2015年11月29日

子どもが視る神さま


IMGP4107.JPG



今朝早起きして、ひとりでいたら、
次女がやってきて、彼女が先日視た神さまの話しをしてくれた。
 
家族みんなで家で仲良く話ししているときに、
次女がふと向こうを見ると、
微笑みを浮かべ合掌をしながら、古い衣装を着た女性が光に包まれてこちらを見守ってくださっていたそうだ。
 
そのときは、あまりの神秘な感じに、
そのことを家族には言えなかった、と。
 
小学校にひとりの座敷わらしが現れ、
子どもたちと一緒に遊び戯れたが、
尋常一年生の小さい子どもらの他には見えず、
「小さい子がそこにいる」と言っても大人にも年上の子にも見えなかった、
と柳田國男も報告している・・・。
 
次女がそんな話しをしてくれたあと、
朝だというのに、昔話を話して聴かせ、
そのお話にもお互い感じ入りながら、昔話についてひとくさり。
昔は、子どもだけでなく、多くの大人も神さまたちを視ていたんだよ。
 
そのあと、
クリスマスツリーという依り代である聖樹に、
12月という聖なる月に備えて、飾りつけをした。


posted by koji at 22:12 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月24日

百年長屋(大阪玉造)での新言語造形クラス


DSC_0162.JPG


毎月第四土曜の午後の百年長屋(大阪玉造)での言語造形クラス。
定員一杯のため、
これまで何人もの方にお待ちいただいていたのですが、
新しく午前のクラス(月一回 第四土曜)を開くべく、
2016年1月30日(土)10:00〜12:30に体験クラスを開かせていただきます。
 
多くの人にとって、
日本人が日本語を話せることは、
当たり前のことだと思われているのかもしれません。
 
しかし、日本語には、思いも寄らない深い魅力が隠されています。
 
その深みを聴き取り、深みから発していくために、
言語を造形するという練習を重ねていきます。
 
ことばの力を改めて実感しながら、日本語を語り、話し、詠う練習。
 
日本語が発せられることが、芸術になりえます。
 
芸術に立ち戻った言語は、必ずや、人と社会に、活き活きとした命を吹き込みます。
 
来年からご一緒に始めてみませんか。


______________________________________

「言語造形」体験ワークショップのご案内
一般に知られるいわゆる「朗読術」とは異なる【ことばによる空間創造】の世界。
平面に文字として記された文字が、『ことば』によって立ち上がる様を、
より多くの方に体験して戴きたく「言語造形体験ワークショップ」を催します。

●2016年1月30日(土)10:00〜12:30
講師:諏訪耕志
定員:6名 

●体験費:3500円(お茶菓子つき) 
●持ち物:声に出してみたい文章(物語り・戯曲・絵本・落語・古典など)

●お申し込み・お問い合わせ(百年長屋まで) 080−2535−6937(中西)
                       info@nagaya100.com

posted by koji at 18:27 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月21日

引き続いている「密やかな、来し方」と「密やかな、いま」


つい、先日、あまりの腹部の痛みに、救急車に乗せられて真夜中病院に担ぎ込まれた。

そのとき、30代ぐらいの年齢とおぼしき担当医二人が施してくれたことは、何度も機械のなかにわたしのからだを横たえさせ、検査ということを繰り返し、そして最後には、「これといった原因が分からないので、しばらく様子を見るしかないので、お引き取り下さい」ということばを4〜5メートル離れたところからコンピューターの画面を見ながら言うだけであった。

一方、20代に見える若い方お二人も傍にいて、その方々は、親しく声をかけてくれ、痛みにうめくわたしのからだを支えてくれたり、何よりも目の前のわたしという「人」に向き合い、寄り添って下さった。

それは、ありがたいことだった。
科学的な検査結果ではなく、目の前の生きている「人」を診てくれる本当のお医者さんに出逢えた感覚で、感謝でいっぱいになった。


「いま」というときには、二種類あるように感じている。

「表に表れている、いま」と「密(ひめ)やかな、いま」。

「表に表れている、いま」において、人はいつも先のことを考えつつ、その「いま」にいる。未来のことがこころにかかり、より安全でより有益な未来に進むために、「いま」というときを費やす。しかし、その「未来のためのいま」を生きるところからは、本質的には、何の安心も、何の救いも、見いだせない。

人は、「密やかな、いま」においてこそ、「人」としてこの世に生かされている喜びと安らかさを感じることができる。そのような「いま」においてこそ、人は人間的になれる。

そして「密やかな、いま」は「密やかな、来し方」と結びついているのを感じる。

あの若い方々は、なぜ、あのような人間的な優しいありかたができたのだろうか。

きっと、彼らはこれまでの人生の中で、両親に、または他の多くの誰かに、人間的に、優しく、相対(あいたい)してもらったことがあるに違いない。そして、人と人とが愛し合い、語り合い、助け合う、そんな姿を身をもって感じたことがあるに違いない。それは、その人の中に、まさしく「密やかな、来し方」として息づいているからこそ、「いま」の中にも「密やかさ」を見てとることができるのだろう。

しかし、そのような人間的な経験(密やかな、来し方)は、就職の際に出される面談表や、成績通知書や、学位証明書や学歴などには表れでない。


どの人にも、「密やかな、来し方」が、きっとある。

要(かなめ)は、己れの「密やかな、来し方」を、想い起こすことかもしれない。とにもかくにも、こうして「人」として生きてくることができたということ。誰かに育ててもらったからこそ、こうして「いま」があるということ。そして、その想い起こしを積極的にしていくうちに、人の起源というような宗教的な想い起こしにまで至ること。

そして、わたしたちは、それぞれ、「密やかな、いま」を見いだすことのできる通路が、いたるところにあることに気づく。

人として生きていくうちには、いろいろなことがあるが、「密やかな、いま」を共有できる人と出逢える喜びは、本当にかけがえのないものだ。


posted by koji at 14:56 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月15日

大阪公演『十三夜』を終えて


DSC_0027.JPG
 
DSC_0162.JPG

12226619_777773085666696_484294109_n.jpg

 
昨日の『十三夜』、司祭の方が唱えて下さるお祈りから始まり、一葉の描く世界を、じっと聴き耳を立てつづけて下さるお客様と共に2時間半、生き抜いたような時間でした。
 
天へ向かう方向性を感じさせるような教会という空間。
さらに、演者の前だけでなく後ろにも空間が広がっており、思っていた以上に声が拡散してしまうことから、全身からことばを叩き出すようにしながら、子音を強調するべく、ことばを造形することに専念させてもらった2時間半。
 
終演後、お越しくださった皆さんからおことばをいただき、この物語の深みに入っていき、登場する人物ひとりひとりの表には描かれていないこころのありようまでをも想い描くような聴き方を、多くの方々がされていることを知りました。
 
芸術を生きた後の独特の高揚感の中で、打ち上げ会も参加者の方が用意してくださり、言語造形を愛する仲間が遠くから(埼玉、東京、広島、高知などなど)集まって、本当に楽しい時間を過ごすことができました。
 
全身に声を浴びるようにして物語を聴いた後、そのように、作品について、作者について、ことばについて、ことばの芸術について、こころから語り合える時間ほど、嬉しいものはありません。
 
こうして言語造形の公演を重ねていくごとに、そのような物語の深み、言語の味わいを聴き取る聴き手がだんだんと多く来て下さることに、本当にこころからの喜びを感じています。
 
そして、今回、「ことばの家」を主宰していますわたしたち夫婦ふたりで舞台に立たせてもらったのですが、私事の様で、まことに、まことに、恐縮ですが、皆さんがまるで結婚式に立ち会って下さっているような感覚も覚えました。
舞台のたびごとに、この結婚は繰り返されているのですが(^_^;)。 
 
いらしてくださった50名以上の皆さんおひとりおひとり、公演をサポートして下さった仲間の皆さん、そして、教会という大切な場を開放して下さった教会の皆さん、皆さんのこころからの親しさ、暖かさ、真率さに、本当にこころから感謝いたします。
 
ギターの音色で『十三夜』の世界に、より印象深い色を添えてくれた清水久芳さん、撮影やそのほか様々な助けをしてくれたしほちゃん、本当にありがとう!

言語造形への愛をもちつつ、司会を務めて下さった村上さん、受付を受け持ってくださった鹿喰さん、小山さん、本当に感謝しています。
 
ありがとうございました。

posted by koji at 14:32 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

11/14(土)言語造形公演『十三夜』〜母と娘、切っても切れぬ縁〜


今週の土曜日11月14日のわたしたちの公演『十三夜』が迫ってきました。
 
振り返ると、随分と苦しみながら稽古を続けてきました。
でも、舞台本番まであと一週間となって、
なぜだろう、厚い雲を突き抜けて、
遥かな青空とお日さまの光にまみえるようなこころづもりを、
どこかからか頂いています。
  
 
今回、わたしは公演の前半において、
主人公お関という女性の父親役でもありますが、母親役をも務めます。
 
母親というものが、いかに、その娘に影響を与えているか。
この物語に言語造形を通してつきあい続けていく内に、
そのことを感じざるを得なくなりました。
 
母親の考え方、感じ方、ものの言い方が、
娘のありかたに、深く、深く、影響し、
それは娘の人生を、結婚生活を、左右するほどにもなること。
 
このような親と子、母と娘という、
切っても切れない縁のなかで密かに醸成される人というものが、
女と男、妻と夫という、
切ることも可能な縁において、
どのように己れのこころを育み、
生きていく道を見いだしていくことができるのか。
 
そんなことを、この作品は、
そのことばと文体から引き出される響きと息遣いを通して、
120年の時間を超えて、
改めてわたしに教えようとしてくれています。
 
この物語は、人というものを感じ、考える上で、
そのほかの様々な視点からも描かれているように感じています。
樋口一葉、まことに、まことに、恐るべしです。
 
耳でお聴きになって、全身でお聴きになって、皆さんの内側に、
どのような人間像と人間ドラマが立ち上がってくるのか。
 
皆さん各々の胸のうちで、新しく語りあう時が生まれたら。
そう、希っています。
 
ぜひ、聴きにいらしてください。


______________________________


樋口一葉がこの作品を一気呵成に書き上げたのは、満23歳のとき。
それから一年後に彼女は肺結核でこの世を去りました。
今からちょうど120年前にものされたこの作品を、
秋の静かな深まりの中、生の声による語りで聴いていただきます。
教会という聖なる空間に織りなす一葉のことばの世界を、どうぞお楽しみください。

■日時  2015年11月14日(土) 開場14時 開演14時30分

■出演  語り:諏訪耕志 諏訪千晴
     ギター: 清水久芳

■会場  日本聖公会 大阪聖アンデレ教会 (桃山学院高等・中学校 隣)
         http://st-andrew-osaka.com/access/access.html
         地下鉄御堂筋線「昭和町」駅 3番出口より南へ徒歩6分
         JR阪和線「南田辺」駅 北西に徒歩10分
     ※駐車輪場はありませんので、お車や自転車でのお越しはご遠慮くださいませ。

■入場  ご予約  大人 2500円  中高生 1000円
     当日   大人 3000円  中高生 1500円

■お問い合わせ・お申込み  ことばの家 http://www.kotobanoie.net/pray.html#13n
          (このページにある専用フォームにてお申込みいただけます)



posted by koji at 07:36 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月02日

意識して前の時代に立ち戻る


昨日、和歌山市で開かれたシュタイナー教育講座、
仲正雄さんの『7歳から14歳、感動を育む教育』と、
中村重朗さんの『14歳から21歳、イメージする力(高等部人類学)』に参加してきました。

たくさん受け取りました。
たくさん消化しました。
そして、自分自身のなかで改めて新鮮に考えていること。

それは、現代においても、
子どもを教育するとき、
若い人を教育するとき、
自分自身を教育するとき、
教える人(自分自身)は15世紀半ば以前の古い時代のありかたに、
意識的に立ち戻る必要がある、ということです。
この「意識して」というところが、単なる先祖がえりではなく、
いまならではのわたしたちのありかたです。

現代の人が頭に抱く〈考え〉。
それは、科学的であること、理知的であること、客観的であること、
そうであってこそ、その〈考え〉は外の世を生きていく上で欠かせないものになるでしょう。
その〈考え〉は、外の世の発展に大いに寄与するでしょう。
これらの<考え>を、いかにして効率よく若い人たちに教え込んでいくかが、
現代教育にいまだに見られるありかたかもしれません。

しかし、それらの<考え>は、肝心の、人を育てない!
人の中身を育てない。
頭のいい人を世に出すかもしれませんが、
情をもって、寛やかに、暖かく、
意欲をもって、確かに、熱く、
考えることができにくい人を創ってしまう。

それは、<考え>というものが、いまは、ことごとく、死んでいるから。

死んだ<考え>をいくら与えられても、生きた人は育たない。

いかにして、死んだ<考え>に、いのちを吹き込み、
再び生きた<考え>をこころに植えていくか。

これは、15世紀以前においては当たり前にしていたことで、
<考え>にはそもそもいのちが宿っておったそうな・・・。
だからこそ、人は、その生きた<考え>に、
生きものに沿うように付き合い、従うことで、
精神からの、神々からの、恵みと戒めを授かっていたそうな・・・。

アジアにおいては、
とりわけ我が国においては、
その前時代の<考え>のありかたが15世紀以降も残っていたようで、
わたしたち日本人独特の、ものの考え方、感じ方に、
他と比べて劣った、後進性を見てとるのか、
むしろ微笑みをもって誇りを感じ、
この特異性を生かす道を新しく見いだして行くのかは、
人それぞれでしょう。

それは、ともかくも、
現代において、その死んだ<考え>を子どもたちに与えることを止めて、
前時代の時のようにおのずから息づいていた生きた<考え>を、
新しく意識的に子どものこころに植えていくこと。

小学校時代の子どもたちには、
正しいことを教え込むのではなく、
美しいことへの感覚をひとりひとりの子のなかから引き出したい。

中・高時代の若い人たちには、
仕上がり済みの<考え>・定義を教え込むのではなく、
観察し、ひとりひとり新しく考え、ともに語り合う場を創っていくことを助けたい。

そもそも、どの子のなかにも美しさへの感覚はあり、
どの若い人のなかにも、自分自身で、まこととは何かを考える力があるのだから。

その「美への感覚」「まことを追い求める力」、
それを誘い出すような、像をもった語り口。
そこに、生きた<考え>が宿る。

いずれも、この世に生まれてきて、まだ年かさもゆかない人たちが、
一個の存在としての己れに不安を覚え始めているときに、
世というものと再び鮮烈に出会うことへと促していくのが、傍にいる大人の役目。

そのためには、
大人であるわたし自身が、毎日、鮮烈に、
世というものと出会っているのか?
どうなんだ?
そう、改めて、自分自身に問うています。

その毎日の鮮烈な出会いを産みだしていくためにどうしていったらいいかを、
自分自身で探っていくための提言がシュタイナーからもなされているので、
またいずれ書いてみます。

posted by koji at 13:35 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

「てにをは」の秘儀


いま、日本語が話されるとき、
ややもすれば<語>の意味さえ伝わればいいのだとばかりに、
名詞、動詞、副詞、形容詞、形容動詞が駆使され羅列される。

でも、日本語をこころから使おうとする人は古来、
助詞や助動詞の使いようにこそ、こころを配ってきた。

なぜなら、「てにをは」にこそ、
「語のふり」(本居宣長)があるからだ。


  「てにをは」は、<語>ではなく「語のふり」を支えるものであり、
  「言霊のさだまり」はこれらの運動を常に貫流している・・・
                     (前田英樹『小林秀雄』)

  国語はこれ(てにをは)に乗じて、われわれの間を結び、
  『いきほひ』を得、『はたらき』を得て生きるのである、宣長はさう考へてゐた。
                     (小林秀雄『本居宣長』)


わたしも、言語造形をするとき、「てにをは」にこそ、内なる身振りを注ぎ込むことによって、ことばと文に命が吹き込まれ、文体が生きたものになることを実感する。

いま、取り組んでいる樋口一葉の『十三夜』における文体。
そこに、今ならではの命を吹き込んでゆくためには、
一葉が精魂込めて、まさに、そこに、記し置いた、「てにをは」に、
わたしがどれほど意識的になれるかということに懸っていると感じている。

朗読や語り、演劇の舞台を聴きに行って、
ストーリー(情報のつながり)が分かっただけでは、何にもならない。
それならば、黙って本を読んでいればいい。
同じ作品を、人の肉声で聴くのならば、
そこに、ストーリー展開を追うのではなく、
人の活き活きとしたこころの「いきほひ」「はたらき」をこそ感じたいのだ。
生きている「人」を感じたいのだ。

「てにをは」の響きのなかにこそ、人が、息づいていると感じる。



posted by koji at 19:59 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月18日

手足で聴く


   視るにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  それなりの自立性をもった頭のなりたちによってであり、
  聴くにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  節分かれしたからだのまるごとによってです。
  見るにおいて迎えられるところは、
  からだへと向かう流れをもち、
  聴くにおいて迎えられるところは、
  からだから上へと向かう流れをもちます。
         (『メディテーションをもってものにする人間学』)



シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、
丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。

視えるもの。
それは、目という感覚器官を通して、
頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。

一方、聴こえるもの。
それは、本質的には、節分れしている手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、
上へと密やかに昇っていき、頭において想われる。
耳という感覚器官で聴かれるのは、むしろ、残響といえるものではないか。
空気の震えを集約的に受け取るのは確かに耳だろうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、さらには手足において受け取っている。

ことばや音楽というものは、手足によって聴かれている!

頭、耳で聞こうとするのではなく、
たとえからだはじっと静かに据えられていても、
ことばや音楽に密やかに手足を沿わせるようにして聴こうとするとき、
そのことばや音楽の「中味」「こころ」「精神」に触れることができる。
そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。

しかし、聴き手がそのように聴くことができるのも、
話し手が手足をもって語ろうとするときです。

話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、
そのことばは、聴き手の手足によっては受け取られず、頭のみに働きかけます。


昨日の百年長屋さんでの言語造形のワークショップで、参加者の方が、高校の教師をされていて、授業で井伏鱒二の『山椒魚』を30分かけて語ったと仰っていました。そして終わったあと、ひとりの女の子が「ありがとうございました」とわざわざ伝えに来てくれたそうです。

密やかに、手足を動かしたくなるような感覚を感じながら、語られることばに耳を傾ける機会。
そんな機会をもっと、もっと、創っていくことができたら、と思っています。


posted by koji at 09:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月10日

10/29(木)より 横浜講座 「日本昔話の源泉とアントロポゾフィー」 のお知らせ


3回連続で、横浜にて以下の講座を開催いたします。
ご関心のある方は、ぜひ、お運びください。

講座【日本昔話の源泉とアントロポゾフィー 】

子どもたちが愛する昔話。
その中でも、古来、我が国に語り継がれてきた昔話は、
我が国ならではの信仰心に根差すところから生まれてきているようです。
日本の昔話のうちに息づく、そのような信仰のありか、源泉を、
アントロポゾフィーの叡智と重ね合わせて、学んでいきます。

実際に、昔話を皆で声に出して語りながら、
芸術的にハートもからだも使って昔話への感覚を育んでいきましょう。
(諏訪耕志)


■日時  2015年10月29日(木)、11月5日(木)、12月3日(木) 
     いずれも18時より21時まで

■場所  鶴ヶ峰駅ビルタワーマンション/多目的室 (相鉄線鶴ヶ峰駅より徒歩3分)
  初回は相鉄線/鶴ヶ峰駅改札口にて17時55分に待ち合わせします。
  時間厳守でお願いします。


■会費  12,000円(3回)  *単発参加の場合はご相談下さい。

■事前準備  「こぶとりじい」のお話しをお渡しします。
        事前に目を通して下さりますようお願いします。
   また、ご自身が語りを練習してみたい昔話をひとつ持ってきてください。

■申込先  小川のぶこ nonko5656@gmail.com
お名前と携帯番号を明記の上、メールにてお申し込みをお願います。




posted by koji at 23:57 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<わたし>が立つ 〜和歌山モモの会での言語造形〜


12115926_956614477731740_5641234987511559075_n.jpg


毎月二回伺わせていただいている和歌山のモモの会。
そこでは、再来年のシュタイナー学校開校に向けて、
地道に実務的な準備を重ねつつ、
精神文化がここから発していくための、
ひとりひとりの<わたし>の力が磨かれていく芸術実践も行われています。 

それほどは広くない部屋が、
ひとりの人がお話を語り出すと、
一気に、そこが「お話のお宮」になり、
わたしたち聴き手はそのお宮のなかに包まれるのです。
その場は、ことばの家になります。
 
現代を生きるひとりひとりの大人が、
キッチリカッキリ敷かれているレールから降りて、
皆に囲まれながら、
各々の<わたし>を生きる、
そんな自由な空間と時間を味わうこと。
 
そんな大人を何気なく傍で観ながら、子どもたちは育っていくのでしょう。
 
そして、今日はアイルランド在住の日本人の方が参加して下さったのですが、その方の仰っていたことがとても印象深かったのです。
 
曰く、「海外に住むことによって、いっそう日本への思慕の念が募るのです」とのこと。
 
「日本語の美しさ」、とりわけ、間(ま)における豊かさに改めて感嘆されていました。
 

今日のモモの会(こども園ほしの子)さんの記事をシェアします。
________________________
 
今日の言語造形。
大人たちの芸術体験の場と、異年齢の子どもたちが仲良く遊ぶ時間が共にあり、心になんともいえない栄養がしみわたります。
 
ことばを語っているとき、みなそれぞれの肩書きを捨てて、ただ「わたし」として立ちます。
呼吸が深くなり、その人のことばで癒やされるような、うつくしいときを共に過ごしています。
 
子どもたちは、大きなお姉ちゃんに小さなお姉ちゃんがついていき、その後ろによちよち女の子がついていき、お外でお花摘み。
微笑ましい子どもたちの時間。

posted by koji at 23:41 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月05日

静けさのなかへ 〜11/14(土)大阪言語造形ふたり語り公演 『十三夜』のお知らせ〜


13n-A5.jpg



11月14日(土)、大阪で行います言語造形ふたり語り公演 『十三夜』をお知らせいたします。

樋口一葉が紡ぎあげた言語世界を、原文そのままで味わっていただく試みです。

キリスト教会のチャペルにおいて、
クラシックギターとともに、一葉のことばがどのように響くのか。

わたしたちが日々生きている世界。
そこでは、かまびすしく時間が飛びすぎていくようです。
しかし、わたしたちは、静けさを求めてはいないでしょうか。
こころの静けさを、故郷(ふるさと)を乞うように求めてはいないでしょうか。

言語造形公演は、その静けさの時間をわたしたちにもたらそうとするものです。
静けさのなかにある、こころの充実を、精神の漲りを、生きる。
そんな時間を創ろうとする試みです。

静けさのなかへ、どうぞ、いらしてください。


この作品は明治の代に書かれたものですが、
一葉の文体は江戸時代からおおよそ平安時代の文学にまで遡り、
歴代の我が国のことばの芸術から学ばれ体得されたものですので、
現代人のわたしたちにとっては、初めて耳をもって聴くとき、
理解することよりも、ひとつの感覚的な体験となるだろうと思います。

しかし、それでも、聴き手の方々には、この日に聴きに来て下さる前に、
前もって原文を読んでみられることをお勧めします。

そうすることによって、ご自身が読んで感じられたことと、
実際に舞台の上から聴こえてくることばから生まれる感情との重なりを、
または、ずれを楽しむことができるでしょう。

聴き手の皆さんが、ともに、この『十三夜』を創り上げていく、
そんなプロセスをも、きっと、楽しむことができると思います。

お申込み、お待ちしております。

ぜひ、言語造形による、日本のことばの芸術作品をとくと味わいにいらしてください。


________________________

身に喰い込む憂いを抱えて
女ひとり、男ひとり、ぽつんと、立っている。

十三夜の月の光の下
ふたりそれぞれの後ろに伸びる闇。

その闇と闇とが淡く交わり、また別れていく・・・。


樋口一葉がこの作品を一気呵成に書き上げたのは、満23歳のとき。
それから一年後に彼女は肺結核でこの世を去りました。
今からちょうど120年前にものされたこの作品を、
秋の静かな深まりの中、生の声による語りで聴いていただきます。
教会という聖なる空間に織りなす一葉のことばの世界を、どうぞお楽しみください。

■日時  2015年11月14日(土) 開場14時 開演14時30分

■出演  語り:諏訪耕志 諏訪千晴
     ギター: 清水久芳

■会場  日本聖公会 大阪聖アンデレ教会 (桃山学院高等・中学校 隣)
         http://st-andrew-osaka.com/access/access.html
         地下鉄御堂筋線「昭和町」駅 3番出口より南へ徒歩6分
         JR阪和線「南田辺」駅 北西に徒歩10分
     ※駐車輪場はありませんので、お車や自転車でのお越しはご遠慮くださいませ。

■入場  ご予約  大人 2500円  中高生 1000円
     当日   大人 3000円  中高生 1500円

■お問い合わせ・お申込み  ことばの家 http://www.kotobanoie.net/pray.html#13n
          (このページにある専用フォームにてお申込みいただけます)


posted by koji at 19:16 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月02日

こころの安らかさ、静けさ、そしてまぎれなく考える 

 
南沢シュタイナー子ども園の園長をされている吉良創さんと、
先日、仕事でご一緒させてもらったのですが、
そのときに彼が言っていたことが、ずっとこころに響き続けています。
 
「その人のこころの内側に、静けさがなければ、平和な外側の世界は生まれない」
 
こころの安らかさ、静けさ。
ここにこそ、<わたし>がある。
ここにこそ、個人があり、
さらには、個人というパーソナリティーをも超える、
<人>(インディヴィジュアリティー)がある。
 
意識のこころの培いは、人と議論をしたり、批判的に考えたりすることによってではなく(それは15世紀以前の分別のこころの培いにおいてなされてきたことでした)、意識的にみずからのこころを静かに、安らかにする訓練の中から生まれてくる精神の声に耳を澄ますことによってこそ、促される。
 
それが、「まぎれなく考える」ということ。
(シュタイナーはそのことを「reine Denken」と言っていますが、「純粋思考」という訳語はわたしには分かりにくく、「まぎれなく考える」という言い方をさせてもらっています)
 
ある観点、ある立場のもとに立って考えることによって、
そうではない観点、そうではない立場を批判すること。
「批判的にものごとを考える」というあり方は、どうしてもそのようなあり方にならざるをえないのではないでしょうか。
 
一方、「まぎれなく考える」というあり方は、
そのように、批判的にものごとを捉えることを言うのではなくて、
ものごとをまずは、
優劣なしに、高低なしに、正邪なしに、純粋と不純を分けることなしに、
ありのままに、迎え、親しく付き合ってみることを言います。
そうでこそ、まさしく、理性的なあり方に立つことができるのではないでしょうか。
そこからこそ、本質的なところが、本質的でないところからおのずと別れる道が開けてくるのではないでしょうか。

そのことは、わたしたちのこれまでの習いのありようには、いまだ、馴染まない、ある種の跳躍を要求します。

きっと、練習が要ると思っています。
 
だからこそ、意識のこころの培いです。
 
その培いの備えが「こころの安らかさ、静けさ」ですし、
外なる世が安らかになりゆくことへの礎に、きっと、なります。

posted by koji at 10:47 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月29日

「こころのこよみ」pdf版 アップしました


da3cafe5508de6f3fee78e659e4ea152.jpg


嬉しいことに、色々な所で、何人かの方が声をかけて下さって、
「ブログでの『こころのこよみ』の連載はどうなっているのか」と訊いて下さいます。

これまで三年続けて書き続けてきたのですが、ここでひとつまとまったかたちにしてみました。

『こころのこよみ』http://www.kotobanoie.net/data/koyomi.pdf
( pdf版です。ダウンロードして、見開きの仕様にしていただくと、読みやすくなります

今日9月29日は、ミヒャエルの祭りの日。

この日を機に、また新しく一年のこよみを、こころと重ね合わせながら詠んでいただき、メディテーションの糧にしていただければ幸いです。


posted by koji at 21:02 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月28日

静かな声 〜母国語への愛〜

 
「愛国心」などと口に出すと、途端に「ああ、この人は右寄りの人、保守系なんだな」というような先入観がついてくるように感じられる。
 
これは、いつから、こんな「感じ」になってしまったんだろうと考えてみると、おそらく70年前の敗戦以降ではないだろうか。
 
どういう回路でそうなってしまったのか、ここでは書かないが、戦後の教育が、どこか、いわゆる、左寄りの、自虐的史観に塗りつぶされていて、それ以外のものの見方や考え方が封殺されてきたように思われる。
 
それは、精神的なものに対する、嫌悪、逃避、排斥というような意識となり、ひたすら唯物的な思考、生活スタイルを促してきた。
 
一方で、右寄りというと、他国に向かって、他者に向かって、暴力的に、我が国のことを、大声で、拡声器を使って、喚き散らす。どこか幼稚な、コスプレチックな、そんなイメージがある。
 
 
わたしが想うに、「愛国心」とは、他人に向かって大声で叫びたてるようなものではなく、他人に強要するものでもなく、密やかに、己れのこころのなかに響き続けている静かな声のようなものだ。
 
失われていく、もしくは失われてしまった、この国の固有の文化に湛えられていた美しさ、尊さを乞い求め、それらと自分たちの生き方が不可分のものだったことへの静かな誇り。
 
そのようなこころが代々、守られてきた。
 
そして、そのこころは、国語への愛、ことばへの愛、母国語への愛に基づいていて、主に、こころざしを失くさない文学者たちによって守られてきた。
 
そのようなあり方が、保守であり、ひいては温故知新という生き方・学び方に繋がっていたのだろう。
 
母国語を静かに大事にする人が増えること、それが何よりの、防衛ではないだろうか。
 
母国語の精神が人の中で崩れてしまい、それへの愛が失われてしまったところに、おのずから母国への愛も育ちようがなく、世界全体の中でも、己れに自信がない、おずおずとしたありようで右往左往し、立ち尽くさざるをえない人々の集団になってしまう。
 
70年前に断絶させられたように見える精神の流れが、実は、いまだに密かに連続していること。
 
決して失われ切ってはいないこと。
 
そのことをいまの現代人が実感していく道を探っていく。
 
微力でもなんでもいい。
それが、わたしの仕事、「ことばの家」があることの意味でもある。 

posted by koji at 08:40 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月27日

日本語の変遷〜百年長屋『言語造形と薩摩琵琶の夕べ』〜


IMGP3700.JPG
 
IMGP3680.JPG

IMGP3682.JPG

IMGP3703.JPG


昨日は、百年長屋さんにて『言語造形と薩摩琵琶の夕べ』。
楽しい秋の夕べでした。
 
明治の代に英語によって書かれた小泉八雲の『耳なし芳一』。
それを現代日本語に翻訳されたものを塙狼星さんの語りで。
 
中野淀水さんによる薩摩琵琶吟弾。
これも明治の代に『平家物語』から翻案し作詞された「敦盛」「舟弁慶」。
 
そして、言語造形を通しての「那須与一」。
これは、平家と源氏の合戦が終わってから後、琵琶法師たちによって語り継がれ、語り広められたその当時の原文そのままです。
 
いずれも『平家物語』からの様々なバリエーションをお聴きいただけた一時でした。
 
日本語という言語が時代時代の変遷を経ても、人の息遣いによって、とりわけ『平家物語』においては、ダイナミックな息遣いによって、現代にも見事に甦りうることを感じられた時間だったのではないかと思い返しています。
 
百年長屋の皆さま、共演者の皆さま、お客様の皆さま、本当にありがとうございました。
 

posted by koji at 09:07 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月23日

ありがとう、ルンペルシュティルツヘン!


今日まで五日間連続で、あるシュタイナー教員養成講座での仕事をさせていただいていた。朝9時から夜7時ごろまで、ずっとアントロポゾフィーと言語造形漬けの毎日。
 
こういう仕事が何を教えてくれるかって、自分は決して独りで生きている訳じゃないってこと。
 
共に仕事をし、その仕事を支えて下さっている仲間の方々とのあいだの信頼感、そして受講生の皆さんからの真摯な関心。
 
さらに、毎日の仕事を裏で支えてくれている、精神の世の方々。
 
とりわけ、こういった集中したセッションが続く毎日では、この精神の世の方々との協働がなければ、とても、もたない。
 
自分の場合は、夜寝る前のメディテーションやメルヘンや昔話を改めて味わうことが必要不可欠で、その行為が次の日のそれらの方々との協働に必ず繋がる。
 
今回は、グリムメルヘンの『ルンペルシュティルツヘン』が特に味わい深く、そして自分を支えてくれた。
 
夜の間に藁を紡いで金にすることができる小人、ルンペルシュティルツヘン。
 
わたしのなかの藁なるところを、今回も金に変えてくれた、そんな気がしている。ありがとう、ルンペルシュティルツヘン!

posted by koji at 23:57 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月17日

人はみな言語造形をしていた

「感情を交えずに、淡々と声にすることを旨とすべし」
シュタイナー教育において子どもに向かって物語を語りかけるときに、
このことをこれまでよく本などで目にしましたし、人がそう言うのを耳にしました。

しかし、シュタイナー自身がこう語っています。
子どものこころと精神をあまりに強くからだに受肉させることから守るために、
いかに語りかけるか、ということです。

   歴史の物語に子どもが強く情をもってかかわるように、
  教師自身が、人物について、強く情から心を寄せ、敬い、
  あるいはまた憎むに値する人物のことを述べるときには、
  憎しみを湛えて語ることによってです。
  そのことをもって歴史の授業は、
  子どもが物質的になりすぎないことに、ことのほか役立ちます。
           (『メディテーションをもってものにする人間学』鈴木一博訳)


シュタイナーが語っていることがらを長い時をかけて自分自身で確かめてみるに、
語り手自身が、言語造形を通して、ことばに沿うことによって、
おのずから抱かれる深い情を湛えながらことばを発すること、
それは決して聴き手への情の押し売り、頭でっかちな考えの押し付けにはなりません。

芸術とは、人の知性にではなく、情に訴えてくるもの。
要(かなめ)は、語り手の独りよがりな情ではなく、
作品そのもの、ことばそのものに潜んでいる、まことの情が、ものをいうことだと思うのです。
まことの情こそが、子どもたちと、分かち合われ、
その分かち合いは、わたしたちのふるさとである精神の世を想い起こさせます。


また、シュタイナーはこうも言っています。
今度は、子どもをある程度、その子その子に応じてふさわしく地上的にするために、
いかに語りかけるかです。

   子どもがあまりに夢見がちであると気づいたなら、
  その子が言語の唱えられるところ、音楽的なところ、
  リズム、拍を受け止めることのほうへと目覚めるように試みます。
  言語の音楽的なところは、
  <わたし>をからだに入り込ませるのに役立ちます。
  育てる人としては、それを芸術として身につけることが欠かせません。
                               (同書)


ことばの音楽的な側面。
それは、子どもの意欲を強めます。
萎えがちなところに、いのちを吹き込みます。

   いにしえには、
  人がそもそもリズムなしに話すなどありえない代々がありました。
  人がリズムのうちに話そうとする向きをもっていました。
  たとえばなにごとかを言うのに、
  言語造形によらずに言うことはありえませんでした。
                    (『言語造形と演劇芸術』鈴木一博訳)


本当の意味での、人というものの育み。
それには、生の中に、授業の中に、いのちを吹き込む芸術的な情が欠かせません。

そんな情をあまりにも豊かに湛えていた達人のひとりを紹介します。
寅さんです!

  



posted by koji at 21:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

神(かむ)ながらの道 〜「もの」に対する敬意と習熟〜

「芸術」という言葉を見たり、聞いたりすると、わたしたち多くの現代人はどのような感情・考えを抱くだろうか。

食べることや働くことなど、生きていく上で絶対に必要なことごとと比べて、付属品、嗜好品、贅沢品のような感覚が醸されないだろうか。

また、テレビやその他多数の娯楽に比べても、「芸術」という言葉は、どこか縁遠いもの、「高尚なもの」として感じられることが多いのではないだろうか。

なぜだろう。

それは、きっと、子どもの頃に受けた教育のうちに、芸術というものがありあわせていなかったからだ。

それは、絵を描くことや踊ることを学ぶような特別な芸術教育ということではなく、
国語、算数、理科、社会などの授業そのものが芸術であること。
子どもに向かい合うということそのことが、芸術行為における素材に向き合うことと同じであること。
人であるということそのことを、科学的に観察していくことに先立って、芸術的に見てとっていくこと。

そんな授業を通して、子どもたちは、きっと、人を、世を、美しいもの、善きもの、まことなるものとして見てとっていく力をみずから育んでいくだろう。

わたしたち現代人が「芸術」というものを縁遠いものに感じてしまわざるをえないのは、そのようなことが教育のうちにありあわせていないことに原因があるように思う。

若い人に、
「科学としての、学問としての教育研究」「教育学」を教室や机上で学ぶよりも、
「芸術としての教育」「教育芸授」を全身で学び知る場を提供していくことはできないだろうか。

そして、教師と共に、大人と共に、子どもたちが教育芸術を生きる毎日を創っていくことはできないだろうか。



芸術とは、素材のなかに、飽きることなく、繰り返し繰り返し、入っていく行為のこと。

外側に立って客観的にものを眺め回すことではなく、
「もの」のうちに入っていくこと、通じていくことであり、
「ものへゆく道」を歩むことであろう。

その道を歩むには、「もの」に対する敬意と習熟こそが必要だと思う。

言語造形において、
人は、「ことばというもの」に対する敬意と習熟が要されることに時間をかけて気づいていく。
日本人が日本語という母国語に対する敬意と習熟を改めて習っていく。
その道は、ただただ、練習があるだけで、まさしく「ものへゆく道」である。
その「ものへゆく道」を昔の日本人は「神(かむ)ながら」と言い、芸術とはその神ながらの道である。

子どもたちや若い人たちにも、この「ものへゆく道」を歩いていく喜びを知ってもらえるような生活をしていきたいなあと毎日思っている。

posted by koji at 19:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月13日

神経系から血液系へ

12022356_943011405758714_2091949691802221766_o.jpg

11113937_943012015758653_2815432609547482450_o.jpg


先日、モモの会(こども園ほしの子)にての月に一回の言語造形でした。
 
口先だけでことばを操るのではなく、
からだまるごとをもってことばを発していく。
 
神経系を用いることから、呼吸を通して、血液系を多用する話し方へ。
 
そうすることで、話す人と共に、聴いている人も、
からだまるごとでことばを感覚するのです。 
 
ことばを感覚する。
 
言語感覚を養っていく。
 
その古代の人たちがおのずから持っていた感覚を、
わたしたちは意識的にみずから啓いていくのです。
 
その行為は、人を裸にします。
 
その感覚は、人を「ことば」にし、「歌」にします。
 
「人というもの」が、
そもそもは「ことば」であり、「歌」であったことを想い出すのです。
 
そして、そんな大人のあり方に、幼い子どもは、即座に、反応します。

モモの会では、言語造形に全力で取り組む大人の声を、
全身で浴びるように聴いている子どもたちが周りに何気なくいて、
そういう環境は幼児期における国語教育の基として、
とてもいいものだと感じています。
 
 
以下、モモの会(こども園ほしの子)さんのことばをご紹介します。
 
____________________________
 
9月の言語造形。
ありのままの自分と向き合うため、
一人ひとりが今まで身にまとっていたものを、
一皮ずつ脱いでいくような作業をしていると改めて思います。
とても勇気がいることですが、それぞれの人の内側で何かが変わってきているのがわかります。

ことばを迎える、ことばを味わう、そんな大人の行為を
子ども達は、遊びながらも、からだ中で聴いていました。

posted by koji at 22:34 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

血潮

美しいことをからだまるごとで知っている人。
そういう人になるためには努力も苦労も厭いたくない。
幾つになっても、この世は謎だ。
 
子どもの頃、全身で夕日を浴びたことがあるか。
大地に背をあずけて、たえだえに鳴く虫の音に空を見上げたことがあるか。
人の深い切ないこころに触れたことがあるか。
 
幾つになっても、遅くはない。
赤い血潮を注ぎ込みたい。





posted by koji at 23:53 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月07日

 
この世界には、美しいものが、きっとある。
 
しかし、それは、表にはあらわれていない。

失われている、もしくは、隠れている。
 
だからこそ、脈を探り出そうと思う。
 
かけらとかけらを繋ぐ脈を見いだしたいと思う。

余所の場所ではなく、
自分自身の立つ場所、
我が身、我が家、我が地域、我が国においてだ。

posted by koji at 22:44 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月03日

「・・・であるべし」からの自由 〜和歌山モモの会〜


11947997_1621493411456931_852973801396808467_o.jpg


未来の学校をつくる会さんからの投稿をシェアします。
昨日の和歌山のモモの家での手作り(?)教員養成講座のひとこまです。
 
「学校」という存在そのもの自体を問い直してみる。
「シュタイナー学校」といわれているもの自体をも問い直してみる。
 
人間学をこそ深く体得すること。
芸術こそがすべての教科を貫くものであることをありありと実感すること。
教師である大人自身が他の誰よりも変容していくこと。
それはアントロポゾフィーという精神科学を弛まず学んでいくことから成り立っていくということ。
 
これは、すぐさま授業実践に役立たせるための授業テクニックやノウハウを身につけることでは、きっとないでしょう。
 
けれども、それだからこそ、「人というもの」「世というもの」の内に潜んでいる美しさ、真実、善きところに、こころ動かされ、こころ震わされ、こころ律される毎日を送っていきたい・・・!
そんな希いを育てていくことこそが、教員養成かもしれませんね。

20世紀から21世紀に入って、15年ほど経ちますが、
「シュタイナー教育は〜あるべし」
「シュタイナー学校は〜であるべし」というような、
「〜であるべし」という考えに潜んでいる嘘に気づき出している若い人が多くなってきていることを感じます。
 
「・・・であるべし」に知らず知らず取り込まれているこころもちよりも、
「自分はこれからもずっと成長していくのだ」
「腑に落ちない他人のペースに合わせていくのではなく、自分自身を知っていくことに向かいながら自分自身のペースで成長していくのだ」
というこころもちを大事にしたい。
そんなところから「働きたい!」という意欲が出てくるんじゃないかな。
 
『自由への教育」を目指すシュタイナー教育に携わる大人自身が、
自由になろうとしているか、他人をも自由になりゆく人として遇しているか、
そのことが大事に、意識的に、問われていいことだと思います。

「教師こそは、子どものことを一番大事に思って、そのために毎日働くべき」
という考えの内容自体は、何も間違っていないのですが、
そのような「・・・するべき」「・・・であらねばならない」という考え方が、
人を自由という理想に向かって育てる方向に行かず、だんだんと人の自由を殺いでいきます。

「べき」を自分自身と他者に押し付けるのではなく、
その人その人が己れのこころの奥底で求めていることを認め、大事にしていくことを学んでいく必要が、アントロポゾフィーの学び、そしてシュタイナー教員養成の学びにあることを感じています。

「わたしなんて、まだまだ未熟だから・・・」という思いにこころが占められて、仕事に取り組むことができなくなるのは、もったいなく、残念なことだと思うのです。



以下、未来の学校をつくる会さんの昨日の会の紹介文です。
________________________
 
9月の普遍人間学水曜クラスとエポック勉強会。
人間学の初めに、諏訪先生が南米チリのマイクロスクールのお話をしてくれました。
「そもそも、学校ってなんだろう」という問いから始まった、小さなコミュティの挑戦。
学校はこうあるべきという私たちの概念をひっくり返えすような、働く大人と共にある教育。環境そのものが子どもの学び、また、大人自身の学びの場となる、教育する環境づくりに取り組んでいるということでした。

挑戦することはとても勇気がいることだけど、「私」が心の奥に意志したことを、あきらめずに生きていくことが今ここ和歌山でも試みられているのもしれません。

午後からの勉強会では、フォルメンの体験をしました。
まず、大人自身が芸術体験をすることの大切さを再確認し、これからは、歌や、水彩や、演劇など、私たち自身の心が感動するような体験ができたらいいな〜。とまたやりたいことが膨らみました。

posted by koji at 09:51 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月01日

9/19(土) 対談「保育に生命を吹き込む語りと音楽」〜シュタイナー教育の観点から〜


10430002698.jpg


日本シュタイナー幼児教育協会からの、今月第三土曜日の公開講座のお知らせです。
呼吸とは、人が生きていく上で、最も当たり前にしていることゆえに、大切に育んでいきたいものなのです。
 
対談 「保育に生命を吹き込む語りと音楽」      
〜シュタイナー教育の観点から〜
 
講師:
吉良 創(滝山しおん保育園園長・南沢シュタイナー子ども園代表理事)
諏訪耕志(言語造形家・ことばの家主宰)
 
司会:
松浦 園( ヴァルドルフキンダーガルテンなのはな園主任教師)
 
日時: 2015年 9月19日(土) 10:00〜12:00 9:30より受付
 
会場: 国立オリンピック記念青少年総合センター 
    センター棟 311号室
 
参加費: 2000円(一般) 1500円(会員)

参加申込みは必要有りません。直接会場にお越し下さい。
受付にて参加日をお支払い下さい。
 
日本シュタイナー幼児教育協会 http://jaswece.org/02/index.html

問い合わせ: FAX:045-584-0283  email : info@jaswece.org
 
 
 
シュタイナー教育の大切な考え方のひとつに「呼吸」があります。
呼吸は、すべての生命活動の基盤であるとともに、
眠りと目覚めから、
外遊びと室内遊び、
自由遊びと一斉保育の移り変わり、
外からの刺激を受けとめ、また表現すること、
そして誕生と死までを包括すると考えるのです。
「生きた保育」を考えるうえで、
一人ひとりの教師・保育者の呼吸とのかかわりはとても大切です。
 
この講座では、言葉と音楽の働きについて、
諏訪耕志さんと吉良創さんに語っていただき、
幼稚園教師の立場から松浦園さんに司会・進行をお願いしています。
この対談から、皆さんが創造的なインスピレーションを受けとってくださることを願っています。
 
内容は、保育者、教育者向けですが、
関心のある方であれば、どなたでもご参加いただけます。
大切なテーマですので、ぜひ広くお声かけください。

posted by koji at 23:49 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月21日

宮城県多賀城市でのシュタイナー教員養成講座にて


11889644_506767649492573_1723755351973385427_n.jpg


一昨日、昨日と宮城県多賀城市でのシュタイナー教員養成講座の言語造形講座を終え、今日、仙台から大阪へと帰ってきました。
 
お世話をして下さった福島さんご夫妻に本当に感謝です。
 
養成講座の最終年の終わりを迎え、一年ぶりにお会いした受講生の皆さんと、言語造形を通して、今回、何を分かち合いたかったか。
 
それは、知識を詰め込むことで人は自信をつけていくのではなく、
まずもって手足を動かしていくことから、人はその人その人にふさわしい叡智と自己への信頼をおのずから獲得していくということです。
 
知識というものは、その人がその知識を本当に必要とする時にこそ、得られるべきもの。
 
それは、その人が手足を動かしてとにもかくにも実際に仕事をしていく中で、
初めてリアルにその知識に対する渇望(問い)が生まれ、
その上で焦ることなくその問いに向かい合っていくならば、
その時に得られる知識は本当にその人の糧となるのでしょう。
 
言語造形を通しても、
頭であれこれ考えることからいかにして自由になり、
まずは手足を動かすことから始めていくならば、
手足は頭よりもずっとずっと賢い叡智を取りなしてくれる部位ですから、
手足の動きに導かれて発声していくことでその文その文にふさわしい響きに出会うことができます。
 
教員養成のための他のすべての学びも、きっと、同じなのでしょう。
そのような講座が宮城でも重ねられていることだと思います。
 
手足を通して、胸における感情を耕していくこと。
そこからひとりひとりが自分自身が本当に求めている知識を個別に開いていくこと。
 
そのための手助けをすることこそがシュタイナー教員養成における新しいテーマであることを、
今回の宮城での時間を通して改めて教えてもらうことができました。
 
皆さん、本当にありがとうございました。

posted by koji at 22:55 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月12日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返される勤しみ〜 (再掲)



密(ひめ)やかさに満ちて新しく受けとめたものを

想い起こしつつ、包み込む。

それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。

それは強められた己れの力を

わたしの内において目覚めさせ、

そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。




Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne             
Mit der Erinn'rung zu umschließen,            
Sei meines Strebens weitrer Sinn:             
Er soll erstarkend Eigenkräfte                
In meinem Innern wecken                  
Und werdend mich mir selber geben.  



先週の『こころのこよみ』にあった「世のきざしのことば」。

それは、まさに、密(ひめ)やかさに満ちて、内において、その人その人が、受け取るもの。

その「きざしのことば」は、
真夏の暑さの中で、
これまでの感じ方、考え方を、
拡げ、深め、壊してくれるようなもの。

そのような「きざしのことば」は、どの人にも、訪れていたのではないか。
それを聴こうとするならば、どの人の内においても、密やかながら、聴こえたのではないか。

もし、それを、この週、何度も何度も、意識の上に想い起こしつつ、
こころのまんなかに、置いてみるなら。

その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。

その繰り返される勤しみが、
その「ことば」と、<わたし>を、
だんだんと、
ひとつにしていく。    

「世のことば」が、「わたしのことば」になっていく。    

そんな、地味だけれども、繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。

わたしのわたしたるところが、だんだんと、目覚めてくる。

今週の「こころのこよみ」に沿って練習すること。
それは、秋からの、新しい<わたし>への、備えとなるだろう。



密(ひめ)やかさに満ちて新しく受けとめたものを
想い起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、だんだんとわたしをわたしみずからに与えていくだろう。



posted by koji at 16:56 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月06日

七十年前の八月六日から十五日にかけて



七十年前の八月六日から十五日にかけて。

その九日間、わたしたち日本人は何を感じ、考え、欲して、生きていたのだろう。

広島に世界最初の原子爆弾がアメリカによって落とされ、
その三日後に長崎にも投下され、
その惨状を知りゆきつつ、
B29が自分の住んでいる地の上を飛来してくる音を聴くとき、
わたしたち日本人は何を観念したのだろう。

それまでの戦争による極度の緊張状態から、さらにひとつもふたつも、奥を観たのではないだろうか。

一億の日本人全員が、死刑台の上に上らされているような状態の中で・・・。

そんなときを、わたしたち日本人は確かに生きたのではないだろうか。

たかだか七十年前なのである。



わたしはこの夏、
なぜか、二重のこころの生を生きているように感じている。

夏の陽射しと共に、子どもたちと共に、喜びと共に、毎日を精一杯生きる。

そして、それと同時に、七十年前の人たち、とりわけ、戦争によって亡くなっていった方々と共に、
密かに毎日を生きている感じなのだ。

その方々は、どうも、現代のわたしたちとはものの考え方、感じ方において、随分違っていた。

彼らの感じていたこと、考えていたこと、欲していたことが、現代人であるわたしたちには分かりにくい、理解しにくいものであったらしいことを知るにつれて、わたしは生きること、命を持ち、育み、讃えることについて、これまでの戦後社会の中で当たり前のように思っていたわたしなりの考え方、感じ方の枠を拡げさせられ、壊されるような夏である。

七十年という月日は、何か特別な働きをわたしに運んでくれているのだろうか。

当時の人々のこころのありようを忖度するのではなく、そのありように沿うことが、これほど困難になっていることに、わたしは驚きと共に悲しみを味わわざるをえない。

戦後七十年の間に何が日本人の精神のなかに進行したのか。

そして、その敗戦後とそれまでの敗戦前の日本のあり方との結節点ともいえる一九四五年八月十五日に、日本人の精神に何が起こったのか。

そのことへの認識を深めることから始めて、わたしはこれからの生を強く明るく照らし続けていきたい。

posted by koji at 22:21 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月03日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜 (再掲)


わたしはこころを拡げることができるのか、

受けとった世のきざしのことばを

己と結びつけつつ。

わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。

こころをふさわしくかたちづくり、

精神の衣へと織りなすべく。



Kann ich die Seele weiten,                  
Daß sie sich selbst verbindet                 
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,               
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 



前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきた。
「わたしの世のひろがりをもって、
あなたの精神の深みを満たしなさい」と。

夏の世の大いなるひろがり、
それに沿うことができたなら、
それは沿うた人に、
これまでの生き方、考え方、感じ方を越えるようなものを、
「贈りもの」として与えてくれる。

これを読んでくださっている皆さんには、
どのような「夏の贈りもの」が贈られただろうか。

その「贈り物」を受け入れる器。

その器が「こころ」であるならば、
わたしはみずからにあらためてこう問うことになる。

「わたしはこころを拡げることができるのか」

その問いに応えていくことが、
この夏から秋へと移っていく時期のテーマだと感じる。

新しい考え、価値観、ライフスタイル、人生観、世界観、
それらを「己と結びつけつつ」。

しかし、その結びつけは、きっと、外からの結びつけではなく、
内からおのずと生じてくる結びつきになるのではないだろうか。

夏という季節を精神的に生きる。
そのとき、外なる季節の移り変わりに応じるような、
内なる移り変わり、成熟へのおのずさがだんだんと身についてきているのを感じるかもしれない。

「わたしは予感する、きっと力を見いだすことを」

それは、
こころを拡げ、
こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。

衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のように、
深く、活き活きと、しみじみと息づく生活感情を言うことばとしてよく使われていたそうだ。
(白川静『字訓』より)

「ころも」も「こころ」も、
三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。

それは、本来、
精神から凝(こご)るものとしての動き、
わたしたちのからだにまとうものとしての動きを、
音韻として顕わにしてはいないだろうか。

こころというものが、
精神というわたしのわたしたるところ・わたしの芯から、織りなされる。
そして、からだにまとう衣となって、
身のこなし、振る舞いのひとつひとつに顕れる。
しなやかに、柔らかく、輝きつつ。

そんな内なる力をきっと見いだす。

この夏から秋のはじめにかけてのテーマであり、
学び続けている人への励ましでもあるだろう。


わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとった世のきざしのことばを
己と結びつけつつ。
わたしは予感する、きっと力を見いだすことを。
こころをふさわしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。


posted by koji at 10:00 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月26日

こころのこよみ(第17週) 〜閑さや岩にしみ入る蝉の声〜 (再掲)


世のことばが語る、

そのことばをわたしは感官の扉を通して

こころの基にまでたずさえることを許された。

「あなたの精神の深みを満たしなさい、

わたしの世のひろがりをもって。

いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」



Es spricht das Weltenwort,          
Das ich durch Sinnestore                
In Seelengründe durfte führen:            
Erfülle deine Geistestiefen              
Mit meinen Weltenweiten,               
Zu finden einstens mich in dir.  



閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉

「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するように鳴り響く。

「閑さ」はどうだろうか。 
「閑さ」は、耳を傾けることによって、聞き耳を立てることによって、
初めて聴くことができるものではないだろうか。

「閑さ」とは、本来、耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものではないだろうか。

芭蕉は、「蝉の声」を通して「閑さ」を聴いたのだろうか。
「閑さ」を通してあらためて「蝉の声」が聞こえてきたのだろうか。

そして、芭蕉は、「蝉の声」の向こうに、「閑さ」の向こうに、何を聴いたのだろうか。

芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向こうに、
己が全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。

それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であった。


この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
わたしもことばを語る。
しかし、世がことばを語るとはどういうことだろうか。
「世のことば」が語るとはどういうことだろうか。

その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。
耳という感官を超えた「感官」によって受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたずさえることを許された」ことばである。


    人が人というものの中心をいよいよ人の内へと移す。
   人が安らかさの一時(ひととき)に内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
   人が内において精神の世とのつきあいを培う。
   人が日々のものごとから遠のいている。
   日々のざわめきが、その人にとっては止んでいる。
   その人の周りが静かになっている。
   その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
   その人が、また、そのような外の印象を想い起こさせるところをも遠のける。
   内において安らかに見遣るありよう、紛れのない精神の世との語らいが、
   その人のこころのまるごとを満たす。
   (中略)
   静けさからその人への語りかけがはじまる。
   それまでは、その人の耳を通して響きくるのみであったが、いまや、
   その人のこころを通して響きくる。
   内なる言語が ―内なることばが― その人に開けている。

        (『いかにして人が高い世を知るにいたるか』「内なる安らかさ」の章より)


この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。

    あなたの精神の深みを満たしなさい、
   わたしの世のひろがりをもって。
   いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために。


この「いつか」とは、クリスマスの頃であろう。
この週の対のこよみが、第36週である。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/410652960.html
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。

芭蕉は、俳諧ということばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠った人である。

彼はいまも、夏の蝉の声という生命が漲り溢れている響きの向こうに、静けさを聴き取り、
その静けさの向こうに、「世のことば」を聴いているのではないか。



世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたずさえることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもって。
いつかきっとあなたの内にわたしを見いだすために」




posted by koji at 16:53 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月23日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜 (再掲)


精神からの贈りものを内に秘めよと、

我が予感がわたしに厳しく求める。

それによって、神の恵みが熟し、

こころの基にて、豊かに、

己であることの実りがもたらされる。




Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,               
Daß reifend Gottesgaben                     
In Seelengründen fruchtend                   
Der Selbstheit Früchte bringen.  



ことばを話すこと以上によりこころのアクティビティーを使うのは、黙ること。
沈黙を生きることを大切にすることによって生がだんだんと深まっていく。

この沈黙とは、
こころが滞っているがゆえではなくて、
アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。

話すことをやめるのではない。
ことばと、
そのことばを話そうとしている己と、
そのことばを聴こうとしている人を、
大切にしたいからこそ、
ことばを迎え、ことばを選び、ことばを運ぶのである。

ことば。
ことばを話す人。
ことばを聴く人。

その三者の間に世の秘密が隠れていて、
そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 


精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによって、神の恵みが熟し、
こころの基にて、豊かに、
己であることの実りがもたらされる。


posted by koji at 06:29 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月11日

こころのこよみ(第15週) 〜子どものように生きる〜


わたしは感じる、

まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれているようだ。

それはぼんやりとした感官において、

わたしのわたしなりであるところを包む。

わたしに力を贈るべく、

その力を力無き己れに授けるのは、

囲いの中にある、わたしの<わたし>。




Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     



子どもの頃と違って、
若者である頃と違って、
わたしたちは歳をとるにしたがって、
自分自身というもの、
わたしの意識というもの、
自意識というものを、
大事にするようになるので、
夏になると、
それらが魔法にかかったように包まれ、力無く眠りこまされているような感覚に陥り、
困惑してしまう。

わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、
囲いの中にあるようだ。

しかし、こうしたありようが、
この季節特有の、かりそめのものだということを知っているならば、
わたしたちは困惑から抜け出ることができる。

このぼんやりとしたありよう、焦点が絞られていないありよう、
それは、大きく広がりをもった意識であるからこそ、そのようなありようなのだ。

そして、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしている。

だから、ぼんやりとした感官のありようを、思う存分、生きればいいのではないか。

夏のこの季節、
頭ではなく、手足を使うことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。
ある意味、子どものように生きること。
そうすることで、ぼんやりとしたありようではあるが、人は大いなる世から力を授かる。

たたとえ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、
魔法にかけられ、囲いの中にあるとしても、
そのように手足をもって生きることが、
来たる秋から冬に向けての備えとなる。
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、秋から冬への。



わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、精神が魔法にかけられて織り込まれているようだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲いの中にある、わたしの<わたし>。



posted by koji at 22:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月06日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考える」に任せてみる〜 (再掲)


感官の啓けに沿いつつ、

わたしはみずからを駆り立てるものを失った。

夢のような考え、それは輝いた、

己を奪い去るかのようにわたしを眠らせながら。

しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、

感官の輝きの中に、世の考えるが。




An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,             
Gedankentraum, er schien                
Betäubend mir das Selbst zu rauben,         
Doch weckend nahet schon                
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 



この季節、考える力が、本当に鈍ってくる。

「考える力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、
その力が失われているのを感じる。

夏の美しさが目や耳などを支配して、
美をたっぷりと味わうこともできる反面、
その情報量の多さに混乱してしまう危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。

内なる統一を与える「わたしの考える力」が失われて、
そのかわりに、もの想いに支配される時間が増えている。

その「もの想い(夢のような考え)」とは、
ものごとや人に沿って考えることではなくて、
ものごとや人について、手前勝手に想像してしまったり、
その想像にこころが支配されてしまって、その想いの中で行ったり来たりを繰り返すありようだ。

もの想いは、めくるめくようにわたしのこころの中を巡り、輝きわたり、
「己を奪い去るかのようにわたしを眠らせる」。

本当に自分の考えたいことを考えることで、人は目覚めることができる。
けれども、もの想いにふけることで、
人は夢を見ているような、あるいは、眠り込むようなありように陥ってしまう。

そんなありようを、どう受け止めたらいいだろう。

「人が考える」よりも、
「わたしが考える」よりも、
「世が考える」、そのことに己れを任せてみないか。

世は、
まごうことなく、
秩序と法則に従って時を生きている。

そして自分は、
すでにいるべき場所にいて、
すでに出会うべき人に出会っており、
すでにするべきことに向かっており、
すでに生きるべき人生を生きている。

そう、見直してみないか。

「わたしが考える」ことの力が失われてしまった、この時期だからこそ、
その「世の考える」「(恣意を挟まず)おのずからまぎれなく考える」に任せてみる。

夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、
自分自身を統一する考える力がいったんは眠ってしまい、見失われたからこそ、
来たる秋から冬にかけて新しく鮮やかに自分自身で考える力が目覚めることへと、
わたしたちを導いてくれるだろう。



「見る」をもっと深めていくことを通して、
からだをもっと動かしていくことを通して、
感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。

頭であれこれ考えるよりも、
手足を動かすことを通して、手足で考える。
 
その手足の動きこそが、「世の考える」との親和性は高い。 
 
それは感官を超えたものを見いだし、感じ始めることでもあり、
理屈抜きで、この世のものというもの、ことということをなりたたせている基のところを垣間見ることでもある。
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、
また顕わなところも、よりくっきり、はっきりと見えてくる。
 
そして、その見えてくるところが、ものを言い出す。
 
夏ならではのこころの練習として、
ものがものを言い出すまで、
からだを使ってみよう。
そして、からだをもって「見る」に徹してみよう。
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝えられる考え、
それらは、こころに直接響いてくる。
小賢しく考える必要がなく、
それらのことばと考えが、こころに直接「訪れる」。
 
その訪れるものを「世の考える」と、ここでは言っている。
 
 
この『こよみ』を追っていると、
まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものを記しているじゃないか」と感じることがよくある。
 
もの想いから抜け出す道を、わたしも、いま、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いている。




感官の啓けに沿いつつ、
わたしはみずからを駆り立てるものを失った。
夢のような考え、それは輝いた、
己を奪い去るかのようにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫っている、
感官の輝きの中に、世の考えるが。




posted by koji at 13:21 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月28日

こころのこよみ(第13週) 〜金色の輝きの中、歌い、踊る〜


そして、我あり、感官の高みに。

ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、

精神の火の世から、

神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、

あなたを精神の縁とともに見いだすべく」



Und bin ich in den Sinneshöhen,             
So flammt in meinen Seelentiefen            
Aus Geistes Feuerwelten                  
Der Götter Wahrheitswort:                 
In Geistesgründen suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.



これから始まる夏、
草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、
活き活きと働いているその自然のいちいちから、
客観的な精神が人に語りかけてくる。

一行目の「我あり、感官の高みに」とは、
ものというもの、そのいちいちを、
じっくりと見、聴き、触れ、味わうことを通して、
普段見過ごし、聞き過ごしているものが、
よりものものしく、より明らかに、より動きを伴って、
見えてくる、聴こえてくるということと通じている。

感官の高み。
それは、こころの、細やかな、密やかな深まりとして、育まれるもの。

自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣いに耳を傾けてみよう。

その密やかさのうちに、
ことばが燃え上がるように響いてくる。

こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」


1922年ドルナッハでの講演録『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)を紐解いてみると、
夏に、そのような我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、
誰によって話されているかが、
シュタイナーによって指して説かれているのを読むことができる。

まことのことばを燃えるように人間に語りかけている神々。

客観的な精神。
 
その外なる精神は、この季節、金色に輝いている。

わたしたち人に燃え立つ炎のように語りかけている金色の精神。

この夏の外なる精神の方々が発する金色の輝きを浴びるわたしたちは、
冬、クリスマスの頃、みずからのこころの奥底、精神の基に、
内なる金色を輝かせることができよう。

来たる冬に、精神に縁のある、金色に輝く己自身をしっかりと見いだすことができよう。

夏のいまは、外なる金色の光に応じるように、
眼差しを注ぎ、耳を傾け、
さらには、踊り、歌を歌いながら音楽と詩を奏でることで、
冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。


そして、我あり、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁とともに見いだすべく」


posted by koji at 00:19 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月21日

こころのこよみ(第12週) ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜 (再掲)


世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘う、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つようにと。

わたしは己から離れ、

信じつつ、ただみずからを探し求める、

世の光と世の熱の中に。



Johanni-Stimmung
Der Welten Schönheitsglanz,                   
Er zwinget mich aus Seelentiefen              
Des Eigenlebens Götterkräfte               
Zum Weltenfluge zu entbinden;            
Mich selber zu verlassen,            
Vertrauend nur mich suchend           
In Weltenlicht und Weltenwärme.        


今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」という副題がついている。

キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行われていた。

人というものを導く神は、太陽におられる。

その信仰が人びとの生活を支えていた。

太陽が最も高いところに位置するこの時期に、
太陽におられる神に向かって、
人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌いながら、
その祭りを執り行っていた。

洗礼者ヨハネは、
その古代的宗教・古代的世界観から、
まったく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人であった。

彼は、夏に生まれたというだけでなく、
いにしえの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のような情熱をもって、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まってくる人々に水をもって洗礼を授けていた。

しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
もうすぐこの地上に降りてこられることを知っていた。 

  「汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり」 (マタイ3.2)

そして、みずからの役目がそこで終わることをも知っていた。

  「わが後に来たる者は我に勝(まさ)れり、
  我よりさきにありし故なり」 (ヨハネ1.15)

  「我は水にて汝らに洗礼を施す、
  されど我よりも力ある者きたらん、
  我はそのくつの紐を解くにも足らず。
  彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん」 (ルカ3.16)

  「彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし」 (ヨハネ3.30)

ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たった。

それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地という深みへと降りたということであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもあった。

「内に生きる神々しい力」とは、
人の内にこそ生きようとしている、
キリストのこころざし(Christ Impuls)。

ヨハネがそのことに仕え、みずからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝わってくる。

そのときからずっと、キリストは、この地球にあられる。

そのことをわたしたちは実感できるだろうか。

しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言っている。

みずからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのずからは生じない。

人が世に生きるにおいて、
みずからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己から求めない限りは、
その実感は生まれ得ない。

ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝うものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝い。

それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくという、
わたしたち現代に意識的に生きる人という人の求めることでもある。

この夏の季節、
キリストは息を吐くかのように、
みずからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がっていこうとしている。

わたしたち人も、
キリストのそのような動き・呼吸に沿うならば、
己から離れ、
己のからだとこころを越えて、
精神である「みずから」を見いだすことができる。

生活の中で、
わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだろうか。

からだを使って働き、
汗を流し、
学び、
歌い、
遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使うことによってこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使うことによってこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」みずからという精神を見いだすことができる。

そして、この夏において、
意識的に、子どもに、習うこと。

いまも、子どもたちは、わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑い、歌い、踊っている。

ヨハネ祭のとき。
古代の人々は、鳥たちが歌うことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて音楽と詩を奏で、歌い、踊ったという。

鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのようなものが下ってくる。

このヨハネ祭の季節に、
人は、鳥たちに学びつつ、歌い、踊ることによって、
己から離れ、
いまだ天に見守られている<わたし>を当時の夢のような意識の中に見いだすことができた。

いまも、
子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のような意識のありようを生きている。

そんな夏の子どもたちの笑い声と歌声をさえぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。

そして、わたしたちが己から離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
子どもたちの歌声に対するエコーのように、
ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、
天に見守られているのを見いだし、響き返してくれているのを聴き取ることができ、
この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。

言語造形をしていても、そう、実感している。

夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによって、
毎年繰り返して、高揚感を覚えていると言う。

ヨハネ祭の調べ。

それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによって、
意識的に、目覚めつつ、みずからを高めつつ、
みずからという精神を見いだすこと。

そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの高揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。

そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じる。


世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘う、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つようにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみずからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。



posted by koji at 21:41 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月20日

子どもだったころの姿 〜ひびきの村から帰ってきました〜


IMGP3005.JPG


NPO法人 人智学共同体 ひびきの村での五日間を終えて大阪に帰ってきました。
 
ご参加して下さった皆さん、そしてお世話をしてくださったスタッフの方々、本当に素晴らしい時間と場所でした。
ありがとうございました。
 
毎回、ここに来させてもらうたびに、こころが揺り動かされます。 

大(だい)の大人が、わざわざ、五日間も時間を取って、お金をかけて、ひとつのことに取り組む。
 
それは、物凄いことだと思うのです。
 
おひとりおひとり、この五日間を迎えるまでの人生の中で様々な経験を重ねてこられていて、表側にはそのようなこれまでの経験を出したりはされません。
 
内側に様々なものを抱えて来られているのです。
 
しかし、日が進んでいくにつれて、皆さんの表情、声、振る舞いの向こう側に、子どもだったころの姿が顕れてくるのです。
 
その姿は、何と言っていいのか、光と呼んでもいいかもしれない。
 
その光は、その人自身だけでなく、周りの者にも輝きわたり、無条件に、愛のような共感の輪が拡がるのを、その時その時、感じ、観ることができます。
 
人が、懸命になって、声を解き放ち、ことばを生きようとしている。
 
その姿は、本当に、美しい。
 
「少し身を引いて、何事に対しても客観的に向かっていた思春期以降の自分でなく、小学生時代のひたむきに生きていたころの自分に、帰ってました」
 
「何事も、(批評や評論しているのでなく)『やる』って、ほんとに大事ですね」
 
参加者の方がそんなことを仰っていたのが、印象的でした。
 
ひびきの村での、ヨハネ祭を前にした、今回の言語造形、
まさしく、太陽に向かっていのちの力をフルに働かせて、上へ、上へ、と長けてゆく、そんな時間でした。
 
わたし自身も、毎朝9時に「ハレルヤ」を動き、『こころのこよみ 第11週』を声に響かせられたことは、一日を豊かに織りなしていくために、この上ない朝の始まりでした。
 
 
次回のひびきの村での言語造形は、丁度半年後のクリスマスを目前に控えた12月第3週。
『生誕劇』に取り組みます。
その時は、夏に向かっていた太陽の輝きを、わたしたちは、内なる太陽の光として、こころの深みに宿らせているでしょう。
 

では、改めて、『こころのこよみ 第11週』を。
 
 この太陽の時の中で、
 
 あなたは、賢き知を得る。
 
 世の美しさに沿いつつ、
 
 あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
 <人のわたし>は、みずからを失い、
 
 そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。


posted by koji at 12:36 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月14日

明日から、北海道ひびきの村で5日間の言語造形


IMGP2987.JPG


明日から、北海道ひびきの村で5日間の言語造形。
 
伸びてゆく草木のように、
ひとりひとりの人のこころと精神が、
大地から天に向かって長けゆきますように。
 
行ってきま〜す。
 
 
『青い槍の葉(mental sketch modified) 宮澤賢治』
 
  りんと立て立て青い槍の葉
 
  たれを刺さうの槍ぢやなし
 
  ひかりの底でいちにち日がな
 
  泥にならべるくさの列
 
    (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
 
  雲がちぎれてまた夜があけて
 
  そらは黄水晶(シトリン)ひでりあめ
 
  風に霧ふくぶりきのやなぎ
 
  くもにしらしらそのやなぎ
 
    (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
 
  りんと立て立て青い槍の葉
 
  そらはエレキのしろい網
 
  かげとひかりの六月の底
 
  気圏日本の青野原
 
    (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)


posted by koji at 00:00 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月13日

こころのこよみ(第11週) 〜白日の下の美しさ〜 (再掲)


この太陽の時の中で、

あなたは、賢き知を得る。

世の美しさに沿いつつ、

あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。

<人のわたし>は、みずからを失い、

そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。



Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.        



世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言っているのではないだろう。
この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。

その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
そのような、のっぴきならないものが「世の美しさ」として感じられるだろうか。
そして、それに沿うことができるだろうか。

どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいこと、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、
その深みを見てとることができるだろうか。

ものごとは、なんであれ、
付き合い続けて、沿い続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。

子どもの立てている寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあっている者同士の関係、愛、いさかい、葛藤。
毎日移り変わっていく世の動向。
人びとの集団的意識の移り行き。

それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびってしまわずに、
こころをこめてそれに向き合い続け、沿い続けるときだ。

そして、ものごとに沿うという行為の、
肝心要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのか、
いったい何が本質的なことなのか、という問いをもつこと。

それが精神を通わせつつものごとに沿うことの糸口になる。
からだをもって振る舞い、こころから行為していくことの糸口になる。

その時、
捨てようとしなくても、
人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
そして、より広やかで深みをもった<世のわたし>の内に、
賢き知」と、
他の誰のでもない、
自分自身のこころざしが、
立ち上がってきはしないか。



この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿いつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
<人のわたし>は、みずからを失い、
そして、<世のわたし>の内に、みずからを見いだすことができる。



posted by koji at 20:36 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月07日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見ているよ〜 (再掲)


夏の高みへと

太陽が、輝くものが、のぼる。

それはわたしの人としての情を連れゆく、

広やかなところへと。

予感しつつ、内にて動く、

感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。

あなたはいつか知るだろう、

「神なるものが、今、あなたを感じている」



Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       



これから来たる夏の太陽の光と熱によって、
植物の緑が、花のとりどりの色となって、上へ上へと燃え上がる。

鳥たちが、虫たちが、いよいよ高らかに、軽やかに、
夏の青空の高みに向かって、鳴き声を響かせ、
大いなる世、宇宙にその響きが拡がっていく。

太陽によって引き起こされるそんな植物と動物たちの働きが、
わたしたちの周りの夏の空気に働きかけているのを、
わたしたちは感じることができるだろうか。

もし、そういうことごとを人が感じつつ、
来たる夏を生きることができるならば、
みずからの、人ならではのところ、人であること、わたしであることもが、
ここよりも、さらに、高いところに、
さらに広やかなところにのぼりゆき、
天によって見守られることを、
情として感じることができるだろうか。



「お天道様が見ているよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。

おそらく、そのことばは、
古来、日本人がずっと我が子どもたちに言い伝えてきたものだろう。

「お天道様」それは、太陽の神様であり、
わたしたちに警告を発しつつ、
わたしたちを見守っている存在として、
常に高みにあるものとして感じていたものだったのだろう。

そして、いま、わたしたちは、その「お天道様」を、
人の人たるところ、<わたし>であるところとして感じているのではないだろうか。

「神なるものが、いま、あなたを感じている」とは、
「高い<わたし>こそが、いま、低い、普段の、わたしを見守ってくれている」
ということかもしれない。

わたしたちは、自分自身のこれまでの見方や感じ方や考え方から離れて、
改めて、この季節だからこそ、
「お天道様」に見守られていることを感じ、
「お天道様」からの視点、
「おのずから」なありかたで、
生きていくことができるだろうか。

見る眼を磨き、耳を澄ますなら、
きっと、予感と感覚が、教えてくれるだろう。


夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだろう、
「神なるものが、今、あなたを感じている」



posted by koji at 13:33 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月03日

和歌山での未来の学校をつくる会


11402586_1590342771238662_9160930931138983336_o.jpg
 
11416371_1590342884571984_3247513735018292870_o.jpg


和歌山北部にて、シュタイナー学校を創っていく試みを始めた主要メンバーたちと、小さくない関心を寄せてこられる方々。
 
子どもたちのための教育の場というだけにとどまらず、
「文化の行ない(人を耕していくこと)」に勤しんでいくところとして、つまり、大人自身もみずからをなりかわらせていくことに勤しむところとして、自分たちの場を成長・発展させていくことを胸に抱いている仲間たちです。
 
この『普遍人間学』を通して学び、
そして、実際に授業をどう創っていくかを研究していくこの場は、
そのまま、教師会・教員会議へと繋がっていき、
それは、きっと、教師のための本来的なある種のカレッジ・大学の機能を持つようになるでしょう。
 
シュタイナー教育に造詣の深い方々から教えをこうことも勿論大切なことですが、それ以上に、勇気をもって、自分たち自身から自分たち自身への教員養成を始めていく気概。
そんな心根を確認し合えた、今日でした。
 
 
ご関心のおありになる方、「和歌山でシュタイナー学校の教師の仕事をやってみよう」という思いをこころの片隅にでも抱いた方、どうぞ、未来の学校をつくる会(モモの会)へアクセスしてみてください。
http://momo-society.org/contact.html

posted by koji at 22:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月01日

こころのこよみ(第9週) 〜失いなさい、見いだすために〜 (再掲)



我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすようにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」

 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなけりゃ、あれをしなけりゃ・・・」
 
そのような意欲というものも、内なる「熱」と言っていいのだけれども、
その意欲の中にある「こだわり」を忘れることができるだろうか。
「・・・しなければ」というような「恐れ」を忘れることができるだろうか。
 
朝、陽の光が輝き出すと、
その熱が、来たる夏を知らせてくれているように感じる。
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、
ずっと、その熱に問いかけるように、していると、
その陽の光から発せられている熱は、
自分が抱いている意欲の熱よりも、
はるかに、はるかに、巨大で、
太陽の意欲は、
わたしの意欲よりも、
はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通しているかのような豊かさであると感じる。
 
そのような意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだろう。
 
シュタイナーは、『世と人のなりかわり』(全集175巻)の中で、
「父なるもの」からだと話している。
 
その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けている方」と人との出会いは、ひとりひとりの生涯の内に一度はきっとある。
 
人生の中で、己というもののこだわりを脱ぎ捨てられたことで、
夏の太陽のような巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、
その出会いは生じる。
 
だから、子どもの頃、
丁度、これから始まる夏にかけて、
大いなる天空を仰ぎ、
そこに拡がる星ぼしに想いを重ね、
自分の感情と意欲を大いなる叡智に沿わせていくことは、
人生にきっと一度は生じる「父なるもの」との出会いに向けた良き備えになる。
 
人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きっとある。
 
   光の中で、あなたを失いなさい、あなたを見いだすために
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすようにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失いなさい、あなたを見いだすために」

  

posted by koji at 12:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月29日

『普遍人間学を読む会 第二講@』 〜「想い」とは 〜


IMGP2859.JPG


IMGP2860.JPG


IMGP2854.JPG


本来的に、人は、
幼児期には、ひたすら、欲します。
小学校期には、ひたすら、感じます。
中学校期から成人するまでは、ひたすら、考えます。

この普遍人間学では、主に小学校期の子どもたちに対する教育を扱っていますが、
その小学生の子どもたちの「感じる力」を育てていくために、
この第二講では、
両サイドの「欲する力」と「考える力」の育みのバランス・塩梅加減を、
まずは、見てとっていくのです。

まず、今回は、「考える力」についてです。

「考える力」は、「想う力」でもあります。
「想う」とは、読んで字の如く、考えつつ、心の前に相を据えること、像を描くことです。

小学生の子どもたちは、
初めて、文字を習ったり、計算を習ったりしながら、
この「想う力」「考える力」をだんだんと使っていくことになります。

ここからは、シュタイナーが語る事柄を、
目で見るが如く確かめることができなくとも、
まずは、こころに受け取ってみましょう。

わたし自身も、その受け取ったところと、
自分自身の人生の中で感じ、考えていることとを、
重ね合わせつつ、学んでいます。

この第二講で論じられることを先取りして言いますが、
授業によってどれほど活き活きとした像に満ちた「想い」が子どもに与えられるか、
そのことが、子どものからだとこころの健やかさを大きく左右します。

そもそも、像とは、ありありと、そこにあるものではなく、何かの像です。
鏡の像のように、何かが映っているのです。
そして、像は、生きたものではなく、生命をもたないもの、死んだものです。

そして、「想い」とは、常に、像です。
死んでいる像です。
死んでいる像だからこそ、
わたしたちは「想い」を様々につぎはぎしたり、自由に操ることができるのです。
自由に考えることができます。
もし、像が生きていたら、生き物だとしたら、
わたしたちは、その生き物の都合を見てとらなければなりません。
自分の勝手には扱えません。
想いは像であり、像は死んでいるがゆえに、わたしたちはそれに自由にアクセスできます。

では、「想い」「考え」とは、何の像なのでしょうか。
何が映っているのでしょうか。

この世に生まれる前の生です。

わたしたちが日々、時々刻々、抱く「想い」「考え」は、
わたしたちがこの世に生まれる前に精神存在として生きたことごとの像です。
生まれる前のことごとが、
いまも、リアルタイムで、時々刻々、想いとして、像として、こころに映っているのです。

ですから、ひとりひとり、想い方、考え方が違います。

その人がこの人生において、何を、どう、想い、考えるか、
それは、生まれる前の精神の生き方に随分左右されてもいます。

人が、想いつつ、考えつつ、学ぶものというのは、
すでに生まれる前に経験したところのもの、
すでに知っていることであり、
この世に生まれた時に、すべてを忘れ、
人は、学ぶことによって、それらを想い起こすのだ。
そう、プラトンも語っています。

すでに知っていることごとを想い起こす。
それが学びです。

「想い」が、いったんは、死んだ像となって、こころにやってこようとします。
しかし、小学生のころから、
その像が、抽象的な死んだものとしてではなく、
教師によって、より具象的な、活き活きとした絵姿を帯びたものとして与えられるならばどうでしょう。

日々、こころにやって来る想いが、
固定的なものとしてではなく、
生きた動きのあるもの、やがては自分自身の中で成長していくものとして、
その子自身の成長を促すものとなります。
「想い」が、こどものこころの中で、死んだものから甦るのです。

より活き活きとした像・絵姿として「想い」を語ること。
死んでいるものに息を吹き込むこと。
それによって、子どもの「想う力」を活き活きと育てること。
そのことがおのずと子どもの「感じる力」を育んでいきます。
それが、小学生の傍にいる教師や大人が各々工夫しながら練習していいことです。



●『普遍人間学を読む』クラス
 
 日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
    和歌山県岩出市   Aクラス 第一水曜 午前10時〜12時
              Bクラス 第二土曜 午後13時〜15時
 参加費: 毎回3,000円  6回連続15,000円
 
 ※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
  次のサイトでご購入いただけます。
  精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 場所・お問い合わせ・お申込み: 
 帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
 岩出クラス  モモの会 http://momo-society.org/contact.html
 
 講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html


posted by koji at 14:46 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 普遍人間学を読む会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月27日

こころのこよみ(第8週) 〜聖霊が降り給う日々〜 (再掲)


感官の力が長けゆく、

神々の創り給うものに結びつけられて。

それは考える力を沈める、

夢のまどろみへと。

神々しいものが、

わたしのこころとひとつになろうとする時、

きっと人の考えるは、

夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる。



Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 




感官の力(見る力や聴く力など)は、
ものに吸い寄せられてしまうこともあるだろう。
たとえば、テレビやこのコンピューターの画面などに。

しかし、ものに吸い寄せられたままではなく、
感官の力を、もっと意識的に、意欲的に、働かせ、
じっくりと腰を据えて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる・・・。

考える力が鎮められ、沈められる位、
見てみる、聴いてみる。

見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
なぜ、飽かぬのだろうか。
それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立って、愛するがあるから・・・。
そのとき、そのときの、「愛する」から、
からだのおおいさ、実用の大事さが披かれる。

その時のこころのありようは、むしろ、
「考えるは、夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる」
と表現することがぴったりとする。

そうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのように感じるだろう。

この週は、聖霊降臨祭の週でもある。

約二千年前、
十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、
その後四十日間に渡ってキリストは精神のからだをもって現われ、
当時の弟子たちに親しく語りかけたという。

しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したという(昇天)。

その十日の間、
弟子たちは「夢のようなありようの中で静かに慎んで」いた。

ひとところに集まって、
静かに熱く、しかし夢にまどろんでいるようなありかたで祈っていた。

そして、聖霊降臨の日、
それは聖霊(聖き精神)が、
ともに集っている弟子たちに初めて降りてきて、
弟子たちがさまざまな言語をもって(個人個人がおのおの自分のことばで)、
そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だった。

前週において、
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考える力に代わって」
とみずからの精神に呼びかけた。

その「予感」への呼びかけとは、
こざかしく考えることを止めて、
より大いなるものからの流れ(世の考え・キリストのことば)に耳を傾けるという行為だった。

それは、「静かに慎む」ありようをもって、
みずからを浄めつつ待つという行為でもある。

二千年後のわたしたちは、
考える力が失われてくるこの季節においても、
そのような備えをしようとアクティブにみずからをもっていくならば、
「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖霊降臨祭を、
自分たちのいまいる場所で立てていくことができるかもしれない。

「すべては神々の創り給うものである」
「神々しいものとこころがひとつになる」といったことを、
読む、言うにとどまらず、
予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、
からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。

教育であれ、芸術であれ、
そこに、アントロポゾフィーの社会性が育っていく基盤があるのではないだろうか。



感官の力が長けゆく、
神々の創り給うものに結びつけられて。
それは考える力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつになろうとする時、
きっと人の考えるは、
夢のようなありようの中で、静かに慎んでいる。



posted by koji at 12:08 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月26日

動物寓話『馬と牛』音声版&記事 (キッズレーダー夏号)



 

11129823_829384870473110_7369167784453309537_o.jpg
(一回画像をクリックしていただいて出てきた画像を、もう一回クリックしてみてください。読みやすい大きさになります)


今回のキッズレーダー夏号に掲載しましたのは、
『馬と牛』という動物寓話・音声版です。
 
小学二年生から三年生の子どもたちに語り聞かせてあげられるといいのでは、と思っています。
 
メルヘンや昔話をたっぷり聴いてきた低学年の子どもにとって、
動物寓話は、こころに芽生えてきているファンタジーの力(想像力)を、
現実世界を暖かく深く見てとる力へとゆっくりと成長させていく、
丁度いい橋渡しの役目を果たしてくれます。
 
そのために、
このお話しのような寓話をお子さんに語り聞かせてあげる前に、
出てくる動物たちのことについて、
具体的なことを少しお話ししてあげます。
 
例えば、
牡牛は群れの中でリーダーになるために、
とても激しい闘いを周りの牛たちとすることや、
ロバは穏やかだけれども神経質なところもあり、
気が向かないとまるで動こうとしないこと。
また馬は本来とても素直で、
人によくなつこうとすること、などなど。
 
そして、それぞれの動物と人間との間の類似性を、
思いつくままに話してあげましょう。
そうすることで、すべての動物はどこか人間に似ていて、
つまりは、人というものはすべての動物の特性をバランスよく総合している存在であることを、子どもが理屈抜きに感じられるようにしてあげたいのです。
 
そのあとに、この寓話を聴かせてあげます。
あとはなんの説明も要りません。
ただ、このお話が醸し出す感情に一緒に浸ってみましょう。
 
動物たちに対する暖かい想い、
人間に対する誉れ高き念いが、
子どもにとって現実世界を見てとる際の基になることを願って。
 
 
 
https://www.youtube.com/watch?v=Y9-6t3Q8Dhs&feature=youtu.be
 
こちらがキッズレーダーのページです。ぜひ冊子をお手に取ってご覧いただきたいです。https://www.facebook.com/kidsradar?fref=ts


2015年05月22日

こころのこよみ(第7週)〜芸術感覚、光と風〜 (再掲)


わたしのわたしたるところ、

それはいまにも離れ去ろうとしている、

世の光に強く引き寄せられて。

さあ、来たれ、わたしの予感よ、

あなたの力に満ちたふさわしさの中に、

考える力に代わって。

考える力は感官の輝きの中で、

みずからを見失おうとしている。




Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.



芸術への感覚、芸術を生きる感覚というものは、どの人の内側にもある。
ただ、それは意識して育まれることによって、
だんだんとその人のものになり、
表に顕れてくるものだろう。

その感覚を育むほどに、
この『こころのこよみ』を通しての密(ひめ)やかな学びにもリアリティーが生まれてくる。

人は、芸術に取り組むとき、
ある種の息吹きを受け、それを自分の中で響かせ、そしてその息吹きを解き放っていく。
大きな呼吸のような動き、風の動きの中に入っていく。
そのような大きな息遣いと自分自身の小さな息遣いとがひとつに合わさっていくプロセスが、
芸術における創造行為だと感じる。
言語造形をしていて、そのことをリアルに感じるのだが、
きっと、どの芸術のジャンルでも、そうではないだろうか。
そして、つまるところ、人が意識してする行為という行為が、きっと、芸術になりえる。

シュタイナーは、そのような、
芸術をする人に吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。

そしてそのインスピレーションから、今度は息を吐き出すように何かを創ることが芸術である。

わたしたちの地球期以前の、月期からさらに太陽期に遡るときにおいて、
世に、物質の萌しとして、熱だけでなく、光と風が生じた頃に、
人は、インスピレーションを生きていた。
(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来ている)

人は芸術を生きるとき、
その太陽期からの贈りものとして、
光と風を、いまや物質のものとしてではなく、
精神のものとして、インスピレーションとして、感じる。

    わたしのわたしたるところ、それはいまにも離れ去ろうとしている

一年の巡りで言えば、
わたしたちは、秋から冬の間に吸い込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、
春から夏の間に解き放とうとしている。

秋から冬の間、
「わたしのわたしたるところ」「考える力」はそのインスピレーションを孕(はら)むことができたのだ。

「いまにも離れ去ろうとしている」とは、
春から夏の間のこの時期、
インスピレーションを孕んだ「わたしのわたしたるところ」「考える力」が変容して、
意欲の力として、からだを通して表に顕れ出ようとしている、
大いなる世へと拡がっていこうとしているということでもあるだろう。

    世の光に強く引き寄せられて

その精神の吐く息に連れられて、
拡がりゆく「わたしのわたしたるところ」「考える力」は、
外の世においてみずから空っぽになるほどに、光の贈りものをいただける。

その光の贈りものとは、「予感」という、より高いものからの恵みである。

    さあ、来たれ、わたしの予感よ、
   あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
   考える力に代わって。



芸術とは、
インスピレーションという世の風に吹き込まれることであり、
予感という世の光に従うことである。
練習を通して初めてやってくる予感に沿っていくことである。
練習とは、身を使うことである。

インスピレーションを孕んだ考える力が、まずは頭から全身に働きかける。
その精神の息吹きを、練習によって、解き放っていく。
その息吹きが練習によって解き放たれるその都度その都度、
予感が、光として、ある種の法則をもったものとしてやってくる。

インスピレーションが、
胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、
息遣いを通して、
芸術として世に供され、
供するたびに、
芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。

この小さな頭でこざかしく考えることを止めて、
やがて己に来たるべきものを感じ取ろうとすること。

こざかしく考えることを止めること。
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かって呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考える働きとは趣きがまるで違うが、
アクティビティーにおいては、それに負けないぐらいの強さがいる。

世から流れてくるものを信頼すること。

そして、そのような、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のようにやってくる。

だから、この季節において、考える力は、
感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、
見失われていいのだ。

    考える力は感官の輝きの中で、
   みずからを見失おうとしている。




わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去ろうとしている、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
考える力に代わって。
考える力は感官の輝きの中で、
みずからを見失おうとしている。




posted by koji at 18:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月17日

太宰治の手紙から、想い起こす

太宰治書簡 河盛好蔵宛

  文化と書いて、それに文化(ハニカミ)とルビを振る事、大賛成。
 私は優という字を考えます。
 これは優れるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、
 でも、もう一つ読み方があるでしょう?
 優しいとも読みます。
 そうして、この字をよく見ると、人偏に憂うると書いています。
 人を憂うる、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、
 また人間として一番優れている事じゃないかしら、
 そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。
 私は含羞で、われとわが身を食っています。
 酒でも飲まなけりゃ、ものも言えません。
 そんなところに「文化」の本質があると私は思います。
 「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、
 それでよいと思います。
 私は自身を「滅亡の民」だと思っています。
 まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学じゃないのかしらん。



自分の仕事ってなんだろうなと、改めて考えていて、この太宰の手紙のことを想い起こしました。

我が国ならではのもの、その根もとに息づいているものを意識すること。

太宰は、それを優しさ、とも、含羞(はにかみ)、とも、表現される「文化」だと言っています。
古来、我が国の詩人たちは、その奥底に息づいているものを様々に言い表してきました。
「言霊の風雅(みやび)」、「侘び」、「寂び」、「しおり」・・・
本居宣長に至って、「もののあはれを知ること」とも言い表されました。

それは、特に自分の場合、
日本語という、ことばを意識していくことでもあって、
日本語ならではの調べに意を注ぎながら、
ことばの運用を大事にしていくことでもあります。

日本では、特に、こころを整えてから、ことばを話す、というよりも、
ことばを整えることで、こころを整え、育んでいく、
そんな道があることに、ある種の驚きと誇りをも感じるのです。

言語造形を通して、
その根もとに息づいているものを、
葉と繁らせ、花と開かせ、実とならせること。

それこそが、自分の仕事であるのだな。
そして、もしかしたら、それこそが、世界中に通じていくような、
まこと遍き意味(こころの味わい)をもつのではないだろうか。
よその国の人がこころから感心しうるもの、
それは、日本なら日本ならではの、こころの味わいの深さ、豊かさ。

これは、己だけ(日本だけ)を観ていて済むことでは、きっと、なくて、
他者(外の国、民族)との出会いの中でこそ見いだされていくことでしょうが、
自分自身の足許をこそ深く掘ってゆく、
そんなおおもとの志が大きくものを言うように思われます。

また、こんなことも考えるのです。

わたしたち日本人の意識の深みに古代から引き続きずっと憩っているもの。
それは、「神から引き離されてしまったわたし」ではなく、
いまだに「神とひとつである<わたし>」
いわば、「神(かむ)ながら」であること・・・。

もし、そうであるならば、その奥底にあるものをこそ、改めて意識に引き上げ、
それを、活き活きと、溌剌と、表現し、表に顕していくこと。
それは、わたしたち日本人が荷っていっていい、ひとつの役割かもしれない。

ヨーロッパやアメリカを中心とした「文化」のあり方は、
やがて、古来から秘められ続けているアジア、
とりわけ日本の「文化」のあり方と、出会うでしょう。
これは、未来のことだと思うのです。

その時、どちらかがどちらかを征服するのでなく、
真に出会う未来に向けて、
わたしたちは、己の本来もっているものを磨き、研ぎ澄ませるぐらいの意識を育んでいくことが大事だなと思うのです。

でも、そんなことは、たいてい、
日常の生活の中では忘れ去られてしまっているものですから、
だからこそ、想い起こす必要がある。

慎ましく、かつ、怠ることなく。

なんだか、大風呂敷をひくようなことを書いてしまった嫌いがありますが、
そんなことを考えつつ、仕事をしています。


posted by koji at 16:32 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月12日

こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いている信仰〜 (再掲)


己であることから蘇る、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみずからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。

 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じっくりと見る。
じっくりと聴く。
じっくりと受けとる。
 
そのように世に向かって、人に向かって、
意識的に感官を開くほどに、
世も人も、ものものしく語りだす。
 
そして、世と人に向かって我が身を披けば披くほど、
我がこころが起き上がってくる、立ち上がってくる、蘇ってくる。
 
たとえば、幼い子どもを育てているとき、
大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがある。
 
そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、
ぐずったり、泣きわめいたりする。
 
しかし、
この「忙しさ」というこころの焦りに、
大人であるわたしみずからが気づけた時、
目の前の子どもにじっくりと眼を注ぐことができた時、
子どもの息遣いに耳をじっくりと傾けることができた時、
子どもが落ちつくことが、よくある。
 
そんな時、子どもがいっそう子どもらしく輝いてくる。
その子が、その子として、啓けてくる。
 
そして、そうなればなるほど、
眼を注いでいるわたし自身のこころも喜びと愛に啓けてくる。
わたしが、わたしのこころを取り戻している。
 
子どもを育てている毎日は、そんなことの連続。

きっと、子どもだけでなく、
お米その他の作物をつくったり、育てたりすることにおいても、
それを毎日している人には、
同じようなことが感じられているのではないだろうか。

子どもがいてくれているお陰で、
他者がいてくれているお陰で、
ものがあってくれるお陰で、
わたしはわたしのわたしたるところ、
わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
他者という世、
それはこちらが眼を注ぎさえすれば、
いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
他者に、世に、
わたしのまことたるところが顕れる。
 
そのことも、不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、
そのわたしのまことたるところが、
神々しい元の相(すがた)に相通じていることに気づいていくことは、
あらためて、
信仰ということに対する親しさをわたしたちに与えてくれる。
 
生活の中に根付いている信仰。
 
日々、つきあっているものというものや他者を通してこそ、
啓いていくことができる信仰。
 
もうすぐ、聖霊降臨祭がやってくる。
 
 
 
己であることから蘇る、
わたしのわたしたるところ。そしてみずからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。


posted by koji at 20:23 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

くすのき園 - 大阪あびこシュタイナー幼稚園 〜こころからの幼児教育〜


子育て談話.jpg

 

うちの娘ふたりが通わせてもらったくすのき園。
大阪市内で唯一営まれているシュタイナー幼稚園。
この園は、なんとかして存続してほしい、とこころから希っているのです。
なぜなら、我が娘たちにとって、本当に素晴らしい場所だったから!
何が素晴らしかったのか、そんなことを早知子先生と語らいながら、
来て下さる皆さんとこの園の存在意義を感じあいたいと思っています。
 
 
_____________________________
 
幼い子どもは、
そばにいる大人のすることなすことすべてを真似て成長していきます。
 
まわりの環境からありとあらゆる影響を受けながら、
日一日と自分のからだをつくっていきます。
 
なぜでしょうか。
 
幼い子どもたちは、いったい何を求めているのでしょうか。
 
わたしたちはどのようにしたら、
その求めに応えていくことができるのでしょうか。
 
そして、シュタイナー幼児教育を実践しているくすのき園では、
 
どのような環境づくりを大切にし、
どのような時間を営んでいるのでしょうか。
 
くすのき園の教師である樋口早知子さんと、
父兄として七年近く園にかかわらせていただいた諏訪耕志とで、
そんな話しを交わしながら、
シュタイナー幼児教育について、
こころからの理解を深めあえる時間をもちたいと思います。
 
我が子が、ひとりの人として、人間的に健やかに育っていってほしい。
 
そう願い、シュタイナー教育を求め、
くすのき園への入園を考えておられる親御さんの方々との出会いが生まれますよう、わたしたちは願っています。
 
 
 
子育て談話:樋口早知子(くすのき園教諭) & 諏訪耕志(ことばの家主宰)
 
日 時:2015年5月30日(土)10:00〜11:00  人形劇 & 子育て談話
                 11:00〜12:00 質疑応答
 
場 所:くすのき園 - 大阪あびこシュタイナー幼稚園
    http://kusunokien.exblog.jp/i9/
    南海高野線「我孫子前」より徒歩5分 
    阪堺上町線「我孫子道」より徒歩10分
 
参加費:1,500円(一家族)
小さなお子さんの保育費:500円(ひとり)。
 
 
●お問い合わせ・お申込み:ことばの家(諏訪)
tel&fax :06-7505-6405 
email:info@kotobanoie.net
 
※保育を希望される方は、恐れ入りますが、
前もってお知らせください

posted by koji at 18:45 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月06日

とこしえに女であるもの 〜『夕鶴』神奈川公演を終えて〜


神奈川「夕鶴」挨拶.jpg


すべての芸術には、その芸術を「芸術」たらしめる、秘められた法則があります。
すべての人の仕事には、その仕事を「仕事」たらしめる、秘められた法則があります。

その法則は、いっときに、一挙に、顕わにはなってくれず、
取り組みの連続の中で、ゆっくりと、だんだんに、みずからの秘密を打ち明けてくれるのです。

このたびの『夕鶴』再演に至るまでにも、
その作品に秘められている法則を改めて説き明かす日々でした。

その解き明かしは、本番の直前まで続きました。
なぜなら、精神は、稽古のたびごとに、新しく、こころとからだに降りてくるのですから。
むしろ、本番の最中でさえも、説き明かしは新しくやってきます。
ですから、昨日の演技、昨日の解釈に安住できないのです。

そんな仕事の進め方に俳優の皆は、柔軟に、積極的に、対応してくれました。
ふたりの子どもたちもです。
子どもたちは、子どもならではの演技などはまったくせず、
ただひたすら、ことばの精神から生まれるリズムとメロディーと身振りを通して、
舞台をまさに生ききりました。

大人たちもひとりひとり、各々、言語への取り組みがあったのですが、
ことばの音楽性、彫塑性を引き上げていくことで、
その都度、新しく表現を見いだし、
その都度、新鮮な感情に包まれていったのでした。

神奈川公演の後、
『夕鶴』について、言語造形という芸術について、ことばの力について、
いろいろなことをその後も考え続け、感じ続けて下さっている方がとても多いことに、
嬉しい驚きを感じています。

そのように、言語造形による舞台を機にして、
それを体験した各々の人が、各々の内面において、
作品について、ことばというものについて、自分自身について、人というものについて、神について、
考え、感じ続けていくことこそを、
わたしたちは希っていました。

芸術は、人が生きることの秘密、自然の秘密、世の秘密を解き明かすもの。
そう語ったのは、ゲーテでした。

芸術を生きることで(創造すること、感じ尽くしつつ鑑賞することで)、
人は、秘密を解き明かす新しい生きた知を求め、
ついには、こころの憧れを満たすべく、感謝という宗教の道を見いだします。

この五年間に、わたしたち「ことばの家」はこの『夕鶴』を計四回上演しました。
これからも、もっと、もっと、機会を見いだして再演を重ねていきたいと思っています。

神奈川での上演の後、You Tube で初めて、山本安英さんがつうを演じる『夕鶴』を観ました。
「持続は、刻々の誕生」ということばを胸に、
彼女は1949年の初演から三十五年間に計一千回、つうを演じました。
そのヴィデオで観た彼女のことばへの意識のあり方、舞台上での振る舞いの洗練、
それらはわたしにとって圧巻でした。

同時に、俳優ひとりひとりへの演出、浮かび上がってくる感情の色濃さ、奥行きなどは、
わたしたちの舞台と全く違っていたことも、新鮮な発見でした。



このたびの公演でわたしに改めて、この『夕鶴』が披いてくれたことは、
とこしえに女であるもの、われらを引き寄せる」ということばが、
わたしの内に掻き立てる、なんとも一言では言い表しがたい感情でした。

五年前の初演の時にも、うっすらと予感はしていたのですが、
今回の上演後には、その感情の深みをより鮮明に、かつ、より謎めいて、感じたのでした。

そのことばは、ゲーテが『ファウスト・第二部』の最終部に書き記したものです。

なべて過ぎ行くものは
喩えに過ぎず。
地上にてはいたらざりしもの
ここにまったきものとして現われ
およそことばに絶したること
ここになりいたる。
とこしえに女であるもの
われらを彼方へと導きゆく。



「とこしえに女であるもの」、つう。
つうは、織る。
この地においては、身を削りながら、美を織る。

そして、つうは、わたしたちから去ってゆく。

しかし、わたしたちは、ゆくゆくは、つうと共に、とこしえに、生きていくことができる。

「とこしえに女であるもの」と共に生きていくことができる。

わたしたちは、みな、彼方の「とこしえに女であるものの世」「母たちの国」に帰りゆく。

それまでのプロセスにおいて、
人は様々な過ちを犯しつつも、その過ちからこそ、学んでゆく。

みずからのこころをゆっくりと浄めていく。

みずからのこころを「とこしえに女であるもの」になりかわらせていく。

そうして、みずからのこころの内側で、つうと与ひょうが、とこしえに、結ばれる。

このような、望みに裏打ちされた感情が、上演以来、わたしの胸にこんこんと湧き出ています。

「とこしえに女であるもの」に光を当てていき、かつ、それと繋がりつづけること。
それこそが、わたしの生きる上での最も大切なテーマであることに気づかされました。



来て下さった皆さん、お手伝いしてくれた友人たち、共演してくれた仲間たち、
どうもありがとうございました。

※ちなみに、大阪では、開場した途端に最前列から席が埋まっていったのですが、 神奈川では、最前列には誰も座らず、後ろの方の席から埋まっていくのでした。 関西と関東の違いをそこはかとなく感じました。

posted by koji at 19:43 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月04日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜 (再掲)


トロネの道とサント・ヴィクトワール山.jpg

リンゴとナプキン.jpg

首吊りの家.jpg

庭師ヴァリエ.jpg

座る農夫.jpg

大水浴図.jpg




精神の深みからの光の中で、

その場その場で実り豊かに織りなしつつ、

神々の創りたまうものが啓かれる。

その中に、こころそのものが顕れる、

ありありとした世へと広がりつつ、

そして立ち上がりつつ、

狭い己の内なる力から。




Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.



画家とは、何をする人なんだろう。
セザンヌの絵を観て、そのことを考えさせられる。

道楽で絵を描くのではなく、
「仕事」として絵を描くとは、どういうことか。

セザンヌのことばによると、
「感覚を実現すること」、
それが彼にとって絵を描くことによってなしていきたいことであり、
彼の「仕事」だった。

彼が強い意欲をもって、ものを見ようとすればするほど、
ものの方が、彼をじっと見つめる、
自然が自然そのものの内に秘めている持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。

そして、
自然からのそのような「もの」の流れに応じるかのように、
あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。

その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。
そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
そのふたつの出会いそのものを、
キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。

その求めに応えるのが、「感覚の実現」であろうし、彼の仕事であった。
その求めに応え続けたのが、彼の生涯だった。

世は、人に、
「その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまうもの」を啓いてほしいと、
希っている。

なぜなら、それによって、
人は、
「 狭い己の内なる力から、
 ありありとした世へと広がりつつ、
 自分の足で立ち上がりつつ、
 自分自身のこころそのものを顕わにする」ことができるからなのだろう。

セザンヌは、そのことを、意識的になそうとした人だと感じる。



精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまうものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己の内なる力から。


posted by koji at 18:47 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月29日

5月1日(金) 神奈川・相模大野 言語造形公演「夕鶴」のお知らせ


IMGP2309.JPG
 
言語造形公演「夕鶴」が迫ってきました。
演劇というもの、ドラマというものの、原型を顕すような舞台だと思います。
どうぞ、聴きにいらしてください。
 

 
■ 日時 5月1日(金)開場18時00分 開演18:30 終演20:30予定 
 
■ 会場  相模女子大学グリーンホール 多目的ホール
     http://hall-net.or.jp/01greenhall/access/
     小田急小田原線「相模大野」駅 北口より徒歩4分
 
■ 入場 ご予約 大人2500円 小中高生500円
    当日  大人2800円 小中高生800円
 
■出演 塙狼星  諏訪千晴  松田美鶴  諏訪耕志
 
■演出 諏訪耕志 (「ことばの家」主宰)
 
■特別出演 諏訪夏木  諏訪かさね
 
■ お問い合わせ ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
 
お申し込みは、以下のページにありますお申し込みフォームからしていただけます。
http://www.kotobanoie.net/pray.html#yuzuru

posted by koji at 08:48 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月26日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねてあわせて「わたし」〜 (再掲)


「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」

そう感覚が語る。

それは陽のあたる明るい世の内で、

光の流れとひとつになる。

それは考えるに、

明るくなるようにと、暖かさを贈り、

そして人と世をひとつにするべく、

固く結びつけようとする。





Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.




幼児は、たとえば、ことばというものに、一心に、全身全霊で、耳を傾ける。

からだまるごとを感覚器官にして、
聴くという仕事を一心にしている。

そのことによって、誰に手ほどきを受けるでなく、
こうごうしい力、精神によって、
ことばを習得していく。

からだは「ことば」の器になっていく。

幼児の内に、
そのように、からだをことばの器にするべく、おのずと力が働いてくれていた。

わたしたち大人は、
意識的に、その人から、仕事をしてこそ、
育まれるべきものが育まれ、
満たされるべきものが満たされる。

このからだは、何歳になっても、
まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができる。

ものごとに対して判断しなければならないとき、
データや数値なども、なんらかの判断材料を提供してくれるが、
それに頼り切らず、
もっと、おのれのからだを通しての感覚を育んでいくことが、
おのれへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、
大切な指針になっていくのではないだろうか。

その、感覚とは、そもそも、
わたしたちに何を語ってくれているのか、何を教えようとしてくれているのだろうか。

シュタイナーがここで使っている「感覚(Empfindung)」ということばは、
「受けて(emp)見いだす(finden)」からできていることばだ。

人によって受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触など。
それらが感覚であるし、
また、それらだけでなく、
(これまでの生理学や心理学では、そうは言わないらしいが)
それらによって起こってきた情、意欲、考えも、感覚なのだ。
なぜなら、みずからのこころというものも、
世の一部だからだ。

色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、
情や意欲や考えという内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。

しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎えやすいのだが、
内からの感覚は、内からのものであるゆえに、客として迎えにくい。
主(あるじ)としてのみずからと、
客である情や意欲や考えとを一緒くたにしてしまいがちだ。

主と客をしっかりと分けること、
それは客を客としてしっかりと観ることである。

みずからの情や意欲や考えを、
まるで他人の情や意欲や考えとして観る練習。

明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、
分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
その力が、こころを健やかにしてくれる。

主と客を明らかに分けるということは、
主によって、客が客として意識的に迎えられる、ということでもあろう。

そして、やってくる客に巻き込まれるのではなく、
その客をその都度ふさわしく迎えていくことに習熟していくことで、
主は、ますます、主として、ふさわしく立っていく力を身につけていくことだろう。

人が、外からのものであれ、内からのものであれ、
その客を客として意欲的に迎えようとすればするほど、
客はいよいよみずからの秘密を明かしてくれる。
感覚という感覚が、語りかけてくる。

外の世からの感覚だけでなく、
考え、感じ、意欲など、内に湧き起ってくる感覚を、
しっかりと客として迎えるほど、
その客が語りかけてきていることばを聴こうとすればするほど、
わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、太く、深く、成長させていく。

客のことばを聴くこと。
それが主(あるじ)の仕事である。

その仕事によって、
わたしは、みずからの狭い限りを越えて、
「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。

主によって客が客として迎えられるというのは、
客によって主が主として迎えられるということであるだろうし、
それは、主と客がひとつになるという、
人と世との、もしくは人と人との、出会いの秘儀とも言っていいものではないだろうか。

そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになっていく。
つまり、主=「わたし」ではなく、
主+客=「わたし」なのだ。

たとえば、セザンヌの絵や彼の残したことば、
もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けていると、
ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、
だんだんと窺い知ることができるようになってくる。

彼らは、世というもの、こころというものの内に潜んでいる大きな何かを捉えることに挑み、
そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、
その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」というものへと辿りつこうとした。

彼らは、色彩というもの、さらに風雅(みやび)というものと、
ひとつになろうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。

ものとひとつになるときこそ、
「人のわたし」ははっきりと立ち顕れてくることを彼らは知っていた。

感覚を客としてふさわしく迎えれば迎えるほど、
それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語ってくれるし、
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、
わたしは、客について、おのれについて、「わたし」について、
明るく、確かに、考えることができる。
そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。



「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
そう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考えるに、
明るくなるようにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。



posted by koji at 23:57 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする