2021年02月07日

こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜


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東山魁夷 「碧湖」


考への力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。

こころの満ち足りが、

世のくりなしとひとつになれば、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
 
 
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
 
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。             
 

普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。ひたすらに、そのやうな考へを、安らかに精力的に考へる練習だ。
 
 
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
 
 
その繰り返すメディテーションによつて、「考への力」が強く鍛へられ、その力がそのまま、「光」の働きであることを感覚するやうになる。
 
 
この時期に、メディテーションによつて強められる考への力が、こころに及んでくるひとつひとつのそそりを明るく照らす。


一つ一つの感覚、情、意欲、考へが、考への明るく晴れ渡らせる光によつて、明らかになる。
 
 
それが明らかになるほどに、こころも晴れ晴れとした満ち足りを感じる。こころのなかで感覚と精神が結ばれるからだ。
 
 
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
 
 
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
 
 
こころの満ち足りが、世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
 
ひとりで考へる力は、考へる光となつて、人と人のあひだを、人と世のあひだを、明るく晴れ渡すのだ。
 
 
 

考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 
 



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比べる、から、敬ふへ



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誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、その誰かや何かに近づかうと気持ちが盛り上がることが、特に若いときにはよくありますよね。


その憧れの対象は、マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、職種といふ職種における有能な人、魅力的な人、魅力的な生活スタイル、考へ方、生き方、そして人を超えた存在、神のやうなあり方、精神界、霊界、天国、神に至るまで、物質的なものから精神的なものまで、人各々、それぞれです。


しかし、その誰かがやつてゐることや、素敵な何かに向かつて、自分自身も努力し始めることができればいいのですが・・・。


その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらひがないでせうか。


そして、自分自身とその憧れの対象とを比べて、自分自身を卑下しだす。


「自分には無理だ」と。


わたしがアントロポゾフィーを学んでゐて、最も強く励まされるのが、『いかにして人が高い世を知るにゐたるか』の「条件」の章にある、次のことばです。


 こころのしかるべき基調が、
 きつと、はじまりとなる。
 密(ひめ)やかに究める人は、
 その基調を敬ひの細道と呼ぶ。
 わたしたちはわたしたちよりも
 高いものがあるといふ、
 深みからの情を内に育まないのであれば、
 高いものに向けて
 みづからを育み高める力を
 内に見いだすこともないであらう。



憧れのもの、状態、それは、別な言ひ方をするならば、人にとつての「高いもの」と言つてもいいかもしれません。


「わたしたちよりも高いものがある」。


その「高いもの」と己れを比べるのではなく、「高いもの」を敬ふ。


そのこころの向きは、自然には生まれない。意識的に練習しなければ、「敬ふ」といふこころの力は身につかない。


「高いもの」に対する敬ひから始まり、生きとし生けるものに対する敬ひ、ありとあらゆるすべてに対する敬ひへと、その練習は続けられる。


しかし、人は、放つておいたら、その対象と自分自身との距離をもてあまし、自分自身を卑下しだす。


そして、敬ひとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのづと傾いていく。


「高いもの」と己れを比べるといふこと、そしてみづからを卑下するといふこと、それはその相手を「さげすむ」ことと裏表であり、それは実はその人のエゴなのです。


そして、一方、「高いもの」を敬ふといふこと、それはその人のこころの高い力です。


比べる、から、敬ふ、へ意識的に方向を変へる。


敬ふからこそ、その対象と共にゐられるのです。人間関係など、まつたく、そのことが当てはまります。


敬ふことによつて、初めて、その対象から力が自分に流れ込んできます。


そして、敬ふからこそ、その対象に向かつて、いや、もうすでに、その対象と内的にひとつになつて、こつこつと根気をもつてその人その人の憧れの道を歩いていけるのでせう。


誰がなんと言はうと、歩き続けられるのでせう。


シュタイナーが、その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、それだけ現代人にとつて、比べることから敬ふことへのこころの移行が必要なことだからです。



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2021年02月06日

精神の学びの場、精神の運動



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今日も、アントロポゾフィークラス・オンライン「普遍人間学」を行ふことができました。


前半、「学ぶ」といふことの本質的な意味を捉へることから必然的に、「アントロポゾフィーにおける基」、さらには、「アントロポゾフィー運動」「アントロポゾフィー協会」について、お話しをすることになりました。


「運動」といふと、そこに加はることは、なんらかの手先になるやうなイメージがありはしないでせうか。


「協会」といふと、そこに加はることは、なんらかの足枷を課せられるやうなイメージがありはしないでせうか。


しかし、アントロポゾフィーといふ「精神の学び Geisteswissenshaft」を地上的に進めていく、深めて行く、また運営していくことにおいては、決して、何かの手先になつたり、足枷を課せられるやうなことはありません。


なぜならば、この学びは、どこまでも現代といふ時代に根差したものであつて、それは、どこまでも、ひとりひとりの〈わたし〉を育てゆくもの、立てゆくものだからです。人が自由になりゆくための学びだからです。その人が、ますます、その人になつてゆく道だからです。


〈わたし〉が、何を、どう、考へ、感じ、欲してゐるのか。そして、〈わたし〉は、何を、どう、行為するのか。


あるものごとを、あるあり方で考へるのは、他の誰でもなく、この〈わたし〉がさう考へるからであります。


あることばを、ある言ひ方で話し、語るのは、他の誰が言つたからでもなく、この〈わたし〉がさう語りたいからさう語るのです。


あることをするのに、さうこころを決めるのは、他の誰が決めたからでなく、この〈わたし〉が、さうするとこころを決めたから、さうするのです。


シュタイナーが、ああ言つたから、かう言つたから、ではなく、神がかう仰つてゐるから、ああ仰つてゐるから、ではなく、〈わたし〉といふこの精神が語ることにわたし自身が耳を澄ますことから、こころを決めていくことの練習をすることこそが、このアントロポゾフィーの基であります。


ルードルフ・シュタイナーが、この世で仕事をしてゐた時から、おほよそ百年が過ぎました。


わたしは、以前にも「ゲリラ的アントロポゾフィー活動」といふやうな書き方で書かせてもらつたのですが、これからは、だんだんと、「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」といふ固有名詞が消えてゆくだらうと考へてゐます。「協会」といふものも、物質的なものから、だんだんとより精神的なものへとなりかはりゆくでせう。


しかし、シュタイナーといふ人に学べば学ぶほど、アントロポゾフィーを深めれば深めるほど、学ぶその人その人の内から発せられる精神(靈・ひ)の働きが、各々の仕事場、家庭、現場で、密(ひめ)やかに発揮されて行く、ひとりひとりの「仕事」に流れ込んでゆく、さう感じざるを得ません。


だからこそ、看板や表式や資格などが要(かなめ)などではなく(これまでもそのやうなものは決して要ではありませんでした!)、その人の学びの深さがこれからはますます問はれて行くのでせう。その人のこころの深さと豊かさと広さがますます、ものを言ふやうになつて行くのでせう。


だからこそ、逆説的ですが、ますます、その人がその人になりゆくための本当の学びの場(精神の協会)、精神の運動が心底求められるでせう。


わたしたちの社会は、切に、さういふものを求めてゐます。



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2021年02月05日

自己教育における三つの道筋A 〜情への問ひ〜


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カスパー・ダーヴィッド・フリードリッヒ「窓辺の女」


日々の暮らしにおける感情の起伏。


わたしたちは、その情の営みあるからこそ、人としての喜びと悲しみ、その他様々なものに彩られながら毎日を生きてゐます。


しかし、時に強すぎる情の力に巻き込まれてしまひ、自分の中心軸を見失つてしまふこともあります。


情、それは、シンパシー(共感)とアンチパシー(反感)の間を常に揺れ動いてゐます。


その情が、シンパシーに偏り過ぎても、アンチパシーに偏り過ぎても、そのどちらかの情に巻き込まれてゐて、みづからを見失ひ、わたしたちは不自由なはずです。


わたしたちが求めてゐる自由とは、まづもつて、みづからの情のまんなかに立つことと言つてもいいでせう。


どうすれば、そのまんなかに立つことができるのか。


それは、情が起こるたびに、さういふみづからを正当化するのでもなく、罪悪感にさいなまれるが故に、その情を抑え込むのでもありません。


その情が起こつて来た意味を、みづからに問ふのです。


この怒りは、この嬉しさは、この悲しみは、この熱さは、わたしに一体、何を教へてくれようとしてゐるのか、と。


答へはすぐにやつては来ないかもしれません。しかし、そのやうに問ふことによつて、わたしは強すぎるシンパシーからもアンチパシーからも距離をとることができます。


みづからにそのやうに問ふことが、そのまま、こころのまんなかに立つことです。


そして、そのやうに問ふことを重ねてゆくほどに、こころのまんなかに、〈わたし〉が育つて来ます。


「快と痛みは教へ上手である」


ルードルフ・シュタイナーは、『テオゾフィー』にさう書き記してゐます。


情が教へてくれようとしてゐるものは、こころの奥深くに眠つてゐるものへの気づきの促しです。


気づくべき時が来てゐるからこそ、何らかの情が、その時に立ち上がつて来てゐるのです。


ひとつひとつの情に対して、「あなたは何を教へようとしてゐるのですか」と問ひを立てることが、〈わたし〉をこころのまんなかに育て、だからこそ、ものごとをより細やかに深く豊かに感じるやうになり、さらには、インスピレーションの出どころである精神に少しずつ目覚めさせていく道の歩みを促します。





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2021年02月03日

声の贈りもの B 動画「よあけ」




絵本の読み聞かせ。


それは、ゆつたりとした息遣ひとことば遣ひを想ひ起こすことのできる、子どもたちとのかけがへのない時間をもたらしてくれます。


今回は、ユリ―・シュルヴィッツ絵・作の「よあけ」です。


言語造形からのアドバイスシリーズ第一回目として動画に撮つてみました!(コメント欄に動画を貼つてゐます。よろしければ、どうぞ、ご覧くださいね。ちなみに、この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾を得てゐます。)


この静かさに満ちた「よあけ」といふ絵本、一頁一頁ごとに、短い詩のやうなことばが記されてゐます。


深い息遣ひと共に、その間における静かさを味はひながら、ぜひ、ご自身でも、この絵本を手に取られて、お子様とご一緒に試してみて下さいね。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに



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2021年02月01日

古事記より「スサノヲノミコトのヤマタノヲロチ退治」(現代語訳)






シュタイナー学校などでは、小学三年生から四年生にかけて、「家造り」といふ授業があります。


天から降りて来て約9年経つた子どもたちが、その家造りを通して、この地上におけるこころと精神の居場所、囲ひを造るのです。


それは、9歳の危機と言はれてゐる時期に、子どもたちが自分のこころと精神をしつかりとからだに収めることを促してくれるのです。それは、地上を生きて行くためにはとても大切なことなのです。


我が国の神話において、スサノヲノミコトといふ神も、天から降りて来られ、ある困難を乗り越えて使命を果たし(ヤマタノヲロチ退治)、そして妻を迎へ、家造り(宮造り)をなされることで、とてつもない暴れん坊だつた神が、こころすがすがしい、愛の神となられ、地上の国を守る神になられゆきます。


なしとげられるべきその人ならではの使命といふもの、造り上げられるその人その人の家といふもの、家庭といふもの、それらの意味深さを、この神話を通して、子どもたちと分かち合ひたく念つて語らせてもらひました。





言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。



わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/

「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachim...

2021年01月30日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜



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東山魁夷「冬華」



新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡み合ひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
 
 
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、そのことを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
 
 
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
 
 
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
 
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
 『人』とするものが流れ込んでくる」
 
 
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
 
 
そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしていつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
 
 
人といふものが、そして自分自身といふものが、ひとつの謎になつてきたのだ。
 
 
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
 
 
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
 
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
 
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
 
 
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
 
 
わたしたちは、1月から2月へかけて、明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点においても、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
 
 
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。「わたしは、そもそも、精神の人である」と。「<わたし>は、ある」と。
 
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
 
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
 
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
 
 
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
 
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなく考へる力となる。
 
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなく考へる力において、自由になりうる。
 
 
外の世に、どんなことが起こらうと、どんな出来事が繰りなされやうと、こころに、意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
 
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
 
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
 
 
  
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 

posted by koji at 21:35 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月28日

自己教育における三つの道筋@ 〜考へを甦らせる〜


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カスパー・ダーヴィッド・フリードリッヒ「漂ふ雲」


精神・靈(ひ)としてのわたしのことを、ここでは、〈わたし〉と書きます。


わたしのわたしたるところであり、まことのわたしと言つてもいいものです。


この〈わたし〉を育てること。それが、21歳以降の、特に35歳以降の人の自己教育の眼目です。


それは、こころのまんなかに育ちます。


さうして、こころの三つの働きをだんだんと統御して行く力になります。こころの三つの力、それは、考へると感じると欲するです。いはば、思考、感情、意志、と呼ばれるものです。


人は何かを学ばうとする時、本を読むか、人の話を聴かうとすることが多いと思ひます。


さうして、他者の考へを受け取り、受け入れ、咀嚼しようとします。


その際の、考へを受け取り、受け入れ、噛み砕き、己れのものにする、といふプロセスに、こころの熱を注ぎ込むことによつて、〈わたし〉をこころのまんなかに育てて行く仕事に着手することができます。


本を読み、他者の話を聴く時、敬意と熱意、情と意欲をもつて、他者の考へを、こころの内に暖め続け、考へ続けるのです。


ここで、とても大切なのは、「自分自身の意見などは脇においておき、こころに、敬ひと篤さの情を持ちつつ、伝へられようとしてゐる内容に沿つて考へる」といふことなのです。


その予断に曇らされてゐない健やかな情と意欲といふ下地がこころにあつて初めて、考へ、特に高い考へがこころに根をはりだします。


さうしてゐると、自分のこころが熱く脈打つやうな、ときめくやうな、あるいは、懐かしいやうな情が沸き上がつて来ることがあるはずです。


本に記されてある考へ、そしてまだ己れのものになつてゐない他人の考へ、それは、いはば、「死んだ考へ」です。人にまづもつて与へられるのは、すべて、「死んだ考へ」なのです。人が、やりくり、やりとりしてゐる考へは、死んだものなのです。情報としての考へは死んだものだからこそ、人から人へと自由に、気ままに、やりとりされます。


その「死んだ考へ」が、先ほど書いたやうに、敬ひと篤さをもつて真摯に考へられ続けるならば、その考へは、いのちを吹き返します。甦ります。


「死んでゐた考へ」が、人のこころによつて、いのちを吹き込まれるのです。


他の誰から押し付けられたものでもなく、こころのまんなかのこの〈わたし〉が考へたことによつて、考へがいのちをもつて甦り、脈打ち始め、その人の内で輝き出し、熱を放ち出し、力を持ち始めます。


その人が、その人自身の内側で、その考へを自由に活き活きと育てることで、その考へはその人の暮らしを支へ、人生を導くやうな、理想といふものへとなり変はりゆきます。


「考へ」を大切に育てる。


そのやうに、考へるを鍛えるのです。


やがて、その仕事をし続けることによつて、しつかりと揺るぎなく二本の足で立ち、頭を雲の上高く掲げ、明るくお日様の光に照らされて、〈わたし〉がこころのまんなかに育ちゆき、小さなわたしを支へ、こころ貧しいわたしを導きます。


死んだ考へを活き活きと甦らせること。


それが、人の〈わたし〉を育てる、ひとつめのことです。




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2021年01月27日

勉強といふ美しい気風


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昨日、和歌山のお墓参りに行つたので、一年半ぶりに南海線の和歌山市駅に降り立ちました。


すると、去年の六月に出来たといふ和歌山市民図書館が駅に隣接してゐました。


わたしの管見では見たことのない立派な図書館で、一階にはカフェや書店、文房具店、和歌山の郷土品店などがあり、4階建てのそれぞれの階の天井高い書棚には、膨大な書籍が美しく収められてゐます。


また、なにより、印象的だつたのは、多くの若い人が一生懸命、本を読みつつ、「勉強」してゐる姿でした。


もちろん、色々な人がゐるのでせうが、さういふ多くの若い人の姿が目に映りました。


日本人の特質のひとつに、「勉強」することの喜びを知つてゐることがあります。


猛然と勉強をする若い人が出てくればくるほど、この国は安心です。


さういふ人が、この国を安らかで力強い場所に創りなしてゆくのです。


そして、さういふ場所であるからこそ、子どもたちは安心して成長して行くことができるのです。


遥か古代から、昭和の初期まであつた、そんな美しい気風が甦つてくるやうに、こころから願ひつつ、大阪に帰つて来ました。



posted by koji at 11:50 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自己教育における三つの道筋「序」


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カスパー・デイビッド・フリードリッヒ「海の上に昇る月」



こころを育てるのは、外の物ではなく、精神・靈(ひ)だ。


さう、ルードルフ・シュタイナーは語ります。


もちろん、外の物質的なものに囲まれて生きてゐるわたしたちは、外の物や事から働きかけられつつ、内なるこころをもつてそれら外の物や事に対応しながら、毎日を懸命に生きてゐます。


また、外なる我がからだを育て、維持するには、外なる物が必要です。


もちろん、いま、この瞬間のわたしも、外なる物を必要としてゐます。


しかし、おほよそですが、人は、どうでせう、35歳を過ぎる頃から、外なる物も大事ですが、むしろ、自分自身の成長のために内なるこころを育てるのは、物じゃない、何か、もつと、大切なものがある、そんな風に感じ始めはしないでせうか。


その大切なもののことを、シュタイナーは、精神・靈(ひ)と言つたのです。


その精神・靈(ひ)を別のことばで言ひ換へるなら、それを、〈わたし〉と言ひませうか。


その〈わたし〉は、普段よく使つてゐる「わたしは〜です」「わたしは〜が欲しい」「わたしはすごく元気です」などといふ時の「わたし」ではありません。


また、「自我」といふ難しい言葉がややもすると指し示してしまふエゴイスティックなものでもありません。


ドイツ語だと、小文字の「i」で始まる「ich」と書いて、普通、「わたし」の意味でそのことばを使ふのですが、シュタイナー書くところの、大文字の「I」 で始まる 「Ich」、それは、どの人にも宿らうとしてゐる精神・靈(ひ)、エゴから自由になつてゐる〈わたし〉を表します。


その〈わたし〉こそが、こころを育てます。


逆に言へば、その〈わたし〉を、こころの内に健やかに育てて行くことこそが、すべての教育のテーゼだと言へます。


〈わたし〉を育てること。


おほよそ三つの七年期を費やして、三つの順番で、この世に生まれて来た幼な子は、二十一歳ごろにこの世での〈わたし〉の誕生を迎へます。


そこで、とても大切にしたいのが、人の成長にとつて相応しい三つの順番に沿つて、大人からのサポート・教育を受けられるやう21歳までの三つの七年期の教育を設えるといふことです。


そして、21歳以降、人は自分で自分を教育しようとしなければ、人としての内的な成長が止まつてしまひます。


たいていは、その人次第ですが、仕事を通して、人は成長して行くことができますよね。「仕事」とは「ことに仕へる」ことです。


しかし、ここでは、あらためて、アントロポゾフィーといふ精神・靈(ひ)の学び(Geisteswissenschaft)の観点から、大人自身の自己教育における、まづもつての、三つの道筋を挙げてみます。


これは、わたし自身の道なのです。


〈続く〉

posted by koji at 11:06 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

亡くなつた方々との繋がり


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昨年、思ふやうに行くことができなかつた和歌山への墓参り。


十四年前に亡くなつた父、そして祖母と叔父が眠る墓なのですが、申し訳ないといふ思ひが積もつてゐました。


しかし、今日、小春日和の中、やうやく、お参りすることができ、ほつとしました。


このほつとする気持ちはどこから生まれてくるのだらうと、いつも墓参りをするたびに思ふのです。


それは、おそらく、墓参りをすることの義務を果たしたといふことではなく、亡くなつた方々と繋がることから来る、安堵感なのではないかな、と感じます。


いつも墓参りのたびごとに感じることなのですが、精神・靈(ひ)の国に帰つてゐる人は、この世にゐる時よりも遥かに浄められ高められ透き通つて、いまも、生きてをられる。


その清らかで慈しみに満ちてゐる高い情が、この世にこころ貧しく生きてゐるわたしを包んでくれるのです。


日本は、やはり、ご先祖崇拝を信仰心の基とし続けて来てゐる国なのだと思ひます。それは、きつと、仏教がこの国に流入して来る遥か以前からのものでせう。


墓を守る、といふことがだんだんと難しくなつて来てゐる、昨今の状況だと思ひます。


ただ、亡くなつた方々、特に先祖の方々の連なりの果てに、いま、かうして、わたしはここにあり、それらの方々は、この世に生きてゐるわたしを暖かく見守つて下さつてゐることを想ひ起こすよすがを持つことが、安らかさを我がこころに与へてくれるといふことは忘れない方がいい。


さう、改めて思ひました。

posted by koji at 00:03 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月25日

表現する喜び! 水曜・朝 オンライン言語造形クラス開講のお知らせ


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春が来るのに先駆けて、ご一緒に、ことばを発して表現する喜びを創りだしていきませんか。


この2月10日より、毎月二回、第二・四水曜日の午前10時から12時まで、ズームを使つての言語造形オンラインクラスを開講いたします。


自宅のお部屋にゐながら、言語造形といふことばの芸術に取り組んでみませんか。


おひとりおひとり、ご自身が選んだ文学作品(詩、昔話、物語、神話、小説、戯曲など)を声に出していただきます。


さうして、空間に声の響きをもつて、ことばの造形を織りなしてゆくのです。


そのとき、詩はまるで音楽を奏でるやうに、物語は絵姿をもつて、空間に響き渡ります。


自分自身の声だけでなく、仲間が発する声とことばに触れることで、必ず、ことばの魅力に包まれます。


そして、そのやうに言語造形に取り組む人は、こころもからだも健やかさに満たされることでせう。


初めての方も、ご経験のある方も、オンラインでの言語造形、ご一緒に楽しみながら学び始めませんか。


奮つてのご参加、お待ちしてゐます。


●講師: 諏訪耕志



●スケジュール: 毎月第二・第四水曜日 午前10時から12時まで

2月10日、24日、
3月10日、24日、
4月14日、28日、
5月12日、26日、
6月 9日、23日、
7月14日、28日・・・


●参加費: 体験ご参加 4000円
      6回連続  21000円

御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。  
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。



●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」



you tube 動画ページ『アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」』





posted by koji at 11:38 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第43週)〜冷たさに立ち向かふこころの炎〜


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冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖まる。
 
それは、世の現はれに、
 
胸の力を通してありありとした力を与へる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
 人の内なるこころの炎」
 
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
 
いま、人と人は、どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
 
人と人との間に、無関心が、行き違ひが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
 
自分自身のこととしても、そのことを痛切に感じる。
 
 
わたしたちは、そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
 
 
その冷たさから自分を守らうとして、こころを閉ざす。
 
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
 
しかし、このあり方が時代の必然であることを知ることができれば、何かを自分から変へていくことができるのではないだらうか。
 
 
15世紀以降、人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
 
 
意識のこころの時代だ。
 
 
この時代において、まづ、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされる。
 
 
その知性は、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして扱はうとする。
 
 
この時代において、この冷たく硬い知性が、人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。
 
 
そして、文明が発達すればするほど、人は、己れが分からなくなつてくる。人といふものが分からなくなつてくる。
 
 
人といふものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
 
だから、その冷たく硬い知性を己れのものにすることによつて、人は、人といふものがわからなくなり、他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも見失つてしまふにいたる。
 
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じざるをえない。
 
 
以前の時代には、無意識に繋がつてゐた人と人との関係。人と自然との関係。人と世との関係。
 
 
それらが断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で繋がりを創つていく力を育んでいく必要に迫られてゐる。
 
 
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
 
 
ひとりになれたからこそ、そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
 
 
ひとりになることによつて、初めて、人と繋がることの大切さにしつかりと意識的になることができる。
 
 
だから、このやうな人と人との関係が冷たいものになつてしまふことは、時代の必然なのだ。
 
 
そして、この時代の必然を見やる、ひとり立ちしたひとりひとりの人が、みづから天(精神)と繋がり、垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
 
 
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、横にゐる人との繋がり、水平の繋がりが与へられる。
 
 
垂直の繋がりが、ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、水平の繋がりが天から与へられる。
 
 
さうして初めて、人と人とが分かち合ひ、語り合ひ、愛し合ふことができる。
 
 
地上的な知性で、地上的なこころで、地上的なことばで、人と人とが分かり合へるのではない。
 
 
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、すでに500〜600年経つてゐる。
 
 
わたしたち人は、そのやうに、いつたん他者との関係を断たれることによつて、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習つてきた。
 
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」、「頭ではなく、心臓において考へる力」、「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入つてきてゐる。
 
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
 
硬いからだを持つところから、人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのだ。
 
 
だから、これからの時代のテーマは、そのやうな、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、意識的に育んでいくことだ。
 
 
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、人の内なるこころの炎」だ。
 
 
その「内なるこころの炎」は、天に向かつて燃ゑ上がる。精神に向かふ意志の炎となる。
 
 
日常生活を送るうへで、日々の忙しさにかまけつつも、なほかつ求めざるを得ないこころの糧。それは、精神である。
 
 
地上に生きる人にとつて、なくてはならないこころの糧としての精神。その精神の具象的なもののうち、代表的なもののひとつは、キリストであらう。
 
 
キリストのこと、クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、春を迎へようとする頃、ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによつて、ますます意識的にこころを精神に向かつて燃ゑ上がらせることができる。
 
 
そして、人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
 
 
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
 
 
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
 
 
意識のこころの時代において、人は、そのやうなキリスト理解をもつて、みづからのこころに炎を灯すことができる。
 
 
なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからだ。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
さう、こころに銘じるとき、わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
 
 
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、キリストと繋がる。
 
  
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖まる。
それは、世の現はれに、
胸の力を通してありありとした力を与へる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 人の内なるこころの炎」
 
 

posted by koji at 10:27 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月24日

古事記より「天の岩屋戸の話」(現代語訳)






自分たちの国、民族、世界がいかにして創り上げられてきたか。


「神話」とは、そのやうなわたしたちのおほもとを語る物語として、各民族によつて、おのおのの言語でずつと語り続けられて来たものです。


「古事記」。「ふることぶみ」と訓みます。


この書に語られてゐるのは、世の始まり、天地(あめつち)の初発(はじめ)からの、我が国の神話です。


この書は、時のすめらみこと、天武天皇が御みづから口で語られた「神がたり」を、稗田阿礼が聴き取り、その詩的な音韻の並び、抑揚、リズム、調べを全身で受け取り、身につけた、ことばの芸術品であり、日本といふ国をとこしへに精神的に支へる言霊のつづれ織りでもあります。


ですので、本来は、本居宣長による訓み下しの原日本語で語ることをしたいのですが、今回は、小学生にもまづは抵抗なく聴き取つてもらへるやうに、わたしみづから現代語訳し、編集したものを語らせてもらひました。


いま、この神話を語らせてもらひましたのは、明らかに、いま、世界中が新しいまことの夜明けの前の暗闇を経験してゐるからだと実感してゐるからなのです。


動画をコメント欄に貼つてゐます。よろしければ、ご覧になつて下さい。


※サムネイルの絵は、山田 泉さんが描かれたものです。





言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/

「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachim...

2021年01月20日

声の贈りもの A 『だいくとおにろく』


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自分の目で文字を追ふ黙読とは違ひ、誰かにお話を読んでもらふといふことは、本当に特別な体験です。


とりわけ子どもたちにとつて、お母さんやお父さん、先生などの声によつてお話が読まれ、語られることで、大人が、親が、一緒に物語の世界の中を歩いてくれてゐる、そんな幸福な一体感をもつことができるのです。


よく、子どもが同じお話を繰り返ししてほしい、同じ絵本を繰り返し読んでほしい、と親にねだるのは、繰り返しを愛する幼い子ども特有の意欲の働きであると共に、この「一体感」を何度でも味はひたいからなのです。


今日の絵本は、日本昔話から、松居直再話、赤羽末吉絵の『だいくとおにろく』です。


昔話や伝説では、ある領域ともうひとつの領域との間に、「川」が流れてゐることがよく出てきます。


お話を聴く子どもたちにとつて、その子、その子なりの領域から新しい領域への境を超えなければならない時が、遅かれ早かれやつてきます。


その時の、川を渡るかのやうな、橋を架けるかのやうな、恐れを乗り越える経験。


それは、このお話におけるやうに、「おに」の正体(本当の名前)を知る時、なのかもしれません。


そして、大人にとつては、この鬼は、精神の世の境にをられる「境の守」なのです。


この絵本を何度も何度も読み聞かせてあげること、それは、そんな境を超えようとしてゐる子どもへの、そして読むわたし自身への、密やかな応援なのです。



●こんな読み方をしてみては?

いちいちのことばや言ひ回しには、必ず、身振りといふものがあります。

必ずしも身振りをからだの動きとして表さなくても、その身振りを感じながら声に出してみることで、俄然、ことばが生命感を持つてきますよ〜!

このお話の最後の「おにろくっ!」とどなる場面では、必ずしも大きな声を出す必要はなく、強くはつきりと鬼に向かつて指し示すやうな身振りを感じてゐれば、ていねいに静かに声を出しても、相応しい響きにおのづとなります。

その指し示す身振りこそが、聴いてゐる子どもに、「こころを決める力」「意志の力」を感じさせるのです。

その力は、人生にとつて、とても大切な力です。

どうぞ、試してみてくださいね。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

posted by koji at 20:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 声の贈りもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月18日

通訳藝術道場 【シュタイナー学校の先生のための英詩講座】



外国語を学ぶ、といふこと。


わたしも27歳の時に、アフリカのケニアとタンザニアに一年間暮らして、スワヒリ語を一から学びましたが、その時の毎日は本当にエキサイティングでした。


何がこころ沸き立たせるかと言ふと、新しい言語を覚え、その言語を用ゐる際に、おのづから、こころを籠めてことばを聴き、話すことでした。そこに、全注意力を注ぎ込まざるをえなかつたのです。


日本に帰つて来て、一年も経たないうちに言語造形に出会つたのは、決して偶然ではないのでせうね。


注意深くことばを話す。それは、一音一音を大切にするといふことでもあり、ことばの抑揚、強弱など、音楽的な要素に自分の身もこころもおのづから沿はせようとすることにもなります。


そのことは、その外国語でお喋りできるやうになるといふことではなく、母国語とは異なる趣きの美しさをその外国語から汲み取るといふことへと道が続いて行くのですね。


その美しさには、その国、その民族の生き方のスタイル、姿勢が脈打つてゐて、そのスタイルを学ぶ(まねぶ)ことによつて、人は自分自身の内側にある多面性、多様性と共に固有性にも改めて気づかされたりもします。


そのために、詩といふ言語芸術の粋を原語で味はふことに取り組んでみる。


通訳藝術道場の修練長、冠木さんによつて広く開かれる学びの門から続く道は、民族を超えて、国を超えて、地域を超えて、価値観の違ひを超えて、自他の境を超えて、ことばで生きて行かうとする人にとつて、想ひ出したい一筋の命脈のやうに、わたしには感じられます。


なぜならば、学びとは、そもそも芸術的行為だから・・・。そして、通訳をするとは、ことばの芸術なのだから・・・。


【シュタイナー学校の先生のための英詩講座】


アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



posted by koji at 08:33 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月17日

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜


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この冬の闇に

みづからの力の啓けがある。

こころからの強い求めがある。

暗闇にそれをもたらし、

そして予感する。

胸の熱を通して、感官が啓くことを。



Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.



毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。


毎週、ここに記されてある詩句を繰り返しこころの内で味はつてみる。


さうすると、ここに記されてあることばが、それを読んでゐる自分自身のこころの歩みと、重なつてくるのを感じることができる。


そのこころに重なつてきてゐる力は、さらに、心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあひ)の働きを活性化させるやうに感じる。


そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、体内に流れ出す熱い血をもつて確かめられる。


物質の心臓は、物質のからだの中心を司る器官で、血液の巡りによつて活き活きと脈打つてゐる。


エーテルの心臓は、人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、愛の巡りによつて活き活きと脈打ち、そこから光が発し、熱が生まれる。


内に抱く考へが、愛を基にしたものならば、その考へはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。


さうでないならば、その考へはその心臓を締め付ける。


活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもつて、物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促す。それをここでは、「胸の熱」としてゐる。その胸の熱が、さらに、こころの働きといふ働きを促しだす。


その活性化されだしたこころの働きを通して、ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。


そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、他者の情や他者の考へがリアリティーをもつて、心臓で感じられるやうになつてくる。


きつと、その道は、人の情や考へだけでなく、ものといふもの、例へば、植物や動物の情、地水風火の情や考へなどをも感じられることへと繋がつていくだらう。


頭の脳で理解するのではなく、心臓で感じ、心臓で考へることができるやうになつていくだらう。


外なる感官だけでなく、そのやうな内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。


「そして予感する
 胸の熱を通して、感官が啓くことを」


そして、その啓かれるものを受けとることを通して、わたしたちはどう振舞ふことができるだらうか。


「 みづからの力の啓け
 こころからの強い求め
 それを冬の暗闇にもたらす」


その振る舞ひは、きつと、その人その人の仕事として、世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。


お金を稼ぐことが仕事をすることだといふ意味ではなく、その人がこころをこめてすることこそが仕事であるとするならば、わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができる。



この冬の闇にみづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれをもたらし、
そして予感する。
胸の熱を通して、感官が啓くことを。


アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos
 

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2021年01月16日

青森公演から「小さな村で見た」「やさしい世界の終はり方」


「無言歌 no,3(G.フォーレ作曲)」
「小さな村で見た(石村利勝作)」
「Old Plantation(W.ギロック作曲)」


「やさしい世界の終はり方(石村利勝作)」
「交響曲/新世界より第2章(A.ドヴォルザーク作曲)」



この石村利勝氏によるふたつの詩、「小さな村で見た」「やさしい世界の終はり方」を初めて目に読んだ時、こころが、静かに、静かに、なつたことを憶へてゐます。


そして、このふたつの詩を何とかして言語造形をもつて奏でたい、その響き、調べを人さまに聴いてほしい、この詩の美しさと悲しさを多くの人と共有したい、といふ希ひに突き動かされて、昨年は生きました。


しかし、声に出して詠ふことで、この詩の静けさの内に漲る、みづみづしさと悲しみを損なはないだらうか・・・。


そんな畏れにも似た念ひでありました。


これらの詩が秘めてゐるこころと精神の何十分の一も表はせられたのかどうか、分からないのですが、これらのことばの精神に付き添はれ守られた昨年だつたことは、間違ひありません。これらの詩と共に生きた昨年でした。


とりわけ、「やさしい世界の終はり方」といふ作品は、本当に激しい外の世の動きの中にあつて、わたしを支へてくれたやうに実感してゐます。


この詩の作者・石村利勝氏は、この詩に以下のやうに註記してをられてゐます。https://note.com/ishimuratoshi58/n/n3838036004b6


「これは、前に世界が終はつた時のことを思ひ出してかいたものです。なつかしい思ひ出です。」


青森公演の最後の演目がこの作品だつたのですが、終演後、中学生の女の子がわたしに駆け寄つて来て、この詩に対する深い感動を様々なことばでわたしに伝へてくれました。


わたしは、かけがへのない、ひとりの聴き手に恵まれたことの仕合はせにこころから感謝しました。


令和2年12月6日 青森県十和田市東コミュニティセンターにて行ひました言語造形公演『やさしい世界の終はり方』から、諏訪耕志による言語造形・詩の朗唱と山本恵美さんによるピアノ演奏をお聴きください。


山本さんのピアノは、清潔なタッチの中にとてもみづみづしい情の漲りがあり、このたびの青森での時間が、詩と楽音との新たな響演の時となりました。


また、三瓶哲也さんによる照明もシンプルながらとても、とても、印象深く、本当に素晴らしいものです。


重ね重ねですが、この公演を主催して下さつた方々に、こころよりお礼を申し上げます。ありがたうございました。


そして、今年纏められ、出版されるであらう石村氏の詩集を心待ちにしてゐます。

             
アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



2021年01月15日

メルヘン この世とあの世の架け橋 「おこぶちゃん」





メルヘンは、この世とあの世との架け橋なのさ・・・。


ミヒャエル・エンデのメモ箱に残されてゐた小さなお話「おこぶちゃん」。


主人公の女の子の背中にあるこぶの中には翼があります。


翼をもつアストラル(星)のからだは、精神の世とこの地上の世を行き来する、目には見えないからだです。


亡くなつた方々の世(精神の世)と、生きてゐるわたしたちとの間を、行き来するからだです。


アストラルのからだ。それを大切に育むことが、人に、本当のふるさとを想ひ起こさせます。


アストラルのからだを育む。それが芸術の営みです。


動画「おこぶちゃん」、よろしければ、どうぞご覧ください。小西収氏のクラリネット演奏「マーラー作曲交響曲第三番」と共に8分にわたるメルヘンの世界をお楽しみいただければ、幸ひです。



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

2021年01月14日

声の贈りもの @ 『手ぶくろを買いに』


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「シュタイナー幼児教育では、絵本の読み聞かせではなく、素話を子どもに聴かせます」と言はれるのをよく聞きますね。


そのことには、もつともな理由があり、子どもがお話を聴くとき、絵本の絵によつて、こころの内側に絵姿を自由に描く力を損なはないやうに、との配慮からです。


それは、もつともなのですが、やはり、親御さんにとつては、我が子に素話をするといふことも、ある意味、ハードルが高く感じられることでせう。


それならば、絵本といふものを通して、お子さんと親御さんが声のやりとりをする時間を一日の内、ほんの少しの時間にでも持つことができた方がいいのではないかと思ふのです。


もちろん、ことばの響きだけで、大人から子どもへとお話の贈り物ができれば、それはこの上なく素晴らしいことなのですが、そのことを承知した上で、絵本を通して親子のことばの時間を大切にしていくことを、言語造形をする者として提案したいのです。


お父さんやお母さんの息遣ひと声の響きこそが、子どもたちに取つて何よりの何よりの贈りものなのです。


「声の贈りもの」と題して、今日が第一回目。新見南吉作、黒井健絵の『手ぶくろを買いに』です。


冷たい雪にかじかんだ手を温めてあげたい。母狐は子狐に町まで手ぶくろを買ひに行かせます。しかし母狐は人間を恐れてゐます。かたや、子狐はいまだ無垢なまま世を信じて生きてゐます。心配と信頼。こころが微妙に交差する、冬の物語です。


●こんな読み方をしてみては?

月の光に照らされた白い雪と夜の闇。その明暗のコントラストが際立つ世界。

また雪の冷たさと、母と子の間に営まれる暖かさ。その寒暖のコントラスト。

そこからわたしたちは何を感じることができるでせうか。

絵の繊細なタッチを感じながら声に出してみませう。

そこから生まれる「こころの情」を子どもと分かち合ふことができたらいいですね。「寒いね、寒いね」「暖かいね、暖かいね」と言ひながら・・・。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに



posted by koji at 21:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 声の贈りもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1〜3月 アントロポゾフィークラス・オンラインのスケジュールです


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ルードルフ・シュタイナーの講義録『普遍人間学』は、子どもの教育はどうありうるかを考へ、自分自身のあり方と発意から実践して行きたい人に語りかけられてゐます。


それゆゑに、自己教育の大切さを感じてゐるすべての大人に向けてこそ、「人とは何か」といふ大切な智慧を語りかけてゐます。


このオンラインクラス、2クラスあります。金曜日の夜クラスと土曜日の朝クラスです。どちらも、月に二回のペースで、進んでゐます。


いつからでもご参加、可能です。ご参加希望の方は、金曜か土曜、どちらかのクラスにご参加いただきます。


アントロポゾフィー(人といふものの意識)に根差した『普遍人間学』。共に、学んで行きませんか。


講師:諏訪耕志



●これからのスケジュール


金曜夜クラス 7時半〜9時半

1月22日 「見ることと聴くこと」(第五講から)

2月5日  「眠りから目覚めへ」(第六講から)

2月19日 「まんなかの〈わたし〉」(第六講から)

3月5日  「メディテーションと芸術実践」(第六講から)

3月19日 「幼な子から老人へ」(第七講から)


土曜朝クラス 10時〜12時

1月23日 「メディテーションと芸術実践」(第六講から)

2月6日 「幼な子から老人へ」(第七講から)

2月20日 「人によつて受け取る世界が違う!」(第七講から)

3月6日 「空間における人 時間における人」(第七講から)

3月20日 「忘れることと想ひ起こすこと」(第八講から)




●参加費    初回体験参加 3500円、 3回連続 9000円  

連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。   
またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。   なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

.お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を用いてゐます。可能ならば、講座の前にでも、あとにでも、ご自身で読んでいただくことで、学びの主体性も高まりますので、ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌 しかし、本がなくても、講義をまづは聴くことから始められても、全く大丈夫ですよ。本をお求めの際は、「ことばの家 諏訪」にご連絡ください。  


ありがたうございます。   


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/



ふたつのクラスのご紹介動画です。よろしければ、ご参照ください。

参加者の方の声@


参加者の方と講師の声A




アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos


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2021年01月13日

今年から始まる仕事 アントロポゾフィーハウス


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東山魁夷「白い馬の見える風景」



わたしは、自分自身の仕事であり、運動体であるものを、「ことばの家」と銘打つて、これまでアントロポゾフィーと言語造形といふ芸術活動に勤しんできました。


もちろん、これからも、わたしの仕事として「ことばの家」を勤しんで行きます。


しかし、今年、令和3年、2021年からは、自分ひとりだけで仕事をして行くのではなく、自分自身の仕事が他の方々の各々の仕事と結びつくやうな形を模索・実現して行きたいと希つてゐます。


仕事において、他の方と協力し合ひながら、自分一人ではできなかつた仕事をひとつひとつ、創り出して行きたいと希つてゐます。


その際に、わたしにとつて大切になるのは、アントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)です。


このアントロポゾフィーを共有して行くことが、他者との共同・協働における大切な点です。


さうすることで、アントロポゾフィーそのものを、日本といふ国に根付かせ、花咲かせ、稔らせるのです。


アントロポゾフィーとは何か。何か特別なものなのか。さうとも言へます。しかし、さうとも言へません。そのことには、様々な観点から答へることができるでせう。


ルードルフ・シュタイナー自身は、あるところで、端的に、それは「人であることの意識」だと言つてゐます。


「人であることの意識」。これは、現代を生きるすべての人にとつて、人として生きる上での何かとても大切なものではないでせうか。


それは現代においては、「人が、その人であることの意識」「人が、ますます、その人になりゆく意識」「人が、自由と愛を生きる意識」と言つてもいいのではないでせうか。


「自由と愛」などといふことばは、すぐに宙に浮いてしまふ、大変やつかいなことばでもあるのですが、きつと、どの人も、こころの奥底で、そのことばの実現を乞ひ求めてゐるはずです。


生きた日本語でこのアントロポゾフィーを語ること、それが、わたしがわたし自身に課してゐる大きな、途方もなく大きな仕事です。


アントロポゾフィーとは、「道」です。その「人であることの意識」を学び、それを己れのからだとこころで確かめて行く実践です。人であること、自由であること、愛することができるといふこと、そのことへの「道」と言つてもいい。


その「道」とは、まぎれもなく、読書(講義の受講)と芸術実践です。


わたしは、アントロポゾフィーの基本文献を基にした講義をします。そこにおいて、共に考へること。考への世の内でこころを暖めること、励ますこと、ひとりひとり目覚めゆくこと、へと共に歩いて行くのです。講義とは、共なる、メディテーションです。


わたしは、さらに、言語造形といふことばの芸術を通して、ことばの力の内側に参入して行きます。その営みを多くの人が必要としてゐることを確信してゐますので、必要とする人とその芸術を分かち合つて行きます。それは、極めて具体的な仕事です。ことばを話すといふ、まぎれもなく、その人まるごとを使ふ芸術的な仕事です。その仕事のためには、舞台づくりといふものが、何よりもうつてつけです。共に、舞台を創つて行くのです。


メディテーション、それは、考へる〈わたし〉の内に、世を見いだすことです・・・。


芸術実践、それは、世の内に、〈わたし〉を見いだすことです・・・。


あなたみづからを見いだしたければ、世を見よ。
世を見いだしたければ、あなたみづからを見よ。


アントロポゾフィーの講義、そして言語造形、それは、どちらも、日本語をもつて「人であることの意識」を耕し、育て、稔らせるやうな仕事です。この仕事には、十年、三十年、百年、何百年とかかるはずです。


これは、わたしができる仕事であり、わたしから始めて行くのですが、さらに、他の芸術に勤しんでゐる方々とのコラボレーション、共同でアントロポゾフィーに根付いた仕事をして行くことを、今年から、始めたいと考へてゐます。


メディテーションと芸術実践、わたしたちのテーマは、それです。


物理的・固定的な場を持たない、この精神からの仕事場を、「アントロポゾフィーハウス」と名付けます。


声を掛けさせていただきました時には、できましたら、お耳をお貸しいただきたく、なにとぞ、どうぞ、よろしくお願ひいたします。共に、日本語の内に、アントロポゾフィーの精神(靈・ひ)を灯していきませう。



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

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2021年01月12日

捧げる何か 大阪公演から「おこぶちゃん(ミヒャエル・エンデ作)」




この世を去りし人たちは、きつと、この世に生きてゐるわたしたちを見守つてゐる。わたしたちは、そのことを感じつつ、生きることができる。


そして、わたしたちから何かを捧げることができる。それは、祈りであり、まごころであり、メルヘンである。


その時、確かに、向かうの世にゐる方々が耳を澄まして聴いて下さつてゐるのを、リアルに感じる。


令和2年10月18日「ことばの家 諏訪」にて行ひました言語造形公演『やさしい世界の終はり方』から、お聴き下さい。



言語造形 諏訪耕志  
クラリネット 小西収


「おこぶちゃん(ミヒャエル・エンデ作)」

「交響曲第三番第四楽章(マーラー作曲)より」



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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2021年01月11日

冬、考へを育む季節


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平櫛田中「平安老母」 何を読んでをられるのか・・・。




ひとつの考へは、人のこころにしつかりと宿れば、その人にとつてやがて成長して行くひとつの種になりえます。


種は、情報として本に書かれたままであつたり、インターネットの空間で行き交つてゐるだけでは、死んだものとして人々の間を忙しく交換・消費・廃棄されるだけです。


しかし、その考へといふ種をこころの内側にみづから宿すやうに受け入れ、お日様の光を当て、水分を補給してあげるやうに、何度も何度も繰り返し、その考へを、改めて、引き続き、考へ続けることによつて、その種は命を持ち始め、こころの内において芽を出し、葉を茂らせ、やがて、きつと、花咲かせ、稔りを得ます。


考へとは、一旦、死んでしまつてゐて、仮死状態にあるのですが、人が積極的にそれを自分自身の内側で育てますと、見事に息を吹き返し、その人に稔りを与へるのです。


そして考へは生き物として、その人の人生を前後左右に導いていきます。


ですので、どのやうな考へを胸の内に抱くのかが、とても大切なことなのです。それは、良き考へであれ、悪しき考へであれ、胸の内で生き物となつて、その人の生を導いて行くのですから。


それほどに、「考へ」といふものは、素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもあります。


その考へが、良きものか、悪しきものか、その判断はどうしてつけることができるのでせうか。


良き考へは、それを抱いたときに、こころが、胸の内が、広々と、明るく、暖かく、時に柔らかく、時に強く、開かれたやうな情をその人に与へませんか。


悪しき考へは、こころに固さと冷たさと狭さと暗さをもたらすでせう?


さう、情が、教へてくれますね。


情が教へてくれるためには、その情が健やかに育てられてゐなければならないでせう。


情を育てるのは、何でせう。


ひとつは、循環したものの言ひ方になつてしまひますが、よき考へを日々抱く練習をすること。それは、考へることの練習です。メディテーション、瞑想です。


まうひとつは、何か同じ行為をすることを繰り返すこと。それは、芸術的行為です。それは、意欲の練習、欲することの鍛錬です。


考へるの練習と、欲するの鍛錬とが、感じるの健やかな成長へと稔つてゆきます。


かうして、人のこころの育みとは、考へること、感じること、欲すること、それら三つの働きにみづから働きかけることであり、とりわけ、冬の季節においては、考へることの練習を始めるのに、適してゐるのです。


年の初めには、良き考へを抱き、その考へを考へつづけることによつて、種から芽へ、目から葉へ、葉から花へ、とこころに大切なものを時間をかけて稔らせて行く。


その習慣がこころを精神へと導きます。


その精神が、その人を、ますます、その人にして行くでせう。


その精神の育ちが、手取り足取り人から教へられなくても、自分自身の足で自分自身の道を、その都度その都度あやまたず選び取れるやうになることでせう。



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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posted by koji at 17:34 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月10日

大阪公演から「幼い日」「おこぶちゃん」「戦場の兵士」





八木重吉の詩「幼い日」の朗唱による母音の余韻。それは、記憶の砌(みぎり)にたゆたふ、幼な子の命と世の命との対話です。


ミヒャエル・エンデの「おこぶちゃん」といふ物語りによつて開かれて行く場。そこに結ばれるのは、わたしたち生者とすでにこの世を去りし人々との対話。


そして、叙事詩「戦場の兵士」が立ち上げる、静けさの中の沈痛な情。それは、生きてゐるこのわたしと精神(靈・ひ)の境にある高い〈わたし〉との語り合ひ、語らひ、対話なのです。


小西収さんによるクラリネットの響きと共に、わたしは、この対話といふものの値を汲み上げたかつたのです。


令和2年10月18日「ことばの家 諏訪」にて行ひました言語造形公演『やさしい世界の終はり方』から、お聴き下さい。


「ことばの家 諏訪」諏訪耕志




言語造形 諏訪耕志  
クラリネット 小西収


「幼い日(八木重吉作)」

「唐八景(さだまさし作曲)」

「おこぶちゃん(ミヒャエル・エンデ作)」

「交響曲第三番第四楽章(マーラー作曲)より」

「戦場の兵士(作者不明)」

「彼方へ(冬木透作曲)」




アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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2021年01月09日

参加者の方々の声 アントロポゾフィークラス・オンライン 


参加者の方の声@


参加者の方と講師の声A
 


アントロポゾフィークラス・オンラインでルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』をずつと講義してゐます。


この本を読み通したいんだ、といふ人が共に学び続けてゐます。


読んだからといつて、何の役にも立たない。その役に立たないことをなぜするのだらうか。


わたし自身は、本当にたいせつなことを知りたいから、この本を読み続け、アントロポゾフィーに学び続けてゐます。


世に張り巡らされてゐる影のスクリーンを引き裂いて、その後ろにありありとある世こそを知りたいからです。この地に足をしつかりと踏ん張りながら、なおかつ、向かう側に突き抜けて、この世を生きたいからなのです。


そんな人であることの真意を真摯に追ひ求める、20世紀から21世紀にかけての人たちに向けて、ルードルフ・シュタイナーは命を削りながら仕事をしました。


百年後に生きてゐるわたしは、懸命にその精神を、思想を、せめて必死で語りたいし、身を挺してその精神と思想を生きたいと希つてゐます。さうして、この精神と思想はとても価値あるものだと確信するがゆゑに、後の世代の者たちに自国の伝統と風習に根づいた形で伝へたいのです。


まこと、とどのつまりは、母国語を通して、この身を通して、世に何かを捧げたいのだと思ひます。


このアントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)からの仕事、言語造形といふからだを張る仕事を通して、何かたいせつなものを世に捧げたいのです。


わたし自身がさう思ひ、さう憧れ、さう求めてゐるから、きつと、もしかしたら同じやうな、なんらかの思ひ、憧れ、求めを持つ方が集まつて下さつてゐるのだらうと思ひます。


受講してくれてゐるのはたまたま女性の方ばかりなのですが、なんだか、不思議に深い繋がりを、わたしは勝手に感じてゐます。戦友のやうな気がしてゐるなどと言つたら、別に戦つてゐるわけではないのだから、おかしいでせうか。


教へられた者は、きつと、教へる者になる。伝へられた者は、きつと、伝へる者になる。戦争時の捕虜収容所における知の渇きを想ひ出せ。さう、受講して下さつてゐる方から教へられました。


講義してゐるところを動画に撮つて公開していいだらうか、と皆に訊きました。宣伝。さう、自分がしてゐる仕事の宣伝をさせてもらひたく、皆に協力を仰いだのです。


仕事に対する情熱と同時に、わたしは、この仕事で、かかあも娘たちも喰はせていきたい、といふまことに下世話な望みも抱いてゐるのです(これも意識のスクリーンに映つてゐる影にすぎないのですが・・・)。


だから、宣伝させてもらひ、皆に協力してもらひ、助力を仰いだのです。皆、その願ひを受け入れてくれただけでなく、それぞれ時間を取つて自分の思ふところを述べたい、と仰つて下さる。本当にありがたいことだと思ひます。


ご関心のある方は、このふたつの動画を観て、一度、受講してみていただきたい。さう希ひます。

こころのこよみ(第41週)〜胸からほとばしる力〜


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こころから生み出す力、
 
それは胸の基からほとばしりでる。
 
人の生きる中で、神々の力を、
 
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
 
おのれみづからを形づくるべく、
 
人の愛において、人の仕事において。
 
 
 
 
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、大いに考へることはできても、それを行為にまで移していくことには、難しさを感じるのではないだらうか。
 
 
考へることや思ひ描くこと。そして、実際に、すること。
 
 
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
 
 
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)と題された講演でシュタイナーが語つてゐることを要約して、今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみる。
 
 
 
―――――――
  
 
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、心臓からエーテル化した血が光となつてほとばしりでて、頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
 
 
そして、人は、夜眠つてゐるあひだ、考へる力が眠り込み、逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。そのとき、大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体を通り、心臓に向かつて、「いかに生きるべきか」「いかに人として振舞ふべきか」といつた道徳的な力が、その人に朝起きたときに新しく生きる力を与へるべく、色彩豊かに流れ込んでくる。
 
 
それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
 
 
だから、人は夜眠らなければならない。
 
 
人が少しでも振る舞ひにおいて成長していくためには、眠りの時間に神々から助けをもらふ必要がある。
 
 
昼間、人において、「こころから生み出す力」、考へる力が、「胸の基」から、エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
 
 
その下から上へのエーテルの流れは、頭の松果体のところで、夜、上から下への神々の力と出会ひ、そこで光が色彩をもつて渦巻く。
 
 
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
 
 
それが、人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
 
 
そして、マクロコスモス、大いなる世からの視野には、キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、そのキリストの血がエーテル化し、地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
 
 
そのとき以来、ひとりひとりの人が、キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、みづからの内なるエーテル化した血の流れが、キリストのエーテル化した血とひとつになつて、昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
 
 
そのキリスト化したエーテルの血と、マクロコスモスから夜毎やつてくる神々の力とが出会ふことで、人は、さらに昼間、愛において、仕事において、その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
 
 
考へ、思ひ描くこと。(胸から上つていくエーテル化した血の流れ)
 
 
そして、実際に、すること。(高い世から心臓に降りてくる力)
 
 
その間を、人みづからが埋めていく。
 
 
そのふたつを、人みづからが重ねていく。 
 
 
それが時代のテーマだ。
 
 
―――――――
 
 
 
 
 
シュタイナーによつて語られたこれらの精神科学からのことばを、何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。鵜呑みにするのではなく、折に触れて、何度も考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、自分自身が生まれ育つた文化風土において、どういふ意味を持つのか、考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴダのことの意味は、自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、といふことではないだらうか。
 
 
むかしの日本に、さういふ文化が根付いてゐたこと。大いなる理想を考へ、そしてその通りに実行してゐた人が数多ゐたこと。
 
 
わたしたちの先祖の方々が当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、わたしたち現代人が想ひ起こすとき、そのやうな道があつたことを、ありありと念ふとき、本当に自分のこころが、輝き、力づけられるかどうか、感じつつ、確かめていく。
 
 
そして、そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、神々の力が、交はつてゐること。
 
 
その交はりがあることによつて、自分の仕事が、充実して、まるで自分以上の力、神々の力が燃え上がるやうな瞬間を迎へることができること。
 
 
そのことを感じつつ、確かめていく。
 
 
 
こころから生み出す力、
それは胸の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。 
 

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2021年01月08日

美の後ろに通ふ愛


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ここ数年、わたしの言語造形の活動にクラリネット吹奏でお手伝ひ頂いてゐる、小西 収さんと昨年の暮れ、いろいろと話しをするために箕面に赴きました。


箕面は山がすぐ近くにあり、清々しい空気にいつも包まれてゐる街で、阪急電車に乗つて行くのがいつも楽しみな場所でもあります。


その時も、話してゐて興趣尽きることなく、午後の陽もあつといふ間に落ちて行つてしまつたのですが、彼が話してくれた様々なことがらのひとつに、御自身の音楽活動「トリカード・ムジーカ(音楽の編み物)」での指揮活動についての話がありました。


ご自身の音楽活動が、どこか柳宗悦の「民藝運動」と重なりはしないか、と思ひ続けてゐるがゆゑに、その活動を「楽藝」と名付けてゐるのです、といふ話をしてくれました。


その時も、話は深まつてゆきました。


指揮者は当然、肉体を持つて指揮をします。


けれども、さうでありながらも、まるで、そのからだが透明になつてゆくかのやうに、こころと精神の存在となることを強烈に意識し、実現すること。指揮者が音楽の精神そのものとなること。


そして、楽団員は、無意識的にせよ意識的にせよ、精神に沿つて演奏をすることへと導かれて行く。


そのあり方は、柳の言ふ、工人たちのひたすらな繰り返しの作業を導いていくのが「仏」であり「神」である、といふことと、一脈通じてゐるのではないか。


連続・持続された人の意欲・技量の熟練からこそ美は生まれいづる、そのことへの信仰、その信仰の対象を「仏」「神」などといふことばで言ひ換へ、柳は何度も何度もその美の秘儀の次第について書き綴つてゐます。


その時、工人たちは、「わたくし」の小賢しい意図から自由になり、仕事の連続から立ち現れて来る「仏」「神」に導かれて制作を進める。


さういふ「民藝」における精神のありやうと軌を一にして、小西さんは、ご自身と楽団員たちが共に、音楽の「仏」「神」に導かれるやうな自由な(!)美しい精神のあり方を夢見てをられる。


そして、小西さんは、何かどこか遠くを目指すやうなものではなく、その場その場の人と人との集ひそのものをたいせつにしたい、さう語つてくれました。(大雑把な言ひ方でゴメンナサイ、小西さん😓)


わたしは、様々な刺激と気づき・目覚めをもらつたのです。


小西さんが昨年の六月に書いたブログの記事『柳宗悦「工藝の道」』に、柳の素晴らしい文章の抜粋が書き取られてゐます。最後に、その中から、ふたつの文節をここに載せさせてもらひます。


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「多」と離れることによって「孤」を守るべきではなく、「孤」を「多」の中に活かさねばならぬ。
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美しい工藝には、いつも協団的美が潜む。離叛と憎悪との社会から、美が現れる機縁はない。美の背後には何らかの意味で愛の血が通う。神への愛、人への愛、自然への愛、正義への愛、仕事への愛、物への愛、かかるものを抹殺して美の獲得はない。
======



※写真は、ここ十年ほど、わたしが毎日こよなく愛用してゐる「出西窯」のマグカップ。「出西窯」は島根県出雲市にて、民藝運動の精神を受け継ぎ、70年以上、日々、暮らしの器を作り続けてゐます。掌に包む時の独特の暖かさ、唇に触れる時の人懐こい懐かしさ。このマグカップのお蔭でわたしは、毎朝、ほのかに、しかし確かに、幸せを感じてゐます。




アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

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2021年01月07日

インタヴュー「言語造形とは ことばとは 芸術とは」





「問ふ」といふことは難しい。「いい問ひを持つ」ことは、難しいことなのです。「問ひを立てる」ことこそが、学びの、芸術の、生きることの、要(かなめ)と言つてもいいのではないでせうか。


つまり、何かを知りたいといふ切なる願ひと、その何かに対する深い敬意を持つてゐることこそが、その人にしか立てることのできない「問ひ」をその人に立てさせます。


このインタヴューをしてくれた前田恭仁子さん、本当に、その「問ひ」を立ててくれました。お蔭様で、わたしがつねづね思ひ、考へ、大切にしてゐることを、その問ひが引き出してくれたやうに感じてゐます。前田さん、本当にありがたう。


令和2年11月3日 
京都市北区上賀茂、カフェ・ヨージクにて収録
聴き手 前田恭仁子



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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2021年01月06日

青森公演から「人形 (小林秀雄作)」




この青森公演の時にピアノを弾いて下さつた山本恵美さん


その音色の細やかでありつつも芯の通つたある種の強さに魅せられました。そして、さらに素晴らしく感じたことは、彼女がことばの息遣ひに呼応してピアノを弾き出し、弾き終へる、その間(ま)を共に生きる絶妙の感覚です。


リハーサルの時に山本さんにその感覚の素晴らしさについてお伝へした時、それは彼女が携わつてゐる認知症高齢者の音楽療法の臨床の経験から、相手に合はせて聴き耳を立てることをずつとしてきたからだと思ひます、とお答へ下さいました。


彼女は、青森県十和田市在住で、20年以上、認定音楽療法士として障がいのある方々や高齢者とのセッションを行って来られ、ピアノ教室もされてゐます。


令和2年12月6日 青森県十和田市東コミュニティセンターにて行ひました言語造形公演『やさしい世界の終はり方』から、諏訪耕志による語り「人形」と山本恵美さんによる繊細なピアノ演奏「Lullaby〜こもりうた〜(S.マイカパル作曲)」をお聴きください。


この「人形」といふ作品は、幾重もの細やかな情の衣を纏つてゐます。そしてその内に静かだけれども響き続けてゐる「もののあはれ」。日本人こそがとりわけ感覚できるものを、小林は薄い墨でさつと描いてゐるのですが、そこに籠められてゐる悲しみとユーモアが、わたしには澄み渡つて聴こえてきます。


和歌、そして俳諧(俳句)のやうに、極限まで切り詰めたことばの響きの内に、深々と揺蕩ひ、沈み込むやうなこころの営みと、世のまるごとに亘るやうな精神の運動を包みこむ、そんなことばの芸術が、日本といふ国に育つてきました。


「もののあはれを知る」。その文学の持つ意義を、昭和の人、小林秀雄もその批評文の中に、見事に引き継いでゐます。


この「人形」といふ小さな作品は、しかし、批評文ではありません。「もののあはれを知る」人が記しとどめた、文学の持つ機能を深める、ひとつの金字塔のやうなエッセイです。


行間といふ間(ま)に鎮められてゐる、もののあはれをわたしも引き上げたい一心で、この作品に取り組んでゐます。




2021年01月05日

「靈・ひ」の学び 言語造形とアントロポゾフィー


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昨日から始まつてゐるお正月連続講座『言語造形とアントロポゾフィー』。


午前は、からだもこころも精神(靈・ひ)も、総動員して、ことばの芸術・言語造形に取り組みます。朗々と発せられる声と息遣ひに、歳のはじめのすがすがしさが空間に満ち渡ります。


午後は、アントロポゾフィー(人を知ること、人を意識するといふこと)といふルドルフ・シュタイナーによる精神(靈・ひ)の学びに取り組みます。


人といふもの、それは、からだ、こころ、精神(靈・ひ)から、なりたつてゐます。


人といふものは、そもそも、動物から一頭地抜け出てゐる存在ですが、しかし、さうなるためには、精神(靈・ひ)を学び、精神(靈・ひ)に習ひ、精神(靈・ひ)を生きることがどうしても必要になります。


精神(靈・ひ)がやどり、とどまるところを「ひと・人」と古来、日本では言ひました。


「ひ」とは、靈であり、火であり、陽であります。


太陽の力、靈・ひの力を宿して、人間は、「ひと」になります。


そして、「ことば」とは、精神(靈・ひ)の境から生まれたものです。肉を持つ人間が作り出したものではありません。天地(あめつち)の初発(はじめ)にことばがあり、民族を司る神、靈・ひの方を通して、そして、いまも、一瞬一瞬、天地の初発から、ことばは生まれてゐます。


ですので、ことばがやどり、とどまつて、人間は「人・ひと」になることができましたし、いまも、さうなのです。ことばがしつかりと根付くとき、ことばを己れのことばとすることができたとき、その存在は「ひと」となります。


言語造形といふ芸術によつて、そのことを知性だけで理解しようとするのではなく、自分のまるごとをもつて確かめて行くのです。



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2021年01月03日

恐怖から自由になり根本から考へる


松田政策研究所チャンネル『号外【ニュースを斬る!】上久保靖彦先生から国民及び菅政権へのメッセージ』



お正月、実家にゐると、テレビがついてゐて、それを観てますと、メディアや一部の政治家が「感染者数最多!」と毎日煽つてますね。


テレビを観てゐると、いつしか、そんな世間の雰囲気に知らず知らず呑まれてゐる。


わたしの姪(大学生)がコロナウイルス感染の疑ひありでPCR検査を受けたとのこと。結果は陰性だつたさうだけど、なんと、費用が2万円近くかかつたとのこと。ははあん、そりゃあ、これだけ「PCR検査やれやれ」といふのも何か裏があることを考へさせられるではありませんか。


煽りによる恐怖。


全体主義が人々を手玉に取らうとする、いつもの手です。


この26分の動画、気休めなどでは全くなく、精確な知見を基にしたものです。


煽りによる恐怖からこころを解き放つことが、まづ必要だと痛感しますね〜。


その安心こそが、ひとりひとりの免疫力を上げて行く底力になります👍


獲得された集団免疫を維持するために曝露(ばくろ)を続けることが大事であること。


過度に恐れる必要は全くないこと。


日本政府は、メディアによる煽りを信じることなく、大きな勇気をもって実際に日本を世界に開放するべきであり、さうすれば普通の生活に戻ることが可能になること。


これ以上、夢うつつでゐないで、目覚めることが必要だと思ふなあ。

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こころのこよみ(第40週)〜虚しい想ひ込みを焼き尽くす世のことば〜


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そして、わたしはある、精神の深みに。
 
わたしのこころの基において、
 
胸に満ちる愛の世から、
 
己れであることの虚しい想ひ込みが、
 
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。
 
 
 
Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
 
 
 
「わたしは、いる」「わたしは、いま、ここに、いる」といふ響きから生まれてくる情よりも、「わたしは、ある」といふ響きから生まれてくる、「いま」「ここ」さへも越えた、「わたし」といふものそのもの、「ある」といふことそのことの、限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
 
 
何度も声に出してゐる内に、その情を感じる。
 
 
「わたしは、ある」。「我あり」。
 
 
それは、その人が、どんな能力があるとか、どんな地位に就いてゐるとか、からだの状態が、健やかであらうが、さうでなからうが、そのやうな外側のありやうからのことばではなく、ただ、ただ、その人が、その人として、ある、といふこと。そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことば。
 
 
そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>だ。
 
 
 
 
そして、シュタイナーの『精神の世の境』といふ本から要約したかたちだが、「愛」についてのことばを引いてみる。
 
 
―――――
 
 
精神科学の学び手は、考へる力を通して、「わたしがあることの情」を育んでいくことに重きを置いてゐる。
 
 
その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与へてくれるからだ。
 
 
そして、学び手は、この感官(物質)の世を生きるにおいては、その強められた「わたしがあることの情」を抑へることを通して、愛を生きる。
 
 
愛とは、みづからのこころにおいて、他者の喜びと苦しみを生きることである。
 
 
感官を凌ぐ意識によつて人は精神の世に目覚めるが、感官の世においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。
  
 
ルドルフ・シュタイナー
ーーーーーー
  
 
 
「世のことばの火の力」1月6日、ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によつて、30歳のイエスは、「世のことば」キリストを受け入れた。その「世のことば」は火の力にまでなつてゐる。
 
 
その火の力は、わたしたちひとりひとりのこころの基において「己れであることの虚しい思ひ込み」を焼き尽くす。
 
 
そして、胸に、他者への愛が息づき始める。
 
 
わたしによつて強められた「わたしがあることの情」が、わたしによつて抑へられることによつて、「己れであることの虚しい想ひ込み」が焼き尽くされる。胸に愛(インスピレーション)が満ちる。
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
 
 
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
胸に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。


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2021年01月02日

宇宙に拡がりゆく螺旋


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ルオー『ピエロ』


意識を持つ者にとつて、「ある」とは「なりゆく」ことであり、「なりゆく」とは「変はりゆく」ことであり、「変はりゆく」とは「稔りゆく」ことであり、「稔りゆく」とは「みづからを限りなく創りゆく」ことである。このことばは、昔どこかで読んだフランスの哲学者ベルクソンの書いたものだつたと思ひます。


「ある」「なる」「変はる」「稔る」「創る」といふこれらのことばは、ひとつの道の上にあり、その道は季節の巡りのやうにぐるぐると螺旋状に回りながら上昇していくやうです。


そして、その螺旋の道を超えて遥か遠くに、静かに鳴り響いてゐる、まうひとつのことばがかすかに聴こえるのです。


・・・「捧げる」・・・。



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2020年12月31日

令和二年を終へて


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秋の暮れの、和歌の浦の海


―――――
吾(あれ)、父のことよさしのまにまに
このたびこそ
海原(うなはら)しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸(さき)ははせむ


いくたび泣きいさちきか
いくたび青山枯らしきか
いくたび母を求めしか


さはあれ
このたびこそ
海原しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸(さき)ははせむ
―――――


これは、昨年の今日、書いたものなのですが、この一年、わたしはこの詩をずつとこころの奥で歌つて来たやうな気がします。


そして、お恥ずかしい話ですが、その甲斐あつてか、母を求めて泣きじゃくつてゐた、わたしの内なる「男の子」「スサノヲノミコト」はおほよそ一年かけて涙を流し切り、いまは、まう、陽の光を浴びて笑つてゐます。


そして、帆を上げて、新しい海原(うなはら)に向かつてゐます。行き先はどこだか分からないのですが、船は出たことを感じます。


昇つて来る朝日に向かふやうな感覚です。自分自身を信じて、拙いながらも我が仕事によつて、世が弥榮に榮へゆくことに少しでも仕へたい、といふ希みをどんどん自分の内側で育てて行きたいと思つてゐます。


八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


今年、お世話になつた皆様、本当に、こころよりお礼を申し上げます。どうも、ありがたうございました。




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2020年12月29日

大歳の焚き火




昔の日本人は、自分自身の誕生日を「はっぴ、ばーすでー、とぅー、ゆ〜」と祝つてもらふといふやいうな習慣・風習はなかつたさうです。大晦日から元日の朝になつて、皆、一緒に、ひとつ、歳をとるのでした。お母さんのお腹から出て来た時、その時すでに一歳であり、次のお正月には子どもは皆二歳になるのでした。


このことを、「ヨーロッパに比べて、個人の意識が育たない日本ならではの古臭い風習であつた」などといふありきたりのことばで言つて、片づけてしまつても甲斐ないことです。


ルードルフ・シュタイナーは『こころのこよみ』の序文において、「一年のいのち」といふ言ひ方をしてゐます。「年」といふもの、ひとつひとつに、いのちがあるのです。


大晦日まで数へ終へたら、また、もとの初めの一月一日から数へ始める。その大歳(おほとし)のいのちの甦りの感覚を、昔の人は鮮やかに持つてゐたのでせう。国民こぞつて感じることのできるその感覚は、きつと、本当に厳粛なものです。


個人の目覚めの前に、充分な備へがなされてゐた日の本の国風(くにぶり)こそを、わたしたちは見直してしかりでせう。


その大歳をとる、その刹那に火が焚かれてゐる。それは、どれほど、人を勇気づけてゐたことでせう。火は、日であり、靈(ひ)であります。暗闇のさなかに人によつて灯される靈(ひ)。


わたしたちこそ、いまこそなほ、その靈(ひ)を求める者ではないでせうか。わたしたちこそ、その靈(ひ)を灯す人ではないでせうか。

2020年12月28日

こころのこよみ(第39週)〜<わたしがあること>の情〜


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精神(靈・ひ)の啓けに身を捧げ、
 
わたしは世といふものの光を得る。
 
考へる力、それは長ける、
 
わたしにわたしみづからを明かしながら。
 
そしてわたしに呼び覚ます、
 
考へる力を通して、わたしがあることの情を。
 
 

An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
 

 
「精神(靈・ひ)の啓け」。
 
 
それは、「わたしがある」といふことを実感すること。
 
 
それこそが、すべての現代人における、もつとも深い願ひなのではないだらうか。
 

どんなときでも、どんな場所でも、誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、「わたしがある」といふことへの情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
 
 
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、イエスの誕生によつて、人にもたらされた。
 
 
それを「精神(靈・ひ)の啓け」と、ここでは言つてゐる。
 
 
では、「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
 
 
それは、「考へる力が長ける」ことによつて稼がれる。
 
 
普段、わたしたちの考へる力は、目に見えるもの、手に触れるものなど、物質的なものについて考へることに、尽きてしまつてゐる。
 
 
「いま、何時だらう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」「ローンの返済を今月ちやんと済ませることができるだらうか」などなど・・・。
 
 
わたしたちのふだんの考へる力は、そのやうに特に意志の力を要せず、やつてきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
 

しかし、たとへば、葉がすべて落ちてしまつた木の枝や、目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。
 

それらをぢつと見つめながら、こころの内で、次のやうなことをみづからの意欲・意志を注ぎ込みながら、考へてみる。
 
 
その寒々しい冬の裸の枝に、やがて来たる春や夏には鮮やかな花が咲き、緑滴る葉が生い茂る。
 
 
そのいまは目には見えない花や葉を想ひ描きつつ、その木に脈々と通ふ生命について、熱く考へてみる。
 
 
さうすると、その寒々しかつた冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のやうなものが感じられてくる。
 
 
それぐらゐ、考へる力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
 
 
すると、その考へられた考へが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものやことがらの内に通つてゐるかのやうな、活き活きと命を漲らせたものになる。
 
 
考へる力を、そのやうに、感官を超えたものに、意志をもつて向けていくことによつて、死んでゐた考へを命ある考へに転換できる。
 
 
死を生に転換できる。
 
 
そして、その考へる力によつて、わたしたちみづからも活き活きとしてくる。
 
 
その考へる力によつて、わたしにわたしみづからが明かされる。
 
 
わたしに、「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。
 
 
それは、おのづから生まれるのではなく、ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
 
 
「わたしがあること」の情とは、みづからに由るといふ情、「自由」の情でもある。
 
 
その内なる自由からこそ、「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことができる。
 
 
そして、「わたしがある」といふことをもつて「身を捧げる」。
 
 
ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
 
 
それは、どこまでも、この「わたしのわたしたるところ」、「わたしがある」への信頼から、人との対話へと、仕事へと、一歩踏み出していくこと。
 
 
それは、きつと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいだ。
 
 
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
 
 
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、輝いてゐるもの、輝いてゐる人、そして輝いてゐる「わたし」を見いだすことができる。
 
 
「わたしがある」といふ情を育みつづけるならば。
 
 
 
 
 
精神(靈・ひ)の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。



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2020年12月27日

2020年 立ち止まるといふこと



「ロックダウン」などといふ政策は、世の冷凍化、硬直化、そして分断を促したい悪の力によるものであり、そもそも、このウイルス「禍」は、その悪の力からの攻撃だとわたしは視てゐます。悪は実在してゐます。


しかし、さういつた悪の思惑が、逆に善を目覚めさせる可能性があるのですね。


今年、令和二年、2020年は、生活がこれまで通りにできなくなつた一年でした。

しかし、さうなることによつて、からだもこころも立ち止まらざるをえない。からだとこころが忙しく動き回ることをやめた時こそ、精神が登場する。精神の目覚めが生まれる。


それは、悪が目論んだことがいつも裏目に出ることの、ひとつの証左です。


からだとこころが立ち止まらざるをえなくなる時、それまで抱いてゐたこころの奥底にあつたもの、隠してゐたものが表側へと噴出してくる。恐怖に駆られる人もゐるでせうし、腹が座る人もゐるでせう。自死せざるをえなくなる人も出てくるでせう。


この精神の目覚めへの促しは、今年、全世界的に、強制的に、起こつたことですので、これは、まさに、人によつては天恵にもなりえるし、この上ない災難にもなりうるのです。


そんな中でも、いや、そんな中だからこそ、人が求めてゐる本当のものは何だらう、と問はざるをえないのです。


こころの強さ、ではないだらうか、とわたしは、いま、考へてゐます。こころの強さからこそ、生命の健やかさ、社会の健やかさ、健康が得られるのだから。


こころの強さとは、どんなことがあつても柔軟に精神(靈・ひ)に向かふ力ではないでせうか。それは、時に、からだを超える力です。それは、大変厳しい力です。しかし、精神(靈・ひ)こそが、生きていく意味と希望と意欲をもたらすものだとわたしは思ふ。


弱さを認めること(神が与へた人類普遍の女性性)と、強さを育むこと(神が与へた人類普遍の男性性)は、どちらも大切なことです。しかし、こころの強さを育むこと、生きることの意味を己れの内側で育てて行くことができること、精神(靈・ひ)に向かふことができること、それは、人類の文明を支える大きな礎です。


いま、文明が危機に瀕してゐることを明確に意識してゐる人は、少数かもしれません。しかし、その危機を乗り越えることがなされなければならないと考へ、ひとりひとりが何らかの仕事を意識的にして行けばこそ、若い世代へと何かが伝はります。


少なくとも、「若い世代の方が目覚めてゐる」などと、大人が言つてはならないと思ひます。大人ならば、先に深く明らかに目覚めてゐなければならないと、わたしは信じるのです。


令和二年・2020年、わたしはしつかりと立ち止まることができただらうか。そして、新しく目覚めることができただらうか。


さう言へば、今年読んだ文学は比較的、長編ものが多く、いずれも、世から押し寄せてくる困難や不条理を前にして、逃げ惑はずに立ち止まり、立ち向かひ、死生の境を超えて、精神(靈・ひ)の道を切り開いて行つた人の物語であり、評伝でありました。自分たちの時代ならではの観点を標準にせずに、物凄い人・精神の人が存在したのだといふことを知ることのできる文学でした。


最初から最後まで声を出して読んだ『平家物語』、シェイクスピアの四大悲劇、ゲーテの『ファウスト』、ノヴァーリス全集、盲目に陥つた本居春庭(宣長の子息)の評伝『やちまた』、トーマス・マンの『魔の山』、サマセット・モームの『月と六ペンス』・・・。


立ち止まり、考へるといふこと、自分にとつて本当に大切なことは何かと問ふこと、自力で答えを探し求めること、待つこと、精神(靈・ひ)に目覚めること。


これらのこころの力は、この混乱期を通して培ふことのできる大切なこころの力ではないでせうか。

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2020年12月25日

メリークリスマス



昨日、友から電話があり、不条理のまつただ中に彼が立たされてゐることを知らされた。


彼の話を聴きながら、そんなことがこの世にあつていいのか、と思つた。


どうして、生きて行く上に、こんな悲しみが訪れるのだらう。悲しみは、いつたい、何をわたしたちに教へてくれようとしてゐるのだらう。


電話の最後に、しかし、彼は「メリークリスマス」と言つた。


メリークリスマス。メリークリスマス。メリークリスマス。


静かで、聖き夜が訪れますやうに。

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2020年12月24日

キリスト生誕劇を語るシュタイナー



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キリスト生誕劇について、シュタイナーはある講演で語つてゐます。
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このイエス・キリストがお生まれになつた聖き夜の劇は、村の誰それの家に手書きで残されて、それはそれは神聖なものとして保たれてゐました。

かつてそれを演じるには、十月に入り、やおらその年の上演のことがこころにかかり、演じ手の若衆男女が選ばれ、選ばれた若衆は当日までの備へのあいだ酒を断ち、日曜日に喧嘩をしないとか、様々な慎みごとをして、彼ら言ふところの『聖らかな暮らし』を送ります。

聖き夜の節、聖き劇を演じるには、それなり聖きこころでと、さういふ意識を人々は抱いてゐました。世俗のしきたり、浮き世の楽しみで臨んだのではありません。演じるのは、ふだん鋤よ鎌よで働く人たちですから、それは素朴なものでしたが、始まりから終わりまでを、ずつと深く厳かさが領しました」
(「聖き夜との考へとわたしなる秘密」より)

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この劇は、18世紀の半ば、シュレーアーといふ文学者であり民俗学者でもあつた人によつて、西ハンガリー地方のある村で採録されたものです。その劇を20世紀に入つて精神科学者であるシュタイナーが再び見いだし、それがやがて世界中のシュタイナー学校において、クリスマスの時期に先生たちから子どもたちへの贈り物として、毎年演じられるやうになりました。


人よ 思ひ起こせ  人にして神々しいところを
天の高みより 降りてこられた をさな子


そのやうな念ひを抱く素朴な誠の心意気。この劇は、ただひたすらに、そこから発してゐます。


この「キリスト生誕劇」を三年前、二年前、いずれもクリスマスのこの時期に大阪で上演しました。


光の降誕をこころよりお祝ひするべく、陰翳深く、芸術的に深く彫り込まれたものを子どもたちに、との希ひを持つて創りました。


来たる年、またどこかでこの劇を創らせていただきます。


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子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたしの内なる青春時代〜



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そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。


大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」、そして「青春時代」。


わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。


わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしはまた問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていくのです。


そして、わたしの中の「子ども時代・青春時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。


第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。それは、その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。そして、他者と語り合ふ中でこそ、ひとりで考へる力が育まれていきます。


若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。


そんなとき、時間をかけながら、傍にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。


そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。


そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、傍にゐる大人が見てとつてあげられたら。


『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。


さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。


他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。「では、わたしは、世に対して、何をして行かうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の傍にゐる大人のひとつの役割でせう。


ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。


彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。


人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。


そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。


さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んで行かうか。引き続き、わたしにとつての2021年の課題です。
(完)


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2020年12月23日

子ども時代D 〜順序を間違へないこと〜


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欲する力・意欲の働きがむき出しの0歳から7歳。


その欲する力の上に、感じる力・情の衣をまとひ始めるのが7歳から14歳。


そしてその欲する力、感じる力から、だんだんとひとりで考へる力が育つてくるのが14歳から21歳。


それら三つの力はどれも、その人のその人たるところ、「わたし」から生まれてこようとしてゐるものですが、年齢によつてその表れ方が異なつてゐて、欲する力として、感じる力として、考へる力として、順番に現れてきます。


それらおのづと生まれてくる力の順序を間違へずに、その順序どほりに育んでいくことが、人の育ちにとつてとても大事な意味を持ちます。


小学生に、「自分で考へなさい」と言つてしまふこと、ありませんか。


人といふものをよく見てとつてみると、小学校に通つてゐる時期には、子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、おのづと、感じる力といふ衣をまとひ始めてゐる、しかし、自分ひとりで考へる力は、まだ生まれてきてゐない。


「自分で考へなさい」「自分で判断しなさい」といふ指導は、その時期の子どもには早すぎるのです。


小学生に対して、自分自身で考へさせ、判断させることをあまりにも強いてしまふと、こころの働きを早産させてしまひ、後になつて、大人になつても相応しく考へる力、判断する力がなく、また、こころに茨のやうなアンチパシーが生い茂り、生きていく上でにがい思ひをすることになりかねません。


「シュタイナー教育では、かう考へる」といふのではなく、人をあるがまま観てとる練習をしていけば、そのやうな順序を間違へない判斷がだんだんとなされるやうになつてきます。


人をあるがままに観てとる練習。その練習は、きつと、生涯、続きます。



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子ども時代C 〜言語からの愛、言語からの叡智〜


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小学校時代の第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、子どもと地域との関係性、それは一対多の関係性とも言へるのですが、より本質的に言へば、それは人と民族との関係性です。


民族とは、ひとつの言語を母語として共有してゐる人々の集まりを言ひます。ひとつの言語を共有することによつて、人々は共にある、といふことを実は感じてゐます。ほとんど無意識、もしくは夢のやうな意識の次元においてですが、感じてゐます。


日本語を話すことによつて、その人は日本人になるのです。だんだんと日本人のものの考へ方、暮らしの仕方へと身もこころも同化していきます。なぜなら言語は、おもに、感情の次元から発せられてゐて、感情とは民族に根付いてゐる根柢に通ふものがあるからです。


そして、言語を話す人には、その言語からの叡智が贈られてゐます。


ことばの叡智、日本伝統のことばで言ふ「言霊の風雅(みやび)」、キリスト教の密で言ふ「ロゴス・ことば」、もしくは、人をどこまでも育てようとする、ことばの神からの「愛」です。ことばを大切に扱ふ人のところに、ことばの精神から、愛と叡智への予感が降りてきます。


言語造形を通して、ことばにはそのやうな働きがあることを学んでいくこともできます。


そのやうに実は叡智に裏打ちされてゐることばを通して、他者と素直に語り合ひ、違ひを見いだし、それを尊び、自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。


第二・七年期の子ども時代、それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。


また、大人にとつては、自分自身の内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによつて、ことばと己れとの関係にいま一度目覺めることができるのではないでせうか。わたしたち大人自身が、複数の他者との関係の中で、どう、ことばとつきあひ、どうみづからを育んでいくことができるか。そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、この上なく大切な働きかけになります。



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子ども時代B 〜彩りの豊かさ〜


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子どもは歯が生へ変はりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとつて本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか多勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。


地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豐かさにどんどん目が奪はれていくことでせう。


かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。


幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。


しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情といふ衣を着つつ現れてきます。


そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。その彩りの豐かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。


ひとりひとりの子どもは、みんな、違ふ。みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。


ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊嚴を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。 どれほど大切なものが子どもたちの内側から流れ出してくるでせう。


さういふ大人の下で、子どもは、自分といふ個にゆつくりと目覺め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覺め、その彩りの豐かさに目覺めていきます。


社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、多勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本來的な豐かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。


もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」 もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に拔きん出ることができますよ」といふひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれ出ようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着てゐるやうなものです。


ひとりひとりの子どもたちは、本来、各々、別々の色を持つてゐます。


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2020年12月22日

子ども時代A 〜自己信頼の基 あのね かあさんが すきなのよ〜


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「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳に至るあたりまで、幼い子どもは、自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としてゐます。


その一対一の関係を通して、子どもは「世は善きところである」といふ信頼を、きつと、ますます深めていくことができるのでせう。


その個と個の関係において、人はまづ最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。


その最初の<わたし>の健やかな成長のために、子どもは、内側から湧き上がつてくる「意志・意欲」を、そのまま固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、ひとりの大人の存在を必要としてゐます。


その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、家庭があり、その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。


この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すやうな童歌があつて、まどみちおさんが作詞した「ざうさん」といふ歌があります。


  ざうさん、ざうさん、おーはながながいのね
  さうよ、かあさんも、なーがいのよ

  ざうさん、ざうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ


幼い子どもが、ひとりのお母さん(もしくは、それに代はる誰か)との結びつきを通して、個と個の信頼を育んでゐる姿が描かれてゐますね。


ひいては、自分自身への信頼をも育んでゐます。


わたしたち大人の内側に、第一・七年期の子どもにとつての大切なテーマでもある、この個と個の関係性をあらためて創つていくことの重要性を、いやといふほど感じてゐるのが、現代といふ時代かもしれません。


その関係性の基とも言へる、家庭の中における個と個の関係性、家庭の中における夫と妻の関係性、そこには、その人の第一・七年期のありやうが映し出されてゐます。


そここそに、新しい宗教性が啓かれるのです。


それは、ひとりの人とひとりの人との間の信頼の問題、そして、つまるところ、自己信頼の問題なのです。


そのことが、もつとも現代的なテーマとして、わたしたち大人が向かひ合つていくべきことだと、あらためてわたしは考へさせられてゐます。

posted by koji at 23:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜


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人における「子ども時代」。それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。


よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。


「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかつた」


でも、大人になつても、遅くはない。なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潛めてゐるからなのです。


「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのやうなことばが思はず呟かれるのかもしれません。


「子ども時代」を強く保ち続けてゐる人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ち続けてゐる。子どもの氣持ちにいつでも帰ることができる。自分の中の子どもに語りかけるやうに、何かを創つたり、語つたり、書いたりすることができる。その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。


幾つになつても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。

posted by koji at 18:19 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月21日

こころのこよみ(第38週) 聖き夜の調べ


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わたしは感じる、
 
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は胸の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 
 
Weihe-Nacht-Stimmung   
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
 
 
クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。
 
 
どの人のこころの奥にも眠つてゐる、をさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
 
をさな子、それは、子ども時代の内でもとりわけ、記憶の境の向かう、三歳以前のわたしたちのありやう。
 
 
いまこそ、この時代こそ、世の男たちの(このわたしの)内なるをさな子が目覚めますやうに。さう祈らずにはゐられない。
 
 
なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、世のすべての争ひ、分け隔て、エゴ、それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
 
わたしたちは、この世に生まれてから、おほよそ三年かけて、歩く力、話す力、考へる力を育み始める。
 
 
その三つの力は、人のからだを創つていく力でもある。
 
 
歩く力によつて脚が、話す力によつて胸が、考へる力によつて頭が、だんだんと創られていく。
 
 
歩く力、話す力、考へる力は、当然その子によつて、意識的に身につけられたものでもなければ、大人によつて教へ込まれたものでもなく、そのをさな子の内から、まるで神々しい力が繰り出してくるかのやうに、地上的な力を超えたところから、生まれてくる。
 
 
そのおのづと生まれてくる神々しい力は、しかし、三年間しかこの世にはない。
 
 
をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、その子の内に、少しづつ地上を生きていくための知性と共に、エゴがだんだんと育ち始める。
 
 
しかし、きつと、それも、人の育ちにはなくてはならないもの。
 
 
三年の間のみ、人の内に、からだを創るための神々しい力が通ふ。
 
 
その地を越えた神々しい力は、この地を生きていくための基の力である。
 
 
「聖き、世のことば」キリストも、この世に、三年間しか生きることができなかつた。
 
 
イエス、三十歳から三十三歳の間だ。
 
 
そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、をさな子のをさな子たるところからの力であつた。
 
 
キリストは、世のすべての争ひ、分け隔て、エゴを越え、人のこころとこころに橋を架ける愛する力として、この地上に受肉した。
 
 
後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされてゐる、24日から25日の間の聖き夜。
 
 
その夜から、キリストがイエスに受肉した1月6日までをクリスマスとして祝ふ。
 
 
そして、このクリスマスは、二千年以上前のおほもとの聖き夜に起こつたことを想ひ起こすことを通して、わたしたちの内なるをさな子たるところを想ひ起こす時だ。
 
 
そして、いまから三千年以上あとに、すべての人がみづからのこころに精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)、キリストを見いだすことを、予め想ひ起こして祝ふ時だ、さうシュタイナーは語つてゐる。
 
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、その神々しい力が通つてゐた。
 
 
そして、実は、いまも、通つてゐる。
 
 
しかし、そのことを人は知らない。
 
 
わたしが、その神々しい力を想ひ起こせばこそ、いまもその力が通つてゐることに目覚めることができる。
 
 
このクリスマスの日々に、その力を自分の内にも認めればこそ、来る年への希みが羽ばたき始める。
 
 
争ひ、闘ひ疲れてゐる男たちが、みづからの内なるをさな子を想ひ起こしてゆくならば、世はおのづから刻一刻となりかはつていくだらう。
 
 
 
 
  
『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は胸の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 

 
※シュタイナーが、
 Seele といふことばを使ふときは、
 からだと繋がるところでありながらも、
 からだからは独立した働きを荷ふ
 「こころ」を言つてゐますが、
 Herzen といふことばを使ふときは、
 物質の心臓といふ意味合ひも持ち、
 またその物質の心臓の働きを支えている
 エーテルの心臓をも指すやうです。
 ここでは、
 Herzen を「胸」と書き表しています。

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2020年12月20日

方言といふもの〜「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか(井上俊夫作)」&「小さな村で見た(石村利勝作)」〜




方言といふものが人にもたらすもの。それは何なのでせう。


「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか(井上俊夫作)」
「小さな村で見た(石村利勝作)」です。


大阪弁のあと、静かな標準語による詩を聴いていただく時、その語感の差異は何を物語るのでせう。


小西収さんの編曲・演奏のクラリネットと共に、諏訪耕志による言語造形・詩の朗唱をお聴きください。
https://youtu.be/zhsEZkaJJoE


キダ・タロー作曲「地底のランナー」
井上俊夫作「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」
ドヴォルザーク作曲交響曲第八番より
石村利勝作「小さな村で見た」
さだまさし作曲「桃花源」


2020年10月18日(日)大阪の「ことばの家 諏訪」で行ひました公演『やさしい世界の終はり方』より。





2020年12月17日

アントロポゾフィークラス・オンラインのご案内



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ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』(鈴木一博氏訳)を読み解く2時間。途中からでも、どうぞお気軽にご参加下さい☺


講師:諏訪 耕志


●月二回金曜クラス
 12月18日(金)夜7時半〜9時半
「人の徳育」(第五講)

●月二回土曜クラス
 12月19日(土)朝10時〜12時 
「眠りから目覚めへ」(第六講)

●月一回月曜クラス
 12月28日(月)昼1時半〜3時半
「〈わたし〉はいかにしてからだに入つていくか」(第六講)


●参加費 
初回体験参加 3500円
3回連続 9000円

連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。
またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。


●お申し込み・お問ひ合はせ
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/


●お振り込み
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。

posted by koji at 14:32 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

聴くことの育み 〜青森での日々から〜


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青森での十七日間、毎日、オイリュトミーをする人、越中奉さんと朝から晩まで、ずつと話をし、飯を食ひ、練習をし、酒を飲んでゐましたが、こんなに話を聴いてもらへたことは、わたしのこれまでの人生でなかつたやうに思ひます。

わたしたちの間では、思ひやりの深さと遠慮のなさと尊敬と悪口と信仰とが混然一体となつてをりました。学生時代に帰つたやうでした。

そして、彼のオイリュトミーにおいて何が素晴らしいかと言ふと、それは、肉の耳に聴こえない、人のこころの動き、息遣ひを確かに聴くことのできるオイリュトミーであることでした。

その目には見えないかたち、耳には聴こえない余韻が描くフォルムを多くも多くの人が見えない、聴こえない、といふことに、わたしは仕事をしながら、気が狂いさうにもなつてをりました。

しかし、その不可視のもの、不可聴のものに対する感覚を分かち合へたことは、何か神からの恩寵のやうに感じ、特別の喜びでした。

さういふ感覚は、「ことばの感官」によつて感覚されます。

それは特別な人だけが持つ感官では、決してなく、すべての人が持つてゐるものなのですが、ことばを意味でしか捉えない、物理的な響きでしか聴くことのできない、知性に偏り過ぎた現代人の多くは、その感官をみづから閉ざしてしまつてゐます。

幼な子たちは、新鮮な生まれたての「ことばの感官」をもつて全身全霊で人のことばを聴いてゐますが、小学校に入り、知的な教育ばかり受けてゐるうちに、いつしか子どもたちはみづからの「ことばの感官」を閉ざして行きます。

そして、ことばの響きから生まれる色彩や運動、かたちや音楽などを感覚することができなくなつて行き、ことばを単なる情報を伝達するための符牒に貶めて行くのです。

では、その閉じられてしまつた感官をどうやつて再び開き、豊かに育んで行くことができるのか。

それは、一生懸命、ことばを「聴かうとする」ことです。アクティブな意欲を持つて、一つの音韻から一つの音韻を聴かうとすることです。注意深く静けさを聴かうとすることです。

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posted by koji at 07:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする