2023年07月26日

米づくりの一端に触れさせていただきました



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猛暑極まる夏の京都。しかし、ここは、標高650メートル近くあるとても爽やかな光と涼しい風に恵まれてゐる山あひの一村。南丹市園部町に住まはれてゐる齋藤さんご夫妻のご自宅を訪ね、田に入らせていただき、お米づくりの一端に触れさせてもらふ。


苗の植ゑ付けを遅らせられたとのことで、水はまだ抜かれてをらず、今月初めに植ゑられ終はつた苗たちの根が水の下の柔らかい土に根を伸ばし始めてゐるところ。


水の漲つてゐる田に這ひつくばつて、稲の苗と苗の間の水中に生え伸びてゐる草を引き抜く。二時間ほどだけだが、水田の泥の中に膝まづきながら、匍匐前進していく。それは、稲といふ植物との親しい、密やかな対話をさせてもらつてゐるやうな時間だつた。


稲に対する愛、米に対する敬意がおのづから自分自身の内側に根付いて来る。


そして、そのこころに育つものこそが、暮らしを、生を、人生を織りなして行く予感。それは、社会といふ人と人とのかかはりあひを作る目に見えない基盤なのではないだらうか。


米といふ天与の糧を植ゑて育てて刈り取りいただくといふ「米づくり」こそが、わたしたちの「くにづくり」の基なのだと神話は語つてゐるが、そのリアリティーのほんの一端だけれども触れさせてもらつた。


齋藤 健司さん、豊泉 未来子さん、二日間にわたつてお世話になりました。こころからお礼を申し上げます。本当にありがたうございました。


おふたりとの静かな語らひの時間。語り合ふといふことがメディテーションそのものであるといふこと。そして、からだとこころにひたすら滋養と回復を与へる、こころづくしのお料理。


ありがたい、ありがたい、時間をいただきました。


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2023年07月23日

暮らしの中で死を想ひ起こす






観て下さつて、どうもありがたうございます。


これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願いいたします。


アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志





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こころのこよみ(第16週)



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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
御声(みこゑ)がわたしに厳しく求める。
 
神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りをもたらすやうにと。
 
        
 
Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Das reifend Gottesgaben
In Seelengrunden fruchtend
Der Selbstheit Fruchte bringen.  
 
 
 

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2023年07月20日

愛と自由 いかにして人が高い世を知るにいたるか






観て下さつて、どうもありがたうございます。

これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。

アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志


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2023年07月18日

金縛りの恐怖!と ホ・オポノポノの恵み






観て下さつて、どうもありがたうございます。

これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志


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8/26(土)夏の青森弘前 言語造形の一日



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写真は、会場の「丹鶴庵」ホームページからお借りしました



8月最後の週末土曜日、青森は弘前の岩木山を背にしながら、ルードルフ・シュタイナーから生まれた芸術「言語造形」にたっぷりと一日浸ってみませんか。


日本の古くからの和歌や俳句や詩を津軽の風土の中で大空に響かせてみましょう。


ことばを口先で唱えるのではなく、全身から発する響きをもって空間にことばを解き放つのです。


そのとき、わたしたちは、日本人が古来大切にしていた「言霊」というものをリアルに体感し、ことばというものがもたらしてくれる精神の力を実感する喜びを味わうことができるでしょう。


その術を教えてくれるのが、シュタイナーから生まれた「言語造形」なのです。


会場は、青森県弘前市の郊外、岩木山を背にした集落のはずれにある民宿「丹鶴庵」です。ホームページはこちらです。https://tankakuan.jp/
宿泊のご予約も受け付けておられます。


風光明媚な場で、ぜひ、この夏の思い出に、言語造形の一日をご一緒しませんか。


お待ちしております。


アントロポゾフィーハウス 諏訪耕志



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日時:
2023年8月26日(土)9時〜16時(昼食・休憩を挟みます)


場所:
民宿「丹鶴庵」 青森県弘前市葛原大柳20−1
ホームページ  https://tankakuan.jp/


ご参加費:
5000円
宿泊費(一泊目は4500円 二泊目以降は3500円)・昼食費などは別途になります。


お申し込み:
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/






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2023年07月17日

故きを温ね新しきを知る 8月からのクラスのご紹介



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天香久山


新クラス『我が国の精神を学ぶ 〜古典文学「萬葉集」「古事記」〜』のご案内



日本という国が、どういう「くに」なのか。それは、古典文学の中に明々(あかあか)と記されています。


わたしたちは、これからの日本という国の進むべき道、新しきを知るためにも、古きをたずねる必要があるのではないでしょうか。


江戸時代に興隆した国学という学問、そして言語造形ということばを朗唱する芸術を通して、日本という「くに」の精神を、わたしたちのこころの内に育てて行きたいと願っています。


わたしたちが、わたしたちの子どもや孫たちのために、何を守り、何を大事にしていくべきか、きっと、この学びと芸術実践から見えて来ることと信じています。


新しい日本の「くにづくり」の礎。それは、守り、育むべき思想、学問、芸術から始まるのです。


ゆっくりと、ゆったりと、しずかに、いきいきと、古典文学に取り組んで参ります。


この国の危機を感じ、なんとかしなければと考えておられる皆さん、ぜひ、この精神文化への取り組みから始めて参りましょう。


皆さんとの出会いを楽しみにしております。


アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志



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日時:
2023年8月19日(土)14時〜16時半
以後、毎月第三土曜日、同時間


場所:
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪宅
https://kotobanoie.net/access/


参加費:
初回体験ご参加 4000円
4回連続ご参加 14000円


お問い合わせ・お申し込み:
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


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こころのこよみ(第15週)



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わたしは感じる、魔法にかかつたごとく、
 
世の輝きに精神が織り込まれてゐる。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授ける、

わたしの<わたし>は、囲はれてあり。
 
 
Ich fuhle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehullt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmachtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 

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2023年07月11日

こころのこよみ(第14週)



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クロード・モネ「睡蓮」




感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betaubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 

※ Weltendenken といふことばを、Welten(宇宙の)denken(思考)と訳さずに、古くから日本人が用ゐ、馴染みのあることばをなるべく遣ひたく、Weltenを「世の」とし、denken は、動詞のかたちををそのまま用ゐてゐるシュタイナーに倣ひ、そのかたちが伝へる動きの感覚、アクティブな感覚を活かすべく、そのまま「考へる」としました。よつて、見慣れなく、聴き慣れない言ひ方ですが、「世の考へる」としました。
 
 


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2023年07月10日

意志の共同体づくりの難しさ






よき考へ、素晴らしいアイデア、理想、それらを分かち合へる仲間があることは、本当にありがたく、嬉しいこと。


しかし、そのよき考へ、理想を、実現していくことを共に分かち合つてゆく仲間は、もつと、ありがたく、嬉しいこと。

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7/11(火)アントロポゾフィーハウス滋賀草津へのご案内



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どんなご時世になっても、自身の内なる静かさを忘れず、こころ柔らかに、意識を目覚めさせて、毎日を生きて行く。


そんなこころの育みを促す毎月一回の学びの会です。


シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』をテキストに、それぞれが感じるところを語り合いながら時間を創り出しています。


また、こころとからだをまるごと用いて、ことばを話す芸術「言語造形」にも取り組んでいます。明日は、平安時代の女流歌人、和泉式部の和歌をたっぷりと味わいたく思っています。


初めての方でも、お気軽にご参加していただけます。


一度、体験でお越しください。お待ちしております。


アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志



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場所:
滋賀県草津市内のメンバーの方のご自宅です(お申込みいただきました方には詳細をお伝えいたします)


日時:
第二火曜日 午前10時より12時半 次回は、明日の7/11


ご参加費:
体験ご参加 3500円  4回連続ご参加 12000円
プラス場所代 100円


お問い合わせ・お申し込み:
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


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2023年07月09日

プロレタリア?



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ルードルフ・シュタイナーの「社会の生きた織りなしの三分節」の研究に取り組んでゐて、まづ思ふのは、ここに述べられてゐる「プロレタリア(労働者)」とは、一階級の人たちのことを言ふことばじやなく、100年後のいまでは、現代人の多くも多くの人を指すことばじやないかと思ふのです。


プロレタリアは、四つの観念に縛られてゐるといひます。


一つ目は、「経済がすべてだ。自分たち労働者の暮らしをよくするためには、経済システムを改善すること。これに尽きる」といふ経済至上主義の観念。


二つ目は、「労働者である我々は一部の資本家たちに我々の富を搾取されてゐる」といふ階級差別の観念。


三つめは、「我々の労働にはすべて価格がつけられてゐる。我々の労働自体が商品のひとつにすぎないのだ」といふ自己疎外の観念。


そして、四つ目は最も奥深い観念だと思はれるのですが、「我々の人生にとつて、経済生活だけがリアルなものなのであり、精神や理想なんてものは単なるイデオロギー(死んだ概念)にすぎない」といふ唯物主義的な観念。


かうして、四つ目が、また、一つ目に帰つてゆき、ぐるぐるとこの四つの観念を巡り廻つてゐるのが、プロレタリアの心理状態であるといふことなのです。


これつて、現代のわたしたちの大部分の者の意識状態に似てゐませんか。


その結果、わたしたちひとりひとりは、自分自身への不信感、矮小感、無力感に苦しんではゐないでせうか。


200年前にこの世に生を享けたカール・マルクス。その思想が、ソ連邦の崩壊で政治的には崩壊したやうに見えましたが、かえつて、思想的、文化的に、深く、執拗に、わたしたちの内部に入り込んで、わたしたちの意識を眠りへといざなっているやうに思へてなりません。


このことは、国際的な問題として、また、歴史的な問題として、想像以上に、複雑で困難な問題であり、特に2020年からは、グローバリズム(全体主義)の明確な台頭として現象面で顕はになつて来てゐます。


しかし、すべては、ひとりひとりの意識の目覚めからしか、始まらないのだと思ひます。


この四つの観念をひとつひとつよく吟味して、それぞれの観念から、わたしたちは、どうしたら、目覚め、自由になりうるのか、勉強していきたいと思つてゐます。




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2023年07月07日

タイパよ、消え去り給へ



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昨日は、東京にて言語造形をいたしました。


夏の陽射しでしたが、幾分爽やかな風が吹いていて、とても過ごしやすい朝からの芸術実践の時間。


午前の時間は、教育関係の方々ですが、コロナウイルス騒ぎのため、三年ぶりにお会ひして、語り合ひつつの久々の芸術実践の時間。言語造形を通して、からだまるごとで、腹の底からことばを声にすることを一気に想ひ起こす時間になりました。本当に嬉しくありがたい時間です。


そして、午後には、冠木 友紀子さんが主宰されている通訳藝術道場の特別クラスとして、初めての方々と言語造形をいたしました。


英語と日本語の間を取り持つ通訳者の方々と、こうして日本語と英語の言語造形に取り組むといふことは、本当に小さくない意味と意義をもつと、わたしは思つてゐます。


ことばといふものを、意味の側面で捉へることに尽きずに、その響きが持つてゐるリズムや抑揚、強弱といふ音楽性、そして音韻ひとつひとつが持つ彫塑性を引き上げることで、情報伝達のための単なる道具としてではなく、芸術として扱ふのです。


わたしは思ひます。


通訳者の方がそのやうな見識と感官をもつて場に臨むことによつて、異なる民族の文化と文化がより深い層において交流し合ふ場になることへと繋がりはしないでせうか。


それは通訳するといふひとりの人の行為が、各々の民族が背負ってゐる歴史性と歴史性とを結ぶ、限りない可能性に満ちたものになることへと繋がりゆきはしないでせうか。


昨日は、午前も午後も、どちらも、松尾芭蕉の俳諧作品を採り上げて、一音一音の響きに意を注ぎつつ、十七音からなることばの芸術作品を音楽的に、彫塑的に、仕上げてゆく過程に一歩だけ踏み込んでみました。


日々の暮らしにあくせくしてゐるわたしたちが、たつた十七音の世界に全身全霊で取り組むことによつて、深淵さに満ちた、どこか永遠を感じさせる精神の時間へと入り込んでゆくのでした。


最近は、コスパ(コストパフォーマンス)ではもはやなく、タイパ(タイムパフォーマンス)といふものが特に若者の間では重視されてゐて、いかに切り詰めた短い時間の中で高い満足感を得られるかといふ性向に傾いてゐるやうですね。


you tube の動画でも1分ほどで作られる「ショート動画」や映画などを1.5倍速や2倍速で観ることによつて、その「タイパ」を高めるといひます。


そのやうな流行といひ、時代の趨勢といふものは、えてして若者から始まるものですね。


さういうことを仕掛てゐる者が誰かは別のこととして、若者からさういふ流れが生まれることはいつの世においてもあることだと思ひます。


しかし、芸術といふものがあるお陰で、わたしたちは、そのやうな性向から自由になり、たつぷりと時間をかけて、しかもその時間の中にできる限り多くを詰め込まうとせず、ゆつくりと、たつぷりと、静かさの中に入つてゆく、そんなあり方を生きることができます。


そして、さういふ時間を生きることによつてこそ、人は人であることの意味を実感できる。


「タイパ」などといふことばが遠く彼方へ消え去つて行きます。


人は、情報を貪るブタではない、といふ言い方はきつすぎる感情的なことばだと思ふのですが、さういひたくなる自分がゐます。


しかし、さう信じる大人がゐることが、若者や子どもたちを何かの家畜にすることから守ります。


繊細で意識の目覚めた人は若者の中にも勿論ゐますが、多くの人が主体性を失くし、右顧左眄するだけで精一杯の輩になるのは、世の常ですね。


言語造形といふことばの芸術は、さういふ時代の流れにストップをかけて、じつと立ち止まるひとときを持つことへと人を導きます。


若者は大人に唯々諾々と従ふべからざること。そして、年寄りは若者に媚びざること。


わたしたちは、大人になりたいと思ひます。




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2023年07月05日

教育勅語 さらに百人一首にみる日本の精神






自分の権利を主張することよりも、自分が担つてゐる責任を果たすこと。


わたしはどんな責任を担つて、この世に生きてゐるのか。


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2023年07月02日

こころのこよみ(第13週)



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そしてわたしはある、感官の高みに。

ならば燃え上がる、我がこころの深みにおいて、

精神の火の世から、

神々のまことのことばが。

「精神の基にて、探し求めよ、御声(みこゑ)に聴きつつ、

あなたを、精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」


 
Und bin ich in den Sinneshohen,
So flammt in meinen Seelentiefen
Aus Geistes Feuerwelten
Der Gotter Wahrheitswort:
In Geistesgrunden suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.




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江戸時代にすでにあつた独学の精神 小林秀雄『本居宣長 補記』



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己れの剣ひとつで生きる武士のやうな精神をもつて、「いかにして人は生きるか」といふ学問に身命を賭した人たち。


当時の江戸時代の日本に存在した豪傑たち。


小林秀雄の『本居宣長』には、さういう人たちの精神が、小林のこころに映じるままに描かれてゐます。


近江聖人と言はれた儒学者・中江藤樹も、そのひとりです。



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先生の問ひに正しく答へるとは、先生が予め隠して置いた答へを見附け出す事を出ない。

藤樹に言はせれば、さういふ事ばかりやつてゐて、「活発融通の心」を失つてしまつたのが、「今時はやる俗学」なのであつた。

取戻さなければならないのは、問ひの発明であつて、正しい答へなどではない。

今日の学問に必要なのは師友ではない、師友を頼まず、独り「自反」し、新たな問ひを心中に蓄へる人である。

さういふ所から、彼は、「独学」という事をやかましく言つた。


(小林秀雄著『本居宣長 補記』17頁)


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たつた独りで「問ふ」こと。たつた独りで、ものごとに対して「問ひ」を立てること。他の誰もしない「問ひ」を発明すること。


もちろん、答へが欲しくて問ひを立ててゐる。


しかし、答へを得られようが得られまいが、そのことに拘泥せず、むしろ、即座に得られる答へなどには真実はないと思ひ定めて、問ひを立てる。立て続ける。


それは、意識を目覚めさせることと全く軌を一にしてゐる。


端的に、そのことに向かふこと。


それが、「学ぶ」といふことではないか。


江戸時代にすでにあつた、「独学の精神」です。






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2023年06月30日

社会性と反社会性






ルードルフ・シュタイナー全集GA186所載『社会性と反社会性』(1918年12月12日 ベルン)よりの内容を語らせてもらつてゐます。

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2023年06月26日

こころのこよみ(第12週)ヨハネ祭の調べ



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フランティセック・クプカ 赤い背景のエチュード



世の美しい輝き、

それはわたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つやうにと。

わたしは己れから離れ、

ただ信じつつ、みづからを探し求める、

世の光と世の熱の内に。



Johanni-Stimmung

Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen  
Des Eigenlebens Götterkräfte    
Zum Weltenfluge zu entbinden; 
Mich selber zu verlassen, 
Vertrauend nur mich suchend   
In Weltenlicht und Weltenwärme.        



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2023年06月25日

わたしたちの暮らしを支える礎とは何かA



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大阪市住吉区の生根神社の夏祭り



これまで「国家」といふことばが発せられるときになぜか生じる多くの人の反感の似た情動に対して、わたしはどこか違和感を感じて来ました。


「国家」について考へること、ことばに出して言ふこと、それらがなぜか憚られるやうな雰囲気が、これまでのわたしたちにありはしないでせうか。


普段日頃の人との付き合ひにおいて、「国家」について話すこと、「政治」について語り合ふこと、それらがどこか避けられてゐるし、自分自身も避けてゐる、そんな風に感じられてゐる方は多いのではないでせうか。


それは、こういう理由からではないかと思ひます。


幕末の黒船来航以来、西洋からの軍事的、文化的侵略に対抗すべく、どうしても成り立たせねばならなかつたもの、それが「国家」であつた。


明治維新以来、急造されたものとしての「国家」、すなはち、「近代国家」です。


それが、「国家」といふ名で、現代人が意識してゐる(させられてゐる)ものなのではないでせうか。


その「国家」とは、自国の尊厳や希望からではなく、ましてや他国との協調、友愛から生まれたものなどでは全くなく、争ひ、闘ひ、反目、緊張の中でこしらえざるをえなかつたものだつたのではないでせうか。


その経緯は、この日本という国が歩まねばならなかつた運命の必然、しかし近代史のまことに特異な特徴です。


さう、わたしたちの「国家」は、始めも始めから「近代国家」でした。ある意味、無理強いされて作らざるをえなかつた近代国家でした。


ですので、「国家」といふことばを聞くと、反射的に、「戦争」「軍事国家」といふイメージを思ひ浮かべてしまふのです。


日本の歴史を丹念に振り返つてみますと、この日本はそもそも、そのやうな「国家」ではなかつたことに思ひ至ります。もちろん、「国家」といふことばはありました。しかし、明治維新が起こると同時に、わたしたちのご先祖様たちは、外圧によつて、近代的な「国家」を打ち樹てざるをえなかつたのです。そのときのスローガンは、「文明開化」と「富国強兵」です。


この日本はそもそも、そのやうな「国家」ではなかつた、と書きました。


古くからある他の多くの国家は、自分たちの「神話」を持つてゐます。それは、自分たちの国を生み出し、世界を生み出し、地球を生み出し、宇宙を生み出した神々の物語です。


そして、我が国、日本にも神話がありがたいことに残つてゐます。そのひとつが「古事記」ですが、そこに記されてあることは、人と人とのエゴのぶつかり合ひ、弱肉強食の世界から結果的に生まれた、いはゆる「国家」ではなく、この国もまた、天つ神(あまつかみ)から授かつた「くに」を実現しようとして、葛藤の末、成り立つて来たものであること、それは、神々の崇高な意図を人が受け継いで生まれたものとしての「くにつち」でありました。


つまり、そもそも、他のいくつかの国々と等しく、日本も、天から降りて来たものである「くに」であるといふ神話を持ち続けてゐたのでした。


わたしたちは、その神話の中にずつと長く生きて来た民でした。神話が語り継がれて来たからこそ、少なくても何千年にわたつて、ひとつの「くに」が引き続いて来られたのです。神話がなければ、絶対に、途中で、「くに」は奪はれ、他の民族に「くにつち」は侵され、侵入され、転覆してゐたことでせう。


いま、わたしたちは、「神話」をもつてゐるでせうか。


「神話」とは、ひとつの民族が「くに」といふ人の共同体をとこしへに引き続かせてゆくための大事なストーリー・物語です。「神話」とは、人が、自由な人へと成長して行くための、とこしへに続く精神の糧です。なぜなら、物語こそ、ことばこそが、人をその人たらしめる、源の精神だからです。


ひとりひとりの人に精神的な履歴が確かにあつて初めて、その人はその人であるといふことが自他ともに意識されるやうに、ひとつひとつの共同体もさういふ履歴をしつかりと持つといふことがその共同体の存続にとって重要なことです。さらには、ひとつひとつの「くに」が健やかに自身を成長させていくためには、己れの精神の履歴、精神の歴史を意識し続けていく必要があるのです。


さういふ精神の履歴、精神史がその「くに」を貫いてゐるからこそ、未来に向けて、「こういうくにでありたい」といふことば、絵姿をもつた想ひ、ビジョンを、ひとりひとりの人が持つことができ、その「くに」のさらなる歩みを導いて行きます。


そのビジョンとは、ことばを換へて言ふならば、建国の精神です。


この日本には、そのビジョンが、建国の精神が、はじまりのことばが、あつたのです。


それは、決して、「富国強兵」「文明開化」ではありませんでした。


天の高天原からのことよさしとして、「天地(あめつち)極まりなく栄へゆかむ」といふものでした。


しかし、そのビジョンは、共有されなければ、何の意味もありません。


どのやうにして、そのビジョンは共有されてゐたのでせうか。


それは、経典でも教説でもなく、米作りを中心とした神と人との共同作業をもつて営まれる暮らしの営みそのもの、そして、その暮らしの連続に句読点を打つ祭りをもつてです。


それは、手足の働きからぢかに生まれて来た神々の叡智でありました。


そして、いま、わたしたちに、共同体のビジョン、「くに」のビジョンを描くためには何が必要でしょうか。


それには、米作りを中心とした農、漁、林といふ第一次産業の新しい立て直しによる食生活の見直しや、祭りの精神的な意味に目覚めること、その他多くも多くの課題があります。


しかし、より本質的なことは、その共同体に参加するひとりひとりのこころの内に、ビジョンがしつかりと描かれてゐることです。


ひとりひとりの人が、みづからのこころの内で、わたし自身がどのやうな人になりたいのか、どのやうな人生を送りたいのか、そしてそこからこそ、わたしはこの国をどういふ「くに」にして行きたいか、と熱く考へ、想ふことです。


とりわけ、現代に生きているわたしたちは、誰かひとりの人によって、リーダーによつて、ビジョンが描かれるのではなく、ひとりひとりの人が意識を目覚めさせ、みづから己れのこころの内に明確にビジョンを描かなければならない時代に生きてゐます。





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2023年06月24日

わたしたちの暮らしを支える礎とは何か@



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住吉大社の夏越祓神事



人の意識が、時代の流れの中で、移り変はつて來てゐます。


これまで当たり前だつた家庭のあり方。これまで当たり前に通つてゐた學校と云ふところ。これまで当たり前だつたお金の稼ぎ方、働き方、生き方。


さういつたもののあり方、存在する意味が、特に、ここ十年ほどの間、少しづつ少しづつ、しかし、はつきりと変はつてきてゐることを実感します。


それは、これまであつたそれぞれの共同体のあり方が崩れて來てゐるといふことであり、ひとりひとりの人が「個人であること」を確立しようとする方向性に向かつてゐるといふことではないかと思ふのです。


しがらみや窮屈な人間関係から自由になりたくて、多くの人が、これまで当たり前のものとしてゐたそれらの共同体からの離脱をなしてゐるやうに思はれます。


それは、人とは「自由」を求める存在であるといふ、時代の徴(しるし)です。時代が進むにつれて、その願ひ、こころざしはだんだん強まつてきました。


しかし、それは同時に、ひとりひとりが孤立していく方向性の加速を意味してゐます。


21世紀の20年代のいま、自由を求める上で必然的に生じて來る自分自身のエゴイズムとの葛藤、挌鬪を經ずして、それをそのまま放置してきたあまり、ひとりひとりが真にその人自身を生きるといふ、まことの自由を味はふことができずに、單なる孤立に追ひ込まれてゐる己れのありように苦しんでゐます。


そして、人は、これまで離脱してきた家庭や地域社会やその他樣々の人間關係が、実は、他の何よりも自分自身の成長にとつてかけがえのないものであつたことに氣づき始めてゐる、さう感じます。


つまり、目覺めつつある若い人ほど、共同体なるものへの憧れ、人と協力し合つて生きること、暮らすことへの憧れが増して來てゐるといふことなのです。


人は獨りきりで生きることなどできませんし、獨りきりでゐて自由になることもできません。


人は他者との關係性の中でこそ、だんだんと、その人自身になつてゆくのであり、共同体といふ背景があつて初めてひとりの人としての自立と自由への道を歩きうるのです。


まことの自由とは、ひとりひとりの人と、社会共同体との間に、活き活きとしたこころのこもつたやりとり、精神に滿ちたやりとりがなされてゐる時に、育つてゆくものです。


いま、わたしは、その共同体のひとつとして、いきなり大きな話になるやうですが、「国家」い云ふものをあらためて、しつかりと、考へてみたいと思つてゐます。


なぜならば、「国家」とは、ひとつの言語を共有してゐる民族を樣々な意味でまとめつつ共生して行く上での、最大の共同体であることが、ひとつ。


しかし、その国家といふものが、わたしたちの暮らしを覆ふ唯一の傘のやうなものではないのだといふことが、二つ目。


そして、三つ目は、日本といふ国で、戰後、「国家」について、しつかりと、確かに、考へさせる教育といふものがほとんどなされてゐないといふことを思ふからです。そして、わたし自身、これまで積極的にそのことを學んで來なかつたからです。


いま、ここでは、一つ目、二つ目のことはとても意味深いことですので、わたし自身これから更にゆつくりと考へて行くことにします。そこで、順序が逆になつてしまひますが、三つ目のことから考へて行きたいと思ひます。





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2023年06月23日

ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ばたくとき



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ルードルフ・シュタイナーによる『ヨハネ福音書講義』を讀み續けてゐます。


新約聖書にある「ヨハネ福音書」。それは、前半と後半に構成が分かれてゐます。


前半が、洗禮者ヨハネに就いて。後半が、この福音書の書き手であるヨハネに就いて、です。


そして、いま、洗禮者ヨハネの誕生日(ヨハネ祭)を間近に控へるこの夏の日に、わたしたちは、キリストをキリストとして受け止めた最初の人、洗禮者ヨハネのことを改めて學んでゐます。


彼は、みづからを、「ひとりにて呼ぶ者の聲なり」と言ひました。(「荒野にて呼ぶ者の聲なり」はふさはしくない飜譯ださうです)


「みんなで呼ぶ」のではなく、「ひとりにて呼ぶ」のです。


この「ひとりにて」と云ふところに、新しい時代の始まりがあります。


そして彼は、たつたひとりにて、キリストを、世の光を、陽の神を、この地に呼びました。


そのことは、何を、わたしたちに教へるでせうか。


それは、意識の目覺めです。


聽き耳をたてるのは、この<わたし>ひとりです。


誰も、わたし自身に代はつて、神の訪れを告げてくれる者はゐません。


意識の目覺めを生きる人は、協力し合ひますが、群れません。


そのひとりの<わたし>の内も内にこそ宿るのがキリスト・世の光だ、とヨハネ福音書は語つてゐます。


世の光、陽の神は、いま、この大地に立つひとりひとりの人のこころの眞ん中に宿り、そこから、ヨハネの祭りのときを中心にして、夏の季節、廣やかな天空の彼方へと擴がりゆかうとします。おほよそ二千年このかた、毎年です。



古代に於ては、この夏のお祭りに於ては、洋の東西を問はず、燃え上がる炎と共に、歌ひ、踊り、舞ひ、祈りを陽の神に捧げてゐました。


その時には、イスラエルの國では葡萄の實から絞り出したワイン、尤も東の國、日本では、米から釀した酒によつて、その炎の祭りがいやがおうにも昂揚したものになりました。


その夏の祭りの時にこの世に生まれた洗禮者ヨハネも、神と人とを結ぶべく、燃えるやうな情熱をもつてヨルダン川のほとりにて人々に洗禮を授けてゐましたが、ただひとつ、古代から引き繼がれてきたものとは全く違ふ意識をもつてをりました。


それは、酒の助けを借りて昂揚するのではなく、意識を目覺めさせて、たつたひとりでことをなすことでした。


昂揚するとは、云はば、夢見つつ、神々しい天へと昇ること。


しかし、洗禮者ヨハネは、意識を目覺めさせることによつて、この大地にしつかりと足を踏みしめながら、天へと羽ばたく術を人々に與へてゐました。


それは、古代の在り方とは異なる、これからの人びとの夏の生き方を指し示してゐます。


さうして、つひに、冬のただなか(1月6日)にナザレの青年イエスが彼の前にやつて來たのです。


そのときから、お凡そ二千年が經ちましたが、そのやうな洗禮者ヨハネの生き方が、ゆつくりと、これからの多くの人の生き方になりゆくでせう。


わたしたちも、この夏、どう云ふ生き方をするかによつて、來たる冬の迎へ方が決まつて來るでせう。


一日の過ごし方によつて、人は、からだを滿たしたり、不滿を感じたりします。


しかし、人は、一年の過ごし方によつて、こころを滿たしたり、不滿を感じたりするのです。ひととせを精神に沿つて生きることは、こころを健やかにするのです。


ひととせを生きる。それは、こころの、ひとめぐりです。


そして、いま、夏を生きる。内的に。




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2023年06月18日

前田英樹氏『保田與重郎の文学』読書ノートA「第一章 注釈の姿を取った文学」



●昭和の文芸批評家として生きた保田與重郎は、ずいぶん多作な人だったが。彼の多作ぶりには、重複を少しも厭わない肝の太さ、自作を振り返りもせず、力尽き、斃れるまで進んでいく志士(もののふ)の剛毅があった。(23頁)


●(最後の著作『わが萬葉集』において)幾つかの歌、特に大伴家持の作をめぐっては、何度引き、いくら釈いても決して表し切れない称賛、愛着、親しみを、じっと抑えているように見える。そこに、僅かばかりの繰り返しが、やむなく現れてしまう。そんな趣である。(23頁)


●繰り返しは、不注意から来るのではない、彼が心中で耐えてきたものの避け難い ― それが故に美しい ー綻びのように現れて来る。その綻びの姿に接することができるのは、私には、むしろ有り難いのである。(24頁)



保田與重郎の著作を読み続けてゐると、彼のその猛然とした筆の進み方に、唖然とするのである。どうして、これほどまでに、筆が止まらないのか。


彼は、思ひに思ひを重ねつつも、いつたん筆を執つたなら、こころの中から蚕が糸を吐くやうにするするとことばを紡ぎ始め、その営みは糸を吐き終はるまでは到底止むことはない、そんな趣きではなかつたかと感じるのである。


保田の文章を綴る際の、その原動力は、まさに、ここで前田氏が述べてゐる、「いくら釈いても決して表し切れない称賛、愛着、親しみ」といふ溢れんばかりの情だつた。そのことを、即座に感じる。


そして、後代のわたしたちは、この情の奔逸とその抑制を味はふことを、文学の喜び、読書の喜び、生きることの喜びとするのである。


だから、わたしはまづは問ふてしまふのだ。現代のわたしたちは、いや、このわたしは、このやうな溢れんばかりの情を湛へて生きてゐるだらうか、と。この情の過剰と言つてもいい、生の昂ぶりを持つてゐるだらうか。


さう問ふたときに、その情のみづみづしい昂ぶりこそをわたしは希(こひもと)めてゐると、わたしは応へてゐる。


そして、そのこころのありやうを、ことばに鋳直すことへの憧れに憑かれてゐる、と。


ことばに鋳直すといふ行為は、まさに、こころをかたどることであり、それは不定形なものにかたちを与へること、抑制を加へ、言語表現における一回きりのすがたを得ようとすることである。


そのやうな、奔逸と抑制といふ相反する精神の力の均衡を培ふことへの憧れが、古来、人にはあり続けてゐる。なぜなら、その均衡と、僅かばかりの綻びが、美しいすがたを生み出すからである。


保田與重郎の文章は、その精神の美しさを味ははせてくれるのだ。




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こころのこよみ(第11週)



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この、陽の時に、
 
あなたは賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
人の<わたし>はみづからを失ひ、
 
そして見いだしうる、世の<わたし>の内に。
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.    
 
 
 
 

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2023年06月16日

四年ぶりの住吉さんの御田植神事






米といふ、わたしたちのいのちを支へてくれてゐる神からの授かりもの。


何百年、いや何千年にわたつて毎年毎年繰り返されて来た、神への感謝を捧げる祭祀が、この三年間中止されてゐましたが、四年ぶりに甦りました。


広い御供田の真ん中にある舞台の上で、神楽女(巫女)八人による八乙女舞が始まると、田から上空に向かっていのちの流れが立ち昇つて来るのですね。それを見守つてゐるわたしも、そのいのちの流れの恵みに与かることを感じます。


そして、その神事を祭るべく、田の周りを装束に身を包んだ大勢の者が練り歩き、田植歌が歌はれ、踊りが踊られ、かうして、街中、住宅街の中であるのにもかかはらず、古い様式を守り続ける住吉さんは、日本といふ国がある限り引き続きます。


そんな日本といふ「くに」を引き続かせたい、さういふ念ひを仲間たちと一緒に分かち合ひながら、見守ることができたお田植神事なのでした。





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2023年06月15日

前田英樹氏『保田與重郎の文学』読書ノート@「序章 倭し麗し」



この国をどのやうな「くに」に創り直して行きたいのか、自分自身の精神の声にとくと耳を澄ましてみなければならないと思ふ。その聴こえて来る声の内実について深く考へること。


そして、その「くにづくり」のために、順序を立てて、何からし始め、何を経て、何に向かつて歩いて行くことができるのかを、実際に立ち上がり、歩き続けながら、必死に考へること。


そんな仕事をされたのが、本居宣長であり、小林秀雄であり、保田與重郎であり、この『保田與重郎の文学』の著者、前田英樹氏であると感じる。


そして、わたしは一読者にすぎないのだが、その聖なる仕事にわたし自身も繋がりたいと切に願つてゐる。これが、我が生涯に残されてゐる仕事である。


政治のそもそものおほもとの精神とは、人と人との関はりを調へ、律し、育んでゆく、といふことであつた。


その精神を、常に、こころに照らして考へるならば、このくには、四角四面の「道徳」や「憲法」以前に、暮らしの中からおのづと生まれいづる「みち」といふものが、深く広く民の間で共有され受け継がれて来たことを想ひ起こさねばならない。


つまり、「法」や「国家」の前に、「精神」があり「信仰」があり「みち」があり、それこそが、人を人たらしめるため、国を「くに」ならしめるための「天との絆」なのである。


そして、いま、わたしたちは、その「道徳」「憲法」以前の不文律といつてもいいやうな「みち」を確かに共有し直す大人の勉強会が要るやうに思ふ。


なぜならば、わたしたちは、歴史の必然からであらうか、我がくに固有の精神をゆゑあつて、失つてしまつたからである。


その「みち」は、人為のものではなく、天与のものだつた。


そのことをわたしたち現代人も知ることができる。しかし、そのことをそのこととして、まぎれなく、教へてくれるのは、我がくにの「古典」であることを、保田與重郎は生涯を賭けてわたしたちに告げ続けた。


保田大人(うし)は、『古事記』『日本書紀』『萬葉集』『古語拾遺』『延喜式祝詞』の五つこそが、古典であると喝破した。


学問は芸術になりうるといふこと。そして、信仰への「みち」に繋がりうるものであるといふこと。


そのことを念ひ起こさせたのは、江戸期においてなしとげられた国学といふ学問であつた。国学は、それら「古典」を解き明かす、大いなる精神文化の復興として、こころある人によつて好まれ、志ある人によつて生きられ、つひには、江戸幕府を瓦解にまで導き、明治維新を起こすそもそもの精神の主調基音となつた。


「みち」がすでに、このくににはあるといふこと。


そのことを国学は述べて倦まない。


●『古事記』『日本書紀』『延喜式祝詞』に描かれた、神々と農の民との契りの物語は、人類のこの運命(必然的に争ひや殺戮を含んでしまふ狩猟、牧畜の暮らし)が、いかに改変され、克服され得たか、あるいはされ得るのかを、驚くべき単純さで、明々とした言葉でもって示している。(11頁)


●・・・文人たる保田が、国学の本流から摑み、学び取ったものは、明確であった。彼の膨大な文業には、肇国(ちょうこく)以来の信仰の姿を根本から明らめ、恢弘(かいこう)するという目的があった。その信仰は、多く文学の形をとっている。いや、文学の言葉を産む源泉そのものとなっていた。(11頁)


農業を中心とした衣食住の暮らしを精神から支へる四季の祭りが、このくにのすべての源なのだといふことを、まごころから語つた学問が国学であつた。だから、国学の文章そのものが、古典に対する精緻極まりない研究に基づくものでありながら、冷たい理知に訴へるものではなく、どの人もが当たり前に持つてゐる素直なこころにぢかに訴へて来る、芸術的な文学そのものなのである。


本質的なこととして、我がくにの民は、外国のやうに、生きるための経典や教書を必要とせず、暮らしのあり方そのものが生き方を導いてくれたことを国学は江戸期の日本人たちに伝へたのだ。


それは、曾祖父や祖父や父母からずつと続いてゐる、言はば、あまりにも当たり前のものの考へ方、生き方に関することごとを、細やかにありありとことばに鋳直した、意識の目覚めに向けての覚醒の学問だつた。


わたしたち令和に生きる現代人も、そのやうな覚醒の学問を必要としてはゐないだらうか。








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「人」 剣聖 持田盛二



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明治から昭和にかけて生きられた剣道十段であり剣聖とも言われた持田盛二といふ方のこんなことばがある。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


わたしは剣道の基礎をからだで覚えるのに五十年かかつた。


わたしの剣道は五十を過ぎてから本当の修行に入つた。こころで剣道しようとしたからである。


六十歳になると足腰が弱くなる。この弱さを補ふのはこころである。こころを働かせて弱点を強くするやうに努めた。


七十歳になるとからだ全体が弱くなる。今度はこころを動かさない修行をした。こころが動かなくなれば、相手のこころがこちらの鏡に映つてくる。こころを静かに動かされないやうに努めた。


八十歳になるとこころが動かなくなつた。だが時々雑念が入る。こころの中に雑念を入れないやうに修行してゐる。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


まことに穏やかなお人柄であつたといふその人の八十歳にならんとしてをられた頃の動画を観たが、風を切る鋭さと大地に根づく確かさとが、静かさの中で常に統べられてゐる様に圧倒される。


かういふ方が実際にをられるからこそ、弱弱しい自分自身を本当の自分自身へ導いて行くことができるやうに感じてゐる。





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2023年06月11日

太陽の門と月の門






必然と自由が織りなしあはされてゐる、わたしたちの人生。


だからこそ、美しい人生の織り物を織りなしてゆくためには、この人生を超えた想ひ、考へ、視野を持つこと。


それは、精神の学びからこそ、汲み取つてゆくものです。


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2023年06月10日

こころのこよみ(第10週)



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夏の高みへと
 
のぼりゆく、陽、輝くもの。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
ほのめきをもつて内にて動く、
 
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「あなたを今、ひとつの神なるものが感じてゐる」と。




Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.   





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2023年06月07日

鹿のほほゑみ 奈良公園でのひととき







動物たちと、わたしたち人との関係。

その関係は、わたしたち人のこころのありやうによつて、密(ひめ)やかさを湛えたものになるのですね。

奈良で初めてそのことを知りました。


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2023年06月04日

一人前にものが言へること 柳田國男「昔の国語教育」より






はじめにことばありき。
いま、ことばは、どこにあるのでせう。
いま、ことばは、人にあります。
ひとりひとりの人の、内にあります。

ルードルフ・シュタイナー『ヨハネ福音書講義 第一講』より


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2023年06月03日

幼い頃の5度の音楽体験の意味  シュタイナー教育






この人生を生き抜いて行くために必要なもの。

それは、故郷(ふるさと)をもつてゐることです。

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こころのこよみ(第9週)



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滋賀県草津の小槻神社



我が意欲のこだはりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が満たす、
 
精神とこころのものとしてのわたしを。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、御声(みこゑ)がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 

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2023年05月29日

促成栽培的でない自己教育の道



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我が「ことばの家」の近くにある万代池の龍神様のお社


現代に生きる多くの人は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れることのできるもの、それらの範囲のものしか、その存在を認めない傾向があるように思います。


それは、もっともなことだと思われます。感覚できないもの、分からないもの、知らないものを認めることはできないのですから。


しかし、人は、自分自身の限界を拡げ、高め、深めて行くことができるものですよね。


ですので、自分よりも、より広やかで、より高く、より深いものを感覚し、分かり、知っている人の存在を知り、その人のことばに耳を傾けることはとても大事なことだと思います。


そうして、現代人は、己れの見えているもの、聞こえているもの、知っているものから外へと視野を広げることができて、己れの傲慢さ、高慢さから、自由になることができる。


わたしは、そういう人の限りない成長のためには、芸術というものが欠かせないものだと実感しています。


芸術を通して、これまで観えていなかったものに対する視力が生まれて来る、聞こえていなかった響きや調べを聴くことができるようになって来る、触れることができなかったものに対する妙なる手応えを実感するようになって来る。


芸術は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れることのできるものを、その素材とするにもかかわらず、そこでだんだんと勝ち取られてゆくものは、物質の境にあるものではなく、こころの境、精神・靈(ひ)の境にあるものです。


その精神・靈(ひ)をリアルに感じ、分かり、それこそが頼りがいがあるものだ、まことのものだと信じて、生きて行くことができるようになる。


精神・靈(ひ)が実際にわたしたちの身のまわりにあるどころか、身を貫いて、世を貫いて、すべてを貫いて、ある。


そのことに対する理屈ではなく、実感、感覚を育てて行くことこそが、これからの時代を生きて行く上で、とても大切なものになってゆくようにわたしには思われます。


その精神・靈(ひ)から、生きて行く術(すべ)を身につけていく。


それは、芸術実践を通して、だんだんと身に織りなされて来るものです。


そして、さらに、瞑想・メディテーションが、その芸術実践を深みから支えてくれます。


それら、芸術実践とメディテーションとがあいまって、外なるものに支配されず、内なる〈わたし〉こそが主(あるじ)となってゆく、自由のリアリティーが自分の中で育ってくるように実感しています。


生の僕(しもべ)たるべからず、生の主(あるじ)たるべし。


こういった毎日の練習は、ややもすると、まことの目当てとは逆に、一見、人に不自由を強いるもののように受け取られがちです。


ただ、促成栽培のような自己意識変革メソッドを求めるのではなく、日々の暮らしの中で、焦らず、怠らず、こつこつと、長い、長い時をかけて、繊細に、自己教育していくことを好む人にも、ちゃんと、道があるのです。


知はすべての基なので勉強はもちろん必要ですが、知識だけでは歯が立たず、情も、意欲も、こころのすべてを注ぎ込んで、意識的に仕事と生活を創ってゆくことになります。






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2023年05月27日

こころのこよみ(第8週)



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感官の力が育ちゆく、
 
神々の創り給ふものとの結びつきのうちに。
 
それは考へる力を、
 
夢のまどろみへと沈める。
 
神々しいものが、
 
我がこころとひとつになれば、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうのうちに静かに慎んでゐる。
 
 
 
Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 




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この人はわたしだ






目の前にゐる他者。

それは、己れのこころのありやうを映してゐる鏡の像。

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聖き靈(ひ)の降り給ふ祭



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キリストが、十字架上にていのちを全うし、墓に埋められた後、甦り、その後四十日間にわたつて、十二の弟子たちの前に現れたと、新約聖書の「使徒行伝」に記されてあります。


そして、弟子たちが見守る中、キリストはふたりの白い衣を着た方々と共に天へと昇つてゆかれたと。


そのときから十日間、キリスト不在のときを、静かに身を慎んで、ひたすらに祈りのために円うてゐた十二の弟子たちの頭(かうべ)の上に、部屋中を激しく吹き渡る風の音と共に、炎の舌のかたちした聖き靈(ひ)が降りて来て、ひとりひとりの弟子が様々な言語でキリストのこころざし(Christ Impulse)を語り始めた。


その日を祝ふのが、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭(Pentecostes)です。


明日の日曜日がその日です。


毎年、毎年、この日を迎へるたびごとに、この祭が伝へようとしてゐる意味を自身で確かめたいといふ願ひを持ちます。


ひとりひとりの弟子に降りて来た炎の舌、それは、キリストといふ精神の存在が聖き靈(聖霊)となつてひとりひとりのこころに、炎のやうな情熱を湛へたことばとして宿つた、といふことです。


さうして、十二の弟子たちは、そのときより、ひとりひとり、炎のやうな情熱をもつて、ことの告げ手となり、使い手となつていったのでした。


日本で生きてゐるこのわたしにとつて、なにゆゑ、このキリストのこころざし、そして聖き靈のことばをもつての働きかけが、かうまで気にかかり、こころを動かし、我が生き方を導こうとするのだらうと考へ続けてゐます。


自分といふ存在がからだに束縛されてゐるのでは実はなく、精神こそが自分なのだといふこと。


その精神の中でこそ、まことの自分が羽ばたくことができるといふ感覚が、ほのかなものから、だんだんと明らかさに満ちたものとなつて来るにしたがつて、自由であるとはかういふことなんだと実感するのです。


わたしといふ存在は、肉ではなく、靈(ひ)である。


そうして、靈をもつて炎のやうに生きよ。


そのことこそが自由になるといふことであり、そのことを想ひ起こすこと。


この聖き靈の降り給ふ祭は、日本に生きてゐるわたしにも、かくも強く働きかけて来る祝祭なのです。


いはゆる比較文化学や比較宗教学などに倣うやうなことはせずとも、日本の精神文化の中にこの祭りを見いだすことは、もう何十年もかかつてゐますが、きつと、わたしの中でも熟して来るものだと信じてゐます。






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2023年05月24日

侮辱とは何か






わたしたちが受けて来た教育はどのやうなものだつたか。

そして、これからの教育をどういふものにしていくことができるか。

どちらも、考へて行くべきこと。

posted by koji at 17:16 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月20日

こころのこよみ(第7週)



11-1.jpg



我が己れ、それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、汝よ、我がほのめきよ、
 
汝がふさはしきところに、力に満ちて、
 
考へる力に代はりて。
 
それは感官の輝きの中に、
 
消え去らうとしてゐる。
 
     
    
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
  

posted by koji at 14:39 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月19日

仕合はせに沿ふことの喜び



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おほよそ3年ぶりですが、新横濱のある企業に足を運び、對面での言語造形の時間を持ちました。


コロナウイルス禍の下、全くもつて、研修でもある對面での藝術活動をなすことができなかつたのですが、本當に久しぶりに皆さんとお會ひすることができたのでした。


かういつた場をコーディネイトして下さる方を通して、再び、このやうな場を持つことができたことの仕合はせ(運命)。


それは、我が能力などを全く超えた仕合はせ・幸せだと感じます。


その仕合はせのしからしめに沿ふて、言語造形といふ藝術を仕事として全力でさせてもらへる喜び。


萬葉集と古今和歌集からの和歌に取り組みました。


ことばの内側に入り込み、その精神の世を經めぐるひととき。


それは、難しいことを全部拔きにして、誰もが直感でき、自分のさかしらな思ひを超えた世を生きる、素直できれいなひとときなのです。


だから、そんなひとときは、人を子どもの頃のその人に還します。


男たちが(最近は女たちも)、藝術をもつこと。


そのことの値と必要性を感じるのです。


普段の日常性と、精神の氣高さを、ひとりの人の内側に共存させることの大切さを傳へるべく、仕合はせがわたしを促がしてくれてゐます。


ありがたいことです。




posted by koji at 23:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

優しさ それは練られたこころ






密(ひめ)やかな学びの深まりと共に、その人には、「優しさ」の気味合ひが湛えられてくる。

その優しさは、悲しみや怒りや寂しさや様々な情によつて練られたこころのありやうからこそ生まれて来るもの。


posted by koji at 22:02 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国語力の表の側面 話す力(一)


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幼児期、ことばを唱えながらたっぷりと身をもって遊ぶことができた子、また、お話をたっぷりと聴かせてもらった子は、その国語力の裏の力、聴く力を携えて小学校にやってきます。


そのように動きに満ちたことばの精神を浴びて来た子どもは、小学校に入ってから、今度は、生き生きと自分の口からことばを発することのできる子へと成長して行きます。


ことばを話す力、それは、国語力における表の力と言っていいものです。


学校制度が始まる前の昔の子どもたちは、どれほど、この生(なま)の生きたことばに包まれ、囲まれて、暮らしていたことでしょう。


幼少時、傍にいてくれた親や他の大人たち、お兄ちゃんお姉ちゃんたちが、活き活きとしたことば、その人その人のこころといのちが通っていることばを話してくれていたからこそ、その子はその裏のことばの力を、表のことばの力へと変換させていきます。


年上の人たちからたっぷりと与えられてきた多くのことばの中から、意味がそれとなく分かり、なおかつ、口にしやすい音韻の並びで出来ていることばを、ここぞというときに瞬間的に選んで、口にする。


その、ことばの選択の神秘。


それは、難しい言い方をしますと、ことばを聴くとき、自分の精神によって、ことばの精神を捉えて来た子どもが、やがて、その捉えたことばの精神を、我がこころ、我がからだにまで引き降ろすことができた、ということなのですね。


ことばの精神を、我が精神からこころへ、そしてからだへと、引き降ろす、受肉させる、それが、聴いたことばを憶え、それを口にするということなのですね。


それは、国語力が裏から表へなりかわること、とも言えますし、また国語力の裏表の行き来を盛んに促しもします。


そうして、だんだんと、自分自身の感じていること、思っていること、欲していること、考えていることを、的確にことばにしていくことができるようになってきます。


昔には、それが、「一人前にものが言える」という、子どもの成長におけるひとつの徴(しるし)でありました。


そうして、子どもたちは、聴く力の充実に裏打ちされた、話す力を育てて行くのです。


そのように、第二・七年期の子ども時代(7〜14歳)、それは、ことばの表の働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、それは、やがて、ことばの主(あるじ)になるべく、自己教育していくための礎になります。


その、ことばを話す力は、昔ならば、依然として引き続いている子ども同士の群れの中で、外なる自然の四季の移り行きの中で、ひたすら磨かれていたでしょう。


ことばを話す力は、まさに、その子、その子の固有のものから発せられる、こころを如実に表すもの、心情を確かに顕わすものとして、その子らしいものの言い方を活き活きと発現していたことでしょう。


ことばとその人とが分離していなかった。


いまならば、ひとつの教室の中に長時間閉じ込められている子どもたちにとって、何がその国語力の表の力の育みに資することができるでしょうか。


現代にふさわしい、本当に意識的な教育が必要だと思われます。


シュタイナー教育は、そのひとつになりうると、わたしは思っています。





posted by koji at 15:11 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月17日

良心の声に従ふも従はないもその人の自由に懸かつてゐる




良心とは、精神からの語りかけであり、それは9歳前後からこころに密やかに聴こえ始めるもの。

posted by koji at 18:47 | 大阪 | Comment(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月16日

暮らしの中の美しいかたち  シュタイナー教育




日本の暮らしの中に息づいてゐた美しさへの感受性。

それは、すべて、宮廷生活を源泉として、全国津々浦々にまで沁みとおつてゐた祭りの営みからのものでした。

posted by koji at 19:27 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月15日

現代文明の利器とハーモニックに織りあふこと




外からやつてくる現代文明の流れ。

その流れに柔軟にハーモニックに応じて行く、内なる精神の力を養ふことの重要性。

posted by koji at 18:59 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アントロポゾフィーハウス和歌山 芸術実践とメディテーションの営み



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今日も、朝から集まり、午前は言語造形を通して物語を語る稽古、午後はシュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の熟読。


参加者の方の中には、和歌山はとても広い県で、高速に乗って車で一時間半かけて来られる方もいます。


また、今日、初めて参加されたおひとりの方は、車で五分で来られるところにお住まいの方。


本当に不思議なご縁で結ばれていると感じています。


言語造形を通して、ひとりひとりの人から解き放たれる息づかいとことばの響きに、部屋の中にいるわたしたちは皆、想像力を刺激され、まるで、物語で語られている世界がいま、眼前に広がっているようなこころもちになります。


ことばの響きによって、こころの世に描かれる絵姿をありありと観ている、と言ってもいいでしょう。


そのように、語っている人のこころがからだの限りを超えて羽ばたき始めますと、聴いている人のこころも羽ばたき始め、物語の世界に包まれるような感覚になります。


そして、語っている人においても、聴いている人においても、共に、いのちの営みさえもが脈打ち始めるのです。


アストラ―ルのからだが羽ばたき始めると、エーテルのからだが活き活きと脈打ち始めるのです。


そうしますと、息遣いが深くなり、血の流れも活き活きと流れ出し、フィジカルなからだまでもが色づき始め、息づき始めます。


アストラ―ルのからだ、エーテルのからだ、フィジカルなからだ、この三つのからだが芸術という精神からの行いによって、生き生きと織りなしあって働き始めるのです。


わたしは、いま、それらの行いをことばにしていますが、それらのことは、言語造形をしていますと、何の前もっての予備知識などなくても、誰もが直感的に感覚できることです。


この三つのからだの織りなしを導き、統べているのは、その人のその人たるところ、〈わたし〉です。


ですので、言語造形もまた、他のすべての芸術と同じく、〈わたし〉という極めて目覚めてあるべきところから精神の熱をもって、自分自身の三つのからだ(風のからだであるアストラ―ルのからだ・水のからだであるエーテルのからだ・土のからだであるフィジカルなからだ)に働きかけ、ことばに固有な芸術法則に沿ってそれら三つのからだを導き、統べていくのです。


この営みは、本当に人を健やかにすると実感します。


それらの外的でありつつ内的でもある営みを、意識化し、言語化することで、改めて人というもの、芸術というものを知りゆくのが、午後の時間のアントロポゾフィーの学びの時間です。


人の精神、人のこころ、人のからだというものを、芸術実践のあと、講義を通して、知りゆくのです。


アントロポゾフィーは、そのように、芸術実践とメディテーションへと繋がる認識の作業とで、学びが創られます。


それは、人をゆっくりと創ってゆく作業でもあるのです。


このような、からだも、こころも、精神も、まるごとで学ぶアントロポゾフィーの時間を毎月一回ずつですが、和歌山でも創っています。


まるで神の社に来るようなすがすがしい感覚を毎回感じている、と今日参加された方も仰っておられました。


リアルな場と時間を共に分かち合う、そんな学びを共にしています。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



●アントロポゾフィーハウス和歌山


日時:
毎月第三月曜日(休日の時は、第四月曜日) 
午前10時〜お昼ご飯〜午後2時半ごろまで
(お昼ご飯をご持参ください)


場所:
和歌山県岩出市内 個人の住宅内にて
(お申し込み下さった方に住所をお知らせします)


参加費:
単発 5000円
5回連続 20000円
(加えて、講師の交通費を参加者の皆さんで頭割りしていただいています)


※午前の言語造形のために、ご自身が声に出して読んでみたい作品をひとつお持ちください。


※午後のアントロポゾフィーな学びのために、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(シュタイナー著・鈴木一博訳)を用いています。ご参加前にご購入下さい。
SEIKODO STORE
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007


お申し込み:
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み先:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル


// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


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2023年05月14日

ポピュラリティーよりもインディヴィジュアリティーから学びたい





自分自身の慣れ親しんだ感官のあり方に泥まずに、己れなりのあり方を超えて、対象の大きさの前に謙虚に身を披く。

学びといふ学びにおける、その基本的な姿勢をもつこと。

その姿勢こそが、学びの醍醐味をもたらしてくれる。

posted by koji at 21:50 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第6週)


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立ち上がる、己れなりであることから、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
己れなりの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

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2023年05月12日

国語力の裏の側面 聴く力


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小学校に入る前の幼い子どもは、大人たちが話していることばに、じっと、耳を澄ませています。全身を耳にしていると言ってもいいでしょう。からだまるごとが耳なのです。


昔、幼い子どもたちは、群れて集団で遊ぶ中で、たくさんの遊びを通して、わらべ歌や数え歌、その他様々な聴いてすぐ憶えることのできるリズミカルでメロディックなことばの芸術を楽しみながら、ことばを聴く力を養っていました。


また、注意力を最大限に働かせながら、年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんのことばに耳を澄ませていました。


なぜって、見当はずれな下手なものの言い方をして、お兄ちゃんやお姉ちゃん、そして同朋の仲間に、残酷に笑われたくないですから。


そう、ことばを共有できることが、子どもの世界においても、ひとつの通過儀礼のようなものでした。


他者のことばを細やかに注意深く聴く力。


その力を豊かに養う機会が学校や幼稚園と言った特別な施設の外にあった、ということ。


いま、わたしたちは、そういう施設について、教育という精神の活動について、たくさんの問いを持たざるを得ない時代に生きているように感じています。


「ことばを聴く」というのは、難しい言い方をしますと、精神が精神を捉えるということでもあるのですね。


幼い子どもの無自覚な精神が、ことばの精神を本当に賢く捉えます。


それは、国語力の裏の側面であり、それが、「ことばを聴く」ということなのです。


現代において、ことばのその裏の力をいかにたわわに育んでゆくか。


幼い子どもを育てるうえで、昔も今も、特に幼児期においては、厳しい躾は、逆効果です。


むしろ、ファンタジーにあふれた夢のようなお話をたっぷりと聴かせてもらった子が、その聴く力、ふさわしい聴き分けのある性質を携えて成長して行きます。


いま、わたしたち、子どものそばにいる大人自身が、もう一度、身をもってことばの芸術を味わい、自分自身がことばの芸術を生きることが、子どもたちの国語力の育み、聴く力の育みにとって、まずは必要なことです。


大人自身が、ことばを楽しむこと。


ことばとは、情報ではなく、そもそも、神が与え給うた芸術です。


国語力を支え、それゆえ、人生を生きてゆく力を根底で支える「ことばを聴く力」。


その養いから始めて行く仕事をしようと、準備を重ねています。





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教師になるのに神秘修行が必要? シュタイナー教育




子どもたちへの教育にあたる教師にとつて、己れのこころの営みこそを育むことの意味。

posted by koji at 15:23 | 大阪 | Comment(0) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月11日

彩りの豊かさ 第二・七年期の子どもたちにとつての大切なこと シュタイナー教育


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小学校へ入る前の六年余りの間の子どもたちにとって大切なことは、まさしく個と個という関係の中で、子どもと母親、子どもと父親との関係の中で、すべてが完結している。自分自身の親としての経験からそう実感します。


そして、そこには、個と個の関係の中でもっとも基のものと言える夫と妻の関係が、良かれ悪しかれ、とても色濃く子どもたちに影響するように感じます。


もちろん、どちらか一方の親しかいない家庭においても、大人と大人との関係性、子どもに目を注いでくれる誰か他の大人と、子どもの親との関係性が、とても重要になってくるといふことでもあります。


幼稚園にも、共にそこに通ふ園児たちや親御さんたちもゐるわけですが、それでも、そこは先生を親とするもうひとつのより広やかな家庭です。


そこでは、基本的・本来的に、親の役割をしてくれてゐる先生と子どもの、一対一の関係が子どもにとつて大切なものでした。


いまの多くの施設では、そのやうな一対一の、ひとりの子どもにしつかりと目を注ぐことのできるひとりの大人がゐるやうなところは、本当に少なくなつてゐるのかもしれません。


そんな状況において、第一・七年期にある子どもに必要な個と個の関係性を、どのやうにしてひとりひとりの子どもに質的に補つていくことができるか。そのことがとても大事なテーマでもありますね。


さて、子どもは歯が生え変わりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとって本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか大勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。


地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豊かさにどんどん目が奪われていくことでせう。


かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。


幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。


しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情という衣を着つつ現れてきます。


そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。


その彩りの豊かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。


人は、みんな、違うといふこと。


みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。


その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。


ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊厳を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。


さういふ大人の下で、子どもは、自分という個にゆつくりと目覚め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覚め、その彩りの豊かさに目覚めていきます。


社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、大勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本来的な豊かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。


もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に抜きん出ることができますよ」といふ、ひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれでようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。


小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着ているやうなものです。


できるだけ、子どもたちの周り、そして内側を、カラフルにしておいてあげたいですね。


そのためには、わたしたち大人が、各々、カラフルであること、自分自身のあり方を際立たせること、「わたしはわたし」といふところをしつかりと持つて、子どもたちのそばで毎日を生きることが大切なことだと実感します。




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