2021年08月03日

職能を育むためのアントロポゾフィーハウス その二



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十和田湖



いま、アントロポゾフィーの学びの場が、日本においても各地で行はれてゐますし、オンライン講座といふスタイルでも、ネット上にたくさんの場が生まれてゐると思ひます。


わたしたちアントロポゾフィーハウスは、オンラインクラスだけでなく、恒常的な賃貸料などが生じないやうに、固定した場所を持たず、その時、その場で、アントロポゾフィーを学ぶべくリアルに人と人とが出会ふ場を創ることを意識的に織りなしてゆかうとしてゐます。


さう、その営みは、まさしく「織りなしてゆく」ものです。ある図柄を織りなしてゆかうとしてゐます。


その図柄とは、アントロポゾフィーから仕事を創りなしてゆく志を育てるといふ、精神からの意志の図柄です。


固定的な場を持たないが故に、その精神からの意志を持続することはとても難しいことです。しかし、だからこそ、より意識的になつて、やがては、ひとりひとりの学び手がこの学びの教へ手になり、これからの日本の社会に精神からの志を注ぎ込んでゆくことを促すひとつの母体となることを考へてゐます。


その意識を明確に持つのです。学び手自身も、その意識を明確に持ち、この学びの代表者として、みづから、ひとりで立ち、仕事をして行くといふ志を育てることです。それは、〈わたし〉の育みでありつつ、同時に、世の育みです。


(続く)


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職能を育むためのアントロポゾフィーハウス その一



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わたくし諏訪耕志がアントロポゾフィーを学んだのは、1990年代の新宿区高田馬場にあつたルドルフ・シュタイナーハウスといふ場においてでした。


そこでは、ほぼ毎日、大人のためのアントロポゾフィーの学びのための集まりがなされてゐて、わたしは、おほよそ七年間、毎日通ひ、アントロポゾフィーの基礎的な学びと、言語造形といふ芸術実践に勤しむことができました。そこでわたしは、明らかに、人生を貫く職能を育む道を歩み始めることができたのでした。


そのやうな場があつたからこそ、そして、そこで、我がこころとからだに精神のくさびを打ち込まれたからこそ、30年前の当時も今も変はらず、アントロポゾフィーといふ精神の営みがわたしを貫き続けてくれてゐます。まさに今もわたしの人生は、当時のあの場とあの時に支へられてゐるのです。


物理的な学びの場があるといふことは、本当にかけがへのない、貴重なことでした。


いま、そのやうな場が失はれて、久しい時が経つてゐます。


なぜ失はれてしまはざるをえなかつたのかといふことには、様々な要因がありますが、毎月支払はなければならないホールや事務所の決して少なくない額の賃貸料といふ負担が、会員からの会費だけが資本のいちNPO法人には重すぎたのでした。


(続く)


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2021年08月02日

夏の東北の旅


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このたびも、青森に滞在しながらアントロポゾフィーの仕事をさせてもらつてゐるのですが、本当にこころ優しい方々が、読書と言語造形、オイリュトミーに没頭してゐるわたしと越中さんを自然の景観拡がる場所へと案内して下さるのでした。


小学生ふたりも加はり、車の中では、輪唱あり、ナゾナゾの掛け合ひあり、くすぐり合ひありの、まるでわたしたち大人も子どもに帰つたやうな、それはそれは抱腹絶倒の珍道中。


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青森の三戸から、縄文の息吹きいまだ漂ふ秋田の大湯環状列石へ、そして県境に夢のやうに碧く鎮まつてゐる十和田湖、さらには、新郷村にある伝説のキリストの墓へと・・・。


溢れ出る命のやうな山清水の甘さと清冽さも味はふことができました。


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祭祀の場として人々と神々とが集約的に生きてゐた縄文のときの余韻でせうか、大湯環状列石の遺跡へと向かふために小さな森をくぐり抜けて歩いてゐると、はや、霧のやうな白い精神の流れに包まれるのでした。


また、そこで初めてお会ひできた方が本当に素敵な方で、大湯環状列石についていろいろと教へて下さるのです!なんと嬉しいこと😇


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そして、見晴るかす大空と十和田湖の青い景色。


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旅の最後には、念願叶つて訪れることができたキリストの墓の前にしばし佇みました。ゴルゴダの丘の上で十字架の刑に処せられたのは、実は弟のイスキリであり、兄のイエスはその後ひそかに日本に落ち延びて、ここ青森の新郷村にて106歳にて人生を閉じたのだといふ伝説の真偽はともかくも、墓の上に立てられてゐる十字架の周りには、しきりに白い雲のやうな、光のやうなものが放射してゐて、わたしはここへ足を運ばせてもらへたその意味をみづからに問ふのでした。


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この美しい旅を丁寧にこころを籠めて計画し、朝早くから車を運転し続けて下さつた中村さん、そして、細やかにこころを配つて下さつた佐々木さん、夜にご自宅を開放して下さり、夕食までご用意下さつた中村さんのご主人様。こころよりお礼を申し上げます。ありがたうございました。






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2021年08月01日

アントロポゾフィーハウスの始まり 青森八戸 



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青森県は八戸にて、初めての言語造形、オイリュトミーそしてアントロポゾフィーのひととき。それは、アントロポゾフィーハウスの始まりのときでもありました。


小学高学年の女の子ふたりとは、わたくし諏訪耕志が教科書の音読を言語造形を、越中さんがひとりづつたつぷりと時間を取つての詩のオイリュトミーを。


音読では、なんと、ひとりの子が朗々と朗唱を始めるやいなや、その息遣ひに感応して、もうひとりが誰に何も言はれてゐないのに、走り始めるのでした。こんな風に音読の時間が体育の時間にもなるのです。

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そもそも芸術であることばの力に、子どもも大人も動かされ、目覚めることができた3時間半。


また、これからもオイリュトミーの越中さんともども、ことばの芸術とアントロポゾフィーを活き活きと味はひつつ学んで行く時間を持つてゆきます。


アントロポゾフィーハウスとは、固定的な場を持たず、その場その場を精神の社とするべくアントロポゾフィーの学びと芸術実践を深めてゆく運動体です。


ご参加下さつた皆さん、どうもありがたうございました。そして、最初のこの見えない精神の社づくりに色々とご尽力下さつた佐々木さん、本当にありがたうございます。また、これからも、どうぞよろしくお願ひします。


これからの八戸での予定は、9月4日(土)、10月2日(土)、9時半から13時まで。いずれも青森県八戸市福祉公民館にて。https://www.city.hachinohe.aomori.jp/.../kenko.../4021.html


参加費: ドネーション制


お問ひ合はせ・お申し込み:
佐々木 千晶さん aibaru0809@gmail.com


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2021年07月29日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜






世のことばが語る、

そのことばをわたしは感官の扉を通して

こころの基にまでたづさへることを許された。

「あなたの精神の深みを満たせ、

 わたしの世のひろがりをもつて。

 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」



Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengrunde durfte fuhren:
Erfulle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  



閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉


「蝉の声」は耳に聞こえる。時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。


「閑さ」はどうだらうか。「閑さ」は、耳を傾けることによつて、聞き耳を立てることによつて、初めて聴くことができるものではないだらうか。


「閑さ」とは、本来、耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものではないだらうか。


芭蕉は、「蝉の声」を通して、「閑さ」を聴いたのだらうか。「閑さ」を通してあらためて、「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。


そして、芭蕉は、「蝉の声」の向かうに、「閑さ」の向かうに、何を聴いたのだらうか。


芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。


それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、心象スケッチであり、春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。


この週の『こころのこよみ』に、「世のことばが語る」とある。


わたしもことばを語る。


しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。


その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものである。メディテーションを通して、「こころの基にまでたづさへることを許された」ことばである。



『いかにして人が高い世を知るにいたるか』より


人が人といふものの中心を いよいよ人の内へと移す。
人が安らかさの一時(ひととき)に内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
人が日々のものごとから遠のいてゐる。
日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
その人の周りが静かになつてゐる。
その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
その人が、また、そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも遠のける。
内において安らかに見遣るありやう、紛れのない精神の世との語らひが、その人のこころのまるごとを満たす。 
静けさからその人への語りかけがはじまる。
それまでは、その人の耳を通して響きくるのみであつたが、いまや、その人のこころを通して響きくる。
内なる言語が ―内なることばが― その人に開けてゐる。
 

この夏の季節にメディテーションをする中で、精神の世が語りかけてくることば。


 あなたの精神の深みを満たせ、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。


この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。この週の対のこよみが、第36週である。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/472735195.html


そこでは、「世のことば」キリストが、人のこころの深みにおいて密やかに語る。


芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠つた人である。


彼はいまも、夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、静けさを聴き取り、その静けさの向かうに、「世のことば」を聴いてゐるのではないか。



世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たせ、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」



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2021年07月28日

夏の青森 言語造形の集ひ ありがたうございました



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青森市内にて、初めての方々との、言語造形のひととき。台風がやつて来て、わたしが乗る飛行機が無事、青森空港に着くかどうか危ぶまれましたが、パイロットの方のお蔭でなんとか着陸し、時間通りに、言語造形の時間を始めることができたのでした。飛行機の中から、激しく動く厚い雲の合間に青い森と山肌が見えて来た時には、こころはすでにその地に届いてゐることを感じたのでした。


青森市内での言語造形は、おそらく、初めての営みだと思ひます。この地が、古代から未来へと向かふ言語造形といふ芸術をどうか受け止めて下さいますやうに、そんな希ひと共に時間を始めさせてもらひました。


解き放つ息遣ひを通して母音を全身で発音することから始めますと、皆さん、即座に、「ことばの精神・言霊」といふものの顕れを感覚的に掴んでをられることに、まづ、驚かされました。部屋の中、空間の中を形をもつて動きゆくことばの音韻を観る、精神の感官「ことばの感官」を青森の皆さんは、すでに啓いてをられるのでした。


ですので、その後の、絵本や、俳句、「あわうた」を通しての言語造形の営みが、神に祝福されてゐるかのやうな感覚をもつて繰り広げられ、わたし自身、楽しくて仕方がない・・・。お集まり下さつた皆さん、ありがたうございました😇


これも、すべては、このひとときを準備して下さつた五十嵐さん、そして、託児の任を荷つて下さつた越中さんのお蔭でした。五十嵐さん、越中さん、こころからお礼を申し上げます。ありがたうございました。


ワークショップのあと、青森の空は晴れ渡り、お日さまは金の矢を放つてをりました。


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2021年07月26日

「くれくれ星人からの脱皮!」『普遍人間学」オンラインクラスから 






ルードルフ・シュタイナーの『普遍人間学』第10講の内容から、述べさせてもらひました。

現代の唯物主義的世界観。それは、ヨーロッパにおいて、9世紀あたりから始まりました。


21世紀に入つて20年が過ぎ、わたしたちは、何を、どのやうに学んで、どこへ向かつて生きて行かうとしてゐるのでせうか。




2021年07月22日

ひとりから



電車に乗り、大阪の街を歩いてゐて、マスクをしてゐないのは、ほぼ、わたしのみ。電車の全車両の中では、おそらくわたしひとりのみ。しかし、ほんの、ときたま、歩いてゐて、してゐない方とすれ違ふ。でも、大体の感覚だけれども、五千人にひとり位の割合。大阪のこの酷暑の中で、このマスク装着率は凄まじいことだ。かうしてマスクをしないわたしのやうな人を見て、反感を感じる人もたくさんゐるだらう。戸惑ふ人もゐるだらう。でも、こころから、心臓から暖かい何かを発しながら、わたしがゐるならば、きつと、慰められ、励まされる人もゐるのではないかな。歩いてゐて、すれ違ふ子どもなどは、まぢまぢとわたしの顔を観る。わたしは、ニコつと笑ふ。こんな大人もゐるよといふことを感じてもらへれば・・・。それもわたしの勝手な思ひ込みかもしれないのだけれども。

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2021年07月21日

生の語りを通してこそ見えて来るもの



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今日は、京都にて、言語造形のクラスでしたが、わたしにとつても、深い発見ができた時間だつだのです。


北欧のメルヘン「屋根がチーズでできた家」と、グリムメルヘン「ヘンゼルとグレーテル」。


それぞれのお話は、とても内容が似てゐて、どちらも、兄と妹が年老いた女(魔女)の家におびき寄せられ、その老女に食べられさうになるのですが、最後は、どちらも、その老女を火の中に追ひやることができ、ふたりは逃げ延びることができたといふお話なのです。


しかし、生の声による語りを聴いてゐますと、ふたつのお話におけるそれぞれ異なる語り手のスタンスを打ち出すことで、それぞれのお話の魅力がより一層引き立つのでした。


北欧のメルヘン「屋根がチーズでできた家」の方は、老女の立場に語り手が立ち、ふたりの子どもを何としても食べてしまひたいといふ欲望が語り手の身振りによつて表されることで、そのお話が一層、陰影と、ユーモアと言つてもいいやうな表情に満ちた、魅力的なものになるのでした。


一方、グリムメルヘン「ヘンゼルとグレーテル」においては、老女を描く時に、できうる限り淡々と表現し、老女といふ存在が記号化するかのやうな描き方をするのですね。逆に、ふたりの子どものありやう、行ひのひとつひとつ、ことばが持つ表情を細やかに造形することで、このお話の持つ精神からの高貴さを深みから引き出すことができるのでした。


このそれぞれのメルヘンに潜んでゐる深みある味はひは、目で印刷された文字を読んでゐるだけでは、到底分かりえないものです。


同じ精神からのモチーフでも、受肉する地域、国、民の違ひによつて異なつてくる趣きの違ひ。


それを生の声をもつて表現し、味はつてゆく、ことばの芸術「言語造形」ならではの時間を持つことができました。


参加された方々とも語り合つたのですが、この一年半以上にも渡る非常事態においても、このやうな芸術を生きる時間を無くしてしまつてはならないといふこと。


むしろ、かういふ時だからこそ、精神からの文化活動に励むのだといふことを、感覚的に分かち合へたひとときでした。




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2021年07月18日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜






精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
        
 
Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Das reifend Gottesgaben
In Seelengrunden fruchtend
Der Selbstheit Fruchte bringen.  
 
 
 
ことばを話すことよりも、さらにこころのアクティビティーを使ふのは、黙ること。
 
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて、生がだんだんと深まつていく。
 
 
この沈黙とは、こころが滞つてゐるがゆゑではなく、アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
 
話すことをやめるのではない。
 
 
ことばと、そのことばを話さうとしてゐる己れと、そのことばを聴かうとしてゐる人を、大切にしたいからこそ、ことばを迎へ、ことばを選び、ことばを運ぶのである。
 
 
ことば。ことばを話す人。ことばを聴く人。
 
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、そこにこそ、精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
 
そこにこそ、豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 
 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 

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2021年07月17日

求めよ さらば与へられん



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ルードルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』のはじめの方に、この密(ひめ)やかな学びの教へ手が守るべき掟(おきて)がふたつ、記されてあります。


ひとつめは、この密やかな学びを求める人には、惜しむことなく、学びを授けること。


ふたつめは、この密やかな学びを受けるための備へがいまだない人には、決して学びを授けてはいけないこと、授けることはできないこと。


このふたつの掟は、ふたつのやうで、実は、ひとつです。


この学びを受けられない人は、実は、「この学びを求めてゐない」といふことなのです。


必要であるのは、まこと、求めること。


ですので、深く精神において、学び手は、誰にも拒否されることはありません。


そして、この一冊の本こそが、この密やかな学びの師です。


さうであるからこそ、それは、読み手のまこと求めるこころのみが、その本を師となしうるのだといふこと。


しづかに、こころの耳を澄ましながら、一頁一頁、読み続けること。


それは、とても、しづかな行ひでありますが、しかし、熱く、求めること、門を叩きつづけることであります。


さうして、時が熟して来るにつれて、師であるこの本の一頁一頁、一文一文、ひとこと、ひとことが、実に優しく暖かい声で語りかけて来るやうになります。


このシュタイナーの書に限らず、本物の本といふものは、読み手に、この掟をもつて向き合はうとしてゐます。


子どもたちが本を読む人になりゆくには、傍にゐる大人自身が本を読む人であることが条件であり、ひとりひとりの大人が本物の本を求めることが、この世の社会の命綱です。




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憂鬱質で訓んでみる「高瀬舟」






文学作品を、その文体から、ふさはしい気質をもつて訓んでみる二回目の試み。


今回は、森鷗外の「高瀬舟」から聴いていただきます。


訓み手が、みづからのからだの用ゐ方、足の運び方をもつて、文体における気質の顕れを表現する。


さうすることで、単に淡々と声に出すだけでは表はされない、その作品、その文体、そのことばに潜んでゐる情や意欲といつたこころの深みをも引き出すことができます。


書き手の内にて働いてゐた気質を、そのやうに訓み手が引き上げることによつて、ことばの響きと調べが一気に活き活きと息づいて来はしないでせうか。


※関連動画 『多血質で訓んでみる「学問のすすめ」福沢諭吉作』https://youtu.be/-qoPLgf_wjU

アントロポゾフィー『普遍人間学』からの性教育?






ルードルフ・シュタイナーの『普遍人間学』第14講の内容から、述べさせてもらひました。


生殖器は胴体の最も下に位置してゐますが、そのことと、その働きの意味を、アントロポゾフィーの観点から見てとらうとしてゐます。


わたし自身は、そのことを若い人たちにことばで伝へるよりも、ここで述べさせてもらつてゐる意識をこころの内に持つて、彼らの傍にゐようと思つてゐます。

2021年07月15日

稲光と雷鳴と大雨



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今朝4時から5時過ぎまでの大阪の物凄い稲光と雷鳴と大雨。


真上の空を何十回とつんざくひつきりなしの稲光と怒涛のやうな雷鳴に、おそらく、多くの人は眠れなかつたと思ひます。


不安と恐怖と緊張。そんな情に包まれたのでした。これほどまでのものは、わたしはおそらく生まれて初めてでした。


それらの情を覚えると共に、布団の中で、次のやうなことに思ひが延びて行きました。


外の世では、いま、これまでの常識では測り知れないことが進行してゐる。


今朝のやうに、自然は時に、人に恐怖や畏怖の念ひを与へ、わたしたちに人智では太刀打ちできない無力感を味ははせるけれど、そのやうな無力感を人為的に人に植え付けようとしてゐる、ある種の悪しき働きがある。


この空からの雄叫びは、このいまの世のありやうの何らかの顕れのやうだ。


しかし、いま、内の世、すなはち、自分自身のこころにおいては、自由が息づく領域を稼がせてもらへてゐることが、本当にありがたいと思へる。


これからの激しく動く外の世と、釣り合ひを取るべく、安らかで確かな内の世(こころと精神の世)をしつかりと守り、育んで行かう。


それこそが、わたしにとつて、最もたいせつな仕事。


恐れと不安と無力感に、きつと、人は打ち勝つことができる。


それは、内なる安らかさの育みにかかつてゐる。



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2021年07月14日

こころのこよみ(第15週)〜子どものやうに生きる〜






わたしは感じる、魔法にかかつたごとく、
 
世の輝きに精神が織り込まれてゐる。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授ける、

わたしの<わたし>は、囲はれてあり。
 
 
Ich fuhle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehullt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmachtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
  
子どもの頃や若者である頃と違つて、わたしたちは歳をとるにしたがつて、自分自身といふもの、わたしの意識といふもの、自意識といふものを、大事にするやうになるので、夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、困惑してしまふ。


わたしのわたしたるところ、わたしの<わたし>が、囲はれてあるやうに感じてしまふのだ。
 
 
しかし、かうしたありようが、この季節特有の、かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
 
このぼんやりとしたありやう、焦点が絞られてゐないありやう、それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、そのやうなありやうであり、この意識の大きさ、拡がりからこそ、力が授けられようとしてゐる。


だから、ぼんやりとした感官のありやうを、思ふ存分、生きればいい。
 
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、大いなる世と繋がることに勤しむこと。


ある意味、子どものやうに生きること。


さうすることで、ぼんやりとしたありやうであるかもしれないが、人は大いなる世から力を授かる。
 
 
たとへ、いま、その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、魔法にかけられ、囲はれてあるとしても、そのやうに手足をもつて生きることが、来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、来たる秋から冬へと。

  
 
わたしは感じる、魔法にかかつたごとく、
世の輝きに精神が織り込まれてゐる。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授ける、
わたしの<わたし>は、囲はれてあり。
 





鈴木一博さんが、ご自身が訳された「こころのこよみ」に以下の文をしたためてをられます。

♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾

この『こよみ』という作品は、作者もみずから言っているとおり、ほかの著作と同じく、顕れ、響く精神、こころの、いわば「翻訳」です。

よって、それを読むことは、そのことばが指す顕れ、響きに耳をすまし、それをそれなりのことばのつくりで呼ぶことです。

それには呼ぶ人のアクティブな働きが要りますし、呼ぶ人の自由が息づいてしかるべきです。

もちろん、麗しいことばや難しいことばでする必要はありませんし、また声にまで出さなくてもそれはできます。

しかしまた声の響きをもって、それができたらなによりでしょう。

♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



下手な翻訳、拙ない朗唱にもかかはらず、わたし自身も、また、ひとりの人として、アクティブな働きだけはもつて、なんとか、自由を息づかせつつ、週に、年に、大空に、まるごとの世に、呼びかけ続けたいと思ひます。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。
「アントロポゾフィーと言語造形 ことばの家」https://kotobanoie.net/


「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachim...

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2021年07月12日

ことばをたいせつにする幼児教育の場



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昨日は、幼児教育をされてゐる方と言語造形をしてゐて、あらためて、幼な子たちへの大人からのことばによる働きかけの意味深さ、大切さを語り合つたのです。


幼児教育をされてをられる方々にこそ、この言語造形といふ芸術に親しんでほしい。


なぜなら、人生の最初の何年間を幼な子たちはその方々と共に生き、いまや、親御さんと共にゐる時間よりも遥かに長い時間をその方々と共に過ごし、その方々のことばで育ちゆくのですから。


人生の最初の何年間といふエポックは、大人になつてから記憶から忘れ去られてしまふがゆゑに、逆に、その人のからだの奥深くまでその影響が及ぶことを思ふのです。


わたし自身も、なんとか、幼児教育の内側に入り、言語造形からたつぷりとお話を幼な子たちと分かち合ふ日々を取り戻して行かう・・・。


むしろ、ことばをたいせつに育むことをひとつの主眼にした幼児教育の場を新しく創れないだらうか・・・。




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2021年07月11日

天使の方々との交はり・・・?😇 青森での講座から






2021年6月5日、青森県三沢市にて行ひました講座「芸術を生きる こころを生きる」の一部、アントロポゾフィーからの自己教育における天使の方々との交はりをテーマにして話させていただいたところをご覧いただきます。


毎晩、眠りに就く前に、わたしたちがすること、それは、「大切なこと、大切な人への想ひを深める」といふことです。


さうして、眠りに入つてゆき、眠りの世において、人よりも高い方々、天使の方々との交はりをもつこと。


その眠りのときの後に、朝目覚め、わたしたちは、思ひも寄らないフレッシュな力を眠りの世からいただいてゐるのを感覚して行くことができます。


眠りと目覚めを意識的にそのやうに整へて行く。


アントロポゾフィーからの自己教育の一端です。


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青森空港にて






2021年07月07日

「ことばの感官(言語感覚)」について(十二の感官論より)



若き日のミヒャエル・エンデ


これまで、シュタイナーのいはゆる「十二感覚論」の中の言語感覚については、寡聞にしてシュタイナー自身が詳しく説いてゐるものを知らず、他の人によつて書かれてゐるいくつかの解説書などを読んでも、どれも、ぴんと来なかつた、釈然としなかつたのです。


他者が発することばを聴くとき、感覚できるものとは、何でせう。


それは、ことばの意味ではありません。


では、ことばから、わたしたちは何を感覚してゐるのでせう。


情報を伝達するための手段としてのみ、ことばが使はれるのだといふ認識が染みついてしまつた現代においては、この「ことばの感官」を意識し、理解することはむづかしいやうです。


それは、言語造形をすることによつて、より明らかに、より深く、よりリアルに感覚することができます。


その感覚を人にもたらすのは、聴く感官(聴覚)ではありません。ことばの感官(言語感覚)です。


わたしたちは、光を目といふ感官で感覚するやうに、響きを耳といふ感官で感覚するやうに、人から発せられたことばを「ことばの感官」によつて感覚してゐます。


ここでは、言語造形をする者として培ひ続けてゐるこの感官について、述べさせてもらつてゐます。


どうぞ、お聴きください。



※感官(Sinn)とは、人に備はつてゐる目や耳などの器官と機能(働き)を指します。一方、感覚(Empfindung)とは、その感官によつて、迎へられ、見いだされるものを言ひます。シュタイナーは、明確に、そのふたつのことばを使ひ分けてゐます。ここでは、感覚を迎へ、見いだすことを、「感覚する」といふ言ひ方もしてゐます。


2021年07月06日

学び始めた方からのことば



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ことばの家近くの万代池の花園にて



今年、新しく、アントロポゾフィーハウスといふ精神の学の運動体が生まれました。


それは、アントロポゾフィーといふ精神の学をふたつの柱に沿つて深めて行く、固定的な場所を持たない運動体です。


そのふたつの柱とは、メディテーションと芸術実践です。


わたくし諏訪がさせてもらつてゐますいくつかのアントロポゾフィーの学びのクラスの中に、シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか(鈴木一博訳)』のオンラインクラスがあります。


木曜と日曜の夜、それぞれ毎週、続けられてゐるこれらふたつのクラスは、読書会に近い講義といふスタイルをもつて営まれてゐるのですが、それは、メディテーションを仲間と共に少しづつ深めていくための促しと励ましの時間になつてゐます。


その深まりは、だんだんとですが、きつと、ひとりひとりの人がアントロポゾフィーから著されてゐる文献を自分自身から熱心に読み始めること(スタディ)へと繋がつてゆくことで、暮らしと仕事の深みをみつめるこころの目が開き始めます。


また、かうしたクラスに参加することそのことが、ひとつの芸術実践です。


ことばを聴くといふこと、ことばを話すといふこと、それそのことが、芸術の営みだからです。


そして、ことばを聴き合ふことをもつて、互ひの人間性、その人のその人たるところを感覚し合ひ、人とみづからとの間合ひを知りゆく、そんな練習の実践の場でもあるからです。


メディテーションと芸術実践、それは、その人をますますその人になしてゆく、わたしがますます〈わたし〉になりゆく道となります。


ここで、木曜「いかにして人が高い世を知るにいたるか」オンラインクラスにご参加されてゐる n.y さんがグループメッセンジャーに書き込んで下さつた文章を、ご本人のご了承を得て、ここにご紹介させていただきます。



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先日の読書会の余韻がまだ続いているわたしです。


先日の読書会、平らに面積で見ればたった1nの学びでした。


しかし体積で見てみるとそれは果てしなく広く深く読書会中でもまるで海や宇宙空間にふわふわ浮いているような感じで私はすっかり圧倒されてしまう感覚になりました。


そして同時に『覚悟』といキーワードが頭から離れなかったのです。


後からどうしてそんなふうになったの…?とずっと考えていました。


『私がますます私になる』って…それは私が私と向き合うことからはじまり私の内なる世界を探求すること。


でもその内なる世界も途方もなく果しなく広い宇宙〜だ〜?…と私は感じたのかもしれません。


『〜高みにいたるか』その至るまでの道のりプロセスはスローステップで階段を登ったり下ったり繰り返し…だんだん自分の内奥にひそむ好ましくないものもきっとみえてくる。


その自分の不完全さを受け入れてあるがままになるまでの長い道のり。時には休憩してお茶したり泣いたり笑ったりの私に寄り添いながらの歩み。


そんなイメージがわいたのかもしれません。


そしてそれには私と付き合っていく覚悟が必要なのだと…。


もっというとそれが条件だと、先生であるこの一冊の本は私に教えてくれているのかな〜?と


勝手に宇宙旅行している私です。 ( n.y さん)



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



『木曜・日曜夜「いかにして人が高い世を知るにいたるか」オンラインクラス』


●毎週木曜・日曜 夜8時から9時まで


●参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  


もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。


一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用ゐます。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/



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2021年07月05日

こころのこよみ(第14週)〜「世の考へる」に任せてみる〜



クロード・モネ《霧の中の太陽》



感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betaubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 

※ Weltendenken といふことばを、Welten(宇宙の)denken(思考)と訳さずに、古くから日本人が用ゐ、馴染みのあることばをなるべく遣ひたく、Weltenを「世の」とし、denken は、動詞のかたちををそのまま用ゐてゐるシュタイナーに倣ひ、そのかたちが伝へる動きの感覚、アクティブな感覚を活かすべく、そのまま「考へる」としました。よつて、見慣れなく、聴き慣れない言ひ方ですが、「世の考へる」としました。
 
 

夏のこの季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
 
「考へる力」こそが、人を本来的に駆り立てる力なのに、その力が失はれてゐるのを感じる。
 
 
外の世の美しさが目や耳などを支配して、美をたつぷりと味はふこともできる反面、その情報量の多さに混乱してしまふ危険性があるのも、この季節の特徴かもしれない。
 
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、そのかはりに、もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、ものごとや人に沿つて考へることではなくて、ものごとや人について、手前勝手に想像してしまつたり、その想像にこころが支配されてしまつて、その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。


もの想ひは、めくるめくやうに、わたしのこころの中を巡り、にぶく輝き、「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、人は目覚めることができる。


けれども、もの想ひにふけることで、人は夢を見てゐるやうな、あるいは、眠り込むやうなありように陥つてしまふ。そんなありやうを、どう受け止めたらいいだらう。
 
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
 
世は、まがふことなく、秩序と法則に従つて時を生きてゐる。そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、すでに出会ふべき人に出会つてをり、すでにするべきことに向かつてをり、すでに生きるべき人生を生きてゐる。さう、見直してみないか。
 
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、この時期だからこそ、その「世の考へる」「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」に任せてみる。
 
 
夏のこの時期における、そのこころのモードチェンジは、自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまひ、見失はれたからこそ、来たる秋から冬にかけて、新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、からだをもつと動かしていくことを通して、感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
 
頭であれこれ考へるよりも、手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
 
その手足の動きこそが、「世の考へる」との親和性は高い。
 
 
それは感官を超えるものを見いだし、感じ始めることでもあり、理屈抜きで、この世のものといふもの、ことといふことをなりたたせてゐる基のところを垣間見ることでもある。 
 
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、また顕はなところも、よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
 
夏ならではのこころの練習として、ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、伝へられる考へ、それらは、こころに直接響いてくる。
 
 
小賢しく考へる必要がなく、それらのことばと考へが、こころに直接「訪れる」。その訪れるものを、「世の考へる」とここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで「いまの自分の生活、こころ模様そのものが記されてゐるぢやないか」と感じることがよくある。 
 
 
もの想ひから抜け出す道を、探りつつ、汗を流して稽古をしつつ、歩いていくことができる。
 
 

  
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 

posted by koji at 21:03 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遊びの遊びたるところ 〜ダンスカンパニー「チチカカコ」公演〜



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京都で、鈴村英理子さん率いるダンスカンパニーチチカカコの第一回公演『ともしび』。


「チチカカコ」は、乳飲み子を抱えたお母さんたちが始めたダンスカンパニーです。


蒸し暑い京都の街をくぐり抜けて、会場の京都芸術センターに辿り着きました。


しかし、4〜5歳の幼な子たち、小学生たち、母親たちが、舞台の上に現れ、ドラムの生演奏と共に公演が始まるやいなや、一気に、観てゐるわたしのいのちが甦つて来ます。


舞台の上で、幼い子どもたちから、遊びといふものの本質、遊びの遊びたるところが、顕れて来るのです。


踊らされてゐるのではなく、子どもたちの足元から、舞台の床から、大地から、「動きたい」「踊りたい」「遊びたい」、欲する力が沸き上がつて来るその瞬間。


その日が、三連続公演の最後だつたこともあつてか、幼な子も疲れてゐて当然、当たり前のやうに舞台の上で、動かなくなつたり、ふてくされてしまふ子もゐます。


しかし、見事にダンスとして造形された母親たちの動きの中で、母の背におんぶされ、腕に抱かれ、胸と胸を合はせ、あるとき、まるで、曇り空からお陽さまの光が差し込んできた時のやうに、元気一杯の遊びの精神が、喜びの微笑みが、再び、その子の全身に甦る。


それは、日常の中で、幼い子どもたちの様子として、よく見ることのできる光景ですが、その意図せぬあるがままの幼い子どものありやうが、見事に設へられた芸術の中で、浮き彫りにされたのです。


「芸術とは、高められた自然である」といふことを、目の当たりにした時、観てゐるわたしのこころが、なぜか激しく脈打ち始め、涙が溢れ出て来たのでした。


そして、母親の方々、おひとりおひとりの顔の表情、瞳の輝き、腕の動きが、とても美しく輝いてゐます。


母であること、女であることのふくよかさ、美しさと共に、おのおのひとりの人であることの輝き。


ダンスといふ芸術が引き出す愛のオーラの中で、幼な子たちと共に創り出す母なるものの精神をありありと観た稀有なる一時間でした。


また、HIDE さんによるドラムとパーカッション演奏。躍動に満ちつつ、繊細な、女性的でありつつ、深く太い男性性をもつ演奏。


その演奏が、この、母と子によつて生まれた新しい芸術を、舞台の上にすつくと立ち上がらせ、律動させ、時に鼓舞し、時に制御し、まるごとにいのちを吹き込んでゐたのです。


夏のはじめのひととき、この美しい、あまりに美しい公演を創り上げてくれた、幼な子たちとお母さんたち、スタッフの方々に、こころから感謝。


そして、このダンスカンパニーを率いてゐる英理子さんがもつてゐる精神に、脱帽なのです。


ありがたうございました。


京の夏のはじまりの一日(ひとひ)の出来事。忘れては想ひ起こし、忘れては想ひ起こす、そんな夢の中の星の輝きのやうな時間になるだらうなあ・・・。


その時は過ぎ去つて行つても、舞台芸術の魔法は、静かに、こころの奥底に流れ続けます。


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2021年07月04日

日曜の朝の精神の水浴び



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セザンヌ「大水浴」



わたしのからだの中に、こころと精神があるのではなく、からだを包んでゐるのがこころであり、そのこころを大きく超えて、世の隅々まで、世の果てまで広がり渡つてゐるのがわたしの精神です。


メディテーションの繰り返しによつて、そのことに実に親しむやうになります。


光の息遣ひによつて、そのことを実に感覚することができます。


言語造形といふ芸術によつても、そのことを生きることができます。


人は、からだを越えてこころを感じ得たとき、さらには、こころを越えて精神に触れ得たとき、みづからの桎梏から自由になり、愛と自由が流れてゐる精神の川にて、水浴びをすることができます。




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2021年07月03日

お金を得ること以上のたいせつな何か



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先日は、自分がどれだけ他人様に支へられて生かしてもらつてゐるかを感じることができた、宝物のやうな一日でした。


長年、言語造形といふ芸術を、企業に勤めてをられる方々に紹介する仕事をさせてもらつてゐます。ひと月に二・三度づつしながら、もう二十年近くになると思ひます。


芸術ですので、ひたすらに、その人その人のことばの感官に働きかけ、感覚の育みを促すやうなスタイルで、ずつと、言語造形といふことばを話す芸術をその企業の方々と分かち合つて来たのです。


しかし、昨日は、ここ一年半のコロナウイルス禍による影響でなさざるをえないオンラインによる時間となつたのですが、そこで、古代ギリシャ時代に行はれてゐた五種の体育についての講義をさせてもらつたのです。


それは、からだの行為による無意識の領域にまで働きかける学びですので、その講義の質も、けだし、密(ひめ)やかな教へ、オクルトな教へにならざるをえないものでした。


それは、宙に浮いたやうなものではなく、徹底して、からだにまで降りるリアリティーのあることばで語られる必要のある事柄でした。


この状況下で、なんとか、企業における仕事に毎日勤しんでをられる方々が、このやうなことばをどう受け止めて下さるだらうか・・・。そんな危惧をわたしは勝手に抱いてゐたのでした。


わたしが語り終へた後、口々に皆さんが仰られたことばに、わたしはかなり驚きました。


この十数年間、やつてきた言語造形にこんな深みのある思想・精神が裏打ちされてゐたことを、今日、知ることができたと感じてゐる、嬉しい、と。


芸術に対するこのやうな信頼。精神に対するこのやうな開かれたこころ。


これは、かういふ場を創り続け、維持し続けるために、意識をもつて担当して来た方の、そして、社会の真っ只中を生きつつも、このやうな芸術的な営みにこころを開き続けて来られた方々のお蔭でしかありません。


人が、社会の中で、お金を得ること以外のたいせつな何かに長い年月の間、意を注ぎ続けることの難しさを思ひますと、わたしは、本当に、本当に、こころから感嘆の念ひに打たれ、そして、わたしも、また、その人と人との関はりの中で生かされていることを感じるのです。


また、写真のやうな日が戻つて来て、からだまるごとで、こころまるごとで、声を発することのできる日が来ることをこころから願ひます。



posted by koji at 17:18 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月02日

多血質で訓んでみる「学問のすすめ」福澤諭吉作






文学作品を、その文体から、四つの内のふさはしい気質をもつて声に出してみました。(動画をコメント欄に貼つてゐます)


文体における気質の顕れを、わたしたち訓み手は、みづからのからだの用ゐ方、足の運び方をもつて表現できるのではないか。


まづは、そんな実験的な試みで、第一回目は、福沢諭吉の「学問のすすめ」の冒頭部分です。


書き手の内にて働いてゐた気質を、そのやうに訓み手が引き上げることによつて、ことばの響きと調べが一気に活き活きと息づいて来はしないでせうか。


※関連動画 『憂鬱質で訓んでみる「高瀬舟」森鷗外作』https://youtu.be/85OblFAtSt8

2021年06月30日

言語造形と演劇芸術のための学校



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いま、人が人であり続けるために、言語造形といふ芸術を生きる人、アントロポゾフィーといふ精神の学を生きる人が必要だと、わたしは考へ、感じてゐます。


ですので、アントロポゾフィーを学びつつ、言語造形を天職とする人を産み出す学校が、この日本にも必要です。


精神の縁(えにし)とともにあなた自身を見いだすべく、予感しつつ、探し求める人よ。(『こころのこよみ 第13週』より)


始めませう。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


語るといふ芸術。演じるといふ芸術。詠ふといふ芸術。


言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。


練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。


精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。


また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。


そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。


これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。


日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。


ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。


週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。


この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。


実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。


すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このやうな学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめませう。


これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。


「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志



●就学期間:

五年間

毎週平日4日間/年間45週

春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み


●時間:

午後6時〜午後8時


●場所:

ことばの家 諏訪 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
もしくは、日本中、この道を歩んで行きたい人がゐるなら、どこでも。


●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)


●授業料:


入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関はらず。合宿などの費用別途)


●授業内容:

言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他


●お申し込み:

履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添へて、メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 info@kotobanoie.net
〒558-0053 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20

後日、面接日をお知らせいたします。



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2021年06月28日

こころのこよみ(第13週)〜金色の輝きの中、歌ひ、踊る〜 



大阪市住吉区の生根神社の夏越の大祓ひ



そして、わたしはある、感官の高みに。

ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、

精神の火の世から、

神々のまことのことばが。

「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、

あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」


 
Und bin ich in den Sinneshohen,
So flammt in meinen Seelentiefen
Aus Geistes Feuerwelten
Der Gotter Wahrheitswort:
In Geistesgrunden suche ahnend     
Dich geistverwandt zu finden.



これから始まる夏、草木の緑、色とりどりの花々、空の青、太陽の光と熱、活き活きと働いてゐるその自然のいちいちから、客観的な精神が人に語りかけてくる。


一行目の「わたしはある、感官の高みに」とは、ものといふもの、そのいちいちを、じつくりと見、聴き、触れ、味はふことを通して、普段見過ごし、聞き過ごしてゐるものが、よりものものしく、より明らかに、より動きを伴つて、見えてくる、聴こえてくるといふことと通じてゐる。


感官の高み。


それは、こころの細やかな密やかな深まりとして、育まれるもの。


自然のいちいちに静かに眼差しを向け、その息遣ひに耳を傾けてみよう。


その密やかさのうちに、ことばが燃え上がるやうに響いてくる。こころの深みにおいて、精神の火の世から、神々のまことのことばが。


 「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
  あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」


1922年ドルナッハでの講演録『四季の宇宙的イマジネーション』(水声社)を紐解いてみると、夏に、そのやうな、我がこころの深みに燃え上がることばのなんたるかが、誰によつて話されてゐるかが、シュタイナーによつて指して説かれてゐるのを読むことができる。


まことのことばを燃えるやうに人に語りかけてゐる神々。客観的な精神。その外なる精神は、この季節、金色に輝いてゐる。わたしたち人に、燃え立つ炎のやうに語りかけてゐる金色の精神。


この夏の外なる精神の方々が発する、金色の輝きを浴びるわたしたちは、冬、クリスマスの頃、みずからのこころの奥底、精神の基に、内なる金色を輝かせることができよう。


来たる冬に、精神に縁(えにし)のある、金色に輝く己れみづからをしつかりと見いだすことができよう。


夏のいまは、外なる金色の光に応じるやうに、眼差しを注ぎ、耳を傾け、さらには、踊り、歌を歌ひながら、精神の縁(えにし)・朋とともに、音楽と詩を奏でることで、冬に見いだすものを予感しつつ、探し求めるのだ。


金色の精神が語ることばを聴くのだ。




そして、わたしはある、感官の高みに。
ならば、燃え上がる、我がこころの深みにおいて、
精神の火の世から、
神々のまことのことばが。
「精神の基にて、予感しつつ、探し求めよ、
あなたを精神の縁(えにし)とともに見いだすべく」





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2021年06月27日

アントロポゾフィーハウスからのオンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」



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青森県三戸郡新郷村大字戸来のキリストの墓と言はれてゐるところ



先週、第一回目の木曜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」を開催させていただきました。
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このクラスを始めることにおいても、わたしたちアントロポゾフィーハウスが欲してゐますことは、アントロポゾフィーをまぎれなく求める人と出会ふことです。
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たとへ、「アントロポゾフィー」といふ名は知らなかつたとしても、こころの内の深みにおいて、アントロポゾフィーを求めてゐる人は、必ず、ゐるのです。
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ルードルフ・シュタイナーがこの書『いかにして人が高い世を知るにいたるか』で指し示してゐますのは、その人がいかにして自由になりゆくか、その人がいかにしてその人にますますなりゆくか、といふことに対する親しいアドバイスです。
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わたしが、ますます、わたしになりゆく。
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そのことを求めてゐる人は、ゐるはずです。
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そして、それが、アントロポゾフィーの営みです。
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昨日のクラスには、そのことを求める、まこと、フレッシュな、健やかなこころとこころが集ひ、ことばに出しては言はれませんでしたが、密(ひめ)やかなヨハネの祝祭でありました。
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わたしたちには、アントロポゾフィーをまこと、学ぶ場が要ります。アントロポゾフィーを通して人と出会ふ場が要ります。アントロポゾフィーを通してこそ創ることのできる祝祭が要ります。
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アントロポゾフィー運動とは精神から創る文化運動なのだといふことを明確に意識する集まり。
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アントロポゾフィーハウスは、そのための場を創らうとする運動体です。
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「いかにして人が高い世を知るにいたるか」オンラインクラス、
日曜、木曜、共に夜の8時から9時まで、毎週、行つてゐます。
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アントロポゾフィーを求めてゐる人の出会ひの場でもあります。
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いつからでも、お仲間にお入りください。
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●参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円
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御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  
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もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。
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ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。
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一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。
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●お振り込み  
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// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  
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// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    
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お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    
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鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用ゐます。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  
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●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/



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※写真は、青森県三戸郡新郷村大字戸来字野月にあるキリストの墓と言はれてゐるところ

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2021年06月24日

こころのこよみ(第12週)ヨハネ祭の調べ






世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つやうにと。

わたしは己れから離れ、

ただ信じつつ、みづからを探し求める、

世の光と世の熱の内に。



Johanni-Stimmung

Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen  
Des Eigenlebens Götterkräfte    
Zum Weltenfluge zu entbinden; 
Mich selber zu verlassen, 
Vertrauend nur mich suchend   
In Weltenlicht und Weltenwärme.        


                    
【子どもたちの歌声】


今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。


キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。人といふものを導く神は、太陽にをられる。その信仰が人びとの生活を支へてゐた。太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、その祭りを執り行つてゐた。


洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、橋渡しをした人であつた。彼は、夏に生まれたといふだけでなく、いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、まさしく、炎のやうな情熱をもつて、ヨルダン川のほとりにおいて、全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 

 
汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり(マタイ3.2)


そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。


わが後に来たる者は我に勝れり、我よりさきにありし故なり
(ヨハネ1.15)


我は水にて汝らに洗礼を施す、されど我よりも力ある者きたらん、我はそのくつの紐を解くにも足らず。彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん (ルカ3.16)


彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし(ヨハネ3.30)


ヨハネはイエスに洗礼を授け、イエスのこころとからだに、太陽の精神であるキリストが降り来たつた。それは、太陽の精神が、その高みから降りて、地といふ深みへと降りたといふことであり、ひとりひとりの人の内へと降り、ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、その大いなる始まりでもあつた。


「内に生きる神々の力」とは、人の内にこそ生きようとしてゐる、キリストのこころざし(Christ Impuls)だ。ヨハネがそのことに仕へ、みづからを恣意なく捧げたことが、四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。そのことをわたしたちは実感できるだらうか。


しかし、シュタイナーは、その実感のためには、ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言つてゐる。みづからの内において、キリストがあられるのを感じることは、おのづからは生じない。人が世に生きるにおいて、みづからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己れから求めない限りは、「内に生きる神々の力」という実感は生まれ得ない。


ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。それは、この世を離れるのではなく、この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の求めることでもある。


この夏の季節、地球の精神・キリストは息を吐くかのやうに、みづからのからだである地球から離れ、世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。わたしたち人も、キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、精神である「みづから」を見いだすことができる。


生活の中で、わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだらうか。からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、それらの動きの中でこそ、からだを一杯使ふことによつてこそ、からだから離れることができ、こころを一杯使ふことによつてこそ、こころから離れることができ、「世の光と世の熱の内に」みづからといふ精神を見いだすことができる。


そして、この夏において、意識的に、子どもに、習ふこと。わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。


ヨハネ祭のとき、古代の人々は、鳥たちが歌ふことから学びつつ、その歌声を人間的に洗練させて音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。


鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。


このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、己れから離れ、いまだ天に見守られてゐる<わたし>を見いだすことができた。


いまも、子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のやうな意識のありやうを生きてゐる。そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。


そして、わたしたちが己れから離れ、大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、天が、ひとりひとりの<わたし>、「内に生きる神々の力」を見守つてくれてゐるのを感じることができる。


そして、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに天が響き返してくれてゐるのを聴き取ることができる。


さらには、この世の様々な状況に対応していく道を、きつと、見いだしていくことができる。


とりわけ、芸術行為は、そのことを実感させてくれる。


夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。


ヨハネ祭の調べ。


それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、みづからといふ精神を見いだすこと。


そこから、地上的なキリスト教ではなく、夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。


そのことがキリスト以降、改められた夏の祭りとしての、ヨハネ祭の調べだと感じる。



「ヨハネ祭の調べ」

世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己れから離れ、
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
世の光と世の熱の内に。




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「こころのこよみ」の朗唱を始めました 第12週「ヨハネ祭の調べ」より






鈴木一博さんが、ご自身が訳された「こころのこよみ」に以下の文をしたためてをられます。


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この『こよみ』という作品は、作者もみずから言っているとおり、ほかの著作と同じく、顕れ、響く精神、こころの、いわば「翻訳」です。


よって、それを読むことは、そのことばが指す顕れ、響きに耳をすまし、それをそれなりのことばのつくりで呼ぶことです。


それには呼ぶ人のアクティブな働きが要りますし、呼ぶ人の自由が息づいてしかるべきです。


もちろん、麗しいことばや難しいことばでする必要はありませんし、また声にまで出さなくてもそれはできます。


しかしまた声の響きをもって、それができたらなによりでしょう。


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『アントロポゾフィーのこころのこよみ』を拙訳したものを朗唱して、you tube に上げてみることにしました。2021年6月24日のヨハネ祭の週から始めます。続けばいいのですが・・・((^^ゞ)


下手な翻訳、拙ない朗唱にもかかはらず、わたし自身も、また、ひとりの人として、アクティブな働きだけはもつて、なんとか、自由を息づかせつつ、週に、年に、大空に、まるごとの世に、呼びかけ続けたいと思ひます。


これからの一週、一週の、皆さんのこころのこよみとなることを希つてゐます。




2021年06月23日

木曜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」



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明日6/24より、木曜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」を始めさせていただきます。


外なる世がこれほどに混乱してゐる今だからこそ、わたしたちひとりひとりの内なる確かな一点を育むことを目指して、新しくひとつの「自由なる精神の高き学び舎」を創り、営んで行きたいと念ひます。


この本を読み続け、読み重ねることから、やがて、メディテーションの実践へと意欲も深まつて来ます。


そのメディテーションにおいて感覚される、感官を凌ぐものごとが、芸術実践において感覚されることと軌を一にしてゐます。


精神・靈(ひ)からなる線と形、そして精神・靈(ひ)からの色あひの明暗・・・。


それらを感覚することの積み重なりが、目に見える日々の暮らしの奥に息づき、ありありと働いてゐる精神・靈(ひ)への信頼を育てることになります。


その精神・靈(ひ)との交はりが、日々の暮らしのちょつとしたこと、些細なことにも、浸みて感じられるやうになります。


そのやうに日々の暮らしが織りなされてゆくことで、わたしたちは、からだを超えた、こころをも超えた、生命観・人生観・世界観を自分の内に「確かに、安らかに」築くことへと繋がつてゆくのです。


その精神的な生き方こそを、ルードルフ・シュタイナーは人々に伝へようとしました。


アントロポゾフィーハウスが世にもたらさうとしてゐますことは、この、メディテーションと芸術実践といふふたつの学びの軸を現代を生きる多くの方々と分かち合つてゆくことです。


このオンラインクラスが、皆様にとつての、その学びの始まりとなりますやう、希ひ、祈りつつ・・・。


講師: 諏訪耕志



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●日程
2021年6月24日・ヨハネ祭の夜から毎週木曜日 午後8時〜9時

6月24日、7月1日、7月8日、7月15日、
7月29日、8月5日、8月19日、8月26日、
9月2日、9月9日、9月16日、9月30日、

以降も、毎週木曜日にクラスを行ひます。


●参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  


もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。


一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用ゐます。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひいたします。



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2021年06月21日

2021年6月〜7月 二週間に一度やつてゐます オンラインクラス『普遍人間学』



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人を、からだ、こころ、精神、三つの側面から見てとつてゆくこの『普遍人間学』。


今回の金曜夜のクラスでは、第九講より、精神の観点より、教師がことばを話すといふこと、語るといふことについて、アントロポゾフィーの人間学からの深い見識が語られます。


土曜朝クラスにおいては、これまでは、こころの観点、精神の観点から、人を見てとつてきましたが、いよいよ第十講より、からだといふ側面から人を見てとり始めます。


目に見える次元を目に見えない遠大な次元と結びつけるアントロポゾフィーならではの人間学です。その人間学を学ぶためには、芸術を生きる感覚が、大変重要になつてきます。



●金曜夜クラス 7時半〜9時半

6月25日 「人の考へ方はことばの話し方に表はれる」(第九講)

7月9日 「子どもへの話しかけ方における三つのこと」(第九講)

7月23日 「世は善く、美しく、まことなるところである」(第九講)



●土曜朝クラス 10時〜12時

6月26日  「人のからだ その三分節」(第十講)

7月10日 「芸術的に人のからだを観る」(第十講)

7月24日 「科学としての教育から、芸術としての教育へ」(第十講)




●講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/


●参加費    初回体験参加 3500円、 3回連続 9000円  


連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。   


またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。   なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を用いてゐます。可能ならば、講座の前にでも、あとにでも、ご自身で読んでいただくことで、学びの主体性も高まりますので、ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌 しかし、本がなくても、講義をまづは聴くことから始められても、全く大丈夫ですよ。本をお求めの際は、「ことばの家 諏訪」にご連絡ください。  


ありがたうございます。   


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/



以下のページに、参加して下さつてゐる皆さんのお声を収録してゐる動画を貼つてゐます。どうぞ、ご覧ください。
アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
オンラインクラス
https://kotobanoie.net/%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%9d%e3%82%be%e3%83%95%e3%82%a3%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%82%aa%e3%83%b3%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%b3/


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父の役割・・・



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昨日、父の日だといふことで、娘たちからバラの花束をもらひました。


父であることを毎日させてもらつてゐまして、つくづく感じ、考へることなのですが、思春期以降の若者にとつて、父といふ存在は「精神」を示しうるものなんだな、といふことです。


あくまでも「示し『うる』」なのですが・・・😅


精神とは、現代において、その人が求めなければ、決してその人を訪れないもの、訪れられないものであるといふことです。


父親とは、思春期以降の子どもたち、若い人たちが、こころから父親を求める時にこそ、彼らの前に現れ、彼らの内に働きかけうる存在である、さう感じるのです。


だから、彼らが求めてゐない時には、出る幕無し😅


それでいいのだなあ、と惟ふのです。


精神とは、その人が求めればこそ、その人を訪れ、その人を自由にするべく、働きかけるものです。




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2021年06月17日

ヨハネ祭と阿波踊りとアントロポゾフィー



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二十年ほど前、四国の徳島に、夏、阿波踊りをしに通つてゐた時があり、夏が近づいて来ると、毎年、想ひ起こすのです。


徳島の中心地は、夜が更けゆくほどに、街のあちらこちらで繰り広げられる阿波踊りによつて、だんだんとカーニバル化し、熱狂的になつて来るのでした。


熱狂的になると言ひましても、毎年繰り返されてゐるその熱狂は、祭りを荷ふ方々の永年の修練によつて、カオスに陥ることなく、健やかに保たれてゐるのでした。


たまたま、踊りが繰り広げられてゐる道の真ん中で、有名連で踊つてゐるひとりの中年の男性に踊りのレッスンをしてもらつたことをよく憶えてゐます。


彼のアドバイスは、短く、的確で、まづ、太鼓と鐘の響き、笛の音に注意深く耳を傾けること、そして肩や腕で調子をとるのではなく、それら一連の音が繰りなすリズム、勢ひと間(ま)を脚で稼ぐこと、つまり、阿波踊りは足から始まる、といふことでした。


そのとき、腰から下はどつしりと力強く安定して下に落ち、大地に沿つてゐますが、両足は一足ごとに新たに新たに活き活きとリズムをとりつつ、膝の力を緩めつつ、ステップを踏んでゐます。


一方、上半身はできうる限り力を抜いて、お腹から胸へかけて広々と、そして両腕はまるで天から降りてくる何かを迎へ入れるかのやうに、晴れ晴れと上へ差し上げます。


コーチをして下さつたその方の両腕はその指先に至るまでどこまでも優美なものでした。


天を迎へ入れるかのやうな柔らかな上半身と、そして大地に力強く沿ひながらも生命のリズムを刻む下半身をつなぐ要(かなめ)の一点が、やはり、腰にありつつも、頭は肩の上に静かに安らいでゐることも、汗だくになつて踊りながら感じ取れたことでした。


「わしも三十年踊つとるけど、まだまだ、うまあ踊れんわ」とその方は仰つてゐました。


みづからの意識しがたいところ、眠りの意識に領されてゐるからだに、みづからの意識をもつてみづから稽古をつけて行く訳ですから、それは、まさしく、わたしにとつては、アントロポゾフィーの実践練習、言語造形の稽古、そのものでした。


芸術実践において、このからだの三分節をリアルに感覚することが、大事な鍵なのです。


祭りにおいて人が舞ひ踊るといふことと、夏の一日、高き神々と繋がることへと人々が古来向かつてゐたといふこととの意味を、ヨハネ祭が近づいてゐる、いまも、想ひます。



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7/31(土)夏の青森八戸 言語造形とオイリュトミー&アントロポゾフィーの集ひ



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古代において、ことばを話すこと、その営みは、そもそも、芸術でありました。


語るといふこと、聴くといふこと、語り合ひ、聴き合ふといふこと、それは、人と人との出会ひを大切に深めて行くための、いまといふ時を大切に生きるための、最も基となる芸術行為なのでした。


ことばといふものは、人が動物的存在としてではなく、人として生きて行くための、最も基となる芸術行為だつたのです。


そのことが忘れ去られてしまつてから、随分と時が経ちました。


わたしたちは、いま、新しく、ことばが芸術であることを想ひ起こさうと思ひます。


ことばの扱ひを丁寧に、かつ、意欲的に育めばこそ、人は、ことばと共に、みづからのこころを育んでゐることに気づきます。


ことばに、その人のこころと精神が顕れて来ます。ことばに、その人自身が顕れて来ます。ことばとは、人そのものなのです。


そのやうな、ことばと自分自身との関係を見つめ直し、育て直すためには、芸術が必要です。ことばを発する芸術が必要です。


その芸術が、言語造形です。


そして、言語造形を通して発せられることばを、目に見える人の姿で表す芸術、それが、オイリュトミーです。


この夏から、ウイルス禍など吹き飛ばすかのやうに、言語造形とオイリュトミーを通して、ことばとの新しい関係性を創る精神からの文化づくりを、青森にて新しく始めさせていただきます。


また、わたくし諏訪による昔語りもお聴きいただけたらと思つてゐます。


かういふ時だからこそ、ことばの活き活きとした力を浴びにお越しになられませんか。




●9時半〜10時 子ども(小学高学年)たちの言語造形「音読に挑戦!」


●10時〜11時半 大人たちの言語造形ワークショップ「シュタイナー教育におけることばの話し方」


●11時半〜13時 大人たちとのアントロポゾフィー講座
 「7年ごとの人の成長」



わたしたち大人が話し、語ることばのあり方が、子どもたちのからだとこころに深く働きかけて行きます。そして、子どもたちの将来の人生を密かに支へて行きます。


ことばとは、民族が生きる国を創りなす精神なのです。言霊なのです。日本語は、その言霊をいまだ多く、深く、湛えてゐます。


シュタイナーから生まれた言語造形といふことばの芸術を通して、日本語がそもそも秘めてゐる精神性、芸術性を見いだしていきませんか。


ことばとは、芸術です。


ことばとは、人そのものです。


そんな、ことばを、からだまるごとで学びゆく言語造形のクラス、始めて行きませんか。



講師: 
諏訪耕志(言語造形&アントロポゾフィー講義)https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


越中奉(オイリュトミー)


場所: 青森県八戸市内
(お申し込み下さつた方に詳しくお伝へいたします)


参加費: ドネーション制


お問ひ合はせ・お申し込み:
佐々木 千晶さん aibaru0809@gmail.com




posted by koji at 17:57 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

7/27(火)夏の青森 言語造形の集ひ



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古代において、ことばを話すこと、その営みは、そもそも、芸術でありました。


語るといふこと、聴くといふこと、語り合ひ、聴き合ふといふこと、それは、人と人との出会ひを大切に深めて行くための、いまといふ時を大切に生きるための、最も基となる芸術行為なのでした。


ことばといふものは、人が動物的存在としてではなく、人として生きて行くための、最も基となる芸術行為だつたのです。


そのことが忘れ去られてしまつてから、随分と時が経ちました。


わたしたちは、いま、新しく、ことばが芸術であることを想ひ起こさうと思ひます。


ことばの扱ひを丁寧に、かつ、意欲的に育めばこそ、人は、ことばと共に、みづからのこころを育んでゐることに気づきます。


ことばに、その人のこころと精神が顕れて来ます。ことばに、その人自身が顕れて来ます。ことばとは、人そのものなのです。


そのやうな、ことばと自分自身との関係を見つめ直し、育て直すためには、芸術が必要です。ことばを発する芸術が必要です。


その芸術が、言語造形です。


この夏から、ウイルス禍など吹き飛ばすかのやうに、言語造形を通して、ことばとの新しい関係性を創る精神からの文化づくりを、青森にて新しく始めさせていただきます。


また、わたくし諏訪による昔語りもお聴きいただけたらと思つてゐます。


かういふ時だからこそ、ことばの活き活きとした力を浴びにお越しになられませんか。




●7月27日(火)13時から15時まで
青森市荒川市民センターにて

●13時〜15時 言語造形ワークショップ
「シュタイナー教育におけることばの話し方」
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●15時〜15時20分 子どもたちと大人の方々への昔話の時間
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わたしたち大人が話し、語ることばのあり方が、子どもたちのからだとこころに深く働きかけて行きます。そして、子どもたちの将来の人生を密かに支へて行きます。
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ことばとは、民族が生きる国を創りなす精神なのです。言霊なのです。日本語は、その言霊をいまだ多く、深く、湛えてゐます。
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シュタイナーから生まれた言語造形といふことばの芸術を通して、日本語がそもそも秘めてゐる精神性、芸術性を見いだしていきませんか。
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ことばとは、芸術です。
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ことばとは、人そのものです。
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そんな、ことばを、からだまるごとで学びゆく言語造形のクラス、始めて行きませんか。
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講師: 
諏訪耕志(言語造形)https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
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場所: 青森市荒川市民センター2階会議室 https://www.city.aomori.aomori.jp/.../kouminkan/07.html...
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託児あり(有料 詳細はお問ひ合はせ下さい)
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参加費: ドネーション制
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お問ひ合はせ・お申し込み 五十嵐寛子さん suedi_bobbdi_boo@yahoo.co.jp
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連絡係を受け持つて下さる五十嵐さんからのメッセージをご紹介します。
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私の苦手なことは、話すこと。伝えたいことが、伝えられなくて苦手です。
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昨年末、諏訪さんの読み聞かせに出会いました。
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ことばが体に響く。見えない物語が見えてくる。見えない物語に引き込まれる子どもの姿。ことばってこんなに体全体に伝わるんだ!と思いました。
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そして、諏訪さんの言語造形ワークショップに参加しました。
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ことばを声に出して、私のどこかが「ぽっ!」と開く感じを味わいました。すごく心地のよい「ぽっ!」です。
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あの感じを深めてみたい。
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他の方にも体感して頂きたい。
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そんな気持ちです。
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一緒に体感しませんか。
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posted by koji at 17:51 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月14日

6/24からの木曜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」のご案内



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この本は、いにしへからずつと伝へられてきた道筋で、人の内なるもの、こころと精神をみづからで仕立てて行くための導きの書です。


他の誰かに寄りかかるのではなく、あくまでも、みづからで、こつこつと練習を続けて行くための手引きのやうな書です。
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しかし、特に、この書で大切にされてゐるのが、この書の語り口のあり方です。


内なるものを仕立てるための練習をするに際して、この書は、「かうすべき」「ああすべき」「かうしなければならない」「ああしなければならない」といふやうな言ひ方は決してしません。


ただ、「あなたが、こつこつと、根気をもつて練習を続ければ、きつと、かうなりゆきます。ああなりゆきます」といふ、自然法則を述べるのにも似た語り口です。


そして、ここが大切なところなのですが、根気をもつて練習を続けて行くとは、まづもつて、この書を「読み続けて行くこと」「読み重ねて行くこと」なのです。


さうすることで、読む人の内に、内なる練習へと取り組んでいく意欲がおのづから沸き上がつて来るのを待つのです。


人は、とかく、「練習するんだ」「練習しなければならない」とばかり思ひ込み過ぎて、結局は練習できない自分、練習を継続できない自分に失望してしまひ、逆に、この書を投げ出してしまふことになるのです。


まづもつて、謙虚なこころもちで、この書を「読み続ける」ことです。


それは、最初の意欲の育みです。理解することを焦りません。この書に記されてゐること、アントロポゾフィーが述べてゐることを理解するのは、何十年かけてもいいやうなものなのですから。


このオンラインクラスは、その「読み続けること」を励まし、促すための集ひです。


そして、そこから、内なる密(ひめ)やかなこころと精神の仕事に共に取り組んでゆくためのお誘ひです。


講師: 諏訪耕志



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●日程
2021年6月24日・ヨハネ祭の夜から毎週木曜日 午後8時〜9時

6月24日、7月1日、7月8日、7月15日、
7月29日、8月5日、8月19日、8月26日、
9月2日、9月9日、9月16日、9月30日、

以降も、毎週木曜日にクラスを行ひます。


●参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  


もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。


一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひいたします。



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2021年06月12日

「自由なる精神の高き学び舎」としてのアントロポゾフィーハウス



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これは、とても長い文章です。しかし、〈わたし〉からの試みです。精神の海へのわたしなりのダイヴィングでもあります。この長文、もしお付き合ひいただけましたならば、これほどの喜びはありません。 諏訪耕志



『アントロポゾフィー運動の四つ目の次第 
「自由なる精神の高き学び舎」としての
  アントロポゾフィーハウス 』



ここ日本においても、アントロポゾフィー運動といふ生きた精神の運動は、まさに、生きてゐるものであるがゆゑに、四つの次第を持ちます。


それは、人が、フィジカルなからだ、エーテルのからだ、アストラールのからだ、そして〈わたし〉を持つことと同じです。



@【暮らしの中に新しいスタイル、かたちをもたらすこと】

これは、アントロポゾフィー運動において、人のフィジカルなからだの営みにあたります。

人は、芸術ワークショップやシュタイナー教育やアントロポゾフィーについての講義を受けることによつて、または、シュタイナー教育に関する解説書や案内書などを読むことによつて、暮らしの中に新しい息吹きが吹き込まれ、何か新しい暮らしの仕方が始まる可能性が自分自身のこころに宿り始めることを感じます。

そのための仕事をすることが、アントロポゾフィー運動の一つ目の次第です。


A【ルードルフ・シュタイナーのことばに学ぶ】

この二つ目の次第は、翻訳と言へども、シュタイナーその人のことばに触れて、こころがまるで水を得た魚のやうに甦つて来ることで、それは人のエーテルのからだの営みにあたります。

ひとりでする読書から、仲間と共にする読書会や研究会を営むことへ、さらには、自分自身が講義をすることへと深く確かにこの道へと歩を進める人も出てくることでせう。

その一連の流れを促すこと、それが、アントロポゾフィー運動の二つ目の次第です。



B【グループを作り、世に働きかけてゆく】

この三つ目の次第において、まさにアントロポゾフィー運動も人々の目に見える公けの形を持つやうになる、と言つてもいいかもしれません。

たとへば、シュタイナー学校を創ることや、医療や農業などの分野における法人格を持つた社会活動、または、芸術団体、芸術学校を創り、世に芸術的に、精神的に、宗教的に、かつ、科学的に、「人であることの意識」を守り育んで行くことの重要性を訴へるにいたります。

この三つ目の次第では、グループとしての意志と情と考へがものを言ふやうになり、そこから、おのづと、グループ内とグループ外といふ、内と外のやりとりがなされるやうになります。これは、人のアストラールのからだの営みにあたります。

社会の中で、より多くの人々と関はりつつ、アントロポゾフィー運動を繰り出して行く次第です。

この三つ目の次第において、人ひとりひとりが生きる活き活きとした組織づくり、外の社会との有機的な交流を創り出し、育て上げて行くことで、このアントロポゾフィー運動は一応の完成をみることができたと思ふこともできるのかもしれません。

しかし、アントロポゾフィー運動は、この時代の課題として、はるかに、この三つ目の次第を超えて、より深い次元と射程と淵源を見据ゑてゐるのです。



C【メディテーションと芸術実践を重ねることで、世により強く深く確かに働きかけてゆく】

この四つ目の次第において、アントロポゾフィー運動は、その運動の源の泉を持つにいたります。

1923年のクリスマスの集ひにおいて、ルードルフ・シュタイナーは、この四つ目の次第を地上に打ち樹てるべく、「普遍アントロポゾフィー協会」を新しく創り、その真ん中に「精神科学自由大学 Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft」を、まさに精神からの生きものとして生み出しました。その「精神科学自由大学」でなされるのは、アントロポゾフィー運動の代表者、責任者として、ひとりひとりが世の中に立つことができるやうに、メディテーションと芸術実践・学問研究などを通して、密(ひめ)やかな学びからの稔りを、ひとりひとりの内に生み出すことでありました。

この次第は、人の〈わたし〉の営みにあたります。

ですので、この四つ目の次第が真に息づいてこそ、この運動は、初めて、「人であることの意識」であるアントロポゾフィーを育む真の運動体としてなりたちえるのです。

三つ目の次第までですと、確かに、「地に足の着いた活動」と称しつつ、唯物観に満ちた現代風の雰囲気や成功感・達成感は得られる可能性もあるのかもしれませんが、人であることの意識を育む精神からの運動体にはなりえず、肝心要のシュタイナーといふ人を通してこの世に贈られた高い志から、遠く離れたものしか生まれないことは否めないのです。さういふ、シュタイナーの持つてゐた素志から離れたものがあつてももちろんいいのです。しかし、その志をこそ大切に受け継ぐのだといふ方向性はなんとしても守りたいと思ふのです。

だからこそ、シュタイナーは、密やかな学びを集中的に営む四つ目の次第をアントロポゾフィー運動の中心の仕事として、その課題に据ゑたのです。

しかし、約100年前に打ち樹てられたこの「精神科学自由大学」は、わずか、設立から半年あまりで、シュタイナーの病気、およびその死によつて、実質上の命を失つてしまつたのではないかと、わたしは考へてゐます。

いま、わたしは、ルードルフ・シュタイナーの精神を、まこと、受け止め、深め、より前進させて行くためには、既存の「精神科学自由大学」といふ組織のありやうから、より自由になり、しかし、それゆゑに、精神への責任を自覚、自戒しつつ、ひとりひとりの精神からの発意で、おのおの、この四つ目の次第にあたる生きた活動を始めて行く時が来てゐるやうに思へてなりません。

そこで、、わたしは、まづ、みづから始めるこの四つ目の次第の営みを「アントロポゾフィーハウス」と名付け、これは、物理的な場を持たない、どこにでも、志を持つ人と人とが力を合はせるところであるなら、その時その場で生まれる、アントロポゾフィーからの仕事をなす運動体としました。

この「アントロポゾフィーハウス」による仕事の、その中心課題は、メディテーションと芸術実践を重ねる「自由なる精神の高き学び舎」として精神の生きものへと成長していくこと、そして、そこから、日本の様々な地域において、アントロポゾフィーの仕事を、一つ目、二つ目、三つ目の次第において実際に創つて行くこと、して行くことです。

「精神科学自由大学」といふどこか堅苦しく杓子定規で、権威主義的な匂ひも漂ひかねないその名称を、より我が国のことばの調べに沿ふやうに「自由なる精神の高き学び舎」とわたしは呼んでゐます。

この四つ目の次第が生まれ、育ちゆくことによつてこそ、一つ目、二つ目、そして三つ目の次第におけるアントロポゾフィーからの仕事が、より力強いものになることは間違ひありません。

四つ目の次第に進みたい、そしてそこからの働きを持つて世に働きかけて行きたい、と明らかに意識し、こころから希む人がゐるのなら、その人と共に、この密やかな仕事を育んで行きたいと念ひます。

わたしは、この四つ目の次第を、「自由なる精神の高き学び舎」を内包する「アントロポゾフィーハウス」の営みとして、少しづつ進めて行きます。



posted by koji at 22:34 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第11週)〜白日の下の美しさ〜



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この、陽の時に、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 
 そして、世の<わたし>の内に、

 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.    
 
 
 
 
 
「世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
 
この、陽の時には、美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
 
 
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。
 
 
その晒されたものがなんであれ、人はそれを経験し、生きなければならない。
 
 
善と悪、美と醜、真と偽、喜びと悲しみ、それぞれがひとつのもののうらおもてだといふこと。
 
 
そのやうな、のつぴきならなさが、「世の美しさ」として感じられるだらうか。そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、その深みを見てとることができるだらうか。
 
 
ものごとは、なんであれ、付き合ひ続けて、沿ひ続けて、初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。草木や花々の健気ないのちの営み。日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。毎日移り変はつていく世の動向。人びとの集団的意識の移り行き。


それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、はやばやと見くびつてしまはずに、こころをこめてそれに向き合ひ続け、沿ひ続けるときだ。
  
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、肝腎要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、何が過ぎ去らず、留まるものなのか、いつたい何が本質的なことなのか、といふ問ひをもつこと。
 
 
それが精神を通はせつつ、ものごとに沿ふことの糸口になる。からだをもつて振る舞ひ、こころから行為していくことの糸口になる。
 
 
その時、捨てようとしなくても、人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
 
そして、はるかに広やかで、はるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、「賢き知」と、他の誰のでもない、自分自身のこころざしが、立ち上がつてきはしないか。
 
 
人の<わたし>は、みづからを失ひ、そして、世の<わたし>の内に、みづからを見いだすことができる。
 
 
 
 
この、陽の時に、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 そして、世の<わたし>の内に、
 みづからを見いだすことができる」
 

posted by koji at 14:30 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

わたしは、他の誰でもない



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自然は、人を自然の者となすまで、
社会は、人をきまりに従つてする者となすまで、
人を自由な者となすは、ひとりその人だ。
    (シュタイナー『自由の哲学』第九章)


人につひ(最後)の磨きをかけるのは、その人自身に他ならない、といふこと。


誰しも、社会的に成功したいと願ふ。


しかし、人は、本当のところ、成功ではなく、他人に高く認められることでもなく、さらには、俗に言ふ「幸福」になることでもなく、みづからがみづからであること、わたしは他の誰でもない、〈わたし〉であることを、何よりも実感したい、さう、願つてゐるのではないでせうか・・・。


アントロポゾフィーとは、人がその人になりゆく道、人が自由へと歩み出すための道、そしてその先が果てしなく続く道だと感じてゐます。


そして、アントロポゾフィーの礎とも言へる『自由の哲学(鈴木一博氏による新訳「自由を考える」)』の第九章「自由なる考え」は、何度読んでも、こころから、精神から、感動してしまひます。



posted by koji at 08:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月11日

アントロポゾフィーハウスの仕事



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人が人として生きて行く上で、何が必要か。わたしがますます〈わたし〉となつてゆく上で、何が必要か。


アントロポゾフィーは、そこへの気づきをひとりひとりに、促さうとしてゐます。


いま、恐怖を煽つて、その気づきをさせまいとする悪の力が強く働いてゐます。


そんな、いま、そして、この21世紀の世において、本当に、アントロポゾフィーがたいせつな役割を荷ひ得る。


「まどろみから目覚めへ」。


若い人たちが目覚め始めるのを促していきたいですし、そのためには、わたしたち、人生の後半にゐる者みづからが、目を覚まして、仕事をしていくことが、最も重要なことですね。


目覚めとは、まづもつて、自分自身のこころのありやう、傾き、癖、などなどに、意識を向けてゐる、といふことでもあると思ふのです。


目覚めは、そこからこそ、始まり、そして、やがて、自分自身の内にこそ、高い人がありありとあることに、目覚めて行く道。


密(ひめ)やかな学びが、このアントロポゾフィーハウスといふ運動体の礎になります。



★アントロポゾフィーハウスのメンバー、越中奉さんの記事

先週、6月5〜6日、ここ青森県三沢市「国際交流センター」にて『芸術を生きる こころを生きる〜言語造形とオイリュトミーを通して』講師は諏訪耕志(言語造形)と私越中奉(オイリュトミー)でした。

コマコマのテーマは@「言語造形からの絵本読みきかせワークショップ」AB「芸術とこころを生きるの、言語造形・オイリュトミー」C「アントロポゾフィー講座〜芸術とこころを生きる」とはばひろい視点からの厚い内容でした。

諏訪さんとミーティングを重ねるなか、厳しい現実の今、C「アントロポゾフィー」の大切さが、日増しにたかまりました。

諏訪講師の熱、参加者の内なる勢いは高まり5日は翌日、1時半まで、特別講座は続いたそうです。多くの受講生、こどもたちは同センターに宿泊したのです。

ありがたいかな『いかにして人が高い世を知るにいたるか』というシュタイナーの著書の1ページ目「条件」の項目からじっくりと丁寧に読み初めてくださったのです。(4年生の子どもがその熱心さを翌朝わたしにはなしてくれました)

この書、現代のわたしたちに、否応なく立ち上がる、「人として、もっと人間らしく…」との問いを、誰にでも啓き、また実践をひもといてくれます。
 
学び、近寄りが、知識を得るためではなく、わたしたちの課題、本当の道を探して生きる方の、ひとりひとりの<わたし>への友となればなあ。と思うのでした。




posted by koji at 20:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月10日

彩りを味はふ



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人は、北へ向かふとき、精神の緊張に向かふ。


南に向かふとき、精神の弛緩、リラクゼーションに戻る。


いや、そんなことはないよ、と思ふ方もゐるだらう。


しかし、日本においては、昔の人は、特に、西南の人は、さう、感じてゐたやうです。


松尾芭蕉も、精神の緊張を追ひ求めるがごとく、江戸を発ち、東北への奥の細道を歩き、また、母なる地、生まれ故郷である西南の地、近畿へと戻る、そんな旅をみづからに課しました。


イギリスなどでも、例へばスコットランドに向かふことは、日本における東北地方にこころを向けることに似てゐるのだらうか。どうだらうか・・・。


現代においては、北へ行つても、南へ行つても、街だとどこも同じ風景、同じ文化に埋め尽くされてゐる感がありますが、やはり、少し街から離れると、そこには、いまだ、その土地ならではの独自の濃厚な色があるやうに思ひました。


そして、このたび、東北へ旅して、静かだけれども深く思つたことは、意識的に、東西南北、ゆく道、帰る道、それぞれの趣きの違ひに目覚めること、それが、現代人のわたしたちにとつて、たいせつなことではないか、といふことでした。


グローバリズムといふ名の画一性、均一性、全体主義が蔓延らうとしてゐる今、独自性に満ちた、彩りの豊かさを、わたしたちひとりひとりが、みづから、意識し、生み出し、創り出して行く。


その土地、その場、そのとき、その人の、独自性を尊ぶことは、わたし自身を尊ぶことへと深いところで繋がつてゐるのですね。


世を知りたければ、あなたみづからをみよ。あなたみづからを知りたければ、世をみよ。


多面的に生きることが、確固たるものを育てる。


ひとりを生きることが、世の彩りの豊かさを味はふことへと繰りなしてゆく。


こころを破壊しようとする悪しき力が働いてゐる、今、わたしたちは、こころを守り、育ててゆかうとする精神の力を、世に贈らうとする者です。



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2021年06月08日

青森の皆さん、ありがたうございました!



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『青森の皆さん、ありがたうございました!
 芸術を生きる こころを生きる 
 〜言語造形とオイリュトミーを通して〜』


アントロポゾフィーと言語造形をもつて、世に働きかけて行くことが、わたくし諏訪耕志の仕事なのですが、このたび、青森において、幾人かの方々と共同でひとつの仕事をなすことができました。


共にオイリュトミーの時間を創つて下さつただけでなく、小学生たちと共に汗だくになつて遊んで下さつた、越中奉さん。


保育の仕事を荷つて下さる方々。


一泊二日の講座を細やかなお心遣ひで見事に企画し、準備し、采配して下さつた、川崎直美さん。


朝の会やクロージングのシェアリングにおける語らひの時間を和やかに導いて下さつた中川登三男さん。


参加者全員のこころもからだも喜ぶ夕食・朝食の献立を考へて下さり、調理して下さつた、石戸谷正子さん。


それは、参加者皆で、ひとつの集ひを織りなし合つて創り上げた、そのやうな青森での晴れ渡つた空の下での二日間でした。


それは、心臓から溢れ出る暖かい精神の流れが織りなした、アントロポゾフィーからの仕事でありました。


青森の方々と、わたくしたちアントロポゾフィーハウスとの共同の仕事でありました。


時代の精神は、明らかに、まどろみではなく、人の目覚めを待つてゐます。


それは、わたしが〈わたし〉に目覚めるといふことであり、わたしが、ますます〈わたし〉になりゆくといふことです。


〈わたし〉は、この肉のからだに閉じ込められるやうな小さなものではありません。


もつと、もつと、晴れやかに解き放たれた、青い空のやうな広やかなものです。


アントロポゾフィーとそこからの芸術は、そのことを人に想ひ起こさせるのです。


アントロポゾフィーからの仕事が、本当に、いまこそ、切実に、必要とされてゐます。


皆様、感謝です。ありがたうございました。

posted by koji at 19:26 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月07日

青森でのひととき



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物語ることの喜びを感じます。


それは、お話を通して、人と人とが普段以上に深いところで繋がることのできる感覚から生まれる喜びです。


さらには、人と人より高い方との繋がりから生まれる、ありがたさ、厳かさ、安らかさ、といふ感覚でもあります。


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posted by koji at 16:25 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

木曜夜「いかにして人が高い世を知るにいたるか」オンラインクラス始めます



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6月24日のヨハネ祭の日の夜より、毎週、木曜夜8時、新しく「いかにして人が高い世を知るにいたるか」オンラインクラスを始めさせていただきます。


毎週、木曜の夜、こころを整へ、精神に少しづつ向かつてゆく。そのことをリズミカルに、毎週、繰り返して行く。


この本は、解説など要らないほどの平易な文章で綴られてゐます。


ただ、この本においてたいせつなことは、繰りかへし、繰りかへし、読み続けて行くといふことです。


その「繰りかへし」の中から、機が熟するに従つて、この箇所ではこの情が、かの箇所ではかの情が、感じられるやうになります。


そして、それらひとつひとつの情が、こころのういういしさへと改めて何度でも、読む人を立ち戻らせてくれ、その人を精神的な生き方へとまた導き始めるのです。


その「繰りかへし」を促すこと、それが、この講座の眼目です。


きつと、メディテーションへと向かふアントロポゾフィーのリズミカルな学びの生活へと、新しく入つて行くことが始まります。


毎週木曜日の夜、一時間の学びの共同体を創りつづけて参りませう。


翻訳は、鈴木一博氏によるもので、「条件」の章から読み始めて行きます。


社会が混迷してゐて、人のこころが不安に満ちようとしてゐる、いま、といふ時だからこそ、この「密(ひめ)やかな学び」(よく「神秘学」と訳されてゐますが、ここでは、このやうに日本語を使ひたいと思ひます)が要るのだと、わたし自身、痛切に感じてゐます。


ご関心のある方、この学びの道を、ご一緒に、こつこつと、歩いて行きませんか。


講師: 諏訪耕志




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●日程
2021年6月24日・ヨハネ祭の夜から毎週木曜日 午後8時〜9時

6月24日、7月1日、7月8日、7月15日、
7月29日、8月5日、8月19日、8月26日、
9月2日、9月9日、9月16日、9月30日、

以降も、毎週木曜日にクラスを行ひます。



●参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  


もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。


一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。



●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    


お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひいたします。




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2021年06月05日

内なる安らかなひととき



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今朝も、また、内なる安らかなひとときから、一日が始まりました。


本当に、ありがたく、欠かせない、ひとときです。


以下の文章は、ルードルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の中の「内なる安らかさ」からのものを少し書き改めたものです。



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密(ひめ)やかに学びつつ、内なる安らかなひとときを生きる人が、みづからに、かう語る。


わたしは、あらんかぎりの力を尽くして、わたしの事柄をできるかぎりよくしたい。


わたしは、気後れのもとになりかねない考へを抑へる。


わたしは、まさに気後れのゆゑに、することがおざなりになること、とにかく、その気後れがよりよくすることにはつながらないのを知つてゐる。


そして、わたしには、生きるといふことに向けて、稔り多く、促しとなる考へが次から次へと及びくる。


それらの考へが、わたしを阻み、弱くしてゐた考へに取つて代はる。


わたしが生の波立ちのさなかで、みづからの生を確かに、しつかりと導きはじめる。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



仕事のための力の源は、いつも、この「内なる安らかなひととき」にあります。




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こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜



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夏の高みへと
 
陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の陽の光と熱によつて、植物の緑が、花のとりどりの色となつて、上へ上へと燃え上がる。
 
 
鳥たちが、虫たちが、いよいよ高らかに、軽やかに、夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
 
陽によつて引き起こされる、そんな植物と動物たちの働きが、夏の空気に働きかけてゐるのを、わたしたちは感じることができるだらうか。
 
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、来たる夏を生きることができるならば、みづからの、人ならではのところ、人であること、わたしであることもが、ここよりも、さらに、高いところに、さらに広やかなところにのぼりゆき、天によつて見守られることを、情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
 
おそらく、そのことばは、古来、日本人がずつと我が子どもたちに言ひ伝へてきたものだらう。
 
 
「お天道様」それは、陽の神様であり、わたしたちに警告を発しつつ、わたしたちを見守つてゐる存在として、常に高みにあるものとして感じてゐたものだつたのだらう。
 
 
そして、いま、わたしたちは、その「お天道様」を、人の人たるところ、<わたし>であるところとして、感じてゐるのではないだらうか。
 
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、「高い<わたし>こそが、いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」といふことかもしれない。
 
 
天照大御神のみことば。「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として 吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
 
わたしたちは、自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、改めて、この季節だからこそ、「お天道様」に見守られてゐることを感じ、「お天道様」からの視点、「おのづから」なありかたで、生きていくことができるだらうか。
 
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
  
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 


 

posted by koji at 08:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月02日

メディテーションのことばと言語造形



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メディテーション(瞑想)において内に響かせられることばは、お日様に向かふ花弁のやうに、こころに精神を取り入れる入り口になります。


そして、言語造形で養はれることばの感官(言語感覚)は、メディテーション(瞑想)するときにおいて、とてもたいせつなものです。


ことばに意味だけを求めるのではなく、その響き、リズム、動き、かたち、バイブレーションをありありと見て、聴いて、感覚する。


その機能と器官が、ことばの感官です。


このことばの感官が、日常のことばの世界を離れた、精神の力を呼び集めてくれます。言語造形はこの感官を養ひます。


そして、日本人は、和歌や俳諧などことばの芸術を通して、ずつと、この「ことばの感官」を養ひ続けてきました。


また、この感官は、みづからの動きを感覚する動きの感官(運動感覚)と表裏一体のものですので、からだの動きを養ふことでもあります。


しかし、この動きといふものが、静かさ、安らかさと共にある。


せわしなく動きまわるのではなく、静かさが動いてゐる。


さういふ感官の働きを養ひます。


日本の神話に、「天(あめ)の安(やす)の川」といふ川が、出てきますが、あの高天原(精神の世)に流れてゐる川は、弥(ゐや)進む川、どんどん流れて流れつづけてゐる川でありつつ、安らかな流れなのです。


精神とは、常に、一瞬も休むことなく動き続けてゐますが、静かさを失はず、光が凄い勢ひで流れてゐる。


その生命の精神の流れは、人の疲れて病んだこころとからだを癒し、生命力を甦らせるのです。


そんな精神の流れ、天の安の川の水と共に、言語造形をしていきたいと思ひます。


滞らずに、安らかに、動きの中に入つて行く。


それこそが、こころに健やかさをもたらし、また、人体の免疫力を上げる上で、とてもたいせつなものです。


メディテーション(瞑想)、そして言語造形。


それは、精神からの学びと芸術です。


posted by koji at 09:21 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月01日

アントロポゾフィーハウスといふ運動体へのいざなひ



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わたくし諏訪耕志がしてゐますオンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」にご参加下さつてゐる方々へのことばとしてしたためた文章なのですが、それをここにも掲載いたします。


長文で恐縮なのですが、アントロポゾフィーハウスといふ運動体へのいざなひのことばです。


これは、わたしが関はらせてもらつてゐる、すべてのクラス、すべての方々へのことばです。


どうぞ、よろしくお願ひします。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



皆さん、こんにちは。

たびたび、お便りしまして、恐縮です。

わたしたちのこのクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」も、4月4日の甦りの祭(復活祭)から始めまして、先週の5月23日の聖き靈(ひ)の降り給ふ祭(聖霊降臨祭)も超え、二か月を経ました。

本当に、皆さん、学びにご参加下さり、ありがたうございます。こころから、こころから、まこと、感謝いたします。


このクラスは、「密やかな学び」を少しづつ、時をかけてゆつくりと、進めて行くクラスです。

ですので、毎週、このクラスをするといふことに、とても大きな価値を見いだしてゐます。



このクラスを始めるにあたつて、わたし自身は、とても、考へました。

慎重さを要することでした。

この手の学びは、ややもすれば、「密やかな学びごっこ」に堕してしまひがちだからです。

「個人的な手なぐさみ」に堕してしまひがちだからです。



この「密やかな学び」こそが、ルードルフ・シュタイナーの悲願、アントロポゾフィーにおける主眼でありました。

といふことは、現代、多くも多くの人が、みづからは意識できずとも、こころの奥底において切に求めてゐるもの、それが、アントロポゾフィーの「密やかな学び」です。

わたしたちは、それをしてゐます。

そして、二日前のクラスで話題になりましたこととして、この「密やかな学び」が、外なる仕事や暮らしとどう関はつてゐるのだらうか、といふ問ひがありました。

その問ひに対する答へは、時が熟して来ることによつて、わたしたちひとりひとりに、きつと、降りて来るでせう。

つまり、この密やかな学びは、外なるわたしたちの個人的な暮らしと仕事に、かならずや、有益な働きを及ぼして来ることを実感するやうになることでせう。



さて、このクラスは、オンラインといふ、いまならではの、スタイルをもつて営まれてゐます。

オンラインゆゑの不如意もあるのですが、逆に、これからへの可能性をも秘めてゐるのではないかと感じてゐます。

それは、遠く離れた地域にゐる者同士が、こころを寄せ合つて、「理想」をこつこつと育て上げて行く営みへと、この学びを繰りなして行くことです。

つまり、地域性を離れて、日本といふ国の文化にアントロポゾフィーを浸透させて行く、ひとつの機縁になるやうな運動となつてゆくことです。

その「理想」とは、個人的なことからひとりひとりが離れて、後の世代のために「仕事」をすることではないかとわたしは考へてゐます。

しかし、その「仕事」をして行くためには、ひとりひとりの内における修養が欠かせないことを、わたしたちはアントロポゾフィーをもつて知つてゐます。

その「修養」にあたるのが、わたしたちのクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」です。

このクラスにおいて、わたしたちは、いまも言ひましたやうに、なによりも、まづは、自分自身のこと、個人的な修養から始めますが、やがては、その個人的なことを超えて、後の世代、未来の人たちが生きて行くための健やかな精神的土壌づくり、文化づくりのための運動へと繰りなして行くことです。



「あなたにとつて理想とならない理念は、どの理念であれ、あなたのこころにおいてひとつの力を殺ぐが、あなたにとつて理想となる理念は、どの理念であれ、あなたのうちに生きる力を生みだす。」(34ページ)



頭ではなく、胸で、ハートで、心臓で考へる力を養つて行く、わたしたちのこのクラスが、ゆつくりと、だんだんと、日本におけるアントロポゾフィーのひとつの運動(アントロポゾフィーハウス)へと成長して行くことを、「理想なる理念」として、わたしは暖め育ててゐます。



長文、読んで下さり、どうも、ありがたうございます。


諏訪耕志



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



『アントロポゾフィーハウス』http://kotobanoie.seesaa.net/category/27643082-1.html

posted by koji at 20:02 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月31日

こころのこよみ(第9週) 〜大いなる父なるもの〜



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我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなければ、あれをしなければ・・・」
 
 
そのやうな意欲といふものも、内なる「熱」と言つていいのだけれども、その意欲の中にある「こだわり」を忘れることができるだらうか。「・・・しなければ」といふやうな「恐れ」を忘れることができるだらうか。
 
 
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
 
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、ずつと、その熱に問ひかけるやうにしてゐると、その陽の光から発せられてゐる熱は、自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、はるかに、はるかに、巨大で、太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな豊かさであると感じる。
 
 
そのやうな意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだらう。
 
 
シュタイナーは、『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、「父なるもの」からだと話してゐる。
 
 
その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けてゐる方」と人との出会ひは、ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
 
 
人生の中で、己れといふもののこだはりが脱ぎ捨てられた時、夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念ひに満たされる時、その出会ひは生じる。
 
 
だから、子どもの頃、丁度、これから始まる夏にかけて、大いなる天空を仰ぎ、そこに拡がる青空や夜の星々に想ひを重ね、感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、人生にきつと一度は生じる「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
 
 
人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きつとある。
 
 
光の中で、あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために
 
 
 
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」


 

posted by koji at 20:08 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ことばの感官(言語感覚)」について(十二の感官論より) 



写真は、若き日のミヒャエル・エンデ


ルードルフ・シュタイナーによる十二の感官の論の中の、「ことばの感官」といふものについて、述べさせてもらひました。


わたしたちは、光を目といふ感官で感覚するやうに、響きを耳といふ感官で感覚するやうに、人から発せられたことばを「ことばの感官」によつて感覚してゐます。


「ことばの感官」によつて感覚されるのは、ことばの意味ではありません。


では、ことばから、わたしたちは何を感覚してゐるのでせう。


情報を伝達するための手段としてのみ、ことばが使はれるのだといふ認識が染みついてしまつた現代においては、この「ことばの感官」を意識し、理解することはむづかしいやうです。


ルードルフ・シュタイナーも、この感官について、とても詳しく話してゐるわけではなく、幾人かの方々による解説を読んでみても、これまで、この感官について、どうも釈然としなかつたのです。


ここでは、言語造形をする者として培ひ続けてゐるこの感官について、述べさせてもらつてゐます。


どうぞ、お聴きください。



※感官(Sinn)とは、人に備はつてゐる目や耳などの器官と機能(働き)を指します。一方、感覚(Empfindung)とは、その感官によつて、迎へられ、見いだされるものを言ひます。シュタイナーは、明確に、そのふたつのことばを使ひ分けてゐます。