして、その談(かた)らいは、いまも、ずっと続いている、そう思われてなりません。死と生は談らい続けています。その談らいによって死と生は表裏一体のものです。どちらかひとつが欠けても世はなりたちません。ふたつはひとつなのです。
死と生とが、そのように断絶しているように見えているのは、わたしたちの意識のせいです。
しかし、我が国の神話・神語りのありがたいところは、その大きな岩という断絶を超えて、死と生が談らい合つているという、このことであり、さらには、この談らいがこれまでの多くの解釈によるような憎しみをもってやりとりされているのではなく、互いに互いの存在と役割を讃え合っているということです。
それは、如実に響きとして響いています。互いに呼びかける時に、どちらも相手のことを「うつくしき・・・」ということばを発しているのです。それは、死と生とが、もとは、ひとつであったことから来る情の発露です。
世は分かたれなければならないこと。しかし、憎しみをもって分断が宣言されるのではありません。
分かたれたからこそ、互いが互いを認め、讃え、敬っています。
分断を煽るのではなく、互いを讃え、敬うという、葛藤を超えたひとりひとりの人の意識の変容こそが、世を生成発展させ、弥栄に栄えさせることへと深いところで働きかけています。
個人のことだけでなく、男女間のことだけでなく、国と国、民と民との間のことにおいても、分断しようとする力が強く働いている今ですが、国防や国際社会における政治的駆け引きなどもその必要性から当然なされてしかるべきだと考えつつも、この内なるひとりひとりのこころのなり変わりこそが世に新しい場を創りなす鍵となるのだということを肝に銘じたいのです。
政治的な面において、世には残酷なところがあるとわたしは痛感しています。願わくば、このことばが、分断を言いつのることではなく、事実を事実として認めることへと繋がりますように。
その現実を知るほどに、上に書いたことのかけがえのない精神からの伝えとしての我が国の神話・神語りの重要性をいまさらながら念うのです。
そのことをわたしたち日本人は深みで知っています。先(さき)つ祖(おや)、ご先祖様はそのことをわたしたち現代人以上に遥かに深く遠く知っておられました。
そして、その古くからの伝統や習慣が失われてしまった今、わたしたちは、教育を通して、芸術的に、意識的に、我が国の神語りを暮らしの基にもう一度据え直すことができます。
我が国の神話・神語りによって、死と生が二極対立としてあるのではなく、ふたつがまるごとでひとつなのだとおおらかに捉える力を育むことが大切なことではないかと思うのです。そこには、密やかな悲しみが湛えられていますが、その悲しみはおおいなる意味と価値をもっています。
その内なる力が、世の分断を防ぎ、和してあることへ、そしてその和すことそのことが、弥栄に栄えゆくことへとわたしたちを導くという、いにしへからの我が国の靈(ひ)の伝統をわたしも信じています。
分断されるのではなく、誰かに無理やり分けられるのではなく、みずからを他からいさぎよく分かつこと、さらには、みずからでみずからの混沌を分かつこと、整理整頓すること。
男と女。目上の者と目下の者。分をわきまえるということ。国と国。こういった分かちは、決して優劣を言うものではありません。違いを違いとしてはっきりと認めることです。その意識的な分かちこそが、逆に、ひとつひとつ、ひとりひとりをまことのひとつひとつ、ひとりひとりとして際立たせ、さらには本当の信頼感、敬いの念いが個人と個人の間、国と国との間に生まれ、そもそもはまるごとでひとつなのだという安らぎの情がおのずと立ち上がって来るはずです。
そして、究極の分かちと言ってもいい、生と死。それも、そもそもはひとつのものであるということです。
この内なる密(ひめ)やかなこころのなり変わりを、わたしたちは、もう一度、意識的に練習して行くこと。この大切さ、必要性を強く念うのです。

