2022年07月25日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜



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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
        
 
Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Das reifend Gottesgaben
In Seelengrunden fruchtend
Der Selbstheit Fruchte bringen.  
 
 
 
ことばを話すことよりも、さらにこころのアクティビティーを使ふのは、黙ること。
 
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて、生がだんだんと深まつていく。
 
 
この沈黙とは、こころが滞つてゐるがゆゑではなく、アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
 
話すことをやめるのではない。
 
 
ことばと、そのことばを話さうとしてゐる己れと、そのことばを聴かうとしてゐる人を、大切にしたいからこそ、ことばを迎へ、ことばを選び、ことばを運ぶのである。
 
 
ことば。ことばを話す人。ことばを聴く人。
 
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
 
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 
 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 




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2022年07月21日

生きるって何? ひとりの17歳の問ひ







「将来のあなたのために、いま頑張れって、言つてゐるんだよ」


大人からのこのことばが、当の十代の人のこころに響かない。


わたしたち大人よりも、目覚めて生きようとする度合ひをはるかに高めてこの世に生まれて来てゐる、いまの十代の人たち。


彼ら・彼女らは、何を求めてゐるのだらうか。何と響き合ふのだらうか。


そして、わたしたち大人自身が、いい加減、目を覚ますことができるだらうか。そして、これからの世において、何に目覚めてしかるべきなのだらうか。


問ひは立てられ、その問ひが深まりゆきます。





2022年07月18日

こころのこよみ(第15週)〜子どものやうに生きる〜



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わたしは感じる、魔法にかかつたごとく、
 
世の輝きに精神が織り込まれてゐる。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授ける、

わたしの<わたし>は、囲はれてあり。
 
 
Ich fuhle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehullt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmachtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
  
子どもの頃や若者である頃と違つて、わたしたちは歳をとるにしたがつて、自分自身といふもの、わたしの意識といふもの、自意識といふものを、大事にするやうになるので、夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、困惑してしまふ。


わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、囲はれてあるやうに感じてしまふのだ。
 
 
しかし、かうしたありようが、この季節特有の、かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
 
このぼんやりとしたありやう、焦点が絞られてゐないありやう、それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、そのやうなありやうであり、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしてゐる。


だから、ぼんやりとした感官のありやうを、思ふ存分、生きればいい。
 
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。


ある意味、子どものやうに生きること。


さうすることで、ぼんやりとしたありやうであるかもしれないが、人は大いなる世から力を授かる。
 
 
たとへ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、魔法にかけられ、囲はれてあるとしても、そのやうに手足をもつて生きることが、来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、来たる秋から冬へと。

  
 
わたしは感じる、魔法にかかつたごとく、
世の輝きに精神が織り込まれてゐる。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授ける、
わたしの<わたし>は、囲はれてあり。
 





鈴木一博さんが、ご自身が訳された「こころのこよみ」に以下の文をしたためてをられます。

♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾

この『こよみ』という作品は、作者もみずから言っているとおり、ほかの著作と同じく、顕れ、響く精神、こころの、いわば「翻訳」です。

よって、それを読むことは、そのことばが指す顕れ、響きに耳をすまし、それをそれなりのことばのつくりで呼ぶことです。

それには呼ぶ人のアクティブな働きが要りますし、呼ぶ人の自由が息づいてしかるべきです。

もちろん、麗しいことばや難しいことばでする必要はありませんし、また声にまで出さなくてもそれはできます。

しかしまた声の響きをもって、それができたらなによりでしょう。

♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



下手な翻訳、拙ない朗唱にもかかはらず、わたし自身も、また、ひとりの人として、アクティブな働きだけはもつて、なんとか、自由を息づかせつつ、週に、年に、大空に、まるごとの世に、呼びかけ続けたいと思ひます。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。
「アントロポゾフィーと言語造形 ことばの家」https://kotobanoie.net/


「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



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2022年07月17日

12の小さな教則【結び】 〜まるごとの生まれ変はり〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、十二つ目の教則の後、この章の【結び】を語つてゐます。


かうして12の教則を振り返つてみますと、シュタイナーが、人のこころの三つの働き(考へる、感じる、欲する)に沿ふやうに、@〜B、C〜E、F〜H、I〜K、と三つづつ教則を分かつて、順に述べてゐることが見てとられます。


@「そのやうな侮辱はわたしの値を変へはしない」(感じる働き)
A「ものほしげに手を伸ばすことをやめる」(欲する働き)
B「弱さを認める」(考へる働き)

C「好奇心ではなく敬虔さを育む」(感じる働き)
D「願ふ前にふさはしく知ること そしてワクチン接種について」(考へる働き)
E「することそのことを愛すること」(欲する働き)

F「怒りの壁」(感じる働き)
G「内なるものを見ることによつて囚はれなくなる」(考へる働き)
H「みづからとの葛藤こそが優しさを生む」(欲する働き)

I「内において繊細に黙ること」(欲する働き)
J「決してからだとこころを危険に陥らせないこと」(感じる働き)
K「精神の糧を稼ぐ」(考える働き)


このやうに図式にしたものを憶え込むことにさほどの意味はありませんが、長い時をかけて地道に練習をしていく人にとつては、なんらかの手がかりになるかもしれません。



「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。

2022年07月16日

12の小さな教則K 〜精神の糧を稼ぐ〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、十二つ目の教則について語つてゐます。




「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。



2022年07月15日

12の小さな教則J 〜決してこころとからだを危険に陥らせないこと〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、十一つ目の教則について語つてゐます。




「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。

2022年07月14日

12の小さな教則I 〜内において繊細に黙ること〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、十を目の教則について語つてゐます。
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「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1
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ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。
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それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。
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もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。

2022年07月13日

こころのこよみ(第14週)〜「世の考へる」に任せてみる〜



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クロード・モネ《霧の中の太陽》



感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betaubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 

※ Weltendenken といふことばを、Welten(宇宙の)denken(思考)と訳さずに、古くから日本人が用ゐ、馴染みのあることばをなるべく遣ひたく、Weltenを「世の」とし、denken は、動詞のかたちををそのまま用ゐてゐるシュタイナーに倣ひ、そのかたちが伝へる動きの感覚、アクティブな感覚を活かすべく、そのまま「考へる」としました。よつて、見慣れなく、聴き慣れない言ひ方ですが、「世の考へる」としました。
 
 

夏のこの季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
 
「考へる力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、その力が失はれてゐるのを感じる。
 
 
外の世の美しさが目や耳などを支配して、美をたつぷりと味はふこともできる反面、その情報量の多さに混乱してしまふ危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。
 
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、そのかはりに、もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、ものごとや人に沿つて考へることではなくて、ものごとや人について、手前勝手に想像してしまつたり、その想像にこころが支配されてしまつて、その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。


もの想ひは、めくるめくやうに、わたしのこころの中を巡り、にぶく輝き、「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、人は目覚めることができる。


けれども、もの想ひにふけることで、人は夢を見てゐるやうな、あるいは、眠り込むやうなありように陥つてしまふ。そんなありやうを、どう受け止めたらいいだらう。
 
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
 
世は、まがふことなく、秩序と法則に従つて時を生きてゐる。そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、すでに出会ふべき人に出会つてをり、すでにするべきことに向かつてをり、すでに生きるべき人生を生きてゐる。さう、見直してみないか。
 
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、この時期だからこそ、その「世の考へる」「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」に任せてみる。
 
 
夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまひ、見失はれたからこそ、来たる秋から冬にかけて、新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、からだをもつと動かしていくことを通して、感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
 
頭であれこれ考へるよりも、手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
 
その手足の動きこそが、「世の考へる」との親和性は高い。
 
 
それは感官を超えるものを見いだし、感じ始めることでもあり、理屈抜きで、この世のものといふもの、ことといふことをなりたたせてゐる基のところを垣間見ることでもある。 
 
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、また顕はなところも、よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
 
夏ならではのこころの練習として、ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝へられる考へ、それらは、こころに直接響いてくる。
 
 
小賢しく考へる必要がなく、それらのことばと考へが、こころに直接「訪れる」。その訪れるものを、「世の考へる」とここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものが記されてゐるぢやないか」と感じることがよくある。 
 
 
もの想ひから抜け出す道を、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いていくことができる。
 
 

  
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 

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12の小さな教則H 〜 みづからとの葛藤こそが優しさを生む 〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、九つ目の教則について語つてゐます。




「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。

2022年07月12日

12の小さな教則G 〜内なるものを見ることによつて想ひに囚はれなくなる 〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、八つ目の教則について語つてゐます。




「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1


ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

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2022年07月10日

静にして閑



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青森県白神山地



自分のいまゐる場所で、宮中のやうな静かさを創り、山のみづうみを前にしたやうな閑かさを創り出すこと。


このことを身をもつて感じつつ、分かつてくると、自分のいまゐる場所がこの世で最高の場所となります。


こころとは実に繊細な生き物。こころは、真に美しい静かさを湛えるときにこそ育むことができる。


だから、己れのこころを修練し育み成長させたいならば、その環境をみづから、いま、ここで、生み出す勇気をもつこと。


静にして閑。


そこは宮中と同じ厳粛さが生まれ、思索を行ふにまたとない、静かな環境をその人に提供してくれます。


そこはまぎれもなく、各々の人にとっての宮中になり、社中となります。


「己れ」「家」「宮」とは、大切に守り育みたいものを、ぢつと見つめる場所。


その人の意志次第で、そのやうな時と場所を意識的に創ることができる。


いつでも、どこでも。



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12の小さな教則F 〜 怒りの壁 〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、七つ目の教則について語つてゐます。



「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

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2022年07月09日

12の小さな教則E 〜 することそのことを愛すること 〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、六つ目の教則について語つてゐます。


「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwA...

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

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2022年07月08日

12の小さな教則D 〜願ふ前にふさはしく知ること そしてワクチン接種のこと〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、五つ目の教則について語つてゐます。


「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=3

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

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2022年07月07日

12の小さな教則C 〜 好奇心ではなく敬虔さを育む 〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、四つ目の教則について語つてゐます。


「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=3

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

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もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。

2022年07月06日

猛勉強こそ、世を啓く



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咸臨丸難航の図(鈴藤勇次郎画)



いま、世で大いに働いてゐる人は、猛勉強の末に、そのやうに働くことができてゐるのですね。


大人になつてからも、何年、いや、何十年にもわたつて、勉強に勉強を重ねて来た人が、いま、世のため、人のために、働いてくれてゐます。


そのやうなことは、昔からさうでした。


日本の歴史の中で最も人が勉強したのは、おそらく江戸時代ではないかと思ひます。


功利や立身出世を思はず、江戸時代の人たちは、ひたすらに学ぶことそのことに対する楽しさ・喜びに目覚めてゐました。


ただただ学ぶことを通して、生きることの意味を追ひ求めることのできた学びの場の中では、ひとりひとりの人が当時の封建的な社会の枠組みから自由になることができました。


だから、気骨のある、こころざしに燃える若者などは、熾烈なと言つてもいい位の猛勉強をしてゐました。


その学びは、目先の利益やそれに類するやうなことにかかずらわるのではなく、十年後、五十年後、百年後の社会のこと、日本のことを思ひつつ、なされてゐました。


学びの中に、こころもからだも総動員しながらの精神がありました。


だからこそ、逆に、その後に訪れる幕末から明治維新の急激で切迫した時代の変化に翻弄されるのではなく、むしろ時代を切り開き、創り出してゆく創造的な働きを多くも多くの若者がすることができたのでした。


その意識の目覚めと意志のパワーたるや、今では想像することも難しいほどの驚きです。


自由学問都市であつた当時の大阪(大坂)の街を闊歩してゐた福沢諭吉などは、緒方洪庵の適塾で猛烈な学びの日々をからからと笑ひながら送つてゐました。


明治維新が起こつた1868年(明治元年)から77年経つた1945年(昭和20年)に日本の大転換があり、その年から77年経つ2022年(令和四年)が今年です。


いま、大変な危機が日本に訪れてゐると、多くの人が意識してゐますね。


今こそ、国民こぞつての(とりわけ、世の男たちの!)「猛勉強」が要るのだとわたしは念つてゐます。


わたし個人としては、アントロポゾフィーといふ中部ヨーロッパからおほよそ百年前に発した学問と芸術の道を通して、日本といふ国のこの危機に向き合つて行くことを意識します。


真夏の訪れと共に、からからと笑ひながら、57歳、不肖わたくしも猛勉強に勤しんでゐます。




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12の小さな教則B 〜 弱さを認める 〜







『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、三つ目の教則について語つてゐます。



「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。




2022年07月05日

12の小さな教則A〜 ものほしげに手を伸ばすことをやめる 〜






『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の章から、二つ目の教則について語つてゐます。



「12の小さな教則 アントロポゾフィー シュタイナー」シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=ejJwAvkagms&list=PLygaPNag2hOe-Urlxa7Zru1M16zRfoR5C&index=1

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。


2022年07月04日

こころのこよみ(第13週)〜金色の輝きの中、歌ひ、踊る〜 



大阪市住吉区の生根神社の夏越の大祓ひ



そして、わたしはある、感官の高みに。

ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、

精神の火の世から、

神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、

あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」


 
Und bin ich in den Sinneshohen,
So flammt in meinen Seelentiefen
Aus Geistes Feuerwelten
Der Gotter Wahrheitswort:
In Geistesgrunden suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.



これから始まる夏、草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、活き活きと働いてゐるその自然のいちいちから、客観的な精神が人に語りかけてくる。


一行目の「わたしはある、感官の高みに」とは、ものといふもの、そのいちいちを、じつくりと見、聴き、触れ、味はふことを通して、普段見過ごし、聞き過ごしてゐるものが、よりものものしく、より明らかに、より動きを伴つて、見えてくる、聴こえてくるといふことと通じてゐる。


感官の高み。


それは、こころの細やかな密やかな深まりとして、育まれるもの。


自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣ひに耳を傾けてみよう。


その密やかさのうちに、ことばが燃え上がるやうに響いてくる。こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。


 「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
  あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」


1922年ドルナッハでの講演録『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)を紐解いてみると、夏に、そのやうな、我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、誰によつて話されてゐるかが、シュタイナーによつて指して説かれてゐるのを読むことができる。


まことのことばを燃えるやうに人に語りかけてゐる神々。客観的な精神。その外なる精神は、この季節、金色に輝いてゐる。わたしたち人に、燃え立つ炎のやうに語りかけてゐる金色の精神。


この夏の外なる精神の方々が発する、金色の輝きを浴びるわたしたちは、冬、クリスマスの頃、みずからのこころの奥底、精神の基に、内なる金色を輝かせることができよう。


来たる冬に、精神に縁(えにし)のある、金色に輝く己れみづからをしつかりと見いだすことができよう。


夏のいまは、外なる金色の光に応じるやうに、眼差しを注ぎ、耳を傾け、さらには、踊り、歌を歌ひながら、精神の縁(えにし)・朋とともに、音楽と詩を奏でることで、冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。


金色の精神が語ることばを聴くのだ。




そして、わたしはある、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」




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2022年07月03日

12の小さな教則@〜 そのやうな侮辱はわたしの値を変へはしない 〜






わたしたちは、子どもたちがすくすくと育つてゐるのをみるとき、こころの底から喜びを感じます。

そして、人は、すべての人が成長していくことを希みます。

しかし、最も身近な人、他の誰でもなく己れみづからが人として成長していくことを、何よりも願ふものではないでせうか。

わたしたちは、己れみづからが成長していくために、何をすることができるだらう。

アントロポゾフィーは、己れのこころと精神に向けて働きかける密(ひめ)やかな営みが人の成長を促すのだと、人に伝へようとしてゐます。

そして、そのとき、成果を出すことを焦ることなく、根気をもつてひたすら勤しむことそのことに喜びと愛を抱くことがとても大切なこととして挙げられてゐます。

「練習する」といふこと、繰り返し「やつてみる」といふことの、人の成長にとつての大切な意味をアントロポゾフィーは提示してゐます。

外に見える練習ではなく、内においてなされる目には見えない練習です。

それは、まことの意味で、「仕事」と言へます。

わたしは、己れみづからのこころと精神に向けて仕事をすることができる。

その仕事の成果は、外には見えません。しかし、生きることを、本当に、支へます。持ちこたへさせます。活き活きと促がします。

そして、その仕事こそが、人が人となりゆく、わたしが、ますます<わたし>となりゆく、自由への歩みなのです。

ルードルフ・シュタイナーによつて挙げられてゐる12の小さな教則をご紹介いたします。

それは、メディテーションといふよりは、日頃の暮らしの中でふと思ひついたときにこころがけることのできる小さな教則・サイドトレーニングです。

もしよろしければ、ゆつくりと、ご一緒しませんか。





2022年07月01日

精神と政治



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このふたつは、わたしには裏表の関はりにあると見えます。

たとへば、政治において、国民に約束したことを実現しない政治家を国民は弾劾することができていいはずです。

なんらかのしからしめで約束を実行しないのでせうが、約束を履行しなかつたり、国民の総意を確かめもせず勝手に政策を実行していく政治家や政党は、責められていいはずです。

悪いところをいいとすることはできませんし、間違ひをまことと見ることもできません。

これは、政治における人のあるべきあり方であり、人の意識の向け方、意識の育み方と言つてもいいやうに思ひます。

しかし、精神においては、まるで正反対の意識の育み方を要しはしないでせうか。

つまり、どれほど間違つたことをしてしまつても、過ちを犯したとしても、それらのことを悪しきこととしつかり認識しつつも、それをしてしまつてゐる人のよきところに目を注ぐ意識を怠つては、精神の育ちに支障をきたすといふことなのです。

また、さらには、悪の中に、高い役割を見いだすといふことなのです。

間違つてゐるもの、悪しきものへの批判・批評は、政治的に必要なものですが、同時に、人には、その間違つてゐるもの、悪しきものへの理解が精神において必要でもある。

この精神からの作業は、難航を極めます。

しかし、だからこそ、この作業をすることによつて、人は、この、精神と政治の間で、こころのバランスを取る技量を得ていくことができます。

そして、精神と政治の境における、各々のことばの使ひ方をも意識的に分ける必要があります。

具体的に言ふと、繰り返しになりますが、政治においては、いいものはいい、駄目なものは駄目とはつきりと表明する必要があります。

しかし、さう表明する政治的なわたしに重ねて、精神的なわたしが、密(ひめ)やかに、それら善きものに対する熱狂を統御する必要があるのではないか。また、それら悪しきものがこの世にあらざるをえないことへの理解と悲しみの意識を稼ぐことが大切なことになるのではないか。

だからこそ、政治のことばは、時に大きな声で叫ばれる必要があり、精神のことばは常に密(ひめ)やかに語られる必要がある。

しかし、どちらのことばも、ひとりの人が併せ持つものです。

さういふ精神と政治といふ、二重の意識の重なりを育む必要が、すべての現代人にあるやうに感じてゐます。

人の教育とは、そのやうな精神と政治の間の外なる区別と内なる重層を育むものであり、子どもたちへもそのやうな意識をもつて伝へるべきことは伝へていく必要があるとわたしは考へてゐます。

国際的な生き方におけるそんな密(ひめ)やかな意識をここ日本でも培ふ必要がこれからはあると、わたしは考へてゐます。



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2022年06月29日

『夏の盛りになすべきこと』 (『テオゾフィー』オンラインクラスより)






四季の巡りをどう生きるかについての、テオゾフィー(アントロポゾフィー)からのひとつのお話です。


ここで語られてゐる「仕合はせ」といふことばは、往々、「運命・カルマ」と呼ばれるものです。人みづからがしたこと(仕事)が、後の人生において、みづからに合はさつて来ることを言ふ、古い日本語です。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



「テオゾフィー 人と世を知るということ」オンラインクラスへのご案内

●zoomによるオンラインクラス開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円
※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/



HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
.
諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
.
you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru


2022年06月28日

芸術と精神への念ひを伝へたい  アントロポゾフィーハウス【青森三沢】



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大の大人たちが汗を流して演劇といふ芸術に取り組んでゐます。


これまで演劇をしたことのない方がほとんどです。


わたしたちは、シュタイナーの『ヨハネ福音書講義』の学びも同時に行つてゐます。


キリストといふ存在。そして、そのキリストを最初に地上で迎へた洗礼者ヨハネ。さらには、キリストが最も愛した弟子にしてこの『ヨハネ福音書』を書き記した新しいヨハネ(甦つたラザロ)。


わたしたちは、それらの方々への敬ひと尊びの念ひを深めつつ、劇創りに勤しんでゐます。


それは、この「イエス・キリスト生誕劇」そのものに対しての敬ひと尊びの念ひの深まりでもあるやうに感じてゐます。


このやうな集団の中に中学生の女の子がふたり参加してゐます。


わたしたち大人が汗を流してこの劇創りに取り組む姿を通して、彼女たちに、ものを創りゆくことの喜び、その行為に込める誠実さと真摯さ、そして何よりも感謝と敬ひの念ひが、そこはかとなく伝はればと希ふのです。


すべてが、本当に、ありがたい、出会ひです。




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2022年06月26日

意識の目覚め 青森・三沢にて



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梅雨の湿気ですでに蒸し暑い大阪を抜け出て、とても爽やかな風が吹いてゐる青森の三沢にゐます。

ここには米軍基地があるため、特別な財政予算が組まれ続けてゐるのか、この街はとても美しく整備されてゐて、滞在させてもらつてゐる場所の近くにも、たくさんの樹木がみづみづしい緑を湛えて植えられた比較的広い公園が幾つもあり、見事に区画整備された地域に立ち並ぶ家々もそれぞれ思ひ思ひの花々でとても美しく彩られてゐます。

先月、ここに来たときは、この写真を撮つた公園の上を、米軍の戦闘機が爆音を立てながら、凄いスピードで幾機も縦横無尽に飛び交つてゐましたが、今日は全く飛んでゐず、とても静かです。

子どもたちや若者たちが無邪気に遊び回つてゐます。大人たちもしばし佇んで静かに話しなどをしてゐます。

この街を散歩しながら、このやうな静かで和やかな風景に触れることが、なんだかとてもありがたく感じます。

これまでの戦後77年間の日本とアメリカの間の関係が、これからは、きつと、変はつてゆくと思はれるのですが、この街はどのやうに変はつてゆくのでせうか。

この穏やかな日常が、これから迫りくる変化(その変化は、思ひもよらないやうなものになるのではないかと予感します)によつて、どう守られていくことができるのだらう。

わたしたち大人は、子どもたちがこれから生きてゆくこれらの場所について、どう考へ、どう話し合ひ、どう動いてゆくことができるだらう。

意識の目覚め。

わたしが毎日必要としてゐるのは、それです。




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2022年06月25日

眼光紙背に徹す、といふこと



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深沢清「松坂の一夜」



小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、とりわけ魅力的なのは、江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところです。


ものを学ぶには、本ばかり読んで、机上の知識を弄ぶのではなく、外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。さう言ふ人は幾らでもゐます。


しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐました。


だから、さういふ当たり前のことはわざわざ口に出して言ひませんでした。


寧ろ、独りになること。


そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、本であること。


師と古き友を、本に求める。


本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、信を寄せるに値するものはないと迄、こころに思ひ決め、その自恃を持つて、みづからを学者として生きようとした人たち。


そして、古典といふ書の真意は、独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。


そのときの工夫と力量を、彼らは心法とか心術と言ひました。


一度きりの読書による知的理解と違つて、精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、その人の体得物として、暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。


数多ある注釈書を捨てて、寝ころびながら、歩きながら、体で験つすがめつ、常に手許から離さず、さういふ意気に応へてくれるものが、古典といふものです。


さうしてゐるうちに、学び手のこころの奥深くで真実は熟し、やがて表の意識に浮かび上がってくる。そのとき浮かび上がつてくるものは、学説などといふものではなく、真理を追ひ求めた古人の人格であり、それは浮かび上がつた後も、依然多くの謎を湛えてゐる筈です。


今日、ルードルフ・シュタイナーの『テオゾフィー 人と世を知るということ』のオンラインクラスをしながら、学といふものに骨身を削つた日本の古い人たちを思ひ浮かべてゐました。




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2022年06月24日

こころのこよみ(第12週)ヨハネ祭の調べ



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大阪市住吉区の帝塚山古墳


世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つやうにと。

わたしは己れから離れ、

ただ信じつつ、みづからを探し求める、

世の光と世の熱の内に。



Johanni-Stimmung

Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen  
Des Eigenlebens Götterkräfte    
Zum Weltenfluge zu entbinden; 
Mich selber zu verlassen, 
Vertrauend nur mich suchend   
In Weltenlicht und Weltenwärme.        


                    
【子どもたちの歌声】


今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。


キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。人といふものを導く神は、太陽にをられる。その信仰が人びとの生活を支へてゐた。太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、その祭りを執り行つてゐた。


洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、橋渡しをした人であつた。彼は、夏に生まれたといふだけでなく、いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、まさしく、炎のやうな情熱をもつて、ヨルダン川のほとりにおいて、全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 

 
汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり(マタイ3.2)


そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。


わが後に来たる者は我に勝れり、我よりさきにありし故なり
(ヨハネ1.15)


我は水にて汝らに洗礼を施す、されど我よりも力ある者きたらん、我はそのくつの紐を解くにも足らず。彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん (ルカ3.16)


彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし(ヨハネ3.30)


ヨハネはイエスに洗礼を授け、イエスのこころとからだに、太陽の精神であるキリストが降り来たつた。それは、太陽の精神が、その高みから降りて、地といふ深みへと降りたといふことであり、ひとりひとりの人の内へと降り、ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、その大いなる始まりでもあつた。


「内に生きる神々の力」とは、人の内にこそ生きようとしてゐる、キリストのこころざし(Christ Impuls)だ。ヨハネがそのことに仕へ、みづからを恣意なく捧げたことが、四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。そのことをわたしたちは実感できるだらうか。


しかし、シュタイナーは、その実感のためには、ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言つてゐる。みづからの内において、キリストがあられるのを感じることは、おのづからは生じない。人が世に生きるにおいて、みづからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己れから求めない限りは、「内に生きる神々の力」という実感は生まれ得ない。


ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。それは、この世を離れるのではなく、この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の求めることでもある。


この夏の季節、地球の精神・キリストは息を吐くかのやうに、みづからのからだである地球から離れ、世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。わたしたち人も、キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、精神である「みづから」を見いだすことができる。


生活の中で、わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだらうか。からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、それらの動きの中でこそ、からだを一杯使ふことによつてこそ、からだから離れることができ、こころを一杯使ふことによつてこそ、こころから離れることができ、「世の光と世の熱の内に」みづからといふ精神を見いだすことができる。


そして、この夏において、意識的に、子どもに、習ふこと。わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。


ヨハネ祭のとき、古代の人々は、鳥たちが歌ふことから学びつつ、その歌声を人間的に洗練させて音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。


鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。


このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、己れから離れ、いまだ天に見守られてゐる<わたし>を見いだすことができた。


いまも、子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のやうな意識のありやうを生きてゐる。そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。


わたしたちが己れから離れ、大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、天が、ひとりひとりの「内に生きる神々の力」、<わたし>を見守つてくれてゐるのを感じることができる。


そして、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに天が響き返してくれてゐるのを聴き取ることができる。


さらには、この世の様々な状況に対応していく道を、きつと、見いだしていくことができる。


とりわけ、芸術行為は、そのことを実感させてくれる。


夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。


ヨハネ祭の調べ。


それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、みづからといふ精神を見いだすこと。


そこから、地上的なキリスト教ではなく、夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。


そのことがキリスト以降、改められた夏の祭りとしての、ヨハネ祭の調べだと感じる。



「ヨハネ祭の調べ」

世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己れから離れ、
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
世の光と世の熱の内に。



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2022年06月23日

夏、地を踏みつつ天へと羽ばたくとき



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毎月、青森の三沢で、今年のクリスマスに向けて、キリスト生誕劇創りのためのクラスを開いてゐます。

そこでは、演劇創りと合はせて、ルードルフ・シュタイナーによる『ヨハネ福音書講義』を毎回一時間講義させてもらつてゐます。

「ヨハネ福音書」。それは、前半と後半に構成が分かれてゐます。

前半が、洗礼者ヨハネについて。後半が、この福音書の書き手であるヨハネについて、です。

そして、いま、洗礼者ヨハネの誕生日(ヨハネ祭)を間近に控えるこの夏の日に、わたしたちは、キリストをキリストとして受け止めた最初の人、洗礼者ヨハネのことを学ぶのです。

彼は、みづからを、「ひとりにて呼ぶ者の声なり」と言ひました。(「荒野にて呼ぶ者の声なり」はふさはしくない翻訳ださうです)

「みんなで呼ぶ」のではなく、「ひとりにて呼ぶ」のです。

この「ひとりにて」といふところに、新しい時代の始まりがあります。

そして彼は、たつたひとりにて、キリストを、世の光を、陽の神を、この地に呼びました。

そのことは、何を、わたしたちに教へるでせうか。

それは、意識の目覚めです。

聴き耳をたてるのは、この<わたし>ひとりです。

誰も、わたし自身に代はつて、神の訪れを告げてくれる者はゐません。

意識の目覚めを生きる人は、協力し合ひますが、群れません。

そのひとりの<わたし>の内も内にこそ宿るのがキリスト・世の光だ、とヨハネ福音書は語つてゐます。

世の光、陽の神は、いま、この大地に立つひとりひとりの人のこころの真ん中に宿り、そこから、ヨハネの祭りのときを中心にして、夏の季節、広やかな天空の彼方へと拡がりゆかうとします。おほよそ二千年このかた、毎年です。

古代においては、この夏のお祭りにおいては、洋の東西を問はず、燃え上がる炎と共に、歌ひ、踊り、舞ひ、祈りを陽の神に捧げてゐました。

その時には、西の国では葡萄の実から絞り出したワイン、最も東の国、日本では、米から醸した酒によつて、その炎の祭りがいやがおうにも高揚したものになりました。

その夏の祭りの時にこの世に生まれた洗礼者ヨハネも、神と人とを結ぶべく、燃えるやうな情熱をもつてヨルダン川のほとりにて人々に洗礼を授けてゐましたが、ただひとつ、古代から引き継がれてきたものとは全く違ふ意識をもつてをりました。

それは、酒の助けを借りて高揚するのではなく、意識を目覚めさせて、たつたひとりでことをなすことでした。

高揚するとは、いはば、夢見つつ、神々しい天へと昇ること。

しかし、洗礼者ヨハネは、意識を目覚めさせることによつて、この大地にしつかりと足を踏みしめながら、天へと羽ばたく術を人々に与へてゐました。

それは、古代の在り方とは異なる、これからの人びとの夏の生き方を指し示してゐます。

さうして、つひに、冬のただなかにナザレの青年イエスが彼の前にやつて来たのです。

そのときから、おほよそ二千年が経ちましたが、そのような洗礼者ヨハネの生き方が、ゆつくりと、これからの多くの人の生き方になりゆくでせう。

わたしたちも、この夏、どういふ生き方をするかによつて、来たる冬の迎へ方が決まつて来るでせう。

一日の過ごし方によつて、人は、からだを満たしたり、不満を感じたりします。

しかし、人は、一年の過ごし方によつて、こころを満たしたり、不満を感じたりするのです。

ひととせを生きる。それは、こころの、ひとめぐりです。

そして、いま、夏を生きる。内的に。

今週の生誕劇クラスで、そのことをメディテーションと芸術実践をもつて、みんなと分かち合つてみたいと思つてゐます。




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こころのこよみ(第11週)〜白日の下の美しさ〜



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この、陽の時に、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 
 そして、世の<わたし>の内に、

 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.    
 
 
 
 
 
「世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
 
この、陽の時には、美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
 
 
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。
 
 
その晒されたものがなんであれ、人はそれを経験し、生きなければならない。
 
 
善と悪、美と醜、真と偽、喜びと悲しみ、それぞれがひとつのもののうらおもてだといふこと。
 
 
そのやうな、のつぴきならなさが、「世の美しさ」として感じられるだらうか。そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、その深みを見てとることができるだらうか。
 
 
ものごとは、なんであれ、付き合ひ続けて、沿ひ続けて、初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。草木や花々の健気ないのちの営み。日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。毎日移り変はつていく世の動向。人びとの集団的意識の移り行き。


それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、はやばやと見くびつてしまはずに、こころをこめてそれに向き合ひ続け、沿ひ続けるときだ。
  
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、肝腎要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、何が過ぎ去らず、留まるものなのか、いつたい何が本質的なことなのか、といふ問ひをもつこと。
 
 
それが精神を通はせつつ、ものごとに沿ふことの糸口になる。からだをもつて振る舞ひ、こころから行為していくことの糸口になる。
 
 
その時、捨てようとしなくても、人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
 
そして、はるかに広やかで、はるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、「賢き知」と、他の誰のでもない、自分自身のこころざしが、立ち上がつてきはしないか。
 
 
人の<わたし>は、みづからを失ひ、そして、世の<わたし>の内に、みづからを見いだすことができる。
 
 
 
 
この、陽の時に、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 そして、世の<わたし>の内に、
 みづからを見いだすことができる」
 

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2022年06月18日

言語造形による語り方の実践〜宮沢賢治作「やまなし」〜






言語造形とは、ルードルフ・シュタイナー、そしてマリー・シュタイナーによつて、20世紀の初頭、この世に新たに生まれいでたことばの芸術です。


人は、そもそも、いかにして、ことばを発することができるのか。


人は、そもそも、いかにして、ことばに貫かれることができるのか。


彼らが100年前に夢見たことを、ここ日本でどこまで実現していくことができるのか、本当に道は遠く長く、いまだそのはじまりに就いたばかりなのですが、それでも、根気よく、こつこつと、かつ、どこまでもアクティブに、この芸術の道を歩んでいきたいと思つてゐます。


ここに宮沢賢治の「やまなし」と言ふ作品を元手に、拙い実践の例として動画を上げてみます。


そして、そもそも、言語造形が何を実現しようとしてゐるのかを、この上なく精確に、かつ、芸術的に表現してゐるマリーのことばをご紹介させていただきたいと思ひます。


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言語造形とは何か。

それは、音韻の働きかけを、空気、吐かれる息といふ媒体において生きることである。

音韻のつくりなし、音韻の発し方を手のうちにおくことが、言語の器官の法則と求めに応じつつまさに仕事としてなされ、まさにこととして達せられた上でのことである。

それは音のインターバル、響きの陰影への、シャープに育まれた聴覚である。

・・・

ことばの線、ことばのカーブは動きに担はれ、ことば、行、聯に勢ひを与へる。

その芸術としての線が、突き動かし、アクティブにし、燃え立たせるところであり、精神からインスパイアされ、芸術の才能を授かる<わたし>によつて掴み取られる。

その線がこわばつてはならない。

間(ま)においてもである。

間は欠かせないもので、線を造形する。

線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひをとりこむ。

(マリー・シュタイナー『クリエイティブな言語』より)



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜



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夏の高みへと
 
陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の陽の光と熱によつて、植物の緑が、花のとりどりの色となつて、上へ上へと燃え上がる。
 
 
鳥たちが、虫たちが、いよいよ高らかに、軽やかに、夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
 
陽によつて引き起こされる、そんな植物と動物たちの働きが、夏の空気に働きかけてゐるのを、わたしたちは感じることができるだらうか。
 
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、来たる夏を生きることができるならば、みづからの、人ならではのところ、人であること、わたしであることもが、ここよりも、さらに、高いところに、さらに広やかなところにのぼりゆき、天によつて見守られることを、情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
 
おそらく、そのことばは、古来、日本人がずつと我が子どもたちに言ひ伝へてきたものだらう。
 
 
「お天道様」それは、陽の神様であり、わたしたちに警告を発しつつ、わたしたちを見守つてゐる存在として、常に高みにあるものとして感じてゐたものだつたのだらう。
 
 
そして、いま、わたしたちは、その「お天道様」を、人の人たるところ、<わたし>であるところとして、感じてゐるのではないだらうか。
 
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、「高い<わたし>こそが、いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」といふことかもしれない。
 
 
天照大御神のみことば。「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として 吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
 
わたしたちは、自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、改めて、この季節だからこそ、「お天道様」に見守られてゐることを感じ、「お天道様」からの視点、「おのづから」なありかたで、生きていくことができるだらうか。
 
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
  
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 


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2022年06月17日

こころのこよみ(第9週) 〜大いなる父なるもの〜



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我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなければ、あれをしなければ・・・」
 
 
そのやうな意欲といふものも、内なる「熱」と言つていいのだけれども、その意欲の中にある「こだわり」を忘れることができるだらうか。「・・・しなければ」といふやうな「恐れ」を忘れることができるだらうか。
 
 
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
 
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、ずつと、その熱に問ひかけるやうにしてゐると、その陽の光から発せられてゐる熱は、自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、はるかに、はるかに、巨大で、太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな豊かさであると感じる。
 
 
そのやうな意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだらう。
 
 
シュタイナーは、『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、「父なるもの」からだと話してゐる。
 
 
その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けてゐる方」と人との出会ひは、ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
 
 
人生の中で、己れといふもののこだはりが脱ぎ捨てられた時、夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念ひに満たされる時、その出会ひは生じる。
 
 
だから、子どもの頃、丁度、これから始まる夏にかけて、大いなる天空を仰ぎ、そこに拡がる青空や夜の星々に想ひを重ね、感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、人生にきつと一度は生じる「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
 
 
人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きつとある。
 
 
光の中で、あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために
 
 
 
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」


 

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2022年06月14日

隠されてゐる輝き 昔話「つぶ長者」






「つぶ」とは、小さな田螺(たにし)のこと。


小さく、さほど、美しいとは言へないその姿。


しかし、その内には、まぶしいほど美しいものが秘められてゐる。


その姿・相の内に隠れてゐる美しいもの。


わたしたちは、みな、己れのその内なるものを顕はにする日が、きつと、来ます。

2022年06月13日

問ひの矢を放つ



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和歌の浦の海



今日は、アントロポゾフィーハウス和歌山での言語造形と『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の学びでした。芸術実践とメディテーションを織りなし合はせてゐます。


いかにして、からだ一杯、こころ一杯で、その時間に生じたことごとを受け止めるか。(シンパシー)


そして、次に、いかにして、その受け止めたことごとに向かつて、問ひを立てるか。「今日のこの体験は、わたしに、いま、何を教へようとしてゐるのか」といふ問ひの矢を放つのです。(アンチパシー)


そのやうに問ふからこそ、その問ふた人にのみ、いつの日か答へがやつて来ます。その答へが、その人によつて消化された知です。その消化された知こそが、その人の理想になりえます。(シンパシーとアンチパシーの重ね合はせ)


わたしたちは、そのやうなこころの活き活きとした働きをもつて、「理想」を稼ぐのです。


「理想」とは、その人によつて消化された理念であり、考へです。


その、わたしによつて稼がれた「理想」をもつて、わたしは世に仕へるべく、仕事を創つて行きます。


わたし自身、今日も、集まつて下さつた皆さんのお陰で、自分自身の問ひを立てることができましたし、その問ひは、ここ数年間、ずつと立て続けてゐる問ひでもあります。


危機が本当に迫つてゐるこの国に、一体、わたしは何ができるのか。未来の日本のために、子どもたちのために、わたしは何をすることができるか。


本当に、ずつと、問ふてゐます。毎日、問ふてゐます。


そして、きつと、その答へはやつて来ます。


わたしは、その答へを生きて行くのです。




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2022年06月12日

感覚を実現すること



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画家とは、何をする人なのだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられます。


セザンヌをはじめ、「印象派」と言はれる画家たちの実現しようとしてゐたこと、それは肉の眼に見える自然のものをなぞるやうに描くことではなかつた。


目の前にある、山であれ、湖水であれ、樹木であれ、花瓶であれ、果物であれ、人であれ、画家が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものもぢつと彼を見つめる。


自然が自然そのものの内に秘めてゐる密(ひめ)やかで、持続的で、強く、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。


それは既に、感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。


そして、そのやうな自然からの「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大な画家自身の「こころそのもの」が立ち上がつてくる。


その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。


そのふたつの出会ひをこそ、キャンバスの上に、色彩で顕はにしろと、自然そのものが彼に強く求める。


セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それこそが絵を描くといふことであつたやうです。


まさに「仕事」として絵を描くとは、彼にとつては、それであつた、と。


わたし自身は、画家ではありませんが、この「ものをぢつと観ること・聴くこと」といふこころの練習を習つてゐます。


それは、ルードルフ・シュタイナーが書き残してくれた幾冊かの書に沿つてです。


その練習は、ものから、ものものしい何かを受け取ることのできるこころの集中力の養ひです。


このこころの力は、本当に、何年も何十年もかけて養はれていくものだと実感します。


そして、この力は、子どもを育てることにおいてとても重きをなす力です。


子どもといふ存在から、ものものしい何かを受けとり、それをこころにリアルに感覚することができるかどうか。


ですので、シュタイナー教員養成において、この内なる習ひ・養ひは欠かせないことの一つであります。


そして、あらためて、セザンヌは、そのことを、意識的になした人であつたと感じるのです。


ですので、美術館で実物の彼の絵を観るとき、いつも、画布の前でわたしはとてもとてもアクティブなこころのありやうでゐざるをえません。


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posted by koji at 21:59 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

7/17(日)〜7/18(月・祝)言語造形二日間連続講座『聴き取られた神々のことば「古事記」を語る



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この夏、二日間連続の講座『言語造形 聴き取られた神々のことば「古事記」を語る』を開催します。(7/17〜7/18)


夏の青空に向かって、思いっきり息を解き放ち、声を解き放ちつつ、古代から秘められてきたお話の精神、ことばの精神を活き活きと甦らせる、そんな二日間になります。


ご関心のあられる方、初めての方、どうぞご参加下さい。


※マスクの着用はご本人の自由にお任せしています。また、コロナウイルスなどに対する対応は特にいたしませんので、どうぞご了承いただけますよう、お願い申し上げます。


講師:
諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


日時:
令和四年7月17日(日)、18日(月・祝)二日連続
両日ともに、午前10時より少し休憩を挟んで13時半まで


場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


参加費:
二日間連続 12000円


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/



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2022年06月09日

問ひを立てること、それは眠りから目覚めること 『テオゾフィー』オンラインクラスより 






朝、起きて、瞑想をして、洗顔して、朝食をとつて、掃除をして、神棚を整へて、お祈りをして、さて、ある日は外へ仕事に出かけ、ある日は家にゐて勉強を始める。


そんな毎日の営みを踏んでゐるのにもかかはらず、時には、昨日までの様々な想ひ出がこころにやつて来て、どこか落ち着きがなく、こころに安らかさがないときがあります。


そんなときの我がこころのありやうは、まるで、霧がかかつたやうな感覚で、実は、恐れや寂しさや怒りなどの情や思ひに侵されてゐるのだと気づくのです。

しかし、毎日読んでゐる幾冊かの本があつて、それらはアントロポゾフィーの本なのだけれども、それらを一文一文読み進めてゐるうちに、かならず、それまでの雲間に陽の光が差し込んでくるやうに、霧が晴れるやうに、こころが明るみ、漸く、ひとりだちの<わたし>がここにあることを感じることができる。


かうすると、かうなる、といふ、法則があることは、本当にありがたい。


でたらめなやり方でなく、ある法則・規則に則つて、仕事を始めて行くことができる。


ひとりだちしてゐる<わたし>、わたしのわたしたるところ、そこにこそ、安らかさと確かさ、晴れやかさと爽やかさ、そして、信頼を感じることができる。


さうして、初めて、わたしの今にとつて、ふさはしい問ひを立てることができるやうに思ひます。


それは、ひとつの目覚めへとわたしを導く。


何が今大切なことで、何をすることが今必要で、だから、この今、なすべきことをなしていく。


さういふ目覚めへと導いてくれるのです。


幾冊かの本のお陰で、そんな健やかなこころもちへとわたしは帰つて来ることができる。


それは、本当にありがたいことで、こころの舵とりとなつてゐるのです。




2022年06月07日

こころのこよみ(第8週)〜聖き霊(ひ)の降り給ふ日々〜



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ギュスターブ・ドレ「ペンテコステ」



感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
 
 
Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、
「考へる」としてゐます。
denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、
その活き活きとした働きを殺さないやう、
名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
 
 

 
感官の力(見る力や聴く力など)が、ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。たとへば、テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる、さらには、あへて、見呆けてみることで、周りといふ周りを広やかに意識を広げてみる、周りの気配まるごとを感覚してみる・・・。
 
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、見てみる、聴いてみる。
 
 
見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。


なぜ、飽かぬのだらうか。それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立つて、愛するがあるからだ・・・。
 
 
そのとき、そのときの、「愛する」から、からだの大いさ、からだを使ふことの大事さが披かれる。
 
 
その時のこころのありやうは、むしろ、「考へるは、夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる」と表現することがぴつたりとする。
 
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのやうに感じるだらう。
 
 
この週は、聖き霊(ひ)の降り給ふ祭の週でもある。
 
 
約二千年前、十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、その後四十日間に渡つて、キリストは精神のからだをもつて現はれ、当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
 
しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
 
その十日の間、弟子たちは「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」ゐた。
 
 
ひとところに集まつて、静かに熱く、しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
 
そして、聖き霊の降り給ふ日、それは聖き霊(聖き精神)が、ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、弟子たちがさまざまな言語をもつて(ひとりひとりがおのおの自分のことばで)、そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だつた。
 
 
前週において、「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考へる力に代はつて」とみづからの精神に呼びかけた。
 
 
その「予感」への呼びかけとは、こざかしく考へることを止めて、より大いなるものからの流れ(世の考へ・キリストのことば)に耳を傾けるといふ行為だつた。
 
 
それは、「静かに慎む」「傾聴する」ありやうをもつて、みづからを浄めつつ待つといふ行為でもある。
 
 
二千年後のわたしたちは、考へる力が失はれてくるこの季節においても、そのやうな備へをしようとアクティブにみづからをもつていくならば、「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖き霊の降り給ふ祭を、自分たちのいまゐる場所で、きつと打ち樹てていくことができる。
 
 
「すべては神々の創り給ふものである」「神々しいものとこころがひとつになる」といつたことを読んだり、言つたりするにとどまらず、予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。
 
 
教育であれ、芸術であれ、そこにこそ、アントロポゾフィーの社会性が育つていく基盤があるのではないだらうか。
 
 
 
 

感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。



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2022年06月06日

幼な子の夢見る意識を守ること



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先日の投稿で、宮沢賢治の『ざしき童子のはなし』の動画を投稿しましたが、そこでわたし自身改めて感じましたのが、幼い子どもたちの夢見るやうな意識を早々と目覚めさせずにゐることの大切さです。


幼児期に、見えないものを観る力を大切に暖め続けることができた子は、きつと、小学生や中学生になつて行つても、意志や意欲の強い子になります。そして、大人になつて、自分自身でみづからのこころを決めることのできる力を持つ人になりゆきます。


早急に意識の目覚めをさせてしまふことは、知性の早すぎる目覚めを同時に促してしまひます。


知性の早すぎる目覚めは、幼い子どもたちに特有の手足の動きをもつて大人のふるまひやことばを見よう見まねで習得していく力、すなはち、真似る力を失はせ、はやばやと自分の頭で考へさせるやうになつてしまひます。


下手の考へ、休むに似たり。


小さな頭でこざかしく考へることなど、なにほどのことでもない、といふことを子どもや若い人たちに教へることは大切なことです。そのこざかしさは、生涯にわたる禍根を残し、世に災ひを与へてしまひます。そのこざかしさは、悪知恵になるからです。


むしろ、考へる力が本来出て来るべき9、10歳あたりまでは、周りを真似る力、手足を用いて行ふ力をふんだんに育んでやることが大切です。


さうして、そのあとから、ふさはしい導きによつて子どもたちの考へる力を育んでやることができるなら、その力は子どもたちの中で、やがて、活き活きと育つ植物のやうに健やかに育ち、本質的なことを明瞭に考へることのできる、こころの強い芯、高く太い樹木となるでせう。


自分自身が考へることに信頼のおけることほど、大切なことはありません。


その考へる力には、促成栽培にはない、自然な成長の力、いのちの力、意欲の力が通つてゐることを実感するからこそ、その生命に対して信頼を置くことができるのです。にせものではなく、本物のいのちに対するおのづからな信頼です。


その考へに通ふ生命の力こそが、幼児期における夢見るやうな意識の保護によつて育つのです。


いま、「何が正しいことか分からない」と言ふ大人の声をこれほど多く聞くことになるとは、といふ忸怩たる思ひでゐます。


それは、自分自身で考へて、自分自身でみづからのこころを決められない大人の嘆きの声のやうに思へるのです。


それは、多くの国民の受けて来た幼児期から始まる教育からの、必然的な帰結です。


もう、これ以上、このやうな教育を続けて行つては、社会そのものが立ちゆかないことをはつきりと意識していい時が来てゐます。学校の先生だけに教育を任せてゐていい時代は過ぎ去つてゐます。


だから、この2020年代からは、ひとりひとりの大人が、未来の社会を担ふ子どもたちや若者たちを育てて行くために、自分自身が何ができるのかを考へて行くべき時だとわたしは考へてゐます。


本当に、考へて、何か、実際に、始めて行きたいと思ひます。




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2022年06月04日

ざしき童子のはなし 宮沢賢治作









幼い子どもたちは、わたしたち大人が持つてゐる、鋭く目覚めた意識を本来的にはまだ持つことはできません。


健やかな子どもほど、ぼんやりとした、いはば、とりとめのない意識で生きてゐます。


しかし、そんな意識だからこそ、大人には感じられないものを感じたり、時には、見たりするのでせうか。


民俗学者の柳田國男が、こんなことを報告しています。


小学校にひとりの座敷わらしが現れ、子どもたちと一緒に遊び戯れたが、尋常一年生の小さい子どもらの他には見えず、「小さい子がそこにゐる」と言つても大人にも年上の子にも見えなかつた、と。


また、ずいぶん前の時、ある朝、わたしは早起きして、ひとりでゐましたら、当時、小学一年生の次女がやつてきて、なんと、彼女が先日視た神さまの話しをしてくれました。


家族みんなで家で仲良く話ししてゐるときに、次女がふと向かうを見ると、微笑みを浮かべ合掌をしながら、古い衣装を着た女性が光に包まれてこちらを見守ってくださつてゐたが、そのときは、あまりの神秘な感じに、そのことを家族には言へなかつた、と。


その話を聴いたわたしも不思議な気持ちに包まれ、「気のせい」で済ますことができませんでした。


そして、宮沢賢治は、大人になつても、そのやうな感受性と視力を持つてゐたやうです。


『ざしき童子のはなし』四つのお話しです。
 

言語造形による語りを聴いてみていただき、そのやうな、目には見えず手では触れられない方々のことに、思ひを向けてみませんか。









2022年06月02日

ごびらっふの独白 かえる語訳と日本語訳 草野心平作







幸福といふものはたわいなくつていいものだ。


さう、この「たわいなさ」のなかに、豊かなものを見いだす、こころの眼。


わたしたちは、そのこころの眼を啓くべく、練習を続けてゐます。







2022年05月30日

こころのこよみ(第7週)〜さあ、来たれ、わたしの予感よ〜



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わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。
 
     
    
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
  
 

人は、芸術に取り組むとき、ある種の息吹きを受ける。
 
 
シュタイナーは、そのやうな、芸術をする人に大いなる世から吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、春から夏の間に芸術行為をもつて解き放たうとしてゐる。
 
 
秋から冬の間、「わたしのわたしたるところ」「考へる力」はそのインスピレーションを孕むことができたのだ。
 
 
その「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が、変容して、春から夏の間のこの時期、意欲の力として、からだを通して息が吐かれるやうに、大いなる世へと拡がつていかうとしてゐる。
 
 
「わたしのわたしたるところ、それはいまにも離れ去らうとしてゐる」
 
 
その精神の吐く息に連れられて、芸術行為を通して「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、外の世に拡がつてゆく。働きかけてゆく。
 
 
芸術をするとは、頭で考へることを止めて、みづから頭が空つぽになるまで手足を働かせることである。
 
 
それは、世の光に引き寄せられることであり、自分のからだの外にこころが出て行くことである。
 
 
「世の光に強く引き寄せられて」
 
 
さうして、外へと出て行くほどに、光の贈りものをいただける。 
 
 
その光の贈りものとは、「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 考へる力に代はつて」
 
 
芸術とは、インスピレーションといふ世の風に吹き込まれつつ、予感といふ世の光に従ふことである。
 
 
練習を通して初めてやつてくる予感に沿つていくことである。練習とは、身を使ふことである。
 
 
秋から冬、インスピレーションを孕んだ考へる力が、まづは頭から全身に働きかける。
 
 
その精神の息吹きを、春から夏、練習によつて、解き放つていく。
 
 
その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
 
インスピレーションが、胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、息遣ひを通して、芸術として世に供され、供するたびに、芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。
 
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、やがて己れに来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
 
 
それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、アクティビティーにおいては、それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
 
世から流れてくるものを信頼すること。
  
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
 
だから、この季節において、考へる力は、感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、見失はれていいのだ。
 
 
「考へる力は感官の輝きの中で、みづからを見失はうとしてゐる」
 
 
そして、積極的に手足を使つて、息を解き放ち、力を揮つて、感官の輝きの中で、創造に勤しむのだ。
 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。
 



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2022年05月28日

本を読むときと講義を聴くときの違ひ



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たつた一枚残されてゐる講義中のシュタイナー




何かを学ばうとして、その何かに関する本を読むことと、その何かに関して、誰かから講義を受けることとの間には、少し違ひがあります。


本当に学びたいといふ内なる真剣さ。それは、どちらにも共通して必要です。


さて、本を読む時に、望むべくは、その内容によつて、こころが変に乱されたり、煽られたりすることなく、静かに考へつつ、かつ、熱い想ひをもつて、理解すること(分かること)へといたることです。


さうして、その読書が、こころにばかりか、からだのすべての力、すべての液にいたるまで働きかけて、日々の暮らし方、生き方に影響を与へて行くとき、その学問そのものには、理性や知識だけでなく、精神的ないのちが宿つてゐます。


そのやうな書を読む人は、死んでゐる文字を甦らせるやうな読み方へといざなはれます。その書に込められてゐる内容の精神、考へとしての精神が、書き手から読み手へと流れ込んで行くのです。


一方、講義などを通して、人の語ることばから何かを学ばうとするとき、その講義を聴く人は、語る人から教義を受け取るのではありません。語る人その人の精神を受け取るのです。


語る人の精神が、語られることの精神とひとつになつてゐるからです。


つまり、「人」に出会ひにゆくために、「人の精神」「精神の人」に出会ひにゆくために、講義を聴きに行くのです。


その人との出会ひのひとときに、その学問の精神は、そのつど、そのつど、生まれます。甦ります。むすばれます。


講義とは、人と人との間に繰りなされる、精神の劇でもあります。一回かぎりの劇なのです。


そこにおいては、和やかで親しみに溢れる雰囲気のなかに、内なる真剣さがあるほどに、精神的ないのちが宿ります。


かうして、本を読むときとは違ふ精神の受け取り方を、講義を聴くときに意識してゐますと、人と人とが、共に学びつつ生きて行くといふことの意味深さを感じることができます。







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2022年05月27日

自由への三つの密めやかな次第



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セザンヌ「果物鉢とコップとりんご」


人は、自分の外に広がる世界にはよく目を注ぎます。


しかし、こころといふ、内なるところに広がる世界に目を注ぐことには、あまり慣れてゐないのではないでせうか。


こころ(ドイツ語ではSeele)が、湖(See)だとしますと、その水面に浮かび上がつて来た様々な感情や考へ、それらはなぜ浮かび上がつて来たのでせう。


それらは、きつと、どこかから風がこちらに向かつて吹いて来るやうに、外の世界に何らかの出来事が起こつたり、他者の言動をきつかけに、こころが揺さぶられて、浮かび上がつてきたものですね。


それらは、湖の底に沈められてゐたものが、運命(仕合はせ)といふ風に吹かれ、湖の水まるごとが揺さぶられることによつて、沈殿物が湖水の面に浮かび上がつて来た、といふことでせう。


これまでの人生の中で経験せざるをえなかつた傷や痛みからの、自分自身では認めたくない自分自身の情が、そのつど繰り返し浮かび上がつて来ます。


その浮かび上がつて来たものを、いまこそ、ひとつひとつ丁寧に汲みとつてあげること。


それが、人の成長にとつて、とてもたいせつなことだと強く思ひます。


どのやうな、はき違へられた考へも、不健康な情も、抑えつけたり、排除したりせず、あるがままの客として、すべて、丁寧に汲みとつて、迎へて、響かせて、送る。


そんなとき、人は、客と一体化してゐない、ひとりの主(あるじ)です。


その内なる行為は、「光の息遣ひ」を通して、こころといふ湖水を浄めていく、非常に地道な作業です。


さうして人はゆつくりと、みづからのこころに精神の光を当てて行くことで、みづからを総べ、律していくことを学ぶことができます。


他者を責めず、世を批判せず、ただただ、誠実さと親身なこころもちに、みづからを委ねて仕事に邁進することができる。


自分の好みや性向、お馴染みの考へ方、感じ方を、できうるかぎり洗ひ流し、そのつどその場で新しく精神を迎へ入れ、流れ込ませる生き方、これが一つ目の次第、「自律」です。ここからすべては始まります。


さらに人は、暮らしの中で、仕事を通して、みづからのこころにだけでなく、みづからのからだにも精神の光を当てて行く。からだにまで光を当てて行くのです。


このとき、すべての人の行為、仕事は、芸術行為です。死んだものに精神のいのちを吹き込み、甦らせる、すべての行為が芸術です。絵を描くことや音楽を奏でることだけでなく、お料理も、お掃除も、お散歩も、すべての行為が、そもそも芸術行為です。


これもひとつの修業です。倦まず弛まず練習をつづけることで、人はみづからの足で、立つことができるやうになりゆきます。これが二つ目の次第、「自立」です。 


そして、人は、そのつど、そのつど、世に精神の光を当てて行くこと、みづからのこころやからだにだけでなく、世のものごとに光を当てて行くことを学びゆきます。


社会の中で自分はそもそも精神なのだといふこと、精神みづからであるといふことを見通すことができるやうになり、そこからこそ、ひとりひとりの他者、ひとつひとつのものごとをふさはしく立てることができるやうになります。これが三つ目の次第、「見識」です。


この自由へといたる三つの次第、「自律」「自立」「見識」は、ルードルフ・シュタイナーの『自由を考える(自由の哲学)』第三章、「世をつかむに仕える考える」に、詳しく述べられてゐます。


「アントロポゾフィーハウス ことばの家」では、これからも、「光の息遣ひ」を通して、この一つ目の次第に習ひ、生活の中で習慣にしてゆく、そして、だんだんと、第二、第三の次第へと、そんな稽古の場をもつていきます。


こころざしを持つ方よ、共に、精神の「みすまるの珠」を繋いでいきませう。




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2022年05月25日

いのちの洗濯と外の世の混乱に対する目覚め【アントロポゾフィーハウス青森三沢】



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とにかく、大人自身が健やかな息づかひを取り戻すこと。


こんな異様な世界の中で、まづはとにかく大人自身が伸び伸びと自分自身を表現すること。


自分自身を表現すると言ったけれども、正確に言ふと、精神に沿つて芸術に勤しむことによつて、自分自身をどんどん透明にしていくのです。


ひとりでも多くの大人が、透明になつてゆく。それは、嘘のない、自分自身に帰つてゆくことでもあるし、これまでにない心境に歩を進めるといふことでもある。


自分たちが創らうとしてゐるものは、そんないのちの洗濯をする学びと芸術の場を創るといふことであり、今日の【アントロポゾフィーハウス青森三沢】も、いのちを洗ひ、こころを息づかせ、精神に浸透される、そんな時間でした。


そして、このやうに精神にアクセスする時間を営むことと共に、いま、待ったなしのこととして、外側の世界の混乱にわたしたち大人は、どう向かひ合ひ、どう認識し、どう新しい活路を見いだしていくかを真剣に語り合ふ、ある意味、政治的な時間もがおのづから生まれたのでした。


大人として、精神へとこころを深めるからこそ、政治といふ外の世の仕組みをよりよくしていく営みについてこころを果敢に向けて行く時間を創つてゆく必要を感じてゐます。





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2022年05月23日

学びの細道


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京都の大原の里


あるクラスでは、こころの育みのために、種(たね)を目の前に置いて、じつと見る練習をしてゐます。


そして、その種を見つつ、いくつもの次第を経て、定められたあるいくつかの考へを重ねて行きます。


定められた考へにきつちりと沿ひ続けることによつて、その考へに結び付く情が、こころに深く染み込んでゆくのです。


また、あるクラスでは、自分自身の呼吸の営みと、外の世に拡がる植物の一木一草との間に、その生命の循環の持つ神々しい関はりあひに意識を注ぐことで、植物を見るたびに静かな情の深まり、高ぶりを得ることを学びます。米や野菜や果物などを口にいただくたびにありがたいといふ感謝の念ひを持つことを学びます。


それらの学びや練習は、わたしたちのこころに何を促すのでせう。


その深められ強められた情の営みが、わたしたちのありやうを甦らせるのです。フレッシュにするのです。生まれ変はらせるのです。


毎日を、新しく生きるいのちの健やかさ、こころの健やかさをみづから生み出してゆく、そんな精神からの学びと練習です。


アントロポゾフィーからの教員養成といふ営みも、そんな大人を育てようとする営みなのです。知識を頭の中に溜め込むのではなく、ものを観るたびごとに、深い情、強い情を覚えることのできる人を育てること、それがアントロポゾフィーからの教員養成です。


ここで、シュタイナーの『神秘劇』の中のことばを上げさせてもらひます。



ーーーーー



種子は力を秘める。
その力は育つ植物にどう育つべきかを教へますか。
いいえ、教へるかはりに、
植物のうちに生きた力として働きます。
わたしたちの理念も教へではありません。
教へるかはりに、わたしたちの営みそのものとなり、
いのちを沸かし、いのちを放つにいたります。
わたしにしても、さうして理念の数々をものにして来ました。
だからいま、ひとつひとつのことに生きる意味が汲み取れます。
生きる力ばかりか、わたしはものごとを見る力をも得てゐます。
子どもたちを育てるにも希望があります。
これまでのやうに、
ただ仕事ができる、ただ外面で役立つだけではない、
内面で釣り合ひがとれる、
満たされたところを保つて生きていける、
そんな人へと育ててみたい。



ーーーーーー
.



posted by koji at 16:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いてゐる信仰〜



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己れであることから甦る、
 
わたしのわたしたるところ。
 
そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じつくりと見る。じつくりと聴く。じつくりと受けとる。
 
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、意識的に感官を開くほどに、世も人も、ものものしく語りだす。
 
 
そして、世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、我がこころが起き上がつてくる、立ち上がつてくる、甦つてくる。
 
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまふことがある。
 
 
そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
 
しかし、この「忙しさ」といふこころの焦りに、大人であるわたしみづからが気づけた時、目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、子どもが落ちつくことが、よくある。
 
 
そんな時、子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。その子が、その子として、啓けてくる。
 
 
そして、さうなればなるほど、眼を注いでゐるわたし自身のこころも喜びと愛に啓けてくる。わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
 
きつと、子どもだけでなく、お米その他の作物をつくつたり、育てたりすることにおいても、それを毎日してゐる人には、同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、他者がゐてくれてゐるお陰で、ものがあつてくれるお陰で、わたしはわたしのわたしたるところ、わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
 
他者といふ世、それはこちらが眼を注ぎさへすれば、いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
 
他者に、世に、わたしのまことたるところが顕れる。
 
 
そのことも、不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、そのわたしのまことたるところが、神々しい元の相(すがた)に相通じてゐることに気づいていくことは、あらためて、信仰といふことに対する親しさをわたしたちに与へてくれる。
 
 
生活の中に根付いてゐる信仰。
 
 
日々、つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、啓いていくことができる信仰。
 
 
もうすぐ、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭の日がやつてくる。
 
 
 
己れであることから甦る、
わたしのわたしたるところ。
そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 


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2022年05月21日

岩木山に降り注ぐ陽の光



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昨日、青森に入りました。飛行機の窓から青森の地を見下ろすと、遥かの岩木山に夕暮れの光が降り注いでゐました。ここには神々しい何かが古代から今も常に降り注いでゐることを、眼で確かめさせてくれるやうな光景でした。


陽の光、それは、一体、何なのか。その陽の光を浴びて、地球といふ大地は、植物は、動物は、人は、一体、何を受け取つてゐるのか。陽の光に、わたしたちは、深みにおいて、何をいただいてゐるのか。


そんなことを念ひながら、青森にやつてきました。

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2022年05月19日

5/24(火)アントロポゾフィーハウス【青森三沢】子どもの教育の実践に向けて



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子どもの教育の実践を、どこから始めませうか。


学校教育以外のところに、どのやうな場を創つてゆくことができるでせうか。わたしたちは、いま、その必要性を感じてはゐないでせうか。


学校の先生だけにお任せすることから発想をより自由にして、わたしたち大人が総がかりで、未来の人たちに、何ができるでせうか。


アントロポゾフィーから、そのことを考へ、そして分かち合ひ、さらには何かを始めて行くことができないでせうか。


子どもは何に向かつて育てられてしかるべきなのでせうか。


それは、「自由」に向かつてです。


「自由」とは、その人がその人になりゆくことです。


自由、それは、人の理想を表す名です。


そして、世の平和とは、自由な人こそが勝ち取ることのできるものではないでせうか。


最も大いなる根底のことは、仕組みを作り変へることによる平和でもなく、力を持つことによる平和でもなく、ひとりひとりが「自由」になることによつて生まれて来る平和な世。


だからこそ、わたしたちが、まづ、みづから、「自由な人」となりゆくこころざしを持つて歩みだすこと。


そのために、「自由である」とはどういふことなのかを学び、そして、「自由になる」ためにはどういふ練習を積まねばならないかを知り、さらには、「自由な人として<わたし>は何ができるのか」を探りつつ実践していく。


わたしは、全く個人的にですが、その道を示してくれてゐるものとして、アントロポゾフィーを見いだしたのでした。


数限りない失敗を繰り返しながら、しかし、その道を自分自身で歩み続けて、さらには、ひとさまとその道を分かち合ふことを念願として生きてゐます。生かされてゐます。


人は、おのおの、道筋は違ひますが、「自由への道」「わたしが、ますます、<わたし>になりゆく道」は、共に学びながら、共に歩いて行くことができます。


子どもたちへの教育は、かならずや、わたしたち大人自身が「自由への道」を歩く人にならうとすることからなりたつてゆくはずです。


5月24日(火)9時半より13時まで、青森・三沢にて、そんな意識を持つてクラスをいたします。
フェイスブックのイベントページです。https://fb.me/e/2Cbt3FSco



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講師:
オイリュトミー 越中奉(えっちゅうたすく)
言語造形・講義 諏訪耕志(すわこうじ)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
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●日時: 毎月第四火曜日 9:30〜13:00
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●場所: 自由学舎 中川塾
     青森県三沢市下久保1-4-6
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●タイムスケジュール:
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9時半   シェアリング
     (ことばの分かち合い、聴き合い)
     オイリュトミー
     (ことばや音楽に沿って動く芸術)
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10時15分  言語造形
     (子どもたちにお話を語りかけるためのことばの芸術) 
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12時    講義「これからの時代の子どもへの教育のあり方」
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13時   終わり
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●参加費: 3回連続ご参加 10000円
      単発ご参加 4000円
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●お振込み先
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// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
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// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
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●お問い合わせ・お申し込み:
アントロポゾフィーハウス 諏訪
mail info@kotobanoie.net
tel 06-7505-6405

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ゆつくり


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今日は、ある企業の方々とのオンラインミーティングのひとときを持ちました。


このミーティングは、言語造形といふ芸術を土台にして、定期的にもたれてゐます。


オンサイトでしてゐた時から、この場をもたせてもらつて、もう二十年近くになりますが、ここには、みづからを開いて活き活きとことばを述べ合ひ、聴き合ふ、「自由」といふものが、ずつと、息づいてゐます。


時間の流れの中で、おのおのが、おのおのに、なりゆくのです。


その秘密はどこにあるのか。


それは、息づかひに導かれた「ゆつくり」さにあるのです。


「ゆつくり」。


ひとつひとつの息づかひ、ことばづかひ、立ち居ふるまひをゆつくりと意識的にしてみるのです。


その深さ、たわわさの中から、おのづと、伸び伸びとした、活き活きとした、こころのみづみづしさが泉のやうに湧き上がつて来ます。


そして、いつしか、乱れがちなこころの佇まひも鎮まつてゐます。


「ゆつくり」を、意識的に大事にするこの場では、なぜかおのづと、互ひが互ひを敬ふことができ、尊ぶことができるのです。


企業戦士であらざるを得ない皆さんも、ほつと一息つくやうな感覚で、わたしが<わたし>であることに安心することができる。


「ゆつくり」といふ、精神の浸透は、ひとりひとりが自分自身の<わたし>を大切にすることへと人を導きます。


そして、だからこそ、人と人との間にハーモニーを奏でることを促します。


<わたし>であることと、ハーモニー。


これが、人が自由になりゆくための礎(いしづえ)です。


今日も、そのやうなことを談り合ひ、感じ合ひました。


本当に、奇(くす)しく、ありがたいことです。




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2022年05月17日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜



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精神の深みからの光の中で、
 
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
 
神々の創りたまふものが啓かれる。
 
その中に、こころそのものが顕れる、
 
ありありとした世へと広がりつつ、
 
そして立ち上がりつつ、
 
狭い己れの内なる力から。
 
 
 
 
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
 
 
 
 
画家とは、何をする人なのだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられる。
 
 
「仕事」として絵を描くとは、どういふことか。
 
 
セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それこそが絵を描くといふことであつた。それこそが、彼の「仕事」だつた。
 
 
彼が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものの方が、彼をぢつと見つめる。
 
 
自然が自然そのものの内に秘めてゐる持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
 
 
それは既に、感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。
 
 
そして、自然からのそのやうな「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。
 
 
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
 
 
そのふたつの出会ひそのものを、キャンバスの上に、色彩で顕はにしろと、彼は自然そのものに求められる。
 
 
その求めに応へるのが、「感覚の実現」であらうし、彼の仕事であつた。その求めに応へ続けたのが、彼の生涯だつた。
 
 
世は、人に、「その場その場で実り豊かに織りなしつつ 神々が創りたまふもの」を啓いてほしいと希つてゐる。
 
 
なぜなら、それによつて、人は、「 狭い己れの内なる力から、ありありとした世へと広がりつつ、自分の足で立ち上がりつつ、自分自身のこころそのものを顕はにする」ことができるからなのだらう。
 
 
セザンヌは、そのことを、意識的になさうとした人だと感じる。
 
 
 
精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
  

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posted by koji at 21:00 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする