2018年02月17日

青いスミレ




以前、キッズレーダーに掲載させてもらつてゐた『語り聞かせ教室』。ルドルフ・シュタイナーの「青いスミレ」。
 
齒が生え変はり始めてから九歳~十歳ごろまでの子どもたちの感情を育んでいく。
 
そのことの重要性は、我が家の下の娘(丁度九歳、まうすぐ四年生)を観てゐても、いたく感じるところだ。
 
植物や、動物や、青い空の色や、雪の冷たさなどに触れるとき、彼女の感情が深く深く動かされる樣子を観て、もう既に大人になつてしまつてゐるわたしはとても新鮮な驚きと懐かしさを覚える。
 
この時期にある子どもならではのこころのありやう。自分自身のその頃のことを想ひ起こすと、とても懐かしく感じる。
 
世界のどの部分も、息をし、ことばを話す生き物のやうに捉へてゐた。自分のこころと世界が、密やかな話しを交はしてゐた。
 
そんな時期にある子どものこころを育んでいくために、とりわけ、感情生活を豐かに息づかせていくために、たとへば、このやうなお話を、石も植物も川も雲も山も動物たちも人に語りかけてくる存在として、芸術的に語つてあげられたなら、と思ふ。
 
そんな風に、この年代の子どもの感情を耕すこと。
 
それは、その子の生涯の感受性、世の捉へ方の質を深めていくことに、おそらく繋がつていくのではないだらうか。
 


2018年02月16日

もの言はぬ古き友


旅にゆくときの楽しみのひとつは、出発前に持つてゆく本を選ぶことだ。
 
つひ、たくさん鞄の中に入れてしまふ。
 
持つべきは 古き友なり もの言はぬ 
ともなる旅路 時を忘れむ

 
諏訪耕志
 

posted by koji at 23:12 | 大阪 ☁ | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

春待ちぬ


IMGP0155.JPG


次女のかさねを寝かしつけるため、先ほど、布団の中で一緒にゐた。
 
突然、何か俳句をひとつ創つてくれといふ。
 
 ひと夜ごと 沿ひ寝をかさね 春待ちぬ
 
さうしたら、人の俳句を聴くのは好きだといつたあと、眠つてしまつた。
 
(吾輩は猫である)

posted by koji at 21:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

こころのこよみ(第43週) 〜内なる炎〜

 
冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖められ、
 
世の現われに、
 
心の力を通してありありと力が与へられる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
人の内なるこころの炎」

 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
いま、人と人は、どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
人と人との間に、無関心が、行き違ひが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
わたしたちは、そのやうなあり方を「世の冷たさ」として辛く感じてゐる。
 
その冷たさから我がこころを守らうとして、いつさう厚く重ね着をして、こころを閉ざす。
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
しかし、このあり方が、時代の必然なんだと、もし知ることができれば、何かを自分から変へていくことができるだらうか。
 
この日本といふ国では、明治維新からの文明開化の風潮の中で、人のこころのあり方が変はつてきた。
 
人のこころが、何を考えるにも、何をなすにも、意識して考え、意識してなすことを目指してゐる。
 
さういふこの時代において、まずは、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされてしまふ。
 
それは、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして、扱ふことができるといふ知性だ。
 
この時代において、この冷たく、硬い知性が人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。
 
そして、文明が発達すればするほど、人は、己れが分からなくなってくる。人といふものが分からなくなつてくる。
 
人といふものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
だから、その冷たく、硬い知性を己れのものにすることによつて、人は、人といふものがわからなくなり、他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも見失つてしまふにいたる。
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じる。
 
無意識に繋がつてゐた人との関係が断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で人との繋がりを創つていく力を、わたしたちは育んでいく必要に迫られてゐる。
 
むしろ、かう言つた方がいいだらう。
 
ひとりになれたからこそ、そのやうな力を育んでいくことができる。
 
ひとりになることによつて、初めて、人と繋がることの大切さをしつかりと意識的に知ることができる。
 
だから、このやうな人と人との関係が冷たいものになつてしまふことは、時代の必然だ。
 
なぜなら、繋がりとは、つけてもらふものではなく、ひとり立ちした人と人とが分かち合ひ、語り合ひ、愛し合ふ中で生みだしていくものだからだ。
 
わたしたち人は、そのやうに、いつたん他者との関係を断たれることによつて、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習つてきた。
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」、「頭ではなく、心臓において考へる力」「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入ってきてゐる。
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
硬いからだを持つところから、人は冷たく、硬い知性を持つことができるやうになり、からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのである。
 
だから、これからの時代のテーマは、そのやうな、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、意識的に育んでいくことである。
 
日本においては、明治以前まで伝統と慣習がふくよかに用意してくれてゐた人と人との和のしつらへを、これからは、意識して、みづからの働きをもつて想ひ出し、創り出していくことがテーマだ。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、人の内なるこころの炎」だ。
 
その「内なるこころの炎」とは、どの人の内にも鎮まつてゐる。
 
その炎を深みで感じつつ、深みで知りゆくことによって、ますます意識的に内なる熱をもつて燃え上がらせることができる。
 
そして、人と人との間に吹きすさんでいる無理解と憎しみといふ「世の冷たさ」に、立ち向かふ(ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふ)ことができる。
 
内なる炎。内なる熱。
 
意識のこころの時代において、人は、みづからのこころに炎と熱をもたらすことができる。
 
「わたしは、ある」。
 
シュタイナーは、この『こころのこよみ』を通して、わたしたちのこれからのテーマを指し示してくれてゐる。
 
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現われに、
心の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎」

 

posted by koji at 09:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月12日

2018年度言語造形クラスのお知らせ


20228268_905222992950299_3311952322781686859_n.jpg


「ことばの家 諏訪」は、言語造形といふことばの芸術に勤しむための、 アトリエであり、稽古場であり、公演のための舞台でもあります。
 
そのつどそのつどの稽古が、 人とことばとの関係をまざまざとなり変はらせます。 それはここでしか味わふことのできない祝祭的な時間なのです。
 
更に、ひとつひとつの舞台公演が、 この場を現代の聖なるお宮、お社へとなり変はらせます。 そこでは、ことばの精神・言霊の風雅(みやび)が顕はになるのです。
 
ことばの家におけるクラスは、三段階に分かれてゐます。
 
 
 
(1)月一回クラス
 
(2)月二回クラス
 
(3)舞台に立つためのクラス(月四回)
 
また特別クラスとして、以下のクラスも設けてゐます。
 
(4)クリスマス生誕劇クラス(月二回)
 
(5)「普遍人間学と言語造形」(月一回) 
 
(6)関西地方、各地において、月一回の稽古場  
 
(7)プライベートレッスン    
 
 
 
いづれも、言語造形指導、演出、講義は、諏訪耕志 がさせていただきます。(月二回クラスでは、諏訪千晴も講師を務めさせていただいてゐます)
 
ことばの響きは、発するその人自身を顕わにする、畏き神の創造です。その響きに耳を傾けていく稽古をともに重ねていきませう。
 
 
 
 
(1)月一回クラス
 
 【水曜 帝塚山クラス】 
  日程 毎月 第2水曜日
     (1月のみ第3水曜日) 
  時間 10:00 - 12:30
  参加費 体験 4,000円 
      6回連続 21,000円 
 
 
(2)月二回クラス
 
 【日曜 帝塚山クラス】 
  日程 毎月 第2・第4日曜日
  時間 10:00 - 12:30
  参加費 体験 4000円 
      6回連続 21,000円 
 
 【日本の言霊と言語造形クラス】
  (講師:諏訪千晴)
  日程 毎月 第2土曜・第4日曜日
  時間 14:00 - 16:30
  参加費 体験 3500円 
      4回連続 12000円
      (振替え一回可能) 
 
 
(3)舞台に立つためのクラス(月四回)
 
  【火曜 帝塚山 舞台クラス】
  「古事記の傳へ・萬葉のいのち」
  日程 毎週火曜日(月に4回)  
  時間 14:30 - 17:30
  参加費 月謝制 15,000円 
  (資料代、衣裝代、發表參加費含む)
 
 
(4)クリスマス生誕劇(月二回)
  日程 毎月 第2・第4金曜日  
  時間 10:00 - 12:30
  参加費 毎月8,000円 
      12月のみ16,000円
  (資料代、衣装代、発表参加費含む)
      一括払い 75,000円 
 
 
(5)「普遍人間学と言語造形」(月一回)
  日程 毎月第三日曜日 
  時間 10:00〜15:30
  参加費 四回連続 22,000円
      単発でのご参加 6,500円
 
 
●ホームページ詳細 
https://kotobanoie.net/spra/#sun
 

●お問ひ合わせ・お申込み
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
tel 06-7505-6405
e-mail info@kotobanoie.net  

posted by koji at 09:01 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

休まないで、動き続けること


DSCF3866.JPG

 
今日も、いつもの日曜クラスで生徒さんたちと共に言語造形に取り組む。
 
このクラスも、生徒の皆さんが積み重ねて来てゐる少しずつの修練がものを言つて、本当に充実した時間だつた。
 
昔話も、草野心平の詩も、源氏物語も、いずれも、ことばの響きがもたらす余韻が、本当に凄い。
 
この余韻といふ沈黙こそを、昔の人は「言霊」と呼び、ここにことばの精神を聴きとつてゐたのだらう。
 
ことばの精神のことを、高知の国学者・鹿持雅澄は「言霊の風雅(みやび)」といつた。
 
沈黙の豊かさ・深さ・生命力は、ことばを発声する人がどれほど活き活きと内的に動きの中にありつづけてゐるかに懸つてゐる。
 
ことばの法則に沿つて動きが活き活きとなされることによつて、豊かな静かさ(言霊の風雅)が立ち顕れる。
 
写真は、一昨昨日の新横浜での、翻訳家の方々、アントロポゾフィー医学読書会の方々との言語造形のときのもの。(冠木さん、いつもありがたうございます)
 
太宰治の『駆け込み訴へ』に取り組んで下さつてゐる時の写真。
 
動いて、動いて、動きつくす。
 
大人になつて、こんなに動き回ることはなかつたのではないか、といふぐらい動いていただく。
 
ましてや、ことばを話すために、こんなに動くなんて、おそらくこれまでの人生の中でもご経験がないのではないか。
 
平家物語も、「コリント人への手紙」も、ミルトンの「失楽園」も、岡倉天心の「茶の本」も、シュタイナーの医学論も、言語造形を通して、動きをもつて発声されることを通して、すべてがことばの芸術になりゆく。
 
休まないで、動き続けること。
 
これが、ことばの芸術のいのちであり、人が人としてあることの秘密のひとつだ。
 
DSCF3871.JPG


posted by koji at 13:43 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

動かずに

 
いま、机の上に何冊もの本を積み重ねてしまつてゐる。
 
どの本も読むほどに唸らされてしまふ奥行きの深い内容を湛へたものだ。
 
それらの本は、わたしにとつては、精神からの糧である。
 
その精神からの糧は、こころに与へられる。
 
頁から頁へ、文字列から文字列へとゆきわたつてゐるその精神を、なんとか読み取る。
 
萬巻の書をよみ、萬里の道を征け、とは、かの富岡鉄斎翁のことばであつた。
 
人には、時間といふものが与へられてゐる。
 
この「時」とは、流れゆくものであるが、一方、その人その人の立ち停まるその場に於いて、垂直に、天へと昇り、地の坑へとくだりゆくものでもある。
 
動かずに、その場で、下へと降りよ。そして、天へと昇れ。
 
本を通して、精神を読む作業が、そのことを教へてくれてゐる。


posted by koji at 11:10 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2月18日(日)名古屋・オイリュトミー公演のお知らせ


IMGP0069.JPG

 
愛知県日進市にあるオイリュトミスト養成塾「あかね塾」三名の方々の卒業発表公演が来週の日曜日、名古屋市中区にて行はれる。
 
わたしは、今回、言語造形を通して詩の朗唱と昔話の語りを担当させてもらつてゐる。
 
あかね塾の今回の卒業生三名の方々は、それこそ、朝から夕方まで毎日、自分自身のままならぬからだとこころを芸術的な線になんとか沿はせようと格闘し続けておられる。
 
つい、理屈でからだががんじがらめになるところを、その都度その都度、精神に向かつて、己れを壊しては創り、壊しては創る作業の連続。
 
その姿が本当に尊い。
 
教師は、影島清恵さん。
 
さういふ道に生徒さんたちを導き、ある意味、追ひ込んでいかうとする教師といふ存在の凄さに、今回、わたしはこの目から鱗が何枚も落ちてゐる。
 
本当に、考へさせられる。
 
人の成長といふことについて。教育といふことについて。芸術といふことについて。
 
親獅子は子獅子を崖から千尋の谷へ突き落とすといふ。
 
人は、谷底に沈潜するときがあつてこそ、時を得て、陽の光に向かつて、這ひ登る。
 
「舞台に立ち続けることだけが、その人を成長させるのよね」といふことばを影島さんご自身から聴き、本当にさうとしか言ひやうがない。
 
学校などは、そこを卒業してからが、本番である。
 
そこからこそ始まる。
 
そして、人の成長には終わりがない。
 
 
 
 
 
『あかね塾オイリュトミー卒業公演』 
昔話「三枚の札コ」 &「 世界でいちばんきれいな声」
 
オイリュトミー
塾 生 : 石井真由美 小川真美子 小塩真咲
 
語り 諏訪耕志
 
音楽 川村明美
 
日時:2018年2月18日(日)
開場14:00 開演14:30 終演予定15:10
 
場所:イーブルなごや ホール
https://e-able-nagoya.jp/tours/access/
名古屋市中区大井町7−25
地下鉄名城線「東別院」下車徒歩5分 Pなし
 
入場料(前売・当日共)
大人:1000円(中学生以上)
小人:500円
対象 3歳以上
 
 
【同時開催】
12:00〜12:45
「シュタイナーフォルムによるソロ発表」
塾生の他に各地のオイリュトミストが発表します。
 
オイリュトミー
塾 生 : 石井真由美 小川真美子 小塩真咲
 
オイリュトミスト:荻原史織 影島清惠 幸田朋子 吉越明美
 
朗唱:諏訪耕志 
 
ピアノ:川村明美 和久深雪
 
チェロ:川村なつみ
 
対象 小学生以上 入場無料
※未就学児の同伴はご遠慮ください
 
13:00〜13:45
「オイリュトミー講座」
〜メルヘンの登場人物になって動こう〜
対象 高校生以上 参加費1000円
持ち物 動きやすい服装・底の薄い靴(オイリュトミーシューズなど)
※定員20名(下記の方法でお申し込み下さい)
 

 
【お問い合わせ・お申込み先】
E-mail akanejuku_eurythmie@yahoo.co.jp 件名:公演・講座
【お申込み方法】
公演:チケットの種類・枚数・氏名・住所・電話番号をお申込みの上、下記口座へお振込み下さい。
公演当日受領証をお持ち下さい。受付にてチケットをお渡しします。
講座:氏名・住所・電話番号をお申込みの上、下記口座にお振込み下さい。
 
ゆうちょ銀行 オイリュトミーあかね塾(オイリュトミーアカネジュク)
記号12110 番号83047161
 
【お問い合わせ・お申込み先】
E-mail akanejuku_eurythmie@yahoo.co.jp 件名:公演・講座

posted by koji at 09:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月07日

火曜クラス・体験講座のお知らせ「古事記の傳へ・萬葉のいのち」


352f00e1.png  

 
古事記(ふることぶみ)や萬葉集などから、我が国の神話と歴史を、語り物として、演劇として、詩劇として、舞台化するべく、言語造形に取り組んでいく4月から始まる毎週火曜日の午後のクラス。
 
そのクラスに向けての体験講座をいたします。
もしくは、言語造形を体験してみたい方、どうぞいらしてください。
 
日時:3月20日(火)27日(火)いずれも14時半から17時半
 
場所:ことばの家 諏訪  
 
参加費:1回 4000円
 

 
舞台芸術として、我が国の文化の源流である神話と歴史物語に取り組み、あわせて、ルドルフ・シュタイナーの舞台芸術論を学んでいきます。また、共に近畿地方にいまも残る古代の遺跡群を訪ねてみませう。2019年のゴールデンウィークの上演を目指しつつ、参加される方各々、ご自身の中で、我が国の神話と歴史が、己れの物語として、己れの詩として、根付いていくことが希まれてゐます。
 
                言語造形指導 諏訪耕志
  
 

日本古典文学の魅力。
 
その深くて確かな魅力を感じ、またそれが存在する意味をはっきりと知り始めたのは、言語造形を通してでした。
 
さうして、年月を重ねるうちに、言語造形を通して、その古典文学の魅力を味はひ、その魅力と意味をたいせつに育み、多くの、多くの人々に伝えていきたい、さう、しきりに思ふやうになつたのです。
 
わたしたちの学び舎での学びは、古典作品の解釈や時代背景の研究から入つていくのではありません。知識から入っていくのではありません。 
 
言語造形を通して、作品の一文一文に体当たりしていくかの如く、我が身をもつて声を響かせ、手を動かし、足を運び、こころを躍動させることで、ことばの精神に触れて行くことから始めます。
 
そのやうにして、からだとこころまるごとで、語り、演じていくことで、古典文学の魅力を理屈抜きに実感していくことができる。
 
そこからこそ、作品との対話が始まります。各々の作品がその秘められてゐる秘密を明かし始めてくれる。ことばに込められた作者と時代の精神とが、ものものしく語り始めてくれるのです。
 
それは、わたしたち日本人のこころの歴史を探つていく試みなのです。それこそが、わたしたち日本人の歴史、国史です。
 
文学研究とは、そもそも、文学を芸術として楽しみ、味はふことから始まります。
 
そして、それこそが、歴史を知ることへと続く道なのです。文学とは、ことばの芸術であり、歴史であり、わたしたちの道なのです。
 
その道は、わたしたちを時に慰め、時に勇気づけ、時に奮ひ立たせる。現代に生きるわたしたちを、遠きご先祖の方々、先つ祖の方々と繋ぐ。更に、未来を生きる若い人たちに、わたしたちはこの国の美しさ、気高さを、誇りをもつて伝へていく義務がある。
 
皆さん、共に自国の古典文学と歴史を学びませんか。
 
それは、ことばの力を信頼していくことへと、そして、自分たち自身が新しい歴史を創つていくのだといふ太い気概を養つていくことへと、わたしたちを導きます。
 
その道を学ばずして、何を学ぶといふのでせう。
 
子どもたちにそんな太い気概を持つてもらいたいではないですか。
 
そのためには、まづ、わたしたち大人自身から学んでいく。
 
言語造形を通しての日本古典文学の学び。それは、わたしたちをあらたに日本人としていく学びなのです。
 
母国語への愛を改めて意識的に育み、母国語からの愛をわたしたちがまるごと十全に感じていく文化を、まづは大人たちが取戻し、そして子どもたちへの教育へとその愛を注ぎ込んでいく。そんな仕事が待つてゐるのです。
 
 
 
言霊の 風雅(みやび)息づく 古道(ふるみち)は
ひろき道なり しきしまの道 
 
 
 
諏訪耕志記
 
 

●火曜クラス「古事記の傳へ・萬葉のいのち〜言語造形で甦る我が国の神話と歴史〜」
 
 
お稽古日時 
2018年4月より 
毎週火曜日(月四回) 14時30分〜17時30分
 
 
お稽古場所
ことばの家 諏訪
 
 
お月謝
毎月15,000円 (資料代、衣装代、発表参加費含む)
 
 
お申込み  
ことばの家 諏訪 

posted by koji at 23:43 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

比べるから敬ふへ

 
誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、その誰かや何かに近づかうと気持ちが盛り上がることが、特に若いときにはよくある。
 
その憧れの対象は、マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、職種といふ職種における有能な人、魅力的な人、魅力的な生活スタイル、考へ方、生き方、そして人を超えた存在、神のやうなあり方、精神界、霊界、天国、神に至るまで、物質的なものから精神的なものまで、人各々、それぞれだ。
 
しかし、その誰かがやつてゐることや、素敵な何かに向かつて、自分自身も努力し始めることができればいいのだが、その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらいがないだらうか。
 
そして、自分自身とその憧れの対象とを比べて、自分自身を卑下しだす。
 
「自分には無理だ」と。
 
わたしがアントロポゾフィーを学んでゐるとき、最も強く励まされるのが、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「条件」の章にある、

次のことばだ。
 
ーーーーーーーーーーーー
 
こころのしかるべき基調が、きつと、はじまりとなる。
 
密やかに究める人は、その基調を敬ひの細道と呼ぶ。
 
わたしたちはわたしたちよりも高いものがあるといふ、深みからの情を内に育まないのであれば、高いものに向けてみづからを育み高める力を内に見いだすこともないであらう。

 
ーーーーーーーーーーーーー
 
 
憧れのもの、状態、それは、別な言ひ方をするならば、人にとつての「高いもの」と言つてもいいかもしれない。
 
「わたしたちよりも高いものがある」。
 
その「高いもの」と己れを比べるのではなく、「高いもの」を敬ふ。
 
そのこころの向きは、自然には生まれない。
 
意識的に練習しなければ、「敬ふ」といふこころの力は身につかない。
 
「高いもの」に対する敬ひから始まり、生きとし生けるものに対する敬ひ、ありとあらゆるすべてに対する敬ひへと、その練習は続けられる。
 
しかし、人は、放つておいたら、その対象と自分自身との距離をもてあまし、自分自身を卑下しだす。
 
そして、敬ひとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのずと傾いていく。
 
「高いもの」と己れを比べるといふこと、それは実はその人のエゴであり、「高いもの」を敬ふといふこと、それはその人のこころの高い力だ。
 
比べる、から、敬ふ、へ意識的に方向を変へる。
 
敬ふからこそ、その対象と共にゐられる。
 
人間関係など、まつたく、そのことが当てはまる。
 
敬ふことによつて、初めて、その対象から力が自分に流れ込んでくる。
 
そして、敬ふからこそ、その対象に向かつて、いや、まうすでに、その対象と内的にひとつになつて、こつこつと根気をもつてその人その人の憧れの道を歩いていけるのだらう。
 
誰がなんと言わうと、歩き続けられるのだらう。
 
シュタイナーが、その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、それだけ現代人にとつて、比べることから敬ふことへのこころの移行が必要なことだからだらう。
 

posted by koji at 07:20 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月06日

感情が擦り切れるやうな時間の中に


毎日を生きてゐると、楽しいことや喜ばしいことばかりではなく、悲しみや怒りに包まれ、苛まれることがある。
 
でも、さういふ、感情が擦り切れるやうな時間の中に、何かがあると思ふ。
 
遠いところからの呼びかけ。
 
何かを保て、といふ呼びかけ。
 
崩れるな、といふ呼びかけ。
 
人は、誰しも、戦つてゐるのではないだらうか。
 
さういふ、聞こえるか聞こえないかの呼びかけを聴きとらうとして。
 
 
おほうみに 小舟(をぶね)浮かべて 渡りたし
綱手悲しく ゆくへ知らずも

 
諏訪耕志


posted by koji at 21:48 | 大阪 ☀ | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年度 ことばの家 第三日曜日 普遍人間学と言語造形クラス


31iaiMVEeyL.jpg 

 
わたしは、教育の根底は、ことばの教育・国語教育だと考へてゐます。
 
シュタイナーの『普遍人間学』で学んだことを、言語造形を通して、からだで実感していく。そんな、人閧ニことばとの関係を、深く追い求めていくクラスのお知らせです。
 
人とはどのやうな存在であるのか、そのことを精神科学的に。そしてその知見を、我がからだをもつて確かめていく。
 
毎月一回のその時間、知識を頭からハートへ、そして手足の領域にまで降ろしていく。
 
『普遍人間学』を丁寧に理解していく午前の時間。そして、からだまるごとを使つて、ことばを話す練習を重ねる午後の時間。
 
そのやうな定期的な繰り返しを通して、学びの共同体が生まれてきたら、さう希つてゐます。
 
単発でのご参加も受け付けてゐます。
 
春から、新しい学びを、ご一緒に、始めてみませんか。
 
ことばの家 諏訪耕志
 
 
 

●日時:
毎月第三日曜日 
午前10時〜12時半『普遍人間学』
午後1時半〜3時半 言語造形
     
 
●参加費: 
四回連続 22,000円
単発でのご参加 一回につき 6,500円
      
 
●場所  
ことばの家 諏訪 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」駅より、北東へ徒歩5分
上町線「姫松」駅より、西南へ徒歩約4分
地下鉄四つ橋線「玉出」駅3番出口より、東へ徒歩約15分
https://kotobanoie.net/access/
 
 
●お申込み・お問い合わせ
ことばの家 諏訪 
Tel 06-7505-6405 
e-mail info@kotobanoie.net
https://kotobanoie.net/access/
 
 
本は、精巧堂出版からの、鈴木一博訳『普遍人間学』を使ひます。

posted by koji at 09:51 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

通訳者と医師の方々との言語造形


DSCF3851.JPG


通訳者であられる冠木 友紀子 (Yukiko Kabuki)さんが主宰されてゐる通訳道場Yokohama CATS。
 
そこでは、英語と日本語の間を取り持つ通訳者の方々が、単に英和辞典的な意味のやりとりに尽きずに、血の通つた生き物としてことばを語ることのできる「ことばのプロ」となるべく、修練を重ねておられます。
 
その通訳道場の方々とアントロポゾフィー医療読書会の方々とが合同して下さり、言語造形のレッスンの場を用意してくださいました。
 
参加して下さつた皆さんが、第一回目から極めて積極的にことばの芸術に全身全霊で取り組まれる。
 
それもそのはず、皆さん、まさに「学びのプロ」と言つて間違ひない方々。
 
各々の専門分野に於けるその学と術と技を究めていく姿勢は本当に圧倒的なものなのです。
 
だからこその、言語造形に取り組まれる時の皆さんのこの姿勢。
 
そして、各々のお仕事からの知見・見識と重なり合つて生まれてくる新しい芸術的認識。

本当に素晴らしいものです。
 
わたしも全身全霊です。
 
朝から夕方まで、長時間のレッスンですが、やり終えた後の笑顔はすがすがしいものですね。
 
冠木さん、そしてアントロポゾフィー医師であられる山本 忍 (Shinobu Yamamoto)先生が今回の連続講座を企画して下さり、きめ細やかなお世話をして下さつてゐます。本当にありがたうございます。そして、参加して下さつてゐる皆さん、会場を提供して下さつてゐる日能研の皆さん、どうもありがたうございます。

DSCF3860.JPG


posted by koji at 22:09 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月02日

『和歌(やまとうた)を学ぶ会』のお知らせ


10410527_794793217267393_3437734341470655456_n.jpg

 
ことばをたいせつにする。
 
わたしたちの国語を育んでいく。
 
さうして、日本語に美と格と律をもたらしていく。
 
そのために、和歌を学ぶ。
 
やまとことばで綴られる和歌を学ぶ。
 
現代の日常生活を写し取る自然主義的なものではなく、古典に学ぶ。
 
この世から離れた唯美の世界、こころの世に入つていく。
 
さうすることで、ことばの美を、言霊の風雅(みやび)を、理屈からではなく、自分自身の身で体得していく。
 
萬葉集から始めてみる。
 
我が国、最古の詩歌集「萬葉集」。
 
そこには、ことばの芸術の粋が極められてゐる。
 
そこには、日本人のこころの粋が極められてゐる。
 
日本語の学び、ことばの学び、和歌の学び。
 
 
 
「ことばの家 諏訪」では、この春から月に一度の『和歌を学ぶ会』をはじめます。
 
諏訪耕志による解説を交えながら、言語造形を通して全身で歌ひながら、萬葉集の和歌をひとつひとつ味はつていきませう。
 
それは、ことばの学びでありつつ、日本の歴史の学びであり、日本の精神、大和魂を想ひ起こす学びなのです。
 
この四月から共に和歌の学びを始めていきませんか。
 
朝クラスと夜クラス、二クラスで始めます。(内容は同じ)
 
まづは、一度、体験で、どうぞ。
 
              ことばの家 諏訪耕志
 
 
『和歌(やまとうた)を学ぶ会』
 
日時:
朝クラス 四月より 第四水曜日 午前10時より12時半
夜クラス 四月より 第四金曜日 午後6時半より9時
 
場所:
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
 
参加費:
単発 4000円  四月から六月まで三回連続 10000円
 
お問ひ合はせ・お申込み:
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
 

posted by koji at 23:21 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月28日

地の靈(たま)


IMGP0043.JPG


旅カラ帰宅スル道スガラ・・・。
 
帰るみち われを迎へむ 地の靈(たま)は
夢かうつつか われを迎へむ

 
諏訪耕志






posted by koji at 15:56 | 大阪 ☁ | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

奇跡


IMGP0110.JPG


去年の11月半ばから、この1月半ばまでの約二か月間。
 
わたしにとつて、苦しみと大いなる学びの時間だつたやうに思ふ。 
 
去年の11月の中頃に一週間40度近くの高熱が続き、その一週間はほとんど眠れなかつた。
 
人間が、一週間も眠らずに生きてゐるなんてことは、これまで想像もできなかつた。夜の間、ただ、めくるめく考へがずつと頭の中を暴走して、わたしを休ませてくれない。まるで、考への大河の奔流の只中に抛り込まれたやうで、次から次へと考へがわたしを引き摺り回して、あつといふ間に朝が来る。そして、夜間も昼間も弱りゆく体力を感じながらも、ずつと、意識は完全に目覚めたままだつた。
 
そして、肺炎を患つてしまつた。息をするたびに肺が強く痛み、その後も、肺炎がなかなか治らず、肺がんの疑ひありとのことで、精密検診を受けた。
 
しかし、がんに当たるやうなものは何もないといふことだつた。
 
そして、クリスマスの生誕劇を越へて、年が明けて間もなく、強いめまひに襲われ、10日間ほど、そのめまひと吐き気といくつかの付随する症状にとても苦しんだ。真っ直ぐ歩くことも、立つこともできなかつた。
 
典型的な、脳梗塞の前触れである。
 
そこで、また精密検査を受けたが、脳には何の異常もないとのことだつた。
 
身体的に、心理的に、随分と、追い詰められたやうな二か月だつたやうに思ふ。
 
油断は大敵だが、しかし、いま、かうして、健やかさを取り戻させてもらつてゐる。
 
どちらの病も、共に、呼吸と血液循環といふ胸部の循環器系の故障に淵源があると思ふ。これは、こころの働き、主に感情の働きと関係があるのではないだらうか。
 
精密検査とはいつても、科学的でありつつ、実は、運の巡り、神からの恵みといふところが多分にあるのではないだらうか、といふ実感がある。
 
神は、何をわたしに諭さうとされ、与へようとされてゐるのだらうか。
 
たくさんのことだ。
 
その、たくさんのことを、いま、やうやく、噛みしめさせてもらつてゐる。
 
生かされてあるといふことは、奇跡だ。


posted by koji at 13:59 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月21日

夜ノ床ニテ


夜ノ床ニテ

小夜更けて あはれ拙し この身かな 
悪しき夢見に まほらみつめむ

吾が胸に 片ほほあてて まどろみし
寝息しづかに 三日月の夜


諏訪耕志


posted by koji at 06:55 | 大阪 | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月20日

柳田國男の「老読書歴」を読んで


IMGP0020.JPG

 
毎日風呂に入るときに必ず本をもちこんで、半身浴をしながら頁を繰ってゐる。
 
近頃読み始めた、柳田國男の文庫全集第三十一巻に収められてゐる「老読書歴」。晩年に書いた書評や序跋を集めたもの。とても面白く、円熟したその書き振りが無類に趣き深い。
 
人が情熱をもつてひとつの仕事に仕へるといふことに対する讃仰の念ひ。
 
人といふものそのものが持つ秘めやかな能力と思ひ遣りのこころに対する素直な驚きと喜び。
 
この諸文章には、柳田の円熟した筆によつて、その味はひが直かに掬み上げられてゐる。
 
民俗学のための他の主要著作に於いては、その学問的性格のため、事物のこと細かな列記が多くならざるを得ないのだらう。
 
しかし、そこにも、その科学的論述の裏に脈打つ詩人の魂を感じることは大いにあるのだけれども、さらにこの『老読書歴』に於いては、最良の批評家・文学者としての彼が如実に表に出てゐる。
 
本への愛、人への愛と想ひ遣りがこの作品には満ち満ちてゐるのである。だから、本の紹介が一冊一冊、次から次へと続くのだが、読み続けてゐて全く飽きることがない。最後まで読み終えてしまふのが、なんだか惜しい氣がした。
 
この柳田の仕事のやうに、人がことばを綴ることそのこと自体への想ひの深さ、考への周到さ、こころ構への厚さを掬み上げるやうな文章を、わたし自身とても読みたく思つてゐたし、そのやうな文章を読んでみたいとおそらく多くの人も希んでゐるのではないか。
 
その希みとは、ことばの魅力と、それを用ひ、それによつて生かされてゐる人間を求める、静かだけれども熱烈な希みである。
 

posted by koji at 11:10 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月17日

こころのこよみ(第40週) 〜わたしは、ある〜


そして、わたしはある、精神の深みに。
 
わたしのこころの基において、
 
心に満ちる愛の世から、
 
己れであることの虚しい想ひ込みが、
 
世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。
 
          ルドルフ・シュタイナー



Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft
 
 
 
「わたしは、いる」「わたしは、いま、ここに、いる」といふ響きから生まれてくる情よりも、「わたしは、ある」といふ響きから生まれてくる、「いま」「ここ」さえも越えた、「わたし」といふものそのもの、「ある」といふことそのことの、限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
 
何度も声に出している内に、その情を感じる。
 
「わたしは、ある」。
 
それは、その人が、どんな能力があるとか、どんな地位に就いてゐるとか、といふやうな外側のありやうからのことばではなく、ただ、ただ、その人が、その人として、ある、といふこと。
 
そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことばだ。
 
そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>だ。
 
シュタイナーは、『精神の世の境』といふ講演録の中で、「愛」について語つてゐる。要約した形だが、そのことばを書いてみる。
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
 
精神科学の学び手は、考へる力を通して「みづからの情」を育んでいくことに重きを置いてゐる。その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与へてくれるからだ。

そして、学び手は、この物質の世を生きるとき、その強められた「みづからの情」を抑へることを通して、愛を生きる。
 
愛とは、みづからのこころにおいて、他者の喜びと苦しみを生きることである。
 
感官を凌ぐ意識によって人は精神の世に目覚めるが、感官の世(物質の世)においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 
「世のことばの火の力」
それは、きつと、愛だ。
 
そして、それによつて、「己れであることの虚しい思ひ込みが、焼き尽くされる」。
 
 
 

そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
心に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。

 
 
 

posted by koji at 08:15 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月16日

本を読むB


小学生の子どもたちには、どんな書物がふさはしいか。
 
などと、大人があまり考へない方がいいやうに思ふ。本人が読みたいものをどんどん読むことができるやうに、計らつてあげるだけでいい。
 
ただ、これだけはたいせつだと考へてゐるのは、一冊の本が祕めてゐる未知の何かに対する、限りない愛情、尊敬、信頼。
 
そこから、本に限らず、ものといふものに対する、愛情、尊敬、信頼がおのづと育つていく。
 
何を学ぶにしても、そのこころもち、感情さへあれば、いい。
 
もし、そこに熱烈な尊敬、熟していく愛情が育つていくなら、その人のこころには、大げさな言ひ方になるが、それさへあれば、世界中を相手に回しても、誰に何かを言はれなくとも、自分の意欲だけで学んでいく力、自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、それが、この身ひとつで、世を生きていく、といふ力。
 
それが、自由への道を歩いていくと云ふことではないかと思ふ。
 
学ぶ人にとつては、学ぶ対象に対する疑ひではなく(!)、学ぶ対象に対する信頼・信といふものがとても大事だ。
 
では、その対象については、はじめは未知であるのに、どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
それは、その人のこころのうちに、既に信じるこころが育つてゐるからだ。
 
信じるこころが、信ずるに値する書物を引き寄せる。
 
小学生のこころとからだにまづは何を植ゑつけるか。
 
それは、信じるこころの力・感情。
 
その力が、やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、きつと、その子がその子の人生に必要なものを、おのづと引き寄せるやうになるだらう。
 
その子が、その信じる力を自分の内側深くに育てていく。そのためには、その子の傍にゐる大人が、大きくて、深い役割を果たすことができる。
 
大人自身が、熱烈に、一冊の本ならその本に、何かの存在ならその存在に、尊敬と愛情と信頼を育みつづけてゐる。
 
多くの本でなくてもいい、この一冊と云ふ本を見いだせたなら、本当に幸ひ。その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、その本こそが、その人の古典になる。
 
これから、我が娘たちが、そんな「わたしの古典」を創りだす時が來るのを楽しみにしてゐる。 

posted by koji at 09:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月14日

雪國


15940511_1267603156653061_5257675054920681162_n.jpg

 
何十年ぶりに川端康成の『雪國』を讀む。二十代の時に讀んだ時もこの作品には強く惹かれた。しかし、五十代になってゐるいま、ここに登場してくる女や男の悲しみが、以前よりいつさう身に沁みるやうに感じる。
 
男は、他者の悲しみ、苦しみが分からない。
 
そして、自分自身の生きてゐる意味も見いだせない。 
 
さうして、作品の最後のところ、女が気が狂つてしまつた時、男は己れのなかへ、夜空に高く流れてゐた天の河が、さあと音を立てて流れ落ちて來るやうに感じる。
 
自分自身のありきたりの宿阿を吹き飛ばすやうな、ひとりの人の生死の境に出逢ふ時(それが他人の生死であらうと自分自身のであらうと)、天から何かが急に己れのうちに流れ込んで來て、それによつて、激しく揺さぶられ、攫(さら)はれ、洗はれ、そして、ありきたりでない自分自身に生まれ変はつてしまふといふこと。わたし自身、若い時には分からなかつたその感覚。
 
今回はいつさうのリアリティーに迫られて感銘深く頁を閉じた。
 
後の世代の日本人が、かういつた文学を愛讀していく、そんな機縁を生み出していくために仕事をしていくのだ。

posted by koji at 09:40 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月12日

若宮八幡宮での湯立神事


IMGP0279.JPG


今朝、住吉大社内の摂社「若宮八幡宮」での湯立神事に参列。
  
このお宮には、お二方が祀られてゐる。
 
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)の御子であられる誉田別尊 (ほむだわけのみこと:応神天皇)。
 
そして、忠臣・武内宿禰 (たけしうちのすくね) 。
 
その社の前で、祝詞が唱えられ、神楽の笛と太鼓に合わせて、「湯立神楽」と「天岩戸開きの舞」が巫女さんにより舞はれる。
 
神の御靈(みたま)の甦りを祝ふ毎年1月12日のお祭りだ。
 
お祭りを執り行ふ神官の方々、巫女さん、参列している崇敬者だけでなく、御日様の光、風、厳しい寒さ、木々や社を囲むすべてがすべて、この神事を厳粛にかつ途方もない喜びをもつて祝ひ合つてゐるのを感じる。
 
「わたしたち」「われわれ」といふことばが、こころにおのづと立ち上がつてきた。
 
俗世に生きてゐて、滅多に味はへないことばだ。

posted by koji at 14:34 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月11日

2018年度 火曜舞台クラス「言語造形で甦る我が国の神話と歴史」


352f00e1.png


『日本文学を源流から辿る
 〜2018年度 ことばの家 諏訪 活動予定〜』
 
日本古典文学の魅力。わたし自身、学生時代には全く気付くことができなかつたなあ。
 
その深くて確かな魅力を感じ、またそれが存在する意味をはっきりと知り始めたのは、言語造形を通してでした。
 
さうして、年月を重ねるうちに、言語造形を通して、その古典文学の魅力を味はひ、その魅力と意味をたいせつに育み、多くの、多くの人々に伝えていきたい、さう、しきりに思ふやうになつた。
 
わたしたちの学び舎での学びは、古典作品の解釈や時代背景の研究から入つていくのではないのです。
 
知識じゃないのだ。 
 
言語造形を通して、作品の一文一文に体当たりしていくかの如く、我が身をもつて声を響かせ、手を動かし、足を運び、こころを躍動させることで、ことばの精神に触れて行くことから始めます。
 
そのやうにして、からだとこころまるごとで、語り、演じていくことで、古典文学の魅力を理屈抜きに実感していくことができる。
 
そこからこそ、作品との対話が始まります。各々の作品がその秘められてゐる秘密を明かし始めてくれる。ことばに込められた作者と時代の精神とが、ものものしく語り始めてくれるのですよ。
 
それは、わたしたち日本人のこころの歴史を探つていく試みなのです。それこそが、わたしたち日本人の歴史、国史なんです。
 
文学研究とは、そもそも、文学を芸術として楽しみ、味はふことから始まるのだ。
 
そして、それこそが、歴史を知ることへと続く道なのです。文学とは、ことばの芸術であり、歴史であり、わたしたちの道なのです。
 
その道は、わたしたちを時に慰め、時に勇気づけ、時に奮ひ立たせる。現代に生きるわたしたちを、遠きご先祖の方々、先つ祖の方々と繋ぐ。更に、未来を生きる若い人たちに、わたしたちはこの国の美しさ、気高さを、誇りをもつて伝へていく義務がある。
 
皆さん、共に自国の古典文学と歴史を学びませんか。
 
それは、ことばの力を信頼していくことへと、そして、自分たち自身が新しい歴史を創つていくのだといふ太い気概を養つていくことへと、わたしたちを導きます。
 
その道を学ばずして、何を学ぶといふのでせう。
 
子どもたちにそんな太い気概を持つてもらいたいではないですか。
 
そのためには、まづ、わたしたち大人自身から学んでいく。
 
言語造形を通しての日本古典文学の学び。それは、わたしたちをあらたに日本人としていく学びなのです。
 
母国語への愛を改めて意識的に育み、母国語からの愛をわたしたちがまるごと十全に感じていく文化を、まづは大人たちが取戻し、そして子どもたちへの教育へとその愛を注ぎ込んでいく。そんな仕事が待つてゐるのです。
 
 
 
 
言霊の 風雅(みやび)息づく 古道(ふるみち)は
ひろき道なり しきしまの道 
 
 
 
諏訪耕志記
 
 

火曜・「日本のこころを辿る」舞台クラス
「言語造形で甦る我が国の神話と歴史」

 
古事記(ふることぶみ)や萬葉集などから、我が国の神話と歴史を、語り物として、演劇として、詩劇として、舞台化するべく、言語造形に取り組んでいくクラスです。
 
舞台芸術として、我が国の文化の源流である神話と歴史物語に取り組み、あわせて、ルドルフ・シュタイナーの舞台芸術論を学んでいきます。また、共に近畿地方にいまも残る古代の遺跡群を訪ねてみませう。2019年のゴールデンウィークの上演を目指しつつ、参加される方各々、ご自身の中で、我が国の神話と歴史が、己れの物語として、己れの詩として、根付いていくことが希まれてゐます。
 
                言語造形指導 諏訪耕志
 
 
お稽古日時  
毎週火曜日(月四回) 10時〜13時
 
 
お稽古場所
ことばの家 諏訪 http://www.kotobanoie.net/access.html
 
 
お月謝
毎月15,000円 (資料代、衣装代、発表参加費含む)
 
 
お申込み  
ことばの家 諏訪 http://www.kotobanoie.net/access.html

 

posted by koji at 15:30 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月08日

わたしたちの生誕劇


DSC05696.jpg
写真撮影:山本美紀子さん

 
新しい年が明け、もう一週間が過ぎましたね。皆様におかれましては、晴れやかですがすがしいこころの門出を迎えてをられるのではないでせうか。
 
この一年の始まりを「節日」「初節句」として、すがすがしく迎へるといふことは、わたしたち日本人にとつて、古来とても大切にしてきたことでした。
 
一方、年の終わりを祝ふ「節」として、わたしたちは何をもつてお祝ひしてゐるだらうか、と思ひますと、海外からもたらされたものであるのにもかかはらず、クリスマスのお祝ひがすつかりこの国に定着してゐますね。(精確には、12月24日の夜から1月6日までの十三夜がクリスマスなのです)
 
この、子どもたちがこころから楽しみにしてゐるクリスマスといふ時は、いつたい、どういふ時なのか、そのことを理屈ではなく、芸術的に、肌で感じられる演劇『キリスト生誕劇』を、わたし自身の地元である大阪で催してみたい。
 
そんな希ひが、昨年の暮れ、漸く叶ひました。 
 
協力して下さつた方々、観に来て下さつた方々、本当に、本当に、ありがたうございました。
 
大阪に、生誕劇の光をもたらしたい。喧騒にまみれるこの大阪の街に、クリスマスの夜を少しづつ聖なるものへと近づけていくやうな試みを始めていきたい。
 
そんな想ひから、『キリスト生誕劇』を昨年のクリスマスの夜に大阪で初めてお祭りすることができました。
 
幼な子や子どもに向けての贈り物であるとともに、大人たちにこそしつかりと味はつていただけるやうに、時間をたつぷりかけて、芸術として一人立ちできるやうな作品に育てていく、さう考へてこの作品創りに取り組みました。
 
子どもたちだけでなく、大人たちの中にこそ、幼な子のやうなこころもちを想ひ起こすことのできる時間。
 
そんな瞬間(とき)こそが、そもそものクリスマスの夜といふときではないか。
 
第一回目を演じ終はらせてもらひ、演じた仲間たちに、かつてない喜びが降り注いできたやうに感じられ、できうるならば、来てくださつた方々にもその喜びと希みを感じていただけたなら、こころからの幸ひです。
 
そして、この生誕劇自体が、喜んでくれてゐるのではないか、そんな念ひに包まれてゐます。
 
 
 

長くなりましたが、今年2018年、平成三十年の暮れのクリスマスの夜にも引き続き、『キリスト生誕劇』をお祭りいたします。
 
新しくこの劇創りに加わつてみたいといふ方、思ひ切つてご参加してみませんか。
 
そして、年の終はりの聖なる瞬間(とき)に向かつて、少しづつ一緒に歩いていきませんか。
 
諏訪耕志記 
 
※終はりに、2017年度の生誕劇創りに加わつて下さつた、正木美佐子さん、澤田ひとみさん、佐藤 祐子さん、堀川奈浦子さん、高垣さおりさん、斉藤理美さん、足利智子さん、諏訪千晴さん、写真撮影その他会場整理をして下さつた山本美紀子さん、佐藤美幸さん、受付を荷つて下さつた中田ゆかりさん、高橋好美さん、荷物運搬を荷つて下さつた林真紀子さん、そして、住吉区民センターのライティングスタッフの方、事務の方々、本当にありがたうございました。こころから感謝いたします。 
 
 
★4月スタート!2018年度 金曜 帝塚山「生誕劇」クラス(月2回)のお知らせ
 
・日程
4月より第二・第四金曜日
7月は第二・第三金曜日
8月は第四金曜日のみ
11月は第二・第三・第五金曜日
12月は第一・第二・第三金曜日+20日木曜日
 
・時間
10:00 – 12:30
 
・募集人数
7名
 
・参加費
月謝制 毎月8,000円 12月のみ16,000円
一括払い 75,000円
(資料代、衣装代、発表参加費含む)
 
・会場
「ことばの家 諏訪」 帝塚山教室
https://kotobanoie.net/access/
 
・本番日時
12月25日(火)17時開演予定
 
・本番会場
於 住吉区民センター小ホール 予定
http://sumiyoshiwardc-ogbc.jp/map/index.html
 

・お申し込み・お問い合わせ
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/ 
 


posted by koji at 12:30 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月06日

和歌の学び 〜大歌聖としての明治天皇〜


Meiji_tenno3.jpg

 
和歌(やまとうた)の学びは、まづ、先人の歌つた歌を一首一首深く味はひながら、できる限り数多く見て読んで声に出して歌ふことが肝心なことではないかと思つてゐる。
 
『萬葉集』はこの国で最古の詩歌集であり、最高の詩歌集であり、一昨年あたりから漸く、わたし自身はその『萬葉集』の魅力に腰を据えて触れ始めた。
 
さらに、本年平成三十年は明治維新より百五十年目といふまことに記念すべき年であるゆゑか、元日より明治天皇のお歌を集めた御集に触れ始め、その御歌心のみずみずしさ、清新さ、若年時から示される懐の深さ、剛毅さに、たちまち魅了され、驚嘆措く能はずといふ毎日を過ごしてゐる。
 
歌は、人のまごころを表す。
 
そもそも、政治のおほもとは、歌なり。法とは、そもそも、人のまごころからの生き方を高らかに歌ひ上げるものであつた。
 
よつて、明治天皇は、驚異的に御多忙を極める当時の御政治の只中にこそ、歌を歌はれ続け、歌道こそが、この日の本の国を根柢に於いて支へるものであり、決してそれが有閑時の戯芸でないことを、その御生涯をもつてお示しになられた一大歌聖であられた。
 
その歌は、教訓を民へと垂れるやうなものではなく、すべてがご自身のこころの奥底から溢れ出づる御述懐であるゆゑに、まことのことばの芸術がもたらす徳用(さきはひ)となつて、わたしたち民間人(草莽の民)のこころの糧となるものである。
 
下の歌は、明治天皇の御年十八歳から二十一歳(満十六歳から十九歳)の時の御製歌。
 
天地自然の循環の道に従ひ給ふこと、この国の古(いにしへ)からの政治の根本であり、かつ、おほらかで、雄大な御気風の趣きをはやくから示されてゐる。
 
 
 千代よろづ かはらぬはるの しるしとて
 海辺をつたふ 風ぞのどけき
 
 
 ふく風も のどかになりて 朝日かげ 
 神代ながらの 春をしるかな
 
 
 日にそひて けしきやはらぐ 春の風
 よもの草木に いよよふかせむ



posted by koji at 13:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

天職相続 〜ことばの家 諏訪〜

 
d1.jpg


よく人は言ふ。
 
「理想」と「現実」は、違ふと。
 
それは、さうだらうと思ふ。「理想」といふものが頭で考へられてゐるかぎり、そのやうな「理想」は、どこまで行つても「絵に描いた餅」で、舌をも腹をも満ち足らせはすまい。
 
わたしたちは、ただただ、言語造形の練習だけを毎日し、舞台をひとつひとつ創り続けてゐる。
 
道を毎日歩き続けてゐるやうなものだ。
 
わたしたちは、「理想」と「現実」との関係を生きてはゐない。
 
さうではなく、「道」と「現実」との関係を生きてゐる。そしてそこには乖離がない。
 
「道」。
 
それは、ただ、行為することの連続である。
 
そして、それは、きつと、天からひとりひとりの人が与へられてゐる。
 
日本の伝統では、さういふ天から与へられた仕事を「天職」として、おほらかに、親から子へ、そして孫へと、受け継ぎ、引き継いで、「家の名」を立てることをたいせつにした。
 
「天職相続」。
 
それは、現代の個人主義的な生き方とは正反対のものだ。
 
そもそも、ひとりひとりが、何かの仕事を「ことよさし」されてゐる。
 
その「天職」に籠もる精神を自覚し、子や孫へと受け渡していくこと、それがそもそも、日本の「家」といふものであるか。
 
ただただ、毎日を歩き続ける。行為し続ける。稽古し続ける。
 
わたしたちも、さうしようと、考へてゐる。
 
 
「ことばの家 諏訪」ホームページはこちら ↓
https://kotobanoie.net/
 

posted by koji at 22:29 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月04日

木の国から明けましておめでたうございます


IMGP0110.JPG
有田郡の田殿丹生神社の後ろに控える白山の頂上にある白山神社にて


明けましておめでたうございます。
 
平成三十年は、紀の国(木の国・氣の国)・和歌山を歩き廻ることから始めました。
 
樹木のやうに、深く根を張り、幹を太く、枝葉を大空一杯に拡げていきたい。
 
そんな念ひです。
 
今年もどうぞよろしくお願ひいたします。

IMGP0153.JPG
伊太祁曽神社にて



posted by koji at 00:35 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

初春の神のやしろ


我ガ氏神様ノ生根神社、ソシテ大海神社ニ初詣ニ訪レテ。
 
初春の 神のやしろに つどひくる 民よ 我らよ
神代(かみよ)し念ほゆ

 
諏訪耕志
 
 
詩、歌、とりわけ、和歌(やまとうた)は、まごころだけが載る、不思議な文藝。日本の文學のおほもとである和歌を、今年はさらにもつと学んでいきたい。こころとことばの不即不離なありやうにもつと通じていきたい。さうして、先人の跡を尋ねていきたい。

文藝、文學とは、ことばの道。
 
それは、人のこころの道であり、磨けば磨くほどに、ことばとその人がひとつになりゆき、その人がますますその人になりゆく道である。
 
だから、文學史とは、その国の人のこころの歴史であり、また同時に、文學論(人とは、いかにして、人となりゆくか)でもある。

詩人とは、「人は、いかにして、人となりゆくか」を神に問ひ続ける人である。
 
そして、我が国の詩人たちは、土着のことば、先祖たちから手渡されたことば・やまとことばを通して、己れのこころの源を探り、己れのこころを先祖の方々と結ぶことで民族の血に繋がることを祈願し、未来の子孫たちにその精神を繋げることを乞ひ願つたのだ。
 
わたしは、言語造形を通して、我が国の詩人たちに連なつていきたい。

 
  

posted by koji at 10:44 | 大阪 ☀ | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ 第39週 <わたしがあること>の情


精神の啓けに身を捧げ、
 
わたしは世といふものの光を得る。
 
考へる力、それは長ける、
 
わたしにわたしみづからを明かしながら。
 
そしてわたしに呼び覚ます、
 
考へる力を通して、わたしがあることの情を。

 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
 
 
 
「精神の啓け」。それは、イエスといふ幼な子が、こころの深みに生まれること。イエスとは、のちに、キリストとなる方。キリストとは、「わたしこと」「われあり」のもたらし手。「わたしがある」といふことをひとりひとりの人にもたらさうとする方。それがキリストだと、密のキリスト教では認められ、人から人へと密(ひめ)やかに伝へられてきた。
 
いまやもはや、この「わたしがある」といふことを実感することは、限られた人たちだけではなく、すべての現代人における、もつとも深い願ひなのではないだらうか。
 
どんなときでも、どんな場所でも、誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、「わたしがある」といふことへの情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
 
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、イエスの誕生によって、人にもたらされた。それを「精神の啓け」と、ここでは言つてゐる。
 
では、「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
 
それは、「考へる力が長ける」ことによって稼がれる。
 
普段、わたしたちの考へる力は、目に見えるもの、手に触れるものなどに、張り付いてしまつてゐる。物質的な感官を通して入つてくるものに対して考へることに尽きてしまつてゐる。
 
「いま、何時だらう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」「ローンの返済を今月ちゃんと済ませることができるだらうか」などなど・・・。
 
また、目に美しいもの、ここちよいもの、快をもたらしてくれるものには、それらを享受するのに、特に努力はいらない。
 
わたしたちのふだんの考へる力は、そのやうに特に意志の力を要せず、やつてきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
 
しかし、たとへば、葉がすべて落ちてしまつた木の枝。目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。それらをじつと見つめながら、こころの内で、考へる力にみづからの意欲・意志を注ぎ込んでみる。 
 
来たる春や夏に咲きいずるはずの、目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想ひ描きつつ、その木といふものの命に精神の眼差しを向けてみる。さうすると、その寒々しかった冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のやうなものが感じられてこないだらうか。
 
それぐらい、考へる力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。すると、その考へられた考へが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものやことがらの内に通ってゐるかのやうな、活き活きと命を漲らせたものになる。 
考へる力を、そのやうに、感官を超えたものに意志をもつて向けていくことによつて、わたしたちは内において、自然界に写る影の像を命ある像に転換できる。死を生に転換できる。
 
そして、その考へる力によつて、わたしたちみづからも活き活きとしてくる。わたしにわたしみづからを明かす。わたしに、「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。この情は、このやうに、おのづから生まれるのではなく、ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
 
「わたしがあること」の情とは、みづからに由るといふ情、「自由」の情でもある。
 
キリストとは、「わたしがある」「わたしこと」を人にもたらした方。 
 
現代において、わたしたちひとりひとりが、キリストによつてもたらされたみづから考へる力を長けさせることができる。その考へる力によつて「わたしがある」ことの情、つまり、内なる自由を稼ぐことができる。その内なる自由からこそ、「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことができる。そのことを、キリストは応援してゐる。
 
そして、「わたしがある」ということをもつて「身を捧げる」。ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
 
それは、どこまでも、この「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」への信頼から、人との対話へと、仕事へと、一歩踏み出していくこと。
 
それは、きつと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいだ。
 
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
 
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、輝いてゐるものや、輝いてゐる人、そして輝いてゐる「わたし」を見いだすことができないだらうか。
 
「わたしがある」という情、「幼な子」の情を育みつづけるならば。
 
この『こころのこよみ』を読みながら、そのことをメディテーションする(追つて繰り返しアクティブに考へる)ことができる。
 
 
精神の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。

 

posted by koji at 00:32 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月31日

年ノ瀬ヲ迎ヘテ・・・


年ノ瀬ヲ迎ヘテ・・・。 
 
ほとばしる 川の流れの 神の声
岸辺を洗ひ 我れここに立つ

 
 
 
青ク晴レ渡ル大空ノ下、聳エル富士山ヲ新幹線ノ車中カラ望ム。
 
いくたびも ゆきて過ぎしか その御前(みまへ)
天(そら)みつ神の こころはるけし

 
 
諏訪耕志

posted by koji at 10:08 | 大阪 ☁ | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月30日

息長くあれ 〜生田の杜の息長帯比売命〜


IMGP0034.JPG

IMGP0050 (2).JPG

 
わたしたちが大事に大事に念つてゐる神々のお一柱に、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)がゐらつしゃる。
 
又の名を神功皇后(じんぐうこうごう)とおつしゃられ、その御勲功、御業績は、日本の国史に深々と刻まれてゐる。
 
昨日足を運んだ神戸三宮にある生田神社は、その息長帯比売命によつて創建せられた数ある社の中のひとつだ。
 
天照大御神と御関係の深い稚日女尊(わかひるめのみこと)を御主祭神としてゐる。
 
その生田神社の奥の生田の杜(もり)の更に奥に、息長帯比売命をお祀りする生田森坐社(いくたのもりにますやしろ)があり、そこを歳の終はりに訪れた。
 
神気満ち満ちる杜の中、いつさう息を長くお帯らしくださる(満ち足らせてくださる)姫神の息吹きにからだまるごとを貫流されるやうな時間。
 
今年のすべての仕事と暮らしが健やかであれたことへの感謝と来たる年への希みをこころの内で宣べることができた。
 
かうした行為は、決してかりそめにはできないことだと信じてゐる。
 
最後は、寒い三宮の夜、「ことばの家」ふたり忘年会。

IMGP0060 (2).JPG


posted by koji at 10:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2月18日 オイリュトミー公演 三枚の札コ & 世界でいちばんきれいな声

 
オイリュトミスト影島清恵さんによるオイリュトミスト養成のための「あかね塾」。
 
そこで五年間修業を積み重ねてきた生徒さんたちの卒業公演が名古屋で開かれます。
 
影島さんも出演され、今回、わたしが言語造形を担当します。
 
お昼の12時から12時45分の時間には、大人たちに向けて、ゲーテの詩がオイリュトミーによつて奏でられます。(無料公演)
また、13時からオイリュトミー講座も舞台上で催されます。(有料)
 
子どもたちには、午後14時半から、日本昔話『三枚の札コ』とマージョリー・ラ・フルール作『世界でいちばんきれいな声』を楽しんでもらいます。(有料公演)
 
お近くの方、ぜひ、いらしてください。 

 
日時:2018年2月18日(日)
開場14:00 開演14:30 終演予定15:10
 
場所:イーブルなごや ホール
名古屋市中区大井町7−25
地下鉄名城線「東別院」下車徒歩5分 Pなし
 
入場料(前売・当日共)
大人:1000円(中学生以上)
小人:500円
対象 3歳以上
 
【同時開催】
12:00〜12:45「シュタイナーフォルムによるソロ発表」
塾生の他に各地のオイリュトミストが発表します。
オイリュトミスト:影島清惠 幸田朋子 吉越明美 荻原史織
朗唱:諏訪耕志 
ピアノ:川村明美 和久深雪
チェロ:川村なつみ
対象 小学生以上 入場無料
※未就学児の同伴はご遠慮ください
 
13:00〜13:45「オイリュトミー講座」
〜メルヘンの登場人物になって動こう〜
 対象 高校生以上 参加費1000円
持ち物 動きやすい服装・底の薄い靴(オイリュトミーシューズなど)
※定員20名(下記の方法でお申し込み下さい)
 
【お申込み方法】
公演:チケットの種類・枚数・氏名・住所・電話番号をお申込みの上、下記口座へお振込み下さい。
公演当日受領証をお持ち下さい。受付にてチケットをお渡しします。
講座:氏名・住所・電話番号をお申込みの上、下記口座にお振込み下さい。
 
ゆうちょ銀行 オイリュトミーあかね塾(オイリュトミーアカネジュク)
記号12110 番号83047161
 
【お問い合わせ・お申込み先】
E-mail akanejuku_eurythmie@yahoo.co.jp 件名:公演・講座
 
 
影島清恵さんプロフィール
神奈川県出身。1990年にスイスのオイリュトミー学校入学。1994年卒業後、舞台グループに所属し研鑽を積む。1999年に帰国。現在、愛知県と岐阜県を中心に幼児、小学生、大人の講座を持つ。名古屋シュタイナー土曜学校山里の森 、うめの森ヴァルドルフ子ども園 、シュタイナー教員養成講座 でオイリュトミー担当。オイリュトミーアンサンブル わ を主宰し、舞台公演を企画上演。2013年4月、オイリュトミスト養成あかね塾開塾。

 

posted by koji at 08:53 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月29日

十年後


003_jingyu.jpg
平櫛田中作「尋牛」

 
いま懸命になつて学び勉強してゐることが、己れのことば、己れの力となつて世に羽ばたいていく。
 
それは、おほよそ、十年後である。
 
人に於いては、何事も、熟し、稔りを迎へるには、十年を要する。
 
ひとつのことを毎日懸命になつて、十年やり続けてみる。それは必ずその人の技量となつて世に働きかけ始める。
 
もちろん、その道に終はりはなく、二十年、三十年と学びは続くだらう。
 
 
今日一日、懸命。今日一日、懸命。そんな生き方をしていきたい。
 
子どもたちや若い人たちにも理屈ではなく、知識でもない、そのやうな人のあり方を身をもつて伝へていきたく念ふ。
 
 


posted by koji at 11:00 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

祭りとその準備

 
IMGP6796.JPG
春日大社のおんまつり

わたしたち「ことばの家」がしてゐることは何だらう。ふとさう思つた。
 
それは、「遊び」だ。「遊び」とは神と交わることだ。
 
「遊び」であり、また「労働」だ。それは、同じことである。
 
さらに言へば、「祭り」だ。
 
祭りを執り行ふには、準備が要る。
 
古来、日本といふ国に於ける祭りの準備とは、神に捧げるものの生産のことでもあつた。米であり、餅であり、酒であり、その他この一年に生産・収穫・加工されたものを神に感謝して神の前に捧げるべく、働くことが、そのまま祭りの準備だつた。その労働は、人力で成し遂げられるといふ思ひ込みでなされるのではなく、大いに神のご加護とご神威をもつて成し遂げられるのだといふ信仰心とひとつであつた。生産のための労働自体がすでに信仰的行為だつた。日本では、そもそも、経済活動と信仰活動がひとつだつた。
 
それらが神前に捧げられ、そして改めて民のいのちを養ふ糧として民がそれらを頂き、神と共に飲み食い、饗宴すること、さらにこの年の豊作への感謝と来たる年の収穫を乞ひ願ふことばを祝詞として唱へること、舞ひ踊ること、それが祭りといふものだつた。
 
その意味で、準備としての生産と、祭りとは、ひとつのものであつた。
 
わたしたち「ことばの家」は、毎日の稽古を通して、「ことば」をだんだんと練り上げ、磨き上げ、研ぎ上げながら、言語作品を生産してゐる。
 
それは、祭りに向けてのひたすらな準備である。
 
わたしたちにとつては、舞台公演といふものが、まぎれのない「祭り」であり、「ことばが肉となること」を多くの人と共に喜び、祝ひ合ふ場である。
 
生産物が神前に供へられ、同時にそれらが民の糧ともなるやうに、来たる年も、わたしたち「ことばの家」は、ことばを生産し、それを皆で「こころの糧、魂の糧」として食すことができるやう、毎日を遊びつつ、働きつつ、生産に励んでいきたいと思つてゐる。
 

posted by koji at 17:53 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月26日

イエス様、ご誕生の瞬間(とき)


25593937_1316551988450048_8455722696568396137_n.jpg
イエス様、ご誕生の瞬間(とき)
2017年(平成二十九年)12月25日 住吉区民センター小ホールにて『キリスト生誕劇』




posted by koji at 15:27 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月23日

キリスト生誕劇を語るシュタイナー(12月25日生誕劇開演!)


maxresdefault.jpg

 
キリスト生誕劇について、シュタイナーはある講演で語つてゐます。
 
「このイエス・キリストがお生まれになつた聖き夜の劇は、村の誰それの家に手書きで残されて、それはそれは神聖なものとして保たれてゐました。
 
かつてそれを演じるには、十月に入り、やおらその年の上演のことがこころにかかり、演じ手の若衆男女が選ばれ、選ばれた若衆は当日までの備へのあいだ酒を断ち、日曜日に喧嘩をしないとか、様々な慎みごとをして、彼ら言ふところの『聖らかな暮らし』を送ります。
 
聖き夜の節、聖き劇を演じるには、それなり聖きこころでと、さういふ意識を人々は抱いてゐました。世俗のしきたり、浮き世の楽しみで臨んだのではありません。演じるのは、ふだん鋤よ鎌よで働く人たちですから、それは素朴なものでしたが、始まりから終わりまでを、ずつと深く厳かさが領しました」
 
(「聖き夜との考へとわたしなる秘密」より)

 
 
この劇は、18世紀の半ば、シュレーアーといふ文学者であり民俗学者でもあつた人によつて、西ハンガリー地方のある村で採録されたものです。その劇を20世紀に入つて精神科学者であるシュタイナーが再び見いだし、それがやがて世界中のシュタイナー学校において、クリスマスの時期に先生たちから子どもたちへの贈り物として、毎年演じられるやうになりました。
 
人よ 思ひ起こせ  人にしてかうごうしいところを
天の高みより 降りてこられた をさな子
 
そのやうな念ひを抱く素朴な誠の心意気。
 
この劇は、ただひたすらに、そこから発してゐます。
 
始終、喧騒にまみれてゐるやうなここ大阪ですが、この都会の片隅で、この劇を観るために集まつてくださるひとりひとりの人と、そのやうな聖きもの、静かなもの、誠の心意気をこころの根底で分かち合ひたい。
 
その念ひで、この劇創りを今年の春から始めました。
 
この営みを毎年恒例のクリスマスの営みにしていきたい、さう希つてゐます。
 
その第一回目の試みが、あさつてのクリスマスの夜です。
 
ことばの家クリスマス祭『キリスト生誕劇』 

●日時

2017年12月25日(月) 16時半開場 17時開演 19時半終演予定


●場所
 
大阪市立住吉区民センター 小ホール
http://sumiyoshiwardc-ogbc.jp/map/index.html
  
南海本線「沢ノ町」駅 徒歩5分(東へ約300m)
JR 阪和線「我孫子町」駅 徒歩10分(北西へ約650m)
 
  
●入場
 
大人:
予約 3000円  当日 3500円
 
子ども(4〜18歳):
無料
 
 
●お申込み
 
こちらから
http://www.kokuchpro.com/event/christmas2017/
(paypalクレジット決済)
 
 
恐れ入りますが、参加ボタンを押してから 30分以内 にクレジット決済をしていただきませんと、お申し込みが無効になります。どうぞよろしくお願いします。
 

posted by koji at 19:59 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ 第38週 聖き夜の調べ 〜目覺めよ、男たちの内なるをさな子〜

 
わたしは感じる、
 
まるでこころの奧で、精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は心(臟)の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに滿ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの聲を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。

 
 
Weihe-Nacht-Stimmung
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
※シュタイナーが、Seele といふことばを使ふときは、からだと繋がるところでありながらも、からだからは独立した働きを荷う「こころ」のことを言つてゐるが、Herzenといふことばを使ふときは、物質の素材でできてゐる心臟のありようをも含む意味合ひを指し、またその物質の心臟の働きを支へてゐるエーテルの心臟を指すやうだ。そこで、Herzen を「心(臟)」と書き表してゐる。
 
 

クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。どの人のこころの奧にも眠つてゐるをさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
をさな子、それは、子ども時代の内でもとりわけ、記憶の境の向かう、三歳以前のわたしたちのありよう。
 
いまこそ、この時代こそ、世の男たちの(このわたしの)内なるをさな子が目覺めますやうに。さう祈らずにはゐられない。なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、世のすべての爭ひ、分け隔て、エゴ、それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
わたしたちは、そのをさな子の時に、おおよそ三年かけて、歩く力、話す力、考へる力を育み始める。その三つの力は、人のからだを創つていく力でもある。
 
歩く力によつて脚が、話す力によつて胸が、考へる力によつて頭が、だんだんと創られていく。歩く力、話す力、考へる力は、当然その子によつて意識的に身につけられたものでもなければ、大人によつて教へ込まれたものでもなく、そのをさな子の内から、まるでかうごうしい力が繰り出してくるかのやうに、地上的な力を超えたところから、生まれてきた。
 
そのおのづと生まれてきたかうごうしい力は、しかし、三年間しかこの世にはない。をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、その子の内に、少しづつ地上を生きていくための知性と共に、エゴがだんだんと育ち始める。きつと、それも、人の育ちにはなくてはならないもの。
 
しかし、おおよそ、三年の間のみ、人の内に、からだを創るためにそのかうごうしい力は通ふ。この地を生きていくための基の力であり、かつ、この地を越えたかうごうしいところからの力は、三年の間のみ、をさな子に通ふ。
 
「聖き、世のことば」キリストも、この世に、三年間しか生きることができなかつた。イエス、三十歳から三十三歳の間だ。そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、をさな子のをさな子たるところからの力であつた。キリストは、世のすべての爭ひ、分け隔て、エゴを越え、人のこころとこころに橋を架ける、愛する力として、この地上に受肉した。
 
後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされてゐる、24 日から25 日の間の聖き夜。その夜から、キリストがイエスに受肉した1 月6 日までをクリスマスとして祝ふ。
 
そして、このクリスマスは、二千年以上前のおおもとの聖き夜に起こつたことを想ひ起こすことを通して、わたしたちの内なるをさな子たるところを想ひ起こす時だ。そして、いまから三千年以上あとに、すべての人がみづからのこころに精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)・キリストを見いだすことを、あらかじめ想ひ起こして祝ふ時だ。
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、そのかうごうしい力が通つてゐた。そして、いまも、通つてゐる。しかし、わたしが、そのかうごうしい力を想ひ起こせばこそ、いまもその力が通つてゐることに目覺めることができる。
 
このクリスマスの日々に、その力を自分の内にも認めればこそ、來る年への希みが羽ばたき始める。争ひ、鬪ひ疲れてゐる男たちが、みづからの内なるをさな子を想ひ起こしてゆくならば、世はおのづから刻一刻となりかはつていくのだ。
 
 
わたしは感じる、
まるでこころの奧で、精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は心(臟)の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに滿ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの聲を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。

 

posted by koji at 09:32 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天長節ヲオ祝ヒシテ


45d1c307926214f649313a30a5a7837e.jpg


天長節ヲオ祝ヒシテ
 
たたなづく 青垣山の あなたより
いやさかのぼる 光はるけく
 
我が内に 宿りし光 
いづこより 来たれるものか 吾(あ)は知りぬる


諏訪耕志

posted by koji at 09:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | やまとうたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月21日

闇、だんだんと光を捉える


img56225878.jpg

 
例へば、シュタイナー教育の実践の場や、わたしが取り組んでゐる言語造形の場など、精神的なものの実現・定着を目指してゐる場において、気をつけなければならないな、と感じ、考えてゐることがあります。
 
そのやうな「光の場」において、人は、みづからの内に深くしまいこんでゐるものが出て来てしまふ、といふことです。
 
その場が、光を目指すほどに、闇が忍び寄つてくる。
 
そして、その闇の忍び寄り方には、ふたとほりある。
 
普段、どちらかといふと、熱狂しやすく、陶酔しやすく、熱くなりやすく、またその反動で冷たくなってしまふ、そのやうな質(たち)をわたしが持つてゐるならば、光の場に入ると、その場がここちよく感じられるあまりに、「このことのみが真実だ、他はたいしたことがない、いつまでもここにゐたい、この場から、出て行きたくない」と感じる方へわたしは傾いてしまふ。
 
一方、精神的なものごとを信じてゐる、信じてゐないに関わらず、精神から離れている生活を営んでしまってゐるやうなとき、ものごとはすべて計算で割り切れるとの思ひ込み、すべては計画通りに進んでいつてもらいたいとの偏つた希み、人のことも自分のことも信じられなくなってしまふやうなとき、光の場に入ると、その場の雰囲気が嘘臭く思へたり、こんなものは現実的ではない、と思つたり、早くこの場から出て行きたい、と願つたり、疲れや失望を過剰に感じたり、その向きへとわたしは傾いてしまふ。
 
どちらの傾きも、わたしの内にあります。
 
光の場だからこそ、そのやうに闇が強くふたとほりに人のこころを通して忍び寄つてきます。
 
光の場は、きつと、いま、人に、強く求められてゐます。
 
わたしたちは、気づいた者から、そのやうな光の場を各地に創つていくことを始めてゐます。
 
そして同時に、そのやうな場に闇が忍び寄つてくることに、遅かれ早かれ誰しもが直面します。
 
直面して初めて人は学ぶことができます。
 
光の場を創っていく上で、イニシアティブを持つて創っていくとき、己れのこころに忍び寄つてくるふたとほりの闇に意識的であることが大切なことだと、自戒してゐます。
 
そして、そのふたとほりの闇のあり方に傾かず、その間でバランスを取つて立つとはどういふことなのか、それを意識的に追い求めていかざるをえません。
 
光、闇にそそぎき、しかし、闇、光をとらえずありき (ヨハネ一)
 
そして、闇はだんだんに光をとらえるにいたる。
 
それは、「人が内なるところにおいて闇に打ち勝ち、ロゴスの光を知る」との意味です。

クリスマスのテーマであり、お年越しのテーマであります。 
 

posted by koji at 10:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月18日

聖き夜の過ごし方 〜キリスト生誕劇〜


IMGP0681.JPG


クリスマスの夜、キリスト生誕劇まであと一週間となりました。
 
その聖き夜の舞台の上には、ほとんど何もありません。
 
ただ、俳優が立ち、歌ひ、語り、演じるだけの舞台です。
 
そのやうに、真裸のやうな、素朴な舞台だからこそ、人といふものそのものが、紛れもなく空間に立ち上がつてくることをわたしたちは強く希つてゐます。
 
冬の厳しい寒さと暗い闇の底に閉ざされた中に、ひとつの灯が灯るやうなキリストの生誕。
 
その生誕を祝ふ劇にふさわしいのは、能舞台のやうな裸の舞台であると思ふのです。
 
ひたすら感覚に訴えてくる舞台ですので、お子様もどうぞご一緒に。

どうぞ、聖き夜を共に過ごすべく、25日いらしてください。
 
お待ちしてゐます。
 
 
●出演
 
正木美佐子
澤田ひとみ
堀川奈浦子
佐藤裕子
足利智子
諏訪千晴
諏訪耕志
斎藤理美 
高垣さおり(ヴァイオリン)
 
 
●場所
 
大阪市立住吉区民センター 小ホール
http://sumiyoshiwardc-ogbc.jp/map/index.html
  
南海本線「沢ノ町」駅 徒歩5分(東へ約300m)
JR 阪和線「我孫子町」駅 徒歩10分(北西へ約650m)
 
  
●入場
 
大人:
予約 3000円  当日 3500円
 
子ども(4〜18歳):
無料
 
 
●お申込み
 
こちらから
http://www.kokuchpro.com/event/christmas2017/
(paypalクレジット決済)
 
 
恐れ入りますが、参加ボタンを押してから 30分以内 にクレジット決済をしていただきませんと、お申し込みが無効になります。どうぞよろしくお願いします。
 
 
または下記口座へのお振込みも可能です。
 
◎ゆうちょ銀行
記号 10260 番号 28889041
諏訪 千晴(スワ チハル)
 
 

振込みの確認をもって、
ご予約完了とさせていただきますので
ゆうちょお振込みの際にはご一報ください。

子供も参加可能

posted by koji at 21:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたしの内の子ども(青春)時代〜


IMG_2873.jpg

 
そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。
 
大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」。
 
わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。
 
わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしは問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていきます。
 
そして、わたしの中の「子ども時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。
 
第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。
 
その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。
 
そして、他者と語り合ふ中でこそ、そのひとりで考へる力が育まれていきます。
 
若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。
 
そんなとき、時間をかけながら、側にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。
 
そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。
 
そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、側にゐる大人が見てとつてあげられたら。
 
『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。
 
第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。
 
さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。
 
他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。
 
「では、わたしは、世に対して、何をしていかうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。
 
第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。
 
若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の側にゐる大人のひとつの役割でせう。
 
ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。
 
「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。
 
彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。
 
人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。
 
そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。
 
それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。
 
さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んでいかうか。引き続き、わたしにとつての2018年の課題です。
 
(完)

posted by koji at 17:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代D 〜順序を間違えないこと〜


IMGP4627.JPG

 
欲する力・意欲の働きがむき出しの0歳から7歳。

その欲する力の上に、感じる力・情の衣をまとひ始めるのが7歳から14歳。
 
そしてその欲する力、感じる力から、だんだんとひとりで考へる力が育つてくるのが14歳から21歳。
 
それら三つの力はどれも、その人のその人たるところ、「わたし」から生まれてこようとしてゐるものですが、年齢によつてその表れ方が異なつてゐて、欲する力として、感じる力として、考へる力として、順番に現れてきます。
 
それらおのづと生まれてくる力の順序を間違へずに、その順序どほりに育んでいくことが、人の育ちにとつてとても大事な意味を持ちます。
 
小学生に、「自分で考へなさい」と言つてしまふこと、ありませんか。
 
人といふものをよく見てとつてみると、小学校に通つてゐる時期には、子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、おのづと、感じる力といふ衣をまとひ始めてゐる、しかし、自分ひとりで考へる力は、まだ生まれてきてゐない。
 
「自分で考へなさい」「自分で判断しなさい」といふ指導は、その時期の子どもには早すぎるのです。
 
「シュタイナー教育では、かう考へる」といふのではなく、人をあるがまま観てとる練習をしていけば、そのやうな順序を間違へない判斷がだんだんとなされるやうになつてきます。
 
人をあるがままに観てとる練習。その練習は、きつと、生涯、続きます。
 

posted by koji at 08:26 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

子ども時代C 〜民族言語の主(あるじ)になる練習〜


DSC03456.jpg
写真 山本美紀子さん撮影


小学校時代の第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、子どもと地域との関係性、それは一対多の関係性とも言へるのですが、より本質的に言へば、それは人と民族との関係性です。
 
民族とは、ひとつの言語を母語として共有してゐる人々の集まりを言ひます。
 
ひとつの言語を共有することによつて、人々は共にある、といふことを実は感じてゐます。ほとんど無意識、もしくは夢のやうな意識の次元においてですが、感じてゐます。
 
日本語を話すことによつて、その人は日本人になるのです。だんだんと日本人のものの考へ方、暮らしの仕方へと身もこころも同化していきます。なぜなら言語は、おもに、感情の次元から発せられてゐて、感情とは民族に根付いてゐる根柢に通ふものがあるからです。
 
そして、言語を話す人には、その言語からの叡智が贈られてゐます。
 
ことばの叡智、日本伝統のことばで言ふ「言霊の風雅(みやび)」、キリスト教の密で言ふ「ロゴス・ことば」、もしくは、人をどこまでも育てようとする、ことばの神からの「愛」です。
 
ことばを大切に扱ふ人のところに、ことばの精神から、愛と叡智への予感が降りてきます。
 
言語造形を通して、ことばにはそのやうな働きがあることを学んでいくこともできます。
 
そのやうに実は叡智に裏打ちされてゐることばを通して、他者と素直に語り合ひ、違ひを見いだし、それを尊び、自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。
 
第二・七年期の子ども時代、それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。
 
また、大人にとつては、自分自身の内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによつて、ことばと己れとの関係にいま一度目覺めることができるのではないでせうか。
 
わたしたち大人自身が、複数の他者との関係の中で、どう、ことばとつきあひ、どうみづからを育んでいくことができるか。
 
そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、この上なく大切な働きかけになります。
 

posted by koji at 18:09 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代B 〜彩りの豊かさ〜


IMGP7679.JPG

 
子どもは歯が生へ変はりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとつて本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか多勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。
 
地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豐かさにどんどん目が奪はれていくことでせう。
 
かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。
 
幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。
 
しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情といふ衣を着つつ現れてきます。
 
そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。
 
その彩りの豐かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。
 
ひとりひとりの子どもは、みんな、違ふ。
 
みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。
 
その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。
 
ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊嚴を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。 どれほど大切なものが子どもたちの内側から流れ出してくるでせう。
 
さういふ大人の下で、子どもは、自分といふ個にゆつくりと目覺め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覺め、その彩りの豐かさに目覺めていきます。
 
社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、多勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本來的な豐かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。
 
もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」 もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に拔きん出ることができますよ」といふひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれ出ようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。
 
小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着てゐるやうなものです。
 
ひとりひとりの子どもたちは、本来、各々、別々の色を持つてゐます。
 

posted by koji at 08:24 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

子ども時代A 〜あのね、かあさんが、すきなのよ〜


KIF_0118.JPG

 
「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳に至るあたりまで、幼い子どもは、自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としてゐます。
 
その一対一の関係を通して、子どもは「世は善きところである」といふ信頼を、きつと、ますます深めていくことができるのでせう。
 
その個と個の関係において、人はまづ最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。
 
その最初の<わたし>の健やかな成長のために、子どもは、内側から湧き上がつてくる「意志・意欲」を、そのまま固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、ひとりの大人の存在を必要としてゐます。
 
その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、家庭があり、その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。
 
この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すやうな童歌があつて、まどみちおさんが作詞した「ざうさん」といふ歌があります。
 
  ざうさん、ざうさん、おーはながながいのね
  さうよ、かあさんも、なーがいのよ
 
  ざうさん、ざうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ
 
幼い子どもが、ひとりのお母さん(もしくは、それに代はる誰か)との結びつきを通して、個と個の信頼を育んでゐる姿が描かれてゐますね。
 
ひいては、自分自身への信頼をも育んでゐます。
 
わたしたち大人の内側に、第一・七年期の子どもにとつての大切なテーマでもある、この個と個の関係性をあらためて創つていくことの重要性を、いやと云ふほど感じてゐるのが、現代といふ時代かもしれません。
 
その関係性の基とも言へる、家庭の中における個と個の関係性、家庭の中における夫と妻の関係性、そこには、その人の第一・七年期のありようが映し出されてゐます。
 
そここそに、新しい宗教性が啓かれるのです。
 
それは、ひとりの人とひとりの人との間の信頼の問題、そして、自己信頼の問題なのです。
 
そのことが、もつとも現代的なテーマとして、わたしたち大人が向かひ合つていくべきことだと、あらためてわたしは考へさせられてゐます。
 

posted by koji at 20:00 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜


CIMG1755.JPG

 
人における「子ども時代」。
 
それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。
 
しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。
 
よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。
 
「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかつた」
 
でも、大人になつても、遅くはない。
 
なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潛めてゐるからなのです。
 
「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのやうなことばが思はず呟かれるのかもしれません。
 
「子ども時代」を強く保ち続けてゐる人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ち続けてゐる。
 
子どもの氣持ちにいつでも帰ることができる。
 
自分の中の子どもに語りかけるやうに、何かを創つたり、語つたり、書いたりすることができる。
 
その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。
 
幾つになつても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。
 

posted by koji at 10:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

こころのこよみ(第36週) 〜汝は何を怖がつてゐるのか〜

 
135099505686513132062.jpg

わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。

 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 

 
わたしといふものの深みにおいて、「いま、目覚めよ」と、世のことばが密やかに響く。
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくように「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
「目覚めよ」とは、恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
世のことばがささやいてゐる。
 
汝は何を怖がつてゐるのか。何も怖がることはない。己れの内に隠されてゐる恐怖から、他者を罵り、責めることは、もうやめよ。汝を捧げよ。汝の仕事に。我(キリスト)を通して。
 
仕事をするといふことは、さういふことではないか。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。

 

posted by koji at 05:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月13日

ものへゆくみち 〜萬葉集より〜


IMG_2166.JPG
絵 安田靫彦『大伴家持』

 
我が国の古(いにしへ)よりの暮らしの美しさ。
 
それは、ものと云ふものを愛(いつく)しみ、ものと云ふものに神を認め、ものと云ふものの内側に入つていくことで、世の森羅萬象に美を見いだしてゐたわたしたちの暮らしだつた。
 
江戸時代の国学者、本居宣長は、そのやうな自他の境を越えてひとつになつてゆく暮らしの方法を、「ものへゆくみち」と言つた。
 
山をも、海をも、空をも、風をも、いのちある自然とみて、それらに包まれ、語りかけられてゐる己れを感じる。
 
暮らしの中の器物ひとつひとつとの交流。
 
いただく米、一粒一粒を通つて、大いなるものに向かふ、人のまごころ。
 
ことば数は少なけれど、唇からこぼれるひと言ひと言の豐かさ。
 
今の暮らしは、昔とは随分、様相は変はつてしまつたけれども、さう云ふ「ものへゆくみち」を、たつたいまからでも、わたしたちは歩きはじめることができるのだと思ふ。
 
 
 
歌の季節は、いまとずれるが、『萬葉集』といふ我が国最初の和歌による詩歌集を編纂した大伴家持の歌。
 
 春の苑(その)紅(くれない)にほふ桃の花
 下照(したで)る道に出で立つ少女(をとめ)

 
この歌を詠んだ当時、家持は深刻な運命を生きてゐた。
 
しかし、それにもかかはらず、彼は目の前の風景すべてに神を觀るがゆゑに、ここに描かれてゐるものと云ふものすべてが、まぼろしのやうに彼のこころの視界に浮かび上がり、空間の彼方へと美しい心象となつて拡がりゆき、その心象風景と彼はひとつになつてゐる。
 
まるで自分のからだが軽くなり、透明になつたかのやうに感じながら、言語造形を通して、息を解き放ちつつ、聲を響かせると、この歌からさう云ふ感覺がからだまるごとで味ははれる。
 
目に見えないもの、こころに映る心象風景、さう云ふものともひとつになることのできる、こころの力を、昔の人は育んでゐたやうだ。

『萬葉集』は、さういふ古の人たちのこころと精神の記録・歴史であり、日本人の永遠のよりどころである。
 


posted by koji at 08:26 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

ジョンの顔


17361930_421478861531113_3859130456336796469_n.jpg

 
ちょつと前の「ほぼ日刊イトイ新聞」で、糸井重里さんが「もしもビートルズがいなかったら」という連載で語つてゐるのが載つていたんだけれど、第一回目に彼が言つてたことが、自分にもぴつたり当てはまつてゐて、おかしかつた。
 
それは、ビートルズの何が好きかつて言ふと、「ジョンの顔が好きだ」(笑)。身もふたもない話。
 
男が男の顔が好きだつて言ふのも変な話だが、少年の頃から、糸井さんと同じで、ジョンの歌つてゐる時の顔、立ち方、ギターの構へ方。声、歌はもちろんだけれども、あの巨大な才能と共にその姿がなぜだか大好きだつた。
 
しかし、小野洋子さんに会つて、彼女に本格的に恋をし出してからのジョンの顔が激変するのだ。髭面になつたからといふことではなくて、ビートルズの初期と後期で、ジョンの顔を見比べて、とても同じ人とは思へない。
 
そして、その顔がいつさう、いいなあと思へる(笑)。
 
身もこころも生涯を共にしたいと思へる人と出会へた人は、こんな顔になるんだなあ。
 
個人的に思ふことだが、「 Imagine 」のやうに国境のない世界、地獄も天国もない世界、またものの所有、富の所有を疑ふやうな頭で想ひ描く観念・理想を歌つた曲よりも(それは、多くの人が陥つてしまつてゐるインターナショナルな世を想い描く夢想や小児的・左翼的な似非平等主義を思はせる)、「 Oh, My Love 」のやうに個人的な愛、慈しみ、念ひを歌ひ、運命の人と出会へたことによるこころの開眼、精神の目覚めを歌つたものにこそ、より普遍的な深さを感じる。
 
無数の多くの人と繋がることよりも、たつたひとりの人に出会へることこそが、この人生の意味なんだといふことを、彼は晩年になるにつれて歌つた。
 
ビートルズのこと、ジョンのこと、語り出すと止まらない人、きつと世界中で数へきれないほどゐるんだらうな。

posted by koji at 23:12 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

五十三歳表彰状

昨日は、名古屋で、オイリュトミーの方々と来年二月の舞台に向けて、朝から夕方までみっちり稽古。とても充実した稽古だつた。オイリュトミーの方々の言語造形に対する認識が、十年前に比べて、とてもとても深まつてゐることに感銘を受ける。言語造形と重ねあはされることで、オイリュトミストの方々の動きが俄然甦つたやうに活き活きとしだし、笑顔が溢れてくることが、何より嬉しい。
 
夜八時にくたくたになつて帰宅したら、家族がわたしの誕生日祝ひをしてくれた。五十三歳記念の花と表彰状を渡してくれる。

IMGP1118.JPG


IMGP1136.JPG


posted by koji at 23:09 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする