2017年12月09日

本を読むA


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本と語り合ふ。本と対話する。
 
わたしは、本を読むとき、その本と語り合ひたい。
 
本とは、ひとりの人が血と汗と涙をもつて書き上げたものであると思ふ。
 
ひとりの「人そのもの」が、そこに鎮まつてゐるのだ。
 
だから、そんなひとりの人と語り合ふとき、わたしはその人のことを信じたい。
 
はじめから疑ひつつ、半身に構へて、その人に向かひ合ひたくない。
 
さう、本を読むときは、著者とその著作に全信頼をもつてその本に向かひ合ふのだ。
 
なぜなら、ひとつのことを疑ふ出すと、次から次へと疑ひにこころが占領されて、終ひには、その本との対話など全く成り立たなくなるからだ。
 
こちらのこころのすべてをもつて、一冊の本を読む。
 
著者を尊び、敬はなければ、対話は成り立たない。
 
しかも、一度では埒が明かない。何度も何度も語らふごとく、一冊の本を何度も何度も読むのだ。
 
さうしてこそ、その本は、その人は、己れの秘密を打ち明け始めてくれる。
 
また、皆が読んでゐるから、その本を読むのではない。
 
わたしは、こころから会ひたい人と会ふやうに、こころの奥底から読みたいと思ふ一冊の本を読みたい。
 
そのやうなこころの吟味に適ひ、繰り返される読書の喜びに応へてくれるのは、よほどの良書である。
 
時の試練を越えて生き残つた「古典」である。
 
そして、そのやうな古典は、古(いにしへ)と今を貫いてゐて、現在進行形の問ひを読む人に突き付けてくる。
 
永遠(とこしへ)である。
 
わたしが、ここ数年、語らひ続けさせてもらつてゐるのは、『古事記(ふることぶみ)』と『萬葉集』と保田與重郎全集全四十巻である。
 
『古事記』は本居宣長の『古事記伝(ふることぶみのつたへ)』で、『萬葉集』は鹿持雅澄の『萬葉集古義』で読んでゐる。いづれの古典に於いても江戸時代後期の国学者に教へを乞ふてゐる。
 
ことばといふもの、日本語といふものに、すべてを賭けた先人の方々との対話。読書の豊かさ。ひとりとひとりであることの真剣勝負の喜び。
 
残りの人生のすべてをかけても、語らひは決して尽きない。
 


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2017年12月08日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<愼ましく生き抜いていく>〜


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「渡頭(とたう)の夕暮」和田英作


<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
それは、己れみづからが手足となつて、
 
世を愼ましく生き抜いていく力だ。

 
 
 
Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
この週の『こよみ』の<ある>といふことばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
そもそも、<わたし>は、氣づいたときには、まうすでに、ここに<あつた>。ものごころがついたときから、<わたし>がすでに<あらしめられてある>ことに、氣づきだした。
 
この<わたし>は、わたしが氣づく前から<ある>。
 
そして、いま、<わたしはある>といふ事態をありありと感じることができる時といふのは、わたしのこころが活き活きと生きて、働いてゐた後、そのことをその活き活きとした感覺を失はずに想ひ起こす時ではないか。
 
だから、そのやうに、こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、<わたしがある>といふことを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知つていくことができる。
 
何を想ひ起こすのか。
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>といふ人もが、みづみづしく深みを湛えて蘇つてくる。
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、その想ひ出の繰りなしは、みづみづしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言つてもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、人は「みづからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだらうか。
 
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えてゐるこころの憶いだけではなく、からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
たとへば、この足で立つこと、歩くこと。ことばを話すこと。子どもの頃に憶えたたくさんの歌。自轉車に乘ること。字を書くこと。筆遣ひ。疱丁遣ひ。などなど。
 
身についたこと、技量、それはどのやうに身につけたかを頭で想ひ出すことはできなくても、手足で憶えてゐる。
 
手足といふもの、からだといふものは、賢いものだ。
 
それらの手足で憶えてゐることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>といふことに対する確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
また、パーソナルな次元を超えて、人といふ人が持つてゐる、からだといふなりたち、こころといふなりたち、果ては、世といふもの、神といふもの、それらも人によつて想ひ起こされてこそ、初めて、ありありと、みづみづしく、その人の内に生き始める。
 
だからこそ、<わたしはある>といふ想ひを人は深めることができる。<神の内に、わたしはある><わたしの内に、神はある>といふ想ひにまで深めることができる。
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。手足の闊達な動きに祕められてゐる技量といふ技量を発揮すること。それらすべてを司つてゐる世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
それらが、<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
そのやうにわたしのこころが活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、<わたしはある>とが響きあふ。
 
<ある>といふことを知つていくことは、<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
世の中において、こころが<生きた>こと、手足が<生きた>こと、わたしまるごとが<生きた>ことを、活き活きとわたしが想ひ起こす時、<わたし>も、世も、ありありと共にあつたのであり、いまも共にあるのであり、これからも共にありつづける。わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
そして、いまも、これからも、精神からの想ひ起こしをすることで、こころを活き活きと働かせつつ、力が与へられてゐるのを感じつつ、手足を使つて、地道に、愼ましく、世を生きてゆくほどに、<ある>といふことを、つまりは、<わたしがある>といふことを、わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
    人のこころ!
 
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
 
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。

 
              (鈴木一博さん訳)
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己れみづからが手足となつて、
世を愼ましく生き抜いていく力だ。

 
 

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2017年12月05日

本を読む@


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本を読むといふことは、わたしも子どもの頃からしてゐる。
 
しかし、いかにして本を読むかといふことについて、わたしが学び、知ることができ、またそれを実践し始めることができたのは、二十代も後半になつたときからである。
 
わたしに、本の読み方といふものを教えてくれたのは、ルドルフ・シュタイナーといふ精神科学者であり、その翻訳者である鈴木一博といふ人であつた。
 
鈴木さんの翻訳による『テオゾフィー』といふ本の序文にかう書いてある。
 
「頁といふ頁、多くも多くの文が、きつと読み手によつて稼がれる。それが、意識をもつて努めるところである。そもそも、さうであつてこそ、本が読み手にとつて、なつて欲しいところとなりうる」
 
また鈴木さんによつてアントロポゾフィー協会会報に書かれた文章「本を読むこと」にかういふことが書いてある。
 
「読み書きは、まさしく仕事です。それは、人が、することです。それは、人が、しようとしてすることです。それは、人が、独り立ちしてすることです。逆に、そのことを仕事といふなら、読み書きほどに紛れもない仕事といふのは他に見当たりません。読み書きは、労力が要ることでも、他に引けをとりません。稼ぎや儲けをもたらすことでも、他に引けをとりません。そして、人がしようとしてしてゐるうちに、人のさらなる独り立ちを促すことでも、また、人が中途半端にしてゐると、人を縛ることでも、他に引けをとりません」
 
わたしは、これらの文章に導かれ、二十代後半から五十近くまで、シュタイナーの本を毎日、毎日、倦まず弛まず、読み続けた。
 
とにもかくにも、一文一文を、一語一語を、アクティブに、舐めるやうに、穿つやうに、読んだ。
 
ときには、たつた三行の文を三時間ほど見つめ続けたことも多々あつた。
 
どんな難しい文章でも、読み続けてゐれば、見続けてゐれば、必ず、繙けるやうに分かつた。
 
それは、頭がいいからできることではなくて、意欲の漲りが導いてくれる、神秘的な、不思議な、仕業だつた。
 
さういふ、こころのアクティビティーをもつてすることが、本を読むことだと教へてくれたのは、ルドルフ・シュタイナー、鈴木一博、そのお二方であつた。
 
そのやうな本の読み方は日々の生き方にも繋がつてゐて、そここそをご教示いただけたことが、本当に本当に感謝に堪えない。

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国榮えむと月は照るらし


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昨夜、夜も随分と更けて、漸く雨雲が去つてゆき、天頂近くにまるまるとしたお月様がお顔を見せて下さつた。
 
その満月を見上げて、萬葉集を編んだ大伴家持が詠んだ歌を声に出す。
 
靫懸(ゆきか)くる 伴(とも)の男(を)広き 大伴に
国榮えむと 月は照るらし
 (萬葉集 1086)
 
自分が住んでゐる場所は、天孫降臨以来、天皇の御守護を司る大伴氏の金村が六世紀はじめに住んでゐたあたりで、帝塚山古墳が彼の陵墓ではないかといはれてゐる。
 
そんなこともあつて、大伴氏と勝手に縁を感じてゐる自分は、とりわけ大伴家持のこころに接近していきたく思つてゐるのだ。
 
この歌の「国榮えむと」といふところを誦するたびに、なぜだか、こころに迫つてくるもののあはれがあり、娘たちと一緒になつて誦した時も、いくつかの歌の中で、この歌が一番好きだといつてゐた。
 
それにしても、お月様を見上げて、「スーパームーン」といふ風情のない言ひ方をわたしもしたくないなあ。
 

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2017年12月04日

家族と芸術


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言語造形のためのアトリエ・舞台である、ことばの家のメンバー四人。 
 
諏訪家の家族でもあるのですが、この十四年ほどで、わたし自身も含めて、本当にひとりひとり成長してきたんだなあと思ひます。 
 
大人も子どもも、芸術といふものを媒介にして成長していくことができるといふこと、その発見に驚き、喜んでゐます。
 
先日の舞台「おはなしペチカ」の時に、写真撮影を荷つて下さつた山本 美紀子さんの手によつて、そんな成長の相のやうなものが印されてゐるやうに感じられて、とてもありがたく思ひます。

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2017年12月03日

幼な子の意欲の繰り出し


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写真は、六年前、うちの次女が三歳のときのものです。
 
お母さんが作つてくれた人形を使つて、思ふ存分遊んでゐました。
 
目立つ飾りもなく、人形のお顔も点を打つた眼があるだけといふ素朴な造りだからこそ、娘の想像力・創造力は膨らんでゐたやうに思ひ出します。
 
人形に語りかけ、人形を動かし、人形からも語りかけられて、自由自在に遊んでゐました。
 
誰からの指図もなく、こころの赴くまま、ひとり人形芝居をずつと続けてゐました。
 
この幼いときの遊びの中で感じる自由の感覚。自分から創りなしていくこの感覚。
 
どんどん意欲が繰りなされるがままに繰りなしていく。まるでこころに羽が生えたやうに想ひの世界に羽ばたいていく。
 
仕上がり済み・出来上がつたものを与へるのではなく、幼児の想像力・創造力・意欲を引き出すやうな物理的・精神的な設へが、子どもの成長を助けるのだなあ。さう思ひ返してゐます。

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2017年12月02日

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜


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密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覺めた世の數々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだらう。
 
                ルドルフ・シュタイナー

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein
Im Innern sich belebend fühlen:
Es soll erweckend Weltenkräfte
In meines Lebens Außenwerk ergießen
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 
まづ、あなたにとつて、わたしにとつて、一行目の「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何だらう。
 
それは、みづからのこころといふものの核のことである。こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言つてもよく、それを意識の上に育てていくために、メディテーションといふこころの練習がある。
 
この『こころのこよみ 第34週』では、そのこころといふものの核を「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言ひ表してゐる。
 
 
 
さらに、この肉をもつたからだは、なんのためにあるのだらう。
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、自分の周りの世をほんの少しづつでも善きものにしていくために、このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
そして、そのやうに、「からだを使つて、今日も生きていかう」といふ意氣込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。手を動かして、洗顏できるといふこと。ものを食べられるといふこと。歩いて、行きたいところへ行くことができるといふこと。子どもと遊ぶことができるといふこと。そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
これらすべてのことをするためには、からだが健康であることは勿論だが、さらに意氣込みが要る。
 
その意氣込みは、自分自身で生み出すといふよりも、朝起きて、眠りから覺めて、おのづとゐただいてゐる。それは本當に恩寵だと感じる。
 
これこそが、世の數々の力からの恵みではないか。
 
この恩寵への感謝の日々を毎日生き續けていくことが、この季節、きつと、わたしたちの外なる仕事に生きた力を吹き込んでくれる。
 
感謝の念ひこそが、わたしたちの心意氣を日々目覺めさせてくれる。
 
そして、この目覺めは毎日を新しくする。わたし自身を新しくしてくれる。
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。しかし、そんなとき、人は意識の上で夢見てゐる状態か、眠り込んでゐる状態だ。
 
さあ、當たり前にできてゐることに、あらためて目を注いでみよう。からだを當たり前に使へることの恩寵にあらためて驚くことができるだらうか。
 
そのやうに、毎日の感謝から生まれるものが、二行目にある「新しく生まれてくる己れのありやう」である。
 
 
 
無理をせず、どこまでも自分自身であること(精神からの光・一行目)。そして、日々新鮮に自分自身を感じること(からだからの恩寵・二行目)。このふたつが重なつて、こころそのものが、活き活きと動き出す(三行目)。
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、<わたし>として、ますます、「ありありと」あるやうになつてくる。外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく(四・五・六行目)。
 
わたしが、<わたしはある>といふありように、なりゆくこと。これこそが、豐かさである。
 
ひとりひとりの<わたしはある>といふありやうこそが、世を豐かにする。
 
 
 
密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覺めた世の數々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんとわたしをありありと刻み込んでいくだらう。


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2017年12月01日

ことばの祝祭 〜キリスト生誕劇〜


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今日もまた生誕劇の稽古でした。
 
ひとつの作品をみんなで共に創り上げていく。
 
この喜びは、何ものにも代へがたいものです。
 
そして、わたしたちは、ことばは藝術であるといふ観点から取り組むことができることが、本当に幸ひだと感じてゐます。
 
この観点・見識は、わたしたちに舞台藝術を創り上げていく上で、何らかの恣意を越えた、確かさをもたらしてくれます。
 
それは、ことばといふものの、賢さ、叡智、力、風雅(みやび)といふ、ある種、霊的なもの、精神的なものに依つてゐるからなのです。
 
キリストのまたの名を「世のことば」といひます。
 
クリスマス、25日に向かつて、ことばと共に舞台が成長していきます。
 
共に、その日を祝ひあひませんか。
 
こころより、お待ちしてゐます。

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●日時
 
2017年12月25日(月) 16時半開場 17時開演 19時終演予定 
 
 
●場所
 
大阪市立住吉区民センター 小ホール
http://sumiyoshiwardc-ogbc.jp/map/index.html
  
南海本線「沢ノ町」駅 徒歩5分(東へ約300m)
JR 阪和線「我孫子町」駅 徒歩10分(北西へ約650m)
 
  
●入場
 
大人:
予約 3000円  当日 3500円
 
子ども(4〜18歳):
無料
 
 
●お申込み
 
こちらから
http://www.kokuchpro.com/event/christmas2017/
(paypalクレジット決済)
 
 
恐れ入りますが、参加ボタンを押してから 30分以内 にクレジット決済をしていただきませんと、お申し込みが無効になります。どうぞよろしくお願いします。
 
 
または下記口座へのお振込みも可能です。
 
◎ゆうちょ銀行
記号 10260 番号 28889041
諏訪 千晴(スワ チハル)
 
 

振込みの確認をもって、
ご予約完了とさせていただきますので
ゆうちょお振込みの際にはご一報ください。   

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2017年11月29日

12月25日(月)キリスト生誕劇〜ことばの家のクリスマス祭〜


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クリスマスに、何が起こったのでせうか。
 
神の子が、清められた人・マリアに宿り、この世に幼な子・イエスとして生まれ出たのでした。
 
わたしたちの毎年のクリスマスは、その聖き幼な子の誕生を想ひ出すお祭りです。
 
その幼な子とは、どの人のこころにも宿る精神の光であります。
 
クリスマスは、その幼な子がわたしたちのこころの奥に生まれいづることを想ひ出し、そのことを祝ひ合ふお祭りでもあります。
 
2014年から始めた「ことばの家」におけるクリスマス祭ですが、今年はようやく『キリスト生誕劇』といふ形を得ることができました。
 
皆さんと静かな聖夜を過ごすこと。
 
その日をこころから楽しみにしてゐます。
 
 
 
●日時
 
2017年12月25日(月) 16時半開場 17時開演 19時終演予定 
 
 
●場所
 
大阪市立住吉区民センター 小ホール
http://sumiyoshiwardc-ogbc.jp/map/index.html
  
南海本線「沢ノ町」駅 徒歩5分(東へ約300m)
JR 阪和線「我孫子町」駅 徒歩10分(北西へ約650m)
 
  
●入場
 
大人:
予約 3000円  当日 3500円
 
子ども(4〜18歳):
無料
 
 
●お申込み
 
こちらから
http://www.kokuchpro.com/event/christmas2017/
(paypalクレジット決済)
 
 
恐れ入りますが、参加ボタンを押してから 30分以内 にクレジット決済をしていただきませんと、お申し込みが無効になります。どうぞよろしくお願いします。
 
 
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2017年11月28日

家庭での語りB完


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家庭の中で、お父さんとお母さんが語りあつてゐる。
 
日頃の気にかかつてゐることから、お互いの最も大事に大切に考へてゐることまで、ことばにしあつてゐる。
 
何気なく過ぎていきがちな日々の暮らしの中に、そのやうなことばを交わしあふ時間を持たうとする意識。努力。習慣。
 
そんな大人の男と女の対話の時間に、思春期を迎えてゐる若者が加わることができるなら。
 
そこは、大人の言い分を無理矢理押しつけられる場ではなく、大人も若者も、各々感じてゐること、思つてゐること、考へてゐることを、ことばにする練習をし、それを聴きあふ場であるといふこと。
 
もう、お父さんもお母さんも、独自の役割を担ふといふよりは、ひとりの大人とひとりの大人としていかに向きあふことができるのか。
 
そんなことを、日々若者と共に探つていく場が、家庭です。
 
家庭での語らひが、どれほど子どもの国語力を育てるか。
 
子どもの成長にとつて、どれほど創造的なことか。
 
本当に大事なことです。

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2017年11月27日

家庭での語りA


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子どもがこの世に生まれてきて、その子どもにとつて、まづもつての大切な存在は母親でした。
 
ところが、小学生中学年から高学年になつてくるにつれて、子どものこころの中に、最も大切だつた母親の存在感に変化が生じてきます。
 
どのやうな変化か、それは、子どもひとりひとりで違つてくるのですが、ただ、子どものこころの中にはその変化に対する戸惑ひのやうな感情が拡がつてきます。
 
そんなとき、いよいよ、父親の出番が巡つてきます。
 
父親が、子どもに、母親のことを親しく語つてあげる。
 
お母さんは、こんなこと、あんなことを毎日してくれてゐるね・・・。
 
お母さんはああ言つたけれども、本当はかういふ気持ちだとお父さんは思ふよ・・・。
 
お母さんの好きなケーキは何だと思ふ?
  
子どもにとつて存在してゐるのがあまりにも当たり前のお母さんといふ存在を、お父さんが改めて親しくことばで描き出してみる。
 
そんなお父さんによる語りが、子どもの内側に新しい母親像をもたらします。
 
それは、子どものこころに、父性と母性の結びとして深く印づけられます。
 
 

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2017年11月26日

家庭での語り@


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お父さんが仕事で忙しくて、滅多に家にゐない、ゐたとしても夜中遅く帰つてきて、子どもたちやお母さんとゆつくり話す時間などない、そんな家庭が少なくないのではないでせうか。
 
そんなとき、できるなら、お母さんはお父さんのことを子どもに話してあげてください。語つてあげてください。
 
お父さんは頑張つて仕事をしてゐるよ、お父さんがあなたたち子どものことをこんな風に話してゐたよ、あんな風に話してゐたよ、お父さんはこんなこと、あんなことが好きなんだよ・・・。
 
そのやうにお父さんのことを語つてあげることで、子どもは目の前にはゐないのにもかかはらず、お父さんのことをまざまざとこころに描くことができます。
 
子どもに、父なる存在、父性といふものがしつかりとありあはせるやうになります。
 
ことばによつて存在を描き出す。
 
その働きは、人の成長にとつて随分と大きな働きをなします。
 

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2017年11月21日

こころのこよみ第32週 〜世の力の源は決して枯れない〜

 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。

             ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
Zur Klarheit sich zu wenden
Im Lebensschicksalsweben.
 
 

この秋といふ季節に、稔りゆく<わたし>の力は、どこから得られるか。
 
わたしがわたしみづからを支へ引き上げていくための力は、どこから得られるか。
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
これらは、みな、己れから己れを解き放ち、己れの小なる力を諦め、大なるものに己れを委ね、任せられるとき、感じられるものではないだらうか。
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、世の力の源は決して枯れることがない。
 
その源から、<わたし>は常に力を頂いてゐる。
 
その繋がりを信頼して、今日も仕事をしていかう。
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
 
「生きることの仕合はせ(運命)が織りなされる中で」、何が待つてゐるのだらう。
 
小さなわたしがあれこれと采配していくのではなく、大いなるものがわたしの生を織りなしてくれていることへの信頼を育みつつ、勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
そのときこそ、「わたしのわたしたるところ」「強められたわたし」が、きつと顕れてくる。
 
今日も、丁寧に、牛のやうにひたすら押しながら、「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 

 

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2017年11月19日

挑戦する人 第五回おはなしペチカ終了


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『秋のおはなしペチカ 〜ミヒャエル・エンデの贈りもの〜 』無事終演いたしました。
 
来て下さつた皆様、本当にありがたうございました。

足利智子さんが奏でる楽器からの響きは、おそらく多くを使ふものでないのにも関はらず、作品に沿ふ最大限の効果を今回も上げてくれたやうに感じました。また、二本のリコーダーとライアーが二羽の鳥たちの奏でるやうな響きを産み出し、わたしたち聴き手を遠い感情の森の奥にまで連れて行つてくれるやうな素晴らしい時間をアレンジしてくれたのも彼女です。
 
そして、九歳、十二歳、それぞれの年齢でしかおそらく出ないであらう声で、ミヒャエル・エンデの小さなデッサンのやうな作品が奏でられ、わたしたち大人は、その声質だけでもうすでに人といふものの美しさに触れることができるのです。
 
しかし、最も意味あることは、子どもの頃をとほに過ぎ、すでに〈わたし〉を持つてゐる大人が、その無垢さに挑戦することなのです。
 
今日も、その最も意味あることであり、最も困難なことに挑戦した諏訪千晴は、本当に見事に、その美しさの領域に足を踏み入れ、ことばのダンスを踊り続けてゐました。
 
そして、聴き手は、40分の間、言語造形をする人と共に、ことばが切り開いていく道を伴走して行きました。
 
共に、ことばが打ち披く世界を、見、聴き、触れて行つたのです。
 
ことばの意味を追つてゐたのではなく、ことばといふものを感覚してゐたのです。
 
さういふ感覚を多くの大人は忘れてしまつてゐるのに比べ、多くの子どもたちはその感覚をこそ全力で生きてゐます。
 
その言語感覚を大人が取戻し、また、その感覚を言語化・文章化していくことには、やり手は勿論のこと、聴き手にも、人によつては多くの練習と研鑽が必要です。
 
今日の公演に向けては、わたしはほとんど稽古に関してお手伝ひをしませんでした。
 
彼女自身の足で、きつと、この道を登つてゆくことができると信じてゐました。
 
かういふ言語感覚を基にして舞台作品を批評することは、きつと困難で厄介なことでもあり、他に誰もしないであらう故に、今日、そんな舞台をまざまざと観せてもらへたことへの感謝と共に記しました。


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2017年11月18日

ときの変はり目

 
今日は、旧暦十月一日。神無月の新月。
 
今朝、夜が明けたときに、本当に新しくなつたことを感じた。何が新しくなつたかは、ごめんなさい、説明なしで。
 
この前の日曜日から、わたしは三十九度ほどの熱のまま、五日間を医者にも行かず過ごしてしまひ、つい二日前にやつと医者に診てもらひ、肺炎の診断を受けた。
 
この一週間、仕事はすべてできなかつた。
 
夜も、この七日間はほとんど一睡もしてゐない。
 
といふのも、考へが目を閉じても止まらないのだ。
 
何かのひとつのことば、ひとことをきっかけに、青天の霹靂のやうに怪鳥のやうな考へが舞い降りて来て、そいつが跳梁跋扈する。
 
猛烈な勢いで走り回ってその考へが終着地点に辿りついたとしても、またどこか別の場所を求めて終わりなく考へることを止めようとしない。
 
そして、すぐに朝が来てゐる。
 
普通は、考へといふものは、死んでくれてゐる。
 
死んでくれてゐるからこそ、昼間、自由に、その死んだ考へをつぎはぎしてわたしたちは生きてゐる。
 
考へがいのちを得る、とは、こんなにも恐ろしいことなのか。
 
こんなにも、人を引き摺り、引っ張り回すものなのか。
 
わたしの場合は、三十九度の高熱が、この状態をもたらし、意識を覚醒させたまま、精神世界のありやうに触れさせてもらつてゐるのだらう。
 
だから、一週間眠つてゐないのにも関はらず、昼の体力は大変に消耗してしまつてゐるのだが、意識は全く混濁してゐない。
 
肺炎といふ病も、言語造形といふ息の仕事をしてゐる自分にとつては致命傷にもなりかねないものであつた。いのちにも係わる病であつた。
 
また、いま書こうとしてゐる『丹生都比売』といふ舞台の戯曲のために、肺と水星の関係について学び始めた途端にこのやうなことが起こるといふことも見通し切れない意味がありさうだ。
 
そして、何が起こらうとも、感謝したい。
 
本当に、ありがたい。

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2017年11月10日

風の人

 
今日も、『キリスト生誕劇』のための練習。
 
人の息遣ひから、演劇が、生まれる。
 
さらに、風から、人は生かされてゐる。
 
風、それは、神の息遣ひである。
 
そこに、言語造形の稽古は常に帰つていく。
 
舞台の上で、俳優はなんらかの身ぶりをすることによつて演技をしていくのであるが、今日は、言語造形の基本に立ち返つて、まづ最も基本の身ぶりに取り組んだ。
 
それは、「息をする」といふ身ぶりだ。
 
普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣ひから、ことばと共に、見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。
 
その息遣ひの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。
 
外から取つてつけた身振りではない、息遣ひから生まれてくる「空氣人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。
 
そのすがたは、わたしたちに「人のおほもとのすがた」を想ひ起こさせてくれる。
 
そのすがたは、遙かな昔に人がとつてゐたすがたであり、そして、遙かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであらうすがたでもあつて、芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、未來にあるであらう「人のすがた」を密やかに提示していく。
 
それは、ことばが、單に情報を伝へるためだけの抽象的なものではなく、活きたことばとなり、人そのものとなり、そして、
だんだんと、人がことばそのものとなることである。
 
「はじめにことばありき」へと、これからはだんだんと遡つていくのだ。
 
ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、かうある。
 
 まこと、まこと、わたしは、あなたに言ふ、
 それ、人、水と風から生まれん、
 そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず
 (ヨハネ 三章五節)



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ことばへの祈り

 
どのやうな縁(えにし)で出会つたのか分からねど、今生、わたしは人と結ばれて、生きてゐる。
 
このやうに、わたしと人とを結はえてゐるのは、何だらう。
 
分からない。
 
分からねど、この縁(えにし)は大切にしたい。
 
ことば・・・。
 
胸の内につぶやくことば。
 
背筋に沿つて、立ちあがることば。
 
口に出すことば。
 
ことばは、天からの贈り物。
 
ことばが、わたしと人とを結はえるものとなりますやうに。

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2017年11月09日

こころのこよみ第31週 〜「事」と「言」と「心」〜

 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝き入り、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事に於いて、熟させる。

          (ルドルフ・シュタイナー)
 
Das Licht aus Geistestiefen,
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
Um Kräfte zu entbinden,
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
Im Menschenwerke reifen lassen.
 
 
 
「精神の深みからの光が、まるで太陽のやうに輝きだす」
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。しかし、上の文を読んで、「まるで太陽のやうに輝きだす精神の深みからの光」をどう捉へていいものか、途方に暮れはしないだらうか。
 
この文、これらのことばの連なりから、どのやうなリアリティーを摑むことができるだらうか。
 
ことばのリアリティーを摑むために、何度もこころの内に唱へ、口ずさんでみると、どうだらうか。
 
水が集つて流れるやうに聲に出すことを「詠む」と云ふさうだが(白川靜『字訓』)、そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。また、その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、一音一音、味はふやうにしてみる。
 
そのやうにことばを味はひ、ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、こころの靜けさとアクティビティーを通して、「精神の深みからの光」が、「事」として、だんだんと顯れてくる。
 
ここで言はれてゐる「事」と「言」が重なつてくる。
 
また、過去に幾度か経験した内側が「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
そのやうにして、リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、いまこの瞬間において、「精神の深みからの光」が、こころに降りてくるのを感じ、覺える。
 
そのやうにして、「事(こと)」と「言(ことば)」と「心(こころ)」が、光の内に重なつてくる。
 
その重なりが、こころの内なる化學反応のやうに生じてくるのを待つ。
 
「精神の深みからの光」。
 
その「光」こそが、「生きる意欲の力になり」、「こころから
創ろうとする力を、人の仕事において熟させる」。
 
意欲をもつて生きるとは、どういふことなのか。
 
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、どう云ふことなのか。
 
まづ、内なる「光」と云ふもののリアリティーを得ることで、それらのことが分かる道が開けてくる。
 
こころを暖め、熱くさせながら。光だけを生きるのではなく、熱をもつて仕事に向かひ始める。
 
「事」と「言」と「心」が、さらに幾重にも重なつてくる。
 
今週、精神の光が、生きる意欲の力になり、仕事を熟させていく。
 
その「事」を、ことばとこころで辿つていかう。
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝き入り、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事に於いて、熟させる。

 

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2017年11月05日

本氣と本氣の出会ひにお金は一役買つてくれる

 
人が本氣で何かをなすとき、そこにはお金が流れるべきだ。
 
なぜなら、お金とは、人と人との間に流れるエネルギーが可視化されたものであり、だからこそ、人がまごころから本氣で何かをなし、何かを創造するときに流れ出るエネルギーに対して、それを意識して自覺的に受け取つた人は、必ず自分自身のこころからの氣持ちとしてお金といふエネルギーをお返ししたくなるのだ。人間の本質上、それは極めて自然なことである。
 
エネルギーとエネルギーが行き交ふこと、それを経済といふのではないだらうか。そもそも経済とは、感謝といふエネルギーの交流のことを言ふのではないだらうか。
 
そして、プロとアマとの違ひは、他者からの評価から決定されるのでは実はなく、根本的にはその人の意識次第なのである。自分はプロなんだと意識するほどにその人はますますプロになつていくのであり、自分はアマなんだと思つてゐる、その通りにその人はアマである。
 
さらに根本的には、プロでもアマでもどちらかがより価値があるといふことでもない。
 
要は、その人がまごころからしてゐるかどうか、本氣で創造してゐるかどうか、であつて、そのまごころ、本氣からの行為こそが社会的行為であつて、さういふ行為をこそ人は求めてゐて、さういふ行為にこそ人はお金を支払ひたいのだ。その時支払ふお金は、感謝と喜びと愛の表現である。
 
その行爲に於ける技量の高低も、そもそもはその人のエネルギーの強さによつてゐる。
 
 
 
個人的なことだけれども、「無償だが、原稿を書いてくれ」といふ依頼も以前は多々あつた。
 
ある催しに主催者から呼ばれて、この際丁度いいから諏訪さんに詩の朗唱や物語の語りをやつてもらひませうといふやうなものもいくつかあつた。
 
また、言語造形の生徒さん達の間にも「わたしたちはまだまだ未熟だから、お金をお客さんから戴くなんて畏れ多い」といふ考へがあつた。
 
 
 
このことは、本当に、自分自身と仲間たちの肝に銘じておきたい。
 
いい加減に何かをするといふことは本当に人をスポイルしてしまふといふこと。
 
人が人として本当に輝くためには、未來にではなく、いま、ここで、本氣になることのみによつてなのだといふこと。
 
そして、さういふ本氣の行為をこそ、人は求めてゐるのだといふこと。
 
だからこそ、人と人との本氣の出会ひの場において、お金はしつかりと介在するべきだといふこと。
 
かうしたことへの理解が、これからはだんだんと多くの人に共有されていくだらう。
 
だから、意識の転換である。大転換である。
 
本氣と本氣の出会ひこそが必要なのであつて、いい加減な行為はしない方がいい。
 
本氣と本氣の出会ひに、お金は一役買つてくれる。
 

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2017年11月04日

十一月三日 明治の日へと


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飛鳥川上座宇須多岐比売命神社

 
昨日は、文化の日で祝日でした。大阪も抜けるやうな青空で、まさしく「天高く馬肥ゆる秋」の一日を感じさせてくれました。
 
この十一月三日は、そもそも明治天皇の御生誕を寿ぐ祝日「明治節」でした。
 
それが先の大戰後、連合国軍が日本占領中に設置した総司令部 GHQ によつて、「文化の日」と名称を変えられました。
 
祝日の名前とは、もしかしたら、大切なものではないかと思ひ始めてゐます。
 
この日が「明治節」と名付けられてゐたとき、想像ですが、毎年、この日に多くの人々が明治天皇のことを想ひ出し、当時のことに想ひを馳せてゐただけでなく、きつと、「明治の精神」というものを想ひ出し、再び噛みしめる機縁にしてゐただらう。さう思ふのです。
 
その精神とは、何か特別なものといふよりかは、当たり前の日常坐臥のなかに表れる人々の振る舞ひ、ことば遣ひ、生き方に、まずは見てとれるものだつたのではないだらうか。
 
そこには、人に対する信頼、親に対する敬意、家族に対する信愛が息づいてゐて、それらはおのづから、萬物に宿つてゐる神々との繋がりを大切に守り、育みつづけてをられる、天皇といふ御存在に対する親しみ、崇敬といふ感情とも繋がつてゐたのでせう。
 
さらに、あの明治の御代に於いては、アメリカ、そしてヨーロッパ諸国からの侵略的圧力にどう向き合つていくか、といふ未曾有の国難のなかに日本人は生きてゐたわけですから、自分たちのアイデンティティーをどう立てていくかについて必死であり、混乱の中でも、相当な緊張感を孕んでゐた精神だつたのではないかと思ふのです。
 
当時、インドも中国もその他たくさんのアジア諸国も、欧米列強国によつて植民地化され、自国の伝統や精神を踏みにじられてゐましたが、日本はさうなつてはならない、そんな緊張感だつたのではないでせうか。
 
わたしは、個人的には、いまだ学んでゐる最中なのですが、森鷗外、島崎藤村、岡倉天心、内村鑑三、伊藤博文、乃木希典、それらの男たち、多くの多くの日本の男たち、そして誰よりも明治天皇ご自身に明治の精神の顕現を感じます。
 
その精神は、世界に向けて日本といふ国のアイデンティティー、独自の崇高さを、なんとか聲を振り絞りながら歌はうとしたのではないか。
 
十一月三日が、明治維新からちやうど百五十年になる來年、平成三十年(2018年)には、「明治の日」とその名を持つことができるやう、わたしも希んでゐる者です。


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2017年11月03日

ことばの家クリスマス公演『キリスト生誕劇2017』


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秋から冬へと、一日一日、陽が和らぎ、陰りながら、高みから低みへと落ちてきます。
 
年が暮れてまいります。
 
そして、わたしたち日本人の中にもすつかり定着してゐる毎年暮れのクリスマスのお祝ひ。
 
そのクリスマスのお祝ひとはそもそも何なのでせう。
 
今年は、その日その夜に流れる感情の深みをこの生誕劇を通してからだまるごとで味はつてみませんか。
 
そのとき、子どもだけでなく大人も共に、をさな子のこころもちに立ち返るのです。
 
争ひやいさかひを越へて、人と人とが和らぎと安らかさと健やかさを取り戻すのです。
 
深い闇の中に降りるからこそ、尊いひとすじの光が見いだせる、その一夜です。
 
どうぞ、御自身のをさな子のこころに出会ひに、お越しください。
 
こころより、お待ちしてゐます。
 
「ことばの家」諏訪耕志
 
 
 
●日時: 
12月25日(月) 16時30分開場 17時開演 19時終演予定
 
 
●会場: 
大阪市立住吉区民センター 小ホール
http://sumiyoshiwardc-ogbc.jp/map/index.html
 
 
●参加費: 
ご予約 大人3000円  子ども(4歳から18歳まで) 無料
当日  大人3500円  子ども(4歳から18歳まで) 無料
 
 
●お問ひ合はせ:
ことばの家 https://kotobanoie.net/access/
 
 
●お申し込み・お振り込み:

このサイトの参加ボタンからPaypalクレジット決済をご利用ください。↓
http://www.kokuchpro.com/event/christmas2017/
恐れ入りますが、参加ボタンを押してから30分以内にクレジット決済をしていただきませんと、お申し込みが無効になります。どうぞよろしくお願いします。
 
また口座振込をご希望の場合は下記口座へお振込の上、ことばの家へご一報くださいませ。
◎ゆうちょ銀行  
 記号 10260 番号 28889041 
 諏訪 千晴(スワ チハル)
 
お振込の確認をもって、ご予約完了とさせていただきます。

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箕面こどもの森学園での山崎淳子さん


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写真は、認定NPO法人 箕面こどもの森学園さんのブログから転載させていただいてゐます。
http://kodomono-mori.com/blog/?p=9561


ことばの家の日曜クラスにずつと通はれてゐる山崎淳子さん。
 
山崎さんは、就学前の子どもたちを見守り、育てることが御本業ですが、昔語りやことば遊びなどを通して小学生たちのところへも行かれます。
 
方々で引っ張りだこの方です。
 
ことばとは芸術です。
 
そのやうな深い息遣ひから生まれることばの力、日本語の魅力を、多くの子どもたちにからだまるごとで感覚してもらふ。できるだけ何回も、何回も。
 
そんな体験を重ねていくことで、子どもたちは、ことばを大事にする人、日本語を愛する人へと育つてゆくのです。
 
言語造形をする人が、ひとりでも多く、この日本に生まれることを希つてゐます。
 


2017年11月02日

意識して前の時代に立ち戻る

 
現代に於いては、子どもを教育するとき、若い人を教育するとき、自分自身を教育するとき、教へる人(自分自身)は古い時代のありかたに、意識的に立ち戻る必要がある。
 
この「意識して」と云ふところが、單なる先祖がへりではなく、いまならではのわたしたちのありかただ。
 
現代の人が頭に抱く〈考へ〉。それは、科学的であること、理智的であること、客觀的であること、さうであつてこそ、その〈考へ〉は外の世を生きていく上で欠かせないものになるだらう。その〈考へ〉は、外の世の発展に大いに寄与するだらう。
 
これらの<考へ>を、いかにして效率よく若い人たちに教へ込んでいくかが、現代教育にいまだに見られるありかたかもしれない。
 
しかし、それらの<考へ>は、肝腎かなめの、人を育てない!
人の中身を育てない。
 
頭のいい人を世に出すかもしれないが、情をもつて、寛やかに、暖かく、意欲をもつて、確かに、熱く、考へることができにくい人を創つてしまふ。
 
それは、<考へ>と云ふものが、いまは、ことごとく、死んでゐるからだ。
 
死んだ<考へ>をいくら与へられても、生きた人は育たない。
 
いかにして、死んだ<考へ>に、いのちを吹き込み、再び生きた<考へ>をこころに植ゑていくか。
 
これは、15世紀以前においては當たり前にしてゐたことで、<考へ>にはそもそもいのちが宿つてゐたからだ。
 
だからこそ、人は、その生きた<考へ>に、生きものに沿ふやうに附き合ひ、從ふことで、精神からの、神々からの、恵みと戒めを授かつてゐたのだ。
 
アジアにおいては、とりわけ我が国にをいては、その前時代の<考へ>のありかたが15世紀以降も殘つてゐたやうで、わたしたち日本人独特の、ものの考へ方、感じ方に、他と比べて劣つた、後進性を見てとるのか、むしろ微笑みをもつて誇りを感じ、この特異性を生かす道を新しく見いだして行くのかは、人それぞれだらう。
 
それは、ともかくも、現代において、その死んだ<考へ>を子どもたちに与へることを止めて、前時代のやうにおのづから息づいてゐた生きた<考へ>を、新しく意識的に子どものこころに植ゑていくこと。
 
小学校時代の子どもたちには、正しいことを教へ込むのではなく、美しいことへの感覺をひとりひとりの子のなかから引き出したい。
 
中・高時代の若い人たちには、仕上がり濟みの<考へ>・定義を教へ込むのではなく、觀察し、ひとりひとり新しく活き活きと考へ、ともに語り合ふ場を創つていくことを助けたい。
 
そもそも、どの子のなかにも美しさへの感覺はあり、どの若い人のなかにも、自分自身で、まこととは何かを考へる力があるのだから。
 
その「美への感覺」「まことを追ひ求める力」、それを誘ひ出すやうな、像をもつた語り口。そこに、生きた<考へ>が宿る。
 
いづれも、この世に生まれてきて、まだ年かさもゆかない人たちが、一個の存在としての己れに不安を覺え始めてゐるときに、世と云ふものと再び鮮烈に出会ふことへと促していくのが、傍にゐる大人の役目。
 
そのためには、大人であるわたし自身が、毎日、鮮烈に、世と云ふものと出会つてゐるのか?どうなんだ?
 
さう、改めて、自分自身に問うてゐる。
 
その毎日の鮮烈な出会ひを産みだしていくためにどうしていつたらいいかを、仲間と共に探つていきたい。
 

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2017年10月31日

分からぬまま突き進め

 
何が起こるか分からない暗闇の中を歩くのは、とても怖い。
 
先が見えないとき、どこへ連れて行かれるか分からないときの恐れ。
 
あつて当然であらう。
 
しかし、突き進め。
 
その道がどのやうな道であつたのか、分かる日がきつと来る。
 
秋が深まつてくるにつれて、そのやうな声なき声が聴こえるやうな気がしてゐる。
 
冬の聖き夜に向かつて、暗闇の中を歩いて行くのだ。
 
そこには、必ず、ともしびが灯つてゐる。

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2017年10月30日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜

 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豐かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに滿ちて感覺することができる、
秋の精神の目覺めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覺めさせるだらう」
        (ルドルフ・シュタイナー)

 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
Des Denkens reife Früchte,
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.
 
 
想ひ起こせば、この夏の日々、何を考へて生きてゐるかと、あらためてわたし自身に問ふたとき、大概は下らないことを考へてゐたことに氣づき、やつてきては過ぎ去つていく毎日をただなんとか凌いでゐるだけぢやないかと、自分に言つてしまひさうになつた。
 
しかし、季節の巡りといふものはしつかりとあり、その巡りにつれて、こころの巡りといふものもあつて、夏の頃は、考へや情が、あちらこちらに引きずり囘されて、しんどい思ひをしてゐたにも関はらず、秋がかうして深まつてくると、それまでの曖昧で不安定だつた考へる力の焦点が定まつてきて、本当にこころから考へたいことを考へられるやうになつてくる。
 
それは、自分の場合、本当に喜ばしいことで、考へる力に濁りがなくなつてくると、感情も清明になり、意欲にも火がついてくるのだ。
 
そして、いい本、いい文章、いいテキストにも出会へるやうになつてくる。
 
生きることの意味。理想。それらの考へが、わたしにとつて何よりも氣力を育んでくれることを実感できる日々はありがたいものだ。
 
見えるものについてただ無自覺に考へ、なんとなく思ひ続けてゐるよりも、見えないものへの信を深めるやうな考へを育んでいくことが、どれだけ、こころを目覺めさせることか!
 
ものがただ竝んでゐる平面を生きることよりも、ものといふものにおける垂直を生きること。
 
秋から冬への生活とは、そのやうな「ものへゆく道」「深みを見いだす生活」になりえる。
 
日々のアップ・アンド・ダウンといふものではなく、週を經るごとに、こころが織りなされていくことを実感できるのは、「わたしであること」の安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豐かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに滿ちて感覺することができる、
秋の精神の目覺めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覺めさせるだらう」

 

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2017年10月29日

ありがたいお知らせ


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和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売(にふつひめ)神社。
 
わたしが足を運ぶときは、決まつて雨。しかも、今日は和歌山県に台風22号直撃。
 
しかし、その物凄い雨と風の天野の里で、丹生都比売といふ神さまをテーマにした新しい言語造形の舞台創りのために、今日もいろいろな話し合ひを丹生宮司夫妻とさせてもらふことができた。
 
夫妻から様々な提案をいただき、思つてもみなかつた全く新しい展開が開けて來る。
 
人と会つて話しをするといふことは、それまでの自分自身といふ小さな枠組みをはずすといふことである。
 
本質的で大切なことに向かつて、自分自身をどんどん変えていくといふことである。
 
これまでのやり方とは全く違ふやり方で仕事をせよ。
これまでの人とのつき合ひ方とは全く違ふつき合ひ方をせよ。
 
さういふお知らせをもらへてゐるやうに感じてゐる。
 
とてもありがたく、とても充実した時間だつた。

台風が過ぎ去つて、帰りの電車の中から、青空にかかつてゐる龍の姿の雲とその雲に虹が顕れてゐるのが見えた。
 
また、何かをお知らせしてくれてゐたやうに思ふ。
 

 

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2017年10月25日

尊敬する存在

 
子どもが思はず知らず発することばに、どきつとすることがないだらうか。
 
そこに、神の姿を観ることがないだらうか。神の声を聴くことがないだらうか。
 
人が、おのづから洩らす息遣ひ、おのづから呟く響き、おのづから発することば。
 
そこに、耳を傾けよう。
 
わたしたち日本人の仕事は、その人がおのづから発することばを美しくすることである。
 
人が、巧まず、弄せず、こころの底から打ち出す響きを、純粋なものにすることである。
 
ことばとこころがひとつになるとき、その響きは純粋なものになる。子どもたちは本来そんな響きの中に生きてゐる。
 
その響きを、大人たちが生きるのは、本当に難しいことである。
 
しかし、これほど、思つてゐることと話してゐることとが乖離してしまつてもそのことを恥とも思はない人が増えてきた昨今、わたしたちの仕事は、その恥の感覚をいま一度想ひ起こすことが肝要である。
 
古(いにしへ)の道。
 
我が国の古の道では、人が人であることの感覚が育まれてゐた 。
 
それは、ひとりひとりの民が、各々、尊敬する存在を持つことで延びてゆく道である。
 
生きていく上でのお手本を見いだすことで育つてゆく樹木である。
 
さういふ道を歩くこと、さういふ樹木を育てることは、他者から要請されることではなく、各々の自発性、自主性に基づく自由に根差した行為である。
 
子どもは、尊敬する存在が傍にゐてくれることで、健やかに成長していく。
 
大人だつて、さうなのだ。
 
尊敬する存在を持つことで、人は、己れのことばとこころが重なりあふ、健やかさを獲得していくことができるのだ。
 
さういふ国語教育が、我が国では古来なされてゐた。
 
古来、日本の民は皆、尊敬する存在を頂いてゐた。
 
昔の日本人は、さういふ神ながらの道を皆歩いてゐたのだ。

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2017年10月23日

垂直を仰ぐ


己れみづからへの信頼。いはゆる、自信といふもの。自尊心といふもの。
 
それは、他人との比較、他人からの模倣、ましてや他人との交流などから生まれるものではない。
  
人が、本当に、自分自身の力を発揮するには、水平的な現実や世間などをあへて視野の外にはずして、ひとりきりになつて徹底的に垂直を仰ぎ見続ける訓練をすること。
 
その訓練の内に、だんだんゆつくりと、己れへの信頼が生まれてくる。
 
己れの真ん中を貫いて樹(た)つ大いなる信を育てるのだ。
 
この己れへの信が最も強く要請されるのは、非常時ではないか。
 
しかし、平常時からこの「垂直を仰ぐ」こころの訓練をしておかねば、非常時にこのこころの力、精神の働きが作動するはずもない。
 
そもそも、すべての学問に於いて、この「垂直を仰ぐ」ことこそが本当の目当てであつたはずだ。
 
自分自身にとつて「垂直」とは何を指すのか。
 
そこを常に問ふことで、澱んでゐたこころといのちが、ほとばしり始める。
 

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こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜

 
みづから考へることの光が、
内にをいて力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。

           (ルドルフ・シュタイナー)
 
 
Sich selbst des Denkens Leuchten
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
 
 
 
改めてこの夏を振り返つて、夏という季節を生きたことによつて、世から、わたしは、何を、贈られたか。
 
それは、「ことば」であつた。
 
「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。
 
いま、秋になり、外なる静けさの中で、その「ことば」を活発に消化する時であることをわたしは感じてゐる。
 
そして、来たる冬において、その「ことば」は、血となり、肉となって、生まれ出る。
 
夏に受けとられ、秋に消化された「ことば」が、冬には、「己れのことば」、「わたしの内なるひとり生みの子」、「ことに仕へる(わたしの仕事)」として世へと発信される。
 
そんなクリスマスへの希みがある。
 
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、この秋、わたしは、その「ことば」を基点にして、自分の情を鎮めることができる。
 
自分の考へを導いていくことができる。
 
自分の意欲を強めていくことができる。
 
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。
 
 
メディテーションをする上にも、余計なことを考へないようにするために、飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。
 
しかし、いくら頑張つてみたところで、どうにも鎮まらない時がよくある。
 
そんな時、メディテーションのために与へられてゐる「ことば」に沿ひ、その「ことば」に考へを集中させていくと、だんだん、おのづと、静かで安らかなこころもちに至ることができる。
 
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
 
その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。
 
日本人に於いては、特に、萬葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、「古今和歌集」の頃もさらに経て、「新古今和歌集」が編まれた頃、その「ことば」の感覚が、意識的に、先鋭的に、磨かれてゐたやうだ。
 
歌を詠むこと、詠歌に於いて、「題」を先に出して、その「題」を基にして、まづ、こころを鎮め、こころを整へて、その後、歌を詠んだのである。
 
こころの想ふままに歌を歌へた時代は、だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。
 
こころには、あまりにも、複雑なものが行き来してゐて、それが、必ずしも、歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
 
 
「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」
 
「トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」
 
「コトバ第一ナリ」

 
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
 
 
「ことば」がこころの内に据えられてあるからこそ、「ことば」という手がかりがあるからこそ、わたしたちは、みづからのこころのありやうを手の内に置くことができるようになる。
 
わたしたち日本人は、長い時を経て、歌を詠むことを通して、「ことば」の世界に直接入り、「ことば」の力に預かりながら、己れのこころを整へ、情を晴らし、問ひを立て、明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。
 
秋になり、わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、妄念を鎮め、こころを明らかにしていくことができる。
 
さうして初めて、「みづから考えることの光が、内にをいて力強く輝く」。
 
歌を何度も何度も口ずさむやうに、メディテーシヨンを深めていくことが、来たる冬への備へになるだらう。
 
 
みづから考へることの光が、
内にをいて力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。

 
 
 

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2017年10月22日

永遠(とこしへ)に焦がれる

 
私は「憧れ」に生きることこそが、人間の本質と考えている。
憧れは、燃えさかる悲しみである。
自己の生命が燃焼し、その燃え尽きた先にある「何ものか」だ。
            (『「憧れ」の思想 』 執行草舟 著)

 

己れのいのちを燃やし尽くしたその先にあるものに向かふ。その時、人は「憧れ」に生きてゐる。執行氏はさう書いてゐる。
 
憧れとは、そもそも、ぼやつとした曖昧なものではない。「あこがれ」であり、わたしたちは焦がれるのだ。「あ」に向かつてこころ焦がすのだ。
 
「あ」とは、世の始源である。天地(あめつち)の初発(はじめ)である。「はじめのとき」とは、永遠(とこしへ)である。
 
その永遠に於いて、わたしは何に焦がれてゐるのか。どのやうな「憧れ」を抱いて生きようとしてゐるのか。
 
それは、もはや、単一のことばでは言ひやうがない。百万言費やしても言ひ尽くせないもの、それがわたしたちの「憧れ」ではないだらうか。
 
その言ひ尽くせないものに向かふとき、人は己れのいのちを燃やし尽くさねばゐられない。だからこそ、執行氏は憧れとは燃えさかる悲しみであると記してゐる。
 
いのちとは、脈打ち、波打つものである。勢ひよく流れることもあれば、澱み、濁り、疲れ果てることもある。
 
そのいのちの働きが、人生の様々な幸せ・不幸せに出会ふ。
 
その幸せ、不幸せを貫く「仕合わせ」を受け入れ、味はひ、つんざいて、進んでいく。
 
そこに悲しみが伴はずにゐられようか。
 
死に向かつて生きてゐるわたしたちは、死の向かうにある何かにこころ焦がして生きていく。
 
「憧れ」。それは、決して、この世に於いては成就しない、永遠(とこしへ)へと向かふ、人の性(さが)である。
 

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2017年10月21日

仕組みづくり


例へば、いつも遅刻をしてくる人がゐる。
 
いつも遅刻をする人は、それが常習になつてしまつてゐて、その都度、もつともらしい言い訳をしたりする。

しかし、さういふ遅刻が常習となつてしまつてゐる人に対して、そのことを咎めても、その人を責めたてても、その人の心理に圧迫を与へはするが、結局、何か本当のところへは互いの認識が辿り着かないやうに思ふ。

いやいや、わたしも、遅刻をすることがある。いつなんどき自分自身がさういふ事態に陥るやもしれないのだ。他人に対するその責めがブーメランのやうに自分自身に帰つてきたりすることも、ままあるではないか。
 
とは言つても、遅刻が常習となつてゐるその人のことを思ひやつて、「遅刻するのも仕方ないよね、いろいろな事情があるよね」といふやうな曖昧な暗黙の了解・承認のやうにしてしまへば、人と人とが力を合わせて何か有意義なものを創り出さうとするその集まりにとつて徐々に破壊的な作用を及ぼしてしまふ。
 
より善きことは、どういふあり方だらう。
 
その人に「悔い改める」やうに説得することではおそらくないだらう。
 
ここでは、「いや、さういふあなたの外面で起こつてゐる出来事は、あなたの内面のありやうを何らかの形で鏡のやうに映し出してゐるのですよ」といふやうな「スピリチュアルな」捉え方はあへてしないでおきたい。
 
個人的な経験から言ふと、人はその場に責任をもつて臨んでゐると、そのやうな遅刻などはしない。
 
しかし、責任感がなく、一参加者、一消費者、もしくは傍観者的な立場にゐると、人は気が緩むのか、振る舞ひがルーズになりがちである。
 
何か有意義なものを創り出す集まりを持つときの要(かなめ)のことは、何だらう。
 
それは、人が各々責任をもつてその集まりに参加することを促すやうな、「仕組みづくり」ではないだらうか。
 
そもそも責任とは、自由意志が前提となるはずだ。
 
つまり、人は、自分自身の発意・考へをもつて何かをするときにのみ、そのことに対する責任を負うことができる。
 
さう考へると、各々、自分は何をしたいのかをしつかりと考へてから集まりに参加することで、その場に対して己れが負ふべき責任を自覚できるのではないか。
 
だから、何か有意義な集まりを創らうとするなら、そこに参加しようとするひとりひとりに、「あなたは、この集まりに於いて、何をしたいのか」といふことを明確に自覚させるやうな『仕組み』を作ることが有効なのではないか。
 
例へば、その都度その都度、「わたしは、この集まりに於いて、何をしたいのか」とひとりひとりが自分自身に問ひかけることを前提として集まりに参加してもらふこと。
 
集まりの中で、または、集まりの後で、さういふ自問自答が促されるやうな時間を持つこと、などなど・・・。
 
遅刻を常習としてゐる人に対する不満からその人を責めることをせずとも、そのやうな『仕組み』を作ることで随分とものごとは改善するのではないだらうか。
 
ただいま、実験中である。

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2017年10月18日

三十年


昨日、難波に向かふ電車に乗ると、黒いスーツを着て席に座つてゐる一人の男に目が行つた。
 
髪も髭も真つ白で、だいぶん薄くなつてゐる長めの頭髪を後ろに撫でつけてゐる。長い身丈をかがませるやうに座つてゐる。彫りの深いその顔には、疲れと苦悩を感じさせる表情が刻まれてゐた。じつと瞑目してゐるやうに見えた。
 
ぱつと視て、歳の頃は六十代後半から七十代に一瞬思つた。
 
しかし、その男は、わたしの友だつたことに、漸く気づいた。胸がなぜだか高鳴つた。
 
高校生から大学生だつた頃、お互いの家を行き来しながら、ギターを弾き、ドラムを叩きながら、音楽に夢中だつた頃の友だつた。同じ歳だ。
 
彼は、その後大阪を離れ、若くして結婚して、しばらくして離婚した、といふことは風の噂で聞いてゐた。
 
なかなか連絡が取れなくて、彼の親御さんを通して、「会ひたい」といふことを伝へたが、彼の方は「会ひたくない」といふ答へだと親御さんから伺ひ、それつきりになつてしまつてゐた。
 
三十年以上ぶりに彼をみた。
 
電車の中で少し離れたところに座つたわたしは、彼から目が離せなかつた。しかし、近寄つて行つて声をかけることはできなかつた。
 
終点の難波に着いて、思はずわたしは彼の後をつけてしまつたが、やがて彼は街の雑踏の中に消えてしまつた。
 
 
 
三十年。
 
互いに生きて来たんだなあ。
 

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2017年10月17日

古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜


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『古事記(ふることぶみ)』の古文を言語造形を通して語り伝へていく。
 
ことばの家では、そのためのクラスを開いてゐます。
 
生徒さんたちには毎週来てもらつてゐます。
 
週に一回、全身全霊で古事記の原文を、身振りを伴はせつつ声に出す。動き回りながら、古語を語る。
 
息を切らせながら、汗を流しながら、古事記の本文が秘めてゐる古代の身振り・手振りを習ひ、まねび、体得していく。
 
この『古事記』に記されてゐる宇宙の始まり「天地(あめつち)の初発(はじめ)」の描写。
 
「イザナギとイザナミ」といふ男性性と女性性の原型でもあられる神々の営み。
 
言語造形とは何なのかといふ根源的な問ひと共に、『古事記』といふ古典作品をどのやうに舞台作品となしていくのかについて、毎回、生徒さんたちから、深い問ひが投げかけられる。
 
この自分自身の生きてゐる国の建国神話を、ことばの精神に沿ふことによつて、自分自身が生きるのだ、といふ念ひ。
 
いま、といふ時代、ここ、日本といふ地にをいて、自分自身の生を生き切るのだといふ希ひ。
 
生徒さんたちは、本当に深い念ひを持つてアトリエに通つて来てゐます。
 
その真剣さと喜びが、そんな問ひの深さを生んでゐる。
 
この学びがどのやうに展開していくか。
 
これからの日本といふ国に生きていく多くの人にとつて、己れの国のそもそものなりたちを芸術的に味わひ、知つてゆくといふことは、とても大切なことだと確信してゐるのです。
 
小・中・高校生たちにも、こんな学びを提供していきたい。
 
その機縁のひとつになることを祈つてゐます。
 




火曜 帝塚山 演劇クラス (月4回) 
.
★2017年度テーマ
「古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜」

古事記(ふることぶみ)から、我が國の神話と歴史を、語り物として、演劇として、詩劇として、舞台化するべく、言語造形に取り組んでいくクラスです。

舞台藝術として、我が國の文化の源流である神話と歴史物語に取り組み、あわせてルドルフ・シュタイナーの舞台藝術論を學んでいきます。

2018年のゴールデンウィークの上演を目指しつつ、參加される方各々、ご自身の中で、我が國の神話と歴史が、己れの物語として、己れの詩として根附いていくことが目指すところです。

・日程 毎週火曜日(月に4回)

・時間 10:00 – 13:00

・参加費 月謝制 15,000円
(資料代、衣裝代、發表參加費含む)

・会場 「ことばの家」帝塚山教室
  https://kotobanoie.net/access/
・お申し込み・お問い合わせ 「ことばの家」
  https://kotobanoie.net/access/ 

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2017年10月15日

「親しみ」といふ根源的な感情


 
昨年の今日10月13日、自分が書いた文章を讀むと、同じ時期には同じやうなことを考へ、感じるものなんだなあ、と思ふ。
 
ーーーーーーーーーーーーーー
 
実際に、人と会つて話すことで、インターネット上でその人のことばを讀むことよりも、その人のことがよ〜く理解できる。その人に親しみを感じる。
 
そんなことを感じる、ここ數日。今日もさうだつた。
 
この「親しみ」といふ感覺は本當に大切にしたいと思ふ。
 
人と人との純なつながりであり、人が人であることのおほもとの情だから。
 
 
ところで、いま、自分が取り組んでゐる『萬葉集』は、このおほもとの情を、とても大事にしようとしてゐた人、大伴家持が編んだ、和歌(やまとうた)のアンソロジーだつたことを、改めて感慨深く思ふ。
 
天地(あめつち)の初發(はじめ)に漲つてゐたであらう、天地未分の、主客未分の、愛以前の、「親しみ」といふ根源的な感情。
 
さう、昔は、「愛」なんてことばはなかった。「したしみ」であり、「いとしみ」であり、「いつくしみ」であつた。
 

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2017年10月09日

日本の秋祭り


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長女が氏神様の大阪住吉の生根神社の神輿巡行に参加させていただく。
 
本気で汗を流し、神さまのために働く大人たちに囲まれて、五時間近く、暑い日差しの中、練り歩き、太鼓を打ち鳴らし、声を張り上げ、神輿を運ぶことに、大勢の人と一緒に仕へることができた、この体験。
 
本当に、素晴らしい。
 
娘も、家に帰って来てから、「夏の祭りもよかったけど、男たちが燃えるのは、秋やな。ほんま、よかった、ほんま、よかった」と何度もつぶやいてゐる。
 
次女も住吉の神さまの御田にかかしを立てて、今年の豊作にかかわらせてもらつたが、早く大きくなつて自分も神輿巡行に参加したいと、ごねて仕方がない。
 
日本各地で、この秋祭りが行なはれてゐる。
 
日本には、ありがたいことが、本当に多い。

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 住吉大社にて


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2017年10月08日

村上 恭仁子さんの言語造形『葉桜と魔笛』


今日、村上 恭仁子さんの言語造形を聴きに行つた。
 
「古典」に影響を受けた明治から昭和文学を読む、といふテーマでの朗読ライブの第一回目。
 
太宰治の『葉桜と魔笛』といふ作品で、約一時間の一人語り。
 
ことばといふものが、日本語といふものが、こんなにも情感を湛える言語なのかといふこと、そして明治に生きた年若い女性の切ない思ひをひしひしと全身で感じることができた。 
 
彼女が第一声を発した瞬間から、空間がぎゅつと凝縮し、一気に文学的な空間になり、それが最後の瞬間まで途切れない。
 
圧巻であつた。
 
 
今回の舞台のチラシやパンフレットに記されてゐる彼女のことばから吹き出てくるやうな心意気が本当に嬉しくなる。
 
「日本語はこんなにも美しい」
 
「なぜ、日本人がかくも高い文明、技術をもって世界に踊り出ることができたのか・・・。それは、日本語の持つ力である、と言えば、大袈裟であろうか。」
 
 
これまで、『牛をつないだ椿の木』『台所のおと』『安達原』などの言語造形舞台を重ねてきた村上さん。
 
彼女の真価がこれから発揮されていく、その第一歩目に立ち会へたやうな夜だつた。
 
言語造形による舞台、ことばとは藝術なのだということが全身で直感される今日のやうな舞台が、これからどんどんなされていくこと。
 
それは、日本といふ国が、いまだ、言霊の幸ふ国だといふことを証していくことだと思つてゐる。
  
わたしもいっさう励んでいきたい。
 
素晴らしい映画を観たあとのやうに気持ちがよく、終演後、大阪の本町から難波まで歩いて帰つてきた。


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2017年10月01日

己れのすがた 己れのみなもと


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奥飛鳥の大仁保神社にて

 
藝術の世界での国際性は、民族の伝統を大切にする者からのみ生まれるのではないか。
 
一国と他国とを人間的に繋げていくことができるのは、己が国を愛し、民族の歴史と伝統を貫く精神のみではないか。
 
絵に描いたやうな普遍的な精神では、国と国とは繋がることができないのではないか。人と人とが繋がることはできないのではないか。
 
国といふものは大切なものではないか。
 
家といふものは大切なものではないか。
 
内と外との境をしつかりと形作り、見守り続けるといふことはとりわけ現代にをいて大切なことではないか。
 
かたちを持つといふこと、そのかたちを新たに新たに造形し続ける力を育むといふことは、大切なことではないか。
 
無国籍のものではなく、国籍をしつかりと持つてゐるもの。
 
精神的な漂流者ではなく、精神的土着の者。
 
さういふもののみが、他者へと通じる道を持つのではないか。
 
民族の伝統とは、民族の造形力である。
 
ひとりひとりの人には、実は、無限の創造力がある。
 
そして、ひとつひとつの民族には、民族独自の無限の造形力がある。
 
さういふ民族の無限の造形力、ひとりひとりの創造力をわたしたちが発揮していくことこそが、次の世代への希望のともしびとなる。
 
それは、よそからの借り物ではなく、己れの源泉からこんこんと湧き上がつてくる、尽きることのない精神の力なのだ。
 
己れのすがた。己れのみなもと。
 
わたしの仕事として、それこそをしつかりと見るやうな気風を育てること。そのやうな自己教育の指針を示唆していきたい。
 

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2017年09月30日

言語造形についてC(完) 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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印刷されてゐる文字から読み取られることばといふものは、まづもつて、死んでゐる。
 
その死んでゐることばにいのちを吹き込むのは、まさしく、人である。精神を活溌に働かせながら、活き活きと読み取り、活き活きと理解し、活き活きと発聲することで世に響かせる人である。
 
若い人たちに、子どもたちに、このやうな觀点から、ことばの藝術の魅力と意義を伝へていくこと。それが言語造形をする人の荷ふことだと感じてゐる。
 
ことばを死んだものとして「使ひまわさう」とするのではなく、人よりもより賢い叡智を祕めたものとして、そこにいのちを吹き込むべく、ことばに「仕へる」こと。
 
「わたしが手前勝手に使ふ」のではなく、「みづから進んで使はれる」こと、「仕へる」こと。
 
その行爲によつてこそ、人は滿ち足りていくのだといふことを、言語造形を通して學ぶことができる。
 
シュタイナーが1924年に行つた連続講演「言語造形と演劇藝術」の中でのことばを紹介させてもらつて、終はりにしたい。
 
ーーーーーーーーーーー
 
舞台藝術の養成學校で必ず次のことを學んでいただきたいのです。
 
そもそも、響きに対する宗教的なこころもちをわたしたちの藝術に引き込むことができてこそ、舞台藝術につきまとふ危險を凌ぐことができる筈です。
 
道徳的に墮落してしまふ危險すらあるのです。
 
わたしたちは、非日常的なもの、聖なることに踏み込んでいいのです。 かうごうしい教師である音韻をものにしてしかるべきなのです。
 
そもそも音韻の内に根源的なまるごとの世があるからです。
 
ことばの造形者になりたいのなら、まづ、「はじめにことばありき」といふヨハネ福音書に書かれてあることばを忘れてはなりません。
 
(中略) 藝術に宗教的なこころもちが披かれるまで、俳優はこころのメタモルフォーゼを經ていつてしかりなのです。
 
それは、音に耳を傾ける精神への帰依をもつことから始まります。
 
(ルドルフ・シュタイナー)
 
ーーーーーーーーーーーー

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2017年09月29日

言語造形についてB 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜


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頭とは、人体の中でもつとも物質的なところであり、死が支配してゐるところである。一方、手足とは、もつとも精神に通はれてゐるところであり、生命が漲らうとしてゐるところである。
 
動きを通して手足は、まさに精神の世を生きる。
 
ことばの響きとことばに内在してゐる動きに沿つて手足を連動させながらそのことばを聲に出し、身ぶりをもつて一文一文響かせていく練習を重ねることで、だんだんとことばの味はひやお話しのもつてゐる密やかなささやきを感覺していくことができる。
  
そして、そのやうに、吐かれる息の中で聲になつたことばがかたちと動きをもつてゐることで、聽き手もそのかたちと動きを共に生きることができる。そのかたちと動きに通ふいのちを人と人とが分かち合ふことが、ことばの藝術がこの世にあることの意味である。
 
まづは、頭でもつて、知性でもつて、わたしたちはことばを捉えるのだが、それを練習によつてだんだんと胸へ、腰へと降ろしていき、つひには、頭でいちいち考へなくても、手足の動きの感覺から語れるやうにもつていくこと。そのやうなからだまるごとを通した經驗が言語造形によつてなされる。
 
それは、ことばの外側に立つてあれこれ考へ、操作していくのではなく、ことばの響きと動きの眞つ只中に飛び込むことで、ことばの藝術を生き、新しい認識に至ることなのだ。
 
 

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言語造形についてA 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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試しに、ひとつの短い昔話を語つてみる。昔のやうに人に語つてもらつて聽いて覚えるのではなく、現代にをいては紙に印刷された文字を見て、読んで覚える昔話である。
 
書いてある通りに読めばいいと思つて、まづは聲に出してみるのだが、やはりそれだけではどうも物足りなく感じてしまふ。ただ読んでゐるだけの読み聞かせに、聽き手は殆ど魅力を感じにくい筈だ。
 
そこで、ちょつとここは感情を込めてだとか、ここは盛り上がりをもつて表現してみようだとか、自分なりに工夫を凝らしてやつてみる。
 
ところが、そのやうな、ことばを知性からの判斷でもつて表現しようといふ試みは、言語造形をすることにをいて、ことごとく却下される。なぜなら、そのやうな頭にをける考へによつてことばを操作しようとするとき、えてして、その表現はことばそのものの表現ではなくなり、話す人その人の人となりを押しつけがましく表立たせることになつてしまふからだ。
 
ことばを聲に響かせて話すとき、自分なりの解釈をもつてするのではなく、まづは、呼吸のくりなしに沿ふことから始めていく。
 
そして、だんだんと、ことばの音韻ひとつひとつの響きや、ことばとことばのあひだに生まれる間(ま)や、ことばの響きから生まれる動きに沿ふことに挑戰していく。
 
さうして、さらに、ことばに沿ひつつ手足を動かすこと、身ぶりを通してこそ、ことばそのものが本來もつてゐる感情や深みのある意味が立ち上つてくる。
 
ことばとは、本來、手足による行爲とひとつのものなのだ。手足の動きは、頭にをける操作よりもずつと賢いところがあることに氣づくのは、現代人にとつてはことさらに厄介なことかもしれない。できるだけ動かずに、ボタンひとつの操作で情報をやりとりできる現代にをいては。
 
 

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2017年09月28日

言語造形について@ 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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お陰様で、今年から言語造形の舞台、言語造形の体験に新しく触れられる方がいつさう増えてきました。
 
本当にありがたいことです。
 
ことばの精神、日本語の風雅(みやび)に目覚めていくことは、日本の国のこれからにとつて、とてもとても大切なことだとわたしは思はずにはゐられません。
 
この古くて新しい藝術は、体験していただくことでしかそのものが何なのかをお伝へできないのですが、それでも、言語造形についてわたしが以前書いたものを何回かに分けて再び、掲載しようと思ひました。 
 
諏訪耕志記
 
 

 
『言語造形について 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 @』
 
ことばとは、わたしたち人が「使ふ」ものだと、通常思つてゐる。自分の考へてゐることや思つてゐることを言ひ表すための道具として、日本人ならば日本語を当たり前のやうに使ひこなせるものだと、ある意味、高をくくつてゐる。
 
人と人との間にをいて情報といふ情報が交はされてゐる。その際、情報の中身、伝へようとしてゐる内容、意味、それらをできる限り簡潔に分かりやすく伝へることができればいいのであるから、ことばはその情報を伝へるための道具であり、記号にすぎない。そんな風にわたしたちは漠然と感じてゐるのではないだらうか。わたしたちは、さういふ漠然とした意識の中で漠然と教育されてきたと感じられる。
 
そのことばに対する漠然とした意識に、アントロポゾフィーから生まれたことばの藝術「言語造形」は搖さぶりをかける。

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2017年09月20日

漱石の『こころ』


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漱石の『こころ』。
 
十代の半ば頃と、二十代のはじめ頃に読んだこの本。
五十二にして再々読。
 
痛切。
 
読後、しばらく呆然とし、祈る。

静かにも 高き調べの 響きをり
   ものみな消えて 奥処(おくか)に歩まむ

             漱石ノ『こころ』ヲ読ミテ 
 

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2017年09月19日

剣を研ぐ


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しかし、かうして、毎朝、「今日も学ぼう、学ぼう」といふ意欲が湧いてくるのはどうしてなんだらう。
 
学んで、学んで、何をしたい?何になりたい?
 
分からない。
 
ただ、人様と深い喜びを分かち合ひたい。
 
その意欲とは、常に、未来へと立ち上がり続ける剣(つるぎ)だ。
 
スサノオノミコトによつてヤマタノオロチの尾から取り出された剣、草薙(くさなぎ)の剣だ。
 
殺し合ふための剣ではなく、草を薙ぎ、人が歩くことができる道、人が耕すことのできる田、人と人とが睦みあへる広々とした野原を現出させるための剣だ。
 
その剣は、スサノオノミコトによつて高天原の天照大御神に預けられ、その上で、天照大御神から地上に降臨するホノニニギノミコトに授けられた。
 
その剣は、意欲の力としてひとりひとりの人に授けられ、ひとりひとりの人によつて未来へと掲げられる。
 
死の後の世にまで届く剣だ。
 
わたしも、この剣を毎日研ぎ続け、掲げ続けていくのだ。

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鏡を磨いて待つ


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シュタイナーの『普遍人間学』講座を受け持たせてもらつた昨日までの三日間の教員養成講座では、自分自身こそが学んだと思ふ。
 
想ふ、考へる、想ひ起こす、かういふ一連の瞬間的な作業をしつつ、ことばにして他者に語りかけるといふ行為がなされる。
 
想ひ起こすって大変だ。
自分独りで想ひ起こさう、想ひ起こさうとして、かえつて空回りしてしまふ。ことばが宙に浮いてしまふ。
 
そのやうにして独力でなんとかしようと焦らずに、過去からの光に我がこころの鏡が照らされるのを安らかに待つことができるとき、想ひ起こすといふことが健やかに立ち上がつてくるのに!
 
 
日本神話から、こんなイメージ、想ひが、こころに降りてくる。
 
過去からの光、それは、つまるところ、高天原にをわします天照大御神からの光であり、それがわたしたちの抱く考への像であり、わたしたちはひとりひとり、その光を照らし返し、像を映し出す鏡をこの身にことよさしされ、授かつてゐる。
 
「この鏡は、もはら吾(あ)が御霊(みたま)として、吾が御前をいつくがごとく、いつきまつり給へ」と天照大御神がホノニ二ギノミコトにことよさしなされたやうに。
 
 
わたしたちは、己れのその鏡を磨いて待つほどに、鏡面は曇りなく像を映し出し、しつかりと想ひ起こすべきことを想ひ起こすことができる。
 
その「待つ」といふこと、それは、できうる限り準備を重ねるだけでなく、落とされる小石が拡げるどんな波紋も見ることができるやうにこころを平明に静かに整えておくこと。
 
そのためには、深い息遣ひ、呼吸のありやうが、鍵を握つてゐる。
 
想ひ起こすこと、考へること、その考へを的確に精確にことばに鋳直すこと、それは、高天原からの光を我が鏡に出来る限り曇りなく映し出すことだ。
 
本当に、学びには限りがないなあ・・・。

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2017年09月18日

前川佐美雄『植物祭』より


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昨夜の窓に叩きつける雨がすつかり上がつて、今日は美しい一日だつた。
 
そして、ひとつの仕事が終わり、大きなため息をひとつ〜。
 
一冊の歌集にまた救はれる。
 
 かなしみはつひに遠くにひとすぢの
     水をながしてうすれて行けり
 
 野の家にすこしはなれて佇(た)ちをれば
     風吹き来(きた)るあをき空より

 
          前川佐美雄『植物祭』より

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2017年09月13日

右往左往せず大本に帰ること


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目隠しをされつづけてゐると、その目隠しされてゐることを忘れてしまふ。
 
そして、いまがどのやうな時なのかが分からないまま、漫然と今日といふ日を過ごしてしまふ。
 
間違ひなく、いま、日本は国際関係にをいて緊張状態にある。
 
しかし、そんな非常時だからこそ、情勢に右往左往せずに、むしろ、大本のところへ帰りたいと思ふ。
 
わたしにとつて、大本とは、精神に立ち返ること。
立ち返るべき精神とは、まづもつて無国籍の精神ではない。
日本の国にはこの国ならではの土着の精神性がある。
 
そこを掘り起こすためには、古典に常に立ち返ること。
さう立ち返ることのできる国が、世界で唯一、日本なのだ。
 
古事記(ふることぶみ)は、その序文に、天武天皇の勅命で作成が始められたとある。
 
そこでは、きわめて芸術的に、天地(あめつち)の初めからの物語が語り起こされてゐて、代々の天皇による肇国(はつくに=国創りのはじめ)の精神が説きつくされてある。
 
驚くべきことに、その精神が代々125代に亘つて継続されてゐるのが、我が国である。
 
古事記に記されてゐる歴代の御存在が、いま現在も存続してをられる。
 
だから、顕教ではなく、密教的な観点で、現代にをいて神がかつてゐる唯一の近代国家が日本である。
 
そのやうな国のあり方を伝える古典は、他の国には皆無なのだ。
 
あるとしても、その精神性は他国にをいて現代の社会生活の中では完全に断ち切られてゐる。
 
宇宙と国のはじまりを説く神話と歴史。
 
『古事記』は語り物として、それをいまに伝へてくれてゐる。
『萬葉集』は詩として、それをいまに伝へてくれてゐる。
 
この二書を熟読玩味することが、大本へ帰る志を己れの中に育てる。
 

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2017年09月12日

全身全霊で語る人 〜ベン・チェリー先生〜


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今週末に三日間連続でシュタイナー教員養成講座があり、そこで普遍人間学講座が控えてゐる。
 
わたしがこのやうな講座をするに当たつて、お手本にしてゐる先生がひとりゐる。
 
それは、ひびきの村で十数年前にご一緒したベン・チェリー先生だ。
 
彼はそのときオカルト生理学を一週間担当されてゐた。
 
彼の授業の進め方は、一冊の本を深く深く読み込み、咀嚼した上で(その作業はおそらく何年もの長い年月が掛けられてゐるだらう)、その本の記述に捉われることなく、きわめて自由自在に毎日の授業を繰りなしておられた。
 
ベン先生は、普段はもの静かな立ち居振る舞ひをされる方なのだが、授業になると、とても表情豊かに、身振り豊かに、全身全霊で語り、説かれるのだつた。
 
わたしは、授業内容の魅力と共に、彼のあり方そのものにとても惹かれた。
 
高い叡智に満ちたことばを、精神、こころ、からだのまるごとをもつて、語る人。
 
さういふ存在に出会えたことは、本当に僥倖だと念ふ。
 
ベン先生は、いまも、お元気だらうか。

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2017年09月11日

百年長屋での言語造形クラスへのご案内


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秋を迎えて、大阪市玉造での百年長屋さんでの定期的な言語造形クラスへのご案内です。
 
10月から新しく始まるクラス。参加者の締め切りまであとおひとり、募集中です。
 
言語造形のワークショップで起こつてゐることがらをオーナーの方が見事に言ひ表して下さつてゐます。
 
ことばを声にして発するその人が、その都度、その都度の、創造者になります。
 
____________________________
 
 
言語造形家によって、オーケストラの指揮者が一音一音の音符を演奏家から引き出すように、読み手は、“ことば”を語りながら、作品を創造できるように導かれていきます。
 
その導きによつて、文字に書かれじつとしてゐたことばが、生きた響きとなつて立ち上がつて来るのです。
 
そして、魔術のように物語りに吸ひ込まれ、“ことば”の不思議、“ものがたり”と“からだ”と“こころ”がひとつになる瞬間が訪れます。
 
従来の聴き手側を意識した朗読講座とは違ひ、発声の練習や技巧的な読み方の指導は有りません。
 
自分の声とことば(心)を空間に解き放つ朗読術ですので、どなたでも参加できます。  
 
(百年長屋)
 
___________________________
 
 
日時:10月から第四土曜日の午後2時より5時まで
 
場所:百年長屋  http://nagaya100.com/access.html
 
講 師:諏訪耕志(言語造形家)
 
持ち物:自分が声に出してみたい文章(ものがたり、戯曲、童話、詩など)
 
参加費:一回体験 4000円 (お茶菓子付き)
    六回連続 (10月から3月まで) 21000円 (お茶菓子付き)
     
 
*メール(info@nagaya100.com)、
 お電話(080−2535−6937)でお申し込み下さい

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2017年09月05日

君待つと わが恋ひをれば 

 
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君待つと わが恋ひをれば 
わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く  額田王

  
この萬葉の歌を声に出してみる。
 
さうすると、「君待つと わが恋ひをれば」までの響きには、「君」を待つどこか張りつめたやうな激しい想ひの漲りが感じられる。(この「君」とは、天智天皇であられる)
 
その、希みではち切れるやうな、静止のありやうが、吐き切られる息の中で満々と感じられる。
 
しかし、次の「わが屋戸の」でその静かさが崩れ、「すだれ動かし」で女のこころを揺さぶるやうな動きへと移つてゆく。
 
最後に、「秋の風吹く」が響き終わつた後、「もののあはれ」とはかういふものかといふ感覚に包まれる。
 
 
 
川端康成は、戦時中、『源氏物語』を耽読して、そこに平安王朝の雅の男女の、こころの図が描かれ続けてゐるのを、「明るさ」と見た、と日記に記してゐる。
 
非常時の興奮ではなく、平常心の極みがもたらす明るさを見た。
 
わたしも、この非常時に、人のこころの記録である『萬葉集』を常より深く味わつてゐる。


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ことばの秘儀としての詩作と言語造形


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この8月のお盆の頃に、北海道で行つた講座『詩作と言語造形』のこと。
 
稲尾教彦さんによる詩作への導き。
 
それは、こころといふ内なる自然と、林に息づいてゐる植物や虫たち、そして風や光といふ外なる自然とが、触れあふときに生まれてくる、ことばの秘儀への導きでもあつた。
 
そのプロセスが、稲尾さんによつて記されてゐる。
 
言語造形といふことばを発する芸術も、ことばというものの中に、内なる自然と外なる自然とが重なりあふときを探り求める、ことばの秘儀である。 

 
最近の稲尾さんのブログからその文章を写させてもらひました。
http://godosha.seesaa.net/article/453183321.html
 
改めて、稲尾さん、そして講座に参加して下さつた皆さんに、感謝、感謝、感謝。
 
「夏はわたしに、みづからを捧げてくれた」
(ルドルフ・シュタイナー『こころのこよみ 第23週』より)
 
あの講座を思ひ出すと、そんな夏だつたと感じる。
 
この講座は、あまりにも魅力的だと思ふので、近いうちに関西でも行ひたい。
 
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
 
一昨日、ひびきの村サマープログラム「詩作と言語造形」の講座5日間が終わりました。昨年に引き続き、二回目となる今講座。
 
林の中に入り、徐々に林の静寂と親しくなってゆくという過程を踏まえ、こころの中に、ある空間を作り出すことをしてきました。
 
そして、その内的な空間をキャンバスに、自らの、真心の手触り、ぬくもりを感じつつ、ことばを紡いでゆく。
 
注意深く植物と目を見合わせる。
注視するとは、どういうことなのか。
止観し、一点を見つめることの意味は・・・。
 
目を閉じ歩く。写真を目の内に収めるようにして、光の像の中を歩く。
 
音や光や風が、次第にもうひとつの手触りを持って、こころに響いてくる。
 
植物の呼吸のようなしじまを見つめる。
そこにことばを交わし、本当に大切な問いをもち、植物とわたしに向き合う。
 
僕にとって詩を書くということの、本当に大切にしていることをお話しつつ、進めていった詩作の時間でした。
 
 
 
そして、言語造形をとおして、深い息遣いの中で、身振りを伴い、ことばを動きの中で、生きて、生きて、生ききってゆく。
 
ことばそのものの力と生命を、教え導いてくださった言語造形家の諏訪耕志さん。
 
諏訪さんのご指導が、詩をどれほどこの世に羽ばたかせてゆけたか。
 
詩作と言語造形は、ことばと人の源泉へ至ろうとする、どこかで共鳴する二つの道のように思います。
 
身振りの中で、ことばの音韻・衝動を動き、舞い、詩を声にし、
息を吐ききり、次のことを何も考えず求めず、ただ一心不乱に詩そのものに生きること。
 
それは人の全存在を、生ききる、ということではないか。
 
ご参加のみなさんにこころから胸打たれました。何度も涙しました。
ご参加の方皆さんとともに、作り上げてきました。
共に講座を担当してくださった諏訪耕志さん、ご参加くださったみなさま、本当に素晴らしい時間を共有できたことに感謝しています。ありがとうございました。
 
稲尾教彦さん記

posted by koji at 00:24 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする