
写真・平島邦生(日本写真家協会会員)
子どもたちに物語を語つてゐて、つくづく感じることがあります。彼らは、大人が取り繕つたものや大人自身の身についてゐないものは、受け入れないといふことです。
言語造形をしてやらうなどと勢ひ込んでわたしなどが語らうとしても、子どもたちはそのやうな技におぼれてゐるやうなものには耳を傾けてくれません。毎日の生活の中で我が子に語つてみるときなど特にそのことは明らかなのです。
「何が惡いんだらう。どうしたら聽いてもらへるんだらう」
そんな問ひに、こんな答へが、こころの中に風のやうに歸つてきます。
自然に。さう、「自然」に。
しかし、その「自然」といふあり方。ここで答へとして歸つてきた「自然」とは、どのやうな状態のものなのだらうか。またまた、さう問はずにはゐられません。
その「自然」とは、どのやうな状態を言ふのでせうか。それは、ありきたりのもの、そこらぢゆうに轉がつてゐるものでは、きつと、ないのです。人の精神は、そこらぢゆうに流通してゐるものから隔たりを置かうとします。流通してゐるものの中から石を除き、玉を選ばうとします。もしくは、流通してゐるものの中にこそ、玉を見いださうとします。
自分にとつて大事なことを話すとき、打ち明けるとき、人は自然にことばを選びます。その大事なこと、大切にしてゐるものを、どう、ことばで言つたらいいのか。わたしたちが日常の生活の中でときに思案することでもあります。
そして、思案していくほどに、それはややもすれば不自然になつていつたり、ことばを無くしてしまふといふことにもなります。そして、人は、もがきます。どういふことばなら、言ひたいことがうまく言ひ表せるのだらう。分かつてもらへるのだらう。
そして、それ相當の時間を置いて、ようやくふさはしいことばが、浮かび上がつてくるがごとく、天から降りてくるがごとく、わが口から放たれ、筆によつて、キーボードによつて記されます。
その時の、もがき、葛藤を經た後の、「自然」とは、どのやうな状態でせうか。
日常、ことばを話すときにわたしたちがしてゐるそのやうなことは、實は、人類がその歴史を通して尤も精力を注いでゐることではないでせうか。
その大事なこと、大切にしてゐることを、どうことばで言ひ表すかといふことは、ひいては、〈わたし〉といふ精神の人を、かうごうしいことがらを、神を、ことばとしてどう顯し、どう組み立てていくか、といふことへと深まつていきます。人の精神は、古今東西、方法は變はれども、こころざしを一貫して育みながら、宗教のことばとして、文學のことばとして、哲學のことばとして、科學のことばとして、それらのことを顯わにしようと勤しみ續けてゐます。
人は、人から人へ、時代から時代へ、大切にしてゐるもの、大事にしたいことがら、「自然の自然たるところ」を、葛藤を經つつ、できるかぎり「自然なことば」をもつて、傳へようとしてゐます。
その「自然なことば」とは、「藝術としてのことば」だと言つていいのではないでせうか。
人が「當たり前に(自然に)」ものにしてゐると思ひ込んでゐることばが、藝術になりえる。その「藝術としてのことば」とは、ことばそのものとの葛藤を經ることによつて獲得される、自然を超えた「より高い自然」です。「どう傳へたらいいのだらうか」といふ葛藤を經、だんだんと傳へようとしてゐることがらのより深い面が見えてきて、ことばそのものに沿ふことのできる謙虚さが自分の中で育つてくるにつれて獲得されていく「より高い自然としてのことば」、それが「藝術としてのことば」です。その「ことば」は、そもそも、響きにおいて活き活きとした生命と深みある叡智とを湛えます。
ことばといふ、神から授かつた自然は、人によつて、「より高い自然」になりたがつてゐるのです。
シュタイナーの教育分野、特に、幼兒教育においてよく述べられてゐることのひとつで、子どもたちへ物語などを語り聞かせるとき、「淡々と聲にするのがよろしい」といふことがあります。その「淡々と」とは、これまでに書いてきました「より高い自然としてのことば」のありようとしては、あまりにも舌足らずな言ひ方だと感じてゐます。
生まれて齒が生え變はるまでの子どもたちは物語や詩を大人のやうには聽いてゐません。ひとつのストーリーあるものとして、なんらかのメッセージが込められたものとしては、聽いてゐないのです。
その頃の子どもたちは、意志に滿ちたことばを全身で聽くことを通して、物語や詩に潛んでゐるかたちや動きや繪姿や色彩や音樂に觸れてゐます。親しく活き活きと、語られ、歌はれることばを通してそれらの要素に觸れ、包まれ、ともに動きながらことばを味はふことが、子どもの意志を育むのです。
ですから、幼い子どもたちに對して、できうるかぎり、活き活きとそれらの藝術的要素を引き上げながら、つまり意志の要素を注ぎいれながら語りますと、ことばの持つ力を通して、將來ことばの主になりゆくための土臺の力、意志の力を子どもたちの内に藝術的に育んでいくことに資するのです。
誤解を招くやうな言ひ方に聞こえるかもしれませんが、平坦に語られるのを聽いて滿足できるのは、知性に生きる大人だけです。知性は、もちろん、人にとつて大切な要素です。しかし、子どもは、ことばに、より豐かな意志の要素を求めてゐます。
幼い頃に情緒過多なことばやお話ししか耳にしてゐない子どもは、眞實ならざるもの、嘘がこころに染み入り、こころが毒されていきます。子どもは、大人によつて捏造された感情を押し附けられ續けることによつて、こころが毒されていきます。
また、「淡々と語られるだけの」ことばやおはなしを聞いてゐる子どもは、知的にはなりますが、のちのち成長したあとも、ことばと自分自身が結びつきにくく、意志に缺けた己を見いだすことになります。
情緒過多も、知性偏重も、どちらも、人に、ことばへの信頼を無くさせます。
特に、方言や母語に籠もつてゐる意志の要素は、人を生涯に渡つて勵まし續け、<わたし>を育み續けるのです。インスタントに養成できないその要素は、長い年月を經て、言語的經驗を經て、その人その人の意志の力として、その人から生まれ出てきます。
靜かに、知的に、「淡々と」語りながらも、意志をもつて意欲的にかたちや動きや繪姿や色彩や音樂を感じながらことばを響かせていくこと、その知性(父)と意志(母)の結びつき、結婚を通して、結果としておのづと生まれてくる感情(子)こそが、本物の感情で、捏造された感情ではありません。
そのやうに、思考と意志と感情、三位一體からのことばをこそ子どもは求めてゐます。そのやうなことばをこそ人は求めてゐます。
ですから、日本人であるならば誰でも日本語を話せるものであるといふといふ認識は、きはめて淺薄なものと言へるかもしれません。日本語を話す人になるといふことは、どこまでも續く研鑽の道なのです。
ことばを話し、ことばを聽く、といふ人に授けられてゐる自然を、アントロポゾフィーはどこまでも深く捉へ、その自然の力を高く深く確かに育む道を示唆してゐます。
大事なこと、大切なことを、飾らずに、こころをもつて、こころの眞ん中から、どうことばにしていくことができるのか。子どもたち、特に、幼兒期にある子どもたちの周りでこそ、「ことばのことばたるところ」「より高い自然としてのことば」「人が人としてよつて立つところであることば」が響くやうに。
さう高い願ひを持ちながら、失敗を何度も繰り返しつつ、今日も力を拔いて、樂に、しかし、こころの眞ん中から、お話を語つていきます。