2022年02月19日

暴れん坊を見守ること そして想ひ描くこと






わたしたちは、朝や昼に目覚めてゐる時(この世にゐる時)だけで、この人生を生きてゐるのではありません。人生のおほよそ三分の一の時間を費やして、わたしたちは毎晩眠つてゐます。その夜の眠りの時(あの世にゐる時)にも、わたしたちは生きてゐます。むしろ、その昼の時間の緯糸と、夜の時間の経糸との織りなし合ひによつて、人生といふ一枚の織物を織りなして行きます。夜の眠りの時間においては、わたしたちは意識を失つてしまひますが、それでも眠りに入る前のひとときを大切に過ごすことで、その眠りの質が変はり、朝の目覚めと共に新しく生きて行く力を授かつてゐるのを、きつと、感じることができます。それは、夜の眠りの時間からいただく精神からの力です。その眠りの時、精神の世から、毎日、力をもらひつつ、昼の時にその力を注ぎ込んでゆく。アントロポゾフィーの知は、ゆつくりとですが、日々の暮らしと仕事に清新な息吹きを吹き込んでいくものです。この実践的観点からひとりひとりが内なる練習をしていくことは、アントロポゾフィーから仕事をしていくための必須の観点です。


昨年の12月に「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」にて行ひました講座『暴れん坊を見守ること そして想ひ描くこと』をご覧ください。


2022年02月17日

20年目の京田辺クラス「森のしづく」



昨日は、毎月一回(第二水曜日の午前10時より)の言語造形に取り組み続けてゐる京田辺のクラス、今年で20年目になります。

クラスのはじめに、どのクラスでもしてゐますやうに、参加された方おひとりおひとりから発せられることばを聴き合ふシェアリングの時間を取るのですが、このクラスは、とりわけ、この時間をとてもたいせつにしてゐるのです。

家庭でも、職場でも、友達同士でも、なかなか口に出して言ひえないやうな事柄を、このクラスでなら、皆が黙つて聴いてゐますので、こころを安んじて話すことができるのでせうか。そんな時間を不文律のやうにたいせつにし続けてゐるクラスなのです。

だから、そのシェアリングの時間が長くなるときもあり、ときに、一時間ほどになるときも・・・(笑)。

しかし、だからといつて、言語造形への取り組みがおざなりになるといふことは全くなく、皆、とても真剣に、かつ、毎回新しい喜びを持つて作品に各々向かひ合つてをられます。ことばに対するその真摯さとこの芸術の時間そのものの充実度は、どこのクラスにも負けません。

そんなとてもゆる〜い時間と真摯な時間がいつも併存してゐる不思議なクラス。だからこそ、20年も続いてゐるのかもしれません。

毎月、参加し続けて下さつてゐる皆さん、そして部屋の予約やその他様々な手配を担つて下さつてゐるNさんに、こころより、こころよりの、感謝を・・・。ありがたうございます。

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2022年02月15日

こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜



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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強めよ、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
  
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
 
「ひとり生み」とは、何か。
 
 
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、そのことばが出てくる。
 
 
かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあひから生まれた者のこと、「ひとり生み」とは、そのやうな血の混じりあひから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、神々しい子のことだつた。
 
 
今から二千年以上前には、人びとの多くは、「わたし」といふ、人のための下地をすでに備へながらも、後に聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかつた。
 
 
「群れとしてのわたし」のところには、「光」は降りてきてゐたが、ひとりひとりの人は、その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
 
 
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、おらが国、おらが村、おれんち、そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
 
 
しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、その「光」を通してみづからを神の子、「ひとり生みの子」となした。
 
 
物の人がふたり生み、精神の人がひとり生みだ。
 
 
そして、キリスト・イエスこそは、その「光そのもの」、もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、「父のひとり生みの息子」として、肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
 
 

ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)
 
 
彼こそは、ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」をもたらすことを使命とする者だつた。
 
 
わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
 
 
そして、わたしたちひとりひとりの内なる、「わたしはある」を想ひ起こすこと。
 
 
それは、日々のメディテーションによつて生まれる、精神との結びつきを想ひ起こすことであり、目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
 
 
その想ひ起こしがそのやうにだんだんと深まつていくことによつて、人は、「わたしはある」といふこと、「みづからが神と結ばれてある」といふこと、みづからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるといふこと、そのことを確かさと安らかさをもつて、ありありと知る道が開けてくる。
 
 
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、意欲をもつて考へつつ、いにしへを追つていくといふことだ。
 
 
普段の想ひ起こすことにおいても、頭でするのみでは、その想ひは精彩のないものになりがちだが、胸をもつて想ひ起こされるとき、メロディアスに波打つかのやうに、想ひがこころに甦つてくる。
 
 
さらに手足をもつて場に立ちつつ、振る舞ふことで、より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、想ひが甦つてくる。
 
 
故郷に足を運んだ時だとか、手足を通して自分のものにしたもの、技量となつたものを、いまいちどやつてみる時だとか、そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、想ひが深みをもつて甦る。
 
 
そして、そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、その人をその人のみなもとへと誘ふ。
 
 
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
 
 
その人のその人らしさを、その人はみづから想ひ起こす。
 
 
例へば、この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だつた。その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、頭でではなく、両脚をもつて想ひ起こされてゐる。


その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれてゐる。
 
 
だから、年をとつて、足が利かなくなることによつて、その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、だんだんと失はれていくことになりがちだ。
 
 
手足を通しての想ひ起こし、それは、意欲の力をもつてすることであり、人を活き活きと甦らせる行為でもある。
 
 
そして、それはメディテーションにも言へる。
 
 
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
 
 
メディテーションによる想ひ起こしは、手足による想ひ起こしに等しいもの。
 
 
メディテーションとは、意欲をもつての厳かで真摯な行為。
 
 
毎日の行為である。
 
 
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、わたしの「わたし」が、神の「わたし」の内に、ありありとあること、「わたしのわたしたるところ」、「わたし」のみなもと、それを想ひ起こすことだ。
 
 
世に生きてゐると、その「ひとり生みの力」をぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
 
 
世は、ふたり生みであることから生まれる、惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
 
 
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
 
 
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
 
 
想ひ起こされたものをしつかりとこころの目で観ること、もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも、しつかりと観ること、それがつまり、「観ることを強める」といふことだ。
 
 
その意欲の力があつてこそ、人は、「己れを保つことができる」、おのれのみなもとにあることを想ひ起こすことができる。
 
 
 


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。



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アントロポゾフィーハウス草津



今日、琵琶湖の東南に位置する草津でのアントロポゾフィーハウス。お日様が当たる暖かいお部屋でシュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を一文一文読み進めるのです。一体、今日は、何が生まれたのだらう。さう、クラスが終はつたあと、いつも自分自身に問ひかけます。おほまかなテーマを携へてクラスを始めるのですが、いつも計画通りにはせず、むしろ、その日その日に集まつた人たちの意識から汲み上げられたものを重ね合はせることから、いつも、新しい方向へ、今までに踏まなかつた道へと歩を進めて行きます。人と人とが、ある高いテーマのもとに集まるといふこと。そして、その集ひから、常に新しい何かを見いだし、生み出して行くといふこと。このことは、いま、本当に、たいせつなことです。大人が、目覚めてあることのたいせつさです。仕事をすることのたいせつさです。仕事とは、事に仕へることであり、事に身を捧げることであり、そこから新しい価値を生み出すことであります。かういつた密(ひめ)やかな学びを礎にしつつ、今年は、日本のどこかで、そんな仕事に共に乗り出す仲間と出会ひさうな予感が・・・。ありがたいことです。

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2022年02月14日

安心は精神からこそ



今日は、アントロポゾフィーハウス和歌山での第一回目のクラス。

午前に言語造形、午後にアントロポゾフィーから「人といふもの」といふ講義。

初めて言語造形にご参加下さつた方のことばで印象的だつたのは、終はつた時に、「安心感を持てたからこそ、思ひ切つて声を出して表現することができました」といふものでした。

大の大人であつても、初めての方が、見知らぬ人の前で物語や詩を声に出して表現することは相当の勇気を必要とします。「上手くできずに駄目出しをもらふのではないか、恥をかくのではないか」といふやうな恐れもあります。

しかし、その初めての方が、今日、回数を重ねて練習するほどに、伸び伸びとご自身の持つてゐるものを惜しげなく表現されてゐるやうに感じられるほど、安心して、思ひ切つて声を出してをられました。

この「安心」といふ情をもつて学び手が学ぶことができるためには、学びの場に何が必要なのでせうか。

それは、その学びの場に、精神が宿ることだと、わたしは思ひます。高い法則に沿つて時間が営まれてゐることによつてだと端的に思ひます。

教へ手であるわたしの意向ですとか、恣意ですとか、そのやうなわたしの「気」から発するものではなく、「言語の法則」「言語のジニアス」「ことばの精神」に沿はうと努めるところに降りて来る靈(ひ)が、その場にゐる人に安心・安らかさをもたらすのです。

人と人との間の交友関係や信愛関係によつても安心を感じえますが、本当のところ、人は、だういふ時に安心を感じうるのでせうか。

それは、「ひとりの人」として精神と繋がつてゐると実感する時です。いま、わたしは、靈(ひ)と交はり、精神に守られてゐると実感する時です。

そして、そもそも、わたしといふ人は、からだだけの存在ではなく、精神・靈そのものだつたのだと念ふことこそが、本当の安心・こころの安らかさをみづからにもたらすことができるのです。

こんなにも不安に満ちて大人たちが右往左往してゐる今の社会の中で、いや、だからこそ、子どもたちの学び場に、いま、まづもつて何が必要であるか、と、いま、わたしは、考へざるをえません。

わたしは、何よりも、「ここに、僕が、わたしが、生きて、あること」の「安心」こそをまづもつて子どもたちにもたらすことだと感じます。

人は、まづ、「安心」「こころの安らかさ」を基にできるからこそ、何かを学ぶことができるのです。ましてや、子どもたちこそ、さうであるはずです。

今の社会の中で、子どもたちのこころに、その「安心」を贈るためには、まづもつて、傍にゐる大人こそが、精神とならねばなりません。

精神となつて、子どもに「安心」を贈らねばなりません。

さあ、わたしたち自身が精神の存在となるには、何を、だう、考へ、感じ、生きればいいのでせうか。

そのことを共に考へてゆき、さらには、何かを始めて行く。それが、午後のアントロポゾフィーの時間のテーマであります。



和歌山近郊にお住まひの方で、ご関心のおありになる方は、ぜひ、体験にいらして下さい。

日時:
毎月第二月曜日
 (8月は第四月曜日の22日、10月は第三月曜日の17日) 
午前10時から午後2時まで
(間に昼食の時間一時間を取りますので、お弁当などをお持ちください)

場所:
和歌山県岩出市
(お申込みいただいた方に詳細をお伝えいたします)

参加費:
5回連続ご参加 20000円
体験ご参加   5000円/一回
その他、講師の交通費(往復1540円)を参加者全員で頭割りしてご負担していただきます。

問い合わせ・お申し込み:
アントロポゾフィーハウス(諏訪)
https://kotobanoie.net/access/





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2022年02月13日

古事記と言語造形について談り合ふ ラジオ番組から







言霊(ことだま)とは、人がことばに触れて、こころが動かされるとき、誰もが当たり前に感覚してゐる、言語の精神の働きのことを言ひます。


ことばと、こころが接触する空間に、立ち上がり、拡がつて来る、あるかたち、動き、色彩、それら言霊の働きを丁寧に迎へ、聴き取り、見て取り、取り扱ふのが、わたしたち言語造形をする者です。


さて、小林秀雄の『本居宣長』は、何度、再読しても、そのたびに、こころが唸るやうな、ときに、晴々とするやうな、そのやうな手応へを感じさせてくれる日本文学の最高峰の書だとわたしは常々感じてゐます。


その第三十四章に、かうあります。


●「言霊」といふ古語は、生活の中に織り込まれた言葉だつたが、「言霊信仰」といふ現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのままに認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智恵だつたので、特に信仰と呼ぶやうなものではなかつた。(昭和五十二年発刊版 422頁)


「言霊信仰」などと言ひつつ、机上の精緻な学問体系を作り上げるのではなく、自分が発したことばが、いかに、他者に深刻に働きかけることがあるかといふことであつたり、他者が発したほんのちょつとのひとことで、己れのこころがいかに激しく揺さぶられてしまふか、といふ当たり前のことに、古代の人々は当たり前に気づいてゐた、といふことなのです。


言語造形といふ芸術を生み出したルドルフ・シュタイナーも、そのやうな、一音一音の精神的な性質、精神的な背景を説いてゐますが、ややもすれば、さういふ机上の理解だけで尽きてしまふ「空理」を振り回すことの馬鹿らしさを彼もきつと痛感してゐて、生き物としての言語の芸術的働きを見失ふことは決してありませんでした。


●天も海も山も、言葉の力で、少しも動ずる事はないが、これを眺める人の心は、僅かの言葉が作用しても動揺する。心動くものに、天も海も山も動くと見えるくらゐ当り前なことはない。(422頁)


山の動く日。それは、到底動くはずのなかつた、このこころが、ことばによつて、揺さぶられ、動かされてしまつたとき、目の前の山も動く日が、現にあるのです。その感覚を、通常の散文的理解と取り違へることは、古代人にも決してなかつたことでせう。


●天や海や山に、名を付けた時に、人々は、この「言辞(ことば)の道」を歩き出したのである。天や海や山にしてみても、自分達を神と呼ばれてみれば、人間の仲間入りをせざるを得ず、其処に開けた人間との交はりは、言葉の上の工夫次第で、望むだけ、恐しくも、尊くも、豊かにもなつただらう。(422頁)


言語造形とは、かうした「言葉の工夫」です。
工夫次第で、人は、ものごととの関係をいかやうにも深くしていくことができるのです。




2022年02月12日

普遍人間学オンラインクラス ありがたうございました!



今日は、2020年5月のゴールデンウィークから始めさせてもらつた『普遍人間学』オンラインクラスの最終回でありました。約一年と10か月、月に二回のペースで学び続けて参りました。ご参加下さつた方々に、こころからの、こころからの、感謝をいたします。

この学びを一言で言ふならば、みづから考へ、感じ、欲してゐることを、どう仕事の中で創造的なものへと昇華していくか、といふことになります。

それは、誰も教へてくれない領域へと、みづからを信頼して飛び込んでいく、その勇気の源である、精神への信頼を培ふ道でした。

無手勝流でもなく、杓子定規でもない、ただただ、精神といふものへのリアリティーを元手に毎日みづから仕事を創り続けて行く教育といふ芸術の道でした。

この道は、教育といふ仕事に限らず、どんな仕事をしてゐるとしましても、貫かれてゐる精神の道です。人が人として、この時代に決してゆるがせにはできない、精神の道です。

人であることのあまねき知。世があることのあまねき知。そして、精神の世における大元のものとこの世における現れのかかはり。さらには、ひとりの人の内なる育み。すべてが、この時代のすべての人の成長に必須の学びです。それらは、すべて、愛へと通じるからです。

人の自由が瀬戸際に立たされてゐるこの時代、ひとりひとりが、平成の三十年間には思ひも寄らなかつた目覚めの時を迎へてゐるのではないでせうか。

1919年当時、ドイツ帝国が崩壊した未曽有の国難、危機の時に、人の精神の自由だけは守り抜かうとシュタイナーが成し遂げた「自由ヴァルドルフ学校開校」。

当時も、きつと、さうだつたと思ふのですが、いまも、わたしは、かう思ひます。

最期に生き残るのは、愛だけだと思ふのです。




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2022年02月08日

地球の情との働き交はし〜クリスマス・新嘗祭(にひなへのまつり)のとき〜






とても、とても小さなわたし。しかし、そのわたしは、この地球の上に立ち、大いなる世と繋がつて生きてゐることを想ひ起こしたい。活き活きとした考へと深い情をもつて、四季の巡りを生きたい。その日々の営みの重なりが、小さなわたしの息遣ひを大空へと解き放ち、こころを澄み透つた精神の世に解き放つてくれるのです。さういふ、精神とからだとを結びつけ、こころを育み続けてゐた営みが、洋の東西を問はず、「祭り」と言はれるものでした。

2022年02月06日

やってみへ 〜オイリュトミー〜 やってみなはれ



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青森の三沢にて、毎週日曜日に、オイリュトミーのクラスが営まれてゐます。クラスの名は、『やってみへ 〜オイリュトミー〜 やってみなはれ』です。

写真を撮つてゐたわたしは、外からオイリュトミーを観させてもらつてゐたのですが、強く感じさせてもらつたことがあります。それは、オイリュトミーをすることも観ることも共に大きく息を吸つたり、吐いたりしながら、呼吸を共にすることなんだ。呼吸を共にするといふことをもつて、情を分かち合ふことなんだ、といふことです。

そして、先生はもちろんのこと、参加してゐるおひとりおひとりの立つ姿に、独自の美しさがあること。それは、その人その人がこの世に生まれて来た意味を顕はすやうな美しさなのです。ですので、おひとりおひとり、異なる美しさなのです。ある人は、素直さといふかけがへのない美しさであり、ある人は、世に向かつて開かれてありつつまっすぐに立つ美しさであり、ある人は、憧れといふこころの奥の奥から発してゐる光の現れのやうな美しさなのです。

また、ピアノの響きが、これほどまでに聴いてゐるわたしの胸を揺さぶり、我が情が波打つのか、といふこと。そして、その楽音の調べに合はせて、オイリュトミーが舞はれることで、こんなにも生命と情と光(精神からの光だと思はれます)が織りなし合つて現前するのか、といふこと。

最後に、今日のクラスの様子を観て、聴いてゐて、とりわけ強く感じたことは、先生の動きをよく、よく、観ることの大切さでした。自分が動く前に、先生の動きをよく、よく、観ること。そして、その動きを全感覚をもつて動いてみること。そのことの大切さでした。なぜならば、先生の動きの内に、まづもつては、すべてがあるからです。習ふ者は、まづ、観ること。そのことを外から観てゐて、強く肝に銘じることになりました。


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ことばの主(あるじ)になりゆくこと



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それまではひたすら昔話やわらべうたを全身で聴いてゐた小学一年生たちに、どのやうに国語を伝へてゆくか。幼い彼らは、ことばに関しては、もつぱら全身をもつて聴くことに専心してゐました。どんなにおしゃべりな子どもでも口に出して言ふことばより、聴いて覚えることばの数の方が幾倍も多いはずです。

そんな子どもたちが、歯が生へ変はる頃には、ことばを「話す」こと、空間に向かつてことばを「放つ」ことを学びたいと切に希んでゐます。「聴く」から「話す」への移り行きのときです。

そんなとき、彼らに、まっすぐに立つこと、前に歩くこと、そして腕を解き放つやうに動かすことで胸を世に向けて開いたり閉じたりすることでことばを声にして話すことを促がしてあげられたら。つまり、からだまるごとを使つて、ことばを発することをだんだんと学ぶ(まねぶ)ことが、とても大切なことなのですね。

それは、子どもたちが活きたことばの使ひ手、ことばの主(あるじ)になりゆく道の歩みを促がしてあげることなのです。

人は、聴きつつ話し、話しつつ聴くことに習熟して行くことで、やがて、談(かた)らふことの喜びを知り始めます。

そして、ことばの主(あるじ)になるといふことは、言はなくてもいいことを言つたり、思つてゐることの半分も言へなかつたりすることなく、言ひたいことを過不足なくぴたりと言へる人になること、こころを活き活きとことばにすることができる人になるといふことです。

そして、その話す力は、きつと、他者のことばをよく聴くことのできる力、他者のことばの奥を感じ取る力、行間を読み取る力と裏表の関係をなしてゐます。

ことばの主(あるじ)になりゆくといふことは、人が人として、わたしが<わたし>として生きて行く上で、どれほど大切なことでせう。

詩芸術は、数ある芸術の中でも、人の<わたし>の育み如何に懸かつてゐます。日本人は、祝詞から始まり、神話、昔話、物語、和歌、俳諧などの創作・享受を通して、それら詩芸術に国民あげて取り組んできた稀有な民です。

ご先祖様が育んできたその芸術的感覚を、わたしたち大人自身が意識的に学び、それを子どもたちに伝へて行くことの大切さをわたしはひたすらに念ふのです。それは、こころをことばにする、精神をことばにする訓練であり、ことばからこころと精神を聴き取る訓練でありました。




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こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜



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東山魁夷 「碧湖」



考への力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。

こころの満ち足りが、

世のくりなしとひとつになれば、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
 
 
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
 
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。             
 

普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。ひたすらに、そのやうな考へを、安らかに精力的に考へる練習だ。
 
 
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
 
 
その繰り返すメディテーションによつて、「考への力」が強く鍛へられ、その力がそのまま、「光」の働きであることを感覚するやうになる。
 
 
この時期に、メディテーションによつて強められる考への力が、こころに及んでくるひとつひとつのそそりを明るく照らす。


一つ一つの感覚、情、意欲、考へが、考への明るく晴れ渡らせる光によつて、明らかになる。
 
 
それが明らかになるほどに、こころも晴れ晴れとした満ち足りを感じる。こころのなかで感覚と精神が結ばれるからだ。
 
 
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
 
 
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
 
 
こころの満ち足りが、世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
 
ひとりで考へる力は、考へる光となつて、人と人のあひだを、人と世のあひだを、明るく晴れ渡すのだ。
 
 
 

考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 
 



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2022年02月04日

立春の日に アントロポゾフィーハウス青森三沢 ありがたうございました



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ことばを解き放つこと、それはこころを解き放つこと。

わたしたちは、四肢の働きをもつて、胸のあたりから空間に爽やかな吐息と共にことばを響かせ、ことばを動きます。

そのことばと共なる人の動き、人のまるごとから発せられることばの響きは、精神の境へと拡がりゆくこころによつて、場をきよめます。人をはずませます。神と和します。

アントロポゾフィーハウスは、そのやうな、ことばの社を、その都度、その場で、打ち樹てようと願つて、今日も青森の三沢でことばに取り組みました。

社に来て下さつた方々に、そして、かういふ場をもつことを許して下さつてゐる大きな何かに、こころから感謝します。ありがたうございます。


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2022年02月02日

ことばの教育を礎にするアントロポゾフィーからの教員養成






日本の昔からの子どもへの教育方法。それは、「一人前にものが言へるやうにする」といふものでした。そして、それは、「しつかりと人のことばを聴き取ることができる」ことと表裏一体のものでした。


つまり、聴きつつ話す、話しつつ聴く、その力を養ふべく、国語教育が学校などが無い時代に盛んに行はれてゐたのです。


わたしたちアントロポゾフィーハウスは、そのやうな我が国ならではの文化・歴史におけることばへの深い見識、ことばへの芸術的な取り組みを礎にもつ教育を、これからの時代に新しく芽吹かせて行くことを、ひとつの使命としてゐます。


シュタイナー教育の我が国における独自の展開として、この国語教育をすべての教育の根底に据ゑるものを、わたしたちアントロポゾフィーハウスも準備して行きたいのです。


日本のことば、国語への確かな見識を基にもつ教員養成の必要性から、その実現を考へ続けてゐます。


その養成は、いまだ日本にはほんの少ししかないシュタイナー学校での実践を超えて、あらゆる教育現場における根底的なこととして必要不可欠なものを提示していく使命を持つものです。


「国語への確かな見識」と書きましたが、それは、子どもへの教育をする人が、言語学や言語哲学を学ぶといふことでは全くありません。


そのやうな机上のスタディーではなく、長い時に亘つて読み継がれてゐる、ことばの芸術作品を身のまるごとをもつてみづから奏でてみることによつて生きられる「ことばの感官」の育みから授かる見識のことを言つてゐます。


つまり、言語造形とオイリュトミーから稼がれる精神の手応へこそが、教員養成に必要なのです。


だつて、すべての授業は、教師のことばで組み立てられ、織りなされてゐるのですから。


ことばを生きる。そこにアントロポゾフィーの営みの中心があるやうに思ひますし、ひとりの人が、みづから、さう生きたい、さう生きるのだ、とこころを決めることは、世に少なくない働きをもたらすやうに思ひます。




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2022年02月01日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜



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東山魁夷「冬華」



新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡み合ひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
 
 
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、そのことを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
 
 
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
 
 
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
 
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
 『人』とするものが流れ込んでくる」
 
 
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
 
 
そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしていつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
 
 
人といふものが、そして自分自身といふものが、ひとつの謎になつてきたのだ。
 
 
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
 
 
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
 
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
 
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
 
 
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
 
 
わたしたちは、1月から2月へかけて、明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点においても、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
 
 
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。「わたしは、そもそも、精神の人である」と。「<わたし>は、ある」と。
 
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
 
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
 
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
 
 
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
 
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなく考へる力となる。
 
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなく考へる力において、自由になりうる。
 
 
外の世に、どんなことが起こらうと、どんな出来事が繰りなされやうと、こころに、意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
 
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
 
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
 
 
  
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 






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教育に、人の集ひに、芸術の息吹きを



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言語造形をした後、子どもたちも大人たちも、みんな、いい顔になつてをられます。それは、ことばの交はし合ひが芸術だからです。そして、親御さんたちとの談(かた)らひも、芸術の息吹きに通はれて、こころとこころが織りなし合ひ、精神が通ひ始めます。笑顔がこぼれだします。


「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」の皆さん、どうもありがたうございました😇 これからも、共に、創つてまいりませう。


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仙台「山月記」ありがたうございました



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仙台での『山月記』公演に来て下さつた皆様、こころよりお礼を申し上げます。ありがたうございました。

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2022年01月24日

こころのこよみ(第43週)〜冷たさに立ち向かふこころの炎〜



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冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖まる。
 
それは、世の現はれに、
 
胸の力を通してありありとした力を与へる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
 人の内なるこころの炎」
 
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
 
いま、人と人は、どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
 
人と人との間に、無関心が、行き違ひが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
 
自分自身のこととしても、そのことを痛切に感じる。
 
 
わたしたちは、そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
 
 
その冷たさから自分を守らうとして、こころを閉ざす。
 
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
 
しかし、このあり方が時代の必然であることを知ることができれば、何かを自分から変へていくことができるのではないだらうか。
 
 
15世紀以降、人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
 
 
意識のこころの時代だ。
 
 
この時代において、まづ、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされる。
 
 
その知性は、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして扱はうとする。
 
 
この時代において、この冷たく硬い知性が、人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。
 
 
そして、文明が発達すればするほど、人は、己れが分からなくなつてくる。人といふものが分からなくなつてくる。
 
 
人といふものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
 
だから、その冷たく硬い知性を己れのものにすることによつて、人は、人といふものがわからなくなり、他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも見失つてしまふにいたる。
 
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じざるをえない。
 
 
以前の時代には、無意識に繋がつてゐた人と人との関係。人と自然との関係。人と世との関係。
 
 
それらが断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で繋がりを創つていく力を育んでいく必要に迫られてゐる。
 
 
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
 
 
ひとりになれたからこそ、そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
 
 
ひとりになることによつて、初めて、人と繋がることの大切さにしつかりと意識的になることができる。
 
 
だから、このやうな人と人との関係が冷たいものになつてしまふことは、時代の必然なのだ。
 
 
そして、この時代の必然を見やる、ひとり立ちしたひとりひとりの人が、みづから天(精神)と繋がり、垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
 
 
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、横にゐる人との繋がり、水平の繋がりが与へられる。
 
 
垂直の繋がりが、ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、水平の繋がりが天から与へられる。
 
 
さうして初めて、人と人とが分かち合ひ、語り合ひ、愛し合ふことができる。
 
 
地上的な知性で、地上的なこころで、地上的なことばで、人と人とが分かり合へるのではない。
 
 
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、すでに500〜600年経つてゐる。
 
 
わたしたち人は、そのやうに、いつたん他者との関係を断たれることによつて、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習つてきた。
 
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」、「頭ではなく、心臓において考へる力」、「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入つてきてゐる。
 
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
 
硬いからだを持つところから、人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのだ。
 
 
だから、これからの時代のテーマは、そのやうな、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、意識的に育んでいくことだ。
 
 
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、人の内なるこころの炎」だ。
 
 
その「内なるこころの炎」は、天に向かつて燃ゑ上がる。精神に向かふ意志の炎となる。
 
 
日常生活を送るうへで、日々の忙しさにかまけつつも、なほかつ求めざるを得ないこころの糧。それは、精神である。
 
 
地上に生きる人にとつて、なくてはならないこころの糧としての精神。その精神の具象的なもののうち、代表的なもののひとつは、キリストであらう。
 
 
キリストのこと、クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、春を迎へようとする頃、ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによつて、ますます意識的にこころを精神に向かつて燃ゑ上がらせることができる。
 
 
そして、人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
 
 
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
 
 
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
 
 
意識のこころの時代において、人は、そのやうなキリスト理解をもつて、みづからのこころに炎を灯すことができる。
 
 
なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからだ。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
さう、こころに銘じるとき、わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
 
 
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、キリストと繋がる。
 
  
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖まる。
それは、世の現はれに、
胸の力を通してありありとした力を与へる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 人の内なるこころの炎」
 
 



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2022年01月20日

ひとりの人 ルードルフ・シュタイナー



このクリスマスからお正月にかけて、わたしは、ルードルフ・シュタイナーの自伝や手紙を読むことに時を費やしてゐました。以前に読んだときよりも、はるかに親しく、熱く読むことができたことに、わたし自身とても満ち足りを感じることができたのでした。それは、彼の仕事の偉大さに近年ますます驚きと感動を覚えてゐて、このやうな仕事を成し遂げたひとりの人をもつと深く、親しく知りたいといふ念ひが強くなつてゐたからでした。彼の人としてのパーソナルな喜びだけでなく、痛みや悲しみ、苦しみがしたためられてゐる手紙、そしてそれらのことごとを精神において消化した上で述べられてゐる自伝の記述、どちらも、ひとりの人に宿つた精神の巨大さと、それゆゑの彼のこころの葛藤、みづからの孤独との語らひの様が、わたしに迫つて来るのでした。それらすべての内なる障害を潜り抜けつつの、あの膨大な仕事。どれほど時間をかけようとも、消化しえない課題を読み手に与へる、あの膨大、かつ深遠な仕事。


わたしは、その膨大な彼の仕事の中のたつた一冊『いかにして人が高い世を知るにいたるか』に、いま、じつくりと取り組んでゐます。個人的な案件が起こつたがゆゑに、この三年ほど、わたしはこの書に、まこと、師事してゐるのです。いや、師事せざるをえない、と言つた方がいいかもしれません。


この『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書に込められてゐる深い知は、ゆつくりと時をかけてこそ、人に明かされて行くやうに思ひます。さう、ゆつくりと、時をかけて、です。読むときも、文字を書くほどの速さ(遅さ)でゆつくりと読んでみます。さうしますと、一筋の道が読むわたしの前に伸びてゐて、その道は、めくるめく高みに向かつて通じてゐることをおぼろにも感じ、その道の遠さ、果てしなさ、と共に、その道のかけがへのない尊さと確かさに、こころが立ち上がるのを感じもするのです。


その道の上で少しでも前に進むほどに、それまで分からなかつたことがらに、新しい秘密を見いだすことができます。読むこちらが生きることの悲しみや苦しみを乗り越えて成長するほどに、ルードルフ・シュタイナーその人とこの書に対する敬ひと尊びの念ひがますます高まります。その念ひと情をもつて、この書の導きに沿ふほどに、読む人の内なる啓けが促がされ、志と勇気を起こされます。


この書は、そのやうに道を歩きゆくわたしたちを導く師であり、道を昇りゆくわたしたちを支へる梯子です。


この一冊の書は、わたしにとつて、ひとりの生きてゐる師なのです。




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2月からのオンラインクラス〜暮らしに取り込むこころのサイドトレーニング〜



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『〜暮らしに取り込むこころのサイドトレーニング〜
 2022年2月からのオンラインクラス
「いかにして人が高い世を知るにいたるか」へのお誘い』


このオンラインによるアントロポゾフィーの学びには、毎週木曜日のクラスと毎週日曜日のクラス、2クラスがあります。


どちらのクラスも、この2月から新しい章に入っていきます。木曜クラスは「実践的な観点(p.121〜)」、日曜クラスは「密やかな学びの条件(p.139〜)」です。


どちらも、サイドトレーニングという、時と場を選ばないこころの練習を扱っています。メディテーションやコンセントレーションが、ある程度、時と場を設えて集中してなされるのに対し、サイドトレーニングは、自分自身のこころに働きかけて行く同じ内なる作業なのですが、常日頃、気がついたときにしてみることのできる練習です。


よって、シュタイナーから生まれたアントロポゾフィーという学びの中でも、誰もが暮らしの中に取り込むことのできるものなのです。


この機会に、新しく、シュタイナーの学びを共に始めて行きませんか。


講師: 諏訪耕志



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



★『いかにして人が高い世を知るにいたるか』オンラインクラス


毎週木曜夜クラス 午後8時〜9時
毎週日曜夜クラス 午後8時〜9時


参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  


もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。


一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。


お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」


お申し込み・お問ひ合はせ   
アントロポゾフィーハウス 「ことばの家」


どうぞよろしくお願ひいたします。

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2022年01月16日

父の思ひが分かること



父が亡くなつてから、もうすぐ15年が経たうとしてゐるのですが、夜更けになつて、ふと、父が生前、話してくれた、彼自身の幼い頃の思ひ出話を想ひ起こしました。それは、彼の母親(わたしの祖母)が水商売をしてゐたため、大阪の難波の店から生駒近くの家まで帰つて来るのが毎日夜の遅い時間、自分が眠つてしまつた後だつたこと。そして、自分の寝床にまで聴こえて来る、家の近くを過ぎ行く電車の走る音がするたびに、お母さんがこの電車で帰つて来てくれたのではないかと寝床の中で待つてゐたこと。

父よ。いまは、もう、お母さんと一緒にゐるのだね。


・・・・・・・


父の感じてゐた悲しみや切なさに、当時のわたしはやはり距離を持つて感じざるをえなかつたのですが、それが、何十年と経つことで、その距離が埋められて、とても、とても、リアルに感じてしまふやうになつてしまひました。


・・・・・・・


小林秀雄の『栗の樹』といふ短いエッセイからの文章を想ひ起こしました。


「思ひ出となれば、みんな美しく見えるとよく言ふが、その意味をみんなが間違へてゐる。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思ひをさせないだけである。」


わたしたちは、さう、つまらないことは忘れるに任せ、本当に大切なことを想ひ起こすことができる。それがまことの歴史といふものではないでせうか。


本当に大切なことを上手に想ひ起こすといふことは、時間がかかることですし、難しいことであると思ひます。




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言語造形における祝福〜生きたことばのフォルムを味はふ〜






言語造形の場において、わたしたちは、ことばの音韻の響きの連なりに向き合ひます。その連なりを追ひます。

その時、こころに、精神のフォルムが描かれてゐるのをリアルに感覚することができます。その感覚は、目には見えませんが、密(ひめ)やかに、かつ、顕はに、物の世の空間を動くフォルムとしても同時に感覚されます。

その精神のフォルムを感覚することによつて、ことばを話す人、聴く人のこころに、深く生き生きとした情が育まれること、そして、その場が、精神から祝福されてゐることを、いつも感じるのです。

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜



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この冬の闇に

みづからの力の啓けがある。

こころからの強い求めがある。

暗闇にそれをもたらし、

そして予感する。

胸の熱を通して、感官が啓くことを。



Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.



毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。


毎週、ここに記されてある詩句を繰り返しこころの内で味はつてみる。


さうすると、ここに記されてあることばが、それを読んでゐる自分自身のこころの歩みと、重なつてくるのを感じることができる。


そのこころに重なつてきてゐる力は、さらに、心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあひ)の働きを活性化させるやうに感じる。


そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、体内に流れ出す熱い血をもつて確かめられる。


物質の心臓は、物質のからだの中心を司る器官で、血液の巡りによつて活き活きと脈打つてゐる。


エーテルの心臓は、人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、愛の巡りによつて活き活きと脈打ち、そこから光が発し、熱が生まれる。


内に抱く考へが、愛を基にしたものならば、その考へはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。


さうでないならば、その考へはその心臓を締め付ける。


活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもつて、物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促す。それをここでは、「胸の熱」としてゐる。その胸の熱が、さらに、こころの働きといふ働きを促しだす。


その活性化されだしたこころの働きを通して、ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。


そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、他者の情や他者の考へがリアリティーをもつて、心臓で感じられるやうになつてくる。


きつと、その道は、人の情や考へだけでなく、ものといふもの、例へば、植物や動物の情、地水風火の情や考へなどをも感じられることへと繋がつていくだらう。


頭の脳で理解するのではなく、心臓で感じ、心臓で考へることができるやうになつていくだらう。


外なる感官だけでなく、そのやうな内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。


「そして予感する
 胸の熱を通して、感官が啓くことを」


そして、その啓かれるものを受けとることを通して、わたしたちはどう振舞ふことができるだらうか。


「 みづからの力の啓け
 こころからの強い求め
 それを冬の暗闇にもたらす」


その振る舞ひは、きつと、その人その人の仕事として、世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。


お金を稼ぐことが仕事をすることだといふ意味ではなく、その人がこころをこめてすることこそが仕事であるとするならば、わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができる。



この冬の闇にみづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれをもたらし、
そして予感する。
胸の熱を通して、感官が啓くことを。



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2022年01月15日

アントロポゾフィーハウス【和歌山】言語造形とアントロポゾフィーのご案内



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ルードルフ・シュタイナーの学び「アントロポゾフィー」と共に、昔話や物語を語り、詩を朗唱する芸術「言語造形」に取り組んで行く、毎月第二月曜日の集いです。


言語造形の時間には、おひとりおひとり声に出してみたい作品をお持ちください。


アントロポゾフィーの時間では、基本的な理解のために、まず最初は講師の方からテキストを用意させてもらいます。そして、次に、こころの修練・メディテーションのためのテキスト『いかにして人が高い世を知るにいたるか(シュタイナー著・鈴木一博訳)』に取り組んで行きます。


シュタイナーに関心のおありになる方、ことばに関心のおありになる方、ぜひ、一度、足を運んでみて下さい。


芸術実践とメディテーションに取り組むことで、精神から生まれる芸術を生きる喜びを共に味わって参りましょう!


講師:諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


10:00 言語造形
12:00 昼食
13:00 アントロポゾフィー
14:00 終了予定


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


日時:
2022年2月14日より毎月第二月曜日
(8月は第四月曜日の22日、10月は第三月曜日の17日) 
午前10時から午後2時まで
(間に昼食の時間一時間を取りますので、お弁当などをお持ちください)


場所:
和歌山県岩出市
(お申込みいただいた方に詳細をお伝えいたします)


参加費:
5回連続ご参加 20000円
体験ご参加   5000円/一回
その他、講師の交通費(往復1540円)を参加者全員で頭割りしてご負担していただきます。


お問い合わせ・お申し込み:
アントロポゾフィーハウス(諏訪)
https://kotobanoie.net/access/



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2022年01月13日

及川徳子さんとの語らひ「言語造形について」






2022年1月6日、ライブ配信による、及川徳子さんとの語らひの様子です。

及川さんは、アナウンサーであり、心理セラピストでもあられます。

声、そしてこころに深く誠実に触れていくお仕事をされてゐます。

そして、ロックミュージックへの深い造詣からFMラジオにて二十数年間レギュラー番組をもってゐらつしゃつた方です。

その熱いこころと共に、深遠な世の真理を追い求めてをられる及川さん。

本当に彼女の的確な問ひかけと思ひやりに満ちたおこころ配りに、本当に50分といふ時間があつといふ間に過ぎていきました。

及川さん、本当に、ありがたうございました。


及川徳子さんのホームページ 

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年のはじめに念ひを定める



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下の文章は、昨年の今日、書いたものなのですが、改めて読み返してみて、昨年の一年は書いたとほりの年になつたのだな、と自分でも感心しました。年のはじめに念ひを定めるといふことは本当に大切なことなのですね。今年、2022年のはじまりにあたつても、しつかりと念ひをもつてやつていきたいと思ひます。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



『今年から始まる仕事 アントロポゾフィーハウス 2021年1月13日』


わたしは、自分自身の仕事であり、運動体であるものを、「ことばの家」と銘打つて、これまでアントロポゾフィーと言語造形といふ芸術活動に勤しんできました。


もちろん、これからも、わたしの仕事として「ことばの家」を勤しんで行きます。


しかし、今年、令和3年、2021年からは、自分ひとりだけで仕事をして行くのではなく、自分自身の仕事が他の方々の各々の仕事と結びつくやうな形を模索・実現して行きたいと希つてゐます。


仕事において、他の方と協力し合ひながら、自分一人ではできなかつた仕事をひとつひとつ、創り出して行きたいと希つてゐます。


その際に、わたしにとつて大切になるのは、アントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)です。


このアントロポゾフィーを共有して行くことが、他者との共同・協働における大切な点です。


アントロポゾフィーとは何か。何か特別なものなのか。さうとも言へます。しかし、さうとも言へません。そのことには、様々な観点から答へることができるでせう。


ルードルフ・シュタイナー自身は、あるところで、端的に、それは「人であることの意識」だと言つてゐます。


「人であることの意識」。これは、現代を生きるすべての人にとつて、人として生きる上での何かとても大切なものではないでせうか。


それは現代においては、「人が、その人であることの意識」「人が、ますます、その人になりゆく意識」「人が、自由と愛を生きる意識」と言つてもいいのではないでせうか。


「自由と愛」などといふことばは、すぐに宙に浮いてしまふ、大変やつかいなことばでもあるのですが、きつと、どの人も、こころの奥底で、そのことばの実現を乞ひ求めてゐるはずです。


生きた日本語でこのアントロポゾフィーを語ること、それが、わたしがわたし自身に課してゐる大きな、途方もなく大きな仕事です。


アントロポゾフィーとは、「道」です。その「人であることの意識」を学び、それを己れのからだとこころで確かめて行く実践です。人であること、自由であること、愛することができるといふこと、そのことへの「道」と言つてもいい。


その「道」とは、まぎれもなく、読書(講義の受講)と芸術実践です。


わたしは、アントロポゾフィーの基本文献を基にした講義をします。そこにおいて、共に考へること。考への世の内で、こころを暖めること、励ますこと、ひとりひとり目覚めゆくこと、へと共に歩いて行くのです。講義とは、共なる、メディテーションです。


わたしは、さらに、言語造形といふことばの芸術を通して、ことばの力の内側に参入して行きます。その営みを多くの人が必要としてゐることを確信してゐますので、必要とする人とその芸術を分かち合つて行きます。それは、極めて具体的な仕事です。ことばを話すといふ、まぎれもなく、その人まるごとを使ふ芸術的な仕事です。その仕事のためには、舞台づくりといふものが、何よりもうつてつけです。共に、舞台を創つて行くのです。


メディテーション、それは、考へる〈わたし〉の内に、世を見いだすことです・・・。


芸術実践、それは、世の内に、〈わたし〉を見いだすことです・・・。


あなたみづからを見いだしたければ、世を見よ。
世を見いだしたければ、あなたみづからを見よ。


アントロポゾフィーの講義、そして言語造形、それは、どちらも、日本語をもつて「人であることの意識」を耕し、育て、稔らせるやうな仕事です。この仕事には、十年、三十年、百年、何百年とかかるはずです。


これは、わたしができる仕事であり、わたしから始めて行くのですが、さらに、他の芸術に勤しんでゐる方々とのコラボレーション、共同でアントロポゾフィーに根付いた仕事をして行くことを、今年から、始めたいと考へてゐます。


メディテーションと芸術実践、わたしたちのテーマは、それです。


物理的・固定的な場を持たない、この精神からの仕事場を、「アントロポゾフィーハウス」と名付けます。


声を掛けさせていただきました時には、できましたら、お耳をお貸しいただきたく、なにとぞ、どうぞ、よろしくお願ひいたします。共に、日本語の内に、アントロポゾフィーの精神(靈・ひ)を灯していきませう。


諏訪耕志



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



※絵は、東山魁夷「白い馬の見える風景」


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posted by koji at 12:02 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月12日

1/27(木)【仙台】おひさまの丘 宮城シュタイナー学園 言語造形の集ひ「詩歌を詠ふ」



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シュタイナー教育の現場で、言語造形といふことばの芸術を通して、何かお役に立てないだらうか。


そんな思ひで、おひさまの丘 宮城シュタイナー学園に昨年の秋から伺はせていただいてゐます。


第二・七年期の子どもたとの和歌や詩の朗唱における言語造形。そして昔語り、神語り(神話)。


そして、授業が終はつた午後のひととき、学園の教師の方々、理事の方々、親御さんたち、外部の方々に集まつていただき、言語造形を楽しんでいただきます。


今回は、ご参加下さる皆さんおひとりおひとり、和歌や俳句、もしくは詩の中でご自身が声に出してみたいものをおひとつ、お持ち下さい。


2クラス、設けさせていただき(Aクラス:14時半〜16時  Bクラス:16時半〜18時)、1クラスにおいて人数を制限させていただくことで、おひとりづつのことばの体験を重ねていただく時間を増やしたいと思ひます。


言語造形によつて、声を出すその人がどんどん変はりゆく、その姿は、本当にどの人もどの人も美しく、「この人は、このやうな美しい方だつたのだなあ」「この作品は、このやうな深みあるものだつたのだなあ」「人とは、そもそも、ことばであつたのだ(はじめにことばありき)」といふことを想ひ起こすのです。


なぜ、言語造形は、そのやうな働きをするのでせう。


それは、アントロポゾフィーといふ精神の学から汲まれてゐる藝術であり、アントロポゾフィーは人と世の本質を汲み取らうとするからです。


東北地方の方々、仙台の方々、共に、ことばを大切にする文化、ことばに仕へゆく精神の文化を創り上げて参りませんか。どうぞ、よろしくお願ひ申し上げます。


アントロポゾフィーハウス 諏訪耕志拝



ーーーーー


日時:
1月27日(木)
Aクラス:14時半〜16時  
Bクラス:16時半〜18時
(どちらのクラスも、お申込み先着10名様までで締め切らせていただきます)


場所: おひさまの丘宮城シュタイナー学園
  第一校舎(仙台市青葉区中山2-22-18)


参加費: 3,500円/1回 (4回連続参加の方は4回で12,000円です)


持ち物など: 動きやすい服装でお越しください。ご自身で声に出して読みたい作品をひとつご用意ください。


なお、コロナウイルス対策としてのマスク着用は、ご参加される方の全くの自由意志にお任せします。着けたい方は着け、着けたくない方はどうぞそのままでご参加下さい。


お問ひ合はせ、お申し込み
電話:022-725-5086
Eメール: info@ohisamanooka-steiner.or.jp
お名前、ご住所、お電話番号をお知らせください。




posted by koji at 17:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月11日

冬、考へを育む季節



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ひとつの考へは、人のこころにしつかりと宿れば、その人にとつてやがて成長して行くひとつの種になりえます。


種は、情報として本に書かれたままであつたり、インターネットの空間で行き交つてゐるだけでは、死んだものとして人々の間を忙しく交換・消費・廃棄されるだけです。


しかし、その考へといふ種をこころの内側にみづから宿すやうに受け入れ、お日様の光を当て、水分を補給してあげるやうに、何度も何度も繰り返し、その考へを、改めて、引き続き、考へ続けることによつて、その種は命を持ち始め、こころの内において芽を出し、葉を茂らせ、やがて、きつと、花咲かせ、稔りを得ます。


考へとは、一旦、死んでしまつてゐて、仮死状態にあるのですが、人が積極的にそれを自分自身の内側で育てますと、見事に息を吹き返し、その人に稔りを与へるのです。


そして考へは生き物として、その人の人生を前後左右に導いていきます。


ですので、どのやうな考へを胸の内に抱くのかが、とても大切なことなのです。それは、良き考へであれ、悪しき考へであれ、胸の内で生き物となつて、その人の生を導いて行くのですから。


それほどに、「考へ」といふものは、素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもあります。


その考へが、良きものか、悪しきものか、その判断はどうしてつけることができるのでせうか。


良き考へは、それを抱いたときに、こころが、胸の内が、広々と、明るく、暖かく、時に柔らかく、時に強く、開かれたやうな情をその人に与へませんか。


悪しき考へは、こころに固さと冷たさと狭さと暗さをもたらすでせう?


さう、情が、教へてくれますね。


情が教へてくれるためには、その情が健やかに育てられてゐなければならないでせう。


情を育てるのは、何でせう。


ひとつは、循環したものの言ひ方になつてしまひますが、よき考へを日々抱く練習をすること。それは、考へることの練習です。メディテーション、瞑想です。


まうひとつは、何か同じ行為をすることを繰り返すこと。それは、芸術的行為です。それは、意欲の練習、欲することの鍛錬です。


考へるの練習と、欲するの鍛錬とが、感じるの健やかな成長へと稔つてゆきます。メディテーションと芸術実践です。


かうして、人のこころの育みとは、考へること、感じること、欲すること、それら三つの働きにみづから働きかけることであり、とりわけ、冬の季節においては、考へることの練習を始めるのに、適してゐるのです。


年の初めには、良き考へを抱き、その考へを考へつづけることによつて、種から芽へ、目から葉へ、葉から花へ、とこころに大切なものを時間をかけて稔らせて行く。


その習慣がこころを精神へと導きます。


その精神が、その人を、ますます、その人にして行くでせう。


その精神の育ちが、手取り足取り人から教へられなくても、自分自身の足で自分自身の道を、その都度その都度あやまたず選び取れるやうになることでせう。


アントロポゾフィーハウス大阪「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



※写真は、平櫛田中「平安老母」
 何を読んでをられるのか・・・。




posted by koji at 08:28 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月10日

こころのこよみ(第41週)〜胸からほとばしる力〜



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こころから生み出す力、
 
それは胸の基からほとばしりでる。
 
人の生きる中で、神々の力を、
 
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
 
おのれみづからを形づくるべく、
 
人の愛において、人の仕事において。
 
 
 
 
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、大いに考へることはできても、それを行為にまで移していくことには、難しさを感じるのではないだらうか。
 
 
考へることや思ひ描くこと。そして、実際に、すること。
 
 
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
 
 
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)と題された講演でシュタイナーが語つてゐることを要約して、今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみる。
 
 
 
―――――――
  
 
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、心臓からエーテル化した血が光となつてほとばしりでて、頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
 
 
そして、人は、夜眠つてゐるあひだ、考へる力が眠り込み、逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。そのとき、大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体を通り、心臓に向かつて、「いかに生きるべきか」「いかに人として振舞ふべきか」といつた道徳的な力が、その人に朝起きたときに新しく生きる力を与へるべく、色彩豊かに流れ込んでくる。
 
 
それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
 
 
だから、人は夜眠らなければならない。
 
 
人が少しでも振る舞ひにおいて成長していくためには、眠りの時間に神々から助けをもらふ必要がある。
 
 
昼間、人において、「こころから生み出す力」、考へる力が、「胸の基」から、エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
 
 
その下から上へのエーテルの流れは、頭の松果体のところで、夜、上から下への神々の力と出会ひ、そこで光が色彩をもつて渦巻く。
 
 
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
 
 
それが、人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
 
 
そして、マクロコスモス、大いなる世からの視野には、キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、そのキリストの血がエーテル化し、地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
 
 
そのとき以来、ひとりひとりの人が、キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、みづからの内なるエーテル化した血の流れが、キリストのエーテル化した血とひとつになつて、昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
 
 
そのキリスト化したエーテルの血と、マクロコスモスから夜毎やつてくる神々の力とが出会ふことで、人は、さらに昼間、愛において、仕事において、その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
 
 
考へ、思ひ描くこと。(胸から上つていくエーテル化した血の流れ)
 
 
そして、実際に、すること。(高い世から心臓に降りてくる力)
 
 
その間を、人みづからが埋めていく。
 
 
そのふたつを、人みづからが重ねていく。 
 
 
それが時代のテーマだ。
 
 
―――――――
 
 
 
 
 
シュタイナーによつて語られたこれらの精神科学からのことばを、何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。鵜呑みにするのではなく、折に触れて、何度も考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、自分自身が生まれ育つた文化風土において、どういふ意味を持つのか、考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴダのことの意味は、自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、といふことではないだらうか。
 
 
むかしの日本に、さういふ文化が根付いてゐたこと。大いなる理想を考へ、そしてその通りに実行してゐた人が数多ゐたこと。
 
 
わたしたちの先祖の方々が当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、わたしたち現代人が想ひ起こすとき、そのやうな道があつたことを、ありありと念ふとき、本当に自分のこころが、輝き、力づけられるかどうか、感じつつ、確かめていく。
 
 
そして、そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、神々の力が、交はつてゐること。
 
 
その交はりがあることによつて、自分の仕事が、充実して、まるで自分以上の力、神々の力が燃え上がるやうな瞬間を迎へることができること。
 
 
そのことを感じつつ、確かめていく。
 
 
 
こころから生み出す力、
それは胸の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。 
 



posted by koji at 09:10 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月09日

からだといふ自然



冬本番になつたとはいへ、自然の美しさに触れることもなく、大阪の家に籠もるやうに生きてゐました。自然といへば、窓から見上げる青い空と流れる雲ぐらゐでせうか。

しかし、このクリスマスからお正月を超えて、ひとり、部屋にゐるわたしは、どこか透き通るやうな考へに恵まれるやうな日々を過ごしてゐるやうに思へたのです。本当にありがたいことです。

どこにゐようとも、いつであらうとも、自然はわたしを包み込み、貫いてくれてゐる。そして、最も豊かで密やかな自然が一番近くにある。それが、自分のからだです。このからだを、こころをこめて用ゐれば用ゐるほど、その働きは豊かなものをこころにもたらしてくれる。

こころをこめて目を用ゐれば、神からいただいた目といふ自然がこころに密やかに「徳」といふ精神の質をもたらしてくれはしないか。

こころをこめて耳を用ゐれば、神からいただいた耳といふ自然がこころに密やかに「聖」といふ精神の質をもたらしてはくれないか。

「徳」は目の働きに順(したが)ひ、「聖」は耳の働きに順ふ。

漢字といふ文字が人に教へようとしてくれてゐることにも、耳を澄ますことができます。

目といふ自然も、耳といふ自然も、唯物的感覚に裏打ちされた情報を仕入れるためだけに使はれるのではなく、そのやうにこころをこめて用ゐられることで、人のこころに、深く、豊かで、澄んだ情を育むことができるやうです。

からだといふ自然は、偉いものです。

そのやうに精神からの作法で、自然と共にあり、自然とつきあひ、自然を用ゐることで、高い感官(こころと精神の感官)を養ふことができるのだなあ・・・。

そんな思ひでゐます。



posted by koji at 21:47 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月06日

2022年のクリスマスに向けて【青森・三沢】イエス生誕劇クラス 



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2022年12月24日(土)の青森県三沢市での舞台を目指して、イエス・キリストの生誕を祝う劇(上演時間2時間強)を創ってゆくクラスのお知らせです。

一年の終わりに、幼な子や小学生の子どもたちへのこころからのプレゼントとして、「聖き生誕劇」を共に創り上げていきませんか。

ルドルフ・シュタイナーの導きに沿って、イエス・キリストについての学び(『ヨハネ福音書講義』)と共に、言語造形を通して、劇作りに勤しんで行きます。

ことばの芸術である演劇は、芸術の中でも、とりわけ、〈わたし〉の力を育みます。その役をより美しくなりたたせるためには、ことばを〈わたし〉から発することができるかどうかに懸かっているのです。

そして、イエス・キリストとは、すべての人の内にある〈わたし〉に火を灯す、精神(靈・ひ)そのものです。

おおよそ10か月にわたる演劇への取り組み、このイエスの生誕劇作りを通して、わたしたちは、おのおの〈わたし〉の育みに取り組むことになります。

さあ、ともに、聖なる劇を、厳かに、かつ、喜びをもって、創り上げて行きましょう!

計14回のお稽古と学びを経て、本番に挑みます。

そして、わたしたちは、ここ青森を、アントロポゾフィーからの舞台芸術創造の新しい発信地としていくことを、志しています。



講師:諏訪耕志(アントロポゾフィーハウス)



一日の流れ:
9時半 アントロポゾフィーからのキリストの学び(シェアリングと『ヨハネ福音書講義』から)
11時 基本的な言語造形のお稽古
12時 昼食(お弁当をお持ちください)
13時 劇作り
15時 終わり

日時:毎月第四土曜日 9時半〜15時
(11月、12月のみ、イレギュラーです)

本番:12月24日(土)於・三沢市国際交流教育センター・ホール(予定)

クラス参加費:
全14回一括支払い 60,000円
分割支払い(7回分×2) 35,000円×2
中・高生は親御さんと合わせておひとり分です。

本番の舞台公演は、お客様からお代をいただき、その収益は、経費を差し引いた後、スタッフ・俳優ひとりひとりに還元します。

告知のための経費や本番会場費は、当日の収益から経費として賄います。

本番の衣装は、マリアやヨゼフ、そして星の歌い手の各役は用意しますが、羊飼いや宿屋の役のための衣装は俳優各自の手持ちの服を用います。

お問い合わせ・お申込み:
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/





posted by koji at 18:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月05日

新春初笑ひ 言語造形発表会 アントロポゾフィーハウス和歌山







2022年1月5日、和歌山県岩出市にて行ひました言語造形発表会の模様です。


新春の初笑ひとしまして、西京子さんによるイタリアの昔話「ギアッコ少年と豆」から一部を。


「初笑ひ」。それは、我が国では大変、淵源の古いものです。そもそもは、天照大御神が天の岩屋戸からお目見えになられた時、八百万の神々は皆、面(おも)が白く、明るく輝いた、とあります。それこそ、「初笑ひ」です。すべての穢れを払ひ、こころが精神(靈・ひ)に満たされて初めて、神も人も世も皆、顔を明るく輝かせることができるのです。


年の初めのわたしたちの発表会も、イタリアの物語でありながら、そのやうな笑ひから始めることができました。


そして、平尾由美子さんによる聖なる日本の昔話「笠地蔵」を。


それは、厳粛で、かつ、こころの隅々まで暖まるやうな歳神さまの訪れを描いた物語であり、それは、やはり、わたしたちのこころの頂点をなすひとときを描いてゐます。


アントロポゾフィーハウス和歌山では、毎月一回、第二月曜日の午前10時から、和歌山県岩出市にて言語造形クラスを続けてゐます。


ご関心のおありになる方、どうぞ、お気軽にお問ひ合はせ下さい。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

2022年01月03日

永遠(とこしへ)の文学



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天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、

高天原(たかまのはら)に成りませる神の名(みな)は、

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、

次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。

この三柱(みばしら)の神はみな、
獨神(ひとりがみ)成りまして、
身(みみ)を隠したまひき。

次に國稚(くにわか)く、
浮き脂(あぶら)の如くして、
海月(くらげ)なす漂よへる時、
葦牙(あしかび)のごと
萌えあがる物によりて成りませる神の名(みな)は、
宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)、

次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。

この二柱(ふたばしら)の神もまた、
獨神(ひとりがみ)成りまして、
身(みみ)を隠したまひき。

上(かみ)の件(くだり)、
五柱(いつばしら)の神は、
別(こと)天(あま)つ神。


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本居宣長による訓み下しで『古事記(ふることぶみ)』の冒頭です。

古き人(神)が唱へたままの「古語(ふること)」を、その息遣ひのままに、唱へ唱へて、とこしへに、この神語りを語り継いでゆく。

その声から声への継承をもつて、この国を、地上の国でありつつ、とこしへに精神の国たらしめん。

それが、第四十代・天武天皇の悲願でありました。

古事記冒頭の「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時」から、この「別(こと)天(あま)つ神」まで、まさに、人のことばではなく、神のことばだと感じる感覚。

『古事記(ふることぶみ)』のこれらのことばは、世(宇宙)のはじまりを描きつつ、いま、ここにある、〈わたし〉のありやうを描いてゐるやうに感じられてなりません。

〈わたし〉においては、つねに、いまが、「天地の初発」です。そして、次々に神々が生まれてをられます。

その精神の生命力。賦活力。創造力。

日本の文学の大元であり、とこしへを希ふ、この神語りを、令和のわたしたちが声に響かせる。

この国をこの国たらしめつづけるべく、この神語りを、これからの日本の子どもたちにも、伝へてゆきたいと念ふのです。




posted by koji at 22:22 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月01日

最高の聴き手たち 「子守泥棒」






皆さま、ひととせの初めをめでたくお迎へになられてをられることと思ひます。明けまして、おめでたうございます。わたしとご縁をいただいた方すべて、そして世の人すべてに、おめでたうございます、ありがたうございます、と言ひたい、この「めでたさ」と「ありがたさ」をもつて、このひととせを生きて行きたいと思ひます。


昨年12月の冬のはじめの一日、5歳から6歳にわたる幼な子たちと昔話のひとときを持ちました。


最高のお話の聴き手、それは幼な子たちです。幼な子たちの前でお話を語らせてもらふ時、わたしはお話をどう語つたらいいのかを最も学ばせてもらへるやうな気がします。それは、彼らが頭で、耳で、お話を聞いてゐるのではなく、からだまるごと、こころまるごと、精神まるごとで聴いてくれるからなのです。そんな聴き手の前で、話し手であるわたしは、最も学ぶことができるのです。


「子守泥棒」といふお話です。(このお話は遠藤登志子さんといふ福島の語り部であつた方のお話集にあるものです。師の鈴木一博さんから教へてもらつたのです)


このお話は、0歳児でも夢中になつて聴いてくれます。


なぜなら、このお話の中で、身振り手振りを通して発されることばの響きに、見事なまでに芸術的な言語造形があるからです。


幼い子どもたちこそ、そのやうな、まことの「ことば」を求めてゐます。


さうした、意欲と情と考へに満ちたことばのかたち・すがた・動きこそが、幼な子たちのからだとこころを育んでいくのですから。


だからこそ、ルードルフ・シュタイナーは、教員養成のため連続講座において、毎日、ことばの練習「言語造形」を学び手たちに課しました。


それは、教師自身が、ことばの感官(言語感覚)を育むことによつて、そのやうな知・情・意に満ちたことばを話し、語る人になりゆくためにです。


わたし自身、まだまだ、これからも、練習をし続け、語り手として、聴き手として、成長し続けて行きたい、さう念ひます。


そして、かうして、子どもたちの前で、ひと様の前で、聴き手の前で、語らせてもらふことこそが、語り手にとつてなくてはならないことですので、どうぞ、皆さん、お声をお掛けください。どこにでも飛んで行きます。


皆さん、今年も、なにとぞ、どうぞ、よろしくお願ひ申し上げます。




2021年12月31日

「責任」といふことばのかけがへのなさ



とても個人的なことですが、思へば、2019年からこの2021年の終はりにいたるまで、いくつもの「なぜ・・・!?」といふことにわたしは襲ひかかられて来ました。襲ひかかられてゐる最中は、「なぜ、俺が、こんな目に会はねばならないのか」と歯ぎしりするやうな苦しみと怒りに懊悩しました。

でも、いま、それらすべての不合理が、わたしにとつて、なくてはならないものであつたことを知るのです。すべては、わたしのこころの奥底にあるものが引き起こして来たことであり、すべてがわたしの責任に負ふてゐるのです。

この世を生きるといふことは、この不合理を抱きしめることだといふことを、わたしはいま実地に学ばせてもらつてゐる、そんな思ひでゐます。


このやうな生き方は、多くの、無数の、勇気ある人がして来たことだと思ひます。すべてが自分自身の責任なのだといふ考へ方、生き方です。


わたしには、まだまだ、そのやうな胆力はついてゐないのですが、それでも、生きるといふことの深みに、少しづつ、少しづつ、触れさせてもらへてゐる、そんな感触があり、わたしは、この感触を愛さうとしてゐます。

posted by koji at 11:12 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天の使ひ



朝、家を出て、駅まで歩いて行かうとすると、道でひとりの女の子が向かうから歩いて来ました。この近くの私立の小中高一貫学校の制服を着てゐます。とても背が小さいので、おそらく小学一年生だと思ひました。本当に珍しいことに、その子はマスクをせずに歩いてゐます。わたしもマスクをせずに歩いてゐます。歩いてゐて、互ひの距離が狭まつて来るにつれて、その子はわたしの顔をまぢまぢと観ます。わたしもその子の顔を観ました。とても白い肌をした美しい大きな瞳をした子でした。わたしは思はず微笑み、その子もうなづきながら微笑んでゐます。すれ違ふときに、わたしはゆつくりと「おはようございます」と声にしました。すると、その子は立ち止まつて「おはようございます」ととても丁寧に声にしてくれました。さうして、すれ違つて、互ひに、それぞれの方向へ歩いて行きました。


わたしは、天の使ひが女の子の姿をとつて、わたしの前に現れて下さつたと思はずにゐられませんでした。昨晩、眠る前から、天の使ひの方の助力を願つてゐたのです☺️。

posted by koji at 11:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

〜お日様に照らされて〜「笠地蔵」






この動画を何度も撮り直してゐるうちに、夕方になり、空も雲に覆はれ、自然光のみのアトリエの中は薄暗くなつてゐました。動画を撮るのには、もう限界の明るさだな、これが最後だと思ひながら語つてゐました。お爺さんが地蔵様に笠をおかぶせして、お婆さんの待つ家に帰つて来たところにさしかかつた時、にはかに雲間からお日様がお出ましになりました。あとで動画を観直してみますと、白い服がいつさう白く輝き始めました。


偶然なのですが、このやうな偶然がわたしにもよく起こります。それを偶然と言ふのかどうかは分からないのですが・・・。


いまはわたしたちは新暦で生きてゐますが、それでも、この大晦日の日を、このお話と共に静かに送つていただくことができればと思ひ、昔話「笠地蔵」をお送りします。

2021年12月30日

聖なる日々 胸から羽ばたく鳩



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今日、今年最後のオンラインクラスを終へました。本当に、ご参加くださつた皆さん、こころからお礼を申し上げます。ありがたうございました。


そこで扱つてゐる内容を、常に、ことばをもつて表してきたのですが、あまりにも素晴らしく視覚化されたものを見つけたものですから、ここに貼らせてもらひます。


常にルーツィファー化されがちな頭と、アーリマン化されがちな手足を含む下半身の間に挟まれた、真ん中、胸・心臓こそが、キリストが息づくところであります。そこでは、暖かで光に満ちた深い情が育まれ、さうしていくほどに、頭からと下半身からのふたつの侵略から守られ、<わたし>といふ真ん中が、透明に光り輝く鳩として健やかに世に羽ばたかうとします。とりわけ、このクリスマスの時期に!





posted by koji at 22:56 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夜更けの慰め



夜更けになると、からだもこころも疲れてゐるので、もう根を詰めた読書はできないが、美しい日本語を読むことは、本当にこころを慰め、暖め、潤してくれる。萬葉集、保田與重郎の『日本の文学史』、石村利勝氏の詩集『ソナタ/ソナチネ』の冬の詩をひとつ、またひとつと、味はふ。日本のことばといふものがもたらす美しさと悲しさ。それは、物の世を離れ、こころと精神の世への憧れと感覚の啓けを促すことばの力である。この国の強みのひとつは、ことばを美しく、確かに用ゐることのできる人がゐることだと思ふ。

posted by koji at 09:00 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月28日

することを愛すること






人が自己教育に勤しむとき、目標を持つて勤しむことから、きつと、始めることと思ひます。


しかし、人は、勤しみの道を歩き続けて行くうちに、目標を持たなくても勤しむことのできるありやうへとみづからを育て上げて行くことができるのですね。


何かお目当てを射当てることにではなくとも、人は、みづからが振る舞ふこと自体、勤しむこと自体に、愛を持つことができ、満ち足りることができる、そんな自由な存在です。

2021年12月25日

元保育士の方のことば



下にご紹介する文章は、この秋、二回の枠珍接種を受けられた保育士をされてゐた女性の方のことばです。わたしの言語造形のクラスにずつとご参加されてゐた方で、接種を受けられる前は、ほとんど病気などもなされず、ごく健康な日常を送つてをられました。


ーーーーーー
「元保育士の方のことば」


もともと打つ気など全然無かったが、職場の同調圧力に負けて業務命令としてうってしまいました。園で体調を崩して、早退・休職してから、傷病手当の受給を条件に自己退職に追い込まれました。

私の住む市は保育士は職域接種の対象ではないです。しかし勤務先の園のある市は、保育士も職域接種の対象になり、予約の取れない他市から通う保育士には、キャンセルがでたら接種に行くようにと市から再三連絡がありました。

園長は枠珍推進派で、自分の娘に頸がん枠珍の接種もさせていた人で、「正職は『子ども達のために』接種して」と再三同調圧力をかけられました。

保育士は『子どものために』と言われたら命もかけられます!

1回目の接種の時は子ども達が一緒にいる前で『キャンセルが出たから子ども達のために接種に行って』と言われて拒否出来ず、私はそれを『業務命令』と受け止めて行きました。

左親指が腫れて腕に痺れが出たのですが高熱が出なかったので、大したことないと思ってしまい、2回目も市役所から連絡を貰い接種に行きました。

接種2回目後から体調不良となり、紹介された病院から処方された薬が合わず、体調が悪化していくうちに、理容院のヘアスプレーの匂いで呼吸困難などの症状が出ました。

現在は歩行障害があり杖歩行となっています。平衡機能検査では100点中1点という結果で、浮遊性のめまいで常に船酔いの状態です。脳の平衡機能を司る部位をやられたそうで、1点というのは、私が平衡感覚が命と言えるオイリュトミーの稽古を積み、身体が記憶していて無意識のうちにバランスをとっていたので取れた1点だと先生が仰っていました。

そこでセカンドオピニオンで化学物質過敏症の専門クリニックを受診して、重度の化学物質過敏症と、それに伴う神経機能障害と診断されました。事実、感覚過敏も酷く特に五感に常に攻撃されている感覚に襲われております。化学物質過敏症は、誰でも発症する可能性があります。

私の無念をどうか世の人に伝えて、世界が正しい判断をすることを祈ります。


ーーーーーー


そして、接種後、この方は言語造形をお休みされてゐたのですが、わたしにメッセージを下さいました。(ご本人の許可を得て載せさせていただいてゐます)


ーーーーーーー


こんばんは。

先日、化学物質過敏症とそれに伴う神経機能障害で確定診断がおりました。(念のため受診した精神科でも精神疾患ではなく、例のモノにより脳が誤認し誤作動がおきていると診断されました)

神経機能障害により、歩行障害がでて杖歩行となっていましたが、坂を転げ落ちるように日々悪化の一途をたどり、杖なしでは立っていることも難しくなってきました。(座位はとれています)

更に歯が1本知覚過敏をおこしたら、あっというまに全ての歯に痛みが拡がり、今は離乳食の中期レベルのものしか食べられない状態です。

今の苦しみは喩えるなら、生きながら煉獄に投げ込まれたような感覚です。

しかし私には信仰という盾と、言語造形という芸術という槍がまだ残されている事を信じて生きていく所存でございます。

もう、以前のような声量もなく、記憶、思考もとびだしていて、なかなか稽古も進みません。

日々色々なことが出来なくなって箸も上手く使えなくなり、まるで赤ちゃんに戻っていくような感覚です。

化学物質過敏症の先輩患者さんに聞いた話では、寝たきりになる方もいるそうです。

私も、もしかすると先々そうなっていくかもしれませんが、もし寝たきりになり何も出来なくなったとしても、呼吸し声が出せて話しが出来るかぎり、天に向かって物語を語り続けていきたいと思います。

今の私にとって、それが生きる証です。

26日の稽古、どこまで出来るかわかりません。もう、座ってしか語ることが出来なくなりました。それでも参加させていただけますでしょうか?

もう保育士に戻ることは出来ませんが、もし少しでも回復したならば、いつか子どもたちの前で物語を語りたい。その夢だけが、今の私の支えになっております。

日本語には『万が一』という言葉が示すように、その万が一が起きてしまったのです。

私は、保育者、教育者、そして人智学徒として、これを世に示していくことが、私の使命と感じております。


ーーーーーーー


この方は、40代です。接種前は、本当に元気であられました。

そして、いま、ここに書かれてゐるありやうへと「坂を転げ落ちるやうに」なられたのです。

わたしが、この方だつたら、果たして、かうして、ことばにする気力を持つことができるだらうか、さう思ひます。

本当に、物凄い営みです。ことばにするといふことは。こころのまるごとが懸かつてゐます。いのちが懸かつてゐます。

調べると、すぐに出て来ますが、このやうな苦しみを味はつてをられる方がたくさんゐらつしゃり、彼らの多くも、なんとか、からだを引きずるやうにして、ことばを綴り、ツイッター上に思ひを吐露されてゐます。

つい先日、ほかの言語造形の生徒さんの親しいご友人のご子息、19歳の青年が接種後、心筋梗塞で急に亡くなられました。その因果関係も伏せられてゐます。

「デマ」などではないと感じてゐます。

そして、この苦しみの中から皆さん同じく漏らされてゐることばには、病院もマスコミも政府もこの苦しみに至る因果関係をほとんど認めようとせず、それどころか、隠蔽しようとしてゐることへの困惑であり、そしてそれ以上の何かです。

なぜ、多くの被害実態を隠蔽しつつ、接種をこれほどまでに勧めるのか。

そのことについて、「何かある」と考へられない人はゐないはずです。

ともかくも、どうか、苦しんでゐる方の痛みや苦しみが少しでも治まりゆき、静かな夜を過ごす時が増えますやうに。




posted by koji at 13:49 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月24日

クリスマスを前に おひさまの丘宮城シュタイナー学園にて



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おひさまの丘 宮城シュタイナー学園にて、一昨日、昨日と二日間にわたり、皆さんと息を合はせ、声の響きを奏で、ことばの調べと姿とに沿ひながら、ことばの芸術の時、祝祭の時を持つことができました。『古事記(ふることぶみ)』冒頭部分「天地の初発」の言語造形を通して腹の底から声を出していただいたのです。ひととせの終はりに、日本の古典、神の物語、世のはじまりを生きる時を与へられ、そのやうな、いまを生きてゐることをみんなで寿ぎ合へたことは、わたしたちに降り注いで来た恩寵以外の何物でもありませんでした。ことばの動き、ことばの生命、ことばの精神を生きる。日本の古典的文学作品はその喜びを教へてくれます。ただ、わたしたちが現代人特有の知性主義から抜け出る必要があるやうです。ことばの前に謙りくだり、その動きに沿ふこと。身をもつて、汗を流しながら、ことばに仕へること。わたしたちは、そんな時を紡ぎあげました。


そのやうな芸術実践と、こころを開いてのアントロポゾフィーの学びから始まるメディテーション。


それが、アントロポゾフィーハウスのなしてゆきたいことなのです。


その祝祭の二日間の後、いま、わたしは、わたしにとつての「聖なる家」シュタイナー学園の六年生が学んでゐる校舎で、クリスマスの時を過ごしてゐます。小高い山の麓にある家です。とてもとても静かなクリスマスです。


二日間にわたりお世話になりましたおひさまの丘 宮城シュタイナー学園の皆さん、足をお運びいただいた皆さん、そして、このやうな時を与へてくれた、なにか大きな大きなものに、こころより感謝いたします。ほんたうにありがたうございました。皆さんにとられましても、いと深きクリスマスの時が降り注いで来ますやうに・・・。


写真を撮つて下さつた和明さん、秋山さん、鈴木さん、どうもありがたうございました。


さて、今日の晩は、どんなことを想ひ描いて、寝床に入りますか。聖なる十三夜が始まります。


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posted by koji at 10:01 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月19日

12/18 ありがたうございました😇アントロポゾフィーハウス【青森三沢】



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クリスマスの聖き夜まで一週間。一面、真っ白な雪にすでに厚く覆はれた今日、青森の三沢にてオイリュトミーと言語造形、その後、シュタイナーの講演録からクリスマスについてのお話しをさせていただきました。それは、ささやかだけれども、聖き夜を寿ぐ祝祭の集ひでありました。


わたしたちは、この冬の日々、地の奥深くに鎮まられようとしてゐる地球の精神「キリスト」と静かさの中で繋がることの意味を分かち合ひました。


幼な子のやうな無垢なこころ・・・。


その天地(あめつち)の初発(はじめ)の人のこころを想ひながら、オイリュトミーと言語造形といふ芸術において、少しづつですが、一歩でも前へ、深みへとわたしたちは歩いてゐます。


アントロポゾフィーとオイリュトミー、言語造形といふ芸術にご関心のおありになる方、ぜひ、お気軽にお越しください。大歓迎いたします。


講師: 
諏訪耕志(言語造形&アントロポゾフィー講義)https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


越中奉(オイリュトミー)


2022年のアントロポゾフィーハウス【青森三沢】は、以下の通りです。


2022年
2月1日(火)9時半〜13時
2月22日(火)9時半〜13時
3月22日(火)9時半〜13時

ご参加費:3回連続ご参加 9000円
     単発ご参加 4000円

場所: 青森県三沢市下久保1-4-6
    自由学舎「中川塾」

お問ひ合はせ・お申し込み:
佐々木 千晶さん aibaru0809@gmail.com



posted by koji at 00:49 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月13日

アントロポゾフィーハウス第一回公演「山月記」へのお誘ひ







2022年1月に仙台、2月に青森三沢にて行ひます、アントロポゾフィーハウス第一回公演、言語造形とオイリュトミー、そしてピアノ演奏による『山月記(中島敦作)』のご案内です。


ーーーーー


1月30日(日)
おひさまの丘 宮城シュタイナー学園第一校舎にて
仙台市青葉区中山2-22-18


2月26日(土)
「自由学舎 中川塾」にて
青森県三沢市下久保1丁目4−6


いずれも、開場13時半 開演14時 終演15時半予定


また、どちらの会場も(特に青森三沢)お席の数が限られてゐます。お早目のご予約・お振込みをお願ひいたします。


参加費 ご予約 大人3000円  12歳〜20歳 1000円
    当日  大人3500円  12歳〜20歳 1500円


お問ひ合はせ・お申込み 
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/

※お振込みを確認させていただきました時点で、お申込み完了とさせていただきます。


参加費 ご予約 大人3000円  12歳〜20歳 1000円
    当日  大人3500円  12歳〜20歳 1500円


お問ひ合はせ・お申込み 
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


ーーーーー


オイリュトミー  越中奉(えっちゅうたすく)
言語造形     諏訪耕志(すわこうじ)
音楽・ピアノ   山本恵美(やまもとえみ)


演目   歌舞伎十八番から「外郎売」
     中島敦作「山月記」



●『山月記』について 

「この気持は誰にも分からない。誰にも分からない。」

夢や大志を抱く青年が、ひとりの男となる。
その長いプロセスには、
己れのなかに潜む魔と対峙せずにはおれません。
狂気とは、理性を忘れた人が陥るのではありません。
理性しか信じられなくなってしまった人に襲いかかってくるものです。
男は、一歩間違えば、きっと、化け物になります。
これは、詩人になれず、虎になってしまった男の物語りです。


●アントロポゾフィーハウスについて
わたしたちは、社会の混迷が極まつてしまつた2021年より、いまこそ、ルードルフ・シュタイナーの100年前の精神科学「アントロポゾフィー」がここ日本といふ国に必要だと痛感し、「アントロポゾフィーハウス」として、新しく仕事を始めました。
その最初の舞台が、このたびのオイリュトミーと言語造形とピアノによる舞台公演『山月記』です。
わたしたちの心意気と精神をもつて、舞台芸術を活き活きと甦らせて行きたい。さう希つてゐます。
皆さまのお越しをお待ちしてをります。



※この動画を作成して下さつたのは、株式会社秋田精巧堂の社長 二方 淳介さんです。彼の創るコマーシャル動画、ぜひご覧ください。
you tube channnel「フタカタジュンスケ」https://www.youtube.com/user/jfk11078722/videos


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年の終はりと始まりの静寂・・・昔話「笠地蔵」






「笠地蔵」は日本の昔話の中でも、本当のまごころと神秘を伝へる屈指の国語芸術だと思はざるをえません。


町に出て笠が売れないといふこと、その生きることの苦しみを、お話を聴いてゐる子どもたちにどれほど予感させるか。


そして、売れなかつた笠をお地蔵様にかぶせて家に帰ってきた爺様を、「それはよいことをしなさつたなあ」と言つて迎へる婆様。


きつと、日本人が何百年にも何千年にも渡つて、「人はこんなにも美しいこころを持つてゐる」と静かに感じ続けてきたお話です。


一年の終はりに捧げられる神仏への思ひ。 


一年の初めに甦る太陽の神からの恵み。 


そんなお話が終はつた時の静寂の深さ。


年の終はりと始まりに、いまもなくてはならない、幼な子たちとのかけがへのない時間です。


静かな夜更けに、こころを鎮めて聴いていただければ・・・。



「アントロポゾフィーハウス大阪 ことばの家」
チャンネル登録、よろしければ、どうぞお願ひいたします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/




2021年12月12日

12/22(水)〜23(木)【仙台】『古事記』とアントロポゾフィー講座へのご案内






聖なる夜、クリスマスの夜が近づく頃、「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」にて、二日連続講座『言語造形「古事記」とアントロポゾフィー講座』を行ひます。


世のはじまり、宇宙のはじまりを語る「古事記」の世界。神々の名が連ねられ、世の生成が繰りなされてゆくその物語を、遥か古代に語られてゐたことばそのもので、わたしたちも語つてみませう。


からだまるごと、こころまるごとを用ゐて、日本の精神を声に響かせる。それは、言語造形といふことばの芸術をもつて、全身の働きをもつて、表現されます。


二日間に渡つて、「古事記」といふ我が国のバイブルを生きてみませんか。


そして、一日目、12/22(水)の午後は、アントロポゾフィー講座『芸術実践とメディテーション』と題しまして、自己教育におけるふたつの道をシュタイナー教育の観点、アントロポゾフィーの観点から、皆さんと分かち合ひたいと思ひます。


ことばを大切にする文化、ことばに仕へゆく精神の文化をルドルフ・シュタイナーの精神を助けにしながら、創り上げてゆく、そのひとつのきつかけになることをこころより望んでゐます。


年の暮れの慌ただしい時ではありますが、「古事記」の精神、アントロポゾフィーの精神と共に、こころとからだまるごとを使つて、祝祭の時、聖なる時を共に生きませんか。


お待ちしてをります。


アントロポゾフィーハウス 諏訪耕志拝



ーーーーー


日時:

12月22日(水)
10時〜12時 言語造形「古事記」
13時〜14時半 アントロポゾフィー講座「芸術実践とメディテーション」

12月23日(木)
14時半〜16時 言語造形Aクラス「古事記」  
16時半〜18時 言語造形Bクラス「古事記」


場所: おひさまの丘宮城シュタイナー学園
  第一校舎(仙台市青葉区中山2-22-18)


参加費:
二日連続参加 9000円
一日目のみ参加 6000円
二日目のみ参加 3500円


持ち物など: 動きやすい服装でお越しください。


なお、コロナウイルス対策としてのマスク着用は、ご参加される方の全くの自由意志にお任せします。着けたい方は着け、着けたくない方はどうぞそのままでご参加下さい。


お問ひ合はせ、お申し込み
電話:022-725-5086
Eメール: info@ohisamanooka-steiner.or.jp
お名前、ご住所、お電話番号をお知らせください。




2021年12月11日

言語造形による文学批評






文学作品は、目に見るだけでなく、声にして響かせてみると、人に新しい感覚を目覚めさせてくれます。


さらに、よりふさはしい表現を求めて、何度も繰り返して声に出して行くと、思つてもみなかつた表情がことばから浮かび上つて来もします。


さらに、さらに、年月をかけて、そのやうにからだまるごとを用ゐてことばを声に響かせて行くうちに、その作品が全く面貌を新たに生まれ変はるやうに、いや、真意を明らかにしてくれるかのごとく、秘めてゐた秘密を打ち明け始めます。


言語造形といふ芸術行為は、文学作品に秘められてゐる秘密への道を歩いて行くための批評行為でもあると、わたしは実感してゐるのです。


批評とは、敬ふべきものを敬ひ、愛すべきものを愛するための、芸術実践です。

2021年12月10日

幼な子たちとの至福の時間



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また、昨日も、幼な子たちとの至福の時間。


そこに、お話があれば、昔話があれば、深く闊達な息遣ひと身振りがあれば、幼な子たちから溢れ出すシンパシーに芸術的に応へることができるのです。


ことばをことばたらしめる、深くて活き活きとした息遣ひ。そこから生まれる身振り。そこから響くことば。


それは、幼な子たちの意欲を促します。


アントロポゾフィーから生まれることばの芸術「言語造形」が、いま、必要だと思ふのです。

posted by koji at 17:59 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月09日

冬の夜 本と語らふ



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冬の夜は、本と語り合ふ時間です。本と対話するのです。


わたしは、本を読むとき、できるならば、その本と語り合ひたいなあと思ひながら読んでゐます。


本とは、ひとりの人が血と汗と涙をもつて書き上げたものであると思ふのです。


ひとりの「人そのもの」が、そこに鎮まつてゐる。


だから、そんなひとりの人と語り合ふとき、わたしはその人のことを信じたい。


はじめから疑ひつつ、半身に構へて、その人に向かひ合ひたくない。


さう、本を読むときは、著者とその著作に全信頼をもつてその本に向かひ合ふのです。


なぜなら、ひとつのことを疑ひ出すと、次から次へと疑ひにこころが占領されて、しまひには、その本との対話など全く成り立たなくなるからです。


こちらのこころのすべてをもつて、一冊の本を読む。


人を尊び、敬はなければ、対話は成り立ちません。


本の著者を尊ばなければ、本との親密な対話は生まれません。


しかも、一度では埒が明かないので、何度も何度も語らふがごとく、一冊の本を繰り返し読み重ねます。


さうしてこそ、その本は、その人は、己れの秘密を打ち明け始めるのです。


また、皆が読んでゐる本だから、その本がベストセラーだから、その本を読むのではありません。


わたしは、こころから会ひたい人と会ふやうに、こころの奥底から読みたいと思ふ一冊の本を読みたい。


そのやうなこころの吟味に適ひ、繰り返される読書の喜びに応へてくれるのは、よほどの良書です。


時の試練を越えて生き残つた「古典」。


そして、そのやうな古典は、古(いにしへ)と今を貫いてゐて、現在進行形の問ひを読む人に突き付けてきます。


永遠(とこしへ)です。


わたしが、ここ数年、変はらず語らひ続けさせてもらつてゐるのは、『古事記(ふることぶみ)』と『萬葉集』と保田與重郎全集全四十巻、そして、ルードルフ・シュタイナーの全集から限られた数の翻訳されたものです。


『古事記』は本居宣長の『古事記伝(ふることぶみのつたへ)』で、『萬葉集』は鹿持雅澄の『萬葉集古義』で、ルードルフ・シュタイナーは鈴木一博氏の翻訳で、読んでゐます。


ことばといふもの、日本語といふものに、すべてを賭けた先人の方々との対話。読書の豊かさ。ひとりとひとりであることの真剣勝負の喜び。


残りの人生のすべてをかけても、語らひは決して尽きないのです。




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2021年12月08日

アントロポゾフィーハウス第一回公演「山月記」へのお誘ひ







2022年1月に仙台、2月に青森三沢にて行ひます、アントロポゾフィーハウス第一回公演、言語造形とオイリュトミー、そしてピアノ演奏による『山月記(中島敦作)』のご案内です。


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1月30日(日)
おひさまの丘 宮城シュタイナー学園第一校舎にて
仙台市青葉区中山2-22-18


2月26日(土)
「自由学舎 中川塾」にて
青森県三沢市下久保1丁目4−6


いずれも、開場13時半 開演14時 終演15時半予定


また、どちらの会場も(特に青森三沢)お席の数が限られてゐます。お早目のご予約・お振込みをお願ひいたします。


参加費 ご予約 大人3000円  12歳〜20歳 1000円
    当日  大人3500円  12歳〜20歳 1500円


お問ひ合はせ・お申込み 
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/

※お振込みを確認させていただきました時点で、お申込み完了とさせていただきます。


参加費 ご予約 大人3000円  12歳〜20歳 1000円
    当日  大人3500円  12歳〜20歳 1500円


お問ひ合はせ・お申込み 
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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オイリュトミー  越中奉(えっちゅうたすく)
言語造形     諏訪耕志(すわこうじ)
音楽・ピアノ   山本恵美(やまもとえみ)


演目   歌舞伎十八番から「外郎売」
     中島敦作「山月記」



●『山月記』について 

「この気持は誰にも分からない。誰にも分からない。」

夢や大志を抱く青年が、ひとりの男となる。
その長いプロセスには、
己れのなかに潜む魔と対峙せずにはおれません。
狂気とは、理性を忘れた人が陥るのではありません。
理性しか信じられなくなってしまった人に襲いかかってくるものです。
男は、一歩間違えば、きっと、化け物になります。
これは、詩人になれず、虎になってしまった男の物語りです。


●アントロポゾフィーハウスについて
わたしたちは、社会の混迷が極まつてしまつた2021年より、いまこそ、ルードルフ・シュタイナーの100年前の精神科学「アントロポゾフィー」がここ日本といふ国に必要だと痛感し、「アントロポゾフィーハウス」として、新しく仕事を始めました。
その最初の舞台が、このたびのオイリュトミーと言語造形とピアノによる舞台公演『山月記』です。
わたしたちの心意気と精神をもつて、舞台芸術を活き活きと甦らせて行きたい。さう希つてゐます。
皆さまのお越しをお待ちしてをります。



※この動画を作成して下さつたのは、株式会社秋田精巧堂の社長 二方 淳介さんです。彼の創るコマーシャル動画、ぜひご覧ください。
you tube channnel「フタカタジュンスケ」https://www.youtube.com/user/jfk11078722/videos


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posted by koji at 22:26 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月07日

なぜアントロポゾフィーを学ぶのか






『なぜアントロポゾフィーを学ぶのか』
(『いかにして人が高い世を知るにいたるか』オンラインクラスより)


何をわたしは学ばうとしてゐるのか。何をわたしは仕事を通して生きようとしてゐるのか。何をするためにわたしはかうして生かされてゐるのか・・・。


わたしは、よく、自分自身に問ふのですが、皆さんはいかがですか。


オンラインクラスの中で、また、そのことを問ひながら、話しを進めさせてもらひました。