2021年05月30日

和歌山発表会「外郎売」 〜感官の養ひ〜






昨日の発表会での「外郎売」、聴いてゐた子どもたち、全く、うけてゐません(笑)。しかし、おじさんは、めげません。


きつと、部屋中、一杯に、ことばが満ち溢れてゐた「感覚」を持つて帰つてくれたのではないか、と密かに期してゐます!


十二の感官のうちの「ことばの感官」「〈わたし〉の感官」の養ひに少しでもなれたら、と思ふのです。


そして、何より、昨今の欝々とした世間の空気を、健やかな息遣ひで、吹き飛ばすことができれば・・・!


2021年05月29日

ありがたうございました 和歌山岩出クラス 第一回言語造形発表会 



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今回の発表会における、わたしたちの目当ては、「捧げる」といふことでした。


天からいただいてゐる光を、この地に集ふ子どもたち、大人たちに、捧げることに徹することでした。


本当に、善きときを織りなすことができたと、いま、感謝してゐます。


ひとつひとつの発表会、舞台が、アントロポゾフィーからの仕事なのです。


発表に挑んでくれたおふたり、そしてシンギング・リンの深い音色を奏でてくれた有本さん、本当にありがたう・・・😇


演目:
外郎売
青いスミレ
宮澤賢治「なめとこ山の熊」

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2021年05月28日

長い時をかける(普遍人間学レポート)



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ゴッホ「道、ひのきと星」



再び、『普遍人間学』のオンラインクラスで学んでをられる方のレポートをご紹介します。


かけるべき時間ならば、かけるといふこと。


そして、眠りつつ夢見ることから、目覚めの意識へ。


この、わたし自身、みづからの目覚めのために、35年ほどの時をかけてしまつてゐます・・・。


本当に、わたしが〈わたし〉であることに「目覚める」のには、一生涯かかつても、おかしくないのではないかと思つてゐます。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



普遍人間学第七講  n.k.さん


シュタイナー を学びはじめて何年にもなる。何か本質的なことがあるのを感じつつどこから取りついても心からわかった気がしなかった。


最近の学びで、欲する、感じる、考えるということを分けて考えるという意味が少しわかってきた気がする。


まず、今まで日々起こる出来事、家族の問題、友人関係、社会的出来事、そのほか身の回りにうつされる良いこと悪いこと全て、自分の問題とは考えて来なかった。他の誰かが悪い、または素晴らしい。そして、自分を出す時は他人のことは考えず、わがままに振る舞う。たまに、うまくいかないことがあったりして、自分の問題だと気づいた時は、自分を責め否定し、私はダメな人間なのだとおとしめて、閉じこもってしまう。


何年も生きてきて、シュタイナー 学んでなんになる。


全て私の中にある。この私を知り、良いところもダメなところも愛してあげよう。最大の欲が愛されたいという欲だということだ。神様から愛されていると信じよう。


そして、まず、自分を愛そう。


今回、言われた敬いの細道を進もうとするとそれができていない自分に気がつく。そして、反対の感情がうようよあることに気がつく。さげすみ、嫉妬、怒り…。それを認めてあげる。見て留める…。あることに気づいてあげるだけでいい。私は良い人でそんな低い情はない!と良い人ぶって生きてきた。


私はシュタイナー を学びはじめた頃、理想ばかり書いてある…。わたしにはできない。と思った。でもその理想に頭で憧れた。でも、ここまできてやっとそんな自分を認めればいいということが書いてあることを知った。何を読んでいたのでしょう。カチカチの頭人間から心が動き出したのかも…。


また、幼い頃にしっかりと息を吐き、欲と情を生きる。出来るだけ目覚めさせず世界を信頼できる環境においてあげる。幼い頃の育て方の大切さを感じる。


歳を経て、多くの痛みを伴う体験を通し情のある考えができるようになる。目覚めるためには多くの痛みを伴うということだが、それを気づきや目覚めのきっかけにすることができるよう仕組まれているのかもしれない。


精神は血液、筋肉の中では生きようとしているので眠り、夢見ているが、骨、神経は死んでいるのでそこで目覚めることができる。精神はそこで生きることができる。精神の世界から真理が閃いてくる。老人になって精神の世界を生きるとはどういうことだろうか?肉体が弱るため、できないことも増える。自分も、他者も許せるようになっていく。多くの欲を情をを通して温かい考えにして生きていけるようになりたい。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾




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2021年05月27日

「シュタイナー教育における歴史授業と語り口 」普遍人間学から






人類のこころざしとは、何だらう。我が民族の悲願とは、何だらう。


精神におけるその視点から、子どもたちに、勇気を持つて歴史を語ること。


客観性を織り込みつつ、勇気を持つて歴史といふ人であることの悲願がいかなるかを、我が主観を育て上げながら語ること。


その時の語り口。


第二・七年期から第三・七年期の子どもたちのこころの情を、さらには判断する力を育むべく、わたしたちは、歴史を語り継ぐ必要があるのでは・・・。





ズームを使つたオンラインクラスを月に二回、行つてゐます。

●月二回 『普遍人間学』金曜夜クラス 7時半〜9時半

●月二回 『普遍人間学』土曜朝クラス 10時〜12時

●参加費    初回体験参加 3500円、 3回連続 9000円  

連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。   
またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。   なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    

●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

.お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を用いてゐます。可能ならば、講座の前にでも、あとにでも、ご自身で読んでいただくことで、学びの主体性も高まりますので、ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌 しかし、本がなくても、講義をまづは聴くことから始められても、全く大丈夫ですよ。本をお求めの際は、「ことばの家 諏訪」にご連絡ください。  

ありがたうございます。   

●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/






自由への三つの密めやかな次第



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セザンヌ「果物鉢とコップとりんご」



人は、自分の外に広がる世界にはよく目を注ぎます。


しかし、こころといふ、内なるところに広がる世界に目を注ぐことには、あまり慣れてゐないのではないでせうか。


こころ(ドイツ語ではSeele)が、湖(See)だとしますと、その水面に浮かび上がつて来た様々な感情や考へ、それらはなぜ浮かび上がつて来たのでせう。


それらは、きつと、どこかから風がこちらに向かつて吹いて来るやうに、外の世界に何らかの出来事が起こつたり、他者の言動をきつかけに、こころが揺さぶられて、浮かび上がつてきたものですね。


それらは、湖の底に沈められてゐたものが、運命(仕合はせ)といふ風に吹かれ、湖の水まるごとが揺さぶられることによつて、沈殿物が湖水の面に浮かび上がつて来た、といふことでせう。


これまでの人生の中で経験せざるをえなかつた傷や痛みからの、自分自身では認めたくない自分自身の情が、そのつど繰り返し浮かび上がつて来ます。


その浮かび上がつて来たものを、いまこそ、ひとつひとつ丁寧に汲みとつてあげること。


それが、人の成長にとつて、とてもたいせつなことだと強く思ひます。


どのやうな、はき違へられた考へも、不健康な情も、抑えつけたり、排除したりせず、あるがままの客として、すべて、丁寧に汲みとつて、迎へて、響かせて、送る。


そんなとき、人は、客と一体化してゐない、ひとりの主(あるじ)です。


その内なる行為は、「光の息遣ひ」を通して、こころといふ湖水を浄めていく、非常に地道な作業です。


さうして人はゆつくりと、みづからのこころに精神の光を当てて行くことで、みづからを総べ、律していくことを学ぶことができます。


他者を責めず、世を批判せず、ただただ、誠実さと親身なこころもちに、みづからを委ねて仕事に邁進することができる。


自分の好みや性向、お馴染みの考へ方、感じ方を、できうるかぎり洗ひ流し、そのつどその場で新しく精神を迎へ入れ、流れ込ませる生き方、これが一つ目の次第、「自律」です。ここからすべては始まります。


さらに人は、暮らしの中で、仕事を通して、みづからのこころにだけでなく、みづからのからだにも精神の光を当てて行く。からだにまで光を当てて行くのです。


このとき、すべての人の行為、仕事は、芸術行為です。死んだものに精神のいのちを吹き込み、甦らせる、すべての行為が芸術です。絵を描くことや音楽を奏でることだけでなく、お料理も、お掃除も、お散歩も、すべての行為が、そもそも芸術行為です。


これもひとつの修業です。倦まず弛まず練習をつづけることで、人はみづからの足で、立つことができるやうになりゆきます。これが二つ目の次第、「自立」です。 


そして、人は、そのつど、そのつど、世に精神の光を当てて行くこと、みづからのこころやからだにだけでなく、世のものごとに光を当てて行くことを学びゆきます。


社会の中で自分はそもそも精神なのだといふこと、精神みづからであるといふことを見通すことができるやうになり、そこからこそ、ひとりひとりの他者、ひとつひとつのものごとをふさはしく立てることができるやうになります。これが三つ目の次第、「見識」です。


この自由へといたる三つの次第、「自律」「自立」「見識」は、ルードルフ・シュタイナーの『自由を考える』第三章、「世をつかむに仕える考える」に、詳しく述べられてゐます。


「ことばの家」では、これから、「光の息遣ひ」を通して、この一つ目の次第に習ひ、生活の中で習慣にしてゆく、そして、だんだんと、第二、第三の次第へと、そんな稽古の場をもつていきます。


こころざしを持つ方よ、共に、精神の「みすまるの珠」を繋いでいきませう。





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2021年05月26日

子安美知子さんのこと・・・文学部門



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ここのところ、4年前の夏にお亡くなりになられた子安美知子さんのことを、なぜか、よく想ひ起こすのです。


彼女は、わたしの師・鈴木一博さんの師であられる方ですので、わたしは孫弟子といふことになるのでせうか。


とても、知的で、意識的でありつつ、情の豊かさと細やかさを湛え、あくまでも、理想といふものへの情熱を育て続けた方だといふ印象が強く、強く、残つてゐます。


27〜28年前に毎日通つてゐたルドルフ・シュタイナーハウスや、また、15年ほど前に大阪南港で行はれたシュタイナー教育展や、数年前の日本語での神秘劇上演の際の東京での稽古で、よくお会ひし、お話させてもらつたことを想ひ起こします。


そして、多摩川べりにある彼女のご自宅のお部屋の中の書籍の整理をお手伝ひさせてもらつたこともありました。


しかし、何より、わたくしどもがした言語造形の舞台、樋口一葉の「わかれ道」「十三夜」、木下順二の「夕鶴」にゐらして下さり、わたしが言ふのも何ですが、とても、とても、喜んで下さつたことが、忘れられません。


それは、彼女が、アントロポゾフィーの芸術的な繰りなしを、こころから、希つてゐたからだと思ひます。


特に、文学がご専門だつた彼女にとつて、日本語によるアントロポゾフィーの芸術として、言語造形といふ舞台芸術におこころを寄せて下さつてゐたのでせう。


『月刊アントロポゾフィー』(日本アントロポゾフィー協会発行)に21年前に連載されてゐた子安さんによる『「文学」に見る意識変遷の歩み』が、わたしの手元に残つてゐます。


その連載では、ルードルフ・シュタイナーによる、文学者と文学作品への精神科学からの見識を基にして、彼女はみづからの力で、ホメロスからヨーロッパ文学史を掘り下げ始められ、我が国の明治文学にいたるまで、健筆を振るはれました。


ここ数日、わたしは、その連載を二十年ぶりに再読し始めました。


わたしは、こころざしを持つ人と協力し合ひ、アントロポゾフィーから世に働きかけるべく、アントロポゾフィーハウスと銘打つて、仕事を共同で創りなして行きたい、といふ希みをもつてゐます。


子安さんのその無償の仕事が、わたしたちアントロポゾフィーハウスのこれからの仕事を後押ししてくれてゐるのを感じるのです。


孫弟子の成長を陰ながらでも、喜んで下さつてゐるのではないか、と・・・。師があるといふこと、教への系譜があるといふことは、本当に、本当に、かけがへがなく、ありがたいことです。


シュタイナーによる文学論を基にしながら、アントロポゾフィーの観点から作品を読み直し、互ひに研鑽を重ねつつ、グループを組んで、ことばと人のかかはりを深めて行く、そのやうな文学部門をオンライン上でも立ち上げることはできないかと思案してゐます。


言霊のさきはふ国としての日本文化の中で、日本語による、アントロポゾフィーを深めに深めてゆく。さうして、ひとりひとりがアントロポゾフィーを自分自身のことばで語り、自分自身の仕事として世に働きかけてゆく。


そのことへのこころざしを抱いてゐる方、また、ご連絡をいただければ、幸ひです😌



※写真は、谷崎テトラさんのブログ「テ・ト・ラ・ノ・オ・ト」からお借りしました。

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精神の、芸術の、共同体創り  アントロポゾフィーハウス



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Marina Fernandes 「Calache」



先日、ある質問をされました。


世に一般に行はれてゐる朗読や演劇と、言語造形とは、どう違ふのですか、と。


問ひを出す人の人となりや、その人の求めてゐるもの、その人のインディヴィジュアリティーを感じ取り、見て取りつつで、その人その人によつて返させてもらふ答へは違つて来るのですが、その時は、こんな風にわたしは答へました。


言語造形をしつづけることによつて、人は、精神の生に通じるやうになつてゆきます、と。


密(ひめ)やかなことに通じる人になつてゆきます、と。


このことは、掛け値なしに、さうなのです。アントロポゾフィーがあるからです。


アントロポゾフィーの芸術のこころざしは、二重の仕方で示されます。


エソテリックな(密やかな)深まりとして内へと向かふ道と、精神・靈(ひ)によつて世をなりかはらせるべく外へと向かふ道です。


それは、このアントロポゾフィーハウスの二本の柱、「メディテーションと芸術実践」といふ言ひ方で言ひ表したことでもあります。


つまり、メディテーションの中に芸術実践が息づくのであり、芸術実践の中にメディテーションがむすばれてゆくのです。


その二本の柱の密やかな交錯から、人といふものへの限りない問ひ、世に起こる様々な兆しへの問ひ、高い世にをられる方々への問ひが生まれて来ます。


わたしたちは、いま、物の世に大変な混乱が起こりつつあるのを、目の当たりにしてゐます。


であるからこそ、アントロポゾフィーの芸術のこころざしは、エーテルの境、アストラールの境へと入り込んで行くことになり、さうすることによつて、この世に、精神・靈(ひ)からの生命をもたらさうとするのです。


それは、なべて、人の〈わたし〉を目覚めさせる芸術実践です。


この感官の世と感官を超える世とをむすぶ芸術実践です。


わたくし諏訪耕志の営んでゐる「ことばの家」は、そのためのアトリエで、アントロポゾフィーハウスの活動の、アントロポゾフィー運動の、ひとつの拠点でもあります。


また、これからは、様々な地に、ひとつひとつ、アントロポゾフィーの場を持つて行くことができればと希んでゐます。


これらの場においては、確かな精神・靈(ひ)からの人の育み・方法論が確かに意識化されてゐますので、これからは、そこから、芸術学校が、必ずや、繰りなして行くはずです。


アントロポゾフィーハウスにおいて、わたしたちは、アントロポゾフィーの芸術のこころざしの代表者たりえようとこころざし、勤しんでゐます。


密やかな学びとしての読書とメディテーションによる内への深まり。そして、芸術による精神・靈(ひ)の探求。


わたしたちは、この時代とむすびつきながら、精神の、芸術の、共同体創りを始めてゐます。


こころざしと見識をもつ人と人とが出会へることを、こころから、希つてゐます。




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2021年05月25日

寓話「大いなるくすのきとずる賢い狐」







寓話つて不思議だな、と思ふのです。


説経臭くならずに、どうお話しすればいいのだらう。


シュタイナー教育では、寓話を子どもたちに語るときには、そのお話をする前に、そのお話にふさはしい前説を語り聞かせてあげた上で、そのあとに寓話を語る。


この寓話の場合なら、「大いなるもの」と「ずるく、こざかしいもの」との対比を具体的、具象的に、例を上げて話してあげるといいですね。


そして、この寓話を語り終へたあとは、何も言はず、余韻を子どもたちと分かち合ふことが、聴き手である子どもたちの情を育んでくれます。



※この寓話は、レッシング作の「オークの木」を改作して、語らせてもらひました。





2021年05月24日

学び続ける人(普遍人間学レポート)



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オンラインクラスで、シュタイナーの『普遍人間学』を学び続けてゐる方のレポートをご紹介させてください。


「わたしは、目覚めてゐたい」といふ切なる念ひ。


自分自身が「目覚めてゐない」ことによつて、他者との間にどれほど軋轢をみづから作り出してきてしまつたか・・・。わたし自身痛感してゐます。


「目覚める」ことによつてのみ、自分自身をふさはしく仕立てて行くことができ、世のためにハーモニックに生きて行くことができる。


わたしたちの学びは、みづからの統御をもつて、世に健やかに働きかけて行くことをこころから希ひます。


子どもたちが健やかに育ちゆくことへ、世が弥栄に栄へゆくことへ、少しでも、資すことを希つて仕事をして行きます。



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普遍人間学第七講  y.y.さん



私はこの普遍人間学を勉強し始めてもう6年目になる。


本来勉強が好きではない私がもう5年もこの本について学んでいる。


内容は難解で、いまだにはっきりとは理解できていない。でも、嫌だと思った事は一度もない、月1回の講義が楽しみで仕方がない。


私は一体何を知りたいんだろう?なぜこんなに分からない本を勉強しているのか?いつかわかる日が来るのだろうか?そんな事を考えてみても答えが見つからないし、学び続けていれば、いつかわかるようになるのでは?などと考えていた。


でも、今回この7講の講義を繰り返し、繰り返し聴いているうちに、「私は何かを知りたくて学んでいるのではない。知る事そのものがしたいのではないか」という考えが浮かんできた。『「知る」事は闇の中に光を灯す行為です』と先生は言われた。この言葉を聴いた時、「私は今確かに闇の中にいる」と感じた。


いつも自分の中にある、拭きれない焦燥感、不安感。その為に私はいつも知る事に必死だ。真っ暗な家の中にいて、急いで家中の明かりをつけて回っていくようなそんな感じだったのではないだろうか?でも、つけてもつけても、また暗い部屋が見つかってしまう。その事にまた焦りを覚えてしまう自分がいる。


このまま一生こうして、分からないままいくのだろうか?なぜ満足する事がでないのだろうか?最近そんな事を思い始めていた。そしてこの7講を学んではっとした。


私は知る事ばかりに気を取られて、考える事をしていなかったのではないだろうか?いや、「聴いた」だけで、「知った」と勘違いしていたのだ。


本当の「知る」は「見る」に「考え」を重ね合わせてこそ、得られるもののようだ。私は聴いた事そのことに満足してしまって、そこに考えを重ねる時間を持つ事を怠っていた。だから、いつまでも闇の中に光がさす実感、喜びを得られないで焦っていたのではないだろうか?


知るという事は良く見る、そして立ち止まって、その見たことを良く考えてみることで初めて獲得できるものだったのだ。自分の中にある焦燥感がこの「立ち止まる」という行為をさせないようにしていた。立ち止まることが怖いのだ。


何もしていない時間が怖い。静かにじっとしていられない。時間がもったいないような気がして、ネズミのように動き回っていた。


しかし、何もしていない時の、自分からは何も考えようとしていない時の、真空状態における思慮深さこそ、知に至る道に必要なプロセスであると言う事がわかった。そして私に「知る」事をさせまいとする力が働いている事を知覚した。


だが、その力も私の中にある「闇」の力、言い換えれば、私の一部なのだ。闇も光と同様に認める。私は闇も光も包含してるという事を初めて認める事ができた。


そして今回この7講を学んで、初めて自分の闇を捉える事ができた。闇は闇として存在している時はとてもわかりやすい、今までも悪しき思いに駆られてた時に自分の闇を知覚したことは何度もあった。


でも、本当の闇はそんなわかりやすいあり様はしていない。自分の光の部分であると認識している性質のその裏に巧妙に闇は潜んでいるのだ。少なくとも私の闇は私の中で光のふりをしていた。だから長い間その中をじっくりと見てみる事なく放っておいたのだ。


「私の内を静かに見て、考えてみる」この事によって、今回私は私の内を知る事ができたのではないかと思う。


立ち止まる=停止=怠惰。ではない。立ち止まった時の静けさの中で耳を澄ます事ができた時に叡智を聞く事ができる。


「知る」とはこういう事だったのか、私はもう、立ち止まることを恐れない。むしろ意識して静かに、立ち止まってみようと思う。最も遠回りだと思っていた行為は、知に至る唯一の細道だったのだ。


毎日、私はローソクの灯火を10分間見つめるという日課がある。​


それは、強制的に心静かな時間を取ってみて、自分に何が起こるのか、そもそも心静かな時間など過ごせるのか、一度体験してみたかったのだ。やってみると、案の定、ローソクを前にしてみても心ここにあらず、全く心が静まらない。静まるどころか次から次に出るわ出るわ、 自分でも呆れてしまう程に私は要らぬ事を考えて生きている事に気づく。


その雑念を「見て」「留める」。これを「認める」。良い、悪い。などというジャッジではなく、自分にはこの様に低い側面、卑しい側面、恥ずかい側面があるということを、ただ見て留める事に挑戦している。そして、諏訪先生は「それを敬いなさいと」と言われた。


否定したり、見ぬふりをしたりするのではなく、炙り出された自分の闇を見るのは正直しんどい。でもこの「見て」「留める」事を続けていくと、その闇が無意識から意識の世界に現れて、自分の手の中にあるような気がしてくるから不思議だ。川の中で自由に動き回っていた魚が、釣り上げれて水槽の中にいる様な感じとでもいえばいいのか。。とにかく得体の知れないものから、手にとれるものになっている気がしてくるのだ。


この7講では心の3つの側面「欲する、感じる、考える」に重なるように精神の側面「眠り、夢み、目覚め」という要素が体の血液、神経を通して、欲しつつ眠り、感じつ夢み、考えつつ目覚める事が述べられていた。


心と精神、感情、この得体の形のないもの達が自分の体とどう関わっているのか、それを知っただけでも収穫なのだが、毎日の日課を通して私はある問いを得ている。「欲する、感じる、考える。それぞれに眠り、夢み、目覚めの様な状態がありはしないだろうか?」という事だ。


この「眠り」を「無意識のうちに」、夢みを「当然の様に」、「目覚め」を「意識して」という言葉に言い換えてみる。


例えば、10分間の沈黙中に浮かんでくる考えは、普段は無意識の中に沈んでいる。それは、自分の欲深さ、傲慢さ、稚拙さ、さまざまあるが、普段はそれを知覚していない。いわば、自分の無意識の領域に眠らせている考えだ。次に、今自分は、蝋燭の前に座って、10分間瞑想しよう。というのは日課であるので「当然の様に行ってる。夢みながら考えいる。そして、瞑想をしているとき浮かんでくる想念、雑念を「見て」「留める」作業は、自分を知るためにその闇を認識したいと意識して行っている。この10分で、「考え」が眠り→夢み→目覚めの旅をして意識下に登ってきている様な気がするのだ。


また、「感じる」ついてはどうだろうか?体で感じる、心で感じる。色々あるが、家にいる時、無意識のうち私たちは、安らぎを感じている。また四季の移ろいを当然の事と感じ、日々青々としていく木々を眺めている。そして芸術作品に触れる時などは、意識してその作品が表現しているになにかを感じようとしている。


そして、「欲する」については、 眠りつつはいうまでもなく、私たちが生きていく為にこの体内において無意識のうちに行われている生命を維持する活動、また目の前に出された美味しそうな料理は当然、自分のものであると思う。しかし、今ここにない物、如何しても手に入れたい物、辿り着きたい場所がある場合は、常
にその事を意識して目的達成の為に自分を動かす。これは、目覚めて欲していると言えるのではないだろか?

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私は、今回この7講において、心、精神の3分節を改めて考えてみる事ができた。そして、それは混沌とした自分の内面を捉え整理する事に大いに役に立った。そうして、私は何をしたかったのかも分かるようになってきた。つまり結局私は、目覚めたかったのだ。目覚めて欲し、目覚めて感じ、目覚めて考えていたい。無意識からやってくる感情や考えに翻弄されるのではなく、それらを意識のひかりの中に招き入れ、認めて受け入れた上で、意識的に私はどのように感じ、考え、行動するかを選択していきたいと思っている。それが、目覚めて生きるという事ではないだろうか?



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2021年05月23日

聖き靈(ひ)の降り給ふ日 ことばを語り始める日



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エル・グレコ 聖霊降臨 (Pentecostes)



いまからおほよそ二千年前、キリストがゴルゴダの丘にて十字架に架かつてより、五十日目、今日、この日に、聖き靈(ひ)が弟子たちに炎の舌のすがたして降り給ひ、弟子たちひとりひとりが、精神の、靈(ひ)の、密のことばを、おのおの、異国語で語り出した、と言ひます。


そのとき、きつと、二千年後のわたしたちにも届くやうに、炎のやうな日本語にても、語られたはずです。


わたしたちは、もはや、民のかたわれとしてのみづからを感じるのではなく、わたしひとりからこそ、民の精神がもつこころざしと悲願を知らうとし、理想を創らうとする者であります。


今日といふ日は、そのための炎を授かり、「ことば」を語り始める日です。


離れた地にゐるわたしたちも、共に、この聖き靈(ひ)の降り給ふ日をおのおの祝ひ合ひ、自分自身で祭りを創りませんか。




posted by koji at 09:47 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第8週)〜聖き霊(ひ)が降り給ふ日々〜



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ギュスターブ・ドレ「ペンテコステ」



感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
 
 
Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、
「考へる」としてゐます。
denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、
その活き活きとした働きを殺さないやう、
名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
 
 

 
感官の力(見る力や聴く力など)が、ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。たとへば、テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる、さらには、あへて、見呆けてみることで、周りといふ周りを広やかに意識を広げてみる、周りの気配まるごとを感覚してみる・・・。
 
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、見てみる、聴いてみる。
 
 
見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。


なぜ、飽かぬのだらうか。それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立つて、愛するがあるからだ・・・。
 
 
そのとき、そのときの、「愛する」から、からだの大いさ、からだを使ふことの大事さが披かれる。
 
 
その時のこころのありやうは、むしろ、「考へるは、夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる」と表現することがぴつたりとする。
 
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのやうに感じるだらう。
 
 
この週は、聖霊降臨祭の週でもある。
 
 
約二千年前、十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、その後四十日間に渡つて、キリストは精神のからだをもつて現はれ、当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
 
しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
 
その十日の間、弟子たちは「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」いた。
 
 
ひとところに集まつて、静かに熱く、しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
 
そして、聖霊降臨の日、それは聖霊(聖き精神)が、ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、弟子たちがさまざまな言語をもつて(ひとりひとりがおのおの自分のことばで)、そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だつた。
 
 
前週において、「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考へる力に代はつて」とみづからの精神に呼びかけた。
 
 
その「予感」への呼びかけとは、こざかしく考へることを止めて、より大いなるものからの流れ(世の考へ・キリストのことば)に耳を傾けるといふ行為だつた。
 
 
それは、「静かに慎む」「傾聴する」ありやうをもつて、みづからを浄めつつ待つといふ行為でもある。
 
 
二千年後のわたしたちは、考へる力が失はれてくるこの季節においても、そのやうな備へをしようとアクティブにみづからをもつていくならば、「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖霊降臨祭を、自分たちのいまゐる場所で、きつと打ち樹てていくことができる。
 
 
「すべては神々の創り給ふものである」「神々しいものとこころがひとつになる」といつたことを読んだり、言つたりするにとどまらず、予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。
 
 
教育であれ、芸術であれ、そこにこそ、アントロポゾフィーの社会性が育つていく基盤があるのではないだらうか。
 
 
 
 

感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。


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2021年05月22日

『 人であること 自由になりゆくこと 』普遍人間学 アントロポゾフィークラス・オンライン






アントロポゾフィーとは、「人であることの意識」です。


その意識は、「眠つてゐる」「夢見てゐる」「目覚めてゐる」といふ三重のありやうをしてゐます。


「人であること」は、とりわけ、「目覚めてゐる」意識のありやうに懸かつてゐます。


「目覚め」。


その精神のありやうが、自由へのパスポートであり、わたしが、わたしである、ひとつの証です。


人は、まごころからことばを語るとき、その「人であることの意識」をフル回転させてゐるはずです。






2021年05月21日

いまも飢ゑてゐる



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ザンジバルの家を訪ねて来た友人が持つてきた日本の雑誌を貪るやうに読んでゐる俺。



思ひ出すのですが、自分が27歳のとき、アフリカの各地をまる一年、転々としたあげく、インド洋に浮かぶザンジバル島で二ヶ月、独り暮らしをしたことがありました。


周りはスワヒリ語のみの毎日だつたのですが、そのとき、仮住まひをした一軒家に、なぜか、福沢諭吉の『文明論之概略』の文庫本が一冊置き去りになつてゐたのです。


以前に住んでゐた日本人が置いて行つたのでせう。


わたしは、とても、とても、日本語に飢ゑてゐましたから、その一冊を貪るやうに読みました。


そのときの感銘はとても衝撃的で、重層的で、わたしの何かを深く果てしなく満たしてくれたのでした。月並みな言ひ方ですが、乾いた喉に清水が流れ込むやうな感覚を覚え続けました。


あの、ザンジバル島での「福沢諭吉」読書体験が、日本語で生きていく上でのわたしにとつて決定的なものだつたと想ひ起こします。


そんな内なるアクティビティーを発動させるきつかけを与へてくれた若いころの旅。アフリカで、インド洋に浮かぶ島の上で、福沢諭吉といふのも、変な話ですが、仕合はせ(運命)を感じます。





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こころの原風景・・・昔話「山の神と乙姫さん」






眠りの世である、竜宮界。


夢見る世である、月見が浜。


目覚めの世である、山の森。


この昔話は、そのやうなこころの原風景、意識の昇り下りを見事に描いてゐます。

2021年05月20日

救ひ



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秋の舞台公演に向かつて、また、作品の一語一語、一文一文、一頁一頁、大声で叫びながら憶え込んでゆく。


さうすることで、こころのしみつたれた情などは、吹き飛んでゆきます。


ああ、芸術が、この世にあつてくれることは、なんて、なんて、ありがたいことなんだらう。


「明日、世が滅びるとしても、わたしは、りんごの木の種を植ゑます」といつた人のこころもちが、少し分かるやうな気がするのです。


何かを創ること、芸術創造に取り組むことを通して、精神の世から光と熱と力をいただかないことには、わたしはやつていくことができないと感じます。


人の別の名前を「芸術」と言つてもいいのではないかと思ひます。


この世に何かを産み出すこと、それは、〈わたし〉を産み出すことであり、〈わたし〉を知ることです。


その〈わたし〉は、高い自然です。


その〈わたし〉は、この世のあとにも、引き続きます。





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2021年05月19日

そもそも、何を求めてゐた?



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天の香久山にいたる道にて



未来のことをあれこれ心配することは、実は、エゴイズムに他ならないのだと教へてくれたのは、ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』でした。


そのエゴイズムから抜け出るために、わたしたちは、行く末のことを思ひ患ふのではなく、来し方、過去、生まれる前のことを想ひ起こすことがたいせつだよと教へるのでした。


「これから先、一体、どうなるんだ」「どうすればいいんだ」といふ方向に頭を働かせない。


さうではなく、「わたしは、そもそも、何を求めて、この世に生まれて来たんだつけ」「本当は何をしたかつたんだつけ」「どんな人になりたかつたんだつけ」と問ひ、考へ、想ひ起こす。


その考へ方が、こころの情を、冷たく、固く、閉じたありやうから、暖かく、柔らかく、開かれたありやうへと、だんだんとなり変はらせます。


この世に生まれて来る前に、〈わたし〉は、すでに、あつた。


そんな精神からの視点・観点・考察点を活き活きと取り戻す営み。


それが、アントロポゾフィーの営みです。



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2021年05月16日

「しづかさ」といふ四つの音韻



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いま、自然は、神々しい輝きを存分にわたしたちに披いてくれてゐます。


神々しい晴れやかさに満ちてゐます。


そして、自分自身の内に神々しさ、晴れやかさを見いだしてゐる人こそが、そんな外の世の神々しさ、晴れやかさに目を注ぐことができるのですね。


「しづかさ」といふ四つの音韻からなることば。


わたしにとつて、この四つの音韻が、内に神々しさ、晴れやかさを呼び戻してくれます。


こころの内で、しづかに、ていねいに、唱へると、そのことばの音韻の精神、靈(ひ)の働きがはじまります。


いま、人と人との間の調和を乱さうとする、目には見えない悪しき働きかけが盛んになされてゐるのを身近に感じてゐます。


ひとりひとりの人に、その力が忍び込み、その人のからだとこころから健やかさを奪ひ取らうとしてゐるのを感じてゐます。


そのやうな、いまだからこそ、まづは、わたしからこそ、こころの内に、「しづかさ」からはじまる神々しさ、晴れやかさを見いだして行きたく念ひます。


ことばの精神、ことばの靈(ひ)、言霊によつて、内に深まり、情が耕されてゆきます。


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※写真は、靭公園のバラ

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2021年05月15日

こころのこよみ(第7週)〜さあ、来たれ、わたしの予感よ〜



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わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。
 
     
    
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
  
 

人は、芸術に取り組むとき、ある種の息吹きを受ける。
 
 
シュタイナーは、そのやうな、芸術をする人に大いなる世から吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、春から夏の間に芸術行為をもつて解き放たうとしてゐる。
 
 
秋から冬の間、「わたしのわたしたるところ」「考へる力」はそのインスピレーションを孕むことができたのだ。
 
 
その「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が、変容して、春から夏の間のこの時期、意欲の力として、からだを通して息が吐かれるやうに、大いなる世へと拡がつていかうとしてゐる。
 
 
「わたしのわたしたるところ、それはいまにも離れ去らうとしてゐる」
 
 
その精神の吐く息に連れられて、芸術行為を通して「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、外の世に拡がつてゆく。働きかけてゆく。
 
 
芸術をするとは、頭で考へることを止めて、みづから頭が空つぽになるまで手足を働かせることである。
 
 
それは、世の光に引き寄せられることであり、自分のからだの外にこころが出て行くことである。
 
 
「世の光に強く引き寄せられて」
 
 
さうして、外へと出て行くほどに、光の贈りものをいただける。 
 
 
その光の贈りものとは、「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 考へる力に代はつて」
 
 
芸術とは、インスピレーションといふ世の風に吹き込まれつつ、予感といふ世の光に従ふことである。
 
 
練習を通して初めてやつてくる予感に沿つていくことである。練習とは、身を使ふことである。
 
 
秋から冬、インスピレーションを孕んだ考へる力が、まづは頭から全身に働きかける。
 
 
その精神の息吹きを、春から夏、練習によつて、解き放つていく。
 
 
その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
 
インスピレーションが、胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、息遣ひを通して、芸術として世に供され、供するたびに、芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。
 
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、やがて己れに来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
 
 
それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、アクティビティーにおいては、それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
 
世から流れてくるものを信頼すること。
  
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
 
だから、この季節において、考へる力は、感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、見失はれていいのだ。
 
 
「考へる力は感官の輝きの中で、みづからを見失はうとしてゐる」
 
 
そして、積極的に手足を使つて、息を解き放ち、力を揮つて、感官の輝きの中で、創造に勤しむのだ。
 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。
 

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まるごとで、ひとつ




自由な精神を持つ人は、他者をも自由にする。


残念なことだけれども、不自由な精神を持つ者は、もつともらしいことを言ひながら、他者にも不自由を強いる。


しかし、すべてが、まるごとで、ひとつである。


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2021年05月11日

稽古のあとのすがすがしさ



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昨日も言語造形のクラスをしてゐまして、芸術実践とは、まあ、なんと、「道」であらうことか、と汗を流しつつ皆でつぶやき合つたのでした。


ひとことで言へば、「楽じゃない」。


でも、なぜか、練習のあと、稽古のあと、すがすがしいこころもちになつてゐるのです。


作品作りをしてゐて、少しづつ、少しづつ、その作品に磨きをかけて行くわけですが、そのプロセスは、自分自身を研ぎ、磨き、練り、研いで行くプロセスでもあるのですね。


個人的な好き嫌ひの情や、恣意や、我が儘といつたエゴが、だんだん、落とされて行くのです。


ゲーテは旨く言つてくれてゐます。


「自然の頂きに置かれることで、人は、みづからの内に、ふたたびひとつの頂きを、きつと、生み出す。みづからとは、そのやうなまるごとの自然なのだ。あらゆる全きもの、徳に浸され、選び、運び、奏で、まことを呼び覚まし、遂に、芸術作品を創りだすまでみづからを高めて行くことによつて、人は、さういふ、まるごとのありやうにいたることができるのだ」(『ヴィンケルマン』より)


芸術実践を通してこそ、人は、まるごとの自然としてみづからを感覚するのです。


ひたすらに、美しいすがた、美しいかたちを求めて、みづからをこそ、磨いて行くのです。


そのとき、人は、求める人として、すでに、美しい。


さう感じます。


芸術実践も、また、ひとつの、高い世を知るにいたる密やかな細道なのです。



posted by koji at 13:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

練習の細道 〜毎週日曜夜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」〜



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4月から始まりましたこのクラス、いま、ひきつづき、はじまりの章を読み深めてゐます。


これまでは、敬ひ、へりくだりの細道を歩み始めることから、この学びを始めたのでした。


そして、いま、その歩みに加へ、こころの内なるアクティビティーをより活き活きと働かせる、その具体的な三つの指南でした。


オンライン上とは言へ、毎週、集まりますので、一週間の間に、ひとりひとりがその指南に沿つて練習して行くことができます。こころの練習です。


そして、新しい月曜の朝に備えます。


よろしければ、ご一緒に、この密やかな学びの細道、こころの練習の細道を歩いていきませんか。


講師:諏訪耕志


●日程
毎週日曜日 午後8時〜9時
(8月29日はお休み)


●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    



鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。



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こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いてゐる信仰〜



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己れであることから甦る、
 
わたしのわたしたるところ。
 
そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じつくりと見る。じつくりと聴く。じつくりと受けとる。
 
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、意識的に感官を開くほどに、世も人も、ものものしく語りだす。
 
 
そして、世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、我がこころが起き上がつてくる、立ち上がつてくる、甦つてくる。
 
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまふことがある。
 
 
そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
 
しかし、この「忙しさ」といふこころの焦りに、大人であるわたしみづからが気づけた時、目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、子どもが落ちつくことが、よくある。
 
 
そんな時、子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。その子が、その子として、啓けてくる。
 
 
そして、さうなればなるほど、眼を注いでゐるわたし自身のこころも喜びと愛に啓けてくる。わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
 
きつと、子どもだけでなく、お米その他の作物をつくつたり、育てたりすることにおいても、それを毎日してゐる人には、同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、他者がゐてくれてゐるお陰で、ものがあつてくれるお陰で、わたしはわたしのわたしたるところ、わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
 
他者といふ世、それはこちらが眼を注ぎさへすれば、いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
 
他者に、世に、わたしのまことたるところが顕れる。
 
 
そのことも、不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、そのわたしのまことたるところが、神々しい元の相(すがた)に相通じてゐることに気づいていくことは、あらためて、信仰といふことに対する親しさをわたしたちに与へてくれる。
 
 
生活の中に根付いてゐる信仰。
 
 
日々、つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、啓いていくことができる信仰。
 
 
もうすぐ、聖霊降臨祭がやつてくる。
 
 
 
己れであることから甦る、
わたしのわたしたるところ。
そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 

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2021年05月09日

「見る」といふ愛する行為



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ものをよく「みる」こと、じ〜つと「みる」ことから始めることの意味深さ。


「みる」といふことばの底には、「愛(め)づ」「愛(め)でる」といふ極めて感情的・意欲的なことばが息づいてゐる。


「愛(め)づ」といふことばから「めづらし」といふことばも生まれる。


人は、何でも見てゐるやうに思ひ込んでゐるが、愛してゐるものしか、実は見てゐないし、見えてゐない。


何かを「愛でる」。だからこそ、その何かを「みる」ことができる。


その「みる」といふことばは、他の動詞に付くことでその行為をますます意欲的な行為へと押し進める。


「触れてみる」「動いてみる」「立つてみる」「嗅いでみる」「味はつてみる」「見てみる」「湯加減をみる」「聴いてみる」「話してみる」「感じてみる」「考へてみる」「会つてみる」・・・。


おほよその動詞に付くことのできる「みる」。


人がその意欲的な行為をするための働きを、大いなる世から与へてくれてゐるのは、乙女座のお宮である。


乙女座。それは永遠の乙女であり、永遠の女性性であることの宇宙的表現である。


「みる」といふ行為は、対象に光を当てる働きであり、光を当てることによつて、その対象からその対象たるところ、本質といふものを引き出す愛の働きである。


だから、「みる」は多くの動詞に付くことで、その行為を意欲的なものに、愛に満ちたものにする。


たとへば、本を読むとき。


本といふ人格と精神が総動員されてゐるものを、まづは、徹底的に信頼して、愛して、目を皿のやうにして愛でて読むことによつて、本は秘めてゐる秘密を初めて打ち明けてくれる。


さうして、そんな「みる」といふ意欲的・感情的な行為から、やがてゆつくりと「考へる」「知る」といふ対話的行為へと、こころが深まつてゆく。


そんな行為にいざなふ本こそが、読むべき本だと感じる。


昔の日本人は、そんな「みる」力を相当強く養つてゐたやうだ。


結婚するために、「お見合ひ」をする。


そのとき、相手の年齢や職業などをそこそこ弁えるだけで、あとは、ほとんど、「一目でみて」決めてゐた。


相手の趣味や収入や性格やその他様々な情報などは置いておき、たつた「一目みて」こころを決める力を持つてゐた。


さういふこころの力を育むことが教育の基だと念ふ。



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2021年05月07日

自由を考える(自由の哲学)



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鵜呑みにするのでも、妄信するのでもなく、ひたすらに、自分自身の目で見て、自分自身の力で考へて、少しづつ判断を重ねて行きたいと、わたしは思ひます。


「見る」と「考へる」。


そのふたつを重ね合はせて、はじめて「知る」がなりたつ。


いま世界中で同時に起こつてゐること、その本当の危機は、コロナウイルスの蔓延でもなく、経済の逼迫でもなく、多くも多くの人がこのふたつの力を行使してゐないといふことにあるのではないでせうか。


誰かが流す映像、誰かが言ふことば、そこからの印象に自分自身が操作されてゐないかどうか。


多くの人にとつて、起こつてゐる出来事に対する判断をすることが難しいのではなく、社会的な関係性の中でどう振る舞へばいいのかをこころに決めることに困難を覚えてゐるといふことではないでせうか。


1894年にルドルフ・シュタイナーは著書『自由を考える(自由の哲学)』において、その「見る」と「考へる」を重ね合はせることが、自由への道を歩み出す、その第一歩なのだといふことを説きました。


人は自由になりうるか、どうか、いま、全世界的に、同時的に、その瀬戸際に来てゐます。



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2021年05月05日

「こころのこよみ」とともに生きる B



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この『Anthroposophischer Seelenkalender』。


わたしも、本当に拙いながらも『こころのこよみ』として、日本語に訳し、声に出しながら、時にこころの深みに沈めながら、一文一文、一語一語、一音一音、味はひつつ一年を辿つてゐる。


こよみとは、「事(こと)をよむ」ことであり、「言(ことば)をよむ」ことであり、「心(こころ)をよむ」こと。


『こよみ』に刻み付けられてゐることばを通して、自然のリズム、「年といふもののいのち」を共に感じ、生きる。


その芸術的であり、瞑想的でもある行為を生活に根付かせていくことで、だんだんとこころにハーモニーが育ち、健やかさと安らかさと確かさを実感できるやうになつてくる。


それは、やはりありがたいことだ。


そして、その毎日の行為は、頭で考へるこれまでのありやうから、心臓で考へる新しいありやうへと、みづからを育て上げていく道でもある。


頭でなく、心臓で考へるのだ!血の暖かさに満ちた、情のたつぷりと通ふ考へを人は持つやうになる。


そして、わたしは、この地球の上にひとりの人として立つ。


『こころのこよみ』の発刊が、アントロポゾフィー協会の創設と時を同じくしてゐること。(1913年)


またその十年後に、『四つの世のイマジネーションにより四季を共に生きる』といふ講演がなされた。


一年の巡りを意識的に生きることで、精神の善き位にある方々を意識し、その方々と共に働いていくことが、本当に大事なことなのだ、さうシュタイナーは訴へた。


その講演は、新しい普遍アントロポゾフィー協会の創設(1923年)に向けてのことだつた。


「年のいのちを生きる」といふことと、アントロポゾフィー協会の創設といふこととが、時を同じくしてゐること、それは偶然ではない。(ヨハネス・キュール氏による2006年度、 普遍アントロポゾフィー協会の年次テーマより)


いま、時代の要請から、目に見える外的な行為をひとりひとりが己れの分に応じてなしていく必要があるのは言を俟たない。


しかし、わたしは、まづは、地球と共に感じ、大いなる世とともに心臓で考へる、精神の世の方々との共同作業を育んでいく、そのやうなアントロポゾフィーが示唆してくれてゐる内なる道を真摯に捉へ、その内なる練習を生活の中でしていくことの重要性を念ふ。


内(目にみえないところ)こそが変へられる。そこからこそ、外(目に見えるところ)が変はつていく。


その確かな道を、示してゐるのが、アントロポゾフィーだ。


わたしたち日本人は、昔から、和歌や俳句などにおける、ことばの美を通して、四季の巡りを生きるこころの感覚、年のいのちを生きる精神の感覚を、ひたすらに培つてきた民族である。


このやうな感覚を受け止める「ことばの感官」を、わたしたち日本人は、これからは、意識的に培ひ始めていくことができる。


そのとき、言語造形といふことばの芸術が、日本民族がそもそも持つてゐた人の内なる「ことばの感官」の恵みを、きつと想ひ起こさせてくれる。





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「こころのこよみ」とともに生きる A



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昔の人は、四季の移りゆきに沿つた暮らしを無意識の内にも営んでゐた。


地球の大きな呼吸に合はせるかのやうに、季節を生きてゐた。


春から夏にかけて、こころを外の世に向かつて解き放ち、秋から冬にかけては、自分自身に向き合つてゐた。


現代に生きるわたしたちは、季節に関はりなく、一年を通して、快適に暮らすことができるやうになり、昔とは比べやうもないほどの快適さ、便利さを享受してゐる。


しかし、その代償として、昔の人が営んでゐたやうな、自然に沿ふ生き方を失つてしまひ、大いなる世の移り行きと、みづからのこころの移り行きとの間に、ハーモニーを見いだせなく
なつてしまつた。


自然と人とがバラバラになつてしまつた。


人のこころは、安らかでなくなつてしまつた。


恐れ、不安、不信、穏やかならざるものに苛まれがちになつてしまつた。


わたしたちは、いま一度、自然とのハーモニーを取り戻せるだらうか。


春から夏にかけて、よおくものを見るのだ。よおく耳を澄ますのだ。よおく動いて、働いて、汗を流すのだ。


意識的に感官(目や耳など)をより活き活きと働かせて、覚えといふ覚えに沿ふこと。意識的に外の世とひとつにならうとすること。意識的に外の光とひとつにならうとすること。


秋から冬にかけては、ひとりきりになる。


意欲的にひとりで考へることで、意識的に孤独の内側へと入つていく。意識的に内の光とひとつにならうとすること。


四季の巡りとして現れる地球の大きな呼吸プロセス。


自分自身のこころにおける精神の呼吸。


光を呼吸する。


地球と自分とのハーモニー。


その練習の重なりが、シュタイナーがいふ「年といふもののいのち」を親しく感じることへと繋がつていく・・・。


そして、そのハーモニーがなりたつていくほどに、こころは甦る!


そのハーモニーは、一週一週の『こころのこよみ』と共に深められていく。


その深める作業を、わたしはメディテーションと呼んでゐる。




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「こころのこよみ」とともに生きる @



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1913年に、ルドルフ・シュタイナーは、『こころのこよみ(Anthroposophischer Seelenkalender)』を出版した。


テオゾフィー協会を出て、新しくアントロポゾフィー協会を創立した、同じ年に。


わたしは、この『こころのこよみ』に魅力を感じ、その内容に取り組み続けてゐる。


はじめは、一週一週のこよみの味はひと意味をそこはかとなく感じてゐるに過ぎなかつた。


しかし、一年、また、一年、と時を重ねていくにつれ、序文の中の「年といふものに、いのちがある」といふ、シュタイナーのことばに感じ入るやうになつた。


随分と、ここに記されてゐる毎週のことばに、感じ入るやうになつた。


年といふものに、いのちがある。時間といふものに、いのちがある。四季の巡りを通して、その「いのち」を生きることのできる喜びを感じ始めたのだ。


「年といふもののいのち」とは、なんだらう。


一年といふ周期は、地球と太陽との関係で定まつてゐて、この地球は、太陽に見守られながら、「お天道様に見守られながら」毎年規則正しくその動きを営んでゐる。      


シュタイナーは感官を凌ぐ意識をもつて、そのことをさらに次のやうに捉へてゐる。


人と同じやうに、地球は、その球形の物質的な「からだ」だけでなく、みづからのこころをもつてゐる。みづからのいのちを営んでゐる。


そして、人と同じやうに、精神に憧れ、精神を宿さうとすべく、一年一年を生きてゐる。


地球は、太陽とのかかはりの中で、一年ごとに大きな呼吸のプロセスを営んでゐる。


その地球のプロセスとは、春から夏にかけて、みづからのこころを、大いなる世、精神の世に向かつて、息を吐き出すかのやうに、拡げていく。


それに応じて、植物は太陽に向かつて長け始め、花を咲かせ、緑と様々な色で地球を彩る。


そして、地球は、夏の間、大いなる世・宇宙に拡がり、そこで受け取つた精神の叡智に満たされたこころを、秋から冬にかけて、息を吸い込むかのやうに、みづからのからだの内に納めていく。それに応じて、地球上の植物は枯れ始め、彩りを失つていく。


そのやうに、四季の巡りを通して地球は、大きな呼吸プロセスを営んでゐる。


「年といふもののいのち」とは、なんだらうといふ問ひ。


年とは時間の一区切りでありながら、そこに呼吸がある。息遣ひがある。その伸縮、開閉、交錯を促しつつ、リズミカルに脈打ついのちがある。



posted by koji at 23:28 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5月からも! 毎週日曜夜オンライン「いかにして人が高い世を知るにいたるか」読書会



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また、5月9日から、毎週日曜日の夜8時から一時間の学びの共同体を創りつづけて参ります。


この密(ひめ)やかな学びこそが、人として生きる上で欠かせないものだといふことを、こころから念ひます。


とりわけ、今は、人と人とが分断されようとしてゐる時です。


しかし、この状態に対する危機感を持ちながらも、不安や恐れに押しつぶされず、圧倒されず、内なる安らかさと確かさとしなやかさをもつて、世にすこやかに働きかけていく人に〈わたし〉自身がなること。


わたしたちアントロポゾフィーを学ぶ人は、そのことを意識的になしていきたいと念つてゐます。


よろしければ、ご一緒に、この密やかな学びの細道を歩いていきませんか。


講師:諏訪耕志


●日程
毎週日曜日 午後8時〜9時
(8月29日はお休み)


●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    



鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。   




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2021年05月04日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜



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精神の深みからの光の中で、
 
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
 
神々の創りたまふものが啓かれる。
 
その中に、こころそのものが顕れる、
 
ありありとした世へと広がりつつ、
 
そして立ち上がりつつ、
 
狭い己れの内なる力から。
 
 
 
 
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
 
 
 
 
画家とは、何をする人なのだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられる。
 
 
「仕事」として絵を描くとは、どういふことか。
 
 
セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それこそが絵を描くといふことであつた。それこそが、彼の「仕事」だつた。
 
 
彼が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものの方が、彼をぢつと見つめる。
 
 
自然が自然そのものの内に秘めてゐる持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
 
 
それは既に、感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。
 
 
そして、自然からのそのやうな「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。
 
 
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
 
 
そのふたつの出会ひそのものを、キャンバスの上に、色彩で顕はにしろと、彼は自然そのものに求められる。
 
 
その求めに応へるのが、「感覚の実現」であらうし、彼の仕事であつた。その求めに応へ続けたのが、彼の生涯だつた。
 
 
世は、人に、「その場その場で実り豊かに織りなしつつ 神々が創りたまふもの」を啓いてほしいと希つてゐる。
 
 
なぜなら、それによつて、人は、「 狭い己れの内なる力から、ありありとした世へと広がりつつ、自分の足で立ち上がりつつ、自分自身のこころそのものを顕はにする」ことができるからなのだらう。
 
 
セザンヌは、そのことを、意識的になさうとした人だと感じる。
 
 
 
精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
  

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アントロポゾフィーハウス 第一回連続講座 ありがたうございました!



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「へりくだる」人にこそ、高みから聖なる靈(ひ)、精神が降りて来ること・・・。


聖霊降臨祭に向けて、第一回目のわたしたちアントロポゾフィーハウスの三日間連続講座を終へました。


自分自身の小さく狭い器を、より拡げ、その器を空つぽにするほどに、豊かな、溢れんばかりの精神が高みから流れ込んでくること。


そして、ひとりひとりが、己れのことばで、己れの息遣ひで、己れが大切に思ひ、考へ、感じてゐることを語り始めること。


そんな変化・変容・なりかはりを目の当たりに見ることができた、かけがへのない素晴らしい時間でした。


オイリュトミーによる動きが、なんと、濃い情を立ち上げてくれることでせう!


ことばに形がもたらされることによつて、なんと、細やかな情が立ち上がつて来ることでせう!


動きと形。


わたしたちは、それらを懸命につくりゆくのです。


ひとりひとりの人によつて動きと形を与えられた、からだ、こころ、ことば、空間が、活き活きと命を湛え始めます!


さうすると、恐れなど、乗り越えられるのです。恐れなど忘れて、その人に輝きが取り戻されて来るのです。


勇気を持つて参加して下さつた参加者の皆さん、本当にありがたうございました。


オイリュトミストの方とこころざしを共にしながら、仕事ができたことの喜びは、わたしにとつて、本当に大いなることでした。


新しい〈わたし〉。それは、人との共なる働きから生まれて来る。そんな予感を確かなものとすることができた三日間でした。


外なる世が、これほどまでに、不確かな流れの中に、健やかなすがたなく、かたちなくある今、わたしたちはアントロポゾフィーをもつて、内なる確かさと活き活きとした動きをみづから育てて行くのです。こころざしと勇気をもつて。


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三日間の講座を終へ、歓喜と涙の宴!




posted by koji at 13:57 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月29日

マイン・ファンタスティーク



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今日、4月29日、昭和天皇のご誕生日でありました。


昨晩からずつと激しく降り続く雨。


無数の、無限の雨音。その雨音と雨音の間に耳を澄ますと、号泣してゐる無数の人々の泣き声が聴こえるではありませんか。


その泣き声のさらに奥に入つて行きますと、まさに、悲しくて悲しくて仕方がない民族のこころと、ひとつになつてしまふのでした。

posted by koji at 19:52 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5/1〜5/3 密(ひめ)やかな学びと言語造形、そしてオイリュトミー



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あさつてからの連続講座では、言語における精神のつくりに踏み込んで行きます。


精神のつくりには、まづ、ふたつの向きがあります。


なりゆき、榮えゆく向き。


枯れゆき、朽ちゆく向き。


そのふたつの向きを活き活きと言語を通して味はふのです。


その練習の繰り返しは、やがて、その人にこころの世(アストラルの境)を啓きます。


そのアストラルの境に、精神のつくりと動きが法則通りにありありと生まれるのを覚えることができるやうになります。


アクティブにからだとこころを働かせる、その練習の積み重ねが、静かに内へと深まる芸術感覚を育み、精神の技量を育ててゆきます。


芸術実践が、密やかな学びそのものなのです。それが、アントロポゾフィーからの芸術実践の基のことです。


あさつてからの連続講座が、参加される方々にとつて、そんな学びの始まりになること、本当に楽しみです。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


 5/1〜5/3 ゴールデンウィーク連続講座
「オイリュトミーと言語造形」<おおさか>へのお誘ひ


●講師:
越中奉(オイリュトミー) 
諏訪耕志(言語造形・アントロポゾフィー)


●日時:
5月1日(土)2日(日)3日(月・祝)
9時半から16時半まで


●場所:
アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/


●参加費:
三日間連続 3万円
一日単独参加 12000円


●お振り込み  
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  
// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904  


●お申込み・お問ひ合はせ:
アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/


●スケジュール:

9:30   言語造形 体験(諏訪)

11:00  アントロポゾフィー講義(諏訪)

12:30  昼食(近隣のカフェでご一緒にいかがですか)

14:00  オイリュトミー 体験(越中)

15:30  一日の振り返り(越中、諏訪)

16:30  終わり



posted by koji at 10:41 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月28日

こころのこよみ(第4週)〜主と客、重ね合はせて「わたし」〜



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ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」



「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは考へるに、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世をひとつにするべく、
 
固く結びつけようとする。
 
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 

 
※普通、「Denken」といふドイツ語を訳すときには、「思考」と訳すことが多いのですが、「denken」といふ動詞(考へる)がそのまま名詞になつてゐるので、その動きを活かすべく、「考へる」と動詞的に訳してゐます。


 
幼児は、たとへば、ことばといふものに、一心に、全身全霊で、耳を傾ける。
 
 
からだまるごとを感覚器官にして、聴くといふ仕事を一心にしてゐる。
 
 
そのことによつて、誰に手ほどきを受けるでなく、神々しい力、精神によつて、ことばを習得していく。
 
 
からだは「ことば」の器になつていく。
 
 
幼児の内に、そのやうに、からだをことばの器にするべく、おのづと力が働いてくれてゐた。
 
 
わたしたち大人は、意識的に、その人から、仕事をしてこそ、育まれるべきものが育まれ、満たされるべきものが満たされる。
 
 
このからだは、何歳になつても、まだまだ、育まれて、育まれて、おのれの感覚を深めていくことができる。
 
 
ものごとに対して判断しなければならないとき、データや数値なども、なんらかの判断材料を提供してくれるが、それに頼り切らず、もつと、己れのからだを通しての感覚を育んでいくことが、己れへの、人間への、信頼を取り戻していく上で、大切な指針になつていくのではないだらうか。
 
 
その、感覚とは、そもそも、わたしたちに何を語つてくれてゐるのか、何を教へようとしてくれてゐるのだらうか。
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
 
人によつて受けて見いだされた、光、色、響き、熱、味、触など。それらが感覚であるし、また、それらだけでなく、(これまでの生理学や心理学では、さうは言はないらしいが)それらによつて起こつてきた、情、意欲、考へも、感覚なのだ。なぜなら、みづからのこころといふものも、世の一部だからだ。
 
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再び、ひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
 
外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へるほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、太く、深く、成長させていく。
 
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
 
 
迎へるべき客を迎へる。
 
 
そして、これ以上、お付き合ひしなくてもいい客を、しつかりと迎へた上で、愛で抱擁したあと、去つていただく。
 
 
それは、主と相応しい客がひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」がいよいよ明らかなものになつていく。
 
 
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して、彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
 
彼らは、色彩といふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだと感じる。
 
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」がはつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれるし、また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
 
 
そして、わたしと世がひとつであること、すべてがひとつであることへの信頼感と確かさをだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは考へるに、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世をひとつにするべく、
固く結びつけようとする。
 
 
 


posted by koji at 16:41 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月25日

5/1〜5/3 復活祭から聖霊降臨祭への橋渡し



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からだ、それはそもそも、神が創り給ふたお宮でした。しかし、そのからだは、わたしの低みといふ低みが蠢く場でもあります。
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低み。その低みが低みとして捉へられることによつて、高みへと昇る力が得られます。
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逆に、わたしの低いところを低いところと覚えないまま生きることは、わたし自身を随分と傲慢にするやうです。
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からだをもつて生きることが、さうした低みをおのづからもつてしまふ。その、みづからの低みを、低みと弁へること、それを「へりくだる」と昔の日本人は言ひました。
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その「へりくだる」人にこそ、高みから聖なる靈(ひ)、精神が降りて来ることを昔の人は知つてゐたのでせう。
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ユダヤ教ではそのことを祝ふ日を五旬祭、キリスト教では聖霊降臨祭としてゐます。
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わたしたち日本においては、それは、祝ふ日を特別に定めずとも、日常の所作、振る舞ひとして習慣化してをりました。
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以前には、伝統の文化・文明の中で育まれ、保たれて来た、そのやうに、からだを処すこと、振る舞ふことによつて、こころを整へる。
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日本においても伝統の文化が失はれてしまつた今、わたしたちは、意識的に、積極的に、それを学ばうとしない限り、それは学べません。
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我が国、日本には、そのことを学ぶ「道」なるものの形が、いまだ残されてゐますが、その形に意識的にこころと精神を注ぎ込んで行く必要がありはしないか。
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ここ日本における言語造形とオイリュトミーといふ芸術が、こころと精神からそのことを学ぶ「道」となりえないか。
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今年は4月4日が復活祭の日でした。そして5月23日が聖霊降臨祭です。
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その復活祭から聖霊降臨祭への、橋渡しとしての、三日間連続講座だとわたしは意識してゐます。
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意識的に目覚めつつ、からだの低みから精神の高みを見晴るかす。
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そのやうな三日間にいたしませう。
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 5/1〜5/3 ゴールデンウィーク連続講座
「オイリュトミーと言語造形」<おおさか>へのお誘ひ
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●講師:越中奉(オイリュトミー) 諏訪耕志(言語造形・アントロポゾフィー)


●日時:
5月1日(土)2日(日)3日(月・祝)
9時半から16時半まで
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●場所:
アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●参加費:
三日間連続 3万円
一日単独参加 12000円
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●お振り込み  
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  
// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904  
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●お申込み・お問ひ合はせ:
アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●スケジュール:
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9:30   言語造形 体験(諏訪)
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11:00  アントロポゾフィー講義(諏訪)
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12:30  昼食(近隣のカフェでご一緒にいかがですか)
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14:00  オイリュトミー 体験(越中)
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15:30  一日の振り返り(越中、諏訪)
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16:30  終わり
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こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜



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世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
 わたし自身であることの鎖から。
 
 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」
 
 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
  
 
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
 
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。ひらめきが語りを導いてくれるまで練習する。
 
 
「ひらめき」とは、語り手の己れが空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。
 
 
それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
 
 
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
 
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
 
 
そのやうに、語り手が、「ことばの精神」に、聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
 
その「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
 
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
 
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
 
 
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
 
特に、この季節、自然といふものにまなざしを注ぐことによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然と対話しながら、他者と対話しながら、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。


そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かしていく。
 
 
芽吹き、花開くものたちに、たつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
 
 
  

 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 わたし自身であることの鎖から。
 わたしはまことわたしたるところを解き明かすのだ」
 

posted by koji at 14:16 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月24日

上の四つの感官の育み 〜普遍人間学から〜



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今日、『普遍人間学』土曜オンラインクラスにて、計三回の「十二の感官」の論を終へました。


この「十二の感官」に関しては、わたしからも述べるところ多々あり、受講してゐる皆さんにとつても、それらの知を消化するのにご苦労があつたと思ひます。


三回に分け、「下の四つの感官」「中の四つの感官」と順に説いて来まして、今日は、最後の「上の四つの感官」についてだつたのですが、わたし自身、話し終へて、改めて、この「上の四つの感官」の育みの大切さを思ひ知りました。


もちろん、すべての感官の育みが、常に、なされてしかりです。


が、まさに、この世に生まれて来て、年齢を経ると共に、わたしが、ますます〈わたし〉へとなりゆき、社会を活き活きと創つて行くメンバーのひとりとして働くためにも、この「上の四つの感官」の育みは、重きをなします。


「聴く感官」の育みには、内における安らかさと静かさを要します。


「ことばの感官」の育みには、内における動きとアクティビティー、闊達さを要します。


「考への感官」の育みには、内における敬ひとへりくだりの情を要します。


「〈わたし〉の感官」の育みには、内における仕へる力、捧げる力を要します。


いづれも、わたし自身、持ち合はせてゐない、育みを要するものです。


もう二度と、人生において同じ過ちをしたくないわたしとしては、だからこそ、意識的に、これら「上の四つの感官」を育んで行くことがどうしても必要だと強く念つたのでした。



posted by koji at 23:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月23日

学校もオンライン授業か



中学一年生になつたばかりの次女、果たして来週からの登校事情はどうなるのだらうか。


大阪市からの要請で、午前中は、自宅でオンライン授業になり、昼食は学校に行つて食べ、午後の二時間だけ授業を受け、クラブ活動は原則中止となるかもしれないとのことです。


オンラインによる授業が毎日続くことの、子どもたちへの弊害についてはいろいろと想ふところがあります。


ひとりの先生、そして大勢の友だちが集ふ教室といふ空間において、何が営まれるか。


人は、知性だけを育てればいいのではなく、なまの世界を、他者を、ものを受け取ること、活きた息遣ひのやりとりの中で生きること、つまりは感官を育てるといふことが、人にとつて、とりわけ、若者にとつて、たいせつなことなのです。


笑ひ合つたり、けんかしたり、瞳を交はし合つたり、しかとしたり、そんな人と人との間の複雑な営みすべてが、感官の育みに資するはずです。


人には、十二の感官があります。その十二の感官を養ふことにおいて、空間を共にするといふことの必要性はとても大きい。


感官の働きは十二通りであり、それらの働きが人の内側で複雑に、かつ繊細に、織りなし合はされて、その人にパーソナリティ(人となり)の豊かさ、インディヴィジュアリティー(その人のその人たるところ)の尊さをもたらします。


なぜなら、十二通りの感官の働きを内において、織りなし合はせ、繋ぎ合はせることによつて、人は、判断力を養ふことができ、その判断力は、実は、情の力、感じる働きを土台にしてゐるからです。


ものごとを判断する、その力は、実は、健やかな情の力が礎になるのです。


いくら頭が良くても、健やかな情が育つてゐなければ、その人が下す判断といふ判断は、非人間的なものとなる嫌ひがあります。


毎日、午前中一杯、パソコンやスマホの前に座り続けさせることで、十二の感官の育みに障りと害いと偏りが生じて来ることを思ふと、これが運命とは言へ、子どもたちがこの2020年から2021年を生きること(今年でなんとか終はらせたい・・・!)の過酷さに、その意味を問はずにはゐられません。


家でのなにげない会話ややりとりが、とても大事になつて来ます。


posted by koji at 18:09 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること



いま、世で進行してゐることに対して、「何かおかしい」と、わたしは感じてゐます。


この「おかしい」といふ考へと情が、わたしに何を教へようとしてゐるのか。


「自由」といふ精神の働きは、自分自身で稼いで得るものであり、他者から与へられるものではないことを、わたしは、いま、痛感してゐます。


ここにご紹介してゐる動画も、「ひとつの情報」と言へるでせう。


コメント欄に貼つてゐます動画を観た人が、自由へと向かふ意欲を湧き立たせるか、恐怖に捉へられ、逆に不自由になるかは、その人その人によると思ひます。


わたしは、一年前から考へ、思ひ、感じてゐたことですが、このまま、マスク装着、時短営業、「枠珍」接種などを、唯々諾々と受け入れてゐると、完全監視社会への道を転がり落ちて行くことになる。


監視社会へと全体主義を押し進めてゐるなんて、同じ人である者が、まさか、そこまでのことはしないだらうと、わたしたち日本人は、世の動きを観察してゐると思ふのですが、あれよあれよといふ間に、次々と、世の形態が崩れ、変はつてゆく様に、もう、安楽の枕の上に頭を置きながら、居眠りをし続けてゐることは、未来の世を生きていく子どもたちに申し訳ない、といふ念ひがあります。


ここで語られてゐる「Great Reset」を、わたしは、受け入れられないのです。どうしても。


なぜなら、人といふものの別名は、「自由な精神」であると考へるからです。


「自由」へと歩いて行くのは、ひとりひとりの勤しみによりますが、その歩いて行く道そのものを壊さうとする存在があることに目覚めつつ、粛々と、わたしは自由への道を歩き続けて行かうと思ひます。



posted by koji at 10:55 | 大阪 | Comment(1) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月22日

『希む、哲学』


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エッカーマン著『ゲーテとの対話』。
昨日読んだところに、こんなゲーテのことばが。


―――――


わたしも自分で経験したことがある。
腐敗熱(おそらく伝染病の一種)がはやつた時、
どうしても伝染が避けられない状態にあつたが、
わたしはただ断固たる意志だけで、
その病気を追ひ払つてしまつた。
さういふ場合に道徳的な意志は、
信じられないほどの強い力を持つてゐるものだ。
いはばその意志がからだに浸み通つて、
すべて有害な影響を跳ね返すやうな、
積極的な状態にからだをおくものだ。
ところが、恐怖心といふものは、
積極性のない弱い感染しやすい状態で、
どんな敵でも簡単に我々を占領してしまふ。


―――――


ゲーテのことばは、真実を穿つてゐるやうに感じる。
「道徳的な意志は、 信じられないほどの強い力を持つてゐる」
ここで、わたしが問ふてしまふのは、意志の強さのことでは実はなく、次のことなのです。


あれだけ自然科学に通じてゐたゲーテにして、この「信じられないほどの」ものに対する、驚きの念、信頼の念。


この念は、何に根差してゐるのか。


これは200年前のことばだが、いま、わたしたちは、現在の政治家たちのことばを、疫学の「専門家たち」のことばを、どう受け取る?


「専門家」が何を言はうと、どう受け取り、どう行動するかは、ひとりひとり、自由ではないのか?


少なくとも、考へる人にとつては。


好き勝手に行動すればいい、といふことでは全くなく、自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へて、納得できるのならば、その上で、ふさはしいと見いだした行動をわたしたちはできる。


さうできることが、自由といふことなのではないのか。


さうできるのが、人ではないのか。


哲学は、机上の学問に過ぎないのか?


机上の学問などでは全くなく、恐怖を越えて、わたしたちの真の人生と文明を支へる、永遠のことばのひとつではないのか? 


ゲーテは、少なくとも、自分自身の目で見、自分自身の頭で考へることを、重ねに重ねた上で、自然科学では証明できないことにも、みづからのこころが確信することを、堂々と表明し、堂々と行動に移した人だつた、さう思ふのです。


わたしたちの行動を導くのは、誰なのか。何なのか。


政治家の言ふことでもなく、専門家の言ふことでもなく、つまるところ、わたし自身の見る力と考へる力なのではないでせうか。




posted by koji at 15:01 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月20日

宮沢賢治「虔十公園林」2014年仙台公演






全く全くこの公園林の
杉の黒い立派な緑、
さはやかな匂、
夏のすゞしい陰、
月光色の芝生が
これから何千人の人たちに
本当のさいはひが何だかを教へるか
数へられませんでした・・・
.
そして林は虔十の居た時の通り
雨が降つてはすき徹る冷たい雫を
みじかい草にポタリポタリと落し
お日さまが輝いては新しい奇麗な空気を
さはやかにはき出すのでした・・・



2014年8月17日 宮城県仙台市利府町公民館十符の里プラザにて行ひました言語造形公演『虔十公園林』全編です。


お世話をして下さつた福島さんご夫妻、そして聴きに来て下さつた仙台の皆さん、本当にありがたうございました。


あれから、早いもので七年になるのですね😲



言語造形による語りを、どうぞ、お時間のおありになるときに、ごゆつくりお楽しみください。
https://youtu.be/-saVKdloo_4



2021年04月19日

「くらべる」から「うやまふ」へ その深まり 〜第三回日曜夜オンライン「いかにして人が高い世を知るにいたるか」読書会〜



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京都・伏見桃山、乃木神社の宝物館内。乃木大将の部屋。



昨日の晩は、第三回目『「くらべる」から「うやまふ」へ その深まり』といふテーマで講義をし、語り合ひました。


現代生活の便利さ、快適さは、すべて、「くらべる」といふこころの働きから生み出されてゐます。「くらべて、物事に優劣をつけ、より優れてゐるものを選び取る」、そんな、当たり前とも言へるこころの働きによつて、この現代生活はなりたつてゐます。


しかし、だからこそ、失つたものがありました。


それは、「うやまふ」といふこころの働きです。


それは、比べません。ものとものを比べません。他者とわたしを比べません。


ただ、ただ、ひとつひとつのものごとを敬ひます。


ひとりひとりの人を敬ひます。


わたしみづからを敬ひます。


なぜでせう。


それらひとつひとつに、ひとりひとりに、神が見えてゐたからです。


これは、もちろん、極端なものの言ひ方ですが、ここでは、あへて、シンプルにさう、言はせてもらひます。


便利さ、快適さを第一とする生活信条、人生観、世界観が生まれる前の世界では、「くらべる」といふこころの働きではなく、「うやまふ」「へりくだる」「あおぐ」「いのる」といふこころの働きを大切に育ててゐました。


このアントロポゾフィーといふ精神の学によつて、わたしたちは、いかにして、これら以前に育んでゐたこころの働きを、もう一度、甦らせてゆくことができるでせうか。


密(ひめ)やかな学びの道、知ることの細道、それは、外なるものではなく、内なるものである、考へる働き、感じる働き、欲する働きを、毎日、精神に向けて育んでゆく営みです。この三つのこころの働きの育みに、鍵があります。




計三回の講座が終はりましたが、ご参加をお考へになつてをられ、まこと、こころの育みを欲してゐる方には、ぜひ、録画された第一回目から観て、聴いてきただければと希ひます。


きつと、メディテーションへと向かふアントロポゾフィーのリズミカルな学びの生活へと、新しく入つて行くことが始まります。


毎週日曜日の夜、一時間の学びの共同体を創りつづけて参ります。


●日程
毎週日曜日 午後8時〜9時
(5月2日、8月29日はお休み)


●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    



鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。   


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2021年04月17日

「人であることの意識」を守ること



いま、世は明らかに第何次目かの世界大戦の勃発中であり、それは、ここ日本においても、です。


わたしたちは、いま、爆弾を落とし、落とされるやうな戦争ではなく、人の意識を操作し、人が自由になりゆくことを阻まうとする何かからの総攻撃を受けてゐる真つ最中で、これは明らかに戦時下に自分たちはゐるとわたしは認識してゐます。


令和といふ新しい御代に入り、わたしたちの国も、きつと激しい時代に突入して行くだらうと予感はしてゐたのですが、ここまでとは思はなかつた・・・。


第二次世界大戦後、家族や、人と人との親身で伝統的な中間共同体、そして国家を破壊しようとする執拗な攻撃は、これまでにもありましたが、こんな露骨な地球規模の人類共同体そのものへの攻撃は2020年といふ年から始まりました。


この攻撃は、何か霊的な、悪しき精神的なものからの働きかけであると感じざるをえないほど、多くも多くの人々を洗脳し、考へる力を奪つてゐるやうに感じます。


考へる力を奪はれた人は、もう、人ではなく、他の何かになるのではないでせうか。


「陰謀論」といふことばに抵抗を感じることは、これまでの常識では仕方がないのかもしれませんが、これはもう、「論」ではなく、明らかに、悪しきものたちからの「陰謀」そのものであることをわたしたちは認識した方がいいと思ひます。


しかし、ここでとても大切なことを思ひます。


それは、この悪しきものからの働きかけに対して、危機感をもつことはとても大切なことですが、怒りや恐れをもつて向き合ふことは、逆に、悪しきものたちの思ふ壺に入ることだといふことです。


偉さうなことは、わたしは言へません。わたしもこれから社会が進みゆく状況を思ふと恐怖を感じます。


しかし、それでも、それら悪しきものからの働きかけに対して、自分自身の怒りや恐れをみづから乗り越えて、内なる安らかさと粘り強さ、根気強さをなんとか培ひつつ向かひ合ひ続けることの価値を信じます。


この異常な現象から、まことと、さうでないところとを、見分けること。


そして、まことをこそ、尊ぶこと。


そして、そして、何より、己れの内側をていねいに、毎日、育み続けること。


その、ひとりひとりの内における仕事こそが、いま、何よりも、たいせつなこと・・・。


こんなにも、人が自由になりゆくこと、人としての誇りをもつことの意義深さを思ひ知らされる時代になるとは・・・。


たいせつなものを守ること、保守主義とは、ずつと、人が己れの「人であることの意識」を守ることでありました。その意識の集合体である「国」を、「世」を、守ることでありました。


だからこそ、そのたいせつなものを守るために、知ることの細道、密(ひめ)やかな細道を歩む必要を、これほどまで切実に感じてゐることは、自分の人生の中で、初めてであります。


内なる安らかさと確かさ。


まづ、己れみづからに・・・。



posted by koji at 22:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜



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セザンヌ『庭師ヴァリエ』



外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
 
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。
 
 
全身全霊で、ものごとにもつと集中して、向かひ合ふことができるはずだ。
 
 
身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音楽に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して、意欲的に、アクティブに、見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覚を明るい意識の中で生きることができる。
 
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覚を全身全霊で生きることができれば、あれこれ小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
 
このやうないのちの力に満ちた、みずみずしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
 
春、天に昇る竜は、秋、地に下り行く。
 
 
その竜は聖竜であらう。
 
 
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神、ミヒャエルに貫かれた竜だらう。
 
 
秋から冬にかけて、キリストと地球のために、たつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤払ひに降りてきてくれるのだ。
 
 
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
 
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
 
だからこそ、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
 
  

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2021年04月16日

とかげの目貫 〜世を仕立てる力、ファンタジー〜



サムネイルの絵は、森徹山



想ひ描く力、想像力、ファンタジー。


そのこころの内なる力は、ものごとに対する活き活きとした意欲から生まれるシンパシー、愛から来るものです(『普遍人間学 第二講』)。


幼い子どもたちは、とりわけ、遊ぶときにその力を駆使します。


そして、その想ひ描く力・想像力・ファンタジーが、人と人との関係性をなりたたせ、さらには、世を仕立てる力、創造力となります。


それをなくしてしまふことは、世を干からびさせ、世に死をもたらしてしまひます。


日本の昔話「とかげの目貫(めぬき)」は、世に死をもたらしてしまふことのいかなるかを語る昔話です。







柳田國男 ささやかなる昔(その一)



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柳田國男全集第三十一巻(ちくま文庫)に入つてゐる「ささやかなる昔」が、味はひ深く、読んでゐて面白くて堪らない。


その巻頭の文章「萩坪翁追懐」から、すでに、抜き書きしたくなつたので、しておかうと思ふ。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


(わたしが十七年間の感化を受けた松浦先生は)まさしく「昔」を人にしたやうな、徳川時代足利時代を超脱して、もつと古い処へ腰をかけたやうな心行きの人であつた。


私は初め歌を修行するために先生の門に入つたのであつたが、歌よりほかに露骨にいへば人生の観方といふやうなものをも教へられた。先生の訓によつて日本の歌に限つて「人の心の真(まこと)より」といふやうな特殊の条件のあるのを奇異とは感じなくなつた。先生の説では歌は紙に書いて人に見せての面白味よりも、いはゆる口吟(ずさ)むといふ興味を尚(たつと)ぶべきものだといふことであつた。新しい言葉で説明するならば、理解の労力なしに自分の感情を伝へるのを専(もつぱら)にすべきものだといふ趣旨であつた。


(先生は)時として幽冥を談ぜられた事がある、しかし意味の深い簡単な言葉であつたから私には遂に了解し得られなかつた。「かくり世」は私と貴方との間にも充満してゐる、ひとりでゐても卑しい事はできぬなどと折々いはれた。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾




posted by koji at 00:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月13日

「うやまふ」「へりくだる」といふ身振り  〜日曜夜「いかにして人が高い世を知るにいたるか」オンライン読書会 第二回目〜



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昨晩は、第二回目『「うやまふ」といふ身振り、「へりくだる」といふ身振り』といふテーマでありました。


この密(ひめ)やかな学びは、こころを、とりわけ、情を育まうとする学びです。


近江聖人と讃へられた江戸時代初期の陽明学者、中江藤樹は、学問とは、謙(へ)り下ることだと、教へたさうです。


「謙り下る」といふことばを、今一度、虚心坦懐に我が身に引き付けてみることは、倫理といふものが消え去つてしまつてゐる現代においては、とても難しくなつてゐるのかもしれません。


情の育み。


わたしたちは、ゆつくりと時間をかけて、そのことに取り組んで行きたいと思ひます。




もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


きつと、メディテーションへと向かふアントロポゾフィーのリズミカルな学びの生活へと、新しく入つて行くことが始まります。


毎週日曜日の夜、一時間の学びの共同体を創りつづけて参ります。


●日程
毎週日曜日 午後8時〜9時
(5月2日、8月29日はお休み)


●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    



鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。   



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2021年04月11日

人の陰影



人生も50年以上も生きてゐますと、一応、人並みに様々な経験もさせてもらへます。


しかし、今日といふ一日は、実に多様な経験を経て来られた複数の方々(ご年齢、20代から80代にわたる)にお会ひし、お顔を拝見し、お話を伺ふことができたのでした。


その経験には、辛く、想像を絶するやうな激しい経験もあり、しかも、そのやうな経験をされて来たのにも関はらず、穏やかで柔和なご表情、そして明るくことばを語られる方ばかりでした。


ひとりひとりの人には、表には表はさない、深い陰影があります。


その陰影を無言のうちに了解し合へる、敬ひ合へる、そんな人と人との集ひ・・・。


わたしにとつて、今日は、ご褒美のやうな一日であり、このやうな一日一日を積み重ねて生きて行かうと、改めて、いま、念ふのです。

posted by koji at 22:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オンライン毎週日曜夜やつてゐます☺ いかにして人が高い世を知るにいたるか 読書会



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日曜の夜、こころと精神を整へ、明日からの一週間に備へる。そのことをリズミカルに、毎週、繰り返して行く。


この本は、解説など要らないほどの平易な文章で綴られてゐます。


ただ、この本においてたいせつなことは、繰りかへし、繰りかへし、読み続けて行くといふことです。


その「繰りかへし」の中から、機が熟するに従つて、この箇所ではこの情が、かの箇所ではかの情が、感じられるやうになります。


そして、それらひとつひとつの情が、こころのういういしさへと改めて何度でも、読む人を立ち戻らせてくれ、その人を精神的な生き方へとまた導き始めるのです。


その「繰りかへし」を促すこと、それが、この講座の眼目です。


きつと、メディテーションへと向かふアントロポゾフィーのリズミカルな学びの生活へと、新しく入つて行くことが始まります。


毎週日曜日の夜、一時間の学びの共同体を創りつづけて参ります。


●日程
2021年4月から毎週日曜日 午後8時〜9時
(5月2日、8月29日はお休み)


●参加費
体験参加費 初回のみ 2000円
月4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  


もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。




●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
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●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひします。

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2021年04月10日

国語教育としての言語造形



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京都御苑の母と子の森


これからの国語教育を考へるなら、手軽な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのではなく、自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、丁寧に、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。


昔から我が国の人は、和歌や俳諧を通して、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を尽くして、ことばにする力に秀でてゐたやうに思はれますが、善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふことです。


日々の暮らしにおいても、自分自身の考へてゐること、思つてゐること、感じてゐること、感覚してゐることなどを、言ひ過ぎることなく、言ひ足りぬことなく、精確に、過不足なく、ことばにする力を養ふことです。


国語のその力は、おのづから、聴く人、読む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辞の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。


文章を書くためのそのやうな力は口から出ることばに、口から出ることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあうことでせう。


話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた、書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。


そして、国語教育にさらに、ことばを話す芸術、言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。


前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて発声する、その行為はいつたい何を意味するのでせうか。


話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。


さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。


言語の運用において、そのやうな芸術的感覚をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味です。


さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに尽きずに、音楽のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聴き手に感覚される。


詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。


言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。


そして、ことばの精神、言霊といふものが、リアルなものとして、人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。


言語造形を通して、書かれたことばが、活き活きとしたことばの響きとして甦り、やがて、その生きた感覚から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。


そんな国語教育。


子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを実感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聴かせることです。


これまで、わたしも、『古事記』や『萬葉集』、『風土記』、『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、現代語訳することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に届くのだといふことを、確信するに至りました。


昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覚を通してそのやうな芸術的なことばを享受していく機会を、どんどん与へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
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これは、保田与重郎が『近代の終焉』といふ本の中で、昭和15年に述べてゐることですが、手軽に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
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また、わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、日本のことばを知る労力を費やしてまで近寄るに値しないので、出来る限り学ぶ者の負担を軽減してやらうといふだけなら、いつさうこの国はアメリカやヨーロッパ諸国の植民地となつていくのでせう。


70年、80年前の話しではなく、いまの、そして、これからの話しだと思ふのです。


古典を古典として敬ふことを学ぶ。その学びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる国が、一貫した国史をもつてゐることを実感していきます。


さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が国ならではの精神を伝へていく。それはきつと他の国々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。


いつの日か、己れの文章が言語造形されることを希ふ、そんな詩人・文人が現れること。


この国が、再び、言霊の幸はふ国へと甦ることをこころから希つてゐます。そのために、何かできないか、模索してゐます。





posted by koji at 08:28 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月06日

5/1〜5/3 連続講座「オイリュトミーと言語造形」



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絵 立花 志瑞雄さん



『 アントロポゾフィーハウス 
  ゴールデンウィーク 三日間連続講座 5/1〜5/3
 「オイリュトミーと言語造形」のお知らせ 』
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ゴールデンウィークの三日間、5月1日から3日までの三日間の連続講座のお知らせです。
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このコロナウイルス禍が終息することをわたしたちはずつと待ち続けてゐるのですが、いつまで経つても、この状態は終はりさうにありませんね。
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わたしは、これ以上、座して待ち続けるのではなく、自分自身から動き出し、学びの機会を積極的に創り出すことで、このウイルス「禍」を自分自身から無効化して行かうと、こころを決めてゐます。なぜならば、この「禍」は、明らかに人の意識が作りだしてゐるのですから!
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そのやうなこころざしこそが、自分自身を救う唯一の道だと、わたしは思つたのです。
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皆様、いかがでせうか、このゴールデンウィークに、御自身から動き出し、このウイルス禍を打ち破つていく、その機縁をご一緒に摑み取りに行きませんか。
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『ゴールデンウィーク連続講座『オイリュトミーと言語造形」』
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声に出されることばは、目には見えません。こころも見えません。感情も、考へも、精神も、目には見えません。
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しかし、言語造形とオイリュトミーは、そこにかたちと動きを見ようとする芸術です。
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それらは、すべて、精神の「かたちと動き」を持ちます。
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大阪においておそらく初めての営みですが、オイリュトミーと言語造形といふミューズから授かるふたつの芸術を通して、その目には見えない「かたちと動き」を、感覚し、動き、共に生きて行く時間を持ちます。
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「アントロポゾフィーハウス」第一回目の営みです。
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どうぞよろしくお願ひいたします。
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言語造形 諏訪耕志
オイリュトミー 越中奉
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●日時:
5月1日(土)2日(日)3日(月・祝)
9時半から16時半まで
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●場所:
アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●参加費:
三日間連続 3万円
一日単独参加 12000円
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●お振り込み  
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  
// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904  
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●お申込み・お問ひ合はせ:
アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●スケジュール:
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9:30   言語造形(諏訪)
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11:00  アントロポゾフィー講義(諏訪)
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12:30  昼食(近隣のカフェでご一緒にいかがですか)
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14:00  オイリュトミー(越中)
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15:30  一日の振り返り(越中、諏訪)
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16:30  終わり
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●講師からのメッセージ
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(1)言語造形の時間(諏訪耕志):
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ことばひとつひとつの音韻の「かたちと動き」を、深く闊達な息づかひの中で追ひ求めませう。
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日本古来の和歌、俳句、詩といふことばの芸術を、からだまるごと、こころまるごとで奏で始めるのです。
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その営みは、ことばと〈わたし〉の深い互いの関はりを体感させてくれます。
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その時、生きてここにあることのよろこび、かなしみ、あらゆる高くて澄んだ感情が、天から流れて来るのです。
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(2)アントロポゾフィーの時間(諏訪耕志):
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『〈わたし〉を育むためのアントロポゾフィー 
 〜ことばとの関はりにおいて〜』
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いま、わたしたちは、こころの内をみづから育ててゆくことのたいせつさ、必要性を感じてはゐないでせうか。
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内なるものを仕立ててゆく。それは、こころのまんなかに眠つてゐる、わたしのわたしたるところ、〈わたし〉を目覚めさせ、育んでゆくことに他なりません。
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〈わたし〉を育んでゆく。それがアントロポゾフィーの、まこと、シンプルな目標、目当てです。
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『テオゾフィー』『いかにして人が高い世を知るにいたるか』『ヨハネ福音書講義』(いずれも鈴木一博氏訳)におけるシュタイナーのことばから、こころを精神に結はひつける密やかな細道、メディテーションの道を歩み始めるためのよすがを今回の連続講座においてしつかりと掴みませう。
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(3)オイリュトミーの時間(越中奉):
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わたしたちは、この時間まことに『「ことばとの新たなであい<いいえ、むしろ蘇るであい>」』をみなでつくりだしたいと思います。わたしたちはまるまる全てのからだでアクティブに動きつつ出会いましょう。
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それは必ず誰もがなせることとなります。しかし大切な課題がひそんでいます。
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静かなたわわなこころで明らけく聞きつつの<わたし>に喜びが持てるように、和歌、俳句、詩、シュタイナーのことばとともに。
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また母音、子音、三節の歩みなど基礎練習の課題も許す限りに「ききつつ」で繰りなしましょう。
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テーマは、「相(すがた)、形になろうとするうごき」また「動きになろうとする相(すがた)、形」を基として、ききつつ体験します。
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「始めと終いがあり」繊細で美しい日本語のひびきを見つけたいと思います。
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posted by koji at 22:27 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする