2019年05月18日

滋賀県 能登川 新・言語造形クラスのお知らせ

 
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滋賀県の能登川にて、来月6月から毎月第二火曜日の午前に、言語造形のクラスが始まります。
 
ことばを話すこと、それは、そもそも、芸術行為です。
 
物語りを語ることや絵本を読み聴かせすることを通して、ことばを話す芸術「言語造形」に取り組んでいきませんか。
 
ことばというものを見直していきましょう。
 
そして、人間的なことばの響きを想い出していきましょう。
 
初めての方、どうぞ、お気軽にご参加ください。
 
それは、とてもとても喜びに満ち溢れた時間になります。
 
講師: 諏訪耕志
 
 
 
 
「ことばを学ぶ会 in 能登川」
  
 
日時: 第一回目 体験会 6月11日(火)
    10時から12時半まで
    7月から毎月第二火曜日に開催予定です。
 
 
開催場所:能登川
(お申し込み時に場所の詳細お伝えします)
 
 
参加費: 第一回目体験 3500円
     四回連続 14000円
     体験参加以降の単発参加 4000円
     (プラス講師の交通費を頭割りで)
 
 
申込み先:吉村真弓 haihai4460mw@yahoo.co.jp
 
 
どうぞ、御自身が声に出してみたい作品(絵本や詩集や小説その他)をひとつ持ってきてください。
 


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2019年05月17日

太宰治の手紙から、想ひ起こす


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 文化と書いて、
 それに文化(ハニカミ)とルビを振る事、
 大賛成。
 私は優といふ字を考へます。
 これは優れるといふ字で、
 優良可なんていふし、優勝なんていふけど、
 でも、もう一つ読み方があるでせう?
 優しいとも読みます。
 さうして、この字をよく見ると、
 人偏に憂ふると書いてゐます。
 人を憂ふる、
 ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、
 これが優しさであり、
 また人間として
 一番優れてゐる事ぢやないかしら、
 さうして、そんな、やさしい人の表情は、
 いつでも含羞(はにかみ)であります。
 私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。
 酒でも飲まなけれあ、ものも言へません。
 そんなところに
 「文化」の本質があると私は思ひます。
 「文化」が、もしそれだとしたなら、
 それは弱くて、敗けるものです、
 それでよいと思ひます。
 私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。
 まけてほろびて、その呟きが、
 私たちの文学ぢやないのかしらん。

          (太宰治書翰 河盛好蔵宛)
 
 
自分の仕事つてなんだらうなと、改めて考へてゐて、この太宰の手紙のことを想ひ起こしました。
 
我が国ならではのもの、その根もとに息づいてゐるものを意識すること。
 
太宰は、それを優しさ、とも、含羞(はにかみ)、とも、表現される「文化」だと言つてゐます。
 
古来、我が国の詩人たちは、その奥底に息づいてゐるものを様々に言ひ表してきました。
 
「言霊の風雅(みやび)」、「侘び」、「寂び」、「しおり」・・・
 
本居宣長に至つて、「もののあはれを知ること」とも言ひ表されました。
 
それは、特に自分の場合、日本語といふ、ことばを意識していくことでもあつて、日本語ならではの調べに意を注ぎながら、ことばの運用を大事にしていくことでもあります。
 
日本では、特に、こころを整へてから、ことばを話す、といふよりも、ことばを整へることで、こころを整へ、育んでいく、そんな道があることに、ある種の驚きと誇りをも感じるのです。
 
言語造形を通して、その根もとに息づいてゐるものを、葉と繁らせ、花と開かせ、実とならせること。
 
それこそが、自分の仕事であるのだな。
 
そして、もしかしたら、それこそが、世界中に通じていくやうな、まこと遍き意味(こころの味わい)をもつのではないだらうか。
 
よその国の人がこころから感心しうるもの、それは、日本なら日本ならではの、こころの味わいの深さ、豊かさ。
 
これは、己れだけ(日本だけ)を観てゐて済むことでは、きつと、なくて、他者(外の国、民族)との出会ひの中でこそ見いだされていくことでせうが、自分自身の足許をこそ深く掘つてゆく、そんなおほもとの志が大きくものを言ふやうに思はれます。
 
また、こんなことも考へるのです。
 
わたしたち日本人の意識の深みに古代から引き続きずつと憩つてゐるもの。
 
それは、「神から引き離されてしまつたわたし」ではなく、いまだに「神とひとつである<わたし>」、いはば、「神(かむ)ながら」であること・・・。
 
もし、さうであるならば、その奥底にあるものをこそ、改めて意識に引き上げ、それを、活き活きと、発剌と、表現し、表に顕していくこと。それは、わたしたち日本人が荷つていつていい、ひとつの役割かもしれない。
 
ヨーロッパやアメリカを中心とした「文化」のあり方は、やがて、古来から秘められ続けてゐるアジア、とりわけ日本の「文化」のあり方と、出会ふでせう。これは、未来のことだと思ふのです。
 
その時、どちらかがどちらかを征服するのでなく、真に出会ふ未来に向けて、わたしたちは、己の本来もつてゐるものを磨き、研ぎ澄ませるぐらゐの意識を育んでいくことが大事だなと思ふのです。
 
でも、そんなことは、たいてい、日常の生活の中では忘れ去られてしまつてゐるものですから、だからこそ、想ひ起こす必要がある。
 
慎ましく、かつ、怠ることなく。
 
なんだか、大風呂敷をひくやうなことを書いてしまつた嫌ひがありますが、そんなことを考へつつ、仕事をしてゐます。
 

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2019年05月15日

滋賀 両親の問診時間の会のお知らせ


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滋賀県草津市にて今月5月28日(火)を第一回目として、ミヒャエラ・グレックラー女史の講演録『両親の問診時間』を学ぶ会を始めます。
 
グレックラーさんは、シュタイナー学校校医、アントロポゾフィー精神科学自由大学 ・医学部門代表などを務められた方です。
 
子どもを育てていくためには、何よりも父親と母親の関係性が大切なのであり、そこからこそ、子どもへの視点が改めて明確になってきます。
 
父親であること、母親であること、そしてなにより人であること、それらをもう一度、新しい視点で振り返ってみませんか。
 
第一回目のテーマは、「父親と子育て」です。
 
初めての方でも、どうぞ、お気軽にお仲間にお入りください。
 
奮ってのご参加、お待ちしています。
 
 
 
講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時: 基本的に毎月第四火曜日 午前10時より12時半まで
 
 
場所: 滋賀県草津市内 個人宅(お申し込みいただいた方に個別のご連絡いたします)
 
 
参加費: 単発でのご参加 3000円
     4回連続参加 10000円
    (プラス講師の交通費を頭割りで)
 
※有料にてお子様の託児あり。お申し込み時にお伝えください。
 
 
お申し込み・お問い合わせ: minttea221@gmail.com(筒井)


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2019年05月14日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねてあわせて「わたし」〜


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平櫛田中作「蕉翁像」

 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは「考へる」に、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世を、
 
ひとつに固く結びつけようとする。
 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
感覚には、人によつて受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触などがある。
 
これらは、外から人に向かつてやつてくるものである。
 
しかし、感覚は人の内からもやつてくる。
 
からだの内からやつてくる空腹感や疲労感、こころの内からやつてくる意欲や感情や考へも、感覚なのだ。
 
なぜなら、みづからのからだもこころも、世の一部だからだ。
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。
 
主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
 
その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
人が、外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。
 
感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へる仕事をするほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、少しずつ、太く、深く、大きく、成長させていく。
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
 
またそれは、主と客が心理的にまぜこぜになるといふことではなく、精神的にひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」(わたしのわたしたるところ)がいよいよ明らかなものになつていく。
 
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
彼らは、色彩といふもの、こころといふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、どこまでも辛抱強く向き合ひ、その上で、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだ。
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」ははつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれる。
 
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、さらには「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
 
そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは「考へる」に、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世を、
ひとつに固く結びつけようとする。
 



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『第一回 源氏物語を味はふ会 〜藤壺と光源氏〜』のご案内


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5月25日(土)「ことばの家 諏訪」にて行ひます『源氏物語を味はふ会』。
 
実母を幼い頃に失つてしまつた若い男の、義理の母(ときの天皇の御后様)・藤壺の宮への燃へ上がるやうな恋心。
 
禁断の恋の渦に巻き込まれてしまふ、藤壺の宮の引き裂かれるやうな複雑なこころ模様。
 
今回の第一回は、光源氏と最愛の藤壺の宮との狂ほしいばかりの間柄を、まづ、取り上げます。
 
「もののあはれ」は、なによりも、男女の恋に知られるものです。
 
 
 
今回、朗読を荷はれる北川三代さん。
 
御年85歳のその艶やかな御声で、言語を造形しながら空間を満たしてくださいます。 
 
当日は、「ことばの家 諏訪」から歩いて三分ほどのところにある万代池にて、帝塚山音楽祭が午前十時から午後五時まで開かれます。 
 
音楽祭で音楽を楽しむのもコミで、「ことばの家 諏訪」での『源氏』の会、どうぞ、どうぞ、お運びください。
 
お待ちしてゐますね。
 
諏訪耕志記
 
 

 
解説: 山崎方典(高校国語教師)
 
言語造形: 北川三代
 
ナビゲーター: 諏訪耕志
 
 

日時: 令和元年5月25日(土)14時から16時
 
 
会場・お申し込み: ことばの家 諏訪 
          https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費: ご予約 2000円  当日2500円 
 

 
 

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『古事記の傳へ』〜令和元年冬至に向けての準備〜


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親子えんげき塾 ことばの泉は、今年、令和元年の暮れ、師走の月、冬至の日に、和歌の浦で『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題して、天の岩戸開きに至る日本の神話を演じます。
 
冬至の、最も太陽の力が弱まり、最も闇の力が強まるそのとき、天照大御神様が天の岩戸からお出ましになられ、陽の光の力が再び甦るのを、わたしたち日本人は毎年、毎冬、お祝ひしてゐました。
 
その冬至の日に向けて、わたしたちも準備を少しずつ始めてゐます。
 
日本人がこころから大切に守り続けてきた物語り。
 
それは、神話です。
 
それは、語り伝へられて来ただけでなく、演じられ、祭りを通して祝はれ続けて来たものです。
 
つまり、古事記の神話は、今年、この月、このとき、いま、起こつてゐることを言語化したものであります。
 
闇の極まる日の冬至の祭りは、そもそも、新嘗(にひなへ)の祭りでした。
 
一年の米作りの終結点として祝はれ、収穫に対して太陽の神、天照大御神に感謝を捧げる、日本人の暮らしの中でなくてはならない、とても重要なものでした。
 
神話といふ文学と、米作りを中心にした暮らしと、信仰が、ひとつになつて何百年も、いや、きつと何千年も営まれて来た国、それが日本です。
 
わたしたちは、いま、何に繋がらうとしてゐるのだらうか。
 
そんなことをこの『古事記の傳へ』を演じようとしてゐる、えんげき塾のメンバーたちはこころの中で感じ始め、考へ始めてゐます。
 
わたしもそんなメンバーの方々と共にこの令和元年を生きることができることが、なんだか晴れがましいのです。
 
昨日の稽古に、見学に来て下さつた村尾 初子 (Hatsuko Murao)さんが動画を撮つて下さいました。
 
https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305188046208315/?t=5

https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305187706208349/?t=7
 
初子さん、どうもありがたうございます。

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古さを慕ふ


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芸術において、自分自身を解放する、自分自身をみつめる、そのことの素晴らしさ、尊さ。
 
そして、つひには、芸術とは、「道」であることに気づくことの、妙なること。

そのことに、気づくことは、芸術が自己実現を促すことといふよりも、「道」そのものを尊び、存続させていくことに、人の務めがあることに気づくことでもあるでせう。

とりわけ、日本に於いて芸術とは、そもそも、すべて「道」です。

「道」とは、人がゆくところ、人が己れの足を動かせて歩くところです。
 
さう言へば、わたしがまだ若くて、随分精神的にも未熟だつた頃、フォルメン線描といふ、シュタイナー芸術のレッスンに出た時、わたしが、今から思えば非常に「つまらない」質問を先生にしたことを想ひ出します。
 
すると先生は、「づべこべ言はずに、手を動かせ」と厳しくわたしに言ひました。
 
まだ三十代前半の若い女の先生でしたが、なぜだか、すぐにわたしは羞恥心と共に、「これは、道なのだ」と直感しました。
 
わたしは、日本人のさういふ先生に教へてもらへたことを幸運に思ひます。
 
言語造形も、「道」です。
 
ことばの発声に取り組めば取り組むほど、ことばそのものの秘密、それを発声してゐる人の秘密、そのことばによつて描かれようとしてゐるものごとの秘密を、だんだんと明かすやうになる。
 
ことばとは、まさしく神から人だけに与へられてゐる「自然」です。

ことばは、己れの「自然」を、人によつて、解き明かされたがつてゐます。
 
人によつて、造形されたがつてゐます。
  
その「自然」の秘密を解き明かしていく「道」をしつかりと歩いて行くための稽古を毎日続けていくこと。
 
そして、その「道」を求める人にここにもひとつの「道」があることをお伝へすること。
 
それが、わたし自身にことよさしされてゐることだと改めて念ひます。




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2019年05月08日

『言語造形と演劇芸術のための学校』のお知らせ


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これは、言語造形に真摯に取り組んでみたいといふ人のための学校です。
 
語るといふ芸術。
演じるといふ芸術。
詠ふといふ芸術。
 
言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。
 
精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。
 
また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。
 
そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。

日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。
  
ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。

週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。
 
 

この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。
 
実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
 
 
●就学期間:
 
五年間
 
毎週平日4日間/年間45週
 
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み
 
 
 
●時間:
 
午後6時〜午後8時
 
 
 
●場所:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

 
●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji 
 

 
●授業料:
 
入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関わらず。合宿などの費用別途)
 
 
 
●授業内容:
 
言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他
 
 
 
●お申し込み:
 
履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添えて、
メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
後日、面接日をお知らせいたします。

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2019年05月07日

未来の芸術 〜関根祥人を想ひ起こす〜


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九年前に急逝した能楽師・関根祥人。
 
わたしは、彼の舞台を初めて観たのは、確か1990年代中頃、『萬歳樂』といふ舞台だつた。
 
彼が舞台に登場すると、舞台上の空気が一変し、その一挙手一投足の動きと、彼の発することばの響きから、彫りの深い波が大きくうねりながら舞台上から客席後方へと拡がつてゆくのが感じられた。
 
そんな舞台は、それまでに観たことがなかつた。
 
しかし、これこそが、わたしが求めてゐる舞台芸術だ、さう、震へるやうな感動の中でわたしは感じ、その後、できうる限り彼の舞台を繰り返し観た。
 
能といふ舞台芸術が、極めて未来的な芸術であることを教へてくれたのは、能楽師は数多をれども、わたしにとつては彼ひとりであつた。
 
その彼が、2010年、五十歳の若さで急逝した。
 
その後、能といふ舞台芸術からわたしは遠ざかつてしまつた。
 
今日、住吉大社で、天皇陛下御即位記念の奉祝曲「大典」が演じられ、それを観てゐて、しきりに彼のことが思ひ出された。
 
からだとこころと精神の感官を研ぎ澄ませ、伝統の力を敏感に繊細に感じること。
 
さうしていかないと、伝統主義の虚偽を見破ることはできない。
 
それは、演じる者にとつても、観る者にとつてもだ。
 
もはや、伝統主義やお決まりのスタイルに拠りかかつてゐるだけでなく、清新な息吹きを舞台に吹き込まなければ。
 
そのとき、我が国の伝統が新しいかたちで甦る。


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2019年05月05日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜


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ナショナル ジオグラフィック協会の「世界の美しい鳥たちより」

世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
わたし自身であることの鎖から。
 
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
 
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。ひらめきが語りを導いてくれるやうに。
 
「ひらめき」とは、語り手の己が空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
 
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
 
そのやうに、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
そのやうな「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。「ああつ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
 
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
特に、この季節、自然といふものをよく観ることによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然との対話の内に、他者との対話の内に、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。
 
芽吹き、花開くものたちにたつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
 
 
 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
 


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5月25日(土)源氏物語を味はふ会 〜藤壺と光源氏〜 のお知らせ


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もつとも大事なこと、もつとも密やかなこと、それは語らない。
 
紫式部は源氏物語において、その手法を極めました。
 
それゆゑ、源氏物語は、日本文学の最高峰にいまだに位置してゐるのです。
 
 

令和元年5月25日(土)に、「ことばの家 諏訪」にて、『源氏物語を味はふ会』を催します。
 
この古典文学作品を、親しみやすい解説と言語造形による朗読で味はつてみませんか。
 
今回は、光源氏と、彼の永遠の憧れの女性・藤壺の関係に光を当てていきます。
 
『源氏物語』をこれから読み始めてみようといふ方にも、お勧めです。
 
春の終はりのひととき、源氏物語の世界へご一緒しませう。

 

「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
  
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チラシ絵:鹿喰容子さん


 
解説: 山崎方典(高校国語教師)
 
言語造形: 北川三代
 
ナビゲーター: 諏訪耕志
 
 

日時: 令和元年5月25日(土)14時から16時
 
 
会場・お申し込み: ことばの家 諏訪 
          https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費: ご予約 2000円  当日2500円 
 



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2019年05月04日

わたしたちが欲してゐるのは自己の宿命である


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「わたしたちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」

「自己が居るべきところに居るといふ実感」

(福田恆存『人間・この劇的なるもの』より)
 
かういふものの感じ方、考へ方を、「もののあはれを知る」といふ認識方法として多くの日本人は理屈抜きに体得してゐたやうに思ふ。
 
「権利!」「人権!」「個人!」「自由、自由!」などと叫んでゐるよりも、腹が据わつてゐて、よほど人としての弁へがあるやうに思ふ。
 
 

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2019年05月03日

『日本と皇室の歴史』勉強会のお知らせ


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このたびの平成から令和への御代代はりに際し、わたしたち日本人の多くのこころが何らかの脱皮へと動きはじめてゐることを感じはしないでせうか。
 
わたし自身、先の大戦後七十周年であつた平成二十七(2015)年の一年ほど前から、このこころが全く新しい方向へ動き始めてゐることを感じてをりました。
 
そのこころの動きは、生きてゐる者同士の感化といふよりも、すでに亡くなられた方々との交流が、それまでとはまるで違ふ勢ひで始まつた、そんな感覚でありました。
 
この国と皇室の歴史を学び始める、そんな読書会を毎月一回催していきたいと思つてゐます。
 
といひましても、わたし自身も学び始めたばかりの者ですので、教科書を選び定め、それを皆で読み進めていくといふスタイルで始めて参ります。
 
大人にとつての教科書選びは難しいものですが、この御代代はりに際し、名著・良書が出てゐること、まことにありがたいことです。
 
明治維新からの我が国の近現代の歴史の中で、いかに代々の天皇陛下が、国民を守つて来られたかを論じる、江崎 道朗 (Michio Ezaki)氏による『天皇家 百五十年の戦い[1868-2019]』は、紛うことなき名著だと感じてゐます。
 
まづは、この一冊をわたしたちの教科書として熟読していくことから始めます。
 
我が国の歴史を改めて学び直し始めつつ、自分自身のことばを持つことに向けて歩み出したいと思ひます。
 
この読書会は、読書会でありつつ、精神と精神の出逢ひの時間でありたい。
 
それゆゑ、参加者の活発で活き活きとした発言と共に、ひとりひとりの発言を静かに真摯に傾聴するといふ参加姿勢を大切にしていきたい、議論ではなく、静かに、粛々と、やつていきたいと希つてゐます。
 
会の名前をとりあえずは、『日本と皇室の歴史』勉強会として発足させたいと思ひます。
 
ご関心があられる方、どうぞご連絡ください。
 
 
 
●日時:
 
令和元年6月より毎月第一土曜日午後3時より5時頃まで
 
 
●場所・お問ひ合はせ・お申し込み:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
●参加費:
 
場所代として500円
 
 

 
※ご参加される方は、教科書を各自ご購入の上、お申し込みをお願ひいたします。

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6月30日 言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』のお知らせ


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太古の人は、海に対して夢を見てゐました。
 
 
「霊界」などといふ粗雑なことばを使はず、ていねいになつかしい思ひから「常世(とこよ)の国」と申してをりました。
 
 
主に丹波国風土記から構成した劇『浦島子』と共に、昔話『たつの子たろう』、そして謡曲『高砂』、これらを言語造形を通して聴いていただきます。 
 
海の神秘が物語られ、謡はれ、演じられます。
 
 
能舞台での言語造形とライアーの響き。
 
 
ぜひ、いらしてください。
 
 
 
 
出演:
 
 
昔話『たつの子たろう』 諏訪千晴
 
 
謡曲『高砂』 諏訪かさね
 
 
劇『浦島子』 諏訪耕志 諏訪千晴 諏訪かさね
 
 
音楽 足利智子
 
 
 
 

日時: 令和元年6月30日(日)
    13時半開場 14時開演 15時半終演予定
 
 
 
場所: 山中能舞台
    最寄駅 地下鉄御堂筋線「西田辺」徒歩5分
    大阪市阿倍野区阪南町6-5-8
 
 
 
参加費: ご予約 大人3000円 子ども1000円
     当日  大人3500円 子ども1500円
 
 

【 お申し込み 】

以下のサイトよりお願いいたします。
(前払い事前決済)
https://www.kokuchpro.com/event/tokoyonohama/
 
一番下の、「申込む」ボタンを押してください。
クリック後、30分以内にクレジット決済をお願いいたします。それ以降ですと、ご予約が無効になつてしまひます。


ゆうちょ銀行へのお振り込みをご希望の場合は
以下になります。
 
 ゆうちょ銀行から : 記号 10260 番号 28889041 スワ チハル
 他銀行から    : 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904




【 お問い合わせ 】
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/ 
お申し込み: ことばの家 諏訪
       https://kotobanoie.net/access/
 
 
 

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2019年04月30日

陛下、どうもありがたうございました


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「今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終へることになりました」
 
このおことばに、なにか、万感の、思ひを感じ、涙が溢れて来るのを止めることができなかつた。
 
この国が、分断されたり、籠絡されたり、侵略されたりする危険は、実はいくらでもあつた。その危険性はいまもあり、かつてないほど、その危険性は高まり続けてゐるといふ事実を、わたしたちはどうして視ようとしないのか。
 
しかし、皇室がそのやうな日本の分断を防ぐべく、懸命のご努力をし続けて下さつてゐることを、わたしたちは、あまりにも知らなさすぎる。
 
なにせ、現在の日本国憲法にさへ(!)、かう記されてゐるのに。
 
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて・・・」
 
さう、日本国民を分裂・分断させることを防ぐ、日本国民「統合」の象徴であられると。
 
そして、経済大国といふ表側のわたしたちのマスクの裏側に、敗戦国といふ苦難の運命がありありと脈打つてゐるわたしたちのこの現況。
 
その苦難を先代の昭和天皇から深く引き継がれ、さらに災害大国を癒やすためのお働きを汗を流しながらし続けて下さつた。
 
さらに、皇室の伝来の最も深いご任務、国民の安寧を己が身をもつてお祈りされるといふこと。
 
そのことの厳しさは、わたしたちの想像を絶する。
 
その精神面、心理面、肉体面、すべてに渡る激務を、今日、終へられたのだ。
 
皇室が、日本を守り続けて下さつてゐる。
 
国民は、そのことを知る必要がありはしないか。
 
わたしたちは、学校で何もそれらのことについて教へられてゐない。
 
だからこそ、わたしは自主的に学びをしていきたい。
 
そして、子どもたちに、この美しく、いとほしい国を受け渡していきたい。

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2019年04月29日

国語教育としての言語造形

 
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京都御所に北隣する母と子の森

 
これからの国語教育を考へたいのです。
 
手軽な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのでは、もう埒があかないはずです。
 
自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、ていねいに、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。
 
昔から我が国の人は、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を尽くして、ことばにする力に秀でてゐました。
 
善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふこと、それが昔から一貫してゐる我が国の国語教育です。
 
国語のその力は、おのづから、聴く人、読む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辞の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。
 
文章を書くためのそのやうな力は口からいずることばに、口からいずることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあうことでせう。
 
話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。
 
書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。
 
 
 
そして、国語教育にさらに言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。
 
前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて発声する、その行為はいつたい何を意味するのでせうか。
 
話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。
 
さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
 
言語の運用において、そのやうな芸術的感覚をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味なのです。
 
さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに尽きずに、音楽のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聴き手に感覚される。
 
詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。
 
言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
 
そして、ことばの精神、言霊といふものが、リアルなものとして、人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。
 
書かれたことばが、言語造形を通して活き活きとした話しことばとして甦り、やがて、その感覚から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。
 
そんな国語教育。
 
子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを実感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聴かせることです。
 
ここ数年、わたしも、『古事記』や『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、現代語訳することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に届くのだといふことを、確信するに至りました。
 
昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覚を通してそのやうな芸術的なことばを享受していく機会を、どんどん与へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
 
 
手軽に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
 
わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、古いことばを学ぶ労力を費やしてまで近寄るに値しないので、出来る限り易しいことばに変へて、学ぶ者の負担を軽減してやらうといふだけなら、ますます現代人は昔の人が考へてゐたこと、感じてゐたこと、欲してゐたことが分からなくなるでせう。
 
過去に学ばない人は、決して新しい創造をなしゆくことはできません。
 
やがてこの国は己れのアイデンティティーを失つていくでせう。
 
古典を古典として敬ふことを学ぶ。その学びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる国が、一貫した国史をもつてゐることを実感していきます。
 
さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が国ならではの精神を伝へていく。それはきつと他の国々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。
   



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2019年04月27日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜


こころのこよみ (第2週) です。
 
眼、耳、その他、十二のすべての感官を活発に働かせる。それは、せわしなく動かないこと、小賢しく考へないことと、ひとつです。
 
自分のしてゐること、しようとしてゐることの実り(結果)が、すぐに目の前に現れはしなくても、この春に耕した土からは、秋の終わりに実りをもたらしてくれます。
 
耕されることを待つてゐる土とは、わたしたちのこころです。
 
春、龍は天に昇り、わたしたち人を世の広やかさ、高さ、奥行きの深さへといざなつてくれようとしてゐます。
 
その龍は大空に雲となつて姿を垣間見せてくれることもありますが、人のこころの内側の天空に向かつて昇りゆく存在です。
 
その内なる存在を感じながら、小賢しく考へず、ただただ、花を觀るとき、わたしたちはその花の精神に触れ、自分自身の精神が芽吹いてくることを感じるのです。
 
ひとつの花には、その奥、その向かうがあるのです。
 
この春、その奥、向かうへの感覚を育むほどに、半年後の秋には、龍がこの地へと降りてくるに従つて考へる力が冴えわたり、頭が澄み切つてくるでせう。
 
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外なるすべての感官のなかで、
 
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
 
精神の世は見いだす、
 
再び、人が芽吹いてくるのを。
 
その萌しを、精神の世に、
 
しかし、そのこころの実りを、
 
人の内に、きつと、見いだす。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
 
 
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。全身全靈で、ものごとにもつと集中して向かひ合ふことができるはずだ。身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
 
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音樂に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
 
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覺を明るい意識の中で生きることができる。
 
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覺を全身全靈で生きることができれば、あれこれ、小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
 
このやうないのちの力に滿ちたみづみづしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
 
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
 
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
 
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
 
春、天に昇る龍は、秋、地に下り行く。
 
その龍は聖なる龍だ。
 
それは、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神ミヒャエルに貫かれた龍だらう。
 
秋から冬にかけてキリストと地球のためにたつぷりと仕事をしたミヒャエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄へて、この地の煤拂ひに降りてきてくれるのだ。
 
わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを觀て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
 
そして、秋には、上の精神からの力をもらひつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
 
だから、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
 
それは、こころの農作業のやうなものだ。
 
 
 
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
 
 

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霊ある土 と 導きの人


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霊の力ある土を採り、神に捧げる器を作る。
 
それは、その土あるところの土地をしろしめすことでもありました。
 
それは天つ神の子孫である倭朝廷・皇室にとつては、抵抗勢力であつたその土地その土地にゐる地祇(くにつかみ)系の豪族たちをしろしめすことでもありました。 
 
大阪の「住吉大社」は毎年、祈年祭・新嘗祭の前に、奈良県にある畝傍山 (うねびやま) の埴土 (はにつち) を採って くる神事を、古来行つてゐます。
 
その伝統的行事が、住吉大社が皇室の神事に仕へてゐたことをいまも示してゐるやうです。
 

 
その埴使(はにつかひ)が畝傍山の頂上にて埴土を採る前に、祓ひを受け、禊ぎをし、神饌、祝詞を捧げ、玉串を奉り、拝礼をする神社があり、一つ目の神社が、清流曾我川の畔にある雲名梯(うなで)神社で、二つ目が橿原神宮に隣する畝傍山の西の麓にある畝傍山口(うねびやまぐち)神社。
 
昨日、林芳江さんに、二つ目の畝傍山口神社に連れて行つていただきました。
 
その神社、所在地が分かりにくく、なかなか辿り着けないでいたところ、ひとりのをじさんが現れ、その神社まで連れて行つて下さいました。その方の笑顔が、なぜか、とても印象に残つてゐるのは、不思議です。わたしたちにとつては、まるで、塩土老翁(しほつちのをじ)が現れてくださつたやうでした。ちなみに、神武天皇が天の香具山に埴土を採りに行かせた者は、椎根津彦(しひねつひこ)でありました。導く人です。
 
その神社には、神功皇后と表筒男命、そして豊受比賣命がお祀りされてゐます。
 
すなはち、住吉大社の二柱の神々がお祀りされてゐるのです。
 
その神社独特のすがすがしさ。
 
さきほど書いたをじさん、そしてここへ連れて来て下さつた林芳江さん、わたしたちにとつては、導きの人であるやうに思へて来るのでした。

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読まれるべきことばを読む国語教育

 
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例へば、小学校六年生の授業参観に行くとする。
 
そこでは、「日本の古典(俳句・短歌)を味わおう」といふテーマで、授業が行はれてゐる。
 
しかし、その国語の授業を見させてもらふと、いろいろなことを考へさせられる。
 
教科書に載つてゐる詩歌の何人かの作者の顔写真を黒板に貼り出し、この歌の作者は誰かを子どもたちに当てさせる授業である。
 
そこで唱へられる詩歌も、一回だけ、ぼそぼそと発声されるだけで、その詩歌やことばの味はひなど全く感じられない。
 
つまり、詩歌といふことばの芸術作品を先生はどう扱つていいのか分からないのだらう。作者の顔を当てさせたり、その詩歌の中にどんな言葉遊びが潜まされてゐるかを子どもに当てさせるのが、子どもたちの気を引く、その時の最上の手段だと思はれたのだらう。
 
我が国の文化を支へる、最も大切なものである国語教育が、小学六年生の時点でかういふものであることに、愕然としてしまふ。
 
しかし、わたしたちが受けて来た国語教育も、おほよそ、このやうな線でなされてきたことを思ひ起こす。
 
だいぶん前になるが、水村美苗氏によつて書かれた『日本語が亡びるとき』といふ本が随分話題になつた。
 
わたしもその本には魅了され、幾度も読み返した。
 
子どもたちへの国語教育の質いかんによつて、わたしたちが営むこの社会を活かしもすれば殺しもすることを多くの人が認識してゐないこと。
 
国語教育の腐敗によつて、必ず一国の文明は亡びゆくこと。
 
そのことは、多くの他国の歴史が証明してくれてゐること。
 
その時代の典型的な精神は必ずその時代に書かれた文学作品に現れるが、現代文学の実情を「『荒れ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のようにすべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった」と帰国子女である彼女は痛覚する。
 
そんな「ひたすら幼稚」である、現代のわたしたちのことばの運用のあり方から、どのやうにすれば抜け出すことができるのか。
 
未来にとつて最も具体的な、ひとつの処方箋を彼女は挙げてゐる。
 
「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである」
 
なぜ、さうなのか、この本はとても説得的な論を展開してゐる。詳しくは、ぜひ、この本をお読みいただきたい。
 
また、水村氏のこの論を、より明確に、より奥深く、批評してをられる小川榮太郎氏の『小林秀雄の後の二十一章』の中の「日本語といふ鬼と偉さうな男たち」も読まれることを強くお勧めしたい。
 
国語教育の理想とは、〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てることである。
 
そして、その言葉を声に出して表現していくことが、さらにたいせつなことである。
 
どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉があり、それを読みついで行き、それを高らかに詠ひあげることのできることがその国ならではの文化であり、その国のいのちなのである。
 
子どもたちへの国語教育。わたしたち自身の国語教育。
 
これはわたしたちの国づくりだと念つてゐる。
 

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2019年04月24日

ことばの違ひ


芸術や教育における「ことば」と、政治における「ことば」の違ひには、意識的であるべきだと思ふ。
 
 
前者の教育・芸術における「ことば」には何が欠かせないか。それは「尊敬」や「畏敬」といふ念ひである。
 
ひとりの人を尊敬し、ひとりの人にふさはしい権威を覚えること、これは小学生が最も心の底から求めてゐることである。
 
しかし、わたしをも含め現代の日本人は、このこころの力のなんたるかを全くと言つていいほど教へてもらつてゐない。このこころの力を育んでゐない。
 
例へば、日本の歴史を考へていくときなど、この「尊敬」「畏敬」といふ感情をもつてこそ、国民を過去から未来に渡つて支へることのできる学問・芸術になるのだ。
 
教育・学問・芸術における「ことば」は、人を根底から支へる、そんな働きをもつ、永遠を志向するものであるべきだと思ふ。
 
 
しかし、後者の政治における「ことば」には、「勝利」「勝つこと」に向かふ思考力と決意が欠かせない。
 
日下公人氏の著書『優位戦思考で世界に勝つ』を読むと、印象深いアメリカの小噺が載せてあつた。
 
●メリーちゃんとマーガレットちゃんは大の仲良し姉妹でした。あるとき、「オヤツの時間ですよ」と言われて二人が行ってみると、テーブルにはケーキが一つしか載っていませんでした。メリーちゃんは「マーガレットちゃんの分がない」と泣き出しました。
 
そして、日下氏はかう述べてゐる。
 
●これが優位戦思考である。メリーちゃんはケーキを確保できるうえ、「妹思いの、いいお姉さんですね」と褒められる。先んずれば人を制す。劣位に追い込まれることなく自分の利益を確保できる。欧米の政治家や外交官、経済人は、そうした思考に長けている。
 
  
この政治における「ことば」のリアリティーを知らない、自称教育家・知識人が多いやうに思ふ。
 
さういふリアリティーの欠如は、つまるところ、自分をも他人をも、不幸にするのではないかと思ふのだ。
 
わたし自身、この「ことばの違ひ」に対して、いつさう意識的でありたい。

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2019年04月23日

自分自身の歩幅


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昨日、ある保育園で保育士さんがわたしに話してくれたこと・・・。
 
ひとりの2歳児の子どもが、トイレのあと、ズボンを履くのにとても手間取つてゐた。
 
保育士さんは、他の大勢の子どもたちが外遊びに出て行つたあとも、慌てずにそのひとりの子どもにずつとつきあつてあげたさうです。
 
そのことが、その子にとてもよかつたやうだと。
 
わたしも、それは、とてもよいことだと思ひました。
 
人は、ひとりひとり、歩幅が違ふ。息遣ひのリズム・テンポが違ふ。
 
とりわけ0〜3歳児の幼な子たちは、その歩幅をその歩幅のまま、その息遣ひをその息遣ひのまま、傍にゐる大人から尊重されると、その子はきつと、自己肯定感をもつて一生涯にわたつて生きていく土台が築かれる。
 
己れの歩幅をしつかりと歩むことができるやう、ひとりひとりの子どもを支へること。
 
己れの息遣ひをしつかりと遣ひ切ることができるやう、ひとりひとりの子どもの息遣ひを見守ること。
 
それは、この上ない、その子、その子へのプレゼントです。
 
道を歩いて行くのに、前もつて先々の見通しがあるから歩き始めるのではないはずです。
 
人がその人として生きていくのにたいせつなことは、まづは、歩きたいといふ欲求を大事にすることであり、次に歩いていく際に未来に対する見通しを前もつて手に入れることではなく、自分自身の歩幅をよく知つてゐることではないでせうか。
 
歩き方がしつかりとしてゐること、そのことが、その人を行くべきところへと導いてくれます。

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2019年04月22日

こころのこよみ(第1週) 〜復活祭の調べ〜


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世の広がりから、
 
陽が人の感官に語りかけ、
 
そして喜びがこころの深みから、
 
光とひとつになる、観ることのうちに。
 
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
 
考へが空間の彼方へと。
 
そしておぼろげに結びつける、
 
人といふものをありありとした精神へと。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
 
 
  
自分自身のこころが、光とひとつになり、喜びに溢れだす。
 
陽の光(外なる自然)と、こころの光(内なる自然)が、ひとつになる。
 
そんな己れのありやうを観る。
 
ものをぢつと見る。ものも、ぢつとわたしを見てゐる。
 
ものをぢつと、見つめるほどに、ものもわたしに応へようとでもしてくれるかのやうに、様々な表情を見せてくれるやうになる。
 
そんな、わたしとものとの関係。それは、意欲と意欲の交はりだ。
 
その交はりのなかからこそ、喜びが生まれる。
 
そして、喜びこそが、わたしのこころを空間の彼方へと拡げてくれる。
 
とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考へ。
 
だが、観ることによつて生まれてくる喜びが、わたしによつて考へられる考へを、自分なりの考へ方、感じ方といふいつもの己れの被ひを越えて拡げてゆく。
 
それによつて、新しく、生まれ変はつたやうなこころもち。こころの甦り。わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
 
そして、ありありとした精神は、そこに。生活を新しく開く鍵は、もうすぐ、そこに。
 
しかし、まだ、しつかりとは、その精神とは結びつくことができない。

ことばといふ精神が降りてくるまでには、聖霊降臨祭(復活祭の50日後)を待つこと。
 
いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。
 
そんな己れのありやうを観てゐる。
 
 
 
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
 
 

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国を支へる国語の力


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ことばを大切に話す人が傍にゐれば、幼な子たちはやがてことばを大切にする人へと成長していきます。
 
活き活きとした国語を話す人が傍にゐれば、幼な子たちはやがて国語を活き活きと話す人へと成長していきます。
 
国語が活き活きと生命力を保ち、ひとりひとりの人がそのことばの生命力を存分に生きてゐれば、国は安泰です。

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2019年04月20日

ことばが甦るとき 〜明日の甦りの祭の日にちなんで〜


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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。
 
自分は、言語造形といふ仕事のために、ことばを素材にしてゐます。声にして発せられることばを素材にしてゐます。
 
ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考へられ分別から組み立てられることばで、それはさうであつてこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのやうなことば遣ひは人間の生活になくてはならないものです。
 
仕事の上で守るべきマニュアルに沿つて発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守つて、上の人の言ふことを聞いて、できるだけ失礼のないやうに、頑張つて、人は、一生懸命、ことばを話してゐます。
 
しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発してゐる人自身の生命がだんだんと涸渇してくるのです。
 
そのことばは実は死んだことばだからです。
 
生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでゐます。死んでゐるからこそ、人の思惑に沿つていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。
 
人の頭は死した部分で、別の言ひ方をすれば、もう完全に出来上がつてゐる部分なのです。頭骨で固く閉ぢられた部分なのです。
 
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであつても、死んでゐます。物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣ひ、それが頭から発せられることば遣ひです。しかし、それは、だんだんと人を死に促進します。
 
だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。死から生への甦りを乞ひ求めるがゆゑにです。それは、手足の動きから生まれることばです。手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。呼吸が活き活きとしてくると、おのづとことばを話す時の表情も豊かになります。
 
そんな風に表情豊かにことばを発してゐると、自分自身が生まれ変はつたやうな新鮮なこころもちに包まれてゐるのをそこはかとなく感じたりもします。
 
人は折をみて、そのやうなことばの発し方に触れることによつて、生きてゐることばの世界に入るのです。
 
言語造形の練習をする上でのまずもつての次第は、四の五の言はずに、そんな生きてゐることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。
 
そして、何年にもわたつてだんだんと練習を重ねていくにしたがつて、呼吸といふことの秘密に気づき始めます。
 
吸ふ息によつて、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢ひます。
 
そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢ひを引つさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによつて、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。
 
そのやうに、呼吸によつて天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになつて生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。
 
普段は、土と水だけになりがちなのを、ことばの甦りをもつて、人は、光と風をも合はせて生きるのです。
 
さうして、いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。
 
だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念ひをもたらします。
 
言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思ひます。
 
さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きつと、かう語つてゐます。(出典が何だつたのか思ひ出せず、すいません)
 
風と光が織りなす中での、そのやうなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなつた人や、天の使ひの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えてゐるのだ、と。
 
ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。
 
さういつた肉の眼や耳には捉へられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きつと、深い関係があつて、ただ、さういふことを机上で考へるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取つていく。感覚していく。
 
その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。
 
魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たやうな練習の繰り返しからおのづと生まれてくる無私へと歩いていく、そのことを言ふのかもしれません。
 

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2019年04月19日

『 第一回 源氏物語を味はふ会 〜藤壺と光源氏〜 』のお知らせ


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令和元年5月25日(土)に、「ことばの家 諏訪」にて、『源氏物語を味はふ会』を催します。
 
この古典文学作品を、親しみやすい解説と言語造形による朗読で味はつてみませんか。
 
今回は、光源氏と、彼の永遠の憧れの女性・藤壺の関係に光を当てていきます。
 
『源氏物語』をこれから読み始めてみようといふ方にも、お勧めです。
 
春の終はりのひととき、源氏物語の世界へご一緒しませう。
 
 
 
解説: 山崎方典(高校国語教師)
 
言語造形: 北川三代
 
ナビゲーター: 諏訪耕志
 
 

日時: 令和元年5月25日(土)14時から16時
 
 
会場・お申し込み: ことばの家 諏訪 
          https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費: ご予約 2000円  当日2500円 
 
 
 
「もののあはれを知ること」こそが、『源氏物語』を読むといふことであり、その「もののあはれ」が人の内で極まるのは、恋するときである。
 
さう、本居宣長が喝破してゐるのも、彼の読みの深さを教へてくれはしても、そのことで読者を不自由にはせず、却つてひとりひとりの読み手の感受を拡げてくれるやうです。
 
意識によつて己れを統御しようとすればするほど、その統御をかいくぐるかのやうに、恋の色ははみ出てまいります。
 
その色、その味はひ、その調べを、山崎氏の解説と共に、言語造形を通して感覚してみませんか。
 
お待ちしてをります。              
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志

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2019年04月18日

和歌山 演劇塾の新しい取り組み〜古事記の傳へ〜


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「私たち日本人が生きる日本とは、どういう場所なのか」
 
「和歌山がどんな人たちによって育まれ安心して暮らせる土地になってきたのか」

Mitteの庭ブログ 「今この瞬間の物語
 
言語造形劇『古事記の傳へ』に取り組み始めたメンバーのことばです。
 
演劇や語りを通して、自分たちの文化、暮らしに潜んでゐる信仰心やご先祖様からの智恵、伝統の精神。
 
そのやうなことを、演劇や物語りを通して、地域に暮らす多くの人に伝へていきたい。
 
そんな念ひで、集まつてゐます。
 

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2019年04月17日

こころのこよみ(第52週)〜十字を生きる〜


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こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かい、
 
美が空間の拡がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
 
ものをぢつと観る。ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。そのとき、こころの深みが動く。こころの力を振り絞つて、そのものとひとつにならうとするとき、わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
そして、また、そのときに、方向で言へば、まさに上から、天から、そのつどそのつど、フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、それでも繰り返し、繰り返し、ことばがありありとしたものになるまで、美が立ち上がつてくるまで、ことばに取り組んでゐるうちに、また、他者のことばをこころの力を振り絞りながら聴いてゐるときに、「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらえる。喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
精神である人は、みづからのこころとからだを使つて、ぢつと観る。聴く。働く。美を追ひ求める。
 
そのとき、世の精神は、力強く、天から働きかけてくれる。
 
そして、精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
人と世が、美を通して出会ひ、(横の出会ひ)
人と天が、生きる力を通して出会ひ、(縦の出会ひ)
 
その横と縦の出会ひが十字でクロスするところで、『こころのこよみ』は、この第52週をもつて一年を終へる。
 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かい、
美が空間の拡がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
 
 

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2019年04月16日

普遍人間学 & 言語造形クラス のご案内 〜ザンジバル島の想ひ出〜

 
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今週の4月21日(日)から、毎月第三日曜日に、「ことばの家 諏訪」にて、新しく『 普遍人間学 & 言語造形を学ぶ会 』が始まります。
 
『 普遍人間学 』は、ルドルフ・シュタイナーが今から丁度100年前、1919年9月にシュタイナー学校初開校に向けて行つた、教員養成のための14回連続講座の講演録です。
 
「 ことばの家 諏訪 」では、二廻り目の普遍人間学の会です。
 
一回り目では、わたしが一講ずつ、内容を噛み砕いて生徒の皆さんに語りかけるといふスタイルで通しました。
 
今回の二回り目では、一文一文、最初のページから読み込んでいきます。
 
本といふものは、こちらが真摯に求めれば求めるほどに、応えてくれるものです。
 
いま、思ひ出したのですが、自分が27歳頃のとき、アフリカの各地を一年近く転々としたあげく、インド洋に浮かぶザンジバル島で二ヶ月、独り暮らしをしたことがありました。
 
そのとき、周りはスワヒリ語のみの毎日だつたのですが、そのとき、仮住まひをした一軒家に、なぜか、福沢諭吉の『文明論之概略』の文庫本が一冊置き去りになつてゐたのです。
 
以前に住んでゐた日本人が置いて行つたのでせう。
 
わたしは、日本語に飢えてゐましたから、その一冊を貪るやうに読みました。
 
そのときの感銘はとても衝撃的で、重層的で、わたしの何かを果てしなく満たしてくれたのでした。
 
話しがあらぬ方向に行つてしまひました。
  
ルドルフ・シュタイナーの著作『自由の哲学』や『テオゾフィー』をはじめ、この『普遍人間学』も、わたしにとつては、二十五年近くの間、目を皿のやうにして読み続けてきた本です。
 
あの、ザンジバル島での読書体験が、日本語で生きていく上でのわたしにとつて決定的なものだつたやうに、本を読むといふことの面白さを、シュタイナーの本で共に体験できたらなあ、そんな想ひでゐます。
 
言語造形と共に、『普遍人間学』、やつていきませんか。
 
今週の日曜日が、第一回目です。
 
お待ちしてます。
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 

 
――――
 
●日程
毎月 第三 日曜日
 
 
●講師
諏訪耕志  https://kotobanoie.net/profile/
 
 
●時間
10:00 〜 12:30 『 普遍人間学 』講義
13:30 〜 15:30  言語造形
 
 
●参加費
 
初回のみ体験参加   6,500円
次回以降4回連続  22,000円
 

精巧堂出版の 鈴木一博訳『 普遍人間学 』 を使ひます。
できましたら、ご参加前にお求めください。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
●会場&お申し込み・お問ひ合はせ
「 ことばの家 諏訪 」https://kotobanoie.net/access/#map

 

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2019年04月12日

背に負ふ色


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大神神社末社の金折神社


どの人も背に負ふ色は見えぬもの背に負ふ影は見えぬものなり
 
空覆ふ雨雲の下いかにして人は歩かむ人は笑はむ
 
歌ひとつまたひとつと辿り見む我が悲しみの溶けてゆくかも
 
悲しみの風に吹かれてやうやくにものも見えたり人も見えたり
 
 

 


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2019年04月08日

翁と媼


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住吉大社の池のほとりの松の下を、共におほよそ八十路を越ゆらむひとくみの翁と媼、歩きけり。
 
媼、翁の左の肘を持ちて、うしろにつきて歩きけり。
 
池の周りにて遊ぶ童たちに、翁、微笑みつつ話しかけたり。
 
春の日の麗らかなるひととき、我、桜の下から、その姿、うちまもりたり。
 

ともに老ひ 
うち歩みゆく とこしへに みちはつづかむ 
春霞立つ
 

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2019年04月07日

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜


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人といふものの内へと
 
感官を通して豊かさが流れ込む。
 
世の精神はおのれを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その相(すがた)から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
       ルドルフ・シュタイナー

 
 
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かいあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顕はしてくれる。
 
わたしが花をそのやうに観てゐるとき、花もわたしを観てゐる。
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます活きたものになりゆく。
 
また、その活きたものになりゆく相を映すわたしの瞳も、だんだんとそのありようを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
花へのそのやうなアクティブな向かいようによつて、わたしみづからが精神として甦る。
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
 
しかし、いま、神が、世の精神が、人を待つてゐる。
 
世の精神が、おのれを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。
 
 
 
人といふものの内へと
感官を通して豊かさが流れ込む。
世の精神はおのれを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その相(すがた)から力が、
きつと新たに汲み上げられる。

 
 
 

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2019年04月04日

『まなびわらべクラブ』にて 小学生たちと


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東京は、大阪よりもなぜか暖かく、桜が咲き誇つてをりました。
 
今日は、西日暮里にある日能研 ソーシャルコミュニケーションラボの学童保育場『まなびわらべクラブ』にて、小学生たちと、ことば遊びやわらべ歌、詩の朗唱、昔話でたつぷり楽しみました。
 
わたしはここで年に4回ほど、子どもたちとの時間を持つてゐるのですが、ここでの学童保育のあり方が、子どもたちにはとても安心感を与へてゐるやうで、それは部屋に入つた途端にそのことが分かります。
 
保育を荷つてゐる先生方のお人柄と意識の持ち方が、きつと、そのやうな場を創つてゐる大きな要因です。
 
かうして、傍にゐる大人の意識に守られてゐるわらべたちは、また大いなるものにも守られてゐることを、今日も感じたのでした。(これはわたしの個人的な感覚です)
 
その大いなるものと共に、仕事をさせてもらつてゐます。
 
■日能研の学童『まなびわらべクラブ』はこちらから
http://www.nichinoken.co.jp/gakudou/

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2019年04月02日

代のはじまりを告げる御名


昨日の新しい元号の発表を前にして、我が家族は、画面の前にしいんと静まりかへりながら、五分、十分と、待つてをりました。
 
そして、新元号が告げられたとき、我が家の部屋の雰囲気といふか、わたしたちのこころのありやうといふか、目には見えない何かが、厳粛なときを迎へたときの、独特のものに、一瞬にしてなり変はつたのでした。 
 
その厳粛さは、一か月後のご譲位の日と、新しい天皇陛下の御即位の日に極まるのだと思ふのですが。
 
とりわけ、娘たちと、かうしたときを、かうしたこころもちで迎へることができたことを嬉しく思ひます。
 
おそらく、生涯の彼女たちの記憶に残ることでせう。
 
 

新しき 代のはじまりを 告げる御名 その声待つ間の しづけさやいかに

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2019年03月30日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜


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奈良の三輪山の辺に開花し始めた桜 

この時期の、目の前に繰り拡がつてくる現象に酔ふのも人生の喜びであり、悲しみでもある。
 
しかし、その現象の奥にあるものをしかと見つめるとき、何が見えてくるか。何が聴こえてくるか。
 
さういふ「ものを観」「ことばを聴く」ためには、まづ、己れみづからの奥にあるものをしかと見つめ、己れみづからの声に耳を澄ます必要がある。  

 
 
人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、わたしのいのちを担ひなさい。
 
魔法の縛りを解いて。
 
ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」
 
           ルドルフ・シュタイナー

 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
咲きはじめた桜。他の木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
 
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
 
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
 
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、といふ日本語ださうだ。
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
いま、植物から何かが「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
わたしは、それらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
 
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
 
「聴いてもらえた!」といふ喜びだ。
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
シュタイナーは、「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで、晩年の『礎(いしずえ)のことば』といふ作品を終へてゐる。
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、わたしのいのちを担ひなさい。
魔法の縛りを解いて。
ならば、わたしは、まことの目当てに行きつく」

 
 
諏訪耕志記
 

 


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2019年03月29日

古き歌響きし 倭笠縫邑


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次女と山の辺の道を歩いた。
 
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今日のお目当ては、山の辺の道の中ほどにある、桧原(ひばら)神社。
 
元伊勢である、この神社の地は倭笠縫邑(やまとかさぬひのむら)といふ古称を持つ。
 
天照大御神はそもそも、天皇陛下と共にお宮に住まはれてゐたが、第十代崇神天皇のとき、天皇と離れ、皇女・豐鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)を斎皇女(いつきのひめみこ)として、この倭笠縫邑にお鎮まりになられた。
 
大御神が倭笠縫邑にお鎮まりになられた神人分離の最初の夜、宮人たちは、夜もすがら、この歌を歌つたといふ。
 
 宮人の大夜すがらにいさとほし
 ゆきのよろしも大夜すがらに
 
どんな想ひで、この歌を唱和したのだらう。

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大和路や古社・旧跡を訪ね歩き、その雰囲気をからだで味はふこと。
 
それは、日本の子どもにとつてたいせつなことだと思ひ、毎年一緒に歩いてゐる。



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2019年03月27日

いのちに呼応することば 〜幼な子たちへの語り〜


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春が近づいて来て、幼な子たちもまるで草の芽が萌え出づるやう。
 
そのからだを創つてゐるいのちの力に呼応するやうにお話しを語つてあげると、幼な子たちはことばと共に育ちゆく。
 
昨日も、ことばのリズム、動き、かたちが、幼な子たちを導いてくれた。
 
この子たちはお話しが大好きになるし、やがて小学校へ上がるときには、本を読むことが大好きになるし、作文すること、ことばをからだまるごとで表現することが大好きになる。

造形されたことばが、子どもの教育者です。
  
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2019年03月24日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜


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Friedrich 「雲海を見下ろすさすらひ人」
 

「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光をもつて。
 

       ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
  
今週の『こころのこよみ』について、以前書いたもののうちのひとつに、2011年3月11日のことがあつてすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html
 
地震と津波と原発事故から遠く離れた大阪に生きてゐる自分にとつてさへも、この『こよみ』で言はれてゐることが、あの当時、リアリティーをもつて強く迫つてきた。
 
今年、この週の『こよみ』に、精神のありやうから、もう一度、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
 
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
 
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
 
そのやうにして外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
 
2011年の3月11日以来の月日の中で、わたしたちの外側からあまりにもたくさんの世の力がありありと迫つてきた。
 
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかない、そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞はれた。
 
そして、たくさんの、たくさんの、ことばが行き交つた。
 
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
 
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもないこの「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
 
それは、外の出来事に振り回されて、考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、「いはゆる純粋なこと」を考へることではない)
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
 
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
 
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーから、ものを言つてゐるのではないだらうか。
 
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
 
その人に、軸ができてくる。
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
 
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
では、その力を人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
 
それは、夜、眠つてゐる間に、人といふ人に与へられてゐる。
 
ただし、昼の間、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
夜の眠りの間に、人はただ休息してゐるのではない。
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
それは、眠りの間にこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。
 
眠りの間に、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
 
要は、夜の眠りの間に長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼の間にみづからに注ぎこませられるかだ。
 
そのため、ひとつに、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでいい。
 
それは、人のこころを育てる。
 
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
その力は、夜の眠りの間に、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
 
夜盛んだつた意欲を、昼の間に、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
 
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、2011年3月11日以降の日本に生きるわたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもつて。

 
  
 


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2019年03月22日

富岡鉄斎 ――文人として生きる

 
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大和文華館の『富岡鉄斎 ――文人として生きる』展に足を運んだ。
 
圧巻だつた。 
 
絵を観るといふ行為は、色彩と線と余白に秘められてゐるこころを観ることである。
 
こころを観ると書くとき、「観」の字を使つたが、この「観」といふ字はそもそも「觀」と書き、左側の偏は「雚」で、鳥である。
 
だから、「觀る」とは、鳥のやうに翼を羽ばたかせ自由に空を舞ひながらものを見る、そんなこころの若々しい働きのことである。
 
「觀る」とはまた、高みに舞ひ上がりながら、まるごとを見晴るかすことであり、同時に高みから下方にある一点に突撃急降下するやうな、こころの働きである。
 
絵を通して画人のこころの働き、氣の動きを觀る。それは、画人の内的な動きに沿つて、觀る者も共に動き、踊り、舞ひ上がるといふことだ。鉄斎は、その共なる舞踊と飛行の歓びをたつぷりと味ははせてくれる。
 
ちなみに鉄斎はあくまでも自らを学者とし、画は余技とみなした。それは、一個の作品が己れのこころの動きを収めるだけでなく、そこに、古今にわたる先人たちの叡智・学識といふ河の流れのやうな精神の伝統を注ぎ込まうと志したからである。
 
「萬巻の書を読み、千里の路をゆく」といふ隣国だつた明の文人画家が掲げた志とも言ふべき職業倫理を、鉄斎は終生貫いた。
 
ひとつひとつの作品の、絵と文と余白からなる平面における構成。それは、何十年にもわたつて先人の筆の運びに倣ひつつ身につけたものであらうが、いささかも単なる模倣に堕してゐない。過去に徹底的に学んだ者だけが得る自由自在が、その構成の妙として顕れてゐて非常に味はひ深い。
 
今回の展示で掲げられてゐる作品のひとつ『月ヶ瀬図巻』など、どうだらう。
 
春の月ヶ瀬の渓谷にわたる白梅と紅梅の連なり。山の面を占めるほのかな緑と、あなたにたたなづく青い山蔭。
 
縦十九センチ、横三メートル半にわたるこの長巻の前を、右から左へ歩を進ませながら觀るとき、その一筆一筆の運びから、淡く彩られた色の配置から、得も言はれぬ音楽が聴こえて来る。
 
「山水を築き、門戸に身をゆだねると、画を觀る者の内には煙霞(えんか)が限りなく拡がる」と、ある画の跋にある(原文は漢文)。
 
絵を觀るとは、一枚の画布の向かうに「煙霞」のやうに限りなく拡がる「別世界」に、入つて行くことである。
 
 

 

大和文華館に、わたしは、おそらく、おほよそ十年に一度位の割合で足を運んでゐると思ふ。二十代、三十代、四十代、そしていま五十四。
 
奈良の学園前、閑静な住宅街を通り抜け、どこかしら大和路の香りのする雰囲気にそのつど胸をときめかしながら、ここに絵を觀に来る。
 
館の前に、福島県三春町から移植したといふ三春滝桜が見事な枝ぶりで、その蕾が桜色に膨らんでゐた。あと一週間もすれば、滔々とした春の美を発散させるだらうと思はれた。
 
 

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2019年03月21日

獣道(けものみち)と人の道


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ルオー『ピエロ』

 
人は芸術に触れてゐなければ、獣となつて、のさばり出さずにはゐられない。
 
獣になるとは、己が身の要求するところに、己がこころが引き寄せられすぎる、そのやうな偏りをもつてしまふことである。もちろん、こころは、己が身の働きの充足に満ち足りを覚える。腹が減つてゐれば、当然、食べ物を欲する。
 
しかし、こころといふものは、「パン」のみにて満たされるやうにできてはゐない。こころは、精神といふ、天地(あめつち)のあり方を支えてゐる奇(くす)しきことわりに触れなければ、干乾びてしまふ。
 
その天地を貫く精神がこの世に生きて親しく人の身に味ははれるのは、ひとり、芸術をもつてである。芸術は、人が人であるために、なくてはならないものなのだ。芸術は、必ず、人に道を示す。芸術を行ふこと、生きること、そのことが、「道」である。「道」とは、ゆくところである。
 
そして、人が行ふことすべてが、芸術となりうる。この世のすべて、森羅万象が、神によつて織りなされてゐる芸術作品であるやうに、人によつてなされるすべて、作られるすべては、芸術行為となりえ、芸術作品となりうる。
 
わたしたちは、いともたやすく獣道に降つてしまふ悲しい存在である。しかし、その悲しみが、かえつて、ひとりの人として、人の道を歩まうといふ意欲を掻き立てる。わたしたちは、その意欲をこそ育てたい。意欲さへ殺さずに育み続けてゐれば、人はおのづから、人としての道をめいめい歩み始めるのだ。何度、崩れ折れても、必ず、立ち上がるのだ。
 
芸術は、意欲をもつて、毎日の練習といふ繰り返しの行為を人に求めるものである。そして、その芸術の練習が、また、人の意欲を育てる。その、芸術と自分との集中した意識の交換、己が意欲の更新を感じることは、人を幸福にする。
 
古来、日本人は、「言霊のさきはふ国」として、この国を讃えてゐた。それは、人は誰しも、生きる喜び、悲しみ、すべての感情を感じ、かつ、ことばといふ芸術の中でこそ、初めてその感情を表すことができ、その感情に対する主(あるじ)になることができる不思議に、鋭く気づいてゐたからである。ことばこそが、獣道(けものみち)から、人をまことの道へと引き戻す、なくてはならないものであることを知つてゐたからである。
 
ことばそのものに秘められてゐるたましひ・精神自身が、何を希(ねが)つてゐるか。そこに耳を澄ましつつことばを発していく。聴き耳を立てながら、ことばを話す。そのとき、ことばの精神・言霊は、ものを言ひ始める。ものものしく、ものを言ひ出す。
 
わたしたち人は、どのやうなことばを、どのやうに使ふかによつて、その「言霊」との関係を深めることもできれば、浅薄なものに貶めてしまふこともできる。それは、ひとりひとりの人の自由に任されてゐる。
 
獣道を歩むこともできるし、ひたすら長い、人の道を歩みゆくこともできるのだ。
 


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2019年03月18日

ことばは美しい音楽


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俵屋宗達『源氏物語関屋澪標図屏風』
 
 
『源氏物語』を読み続けてゐる。
 
今日も歩いて住吉大社に行つたのだが、第十四帖「澪標」にて、光源氏と明石の御方とのたまさかの出逢ひの場とされるところに、自分が立つてゐるといふのも、不思議な氣がした。
 
江戸初期の頃、松永貞徳といふ歌人が記した歌学書『戴恩記
(たいおんき)』に、こんな逸話が載せられてある。
 
文学の師匠・九条稙通(たねみち)公が貞徳に言つた。
「『源氏』を一度、わたしの前で読んで御覧なさい」
 
貞徳はいぶかしく思つたが、言はれるがままに一節を読み上げると、「すなほに読むとは存ずれど、そなたのはみな訛りです」とお笑ひあり、ご自身で読まれた。
 
これを聴いて貞徳は初めて、源氏物語が何であるかが分かった、と言ふ。
 
一体、その音声は、どんな響きだつたのだらう。
 
 
 
 

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2019年03月16日

『 をとめ と つるぎ 』手探りの発進


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来年3月の上演を予定してゐる劇『 をとめ と つるぎ 』。
 
その制作を本当に手探りで始めてゐます。
 
俳優の皆さんには、言語造形の基礎からじつくりと取り組んでいただきながら、少しずつ、この作品のことばといふことばに触れて行つてもらつてゐます。
 
さうして早くも、おひとりおひとりの身体から出て來ることばの質がなりかはり、ことばの向かうに情景が立ち上がつて来てゐること、驚きです。
 
ものを創るには、時間をかけたい。
 
ゆつくりと、だんだんと、意識と技量が成長し熟成して行く中で、生まれて來るものを待ちます。
 
この劇は、日本の国が乗り越えなければならなかつた意識の境を、先頭を切つて、いのちをかけて、乗り越えられた方々の物語です。
 
上演に至るまでに、「ことばの家 諏訪」において、この国の歴史と文学について多くの方々の関心を呼び覚ますやうな催しを組んでいきます。
 
ひとつの精神文化の流れが始まり、続きゆくことを乞ひ希つてゐるのです。

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こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜


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熱田神宮にて

毎週、こころのこよみに寄り沿ふことで、季節の巡りに秘められてゐる規範がこころの中に樹木のやうに育つていきます。
 
 
世の高みから
 
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考への確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。
 
           ルドルフ・シュタイナー

 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
考へるとは、本來、みづからを置いてものごとに沿ふこと、思ひわづらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
今囘、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ拔く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、靜かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときのこころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
自然法則といふものも、自然に祕められてゐる世の考へだ。
 
人が考へることによつて、自然がその祕密「世の考へ」を打ち明ける。
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、ものごとと、その人と、もしくはみづからと、腰を据えてつきあひつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、そのものごとについて、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまふのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
____________________________________________
 
人のこころ!
あなたは安らふ頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。         
(『礎のことば』より)  

 
_____________________________________________

 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
ある人の長所にあるとき、はつと氣づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
長所にはつと氣づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に滿ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに飜弄されてゐるときだ。
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
  
 
世の高みから
力に滿ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臟)の中に愛を呼び覺ますべく。

  

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2019年03月14日

難しければ難しいほど、面白い

 
学問においても、芸術においても、そんな風に感じられる子どもを育てていきたい。
 
いや、自分自身も、さういふところへ歩を進めていきたい。
 
たやすいところに甘んじてゐても、一向、こころは燃え立たない。
 
昭和のあるころまでの文化を荷つてゐた人たちは、その気概があつた。
 
本を読んで、人は、読みつつ考へる喜びを知つてゐた。
 
音楽を聴いてさへ、人は、考へてゐた。深く、考へてゐた。
 
そして、考へる力と繰りなすことばとが、知的に綾をなしてゐた。
 
平成といふこの三十年間は、文化の面においては何事も分かりやすいことが第一のモットーとなり、社会のあらゆる面においては行き届いたサービスこそが至上の善となつた。
 
しかし、わたしたちは、自分の人生を成熟させえただらうか。
 
社会は、人が人として、己れが己れとして誇り高く生きていく、そんな雰囲気を醸造しえただらうか。
 
人は、己れの内なる〈わたし〉を育めば育むほど、自分よりももつとたいせつな人やものがあることに気づき、そのやうに生きていく。
 
そして、過去と未来を繋ぐ存在としての自分といふ人間の役割を自覚することができる。
 
逆に、他者から与へられてばかりで、〈わたし〉が未成熟なままだと、このわたしこそがもつとも大事なものになつてしまひ、意識は自分のことだけに尽きてしまふ。
 
難しいものに取り組んでこそ、その中に、崇高と美と真実があることを体得できる。
 
さういつたものをことごとく避けて来たのが、この平成の代だつたやうに思はれる。
 
〈わたし〉を育むためには、歯応えのあるものに取り組み続けることである。 
 
わたし自身、気づくのが遅すぎたのではないか、とこの三十年を振り返る。
 
そんな平成が終はらうとしてゐるいま、新しい御代は、きつと、これまでとは趣を異にした新しい時代にするのだ、と強く念ふ。
 
ふたたび、人の自主独立した精神がものを言ふ時代に。
 
自分の頭でものを考へ、自分のことばでしつかりとものを言ふ。
 
自分の足でしつかりと立つ。
 
多少の歯応えのあるものにも恐れずに果敢に取り組んでいく。
 
そんな若者を育てていくためには、わたしたち大人が、これまでのやうな「わかりやすさ第一」「至れり尽くせりのサービス」に甘んじるやうな精神をいま一度見直していいのではないか。
 
わたしは、男なので、どうしても男の子には、そんな気概を持つてもらひたく思つてしまふ。


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2019年03月13日

滋賀『普遍人間学の会』ありがたうございました


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滋賀シュタイナーこども園そらのお母さん、お父さん方が集まつて下さつて『普遍人間学の会』をして今日で丸二年。
 
講義の積み重ねと共に、参加者おひとりおひとりの息遣ひも深くなつて来ました。
 
皆さんが暖かい思ひを寄せ合つて下さり、この会は続けてこられました。
 
今日、最終講の第十四講を終へ、また4月から滋賀を離れて新しい地へ行かれる方もあり、わたしから昔話のご披露をさせていただきました。

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その後の打ち上げ会では、最高のスコッチウイスキーと皆さんの手料理で、昼間からほろ酔ひ気分でした。

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皆さん、本当にありがたうございました。
 
5月から、ミヒャエラ・グレックラー氏講演録『両親の問診時間』を学ぶ会として再出発して、毎月第四火曜日の午前10時より、滋賀の草津にて勉強会を行つていきます。
 
ご関心のあられる方、どうぞお仲間にお入りください。
 
 

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2019年03月11日

小川榮太郎氏『保守思想を鍛錬して国柄を守れ』


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本日三月十一日付産経新聞掲載の【正論】『保守思想を鍛錬して国柄を守れ 文芸評論家・小川榮太郎』を読む。

あと一か月少しで平成の御代も終はるが、この三十年間以上にもわたる「保守大敗北」に、わたしたちはどう身を処していくことができるか、ここで新しく、骨身に沁みて考へざるをえない。
 
人が人としてまつたうに存在していくことができるために、言霊を傷つけずに言挙げしていくことができる言語力を、わたしたちは鍛錬して己れのものにしていかねばならない。

小川氏が勧めてゐる、小林秀雄と岡潔の対談集『人間の建設』のやうな読む者に親切で平易な一書から始め、さらに「保守を思想として積算し続ける鍛錬」のために、わたしたちは読むべき書物の系譜を打ちたてていかねばと思ふ。

読むべき本を読む。

そのことからしか、人のうちに精神は樹立できない。
 
ことばからことばへのリレー。

それが、この国をこの国たらしめてきたのだから。
 


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知的な理解に血を 〜和歌山『両親の問診時間』勉強会〜


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先日、和歌山のMitteの庭にて行はれた『両親の問診時間(ミヒャエラ・グレックラー著)』勉強会。
 
『結婚の意味A』
https://note.mu/mitteno20/n/na052b28d4d4c… 
 
――――――
 
「人が生きていくということは悲しみや苦しみに出会うということ。だからこそ、〈問い〉が生まれます。なぜ自分は苦しいのか。なんのために生まれてきたのか」
 
―――――― 
 
かうしてレポートを書き残すことは、とても大変なことだと思ひます。
 
これは、まさしく、仕事です。
 
しかし、講義の内容を咀嚼して、自分のことばをもつて書き記すことによつて、知的な理解に血が通ひます。
 
そして、その見識を日々の暮らしの中で徐々に用いることができるやうになつてくるのです。
 
意味をもつて動くことができるやうになつてゆきます。
 
大人にとつて、学びとはまさしく、わたしが〈わたし〉になりゆくための「仕事」です。
 
また、講義をしたわたし自身にとつても、かうしたレポートを読ませてもらふことは大きな糧になるので、とても嬉しく、ありがたいものなのです。
 
 
ここで、ご紹介したノートの他にも、講義の感想文をファックスなどで送つてくださつてゐます。
 
――――――
 
「結婚とは、ということですが、人が人らしく、自分がより自分らしくなっていくことと深い関わりがある、とは考えもしないことでした」
 
――――――
 
 
受講してくださつてゐる皆さん、ありがたうございます。
 
 

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2019年03月10日

古の人

 
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琵琶湖の西岸の少し奥に入つた所に鎮座まします近江神宮。
 
寒の戻りか、とても寒く、小雨降る中、人気も少ない。
 
ここは、天智天皇の大津宮跡ともいはれてゐる。
 
壬申の乱の兵火ですべてが灰塵と化し、当時、その華やかだつた都の荒れ果てた様を何十年か後に見て、高市黒人(たけちのくらうど)が旧都を偲んで歌を歌つてゐる。
 
 
 ささなみの国つみ神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも (萬葉集33)
 
 
歌人が歌の念ひに見舞はれた当の地にわたしも実際に足を運んで、そこでその歌を朗唱してみる。
 
そこにじつと立ち尽くせばこそ、歌に秘められてゐる深い情念が味ははれることがある。
 
どのやうことがここで起こり、どのやうな悲しみが人々を襲つたのだらう。
 
また、黒人による別の歌がある。
 
 
 古(いにしへ)の人に我あれやささなみの古き都を見れば悲しき (萬葉集32) 
  
 
「古の人」。これは単にむかしの近江の旧都の人といふ意味ではない。
 
神と己れの身体とがまだ離れてゐない状態を生きた人のこと。
 
たいせつにしなければならないさういふ人、さういふ精神が失はれていくことを偲びに偲んで、黒人は歌つた。
 
なぜ、たいせつにしなければならないか。
 
それは、たいせつにしなければならないものごと、人の想ひ、人の精神ほど、たやすく忘れられてしまふからだ。
 
さういふものは極めて繊細ななりたちをしてをり、時を経て、志ある人が、その壊れやすさゆゑ、たいせつに護り育て、後代に伝へようとして来た。
 
そして、そのやうな繊細なものを扱ふことのできる人は、いついつも、極めて少数の限られた人であるかもしれない。
 
「古の人」とは、いつの代にもをられる、さういふ人のことである。

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2019年03月09日

和歌山ことばの泉『古事記の傳へ』始まりました!

 
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和歌山の親子えんげき塾 ことばの泉、2019年度の活動を早くも始めました。
 
題材は、『古事記(ふることぶみ)の傳(つた)へ』です。
 
天武天皇の御口から出ずることばで稗田阿礼の耳に傳へられた、日本といふ国の永遠の基となる「我が国の物語」です。
 
その御ことばを全身全霊で空間に響かせながら、ことばの造形に挑む!
 
そのとき、こころも空間も穢れを祓はれ、空っぽになつた感覚と共に、躍動感と喜びが甦つてくること、今日も、皆さん、存分に感じられたやうです。
 
『古事記』とは、言語造形されることを祈願された芸術作品なのです。 
 
夏の盛りの8月の終はりの上演予定です。
 

posted by koji at 19:12 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ことばの始源

 
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吉橋 康司さん撮影


文字といふ文字が、考へを伝へる記号として生まれたのではなく、止みがたい衝動から描かれた「絵」から生まれたものであるやうに。
 
発声されることばも、単に考へを伝へるために、発されたのではない。
 
止みがたい衝動、情動、感激が人をして思はず声を発せしめ、言語造形せずにことばを発することなどできなかつた。
 
「おっと、合点だ、こころえたんぼの・・・」
 
「このういろうの御評判、ご存じないとは申されまいまいつぶり・・・」
 
リズムに脈打ち、メロディーに彩られ、強弱を自在に繊細につけながら、人はことばを話し始めた。
 
人は、芸術からこそ、文字を創り、ことばを話し始めた。
 
わたしたちは、もう一度、ことばの始源の風景に帰りたい。
 
 

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4月からの普遍人間学&言語造形クラスのご案内


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4月から、「ことばの家 諏訪」にて、新しく『 普遍人間学 & 言語造形を学ぶ会 』が始まります。
 
『 普遍人間学 』は、ルドルフ・シュタイナーが今から丁度100年前、1919年9月にシュタイナー学校初開校に向けて行つた、教員養成のための14回連続講座の講演録です。
 
「ことばの家 諏訪」では、二廻り目の普遍人間学の会です。
 
子どもの教育、それは、大人の絶えざる自己教育によつて、いつでも、どこでも、成り立ちます。
 
わたしたちは、もつと、もつと、勉強していくことができるはずです。
 
もつと、もつと、練習していくことができます。
 
自分自身が成長していくことほど、こころに喜びをもたらしてくれるものはありません。
 
さうして、自分自身の成長からおのづと生まれるものが、子どもに何気なく働きかけていく。
 
人といふものは、教育によつて、どこまでも、変はりえます。
 
どこまでも、成長していきます。
 
子どもと共に、わたしたち大人も毎日、毎日、成長していくことができるのです。
 
月に一回、第三日曜日。
 
午前は、普遍人間学。4月、この本の最初から始めます。
 
午後は、ことばを話す芸術・言語造形を身をもつて学んでいきませう。
 
自分自身とことばとの関係が、こんなにも深くて、こんなにも親しいものなのか。
 
毎月の繰り返しが、きつと、そんな風にひしひしと感じる道を開いていきます。
 
初めての方も、どうぞ、体験でご参加してみませんか。
 
共に学び、共に日々変わりゆきませう。
 
お待ちしてゐます。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 

 
――――
 
●日程
毎月 第三 日曜日
 
 
●講師
諏訪耕志  https://kotobanoie.net/profile/
 
 
●時間
10:00 〜 12:30 『普遍人間学』講義
13:30 〜 15:30  言語造形
 
 
●参加費
 
初回のみ体験参加   6,500円
次回以降4回連続  22,000円
 

精巧堂出版の 鈴木一博訳『普遍人間学』 を使ひます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
●会場&お申し込み・お問ひ合はせ
「ことばの家 諏訪」https://kotobanoie.net/access/#map

 

posted by koji at 08:26 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする