2020年10月29日

大阪公演のご感想



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先日の言語造形公演を聴いて下さつた方が、
感想を寄せて下さいました。
ありがたいことです・・・。


ーーーーーー


大阪公演を実際に見てきました。
言語造形。
ことばで説明するのはとても難しいですが、
ことばとして響いているものの奥に、
何かほんとうのものがある。
クラリネットの素晴らしい音の奥にも
同じように深く響くものがある。
それがわたしの奥で触れ合って、
ただただ感動しました。
一つ一つの物語が、
ほんとうにあったことのように思えました。
見終わった後も、
自分の生活のなかに物語のかけらが生きているのです。
本当にあたたかく優しい舞台です。
(t.m.さん)


ーーーーー


11/3(火・祝)京都言語造形公演 
詩と物語「やさしい世界の終はり方」





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2020年10月28日

ことばといふ世界



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ことば、といふものは、
人の世界観を形作るものです。


人はこの世に生まれて来て、
教育を受けなければ、
桜が美しいと感じるやうにはできてゐない。


さくら花 ちりぬる風の なごりには
水なきそらに 浪ぞたちける   紀貫之


このやうな、
先人によることばの美に触れるからこそ、
桜、ことにその散りゆく様に、
もののあはれを、美を、
感じるやうに人は教育されうるのです。


ことば、とは、そもそも、
美を伝へるものであります。
それゆゑ、情を育むものであります。
そして、「人の情(こころ)を知る」べく、
「もののあはれを知る」べく、
和歌が歌はれ、
ことばからことばへと文が編まれます。


「もののあはれを知る」
これこそが源氏物語の肝だと、
本居宣長は喝破しました。


王朝における精神生活の深まり。


それは、研ぎ澄まされたみづからの感覚を、
どうことばで言ひ定めることができるのか、
不定なこころの揺れ動きを、
どうことばに鋳直すことができるのか、
といふ現代人にも通ずる、
人生とことばの渡り合ひそのものです。
一千年以上前の王朝の人々、
とりわけ女性たちが、
その渡り合ひの深化を促しました。


文化の種を蒔くのは男性性かもしれませんが、
文化を文化として見いだし、
担保し、育むのは女性性ではないでせうか。


そのやうなひとりの人の内なる渡り合ひが、
また、男と女のひめやかな渡り合ひが、
王朝において日本精神文化の基盤を創り上げました。


日本人の育んできた世界観、
それは主にことばの美から、
創り上げられて来たのです。


ことば一語一語の用ゐ方、運用の仕方に、
ひとりの人のこころのすべてが賭けられてゐる。
そのやうな働きをする詩人たちの精神が、
過去にも現在にもあるからこそ、
ありきたりな言語生活を営んでしまひがちな、
わたしたち凡夫に、
目覚めを促してくれます。
「汝みづからを知れ」といふ目覚めを、です。


言語造形をするわたしは、
その目覚めへと人を促す詩人たちのことばを、
生き物として、声として、
空間に響かせることへと挑戦します。


詩人が意を注いだ、
一語一語、一音一音に耳を澄ませながら、
淀みない息の流れの中にことばを解き放つ。
さうして、あたらしい世界が、
ことばの響き、余韻から、生まれる。


そんな文化の誕生を、
いつも思つてゐます。



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2020年10月27日

11/3(火・祝)京都 言語造形公演 詩と物語「やさしい世界の終はり方」へのお誘ひ



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自分が大好きな時間を、
こんな風に創ることができて、
また、その時間を共にしたいと思つて、
足を運んでくださる方があるといふこと、
本当にありがたく、
これほど仕合はせなことはありません。


七つの詩と物語を、
豊かなクラリネットの響きと共に、
深い息遣ひと共に、
聴いていただきます。


●演目
・「幼い日」 八木重吉
・「おこぶちゃん」 ミヒャエル・エンデ
・「戦場の兵士」 作者不明
・「人形」 小林秀雄
・「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」 井上俊夫
・「小さな村で見た」 石村利勝
・「やさしい世界の終はり方」 石村利勝



言語造形の新しい世界を、
今回は京都にて、
どうぞお楽しみください!


言語造形:諏訪耕志

クラリネット演奏:小西収





京都公演 
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「カフェ・ヨージク」 
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
 マスクを着用につきましても、
 おひとりおひとりの判断にお任せいたします。


詳しくはこちら↓
https://kotobanoie.net/play/


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2020年10月25日

さとりの化けもん 〜精神みづからによる自己教育〜





秋も深まつて来ますと、
人のこころも、
外のものごとに向けられることから、
内なる精神に、
向けられるやうになりはしないでせうか。


その人その人の内なる精神のことを、
シュタイナーは、
「精神みづから Geistselbst」と名付けました。


わたしが〈わたし〉に意識を向け、
〈わたし〉に問ひかけるとき、
精神である〈わたし〉、
「精神みづから」は、
どのやうな内容をわたしに伝へるでせうか。


まづもつて、
わたしが考へてゐること、
感じてゐること、
欲してゐることを、
鏡に映すやうに伝へてくれるでせう。


それが、精神みづからによる、
自己教育の始まりです。


もしかしたら、
精神みづからが示す鏡像は、
おぞましいものかもしれません。
精神みづからも美しいすがたで現れるか、
おぞましいすがたで現れるか、
その人のこころのありやうをきつと示すはずです。
そして、それは、秋から冬にかけて、
内において顕れます。


ドイツでは、
庶民のことばで「マーネン(Mannen)」として、
日本では、八百萬(やをよろづ)の神々として、
「低いわたし」の顕れから、
「高い、まことの〈わたし〉」の顕れに至るまで、
それら精神みづからがらが言ひ表されてきました。


そのやうな精神からこころへの、
自己教育(こころざし)の内実は、
絵姿を湛えた神話や昔話、メルヘンを通して、
どの民族においても語られてきました。


日本にも、さういふお話があります。
『さとりの化けもん』です。




言語造形(Sprachgestaltung)とは、
ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、
ことばの芸術です。
ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、
シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。


わたしたち「ことばの家 諏訪」は、
大阪の住吉にて、
その言語造形を学ぶ場を設けています。


「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/




「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/featured?view_as=subscriber

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜



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Marina Fernandes Calache「詩」



みづから考へることの光を、

内において力強く灯す。

世の精神の力の源から、

意味深く示される数々の験し。

それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、

秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。


Sich selbst des Denkens Leuchten 
Im Innern kraftvoll zu entfachen, 
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.  



改めてこの夏を振り返つて、
夏といふ季節からの贈り物は、何だらう、
さう問ふてみる。


それは、「ことば」であつた。
 

「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。


いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることを
わたしは感じてゐる。


そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、
肉となつて、
生まれ出る。


夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己れのことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「わたしの仕事(ことに仕へる)」として、
世へと発信される。


そんなクリスマスへの希みがある。


夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考へを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。


メディテーションをする上にも、
余計なことを考へないやうにするために、
飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。


しかし、いくら頑張つてみたところで、
どうにも鎮まらない時がよくある。


そんな時、
メディテーションのために
与へられてゐる「ことば」に沿ひ、
その「ことば」に考へを集中させていくと、
だんだん、おのづと、
静かで安らかなこころもちに至ることができる。


「ことば」を先にこころに据ゑるのだ。


その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。


日本人においては、
特に、万葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、
意識的に、尖鋭的に、磨かれてゐたやうだ。


歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、
その「題」を基にして、
まづ、こころを鎮め、こころを整へて、
その後、歌を詠んだのである。


こころの想ふままに歌を歌へた時代は、
だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。


こころには、あまりにも、
複雑なものが行き来してゐて、
それが、必ずしも、
歌を詠むに適した状態であるとは限らない。



ーーーーー


詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ

トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ

コトバ第一ナリ

(本居宣長『あしわけ小舟』より)


ーーーーーーー


「ことば」が、
こころの内に据ゑられてあるからこそ、
「ことば」といふ手がかりがあるからこそ、
わたしたちはみづからのこころのありやうを、
手の内に置くことができるやうになる。


わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己れのこころを整へ、
情を晴らし、
問ひを立て、
明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。


秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、
こころを明らかにしていくことができる。
さうして初めて、
「みづから考へることの光を、
 内において力強く灯す」。


歌を何度も何度も口ずさむやうに、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備へになるだらう。



みづから考へることの光を、
内において力強く灯す。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。





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2020年10月21日

ひとつの批評 〜漱石「夢十夜」〜



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今日、言語造形のクラスをしてゐて、
夏目漱石の『夢十夜 第一夜』によつて、
部屋一杯に満ちる悲しみと、
その情の昇華に、
激しくこころを揺さぶられたのでした。


黙読するだけでは、
感じることのできないやうな、
女といふものへの、
漱石の乞ひ求めの切実さと切迫。
男といふものの性(さが)が持つ、
どうしやうもなさからの救ひへの渇望の深さ。


それは、神話に語られてゐる、
イザナギノミコトとイザナミノミコトによる、
「みとのまぐはひ」から、
「黄泉平坂(よもつひらさか)での別れ」以来の、
男と女の間に起こらざるをえない運命の必然を思はせます。


漱石に対する評論は、
全く読んだことはありませんが、
(近々、江藤淳のものを読むつもりでゐるのですが)
言語造形によつて作品が「演奏」されることは、
ひとつの最上の批評になりうるのではないか、
さう実感するのです。



posted by koji at 20:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ふたつの悪魔



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己れが愛してゐることを、
仕事としてすることができることほど、
ありがたいことはない。
今朝、仕事に行くために、
長い時間、電車に乗つてゐて、
心底、さう思つたのでした。


二十九歳のとき、
師匠である鈴木一博さんの講義を聴き始め、
言語造形の稽古をつけてもらひ始めました。
そのとき、すぐに、
アントロポゾフィーを己れのものにして、
自分自身のことばで自由自在に語ること、
そして言語造形といふ芸術を生きること、
そのふたつのことを仕事にするのだ。
さう、こころを決めたのでした。
彼の講義を聴きつつ、
おのづから、さう、こころを決めてゐたのでした。


こころを決める。
ああだ、かうだ、言はずに、
自分の実力や、向き不向きなど思案せず、
こころを決める。


その不思議な志の誕生と巡り合はせに、
ただただ、感謝するしかないのです。


今日も、こころから語らせてもらつたことを、
こころから聴いて下さる方々がゐて下さる。
こんなにありがたいことはありません。


言語造形の舞台についても、
もうこの世に生きてゐる間、
ああだ、かうだ、言はずに、
ただただ、こつこつと、根気を持つて、
ひたすら創り続けるだけです。
そのために毎日稽古できることこそが、
自分自身への信頼を育て、
こころとからだを健やかになりたたせてくれます。
これも、本当にありがたいことです。


今日、させてもらつた講義は、
「理想主義」についてでした。


「理想」と「現実」といふことばは、
いまは、対義語のやうにして人々に使はれてゐますが、
そもそも、どちらも、
人が自己との闘ひから勝ち取るものであり、
他者や世から与へられるものではなく、
自分自身が創り出すものです。


本当の「現実」、本当の「理想」とは、
まぎれもなく、
「わたしがわたしになる」といふことではないでせうか。


「いい人になる」「素晴らしい成果を産み出す」・・・
それらも理想となりうるでせうが、
「わたしが〈わたし〉になる」
それこそが真の理想であり、
それこそが真の現実であり、
それは自己教育なしにはなしとげられないものです。
その他のことはすべて、
「わたしが〈わたし〉になりゆく」ことに伴つて、
必然的についてくる。


しかし、その自己教育を阻むふたつの働きかけが、
すべての人に及んでゐる。


ひとつは、ルーツィファーといふ、
人を虚ろな思ひ上がり、高慢、妄想、夜郎自大へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
「人から認めてほしい」
「人から褒められたい」
「人から愛されたい」
といふ承認欲求の過剰、
と同時に他者への批判へと誘ふ、
悪魔、堕天使からの働きかけです。


まうひとつは、アーリマンといふ、
人を自己不信へ、自信喪失へ、自暴自棄へ、自殺へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
諦め、不安、過剰な享楽、
自己への不満、自己への必要以上の批判へと誘ふ、
悪魔、堕ちた大天使からの働きかけです。


リアリスティックな自分自身の姿を直視せず、
思ひ上がつた自己像といふ幻想の中に戯れ続ける人。
それは、わたしのことでした。
ルーツィファーといふ堕天使に、
なずみ続けてきた長い年月でした。


幻想の中で自己に戯れることと、
リアリティーの中で自己と闘ふこと。
この間の違ひは、
年月を経れば経るほど大きくなつて来るのでした。


一方、アーリマンからの働きかけは、
日々、わたしの日常を当たり前に蝕んで行きました。
それは、わたしのまことのエネルギー、精神からの力を、
密やかに、しかし、確実に、毎日、殺いで行きました。
自己不信を確かに証明するやうに、
外の世もそんな仕事の成果をわたしに見せつけるのでした。


これからも、
そんなふたつの悪魔的な働きかけは、
休まずわたしに及ぶのですが、
「すべてに感謝すること」
「精神的なことに関心を持つこと」
「こつこつと根気を持つて、
 仕事を繰り返し続けて行くこと」
この三つを練習することによつて、
ふたつの悪魔に向き合ひつつ、
その働きかけを凌いで行く。
さうして少しづつ自由への道を歩みゆく。
それこそが人生であり、
さうして、
わたしが〈わたし〉になりゆくことこそが、
我が理想であることは確かです。


練習することを、こころに決める。
それだけです。



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2020年10月19日

こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜



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棟方志功『R火頌(かぎろひしやう)』より
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保田與重郎の和歌「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」


わたしは、内において、新しく甦ることができる。
 
己れであることの拡がりを感じる。
 
そして、力に満ちた考への輝きが、
 
こころの太陽の力から、
 
生きることの謎を解いてくれる。
 
いくつもの願ひを満たしてくれる。
 
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
Ich kann im Innern neu belebt          
Erfühlen eignen Wesens Weiten         
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen        
Aus Seelensonnenmacht             
Den Lebensrätseln lösend spenden,        
Erfüllung manchem Wunsche leihen,       
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.   
 
 
 
わたしたちひとりひとりは、
こころにおいて、アクティブになれる。
 

それは、
影のやうな様々な死んだ考へを漠然と抱くのを止めて、
積極的に、こころの熱くなるやうな考へをリアルに持つときだ。
 

自分自身が本当に考へたいことのみを考へるときだ。
 

そのとき、考へが、干からびた枠組みだけのものから、
こころを熱く息づかせるいのちを持ち始め、こころは新しく甦る。
 

太陽は夏の間、外側に照り輝いてゐたけれども、
秋からは、こころの内に輝き始めることができる。
 

そして15世紀から始まつてゐる新しい時代において、
人が抱く考へがどんどん干からびたものになつてきたのも、
ちやんとした理由がある。
 

それは、わたしたちが生きてゐる20世紀から21世紀にかけて、
その死んだ考へを、ひとりひとりが意識的に、アクティブに、
こころの内でいのちあるものに変容させるためだ。
 

考へを活き活きとしたみずみずしいものに。
 

その変容は、秋といふ季節において起こり得ることであり、
またわたしたちの時代において起こし得ることである。
 

「内において、新しく甦る」
「己れであることの拡がり」
「力に満ちた考への輝き」
「こころの太陽の力」
 

なんと、力強い、
いのちのみずみずしさを湛えたことばたちだらう。
 

ことばを繰り返し繰り返し詠むことで、
ことばに湛えられてゐるいのちを汲み出さう。
 

声に出すことで、考へを活き活きと深めていかう。
 

考へがいのちを得て、こころが熱く息づく。
 

こころに太陽が輝き始める。
 
 

 
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己れであることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考への輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願ひを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 

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2020年10月18日

『やさしい世界の終はり方 大阪公演』無事、終はりました!



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『やさしい世界の終はり方 大阪公演』、
無事、終はりました。
このやうな状況の中、来て下さつた皆様、
こころより、こころより、感謝いたします。
本当に、本当に、ありがたうございました。
.
.
クラリネットを演奏して下さつた小西さんは、
ご自身の楽団「トリカード・ムジーカ」
を率いる指揮者でもあります。
.
.
終演後、彼が話をしてくれたのですが、
わたしたち、再現芸術に勤しむ者は、
作品そのものに全身全霊で取り組むことによつて、
作品そのものが語りかけてゐる
「秘めやかなことば」を聴き取ることが仕事である、と。
.
.
そして、演奏する時、意識するのは、
その作者が、生きてをられる方であらうと、
すでに亡くなつてゐる方であらうと、
その人に聴いてもらつてゐる、
その人に聴いてもらふのだといふことです。
.
.
より精確に言ふならば、
その作者と共にその作品の秘密に耳を澄ます、
といふことです。
.
.
わたしも全くさうでして、
今回の公演は、
詩人の石村利勝氏の作品を礎に据ゑた公演でしたので、
石村氏が聴いて下さつてゐるのだ、
といふ意識でありました。
.
.
また、この「ことばの家 諏訪」に、
何度も何度も通つてわたしの公演を聴いて下さり、
しかし、
いまはすでに亡くなられてしまつた何人かの方が、
今日共にここにゐて下さり、
お話と詩に耳を澄まして聴いて下さつてゐることを
感じながら、演じさせてもらひました。
.
.
今日といふ一日から、
わたし自身は新しい一歩を歩み始めようと思ひます。
この一歩を踏み出せたのは、
今日にいたるまでの、
多くの方のお気持ちのお蔭以外の何ものでもありません。
本当にありがたうございました。

posted by koji at 20:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月15日

小林秀雄「人形」 〜行間に秘められてゐるもの〜






和歌、そして俳諧(俳句)のやうに、
極限まで切り詰めたことばの響きの内に、
深々と揺蕩ひ、沈み込むやうなこころの営みと、
世のまるごとに亘るやうな精神の運動を包みこむ、
そんなことばの芸術が、
日本といふ国に育つてきました。


「もののあはれを知る」。
その文学の持つ意義を、
昭和の人、小林秀雄もその批評文の中に、
見事に引き継いでゐます。


この「人形」といふ小さな作品は、
しかし、批評文ではありません。
「もののあはれを知る」人が記しとどめた、
文学の持つ機能を深める、
ひとつの金字塔のやうなエッセイです。


行間といふ間(ま)に鎮められてゐる、
もののあはれをわたしも引き上げたい一心で、
この作品に取り組んでゐます。



2020年10月14日

滋賀県草津市 両親の問診時間クラス 10月からのお知らせ



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秋も深まってきました。
感覚で生きる夏から、
思慮深い生き方へと移りゆく秋です。


わたしたちは、その思慮深さをもって、
ますますわたしたち自身になっていきます。


「両親の問診時間」というテキストを通して、
わたしがわたしになりゆく道・アントロポゾフィーを、
共に歩いていきましょう。


ぜひ、秋からの歩みを、ご一緒に!
初めての方も、お気軽にご参加いただけますよ。


また、滋賀県草津市にある、
滋賀シュタイナーこども園そら
にお子さんを通わせたいと考えておられる方は、
どうぞいらしてみてください。
保護者の方々が集ってくださっています。




●10月20日(火)
「理想主義 自己教育の問いとして」


●11月17日(火)
「生涯のパートナーと結婚の意味」 


●12月15日(火)
「課題としての結婚」


●1月19日(火)
「家庭と仕事への力の泉」



以降も毎月第三火曜日に学びの会は続きます。


保育(有料)も受け付けいたします。
どうぞ奮ってご参加下さい。



講師: 
諏訪 耕志
https://www.facebook.com/koji.suwa


場所:
滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただきました方に詳しくお知らせします)


参加費:
単発ご参加 3000円
4回連続ご参加 10000円
講師の交通費(大阪市内玉出駅・南草津駅間)を
その日の参加者で頭割りしてご負担していただいています。
どうぞご了承下さい。


お申し込み・お問い合わせ:
筒井 聡子さん
https://www.facebook.com/satoko.tsutsui.1

 
いつも、お世話をしてくださっている聡子さん、
そしてお家を解放してくださっている、
英理子さん、武史さん、
どうもありがとうございます。

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ひとつの社(やしろ)



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大阪市住吉区にある万代池。
子どものころからずつとここで遊んで育つてきました。
初めての女の子とのデートもここ(苦笑)。
池の周りをときにがむしゃらに走つたりして、
若いころの鬱屈を晴らしてくれる、
かけがへのない場所でした。
いまも毎日、
この池の周りを歩いたり走つたりしてゐます。


今朝も秋晴れのすばらしい朝。
ここへ来て、広がる空と木々の緑を目にするたびに、
幼いときの憧れのやうなものが甦ります。


そして、
いまだに、こころの泉のやうなものは、
干上がつてゐないこと、
子どものころの憧れが、
なんといまだに脈々と息づいてゐることに、
我ながらはつとしたり、
ありがたいと念つたりします。


この泉から、何度でも、
新しく清水を汲み出して行かう。


そのことをはつきりと想ひ出させてくれる場所です。


この池には竜神様が祀られてゐますが、
ここもわたしにとつてはひとつの社(やしろ)なのです。



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2020年10月13日

四日間の体験 松岡知栄子さん






先月四日間連続で行ひました、
「秋の言語造形連続講座」。
その参加者の方が嬉しいことに、
ぎつしりと熱い文章を書いて送つてくれました。


朝から夕方まで四日間、
顔を突き合はせてゐますと、
息も合つてきますし、
ひとりひとりの人の力が、
なぜか深いところで作用し合ひ、
学びがつねづねより深いところまで降りてゆきます。


言語造形とは、ことばの芸術であり、
息遣ひの芸術です。


ことばと呼吸の関はりを、
実践的に学ぶことによつて、
「人といふものについての学び」
「人間学」の学びが俄然深まるのです。


それは、芸術を通して、
ご自身の内なるものに直面するといふことでもあります。


しかし、一番大切なのは、
学び手の、
信頼に満ちた敬虔なこころのありやうであり、
そのこころのありやうが、
ものごとのものごとたるところ、
ものごとの本質を、
深いところで掴ませるのだといふことが、
文章を寄せて下さつた松岡さんのお人柄をもつて、
感じさせられます。
このことが本当に奇跡のようなことだと思ふのです。


また、動画といふ加工されたものではありますが、
言語造形の実際の片鱗を観て聴いていただきたく、
その時に学んだ、
グリム・メルヘン「星の銀貨」の動画を合はせて、
松岡さんの文章をご紹介いたします。
https://www.youtube.com/watch?v=yysoXz4_CR0


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


☆秋の言語造形連続講座の学び☆ 松岡知栄子


この4日間の学びを通して大きな驚きと共に強く感じられたのは、「頭だけで学ぶこと」と、「息遣いを通して全身そして心も頭も使って自分のまるごと全部で学ぶこと」がいかに違うかということ、そして息づかいを通して自分のまるごと全部を使って学ぶことで、自分の内側に大きな変化がもたらされていったということです。


これまでの自分の学び(勉強)は、講座など話を聞いてわかったつもり、本を読んでわかったつもりになっていました。もちろんそのことを通して日常で経験したことが深まったり、心が動かされたり、視界が広がって問題が解決されたような気持ちになりましたが、しばらくするとまた何かが違っているような気がして、新たなものを求めて、あてもなくさまようことになっていました。

.
また日常生活の中でも頭に偏りがちで、まずどうするか考えて決めてからでないと動けなかったり、動きながらも「これでいいのかどうか」気になってしまったり、ひどい時は考えるばかりで動けなかったりすることもよくありました。
そのため自分の深いところでは空虚さがあり、不安があり、どこか疲れていて、何かしなくては、もっと何かを身につけなければ、このままでは・・・という思いがありました。


そんな中この4日間の講座の学びでは、驚くほど自分自身をまるごとを使うことへと導かれていきました。
そしてその学びがどれほど生きていくこととつながり、息づかいを丁寧に練習していくことが大きな力になっていくことか、講座を終えてから気づかされることがたくさんありました。


立つところから足をあげて運んでおろすの練習をした時、いつも考えずにしている歩くという動作を、呼吸と共に丁寧に行う。シンプルな動作でありながら、自分の全部を集中しようとしないと難しく、その1連の流れの中に自分の全部で入っていくことを自然と促されたように感じました。いつもは意識せずに行っている呼吸と歩くこと、それを意識的に丁寧に行うと全く違うものになって、今まで知らなかった世界がひらけるような、様々なところが使われ、自分の内にいきいきとしたものが出てきました。


私たちは丁寧に呼吸をすることを通して、いつも高天原にのぼって行け、地に降りてきて空間を満たしていけるということがとても心に響きました。生きてる間休みなく行っている呼吸を通して、とても身近な呼吸を通して、そしていつでもそのようなところで生きている(生かされている)ということが・・・。


お手玉を使った練習で、からだを使ってアンチパシーからシンパシーへと移っていく中で、日常ではとても難しいレベルで解き放つこと、相手へと共感をもって開いていくことへ促されていったと思います。


日常では、相手へと、外の世界へとひらくことが大切さだと思っていても、いざそのような場面なると緊張したり、不信感がでてきたり難しく感じることがよくありました。


でも一度そのような日常から離れて安心できる空間の中で、導いていただきながら、頭で考えるより腕を解き放って息づかいを通して相手に開いていく練習をしてみると、様々なことが感じられました。相手へひらいてゆく時の緊張と喜び、少し勇気を出して前へ進んでいく感覚、自分に閉じこもっているところから相手に気づいた時に生まれてくるもの、晴れやかな感じ、様々な感覚を安心してそのまま感じることができ、自分なりにですが、確かな解き放つ感覚がひとつ自分の内側に生れていったと思います。
そして様々な感覚があったあと、最後は相手へと共感をもってひらいていった時の大きな喜び!それが確かな体験として刻まれたと思います。


「星の銀貨」のお話に出会い、先生に導いていただきながらお稽古し、4日間でしたが、声に出すことを積み重ねる中で、お話の中に入っていくようなお話と自分がだんだん親しくなるような何とも言えない喜びがありました。これまでお話や詩を声に出すにあたって、まずその感情になるようにそのように表現できるようにと、頭で考えていたのだと思います。何度も声に出す中で、発見があったり少し理解が深まったように感じることはあっても、それまではいつもお話と自分との間に一定の距離があったと、初めて気がつきました。


4日間で体験したことは全く違っていて、まずお話へと扉をあけて入っていこうとして、そこでだんだんお話と自分がひとつになっていく感覚でした。(それはほんの入口のことだったと思いますが)


和歌をみんなでよんだ時、先生が昔の人がよんでほしいようによもうと話されたこと、そしてそのようによむと、昔の人が喜んでいるとおっしゃった時、ほんの短い時間でしたが、目には見えなくても美しさと何とも言えないようなありがたい感情が感じられました。


自分は拙い読み方であっても、和歌を声にだすことで、昔の人々と今がしっかりとつながっているのを感じられ、先生がおっしゃられ、その空間を同じくさせて頂いたことで、想像上のことではなく、本当にそのように体験として自分の内に刻まれたことに驚きを感じました。


昔の人がことばを通して磨いてこられた日本人ならではの豊かな感覚を体験すること、神様を感じること、その詩やお話とひとつになるように親しくなっていくこと、それらのことへみんな、とても具体的な練習を行うことを通していつでも開かれているのだと、そのことがとても心に響いています。


言葉に対して日頃の自分は、知らず知らずの内に、言葉で(情報として)言えば分かってくれると思ってしまっていて、「言ってみる、言葉にしてみることで、自分の中に、そして相手との間に生じてくるもの」を見ることなく、または自分の見えてることしか見ず、そして相手の言葉もそのように受け取っていたことがよくあったと思います。さらに言えば生じてくるものを見ることに恐れがあったと思います。


エーテルのからだアストラルのからだを感じて、同じ場に身を置かせていただき、空間に響く声、聞こえるものも聞こえないものも、見えるものも見えないものも感じようとすることに導いていただき、「きく」「みる」ことへのあり方、そこへ自分が扉を開いていくことの大切さを感じました。


ことばに対する感覚を磨いていくこと、息づかいを大切にしていくこと、生きたことばにしていくことが、自分の命もいきいきとしていくことにつながるのだとのだということ、人というものはそのようになっているということに、新鮮なハッとするような驚きを感じます。


諏訪先生の言葉で直接教えていただいた、「人というもの」のお話は、「人というもの」に対してより細やかに丁寧に見ていく道しるべだと感じました。


人間は9層の存在でそれぞれの層に働きや大きな力が込められていること、7年ごとにからだ、こころ、精神が目覚めていく道すじなど、それまでは浅はかにもそのようなことを知ることで、その見方にしばられるのでは、窮屈になるのではと思っていたのですが、全くそうではなく、そのことでより自分を理解し、人というものを細やかに丁寧に見ていける、また子どもたちにとって何が大切なのか、様々な方法に振り回されない、大きな助けになるのだと気づきました。


人間の存在の神秘を感じると同時に、何をめざしていけばいいのか?それは何かに操られたり縛られたり息苦しくなってしまうことではなく、自分自身を育み自由になっていく、ひとりひとりにまかされた「わたし」を育むことなのですね。外から何かを持って来なくてもいい、探しにいかなくてもいい、これでいいのかと常に思い悩まなくていい、自分でないものになろうとしなくていいのは、なんて安らかなことだろう・・・と感じました。


でもそのように感じられましたのは、諏訪先生が深められ諏訪先生の生きた言葉で直接教えてくださったからこそ、諏訪先生のことばが全身に染み渡るようで、心が動かされ直接自分に響いたからこそだったと思います。


そして一つの学びを終えると必ず先生が「どうでしたか?」と問いかけてくださり、からだとこころ、自分のまるごとを使った体験を、頭でとらえ直して自分とのむすびつきを感じさせてくださったからだと思います。


4日間を終えた時、今までの自分に思いが至りました。お話の練習の時、先生から同じ方向で前へ前へというアドバイスをいただきましたが、実際に自分自身様々な場面で(仕事の場や人との関係などで)ふっと引いてしまうことが癖になっていて、自分でも自覚がありました。


そのことで大きく困っていたわけではなかったので、問題としてしっかり捉えず、そのままにしていたのですが、小さな違和感は積もっていました。今振り返ってみると、ふっとひいてしまったことで何かを生かさず溜めてしまったもの、飲み込んでしまったもの、それはほんの小さなことであっても、そのことで生きていることが薄まっているような、結果として自分自身をじわりじわりと苦しめ、疲れている状態に持って行っていたかと思います。そしてこれでいいのかと気になってしまうのも、1つの方向に定まっていない表れだったと思います。腰を前に前に同じ方向で語っていく、その時はそのことに取り組むので精一杯でしたが、終わった後に何とも言えない晴れやかさとからだの中心が感じられるような安定感があり、それと同時に心の中にも安定感が広がっていきました。これこそ自分の望んでいたことだと感じました。


また外の世界に対して、自分の捉え方が原因だと分かっていながら、外や環境(人との関係が、職場が、社会が・・・)に原因を見出し、そこから距離をとろう、それを取り除こうとそちらに意識がいくことがよくありました。


でもそれを超えるカギは自分の中にあったと、自分の丸ごとを使っていくこと、自分から扉をひらいていくこと、腰を運んでいくこと・・・そのことを通して自分を育んでいくこと、すべて自分の中にあったのだと気づきました。


4日間の言語造形の練習をし、人というものを学ぶ中で、1番大きな変化は、「生きていこう!今いるこの場所で生きていこう。」というしっかりとした気持ち、意志のようなものが自然と芽生えたことです。そのことはとてもありがたく私にとって喜びです。そして空虚な感じが消えたことです。フィジカルなからだだけでなく、エーテルのからだ、アストラスのからだを使って声を出そうとすることで、練習することで、自分の内側が満たされ、空虚さを埋めるためにもう何かを探す必要はないのだと、自分の奥も安心したのだと思います。4日間、時間を超えたような美しさの中に身を置かせていただき、自分の内側にも新しい風が吹きこまれたような、そこから新たな力をいただいたのだと思います。


4日間の講座を終えてその後2,3日は諏訪先生、生徒の皆さんと共に共有した場の空気にすっぽり包まれていました。


私にとって喜びとあたたかさに包まれた4日間だったように思います。日にちが経つにつれ、包まれていた空気感は少しずつ静まっていきましたが、元の日常に戻ったのではなく4日間での体験、学んだことはしっかりと自分の土台に落ち着きと共に確かに内側に入ったのを感じます。内側に芽生えたこの種を、いただいた宝物を今いる場所で大切に育んでいきたいと思います。




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2020年10月11日

こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜



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セザンヌ「庭師 ヴァリエ」


わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
 
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
 
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
 
夏の太陽から贈られた萌しとして。
 
秋の調べの中で熱く息づく、
 
こころの力として。
 
 
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,      
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,     
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt    
Als meiner Seele Kräftetrieb.  
 
 
 
自然はリズムを刻んでゐる。
世はリズムを刻んでゐる。
 

わたしもリズムを刻んで生きていくことができる。
 

この『こころのこよみ』は、
そのことを助けるひとつの「道」だ。
 

道といふものは、
先人が歩んでくれたからこそ、いま、そこにある。
 

先人への信頼が、その道への信頼となり、
それが更に、
人といふもの、世といふものへの信頼へと育つてゆく。
 

このメディテーションの道を歩んでいくことで、
世のリズムと我がこころのリズムとを重ね合はせる練習ができる。
 

それは、大いなる世の生命と己れの生命とを
重ね合はせていく作業だ。
 

この『こころのこよみ』に沿つて、
夏から秋へと歩んでくると、
この秋から冬にかけて、
新しい「わたし」にきつと出逢ふといふ予感に満ちた憧れに満たされるのを感じる。
 

その新しいわたしは、熱く息づくこころの力として、
新しいアイデアと新しい意欲に通はれようとしてゐるのだ。
 

わたしは、何も力んで、何かをしようといふのではない。
 

世のリズムが、
わたしにその新しいわたしを授けてくれるのを、
待つことを習へばいい。
 

世を信頼するのだ。
 
 
 
 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。


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2020年10月09日

静かに響いてゐるものに耳を澄ます



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学校で先生がわたしたちに、
「将来の夢は何か」つて訊くことつて、
よくないと思ふ。


あるとき、小学六年生の次女がさう言ひました。


自分で自分を決めてしまひたくない、
さういふことをことばで言ひたくない、
とも言つてゐました。


「将来の夢」といふことばは、
きつと「就きたい職業」といふ意味ですよね。


いまは、「You Tuber」といふ職業が、
小学生にもとても人気があるさうですね。


「You Tuber」といふ職業は、
昔で言ふと、
「歌手」「タレント」
とかに近い感覚で受け止められてゐるのでせうか。


とにもかくにも、
現在ある職業、社会に沿つて、
子どもを育てることを、
多くの親たちも望んでゐると思ひます。


しかし、それが一番いけない。


それは、
いまある職業のほとんどは、
10年後には無くなつてゐるだらう、だとか、
いまの時点では全く予想もつかないやうな職業が、
10年後には出てきてゐるから、とか、
さういふ理由からではありません。


教育といふものは、
社会といふ外の世に合はせてなされるものではなく、
人の精神といふ内の世に合はせてなされるべきものだからです。


社会に沿つて人を育てるのではなく、
まづもつて、
ひとりひとりの子どもの内なるものを引き出すこと。


そしてその引き出されたひとりひとりの精神が、
やがて社会を創つて行く。


もちろん、これは綺麗ごとかもしれません。
確かにこの世の社会は綺麗ごとでは済まないところです。
しかし、教育は綺麗ごとであるべきですし、
そもそも聖域での営みであるべきです。
大人が営んでゐる社会に沿つて、
子どもを教育しないこと。


社会を根本から見直し、
よくしていくことができるのは、
政治や社会といふ外側の世界からではなく、
ひとり人のみ、
ひとり〈わたし〉のみからです。
人が自分自身をよくして行くこと以外に、
道はありません。


どのやうな職業に就くか。


それは、
その人がこの世で様々なことを体験して、
深く何かを感じて生きていくうちに、
内側に深く静かに響いてゐるものに、
耳を澄ますなら、
きつと、
その人その人をふさはしい場所に導くものです。


posted by koji at 23:48 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いろいろあつていい、けれど・・・



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東山魁夷「道」



「これもあり、あれもあり」
「ここから、あそこから、
 いいとこだけ取つて自分の役にたてよう」


それが、わたしたち現代人に、
多く見られる相対的で、
スマートなものの見方、生き方。


あまりにも当たり前の考へ方なので、
その考へ方を疑ふことなど、
現代ではほとんどないと思ひます。
また、さういふ相対的な考へ方は、
大いにあつていいことだと思ふのです。
何事も比較して、検討して、
そこから良きもの、役立つもの、得するものを取り入れる。


しかし、それは、どこか、
自分自身のこころに対する
信頼のなさに裏打ちされてゐるありやうに感じられる。


さういふ生き方とは、また違ふ、
もう一つの生き方もあつていい。
「これだ」といふものを深めていく。
「ここだ」といふ場所にとどまりつづける。


そんな生き方は、
現代人にとつてはあまりにも奇異に感じられることでせう。
そのやうなあり方は、ときに、なだらかでない、
不器用さが表立つやうなことにもなるでせう。
お洒落でもなく、
垢抜けないたくさんの時期もくぐらなければならないでせう。


しかし、どんな世界にも、
「これだ」といふ次元があり、
その「これだ」の奥へ、奥へと入つていくことによつて、
そこには思つてもみなかつた豊穣な沃野が
広々と拡がつてゐることに、
人は驚異と畏敬と尊崇の念ひにうたれるし、
うたれてきたのです。


「これだ」といふものを深めていく、
絶対の力をもつこと。


そしてこれは逆説的なのですが、
そのためには、
自分なりの意見だとか、
自分なりのやり方をいつたん捨て去り、
自己を空つぽにして学ばうとする
謙虚で素直なこころの力が必要です。
我流ではなく、世の法則に沿ふことです。


亜流とは、全くの素人から生まれるのではありません。


道に好意を寄せてゐる人々。
しかし、そのやうな人々のうちに潜む軽薄から、
もしくは己れを見つめ切らうとしないごまかしから、
必然的に生まれます。
それはまさに必然的に、です。
軽薄と偽善は、すべての人の内に潜むものです。


だから、亜流はいくらあつてもいい。
しかし、しかし、本流を細らせてはならない。
枯らせてはならない。
世界を亜流ばかりの世界にしてはいけない。
本流を生きるのは、「これだ」を生きる者です。
自分なりのやり方をおいておき、世の法則に沿ふ道、
さういふ科学的・芸術的・宗教的な道を
歩くことの健やかさを、
後の世代に伝へていくことが、
現代人であるわたしたちの仕事でもあると思ふのです。


亜流と本流を分かつのは、能力の違ひではなく、
意識の違ひです。
亜流は、自分自身のことに意識が尽きてゐます。
孔子のことば、「三十にして立つ」に向かふのみです。


本流は、自分自身を越えて世代を越えて、
世に文化の礎をこつこつと築いていくこと、
過去から未来へと引き続く意識を
自分自身のなかに燃やし、育み、
他者へ、後の世代へと伝へようとしてゐます。
時間の連綿としたつながりをたいせつにする、
意識のありやうです。



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2020年10月08日

お聴き逃しなく!言語造形公演「やさしい世界の終はり方」






わたくし諏訪耕志、
そしてクラリネット演奏の小西収氏とでの、
リハーサルでのひとコマです。


よろしければ、秋も深まるひと日、
耳で、からだまるごとで、
文学を味はひにお越しになりませんか。


大阪公演 於ことばの家 諏訪
令和2年10月18日(日)

京都公演 於 カフェ・ヨージク
令和2年11月3日(火・祝)

詳しくは、ホームページにて
https://kotobanoie.net/play/


2020年10月07日

日本昔話「桃太郎」〜死からの甦り〜






皆さん、お馴染みの「桃太郎」です。


やはり、川から流れて来るものは、
「栗」でも「柿」でも「すいか」でもなく(笑)、
「もも」でなければなりません。


「桃」は、
人が、死といふものを乗り越えて、
再び命の甦り(黄泉帰り)を果たす際に、
働かれた神であるからです。
(『古事記』より)


また、「もも」といふ音韻の持つやはらかさが、
その命の持つういういしさを表はしてはゐないでせうか。

 
「桃太郎」といふお話が、
ずつとずつと語り継がれて来たのには、
桃太郎といふ精神の人が、

鬼の住むこころの混沌(鬼が島)から、
お姫様(まことのこころ)を救ひ出す、
そんな死からの甦りを描いてゐるからでせう。



わたしたち日本人はずつと、
このお話を愛してきました。


どうぞ、お楽しみください。






言語造形(Sprachgestaltung)とは、
ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、
ことばの芸術です。
ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、
シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、
大阪の住吉にて、
その言語造形を学ぶ場を設けています。



「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/


神話を見いだす



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若き日のミヒャエル・エンデ


暮らしと芸術が、
深いところで通ひ合つてゐた時代があつた。


その通ひ合ひが、
暮らしと芸術の互ひを
生命力で満たしてゐた時代があつた。


連綿と続く、さういふ営み、
育みがあるといふことが、
文化に型があるといふことなのではないか。


文化の型が失はれ、
いや、文化そのものが失はれ始めて、
どれほどの年月が経つたのか。


わたしは、文化といふことばを、
物語と言ひ替へてもいいかもしれないと思つてゐる。


物語が、わたしたちから失はれてしまつた。
物語るとは、ものを語ること。


ものとは、そもそも、
見えないもの、
聴こえないもの、
さはれないもののことを指す。


物語りとは、
人のこころ、夢、内なる秘め事、
表沙汰にはならない隠されていたこと、
そして通常の感覚を超えた叡智を語ることであり、
果ては、神のことを語ることを指す。


だから、物語は、そもそも神話だ。
神話とは、
神自身が語られたことばを
そのまま人が語り継ぐことから始まり(古事記)、
神に触れ、神に通はれるやうな、
驚くべき、畏るべき経験を語ることであつた。


文化に型があつた時には、
物語の共有、
神話の共有がなされてゐた。


わたしたちは、
共有する物語を失ひ、
神話を失ひ、
文化の型を失ひ、
文化そのものさへも失つてしまつてゐる。
人と人とをむすぶエレメントを失つてしまつてゐる。


だから、いま、人は、
自分自身の神話を見出すしかない。
芸術を真摯に生きようとする人は、
とりわけさうだ。


ひとりひとりが孤独に夢を織り続け、
その孤独の中に、
自分ひとりだけの神話を見いだし、聴きとること。
そして見いだしたもの、聴きとつたものを、
下手でもなんでもいいので、
外に表し続ける。


そのやうな神話の個人的な表出の仕方が、
いつたい何にむすびつくのだらう。
わからない。


しかし、自分自身の足元を
掘つて掘つて掘り進むことによつて、
見たこともない岩盤にたどり着くかもしれない。
その岩盤はとても古く、とても新しい。
その岩盤が語りだす物語は、
新しい共有性を持つ可能性はないだらうか。


芸術を通して、
人と語り合ひたいと思ふ今日この頃。



posted by koji at 08:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月05日

これが自己教育の要かと・・・



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公演が迫つて来てゐるので、
当然、毎日、稽古を重ねてゐるのですが、
この稽古をするといふことそのことが、
わたしにとつては、
本当に「確かな手応へ」を与へてくれるのです。
生きてゐることの、いや、
生かされてあることの「確かな手応へ」です。


人にも会はず、繰り返し繰り返し、練習する。
これがとても充実した作業なのです。
ありがたい・・・。


音と音の境目である間(ま)の深みと拡がり、
そこに走る活き活きとした精神の躍動。
余計なことを考へずに、
それらのものを追つてゐると時間を忘れてしまふ。
とても地味な作業だけれども、
確かなものと出逢つてゐる感覚に、
内から満たされる。


お金にはならないけれども、
かうした「行為」そのもの、
「すること」そのことが、
人に健やかさをもたらすんですね〜。


「生きるといふことへの健やかな情」
「確かな手応へをもつて毎日を生きる」


これがあれば、
わたしは何とか生きていくことができる(笑)。


この先どんなことがあるか、どんなことになるか、
誰も予想がつかない。
自分の人生がどんな風に転がつて行くのか、
本当にわからない!


けれども、
先ほど書いた、
「生きるといふことへの健やかな情」
「確かな手応へをもつて毎日を生きる」
といふ生きるための内的な元手は、
「健やかに、まぎれなく、考へる」といふ、
さらなる内の営みから生まれてくるものなんだ、
といふことが年齢を重ねるごとに、
「まこと」のこととして胸に迫るのです。


「考へる」。


ごちゃごちゃと余計なことを
なるべく考へないやうにしてゐます。


もし、考へるなら、
健やかな情と確かな意欲(手応へ)を産み出すやうに、
「考へる」。


それが、自己教育の要(かなめ)かなと思ひます。


いろいろな感情や欲望が
ありありと内側に渦巻くのですが、
すべて認めて、ゆるす。
そして内なる作業として解き放つ。


さうして、毎日、この、
「考へる」向きを、
先ほど書いた方向へもつて行く。


折角何かを「考へる」なら、
健やかさに向けて。
そして、毎日稽古して、
確かな手応へを稼ぎつつ。


わたしもあと二か月ほどで、
五十六歳になるのですが、
自由になりゆくための、
九つ目の新しい七年期が始まると感じてゐます。


自分自身が自由になりゆかないと、
周りの人も自由になれませんものね。


「考へる」をそっちの方向にもつて行くための、
環境づくりはとても大切なことで、
そのことも始めようと考へてゐます。


オンラインで始められるだらうかと思案中です。


また、ご関心のおありになる方は、
どうぞご連絡くださいね〜。





posted by koji at 10:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月04日

シュタイナーの新翻訳「人と世を知るということ」



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二十二年前に鈴木一博さんの翻訳で出版された、
ルドルフ・シュタイナーの『テオゾフィー』。
この本を読むことが、
どれほどわたしの人生において、
とりわけ三十代から四十代、
支へになつてくれたことか・・・。


その書が、同じ翻訳者によつて、
新しい版として出ました。
『人と世を知るということ』と、
タイトルがアレンジされてゐます。


早速読み始めました。
声に出して訓みながら、
おのづと自分自身のこころの働きを確かめることになります。


それは、言語造形をしてゐる時と、
全く同じ感覚です。


鈴木さんの仕事はずつとさうだつたと、
読みながら念ひます。


読む人のこころに、
内なるアクティビティーを呼び起こさうと、
意図することばの使ひ方、こころの使ひ方。


さういふこころから精神への道を歩くことを、
読書を通して促す指南者でもありました。


「事と心と言はひとつなり」
さう本居宣長が書き記したことを、
鈴木さんは自身の見解・見識を述べる時だけでなく、
ドイツ語の翻訳でも成し遂げてをられる。


まさしく「学」を全身全霊で生きる人は、
皆そのことを証明してくれてゐます。


わたしの非常に狭い管見の限りではありますが、
本居宣長も鹿持雅澄も内村鑑三も小林秀雄も、
ゲーテもフィヒテも、
そしてシュタイナー、鈴木一博も、
「事」と「こころ」にひとつに重なる「ことば」に、
すべてを賭けてをります。


彼らは皆、
いはゆる「学者」といふ、
ある意味狭くカテゴライズされた立場などから、
自由に力強く羽ばたいてゐる人ばかりです。


そのやうな著者の書を出版してくれる、
「Hannogi Books」さんにこころから感謝です。


そして、かうして新しい版が出ることによつて、
古い読者には改めてじつくりと読み直させ、
また新しい読者がういういしく読み始める、
そんな機縁が生まれます。



日本語によつて、
アントロポゾフィーを語ること。
その意味深い仕事を、
しつかりと見つめ続けていきたい。
わたしの志もそこにあります。



posted by koji at 19:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秋の花の名



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山上憶良の「秋の七草」として知られている歌二首。
『萬葉集」からの歌です。


 秋の野に 咲きたる花を 指折り(をよびをり)
 かき数ふれば 七種(ななくさ)の花


 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花(をみなえし)
 また藤袴 朝貌(あさがほ)の花


花の名を唱へるだけのこの歌。


しかし、その名を發音するとき、
部屋の空閧ノ、
その花、その花の奥深い内部が開かれ、
各々の植物がその精神を語りだす、
そんな感覺が生まれたのでした。


さうして、秋の野原がこころの目の前に拡がるのです。


すると、不覺にも目に涙が溢れてしまひました。


親しくて、懐かしく、そして悲しい、感情です。



posted by koji at 08:32 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月03日

大阪・京都 言語造形公演 詩と物語「やさしい世界の終はり方」



小さな村で見た 写真2-COLLAGE.jpg



このたびの公演における演目、
七つの小さな物語と詩です。


・「幼い日」 八木重吉
・「おこぶちゃん」 ミヒャエル・エンデ
・「戦場の兵士」 作者不明
・「人形」 小林秀雄
・「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」 井上俊夫
・「小さな村で見た」 石村利勝
・「やさしい世界の終はり方」 石村利勝


ひとつの物語、ひとつの詩を
どうしたら理解できるのでせう。
実は、理解することはできません。
ことばの芸術の魅力、音楽、秘密は、
内容やストーリー、分かりやすい意味とは、
別のところにあるやうです。
さういふ「別のところ」を顕はにするために、
言語造形といふ芸術があります。
ことばで表はせないものを、
ことばで顕はしたい、
さう希つて準備を進めてゐます。




======



言語造形: 諏訪耕志

クラリネット: 小西収


場所・日時:  
大阪公演  
10月18日(日)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/


京都公演   
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「カフェ・ヨージク」 
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
京都公演のみ、終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
 マスクを着用につきましても、
 おひとりおひとりの判断にお任せいたします。

posted by koji at 21:05 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月30日

こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜



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ラファエロ「大天使ミヒャエルと竜」



自然、その母なるありやう、
 
わたしは、それを、意欲において担ふ。
 
そして、わたしの意欲の火の力、
 
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
 
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
 
わたしをわたしにおいて担ふべく。   
 
  
 
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;      
Und meines Willens Feuermacht,         
Sie stählet meines Geistes Triebe,         
Daß sie gebären Selbstgefühl           
Zu tragen mich in mir.             
 
 
 
 
先週の『こころのこよみ』で、
「内なるこころの光と熱。
 これほど、頼りになるものがあるだらうか。」
と書いた。
 

この頼りになるものを、
わたしたちひとりひとりの人に
もたらさうとしてくれてゐる精神存在がゐる。
さうシュタイナーは語つてゐる。
 

大いなる精神存在、ミヒャエル。
 

この存在は、どのやうにして、この時期に、
わたしたちのこころとからだに
働きかけて下さつてゐるのだらうか。
 

今週の『こよみ』を読んでみる。
口ずさんでみる。
 

息遣ひも活き活きと、
声を解き放ちながら唱へてみる。
何度もこころとからだで味わつてみる。
意欲をもつて、ことばとつきあつてみる。
 

さうすると、普段以上の意欲をもつてしなければ、
何も感じられないことに気づく。
 

そして、積極的にことばを唱へるほどに、
こころへと立ち上つてくる意欲といふ熱があればこそ、
我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
 

我がからだもこころも、
「自然」の内のひとつである。


その熱をもつてこそ、
最も近く親しい「自然」を担つてゐると感じることができる。
 

意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、
下から、足元から、立ち上がつてくる熱である。
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
 

その「意欲の火の力」があつてこそ、
その火を、わたしが、燃やすからこそ、
わたしのからだとこころに、
上から、天から、降り注いでくる
「考へ・想ひ・こころざし・精神の萌しのかずかず」
である光がだんだんと暖められ、鍛へられる。
 

わたしたちは、この時期、
上からの光(考へ)と、
下からの熱(意欲)とを、
織りなしあわせる。
その織りなしあいが、
こころに「みづからの情」を生む。
 

その情とは、
「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」といふ
こころの真ん中に生まれる情だ。
その情をもつて、
わたしといふ「ひとりの人」は活き活きと甦つてくる。
恐れや不安や物思ひなどを凌いで、
「ひとりの人」としてこの世に立ち、
目の前にあることにこころから向かつていくことができる。
光としての考へが、
こころを暖め熱くするものへと練られ、
実行可能なものへと鍛へられていく。
 
 
 
 
そのやうに、自分のこころとからだで、
『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味はつていくと、
シュタイナーが多くの著書や講演で語つた精神存在を、
リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、
さうしていくことによつて、
実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
 
 
 
これからの秋から冬にかけて、
外なる闇と寒さがだんだんと深まつてくる。
そしてややもすれば、
闇と冷たさがこころにまで侵蝕してくる。
 

そんな時に、内なるこころの光と熱を、
ひとりひとりの人が
みづからの力で稼ぐことができるやうにと、
共に一生懸命働いて下さつてゐるのが、ミヒャエルだ。
 

一方、闇と寒さを人にもたらす者、
それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
 

人を闇と寒さの中に封じ込めようとしてゐる
そのアーリマンの力の中に、
剣の力をもつて、鉄の力をもつて、切り込み、
光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、
毎年毎年、ひとりひとりの人が、
キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、
こころに清く備へ、整へるのを助けて下さるのが、
ミヒャエルだ。
 

シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、
ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
 

祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、
ひとりひとりの人がみづからのこころにおいて
新しく意識的に創つていくことができるやうにと、
『こころのこよみ』を書いた。
 

キリスト者共同体司祭であつた
ミヒャエル・デーブス氏が語つたこととして、
以下のことばがある。


大天使ミヒャエルといふ大いなる方が、精神の世から、
すべてのイニシアティブを持つ人に力を贈り始めたのは、
1879年だつた。
その年、シュタイナーは18歳で、
「人における知ることの秘密(認識論)」に取り組み始めた。
そして、33年経た1912年に、
シュタイナーはアントロポゾフィー協会を立ち上げ、
この『こころのこよみ』を世に贈り出した。


33年といふ時間は、
イエスがこの世に
フィジカルなからだを持つて存在した時間であり、
その誕生から十字架の死を経て、
甦るまでに要した時間だ。


シュタイナーは語つたといふ。
「いま、起こつてゐることは、
 ひとつのクリスマスのありやうだ。
 これから33年後に、その甦りの祭り、
 復活祭がやつて来るだらう」と。
精神のことがらが、地上において成就するには、
その仕事が着手されてから33年かかるのだ。
(ミヒャエル・デーブス『魂の暦について』からの要約)


このシュタイナーによる『こころのこよみ』とは、
大天使ミヒャエルとの共同作業によるひとつの結実と言へるかもしれない。


『アントロポゾフィーのこころのこよみ』。


「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
 

意識的に四季を生きること。
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
それは、地球をも含みこむ大いなる世(宇宙)と共に、
精神的に生きるといふ新しい生き方を、
わたしたちが摑む手立てになつてくれるだらう。
また、みづからの狭い枠を乗り越えて、
こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す
手立てにもなつてくれるだらう。
 
 
 
 
自然、その母なるありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。


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2020年09月29日

こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜



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ルオー「《受難》1 受難」1935年



わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
 
空間と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
 
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
 
寒い冬のさなかへと。
 
  
 
Ich darf nun mir gehören          
Und leuchtend breiten Innenlicht          
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,        
Der Seele Tiefen sollen wachen           
Und wachend tragen Sonnengluten      
In kalte Winterfluten.   
 
  
 
 
陽の光と熱を浴びながら
歩き回る夏の彷徨が終はつて、
静かに立ち止まり、
内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 

内なるこころの光と熱によつて、
こころが目覚めてゐるといふこと。


「わたしがわたしである」ことに
目覚めてゐるといふこと。
 

そして、こころが生きる情熱を感じてゐるといふこと。
 

これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 

これがあれば、秋から冬にかけて、
たとへ外の世が生命力を失つていき、枯れていつても、
内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、
活き活きと目覚めてゐることができる。
 

夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、
内なるこころの光と熱としていく。
 

そして、来たる冬の寒さのさなかへと
意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでいくことができる。
 

光と熱。
 

それはいまや
わたしのこころの内から発しようとしてゐる。
 

そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとの
コントラストを際立たせようとしてゐる。
 

太陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、
この秋があるのだ。
そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 

そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりを
ていねいに、確かに、感じること。
それが、
内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも
自覚することへと繋がつていく。
 

四季を生きること、一年のいのちを生きることが、
みづからを知ることへとわたしを導いていく。
 

この『こころのこよみ』に沿ひつつ、
四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 

ならば、それらの「ことば」が、
生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
 

夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、
ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 

秋、わたしはわたしを取り戻し、
萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 

さあ、これからが、稔りの季節、
粛々とした仕事の季節だ。
 
 
 
  
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
寒い冬のさなかへと。

posted by koji at 06:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月27日

日本昔話「天福地福」






日本昔話「天福地福」、
ゆつたりとした時に、
よかつたら、
聴いてみて下さい。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、
ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、
ことばの芸術です。
ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、
シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。


わたしたち「ことばの家 諏訪」は、
大阪の住吉にて、
その言語造形を学ぶ場を設けています。
「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/


動画「天の岩屋戸のはなし」






動画による、
古事記神話(現代語訳)に、
素敵な絵を描いて下さいました。
https://www.youtube.com/watch?v=MxuzMi5Iqn4


こと、動画といふ伝達手段を通すときでは、
「絵」は生きますね!


なまの語りには、そもそも、
絵は必要がないのです。
それは、聴き手がこころの内側で
みづから絵を自由に描くからです。


しかし、
動画といふ加工されたヴァーチャルな次元においては、
逆に絵の要素がこの動画芸術を助けてくれます。


描いて下さつた方に感謝!

2020年09月22日

新しい、始まりの始まり



見事にすつからかんに秋晴れが続く中の、
四日間連続の講座。
いますべてを終へ、
ひとりでビールで乾杯中。


参加してくださつた皆さんも、
いま、寛いでゐるかな。


朝から夕方まで四日間、
時を共にしてきて、
最後の講座が終はつたとき、
思はず口に出たのが、
「このまま、何日でも講座を続けられる」。

それほど、
自分の中から溢れ出てくる何かがあり、
それを無条件に受け止め、
さらには、
溢れる何かを返して下さる方々があり、
自由と躍動と感謝と微笑みに満ちた時間だつた。


わたしは、コロナウイルス禍の中、
春には本当に心理的に進退窮まり、
それゆゑに、
この仕事を、人生を、
ゼロからもう一度始めよう、
さう念ひ、ここまで来た。


今日は秋分の日。


この連続講座は、
わたしにとつての新しい、
本当に新しい、
始まりの始まりだつた。


そんなわたしの新しい始まりの時を
共にして下さつた皆さんに、
本当に、こころの底から感謝します。


受講された方々にとつても、
新しい始まりになりますやうに。



posted by koji at 23:45 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月21日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜



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みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
 
そして、こころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。
生み出す人は幸ひだ。
育てる人は幸ひだ。
 

金と引き換へにものを買ひ続け、
サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、
一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 

その一歩は、料理を作ることや、
手紙や日記を書いてみることや、
花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、
そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 

この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 

そのやうな行為によつてこそ、
みづからを創り上げることができ、
その行為からこそ、
こころは己れのありやうに気づく。
 

そして、「世の精神」。
 

それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、
「世の精神」であり、だからこそ、
太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 

「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、
人に働きかけ、
また人からの働きかけを受けて、
絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 

「世の精神」みづからが、人との交流を通して、
己れを知らうとしてゐる。
「世の精神」は、人の働きを待つてゐる。


そして更に「世の精神」は、
人といふものにみづからを捧げようとし、
人といふものから愛を受け取ることを通して、
より確かに己れといふものを知りゆき、
己れを知れば知るほど、
そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 

同じく、わたしたち人は、
そんな「世の精神」に倣ひつつ、
地球上のものといふものに働きかけ、
ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、
みづからを新たに新たに知りつつ、
たとへ、肉体は年老いても、
そのつどそのつどこころは甦り、
精神的に若返ることができる。
 

「世の精神」には、人が必要であり、
人には「世の精神」が必要なのだ。


我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、
本居宣長(1730-1801)も、
そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、
その「世の精神」に倣ひ続け、
「ものにゆく道」を歩き通した人であり、
両人の残された仕事の跡を顧みれば、
晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 

シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 

ーーーーー
 

ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  

ーーーーー
 
 
 
秋には、
「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 

創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、
わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 

そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、
各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。
壁に突き当たる。
 

しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、
「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、
こころの真ん中の礎である情に目覚め、
己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 

「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、
それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。


posted by koji at 06:45 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月20日

大阪弁で 〜母語の恵み〜



今日、講座を「ことばの家」でしてゐて、
このアントロポゾフィーなる精神科学を、
日本の文化の文脈で語り直すこと、
しつかりと日本語で語ること、
しつかりと自分自身のことばで語ること、
その大切さを話してゐて、
どうせならわたしの母語である大阪弁で語ることがよい、
なんてことになり、
さうしてみたら、
いやあ、驚きました。


大阪弁になつた途端に、
どれほどほつとした雰囲気が一気にその場に満ちたことか。


我が家である「ことばの家」においても、
稽古場であり、講義の場であり、
舞台でもあるこの場では、
わたしはこの部屋に入ると、
全く無意識に、おのづから、
標準語で仕事をしてゐました。


今日、おそらく初めて、
生徒さんの前で、
大阪弁で仕事をさせてもらへたのでした。


これは、思ひもかけぬことで、
わたし自身、いつも以上にとてもリラックスしながら、
仕事ができたのでした。


これも、講座を聴いてくれる方々がゐるからです。
その方々が新しいものを、
わたしから引き出してくれるのです。


いやあ、母語の恵み、それは、
人にこころから情の通ふことばを話させてくれるのですね。


仕事上、標準語を使ひながらも、
人それぞれの母語である方言は、
人それぞれ大切にした方がいいのですね。


ことばと自分自身との距離を改めて見つめる上で、
欠かせない二重性、豊かさを人にもたらすやうです。
これは、きつと、母国語と外国語との間でも、
多いに感じられることではないかと思ひます。



posted by koji at 19:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

動画 外郎売を通してA 母音の位置取り






ことばを話すための器官。

それは、もちろん、
口、舌、歯、唇、鼻、気管、肺・・・ですよね。

しかし、実際は、からだのすべてを使つて、
人はことばを話してゐます。

いや、からだのすべてどころか、
実は、自分の身の周りの空間を総動員して、
ことばを話すのです。

なぜって、空気・風を動かすことで、
人は声を出し、声を聴くことができるのですから。

ここでは、再び、歌舞伎の演目『外郎売』を通して、
母音のそれぞれ(あえいおう)が、
空間のどのあたりにおいて鳴りたがつてゐるかを探つてゐます。

さう、ことばの音韻そのものが求める、
鳴らし方、響かせ方があるのです。

口の中をぐ〜んと拡大して、
空間そのものが、ものを言ふやうに、練習していきませう。

そのやうに言語器官をより強く、
しなやかに育んで行くことで、
表現が一層生彩を帯びてきます。






『言語造形 外郎売を通して@ 身振りの学び』
https://youtu.be/d8UBmUnGzws



言語造形のためのアトリエ『ことばの家 諏訪』
https://kotobanoie.net/
 

諏訪耕志ブログ『斷想 ・・日本の精神に學びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/

2020年09月19日

母なるいのちの源からの力



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子どもがこの世に生まれて来て、
初めて地上で触れる芸術。


それが、
お母さんの声、
お母さんのことばですよね。


声といふ芸術は、
母なる生命の源から流れ來る、
命の川の流れにも似た、
人生の始まりを支えるものです。


それゆゑ、
人生の終はりにおいても、
その源へ帰るといふ情から、
戦争などで死んでゆく若者などは、
「おかあさあん!」と絶叫するのかもしれません。


いのちの流れ、
それはエーテルの流れです。


息遣ひに裏打ちされた声とことばは、
エーテルの流れに沿つて、
人から人へと働きかけ、
空間を満たさうとします。


親からことばをかけてもらふことが、
幼い子どもにとつて、
どれほど欠かせないことか。


子どもに食べ物さへ与へれば、
からだは大きくさせて行くことができるかもしれません。


しかし、その子にことばがかけられなければ、
その子は、生命力を育むことができないのです。


生命力。
生きて行くための力。
根源の力。
母なるいのちの源からの力。


それは、子どもの傍にゐる、
大人からのことば遣ひ、息遣ひによつて、
子どもに与へられるのです。


言語造形は、
そのことをリアルに感覚するための絶好の芸術です。


幼い子どもたちへのことば。


いま、始まつたばかりの四日間連続講座で、
身をもつて学んでゐます。



※絵は、安田育代氏


posted by koji at 15:51 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

精神の運動へと 〜小森文雄氏の水墨画〜



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水墨画家・小森文雄さんの絵を観に、
京都府立文化芸術会館へ。


ご本人がゐらして、
絵を観ながらたくさんお話を伺へる幸運。


精神の運動へと、
いかにおのづから入つていくか。


それは、きつと、
絵を描く人も、絵を観る人も、
同じアクティビティーをもつて生きる、
こころの技量だ。


感覚をすぐさま画布の上に実現する。
その技量は、
毎日の倦まず弛まずなされるデッサンから生まれて来る。


機械的でない、
精神をもつての基礎練習の大切さを語つて下さる。


ああ、ひとりの人に出逢ふ喜びよ!


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2020年09月17日

9/19(土)〜9/22(火・祝) 秋の言語造形・連続講座 実践と理論



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いよいよあさつてに迫つてきました。
四日間連続の言語造形講座です。


わたしたちはどのやうにして、
お話を語ることができるでせうか。


ことばといふものの力を引き出すには、
どのやうな意識と身の使ひ方を持つて、
語つていけばいいのでせうか。


ルドルフ・シュタイナーの叡智、
アントロポゾフィーから、
言語造形といふ芸術が生まれました。


そのアントロポゾフィーの基礎を踏まえつつ、
お話を語る術の基本から身につけていきませう。


詳しくは、こちらのイベント欄をどうぞ ↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/476646107.html



posted by koji at 07:35 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

持ち場に徹するといふこと



昔の大多数の日本人は、
米作りに従事する農民でした。


手足をフルに使つて農作業に勤しんでゐました。
その農作業は経済生活の営みであり、
同時に信仰生活の営みでありました。


手足の営みが、
胸の奥深くの神との繋がりを、
リアルに実感させてくれてゐました。


いま、日本人の大多数は農民ではなく、
スマホを手に握りしめるやうになりました。


わたしたちの大多数はもう、
米作りに従事してゐません。


しかし、米をこの手で作りはしないのですが、
自分に与へられてゐる仕事に、
こころを込めて勤しむことで、
何かをまごころを込めて作りだすこと、
生みだすことはできる。


さうですよね。


いま、かうしてインターネットといふ、
極めて高精度で便利なものを
わたしたちは手にしてゐることで、
大量の情報を得ることができてゐます。


しかし、それゆゑに、
わたしたちは表層的な知に恵まれ過ぎて、
頭でつかちにならざるを得ず、
一方で、わが手足を使つて、
何をすればいいのか、
分からなくなつてゐはしないでせうか。


手足をもつて何かをする、
何かを生みだすことができたとき、
その意欲の発露は、
頭でつかちになりがちなわたしたち現代人にも、
健やかさを取り戻させてくれます。


頭でつかちとは、
「自分にはすべてが分かつてゐる、
 すべてを見渡すことができる」と、
鳥瞰的・俯瞰的立場に立ちたがることを言ひます。


一方、
わたしたちの手足は、
いま、ここにしか、
触れることができません。
しかし、その手足こそが、
世とリアリティーを持つて繋がり、
世に何かを生み出すことのできる、
通路であります。


いま、わたしたちは、
みづからの手足を使つて何をしませうか。


自分自身を敢えて俯瞰的立場に置かず、
世のひとところに立つて、
この手足をもつて生きてゐることをしつかりと弁へることで、
いま、ここで、
自分に与へられてゐる持ち場に徹することが、
人を健やかにするやうに思へてならないのです。



posted by koji at 07:15 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月16日

夕暮れの空 と とこしへのみづの流れ



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こころの濁りを自覚しては、
毎度毎度、空に救はれてゐる。


 夕暮れの 南の空の みづいろに
 溶けゆく我の 幼なごころよ


母なる湖、琵琶湖のそばでの勉強会。
参加者の皆さん(男性も含めて)から、
女性性の素晴らしいところが滲み出てゐて、
毎回、毎回、わたし自身、命が甦るやう。
ありがたう。


 やすの川 みづの流れは とこしへに
 いのちながるる をとめの川よ




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2020年09月13日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜



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秋めいて、和らぐ、

感官へのそそり。

光の顕れの中に混じる、

ぼんやりとした霧のとばり。

わたしは空間の拡がりの中で観る、

秋、そして冬の眠り。

夏はわたしに、

みづからを捧げてくれた。



Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       



ゆつくりと和らいでくる陽の光。

 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。


そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、
過ぎ去つた夏と、
これからやつてくる冬とのあひだに、
立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。


その「とばり」によつて、
戸の向かう側とこちら側に
わたしたちは改めてこころを向けることができる。


戸の向かう側において、
過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照を
わたしたちは憶ひ起こす。


夏における外なる世の輝き。


そして夏における内なるこころの闇。


その外と内のありやうを憶ひ起こす。


そして、戸のこちら側において、
だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、
来たるべき冬における生命の死とを、
わたしたちは予感する。


これからの冬における外なる世の闇。


そしてクリスマスに向かふ内なるこころの輝き。


その外と内のありやうを予感する。


夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。


こころのアクティブな働きをもつて、
その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。


さうすることで、きつと、
こころが和らげられ、静かでありながらも、
意欲を滾らせてゆくことができる。



 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。



posted by koji at 19:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月12日

お手本となる存在



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わたしのライフワークのひとつとして、
普遍人間学(ルドルフ・シュタイナー)講座があります。


わたしがこのやうな講座をするに当たつて、
懐旧の念ひと共に、
お手本にしてゐる先生がふたりゐます。


おひとりは、
我が言語造形とアントロポゾフィーの師であられる、
鈴木一博さん(「先生」とはお呼びしなかつた)ですが、
もうおひとりは、
北海道伊達市にあるひびきの村で、
十数年前にご一緒したベン・チェリー先生です。


彼はそのとき確か二週間にわたる、
オカルト生理学を担当されてゐました。


彼の授業の進め方は、
一冊の本を深く深く読み込み咀嚼した上で
(その作業はおそらく
 何年もの長い年月が掛けられてゐるだらう)、
その本の記述に捉われることなく、
パワーポイントなど一切使はず、
きはめて自由自在に毎日の授業を繰りなしてをられました。


ベン先生は、
普段はもの静かな立ち居振る舞ひをされる方。
しかし授業になると、
とても表情豊かに、身振り豊かに、
全身全霊で語り、説かれるのでした。


わたしは、授業内容の魅力と共に、
ことばにおける表現に全身全霊を懸けてをられるやうな、
彼のあり方そのものにとても、とても、惹かれたのです。


高い叡智に満ちたことばを、
精神、こころ、からだのまるごとをもつて、語る人。


さういふ存在に出会へたことは、
本当に僥倖だと念ひます。


ベン先生が、いまも、
お元気でゐらつしゃることを乞ひ希みます。

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2020年09月10日

楽器の音色を聴く感官とことばを聴く感官の違ひ



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公演のための打ち合はせを小西さんと。


クラリネットから響く調べが、
空間に満ち渡ります。


小西さんのクラリネットからは、
公演のたびごとに、
様々な色合ひが感じられるのですが、
このたびの響きからは、
どこか懐かしいやうな少年のころの風景と、
老いて初めて見えてくるであらう情景とが
ことばの響きと輻輳して感じられます。


楽器の調べは、
天の使ひ(天使)が、
ことばの響きは、
大いなる天の使ひ(大天使・民族の精神の方)が、
わたしたち人の体内の水を震はせ、動かしつつ、
運んでくれる。


さういふシュタイナーのことばから
示唆をもらひながら、
人の芸術作業を見守つてゐる、
人以上の存在の方々からの繊細な働きかけを
かうして舞台への集中した時間の中で、
聴き取らうとする試みでもあります。


天の使ひの方と、
大いなる天の使ひの方との、
働きの違ひ・・・。


分別で、ではなく、
こころの感官、精神の感官において、
それらを聴き取らうとすればこそ、
そこにきつと豊かなハーモニーが生まれてくる。


さう、固く信じて、作業を行つてゐます。


しかし、わたしにとつては、
音楽の音を精確に聴き取るのは、
本当に難しいと感じます。
いはば、夢見心地で楽の音を聴いてゐるのでせう。
精確さにまだまだ欠けるのです。


ですので、音楽を奏で、
聴き取る耳を持つ方との共同作業には、
作品を創る上で本当に助けられるのです。
小西さん、今日もありがたうございました!



●大阪・京都 言語造形公演『やさしい世界の終はり方』
http://kotobanoie.seesaa.net/article/477284901.html


posted by koji at 14:44 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月09日

わたしといふ人に与へるべき水とは何だらう



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以下、去年の今日、書いた文章なのですが、
今年も全く同じことを考へ、感じ、してゐました。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


なぜだかとても疲れた時などには、
いろんな疲労回復法がありますが、
自分はよくシュタイナーの『自由を考へる』を読みます。


そして、そこに書かれてある文に沿つて、
考へることによつて、
自分自身の偏つてゐるこころを立て直すことができ、
救はれることがよくあるのです。


第5章の「世を知る」を読むと、
そこにこんなことが書いてあります。


_________________


いま、わたしが、
蕾をつけた薔薇の枝をもつてゐるとすれば、
きつと、その枝を水に活けるだらう。


なぜか。


薔薇の蕾は、薔薇の花となるからだ。


薔薇が蕾の状態であることも、
薔薇であることのひとつのプロセスだし、
花開いてゐる状態も、
薔薇であることのひとつのプロセスだ。


しかし、
プロセスの中のそのときそのときの面持ちを見るだけでは、
これこそが薔薇だ、といふことは、やはり、できないし、
水に活けて花開かせるといふ想ひにも至り得ない。


考へることで、プロセスといふものを捉へるからこそ、
薔薇の枝を水に活ける。


その薔薇が、
「なる」といふこと、
「育つ」といふこと、
「成長する」といふことを、
考へるからこそ、
わたしは薔薇の蕾がついた枝を水に活け、
その薔薇が薔薇としての美しさを十全に出し切るのを待つ。


見てゐるだけで、考へなければ、
きつと、水に活けはしないだらうし、
薔薇が薔薇であることも分からないままだらう。


           (『自由を考へる』第五章より)


________________


わたしが、
「薔薇は育つ」といふプロセスを考へずに、
水に活けてもてなさなければ、
薔薇の蕾は枯れてしまい、
その美しさを見せてくれはしない。


きつと、人であるこのわたしも、薔薇と同じだらう。


薔薇が育つやうに、わたしといふ人も必ず育つ。


そこで、
このわたしといふ人に与へるべき水とは、何だらう。


この考へに立ち戻るのです。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


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2020年09月08日

大阪・京都 言語造形公演 「やさしい世界の終はり方」



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京都の北山でも公演をすることに決まりました。
ぜひ、お運びください!



このたびは、
小西収さんにクラリネット演奏でご一緒していただきます。
言語造形といふ芸術がもつ、
最もたいせつな感覚「言語感覚」を共有できる
畏友であると勝手にわたしが思ひ込んでゐる(^_^;)、
小西さんのこのたびの公演に向けての想ひをご紹介いたします。


======


稀有なる芸術体験となった、
前回の「山月記」での共演から約2年、
諏訪耕志さんから、再びお話(ご依頼)を頂き、
たいへん嬉しく思います。


今回の公演では、作者も形態も異なる、
韻文あり散文ありの
7つの短編の文学が採り上げられています。
多様多彩、でありながら、何かテーマがきっとあって、
いったいどのような発想・経緯で
これらの演目を集められたのかと驚きます。


再現芸術家とは演目の表現者であると同時に
(それに先んじてまず)
演目の選者・編集者でもあることに
改めて意識が向いた次第です。


今回の台本を頂き、テクストを無心に読むうちに、
「作者も形態も異なる」「多様多彩」な音楽が
次々と脳内に鳴動してきました。


さだまさし『夢供養』の中のいくつかの佳曲の調べや、
マーラー第3交響曲の長いポストホルン独奏部分など、
私の中に根付きながらも
これまで相互に関連性を持って捉えたことなど
一度もなかった様々な曲が一堂に会する
という意外性だけでも私にとっては豊かな愉悦です。
これらの音楽が諏訪耕志言語造形と
うまくよく響き合うことを信じ願いつつ、
クラリネット独奏の作譜や稽古に務め励もうと思います。


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小西収(こにししゅう)プロフィール
1965年 箕面市に生まれ育つ。
帝塚山高校数学科非常勤講師。
高校時代から独学で指揮を学ぶ。
女満別指揮法セミナー(夏期合宿)に
2001〜03年の3回にわたり参加し、
小林研一郎、高石治、松尾葉子、
松岡究、三河正典の各氏に師事。
2009年までに、大阪市立大学交響楽団、
ときの交響吹奏楽団、帝塚山学園吹奏楽部、
アンサンブルフロイントの指揮者を歴任、
2007年には橿原交響楽団に客演。
現在は、私設楽団
「トリカードムジーカ(音楽の編み物)」主宰、
箕面高校OB吹奏楽団指揮者兼クラリネット奏者。
敬愛する往年の名指揮者ブルーノ・ワルターのモットー
「微笑みを忘れず」を胸に活動を続ける。


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場所・日時:  
大阪公演 
10月18日(日)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/


京都公演 
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「カフェ・ヨージク」 
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
京都公演のみ、終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
  マスクを着用につきましても、
  おひとりおひとりの判断にお任せいたします。



posted by koji at 19:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

金曜夜 アントロポゾフィークラス・オンライン



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ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』の
オンライン講座のお知らせです。
(録画したものを観ていただくこともできます)
 
これまで午前にしてゐましたが、
時間帯を変更し、
夜の19時半〜21時半となりました。

全十四講義、
シュタイナーによつて語られてゐるのですが、
シュタイナーの各講義を
わたくし諏訪耕志が、
ていねいに語り降ろさせていただきます。

このたびは、第三講のクールです。
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。

ライン上ですが、
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
時を共有しながら、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。

この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。

途中からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。

共に、精神の学びに取り組んで行きませう。


 
 

講師:
諏訪 耕志 (Koji Suwa)


  

今回は、第三講に取り組みます。

●9月11日(金)19時半〜21時半
『 人とは何かが分からなくなつたわたしたち 』

●9月25日(金)19時半〜21時半
『 地球を甦らせる人 』
 
●10月9日(金)19時半〜21時半
『 人は世の傍観者ではない 』

以降、10月23日、11月13日、27日・・と続きます。


 

●参加費 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。

 

●お申し込み・お問ひ合はせ
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/

 

●お振り込み
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。


 
鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031


posted by koji at 09:30 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月06日

言語造形・身振りの学び 外郎売を通して@





ことばを話すことを仕事にしてゐる方、
とりわけ、
子どもたちに語りかけることを仕事にされてゐる方に、
言語造形に取り組んでいただけたら、
さう願つてゐます。


「語るとは、身振り(勢ひ)に潜んだ、人の甦りである」


ルドルフ・シュタイナーの講演録
『言語造形と演劇芸術』の中のことばです。


ことばの一文一文、一語一語、一音一音に、
相応しい身振りが胚胎されてゐます。


そのやうなことばそのものに潜んでいる、
身振りを引き上げて話すことで、
どれほどことばに命が吹き込まれることか!


ここでは、歌舞伎の演目『外郎売』を通して、
言語造形の基礎のほんのひとつを示させてもらつてゐます。


三回に分けて動画にしました。
日々のことばを話すことに、
また、ことばといふものに向き合ふために、
少しでもお役に立てていただければ嬉しいです。
 
 
             
 
 


 
令和二年 9/19〜9/22 秋の連続講座
『 言語造形 その実践と理論 』 大阪「ことばの家 諏訪」

 


こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜



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世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
鈴木一博氏が「こころのこよみ」の解説されてゐて、
この週のこよみにこのやうな文章を記してをられる。


そもそもひとつであるところが、
外にあつて「光」と呼ばれ、
内にあつて「意識」と呼ばれる。
内と外はひとつの対であり、
リアルなところは、内と外のあはひにある。
ゲーテのことばにかうある。
「なにひとつ内にあらず、
 なにひとつ外にあらず /
 そも、内にあるは外にあるなり」
(Nichits ist drinnen,nichits ist draußen;/ 
 Denn was innen,das ist außen.「Epirrhema」)


夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、
いつしか、こころの光になつてゐる。
 

そのこころの光は、萌しであり、
これから、だんだんと、長けゆく。
 

そのこころの光は、感謝の念ひであり、
だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、
だんだんと、熟してゆく。
 

その成熟は、
冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を
我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 

それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 

むかし、我が国では、そもそも、
その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、
新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 

一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 

しかし、どんな年であれ、
米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を
授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、
日本人は生きて来た。
 

この感謝の念ひが、
秋から冬への移り行きの中に生まれる
寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、
静かな元手となつてゐた。

 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 
西の国々では、
冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 

そして、キリストの誕生とは、
「ひとり生みの子ども」
「神の子」
「ひとりであることのもたらし手」
「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 

西洋では、
一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、
キリストの誕生を寿いだのだ。
 

それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 

その「ひとりであること」の自覚の光が、
秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、
「ひとりであることの自覚」から生まれる
寂しさといふ情にまで徹してみることで、
鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。
そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、
キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 

そして、「ひとりであること」の自覚を持つ
ひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、
精神は息づく。
 

他を否むところからではなく、
他に感謝することからこそ、
人のうちに己れが生まれる。


他に感謝するとは、
ひとりの人としてのわたしが、
世の己れを世の己れとして
しつかりと認めることであり、
その他の己れを認める力が、
わたしの己れをひとり立ちさせるのだ。


芭蕉は、また、
この「閑古鳥」も「ひとり」であることを認め、
ひとりであるもの同志として、
その閑古鳥との精神の交流、
閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 

 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



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2020年09月04日

星のお宮と感官と家族の名前



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十二の感官の育みと十二の黄道上にある星の宮との関はり。


そのことを考へてゐて、こころの内に漂つてきたのは、我が家族ひとりひとりの生まれた月日の星座と名前についてです。


次女のかさねは、おうし座生まれ。おうし座は、他者の考へを感覚する「考への感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。彼女は十二歳ですが、学校での学びでも、日々の暮らしの中でも、家族中で一番際立つた「思考家」です。考へを「かさねて、かさねて、かさねながら」日々成長してゐるのを強く感じます。わたしが彼女の名前を「かさね」とつけたのは、松尾芭蕉の『奥の細道』にその名の少女が出てきて、「かさねとは八重撫子の名なるべし」といふ句に魅了されたからなのですが、まさしく、こころの細道を辿りゆく芭蕉は、北へ北へと、那須から陸奥へと旅を進めて行つたのでした。それは、また、考へを重ねて行くことで行き着くこころの北方を目指してもゐたのでした。


長女の夏木は、かに座生まれ。かに座は、響きに耳を澄ます「聴く感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。いまは十五歳で、吹奏楽部に所属し、休むことのない音楽漬けの毎日です。聴くといふ営みは、物理的な空気の振動を精神的な調べに変換させることでなりたつてゐること、アントロポゾフィーから学ぶことができることの内の驚きのひとつです。7月半ば、くすのきの大樹に蝉が鳴きしきる夏の最中に生まれて来た長女。直感的に「夏木」と名付けました。同じく、芭蕉で有名な句「閑かさや岩にしみいる蝉のこゑ」がありますが、芭蕉は、蝉の声と共に、閑かさといふ沈黙の調べに耳を澄ましてをりました。物理の次元と精神の次元とを重ねつつの句であります。長女も、きつと、物理の次元と精神の次元とを結びつけるやうな人へとなりゆくであらうこと、我が子ながら、その独特のセンスにどこか感じるところがあります。


妻の千晴は、ふたご座生まれ。ふたご座は、何らかの響きや音声とは全く別に、ことばをことばとして受け取る感官「ことばの感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。双子のやうに、ふたつの腕のやうに、自由に動き、自由に遊ぶ、そんなときこそ、こころが羽ばたき、ことばが息づく。まさに、そんな人です(笑)。その双子といふことばに象徴されるふたりの幼な子の間には、遊びを通してこそ、自由と美が生まれます。それが、そもそも、本来的な「ことば」です。彼女は言語造形に生きてゐます。「千晴」といふ名も、とこしへの晴天を指してゐるのでせうか。ゲーテが、たしかこのやうなことをどこかに書いてゐました。「人と人とが語りあふこと、それは、光よりもすこやかなものをもたらす」。すこやかさと晴れやかさ。晴れ渡る大きな空を吹き過ぎる千の風です。


わたくしこと耕志は、いて座生まれ。いて座は、自分自身のからだが動いてゐることを内側から感覚する「動きの感官」を育む力を贈り続けてゐる星のお宮です。志(こころざし)を耕すといふ名を父がつけてくれたのですが、こころが指す方向に向かつて動いて行く、その力はいて座から、そして名前から頂いてゐるのかもしれないと思つてゐます。また、子ども時代に体を目一杯動かしながら遊べば遊ぶほど、ことばを活き活きと話すことができる、そんな関連に、我が子ども時代の環境をありがたく思ふのです。


昨日、空を見上げると、虹が懸つてゐました。





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2020年09月03日

接触し浸透し合ふ感覚 〜半木(なからぎ)の神の杜〜



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半木(なからぎ)の杜に鎮まる半木神社。
(京都府立植物園内にある)


いまだ真夏のやうな暑さをくぐり抜けて、
杜の中に入つてゆくと、
静かさと涼しい風ひとひら・・・


天の岩戸開きのとき、
占ひを司られた神である、
天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るこの社。
奈良時代からの土地柄から、
絹織物の守護神としても信仰されてゐたと言ふ。


主宰神の御性格やその御名さへ、
庶民の信仰の自然な移り行きからなり変はることにも、
日本ならではのおほらかな信仰のありやうが感じられ、
ありがたい。


わたしは、これからは、
こころと精神の織物を
新しく仲間と協力しながら織り上げていくのだと、
お宮の前で予感し、感謝の念ひを感じてゐると、
物凄い風がわたしを吹き抜けて行つた。


濃密でとても親しい接触。


土、水、風、熱、
そして光のなかに、
そのやうな接触する感覚、
浸透し合ふ感覚があつて、
それを憶えてゐるやうにしてゐる。


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2020年09月02日

玉出への夜の坂道にて



望月に 近きこよひの 坂道を
降りゆく我も この星愛(いと)し

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2020年09月01日

10/18 大阪公演 詩と物語り『やさしい世界の終はり方』



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言語造形公演 詩と物語り『やさしい世界の終はり方』
(精神の風とひとつになるための・・・)
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言語造形: 諏訪耕志(すわこうじ)
クラリネット演奏: 小西収(こにししゅう)
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●日時:  
令和2年10月18日(日)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
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●場所:  
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
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●参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
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●お申し込み: 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
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このたびの公演は、
詩人の石村利勝氏の作品、
「やさしい世界の終はり方」に、
こころを強く揺さぶられたことから、
わたしの内に形を取り始めたもの。
(石村氏の最近の作品はこちらでも読むことができる
 https://www.breview.org/keijiban/?author_id=637
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この詩を口に出すことは、
そのことばだけでなりたつてゐる、
たいせつな何かを壊してしまひさうで、
相当、ためらはれたのだけれど、 
しかし、それでも、わたしは、
みづからにへばりついてゐる、
余計でよこしまなものをできうる限り脱ぎ捨てて、
人といふものの美を信じてゐるこの作品の、
精神の風とひとつになりたいと切に希ふ。
舞台の上で響かせてみたい。
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挑戦をしたい。
そのやうな挑戦をしなければ、
自分などといふ存在は、
どんどん腐つて行くやうに思はれて仕方がない。
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2020年08月30日

9/19〜9/22 言語造形・連続講座 実践と理論

 

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秋の言語造形・連続講座のお知らせです。 


わたしたちは、
フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、
ことばを話してゐるのではありません。
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エーテルのからだ、
アストラルのからだ、
そして、〈わたし〉といふ、
目には見えないところをこそ使つて、
言語生活を営んでゐます。
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そのことを感じながら、
意識しながら、
ことばを話す練習をしませう。
ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。
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書かれてゐる文字に、
息を吹き込みませう。
命を吹き込みませう。
そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。
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それは、ことばを甦らせ、
わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。
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午後は、ルドルフ・シュタイナーの講演録
『言語造形と演劇芸術』を読み深めます。
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四日間の連続講座だからこそ、
日常を突き抜けて、
こころの奥深く、
からだの奥深くに、
芸術が働きかけます。
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身体まるごとを使ひ、
こころまるごとを注ぎ込み、
そんな言語造形といふことばの芸術に、
わたしと共に取り組みませんか。
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それは、
フィジカルなからだ、
エーテルのからだ、
アストラルのからだ、
そして〈わたし〉といふ、
四重の生を感じつつ生きる始まりです。
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そして、言語造形に勤しむ人になりませんか。
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講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
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日時:
令和二年9月19日(土)より22日(火・祝)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで
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場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
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参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円
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お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
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お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
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2020年08月27日

「こころのこよみ」とともに生きる B



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シュタイナーによる、
この『Anthroposophischer Seelenkalender』を、
本当に拙いながらも『こころのこよみ』として、
日本語に訳し、
声に出しながら、時にこころの深みに沈めながら、
一文一文、一語一語、一音一音、
味はひつつ一年を辿つてゐる。


こよみとは、
「事(こと)をよむ」ことであり、
「言(ことば)をよむ」ことであり、
「心(こころ)をよむ」こと。


『こよみ』に刻み付けられてゐることばを通して、
自然のリズム、「年といふもののいのち」を
共に感じ、生きる。

 
その芸術的であり、瞑想的でもある行為を
生活に根付かせていくことで、
だんだんとこころにハーモニーが育ち、
健やかさと安らかさと確かさを実感できるやうになつてくる。
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それは、やはりありがたいことだ。


そして、その毎日の行為は、
頭で考へるこれまでのありやうから、
心臓で考へる新しいありやうへと、
みづからを育て上げていく道でもある。


頭でなく、心臓で考へるのだ!
血の暖かさに満ちた、
情のたつぷりと通ふ考へを人は持つやうになる。


そして、わたしは、
この地球の上にひとりの人として立つ。


『こころのこよみ』の発刊が、
アントロポゾフィー協会の創設と時を同じくしてゐること。
(1913年)


またその十年後に、
『四つの世のイマジネーションにより四季を共に生きる』
といふ講演がなされ、
一年の巡りを意識的に生きることで、
精神の善き位にある方々を意識し、
その方々と共に働いていくことが、
本当に大事なことなのだ、
さうシュタイナーが訴へたのは、
新しい普遍アントロポゾフィー協会の創設(1923年)に向けてのことだつた。


「年のいのちを生きる」といふことと、
アントロポゾフィー協会の創設といふこととが、
時を同じくしてゐること、
それは偶然ではない。
(ヨハネス・キュール氏による2006年度、
 普遍アントロポゾフィー協会の年次テーマより)


いま、時代の要請から、
目に見える外的な行為を
ひとりひとりが己れの分に応じてなしていく必要があるのは
言を俟たない。


しかし、わたしは、まづは、
アントロポゾフィーが示唆してくれてゐる、
地球と共に感じ、大いなる世とともに心臓で考へる、
精神の世の方々との共同作業を育んでいく、
そのやうな内なる道を真摯に捉へ、
その内なる練習を生活の中でしていくことの重要性を念ふ。


内(目にみえないところ)こそが変へられる。
そこからこそ、
外(目に見えるところ)が変はつていく。


その確かな道を、示してゐるのが、
アントロポゾフィーだ。


わたしたち日本人は、
昔からのことばの芸術、
和歌や俳句などを通して、
ことばの美を通して、
四季の巡りを生きるこころの感覚を、
年のいのちを生きる精神の感覚を、
ひたすらに培つてきた民族。


この感覚をこれからは、
意識的に培ひ始めていかう。


(終はり)


posted by koji at 14:31 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする