2020年09月27日

動画「天の岩屋戸のはなし」






動画による、
古事記神話(現代語訳)に、
素敵な絵を描いて下さいました。
https://www.youtube.com/watch?v=MxuzMi5Iqn4


こと、動画といふ伝達手段を通すときでは、
「絵」は生きますね!


なまの語りには、そもそも、
絵は必要がないのです。
それは、聴き手がこころの内側で
みづから絵を自由に描くからです。


しかし、
動画といふ加工されたヴァーチャルな次元においては、
逆に絵の要素がこの動画芸術を助けてくれます。


描いて下さつた方に感謝!


2020年09月22日

新しい、始まりの始まり



見事にすつからかんに秋晴れが続く中の、
四日間連続の講座。
いますべてを終へ、
ひとりでビールで乾杯中。


参加してくださつた皆さんも、
いま、寛いでゐるかな。


朝から夕方まで四日間、
時を共にしてきて、
最後の講座が終はつたとき、
思はず口に出たのが、
「このまま、何日でも講座を続けられる」。

それほど、
自分の中から溢れ出てくる何かがあり、
それを無条件に受け止め、
さらには、
溢れる何かを返して下さる方々があり、
自由と躍動と感謝と微笑みに満ちた時間だつた。


わたしは、コロナウイルス禍の中、
春には本当に心理的に進退窮まり、
それゆゑに、
この仕事を、人生を、
ゼロからもう一度始めよう、
さう念ひ、ここまで来た。


今日は秋分の日。


この連続講座は、
わたしにとつての新しい、
本当に新しい、
始まりの始まりだつた。


そんなわたしの新しい始まりの時を
共にして下さつた皆さんに、
本当に、こころの底から感謝します。


受講された方々にとつても、
新しい始まりになりますやうに。



posted by koji at 23:45 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月21日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜



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みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
 
そして、こころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。
生み出す人は幸ひだ。
育てる人は幸ひだ。
 

金と引き換へにものを買ひ続け、
サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、
一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 

その一歩は、料理を作ることや、
手紙や日記を書いてみることや、
花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、
そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 

この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 

そのやうな行為によつてこそ、
みづからを創り上げることができ、
その行為からこそ、
こころは己れのありやうに気づく。
 

そして、「世の精神」。
 

それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、
「世の精神」であり、だからこそ、
太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 

「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、
人に働きかけ、
また人からの働きかけを受けて、
絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 

「世の精神」みづからが、人との交流を通して、
己れを知らうとしてゐる。
「世の精神」は、人の働きを待つてゐる。


そして更に「世の精神」は、
人といふものにみづからを捧げようとし、
人といふものから愛を受け取ることを通して、
より確かに己れといふものを知りゆき、
己れを知れば知るほど、
そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 

同じく、わたしたち人は、
そんな「世の精神」に倣ひつつ、
地球上のものといふものに働きかけ、
ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、
みづからを新たに新たに知りつつ、
たとへ、肉体は年老いても、
そのつどそのつどこころは甦り、
精神的に若返ることができる。
 

「世の精神」には、人が必要であり、
人には「世の精神」が必要なのだ。


我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、
本居宣長(1730-1801)も、
そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、
その「世の精神」に倣ひ続け、
「ものにゆく道」を歩き通した人であり、
両人の残された仕事の跡を顧みれば、
晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 

シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 

ーーーーー
 

ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  

ーーーーー
 
 
 
秋には、
「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 

創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、
わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 

そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、
各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。
壁に突き当たる。
 

しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、
「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、
こころの真ん中の礎である情に目覚め、
己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 

「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、
それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。


posted by koji at 06:45 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月20日

大阪弁で 〜母語の恵み〜



今日、講座を「ことばの家」でしてゐて、
このアントロポゾフィーなる精神科学を、
日本の文化の文脈で語り直すこと、
しつかりと日本語で語ること、
しつかりと自分自身のことばで語ること、
その大切さを話してゐて、
どうせならわたしの母語である大阪弁で語ることがよい、
なんてことになり、
さうしてみたら、
いやあ、驚きました。


大阪弁になつた途端に、
どれほどほつとした雰囲気が一気にその場に満ちたことか。


我が家である「ことばの家」においても、
稽古場であり、講義の場であり、
舞台でもあるこの場では、
わたしはこの部屋に入ると、
全く無意識に、おのづから、
標準語で仕事をしてゐました。


今日、おそらく初めて、
生徒さんの前で、
大阪弁で仕事をさせてもらへたのでした。


これは、思ひもかけぬことで、
わたし自身、いつも以上にとてもリラックスしながら、
仕事ができたのでした。


これも、講座を聴いてくれる方々がゐるからです。
その方々が新しいものを、
わたしから引き出してくれるのです。


いやあ、母語の恵み、それは、
人にこころから情の通ふことばを話させてくれるのですね。


仕事上、標準語を使ひながらも、
人それぞれの母語である方言は、
人それぞれ大切にした方がいいのですね。


ことばと自分自身との距離を改めて見つめる上で、
欠かせない二重性、豊かさを人にもたらすやうです。
これは、きつと、母国語と外国語との間でも、
多いに感じられることではないかと思ひます。



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動画 外郎売を通してA 母音の位置取り






ことばを話すための器官。

それは、もちろん、
口、舌、歯、唇、鼻、気管、肺・・・ですよね。

しかし、実際は、からだのすべてを使つて、
人はことばを話してゐます。

いや、からだのすべてどころか、
実は、自分の身の周りの空間を総動員して、
ことばを話すのです。

なぜって、空気・風を動かすことで、
人は声を出し、声を聴くことができるのですから。

ここでは、再び、歌舞伎の演目『外郎売』を通して、
母音のそれぞれ(あえいおう)が、
空間のどのあたりにおいて鳴りたがつてゐるかを探つてゐます。

さう、ことばの音韻そのものが求める、
鳴らし方、響かせ方があるのです。

口の中をぐ〜んと拡大して、
空間そのものが、ものを言ふやうに、練習していきませう。

そのやうに言語器官をより強く、
しなやかに育んで行くことで、
表現が一層生彩を帯びてきます。






『言語造形 外郎売を通して@ 身振りの学び』
https://youtu.be/d8UBmUnGzws



言語造形のためのアトリエ『ことばの家 諏訪』
https://kotobanoie.net/
 

諏訪耕志ブログ『斷想 ・・日本の精神に學びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/

2020年09月19日

母なるいのちの源からの力



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子どもがこの世に生まれて来て、
初めて地上で触れる芸術。


それが、
お母さんの声、
お母さんのことばですよね。


声といふ芸術は、
母なる生命の源から流れ來る、
命の川の流れにも似た、
人生の始まりを支えるものです。


それゆゑ、
人生の終はりにおいても、
その源へ帰るといふ情から、
戦争などで死んでゆく若者などは、
「おかあさあん!」と絶叫するのかもしれません。


いのちの流れ、
それはエーテルの流れです。


息遣ひに裏打ちされた声とことばは、
エーテルの流れに沿つて、
人から人へと働きかけ、
空間を満たさうとします。


親からことばをかけてもらふことが、
幼い子どもにとつて、
どれほど欠かせないことか。


子どもに食べ物さへ与へれば、
からだは大きくさせて行くことができるかもしれません。


しかし、その子にことばがかけられなければ、
その子は、生命力を育むことができないのです。


生命力。
生きて行くための力。
根源の力。
母なるいのちの源からの力。


それは、子どもの傍にゐる、
大人からのことば遣ひ、息遣ひによつて、
子どもに与へられるのです。


言語造形は、
そのことをリアルに感覚するための絶好の芸術です。


幼い子どもたちへのことば。


いま、始まつたばかりの四日間連続講座で、
身をもつて学んでゐます。



※絵は、安田育代氏


posted by koji at 15:51 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

精神の運動へと 〜小森文雄氏の水墨画〜



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水墨画家・小森文雄さんの絵を観に、
京都府立文化芸術会館へ。


ご本人がゐらして、
絵を観ながらたくさんお話を伺へる幸運。


精神の運動へと、
いかにおのづから入つていくか。


それは、きつと、
絵を描く人も、絵を観る人も、
同じアクティビティーをもつて生きる、
こころの技量だ。


感覚をすぐさま画布の上に実現する。
その技量は、
毎日の倦まず弛まずなされるデッサンから生まれて来る。


機械的でない、
精神をもつての基礎練習の大切さを語つて下さる。


ああ、ひとりの人に出逢ふ喜びよ!


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posted by koji at 09:05 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月17日

9/19(土)〜9/22(火・祝) 秋の言語造形・連続講座 実践と理論



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いよいよあさつてに迫つてきました。
四日間連続の言語造形講座です。


わたしたちはどのやうにして、
お話を語ることができるでせうか。


ことばといふものの力を引き出すには、
どのやうな意識と身の使ひ方を持つて、
語つていけばいいのでせうか。


ルドルフ・シュタイナーの叡智、
アントロポゾフィーから、
言語造形といふ芸術が生まれました。


そのアントロポゾフィーの基礎を踏まえつつ、
お話を語る術の基本から身につけていきませう。


詳しくは、こちらのイベント欄をどうぞ ↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/476646107.html



posted by koji at 07:35 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

持ち場に徹するといふこと



昔の大多数の日本人は、
米作りに従事する農民でした。


手足をフルに使つて農作業に勤しんでゐました。
その農作業は経済生活の営みであり、
同時に信仰生活の営みでありました。


手足の営みが、
胸の奥深くの神との繋がりを、
リアルに実感させてくれてゐました。


いま、日本人の大多数は農民ではなく、
スマホを手に握りしめるやうになりました。


わたしたちの大多数はもう、
米作りに従事してゐません。


しかし、米をこの手で作りはしないのですが、
自分に与へられてゐる仕事に、
こころを込めて勤しむことで、
何かをまごころを込めて作りだすこと、
生みだすことはできる。


さうですよね。


いま、かうしてインターネットといふ、
極めて高精度で便利なものを
わたしたちは手にしてゐることで、
大量の情報を得ることができてゐます。


しかし、それゆゑに、
わたしたちは表層的な知に恵まれ過ぎて、
頭でつかちにならざるを得ず、
一方で、わが手足を使つて、
何をすればいいのか、
分からなくなつてゐはしないでせうか。


手足をもつて何かをする、
何かを生みだすことができたとき、
その意欲の発露は、
頭でつかちになりがちなわたしたち現代人にも、
健やかさを取り戻させてくれます。


頭でつかちとは、
「自分にはすべてが分かつてゐる、
 すべてを見渡すことができる」と、
鳥瞰的・俯瞰的立場に立ちたがることを言ひます。


一方、
わたしたちの手足は、
いま、ここにしか、
触れることができません。
しかし、その手足こそが、
世とリアリティーを持つて繋がり、
世に何かを生み出すことのできる、
通路であります。


いま、わたしたちは、
みづからの手足を使つて何をしませうか。


自分自身を敢えて俯瞰的立場に置かず、
世のひとところに立つて、
この手足をもつて生きてゐることをしつかりと弁へることで、
いま、ここで、
自分に与へられてゐる持ち場に徹することが、
人を健やかにするやうに思へてならないのです。



posted by koji at 07:15 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月16日

夕暮れの空 と とこしへのみづの流れ



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こころの濁りを自覚しては、
毎度毎度、空に救はれてゐる。


 夕暮れの 南の空の みづいろに
 溶けゆく我の 幼なごころよ


母なる湖、琵琶湖のそばでの勉強会。
参加者の皆さん(男性も含めて)から、
女性性の素晴らしいところが滲み出てゐて、
毎回、毎回、わたし自身、命が甦るやう。
ありがたう。


 やすの川 みづの流れは とこしへに
 いのちながるる をとめの川よ




posted by koji at 16:36 | 大阪 ☁ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月13日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜



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秋めいて、和らぐ、

感官へのそそり。

光の顕れの中に混じる、

ぼんやりとした霧のとばり。

わたしは空間の拡がりの中で観る、

秋、そして冬の眠り。

夏はわたしに、

みづからを捧げてくれた。



Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       



ゆつくりと和らいでくる陽の光。

 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。


そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、
過ぎ去つた夏と、
これからやつてくる冬とのあひだに、
立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。


その「とばり」によつて、
戸の向かう側とこちら側に
わたしたちは改めてこころを向けることができる。


戸の向かう側において、
過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照を
わたしたちは憶ひ起こす。


夏における外なる世の輝き。


そして夏における内なるこころの闇。


その外と内のありやうを憶ひ起こす。


そして、戸のこちら側において、
だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、
来たるべき冬における生命の死とを、
わたしたちは予感する。


これからの冬における外なる世の闇。


そしてクリスマスに向かふ内なるこころの輝き。


その外と内のありやうを予感する。


夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。


こころのアクティブな働きをもつて、
その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。


さうすることで、きつと、
こころが和らげられ、静かでありながらも、
意欲を滾らせてゆくことができる。



 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。



posted by koji at 19:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月12日

お手本となる存在



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わたしのライフワークのひとつとして、
普遍人間学(ルドルフ・シュタイナー)講座があります。


わたしがこのやうな講座をするに当たつて、
懐旧の念ひと共に、
お手本にしてゐる先生がふたりゐます。


おひとりは、
我が言語造形とアントロポゾフィーの師であられる、
鈴木一博さん(「先生」とはお呼びしなかつた)ですが、
もうおひとりは、
北海道伊達市にあるひびきの村で、
十数年前にご一緒したベン・チェリー先生です。


彼はそのとき確か二週間にわたる、
オカルト生理学を担当されてゐました。


彼の授業の進め方は、
一冊の本を深く深く読み込み咀嚼した上で
(その作業はおそらく
 何年もの長い年月が掛けられてゐるだらう)、
その本の記述に捉われることなく、
パワーポイントなど一切使はず、
きはめて自由自在に毎日の授業を繰りなしてをられました。


ベン先生は、
普段はもの静かな立ち居振る舞ひをされる方。
しかし授業になると、
とても表情豊かに、身振り豊かに、
全身全霊で語り、説かれるのでした。


わたしは、授業内容の魅力と共に、
ことばにおける表現に全身全霊を懸けてをられるやうな、
彼のあり方そのものにとても、とても、惹かれたのです。


高い叡智に満ちたことばを、
精神、こころ、からだのまるごとをもつて、語る人。


さういふ存在に出会へたことは、
本当に僥倖だと念ひます。


ベン先生が、いまも、
お元気でゐらつしゃることを乞ひ希みます。

posted by koji at 19:40 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月10日

楽器の音色を聴く感官とことばを聴く感官の違ひ



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公演のための打ち合はせを小西さんと。


クラリネットから響く調べが、
空間に満ち渡ります。


小西さんのクラリネットからは、
公演のたびごとに、
様々な色合ひが感じられるのですが、
このたびの響きからは、
どこか懐かしいやうな少年のころの風景と、
老いて初めて見えてくるであらう情景とが
ことばの響きと輻輳して感じられます。


楽器の調べは、
天の使ひ(天使)が、
ことばの響きは、
大いなる天の使ひ(大天使・民族の精神の方)が、
わたしたち人の体内の水を震はせ、動かしつつ、
運んでくれる。


さういふシュタイナーのことばから
示唆をもらひながら、
人の芸術作業を見守つてゐる、
人以上の存在の方々からの繊細な働きかけを
かうして舞台への集中した時間の中で、
聴き取らうとする試みでもあります。


天の使ひの方と、
大いなる天の使ひの方との、
働きの違ひ・・・。


分別で、ではなく、
こころの感官、精神の感官において、
それらを聴き取らうとすればこそ、
そこにきつと豊かなハーモニーが生まれてくる。


さう、固く信じて、作業を行つてゐます。


しかし、わたしにとつては、
音楽の音を精確に聴き取るのは、
本当に難しいと感じます。
いはば、夢見心地で楽の音を聴いてゐるのでせう。
精確さにまだまだ欠けるのです。


ですので、音楽を奏で、
聴き取る耳を持つ方との共同作業には、
作品を創る上で本当に助けられるのです。
小西さん、今日もありがたうございました!



●大阪・京都 言語造形公演『やさしい世界の終はり方』
http://kotobanoie.seesaa.net/article/477284901.html


posted by koji at 14:44 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月09日

わたしといふ人に与へるべき水とは何だらう



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以下、去年の今日、書いた文章なのですが、
今年も全く同じことを考へ、感じ、してゐました。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


なぜだかとても疲れた時などには、
いろんな疲労回復法がありますが、
自分はよくシュタイナーの『自由を考へる』を読みます。


そして、そこに書かれてある文に沿つて、
考へることによつて、
自分自身の偏つてゐるこころを立て直すことができ、
救はれることがよくあるのです。


第5章の「世を知る」を読むと、
そこにこんなことが書いてあります。


_________________


いま、わたしが、
蕾をつけた薔薇の枝をもつてゐるとすれば、
きつと、その枝を水に活けるだらう。


なぜか。


薔薇の蕾は、薔薇の花となるからだ。


薔薇が蕾の状態であることも、
薔薇であることのひとつのプロセスだし、
花開いてゐる状態も、
薔薇であることのひとつのプロセスだ。


しかし、
プロセスの中のそのときそのときの面持ちを見るだけでは、
これこそが薔薇だ、といふことは、やはり、できないし、
水に活けて花開かせるといふ想ひにも至り得ない。


考へることで、プロセスといふものを捉へるからこそ、
薔薇の枝を水に活ける。


その薔薇が、
「なる」といふこと、
「育つ」といふこと、
「成長する」といふことを、
考へるからこそ、
わたしは薔薇の蕾がついた枝を水に活け、
その薔薇が薔薇としての美しさを十全に出し切るのを待つ。


見てゐるだけで、考へなければ、
きつと、水に活けはしないだらうし、
薔薇が薔薇であることも分からないままだらう。


           (『自由を考へる』第五章より)


________________


わたしが、
「薔薇は育つ」といふプロセスを考へずに、
水に活けてもてなさなければ、
薔薇の蕾は枯れてしまい、
その美しさを見せてくれはしない。


きつと、人であるこのわたしも、薔薇と同じだらう。


薔薇が育つやうに、わたしといふ人も必ず育つ。


そこで、
このわたしといふ人に与へるべき水とは、何だらう。


この考へに立ち戻るのです。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


posted by koji at 06:40 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月08日

大阪・京都 言語造形公演 「やさしい世界の終はり方」



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京都の北山でも公演をすることに決まりました。
ぜひ、お運びください!



このたびは、
小西収さんにクラリネット演奏でご一緒していただきます。
言語造形といふ芸術がもつ、
最もたいせつな感覚「言語感覚」を共有できる
畏友であると勝手にわたしが思ひ込んでゐる(^_^;)、
小西さんのこのたびの公演に向けての想ひをご紹介いたします。


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稀有なる芸術体験となった、
前回の「山月記」での共演から約2年、
諏訪耕志さんから、再びお話(ご依頼)を頂き、
たいへん嬉しく思います。


今回の公演では、作者も形態も異なる、
韻文あり散文ありの
7つの短編の文学が採り上げられています。
多様多彩、でありながら、何かテーマがきっとあって、
いったいどのような発想・経緯で
これらの演目を集められたのかと驚きます。


再現芸術家とは演目の表現者であると同時に
(それに先んじてまず)
演目の選者・編集者でもあることに
改めて意識が向いた次第です。


今回の台本を頂き、テクストを無心に読むうちに、
「作者も形態も異なる」「多様多彩」な音楽が
次々と脳内に鳴動してきました。


さだまさし『夢供養』の中のいくつかの佳曲の調べや、
マーラー第3交響曲の長いポストホルン独奏部分など、
私の中に根付きながらも
これまで相互に関連性を持って捉えたことなど
一度もなかった様々な曲が一堂に会する
という意外性だけでも私にとっては豊かな愉悦です。
これらの音楽が諏訪耕志言語造形と
うまくよく響き合うことを信じ願いつつ、
クラリネット独奏の作譜や稽古に務め励もうと思います。


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小西収(こにししゅう)プロフィール
1965年 箕面市に生まれ育つ。
帝塚山高校数学科非常勤講師。
高校時代から独学で指揮を学ぶ。
女満別指揮法セミナー(夏期合宿)に
2001〜03年の3回にわたり参加し、
小林研一郎、高石治、松尾葉子、
松岡究、三河正典の各氏に師事。
2009年までに、大阪市立大学交響楽団、
ときの交響吹奏楽団、帝塚山学園吹奏楽部、
アンサンブルフロイントの指揮者を歴任、
2007年には橿原交響楽団に客演。
現在は、私設楽団
「トリカードムジーカ(音楽の編み物)」主宰、
箕面高校OB吹奏楽団指揮者兼クラリネット奏者。
敬愛する往年の名指揮者ブルーノ・ワルターのモットー
「微笑みを忘れず」を胸に活動を続ける。


======



場所・日時:  
大阪公演 
10月18日(日)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/


京都公演 
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「カフェ・ヨージク」 
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
京都公演のみ、終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
  マスクを着用につきましても、
  おひとりおひとりの判断にお任せいたします。



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金曜夜 アントロポゾフィークラス・オンライン



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ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』の
オンライン講座のお知らせです。
(録画したものを観ていただくこともできます)
 
これまで午前にしてゐましたが、
時間帯を変更し、
夜の19時半〜21時半となりました。

全十四講義、
シュタイナーによつて語られてゐるのですが、
シュタイナーの各講義を
わたくし諏訪耕志が、
ていねいに語り降ろさせていただきます。

このたびは、第三講のクールです。
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。

ライン上ですが、
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
時を共有しながら、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。

この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。

途中からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。

共に、精神の学びに取り組んで行きませう。


 
 

講師:
諏訪 耕志 (Koji Suwa)


  

今回は、第三講に取り組みます。

●9月11日(金)19時半〜21時半
『 人とは何かが分からなくなつたわたしたち 』

●9月25日(金)19時半〜21時半
『 地球を甦らせる人 』
 
●10月9日(金)19時半〜21時半
『 人は世の傍観者ではない 』

以降、10月23日、11月13日、27日・・と続きます。


 

●参加費 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。

 

●お申し込み・お問ひ合はせ
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/

 

●お振り込み
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。


 
鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031


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2020年09月06日

言語造形・身振りの学び 外郎売を通して@





ことばを話すことを仕事にしてゐる方、
とりわけ、
子どもたちに語りかけることを仕事にされてゐる方に、
言語造形に取り組んでいただけたら、
さう願つてゐます。


「語るとは、身振り(勢ひ)に潜んだ、人の甦りである」


ルドルフ・シュタイナーの講演録
『言語造形と演劇芸術』の中のことばです。


ことばの一文一文、一語一語、一音一音に、
相応しい身振りが胚胎されてゐます。


そのやうなことばそのものに潜んでいる、
身振りを引き上げて話すことで、
どれほどことばに命が吹き込まれることか!


ここでは、歌舞伎の演目『外郎売』を通して、
言語造形の基礎のほんのひとつを示させてもらつてゐます。


三回に分けて動画にしました。
日々のことばを話すことに、
また、ことばといふものに向き合ふために、
少しでもお役に立てていただければ嬉しいです。
 
 
             
 
 


 
令和二年 9/19〜9/22 秋の連続講座
『 言語造形 その実践と理論 』 大阪「ことばの家 諏訪」

 


こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜



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世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
鈴木一博氏が「こころのこよみ」の解説されてゐて、
この週のこよみにこのやうな文章を記してをられる。


そもそもひとつであるところが、
外にあつて「光」と呼ばれ、
内にあつて「意識」と呼ばれる。
内と外はひとつの対であり、
リアルなところは、内と外のあはひにある。
ゲーテのことばにかうある。
「なにひとつ内にあらず、
 なにひとつ外にあらず /
 そも、内にあるは外にあるなり」
(Nichits ist drinnen,nichits ist draußen;/ 
 Denn was innen,das ist außen.「Epirrhema」)


夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、
いつしか、こころの光になつてゐる。
 

そのこころの光は、萌しであり、
これから、だんだんと、長けゆく。
 

そのこころの光は、感謝の念ひであり、
だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、
だんだんと、熟してゆく。
 

その成熟は、
冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を
我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 

それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 

むかし、我が国では、そもそも、
その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、
新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 

一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 

しかし、どんな年であれ、
米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を
授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、
日本人は生きて来た。
 

この感謝の念ひが、
秋から冬への移り行きの中に生まれる
寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、
静かな元手となつてゐた。

 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 
西の国々では、
冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 

そして、キリストの誕生とは、
「ひとり生みの子ども」
「神の子」
「ひとりであることのもたらし手」
「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 

西洋では、
一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、
キリストの誕生を寿いだのだ。
 

それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 

その「ひとりであること」の自覚の光が、
秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、
「ひとりであることの自覚」から生まれる
寂しさといふ情にまで徹してみることで、
鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。
そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、
キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 

そして、「ひとりであること」の自覚を持つ
ひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、
精神は息づく。
 

他を否むところからではなく、
他に感謝することからこそ、
人のうちに己れが生まれる。


他に感謝するとは、
ひとりの人としてのわたしが、
世の己れを世の己れとして
しつかりと認めることであり、
その他の己れを認める力が、
わたしの己れをひとり立ちさせるのだ。


芭蕉は、また、
この「閑古鳥」も「ひとり」であることを認め、
ひとりであるもの同志として、
その閑古鳥との精神の交流、
閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 

 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



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2020年09月04日

星のお宮と感官と家族の名前



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十二の感官の育みと十二の黄道上にある星の宮との関はり。


そのことを考へてゐて、こころの内に漂つてきたのは、我が家族ひとりひとりの生まれた月日の星座と名前についてです。


次女のかさねは、おうし座生まれ。おうし座は、他者の考へを感覚する「考への感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。彼女は十二歳ですが、学校での学びでも、日々の暮らしの中でも、家族中で一番際立つた「思考家」です。考へを「かさねて、かさねて、かさねながら」日々成長してゐるのを強く感じます。わたしが彼女の名前を「かさね」とつけたのは、松尾芭蕉の『奥の細道』にその名の少女が出てきて、「かさねとは八重撫子の名なるべし」といふ句に魅了されたからなのですが、まさしく、こころの細道を辿りゆく芭蕉は、北へ北へと、那須から陸奥へと旅を進めて行つたのでした。それは、また、考へを重ねて行くことで行き着くこころの北方を目指してもゐたのでした。


長女の夏木は、かに座生まれ。かに座は、響きに耳を澄ます「聴く感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。いまは十五歳で、吹奏楽部に所属し、休むことのない音楽漬けの毎日です。聴くといふ営みは、物理的な空気の振動を精神的な調べに変換させることでなりたつてゐること、アントロポゾフィーから学ぶことができることの内の驚きのひとつです。7月半ば、くすのきの大樹に蝉が鳴きしきる夏の最中に生まれて来た長女。直感的に「夏木」と名付けました。同じく、芭蕉で有名な句「閑かさや岩にしみいる蝉のこゑ」がありますが、芭蕉は、蝉の声と共に、閑かさといふ沈黙の調べに耳を澄ましてをりました。物理の次元と精神の次元とを重ねつつの句であります。長女も、きつと、物理の次元と精神の次元とを結びつけるやうな人へとなりゆくであらうこと、我が子ながら、その独特のセンスにどこか感じるところがあります。


妻の千晴は、ふたご座生まれ。ふたご座は、何らかの響きや音声とは全く別に、ことばをことばとして受け取る感官「ことばの感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。双子のやうに、ふたつの腕のやうに、自由に動き、自由に遊ぶ、そんなときこそ、こころが羽ばたき、ことばが息づく。まさに、そんな人です(笑)。その双子といふことばに象徴されるふたりの幼な子の間には、遊びを通してこそ、自由と美が生まれます。それが、そもそも、本来的な「ことば」です。彼女は言語造形に生きてゐます。「千晴」といふ名も、とこしへの晴天を指してゐるのでせうか。ゲーテが、たしかこのやうなことをどこかに書いてゐました。「人と人とが語りあふこと、それは、光よりもすこやかなものをもたらす」。すこやかさと晴れやかさ。晴れ渡る大きな空を吹き過ぎる千の風です。


わたくしこと耕志は、いて座生まれ。いて座は、自分自身のからだが動いてゐることを内側から感覚する「動きの感官」を育む力を贈り続けてゐる星のお宮です。志(こころざし)を耕すといふ名を父がつけてくれたのですが、こころが指す方向に向かつて動いて行く、その力はいて座から、そして名前から頂いてゐるのかもしれないと思つてゐます。また、子ども時代に体を目一杯動かしながら遊べば遊ぶほど、ことばを活き活きと話すことができる、そんな関連に、我が子ども時代の環境をありがたく思ふのです。


昨日、空を見上げると、虹が懸つてゐました。





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2020年09月03日

接触し浸透し合ふ感覚 〜半木(なからぎ)の神の杜〜



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半木(なからぎ)の杜に鎮まる半木神社。
(京都府立植物園内にある)


いまだ真夏のやうな暑さをくぐり抜けて、
杜の中に入つてゆくと、
静かさと涼しい風ひとひら・・・


天の岩戸開きのとき、
占ひを司られた神である、
天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るこの社。
奈良時代からの土地柄から、
絹織物の守護神としても信仰されてゐたと言ふ。


主宰神の御性格やその御名さへ、
庶民の信仰の自然な移り行きからなり変はることにも、
日本ならではのおほらかな信仰のありやうが感じられ、
ありがたい。


わたしは、これからは、
こころと精神の織物を
新しく仲間と協力しながら織り上げていくのだと、
お宮の前で予感し、感謝の念ひを感じてゐると、
物凄い風がわたしを吹き抜けて行つた。


濃密でとても親しい接触。


土、水、風、熱、
そして光のなかに、
そのやうな接触する感覚、
浸透し合ふ感覚があつて、
それを憶えてゐるやうにしてゐる。


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2020年09月02日

玉出への夜の坂道にて



望月に 近きこよひの 坂道を
降りゆく我も この星愛(いと)し

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2020年09月01日

10/18 大阪公演 詩と物語り『やさしい世界の終はり方』



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言語造形公演 詩と物語り『やさしい世界の終はり方』
(精神の風とひとつになるための・・・)
.
.
.
言語造形: 諏訪耕志(すわこうじ)
クラリネット演奏: 小西収(こにししゅう)
.
.
●日時:  
令和2年10月18日(日)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
.
.
●場所:  
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
.
.
●参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
.
.
●お申し込み: 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
.
.
.
. 
このたびの公演は、
詩人の石村利勝氏の作品、
「やさしい世界の終はり方」に、
こころを強く揺さぶられたことから、
わたしの内に形を取り始めたもの。
(石村氏の最近の作品はこちらでも読むことができる
 https://www.breview.org/keijiban/?author_id=637
.
.
この詩を口に出すことは、
そのことばだけでなりたつてゐる、
たいせつな何かを壊してしまひさうで、
相当、ためらはれたのだけれど、 
しかし、それでも、わたしは、
みづからにへばりついてゐる、
余計でよこしまなものをできうる限り脱ぎ捨てて、
人といふものの美を信じてゐるこの作品の、
精神の風とひとつになりたいと切に希ふ。
舞台の上で響かせてみたい。
.
.
挑戦をしたい。
そのやうな挑戦をしなければ、
自分などといふ存在は、
どんどん腐つて行くやうに思はれて仕方がない。
.
.
.
.

posted by koji at 16:15 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月30日

9/19〜9/22 言語造形・連続講座 実践と理論

 

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秋の言語造形・連続講座のお知らせです。 


わたしたちは、
フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、
ことばを話してゐるのではありません。
.
. 
エーテルのからだ、
アストラルのからだ、
そして、〈わたし〉といふ、
目には見えないところをこそ使つて、
言語生活を営んでゐます。
.
. 
そのことを感じながら、
意識しながら、
ことばを話す練習をしませう。
ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。
.
. 
書かれてゐる文字に、
息を吹き込みませう。
命を吹き込みませう。
そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。
.
. 
それは、ことばを甦らせ、
わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。
.
.
午後は、ルドルフ・シュタイナーの講演録
『言語造形と演劇芸術』を読み深めます。
.
. 
四日間の連続講座だからこそ、
日常を突き抜けて、
こころの奥深く、
からだの奥深くに、
芸術が働きかけます。
.
. 
身体まるごとを使ひ、
こころまるごとを注ぎ込み、
そんな言語造形といふことばの芸術に、
わたしと共に取り組みませんか。
.
. 
それは、
フィジカルなからだ、
エーテルのからだ、
アストラルのからだ、
そして〈わたし〉といふ、
四重の生を感じつつ生きる始まりです。
.
. 
そして、言語造形に勤しむ人になりませんか。
.
. 
講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
.
.
. 
日時:
令和二年9月19日(土)より22日(火・祝)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで
.
. 
場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
.
. 
参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円
.
.
お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
.
.
お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
.

posted by koji at 08:07 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月27日

「こころのこよみ」とともに生きる B



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シュタイナーによる、
この『Anthroposophischer Seelenkalender』を、
本当に拙いながらも『こころのこよみ』として、
日本語に訳し、
声に出しながら、時にこころの深みに沈めながら、
一文一文、一語一語、一音一音、
味はひつつ一年を辿つてゐる。


こよみとは、
「事(こと)をよむ」ことであり、
「言(ことば)をよむ」ことであり、
「心(こころ)をよむ」こと。


『こよみ』に刻み付けられてゐることばを通して、
自然のリズム、「年といふもののいのち」を
共に感じ、生きる。

 
その芸術的であり、瞑想的でもある行為を
生活に根付かせていくことで、
だんだんとこころにハーモニーが育ち、
健やかさと安らかさと確かさを実感できるやうになつてくる。
.
. 
それは、やはりありがたいことだ。


そして、その毎日の行為は、
頭で考へるこれまでのありやうから、
心臓で考へる新しいありやうへと、
みづからを育て上げていく道でもある。


頭でなく、心臓で考へるのだ!
血の暖かさに満ちた、
情のたつぷりと通ふ考へを人は持つやうになる。


そして、わたしは、
この地球の上にひとりの人として立つ。


『こころのこよみ』の発刊が、
アントロポゾフィー協会の創設と時を同じくしてゐること。
(1913年)


またその十年後に、
『四つの世のイマジネーションにより四季を共に生きる』
といふ講演がなされ、
一年の巡りを意識的に生きることで、
精神の善き位にある方々を意識し、
その方々と共に働いていくことが、
本当に大事なことなのだ、
さうシュタイナーが訴へたのは、
新しい普遍アントロポゾフィー協会の創設(1923年)に向けてのことだつた。


「年のいのちを生きる」といふことと、
アントロポゾフィー協会の創設といふこととが、
時を同じくしてゐること、
それは偶然ではない。
(ヨハネス・キュール氏による2006年度、
 普遍アントロポゾフィー協会の年次テーマより)


いま、時代の要請から、
目に見える外的な行為を
ひとりひとりが己れの分に応じてなしていく必要があるのは
言を俟たない。


しかし、わたしは、まづは、
アントロポゾフィーが示唆してくれてゐる、
地球と共に感じ、大いなる世とともに心臓で考へる、
精神の世の方々との共同作業を育んでいく、
そのやうな内なる道を真摯に捉へ、
その内なる練習を生活の中でしていくことの重要性を念ふ。


内(目にみえないところ)こそが変へられる。
そこからこそ、
外(目に見えるところ)が変はつていく。


その確かな道を、示してゐるのが、
アントロポゾフィーだ。


わたしたち日本人は、
昔からのことばの芸術、
和歌や俳句などを通して、
ことばの美を通して、
四季の巡りを生きるこころの感覚を、
年のいのちを生きる精神の感覚を、
ひたすらに培つてきた民族。


この感覚をこれからは、
意識的に培ひ始めていかう。


(終はり)


posted by koji at 14:31 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「こころのこよみ」とともに生きる A



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昔の人は、
四季の移りゆきに沿つた暮らしを
無意識の内にも営んでゐた。
.
.
地球の大きな呼吸に合はせるかのやうに、
季節を生きてゐた。
.
. 
春から夏にかけて、
こころを外の世に向かつて解き放ち、
秋から冬にかけては、
自分自身に向き合つてゐた。
. 
. 
現代に生きるわたしたちは、
季節に関はりなく、一年を通して、
快適に暮らすことができるやうになり、
昔とは比べやうもないほどの快適さ、
便利さを享受してゐる。
.
. 
しかし、その代償として、
昔の人が営んでゐたやうな、
自然に沿ふ生き方を失つてしまひ、
大いなる世の移り行きと、
みづからのこころの移り行きとの間に、
ハーモニーを見いだせなくなつてしまつた。
.
. 
自然と人とがバラバラになつてしまつた。
.
.
人のこころは、安らかでなくなつてしまつた。
.
.
恐れ、不安、不信、
穏やかならざるものに苛まれがちになつてしまつた。
.
. 
わたしたちは、いま一度、
自然とのハーモニーを取り戻せるだらうか。
. 
. 
春から夏にかけて、
よおくものを見るのだ。
よおく耳を澄ますのだ。
よおく動いて、働いて、汗を流すのだ。
.
.
意識的に感官(目や耳など)をより活き活きと働かせて、
覚えといふ覚えに沿ふこと。
意識的に外の世とひとつにならうとすること。
意識的に外の光とひとつにならうとすること。
.
. 
秋から冬にかけては、
ひとりきりになる。
.
.
意欲的にひとりで考へることで、
意識的に孤独の内側へと入つていく。
意識的に内の光とひとつにならうとすること。
.
. 
四季の巡りとして現れる地球の大きな呼吸プロセス。
.
.
自分自身のこころにおける精神の呼吸。
.
.
光を呼吸する。
.
.
地球と自分とのハーモニー。
.
. 
その練習の重なりが、
シュタイナーがいふ「年といふもののいのち」を
親しく感じることへと繋がつていく・・・。
.
. 
そして、そのハーモニーがなりたつていくほどに、
こころは甦る!
.
. 
そのハーモニーは、
一週一週の『こころのこよみ』と共に深められていく。
.
. 
その深める作業を、
わたしはメディテーションと呼んでゐる。
.
.
(つづく)

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「こころのこよみ」とともに生きる @



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1913年に、ルドルフ・シュタイナーは、
『こころのこよみ
(Anthroposophischer Seelenkalender)』
を出版した。
.
.
テオゾフィー協会を出て、
新しくアントロポゾフィー協会を創立した、
同じ年に。
.
. 
わたしは、この『こころのこよみ』に魅力を感じ、
その内容に取り組み続けてゐる。
.
. 
はじめは、一週一週のこよみの味はひと意味を
そこはかとなく感じてゐるに過ぎなかつた。
.
.
しかし、一年、また、一年、と時を重ねていくにつれ、
序文の中の「年といふものに、いのちがある」といふ、
シュタイナーのことばに感じ入るやうになつた。
.
.
随分と、ここに記されてゐる毎週のことばに、
感じ入るやうになつた。
.
.
年といふものに、いのちがある。
時間といふものに、いのちがある。
四季の巡りを通して、
その「いのち」を生きることのできる喜びを
感じ始めたのだ。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらう。
.
.
一年といふ周期は、
地球と太陽との関係で定まつてゐて、
この地球は、太陽に見守られながら、
「お天道様に見守られながら」
毎年規則正しくその動きを営んでゐる。      
.
.
シュタイナーは感官を凌ぐ意識をもつて、
そのことをさらに次のやうに捉えてゐる。
.
. 
人と同じやうに、
地球は、その球形の物質的な「からだ」だけでなく、
みづからのこころをもつてゐる。
みづからのいのちを営んでゐる。
.
.
そして、人と同じやうに、
精神に憧れ、
精神を宿さうとすべく、
一年一年を生きてゐる。
.
. 
地球は、太陽とのかかはりの中で、
一年ごとに大きな呼吸のプロセスを営んでゐる。
.
.
その地球のプロセスとは、春から夏にかけて、
みづからのこころを、
大いなる世、精神の世に向かつて、
息を吐き出すかのやうに、拡げていく。
それに応じて、
植物は太陽に向かつて長け始め、
花を咲かせ、緑と様々な色で地球を彩る。
.
. 
そして、地球は、夏の間、
大いなる世・宇宙に拡がり、
そこで受け取つた精神の叡智に満たされたこころを、
秋から冬にかけて、息を吸い込むかのやうに、
みづからのからだの内に納めていく。
それに応じて、
地球上の植物は枯れ始め、
彩りを失つていく。
.
. 
そのやうに、四季の巡りを通して地球は、
大きな呼吸プロセスを営んでゐる。
.
. 
「年といふもののいのち」とは、なんだらうといふ問ひ。
.
.
年とは時間の一区切りでありながら、
そこに呼吸がある。
息遣ひがある。
その伸縮、開閉、交錯を促しつつ、
リズミカルに脈打ついのちがある。
.
.
(つづく)

posted by koji at 06:56 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月26日

半沢直樹



生きてゐて、
人のこころの世ほど、
複雑怪奇なところはないと思ひませんか。


そこに一筋の光を当てることができたなら・・・。


その願ひをヴァーチャルに叶へてくれる、
『半沢直樹』🌟


今日も録画しておいたものを観る。


出てくるどの人物もすべて、
実は観てゐるこのわたしの内側に
ありありと存在してゐて、
一番複雑怪奇なのは、
この自分自身であり、
この自分自身のこころの内に、
一筋も二筋も光を当てて行かねば、
にっちもさっちも行かないところまで、
わたしも来てゐるし、
日本の社会も来てゐるのでせう。


いや、さうは言つても、
社会といふ生き物のこころの内側に光を当てる、
なんて、どうすればいい?


さう、つまるところ、
自分自身のこころに、
自分自身で光を当てて行くことだけが、
ひとりひとりの人に任されてゐる、
大いなる仕事なのだ〜



posted by koji at 08:16 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月25日

ある日 娘とカフェで



次女(小学六年生)とふたりで難波に出て、
タワーレコードへ。
 

彼女は、ここ一、二年、
音楽(ポップス)に猛烈にのめりこんでゐて、 
いまの音楽のことなら、
55歳のわたしなどより
遥かに深く広く知識をもつてゐる。
 
 
今日は視聴コーナーでたつぷり楽しんだやう。
 

その後、カフェに寄つて、彼女から、
戦争のことや近代・現代史のことを話し始め、
思はず知らずいろんな話しをする。
 
 
これからの若い人にとつて、
学校をあてにせず、
本当に自力で勉強して、
真実を見抜く力をもつことが大切だと話したとき、
すごく真剣な目をして聴いてゐた。
 
 
数千の歩きゆくすべての人が、
かうしてマスクをして歩いてゐる、
この難波の街の風景を忘れないでおかう。
 
 
そんな話しをして帰つて来ました、とさ🙆‍♂️
 



posted by koji at 06:00 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月23日

こころのこよみ(第20週) 〜享受し、消化し、仕事すること〜


 
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松本 竣介《男の横顔》

 

わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
 
世にあるものから遠ざかれば、
 
みづからにおいてみづからが消え失せ、
 
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
 
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
          
 

So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
 
 
 

秋へと少しづつ歩みを進めていくうちに、
わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、
辿りなほす作業に勤しむことができる。
 
 
暑かつたこの夏、
何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
 
 
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、
人はみづからの内で、
だんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
 
 
それは、
<わたし>の目覚めの時期が
秋の訪れとともに再び巡つてくるといふことでもある。
 
 
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
 
 
しかし、今週の『こよみ』においては、
その<わたし>の目覚め、
己れの力の強まりから生まれてしまふ危うさに対して、
バランスを取ることが述べられてゐる。

 
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ
 
 
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
(鈴木一博訳)の「条件」の章において、
「人がだんだんに
 みづからを外の世に沿はせなくして、
 そのかはりに、
 いきいきとした内の生を育むこと」
の大切さが書かれてあるが、
それはこれからの季節に
わたしたちが勤しむこととして、
意識されていいところだ。
 
 
しかし、その内の生を育むことが、
みづからの内に閉ぢこもることではないことも
述べられてゐる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
●静かに、ひとりきりで、
みづからを深める一時一時には、
みづからが生きたこと、
外の世が語りかけてきたことを、
まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。
どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、
そのやうな一時において、
思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
 
 
●享受した後に、
その享受したことから
なにかが顕れるやうにする人が、
みづからの知る才を培ひ、育てる。
その人が、きつと、
享受することだけをありのままに想ふとかではなく、
享受しつづけることを諦めて、
その享受したことを内なる働きによつて
消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
 
 
ーーーーーーーー
  
 
 
過ぎ行く現象の中で、
何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
 
 
外の世との交渉の中で、
みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
 
 
あのときの喜び、痛み、快、不快が、
何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。
さう問ふ練習。
 
 
それは、享受したこと、感覚したことを、
消化するといふこと。
 
 
そのやうな一時一時において、
「思ひもよらない秘密」があかされる道が
だんだんと啓かれてくる。
 
 
そして、もう一度、享受するといふこと、
外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
●<わたし>を世にむけて開いてほしい。
その人は、きつと、享受しようとする。
そもそも、享受すればこそ、
外の世がその人へとやつてくる。
その人が享受することに対して
みづからを鈍らせるなら、
周りから糧となるものを
取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。
しかし、その人が享受することにとどまれば、
みづからをみづからの内に閉ざす。
その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、
世にとつては意味をもたない。
その人がみづからの内においていかほど生きようとも、
みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、
世はその人を閉め出す。
世にとつてその人は死んでゐる。
 
 
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、
ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
その人にとつては、享受するといふことが、
世について教へてくれる教へ手である。
しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、
仕事へと進む。
その人が習ふのは、習つたことを
みづからの智識の富として貯へるためではなく、
習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
 
夏から秋へ、そして来たる冬へと、
<わたし>を目覚めさせていくこと。
 
 
しかし、それは、「仕事」をすること、
「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、
その人の本当の糧、本当の力になつていく。
 
 
外の世との交渉を絶たないこと。
 
 
内において、メディテーションにおいて、
外の世のことを深めること。
 
 
そして、その深まりから、
外の世に働きかけていくこと。
 
 
それが、
密やかな学びにおける筋道だ。
 
 
 
 
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
 
 
 
 

posted by koji at 17:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月18日

両親の問診時間 オンラインクラスのお知らせ



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マルク・シャガール「誕生日」


 
シュタイナー教育・アントロポゾフィー人間観の講座
『両親の問診時間』(ミヒャエラ・グレックラー女史)
オンラインクラスを開催します。
 
 
わたしたちは子どもを育てていくとき、
いろいろなことに遭遇します。
 

しかし、人間学の根本のことを
しっかりと認識していることで、
あらゆることに柔軟に、
しかし、本質を踏まえた上で、
その都度その都度、
子どもに向かい合っていくことができます。
 

様々な側面から、
人間というものを解き明かそうとする、
アントロポゾフィーの観点を
子どもの親という観点から学んで行きます。
 
 

 
●9月1日(火) 19時〜21時
 
「子どもにおける攻撃と攻撃性」
 
 
 
●9月29日(火) 19時〜21時
 
「子どもおける多動症候群について」
 
 
 
●10月27日(火) 19時〜21時
 
「愛する力に向けての教育」
 
 
 
●11月24日(火) 19時〜21時
 
「理想主義 自己教育の問いとして」 
 
 
 
以降も毎月第四火曜日に学びの会は続きます。
 
 
どうぞ奮ってご参加下さい。
 
 
 
講師: 
諏訪 耕志
 
 
 
参加費:
単発ご参加 3500円
4回連続ご参加 12000円

 
お申し込み・お問い合わせ:
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
その回の『両親の問診時間』テキストと、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 
 
 

 
 

posted by koji at 20:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月16日

こころのこよみ(第19週) 〜繰り返し勤しむ〜



小磯良平「斉唱」.jpg
小磯良平「斉唱」
 
 

秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
 
想ひ起こしつつ、包み込む。
 
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
 
それは強められた己れの力を
 
わたしの内において目覚めさせ、
 
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
          
 
 
Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
Mit der Erinn'rung zu umschließen,
Sei meines Strebens weitrer Sinn: 
Er soll erstarkend Eigenkräfte
In meinem Innern wecken 
Und werdend mich mir selber geben.  
 

 
 
先週の『こころのこよみ』にあつた
「世のきざしのことば」。
 
 
それは、まさに、秘めやかさに満ちて、
内において、その人その人が、受け取るもの。
 
 
その「きざしのことば」は、真夏の暑さの中で、
これまでの感じ方、考へ方を、
拡げ、深め、壊してくれるやうなもの。
 
 
皆さんは、この夏、
どのやうな「きざしのことば」を
受けとめられただらうか。
 
 
どのやうな「秘めやかなことば」を
聴き取られたであらうか。
 
 
もし、それを、この週、何度も何度も、
意識の上に想ひ起こしつつ、
こころのまんなかに置いてみるなら。
 
 
その「ことば」を何度もこころに包み込んでみるなら。
 
 
その繰り返し勤しむことが、
その「ことば」と、<わたし>を、
だんだんと、ひとつにしていく。    
 
 
「世のことば」が、
「わたしのことば」になつていく。    
 
 
地味だけれども、
そのやうな繰り返しの行為こそが、
<わたし>の力を強めてくれる。
 
 
わたしのわたしたるところが、
だんだんと、目覚めてくる。
 
 
今週の「こころのこよみ」に沿つて練習すること。
 
 
それは、秋からの、
新しい<わたし>への、
備へとなるだらう。
 
  

 
秘めやかさに満ちて新しく受けとめたものを
想ひ起こしつつ、包み込む。
それがわたしの勤しみの、さらなる意味となれ。
それは強められた己れの力を
わたしの内において目覚めさせ、
そして、
だんだんとわたしをわたしみづからに与へていくだらう。
 
 

posted by koji at 08:34 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月14日

基礎練習といふものの意味



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二十六年ほど前からわたしは、
言語造形といふ芸術に携はり始めたのですが、
基礎練習を、
本当に毎日、毎日、
繰り返しすることができてゐるのは、
我ながら不思議な感じがします。
 
 
それまでは、
つまり二十代までのわたしは、
ひとつのことを継続してやれた験しがなかつた(-_-;)
 
 
ですから、何かを継続できる、
その意志の力といふものは、
無理強ひして育つやうなものではなく、
この人生を越えたところから導かれる力であり、
継続してすることのできる何かは、
向かうからやつてくるものだと思ひますね。
 
 
しかし、それはさうとしても、
子どもの頃、たくさん遊ぶといふことは、
意志の力の育みにおいて、
とてもたいせつなことです。
 
 
そして、理想を言へば、
シュタイナー教育のやうに、
小学校時代に、芸術を通して、
繰り返し、繰り返し、創ることに挑むことができたら、
さぞかし、その人の意志の力は強まり、
感覚し、感じる情の力は豊かになる、
さらには、大人になるプロセスにおいて、
本当に行きたいところへ行くことができ、
会ひたい人に会ふことのできる、
その力が強まる、
さう思ひますねえ。
 
 
さて、わたしの基礎練習には、
40分から1時間ぐらゐ掛かります。
 
 
基礎練習をすることによつて、
芸術といふ仕事に必要な、
様々な要素が見えてくるのです。
 
 
歳を追ふごとに、
その基礎練習に対する感覚に、
深みが加はつてくることを感じるのですが、
以前は、汗を一杯かいてやり終へた後の、
「なすべきことをしてゐる」といふ、
充実感がずつと嬉しかつたのです。
 
 
しかし、ここ半年ほどは、
その基礎練習をすることそのことの中に、
喜びと楽しみを感じ始めました。
 
 
なんと、遅い、とても遅い、成長でせう!
 
 
これは、わたしにとつて、
とてもゆつくりと進行してきた、
ひとつの内なる変容、
大袈裟に言へば、
ひとつの小さな大革命(?)です。
 
 
どの芸術、どの仕事にも、
その営みを根底で支へてゐる、
基本の型といふものがあります。
 
 
仕事をする際に、
その型をいかに崩さないか。
 
 
そして、その崩れない型の中に、
いかに豊かで深い色合ひと調べが息づいてゐるか。
 
 
そのやうな型が身についてゐるからこそ、
仕事の対象に対する感覚が研ぎ澄まされて来ますし、
だからこそ自由自在に羽ばたくやうに仕事ができる。
 
 
そして、その型自体が、
長いときをかけてゆつくりと成長して行く。
 
 
どの仕事においても、
そのやうな基礎練習に支へられてゐる型が、
あるのではないでせうか。
 

むしろ、積極的に、
見いだして行つていいものだと思ひます。
 
 
 

posted by koji at 14:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月12日

両親の問診時間の会 @ 滋賀・草津



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滋賀シュタイナーこども園そら
のお母さん、お父さんが中心になって集まっている、
シュタイナー教育・アントロポゾフィー人間観の講座
『両親の問診時間』(ミヒャエラ・グレックラー女史)を
一講ずつ、毎月、集まつて学んで行きます。
 
 
子どもの親として自己教育を始めると共に、
この機会に、
こども園そらのことも、
ご父兄の方々から色々とお話も伺うことができますよ。
 
 
滋賀近郊で、
シュタイナー幼児教育にご関心のおありになる方、
ぜひ、この機会に!
 
 
今月からの四回のテーマです。
 
 
時間は、いずれも10時から12時半までです。
 
 
 
●8月18日(火)
 
「子どもにおける攻撃と攻撃性」
(この日は子どもたちへの昔話の時間もあります)
  
 
 
●9月15日(火)
 
「子どもおける多動症候群について」
 
 
 
●10月20日(火)
 
「愛する力に向けての教育」
 
 
 
●11月17日(火)
 
「理想主義 自己教育の問いとして」 
 
 
 
以降も毎月第三火曜日に学びの会は続きます。
 
 
保育(有料)も受け付けいたします。
どうぞ奮ってご参加下さい。
 
 
 
講師: 
諏訪 耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
 
場所:
滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただきました方に詳しくお知らせします)
 
 
 
参加費:
単発ご参加 3000円
4回連続ご参加 10000円
講師の交通費(大阪市内玉出駅・南草津駅間)を
その日の参加者で頭割りしてご負担していただいています。
どうぞご了承下さい。
 
 
 
お申し込み・お問い合わせ:
諏訪 https://kotobanoie.net/access/
筒井 聡子さん
https://www.facebook.com/satoko.tsutsui.1
 
 
 
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2020年08月09日

こころのこよみ(第18週) 〜新しい衣(ころも)〜


 
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藤島武二『蝶』


 
わたしはこころを拡げることができるのか、
 
受けとつた世のきざしのことばを
 
己れと結びつけつつ。
 
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
 
こころをふさはしくかたちづくり、
 
精神の衣へと織りなすべく。
 
           
 
 
Kann ich die Seele weiten,               
Daß sie sich selbst verbindet               
Empfangnem Welten-Keimesworte ?           
Ich ahne, daß ich Kraft muß finden,           
Die Seele würdig zu gestalten,              
Zum Geisteskleide sich zu bilden. 
 
 
 
 
前の週の『こよみ』において、
世のことばが語りかけてきた。
 
 
「わたしの世のひろがりをもつて、
 あなたの精神の深みを満たしなさい」と。
 
 
夏の世の大いなるひろがり、
それに沿ふことができたなら、
それは沿ふ人に、
これまでの生き方、考へ方、感じ方を
越えるやうなものを、
「贈りもの」として与へてくれる。
 
 
これを読んでくださつてゐる皆さんには、
どのやうな「夏の贈りもの」が贈られただらうか。
 
 
その「贈り物」を受け入れる器。
 
 
その器が「こころ」であるならば、
わたしはみづからにあらためてかう問ふことになる。
 
 
「わたしはこころを拡げることができるのか」
 
 
その問ひに応へていくことが、
この夏から秋へと移つていく時期のテーマだと感じる。
 
 
新しい考へ、価値観、ライフスタイル、
人生観、世界観、それらを「己れと結びつけつつ」。
 
 
しかし、その結びつけは、きつと、
外からの結びつけではなく、
内からおのづと生じてくる結びつきになる。
 
 
夏といふ季節を精神的に生きる。
 
 
それは、
こころをこれまでよりも拡げることである。
 
 
「わたしは予感する、きつと力を見いだすことを」
 
 
それは、こころを拡げ、
こころを、精神から織られた衣(ころも)にする力。
 
 
衣(ころも)とは、万葉の昔から、
「恋衣」「旅衣」「染衣」のやうに、
深く、活き活きと、しみじみと息づく、
生活感情を言ふことばとしてよく使はれてゐたさうだ。
(白川静『字訓』より)
 
 
「ころも」も「こころ」も、
三つの o の母音から成り立つ、やまとことば。
 
 
それは、本来、精神から凝(こご)るものとしての動き、
わたしたちのからだにまとふものとしての動きを、
音韻として顕はにしてはゐないだらうか。
 
 
こころといふものが、
精神といふわたしのわたしたるところ・
わたしの芯〈わたしはある〉から、織りなされる。
 
 
そして、からだにまとふ衣となつて、
身のこなし、振る舞ひのひとつひとつに顕はれる。
しなやかに、柔らかく、輝きつつ。
 
 
そんな内なる力をきつと見いだす。
 
 
この夏から秋の初めにかけてのテーマであり、
学び続けてゐる人への励ましでもあるだらう。
 
 
 

わたしはこころを拡げることができるのか、
受けとつた世のきざしのことばを
己れと結びつけつつ。
わたしは予感する、きつと力を見いだすことを。
こころをふさはしくかたちづくり、
精神の衣へと織りなすべく。
 
  
 
 

 
 
 



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2020年08月07日

健やかな意識を失はず






小池知事がああ言つてゐる、
吉村知事がかう言つてゐる、
安倍首相が言つてゐる、
また全く違ふことを言ふ人がゐる、
一体、誰が言つてゐることが本当のことなのか。 
 
 
しかし、次のやうなことが言へると、
思はざるをえません。
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 
 
 
ドイツの建設大臣とフランスの大臣との立場に
どんな相違があるかとか、
どちらの論拠を正しいと思ふかとかは、
すべてたわごとです。
 
 
現代文明の進歩に関はるためには、
そんなことが大事なのではなく、
なぜ誰かが不正直な態度をとるのか、
なぜ別の誰かが別の不正直さを示してゐるかを、
よくしらべることがたいせつなのです。
 
 
わたしたちの時代は、
語ることばの内容に何の意味も見いだせず、
そこに支配してゐる力だけが意味をもつてゐます。
そのやうな時代にわたしたちは生きてゐます。
 
 
今日、
誰かがアントロポゾフィーを意識の中に取り入れて、 
あちこちのアントロポゾフィーの集ひに
出かけたとします。
 
 
その人は、人間を見いださないでせう。
見いだすのは、閉ざされた、
ごく狭い場所を動き回つてゐるモグラたちばかりです。
彼らは狭苦しい場所の中で、考へてゐます。 
そしてその考へをその範囲を越えて拡げようとしません。
その場所以外のところに関心を向けようとは、
全く思はないのです。
 
 
わたしたちがこのやうな、
モグラ的生き方を克服する可能性を見いだせず、 
常に同じところで同じ判断を繰り返すだけなら、
そのやうにして、
19世紀から20世紀初頭の時代に呪縛されてゐるだけなら、 
悲惨な状況から脱け出す仕事に加わることはできないでせう。
 
 
(ルドルフ・シュタイナー 
 1921年6月17日 シュテュットガルトにて)
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
 
百年前の中部ヨーロッパにおける状況と、
いまのわたしたちの状況とが、
全く重なつて見えてしまひます。
 
 
アントロポゾフィーなどの精神的な学びの場に、
起こりがちなことも、
シュタイナー在世当時からしつかりと起こつてゐたのでした。
 
 
ここで語られてゐる「力」といふものは、
目には見えず、
多くの人といふ人の内側に巣食ひ、
隣近所の人、
そして、大衆を動かすのですね。
もちろん、
この自分自身をも動かさうと強烈に働きかけてきます。
 
 
しかし、わたしたちは、
この「力」といふものに引きずり廻されてゐる、
この悲惨な状態から、
きつと、脱け出すことができます。
 
 
電車の中で、
マスクをしてゐないわたしを
睨み付けてくる人がゐる中で、
かう考へます。
 
 
この百年の間に、
わたしたちひとりひとりは、
どこまで目覚めた意識を獲得できたか。
 
 
得体の知れない「力」に目を注ぎつつ、
健やかな意識を失はず、
朗らかに生きて行くための、
こころの力。
 
 

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2020年08月03日

9/19〜9/22 言語造形・連続講座 実践と理論



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秋の言語造形・連続講座のお知らせです。 
 
 
わたしたちは、
フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、
ことばを話してゐるのではありません。
 
 
エーテルのからだ、
アストラルのからだ、
そして、〈わたし〉といふ、
目には見えないところをこそ使つて、
言語生活を営んでゐます。
 
 
そのことを感じながら、
意識しながら、
ことばを話す練習をしませう。
ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。
 
 
書かれてゐる文字に、
息を吹き込みませう。
命を吹き込みませう。
そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。
 
 
それは、ことばを甦らせ、
わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。

 
午後は、ルドルフ・シュタイナーの講演録
『言語造形と演劇芸術』を読み深めます。
 
 
四日間の連続講座だからこそ、
日常を突き抜けて、
こころの奥深く、
からだの奥深くに、
芸術が働きかけます。
 
 
身体まるごとを使ひ、
こころまるごとを注ぎ込み、
そんな言語造形といふことばの芸術に、
わたしと共に取り組みませんか。
 
 
そして、言語造形に勤しむ人になりませんか。
 
 
講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時:
令和二年9月19日(土)より22日(火・祝)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで
 
 
場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円
 
 
 
お振り込み:
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
 

お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
コロナウイルス禍による社会の混迷があれど、
わたしたちは粛々と芸術に勤しみ続けます。

 
 

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2020年08月02日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜


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世のことばが語る、
 
そのことばをわたしは感官の扉を通して
 
こころの基にまでたづさへることを許された。
 
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
 
 わたしの世のひろがりをもつて。
 
 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
  

Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  
 
 

 
閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
 
「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
  
 
「閑さ」はどうだらうか。
「閑さ」は、耳を傾けることによつて、
聞き耳を立てることによつて、
初めて聴くことができるものではないだらうか。
 
 
「閑さ」とは、本来、
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものではないだらうか。
 
 
芭蕉は、「蝉の声」を通して、
「閑さ」を聴いたのだらうか。
「閑さ」を通してあらためて、
「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
 
 
そして、芭蕉は、
「蝉の声」の向かうに、
「閑さ」の向かうに、
何を聴いたのだらうか。
 
 
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、
己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを
「おくのほそ道」に記した。
 
 
それは、
芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
 
 
 
 
この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
 
 
わたしもことばを語る。
 
 
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。
「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
 
 
その「ことば」は、
この肉の耳には聞こえないものである。
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたづさへることを許された」
ことばである。
 
 
 

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』より
  
 
 人が人といふものの中心を
 いよいよ人の内へと移す。
 
 
 人が安らかさの一時(ひととき)に
 内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
 
 
 人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
  
  
 人が日々のものごとから遠のいてゐる。
  
  
 日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
  
 
 その人の周りが静かになつてゐる。
  
 
 その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
  
 
 その人が、また、
 そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
 遠のける。
  
 
 内において安らかに見遣るありやう、
 紛れのない精神の世との語らひが、
 その人のこころのまるごとを満たす。
  
 
 静けさからその人への語りかけがはじまる。
  
 
 それまでは、
 その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
 いまや、その人のこころを通して響きくる。
  
 
 内なる言語が ―内なることばが― 
 その人に開けてゐる。
  
 

 
この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。
 
 
 あなたの精神の深みを満たしなさい、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。
 
 
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。
この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/472735195.html
 
 
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。
 
 
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、
四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを
詠つた人である。
 
 
彼はいまも、
夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、
静けさを聴き取り、
その静けさの向かうに、
「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
 
 
 
 

世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
 
 
 

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2020年07月31日

7/27 普遍人間学第四講 レポート t.m.さん


 
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本を繰り返し読むといふこと。
 
 
講義を聴くといふこと。
 
 
そして自分自身のことばに鋳直していくといふこと。
 
 
その地道な作業は、
決して知的なだけの作業なのではありません。
 
 
それは、意志の作業であるがゆゑに、
おのづから情をも育みます。
 
 
知に取り組む。
それを何度も繰り返す。
そして、これまで以上にしみじみと感じる。
 
 
これらの作業の繰り返しが、
「学び」といふものではないでせうか。
 
 
そして、
人は学ぶことで、
何を求めてゐるのでせうか。
 
 
その「動機」は?
 
 
そこに静かに響いてゐる「願ひ」は?
「はからひ」は?
「つもり」は?
 
 
齢を重ねていきつつ、
学ぶ朋(とも)の間で、
その精神の趣きを分かち合つていきたいのです。
 
 
諏訪耕志
 
 


 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
【t.m.さんのレポート】
 
 
 
今回は人間の「意欲」とは、一体何かということについて、学んでいきました。
 
 
私自身、現在の教育現場で子どもたちに一番大切に育むべきものは、「意欲」ではないだろうかと、ここ数年は実感していました。
 
 
ただ、それは学ぶ意欲であったり、世界への好奇心であったり、子どもたちがワクワクして学ぶ場所はどうやってつくられるのか、といった私の思う日本の教育の課題の1つとして存在していました。
 
 
では、意欲とはなんぞや?と言われても、そんなこと考えたこともなく、「意欲」は「意欲」でしょう。と丸ごと1つに考えていたのです。
 
 
だた、今回人間の「意欲」というものについて見ていくと、それはこの肉体が生まれてから死ぬまでの間、段階的にずっと育っていくものだということに気づかされたのです。
 
 
なるほど、確かにそうであるなと実感せざるを得ませんでした。
 
 
意欲には、7つの段階がある。
 
 
生まれてから だいたい7年間隔で人の成長をみていくのがシュタイナーの人間観ですが、それに沿って意欲の種類も、変化、成長していくのです。
 
 
0〜7歳  本能
7〜14  もよおし
14〜21 欲
21〜28
28〜35  動機
35〜42
42〜49 願い
49〜56 はからい
56〜63 つもり
 
 
これだけ書いても、わかりませんが、意欲にはこの7つの種類があり、その意欲の質を年齢とともに理解することができます。
 
 
つまり、赤ちゃんの「意欲」と学童期の「意欲」は違うものなのです。高められつつ意識に引き上げられつつ成長しているのです。意欲の成長というのはあまり聞いたことはないですね。
 
 
赤ちゃんの意欲「本能」は全て外側に現れます。それは、無意識です。おなかが空いたら泣く、心地悪かったらぐずる。そういう形で外にすぐに現れます。
 
 
でも小学生くらいになると、「ああお腹がすいたな」ということを自分でつかむことができ、伝えることができます。待つことができます。すぐに泣いて欲しがったりしません。これがこの時期の「もよおし」の意欲です。自転車に乗れるようになるということもそうです。
 
 
何かしたいことが「もよおし」として内面化され、そして待ち望んだことをやり遂げる、一貫した意欲です。
 
 
そして、思春期から青年期にかけて、意欲は「もよおし」が「慾」に仕立てられます。
 
 
これは、また質が違ってきて、感性豊かなの時期を生きる若者たちならではの「慾」です。意識に上がっては、またすぐに消えさる、または揺れ動く、「感情」に深く関わる時期だからこそ、そのような意欲の形、「慾」がしたてられていく。それは一人一人違った慾です。私はこれが好き、僕はこれが好きというその人ならではが生き始めます。
 
 
そして、ここからが、人間にしかない意欲の領域です。
動物にはここから先はないのです。
 
 
「慾」が「動機」に仕立てられていきます。
 
 
この「動機」は、人間の21歳から42歳までの時期(7年を3回)にあたります。ここだけ、21年もかかっているのは、なぜなのでしょうか?この時期は人間を「からだ」、「こころ」、「精神」という3つに分けてみたときの、「こころ」の領域を育む時期です。
 
 
この「こころ」の領域にそれまでの0歳から21歳の「からだの領域」の「本能」「もよおし」「慾」という意欲が取り入れられます。そのときに、意欲はどのように仕立てられるのか。
 
 
このときの「動機」という意欲は、こころ、つまり「わたし」がそれまでの自分の意欲をより詳しくつかむことで、より
 
 
「わたしというものが何者か」
「わたしのわたしならではのところは何か」
「自分が為そうとしていることはなんなのか」
 
 
という本質的な自分自身が見えてくることだと思います。
それは、それまでの意欲がこころの領域に取り込まれ、「考える」ことを通して「動機」へと高まるのです。
 
 
「動機」は「考える」ということを通して掴まれる意欲です。まさに、「考える」ことができるのが、人間と動物の大きな違いです。
 
 
ここが、人のなりたちの中で意欲の質が人間ならではの意味を持つところかもしれません。
 
 
しかし、人が「動機」を繰り出すとき、それだけではなく、そのもとに何かが静かに響いています。
 
 
その静かに鳴り響いているものが、「願い」というものです。
 
 
「願い」は精神の領域から鳴り響く意欲です。
 
 
「動機」から何かをなすときに、さらによく為す、あるいは間違えて為す「願い」が、「動機」意欲の下にいつも鳴り響いています。
 
 
「願い」というと、うまく為すことへの思いのような気がしますが、この場合、間違えることへも響く「願い」なのです。
 
 
それは、うまくやりたいことが成功しても、そこで満足するのではなく、さらによく為すためにどうしたらいいか考えること。
 
 
また、うまくいかず間違えたり、失敗したときも悔やむのではなく、そこから学び、さらによく為すために考えて行動することが、失敗を悔やむよりずっと大きな価値のあることなのだということ。
 
 
すべてに意味を見出し、成長し続けることが、下意識のもう一人の「わたし」の「願い」なのです。
 
 
きっと、そういう願いが、自分のうちになり響いていることを知る人は、どんな人生の荒波も、自分の糧として生きることができるのではないでしょうか。
 
 
そして、「動機」をさらによく為そうという意欲において、「願い」が「はからい」へと仕立てられ、「はからい」も静かに響き始めます。
 
 
これはもう、無意識の世界、意識化されないところで、下意識の「わたし」が人生の道をしいている、大いなる「はからい」です。
 
 
考えて動くのではなく、「なんとなくここへ行きたい。」とか「何度もこの人と出会ってしまう」といった、偶然のような「はからい」です。
 
 
最後に、こころがからだと解き放たれるようになって、その「はからい」が「つもり」となります。
 
 
「はからい」が兆しのようにこころに響き続け、そこに「つもり」が続きます。
 
 
「つもり」は今生のテーマです。生まれる前から死んだ後も、きっと鳴り響いている。
 
 
それは、「わたしはなぜ生まれてきたのか、わたしは何のために生きているのか」という問いの答えなのかもしれません。
 
 
「つもり」それは、この生のうちだけでつかむことができないものかもしれません。
 
 
しかし、確実になり響いている。
 
 
「本能」「もよおし」「慾」というからだの領域から仕立て上げられる意欲と、
 
 
「願い」「はからい」「つもり」という精神の領域からなり響いてくる「意欲」が、
 
 
交わり合うこころの領域の意欲、「動機」。
 
 
「動機」は、下意識の「わたし」の意欲の響きに耳を澄ませることで新たに湧き出る泉のように、さらにやまない意欲が生まれるのではないか?
 
 
大いなる「願い」「はからい」「つもり」が人間誰しも、なり響いていることを忘れないでいたいと思います。
 
 
(t.m.)
 
 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 


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2020年07月30日

二週間に一度、やつてゐます😊土曜朝10時アントロポゾフィークラス・オンライン



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オンラインの講座と言へども、
そこは、人と人とが、
顔と顔とをつきあはせて交はる場です。
 
 
教育において、
教師の語る、ことばの響きの質、
息遣ひによる解放と収縮、
ことばのリズム、
間(ま)の取り方、
それらがとてもたいせつであることを、
シュタイナーは語つてゐます。
(普遍人間学講座の午後に行はれた『ゼミナール』において)
 
 
このオンラインの講座においても、
そのことをたいせつにしながら、
ことばの空間を打ち披くやうな時間にしたいと、
願つてゐます。 
 
 
土曜朝の『普遍人間学』クラスは、
いま、第三講に入つてゐます。
もちろん、途中からのご参加でも大丈夫です。
 
 
ご関心のあられる方、
どうぞ、奮つてご参加下さい。
 
 
詳しくは ↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/476000622.html
 

 
 
●8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
●8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 

以降、9月12日、26日、10月10日、24日・・・と続きます。
 
 
 
 

 

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2020年07月27日

精神の喜び



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昨日までの四日間連続の講座、
『言語造形 実践と理論』。
 
 
そして、今日の、
『アントロポゾフィー・ゼミクラス』。
 
 
精神の喜びこそが、
人を甦らせるのですね。
 
 
ことばが語られ、
そのことばが真摯に受け止められる。
 
 
さうすると、
ことばが喜んでゐるのがよく分かります。
 
 
ことばを司る精神の方々が喜んでをられることが、
よく感じられます。
 
 
ことばが、空間の中で、オンライン上で、
活き活きと踊り出すのです。
 
 
アントロポゾフィーとは、
そんなことばの芸術でした。
 
 
そんなことばのやりとりに、
身をもつて跳び込んで来てくれる、
皆さん、おひとりおひとりに、
本当にこころから感謝します。 
 
 
ありがたう!
 
 

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2020年07月26日

こころのこよみ(第16週) 〜黙ることのアクティビティー〜


 
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精神からの贈りものを内に秘めよと、
 
我が予感がわたしに厳しく求める。
 
それによつて、神の恵みが熟し、
 
こころの基において豊かに、
 
己れであることの実りがもたらされる。
 
        
 

Zu bergen Geistgeschenk im Innern,   
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
Daß reifend Gottesgaben
In Seelengründen fruchtend
Der Selbstheit Früchte bringen.  
 
 

 
ことばを話すことよりも、
さらにこころのアクティビティーを使ふのは、
黙ること。
 
 
沈黙を生きることを大切にすることによつて、
生がだんだんと深まつていく。
 
 
この沈黙とは、
こころが滞つてゐるがゆゑではなく、
アクティブにこころを慎むところから生まれる沈黙である。
 
 
話すことをやめるのではない。
 
 
ことばと、
そのことばを話さうとしてゐる己れと、
そのことばを聴かうとしてゐる人を、
大切にしたいからこそ、
ことばを迎へ、
ことばを選び、
ことばを運ぶのである。
 
 
ことば。
ことばを話す人。
ことばを聴く人。
 
 
その三者の間に世の秘密が隠れてゐて、
そこにこそ、
精神からの贈りもの(神の恵み)が降りてくる。
 
 
そこにこそ、
豊かさと貧しさの根源がある。 
 
 

 
 
精神からの贈りものを内に秘めよと、
我が予感がわたしに厳しく求める。
それによつて、神の恵みが熟し、
こころの基において豊かに、
己れであることの実りがもたらされる。
 
 
 

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2020年07月22日

意味よりもリズムを われらが萬葉集 その一


 


 
 
我が国最古の抒情歌集『萬葉集』。
 
 
その開巻第一首目の歌、
第二十一代・雄略天皇による長歌を
歌はせていただきました。
(訓みは、土佐の国学者・鹿持雅澄のものです)
https://youtu.be/TTRcCkYLQvE
 
 
籠もよ み籠持ち 
堀(ふ)串(くし)もよ み堀串持ち
この丘に 菜摘ます子 
家告(の)らせ 名のらさね
そらみつ 大和の国は 
おしなべて 吾(あれ)こそ居れ 
しきなべて 吾(あれ)こそ座(ま)せ 
吾(あ)をこそ 夫(せ)とは告らめ 家をも 名をも
 
 
なんと、恋の歌です。
野に若菜を摘む、をとめに対する求婚の歌です。
 
 
我が国において、
精神文化の中心であり、かつ、
神と通じる霊的な役割を荷ひ続けられる天皇様が、
をとめに恋をし、結ばれ、御子をお生みになること、
それは、国といふ共同体が弥栄に栄へゆくための、
とても、とても、たいせつなことなのでした。
 
 
だからこそ、
『萬葉集』の第一首目なのです。
 
 
言語造形による朗唱。
 
 
ことばのひとつひとつの意味よりも、まづ、
短短長、短短短長・・・
と重ねられる響きのリズムと母音の広がり、
それらの音楽的要素を感じてみませう。
 
 
その、上昇していくおほらかな調べは、
この歌を口ずさむたびに、
わたしをまるで桃源郷の世界へと、
いざなふやうなこころもちにさせるのです。
 
 
共に味はつていただくことができればなによりです。
 
 
 
 
 
なぜ、『萬葉集』といふものが、
この世に生まれたのか。
 
 
それは、当時の日本が危機に直面してゐたからです。
 
 
我が国の先祖伝来の精神文化が、
隣の大国・唐からの最新の文化・文明に、
駆逐されさうになつてゐたからです。
 
 
ご先祖様から受け継いできたものの考へ方、
暮らしの立て方、人生の送り方、
そして、何よりも、古くからのことば遣ひ、
それらが失はれさうになつてゐたからです。
 
 
明治の文明開化の約一千年前にも、
同じやうな深刻な矛盾を、
我が国は抱えざるをえなかつたのです。
 
 
『萬葉集』は、
古くからのことばに対する信仰、
ことばに対するたいせつな感覚を保持し、
未来永劫の日本民族に、
そのことばの美、言霊の力、言語芸術を、
なんとか残さうとして、
大伴家持によつて編まれたものです。
 
 
この『萬葉集』が編まれたことによつて、
その後も辛くも、
日本は日本であり続けることができたのだ、
さうわたしは確信してゐます。
 
 
 

2020年07月20日

二週間に一度、やつてゐます😊 土曜朝10時 アントロポゾフィークラス・オンライン



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ヨハネス・フェルメール「天秤を持つ女」

 
 
ご感想を寄せて下さつた、
冠木 友紀子 (Yukiko Kabuki)さん
 
 
本当にありがたうございます。
 
 
アントロポゾフィー界(不思議な「界」です😉)と、
自己啓発の文脈に沿ひながらも弱肉強食モード丸出しの
アメリカ流ビジネスエリートへの登竜門へ!といふ界、
(冠木さん、鋭い👍)
その間に立つて、
アクティブに、かつ大変率直に、
そしてどこまでも誠実に、
英語・日本語の間の
通訳と翻訳のお仕事をされてゐらっしゃいます。
 
 
あまりにも極端な唯物的世界観、
あまりにも極端なスピリチュアル的世界観、
そのどちらかに傾き過ぎるのではなく、
その真ん中に立つ、
彼女の立たれてゐる位置は、
極めて、現代的、未来的です。
 
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
  
 
 
諏訪先生のアントロポゾフィークラスでは、
毎回慰めと励ましの宝物をいただいています。
 
このクラスは「普遍人間学」を
自分の外にある対象として解説する講座ではありません。
 
諏訪先生が身をもって語られるのは、
「普遍人間学」を愛し、生きるご自身の姿そのもの。
 
だから生き生きと心に響きつづけるのしょう。
 
新コロ騒動のおかげで恵まれたこの機会を心から感謝します。
 
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
土曜朝の『普遍人間学』クラスは、
いま、第三講に入つてゐます。
もちろん、途中からのご参加でも大丈夫です。
 
 
ご関心のあられる方、
どうぞご参加下さい。
 
 
イベントページ ↓
https://www.facebook.com/events/2684563145161610/
 

 
 
●8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
●8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 

以降、9月12日、26日、10月10日、24日・・・と続きます。
 
 
 
 


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2020年07月19日

こころのこよみ(第15週)〜子どものやうに生きる〜


 
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わたしは感じる、
 
まるで、世の輝きの中に、
精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
 
それはぼんやりとした感官において、
 
わたしのわたしなりであるところを包む。
 
わたしに力を贈るべく、
 
その力を力無き己れに授けるのは、
 
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
 
 
Ich fühle wie verzaubert          
Im Weltenschein des Geistes Weben.    
Es hat in Sinnesdumpfheit        
Gehüllt mein Eigenwesen,        
Zu schenken mir die Kraft,        
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,   
Mein Ich in seinen Schranken ist.     
 
 
 
子どもの頃や若者である頃と違つて、
わたしたちは歳をとるにしたがつて、
自分自身といふもの、
わたしの意識といふもの、
自意識といふものを、
大事にするやうになるので、
夏になると、それらが魔法にかかつたやうに包まれ、
力無く眠りこまされてゐるやうな感覚に陥り、
困惑してしまふ。
わたしのわたしたるところ、
わたしの<わたし>が、
囲ひの中にあるやうに感じてしまふのだ。
 
 
しかし、かうしたありようが、
この季節特有の、
かりそめのものだといふことを知つてゐるならば、
わたしたちは困惑から抜け出ることができる。
 
 
このぼんやりとしたありやう、
焦点が絞られてゐないありやう、
それは、大きく広がりをもつた意識であるからこそ、
そのやうなありやうであり、
この意識の大きさ、拡がりからこそ、
力が授けられようとしてゐる。
だから、ぼんやりとした感官のありやうを、
思ふ存分、生きればいい。
 
 
夏のこの季節、頭ではなく、手足を使ふことで、
大いなる世と繋がることに勤しむこと。
ある意味、子どものやうに生きること。
さうすることで、
ぼんやりとしたありやうであるかもしれないが、
人は大いなる世から力を授かる。
 
 
たとへ、いま、
その力の贈り手であるわたしの<わたし>が、
魔法にかけられ、囲ひの中にあるとしても、
そのやうに手足をもつて生きることが、
来たる秋から冬に向けての備へとなる。
 
 
わたしの<わたし>が力に満ちたものになりゆく、
来たる秋から冬へと。

 
 
 
わたしは感じる、
まるで、世の輝きの中に、
精神が魔法にかけられて織り込まれてゐるやうだ。
それはぼんやりとした感官において、
わたしのわたしなりであるところを包む。
わたしに力を贈るべく、
その力を力無き己れに授けるのは、
囲ひの中にある、わたしの<わたし>。
 
 
 
 

posted by koji at 19:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月16日

見る、考へる、そして、身を捧げる 〜トーマス・マン「魔の山」を読んで〜


 
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書くわたし自身が、
こころの練習をすることができることもあつて、
拙くもかうした読書ノートをつけてゐます。
 
 
また、ことばの仕事をしてゐるからか、
このノートを読んで下さる方と、
読書による言語芸術の魅力の味はひを、
少しでも分かち合ふことができたら、
といふ身の上知らずの希ひがあります。
 
 
トーマス・マンの『魔の山』を読み終へました。
 
 
マンは、
この作品を十二年といふ長い歳月をかけて書きました。
 
 
わたしは、ゆつくりと読みました。
 
 
それなりの時をかさね、
この作品の精神に沿はうとこころみ、
主人公の青年ハンス・カストルプと共に、
本の中に続くこころのあぜみちを、
わたしも歩いたのでした。
(みちの両側には、
 次々に色合ひの異なる様々な人物が登場し、
 それぞれの色合ひの作物を、
 豊かにも、貧しくも、稔らせてゐるのでした)
 
 
そのみちは、たいがいはぬかるんでゐましたが、
そのぬかるみをまどろこしく感じた時もあれば、
その土壌の柔らかさ・温かさに、
こころの落ち着きと、
このみちを歩いてゆくことに間違ひはないといふ、
確かさとリアリティをも感じたのでした。
 
 
わたしも長い時をかけて読んだためかもしれません、
最後の頁に辿り着いたとき、
肚の底からこみ上げてくる嗚咽と、
深く暗い淵をのぞきこむこころもちに、
ずつと包まれてしまひました。
 
 
しかし、その時間が停止するときの手応へは、
わたしがずつと求め続けてゐるものでした。
 
 
文庫本、上下巻千五百頁にわたる作品であるゆゑ、
再読し尽す時間はもうないかもしれませんが、
この作品の精神が、
わたしの精神に響き続けることは確かに感じます。
 
 
その精神とは何でせう。
 
 
主人公を通して、
人の三つの機能が、
長い、長いときをかけて溶け合ふことの奇跡です。
 
 
見る。考へる。そして、身を捧げる。
この三つの機能です。
 
 
長いときをかけて、
その三つの機能を溶け合はせた果てに、
人は花を一輪咲かせて、
この世を去ります。
  
 
千五百頁の最後に至つて、
人といふものの、その美しさを語り切る。
 
 
それが、この作品の精神だと感じたのです。
 
 

posted by koji at 18:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ご案内 7/23〜7/26 真夏の連続講座 「言語造形 その実践と理論」



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ルドルフ・シュタイナーの妻であり、
仕事の上での掛け替へのないパートナーでもあつた、
マリー・シュタイナーが、
言語造形といふ芸術について、
見事に言ひ表はしてくれてゐます。
 
 
この文章を読むたびに、
自分たちがやつてゐること、
やらうとしてゐることを、
これほどまでに芸術的に、
ことばに言ひ表はすことのできるマリーに、
本当に感嘆するしかないのです。
 
 
この夏、言語造形の世界にどつぷりと浸つてみませんか。 
 
 
詳しくは、こちら  ↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/475512492.html

 
―――――――
 
 

ことばの癒す力、
魔法の力を感覚できる日が、
きつと、やつて来る。
 
 
それは、気高い仕事である。
 
 
呼吸に於いて生きる、
呼吸を造形する、
呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
 
空気のエーテルの、
上音と下音の、
ウムラウトの響きに於ける
こよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、
微妙この上ない物質に於ける生みなし。
それらは、まこと、気高い仕事である。
 
 
そのまことは芸術の線に相応し、
その線は意欲の向きとして途切れてもならず、
動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
 
そもそも、言語は流れる動きであり、
内なる音楽に担はれ、
彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、
高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、
そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、
ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、
アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
 
ことばの線、それは動きに担はれ、
ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
 
その芸術としての線が、
人を突き動かし、
アクティブにし、
燃えたたせるところであり、
精神からインスパイアされ、
芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
 
その線がこわばつてはならない。
間(ま)においてもである。
間は欠かせないもので、線を造形する。
線が間でふたたび精神に浸され、
新たな勢ひを取りこむ。
 
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、
線の動きが殺がれ、
つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
 

―――――――

posted by koji at 13:29 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月13日

精神との通ひ路(みち)

 
 
Figura-2-Mujer-ante-el-sol-poniente-Fuente-Friedrich-1818.png>
Caspar David Friedrich「Frau in der Morgensonne」

 

言語造形のクラスをさせてもらふ仕事も、
だんだんと新しく生まれて来ました。
 
 
この仕事を始めたのが、
二十年ほど前なのですが、
いま、その時に戻つたやうな、
いや、むしろ、
全くのゼロから始める、
デビューしたてのやうな気持ちが
溢れて来る日々なのです。
 
 
この感慨は、
このたびのウイルス騒ぎによる社会の停滞が、
わたしにもたらした「恩恵」です。
 
 
「初心に帰る」といふことは、まさに、
「死ね。そしてふたたび生きよ」
といふほどの起死回生のことなのですね。
 
 
言語造形といふ芸術の仕事を再び始めて、
いまとりわけ感じてゐることは、
冷たく、狭い世界に閉じ込められてゐる人が、
いまはまだどれほど多くゐることだらう、
といふことです。
 
 
わたしの言語造形のクラスに来る方には、
教師をしてゐる方が多いのですが、
学校でのウイルス対策に、
報道での感染者数だけを挙げるそのあり方に、
そして、つまるところは、
死への恐怖に、
身もこころも雁字搦めになつてゐて、
こころとからだが冷たく、固く、閉じたありやうで、
毎日を生きてゐて、
そのありやうでクラスに来られるのです。
 
 
それでも何か月かぶりに、
このクラスに来られるといふことは、
やはりみづからがみづからを救済したい、
といふ無意識の念ひに動かされてのことなのでせう。
 
 
そして、クラスが終はる頃には、
来られた時とは、まるで、まるで、異なる、
湯上りのやうに紅潮した頬と、
輝きを取り戻したまなざしをもつて、
その人のその人たるところを
ありありと表に輝かせながら、
帰つて行かれます。
 
 
人の意識をなんらかの隠微な形で、
一色に覆ひ尽くさうとする、
いまのやうな状況の中で、
芸術といふものは、
やはり、人にとつて、
なくてはならないものです。
 
 
外側の状況がどのやうなものにならうとも、
それでも、わたしは生きて行く、
生き抜いて行くのだ、といふ、
意欲と希望を取り戻すことが促されるからです。
 
 
その意欲と希望は、
精神との通ひ路(みち)が運んで来てくれます。
 
 
人は、精神との通ひ路がこころにできた時、
ふたたび、自由になります。
 
 
 

 
 


posted by koji at 09:53 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月11日

こころざしと情熱



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昨日と今日の朝、
「アントロポゾフィークラス・オンライン」。
シュタイナーの『普遍人間学』の講義でした。
 
 
三十年前、わたしには、
このやうなアントロポゾフィーの学びを
得ることができた場がありました。
高田馬場にあつた「シュタイナーハウス」です。
 
 
東京です。
 
 
東京に身を置かなければ、
生身の人から活き活きとした学問として、
アントロポゾフィーを学び得ないのでした。
 
 
だから、大阪から東京へ行き、
その場に自分のすべてを注ぎ込み、
学びのために身を削りながら、
同時に喜びに震え、
悲しみを舐めながら、
毎日を生きたのでした。
 
 
人によつては、
その地がドイツであつたり、
イギリスであつたり、
アメリカであつたりしたのでせう。
 
 
いまは、全国の地の人が、
オンラインでかうして集まつて、
アントロポゾフィーの学びをすることができるといふこと。
 
 
隔世の感があります。
 
 
しかし、今日、参加者の方が仰つて下さいました。
 
 
忙しく家事を片づけて、
10時になつた。
さあ、『普遍人間学』の講義だ。
自分にとつてたいせつなことだとは
分かつてゐながらも、
ひとりではなかなか続けて行くことが難しい、
そのアントロポゾフィーの学びだ。
さう自宅で考へながら、
コンピューターの前に座り、
同じ志をもつ仲間にオンラインの上ではあれ、
また会ふことができる。
このことのありがたさを念ふ、と。
 
 
皆、何かを熱く求めてゐるのです。
 
 
理由を説明できない、
みづからの内にこみ上げてくる「こころざし」。
 
 
そして、学びの仲間に加はるといふこと。
 
 
それは、何かの縁(カルマ)です。
 
 
三十年前であらうと、今であらうと、
その「こころざし」の輝きは変はりませんし、
カルマの糸は織り続けられてゐます。
 
 
リアルであらうと、
オンラインであらうと
肝心要のことは、
その人のこころざしと情熱です。
 
 
それは、静かで穏やかな表情を纏つてはゐますが、
内側では自分でも思ふ以上に熱く激しいものなのです。
 
 
そんなこころざしと情熱に応へることができるやう、
アントロポゾフィーを語る。
  
 
わたし自身の「こころざし」を想ひ起こすことのできた、
そんな今朝でした。
 
 



posted by koji at 18:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月07日

こころのこよみ(第14週) 〜「世の考へる」に任せてみる〜


 
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クロード・モネ《霧の中の太陽》




感官の啓けに沿ひつつ、
 
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
 
夢のやうな考へ、それは輝いた、
 
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
 
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
 
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
An Sinnesoffenbarung hingegeben  
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
Gedankentraum, er schien
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
Doch weckend nahet schon
Im Sinnenschein mir Weltendenken. 
 
 
 
 
夏のこの季節、考へる力が、本当に鈍つてくる。
 
 
「考へる力」こそが、
人を本来的に駆り立てる力なのに、
その力が失はれてゐるのを感じる。
 
 
外の世の美しさが目や耳などを支配して、
美をたつぷりと味はふこともできる反面、
その情報量の多さに混乱してしまふ危険性があるのも、
この季節の特徴かもしれない。
 
 
内なる統一を与へる「わたしの考へる力」が失はれて、
そのかはりに、
もの想ひに支配される時間が増えてゐる。
 
 
その「もの想ひ(夢のやうな考へ)」とは、
ものごとや人に沿つて考へることではなくて、
ものごとや人について、
手前勝手に想像してしまつたり、
その想像にこころが支配されてしまつて、
その想ひの中で行つたり来たりを繰り返すありやうだ。
もの想ひは、めくるめくやうに、
わたしのこころの中を巡り、にぶく輝き、
「己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせる」。
 
 
本当に自分の考へたいことを考へることで、
人は目覚めることができる。
けれども、もの想ひにふけることで、
人は夢を見てゐるやうな、あるいは、
眠り込むやうなありように陥つてしまふ。
そんなありやうを、どう受け止めたらいいだらう。
 
 
「人が考へる」よりも、「わたしが考へる」よりも、
「世が考へる」、そのことに己れを任せてみないか。
 
 
世は、まがふことなく、
秩序と法則に従つて時を生きてゐる。
そして自分は、すでにゐるべき場所にゐて、
すでに出会ふべき人に出会つてをり、
すでにするべきことに向かつてをり、
すでに生きるべき人生を生きてゐる。
さう、見直してみないか。
 
 
「わたしが考へる」ことの力が失はれてしまつた、
この時期だからこそ、
その「世の考へる」
「(恣意を挟まず)おのづからまぎれなく考へる」
に任せてみる。
 
 
夏のこの時期における、
そのこころのモードチェンジは、
自分自身を統一する考へる力がいつたんは眠つてしまひ、
見失はれたからこそ、
来たる秋から冬にかけて、
新しく鮮やかに自分自身で考へる力が目覚めることへと、
わたしたちを導いてくれるだらう。
 
 
「見る」をもつと深めていくことを通して、
からだをもつと動かしていくことを通して、
感官を通して、だんだんと輝きが見えてくる。
 
 
頭であれこれ考へるよりも、
手足を動かすことを通して、手足で考へる。
 
 
その手足の動きこそが、
「世の考へる」との親和性は高い。
 
 
それは感官を超えるものを見いだし、
感じ始めることでもあり、
理屈抜きで、
この世のものといふもの、
ことといふことをなりたたせてゐる基のところを
垣間見ることでもある。 
 
 
密やかなところを見いだせば見いだすほどに、
また顕はなところも、
よりくつきり、はつきりと見えてくる。
 
 
そして、その見えてくるところが、ものを言ひ出す。
 
 
夏ならではのこころの練習として、
ものがものを言ひ出すまで、からだを使つてみよう。
そして、からだをもつて「見る」に徹してみよう。
 
 
その「動く」「見る」から聴きだされることば、
伝へられる考へ、
それらは、こころに直接響いてくる。
 
 
小賢しく考へる必要がなく、
それらのことばと考へが、
こころに直接「訪れる」。
その訪れるものを、
「世の考へる」とここでは言つてゐる。
 
 
この『こよみ』を追つてゐると、まるで
「いまの自分の生活、
 こころ模様そのものが記されてゐるぢやないか」
と感じることがよくある。 
 
 
もの想ひから抜け出す道を、探りつつ、
汗を流して稽古をしつつ、
歩いていくことができる。
 
 
  
 
感官の啓けに沿ひつつ、
わたしはみづからを駆り立てるものを失つた。
夢のやうな考へ、それは輝いた、
己れを奪ひ去るかのやうにわたしを眠らせながら。
しかし、すでに目覚めさせつつわたしに迫つてゐる、
感官の輝きの中に、世の考へるが。
 
 
 
 

 
 
 

posted by koji at 07:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月06日

7/23〜7/26 真夏の連続講座  〜言語を通して甦る〜



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文化の礎(いしづえ)は、
言語だとわたしは思ひます。
 
 
そして、言語に、何か、地盤はあるのでせうか。
 
 
日本語について客観的に考へるのではなく、
日本語を主体的に生きるための地盤です。 
 
 
そこに、精神が通ふことによつて、
言語は初めて地盤を得、
言語として甦る、
わたしは、さう、確信してゐます。
 
 
言語に精神をもたらし、
言語と共にみづからが精神として甦ることへの、
強い憧れ・・・!
 
 
その憧れは、きつと、
社会を文化的に、精神的に、育んで行くことへの、
原要素であるはずです。
 
  
その精神をこそ、探し求めてゐるのです。
 
 
それは、どのやうなものでせうか。
 
 
それは、芸術を通してのみ、
ぢかに得て行くものです。
 
 
その芸術のひとつが、言語造形です。
 
 
言語が、吐かれる息遣ひの中で、
空間に造形される。
 
 
言語が造形されることによつて、
秘めやかに空間が造形され、
密やかに人が造形され、
わたしたちは、
その精神が通ふ新しいすがたに充足を覚えます。
 
 
その一瞬一瞬の新しいすがた(Gestaltung)に、
人は、そもそもの言語の生命を感じます。
 
 
言語の生命とは、
人に通ふ神々しい精神の生命です。 
 
 
言語造形によつて、
みづからのパーソナリティーではなく、
〈わたし〉といふインディヴィジュアリティーを生きる。
さう、希(こひねが)ふ人。
 
 
わたし自身、その人です。
 
 
そして、
さういふ精神の人を求めてゐます。
 
 
 
 
『7/23〜7/26 真夏の連続講座 『 言語造形 その実践と理論 』
http://kotobanoie.seesaa.net/article/475512492.html
 
 
 
 

posted by koji at 14:26 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする