2020年02月14日

幸魂塾での言語造形



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前田 恭仁子さんの発意により、
京田辺市の三山木にて、
言語造形クラスが始まりました。
 
 
想ひといふ想ひを内に秘めたまま、
ことばを表に出せない人、
出せたとしても、
いびつな形でしか出せない人、
そんな人がいま、どれほどたくさんゐるか。
そんないまだからこそ、
言語造形をこそ、
世に伝へたい。
 
 
その真摯な希みを、
今日、恭仁子さんは語つてくれました。
 
 
場所は、
前田 三四郎さんが、
この4月から始められる合気道の道場、
【幸魂塾(さちみたまじゅく)】です。
 
 
三四郎さんのこの道場に込める念ひ。
 
 
彼のことばをお借りします。
 
 
「『幸魂塾』
 「幸魂」は文字通り、
 「幸せ」「愛」を意味し、
 形としては安定感のある「四角」。
 わたしは「宇宙人が地に足をつける」
 という想いをこめて道場の名にしました。
 生き辛さを抱えた宇宙人のような人が、
 この地球に根付いて楽しく暮らせるようになる。
 それがわたしの願いです 」
 
 
前田ご夫婦の熱い念ひと、
お祀りされてゐる天御中主神様によるのでせう、
清浄でとても健やかな空気を感じる道場。
 
 
そこで、これから毎月第二金曜日の午前10時から、
言語造形のクラスを始めます。
(3月のみは第一金曜日の6日)
 
 
ご関心あられる方は、
どうぞ前田さんご夫妻にご連絡をお願ひします。
 
 
 


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2020年02月11日

音楽のやうに 『 をとめ と つるぎ 』


 
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音楽を聴くとき、
いろいろな聴き方があります。
 
 
ただ、聞いてゐるだけでは、
音といふ音が、
時間の中を流れて行くばかりです。
 
 
しかし、
熱心に音の流れに耳を澄まし、
ひとつひとつの音を追ひゆくことで、
優れた音楽は、
思ひもよらない深みと繊細さを帯びた、
情と叡智に満ちたものへと、
変貌します。
 
 
まるで、大自然の命の営みに等しく、
あるときは空の風のごとく吹き過ぎ、
あるときは海の波のごとく打ち寄せ、
またあるときは山脈のごとく聳え立ち、
音楽は生まれ、死に、そしてまた甦ります。

 
 
そのやうに「音楽を聴く」には、
聴こゑて来る音を
意味に満ちた「ことば」に、
再構築する精神の能力が要ります。
 
 
そして、そのやうな能力は、
鍛えれば鍛えるほどに、
研ぎ澄まされて来るやうに感じます。
 
 
 

 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」では、
言語を、そのやうに聴きたい人に向けて、
作品を創り上げていきたいと希つてゐます。
 
 
 
 

 
今日も言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」のために、
メンバーが集まり、各々、
目一杯の精神力をこの作品に注いでくれました。
 
 
この劇を書かせてもらつたわたしが
作曲者とするならば、
メンバーみんなは演奏家で、
この拙い曲を通して、
愛といふものを一生懸命演奏しようと、
懸命に取り組んでくれてゐます。
 
 
本当に奇跡のやうなことだと
わたしは思つてゐます。
 
 
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建国記念日の朝に



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あな清(さ)やけ 初国知らしし この朝の
まさをきみそら 昇る陽のたま
 
 
初国の 朝に昇らむ 陽のたまは
われをも浄めむ 彼をも浄めむ

posted by koji at 09:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月08日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜



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新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
2月に入り、
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、
陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、
その陽の光だ。
 
 
冬から春への兆しを、
わたしたちは何よりもまず、
陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、
その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、
そのことを感じはしても、
それ以上の何かを感じることは
ほとんどないのではないだらうか。
 
 
昔の人は、その陽の光に、
あるものを感じ取つてゐた。
 
 
それは、ひとりひとりを、
神の力と結ぶことによつて、
まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
 
太陽を見上げたときに、
次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
『人』とするものが流れ込んでくる」
 
 
(『人の生きることにおける、
  引き続くことと繰りなすこと 
   1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、
そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智が
だんだんと失はれてきた。
 
 
そして人は、
自分の周りの事柄に対しては
知識を増やしていつたが、
ますます、自分は何者か、
自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、
分からなくなつてきた。
 
 
人といふものが、
そして自分自身といふものが、
ひとつの謎になつてきたのだ。
 
 
そのとき、ゴルゴタのこと、
イエス・キリストの十字架における死と、
墓からの甦りが起こつた。
 
 
もはや、物質としての太陽の光からは、
わたしたちを『人』とする力を感じ、
意識することはできない。
 
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、
さらにゴルゴタのことが起こることによつて、
もはや外の道ではやつてくることができない力、
人の最も内なる深みから、精神から、
自分を『ひとりの人』とする力が
立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。
「わたしは、世の光である」。
 
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、
みづからを『ひとりの人』として捉へうる力が
もたらされた。
 
 
その力は物質の太陽の光からでなく、
精神の光から、もたらされてゐる。
 
 
わたしたちは、
2月の明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、
精神的な観点においても、
内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、
みづからの出自を改めて明らかさとともに
想ひ起こすことができる。
 
 
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。
「わたしは、そもそも、精神の人である」と。
「<わたし>は、ある」と。
 
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
 
わたしたちは、そのことを、
「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
 
そして、
明るさを増してきてゐる陽の光によつて、
外の世において、
命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。
絡みあひながら、芽生えながら。
 
 
さらに、わたしたち人は、
秋から冬の間に、
まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
 
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、
まぎれなく考へる力となる。
 
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、
人はまぎれなく考へる力において、
自由になりうる。
 
 
外の世に、
どんなことが起こらうと、
どんな出来事が繰りなされやうと、
こころに、
意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、
わたしたちは、
みづから自由への道を開いていくことができる。
 
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとの
ひとつひとつを、
自分に対してのメッセージとして受けとり、
考へていき、
そして振舞つていくことによつて、
開けてくる道がある。
 
 
その道は、
『ひとりの人』としてのわたしを、
自由へと、
導いていくだらう。
 
 
 
 
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 

posted by koji at 22:57 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

型を叩き込む


 
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基本練習といふものが、
言語造形にもあります。
 
 
その練習を積み重ねることによつて、
型をからだに叩き込むのです。
 
 
知性で捉えられた知識は、
芸術においては頼りにならないもので、
なにほどのものでもありませんが、 
からだに叩き込まれた型は、
その人を根底から支へます。
 
 
型とは、
その芸術に固有の法則から生まれてゐます。
 
 
自然のものすべてに法則があるやうに、
ことばといふものにも法則があるのです。
 
 
ことばは人間が作つたものではなく、
神が造られたものだからです。
自然のものだからです。
 
 
その法則を知識としてではなく、
繰り返し、繰り返し、
練習といふ実践を通して、
からだまるごとで、
ことばの法則に則つてゆくのです。
 
 
昔、あるオイリュトミストが、
わたしに言つたことがあります。
 
 
「練習はあまり必要ありません。
むしろ、意識の持ち方が大事。
いまは、意識魂の時代だから」
 
 
わたしは、その方には申し上げませんでしたが、
それは絶対に違ふと思ひました。
 
 
意識などは、すぐに変へられる。
 
 
しかし、その変へられた意識は、
ふたたび、また、元の木阿弥に返つてしまふのだ。
 
 
元の木阿弥に返つて、
お馴染みのやり方、あり方になつてしまふのが、
人のからだだ。
 
 
人は、繰り返し練習を重ねること以外には、
己れみづからのからだを通しての技量を
めていくことは決してできません。
 
 
からだとは、それほどに、
手のかかるものであります。
 
 
また、その繰り返しの練習から、
身に叩き込まれた型があるからこそ、
逆に、その人からしか生まれない、
個性的なものが生み出されます。
 
 
しかし、この個性は、
長い時間の中でこそ生まれて来るものです。
 
 
十年、二十年、三十年・・・
限りはありませんが、
そのやうな長い時間を通して、
培はれた基礎がものを言ひます。
 
 
わたしも、
不遜に聴こゑるのを恐れるのですが、
基礎練習を重ねつつ、
これからどういふものが、
この身から生まれて来るのかと、
気を引き締めてゐます。
 
 
 

posted by koji at 22:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月07日

型を叩き込む


 
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基本練習といふものが、
言語造形にもあります。
 
 
その練習を積み重ねることによつて、
型をからだに叩き込むのです。
 
 
知性で捉えられた知識は、
芸術においては頼りにならないもので、
なにほどのものでもありませんが、 
からだに叩き込まれた型は、
その人を根底から支へます。
 
 
型とは、
その芸術に固有の法則から生まれてゐます。
 
 
自然のものすべてに法則があるやうに、
ことばといふものにも法則があるのです。
 
 
ことばは人間が作つたものではなく、
神が造られたものだからです。
自然のものだからです。
 
 
その法則を知識としてではなく、
繰り返し、繰り返し、
練習といふ実践を通して、
からだまるごとで、
ことばの法則に則つてゆくのです。
 
 
昔、あるオイリュトミストが、
わたしに言つたことがあります。
 
 
「練習はあまり必要ありません。
むしろ、意識の持ち方が大事。
いまは、意識魂の時代だから」
 
 
わたしは、その方には申し上げませんでしたが、
それは絶対に違ふと思ひました。
 
 
意識などは、すぐに変へられる。
 
 
しかし、その変へられた意識は、
ふたたび、また、元の木阿弥に返つてしまふのだ。
 
 
元の木阿弥に返つて、
お馴染みのやり方、あり方になつてしまふのが、
人のからだだ。
 
 
人は、繰り返し練習を重ねること以外には、
己れみづからのからだを通しての技量を
めていくことは決してできません。
 
 
からだとは、それほどに、
手のかかるものであります。
 
 
また、その繰り返しの練習から、
身に叩き込まれた型があるからこそ、
逆に、その人からしか生まれない、
個性的なものが生み出されます。
 
 
しかし、この個性は、
長い時間の中でこそ生まれて来るものです。
 
 
十年、二十年、三十年・・・
限りはありませんが、
そのやうな長い時間を通して、
培はれた基礎がものを言ひます。
 
 
わたしも、
不遜に聴こゑるのを恐れるのですが、
基礎練習を重ねつつ、
これからどういふものが、
この身から生まれて来るのかと、
気を引き締めてゐます。
 
 
 

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2020年02月04日

【小川榮太郎】美の行脚(第四回):小林秀雄『本居宣長』について《前編》






いやあ、これはこたへられない面白さです・・・。
 
 
文章の内側に、
ひとりの人といふ、
唯一無二の存在が息づいてゐるものこそが、
文学であるならば、
思想も歴史も、文学でなければならない。
 
  
どんどん零落していく日本の文化力を、
水際で押しとどめた仕事として、
小林秀雄の『本居宣長』といふ作品があると、
感じてゐるわたしにとつて、
この小川氏と石村氏の対談は本当に嬉しいものです。
 
 
小林の『本居宣長』一冊、全50章を、
一年間かけて高校生などと読むことができたら、
どんな豊かな時間が生まれるだらう。
 
 
学ぶとはどういふことか、
人として生きるとはどういふことか、
民族精神の伝統に則つた学問観と死生観といふ、
ふたつの大いなる問ひを抱く機縁を摑むことができる。
 
 
そんな一冊だと信じてゐるのです。



posted by koji at 19:57 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

すべての学びの根柢 〜歴史と風土教育〜

 

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いま、自分も含めてですが、
神社や歴史的遺蹟を巡り歩いてゐる人が、
とても多くなつてゐます。
(特に、関西・近畿地方において?)
 
 
多くの人が、
思ひ出すべき何かを思ひ出さうとして、
さういふ所を訪ね歩いてゐるのだと感じます。
 
 
奈良の大和路の辺りを歩いてゐて、
つくづく感じることが、
我が国の文化と歴史を
知りながらかういふ所を歩いてゐるのと、
知らないで歩いてゐるのとの違ひは大きい、
とてつもなく大きい、といふことでした。
 
 
そして、かういふ学びと行為は本来、
小学生、中学生、高校生のときに
やつておきたいことだ、
といふことです。
 
 
いまの大抵の修学旅行や遠足などは、
ただのレクリエイションになつてしまつてゐて、
学校では我が国の歴史や文化のなりたち、
敬ふべき大切なものをなんら教へずに、
ただ子どもたちを名所旧蹟に引つ張つていき
歩き回らせてゐる。
 
 
子どもたちには何の感興も感動もない。
酷いものになると、
ディズニーランドや、
テーマパークなどに連れて行つて、
子どもたちの浅はかな機嫌を取る。
 
 
歴史や風土を教へるにも、
子どもたちが我が国、我が土地、我が風土に、
誇りと美しさを覚えるやうな、
人の成長にふさわしい教へ方と内容が必要です。
 
 
そのやうな教育の根源は、我が国に於ては、
幸ひながら、
古事記や萬葉集や風土記といつた、
古典作品に収められてゐます。
声高に叫んだりしませんが、
静かに収められてゐます。
 
 
我が国の古典作品は、
我が国の土着のものでありながら、
どこまでも高くて深い見識をいまだに湛えながら、
わたしたちのこころのとばりの向かう側に、
ひつそりと佇んでゐます。
 
 
その古典を学びながら、
そこから歴史と風土と文化を知らうとしながら、
その固有の精神・神々と、
土地の精神・地霊の方々との、
交はりを求めて、
その伝来の土地の上に足を踏み出していく。
 
 
その足をもつての学びは、
人に自己肯定感と、
故郷に戻つた時のやうな、
どこまでも深い安心感をもたらすのです。
 
 
多くの問題、こころの問題のおほもとは、
己れの出自・源に対する
不見識、否定感、不信感にある。
 
 
しかしこれは、そもそも、
学校教育に期待するやうなものではないのかもしれない。
 
 
家庭での、わたしたち親たちによる、
わたしたち親自身の自覚の問題です。
 
 
それは、夫婦関係、親子関係、人間関係の深まりといつた、
小さな社会の礎創りこそが、
すべての学びの根底にあるからです。
 
 
自分自身の足元を見直す。
 
 
そんなあり方を探つていきたい、
と考へてゐます。
 
 
 
#国学  #教育

posted by koji at 07:34 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月03日

憧れと現象



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わたしには、憧れがあります。
 
 
その憧れとは、
発声される国語芸術を、
この国に成立させることです。
 
 
その憧れは、明らかに、
精神から来てゐます。
 
 
そして、わたしは、
ここ地上にて、
人々と共に生きてゐます。 
 
 
そこで生じる現実は、
明らかに地上的現象です。
 
 
この憧れと地上的現象とを、
ひとつに重ね合はせて行く。
 
 
わたしには、それができるだらうか。
 
 
そんな懐疑などありません。
 
 
やつて行くしかないのです。
 
 
昨日は、素晴らしいお料理と和やかな談話、
皆さんに本当にお世話になりました。
 
 
どうもありがたう。


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posted by koji at 17:29 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第43週)〜天に向かふこころの炎〜



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冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖められ、
 
世の現はれに、
 
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
 人の内なるこころの炎」
 
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
 
いま、人と人は、
どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
 
人と人との間に、
無関心が、行き違ひが、無理解が、
そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
 
自分自身のこととしても、
そのことを痛切に感じる。
 
 
わたしたちは、
そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、
密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
 
 
その冷たさから自分を守らうとして、
こころを閉ざす。
 
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、
求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
 
しかし、
このあり方が時代の必然であることを
知ることができれば、
何かを自分から変へていくことが
できるのではないだらうか。
 
 
15世紀以降、
人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
 
 
意識のこころの時代だ。
 
 
この時代において、
まづ、人のこころは冷たく、
硬い知性に満たされる。
 
 
その知性は、
すべてを、人までをも、
物質として、計量できるものとして扱はうとする。
 
 
この時代において、
この冷たく硬い知性が、
人のこころに満ちてきたからこそ、
現代の文明がここまで発達してきた。
 
 
そして、文明が発達すればするほど、
人は、己れが分からなくなつてくる。
人といふものが分からなくなつてくる。
 
 
人といふものは、からだだけでなく、
こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
 
だから、その冷たく硬い知性を
己れのものにすることによつて、
人は、人といふものがわからなくなり、
他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも
見失つてしまふにいたる。
 
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、
冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、
人は、自分が「ひとりであること」を
痛みと共に感じざるをえない。
 
 
以前の時代には、
無意識に繋がつてゐた人と人との関係。
人と自然との関係。
人と世との関係。
 
 
それらが断たれていく中で、
人はひとりであることに初めて意識的になり、
改めて、
自分の意志で繋がりを創つていく力を
育んでいく必要に迫られてゐる。
 
 
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
 
 
ひとりになれたからこそ、
そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
 
 
ひとりになることによつて、初めて、
人と繋がることの大切さに
しつかりと意識的になることができる。
 
 
だから、
このやうな人と人との関係が
冷たいものになつてしまふことは、
時代の必然なのだ。
 
 
そして、
この時代の必然を見やる、
ひとり立ちしたひとりひとりの人が、
みづから天(精神)と繋がり、
垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
 
 
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、
横にゐる人との繋がり、
水平の繋がりが与へられる。
 
 
垂直の繋がりが、
ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、
水平の繋がりが天から与へられる。
 
 
さうして初めて、
人と人とが分かち合ひ、
語り合ひ、愛し合ふことができる。
 
 
地上的な知性で、
地上的なこころで、
地上的なことばで、
人と人とが分かり合へるのではない。
 
 
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、
すでに500〜600年経つてゐる。
 
 
わたしたち人は、そのやうに、
いつたん他者との関係を断たれることによつて、
痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、
ひとりで立つことを習つてきた。
 
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、
意識のこころの本来の力、
「熱に満ちた、暖かい知性」、
「頭ではなく、心臓において考へる力」、
「ひとり立ちして愛する力」を
育んでいく時代に入つてきてゐる。
 
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、
人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
 
硬いからだを持つところから、
人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、
からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる
他者への無理解、憎しみが、
こころに持ち込まれるのだ。
 
 
だから、これからの時代のテーマは、
そのやうな、からだから来るものを凌いで、
こころにおいて、
暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、
意識的に育んでいくことだ。
 
 
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、
 人の内なるこころの炎」だ。
 
 
その「内なるこころの炎」は、
天に向かつて燃ゑ上がる。
精神に向かふ意志の炎となる。
 
 
日常生活を送るうへで、
日々の忙しさにかまけつつも、
なほかつ求めざるを得ないこころの糧。
それは、精神である。
 
 
地上に生きる人にとつて、
なくてはならないこころの糧としての精神。
その精神の具象的なもののうち、
代表的なもののひとつは、キリストであらう。
 
 
キリストのこと、
クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、
春を迎へようとする頃
ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、
そのことを深みで感じつつ、
深みで知りゆくことによつて、
ますます意識的にこころを精神に向かつて
燃ゑ上がらせることができる。
 
 
そして、
人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ
「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
 
 
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
 
 
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、
キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
 
 
意識のこころの時代において、
人は、そのやうなキリスト理解をもつて、
みづからのこころに炎を灯すことができる。
 
 
なぜなら、キリストの別の名は、
「わたしは、ある」だからだ。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
さう、こころに銘じるとき、
わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
 
 
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、
キリストと繋がる。
 
 
 
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現はれに、
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 人の内なるこころの炎」
 
 
 

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2020年02月01日

今日の稽古『 をとめ と つるぎ 』



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演出する者が涙を流してゐては、
仕方がないと思ふのです。
 
 
だけれども、出るんだから、仕方がない。
 
 
役者の方々、
各々の役をだんだん深めてゐて、
そのひとこと、その一音に、
涙が出るのです。
 
 
今日は、メークの方も来て下さり、
わたしたち劇の中にどつぷり入り込んでゐる者
とは違ふ別の角度から意見を下さり、
とてもありがたい。
 
 
国の歴史を支へた人物たちの人格や、
精神の片鱗にでも触れることができたら、
さう希つて、
この言語造形劇『をとめとつるぎ』
を創り続けてゐます。
 
 
そして、
舞台芸術としてのことばの芸術を
この日本に仕立てて行きたい。
 
 
そんな理想をもつてやつてゐます。
 
 
応援いただけましたら、
とても嬉しいです。
 
 
ぜひ、
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
https://kotobanoie.net/play/
お運びください!
 
 
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posted by koji at 22:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月31日

娘の声



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わたしからは何も言はないのに、
明日の稽古に備へて、
小5の娘が稽古場で大声出してゐるのが、
聴こゑてきます。
 
 
今度の「 をとめ と つるぎ 」の舞台を
最後の出演にすると彼女は言ひました。
 
 
小さいときから、
親に随分つきあつてくれたこと、
本当にありがたく思ひます。

posted by koji at 21:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月30日

音の内へ 〜フルトヴェングラー第九を聴いて〜



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クラシック音楽を
少しづつ、少しづつ、聴き出して、
数年になります。
 

まだ、何が何やらよく分からず、
ただ、買ひ求めた数少ないアルバムを、
繰り返し、繰り返し、聴き続けてゐます。
 
 
何度も聴いて来た、
フルトヴェングラー指揮、
ベートーヴェン第九交響曲(1951年バイロイト)を、
家人が誰も家にゐないことをいいことに、
今日は大音量で聴きました。
 
 
時間の中を疾走するが如く、
フレーズからフレーズへ
ダイナミックに音が移りゆき、
しかも一音一音へ意識が細やかに配られ、 
時には、まるで天上から
突然神々が降りて来られたかのやうに感じたり、
ベートーヴェンの精神が
聴いてゐるわたしの身を揺さぶり、舞はせ、
肉体があることを忘れさせるやうな時間。
 
 
第四楽章の最後の加速していく演奏に、
ほとんど我を忘れてゐる自分がゐました。
 
 
ひとつひとつの音と声によつて、
完璧なまでに精緻に組み立てられた構造物なのに、
そのひとつひとつの響きが、
肚の底から鳴らされ切つてゐる。
 
 
すべての演奏が終はつた瞬間、
嗚咽に似た感情が、
身の内から滾々と湧き上がつて来たことに、
自分自身、驚いてしまひました。
 
 
このやうに、クラシック音楽を聴くことは、
酔狂者の一種の暇つぶしなのだらうか、
さう、みづからに問ふてみました。
 
 
さうではない、と思ひました。
 
 
喜びも悲しみもすべての感情を生き切る。
それを歌ひ上げる。
 
 
人は、そのやうに生き切らなければならない。
 
 
この演奏は、演奏そのもので、
そのことを示してくれてゐるやうに
思はれてなりません。
 
 
人生を生き切つて、
人はくたくたになり、
へたばつてしまふかもしれない。
 
 
それと同じやうに、
この演奏を聴いたあと、
やはり、くたくたになります。
 
 
しかし、
音の中に真正面から入り込んでいくことによつて、
普段の生ぬるい自分が死んでしまふ。
 
 
そんな事態に踏み込める音楽、芸術が、
いまだ存在してゐることが、
ありがたいことです。
 
 
なにごとも外に居ては分からないものですね。
 
 
内へ、内へと、入り込まねば、
と改めて念はされました。 
 
 

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2020年01月29日

5月からの「缶詰・宮澤賢治」クラスのお知らせ



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来年、令和3年3月に、
言語造形による舞台劇
『缶詰・宮澤賢治』(構成・演出 諏訪耕志)
を演じるメンバーを募集いたします。
 
 
この5月から土曜日、
月に三回のペースで、
(7月のみ二回、
 本番前の2月、3月には、
 必要に応じて更なる回数)
「ことばの家 諏訪」にて、
言語造形の稽古をいたします。
 
 
ことばの造形による、
宮澤賢治の世界。
 
 
それは、
宇宙大の広やかさと深さを湛えるひとりの人
といふもの、さらには、
その人と自然との交感を歌ひ上げるものです。
 
 
ことばによる表現の極みを目指す舞台にしたい、
さう考へてゐます。
 
 
賢治が描かうとした、
この世と精神の世との交はり。
 
 
芸術とは、まさに、
その交はりを描くものであり、
その交はりを生きるものです。
 
 
一年間のこの舞台創りを通して、
その交はりを共に生きませんか。
 
 
この舞台創りを通して、
あなたも言語造形をする人として、
足掛かりをつけていきませんか。
 

この舞台創りを通して、
ここ日本に、
言語造形といふ芸術を
共に仕立てていきませんか。

 
 

   講師:諏訪耕志(言語造形をする人)
 
 

――――――
 
 
『缶詰・宮澤賢治』クラス
 
 
 
【稽古日程】
 
令和2年 5月より土曜日
5/9, 5/23, 5/30,
6/6, 6/13, 6/27,
7/4, 7/11,
8/1, 8/8, 8/22,
9/5, 9/12, 9/26,
10/3, 10/10, 1024,
11/7, 11/14, 11/28,
12/5, 12/12, 12/26,
1/9, 1/23, 1/30,
2/6, 2/13, 2/27,
3/6, 3/13(本番), 3/14(本番)
 
※本番前の2月、3月は、
 必要に応じて平日稽古あり
 
 
 
【時間】
 
午前9時半から13時
(本番が近づく2月、3月は、
 必要に応じて午後も稽古あり)
 
 
 
【参加費】
 
月謝制
稽古日二回の7月は、8000円
稽古日三回の月は、12000円
稽古日四回以上の月でも、12000円
 
一括払ひ
116000円(1か月分お得です)
 
(資料代、衣装代など製作費含む)
 
その他、本番&リハーサル会場費は全員で負担
 
 
 
【稽古場】
 
「ことばの家 諏訪」 帝塚山教室 
https://kotobanoie.net/access/ 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」徒歩5分
 
 
 
【本番日(予定)】
 
令和3年(2021年)3月13日(土)、14日(日)
 
 
 
【本番会場】
 
未定 
 
 
 
【お問ひ合はせ】
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
  

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2020年01月27日

ことばの家の「普遍人間学、そして言語造形クラス」


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大阪の帝塚山にある「ことばの家 諏訪」での
『普遍人間学、そして言語造形クラス』
へのご案内です。
 
 
ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』。
 
 
この難解な講義録の一文一文、一語一語を、
ご一緒に読み解いて行きませんか。
 
 
この本の副題は、
「教育の基として」とあります。
 
 
ことばに沿ひ続けて行くことによつて、
わたしたちはそこに、
教育の基としての、
「人といふものの謎」を深めていくのです。
 
 
そこには、
子どもをこんな風に教育していけばいい、
といふやうな手軽な答案はどこにも記されてゐません。
 
 
真摯に読みこむことによつて、
問ひが生まれて来ます。
 
 
そして、答へはすべて、
暮らしの中に、
実践の中に、
人生の中に、
あります。
 
 
つまり、わたしたちは、
この学びによつて、
問ひの立て方を学んでゆくのです。
 
 
翻訳は、言語造形家の鈴木一博氏によるものです。
 
 
その、ことばの選び方は、
精神とこころからの翻訳です。
 
 
 
 
午前中に、
そのやうな読書に勤しんだ後、昼食を挟んで、
午後には、
言語造形といふ、
全身での日本語の修練に入つて行きます。
 
 
言語造形、それは、
からだの奥、
こころの奥、
精神の奥から生まれ出づる、
ことばの芸術です。
 
 
朗読や語り、朗唱をもつて、
ことばの芸術を味はふ時間です。
 
 
毎月第三日曜日、
講師は、わたくし諏訪耕志です。
 
 
体験としての講座ご参加を募集してゐます。
 
 
ご関心のあられる方、お待ちしてゐます。
 
 
詳細は ↓
『普遍人間学、そして言語造形』を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/univ/
 
 
※ご参加していただく前に、
以下のサイトから『普遍人間学』のご購入を、
どうぞよろしくお願ひします。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

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再びひとつになりゆく


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神と人とが分かれてしまつた痛みを、
詩人たち、
とりわけ、日本の詩人たちは、
昔から、
個人的な悲しみを超えた、
国の悲しみと捉へました。
 
 
さうして、
再びその分離が収まりゆくことを
悲願としたのです。
 
 
神と人との分離は、まづ、
人のこころの乱れとして潜在し、
それは、ことばの乱れ、国語の乱れとして、
明らかに現はれてくるのでした。
 
 
松尾芭蕉の語録『三冊子』に、
「俳諧の益は俗語を正すなり」といふ、
ことばがあります。
 
 
「正す」といふと、どこか、
「上から目線」な趣を与へてしまひますが、
しかし、芭蕉は、明らかに、
国の歴史を貫く高い精神を
しつかりと覚え、
みづからもそれを把持しよう、
後世に伝へようとしてをりました。
 
 
その高い精神からこそ、
俳諧師は、
正しい国語を普及しようといふ考へをもつて、
全国を旅しました。
 
 
詩人とは、
とても足の強い人たちだつたのですね。
 
 
ことばと、足の運び。
 
 
そこには深い関係があります。
 
 
そのやうな足の運びをもつて、
古典の中に流れてゐる考へ方や感じ方を、
世俗の人に分かるやうに説いて行きました。
 
 
真の詩人とは、
国の歴史を背負ひつつ、
国語運動の先端たる担ひ手です。
 
 
そして、全国の様々なところで、
深い志を共にすることのできる人々と
輪を囲む。
 
 
その場では、
ほんのひとこと、ことばが口に出ただけで、
その心意気と風雅が分かち合はれる。
 
 
泣いてしまふ。
 
 
そのやうに思ひと情が
深くから動くやうな、
人を創ること。
 
 
一語一句で千古の情が湧き上がるやうな、
切迫した感覚を磨くこと。
 
 
和歌、連歌、俳諧、
それらのことばの芸術に勤しむことで、
詩人たちは、
さういふ切迫した「ことばの感官」を
人々と共に育んできました。
 
 
江戸時代、二百何十年にわたる、
そのやうな国民的な国語教育が、
各地で詩人たちによつてなされてゐたからこそ、
地方における明治維新への強烈な志もまた、
準備されたのでせう。
 
 
不肖わたくしも、
言語造形といふ国語芸術をもつて、
「俗語を正す」運動、
「ことばの感官を育む」運動、
「神と人とが再びひとつになりゆく」運動に、
連なりたいと希つてゐるのです。
 
 
「神と人とが再びひとつになりゆく」。
 
 
もはや、宗教の場においてではなく、
まごころとまごころが通ひ合ひ、
研鑽と見識が織りなし合ふ、
芸術の場においてこそ、
神と人との出会ひが生まれる。
さう感じてゐます。
 

posted by koji at 13:43 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月26日

ミニ発表会


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今日は、
ミニ発表会をしました。
 
 
違ふクラスで言語造形をしてゐる者が
互ひの声を聴き合ひ、
刺戟を受け合ひ、
交流を深められたら、
そんな念ひで皆さんに集まつてもらつたのです。
 
 
集まることのできる方だけの、
小さな会でした。
 
 
しかし、
おひとりおひとりの語りが素晴らしかつた。
 
 
物語り、詩、ひとり芝居・・・。
 
 
ことばの芸術を
こころゆくまで味はふことができました。
 
 
きらびやかな衣装も、
特別な舞台装置もいらない。
 
 
魅力あることばだけでいい。
 
 
それさへあれば、
わたしたちは世界を創ることができる。
 
 
ことばひとつで、
新しい世界が立ち上がつてくる。
 
 
わたしだけでなく、
皆さん、各々、
大いに感動と刺激を受けられたやうでした。
 
 
この集ひは、いいです。
 
 
とても、いいです。
 
 
また、これからも、やつていきたいと思ひます。
 
 
発表された皆さん、
どうもありがたうございました!
 

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2020年01月25日

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜


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この冬の闇に
 
みづからの力の啓けがある。
 
こころからの強い求めがある。
 
暗闇にそれらをもたらし、
 
そして予感する。
 
心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを。
 
 
  
 
Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.
 
 
 
 
毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。
 
 
毎週、ここに記されてある詩句を
繰り返しこころの内で味はつてみる。
 
 
さうすると、ここに記されてあることばが、
それを読んでゐる自分自身のこころの歩みと、
重なつてくるのを感じることができる。
 
 
そのこころに重なつてきてゐる力は、さらに、
心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあひ)
の働きを活性化させるやうに感じる。
 
 
そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、
体内に流れ出す熱い血をもつて確かめられる。
 
 
物質の心臓は、
物質のからだの中心を司る器官で、
血液の巡りによつて活き活きと脈打つてゐる。
 
 
エーテルの心臓は、
人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、
愛の巡りによつて活き活きと脈打ち、
そこから光が発し、熱が生まれる。
 
 
内に抱く考へが、愛を基にしたものならば、
その考へはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。
 
 
さうでないならば、
その考へはその心臓を締め付ける。
 
 
活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもつて、
物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促し、
さらに、こころの働きといふ働きを促しだす。
 
 
その活性化されだしたこころの働きを通して、
ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。
 
 
そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、
他者の情や他者の考へがリアリティーをもつて、
心臓で感じられるやうになつてくる。
 
 
きつと、その道は、人の情や考へだけでなく、
ものといふもの、
例へば、
植物や動物の情、
地水風火の情や考へなどをも
感じられることへと繋がつていくだらう。
 
 
頭の脳で理解するのではなく、
心臓で感じ、
心臓で考へることができるやうになつていくだらう。
 
 
外なる感官だけでなく、
そのやうな内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。
 
 
「そして予感する
 心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを」
 
 
そして、その啓かれるものを受けとることを通して、
わたしたちはどう振舞ふことができるだらうか。
 
 
「 みづからの力の啓け
 こころからの強い求め
 それらを冬の暗闇にもたらす」
 
 
その振る舞ひは、きつと、
その人その人の仕事として、
世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。
 
 
お金を稼ぐことが
仕事をすることだといふ意味ではなく、
その人がこころをこめてすることこそが
仕事であるとするならば、
わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができる。
 
 
 
 
この冬の闇に
みづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれらをもたらし、
そして予感する。
心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを。
 
 
 
 

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2020年01月19日

こころのこよみ(第41週)〜心臓からほとばしりでる力〜



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こころから生み出す力、
 
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
 
人の生きる中で、神々の力を、
 
ふさはしい働きへと燃ゑ上がらせるべく、
 
おのれみづからを形づくるべく、
 
人の愛において、人の仕事において。
 
 
 
 
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考へることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだらうか。
 
 
考へることや思ひ描くこと。
そして、実際に、すること。
 
 
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
 
 
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)
と題された講演で
シュタイナーが語つてゐることを要約して、
今週の『こよみ』をメディテーションする上での
助けにしてみる。
 
 
 
―――――――
  
 
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、
心臓からエーテル化した血が
光となつてほとばしりでて、
頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
 
 
そして、
人は、夜眠つてゐるあひだ、
考へる力が眠り込み、
逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
そのとき、
大いなる世(マクロコスモス)から
人の頭の松果体を通り、
心臓に向かつて、
「いかに生きるべきか」
「いかに人として振舞ふべきか」
といつた道徳的な力が、
その人に朝起きたときに
新しく生きる力を与へるべく、
色彩豊かに流れ込んでくる。
 
 
それは、神々が、
その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
 
 
だから、人は夜眠らなければならない。
 
 
人が少しでも振る舞ひにおいて
成長していくためには、
眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。
 
 
昼間、人において、
「こころから生み出す力」、考へる力が、
「心(臓)の基」から、
エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
 
 
その下から上へのエーテルの流れは、
頭の松果体のところで、
夜、上から下への神々の力と出会ひ、
そこで光が色彩をもつて渦巻く。
 
 
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
 
 
それが、
人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
 
 
そして、
マクロコスモス、大いなる世からの視野には、
キリスト・イエスが
ゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
そのキリストの血がエーテル化し、
地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
 
 
そのとき以来、
ひとりひとりの人が、
キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
みづからの内なるエーテル化した血の流れが、
キリストのエーテル化した血とひとつになつて、
昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
 
 
そのキリスト化したエーテルの血と、
マクロコスモスから夜毎やつてくる
神々の力とが出会ふことで、
人は、さらに昼間、
愛において、
仕事において、
その神々の力をふさわしい働きへと燃ゑ上がらせる。
 
 
考へ、思ひ描くこと。
(心臓から上つていくエーテル化した血の流れ)
 
 
そして、
実際に、すること。
(高い世から心臓に降りてくる力)
 
 
その間を、人みづからが埋めていく。
 
 
そのふたつを、人みづからが重ねていく。 
 
 
それが時代のテーマだ。
 
 
―――――――
 
 
 
 
 
シュタイナーによつて語られた
これらの精神科学からのことばを、
何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。
鵜呑みにするのではなく、
折に触れて、何度も考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、
自分自身が生まれ育つた文化風土において、
どういふ意味を持つのか、
考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴダのことの意味は、
自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、
といふことではないだらうか。
 
 
むかしの日本に、
さういふ文化が根付いてゐたこと。
大いなる理想を考へ、
そしてその通りに
実行してゐた人が数多ゐたこと。
 
 
わたしたちの先祖の方々が
当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、
わたしたち現代人が想ひ起こすとき、
そのやうな道があつたことを、
ありありと念ふとき、
本当に自分のこころが、
輝き、力づけられるかどうか、
感じつつ、確かめていく。
 
 
そして、
そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、
神々の力が、交はつてゐること。
 
 
その交はりがあることによつて、
自分の仕事が、充実して、
まるで自分以上の力、神々の力が
燃ゑ上がるやうな瞬間を迎へることができること。
 
 
そのことを感じつつ、確かめていく。
 
 
 
こころから生み出す力、
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃ゑ上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。 
 
 
 

posted by koji at 17:42 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月16日

信じるこころが一番たいせつ


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写真撮影:山本 美紀子さん

 
 
小学生の子どもたちには、
どんな書物がふさはしいか。
 
 
などと、
大人があまり考へない方がいいやうに思ふ。
 
 
本人が読みたいものを
どんどん読むことができるやうに、
計らつてあげるだけでいいと思ふのです。
 
 
ただ、これだけはたいせつだと考へてゐるのは、
一冊の本が祕めてゐる未知の何かに対する、
限りない愛情、尊敬、信頼。
 
 
そこから、本に限らず、
ものといふものに対する、
愛情、尊敬、信頼がおのづと育つていきます。
 
 
何を学ぶにしても、
そのこころもち、感情さへあれば、いい。
 
 
もし、そこに熱烈な尊敬、
熟していく愛情が育つていくなら、
大げさな言ひ方になりますが、
その人のこころには、
誰に何かを言はれなくとも
自分の意欲だけで学んでいく力、
世界中を相手に回しても
自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、
それが、この身ひとつで、世を生きていく、
といふ力。
 
 
それが、
自由への道を歩いていくといふことではないかと思ふ。
 
 
学ぶ人にとつては、
学ぶ対象に対する疑ひではなく(!)、
学ぶ対象に対する信頼・信といふものがとても大事です。
 
 
では、
その対象についてははじめは未知であるのに、
どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
 
それは、その人のこころのうちに、
既に信じるこころが育つてゐるからだ。
 
 
信じるこころが、
信ずるに値する書物を引き寄せる。
信ずるに値する人を引き寄せる。
 
 
小学生のこころとからだにまづは何を植ゑつけるか。
 
 
それは、信じるこころの力であり、感情の育みです。
 
 
その信じる感情の力が、
やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、
きつと、その子がその子の人生に必要なものを、
おのづと引き寄せるやうになるでせう。
 
 
その子が、
その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
 
 
ではそのためには、大人は何をすればいいのか?
 
 
その子の傍にゐる先生が、親が、大人自身が、
熱烈に、一冊の本ならその本に、
何かの存在ならその存在に、
尊敬と愛情と信頼を持つことです。
 
 
多くの本でなくてもいい、
この一冊といふ本を見いだせたなら、
本当に幸ひです。
 
 
その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、
その本こそが、その人の古典になります。
 
 
信じる力と言つても、
それは何かあやしいものを信じてしまふことに
なりはしないかといふ危惧は不要です。
 
 
信じる力の枯渇、
それがまがひものを引き寄せてしまひます。
 
 
信じる力の育み、
それが信じるに値する何かを引き寄せます。
 
 
 

 

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2020年01月14日

「春と修羅 序」との再会


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通訳道場Yokohama CATSの
冠木 友紀子 (Yukiko Kabuki)さんが主宰して下さつた、 
昨日の『「春と修羅 序」との再会』。
 
 
その詩句に、
「かげとひかりのひとくさりづつ」
とある。
 
 
そのことばのリアリティーに
打たれる時が熟した者が集まつた、
そんな昨日だつたやうに感じる。
 
 
光あるところには、
必ず、陰が随伴する。
 
 
そのことを肚の底で分かるには、
随分と時を要するものなのだと、
痛く感じる。
 
 
文学とは、
人の切羽詰まったこころを
ぎりぎりのところで支えるもの。
 
 
こちらが体当たりでぶつかることで、
漸く応へてくれるもの。
 
 
冠木さん、パトリックさん、
来て下さつた皆さん、
本当にありがたうございました。
 
 
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2020年01月11日

こころのこよみ(第40週)〜虚しい想ひ込みを焼き尽くす世のことば〜



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そして、わたしはある、精神の深みに。
 
わたしのこころの基において、
 
心(臓)に満ちる愛の世から、
 
己れであることの虚しい想ひ込みが、
 
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。
 
 
 
Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
 
 
 
「わたしは、いる」
「わたしは、いま、ここに、いる」
といふ響きから生まれてくる情よりも、
 
 
「わたしは、ある」
といふ響きから生まれてくる、
「いま」「ここ」さへも越えた、
「わたし」といふものそのもの、
「ある」といふことそのことの、
限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
 
 
何度も声に出してゐる内に、その情を感じる。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
それは、その人が、
どんな能力があるとか、
どんな地位に就いてゐるとか、
からだの状態が、健やかであらうが、
さうでなからうが、
そのやうな
外側のありやうからのことばではなく、
ただ、ただ、
その人が、その人として、ある、といふこと。
そのことだけをその人自身が見つめて、
出てきたことば。
 
 
そのときの「わたし」は、
目には見えない<わたし>だ。
 
 
 
 
そして、
シュタイナーの『精神の世の境』といふ本から
要約したかたちだが、
「愛」についてのことばを引いてみる。
 
 
―――――
 
 
精神科学の学び手は、考へる力を通して、
「わたしがあることの情」を
育んでいくことに重きを置いてゐる。
 
 
その情が、
こころに強さと確かさと安らかさを
与へてくれるからだ。
 
 
そして、学び手は、
この感官(物質)の世を生きるにおいては、
その強められた「わたしがあることの情」を
抑へることを通して、
愛を生きる。
 
 
愛とは、
みづからのこころにおいて、
他者の喜びと苦しみを生きることである。
 
 
感官を凌ぐ意識によつて
人は精神の世に目覚めるが、
感官の世においては、
精神は愛の中で目覚め、
愛として甦る。
  
 
ーーーーーー
  
 
 
「世のことばの火の力」
1月6日、ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によつて、
30歳のイエスは、
「世のことば」キリストを受け入れた。
その「世のことば」は火の力にまでなつてゐる。
 
 
その火の力は、
わたしたちひとりひとりのこころの基において
「己れであることの虚しい思ひ込み」を焼き尽くす。
 
 
そして、心(臓)に、他者への愛が息づき始める。
 
 
わたしによつて強められた
「わたしがあることの情」が、
わたしによつて抑へられることによつて、
「己れであることの虚しい想ひ込み」
が焼き尽くされる。
心(臓)に愛(インスピレーション)が満ちる。
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
 
 
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
心(臓)に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。


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2020年01月07日

恥を知る



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先日の三日間連続講座を受けられた参加者の方から、
感想が届けられました。
 
 
講座をする者として、
かうしてことばを改めてもらへることは、
この仕事をして行く上で、
内なる炎になります。
 
 
そして、この方も、
かうしたことばをこころから発せられるまでに、
「ことばの家」で学ばれ始めて、
約十年の歳月が経つてゐます。
 
 
この方は、
御自身のこれまでを
顧みざるをえないところまで来られてゐて、
人が学ぶといふことの本当の意味や、
舞台に立つといふことの本当の意味が、
とんと分かつてゐなかつたことに、
昨年の一年を通して忽然と気づきが訪れ、
「これまでの自分が恥ずかしい」といふ、
ことばを発してをられました。
 
 
大の大人が、
かういふことばを発することは滅多にありませんし、
できません。
 
 
しかし、わたしも、師の前で、
この想ひから
大泣きに泣いたことがありました。
 
 
自分のいたらなさ、なつてなさに、
自分で気づかずにゐる傲慢さ。
 
 
その傲慢さに気づいたときの、
「恥づかしさ」。
 
 
それは、わたしの成長の上で、
とてもとても大切なメルクマールでした。
 
 
「恥を知る」といふことばは、
現代ではとても異様に響くのかもしれません。
 
 
しかし、そのことばは、
日本人の道徳の礎をつくることばだつたのです。
 
 
かうしたことばは、
特別な宗教施設で話されるものではもはやなく、
学びの場といふ場で、
再び発せられていいことばです。
 
  
 

―――――
 
 
 
諏訪先生、こんばんは。
 
 
3日間ありがとうございました。
 
 
帰り際、
諏訪先生が声をかけてくださったことばと表情に
思わず私の感情があふれ出てしまい、
心の内を吐露してしまいました。
 
 
私も様々な心の動きを感じられるようになってきました。
「感情を観る」
これからはこのことを意識的にしていきたいと思います。
 
 
ずっと蓋をしていた感情は、
言語造形、様々な講座、シェアリング等、
ことばの家で出逢う人たちとの交流を通して
出てくるようになりました。
とてもとてもありがたいことです。
 
 
ことばの主になり、
一人前になるための道のりはまだまだ続きますが、
様々なことばを獲得して、
自分の感じていること、
考えていることを的確に話し伝えられるようになりたいです。
 
 
人が生きていく上で土台となる最も大切な、
第1七年期、第2七年期、第3七年期を
理想通りに過ごせなくても
いくつになっても辿りなおすことができる。
 
 
安堵しました。
 
 
私を含め必要としている人が多くいると思います。
 
 
3日間の講座を終えた今、
言語造形という芸術を味わいながら、
自己教育を続けていくことを強く欲しています。
 
 
そのことが世の中の平和につながる小さな小さな一歩になると予感して…。
 
 
濃密で豊かな時間を本当に本当にありがとうございました。
 
 
ブログ記事を受け取りました。
 
 
大切な思い出をありがとうございます。
 
 
 
(S・Aさん)
 
 
 

2020年01月06日

現代人への警告



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100年近く前の
ルドルフ・シュタイナーが語つたことばを、
fbfの山際勇起さんが書き込んでをられました。
 
 
――――――
 
今日の人間は、
全く考えなくても済むように、
全てのものを一目瞭然、
たとえば、
スライドで映し出してもらえるような形を
求めているのであります。(…)
 
 
たとえば、
『ハムレット』が演劇として上演されます時には、
私達はまだ劇中の出来事に入りこんで、
そこで語られる言葉を
追わなければならないのでありますが、
今日では劇場が映画館にとって代わり、
そこでは私たちはもはや
積極的に参加する必要はなく、
画像が機械で映写されますので、
私達は完全に受身的であることが
可能になってしまっているのであります。
 
 
このようにして、
私達は徐々に人間としての精神活動を
喪失してしまってきているのであります。
 
 
しかし、把握されなければならぬのは、
まさにこの精神活動でありまして、
精神活動の掌握によって初めて、
思考は単に外部から
活力を与えられるだけのものではなく、
人間それ自体の内部に存する
精神的な力であることが認識されるのであります。
 
 
(GA307
 1923年8月5日イルクリーでの講義より、
 佐々木正昭訳
 『現代の教育はどうあるべきか』
 人智学出版社、26ページ)
 
――――――
 
 
 

ここに示されてゐる現代人への警告は、
本当に身に沁みて感じさせられることです。
 
 
わたしがさせてもらつてゐる講義も、
舞台公演も、すべて、
この警告への応答のつもりであります。
 
 
講義では、
レジメやパワーポイントなど、
用意したことがなく、
板書もほとんどせず、
ただただ、
語ることばで、
どこまで場を創ることができるか。
 
 
舞台公演でも、
ときに、現代語訳を全くせず、
古語のまま、
ことばのうねりを
全身全霊で聴いていただけるやう、
ことばを造形していきます。
 
 
そのとき、
講義をする者、講義を聴く者、
舞台に立つ者、客席に座る者、
共に必要とされるのは、
まさしく精神の活発さ・アクティビティーです。
 
 
さうして、
精神を目覚めさせることのみが、
唯一、大切なことであり、
知識を覚え込んで、
家に持ち帰ることなど、
何ほどのものでもなく、
実践の上でも全く役に立たないことに気づくのは、
難しいことかもしれません。
 
 
このやうな学び方は、極めて、
反現代的なことです。
 
 
しかし、
時代の風潮に迎合することは、
なんら本質的なことではないのでした。
 
 
わたしたちは、
尊敬できる方々の生き方に
学びたいのでした。
 
 
そして、尊敬できる方々は、
時代の風潮に迎合することは、
なかつたのです。
 
 

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宮沢賢治「春と修羅・序」英日2言語ワークショップ



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『1月13日(月・祝)新横浜★臨時講座★
 宮沢賢治「春と修羅・序」との再会
 英日2言語ワークショップのお知らせ』
 
  
賢治の『春と修羅』。
 
 
それは、
賢治の透視による、
こころに見えるままの世のなりたち、
こころに見えるままの悪、
こころに見えるままの聖なるものを
できうる限りあるがまま、
「そのとほり」に写し取り、
(心象スケッチ)
かつ、
精神から芸術的に構成し尽した作品を含む、
(mental sketch modified)
賢治自身が最初にまとめた作品集です。
 
 
今回取り上げますのは、
賢治がその一冊をもつて、
世に何を問はうとしたかを、
まざまざと示す宣言のやうな「序」です。
 
 
わたしたち現代人のこころはまさに
闇の中にある。
 
 
また、
わたしたちが当たり前に思つてゐる、
この時間と空間そのものが、
精神の生き物として 、
変遷と建設と破壊とを繰りなしてゐる。
 
 
賢治の精神は、
そのことへの目覚めを促す。
 
  
その印象がわたしにも強く働きかけてきます。
 
 
賢治によつて描かれた
それらこころの印象(心象スケッチ)を、
わたしたちの身をもつて、声とことばをもつて、
鮮やかに、かつ深切に、
何度でも描いてみませんか。

 
 

 
このたびの臨時講座を企画された
通訳道場Yokohama CATS
さんからのご案内の文章を紹介します。

―――――
 
 
「私は何者なのか」
「私はどこから来て、どこへ行くのか」
 
そんな問いを抱くあなたに、
宮沢賢治の世界を耳、声、身体で深く味わう
1日を贈ります。
 
素晴らしい英訳作品と日英の言語造形を通して、
「今を生きる」を支える
詩と声のちからを体験しましょう。
 
英語訳の水先案内人は
アメリカ出身の日本文学研究者、
パトリック・ヘラー先生です。
 
日本の大学でも「翻訳で学ぶ日本文学」講座が評判。
文学のなかに深い思潮を読み取るセンスが光ります。
 
通訳は、
話芸としての通訳を探求する通訳道場主宰、
冠木友紀子です。
訳した感まるでなしの語りをお楽しみください。
 
言語造形は大阪から諏訪耕志先生をお招きします。
諏訪先生の、
参加者のちょっとした語りから心の在りようを聴きとり、
気づきを促す言葉かけは芸術そのものです。
 
三者の共働があなたの喜びにつながれば幸いです。
 
今回は特別臨時講座のため、次回の予定はありません。
また、講座の性質上、オンライン参加や録画公開もしません。
 
ぜひこの機会をお見逃しなく。
 
 
 
日時 
2020年1月13日 10時―17時
 
 
第1部 10時―12時30分(途中休憩あり) 
講演
「春と修羅 序」(英訳版)に読みとるこころの道
 パトリック・ヘラー/冠木友紀子
 
 
第2部 14時ー17時(途中休憩あり)
ワークショップ
「『春と修羅 序』を言語造形で生きる」諏訪耕志
 
 
会場 
新横浜近辺(お申込みの方にご連絡します)
 
 
参加費 
各部 10000円
第1・2部通し 18000円 
通訳道場メンバー 15000円
(お申込みの方にお支払い方法ご連絡します)
 
 
定員 12名
 
 
なお、
会場限定で通訳道場オリジナル商品を
消費税サービスの実質1割引でご用意しています。
例)ストーリーテリングCD、
  英語音声回路サポート「プロナウンス」など
 
 
フェイスブックのイベントページはこちら ↓
https://www.facebook.com/events/436507093697155/
 
 
お申し込みフォームはこちら ↓
https://ycats.linguamusica.jp/kenjispecial01/
 
 
――――――

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2020年01月05日

『シュタイナー教育と自己教育』ありがたうございました!



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新春の
三日連続アントロポゾフィー講座
『シュタイナー教育と自己教育』が
今日終はりました。
 
 
@子どもをほめることとしかること
A子どもの内なる善と悪
B子どもの判断力を育てる
 
 
午前は、
ことばの教育といふことを真ん中に据えつつ、
この三つのテーマを有機的に深めて行きながら、
午後には、
日本昔話『笠地蔵』を
三日間かけてお芝居仕立てに仕上げていく、
そんなプロセスを辿りました。
 
 
最終日の『笠地蔵』。
 
 
先ほど終演したばかりなのですが、
そのみづみづしい感動に、
いまもこころが静かに波打つてゐます。
 
 
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お正月の大切な日々を
かうして共に過ごして下さつた皆さんに、
こころから感謝します。
 
 
そして、
アントロポゾフィーといふ人間学、
言語造形といふ芸術を、
共に自分自身の内側で育てて行かうといふ志が、
ほのかに光り始めました。
 
 
「こいつは、春から、縁起がいいやぁ!」
 
 
まさに、そんな気分です。
 
 
ありがたうございました!
 

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2020年01月04日

言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」のお知らせ(神功皇后御崩御1750年記念)



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舞台の上には、
ことばを語る俳優だけ。
 
 
それだけで、あとは何もゐらない。
 
 
そんな、
ことばの芸術としての演劇芸術を確立したい。
 
 
さう希ひつづけて、
ここまでやつてきました。
 
 
春、3月28日(土)大阪にて、
3月29日(日)東京にて、
神功皇后御崩御1750年記念として
書き上げた戯曲を、
このたび、上演させていただく運びとなりました。
 
 
神功皇后(息長帯比売尊)によつて建てられ、
その方御自身が祀られてゐる住吉大社の
お膝元に暮してゐて、
そのご神徳をとくと受けてゐるわたしは、
この方の御崩御1750年といふ節目の年(令和元年)には、
どうしてもこの方を顕彰するやうな作品を
創り上げたかつたのです。
 
 
我が国の歴史の一大転換点を描くこの作品を、
そして、
言語造形といふ芸術を通してのことばの世界を、
ご堪能いただきたく、
ご案内させていただきます。
 
 
 
 
詳しくは、どうぞこちらをご覧ください。
   ↓
言語造形劇 『 をとめとつるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
 
 
 

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2020年01月03日

こころのこよみ(第39週)〜<わたしがあること>の情〜


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精神の啓けに身を捧げ、
 
わたしは世といふものの光を得る。
 
考へる力、それは長ける、
 
わたしにわたしみづからを明かしながら。
 
そしてわたしに呼び覚ます、
 
考へる力を通して、わたしがあることの情を。
 
 

An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
 

 
「精神の啓け」。
 
 
それは、「わたしがある」といふことを
実感すること。
 
 
それこそが、
すべての現代人における、
もつとも深い願ひなのではないだらうか。
 

どんなときでも、どんな場所でも、
誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、
「わたしがある」といふことへの
情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、
人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
 
 
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、
イエスの誕生によつて、人にもたらされた。
 
 
それを「精神の啓け」と、ここでは言つてゐる。
 
 
では、
「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」
といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
 
 
それは、
「考へる力が長ける」ことによつて稼がれる。
 
 
普段、わたしたちの考へる力は、
目に見えるもの、手に触れるものなど、
物質的なものについて考へることに、
尽きてしまつてゐる。
 
 
「いま、何時だらう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、
 どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」
「ローンの返済を今月ちやんと済ませることが
 できるだらうか」
などなど・・・。
 
 
わたしたちのふだんの考へる力は、
そのやうに特に意志の力を要せず、
やつてきたものを受けとり、適度に消化し、
あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
 

しかし、たとへば、
葉がすべて落ちてしまつた木の枝や、
目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。
 

それらをぢつと見つめながら、こころの内で、
次のやうなことを
みづからの意欲・意志を注ぎ込みながら、
考へてみる。
 
 
その寒々しい冬の裸の枝に、
やがて来たる春や夏には
鮮やかな花が咲き、
緑滴る葉が生い茂る。
 
 
そのいまは目には見えない花や葉を想ひ描きつつ、
その木に脈々と通ふ生命について、
熱く考へてみる。
 
 
さうすると、
その寒々しかつた冬の裸の枝の先に、
何か活き活きとした光のやうなものが
感じられてくる。
 
 
それぐらゐ、考へる力を、見えるものにではなく、
見えないものに、
活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
 
 
すると、その考へられた考へが、
それまでの外のものごとを
単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、
ものやことがらの内に通つてゐるかのやうな、
活き活きと命を漲らせたものになる。
 
 
考へる力を、そのやうに、
感官を超えたものに、
意志をもつて向けていくことによつて、
死んでゐた考へを命ある考へに転換できる。
 
 
死を生に転換できる。
 
 
そして、その考へる力によつて、
わたしたちみづからも活き活きとしてくる。
 
 
その考へる力によつて、
わたしにわたしみづからが明かされる。
 
 
わたしに、
「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。
 
 
それは、おのづから生まれるのではなく、
ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ
稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
 
 
「わたしがあること」の情とは、
みづからに由るといふ情、
「自由」の情でもある。
 
 
その内なる自由からこそ、
「わたしを捧げる」意欲、つまり、
愛する道を歩いていくことができる。
 
 
そして、
「わたしがある」といふことをもつて
「身を捧げる」。
 
 
ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
 
 
それは、どこまでも、
この「わたしのわたしたるところ」、
「わたしがある」への信頼から、
人との対話へと、仕事へと、
一歩踏み出していくこと。
 
 
それは、きつと、見返りを求めない、
その人のその人たるところからの
自由な愛からのふるまいだ。
 
 
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、
きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
 
 
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、
輝いてゐるもの、輝いてゐる人、
そして輝いてゐる「わたし」を
見いだすことができる。
 
 
「わたしがある」といふ情を育みつづけるならば。
 
 
 
 
 
精神の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。

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2019年12月31日

このたびこそ 〜令和元年の歳の暮れ〜



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秋の暮れの、和歌の浦の海



令和元年の歳の暮れを迎へました。
 
 
 
お世話になつたすべての皆様、
本当にありがたうございました。
 
 
この人生のなかで、
これまでにないことに、
漸く行き当たらせてもらへてゐることに、
本当に奇しきものを感じてゐます。
 
 
これを読んで下さつてゐる方々には、
何のことだか分からないものだと思ふのですが、
個人的なつぶやきを詩のやうなものとして、
歳の瀬に記し置かずにはゐられませんでした。
 
 
来年も、どうぞ、よろしくお願ひ申し上げます。
 
 
 
―――――
 
 
 
吾(あれ)、父のことよさしのまにまに
このたびこそ
海原(うなはら)しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸(さき)ははせむ
 
 
いくたび泣きいさちきか
いくたび青山枯らしきか
いくたび母を求めしか
 
 
さはあれ
このたびこそ
海原しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸ははせむ
 
 
 



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2019年12月29日

『親子でしたしむむかしばなし』ありがたうございました!


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今日は、『親子でしたしむ むかしばなし』でした。
 
 
樋口早知子先生の手遊びとライゲン。
諏訪千晴による昔話「ねずみの伊勢参り」。
諏訪耕志による昔話「笠地蔵」と「子守り泥棒」。
 
 
「したしむ」とは何と趣深いことばでせう。
 
 
何かと動きを共にすること、
それこそが、
何かに「したしむ」ことへと通じます。
 
 
幼い子どもたちと、
動きを共にしつつ、
共振しつつ、
ひとつひとつ、むかしばなしを、
したしみをもつて織り上げていきました。
 
 
年の終はりのこの喜び。
 
 
この次は、春。
またご一緒に昔話にしたしむでみませんか。
 

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2019年12月28日

明治の精神 乃木神社


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東京の乃木坂にある乃木神社にお参りをしました。
 
 
御祭神に、
乃木希典命、乃木静子命
とあるのを見るだけで、
胸に迫るものを覚える。
 
 
この御夫婦の精神は、
当時でさへも理解できないものが数多ゐて、
志賀直哉などは、
この乃木夫妻の殉死を
「浅はかな下女の振る舞ひ」
と決め付け、嘲笑したと云ふ。
 
 
夜になつて、
明かりが灯され、
ひとり、ふたりと、
粛然と参拝されては、
帰つて行かれる。
 
 
この社を包む夜の静かさと冷気の漲り。
 
 
わたしにとつては、
ふさはしい年の瀬のひとときでした。


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2019年12月27日

12月29日(日)親子でしたしむ むかしばなし


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『12月29日(日)
親子でしたしむ むかしばなし 
シュタイナー教育の叡智から』
 
 
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園の
樋口早知子先生による
歌・手遊び・ライゲン。
 
 
諏訪耕志・諏訪千晴による日本の昔話。
 
 
幼い子どもたちに、
四季の巡りに応じて、
昔話を語りかけて行きたい。
 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」の願ひに、
樋口先生がお応へ下さり、
このやうな会が始まります。
 
 
0歳から6、7歳辺りまでの幼な子たちよ。
 
 
集まれ〜!
 
 
 
――――――
 
 
日程:
令和元年12月29日(日)
14:30から15:30
(春夏秋冬、季節の巡りに応じて開催を予定しています)
 
 
場所:
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園 
https://kusunokien.exblog.jp/
大阪市住吉区遠里小野5丁目7−28
南海高野線「我孫子前」より徒歩5分
 
 
対象:
0歳から6歳までの幼児と親御さん
 
 
参加費:
家族一組 1000円
大人のみ 1000円
 
 
お申し込み・お問い合わせ:
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 

歌・手遊び・ライゲン: 
樋口早知子
(くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師)
 
 
昔ばなしの語り:
諏訪耕志
諏訪千晴
(ことばの家 諏訪主宰)

 

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こころのこよみ(第38週) 聖き夜の調べ


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わたしは感じる、
 
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は心の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 
 
Weihe-Nacht-Stimmung   
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
 
 
クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。
 
 
どの人のこころの奥にも眠つてゐる、
をさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
 
をさな子、それは、
子ども時代の内でもとりわけ、
記憶の境の向かう、
三歳以前のわたしたちのありやう。
 
 
いまこそ、この時代こそ、
世の男たちの(このわたしの)
内なるをさな子が目覚めますやうに。
さう祈らずにはゐられない。
 
 
なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、
世のすべての争ひ、分け隔て、エゴ、
それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
 
わたしたちは、この世に生まれてから、
おほよそ三年かけて、
歩く力、話す力、考へる力を育み始める。
 
 
その三つの力は、
人のからだを創つていく力でもある。
 
 
歩く力によつて脚が、
話す力によつて胸が、
考へる力によつて頭が、
だんだんと創られていく。
 
 
歩く力、話す力、考へる力は、
当然その子によつて、
意識的に身につけられたものでもなければ、
大人によつて教へ込まれたものでもなく、
そのをさな子の内から、
まるで神々しい力が繰り出してくるかのやうに、
地上的な力を超えたところから、生まれてくる。
 
 
そのおのづと生まれてくる神々しい力は、
しかし、三年間しかこの世にはない。
 
 
をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、
その子の内に、
少しづつ地上を生きていくための知性と共に、
エゴがだんだんと育ち始める。
 
 
しかし、きつと、それも、
人の育ちにはなくてはならないもの。
 
 
三年の間のみ、人の内に、
からだを創るための神々しい力が通ふ。
 
 
その地を越えた神々しい力は、
この地を生きていくための基の力である。
 
 
「聖き、世のことば」キリストも、
この世に、三年間しか生きることができなかつた。
 
 
イエス、三十歳から三十三歳の間だ。
 
 
そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、
をさな子のをさな子たるところからの力であつた。
 
 
キリストは、
世のすべての争ひ、分け隔て、エゴを越え、
人のこころとこころに橋を架ける愛する力として、
この地上に受肉した。
 
 
後にキリストを宿すイエスが
母マリアから生まれたとされてゐる、
24日から25日の間の聖き夜。
 
 
その夜から、
キリストがイエスに受肉した1月6日までを
クリスマスとして祝ふ。
 
 
そして、このクリスマスは、
二千年以上前のおほもとの聖き夜に
起こつたことを想ひ起こすことを通して、
わたしたちの内なるをさな子たるところを
想ひ起こす時だ。
 
 
そして、いまから三千年以上あとに、
すべての人がみづからのこころに
精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)、
キリストを見いだすことを、
予め想ひ起こして祝ふ時だ、
さうシュタイナーは語つてゐる。
 
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、
その神々しい力が通つてゐた。
 
 
そして、実は、いまも、通つてゐる。
 
 
しかし、そのことを人は知らない。
 
 
わたしが、
その神々しい力を想ひ起こせばこそ、
いまもその力が通つてゐることに
目覚めることができる。
 
 
このクリスマスの日々に、
その力を自分の内にも認めればこそ、
来る年への希みが羽ばたき始める。
 
 
争ひ、闘ひ疲れてゐる男たちが、
みづからの内なるをさな子を
想ひ起こしてゆくならば、
世はおのづから刻一刻となりかはつていくだらう。
 
 
 
 
  
『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は心の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 

 
※シュタイナーが、
 Seele といふことばを使ふときは、
 からだと繋がるところでありながらも、
 からだからは独立した働きを荷ふ
 「こころ」を言つてゐますが、
 Herzen といふことばを使ふときは、
 物質の心臓といふ意味合ひも持ち、
 またその物質の心臓の働きを支えている
 エーテルの心臓をも指すやうです。
 ここでは、
 Herzen を「心(臓)」と書き表しています。


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2019年12月24日

こころのこよみ(第37週) 〜歌へ、冬の夜に〜


 
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世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
 
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
 
輝くこころの萌しが、
 
世の基に根をおろすことを。
 
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
 
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。
 
 
 
Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
Dass leuchtend Seelenkeime
In Weltengruenden wurzeln
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
Verklaerend alles Sein durchtoent.
 
 
 
 
わたしは、既に十分な恵みに満たされてゐる。
この世に生かされてゐる、といふことの中に、
どれほどの豊かな恵みが既に潜んでゐるか。
 
 
そのことを想ひ起こすたびごとに、
わたしのこころは明るく暖かくなる。
こころが精神の光に照らされてゐるのを感じる。
 
 
でも、そんな恵みに満ちてゐるわたしが、
心底追ひ求めることがある。
それは、自分の力を最大限に使ひ尽くして、
仕事をすることだ。
 
 
この恵みに満ちたからだとこころを
フルに使つて仕事をすることだ。
 
 
輝くこころの萌しを世の基に根づかせることだ。
天から戴いてゐる恩恵を大地にお返しするのだ。
照らされてゐるだけではなく、
自分自身から照らしていくのだ。
 
 
さうして、そのやうに仕事をしていくうちに、
この恵みに満ちたからだとこころを使つてゐるのが、
わたしのわたしたるところ、
「精神」だといふことが感じられてくる。
 
 
実は、精神こそが隠れた主役で、
わたしの人生の一コマ一コマを進めてゐたことに気づく。
 
 
その精神は、からだを基にしながら、
からだの制約を超える。
 
 
こころに足場を見いだしながら、
こころを、豊かに、大きく、広くしていく。
 
 
精神が主役である。
 
 
その精神が奏でようとしてゐる音楽がある。
 
 
その音楽を奏でることに、
このからだとこころが
いかに仕へていくことができるか。
 
 
仕事をすることによつてこそ、
ますます精神が主役になつていくのを、
日一日と感じることができる。
 
 
身の回りが暗く寒くなつてくるほど、
身の内に宿つてゐる<わたし>こと精神が、
ますます明るさ・暖かさ・熱さを滾らすことができる。
 
 
<わたし>こと精神。
 
 
「神のことば」と和して響くところをこそ、
<わたし>といふのではないだらうか。
 
 
「神のことば」はありとあらゆるものを輝かせ、
貫いて響いてゐる。
 
 
だからこそ、<わたし>よ、歌へ。
 
 
もつと高らかに。
 
 
そしてもつと優しく。
 
 
 
 
世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
輝くこころの萌しが、
世の基に根をおろすことを。
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。


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2019年12月23日

新春講座『シュタイナー教育と自己教育』


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令和二年初頭、
『シュタイナー教育と自己教育』のお知らせです。
 
 
1月3日(金)、4日(土)、5日(日)の
三日間連続アントロポゾフィー講座のご案内です。
 
 
今回のアントロポゾフィー講座では、
三つのテーマに取り組みます。
 
 
@「 子どもをほめること、しかること 」(1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」(1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」(1月5日) 
 
 
その三つは、わたしたち大人にとつての、
自己教育に基づくものに他なりません。
 
 
こころの内に生まれ出づる、
善きもの、悪しきもの。
 
 
それらの間を行き来しながら、
それらの間の真ん中を見いだす力。
 
 
その力を「良心」とも呼びます。
 
 
わたしたちは、子どもの頃から、
その力をどのやうにして、
身につけて行くことができるのでせうか。
 
 
共に考へていきませう。
 
 
また、午後には、
「演劇教育へのみちびき
〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」をテーマにします。
 
 
三日間かけて、
我が国の昔話『笠地蔵』を、
まづは語り、
そして歌ひ、
さらに演じてみることで、
ことばの芸術を、
まず大人自身が生き生きと味はつてみませう。
 
 
そのお話は、
日本における太陽の神の御来臨、
日本のクリスマスの物語であります。
 
 
三日目の終わりには、お客様を呼んで、
ささやかなお披露目の時間ももちます。
 
 
 

●日時:
令和二年1月3日(金)〜5日(日)
9時15分開場 9時半開始 
17時終了予定
 

●場所: 
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」駅徒歩5分
 
 
●参加費: 
三日間連続参加 25000円  
一日単発参加 10000円
※お子さまの託児はありません。ご了承ください。
 
 

●振込先: 
ゆうちょ銀行
ゆうちょ銀行から 記号 10260 番号 28889041 スワ チハル
他銀行から  店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904 
 
 
 
●お問い合わせ・お申し込み: ことばの家 諏訪
T/F 06-7505-6405  
E−Mail  info@kotobanoie.net

 
 

【講座ご紹介】
 
 
●9時半〜10時  
「シュタイナー幼児教育の朝のひととき」 
  講師:樋口早知子

 
●10時〜12時  
「アントロポゾフィー講座」 
  講師:諏訪耕志
@「 子どもをほめること、しかること 」 (1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」 (1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」  (1月5日) 
 
 
●13時半〜16時   
「演劇教育へのみちびき 〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」
  講師:諏訪耕志(言語造形)・武内ゆかり(歌・音楽)
 
 
 
 
【講師プロフィール】
 
 
●樋口早知子
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師。保育園に勤めながら乳幼児の教育のあり方を模索し続け、シュタイナー教育に出会う。2006年ミカエルカレッジで学ぶ。2008年よりくすのき園を開園。乳幼児の保育に携わっている方たちと共に学びを深めている。
 
 
 
●武内ゆかり
1970年大阪生まれ。幼少時よりクラシック教師であった母よりピアノを学ぶ。上智大学卒業。
メーザー音楽院ピアノ科卒業。ジャズ音楽理論・作・編曲、古楽、声楽、グレゴリオ聖歌を学ぶ。
アウディオペーデ教員養成コース卒業。第3期シュタイナー教員養成講座修了。
 
 
 
●諏訪耕志
「言語造形のためのアトリエ ことばの家 諏訪」主宰。1964年大阪市出身。1994年よりルドルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。2004年より関西を中心に自身の活動を始める。言語造形の舞台、ワークショップ、シュタイナーのアントロポゾフィー講義などを通して活動中。日本語の美と風雅(みやび)を甦らせていくことを念願にしている。

 

 

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2019年12月21日

意志の芸術 言語造形 「 をとめ と つるぎ 」クラス


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今日は、「をとめとつるぎ」クラスの稽古。
 
 
建築・彫塑が思考を芸術化したものであり、
音楽・絵画が感情を芸術化したものであるやうに、 
言語造形とは意志の芸術であります。
 
 
それゆゑ、
俳優の皆さんは、
ひたすらに走ることを要求されます。
 
 
ことばを話してゐる間だけでなく、
他の俳優のせりふの間も、
常に走つてゐます。
 
 
その動きは、
外には見えず、
内的な走りなのです。
 
 
しかし、運動量はさほど変はりません。
 
 
ですので、
冬の最中であるのにもかかはらず、
皆、汗びつしょりです。
 
 
  
 
★言語造形劇公演『 をとめ と つるぎ 』
 
 
日時・場所:
 
令和2年
3月28日(土) 大阪公演
山中能舞台 14時開演 
 
3月29日(日) 東京公演
中村中学・高等学校フェニックスホール 
15時開演
 
※大阪公演のみ、
住吉大社権禰宜の小出英詞氏による講演
『今蘇る神功皇后の伝承』があります。
 
 
料金:
ご予約 4000円  当日4500円  全席自由
 
 
 
お申し込み・お問い合わせ:  
「ことばの家 諏訪」 
Tel/Fax 06-7505-6405  
Mail info@kotobanoie.net

 
  

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2019年12月19日

こころのこよみ(第36週)〜汝は何を怖がつてゐるのか〜


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レオナルド・ダヴィンチ『サルヴァトール・ムンディ』


 
わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 
 
 
 
わたしといふものの深みにおいて、
「いま、目覚めよ」と、
世のことばが密やかに響く。
 
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくやうに
「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
 
「目覚めよ」とは、
恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
 
世のことばがささやいてゐる。
 
 
汝は何を怖がつてゐるのか。
何も怖がることはない。
己れの内に隠されてゐる恐怖から、
他者を罵り、責め、他者に期待することは、
もうやめよ。
 
 
汝を捧げよ。
汝の仕事に。
我・キリスト・汝の〈わたし〉を通して。
 
 
仕事をするといふこと、
生きるといふことは、
さういふことであつた。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 



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2019年12月18日

12月22日(日)古事記の傳へ in 和歌の浦


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今週末のわたしたちの言語造形公演
『古事記(ふることぶみ)の傳へ』
 
 
いざなぎ、いざなみ、
あまてらすおほみかみ、
そして、すさのをのみこと・・・
 
 
それらの神々の実在が信じられ、
生きられる物語。
 
 
現代語訳は一切せず、
古語のまま、です。
 
 
舞台に耳を傾けて下されば、
そこには一切の解釈が入り込む余地はなく、
ことばの響きがもたらす、
圧倒的な力ある運動とかたちがあります。
 
 
その動きとかたちこそが、
神々の顕れです。
 
 
その顕れは、
見るも飽かぬ眺めであり、
その中から、
汲んでも汲んでも尽きせぬ、
本当の「意味」が立ちのぼつてくることでせう。 
 
 
そんな舞台に、
主婦の方々と小学生と中学生が
己れのからだを楽器にして挑戦してゐます。
 
 
詳しくはこちらをどうぞ


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2019年12月17日

人はいかにして生きるか


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学問とは、そもそも、
「人はいかにして生きるか」
を考へ抜くものだつたはず。
 
 
大の大人が端坐してでも、
聴くに値するやうな講座であるか。
 
 
自分自身の仕事場として、
毎回、毎回、
この場を与へてもらつてゐること、
本当に感謝以外の何ものでもありません。
 
 
皆さん、本当に、ありがたう。

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2019年12月16日

明日の滋賀県草津 両親の問診時間の会


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ミヒャエラ・グレックラー女史の講演録
『両親の問診時間』を学ぶ会のお知らせです。
 
 
グレックラーさんは、
シュタイナー学校校医、
アントロポゾフィー精神科学自由大学の
医学部門代表などを務められた方です。
 
 
明日12月17日(火)のテーマは、
「健康のときと病気のとき」です。
 
 
人の成長と病との関係。
 
 
そこに人間学からの認識の光を当てることで、
わたしたちは、「安心」といふ、
最も大切なこころの真ん中に立つことを
学ぶことができます。 
 
 
ともに、家庭教育、自己教育における、
シュタイナーの人間学を学んで生きませんか。
 
 
初めての方でも、どうぞお気軽にお越しください。
 
 

 
 
講師: 諏訪耕志
 
 

 
場所: 滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただいた方に個別のご連絡いたします)
 
 
時間: 午前10時より12時半まで
 
 
参加費: 単発でのご参加 3000円
     4回連続参加 10000円
    (プラス講師の交通費を頭割りで)
  

※有料にてお子様の託児あり。お申し込み時にお伝えください。
 
 
お申し込み・お問い合わせ: 
minttea221@gmail.com(筒井)
 

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2019年12月14日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<慎ましく生き抜いていく>〜


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<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
それは、己みづからが手足となつて、
 
世を慎ましく生き抜いていく力だ。
 
 
  

Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
 
この『こよみ』の<ある>といふことばから、
言語造形家の鈴木一博さんが以前、
シュタイナーの『礎のことば』について
書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
  
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、
もう既に、ここに<あつた>。
 
 
ものごころがついたときから、
<わたし>が既に<あらしめられてある>ことに、
気づきだした。
 
 
この<わたし>は、
わたしが気づく前から<ある>。
 
  
そして、いま、<わたしはある>といふ事態を
ありありと感じることができる時といふのは、
わたしのこころが活き活きと生きて働いた後、
そのことをその活き活きとした感覚を失はずに
想ひ起こす時ではないか。
 
 
だから、そのやうに、
こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、
<わたしがある>といふことを、
より深く、より親しく感じ、
より明らかに知つていくことができる。
 
 
何を想ひ起こすのか。
 
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、
故郷の道などを歩くときに、
その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、
そのときのものごとだけでなく、
そのときの<わたし>といふ人もが、
みずみずしく深みを湛えて蘇つてくる。
 
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、
胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、
その想ひ出の繰りなしは、
みずみずしい深みを湛えて波立つ
いのちの織りなしと言つてもいいし、
「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、
人は「みづからがある」ことに対する
親しさを得ることができはしないだらうか。
 
 
そして、その「精神の海」には、
わたしが憶えてゐるこころの憶ひだけではなく、
からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
 
たとへば、
この足で立つこと、歩くこと。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
自転車に乗ること。
字を書くこと。筆遣ひ。
包丁遣ひ。
などなど。
 
 
身についたこと、技量、
それはどのやうに身につけたかを
頭で想ひ出すことはできなくても、
手足が憶えてゐる。
 
 
手足といふもの、からだといふものは、
賢いものだ。
 
 
それらの手足が憶えてゐることごとへの信頼、
からだの賢さへの信頼があるほどに、
人は、
<わたしがある>といふことに対する
確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
 
また、パーソナルな次元を超えて、
人といふ人が持つてゐる、
からだといふなりたち、
こころといふなりたち、
果ては、
世といふもの、
神といふもの、
それらも人によつて想ひ起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、
その人の内に生き始める。
 
 
だからこそ、
<わたしはある>といふ想ひを
人は深めることができる。
 
 
<神の内に、わたしはある>
<わたしの内に、神はある>
といふ想ひにまで深まることができる。
 
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。
 
 
手足の闊達な動きに秘められてゐる
技量といふ技量を発揮すること。
 
 
それらすべてを司つてゐる
世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
 
それらが、
<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、
<わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
 
わたしのこころが
活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、
<わたしはある>とが響きあふ。
 
 
<ある>といふことを知つていくことは、
<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
 
世の中において、
こころが<生きた>こと、
手足が<生きた>こと、
わたしまるごとが<生きた>ことを、
活き活きとわたしが想ひ起こす時、
<わたし>も、世も、
ありありと共にあつたのであり、
いまも共にあるのであり、
これからも共にありつづける。
 
 
わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
 
そして、いまも、これからも、
精神からの想ひ起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与へられてゐるのを感じつつ、
手足を使つて、
地道に、
慎ましく、
世を生きてゆくほどに、
<ある>といふことを、
つまりは、
<わたしがある>といふことを、
わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
 
ここで、
クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた
『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
 
 
   人のこころ!
  
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
  
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。
 
 
              (鈴木一博さん訳)
 
 
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己みづからが手足となつて、
世を慎ましく生き抜いていく力だ。



posted by koji at 10:14 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教室こそ、ことばのお宮

 

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東京のとある女子中・高の先生方と、
『枕草子』の言語造形に取り組んでみました。
 
 
一段目の、
四季おりおりの景物とこころの織りなし合ひ。
 
 
そのやうな日本人ならではの感覚が、
和歌ではなく、
エッセイとして書き残されてゐます。
 
 
そこに滲み出る情をこそ、
文を声に出すことで、
じつくりと感じてみる。
 
 
そこに聴こえて来る沈黙の間の豊かさに、
耳を澄ます。
 
 
先生方ご自身が、
自身の息遣ひとことば遣ひから、
そもそも「ことばとは芸術そのものなのだ」
といふことに気づくほどに、
教室といふところが、
意味深い場になりえます。
 
 
教室が、ことばのお宮になりえます。
 
 
神聖な場といつてもいいやうに思へます。
 
 

この場を準備して下さつた方、
教務その他でまことにお忙しい中、
新しいことに挑戦された先生方、
本当にありがたうございました。
 
 
子どもたちや若い人たちが、
国語の底知れぬ魅力に目覚めていく、
そのことを何よりも希ひます。
 
 

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2019年12月10日

笠地蔵


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今日は、
昔話「笠地蔵」を子どもたちに語りました。
 
 
このお話をしてみて、
これは日本の昔話の中でも、
本当のまごころと神秘を伝へる、
屈指の国語芸術だと思はざるをえません。
 
 
町に出て笠が売れないといふことが、
生きることの苦しみを、
どれほど子どもたちに予感させるか。
 
 
そして、売れなかつた笠を
お地蔵様にかぶせて家に帰ってきた爺様を、
「それはよいことをしなさつたなあ」
と言つて迎へる婆様。
 
 
きつと、日本人が何百年にも何千年にも渡つて、
「人はこんなにも美しいこころを持つてゐるのだ」
といふことを静かに感じ続けてきたお話です。
 
 
そして、
一年の終はりに捧げられる神仏への思ひ。 
一年の初めに甦る太陽の神からの恵み。 

 
そんなお話が終はつた時の静寂の深さ。
 
 
年の終はりと始まりに、
いまもなくてはならない、
幼な子たちとのかけがへのない時間です。
 
 

posted by koji at 20:34 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月09日

健やかな判断力

 
 
知識の図式化・組織化はできるのだらうけれど、 
判断力の組織化はできない。
 
 
いいか、悪いか。
 
 
美しいか、醜いか。
 
 
まことか、嘘か。
 
 
判断を下すのに、公式も図式もない。
 
 
その判断は、その時、その場で、
その人によつて、なされる。
 
 
だから、判断力とは、
知性や教養よりも深いところでなされる、
働きである。
 
 
では、判断力といふ、
人が生きて行く上でなくてはならない力は、
どこから生まれて来るのか。
 
 
それは、知性ではなく、
その人の内側で育まれて来た、
感じる力、情の力である。
 
 
だから、人は、少年少女の時にこそ、
感じる力・情の働きを育むことこそが、
最も肝要である。
 
 
混迷を極めるこの世において、
これから、ますます、人は、
何を選ぶか、どちらを選ぶか、
判断を迫られることが増えて来るだらう。 
 
 
健やかな判断力。
 
 
それは、
その人の感じる力をもつて、
そのつど、その場で、なされる。

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2019年12月08日

ものが見え過ぎる人

 

先日、ある友人と話しをしてゐて、
様々なことを思ひました。
 
 
長いお付き合ひの中で、
感じてきたことですが、
その人は言はば、
「ものが見える」人でした。
 
 
「ものが見え過ぎる」人、
と言つてもいいかもしれません。
 
 
さて、
今日12月8日は、
大東亜戦争の火蓋が切つて落とされた日ですが、
その戦時の真っ只中に、
文芸批評家の小林秀雄が書いた古典論のひとつ、
「徒然草」といふ短い一篇があります。
 
 
その中で、こんなことが記されてゐます。
 
 
――――――
 
 
(吉田兼好の)あの正確な鋭利な文体は
稀有なものだ。
 
 
一見さうは見えないのは、
彼が名工だからである。
 
 
『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。
 妙観が刀は、いたく立たず』、
 
 
彼は利き過ぎる腕と鈍い刀との必要とを
痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。
 
 
物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、
これが『徒然草』の文体の精髄である。
 
 
――――――
 
 
「ものが見え過ぎる」人の苦悩は、
ものの見えてゐないわたしなどには、
到底分かりやうのないものだと思ひます。
 
 
その友人は、だからこそ、
外側の世界に向かつて己れを表現するときには、
きつと「少し鈍き刀を使」つてゐることでせう。
 
 
おのづから手にしてしまつてゐる鋭過ぎる刀では、 
外の世をあまりにも鮮やかに切つてしまふからです。
 
 
わたしなどの凡庸な者にできることは、
そのやうな友人が語らざるところをこそ、
我が乏しい力でも、なんとか、
汲み取り、聴き取ることです。
 
 
いや、そのことをどれほど、
し損ねてきたことか、
忸怩たる念ひがあります。

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2019年12月07日

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜


 
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ルオー「聖顔」
 
 
密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覚めた世の数々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein 
Im Innern sich belebend fühlen:  
Es soll erweckend Weltenkräfte 
In meines Lebens Außenwerk ergießen 
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 

 
この肉をもつたからだは、
なんのためにあるのだらう。
 
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、
自分の周りの世をほんの少しづつでも
善きものにしていくために、
このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
 
そして、そのやうに、
「からだを使つて、今日も生きていかう」
といふ意気込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。
手を動かして、洗顔できるといふこと。
ものを食べられるといふこと。
歩いて、行きたいところへ
行くことができるといふこと。
子どもと遊ぶことができるといふこと。
そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
 
これらすべてのことをするためには、
からだが健康であることは勿論だが、
さらに意気込みが要る。
 
 
その意気込みは、
自分自身で生み出すといふよりも、
朝起きて、眠りから覚めて、
おのづといただいてゐる。
それは本当に恩寵だと感じる。
 
 
これこそが、
世の数々の力からの恵みではないか。
 
 
この恩寵への感謝の日々を
毎日生き続けていくことが、
この季節、きつと、
わたしたちの外なる仕事に
生きた力を吹き込んでくれる。
 
 
感謝の念ひこそが、
わたしたちの心意気を日々目覚めさせてくれる。
 
 
そして、この目覚めは毎日を新しくする。
わたし自身を新しくしてくれる。
 
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。
しかし、そんなとき、
人は意識の上で夢見てゐる状態か、
眠り込んでゐる状態だ。
 
 
さあ、当たり前にできてゐることに、
あらためて目を注いでみよう。
 
 
からだを当たり前に使へることの恩寵に
あらためて驚くことができるだらうか。
 
 
さらに、あなたにとつて、わたしにとつて、
「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何か。
 
 
それは、みづからのこころといふものの核のこと。
 
 
こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、
こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、
もしくは精神と言つてもよく、
それを意識の上に育てていくために、
メディテーションといふこころの練習がある。
 
 
この『こころのこよみ 第34週』では、
そのこころといふものの核を
「密やかに、古くから保たれてきたもの」
と言ひ表してゐる。
それは、無理をせず、
どこまでも自分自身であること
(精神からの光)。
 
 
そして、毎日の感謝から生まれる、
「新しく生まれてくる己れのありやう」。
それは、日々新鮮に自分自身を感じること
(からだからの恩寵)。
 
 
このふたつが重なつて、
こころそのものが、活き活きと動き出す。
 
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、
<わたし>として、ますます、
「ありありと」あるやうになつてくる。
 
 
外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく。
 
 
わたしが、仕事を通して、
<わたしはある>といふありやうに、なりゆくこと。
 
 
これこそが、豊かさである。
 
 
ひとりひとりの<わたしはある>
といふありようこそが、世を豊かにする。
 
 
  

密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覚めた世の数々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 
 
 


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2019年12月06日

酌み交はす 盃あれば


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酌み交はす 盃あれば 酔ひのまま
こころほぐさむ 晩(をそ)き秋の夜 
 
  

ものづくりをする人と人とが集まるとき、
そこには様々なドラマが生まれますね。
 
 
そこには、苦しみも喜びも織り込まれて、
ひとつの織物が創られていきます。
 
 
ものが出来上がつていくプロセスと共に、
人の感情も、その行き場を求めます。
 
 
その感情の交錯をほぐすべく、
宴の場が設えられます。
 
 
その思ひやりは、
これまでの長い時間があつたからこそ、
さりげなく人から人へと
手渡されます。
 
 

わたしは、そんな織物づくりのプロセスに、
ことばの芸術を通して、
ほんのひととき、
ひと息つく時間を皆さんにもたらすべく、
伺はせてもらつてゐます。
 

 

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2019年12月02日

精神が泣かないやうに



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一冊の本を書棚から引き抜き、
頁を開いて、
一行一行読んで行く時、
当り前のことだが、
その時、他の本を読むことはできない。
 
 
その時には、
わたしはまさにこの一冊を選び取つてゐる。
 
 
この世に幾千万とある他の本を読むことはできない。
 
 
他のすべての本を読むことを断念しなければならない。
 
 
そこで、もし、いま、
この一冊といふ本を選び取つて、
その一頁一頁に向かひ合ふならば、
わたしはみづからがみづからに課す責任において、
その一頁一頁を全力で読みたい。
 
 
ややもすれば、
今読んではゐない本のことを、
ちらちら思ひながら、気にしながら、
こころここにあらずの状態で
本を読んでしまふ。
 
 
しかし、さうではなく、
今向かひ合つてゐるこの一冊に、
己れのまるごとをもつてぶつかつて行きたい。
 
 
なぜならば、
己れの自由の精神のもとにおいて、
このひとときをみづから選び取つたのなら、
そこに己れの全精力を注ぎ込まねば、
己れの精神が泣くではないか。
 
 
これは本を読む時だけでなく、
わたしたちの一挙手一投足に
かかはつて来ることだと思ふ。
 
 
わたしたちは己れの行為を
自由の精神のもとでみづから選んでゐる。
 
 
それならば、
その行為そのものを
〈わたし〉の行ひとして、
全精力をもつて行ひたい。
 
 
その時に、人は、
この人生を支配しようと襲ひかかつてくる、
相対性といふ甘い罠から脱し得ることができる。
 
 
〈わたし〉は、ここにゐる。
 
 
この〈わたし〉は、
この世でたつたひとりの人であり、
わたしがそのことを選び取つたのだ。
 
 
精神とこころとからだが重ね合はさる
絶対の境に立つことができる。

posted by koji at 18:33 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月01日

わたしたちの舞台創りにおける観点A



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今年1月に奈良で行はれた「古事記のまつり」にて


――――――――
 

シェイクスピアの英語は
語彙、語法、すべての点において、
他の同時代の作者に較べて遥かに難しい。
 
 
一般大衆の日常英語と較べたら、
それこそ雲泥の差であつた。
 
 
彼等は或る意味では
シェイクスピアのせりふは難しくて
よく理解できなかつたに相違ない。
 
 
エリザベス時代よりはるかに教育が普及し、
その程度も遥かに高くなつてゐる
今日のイギリス人にとつても、
シェイクスピアは難解なのである。
 
 
それでもイギリスでシェイクスピア劇を
一般観客が理解し易い様に
現代語訳して上演したりはしない。
 
 
そんな事を考へもしない。
 
 
だが、語彙、語法が難しいといふのは、
だからといつてそれが
楽しめないといふ事とは全く別事である。
 
 
近松の浄瑠璃の一語一語が理解できなくとも、
無学な江戸の民衆はそれを充分に楽しむ事ができた。
 
 
同様にエリザベス時代の大衆も今日のイギリスの一般観客も
原文のままのシェイクスピアを楽しんでゐるのである。
 
 
       (福田恒存『言葉の芸術としての演劇』より)
 
―――――――
 
 
 
たとへ、ことばの「意味」が分からなくとも、
わたしたちは、ことばの芸術としての演劇を
楽しむことができます。
 
 
前回の文章でも述べさせていただいたやうに、
ことばは、まづ、
その響きであり、
その質であり、
その形であり、
その動き、うねり、拡がりこそが、
その本質なのです。
 
 
ことばを理解しようとするのではなく、
ことばのそれらの質を感覚すること。
 
 
それらを感覚できるといふことが、
舞台で俳優が生の声をもつて演じるのを、
観に行き、聴きに行く、楽しみであるのです。
 
 
詩人のやうに言ふなら、
ことばとは音楽であり、
彫塑であり、
舞踊なのです。
 
 
幼い子どもたちは、皆、
理解してからことばを使ふのではなく、
そのやうに感覚をもつてことばを味はひつつ、
だんだんと日本語に上達して行きます。
 
 
大人は、ややもすると、
そのやうなことばの感官を閉じてしまひ、
理性だけでことばを聞き、
情報伝達のためにだけことばを使はうとしてしまひます。
 
 
しかし、ことばとは、もつと、もつと、
全人間的なもの、
宇宙的なもの、
神々しいものなのです。
 
 
だから、
わたしたちの舞台では、
その言語の言語たるところを引き立てるべく、
主に日本の古典作品を
原語のまま上演することに挑戦し続けてゐます。
 
 
これまでに、
『古事記』や『萬葉集』『風土記』に、
『源氏物語』や『平家物語』などを取り上げて来ました。
 
 
まだまだこれらの作品を深めて行きたいですし、
また別の作品にも挑戦して行くことで、
ことばに生命あり、精神ありと深く信仰してゐた、
日本古来の古典精神を、
ことばの造形を通して、
追ひ求めていきたいと希つてゐるのです。
 
 
そして、そのやうなわたしたちの仕事が、
新しくこの国の精神文化を支へ、育み、
後代へと大切な何かを受け渡していく
橋となることを
固く信じてやつてゐます。



posted by koji at 23:01 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1月3〜5日『シュタイナー教育と自己教育』のお知らせ



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令和二年初頭、
『シュタイナー教育と自己教育』のお知らせです。
 
 
1月3日(金)、4日(土)、5日(日)の
三日間連続アントロポゾフィー講座のご案内です。
 
 
今回のアントロポゾフィー講座では、
三つのテーマに取り組みます。
 
 
その三つは、わたしたち大人にとつての、
自己教育に基づくものに他なりません。
 
 
@「 子どもをほめること、しかること 」(1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」(1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」(1月5日) 
 
 
また、午後には、
「演劇教育へのみちびき
〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」をテーマにします。
 
 
三日間かけて、
我が国の昔話『笠地蔵』を、
まづは語り、
そして歌ひ、
さらに演じてみることで、
ことばの芸術を、
まず大人自身が生き生きと味はつてみませう。
 
 
そのお話は、
日本における太陽の神の御来臨、
日本のクリスマスの物語であります。
 
 
三日目の終わりには、お客様を呼んで、
ささやかなお披露目の時間ももちます。


 


●日時:
令和二年1月3日(金)〜5日(日)
9時15分開場 9時半開始 
17時終了予定
 

●場所: 
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」駅徒歩5分
 
 
●参加費: 
三日間連続参加 25000円  
一日単発参加 10000円
※お子さまの託児はありません。ご了承ください。
 
 

●振込先: 
ゆうちょ銀行
ゆうちょ銀行から 記号 10260 番号 28889041 スワ チハル
他銀行から  店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904 
 
 
 
●お問い合わせ・お申し込み: ことばの家 諏訪
T/F 06-7505-6405  
E−Mail  info@kotobanoie.net

 
 

【講座ご紹介】
 
 
●9時半〜10時  
「シュタイナー幼児教育の朝のひととき」 
  講師:樋口早知子

 
●10時〜12時  
「アントロポゾフィー講座」 
  講師:諏訪耕志
@「 子どもをほめること、しかること 」 (1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」 (1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」  (1月5日) 
 
 
●13時半〜16時   
「演劇教育へのみちびき 〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」
  講師:諏訪耕志(言語造形)・武内ゆかり(歌・音楽)
 
 
 
 
【講師プロフィール】
 
 
●樋口早知子
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師。保育園に勤めながら乳幼児の教育のあり方を模索し続け、シュタイナー教育に出会う。2006年ミカエルカレッジで学ぶ。2008年よりくすのき園を開園。乳幼児の保育に携わっている方たちと共に学びを深めている。
 
 
 
●武内ゆかり
1970年大阪生まれ。幼少時よりクラシック教師であった母よりピアノを学ぶ。上智大学卒業。
メーザー音楽院ピアノ科卒業。ジャズ音楽理論・作・編曲、古楽、声楽、グレゴリオ聖歌を学ぶ。
アウディオペーデ教員養成コース卒業。第3期シュタイナー教員養成講座修了。
 
 
 
●諏訪耕志
「言語造形のためのアトリエ ことばの家 諏訪」主宰。1964年大阪市出身。1994年よりルドルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。2004年より関西を中心に自身の活動を始める。言語造形の舞台、ワークショップ、シュタイナーのアントロポゾフィー講義などを通して活動中。日本語の美と風雅(みやび)を甦らせていくことを念願にしている。

 

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