2021年04月05日

いかにして人が高い世を知るにいたるか読書会 はじまりました☺



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昨晩は、参加して下さつた方々のお蔭で、第一回目「一冊の本が師であること」をテーマにして、暖かく、優しい時間を創ることができました。まこと、こころより、こころより、感謝いたします。


かうして第一回目を始めることができましたが、もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


きつと、メディテーションへと向かふアントロポゾフィーのリズミカルな学びの生活へと、新しく入つて行くことが始まります。


毎週日曜日の夜、一時間の学びの共同体を創りつづけて参ります。


●日程
2021年4月から毎週日曜日 午後8時〜9時
(5月2日、8月29日はお休み)


●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    



鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。  




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2021年04月04日

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜



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滋賀県大津市の建部大社の八重桜


世の広がりから、
 
陽が人の感官に語りかけ、
 
そして喜びがこころの深みから、
 
光とひとつになる、観ることのうちに。
 
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
 
考へが空間の彼方へと。
 
そしておぼろげに結びつける、
 
人といふものをありありとした精神へと。
 
 

 
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
 
 
 
 
自分自身のこころが、光とひとつになり、喜びが溢れだす。
 
 
陽の光(外なる自然)と、こころの光(内なる自然)が、ひとつになる。
 
 
春とは、そもそも、そんな己れのありやうを観ることのできるときだ。
 
 
ものをぢつと見る。ものもぢつとわたしを見てゐる。
 
 
ものをぢつと、見つめるほどに、ものもわたしに応へようとでもしてくれるかのやうに、様々な表情を見せてくれるやうになる。
 
 
そんな、わたしとものとの関係。
 
 
それは、意欲と意欲の交はりだ。
 
 
その交はりのなかに、ある集中した静けさが生まれる。


その静けさが、わたしのこころを喜びと共に空間の彼方へと拡げてくれる。


とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考へ。


だが、光と共に春に息づく何かを、ぢつと見ること、ぢつと聴くことで、静けさと共に、喜びが生まれてくる。


その静かな喜びがあればこそ、自分なりの考へ方、感じ方といふ、いつもの己れの被ひを越えて、こころを拡げてゆくことができる。
 
 
それによつて、新しく、生まれ変はつたやうなこころもち。こころの甦り。わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
 
 
そして、ありありとした精神は、そこに。
 
 
生活を新しく開く鍵は、すぐ、そこに。
 
 
しかし、まだ、こころはしつかりと、その精神と結びつくことができない。
 
 
ことばといふ精神が降りてくるまでには、聖霊降臨祭(復活祭の50日後)を待つこと。
 
 
いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。
 
 
そんな己れのありやうを観てゐる。


一行目の「世の広がり」とは、同時に、「〈わたし〉の広がり」であり、三行目の「こころの深み」とは、同時に、「世の深み」でもある。


アントロポゾフィーの『こころのこよみ』の第一週目は、世と〈わたし〉とをひとつにし、「広がり」と「深み」とをひとつにする、人のこころのありやうを描いてゐる。


そのこころを導く「考へ」は、ひとりの人として身をもつて立つ「ここ」から、「彼方へと」拡がりわたる方向性を持つてゐる。


そんな己れのこころのありやうを生きることから、この『こころのこよみ』の学びを始めて行くことができる。

 
 
 
 
 
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。

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2021年04月02日

この本の翻訳について〜オンライン読書会「 いかにして人が高い世を知るにいたるか 」〜


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まづ、はじめのページに、翻訳者である鈴木一博さんによる「訳について」といふ但し書きのやうな文章があります。


その中で、精神の学びにおいて、わたしが最もたいせつに思へることを、ここで挙げさせてもらひたいのです。


それは、日本語に翻訳する時、ことばを四角四面な抽象的で静的なものとせずに、シュタイナーが書き記した原文・原語に倣つて、できうる限り、読む人の意欲を働かせるやうな具象的で動きを持つことばを用ゐるといふことです。


それは、動詞を意識して用ゐるといふことでもあります。


その動詞の動きは、人が日々の暮らしの中で当たり前にしてゐる動きです。


たとへば、「人間の進化の過程」といふ言ひ方をせず、「人の育みを巡るもの」とします。「進化」ではなく「育み」です。「過程」ではなく「巡るもの」です。


この本の題名にしても、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」とせずに、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』とします。「認識」ではなく「知る」です。「獲得する」ではなく「いたる」です。


この言ひ方自体は、逐語訳なので、少し奇異な感じをもたらすのですが、使はれてゐることば、「育む」や「知る」などは、親しみのある、馴染みのあるもので、わたしたち日本人が、当たり前に使つてゐる日本語です。


つまり、ことばのひとことひとことの動きをからだで感覚しながら、読み進めて行く、このことがアントロポゾフィーにおける読書の眼目なのです。


本を読むときに、この「動き」を書き手と共にするのです。


それは、考へる働きに、欲する(意欲の)働きを注ぎ込んで行くといふことです。


とくにこの本においては、その考へると欲するの重なり合ひによつて、情(感じる)が立ち上がつて来ます。


だから、声に出して訓むことから、情と意欲の育み、こころの育みにおける次なる一歩が促されるのですね。


毎週毎週、日曜日の夜、一時間、共に、声に出してこの本を訓み続け、読み重ねて行きませんか。



講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji



『 復活祭の日(4/4)から始める
  毎週日曜日の夜のオンライン読書会
「 いかにして人が高い世を知るにいたるか 」のお知らせ 』



●日程
2021年4月4日から毎週日曜日 午後8時〜9時
(5月2日、8月29日はお休み)



●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    



鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。

  

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2021年04月01日

ひとり立ちの歌 〜岬 山村暮鳥〜





岬 山村暮鳥

岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指。

   (聖三稜玻璃 1915年 人魚詩社)



この詩に向き合ふとき、我がこころは洗ひ浄められます。


こころに、ひとり立ちすることを促してくれます。


考へや思ひをよそよそしく独り歩きさせず、他の誰でもない、この〈わたし〉が考へるのだ、といふ明るく澄んだ意識をもたらしてくれます。


国語の美は、人をひとりの人にするべく、その人に働きかけます。


ことばとは、そもそも、人に美の感覚を伝へるべく、この世に生まれました。


美とは、人に精神の世を想ひ起こさせてくれるものです。


ことばの美を湛えた詩は、人を精神へと導かうとするのです。


詩人は、そのことを憶えてゐるのでせう。



精神のまなざしを注ぐ テオゾフィー



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いま、花盛りの桜は、多くの人からまなざしを注がれて、喜びの香芬を放つてゐるのが、ありありと感じられますね。


まなざしを注がれる、意を注がれることによつて、桜だけでなく、ものといふもの、人といふ人は、こころと精神が満ち足ります、湧き立ちます、甦ります。


なぜなら、意を注がれるといふことは、愛されるといふことだからです。


「見る」といふ行ひは、「愛でる」から繰りなして来ます。人は、そのものを「め」でようとするから、そのものを「み」ますし、愛してゐないものは、そもそも、見ようとしません。


そして、その「見る」は、なにも、肉の目でもつて見るとは限りません。


たとへ肉の目で見なくても、こころの目、精神の目をもつてまなざしを注ぐほどに、注ぐ〈わたし〉だけでなく、注がれたもの、注がれた人は甦ります。


そして、その甦りは、場の雰囲気を一変させます。和やかで、安らかで、そこはかとなく愛が通ひ出すのが感じられます。


そのことをありありと教へてくれる本を、何十回目でせうか、今また、読んでゐます。


ルドルフ・シュタイナーの『人と世を知るということ テオゾフィー』です。


肉の目に見える世だけでなく、こころの世、精神の世が、いま、ここに、ありありとあるのだといふことを、ありありと想ひ起こさせてくれるだけでなく、ありありと感覚することへと導く本です。


本を読むことで、そのやうなこころから精神へと昇りゆく道筋が、そして、精神からからだへと降りゆく道筋が、少しづつ啓けてくる。


そんな本であることを、今日も、ひしひしと感じながら、ミスタードーナツでたくさんのお母さんと子どもたちに囲まれながら、勉強してゐました。



※ご関心のおありになる方は、どうぞ、鈴木一博訳のものをお手に取つて読んでみて下さい。本は、ことばの使ひ方が、ものを言ひます。https://www.dokkoiii.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E8%B3%BC%E5%85%A5%E5%B8%8C%E6%9C%9B/

2021年03月31日

精神のまなざしを注ぐ テオゾフィー



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いま、花盛りの桜は、多くの人からまなざしを注がれて、喜びの香芬を放つてゐるのが、ありありと感じられますね。


まなざしを注がれる、意を注がれることによつて、桜だけでなく、ものといふもの、人といふ人は、こころと精神が満ち足ります、湧き立ちます、甦ります。


なぜなら、意を注がれるといふことは、愛されるといふことだからです。


「見る」といふ行ひは、「愛でる」から繰りなして来ます。人は、そのものを「め」でようとするから、そのものを「み」ますし、愛してゐないものは、そもそも、見ようとしません。


そして、その「見る」は、なにも、肉の目でもつて見るとは限りません。


たとへ肉の目で見なくても、こころの目、精神の目をもつてまなざしを注ぐほどに、注ぐ〈わたし〉だけでなく、注がれたもの、注がれた人は甦ります。


そして、その甦りは、場の雰囲気を一変させます。和やかで、安らかで、そこはかとなく愛が通ひ出すのが感じられます。


そのことをありありと教へてくれる本を、何十回目でせうか、今また、読んでゐます。


ルドルフ・シュタイナーの『人と世を知るということ テオゾフィー』です。


肉の目に見える世だけでなく、こころの世、精神の世が、いま、ここに、ありありとあるのだといふことを、ありありと想ひ起こさせてくれるだけでなく、ありありと感覚することへと導く本です。


本を読むことで、そのやうなこころから精神へと昇りゆく道筋が、そして、精神からからだへと降りゆく道筋が、少しづつ啓けてくる。


そんな本であることを、今日も、ひしひしと感じながら、ミスタードーナツでたくさんのお母さんと子どもたちに囲まれながら、勉強してゐました。



※ご関心のおありになる方は、どうぞ、鈴木一博訳のものをお手に取つて読んでみて下さい。本は、ことばの使ひ方が、ものを言ひます。https://www.dokkoiii.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E8%B3%BC%E5%85%A5%E5%B8%8C%E6%9C%9B/

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こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜



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春の吉野川



こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
 
美が場の広がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。
 
 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
 
ものをぢつと観る。ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。そのとき、こころの深みが動く。こころの力を振り絞つて、そのものとひとつにならうとするとき、わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
 
眼といふものは、実は腕であり手なのだ。
 

何かを観るといふ行為は、実は手を伸ばしてその何かに触れる、もしくはその何かを摑むといふことなのだ。
 
 
そのやうな見えない腕、見えない手が人にはある。
 
 
何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為だ。
 
 
おほもとに、愛があるからこそ、する行為だ。 
 
 
 
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
          柿本人麻呂 (萬葉集0037)
 
 
  
そのやうにして、アクティブに、腕を伸ばすがごとくにものを観たり、自然の響き、音楽やことばの響きに耳を澄ますとき、方向で言へば、まさに上から、天から、そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、それでも繰り返し、繰り返し、ことばがありありとしたものになるまで、美が立ち上がつてくるまで、ことばに取り組んでゐるうちに、また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
 
精神である人は、みづからのこころとからだを使つて、ぢつと観る。聽く。働く。美を追ひ求める。
 
 
そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。
 
 
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
 
場の広がりの中で、人と世が美を通して出会ひ(横の出会ひ)、精神との交はりの中で、人と天が生きる力を通して出会ひ(縱の出会ひ)、その横と縱の出会ひが十字でクロスする。


十字架を生きる。
 
 
そこで、『こころのこよみ』は、この第52週をもつて一年を終へ、甦りの日(復活祭)に臨む。
 
 

 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が場の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
 
 



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2021年03月30日

新学期を迎へる今


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平櫛田中作「第一歩」



昨年、書いたものなのですが、今年、一層、自分自身にこれらのことばを投げかけてゐます。


『新学期を迎へる今』 


天地(あめつち)の初発(はじめ)の時
高天原(たかまのはら)に
なりませる神の御名(みな)は・・・


この文から『古事記(ふることぶみ)』は始まります。


日本の神話では、天地の初めといふもの、それは、いまのいまのことである、と教へてきたやうに思ひます。


それが『古事記』が伝へる、思想であり、精神的感覚です。


古(いにしへ)は今にあり、今に古がある。


つねに、初めに還る、永遠(とこしへ)といふ循環の思想です。


さあ、新しく勉強を始めよう。新しく稽古を始めよう。新しく仕事を始めよう。


学校が新学期を迎へられるのか、どうか、勉強を始めるのに、そんなことはどうでもいいことなのです。


自分自身から始めていきませう!




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2021年03月26日

ありがたうございました!京田辺クラス「おとない会」第一回発表会



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今日、明るい陽射しと春の息吹きと共に、桜の花のやうなふくよかな日本語による昔話の花が咲きました。


聴きに来てくれる子どもも大人も、わたしたちのことばの息遣ひに、様々な恐れや鬱屈の情などを吹き飛ばす、そんな時間になれば、との希ひでした。


皆の前に立つて発表したひとりひとりのメンバーも、ことばを全身全霊で発する魅力と共に、その難しさ、そして何よりも、新しい自分自身を見いだされたことと思ひます。


暗雲を吹き飛ばすやうな、ことばの芸術の魅力を、これからもどんどん発表して行く機会を作つて、多くの子どもたち、大人たちに、元気と芸術の豊かさをもたらして行かう。


さう、メンバー同士で語り合つて、お開きにしました。


幸魂塾のお二人、そしてメンバーのみんな、そして今日、来て下さつた皆さんに、こころからの感謝をいたします。


かういふ時間を持つことができて、本当に嬉しく、ありがたいです。

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2021年03月23日

復活祭の日(4/4)から始める毎週日曜日の夜のオンライン読書会



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復活祭の日(4/4)から始める
毎週日曜日の夜のオンライン読書会
「いかにして人が高い世を知るにいたるか」
(ルドルフ・シュタイナー)のお知らせ


鈴木一博氏訳のこの一冊の本を、毎週、親しく、読み続けて行きます。


そこに書かれてあることを、丹念に、毎週、こころに滴らせて行きます。


それは、こころの情といふ大地を耕します。


やがて、「この箇所ではこの情、かの箇所ではかの情」が、こころに息づくやうになります。


その情が、こころに〈考へ〉の種を宿し始めます。


わたくし諏訪耕志が、その手引きをさせてもらひますね。


この、こころを耕して行く学びを、この春の精神の甦りの日(復活祭の日)から、共に始めて行きませんか。


その共なる学びは、やがて、オンラインでありながらも、精神の社(やしろ)づくりとなるでせう。


アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」 諏訪耕志




●日程
2021年4月4日から毎週日曜日 午後8時〜9時
(5月2日、8月29日はお休み)



●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    



鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。  

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植物を通しての瞑想



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わたしが花をじつと觀てゐるとき、花もじつとわたしを觀てゐます。


花の内に、神さまがをられると仮に想像してみます。


さう、花の神さまは、人にじつと観られるのを待つてゐる。


「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうです。


松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことでありました。


中世以前、古代においては、人が神を待つてゐました。


しかし、いま、神が人を待つてゐる。


わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。


植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在です。


しかし、植物は、人から愛をもつて働きかけられるのを待つてゐる。


さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐる。


人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきました。


とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐるのではないでせうか。


それは、表だつて言挙げされはしませんが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものです。


落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉




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滋賀県草津市「いかに人が高い世を知るにいたるか」の会へのご案内



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わたし自身、ずつと、こんな問ひを抱き続けてゐます。


「このわたしは、一体、何を求めてこの世に生まれて来たのか」「このわたしは、何に守られて、いまも、かうして、生かされてゐるのか」「このわたしは、この世に、何を与へて行くことができるのだらうか」


肉体を持つわたしはすべてを忘れてしまつてゐますが、精神である〈わたし〉は、それらの問ひに対する答えを、すべて知つてゐます。


すべてを知つてゐる〈わたし〉。その〈わたし〉を知りゆく。


「高い世を知る」とは、さういふことだと、言ひ換へられます。


読む人の人格が成長して行くことによつて、本も成長して行く、この本はそんな不思議な本です。


ですから、わたし自身、いくたびも、いえ、何十回も、この本を読み返します。


皆さんにとつて、生涯にわたつて、何十回もこの本を読み重ねる、その第一歩になることを、こころから希ひつつ、この講座をして行きたいと思つてゐます。


共に、読み重ねて行きませんか。


また、この講座内では、ことばを話す芸術「言語造形」に共に取り組んでまいります。


メディテーションと芸術実践を重ね合はせつつ、ゆつくりとアントロポゾフィーの学びを深めて行きませんか。


お仲間に入つて下さることを、こころから望んでゐます。


講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji



日時: 
2021年4月27日(火)、5月18日(火)、6月15日(火)、7月13日(火) いずれも、午前10時より12時半まで


場所: 滋賀県草津市内 個人宅(お申し込みいただいた方に個別のご連絡いたします)


参加費: 単発でのご参加 3500円
     4回連続参加 12000円
    
※有料にてお子様の託児あり。お申し込み時にお伝えください。


鈴木一博氏訳を使ひます。よろしければ、ご参加の前に、お買ひ求め下さい。
精巧堂出版 https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007


お申し込み・お問ひ合はせ: 
suwa@kotobanoie.net(諏訪)



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2021年03月21日

幼な子に健やかな息遣ひとことばを・・・絵本読み聞かせのヒント(その三)



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お母さん、お父さんの声とことば、それこそが、この世に生まれて来た幼な子たちにとつての最初の、最高の、芸術なのです。


絵本の読み聞かせ(その三)「すやすや おやすみ(石津ちひろ・文 酒井駒子・絵)」


こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜



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金沢の武家屋敷庭にて



人といふものの内へと
 
感官を通して豐かさが流れ込む。
 
世の精神は己れを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その相(すがた)から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
 
 
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かひあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顯はしてくれる。
 
 
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、花もわたしを觀てゐる。
 
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
 
 
また、わたしの瞳も、だんだんとそのありやうを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
 
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、わたしみづからが精神として甦る。
 
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
 
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
 
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
 
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
 
 
しかし、いま、神が人を待つてゐる。世の精神が人を待つてゐる。
 
 
世の精神が、己れを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
 
 
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在だ。
 
 
しかし、植物は、人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
 
 
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐるのではないだらうか。
 
 
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
 
 
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐる。
 
 
それは、表だつて言挙げされはしないが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものだ。
 
 
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
 

 
 
 
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その相(すがた)から力が、
きつと新たに汲み上げられる。



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獣道(けものみち)と人の道



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ルオー『ピエロ』



人は芸術に触れてゐなければ、獣となつて、のさばり出さずにはゐられない生き物だと思ひます。


獣になるとは、己が身の要求するところに、己がこころが引き寄せられ過ぎる、そのやうな偏りをもつてしまふことです。


もちろん、人は、腹が減つてゐれば、当然、食べ物を欲しますし、眠たければ眠りに落ちて行きます。


しかし、人といふものは、「パン」のみにて、満たされるやうにできてはゐませんし、眠つてばかりゐることには、心理的にも耐えられません。


人はからだだけでできてゐるのではなく、こころをもつて生きてゐます。


そして、こころは、精神といふ、高い何かに触れなければ、干乾びてしまふやうにできてはゐないでせうか。


その精神から高い何かをもたらしてくれるのは、芸術です。


芸術は、人が人でありつづけるために、なくてはならないものではないでせうか。


そして、人が行ふことすべてが、芸術となりえます。


ひとつひとつの家事から始まるすべての仕事が芸術になりえます。


わたしたちの国、日本においては、多くの仕事が、「芸術」などといふ言ひ方はせずとも、芸術として、「道」として、心意気をもつて、歩まれてをりました。


「道」とは、人が歩くところ、行くところです。


しかし、わたしたちは、いともたやすく獣道にくだつてしまふ悲しい存在かもしれません。


しかし、その悲しみが、かへつて、どつこい、ひとりの人として、人の道を歩まうといふ意欲を掻き立ててきました。


わたしたちは、その意欲をこそ育てたいと念ひます。


意欲さへ殺さずに育み続けてゐれば、人はおのづから、人としての道をめいめい歩み始める生き物です。


何度、崩れ折れても、必ず、立ち上がる生き物です。


すべての仕事、すべての芸術は、意欲をもつて、毎日の練習といふ繰り返しの行為を人に求めます。


そして、その芸術の練習、仕事への習熟が、また、人の意欲を育てます。.


その、芸術と自分との集中した意識の交換、己が意欲の更新を感じることは、人を幸福にします。


さて、古来、日本人は、「言霊のさきはふ国」として、この国を讃えてゐました。


それは、人は誰しも、生きる喜び、悲しみ、すべての感情を感じ、かつ、ことばといふ芸術の中でこそ、初めてその感情を表すことができ、その感情に対する主(あるじ)になることができる不思議に、鋭く気づいてゐたからです。


ことばこそが、獣道(けものみち)から、人をまことの道へと引き戻す、なくてはならないものであることを知つてゐたからです。


ことばそのものに秘められてゐるたましひ・精神自身が、何を希(ねが)つてゐるか。


そこに耳を澄ましつつことばを発して行く。書いて行く。それも、また、「道」です。


わたしたち人は、どのやうなことばを、どのやうに使ふかによつて、その「言霊」との関係を深めることもできれば、浅薄なものに貶めてしまふこともできます。


それは、ひとりひとりの人の自由に任されてゐます。


獣道を歩むこともできるし、ひたすら長い、人の道を歩みゆくこともできるのです。






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2021年03月18日

娘たちへ・・・三好達治「甃(いし)のうへ」



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長女の高校入試の結果が出まして、お蔭様で第一志望の高校に入学することができました。早速、氏神様の生根神社と住吉大社にご報告を。


桜の時期を少し先取りして、恥ずかしながら、娘に捧げるべく、詩を朗唱しました😓。よろしければ、どうぞお聴きください。




2021年03月16日

われらが萬葉集 その三 〜耳を澄ます〜






今回は、この萬葉集巻第一の三首目の長歌(ながうた)とその反(かへ)し歌である四首目の短歌(みじかうた)を取り上げさせていただきます。

我が国においては、天皇(すめらみこと)のご存在が、ずつと、民にとつて、人にとつて、そのこころに灯る精神・靈(ひ)の光と熱でありました。

まづ三首目の歌は、舒明天皇の娘であられる中皇女(なかちひめみこ)が、その靈(ひ)なる存在である父が執られる弓の鳴る音に耳を澄ます時のありあまる感動を、詠つたものです(その歌は、間人連老が献つてゐます)。


天皇の宇智の野(ぬ)に遊猟(みかり)したまへる時、
中皇命(なかちひめみこ)の
間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献らせたまふ歌


やすみしし 我が大王(おほきみ)の 
朝(あした)には 取り撫でたまひ
夕へには い倚り立たしし 
み執らしの 梓の弓の
鳴弭(なりはず)の 音すなり
朝猟(あさがり)に 今立たすらし
夕猟(ゆふがり)に 今立たすらし
み執らしの 梓の弓の 鳴弭の音すなり


反(かへ)し歌
玉きはる宇智の大野に馬並なめて朝踏ますらむその草深野



耳を澄ますことと、こころを澄ますことは、ひとつです。

その静かなこころに、ありがたさと輝きと熱が満ちて来ます。

弓とは、昔においては、男にとつての宝でありました(女にとつては鏡が宝でありました)。

猟りをすることが、その地の動物靈を鎮め、その地そのものを人が司ることを促すといふことが知られてゐました。

ましてや、すめらみことが手に執られる弓から放たれる矢の響きに耳を澄ます時、そのこころに静けさが拡がり渡り、満ち満ちて来る精神・靈の光と熱たるや、いかばかりであつたことでせう。



その長歌に対する反し歌は、「たまきはる」といふ、いはゆる「枕言葉」から始まります。

この「たまきはる」は、そもそも、「靈(たま)くみはる」です。

「くみ」とは、「芽ぐみ」や「涙ぐみ」などと同じで、生ひ出て来る、溢れ出て来る、といふ意をもつことばです。

「はる」は、「張る」「漲る」といふ意です。

そんな枕詞ゆゑに、「うち」といふことばに懸かります。

「うち」とは、こころのことです。

「たまきはる・うち」とは、靈が満ち満ちたこころのことを表す詩的言語です。

この反し歌では、「宇智」といふ地名として描かれてありますが、そもそも、文学におけることばとは、外のものを指し示すと共に、うちなる目に見えないものを指し示す機能を持ちます。

よつて、「宇智の大野(おほぬ)」とは、うちなるこころに拡がる大いなる沃野・世界のことです。

その「宇智の大野(おほぬ)」に「馬並(な)めて」と詠はれます。

「馬」とは、走るものです。猟りをするとき人を乗せて駆けるものです。こころのうちの目指すものに向かつて走るものです。

そして、時は「朝」です。新しいこころもち、新しい息吹が通ふ、その時です。

そのうちなるこころに踏み込んでゆく時、そこに生へて拡がる草は深いのです。その深みに獲物は潜んでゐます。

こころの陰に潜んでゐるそれらのものたちに、靈(ひ)の光を当てることを、すめらみことは、意識的に先頭を切つてなされるご存在です。



解き明かしのやうな小癪なことを長々としてしまつた嫌ひがありますが、この第三首目と第四首目に新しい感動をわたし自身覚えてしまひ、思はず、このやうな文をしたためてしまひました。

萬葉集開巻第一首目が、すめらみことご自身による求愛の歌。

第二首目が、「国をみる」といふ行ひの内実をすめらみことご自身が詠ひ上げた歌。

そしてこの第三首目と第四首目で、そのすめらみことのなされることを感動的に、しかも、客観的に、精神的に、描く歌が置かれてゐます。

とにかくも、耳を澄まして聴いていただくことが、なによりのことだと思つてゐます。


どうもありがたうございます。


2021年03月15日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜



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人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、
 
 わたしのいのちを担ひなさい。
 
 魔法の縛りを解いて。
 
 ならば、わたしは、
 
 まことの目当てに行きつく」
 
 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
 
春が少しづつ近づいて来てゐる。木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
 
 
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
 
 
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
 
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
 
 
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、さういふ日本語ださうだ。
 
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
 
いま、植物から何かが、「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
 
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
 
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
 
 
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
 
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
 
 
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
 
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
 
シュタイナーは、「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで、晩年の『礎(いしずえ)のことば』といふ作品を終へてゐる。
 
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
 
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
 わたしのいのちを担ひなさい。
 魔法の縛りを解いて。
 ならば、わたしは、
 まことの目当てに行きつく」

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2021年03月14日

われらが萬葉集 その一 雄略天皇御製歌 〜天地(あめつち)の初発(はじめ)の調べ〜






我が国最古の抒情歌集『萬葉集』。
 
その開巻第一首目の歌、第二十一代・雄略天皇(大泊瀬稚武天皇・おほはつせわかたけのすめらみこと)による長歌を歌はせていただきました。(訓みは、土佐の国学者・鹿持雅澄のものです)
 
 
籠もよ み籠持ち 
堀(ふ)串(くし)もよ み堀串持ち
この丘に 菜摘ます子 
家告(の)らせ 名のらさね
そらみつ 大和の国は 
おしなべて 吾(あれ)こそ居れ 
しきなべて 吾(あれ)こそ座(ま)せ 
吾(あ)をこそ 夫(せ)とは告らめ 家をも 名をも

  
なんと、恋の歌です。野に若菜を摘む、をとめに対する求婚の歌です。
  
我が国において、精神文化の中心であり、かつ、神と通じる霊的な役割を荷ひ続けられる天皇様が、をとめに恋をし、結ばれ、御子をお生みになること、それは、国といふ共同体が弥栄に栄へゆくための、とても、とても、たいせつなことなのでした。
  
だからこそ、『萬葉集』の第一首目なのです。
  
言語造形による朗唱。
  
ことばのひとつひとつの意味よりも、まづ、短短長、短短短長・・・と重ねられる響きのリズムと母音の広がり、それらの音楽的要素・彫塑的要素を感じてみませう。
  
その、上昇していくおほらかな調べは、この歌を口ずさむたびに、わたしをまるで桃源郷の世界へと、いざなふやうなこころもちにさせるのです。
  
共に味はつていただくことができればなによりです。


 
なぜ、『萬葉集』といふものが、この世に生まれたのか。
  
それは、当時の日本が危機に直面してゐたからです。
 
我が国の先祖伝来の精神文化が、隣の大国・唐からの最新の文化・文明に、駆逐されさうになつてゐたからです。
  
ご先祖様から受け継いできたものの考へ方、暮らしの立て方、人生の送り方、そして、何よりも、古くからのことば遣ひ、それらが失はれさうになつてゐたからです。
  
明治の文明開化の約一千年前にも、同じやうな深刻な矛盾を、我が国は抱えざるをえなかつたのです。
  
『萬葉集』は、古くからのことばに対する信仰、ことばに対するたいせつな感覚を保持し、未来永劫の日本民族に、そのことばの美、言霊の力、言語芸術を、なんとか残さうとして、大伴家持によつて編まれたものです。
  
この『萬葉集』が編まれたことによつて、その後も辛くも、日本は日本であり続けることができたのだ、さうわたしは確信してゐます。




激しい時代が始まつてゐる



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「難しければ難しいほど、面白い」。学問においても、芸術においても、そんな風に感じられる子どもを育てていきたい。いや、自分自身こそが、さういふところへ歩を進めていきたい。さう念ひます。


たやすいところ、同じところに甘んじてゐないで、こころを燃え立たせて、前に、前に、歩いて行きたい。


昭和のあるころまでの文化を荷つてゐた人たちは、明らかにその気概がありました。本を読む時も、人は、読みつつ、考へる喜びを知つてゐました。音楽を聴いてさへ、人は、考へてゐた。深く、考へてゐました。そして、考へる力と繰りなすことばとが、知的に綾をなしてゐました。


二年前に終はつた平成といふ三十年間は、文化の面においては何事も分かりやすいことが第一のモットーとなり、社会のあらゆる面においては行き届いたサービスこそが至上の善となりました。


しかし、わたしたちは、自分の人生を成熟させえただらうか。社会は、人が人として、己れが己れとして誇り高く生きていく、そんな雰囲気を醸造しえただらうか。


人は、己れの内なる〈わたし〉を育めば育むほど、自分よりももつとたいせつな人やものがあることに気づき、そのやうに生きていく。そして、過去と未来を繋ぐ存在としての自分といふ人間の役割を自覚することができる。


逆に、他者から与へられてばかりで、〈わたし〉が未成熟なままだと、このわたしこそがもつとも大事なものになつてしまひ、意識は自分のことだけに尽きてしまふのではないでせうか。


難しいものに取り組んでこそ、その中に、崇高と美と真実があることを体得できる。さういつたものをことごとく避けて来たのが、平成の代だつたやうに思はれるのです。


〈わたし〉を育むためには、歯応へのあるものに取り組み続けること。


わたし自身、気づくのが遅すぎたのではないか、と三十年を振り返ります。


そんな平成が過ぎ去り、令和といふ本当に激しい時代が始まつて三年目。これまでとは全く異なり、世を生き抜いて行く気概と、自分自身から何か新しいものを産み出さうとするこころざしを各々育てて行く新しい時代になる、と強く念ひます。先日の娘の卒業式でも、校長先生がしきりに仰つてゐたことも、「チャレンジすることの大切さ」でした。


ふたたび、人の自主独立した精神がものを言ふ時代に。


自分の頭でものを考へ、自分のことばでしつかりとものを言ふ。自分の足でしつかりと立つ。多少の歯応へのあるものにも恐れずに果敢に取り組んでいく。


そんな若者を育てていくためには、わたしたち大人が、これまでのやうな「わかりやすさ第一」「至れり尽くせりのサービス」に甘んじるやうな精神をいま一度見直していいのではないでせうか。


そんな気概を持つて生きて行く人に、わたし自身なることを思ひます。


この世は、風だけでなりたつてゐるのではありません。地水風火まるごとでなりたつてゐます。土も水も風も火も、すべてを感じて、それらと共に生きて行きたいのです。





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2021年03月12日

新しい航海へ



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長女が中学を卒業しました。


120名の卒業生ひとりひとりに、世界がどのやうに見えてゐるか。


まっすぐに見えてゐる子も、ひん曲がつて見えてゐる子も、まあるく見えてゐる子も、ゐるでせう。


でも、これから少しづつ、自分自身で世界のかたちを創つて行くのだ。他人が、この世界を作つてゐるのではない。


指揮をするといふことは、どういふことか・・・。娘よ、今日与へられたこの大切な任務の手応へを、あなたは携へて生きて行くのでせう。


そして、やがて様々なことを悟つてゆくに違ひない。


新しい航海へ・・・。


ありがたう、そして、おめでたう!



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2021年03月11日

われらが萬葉集 その二 舒明天皇御製歌 〜精神文化の源泉としての歌〜




我が国最古の抒情歌集『萬葉集』。
 
その開巻第二首目の歌、第三十四代・舒明天皇による長歌を歌はせていただきました。(訓みは、土佐の国学者・鹿持雅澄のものです)


高市の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代
天皇の香具山に登りまして望国(くにみ)したまへる時にみよみませる御製歌(おほみうた)

大和には 群山(むらやま)あれど 
とりよろふ 天(あめ)の香具山
登り立ち 国見をすれば 
国原は 煙(けぶり)立ち立つ
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ 
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は


萬葉集の開巻第一首目も第二首目も、すめらみこと、天皇陛下の御製歌です。

我が国では、常に、天皇は、詠ふこと、ことばを奏でることの第一人者、ことばの芸術家でありました。

宮廷とは、日本の精神文化の源泉でした。そのまなかに、天皇がをられます。

その天皇が国をみるといふこと、望国(くにみ)をするといふこと、それは、精神・靈(ひ)の力をもつて、その国を統(す)べることでした。

第一首目が天皇の愛の歌、そして、この第二首目が天皇の靈による治世の歌。

萬葉集が何をたいせつにする歌集、言語芸術のアンソロジーであるか、そのことに対して編纂者・大伴家持はとても意識的であつたことは間違ひありません。


「われらが万葉集 その一」は、こちら→ https://youtu.be/WDz36Ov1VxA



2021年03月10日

宮沢賢治「なめとこ山の熊(その四)」〜生と死の境〜






言語造形による語り「なめとこ山の熊」、賢治の本作品からの抜粋を全四回でお届けします。(原作から自由に抜粋して語つてゐます)


今回が最後のお話です。(動画をコメント欄に貼つてゐます。どうぞご覧になつてください)


生と死、その幽明の境を超えて、人と世は生きてゐる。


死といふものがあるからこそ、悲しみと共に「美しさといふもの」を知ることができる、生きることができる・・・。


賢治の描く物語、紡ぐことばから、わたしたちは、感官を超えて生きることの予感を持つことができます。


「信仰といふものの深み」をこの四回の言語造形で引き出せただらうか・・・。ああ、道のりは遠いのです😇



※サムネイルの絵は、「アートユニット ケシュ#203」さんの以下のページから拝借いたしました。https://twitter.com/kesyuroo.../status/843619298631286784...

2021年03月08日

幸田露伴 〜美しい生き方〜



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ここ二週間ほど、明治から昭和初期にかけての文人、幸田露伴をずつと読んでゐました。二十年ぶりぐらゐの再読です。


娘の幸田文から読み始めたら、まう、その父親のものを読まずにはゐられなくなつたのでした。


「五重塔」から始めて、「太郎坊」「貧乏」「夜の雪」「雁坂越」「蒲生氏郷」に、とりわけ魅せられました。改めて、堪えられない味はひだと思ひました。


二十四歳の時に「五重塔」を書いたなんて、まう天才としか言ひやうがありません。小学校は成績不良で落第し、中学校は中退し、図書館で独りで学びつつ、こつこつ、こつこつと、文章道に邁進して行きました。


「努力論」「音幻論」といつた随筆もとても魅力的ですが、露伴の何がわたしにとつて最も魅力的かといふと、「人としての美しい生き方」をこの人は尊んで、文章に刻み込んでゐるといふ一点です。


その骨の部分を娘の幸田文も確かに最大の敬意と畏れと愛情をもつて受け止め、彼女ならではの筆の運びの細やかさと闊達さと艶を感じさせますが、やはり父親は偉大でした。


美しい生き方。


それは、いくらしたくても言ひ訳などせず、自分の仕事に全身全霊を注ぎ込む人にして初めて表れるものであること。


さういふ生き方を、文章で示してくれる文人を、本当にわたしは好みます。ありがたいです。自分を恥じます。たいせつなことを想ひ起こさせてくれます。

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2021年03月07日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜



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「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光を放ちつつ。
 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
 
この週の『こよみ』に、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日の
ドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
 
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
 
 
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
 
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
 
 
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
 
 
そのやうにして、外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
 
 
わたしたちの外側からたくさんの世の力がありありと迫つてくる。
 
 
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかないときがある。
 
 
そんなとき、たくさんの、たくさんの、思ひやことばが行き交ふ。
 
 
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
 
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
 
 
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
 
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもない、この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から、「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
 
 
それは、外の出来事に振り回されて考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
 
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
 
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
 
 
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。


そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
 
 
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな、死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
 
 
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
 
 
その人に、軸ができてくる。
 
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
 
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
 
 
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
 
では、その力を、人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
 
 
それは、夜、眠つてゐるあひだに、人といふ人に与へられてゐる。
 
 
ただし、昼のあひだ、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
 
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
 
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
 
それは、眠りのあひだにこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。


眠つてゐることによつて、意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、エーテルのからだとフィジカルなからだから離れてゐるのだから。
 
 
眠りのあひだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
 
 
要は、夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼のあひだにみづからに注ぎこませることができるかだ。
 
 
そのために、シュタイナーは、その講演で、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、さう述べてゐる。
 
 
それは、人のこころを育てる。
 
 
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
 
 
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、それだけでは駄目なのだと。
 
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
 
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
 
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまうと。
 
 
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、彼の周りに集まる人のこころの受動性を
なんとか奮ひ起こして、能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、彼はことばを発してゐた。
 
 
その力は、夜の眠りのあひだに、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
 
 
夜盛んだつた意欲を、昼のあひだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
 
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
 
 
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
 
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、わたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。

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2021年03月03日

なめとこ山の熊(その三)〜この世とあの世との調和〜






死んでゆく熊たちは、死んだ後も、生き続ける。

熊は、死んでも、その息遣ひと血の巡りの調和を、宇宙へと、大いなる世へと、もたらす。

熊の胸の領域におけるその調和は、この世とあの世との調和を促す。

その調和ゆゑに、人は、熊を山の神として崇めてゐた。

そもそも、山はこの世とあの世とを繋ぐところであり、熊は山であつた。

そして、神は、我々、人に、その身を捧げて下さつてゐる。



言語造形による語り「なめとこ山の熊」、賢治の本作品からの抜粋を全四回でお届けします。

2021年03月02日

なめとこ山の熊(その二)〜音の世を培ふ〜






密(ひめ)やかに学ぶ人は、動物の声が知らせてゐる快や痛みに、みづからの情を親しく繋ぎ、そのやうな声と響き交はす。

その人は、さらにそれを超えて、その声がみづからにとつてなんであるかに迫る。

その声が心地よからうとなからうと、気に入らうと入るまいと。

その声を発するものの内に生じてゐることこそが、みづからのこころのまるごとに満ちるやうにする。

はからひに沿ひ、先立つ考へをもつて、そのやうな練習をする人は、声を発するものと、合流するやうになる。

自然のまるごとが音によつて秘密をささやきはじめる。

かつてはみづからのこころにとつて訳のわからない音であつたものが、意味に満ちた自然の言語となる。

そのやうな情の培ひにおいて、やがては、それまで思ひも寄らなかつたものを聴くことができてゐることに気づくやうになる。

その人が、こころをもつて、聴きはじめる。


(ルードルフ・シュタイナー「いかにして人が高い世を知るにいたるか」より)



言語造形による語り「なめとこ山の熊」、賢治の本作品からの抜粋を全四回でお届けします。

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜



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平櫛田中『養老』



光に、世の高みから、
 
こころに力満ちて流れくる。
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考へるの確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
 
考へるとは、本来、みづからを措いてものごとに沿ふこと、思ひわずらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
 
今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ抜く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。


たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときの、こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
 
自然法則といふものも、自然に秘められてゐる世の考へだ。
 
 
人が考へることによつて、自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
 
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、その人と、もしくはみづからと、腰を据ゑてつきあいつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
 
―――――――
 
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
 
(『礎のことば』より)  
――――――――
 
 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
 
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
 
長所にはつと気づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
 
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
 
  
 
光に、世の高みから、
こころに力満ちて流れくる。
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
  

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2021年02月28日

なめとこ山の熊(その一)〜信仰といふものの深みを引き出したい〜




宮沢賢治の「なめとこ山の熊」から部分を抜粋して、四回に分けて語らせてもらひました。

この作品には、多面的な意味や魅力が詰まつてゐます。

しかし、とりわけ、このたびは、信仰といふものの深みをこの作品から引き出して、それを提示したい。

その希ひから、作品のまるごとから四つの場面を抜粋し、また、その希ひに叶ふやうなタッチで語ることに挑戦してみました。

第一回目。

熊といふ山の生き物を殺すこと。

だからこそ、猟師の小十郎のこころが、祈りへと導かれて行く。

その悲しみ・・・。


「信仰といふものの深みを引き出したい」と書きましたが、言語造形といふ芸術は、いつも、作品といふ作品、ことばといふことばから、こころの、信仰の、祈りの、精神の、強さ、深さ、確かさ、美しさを、引き出すものだと感じてゐます。

このやうにして動画に収録することも、一回一回が、ひとつの舞台作品創りで、何度も何度もやつてはやり直し、やつてはやり直しといふ、その作業は、多くの苦しみを伴ふのですが、その苦しみがまた、とてつもなく楽しいのです。楽しんで、苦しんでゐる、といふか・・・。

なぜ、楽しいのか。それは、きつと、美とまことに向かつてゐるからだと思ふのです。

この作業は、間違ひなく、子どもの時の遊びの延長線上にあります。



※サムネイルの絵は、ken kaizuさんのブログの次のページから拝借いたしました。
http://blog.livedoor.jp/kaizuken1/archives/51376959.html

2021年02月26日

遊び、その自由と美と耳を澄ますこと



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雑誌「モエ」の3月号、ミヒャエル・エンデの「モモ」の特集号。


「特別ふろく『モモ』史上初のクリアファイル」なる宣伝文句の意味の不可思議さにはてなと思ひながらも、そこに収録されてゐるエンデの昔のインタヴュー記事にまた深く感銘を受けたのでした。


「芸術といふものは、最高の意味における『遊び』なのだといふこと、そしてその遊びの本質は、『美』といふ質的シンボルを目指してゐる」といふ彼の芸術観に、まこと、意を深くするのです。


しかし、その『遊び』に通暁することが、がちがちに頭と体を固めてしまつてゐるわたしたち現代人には、ことのほか、難しいのです。


『遊び』には、必ずルールといふものが必要なのですが、ただ肝心なことは、昨日には昨日のルールがあり、今日には今日のルールがあつて、それは、その都度、自由に書き換へられるといふことなのです。


しかし、毎日変はるからといつて、でたらめなのではない。ちゃんと、その日その日のものとことをしつかり見て取つてゐて、そこに素直に順応して行くからこそ、その『遊び』は、いつも活き活きと弾みつつ、その『遊び』ならではの本質は決して失はれないのです。


「芸術」とは、そのやうなファンタジーといふシンパシーに基づいた大人の『遊び』なのです。


その『遊び』を遊びとして担保するものの要のものは、自由であり、「美」に向かふといふことであり、さらにまうひとつ挙げるとするなら、それは、互ひに互ひを聴き合ふ、耳を澄ますといふことではないでせうか。


長野県の信濃町黒姫童話館といふエンデの資料館にもなつてゐるところで、エンデが亡くなつて四年後の1999年の夏のある日、子安美知子さんのご紹介、師鈴木一博さんの演出のもとに、一柳慧作曲のオペラファンタジー『モモ』に出演させてもらつたことを想ひ起こしました。わたしは、床屋のフージーさんと吟遊詩人のジジ、二役でした。


そのオペラのパンフレットに鈴木さんが書かれた素晴らしい『モモのあらすじ』があります。その一部をご紹介したいと思ひます。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


モモがそこにゐると、仲たがひをしてゐる大人たちにも、いつかは仲なほりの道が見えてきたし、こころから遊ぶことに飢えてゐる子どもたちにも、ひとりでに遊びがわいてきたし、歌を忘れたカナリヤまでが、歌を思ひ出して鳴くやうになつた。


といつても、モモには、特別なことができたんじやない。モモは、ただ、そこにゐるだけ。いや、ゐるだけでもなかつた。おそらく、モモの友だちには、かういふことも、分かつてきてはゐないだらうか。


モモがゐるやうに、自分もゐあはせてゐると、かすかに響くいろいろな音が、いつの日か、はつきりと聞こえるやうになつてゐる。雨の時にも、風の時にも、蝉や、こおろぎの鳴き声にも、草木のたたずまひにも、大地の静けさ、青空の深み、星空のきらめき、そして人といふ人にも。


いろいろなものが、かすかに、いつだつて、響きをかなでてゐる。


でも、その響きは、耳に聞こえるやうでゐて、本当はこころに響く音だつた。


人が、時間や、音楽や、言葉と呼んでゐるものも、もともとは、その響きのことだつた。


モモに起こつたことは、これからも、いろいろなところで起こるだらう、それぞれどの人にも起こるだらう。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


さう、モモに起こつたこと、それは、人と人との間に織りなされる『遊び』、そして、そこに秘められてゐる豊かさ、美しさ、尊さだつたのです。

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posted by koji at 21:30 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5/1〜5/3 アントロポゾフィーハウス「オイリュトミーと言語造形 春の連続講座」


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ことばの家、すぐ近くの万代池


令和三年のゴールデンウィーク、大阪にて、オイリュトミーと言語造形、そしてアントロポゾフィーを共に学ぶ連続講座のお知らせです。
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声に出されることばは、目には見えません。こころも見えません。感情も、考へも、精神も、目には見えません。
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しかし、言語造形とオイリュトミーは、そこにかたちと動きを見ようとする芸術です。
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それらは、すべて、精神の「かたちと動き」を持ちます。
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この春から夏にかけて、大阪においておそらく初めての営みですが、オイリュトミーと言語造形といふミューズから授かるふたつの芸術を通して、その目には見えない「かたちと動き」を、感覚し、動き、共に生きて行く時間を持ちます。
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「アントロポゾフィーハウス」第一回目の営みです。
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どうぞよろしくお願ひいたします。
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言語造形: 諏訪耕志
https://www.facebook.com/koji.suwa
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
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オイリュトミー 越中奉
https://www.facebook.com/tasuku.etchu
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●日時:
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5月1日(土)2日(日)3日(月・祝)
9時半から16時半まで
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●場所:
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アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●スケジュール:
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9:30   言語造形(諏訪)
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11:00  アントロポゾフィー講義(諏訪)
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12:30  昼食
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14:00  オイリュトミー(越中)
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15:30  一日の振り返り(越中、諏訪)
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16:30  終わり
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●参加費:
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三日間連続 3万円
一日単独参加 12000円
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●お振り込み  
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// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  
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// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    
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●お申込み・お問ひ合はせ:
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アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●言語造形の時間(諏訪耕志):
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ことばひとつひとつの音韻の「かたちと動き」を、深く闊達な息づかひの中で追ひ求めませう。
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日本古来の和歌、俳句、詩といふことばの芸術を、からだまるごと、こころまるごとで奏で始めるのです。
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その営みは、ことばと〈わたし〉の深い互いの関はりを体感させてくれます。
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その時、生きてここにあることのよろこび、かなしみ、あらゆる高くて澄んだ感情が、天から流れて来るのです。
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●アントロポゾフィーの時間(諏訪耕志):
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『〈わたし〉を育むためのアントロポゾフィー 
 〜ことばとの関はりにおいて〜』
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いま、わたしたちは、こころの内をみづから育ててゆくことのたいせつさ、必要性を感じてはゐないでせうか。
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内なるものを仕立ててゆく。それは、こころのまんなかに眠つてゐる、わたしのわたしたるところ、〈わたし〉を目覚めさせ、育んでゆくことに他なりません。
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〈わたし〉を育んでゆく。それがアントロポゾフィーの、まこと、シンプルな目標、目当てです。
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『テオゾフィー』『いかにして人が高い世を知るにいたるか』『ヨハネ福音書講義』(いずれも鈴木一博氏訳)におけるシュタイナーのことばから、こころを精神に結はひつける密やかな細道、メディテーションの道を歩み始めるためのよすがを今回の連続講座においてしつかりと掴みませう。
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●オイリュトミーの時間(越中奉):
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わたしたちは、この時間まことに『「ことばとの新たなであい<いいえ、むしろ蘇るであい>」』をみなでつくりだしたいと思います。わたしたちはまるまる全てのからだでアクティブに動きつつ出会いましょう。
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それは必ず誰もがなせることとなります。しかし大切な課題がひそんでいます。
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静かなたわわなこころで明らけく聞きつつの<わたし>に喜びが持てるように、
 和歌、俳句、詩、シュタイナー『こころのこよみ』より一文とともに。
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また母音、子音、三節の歩みなど基礎練習の課題も許す限りに「ききつつ」で繰りなしましょう。
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テーマは、「相、形になろうとするうごき」また「動きになろうとする相、形」を基として、ききつつ体験します。
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「始めと終いがあり」繊細で美しい日本語のひびきを見つけたいと思います。

posted by koji at 16:11 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月24日

マスクを剥がさう 2021😉


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―――――――

意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。

意識は芸術を殺さずに、深める。

意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。 (マリー・シュタイナー)

―――――――


人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。


自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。


「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。


言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。


その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。


さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。


頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。


それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。


その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。


さうしますと、人は、そもそもの自分自身〈わたし〉に立ち返つてまいります。


麗(うるは)しいことではないですか。

posted by koji at 14:00 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

野上 峰さんの朗読会


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三重の名張にて、ラジオやテレビでのパーソナリティーのお仕事をされてゐらつしやる、野上 峰さんによる朗読会。大阪の難波でされるとのことで、伺はせてもらひました。


ご主人様の音楽と共に、絵本や昔話、そして詩の朗読。


美しいことば遣ひと軽妙な中にも暖かさと真率さに満ち溢れる、本当に素敵な時間でした。


昨年、京都で行ひましたわたしの公演の中で、石村利勝さん作の「やさしい世界の終はり方」といふ詩に感銘を受けられ、その後、ずつと、その詩のことばと情景がこころの中を「ループ」してゐるのですと仰られ、今日、その作品を朗読されたのです。


聴いてゐて、涙が流れました。やはり、かけがへのない作品です。


若い人も聴きに来てゐました。ことばが芸術であるといふことを体感できる、このやうな会が、またこれから盛んに行はれて行きますやうに・・・。


posted by koji at 10:38 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月22日

こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜


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世のふところから立ち上がつてくるだらう、
 
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
 
それは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、鈴木一博さんが以前、日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらつてゐる。
 
 
精神、こころ、からだ。
 
 
人は、この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
 
 
自分自身を顧みても、やはり、どちらかといふと、精神が上の方に、からだが下の方にあり、こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
 
そして、この『こころのこよみ』は、その名の通り、真ん中の「こころ」が、活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
 
この時期、陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、地から、少しづつ少しづつ、草木の力が繰りなしてきてゐるのを見てとることができる。そして、「啓蟄」といはれるやうに、虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這ひ出してきてゐる。
 
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
 
人においても、近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘ひ出し、感官へのそのやうな働きかけが、真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、その精神の想ひ起こし、精神の慮り、精神の見はるかしに、まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________
 
 
 
こころといふものは、常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いてゐる。
 
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできる。
 
 
むしろ、さうあつてこそ、こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあつてゐる。
 
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、心拍は高まりもするし、低まりもする。
 
 
また、呼吸といふものも、そのこころのふたつの動きに左右される。吐く息、吸ふ息のリズムが整つたり、乱れたりする。
 
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、吐く息、吸ふ息の間に、静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。
 
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、わたしたちは、リズムといふもの、時といふものをリアルにとらへることができる。
 
 
そして更に、こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、わたしたちは、世といふものとの間においても、リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、茫洋として、のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を前にしてゐるとき。
 
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
 
いまにも雨が降り出しさうな、どんよりとした曇り空の下にゐるときと、晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、それぞれの季節におけるからだとこころのありやうの移りゆき。
 
 
世といふものと、わたしたちとの間においても、ハーモニーを奏でることができるには、そのふたつが、ひとりひとりの人によつて、はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
 
世とわたし。そのふたつの間を思ひつつ、はかりつつ、響き合はせる。その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによつて、人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
 
そして、人は、歌ふ。春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
 
慮る(besinnen)は、歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べてゐる。
 

 人のこころ!
 あなたは心と肺のときめきに生き
 心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
 あなたそのものを感じるに至る。
 行はれたし、精神の慮りを
 こころの釣り合ひにおいて。
 そこにては波打つ世の
 成りつ為しつが
 あなたの<わたし>を
 世の<わたし>と
 ひとつに合はせる。
 もつて、あなたは真に生きるやうになる
 人のこころの働きとして。
         (『礎のことば』より)
 
 
春の訪れとともに世のふところから、下のからだを通して、感官への輝きを通して、こころに、繰りなす喜び。
 
 
そして、上の精神からの考へる力。その考へる力は、冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、神々しい力によつて備へられてゐる。その考へる力によつて、こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、こころに生まれる喜びといふ情を、上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、真ん中のこころに、喜びが生まれ、育つていく。
 
 

 
 
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 
 


posted by koji at 18:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

春よ 来い はあやく 来い


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大阪の住吉、万代池にも春が近づいて来ました。


しかし、今年、「春よ 来い はあやく 来い」といふ歌を、四季の巡りだけでなく、「こころの巡り」としても、切実に歌つてゐます。


「こころ」とは、「人のこころ」です。


わたしたちは、ますます、その「人のこころ」を、「人のこころ」の次元で見てはゐられなくなつてゐるやうに思はれてなりません。


「人のこころ」を、精神・靈(ひ)の次元で、観たいと思ひます。


さうすることは、こころを健やかに、力強く、確かに、柔らかく育てて行くことに助けになるのです。


精神・靈こそが、こころの糧だからです。


その精神・靈のリアリティーを覚えて行く、そんなこころの春の始まりです。




♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


「知ることの細道」の章から


どの葉も、どの虫も、わたしたちに数えきれない秘密をあらわにするようになるのは、それらに、わたしたちの目だけでなく、その目をとおして精神が向けられているときである。


どのきらめきも、どの色のニュアンスも、どの音の調子も、目と耳にとっていきいきと覚えられるままでありつづけ、なにも失われはしない。ただ、それらに加えて、限りのない新たな生きるが得られるようになる。


ルドルフ・シュタイナー『人と世を知るということ テオゾフィー』(鈴木一博訳)


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾




posted by koji at 11:27 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月21日

こころをことばで照らすこと






「聴くこと」と「語ること」。


このふたつの国語力を培つていく。


その力の培ひは、20世紀初頭、ヨーロッパ中部に生まれたアントロポゾフィーといふ精神の学びのまんなかのことでもあるのです。


その学びの中核には、「人とことば」の深い関はりを見据ゑる、精神からの見識があります。


その見識は、我が国・日本がはやくも古代から育み続けて来た「もののあはれを知る」といふ、こころの機能の開発でもあり、文学といふものの歴史的存在意義でもあり、人間教育の粋でもある、精神文化と、全くもつて重なるものです。


ことばとは、そもそも、その民族の精神・靈(ひ)を体現してゐるものであり、そのことばによつて、こころを照らすことが、その人その人のの成長になくてはならないものなのです。


わたしは、「ことばの家」において、アントロポゾフィーの学びの真髄と言つてもいい、その「ことばと人」との関はりを日本語において語り伝へて行くことを、天職としてゐます。


そして、「アントロポゾフィーハウス」といふ新しいかたちを持つて、多くの方々と共に仕事をして行くことを考へてゐます。

2021年02月19日

声の贈りものD 動画「すやすや おやすみ」





絵本の読み聞かせへのアドバイスシリーズ。今回で締めくくり、第三回目です。


今回のテーマは、ことばのひとつひとつを、音韻のひとつひとつを、丁寧に、大切に、発音する、といふことです。


動画で、ご説明、ならびに一部ですが、読み聞かせの実際をご覧いただけます。


どうぞ、ご覧ください。(ちなみに、この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾の条件を踏まえてゐます。)



【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに

posted by koji at 21:38 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 声の贈りもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月18日

滋賀・草津でのアントロポゾフィーの学び



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毎月一度、琵琶湖のそばの草津にて、アントロポゾフィーの学びを、絵本の読み聞かせの練習と共に、繰り返し積み重ねてゐます。


仕事や人生の中で、様々なことがありますね。


そんな中、わたしたちは、一体、どこから、生き抜いて行く力をもらつてゐるのでせう。その力の源はどこにあるのでせう。


「考へる」ことからです。


たいせつなことを建設的に考へることからです。


さうして考へられた〈考へ〉には、情や意欲を動かす力があることがぢかに感じられます。


それは、父なる働きです。メディテーションです。


一方、母なる働きとは、「欲する」こと、意欲の働きです。何かを求めて、動くことです。世の内に飛び込んで行くことです。芸術実践です。そもそも、すべての仕事が、芸術実践でありえます。


考へるは父であり、欲するは母であり、その間に生まれる子は、感じる情です。


たいせつなことを建設的に考へること(メディテーション)と、まつすぐに̪恣意なく何かを繰り返し繰り返し求めつつ受け取ること(芸術実践・仕事)が、重ね合はされて、まこと、力強くも、美しい、健やかな情が生まれます。


毎日の健やかな生活は、実は、そのふたつの働きの重なりで成り立つてゐます。


父(爺さま)は、山へ登り、神が降り給ふ樹を伐り、その樹を山の辺の里へと持ち来たります。それが、考へるといふこころの働きです。


母は、その山の辺にて、父が持ち来たる神の宿りし樹を待ち望むべく、身を清めてゐます。それが、欲するといふこころの働きです。


そんな父と母との間に、小さ子・幼な子が生まれます。それが、感じるといふこころの働きです。


だからこそ、爺さまは山で柴を刈り、婆さまは山の辺の川で身を清めるべく洗ひ物をし、神代から人を救ふと言はれてゐる桃から、桃太郎が生まれるのでせう。


昔話は、毎日、こころの中に生き続けてゐます。


そんな学びを毎月続けてゐます。


お世話をして下さつてゐる、聡子さん、英理子さん、武史さん、そして、皆さん、いつも、ありがたうございます。

posted by koji at 23:41 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大阪公演「山月記」より





「この気持は誰にも分からない。誰にも分からない。」
 
夢や大志を抱く青年が、ひとりの男となる。
 
その長いプロセスには、己れのなかに潜む魔と対峙せずにはおれません。
 
狂気とは、理性を忘れた人が陥るのではありません。
 
理性しか信じられなくなってしまった人に襲いかかってくるものです。
 
男は、一歩間違えば、きっと、化け物になります。
 
これは、詩人になれず、虎になってしまった男の物語りです。

平成30年(2018年)11月30日 大阪で行ひました言語造形公演「山月記」から一部をご覧ください。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/​​

「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachim​​...

2021年02月16日

文字を手書きで書く時のこころもち




毎日、日記といふか、読書ノートといふか、そのやうなものをノートに手書きで書き続けてゐます。


もう三十年以上だと思ひます。


書くときに意識してゐることがあつて、それは、何もまだ書き記されてゐない頁に文字を書き記さうとする時、部屋の空間のありやうを感じ取ることです。


その場の広さ、高さ、気温の寒暖、湿度、その空気のありやう、さういふものを感じながら、右手にペンをとつて、文字を書き連ねて行くのです。


ペン先と紙のページとが擦り合はされ、心地よい滑らかさでペンは紙の上を運ばれて行きます。


そして、その運びが、上から下へと、縦の方向になされる書法は、きつと、アジア地域、とりわけ、東アジアに特有のものではないでせうか。


上から下へと書き下ろして行き、また、上へと戻つて、下へと向かふ。


その運動は、まるで、天と地の間の往復のやうです。


ことばを話す、言語造形の練習の時に、天と地の間を行き来するかのごとく、息遣ひの練習を歩きながらするのですが、かうして毎日ノートに縦書きで文字を書く時にも、天と地を行き来する運動を引き継いでゐるやうに感じながら、書いてゐます。


部屋の中において、その部屋の空間の様々なものを感覚しながら、深い息遣ひと共に、文字を上から下へ書き下ろして行く。


これは、直立して存在してゐる人の精神の理法として矛盾のない、息遣ひの運動、命の脈動と機を一にするものなので、きつと、言語造形と同じく、文字の縦書きは人を健やかにするのではないかなと思つてゐます。


書を嗜む人などは、このことを深くリアルに感じてゐるのではないでせうか・・・。





posted by koji at 21:38 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月14日

アントロポゾフィー運動における二本の基の柱






「メディテーションと芸術実践」といふことがらにつきまして、オンラインクラスで述べさせてもらつたことをご紹介させていただきます。


このことは、先日、投稿させてもらひました「アントロポゾフィーハウス設立」のことと関はることでして、運動のまんなかの指針といふやうなことです。


「ハウス」と言ひましても、物理的な家も何も持たない、理念上、精神上の「ハウス」であります。


また、「運動」と言ひましても、そこに加はることが、何らかの思想の走狗や手先になることでもありません。


アントロポゾフィーの運動・動きは、すべて、ひとりひとりのこころの内から沸き上がり、生まれて来るものですので、誰かが誰かを動かすといふやうなことは生じ得ないものです。


ただ、「アントロポゾフィーから生まれることを仕事として共同作業して行くための意識体」であらうとするものです。


その意識体の二本柱が、「メディテーションと芸術実践」といふ営みであります。


そのことをルードルフ・シュタイナーが33歳の時に出版した『自由を考へる(自由の哲学)』の観点から述べさせてもらつたものです。


このことは、おほよそ25年ほど前に師の鈴木一博さんから教へてもらつたことでして、随分とこころに深く刻み込まれたことがらでした。


26分と長い動画ですが、ご覧いただけましたら、ありがたく思ひます。

posted by koji at 09:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜


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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強めよ、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
  
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
 
「ひとり生み」とは、何か。
 
 
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、そのことばが出てくる。
 
 
かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、「ひとり生み」とは、そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、神々しい子のことだつた。
 
 
今から二千年以上前には、人びとの多くは、「わたし」といふ、人のための下地をすでに備へながらも、後に聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかつた。
 
 
「群れとしてのわたし」のところには、「光」は降りてきてゐたが、ひとりひとりの人は、その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
 
 
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、おらが国、おらが村、おれんち、そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
 
 
しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、その「光」を通してみづからを神の子、「ひとり生みの子」となした。
 
 
物の人がふたり生み、精神の人がひとり生みだ。
 
 
そして、キリスト・イエスこそは、その「光そのもの」、もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、「父のひとり生みの息子」として、肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
 
 

ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)
 
 
彼こそは、ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」をもたらすことを使命とする者だつた。
 
 
わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
 
 
そして、わたしたちひとりひとりの内なる、「わたしはある」を想ひ起こすこと。
 
 
それは、日々のメディテーションによつて生まれる、精神との結びつきを想ひ起こすことであり、目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
 
 
その想ひ起こしがそのやうにだんだんと深まつていくことによつて、人は、「わたしはある」といふこと、「みづからが神と結ばれてある」といふこと、みづからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるといふこと、そのことを確かさと安らかさをもつて、ありありと知る道が開けてくる。
 
 
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、意欲をもつて考へつつ、いにしへを追つていくといふことだ。
 
 
普段の想ひ起こすことにおいても、頭でするのみでは、その想ひは精彩のないものになりがちだが、胸をもつて想ひ起こされるとき、メロディアスに波打つかのやうに、想ひがこころに甦つてくる。
 
 
さらに手足をもつて場に立ちつつ、振る舞ふことで、より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、想ひが甦つてくる。
 
 
故郷に足を運んだ時だとか、手足を通して自分のものにしたもの、技量となつたものを、いまいちどやつてみる時だとか、そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、想ひが深みをもつて甦る。
 
 
そして、そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、その人をその人のみなもとへと誘ふ。
 
 
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
 
 
その人のその人らしさを、その人はみづから想ひ起こす。
 
 
例へば、この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だつた。その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、頭でではなく、両脚をもつて想ひ起こされてゐる。


その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれてゐる。
 
 
だから、年をとつて、足が利かなくなることによつて、その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、だんだんと失はれていくことになりがちだ。
 
 
手足を通しての想ひ起こし、それは、意欲の力をもつてすることであり、人を活き活きと甦らせる行為でもある。
 
 
そして、それはメディテーションにも言へる。
 
 
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
 
 
メディテーションによる想ひ起こしは、手足による想ひ起こしに等しいもの。
 
 
メディテーションとは、意欲をもつての厳かで真摯な行為。
 
 
毎日の行為である。
 
 
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、わたしの「わたし」が、神の「わたし」の内に、ありありとあること、「わたしのわたしたるところ」、「わたし」のみなもと、それを想ひ起こすことだ。
 
 
世に生きてゐると、その「ひとり生みの力」をぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
 
 
世は、ふたり生みであることから生まれる、惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
 
 
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
 
 
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
 
 
想ひ起こされたものをしつかりとこころの目で観ること、もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも、しつかりと観ること、
それがつまり、「観ることを強める」といふことだ。
 
 
その意欲の力があつてこそ、人は、「己れを保つことができる」、おのれのみなもとにあることを想ひ起こすことができる。
 
 
 


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。

posted by koji at 08:52 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月13日

アントロポゾフィーハウス設立のお知らせ 〜メディテーションと芸術実践〜



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東山魁夷「道」



わたしは、自分自身の仕事であり、運動体であるものを、「ことばの家」と銘打つて、これまでアントロポゾフィーと言語造形といふ芸術活動に勤しんできました。


もちろん、これからも、わたしの仕事として「ことばの家」を勤しんで行きます。


しかし、今年、令和3年、2021年からは、自分ひとりだけで仕事をして行くのではなく、自分自身の仕事が他の方々の各々の仕事と結びつくやうな形を模索・実現して行きたいと希つてゐます。


仕事において、他者と協力し合ひながら、自分一人ではできなかつた仕事をひとつひとつ、創り出して行きたいと希つてゐます。


その際に、わたしにとつて大切になるのは、アントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)です。


このアントロポゾフィーを共有して行くことが、他者との共同・協働における大切な点です。


アントロポゾフィーとは何か。何か特別なものなのか。さうとも言へます。しかし、さうとも言へません。そのことには、様々な観点から答へることができるでせう。


ルードルフ・シュタイナー自身は、あるところで、端的に、それは「人であることの意識」だと言つてゐます。


「人であることの意識」。これは、現代を生きるすべての人にとつて、人として生きる上での何かとても大切なものではないでせうか。


「人であることの意識」、それは現代においては、「人がその人であること」「人が、ますます、その人になりゆくこと」「人が、人との関係性の中で、自由と愛を生きること」と言つてもいいのではないでせうか。


「自由と愛」などといふことばは、すぐに宙に浮いてしまふ、大変やつかいなことばでもあるのですが、きつと、どの人も、こころの奥底で、そのことばの実現を乞ひ求めてゐるはずです。


生きた日本語でこのアントロポゾフィーを語ること、それが、わたしがわたし自身に課してゐる大きな、途方もなく大きな仕事です。


アントロポゾフィーとは、「道」です。その「人であることの意識」を学び、それを己れのからだとこころで確かめて行く実践です。人であること、自由であること、愛することができるといふこと、そのことへの「道」と言つてもいいでせう。


その「道」とは、まぎれもなく、読書(講義の受講)と芸術実践です。


わたしは、アントロポゾフィーの基本文献を基にした講義をすることで、おひとりおひとりをみづからする読書へといざなひます。講義において、共に考へること。その考への世の内で、こころを暖めること、励ますこと、ひとりひとり目覚めゆくこと、へと共に歩いて行くのです。読書が、著者の助けを借りながらひとりでするメディテーションであるならば、講義とは、共なるメディテーションと言つてもいいでせう。


わたしは、さらに、言語造形といふことばの芸術を通して、ことばの力の内側に参入して行きます。


その営みを多くの人が必要としてゐることを確信してゐますので、必要とする人とその芸術を分かち合つて行きます。それもまた、極めて具体的な仕事です。


ことばを話すといふ、まぎれもなく、その人まるごとを使ふ芸術的な仕事です。


その仕事のためには、舞台づくりといふものが、何よりもうつてつけです。ですので、共に、舞台を創つて行き、舞台に立つことのできる人を養成していくことが必要です。


己れの外へと飛び出し、世の内に飛び込んで行き、そこでの世との関係性の中で、〈わたし〉を見いだして行くのです。それが芸術実践です。


メディテーション、それは、考へる〈わたし〉の内に、世を見いだすことです・・・。


芸術実践、それは、世の内に、〈わたし〉を見いだすことです・・・。


あなたみづからを見いだしたければ、世を見よ。
世を見いだしたければ、あなたみづからを見よ。


アントロポゾフィーの講義、そして言語造形、それは、どちらも、日本語をもつて「人であることの意識」を耕し、育て、稔らせるやうな仕事です。この仕事には、十年、三十年、百年、何百年とかかるはずです。


これは、わたしがして行く仕事ですが、さらに、他の芸術に勤しんでゐる方々とのコラボレーション、共同でアントロポゾフィーに根付いた仕事をして行くことを今年から始めます。






ひとつめの「読書」もしくは「講義の受講」とは、つまるところ、メディテーションをするといふことです。「本を読む」といふ行為、「講義を聴く」といふ行為は、読む人、聴く人をこころの旅に赴かせるのです。メディテーション・瞑想とは、からだはひとところに据ゑながら、精神(靈・ひ)に向かつてこころの旅をすることです。


それは、考へることから始まり、感じることへ、そして欲することへと、道は続いて行きます。本を読み、講義を聴くことで、著者や講師の考へを受け取り、そして、自分自身の内側に想ひと考へを生み出します。


その考へを囚はれなく受け取る、といふことが、精神の道のはじまりです。決して、盲目の信仰が強要されるのではなく、自分自身の意志で自由にその本に書いてある考へ、講師の語る考へを受け入れるのです。


囚はれなく受け取られた考へが、何度も繰り返し考へられて、曇りなく、まぎれなく考へられて、やがて、腑に落ちます。心根において、よく理解できるやうになつて来ます。そしてその考へを自分自身のこころの内に暖めます。その熱が情の昂ぶりとなりもします。そして、意欲の発露にもなります。その人の内側から、動きが生まれて来ます。


その動きがふたつめの「芸術実践」でもあります。


「芸術実践」とは、その人がその人を見いだして行くために、その人がその都度その都度新しいその人に出会ふために、いまの時代においては、なくてはならない作業なのです。





メディテーションと芸術実践。このふたつの柱をもつて、共にアントロポゾフィーを学びつつ生きて行く。そのための物理的な場を固定しない精神の共同の仕事場としての「アントロポゾフィーハウス」を設立いたします。


人は、何かとアイデンティファイすることによつて、そのアイデンティファイしたものから力をもらへることがあります。


誰かにとつて、「アントロポゾフィーハウス」が、その何かになることができれば、これほどありがたいことはありません。





令和3年(2021年)2月13日 諏訪耕志


posted by koji at 13:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天からの贈りもの 〜動画「天福地福」〜






昨日は、旧暦における一月一日でしたね。


わたしも、目覚ましいやうな初夢を見させてもらひました。


そして、年の初めのお年玉(新しい年のたましひ)も、そもそもは、地上のものではなく、天からの、神様からのプレゼントでした。


人に授けられる贈りもの。


それは、そもそも、天からやつて来るといふことを、洋の東西を問はず昔の人は信じてゐたやうです。


そして、こころの善い爺さまと慾深い爺さまとの対比は、わたしたち人の根本のありかたを徹底的にえぐり出すかのやうに、何度も昔話に出て来ます。


人のこころのこの両極の現はれを子どもたちにシンプルに伝へて行くこと。


それは、思つてゐる以上に大切なことはないでせうか。


善を好み、悪を嫌ふ、その人としての基本的な気持ち、感情、良心を養つて来たのは、このやうな昔話なのです。


このお話「天福地福」を聴くことで、わたしたち現代人も、もう一度、天からの贈りものを待ち望むやうな気持ちを想ひ起こすことができたら、そして、善と悪への基のこころもちを今一度、養ふことができたら、素敵ですね。




2021年02月12日

3/26(金)第一回発表会のお知らせ 京田辺三山木・言語造形クラス「おとない会」


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昔話を語るよろこび。空間がことばのお宮になる驚き。


言語造形を通して、その喜びと驚きを多くの方がと分かち合ひたい!


さういふ想ひで、月に一回の稽古を繰り返して来たメンバーの皆さんによる「おとない会」第一回目の発表会です。


以下、稽古場であり、発表会会場の家主である、前田 三四郎さんによる発表会に向けてのことばをご紹介します。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


1年前、京田辺で始まった言語造形の講座「おとない会」。
今回、一つの区切りとして発表会を開くこととなりました。

「上手く話せるようになりたい」
との思いで始められた参加者も
言葉を整え、心を整えていくうちに
いつの間にか「遊び心」が育っていました。

今回の発表会ではそれを感じてもらえたら嬉しいです。

日常の一瞬でいい。
日々の暮らしの中で「遊び心」を
取り戻しましょう。

幸魂塾(さちみたまじゅく) 前田三四郎


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【発表者と作品】

菊川真美  「星の銀貨」
前田三四郎 「にわか入道」
前田恭仁子 「大歳の焚き火」
諏訪耕志  「外郎売」
青木りえ  「絵姿女房」
成毛恭子  「ぽっとこせ」



時間: 3月26日(金)14時〜15時半
   (1時間ほどの発表のあと、歓談の時間あり)

場所:「幸魂塾」
    京都府京田辺市三山木西羅26
    https://goo.gl/maps/f5e7BHwLxJPEnLXU9

料金: 一家族500円 おひとりでも500円 
   (収益は、京田辺シュタイナー学校への寄付に充てさせていただきます)

連絡先: 090-9257‐6521(前田まで)
     hodokite@gmail.com (前田まで)
     suwa@kotobanoie.net (諏訪まで)

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posted by koji at 22:31 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『アントロポゾフィー運動における二本の基の柱』(2021年1月23日 オンライン収録)





アントロポゾフィーといふ精神の学びの基ともいへる「自由を考へる(自由の哲学)」における、「人が自由になるべく、こころに打ち樹てて行く二本の柱」とも言へることを語らせてもらつてゐます。


「ことばの家」は、ルードルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーと言語造形を学ぶ場として大阪の住吉区帝塚山に居を構へてゐます。

そして、2020年5月から、オンラインクラスも始めてゐます。

シュタイナーの講義録『普遍人間学』をそのオンラインクラスで扱つてゐます。

その講義録では、子どもの教育はどうありうるかを考へ、自分自身のあり方と発意から教育といふ仕事を実践して行きたい人に語りかけられてゐます。

それゆゑに、自己教育の大切さを感じてゐるすべての大人に向けてこそ、「人とは何か」といふ大切な智慧を語りかけてゐます。

このオンラインクラス、2クラスあります。金曜日の夜クラスと土曜日の朝クラスです。どちらも、月に二回のペースで、進んでゐます。

いつからでもご参加、可能です。ご参加希望の方は、金曜か土曜、どちらかのクラスにご参加いただきます。

アントロポゾフィー(人といふものの意識)に根差した『普遍人間学』。共に、学んで行きませんか。

講師:諏訪耕志



●月二回 『普遍人間学』金曜夜クラス 7時半〜9時半


●月二回 『普遍人間学』土曜朝クラス 10時〜12時


●参加費    初回体験参加 3500円、 3回連続 9000円  

連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。   
またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。   なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

.お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を用いてゐます。可能ならば、講座の前にでも、あとにでも、ご自身で読んでいただくことで、学びの主体性も高まりますので、ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌 しかし、本がなくても、講義をまづは聴くことから始められても、全く大丈夫ですよ。本をお求めの際は、「ことばの家 諏訪」にご連絡ください。  


ありがたうございます。   


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


2021年02月10日

声の贈りものC 動画「おおきなかぶ」




絵本の読み聞かせへのアドバイスシリーズ。動画では、前回に引き続き、第二回目です。

今回は、ますます、ことばを話す際の本質的なところへ踏み込んでいきますね。

それは、ことばを話す際に、身振りがある、といふことです。

今回は、トルストイ再話、佐藤忠良画の「おおきなかぶ」です。

動画で、ご説明、ならびに一部ですが、読み聞かせの実際をご覧いただけます。

よろしければ、どうぞ、ご覧くださいね。(ちなみに、この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾の条件を踏まえてゐます。)

この「おおきなかぶ」といふお話における、ことばの使ひ方は、明らかに、黙読されるためのものではなく、ロシアの民が長い年月の中で、「語り継いできた」息遣ひ、リズム、強弱、集中と解放が脈打つてゐます。

そのことば遣ひには、人の生きた身振りが籠められ、日本語に翻訳したものにも十分に感じ取られるものです。

読み聞かせ、語り聴かせの内側に、お話に応じた内的な身振りを注ぎ込んでみて下さい。

この作品が、一層、活き活きとしてきますよ。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに


※この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾の条件を踏まえてゐます。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けてゐます。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/​​

「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!

posted by koji at 14:39 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 声の贈りもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月09日

エジプト時代の甦りとしての言語造形  


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わたしたちは、いま、西暦2021年に生きてゐます。


現代社会の中で現代的な暮らし方で生きてゐます。


ことばも、最新の文明に囲まれた暮らしの中でひたすら機能的に使はれ、大量の物と同じやうに、人と人との間に大量に流通してゐます。


さて、遥か昔においては、当然、暮らし方が違ふので、ことばに対する感覚、姿勢も随分と違つてゐました。


日本では、室町時代以前では、ことばを話すときには、ひたすらに、精確に、間違ひのないやうに話すこと、正しく話すことが重視されてゐました。ことばとそれを話す人の思ひ・考へとが、ひとつに重なつてゐることが、とても重要なことなのでした。ことば数は少なくても、ひとことひとことに論理性がありましたし、さらには、その人の思ひが籠もつてゐました。


ただ、だからこそ、と言つてもいいのかもしれませんが、西暦の紀元前500〜600年辺りから室町時代辺り(14〜15世紀)までに、ことばは、人が内側で思ひ、考へてゐることと重なつて来たが故に、ゆつくりとことばに生命が失はれて来ました。


「正しく話す」といふ価値観のもとに、言霊に満ち溢れてゐたことばの精神が、考へとひとつに重なるにつれて、ことばだけの独り立ちした美しさ、力強さ、賢さが失はれ、考への僕(しもべ)へと、いはば、その地位が転落してきたのです。つまり、だんだんと、考へを表すための道具になつて来ざるを得なかつたのです。


そして、戦国時代から江戸時代、明治、大正、昭和、平成と経て来て、いま。


考へ同様、ことばも、その「正しさ」さへ担保されなくなり、一体、人の何を信じればいいのか、日本だけでなく世界中の人が、大きな岐路に立つてゐる。さう、わたしは実感してゐます。


いまといふ、このとき、わたしたちは、本当に、立ち止まつて、人とことばの関係を深く捉へ直し、見つめ直し、教育を新しく始めなければならない、と念ひます。


さて、わたしが携わつてゐることばの芸術「言語造形」。


それは実は、西暦紀元前500〜600年よりも、さらに古い時代、アフリカのエジプトに文明が榮へてゐた頃、日本では、おそらくですが、大和朝廷がその初代天皇、神武天皇によつて一文明国となり始めてゐた日本のはじまりの頃、ことばを「美しく話す」ことに重点が置かれ、信仰が持たれてゐた頃の名残・反映だと思つてゐます。


ことばを美しく話す。


それは、今から三千年、四千年以上昔、遥か古代の実際的な営みでもあつた、言語の精神、言霊への信仰の中心的テーマでありました。それは、礼拝、祭といふ営みと不可分のものでありました。言辞・文学といふものも、それは、詩人に降りて来た神を祭る営みでした。


ことばは、考へから独立して、ことばそのものとして、空を風に乗つて響き渡る、生きた作用力でした。ひとつひとつの音韻のかたち、動き、響きの高低、長短、強弱などが、明瞭にものを言ひ、音楽のやうに美しく話すことが目指されてゐたのでした。


その当時のことばの使はれ方が、いまも、礼拝のときや、祝詞やお経が誦される時に、感じられます。


言語造形といふ20世紀の中部ヨーロッパから生まれた芸術は、きつと、そのころの営みの再現・甦りです。


しかも、全く新しく、意識された人の営みとして、意識された、神への供御として、なされて行く、新しい芸術です。


それは、おほよそ四千年前の宗教的営みの生まれ変はりとして、いま、芸術として、この世に息づかうとしてゐる「をとめ」のやうな存在です。


なんだか、大風呂敷を広げたやうなお話になつてしまひましたが、述べさせていただいたことを、〈考へ〉としてよりも、むしろ「感覚」で掴んでをられる方が増えて来てゐるやうに思ふのです。


ことばを聴くこと、そして、話すこと。


そのことを練習し、稽古することによつて、「感覚」「みること」と、「これは何だらうか」と「考へること」を重ねて行くことができます。


さうして、わたしたちは、新しい息吹を言語に吹き込んで行きつつ、「美しく話すこと」「正しく話すこと」を踏まえた上で、意識的に新しい時代のテーマを探ることをこころざしてゐます。






posted by koji at 14:19 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3/1〜3/4  言語造形とアントロポゾフィー


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春の「言語造形とアントロポゾフィー 連続講座」のお知らせです。 


わたしたちは、フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、ことばを話してゐるのではありません。


エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして、〈わたし〉といふ、目には見えないところをこそ使つて、言語生活を営んでゐます。


そのことを感じながら、意識しながら、ことばを話す練習をしませう。ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。


書かれてゐる文字に、息を吹き込みませう。命を吹き込みませう。そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。


それは、ことばを甦らせ、わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。



午後は、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーを平易に、かつ深く学んで行きます。


四日間の連続講座だからこそ、日常を突き抜けて、こころの奥深く、からだの奥深くに、芸術が働きかけます。


身体まるごとを使ひ、こころまるごとを注ぎ込み、そんな言語造形といふことばの芸術に、わたしと共に取り組みませんか。


それは、フィジカルなからだ、エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして〈わたし〉といふ、四重の生を感じつつ生きる始まりです。


アントロポゾフィーにおける芸術実践とメディテーションへのご案内。


共に四日間を過ごしませう。



講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


日時:
令和三年3月1日(月)より4日(木)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで


場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

posted by koji at 12:57 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月08日

境の守 〜動画「大工と鬼六」〜





境(さかい)の守(もり)とは、生と死の境、フィジカルな世と精神の世の境に現れる存在です。


人がその境(川)を超えようとするとき、その渡らうとする人のまさしき相(すがた)をその人の前に呈し、その人に「境を超えるな」と戒めを発する存在です。


鬼六は、大工その人の、内なる相(すがた)そのものなのです。






言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/

「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachim​...