2019年04月04日

『まなびわらべクラブ』にて 小学生たちと


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東京は、大阪よりもなぜか暖かく、桜が咲き誇つてをりました。
 
今日は、西日暮里にある日能研 ソーシャルコミュニケーションラボの学童保育場『まなびわらべクラブ』にて、小学生たちと、ことば遊びやわらべ歌、詩の朗唱、昔話でたつぷり楽しみました。
 
わたしはここで年に4回ほど、子どもたちとの時間を持つてゐるのですが、ここでの学童保育のあり方が、子どもたちにはとても安心感を与へてゐるやうで、それは部屋に入つた途端にそのことが分かります。
 
保育を荷つてゐる先生方のお人柄と意識の持ち方が、きつと、そのやうな場を創つてゐる大きな要因です。
 
かうして、傍にゐる大人の意識に守られてゐるわらべたちは、また大いなるものにも守られてゐることを、今日も感じたのでした。(これはわたしの個人的な感覚です)
 
その大いなるものと共に、仕事をさせてもらつてゐます。
 
■日能研の学童『まなびわらべクラブ』はこちらから
http://www.nichinoken.co.jp/gakudou/

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2019年04月02日

代のはじまりを告げる御名


昨日の新しい元号の発表を前にして、我が家族は、画面の前にしいんと静まりかへりながら、五分、十分と、待つてをりました。
 
そして、新元号が告げられたとき、我が家の部屋の雰囲気といふか、わたしたちのこころのありやうといふか、目には見えない何かが、厳粛なときを迎へたときの、独特のものに、一瞬にしてなり変はつたのでした。 
 
その厳粛さは、一か月後のご譲位の日と、新しい天皇陛下の御即位の日に極まるのだと思ふのですが。
 
とりわけ、娘たちと、かうしたときを、かうしたこころもちで迎へることができたことを嬉しく思ひます。
 
おそらく、生涯の彼女たちの記憶に残ることでせう。
 
 

新しき 代のはじまりを 告げる御名 その声待つ間の しづけさやいかに

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2019年03月30日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜


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奈良の三輪山の辺に開花し始めた桜 

この時期の、目の前に繰り拡がつてくる現象に酔ふのも人生の喜びであり、悲しみでもある。
 
しかし、その現象の奥にあるものをしかと見つめるとき、何が見えてくるか。何が聴こえてくるか。
 
さういふ「ものを観」「ことばを聴く」ためには、まづ、己れみづからの奥にあるものをしかと見つめ、己れみづからの声に耳を澄ます必要がある。  

 
 
人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、わたしのいのちを担ひなさい。
 
魔法の縛りを解いて。
 
ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」
 
           ルドルフ・シュタイナー

 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
咲きはじめた桜。他の木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
 
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
 
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
 
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、といふ日本語ださうだ。
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
いま、植物から何かが「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
わたしは、それらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
 
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
 
「聴いてもらえた!」といふ喜びだ。
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
シュタイナーは、「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで、晩年の『礎(いしずえ)のことば』といふ作品を終へてゐる。
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、わたしのいのちを担ひなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」

 
 
諏訪耕志記
 

 


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2019年03月29日

古き歌響きし 倭笠縫邑


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次女と山の辺の道を歩いた。
 
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今日のお目当ては、山の辺の道の中ほどにある、桧原(ひばら)神社。
 
元伊勢である、この神社の地は倭笠縫邑(やまとかさぬひのむら)といふ古称を持つ。
 
天照大御神はそもそも、天皇陛下と共にお宮に住まはれてゐたが、第十代崇神天皇のとき、天皇と離れ、皇女・豐鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)を斎皇女(いつきのひめみこ)として、この倭笠縫邑にお鎮まりになられた。
 
大御神が倭笠縫邑にお鎮まりになられた神人分離の最初の夜、宮人たちは、夜もすがら、この歌を歌つたといふ。
 
 宮人の大夜すがらにいさとほし
 ゆきのよろしも大夜すがらに
 
どんな想ひで、この歌を唱和したのだらう。

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大和路や古社・旧跡を訪ね歩き、その雰囲気をからだで味はふこと。
 
それは、日本の子どもにとつてたいせつなことだと思ひ、毎年一緒に歩いてゐる。



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2019年03月27日

いのちに呼応することば 〜幼な子たちへの語り〜


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春が近づいて来て、幼な子たちもまるで草の芽が萌え出づるやう。
 
そのからだを創つてゐるいのちの力に呼応するやうにお話しを語つてあげると、幼な子たちはことばと共に育ちゆく。
 
昨日も、ことばのリズム、動き、かたちが、幼な子たちを導いてくれた。
 
この子たちはお話しが大好きになるし、やがて小学校へ上がるときには、本を読むことが大好きになるし、作文すること、ことばをからだまるごとで表現することが大好きになる。

造形されたことばが、子どもの教育者です。
  
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2019年03月24日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜


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Friedrich 「雲海を見下ろすさすらひ人」
 

「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光をもつて。
 

       ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
  
今週の『こころのこよみ』について、以前書いたもののうちのひとつに、2011年3月11日のことがあつてすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html
 
地震と津波と原発事故から遠く離れた大阪に生きてゐる自分にとつてさへも、この『こよみ』で言はれてゐることが、あの当時、リアリティーをもつて強く迫つてきた。
 
今年、この週の『こよみ』に、精神のありやうから、もう一度、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
 
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
 
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
 
そのやうにして外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
 
2011年の3月11日以来の月日の中で、わたしたちの外側からあまりにもたくさんの世の力がありありと迫つてきた。
 
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかない、そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞はれた。
 
そして、たくさんの、たくさんの、ことばが行き交つた。
 
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
 
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもないこの「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
 
それは、外の出来事に振り回されて、考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、「いはゆる純粋なこと」を考へることではない)
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
 
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
 
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーから、ものを言つてゐるのではないだらうか。
 
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
 
その人に、軸ができてくる。
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
 
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
では、その力を人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
 
それは、夜、眠つてゐる間に、人といふ人に与へられてゐる。
 
ただし、昼の間、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
夜の眠りの間に、人はただ休息してゐるのではない。
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
それは、眠りの間にこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。
 
眠りの間に、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
 
要は、夜の眠りの間に長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼の間にみづからに注ぎこませられるかだ。
 
そのため、ひとつに、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでいい。
 
それは、人のこころを育てる。
 
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
その力は、夜の眠りの間に、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
 
夜盛んだつた意欲を、昼の間に、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
 
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、2011年3月11日以降の日本に生きるわたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもつて。

 
  
 


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2019年03月22日

富岡鉄斎 ――文人として生きる

 
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大和文華館の『富岡鉄斎 ――文人として生きる』展に足を運んだ。
 
圧巻だつた。 
 
絵を観るといふ行為は、色彩と線と余白に秘められてゐるこころを観ることである。
 
こころを観ると書くとき、「観」の字を使つたが、この「観」といふ字はそもそも「觀」と書き、左側の偏は「雚」で、鳥である。
 
だから、「觀る」とは、鳥のやうに翼を羽ばたかせ自由に空を舞ひながらものを見る、そんなこころの若々しい働きのことである。
 
「觀る」とはまた、高みに舞ひ上がりながら、まるごとを見晴るかすことであり、同時に高みから下方にある一点に突撃急降下するやうな、こころの働きである。
 
絵を通して画人のこころの働き、氣の動きを觀る。それは、画人の内的な動きに沿つて、觀る者も共に動き、踊り、舞ひ上がるといふことだ。鉄斎は、その共なる舞踊と飛行の歓びをたつぷりと味ははせてくれる。
 
ちなみに鉄斎はあくまでも自らを学者とし、画は余技とみなした。それは、一個の作品が己れのこころの動きを収めるだけでなく、そこに、古今にわたる先人たちの叡智・学識といふ河の流れのやうな精神の伝統を注ぎ込まうと志したからである。
 
「萬巻の書を読み、千里の路をゆく」といふ隣国だつた明の文人画家が掲げた志とも言ふべき職業倫理を、鉄斎は終生貫いた。
 
ひとつひとつの作品の、絵と文と余白からなる平面における構成。それは、何十年にもわたつて先人の筆の運びに倣ひつつ身につけたものであらうが、いささかも単なる模倣に堕してゐない。過去に徹底的に学んだ者だけが得る自由自在が、その構成の妙として顕れてゐて非常に味はひ深い。
 
今回の展示で掲げられてゐる作品のひとつ『月ヶ瀬図巻』など、どうだらう。
 
春の月ヶ瀬の渓谷にわたる白梅と紅梅の連なり。山の面を占めるほのかな緑と、あなたにたたなづく青い山蔭。
 
縦十九センチ、横三メートル半にわたるこの長巻の前を、右から左へ歩を進ませながら觀るとき、その一筆一筆の運びから、淡く彩られた色の配置から、得も言はれぬ音楽が聴こえて来る。
 
「山水を築き、門戸に身をゆだねると、画を觀る者の内には煙霞(えんか)が限りなく拡がる」と、ある画の跋にある(原文は漢文)。
 
絵を觀るとは、一枚の画布の向かうに「煙霞」のやうに限りなく拡がる「別世界」に、入つて行くことである。
 
 

 

大和文華館に、わたしは、おそらく、おほよそ十年に一度位の割合で足を運んでゐると思ふ。二十代、三十代、四十代、そしていま五十四。
 
奈良の学園前、閑静な住宅街を通り抜け、どこかしら大和路の香りのする雰囲気にそのつど胸をときめかしながら、ここに絵を觀に来る。
 
館の前に、福島県三春町から移植したといふ三春滝桜が見事な枝ぶりで、その蕾が桜色に膨らんでゐた。あと一週間もすれば、滔々とした春の美を発散させるだらうと思はれた。
 
 

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2019年03月21日

獣道(けものみち)と人の道


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ルオー『ピエロ』

 
人は芸術に触れてゐなければ、獣となつて、のさばり出さずにはゐられない。
 
獣になるとは、己が身の要求するところに、己がこころが引き寄せられすぎる、そのやうな偏りをもつてしまふことである。もちろん、こころは、己が身の働きの充足に満ち足りを覚える。腹が減つてゐれば、当然、食べ物を欲する。
 
しかし、こころといふものは、「パン」のみにて満たされるやうにできてはゐない。こころは、精神といふ、天地(あめつち)のあり方を支えてゐる奇(くす)しきことわりに触れなければ、干乾びてしまふ。
 
その天地を貫く精神がこの世に生きて親しく人の身に味ははれるのは、ひとり、芸術をもつてである。芸術は、人が人であるために、なくてはならないものなのだ。芸術は、必ず、人に道を示す。芸術を行ふこと、生きること、そのことが、「道」である。「道」とは、ゆくところである。
 
そして、人が行ふことすべてが、芸術となりうる。この世のすべて、森羅万象が、神によつて織りなされてゐる芸術作品であるやうに、人によつてなされるすべて、作られるすべては、芸術行為となりえ、芸術作品となりうる。
 
わたしたちは、いともたやすく獣道に降つてしまふ悲しい存在である。しかし、その悲しみが、かえつて、ひとりの人として、人の道を歩まうといふ意欲を掻き立てる。わたしたちは、その意欲をこそ育てたい。意欲さへ殺さずに育み続けてゐれば、人はおのづから、人としての道をめいめい歩み始めるのだ。何度、崩れ折れても、必ず、立ち上がるのだ。
 
芸術は、意欲をもつて、毎日の練習といふ繰り返しの行為を人に求めるものである。そして、その芸術の練習が、また、人の意欲を育てる。その、芸術と自分との集中した意識の交換、己が意欲の更新を感じることは、人を幸福にする。
 
古来、日本人は、「言霊のさきはふ国」として、この国を讃えてゐた。それは、人は誰しも、生きる喜び、悲しみ、すべての感情を感じ、かつ、ことばといふ芸術の中でこそ、初めてその感情を表すことができ、その感情に対する主(あるじ)になることができる不思議に、鋭く気づいてゐたからである。ことばこそが、獣道(けものみち)から、人をまことの道へと引き戻す、なくてはならないものであることを知つてゐたからである。
 
ことばそのものに秘められてゐるたましひ・精神自身が、何を希(ねが)つてゐるか。そこに耳を澄ましつつことばを発していく。聴き耳を立てながら、ことばを話す。そのとき、ことばの精神・言霊は、ものを言ひ始める。ものものしく、ものを言ひ出す。
 
わたしたち人は、どのやうなことばを、どのやうに使ふかによつて、その「言霊」との関係を深めることもできれば、浅薄なものに貶めてしまふこともできる。それは、ひとりひとりの人の自由に任されてゐる。
 
獣道を歩むこともできるし、ひたすら長い、人の道を歩みゆくこともできるのだ。
 


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2019年03月18日

ことばは美しい音楽


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俵屋宗達『源氏物語関屋澪標図屏風』
 
 
『源氏物語』を読み続けてゐる。
 
今日も歩いて住吉大社に行つたのだが、第十四帖「澪標」にて、光源氏と明石の御方とのたまさかの出逢ひの場とされるところに、自分が立つてゐるといふのも、不思議な氣がした。
 
江戸初期の頃、松永貞徳といふ歌人が記した歌学書『戴恩記
(たいおんき)』に、こんな逸話が載せられてある。
 
文学の師匠・九条稙通(たねみち)公が貞徳に言つた。
「『源氏』を一度、わたしの前で読んで御覧なさい」
 
貞徳はいぶかしく思つたが、言はれるがままに一節を読み上げると、「すなほに読むとは存ずれど、そなたのはみな訛りです」とお笑ひあり、ご自身で読まれた。
 
これを聴いて貞徳は初めて、源氏物語が何であるかが分かった、と言ふ。
 
一体、その音声は、どんな響きだつたのだらう。
 
 
 
 

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2019年03月16日

『 をとめ と つるぎ 』手探りの発進


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来年3月の上演を予定してゐる劇『 をとめ と つるぎ 』。
 
その制作を本当に手探りで始めてゐます。
 
俳優の皆さんには、言語造形の基礎からじつくりと取り組んでいただきながら、少しずつ、この作品のことばといふことばに触れて行つてもらつてゐます。
 
さうして早くも、おひとりおひとりの身体から出て來ることばの質がなりかはり、ことばの向かうに情景が立ち上がつて来てゐること、驚きです。
 
ものを創るには、時間をかけたい。
 
ゆつくりと、だんだんと、意識と技量が成長し熟成して行く中で、生まれて來るものを待ちます。
 
この劇は、日本の国が乗り越えなければならなかつた意識の境を、先頭を切つて、いのちをかけて、乗り越えられた方々の物語です。
 
上演に至るまでに、「ことばの家 諏訪」において、この国の歴史と文学について多くの方々の関心を呼び覚ますやうな催しを組んでいきます。
 
ひとつの精神文化の流れが始まり、続きゆくことを乞ひ希つてゐるのです。

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こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜


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熱田神宮にて

毎週、こころのこよみに寄り沿ふことで、季節の巡りに秘められてゐる規範がこころの中に樹木のやうに育つていきます。
 
 
世の高みから
 
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考への確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。
 
           ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
考へるとは、本來、みづからを置いてものごとに沿ふこと、思ひわづらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
今囘、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ拔く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、靜かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときのこころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
自然法則といふものも、自然に祕められてゐる世の考へだ。
 
人が考へることによつて、自然がその祕密「世の考へ」を打ち明ける。
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、ものごとと、その人と、もしくはみづからと、腰を据えてつきあひつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、そのものごとについて、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまふのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
____________________________________________
 
人のこころ!
あなたは安らふ頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。         
(『礎のことば』より)  

 
_____________________________________________

 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
ある人の長所にあるとき、はつと氣づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
長所にはつと氣づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に滿ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに飜弄されてゐるときだ。
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
  
 
世の高みから
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。

  

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2019年03月14日

難しければ難しいほど、面白い

 
学問においても、芸術においても、そんな風に感じられる子どもを育てていきたい。
 
いや、自分自身も、さういふところへ歩を進めていきたい。
 
たやすいところに甘んじてゐても、一向、こころは燃え立たない。
 
昭和のあるころまでの文化を荷つてゐた人たちは、その気概があつた。
 
本を読んで、人は、読みつつ考へる喜びを知つてゐた。
 
音楽を聴いてさへ、人は、考へてゐた。深く、考へてゐた。
 
そして、考へる力と繰りなすことばとが、知的に綾をなしてゐた。
 
平成といふこの三十年間は、文化の面においては何事も分かりやすいことが第一のモットーとなり、社会のあらゆる面においては行き届いたサービスこそが至上の善となつた。
 
しかし、わたしたちは、自分の人生を成熟させえただらうか。
 
社会は、人が人として、己れが己れとして誇り高く生きていく、そんな雰囲気を醸造しえただらうか。
 
人は、己れの内なる〈わたし〉を育めば育むほど、自分よりももつとたいせつな人やものがあることに気づき、そのやうに生きていく。
 
そして、過去と未来を繋ぐ存在としての自分といふ人間の役割を自覚することができる。
 
逆に、他者から与へられてばかりで、〈わたし〉が未成熟なままだと、このわたしこそがもつとも大事なものになつてしまひ、意識は自分のことだけに尽きてしまふ。
 
難しいものに取り組んでこそ、その中に、崇高と美と真実があることを体得できる。
 
さういつたものをことごとく避けて来たのが、この平成の代だつたやうに思はれる。
 
〈わたし〉を育むためには、歯応えのあるものに取り組み続けることである。 
 
わたし自身、気づくのが遅すぎたのではないか、とこの三十年を振り返る。
 
そんな平成が終はらうとしてゐるいま、新しい御代は、きつと、これまでとは趣を異にした新しい時代にするのだ、と強く念ふ。
 
ふたたび、人の自主独立した精神がものを言ふ時代に。
 
自分の頭でものを考へ、自分のことばでしつかりとものを言ふ。
 
自分の足でしつかりと立つ。
 
多少の歯応えのあるものにも恐れずに果敢に取り組んでいく。
 
そんな若者を育てていくためには、わたしたち大人が、これまでのやうな「わかりやすさ第一」「至れり尽くせりのサービス」に甘んじるやうな精神をいま一度見直していいのではないか。
 
わたしは、男なので、どうしても男の子には、そんな気概を持つてもらひたく思つてしまふ。


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2019年03月13日

滋賀『普遍人間学の会』ありがたうございました


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滋賀シュタイナーこども園そらのお母さん、お父さん方が集まつて下さつて『普遍人間学の会』をして今日で丸二年。
 
講義の積み重ねと共に、参加者おひとりおひとりの息遣ひも深くなつて来ました。
 
皆さんが暖かい思ひを寄せ合つて下さり、この会は続けてこられました。
 
今日、最終講の第十四講を終へ、また4月から滋賀を離れて新しい地へ行かれる方もあり、わたしから昔話のご披露をさせていただきました。

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その後の打ち上げ会では、最高のスコッチウイスキーと皆さんの手料理で、昼間からほろ酔ひ気分でした。

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皆さん、本当にありがたうございました。
 
5月から、ミヒャエラ・グレックラー氏講演録『両親の問診時間』を学ぶ会として再出発して、毎月第四火曜日の午前10時より、滋賀の草津にて勉強会を行つていきます。
 
ご関心のあられる方、どうぞお仲間にお入りください。
 
 

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2019年03月11日

小川榮太郎氏『保守思想を鍛錬して国柄を守れ』


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本日三月十一日付産経新聞掲載の【正論】『保守思想を鍛錬して国柄を守れ 文芸評論家・小川榮太郎』を読む。

あと一か月少しで平成の御代も終はるが、この三十年間以上にもわたる「保守大敗北」に、わたしたちはどう身を処していくことができるか、ここで新しく、骨身に沁みて考へざるをえない。
 
人が人としてまつたうに存在していくことができるために、言霊を傷つけずに言挙げしていくことができる言語力を、わたしたちは鍛錬して己れのものにしていかねばならない。

小川氏が勧めてゐる、小林秀雄と岡潔の対談集『人間の建設』のやうな読む者に親切で平易な一書から始め、さらに「保守を思想として積算し続ける鍛錬」のために、わたしたちは読むべき書物の系譜を打ちたてていかねばと思ふ。

読むべき本を読む。

そのことからしか、人のうちに精神は樹立できない。
 
ことばからことばへのリレー。

それが、この国をこの国たらしめてきたのだから。
 


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知的な理解に血を 〜和歌山『両親の問診時間』勉強会〜


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先日、和歌山のMitteの庭にて行はれた『両親の問診時間(ミヒャエラ・グレックラー著)』勉強会。
 
『結婚の意味A』
https://note.mu/mitteno20/n/na052b28d4d4c… 
 
――――――
 
「人が生きていくということは悲しみや苦しみに出会うということ。だからこそ、〈問い〉が生まれます。なぜ自分は苦しいのか。なんのために生まれてきたのか」
 
―――――― 
 
かうしてレポートを書き残すことは、とても大変なことだと思ひます。
 
これは、まさしく、仕事です。
 
しかし、講義の内容を咀嚼して、自分のことばをもつて書き記すことによつて、知的な理解に血が通ひます。
 
そして、その見識を日々の暮らしの中で徐々に用いることができるやうになつてくるのです。
 
意味をもつて動くことができるやうになつてゆきます。
 
大人にとつて、学びとはまさしく、わたしが〈わたし〉になりゆくための「仕事」です。
 
また、講義をしたわたし自身にとつても、かうしたレポートを読ませてもらふことは大きな糧になるので、とても嬉しく、ありがたいものなのです。
 
 
ここで、ご紹介したノートの他にも、講義の感想文をファックスなどで送つてくださつてゐます。
 
――――――
 
「結婚とは、ということですが、人が人らしく、自分がより自分らしくなっていくことと深い関わりがある、とは考えもしないことでした」
 
――――――
 
 
受講してくださつてゐる皆さん、ありがたうございます。
 
 

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2019年03月10日

古の人

 
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琵琶湖の西岸の少し奥に入つた所に鎮座まします近江神宮。
 
寒の戻りか、とても寒く、小雨降る中、人気も少ない。
 
ここは、天智天皇の大津宮跡ともいはれてゐる。
 
壬申の乱の兵火ですべてが灰塵と化し、当時、その華やかだつた都の荒れ果てた様を何十年か後に見て、高市黒人(たけちのくらうど)が旧都を偲んで歌を歌つてゐる。
 
 
 ささなみの国つみ神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも (萬葉集33)
 
 
歌人が歌の念ひに見舞はれた当の地にわたしも実際に足を運んで、そこでその歌を朗唱してみる。
 
そこにじつと立ち尽くせばこそ、歌に秘められてゐる深い情念が味ははれることがある。
 
どのやうことがここで起こり、どのやうな悲しみが人々を襲つたのだらう。
 
また、黒人による別の歌がある。
 
 
 古(いにしへ)の人に我あれやささなみの古き都を見れば悲しき (萬葉集32) 
  
 
「古の人」。これは単にむかしの近江の旧都の人といふ意味ではない。
 
神と己れの身体とがまだ離れてゐない状態を生きた人のこと。
 
たいせつにしなければならないさういふ人、さういふ精神が失はれていくことを偲びに偲んで、黒人は歌つた。
 
なぜ、たいせつにしなければならないか。
 
それは、たいせつにしなければならないものごと、人の想ひ、人の精神ほど、たやすく忘れられてしまふからだ。
 
さういふものは極めて繊細ななりたちをしてをり、時を経て、志ある人が、その壊れやすさゆゑ、たいせつに護り育て、後代に伝へようとして来た。
 
そして、そのやうな繊細なものを扱ふことのできる人は、いついつも、極めて少数の限られた人であるかもしれない。
 
「古の人」とは、いつの代にもをられる、さういふ人のことである。

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2019年03月09日

和歌山ことばの泉『古事記の傳へ』始まりました!

 
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和歌山の親子えんげき塾 ことばの泉、2019年度の活動を早くも始めました。
 
題材は、『古事記(ふることぶみ)の傳(つた)へ』です。
 
天武天皇の御口から出ずることばで稗田阿礼の耳に傳へられた、日本といふ国の永遠の基となる「我が国の物語」です。
 
その御ことばを全身全霊で空間に響かせながら、ことばの造形に挑む!
 
そのとき、こころも空間も穢れを祓はれ、空っぽになつた感覚と共に、躍動感と喜びが甦つてくること、今日も、皆さん、存分に感じられたやうです。
 
『古事記』とは、言語造形されることを祈願された芸術作品なのです。 
 
夏の盛りの8月の終はりの上演予定です。
 

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ことばの始源

 
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吉橋 康司さん撮影


文字といふ文字が、考へを伝へる記号として生まれたのではなく、止みがたい衝動から描かれた「絵」から生まれたものであるやうに。
 
発声されることばも、単に考へを伝へるために、発されたのではない。
 
止みがたい衝動、情動、感激が人をして思はず声を発せしめ、言語造形せずにことばを発することなどできなかつた。
 
「おっと、合点だ、こころえたんぼの・・・」
 
「このういろうの御評判、ご存じないとは申されまいまいつぶり・・・」
 
リズムに脈打ち、メロディーに彩られ、強弱を自在に繊細につけながら、人はことばを話し始めた。
 
人は、芸術からこそ、文字を創り、ことばを話し始めた。
 
わたしたちは、もう一度、ことばの始源の風景に帰りたい。
 
 

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4月からの普遍人間学&言語造形クラスのご案内


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4月から、「ことばの家 諏訪」にて、新しく『 普遍人間学 & 言語造形を学ぶ会 』が始まります。
 
『 普遍人間学 』は、ルドルフ・シュタイナーが今から丁度100年前、1919年9月にシュタイナー学校初開校に向けて行つた、教員養成のための14回連続講座の講演録です。
 
「ことばの家 諏訪」では、二廻り目の普遍人間学の会です。
 
子どもの教育、それは、大人の絶えざる自己教育によつて、いつでも、どこでも、成り立ちます。
 
わたしたちは、もつと、もつと、勉強していくことができるはずです。
 
もつと、もつと、練習していくことができます。
 
自分自身が成長していくことほど、こころに喜びをもたらしてくれるものはありません。
 
さうして、自分自身の成長からおのづと生まれるものが、子どもに何気なく働きかけていく。
 
人といふものは、教育によつて、どこまでも、変はりえます。
 
どこまでも、成長していきます。
 
子どもと共に、わたしたち大人も毎日、毎日、成長していくことができるのです。
 
月に一回、第三日曜日。
 
午前は、普遍人間学。4月、この本の最初から始めます。
 
午後は、ことばを話す芸術・言語造形を身をもつて学んでいきませう。
 
自分自身とことばとの関係が、こんなにも深くて、こんなにも親しいものなのか。
 
毎月の繰り返しが、きつと、そんな風にひしひしと感じる道を開いていきます。
 
初めての方も、どうぞ、体験でご参加してみませんか。
 
共に学び、共に日々変わりゆきませう。
 
お待ちしてゐます。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 

 
――――
 
●日程
毎月 第三 日曜日
 
 
●講師
諏訪耕志  https://kotobanoie.net/profile/
 
 
●時間
10:00 〜 12:30 『普遍人間学』講義
13:30 〜 15:30  言語造形
 
 
●参加費
 
初回のみ体験参加   6,500円
次回以降4回連続  22,000円
 

精巧堂出版の 鈴木一博訳『普遍人間学』 を使ひます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
●会場&お申し込み・お問ひ合はせ
「ことばの家 諏訪」https://kotobanoie.net/access/#map

 

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2019年03月07日

こころのこよみ(第47週) 〜揺れ動く感情の向かう側〜


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写真は、奈良県桜井市の等禰神社



世のふところから甦つてくるだらう、
 
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
 
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
力強いわたしとして内に生きてゐることを。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
喜び、哀しみ、安らぎ、恐れ、慈しみ、怒り・・・・。
 
わたしたちは、いま、近づいて来る春に備へて、様々な感情を味はつてゐます。
 
感情といふものは、人のこころをときめかしもするし、落ち着かせてくれたりもしますが、時に、ざわつかせ、掻き乱しもします。
 
わたしたちのこころは、シンパシーとアンチパシーの間で、常に揺れ動いてゐます。
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできるのです。
 
立ち止まつて、息を深くしてみませう。
 
さらに、ものをじつと、見つめてみませう。
 
乱れてゐた呼吸と心拍も整つて来ます。
 
さうして、静かな一点に立つことができたら、それまでこころを支配してゐた感情そのものが、このわたしに何を教へようとしてゐたのかに気づくことができます。
 
喜びであれ、悲しみであれ、感情こそが、実は、わたしたちの導き手です。
 
感情こそが、そのさらに内側に、「考へる力」としての〈わたし〉が控えてゐたことを教へるきつかけを与へてくれます。
 
その〈わたし〉を見いだすには、シンパシーとアンチパシーとの間に静かに立つ練習が要ります。
 
その練習を通して見いだされる〈わたし〉は、神々しい力と共にある、これまでよりも力強い〈わたし〉です。
 
 

 
世のふところから甦つてくるだらう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強いわたしとして内に生きてゐることを。
 
 
 


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2019年03月04日

まごころから育つ芸術のセンス「風雅(みやび)」

 
本居宣長は、江戸時代中ごろ、伊勢の国、松坂に生きた国学者だ。
 
彼は、日本といふ国が、万国に優れた神の国であると述べ続けた。
 
そんな彼の前に、上田秋成といふ『雨月物語』で有名な作家・国学者が、論争を挑んだ。
 
その論争は、ことごとく、すれ違ひに終わるのだが、そのうちのひとつとして次のやうなエピソードがある。
 
秋成が当時のオランダ人が描いた「世界地図を見よ」と宣長に迫つた。
 
「この図の中に、我が御国はいづこと見れば、ただ、広き池の面にささやかなる一葉のごとき小嶋なりけり」
 
さう、秋成は言ふ。(ことばを今の人の理解が及びやすいやうに少し変へてゐる)
 
すると、宣長はにべもなく、かう言ふ。
 
「地図なんぞを持ち出してきて何の用かある。またオランダ人の論も用なきことなり。万国の地図を見たることをめづらしげにことごとしく言へるも、をかし。そのやうな図、いまどき、誰か見ない者があらうか。また、我が国がすこしも広大な国でないことも、誰か知らない者があらうか。すべて物の尊き卑しき、美し悪しは、形の大小にのみよるものにあらず。大きな石も小さな珠玉にしかず、牛馬かたち大なれども、人にしかず、いかほど広大なる国にても、下の国は下の国なり。狭く小さな国にても、上の国は上の国なり」
 
ことばは悪いのだが、まるで「馬鹿か、お前は」とでも言つてゐるやうだ。
 
ここで、これを一読していただいて、誤解が生ずることを恐れるのだが、ただ、人は何かと見た目やレッテルによつてのみ判断を下しがちであることをことごとしく述べたいわけではない。
 
そこのところの、宣長が生涯貫いたこころと精神を、小林秀雄といふ人は、文章をもつて見事に掬ひ上げてくれた。
 
―――――
 
●古傳(いにしへのつたへ)を外部から眺めて、何が見えると言ふのか。その荒唐を言ふより、何も見えぬと、何故正直に言はないか。宣長は、さう言ひたかつたのである。実際、「古事記傳」の注解とは、この古傳の内部に、どこまで深く這入り込めるか、といふ作者の努力の跡なのだ。
 
(『本居宣長 第四十二章』より)
 
―――――
 
こころと精神の眼で見たままのことを信じるには、その前提として、こころの柔らかさ、素直さ、敬虔さが要る。
 
次に、対象の外側をうろつき回つて証拠を集めて来ることに尽きるのではなく、ものの内側に勇気と愛情をもつて入り込め。
 
それなくして、いくら、ものごとを精緻に見極めたつもりでも、そのとき、そのこころの眼に映る像は、ぼやけ、歪み、時には何も見えない。
 
学問とそこに密かに脈打つ芸術のセンスは、「まごころ」をいかに育てて来たかが、たいへん重要なことであり、それなくして、人と人とは語りあへないものだといふこと。
 
そのことをまたしても考へさせられる。
 
多くの日本人には、そのセンスがいまだ脈打つてゐるやうに思はれてならない。
 
ただ、そのセンスは、時間をかけて磨いて行かなければ披かれない、といふ見識が、ここ何十年かの間に失はれて来てしまつてゐるといふことが危惧される。
 
この芸術のセンス「風雅(みやび)」の感覚を内に再び豊かに育み、外の世界に積極的に発信していきたいものだ。
 
 
 

ふみよみて 熱き血潮の わき立てり
いにしへびとの 大声聴こゆ

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2019年03月02日

『 をとめ と つるぎ 』第一回稽古


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『 をとめ と つるぎ 』、今日は第一回目の稽古でした。
 
集まつて下さつたおひとりおひとりのメンバーの想ひ。
 
それは、様々な色合ひの中で、ただ、新しく芽吹いて来た意欲の炎によつて、これからさらに鮮やかさと深さを増していくと思はれます。
 
特別な舞台装置も豪華な衣装もないかもしれない。
 
しかし、逆に、そっけないほどの設へであるからこそ、人のこころと精神のアクティビティを最大限に引き出すやうな、そんな舞台を創るのだ。
 
人とことば。
 
そして、ことばを語るかのごとく響き出づる楽の調べ。
 
ただ、それだけで、どれほど、豊かな世界を描き出すことができるか。
 
そんな「ことば」の可能性を世に問ふ作品を共に創り上げて行くチームです。
 
ひとりひとりが、すでに、それぞれに深い人生経験ととてつもない魅力を湛えてをられてゐます。
 
そんな皆さんが、ひとりの人として、ますますその人自身になりゆくやう、「ことば」の体現者となりゆくやう、稽古を共に重ね、共に時間を生きていきたいと考へてゐます。
 
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2019年03月01日

こころのこよみ(第46週) 〜想ひ起こす 源を〜


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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強め、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
「ひとり生み( eingeborne )」とは、何でせうか。
 
同じくシュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講にそのことばが出てきます。

かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」といふのは、父と母の血の混じりあひから生まれた者のこと、「ひとり生み」といふのは、そのやうな血の混じりあひから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、かうごうしい子のことだつたと。
 
ここで、この「ひとり生み」といふことばを深める必要があるやうに思ひます。
 
「ひとり生み」などといふことが本当にあり得るのか。
 
男と女が交はらずに、子どもが生まれて來ることなどあり得るのか。
 
キリスト・イエス伝説では、そのことが母マリアの処女懐胎として諾はれてゐます。
 
同じヨハネ福音書の冒頭に、こんなことばがあります。
 
「 ことば(ロゴス)、肉となれり 」
 
マリアに、「ことば」が宿つたのでした。
 
ことばとは、そもそも精神であります。
 
精神の伝へであります。
 
言霊(ことだま)であります。
 
精神が宿る場所は、人のこころです。
 
マリアは、精神を受け入れることのできる、清らかなこころの持ち主でありました。
 
さうして、実際に、肉体を持つた幼な子が、その精神を受け入れた女から生まれるといふことが、あり得る。
 
降りて來る精神が、あまりにも尊く強い力を持つものであればこそ、そんな常とは異なる化学反応に類するやうなことが起こり得る。
 
さういふ奇跡としか言ひやうがないことが、この世には起こり得る。
 
そのやうな「ひとり生み」によつて生まれて来た人のことを、我が国では何と呼んだのでせうか。

「覚者」、「善智識」でせうか。これらはきつと仏教からのことばですね。

柳田国男の『新たなる太陽』といふ文章の中で、「大子(おほいこ)、すなはち神の長子」といふことばも読むことができます。
 
または、逆に、「小さ子(ちいさこ)」と呼ばれる子どものことも、神の子として「桃太郎」や「つぶ長者」や「竹取物語」などのお話しでわたしたちに伝へられてきましたね。
 
きつと、我が国においても、「ひとり生みの子」「大い子」「小さ子」は、その存在を神秘の内に認められて来たのではないでせうか。
 
また、わたしたち凡庸なる者は、当たり前に、男と女の交はりによつて肉として生まれて来ます。
 
しかし、この「ひとり生み」は、精神的に、わたしたちの内において、わたしたちのこころにおいて、起こり得ないでせうか。
 
ある日、「ことば」を孕み、その「ことば」を出産するがごとく、外へと発する、そんな日が、ありはしないでせうか。
 
「ことば」とは、己れの清められたこころ(マリア)に、外なる太陽の精神(キリスト)が訪れ(※)、出会ひ、結びつき、新たな子(イエス)を産むがごとくして、世に放たれるものです。
 
「ことば」とは、そもそも、人をひとり立ちさせようとするものです。
 
そのひとり立ちする力が、春が近づいて來るこの時期、ぼやかされようとしてゐる。
 
己れを保つて、ひとり立ちできるやう、わたしたちは、意欲的に想ひ起こすことがたいせつな作業になつて来ます。
 
何を想ひ起こすのか。
 
それは、精神の深み、です。
 
精神の深みとは何か。
 
それは、自分よりも大きな存在があられるといふことです。
 
わたしたちは、想ひ起こすのです。
 
こざかしく、考へを弄するのではなく、自分よりも大きな存在と共に毎日を歩いていく、そのありがたさを。
 
そして、わたしたちは、みな、いつでも、己れのこころの内から新しくひとり生みの子を生み出すことができるといふことを。
 
 
 
世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強め、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
 
 
 
 
※マリアに宿つた精神のことについては、より精確に述べなければなりませんが、ここでは、記述が更に多量になることをはばかり、このやうな書き方をしてゐます。

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2019年02月28日

マリー・シュタイナーによる序文C


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話されることば、それは、そもそも、芸術です。
 
ことばそのものの内に潜められてゐる法則があります。
 
取り組む素材や対象に潜んでゐるその法則を知ること。
 
そして、その法則に沿ふことができる技量を身につけて行くこと。
 
それが芸術行為であることは、どの芸術分野においても共通のことであります。
 
それには、練習が要ります。
 
練習こそが、法則の知をもたらし、技量の練磨を促します。
 
では、言語・ことばに、どのやうな法則があるのか。
 
それを知性で述べ伝へることはとても難しいものですが、マリー・シュタイナーが見事に、芸術的に、言ひ表してくれてゐます。
 
わたしなりに原文から意訳をし、順序も入れ替えますが、載せてみます。
 
少し長くなりますが、文意を味はつてくだされば、幸ひです。
 
 
―――――――
 
●ことばの癒す力、魔法の力を感覚できる日が、きつと、やつて来る。
 
それは、気高い仕事である。
 
呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなし。それらは、まこと、気高い仕事である。
 
そのまことは芸術の線に相応し、その線は意欲の向きとして途切れてもならず、動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
そもそも、言語は流れる動きであり、内なる音楽に担はれ、彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
ことばの線、それは動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
その芸術としての線が、人を突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイアされ、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
その線がこわばつてはならない。間(ま)においてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひを取りこむ。
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
―――――――
 
 
ことばによつて己れを表さうとするのではなく、ことばそのものが表さうとしてゐるものを表す。
 
ことばを、客として、迎える。
 
そんな道をマリー・シュタイナーは述べてゐます。
 
 

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2019年02月27日

幼な子の息遣ひに耳を澄ませながら


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幼い子どもたちは、神秘的なお話しの時には、静かさの中、全身を耳にして、深く深くこころの境にまで入つて行く。
 
そして、楽しいお話しの時には、もんどりうつ位の喜びの中で、お話しを味はふ。
 
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グリム童話の『おいしいお粥』、柳田国男再録の昔話『鷲の卵』、『桃太郎』、歌舞伎十八番から『ういらう売り』・・・。
 
今日も、子どもたちの息遣ひに耳を澄ませながら語らせてもらふことができた。
 
ことばが、空間に弾んで、飛んで、溶け去つて行つた。
 
保育園の先生方も自分自身の語り方にだんだんと言語造形を取り入れてくれてゐて、とても頼もしいことだ。
 
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2019年02月25日

詩 『 をのこ と をとめ 』


中学生の
をのこ と をとめ 
池のほとりにふたりゐて
なにやら語らひ 佇みて
ふと をのこの 
見上げたるまなこの先には
あをきおほぞら
雲ひとつなく
 
ことばとことばを交はすだけで
まなことまなこをふと合はすだけで
 
その胸のときめき
その胸のたかなり
その胸のはばたき
 
いかに想ひの膨らまむ
いかに想ひの深まらむ
 
われひとり そばを通りて
思はず微笑まむ
思はずあをぞらを仰がむ
 
 


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2019年02月24日

こころのこよみ(第45週) 〜明るく灯される光〜


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平櫛田中作『活人箭』 

 
考へる力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへともたらす。
 
こころの満ち足りが
 
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
ルドルフ・シュタイナー 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
 
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。  
 
普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。
 
ひたすらに、そのやうな考へを安らかに精力的に考へる練習だ。
 
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまはないやうにするのだ。
 
その繰り返すメディテーションによつて、「考へる力」が強く鍛へられる。
 
その強められた考へる力によつて、己れのこころにそそりが及んできてゐるのがおぼろげに感じられるやうになる。
 
そしてさらに、だんだんとそのそそりがこころの中の何をそそつてゐるのか、明らかになつてゆく。
 
それが明らかになるほどに、こころは満ち足りを感じる。こころのなかに精神が生まれるからだ。
 
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
 
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
 
こころの満ち足りが世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
ひとりで考へる力は考へる光となつて、人と人のあひだで、人と世のあひだで、明るく灯されるのだ。
 
 
 
考へる力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへともたらす。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 


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マリー・シュタイナーによる序文B


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―――――――
 
●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
―――――――
 
人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。
 
自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。
 
「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。
 
言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。
 
その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。
 
さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。
 
頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。
 
それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。
 
その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。
 
さうしますと、人は、そもそもの自分自身に立ち返つてまいります。
 
麗(うるは)しいことではないですか。
 
 
 

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ゲーテ 人の人たるところを求めて


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先日、普遍人間学のクラスでの言語造形の時間に、ゲーテの『ファウスト』を取り上げました。
 
ゲーテは、東の人の生き方、世の捉へ方、宇宙観、すなはち精神的浪漫主義に、激しくこころを動かされ、その感動を19世紀初めのドイツに知らせようとしてゐるやうに感じられます。
 
ドイツ、そしてヨーロッパには、もうそのやうなこころが失はれてゐたがゆゑ。
 
ここでは、『ファウスト』とは別のものですが、詩の一部を挙げてみます。
 
声に出してみるならば、この『昇天のあこがれ』も、全身全霊で詠はざるをえない。
 
一篇の詩が、オーケストラの一団が奏でる響きに匹敵することがあるのですね。
 
 
 
『昇天のあこがれ』から
 
・・・
蛾よ おまえは
火に跳びこんで 身を焼いてしまふ
 
死ね そして 生まれよ
このこころを
わがものとしない限り
おまえは この暗い地上で
はかない客人(まらうど)に 
過ぎないだらう
 

 

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2019年02月22日

マリー・シュタイナーによる序文A


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―――――――
 
●人がみづからの己れを摑むまでの迷ひ道では、なほ人の源から遠く飛ばされようとも、ひとつの精神の絆、言語は、人にとどまつてある。
 
―――――――
 
 
わたしも、「みづからの己れを摑むまで」どれほど、迷ひに迷ひ、今から思ひますと、どれほど「人の源から遠く飛ばされ」てゐたことでせうか。
 
しかし、四十歳ごろにして、人は、己れを摑み始めます。
 
そのことは、孔子も「四十にして惑はず」と言つてをります。 
 
己れを摑むこと、そのとき、頼りになるのは、自分自身の話すことばの質です。
 
自分の話すことばを、練り直し始めます。
 
その年齢までは、自分を守り、囲んでくれてゐた「ことば」、わたしたちで言へば「日本語」があり、その言語が「一つの精神の絆」としてその人の人生に付き添つてくれてゐました。
 
ことばが、人を守つてくれてゐました。
 
しかし、四十歳を過ぎるころからは、人自身がことばをみづから己れのことばとして立てて行くことが、要求されるはずです。
 
ことばは、もう、人を守つてくれません。
 
人は、四十歳ごろから、社会の中でしつかりと自分自身を表現し、事物をしつかりと言ひ表すことができるやう、その精神の絆としてのことばをみづから練り直し始めるのです。
 
もし、この時期に、このことを逸しますと、いつまで経つても、自分の思つたことをそのまま口にすることで、人との關係性を壊し続けてしまつたり、逆に、思つてゐることがうまくことばにできなくて、これもまた人との關係性に支障が多々出て來ることになりかねません。
 
自分の話すことばが、ちゃんと自分の体重が乗つてゐるやうな、重みのあるものとなりゆくやう、自分自身を意識的に教育し始めていい時なのです。
 
また、自分自身が話したいことをそのまま話していい時期は過ぎ行き、聴き手である相手のこころを汲みとりつつ、ことばを選んで丁寧に話すといふことを学び始めていい時期なのです。
 
人は、ことばといふものがあればこそ、そのことばを通して、己れのこころをみづから教育していくことができます。
 
人といふものが、幾つになつても成長できる生き物なのは、「ことば」といふものを授かつてゐるからなのでせう。
 
 

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2019年02月21日

マリー・シュタイナーによる序文@


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『言語造形と演劇芸術』といふルドルフ・シュタイナーによる連続講演録があります。
 
その本の初版の序として、妻であり、仕事の上でのかけがへのないパートナーでもあつたマリー・シュタイナーが記してゐる「クリエイティブな言語」といふ文章の内容を少しご紹介したいと思ひます。(言語造形家 鈴木一博さん訳)
 
彼女は、ルドルフ・シュタイナーの最も近くにゐながら仕事を共にした人であり、言語造形といふことばの芸術をルドルフと共に産みだした人です。
 
―――――
 
言語に於いて人が人の神々しいところをつかむ。音韻がクリエイティブな力であり、人を人のみなもとに結び、人が精神への道をふたたび見いだすに任せる。音韻によつて人が動物の上に上がり、探りながらでみづからの<わたし>に立ちかへる。
 
―――――
 
言語とは、ことばとは、一体、何でせう。
 
印刷された文字のことではなく、音声として空気の中に響くとき、ことばは、そもそも、人を精神に繋ぐよりどころであります。
 
人がことばを話すとき、その人その人の声の響きに顕れるその人のこころと精神。
 
人は、そもそも、己れの精神からことばを発することができるといふこと。
 
人は、そもそも、ことばの精神に助けてもらふことで、初めて活き活きと話すことができるといふこと。
 
もし、声を発してことばを話すことを芸術的に学び始めたなら、人は予感するかもしれません。
 
これは、わたしが、これまでの人生とは全く違つて、どんどんクリエイティブになつて行く道だと。
 
勇気さへあれば、誰でも、この道を歩き始めることができるのだと。
 
言語は、神々しいものです。
 
音韻を追ひつつ、ことばを話すことを学んでいくことは、まさしく自分自身の源に繋がるといふことであり、自分がますます自分自身になつて行くといふことであり、動物的なこれまでのあり方から、ますます、人になりゆく道であるといふことです。

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2019年02月20日

高瀬陽子さん 『キリスト生誕劇 2018』の奇跡


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昨年暮れの『キリスト生誕劇 2018』に羊飼いのガルス役で出演した高瀬陽子さんが、感想文を書いたと言つて、A4用紙4枚もの分量の文章を今日わたしに手渡してくれた。 
 
「大空高く自由に飛べる」
 
本当に、本当に、素敵なことだと思ふ。
 
 
――――――― 
 
『キリスト生誕劇 2018』の奇跡   
2019.2.19. ガルス役 高瀬陽子
 
生誕劇を終えて、しばらくは余韻にひたっていた。いろいろなセリフが、日常のすきまに入り込んで、頭に浮かんでは、そのまま居座った。
 
やがて日常生活に慣れた頃、何か以前と違う感覚がする。ぼんやりとしているが、今までとは違う時間の流れるときがある。わたしの口から出ることばも頭でああだこうだと考えあぐねることが少なくなった。感じたことをそのまま話すことがラクにできるし、その方がうれしい。
 
『キリスト生誕劇』に出演しようと決意したのは、諏訪先生に「高瀬さんは表現したい人だ」と声をかけられたからだ。
 
忘れかけていた。わたしは舞台が大好きだった。ずっと心の奥に置き去りにしていた気持ちを思い出した。わたしの中のおさなごと出会いたい。何かにとらわれることなく、自由に思うまま感じるまま動きたい。
 
4月から始まった生誕劇の稽古。初めて会った人達なのに、どこか、なつかしささえある安心感に包まれる。稽古前のシェアリングのたびに、心に浮かぶ日々のわだかまりがするするとほどけていく。
 
ところが、ガルスのセリフが、なかなか覚えられない。相手のセリフと呼吸を共にする。やりとりの流れやタイミングにのれない。けれども、先生は「大丈夫だ」と言う。何がどう大丈夫なのか、わからないけれど、先生がそうおっしゃるのなら、信じて進もうと思った。
 
ことばとからだが一致しない。うちふるえ、あふれるような感情が出てこない。どこか引いてながめている自分がいる。わたしのおさなごは、すねてしまったのか。
 
娘がまだ小さい頃、「わたしは、わたしの応援団長になる。世界中の人がわたしを認めなくても、わたしだけは、たったひとりでも私を認める」と、自分に誓った夜があった。わたしは、わたしを好きでいたい。できないわたしも、言えないわたしも、がんばれないわたしも、すべてまるごと好きでいたい。
 
11月になっても、どんな劇になるか自信がなかった。生誕劇のチラシを誰に配ろうか。是非観に来てというには勇気がいった。でも、伝えるだけでも伝えようという気持ちになった。そして、「行けないけど、応援してるね」という友人の言葉に強い力をもらった。
 
ここだけでなく、前に出ていく。前に、前に。やがて、足の裏が感じられるようになった。確かに大地と地球とつながっている足がある。冷えきった体に血が通っていく。体に流れるあついものが感じられるようになった。
 
ホールでの舞台稽古。板の上に立つ。じわじわとわきあがってくるものがあった。
 
本番前日、共演者と息のタイミングがあわない。自分をさらわれたような不安感の中にいた。帰宅すると、20年ぶりに電話をくれた友人がいた。公演を観に来てくれるという。わたしの不安を話せた天の声だった。それからわたしの時間は、ゆったりと流れはじめた。
 
本番では、すべてを天にまかせた。頭の中で台本のページをめくらない。ただただガルスとして立つ。全身をつかって、ガルスのことばを相手に届けたい。
 
舞台袖には、歌の先生が両手を広げて一緒に動いて伝えてくれている。すべての人の力がこの舞台を動かしていると感じた。
 
歌のレッスンに入る前に、自分の名前にメロディをつけて歌うと、同じメロディで皆が呼応してくれる。初めてそれを聞いたとき、わたしのおさなごがとびはねた。
 
この生誕劇で、わたしはわたしの底力を実感した。道はひらく。やりたいと思ったことは、まず不安が先走ってしまったけれど、今は必ず叶うといえる。あくせく思いわずらうことはいらない。やれるだけやってみる。すべてを解き放って、大空高く自由に飛べるような気がしている。
 
終演後ロビーに出ると、「いいものをみせてもらった。よかったわ」と、あまり話さない友人はかみしめるように言った。
 
―――――――
 
 
2019年度生誕劇クラスのお知らせ ↓
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

2019年02月18日

言語造形を通して俳優術に迫る@

 
俳優にとつて、己れのからだは、その俳優によつて奏でられる楽器であるがゆゑに、わたしたちは、己れの「からだ」を親しく知つてゆくことを要します。
 
ピアノの奏者がピアノをよく知ることを要するやうにです。
 
どのやうな立ち方、歩き方をしてゐるのか、そのときに、足の裏のどの辺りに重心がかかりがちであり、膝をどう曲げてゐるのか、腕をどう動かしてゐるのか、等々、己れのからだを親しく観る必要があります。
 
そして、わたしたちは言語造形に勤しみながら、己れの声を己れみづからで聴くことができるやうになるまで、練習を重ねることを要します。
 
己れの発したことばが、どういふ形をもつて、どういふ動きをもつて、喉からすつかり放たれ、空気に響き渡つていくかを、感官をもつて、また感官を越えて、観ることができるやうに、練習されてしかるべきなのです。
 
昨日、『ことばの家 諏訪』で行つてゐます『普遍人間学の会』での言語造形の時間に、こんな話をさせてもらひました。
 
ーーーーーーーー 

ある役者がゐました。
 
彼は、見た目の姿も、声も、ほとんど役者には向いてゐませんでした。その彼が、演じる芸術について、かう述べてゐます。
 
「もしわたしが舞台にただ立つにまかせて立つてゐたとしたら、わたしは役者が務まらなかつたでせう。
 
からだは小さいし、猫背ですし、しわがれ声で、顔は不細工です。しかし、わたしはわたしなりにやつて来ました。
 
舞台でのわたしは、常に三人の人です。
 
一人は、小さく、猫背の、しわがれ声で、不細工な人です。
 
二人目は、猫背と、しわがれ声から全く抜け出してゐる人、まぎれなくイデ―であり、全く精神である人です。その人をわたしは常に前に迎えることになります。
 
そして、いよいよ三人目の人です。わたしは、さきの二人から抜け出し、三人目の人として、二人目の人と共に、一人目の、しわがれ声で、猫背の人をもとに演じます」
 
(ルドルフ・シュタイナー『演じるといふ芸術について』から)

 
 
ーーーーーーー
 

わたしたち、言語造形をする人は、この三つの分かちを、常に意識して舞台に立つことを修練していきます。
 
いつも格好よくあらうとする人、いつも美しくあらうとする人は、己れのからだについてなにひとつ諾ふことをしないゆゑに、己れのからだとの関わりの中で己れを知るといふことができません。
 
からだ、そして声、それは、わたしたちが己れみづからを知るためのたいせつなたいせつな元手なのです。
 
 
 

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小西 収さんによる『音楽テーゼ集』


小西 収 (小西収)さんが記されてゐる文集『音楽の編み物』。
 
ここに収められてゐる文章は、筆者が演奏者、指揮者、編曲者として音楽の内側に活き活きと入り込む何十年もの時間の中から生まれたもので、どれも非常に興味深く、含蓄と芸術的・哲学的示唆に溢れたものです。
 
とりわけ、十数年前に書かれた文章で、最近再録されたものである『音楽テーゼ集』。
 
これは、芸術に直接携わつてゐる者には、ジャンルの違ひはあれども、そこにはつきりとした共感を寄せうる記述の連続です。
 
思はず、さうさう、と膝を打ちながら喜悦の内に読んでゐます。
 
 
 
 テクスト=書物(本)は、
 文章の《存在以前の状態》の典型である
 
 楽譜=スコアは、
 音楽の《存在以前の状態》の典型である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)

 
 

さうなのです。
 
「文章の存在以前の状態」が、確かにあるのです。
 
言語造形といふことばの演奏は、テクストといふ元手(典型)を踏み台にしながら、その「文章の存在以前の状態」に歩み寄つて行く営みであります。
 
きつと、音楽を奏でる行為とは、楽譜を元手(典型)としながら、音楽の《存在以前の状態》へと踏み入つて行く営みです。
 
だからこそ、そこには、精神の自由が生まれ得ます。
 
 
 
 一つの音楽作品を編曲の対象としてみるとき、
 それには、微分方程式の一般解に相当するような、
 “原曲以前”の原初的側面がある
 
 (第五章「編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である」から)

 
 
この「“原曲以前”の原初的側面」は、作曲者本人でさへも意識してゐない可能性がある側面です。
 
よつて、文学作品も、作者本人に触知されてゐない精神の傳へを、演奏家である言語造形をする者が触知することがあり得ます。
 
なぜなら、音楽演奏も言語造形も、「音」と「ことばの音韻」といふ人が創り出したのではない、神が人に贈り給ひしものをその素材としてゐるからなのです。
 
その素材こそが、作曲者や作家の意図を越えて、ものを言ひ、演奏者や俳優は、その音の響きが何を伝へようとしてゐるかに耳を澄ますことが仕事であるからです。
 
 
 作曲者とて演奏する「私」にとっては他人である。
 ときには作者をも脇に置き、
 作品そのもののテクスト=楽譜を自分で読むこと
 ──それが、読譜の基本である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)




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2019年02月15日

詩 『 白き花 』 


年の初めにいただきし 白き花
ひと月なかばを経しのちも
机上にいまだ
みづみづしくあり
 
その花
贈れる人のこころを宿せり
 
われのこころに 白き花
ひと日ひと日を経しほどに
白きこころを
語りてあり
 
 

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『古事記』の芸術性 〜古事記朗唱大会にて〜


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先月、奈良でいたしました『古事記朗唱大会』での写真です。
 
『奈良県ようこそ』といふページで、その日のレポート記事の中で少し紹介していただいてゐました。どうもありがたうございます。↓ 
http://www.pref.nara.jp/dd.aspx?moduleid=99400&pfromid=25
 
この会は第六回目でしたが、かうして、『古事記』が現代人によつて高々と朗々と語られ、詠はれ、演じ続けられることは、とても貴重なことですね。
 
さらに、『古事記(ふることぶみ)』は、我が国の、世界の、芸術作品に於ける最高傑作のひとつだといふこと。
 
そのことを、わたしは世に問ふていきたいと考へてゐます。

明瞭なかたちある言語と芸術的な動きをもつて、古典作品を演じるとき、それは、必ず、現代に活き活きと通じるものになる。

なぜなら、古典作品は、その原型のままで、非常に優れたスタイルがあるから・・・。

そのスタイルを尊んで、かつ、新しい息吹きを吹きこんでいく作業でした。

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幼な子はわたしたちの先生

 
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赤ん坊や幼い子どもを前にするとき、わたしたちは微笑ましい思ひや、ときにあらたまつた思ひに一挙に包まれはしないでせうか。
 
そして、思はず微笑んだり、その子に話しかけたりしたくなります。
 
あの独特の感覚。
 
その感覚を意識的に大事に保ちながら、子どもに昔話を語りかけたり、絵本を読んで聴かせたりするとき、語り手のわたしたちは、逆に子どもたちから、「語る」といふ行為とはどういふ行為であるのかを学ばせてもらつてゐます。
 
そして、さらに、あらためて感じられることは、その時期の子どもたちの成長にとつて要となるものは、動きなんだといふことです。
 
子どもたちはお話や歌のことばが分かる、分からないよりも、そのことばに合はせて、内的にも外的にも、動くことができるかどうか。
 
動きのあることばが、子どもたちの傍にゐる大人たちによつて話されてゐるか。
 
それらのことが、ことのかなめなのです。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、動きに裏打ちされてゐてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。
 
ことばといふものを通して、この時期は、すべてのものが、生きてゐる、動いてゐる!
 
わたしも僕も、みんな生きてゐる、動いてゐる!
 
そして、ことばといふものも生きてゐる、動いてゐる!
 
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。
 
ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、大人のやうに静かにして聴いてゐるのではなく、動きの中でこそ、動きによつて生まれるバランス感覚の中でこそ、育まれます。

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もちろん、大人でさへも、何かに一心に耳を傾けてゐるときには、からだは動かさずとも、内側を動かしてゐます。
 
シュタイナーは、「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声してゐます。それは内なるオイリュトミーなのです」と語つてゐます。
 
その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。
 
しかし、子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。
 
外的に動くときは、できるだけ、調和のとれた動き、かたちある動き、かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すやうな動きに導いていくことができたら、素晴らしいですし(ライゲンやお話ごつこも工夫すると素晴らしいものになります)、羽目をはづした子どもたちの動きにも、「座りなさい、静かにしなさい」といふことばではなく、そのつどそのつど、芸術的に対応して、ことばの裏側にある動きを通して、子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。
 
幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育つた子は、小学校に入つてから、今度は自分から動きのあることばを使ふこと、話すことができるやうになつていきます。
 
言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。
 
さういつた、言語にとつて、人にとつて、いのちを湛えるありやうとはどのやうな語り方をすればいいのか、それを、幼な子たちは、大人であるわたしたちに教へてくれます。
 

 
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2019年02月14日

詩 『 この一夕(いつせき) 』

 
音から音へと
 
ひたすらに ひたすらに 追ひかけて行く
 
そのとき
 
向かうから
 
何かが訪れる
 
前もつてこざかしく
 
テーマを決めたりはしない
 
訪れるものを信じる
 
聴こえて来るものを信じる
 
その信頼が
 
ことばの
 
音楽の
 
ミューズに祝福された共同体を

創る
 
・・・・・
 
そんなことを語り合ふ一夕
 


 

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2019年02月13日

言葉の工夫

 
言霊(ことだま)とは、人がことばに触れて、こころが動かされるとき、誰もが当たり前に感覚してゐる、言語の精神の働きのことを言ひます。
 
ことばと、こころが接触する空間に、立ち上がり、拡がつて来る、あるかたち、動き、色彩、それら言霊の働きを丁寧に迎へ、聴き取り、見て取り、取り扱ふのが、わたしたち言語造形をする者です。
 
さて、小林秀雄の『本居宣長』は、何度、再読しても、そのたびに、こころが唸るやうな、ときに、晴々とするやうな、そのやうな手応えを感じさせてくれる日本文学の最高峰の書だとわたしは常々感じてゐます。
 
その第三十四章に、かうあります。
 

●「言霊」といふ古語は、生活の中に織り込まれた言葉だつたが、「言霊信仰」といふ現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのままに認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智恵だつたので、特に信仰と呼ぶやうなものではなかつた。(昭和五十二年発刊版 422頁)
 

「言霊信仰」などと言ひつつ、机上の精緻な学問体系を作り上げるのではなく、自分が発したことばが、いかに、他者に深刻に働きかけることがあるかといふことであつたり、他者が発したほんのちょつとのひとことで、己れのこころがいかに激しく揺さぶられてしまふか、といふ当たり前のことに、古代の人々は当たり前に気づいてゐた、といふことなのです。
 
言語造形といふ芸術を生み出したルドルフ・シュタイナーも、そのやうな、一音一音の精神的な性質、精神的な背景を説いてゐますが、ややもすれば、さういふ机上の理解だけで尽きてしまふ「空理」を振り回すことの馬鹿らしさを彼もきつと痛感してゐて、生き物としての言語の芸術的働きを見失ふことは決してありませんでした。
 

●天も海も山も、言葉の力で、少しも動ずる事はないが、これを眺める人の心は、僅かの言葉が作用しても動揺する。心動くものに、天も海も山も動くと見えるくらゐ当り前なことはない。(422頁)
 

山の動く日。それは、到底動くはずのなかつた、このこころが、ことばによつて、揺さぶられ、動かされてしまつたとき、目の前の山も動く日が、現にあるのです。その感覚を、通常の散文的理解と取り違へることは、古代人にも決してなかつたことでせう。
 

●天や海や山に、名を付けた時に、人々は、この「言辞(ことば)の道」を歩き出したのである。天や海や山にしてみても、自分達を神と呼ばれてみれば、人間の仲間入りをせざるを得ず、其処に開けた人間との交はりは、言葉の上の工夫次第で、望むだけ、恐しくも、尊くも、豊かにもなつただらう。(422頁)
 

言語造形とは、かうした「言葉の工夫」です。
 
工夫次第で、人は、ものごととの関係をいかやうにも深くしていくことができるのです。
 
 

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詩『 原動力 』

 
空の向かう側から見ると
わたしなどは
滞りなく動く予定調和の中にゐて
繭の中でぬくぬくと
もがいてゐるにすぎぬ
 
しかし
この繭をみづから荷ふこころ意気
我が内にありやなしや
 
この繭は果たして
大いなる世
 
予定を予定通りに
内から運ぶ
その原動力こそ
ありがたし
 

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2019年02月11日

和歌の浦 『山月記』ありがたうございました


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和歌の浦での『山月記』言語造形公演、終了しました。
 
同じ作品を何度も再演させていただけることの仕合はせを感じます。
 
全身で聴く文学の面白さ、奇怪さ、躍動感、質実さ、などなど、五感以上の感官をフルに使つて感じる一時間半。
 
初めて言語造形の舞台に触れる小・中学生も、繰り返しこの舞台を味はつて下さる方も、共に、この言語造形といふ精神の世に触れる芸術の世界を楽しんで下さつたやうで、とてもありがたい思ひで大阪に帰つて来ました。
 
終演後の皆さんとのシェアリングの時間も、この上ない充実感に満ちたものでした。
 
また、今回の舞台創りは、やはり、言語造形といふことばの芸術のなんたるかをこころから理解し、かつ、己れの最大限の技量を発揮して下さることのできる音楽家、小西 収 (小西収)さんあつてのものでした。
 
小西さん、どうもありがたうございます。
 
この芸術のために、こころを籠めて舞台を用意して下さつた
親子えんげき塾 ことばの泉の皆さん、そして足を運んで下さつた皆さんに、こころから感謝いたします。
 
日本文学を、かういふ生きた舞台芸術として甦らせたい一心です。
  
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また、聴きに来て下さつた方々が観劇記を書いて下さり、フェイスブック上でも記事を書いて下さつてゐます。
 
本当にありがたいことです。

――――――――

●酒井千晴さんブログ
https://note.mu/okagesam/n/ne29a3d05aa83
 
――――――――
 
●Mitteの庭
 
山月記、和歌の浦公演。
 
この作品のすごさ、
言語造形のことばの力、
クラリネットの音楽の奥深さを
全身で感じた時間。
なんて贅沢な時間。
 
芸術が命を与えられて
より一層、輝く。
 
その精神の力が、
私たちの心を惹きつけ、
ことばにできない
感動を残していく。
 
この感動はなんなのか。
 
皆、そんな素敵な問いを
持って帰っていった、
山月記公演でした。
 
―――――――― 
 
聴く人、観る人の精神のアクティビティーと、演じる者、奏でる者の精神のアクティビティーが出逢つてこそ、芸術の場にかうごうしいものの存在を感じることができます。
 
わたしはそのやうな存在を、「言霊の風雅(みやび)」「言語の精神」と呼びます。


どうもありがたうございました。

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2019年02月10日

詩 『 約束 』

 
わたしはいまだわたしではない
わたしはわたしになりゆく
これは熱を伴ふ希みである
 
この希みはいづこより来たるか
それは
最も遠く 最も眞近にて交はされた
約束から来てゐる
わたしはわたしである
わたしはある といふ約束
 
この約束は夜に交はされてゐる
 
夜よ
朝(あした)と重なれ
 
約束はつねに念ひ起こされ
希みは熱を伴ふ
わたしはいまだわたしではない
 

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教師のための言語造形


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息遣ひ、ひとつで、こんなにも音読・読み聞かせの質が変はる!
 
昨日は、『教師のための朗読の会』と題して、小学校の教師をしてをられる方々にそのことを、とくと、体験していただきました。
 
教師の方々が、「そもそも、ことばとは芸術なのだ」といふ感覚をもつて、子どもたちの傍にゐることで、どれほど子どもたちの聴く力が育まれることでせう。
 
その力は、子どもたちの中で、想ひ描く力、考へる力となりゆき、やがて、借り物ではない、自分自身のことばを話すことができる力、書くことのできる力、つまり、自分自身を過不足なく表現できる力へと発展していきます。
 
ルドルフ・シュタイナーから生まれたことばの芸術ですが、シュタイナー学校やアントロポゾフィーに関心のある人といふ狭いところに留まるのではなく、多くの、多くの、方々に、ぜひ体験してもらひたい。
 
学校の先生たちに、言語造形を身をもつて知つていただく機会をこれからも作つていきたいと思ひます。
 

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2019年02月09日

京の旅 貴船から上賀茂、下鴨へ


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水上(みなかみ)ゆ ゆく水ながし すがすがし
貴船上賀茂 みやこにそそぐ
 


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あまがけて 八雲立つかな くらまやま
温泉(いでゆ)の里に ゆけむり立ちぬ
 


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ほとばしる いのち満ち潮 はぜしのち
浜引く潮は 安らかなりけり
 


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こころのこよみ(第44週) 〜考へつつ創りなす意欲〜


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新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
2月もだんだんと半ば近くになり、空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
 
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐることを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
 
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
 
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
 『人』とするものが流れ込んでくる」
 
(『人の生きることにおける、
  引き続くことと繰りなすこと
  1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
 
そして人は、自分の周りの事柄に対しては智識を増やしてはいつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
 
人といふものが、そして自分自身こそが、ひとつの謎になつてきたのだ。
 
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
 
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人のもつとも内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
 
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
 
わたしたちは、2月の明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点からも、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。
「わたしは、そもそも、精神の人である」と。
「<わたし>は、ある」と。
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
 
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなき考へる力を内において繰りなしてきた。
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなき考へる力となる。
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなき考へる力において、自由になりうる。
 
外の世の命の繰りなし、出来事の繰りなしに、内の世の繰りなし、意欲的に考へることを重ねることによつてこそ、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
 
 
 
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 

 
写真は、上賀茂神社内

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2019年02月07日

家庭での語りB 〜両親の問診時間〜


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家庭の中で、お父さんとお母さんが語りあつてゐる。
 
日頃の気にかかつてゐることから、お互いの最も大事に大切に考へてゐること、そして自分自身が抱えてしまつてゐる痛みや苦しみまで、ことばにしようとしてゐる。
 
何気なく過ぎていきがちな日々の暮らしの中に、そのやうなことばを交わしあふ時間を持たうとする意識。努力。習慣。
 
そんな大人の男と女の対話の時間に、思春期を迎えてゐる若者が加わることができるなら。
 
そこは、大人の言い分を無理矢理押しつけられる場ではなく、大人も若者も、各々感じてゐること、思つてゐること、考へてゐることを、ことばにする練習をし、それを聴きあふ場であるといふこと。
 
もう、お父さんもお母さんも、独自の役割を担ふといふよりは、ひとりの大人とひとりの大人としていかに向きあふことができるのか。
 
そんなことを、日々若者と共に探つていく場が、家庭です。
 
家庭での語らひが、どれほど子どもの国語力を育て、どれほど、こころと精神の関はりを深めるか。
 
子どもの成長にとつて、どれほど創造的なことか。
 
本当に大事なことです。

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家庭での語りA 〜両親の問診時間〜


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子どもがこの世に生まれてきて、その子どもにとつて、まづもつての大切な存在は母親でした。
 
ところが、小学生中学年から高学年になつてくるにつれて、子どものこころの中に、最も大切だつた母親の存在感に変化が生じてきます。
 
どのやうな変化か、それは、子どもひとりひとりで違つてくるのですが、ただ、子どものこころの中にはその変化に対する戸惑ひのやうな感情が拡がつてきます。
 
そんなとき、いよいよ、父親の出番が巡つてきます。
 
父親が、子どもに、母親のことを親しく語つてあげる。
 
お母さんは、こんなこと、あんなことを毎日してくれてゐるね・・・。
 
お母さんはああ言つたけれども、本当はかういふ気持ちだとお父さんは思ふよ・・・。
 
お母さんの好きなケーキは何だと思ふ?
  
子どもにとつて存在してゐるのがあまりにも当たり前のお母さんといふ存在を、お父さんが改めて親しくことばで描き出してみる。
 
そんなお父さんによる語りが、子どもの内側に新しい母親像をもたらします。
 
それは、子どものこころに、父性と母性の結びとして深く印づけられます。
 

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2019年02月05日

家庭での語り@ 〜両親の問診時間〜


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お父さんが仕事で忙しくて、滅多に家にゐない、ゐたとしても夜中遅く帰つてきて、子どもたちやお母さんとゆつくり話す時間などない、そんな家庭が少なくないのではないでせうか。
 
そんなとき、できるなら、お母さんはお父さんのことを子どもに話してあげてください。語つてあげてください。
 
お父さんは頑張つて仕事をしてゐるよ、お父さんがあなたたち子どものことをこんな風に話してゐたよ、あんな風に話してゐたよ、お父さんはこんなこと、あんなことが好きなんだよ・・・。
 
そのやうにお父さんのことを語つてあげることで、子どもは目の前にはゐないのにもかかはらず、お父さんのことをまざまざとこころに描くことができます。
 
子どもに、父なる存在、父性といふものがしつかりとありあはせるやうになります。
 
ことばによつて存在を描き出す。
 
その働きは、人の成長にとつて随分と大きな働きをなします。
 

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2019年01月31日

かたちを求める幼な子たち


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昨日、保育園にて、絵本『ごぶごぶ ごぼごぼ』の読み聞かせをやつてみました。
 
子どもたち、かういふ絵本、大好きなんですね!
 
保育士さんの腕に抱かれてゐる0歳児の子どもたちまで、ずつと惹きつけられて聴いてゐました。
 
まさに、言語造形を引き出す絵本なのです。
 
深い息遣ひから生まれる間(ま)と、ことばの音韻の一音一音の造形。
 
かういふ、「深い息遣ひと、かたちあることば」を、幼な子たちは、からだまるごとで欲してゐます。
 
なぜならば、その年頃の幼な子たちは、己れのからだを形づくつてゐる最中なのですから。
 
世に「かたちあるもの」を求めてゐるのです。

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こころのこよみ(第43週) 〜考へる力から内なる炎へ〜


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カスパー・ダヴィット・フリードリッヒ「Abtei im Eichwald」

 
冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖められ、
 
世の現はれに、
 
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
人の内なるこころの炎だ」
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
  
 
 
「世の冷たさ」とは、つまるところ、「己れの冷たさ」ではないか。
 
己れの内なる利己主義、寂しさ、悲しみ、怒り、それら様々の感情から必然的に織りなされてきた、我がこころの冷たさではないか。
 
我がこころの冷たさが、おのづと、その合はせ鏡のやうに世の冷たさとして外から己れに向かつて迫つて來る。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、人の内なるこころの炎だ」と今週の『こころのこよみ』にある。
 
この『こよみ』に沿つて生きてみようとするならば、要(かなめ)は、己れの内なるこころの炎をどのやうにしたら燃え上がらせることができるか、といふことになる。
 
わたしの個人的な感覚だが、他者に期待し続けてばかりゐるやうなあり方では、いつまで経つても、こころの炎は燃え上がらない。
 
この冬の深みにおいて、わたしたちは、他の季節におけるより、ずつと深く、熱く、考へることができる。
 
己れだけが知つてゐる、己れだけが信じてゐる、理想といふ考へを、いま一度、熱く、想ひ起こすのだ。
 
さうすることで、こころの炎が燃え上がりはしないか。
 
その炎こそが、己れの内なる冷たさを溶かしはしないだらうか。
 
ためいきや諦めや失望が、霧消していかないだらうか。
 
寂しさや悲しみや怒りが、暖かな希みと熱い念ひに、生まれ変はらないだらうか。
 
わたしは、己れの考へる力を、信じてゐる。
 

 
冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現はれに、
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎だ」
 

 
 


posted by koji at 19:18 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする