2020年05月09日

キャロル・キング『ミュージック』と清々しい朝



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昨日までの三日間、
本当に久しぶりに仕事をさせてもらひました!
 
 
仕事を通して、
人様と繋がることができることは、
なんて素晴らしいことなんだらう。
 
 
あらためて、ありがたさを痛感しました。
 
 



一晩明けて今朝は、
これまでの長い自粛期間の、
修行僧のやうな(?)こころもちとは、
随分と違ふ、
穏やかで、安らかな朝を迎へることができた。
 
 
こんなときは、
コーヒーを飲みながら、
キャロル・キングのアルバム『ミュージック』。
 
 
前作『タペストリー(つづれおり)』での
大成功で深く自信をつけたであらう彼女が、
お腹に御子を宿しながら、
おそらくゆつたりと創り上げた、
約50年前の珠玉の作品。
 
 
聴いてゐて、
こころに寛ぎと安らぎと喜びが湧き上がつてくる。
 
 
からだの隅々の細胞が甦つてくる。
 



 
個人的には、
このウィルス騒ぎはフェイクだと見てゐますが、
とにかくも、
緊急事態宣言が発信された、
この自粛期間は、
わたし自身が新しく生まれ変はるための、
この上ない絶好の機会でありました。
 
 
お先、真つ暗、先が見えないからこそ、
第九・七年期のはじまり、
今年56歳になるこれから先の自分自身が、
どんな人になりゆくのか、
楽しみで仕方がないのです。



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ことばの家 アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
朝クラス (1).png
夜クラス (1).png
 
 

昨日までの三日間、
アントロポゾフィークラス・オンラインに
ご参加して下さつた皆さん、
本当にありがたうございました。
 
 
本当に遅ればせながら取り組んだ、
Zoom での講義をしてみまして、
わたしにとつてはまるで、
深海の底に沈められてゐた宝の箱を、
見いだしたやうな、
想つてもみなかつたやうな喜びの中に、
今朝、ゐます。
 
 
遠く宮城、茨城、長野、神奈川などからも
ご参加下さり、
オンラインを通して、
こんなにも親しく人と人とが、
触れ合へることを
初めて知りました。
 
 
最初の会に、
思ひ切つてご参加して下さつた皆さんに、
こころより感謝申し上げます。
 
 
スタートとして、
今回は三日連続でさせていただきましたが、
このアントロポゾフィークラスを、
これからは、
第二・第四金曜日の夜9時から11時まで、
毎月行ふことになりました。
 
 
日本の伝統精神に即しながらの、
アントロポゾフィーの理解の深まり。
 
 
ご関心のおありになる方、
ぜひ、お仲間にお入りくださいね。
 
 
深くて、時に闊達な息遣ひを共有しながら、
精神の「みすまるの玉」を繋いでいきませう。
 
 
いまこそが、
天地(あめつち)の初発(はじめ)であります。
 
 
講師 諏訪耕志拝
 
 
――――――
 
 
●ことばの家 アントロポゾフィークラス・オンライン
 
 
ルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』を軸にして、
アントロポゾフィーの学びを進めて行きます。
 
 
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 

5月22日より、毎月第2・第4金曜日
夜21時より23時まで 
(7月のみ、第二・第五金曜日)
 
 
『普遍人間学 第二講』に入つて行きます。
 
 
参加費は、初回単発ですと3500円、
3回連続ですと9000円といたします。
 
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
 
 
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただきます。
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
お申し込み・お問ひ合はせは、
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
まで、お願ひします。
 
 
 
ありがたうございます。
 
 
  

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2020年05月05日

『密(ひめ)やかな集まり』アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
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生家に残されてゐるゲーテの部屋


 
「何を知つてゐるか」「何をするか」よりも、
「どうあるか」。
 
 
その問ひを自分自身に向けることこそが、
アントロポゾフィーといふ学問の
根幹にあること。
 
 
つくづく、さう念ひます。
 
 
開かれてはゐますが、
同時に、
こころの密(ひめ)やかな集まりとなります。
 
 
明日からの三日間、
お申し込み下さつた方々、
ありがたうございます。
 
 
Zoom ミーティングのURLは、
明日の開始時間の30分前にはお知らせします。
ご入場も30分前から大丈夫です。
 
 
新しく始まるアントロポゾフィーの集ひです。
ご関心おありの方、
どうぞこの機会に、
こころを動かして、
新しい部屋にお入りになりませんか。
 
 
お待ちしてゐます。
 
 
諏訪耕志
 
 
 
『ことばの家アントロポゾフィークラス・オンライン』
イベントページです↓
https://www.facebook.com/events/262959258175899/

 
 

第一日目 5月6日(水・祝)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「現代を生きるわたしたちの課題」
 
 
第二日目 5月7日(木)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「息遣ひとことばとメディテーション」
 
 
第三日目 5月8日(金)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「人の九分節」
 
 
 


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2020年05月04日

こころのこよみ(第4週)〜主と客、重ね合はせて「わたし」〜


  
ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」.jpg
ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」

 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは考へるに、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世をひとつにするべく、
 
固く結びつけようとする。
 
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 

 
※普通、「Denken」といふドイツ語を訳すときには、
 「思考」と訳すことが多いのですが、
 「denken」といふ動詞(考へる)が
 そのまま名詞になつてゐるので、
 その動きを活かすべく、
 「考へる」と動詞的に訳してゐます。



 
幼児は、たとへば、ことばといふものに、
一心に、全身全霊で、耳を傾ける。
 
 
からだまるごとを感覚器官にして、
聴くといふ仕事を一心にしてゐる。
 
 
そのことによつて、誰に手ほどきを受けるでなく、
神々しい力、精神によつて、
ことばを習得していく。
 
 
からだは「ことば」の器になつていく。
 
 
幼児の内に、
そのやうに、からだをことばの器にするべく、
おのづと力が働いてくれてゐた。
 
 
わたしたち大人は、
意識的に、その人から、仕事をしてこそ、
育まれるべきものが育まれ、
満たされるべきものが満たされる。
 
 
このからだは、何歳になつても、
まだまだ、育まれて、育まれて、
おのれの感覚を深めていくことができる。
 
 
ものごとに対して判断しなければならないとき、
データや数値なども、
なんらかの判断材料を提供してくれるが、
それに頼り切らず、
もつと、己れのからだを通しての感覚を
育んでいくことが、
己れへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、
大切な指針になつていくのではないだらうか。
 
 
その、感覚とは、そもそも、
わたしたちに何を語つてくれてゐるのか、
何を教へようとしてくれてゐるのだらうか。
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる
「感覚(Empfindung)」といふことばは、
「受けて(emp)見いだす(finden)」
からできてゐることばだ。
 
 
人によつて受けて見いだされた、
光、色、響き、熱、味、触など。
それらが感覚であるし、
また、それらだけでなく、
(これまでの生理学や心理学では、
 さうは言はないらしいが)
それらによつて起こつてきた、
情、意欲、考へも、感覚なのだ。
なぜなら、みづからのこころといふものも、
世の一部だからだ。
 
 
色や響きなど、外からのものを、
人は感覚する(受けて見いだす)し、
情や意欲や考へといふ内からのものをも、
人は感覚する(受けて見いだす)。
 
 
しかし、外からの感覚は、
外からのものとして客として迎へやすいのだが、
内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、
客として迎へにくい。
主(あるじ)としてのみづからと、
客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
 
主と客をしつかりと分けること、
それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
 
みづからの情や意欲や考へを、
まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
 
明確に主(あるじ)と客を
分ける練習を重ねることで、
分けられた主と客を再び、
ひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
 
主と客を明らかに分けるといふことは、
主によつて、客が客として意識的に迎へられる、
といふことでもあらう。
 
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、
その客をその都度ふさわしく
迎へていくことに習熟していくことで、
主は、ますます、主として、
ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
 
外からのものであれ、内からのものであれ、
その客を客として
意欲的に迎へようとすればするほど、
客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。
感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
 
外の世からの感覚だけでなく、
考へ、感じ、意欲など、
内に湧き起つてくる感覚を、
しつかりと客として迎へるほど、
その客が語りかけてきてゐることばを
聴かうとすればするほど、
わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、
太く、深く、成長させていく。
 
 
客のことばを聴くこと。
それが主(あるじ)の仕事である。
 
 
その仕事によつて、
わたしは、みづからの狭い限りを越えて、
「わたしのわたしたるところ」を
だんだんと解き明かしていくことができる。
 
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、
客によつて主が主として迎へられる
といふことであるだらう。
 
 
迎へるべき客を迎へる。
 
 
そして、これ以上、
お付き合ひしなくてもいい客を、
しつかりと迎へた上で、
愛で抱擁したあと、
去つていただく。
 
 
それは、主と相応しい客がひとつになるといふ、
人と世との、もしくは人と人との、
出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
 
そして、主と客がひとつになるときに、
「わたし」がいよいよ明らかなものになつていく。
 
 
つまり、主=「わたし」ではなく、
主+客=「わたし」なのだ。
 
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、
もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、
ものとひとつになることを目指して、
彼らがどれほど苦闘したか、
だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
 
彼らは、世といふもの、
こころといふものの内に潜んでゐる
大きな何かを捉へることに挑み、
そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、
その果てにだんだんと立ち顕れてくる
「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
 
彼らは、色彩といふもの、
さらに風雅(みやび)といふものと、
ひとつにならうとする仕事を
死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
 
 
ものとひとつになるときこそ、
「人のわたし」が
はつきりと立ち顕れてくることを
彼らは知つてゐた。
 
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、
それは、「わたしのわたしたるところ」の
拡がりと深みを語つてくれるし、
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、
わたしは、
客について、己れについて、「わたし」について、
明るく、確かに、考へることができる。
 
 
そして、わたしと世がひとつであること、
すべてがひとつであることへの
信頼感と確かさをだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へるに、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。
 
 
 

 

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2020年05月03日

『静かに目覚めるための時間』アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
聖霊降臨.png
エル・グレコ「ペンテコステ(聖霊降臨)」

 
 
いま、これまでに経験したことのない自粛生活の中、
からだの動きが制限されてゐる分、
こころの働きも、ややもすると、
健やかさを見失ひがちになるかもしれません。
 
 
いつもは、
気晴らしにどこかへ出かけるとか、
誰かと会つておしゃべりに興じることで、
こころのバランスをなんとか取戻してゐたのですが、
それができない、いま。
 
 
さういふとき、人は、本来、
精神に触れて、
こころの健やかさを取り戻すことができるのです。
 
 
その精神は優れた芸術、優れた書物に、
ふんだんに織り込まれてゐます。
 
 
ただ、優れた芸術・書物といふものは、
決まつてハードルが高いものです。
 
 
このたびのオンライン講座は、
シュタイナーの『普遍人間学』といふ、
極めてハードルの高い精神に、
人を介して触れることで、
わたしたち皆のこころを、
自分自身の精神へと呼び戻す、
そんな意図を持つてゐます。
 
 
新しいことをお勉強するのではなく、
そもそも、すでにありありとあるはずの、
各々の精神を目覚めさせるための講座です。
 
 
一日のうちに、
内なる安らかさのひとときを創り出し、
本質的なところを
本質的でないところから分かつ、
そんな時間を共に持ちませう。
 
 
わたしも、全く新しく、
『普遍人間学』に取り組んで行きます。
 
 
どうぞよろしくお願ひします。
 
 
 
講師 諏訪耕志

 
 
 

『ことばの家アントロポゾフィークラス・オンライン』
詳細はこちら↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/474875800.html

 
 

第一日目 5月6日(水・祝)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「現代を生きるわたしたちの課題」
 
 
第二日目 5月7日(木)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「息遣ひとことばとメディテーション」
 
 
第三日目 5月8日(金)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「人の九分節」
 
 
 



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2020年05月02日

シェイクスピア「あらし(テンペスト)」


 
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シェイクスピアの最後の作品「あらし」
の読後感をまづ言ふなら、
「いま、ここに、わたしはゐる!」
「そして、いま、ここで、
 わたしは何をすることができるだらうか!?」
といふ強い直感にも似たことばになります。
 
 
シェイクスピアは何を描き、何を問ふたか。
 
 
どんなに厳しい状況であらうと、
全く新しい境地へ一歩踏み出すことのできる
「人間の可能性」を描いたのだ。
 
 
そして、夢からのひとりひとりの目覚めと、
その目覚めたところから、
「あなたは何をするのか」といふ問ひを、
観客、そして読者のひとりひとりに突き付けた。
 
 
さう感じます。
 
 
その発せられた問ひは、
400年の時を越えて、
民族の違ひを越えて、
意識のこころを耕すことを課題としてゐる、
いまを生きてゐるわたしに強烈に響いてきます。
 
 
ルドルフ・シュタイナーは、
シェイクスピアについて、
次のやうに述べてゐます。
 
 
「野次馬根性」、
「八方美人性」、
「冷淡さ」、
「全世界的感覚」、そして、
「ただ見る」といふことのアクティビティ、
それらの心的態度をもつて、
意識的に作品のひとつひとつ、
人物のひとりひとりを造形して行つたといふこと。
 
 
特定にこだわるのではなく、
すべての人、ひとりひとりの内に潜む普遍にこそ、
こだわつた、といふこと。
 
 
自分を無にして、
あらゆる人の内面と親和しようとした、
シェイクスピアの「献身性」。
 
 
人の意識の変遷、東と西の照応、天と地の交流、
個と社会の新しいあり方、
そこに問はれるイニシアティブの秘密、
そして不完全・未熟・未完であるからこそ、
人は成長できるのだといふこと、
運命と自由、愛と自由といふこと・・・。
 
 
それらの考へが、
すべてこの作品の中で有機的に繋がり合ひ、
わたしの内に、
今を生き抜いて行かうといふ、
意欲を湧き立たせてくれます。
 
 
文学が、まさに今、
わたしがここにあることの
アクチュアルな問題として切迫してくるのです。
 
 
アントロポゾフィーからの文学研究を、
舞台芸術としての言語造形を通して、
なしていく。
 
 
わたしの後半生のテーマなのです。
 
 
 

posted by koji at 21:46 | 大阪 | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

追加!ことばの家アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ



Marina Fernandes Calache詩.jpg
絵は、Marina Fernandes 「Calache」



昨日、お知らせしましたクラス、
午前だけでなく、夜も開くことになりました。
 
 
夜は、午後9時から11時までの予定です。
 
 
 
ルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』
『いかにして人は高い世を知るにいたるか』
(どちらも鈴木一博氏訳)
を基本にしながら、
アントロポゾフィーの学びを深めて行く、
オンラインクラスのお知らせです。
 
 
我が国の精神伝統を鑑みながら、
学びを少しづつ進めていきます。
 
 
第一回目は、
三日間連続で行ひます。
 
 
このたびの自粛期間中であることを、
逆に活かして、
毎日決まつた時間に、
ひとつのことに取り組む。
 
 
オンラインといふ特性を活かしながら、
そんな学びの継続の体験の場を開きます。
 
 
講師 諏訪耕志

 
 
第一日目 5月6日(水・祝)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「現代を生きるわたしたちの課題」
 
 
第二日目 5月7日(木)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「息遣ひとことばとメディテーション」
 
 
第三日目 5月8日(金)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「人の九分節」
 
 
 
参加費:三回連続 9000円
    体験参加 3500円
 
 
お振込先: 以下にお振込み下さい。
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込みいただいた方に、
オンライン会議室Zoomの
ID とパスワードをお伝へします。
 
 
教材は、お持ちいただければ、
前もって読んでいただくなどして、
とてもいいのですが、
間に合はずお手にない場合でも、
講義とディスカッションに
入り込んでいただければ支障はありません。
 
 
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031


お申し込み・ご連絡: 
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/

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2020年05月01日

ことばの家 アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
Marina Fernandes Calache詩.jpg
Marina Fernandes 「Calache」

 
 
ルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』
『いかにして人は高い世を知るにいたるか』
を基本にしながら、
アントロポゾフィーの学びを深めて行く、
オンラインクラスのお知らせです。
 

第一回目は、
三日間連続で行ひます。
 
 
このたびの自粛期間中であることを、
逆に活かして、
毎日決まつた時間に、
ひとつのことに取り組む。
 
 
オンラインといふ特性を活かしながら、
そんな学びの継続の体験の場を開きます。
 
 
講師 諏訪耕志

 
 
第一日目 5月6日(水・祝)10時から12時
『普遍人間学・第一講』から
「現代を生きるわたしたちの課題」
 
第二日目 5月7日(木)10時から12時
『普遍人間学・第一講』から
「息遣ひとことばとメディテーション」
 
第三日目 5月8日(金)10時から12時
『普遍人間学・第一講』から
「人の九分節」
 
 
 
参加費:三回連続 9000円
    体験参加 3500円
 
 
お振込先: 以下にお振込み下さい。
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込みいただいた方に、
オンライン会議室Zoomの
ID とパスワードをお伝へします。
 
 
お申し込み: 
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
 
 

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エックハルト説教集


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まづ、最初の章の
「こころといふ神の社について」から、
こころを摑まれるのです。
 
 
神の社とは人のこころであり、
そこは、
キリストのみが入つて行き、
彼のみが語り給ふべき場であり、
だからこそ、
イエスはそこから商人たちを追ひ出した。
 
 
商人とは、
自分が何かよいことをすれば、
神から恵みをいただける、
さう思ひつつ生きてゐる人であります。
 
 
紛れもなく、
わたしのことでありました。
 
 

posted by koji at 17:21 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月27日

語り『架ける橋』






ここのところ、
夜に見た夢を朝になつてもよく憶えてゐます。
 
 
それらの夢に刺戟されたのでせうか、
この人生におけるわたしの念願といふものが、
いまさらながら意識に浮かび上がつてきてくれました。
 
 
今生において、
離れざるをえなくなつた人たちが、
たくさんゐます。
 
 
その人たちともう一度、話しができたら。
 
 
そんな念ひから、
このお話を語つてみました。 
 
 
この作品は、以前、オランダのWim Wolbrinkさんが語つてをられたものです。


このお話「架ける橋」のテーマ、
それこそがわたし自身の永遠のテーマであります。


お聴きいただければ、嬉しいです。



2020年04月25日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜


 
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世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
 わたし自身であることの鎖から。
 
 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」
 
 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
  
 
そのことが、
言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
 
頭で考へないで、
聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。
ひらめきが語りを導いてくれるまで練習する。
 
 
「ひらめき」とは、
語り手の己れが空つぽになり、
その空つぽになつたところに流れ込んでくる
「ことばの精神」。
 
 
それはまるで、
からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、
聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、
語り手に降りてくる。
 
 
「語る」とき、
自分が、かう語りたい、ああ語りたい、
といふことよりも、
「ことばといふもの」「ことばの精神」に、
耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
 
己れを忘れて、
かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を
頼りにしながら、
語り、語り合ふことができる。
 
 
そのやうに、語り手が、「ことばの精神」に、
聴き耳を立てながら語ることによつて、
聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
 
その「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、
語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、
「世のすべてに語りかける」とは、
世のすべてから流れてくる
「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
 
そのときに流れ込んでくる
「ものものしい精神」「ありありとした精神」を
感じることによつて、
わたしは解き放たれる。
みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、
こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、
むしろ、
「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」
といふこと。
 
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、
人は、みづからを知りゆく。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、
ものごとについての、
他者についての、
みづからについての、
解き明かしが訪れる。
 
 
互ひがよき聴き手であるときほど、
対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
 
特に、この季節、
自然といふものにまなざしを注ぐことによつて、
聴き耳を立てることによつて、
他者をよく観ることによつて、
他者のことばに聴き耳を立てることによつて、
自然と対話しながら、
他者と対話しながら、
わたしは、
わたし自身であることの鎖から解き放たれる。
そして、わたしは、
まことわたしたるところを解き明かしていく。
 
 
芽吹き、花開くものたちに、
たつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
 
 
 
  

 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 わたし自身であることの鎖から。
 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」
 
 
 
 

posted by koji at 22:07 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月24日

精神を体現した美しい人『ゲーテとの対話』


 
IMGP0154.JPG


 
これまで何度か、
この書を愛読して来たのですが、
読み継ぎつつ終はりが近づくにつれて、
つまり、ゲーテの死が近づくにつれて、
このたびほど悲しみが込み上げてきたことは
なかつたやうに思ひます。
 
 
ゲーテといふ、
溌剌として美しい精神を宿した人が、
この世から去つていくことが、
こんなにも悲しい。
 
 
これほどまでにゲーテの精神を
面目躍如として描くことができたのは、
ひとえに、エッカーマンといふ人の持つ、
ゲーテに対する尊敬と愛ゆゑに他ならない。
 
 
最後まで読み終へ、
ゲーテの亡骸の胸に、
エッカーマンが手を当てるところに至ります。
 
 
その静かな、静かな時。
 
 
その時に、
エッカーマンが感じたであらう、
悲しみと惜別の念の何十分の一かをわたしも感じ、
込み上げてくる涙を抑えることができませんでした。
 
 
精神を体現した美しい人がこの世を去ることほど、
わたしの胸を強く深く打つものはありません。
 
 
 

posted by koji at 17:58 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天と地の交流としての息遣ひ

 

わたしたちは毎時毎瞬、
呼吸をしてゐます。
 
 
させていただいてゐる、
と言ふ方がいいやうに思ひます。
 
 
その営みによつて、
いのちを授けられてゐるのですから。
 
 
その呼吸の営みとは、実は、
驚くべき営みなのです。
 
 
そもそも、それは、
大気を吸ふことによつて、
天の次元にまで昇つていき、
吐くことで、
その天の実質を地に降ろし、
地にもたらし、
地に拡げる、
そんな天と地を交はらせる働きなのです。
 
 
毎時毎瞬、
呼吸によつて、
こころが天と地を往復する。
 
 
それは、瞑想に通ずる営みです。
 

息遣ひは、
神からいのちを吹き込まれ、
神へといのちを送り返す、
そんな風に言つてみてもいい働きです。
 
 
ですから、
ことばを話すといふ営みも、
実は、その天と地の交流である、
息遣ひを動力にして働いてゐます。
 
 
本当に、奇しき働きです。
 
 
ことばをそのやうな、
清々しく爽やかな息遣ひに載せて発していく。
 
 
さうであつてこそ、
ことばはその生命を甦らせます。
 
 
息を吸ふたびごとに、
「天地(あめつち)の初発(はじめ)」に還り、
息を吐くたびごとに、
ことばといふ形をもつ「国」生みをするのです。
 
 
ことばを話すといふことは、
そのやうに、
神からの息吹きによつて、
国生みをしていく作業なのです。
 
 
芸術は、
そのやうな宇宙の根源の力と共に働くものです。
 
 
ことばを話す営みも、
芸術として甦りうるのです。
 
 

posted by koji at 08:05 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月22日

希む、哲学


  
エッカーマン著『ゲーテとの対話』。
 
 
昨日読んだところに、こんなゲーテのことばが。
 
 
―――――
 
わたしも自分で経験したことがある。
 
腐敗熱(おそらく伝染病の一種)がはやつた時、
どうしても伝染が避けられない状態にあつたが、
わたしはただ断固たる意志だけで、
その病気を追ひ払つてしまつた。
 
さういふ場合に道徳的な意志は、
信じられないほどの強い力を持つてゐるものだ。
 
いはばその意志がからだに浸み通つて、
すべて有害な影響を跳ね返すやうな、
積極的な状態にからだをおくものだ。
 
ところが、恐怖心といふものは、
積極性のない弱い感染しやすい状態で、
どんな敵でも簡単に我々を占領してしまふ。
 
―――――
 
 
ゲーテのことばは、
真実を穿つてゐるやうに感じる。
 
 
「道徳的な意志は、
 信じられないほどの強い力を持つてゐる」
 
 
ここで、わたしが問ふてしまふのは、
意志の強さのことでは実はなく、
次のことなのです。
 
 
あれだけ自然科学に通じてゐたゲーテにして、
この「信じられないほどの」ものに対する、
驚きの念、信頼の念。
 
 
この念は、何に根差してゐるのか。
 
 
これは200年前のことばだが、
いま、わたしたちは、
現在の疫学の「専門家たち」のことばをどう受け取る?
 
 
「専門家」が何を言はうと、
どう受け取り、
どう行動するかは、
ひとりひとり、自由ではないのか?
 
 
少なくとも、考へる人にとつては。
 
 
哲学は、机上の学問に過ぎないのか?
 
 
それとも、
恐怖を越えて、
わたしたちの真の人生と文明を支へる、
永遠のことばのひとつではないのか? 
 
 

posted by koji at 11:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月20日

免疫力のおほもと

 

精神とは何か。
 
 
それは、わたしのわたしたるところ、
〈わたし〉です。
 
 
その〈わたし〉は、
わたしがこの世に生まれる前からありましたし、
わたしがこの世を去つた後もあります。
 
 
この〈わたし〉を確かに知ること、
そのことを古代ギリシャの賢人は、
「汝みづからを知れ」と述べたのでせう。
 
 
このたびのウィルス騒ぎで、
わたしが、もし、
恐怖におののいてゐるとしたら、
外の世からの攻撃に、
内の〈わたし〉が怯んでゐる、
といふことでせう。
 
 
外よりも内が小さくなつてゐる、
といふことでせう。
 
 
精神であるこの〈わたし〉は、
生死を越えてあるものです。
 
 
この〈わたし〉を認めること、
この〈わたし〉を強く保つことこそが、
恐怖を凌いでいく原動力であり、
からだの免疫力のおほもとです。
 
 
〈わたし〉に普段から親しみ、
それを育んでゐますと、
精神ほど自由なものはない、
と実感します。
 
 
しかし、
〈わたし〉といふものを
普段から見損なつてゐますと、
精神といふものが、
逆に自分を不自由にすると感じ、
またなぜだか他者にも不自由を強いてしまひがちです。
 
 
そして、
精神から何かを強制されてゐると感じ、
また精神を自分自身が受け入れられないために、
もっともらしいことを言ひながら、
他者にも何かを強制しまひがちです。
 
 
つまりは、
恐怖の感情に巻き込まれてしまふのです。
 
 
非常時だと思はれてゐる今、
平時の時と変はらずに、
この〈わたし〉の育みを。
 
 
まだやつて来てゐない未来のことや、
自分のテリトリー外のことを
心配することから自由になり、
「いま、ここ」に意識を立ち戻らせることから、
練習を始めることができます。



posted by koji at 22:14 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月18日

語り『蛇の輪』







言語造形の語りを聴いていただきます。


川手鷹彦氏(藝術治療教育家)作「蛇の輪」です。


かうして自粛が長引く中、
少しでもこころに静かさと安らかさを
皆さんにお届けすることができたらと思ひ、
童話を語る動画を撮つてみました。
 
 
お時間がありましたら、
ご覧いただければ嬉しいです。
 
 
これまでは、
今週の〜曜日には、どこそこへ出かけて、
どこそこで仕事して、誰と会つて、などなど、
予定が一杯詰まつてゐましたね。
 
 
先が見え過ぎるくらい見えてゐました。
 
 
いかし、いま、全く先が見えません。
 
 
予定が立てられません。
 
 
手帳が真っ白です(笑)。
 
 
でも、だからこそ、
先が見えないこの時だからこそ、
「いま、ここ」だけを見つめる練習ができます。
 
 
「いまの真つ只中」
「Right Here Right Now」
「Geistes-Gegenwart(精神がいまここにあること)」
を味はつていきませう☺️
 

皆さんのこころに静かさと安らかさが戻りますやうに・・・。
 

 
※表紙の彫刻は、ミンヌ『聖遺物箱を担ぐ少年』です。

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜



Vallier.jpg
セザンヌ『庭師ヴァリエ』

 
 
外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
 
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
 
 
わたしは、目を、耳を、
もつと働かせることができるはずだ。
 
 
全身全霊で、ものごとにもつと集中して、
向かひ合ふことができるはずだ。
 
 
身といふものは、使へば使ふほどに、
活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、
たとへば、音楽に耳を傾けるときにも、
この外なるすべての感官を通して、
意欲的に、アクティブに、
見ること、聴くことで、
まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、
ときに、浮遊感を伴ふやうな、
ときに、もののかたちが
デフォルメされて突出してくるやうな、
そのやうな感覚を明るい意識の中で生きることができる。
 
 
「外なるすべての感官の中で、
 考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、
感覚を全身全霊で生きることができれば、
あれこれ小賢しい考へを
弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
 
このやうないのちの力に満ちた、
みずみずしい人のあり方。
それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
 
春になると、
地球は息を天空に向かつて吐き出す。
だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、
人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、
秋になるころには、
ある結実をきつと見いだすだらう。
 
 
春、天に昇る竜は、
秋、地に下り行く。
 
 
その竜は聖竜であらう。
 
 
それは、きつと、
この時代を導かうとしてゐる精神、
ミヒャエルに貫かれた竜だらう。
 
 
秋から冬にかけて、
キリストと地球のために、
たつぷりと仕事をしたミヒャエルは、
その力を再び蓄へるために、
春から夏にかけて、
キリストと地球のこころとともに、
大いなる世へと、天へと、帰りゆく。
そしてまた、秋になると、
ミヒャエルは力を蓄へて、
この地の煤払ひに降りてきてくれるのだ。
 
 
わたしたちの意欲も
ミヒャエルの動きに沿ふならば、
春に、下から萌え出てき、
感官を通して、ものを観て、聴いて、
世の精神と結びつかうとする。
 
 
そして、秋には、
上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、
地に実りをもたらすべく、
方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
 
だからこそ、
春には春で意識してやつておくことがあるし、
その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
 
  
 

posted by koji at 20:24 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月16日

仕事をより深めて

 
  
かういふ時は、
手を動かして、
ものを作ることができたり、
楽器を弾くことができたり、
そんなことができる人、
いいですよね。
 
 
創造するといふことが、
どれほど人を健やかにすることか!
 
 
毎日、
次の舞台に向けての稽古をしてゐるのですが、 
この稽古といふものが、
からだだけでなく、
どれほどこころを健やかにしてくれることか。
 
 
そして読書もわたしにとつては、
汗を流すやうな創造行為なのです。
 
 
この二週間は、
午前中はゲーテの『詩と真実』、
『(エッカーマンとの)対話』に、
午後は『平家物語』に、
夜はノヴァーリスにどつぷりと浸かつてゐます。
 
 
かうして、
稽古と読書を続けて行き、
深めて行くことで、
これからの自分の作品に、
より深みと含蓄をもたらしていきたいですし、
多面的で前進的な力をも、
さらには、
総合的な高さをも、
もたらしていくことができたら、
と熱望するのです。
 
 
これらはすべて分かりにくいことですが、
いよいよ自分自身の
芸術感覚と技量を
磨くこと以外に手はないやうです。
 
 
芸術とは何か、
人として生きるとはどういふことか、
芸術を真の仕事としていくためには、
どういふ精神を要するか、
それらのことを学ぶ上で、
ゲーテも、彼と同時代を生きた、
ノヴァーリスも本居宣長も、
わたしにとつては、
まことに、まことに、掛け替へのない先生です。
 
 
そして、わたしは、
自分自身の渇きを癒す泉がどこにあるのかを、
より明瞭にして行くことと共に、
同じ渇きを抱いてゐる友の助けになれるやう、
その泉の透明度と清潔を共有できるやう、
これからは仕事をしていきたいと考へてゐます。
 
 
その渇きとは、
ことばの美を求める渇きです。
 
 
表層にあるのではない、
深みに流れる美です。
 
 
それは、きつと、
人といふものの探求、
〈わたし〉といふものの探求と
ひとつなのでせう。
 
 
そのために、
毎日のからだの鍛錬が
必要であることはもちろんなのだけれども、
こころの栄養を
こつこつと丹念に集めていくことも
欠かせません。
 
 
稽古と共に、
洋の東西を問はず、
読み継がれてきた「古典」を読みこむ。
 
 
それは、
「ことばの理解」に向けてです。
 
 
表層的な意味に拘泥するのではなく、
ことばの深い意味を了解できる人を育てるためです。
 
 
そんなことを、毎日、精力的にやつていく、
「ことばの家」を、
ますますそんな場所にして行くことが、
わたしのこれからの仕事です。
 
 
読んで下さつて、ありがたう!
 

posted by koji at 22:50 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月15日

この騒ぎの向かう側

  
  
今まで経験したことのない毎日を暮らしてゐます。
 
 
それはウィルス騒ぎのこと、そのことではなく、
そのことゆゑに、 
すべての仕事がキャンセルされるといふ、
わたしにとつては前代未聞のことです。
 
 
しかし、そのことよりもさらに、
わたしは、
これまでに生きたことのないやうな
時間をいただいてゐる、
と感じてゐること、そのことが、
わたしにとつて真に前代未聞のことなのです。
 
 
わたしには、いま、
不思議と不安がありません。
 
 
なにひとつ経済的な保証もないのですが、
ただただ、芸術のことだけを考へてゐます。
 
 
ウィルス騒ぎと、
国からの経済的支援云々の騒ぎの、
向かうを遠く観つつ、
芸術のことだけを考へてゐます。
 
 
そして、できることから始めて行かう、
さう考へてゐます。
 
 
そのやうに考へられてゐるといふことは、
わたしにとつてとても不思議なことです。
 
 
なぜなら、これまでのわたしは、
経済的な不安と、
死に対する不安、
そして、愛を失ふことに対する不安に
苛まれてゐたからです。
 
 
ものの考へ方を、
感じ方を、
人生の生き方そのものを、
変へよ。
 
 
この事態が、明らかに、
そのことを伝へようとしてゐます。
 
 
この世界を挙げての騒ぎが終息したとしても、
わたしの内側が生まれ変はつてゐなければ、
わたしが今生、この世に生まれてきた甲斐がない。
 
 
さう思へることが、
自分でも不思議なのですが、
時が熟してゐるのだと
思つてゐます。 
 
 
ですから、
新しい精神からの息吹きが、
わたしといふ虚空の器に、
いま、吹き込んで来てゐます。
 
 
楽しみだ!


これを読む皆さんに、
安らかさと 落ち着きが与へられんことを・・・。




posted by koji at 18:46 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天之御中主神と繋がりて詠む


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わたしにとつて、いま、
一日一日がとてもたいせつです。
 
 
何をするかといふことと共に、
何をどう考へ、どう感じ、どう感覚するか。
 
 
こころの深く大きな転換がなされようとしてゐます。
 
 
きつと、皆さんも、さうではありませんか。
 
 
ずつと読んできた『古事記』の冒頭も、
いまさらながら、
こころの根底からの変容を促してくれるのです。
 
 
そこに記されてゐることばを、
メディテーションすることで、 
常に、意識を、
天地(あめつち)の初発(はじめ)に、
立ち戻らせるのです。
 
 
――――― 



陽はいまも とどろきかがやき つんざいて
をたけびあげり ここに我あり
 
 
天地(あめつち)の 初発(はじめ)のときに 
なりませる 神いまここに はるかあをぞら
 



posted by koji at 08:06 | 大阪 | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月13日

ぢつと観る

 
 
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速水御舟 『春の宵』
 


 
外の世の生きて動くありやうを
ぢつと観る。
 
 
そして、我が内の世、こころを、
より活き活きとしなやかに働かせながら、
外の世と内の世が
働きかけ合つてゐるさまをも、
ぢつと観る。
 
 
その、観るといふ作業に、
日々、習熟していく。
 
 
 渦巻きて 人を洗はむ 春風や
 桜散りゆき いましめざめむ
 
 
 春雨の 天(あめ)の流れの その波の
 しづかにしづむ むらさきもゑぎ
 
 
 いまはただ 膝まづきつつ 待つのみか
 嵐過ぎゆき 光し昇らむ
 
 
 
 

 

  

posted by koji at 18:50 | 大阪 ☁ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月12日

復活祭の日に



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カスパー・ダーヴィット・フリードリッヒ『復活祭の朝』
 
 
 
今日は、北海道を除いて全国的に雨。
 
 
大阪も、朝から、雨と風です。
 
 
間違ひなく、この雨と風は、
この世を洗ひ浄めてゐる、
さう感じます。
 
 
この世の人のこころを癒し、慰める、
精神からの雨風です。
 
 
わたしたち人類は、いま、
静かに、慎ましく、
こころとからだを我が家に鎮めてゐます。
 
 
宇宙の、世の精神が、
人のこころに、
静かに染み渡らうとして下さつてゐる。
 
 
これまで、どうしても、どうやつても、
止めることのできなかつた、
経済成長への無限の欲望を止めざるを得ない今。
 
 
その欲望の炎が、
この精神の雨風で静かに消されようとしてゐる。
 
 
炎が消えると、
人々は呆気にとられるだらう。
「これまでは、一体、何だつたんだ」と。
 
 
さうして、わたしたち人類は、
己れのまことのこころから、
太陽のやうな精神の曙の光が、
昇つて来るのを見るだらう。
 
 
経済成長が人を支へるのではなく、
こころの奥底からの成長こそが、
人を支へてゐることに、
人類の多くが気づき始める。
 
 
そして、
そのやうに物質至上主義を脱するとき、
最後に居残るエゴイズムは、
「心配」として人の脳に巣食ひ、
「憂ひ」として人の胸を闇の中に閉ざすと言ひます。
(ゲーテ『ファウスト』第二部第五章より)
 
 
いま、「心配」「憂ひ」に、
こころを捉われてゐる友よ。
 
 
目覚め、こころの甦る日は、
今日です。
 
 
復活祭の日の前の夜に、
そんな夢を見たら、
やつぱり朝から雨と風でした😊

 
 
 


 

posted by koji at 13:41 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月11日

教義も理屈もない信仰



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水の神をお祀りする、
その名も「水神社」が、
一昨日訪れた滋賀県瀬田の建部大社の、 
奥の林に、境内社として、
ひつそりと小さな社が佇むやうに鎮まつてゐる。

 
本殿にてお参りしたあと、
いざなはれるやうに、
その水神社の前に立ち、 
小さなお社の前で、
感謝の念ひをこころのうちで唱へました。
 
 
さうすると、風が吹いてきて、
明らかにわたしの背後に、
どなたかが優しく佇んでをられるのが直知されます。
 
 
吹き寄せてくる春の風に、
地から立ち昇つてくる気配に、
明らかに感じる神秘。
 
 
かうした感覚は、
外的に証明することなどできない、 
こころのリアリティーであり、
体感と言つてもいいものです。
 
 
知性ではない、
わたしといふまるごとをもつての感覚です。
 
 
わたしの父も、
よくさういふ話をしてくれてゐました。
 
 
かうした感覚を、
いまは多くの人と共有できる時代になつたことを
感じます。
 
 
三十年前には、
こんなことを口に出さうものなら、
まさに奇人変人扱ひでした(よね・笑)。
 
 
時代も変はつてきたやうに思ひます。
(いまも、もしかしたら、さうかもしれませんが 苦笑)
 
 
しかし、関西地方では、
かういふ感覚が比較的大事にされてきたやうに思ひます。
 
 
眼に見えないもの、こと、方々・・・。
 
 
さういふ存在に対する愛。
 
 
それが、ことばに表現できず、
教義も理屈もない、
信仰の顕れです。
 
 
さういつた、庶民の感覚が、
(「市民」ではない)
きつと、この国を護つてゐます。
 
 
このウィルス騒ぎが始まつてから、
緊急非常事態宣言が出されるまでは、
神社へ参詣される方がとても多く、
また熱心さを増していたやうに見受けられました。
 
 



posted by koji at 14:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜


 
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滋賀県瀬田の建部大社の前に咲く八重桜

 
世の広がりから、
 
陽が人の感官に語りかけ、
 
そして喜びがこころの深みから、
 
光とひとつになる、観ることのうちに。
 
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
 
考へが空間の彼方へと。
 
そしておぼろげに結びつける、
 
人といふものをありありとした精神へと。
 
 

 
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
 
 
 
 
自分自身のこころが、
光とひとつになり、
喜びが溢れだす。
 
 
陽の光(外なる自然)と、
こころの光(内なる自然)が、
ひとつになる。
 
 
春とは、そもそも、
そんな己れのありやうを観ることのできるときだ。
 
 
ものをぢつと見る。
ものもぢつとわたしを見てゐる。
 
 
ものをぢつと、見つめるほどに、
ものもわたしに
応へようとでもしてくれるかのやうに、
様々な表情を見せてくれるやうになる。
 
 
そんな、わたしとものとの関係。
 
 
それは、意欲と意欲の交はりだ。
 
 
その交はりのなかからこそ、
喜びが生まれる。
 
 
そして、喜びこそが、
わたしのこころを空間の彼方へと拡げてくれる。
 
 
とかく、狭いところで右往左往しがちな、
わたしの考へ。
 
 
だが、他人の目でなく、
自分自身の目で
観ることによつて、
喜びが生まれてくる。
 
 
そして、その喜びがあればこそ、
自分なりの考へ方、感じ方といふ、
いつもの己れの被ひを越えて、
こころを拡げてゆくことができる。
 
 
それによつて、新しく、
生まれ変はつたやうなこころもち。
こころの甦り。
わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
 
 
そして、ありありとした精神は、そこに。
 
 
生活を新しく開く鍵は、すぐ、そこに。
 
 
しかし、まだ、こころはしつかりと、
その精神と結びつくことができない。
 
 
ことばといふ精神が降りてくるまでには、
聖霊降臨祭(復活祭の50日後)を待つこと。
 
 
いまは、おぼろげに、
結びつくことができるだけだ。
 
 
そんな己れのありやうを観てゐる。
 
 
 
 
 
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
 
 
 

posted by koji at 13:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

たましひの願ひ 〜建部大社にて〜



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日本武尊を御宰神とする、
滋賀の瀬田にある建部大社。
 
 
そこからいただいた願ひ石をお返しに、
足を運びました。
 
 
 
願ひ石 建部のやしろに お返しす
桜の花の 散りゆくまぎわに
 
 

人と話さず、
神と話しに行く。
 
 
そこでは、本当は、
「願ひ」をかけるのではなく、
ただ、ひたすら、
「ここに、かうして、
 生かされてゐることがありがたいです」
とお伝へするだけなのですね。
 
 
神の顕れとして、
やしろが、木々が、桜が、苔が、
ありありとあります。
 
 
そのすべてが、
神の願ひの顕れだと感じられます。 
 
 
きつと、
人の意識の表面にある願ひではなく、
たましひの奥底にある願ひこそ、
神はすでに聴き取られてゐるやうに思ふのです。
 
 
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2020年04月09日

種を播かなければならない



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ミレー「種をまく人」



友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
  フリードリッヒ・シュレーゲル
 
 
 

わたしも、いま、豊かな収穫に向けて、
種を、たくさん、播いてゐます。
貧しかつた自分自身といふ大地に。
 
 
ウィルス感染の事実はどうであれ、
いま、わたしには、
さういふ時間が赦されて与へられてゐます。
 
 
人それぞれ事情はあるでせう。
 
 
しかし、こと、わたしには、
いま、豊かな収穫に向けた、
準備の時間をいただいてゐる、
さう感じてゐます。
さう確信してゐます。
 
 

 
友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
 
 
 


posted by koji at 19:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月08日

こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜



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こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
 
美が空間の広がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。
 
 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
 
ものをぢつと観る。
ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。
そのとき、こころの深みが動く。
こころの力を振り絞つて、
そのものとひとつにならうとするとき、
わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
 
眼といふものは、実は腕であり手なのだ。
 
何かを観るといふ行為は、
実は手を伸ばしてその何かに触れる、
もしくはその何かを摑むといふことなのだ。
 
 
そのやうな見えない腕、
見えない手が人にはある。
 
 
何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為だ。
 
 
おほもとに、愛があるからこそ、する行為だ。 
 
 
 
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
          柿本人麻呂 (萬葉集0037)
 
 
  
そのやうにして、アクティブに、
腕を伸ばすがごとくにものを観、
自然の響き、
音楽やことばの響きに耳を澄ますとき、
方向で言へば、
まさに上から、天から、
そのつどそのつど、
フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、
それでも繰り返し、繰り返し、
ことばがありありとしたものになるまで、
美が立ち上がつてくるまで、
ことばに取り組んでゐるうちに、
また、他者のことばを
こころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、
「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。
喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
 
精神である人は、
みづからのこころとからだを使つて、
ぢつと観る。聽く。働く。美を追ひ求める。
 
 
そのとき、世の精神は、
力強く、天から働きかけてくれる。
 
 
そして、
精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
 
空間の広がりの中で、
人と世が美を通して出会ひ(横の出会ひ)、
精神との交はりの中で、
人と天が生きる力を通して出会ひ(縱の出会ひ)、
その横と縱の出会ひが十字でクロスする。
十字架を生きる。
 
 
そこで、
『こころのこよみ』は、
この第52週をもつて一年を終へ、
甦りの日(復活祭)に臨む。
 
 

 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が空間の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
 
 

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2020年04月05日

幼な子たちの御靈に〜『ファウスト』を読んで〜


 
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ゲーテの『ファウスト』を
初めてしつかりと読み終へました。
 
 
最後の節、
「深山の谷」の、
夭折した幼な子の靈たちのことばを読み、
慟哭せざるを得ませんでした。
 
 
【夭折した幼な子たちの合唱】
 
教へて下さい 善き父よ
わたしたちはどこを漂ひ
わたしたちは誰なのか
わたしたちはみな 仕合はせです
わたしたちはみな ここにゐて
こころ穏やかです
 
互ひに手を繋ぎ合ひ
ひとつの喜びの輪になりませう
空をゆつくり巡りながら 声を合はせ
清きこころを歌ひませう
神の教へを受けて育つものは
疑ふことなく信じます
敬ひ信じるあの方を
 
   (『ファウスト』「深山の谷」より) 
 
 

いま、現実の世界でも、
多くも多くの幼な子たちが、
閉じ込められてゐたところから、
救ひ出されてゐるやうですね。
 
 
そんなときに、
この『ファウスト』を読むことができたこと、
そして読み終へた後、
これまでに夭折してしまつた、
幼な子たちの御靈(みたま)が、
いま微笑みながら、
見上げた空に浮かんでゐた小さな雲として、
天へと消ゑて行つたことが、
奇しき「しるし」のやうに思へてなりませんでした。
 
 
 
 
 

『ファウスト』とは、
悪魔と契約を交わした男のお話です。
 
 
彼は最後には、救はれて、
聖なるをとめのもとへと昇つてゆきます。
  

とても僭越なこととは思ひながらも、
先日演じたわたしたちの劇『 をとめ と つるぎ 』と、
この『ファウスト』の大河のやうな精神とは、
ひとすじ繋がつてゐることを知り驚きました。
 
 
これは、『ファウスト』を読み、
また『 をとめ と つるぎ 』を
聴いていただいてゐなければ、
なんのことだか分からないことだと思ふのですが・・・。
 
 
ただ、『ファウスト』の最後のことばだけ、
ここに挙げておきたいと思ひます。
 
 
【神々しく秘めやかな合唱】
 
なべて過ぎゆくものは
たとへに過ぎず
地の上にては至らざりしもの
ここにまったきものとして現はれ
おほよそ ことばに言ひがたきこと
ここになる
とこしへなるもの をとめなるもの
われらを彼方へと導きゆく
 
   (『ファウスト』「深山の谷」より)
 
 
 
をとめと神は いまも ひとつです
神 われらの親なり われらの親なり
神と人 そも親子なり
   (『 をとめ と つるぎ 』より)
 
  



 

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2020年04月04日

帝塚山教室「ことばの家 諏訪」へのお誘ひ


 
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大阪市住吉区帝塚山にある「ことばの家 諏訪」。
ご一緒に、朗読・語り・演劇といふ、
ことばの芸術「言語造形」を楽しんでみませんか。
 
 
物語ること、それは、
自分自身の内側からことばが溢れ出てくる、
喜びの体験です。
 
 
ぜひ、ご一緒に、
ことばの世界を楽しんでみましょう!
 
 
外側の世界からの勢ひに圧倒されず、
自分自身の内側から、
動きを生みだしていきませう。
 
 
舞台に立って、
ご自身を表現していく世界も待っています。
 
 
 
 
いくつかのクラスがあります。
(午前10時から12時半まで)
●月曜クラス(月一回)
●水曜クラス(月一回)
●金曜クラス(月一回)
●日曜クラス(月二回)
●土曜クラス(月三回)
     
 
参加費   最初の体験ご参加  2000円。
次回以降  4回連続ご参加   14000円
 
 
 
講師:諏訪耕志プロフィール 
言語造形のためのアトリエ、
『ことばの家 諏訪』主宰。
1964年大阪市出身。
日本語の美と風雅(みやび)を
甦らせていくことを念願にしてゐる。
 
 

ご連絡先:
「ことばの家 諏訪」  
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
Tel/Fax 06-7505-6405  
e-mail info@kotobanoie.net
ホームページ https://kotobanoie.net/

posted by koji at 22:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

継続することのたいせつさ



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4年前の今日も舞台をやつてゐたんだなあ。
 
 
樋口一葉の『十三夜』です。
 
 
一葉の擬古文を現代語訳せず、
そのまま言語造形にかけたものでした。
 
 
ことばの意味ではなく、
ことばの動きや間、
内的な身振りや音楽的な調べで、
表現して行つていいんだ、
といふことを、
理屈ではなく身体で学び始めたのは、
この作品あたりからでした。
 
 
何事も続けることがたいせつだと、
いまあらためて念ひます。
 
 
――――― 
 
 
先日の川崎市まぶね教会での言語造形公演、
「十三夜」を無事終へさせていただきました。
 
 
足を運んでいただいた皆さん、
本当にありがたうございました。
 
 
当日を終へて個人的に感じましたことが、
ふたつありました。
 
 
まづは、
樋口一葉の文章を
全身をもつて発声していくといふこと。
 
 
きつと、作家は、
頭だけで文章を書いてゐません。
全身で書いてゐます。
ですから、文章を書くには、
健康なからだが要ります。
 
 
しかし、一葉は、
からだを健やかに保つだけの
生活的条件にあまりにも恵まれてゐませんでした。
それゆゑ、みづからのからだを蝕んでしまいました。
  
 
そのやうに、
からだに刻み込むやうにして
記された文章といふものを、
わたしたちが発声するとき、
口先だけで発するのではなく、
充分な健康をもつて、
全身をもつて発するときにこそ、
文章はその精神を顕はにしてくれる
といふことです。
 
 
精神的な仕事といふものは、
全身を使つての、
からだまるごとからの仕事からのみ
成り立つのだといふこと。
 
 
ひとつひとつの発声で
自分自身の立ち位置が決定されてきます。
一文一文、
前方に限りなく広がつてゐる空間に
ダイヴィングするやうに、
ことばを発していくことによつて、
世界が変はつていくのです。
活路が開かれていくのです。 
 
 
そして、もうひとつは、
小さなことをていねいに描くことを、
いくつもいくつも積み重ねることによつてのみ、
大きなことを表現することができるのだといふこと。
 
 
具体的なディテールを
どんどん描き続けていくうちに、 
ぐわつと大きな感情の波が立ち上がつてくる。
この作品の奥底に静かに流れてゐるテーマの
大きさに触れることができる。
 
 
今回の稽古においては、
わたしの方が、
パートナーの千晴にたくさんの細やかな示唆をもらひ、
多くのことを学び、助けられました。
 
 
地に足をしつかりとつけて、
この手でしつかりと物を摑むが如く、
この目で見、
この耳でじかに聴くが如く、
汗を流し、
涙と血を流すが如く、
このからだを通してこそ響いてくるものを、
ひとつひとつ大事にすること。
 
 
どれほどのものが聴いて下さつた方々と共有できたのか、
それは未知のものではありますが、
同じ時と場を共に創ることができたやうな、
そんなこの上ない充実感を
わたし自身いただくことができました。
 
 
素晴らしいギター演奏をしてくれた清水さん。
司会を務めて下さつた大原さん。
受付をひとりでやつてくれた志穂ちやん。
会場の外でお客様を誘導してくれた瓦吹さん、加藤さん。
お客様にお茶の用意をしてくださつた愛さん。
暖かいこころで
わたしたちの儀式を見守つてくださつた石井牧師。
そして来て下さつたすべてのお客様。 
皆さんのお蔭で公演は成り立ちました。
かさねがさね、本当にありがたうございました。
 
 
またこれからも言語造形の舞台を
創りつづけていきますので、
どうぞ、どうぞ、よろしくお願ひいたします。 


posted by koji at 10:16 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月01日

5月からの「缶詰・宮澤賢治」クラスのお知らせ


 
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来年、令和3年3月に、
言語造形による舞台劇
『缶詰・宮澤賢治』(構成・演出 諏訪耕志)
を演じるメンバーを募集いたします。
 
 
この5月から土曜日、
月に三回のペースで、
(7月のみ二回、
 本番前の2月、3月には、
 必要に応じて更なる回数)
「ことばの家 諏訪」にて、
言語造形の稽古をいたします。
 
 
ことばの造形による、
宮澤賢治の世界。
 
 
それは、
宇宙大の広やかさと深さを湛えるひとりの人
といふもの、さらには、
その人と自然との交感を歌ひ上げるものです。
 
 
ことばによる表現の極みを目指す舞台にしたい、
さう考へてゐます。
 
 
賢治が描かうとした、
この世と精神の世との交はり。
 
 
芸術とは、まさに、
その交はりを描くものであり、
その交はりを生きるものです。
 
 
一年間のこの舞台創りを通して、
その交はりを共に生きませんか。
 
 
この舞台創りを通して、
あなたも言語造形をする人として、
足掛かりをつけていきませんか。
 

この舞台創りを通して、
ここ日本に、
言語造形といふ芸術を
共に仕立てていきませんか。

 
 

   講師:諏訪耕志(言語造形をする人)
 
 

――――――
 
 
『缶詰・宮澤賢治』クラス
 
 
 
【稽古日程】
 
令和2年 5月より土曜日
5/9, 5/23, 5/30,
6/6, 6/13, 6/27,
7/4, 7/11,
8/1, 8/8, 8/22,
9/5, 9/12, 9/26,
10/3, 10/10, 1024,
11/7, 11/14, 11/28,
12/5, 12/12, 12/26,
1/9, 1/23, 1/30,
2/6, 2/13, 2/27,
3/6, 3/13(本番), 3/14(本番)
 
※本番前の2月、3月は、
 必要に応じて平日稽古あり
 
 
 
【時間】
 
午前9時半から13時
(本番が近づく2月、3月は、
 必要に応じて午後も稽古あり)
 
 
 
【参加費】
 
月謝制
稽古日二回の7月は、8000円
稽古日三回の月は、12000円
稽古日四回以上の月でも、12000円
 
一括払ひ
116000円(1か月分お得です)
 
(資料代、衣装代など製作費含む)
 
その他、本番&リハーサル会場費は全員で負担
 
 
 
【稽古場】
 
「ことばの家 諏訪」 帝塚山教室 
https://kotobanoie.net/access/ 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」徒歩5分
 
 
 
【本番日(予定)】
 
令和3年(2021年)3月13日(土)、14日(日)
 
 
 
【本番会場】
 
未定 
 
 
 
【お問ひ合はせ】
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 

posted by koji at 10:07 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜


 
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金沢の武家屋敷庭にて。

 
 
人といふものの内へと
 
感官を通して豐かさが流れ込む。
 
世の精神は己れを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その相(すがた)から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
 
 
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、
ものごとといふものごとに
ぢつと向かひあつてみれば、
ものごとは、
より活き活きとした相(すがた)を
わたしに顯はしてくれる。
 
 
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、
花もわたしを觀てゐる。
 
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、
もはや死んだものではなく、
ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
 
 
また、わたしの瞳も、
だんだんとそのありやうを深めていく。
物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
 
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、
わたしみづからが精神として甦る。
 
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、
花の精神(世の精神)が甦る。
花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
 
「待つ」とは、そもそも、
神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
 
松の木は、だから、神の依り代として、
特別なものであつたし、
祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
 
中世以前、古代においては、
人が神を待つてゐた。
 
 
しかし、いま、神が人を待つてゐる。
世の精神が人を待つてゐる。
 
 
世の精神が、己れを見いだすために、
わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。
わたしたち人に、
こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
 
 
植物は、激情から解き放たれて、
いのちをしずしずと、淡々と、
また悠々と営んでゐる存在だ。
 
 
しかし、植物は、
人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
 
 
さらには、人のこころもちや情に、
応えようとしてゐるのではないだらうか。
 
 
人と植物とのそのやうな關係は、
古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
 
 
とりわけ、日本にをいては、
華道、さらには茶道が、
そのやうな植物と人との關係を
この上なく深いものにしてゐる。
 
 
それは、表だつて言挙げされはしないが、
植物を通しての瞑想の営みとして
深められてきたものだ。
 
 
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
 

 
 
 
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その相(すがた)から力が、
きつと新たに汲み上げられる。
 

  

posted by koji at 00:28 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月31日

ノート『 をとめ と つるぎ 』と公演ご感想



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この『 をとめ と つるぎ 』といふ作品。
 
 
これは、
わたしたちの国にずつと貫かれてゐる悲願、
そのやうなものを描かうとした作品でありました。
 
 
歴史の流れの底に、
静かに、しかし、確かに流れてゐるもの。
 
 
それは、
「死して生きる」
といふ精神伝統です。
 
 
また、わたしたち「ことばの家」の舞台は、
ことばの働きそのものを
ぢかに打ち出す芸術です。
 
 
ゆゑに、
舞台に立つひとりひとりの俳優に、
とても大きな負荷を掛けてしまはざるを得ません。
 
 
演出家のわたしは、
ことばの一音一音の発し方にまで、
厳しく注文をつけざるをえませんでした。
 
 
いはば、
作曲されたスコアを、
演奏する者の技量が多く必要とされる舞台だつたのです。
 
 
舞台に立つた俳優のみんなは、
本当に頑張つてくれました。
 
 
お客様から暖かいご感想をいただけたこと、
本当にありがたいことです。
 
 
ここにご紹介させていただきます。
 
 
ことばが難しかつたといふご感想が、
ちらほら見受けられるのですが、
意味などは分かつても分からなくても、
さほど問題ではありません。
 
 
古格を湛えた日本語が俳優の肉体に宿ること、
そして、その肉体から、
光のやうにことばが放射されること、
嵐のやうにことばが巻き上がること、
それこそが、
今回の舞台の眼目でありました。
 
 
皆様、本当にありがたうございます。
 
 
この作品が、
この国の甦りに繋がることを、
切望してゐます。
 

なぜなら、
この国は言霊の助くる国だからです。
 

 
―――――


今日は公演ありがとうございました。
始められたときにはおそらく、
そのように想定されていた訳ではないと思いますけれど、
今このようなときに、
必要な公演をしてくださったように思いました。
 
個人的には、
諏訪家の御長女、夏木さんが公演前の案内をしてくれ、
まるでプロデューサーのように一番後ろで、
観客を気遣って居る姿、
かさねさんの天才的な演技だけでも、
もう感無量でした。
 
人と人との横の繋がりが、遮断されている今、
それぞれが、自分を見詰める作業をしているのだと思います。
「辛苦みつつ降りし」(たしなみつつくだりし)
素戔嗚命、日本武尊、仲哀天皇の如く、頼りを挫かれ、
断腸の想いの中に居る方もたくさんいらっしゃるでしょう。
その中で、それぞれの剣をとり、
進まねばならない時にあるのだろうと思います。
コロナという天照らす太陽の光冠を意味する名にも、
深意を感じざるを得ません。
 
公演前には、また住吉大社と大海神社に参拝できました。
そして権禰宜の小出さんから、
神功皇后のお話も直々にお伺いし、有り難い1日でした。

(MDさん)
 
 

昨日は素晴らしい舞台をありがとうございました。

出演者のみなさんからの
言葉ひとつひとつへの熱い想いを
真正面という特等席で浴びるように受け取って涙あふれてきました。

古の神々は、遠い遠い存在なのに、
すぐそばにいるような身近な存在にも感じられて、
終わったあとはなんとも不思議な感覚でした。

知識不足もあり、また言葉も難しい場面もあり、
正直深く深く理解することはできなかったと思うのですが、
自然とあふれてしまう涙に自分自身驚きながら、
心がふるえているのを感じて、
理解しようと懸命に観るのではなく、ただ、受け取る、
ただ、ことばの力、パワー、エネルギーを浴びながら、
その世界に、空間に、浸る、それでよいのかな、
と途中から自然とそんな風にいられたようにおもいます。(今思い返すと、、、)

大変な状況の中、開催を決意してくださったこと、
そしてお忙しい中お声かけくださったことにほんとうに感謝しています。
ありがとうございます🙏😌

かさねちゃんの堂々とした姿、
澄み渡る声、軽やかに舞うような所作にも感動しました。

これからもみなさまの世界に触れられる機会を楽しみにしております。

(NCさん)



昨日は、本当に素晴らしい公演ありがとうございました。
 
まだ、ぴったりかみあうことばが見つからないのですが、
なにか、私たち一人ひとりが脈々と受け継ぎ、
魂に刻んでいる精神に、響き、
スイッチを押してもらった感覚になっています。
 
そして、どうして、私自身、
こんなにもこの『をとめとつるぎ』公演を
たのしみにしていたのかも分かった気がします。
 
今回、日々刻々と変わる状況。
舞台以外のところでのたくさんの対応に負われ、
舞台に集中することがものすごく難しい状況だったと思います。
でもでも、演者さん、おひとりお一人、
どなたも全くブレがなく、立ちあがっていく舞台。
そこにも深く感動しました。
本当にありがとうございました。
 
(TKさん)
 


素晴らしい芸能、
芸術の世界を体験させて頂き有難うございます。
この世の中の流れの中の上演は、
演じた側も観た側も全て必要だっと
(悩み葛藤したこと含めて)確信しました。
しばらく波立つ日々が続くと思いますが、
お互い健やかに上機嫌にまいりましょう。
 
(MMさん)
 

 

昨日はありがとうございました!!
 
こんな国難のときだからこそ、
日本を造りあげて下さった神々達や英霊やご先祖様の
祈りや愛の中で生きていることを感じて涙止まらなかったです〜!
 
娼婦が出てくるところも諏訪さんの優しさを感じ、また号泣しました!!
どんな者の中にも平等に光や愛が降り注いでいることを実感して、
自分がどれだけ祈られている存在か、泣けて泣けて仕方なかったです!!
 
ほんとありがとうございました。
 
(SIさん)
 

 
悩んだ上の覚悟の決断だった事、
みなさんの演技からもひしひしと伝わってきて
その命がけの舞台に感動で胸が震えました。
自己を超えて表現されているそれぞれの役柄の
本人の思いを背負い受け取って、感動しました。
 
出演者の皆様によろしくお伝え下さいませ。
感謝と感動でいっぱいです。と
 
素晴らしい時間をありがとうございました
 
(YEさん)
 

 
昨日は、ありがとうございました。

私は権禰宜さまのお話も興味深かったです。
2月にどうしても気になった「出雲と大和」展を観に、
東京へ行きました。
七支刀がすごく気になり、
石上神宮に参りたいなぁと思っておりました。
神功皇后とご縁あるものだったのですね。

私は、「をとめ」という女性性と、
「つるぎ」という男性性のムスビを、
また深く人生で味わっていきたいと思いました。

母は、くびきを残したのだーという物語の背景に、
すごく響くものがあったようで、涙していました。

素晴らしい芸術に触れて、感動の1日でした。

ありがとうございました。

(FRさん)



力強いエネルギーを感じました。

前にお聞きした、なぜヤマトタケルノミコトは、
伊吹山に行くときに草薙剣を持って行かなかったのか?への、
答えがほのめかされてましたね。

「くびきを残した」と言うのが何に当たるのかを、
考えたいと思います。

皆様方の熱演も素晴らしく、
また娘様が見事に演じられて、感動いたしました。

ありがとうございました。

(THさん)



諏訪さん、ありがとうございます!おつかれさまです。

本当、諏訪さんの精神が貫かれた作品に触れられて、
みなさんの魂からの言葉の響きに、
あの場の一部になったような時間を共有させて頂き、
自分の中にもあるものと共鳴して、
ここにいさせてもらっているのだなぁという喜びも感じ、
本当に素敵な時間を過ごさせて頂きました。

みなさんもですが、娘さんも本当になんともなんとも素敵です〜♡♡
本当に目に見えない世界をみせてもらいました。
そして終わった後の少女に戻ったキュートさに惚れてしまいます。

この度の勇気ある講演、ありがとうございました!

(TSさん)




この度は言語造形劇「をとめとつるぎ」舞台公演を
ご成就いただきましたこと、
まことにありがとうございました。
 
 
私ごとき演芸等に疎い者から見ても
素晴らしい世界観に引き込まれました。
繊細に紡ぎ出された物語は、
諏訪様の高いご見識と感性あってこそ
練り上げられたものと感じました。
 
 
神と人との関係を見事に扱うことは
難しいことと思われますが、
今回その題材には、
ヤマトタケルとタラシナカツヒコ、
ヤマトヒメとオキナガタラシヒメ、
その二者の重なりによる苦悩を
それぞれが語ることで、
古代日本の神人関係を見事に実現化されたものと思います。
 
 
ましてや、神明に奉仕する一神職として、
それらの情景は真に迫るものがありました。
 
 
また、折にふれて歌を入れられましたが、
「あれ、どこかで聞いたような言葉が…」と思へば、
万葉集の水江浦島子の短歌であったりと、
場面を見てこそその選択に合点がいったりして、
心から恐れ入った次第です。
 
 
長々と感想文を書けばキリがありませんが、
この混迷する疫病流行化の情勢のなか、
十二分に言語造形劇を作り上げられご公演せられたことに、
なによりも厚く御礼を申し上げます。
 
(KEさん)

―――――

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2020年03月30日

新学期を迎へる今


 
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平櫛田中作「第一歩」


 
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時
高天原(たかまのはら)に
なりませる神の御名(みな)は・・・
 
 
この文から『古事記(ふることぶみ)』は始まります。
 
 
日本の神話では、
天地の初めといふ意識を
つねなること、
いまのいま、
と教へてきたやうに思ひます。
 
 
それが『古事記』が伝へる、
思想であり、精神的感覚です。
 
 
古は今にあり、
今に古がある。
 
 
つねに、
初めに還る、
永遠といふ循環の思想です。
 
 
さあ、
新しく勉強を始めよう。 
新しく稽古を始めよう。
新しく仕事を始めよう。
 
 
学校が新学期を迎へられるのか、どうか、
勉強を始めるのに、
そんなことはどうでもいいことなのです。
 
 
自分自身から始めていきませう!
 
 
 


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2020年03月29日

言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」



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昨日、言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」、
大阪での上演を終へました。
 
 
この状況の中、
お越し下さつた皆様、
そしてお越しになれなかつた皆様、
皆様のおこころに支へられ、見守られ、
わたしたちは仕事をさせていただきました。
 
 
このささやかな仕事が、
皆様への、
この国への、
そして、この世とあの世への、
いのちのはなむけになりますことを、
祈ります。
 
 
言語造形といふ芸術が、
この世に何をもたらすことができるのだらうか、
と問ひかけながらの試みでした。
 
 
劇上演前に、神功皇后の各地に残る伝承を
魅力たつぷりに物語つて下さつた、
住吉大社権禰宜の小出英詞様、
そして、
劇上演のために、
本当に献身的に手伝つて下さつた皆様、
本当に、こころより、感謝申し上げます。
 
 
このたびは、
中止になりました、
東京公演にお申込みいただいてゐた方々からも、
ご援助をいただき、
何とも申上げやうのないほどの感謝を感じてをります。
 
 
演じてくれた仲間たち、
一年間、稽古につきあつてくれたこと、
こころより、こころより、感謝します。
 
 
皆様、ありがたうございました。
 
 
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住吉大社権禰宜の小出英詞さんによる講演『今蘇る神功皇后の伝承』


posted by koji at 22:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月26日

「をとめとつるぎ」東京公演の延期につきまして


  
昨日25日に、
東京都知事による緊急記者会見が行われ、
今週末の不要不急の外出自粛を都民に求めました。
  
 
実際の科学的・医学的な状況がどのようなものか、
それは不分明です。
  
 
しかし、そのことを別にしましても、
このような社会情勢の中、
わたくしどもの日曜日29日に上演予定でありました、
『をとめとつるぎ』東京公演を実施することは、
とても難しいと判断をせざるをえませんでした。
 
 
できうる限りの用心をした上での
公演実施を考えておりましたが、
都知事からのこのような要請が出ました以上、
来られるお客様、スタッフたちの心配を
看過することはできません。
 
 
楽しみにしていて下さった方々、
お申し込み下さった方々には、
まことに申し訳なく、かつ残念に思います。
 
 
代金をお振り込み下さった方々には、
わたくしどもからご連絡もさせていただきますが、
これをご覧になられた方は、
お振り込みの銀行口座などを
お知らせいただけませんでしょうか。
 
 
公演後になってしまいますが、
なるべく早急に御返金させていただきます。
 
 
東京公演、
中止ではなく、
延期の可能性を探っていきたいと思っております。
 
 
まことに断腸の念いです。
 
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 
 
令和2年3月26日 「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志拝
 

posted by koji at 20:00 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月24日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜



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人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、
 
 わたしのいのちを担ひなさい。
 
 魔法の縛りを解いて。
 
 ならば、わたしは、
 
 まことの目当てに行きつく」
 
 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
 
春が少しづつ近づいて来てゐる。
木々や草花たちのたたずまひ。
なんと「ものものしい」までに、
活き活きとしてゐることだらう。
 
 
明るく暖かな日差しの中で、
それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが
聴こえてくるやうな気がする。
 
 
この週の「こよみ」において、
「世のありありとした繰りなす喜びが、
人の<わたし>に語りかける」とある。
 
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、
それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、
鈴木一博さんによると、
この「offenbaren」は、
「春たてる霞の空」や、
「風たちぬ」などの
「たつ」だと解いてをられる。
 
 
「たつ」とはもともと、
目に見えないものが
なんらかの趣きで開かれる、
耳に聴こえないものが
なんらかの趣きで顕わに示される、
さういふ日本語ださうだ。
 
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、
目には見えないことだが、
昔の人は、それを敏感に感じ、
いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
 
いま、植物から何かが、
「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
 
人の<わたし>に向かつて、
<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
 
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、
聴くことができるだらうか。
 
 
喜びの声、励ましの声、
時に悲しみの声、嘆きの声、
それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
 
それらを人が聴くときに、
世は「まことの目当てに行きつく」。
 
 
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
 
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
 
シュタイナーは、
「願はくば、人が聴くことを!」
といふことばで、
晩年の『礎(いしずえ)のことば』
といふ作品を終へてゐる。
 
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
 
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
 わたしのいのちを担ひなさい。
 魔法の縛りを解いて。
 ならば、わたしは、
 まことの目当てに行きつく」
 
 

posted by koji at 23:04 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

わたしが、つるぎをとります〜「 をとめ と つるぎ 」に見る神功皇后〜


 
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静かさに満ちてゐる住吉のやしろ。
 
 
朝ごとに参るたびに、
この地を産土の地として、
生きてくることができたことを
仕合はせに思ふのです。
 
 
これほどに美しいところであつたか。
神のゐますところ、かくも近くあつたか、と。

 
今回のわたしたちの舞台
『 をとめ と つるぎ 』は、
ここの御宰神であられる、
住吉三神と神功皇后の御登場によつて、
幕が閉められます。
 
 
神功皇后(劇中では息長帯比売命)は、
突然、御崩御された仲哀天皇に代はられ、
天照大御神の御こころを受けられた
住吉三神の御神勅のままに、
征戦を率ゐ給ひて、
韓の国に船で向かはれます。 
 
 
このときの御進発に当たつての、
全軍に下された神功皇后の御ことばが、
日本書紀に記されてゐます。
 
 
――――
 
 
吾(あ)れ婦女(たをやめ)にしてまた幼し、
しかれどもしばらく
男貌(ますらをのすがた)をかりて、
あながちに雄略(ををしきはかりごと)を起し、
上は神祇(あまつかみくにつかみ)の
霊(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)り、
下は群臣(まへつきみたち)の助けによりて、
兵(つはもの)を起して高き波を渡り、
船を整へてもつて財の土(くに)を求めむ。
もし事ならば群臣ともに功(いさをし)あり、
事ならずば吾(あ)れ独り罪あらむ。
すでにこのこころあり、それ共に議(はから)へ。
 
 
――――
 
 
ここに、
「事ならずば吾(あ)れ独り罪あらむ」とは、
住吉の三柱の大神の御神勅のままに、
事を決する一大決心を述べられてゐます。
 
 
臣下にもし罪があつて、
事が不成功に終はつたとしたら、
その罪はすべてご自身にあると、
申されてゐます。
 
 
わたしたちの劇では、
神功皇后はかう申されてゐます。
 
 
「わたしが、つるぎをとります」
 
 
最大の男性性の体現であり、
また神の意をそのままに受け入れられる、
最大の女性性の体現者。
 
 
その方が、神功皇后であります。
 
 
このたびの劇には描かれてゐませんが、
御子の応神天皇を補佐する、
その後の御摂政でも、
神功皇后は政治を執り行ふときは、
ことごとく、
神の意を聴きながら、
なされたやうです。
 

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神功皇后が鎮まられてゐる第四本宮。朝日に浮かぶオーブが美しい。

 
 
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)

posted by koji at 15:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月22日

開演時間を遅くさせないために



皆様、こんにちは。
 
 
昨日お知らせさせていただきましたやうに、
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
28日大阪公演、29日東京公演、
開催いたします。
 
 
つきましては、
口頭などでご参加意思を示して下さつてをられる皆様、
まことに恐れ入りますが、
公演前日の27日(金)までに、
下にございます、ゆうちょ銀行の口座に、
お振り込みいただけますでせうか。
 
 
御参加の旨、
何らかの形でお伝へして下さつてゐる方が、
当日お越しになるのを
わたくしどもは待つのですが、
もしお越しになりませんと、
開演時間を意味なく、
遅らせることになつてしまふのです。
 
 
お振り込みをしていただき、
ご参加の意志をお教へいただけましたら、
大変助かります。
 
 
どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 

諏訪耕志拝
 
 
 
事前お振込制、全席自由席。
. 
 
 
ゆうちょ銀行
以下にお振込みの上、 ことばの家 諏訪 までご一報くださいませ。
 
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
 
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
 
 

 
【 お問い合わせ 】
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 

posted by koji at 12:29 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月21日

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』上演につきまして



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今月28日(土)29日(日)に予定しております、
わたくしどもの言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』、
大阪、東京、予定通りそれぞれ上演いたします。
 
 
武漢ウィルスによるこの状況の中で、
上演することには、リスクがあります。

 
しかし、会場における感染防止のための、
わたくしどもができる最善の措置をした上で、
また、お越しいただくお客様にも、
ご理解ご協力をお願いすることで、
わたくしどもの作品を、
いま、世に出すことを決めました。
 
 
もちろん安易な判断は慎むべきですが、
芸術の火を灯していく必要を感じています。
 
 
御理解いただきましたならば、ありがたく存じます。
 
 
健康と生命は言うまでもなくとても大切なものです。
すでにお申し込み、ご入金いただいております方で、
ご来場を辞退なさりたいという方、
どうぞ公演前日までにお知らせください。
公演後になりますが、
なるべく早くに必ず御返金させていただきます。
 
 
 
 

以下、上演するにあたりまして、
お伝えいたしたいことを記させていただきます。
 
 
上演実施にあたりましては以下の措置をいたします。
・劇場施設内に除菌スプレーを設置します。
・場内換気のため、
 上演前、上演中の休憩時にドアなどを解放します。
・お客様おひとりおひとり離れて座っていただけるよう、
 座席をご案内させていただきます。
・受付や運営に携わるスタッフはマスクを着用します。
 
 
また、ご来場くださる皆様には、
以下のことをお願いいたします。 
・ご来場くださるお客様は、
 必ずマスクを着用のことお願いいたします。
・会場にお入りになる時には、
 設置してあります除菌スプレーにて、
 両手の殺菌をお願いいたします。
・ご来場当日に体調がすぐれないお客様、
 咳・発熱の症状のあるお客様は、
 外出をお控えください。

 
なにとぞ、どうぞよろしくお願い申し上げます。
わたしたちは、お待ちしております。 
  
 
こういうときだからこそ、
上演されるべき作品だと感じています。
 
 
 

 
「この国を守り給へ、
 我と汝の御子を、守り給へ―――― 」
         ( 『 をとめ と つるぎ 』より )
 
 
 
 
 

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)



posted by koji at 19:33 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月16日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜



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「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光をもつて。
 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
 
今回の『こころのこよみ』について、
以前書いたもののうちのひとつに、
2011年3月11日のことがあつてすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html
 
 
地震と津波と原発事故から
遠く離れた大阪に生きてゐる自分にとつてさへも、
この『こよみ』で言はれてゐることが、あの当時、
リアリティーをもつて強く迫つてきた。
 
 
また、いま、世界中に拡大してゐる、
武漢発のウィルスの脅威が、
わたしたちに押し寄せてゐる。
 

この週の『こよみ』に、
もう一度向かひ合ふ中で、
シュタイナーの1923年2月3日、4日の
ドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、
今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
 
春が近づいてくる中で感じる、
ありありとした世の力。
 
 
たとへ、その力を感じることができても、
わたしが考へつつ、
その感じを考へで捉へなければ、
わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
 
世のありありとした力も、
それに対して湧きあがつてくる感じも、
<わたし>といふ人からすれば、
外側からやつてくるもの。
 
 
それらに対して、人は、
考へることによつて、
初めて、内側から、
<わたし>から、応へることができる。
 
 
そのやうにして、
外側からのものと内側からのものが合はさつて、
知るといふこと(認識)がなりたち、
ことばにして言ひ表すこともできる。
 
 
2011年の3月11日以来の月日の中で、
わたしたちの外側からあまりにも
たくさんの世の力がありありと迫つてきた。
 
 
そんな外側からの力に対し、
わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかない、
そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞はれた。
 
 
そして、たくさんの、たくさんの、
ことばが行き交つた。
 
 
わたしたちの考へる力は、
その都度その都度、
外の世からやつてくる力に対して
応じていかざるをえないが、
しかし、
そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
 
対応していくにしても、
その考へる力が、
明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、
その対応は、とかくその場限りの、
外の世に振り回されつぱなしのものに
なりはしないだらうか。
 
 
その確かな一点、明らかな一点とは、
「わたしはある」といふことを
想ひ起こすこと、考へることであり、
また、その考へるを見るといふこと。
 
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、
ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、
他の誰でもない、
この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、
その一点から、
「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、
外の出来事に向かつていくことができる。
 
 
それは、
外の出来事に振り回されて考へるのではなく、
内なる意欲の力をもつて、
みづから考へるを発し、
みづから考へるを導いていくとき、
考へは、
それまでの死んだものから
生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
 
そのとき、人は、
考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、
意欲を注ぎ込むことによつて、
「まぎれなく考へる」をしてゐる。
(この「まぎれなく考へる」が、
 よく「純粋思考」と訳されてゐるが、
 いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
 
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、
死んでゐる。
 
 
それは、考へるに、
<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。
みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、
外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。
そのやうな、
外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、
なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、
死んでゐる。
 
 
多くの人が、よく、
感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。
実は、その多くの人は、そのやうな、
死んだ考へをやりくりすることに対する
アンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
 
 
ところが、
そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、
能動的に、エネルギッシュに、
考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、
考へは死から甦り、
生命あるものとして、
人に生きる力を与へるものになる。
 
 
その人に、軸ができてくる。
 
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、
だんだんと、
その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
 
その軸を創る力、
それは、みづからが、考へる、
そして、その考へるを、みづからが見る。
この一点に立ち戻る力だ。
 
 
この一点から、外の世に向かつて、
その都度その都度、考へるを向けていくこと、
それは、腰を据ゑて、
その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
 
では、その力を、
人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。
また、そのやうに、
考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、
どこからやつてくるのだらうか。
 
 
それは、夜、眠つてゐるあひだに、
人といふ人に与へられてゐる。
 
 
ただし、昼のあひだ、
その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
 
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
 
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、
考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、
まつたく外の世に応じることをせずにすみ、
よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
 
それは、眠りのあひだにこそ、
意欲が強まるからだ。
ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、
まつたく意識できない。
眠つてゐることによつて、
意識の主体である
アストラルのからだと<わたし>が、
エーテルのからだとフィジカルなからだから
離れてゐるのだから。
 
 
眠りのあひだに、わたしたちは、
わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、
次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力を
その世の方々から戴いて、
朝、目覚める。
 
 
要は、
夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、
どれだけ昼のあひだに
みづからに注ぎこませることができるかだ。
 
 
そのために、シュタイナーは、その講演で、
本を読むときに、もつと、もつと、
エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、
さう述べてゐる。
 
 
それは、人のこころを育てる。
 
 
現代人にもつとも欠けてゐる
意欲の力を奮ひ起こすことで、
死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、
こころの育みになる。
 
 
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、
いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、
いい話を聴いたとしても、
それだけでは駄目なのだと。
 
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
 
ことばを通して、
述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
 
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、
途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまうと。
 
 
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、
彼の周りに集まる人のこころの受動性を
なんとか奮ひ起こして、
能動的な、主体的な、
エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、
彼はことばを発してゐた。
 
 
その力は、
夜の眠りのあひだに、
高い世の方々との交はりによつて
すべての人が贈られてゐる。
 
 
夜盛んだつた意欲を、
昼のあひだに、
どれだけ人が目覚めつつ、
意識的に、
考へるに注ぎ込むか。
 
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、
「内なる希みの光」。
 
 
外の世へのなんらかの希みではなく、
<わたし>への信頼、
<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
 
その内なる希みの光こそが、
昼のあひだに、人を活き活きとさせ、
また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、
「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、
それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、
2011年3月11日以降の日本、
そして、ただいまのウィルスの脅威の下に生きる
わたしたちにとつて、
実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもつて。

 

posted by koji at 23:43 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月12日

『 をとめ と つるぎ 』公演開催につきまして


 
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武漢から拡がつてゐるウィルスによつて、
わたしたちの暮らしも、
わたしたちの芸術活動も、
少なくない影響を受けてゐます。
 
 
政府が行なつてゐる、
集会や登校などに対する自粛要請も、
コロナウィルスといふ未知の対象に対する、
専門的な見識を基にした上での、
できうる限りでの最善の判断だと
了解してゐます。
 
 
わたしたちも、最終的には、
3月20日の春分の日には、
判断するつもりですが、
いまのところ予定通り、
3月28日(土)には大阪にて、
3月29日(日)には東京にて、
公演をするつもりでをります。
 
 
もちろん、
現状に対する意識を配りながら会場を設へ、
来て下さる皆様にも、
ご協力をお願ひすることになります。
 
 
 
 
 
 
 
昨年の3月から稽古を始め、
この一年間、
この作品の隅々にこころを籠めてきました。
 
 
愛を注ぎ込んできた、
と言つてもいいと思ひます。
 
 
今回の『 をとめ と つるぎ 』といふ作品をもつて、
ことばがもつ精神のエネルギーを、
生き切りたいと希つてゐるのです。
 
 
舞台から客席まですべて、
地面を這ひ廻り、
壁を突き抜け、
天空に拡がりゆく、
そんなことばの運動を実現させたいのです。
 
 
土といひ、
水といひ、
風といひ、
火といひ、
四大すべての働きを巻き起こす、
ことばの精神の顕現を求めて、
この一年間やつてきました。
 
 
芸術を神話にしたいのです。
 
 
また、20日ごろにお知らせさせていただきます。
 
 
どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)


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下二枚の写真撮影 : 山本美紀子さん



posted by koji at 23:21 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月10日

一枚の絵

 
 
IMGP0254.JPG
丹生川上の夢淵付近

 
 
今月、次々と仕事がキャンセルになり、
わたしのやうに、
フリーランスで生計を立ててゐる者にとつては、
ピンチであります。
 
 
しかし、さういふ、いまだからこそ、
チャンスであると考へてゐます。
 
 
勉強できます。
 
 
そして、
この世は、いはば、
神が描く一枚の絵です。
 
 
だから、
絵をみるときのやうに、
この世をぢつと、ぢつと、みる。
 
 
絵の前に立つとき、
わたしは静かに立ち尽くし、
画面を凝視する。
 
 
からだとこころを静止のうちに置くのです。
 
 
さうして、
絵のうちに渦巻いてゐる精神が、
こちらのこころに働きかけて来るのを、
待つのです。
 
 
ときにゆるやかに、
ときに一気呵成に、
精神が働きかけて来て、
やがてこころが激しく動き始める。
 
 
そのこころの動き、働きは、
強制されてのものではなく、
みづからのもの、
統制されつつ、自由の翼を得たものです。
 
 
要(かなめ)のことは、
絵をみるときのやうに、
こちらが右往左往せずに、
ぢつと立ち止まり、
ぢつと立ち尽くし、
ぢつとみつめること、
さう自戒してゐます。
 
 
さうして、
こころに、
精神の風と光と熱を流し込むのです。
 
 
いま、外なる仕事はありません。
 
 
こころだけになり、
精神に親しくつきあふ、
そんなチャンスのときだと感じてゐます。
 
 
 
 

我れ立たむ ながるる川の 岸の辺に
淀みも早瀬も 同じ神川
 
 
 
 

 
 
 



posted by koji at 12:12 | 大阪 ☔ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月08日

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜


 
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平櫛田中『養老』


 
 
世の高みから
 
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考への確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、
人はよく誤解する。
 
 
考へるとは、
あれこれ自分勝手に
ものごとの意味を探ることでもなく、
浮かんでくる考へに次から次へと
こころをさまよはせることでもなく、
何かを求めて思ひわづらふことでもなく、
ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
 
考へるとは、本来、
みづからを措いてものごとに沿ふこと、
思ひわずらふことをきつぱりと止めて、
考へが開けるのをアクティブに待つこと、
そして、ものごととひとつになりゆくことで、
愛を生みだすこと。
 
 
今回もまた、
鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから
多くの示唆を得てゐる。
 
 
人が考へるとは、
考へといふ光が降りてくるのを待つこと、
人に考へが開けることだ。
 
 
考へが開けるきつかけは、
人の話を聴く、
本を読む、
考へに考へ抜く、
道を歩いてゐて、ふと・・・など、
人によりけり、時と場によりけり、
様々あるだらうが、
どんな場合であつても、
人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、
考へは開ける。
たとへ、身体は忙しく、活発に、
動き回つてゐても、
頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、
考へは開ける。
 
 
そして、頭での考への開けと共に、
こころに光が当たる。
考へが開けることによつて、
こころにおいて、ものごとが明るむ。
そして、こころそのものも明るむ。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」
といふときの、
こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。
誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
 
明るめられたこころにおいて、
降りてきたその考へは、その人にとつて、
隈なく見通しがきくものだ。
 
 
また、見通しがきく考へは、
他の人にとつても見通しがきき、
その人の考へにもなりうる。
 
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、
考へは考へだから。
 
 
人に降りてくる考へは、
その人の考へになる前に、
そもそも世の考へである。
 
 
自然法則といふものも、
自然に秘められてゐる世の考へだ。
 
 
人が考へることによつて、
自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
 
 
その自然とは、ものといふものでもあり、
人といふ人でもある。
 
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、
我が子が、どういふ人になつていくのか、
もしくは、自分自身がどういふ人なのか、
それは、まづもつては、謎だ。
 
 
その謎を謎として、
長い時間をかけて、
その人と、もしくはみづからと、
腰を据ゑてつきあいつつ、
その都度その都度、
こころに開けてくる考へを
摑んでいくことによつてのみ、
だんだんと、その人について、
もしくは、わたしといふ人について、
考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
 
それはだんだんと明るんでくる
「世の高みからの考へ」でもある。
 
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、
からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、
「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。
長い時間をかけて、
ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
 
どちらにしても、そのやうに、
考へと共にこころにやつてくる光とは、
世からわたしたちへと
流れるやうに贈られる
贈り物といつてもいいかもしれない。
 
 
さらに言へば、それは、
わたしの<わたし>が、
わたしの<わたし>に、
自由に、
本当に考へたいことを、
考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
 
―――――――
 
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
 
(『礎のことば』より)  
――――――――
 
 
その贈り物があるからこそ、
わたしたちは、また、
世の考へが贈られるのを
待ちつつ考へることができるし、
考への光が降りてくればこそ、
わたしたちは、こころの明るさと共に、
その考へを見通し、見はるかすことができ、
その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
 
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、
その人をあらためてつくづくと見つめ、
その人のことを見直したり、
好ましく思つたりもする。
 
 
長所にはつと気づく、
それこそが、
考への光が降りてきたといふことだらうし、
その人について光をもつて考へられるからこそ、
こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
 
人を愛する時とは、
世の高みから、
力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、
こころに開ける時。
 
 
考へが開けるとき、
そこには、きつと、愛がある。
 
 
愛が生まれないときは、
考へてゐるやうで、実は考へてゐない。
自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、
巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
 
 
考へることによつて愛が生まれることと、
愛をもつて考へることとは、
きつと、ひとつの流れとして、
人の内側で循環してゐる。
 
 
 
 
 
世の高みから
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 


posted by koji at 07:10 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月06日

仕事と死生観



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人それぞれ、仕事がありますが、
人生観、もつと突つ込んで言へば、
死生観と重なるやうな仕事を毎日していくことが、
とても仕合はせなことであると思つてゐます。
 
 
わたしの場合、
なぜか若い頃から、
言語と人間の関係を摑みたいといふ、
漠然とした希みがあり、
二十代の終はりに、
言語造形に出会つたとき、
まるで生まれる前から希んでゐたことに
出会へたやうに感じたことを憶えてゐます。
 
 
言語と人間の関係を、
学問的にでなく、
科学的にでなく、
芸術的に追ひ求めていく。
 
 
我が身をもつて、
わたしのまるごとをもつて、
言語に取り組んでいく。
 
 
さういふ芸術的行為が、
真の認識の訪れを招きよせる。 
 
 
舞台の上で、
一回限りの、
ことばとわたしといふ人との合一が起こるなら、
そのときのリアリティこそ、
わたしに、
ことばが人に授けられてゐる意味、
文学といふことばの芸術が存在する意味、
世が存在する意味、
神がありありとあられる意味を、
教へてくれる。
 
 
舞台とは、
新しい世紀における宗教的トポスだと、
感じざるをえません。
 
 
そんな舞台の上で、
生き、死んでいく。
 
 
そのやうな仕事をしていきたいと思ひます。
 
 
 
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
https://kotobanoie.net/play/
 
 

posted by koji at 21:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月01日

こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜


 
セザンヌ「アヌシー湖」.jpg
セザンヌ「アヌシー湖」

 
 
世のふところから甦つてくるだらう、
 
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
 
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
内において力強いわたしとして生きてゐることを。
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、
鈴木一博さんが以前、
日本アントロポゾフィー協会会報に
掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、
ここ二、三週間の『こころのこよみ』への
大きな示唆をもらつてゐる。
 
 
精神
こころ
からだ
 
 
人は、
この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
 
 
自分自身を顧みても、
やはり、どちらかといふと、
精神が上の方に、
からだが下の方にあり、
こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
 
そして、この『こころのこよみ』は、
その名の通り、
真ん中の「こころ」が、
活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
 
この時期、
陽の光がだんだんと
明るく、暖かく、長く、
わたしたちを照らし出すとともに、
地から、少しづつ少しづつ、
草木の力が繰りなしてきてゐるのを
見てとることができる。
そして、「啓蟄」といはれるやうに、
虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、
水の中から這ひ出してきてゐる。
 
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
 
人においても、
近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、
からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、
まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、
繰りなしを誘ひ出し、
感官へのそのやうな働きかけが、
真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、
その
精神の想ひ起こし、
精神の慮り、
精神の見はるかしに、
まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________
 
 
 
こころといふものは、
常にシンパシーとアンチパシーの間で
揺れ動いてゐる。
 
 
しかし、人は、
そのシンパシー、アンチパシーのままに
こころを動かされるだけでなく、
その間に立つて、
そのふたつの間合ひをはかり、
そのふたつを引き合はせつつ、
バランスを保ちつつ、
静かなこころでゐることもできる。
 
 
むしろ、さうあつてこそ、
こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、
からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも
織りなしあつてゐる。
 
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、
心拍は高まりもするし、低まりもする。
 
 
また、呼吸といふものも、
そのこころのふたつの動きに左右される。
吐く息、吸ふ息のリズムが
整つたり、乱れたりする。
 
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、
吐く息、吸ふ息の間に、
静かな間(ま)を
わたしたちは感じとることができる。
 
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、
わたしたちは、
リズムといふもの、
時といふものをリアルにとらへることができる。
 
 
そして更に、
こころにおいて、
シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、
からだにおいて、
心と肺のリズムの間で生きつつ、
わたしたちは、
世といふものとの間においても、
リズミカルに、ハーモニックに、
調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、
茫洋として、
のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を
前にしてゐるとき。
 
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、
穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
 
いまにも雨が降り出しさうな、
どんよりとした曇り空の下にゐるときと、
晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、
につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、
それぞれの季節における
からだとこころのありやうの移りゆき。
 
 
世といふものと、
わたしたちとの間においても、
ハーモニーを奏でることができるには、
そのふたつが、
ひとりひとりの人によつて、
はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
 
世とわたし。
そのふたつの間を思ひつつ、
はかりつつ、響き合はせる。
その精神の慮(おもんぱか)りを
積極的にすることによつて、
人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
 
そして、人は、歌ふ。
春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
 
慮る(besinnen)は、
歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、
と鈴木さんは述べてゐる。
 

 人のこころ!
 あなたは心と肺のときめきに生き
 心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
 あなたそのものを感じるに至る。
 行はれたし、精神の慮りを
 こころの釣り合ひにおいて。
 そこにては波打つ世の
 成りつ為しつが
 あなたの<わたし>を
 世の<わたし>と
 ひとつに合はせる。
 もつて、あなたは真に生きるやうになる
 人のこころの働きとして。
         (『礎のことば』より)
 
 
春の訪れとともに世のふところから、
下のからだを通して、感官への輝きを通して、
こころに、繰りなす喜び。
 
 
そして、
上の精神からの考へる力。
その考へる力は、
冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、
神々しい力によつて備へられてゐる。
その考へる力によつて、
こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、
こころに生まれる喜びといふ情を、
上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、
真ん中のこころに、
喜びが生まれ、育つていく。
 
 

 
 
世のふところから甦つてくるだらう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
内において力強いわたしとして生きてゐることを。
 
 
 
※絵は、セザンヌ『アヌシー湖』
 
 


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2020年02月28日

戸嶋靖昌記念館にて



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東京の半蔵門にある、
戸嶋靖昌記念館を訪れました。
http://shigyo-sosyu.jp/toshima/index.html
 
 
この美術館を開いた執行草舟氏の著書をこよなく
愛読し、熟読し、精読するわたしにとつて、
ここを訪れることは、数年来の念願でした。
 
 
初めて戸嶋の絵を観るわたしに、
主席学芸員の安倍三崎さん、坂田さんが、
勿体ないほどのまことに暖かい対応をして下さり、
ていねいでこころの籠もつたお話をして下さいました。
 
 
「おもてなし」といふ、
昔から日本人が大切にしてきた行ひの恩恵に、
わたしは触れ、浴させていただいたのです。
 
 
戸嶋の絵の前に立ち、
わたしは「これが絵だ」といふ、
身も蓋もない言ひ方しかできないやうな、
烈しく強い振動と、
奥行きへと引き摺り込まれるやうな運動を感じ、
それは、
絵といふ芸術でのみ感じるものでありました。
 
 
そして、思ひもかけず、
執行氏の書斎でもある社長室へ
招き入れていただいたのでした。
 
 
執行氏はまだ出社されてゐなかつたのですが、
そこに満ち満ちてゐる渦巻きのやうな精神が、
部屋の隅々に、
膨大な本の背表紙といふ背表紙に、
ぶち当たつては還流してゐるのでした。
 
 
精神の労働のための工房の只中にゐるやうな、
興奮と感激がわたしを打つのです。
 
 
執行氏御本人がゐらつしゃらなくて、
よかつたと思ひました。
 
 
また、執行氏の文業から感じてゐた精神が、
案内をして下さつたお二方の
ことばの端々、隅々に満ちてゐるのです。
 
 
死を見据えるひとりひとりの人が、
どうひとつひとつの仕事と向き合ひ、
どうひとりひとりの人と向き合ひ、
どうひとつひとつの芸術作品と向き合ふのか。
 
 
おそらく、社員の方々、皆、
そのことの実行に、
体当たりで毎日を費やされてをられます。 
 
 
その姿を目の当たりにし、
わたしはこの記念館(企業体)は、
現代における「奇跡」だ、
そんな念ひで千鳥ヶ淵の帰り道を歩きました。
 
 
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執行草舟氏の社長室にて。三島由紀夫自筆の額の前。




posted by koji at 22:32 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愛読のよろこび


 
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前田英樹氏の『愛読の方法』を再読。
 
 
一冊の本を愛読する。 
それは、わたしに、
静かな時間、熱い時間を取り戻させてくれます。
 
 
つまり、真に「読む時間」に、
わたしは立ち戻ることができるのです。
 
 
真に「読む時間」。
さういふ時間がどれほど侵食されてゐるか。
それは、ひとりで生きる時間です。
より精確に言ふと、
尊敬する先人と共に生き、
ことばを交はし合ふ時間です。
 
 
愛読に愛読を重ねる。
さうして、もはや、
嘆賞するしかないところまで、
その本の一文一文の底へと掘り進める。
 
 
さういふ喜びが、
こころの柔らかな人の前に拡がる。
 
 
一冊の本の前に留まつて愛読すること。
それは、こころを耕すことです。
こころの硬くなつた表土を、
掘り起こして、掘り起こして、
柔らかく鋤き込むことです。
 
 
さういふ喜びに向かふ行為は、
尊敬する人との対話に熱中できる喜びであり、
とくに古典の場合には、
遠く死んだ人への祈り、礼拝でもあります。
 
 
そんな無私の、からっぽの自分に立ち返り、
ただ、強い振動だけが自分の中に満ちる時間。
 
 
その喜びを重ねていきたい。
さう思ひます。
 
 
 
 
●古典は、ひとつの時代にたくさんの読者を得た本ではない。ひとつの時代にゐる少数の読者が、絶えることなく蘇つては、読み継いでゐる本である。そこには、時代を貫いて生き続ける愛読者の系譜といふものがある。古典を巡る愛読者の系譜にみづから入り込むことほど、多くの人間が、孤独や絶望や嫉妬や怨恨から救はれる道はないやうに思はれる。
(ちくま新書 102ページ) 
 
 

posted by koji at 14:43 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月27日

山の風

 
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山を登つてゐて、
山の高みに向かつて歩いていくことは、
本を読むことと似てゐると思つた。 
 
 
自分が自分であるために本を読むやうに、
山を歩く。森を歩く。川辺を歩く。
 
 
文章といふもののもつ香気によつて
自分自身を洗ひ流していくやうに、
わたしたちは木の間からやつて來る
光と風によつてみづからを洗ひ浄める。
そしてそもそも持つてゐた、
こころざしといふものを念ひ起こす。
 
 
高いところに吹く風は、
人を多かれ少なかれ、
素直にするのではないか。
 
 
また、よくよく目を見開いて歩くことの
大切さを思ひ出させる。
感官を開いて、
やつてくる感覚を
ひとつひとつ目一杯味ははうとすると、
山や空や風や光がものものしくものを言ひ出す。
 
 
本を読むときも、
目を精一杯見開いて、
一語一語、
一文一文を噛みしめるやうに、読む。
 
 
さうすると、本といふ「自然」が、
ものものしく読み手にものを言ひ出すのだ。
 
 
さて、人が書くものには、
文体・文の相(すがた)といふものがあつて、
それは、書き手その人の後ろ姿を見せてくれる。
 
 
文章とは、人の内的な姿・相である。
 
 
 文章といふのは、
 その功(こう)
 広大熾盛(こうだいしじょう)で、
 その徳(とく)
 深厚悠久(しんこうゆうきゅう)な、
 実に人間の仕事の中での
 一の大事といつて然るべきものである。
 
 
幸田露伴の『普通文章論』の冒頭の一文を思ひだす。
 
 
そのやうな内的な姿が
虚空に刻みだされたやうな文章によつて、
「人といふもの」に出会へた喜びを
感じることができる。
 
 
そして、山の風、光、雨粒も、
何かを人に伝へようとしてゐるやうに感じる。
 
 
 われもまた 高みにのぼる そのごとに
 風をまとひて 風になりたし
               
 
 



posted by koji at 05:08 | 大阪 ☀ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月23日

こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜


 
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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強めよ、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
  
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
 
「ひとり生み」とは、何か。
 
 
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、
そのことばが出てくる。
 
 
かつて福音書が書かれた頃、
「ふたり生み」とは、
父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、
「ひとり生み」とは、
そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、
神の光を受け入れることによつて、
精神とひとつになつた者、
精神として生まれた者、
神の子、かうがうしい子のことだつた。
 
 
今から二千年以上前には、
人びとの多くは、「わたし」といふ、
人のための下地をすでに備へながらも、
後に聖書に記されるところの「光」を
まだ受け入れることができなかつた。
 
 
「群れとしてのわたし」のところには、
「光」は降りてきてゐたが、
ひとりひとりの人は、
その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
 
 
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、
おらが国、おらが村、おれんち、
そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、
ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
 
 
しかし、少数ではあるが、
「光」を受け入れた者たちは、
その「光」を通してみづからを神の子、
「ひとり生みの子」となした。
 
 
物の人がふたり生み、
精神の人がひとり生みだ。
 
 
そして、キリスト・イエスこそは、
その「光そのもの」、
もしくは「光」のおおもとである
「ことばそのもの」として、
「父のひとり生みの息子」として、
肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
 
 

ことば(ロゴス)、肉となれり
(ヨハネ書一章十四節)
 
 
彼こそは、
ひとりひとりの人に、
こよなく高く、ひとりの人であることの意識、
「わたしはある」をもたらすことを
使命とする者だつた。
 
 
わたしたちが、
その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、
それは、
キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
 
 
そして、
わたしたちひとりひとりの内なる、
「わたしはある」を想ひ起こすこと。
 
 
それは、
日々のメディテーションによつて生まれる、
精神との結びつきを想ひ起こすことであり、
目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、
精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
 
 
その想ひ起こしが
そのやうにだんだんと深まつていくことによつて、
人は、
「わたしはある」といふこと、
「みづからが神と結ばれてある」といふこと、
みづからの「わたし」が、
神の「わたし」の内にあるといふこと、
そのことを確かさと安らかさをもつて、
ありありと知る道が開けてくる。
 
 
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、
意欲をもつて考へつつ、
いにしへを追つていくといふことだ。
 
 
普段の想ひ起こすことにおいても、
頭でするのみでは、
その想ひは精彩のないものになりがちだが、
胸をもつて想ひ起こされるとき、
メロディアスに波打つかのやうに、
想ひがこころに甦つてくる。
 
 
さらに手足をもつて場に立ちつつ、
振舞ふことで、
より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、
想ひが甦つてくる。
 
 
故郷に足を運んだ時だとか、
手足を通して自分のものにしたもの、
技量となつたものを、
いまいちどやつてみる時だとか、
そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、
手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、
想ひが深みをもつて甦る。
 
 
そして、
そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、
その人をその人のみなもとへと誘ふ。
 
 
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
 
 
その人のその人らしさを、
その人はみづから想ひ起こす。
 
 
例へば、
この足で立ち、歩くことを憶えたのは、
生まれてから一年目辺りの頃だつた。
その憶えは、
生涯、足で立つこと、歩くことを通して、
頭でではなく、
両脚をもつて想ひ起こされてゐる。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、
その人の意識は目覚め、
その人らしさが保たれてゐる。
 
 
だから、
年をとつて、足が利かなくなることによつて、
その人のその人らしさ、
こころの張り、意識の目覚めまでもが、
だんだんと失はれていくことになりがちだ。
 
 
手足を通しての想ひ起こし、
それは、意欲の力をもつてすることであり、
人を活き活きと甦らせる行為でもある。
 
 
そして、それはメディテーションにも言へる。
 
 
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
 
 
メディテーションによる想ひ起こしは、
手足による想ひ起こしに等しいもの。
 
 
メディテーションとは、
意欲をもつての厳かで真摯な行為。
 
 
毎日の行為である。
 
 
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、
それは、わたしの「わたし」が、
神の「わたし」の内に、
ありありとあること、
「わたしのわたしたるところ」、
「わたし」のみなもと、
それを想ひ起こすことだ。
 
 
世に生きてゐると、
その「ひとり生みの力」を
ぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
 
 
世は、
ふたり生みであることから生まれる、
惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
 
 
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
 
 
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
 
 
想ひ起こされたものを
しつかりとこころの目で観ること、
もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも
しつかりと観ること、
それがつまり、
「観ることを強める」といふことだ。
 
 
その意欲の力があつてこそ、
人は、「己れを保つことができる」、
おのれのみなもとにあることを
想ひ起こすことができる。
 
 
 
 


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
 
 
 
 

posted by koji at 21:33 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする