2020年12月24日

キリスト生誕劇を語るシュタイナー



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キリスト生誕劇について、シュタイナーはある講演で語つてゐます。
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このイエス・キリストがお生まれになつた聖き夜の劇は、村の誰それの家に手書きで残されて、それはそれは神聖なものとして保たれてゐました。

かつてそれを演じるには、十月に入り、やおらその年の上演のことがこころにかかり、演じ手の若衆男女が選ばれ、選ばれた若衆は当日までの備へのあいだ酒を断ち、日曜日に喧嘩をしないとか、様々な慎みごとをして、彼ら言ふところの『聖らかな暮らし』を送ります。

聖き夜の節、聖き劇を演じるには、それなり聖きこころでと、さういふ意識を人々は抱いてゐました。世俗のしきたり、浮き世の楽しみで臨んだのではありません。演じるのは、ふだん鋤よ鎌よで働く人たちですから、それは素朴なものでしたが、始まりから終わりまでを、ずつと深く厳かさが領しました」
(「聖き夜との考へとわたしなる秘密」より)

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この劇は、18世紀の半ば、シュレーアーといふ文学者であり民俗学者でもあつた人によつて、西ハンガリー地方のある村で採録されたものです。その劇を20世紀に入つて精神科学者であるシュタイナーが再び見いだし、それがやがて世界中のシュタイナー学校において、クリスマスの時期に先生たちから子どもたちへの贈り物として、毎年演じられるやうになりました。


人よ 思ひ起こせ  人にして神々しいところを
天の高みより 降りてこられた をさな子


そのやうな念ひを抱く素朴な誠の心意気。この劇は、ただひたすらに、そこから発してゐます。


この「キリスト生誕劇」を三年前、二年前、いずれもクリスマスのこの時期に大阪で上演しました。


光の降誕をこころよりお祝ひするべく、陰翳深く、芸術的に深く彫り込まれたものを子どもたちに、との希ひを持つて創りました。


来たる年、またどこかでこの劇を創らせていただきます。


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子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたしの内なる青春時代〜



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そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。


大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」、そして「青春時代」。


わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。


わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしはまた問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていくのです。


そして、わたしの中の「子ども時代・青春時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。


第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。それは、その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。そして、他者と語り合ふ中でこそ、ひとりで考へる力が育まれていきます。


若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。


そんなとき、時間をかけながら、傍にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。


そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。


そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、傍にゐる大人が見てとつてあげられたら。


『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。


さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。


他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。「では、わたしは、世に対して、何をして行かうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の傍にゐる大人のひとつの役割でせう。


ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。


彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。


人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。


そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。


さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んで行かうか。引き続き、わたしにとつての2021年の課題です。
(完)


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2020年12月23日

子ども時代D 〜順序を間違へないこと〜


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欲する力・意欲の働きがむき出しの0歳から7歳。


その欲する力の上に、感じる力・情の衣をまとひ始めるのが7歳から14歳。


そしてその欲する力、感じる力から、だんだんとひとりで考へる力が育つてくるのが14歳から21歳。


それら三つの力はどれも、その人のその人たるところ、「わたし」から生まれてこようとしてゐるものですが、年齢によつてその表れ方が異なつてゐて、欲する力として、感じる力として、考へる力として、順番に現れてきます。


それらおのづと生まれてくる力の順序を間違へずに、その順序どほりに育んでいくことが、人の育ちにとつてとても大事な意味を持ちます。


小学生に、「自分で考へなさい」と言つてしまふこと、ありませんか。


人といふものをよく見てとつてみると、小学校に通つてゐる時期には、子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、おのづと、感じる力といふ衣をまとひ始めてゐる、しかし、自分ひとりで考へる力は、まだ生まれてきてゐない。


「自分で考へなさい」「自分で判断しなさい」といふ指導は、その時期の子どもには早すぎるのです。


小学生に対して、自分自身で考へさせ、判断させることをあまりにも強いてしまふと、こころの働きを早産させてしまひ、後になつて、大人になつても相応しく考へる力、判断する力がなく、また、こころに茨のやうなアンチパシーが生い茂り、生きていく上でにがい思ひをすることになりかねません。


「シュタイナー教育では、かう考へる」といふのではなく、人をあるがまま観てとる練習をしていけば、そのやうな順序を間違へない判斷がだんだんとなされるやうになつてきます。


人をあるがままに観てとる練習。その練習は、きつと、生涯、続きます。



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子ども時代C 〜言語からの愛、言語からの叡智〜


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小学校時代の第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、子どもと地域との関係性、それは一対多の関係性とも言へるのですが、より本質的に言へば、それは人と民族との関係性です。


民族とは、ひとつの言語を母語として共有してゐる人々の集まりを言ひます。ひとつの言語を共有することによつて、人々は共にある、といふことを実は感じてゐます。ほとんど無意識、もしくは夢のやうな意識の次元においてですが、感じてゐます。


日本語を話すことによつて、その人は日本人になるのです。だんだんと日本人のものの考へ方、暮らしの仕方へと身もこころも同化していきます。なぜなら言語は、おもに、感情の次元から発せられてゐて、感情とは民族に根付いてゐる根柢に通ふものがあるからです。


そして、言語を話す人には、その言語からの叡智が贈られてゐます。


ことばの叡智、日本伝統のことばで言ふ「言霊の風雅(みやび)」、キリスト教の密で言ふ「ロゴス・ことば」、もしくは、人をどこまでも育てようとする、ことばの神からの「愛」です。ことばを大切に扱ふ人のところに、ことばの精神から、愛と叡智への予感が降りてきます。


言語造形を通して、ことばにはそのやうな働きがあることを学んでいくこともできます。


そのやうに実は叡智に裏打ちされてゐることばを通して、他者と素直に語り合ひ、違ひを見いだし、それを尊び、自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。


第二・七年期の子ども時代、それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。


また、大人にとつては、自分自身の内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによつて、ことばと己れとの関係にいま一度目覺めることができるのではないでせうか。わたしたち大人自身が、複数の他者との関係の中で、どう、ことばとつきあひ、どうみづからを育んでいくことができるか。そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、この上なく大切な働きかけになります。



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子ども時代B 〜彩りの豊かさ〜


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子どもは歯が生へ変はりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとつて本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか多勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。


地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豐かさにどんどん目が奪はれていくことでせう。


かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。


幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。


しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情といふ衣を着つつ現れてきます。


そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。その彩りの豐かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。


ひとりひとりの子どもは、みんな、違ふ。みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。


ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊嚴を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。 どれほど大切なものが子どもたちの内側から流れ出してくるでせう。


さういふ大人の下で、子どもは、自分といふ個にゆつくりと目覺め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覺め、その彩りの豐かさに目覺めていきます。


社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、多勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本來的な豐かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。


もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」 もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に拔きん出ることができますよ」といふひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれ出ようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着てゐるやうなものです。


ひとりひとりの子どもたちは、本来、各々、別々の色を持つてゐます。


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2020年12月22日

子ども時代A 〜自己信頼の基 あのね かあさんが すきなのよ〜


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「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳に至るあたりまで、幼い子どもは、自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としてゐます。


その一対一の関係を通して、子どもは「世は善きところである」といふ信頼を、きつと、ますます深めていくことができるのでせう。


その個と個の関係において、人はまづ最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。


その最初の<わたし>の健やかな成長のために、子どもは、内側から湧き上がつてくる「意志・意欲」を、そのまま固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、ひとりの大人の存在を必要としてゐます。


その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、家庭があり、その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。


この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すやうな童歌があつて、まどみちおさんが作詞した「ざうさん」といふ歌があります。


  ざうさん、ざうさん、おーはながながいのね
  さうよ、かあさんも、なーがいのよ

  ざうさん、ざうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ


幼い子どもが、ひとりのお母さん(もしくは、それに代はる誰か)との結びつきを通して、個と個の信頼を育んでゐる姿が描かれてゐますね。


ひいては、自分自身への信頼をも育んでゐます。


わたしたち大人の内側に、第一・七年期の子どもにとつての大切なテーマでもある、この個と個の関係性をあらためて創つていくことの重要性を、いやといふほど感じてゐるのが、現代といふ時代かもしれません。


その関係性の基とも言へる、家庭の中における個と個の関係性、家庭の中における夫と妻の関係性、そこには、その人の第一・七年期のありやうが映し出されてゐます。


そここそに、新しい宗教性が啓かれるのです。


それは、ひとりの人とひとりの人との間の信頼の問題、そして、つまるところ、自己信頼の問題なのです。


そのことが、もつとも現代的なテーマとして、わたしたち大人が向かひ合つていくべきことだと、あらためてわたしは考へさせられてゐます。

posted by koji at 23:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜


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人における「子ども時代」。それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。


よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。


「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかつた」


でも、大人になつても、遅くはない。なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潛めてゐるからなのです。


「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのやうなことばが思はず呟かれるのかもしれません。


「子ども時代」を強く保ち続けてゐる人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ち続けてゐる。子どもの氣持ちにいつでも帰ることができる。自分の中の子どもに語りかけるやうに、何かを創つたり、語つたり、書いたりすることができる。その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。


幾つになつても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。

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2020年12月21日

こころのこよみ(第38週) 聖き夜の調べ


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わたしは感じる、
 
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は胸の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 
 
Weihe-Nacht-Stimmung   
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
 
 
クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。
 
 
どの人のこころの奥にも眠つてゐる、をさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
 
をさな子、それは、子ども時代の内でもとりわけ、記憶の境の向かう、三歳以前のわたしたちのありやう。
 
 
いまこそ、この時代こそ、世の男たちの(このわたしの)内なるをさな子が目覚めますやうに。さう祈らずにはゐられない。
 
 
なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、世のすべての争ひ、分け隔て、エゴ、それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
 
わたしたちは、この世に生まれてから、おほよそ三年かけて、歩く力、話す力、考へる力を育み始める。
 
 
その三つの力は、人のからだを創つていく力でもある。
 
 
歩く力によつて脚が、話す力によつて胸が、考へる力によつて頭が、だんだんと創られていく。
 
 
歩く力、話す力、考へる力は、当然その子によつて、意識的に身につけられたものでもなければ、大人によつて教へ込まれたものでもなく、そのをさな子の内から、まるで神々しい力が繰り出してくるかのやうに、地上的な力を超えたところから、生まれてくる。
 
 
そのおのづと生まれてくる神々しい力は、しかし、三年間しかこの世にはない。
 
 
をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、その子の内に、少しづつ地上を生きていくための知性と共に、エゴがだんだんと育ち始める。
 
 
しかし、きつと、それも、人の育ちにはなくてはならないもの。
 
 
三年の間のみ、人の内に、からだを創るための神々しい力が通ふ。
 
 
その地を越えた神々しい力は、この地を生きていくための基の力である。
 
 
「聖き、世のことば」キリストも、この世に、三年間しか生きることができなかつた。
 
 
イエス、三十歳から三十三歳の間だ。
 
 
そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、をさな子のをさな子たるところからの力であつた。
 
 
キリストは、世のすべての争ひ、分け隔て、エゴを越え、人のこころとこころに橋を架ける愛する力として、この地上に受肉した。
 
 
後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされてゐる、24日から25日の間の聖き夜。
 
 
その夜から、キリストがイエスに受肉した1月6日までをクリスマスとして祝ふ。
 
 
そして、このクリスマスは、二千年以上前のおほもとの聖き夜に起こつたことを想ひ起こすことを通して、わたしたちの内なるをさな子たるところを想ひ起こす時だ。
 
 
そして、いまから三千年以上あとに、すべての人がみづからのこころに精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)、キリストを見いだすことを、予め想ひ起こして祝ふ時だ、さうシュタイナーは語つてゐる。
 
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、その神々しい力が通つてゐた。
 
 
そして、実は、いまも、通つてゐる。
 
 
しかし、そのことを人は知らない。
 
 
わたしが、その神々しい力を想ひ起こせばこそ、いまもその力が通つてゐることに目覚めることができる。
 
 
このクリスマスの日々に、その力を自分の内にも認めればこそ、来る年への希みが羽ばたき始める。
 
 
争ひ、闘ひ疲れてゐる男たちが、みづからの内なるをさな子を想ひ起こしてゆくならば、世はおのづから刻一刻となりかはつていくだらう。
 
 
 
 
  
『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は胸の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 

 
※シュタイナーが、
 Seele といふことばを使ふときは、
 からだと繋がるところでありながらも、
 からだからは独立した働きを荷ふ
 「こころ」を言つてゐますが、
 Herzen といふことばを使ふときは、
 物質の心臓といふ意味合ひも持ち、
 またその物質の心臓の働きを支えている
 エーテルの心臓をも指すやうです。
 ここでは、
 Herzen を「胸」と書き表しています。

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2020年12月20日

方言といふもの〜「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか(井上俊夫作)」&「小さな村で見た(石村利勝作)」〜




方言といふものが人にもたらすもの。それは何なのでせう。


「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか(井上俊夫作)」
「小さな村で見た(石村利勝作)」です。


大阪弁のあと、静かな標準語による詩を聴いていただく時、その語感の差異は何を物語るのでせう。


小西収さんの編曲・演奏のクラリネットと共に、諏訪耕志による言語造形・詩の朗唱をお聴きください。
https://youtu.be/zhsEZkaJJoE


キダ・タロー作曲「地底のランナー」
井上俊夫作「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」
ドヴォルザーク作曲交響曲第八番より
石村利勝作「小さな村で見た」
さだまさし作曲「桃花源」


2020年10月18日(日)大阪の「ことばの家 諏訪」で行ひました公演『やさしい世界の終はり方』より。





2020年12月17日

アントロポゾフィークラス・オンラインのご案内



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ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』(鈴木一博氏訳)を読み解く2時間。途中からでも、どうぞお気軽にご参加下さい☺


講師:諏訪 耕志


●月二回金曜クラス
 12月18日(金)夜7時半〜9時半
「人の徳育」(第五講)

●月二回土曜クラス
 12月19日(土)朝10時〜12時 
「眠りから目覚めへ」(第六講)

●月一回月曜クラス
 12月28日(月)昼1時半〜3時半
「〈わたし〉はいかにしてからだに入つていくか」(第六講)


●参加費 
初回体験参加 3500円
3回連続 9000円

連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。
またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。


●お申し込み・お問ひ合はせ
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/


●お振り込み
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。

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聴くことの育み 〜青森での日々から〜


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青森での十七日間、毎日、オイリュトミーをする人、越中奉さんと朝から晩まで、ずつと話をし、飯を食ひ、練習をし、酒を飲んでゐましたが、こんなに話を聴いてもらへたことは、わたしのこれまでの人生でなかつたやうに思ひます。

わたしたちの間では、思ひやりの深さと遠慮のなさと尊敬と悪口と信仰とが混然一体となつてをりました。学生時代に帰つたやうでした。

そして、彼のオイリュトミーにおいて何が素晴らしいかと言ふと、それは、肉の耳に聴こえない、人のこころの動き、息遣ひを確かに聴くことのできるオイリュトミーであることでした。

その目には見えないかたち、耳には聴こえない余韻が描くフォルムを多くも多くの人が見えない、聴こえない、といふことに、わたしは仕事をしながら、気が狂いさうにもなつてをりました。

しかし、その不可視のもの、不可聴のものに対する感覚を分かち合へたことは、何か神からの恩寵のやうに感じ、特別の喜びでした。

さういふ感覚は、「ことばの感官」によつて感覚されます。

それは特別な人だけが持つ感官では、決してなく、すべての人が持つてゐるものなのですが、ことばを意味でしか捉えない、物理的な響きでしか聴くことのできない、知性に偏り過ぎた現代人の多くは、その感官をみづから閉ざしてしまつてゐます。

幼な子たちは、新鮮な生まれたての「ことばの感官」をもつて全身全霊で人のことばを聴いてゐますが、小学校に入り、知的な教育ばかり受けてゐるうちに、いつしか子どもたちはみづからの「ことばの感官」を閉ざして行きます。

そして、ことばの響きから生まれる色彩や運動、かたちや音楽などを感覚することができなくなつて行き、ことばを単なる情報を伝達するための符牒に貶めて行くのです。

では、その閉じられてしまつた感官をどうやつて再び開き、豊かに育んで行くことができるのか。

それは、一生懸命、ことばを「聴かうとする」ことです。アクティブな意欲を持つて、一つの音韻から一つの音韻を聴かうとすることです。注意深く静けさを聴かうとすることです。

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2020年12月16日

詩を朗唱する 「やさしい世界の終はり方」




あと何十回、何百回やれば、この詩のこころと精神を啓いてゆくことができるだらうか。

詩を朗唱するとは、ことばの意味や詩句の内容から離れて、音韻を精確にかたちづくりながら、かつ動きをもつて、母音から母音への流れの中に息遣ひをもつて入つて行くことを試みます。

地球の重力から自由になる。唯物的な感官のあり方から飛翔する。こころが情を湛えながら精神の境へと一気に昇りゆく。

この秋から冬にかけての三回の公演でも、この理想の何十分の一でも表現できたのか、どうか、分からない。

しかし、やり続けるのだ。倦まず弛まずやり続けるだけだ。

この動画では、ことばの響きの後ろに、秋の虫の音や空を飛んでいく飛行機の音などが入つてしまつてゐるのですが、それもよしとして、一区切りの記録として収録しました。

こころのこよみ(第37週) 〜歌へ、冬の夜に〜



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世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
 
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
 
輝くこころの萌しが、
 
世の基に根をおろすことを。
 
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
 
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。
 
 
 
Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
Dass leuchtend Seelenkeime
In Weltengruenden wurzeln
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
Verklaerend alles Sein durchtoent.
 
 
 
 
わたしは、既に十分な恵みに満たされてゐる。この世に生かされてゐる、といふことの中に、どれほどの豊かな恵みが既に潜んでゐるか。
 
 
そのことを想ひ起こすたびごとに、わたしのこころは明るく暖かくなる。こころが精神の光に照らされてゐるのを感じる。
 
 
でも、そんな恵みに満ちてゐるわたしが、心底追ひ求めることがある。それは、自分の力を最大限に使ひ尽くして、仕事をすることだ。
 
 
この恵みに満ちたからだとこころをフルに使つて仕事をすることだ。
 
 
輝くこころの萌しを世の基に根づかせることだ。天から戴いてゐる恩恵を大地にお返しするのだ。照らされてゐるだけではなく、自分自身から照らしていくのだ。
 
 
さうして、そのやうに仕事をしていくうちに、この恵みに満ちたからだとこころを使つてゐるのが、わたしのわたしたるところ、「精神」だといふことが感じられてくる。
 
 
実は、精神こそが隠れた主役で、わたしの人生の一コマ一コマを進めてゐたことに気づく。
 
 
その精神は、からだを基にしながら、からだの制約を超える。
 
 
こころに足場を見いだしながら、こころを、豊かに、大きく、広くしていく。
 
 
精神が主役である。
 
 
その精神が奏でようとしてゐる音楽がある。
 
 
その音楽を奏でることに、このからだとこころがいかに仕へていくことができるか。
 
 
仕事をすることによつてこそ、ますます精神が主役になつていくのを、日一日と感じることができる。
 
 
身の回りが暗く寒くなつてくるほど、身の内に宿つてゐる<わたし>こと精神が、ますます明るさ・暖かさ・熱さを滾らすことができる。
 
 
<わたし>こと精神。
 
 
「神のことば」と和して響くところをこそ、<わたし>といふのではないだらうか。
 
 
「神のことば」はありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響いてゐる。
 
 
だからこそ、<わたし>よ、歌へ。
 
 
もつと高らかに。
 
 
そしてもつと優しく。
 
 
 
 
世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
輝くこころの萌しが、
世の基に根をおろすことを。
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。



posted by koji at 07:29 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月15日

りんごのまんなか*夢の種



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オイリュトミストの越中奉さんと共に、先日、岩手県金ヶ崎にあるシュタイナー学校「ちっちゃな学校 りんごのまんなか*夢の種」にお邪魔しました。


いくつもの神社に囲まれるやうにして、農村地帯の真ん中にある小さな学校。


わたしも昔話を語らせてもらひ、本当に息を思ひつ切り吸つたり吐いたりしながら、子どもたちのこころと触れあひ、手取り足取り一緒に遊ばせてもらひました。


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そこに子どもたちを連れてお母さんたちも集まつて来られます。たつたおひとりで働いてをられる教師の及川弘子さんとも様々なお話を交はすことができたのです。及川さんは、子どもと共に「考へる」ことの美しさ、楽しさを心底追ひ求めてをられる人。


ルドルフ・シュタイナーは、教育そのものは科学であつてはならず、芸術であつていい、あるべきだと言ひました。ここで言はれてゐる芸術とは何でせうか。


昨日、おひとりのお母さん、そして教師の及川さんと語り合ふ時間を通して、わたしはかう感じさせてもらひました。


芸術とは、人と人とが再び信頼し合ふことを学ぶ営みである。芸術とは、人が世を信頼することを学ぶ営みである。芸術とは、人が神を信頼することを学ぶ営みである。そして、芸術とは、己れのことを信頼することを学ぶ営みである。


その学びを通して、肉体を持つわたしたちは、精神に触れる修練、精神に通はれる修練を数多く重ね、「聴く」ことができるやうになつて来る。


何を聴くのか。


人のこころ、子どものこころ、己れのこころを聴く。人のこころ、子どものこころ、己れのこころの囁きを聴く。嘆きを聴く。さうして、精神を聴く。精神は常に、いつも、何かを語つてくれてゐる。そのことばに耳を澄ます修練。


その修練を積み合ふ者同士が集ふことの貴重さ、かけがへのなさ。子どもたちをそんな場所で育て合つて行かないか。


そんな人との出会ひに満ち溢れた一日でした。ありがたさにこころ暖められる一日でした。


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※「りんごのまんなか*夢の種」来年2021年1月4日から一週間、越中奉さんによるオイリュトミー連続講座がここであります!



posted by koji at 22:16 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

課題としての結婚



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今日は、滋賀県草津市でのアントロポゾフィーの学びの会『両親の問診時間』。テーマは「課題としての結婚」。


「結婚」といふ最大の自己教育の場において、その自己教育を阻むふたつの力。ルーツィファーとアーリマン。


そのふたつの力に、わたしはどれほど蝕まれて来たことだらう。


十何年前にも、四・五年前にも、同じテーマで講義をさせてもらつたのですが、それらの時とはまるで違ふトーンで語らせてもらふことができたのでした。

posted by koji at 18:41 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月11日

愛宕神社 岩手 日高見国



一昨日、新幹線で青森の八戸から秋田に向かふ途中で、勘違ひして、いわて沼宮内駅で一時間半過ごさねばならぬ羽目になつたのでした。


そこで駅を降りて北上川の上流に沿つてずつと歩いていきました。そこは、日高見国(ひだかみのくに)と呼ばれた土地だと看板にあります。わたしがこの春演じた「をとめとつるぎ」といふ戯曲にも日本武尊がこの日高見国まで征旅に赴いたことを扱つたものですから、その奇遇に様々なことを想ひました。


ずつと北上川沿ひに歩いて行くと、愛宕神社の前に出たので、山道を登つて参拝しました。


冬の最中にも関はらず、汗を流しながら山頂まで登り、愛宕神社の前に額づきました。そこは、迦具土神(かぐつちのかみ)がお祀りされてゐるのでした。


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昇りくる朝日に照らされながら、岩手の風景を山頂から見下ろし、冠雪した岩手山を遥か西に見渡してゐますと、迦具土神といふ火の神(母・イザナミの神を死に追ひやつてしまつた神)が自分をここまで招いたのだ、といふ不思議な感覚がやつてきました。


そして、日本武尊も、きつと、ここに立つただらう。そんな気がしたのでした。


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posted by koji at 10:18 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月10日

秋田県立美術館 戸嶋靖昌展 縄文の焔と闇



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戸嶋靖昌の絵を求めて、秋田まで足を延ばしました。


『秋田県立美術館 戸嶋靖昌展 縄文の焔と闇』
http://shigyo-sosyu.jp/expo/toshima_yasumasa.html
彼の生涯に亙る画業をとつくりと観ることができるこの機会をどうしても逃したくなかつたのです。


絵とは何なのか、色とは何なのか、画家とは何をする人なのか、そんなことをずつと考へながらの3時間半、観ても観ても見飽きない、至福の時間でありました。


画面に描かれてゐる女の眼差しから「悲しみ」といふひとつのことばでは到底言ひ尽くせない混み入つた念ひが観てゐるわたしに向かつて放射され、その光を受けてわたしは「胸を衝かれる」といふことばの意味に、初めてリアルに撃たれるのです。


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「遠くを見つめるクリスティーヌ」
この絵も、実部を観なければ分からないのですが、絵まるごとから浮かび上がり、結ばれてくる眼差しの力に圧倒されます

また、画面の遥か後方に向かつて、描かれてゐる男の頭から夢想する想ひが解き放たれ、伸び拡がりゆく様に、絵を観てゐるわたしは目覚めつつ真実と美に陶酔することの三昧境を知るのです。もののあはれを知るのです。


戸嶋靖昌といふひとりの男の青年期から死に至るまでの仕事の変遷を今回辿り、人といふものは、まこと、成長するのだ、なりかはるのだ、といふことを驚きと共に実感しました。


本当にここ秋田にまで来てよかつたと思ふと同時に、今日しかここに来て観ることのできないことを激しく悔しく思ひました。

posted by koji at 22:41 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月08日

精神の境へ 〜青森公演『やさしい世界の終はり方』〜


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先日、青森県十和田市での言語造形公演『やさしい世界の終はり方』、終演いたしました。

七つの詩と物語、それぞれに、お客様の皆様は、思ふところ、感じるところを持たれたやうです。

ご来場下さつた皆様、どうもありがたうございました。


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山本恵美さんによる素晴らしいピアノの演奏、短い時間の中で、本当に精一杯、この作品に寄り添ひ、格闘して下さいました。その心意気が本当にありがたいですし、演奏そのものの抒情的な真実が際立つてゐました。


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そして、Mikameさんによる絶妙に効果的、芸術的な照明、受付や司会などを荷つて下さつた「シュタイナーに学ぶAOIもり」の皆さんに、こころから、こころから、感謝します。ありがたうございました。


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演者が自身の芸術を語ることは、やはり野暮なことだと思ひます。ただ、それなりの経験から、己れがなしてゐることへの聴覚、精確に言ふなら「ことばの感官」がおのづと教へてくれてゐることもあります。少なくとも、自分自身の内、こころと精神において、確かに起こつた出来事として、記述しておきたいと思ひます。


これまでの大阪、京都の公演では踏み込み不足であつた小林秀雄の「人形」において、今回の青森での言語造形公演では、より丁寧に細やかに扱はれた音韻のひとつひとつが、これまでにない深みを湛えた表情を精神の流れの中から引き上げて見せてくれました。この作品は、幾重もの細やかな情の衣を纏つてゐます。そしてその内に静かだけれども響き続けてゐる「もののあはれ」。日本人こそがとりわけ感覚できるものを、小林は薄い墨でさつと描いてゐるのですが、そこに籠められてゐる悲しみとユーモアが、このたび、わたしには澄み渡つて聴こえてきました。


そして、後半最後の作品、石村利勝氏作の「やさしい世界の終はり方」においては、地球の重力から自由になり、唯物的な感官のありかたから飛翔し、こころが精神の境へと一気に昇りゆき、ひとつになる、そんな時空間が生まれたのを確かに感覚しました。絶妙な照明の効果もあるのですが、まさに精神の顕現として、そのとき、演者のフィジカルなからだは発光してゐます。そこに生じた光と影は、肉の目で見るのではありません。


ことばの芸術が湛える、その感覚を持つことができる人は、まだ少数かもしれません。言語造形やオイリュトミーを何年も習つてゐる人でも、その人のこころの使ひ方が唯物的な知性に傾いてゐるほどにこの感官を啓くことは難しいやうです。精神の調べが聴こえないし、精神の動きが見えないのです。


しかし、中学二年生の女の子が終演後駆け寄つて来て、様々なことばを使ひながら、純粋な瞳で、「やさしい世界の終はり方」への感動をわたしに伝へてくれました。


このことは、何を意味するのでせう。


とにかくも、青森といふこの場所で、ひとりの純粋な精神の聴き手に出会へ、わたしは仕合はせでした。


かさねがさねになりますが、ルドルフ・シュタイナーが20世紀初頭に希んだこのやうな芸術のための場を、21世紀初頭の日本の青森の地に設へて下さつた皆さんに、こころからの感謝を述べさせていただきます。本当に、ありがたうございました。


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posted by koji at 17:29 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

星の世へとこころを繋ぐ



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窓の外は、お天気だけれども風が強く雪が積もつてゐます。三沢基地に離着陸する戦闘機の飛翔音がします。


青森の三沢市「三沢のみんなのお家」中川塾に住み込ませてもらひ、言語造形とオイリュトミーの稽古、生徒さんたちへのレッスンと講義、そして勉強に明け暮れてゐます。夜は語らひと笑ひと酒ですが((^^ゞ)・・・。


いま、人々を不安と疑心暗鬼の泥沼へといざなはうとしてゐる世界中のウイルス「騒ぎ」。大きな大きな政治的混乱。


そんな中、みんな疲れてゐます。


固くなつてしまつてゐる頭、冷たくなつてしまつてゐる胸、萎えてしまつてゐる手足。人は何かに縛られ、臆病に、幽霊のやうにあつちへ行つたり、こつちへ行つたりしてゐるやうです。


その疲れは、精神の世と繋がつてゐないことから来る疲れです。


わたしたちが、ここでしてゐる仕事は、ことばとオイリュトミーといふ動きの芸術をもつて、人と精神をしつかりと繋ぎ、精神からその人その人の生命を甦らせようとするものです。


精神的な生命は、憎しみや恐れや疑ひを燃やし尽くし、人のこころを再び星の世へと届けます。


ことば。


それは、そもそも、炎でした。精神の炎でした。邪悪なものを燃やし尽くし、人に目覚めを促す意欲的な創りなす力でした。


脈打つ血を通り、心臓を暖め、考へる力を活き活きと甦らせる。それが、ことばの働きなのです。


地の上を時に勇敢に、時に軽やかに歩み、腕と手を自由の領域へと羽ばたかせる、それが、ことばとオイリュトミーが精神から人へともたらすものです。


人々の疲れを根本的に癒し、ひとりひとりの人をその人の足で立たせようとする、ことばの創造力。


いま、その力が人には必要です。



posted by koji at 14:14 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月07日

こころのこよみ(第36週)〜汝は何を怖がつてゐるのか〜



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レオナルド・ダヴィンチ『サルヴァトール・ムンディ』


わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 
 
 
 
わたしといふものの深みにおいて、
「いま、目覚めよ」と、
世のことばが密やかに響く。
 
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくやうに
「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
 
「目覚めよ」とは、
恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
 
世のことばがささやいてゐる。
 
 
汝は何を怖がつてゐるのか。
何も怖がることはない。
己れの内に隠されてゐる恐怖から、
他者を罵り、責め、他者に期待することは、
もうやめよ。
 
 
汝を捧げよ。
汝の仕事に。
我・キリスト・汝の〈わたし〉を通して。
 
 
仕事をするといふこと、
生きるといふことは、
さういふことであつた。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 

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2020年12月05日

中学生とキリスト生誕劇の稽古



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中学生の女の子ふたりとキリスト生誕劇の稽古。


大天使ガブリエルとマリアの対話劇。芸術といふものに対するどこまでも素直で熱心な中学生。とても充実した稽古でした。


来週土曜日12日に、青森県八戸市種差で行ふ「冬のアドベントガーデン」(主催 シュタイナーに学ぶ会 AOIもり)に出演します。

posted by koji at 21:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月04日

青森 小さな芸術共同体


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青森に来て、毎日、稽古して、語り合ひ、笑ひ合ひ、酒を酌み交はし合つて、今日で八日目。歓迎会をして下さつた時には、様々な話題で盛り上がりすぎて、夜中の3時ごろまで喋り尽くしてしまひました。


人生の中でも本当に大切な日々を生きてゐることを感じてゐます。


ひとへに青森のシュタイナーに学ぶ会、AOIもりの皆さんとの、こころとこころの交はし合ひから生まれてゐる時間です。


昨日は、12月6日(日)の言語造形公演『やさしい世界の終はり方』に向けて、ピアノの山本恵美さんと本当に充実したリハーサルをすることができました。清潔で軽やかで、かつひとつひとつの音の芯に、ことばの作品にふさはしい重みを持つて、歌ふやうにピアノを弾いて下さり、青森の方々とどんな出会ひが生まれるか、わたし自身、今度の公演が本当に楽しみです。


朗読の伴奏といふやうな演奏や、物語を説明したり、修飾したりするやうな演奏ではなく、言語造形といふことばの芸術と器楽演奏といふ音楽芸術とが輻輳するやうな独自の芸術スタイルを産み出したい。三島由紀夫も晩年に近いころ、自身でする朗読「天と海」と山本直純作曲の演奏とをそのやうな意識で「詩楽」と命名して録音してゐます。50年以上も前に同じやうなことを考へてをられたのだなあと感じ入る次第です。


明日もまた言語造形をしに、何人かの方が集まつて来られます。


小さな芸術共同体がここにもあり、大人も、子どもも、一緒になつて、この学びの共同体自身がさらにこれからどんな成長をしていくのか、わたしもその一員として働かせてもらへる喜びをいただいてゐるのです。とても嬉しいことです。



青森での言語造形クラスのお知らせ


12月5日 (土) 場所:「三沢のみんなのお家」中川塾
10:00〜13:00 「かんのくらオイリュトミークラス」
     「言語造形」 「普遍人間学読書会」
14:00〜14:45  アドベントガーデンの語りレッスン
14:45〜 「こころのこよみ」


12月11日(金) 場所:「三沢のみんなのお家」中川塾
16:00〜  オイリュトミー&言語造形
18:00〜19:30 言語造形



言語造形公演『やさしい世界の終はり方』
12月6日 (日)14:30開演
場所:十和田市東コミュニティセンター
参加費:ドネーション制
.
.
「シュタイナーに学ぶAOIもり」主催

posted by koji at 11:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月03日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<慎ましく生き抜いてゆく>〜


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<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
己れみづからが手足となり、
 
世を慎ましく生き抜いてゆく。
 
 
  

Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
 
この『こよみ』の<ある>といふことばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
  
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、もう既に、ここに<あつた>。
 
 
ものごころがついたときから、<わたし>が既に<あらしめられてある>ことに、気づきだした。
 
 
この<わたし>は、わたしが気づく前から<ある>。
 
  
そして、いま、<わたしはある>といふ事態をありありと感じることができる時といふのは、わたしのこころが活き活きと生きて働いた後、そのことをその活き活きとした感覚を失はずに想ひ起こす時ではないか。
 
 
だから、そのやうに、こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、<わたしがある>といふことを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知つていくことができる。
 
 
何を想ひ起こすのか。
 
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>といふ人もが、みづみづしく深みを湛えて甦つてくる。
 
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、その想ひ出の繰りなしは、みづみづしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言つてもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、人は「みづからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだらうか。
 
 
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えてゐるこころの憶ひだけではなく、からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
 
たとへば、この足で立つこと、歩くこと。ことばを話すこと。子どもの頃に憶えたたくさんの歌。自転車に乗ること。字を書くこと。筆遣ひ。包丁遣ひ。などなど。
 
 
身についたこと、技量、それはどのやうに身につけたかを頭で想ひ出すことはできなくても、手足が憶えてゐる。
 
 
手足といふもの、からだといふものは、賢いものだ。
 
 
それらの手足が憶えてゐることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>といふことに対する確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
 
また、パーソナルな次元を超えて、人といふ人が持つてゐる、からだといふなりたち、こころといふなりたち、果ては、世といふもの、神といふもの、それらも人によつて想ひ起こされてこそ、初めて、ありありと、みづみづしく、その人の内に生き始める。
 
 
だからこそ、<わたしはある>といふ想ひを人は深めることができる。
 
 
<神の内に、わたしはある><わたしの内に、神はある>といふ想ひにまで深まることができる。
 
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。
 
 
手足の闊達な動きに秘められてゐる技量といふ技量を発揮すること。
 
 
それらすべてを司つてゐる世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
 
それらが、<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、<わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
 
わたしのこころが活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、<わたしはある>とが響きあふ。
 
 
<ある>といふことを知つていくことは、<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
 
世の中において、こころが<生きた>こと、手足が<生きた>こと、わたしまるごとが<生きた>ことを、活き活きとわたしが想ひ起こす時、<わたし>も、世も、ありありと共にあつたのであり、いまも共にあるのであり、これからも共にありつづける。
 
 
わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
 
そして、いまも、これからも、精神からの想ひ起こしをすることで、こころを活き活きと働かせつつ、力が与へられてゐるのを感じつつ、手足を使つて、地道に、慎ましく、世を生きてゆくほどに、<ある>といふことを、つまりは、<わたしがある>といふことを、わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
 
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
 
 
   人のこころ!
  
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
  
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。
 
 
              (鈴木一博さん訳)
 
 
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
己れみづからが手足となり、
世を慎ましく生き抜いてゆく。




posted by koji at 09:33 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜



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ルオー「聖顔」



密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覚めた世の数々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein 
Im Innern sich belebend fühlen:  
Es soll erweckend Weltenkräfte 
In meines Lebens Außenwerk ergießen 
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 

 
この肉をもつたからだは、なんのためにあるのだらう。
 
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、自分の周りの世をほんの少しづつでも善きものにしていくために、このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
 
そして、そのやうに、「からだを使つて、今日も生きていかう」といふ意気込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。手を動かして、洗顔できるといふこと。ものを食べられるといふこと。歩いて、行きたいところへ
行くことができるといふこと。子どもと遊ぶことができるといふこと。そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
 
これらすべてのことをするためには、からだが健康であることは勿論だが、さらに意気込みが要る。
 
 
その意気込みは、自分自身で生み出すといふよりも、朝起きて、眠りから覚めて、おのづといただいてゐる。それは本当に恩寵だと感じる。
 
 
これこそが、世の数々の力からの恵みではないか。
 
 
この恩寵への感謝の日々を毎日生き続けていくことが、わたしたちの外なる仕事に生きた力を吹き込んでくれる。
 
 
感謝の念ひこそが、わたしたちの心意気を日々目覚めさせてくれる。
 
 
そして、この目覚めは毎日を新しくする。わたし自身を新しくしてくれる。
 
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。しかし、そんなとき、人は意識の上で夢見てゐる状態か、眠り込んでゐる状態だ。
 
 
さあ、当たり前にできてゐることに、あらためて目を注いでみよう。
 
 
からだを当たり前に使へることの恩寵にあらためて驚くことができるだらうか。
 
 
さらに、あなたにとつて、わたしにとつて、「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何か。
 
 
それは、みづからのこころといふものの核のこと。
 
 
こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言つてもよく、それを意識の上に育てていくために、メディテーションといふこころの練習がある。
 
 
この『こころのこよみ 第34週』では、そのこころといふものの核を「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言ひ表してゐる。それは、無理をせず、どこまでも自分自身であること(精神からの光)。
 
 
そして、毎日の感謝から生まれる、「新しく生まれてくる己れのありやう」。それは、日々新鮮に自分自身を感じること(からだからの恩寵)。
 
 
このふたつが重なつて、こころそのものが、活き活きと動き出す。
 
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、<わたし>として、ますます、「ありありと」あるやうになつてくる。
 
 
外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく。
 
 
わたしが、仕事を通して、<わたしはある>といふありやうに、なりゆくこと。
 
 
これこそが、豊かさである。
 
 
ひとりひとりの<わたしはある>といふありようこそが、世を豊かにする。
 
 
  

密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覚めた世の数々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 
 

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2020年11月27日

新年1/4(月)〜1/7(木)連続講座 言語造形とアントロポゾフィー



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冬の言語造形・連続講座のお知らせです。 


わたしたちは、フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、ことばを話してゐるのではありません。


エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして、〈わたし〉といふ、目には見えないところをこそ使つて、言語生活を営んでゐます。


そのことを感じながら、意識しながら、ことばを話す練習をしませう。ことばとひとつになりゆく体験を積み重ねませう。


書かれてゐる文字に、息を吹き込みませう。命を吹き込みませう。そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。


それは、ことばを甦らせ、わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。


午後は、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーを平易に、かつ深く学んで行きます。


四日間の連続講座だからこそ、日常を突き抜けて、こころの奥深く、からだの奥深くに、芸術が働きかけます。


身体まるごとを使ひ、こころまるごとを注ぎ込み、そんな言語造形といふことばの芸術に、わたしと共に取り組みませんか。


それは、フィジカルなからだ、エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして〈わたし〉といふ、四重の生を感じつつ生きる始まりです。


そして、言語造形に勤しむ人になりませんか。


講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


日時:
令和三年1月4日(月)より7日(木)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで


場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

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2020年11月25日

こころのこよみ(第33週) 〜人に任されてゐる仕事〜



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わたしはいま、世をかう感じる。

それは、わたしのこころがともに生きることなしには、

そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、

そして、力が啓かれることもない。

人のこころにおいて、世は新しく創りなす。

世そのものにおいては、死を見いだすのみ。


So fühl ich erst die Welt,
Die außer meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend, 
In Seelen sich von neuem schaffend, 
In sich den Tod nur finden könnte.           


世とは、この地球を含む宇宙まるごとのことであり、四季折々に織りなしてゐる自然のいちいちのことであり、このわたしをも含む人といふ人のことでもあり、そして、物質の域だけでなく、こころの域、精神の域にまで及ぶものであるだらう。


その「世」といふものに、この「わたし」が働きかけることによつて、何が生じるだらうか。


たとへば、こころを籠めて世の何かを、世話する、面倒をみる、手塩にかけて育てる、などなど・・・。人が、さうするとき、その何かはどのやうな変化を見せてくれるだらうか。


人がこころを注ぎつつ手入れしてゐる庭と、ほつたらかしの庭とでは、何かが違ふ。


人が大事に、感謝をもつて住んでゐる家と、家のあちこちに対して文句を言ひつつ、手入れが行き届かない家と、また、誰も住んでゐない家とでは、それぞれ、趣きを異にする。


対象が、庭や家だけでなく、動物や人ならば、その違ひもより明らかに見られるのではないだらうか。


それは、決して、気のせいではない、明らかな趣の違ひとしてしつかりと感じられる。


今週の『こよみ』では、かう記されてある。


 わたしのこころが共に生きることなしには、
 そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ


世は、人によつてこころから意を注がれることを待つてゐるのではないだらうか。


花も、動物も、水や風やあらゆる自然のものも、人が創り出したあらゆるものといふもの、機械類までも、そして、もちろん、人や、目には見えないが世に存在してゐる者たちも、人から、こころを向けられるのを、待つてゐるのではないだらうか。


人がこころを注ぐところに、新しいいのちが宿る。


いのち、それは人が、その人みづからのこころの力をもつて、世に新しく与へることのできる愛、と言つてもいいかもしれない。


人からの愛が注がれるところに、新しく、世そのものがもつてゐる力が啓かれる。


さうして、世は、人とともに、時とともに、更新されていく。


世は、人からの積極的な行為を、愛を、待つてゐる。


人とは、なんと大きな仕事を任されてゐることだらう。



わたしはいま、世をかう感じる。
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて世は新しく創りなす。
世そのものにおいては死を見いだすのみ。

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小さな芸術共同体



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今日の言語造形のクラスで、石垣りんの詩「儀式」に生徒さんと共に取り組んだのです。


「儀式」石垣りん

母親は
白い割烹着の紐をうしろで結び
板敷の台所におりて
流しの前に娘を連れてゆくがいい。

洗い桶に
木の香のする新しいまないたを渡し
鰹でも
鯛でも
鰈でも
よい。

丸ごと一匹の姿をのせ
よく研いだ庖丁をしっかり握りしめて
力を手もとに集め
頭をブスリと落すことから
教えなければならない。
その骨の手応えを
血のぬめりを
成長した女に伝えるのが母の役目だ。

パッケージされた肉の片々(へんぺん)を材料と呼び
料理は愛情です、
などとやさしく諭すまえに。
長い間
私たちがどうやって生きてきたか。
どうやってこれから生きてゆくか。


何度も何度も取り組んでいくうちに、朗唱してゐる者も聴いてゐる者も、たつた一語と一語の間に、涙が溢れてくる時が突然やつて来たのでした。

それは、語と語のあひだ、音と音の間(ま)に隠れてゐた秘密の扉が開けられ、詩の作者の思ひや意図を遥かに超える、人類の抱き続けざるをえない悲しみが溢れ出て来たのでした。

たつた一音の扱ひによつて、人は激しく情を動かされたりするのです。

ことばの芸術によつて、そこに集まる人たちが皆、涙を流す。

このやうな小さな場において芸術・文化・精神が育まれて来たこと、芭蕉の俳諧、連句の場などで江戸の元禄時代には特に集中的になされてゐました。

まことと美、それを真ん中に据ゑて、こころを開いた少数の人が集まる。そんな芸術共同体が、ふたたび、日本の各地に数多く生まれて来ることこそ、文化の国、日本の再生を促します。

クラスの終はりに、秋の七草の花の名を歌つた山上憶良の萬葉歌を言語造形でたつぷりと味はひました。

萩の花 尾花 葛花 なでしこの花
女郎花 また藤袴 朝貌の花  (萬葉集 1538)

花の名を唱へるだけで、花といふものの精神が空間一杯に拡がり、花の神さまと交はることの喜びを感じることができるのです。

この国の精神文化をふたたび甦らせることができると信じて、また今日も励んでゐます。



posted by koji at 13:33 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人のこころは何かを信じる必要がある



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19世紀の初頭に生きたスペインの作家、マリアーノ・ホセ・デ・ラーラ。彼は27歳の時、みづから死を選んでしまつたのですが、彼のエッセイ『1836年クリスマスイヴ』の中の一文を見て(執行草舟氏『脱人間論』から)、こころが揺さぶられ、考へてしまひました。

「人のこころは何かを信じる必要がある。信じるべきまことがない時、人は嘘を信じる」

信じる。それは、その人がその人であるためのぎりぎりの力じゃないだらうか。

信じることを諦めてしまはざるをえなくなつてしまつたこころは、己れをも世をも、共に失ふ悲惨を生きねばならない。

しかし、嘘でもいいから信じたい、と叫ぶこころは、やがて悲劇の中に突入していかなければならないのだけれども、それでも信じることを諦めずに己れと世との紐帯を繋ぎ止めてゐる。

たとへ、どれほど嘘が横行する世であつたとしても、世にはまことが、きつとある。さう信じる力はどこから来るのだらう。こころの奥底から、としか言ひやうがない。

信じる力は、考へる力よりも、もつと深い力。昔からの力。こころの底力。

自分が自分でありつづけるために、かつ、人と共に、世と共にありつづけるために、このこころの底力、信じる力を護り、育てる工夫を自分は毎日してゐるか。



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2020年11月23日

神代の手ぶり


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今日、11月23日は、新嘗祭(にひなめさい、より古くは「にひなへのまつり」)です。そもそも旧暦の11月23日に行はれてゐた祭。だから、今の暦・新暦だと、一年の終はりにあたり、冬至の祭でありました。思ひを再び昇りゆく太陽に向ける祭でありました。

コロナウイルス禍で社会が大混乱を起こしてゐる最中にも関はらず、宮中では、天皇陛下御みづから、今年の米の収穫を天恵として、神に感謝の念ひを粛々と捧げて下さつてゐる。高天原での神々の「手ぶり」をそのまま行つてをられる。神代の手ぶりとおきてをそのまま伝へるのが、我が国・瑞穂の国の祭です。

このことがいかなる精神的意味をいまだに持つてゐるかを子どもたちに教へることは、大切なことであると思ひます。

そして、全国各地の神社においても同様に祭が執り行はれてゐます。

ハイテク文明に支へられてゐる近代国家である日本は、この神代の手ぶりを何千年も(何万年も?)伝へ来つてゐます。このやうな国は近代国家群の中では、世界で唯一です。

posted by koji at 20:44 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月22日

カーネーション ライブ


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カーネーション CARNATION
五十代も半ばになつて好きになつてしまつたロックバンド。

コロナウイルス禍の中、わたしにとつて、本当にこのバンドの音と歌声にどれほど励まされ、支へられてきたことか、といふ存在でした。

そのカーネーションが大阪に来るといふので、今晩、ライブに馳せ参じました。

直枝政弘氏のギターと歌声で一曲目がゆつくりと始まり、ズシン、とドラムとベースとキーボードが入つて来て、静かに情念に満ちた歌が朗々と歌ひ上げられるのを聴いて、いきなり、さう、いきなり、涙がボロボロと流れ出し、胸を鷲掴みにされてゐることに、自分自身で驚く。

直枝氏の切ないメロディーと歌とギターの凄いコンビネーション、ベースの太田氏とドラムの張替氏による太くうねるやうなグルーブ、深いセンスに裏打ちされた伊藤氏によるキーボードワーク、たつた四人の男たちによる練り上げられた極上の演奏と歌に、次から次へと喜びが足元から立ち上がつて来る。涙が何度も溢れ出て来る。こんなことは初めてです。

ゲストの山本氏のギターも凄かつた。さう、「凄い」といふことばでしか言へない鋭さと一曲一曲に相応しい雄弁さ。

そして、静かな佇まひから生まれる強い感情に満ちた直枝氏の歌。さう、歌を聴きに来たのだ。歌が、聴きたかつたのだ。本当に、歌が聴けて、よかつた。

直枝氏も太田氏(カーネーションはこのおふたりで活動してゐる)も御年六十を超えてをられる。自分よりも年上の男たちが、こんなにもみづみづしく活き活きと、かつ味はひ深い仕事をしてゐるのを、目の当たりにして、生きて行く希みのやうなものまでももらつてゐることを感じる。

十四の歳からロックやソウルのライブコンサートに行き続けて来たのですが(一番最初は1979年の大阪フェスティバルホールでのクイーンでした!)、今晩は、もしかしたら五本の指で数へられる中に入る、わたしにとつて忘れられないライブだと感じてゐます。

会場に、小学生の男の子と父親らしき人が来てゐて、終演後、二人で話しながら、夜の梅田の街を帰つて行く後ろ姿を見ながら、わたしも家路に着きました。親子で、こんなにすばらしい音楽を、ともに、聴けるなんて、本当に、最高じゃないか。



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2020年11月19日

間(ま)が怖い?


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言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、息遣ひ、呼吸です。

深く吐き出される息が、ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、おのづと間(ま)を生み出すのです。

その無音の間は、豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。ことばが発音されるときよりも、むしろ、その無音の間の中にこそ、ことばの精神、言霊が響きます。ですから、時閧ニ空間を、ことばといふもので埋め尽くさないのです。無音の間が活き活きとしてゐる事で、そこに物質的なものではない、精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。

その精神の豊かさは、人の頭にではなく、胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。

そのやうな間(ま)に触れるとき、人によつて、随分と違ふ反応が表れます。

からだの調子が悪い時、そのやうな間に触れて、人は眠りにいざなはれるやうです。きつと、精神がその人を休息へと導いてくれるのでせう。

逆に、からだもこころも健やかな時、そのやうな間は、その人の意識をますます目覚めさせ、ことばの響きと間に呼び起こされる、様々な感覚を享受させてくれます。色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、それら様々な情景を「もののあはれ」として、人は享受することができるのです。

また更に、次のことは、これからの時代、ますます顕著になつてきます。それは、こころの奥に自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、自分自身に嘘をついてゐるとき、自分自身のこころの闇を見やうとしないとき、人は、そのやうな間に触れると、不快感を感じたり、不機嫌に成つたり、耐へられない思ひに捉はれたりするやうになります。

現代人に、「間(ま)」を嫌ひ、「間(ま)」を避けやうとする傾向が見られるのは、この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。

「間(ま)」とは、魔なのかもしれません。しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。「真(ま)」に触れて人は、だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、健やかに、欣びを存分に享受しながら仕事をしていくでせう。

芸術はそんな仕事を荷つてゐます。

言語造形もそのやうな芸術のひとつだと思ひます。





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2020年11月18日

自分自身の声を聴くこと


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保育園の0〜2歳児、3歳児、4歳児、5歳児、それぞれのクラスで昔話をさせてもらつた時、その保育園の先生方と言語造形のワークショップもしたのですが、その時、おひとりおひとりの先生に、こんなことを訊きました。

皆さんは、御自身の声が好きですか。すると、すべての先生が、嫌ひだとお答へになりました!

そこで、こんなお話をさせてもらひました。先生といふ職業は、その存在まるごとで、子どもたちに向き合ふお仕事。だけれども、まづもつて、子どもたちに働きかけるのは、先生の声とことばです。その先生自身が、御自身の声を好きになれないとしたら、その好きになれない声で、子どもたちに話しかけることになりますね。

声とことばが、人にとつての道具だとするなら、その人自身が愛してゐない道具で決していい仕事はできません。声とことばは道具だと言ひましたが、道具にしては、あまりにも、我が身と我がこころに密着している道具です。だからこそ、まづもつて、我が親しい道具である、自分自身の声を好きになることから始めませう。

そんな話をさせてもらひました。
 
その後、保育園からの帰りの電車の中で、こんなことを考へました。 

なぜ、自分自身の声が好きになれないのだらう。たとへば、録音された自分自身の声を聴く時の違和感。自分は、こんな声で話してゐるのか!そのショックは、どこからやつて来るのだらう。

もちろん、録音された音声は、生の音声とは質が全く違ふ。しかし、本質的なこととして、そのショックは、普段、自分自身の声に耳を傾けることがほとんどないことから来てゐる。

思ひ切つたことを言つてみよう。そもそも、ことばとは、意を伝へるものではない。ことばで、自分自身の言ひたいことが、他人に伝はると、本当に思ふか。どこまで、ことばを尽くしても、人と人との間には、常に理解の差異が存在しないだらうか。むしろ、ことばとは、自分自身が聴くために、発せられる。そして、自分自身を知るために、発せられる。

自分が発する声とことばに、どこまで、自分自身が耳を澄ますことができるか。その瞬間瞬間に、わたしたちは、ことばといふものの本当の価値を感じる。

自分の声を好きになるには、自分自身の声を、よおく聴くことだ。自分自身の声とことばに、よおく意を注いであげることだ。

そもそも、どの人の声も、美しい。

その美しさは、人から、自分自身から、意を注がれて、初めて顕はになる。



posted by koji at 18:10 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

結婚の意味



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といふテーマで、昨日は講義をさせてもらひました。わたしにとつて、なんと身の程知らずなテーマでせう!

昔の人にとつては、伝統的な暮らしぶり、長い月日から生まれて来た叡智が大家族といふシステムの中で見事なまでに機能的に作用してゐましたので、ひとりひとりのエゴもある意味、集団の中で撓められ、育まれ、結婚を通して家族を持つといふこと、「結婚の意味」がおのづと分かるやうになつてゐました。

しかし、現代、ライフスタイルは激変し、大家族がどんどん分化して、核家族として結婚生活を営むやうになつて、昔では考へることもできないやうな自由を享受しながらも、エゴとエゴとがまともにぶつかり合ふ、そんなきわどいバランスの上でわたしたちは生きてゐます。そして、「結婚の意味」は誰も教へてくれません。ひとりひとりが自分自身で見いだし、つかみ取つていく他なくなつてしまひました。

つまるところ、結婚の意味とは、様々な社会的な意味のさらに深みにある、「愛」の問題に尽きますので、人の内なる精神への問ひかけになつてしまひます。

愛とは、からだを超える精神の次元があること。いや、むしろ、精神の次元でこそ、愛が本質を顕はにすること。さらに、痛みや苦しみや悲しみを痛切に感じ、死といふものが目前に迫らないと、たいていの人は愛に目覚めることができないので、「結婚」とは何を意味するのか、といふ問ひを本心本当に自分の問ひとして抱くことは、とてもとても難しいことです。

エルンスト・フォン・フォイヒタースレーベンといふ人が、こんなことばを残してゐます。

精神のみだ。
こころが外に希んで得られないものを
つくりだすことができるのは。
愛を求める者は愛を見いだすまい。
が、愛を与へる者は愛を受けるだらう。

これらのことばは、重くはないでせうか。
わたしには、とても重いことばと感じられます。



posted by koji at 07:54 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月17日

12/6〈日〉青森公演「やさしい世界の終はり方」のお知らせ


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青森の川崎なおみさんからの投稿をシェアさせてもらひます。

ーーーーー
なんと!なんと!

言語造形の諏訪耕志さんが

大阪から✈️

青森に飛んできてくださいます!

山本恵美さんとコラボします!

『言語造形とピアノが響きあう

        七つの詩と物語』

12月6日 日曜日 14:30〜

十和田市東コミュニティセンターにて。

「シュタイナーに学ぶAOIもり」主催

参加はドネーションです♡

皆さま♡是非とも

この貴重な公演会にご参加ください♡

諏訪耕志さんが語る言語造形という

芸術の世界を味わってみませんか♡

♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾

8月の越中さんの
「かんのくらオイリュトミークラス」

言葉のオイリュトミーでは、

与謝蕪村の詩の母音を動く。

「月天心 貧しき町を 通りけり」

Zuki Tenshin
Masushi ki Machi wo
tohori keri

ひとりが、詩を語り(初体験‼️)

残りの人が、黒板のフォルメンを動く。

我ながら…ビックリするくらい

棒読みで…早くて…

感情の欠片も感じられないような口調💧

「蕪村が作った詩を、

生き生きと言葉を語ることは、

芸術に引き上げることになる」

と越中さんが語る。

本当にそうだ!

越中さんが語る詩の言葉が

いかに生き生きと

響いて感じられることか!感動♡

これは、言語造形という芸術!

こんな風に言葉を語りたい。

エーテル体を内側を生かしたい!

いつか、きっと❗️と思っていたら、

言語造形の師匠に学ぶチャンスが

与えられることの奇蹟…を感じながら♡

今から、ワクワク♡

posted by koji at 19:32 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人と世を知るといふこと



いま、地上の世における大動乱のさなかにゐつつも、それがサイバー空間の中での出来事に思へて、「都構想」選挙が終はつた大阪にゐるわたしは呑気に過ごしがちだ。


しかし、ほんの少しでも想像力を働かせてみれば、これは大変なことであることにすぐに気づく。


アメリカにおいて、大統領選を通して、非常に危機的な状況が繰り広げられてをり、これまで闇に蠢いてゐたものが白日のもとに引きずり出されようとしてゐる。そして、この結果は、必ず、日本に激烈な影響を及ぼす。


そして、これは本当に不思議なことだが、おそらく、わたしだけでなく、多くも多くの人が、みづからの内面の闇にこれまで蠢いてゐたものに直面せずにはゐられなかつたのが、この2020年、令和二年といふ年なのではないだらうか。


隠されてゐたものが顕はになる。


むしろ、今年、己れの内なる「膿」を出さずにゐるとするならば、逆に後々、より大変なことになるのではないだらうか。


コロナウイルスによる脅威などでは全くなく、捏造されてゐるコロナウイルス「禍」による社会の大混乱によつて、実は、ひとりひとりの内なる闇、そしてなんと全世界にこれまで隠微にはびこり続けてきた巨大な闇が、白日の下に引きずり出されようとしてゐる。


この2020年、令和二年といふ年は、なんといふ年だらう!

posted by koji at 19:29 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

萬代池の秋


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今朝の萬代池はきれいだつたナ。澄み切つた青空の下、家族連れや年老いた方々が歩いてゐた。幼いころ父や母に連れてきてもらつたことを想ひ出す。池の周りにある家の窓が開け放しになつてゐて、中からその家の親子らしい笑ひ声が聴こゑてきました。


この池は 千代に八千代に 萬代(よろづよ)に
秋を奏でむ 黄みどりくれなゐ


亡き父の みまもるひとみ 微笑みて
幼な子あそぶ 萬代(よろづよ)の池


秋空に ひと筆ふた筆 走らせて
青地に白く たなびく雲かな


今日もまた 池のほとりに 佇みて
いのち洗ひし 秋の青空


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posted by koji at 19:53 | 大阪 ☁ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜



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林武[花」



わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
 
その力は強められたわたしを世に委ねる。
 
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
 
明るみへと向かふべく、
 
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
  
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;      
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend        
Zur Klarheit sich zu wenden             
Im Lebensschicksalsweben.              
 
 
 
 
この秋といふ季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
 
 
わたしがわたしみづからを
支へ引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
 
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
 
これらは、みな、
己れから己れを解き放ち、
己れの小なる力を諦め、
大なるものに己れを委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだらうか。
 
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
 
 
その源から、
<わたし>は常に力をiいただいてゐる。
 
 
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていかう。
 
 
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
「生きることの仕合はせ(運命)が
 織りなされる中で」何が待つてゐるのだらう。
 
 
小さなわたしが
あれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を
織りなしてくれてゐることへの
信頼を育みつつ、
勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
 
そのときこそ、
「わたしのわたしたるところ」
「強められたわたし」が、
きつと顕れてくる。
 
 
今日も、ていねいに、
牛のやうにひたすら押しながら、
「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
 

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2020年11月15日

1/4〜1/7 連続講座「言語造形とアントロポゾフィー」



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冬の言語造形・連続講座のお知らせです。 

わたしたちは、フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、ことばを話してゐるのではありません。

エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして、〈わたし〉といふ、目には見えないところをこそ使つて、言語生活を営んでゐます。

そのことを感じながら、意識しながら、ことばを話す練習をしませう。ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。

書かれてゐる文字に、息を吹き込みませう。命を吹き込みませう。そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。

それは、ことばを甦らせ、わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。

 
午後は、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーを平易に、かつ深く学んで行きます。

四日間の連続講座だからこそ、日常を突き抜けて、こころの奥深く、からだの奥深くに、芸術が働きかけます。

身体まるごとを使ひ、こころまるごとを注ぎ込み、そんな言語造形といふことばの芸術に、わたしと共に取り組みませんか。

それは、フィジカルなからだ、エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして〈わたし〉といふ、四重の生を感じつつ生きる始まりです。

そして、言語造形に勤しむ人になりませんか。

講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji

日時:
令和三年1月4日(月)より7日(木)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで

場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円

お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


 
お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


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2020年11月14日

精神からの何か


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「BEAUTIFUL PLANET EARTH」から


先日、ある人と話しをしてゐるうちに、どんどんこちらのこころが晴れやかに、健やかになつて行くのを感じたのです。


その時、確かにわたしが持つたのは、精神から発せられることばと声を聴いてゐるといふ感覚でした。


ルサンチマン・恨みつらみからではなく、精神から発せられてゐるならば、たとへ、その発言が怒りから発せられてゐるとしても、その声とことばは、聴いてゐる人の深みに健やかに働きかける。


そのことをとても強く感じて、嬉しかつた。


発言のひとつひとつ、書くことのひとことひとことに、精神からの何かがあるのかないのか。


わたし自身、顧みることを常にしたいし、だんだんとリアルタイムで感じられるやうになりたい。


さう思ひます。


では、精神とは、何か。


それに対する答へではなく、その問ひそのもののリアリティーを見失はないことがたいせつなことであるとも感じられます。





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2020年11月13日

滋賀県草津 両親の問診時間 11/17(火)のお知らせ


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オリジナルラブ アルバム『bless you』ジャケットから


いま、わたしは何かを考へてゐる。
いま、わたしは何かを感じてゐる。
いま、わたしは何かを欲してゐる。


自分自身のそれらのこころの営みをていねいに見てとる。そこからこそ、アントロポゾフィーの学びは始まります。


そして、今回のテーマは、「生涯のパートナーと結婚の意味」です。


結婚といふこと、家庭といふこと、それがまぎれもない自己教育の場であることを確かめていきます。


初めての方でも、ご参加いただけます。



●11月17日(火)
「生涯のパートナーと結婚の意味」 


●12月15日(火)
「課題としての結婚」


●1月19日(火)
「家庭と仕事への力の泉」


●2月16日(火)
「こころの織りなし、からだのつくり」


以降も毎月第三火曜日に学びの会は続きます。


保育(有料)も受け付けいたします。
どうぞ奮ってご参加下さい。



講師: 
諏訪 耕志
https://www.facebook.com/koji.suwa


場所:
滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただきました方に詳しくお知らせします)


参加費:
単発ご参加 3000円
4回連続ご参加 10000円
講師の交通費(大阪市内玉出駅・南草津駅間)を
その日の参加者で頭割りしてご負担していただいています。
どうぞご了承下さい。


お申し込み・お問い合わせ:
筒井 聡子さん
https://www.facebook.com/satoko.tsutsui.1





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2020年11月11日

命ある芸術 〜フルトヴェングラー『音と言葉』〜



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「まさに、我が意を得たり・・・!」
フルトヴェングラーの著書『音と言葉』の中の「作品解釈の問題」を読んでゐて、こころを揺さぶられました。


それは、作曲する者の営みと、その曲を再現・演奏する者の営みとを、対照的に描きつつ、つひには、ひとつのところへと収斂していきながらも、作曲した者も演奏する者も思つてもみなかつた、より広やかでより奥深い境へと解き放たれていく、そんな芸術的な秘儀の道筋を描いてくれてゐる。


かういふことばで言ひ表しにくいことを的確に言ひ表してくれる先人があることは、本当にありがたいことです。


これは、文学作品を音声として芸術化する時にもそのまま当て嵌まるのです。


なかなか、このことは上手く言へないのですが、今日の言語造形のクラスでも実感したこととして、鍵は、足の運び、腕の動きにあります。


つまり、意欲をいかにして芸術的に洗練させるか。眠れる意欲こそが、新しい生き物を産み出す秘訣。特に足の運びは、普段無意識でなされてゐるけれども、その無意識の領域、眠りの領域にまで、ことばを降ろすことができたとき、ことばが命を持ち、また、新しいことばが生まれてくる。


この、眠りの意識にこそ働きかけるありやうは、書く人にも、それを再現する人にも、ことばの生命に預からせます。


ゲーテは、狭い書斎の中を歩き回りながら、『ファウスト 第二部』の彫りの深いことばを次々と秘書に書き取らせていつたさうです。


きつと、『ファウスト』を演じる俳優も、その足の運びが、ものを言ふはずです。


要(かなめ)は、ものに命を吹き込むこと、ものの命を汲み取ること、ものから命を甦らせること、そのためには、人はみづからの意欲をもつて芸術的にものに働きかけていくことだと思ふのです。



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こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜



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本居宣長自画像



精神の深みからの光が、

まるで太陽のやうに輝きだす。

それは生きる意欲の力になり、

そして、おぼろな感官に輝きいり、

力を解き放ち、

こころから創らうとする力を

人の仕事において、熟させる。


Das Licht aus Geistestiefen, 
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit, 
Um Kräfte zu entbinden, 
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben 
Im Menschenwerke reifen lassen.           



「精神の深みからの光が、
 まるで太陽のやうに輝きだす」


わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。


しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のやうに輝きだす
 精神の深みからの光」
をどう捉へていいものか、
途方に暮れはしないだらうか。


この文、これらのことばの連なりから、
どのやうなリアリティーを
摑むことができるだらうか。


ことばのリアリティーを摑むために、
何度もこころの内に唱へ、
口ずさんでみると、
どうだらうか。
 
 
水が集つて流れるやうに声に出すことを
「詠む」といふさうだが(白川静『字訓』)、
そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。
 
 
また、
その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、
一音一音、味はふやうにしてみる。
 
 
そのやうにことばを味ひ、
ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、
「事」として、だんだんと顕れてくる。
 
 
ここで言はれてゐる
「事」と「言」が重なつてくる。
 
 
「考へる」が「感じる」とかさなつてくる。
 
 
また、過去に幾度か経験した
「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
 
そのやうにして、
リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、
「精神の深みからの光」が、
こころに降りてくるのを感じ、覚える。
 
 
そのやうにして、
「事(こと)」と
「言(ことば)」と
「心(こころ)」が、
光の内に重なつてくる。
 
 
その重なりが、
こころの内なる化学反応のやうに
生じてくるのを待つ。
 
 
 
  
 

「精神の深みからの光」
 
 
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、
 人の仕事において熟させる」。
 
 
意欲をもつて生きるとは、
どういふことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、
どういふことなのか。
 
 
まづ、
内なる「光」といふもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
 
 
光だけを生きるのではなく、
熱をもつて仕事に向かい始める。
 
 
「考へる」「感じる」が、
さらに「欲する」とかさなつてくる。
 
 
「事」と「言」と「心」が、
さらに幾重にもかさなつてくる。
 
 
今週、
精神の光・考へる働きが、
活き活きと感じる力となり、
生きる意欲の力になり、
仕事を熟させていく。
 
 
その「事」を、
ことばとこころで辿つていかう。
 
 
 
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事において、熟させる。
 

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2020年11月10日

風の人


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ルオー『キリストと漁夫たち』


芸術をする人は、ときどき、おかしなことを言ひます。普通の感覚では決して捉えることができない、おかしなことを言ひます。今日もおかしなことを言ひます。


人の息遣ひから、ことばが、生まれる。
さらに、風から、人は生かされてゐる。
風、それは、神の息遣ひである。
そこに、言語造形の稽古は常に帰つていく。


昨日の言語造形クラスでも、言語造形の基本に立ち返つて、まづ最も基本の身ぶりに取り組んだ。それは、歩みつつ「息をする」といふ身ぶりだ。


普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣ひから、ことばと共に、見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。その息遣ひの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。


外から取つてつけた身振りではない、息遣ひから生まれてくる「空氣人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。そのすがたは、わたしたちに「人のおほもとのすがた」を想ひ起こさせてくれる。


そのすがたは、遙かな昔に人がとつてゐたすがたであり、そして、遙かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであらうすがたでもあつて、芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、未來にあるであらう「人のすがた」を密やかに提示していく。


それは、ことばが、單に情報を伝へるためだけの抽象的なものではなく、活きたことばとなり、人そのものとなり、そして、だんだんと、人がことばそのものとなることである。


「はじめにことばありき」へと、これからはだんだんと遡つていくのだ。


ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、かうある。


まこと、まこと、わたしは、あなたに言ふ、
それ、人、水と風から生まれん、
そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず
(ヨハネ 三章五節)





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2020年11月08日

旋律造形と言語造形



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ここに書かれてゐる「指揮するといふこと」についての小西収さんの文章は、何十年来持ち続けてゐるわたしの自問自答の道に一筋の光をもたらすものです。


時間といふ動きの世界の中で、何をよりどころにして、そして、いかにして、人は新しい世界を創造していくことができるのか。


一瞬一瞬の精神の身振りによつて、おのづから鳴らされる一音一音の音、音韻にわたしたち演者は導かれてこそ、恣意から大きく飛翔できる何かにまみえることができる。


その身振りの創造。その持続。


「冷静に言えば、できるはずのないこと」に「賭けている」。


その行為そのもの、その行為の持続そのことに、かけがへのない「意味」がある。


わたしには、さう思へて仕方がありません。


なぜならば、大仰な言ひ方になつてしまひますが、それこそが「音楽の神」「ことばの神」に導かれつつ、歩いてゆく道だと思ふからです。


出逢ひの僥倖をひたすらに思ひます。


ーーーーーー


言語造形家・ 諏訪 耕志さんの公演『やさしい世界の終はり方』、大阪、京都の2公演が終わりました。クラリネット演奏で共演させて頂きました。写真は今回のために編んだ楽譜の一部です。こんなことを考えこんなものを作るのもなかなか珍しい、と我ながら思っています(笑)。
 
今回はトークのコーナーもありました。が、当意即妙というのは苦手で…特に京都では、せっかく諏訪さんに振ってもらったお話に十分には応じることができなかったなあ、と省みておるところです。そこで、今ここで答えてみようかと思い立ちました。本来会場でこそ聞けるトークでしたので、ご来場頂いた方々にはご寛容のほどお願いしたく…、野暮を承知で書こうと思います。
 
指揮者とは何をしているのか。
 
「奏者が気持ちよく音を出せるように」とか「合わせやすいように示す」といったところに焦点を持つ指揮法・指揮者論が主たる潮流の一つとしてあることをもちろん知っていますが、私の指揮はそれとは異なる方の流儀といえます。もちろん、私の全身を奏者が読み取ってくれたおかげで、その奏者が弾きやすくも合わせやすくもなる…というふうに進めばたいへん幸いなことで、ぜひそうありたいものですが、それでもそれは結果に過ぎず、私にとっては、それが指揮をする目的ではありません。
 
「身振りそのものが、何らか、演奏する音符自体音楽自体をそのまま体現するものである」ように注力すること。私は、普段からほぼそれだけを考えています。極言すれば、その動きさえ追えば音を聴かなくとも曲がわかりどんな演奏かもわかる!のが理想です(笑)。実際の音楽は無くてもよいというのは、何とも荒唐無稽で反転した言い方ではありますが…。しかし、自らは音を出さずに、ひたすら空を切っては消えていく指揮者の動き、それは、1曲のスコアの中身を表すのにはあまりにも持ち合わせが少な過ぎるように思えます。しかも、上記で「全身」と書きはしましたが、主として用いるのはせいぜい両腕と両五指のみ。そのような指揮者の身振りに、1曲の音楽世界のすべてを体現する…なんて、冷静に言えば、できるはずはないのでしょう。が、そこに賭けている、というのもほんとうなんです。
 
初めて諏訪耕志さんの言語造形の舞台に接したとき、ああ、この人は私と同様の格闘をされている!と強く感じたのでした。一文・一語・一音を生成させることに賭けるという、無二の芸術。京都公演に来場した親友のKがいみじくも「神は細部に宿る」と。そう!この言葉こそふさわしい。その一瞬一瞬を聴き追うことが、言語造形鑑賞の醍醐味です。私は私の表現追求のことを「旋律造型」という造語で言うことがあるのですが、言語造形という語句との共通性も偶然ではないと思いました。そのようなわけで、諏訪さんとの共演(諏訪さんへの助演)は、指揮ではなくクラリネット演奏によってではありますが、他ではけっして得られない体験を与えられ、私の芸術活動の中でも小さくない意味を持ち続けます。

文 小西収氏


ーーーーーー

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世は美しい 〜国語教育のこれから〜



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晩秋の箕面山


「百人一首の歌をいまやつてるねん」と言ひながら、小学六年生の次女が、国語の教科書を持つてきました。


奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき 
猿丸大夫


秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔


嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
能因法師


鹿の鳴き声が悲しいといふこと。


雲からもれ出づる月の光をうち見るときの感覚を「さやけさ」といふことばで言ひ表すといふこと。


川面に落ちたたくさんのもみぢの葉の流れる様を「錦」と見立てること。


子どもにとつては、いまだ経験したことのない景色と感情かもしれません。


しかし、まづ、このやうに、日本人は、詩人によつて「選ばれたことば」で、世を観ることを習つてきたのです。


さうして、鳴く鹿の声は悲しく哀れだ、と感じてきたのです。


そのやうに詩に、歌に、ことばで誰かによつて言ひ表されてゐなければ、ただ、鹿が鳴いてゐるだけであり、ただ、月が出てゐるだけであり、ただ、川に葉っぱが流れてゐるだけとしか、人は感じられないはずです。


国語とは、価値観であり、世界観であり、人生観であり、歴史観です。


世は美しい。


その情を最も豊かに育むことができるのは、小学生のころ。


国語の風雅(みやび)を謳歌してゐる古い詩歌が、そんな教育を助けてくれます。


その時、その高い情は、決して先生や大人から押し付けられるのではなく、子どもひとりひとりの内側でおのづから生まれてくるのを待たれる情です。


しかし、その高い情を、大人がまづ真実、心底、感じてゐなければ話になりません。


そのやうな、子どものうちにことばの芸術を通して生まれてくる情を待つこと、それが国語教育です。決して、決まり切つた情、決めつけられた作者の意図などを教え込むことが国語教育ではありません。


作者の意図を汲み取らせることなど、特に小学校時代には意味がありません。知性で意図されたものなど、たかが知れてゐます。ことばといふものは、それを話す人、それを書く人にも、意識できないところを含んでゐて、その意識できないところに潜んでゐる豊かな世界を、それぞれひとりひとりの人が汲み上げて行く喜び。それこそが国語芸術の存在意義です。そのやうな含む所豊かな本物の文章しか、時代を超えて残りません。どんな小さな子にも本物を与えることが、大人に課せられてゐる課題です。


この世がどんな世であらうとも(いま!)、子どもたちのこころの根底に、「世は美しい」といふ情が脈々と流れ続けるやうに、わたしたちができることは何だらう。


そんなことを念ひます。





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2020年11月06日

息遣ひの徳用(さきはひ)〜フィジカルなからだから羽ばたく〜



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ある秋の日の四条畷の空


あなたは、フィジカルなからだの中に、こころを持つてゐるのでは全くない。

あなたの息遣ひのうちに、こころは生きてゐる。

わたしたちは、風の中にこころを持つて生きてゐる。

息を吸ひ、吐くときに、こころは風の中を、風と共に泳いでゐる。

地球は絶えず重力をもつて、人を病と死に追ひやらうとするが、呼吸をすることで、人は地球のその働きかけから守られ、健やかに生きることができる。

息遣ひとは、地球から与へられてゐる働きではなく、大いなる世(宇宙)から与へられてゐる働きであり、人のこころとからだの健やかさを守り、育む。

(ルドルフ・シュタイナー「精神科学における感官への教育の礎」第八講より)


言語造形といふ芸術は、その息遣ひを促すことにおいて、法則に沿ひつつ、かつ、フィジカルなからだから羽ばたいて、空間へとこころを自由に解き放ちます。その行為が、する人を、また聴く人をも、健やかさへと促すのです。




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2020年11月05日

文学の徳用(さきはひ)



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芸術、特に文学には親しんでおいた方がいいと思ふのです。


文学は、人といふものの複雑さ、怪奇さ、異常さ、怪しさ、崇高さ、美しさ、愛らしさ、駄目さ、情けなさ・・・といふやうなありとあらゆる人の内なるものを感じ、知ることのできるものだからです。


例へば、何かに対して極端に感情的な嫌悪を表す人は、その何かに対する羨望を密かに隠し持つてゐることなど。怪奇なことです。


具体的に挙げると、権力といふものに対して嫌悪を抱く人の内側には、密かに、権力を持つことへの欲望が隠れ潜んでゐたり、政治家の腐敗や芸能人のスキャンダルなどをやたらとバッシングする人の内側には、自分自身もできるならそのやうな酒池肉林の体験をしてみたいといふ隠れた欲望を持つてゐたり・・・。


そのやうに、自分自身が「正義」であることを振り回すことが、実は、無意識のジェラシー・嫉妬、そして恐怖からの振る舞ひであること、この社会では結構ありますよね。


「権力」といふものに対する欲望が自分自身の内にもあることや、自分自身も決して清廉潔白であり続けることなどできないことを認めることができてゐたり、または、人の世には「権力」といふものも必要な時と場があることをしつかりと認めることができてゐる人は、「権力」や「腐敗」に対してさほど感情的にもならないでせう。


そのやうな人の内をみて、自分自身を顧みる練習をするのには、文学がうつてつけです☺️


もちろん、文学、芸術には、人の崇高さ、偉大さ、美しさを描くといふ中心課題があるからこそ、それを精神の糧として取り込むことなしに、人は人として生きて行くことができないのです。


この二週間は、漱石の『行人』、三島由紀夫の『仮面の告白』、又吉直樹の『劇場』にどつぷりと浸かつてゐました。



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2020年11月04日

ありがたうございました!京都「やさしい世界の終はり方」



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昨日、京都の北山にあるカフェ・ヨージクにて、
言語造形公演『やさしい世界の終はり方』を終へました。


このコロナウイルス禍の中、
ゐらして下さつたカフェ一杯のお客様、
素敵な場を設へて下さつたカフェ・ヨージクさん、
そして、写真撮影から受付まで荷つてくれた前田さんご夫妻、
本当にありがたうございました。
こころからお礼を申し上げます。


言語造形を通して実現したい空間と時間。
それをことばで説明することほど、
野暮なことはないと思ひます。


しかし、言語造形をする者が挑んでゐることを、
舞台から見事に観て取り、聴き取り、汲み取つてゐる、
そんな聴き手がゐて下さつたこと。


そのことを終演後の語らひのひととき、
書いて下さつたアンケートからや、
打ち上げ(最高の時間!)のときに、
知ることができました。


演者とは、それなりの矜持を持ちつつも、
返事の来ない便りを瓶に詰めて、いつも、
海に向かつて放擲し続けてゐるやうな者ですので、
かうした反応をいただくことは、
渇き切つた喉に、
次なる創造に向かふための
一滴のかけがへのない水を感じさせてくれます。


今回もまた、クラリネット演奏者として、
小西収さんにご一緒していただいたのですが、
共演して下さる方が、
この言語造形といふ舞台芸術が何を意味し、
何に向かつてゐるのかといふことに対する意識を、
深いところで共有して下さつてゐること、
これは本当に心強く、ありがたいことです。


そのクラリネットの響きと調べは、
ことばのやうに聴き手に語りかけて来たと、
お客様から感想をいただきました。


その選曲の妙を改めて感じたと共に、
わたしも横で、
小西さんによつて奏でられるクラリネットの調べに触れ、
なにかわたしの内側にぐいぐいと入り込んでくるものを
昨日は感じました。


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複数の作品を取り上げた今回のプログラムの中でも、
とりわけ、石村利勝氏の作品、
『小さな村で見た』『やさしい世界の終はり方』での、
ことばの音韻ひとつひとつが、
空間の「ここぞ」といふ場所に置かれる様、
そしてその音韻から音韻に亘る、
フォルムの繋がり、拡がりから生まれるこころの美しさに、
深い感銘を伝へて下さつたお客様が複数ゐらつしやつたこと。


この二作品に向けて、
コロナウイルス禍の中、
アトリエで毎日、毎日、稽古して来たものですから、
とりわけその作品で、
そのやうに精神的にお客様と通じ合へたことは、
わたしにとつて何よりもの何よりもの贈り物でした。


昨日の公演を終へて、今朝は、
1952年フルトヴェングラー指揮、
ヴィーンオーケストラ演奏の
ベートーヴェンの第六交響曲「田園」に浸つてゐます。


今朝のゆつたりとしたわたしの想ひに、
とても寄り沿つてくれて、ありがたいです。




皆さん、本当にありがたうございました!
また、再演できる機会を望んでゐます。
聴きたい、演つて欲しいといふご要望がございましたら、
ぜひお知らせください。
飛んで行きます(笑)。
なにせ舞台芸術は演じる回数がものを言ひますので・・・。


そして、最後に、
珠玉の作品をこころよく提供して下さつた、
石村利勝さん、
本当にありがたうございました。
こころからお礼を申し上げます。



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2020年11月02日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜



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こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
 
考へることの豊かな実り。
 
みづからを意識することの確かさにおいて、
 
すべての感じ方が変はる。
 
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
 
秋の精神の目覚めを。
 
「冬はわたしの内に、
 
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht  
Des Denkens reife Früchte, 
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.  
 
 
 
 
秋が深まつてきた。
 
 
それまでの曖昧で不安定だつた
考へる力の焦点が定まつてきて、
本当にこころから考へたいことを
考へられるやうになつてくる。
 
 
考へたいことを考へる。
 
 
その内なる行為こそが、
こころに太陽の光をもたらす。
 
 
それは、わたしの場合、
本当に喜ばしいことで、
考へる力に濁りがなくなつてくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
 
 
そして、本、文章、テキスト、さらには、
人とのいい出逢ひに恵まれるやうになつてくる。
 
 
生きることの意味。理想。希望。
 
 
それらの考へと情が、
わたしにとつて何よりも気力と意欲、
そして喜びを起こしてくれる。
 
 
そのことを実感できる日々はありがたいものだ。
 
 
見えるものについてただ無自覚に考へ、
なんとなく思ひ続けてゐるよりも、
見えないものへの信を深めるやうな、
考へと情を育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることだらう。
 
 
ものがただ並んでゐる平面を生きることよりも、
ものといふものにおける垂直を生きること。
 
 
秋から冬への生活とは、
そのやうな「ものへゆく道」
「深みを見いだす生活」になりえる。
 
 
日々のアップ・アンド・ダウンはある。
 
 
しかし、週を経るごとに、
こころが織り目正しく織りなされていく。
 
 
そして、「わたしがあること」の
安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豊かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだらう」

posted by koji at 07:00 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月01日

11/3(火・祝)京都 言語造形公演 「やさしい世界の終はり方」



123291942_3481620618584626_346809456489674438_o.jpg
絵は、カフェ・ヨージクのために描かれたOlga Yakubovskayaさんによるもの



前回の大阪での公演から、
引き続き、毎日、
作品に取り組んでゐるのですが、
前回には訪れもしなかつた感情が、
作品から、ことばから、余韻から、
その都度その都度、
新しく立ち上がつて来ます。


舞台といふ場所に向かつて、
かうして毎日稽古ができることで、
作品に対する、
人といふものに対する、
新しい情、新しい認識に恵まれる。
作品が新しく秘密を打ち明けてくれる。
こんなありがたいことはありません。


このたびの公演は、
七つの詩と物語を、
豊かなクラリネットの響きと共に、
深い息遣ひと共に、
聴いていただきます。


●演目
・「幼い日」 八木重吉
・「おこぶちゃん」 ミヒャエル・エンデ
・「戦場の兵士」 作者不明
・「人形」 小林秀雄
・「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」 井上俊夫
・「小さな村で見た」 石村利勝
・「やさしい世界の終はり方」 石村利勝



言語造形の新しい世界を、
今回は京都にて、
どうぞお楽しみください!


言語造形:諏訪耕志

クラリネット演奏:小西収





京都公演 
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
カフェ ヨージク
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
 マスクを着用につきましても、
 おひとりおひとりの判断にお任せいたします。


詳しくはこちら↓
https://kotobanoie.net/play/




posted by koji at 20:02 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする