2022年05月13日

オンラインクラスのご案内 5/14「人と世を知るということ テオゾフィー」を読む



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生きてゐて、様々な感情をわたしたちは味はひながら生きてゐます。


わたしたちのこころに、ときに喜びが満ち溢れ、ときに悲しみや苦しみが訪れます。


なぜそのやうな情を味はひ、なぜそのやうな人生をわたしは送つてゐるのか。


それらの問ひに対してこの世においては答へを見いだせない時、わたしたちはどうするでせう。


このシュタイナーによる書『テオゾフィー』は、かう述べます。


さういふ時こそ、この世を超える他の世(高い世)にその因を探し求めよ、と。


さういふ時こそ、この世を超える高い世へと続く道を歩き始めよ、と。


手つ取り早く答へを得られるやうな学びではありませんが、じつくりと腰を据ゑて一冊の書に取り組んでゆくことで、確かなこころの育み、精神の目覚めへと導かれてゆきます。


毎月二回、土曜日の午前、オンラインにて、そんな学びの時を持つてゐます。
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鈴木一博氏訳の『人と世を知るということ テオゾフィー』を用います。どうぞ、ご参加前に以下のサイトにてご購入下さい。https://www.dokkoiii.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E8%B3%BC%E5%85%A5%E5%B8%8C%E6%9C%9B/


●zoomによるオンラインクラス開催日時
毎月第一・第三土曜日
(5月のみ、第二・第四土曜日
 8月のみ、第二・第三土曜日)
午前10時〜12時


●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円
※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。


●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/





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文化の行い 〜仙台 シュタイナー教員養成講座〜



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人と人とが共に仕事をしていく上で、現代では、何を、どう、意識していくことが大切なことでしょう。


シュタイナーによる初めての教員養成講座(『普遍人間学』)では、そのことが冒頭にとても熱を込めて語られています。


それは、まこと、精神の学(Geisteswissenschaft)をもって、己れみずからを見てとり、人を見てとり、人と人との信頼を育むことにすべてが基づいています。


そして、「文化の行い」としての教育。「文化」とは「耕すこと」であり、つまるところ、「人を耕すこと」。


そう、わたしたちは、耕す人です。


人を耕す人になろうとしています。


この8月から始まるおひさまの丘 宮城シュタイナー学園での教員養成講座で、「文化の行ひ」としての仕事をしていくための技量を共に養っていきませんか。


ホームページに詳しく情報を掲載してゐます。
https://www.ohisamanooka-steiner.or.jp/kyouin-yousei

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2022年05月10日

自尊心を育てる土着の精神



昨日は和歌山の岩出にて、今日は滋賀の草津にて、アントロポゾフィーハウスのクラスをさせていただきました。


取り組んでゐるのは、言語造形と『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書なのですが、どちらのクラスにおいても、とても安らかで深く、親密な語り合ひ、談らひが織りなされます。


みづからのこころを育んでいく必要性を自覚してゐる方々が集まつて来られてゐて、そのためには、精神・靈(ひ)からのこつこつと繰り返される働きかけ(メディテーションと芸術実践)が要るのだといふ指針に沿つて、クラスが営まれてゐます。


そして、さらに、そこで打ち樹てられていくのは、かういふことです。


それは、そのやうにして、こころの成長を促し、こころを繰りなしていくことによつて、わたしたちは、世界中の誰しもに通じる普遍的な知識を得ること、高い世を知るにいたることを目指してゐるのですが、同時に、大切なこととして、民族性に立脚しない普遍性などありえない、といふことです。


自分自身を育んでくれた我が家族、我が地域、我が国の歴史をよく学び、固有の文化・風俗・習慣・精神を想ひ起こすことが土台となつて、初めて人はまことの普遍性、国際性へと伸び行くのです。


そのあり方は、きつと、子どもたちを育てて行く上でも大切な指針となります。


それは、子どもたちの、自分自身を敬ひ、尊ぶこころの力、自尊心を育てます。


自尊心、それは、決して他に対して驕り高ぶるこころのありやうではないはずです。


自尊心、それは、人に、謙虚さと優しさと真の強さを与へます。


これまで、わたしたちは、どれほど子どもたちの自尊心を育てることを怠つてきたことでせうか。どれほど、大人は自分自身の自尊心を傷つけてきたことでせうか。


ひとりひとりが己れのあり方を敬ひ、尊び、愛する、自尊心の育みのために、土着の精神を培ふことの大切さを、わたしたちアントロポゾフィーハウスはいつも肝に銘じ、21世紀の新しいアントロポゾフィー運動を粛々と進めて行きたいと希つてゐます。




posted by koji at 19:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月09日

一代の名優 耳を澄ます人 鈴木一博氏



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江戸時代の「学問」。とりわけ、私学。「わたくしの学問」。その学問をそれぞれ一身に背負つた学者たちの列伝。


小林秀雄の『考へるヒント』を読むたびに、その学びといふものに対するこころざしの系譜に、胸躍らされます。


幕府が官学として定めた朱子学への批判を、どこの組織にも属さずに一身で体現した、儒学の中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠、国学の契沖、賀茂真淵、本居宣長・・・。


彼らは、一代の名演技をもつて生きた名優たち、私学の化身でした。


―――――
勝負は、文字通り、ただ、
読みの深さといふ事で決まつたのである。
彼等の思想獲得の経緯には、
団十郎や藤十郎が、
ただ型に精通し、
その極まるところで型を破つて、
抜群の技を得たのと同じ趣がある。
彼等の学問は、
渾身の技であつた。
(小林秀雄『学問』より)
――――――


ここで、わたくしの師匠である鈴木一博氏のことについて述べたく思ひました。


小林秀雄と同じく、鈴木さんも、いはゆるアカデミックな学、大学といふ制度や体制に守られた、近代諸科学の知の体系から匂つて来る、「毒」「臭さ」「害」「さかしら」に対して、闘つた人であつたやうに感じてゐます。


それは、孤独な闘ひでありました。


江戸の私学者たちが、幕府お達しの官学・朱子学に、敢然と抗してひとり立つたやうにです。


わたしにとつて、鈴木一博氏はまさに一代の名優でありました。


アントロポゾフィーなる、いはゆる「輸入物の」学問を、権威に寄りかかることや、大御所と言はれてゐる者たちのことばなどに一切関はらず、己れの身ひとつで受け止め、噛み砕き、考へ、感じ、己れのことばに鋳直した、その技たるや、惚れ惚れとするものでした。


そこでは、見事に、アントロポゾフィーが、「鈴木一博学」になつてゐました。


誤解を招く言ひ方かもしれませんが、それでいいのです。いや、さうでなければならないのです。


学問といふものは、その学問をする人の全体重がかかつてゐなければ、なんら用のないものです。


どんな鈍物にでも分かるやうに、平均化され、標準化され、一般化されたものでは、人のこころの糧になることは決してありません。


汲んでも汲んでも汲みつくしえない深みを湛えた、一世一代の仕事なのです。


――――――
僕は、(宣長の)さういふ思想は
現代では非常に判りにくいのぢやないかと思ふ。
美しい形を見るよりも先づ、
それを現代流に解釈する、
自己流に解釈する、
所謂解釈だらけの世の中には、
『古事記傳』の底を流れてゐる、
聞こえる人には殆ど音を立てて流れてゐるやうな
本当の強い宣長の精神は
判りにくいのぢやないかと思ひます。
(小林秀雄『歴史の魂』より)
―――――


本居宣長や小林秀雄、そして鈴木一博さんが闘つてゐたのは、解釈だらけのたくさんのことばと頭の群れたち、「さかしら」や「からごころ」をもつての学問です。


ものものしく聴こえてくる、対象そのものの声に耳を澄ます者だけが聴くことのできる精神の美しいすがた、しらべ。それがどれほど生命に満ちた豊かなものか。


そのことを鈴木さんは、アントロポゾフィーを通して、わたしに伝へようとしてくれました。




posted by koji at 23:25 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月08日

こころのこよみ(第4週)〜主と客、重ね合はせて「わたし」〜



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ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」




「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは考へるに、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世をひとつにするべく、
 
固く結びつけようとする。
 
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 

 
※普通、「Denken」といふドイツ語を訳すときには、「思考」と訳すことが多いのですが、「denken」といふ動詞(考へる)がそのまま名詞になつてゐるので、その内なる動きを活かすべく、「考へる」と動詞的に訳してゐます。


 
幼児は、たとへば、ことばといふものに、一心に、全身全霊で、耳を傾ける。
 
 
からだまるごとを感覚器官にして、聴くといふ仕事を一心にしてゐる。
 
 
そのことによつて、誰に手ほどきを受けるでなく、神々しい力、精神によつて、ことばを習得していく。
 
 
からだは「ことば」の器になつていく。
 
 
幼児の内に、そのやうに、からだをことばの器にするべく、おのづと力が働いてくれてゐた。
 
 
わたしたち大人は、意識的に、その人から、仕事をしてこそ、育まれるべきものが育まれ、満たされるべきものが満たされる。
 
 
このからだは、何歳になつても、まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができる。
 
 
ものごとに対して判断しなければならないとき、データや数値なども、なんらかの判断材料を提供してくれるが、それに頼り切らず、もつと、己れのからだを通しての感覚を育んでいくことが、己れへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、大切な指針になつていくのではないだらうか。
 
 
その、感覚とは、そもそも、わたしたちに何を語つてくれてゐるのか、何を教へようとしてくれてゐるのだらうか。
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
 
人によつて受けて見いだされた、光、色、響き、熱、味、触など。それらが感覚であるし、また、それらだけでなく、(これまでの生理学や心理学では、さうは言はないらしいが)それらによつて起こつてきた、情、意欲、考へも、感覚なのだ。なぜなら、みづからのこころといふものも、世の一部だからだ。
 
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再び、ひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
 
外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へるほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、太く、深く、成長させていく。
 
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
 
 
迎へるべき客を迎へる。
 
 
そして、これ以上、お付き合ひしなくてもいい客を、しつかりと迎へた上で、愛で抱擁したあと、去つていただく。
 
 
それは、主と相応しい客がひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになつていく。
 
 
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して、彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
 
彼らは、色彩といふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
 
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」がはつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれるし、また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
 
 
そして、わたしと世がひとつであること、すべてがひとつであることへの信頼感と確かさをだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へるに、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。
 
 

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2022年05月07日

「ある」から始める 〜教員養成プレ講座より〜



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子どもたちを育てる芸術においておほもとのところが確かめられた、「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」での、今回のプレ講座のアントロポゾフィーの時間。


それは、わたしたち自身の「エゴイズム」を凌いでいくといふことでした。


ここで、また、講座で語らせてもらひましたことを繰り返させてもらひますね。


「エゴイズム」とは、未来を不安に思ふこと、行く先のことを思ひ患ふこと。失ふことを恐れること。だからこそ、むさぼります。欲しがります。攻撃します。


わたしたちは、ありありてあつた、わたしたちの過去、来し方をかへりみませう。


そして、いかに多くも多くの人やものごとに、わたしたちは支へ、守られて来たかを想ひ起こしませう。


その精神からの想ひ起こしは、わたしたちに、こころの安らかさを取り戻させます。こころの充ちたりを取り戻させます。感謝を念ひ起こさせます。


ずつと、ずつと、わたしのわたしたるところ、<わたし>は、守られ、支へられ、育まれて来ました。


行く先において何かを失ふこと(お金が無くなる、病気になつて健康を失ふ、他人からの愛を失ふ、いのちを失ふ・・・などなど)を恐れることをやめて、これまでにありありとあつた、そして、このいまも、ありありとある、<わたし>を見ませう。想ひ起こしませう。この<わたし>は、決して、傷つけられることも、失はれることもなく、とこしへにありつづけます。


「ない」から始めるのではなく、「ありありとある」「あり続けてゐる」「既にある」「既にすべてを持つてゐる」といふ考へ、念ひから、一日を、毎日を、始めませう。


子どもたちは、その「ありありてあり続けてゐる」精神の世から降りて来たばかりです。


そのことを思ひつつ、教育に勤しみませう。


『普遍人間学』の第一講。


そこには、シュタイナーからのそのやうなメッセージが述べられてゐます。





この二年間を通しての継続的なシュタイナーの学び(アントロポゾフィーと言ひます)の道を共に歩いてみたいといふ方々をお待ちしてをります。


8月5日から年4回、各三日間の実際に皆が集まっての講座に、同じ8月の第二週目の水曜日夜から始まる毎週のオンラインクラスをもって、わたしたちのシュタイナー教育教員養成講座が始まります。


ご関心のおありになる方、ぜひ、ご勘案下さい。


ホームページに詳しく情報を掲載してゐます。
https://www.ohisamanooka-steiner.or.jp/kyouin-yousei



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2022年05月05日

「ひと」になりゆく道 アントロポゾフィーからなる教員養成



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人と世についての単純ではない数多の知識。


そして光と影が交錯するやうな芸術体験。


でも、そのおほもとにしづかで安らかなこころ、安心、赦し、信頼が息づいてゐる。


まこと、「人」となりゆくための大人の営み。


それが、アントロポゾフィーからなる教員養成です。


靈(ひ)の灯るところ。靈(ひ)のとどまるところ。


それが、「ひと」です。


「ひと」とは、なんと、奇(くす)しき存在であり、奇(くす)しき名であることでせう。


「ひと」、それは、わたしたちの理想を表す名であり、「自由」の別名です。


子どもたちは、そんな「ひと」にならうと懸命に勤しんでゐる大人にこそ、信頼を寄せてくれるのではないでせうか。


大人自身が「ひと」になりゆくための教員養成講座、そのプレ講座にお集まりになつた皆さんすべて、この人生を真剣に生きたいと願つてゐる方々ばかりでした。


8月の本講座に向けて講師を務めさせていただくわたし自身も、新しく、全く新しく、「ひと」になりゆく道をますます歩いて行きます。


そして、その道を歩いて行く上で、最も本質的なことは何でせう。


それは、「ひと」になりゆかうとしてゐるわたしたちが恐れから自由になつて無私になること。


そして、わたしたちよりも高い精神の世の方々との共同作業をしていくといふことです。


その密(ひめ)やかな仕事がひとりひとりのうちでなされて初めて、自分自身を、人と人との集ひを、この地域を、この国を、この世界を、健やかにしていくための仕事をしてゆくことが赦される。さう実感してゐます。


杜の都・仙台にて、わたしたちも、また、始めました。


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「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」において、この二年間を通しての継続的なシュタイナーの学び(アントロポゾフィーと言います)の道を共に歩いてみたいという方々をお待ちしております。


8月5日から年4回、各三日間の実際に皆が集まっての講座に、同じ8月の第二週目の水曜日夜から始まる毎週のオンラインクラスをもって、わたしたちのシュタイナー教育教員養成講座が始まります。


ご関心のおありになる方、ぜひ、ご勘案下さい。


ホームページに詳しく情報を掲載しています。
https://www.ohisamanooka-steiner.or.jp/kyouin-yousei




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朝の自然の静かな安らぎ



https://1drv.ms/v/s!Ak9MpuSmZtWKsAXUXzw6nZm-0xyE?e=pTjfPs


密(ひめ)やかに学ぶ人がときおり自然の静かな安らぎ、内なる尊さ、雅(みやび)やかな周りを迎へることは、とにかくよいことである。ことに好ましいのは、密(ひめ)やかな学びを緑の草木にかこまれ、あるいは光る山々と愛すべきシンプルな営みのあいだですることができることである。そのことが内なる器官をハーモニーのうちに引き出す。

(『いかにして人が高い世を知るにいたるか』「実践的な観点」から p.135)


昨日、おひさまの丘 宮城シュタイナー学園での教員養成のためのプレ講座を終へました。

校舎に寝泊まりさせてもらつてゐます。鳥の声が静かに響く朝、この丘のふもとで目覚め、「うやまひ」といふ四つの音韻からなることばをうちに響かせることから始まる一日。

こちらに来て、毎日なのですが、ことに今朝は、すがすがしい朝です。

大阪といふ街に住んでゐるわたしにとつては貴重な時間です。


posted by koji at 09:54 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月02日

天地の分かれし時ゆ 富士の高嶺は



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仙台へ向かふ飛行機の窓から富士山を拝みます。


山部宿祢赤人 富士の山をのぞめる歌一首 

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放けみれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
             
萬葉集317

posted by koji at 22:41 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月01日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜



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世のすべてに語りかける、

己れを忘れ、

かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、

人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。

「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
 わたし自身であることの鎖から。

 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」



Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.



「語る」とは、「聴く」ことである。


そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。


語り手みづからが聴き手となること。
 

頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。ひらめきが語りを導いてくれるまで練習する。


「ひらめき」とは、語り手の己れが空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。


それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。


その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。


「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。


己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。


そのやうに、語り手が、「ことばの精神」に、聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。 


その「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。


だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。


そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだわつてゐたところから解き放たれる。


だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。


そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。


「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。


互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。


特に、この季節、自然といふものにまなざしを注ぐことによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然と対話しながら、他者と対話しながら、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。


そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かしていく。


芽吹き、花開くものたちに、たつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。

 


世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 わたし自身であることの鎖から。
 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」




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2022年04月29日

わたしたちの食生活



先日のアントロポゾフィーハウス青森三沢のクラスの後、とても美味しいおにぎり(佐藤初女さんの教へに沿つて作つて下さつたもの)と野菜の和え物をいただきました(Nさん、本当にありがたうございました😇)。

あまりに美味しくて、まるで若い人のやうに大きなおにぎりを三つもいただいてしまひました。

このこころの満ち足りた感じは何なのでせうね。

昨夜のオンラインクラス『いかにして人が高い世を知るにいたるか』でも、人の三つに分かれてゐるなりたちについて、少し、お話をさせてもらひました。

からだ、こころ、精神。この三つの節(ふし)からなりたつてゐる人。

真ん中にあるこころは、からだ、精神、両方から働きかけを受けつつ、毎日、新しく息づいてゐます。

そのこころの育みにとつて、精神からよき糧を得ることの大切さをアントロポゾフィーは縷々述べるのですが、一方のからだからよき糧を取り入れることも、とても大切なことですよね。

からだから取り入れる糧の内、からだにとつて、こころにとつて、さらには、精神にとつて、よき糧とは何か。

からだから取り入れるよき糧、それは光であり、熱であり、風であり、水であり、大地からのもの、つまり、からだに備はつてゐる感官からとりいれることのできるものですが、とりわけ、食べるものについて、少しづつ、考へていきたいと個人的に思つてゐます。

もちろん、そのことも、アントロポゾフィーにおいて端々で述べられてゐるのですが、日本に生きるわたしたちにとつて昔からの日本人ならではの食生活を見直すことが、実は、とても、とても、大切なことではないかと。

わたしたちが、毎日摂つてゐた、玄米、味噌、そして少しの魚と野菜。

その食材そのもの、そしてそれらを作り、採つて下さつた産業従事者の方々、さらにはお天道様に対する感謝の念ひ。つまり、食生活そのものが信仰生活だつた暮らし振りが、ごく当たり前の日常でした。

さういつた食生活が、おそらく、何千年も営まれてきたわたしたちに、戦後、一気に、さうではない食生活が始まりました。そして、日本ならではの信仰生活も真つ向から否定されました。

そのときから77年が経ち、わたしたち日本人の癌の発症は約3.6倍に、糖尿病の発症は約50倍になりました(誠敬会クリニック銀座 吉野敏明氏)。

癌は、いま、日本人のふたりにひとりが発症し(国立がん研究センター2018年統計)、4人にひとりが癌で亡くなつてゐます(同2020年統計)。

からだから取り入れられる食べ物によつて、そのやうな状態が必然的に引き起こされ、多くも多くの日本人が、毎日何種類もの薬を一生涯飲まされ続け、病院通ひをせざるをえないのではないか。

さう思はざるをえないのです。

からだの健やかさ。

それは、人生を支へる大きな拠り所でもありますし、こころと精神の育みに、大いに助けとなつてくれる基であり、ものの考へ方、感じ方、生き方に深い働きかけをなすものですので、その健やかさを支へる食生活を見直し、立て直していきたい。

そして、日本の第一次産業を再び甦らせていく運動のほんの一端でも荷うふことはできないだらうか。

からだと精神から、よき糧を取り入れて行くことで、真ん中のこころは健やかになる。

令和の日本人が健やかになりゆくことを支へて行く仕事をしたいと念ひます。




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2022年04月28日

光はつねに闇より強い



昨夜、実家の母も含めて、家族五人で外食をしました。家族揃つて外食を食べに行くのは我が家では年に二、三回で、だからこそ、特別感があつてとても楽しいひとときなのです。

昨夜はとりわけ、もうすぐ17歳と14歳になる娘たちがとてもよく話をしてくれました。自分たちが考えてゐること、感じてゐることを、丁寧に真つ直ぐに活き活きとことばにしてくれました。

他のお客さんもたくさんゐるある種の公の場で、ばあばもゐるし、当然家庭とはずいぶんと違ふ雰囲気が、彼女たちのこころと口を開かせてくれてゐるのだなあ、と思ひながら、彼女たちのこころとことばに耳を澄ませてゐました。

また、年齢相応の考へる力が育つてゐて、自分自身の考へと大人たちの考へとを突き合わせてみたい、ことばのやりとりを通して互ひに敬ひつつ対話することの醍醐味を感覚してみたい、そんな欲求が十代の人にはあるのですね。

話題は、やはり、いまの「はやり病」から「麻巣苦」のこと、「枠珍接種」のことなど、若い人にとつてこの社会といふところがいかに、いま、おかしなことになつてゐるかといふことに関して、様々な考へ、思ひを分かち合つたのでした。

そして、いま、わたしが、人として、親として、内に保ちたいことは、「光はつねに闇より強い」といふことです。

季節外れのものの言ひ方になりますが、いま、わたしたちは皆、大いなるクリスマス、真冬の時、天の岩戸開きの時を迎へつつあると感じてゐます。

闇を闇としてしつかりと見据ゑるからこそ、ひとりの人として内において光を毎日迎へる練習をすること。内なるお祭りを毎日すること。

そのやうなことを娘たちには話しませんが、きつと、長い時の中で感じてくれることだと思つてゐます。




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杜の都で学ぶシュタイナー学校教員養成講座ならびにプレ講座 5/3〜5/4



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「シュタイナー教育って何だろう?」

そんな思いから、こころに「シュタイナー教育」というものが引っ掛かったまま、色々な本を読んでみては眠たくなったり、講座やオンラインクラスに参加してはみたものの、どこか、知識と知識をつなぎ合わせているだけのような感覚も拭えない・・・。

そんな思いを抱いている方は多いのではないでしょうか。

シュタイナー教員養成講座は、子どもを育ててゆくための精神からの見識を継続的に深くものにしていくことができる、かけがえのない機会です。

教育と芸術がひとつなのだということ。

二年間にわたるクラスによって、同期生という繫がりが生まれること。

それは、普段の人とのものよりもいっそう深い繋がりだと感じられるでしょう。

このようなご時世の真っ只中だからこそ、この機会をこころの跳躍台にして、人生の新しい局面を開き、この困難な時代に必要とされている意味ある仕事を共にしていく準備を始めませんか。

東北地方にお住まいの人と人とで、この地方ならではのシュタイナー共同体・アントロポゾフィー共同体を創ってゆく最初の二年間です。

どうぞ、奮ってのご参加をお待ちしております。


諏訪耕志(2022〜2024年度「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」教員養成講座担当)



●シュタイナー教員養成のためのプレ講座
5月3日(火・祝)〜5月4日(水・祝)
オイリュトミー 渋谷智栄子さん
言語造形・アントロポゾフィー講義 諏訪耕志 

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定員:20名(先着順)

●8月5日からの本講座応募締め切り:7月15日 早割(1年分一括納入)の締め切りは6月30日です。

詳細は下のチラシをご覧ください。3ページ目のQRコード(応募フォーム)からご応募いただけます。

以下のリンクからもご応募いただけます。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSedOSRxRrrwtn0oU6cy9Y52CdCeIOTI_8oGNdiyz9A_BpSmaw/viewform


*講座中のマスク着用については、ご自身のご判断にお任せします。体調のすぐれない方、発熱のある方は、参加を見合わせてください。


●お問い合わせ・お申し込み
おひさまの丘宮城シュタイナー学園
TEL:022-725-5086
Eメール:info@ohisamanooka-steiner.or.jp




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2022年04月27日

こころのこよみ(第2週) 〜春の芽吹き 登りゆく聖き竜〜



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外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
 
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。
 
 
全身全霊で、ものごとにもつと集中して、向かひ合ふことができるはずだ。
 
 
身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音楽に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して、意欲的に、アクティブに、見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覚を明るい意識の中で生きることができる。
 
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覚を全身全霊で生きることができれば、あれこれ小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
 
このやうないのちの力に満ちた、みずみずしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
 
春、天に昇る竜は、秋、地に下り行く。
 
 
その竜は聖竜であらう。
 
 
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神、ミヒャエルに貫かれた竜だらう。
 
 
秋から冬にかけて、キリストと地球のために、たつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤払ひに降りてきてくれるのだ。
 
 
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
 
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
 
だからこそ、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。

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2022年04月26日

健やかな意欲とこころざし 〜キリスト生誕劇クラスにて〜



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ひとりひとりの人の内も内から、「学びたい」「知りたい」「できるやうになりたい」といふ、健やかな意欲とこころざしをどう湧きたたせていくことができる?

その問ひに答へようとしていくことが、自由なる精神の高き学び舎であるアントロポゾフィーハウスの目当てです。

いつもの日曜日、イエス・キリスト生誕劇創り、そして「ヨハネ福音書講義」勉強会に集まつて下さつた皆さんにこころから感謝😇😇😇


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2022年04月24日

感官の育み 特に、上の四つの感官



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セザンヌ「トランプをする人々」



人には、感官が五つどころか、十二ある。ルードルフ・シュタイナーはそのやうに述べてゐます。


その「十二の感官」の論、わたしも何度も何度も我が身に引きつけて考へ直してゐます。


人に感官は十二あり、「下の四つの感官」「中の四つの感官」「上の四つの感官」と三つに分けて理解することができます。


この世に生まれておよそ七年ごとに、ゆつくりと、感官の育みが下から順になされてしかりだといふ法則があります。


0歳から7歳あたりまでに「下の四つの感官」が、7歳あたりから14歳あたりまでに「中の四つの感官」が、14歳あたりから21歳あたりまでに「上の四つの感官」が、順にゆつくりと育まれて行くこと。


もちろん、その十二の感官の育みは生涯続くものですが、その基はそのやうな順で21歳あたりまでに培はれてゆくことが、教育のひとつの指針でもあります。


が、人は年齢を経ると共に、ますますその人・〈わたし〉へとなりゆき、社会を活き活きと創つて行くメンバーのひとりとして働くためにも、とりわけ、「上の四つの感官」の育みが重きをなします。


「聴く感官」の育みには、内における安らかさと静かさを要します。


「ことばの感官」の育みには、内における動きとアクティビティー、闊達さを要します。


「考への感官」の育みには、内における敬ひとへりくだりの情を要します。


「〈わたし〉の感官」の育みには、内における仕へる力、捧げる力を要します。


いづれも、わたし自身にとつて、育みを要することを痛感します。




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2022年04月20日

5/3〜5/4 杜の都で学ぶシュタイナー学校教員養成講座 プレ講座のご案内



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今年の8月から仙台市内にある「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」で始まるシュタイナー学校教員養成講座に先駆けて、このゴールデンウィークに二日間連続でプレ講座を行ひます。詳しくは、学園のホームページを、どうぞご覧ください。


とても個人的なことなのですが、うちの娘はもうすぐ17歳と14歳になりますが、ふたりとも入学したばかりの高校と中学校を昨年辞め、いまそれぞれに自分自身の時間を生き始めて一年近くになります。

わたし自身は親として何の心配もしてゐません。といふよりも、むしろ、いまの公的な学校制度といふものに対する大きく深い違和感をわたし自身が持つてゐるがゆゑに、我が娘ながら、若くして、よくぞ、こころを決めることができたなとある意味、とても感心してゐます。

ちなみに、娘たちの学校のことを決めるのに、わたしたち親はこちらからは何も口出しせず、ただ、時間をかけてこのことを彼女たち自身が決め、彼女たち自身が話してくれるその理由に耳を傾け、その上で親として言ふべきこと、人として言ひたいことを彼女たちに伝へて、そして、彼女たちは学校を辞めました。

学校といふ制度から抜け出した、外れたとも言へるかもしれません。

ただ、彼女たちを傍で観てゐて、人として「学ぶ」といふことはどういふことなのかといふことを毎日考へさせられてゐます。

学びは、本当に、一生涯、続きます。

では、何を学ぶのか。

何のために、学ぶのか。

そこを徹底的に自分のこととして考へ、そして「学び」をし続ける人と自分自身がなるために、どういふ自己教育をしていくことができるのか。

そのことを本当に意識化する。

それがアントロポゾフィーであり、シュタイナー教育の目指すところであります。

今回の教員養成講座、そしてそれに先立つプレ講座は、まさしく、そのことをひとりひとりが自問自答していくものに、きつと、なります。

そのことに問ひを持つてをられる皆さん。

現代の、そして未来の若者たちが自分自身の人生を素晴らしいものにしていくためには、そして、自分の周りの人たちを幸せにしていくためには、そしてさらには、この国を素晴らしい国に、この世界を素晴らしい世界にしていくためには、何が必要なのか、懸命に考へてみませんか。

この混迷の社会の中だからこそ、わたしたちから、始めていきませう。

出会ひをこころから楽しみにしてゐます。

諏訪耕志





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2022年04月19日

仕合はせ(カルマ)といふもの



わたし自身、確か、大学を卒業する間際に、友人が貸してくれた西川隆範氏による『シュタイナー思想入門』に強烈に惹きつけられた思ひ出があります。しかし、その一冊を読んだきり、あとは就職先での仕事に身もこころも完全に没入せざるを得なくなり、シュタイナーのことを忘れてしまつてゐました。

しかし、会社を辞め、アフリカで一年間過ごした後、28歳の時に、ある人からの紹介で、アントロポゾフィー(ルードルフ・シュタイナーから生まれた学問)に出会つたのですが、その時の感情は、およそ、次のやうなものでした。

「これだ。これこそ、俺が求めてゐたものだ。そして、俺はずつと、ずつと、昔から(この人生の前から)、これを知つてゐた」

不思議と言へば不思議な感情です。しかし、その感情に突き動かされるやうに、東京の新宿に引つ越して、独り暮らしをしながら、当時、高田馬場にあつた大人の学び場「ルドルフ・シュタイナーハウス」にいそいそとほぼ毎日通ひ始めたのでした。

そして、さらに不思議だつたのは、シュタイナーハウスに通ひ始めて、すぐに、鈴木一博さんが教へてをられる「言語造形」といふ、聞いたこともない名を持つ芸術のクラスに初めて参加させてもらつた時に、ふたたび、アントロポゾフィーに出会つた時以上の不思議な感覚に見舞はれたのでした。

その時、確か、イソップ物語を語ることをさせてもらつたのですが、物語を声に出して人の前で読むなどといふことは、おそらく小学生か中学生の頃以来だつたのにもかかはらず、その時わたしが感じたのは、またしても、次のやうな不思議な感情でした。

「これはずつと、ずつと、以前に(この人生の前から)してゐたことじゃないか。俺にはなぜか馴染みのものだ。俺は、この芸術を俺の仕事にする」

そして、その後も、鈴木さんといふ先生に手取り足取り教へてもらつてゐる、ある瞬間に、「この情景は、前に観たことがある」といふ、いはゆる、「デジャブ」といふのでせうか、不思議な感覚にたびたび見舞はれました。

そのことを、そのとき、そのときに、鈴木さんに打ち明けると、「さうなんだよ。さうなんだよな」としか仰られませんでした。

つれづれと個人的なことを書いてしまひました。

精神の学び舎は、この地上にありましたし、いまも、わたしはそれを創り続けようとしてゐますが、そもそもは、生まれる前にあつたのではないか、といふ「おぼろな感覚」のもとに書いてしまひました。
(『こころのこよみ 第一週』参照 https://www.facebook.com/.../a.32984430.../8054095937949255/

男女の仲ではないですが、「縁は異なもの味なもの」ですね。

他の方は、シュタイナーといふ人やアントロポゾフィーといふ学、または、そこから生まれた芸術実践、社会実践に出会つた時に、直観としてどのやうなことを感じられただらうか・・・。そんなことを、ふと、思ひました。

なぜなら、シュタイナーこそ、そのやうな「縁」についての深い考察をしてくれてゐるのですから。




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2022年04月17日

日本における甦りの祭



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大阪の住吉大社の祈年祭の時



今日、4月17日が今年はキリスト教圏で言ふ「復活祭の日」ですね。

日本では、この「甦りの日」をどう祝つてゐたのでせうか。

古来、「祈年祭(としごひのまつり)」が、耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈る祭として、旧暦の2月4日(今の暦ですと3月半ばごろでせうか)に宮中はじめ全国津々浦々の神前において執り行はれてゐました。

それは、前年における旧暦の11月23日(今の暦ではおほよそ年末のクリスマスにあたる時期です)に、その年の新しい収穫を神前に感謝を捧げつつ、神と共にそれらを食する祭、新嘗祭(にひなへのまつり)からの新しい引き継ぎでもあります。

昔は、「米」のことを「とし」と言ひ、冬至の陽の力が新しく生まれ変はる時に、新嘗祭をもつて、新しい「米」「とし」の魂をいただくことを期してゐたのです。ですので、年の初めの「お年玉」とは、神からいただいた新しい米に宿る精神を身に授かるものだつたのですね。その新嘗祭は、宮中をはじめ各地の神社においていまだに踏襲されて執り行はれてゐます。

その新しい年の精神を身に宿しつつ、お籠りの時を経て、わたしたち人は花開く春を迎へます。

それは、地の深み、身の深みに籠つてゐたわたしたちのこころが、地上に芽吹き始めるかのごとく、からだから解き放たれ始めるときでもあるのです。

日本では、いまでは不可視となつてしまつてゐる、そのこころのおのづからな営みをリアルに受け取りつつ、古来、「祈年祭(としごひのまつり)」として神々に祈りを捧げてをりました。

新しい「米・とし」の豊穣を乞ひ願ふことで、暮らしの経済を成り立たせつつ、実は、精神として新しく生まれ変はり(甦り)、成長していくことを乞ひ願ひ、実際にそれを促す、共同の精神の秘儀、それが「祈年祭」でした。

いま、こころは、からだから少しづつ解き放たれてゆき、世の高みに向かつて、世の精神(高天原)へと自由に羽ばたいて行きたがつてゐます。

そのやうな、こころの甦りを祭る日が日本にもありました。

『こころのこよみ 第一週 〜甦りの祭の調べ〜』として、ルードルフ・シュタイナーによるこよみのことばと共にわたしの拙ない訳とコメントを付したものを以下に掲載してゐます。よろしければ、ご覧いただければ、嬉しく思ひます。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/486685983.html




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こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭の調べ〜



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滋賀県大津市の建部大社の八重桜



世の広がりから、
 
陽が人の感官に語りかけ、
 
そして喜びがこころの深みから、
 
光とひとつになる、観ることのうちに。
 
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
 
考へが空間の彼方へと。
 
そしておぼろげに結びつける、
 
人といふものをありありとした精神へと。
 
 

 
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
 
 
 
 
自分自身のこころが、光とひとつになり、喜びが溢れだす。
 
 
陽の光(外なる自然)と、こころの光(内なる自然)が、ひとつになる。
 
 
春とは、そもそも、そんな己れのありやうを観ることのできるときだ。
 
 
ものをぢつと見る。ものもぢつとわたしを見てゐる。
 
 
ものをぢつと、見つめるほどに、ものもわたしに応へようとでもしてくれるかのやうに、様々な表情を見せてくれるやうになる。
 
 
そんな、わたしとものとの関係。
 
 
それは、意欲と意欲の交はりだ。
 
 
その交はりのなかに、ある集中した静けさが生まれる。


その静けさが、わたしのこころを喜びと共に空間の彼方へと拡げてくれる。


とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考へ。


だが、光と共に春に息づく何かを、ぢつと見ること、ぢつと聴くことで、静けさと共に、喜びが生まれてくる。


その静かな喜びがあればこそ、自分なりの考へ方、感じ方といふ、いつもの己れの被ひを越えて、こころを拡げてゆくことができる。
 
 
それによつて、新しく、生まれ変はつたやうなこころもち。こころの甦り。わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
 
 
そして、ありありとした精神は、そこに。
 
 
生活を新しく開く鍵は、すぐ、そこに。
 
 
しかし、まだ、こころはしつかりと、その精神と結びつくことができない。
 
 
ことばといふ精神が降りてくるまでには、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭(甦りの祭の50日後)を待つこと。
 
 
いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。
 
 
そんな己れのありやうを観てゐる。


一行目の「世の広がり」とは、同時に、「〈わたし〉の広がり」であり、三行目の「こころの深み」とは、同時に、「世の深み」でもある。


アントロポゾフィーの『こころのこよみ』の第一週目は、世と〈わたし〉とをひとつにし、「広がり」と「深み」とをひとつにする、人のこころのありやうを描いてゐる。


そのこころを導く「考へ」は、ひとりの人として身をもつて立つ「ここ」から、「彼方へと」拡がりわたる方向性を持つてゐる。


そんな己れのこころのありやうを生きることから、この『こころのこよみ』の学びを始めて行くことができる。

 
 
 
 
 
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。



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2022年04月15日

ふさはしい見識を求めて



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ものごとには、何事も順序といふものがあると思ふのです。

いま、わたしは何をすべきかとか、だれそれは何をすべきかなどと問ふのではなく、いまの世のありやうについてどうしたら見識が得られるか、と問ふことが先に来るべきではないでせうか。

見識を得る、つまりは、ふさはしい知を求める、みづからの考へる力をもつて知を求めること。

もう、政府や学者たちやマスコミが言つてゐることを鵜呑みにはできないことを感じてゐるならば、みづからの考へる力を信頼して見識を得ようとすることが、まづ、最初にしていいことではないか、さうしてこそ、人は自由といふものの礎を勝ち取ることができ、そこからこそ新しい何かが、きつと、始まる。

ルードルフ・シュタイナーが『歴史における徴(しるし)を論ずる』(1918年10月〜11月ドルナッハにて)といふ講義で、「いまは、多くの幻想を捨てて、確かな見識に行きつくことを要する」と述べてゐます。

その見識とは、「外に起こることは内の繰り出しの徴(しるし)に他ならない」といふことです。

そして、「その見識が十分にあることによつて、ふさはしいことが生じ、ふさはしい見識が繰り出せば、きつと、ふさはしいことが繰り出す」のだと。

2022年の甦りの祭りを二日後に控え、聖なる金曜日の今日、わたしも、いま、この世で起こつてゐるこの信じられないやうな茶番劇の舞台裏では何が繰り出してゐるのか、といふ問ひを立てざるを得ません。

その舞台裏とは、精神の世です。

それは、本当に明らかな問ひですが、答えるにはとても難しい問ひだと感じてゐます。

しかし、「精神の世では何が起こつてゐるのか」といふ見識を得ようと努め、その見識への探索から人と人とが語りあひ、共に仕事をしていくことが、この理不尽な世の繰り出しに対して、人の自由を取り戻すために必要だと考へます。

自由、それは、与へられるものではなく、ひとりひとりがみづから育て上げ、勝ち取るもの。

わたしたちは、いま、まぎれなく、さういふ時代を生きてゐるやうに思ひます。



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2022年04月14日

敬ひのハーモニー



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今日は、ある企業の方々とのズームミーティングに臨ませてもらつたのですが、そこでのやりとりがなんとも素晴らしかつたのです。

時の流れの中で、どんどん、おひとりおひとりが自由なこころもちでことばを発せられ、他者のことばに刺激を受けつつ、それをみづからのことばに鋳なおして、また新しい局面をその場に拓いてゆく。

それゆゑ、3時間に亘るミーティングだつたのですが、長さを全く感じることがなかつたのでした。

おひとりおひとりから発せられることばの向かう側に、それぞれの奥深いものが密(ひめ)やかに湛へられてゐて、お互ひがお互ひを敬ひあつてゐることを感じます。

皆の間に、敬ふことを大事にする細やかな気転がしづかに流れてゐるからこそ、場にこころのハーモニーが奏でられ、そして、さういふ和やかさからこそ、ひとりひとりから自由な考へが紡ぎ出されて来る。

きつと、日本人は、かういふハーモニー(調和)を奏でることが昔から得意な民族だつたのではないかな。

ひとりひとりが自由に輝きつつ自由に考へ、自由を生きながら、その場の全体の調和を奏でること。

そのためには、内なる細やかなやりとりが重視されることが欠かせないといふことを、今日の企業の方々とのミーティングでも感じさせてもらへたのでした。

わたしなどは、ルードルフ・シュタイナーといふ約100年前の中部ヨーロッパの人から多大なる学恩を被つてゐるのですが、その彼の学は、どうも、日本人がとても大切に育んできたその精神文化への憧れを内包してゐるやうに思はれてならないのです。もちろん、そのやうなことは、彼の表明としてはなんらなされてゐないのですが・・・。

わたしたちは、あらためて、みづからの根もとを丁寧に掘り起こして行つていいのではないかと思ふのです。




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2022年04月12日

しづかさの内へ 〜アントロポゾフィーハウス滋賀・草津〜



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今日はアントロポゾフィーハウス滋賀・草津。

シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』をベースにメディテーションの実際に取り組み始めました。

「しづかさ」といふ四つの音韻をもつて、こころにまさに「しづかさ」が湛へられます。そして、シュタイナーによつて設へられた七行の文によつて、深められるこころの営み。それは、精神の流れにこころが触れるひとときです。

これからも、滋賀のクラスでは、このしづかな深まりを基にしながら、こころに密(ひめ)やかな仕事を重ねてゆきます。

今日も、自宅を開放して下さつたSさんご夫妻、そして集まつて下さつた皆さん、どうもありがたうございました。

クラスのあと、比叡山の西に位置する山里、京都の大原に足を運び、麗らかな春の陽射しと花のいのち、そして風の穏やかさの中を歩いて来ました。

そして、三千院の往生極楽院から聴こえて来る声明に耳を澄ませてゐると、こころの世と目の前の世が重なり、身の周りのすべてが遠のいてゆくやうなしづかさの中へとみづからが入つてゆくことを感じるのでした。

世のすべての人が、このしづかさを想ひ起こし、安らかさに立ち返ることができるやう、いま、わたしも、こころから祈ります。




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2022年04月09日

和歌は人の心を種として・・・



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「古今和歌集」の仮名序、紀貫之の文章。その中で在原業平(ありはらのなりひら)の和歌(やまとうた)が貫之のコメントと共に取り上げられてゐて、夜更けに読んでゐるとこころに染み入るやうに響く。


在原業平は その心あまりて言葉たらず しぼめる花の 色なくてにほひ残れるがごとし

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして


一千何百年前の古き人と密(ひめ)やかにこころを通はせることのできる喜び。


まづは、そんな喜びをこそ、子どもたちとも分かちあひたい。そんな国語芸術の時間を創りたいと思ふ。


確かに、小学生や中学生では(もしかしたら、高校生や大学生でも)、これらの高くて深い文学の味はひはまだ分かりかねるだらう。しかし、すべてをすぐに分かる必要などどこにもない。


よきもの、本物に触れることが大切なのだから。




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こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜



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春の吉野川



こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
 
美が場の広がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。
 
 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
 
ものをぢつと観る。ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。そのとき、こころの深みが動く。こころの力を振り絞つて、そのものとひとつにならうとするとき、わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
 
眼といふものは、実は腕であり手なのだ。
 

何かを観るといふ行為は、実は手を伸ばしてその何かに触れる、もしくはその何かを摑むといふことなのだ。
 
 
そのやうな見えない腕、見えない手が人にはある。
 
 
何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為だ。
 
 
おほもとに、愛があるからこそ、する行為だ。 
 
 
 
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
          柿本人麻呂 (萬葉集0037)
 
 
  
そのやうにして、アクティブに、腕を伸ばすがごとくにものを観たり、自然の響き、音楽やことばの響きに耳を澄ますとき、方向で言へば、まさに上から、天から、そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、それでも繰り返し、繰り返し、ことばがありありとしたものになるまで、美が立ち上がつてくるまで、ことばに取り組んでゐるうちに、また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
 
精神である人は、みづからのこころとからだを使つて、ぢつと観る。聽く。働く。美を追ひ求める。
 
 
そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。
 
 
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
 
場の広がりの中で、人と世が美を通して出会ひ(横の出会ひ)、精神との交はりの中で、人と天が生きる力を通して出会ひ(縱の出会ひ)、その横と縱の出会ひが十字でクロスする。


十字架を生きる。
 
 
そこで、『こころのこよみ』は、この第52週をもつて一年を終へ、甦りの日(復活祭)に臨む。
 
 

 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が場の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
 
 

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杜の都で学ぶシュタイナー学校教員養成講座ならびにプレ講座への参加者募集!



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おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」にて、今年2022年の8月から二年にわたって行いますシュタイナー学校教員養成。
その募集をさせていただきます。


未来を生きる子どもたちにわたしたち大人は何をしていくことができるのか、この二年余りの社会の閉塞感の中で、こころある人は皆一生懸命考えていると思います。


子どもたちを育む教育とは、芸術なのです。そのこころざしを持つ人として、わたしたち大人自身が育ってゆこうよ、なりかわってゆこうよ!


このたびの、わたしたち「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」による教員養成講座は、その念いで始まります。


また、その教員養成講座に先立ち5月3日、4日にプレ講座を開催いたします。


「シュタイナー教育で大切にしたいこと」と題しましたプレ講座。


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それは、からだを芸術的に動かせつつ、物語や詩のことばを響かせつつ、ルドルフ・シュタイナーが世界で初めてのシュタイナー学校開設時に行った教員養成講座で語った内容をしっかりと基本として踏まえる二日間です。


オイリュトミストの渋谷智栄子さん(「那須・奏身舎」)と共同しながら、わたくし諏訪耕志(「アントロポゾフィーハウス」)が言語造形を通して、人と動き、人とことばの関わりの意味深さを活き活きと体感する二日間になります。


本番の教員養成講座は、本年8月から始まり、12月、3月、5月と、三日連続の講座が二年にわたって行われます。


そしてさらに、おそらく、シュタイナー教員養成講座では初めての試みだと思うのですが、8月から毎週水曜日の夜8時から一時間のオンラインクラスが並行して行われます。


皆さん、どうぞ、杜の都・仙台で、そしてオンラインクラスで、共に、こころざしを寄せ合って、未来の世代のためにわたしたちが何をしていくことができるか、語り合いながら、共に成長していきましょう!


お申し込み、お待ちしております。


諏訪耕志(2022〜2024年度「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」教員養成講座担当)



定員:20名(先着順)

●応募締め切り:7月15日 早割(1年分一括納入)の締め切りは6月30日です。

詳細は下のチラシをご覧ください。3ページ目のQRコード(応募フォーム)からご応募いただけます。

以下のリンクからもご応募いただけます。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSedOSRxRrrwtn0oU6cy9Y52CdCeIOTI_8oGNdiyz9A_BpSmaw/viewform


●お問い合わせ・お申し込み
おひさまの丘宮城シュタイナー学園
TEL:022-725-5086
Eメール:info@ohisamanooka-steiner.or.jp



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2022年04月08日

語り「黄泉の国のくだり」古事記より現代語訳






このくだりは、多くの人によく知られてゐるところで、死んでしまつた妻イザナミノミコトを夫イザナギノミコトが死の国、黄泉の国まで追ひかけて行くところから始まります。

しかし、そこで妻のおそろしい姿をのぞき見してしまつたイザナギノミコトは、黄泉の国の鬼とも言へる醜女(しこめ)たちや八柱(やばしら)の雷神(いかづちのかみ)たちに追ひかけられながらも、生の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ帰つてきます。

そして、そのくだりの最後に、夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトとが大きな岩を間に据ゑて向かひ合ひ、ことばを交はし合ひます。

死の国の女神は申されます。「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)くびりころさむ」。

そして、生の国の男神が申されます。「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててむ」と。

最後に、精神からのことばをもつて、このくだりが閉じられます。「ここをもて一日にかならず千人(ちひと)死に、一日にかならず千五百人(ちいほひと)なも生まるる」。



甦り(黄泉帰り)の祭りを4月17日に控え、今、わたしは、この我が国の神語りが伝へてくれてゐることにいたくこころを惹きつけられてゐます。

それは、死(の神)と生(の神)が、大きな岩(意識)で隔てられてはゐても、ことばを交はし合つたといふことなのです。

そして、その談(かた)らひは、いまも、ずつと続いてゐる、さう思はれてなりません。死と生は談らひ続けてゐます。その談らひによつて死と生は表裏一体のものです。どちらかひとつが欠けても世はなりたちません。ふたつはひとつなのです。

死と生とが、そのやうに断絶してゐるやうに見えてゐるのは、わたしたちの意識のせいです。

しかし、我が国の神話・神語りのありがたいところは、その大きな岩といふ断絶を超えて、死と生が談らひ合つてゐるといふ、このことであり、さらには、この談らひがこれまでの多くの解釈によるやうな憎しみをもつてやりとりされてゐるのではなく、互ひに互ひの存在と役割を讃へ合つてゐるといふことです。

それは、如実に響きとして響いてゐます。互ひに呼びかける時に、どちらも相手のことを「うつくしき・・・」といふことばを発してゐるのです。それは、死と生とが、もとは、ひとつであつたことから来る情の発露です。

世は分かたれなければならないこと。しかし、憎しみをもつて分断が宣言されるのではありません。

分かたれたからこそ、互ひが互ひを認め、讃え、敬つてゐます。

分断を煽るのではなく、互ひを讃え、敬ふといふ、葛藤を超えたひとりひとりの人の意識の変容こそが、世を生成発展させ、弥栄に栄へさせることへと深いところで働きかけてゐます。

そのことをわたしたち日本人は深みで知つてゐます。ご先祖様はそのことをわたしたち現代人以上に遥かに深く遠く知つてをられました。

そして、その古くからの伝統や習慣が失はれてしまつた今、わたしたちは、教育を通して、意識的に、我が国の神語りを暮らしの基にもう一度据ゑ直すことができないでせうか。

我が国の神話・神語りによつて、死と生が二極対立としてあるのではなく、ふたつがまるごとでひとつなのだとおほらかに(かつ、密やかな悲しみを湛へながら)捉へる力を育むことが大切なことではないかと思ふのです。

その内なる力が、世の分断を防ぎ、和してあることへ、そしてその和すことそのことが、弥栄に栄へゆくことへとわたしたちを導くといふ、いにしへからの我が国の精神の伝統をわたしも信じてゐます。

この内なる密(ひめ)やかなこころのなり変はりを、わたしたちは、もう一度、意識的に練習して行くこと。この大切さ、必要性を強く念ふのです。



語り「黄泉の国のくだり」。静かさと共に耳を傾けていただければ、幸ひです。




言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。
わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。
HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
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2022年04月02日

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜



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金沢の武家屋敷庭にて



人といふものの内へと
 
感官を通して豐かさが流れ込む。
 
世の精神は己れを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
それはその力を世の精神から
 
きつと新たに汲み上げる。
 
 
 
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かひあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顯はしてくれる。
 
 
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、花もわたしを觀てゐる。
 
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
 
 
また、わたしの瞳も、だんだんとそのありやうを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
 
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、わたしみづからが精神として甦る。
 
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
 
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
 
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
 
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
 
 
しかし、いま、神が人を待つてゐる。世の精神が人を待つてゐる。
 
 
世の精神が、己れを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
 
 
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在だ。
 
 
しかし、植物は、人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
 
 
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐるのではないだらうか。
 
 
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
 
 
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐる。
 
 
それは、表だつて言挙げされはしないが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものだ。
 
 
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
 

 
 
 
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
それはその力を世の精神から
きつと新たに汲み上げる。
 

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2022年03月31日

はじめに愛ありき 〜アントロポゾフィー運動において〜






わたしたちの仕事。

それは、ひとりひとりが、まづもつて、みづからの内なるこころを安らかに整へること。

さういふ内なる仕事をする人を、ひとり、またひとりと増やしていく。

それこそが、わたしたちのアントロポゾフィー運動です。

その運動が弥栄に繰り出し続けてゆくためには、何が必要か。

そのことをシュタイナーの『ヨハネ福音書講義』から述べさせてもらつてゐます。

メディテーションと芸術実践。

アントロポゾフィーハウスは、そのふたつの柱をもつて、日本におけるアントロポゾフィー運動をこつこつと深め続け、広め続けていきます。

アントロポゾフィーハウス 諏訪耕志


※サムネイルの絵は、ディエゴ・ベラスケス『十字架に吊るされたキリスト』




2022年03月29日

『アントロポゾフィーハウス青森三沢 生誕劇クラス』が始まりました



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いま、本当に大切だと思ふこと。それは、人と人とが怖れから隔たり合はず、共に集ひ、目と目を交はし合ひ、息と息とを交はし合ひながら、活き活きと芸術活動に勤しみ合ひ、共に何かを創り出していくこと。

昨日から、今年のクリスマス12月25日に向かつて、『アントロポゾフィーハウス青森三沢 イエス・キリスト生誕劇クラス』が始まりました。

この劇創りに参加したいといふ、中学生の女の子ふたりの意欲の萌しにわたしも動かされ、そして、大人の方々も種々様々な都合を乗り越えて、思ひもひとつになり、このクラスを始めさせていただくことにしました。

若い人が創造することの喜びと難しさに直面しつつ、新しい何かを精神的に、芸術的に創りなしていくこと、そして自分たちにはそのやうに世を創りなしてゆく力があるんだといふ手応へをつかむこと。

精神的呼吸困難を促すやうなこの二年間を経て、わたしたちアントロポゾフィーハウスは、そのための場を、大人が創つてゆく必要があることの大切さを思ひます。

東北地方にお住まひの方、気の早い話ですが、どうぞ、今年のクリスマス12月25日は、青森の三沢にお越しください。イエス・キリスト生誕劇を通して、聖なる清らかなひとときを共に創りあげませう。

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posted by koji at 00:44 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月26日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜



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人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、
 
 わたしのいのちを担ひなさい。
 
 魔法の縛りを解いて。
 
 ならば、わたしは、
 
 まことの目当てに行きつく」
 
 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
 
春が少しづつ近づいて来てゐる。木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
 
 
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
 
 
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
 
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
 
 
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、さういふ日本語ださうだ。
 
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
 
いま、植物から何かが、「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
 
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
 
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
 
 
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
 
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
 
 
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
 
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
 
シュタイナーは、「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで、晩年の『礎(いしずえ)のことば』といふ作品を終へてゐる。
 
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
 
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
 わたしのいのちを担ひなさい。
 魔法の縛りを解いて。
 ならば、わたしは、
 まことの目当てに行きつく」



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2022年03月24日

日本昔話「桃の酒」






旧暦における三月三日(新暦では今年は四月三日)のお雛祭りには、桃の花びらを浮かばせたお酒をいただく風習がありました。

その基となつた昔話です。

桃は古来、命の甦り、新生を意味するものでした。

このお話の不思議な意味合ひを、聴いてゐる子どもたちは素直にこころの内に受け止めるでせう。


ーーーーー


言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。

「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/

諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/

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2022年03月22日

こころの健やかさは、ひとり「考へる」から



わたしたちは、皆、健やかでありたい。さう希つて生きてゐます。からだが健やかであることはもちろんのことですが、しかし、肝心かなめなのは、こころの健やかさですよね。

その、こころの健やかさは何によつて促がされるのでせうか。

それは、まづもつて、「考へる」ことによつてなのだといふことを、繰り返し、わたしはわたしみづからに諭してゐるのです。

なぜでせう。

なぜ、こころの健やかさは「考へる」によつて促がされるのでせう。

人は、まるまる独り立ちすることによつて、本当に、健やかになりうるからです。

まるまる独り立ちできるのは、「考へる」人であつてこそです。

そのほかのこころの働き、例へば、「感じる」ではどうでせう。

「感じる」においては、確かに、ある部分は、自分自身が、つまり、<わたし>が、感じようとして感じてゐますが、しかし、ある部分は、外の世からの影響・働きかけに大きくこころが動かされてゐます。そして、いはゆるその感じられた「感じ・情」は、やつて来ては、過ぎ去つてゆき、とどまることがありません。

こころにやつて来る「感じ・情」といふお客様は、ある意味、得体のしれない外部からの侵入者でもあり、まづもつては、<わたし>には隅々まで見通すことはできません。「感じる」といふ働きは、人にとつて、かけがへのない営みではありますが、その「感じる」だけにこころの営みが尽きてゐることにおいては、<わたし>は不安定なままです。独り立ちどころではありません。

一方、「考へる」ことによつて稼がれる「考へ」は、それが他者の「考へ」を鵜呑みにしてゐたり、予断や先入観に偏つてゐたり(思ひ込み、思ひ患ひ、などなど・・・)しないかぎり、つまり、まぎれなく、この<わたし>が考へてゐるかぎり、その「考へ」は<わたし>が隅々まで見通すことができます。すべてが、<わたし>の働きによつて生まれて来たものであり、外からの得体のしれない侵入者ではないからです。その「考へ」は、ひとり、<わたし>といふ、内なるもの、高いものからむすばれた宝物だからです。その宝物をもつて、人は、まるまる、独り立ちすることができます。(「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」からの恵みであります😇)

人は「考へる」ことによつて、精神の世と繋がる第一歩を踏み出します。そして、その繋がりが、その人の独り立ちをますます促がすのです。

人のこころは、からだとは自動的に繋がりますが、精神と繋がるには、その人のアクティビティーが要ります。しかし、だからこそ、精神と繋がることでこころはまこと満たされます。アクティビティーこそが人のこころを満たすのです。受動的な消費生活のみでは、人のこころは結局は満たされません。「考へる」は、精神との繋がりを取り戻す、こころのアクティブな働きのはじまりなのです。

そして、そのやうな時を重ねて行くことで、人は、だんだんと、その人の軸が生まれて来る。人は、だんだんと、その人になつてゆく。わたしが、ますます、<わたし>になることができる。それが、人の人たるところであり、「考へる」は、人にのみ授かつてゐる神々しい働きです。

<わたし>が考へる。

そのアクティビティー、その内なる仕事によつてこそ、人はまるまる独り立ちへの道を歩き始めるのでせうし、こころの健やかさ、果ては、からだの健やかさまでもが促され、もたらされる。

さう実感してゐます。




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2022年03月21日

新しいオンラインクラス『人と世を知るということ テオゾフィー』



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いま、ルドルフ・シュタイナーを学ぶということの必要性。

それは、ひとりひとりの人が「自由」を生きることを切実に求めていることから来ています。

「自由」。それは、わたしがますます〈わたし〉になりゆくことです。それは、わたしが勝手に自分自身で限定づけている狭いわたし以上の働きをなして行くことです。

そのためには、目には見えない世をリアルに知りゆくこと、そして、自分自身の運命を受け入れ、自分自身の使命をリアルに知りゆくこと。

このふたつが、「自由」を生きるため、ひとりひとりが〈わたし〉を生きるために、どうしても欠かせないものだ。

そのことをシュタイナーは、20世紀初頭に『テオゾフィー』という本に書き記しました。

そしてこのふたつが、この『テオゾフィー』の副題となっています。

その副題は、「感官を凌いで世を知ることと人の定めへの案内」です。

このクラスでは、この本を丹念に一文一文、読み進め、ことばそのものを読み深めることで、まさに「人と世を知るということ」へと共に道を歩いて行きます。

要(かなめ)は、ことばを読み深めることです。

シュタイナー教育、その他、アントロポゾフィーから仕事が繰りなされるとき、そのようにことばを読み深める人にとって、この本は、きっと、その仕事をして行くための基の力となります。

アントロポゾフィーの基。

それが、この『テオゾフィー』という一冊の本に刻み込まれているのです。

そして、この『テオゾフィー』という本、読めば読むほど、人のこころや精神に対する想いがたわわになってきて、本当に面白いのです。


講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji



●zoomによるオンラインクラス開催日時
2022年4月より毎月第一・第三土曜日
(5月のみ、第二・第四土曜日
 8月のみ、第二・第三土曜日)
午前10時〜12時


●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円
※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。


●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


鈴木一博氏訳の『人と世を知るということ テオゾフィー』を用います。どうぞ、ご参加前に以下のサイトにてご購入下さい。https://www.dokkoiii.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E8%B3%BC%E5.../




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2022年03月16日

こころの深みで静かに鳴り響いてゐること




ルドルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(鈴木一博氏訳)を読んでゐて、そこに記されてあることばに対し、わたし自身、すぐには明晰な意識で応答できないものの、こころの深みで静かに鳴り響いてゐることがらがあります。

それは、生きとし生けるものの命は世の深みにおいてひとつの流れとなつて流れてをり、わたしはその一節(ひとふし)なのだといふ考へを深めてみる練習のことを述べてゐる、次のやうな文章です。(146頁)



「わたしも、その人(犯罪者)も、まさにひとりの人である。わたしがその人の運命を辿らなかつたのは、もしかすると、ひとへにもろもろの事情によつてわたしに授かつた教育のおかげかもしれない。」

「わたしに労力を注いでくれた先生がたが、もし、その人にも労力を注いでゐたとしたら、その人が違つた人になつてゐたであらう。」

「その人から奪はれたものが、わたしには授かつてゐる。わたしのよいところは、まさにそのよいところがその人からは奪はれてゐることに負つてゐる。」

「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」

「そのやうな考へが静かにこころにおいて培はれてほしい。」



この激動の時代において、わたしはどう生きていくことができるだらう。わたしに一体何ができるだらう。

そのことをいま、多くの人がみづからに問ふてゐるのではないでせうか。いや、なんの葛藤もなしに生きてゐる人などゐないはずです。

多くの言論、多くの意見が、この二年以上にわたり世界中を飛び交つてゐます。井戸端会議に似たやうな人と人とのことばのやりとりだけでなく、いま、世界中の大局において、「ことばによる戦争」「情報戦争」が行はれてゐるといつてもいいのではないかと思はれます。

しかし、ことばが粗く、荒く、使はれざるをえないこのやうな時だからこそ、わたしも密(ひめ)やかな学びの値をこれまで以上に深く、強く、確かに、痛感してゐます。

己れのこころの内なる仕事を大切に守りたい、いま、さう希つてゐます。

「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」

上記のシュタイナーによつて記されてゐる考へを、外なる扇動的な行動に移すといふことでは毛頭なく、ただ、ただ、静かにこころの深みに響かせ、培ひ続ける。

その培ひは、全く、外には現れません。

しかし、内なるそのやうな行ひが、まづは、わたしひとりのこころの内でなされること。

その自由なる内なるふるまひが、わたしの強い砦になり、世に向けてのまことの働きかけとなつてゆくのではないか。

そのことに対して明晰な応答はできない、と先ほど書きましたが、やはり、こころの深みで、「その通りだ」とかすかに聴こえて来るのです。




posted by koji at 23:45 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月15日

源氏物語を娘と共に



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去年2021年の秋のはじめごろから次女と一緒に家で、『源氏物語』を、紫式部の原文と昭和の文人・円地文子の現代語訳で読み続けてゐます。

学校とは別に、ひとりの大人が(親ですが・・・)若い人に何を与へることができるだらうと下手に考へてゐたのですが、やはり、自分自身が楽しめることでないと、継続的にかういふことはできないことに気づき、次女とそんな時間を持ち続けてゐます。

次女自身は、さほど、まだ、この物語に思ひ入れは持ててゐないと思ひます。しかし、ひとりの大人が(父ですが・・・)惚れ込んでゐるものを、できるならば、押しつけがましくなく、若い人に紹介できるならば、それもまたいいのではないかと・・・。のちのち、彼女自身の人生における成熟の中で、この古典への改めての見識と感情が生まれて来るのではないかと・・・。

光源氏が継母である藤壺の宮と密かに、かつ、これ以上ない情熱をもつて通じてしまふところなどは、わたし自身最も感極まるところでありながらも、思春期の娘とどのやうに分かち合へるのか、定かではないのですが、模索しつつ(笑)、読み進めてゐます。

文学を通し、芸術を通し、こころとこころの繋がりを家族の中でも創つてゆくことができたら、さう希つてゐるのです。

なぜなら、家族といふものも、時間と共にありやうが移り変はつてゆき、そのことへの意識がお留守になり、ほったらかしにしておくと、つひつひ、家庭が個人主義者と個人主義者がただ寄り集まつてゐるだけの仮の場になり果ててしまふことへの危惧があるからかもしれません。

ひとつの家庭だけでなく、ひとつの地域共同体も、ひとつの国も、そのやうなひとりひとりの共同体に対する意識的な働きかけがあつて、初めて共同体として甦る。さう思ふんです。

何ができるかなあ・・・。




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2022年03月11日

互ひを讃え、敬ふことへの意識のなり変はり



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いま、『古事記(ふることぶみ)』から「黄泉の国のくだり」をひとりで練習してゐます。

そのくだりは、多くの人によく知られてゐるところで、死んでしまつた妻イザナミノミコトを夫イザナギノミコトが死の国、黄泉の国まで追ひかけて行くところから始まります。

しかし、そこで妻のおそろしい姿をのぞき見してしまつたイザナギノミコトは、黄泉の国の鬼とも言へる醜女(しこめ)たちや八柱(やばしら)の雷神(いかづちのかみ)たちに追ひかけられながらも、生の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ帰つてきます。

そして、そのくだりの最後に、夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトとが大きな岩を間に据ゑて向かひ合ひ、ことばを交はし合ひます。

死の国の女神は申されます。「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)くびりころさむ」。

そして、生の国の男神が申されます。「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててむ」と。

最後に、精神からのことばをもつて、このくだりが閉じられます。「ここをもて一日にかならず千人(ちひと)死に、一日にかならず千五百人(ちいほひと)なも生まるる」。



甦り(黄泉帰り)の祭りを来月4月17日に控え、今、わたしは、この我が国の神語りが伝へてくれてゐることにいたくこころを惹きつけられてゐます。

それは、死(の神)と生(の神)が、大きな岩(意識)で隔てられてはゐても、ことばを交はし合つたといふことなのです。

そして、その談(かた)らひは、いまも、ずつと続いてゐる、さう思はれてなりません。死と生は談らひ続けてゐます。その談らひによつて死と生は表裏一体のものです。どちらかひとつが欠けても世はなりたちません。ふたつはひとつなのです。

死と生とが、そのやうに断絶してゐるやうに見えてゐるのは、わたしたちの意識のせいです。

しかし、我が国の神話・神語りのありがたいところは、その大きな岩といふ断絶を超えて、死と生が談らひ合つてゐるといふ、このことであり、さらには、この談らひがこれまでの多くの解釈によるやうな憎しみをもつてやりとりされてゐるのではなく、互ひに互ひの存在と役割を讃へ合つてゐるといふことです。

それは、如実に響きとして響いてゐます。互ひに呼びかける時に、どちらも相手のことを「うつくしき・・・」といふことばを発してゐるのです。それは、死と生とが、もとは、ひとつであつたことから来る情の発露です。

世は分かたれなければならないこと。しかし、憎しみをもつて分断が宣言されるのではありません。

分かたれたからこそ、互ひが互ひを認め、讃え、敬つてゐます。

分断を煽るのではなく、互ひを讃え、敬ふといふ、葛藤を超えたひとりひとりの人の意識の変容こそが、世を生成発展させ、弥栄に栄へさせることへと深いところで働きかけてゐます。

個人のことだけでなく、男女間のことだけでなく、国と国、民と民との間のことにおいても、分断しようとする力が強く働いてゐる今ですが、国防や国際社会における政治的駆け引きなどもその必要性から当然なされてしかるべきだと考へつつも、この内なるひとりひとりのこころのなり変はりこそが世に新しい場を創りなす鍵となるのだといふことを肝に銘じたいのです。

政治的な面において、世には残酷なところがあるとわたしは痛感してゐます。(願はくば、このことばが、分断を言ひつのることではなく、事実を事実として認めることへと繋がりますやうに。)その現実を知るほどに、上に書いたことのかけがへのない精神からの伝えへとしての我が国の神話・神語りの重要性をいまさらながら念ふのです。

そのことをわたしたち日本人は深みで知つてゐます。ご先祖様はそのことをわたしたち現代人以上に遥かに深く遠く知つてをられました。

そして、その古くからの伝統や習慣が失はれてしまつた今、わたしたちは、教育を通して、意識的に、我が国の神語りを暮らしの基にまう一度据ゑ直すことができないでせうか。

我が国の神話・神語りによつて、死と生が二極対立としてあるのではなく、ふたつがまるごとでひとつなのだとおほらかに(かつ、密やかな悲しみを湛へながら)捉へる力を育むことが大切なことではないかと思ふのです。

その内なる力が、世の分断を防ぎ、和してあることへ、そしてその和すことそのことが、弥栄に栄へゆくことへとわたしたちを導くといふ、いにしへからの我が国の精神の伝統をわたしも信じてゐます。

この内なる密(ひめ)やかなこころのなり変はりを、わたしたちは、まう一度、意識的に練習して行くこと。この大切さ、必要性を強く念ふのです。




posted by koji at 09:41 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月09日

科学としての教育から芸術としての教育へ 宮城シュタイナー学園にて






2022年1月29日に、「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」にて行ひました講演『子どもの成長とことば』から触りの一部をご覧ください。

20世紀後半に教育を受けて来たわたしたちは、ひたすら数字に支配されて来たやうに感じてゐます。

テストの点数や偏差値をもつてわたしたちは先生たちから評価が下され、その評価によつて、生きる場所(進学する学校や勤める仕事場)が決められて来ました。

数値で測られて来たのです。このシステムは、すべて科学的な思考の中で出来上がつてゐて、前世紀、そして今世紀の20年代の今に至つても、残存してゐます。

これまでの科学を基にする教育から抜け出さうとする子どもたちがこんなにも増えて来た21世紀の20年代の今、アントロポゾフィーを生きる指針とするわたしは、ルードルフ・シュタイナーの提言に励まされつつ、芸術を基にする教育への移行を考へ、行はうとしてゐる、もしくは行つてゐる人たちと共に仕事を始めてゐます。

仙台にある「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」との共なる仕事も、そのひとつです。

学園で行ひました講演からはじめのお話の部分です。よろしければ、どうぞお聴きください。


2022年03月08日

より賢い<わたし>との繋がり アントロポゾフィーハウス【滋賀草津】



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喜怒哀楽に右往左往してゐる常日頃のわたしよりも、賢い<わたし>が、どの人にもあります。

その「より賢い<わたし>」と、どう繋がるか。

時には、その「賢い<わたし>」のことを「天使」と言ひ表すこともあります。

それが、今日のアントロポゾフィーハウス【滋賀草津】の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』クラスのテーマでした。

一か月に一回のクラスですが、これから、少しづつ、そのテーマを深めて行きます。

クラスの後、メンバーの方がこしらへて下さつたお弁当(こころの籠つた味はひ深さ!)をいただきながら、今日の学びを分かち合ふシェアリングをしました。

本当に今日も皆さん、ありがたうございました。


●日時: 毎月第二火曜日 10時〜12時

●場所: 滋賀県草津市内 個人宅(お申し込みいただいた方に個別のご連絡いたします)

●参加費: 単発でのご参加 3500円
      4回連続参加 12000円    


鈴木一博氏訳を使います。よろしければ、ご参加の前に、お買い求め下さい。
精巧堂出版 https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007


お申し込み・お問い合わせ: 
suwa@kotobanoie.net(諏訪)



posted by koji at 18:15 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月07日

アントロポゾフィーハウス【青森三沢】子どもの教育の実践に向けて



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わたしたちは、いま、未来の世代に向けて何をすることができるでしょうか。

それは、まずもって、教育です。

これまで、日本の国ではなかなかできなかった、ひとりひとりの子どもが独自のものを伸ばして行くことができるような教育です。

その教育を実践していくためには、「人というもの」への深い見識、そしてそこからの芸術実践が要るのではないでしょうか。

いまある社会への適応能力を子どもたちにつけさせることが第一の指針ではなく、ひとりひとりの創造力・精神の力をもって新しく社会を創ってゆくための基の力を育んでいくこと、それこそが第一の指針となっていいはずです。

ルードルフ・シュタイナーから生まれた叡智「アントロポゾフィー」に基づく子どもたちへの教育(シュタイナー教育)をあらたに始めて行くための学びのクラスを青森三沢にて始めて参ります。

教育とは、子どもを数値で判断するような科学的行為ではなく、子どもの内側から健やかなもの、美しいもの、善きものを引き出していく、芸術行為なのです。

ご関心のおありになる方、どうぞ、まずはお気軽に覗いてみて下さい。

お待ちしています。


講師:
オイリュトミー 越中奉(えっちゅうたすく)
言語造形・講義 諏訪耕志(すわこうじ)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji



●日時: 毎月第四火曜日 9:30〜14:00

●場所: 自由学舎 中川塾
     青森県三沢市下久保1-4-6

●タイムスケジュール:

9時半   シェアリング
     (ことばの分かち合い、聴き合い)
     オイリュトミー
     (ことばや音楽に沿って動く芸術)

10時15分  言語造形
     (子どもたちにお話を語りかけるためのことばの芸術) 

12時    講義「これからの時代の子どもへの教育のあり方」

13時   終わり


●参加費: 3回連続ご参加 10000円
      単発ご参加 4000円


お問い合わせ・お申し込み:
佐々木 千晶さん aibaru0809@gmail.com




posted by koji at 12:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月06日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜



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「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光を放ちつつ。
 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
 
この週の『こよみ』に、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
 
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
 
 
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
 
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
 
 
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
 
 
そのやうにして、外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
 
 
わたしたちの外側からたくさんの世の力がありありと迫つてくる。
 
 
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかないときがある。
 
 
そんなとき、たくさんの、たくさんの、思ひやことばが行き交ふ。
 
 
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
 
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
 
 
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
 
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもない、この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から、「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
 
 
それは、外の出来事に振り回されて考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
 
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
 
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
 
 
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。


そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
 
 
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな、死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
 
 
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
 
 
その人に、軸ができてくる。
 
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
 
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
 
 
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
 
では、その力を、人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
 
 
それは、夜、眠つてゐるあひだに、人といふ人に与へられてゐる。
 
 
ただし、昼のあひだ、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
 
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
 
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
 
それは、眠りのあひだにこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。


眠つてゐることによつて、意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、エーテルのからだとフィジカルなからだから離れてゐるのだから。
 
 
眠りのあひだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
 
 
要は、夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼のあひだにみづからに注ぎこませることができるかだ。
 
 
そのために、シュタイナーは、その講演で、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、さう述べてゐる。
 
 
それは、人のこころを育てる。
 
 
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
 
 
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、それだけでは駄目なのだと。
 
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
 
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
 
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまふと。
 
 
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮ひ起こして、能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、彼はことばを発してゐた。
 
 
その力は、夜の眠りのあひだに、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
 
 
夜盛んだつた意欲を、昼のあひだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
 
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
 
 
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
 
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが甦りの祭を前にした、こころの仕事であり、わたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。



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2022年03月03日

ふたつの学びの柱から産まれて来るもの 『山月記』動画






アントロポゾフィーハウスの趣旨。それは、芸術実践とメディテーションといふ、ふたつの学びの柱を打ち樹ててゆくことによつて、頭だけでものごとを考へがちになることから、心臓・胸においてこそ活き活きとものごとを考へ始める生き方へと、自分自身を自分自身で導いて行かうとすることであり、その自己教育から、今までにない仕事をアントロポゾフィーの精神から生み出して行かうとすることです。いはば、精神からの職能の道です。

心臓・胸において考へる。それは、考へに血が通ふことです。考へと情と意欲がハーモニーを奏でることです。考への趣きがますます精神を湛えることです。さうして、その血の通ふ考へが、心臓・胸から手足の先にまでわたつて全身に脈打ちます。ふるまひのひとつひとつに、精神の響きが湛えられます。そのためには、先に書きました、ふたつの柱を意識的に学びの真ん中に打ち樹てていく必要があるのです。

このたび、アントロポゾフィーハウスによる芸術実践の第一回目としまして、仙台と三沢にて中島敦作『山月記』の言語造形・オイリュトミー公演をいたしました。

この芸術実践は、オイリュトミーをする越中さんと、言語造形をするわたくし諏訪との、約9か月にわたる実際の汗を流しながらの稽古の継続からはもちろんのこと、メディテーションを中心にしたアントロポゾフィーそのものの研究から生まれ出たものでした。

かうして録画したものをみづから観てみますと、自分自身の未熟さと共に、ある確かさをも感じます。

それは、このアントロポゾフィーのふたつの学びの柱を行き来する中で、高い叡智・精神からの導きに加へて、心臓・胸の領域から血の迸るやうな情の噴出を造形していくことへの希望と信頼です。それは、本当にふたつの学びの柱からこそ、産まれて来るものなのです。




2022年03月02日

4月からの新しいオンラインクラスのお知らせ!「『人と世を知るということ テオゾフィー』を読む」



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いま、ルドルフ・シュタイナーを学ぶということの必要性。

それは、ひとりひとりの人が「自由」を生きることを切実に求めていることから来ています。

「自由」。それは、わたしがますます〈わたし〉になりゆくことです。それは、わたしが勝手に自分自身で限定づけている狭いわたし以上の働きをなして行くことです。

そのためには、目には見えない世をリアルに知りゆくこと、そして、自分自身の運命を受け入れ、自分自身の使命をリアルに知りゆくこと。

このふたつが、「自由」を生きるため、ひとりひとりが〈わたし〉を生きるために、どうしても欠かせないものだ。

そのことをシュタイナーは、20世紀初頭に『テオゾフィー』という本に書き記しました。

そしてこのふたつが、この『テオゾフィー』の副題となっています。

その副題は、「感官を凌いで世を知ることと人の定めへの案内」です。

このクラスでは、この本を丹念に一文一文、読み進め、ことばそのものを読み深めることで、まさに「人と世を知るということ」へと共に道を歩いて行きます。

要(かなめ)は、ことばを読み深めることです。

シュタイナー教育、その他、アントロポゾフィーから仕事が繰りなされるとき、そのようにことばを読み深める人にとって、この本は、きっと、その仕事をして行くための基の力となります。

アントロポゾフィーの基。

それが、この『テオゾフィー』という一冊の本に刻み込まれているのです。

そして、この『テオゾフィー』という本、読めば読むほど、人のこころや精神に対する想いがたわわになってきて、本当に面白いのです。

講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji



●zoomによるオンラインクラス開催日時
2022年4月より毎月第一・第三土曜日
(5月のみ、第二・第四土曜日
 8月のみ、第二・第三土曜日)
午前10時〜12時


●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円
※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。


●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


鈴木一博氏訳の『人と世を知るということ テオゾフィー』を用います。どうぞ、ご参加前に以下のサイトにてご購入下さい。https://www.dokkoiii.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E8%B3%BC%E5.../




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2022年03月01日

なめとこ山の熊〜信仰といふものの深みを引き出したい〜



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宮沢賢治の「なめとこ山の熊」。この作品には、多面的な意味や魅力が詰まつてゐます。


しかし、とりわけ、このたびは、信仰といふものの深みをこの作品から引き出して、それを提示したい。


その希ひから、作品のまるごとから四つの場面を抜粋し、また、その希ひに叶ふやうなタッチで語ることに挑戦してみました。




(その一)熊といふ山の生き物を殺すこと。だからこそ、猟師の小十郎のこころが、祈りへと導かれて行く。その悲しみ・・・。






(その二)熊のことばが秘密をささやきはじめる。自然のまるごとが音によつて秘密をささやきはじめる。かつてはみづからのこころにとつて訳のわからない音であつたものが、意味に満ちた自然の言語となる。情を培ふ人ならばこそ、こころをもつて、聴きはじめる。






(その三)死んでゆく熊たちは、死んだ後も、生き続ける。熊は、死んでも、その息遣ひと血の巡りの調和を、宇宙へと、大いなる世へと、もたらす。熊の胸の領域におけるその調和は、この世とあの世との調和を促す。その調和ゆゑに、人は、熊を山の神として崇めてゐた。山はこの世とあの世とを繋ぐところであり、熊は山であつた。そして、神は、我々、人に、その身を捧げて下さつてゐる。






(その四)生と死、その幽明の境を超えて、人と世は生きてゐる。死といふものがあるからこそ、悲しみと共に「美しさといふもの」を知ることができる、生きることができる・・・。




賢治の描く物語、紡ぐことばから、わたしたちは、感官を超えて生きることの予感を持つことができます。


「信仰といふものの深み」をこの四回の言語造形で引き出せただらうか・・・。ああ、道のりは遠いのです😇


動画をコメント欄に掲載してゐます。よろしければ、どうぞお聴き下さい。




「信仰といふものの深みを引き出したい」と書きましたが、言語造形といふ芸術は、いつも、作品といふ作品、ことばといふことばから、こころの、信仰の、祈りの、精神の、強さ、深さ、確かさ、美しさを、引き出すものだと感じてゐます。


このやうにして動画に収録することも、一回一回が、ひとつの舞台作品創りで、何度も何度もやつてはやり直し、やつてはやり直しといふ、その作業は、多くの苦しみを伴ふのですが、その苦しみがまた、とてつもなく楽しいのです。楽しんで、苦しんでゐる、といふか・・・。


なぜ、楽しいのか。それは、きつと、美とまことに向かつてゐるからだと思ふのです。


この作業は、間違ひなく、子どもの時の遊びの延長線上にあります。





2022年02月27日

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜



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平櫛田中『養老』



光、世の高みから、
 
こころに力に満ちて流れくる。
 
光の内に現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考へるの確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
 
考へるとは、本来、みづからを措いてものごとに沿ふこと、思ひわずらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
 
今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ抜く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。


たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときの、こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
 
自然法則といふものも、自然に秘められてゐる世の考へだ。
 
 
人が考へることによつて、自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
 
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、その人と、もしくはみづからと、腰を据ゑてつきあひつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
 
―――――――
 
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
 
(『礎のことば』より)  
――――――――
 
 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
 
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
 
長所にはつと気づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
 
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
 
  
 
光、世の高みから、
こころに力に満ちて流れくる。
光の内に現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。




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アントロポゾフィーハウス青森三沢公演「山月記」ありがたうございました



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かうして舞台をするといふことは何を意味するのだらう。演じるわたしたちからすれば、それは、まぎれなく、世に新しい何かを産み出さうとしてゐる。できうるならば、研鑽の果てに、恣意や自意識の滓から浄められた精神をもつて何かが生まれて来るのを乞ひ希んでゐる。そして、聴きに来て下さつた方々、観に来て下さつた方々と共に、その初めて生まれた赤子の産声を聴き取ることができれば・・・。そんな夢を抱きながら、切実に舞台に臨んでゐる。

その産声を聴き取るには、演者は内において動くことが必要になつて来る。動くこと。能動的なこと。活気に満ち溢れてゐること。汗を流すことを厭はないこと。何はなくとも、わたしたちは動く。生きる。汗を流す。さうすることで、できうる限り、こころを浄めつつ幼な子の誕生を待つ。その出産・分娩には終はりがなく、死ぬまで続く。死んでも続く。精神の幼な子を産み続ける。マリアの営みだ。

今日、来て下さつた人は、皆、共に、動き、「外郎売」を、「山月記」を、共に生き、ことばの響きを、音楽の調べを、オイリュトミストと共に汗を流しつつ、生き抜いた。それは、フィジカルなものから、こころの境へ、さらには、言語の精神の境へと共に登つてゆく作業だ。

わたしたちは、人々との、観客との、共同作業を求めてゐる。しかし、その共同作業を織りなすためには、まづは演者であるわたしたちみづからが精神の線に沿つて生き抜くことからしか始まらない。

今日といふ日を共に創つて下さつた皆様に、こころより、お礼を申し上げます。

どうもありがたうございました。


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2022年02月23日

小川榮太郎氏『作家の値うち』



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仕事の必要上、読みたい本、読まなければならない本が、本当にたくさんあつて、これ以上、読む時間を取れそうにないのにもかかはらず、小川榮太郎氏の「作家の値うち」を買つてしまつた。自分自身に「買うたらあかん、買うたらあかん」と言ひ聞かせてゐたのにもかかはらず、書店で手に取り、ページを繰り始めるやいなや、100人の日本人作家による505の現代文学作品の魅力とつまらなさを、一作一作述べてゐるこの書をレジへ持つて行くことになつてしまつたのでした。これはあきません。このガイドブックのページをめくるほどに、読みたい本が出て来る、出て来る。思はずAMAZONでぽちっとしたくなる誘惑に勝つことが、今の課題です。それでも、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」と宮本輝の「蛍川・泥の河」を贖ひ、隙間の時間を使つて読んでしまひました。小川氏の高評価に沿つてのことです。この二冊の文庫本を読んだだけでも感じてしまふ、もののあはれ。ああ、なんと、豊饒な人の世よ。それは、文学者・詩人によつて産み出される人の深い愛と叡智に他ならない。そんな同時代を生きてゐる人によつて紡ぎ出されることばの芸術を紹介してくれてゐるこの「作家の値うち」。本当にありがたく、かつ、とてつもなく、面白いのです。

posted by koji at 22:52 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

科学と芸術と宗教をひとつに束ねる教育 「普遍人間学」から






自分自身が高校、大学と入学させてもらへたことの親への感謝とは全く裏腹の、学問の府への激しい失望感を今もよく想ひ起こします。

わたしたち学生の前に、居丈高に立ち聳えるかのやうな校舎の威容と、世の複雑困難さを表すかのやうな科目の数々。

そこには、数多くの教授がゐました、事務職員もゐました、図書館には文字通り汗牛充棟たる書物もありました。

しかし、そこには、「人」がゐない。ゐなかつたのです。

学問とは、「人とは何者か」そして「人を包んでゐる世とは何ものか」といふことを追ひ求める知的冒険である以上、その冒険に乗り出す道先案内人である教授自身に、「人の人たるところ」を熾烈に追ひ求める、その息づかひが全く感じられなかつたのです。

わたし自身が、その失望を感じてからでさへも、すでに40年が経ちます。

わたしたちは、いま、明らかに、時代の変はり目にゐます。これまでの大学や高校や中学、そして小学校までもが、その在り方を根本的に変へざるをえなくなつて行くでせう。

科学と芸術と宗教。この三つがしつかりと手に手を取り合つて、若者を育んでゆく、そんな教育機関がきつと生まれます。わたしたちは、そのやうなものを生み出さうとしてゐます。

わたし自身が、40年前、まさに、そのやうな教育を切に求めてゐました。





2022年02月21日

こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜



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世のふところから立ち上がつてくるだらう、
 
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
 
それは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、鈴木一博さんが以前、日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらつてゐる。
 
 
精神、こころ、からだ。
 
 
人は、この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
 
 
自分自身を顧みても、やはり、どちらかといふと、精神が上の方に、からだが下の方にあり、こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
 
そして、この『こころのこよみ』は、その名の通り、真ん中の「こころ」が、活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
 
この時期、陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、地から、少しづつ少しづつ、草木の力が繰りなしてきてゐるのを見てとることができる。そして、「啓蟄」といはれるやうに、虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這ひ出してきてゐる。
 
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
 
人においても、近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘ひ出し、感官へのそのやうな働きかけが、真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、その精神の想ひ起こし、精神の慮り、精神の見はるかしに、まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________
 
 
 
こころといふものは、常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いてゐる。
 
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできる。
 
 
むしろ、さうあつてこそ、こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあつてゐる。
 
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、心拍は高まりもするし、低まりもする。
 
 
また、呼吸といふものも、そのこころのふたつの動きに左右される。吐く息、吸ふ息のリズムが整つたり、乱れたりする。
 
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、吐く息、吸ふ息の間に、静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。
 
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、わたしたちは、リズムといふもの、時といふものをリアルにとらへることができる。
 
 
そして更に、こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、わたしたちは、世といふものとの間においても、リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、茫洋として、のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を前にしてゐるとき。
 
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
 
いまにも雨が降り出しさうな、どんよりとした曇り空の下にゐるときと、晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、それぞれの季節におけるからだとこころのありやうの移りゆき。
 
 
世といふものと、わたしたちとの間においても、ハーモニーを奏でることができるには、そのふたつが、ひとりひとりの人によつて、はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
 
世とわたし。そのふたつの間を思ひつつ、はかりつつ、響き合はせる。その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによつて、人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
 
そして、人は、歌ふ。春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
 
慮る(besinnen)は、歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べてゐる。
 

 人のこころ!
 あなたは心と肺のときめきに生き
 心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
 あなたそのものを感じるに至る。
 行はれたし、精神の慮りを
 こころの釣り合ひにおいて。
 そこにては波打つ世の
 成りつ為しつが
 あなたの<わたし>を
 世の<わたし>と
 ひとつに合はせる。
 もつて、あなたは真に生きるやうになる
 人のこころの働きとして。
         (『礎のことば』より)
 
 
春の訪れとともに世のふところから、下のからだを通して、感官への輝きを通して、こころに、繰りなす喜び。
 
 
そして、上の精神からの考へる力。その考へる力は、冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、神々しい力によつて備へられてゐる。その考へる力によつて、こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、こころに生まれる喜びといふ情を、上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、真ん中のこころに、喜びが生まれ、育つていく。
 
 

 
 
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 

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2022年02月20日

こころの矢



今日僕等の周囲に提供されてゐる莫大な知識の堆積と、無秩序な事態の樣相に銳敏であれば、僕等の內憂の力が絕えずさういふものに應ずる爲に浪費されざるを得ない。

さういふ新らしい時代の不運を逃避してはならぬ。

僕等はたつた一つの的を射抜くのに十年前の⾭年が思つてもみなかつたほど澤山の矢を射ねばならぬのである。

今日、心の浪費を惜しむものは何事も成就し得ないと僕は考へてをります。

大切な事は、矢といふものはいくら無駄に使つても決して射る矢に欠乏を感ずるといふ事はない、さういふ自信を持つ事です。矢は心のうちから発する、そして人間の心といふものはいつも誰の心でも無限の矢を藏してゐる、さういふ自信を得る事です。

(『現代の學生層』小林秀雄 昭和十一年六月)


これは、昭和11年、1936年に小林秀雄によつて書かれた文章の一部です。

「大正デモクラシー」といふコトバにまみれるやうにして、日本の世相が近代化の成熟、爛熟に至つてゐた約十五年間。その大正時代を経て、昭和に入り、多くの若い人たちが、物質的な豐かさ故の虚しさを抱えて煩悶してゐたことを、わたしは多くの先人たちが殘してくれた文章を通して、知ることができました。

「大正デモクラシーをひと口で言ふと『猫なで声』と答へる」
(山本夏彦) 

いつの時代でも、若者たちは、志を己れの内に秘めてゐます。昭和十年代のその秘められてゐる志に向けて、小林秀雄は己れのこころざし・ことばの矢を放つてゐます。

わたしたちは、人生の荒波を超えてゆきながらも、一生涯、学生です。

そして、学生であるといふことは、外からやつてくるものに負けずに、その都度、その都度、目指す的に向かつて、みづからのこころから無数の矢を放ち続ける、その気力とこころざしにあります。

なるほど、的を見据ゑることは、気持ちの良いことでも楽しいことでもないかもしれませんが、その的を見失はずにしつかりと観る見識を養ふことと、さらにその的に向かつて矢を放ち続けて欠乏を知らない、みづからへの信頼を持つことは、この時代、本当に、本当に、必要です。

86年前のかういつた文章を読むことによつて、こころの泉から清い水が湧き出てくるやうな感慨を感じます。いま、かういつたものを滅多に読むことができません。

大きなものに、小さなものに、みずから貢献する力の一部となりたい、といふ若い人たちの志に火を点けること、さういふことばを発し合ふ関係性こそが、ことばの道、文章の道、文藝の道によつて念ひ起こされて行くのです。

アントロポゾフィーといふ精神の運動からですが、人の自由を守り、人の創造性を促す、さういふ運動にわたしも馳せ參じてゐます。




posted by koji at 18:19 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする