2023年12月08日
当たり前に思つてゐた近代的生活からの脱却
自主独立とは、本当のところ、どういふ状態を言ふのだらうか。そんなことを我が身で考へ続けてゐる。
そして、保田與重郎の全集二十四巻に収録されてゐる『農村記』を丹念に読み続けてゐる。
「農村生活の改良を云ふ人々は多少とも農民生活を快適にし、負担を軽くしてやらうと思ふ人々である。農村の父たちはさういふ文化的都会生活的動向を、家のため、村のため、さらに国のためにおそれてゐるのである。・・・ある農家の青年に、君らが毎日重い荷物を運ぶ時これを馬車に一鞭あてて運ぶと云つたことを想像しないかと問うたところ、彼は言下に自分らはもつと大事なことを考へてゐると一蹴した・・・。」
「農村に於て誰の目にも自明な改良策をこばむものは、固陋でもなく、無智でもなかつた。それはアジアの自衛そのものであつた。」
「血気軽率の人は、必ず欺瞞に立脚した扇動者に奉仕するに到るだらう。かの扇動者らは、己の祭る幽霊や悪魔を、軽率な善人の祭る神とすりかへ、彼らに幽霊や悪魔を祭らせ、扇動して犠牲となす技術を了知してゐるのである。故に多事の日にこそ文学を深く学んで、美辞麗句の欺瞞性を見破らねばならぬ。困苦欠乏と貧乏を固守すると見える古い百姓の、その心持と考へ方を、その原因に於てさまざまに考へることは、今日の文學の緊急の課題の一つである。」
令和の代において、もはや、農民だけでなく、都会に住む大多数の日本人が「困苦欠乏」の中で生きてゐる。
しかし、ここに言ふ「農村生活」を「令和の代の市民生活」と言ひ換へたとしても、「生活の改良をこばむ父」は、どこにゐるだらう。
そして、日本中、「血気軽率の人」ばかりになつてしまつてゐて、扇動者が言ひ募る「時間がない!」といふことばに見事に煽られてゐはしないか。
快適さ、効率性、利便性、それらよりも「もつと大事なこと」とは何だらう。
「家のため、村のため、さらには国のため」に護らねばならない「もつと大事なこと」とは何だらう。
それらのことを、扇動者に動かされず、ぢつと立ち止まつて、ひとり考へる力。
2023年、令和五年の終はりに近づき、わたしたちは、ますます、この力の重要性を痛感せざるをえない状況ではないか。
どうしても、立ち上がつて来る問ひがある。
果たして、これまで当たり前に思ひ込んでゐた「経済を盛んにして、国民を豊かにするべく、我々から富を奪ひ盗つてゐるこの社会の仕組みを変へていかねばならない!」といふことは、本当に真実なのだらうか。
悪事を働いてゐる者を制することは当然のことだとして、しかし、搾取してゐる一部の者たちからその富を奪ひ返すといふ考へ方そのものに、近代を生きて来たわたしたち現代人の大いなる強欲さがすでにどこかに潜んではゐないだらうか。
本当に、難しい議論である。この近代的な生活を二十世紀から変はらずにさらに二十一世紀においても追ひ続けて行くことが、人の「みち」なのであらうか。いまさらと多くの人は思ひ、そんなこと、出来るはずがないと多くの人が鼻であざ笑ふだらうが、近代的生活のあり方を止めることができないかといふことである。
しかし、丁寧に、礼儀正しく、しかし、情熱を持つて、考へ続ける人と人とが出会ひ、語り合ひ、「もつと大事なこと」を確かめ合ひ、創り出すことが、きつと、できる。
そんな2024年、令和六年にするべく、いまから、ひとりひとり、各々、何かを始めることができる。
2023年12月04日
こころのこよみ(第35週)
<ある>とは何かをわたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己れみづからが世そのものを、
手足となつて慎ましく生き抜いていく力だ。
Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet
Im Seelenschaffensdrange ?
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n,
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
Als Glied bescheiden einzuleben.
2023年12月03日
約束を果たす
前田英樹氏著の『倫理という力』(講談社現代新書)に記されてある「約束」といふことについて語らせてもらひました。
サムネイルの彫刻は、長野県安曇野にある碌山美術館蔵の荻原守衛(碌山)作「女」です。
観て下さつて、どうもありがたうございます。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
人さまを畏(おそ)れよ
前田英樹氏著の『倫理という力』(講談社現代新書)に記されてある「人さま」といふことについて語らせてもらひました。
観て下さつて、どうもありがたうございます。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
人は誰もが教へ手になる
聴き手がゐない状態で、ひとりでパソコンの前で語りましたので、とてもぎこちない感じです^^;。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
心臓で考へる
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年12月01日
シュタイナーの学びは日本でこそ生きる
シュタイナーは、人の考へる力をこの上なく大事なものとして捉えてゐますが、その上で、感じる力、情の働きこそが、密(ひめ)やかな学びにおける、まこと、よき教へ手なのだと説いてゐます。
その感じる働き、情の働きからこそ、ものごとの本質に迫ってゆく学び方、生き方を、日本では、古来、「もののあはれを知る道」「ものへゆく道」と呼んでゐました。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年11月28日
言語造形「われらが萬葉集 その七 柿本人麿 吉野の宮 萬葉集36〜39」
• われらが萬葉集 https://www.youtube.com/playlist?list=PLygaPNag2hOf3jmQ1qehQwKzIUi2rCvpM
※この「われらが萬葉集」で詠はれるすべての歌は、土佐の国学者、鹿持雅澄による訓みです。
我が国最古の和歌集『萬葉集』。
言語造形による朗唱でお聴きいただきます。
ことばのひとつひとつの意味よりも、響きのリズムと母音の広がり、子音のかたどり、それらの音楽的要素・彫塑的要素を感じてみませう。
共に味はつていただくことができればなによりです。
なぜ、『萬葉集』といふものが、この世に生まれたのか。
それは、当時の日本が危機に直面してゐたからです。
我が国の先祖伝来の精神文化が、隣の大国・唐からの最新の文化・文明に、駆逐されさうになつてゐたからです。
ご先祖様から受け継いできたものの考へ方、暮らしの立て方、人生の送り方、そして、何よりも、古くからのことば遣ひ、それらが失はれさうになつてゐたからです。
明治の文明開化の約一千年前にも、同じやうな深刻な矛盾を、我が国は抱えざるをえなかつたのです。
『萬葉集』は、古くからのことばに対する信仰、ことばに対するたいせつな感覚を保持し、未来永劫の日本民族に、そのことばの美、言霊の力、言語芸術を、なんとか残さうとして、大伴家持によつて編まれたものです。ことばの伝統は精神の伝統であり、それを守り、育むことで、民族はその精神文化を保持することができるのです。
この『萬葉集』が編まれたことによつて、その後も辛くも、日本は日本であり続けることができたのだ、さうわたしは確信してゐます。
言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。
わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けてゐます。
「ことばの家 諏訪 言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/
透き通つた明るさを勝ち取つてゆくこと
参政党の内紛を観てゐて、あらためて分かつて来たことがある。
人の世は、つまるところ、政治では埒が明かない。いや、むしろ、近代政治は、人の世をとことん貶めるところまで貶めるだらう。
そして、近代政治が行はれ続けてゐるかぎり、世はますます混乱を来たし、破局が訪れるかもしれない。そして外なるものの支へが失はれるやうな惨状を呈するときが来るかもしれない。
しかし、それらやつて来るすべてには意味がある。
それは、さうなるからこそ、物質的なものへではなく、靈(ひ)・精神の方へと、初めて人の眼差しを向けさせ、こころに水平の次元ではなく、垂直の光の柱を樹てさせる。
さうなるからこそ、人の靈(ひ)・精神が、漸く目覚める。人は、そこからこそ、初めて、奮ひ立つ。
世に、外なる支へを求めることができなくなつて初めて、自分自身から世に光と熱を放つてゆかねばならないことを悟る。
それは、生き方の大転換だ。
人と人とが諍ひ、罵り合ひ、傷つけ合ひ、果ては殺し合つて、悲しいことだが、漸く、人はまことの観点に立つことができるのだらう。
争ひには、勝者と敗者が生まれるが、もしくは、どちらも、敗者となりうるが、とりわけ、敗者の内にこそ、偉大なる靈の目覚めが生まれうる。
人は、敗れて、心底打ちのめされて、初めて、気がつく。
だから、人生の中で、敗れ去ることを恐れてはいけない。
敗れても敗れても、何度でも立ち上がるのだ。
この世の力に敗れるからこそ、あの世の光をへりくだりつつ求める。そして、神なるものに我が身が通はれることを、心底、乞ひ求める。
神と共にあり、神と共に働きつつ、生きてゆくことを至上の喜びとするやうになる。
それは、靈(ひ)と共に生きることであり、この身がだんだんと靈(ひ)に浸され、通はれ、貫かれ、透き通つた明るさを勝ち取つてゆくことである。
神への無言の直観。 靈(ひ)の訪れ。 大地の底から立ち上がつて来る倫理の原液。
多くの人が叩く減らず口に惑はされず、そこに決して同調せず、我がこころの内こそを清浄に整へる。
そして、目の前のもの、人、すべてと、自分自身との間に流れてゐる透き通つたものを観る訓練をしていくこと。
この生き方を、我が国では「神(かむ)ながらの道」といつて来たし、パウロが告げ続けたキリストのこころざしを生きることでもある。
ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは
在原朝臣業平 (百人一首17)
己れの声を聴きながら
そもそも、和歌(うた)は読むものではなく、声に出して歌うものです。
なぜか。
和歌とは、そもそも、なげきであったからです。
なげきとは、長く息を吸い、長く息を吐くことだからです。
息遣いから、声が発せられ、ことばの響きが宙に拡がってゆく。
そうして虚空に拡がりゆく響きと調べが、人の乱れに乱れていたこころを鎮め、落ち着くべきところに落ち着かせるのです。
この声の作用は、頭で考えられるだけのことばよりも、いつそう、深く、強く、人のこころとからだに降りて行きます。
なぜなら、考えは過去に根差すものですが、声は現在にあるものだからです。
ひたすらに、声を出す人の「いま」を響かせます。
よって、声あることばの力によって、情が慰められ、思いが整えられ、動揺に耐えることができ、己れを建て直す機縁が得られます。
何千年前から日本人は、そのようにして、激しい情の渦に巻き込まれそうになる己れのこころを律し、こころの解放と自由を生きるために、和歌を声に出して歌いつづけてきました。
その声は誰に聴かれたでしょうか。
もちろん、人に聴かれました。
人に聴いてもらうべく、ことばを整えました。
より上手く、より深く、我がこころのありゃうを人に聴き取ってもらえるようにことばを整えました。
しかし、本質的なこととして、まずもって、他でもない自分自身によって聴かれるべく、その声は発せられたのです。
己れの声を己れが聴く。
これほどに、ことばの持つ力が実感されるときはありません。
己れの声は、己れの「いま」であります。
嘘をつくことのできない「いま」であります。
己れの「いま」を、己れが見いだし、己れが深く受け取り、己れが己れを消化するため、人は、和歌を歌ったのです。
『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』・・・それらは、ことばの芸術に通じるわたしたちの御先祖様たちが、なんとかこころの悶えを抑えようとして抑ええた、ことばの事績の集積なのです。
そういう声による自己陶冶の道を、いまに甦らせるのが、言語造形の道です。
ことばに鋳直され、造形された、先人のこころの振幅を、わたしたちは、言語造形をもって、いま一度、追体験してみます。
そのとき、わたしたち現代人と、古(いにしえ)の人とが、一挙に、こころを通わすことが生まれ得る。
それは、国語の、さらには歴史・国史の最善の学びようだと、わたしは思います。
2023年11月26日
こころのこよみ(第34週)
ルオー「聖顔」
密やかに古くから保たれてきたものを
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内に活き活きと感じる。
それは目覚めた世の数々の力を
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込み
そしてだんだんとわたしを、ありありと刻み込んでゆくだらう。
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein
Im Innern sich belebend fühlen:
Es soll erweckend Weltenkräfte
In meines Lebens Außenwerk ergießen
Und werdend mich ins Dasein prägen.
英詩と和歌 ことばに仕える体験
冠木 友紀子さんの通訳藝術道場に集まられた方々と言語造形を通して、昨日、東京西日暮里にて英詩と和歌をからだとこころまるごとで味わう時間を持つことができました。
イギリスの18世紀から19世紀にかけて生きたWilliam Wordsworthの、まことに慎ましい趣きの一片の詩「Written In The Album Of A Child」。
その豊かな深い精神が、冠木さんの導きによって顕わになるのです。
冠木さんは、まずは、その詩を朗唱され、その響きにわたしたちは耳を澄ませます。
その上で、ことばのひとつひとつに光と影と動きが宿っているということを、英語という言語の内部へと踏み入りながら、冠木さんは語られるのでした。
それはまた、ことばのリズム、強弱、長短、また音韻のもつ形がその詩の持つ精神を表現してはいないかという、問いかけでもあるのでした。
その問いに応えるように、わたしたちは、言語造形を通して、ことばひとつひとつに沿ってからだを用いながら、その詩を声に出してみるのでした。
そのとき、その詩のもつ表情、雰囲気、しぐさ、感情、願い、それらの言うに言われぬ何かがわたしたちの周りに立ち上がって来るのです。
そして、天空と大地の間に立っているわたしたち人というものの営みがいかにモラーリッシュでありうるかということ。
からだとこころと精神の共同作業である言語造形によって、その詩に潜んでいる真の道徳性がありありと感じられるのでした。
そして、次に、萬葉集の巻頭第一首目の雄略天皇による御製歌(おほみうた)に全身全霊で取り組んでいただいたのでした。
神ながらの精神から詠われている萬葉集の歌をわたしたちは、緩やかに、かつ、伸びやかに腕を振り、息を解き放ち、歩いて行きながら、腹の底から、母音の「O」の響きを通奏低音として、虚空へとことばを響き渡らせます。
この巻頭第一首目の長歌(ながうた)のもつ、音韻の運びやリズム、形や動きによって、ことばの意味以上に如実に実感させられるもの、それは、日本という「くに(近代的な意味での国家ではない)」が、そもそもどういう「くに」であるのか、という、民族の精神に関わることでした。
そこには、まことに優しく、愛と雄心(をごころ)に満ちた、こころもちと、くにがらが、湛えられているのでした。
朝から夕方までかけて、わたしたちは、英詩と和歌を通し、ことばというもの、そのものが持つ願いを感じるまでに語らいは至りました。
ことばとはわたしたち人が使うものである、という通念を正すこと。
ことばとは、わたしたち人が仕えるべきものである。
なぜなら、そうすることによって、ことばがそもそも湛えている高く深い精神が、わたしたち人を、物質性を超えた、より高い世へと導くからです。
ことばを大切にする民族は守られます。国語を大事に育てゆくことこそが、最も根底のくにの護りなのです。そして、それこそが、平和の礎となります。必ずです。それは、萬葉集の編纂者、大伴家持の悲願、こころざしでもありました。
洋の東西を問わず、詩人たちは、古来、俗語を正す(松尾芭蕉)という使命に貫かれた人でした。
詩を、文学を、ことばの芸術を、身でもって味わい、その言霊に沿うような生き方へと歩いてゆくこと。それは、人をまことの道徳性へと導きます。
そのために、言語造形という芸術が、ルードルフ・シュタイナーを通して、この世に生まれたのです。
こういった機会を設えて下さった、通訳藝術道場主催の冠木さん、そしてお集まりくださった皆様、こころよりお礼を申し上げます。
これからも、「言霊の幸(さきは)ふ国」、国民総詩人化(!)に向けて、働いて行きたいと思います。
2023年11月22日
聴くといふこと( 聴覚について)
よろしければ、ぜひ、ご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年11月19日
言語造形「われらが萬葉集 その六 柿本人麿歌集より 萬葉集1100」
巻向の 痛足(あなし)の川ゆ 往く水の
絶ゆること無く またかへり見む
柿本人麿歌集 (萬葉集1100)
奈良県桜井市にある巻向山。その山のほとりに、穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)がまこと静かに鎮まつてあります。
萬葉集における代表的歌人、柿本人麻呂は、その穴師の山人(やまひと)の出だと地元の人は語つてゐたさうです。
穴師の山から降りて来たその山人は、神のことばに通ずる人であつたこと。
その子孫であられたであらう、柿本人麻呂が、大和朝廷における宮廷歌人として言霊を幸(さき)ははせ、大和歌の真髄を詠ひ上げることによつて、後の代の国と人のまごころを守つたといふこと。
そのことを誰よりも大伴家持は認め、人麻呂の歌を軸として、萬葉集を編んだのです。
それらのことの内実、精神を、昭和の文人、保田與重郎が語り尽くしてくれてゐます。
ことばと人。
そのつながりは、人をも、国をも、神をも、共に甦らせる、言霊の風雅(みやび)に通はれたものなのです。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。
わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。
「ことばの家 諏訪 言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/
2023年11月18日
こころのこよみ(第33週)
わたしはいま、世をかう感じる。
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて、世は新しく創りなす。
世そのものにおいては、死を見いだすのみ。
So fühl ich erst die Welt,
Die außer meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend,
In Seelen sich von neuem schaffend,
In sich den Tod nur finden könnte.
2023年11月17日
辞典ではなく註釈書を! 〜保田與重郎『わが萬葉集』 吉川幸次郎『古典について』〜
小波(ささなみ)の 波越す畔に 落(ふ)る小雨
間(あひだ)も置きて 吾(あ)が思(も)はなくに
(萬葉集3046)
保田與重郎の最晩年の大著『わが萬葉集』にある、詠み人知らずのこの歌に対する註釈がわたしにとつて、とても印象的だつた。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
「波越す畔に」と訓まれたのは、まことになつかしく心のふかい詩情である。
「小波(ささなみ)の波越す畔に落(ふ)る小雨」といふ叙景は、感情のしめやかにあふれた詩情、忘れ難いあはれが感じられた。
かういふ濃かななつかしさが、萬葉集の詩情にて、その多くは名も無き人たちの作歌である。
しかしさういふ遠世の無名の人の歌を、多くの代々の人々が心にとどめてよみ傳へ、やがて(大伴)家持によつて記し残されたといふことを考へ併せると、私の心はわが無限の遠つ人への感謝で一杯となる。
しかもこの感謝は、自他を一つとするやうな、うれしくなつかしく、よろこばしい気持である。
そして、この日本の國に生まれ、萬葉集をよみ得るといふことに、悠久な感動を味ふのである。
この時、私にとつて、すべての愛國論は雲散霧消し、わが心は遠つ御祖の思ひと一つとなる。
この國に生まれたよろこびと、この國のいとほしさで、わが心は一杯となる。
(『わが萬葉集 第26章』より)
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
これが、註釈といふものであり、批評文学といふものであると改めて念ふ。
叙景に重なつた詩情が淡く湛へられてゐる様を、かくも見事に言ひ表し、萬葉集といふわが國に残された古典の意味をかくもしたしみぶかく語る、このやうな文章こそ、われらの文學である。
この和歌が一千三百年前のものとは到底思へぬのは、このやうな萬葉歌への最良の手引きあつてこそである。
このやうに、歌のことば遣ひとそのリズムを身体に響かせることを通して、歌人のこころの襞に分け入り、歌とひとつになりゆく註釈といふ文学の営為が失はれてしまつたのは、明治以来であつた。
吉川幸次郎といふ中国文学者が『古典について』といふ本の中でおほよそこんなことを書いてゐる。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
江戸の代まであつた日本の文明・文化のきめこまかさが、明治の代になつて失はれてしまつた。
そのひとつが「註釈の學」である。
そして、明治は、古典の註釈として、江戸までにあつた名著を生んでゐない。
明治時代が代はりに得たものは、大槻文彦らの辞典の學であり、また歴史の學であつた。
辞典の対象とするものは、単語である。単語は概念の符牒にすぎない。
「いい」といふ単純極まりないことばでさへも、「いい人」「いい男」「人がいい」などでは、意味が変はつて来る。他のことばといかに結びつくかによつて、かくも意味を分裂させ、変化させる。辞典はその平均値を言ひ得るにすぎない。
「しづかさや岩にしみいる蝉の聲」。「しみいる」は日常のことばである。しかし、芭蕉のこの句におけるそれは非凡である。また、しみいるの非凡によつて、しづかさももはや辞典の追跡し得るところでは完全にない。
精緻な註釈の學のみが、その力をもつ。
明治の歴史学は、『古事記』などの書を、もつぱら史料として読んだにすぎなかつた。言語はただ事実を伝達するための媒介と見なされ、言語そのもののもつ心理のきめなどはあまり問題にされなくなつた。
古典をその言語に即して読む場合は、単に何を言ふかが問題ではない。いかに言つてゐるかが問題なのだ。
宣長の言ふ「言(ことば)と事(わざ)と心(こころ)とはそのさま大抵相かなひて」といふ見識からこそ、文章を発したその人のこころと精神を汲み取るといふことこそが、読書といふ行為の眼目なのだ。
それは、つひには、人といふものを見いだすか、見失ふかの、瀬戸際の行為なのである。
明治の近代生活のはじまりによつて、わたしたちは本当に大切なものを失つて来てしまつてゐる。
「古典」といふ語、それがすでに明治漢語のひとつである。それは、クラシックといふ西洋語の翻訳として、明治の時代に生まれたものである。その時代から、かへつて、きめのこまかな古典の學を衰退させてしまつたのだ。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
註釈とは、江戸の代にまで息づいてゐた、ことばの働きそのものに対する尊び、敬ひ、畏れ、そして愛しみの情と念ひからなされる「人の仕事」であつた。
わたし自身も、奇しくも、シュタイナーに出会ふとほぼ同時に、鈴木一博といふ人に出会ひ、彼から、シュタイナーの書を通して、その註釈の仕事とはいかなることかを学んで来れた。
ことばにしたしく、熱をもつて取り組むことによつて、どれほど、活力とよろこびと知の明瞭さを授かつたことだらう。それは、ひとりの人の精神・靈(ひ)のありかをも告げ知らせてくれるものであり、世の靈(ひ)に触れるやうな感覚をももたらしてくれるものだつた。
わたしの内において、アントロポゾフィーの学びが、我が国の「神(かむ)ながらの道」へと伸びて来たこと、戻つて来たことは、まさしくおのづからなことだつた。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
宣長が「言」を尊ぶのは、「言」が「史」を記すからではない。少なくとも、そのためばかりではない。
「言」そのものが「史」であるからである。
言語は事実を記載するがゆゑに尊いのではなく、言語そのものが事実なのである。
(吉川幸次郎『本居宣長 世界的日本人』)
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
言語そのものが事実である、言語そのものが人の歴史である、その認識を元手にして生きて行くとき、人は、どのやうな生き方をすることになるのか。
わたしは、ずつとそのことを問ふて来た。
おそらく、鈴木一博氏もそのことを問ふてをられ、シュタイナーも、ゲーテも、宣長も、そのことを問ふてをられた。
2023年11月16日
ことばを話す時の三分節
よろしければ、どうぞご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年11月13日
昔話「みそさざいは鳥の王様」
よろしければ、どうぞご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、言語造形の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年11月12日
こころのこよみ(第32週)
林武「花」
わたしは感じる、稔りゆく己れの力を。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる内に。
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
Zur Klarheit sich zu wenden
Im Lebensschicksalsweben.
2023年11月09日
しづかさに耳を澄ますとき
毎朝、しづかさのひとときを創ること。自分自身という存在を広やかな拡がり、光に満ちたものとして実感すること。
メディテーションとコンセントレーションの営みのたいせつさを述べてゐます。
それは、秋から冬にかけて、とりわけ、して行つていい営みです。
よろしければ、どうぞご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年11月08日
花や虫の前に佇むことのできる先生
よろしければ、どうぞご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年11月07日
こころのこよみ(第31週)
光が精神の深みから、
外へと陽のやうに輝きいづる。
それは生きる意欲の力となり、
そして感官のおぼろさを照らし、
力を解き放つべく、
こころから創らうとする力を
人の仕事において熟させる。
Das Licht aus Geistestiefen,
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
Um Kräfte zu entbinden,
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
Im Menschenwerke reifen lassen.
世は美しい 〜国語教育のこれから〜
秋深まりたる箕面山
何年も前になるのですが、「百人一首の歌をいまやつてるねん」と言ひながら、小学生の次女が、国語の教科書を持つてきました。
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき
猿丸大夫
秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
能因法師
鹿の鳴き声が悲しいといふこと。
雲からもれ出づる月の光をうち見るときの感覚を「さやけさ」といふことばで言ひ表すといふこと。
川面に落ちたたくさんのもみぢの葉の流れる様を「錦」と見立てること。
子どもにとつては、いまだ経験したことのない景色と感情かもしれません。
しかし、まづ、このやうに、日本人は、詩人によつて「選ばれたことば」で、世を観ることを習つてきたのです。
さうして、鳴く鹿の声は悲しく哀れだ、と感じてきたのです。
そのやうに詩に、歌に、ことばで誰かによつて言ひ表されてゐなければ、ただ、鹿が鳴いてゐるだけであり、ただ、月が出てゐるだけであり、ただ、川に葉っぱが流れてゐるだけとしか、人は感じられないはずです。
国語とは、価値観であり、世界観であり、人生観であり、歴史観です。
世は美しい。
その情を最も豊かに育むことができるのは、小学生のころ。
国語の風雅(みやび)を謳歌してゐる古い詩歌が、そんな教育を助けてくれます。
その時、その高い情は、決して先生や大人から押し付けられるのではなく、子どもひとりひとりの内側でおのづから生まれてくるのを待たれる情です。
しかし、その高い情を、大人がまづ真実、心底、感じてゐなければ話になりません。
そのやうな、子どものうちにことばの芸術を通して生まれてくる情を待つこと、それが国語教育です。決して、決まり切つた情、決めつけられた作者の意図などを教え込むことが国語教育ではありません。
作者の意図を汲み取らせることなど、特に小学校時代には意味がありません。知性で意図されたものなど、たかが知れてゐます。ことばといふものは、それを話す人、それを書く人にも、意識できないところを含んでゐて、その意識できないところに潜んでゐる豊かな世界を、それぞれひとりひとりの人が汲み上げて行く喜び。それこそが国語芸術の存在意義です。そのやうな含む所豊かな本物の文章しか、時代を超えて残りません。どんな小さな子にも本物を与えることが、大人に課せられてゐる課題です。
この世がどんな世であらうとも(いま!)、子どもたちのこころの根底に、「世は美しい」といふ情が脈々と流れ続けるやうに、わたしたちができることは何だらう。
そんなことを念ひます。
2023年11月06日
言語造形オンラインクラスのご案内〜フィジカルなからだから羽ばたく〜
宇治川の上に拡がる秋の空
zoomによる言語造形クラスのご案内です。
今月は、11月8日(水)午前10時からのAクラス、28日(火)の午後8時からのBクラスをいたします☺
講師:諏訪耕志
●日程
Aクラス 第二水曜日10時〜11時半(ご参加人数により12時まで)
Bクラス 第四火曜日20時〜21時半(ご参加人数により22時まで)
●参加費
体験ご参加 5000円
その後6回連続ご参加 24000円
※連続ご受講の際、受講者の方のご都合でのお休みに際してご返金できかねますので、ご了承ください。
●お振込み先
三菱UFJ銀行 北畠支店 普通 0662296 諏訪 耕志
参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。
●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/
ルードルフ・シュタイナーによるこんなことばがあります。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
あなたは、フィジカルなからだの中に、こころを持っているのでは全くない。
あなたの息遣いのうちに、こころは生きている。
わたしたちは、風の中にこころをもって生きている。
息を吸い、吐くときに、こころは風の中を、風と共に泳いでいる。
地球は絶えず重力をもって、人を病と死に追いやろうとするが、呼吸をすることで、人は地球のその働きかけから守られ、健やかに生きることができる。
息遣いとは、地球から与えられている働きではなく、大いなる世(宇宙)から与えられている働きであり、人のこころとからだの健やかさを守り、育む。
(「精神科学における感官への教育の礎」第八講より)
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
言語造形という芸術は、その息遣いを促すことにおいて、法則に沿いつつ、かつ、フィジカルなからだから羽ばたいて、空間へとこころを自由に解き放ちます。その行為が、する人を、また聴く人をも、健やかさへと促すのです。
一度、体験なされてみませんか。
2023年11月05日
ひとりの人に降りて来た神の意志 〜令和五年度 土舞台顕彰会 前田英樹氏講演「保田與重郎」〜
奈良の桜井といふ場。
そこがどのやうな意味を持つ場であるか。
神々の神々しい足跡、先人の尊い足跡が、深く大地の底に鎮められているだけでなく、山や川の様相に今も残っている場、それが桜井であること。
そのことを親しみをもつて、かつ明らかに語つたのは、この桜井出身の昭和の文人、保田與重郎でありました。
この春、『保田與重郎の文学』を上梓された前田英樹氏は、この日の講演を次のやうなことばから切り出されました。
「保田與重郎こそは、その身に神が降りて来られ、神の意志のままに語り、動き、生きざるを得なかつた、歴史にまれに現れるひとりの文人である」と。
100年少し前の桜井といふ地にそのやうな人が出現したといふことも、奇(くす)しくも驚くべきことではないかと、前田氏は桜井市民に向かつて、真つ向から語るのでした。
この桜井といふ地で保田與重郎が一身を賭けて説かうとした、たいせつな精神を知りゆき、引き継ぎゆき、繰り出しゆく必要が令和のこの時代にどうしてもある。
19世紀後半、ドイツのヴァイマールに設立されたゲーテ・シラー文庫において、近代化に抗するまことのドイツ精神を守らうとしたルードルフ・シュタイナーをはじめとする人々の仕事のやうに、まことの日本精神を学び、守り、伝へゆき、さらには、芸術的、教育的な発展を生み出してゆくためのセンターを桜井に創ること。
その仕事をわたしは担ふのだといふ、念ひ。
前田氏のことばを聴きつつ、わたしはそのことを考へてゐたのでした。
また、前田氏によつて、保田の親しみに満ちた趣深いことばが紹介されました。
それは、日本といふ国を支へてゐるたいせつな何かを知り、その上で現代に生きてゐるわたしたちが何をなしてゆくことができるか。そのことについて、「相談を人々にもちかけたい」といふことばです。
相談を互いにもちかけあひ、談らひあふ。
そこからこそ、ひとり、また、ひとりの人のこころの深い内側に火(靈)が灯る。
こころの内に灯る靈(ひ)・精神の働きこそ、ひとりひとりの自主独立を求めるものはありません。
さうして、初めて、人と人とがまことの意味で力を合はせて働くことができる。
前田氏、そして桜井の土舞台顕彰会の方ともお話を交はすことができ、そんな想ひをさらに暖めることができた、わたしにとつては、かけがへのない一日で、また、桜井の保田與重郎の生家の前に立ち寄り、礼をして、大阪に帰つて来たのでした。
しづかさとうつくしさ 和歌に潜む日本の美の歴史
京都、宇治川沿ひにある興聖寺での言語造形の営み。
宇治川は 淀瀬なからし 網代人 舟よばふ声 をちこち聞こゆ
(詠み人しらず 萬葉集1135)
萬葉時代よりも昔から、この宇治川では、琵琶湖から落ちて来る鮎を漁るために網代木といふものを川の岸から岸へと渡してゐました。
この流れの速く水量も多い宇治川には、ゆつたりとした淀もなく、浅い瀬もない。ただ、ただ、わたしは流れてゆく、流されてゆく。そして、わたしを呼ぶ声が、遠くから、近くから、聞こえて来る。しかし、わたしは、どこまでも、流されてゆく。
秋ならではの、そんなこころを、昔の和歌を通して味はふことを願つた時間でした。
そこには、底深い、しづかさというものがあるのでした。そして、かなしみはうつくしいと感じるのでした。
午後の斎藤弥生さんによるベンガラ型染のワークショップにても、皆さん、夢中で取り組まれてをられました。出来上がつたうつくしさに見惚れてしまひます。
しづかさとうつくしさ。
取り戻して行きたいものなのです。
次回は、12/10(日) 10時よりです。
●スケジュール:
10時〜12時 言語造形ワークショップ
12時〜13時 ランチ座談会
13時〜14時 休憩後ベンガラ型染体験
●場所:
興聖寺・衆寮
https://www.uji-koushouji.jp/
●参加費:
言語造形+ベンガラ型染
単発3500円 三回連続10000円
言語造形のみ
単発2500円 三回連続7000円
なお、回ごとに興聖寺入山料500円かかります。
ランチは別途1500円でご用意できます。
●お申し込み:
次のサイトからウェブチケットをご購入いただきます
https://ticket.tsuku2.jp/events-store/0000213092
2023年11月04日
先生の手本に則ることで自由になりゆく
よろしければ、どうぞご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年11月02日
まことの善 それは乗り越えられた悪
よろしければ、どうぞご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
you tube channel「諏訪耕志 アントロポゾフィーハウス ことばの家」のご紹介
ルードルフ・シュタイナーによる精神科学アントロポゾフィー。そしてその学びから生まれたことばの芸術 『言語造形』。
「アントロポゾフィーハウス ことばの家」は、そのメディテーションに繋がる精神の学びと、芸術実践とを、二本柱にする、アントロポゾフィー運動体で、諏訪耕志によつて運営されてゐます。
日本語によるアントロポゾフィーの深まりを目指し、日々行つてゐる講義の一部を、また、言語造形といふことばを話す芸術による舞台公演やワークショップの模様なども、動画にしてゐます。
日本といふ国の土着の精神とアントロポゾフィーという普遍の精神とが、深みにおいて通ひ合ひ、21世紀の新しい精神文化を日本から産み出して行くための土壌づくりをしてゐます。
ご覧いただき、おひとりおひとりのこころの糧としていただければ、こんなに嬉しいことはありません。
また、共に、このアントロポゾフィー運動に加はる、ひとりひとりの「人」を求め続けてゐます。
you tube channel「諏訪耕志 アントロポゾフィーハウス ことばの家」にご登録いただき、動画を通して、このこころざしを共有していただければと切に希つてゐます。
you tube channel「諏訪耕志 アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://www.youtube.com/@suwakouji/videos
2023年11月 アントロポゾフィーハウス 諏訪耕志
2023年10月31日
もののあはれを知る人を育てる教育
ほとんど雲ひとつない秋晴れで、穏やかなことこの上ない今朝、天王寺公園でひとときを過ごしていました。少しずつ秋も深まって来ました。
春、夏、冬は、「深まる」とは言わないのに、秋だけは「深まる」と言いますね。秋という季節の移りゆきと共に、ものを思うこころも深まって来るからでしょうか。
ものを思うこころの深まり。それは、こころの内なる空間が、濁りをだんだんと去って、澄んで来るがゆえにだと感じます。澄み切った秋の高い空のように、こころの内も透明度を増してゆくように感じるのですが、皆さんいかがでしょうか。
本居宣長の歌論『あしわけ小船』から『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を続けて読んでいます。何度目かの再読ですが、本当に勉強になるなあ、と今朝もため息をついていました。
そう、この「ため息」。この「ため息」「嘆息」をつくときの人のこころのありようを表すことばをこそ、「あはれ」と言うのだと宣長は説いています。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざま言ひ方は変はりたれども、その意(こころ)はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふなり。
俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしとも、おかしとも、たのしとも、かなしとも、恋しとも、情(こころ)に感ずる事はみな阿波礼(あはれ)なり。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
「あはれ」とは、まさに、なににつれ、「あぁ・・・」と胸から、こころから、息が吐かれるときに湛えられている情のありようです。
その吐息には、どれほど、その人の嘘のない、まごころが籠められていることでしょう。また、籠もってしまうことでしょう。
息を吐いてみる。声に出してみる。ことばにしてみる。
そのように、人は、己れの内にあるものを外に出して、初めて我がこころを整えることができ、鎮めることができる。そうして、ようやく、自分自身に立ち戻ること、立ち返ることができる。
さらには、外に響くことばの調べをより美しく整えて行く。その吐息に乗って、整えられたことばづかい、それが和歌(うた)です。
不定形だったこころのありさまを、和歌(うた)として整えられた調べへと造形することによって、人は、「もののあはれを知る」ことができるのでした。それは、「己れを知る」ということへとおのずから繋がってゆき、さらには、「人というものを知る」ことへと、道を歩いて行くことができるのでした。
そして、宣長は、和歌(うた)とは「もののあはれを知る」ことにより生まれて来るものである、と説くのでした。そしてその和歌(うた)に習熟していくことによって、人はますます「もののあはれを知る」人になりゆくのだと。
本居宣長は、そのような、この国の歴史の底にしずしずと流れていることばの生命力を、ひとりひとりの人がみずから汲み上げることの大いなる価値を、その生涯の全仕事を通して謡い上げ、語り尽くしたのです。
わたしは、いまも、いや、これからますます、この「もののあはれを知りゆく」ことが、子どもから大人にいたるすべての人にとっての最もたいせつな教育目標であると考えています。
日本人が日本人であること、それは、「もののあはれを知る」人であるということではないでしょうか。
そのためには、国語教育、文学教育が、どれほど重きをなすことでしょう。
小学校へ上がる前は、たっぷりと、昔話やわらべ歌、美しい詩歌や和歌を全身で聴くことができるように、そばで大人が語り、詠ってあげる。
小学校へ上がってからは、子どもたち自身が全身で詠う和歌(うた)から授業を始めるのです。ことばの意味は措いておいてもいい。まずは、ことばの流れるような調べを、先生の声、自分自身の声の響き、震えを通して、全身で味わうところから。そうして、国語の授業だけでなく、色々な授業を通して、ゆっくり、だんだんと、自分自身のことばを整えてゆくことを学んで行く。
ことばを整えてゆくことによって、子どもたちは、自分自身のこころを整えてゆくことを学んで行くことができるのです。
こころとことばとが、ひとつに重なること。これは、本当にたいせつなことです。
なぜなら、人は、ことばによってこそ、ものを考え、「もののあはれ」を感じ、自分自身のこころを決めることをなしとげるからです。
吐かれる息づかいに、顔に表れる表情に、することなすことに、その人のこころのありようが写しだされます。
しかし、とりわけ、こころのありようは、すべて、ことばに表れます。選択されることばの趣きに、発せられることばの響きの後ろに、表れます。
小学校時代には、知識を詰め込むのでもなく、知識に取り組むのでもなく、外なる世に現に向き合っている自分のこころに豊かな情が育ってゆくことこそを、子どもたちは求めています。その情の育みのためには、こころとことばが美しく重なった言語生活が最もものを言うのです。
これまで、国語教育では、正しいことばづかいは教えられてきたのかもしれません。しかし、これからは、美しいことばづかいを学んでゆくことに、人としての教育の如何が懸かっています。
重ねて言いますが、その美しさは、表面的なものではなく、こころとことばがひとつに重なる美しさです。
和歌(うた)から学びを始めること。美しいハーモニー。調べをもったことばづかい。
宣長は、その日本人が古来たいせつにして来た精神の伝統を甦らせてくれた人なのです。
2023年10月30日
万代池の彼方に沈む夕陽
陽の旅路 燃えてあかねに しづみゆく 我も汝も ひとりなりけり
虫の音や あくまで低く しみわたる 池の水面(みなも)に さざ波立てむ
秋風は おほぞらわたる ひろびろと こころ洗はれ なみだ流れる
2023年10月29日
こころのこよみ(第30週)
奈良県桜井市笠の笠山荒神社にある
速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)のつるぎ
速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)のつるぎ
こころの陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豊かな実り。
己れを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだらう」
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
Des Denkens reife Früchte,
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.
2023年10月27日
11/4(水)11/28(火)から始まるオンラインでの言語造形クラスのご案内
ことばを声に出すことは、芸術になりうるということ。
そのことをオンラインでの言語造形クラスを通して皆さんと分かち合っていきたいと願っています。
とりわけ、日本語を芸術的に話すことは、わたしたち日本人にとって己がこころに懐かしくもたいせつな何かを想い起こさせ、そのことによって自分自身を取り戻してゆくことが始まります。
さらには、世界中が日本語の言霊の甦りを待ち望んでいるのだということまでもはっきりと感じるのです。
そのことを肌で実感してゆく機会を日本中、世界中の日本語を話す人に届けて行きたいのです。
11月より、毎月一回、オンラインにて言語造形のクラスを開催いたします。
朝と夜の2クラスあります。まずは一度、体験参加という形でご参加いただき、その上で、もし引き続き、学んで行きたいと感じられましたら、朝のAクラスか夜のBクラス、どちらかをご選択いただき、継続して学んでいただきたく思っています。
言語造形講師 諏訪耕志(すわこうじ)
●日程
Aクラス 第二水曜日10時〜11時半(ご参加人数により12時まで)
Bクラス 第四火曜日20時〜21時半(ご参加人数により22時まで)
●参加費
体験ご参加 5000円
その後6回連続ご参加 24000円
※連続ご受講の際、受講者の方のご都合でのお休みに際してご返金できかねますので、ご了承ください。
●お振込み先
三菱UFJ銀行 北畠支店 普通 0662296 諏訪 耕志
参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。
●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/
2023年10月23日
第一回目 京都宇治 言語造形&ベンガラ型染めワークショップ ありがとうございました
宇治川の上流から、朝日が昇りくる。
豊かな水量の宇治川。
宇治平等院を抱える宇治川西側。
朝の爽やかな木漏れ日を浴びながら、宇治上神社の後ろの大吉山を登る。
言語造形を通しての和歌の朗唱。それは、31音のことばの音韻を空へと解き放つ作業。そのとき、ことばの響きの向こう側に、こころの思い、ういういしい情の流れが立ち上がって来るのでした。初めて体験して下さった皆さん、今日は本当にありがとうございました。
秋ならではの、宇治ならではの、深い、とても味わい深い時間になりました。
齊藤弥生さんの導きによるベンガラ型染めも、皆さん、時間も忘れ、夢中になっておられました。
また、少しずつ、日本の古くからの芸術文化、工芸文化をご紹介していくことができればと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
諏訪耕志
皆さん、ベンガラ型染めに夢中。
皆さん、今日は、本当にありがとうございました。
2023年10月21日
こころのこよみ(第29週)
みづから考へることの光を、
内において力強く灯す。
意味深い数々の験しを、
世の精神の力の源から指し示す。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静かさ、そしてまた、冬の希み。
Sich selbst des Denkens Leuchten
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
2023年10月20日
恩寵の秋
奈良県天理市にある崇神天皇陵から遥か東の二上山を眺める
内なるこころの育みに向けての実践の書である、ルードルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』。
この書に、もう二年半ほどの間、毎週取り組み続けていただいてゐるオンラインクラスをさせてもらつてゐます。
秋も少しづつ深まつて来て、その秋といふ季節からのおのづからな働きを受けるやうに、わたしたちのクラスにも、ある稔りを感じるのです。
この季節になると、決まって思ひ出すことがありまして、それは、もう十数年前にわたしの師、鈴木一博さんが行つた秋の祝祭に関する講演の内容です。
そこでは、確か、松尾芭蕉と与謝蕪村の俳句が紹介されて、その句を精神の観点から注釈することで、秋といふ季節がわたしたちに何をもたらさうとしてゐるのかが見事に解き明かされたのでした。
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
江戸の元禄の頃の長屋の暮らしに限らなくてもいいと思ひますが、何も隣家の人の動静を伺つてゐるのではなく、まさに、人への深く熱い想ひから、「あなたは何をする人なのですか」「あなたは何をするべくこの世に生きてゐるのですか」といふ、滅多に他人に問ふことのない問ひを芭蕉はこころの奥底で響かせてゐる。
それは、隣人といふ隣人への問ひであり、つまりは、己れみづからへの問ひでせう。「あなたは何をする人ですか」。秋とは、そのやうな問ひを立てるべく、考へる力によつて意識が明るんで来る、そんな季節。
わたしたちのオンラインクラスにおいても、二年半といふ時の流れからも、おのづと熟して来たものがあり、それは成果を期することなく、ただ学び続けることの手応へ、そしてメンバー同士の互いへの信頼といつてもいいやうに思ふのです。そこから、この『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の書においても、おのづからのごとく、「人のこころを観る、聴く」といふことに取り組む段に入つて来たのでした。
書の上で読むだけでなく、わたしたちのクラスの共に学び合ふ者ひとりひとりが、己れのこころがまこと求めてゐることをことばにしてみる、そのことばにしづかに周りの者は耳を澄ます、さうしますと、クラスのあと過ごす一週間、仲間が語つてくれた願ひや念ひが我がこころにずつと響き続けてゐるのをありありと感じるのです。
その一週間は、まさに、芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」といふ句が孕む精神に対するエコーのやうな調べをこころに揺曳させるかのやうな時の流れであり、語つてくれたその人その人の存在が、まさに「隣人」として親しく、深く、こころに響いてゐる。その調べを感じてゐる。そんな、人の現存を感じる時の流れです。その隣人は、物理的には遠くにありますが、心理的、精神的には、まさに我がこころの「となり」にゐてくれてゐます。
また、与謝蕪村の句にも、本当にしみじみと秋の精神に感じ入ることのできる注釈を鈴木さんはしてくれたのでした。
己が身の闇より吠えて夜半(よは)の秋 蕪村
我が身において、闇があること。それは、闇であるのにもかかはらず、その闇が闇として見えるといふこと。そして、闇が極まる夜中「夜半」、己が身の闇よりわたしは吠えざるをえないこと。泣かざるをえないこと。叫ばざるをえないこと。
そのありやうは、己れの身のうちに闇などないと思ひ込んでゐる者との間に、雲泥の精神の開きを感じないでせうか。己れの内なる悪に無自覚な者と自覚してゐる者とでは、また、単なる無知と、己れが無知であることを知つてゐる無知とでは、生き方においてどれほどの違ひが生まれて来ることでせう。
そして、秋といふ季節は、己が身の闇を闇として捉える光が差し込むときだといふこと。何も見えてゐないといふことが見えて来た。何も分かつてゐないといふことが分かつて来た。そのこころのあり方にこそ、光が訪れて来ないだらううか。
そんな精神からの光が訪れ、我が胸がときめき始める。そこには、希みが兆し、生きてゆく勇気が湧き上がつて来はしないだらうか。こんな自分にも、ここに生かされてあることへの感謝と、〈わたしがある〉ことへの信頼がいただけないだらうか。
その勇気、感謝、信頼は、持たうと思つて持てるものではなく、隣人と己れみづからへの親しみからの、愛からの、考へる働きによつてこそ、おのづから我がこころに訪れる恩寵です。
己が身の闇をまつかうから認め、意識することによつて、その闇から正直に、素直に、語ること、歌ふこと、泣くこと、吠えることによつて、そして、その声を誰かに聴いてもらふことによつて、また、たとへ誰もゐなくとも自分自身で聴くことによつて、恩寵がこころに訪れる。
そんな秋です。
2023年10月19日
螺旋状に深まりゆく我らの生 キリストと米づくりと四季の巡り
日本の国において、アントロポゾフィーを生きるといふこと。それは、この国の精神性を深く掘り下げて行くことであります。
この国の精神性とは、仏教伝来以前の遥か昔より営まれてゐた「神(かむ)ながらの道」に息づいてゐます。その精神性が、いまだ、この国には息づいてゐる。
それは、米づくりといふ農の営みと大和歌(やまとうた)といふことばの芸術が支へ続けてゐるのです。
その農の営みと言語の営みを次の世代に傳へ続けて行くこと、わたしには、それこそが教育の根底として行つていいと考へてゐます。
観て下さつて、どうもありがたうございます。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年10月15日
ミカエルの秋(とき)@〜B
負ふてゐた我が子に教へられる^^;
意識の目覚めの秋(とき)来たり
安心していいよ
よろしければ、どうぞご覧ください。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
2023年10月14日
こころのこよみ(第28週)
棟方志功『R火頌(かぎろひしやう)』より
保田與重郎の和歌
「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」
保田與重郎の和歌
「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」
わたしは内において新しく甦り、
己れであることの拡がりを感じることができる。
そして、力に満ちた考への輝きを、
こころの陽の力から、
生きることの謎を解きつつ贈ることができる。
いくつもの願ひを満たしつつ与へることができる。
希(のぞ)みはすでにその揺らぎを鎮めたり。
Ich kann im Innern neu belebt
Erfühlen eignen Wesens Weiten
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen
Aus Seelensonnenmacht
Den Lebensrätseln lösend spenden,
Erfüllung manchem Wunsche leihen,
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.
2023年10月13日
前田英樹氏著「愛読の方法」
この書の題名は「愛読の方法」ですが、いかにして、どのやうにして、本を愛読するかについて説いてゐる本ではありません。
「愛読」といふ、人の精神がなさずにはゐられないひとつの鮮やかな振る舞ひがいかなるものであるかといふこと。
そして、その一冊の本を愛読する読者が、時代を超えて連綿とあり続けることによつて、その本は古典となり、また後世の誰かによつて愛読される。
その愛読といふ行為の人から人への継承が、人の世に精神からの一筋の道を通して来たことのいかなるかが、親しく語られるやうに書き記されてゐます。
たとへば、この人生をいかにして生きるかを問ふてやまない、わたしといふ人が、ここにゐます。
そのわたしが本を読む時、おのづから生じるこころからの振る舞ひ、せずにはゐられない振る舞ひ、それが、愛読といふ行為なのです。
そして、そのやうに求めるわたしには、必ず、向かうから、愛読に値する本がやつて来るのです。
著者の前田氏もこの不思議への信頼を基にして、そのやうな不思議を一途に信じて生き抜いた豪傑たちの列伝を描いてをられます。
愛読に愛読を重ねることのみで、水平世界を突き抜けて、宇宙へと通じる垂直の次元へと至つた豪傑たちです。
そして、また、この前田氏のこの本を愛読するわたしは、この本に語られてゐる豪傑たちの精神に触れることで、自分自身の本の読み方の工夫の仕方を自力で見いだす旅へと出るのです。
本を読むとは、精神が精神をみて取ることを促す、ひとつの導きです。
その尊敬する人が書き残してくれた一冊の本を愛読するとは、その著者の精神が、光の波のやうに我がこころに浸透し、貫いて来ることです。
そのありやうを、前田氏が、ことのほか、上手に指して説いてをられます。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
「影響」とは、ちょっと惹かれて、真似してみたりすることではない。
何かとひとつになって、それまでの自分が消えることである。
消えて、言うに言えない一種の振動だけが、新しくなった自分を満たしている、そういう経験をすることだ。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
文字といふ道具がこの世に生まれて以来、人はみづからを精神の牢獄へと追ひやらずにはゐられませんでした。
物質主義に傾く抽象性と、そこから生まれて来る思ひ上がつた不遜さといふ精神の牢獄です。
道具とは、常に、さういふ面があるといふこと、「なんとかと、鋏は、使ひやう」といふことわざ通りです。
文字は、人によつて生きられてゐた活き活きとしたことばの生命感やおのづから生じる身振り、表情を殺しました。そして人は殺したものを記録して貯蔵しました。そして、その貯蔵された文字を重宝がることによつて、だんだんと人は生きる活気を失ひ、衰へ、死の牢獄の中にみづから入り込んで行きます。
すべての道具には、そのやうに、人をより便利で効率的な生き方へと導きつつ、人を不精、無能にし、つひには死へと追ひやる性質があるのですが、しかし、もう一方の性質があります。
それは、道具の使用に深く習熟していくことによつて、世界の内側の奥へ、奥へと通じて行くことができる、といふ芸術的、精神的な面です。
大工さんは、鋸や金槌の使ひ方に習熟して行くことによつて、木材の内側へと深く入り込み、木といふ植物存在と対話するやうな境へと進んでゆく。さうして、木が依然呼吸し続けてゐるやうな家を、社を、彼は建てる。
米づくりに勤しむ農夫は、毎年毎年繰り返される稲の世話を通して、米粒一粒一粒に神が宿られてゐることを直感するまでになりゆく。
そして、文字といふ道具は、情報の取得や伝達といふ機能を超えて、用ゐられることがある。
いい文章といふものは、その連続された文字の記述に潜んでゐる、ことばのいのちの流れ、響きに満ちた調べ、意味、すべてを含む精神の運動・律動の中へ読む人を引き入れ、その動きが奏でてゐるリズムとハーモニーの世へと導く。
文字といふ道具を通して、人はそのやうなことばが奏でる精神の運動に入り込んでゆくことができます。
愛読とは、そのやうなことばの内に秘められた働きとひとつになりゆくことです。
そして、それは、何の予備知識も要らない、この身ひとつで辿る精神の運動です。
人はいかにして生きるかといふ問ひを持つ人にとつて、すべての道具は、己れの道を歩みゆく上でのかけがへのない導きとなりうるのです。
そのやうな道具との深い付き合ひは、時流に流されることのない、絶えざる生きる喜びを人にもたらします。
一冊の愛読書を持つといふことは、たとへばその一冊が古典であるならば、文字を介して昔の人と自分自身とを繋ぐ歴史のまことの継承を意味し、そのことが人をどれほどの充実感で満たすことでせう。
水平世界の中で閉じ込められた現世での息苦しさから自分自身を解き放ちつつ、垂直の精神の柱を打ち樹て、歴史を貫く宇宙のリズムへと連ならうとする行為、それが一冊の本を愛読することなのです。
以前、この本について書いた読書ノート『愛読のよろこび』2020年2月28日
2023年10月11日
ルネッサンス以降、明治維新以降、わたしたちが物質主義的になつた訳
観て下さつて、どうもありがたうございます。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年10月10日
「え」といふ母音のもつ三つの次第
観て下さつて、どうもありがたうございます。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
2023年10月07日
宇宙が喜んで受け取るものと受け取りを拒否するもの
観て下さつて、どうもありがたうございます。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
こころのこよみ(第27週)
セザンヌ「庭師 ヴァリエ」
わたしといふものの深みへと進みゆく。
御声(みこゑ)の響きに満ちた憧れを呼び起こし、
わたしはわたしを見いだす、己れを見てとりつつ、
夏の陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
我がこころの求める力として。
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt
Als meiner Seele Kräftetrieb.
2023年10月06日
神話を見いだす
若き日のミヒャエル・エンデ
暮らしと芸術が、深いところで通い合っていた時代があった。
その通い合いが、暮らしと芸術の互いを生命力で満たしていた時代があった。
連綿と続く、そういう営み、育みがあるということが、文化に型があるということなのではないか。
文化の型が失われ、いや、文化そのものが失われ始めて、どれほどの年月が経ったのか。
わたしは、文化ということばを、物語と言い替えてもいいかもしれないと思っている。
物語が、わたしたちから失われてしまった。物語るとは、ものを語ることであり、ものとは、そもそも、見えないもの、聴こえないもの、さわれないもののことを指す。
物語りとは、人のこころ、夢、内なる秘め事、表沙汰にはならない隠されていたこと、そして通常の感覚を超えた英知を語ることであり、果ては、神のことを語ることを指す。
だから、物語は、そもそも神話だ。神話とは、神自身が語られたことばをそのまま人が語り継ぐことから始まり(古事記)、神に触れ、神に通われるような、驚くべき、畏るべき経験を語ることであった。
文化に型があった時には、物語の共有、神話の共有がなされていた。
わたしたちは、共有する物語を失い、神話を失い、文化の型を失い、文化そのものさえも失ってしまっている。人と人とをむすぶエレメントを失ってしまっている。
だから、いま、人は、自分自身の神話を見出すしかない。芸術を真摯に生きようとする人は、とりわけそうだ。
ひとりひとりが孤独に夢を織り続け、その孤独の中に、自分ひとりだけの神話を見いだし、聴きとること。そして見いだしたもの、聴きとったものを、下手でもなんでもいいので、外に表し続ける。
そのような神話の個人的な表出の仕方が、いったい何にむすびつくのだろう。
自分自身の足元を掘って掘って掘り進むことによって、見たこともない岩盤にたどり着くかもしれない。その岩盤はとても古く、そしてとても新しい。その岩盤が語りだす物語は、新しい共有性を持つ可能性はないだろうか。
芸術を通して、人と語り合う今日この頃。
2023年10月05日
新しい祭りづくりを目指して
京都府南丹市園部の山間の小さな村。齋藤 健司さんと豊泉 未来子さんのゐる青い森自然農園。そこで、ほんの少しだけれども、稲刈りのお手伝ひをさせていただく。
古い農家の中で質実な暮らしをされてゐるおふたりのすがたとこころのひろやかなありやうに、連れて行つたふたりの娘も深く深くこころに何かを受け取つてゐるやうで、大阪の家に帰つて来てから、ひたすら青い森自然農園のおふたりのことを喋つてゐる。
おふたりは、本当に、静かである。
こころが、静かである。
おふたりも、きつと、人生の旅をし続けてをられることと思ふのだが、その静かさが、優しさとなつて、客人を包む。
娘たちは、その静かさ、その優しさが、帰ってきた後も、こころにしづしづと流れて続けてゐるのを感じてゐるのかもしれない。
わたし自身も、そこへ足を運ばせてもらふたびに実感することがあつて、それは、彼らおふたりを通して、日本といふ国の生命がいまだ滔々とみづみづしく流れてゐる、その瀬音を聴かせていただいている感覚である。
米づくりといふ営み。
その収穫の時である、秋。
すべて手で稲を刈り、刈り取つた稲をはざに掛けること。
秋ならではのこの営みを日本人は、何百年、何千年、し続けてきたことだらう。
そこには、機械労働では決して得られない、天と人と地とを繋いで流れてゐる神々の生命に触れる感覚があり、この何百年、何千年間の日本の農を生きた方々との繋がりを持てたやうな喜びを感じさせてもらへてゐるのは確かなのだ。
そして、この収穫した米を炊き、餅に搗き、酒に醸し、神に捧げつつ、その新しき収穫を感謝をもつて神と共にいただく。それが、我が国古来の祭り。そのように神々と語り合ひ、飲み合ひ、祝ひ合ふ、新嘗祭(にひなめのまつり)が、我が国では毎年、旧暦の十一月の末に行はれてゐたし、新暦になつてしまつてゐるがいまも行はれてゐる。その祭りといふ行ひそのものが、そもそも、神々と通じ合ふ、たいせつな営みであつた。
そのやうに、神々の生命に触れることで、人は、甦る。
疲れてゐる人、病んでゐる人も、いのちの甦り、こころの甦りをいただく。
無意識に毎年繰り返される経済の営みとしての農といふあり方を突き抜けて、天と人と地を繋ぐものとしての米づくりといふ意識を積極的に持ち、その勝ち取られた意識から新しく祭りを創つてゆくことが、育ちゆく子どもや若者、そしてすべての大人たちにとつて、どれほど必要なことだらう。
何はともあれ、わたくしごころを排して、いつも、わたしたちを迎へて下さる、おふたりから、そんな祭りの新しい創造へ向かつての基本的な人としてのあり方を学ばせてもらつてゐる。
2023年10月02日
日本古来の教育とシュタイナー
ルードルフ・シュタイナーによつて、中部ヨーロッパで100年前に生まれた精神科学アントロポゾフィー。
その学問を、日本人が、日本語で、どう捉へ、どう深め、どう甦らせてゆくか。
もつと精確に言ふならば、日本人が自分自身を、どう捉へ、どう深め、どう甦らせてゆくか。
そのことを問ひ続けてゐます。
そもそも、日本古来の人を育てる術、それは常に、単なる「術」でも「方法」でもなく、「道」でありました。
その「道」を、西洋からの輸入物としての学問を通して意味づけすること、説明することには、何の意味もないと、わたしは考へます。
それは、明治の開国以来、文明開化の名のもとになされてきた「文化植民地化」をさらに蔓延らせるだけだと感じてゐます。
しかし、わたしには、日本人自身が忘れ果ててしまつてゐるみづからの懐深くに眠つてゐる日本古来の精神の生命を呼び起こすために、アントロポゾフィーといふドイツ発の精神科学との出会ひが必要だつたのです。
この出会ひを機縁として、わたしは、自分自身が立たせてもらつてゐるこの大地を、先人の方々からの学恩をありがたくもいただきながら、深く掘つてゆかうと思ひました。
この滅びゆかうとしている日本といふ「くに」が、もしこれから甦つてゆくことができるとしたら、己れの出自をしかと確かめ、己れのありやうをしかと認め、その上で、己れの強みをしかと念ひ起こし、希望と理想をたぎらせ、ことばを交はし合ひ、仕事を創つてゆくために己れを磨き続ける、ひとりひとりの意識の目覚めとこころの精進が要る。
わたしは、さう、確信してゐるのです。
観て下されば、幸ひです。
これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。
アントロポゾフィーハウス ことばの家 諏訪耕志
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。
わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。
2023年10月01日
幼な子の欲することば 〜グリム童話「へんな旅芸人」〜
昨日は、グリム童話の8番「へんな旅芸人」を語りました。
主人公は、旅芸人です。森の中で音楽を奏でます。バイオリンでです。
すると、バイオリンの音色に誘はれて、次々と動物たちが現れます。
しかし、その旅芸人(音楽を生きる人)が、音楽を奏でることで、なんと、森の中の動物たちを次々とやりこめ(統御し)、旅を続けます。
最後に、旅芸人は、森の中で、「人(狩人)」に出会ひます。旅芸人は、動物ではなく、「人」の前で音楽を奏でることができることをことのほか喜び、狩人もその音色に惚れ惚れとします。
そこへ、やりこめられた動物たちが、旅芸人を追ひかけ、つひには襲い掛かつて来ます。
しかし、「人(狩人)」は斧(つるぎ、でもいいでせう)を振り上げ、けものたちを退散させ、旅芸人を守ります。
さうして、旅芸人は、音楽の旅を続けて行くのです。
音楽とは、何でせう。
音楽は、人を精神と繋ぎ、神々しいものと出会はせることができます。
かつ、まことの音楽は、人の内なる動物性を駆り立てるものではなく、統御するものであります。
このお話は、昔より、そんな精神から語られてきました。
そして、語り手によつて、ことばのひとつひとつが、動きとかたちをもつて、語られます。
それは、ことばそのものが、動きの精神を孕み、かたちの精神を秘めてゐるからです。
語り手は、その動きとかたちを顕はにするべく、声にするのです。
語り手の(〈わたし〉による)目覚めて統御された意識。
(アストラルのからだによる)鮮やかな身振りと表情。
(エーテルのからだによる)呼吸の長短。
(フィジカルなからだによる)表現のまるごと、表現のすみずみに動きがあること。
さうして、ことばの精神と物語の精神は、実際に子どもの前で語る数多くの回数の中で実感されてきます。
むかしむかしのおほむかし、そもそも、ことばは、人の意欲への呼びかけでした。
現代のやうに、抽象的な思考をみすぼらしく表現するものではありませんでした。
人は、ことばを聴くたびに、からだがうづうづしたのです。
さらに、それに応ずる動きをしてしまふことが身についてゐたのです。
ことばは、発声器官だけでなく、人の運動器官まるごとのなかに息づいてゐました。
いま、人は、このことを忘れてしまつてゐます。
しかし、幼な子たちは、まだ、このむかしのことばの性質のなんたるかを知つてゐて、それを欲してゐます。
「はじめにことばありき」といふ時の「ことば」のなんたるかを知つてゐます。
「ことば」とは、世を創り、動かし、人を創り、動かすものでした。
そして、いまも、その「ことば」の働きの精神は、少なくとも幼な子には失はれてをりません。
幼な子たちは、お話を聴きながら、ことばとともに走りたがつてゐます。空を飛びたがつてゐます。海に、川に潜りたがつてゐます。
幼な子たちが欲してゐる、そんなことばを与へて行くこと。
それが、幼児教育のひとつの指針です。
そんなことばで育つことができたなら、その子は、後年、大人になつてから、生き生きとしたいのち溢れることばをものにする人生を歩いて行くことができるのです。
そして、ひとりひとりの人のことばが、世を創り、世を切り開き、世に仕合はせをもたらしてゆくのです。
2023年09月30日
こころのこよみ(第26週) ミカエルの祭りの調べ
ラファエロ「大天使ミカエルと竜」
自然、その母なるありやう、
わたしはそれを意欲において担ふ。
そしてわたしの意欲の火の力、
それがわたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが己れの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;
Und meines Willens Feuermacht,
Sie stählet meines Geistes Triebe,
Daß sie gebären Selbstgefühl
Zu tragen mich in mir.
2023年09月29日
令和五年(2023年)九月二十九日 中秋の名月
夕暮れて 望月清き 秋の空 高きにのぼれ ひとりし立ちぬ
涼しくも 秋の夜空を 渡るかな こころ澄みゆく 今宵十五夜
なかぞらに 照り渡りたる 月読の みことのまにまに 道ゆく我かも
#和歌
■ 諏訪耕志 プロフィール
「ことばの家」ホームページ
「ことばの家」は、言語造形による舞台創りのためのアトリエです。 お話を語り、お芝居を演じ、詩を詠うことを学ぶための講座・ワークショップ、このことばの芸術の源泉であるルードルフ・シュタイナーの人間学アントロポゾフィーを学ぶ場も設けています。 ことばへの芸術的な取り組みのなかで、どの人もその人自身として成長していくことができるような場にしたいと希んでいます。
■ 新着記事
民族の精神・こころ・からだ (12/04)
こころのこよみ(第35週) (11/29)
「母の国 滋賀」でのことばづくり (11/28)
目に見えない方々へお返しをして行くとき (11/26)
コトノハ農園のサツマイモ 紅はるか (11/24)
こころのこよみ(第34週) (11/22)
教師は歌いましょう! (11/22)
こころのこよみ(第33週) (11/16)
瞑想 それは幼児期の三年間の力を甦らせる営み (11/13)
昔話や神話を信じること (11/10)
こころのこよみ(第35週) (11/29)
「母の国 滋賀」でのことばづくり (11/28)
目に見えない方々へお返しをして行くとき (11/26)
コトノハ農園のサツマイモ 紅はるか (11/24)
こころのこよみ(第34週) (11/22)
教師は歌いましょう! (11/22)
こころのこよみ(第33週) (11/16)
瞑想 それは幼児期の三年間の力を甦らせる営み (11/13)
昔話や神話を信じること (11/10)
■ カテゴリ
クリックすると一覧が表示されます。
ことばづくり(言語造形)(240)
アントロポゾフィー(180)
断想(565)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(446)
こころのこよみ(魂の暦)(479)
動画(317)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(40)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
ことばづくり(言語造形)(240)
アントロポゾフィー(180)
断想(565)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(446)
こころのこよみ(魂の暦)(479)
動画(317)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(40)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
■ 最近のコメント
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
教育の根本 by 諏訪耕志 (06/21)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
教育の根本 by 諏訪耕志 (06/21)
■ 記事検索