2020年08月27日

「こころのこよみ」とともに生きる A



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昔の人は、
四季の移りゆきに沿つた暮らしを
無意識の内にも営んでゐた。
.
.
地球の大きな呼吸に合はせるかのやうに、
季節を生きてゐた。
.
. 
春から夏にかけて、
こころを外の世に向かつて解き放ち、
秋から冬にかけては、
自分自身に向き合つてゐた。
. 
. 
現代に生きるわたしたちは、
季節に関はりなく、一年を通して、
快適に暮らすことができるやうになり、
昔とは比べやうもないほどの快適さ、
便利さを享受してゐる。
.
. 
しかし、その代償として、
昔の人が営んでゐたやうな、
自然に沿ふ生き方を失つてしまひ、
大いなる世の移り行きと、
みづからのこころの移り行きとの間に、
ハーモニーを見いだせなくなつてしまつた。
.
. 
自然と人とがバラバラになつてしまつた。
.
.
人のこころは、安らかでなくなつてしまつた。
.
.
恐れ、不安、不信、
穏やかならざるものに苛まれがちになつてしまつた。
.
. 
わたしたちは、いま一度、
自然とのハーモニーを取り戻せるだらうか。
. 
. 
春から夏にかけて、
よおくものを見るのだ。
よおく耳を澄ますのだ。
よおく動いて、働いて、汗を流すのだ。
.
.
意識的に感官(目や耳など)をより活き活きと働かせて、
覚えといふ覚えに沿ふこと。
意識的に外の世とひとつにならうとすること。
意識的に外の光とひとつにならうとすること。
.
. 
秋から冬にかけては、
ひとりきりになる。
.
.
意欲的にひとりで考へることで、
意識的に孤独の内側へと入つていく。
意識的に内の光とひとつにならうとすること。
.
. 
四季の巡りとして現れる地球の大きな呼吸プロセス。
.
.
自分自身のこころにおける精神の呼吸。
.
.
光を呼吸する。
.
.
地球と自分とのハーモニー。
.
. 
その練習の重なりが、
シュタイナーがいふ「年といふもののいのち」を
親しく感じることへと繋がつていく・・・。
.
. 
そして、そのハーモニーがなりたつていくほどに、
こころは甦る!
.
. 
そのハーモニーは、
一週一週の『こころのこよみ』と共に深められていく。
.
. 
その深める作業を、
わたしはメディテーションと呼んでゐる。
.
.
(つづく)


posted by koji at 13:12 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「こころのこよみ」とともに生きる @



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1913年に、ルドルフ・シュタイナーは、
『こころのこよみ
(Anthroposophischer Seelenkalender)』
を出版した。
.
.
テオゾフィー協会を出て、
新しくアントロポゾフィー協会を創立した、
同じ年に。
.
. 
わたしは、この『こころのこよみ』に魅力を感じ、
その内容に取り組み続けてゐる。
.
. 
はじめは、一週一週のこよみの味はひと意味を
そこはかとなく感じてゐるに過ぎなかつた。
.
.
しかし、一年、また、一年、と時を重ねていくにつれ、
序文の中の「年といふものに、いのちがある」といふ、
シュタイナーのことばに感じ入るやうになつた。
.
.
随分と、ここに記されてゐる毎週のことばに、
感じ入るやうになつた。
.
.
年といふものに、いのちがある。
時間といふものに、いのちがある。
四季の巡りを通して、
その「いのち」を生きることのできる喜びを
感じ始めたのだ。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらう。
.
.
一年といふ周期は、
地球と太陽との関係で定まつてゐて、
この地球は、太陽に見守られながら、
「お天道様に見守られながら」
毎年規則正しくその動きを営んでゐる。      
.
.
シュタイナーは感官を凌ぐ意識をもつて、
そのことをさらに次のやうに捉えてゐる。
.
. 
人と同じやうに、
地球は、その球形の物質的な「からだ」だけでなく、
みづからのこころをもつてゐる。
みづからのいのちを営んでゐる。
.
.
そして、人と同じやうに、
精神に憧れ、
精神を宿さうとすべく、
一年一年を生きてゐる。
.
. 
地球は、太陽とのかかはりの中で、
一年ごとに大きな呼吸のプロセスを営んでゐる。
.
.
その地球のプロセスとは、春から夏にかけて、
みづからのこころを、
大いなる世、精神の世に向かつて、
息を吐き出すかのやうに、拡げていく。
それに応じて、
植物は太陽に向かつて長け始め、
花を咲かせ、緑と様々な色で地球を彩る。
.
. 
そして、地球は、夏の間、
大いなる世・宇宙に拡がり、
そこで受け取つた精神の叡智に満たされたこころを、
秋から冬にかけて、息を吸い込むかのやうに、
みづからのからだの内に納めていく。
それに応じて、
地球上の植物は枯れ始め、
彩りを失つていく。
.
. 
そのやうに、四季の巡りを通して地球は、
大きな呼吸プロセスを営んでゐる。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらうといふ問ひ。
.
.
年とは時間の一区切りでありながら、
そこに呼吸がある。
息遣ひがある。
その伸縮、開閉、交錯を促しつつ、
リズミカルに脈打ついのちがある。
.
.
(つづく)

posted by koji at 06:56 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月26日

半沢直樹



生きてゐて、
人のこころの世ほど、
複雑怪奇なところはないと思ひませんか。


そこに一筋の光を当てることができたなら・・・。


その願ひをヴァーチャルに叶へてくれる、
『半沢直樹』🌟


今日も録画しておいたものを観る。


出てくるどの人物もすべて、
実は観てゐるこのわたしの内側に
ありありと存在してゐて、
一番複雑怪奇なのは、
この自分自身であり、
この自分自身のこころの内に、
一筋も二筋も光を当てて行かねば、
にっちもさっちも行かないところまで、
わたしも来てゐるし、
日本の社会も来てゐるのでせう。


いや、さうは言つても、
社会といふ生き物のこころの内側に光を当てる、
なんて、どうすればいい?


さう、つまるところ、
自分自身のこころに、
自分自身で光を当てて行くことだけが、
ひとりひとりの人に任されてゐる、
大いなる仕事なのだ〜



posted by koji at 08:16 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月25日

ある日 娘とカフェで



次女(小学六年生)とふたりで難波に出て、
タワーレコードへ。
 

彼女は、ここ一、二年、
音楽(ポップス)に猛烈にのめりこんでゐて、 
いまの音楽のことなら、
55歳のわたしなどより
遥かに深く広く知識をもつてゐる。
 
 
今日は視聴コーナーでたつぷり楽しんだやう。
 

その後、カフェに寄つて、彼女から、
戦争のことや近代・現代史のことを話し始め、
思はず知らずいろんな話しをする。
 
 
これからの若い人にとつて、
学校をあてにせず、
本当に自力で勉強して、
真実を見抜く力をもつことが大切だと話したとき、
すごく真剣な目をして聴いてゐた。
 
 
数千の歩きゆくすべての人が、
かうしてマスクをして歩いてゐる、
この難波の街の風景を忘れないでおかう。
 
 
そんな話しをして帰つて来ました、とさ🙆‍♂️
 



posted by koji at 06:00 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月23日

こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜


 
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松本 竣介《男の横顔》

 

わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
 
世にあるものから遠ざかれば、
 
みづからにおいてみづからが消え失せ、
 
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
 
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
          
 

So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
 
 
 

秋へと少しづつ歩みを進めていくうちに、
わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、
辿りなほす作業に勤しむことができる。
 
 
暑かつたこの夏、
何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
 
 
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、
人はみづからの内で、
だんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
 
 
それは、
<わたし>の目覚めの時期が
秋の訪れとともに再び巡つてくるといふことでもある。
 
 
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
 
 
しかし、今週の『こよみ』においては、
その<わたし>の目覚め、
己れの力の強まりから生まれてしまふ危うさに対して、
バランスを取ることが述べられてゐる。

 
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ
 
 
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
(鈴木一博訳)の「条件」の章において、
「人がだんだんに
 みづからを外の世に沿はせなくして、
 そのかはりに、
 いきいきとした内の生を育むこと」
の大切さが書かれてあるが、
それはこれからの季節に
わたしたちが勤しむこととして、
意識されていいところだ。
 
 
しかし、その内の生を育むことが、
みづからの内に閉ぢこもることではないことも
述べられてゐる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
●静かに、ひとりきりで、
みづからを深める一時一時には、
みづからが生きたこと、
外の世が語りかけてきたことを、
まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。
どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、
そのやうな一時において、
思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
 
 
●享受した後に、
その享受したことから
なにかが顕れるやうにする人が、
みづからの知る才を培ひ、育てる。
その人が、きつと、
享受することだけをありのままに想ふとかではなく、
享受しつづけることを諦めて、
その享受したことを内なる働きによつて
消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
 
 
ーーーーーーーー
  
 
 
過ぎ行く現象の中で、
何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
 
 
外の世との交渉の中で、
みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
 
 
あのときの喜び、痛み、快、不快が、
何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。
さう問ふ練習。
 
 
それは、享受したこと、感覚したことを、
消化するといふこと。
 
 
そのやうな一時一時において、
「思ひもよらない秘密」があかされる道が
だんだんと啓かれてくる。
 
 
そして、もう一度、享受するといふこと、
外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
●<わたし>を世にむけて開いてほしい。
その人は、きつと、享受しようとする。
そもそも、享受すればこそ、
外の世がその人へとやつてくる。
その人が享受することに対して
みづからを鈍らせるなら、
周りから糧となるものを
取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。
しかし、その人が享受することにとどまれば、
みづからをみづからの内に閉ざす。
その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、
世にとつては意味をもたない。
その人がみづからの内においていかほど生きようとも、
みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、
世はその人を閉め出す。
世にとつてその人は死んでゐる。
 
 
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、
ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
その人にとつては、享受するといふことが、
世について教へてくれる教へ手である。
しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、
仕事へと進む。
その人が習ふのは、習つたことを
みづからの智識の富として貯へるためではなく、
習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
夏から秋へ、そして来たる冬へと、
<わたし>を目覚めさせていくこと。
 
 
しかし、それは、「仕事」をすること、
「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、
その人の本当の糧、本当の力になつていく。
 
 
外の世との交渉を絶たないこと。
 
 
内において、メディテーションにおいて、
外の世のことを深めること。
 
 
そして、その深まりから、
外の世に働きかけていくこと。
 
 
それが、
密やかな学びにおける筋道だ。
 
 
 
 
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
 
 
 

posted by koji at 17:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月18日

両親の問診時間 オンラインクラスのお知らせ



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マルク・シャガール「誕生日」


 
シュタイナー教育・アントロポゾフィー人間観の講座
『両親の問診時間』(ミヒャエラ・グレックラー女史)
オンラインクラスを開催します。
 
 
わたしたちは子どもを育てていくとき、
いろいろなことに遭遇します。
 

しかし、人間学の根本のことを
しっかりと認識していることで、
あらゆることに柔軟に、
しかし、本質を踏まえた上で、
その都度その都度、
子どもに向かい合っていくことができます。
 

様々な側面から、
人間というものを解き明かそうとする、
アントロポゾフィーの観点を
子どもの親という観点から学んで行きます。
 
 

 
●9月1日(火) 19時〜21時
 
「子どもにおける攻撃と攻撃性」
 
 
 
●9月29日(火) 19時〜21時
 
「子どもおける多動症候群について」
 
 
 
●10月27日(火) 19時〜21時
 
「愛する力に向けての教育」
 
 
 
●11月24日(火) 19時〜21時
 
「理想主義 自己教育の問いとして」 
 
 
 
以降も毎月第四火曜日に学びの会は続きます。
 
 
どうぞ奮ってご参加下さい。
 
 
 
講師: 
諏訪 耕志
 
 
 
参加費:
単発ご参加 3500円
4回連続ご参加 12000円

 
お申し込み・お問い合わせ:
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
その回の『両親の問診時間』テキストと、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 
 
 

 
 

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2020年08月16日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返し勤しむ〜



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小磯良平「斉唱」
 
 

秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
 
想ひ起こしつつ、包み込む。
 
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
 
それは強められた己れの力を
 
わたしの内において目覚めさせ、
 
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
          
 
 
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn: 
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken 
Und werdend mich mir selber geben.  
 

 
 
先週の『こころのこよみ』にあつた
「世のきざしのことば」。
 
 
それは、まさに、秘めやかさに満ちて、
内において、その人その人が、受け取るもの。
 
 
その「きざしのことば」は、真夏の暑さの中で、
これまでの感じ方、考へ方を、
拡げ、深め、壊してくれるやうなもの。
 
 
皆さんは、この夏、
どのやうな「きざしのことば」を
受けとめられただらうか。
 
 
どのやうな「秘めやかなことば」を
聴き取られたであらうか。
 
 
もし、それを、この週、何度も何度も、
意識の上に想ひ起こしつつ、
こころのまんなかに置いてみるなら。
 
 
その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。
 
 
その繰り返し勤しむことが、
その「ことば」と、<わたし>を、
だんだんと、ひとつにしていく。    
 
 
「世のことば」が、
「わたしのことば」になつていく。    
 
 
地味だけれども、
そのやうな繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。
 
 
わたしのわたしたるところが、
だんだんと、目覚めてくる。
 
 
今週の「こころのこよみ」に沿つて練習すること。
 
 
それは、秋からの、
新しい<わたし>への、
備へとなるだらう。
 
  

 
秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
想ひ起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
 

posted by koji at 08:34 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月14日

基礎練習といふものの意味



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二十六年ほど前からわたしは、
言語造形といふ芸術に携はり始めたのですが、
基礎練習を、
本当に毎日、毎日、
繰り返しすることができてゐるのは、
我ながら不思議な感じがします。
 
 
それまでは、
つまり二十代までのわたしは、
ひとつのことを継続してやれた験しがなかつた(-_-;)
 
 
ですから、何かを継続できる、
その意志の力といふものは、
無理強ひして育つやうなものではなく、
この人生を越えたところから導かれる力であり、
継続してすることのできる何かは、
向かうからやつてくるものだと思ひますね。
 
 
しかし、それはさうとしても、
子どもの頃、たくさん遊ぶといふことは、
意志の力の育みにおいて、
とてもたいせつなことです。
 
 
そして、理想を言へば、
シュタイナー教育のやうに、
小学校時代に、芸術を通して、
繰り返し、繰り返し、創ることに挑むことができたら、
さぞかし、その人の意志の力は強まり、
感覚し、感じる情の力は豊かになる、
さらには、大人になるプロセスにおいて、
本当に行きたいところへ行くことができ、
会ひたい人に会ふことのできる、
その力が強まる、
さう思ひますねえ。
 
 
さて、わたしの基礎練習には、
40分から1時間ぐらゐ掛かります。
 
 
基礎練習をすることによつて、
芸術といふ仕事に必要な、
様々な要素が見えてくるのです。
 
 
歳を追ふごとに、
その基礎練習に対する感覚に、
深みが加はつてくることを感じるのですが、
以前は、汗を一杯かいてやり終へた後の、
「なすべきことをしてゐる」といふ、
充実感がずつと嬉しかつたのです。
 
 
しかし、ここ半年ほどは、
その基礎練習をすることそのことの中に、
喜びと楽しみを感じ始めました。
 
 
なんと、遅い、とても遅い、成長でせう!
 
 
これは、わたしにとつて、
とてもゆつくりと進行してきた、
ひとつの内なる変容、
大袈裟に言へば、
ひとつの小さな大革命(?)です。
 
 
どの芸術、どの仕事にも、
その営みを根底で支へてゐる、
基本の型といふものがあります。
 
 
仕事をする際に、
その型をいかに崩さないか。
 
 
そして、その崩れない型の中に、
いかに豊かで深い色合ひと調べが息づいてゐるか。
 
 
そのやうな型が身についてゐるからこそ、
仕事の対象に対する感覚が研ぎ澄まされて来ますし、
だからこそ自由自在に羽ばたくやうに仕事ができる。
 
 
そして、その型自体が、
長いときをかけてゆつくりと成長して行く。
 
 
どの仕事においても、
そのやうな基礎練習に支へられてゐる型が、
あるのではないでせうか。
 

むしろ、積極的に、
見いだして行つていいものだと思ひます。
 
 
 

posted by koji at 14:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月12日

両親の問診時間の会 @ 滋賀・草津



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滋賀シュタイナーこども園そら
のお母さん、お父さんが中心になって集まっている、
シュタイナー教育・アントロポゾフィー人間観の講座
『両親の問診時間』(ミヒャエラ・グレックラー女史)を
一講ずつ、毎月、集まつて学んで行きます。
 
 
子どもの親として自己教育を始めると共に、
この機会に、
こども園そらのことも、
ご父兄の方々から色々とお話も伺うことができますよ。
 
 
滋賀近郊で、
シュタイナー幼児教育にご関心のおありになる方、
ぜひ、この機会に!
 
 
今月からの四回のテーマです。
 
 
時間は、いずれも10時から12時半までです。
 
 
 
●8月18日(火)
 
「子どもにおける攻撃と攻撃性」
(この日は子どもたちへの昔話の時間もあります)
  
 
 
●9月15日(火)
 
「子どもおける多動症候群について」
 
 
 
●10月20日(火)
 
「愛する力に向けての教育」
 
 
 
●11月17日(火)
 
「理想主義 自己教育の問いとして」 
 
 
 
以降も毎月第三火曜日に学びの会は続きます。
 
 
保育(有料)も受け付けいたします。
どうぞ奮ってご参加下さい。
 
 
 
講師: 
諏訪 耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
 
場所:
滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただきました方に詳しくお知らせします)
 
 
 
参加費:
単発ご参加 3000円
4回連続ご参加 10000円
講師の交通費(大阪市内玉出駅・南草津駅間)を
その日の参加者で頭割りしてご負担していただいています。
どうぞご了承下さい。
 
 
 
お申し込み・お問い合わせ:
諏訪 https://kotobanoie.net/access/
筒井 聡子さん
https://www.facebook.com/satoko.tsutsui.1
 
 
 
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2020年08月09日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜


 
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藤島武二『蝶』


 
わたしはこころを拡げることができるのか、
 
受けとつた世のきざしのことばを
 
己れと結びつけつつ。
 
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
 
こころをふさはしくかたちづくり、
 
精神の衣へと織りなすべく。
 
           
 
 
Kann ich die Seele weiten,               
Daß sie sich selbst verbindet               
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,              
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 
 
 
 
 
前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきた。
 
 
「わたしの世のひろがりをもつて、
 あなたの精神の深みを満たしなさい」と。
 
 
夏の世の大いなるひろがり、
それに沿ふことができたなら、
それは沿ふ人に、
これまでの生き方、考へ方、感じ方を
越えるやうなものを、
「贈りもの」として与へてくれる。
 
 
これを読んでくださつてゐる皆さんには、
どのやうな「夏の贈りもの」が贈られただらうか。
 
 
その「贈り物」を受け入れる器。
 
 
その器が「こころ」であるならば、
わたしはみづからにあらためてかう問ふことになる。
 
 
「わたしはこころを拡げることができるのか」
 
 
その問ひに応へていくことが、
この夏から秋へと移つていく時期のテーマだと感じる。
 
 
新しい考へ、価値観、ライフスタイル、
人生観、世界観、それらを「己れと結びつけつつ」。
 
 
しかし、その結びつけは、きつと、
外からの結びつけではなく、
内からおのづと生じてくる結びつきになる。
 
 
夏といふ季節を精神的に生きる。
 
 
それは、
こころをこれまでよりも拡げることである。
 
 
「わたしは予感する、きつと力を見いだすことを」
 
 
それは、こころを拡げ、
こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。
 
 
衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のやうに、
深く、活き活きと、しみじみと息づく、
生活感情を言ふことばとしてよく使はれてゐたさうだ。
(白川静『字訓』より)
 
 
「ころも」も「こころ」も、
三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。
 
 
それは、本来、精神から凝(こご)るものとしての動き、
わたしたちのからだにまとふものとしての動きを、
音韻として顕はにしてはゐないだらうか。
 
 
こころといふものが、
精神といふわたしのわたしたるところ・
わたしの芯〈わたしはある〉から、織りなされる。
 
 
そして、からだにまとふ衣となつて、
身のこなし、振る舞ひのひとつひとつに顕はれる。
しなやかに、柔らかく、輝きつつ。
 
 
そんな内なる力をきつと見いだす。
 
 
この夏から秋の初めにかけてのテーマであり、
学び続けてゐる人への励ましでもあるだらう。
 
 
 

わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとつた世のきざしのことばを
己れと結びつけつつ。
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
こころをふさはしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
 
  
 
 

 
 
 



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2020年08月07日

健やかな意識を失はず






小池知事がああ言つてゐる、
吉村知事がかう言つてゐる、
安倍首相が言つてゐる、
また全く違ふことを言ふ人がゐる、
一体、誰が言つてゐることが本当のことなのか。 
 
 
しかし、次のやうなことが言へると、
思はざるをえません。
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 
 
 
ドイツの建設大臣とフランスの大臣との立場に
どんな相違があるかとか、
どちらの論拠を正しいと思ふかとかは、
すべてたわごとです。
 
 
現代文明の進歩に関はるためには、
そんなことが大事なのではなく、
なぜ誰かが不正直な態度をとるのか、
なぜ別の誰かが別の不正直さを示してゐるかを、
よくしらべることがたいせつなのです。
 
 
わたしたちの時代は、
語ることばの内容に何の意味も見いだせず、
そこに支配してゐる力だけが意味をもつてゐます。
そのやうな時代にわたしたちは生きてゐます。
 
 
今日、
誰かがアントロポゾフィーを意識の中に取り入れて、 
あちこちのアントロポゾフィーの集ひに
出かけたとします。
 
 
その人は、人間を見いださないでせう。
見いだすのは、閉ざされた、
ごく狭い場所を動き回つてゐるモグラたちばかりです。
彼らは狭苦しい場所の中で、考へてゐます。 
そしてその考へをその範囲を越えて拡げようとしません。
その場所以外のところに関心を向けようとは、
全く思はないのです。
 
 
わたしたちがこのやうな、
モグラ的生き方を克服する可能性を見いだせず、 
常に同じところで同じ判断を繰り返すだけなら、
そのやうにして、
19世紀から20世紀初頭の時代に呪縛されてゐるだけなら、 
悲惨な状況から脱け出す仕事に加わることはできないでせう。
 
 
(ルドルフ・シュタイナー 
 1921年6月17日 シュテュットガルトにて)
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
 
百年前の中部ヨーロッパにおける状況と、
いまのわたしたちの状況とが、
全く重なつて見えてしまひます。
 
 
アントロポゾフィーなどの精神的な学びの場に、
起こりがちなことも、
シュタイナー在世当時からしつかりと起こつてゐたのでした。
 
 
ここで語られてゐる「力」といふものは、
目には見えず、
多くの人といふ人の内側に巣食ひ、
隣近所の人、
そして、大衆を動かすのですね。
もちろん、
この自分自身をも動かさうと強烈に働きかけてきます。
 
 
しかし、わたしたちは、
この「力」といふものに引きずり廻されてゐる、
この悲惨な状態から、
きつと、脱け出すことができます。
 
 
電車の中で、
マスクをしてゐないわたしを
睨み付けてくる人がゐる中で、
かう考へます。
 
 
この百年の間に、
わたしたちひとりひとりは、
どこまで目覚めた意識を獲得できたか。
 
 
得体の知れない「力」に目を注ぎつつ、
健やかな意識を失はず、
朗らかに生きて行くための、
こころの力。
 
 

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2020年08月03日

9/19〜9/22 言語造形・連続講座 実践と理論



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秋の言語造形・連続講座のお知らせです。 
 
 
わたしたちは、
フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、
ことばを話してゐるのではありません。
 
 
エーテルのからだ、
アストラルのからだ、
そして、〈わたし〉といふ、
目には見えないところをこそ使つて、
言語生活を営んでゐます。
 
 
そのことを感じながら、
意識しながら、
ことばを話す練習をしませう。
ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。
 
 
書かれてゐる文字に、
息を吹き込みませう。
命を吹き込みませう。
そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。
 
 
それは、ことばを甦らせ、
わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。

 
午後は、ルドルフ・シュタイナーの講演録
『言語造形と演劇芸術』を読み深めます。
 
 
四日間の連続講座だからこそ、
日常を突き抜けて、
こころの奥深く、
からだの奥深くに、
芸術が働きかけます。
 
 
身体まるごとを使ひ、
こころまるごとを注ぎ込み、
そんな言語造形といふことばの芸術に、
わたしと共に取り組みませんか。
 
 
そして、言語造形に勤しむ人になりませんか。
 
 
講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時:
令和二年9月19日(土)より22日(火・祝)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで
 
 
場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円
 
 
 
お振り込み:
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
 

お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
コロナウイルス禍による社会の混迷があれど、
わたしたちは粛々と芸術に勤しみ続けます。

 
 

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2020年08月02日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜


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世のことばが語る、
 
そのことばをわたしは感官の扉を通して
 
こころの基にまでたづさへることを許された。
 
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
 
 わたしの世のひろがりをもつて。
 
 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
  

Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  
 
 

 
閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
 
「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
  
 
「閑さ」はどうだらうか。
「閑さ」は、耳を傾けることによつて、
聞き耳を立てることによつて、
初めて聴くことができるものではないだらうか。
 
 
「閑さ」とは、本来、
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものではないだらうか。
 
 
芭蕉は、「蝉の声」を通して、
「閑さ」を聴いたのだらうか。
「閑さ」を通してあらためて、
「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
 
 
そして、芭蕉は、
「蝉の声」の向かうに、
「閑さ」の向かうに、
何を聴いたのだらうか。
 
 
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、
己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを
「おくのほそ道」に記した。
 
 
それは、
芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
 
 
 
 
この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
 
 
わたしもことばを語る。
 
 
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。
「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
 
 
その「ことば」は、
この肉の耳には聞こえないものである。
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたづさへることを許された」
ことばである。
 
 
 

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』より
  
 
 人が人といふものの中心を
 いよいよ人の内へと移す。
 
 
 人が安らかさの一時(ひととき)に
 内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
 
 
 人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
  
  
 人が日々のものごとから遠のいてゐる。
  
  
 日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
  
 
 その人の周りが静かになつてゐる。
  
 
 その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
  
 
 その人が、また、
 そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
 遠のける。
  
 
 内において安らかに見遣るありやう、
 紛れのない精神の世との語らひが、
 その人のこころのまるごとを満たす。
  
 
 静けさからその人への語りかけがはじまる。
  
 
 それまでは、
 その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
 いまや、その人のこころを通して響きくる。
  
 
 内なる言語が ―内なることばが― 
 その人に開けてゐる。
  
 

 
この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。
 
 
 あなたの精神の深みを満たしなさい、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。
 
 
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。
この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/472735195.html
 
 
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。
 
 
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、
四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを
詠つた人である。
 
 
彼はいまも、
夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、
静けさを聴き取り、
その静けさの向かうに、
「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
 
 
 
 

世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
 
 

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2020年07月31日

7/27 普遍人間学第四講 レポート t.m.さん


 
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本を繰り返し読むといふこと。
 
 
講義を聴くといふこと。
 
 
そして自分自身のことばに鋳直していくといふこと。
 
 
その地道な作業は、
決して知的なだけの作業なのではありません。
 
 
それは、意志の作業であるがゆゑに、
おのづから情をも育みます。
 
 
知に取り組む。
それを何度も繰り返す。
そして、これまで以上にしみじみと感じる。
 
 
これらの作業の繰り返しが、
「学び」といふものではないでせうか。
 
 
そして、
人は学ぶことで、
何を求めてゐるのでせうか。
 
 
その「動機」は?
 
 
そこに静かに響いてゐる「願ひ」は?
「はからひ」は?
「つもり」は?
 
 
齢を重ねていきつつ、
学ぶ朋(とも)の間で、
その精神の趣きを分かち合つていきたいのです。
 
 
諏訪耕志
 
 


 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
【t.m.さんのレポート】
 
 
 
今回は人間の「意欲」とは、一体何かということについて、学んでいきました。
 
 
私自身、現在の教育現場で子どもたちに一番大切に育むべきものは、「意欲」ではないだろうかと、ここ数年は実感していました。
 
 
ただ、それは学ぶ意欲であったり、世界への好奇心であったり、子どもたちがワクワクして学ぶ場所はどうやってつくられるのか、といった私の思う日本の教育の課題の1つとして存在していました。
 
 
では、意欲とはなんぞや?と言われても、そんなこと考えたこともなく、「意欲」は「意欲」でしょう。と丸ごと1つに考えていたのです。
 
 
だた、今回人間の「意欲」というものについて見ていくと、それはこの肉体が生まれてから死ぬまでの間、段階的にずっと育っていくものだということに気づかされたのです。
 
 
なるほど、確かにそうであるなと実感せざるを得ませんでした。
 
 
意欲には、7つの段階がある。
 
 
生まれてから だいたい7年間隔で人の成長をみていくのがシュタイナーの人間観ですが、それに沿って意欲の種類も、変化、成長していくのです。
 
 
0〜7歳  本能
7〜14  もよおし
14〜21 欲
21〜28
28〜35  動機
35〜42
42〜49 願い
49〜56 はからい
56〜63 つもり
 
 
これだけ書いても、わかりませんが、意欲にはこの7つの種類があり、その意欲の質を年齢とともに理解することができます。
 
 
つまり、赤ちゃんの「意欲」と学童期の「意欲」は違うものなのです。高められつつ意識に引き上げられつつ成長しているのです。意欲の成長というのはあまり聞いたことはないですね。
 
 
赤ちゃんの意欲「本能」は全て外側に現れます。それは、無意識です。おなかが空いたら泣く、心地悪かったらぐずる。そういう形で外にすぐに現れます。
 
 
でも小学生くらいになると、「ああお腹がすいたな」ということを自分でつかむことができ、伝えることができます。待つことができます。すぐに泣いて欲しがったりしません。これがこの時期の「もよおし」の意欲です。自転車に乗れるようになるということもそうです。
 
 
何かしたいことが「もよおし」として内面化され、そして待ち望んだことをやり遂げる、一貫した意欲です。
 
 
そして、思春期から青年期にかけて、意欲は「もよおし」が「慾」に仕立てられます。
 
 
これは、また質が違ってきて、感性豊かなの時期を生きる若者たちならではの「慾」です。意識に上がっては、またすぐに消えさる、または揺れ動く、「感情」に深く関わる時期だからこそ、そのような意欲の形、「慾」がしたてられていく。それは一人一人違った慾です。私はこれが好き、僕はこれが好きというその人ならではが生き始めます。
 
 
そして、ここからが、人間にしかない意欲の領域です。
動物にはここから先はないのです。
 
 
「慾」が「動機」に仕立てられていきます。
 
 
この「動機」は、人間の21歳から42歳までの時期(7年を3回)にあたります。ここだけ、21年もかかっているのは、なぜなのでしょうか?この時期は人間を「からだ」、「こころ」、「精神」という3つに分けてみたときの、「こころ」の領域を育む時期です。
 
 
この「こころ」の領域にそれまでの0歳から21歳の「からだの領域」の「本能」「もよおし」「慾」という意欲が取り入れられます。そのときに、意欲はどのように仕立てられるのか。
 
 
このときの「動機」という意欲は、こころ、つまり「わたし」がそれまでの自分の意欲をより詳しくつかむことで、より
 
 
「わたしというものが何者か」
「わたしのわたしならではのところは何か」
「自分が為そうとしていることはなんなのか」
 
 
という本質的な自分自身が見えてくることだと思います。
それは、それまでの意欲がこころの領域に取り込まれ、「考える」ことを通して「動機」へと高まるのです。
 
 
「動機」は「考える」ということを通して掴まれる意欲です。まさに、「考える」ことができるのが、人間と動物の大きな違いです。
 
 
ここが、人のなりたちの中で意欲の質が人間ならではの意味を持つところかもしれません。
 
 
しかし、人が「動機」を繰り出すとき、それだけではなく、そのもとに何かが静かに響いています。
 
 
その静かに鳴り響いているものが、「願い」というものです。
 
 
「願い」は精神の領域から鳴り響く意欲です。
 
 
「動機」から何かをなすときに、さらによく為す、あるいは間違えて為す「願い」が、「動機」意欲の下にいつも鳴り響いています。
 
 
「願い」というと、うまく為すことへの思いのような気がしますが、この場合、間違えることへも響く「願い」なのです。
 
 
それは、うまくやりたいことが成功しても、そこで満足するのではなく、さらによく為すためにどうしたらいいか考えること。
 
 
また、うまくいかず間違えたり、失敗したときも悔やむのではなく、そこから学び、さらによく為すために考えて行動することが、失敗を悔やむよりずっと大きな価値のあることなのだということ。
 
 
すべてに意味を見出し、成長し続けることが、下意識のもう一人の「わたし」の「願い」なのです。
 
 
きっと、そういう願いが、自分のうちになり響いていることを知る人は、どんな人生の荒波も、自分の糧として生きることができるのではないでしょうか。
 
 
そして、「動機」をさらによく為そうという意欲において、「願い」が「はからい」へと仕立てられ、「はからい」も静かに響き始めます。
 
 
これはもう、無意識の世界、意識化されないところで、下意識の「わたし」が人生の道をしいている、大いなる「はからい」です。
 
 
考えて動くのではなく、「なんとなくここへ行きたい。」とか「何度もこの人と出会ってしまう」といった、偶然のような「はからい」です。
 
 
最後に、こころがからだと解き放たれるようになって、その「はからい」が「つもり」となります。
 
 
「はからい」が兆しのようにこころに響き続け、そこに「つもり」が続きます。
 
 
「つもり」は今生のテーマです。生まれる前から死んだ後も、きっと鳴り響いている。
 
 
それは、「わたしはなぜ生まれてきたのか、わたしは何のために生きているのか」という問いの答えなのかもしれません。
 
 
「つもり」それは、この生のうちだけでつかむことができないものかもしれません。
 
 
しかし、確実になり響いている。
 
 
「本能」「もよおし」「慾」というからだの領域から仕立て上げられる意欲と、
 
 
「願い」「はからい」「つもり」という精神の領域からなり響いてくる「意欲」が、
 
 
交わり合うこころの領域の意欲、「動機」。
 
 
「動機」は、下意識の「わたし」の意欲の響きに耳を澄ませることで新たに湧き出る泉のように、さらにやまない意欲が生まれるのではないか?
 
 
大いなる「願い」「はからい」「つもり」が人間誰しも、なり響いていることを忘れないでいたいと思います。
 
 
(t.m.)
 
 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 


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2020年07月30日

二週間に一度、やつてゐます😊土曜朝10時アントロポゾフィークラス・オンライン



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オンラインの講座と言へども、
そこは、人と人とが、
顔と顔とをつきあはせて交はる場です。
 
 
教育において、
教師の語る、ことばの響きの質、
息遣ひによる解放と収縮、
ことばのリズム、
間(ま)の取り方、
それらがとてもたいせつであることを、
シュタイナーは語つてゐます。
(普遍人間学講座の午後に行はれた『ゼミナール』において)
 
 
このオンラインの講座においても、
そのことをたいせつにしながら、
ことばの空間を打ち披くやうな時間にしたいと、
願つてゐます。 
 
 
土曜朝の『普遍人間学』クラスは、
いま、第三講に入つてゐます。
もちろん、途中からのご参加でも大丈夫です。
 
 
ご関心のあられる方、
どうぞ、奮つてご参加下さい。
 
 
詳しくは ↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/476000622.html
 

 
 
●8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
●8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 

以降、9月12日、26日、10月10日、24日・・・と続きます。
 
 
 
 

 

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2020年07月27日

精神の喜び



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昨日までの四日間連続の講座、
『言語造形 実践と理論』。
 
 
そして、今日の、
『アントロポゾフィー・ゼミクラス』。
 
 
精神の喜びこそが、
人を甦らせるのですね。
 
 
ことばが語られ、
そのことばが真摯に受け止められる。
 
 
さうすると、
ことばが喜んでゐるのがよく分かります。
 
 
ことばを司る精神の方々が喜んでをられることが、
よく感じられます。
 
 
ことばが、空間の中で、オンライン上で、
活き活きと踊り出すのです。
 
 
アントロポゾフィーとは、
そんなことばの芸術でした。
 
 
そんなことばのやりとりに、
身をもつて跳び込んで来てくれる、
皆さん、おひとりおひとりに、
本当にこころから感謝します。 
 
 
ありがたう!
 
 

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2020年07月26日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜


 
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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
        
 

Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Daß reifend Gottesgaben
In Seelengründen fruchtend
Der Selbstheit Früchte bringen.  
 
 

 
ことばを話すことよりも、
さらにこころのアクティビティーを使ふのは、
黙ること。
 
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて、
生がだんだんと深まつていく。
 
 
この沈黙とは、
こころが滞つてゐるがゆゑではなく、
アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
 
話すことをやめるのではない。
 
 
ことばと、
そのことばを話さうとしてゐる己れと、
そのことばを聴かうとしてゐる人を、
大切にしたいからこそ、
ことばを迎へ、
ことばを選び、
ことばを運ぶのである。
 
 
ことば。
ことばを話す人。
ことばを聴く人。
 
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、
そこにこそ、
精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
 
そこにこそ、
豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 

 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 
 
 

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2020年07月22日

意味よりもリズムを われらが萬葉集 その一


 


 
 
我が国最古の抒情歌集『萬葉集』。
 
 
その開巻第一首目の歌、
第二十一代・雄略天皇による長歌を
歌はせていただきました。
(訓みは、土佐の国学者・鹿持雅澄のものです)
https://youtu.be/TTRcCkYLQvE
 
 
籠もよ み籠持ち 
堀(ふ)串(くし)もよ み堀串持ち
この丘に 菜摘ます子 
家告(の)らせ 名のらさね
そらみつ 大和の国は 
おしなべて 吾(あれ)こそ居れ 
しきなべて 吾(あれ)こそ座(ま)せ 
吾(あ)をこそ 夫(せ)とは告らめ 家をも 名をも
 
 
なんと、恋の歌です。
野に若菜を摘む、をとめに対する求婚の歌です。
 
 
我が国において、
精神文化の中心であり、かつ、
神と通じる霊的な役割を荷ひ続けられる天皇様が、
をとめに恋をし、結ばれ、御子をお生みになること、
それは、国といふ共同体が弥栄に栄へゆくための、
とても、とても、たいせつなことなのでした。
 
 
だからこそ、
『萬葉集』の第一首目なのです。
 
 
言語造形による朗唱。
 
 
ことばのひとつひとつの意味よりも、まづ、
短短長、短短短長・・・
と重ねられる響きのリズムと母音の広がり、
それらの音楽的要素を感じてみませう。
 
 
その、上昇していくおほらかな調べは、
この歌を口ずさむたびに、
わたしをまるで桃源郷の世界へと、
いざなふやうなこころもちにさせるのです。
 
 
共に味はつていただくことができればなによりです。
 
 
 
 
 
なぜ、『萬葉集』といふものが、
この世に生まれたのか。
 
 
それは、当時の日本が危機に直面してゐたからです。
 
 
我が国の先祖伝来の精神文化が、
隣の大国・唐からの最新の文化・文明に、
駆逐されさうになつてゐたからです。
 
 
ご先祖様から受け継いできたものの考へ方、
暮らしの立て方、人生の送り方、
そして、何よりも、古くからのことば遣ひ、
それらが失はれさうになつてゐたからです。
 
 
明治の文明開化の約一千年前にも、
同じやうな深刻な矛盾を、
我が国は抱えざるをえなかつたのです。
 
 
『萬葉集』は、
古くからのことばに対する信仰、
ことばに対するたいせつな感覚を保持し、
未来永劫の日本民族に、
そのことばの美、言霊の力、言語芸術を、
なんとか残さうとして、
大伴家持によつて編まれたものです。
 
 
この『萬葉集』が編まれたことによつて、
その後も辛くも、
日本は日本であり続けることができたのだ、
さうわたしは確信してゐます。
 
 
 

2020年07月20日

二週間に一度、やつてゐます😊 土曜朝10時 アントロポゾフィークラス・オンライン



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ヨハネス・フェルメール「天秤を持つ女」

 
 
ご感想を寄せて下さつた、
冠木 友紀子 (Yukiko Kabuki)さん
 
 
本当にありがたうございます。
 
 
アントロポゾフィー界(不思議な「界」です😉)と、
自己啓発の文脈に沿ひながらも弱肉強食モード丸出しの
アメリカ流ビジネスエリートへの登竜門へ!といふ界、
(冠木さん、鋭い👍)
その間に立つて、
アクティブに、かつ大変率直に、
そしてどこまでも誠実に、
英語・日本語の間の
通訳と翻訳のお仕事をされてゐらっしゃいます。
 
 
あまりにも極端な唯物的世界観、
あまりにも極端なスピリチュアル的世界観、
そのどちらかに傾き過ぎるのではなく、
その真ん中に立つ、
彼女の立たれてゐる位置は、
極めて、現代的、未来的です。
 
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
  
 
 
諏訪先生のアントロポゾフィークラスでは、
毎回慰めと励ましの宝物をいただいています。
 
このクラスは「普遍人間学」を
自分の外にある対象として解説する講座ではありません。
 
諏訪先生が身をもって語られるのは、
「普遍人間学」を愛し、生きるご自身の姿そのもの。
 
だから生き生きと心に響きつづけるのしょう。
 
新コロ騒動のおかげで恵まれたこの機会を心から感謝します。
 
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
土曜朝の『普遍人間学』クラスは、
いま、第三講に入つてゐます。
もちろん、途中からのご参加でも大丈夫です。
 
 
ご関心のあられる方、
どうぞご参加下さい。
 
 
イベントページ ↓
https://www.facebook.com/events/2684563145161610/
 

 
 
●8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
●8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 

以降、9月12日、26日、10月10日、24日・・・と続きます。
 
 
 
 


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2020年07月19日

こころのこよみ(第15週)〜子どものやうに生きる〜


 
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わたしは感じる、
 
まるで、世の輝きの中に、
精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授けるのは、
 
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
 
 
Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
 
 
子どもの頃や若者である頃と違つて、
わたしたちは歳をとるにしたがつて、
自分自身といふもの、
わたしの意識といふもの、
自意識といふものを、
大事にするやうになるので、
夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、
力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、
困惑してしまふ。
わたしのわたしたるところ、
わたしの<わたし>が、
囲ひの中にあるやうに感じてしまふのだ。
 
 
しかし、かうしたありようが、
この季節特有の、
かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、
わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
 
このぼんやりとしたありやう、
焦点が絞られてゐないありやう、
それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、
そのやうなありやうであり、
この意識の大きさ、拡がりからこそ、
力が授けられようとしてゐる。
だから、ぼんやりとした感官のありやうを、
思ふ存分、生きればいい。
 
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、
大いなる世と繋がることに勤しむこと。
ある意味、子どものやうに生きること。
さうすることで、
ぼんやりとしたありやうであるかもしれないが、
人は大いなる世から力を授かる。
 
 
たとへ、いま、
その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、
魔法にかけられ、囲ひの中にあるとしても、
そのやうに手足をもつて生きることが、
来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、
来たる秋から冬へと。

 
 
 
わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、
精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
 
 
 

posted by koji at 19:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月16日

見る、考へる、そして、身を捧げる 〜トーマス・マン「魔の山」を読んで〜


 
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書くわたし自身が、
こころの練習をすることができることもあつて、
拙くもかうした読書ノートをつけてゐます。
 
 
また、ことばの仕事をしてゐるからか、
このノートを読んで下さる方と、
読書による言語芸術の魅力の味はひを、
少しでも分かち合ふことができたら、
といふ身の上知らずの希ひがあります。
 
 
トーマス・マンの『魔の山』を読み終へました。
 
 
マンは、
この作品を十二年といふ長い歳月をかけて書きました。
 
 
わたしは、ゆつくりと読みました。
 
 
それなりの時をかさね、
この作品の精神に沿はうとこころみ、
主人公の青年ハンス・カストルプと共に、
本の中に続くこころのあぜみちを、
わたしも歩いたのでした。
(みちの両側には、
 次々に色合ひの異なる様々な人物が登場し、
 それぞれの色合ひの作物を、
 豊かにも、貧しくも、稔らせてゐるのでした)
 
 
そのみちは、たいがいはぬかるんでゐましたが、
そのぬかるみをまどろこしく感じた時もあれば、
その土壌の柔らかさ・温かさに、
こころの落ち着きと、
このみちを歩いてゆくことに間違ひはないといふ、
確かさとリアリティをも感じたのでした。
 
 
わたしも長い時をかけて読んだためかもしれません、
最後の頁に辿り着いたとき、
肚の底からこみ上げてくる嗚咽と、
深く暗い淵をのぞきこむこころもちに、
ずつと包まれてしまひました。
 
 
しかし、その時間が停止するときの手応へは、
わたしがずつと求め続けてゐるものでした。
 
 
文庫本、上下巻千五百頁にわたる作品であるゆゑ、
再読し尽す時間はもうないかもしれませんが、
この作品の精神が、
わたしの精神に響き続けることは確かに感じます。
 
 
その精神とは何でせう。
 
 
主人公を通して、
人の三つの機能が、
長い、長いときをかけて溶け合ふことの奇跡です。
 
 
見る。考へる。そして、身を捧げる。
この三つの機能です。
 
 
長いときをかけて、
その三つの機能を溶け合はせた果てに、
人は花を一輪咲かせて、
この世を去ります。
  
 
千五百頁の最後に至つて、
人といふものの、その美しさを語り切る。
 
 
それが、この作品の精神だと感じたのです。
 
 

posted by koji at 18:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ご案内 7/23〜7/26 真夏の連続講座 「言語造形 その実践と理論」



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ルドルフ・シュタイナーの妻であり、
仕事の上での掛け替へのないパートナーでもあつた、
マリー・シュタイナーが、
言語造形といふ芸術について、
見事に言ひ表はしてくれてゐます。
 
 
この文章を読むたびに、
自分たちがやつてゐること、
やらうとしてゐることを、
これほどまでに芸術的に、
ことばに言ひ表はすことのできるマリーに、
本当に感嘆するしかないのです。
 
 
この夏、言語造形の世界にどつぷりと浸つてみませんか。 
 
 
詳しくは、こちら  ↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/475512492.html

 
―――――――
 
 

ことばの癒す力、
魔法の力を感覚できる日が、
きつと、やつて来る。
 
 
それは、気高い仕事である。
 
 
呼吸に於いて生きる、
呼吸を造形する、
呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
 
空気のエーテルの、
上音と下音の、
ウムラウトの響きに於ける
こよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、
微妙この上ない物質に於ける生みなし。
それらは、まこと、気高い仕事である。
 
 
そのまことは芸術の線に相応し、
その線は意欲の向きとして途切れてもならず、
動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
 
そもそも、言語は流れる動きであり、
内なる音楽に担はれ、
彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、
高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、
そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、
ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、
アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
 
ことばの線、それは動きに担はれ、
ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
 
その芸術としての線が、
人を突き動かし、
アクティブにし、
燃えたたせるところであり、
精神からインスパイアされ、
芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
 
その線がこわばつてはならない。
間(ま)においてもである。
間は欠かせないもので、線を造形する。
線が間でふたたび精神に浸され、
新たな勢ひを取りこむ。
 
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、
線の動きが殺がれ、
つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
 

―――――――

posted by koji at 13:29 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月13日

精神との通ひ路(みち)

 
 
Figura-2-Mujer-ante-el-sol-poniente-Fuente-Friedrich-1818.png>
Caspar David Friedrich「Frau in der Morgensonne」

 

言語造形のクラスをさせてもらふ仕事も、
だんだんと新しく生まれて来ました。
 
 
この仕事を始めたのが、
二十年ほど前なのですが、
いま、その時に戻つたやうな、
いや、むしろ、
全くのゼロから始める、
デビューしたてのやうな気持ちが
溢れて来る日々なのです。
 
 
この感慨は、
このたびのウイルス騒ぎによる社会の停滞が、
わたしにもたらした「恩恵」です。
 
 
「初心に帰る」といふことは、まさに、
「死ね。そしてふたたび生きよ」
といふほどの起死回生のことなのですね。
 
 
言語造形といふ芸術の仕事を再び始めて、
いまとりわけ感じてゐることは、
冷たく、狭い世界に閉じ込められてゐる人が、
いまはまだどれほど多くゐることだらう、
といふことです。
 
 
わたしの言語造形のクラスに来る方には、
教師をしてゐる方が多いのですが、
学校でのウイルス対策に、
報道での感染者数だけを挙げるそのあり方に、
そして、つまるところは、
死への恐怖に、
身もこころも雁字搦めになつてゐて、
こころとからだが冷たく、固く、閉じたありやうで、
毎日を生きてゐて、
そのありやうでクラスに来られるのです。
 
 
それでも何か月かぶりに、
このクラスに来られるといふことは、
やはりみづからがみづからを救済したい、
といふ無意識の念ひに動かされてのことなのでせう。
 
 
そして、クラスが終はる頃には、
来られた時とは、まるで、まるで、異なる、
湯上りのやうに紅潮した頬と、
輝きを取り戻したまなざしをもつて、
その人のその人たるところを
ありありと表に輝かせながら、
帰つて行かれます。
 
 
人の意識をなんらかの隠微な形で、
一色に覆ひ尽くさうとする、
いまのやうな状況の中で、
芸術といふものは、
やはり、人にとつて、
なくてはならないものです。
 
 
外側の状況がどのやうなものにならうとも、
それでも、わたしは生きて行く、
生き抜いて行くのだ、といふ、
意欲と希望を取り戻すことが促されるからです。
 
 
その意欲と希望は、
精神との通ひ路(みち)が運んで来てくれます。
 
 
人は、精神との通ひ路がこころにできた時、
ふたたび、自由になります。
 
 
 

 
 


posted by koji at 09:53 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月11日

こころざしと情熱



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昨日と今日の朝、
「アントロポゾフィークラス・オンライン」。
シュタイナーの『普遍人間学』の講義でした。
 
 
三十年前、わたしには、
このやうなアントロポゾフィーの学びを
得ることができた場がありました。
高田馬場にあつた「シュタイナーハウス」です。
 
 
東京です。
 
 
東京に身を置かなければ、
生身の人から活き活きとした学問として、
アントロポゾフィーを学び得ないのでした。
 
 
だから、大阪から東京へ行き、
その場に自分のすべてを注ぎ込み、
学びのために身を削りながら、
同時に喜びに震え、
悲しみを舐めながら、
毎日を生きたのでした。
 
 
人によつては、
その地がドイツであつたり、
イギリスであつたり、
アメリカであつたりしたのでせう。
 
 
いまは、全国の地の人が、
オンラインでかうして集まつて、
アントロポゾフィーの学びをすることができるといふこと。
 
 
隔世の感があります。
 
 
しかし、今日、参加者の方が仰つて下さいました。
 
 
忙しく家事を片づけて、
10時になつた。
さあ、『普遍人間学』の講義だ。
自分にとつてたいせつなことだとは
分かつてゐながらも、
ひとりではなかなか続けて行くことが難しい、
そのアントロポゾフィーの学びだ。
さう自宅で考へながら、
コンピューターの前に座り、
同じ志をもつ仲間にオンラインの上ではあれ、
また会ふことができる。
このことのありがたさを念ふ、と。
 
 
皆、何かを熱く求めてゐるのです。
 
 
理由を説明できない、
みづからの内にこみ上げてくる「こころざし」。
 
 
そして、学びの仲間に加はるといふこと。
 
 
それは、何かの縁(カルマ)です。
 
 
三十年前であらうと、今であらうと、
その「こころざし」の輝きは変はりませんし、
カルマの糸は織り続けられてゐます。
 
 
リアルであらうと、
オンラインであらうと
肝心要のことは、
その人のこころざしと情熱です。
 
 
それは、静かで穏やかな表情を纏つてはゐますが、
内側では自分でも思ふ以上に熱く激しいものなのです。
 
 
そんなこころざしと情熱に応へることができるやう、
アントロポゾフィーを語る。
  
 
わたし自身の「こころざし」を想ひ起こすことのできた、
そんな今朝でした。
 
 



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2020年07月07日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考へる」に任せてみる〜


 
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クロード・モネ《霧の中の太陽》




感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 
 
 
夏のこの季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
 
「考へる力」こそが、
人を本来的に駆り立てる力なのに、
その力が失はれてゐるのを感じる。
 
 
外の世の美しさが目や耳などを支配して、
美をたつぷりと味はふこともできる反面、
その情報量の多さに混乱してしまふ危険性があるのも、
この季節の特徴かもしれない。
 
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、
そのかはりに、
もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、
ものごとや人に沿つて考へることではなくて、
ものごとや人について、
手前勝手に想像してしまつたり、
その想像にこころが支配されてしまつて、
その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。
もの想ひは、めくるめくやうに、
わたしのこころの中を巡り、にぶく輝き、
「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、
人は目覚めることができる。
けれども、もの想ひにふけることで、
人は夢を見てゐるやうな、あるいは、
眠り込むやうなありように陥つてしまふ。
そんなありやうを、どう受け止めたらいいだらう。
 
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、
「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
 
世は、まがふことなく、
秩序と法則に従つて時を生きてゐる。
そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、
すでに出会ふべき人に出会つてをり、
すでにするべきことに向かつてをり、
すでに生きるべき人生を生きてゐる。
さう、見直してみないか。
 
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、
この時期だからこそ、
その「世の考へる」
「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」
に任せてみる。
 
 
夏のこの時期における、
そのこころのモードチェンジは、
自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまひ、
見失はれたからこそ、
来たる秋から冬にかけて、
新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、
わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、
からだをもつと動かしていくことを通して、
感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
 
頭であれこれ考へるよりも、
手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
 
その手足の動きこそが、
「世の考へる」との親和性は高い。
 
 
それは感官を超えるものを見いだし、
感じ始めることでもあり、
理屈抜きで、
この世のものといふもの、
ことといふことをなりたたせてゐる基のところを
垣間見ることでもある。 
 
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、
また顕はなところも、
よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
 
夏ならではのこころの練習として、
ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。
そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、
伝へられる考へ、
それらは、こころに直接響いてくる。
 
 
小賢しく考へる必要がなく、
それらのことばと考へが、
こころに直接「訪れる」。
その訪れるものを、
「世の考へる」とここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで
「いまの自分の生活、
 こころ模様そのものが記されてゐるぢやないか」
と感じることがよくある。 
 
 
もの想ひから抜け出す道を、探りつつ、
汗を流して稽古をしつつ、
歩いていくことができる。
 
 
  
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 

 
 
 

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2020年07月06日

7/23〜7/26 真夏の連続講座  〜言語を通して甦る〜



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文化の礎(いしづえ)は、
言語だとわたしは思ひます。
 
 
そして、言語に、何か、地盤はあるのでせうか。
 
 
日本語について客観的に考へるのではなく、
日本語を主体的に生きるための地盤です。 
 
 
そこに、精神が通ふことによつて、
言語は初めて地盤を得、
言語として甦る、
わたしは、さう、確信してゐます。
 
 
言語に精神をもたらし、
言語と共にみづからが精神として甦ることへの、
強い憧れ・・・!
 
 
その憧れは、きつと、
社会を文化的に、精神的に、育んで行くことへの、
原要素であるはずです。
 
  
その精神をこそ、探し求めてゐるのです。
 
 
それは、どのやうなものでせうか。
 
 
それは、芸術を通してのみ、
ぢかに得て行くものです。
 
 
その芸術のひとつが、言語造形です。
 
 
言語が、吐かれる息遣ひの中で、
空間に造形される。
 
 
言語が造形されることによつて、
秘めやかに空間が造形され、
密やかに人が造形され、
わたしたちは、
その精神が通ふ新しいすがたに充足を覚えます。
 
 
その一瞬一瞬の新しいすがた(Gestaltung)に、
人は、そもそもの言語の生命を感じます。
 
 
言語の生命とは、
人に通ふ神々しい精神の生命です。 
 
 
言語造形によつて、
みづからのパーソナリティーではなく、
〈わたし〉といふインディヴィジュアリティーを生きる。
さう、希(こひねが)ふ人。
 
 
わたし自身、その人です。
 
 
そして、
さういふ精神の人を求めてゐます。
 
 
 
 
『7/23〜7/26 真夏の連続講座 『 言語造形 その実践と理論 』
http://kotobanoie.seesaa.net/article/475512492.html
 
 
 
 

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2020年07月05日

話者は和者である



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これもまた、
下手な駄洒落のやうですが、
今朝の眠りの中からいただいた想ひです。
 
 
ことばを話す人は、
人のこころに和やかさをもたらす。
 
 
ことばを話す人は、
人の和を織りなす。
 
 
理想は、
人が実現できるかできないかに関はりなく、
精神としてありありとある。
 
 
振る舞ひの理想主義、
考への理想主義と共に、
ことばの理想主義が、
人には与へられてゐる。
 
 
その理想を裏切つて、
わたしたち人は苦しみ、  
その理想を少しでもものにして、
人は力を得る。
 
 
ことばの理想主義は、
その民族をつかさどる精神の位の方から、
その力をいただいてゐる。
 
 
そして、
己が民族を愛する人は、
その民族をつかさどる精神から愛されるし、
己が国語を愛する人は、
国語をつかさどる精神から愛される。
 
 
己が住む土地を愛する人は、
その土地を護る精神から愛されるし、
己が家を愛する人は、
その家を護る精神から愛される。
 
 
己が発することばを愛する人は、
己が発することばを護る精神から愛される。
 
 
そのやうに、
理想とは、
絵に描いた餅などではなく、
人を護るもの。
人に力を与へるもの。
 
 
そのやうな想ひが、
眠りの世から降りてくるのです。
 
 
 

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2020年07月04日

土曜の朝の精神の水浴び



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セザンヌ「大水浴」


 
わたしのからだの中に、
こころと精神があるのではなく、
からだを包んでゐるのがこころであり、
そのこころを大きく超えて、
世の隅々まで広がり渡つてゐるのがわたしの精神です。
 
 
メディテーションの繰り返しによつて、
そのことに実に親しむやうになります。
 
 
光の息遣ひによつて、
そのことを実に感覚することができます。
 
  
言語造形といふ芸術によつても、
そのことを生きることができます。
 
  
人は、からだを越えてこころを感じ得たとき、
さらには、こころを越えて精神に触れ得たとき、
みづからの桎梏から自由になり、
愛と自由が流れてゐる精神の川にて、
水浴びをすることができます。
 
 
 


 
 
 


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2020年07月02日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌ひ、踊る〜



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大阪市住吉区の生根神社の夏越の大祓ひ
 
 
 
そして、わたしはある、感官の高みに。
 
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
 
精神の火の世から、
 
神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
 
 あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
 
 
 
Und bin ich in den Sinneshöhen,
So flammt in meinen Seelentiefen
Aus Geistes Feuerwelten
Der Götter Wahrheitswort:
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.
 
 
 
これから始まる夏、
草木の緑、色とりどりの花々、
空の青、太陽の光と熱、
活き活きと働いてゐるその自然のいちいちから、
客観的な精神が人に語りかけてくる。
 
 
一行目の「わたしはある、感官の高みに」とは、
ものといふもの、そのいちいちを、
じつくりと見、聴き、触れ、味はふことを通して、
普段見過ごし、聞き過ごしてゐるものが、
よりものものしく、より明らかに、より動きを伴つて、
見えてくる、聴こえてくるといふことと通じてゐる。
 
 
感官の高み。
それは、こころの細やかな密やかな深まりとして、
育まれるもの。
自然のいちいちに静かに眼差しを向け、
その息遣ひに耳を傾けてみよう。
その密やかさのうちに、
ことばが燃え上がるやうに響いてくる。
こころの深みにおいて、
精神の火の世から、神々のまことのことばが。
 
 
 「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
  あなたを精神の縁とともに見いだすべく」
 
 
1922年ドルナッハでの講演録
『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)
を紐解いてみると、
夏に、そのやうな、
我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、
誰によつて話されてゐるかが、
シュタイナーによつて
指して説かれてゐるのを読むことができる。
まことのことばを燃えるやうに人に語りかけてゐる神々。
客観的な精神。
その外なる精神は、この季節、金色に輝いてゐる。
わたしたち人に、
燃え立つ炎のやうに語りかけてゐる金色の精神。
 
 
この夏の外なる精神の方々が発する、
金色の輝きを浴びるわたしたちは、
冬、クリスマスの頃、
みずからのこころの奥底、精神の基に、
内なる金色を輝かせることができよう。
 
 
来たる冬に、精神に縁のある、
金色に輝く己れみづからを
しつかりと見いだすことができよう。
 
 
夏のいまは、外なる金色の光に応じるやうに、
眼差しを注ぎ、耳を傾け、
さらには、踊り、歌を歌ひながら、
音楽と詩を奏でることで、
冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。
 
 
金色の精神が語ることばを聴くのだ。
 
 
 
 

そして、わたしはある、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
 あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
 
 
 

 
 

posted by koji at 20:22 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゆつくりとした動き・ていねいな動き オンラインクラスへのお誘ひ


 
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この「アントロポゾフィークラス・オンライン」では、
二週間に一回の『普遍人間学』の学びを通して、
暮らしの中で精神の導きを得るための
ひとつのきつかけをもたらさうとしてゐます。
 
 
 
●金曜10時〜12時クラス(7/10, 7/31, 8/28)

 
●土曜10時〜12時クラス(7/11, 8/1, 8/29)
 
 
詳しくは、こちら
 
 
 
それは、毎日の暮らしと仕事の中で、極めて意識的に、
「ゆつくりとした動き」「ていねいな動き」を自分自身にさせていくことなのです。
 
 
その「ゆつくりとした動き」「ていねいな動き」が、
おのづから深くて、いきいきとした息遣ひ、
安らかなこころもちに立ち戻らせてくれます。
 
 
そして、それは、瞑想(メディテーション)への導きであり、
それ自身が「動く瞑想」です。
 
 
二週間に一度、『普遍人間学』を学ぶこのクラスを通して、
定期的にそのきつかけに触れるのです。
 
 
さうして、またわたしたちは、
自分自身のこころの癖・傾向や、
暮らしの外側の流れに押し流されさうになる自分を何度でも再び、
安らかで落ち着いた自分自身のまんなか・精神の泉・天の真名井に立ち戻らせることができます。
 
 
ひとりだけでは難しい、そのやうな自己教育も、
地域を越えて、その意識で集まる仲間と共に、
このみずみずしい精神の泉の水を汲み合ふ二時間です。
 
 
また、どうぞ、暮らしの中にそのやうな時間を共にもつていきませんか。
 
 
  
諏訪耕志拝

posted by koji at 12:41 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月01日

弔ひの声  平家物語


 

 
このウィルス騒ぎの三か月間、
家に籠もる時間が多くなり、
『平家物語』を最初から最後まで、
じつくり読むことができました。
 
 
読み進めてゐる最中も、
読み終はつた今でも、
何より、わたしに強い印象を残してゐるのは、
「死」といふものに対する当時の人々の態度です。
 
 
今のわたしたちのやうに、
死ぬことが怖くて怖くてたまらない人も、
当然をりますが、
これほどまでに人は、
死といふものに、
潔く突き進んで行くことができるものか、
と感嘆するしかないやうな人も、
たくさん、たくさん、出てくるのです。
 
 
そして、泣くのです。
 
 
多くも多くの人が、武士たちが、
涙に濡れる袖を絞るのです。
 
 
この物語は、いつたい、何なのか。
 
 
読んでゐる間中、
ずつと、弔ひの声が聴こえてくるのです。
 
 
わたし自身、恥ずかしい話ですが、
この齢になつて初めて、
世は無常であるといふことを痛感しました。
 
 
本当に、世は、無常なのですね。
 
 
そして、そのときに感じざるをえない、
もののあはれを詠ひ、語り継いで来た、
わたしたちの祖先の皆様に、
本当に尊敬の念を覚えます。
 
 
なぜならば、それを詠ひ、語るといふ行為は、
「もののあはれ」の情をみづからつかみとり、
その情の上に立たないとできることではないからです。
 
 
そのことばの響きは、
死といふものを貫く、
人の真のいのちがあることを教へます。
 
 
全十三巻の物語を読み終へた今、
冒頭にある、
諸行無常の響きがあるといふ、
祇園精舎の鐘の声を、
切に聴きたいですし、
盛者必衰の理をあらはすといふ、
沙羅双樹の花の色を、
切に見たいと念ひます。
 

動画は、その「死」を描いた場面ではありませんが、
二十歳の若武者が己れのいのちを懸けて弓を放つ、
「那須与一」の段の語りです。
https://youtu.be/FR70tahwzO0
 

2020年06月30日

7〜8月アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
 
『普遍人間学の第三講』に取り組む次回のクラスの日程をお知らせいたします。
 
 
●金曜10時〜12時クラス(7/10, 7/31, 8/28)
 
 
●土曜10時〜12時クラス(7/11, 8/1, 8/29)
 
 
ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』のオンライン講座のお知らせです。
(録画したものを観ていただくこともできます)
 
 
全十四講義、
シュタイナーによつて語られてゐるのですが、
シュタイナーの各講義を
三回ひとつづきで、
わたくし諏訪耕志が、
ていねいに語り降ろさせていただきます。
 
 
このたびは、第三講のクールです。

 
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。
 
 
ライン上ですが、
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
時を共有しながら、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 
この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。
 
 
途中からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。
 
 
共に、精神の学びに取り組んで行きませう。
 
 
※これまでの金曜クラスの時間が変はり、
 朝10時から12時までになります。
 ご注意ください。

 

講師:
諏訪 耕志

 
  
 

今回は、第三講を三回に分けて取り組みます。
 
 
@7月10日(金)10時〜12時
 7月11日(土)10時〜12時
『 人とは何かが分からなくなつたわたしたち 』
 
 
A7月31日(金)10時〜12時
 8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
B8月28日(金)10時〜12時
 8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 
 
  

●参加費 
 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
  
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 
●お申し込み・お問ひ合はせ
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 

鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
 
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

ありがたうございます。 


posted by koji at 21:11 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月29日

外郎売 〜教員養成のための言語造形〜


 
『普遍人間学』。それは、ルドルフ・シュタイナーが、世界で最初のヴァルドルフ(シュタイナー)学校の開校前に行つた教師に向けての14日間連続の講義です。
 
 
その『普遍人間学』のあとの演習の時間に、言語造形のレッスンのための素材を、ほぼ毎日、受講者に授けてゐます。
 
 
それは、意味のあつてないやうな、ことばの群れですが、それらを繰り返し練習することで、言語の器官を体操させ、しなやかにすることができるのです。
 
 
教師が、ひとつひとつの音の響きに全身で入り込んで、意識的に明瞭に話すことができること、子どもへの教育におけるそのことの重要性を彼は語つてゐます。
 
 
そこで与へられてゐる素材は、もちろんドイツ語です。
 
 
たとへば、こんな感じです。
 
 
Lalle Lieder lieblich
Lipplicher Laffe
Lappiger lumpiger
Laichger Lurch

 
わたしたち日本人が、そのやうな素材を探すとするなら、歌舞伎の『外郎売(ういろううり)』といふものがありますよ。
 
 

 
 
子どもたちの前で話すことを仕事にしてゐる方は、ぜひ、暗記して、繰り返し繰り返し、練習してみることをお勧めします。
 
 
言語造形を通して、母音、子音に意を配りながら、息遣ひ豊かに、内的な身振りをもつて、練習していくことができます。
 
 
子どもたちが求めてゐる「ことば」とはどのやうなものか、感じられてくると思ひます。
 
 
 

 
 
 

posted by koji at 23:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月28日

7/23〜7/26 真夏の連続講座 『 言語造形 その実践と理論 』



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真夏の四日間をかけて、
言語造形といふことばを話す芸術を、
実践と理論、ふたつの面から迫つて行きます。
 
 
夏、ことばに全力で取り組む。
 
 
発せられることば、響くことば、
それは、ありのままのわたしです。
 
 
だからこそ、そこに向き合ふ。
 
 
お話、物語、詩、
それらが声の響きとなつて空間に広がり渡る時、
ことばは芸術になりえます。
 
 
だからこそ、そのとき、
人そのものに美が湛えられてゐます。
 
 
言語造形といふ芸術をどつぷりと体験する四日間です。


午前は、
からだを動かしつつ、
全身をもつてことばを語り、歌ふことを、
系統だてて基礎から練習していきます。
 
 
午後は、
ルドルフ・シュタイナーが最晩年に残した講義録、
『言語造形と演劇芸術』に沿つて、
言語造形とはいかなる芸術であるのか、
そもそも、ことばとはいかなるものなのか、
といふことをこころに落とし込む時間です。
それは、アントロポゾフィーといふ精神科学に、
身を持つて深く入り込む確かなひとつの入り口です。
 
 

芸術実践とメディテーションといふふたつの面から、
自由になりゆく道を歩み始めます。

 
 
夏の青空に向かつて、
思いつきり息を解き放ち、声を解き放ち、
ことばの精神を活き活きと生きる、
そんな四日間になります。
 
 
ご関心のあられる方、どうぞご参加下さい。
 
 

講師:
諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時:
令和二年7月23日(木・祝)より26日(日)までの四日間
実践の部 午前9時半より12時まで
理論の部 午後13時半より16時まで
 
 
場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円
 
 
 
お振り込み:
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
 

お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 


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2020年06月27日

幸魂塾での言語造形


 
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4か月ぶりの、京田辺市三山木の幸魂塾での言語造形。
 
 
清々しい場で芸術に取り組むことのできる幸せを噛みしめながら時を過ごしました。
 
 
前田さんご夫妻、そして集まつて下さつた皆さん、どうもありがたうございました。
 
 
人の声には、ある種のブロックが掛かつてゐます。
 
 
それは、心理的なものかもしれませんし、経験値からのものかもしれません。
 
 
深く息を使ひ切ること、手足をおほらかに使ふこと、文章の中にこころとからだをもつて入つて行くこと。
 
 
さうすることで、自分自身でも知らない声に出会つていくのです。
 
 
ことばを発する喜び、変はりゆく他者の声を聴く喜び、そんな喜びの時を分かち合ふことができます。
 
 
ご関心のおありになる方、共に、そんな、ことばの芸術に共に取り組んで行きませんか。
 
 
クラスは、毎月第三金曜日の午前10時から12時半まで。
 
 
参加費は、初回体験参加は4000円、以降4回連続で14000円
加へまして、講師の交通費(大阪市内「玉出」・「同志社前」間)を頭割りでご負担いただいてゐます。ご了承ください。
 
 
ご関心あられる方は、
どうぞ前田恭仁子さんにご連絡をお願ひします。
フェイスブックページ
https://www.facebook.com/serenity1217?fref=profile_friend_list&hc_location=profile_browser
 
 
昨日、撮つてくださつた動画です。 ↓
https://www.facebook.com/maeda.sanshiro/videos/2971130959666609/
 
 

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2020年06月25日

遊びと集中力

 
 
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小林秀雄の
『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、
とりわけ魅力的なのは、
江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところだ。
 
 
ものを学ぶには、
本ばかり読んで、机上の智識を弄ぶのではなく、
外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。
 
 
さう言ふ人は幾らでもゐる。
 
 
しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、
市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、
俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐた。
だから、
さういふ当たり前のことは、
わざわざ口に出して言はなかつた。
 
 
むしろ、独りになること、
そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、
本であること。
師と古き友を、本に求める。
本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、
信を寄せるに値するものはないと迄、
こころに思ひ決め、その自恃を持つて、
みづからを学者として生きようとした人たち。
 
 
そして、古典といふ書の真意は、
独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、
だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。
 
 
そのときの工夫と力量を、
彼らは心法とか心術と云ふた。
 
 
一度きりの読書による知的理解と違つて、
精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、
その人の体得物として、
暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。
 
 
数多ある註釈書を捨てて、
寝ころびながら、歩きながら、
体で験つすがめつ、
常に手許から離さず、
さういふ意気に応へてくれるものが、
古典といふものだらう。
 
 
さうしてゐるうちに、
学び手のこころの奥深くで真実は熟し、
やがて表の意識に浮かび上がつてくる。
 
 
そのとき浮かび上がつてくるものは、
学説などといふものではなく、
真理を追ひ求めた古人の人格であり、
それは浮かび上がつた後も、
依然多くの謎を湛えてゐる筈だ。
 
 
ちなみに、
部屋に独り籠もつて、
かういふ本の読み方ができる人は、
きつと、幼い頃、
目一杯、からだを動かせて遊んだ人だ。
 
 
その遊びの中で、
意欲が、ファンタジーへと昂ぶり、
さらには、
ものをまじまじと見ることのできる力
(ふだんのイマジネーション)にまで、
稔つてゐる。
 
 
からだを芸術的に動かす、
その働きは、 
よく観る力、よく聴く力、よく読む力に、
後年なりかはるからだ。
 
 
子どもの頃の身体を使つた遊び程、
人の意欲を強める芸術はない!
 
 
 

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2020年06月24日

世の光と世の熱による禊ぎ 〜ヨハネ祭を迎へて〜



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ダヴィンチ『洗礼者聖ヨハネ』



今日6月24日は、キリスト文化圏では、
『ヨハネ祭』といふお祭りの日です。
 
 
その祭りの日について、
ルドルフ・シュタイナーの
『こころのこよみ 第12週』に則して書かせてもらひました。
 
 
今週のこの「こころのこよみ」のことばに、
わたしは本当に助けられてゐます。

 

 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
世の美しい輝き、
 
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
 
内に生きる神々の力を
 
世の彼方へと解き放つやうにと。
 
わたしは己れから離れ、
 
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
 
世の光と世の熱の中に。
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
とくに、後半の三行です。
 
 
「わたしは己れから離れ
 ただ信じつつ、みづからを探し求める
 世の光と世の熱の中に」
 
 
己れから離れること。
 
 
光の息遣ひをもつて、
からだをフルに使つて練習をすることで、
己れのからだからこころを解き放つこと。
 
 
さうすることで、
恐れと憎しみに囚はれてしまひがちなこころが、
からだの外側を流れてゐる精神の光と熱の流れに、
触れることができる。
 
 
その流れに触れてこそ、
〈わたし〉が目覚めるのです。
 
 
その流れの中にこそ、
〈わたし〉が生きてゐるのです。
 
 
そのやうに感覚できるみづからを、
この感覚を、
ただ、ただ、信じて、
己れのこころを救ひ、落ち着かせ、養つてゐます。
 
 
それは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で行つてゐた、
水の洗礼にも似る、
世の光と世の熱による禊ぎ、洗礼であります。

 
 




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2020年06月23日

こころのこよみ(第12週) ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜


 
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帝塚山古墳

 
 
世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つやうにと。

わたしは己れから離れ、

ただ信じつつ、みづからを探し求める、

世の光と世の熱の中に。
 
 

Johanni-Stimmung
 
Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden;
Mich selber zu verlassen,
Vertrauend nur mich suchend  
In Weltenlicht und Weltenwärme.
 
 
 
 
今週のこよみには、
「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
 
 
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
 
 
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、
太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、
その祭りを執り行つてゐた。
 
 
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、
まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人であつた。
 
 
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、
いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のやうな情熱をもつて、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。 
 
 
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 
 
 
 
 汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり(マタイ3.2)
 

そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
 
 
 わが後に来たる者は我に勝れり、
 我よりさきにありし故なり(ヨハネ1.15)
 
 
 我は水にて汝らに洗礼を施す、
 されど我よりも力ある者きたらん、
 我はそのくつの紐を解くにも足らず。
 彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん (ルカ3.16)
 
 
 彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし(ヨハネ3.30)
 
 
 
ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地といふ深みへと降りたといふことであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもあつた。
 
 
「内に生きる神々の力」とは、
人の内にこそ生きようとしてゐる、
キリストのこころざし(Christ Impuls)だ。
ヨハネがそのことに仕へ、
みづからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
 
 
しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要る
と言つてゐる。
みづからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのづからは生じない。
人が世に生きるにおいて、
みづからを自覚し、自律し、自立させ、
自由に己れから求めない限りは、
「内に生きる神々の力」という実感は生まれ得ない。
 
 
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
 
 
それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、
わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の
求めることでもある。
 
 
この夏の季節、地球の精神・キリストは、
息を吐くかのやうに、
みづからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
わたしたち人も、
キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、
己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、
精神である「みづから」を見いだすことができる。
 
 
生活の中で、わたしたちはそのことを
どう理解していくことができるだらうか。
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使ふことによつてこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使ふことによつてこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」
みづからといふ精神を見いだすことができる。
 
 
そして、この夏において、意識的に、
子どもに、習ふこと。
 
 
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
 
 
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、
鳥たちが歌ふことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて、
音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
 
 
鳥たちの声の響きは大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて、
天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。 
 
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、
鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、
己れから離れ、
いまだ天に見守られてゐる<わたし>を
見いだすことができた。
 
 
いまも、子どもたちは、幾分、
古代の人たちの夢のやうな意識のありやうを生きてゐる。
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
 
 
そして、わたしたちが己れから離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
天が、ひとりひとりの<わたし>、
「内に生きる神々の力」を
見守つてくれてゐるのを感じることができる。
 
 
そして、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、
天が響き返してくれてゐるのを聴き取ることができる。
 
 
さらには、この世の様々な状況に対応していく道を、
きつと、見いだしていくことができる。
 
 
とりわけ、芸術行為は、そのことを実感させてくれる。
 
 
夏至の頃に、
キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、
毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
 
 
ヨハネ祭の調べ。
 
 
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、
意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、
みづからといふ精神を見いだすこと。
 
 
そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
 
 
そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じる。
 
 
 

 
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己れから離れ、
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
 


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2020年06月21日

子どもの宗教性

 

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今日、娘たちが贈つてくれた花束

 
 
これも、8年前に書いた文章なのですが、今日、父の日を祝つてくれた娘たちのことを想ひつつ、再掲します。またしても長文ですが、ご勘弁を。
 
 
―――――――
 
 

毎日、小さな子どもたちと暮らしてゐて、何よりも感じさせられることは、とにかく子どもたちは、意志・意欲の力に満ち溢れてゐるといふことです。
 
 
「・・・したい!」「・・・が欲しい!」の連続。時に、反対に「・・・したくない!」と言つたりもしますが。
 
 
その意欲は、周りの大人の都合や思惑をものともせず、子どもはその願ひが叶へられるまでその声で連呼するか、「ダメ!」と言はれ、怒られて、泣きぢやくるか、です。
 
 
その子の気質によつて意欲の発露の仕方にも違ひはあるでせうが、共通してゐるのは、歯が生え変はるまでの子どもの意欲の強さは並大抵ではないことです。
 
 
「強く欲する」といふこの力は、そもそも、大いなるシンパシー(共感)の力です。何かを欲しがるといふのは、その何かとひとつになりたい、誰かと同じやうにしたい、誰かと同じやうになりたい、真似したいといふ、大いなるこころの力です。
 
 
なぜ、これほどまでに、小さな子どもたちのシンパシーの力は強いのでせうか。
 
 
それは、世を信頼してゐるからです。世は善きところだと信頼してゐるからです。善きものと同じやうになりたい。善きものとひとつになりたい。すべての人が本来その願ひをもつてゐます。だからこそ、子どもたちは、周りのものといふもの、ことといふことを欲します。真似します。
 
 
その「善きものとひとつになりたい」といふ願ひを、人の宗教性と呼びたいのです。
 
 
大人はその宗教性をからだから自由になつてゐる精神とこころにおいて育むことができます。大人の宗教的感情は、自分自身の精神とこころをもつて高い世の精神とこころに帰依することで育まれます。
 
 
しかし、幼い子どもはいまだ精神とこころがからだから自由になつていず、精神、こころ、からだ、まるごとで周りの世に帰依してゐます。その帰依の仕方は、大人のやうにこころで意識的にしてゐるのではなく、からだにおいて、無意識に、血液循環、消化、呼吸の働きなどにいたるまで、周りに帰依してゐます。全身が感覚器官であり、だからこそ、幼い子どもは徹底的に周りを摸倣する存在です。からだそのものが、おのづから宗教的雰囲気の中に生きてゐます。
 
 
子どもが「Aがしたい」「Bが欲しい」などと言ふときに、わたしたち大人はそのAやBに意識が向きがちであつたり、そのわがままなありかたに堪忍袋の緒が切れたりするものですよね。しかし、「・・・したい」「・・・が欲しい」といふこころの力、シンパシーの力そのものに目を向けますと、子どもの中にはからだに至るまでの宗教性が息づいてゐることに気づかされます。
 
 
そして、子どもは、善きものだけでなく、悪しきものまで、すべてを真似ます。大人においては、善きものに向かつてこころを意識的に育んでいくといふことができますが、子どものからだにおける宗教性は、おのづからなもの、無意識のものであるゆゑに、悪しきものにも帰依できるのです。
 
 
悪しきものとは、なんでせう。現代において、わたしたちは挙げていけばきりがないほどの悪しきものに囲まれてゐるのかもしれません。子どもをもつ親は、何を信頼し、何に帰依していくことができるのか、判断しかねてゐます。
 
 
人の育ちにとつて、善きもの、悪しきものは確かにそれぞれありますが、その中でもつとも大切で、人の育ちを応援してくれる善きものは、その人自身の考へる力、感じる力、欲する力、この三つのこころの力が健やかになりゆくことだと、わたしは感じ、考へてゐます。その力こそが、外の様々な状況や環境に対しあひ、適応しながらも、己れ自身を信頼し、道を切り開いてゆくことを可能にしてくれるのではないでせうか。
 
 
そして、子どもは密やかに、からだにいたるまで親の内に生きるこのこころの力を真似します。それは、考へ方、感じ方、欲し方が、おのづからな習ひのもの、習慣になるだけでなく、そこからこころとからだの健やかさまでをも左右していくといふことです。
 
 
わたし自身、親として感じ、考へ、そして失敗を繰り返しながら練習してゐることなのですが、わたし自身の考へるその考へ、感じるその感じ、欲するその欲が、子どもに真似されていいものかどうかを、そのつどそのつど見てとることです。
 
 
子どもがゐてくれなかつたら、わたしはこんなことを思ひもよらなかつたでせう。思ひにはゐたつても、実際に成長していく人をまぢかに見なければ、深くこころに記すこともなく、練習することもなかつたでせう。その機会を与へてくれてゐる子どもたちに、こころから感謝したいのです。
 
 
子どもの宗教性に応へること。それをまづ、自分自身の考へ方、感じ方、欲し方を見てとることから始めたいと、いま、こころから思ひます。できる、できないにとらはれません。とにかく、さうこころがけたい、こころざしたい、といふことです。
 
 
シュタイナー幼稚園などで、よく唱へられる詩に次のものがあります。
 
 
 

  わたしの頭も、わたしの足も、
  神さまのすがたです。
  わたしはこころにも、両手にも、
  神さまの働きを感じます。
  わたしが口を開いて話すとき、
  わたしは神さまの意志に従ひます。
  どんなものの中にも、お父さん、お母さん、
  すべての愛する人の中にも、
  動物や、草花、木や、石の中にも、
  神さまのすがたが見えます。
  だから、怖いものはなにもありません。
  わたしの周りには、愛だけがあるのです。  
           (ルードルフ・シュタイナー)
 
 
 
大人として子どもの傍にゐるわたしが、どんな不条理な世にゐたとしても、あへて、周りのいたるところに、この詩に述べられてゐる尊いもの、愛を見つけ出していく・・・。詩のことば、祈りのことばから、わたしは自分の考へる力、感じる力、欲する力を、耕します。子どもの宗教性に応へられるやうなこころの力を、毎日の生活の中で、呼び起こします。昨年2011年の春から、特に、意識してゐることを書かせてもらいました。
 
 
 
 


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2020年06月20日

イソップ物語『狐と月影』 言語造形






イソップ物語から「狐と月影」といふ短いお話です。
ドイツ語版からの翻訳は、鈴木一博氏です。


寓話は、お話の最後に教訓が添えられてゐます。
望むべくは、聴く人の知性にではなく、
情に訴へるやうに語りたいものです・・・(^_^;)。 


ことに動物寓話は、
9,10歳あたりの子どもたちの情に訴へることによつて、
健やかな意識の目覚めを促します。
 

ちなみに、一連の動画では、
お話の前に題名を言つてゐますが、
子どもたちに語る時には、
その親しい雰囲気ゆゑに、
題名をあまり引き立てないことにおのづとなるでせう。
 
 
 

2020年06月19日

若い人に向けて 〜たとへば、東京と大阪〜



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七年間通つた、新宿牛込柳町にある銭湯「柳湯」
 
 

随分以前に書いた文章で、自分自身のことを振り返りながら、人生の中の発意・自主性・イニシアティブの重要性について書いたものです。長文ですが、ご勘弁を。
 
 
 
――――――
 

 
わたし自身のことから書き始めるのですが、シュタイナーといふ人を初めて知り、アントロポゾフィーの本を読み出したのは、二十八歳のときでした。まづは、子どもへの教育についての本を読み始めたのですが、そこに書かれてある教育観、人間観、世界観、宇宙観を貫いてゐるまぎれもない精神からの観点にこころを鷲づかみにされました。更に、言語造形といふ芸術に出会ひ、自分の仕事は、この言語造形とアントロポゾフィーを生きることそのことだと、出会つてすぐに感じ、それまでの仕事をやめて、それから約七年間、言語造形とアントロポゾフィーを学ぶために、毎日アルバイトをしながら、東京に住んでゐました。
 
 
東京といふところは、学びの機会だけに限らず、観るもの、聴くものが、世界中からと言つてもいいくらゐ、豊かに供給されてゐますよね。わたしは、アントロポゾフィーと言語造形を通して、特に芸術に向けての関心と情熱が深まつていき、それに応へてくれるかのやうに、東京は質の高いものを豊かにわたしに与へてくれました。こちらがその気にさへなれば、そしてお金さへあれば、東京といふところはいくらでも享受と学びの機会を与へてくれました。わたしにとつては、東京の街そのものが、大学のやうでした。
 
 
そして三十五歳になつたときに、ふるさとの大阪に帰つてきました。そのとき、わたしがまづ感じたのは、芸術の享受、学びの享受といふ面に関しては、東京と比べると、その量においては、五分の一、いや、十分の一ぐらゐかもしれない、といふことでした。これはあくまでも、当時のわたしの個人的な感覚です。
 
 
しかし、ここでも、すぐに気がつきました。外側から得るものはさほど多くないかもしれない。けれども、自分が意味を見いだし、やつてみたいこと、やつていかうとしてゐることを、いま、ここから、自分から、始めてみることはできる。自分自身がたとへまだまだ未熟であつても、こころざしさへあれば、です。大阪といふところはそんな気風がある。そのことを肌で感じました。
 
 
それまで、東京でたつぷりと豊かで深い学びをさせてもらへたといふ実感があつたのですが、同時に、その外的な豊かさから必然的に生まれてしまふこころの受動性、そして何よりも、人を何かのレベルで判別しようとする強すぎる批判性・選別性を人との関係の中でどこか感じてゐました。それは、東京といふ大都会に生きる人がもつてしまはざるをえないものかもしれませんし、それよりも、きつと、わたし自身の中にあるこころのありやう(受動性と批判性)でもあります。ただ、大阪に帰つてきて、初めてはつきりと意識したのは、東京にゐたときのやうなありやうの中では、わたしは、わたしとして自立するのがとても難しかつた、といふことでした。外側から与へてもらえるものは、とても質の高いもので、量も豊かなのですが、それゆゑに、こころが受け身になりがちで、また、批判するこころの力が強すぎて、人と人とが警戒しあつてゐる、他者の目が常に気になる、「誰かのお墨付きをもらへないうちは、自分で何かを始めるなんてとんでもない」といふやうな雰囲気をわたしはどこか感じてゐました。
 
 
わたしが、アントロポゾフィーから、そしてシュタイナーといふ人から学んだもつとも大きなことは、「わたし」を育むこと、そのために何度失敗してもいいから、恐れずにトライしつづけること、さうすることによつてのみ、だんだんと「わたし」に対する信頼が自分の中に育つてくるといふことです。「わたし」に対する信頼こそが、生きていく上で、もつとも大きなもののひとつだといまも感じてゐます。
 
 
十九世紀後半から約三百年かけて、時代精神ミヒャエルが、わたしたちを見守り、支へ、応援してくれてゐると、シュタイナーは語り、そのミヒャエルとの結びつきをひとりひとりが真摯に受けとめながら生きていくことがどれほど大事なことかを、病床にいながらも書き続け、それが遺言のやうに『ミヒャエルの手紙』として、わたしたちに残されてゐます。
 
 
その『手紙』において、ミヒャエルの働きは様々な面で深められてゐるのですが、その基本的なことのひとつとして、時代精神ミヒャエルは、「わたし」に目覚めつつ、「わたし」を信頼しつつ、発意・イニシアティブをもつ人と結びつかうとします。
 
 
あくまでも、わたし個人が感じたことですが、東京における、豊かさと同時にもたざるをえなかつた恐れと不安。そして自分のふるさとである大阪に帰つてきて生まれたイニシアティブ。失敗を恐れず、他者の目を気にかけず、とにかく、やつてみよう、そして、やりつづけていかうとするイニシアティブ。だから、東京は住みにくい、ふるさとや大阪は住みやすいなどとは勿論一概に言へませんが、やはり、そこに、現代を生きることの難しさと希望を見るのです。場所の問題ではないのですが、場所は、人が、創つてきたものです。要(かなめ)は、これからの人の意識です。
 
 
目に見える外側の豊かさが本当の豊かさではないことに、人は、きつと、気づいていくでせう。これからはますます、人が各々の「わたし」をもつて、ためつすがめつ、ひとつひとつのものごとを消化し、深め、ものにしていくプロセスそのものが豊かさであること、そして、「わたし」に対する信頼を育んでいくことこそが豊かさであると感じとつていくでせう。
 
 
人が、「わたし」をもつて、ひとり立ちすること。そこをこそ、ミヒャエルは応援しようとしてゐます。そして、その応援をもらへるやうな環境を他者のため、自分のためにわたしたちはどのやうにして創つていくことができるでせうか。共に、考へ、各々実際に創つていきたいですね。
 
 
 

 

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こころのこよみ(第11週)〜白日の下の美しさ〜


 
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この太陽の時の中で、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 
 そして、世の<わたし>の内に、

 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.    
 
 
 
 
 
「世の美しさ」とは、
決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
 
「この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、
すべてが白日の下に晒される。
 
 
それらすべてが白日の下に晒され、
光が当てられるからこそ、
「世の美しさ」なのだ。
 
 
その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
 
 
善と悪、美と醜、真と偽、喜びと悲しみ、
それぞれがひとつのもののうらおもてだといふこと。
 
 
そのやうな、のつぴきならなさが、
「世の美しさ」として感じられるだらうか。
そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、
その深みを見てとることができるだらうか。
 
 
ものごとは、なんであれ、
付き合ひ続けて、沿ひ続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。
毎日移り変はつていく世の動向。
人びとの集団的意識の移り行き。
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびつてしまはずに、
こころをこめてそれに向き合ひ続け、
沿ひ続けるときだ。
  
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、
肝腎要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのか、
いつたい何が本質的なことなのか、
といふ問ひをもつこと。
 
 
それが精神を通はせつつ、
ものごとに沿ふことの糸口になる。
からだをもつて振る舞ひ、
こころから行為していくことの糸口になる。
 
 
その時、捨てようとしなくても、
人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
 
そして、はるかに広やかで、
はるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、
「賢き知」と、他の誰のでもない、
自分自身のこころざしが、
立ち上がつてきはしないか。
 
 
人の<わたし>は、みづからを失ひ、
そして、世の<わたし>の内に、
みづからを見いだすことができる。
 
 
 
 
 

この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 そして、世の<わたし>の内に、
 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
 
 

posted by koji at 19:04 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月18日

6年前の公演「グリム童話のひととき」




 

6年前の2月に「ことばの家」にて行ひました公演です。
 
 
この時は、小学2年生だつた長女が、
『星の銀貨』を語りました。 
 

演目・出演は、
「兎の花嫁」(諏訪千晴)
「星の銀貨」(諏訪夏木)
「白雪姫」(諏訪耕志)
音楽作曲・演奏(森田徹さん)
 
日本語翻訳 鈴木一博氏です。
 
 
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6/22(月)アントロポゾフィー・ゼミクラス


 
 
『普遍人間学』を読みこんで、
自分自身のことばで語ることを目指す、
アントロポゾフィー・ゼミクラス。
 
 
今回も、オンラインで、
第三講に取り組みます。
 
 
人こそが、
地球における真の働き手であるがゆゑに、
人なしでは、
地球がなりたたないこと。
 
 
第三講では、
そのやうなエコロジー上での、
眼から鱗が落ちるやうな観点が述べられてゐます。
 
 
それは、人といふものが、
精神から生まれてゐるからです。
 
 
 

日時は、
6/22(月)の午後13時から15時半。
 
 
ご参加前に、
鈴木一博氏訳の本書をどうぞお読みください。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
人といふものを、
こころから精神から理解していくために、
読みこんで、自分自身のことばに鋳直していく、
そして、アントロポゾフィーのうちの最も大切な、
内なる練習(メディテーション)についても、
何かを分かち合へる、
そんな時間にしていきませう。


参加後は、何らかの形で、
文章を書いていただき、
御自身の学びを形にして行つていただきます。





●参加費 

初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円

連続ご参加の場合、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。

なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。



●お申し込み・お問ひ合はせ

「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/



●お振り込み

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
オンライン上でお会ひできますこと、
楽しみにしてゐます。





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2020年06月17日

シュタイナーが語る「ことばの家」



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ことばには、光が潜んでゐます。
色彩として顕れ、
そして、詩には音楽が密かに響いてゐます。
 
 
その光と楽の音をこそ引き上げたくて、
言語造形といふ芸術に携わつてゐます。
 
 
今日も、再開したクラスで、
その光と音楽を感覚する喜びを
味はふことができたのでした。
 
 
ずつと我が仕事場・アトリエである、
「ことばの家」では、
様々な人によつて、
様々な作品から、
光と音楽が生みなされてきました。
 
 
その精神で、
「ことばの家」は営まれてきました。
 
 
「ことばの家」とは「神が語る家」であるといふ、
ルドルフ・シュタイナーのことばに、
どこまでも支へられてゐるからです。
 
 
第一ゲーテアヌム建築中の、
106年前の今日、
1914年6月17日にドルナッハの丘の上で響いた、
彼のことばから、いまも、
わたしの胸の内にその精神が、
泉のやうにこんこんと湧き上がつてきます。
 
 
 
―――――――
 
 

(要約)
 
 
人びとは口から耳へと伝へられるものが、
平和と調和を作り出せると本当に信じてゐます。
 
 
しかし、平和、調和、人が人としてあるありやうは、
神々がわたしたちに語りかけるとき、
初めて生まれるのです。
 
 
このゲーテアヌムの壁、
そして窓に施される芸術的なフォルムによつて、
神々はわたしたちに語りかけてきます。
フィジカルな壁は生きてゐませんが、
エーテルの、精神の、壁は、生きて動くものなのです。
 
 
地球の大地がその懐から植物たちを生み出すやうに、
わたしたちが造形する壁のフォルムは
(内において)生きて動くものを生み出します。
 
 
わたしたちの建築は、そのフォルムによつて、
きつと、神々のことばを語り始めます。
植物のエーテルのフォルムに耳を傾け、
それらをわたしたちの壁のフォルムによつて
創らうではありませんか。
 
 
自然に潜む神々が、人に、語る喉頭を創つたやうに、
わたしたちは、芸術によって、
神々が語りかける喉頭を創るのです。
 
 
わたしたちは、
これらのフォルムが
何を意味するのかを解釈するのではなく、
心臓で聴くかのやうに、
神々のことば、精神のことばを分からうとします。
その分かる力を育むこと、
それがわたしたちのなすべきことです。
 
 
このやうに、
精神への道を見いださうといふ聖きこころもちが、
この仕事場に満ちますやうに。
 
 
仕事場とは、きつと、人がその精神を愛の内に見いだし、
平和と調和を地上に拡げていくやうな
精神への道を見いだす場です。
 
 
真の芸術への、真の精神への、
そしてすべての人への愛をもって、
「ことばの家」「神が語る家」を建てようではありませんか。
 
 
       (1914年6月17日 ドルナッハ)
 
 
 

―――――――
 
 
 


本当に、このことばに尽きます。
 
 
そして、この精神があるところならどの場所も、
「ことばの家」「ことばの宮」「ことばの社」
になりえます。
 
 
このシュタイナーのことばに何かを感じる方は、
この世のどこかにをられるはずだ、
さう信じてゐるのです。
 
 
 
 

posted by koji at 23:03 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月15日

まっさらな、新しい21年



「言語造形をしたい!」といふ人たちと、
今日、言語造形をすることができました。
  
 
参加者の方が綴つて下さつた文章です。↓
『 あたらしく、はじまる。 mitteの庭 note 』

 

 
リアルな空間で、
ことばのまぎれもない精神が拡がりゆくのを、
感覚することの神秘と喜び。
 
 
なんて、ありがたいことか。
 
 
わたし自身、
師匠の下から離れて、
おほよそ21年経つのですが、
今日から、
まっさらな、新しい21年を始めるのだ、
と念ひました。
 
 
クラスご案内 ↓

『言語造形クラス〜宮澤賢治と共に〜
(和歌山県岩出市)』


 
 
 

posted by koji at 22:52 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月13日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜



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堺の宿院の上空
 
 

夏の高みへと
 
太陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の太陽の光と熱によつて、
植物の緑が、花のとりどりの色となつて、
上へ上へと燃え上がる。
 
 
鳥たちが、虫たちが、
いよいよ高らかに、軽やかに、
夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、
大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
 
太陽によつて引き起こされる、
そんな植物と動物たちの働きが、
夏の空気に働きかけてゐるのを、
わたしたちは感じることができるだらうか。
 
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、
来たる夏を生きることができるならば、
みづからの、人ならではのところ、
人であること、わたしであることもが、
ここよりも、さらに、高いところに、
さらに広やかなところにのぼりゆき、
天によつて見守られることを、
情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
 
おそらく、そのことばは、古来、
日本人がずつと我が子どもたちに
言ひ伝へてきたものだらう。
 
 
「お天道様」それは、太陽の神様であり、
わたしたちに警告を発しつつ、
わたしたちを見守つてゐる存在として、
常に高みにあるものとして
感じてゐたものだつたのだらう。
 
 
そして、いま、わたしたちは、
その「お天道様」を、人の人たるところ、
<わたし>であるところとして、
感じてゐるのではないだらうか。
 
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、
「高い<わたし>こそが、
いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」
「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」
といふことかもしれない。
 
 
天照大御神のみことば。
「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として
 吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
 
わたしたちは、
自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、
改めて、この季節だからこそ、
「お天道様」に見守られてゐることを感じ、
「お天道様」からの視点、
「おのづから」なありかたで、
生きていくことができるだらうか。
 
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、
きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
 
 
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
 
 
 

 
 

posted by koji at 05:33 | 大阪 🌁 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月12日

動画・グリム童話『星の銀貨』〜アントロポゾーフの仕事 〜



 

 
アントロポゾフィーといふ精神科学を学ぶほどに、
昔話、童話、メルヒェンといふものに対する、
いのちの通ふ理解が、
こころの深いところで生まれて来るやうに感じます。
 
 
それは、精神科学における考への内容といふよりも、
その考への「かたち」に、
お話のひとつひとつが触れるのを感覚する、
そんな実感です。
 
 
お話の中に、神々しい叡智が息づいてゐるのです。
 
 
昔の人は、
その叡智を感じるところからお話を語つてゐた。
 
 
唯物的世界観の中でその叡智を失つてしまつた、
現代人であるわたしたちは、
もう一度、芸術を通して、
その叡智を活き活きと汲み上げ、
意識的に、
土地から土地へ、
オンラインで(笑)、
旅しつつ、語り歩くことができます。
 
 
精神科学を広めようとしなくてもいい。
 
 
それをこころから求める人が必ずゐて、
その人には、必ず、その学問が届くはずだから。
 
 
ただ、アントロポゾーフの仕事があるとするならば、
精神科学といふ現代の人類に与へられてゐる叡智を、
各々、各自のスタイルにメタモルフォーゼさせ、
すべての人、すべての子どもたちに、
彼らが求めてゐるものとして、
何かを供していくことにあるのではないでせうか。
 
 
いま、精神科学の観点からお話を語るといふ作業は、
中世の聖なる吟遊詩人の仕事の再現です。
 
 
「メルヒェン、伝説とは、
 人がこの世に生まれて来る時に、
 人生の旅路に備へて、
 精神の故郷から授けられる、
 善き天の使ひである。
 それは、人生といふ旅路を通して、
 人にかいがいしく付き添ふ友である。
 その人にその友が付き添ふことによつて、
 人生は、まこと、内において、
 活き活きとしたメルヒェンとなる」
     (ルートヴィッヒ・ライトナー)
 
 
人生がメルヒェン・昔話・神話になるとは、
人生が精神的なものになる、
といふことです。



2020年06月10日

自由への道A メディテーション「考へるといふこと」


 
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人をこころから愛することができるのは、
その人を「想ふ」からであり、
その想ひは、「考へる」ことにより初めて得られる。
 
 
さう、『自由の哲学』第一章にあります。
 
 
昨日は、
「見初める」ことから、
誰かを、何かを、愛する道筋を述べました。
 
 
今日は、
「考へる」ことから、
誰かを、何かを、愛する道筋です。
 
 
初対面の時は、
さほど印象付けられない相手であつても、
何度も会ひ、何度も語りあふうちに、
その人のことばや振る舞ひから、
だんだんとその人についての「想ひ」を抱くやうになる。
 
 
「想ひ」とは、
その字のごとく、
ある相が心の上の描かれてゐるありやうです。
 
 
その人のことをこころに想ひ描くには、
その人のことを考へなければなりません。
  
 
考へるからこそ、想ひが抱かれます。
 
 
そして、その想ひから、
やがて、その人を愛する道が始まります。
 
 
それは、メディテーションの道です。
 
 
精神の世から生まれてゐるある高貴な考へを、
こころの中で想ひとしてしつかりと抱くのです。
 
 
すると、その考へが力を持ち始めます。
 
 
その考へが、その人のまるごとに浸みこんで来ます。
 
 
こころとからだ、まるごとが、
その考への精神から方向づけられて来ます。
 
 
メディテーションとは、
精神を敬ひ、尊び、愛しつつ、
精神とひとつになりゆくこころの道なのです。
 
 
昨日述べた、
芸術実践といふ「見初める」ことの練習、
そして、今日述べてゐる、
メディテーションといふ「考へる」ことの練習、
このふたつを意識的に修めて行くこと。
 
 
これが、人がひとりの人になりゆく道、
自由への道、
アントロポゾフィーの要でもあります。
 
 
この夏、言語造形といふ芸術を礎にして、
四日間連続の講座『言語造形 その実践と理論
を開催します。(7/23〜7/26)
 
 
アントロポゾフィーといふ精神の学びに、
言語造形といふ芸術にどつぷりと、
入り込んで行く、ひとつの門に、
この夏、共に入つていきませんか。
 
 
 

posted by koji at 17:32 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月09日

自由への道@ 芸術実践「見初めるといふこと」


 
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あるものの前を多くの人が通り過ぎてゆく。
 
 
しかし、ひとりがそのものの前に立ち止まり、
そのものを見初める。
  
 
そして、その人は、
他の誰も見向きもしなかつたそのものを
愛し始める。
 
 
愛がこころに宿る時には、
こんなプロセスがあることを、
シュタイナーは『自由の哲学』の第一章で述べてゐます。
 
 
いろいろと頭で考へてから愛するのではなく、
一目見たその時から、
なぜか、愛するこころが発動する。
 
 
さう、「考へる」からではなく、
「見る」から始まるのです。
 
 
そして、「見る」とは、
そもそも、いつも、
「見初める」であるはずです。
 
 
「見る」といふ行為は、
いつも新しい何かを人に運んでくれます。
 
 
幼な子は、いつもそんな目を持つてゐますし、
初々しいこころを持つ大人も、
そんな目を持ち続けてゐます。
 
 
その「見初める」といふ、
愛に向かふ初々しいこころの働きに、
皆さんも覚えがあると思ひます。
 
 
実は、芸術実践とは、
この「見初める」働きであり、
この働きを繰り返し、繰り返し、
繰りなしていくことです。
 
 
眼を働かせるそのたびごとに、
手を動かすそのたびごとに、
からだを使ひ、身を震わせるそのたびごとに、
新しく、まつさらの感覚に見舞はれる。
 
 
決まり切つた答へなどなく、
行為をするたびごとに、
新しい精神に出会へる。
 
 
それは、
芸術行為の本質的な道筋です。
 
 
それは、
世の何かを愛することに向けての、
自己認識の道、
自由への道なのです。
 
 
たとへば、誰かを愛する時、
眼で、耳で、からだで、感官で、
その人と出逢つたその時に、
その人の魅力と真価を理屈抜きに感じてしまふがゆゑに、
その人を愛し始める。
その人への愛がこころに芽生へる。
 
 
それは、
その人の内に、
その人を愛し始めてゐるわたしを見いだす、
別のことばで言へば、
世の内にみづからを見いだす、
そんな自己認識のひとつの方向なのです。
 
 
自己認識、
みづからを知る、
それは、自由への道でもあります。
 
 
芸術実践とは、
そのやうな「見初める」ことから
愛することへの道を歩いて行くことであり、
それこそが、自己認識へと至る道となるのです。
 
 
次に自己認識のもうひとつの方向も、
シュタイナーは述べてゐます。
 
 
つづく・・・。
 

 
『第二金曜アントロポゾフィークラス・オンライン』
『第二土曜アントロポゾフィークラス・オンライン』


『真夏の連続講座 言語造形 その実践と理論』7/23〜7/26



 

posted by koji at 13:23 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする