2019年03月09日

4月からの普遍人間学&言語造形クラスのご案内


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4月から、「ことばの家 諏訪」にて、新しく『 普遍人間学 & 言語造形を学ぶ会 』が始まります。
 
『 普遍人間学 』は、ルドルフ・シュタイナーが今から丁度100年前、1919年9月にシュタイナー学校初開校に向けて行つた、教員養成のための14回連続講座の講演録です。
 
「ことばの家 諏訪」では、二廻り目の普遍人間学の会です。
 
子どもの教育、それは、大人の絶えざる自己教育によつて、いつでも、どこでも、成り立ちます。
 
わたしたちは、もつと、もつと、勉強していくことができるはずです。
 
もつと、もつと、練習していくことができます。
 
自分自身が成長していくことほど、こころに喜びをもたらしてくれるものはありません。
 
さうして、自分自身の成長からおのづと生まれるものが、子どもに何気なく働きかけていく。
 
人といふものは、教育によつて、どこまでも、変はりえます。
 
どこまでも、成長していきます。
 
子どもと共に、わたしたち大人も毎日、毎日、成長していくことができるのです。
 
月に一回、第三日曜日。
 
午前は、普遍人間学。4月、この本の最初から始めます。
 
午後は、ことばを話す芸術・言語造形を身をもつて学んでいきませう。
 
自分自身とことばとの関係が、こんなにも深くて、こんなにも親しいものなのか。
 
毎月の繰り返しが、きつと、そんな風にひしひしと感じる道を開いていきます。
 
初めての方も、どうぞ、体験でご参加してみませんか。
 
共に学び、共に日々変わりゆきませう。
 
お待ちしてゐます。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 

 
――――
 
●日程
毎月 第三 日曜日
 
 
●講師
諏訪耕志  https://kotobanoie.net/profile/
 
 
●時間
10:00 〜 12:30 『普遍人間学』講義
13:30 〜 15:30  言語造形
 
 
●参加費
 
初回のみ体験参加   6,500円
次回以降4回連続  22,000円
 

精巧堂出版の 鈴木一博訳『普遍人間学』 を使ひます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
●会場&お申し込み・お問ひ合はせ
「ことばの家 諏訪」https://kotobanoie.net/access/#map

 


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2019年03月07日

こころのこよみ(第47週) 〜揺れ動く感情の向かう側〜


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写真は、奈良県桜井市の等禰神社



世のふところから甦つてくるだらう、
 
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
 
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
力強いわたしとして内に生きてゐることを。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
喜び、哀しみ、安らぎ、恐れ、慈しみ、怒り・・・・。
 
わたしたちは、いま、近づいて来る春に備へて、様々な感情を味はつてゐます。
 
感情といふものは、人のこころをときめかしもするし、落ち着かせてくれたりもしますが、時に、ざわつかせ、掻き乱しもします。
 
わたしたちのこころは、シンパシーとアンチパシーの間で、常に揺れ動いてゐます。
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできるのです。
 
立ち止まつて、息を深くしてみませう。
 
さらに、ものをじつと、見つめてみませう。
 
乱れてゐた呼吸と心拍も整つて来ます。
 
さうして、静かな一点に立つことができたら、それまでこころを支配してゐた感情そのものが、このわたしに何を教へようとしてゐたのかに気づくことができます。
 
喜びであれ、悲しみであれ、感情こそが、実は、わたしたちの導き手です。
 
感情こそが、そのさらに内側に、「考へる力」としての〈わたし〉が控えてゐたことを教へるきつかけを与へてくれます。
 
その〈わたし〉を見いだすには、シンパシーとアンチパシーとの間に静かに立つ練習が要ります。
 
その練習を通して見いだされる〈わたし〉は、神々しい力と共にある、これまでよりも力強い〈わたし〉です。
 
 

 
世のふところから甦つてくるだらう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強いわたしとして内に生きてゐることを。
 
 
 


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2019年03月04日

まごころから育つ芸術のセンス「風雅(みやび)」

 
本居宣長は、江戸時代中ごろ、伊勢の国、松坂に生きた国学者だ。
 
彼は、日本といふ国が、万国に優れた神の国であると述べ続けた。
 
そんな彼の前に、上田秋成といふ『雨月物語』で有名な作家・国学者が、論争を挑んだ。
 
その論争は、ことごとく、すれ違ひに終わるのだが、そのうちのひとつとして次のやうなエピソードがある。
 
秋成が当時のオランダ人が描いた「世界地図を見よ」と宣長に迫つた。
 
「この図の中に、我が御国はいづこと見れば、ただ、広き池の面にささやかなる一葉のごとき小嶋なりけり」
 
さう、秋成は言ふ。(ことばを今の人の理解が及びやすいやうに少し変へてゐる)
 
すると、宣長はにべもなく、かう言ふ。
 
「地図なんぞを持ち出してきて何の用かある。またオランダ人の論も用なきことなり。万国の地図を見たることをめづらしげにことごとしく言へるも、をかし。そのやうな図、いまどき、誰か見ない者があらうか。また、我が国がすこしも広大な国でないことも、誰か知らない者があらうか。すべて物の尊き卑しき、美し悪しは、形の大小にのみよるものにあらず。大きな石も小さな珠玉にしかず、牛馬かたち大なれども、人にしかず、いかほど広大なる国にても、下の国は下の国なり。狭く小さな国にても、上の国は上の国なり」
 
ことばは悪いのだが、まるで「馬鹿か、お前は」とでも言つてゐるやうだ。
 
ここで、これを一読していただいて、誤解が生ずることを恐れるのだが、ただ、人は何かと見た目やレッテルによつてのみ判断を下しがちであることをことごとしく述べたいわけではない。
 
そこのところの、宣長が生涯貫いたこころと精神を、小林秀雄といふ人は、文章をもつて見事に掬ひ上げてくれた。
 
―――――
 
●古傳(いにしへのつたへ)を外部から眺めて、何が見えると言ふのか。その荒唐を言ふより、何も見えぬと、何故正直に言はないか。宣長は、さう言ひたかつたのである。実際、「古事記傳」の注解とは、この古傳の内部に、どこまで深く這入り込めるか、といふ作者の努力の跡なのだ。
 
(『本居宣長 第四十二章』より)
 
―――――
 
こころと精神の眼で見たままのことを信じるには、その前提として、こころの柔らかさ、素直さ、敬虔さが要る。
 
次に、対象の外側をうろつき回つて証拠を集めて来ることに尽きるのではなく、ものの内側に勇気と愛情をもつて入り込め。
 
それなくして、いくら、ものごとを精緻に見極めたつもりでも、そのとき、そのこころの眼に映る像は、ぼやけ、歪み、時には何も見えない。
 
学問とそこに密かに脈打つ芸術のセンスは、「まごころ」をいかに育てて来たかが、たいへん重要なことであり、それなくして、人と人とは語りあへないものだといふこと。
 
そのことをまたしても考へさせられる。
 
多くの日本人には、そのセンスがいまだ脈打つてゐるやうに思はれてならない。
 
ただ、そのセンスは、時間をかけて磨いて行かなければ披かれない、といふ見識が、ここ何十年かの間に失はれて来てしまつてゐるといふことが危惧される。
 
この芸術のセンス「風雅(みやび)」の感覚を内に再び豊かに育み、外の世界に積極的に発信していきたいものだ。
 
 
 

ふみよみて 熱き血潮の わき立てり
いにしへびとの 大声聴こゆ

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2019年03月02日

『 をとめ と つるぎ 』第一回稽古


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『 をとめ と つるぎ 』、今日は第一回目の稽古でした。
 
集まつて下さつたおひとりおひとりのメンバーの想ひ。
 
それは、様々な色合ひの中で、ただ、新しく芽吹いて来た意欲の炎によつて、これからさらに鮮やかさと深さを増していくと思はれます。
 
特別な舞台装置も豪華な衣装もないかもしれない。
 
しかし、逆に、そっけないほどの設へであるからこそ、人のこころと精神のアクティビティを最大限に引き出すやうな、そんな舞台を創るのだ。
 
人とことば。
 
そして、ことばを語るかのごとく響き出づる楽の調べ。
 
ただ、それだけで、どれほど、豊かな世界を描き出すことができるか。
 
そんな「ことば」の可能性を世に問ふ作品を共に創り上げて行くチームです。
 
ひとりひとりが、すでに、それぞれに深い人生経験ととてつもない魅力を湛えてをられてゐます。
 
そんな皆さんが、ひとりの人として、ますますその人自身になりゆくやう、「ことば」の体現者となりゆくやう、稽古を共に重ね、共に時間を生きていきたいと考へてゐます。
 
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2019年03月01日

こころのこよみ(第46週) 〜想ひ起こす 源を〜


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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強め、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
「ひとり生み( eingeborne )」とは、何でせうか。
 
同じくシュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講にそのことばが出てきます。

かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」といふのは、父と母の血の混じりあひから生まれた者のこと、「ひとり生み」といふのは、そのやうな血の混じりあひから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、かうごうしい子のことだつたと。
 
ここで、この「ひとり生み」といふことばを深める必要があるやうに思ひます。
 
「ひとり生み」などといふことが本当にあり得るのか。
 
男と女が交はらずに、子どもが生まれて來ることなどあり得るのか。
 
キリスト・イエス伝説では、そのことが母マリアの処女懐胎として諾はれてゐます。
 
同じヨハネ福音書の冒頭に、こんなことばがあります。
 
「 ことば(ロゴス)、肉となれり 」
 
マリアに、「ことば」が宿つたのでした。
 
ことばとは、そもそも精神であります。
 
精神の伝へであります。
 
言霊(ことだま)であります。
 
精神が宿る場所は、人のこころです。
 
マリアは、精神を受け入れることのできる、清らかなこころの持ち主でありました。
 
さうして、実際に、肉体を持つた幼な子が、その精神を受け入れた女から生まれるといふことが、あり得る。
 
降りて來る精神が、あまりにも尊く強い力を持つものであればこそ、そんな常とは異なる化学反応に類するやうなことが起こり得る。
 
さういふ奇跡としか言ひやうがないことが、この世には起こり得る。
 
そのやうな「ひとり生み」によつて生まれて来た人のことを、我が国では何と呼んだのでせうか。

「覚者」、「善智識」でせうか。これらはきつと仏教からのことばですね。

柳田国男の『新たなる太陽』といふ文章の中で、「大子(おほいこ)、すなはち神の長子」といふことばも読むことができます。
 
または、逆に、「小さ子(ちいさこ)」と呼ばれる子どものことも、神の子として「桃太郎」や「つぶ長者」や「竹取物語」などのお話しでわたしたちに伝へられてきましたね。
 
きつと、我が国においても、「ひとり生みの子」「大い子」「小さ子」は、その存在を神秘の内に認められて来たのではないでせうか。
 
また、わたしたち凡庸なる者は、当たり前に、男と女の交はりによつて肉として生まれて来ます。
 
しかし、この「ひとり生み」は、精神的に、わたしたちの内において、わたしたちのこころにおいて、起こり得ないでせうか。
 
ある日、「ことば」を孕み、その「ことば」を出産するがごとく、外へと発する、そんな日が、ありはしないでせうか。
 
「ことば」とは、己れの清められたこころ(マリア)に、外なる太陽の精神(キリスト)が訪れ(※)、出会ひ、結びつき、新たな子(イエス)を産むがごとくして、世に放たれるものです。
 
「ことば」とは、そもそも、人をひとり立ちさせようとするものです。
 
そのひとり立ちする力が、春が近づいて來るこの時期、ぼやかされようとしてゐる。
 
己れを保つて、ひとり立ちできるやう、わたしたちは、意欲的に想ひ起こすことがたいせつな作業になつて来ます。
 
何を想ひ起こすのか。
 
それは、精神の深み、です。
 
精神の深みとは何か。
 
それは、自分よりも大きな存在があられるといふことです。
 
わたしたちは、想ひ起こすのです。
 
こざかしく、考へを弄するのではなく、自分よりも大きな存在と共に毎日を歩いていく、そのありがたさを。
 
そして、わたしたちは、みな、いつでも、己れのこころの内から新しくひとり生みの子を生み出すことができるといふことを。
 
 
 
世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強め、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
 
 
 
 
※マリアに宿つた精神のことについては、より精確に述べなければなりませんが、ここでは、記述が更に多量になることをはばかり、このやうな書き方をしてゐます。

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2019年02月28日

マリー・シュタイナーによる序文C


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話されることば、それは、そもそも、芸術です。
 
ことばそのものの内に潜められてゐる法則があります。
 
取り組む素材や対象に潜んでゐるその法則を知ること。
 
そして、その法則に沿ふことができる技量を身につけて行くこと。
 
それが芸術行為であることは、どの芸術分野においても共通のことであります。
 
それには、練習が要ります。
 
練習こそが、法則の知をもたらし、技量の練磨を促します。
 
では、言語・ことばに、どのやうな法則があるのか。
 
それを知性で述べ伝へることはとても難しいものですが、マリー・シュタイナーが見事に、芸術的に、言ひ表してくれてゐます。
 
わたしなりに原文から意訳をし、順序も入れ替えますが、載せてみます。
 
少し長くなりますが、文意を味はつてくだされば、幸ひです。
 
 
―――――――
 
●ことばの癒す力、魔法の力を感覚できる日が、きつと、やつて来る。
 
それは、気高い仕事である。
 
呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなし。それらは、まこと、気高い仕事である。
 
そのまことは芸術の線に相応し、その線は意欲の向きとして途切れてもならず、動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
そもそも、言語は流れる動きであり、内なる音楽に担はれ、彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
ことばの線、それは動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
その芸術としての線が、人を突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイアされ、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
その線がこわばつてはならない。間(ま)においてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひを取りこむ。
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
―――――――
 
 
ことばによつて己れを表さうとするのではなく、ことばそのものが表さうとしてゐるものを表す。
 
ことばを、客として、迎える。
 
そんな道をマリー・シュタイナーは述べてゐます。
 
 

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2019年02月27日

幼な子の息遣ひに耳を澄ませながら


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幼い子どもたちは、神秘的なお話しの時には、静かさの中、全身を耳にして、深く深くこころの境にまで入つて行く。
 
そして、楽しいお話しの時には、もんどりうつ位の喜びの中で、お話しを味はふ。
 
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グリム童話の『おいしいお粥』、柳田国男再録の昔話『鷲の卵』、『桃太郎』、歌舞伎十八番から『ういらう売り』・・・。
 
今日も、子どもたちの息遣ひに耳を澄ませながら語らせてもらふことができた。
 
ことばが、空間に弾んで、飛んで、溶け去つて行つた。
 
保育園の先生方も自分自身の語り方にだんだんと言語造形を取り入れてくれてゐて、とても頼もしいことだ。
 
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2019年02月25日

詩 『 をのこ と をとめ 』


中学生の
をのこ と をとめ 
池のほとりにふたりゐて
なにやら語らひ 佇みて
ふと をのこの 
見上げたるまなこの先には
あをきおほぞら
雲ひとつなく
 
ことばとことばを交はすだけで
まなことまなこをふと合はすだけで
 
その胸のときめき
その胸のたかなり
その胸のはばたき
 
いかに想ひの膨らまむ
いかに想ひの深まらむ
 
われひとり そばを通りて
思はず微笑まむ
思はずあをぞらを仰がむ
 
 


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2019年02月24日

こころのこよみ(第45週) 〜明るく灯される光〜


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平櫛田中作『活人箭』 

 
考へる力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへともたらす。
 
こころの満ち足りが
 
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
ルドルフ・シュタイナー 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
 
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。  
 
普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。
 
ひたすらに、そのやうな考へを安らかに精力的に考へる練習だ。
 
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまはないやうにするのだ。
 
その繰り返すメディテーションによつて、「考へる力」が強く鍛へられる。
 
その強められた考へる力によつて、己れのこころにそそりが及んできてゐるのがおぼろげに感じられるやうになる。
 
そしてさらに、だんだんとそのそそりがこころの中の何をそそつてゐるのか、明らかになつてゆく。
 
それが明らかになるほどに、こころは満ち足りを感じる。こころのなかに精神が生まれるからだ。
 
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
 
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
 
こころの満ち足りが世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
ひとりで考へる力は考へる光となつて、人と人のあひだで、人と世のあひだで、明るく灯されるのだ。
 
 
 
考へる力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへともたらす。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 


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マリー・シュタイナーによる序文B


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―――――――
 
●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
―――――――
 
人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。
 
自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。
 
「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。
 
言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。
 
その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。
 
さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。
 
頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。
 
それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。
 
その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。
 
さうしますと、人は、そもそもの自分自身に立ち返つてまいります。
 
麗(うるは)しいことではないですか。
 
 
 

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ゲーテ 人の人たるところを求めて


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先日、普遍人間学のクラスでの言語造形の時間に、ゲーテの『ファウスト』を取り上げました。
 
ゲーテは、東の人の生き方、世の捉へ方、宇宙観、すなはち精神的浪漫主義に、激しくこころを動かされ、その感動を19世紀初めのドイツに知らせようとしてゐるやうに感じられます。
 
ドイツ、そしてヨーロッパには、もうそのやうなこころが失はれてゐたがゆゑ。
 
ここでは、『ファウスト』とは別のものですが、詩の一部を挙げてみます。
 
声に出してみるならば、この『昇天のあこがれ』も、全身全霊で詠はざるをえない。
 
一篇の詩が、オーケストラの一団が奏でる響きに匹敵することがあるのですね。
 
 
 
『昇天のあこがれ』から
 
・・・
蛾よ おまえは
火に跳びこんで 身を焼いてしまふ
 
死ね そして 生まれよ
このこころを
わがものとしない限り
おまえは この暗い地上で
はかない客人(まらうど)に 
過ぎないだらう
 

 

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2019年02月22日

マリー・シュタイナーによる序文A


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―――――――
 
●人がみづからの己れを摑むまでの迷ひ道では、なほ人の源から遠く飛ばされようとも、ひとつの精神の絆、言語は、人にとどまつてある。
 
―――――――
 
 
わたしも、「みづからの己れを摑むまで」どれほど、迷ひに迷ひ、今から思ひますと、どれほど「人の源から遠く飛ばされ」てゐたことでせうか。
 
しかし、四十歳ごろにして、人は、己れを摑み始めます。
 
そのことは、孔子も「四十にして惑はず」と言つてをります。 
 
己れを摑むこと、そのとき、頼りになるのは、自分自身の話すことばの質です。
 
自分の話すことばを、練り直し始めます。
 
その年齢までは、自分を守り、囲んでくれてゐた「ことば」、わたしたちで言へば「日本語」があり、その言語が「一つの精神の絆」としてその人の人生に付き添つてくれてゐました。
 
ことばが、人を守つてくれてゐました。
 
しかし、四十歳を過ぎるころからは、人自身がことばをみづから己れのことばとして立てて行くことが、要求されるはずです。
 
ことばは、もう、人を守つてくれません。
 
人は、四十歳ごろから、社会の中でしつかりと自分自身を表現し、事物をしつかりと言ひ表すことができるやう、その精神の絆としてのことばをみづから練り直し始めるのです。
 
もし、この時期に、このことを逸しますと、いつまで経つても、自分の思つたことをそのまま口にすることで、人との關係性を壊し続けてしまつたり、逆に、思つてゐることがうまくことばにできなくて、これもまた人との關係性に支障が多々出て來ることになりかねません。
 
自分の話すことばが、ちゃんと自分の体重が乗つてゐるやうな、重みのあるものとなりゆくやう、自分自身を意識的に教育し始めていい時なのです。
 
また、自分自身が話したいことをそのまま話していい時期は過ぎ行き、聴き手である相手のこころを汲みとりつつ、ことばを選んで丁寧に話すといふことを学び始めていい時期なのです。
 
人は、ことばといふものがあればこそ、そのことばを通して、己れのこころをみづから教育していくことができます。
 
人といふものが、幾つになつても成長できる生き物なのは、「ことば」といふものを授かつてゐるからなのでせう。
 
 

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2019年02月21日

マリー・シュタイナーによる序文@


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『言語造形と演劇芸術』といふルドルフ・シュタイナーによる連続講演録があります。
 
その本の初版の序として、妻であり、仕事の上でのかけがへのないパートナーでもあつたマリー・シュタイナーが記してゐる「クリエイティブな言語」といふ文章の内容を少しご紹介したいと思ひます。(言語造形家 鈴木一博さん訳)
 
彼女は、ルドルフ・シュタイナーの最も近くにゐながら仕事を共にした人であり、言語造形といふことばの芸術をルドルフと共に産みだした人です。
 
―――――
 
言語に於いて人が人の神々しいところをつかむ。音韻がクリエイティブな力であり、人を人のみなもとに結び、人が精神への道をふたたび見いだすに任せる。音韻によつて人が動物の上に上がり、探りながらでみづからの<わたし>に立ちかへる。
 
―――――
 
言語とは、ことばとは、一体、何でせう。
 
印刷された文字のことではなく、音声として空気の中に響くとき、ことばは、そもそも、人を精神に繋ぐよりどころであります。
 
人がことばを話すとき、その人その人の声の響きに顕れるその人のこころと精神。
 
人は、そもそも、己れの精神からことばを発することができるといふこと。
 
人は、そもそも、ことばの精神に助けてもらふことで、初めて活き活きと話すことができるといふこと。
 
もし、声を発してことばを話すことを芸術的に学び始めたなら、人は予感するかもしれません。
 
これは、わたしが、これまでの人生とは全く違つて、どんどんクリエイティブになつて行く道だと。
 
勇気さへあれば、誰でも、この道を歩き始めることができるのだと。
 
言語は、神々しいものです。
 
音韻を追ひつつ、ことばを話すことを学んでいくことは、まさしく自分自身の源に繋がるといふことであり、自分がますます自分自身になつて行くといふことであり、動物的なこれまでのあり方から、ますます、人になりゆく道であるといふことです。

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2019年02月20日

高瀬陽子さん 『キリスト生誕劇 2018』の奇跡


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昨年暮れの『キリスト生誕劇 2018』に羊飼いのガルス役で出演した高瀬陽子さんが、感想文を書いたと言つて、A4用紙4枚もの分量の文章を今日わたしに手渡してくれた。 
 
「大空高く自由に飛べる」
 
本当に、本当に、素敵なことだと思ふ。
 
 
――――――― 
 
『キリスト生誕劇 2018』の奇跡   
2019.2.19. ガルス役 高瀬陽子
 
生誕劇を終えて、しばらくは余韻にひたっていた。いろいろなセリフが、日常のすきまに入り込んで、頭に浮かんでは、そのまま居座った。
 
やがて日常生活に慣れた頃、何か以前と違う感覚がする。ぼんやりとしているが、今までとは違う時間の流れるときがある。わたしの口から出ることばも頭でああだこうだと考えあぐねることが少なくなった。感じたことをそのまま話すことがラクにできるし、その方がうれしい。
 
『キリスト生誕劇』に出演しようと決意したのは、諏訪先生に「高瀬さんは表現したい人だ」と声をかけられたからだ。
 
忘れかけていた。わたしは舞台が大好きだった。ずっと心の奥に置き去りにしていた気持ちを思い出した。わたしの中のおさなごと出会いたい。何かにとらわれることなく、自由に思うまま感じるまま動きたい。
 
4月から始まった生誕劇の稽古。初めて会った人達なのに、どこか、なつかしささえある安心感に包まれる。稽古前のシェアリングのたびに、心に浮かぶ日々のわだかまりがするするとほどけていく。
 
ところが、ガルスのセリフが、なかなか覚えられない。相手のセリフと呼吸を共にする。やりとりの流れやタイミングにのれない。けれども、先生は「大丈夫だ」と言う。何がどう大丈夫なのか、わからないけれど、先生がそうおっしゃるのなら、信じて進もうと思った。
 
ことばとからだが一致しない。うちふるえ、あふれるような感情が出てこない。どこか引いてながめている自分がいる。わたしのおさなごは、すねてしまったのか。
 
娘がまだ小さい頃、「わたしは、わたしの応援団長になる。世界中の人がわたしを認めなくても、わたしだけは、たったひとりでも私を認める」と、自分に誓った夜があった。わたしは、わたしを好きでいたい。できないわたしも、言えないわたしも、がんばれないわたしも、すべてまるごと好きでいたい。
 
11月になっても、どんな劇になるか自信がなかった。生誕劇のチラシを誰に配ろうか。是非観に来てというには勇気がいった。でも、伝えるだけでも伝えようという気持ちになった。そして、「行けないけど、応援してるね」という友人の言葉に強い力をもらった。
 
ここだけでなく、前に出ていく。前に、前に。やがて、足の裏が感じられるようになった。確かに大地と地球とつながっている足がある。冷えきった体に血が通っていく。体に流れるあついものが感じられるようになった。
 
ホールでの舞台稽古。板の上に立つ。じわじわとわきあがってくるものがあった。
 
本番前日、共演者と息のタイミングがあわない。自分をさらわれたような不安感の中にいた。帰宅すると、20年ぶりに電話をくれた友人がいた。公演を観に来てくれるという。わたしの不安を話せた天の声だった。それからわたしの時間は、ゆったりと流れはじめた。
 
本番では、すべてを天にまかせた。頭の中で台本のページをめくらない。ただただガルスとして立つ。全身をつかって、ガルスのことばを相手に届けたい。
 
舞台袖には、歌の先生が両手を広げて一緒に動いて伝えてくれている。すべての人の力がこの舞台を動かしていると感じた。
 
歌のレッスンに入る前に、自分の名前にメロディをつけて歌うと、同じメロディで皆が呼応してくれる。初めてそれを聞いたとき、わたしのおさなごがとびはねた。
 
この生誕劇で、わたしはわたしの底力を実感した。道はひらく。やりたいと思ったことは、まず不安が先走ってしまったけれど、今は必ず叶うといえる。あくせく思いわずらうことはいらない。やれるだけやってみる。すべてを解き放って、大空高く自由に飛べるような気がしている。
 
終演後ロビーに出ると、「いいものをみせてもらった。よかったわ」と、あまり話さない友人はかみしめるように言った。
 
―――――――
 
 
2019年度生誕劇クラスのお知らせ ↓
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

2019年02月18日

言語造形を通して俳優術に迫る@

 
俳優にとつて、己れのからだは、その俳優によつて奏でられる楽器であるがゆゑに、わたしたちは、己れの「からだ」を親しく知つてゆくことを要します。
 
ピアノの奏者がピアノをよく知ることを要するやうにです。
 
どのやうな立ち方、歩き方をしてゐるのか、そのときに、足の裏のどの辺りに重心がかかりがちであり、膝をどう曲げてゐるのか、腕をどう動かしてゐるのか、等々、己れのからだを親しく観る必要があります。
 
そして、わたしたちは言語造形に勤しみながら、己れの声を己れみづからで聴くことができるやうになるまで、練習を重ねることを要します。
 
己れの発したことばが、どういふ形をもつて、どういふ動きをもつて、喉からすつかり放たれ、空気に響き渡つていくかを、感官をもつて、また感官を越えて、観ることができるやうに、練習されてしかるべきなのです。
 
昨日、『ことばの家 諏訪』で行つてゐます『普遍人間学の会』での言語造形の時間に、こんな話をさせてもらひました。
 
ーーーーーーーー 

ある役者がゐました。
 
彼は、見た目の姿も、声も、ほとんど役者には向いてゐませんでした。その彼が、演じる芸術について、かう述べてゐます。
 
「もしわたしが舞台にただ立つにまかせて立つてゐたとしたら、わたしは役者が務まらなかつたでせう。
 
からだは小さいし、猫背ですし、しわがれ声で、顔は不細工です。しかし、わたしはわたしなりにやつて来ました。
 
舞台でのわたしは、常に三人の人です。
 
一人は、小さく、猫背の、しわがれ声で、不細工な人です。
 
二人目は、猫背と、しわがれ声から全く抜け出してゐる人、まぎれなくイデ―であり、全く精神である人です。その人をわたしは常に前に迎えることになります。
 
そして、いよいよ三人目の人です。わたしは、さきの二人から抜け出し、三人目の人として、二人目の人と共に、一人目の、しわがれ声で、猫背の人をもとに演じます」
 
(ルドルフ・シュタイナー『演じるといふ芸術について』から)

 
 
ーーーーーーー
 

わたしたち、言語造形をする人は、この三つの分かちを、常に意識して舞台に立つことを修練していきます。
 
いつも格好よくあらうとする人、いつも美しくあらうとする人は、己れのからだについてなにひとつ諾ふことをしないゆゑに、己れのからだとの関わりの中で己れを知るといふことができません。
 
からだ、そして声、それは、わたしたちが己れみづからを知るためのたいせつなたいせつな元手なのです。
 
 
 

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小西 収さんによる『音楽テーゼ集』


小西 収 (小西収)さんが記されてゐる文集『音楽の編み物』。
 
ここに収められてゐる文章は、筆者が演奏者、指揮者、編曲者として音楽の内側に活き活きと入り込む何十年もの時間の中から生まれたもので、どれも非常に興味深く、含蓄と芸術的・哲学的示唆に溢れたものです。
 
とりわけ、十数年前に書かれた文章で、最近再録されたものである『音楽テーゼ集』。
 
これは、芸術に直接携わつてゐる者には、ジャンルの違ひはあれども、そこにはつきりとした共感を寄せうる記述の連続です。
 
思はず、さうさう、と膝を打ちながら喜悦の内に読んでゐます。
 
 
 
 テクスト=書物(本)は、
 文章の《存在以前の状態》の典型である
 
 楽譜=スコアは、
 音楽の《存在以前の状態》の典型である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)

 
 

さうなのです。
 
「文章の存在以前の状態」が、確かにあるのです。
 
言語造形といふことばの演奏は、テクストといふ元手(典型)を踏み台にしながら、その「文章の存在以前の状態」に歩み寄つて行く営みであります。
 
きつと、音楽を奏でる行為とは、楽譜を元手(典型)としながら、音楽の《存在以前の状態》へと踏み入つて行く営みです。
 
だからこそ、そこには、精神の自由が生まれ得ます。
 
 
 
 一つの音楽作品を編曲の対象としてみるとき、
 それには、微分方程式の一般解に相当するような、
 “原曲以前”の原初的側面がある
 
 (第五章「編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である」から)

 
 
この「“原曲以前”の原初的側面」は、作曲者本人でさへも意識してゐない可能性がある側面です。
 
よつて、文学作品も、作者本人に触知されてゐない精神の傳へを、演奏家である言語造形をする者が触知することがあり得ます。
 
なぜなら、音楽演奏も言語造形も、「音」と「ことばの音韻」といふ人が創り出したのではない、神が人に贈り給ひしものをその素材としてゐるからなのです。
 
その素材こそが、作曲者や作家の意図を越えて、ものを言ひ、演奏者や俳優は、その音の響きが何を伝へようとしてゐるかに耳を澄ますことが仕事であるからです。
 
 
 作曲者とて演奏する「私」にとっては他人である。
 ときには作者をも脇に置き、
 作品そのもののテクスト=楽譜を自分で読むこと
 ──それが、読譜の基本である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)




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2019年02月15日

詩 『 白き花 』 


年の初めにいただきし 白き花
ひと月なかばを経しのちも
机上にいまだ
みづみづしくあり
 
その花
贈れる人のこころを宿せり
 
われのこころに 白き花
ひと日ひと日を経しほどに
白きこころを
語りてあり
 
 

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『古事記』の芸術性 〜古事記朗唱大会にて〜


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先月、奈良でいたしました『古事記朗唱大会』での写真です。
 
『奈良県ようこそ』といふページで、その日のレポート記事の中で少し紹介していただいてゐました。どうもありがたうございます。↓ 
http://www.pref.nara.jp/dd.aspx?moduleid=99400&pfromid=25
 
この会は第六回目でしたが、かうして、『古事記』が現代人によつて高々と朗々と語られ、詠はれ、演じ続けられることは、とても貴重なことですね。
 
さらに、『古事記(ふることぶみ)』は、我が国の、世界の、芸術作品に於ける最高傑作のひとつだといふこと。
 
そのことを、わたしは世に問ふていきたいと考へてゐます。

明瞭なかたちある言語と芸術的な動きをもつて、古典作品を演じるとき、それは、必ず、現代に活き活きと通じるものになる。

なぜなら、古典作品は、その原型のままで、非常に優れたスタイルがあるから・・・。

そのスタイルを尊んで、かつ、新しい息吹きを吹きこんでいく作業でした。

posted by koji at 11:17 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幼な子はわたしたちの先生

 
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赤ん坊や幼い子どもを前にするとき、わたしたちは微笑ましい思ひや、ときにあらたまつた思ひに一挙に包まれはしないでせうか。
 
そして、思はず微笑んだり、その子に話しかけたりしたくなります。
 
あの独特の感覚。
 
その感覚を意識的に大事に保ちながら、子どもに昔話を語りかけたり、絵本を読んで聴かせたりするとき、語り手のわたしたちは、逆に子どもたちから、「語る」といふ行為とはどういふ行為であるのかを学ばせてもらつてゐます。
 
そして、さらに、あらためて感じられることは、その時期の子どもたちの成長にとつて要となるものは、動きなんだといふことです。
 
子どもたちはお話や歌のことばが分かる、分からないよりも、そのことばに合はせて、内的にも外的にも、動くことができるかどうか。
 
動きのあることばが、子どもたちの傍にゐる大人たちによつて話されてゐるか。
 
それらのことが、ことのかなめなのです。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、動きに裏打ちされてゐてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。
 
ことばといふものを通して、この時期は、すべてのものが、生きてゐる、動いてゐる!
 
わたしも僕も、みんな生きてゐる、動いてゐる!
 
そして、ことばといふものも生きてゐる、動いてゐる!
 
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。
 
ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、大人のやうに静かにして聴いてゐるのではなく、動きの中でこそ、動きによつて生まれるバランス感覚の中でこそ、育まれます。

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もちろん、大人でさへも、何かに一心に耳を傾けてゐるときには、からだは動かさずとも、内側を動かしてゐます。
 
シュタイナーは、「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声してゐます。それは内なるオイリュトミーなのです」と語つてゐます。
 
その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。
 
しかし、子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。
 
外的に動くときは、できるだけ、調和のとれた動き、かたちある動き、かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すやうな動きに導いていくことができたら、素晴らしいですし(ライゲンやお話ごつこも工夫すると素晴らしいものになります)、羽目をはづした子どもたちの動きにも、「座りなさい、静かにしなさい」といふことばではなく、そのつどそのつど、芸術的に対応して、ことばの裏側にある動きを通して、子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。
 
幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育つた子は、小学校に入つてから、今度は自分から動きのあることばを使ふこと、話すことができるやうになつていきます。
 
言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。
 
さういつた、言語にとつて、人にとつて、いのちを湛えるありやうとはどのやうな語り方をすればいいのか、それを、幼な子たちは、大人であるわたしたちに教へてくれます。
 

 
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2019年02月14日

詩 『 この一夕(いつせき) 』

 
音から音へと
 
ひたすらに ひたすらに 追ひかけて行く
 
そのとき
 
向かうから
 
何かが訪れる
 
前もつてこざかしく
 
テーマを決めたりはしない
 
訪れるものを信じる
 
聴こえて来るものを信じる
 
その信頼が
 
ことばの
 
音楽の
 
ミューズに祝福された共同体を

創る
 
・・・・・
 
そんなことを語り合ふ一夕
 


 

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2019年02月13日

言葉の工夫

 
言霊(ことだま)とは、人がことばに触れて、こころが動かされるとき、誰もが当たり前に感覚してゐる、言語の精神の働きのことを言ひます。
 
ことばと、こころが接触する空間に、立ち上がり、拡がつて来る、あるかたち、動き、色彩、それら言霊の働きを丁寧に迎へ、聴き取り、見て取り、取り扱ふのが、わたしたち言語造形をする者です。
 
さて、小林秀雄の『本居宣長』は、何度、再読しても、そのたびに、こころが唸るやうな、ときに、晴々とするやうな、そのやうな手応えを感じさせてくれる日本文学の最高峰の書だとわたしは常々感じてゐます。
 
その第三十四章に、かうあります。
 

●「言霊」といふ古語は、生活の中に織り込まれた言葉だつたが、「言霊信仰」といふ現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのままに認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智恵だつたので、特に信仰と呼ぶやうなものではなかつた。(昭和五十二年発刊版 422頁)
 

「言霊信仰」などと言ひつつ、机上の精緻な学問体系を作り上げるのではなく、自分が発したことばが、いかに、他者に深刻に働きかけることがあるかといふことであつたり、他者が発したほんのちょつとのひとことで、己れのこころがいかに激しく揺さぶられてしまふか、といふ当たり前のことに、古代の人々は当たり前に気づいてゐた、といふことなのです。
 
言語造形といふ芸術を生み出したルドルフ・シュタイナーも、そのやうな、一音一音の精神的な性質、精神的な背景を説いてゐますが、ややもすれば、さういふ机上の理解だけで尽きてしまふ「空理」を振り回すことの馬鹿らしさを彼もきつと痛感してゐて、生き物としての言語の芸術的働きを見失ふことは決してありませんでした。
 

●天も海も山も、言葉の力で、少しも動ずる事はないが、これを眺める人の心は、僅かの言葉が作用しても動揺する。心動くものに、天も海も山も動くと見えるくらゐ当り前なことはない。(422頁)
 

山の動く日。それは、到底動くはずのなかつた、このこころが、ことばによつて、揺さぶられ、動かされてしまつたとき、目の前の山も動く日が、現にあるのです。その感覚を、通常の散文的理解と取り違へることは、古代人にも決してなかつたことでせう。
 

●天や海や山に、名を付けた時に、人々は、この「言辞(ことば)の道」を歩き出したのである。天や海や山にしてみても、自分達を神と呼ばれてみれば、人間の仲間入りをせざるを得ず、其処に開けた人間との交はりは、言葉の上の工夫次第で、望むだけ、恐しくも、尊くも、豊かにもなつただらう。(422頁)
 

言語造形とは、かうした「言葉の工夫」です。
 
工夫次第で、人は、ものごととの関係をいかやうにも深くしていくことができるのです。
 
 

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詩『 原動力 』

 
空の向かう側から見ると
わたしなどは
滞りなく動く予定調和の中にゐて
繭の中でぬくぬくと
もがいてゐるにすぎぬ
 
しかし
この繭をみづから荷ふこころ意気
我が内にありやなしや
 
この繭は果たして
大いなる世
 
予定を予定通りに
内から運ぶ
その原動力こそ
ありがたし
 

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2019年02月11日

和歌の浦 『山月記』ありがたうございました


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和歌の浦での『山月記』言語造形公演、終了しました。
 
同じ作品を何度も再演させていただけることの仕合はせを感じます。
 
全身で聴く文学の面白さ、奇怪さ、躍動感、質実さ、などなど、五感以上の感官をフルに使つて感じる一時間半。
 
初めて言語造形の舞台に触れる小・中学生も、繰り返しこの舞台を味はつて下さる方も、共に、この言語造形といふ精神の世に触れる芸術の世界を楽しんで下さつたやうで、とてもありがたい思ひで大阪に帰つて来ました。
 
終演後の皆さんとのシェアリングの時間も、この上ない充実感に満ちたものでした。
 
また、今回の舞台創りは、やはり、言語造形といふことばの芸術のなんたるかをこころから理解し、かつ、己れの最大限の技量を発揮して下さることのできる音楽家、小西 収 (小西収)さんあつてのものでした。
 
小西さん、どうもありがたうございます。
 
この芸術のために、こころを籠めて舞台を用意して下さつた
親子えんげき塾 ことばの泉の皆さん、そして足を運んで下さつた皆さんに、こころから感謝いたします。
 
日本文学を、かういふ生きた舞台芸術として甦らせたい一心です。
  
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また、聴きに来て下さつた方々が観劇記を書いて下さり、フェイスブック上でも記事を書いて下さつてゐます。
 
本当にありがたいことです。

――――――――

●酒井千晴さんブログ
https://note.mu/okagesam/n/ne29a3d05aa83
 
――――――――
 
●Mitteの庭
 
山月記、和歌の浦公演。
 
この作品のすごさ、
言語造形のことばの力、
クラリネットの音楽の奥深さを
全身で感じた時間。
なんて贅沢な時間。
 
芸術が命を与えられて
より一層、輝く。
 
その精神の力が、
私たちの心を惹きつけ、
ことばにできない
感動を残していく。
 
この感動はなんなのか。
 
皆、そんな素敵な問いを
持って帰っていった、
山月記公演でした。
 
―――――――― 
 
聴く人、観る人の精神のアクティビティーと、演じる者、奏でる者の精神のアクティビティーが出逢つてこそ、芸術の場にかうごうしいものの存在を感じることができます。
 
わたしはそのやうな存在を、「言霊の風雅(みやび)」「言語の精神」と呼びます。


どうもありがたうございました。

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2019年02月10日

詩 『 約束 』

 
わたしはいまだわたしではない
わたしはわたしになりゆく
これは熱を伴ふ希みである
 
この希みはいづこより来たるか
それは
最も遠く 最も眞近にて交はされた
約束から来てゐる
わたしはわたしである
わたしはある といふ約束
 
この約束は夜に交はされてゐる
 
夜よ
朝(あした)と重なれ
 
約束はつねに念ひ起こされ
希みは熱を伴ふ
わたしはいまだわたしではない
 

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教師のための言語造形


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息遣ひ、ひとつで、こんなにも音読・読み聞かせの質が変はる!
 
昨日は、『教師のための朗読の会』と題して、小学校の教師をしてをられる方々にそのことを、とくと、体験していただきました。
 
教師の方々が、「そもそも、ことばとは芸術なのだ」といふ感覚をもつて、子どもたちの傍にゐることで、どれほど子どもたちの聴く力が育まれることでせう。
 
その力は、子どもたちの中で、想ひ描く力、考へる力となりゆき、やがて、借り物ではない、自分自身のことばを話すことができる力、書くことのできる力、つまり、自分自身を過不足なく表現できる力へと発展していきます。
 
ルドルフ・シュタイナーから生まれたことばの芸術ですが、シュタイナー学校やアントロポゾフィーに関心のある人といふ狭いところに留まるのではなく、多くの、多くの、方々に、ぜひ体験してもらひたい。
 
学校の先生たちに、言語造形を身をもつて知つていただく機会をこれからも作つていきたいと思ひます。
 

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2019年02月09日

京の旅 貴船から上賀茂、下鴨へ


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水上(みなかみ)ゆ ゆく水ながし すがすがし
貴船上賀茂 みやこにそそぐ
 


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あまがけて 八雲立つかな くらまやま
温泉(いでゆ)の里に ゆけむり立ちぬ
 


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ほとばしる いのち満ち潮 はぜしのち
浜引く潮は 安らかなりけり
 


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こころのこよみ(第44週) 〜考へつつ創りなす意欲〜


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新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
2月もだんだんと半ば近くになり、空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
 
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐることを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
 
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
 
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
 『人』とするものが流れ込んでくる」
 
(『人の生きることにおける、
  引き続くことと繰りなすこと
  1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
 
そして人は、自分の周りの事柄に対しては智識を増やしてはいつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
 
人といふものが、そして自分自身こそが、ひとつの謎になつてきたのだ。
 
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
 
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人のもつとも内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
 
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
 
わたしたちは、2月の明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点からも、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。
「わたしは、そもそも、精神の人である」と。
「<わたし>は、ある」と。
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
 
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなき考へる力を内において繰りなしてきた。
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなき考へる力となる。
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなき考へる力において、自由になりうる。
 
外の世の命の繰りなし、出来事の繰りなしに、内の世の繰りなし、意欲的に考へることを重ねることによつてこそ、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
 
 
 
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 

 
写真は、上賀茂神社内

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2019年02月07日

家庭での語りB 〜両親の問診時間〜


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家庭の中で、お父さんとお母さんが語りあつてゐる。
 
日頃の気にかかつてゐることから、お互いの最も大事に大切に考へてゐること、そして自分自身が抱えてしまつてゐる痛みや苦しみまで、ことばにしようとしてゐる。
 
何気なく過ぎていきがちな日々の暮らしの中に、そのやうなことばを交わしあふ時間を持たうとする意識。努力。習慣。
 
そんな大人の男と女の対話の時間に、思春期を迎えてゐる若者が加わることができるなら。
 
そこは、大人の言い分を無理矢理押しつけられる場ではなく、大人も若者も、各々感じてゐること、思つてゐること、考へてゐることを、ことばにする練習をし、それを聴きあふ場であるといふこと。
 
もう、お父さんもお母さんも、独自の役割を担ふといふよりは、ひとりの大人とひとりの大人としていかに向きあふことができるのか。
 
そんなことを、日々若者と共に探つていく場が、家庭です。
 
家庭での語らひが、どれほど子どもの国語力を育て、どれほど、こころと精神の関はりを深めるか。
 
子どもの成長にとつて、どれほど創造的なことか。
 
本当に大事なことです。

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家庭での語りA 〜両親の問診時間〜


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子どもがこの世に生まれてきて、その子どもにとつて、まづもつての大切な存在は母親でした。
 
ところが、小学生中学年から高学年になつてくるにつれて、子どものこころの中に、最も大切だつた母親の存在感に変化が生じてきます。
 
どのやうな変化か、それは、子どもひとりひとりで違つてくるのですが、ただ、子どものこころの中にはその変化に対する戸惑ひのやうな感情が拡がつてきます。
 
そんなとき、いよいよ、父親の出番が巡つてきます。
 
父親が、子どもに、母親のことを親しく語つてあげる。
 
お母さんは、こんなこと、あんなことを毎日してくれてゐるね・・・。
 
お母さんはああ言つたけれども、本当はかういふ気持ちだとお父さんは思ふよ・・・。
 
お母さんの好きなケーキは何だと思ふ?
  
子どもにとつて存在してゐるのがあまりにも当たり前のお母さんといふ存在を、お父さんが改めて親しくことばで描き出してみる。
 
そんなお父さんによる語りが、子どもの内側に新しい母親像をもたらします。
 
それは、子どものこころに、父性と母性の結びとして深く印づけられます。
 

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2019年02月05日

家庭での語り@ 〜両親の問診時間〜


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お父さんが仕事で忙しくて、滅多に家にゐない、ゐたとしても夜中遅く帰つてきて、子どもたちやお母さんとゆつくり話す時間などない、そんな家庭が少なくないのではないでせうか。
 
そんなとき、できるなら、お母さんはお父さんのことを子どもに話してあげてください。語つてあげてください。
 
お父さんは頑張つて仕事をしてゐるよ、お父さんがあなたたち子どものことをこんな風に話してゐたよ、あんな風に話してゐたよ、お父さんはこんなこと、あんなことが好きなんだよ・・・。
 
そのやうにお父さんのことを語つてあげることで、子どもは目の前にはゐないのにもかかはらず、お父さんのことをまざまざとこころに描くことができます。
 
子どもに、父なる存在、父性といふものがしつかりとありあはせるやうになります。
 
ことばによつて存在を描き出す。
 
その働きは、人の成長にとつて随分と大きな働きをなします。
 

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2019年01月31日

かたちを求める幼な子たち


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昨日、保育園にて、絵本『ごぶごぶ ごぼごぼ』の読み聞かせをやつてみました。
 
子どもたち、かういふ絵本、大好きなんですね!
 
保育士さんの腕に抱かれてゐる0歳児の子どもたちまで、ずつと惹きつけられて聴いてゐました。
 
まさに、言語造形を引き出す絵本なのです。
 
深い息遣ひから生まれる間(ま)と、ことばの音韻の一音一音の造形。
 
かういふ、「深い息遣ひと、かたちあることば」を、幼な子たちは、からだまるごとで欲してゐます。
 
なぜならば、その年頃の幼な子たちは、己れのからだを形づくつてゐる最中なのですから。
 
世に「かたちあるもの」を求めてゐるのです。

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こころのこよみ(第43週) 〜考へる力から内なる炎へ〜


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カスパー・ダヴィット・フリードリッヒ「Abtei im Eichwald」

 
冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖められ、
 
世の現はれに、
 
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
人の内なるこころの炎だ」
 
ルドルフ・シュタイナー
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
  
 
 
「世の冷たさ」とは、つまるところ、「己れの冷たさ」ではないか。
 
己れの内なる利己主義、寂しさ、悲しみ、怒り、それら様々の感情から必然的に織りなされてきた、我がこころの冷たさではないか。
 
我がこころの冷たさが、おのづと、その合はせ鏡のやうに世の冷たさとして外から己れに向かつて迫つて來る。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、人の内なるこころの炎だ」と今週の『こころのこよみ』にある。
 
この『こよみ』に沿つて生きてみようとするならば、要(かなめ)は、己れの内なるこころの炎をどのやうにしたら燃え上がらせることができるか、といふことになる。
 
わたしの個人的な感覚だが、他者に期待し続けてばかりゐるやうなあり方では、いつまで経つても、こころの炎は燃え上がらない。
 
この冬の深みにおいて、わたしたちは、他の季節におけるより、ずつと深く、熱く、考へることができる。
 
己れだけが知つてゐる、己れだけが信じてゐる、理想といふ考へを、いま一度、熱く、想ひ起こすのだ。
 
さうすることで、こころの炎が燃え上がりはしないか。
 
その炎こそが、己れの内なる冷たさを溶かしはしないだらうか。
 
ためいきや諦めや失望が、霧消していかないだらうか。
 
寂しさや悲しみや怒りが、暖かな希みと熱い念ひに、生まれ変はらないだらうか。
 
わたしは、己れの考へる力を、信じてゐる。
 

 
冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現はれに、
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎だ」
 

 
 


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2019年01月27日

希望を与へる歴史観


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昨日は、中之島中央公会堂にての 第19回大東亜戦争を語り継ぐ会「大東亜戦争の原点を探る」に参加しました。
 
あのクラシックな会場におそらく千人以上の人々が来てゐる様は、壮観でした。
 
近現代史を色々な面から学びたい、さう思ひ、色々な所へ足を運んでゐます。
 
まづは、先の大戦に対して、ある偏つたひとつの見方に捉われることなく、多角的に、かつ、しつかりと自分の中の認識を深めたいと思つてゐます。
 
 
 

大きなものごとを動かすとき、文書といふものがたいてい残されます。
 
わたしたちは、その残されてゐる文書を丁寧に見て取つていくことによつて、時の政局の中で、人がどう考へ、どう動いたかが、客観的に見えて来る。
 
さうして得られていく認識を積み重ね、自分自身で考へ、判断していくならば、だんだんと、ことの真相が啓けてくる。
 
1995年にアメリカ政府によつて公開されたヴェノナ文書によつて、それまで秘されてゐた事実が公になつたこと、登壇者のおひとり、江崎道朗氏の著作に詳しいのですが、アカデミックな環境にゐる人ほど、ある種の一義的な価値観の中に閉じ込められてゐて、いくら真実の事柄を見せられても、理解しようとしないし、理解できない。
 
そのことから、教育といふ分野に、どういふ思惑と策略が絡んで来てゐるかに思ひ当たり、暗澹としてしまひます。
 
むしろ、いはゆる高学歴といふものもなく、ただひたすらに働き続けてゐる人が、自分自身の頭で考へ、こころで感じる経験を積み重ねることで、ことの真実がどこにあるかを摑むことができる。
 
しかし、それらの多くの人々は、それをことばに表す術を知らず、利口な人たちの雄弁の前に沈黙を強いられてゐる。
 
昨日の講演で、日本よりもアメリカでこの状況に拍車がかかつてゐるとのことを知らされ、さもありなんと思ふのです。
 
自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へる。そして、自分自身のことばで語る。
 
この当たり前のことが如何に難しいか。
 
歴史観を自分自身の中で育てていくことは、大変なことです。
 
しかし、その営みが、きつと未来を導く。
 
わたしたち大人は、テレビや新聞、もしくはインターネットの表層的な情報やなんとなくのイメージに踊らされたり、凝り固まるのではなく、本当に学んでいきたいものです。
 
世界の歴史を、とりわけ自国の歴史を、色眼鏡をかけずに学んでいくこと、本質的にはそれはとても密やかな学びですが、きつと、子どもたちに、そして自分自身に希望を与へます。
 
失望や落胆、自虐ではありません。
 
希望と自尊です。
 
 
 

昨日の講演会・シンポジウムを通して、そんな念ひを強く持ちました。

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2019年01月26日

語りと詠ひ 〜言語造形クラス をとめ と つるぎ〜


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今回の作品は、対話だけでなく、ひとりひとりの「語り」と「詠ひ」が際立つものになつてゐます。
 
それゆゑ、物語る技量と和歌を詠ふ技量をおひとりおひとりに磨いていただきたく思つてゐます。
 
共に助け合ひながらひとつの作品を創る一年間。
 
そして、作品全体としての仕上がりがより深いものになりゆくやう、切磋琢磨していきませう。
 
言語造形の強いチーム作りが今年からの希ひです。
 
 
インフォメーションはこちら ↓
https://kotobanoie.net/spra/#otome
 

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2019年01月21日

2019キリスト生誕劇クラスへのお誘ひ


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一昨年、昨年に引き続き、また今年の暮れのクリスマスに向かひ、『キリスト生誕劇』のためのクラスを四月より始めます。
 
わたしたち日本民族と、キリスト到来を待ち望んでゐたユダヤ民族との接点はどこにあるのだらうか。
 
この問ひをもつてこの劇を創り始めたのですが、たやすくその答へは得られません。
 
お釈迦様誕生でもなく、マホメット誕生でもなく、なぜ、キリスト・イエスの誕生をわたしたちは祝ふのか。
 
その問ひに、また表層的な答へ合はせをしようとも思ひません。
 
ただ、内に激しく燃へさかるやうに輝いてゐた太陽の神の想ひ出が、わたしを導いてくれてゐるやうに思ひます。
 
 
目には見えないものを表現する。
 
年の暮れも押し迫つて来るひとときを、和やかで、静かで、厳かな、聖なるひとときにする。
 
そんな生誕劇創りを春から冬への季節の巡りと共に辿つてみませんか。
 
 
 

●日時 いずれも 10:00 – 13:00
4月より毎月 第二・第四金曜日
(必要に応じてさらに特別稽古あり)
7月のみ 第二・第三金曜日
11月より 本番12月15日(日)まで毎金曜日
 

●参加費  
月謝制  4月〜12月 毎月8,000円
    11月のみ 20,000円 
一括払い(4月から12月までの九か月分)77,000円 
特別稽古 一回4000円
(資料代、発表参加費、本番会場費含む)
 
 
 
●稽古場
「ことばの家 諏訪」 帝塚山教室 
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●本番日時
12月15日(日)14時開演予定
 
 
●会場
山中能舞台
http://noh-kyogen.org/nohgaku-info/yamanakanohbutai/ 
 

※写真撮影は、山本 美紀子 (Mikiko Yamamoto)さんです。美紀子さん、今回も美しい絵を届けて下さり、本当にありがたうございました。

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2019年01月19日

わたしたちの新しい文化の礎


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新しい年が明けまして、もうすぐ三週間が過ぎようとしてゐます。
 
昨年の様々な仕事を通して、わたしも様々な想ひを抱いたのですが、今年の初めになり、改めて、これからの「ことばの家 諏訪」の言語造形の仕事の中でも、舞台活動・上演こそをより充実させていく必要があることを、これまで以上に痛切に感じました。
 
芸術には、その教育的・治療的な実践のやうに様々な側面がありますが、やはり、まことと信じうることを世に造形していくこと、捧げていくこと、つまりわたしたちの場合ですと、作品を創り続け、本番を上演し続けていくことが最もたいせつなことであります。
 
わたしたちにとりましては、一回一回の舞台公演が本当により深い内実を湛えていくことが必須であると考へてゐます。
 
そのためには、第一に、わたし自身も含めて、舞台に立つ人の養成です。
 
ことばが芸術であることを、身をもつて証していく道です。
 
舞台、そこは、人が、その人自身になりゆく秘儀の場であります。
 
秘儀の場でありつつ、芸術といふ姿で多くの人に開かれてゐます。
 
この、多くの人に開かれてゐるといふこと、それは、理屈抜き、知識抜きで、こころを開き、己が身をもつて行為に徹していけば、どの人もその芸術に通じていくことが必ずできるといふことです。
 
なぜならば、芸術とは、人間教育だからです。
 
そして、観る側、聴く側にとりましても、こころさへ開いてゐれば、舞台の魅力を直感することができます。
 
なぜならば、舞台とは、知識がものを言ふ場所ではなく、その人の生き方がものを言ふ場所であり、その生き方を共にするひとときだからです。
 
それが、とりわけ舞台芸術の魅力です。
 
そんな、舞台芸術としての言語造形を天職とする人の養成のための学校創りがわたしにとりまして最もたいせつな仕事になります。
 
さういふ人の養成を視野の中心に置きながら、わたしは実際の舞台創りに取り組んでいかうと考へてゐます。
 
言語造形は、音楽・舞踊といふ芸術と同じく、ミューズの神からの恵みとともに営むことばの芸術であります。
 
それゆゑ、その分野に携わつてをられる方々、さういふ芸術への感覚を共にする方々に、これからは積極的に助けていただき、実際の舞台創りをしながら、舞台に立つ人の養成に取り組んでいきたい。
 
そんな念ひで、昨日は、足利智子さんに時間を作つていただき、お会ひすることができました。
 
彼女は、音楽といふ芸術に、精神の一筋の確かな調べを聴き取らうと耳を傾け続けてゐるおひとりです。
 
15年以上前からの古い友人としてお付き合ひ頂いてゐるのですが、改めて、わたしたちの仕事へのお手伝ひをお願ひしました。
 
音楽総監督といふかたちで、舞台創りに関はつていただきたかつたのです。
 
ことばと音楽がひとつになり、ともに美を奏でていくことにわたしたちが仕へられるやう、修業を重ねていきたいと希つてゐます。 
 
言語造形といふことばの芸術が、日本の国に真に根付いていき、あとあと、ことばが芸術であること、日本語がこの上なく芸術的な言語であることを多くの子どもたちが誇りに思へるやう、そのための地盤創りに、また、これからも、多くの方々に助けていただきたいと切望してゐます。
 
長文、失礼いたしました。
 
 
●『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/


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2019年01月17日

2/11(月・祝)和歌の浦 言語造形公演・山月記のお知らせ


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昨年暮れに演じさせてもらひました『山月記』の和歌山での再演のお知らせです。
 
ぜひ、お近くの方、この機会に、言語造形を通しての『山月記』、耳で味はふ文学の魅力を感じにいらしてください。
 
また会場のアートキューブは、古来、和歌の神が祀られてゐる玉津島神社の前にあり、小高い山(すべて土壌が古代の巨大樹)と静かな内海が拡がる、まことに風光明媚なところにあります。
 
冬の海を眺めにも、どうぞいらしてください!
 
お待ちしております。
 
大阪での公演を聴いて下さつた足利智子さんの公演感想文をご紹介させていただきます。
 
ーーーーー
 
昨日は楽しみにしていた、ことばの家の『山月記』の公演に行ってきました。
 
今回、諏訪耕志さんと千晴さんによって空間へ次々と造形されてゆく言葉と、そこから立ち上がる情景を見ていて、言語造形という芸術がこのようにありたがっているだろう、一つの道を、今日見せてもらえた、そんな気がしました。
 
今まで聞いたことのある言語造形家の方々の語りは、誰一人として似ていません。だから、言語造形って何?という問いに対する答えが、言語造形をやっていない人にとっては非常に像を結びづらい、そんな場面にもよく居合わせました。
 
だけれども、今回の山月記の舞台を見た人、聴いた人は、これが言語造形か、と何か芯をとらえることが出来たのではないか、そんなことを感じました。
 
自分自身そう感じることが出来たのも、これまでのことばの家の公演に来させて頂き、ある時は聞き手として、ある時は音楽担当として、お二人の言葉にひたすらに耳を傾ける、という機会を与えて頂いたお陰だと思います。本当に有難いことです。何かが進化していく、花開いていく歴史に立ち会えるということの、重みと喜びを、今回の舞台で感じました。 
これからの、ことばの家の公演がますます楽しみです。
 
クラリネットの小西収さんの演奏も本当に素晴らしかった!クラリネットはもっとも音から呼吸を感じる楽器だと思います。言語造形との親和性を感じました。
 
 
ーーーーー

 
言語造形:諏訪耕志(今回は諏訪耕志のみで演じます)
クラリネット演奏:小西収
 
 
日時:
2019年2月11日(月・祝) 
開場13時半  開演14時  終演予定15時半
 
場所:
和歌浦アートキューブ 第2制作室キューブC1
http://wakanouraartcube.web.fc2.com/access.html
和歌山市和歌浦南3-10-1
(お車でお越しの際は近く万葉館有料駐車場をご利用ください)
 
参加費:
一般 ご予約 3000円 当日 3500円
小学高学年から高校生 1000円
 
※小学高学年以上のお子様からご入場可です。
 
お申込み、お問い合わせは、
kotobanoizumi.engeki@gmail.com
または、Facebookメッセージまで。

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2019年01月16日

信じるこころが一番たいせつ


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写真撮影:山本 美紀子さん

 
小学生の子どもたちには、どんな書物がふさはしいか。
 
などと、大人があまり考へない方がいいやうに思ふ。本人が読みたいものをどんどん読むことができるやうに、計らつてあげるだけでいいと思ふのです。
 
ただ、これだけはたいせつだと考へてゐるのは、一冊の本が祕めてゐる未知の何かに対する、限りない愛情、尊敬、信頼。
 
そこから、本に限らず、ものといふものに対する、愛情、尊敬、信頼がおのづと育つていきます。
 
何を学ぶにしても、そのこころもち、感情さへあれば、いい。
 
もし、そこに熱烈な尊敬、熟していく愛情が育つていくなら、大げさな言ひ方になりますが、その人のこころには、誰に何かを言はれなくとも自分の意欲だけで学んでいく力、世界中を相手に回しても自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、それが、この身ひとつで、世を生きていく、といふ力。
 
それが、自由への道を歩いていくといふことではないかと思ふ。
 
学ぶ人にとつては、学ぶ対象に対する疑ひではなく(!)、学ぶ対象に対する信頼・信といふものがとても大事です。
 
では、その対象については、はじめは未知であるのに、どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
それは、その人のこころのうちに、既に信じるこころが育つてゐるからだ。
 
信じるこころが、信ずるに値する書物を引き寄せる。信ずるに値する人を引き寄せる。
 
小学生のこころとからだにまづは何を植ゑつけるか。
 
それは、信じるこころの力であり、感情の育みです。
 
その信じる感情の力が、やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、きつと、その子がその子の人生に必要なものを、おのづと引き寄せるやうになるでせう。
 
その子が、その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
 
ではそのためには、大人は何をすればいいのか?
 
その子の傍にゐる先生が、親が、大人自身が、熱烈に、一冊の本ならその本に、何かの存在ならその存在に、尊敬と愛情と信頼を持つてゐる姿を、子どもに示しつづけるのです。
 
多くの本でなくてもいい、この一冊といふ本を見いだせたなら、本当に幸ひです。その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、その本こそが、その人の古典になります。
 
信じる力と言つても、それは何かあやしいものを信じてしまふことになりはしないかといふ危惧は不要です。
 
信じる力の枯渇、それがまがひものを引き寄せてしまひます。
 
信じる力の育み、それが信じるに値する何かを引き寄せます。
 
 


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2019年01月14日

『 をとめ と つるぎ 』言語造形クラスのお知らせ


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「ことばの家 諏訪」では、2020年春、大阪にて公演予定の舞台『 をとめ と つるぎ 』に向けての言語造形クラスを3月より始めます。
 
月に二回から三回のペースで、来春の本番まで、「ことばの家」での演劇づくりに、あなたも参加してみませんか。
諏訪耕志が演出・演技指導させていただきます。
 
 
●日時 
 
10:00 – 13:00
3月より 基本的に毎月 第一・第三土曜日
必要に応じ、特別稽古あり 
 
 
●参加費 
 
月謝制  毎月二回8000円 
四ヶ月一括払い 28000円
特別稽古 一回4000円
(資料代、衣装代など製作費含む)

その他、本番&リハーサル会場費は全員で負担
 
  
●稽古場
 
「ことばの家 諏訪」 帝塚山教室 
 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」徒歩5分
 
 
●本番日時(予定)
 
2020年3月28日(土)14時開演予定
 
 
●本番会場(予定) 
 
山中能舞台
 
 
●お問い合わせ 
 
「ことばの家 諏訪」

 
 
この作品は、我が国の古代、倭武命(日本武尊)から、朝鮮半島への遠征に乗り出す息長帯比賣命(神功皇后)に至るまでの歴史を、主に口承文学「古事記」を基にして諏訪耕志が描いた物語です。
 
日本が日本といふ国であり続けるために、葛藤されつつ生き抜かれた方々の物語であります。
 
我が国の歴史が、神と人との分離によつて促された経緯を描いてゐます。
 
その目には見えない領域を、ことばの芸術として鮮烈に描くことができたらと希つてゐます。
 
上演会場は能楽堂にて、上演時間は、おそらく、1時間半から2時間近くになりさうな作品です。
 
言語造形が初めての方でも大丈夫です。まづは、ことばを丁寧に語る練習から始めませう。そして、ダイナミックにことばを生きる、そんな役作り、舞台創りに、だんだんと入つていきます。
 
配役は、以下の通りです。
 
倭姫命
童女
倭建命(日本武尊)
帯中日子天皇(仲哀天皇)
息長帯比賣命(神功皇后)
武内宿禰
 
 
共に創つていく仲間を、こころより待つてゐます。

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Aといふ道とBといふ道 〜和歌山での新年会〜


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「親子えんげき塾 ことばの泉」の皆さんと和歌山での新年会。
 
料理は旨い、酒も旨い、昨年暮れのキリスト生誕劇を演じ終えて、言語造形といふことばの芸術に開眼され始めた皆さんとの会話もとてもとても楽しい。
 
芸術について、からだで感じることのできたリアルな事柄、そしてそこから生まれた新しい認識を語り合ふことは、本当に楽しいのです。
 
今日、新年会に参加されなかつたメンバーの方々も含めて、皆さん本当にありがたうございました。勿体ないほどの素敵な花束までいただきました。皆さんのお気持ちが、本当に嬉しいです。
 
 
さて、こんな話をさせてもらひました。
 
Aといふ道と、Bといふ道が、ある。
 
Aといふ道は、精一杯、全力で言語造形の舞台に立つことで、自己実現を目指す。それまでの自分自身のあり方から、一皮も二皮も脱皮して、新しい自分自身を発見することを目指す道です。一生懸命やつた自分自身を自分自身で認めてあげること、それを学ぶ道です。
 
Bといふ道は、自己実現といふものは、結果としておのづと生じるものであり、むしろ、ことばに仕えること、ことばの精神により深く入つて行くことを目指す道です。芸術としての精度を深めていく道ですので、終わりはありません。しかし、その道は、利点があつて、その人その人には様々な個性がありますが、この道を歩んで行くうちに、おのづとエゴが抜け落ちていく道でもあります。さうして、自分たちの行為を通して、世にたいせつな何かを訴えていきます。
 
Aといふ道も、Bといふ道も、つまるところ、重なつていくのですが、しかし、人によつては、その微妙な違ひが、やがて大きな違ひになつてゆくのだけれども、皆さんは、これからも言語造形を通してお芝居を創つていく上で、どちらを選びますか。どちらを選んでも自由なのです、といふことをお話ししました。
 
 
「ことばの泉」のメンバーが早速、今日のことを記事に上げてくれました。ここに転載させてもらひます。

 
ーーーーーーーーーーーーーー 
 
ことばの泉、生誕劇打ち上げ兼新年会。
 
昨年は本当に演劇を通して、濃い時間を過ごしました。
 
今日来れないメンバーもいましたが、前日にシェアリングし、今後のことばの泉の理念も話し合いました。
 
昨年の生誕劇への取り組みが私たちにもたらしたものは、とても大きかった。
 
今やっと、親子えんげき塾ことばの泉が本当の意味で始まります。
 
今年の活動もとても楽しみです。
 
諏訪先生とともに、ことばの世界、ことばの力を身をもって体験したいと思います。
 
 
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2019年01月12日

第六回『古事記のまつり』朗唱大会に参加して参りました!


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第六回『古事記のまつり』朗唱大会に参加して参りました!
 
お世話をして下さつた裏方の皆様、本当にありがたうございました。
 
能舞台の上で、晴々と、『天地(あめつち)の初發(はじめ)』のくだりを朗唱させていただきました。
 
夫婦だけで舞台に立つといふのも、おそらくわたしたちだけだつたと思ひます(笑)。どうぞ、写真をご(苦)笑覧下さい。
 
また、鹿たちとたわむれながら、会場周りの奈良公園でのんびりと一日を過ごすことができました。

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しかし、『古事記』といふ書が、これほどまでに多くの人々に愛されてゐるとは・・・。たくさんの方々が出演され、また観客として足を運ばれてゐました。
 
千三百年前に記された書を、後代の人が千三百年後にもリアルに感じ得るために、いま、わたしたちは何をしていくことができるだらう。
 
『古事記』とは、わたしが思ふに、日本といふ国を支え続けてゐる最高の芸術作品です。
 
子どもにも、歯が生え変はるころから、『古事記』の原文を頭で理解させようとせずに、難しいことばのままで暗唱させ、どんどん体当たりで感覚していくことへと導いていくことを、わたしはお勧めします。
 
固有の文化を子どもたちに伝へていくこと、それは、ことばでは言ひにくい、微妙で繊細、かつ高度なものですが、生きていく上で何ともありがたい作用を、必ずや人生の途上で密やかにその人にもたらします。
 
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2019年01月10日

舞台『 をとめ と つるぎ (仮第)』出演者募集のお知らせ


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「ことばの家 諏訪」では、2020年春、大阪にて公演予定の言語造形舞台『 をとめ と つるぎ (仮第)』の出演者を募集してゐます。
 
この作品は、我が国の古代、倭武命(日本武尊)から、朝鮮半島への遠征に乗り出す息長帯比賣命(神功皇后)に至るまでの歴史を、主に口承文学「古事記」を基にして描いた物語です。
 
上演会場は能楽堂にて、上演時間は、おそらく、1時間半から2時間近くになりさうな作品です。

配役は、以下の通りです。
 
倭姫命
童女
倭建命(日本武尊)
帯中日子天皇(仲哀天皇)
息長帯比賣命(神功皇后)
武内宿禰
 
我が国の歴史が、神と人との分離によつて促された経緯を描いてゐます。
 
その目には見えない領域を、ことばの芸術として鮮烈に描くことができたらと希つてゐます。
 
舞台を共に創つていくために、言語造形を学んでいただきながら月に二回から三回の稽古を予定してゐます。
 
詳細はこれから決めて行くのですが、ご関心のあられる方、どうぞ、御連絡を下さい。

「ことばの家 諏訪」https://kotobanoie.net/access/
 
こころよりお待ちしてゐます。


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2019年01月06日

光の矢 〜往馬大社を訪ねて〜


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大阪と奈良の県境にある生駒山の東の麓に鎮座されてゐる往馬(いこま)大社。
 
そこは、夫婦神、伊古麻都比古神(いこまつひこのかみ)と伊古麻都比賣神(いこまつひめのかみ)がお祀りされてゐます。
 
生駒山を御神体に生駒谷十七郷の氏神としてお祀りされてゐますが、毎年秋に火祭りが行なはれてゐることから火の神としてもお鎮まりになつていらつしやるやうです。
 
火の神といふことは、日の神、陽の神であります。
 
その往馬(いこま)大社に差し込む陽の光の矢。
 
樹木を火で燃やすことから生まれる煙、それは陽の光の対極にあるものですが、それゆゑに、その煙の中を貫く陽の光が明瞭に空間に顕れてゐます。
 
それは天から射放たれた矢。
 
それは、稲を稔らせ、人のこころと生命を賦活させます。
 
そして、古くは、海人族が日の神を招ぎ迎える神事の具が、弓矢だつたさうです。
 
そのなにゆゑかが、前住吉大社宮司の真弓常忠氏の幾冊もの著作にて考察されてゐます。
 
1月13日のお弓はじめと云はれてゐる住吉大社の御結鎮神事(みけちしんじ)との関はりも気になつてゐます。
 
それらのことがらが、日本の精神の世でとても複雑に絡みあつてゐるやうです。
 
そこから、なぜ、往馬大社に、気長足比賣尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)、足仲津比古尊(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)、譽田別尊(ほむだわけのみこと・応神天皇)等の方々がお祀りされてゐるのかも、より深い見地から見いだされていくかもしれません。
 
神社に今も伝はつて残されてゐる神事、祭事を訪ねる。
 
そして、長い長い皇室の伝統を身をもつて顧みる。
 
さらに、それらをその精神の躍動するままにことばの芸術として記してゐる古典文学。
 
それらを少しずつでも体験、精査していくことで、日本の精神を芸術的に探求しつつ、この時代を活き活きと生きて行くことへと繋がるならば・・・。
 
そんな希ひをもつてゐます。

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2019年01月02日

文化の継承 〜住吉大社への初詣にて〜


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次女と一緒に住吉大社に初詣に出かけました。(長女はすでに友達とお参りを済ませてゐました😊)
 
わたしたちは地元の者でもありますので、人があまり来ないやうな場所を通りながら、お参りを何とか済ませることができたのですが、それにしても、物凄い人出の多さでした。
 
次女が引いたおみくじに載せられてゐた和歌。
 
難波江(なにはえ)の空にやどれる月を見て
またすみのぼる我が心かな
藤原敦頼(ふじはらのあつより)

 
本当に素敵な歌です。
 
調べてみますと、この歌人・藤原敦頼は平安末期の歌人で、歌を詠むこころ、あまりにも篤く、毎月、和歌の神・住吉大社に「我によき歌を授けたまへ」とお参りを欠かさなかつた方ださうです。
 
また、藤原俊成が彼の歌を十八首選んで和歌集に選録したその夜、夢にすでに亡くなつてゐた敦頼が出て来て、涙を流して喜んでをられるのを見て、二首追加して二十首選録したといふことです。
 
そのやうな、歌にいのちを捧げたやうな古き人の歌。
 
大吉のおみくじと共にその歌と歌人の精神が一千年後の日本人に伝へられていくこと。
 
それは、ひとつの文化の継承のかたちでせうし、我が国の昔ながらの素晴らしい国語教育、歴史教育のありかたでせう。

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2018年12月31日

ことばの家 諏訪 平成三十年(2018年) 言語造形舞台活動


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7月7日『名人伝』

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10月8日『舟』

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もうすぐ平成三十年も暮れようとしてゐます。
 
お世話になつた方々、本当にありがたうございました。
 
この一年、わたしたち「ことばの家 諏訪」も、言語造形といふことばの芸術を通して、様々な活動をいたして参りました。
 
これまでのクラスや企業研修に加へて、新しい言語造形クラスとして、3月から諏訪千晴による「やまとことはを味わうクラス」、4月より三重の桔梗が丘にて「ゆいの家クラス」、和歌山の岩出にて「親子えんげき塾『ことばの泉』」、9月から兵庫の姫路の城見が丘保育園にて「むかしむかしの物語り」を毎月始めさせてもらふことができました。
 
そして、舞台活動として、4月29日に『古事記の精神』、7月7日に『名人伝』、10月8日に『舟』、11月30日に『山月記』、12月25日『キリスト生誕劇』を開催いたしました。
 
言語造形といふ芸術が、この日本の地に根付いていくやう、わたしたちはひたすらにこの仕事を続けていくことだけを考へてゐます。
 
とりわけ、舞台作品を倦まず弛まず創り続けていくことが、なによりたいせつなことなのです。
 
それは、まぎれもない、わたしたち自身による創造行為であり、さらに言へば、ぎりぎりの生命の燃焼行為であるからなのです。
 
このいのちを燃やし、使ひ切ることこそが、この世に生まれて来て、なすべきことだと念ひ至つてゐます。
 
そして、この行為こそが、本当の意味で社会的な行為であり、時代を繋いでいく歴史的・伝統的行為でありうると確信してゐます。
 
 
来たる新しい年、わたしは、そのやうな、言語造形への志をもつて舞台に立つてゆく人を求めてゐます。
 
そのための五年間に亘る、日々の学びの場を用意してゐます。
 
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/
 
ことばの芸術「言語造形」への、まこと若々しい参加を求めてゐます。
 

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11月30日『山月記』

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12月25日『キリスト生誕劇』

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12月25日『キリスト生誕劇』山本美紀子さん撮影


 

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平成最後の大晦日に


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歩みゆく 道ははるけき 遠けきに
くやしからまし 我が身のつたなさ


変はりゆく この世人の世 我が世さへ
ただ変はらぬは 星のさだめよ


ことだまは 神のことばか いなづまか
ともに入りなむ 果てなきその世
 
 
 

平成三十年(2018年)、本当にたくさんの人にお世話になりました。

こころからお礼を申し上げます。

また、来たる新しき年も、なにとぞ、どうぞ、よろしくお願ひ申し上げます。
 
新しき御代(みよ)、新しき海へと、友と伴に船を漕ぎ出でます。


諏訪耕志

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2018年12月29日

和歌山 生誕劇 ありがたうございました


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親子えんげき塾 ことばの泉による今年の『キリスト生誕劇』への取り組みの何が素晴らしかつたか。
 
それは、出演する本人たちが、すべて自分たちで上演を企画し、周りの人たちへの告知を積極的にし、自主的に練習を重ね、細かい準備を自分たちですべてした上で、舞台に上るといふことでした。
 
上演時間、ほぼ二時間の間、ずつと歌ひ、叫び、踊り、汗を流しながら、全身全霊でする舞台です。
 
そして、「世のことば」キリスト・イエスをお迎えする、いとも、いとも、厳粛な場面が真ん中に置かれてある舞台です。
 
それも、出演者すべてが、皆、(ひとりの中学生を除いて)子育て真つ最中の母親たちでした。
 
その積極性、その情熱、その周到さ、それらが、人が何かを世になしていく上で、どれほど大事なことか。
 
そして、その女性たちを陰で応援してゐる男性の方々、夫君やお父様、お母様、子どもたち、ご家族の皆さんの存在。
 
その方々の暖かな思ひが、どれほど、かういつた試みを支えてくれてゐるか。
 
出演者のおひとりが、「劇を上演するに当たつて、親たちが観に来てくれる、それがわたしからの親孝行になることがとても嬉しい」と仰つてゐました。
 
この演劇行為が、そのやうな、身近かなご家族とのひそやかな交流を産み出したのならば、これほど嬉しいことはありません。
 
来て下さつた皆様、応援して下さつたご家族の皆様、そして九か月間この劇にこころから献身されつつ、共に劇創りに取り組んだ仲間のみんな、本当にありがたうございました。
 
「あなたがたは、本当に、大事なものを、捧げて下さいました」(ヨゼフの台詞より)

上演前、仲間と輪を組んで黙祷してからの開演。
 
共に劇を創つた仲間と、そして、観に来て下さつた方々と、どのやうな内的な関係を創ることができただらう。
 
年の終わりに、想ひは深まります。
 
 
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2018年12月24日

重荷も苦しみも解かれるであらう 〜明日、キリスト生誕劇〜


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「重荷も苦しみも解かれるであらう」
 
明日のキリスト生誕劇で叫ばれるセリフです。
 
去年に引き続き、今年も、同じ生誕劇を引き続き演じつづけることの、深い意義を感じてゐます。
 
それは、違ふ演者によつて演じられるのにも関わらず、去年から更なる「ことばの内実化」が生じてゐることです。
 
それらのことばが、外側の貧しさや困苦を述べる以上に、現代のわたしたちにとつてよりリアリティーを感じる、こころの貧しさ、こころの困苦を伝へることばとして響き始めてゐるといふことなのです。
 
また、役それぞれの人物造形の彫りがより深くなつてゐるやうです。
 
それは、図つてしてゐることではなく、劇自体が成長してゐるといふことだと感じてゐます。
 
明日、聖き夜の劇を、皆さんと共にできること、この上ない喜びです。
 
どうもありがたうございます。

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●出演
 
石橋香代美・林真紀子・高瀬陽子・杉浦綾・
斉藤理美・諏訪かさね・諏訪千晴・諏訪耕志・
高垣さおり(バイオリン演奏)
 
足利智子(歌唱指導)
諏訪耕志(演出)
 

■ 会場 
 
大阪市立阿倍野区民センター 小ホール
https://abeno-cc.net/facilities/access_map
 
大阪メトロ谷町線「阿倍野」駅E号出口から西へ50m
阪堺電車上町線「阿倍野」駅から南へ180m
大阪メトロ御堂筋線・JR「天王寺」駅、
近鉄南大阪線「あべの橋」駅から南へ800m
 

■ 入場  
大人 3000円 (当日 3500円)
子ども (4〜18歳)  無料


ご予約はお電話、FAX、Emailにて承ります。

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2018年12月23日

大君の みむねのふるえ




今日、12月23日は、今上陛下としての最後の御生誕記念日。その御会見を拝見する。 
 
先の大戦のとき、多くの若者が命を投げ出して国を守り、それ以来七十年以上の間、この国が戦禍に巻き込まれなかつたこと。
 
天災時に多くの国民の精神が崩れず、己れを顧みることなく他者のことを気にかける人たちがたくさんゐたこと。
 
一国民であられた美智子様が妃殿下となられ、六十年の間、天皇ご自身にだけでなく、先の昭和天皇、すべての国民にこころをこめて尽くしてくれたこと。
 
これらのことをお語りになるとき、そのお声は震えてをられた。
 
このやうに真摯で誠実な君主をいただいてゐる国があらうか。
 
これらすべてのことばの向かう側に、どれほどの複雑な国際関係のやりとりと歴史の重みが横たわつてゐることだらう。
 
公けにするべきことばのみ、ことばにされ、一切、さかしい言挙げはなされぬ。
 
お静かで、毅然とされつつ、親しみ深く、慈しみに満ちたおこころが顕れてゐるそのお姿を見て、粛然とする。
 
 
大君の みむねのふるえ ともにする
みたみわれなり 月も満ちたり

 
 

 
 

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2018年12月22日

天啓けむ

本当に久しぶりにこころを立ち止まらせて、静かに考へる時間を持つことができた。書く時の遅さで、食ひ入るやうに本を読む。
 
 
冬至り 闇夜の底に 我も見し
天(あめ)啓けむ 稲妻のごとし


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