2019年09月30日

箕面高校OB吹奏楽団演奏会


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昨日、箕面高校OB吹奏楽団の演奏会に出かけました。

 
音楽を聴くといふこと。
 
それは、わたしにとつては、演奏者の背景に巨大な音の精神が立ち上がつて来るのを、ありありと迎えることです。
 
昨日の演奏は、まさに、まさに、そのやうな時間でありました。

わたしは聴いてゐて、涙が流れました。
 
音楽の精神とは、音の法則。
 
法則とは、厳しさ、精(くわ)しさ、確かさをくぐり抜けたあとに顕はれてくるもの。
 
それは、なんと、活き活きとしてゐて、美しく、明るく、澄み徹つたものなのでせう。
 
 
現役高校生を含めた吹奏楽団の皆さん、指揮された小西収さん、大迫智さん、旨くことばにならず申し訳ないのですが、本当に素晴らしい時間をありがたうございました。
 
演奏してゐる皆さんの姿を観てゐて、陳腐な表現で恥ずかしいのですが、音楽つていいなあ、仲間つていいなあ、人間つていいなあ、さういふ想ひで一杯になつて、夕方の箕面の街を歩いて駅に向かひました。

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こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜


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ルオー「《受難》1 受難」1935年


昨日はミヒャエル祭の日でしたが、毎年『こころのこよみ』の週ごとに進むペースを、祝祭日ごとに、緩やかにですが速めたり遅くしたりします。
 
と、いふことで、先日、第24週を掲載したばかりですが、今日、第25週を掲載し、また後日、引き続き「ミヒャエル祭の調べ」である第26週も掲載していきたいと思ひます。
 
 
 

 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
 
空間と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
 
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
 
寒い冬のさなかへと。
 
  
 
Ich darf nun mir gehören          
Und leuchtend breiten Innenlicht          
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,        
Der Seele Tiefen sollen wachen           
Und wachend tragen Sonnengluten      
In kalte Winterfluten.   
 
  
 
 
陽の光と熱を浴びながら歩き回る夏の彷徨が終はつて、静かに立ち止まり、内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 
内なるこころの光と熱によつて、こころが目覚めてゐるといふこと。

「わたしがわたしである」ことに目覚めてゐるといふこと。
 
そして、こころが生きる情熱を感じてゐるといふこと。
 
これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 
これがあれば、秋から冬にかけて、たとへ外の世が生命力を失つていき、枯れていつても、内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、活き活きと目覚めてゐることができる。
 
夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、内なるこころの光と熱としていく。
 
そして、来たる冬の寒さのさなかへと意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでいくことができる。
 
光と熱。
 
それはいまやわたしのこころの内から発しやうとしてゐる。
 
そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとのコントラストを際立たせようとしてゐる。
 
太陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、この秋があるのだ、そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 
そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりをていねいに、確かに、感じること。それが、内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも自覚することへと繋がつていく。
 
四季を生きること、一年のいのちを生きることが、みづからを知ることへとわたしを導いていく。
 
この『こころのこよみ』に沿ひつつ、四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 
ならば、それらの「ことば」が、生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
 
夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 
秋、わたしはわたしを取り戻し、萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 
さあ、これからが、稔りの季節、粛々とした仕事の季節だ。
 
 
 
 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
寒い冬のさなかへと。
 
 
 


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2019年09月27日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜



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みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
 
そして、こころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。生み出す人は幸ひだ。育てる人は幸ひだ。
 
金と引き換へにものを買ひ続け、サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 
その一歩は、料理を作ることや、手紙や日記を書いてみることや、花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 
この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 
そのやうな行為によつてこそ、みづからを創り上げることができ、その行為からこそ、こころは己れのありやうに気づく。
 
そして、「世の精神」。
 
それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、「世の精神」であり、だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 
「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、人に働きかけ、また人からの働きかけを受けて、絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 
「世の精神」は、人にみづからを捧げ、愛を与へようとし、人から愛を受け取る。

その交流を通して、より確かに己れといふものを知りゆき、己れを知れば知るほど、そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 
「世の精神」には、人が必要なのだ。人の働きを待つてゐるのだ。
 
同じく、わたしたち人は、そんな「世の精神」に倣ひつつ、地球上のものといふものに働きかけ、ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、みづからを新たに新たに知りつつ、たとへ、肉体は年老いても、そのつどそのつどこころは甦り、精神的に若返ることができる。
 
我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、本居宣長(1730-1801)も、そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、その「世の精神」に倣ひ続け、「ものにゆく道」を歩き通した人であり、両人の残された仕事の跡を顧みれば、晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 
ーーーーー
 
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  
ーーーーー
 
 
 
秋には、「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 
そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。壁に突き当たる。
 
しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、こころの真ん中の礎である情に目覚め、己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 
「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。
 
 

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2019年09月26日

オキツさんの夏のレポート


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8月の終はりに開催しました『第一回 シュタイナー教育と自己教育』。
 
あれからはやひと月が経つたのですが、参加者のおひとりの方、オキツさんが、レポートを書いて下さいました。
 
これは、講義をしたわたしの、あらためての想ひなのですが、教育を学ぶとは、「何を、どうすべきか、どう教へるべきか」を学ぶのではありません。
 
「人といふものを知ること」「人間認識」を学ぶことなのです。
 
さうして、ひとりひとりの大人が、その人間認識から、新しく子どもへの教育を生みだすのです。
 
また、自己教育に取り組み始めるのです。
 
決まり切つた教育方法などありません。
 
家庭のなか、教室のなか、その人間認識を基にして、そのつど、そのときの、人間関係を生きて行くのです。
 
このたびは、『人生における七年ごとの成長』と『十二の感官を育む』と題して、人生といふものを、長いスパン、広やかな(宇宙的な)視野で、見てとりました。
 
この人間認識を表面的な知識として取り入れるのではなく、自分自身の深みへと落とし込む作業を、この講座のあと、受講者の方々がなされてゐることを希つてゐます。
 
三日間連続講座だつたからこそ、醸造された豊かな時間でした。

オキツさん、懇切なレポート、どうもありがたうございます。


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新しいことって、身体から入って来るんだ!
〜「シュタイナー教育と自己教育」集中講座〜


「シュタイナー教育」と言うと、素朴なおもちゃに囲まれた幼児教育や、教科書を使わない小学校などを思い浮かべます。その柔かい雰囲気に魅力を感じながらも、一方で「今の時代に取り残されないかな」と不安を持つ人も多いのでは。現在は、技術の進歩に伴って人が軽視され、自分が考えることすら誰か(何か)に任せてしまう傾向があります。多くの知識を覚えたり、効率よく間違いのない仕事をすることは大切ですが、それだけのために生きているわけではありません。誰でも本当は、唯一無二の「わたし」として成長し、歩いていきたいと願っているのではないでしょうか。

そんな願いに応えるべく、真夏の大阪で「シュタイナー教育と自己教育」をテーマに3日間の集中講座が行われました。「ことばの家 諏訪」主催の諏訪耕志さんは「シュタイナー教育というと、何か特別なもののように思われがちですが、シュタイナーが探究した人間への深い視点を学べば、どの園でも家庭でも取り組めることがあります。私たちは、それによって自分を育て、子どもたちが人間として成長して行けるようサポートしていけるのです」と熱く語ります。

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その熱い志に共鳴した保育・教育・介護関係、子育て中の方たちが、近畿はもちろん関東・北陸・四国など各地から集まり、共に汗を流し、感じ、考え、人間を深く見つめた3日間。幼児教育、アントロポゾフィー講座、音楽、言語造形など盛りだくさんのプログラムから、さまざまなことを学びました。



まずは、「シュタイナー幼稚園の朝の時間」です。輪になって集まり、樋口早智子先生のリードで季節に合わせた歌や手遊びなどを体験しました。最初はテレもありましたが、やわらかい歌声に合わせて身体を動かしているうちに、懐かしい一体感に包まれていきます。広がる・集まる、走る・歩く…。全体に「呼吸」が意識された時間でした。

「この歌、知らない」なんて心配はゼロで、不器用だろうが、ルールを知らなかろうが、「私が参加する方がみんなも嬉しい」と思える不思議な一体感。評価されない(いい意味で)でまるごと受け入れられる心地良さって、こういう感じなんだなぁ。

外からは「小さい子が喜びそうなこと」にしか見えなかったのに、参加してみると至福の抱擁力。こんな時間を重ねた子どもは、自信を持って「自分」になって行けることでしょう。

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次は諏訪耕志先生のアントロポゾフィー講座。

今回のテーマは「人生における七年ごとの人の成長」と「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつながり)です。「人って何だろう」「世の理はどうなっているのだろう」「今の時代に私が生きている意味って」…。そんなことを問い続け、熱く語ってくださる講座には、いつも自分の中の高いところが照らされ、励まされます。…たまに火傷します。

今回も、なんとなくモヤモヤと予感していることを整理してもらうことで、自分の成長の道のりやいろんな感覚を照らしだす大きなヒントがいただけました。半分は、言われて気づく部類の「そういえば!」と思い当たるアレコレ。もう半分は「人間ってこんなに深く宇宙とつながっているのね…」という、奇跡のような宇宙の調和の一部だったことを知る驚きの講座でした。

星々と人間との関係を学ぶことで、壮大な調和の一カケラである自分を、自分本来の姿に育ててあげたくなります。自分も宇宙の調和の一部なのだとしたら、他の誰かに憧れなくてもピュアに自分になっていけばいいんじゃないか。そんな課題に向かう勇気が湧いてきました。

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お昼を挟んで、次は武内ゆかり先生の音楽です。

「シュタイナーの音楽」って何だろう。見当がつかないまま始まってすぐにわかったのは、この音楽の目標は上手に演奏することではない、ということでした。たとえば、輪になって自分の選んだ楽器を一回だけ鳴らしてみます。誰の指示も待たず、全体に耳を澄ませながら好きな時に。どこで鳴らしてもどう鳴らしても失敗はなく、その場にいるみんなで曲を作り出します。

自分が鳴らす時と人の響きを聞く時、叩く時と止める時、ハーモニーを支える時と上に乗る時など、いろんなことが呼吸と関わってきます。全体を調和させるのには「息を合わせること」も意識します。ここでも「全体でひとつ」という絶対的な心地よさの中で、私が私として生きる経験ができました。

幼稚園の朝の時間は全体が溶け合ってひとつ。音楽の時間は、一人ひとりの役割が際立ってひとつ。そんな違いも感じました。一人ひとりが立つことによって全体の輝きが増していく。そんな社会が実現したら理想的だなぁ。みんな同じなんてロボットだもの。
音楽はいろんなことを伝えてくれます。

余談ですが、最初に歌ったコンガの歌が気持ちよくて、あれから3週間経つ今でも時々口ずさんでいます。家族もいつの間にかメロディを覚え、料理中や一緒に歩く時など、「あれ、ハモろう〜♪」とリクエストされる幸せな時間が続いています。うふふ。

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音楽が終わり、最後は再び諏訪先生による言語造形です。

今回は「白雪姫」「ももたろう」「絵本の読み方」に取り組みました。最初は「呼吸を意識して」と言われも、ゆっくりとテキストを読むことくらいしか出来ません。しかし、リードする先生の勢いに乗せられて無心に取り組むうちに、どんどん呼吸が深くなり、自分が解放され、堂々と言葉を発するようになっていきます。

真剣に言語造形に取り組むと、声が枯れ、息切れし、筋肉痛になることすらあります。体当たりで練習するうちに、本来、言葉はこんなにも重みや熱や勢いを持てるんだ、という事に気づかされます。普段の口調で語るのと、触れれば切れるような凄味、近づけば飲み込まれるような迫力で語るのとは、物語がまるで違ったものになります。

先日、小学校で絵本を読む時に、今回の講座で学んだ息遣いのリズムを実践してみました。ちょっと意識しただけで変わるような即効性は期待していなかったのですが、子どもたちが確かに集中して聞いてくれたのは驚きです。言語造形に取り組む人は、雑談ですらまっすぐ言葉を届けますし、言語造形の謎は深まるばかりです。

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この三日間、普段取り組めないような貴重な経験をさせてもらいました。その中で、自分が今までまったく予期していなかった感覚が、アタマではなく身体を通して入ってきたことに驚いたので一例を紹介します。

これまでは「私として立ちたい」「自由でありたい」という思いが強くて、全体の一部であることを窮屈に感じていました。だけど手遊びや歌を通して「私も全体の中の大切な一部である」「私の役割がある」ということが、なんと嬉しく勇気を与えてくれることかということを思い出せたのです。

大切だとわかっていることを深めるのは「アタマ入口」で出来ますが、意識していないことに気づくのは「身体入口」だったんだ! 頭で学んだことは自分と切り離しても成立するけど、身体から学んだことは自分とぴったり重なってるんだ! 等身大だから行動のスイッチも入りやすいんだ! 静かな興奮が私を満たします。

参加されたみなさんも、毎日さまざまなことを感じ、シェアしてくださいます。「まわりで起こるアレコレの問題は自分への問いなんですね」「考えるんじゃなくて感じることを意識してみたら熱を受け取りました」「呼吸が私の課題です」「自分のこととして学ぶ人がこんなにいて眩しい」「言葉ではない方法で伝えるって大切」…。

見知らぬ者同士だった私たちが、全身全霊でさまざまな課題に取り組む中で心を開き、語り合い、学びあった三日間。最終日の土砂降りの中、日常に戻っていく仲間を互いに応援し合い、名残を惜しみながら集中講座を終えました。
先生方、集まったみなさん、素晴らしい時間をありがとうございました。
またどこかでお会いできますように。

オキツ

オキツさんのブログ:http://blog.goo.ne.jp/oneby1





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2019年09月25日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜


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秋めいて、和らぐ、
 
感官へのそそり。
 
光の顕れの中に混じる、
 
ぼんやりとした霧のとばり。
 
わたしは空間の拡がりの中で観る、
 
秋、そして冬の眠り。
 
夏はわたしに、
 
みづからを捧げてくれた。
 
 
 
Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       
 
 

 
ゆつくりと和らいでくる陽の光。
 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。
 
そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、過ぎ去つた夏と、これからやつてくる冬とのあひだに、立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。
 
その「とばり」によつて、戸の向かう側とこちら側にわたしたちは改めてこころを向けることができる。
 
戸の向かう側において、過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは憶ひ起こす。
 
夏における外なる世の輝き。
 
そして夏における内なるこころの闇。
 
その外と内のありようを憶ひ起こす。
 
そして、戸のこちら側において、だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、来たるべき冬における生命の死とを、わたしたちは予感する。
 
これからの冬における外なる世の闇。
 
そしてクリスマスに向かう内なるこころの輝き。
 
その外と内のありやうを予感する。
 
夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。
 
こころのアクティブな働きをもつて、その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。
 
さうすることで、きつと、こころが和らげられ、静かでありながらも、意欲を滾らせてゆくことができる。
 
 
 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。
 
 
 

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2019年09月22日

エーテル界の太陽と月(古事記)



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人は、13,14歳ごろから性的な成熟がからだに現れて来る。
 
男の子は、男のからだのありやうへ、女の子は女のからだのありやうへと、成熟していく。
 
しかし、丁度、そのころ、男の子のエーテルのからだは、まさしく女性の姿をとり始めるのであり、女の子のエーテルのからだは、男性の姿をとり始める。(※)
 
さうして、フィジカル(物理的)なからだにおいて性が表立つことに対して、エーテルのからだにおいては、その対の性を姿としてとることで、人としてのバランスをとらせるといふ、神の計らひだらうか。
 
 
 
さて、ここで、『古事記(ふることぶみ)』の話になる。
 
そこにおいては、とりわけ神代の巻にはエーテル界の顛末が描かれてある。
 
天照大御神は高天原において、太陽を司る「女神」として描かれてゐる。
 
それは、いまだ、フィジカル(物理的)な状態にまで凝つてはゐないエーテルの状態の太陽が女性的な姿をされてをられるからである。
 
そして、フィジカルな次元では、太陽は、まさしく男性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
それは、光と熱を通して、すべての地上のものに命を吹き込む、受精させる、そんな働きである。
 
一方、月は、エーテル界においては月讀命(つくよみのみこと)といふ「男神」として描かれてゐる。
 
そしてフィジカルな次元では、月は、まさしく、女性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
太陽の光を照り返し、夜の国をしろしめされてをられる。
 
 
 
『古事記』は、そのやうに、この大宇宙と地球のなりたちをエーテルの次元において、さらにアストラルの次元において、さらにまぎれない精神の次元において、描いてゐる。
 
 
 

※Rudolf Steiner : Gegenwärtiges Geistesleben und Erziehung 第4講より 
 
 

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2019年09月21日

こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜


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世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       ルドルフ・シュタイナー
 
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、いつしか、こころの光になつてゐる。
 
そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
 
そのこころの光は、感謝の念ひであり、だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、だんだんと、熟してゆく。
 
その成熟は、冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 
それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 
むかし、我が国では、そもそも、その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 
一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 
しかし、どんな年であれ、米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、日本人は生きて来た。
 
この感謝の念ひが、秋から冬への移り行きの中に生まれる寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、静かな元手となつてゐた。
 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 

西の国々では、冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 
そして、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」「ひとりであることのもたらし手」「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 
西洋では、一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、キリストの誕生を寿いだのだ。
 
それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 
その「ひとりであること」の自覚の光が、秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
 憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、「ひとりであることの自覚」から生まれる寂しさといふ情にまで徹してみることで、鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、精神は息づく。
 
芭蕉は、また、この「閑古鳥」も「ひとり」であり、その閑古鳥との精神の交流、閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 
 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



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2019年09月20日

みすまるの玉 〜情の育み〜


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上向いてゐたと思つてゐたら、下向いてゐたり。
 
 
右向いてゐたと思つてゐたら、左向いてゐたり。
 
 
欠けてゐたと思つてゐたら、満ちてゐたり。
 
 
それが、人の情といふもの。
 
 
思ふままにならないものの最たるものが、己れの情ではないだらうか。
 
 
おもに小学生の頃あたりから、褒められることと叱られることを通して、わたしたちは情といふ、己れに湧き上がる得体の知れないものを少しずつ膨らませて来た。
 
 
しかし、大人になつた今でも、その己れに湧き上がる情といふものを手なずけられずに、苦労してゐる。
 
 
 

 
むかしの高貴な人は、胸に玉を下げてゐた。
 
 
「みすまるの玉」と言ふ。
 
 
「みすまる」とは、「総(す)べる」のもとのことば「すばる」といふ動詞が「すまる」となりかはり、その頭に「み」がついて生まれたことば。
 
 
美称としての「み」に、統御するといふ意味の「すまる」を合はせて、「みすまる」。
 
 
「みすまるの玉」とは、「統御された玉」といふことにならう。
 
 
そして、「玉」は、「勾玉」である。
 
 
あの形。
 
 
満ち欠けする月の形。
 
 
伊耶那伎命は月讀命(つくよみのみこと)に「夜の食国(をすくに)を知らせ」とことよさしされた。
 
 
こころの働きの内でも、感じる働き、情の働きは、まるで夜の夢見る営みに似て、無意識と意識の間を漂つてゐる。
 
 
胸に下げられた「みすまるの玉」は、みづからによつて統御された情の徴である。
 
 
そして、きつと、月讀命(つくよみのみこと)は、わたしたち人の情の育みを支へて下さつてをられる神である。
 
 
夜の食国(をすくに)を知らされてをられる神である。
 
 

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剣を研ぐ 〜意欲の育み〜

 
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毎朝、寝床から起き上がる意欲、歩き出す意欲、仕事に行かうといふ意欲、人と会はうといふ意欲、何かを学ばうといふ意欲、それらの意欲が湧き上がつてくるのはどうしてなんだらう。
 
 
もし、この意欲がこの身に授けられてゐなかつたとしたら、わたしたちは、寝床から起き上がれないだらう。仕事場に行かうとして駅に何とか着きはしたものの、電車がホームに入つて来ても、ドアの前で立ち尽くしてしまふかもしれない。
 

人の意欲。
 
 
それは、どこから、誰から、与へられてゐるのだらう。
 
 
我が国の神話において、人の意欲といふものが、つるぎとしてかたどられてゐる。
 
 
それは、常に、未来へと立ち上がり続ける剣(つるぎ)だ。
 
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて八俣遠呂智(やまたおろち)の尾から取り出された剣、草薙(くさなぎ)の剣だ。
 
 
殺し合ふための剣ではなく、こころに妄念のやうにのさばり生へる草を薙ぎ祓ひ、人が己れの足で歩くことができるこころの道、人が己れの腕で耕すことのできるこころの田、人と人とがこころから出会へ、睦みあへる広々とした野原を現出させるための剣だ。
 
 
その剣は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて高天原の天照大御神に預けられ、その上で、天照大御神から地上に降臨するホノニニギノミコトに授けられた。
 

その剣は、意欲の力として、ひとりひとりの人に神より授けられ、ひとりひとりの人によつて未来へと掲げられる。
 
 
それは、血の中に流れる鉄の剣である。
 
 
死の後の世にまで届く剣だ。
 
 
この剣の働きは、とりわけ、歯が生へ変はるまでの幼児期に育まれる。
  
 
そして、この意欲の働きは、大人になつてからも、自己教育としてみづから育んでいくことができる。
 
 
わたしも、この剣を、毎日、研ぎ続け、高く、低く、掲げ続けていきたい。
 
 
 

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2019年09月19日

鏡を磨いて待つ 〜考への育み〜

 
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わたし自身、講座をしながら、想ひ、考へ、そしてまた想ひ起こす、といふ一連の作業をしつつ、ことばを選んで、他者に語りかけていきます。
 
語るべきことがらを想ひ起こすのは、天に拡がつてゐる「考への空間」からきらきらと金色の何かが降り注いでくるのを我がこころの鏡に照らし出すやうな感覚なのです。
 
しかし、時には、想ひ起こさう、想ひ起こさうと焦つてしまひ、天から降つてくる何かを待てずに、こころの腕を振り回して空回りしてしまふやうなことも、ままあります。
 
そんな時は、たいてい、ことばが宙に浮いてしまふ。
 
焦らずに、待つこと。
 
それを会得・体得することが、ずつと、わたしのテーマでもあります。
 
 
 
日本神話から、こんなイメージが、湧き上がつてきます。
 
我がこころの鏡に照らし出される光、それは、つまるところ、高天原にをわします天照大御神といふ精神存在からの光であります。
 
このこころの鏡は、まづもつては、頭の位置、脳にあつて、そこにわたしたちの抱く考への像が映りますが、その考への像に親しめば親しむほど、その鏡は胸の位置、心臓にまで降りて来ます。
 
わたしたちはひとりひとり、そのやうな光を照らし返し、像を映し出す鏡を、この身に授かつてゐます。
 
「この鏡は、もはら吾(あ)が御霊(みたま)として、吾が御前(みまへ)をいつくがごとく、いつきまつり給へ」と天照大御神がホノニ二ギノミコトに授けられたやうに、です。
 
 
 
 
わたしたちは、己れのその鏡を磨いて待つほどに、鏡面は曇りなく像を映し出し、しつかりと想ひ起こすべきことを想ひ起こすことができる。
 
その「待つ」といふこと、それは、できうる限り準備を重ねるだけでなく、落とされる小石が拡げるどんな波紋も見ることができる湖面のやうにこころを磨き、平明に静かに整えておくこと。
 
そのためには、深い息遣ひ、呼吸のありやうが、鍵を握つてゐます。
 
想ひ起こすこと、考へること、その考へを的確に精確にことばに鋳直すこと、それは、高天原からの光を我が鏡に出来る限り曇りなく映し出すことなのです。
 
 

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2019年09月18日

聴くときの身ぶり 京田辺言語造形クラス

 
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京田辺・言語造形クラス「森のしずく」は、毎月毎月欠かさず集まるメンバーの方々のお蔭で、もう始まつてから16年経ちます。
 
中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんがずつとお世話して下さつてゐます。
 
普段の暮らしの中で堆積した想ひを語りあひ、聴きあふ時間からいつもこのクラスが始まります。
 
聴き手は、己れのこころに浮かび来る共感と反感をうしろに措いておきながら、他者の声とことばをただただ聴く。この時間は、語り手にとってだけでなく、聴き手にとつても、とても大切な時間になつてゐます。
 
しかし、聴き手は、語られることばをそのやうに受容することは、実はとても難しく、度重ねての練習が要ります。
 
まさしく、聴くときの内的な身ぶりを聴き手自身で「みる」こと。
 
精神から他者の語ることばを聴くための身ぶりといふものが、だんだんと会得されてきます。
 
十二の感官の論で、「聴く感官」と対に位置してゐる「釣り合ひの感官」から、その身ぶりを学ぶことができます。
 
または、「ことばの感官」と対に位置してゐる「動きの感官」をもつても、学ぶことができます。
 
さうして、言語造形の稽古に入つて行き、昔話などをたつぷりと真髄から聴くことができるのです。
 
言語造形では、それらのことをからだとこころと精神をもつて学ぶことができます。
 
言語造形クラス「森のしずく」は、毎月第三水曜日午前9時45分から12時まで、京都府京田辺市中央公民館にて行つてゐます。
 
お問ひ合はせは、中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんまで、お願ひします。
電話 0774-64-2645
 
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2019年09月16日

幼な子が熱望してゐるもの

 
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幼い子どもたちは、何を熱望してゐるか。
 
数多くあるうち、最も熱望してゐるものは、大人です。
 
テレビやインターネットなどを通さない、活き活きとした大人といふ存在そのもの、実在そのものです。
 
嘘のない表現、活き活きとした息遣ひ、こころのこもつたことば遣ひ。
 
さういふものは、昔の日本においては、普段の日常生活でも、たつぷりと、ありました。ありありとありました。
 
いま、子どもたちは、日常において、さういふ、なまの大人の表現に出会へません。
 
だからこそ、教育の現場において、さういふ見識と技量をもつ大人が必要です。
 
何を教へるかも大切なことですが、それ以上に、どう教へるか、どう語りかけるか、といふ「いかに」といふ側面をわたしたち大人は学んでいく必要があります。
 
「ことばの家 諏訪」で、言語造形の学びをしていきませんか。
 
実践として、定期的に、子どもたちにお話しを語りかける場も設けていきます。
 
クラスの情報は、以下をどうぞご覧下さい。
https://kotobanoie.net/spra/
 
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2019年09月15日

精神のゲリラ 〜アントロポゾフィーのこれからのひとつの可能性〜



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アントロポゾフィーといふ学問に随分と長い間、取り組んできて、念ふところあつて、以下のやうな文章をしたためてみました。長文です😇
 
 
(アントロポゾフィーとは、ルドルフ・シュタイナーによる精神科学のことです)
 
 
ーーーーーー
 
 
アントロポゾフィーが「地上で」繁栄することは、すでに20世紀末で終焉を迎えた。
 
 
いま、アントロポゾフィーは、各国、各地域においてその国の文化、精神とひとつとなり、いはば地下に潜り、土壌となつて、つまりアントロポゾフィーといふ名が消えて、生き抜いていく時代になつてゐる。
 
 
(いはゆるアントロポゾフィーの本場と考へられてゐるドイツを中心としたヨーロッパ人や、またはアメリカ人などがどのやうに思はうと、です)
 
 
しかし、精神を求め、精神に学ばうとする人は世に絶えないだらう。
 
 
(特に、日本においては、です)
 
 
さういふ潜在的なニーズに、どう、応へて行くかが、アントロポゾフィーを学んで来たわたしの人生のテーマのひとつである。
 
 
シュタイナーやアントロポゾフィーといふ名のついた、なんらかの団体や協会や学校が地上的に栄える時も、すでに終はつてゐる。
 
 
さうではなく、一冊一冊の本と、ひとりひとりの人(精神の人)が、最後の拠り所になるだらう。
 
 
本を真摯に読み抜くことを通して、ひとりの精神の人からどこまでも真摯に学ぶことを通してこそ、学びがどこまでも深められて行くだらう。
 
 
その孤独な学びをもつて自分の足元にある土壌を耕すのだ。
 
 
孤独に学ぶひとりひとりの人から生まれて来る創造的なもの。
 
 
その創造的なものをもつて、自分自身にすでに与へられてゐる現場で、働くのだ。
 
 
それは、ことさらに新しくアントロポゾフィーの共同体作りに向かふものではなく、すでに持つてゐる自分自身の家庭や職場に活かされる学びと働きである。
 
 
そのやうなゲリラ的な働きをもつて、世に密やかにアントロポゾフィーを問ふていく時代になつてゐる。
 
 
これからは、世にゲリラ的に、かつ密やかにアントロポゾフィーは浸透していき、志をもつひとりひとりが各々の働く現場でその精神的な力を発揮していく時代だ。
 
 
これまでのシュタイナー学校やアントロポゾフィー的な共同体は残るだらう。
 
 
しかし、より多くの子どもたちが通ふ一般の学校の中、アントロポゾフィー的人間学を踏まえた、たつたひとりの先生によつて、確かな教育が少しずつ少しずつ広まつてゆく可能性。
 
 
たつたひとりの人によつて、少しずつ何かが変はりゆく可能性。
 
 
家庭の中が、少しずつ、変はりゆく可能性。
 
 
その可能性を育むために、どんな仕事ができるかを考へてゐる。
 
 
共にこの仕事を考へる人、共にこの仕事をする人を、求めてゐる。
 
 
公立や私立の学校の先生たち、社会で働いてゐる人たち、家庭の親たち、それらの方々おひとりおひとりに、アントロポゾフィーからの人間学とことばの芸術「言語造形」をお伝へしていくことが、わたしの仕事である。
 

 
 

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こころのこよみ(第21週) 〜問ひを立てる力〜


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わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
 
わたしは感覚する、萌しが熟し、
 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
 
内において、己れの力として。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle fruchtend fremde Macht      
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,    
Den Keim empfind ich reifend        
Und Ahnung lichtvoll weben         
Im Innern an der Selbstheit Macht.     
 
 
 
 
「これまでにない稔りの力」とは。
 
それは、夏、こころにおいて稼がれた、新しい感じ方、考へ方、ものの捉へ方を、その後何度も繰り返し自分自身に引き続き、問ふて、問ふて、問ひ続けることから生まれる力のことである。
 
夏は、豊かな自然の輝きが人に語りかけてくるときであつたし、人と人とが出会ひ、交はる季節だつた。
 
しかし、そのやうに外の世が輝いてゐるとき、人と人とが交はる、そんなときこそ、みづからが孤独であることに思はず出くはしてしまふこともあるのではないだらうか。
 
みづからが孤独であることに出くはして、初めて人は孤独であることの意味を見いださうと葛藤し始める。
 
そして葛藤するといふことは、「わたしは、いつたい、どのやうに生きていきたいのか」といふ問ひをみづからに問ふといふことでもある。
 
みづからに問ひ続ける。そして答へを探し求める。
 
その自問自答の繰り返しが、何を育てるか。
 
己れみづからに問ひを立てる力を育てるのだ。
 
その「問ひを立てる力」が、「わたしみづからの力」「己れの力」としての「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
 
ふさはしく問ひを立てることこそが、手前勝手な答へを作りだして満足することへと自分を導くのではなく、精神といふ高い次元に耳を澄ませる力になりゆくからだ。
 
その力は、己れが生まれ変はることへの予感を、ゆつくりと、こころの内に光に満ちて織りなしていく。
 
それは、秋といふ季節ならではのこころの織りなしである。
 
そのやうにして、秋とは内なる意識が明るんでいく季節だ。
 
意識が明るむ、とは何とありがたく、幸ひなことだらう。
 
 
 
 
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。 
わたしは感覚する、萌しが熟し、 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。 
内において、己れの力として。
 
 
 

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2019年09月14日

パワフル和歌山



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親子えんげき塾 ことばの泉の素晴らしい仲間たち。
 
 
古事記(ふることぶみ)を古語のまま全身全霊で演じるお稽古。
 
 
終わるころには、みんなへとへとです。
 
 
しかし、その意欲が持続してゐるのは、なぜだらう。
 
 
どうも、日本の古いやまとことばが、みんなの意欲を焚きつけてゐるやうです。
 
 
「あ」の響き、「を」の響き、「こをろ、こをろ」の響き、それぞれの母音、子音が、音韻が、からだとこころを貫くのです。
 
 
呼吸を合はせて、いにしへの神と人の、身ぶり、手振り、ことば遣ひに倣ふのです。
 
 
そりゃあ、元気ももらへるつてもんです。
 

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2019年09月12日

『平成記』(小川榮太郎氏)


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●この年(平成十四年・2002年)も日本語ブームが続いた。齋藤孝の『声に出して読みたい日本語A』が計240万部の大ベストセラーになつたのである。が、残念ながらこの日本語ブームは、文学の読者層を殆ど開拓しなかった。 
 
 
●文化では啓蒙も大事だが、啓蒙がその場しのぎのビジネスになると、寧ろ文化を衰弱させる。文化で重要なのは、層を拡大する以上に、ヒエラルキーの頂点を構築する事だ。鴎外、漱石、露伴から三島由紀夫、大江健三郎を読む伝統を保持しさえすればすそ野は逆に広がる。この文化事業の基本に、平成出版界は逆行し続けた。
 
 
●一流の飲食店が味でしのぎを削れば、安価なファストフードの味も向上する。逆にマクドナルドを無限に増やしても、食文化の向上に繋がらず、資本や才能がファストフードにばかり集中すれば、食文化は崩壊する。文壇・論壇では平成を通じてそれが起きた。
 
 
●マクドナルドを増やすのでなく、高み、偉大さを求心力とした共同体を形成すべきだったが、「脱構築」の冷笑主義に飲み込まれ、業界ギルドの安易に流れ、文化事業の逆説を真に理解する者がいなかった。平成日本の最大の悲劇である。
 
 
(225ページ)
 
 
 

出版界だけでなく、平成時代のわたしたち男は、各々、頂点を極めるための熾烈な闘ひを己れに課すことを止めてしまつたのではないかなあ。
 
三十年といふ時間、わたしが大学を出てからの三十年間なのだ・・・。
 
いま、令和といふ新しい時代に入つたばかり、元年。
 
経済界であれ、政治の世界であれ、学問・芸術の世界であれ、本当に生きがいを感じたいなら、ひとりひとりが精神の高みを目指して自分の人生を全身全霊で生き切ることだと、強く念ふ。
 
さうして、日本の文化そのものが再び精神のヒエラルキーを築き上げ、若い人や子どもたちが、いや、この自分自身が、その高みを目指して、発奮しながら生きて行く、そんな令和の時代をつくつていきたいと、強く念ふ。
 
それは、男性性の健やかな発露である。
 
 

posted by koji at 17:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ことばの風雅を求めて〜秋からの言語造形クラスのご案内〜



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毎日、生徒さんたちが語つてくれる昔話を聴いてゐて、また自分自身も昔話の練習をしてゐて、よく感じること。
 
それは、現代の書籍などに印刷された昔話の多くが、リアリティーを失つてゐるといふことなのです。
 
失はれてゐるのは精神的なリアリティーであり、逆に、唯物的リアリティーは強められてゐる。
 
 
昔話を言語造形してゐるうちに、このお話は、そもそも、もつと神々しい調べを湛えてゐたのではないかと感じさせられることが多いのです。
 
洋の東西を問はず、代を経て人から人へと昔話が語り継がれていくうちに、神といふ存在が人々にとつて、だんだんと縁遠いものになつてきたやうなのです。
 
さうすると、昔話といふ本来は霊的・精神的なお話であつたものが、おのづから精彩を失つてしまつた。
 
その精彩を補ふべく、お話を必要以上に滑稽化、笑ひ話化させたり、お話の肝腎要の針のやうなものを抜いてしまひ、残酷さを強調しないやうに変形して、現代人の意識に抵抗の無いやうに、お話を丸く収めようとしたりしてゐる。
 
 
 
言語造形を通して、神話、昔話や物語、そして演劇、詩に取り組んでいくうちに、本来、ことばの芸術は、俗なところを踏まえながら、なほかつ俗なところを越え出て、聖なるところ、神々しいところへと辿りつくやう、人を誘(いざな)つてゐることが分かつてきます。
 
その聖なるところ、神々しいところを、我が国では、古来、「言霊の風雅(みやび)」と称してきました。
 
ことばの風雅(みやび)やかなところを、言語造形をすることで作品から汲み取つてゆく。
 
その風雅やかなところに触れるとき、人は、生まれてくる前の世、精神の世、生きながらにして味わうことのできる混沌とした創造の力を感じることができます。
 
そして、先の代から伝はつてきてゐる日本語の美、力を、後の代へと伝へていきたい、伝へなければ、といふ念いが込み上げてきます。
  
人は、とりわけ、子どもたちは、俗なるところ、平凡なところを抜け出て、ことばの風雅やかなところをこそ聴きたがつてゐる。なぜなら、人はそもそも精神的な存在なのだし、とりわけ子どもは大人に比べてずつと精神的な存在だからです。
 
 
 
そんなことばの風雅、言霊の風雅を、この秋から、新しく、言語造形を通して、見いだし、聴き取つていく練習を重ねていきませんか。
 
10月から新しいタームに入る、月に二回、第二・第四日曜日に開いてるクラス。
 
また月に一回の水曜クラス(第二)。
 
それぞれ午前10時からのクラスです。
 
若干名の学び手を募集してをります。まづは一回の体験ご参加をお勧めいたします。
 
お待ちしてをります。
  

講師:諏訪耕志
 
 
 

 
●日曜 帝塚山クラス(月2回) 
   日程    毎月 第2・第4日曜日
   時閨@   午前クラス  10:00 - 12:30
         午後クラス  14:00 - 16:30
   参加費   体験 3,500円  
         12回連続(半年分) 36,000円 
 
 
●水曜 帝塚山クラス(月1回)
   日程    毎月 第2水曜日
   時閨@    10:00 - 12:30
   参加費   体験 3,500円  
         12回連続(一年分) 36,000円 

 
 
 
会場・お申し込み・お問ひ合はせ:
「ことばの家」帝塚山ヘ室              
http://www.kotobanoie.net/access.html


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2019年09月09日

100年後の普遍人間学 in 和歌山


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今日は、和歌山での『普遍人間学を読む』第一回目でした。
 
丁度100年前の9月。
 
ルドルフ・シュタイナーは、世界で初めてのヴァルドルフ学校 ( 俗称シュタイナー学校 ) 開校のため、14日間に渡つて、教師として立つ人に向けて講義を行ひました。
 
その速記録を一文一文、丁寧に、考へつつ、感じつつ、読んで行くのです。
 
その丁寧さから、今日など、3ページしか進みませんでした。
 
最初の一日目の講義の一番初めにシュタイナーは述べました。 
 
これから学校を始めて行くにあたつて、なによりもまづ大切にしたいことがある。
 
それは、精神の世とのつながりを各々育てていくことである。
 
さう述べました。
 
精神の世。
 
重要な概念です。
 
同時に誤解を生みやすい概念です。
 
しかし、ごくごく、真つ当に、人が、余計なことを考へるのではなく、必要なことを、必要な時に、ふさはしく、まぎれなく、わたくしなく、あきらかに、「考へる」こと。
 
それこそが、精神の世とのつながりを育むことのはじまりです。
 
少なくとも、「考へる」ことは、その礎であります。
 

 

この勉強会も、わたしからの講義になるのですが、それでも、参加者のおひとりおひとりからの声を聴き合ふ、相互コミュニケーション性を大切にする時間でもあります。
 
そして、わたしがいくら講義をしたいと思ひましても、その講義を受けたいといふ人がゐなければ、かうした時間は生まれないことは当然であります。
 
さう考へますと、わたしたちがかうして集まることができ、かういふ勉強会をなりたたせることができるといふことは、はじまりの時点で、精神の世とのつながり、精神の力からの励まし、精神の方々からの応援があるといふことでせう。
 
わたしたちは、このやうな勉強会をもつことの意味をこれからみづからに問ひ続けることが、この上なく大切なことだと考へます。
 
わたしたちが会の存在意義を毎回、その都度その都度、意識的に問ふこと。
 
そのやうな問ひを重ねて行くことこそが、精神の世からの応援をこれからもいただく礎になります。
 
そして、この勉強会をもつわたしたち自身の課題とは、人間学を学ぶことによつて、「自分自身を知ること」です。
 
大人の自己教育。
 
それは、己れを知ることであります。
 
それなしに、子どもへの教育はありえないのです。
 
 
Mitteの庭

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人は必ず育つ、といふことを考へる

 
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なぜだかとても疲れた時などには、いろんな疲労回復法があるのだらうけれども、自分はよくシュタイナーの『自由を考える』を読む。
 
そして、そこに書かれてある文に沿つて、考へることによつて、自分自身の偏つてゐるこころを立て直すことができ、救はれることがよくある。
 
第5章の「世を知る」を読むと、そこにこんなことが書いてある。
 
 
___________________
 
 
いま、わたしが、蕾をつけた薔薇の枝をもつてゐるとすれば、きつと、その枝を水に活けるだらう。
 
なぜか。
 
薔薇の蕾は、薔薇の花となるからだ。
 
薔薇が蕾の状態であることも、薔薇であることのひとつのプロセスだし、花開いてゐる状態も、薔薇であることのひとつのプロセスだ。
 
しかし、プロセスの中のそのときそのときの面持ちを見るだけでは、これこそが薔薇だ、といふことは、やはり、できないし、水に活けて花開かせるといふ想ひにも至り得ない。
 
考へることで、プロセスといふものを捉へるからこそ、薔薇の枝を水に活ける。
 
その薔薇が、「なる」といふこと、「育つ」といふこと、「成長する」といふことを、考へるからこそ、わたしは薔薇の蕾がついた枝を水に活け、その薔薇が薔薇としての美しさを十全に出し切るのを待つ。
 
見てゐるだけで、考へなければ、きつと、水に活けはしないだらうし、薔薇が薔薇であることも分からないままだらう。
 
 
___________________
 
 
 
わたしが、「薔薇は育つ」といふプロセスを考へずに、水に活けてもてなさなければ、薔薇の蕾は枯れてしまい、その美しさを見せてくれはしない。
 
きつと、人であるこのわたしも、薔薇と同じだらう。
 
薔薇が育つやうに、わたしといふ人も必ず育つ。
 
そこで、このわたしといふ人に与へるべき水とは、何だらう。

この考へに立ち戻るのだ。
 
  
 

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2019年09月08日

『言語造形と演劇芸術のための学校』のご案内


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これは、言語造形に真摯に取り組んでみたいといふ人のための学校です。
 
語るといふ芸術。
演じるといふ芸術。
詠ふといふ芸術。
 
言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。
 
精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。
 
また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。
 
そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。

日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。
  
ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。

週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。
 
 

この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。
 
実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
 
 
●就学期間:
 
五年間
 
毎週平日4日間/年間45週
 
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み
 
 
 
●時間:
 
午後6時〜午後8時
 
 
 
●場所:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

 
●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji 
 

 
●授業料:
 
入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関わらず。合宿などの費用別途)
 
 
 
●授業内容:
 
言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他
 
 
 
●お申し込み:
 
履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添えて、
メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
後日、面接日をお知らせいたします。



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こころのこよみ(第20週) 〜外の世との交渉を絶たないこと〜


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わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
 
世にあるものから遠ざかれば、
 
みづからにおいてみづからが消え失せ、
 
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
 
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 

So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
 
 
 
秋へと歩みを進めていくうちに、わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、辿りなほす作業に勤しむことができる。
 
暑かつたこの夏、何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
 
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、人はみづからの内でだんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
 
それは、<わたし>の目覚めの時期が秋の訪れとともに再び巡つてきたといふことでもある。
 
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
 
しかし、今週の『こよみ』においては、そのことから生まれる危ふさに対して、バランスを取ることが述べられてゐる。
 
 
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう
 
 
『いかにして人が高い世を知るにゐたるか』(鈴木一博訳)の「条件」の章において、「人がだんだんにみづからを外の世に沿はせなくして、そのかはりに、いきいきとした内の生を育むこと」の大切さが書かれてあるが、それはこれからの季節にわたしたちが勤しむこととして、意識されていいところだ。
 
しかし、その内の生を育むことが、みづからの内に閉ぢこもることではないことも述べられてゐる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 

●(静かに、ひとりきりで、みづからを深める一時一時)には、みづからが生きたこと、外の世が語りかけてきたことを、まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、そのやうな一時において、思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
 
 
●享受した後に、その享受したことからなにかが顕れるやうにする人が、みづからの知る才を培ひ、育てる。その人が、きつと、享受することだけをありのままに想ふとかではなく、享受しつづけることを諦めて、その享受したことを内なる働きによつて消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
 
 
ーーーーーーーー
  
 
 
過ぎ行く現象の中で、何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
 
外の世との交渉の中で、みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
 
あのときの喜び、痛み、快、不快が、何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。さう問ふ練習。
 
それは、享受したこと、感覚したことを、消化するといふこと。
 
そのやうな一時一時において、「思ひもよらない秘密」があかされる道がだんだんと啓かれてくる。
 
そして、もう一度、享受するといふこと、外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
 
 

ーーーーーーーー
 
 

●<わたし>を世にむけて開いてほしい。その人は、きつと、享受しようとする。そもそも、享受すればこそ、外の世がその人へとやつてくる。その人が享受することに対してみづからを鈍らせるなら、周りから糧となるものを取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。しかし、その人が享受することにとどまれば、みづからをみづからの内に閉ざす。その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、世にとつては意味をもたない。その人がみづからの内においていかほど生きようとも、みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、世はその人を閉め出す。世にとつてその人は死んでゐる。
 
 
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。その人にとつては、享受するといふことが、世について教へてくれる教へ手である。しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、仕事へと進む。その人が習ふのは、習つたことをみづからの智識の富として貯へるためではなく、習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 

秋から冬へと、<わたし>を目覚めさせていくこと。
 
しかし、それは、「仕事」をすること、「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、その人の本当の糧、本当の力になつていく。
 
外の世との交渉を絶たないこと。
 
内において、メディテーションにおいて、外の世のことを深めること。
 
そして、その深まりから、外の世に働きかけていくこと。
 
それが、秋から冬にかけての密やかな学びにおける筋道だ。
 
 
 
 
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまう。
 
 

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2019年09月06日

前夜の準備

 
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仕事をする上でわたしが大切にしてゐることのひとつに、前日の晩、眠る前に、次の日に会ふおひとりおひとりのお顔、姿、声、表情などを親しく想ひ浮かべるといふことがあります。
 
さらに、そのおひとりおひとりの後ろにをられる、目には見えない存在の方々と共にわたしが仕事をすることができるやう、祈ります。
 
ちょつと、ぎょつと思はれるかもしれませんが、そのやうな精神の世の方々との共同作業こそが、次の日の仕事のありやうに大きく影響します。
 
精神の世の方々は、いまのところ、わたしの肉の目には見えませんが、こころに考へることはできる。
 
そのやうに、考へる働きは、精神の世への架け橋になること、そして、そのやうに、精神の世と繋がることによつて、わたしは物理の世で健やかに仕事をし続けることができてきたこと、それらを念ひます。
 

 
また、メルヘンや昔話を、夜寝る前に味はふことがとてもいいやうに思ひます。
 
その行為によつて、お話しの中に息づいてゐる精神の世の方々との協働が翌日生まれます。
 
例へば、グリムメルヘンの『ルンペルシュティルツヘン』といふお話など、内容も、そのやうな精神の世の方々との協働を描いてゐます。
 
小人のルンペルシュティルツヘンは、夜の間に藁(わら)を紡いで金にすることができ、それによつてお姫様を牢屋から救ひ出す。
 
わたしもそのメルヘンを夜眠る前に味はふことで、わたしの内なる藁(粗いこころ)が眠りの中で、金(輝くこころ)に変はる感覚。
 
考へる働きは、夜眠つてゐるあいだも、密かに続いてゐるのです。
 
夜眠る前に、どのやうな考へを抱いたかが、眠りの時間と、翌朝の目覚めの質へと、そしてさらに、翌日の仕事へと密かに働きかけるのです。
 
だからこそ、願ひではなく、そんな実感と確信をもつての前夜の準備です。
 

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2019年09月04日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返し勤しむ〜


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秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
 
想ひ起こしつつ、包み込む。
 
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
 
それは強められた己れの力を
 
わたしの内において目覚めさせ、
 
そして、だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn: 
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken 
Und werdend mich mir selber geben.  
 
 
 
先週の『こころのこよみ』にあつた「世のきざしのことば」。
 
それは、まさに、秘めやかさに満ちて、内において、その人その人が、受け取るもの。
 
その「きざしのことば」は、真夏の暑さの中で、これまでの感じ方、考へ方を、拡げ、深め、壊してくれるやうなもの。
 
皆さんは、この夏、どのやうな「きざしのことば」を受けとめられただらうか。
 
どのやうな「秘めやかなことば」を聴き取られたであらうか。
 
もし、それを、この週、何度も何度も、意識の上に想ひ起こしつつ、こころのまんなかに、置いてみるなら。
 
その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。
 
その繰り返し勤しむことが、その「ことば」と、<わたし>を、だんだんと、ひとつにしていく。    
 
「世のことば」が、「わたしのことば」になつていく。    
 
地味だけれども、そのやうな繰り返しの行為こそが、<わたし>の力を強めてくれる。
 
わたしのわたしたるところが、だんだんと、目覚めてくる。
 
今週の「こころのこよみ」に沿つて練習すること。
 
それは、秋からの、新しい<わたし>への、備へとなるだらう。
 
  
 
秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
想ひ起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
 

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星のお宮と感官と我が名前

 
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十二の感官の育みと十二の黄道上にある星の宮との関はり。
 
先日の講座『シュタイナー教育と自己教育』で述べさせてもらつたことなのですが、講義をしたわたし自身、あの日以降も、様々な想ひがこころの内に揺曳してゐるやうです。
 
昨日、こころの内に漂つてきたのは、我が家族ひとりひとりの生まれた月日の星座と名前についてです。
 
次女のかさねは、おうし座生まれ。おうし座は、他者の考へを感覚する「考への感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。彼女は十一歳ですが、学校での学びでも、日々の暮らしの中でも、家族中で一番際立つた「思考家」です。考へを「かさねて、かさねて、かさねながら」日々成長してゐるのを強く感じます。わたしが彼女の名前を「かさね」とつけたのは、松尾芭蕉の『奥の細道』にその名の少女が出てきて、「かさねとは八重撫子の名なるべし」といふ句に魅了されたからなのですが、まさしく、こころの細道を辿りゆく芭蕉は、北へ北へと、那須から陸奥へと旅を進めて行つたのでした。それは、また、考へを重ねて行くことで行き着くこころの北方を目指してもゐたのでした。
 
長女の夏木は、かに座生まれ。かに座は、響きに耳を澄ます「聴く感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。いまは十四歳で、やはり吹奏楽部に所属し、休むことのない音楽漬けの毎日です。聴くといふ営みは、物理的な空気の振動を精神的な調べに変換させることでなりたつてゐること、アントロポゾフィーから学ぶことができることの内の驚きのひとつです。7月半ば、くすのきの大樹に蝉が鳴きしきる夏の最中に生まれて来た長女。直感的に「夏木」と名付けました。同じく、芭蕉で有名な句「閑かさや岩にしみいる蝉のこゑ」がありますが、芭蕉は、蝉の声と共に、閑かさといふ沈黙の調べに耳を澄ましてをりました。物理の次元と精神の次元とを重ねつつの句であります。長女も、きつと、物理の次元と精神の次元とを結びつけるやうな人へとなりゆくであらうこと、我が子ながら、その独特のセンスにどこか感じるところがあります。
 
妻の千晴は、ふたご座生まれ。ふたご座は、何らかの響きや音声とは全く別に、ことばをことばとして受け取る感官「ことばの感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。双子のやうに、ふたつの腕のやうに、自由に動き、自由に遊ぶ、そんなときこそ、こころが羽ばたき、ことばが息づく。まさに、そんな人です(笑)。その双子といふことばに象徴されるふたりの幼な子の間には、遊びを通してこそ、自由と美が生まれます。それが、そもそも、本来的な「ことば」です。彼女は言語造形に生きてゐます。「千晴」といふ名も、とこしへの晴天を指してゐるのでせうか。ゲーテが、たしかこのやうなことをどこかに書いてゐました。「人と人とが語りあふこと、それは、光よりもすこやかさをもたらすものだ」。すこやかさと晴れやかさ。晴れ渡る大きな空を吹き過ぎる千の風です。
 
わたくしこと耕志は、いて座生まれ。いて座は、自分自身のからだが動いてゐることを内側から感覚する「動きの感官」を育む力を贈り続けてゐる星のお宮です。志(こころざし)を耕すといふ名を父がつけてくれたのですが、こころが指す方向に向かつて動いて行く、その力はいて座から、そして名前から頂いてゐるのかもしれないと思つてゐます。また、子ども時代に体を目一杯動かしながら遊べば遊ぶほど、ことばを活き活きと話すことができる、そんな関連に、我が子ども時代の環境をありがたく思ふのです。
 
昨日、妻といろいろなことをカフェで語らつたあと、空を見上げると、虹が懸つてゐました。
 
わたしにとつては、自分自身の存在の根底を洗つてくれるやうな会話をしたあとだつただけに、この虹が応援の言葉を語りかけてくれてゐるやうに感じられてなりませんでした。
 
長文、読んで下さつた方、どうもありがたうございます😇
 

posted by koji at 21:42 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月02日

『9月からの 大阪・和歌山 普遍人間学を読む』のご案内


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人は、誰かに育てられて、人になります。
 
お父さんも、お母さんも、近所のおじさんも、おばさんも、みんな、人は、誰かに育てられてきたのです。
 
本当にありがたいことですね。
 
むかしは、その人の育て方といふものを、暮らしの知恵から、ご先祖様の教へから、おのづと導き出してくることができました。
 
いま、わたしたちは、さういふ昔ながらの知恵を失つてはゐないでせうか。
 
このルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』は、さういふ昔ながらの知恵を改めて意識的につかんでいかうではないか、といふ書です。
 
そこでは、自分自身の、考へる力、感じる力、欲する力、このこころの三つの力を、磨いて行くことを学びます。
 
人は、自分自身のこころの力を磨いて行くことで、昔から引き継がれてきた「人を育てるといふこと」「自分自身を育むといふこと」に、必ず再び辿り着くのです。
 
この秋から、ご一緒に、そんな人間学を学んでいきませんか。
 
シュタイナー教育は初めて、といふ方も、どうぞ、奮つてご参加ください。
 
                 講師: 諏訪耕志 
 

※本は、精巧堂出版からの鈴木一博訳『普遍人間学』を使ひます
 
 
  

 
【和歌山】
 
 
日時: 9月9日(月)10時から12時半
    基本的に毎月第二月曜日に予定してゐます
 
 
場所: 和歌山県岩出市内(お申し込み時に詳細をお知らせします)
 
 
参加費:3500円
 
 
お問い合はせ: mitteno20@gmail.com
 
        または、mitteの庭 ホームページ
        のお申し込みフォーム
まで 
         
 
 
 
 
【大阪】 
 
 
大阪クラスは、午前『普遍人間学』、午後『言語造形』と二部制になつてゐます
 
 
日時: 9月15日(日)『普遍人間学』10時から12時半
           『言語造形』13時半から16時まで
    基本的に毎月第三日曜日に予定してゐます
 
 
場所: ことばの家 諏訪 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
    https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費: 初回のみ体験参加   6,500円
     次回以降4回連続  22,000円
 
 
お問ひ合はせ: ことばの家 諏訪
        https://kotobanoie.net/access/
 
 

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2019年08月31日

プロセス


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講義をさせてもらへるといふことは、本当にありがたいことです。
 
なぜならば、なすべき講義があるからこそ、その講義に向けての準備ができるのであり、その講義に至るまでの準備こそが、わたしにとつて最も大切な時間だからです。
 
本番に向けての準備といふ営み、それは、ものごとのプロセスといふものであり、獲得された知識が重要なのではなく、知識に至るためにみづから動いたプロセスこそが、己れの成長に資するからなのです。
 
つまり、誰よりも、講義をさせてもらつたわたしこそが、最も学ばせてもらつてゐるのです。
 
知識よりも、知識を得るために働いた、その労力こそが、人の成長にとつて大切であること、このたびも、強く感じました。
 
講義を聴いて下さつた方の内側で、これからこそ、その知識が再び練り直され、消化され、新しい光と力になりますやうに。


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2019年08月30日

『シュタイナー教育と自己教育』ありがたうございました!


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三日間の『シュタイナー教育と自己教育』。
 
知性の明らかさ。
暖かでほがらかな情の流れ。
熱い意欲の炎。
 
その三つが織りなし合つた三日間だつたやうに思ひます。
 
アントロポゾフィーの凄さに、わたし自身、改めて感じ入りました。
 
三日間といふ時を共に生きて下さつた皆さん、講師の皆さん、お手伝ひして下さつた方々、こころから、こころの底から、感謝します。
 
素晴らしい夏でした。
  

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2019年08月28日

『シュタイナー教育と自己教育 第一日目』が終わりました。


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手遊びから生まれるこころの解放。
 
歌や楽器の響きを通してこころそのものの動きに耳を澄ますこと。
 
言語造形を通して、息遣ひ豊かに、ことばを空間の中に描いてみせること。
 
そして、そのやうな時間とともに、「人生における七年ごとの成長」と題して、七つの惑星、ならびに七つの金属との関はりと共に、七年ごとに九段階に渡つて成長していく人の可能性を語らせてもらひました。
 
宇宙における遥かな旅路を経て、わたしたちはこの世にやつてまいりました。
 
そして、いま、幼な子たちが、わたしたちの目の前にをります。
 
幼い子どもたちが、これから、地上的で堅実な生き方と共に、宇宙的な、星々の観点から己れの果てしない可能性を信じることのできる、そんな大人になつてゆくことができますやうに・・・。
 
千葉、石川、愛媛、滋賀、姫路、皆さん、遠いところから足を運んで下さつてゐます。
 
皆さんと、かうしたアントロポゾフィーのたいせつな事柄を分かち合へること、本当にありがたく思ひます。
 
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2019年08月27日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜


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藤島武二『蝶』

 
わたしはこころを拡げることができるのか、
 
受けとつた世のきざしのことばを
 
己れと結びつけつつ。
 
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
 
こころをふさはしくかたちづくり、
 
精神の衣へと織りなすべく。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Kann ich die Seele weiten,               
Daß sie sich selbst verbindet               
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,              
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 
 
 
 
 
前の週の『こよみ』において、世のことばが語りかけてきた。
 
「わたしの世のひろがりをもつて、あなたの精神の深みを満たしなさい」と。
 
夏の世の大いなるひろがり、それに沿ふことができたなら、
それは沿ふ人に、これまでの生き方、考へ方、感じ方を越えるやうなものを、「贈りもの」として与へてくれる。
 
これを読んでくださつてゐる皆さんには、どのやうな「夏の贈りもの」が贈られただらうか。
 
その「贈り物」を受け入れる器。
 
その器が「こころ」であるならば、わたしはみづからにあらためてかう問ふことになる。
 
「わたしはこころを拡げることができるのか」
 
その問ひに応へていくことが、この夏から秋へと移つていく時期のテーマだと感じる。
 
新しい考へ、価値観、ライフスタイル、人生観、世界観、それらを「己れと結びつけつつ」。
 
しかし、その結びつけは、きつと、外からの結びつけではなく、内からおのづと生じてくる結びつきになるのではないだらうか。
 
夏といふ季節を精神的に生きる。
 
そのとき、外なる季節の移り変はりに応じるやうな、内なる移り変はり、成熟へのおのづさがだんだんと身についてきてゐるのを感じるかもしれない。
 
「わたしは予感する、きつと力を見いだすことを」
 
それは、こころを拡げ、こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。
 
衣(ころも)とは、万葉の昔から、「恋衣」「旅衣」「染衣」のやうに、深く、活き活きと、しみじみと息づく生活感情を言ふことばとしてよく使はれてゐたさうだ。
(白川静『字訓』より)
 
「ころも」も「こころ」も、三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。
 
それは、本来、精神から凝(こご)るものとしての動き、わたしたちのからだにまとふものとしての動きを、音韻として顕はにしてはゐないだらうか。
 
こころといふものが、精神といふわたしのわたしたるところ・わたしの芯〈わたしはある〉から、織りなされる。
 
そして、からだにまとふ衣となつて、身のこなし、振る舞ひのひとつひとつに顕はれる。しなやかに、柔らかく、輝きつつ。
 
そんな内なる力をきつと見いだす。
 
この夏から秋の初めにかけてのテーマであり、学び続けてゐる人への励ましでもあるだらう。
 
 
 

わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとつた世のきざしのことばを
己れと結びつけつつ。
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
こころをふさはしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
 
  

諏訪耕志記
 
 


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2019年08月26日

幼児教育におけることば


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今日も、保育園でのお話しの時間。
 
北原白秋の『待ちぼうけ』。
 
グリム童話の『おいしいお粥』。
 
日本昔話の『大工と鬼六』『天福地福』などなど。
 
幼な子の感官に響くやうな語り口。
 
ことばの意味ではなく、ことばのかたち、すがた、像、動き、それらが幼な子たちの意欲の培ひ(絵姿を生きること)に資します。
 
幼児教育の原理です。

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2019年08月24日

古事記の精神 ありがたうございました


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声の力、古いことばの響きのもつ力、現代に生きてゐるわたしたちに、それらを支える強い精神があるかどうか。
 
それが試された一日でありました。
 
場にゐらした皆さん、協力して下さつた皆さん、どうもありがたうございました。

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「ことばを学ぶ会in能登川」の皆さんと


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今日は雨の中、滋賀県にて「ことばを学ぶ会in能登川」の皆さんと、ことばの芸術「言語造形」を楽しみました。 
 
生まれて三か月の赤ん坊から三歳児の幼な子たち、ごろごろしながらも、全身を耳にして、お母さんの声に聴き入つてゐるやうでした。
 
「ことばとは、そもそも、芸術なんだ」といふことをお母さんご自身が楽しみながら、何かを解き放ちながら、体験している姿と声は、きつと、幼い子どもたちの何かに、深く働きかけていくことでせう。

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2019年08月20日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜


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世のことばが語る、
 
そのことばをわたしは感官の扉を通して
 
こころの基にまでたづさへることを許された。
 
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
 
わたしの世のひろがりをもつて。
 
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
  

Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  
 
 
 
閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
「蝉の声」は耳に聞こえる。時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
 
「閑さ」はどうだらうか。「閑さ」は、耳を傾けることによつて、聞き耳を立てることによつて、初めて聴くことができるものではないだらうか。
 
「閑さ」とは、本来、耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものではないだらうか。
 
芭蕉は、「蝉の声」を通して「閑さ」を聴いたのだらうか。「閑さ」を通してあらためて「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
 
そして、芭蕉は、「蝉の声」の向かうに、「閑さ」の向かうに、何を聴いたのだらうか。
 
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。
 
それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、心象スケッチであり、春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
 
 
この週の『こころのこよみ』に、「世のことばが語る」とある。
 
わたしもことばを語る。
 
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
 
その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものである。メディテーションを通して、「こころの基にまでたづさへることを許された」ことばである。
 
 
『いかにして人が高い世を知るに至るか』より
  
 人が人といふものの中心をいよいよ人の内へと移す。
 人が安らかさの一時(ひととき)に
 内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
 人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
 人が日々のものごとから遠のいてゐる。
 日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
 その人の周りが静かになつてゐる。
 その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
 その人が、また、
 そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
 遠のける。
 内において安らかに見遣るありよう、
 紛れのない精神の世との語らいが、
 その人のこころのまるごとを満たす。
  
 静けさからその人への語りかけがはじまる。
 それまでは、
 その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
 いまや、その人のこころを通して響きくる。
 内なる言語が ―内なることばが― 
 その人に開けてゐる。
 
 
この夏の季節にメディテーションをする中で、精神の世が語りかけてくることば。
 
 あなたの精神の深みを満たしなさい、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。
 
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/410652960.html
 
そこでは、「世のことば」キリストが、人のこころの深みにおいて密やかに語る。
 
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠つた人である。
 
彼はいまも、夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、静けさを聴き取り、その静けさの向かうに、「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
 
 
 
世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 

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2019年08月15日

8月24日(土)第二回 古事記の精神  言語造形ワークショップと民舞発表会


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昨年4月の第一回に引き続き、『第二回 古事記の精神』を開催いたします。


 
言語造形といふ芸術を通してこそ、「古事記」は甦ります。
 
今回は、イザナギの命の禊ぎによる、住吉の三柱の大神、さらにアマテラス大御神・ツクヨミの命・スサノヲの命のご誕生。
 
アマテラス大御神とスサノヲの命の「うけひ」。
 
そして天岩戸開きのくだり。



また、古事記を声に出して語る喜び。
 
それは、とりわけ、神々のお名前・御名を唱えるときです。
 
空間に向かつて解き放たれる息に乗つて響き渡る神々の御名。
 
ひとつひとつの音韻が光る粒子のやうに輝き、音韻から音韻へと続くことばの線が、ときに螺旋状に舞ひ上がる竜巻のやうに、ときに大空を渡る天の川のやうに、聴き耳を立てるわたしたちの精神の眼前に描かれます。
 
その御名が発音される、そのとき、その場に、神々が御現前されてゐるかのやうに感じられることがあるのです。
 
それは、日本語による言語造形が果たすべき、「仕事」であるやうに思はれます。



 
本居宣長の訓み下し文に従つて、皆さんに声を出していただきながら、ワークショップで取り組んでいきます。
 
最後には、「ことばの家 諏訪」において稽古を重ねて来たお二人の生徒さんによる言語造形と、「わかやま民舞研究会 鼓と羽」の皆さんによる民舞の発表会をいたします。
 
「古事記」原文そのままの語りを、ご自身で体験していただいた上で、舞台発表を味はつていただけましたら、「古事 (ふること) 」を描く「古言 (ふること) 」の力を直接感じていただけましたら、さう希つてゐます。
 
(発表会のみのご参加も、大歓迎いたします!)

                             「ことばの家 諏訪」諏訪耕志
 
 
  

●言語造形ワークショップ: 諏訪耕志
 
●言語造形発表: 高橋好美  東山妙子
 
●民舞: 「わかやま民舞研究会 鼓と羽」
 
 
 

●日時:  8月24日 (土) 12時15分開場 
 
『古事記の精神 言語造形ワークショップ』
 12時半始まり 13時45分終了予定
 
『古事記の精神 言語造形&民舞 発表会』 
 14時始まり 15時15分頃終了予定
 
 

●場所:  大阪市阿倍野区民センター一階 集会室1
 地下鉄谷町線「阿倍野」駅E号出口から南へ100m
 阪堺電車上町線「阿倍野」駅から南へ180m
 
 
●参加費: ワークショップ ご予約2000円 当日2500円
     発表会は無料です

●お問い合わせ・お申込み: 「ことばの家 諏訪」
              tel  06-7505-6405 
        e-mail info@kotobanoie .net 


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2019年08月12日

日本の家庭 (三・完) 〜父の姿〜


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この連載の第一回目に、大東亜戦争の敗戦以前の、日本の家庭観、父親像について考へてみたいと書きました。
 
それは、さういふ家庭観、父親像に、わたし自身が人間といふ存在の美しさを感じるからなのです。
 
わたし自身、昭和三十九年(1964年)と云ふ、高度経済成長期の真つ只中に生まれたのにも関はらず、自分の父親からそこはかとなくそのやうな像を感じてゐたからかもしれません。
 

文芸評論家の保田與重郎は、昭和十九年に書いた『日本の家庭』といふ文章の中で、国を支えてきた古き日本の父の姿を書き記してゐます。
 
昭和十九年に保田がさういふ姿を書き留めようとしたといふことは、戦後にいきなり古き日本の父性が失はれたのではなく、戦中、戦前においてもすでにその喪失が感じられていたといふことでせうし、さらに遡つて明治維新から始まつた文明開化の風潮の中で、それらの古い日本の変容、解体が不可避の事として始まつてゐたのです。
 
 
 
仁義礼智忠信孝悌といつた徳目や神仏への信仰を、道徳といふ形で荷つてゐたのは、昔の日本の父親でした。
 
父は先祖祭りを儀式として荷ひ、母は祭りの団居(まどゐ)に従事してゐました。
 
昔の日本の父は、現世的な権力や威力によつて、子弟たちを教育しようとすることは決してなく、常に神棚と仏壇の前からものを言ひました。祖先の霊から始まる、幾世もの先つ祖(おや)の、更におほもとである神々を厳重に信奉しました。
 
汝も日本人ではないのか。
 
祖先の霊をどう思つてゐるのか。
 
そのやうな数少ないことばと、位牌をもつて、家の道徳、国の道徳を、守つてゐました。それは決して、理屈や教義によつて説かれたのではありませんでした。
 
日本の父のそのやうな無口が、日本の支柱でした。
 
そして長男は、父からの神聖な根拠に立つ威厳を具へるやうな、家を精神的に継いでいく存在として教育されてゐました。
 
次男、三男は、きつと家庭によりますが、軍人として、官吏として、商人として、願はくば国の恩、世の中の恩に仕へ奉ろうなどと考へられてをりました。
 
しかし、明治の文明開化の代から始まるわたしたちの歴史は、そのやうな父の意志、意力を、だんだんと無口な悲しさへと追ひこんで行つたことを教へてくれます。
 
異国風の新しい教育学や思想に対面せざるを得なくなり、以前よりいつさう無口になつて己れの信ずる祖先の霊と共に悲しんでをりました。
 
この辺りのことは、島崎藤村の『夜明け前』を読むと、静かにしみじみと、その悲しみが伝はつてきます。
 
日本の家庭における教育環境を司り、教養階級そのものであつた父が、父たる伝統を失つた、その時から、この連載の第二回で述べた炉辺の母の物語も失はれていきました。
 
そして、やがて、日本の家庭が決定的に崩されはじめたのは、大東亜戦争の敗戦によつて敷かれたGHQによる占領政策以来のことです。
 
新しい教育学、保育学、教養論が、ますます人のこころを染めていきました。
 
そして、わたしたちは日本人であることを何か劣つた、恥づかしいこととして、云々するやうになりました。自分自身への信頼をだんだんと失つていきました。
 
 
 
しかし、決して理論闘争を試みず、神仏や先祖と繋がれて生きてゐる己れのありかたを深く信じてゐた日本の父の姿は、完全に失はれたのでせうか。
 
家の儀式祭祀を司り、そこからおのづと家の道徳、躾、たしなみを、ことばを越えたところで子孫に伝へていく父の道は、果たして消え去つてしまつたのでせうか。
  
 
 
わたし自身、そのやうな昔の父の姿、風貌を新しく見いだし、自分自身の中で新しく育て、新しく次世代へ守り伝へていかうと考へてゐます。
 
そのために何ができるだらうか。
 
そのことを考へる毎日なのです。



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こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜


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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
       ルドルフ・シュタイナー
 
 

Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Daß reifend Gottesgaben
In Seelengründen fruchtend
Der Selbstheit Früchte bringen.  
 
 

 
ことばを話すことよりも、さらにこころのアクティビティーを使ふのは、黙ること。
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて生がだんだんと深まつていく。
 
この沈黙とは、こころが滞つてゐるがゆゑではなく、アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
話すことをやめるのではない。
 
ことばと、そのことばを話さうとしてゐる己れと、そのことばを聴かうとしてゐる人を、大切にしたいからこそ、ことばを迎へ、ことばを選び、ことばを運ぶのである。
 
ことば。ことばを話す人。ことばを聴く人。
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 
 

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2019年08月11日

日本の家庭 (二) 〜霊異なる巫女(みこ)性〜

 
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昔の日本の家庭の中における父親像を見る前に、まづは母親像、女性といふもののありやうを見てみたいと思ひました。
 
女性性といふものと男性性といふものとの関はりが、とても内密で相互交流的なものだからです。
 
女性のしてゐたことのひとつは、夜ごと炉辺(ろばた)で、昔噺を語ることでした。
 
その昔噺とは、輸入物の寓話や譬喩ではなく、家の物語であり、村の物語であり、また国の歴史に繋がる物語でした。
 
それは、素朴なかたちの「神がたり」でした。
 
その語りは、インタヴューできない対象について語るのであつて、人智で測りきれないものを物語るのでした。
 
わたし個人の想ひ出ですが、祖母が同じ噺を繰り返し繰り返し布団の中で、幼いわたしをあやしながら語つてくれました。
 
その噺は、家のお墓にまつはる実話で、何度聴いても、身の震へを抑へられないほどの怖い噺だつたのにもかかはらず、わたしは幾度も祖母にその話をしてとせがんだものでした。
 
祖母は、その噺が真実であることを固く信じてゐました。
 
それは彼女の暮らしの底に生きてゐる人生観からのものだとわたしは幼いながらも感じてゐました。
 
わたしたちの人生は、すべからく、神仏が見守り導いて下つてゐるとの信でした。
 
その信仰のあり方は、祖父が持つてゐた観念的なものよりも、より親身なものであり、霊感的なもののやうでした。
 
民族学者である柳田国男の『妹(いも)の力』を読んでみますと、そこには、古来から女性のもつてゐる霊異な力について描かれてをり、その力が実に家の運命をも左右するものであることを、体感・痛感せざるをえなかつたため、いかに家の男性がその「妹の力」を畏れてゐたかが描かれてゐます。
 
ある場所や、ある期間において、女性を忌む風習も、実はその霊異の力をもつともよく知る男性が、それを敬して遠ざけてゐたことから生まれてきたのだといふことが分かります。
 
祭祀や祈祷の宗教上の行為は、ことごとく婦人の管轄であつたこと。
 
巫(みこ)は、我が国に於ては原則として女性であつたこと。
 
昔は、家々の婦女は必ず神に仕へ、その中のもつともさかしき者がもつとも優れた巫女(みこ)であつたこと。
 
なぜこの任務が女性に適すると考へられたのか。それはその感動しやすい習性をもつて、何かことあるごとに異常心理の作用を示し、不思議を語り得た点にあるといふこと。
 
女性は、男性には欠けがちな精緻な感受性をもつてゐること。
 
その理法を省み、察して、更に彼女たちの愛情から来る助言を、周りがいま一度真摯に受け取らうとするなら、その仕合はせは、ただ一個の小さな家庭を恵むにとどまらないであらうといふこと。
 
 
このやうな妹の力が、炉辺の女性による物語りとして、神がたりとして、わたしたちの昔の暮らしの内々に息づいてゐました。
 
しかし、明治の文明開化の風潮の中で、この炉辺の妹の物語り、母の物語りも失はれてきたのです。
 
それは、日本の父が荷つてゐた道徳の文化、教養のしきたり、敬ひの精神がだんだんと失はれていくにつれてのことでした。
 
そして、それらが決定的に喪はれてしまつたのは、先の大戦以降です。



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日本の家庭 (一) 〜我が国固有の文化としての〜


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我が家の長女も十四歳。七年期を二つ通り抜けて、所謂「難しいお年頃」も、はや過ぎ、もうひとつ別の次第に入つてきました。
 
親子の間、家庭の中に、日々いろいろなことが起こりますが、いま、とりわけ、かう感じてゐます。
 
生まれてから十四年間、彼女は父と母のことをとてつもなく大きな愛と無条件の信頼で見守つてくれ、なによりすべてを許してくれました。
 
これからの七年間は、こころの自立に向かつてゐる彼女を、わたしたち夫婦が、からだもこころもべつたりだつた時のやうな愛ではなく、より精神的な愛と信頼をもつて見守り、その自立を促し、世間へと送り出していく時期なのだなあ・・と。
 
さう感じてゐる今日この頃、自分は男であり、娘との向かひ合ひにも必然的に意識的にならざるをえません。そこで、改めて、「父親」といふ役割について考へることが最近増えてきました。
 
わたしは、このご時世の中、いろいろなものが入り混じつてゐて、ここ日本が東洋なのか西洋なのか、判然としないありさまに生きてゐます。
 
世の中には様々な価値観があり、また時の移り行きの中で、その時代その時代特有の価値観もあると思ふのですが、わたしはひとりの日本人として、何か確かなもの、美しいと感じられるもの、地に足の着いた土着のもの、つまり我が国固有の文化を求める気持ちの高まりを強く感じてゐます。
 
そこで、先の大東亜戦争の敗戦以前の、日本の家庭観、日本の父親像と云ふやうなものを調べ、考へてゐます。
 
戦後のあまりにも偏向した左翼的な教育思想から、できるかぎり自由になりたいと考へてゐます。
 
シュタイナー教育などを学んでゐるわたし自身、決して、我が国ならではのこの家庭観を忘れず、守り続け、この文化の礎の上に立ちながら、新しくて古い「人間教育」を追ひ求め、実践していきたいと希つてゐます。

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2019年08月06日

生死の向かうをみた八月六日から十五日にかけて


四年前の今日、下記の記事に書いたやうに、たしかに、わたしは戦後七十年を境にして、随分内側が変はつた。
 
自分自身の表層意識では意図してゐなかつたことが、自分の内側で進行し出した感がある。
 
さうすると、それまでは、もつともらしく聞こえてゐた事柄の、本質的な「ごまかし」「おためごかし」「ダブルスタンダード」のありやうが、はつきりと見えてきた。
 
まづ、自分の中の何が変はつたかと言つて、それまでの「権力者は悪、政治家は信用ならない、金持ちは貧しい者から富を搾取してゐる、自分たちは弱者で、様々な所で虐げられてゐる」といふやうな被害者根性から抜け出せたことである。
 
その病的な根性は、こざかしさとひとつになつて、思つてもゐないほど深く、わたしに染みついてしまつてゐた。
 

 
 
 

『七十年前の八月六日から十五日にかけて』
 
 
その九日間、わたしたち日本人は何を感じ、考へ、欲して、生きてゐたのだらう。
 
広島に世界最初の原子爆弾がアメリカによつて落とされ、その三日後に長崎にも投下され、その惨状を知りゆきつつ、B29が自分の住んでゐる地の上を飛来してくる音を聴くとき、わたしたち日本人は何を観念したのだらう。
 
それまでの戦争による極度の緊張状態から、さらにひとつもふたつも、奥を観たのではないだらうか。
 
一億の日本人全員が、死刑台の上に上らされてゐるやうな状態の中で・・・。
 
そんなときを、わたしたち日本人は確かに生きたのではないだらうか。
 
たかだか七十年前なのである。
 
 
 
わたしはこの夏、なぜか、二重のこころの生を生きてゐるやうに感じてゐる。
 
夏の陽射しと共に、子どもたちと共に、喜びと共に、毎日を精一杯生きる。
 
そして、それと同時に、七十年前の人たち、とりわけ、戦争によつて亡くなつていつた方々と共に、密かに毎日を生きてゐる感じなのだ。
 
その方々は、どうも、現代のわたしたちとはものの考へ方、感じ方において、随分違つてゐた。
 
彼らの感じてゐたこと、考へてゐたこと、欲してゐたことが、現代人であるわたしたちには分かりにくい、理解しにくいものであつたらしいことを知るにつれて、わたしは生きること、命を持ち、育み、讃えることについて、これまでの戦後社会の中で当たり前のやうに思つてゐたわたしなりの考へ方、感じ方の枠を拡げさせられ、壊されるやうな夏である。
 
七十年といふ月日は、何か特別な働きをわたしに運んでくれてゐるのだらうか。
 
当時の人々のこころのありやうを忖度するのではなく、そのありやうに沿ふことが、これほど困難になつてゐることに、わたしは驚きと共に悲しみを味ははざるをえない。
 
戦後七十年の間に何が日本人の精神のなかに進行したのか。
 
そして、その敗戦後とそれまでの敗戦前の日本のあり方との結節点ともいへる一九四五年八月十五日に、日本人の精神に何が起こつたのか。
 
そのことへの認識を深めることから始めて、わたしはこれからの生を強く明るく照らし続けていきたい。


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2019年08月05日

こころのこよみ(第15週) 〜子どものやうに生きる〜


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わたしは感じる、
 
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授けるのは、
 
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
 
 
子どもの頃や若者である頃と違つて、わたしたちは歳をとるにしたがつて、自分自身といふもの、わたしの意識といふもの、自意識といふものを、大事にするやうになる。
 
だから、夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、困惑してしまう。
 
わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、囲ひの中にあるやうだ。
 
しかし、かうしたありようが、この季節特有の、かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
このぼんやりとしたありやう、焦点が絞られてゐないありやう、それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、そのやうなありやうなのだ。
 
そして、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしてゐる。
 
だから、ぼんやりとした感官のありようを、思ふ存分、生きればいいのではないか。
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。
 
ある意味、子どものやうに生きること。
 
さうすることで、ぼんやりとしたありやうではあるが、人は大いなる世から力を授かる。
 
たとへ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、魔法にかけられ、囲ひの中にあるとしても、そのやうに手足をもつて生きることが、来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、秋から冬への。
 
 
 
わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 

 
※絵は、「シュタイナー絵画教室 福岡」さんのページから頂きました。

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2019年08月02日

真夏の海辺の禊ぎ 片男波の浜


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和歌の浦の玉津島神社のすぐそばにある片男波の浜。
 
とても美しい浜でした。
 
暑い真夏の太陽の下、穏やかな波の揺れにたゆたふひととき。
 
いろいろな想ひ出が甦ります。
 
海といふ海は精神の海と繋がつてゐて、その精神の海には、人といふ人の太古からの想ひ出が波打つてゐます。
 
その精神の海のみなそこに竜宮があります。
 
想ひ出の宮こそ、竜宮です。
 
わたしたちは、そのみづぎわで、禊ぎさへも、させてもらへるのです。
 
こころとからだの禊ぎです。

posted by koji at 13:32 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月30日

夏の集中講座『シュタイナー教育と自己教育』のお誘ひ


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写真をクリックし、
出て来た画面の写真をもう一度クリックしていただきますと、見易くなります


この夏の三日間連続講座では、その題名の通り、「教育」、とりわけ「自己教育」というテーマを大切にしています。
 
 
その人ならではの人生は、その人の持っている能力や欠陥で決まってくるのではなく、その人が己れの得意とすること、苦手とすること、つまり自分の能力や欠点、障がいとのつきあい方を、どう学ぶかによります。
 
 
自己教育能力、つまり自分自身をかじ取りできる能力こそが、一番大事な才能であり、それが、自分自身の喜びとなるだけでなく、真に社会的な意味での貢献へと発展していきます。
 
 
自己教育、それは、自己修練でもあるはずです。
 
 
〈わたし〉という自分自身を育むことと、社会的な資格と指導力を発展させていくこととの間に、バランスを保つことが、とても大切です。
 
 
この三日間では、アントロポゾフィーという人間学を通して、〈わたし〉という自分自身を育むことへの視座を、集中的に、かつ広やかに得ることに挑んで行きたいと考えています。
 
 
残席、少なくなってきています。ぜひ、夏のこの三日間をともに生きませんか。





日時: 令和元年8月28日(水)29日(木)30日(金)
    9時15分開場 9時半開始 16時半終了予定
 
 
場所: ことばの家 諏訪
    https://kotobanoie.net/access/
    大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
    南海高野線「帝塚山」駅より徒歩5分
    南海上町線「帝塚山三丁目」駅より徒歩5分
    地下鉄四つ橋線「玉出」駅より徒歩15分
 
 
参加費: 三日間連続参加 25000円  
     一日単発参加 10000円
 
 
お問い合わせ・お申し込み: ことばの家 諏訪
            https://kotobanoie.net/access/
            Tel 06-7505-6405
            E−Mail  info@kotobanoie.net
 
 
参加費お振込先: ゆうちょ銀行へのお振り込みになります。
         
         // ゆうちょ銀行から //
         記号 10260 番号 28889041
         スワ チハル
 
         // 他銀行から //
         店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
         普通 2888904
 
 
 

【プログラム】
 
 
8月28日(水)
 9時半 シュタイナー幼児教育の朝のひととき(樋口)
 10時 講座「人生における七年ごとの人の成長」(諏訪)
 12時 昼休み
 13時半 大人が味わうシュタイナーの音楽の時間(足利)
 14時半 休憩
 14時45分 ことばの語り方・本の読み聴かせ方(諏訪)
 16時     振り返り
 16時半    終了
 

8月29日(木)
 9時半 シュタイナー幼児教育の朝のひととき(樋口)
 10時 講座「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつなが     り)その一」(諏訪)
 12時 昼休み
 13時半 大人が味わうシュタイナーの音楽の時間(足利)
 14時半 休憩
 14時45分 ことばの語り方・本の読み聴かせ方(諏訪)
 16時  振り返り
 16時半 終了
 
 
8月30日(金)
 9時半 シュタイナー幼児教育の朝のひととき(樋口)
 10時 講座「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつなが     り)その二」(諏訪)
 12時 昼休み
 13時半 大人が味わうシュタイナーの音楽の時間(足利)
 14時半 休憩
 14時45分 ことばの語り方・本の読み聴かせ方(諏訪)
 16時  振り返り
 16時半 終了
 
 
 
※昼食は、お弁当を持ってきていただいて教室でお取りくださってもいいですし、帝塚山近辺にあるカフェなどにも行くことができます。
 
※最終日のプログラムが終わったあと、皆さんでお食事にまいりましょう!(自由参加)
 
 
 

【講座ご紹介】
 
 
●9時半〜10時  講師:樋口早知子
「シュタイナー幼児教育の朝のひととき」 
リズムのある生活は子どもたちの体を育てます。お集まりの時のゲーム遊び、手遊び、ライゲンなど全てにリズムがあります。朝の一時、幼稚園で行われている楽しい集いを体験しましょう。
 
 
●10時〜12時  講師:諏訪耕志
「人生における七年ごとの人の成長」 (8月28日)
「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつながり)その一」 (8月29日)
「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつながり)その二」 (8月30日)  
この世に生まれてからおおよそ二十歳にいたるまで、どの人も、教育という大人からのサポートを受ける必要があります。そうして、ゆっくり時間をかけて成長していく存在。それが人です。しかし、それ以降、人はみずから自分自身に教育を施すことができるようになってゆきます。この世に生まれてから生涯に渡って、それぞれの年齢における教育(自己教育)が、どういうものでありうるでしょうか。また、幼い頃に体験した時間と教育空間が、その人の中年期、熟年期、晩年期に、からだとこころにどういう現象となって現れてくるでしょうか。三日間をかけて、自己教育というものをシュタイナー教育の観点からあらためて問い直していきます。
 
 
●13時半〜14時半  講師:足利智子
「大人が味わうシュタイナーの音楽の時間」 
シュタイナー学校では一日中、どこかのクラスから音楽が聞こえてきます。笛、歌、音と一緒に体を動かすこと…とりわけ大切なのは、「耳を澄まして聞いてみる」こと! この講座では、シュタイナー学校で子どもたちが体験する「音の世界」「歌の世界」を、大人の皆さんに体験して頂きます。シュタイナー学校で歌われる季節の歌や輪唱、耳を澄ませて音を聞くゲームなど、どなたでも楽しんでいただける内容です。さぁみなさんご一緒に、大人の音楽の時間を楽しみましょう!
 
 
●14時45分〜16時  講師:諏訪耕志
「ことばの語り方・本の読み聴かせ方(言語造形)」  
ことばを話すということ、それは、実は芸術行為なのです。
子どもに語りかけるとき、読み聞かせをするとき、最も大切なこととは、息遣い。呼吸のあり方を見直すことから、ことばのクラスは始まります。そして、少しずつ、ことばに応じたからだの使い方、さらには、ことばの一音一音の響きを大切にしていくこと、というように、三日間かけて、シュタイナーが示唆したことばの芸術「言語造形」に触れていきます。言語造形をもって語りかけるとき、お話しを聴く子どもたちの様子が、まるで変ってきます。そしてわたしたち大人自身の、ことばに対する考え方も変わってまいります。ことばとの関係を、この夏、あらためて、見つめ直してみませんか。
 
 
 
【講師プロフィール】
 
 
樋口早知子
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師。保育園に勤めながら乳幼児の教育のあり方を模索し続け、シュタイナー教育に出会う。2006年ミカエルカレッジで学ぶ。2008年よりくすのき園を開園。乳幼児の保育に携わっている方たちと共に学びを深めている。
  
 
足利智子
2009年北海道ひびきの村ティーチャートレーニングコース修了後、北海道シュタイナー学園いずみの学校で4〜6年生の担任を務める。現在大阪市で小学校非常勤講師として務める傍ら、音楽の豊かさを分かち合うべく世界の輪唱と北欧伝承歌を歌う会を主宰。ヒーリングライアー奏者としてことばの家の言語造形公演での共演多数。
 
 
諏訪耕志
「言語造形のためのアトリエ ことばの家 諏訪」主宰。1964年大阪市出身。1994年よりルドルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。2004年より関西を中心に自身の活動を始める。言語造形の舞台、ワークショップ、シュタイナーのアントロポゾフィー講義などを通して活動中。日本語の美と風雅(みやび)を甦らせていくことを念願にしている。
 

※チラシの絵は、立花 志瑞雄 (Shizuo Tachibana)さん


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2019年07月28日

生きてゐる心地

  
今日、生徒さんと話しをしてゐて、男性性と女性性の話になつた。
 
女性性のことはともかくも、自分は男性であるので、つい自分に引きつけて、「男性は遠くを見晴るかしながら、先のことを、先のことを、考へてゐるやうに思ふ」と話した。
 
つまり、何かを目指して、目的をもつて、毎日仕事をしていくのが、男性性では、といふ思ひだつた。
 
しかし、その後、よくよく、考へ直してみると、何かの目的をもつて仕事をするといふのは、表層のことで、こころのより深みでは、「生きるために仕事をしてゐる」といふのが本当のところだなと気づく。
 
それは、「生きて行くためにはお金が必要でそのために仕事をする」といふ意味ではなく、仕事してゐなくては生きてゐる心地がしないといふ感覚に近い。
 
自分の場合は、人様に言語造形とアントロポゾフィーからの人間学を伝へるといふことの他、言語造形の稽古と作品創り、そして読書が仕事なのだが、いずれも、手足を使つて汗を流しながらすることなのだ。
 
手足を使つて仕事をしてゐなければ、生きてゐるといふ心地がしない。
 
だから、生きて行くために、毎日、仕事をしてゐる。
 
さういふ仕事をしたいから、さういふ仕事をしてゐる。
 
もし、仕事をしてゐなければ、どんな余計なことを考へ、どんな余計なことにいらつき、どんな余計なことをしでかしてしまふか分からない。
 
そんな感覚だ。
 
目的があるから仕事をするといふのは、少し違ふな。
 
男性性といふ話しではなくなつたのだけれど。


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2019年07月24日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考へる」に任せてみる〜



参議院議員選挙期間中、そして選挙のあとも、今週のこの「こころのこよみ」に支へられました。
  


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クロード・モネ《霧の中の太陽》

 
 
感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
           ルドルフ・シュタイナー
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 
 
この季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
「考へる力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、その力が失はれてゐるのを感じる。
 
夏の美しさが目や耳などを支配して、美をたつぷりと味はふこともできる反面、その情報量の多さに混乱してしまう危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、そのかはりに、もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、ものごとや人に沿つて考へることではなくて、ものごとや人について、手前勝手に想像してしまつたり、その想像にこころが支配されてしまつて、その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。
 
もの想ひは、めくるめくやうにわたしのこころの中を巡り、輝きわたり、「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、人は目覚めることができる。けれども、もの想ひにふけることで、人は夢を見てゐるやうな、あるいは、眠り込むやうなありように陥つてしまう。
 
そんなありようを、どう受け止めたらいいだらう。
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
世は、まごうことなく、秩序と法則に従つて時を生きてゐる。
 
そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、すでに出会ふべき人に出会つてをり、すでにするべきことに向かつてをり、すでに生きるべき人生を生きてゐる。
 
さう、見直してみないか。
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、この時期だからこそ、その「世の考へる」「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」に任せてみる。
 
夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまい、見失はれたからこそ、来たる秋から冬にかけて新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、からだをもつと動かしていくことを通して、感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
頭であれこれ考へるよりも、手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
その手足の動きこそが、「世の考へる」との親和性は高い。 
 
それは感官を超えたものを見いだし、感じ始めることでもあり、理屈抜きで、この世のものといふもの、ことといふことをなりたたせてゐる基のところを垣間見ることでもある。
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、また顕わなところも、よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
夏ならではのこころの練習として、ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝へられる考へ、それらは、こころに直接響いてくる。小賢しく考へる必要がなく、それらのことばと考へが、こころに直接「訪れる」。
 
その訪れるものを「世の考へる」と、ここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものを記してゐるのではないか」と感じることがよくある。
 
もの想ひから抜け出す道を、わたしも、いま、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いてゐる。
 
 
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 


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2019年07月23日

第三回 「日本と皇室の歴史」勉強会(8月3日)のお知らせ


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金子堅太郎 

 
なぜ天皇陛下は男系でなければならないのかを考へてみたのが、この勉強会の第一回目でした。
 
なぜ、日本はこれまで、女系天皇を決して認めず、男系天皇のみで百二十六代存続させてきたのかといふこと。
 
皇室は、百二十六代、道を守つて来ました。
 
女性天皇は御存在しましたが、女系天皇は決して存在しませんでした。
 
それは、皇室以外の男の血が皇室に入つてしまふことで、好戦的で、野心と欲望、私心に満ちた血が皇室に混じつてしまふ可能性を断つためです。
 
男は女に比べそのやうな性質が強いといふ、人の昔からの変はらぬ智恵からでした。
 
皇室の中心におわします天皇の御存在の大きな役割は、聴くといふことです。
 
ただ聴くといふことがどれほど大きな力を持つことでせう。
 
黙って一分間、ものごとを眺め、耳を澄ませるといふことがいかに難しいことか。
 
和歌(うた)を作るとき、上手につくらうといふ虚栄心とたたかひ、ものごとを正確に見、私心を排してものごとの動きにこちらのこころをぴつたり重ね合わせる。
 
それが和歌のみちであります。
 
人のことばに耳を傾けるのが皇室の伝統。
 
かかる修業、練磨、修養の積み重ねが、「万世一系」の具体的な内容です。
 
そこには子供を見つめる母親のまなざしのように、ゆるがない人間の真実、無私の精神があるのです。
 
つまり、男性でありながら、極めて女性的な力を養ひ続けてこられた、それが皇室の伝統精神だと、わたしは感じてゐます。
 
 


そして7月の第二回目では、明治のはじめにおいて、「ギロチンによる恐怖政治をもたらしたフランス革命の歴史を徹底して学んだからこそ、説得力ある形で日本がなぜ皇室を戴く民主主義国家を守らなければならないのか、その理論を(みづからの著書にて)提示することができた」人、中江兆民のことを学びました。
 
 

来月8月3日の勉強会では、「なぜ日本には皇室がなければならないのか。なぜアメリカやフランスのような大統領制ではいけないのか。皇室をなくして日本も共和制になるべきだという議論は如何に間違いであるのか」といふことについて学んでいきます。
 
 

江崎 道朗 (Michio Ezaki)氏による『天皇家 百五十年の戦い[1868-2019]』を教科書にしてゐます。
 

 
今月は、29ページの「イギリスの保守思想家バークを紹介した金子堅太郎」の章から読み始めます。
 
 

ぜひ、共に、少しずつ、近代国家として歩み始めた明治時代からの我が国の歴史を、皇室といふ存在に焦点を置きながら、学んでいきませんか。
 
 
 
日本の精神を探り求めるには、皇室といふものの研究・理解が不可欠のものであると、わたし自身は考へてゐます。
 

 
お待ちしてをります。
 
 
 
 

 
●日時:
 
8月3日(土)
毎月第一土曜日午後3時より5時頃まで
 
 
●場所・お問ひ合はせ・お申し込み:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
●参加費:
 
場所代として500円
 
 

 
※ご参加される方は、教科書を各自ご購入の上、お申し込みをお願ひいたします。
 
 
 


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まなこ、ひらけば


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今日の午前、下の娘は学校のプールから帰つて来たあと、粛々と夏休みの宿題をしてゐる。
 
自分は、午前の勉強を終えて、万代池のほとりで、本を読んだり、雲を眺めたりした。
 
梅雨の晴れ間の青い空に浮かぶ雲。
 
風にそよぐ緑の木の葉。
 
なにひとつ止まつてゐるものがない。
 
特に雲は、ちょつと見ると緩やかに流れているだけのやうだけど、じつと見つめていると、非常に微細な動きを活発にしてゐるのがだんだんとはつきりと見えてくるのが不思議で仕様がなかつた。
 
その生きもののやうな微細な動きを追つてゐると、まるで雲はことばをささやき合つてゐるやうだ。
 
こちらのこころまでそわそわ、わくわく動いてくる。
 
そして、あらためて空全体を渡るたくさんの雲を視界の中に入れてみると、大きな青いキャンバスに大きな動きで、何かを絵ことばで伝へようとしているかのやうに感じてくる。
 
この感じは単なる気のせいだらうか。
 
側で将棋を指すおじさんたち。交はすことばは、「ふ〜ん」「ほっ、ほっ、ほっ」ぐらゐ。
 
思考のゲームをあんなにも楽しむことができるなんて。
 
いや、他人のことは言へない。
 
自分も雲を見て、こんなに喜んでゐるんだものな。
 
 
 
 

しかし、世の激しさ、恐ろしさ、荒ぶるものたち、それらをみる目を曇らさないでゐたい。
 
この穏やかさ、安らかさをみる目を曇らさないのと同じくらゐに。


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2019年07月22日

いつもの風景 〜参議院選挙が終はつて〜


漸く、参議院選挙が終はりました。
 
選挙期間中は、インターネット上でも様々な意見や思ひが行き交ひ、飛び交ひます。
 
そして、かうして、結果が出ました。
 
日本に住む国民の多数は、はつきりとは意識し切つてはゐないとしても、いまだに健やかな感覚を失つてはゐない、さう、わたしは見ます。
 
日本を侵食しようとしてゐる外国の政治勢力の指示によつて行動する徒党を許さないのです。
 
もちろん、さういふ徒党は、そのやうな指示のことなどおくびにも出しません。
 
いくつかのそれら徒党は、ただただ美辞麗句を国民の人柄の善さと国民自身の自己不信に付け込んで吹き込みます。
 
吹き込まれた人は、歴史についての認識のなさゆゑ、美辞麗句のもたらす雰囲気に一気に摑まれてしまふこと、明治以来、繰り返されて来たことです。
 
わたしの周りに、この「摑まれてしまふ」人があまりにも数多をられること、そのことの意味を考へ続けてゐます。
 
 

以前、わたしは、政治と精神文化における「ことばの違ひ」を大切にしたほうがよいのでは、と書きました。
 
人は、間違ひなく、己れの一身で政治と文化を生きてゐます。
 
しかし、「ことば遣ひ」をしつかりと分ける必要がある。
 
精神文化においては、「尊ぶこと」「慈しむこと」「育てること」こそが至上命題であり、一方、政治における至上命題は、「勝つこと」です。
 
このたびの選挙で、「敗けた」といふことを他者のせいにせず、自分自身のこととして、どう見つめ、どう考へていくか、それがないのなら、永遠に「敗け続ける」ことでせう。
 
なぜ、敗けたのか。
 
「弱者である自分たちは抑圧されてゐる」といふルサンチマン(恨み)にどれほど自分たちの思想が基づいてゐるものであり、その感情そのものがこの国の文化には受け入れられないものであり、この国に根付いてゐないものであり、木に枝を継ぐやうなものだといふことを見つめないかぎり、なぜ、敗け続けるのか分からないままではないでせうか。
 
選挙前まで大騒ぎしてゐたはずなのに、もう「敗けた」ことを忘れたかのやうに、他の話題に浮き身をやつしてゐる。
 
なぜ、「敗けた」そのことの原因を真摯に見つめないのか。
 
あの負け方はひとつの戦略だつた、とか、何者かが投票用紙をひそかに改ざんしたから敗けたのだ、などといふのを見て、馬鹿を言ふのもいい加減にしたらどうだらうと思ひます。
  
そして、ただ、選挙に行きました、自分自身の意志を持ちました、参加したことに意味があるといふ、それだけでは、ただの精神論に堕してゐる、と思はずにをられません。
 

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2019年07月16日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌ひ、踊る〜


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大阪市住吉区の生根神社の夏祭り 

 
そして、我あり、感官の高みに。
 
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
 
精神の火の世から、
 
神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
 
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 

Und bin ich in den Sinneshöhen,             
So flammt in meinen Seelentiefen            
Aus Geistes Feuerwelten                 
Der Götter Wahrheitswort:                
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.
 
 

 
これから始まる夏、草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、活き活きと働いてゐるその自然のいちいちから、客観的な精神が人に語りかけてくる。
 
一行目の「我あり、感官の高みに」とは、ものといふもの、そのいちいちを、じつくりと見、聴き、触れ、味はふことを通して、普段見過ごし、聞き過ごしてゐるものが、よりものものしく、より明らかに、より動きを伴つて、見えてくる、聴こえてくるといふことと通じてゐる。
 
感官の高み。それは、こころの、細やかな、密やかな深まりとして、育まれるもの。
 
自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣ひに耳を傾けてみよう。
 
その密やかさのうちに、ことばが燃え上がるやうに響いてくる。
 
こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。
 
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」
 
まことのことばを燃えるやうに人間に語りかけてゐる神々。
 
客観的な精神。
 
その外なる精神は、この季節、金色に輝いてゐる。
 
わたしたち人に燃え立つ炎のやうに語りかけてゐる金色の精神。
 
この夏の外なる精神の方々が発する金色の輝きを浴びるわたしたちは、冬、クリスマスの頃、みづからのこころの奥底、精神の基に、内なる金色を輝かせることができよう。
 
来たる冬に、精神に縁のある、金色に輝く己れみづからをしつかりと見いだすことができよう。
 
夏のいまは、外なる金色の光に応じるやうに、眼差しを注ぎ、耳を傾け、さらには、踊り、歌を歌ひながら音楽と詩を奏でることで、冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。
 
 
 
そして、我あり、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」
 
 
 
諏訪耕志記
 
 


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2019年07月14日

公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』、想ひ起こすこと





昔話の「たつの子たろう」。
 
謡曲を言語造形作品とした「高砂」。
 
そして、丹後国風土記を下敷きにした劇「浦島子」。
 
 
このたびの言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』は、茫洋とした、陸と海との境の行き来を描いたものでした。
 
 
そして、わたしたちは、この公演に臨んで、何か、大切なことを想ひ起こさうとしてゐたのでした。
 
 
海の神を祀る、住吉大社のお膝元に生きてゐるわたしたちにとりまして、この題材は、ひたひたと静かに波が寄せてくるかのやうに、わたしたちの人生にも引き寄せられて来たものなのでした。
 
いや、きつと、わたしたちが引き寄せられて来たのでせう。

 
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諏訪千晴の「たつの子たろう」を舞台袖で聴いてゐて、物語の終はりに、「たつ」と「たろう」と一緒に、お客様のこころも天へと登つて行くのをありありと感じ、ありありと観たのでした。
 
 
それは、ことばに相応しい身ぶり・造形を通して、ことばの音韻から音韻への流れが息遣ひとともに、螺旋のフォルムを描きつつ、天へと巡り登つて行つたからです。
 
 
 
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さらに、古語で詠はれ、演じられた「高砂」「浦島子」に、お客様は何を感じたでせうか。
 
 
 
頭の知性によるのではなく、手足の運動をもつて、詠はれ、演じられるそれらの古典作品は、日本人であるわたしたちに何を想ひ起こさせるのでせうか。
 

 
相生(あひおひ)の松風の爽やかさ、青海原の広やかさ、君の恵みのありがたさ・・・
 
 
 
さらには、男と女がひとつであつたこと、人と神とがひとつであつたこと・・・。
 
 
 
パーソナルな次元を超えた、人としての普遍的な想ひ出へと、世のはじまり、天地の初発(あめつちのはじめ)へと、いま、ここにて、わたしたちに立ち戻らせる道を示すのが、芸術のつまりの存在意味だと思ふのです。
 
 
 
このたびの舞台に何人かの子どもたちが聴きに来てくれてゐました。
 
 
意味をすぐには受け取り難い古語に直面した子どもたちは、はじめはきつと、むずがります。
 
しかし、そのことばに深い息遣ひと内的な身ぶりがあることで、だんだんと、その難しさを乗り越えていき、言語造形そのものを味はふやうになつてゆくのです。
 
 
 

聴き手とわたしたち演者は、ことばに波打つ「精神」こそを共有することができただらうか。
 
足利智子さんの奏でる楽の音(ね)が呼び起こす「精神」こそを共有することができただらうか。

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そんなことを想ひ続けてゐます。
 
 
  
その「精神」は、時を越えて、人の意識の上層部ではなく、下層部へと働き続けます。
  

 
 
公演を終へて、浦島子の精神と、山幸彦と豐玉姫の精神に、感謝を捧げますと、わたしのこころはいつになく動くのでした。
 
 
 
 
能舞台。
 
そこは、ことばの運動にとつては、解放と凝縮が極端といつていいほど顕はになされなくてはならない場でありました。
 
 
  
「ことば」の芸術。
 
そここそを、聴き取つていただくことができるやうな舞台芸術を、これからも、とこしへに、創りつづけて行きたい、さう念つたのでありました。
 
 
 
ものごとの外側をわたしたちはとかく忙しく廻り続けがちです。
 
 
しかし、静かな内側へとみづから跳び込んで、精神の海にありありとある宝物を、わたしたち演者と一緒になつて掴み取る聴き手と出会ひたい。
 
 
そのために、これからも、とこしへに、創り続けて参ります。
 
  
そのために、言語を造形すること、ひとつひとつの音韻にすがたを与へていくことに、こころもからだもまるごとで取り組んでいく人へと、わたし自身ますますなりゆくのです。
 
 
 
ことばに仕へる人が必要です。
 
 

他業に目移りすることなく、そのことを本業にする人が必要です。(このことは、世阿弥も、そのやうなことを申してをります)
 
 
 
また、新しく、道を歩んで行きたいと念つてゐます。
 
 
 
どうぞよろしくお願ひ申し上げます。
 

 
 
 
 
 

 
浦島子、魚(うお)取る漁夫(あま)なり、
釣り翁(をきな)なり、
さはあれど、志は高くして、
雲を凌ぎていよいよ新たなり、
こころは強く弱く思ひやりて、
ひじりを得て、
おのづから健やかなり・・・
 (「ことばの家 諏訪」版 浦嶋子より)
 
 
 
 
 
 
人のこころ!
あなたは手足に生き
手足に支へられつつ、場を経て
精神の海へと行きつく。
行なはれたし 精神の想ひ起こしを
こころの深みにて。
そこにては
世の生みなし手が司り
あなたの〈わたし〉が
神の〈わたし〉のうちに
ありありとある。
もつてあなたは真に生きるやうになる
まこと人として、世のうちに。
 (ルドルフ・シュタイナー『礎のことば』より)
 
 
 


 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志記
 
 
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写真撮影:山本美紀子さん

 



posted by koji at 22:59 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月11日

こころのこよみ(第12週)  ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜


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帝塚山古墳 

 
世の美しい輝き、
 
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
 
内に生きる神々の力を
 
世の彼方へと解き放つやうにと。
 
わたしは己れから離れ、
 
信じつつ、ただみづからを探し求める、
 
世の光と世の熱の中に。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Johanni-Stimmung
Der Welten Schönheitsglanz,   
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden; 
Mich selber zu verlassen,            
Vertrauend nur mich suchend           
In Weltenlicht und Weltenwärme.        
 
 
 
今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
 
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
 
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
 
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
 
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、その祭りを執り行つてゐた。
 
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、橋渡しをした人であつた。
 
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、まさしく、炎のやうな情熱をもつて、ヨルダン川のほとりにおいて、全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。
 
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 
  

   汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり
   (マタイ3.2)
 

そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
 
 
   わが後に来たる者は我に勝れり、
   我よりさきにありし故なり
   (ヨハネ1.15)
 
   我は水にて汝らに洗礼を施す、
   されど我よりも力ある者きたらん、
   我はそのくつの紐を解くにも足らず。
   彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん
    (ルカ3.16)
 
   彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし
   (ヨハネ3.30)
 
 
ヨハネはイエスに洗礼を授け、イエスのこころとからだに、太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
 
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、地といふ深みへと降りたといふことであり、ひとりひとりの人の内へと降り、ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、その大いなる始まりでもあつた。
 
「内に生きる神々しい力」とは、人の内にこそ生きようとしてゐる、キリストのこころざし(Christ Impuls)。
 
ヨハネがそのことに仕へ、みづからを恣意なく捧げたことが、四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
 
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
 
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
 
 
 

しかし、シュタイナーは、その実感のためには、ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言つてゐる。
 
みづからの内において、キリストがあられるのを感じることは、おのづからは生じない。
 
人が世に生きるにおいて、みづからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己れから求めない限りは、「内に生きる神々しい力」という実感は生まれ得ない。
 
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
 
それは、この世を離れるのではなく、この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の求めることでもある。
 
この夏の季節、キリストは息を吐くかのやうに、みづからのからだである地球から離れ、世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
 
わたしたち人も、キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、精神である「みづから」を見いだすことができる。
 
 
 

生活の中で、わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだらうか。
 
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、それらの動きの中でこそ、からだを一杯使ふことによつてこそ、からだから離れることができ、こころを一杯使ふことによつてこそ、こころから離れることができ、「世の光と世の熱の中に」みづからといふ精神を見いだすことができる。
 
 
 

そして、この夏において、意識的に、子どもに、習ふこと。
 
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
 
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、鳥たちが歌ふことから学びつつ、その歌声を人間的に洗煉させて音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
 
鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。
 
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、己れから離れ、いまだ天に見守られてゐる<わたし>を見いだすことができた。
 
いまも、子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のやうな意識のありようを生きてゐる。
 
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
 
 
  

そして、わたしたちが己れから離れ、大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、天に見守られてゐるのを見いだし、響き返してくれてゐるのを聴き取ることができ、この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。
 
言語造形をしてゐても、さう、実感してゐる。
 
夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
 
ヨハネ祭の調べ。
 
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、みづからといふ精神を見いだすこと。
 
そこから、地上的なキリスト教ではなく、夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
 
そのことがキリスト以降、改められた夏の祭りとしての、ヨハネ祭の調べだと感じる。
 
 
 
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
 
  
 



posted by koji at 08:34 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする