2017年04月09日

「淡々と語る」だけでは片手落ち (再掲)


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写真・平島邦生(日本写真家協会会員)

子どもたちに物語を語つてゐて、つくづく感じることがあります。彼らは、大人が取り繕つたものや大人自身の身についてゐないものは、受け入れないといふことです。
 
言語造形をしてやらうなどと勢ひ込んでわたしなどが語らうとしても、子どもたちはそのやうな技におぼれてゐるやうなものには耳を傾けてくれません。毎日の生活の中で我が子に語つてみるときなど特にそのことは明らかなのです。
  
「何が惡いんだらう。どうしたら聽いてもらへるんだらう」
 
そんな問ひに、こんな答へが、こころの中に風のやうに歸つてきます。
 
自然に。さう、「自然」に。
 
しかし、その「自然」といふあり方。ここで答へとして歸つてきた「自然」とは、どのやうな状態のものなのだらうか。またまた、さう問はずにはゐられません。
 
その「自然」とは、どのやうな状態を言ふのでせうか。それは、ありきたりのもの、そこらぢゆうに轉がつてゐるものでは、きつと、ないのです。人の精神は、そこらぢゆうに流通してゐるものから隔たりを置かうとします。流通してゐるものの中から石を除き、玉を選ばうとします。もしくは、流通してゐるものの中にこそ、玉を見いださうとします。
 
自分にとつて大事なことを話すとき、打ち明けるとき、人は自然にことばを選びます。その大事なこと、大切にしてゐるものを、どう、ことばで言つたらいいのか。わたしたちが日常の生活の中でときに思案することでもあります。
 
そして、思案していくほどに、それはややもすれば不自然になつていつたり、ことばを無くしてしまふといふことにもなります。そして、人は、もがきます。どういふことばなら、言ひたいことがうまく言ひ表せるのだらう。分かつてもらへるのだらう。
 
そして、それ相當の時間を置いて、ようやくふさはしいことばが、浮かび上がつてくるがごとく、天から降りてくるがごとく、わが口から放たれ、筆によつて、キーボードによつて記されます。
 
その時の、もがき、葛藤を經た後の、「自然」とは、どのやうな状態でせうか。
 
日常、ことばを話すときにわたしたちがしてゐるそのやうなことは、實は、人類がその歴史を通して尤も精力を注いでゐることではないでせうか。
 
その大事なこと、大切にしてゐることを、どうことばで言ひ表すかといふことは、ひいては、〈わたし〉といふ精神の人を、かうごうしいことがらを、神を、ことばとしてどう顯し、どう組み立てていくか、といふことへと深まつていきます。人の精神は、古今東西、方法は變はれども、こころざしを一貫して育みながら、宗教のことばとして、文學のことばとして、哲學のことばとして、科學のことばとして、それらのことを顯わにしようと勤しみ續けてゐます。
 
人は、人から人へ、時代から時代へ、大切にしてゐるもの、大事にしたいことがら、「自然の自然たるところ」を、葛藤を經つつ、できるかぎり「自然なことば」をもつて、傳へようとしてゐます。
 
その「自然なことば」とは、「藝術としてのことば」だと言つていいのではないでせうか。
 
人が「當たり前に(自然に)」ものにしてゐると思ひ込んでゐることばが、藝術になりえる。その「藝術としてのことば」とは、ことばそのものとの葛藤を經ることによつて獲得される、自然を超えた「より高い自然」です。「どう傳へたらいいのだらうか」といふ葛藤を經、だんだんと傳へようとしてゐることがらのより深い面が見えてきて、ことばそのものに沿ふことのできる謙虚さが自分の中で育つてくるにつれて獲得されていく「より高い自然としてのことば」、それが「藝術としてのことば」です。その「ことば」は、そもそも、響きにおいて活き活きとした生命と深みある叡智とを湛えます。
 
ことばといふ、神から授かつた自然は、人によつて、「より高い自然」になりたがつてゐるのです。
 
シュタイナーの教育分野、特に、幼兒教育においてよく述べられてゐることのひとつで、子どもたちへ物語などを語り聞かせるとき、「淡々と聲にするのがよろしい」といふことがあります。その「淡々と」とは、これまでに書いてきました「より高い自然としてのことば」のありようとしては、あまりにも舌足らずな言ひ方だと感じてゐます。
 
生まれて齒が生え變はるまでの子どもたちは物語や詩を大人のやうには聽いてゐません。ひとつのストーリーあるものとして、なんらかのメッセージが込められたものとしては、聽いてゐないのです。
 
その頃の子どもたちは、意志に滿ちたことばを全身で聽くことを通して、物語や詩に潛んでゐるかたちや動きや繪姿や色彩や音樂に觸れてゐます。親しく活き活きと、語られ、歌はれることばを通してそれらの要素に觸れ、包まれ、ともに動きながらことばを味はふことが、子どもの意志を育むのです。
 
ですから、幼い子どもたちに對して、できうるかぎり、活き活きとそれらの藝術的要素を引き上げながら、つまり意志の要素を注ぎいれながら語りますと、ことばの持つ力を通して、將來ことばの主になりゆくための土臺の力、意志の力を子どもたちの内に藝術的に育んでいくことに資するのです。
 
誤解を招くやうな言ひ方に聞こえるかもしれませんが、平坦に語られるのを聽いて滿足できるのは、知性に生きる大人だけです。知性は、もちろん、人にとつて大切な要素です。しかし、子どもは、ことばに、より豐かな意志の要素を求めてゐます。
 
幼い頃に情緒過多なことばやお話ししか耳にしてゐない子どもは、眞實ならざるもの、嘘がこころに染み入り、こころが毒されていきます。子どもは、大人によつて捏造された感情を押し附けられ續けることによつて、こころが毒されていきます。
 
また、「淡々と語られるだけの」ことばやおはなしを聞いてゐる子どもは、知的にはなりますが、のちのち成長したあとも、ことばと自分自身が結びつきにくく、意志に缺けた己を見いだすことになります。
 
情緒過多も、知性偏重も、どちらも、人に、ことばへの信頼を無くさせます。
 
特に、方言や母語に籠もつてゐる意志の要素は、人を生涯に渡つて勵まし續け、<わたし>を育み續けるのです。インスタントに養成できないその要素は、長い年月を經て、言語的經驗を經て、その人その人の意志の力として、その人から生まれ出てきます。
 
靜かに、知的に、「淡々と」語りながらも、意志をもつて意欲的にかたちや動きや繪姿や色彩や音樂を感じながらことばを響かせていくこと、その知性(父)と意志(母)の結びつき、結婚を通して、結果としておのづと生まれてくる感情(子)こそが、本物の感情で、捏造された感情ではありません。
 
そのやうに、思考と意志と感情、三位一體からのことばをこそ子どもは求めてゐます。そのやうなことばをこそ人は求めてゐます。
 
ですから、日本人であるならば誰でも日本語を話せるものであるといふといふ認識は、きはめて淺薄なものと言へるかもしれません。日本語を話す人になるといふことは、どこまでも續く研鑽の道なのです。
 
ことばを話し、ことばを聽く、といふ人に授けられてゐる自然を、アントロポゾフィーはどこまでも深く捉へ、その自然の力を高く深く確かに育む道を示唆してゐます。
 
大事なこと、大切なことを、飾らずに、こころをもつて、こころの眞ん中から、どうことばにしていくことができるのか。子どもたち、特に、幼兒期にある子どもたちの周りでこそ、「ことばのことばたるところ」「より高い自然としてのことば」「人が人としてよつて立つところであることば」が響くやうに。
 
さう高い願ひを持ちながら、失敗を何度も繰り返しつつ、今日も力を拔いて、樂に、しかし、こころの眞ん中から、お話を語つていきます。

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2017年03月03日

言語造形と企業研修


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言語造形は、
企業の研修にも応用されてゐます。
 
ビジネスの場でも、
いかにことばといふものが、
大切な役割を果たしてゐるか。
 
人と人との間の、
信頼を築きあげていく上で、
いかにことばの使い方、
ことばの聴き方が、
重みを持つてゐるか。
 
そのことに、
今更ながら、
気づくことのできる研修。
 
そして、
ことばの響きに、
敏感になるほどに、
人のこころを大切にする、
そんな気風が、
社内の中に生まれてきます。

ある企業は、
もう十四、五年の間、
この研修を、
毎月二回から三回のペースで続けてゐます。
 
当たり前に話してゐる日本語。
 
その日本語を話すといふことに、
改めて意識の光を当ててみると、
意識する前とは、
こんなにもことばの響きが変わるものかと、
誰もが、本当に、誰もが、
驚きます。
 
日本の社会に、
この言語造形といふ芸術が、
深く浸透していくことを、
わたしはこころから、
こころの奥底から、
希つてゐます。

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2016年11月19日

(ま)といふ眞實

 
言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、
息遣ひ、呼吸です。
 
そして、深く吐き出される息が、
ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、
おのづと(ま)を生み出すのです。
 
その無音の閧ヘ、
豐かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
ことばが發音されるときよりも、
寧ろ、其の無音の閧フ中にこそ、
ことばの精神、言靈が響きます。
 
ですから、時閧ニ空閧、
ことばといふもので埋め盡くさないのです。
無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、
そこに物質的なものではない、
精神的な豐かさが立ち顯れてくるのです。

その精神の豐かさは、人の頭にではなく、
胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。
 
そのやうな(ま)に觸れるとき、
人によつて、隨分と違ふ反応が表れます。
 
からだの調子が惡い時、
そのやうな間に觸れて、人は眠りにいざなはれるやうです。
きつと、精神が其の人を休息へと導いてくれるのでしやう。
 
逆に、からだもこころも健やかな時、
そのやうな閧ヘ、その人の意識をますます目覺めさせ、
ことばの響きと閧ノ呼び起こされる樣々な感覺を享受させてくれます。
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模樣、
それら樣々な情景を「もののあはれ」として人は享受することができるのです。
 
また更に、次のことは、これからの時代、
ますます顯著になつてきます。
 
それは、
こころの奧に自分自身で隱し持つてゐるものがあるとき、
自分自身に嘘をついてゐるとき、
自分自身のこころの闇を見やうとしないとき、
人は、そのやうな閧ノ觸れると、
不快感を感じたり、不機嫌に成つたり、
耐へられない思ひに捉われたりするやうに成ります。
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、
「(ま)」を避けやうとする傾向が見られるのは、
この自分自身のこころの奧底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
しかし、それは、きつと、「眞(ま)」なのです。
 
「眞(ま)」に觸れて人は、だんだんとみづからの眞實に目醒めつつ、
健やかに、欣びを存分に享受し乍ら仕事をしていくでしやう。
 
藝術はそんな仕事を荷つてゐます。
言語造形もそのやうな藝術のひとつだと思ひます。

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2016年06月16日

夏至における甦り(黄泉帰り)


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夏至を前にして、ことばの家に来られている生徒さんの多くの方が体調を崩されている。今日来られた方も、全員がそうだった。
 
しかし、帰られる頃には、みんな、お風呂上がりのような晴々とした笑顔になっておられることがとても多くて、今日もありがたいことにそうだった。(皆さん、そんな時間を共に創ってくださって、どうもありがとう!)
 
どうも、ことばには、そもそも、そんな人の生命力を呼び起こす力があるようだ。
 
活き活きとした呼吸を通してことばが発声されるとき、まるで空間自体が動くように感じられる。
 
そして、そのことばにふさわしい身振りに伴われることで、その空間に、肉体の眼には見えない色彩やフォルムや絵姿が瞬間瞬間に立ち顕れるように感じられ、肉体の耳には聞こえない調べが奏でられるのが感じられる。
 
また、時には、まるでデジャブのようになんらかの記憶の像のようなものが立ち顕れたりする。
 
そして、何より、声を発するその人ならではの精神のようなものが立ち顕れてくる。
 
そんな、ことばの力に触れると、人は甦るようだ。
 
甦る。それはまさしく黄泉から帰ることだろう。
 
黄泉とは、我が国の神話では、死んだ者がゆく国として描かれてある。
 
この死とは、きっと、肉体において間断なく進行しているあるプロセスのことでもあろうし、こころにおいては光が見えず、闇の中を彷徨い歩くようなプロセスのことでもあるだろう。
 
一年のうち、冬至の前には、最も外的な光が失われ、闇が極まるが、夏至の前には、内的な光が見失われ、こころの闇に直面することがとても激しくなるのではないかと感じている。
 
闇からの甦り(黄泉帰り)は、きっと、この夏至を境にして多くの人にリアルに感じられるだろう。
 
言語造形も、きっと、その甦りを支え、促す、ひとつの人間的な行為だ。

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2016年06月07日

全身で感覚することの意味深さ


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やまとことばの響きは、
胸、こころ、ハートに波打つように感じる。 
 
漢字による音読みの響きは、
頭、知性、ヘッドに向かってやってくるように感じる。
 
また、
古い日本語による文章を全身で浴びるように聴いていると、
たとえ、意味はすぐには分からなくても、
ことばと息遣いの流れに身を浸すような感覚を味わうことがある。
 
その古い日本語を現代語訳したものを聴いていると、
なるほど意味は分かりやすくなるのだけれども、
ことばの響きの音楽性が途切れ、
いちいち説明されているようで、
くどく感じることがままある。

 
 
例えば、『和泉式部日記』の冒頭部分。
 
原文では、
 
夢よりもはかなき世の中を、
嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、
四月十余日(うづき じふよひ)にもなりぬれば、
木の下暗がりもてゆく。

 
それを現代語訳したもののひとつの例だが挙げてみると、
 
夢よりもはかない男女の仲を、
嘆き悲しんで日々を明かし暮らすうちに、
四月十日過ぎになったので、
(たくさん葉がついてきて)木の下がしだいに暗くなってゆく。

 
 
一行目の「夢よりもはかなき世の中を」という原文が、
「夢よりもはかない男女の仲を」という現代文に訳されるとき、
確かに正確な意味を理解するにはいいのだろうけれども、
それを耳で聴くとき、
「世の中を」ということばの響きのもつ、
なだらかで、含み豊かな調べが失われ、
「男女の仲」という、この文にはふさわしからぬ、
ごつごつとした、
即物的にも聞こえる響きをもたらしてしまうように感じる。
 
そして、このひと節まるごとが、
原文の簡潔さを失わせてしまい、
聴く人の想い描く力を損なってしまっているようにも感じる。
 
 
 
頭で意味を捉えようとすることから、
からだまるごとで響きと調べを味わうことへ。
 
意味をすぐさま捉えられないことの恐れを置いておき、
全身で感覚することの意味深さを、
あらためて学んでいくこと。
 
今日も、言語造形のクラスで、
そんなことを皆と分かち合ったのでした。

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2016年06月02日

土着の精神

 
言語造形の生徒さんたちの稽古する作品、
 
まどみちおの詩、
小林秀雄の『無常といふこと』、
森鴎外の『じいさんばあさん』、
佐々木喜善採取による昔話『つぶ長者』、
などなど、
 
それらの作品が研がれ、磨かれ、琢(かざ)られてゆくとき、
作品自体に隠されていて、
眼で読むだけでは見てとることができなかったもの、
香りのようなもの、
味わいのようなもの、
明暗のようなもの、
熱のようなもの、
それらが立ち上がってくるのを、
まざまざと感覚できる。
 
その立ち上がってくるものを古人は、
言霊の風雅(みやび)といっていた。
 
とりわけ、
毎週火曜日の詩歌クラスでは、
皆、萬葉集に取り組んでいて、
その言霊の風雅が、
ある精神性の表われとして、
現代の時空にさえ強く響き渡るのだ。
 
萬葉集に録されている歌が、
素朴な古代人の、
素朴な感情を謳い上げたものだという、
明治以来の国文学的紋切り型な定見!
 
そんなものを打ち破る激しさ、悲願、こころざし、
国史に対する人の抱き得る最も高い理念が、聴こえてくる。
 
それは、
現代のわたしたちが己れのこころと身体の奥底に、
いまだ秘めていると思われる、
輸入物ではない、土着の精神性だ。
 
わたしたちの国の歴史の深みに、
地下水のように流れていた、
その土着の精神。
 
その精神を学ぶ、国学。
 
そこに立ち返ることで、
わたしたちひとりひとりも、
自分自身を貶めることなく、
他者と比べて劣等感に苛まれることなく、
己れという存在そのものに、
信頼と愛をもって生き抜いていくことができる。
 
そう、確かに念う。

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2015年10月20日

「てにをは」の秘儀


いま、日本語が話されるとき、
ややもすれば<語>の意味さえ伝わればいいのだとばかりに、
名詞、動詞、副詞、形容詞、形容動詞が駆使され羅列される。

でも、日本語をこころから使おうとする人は古来、
助詞や助動詞の使いようにこそ、こころを配ってきた。

なぜなら、「てにをは」にこそ、
「語のふり」(本居宣長)があるからだ。


  「てにをは」は、<語>ではなく「語のふり」を支えるものであり、
  「言霊のさだまり」はこれらの運動を常に貫流している・・・
                     (前田英樹『小林秀雄』)

  国語はこれ(てにをは)に乗じて、われわれの間を結び、
  『いきほひ』を得、『はたらき』を得て生きるのである、宣長はさう考へてゐた。
                     (小林秀雄『本居宣長』)


わたしも、言語造形をするとき、「てにをは」にこそ、内なる身振りを注ぎ込むことによって、ことばと文に命が吹き込まれ、文体が生きたものになることを実感する。

いま、取り組んでいる樋口一葉の『十三夜』における文体。
そこに、今ならではの命を吹き込んでゆくためには、
一葉が精魂込めて、まさに、そこに、記し置いた、「てにをは」に、
わたしがどれほど意識的になれるかということに懸っていると感じている。

朗読や語り、演劇の舞台を聴きに行って、
ストーリー(情報のつながり)が分かっただけでは、何にもならない。
それならば、黙って本を読んでいればいい。
同じ作品を、人の肉声で聴くのならば、
そこに、ストーリー展開を追うのではなく、
人の活き活きとしたこころの「いきほひ」「はたらき」をこそ感じたいのだ。
生きている「人」を感じたいのだ。

「てにをは」の響きのなかにこそ、人が、息づいていると感じる。



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2015年10月18日

手足で聴く


   視るにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  それなりの自立性をもった頭のなりたちによってであり、
  聴くにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  節分かれしたからだのまるごとによってです。
  見るにおいて迎えられるところは、
  からだへと向かう流れをもち、
  聴くにおいて迎えられるところは、
  からだから上へと向かう流れをもちます。
         (『メディテーションをもってものにする人間学』)



シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、
丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。

視えるもの。
それは、目という感覚器官を通して、
頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。

一方、聴こえるもの。
それは、本質的には、節分れしている手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、
上へと密やかに昇っていき、頭において想われる。
耳という感覚器官で聴かれるのは、むしろ、残響といえるものではないか。
空気の震えを集約的に受け取るのは確かに耳だろうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、さらには手足において受け取っている。

ことばや音楽というものは、手足によって聴かれている!

頭、耳で聞こうとするのではなく、
たとえからだはじっと静かに据えられていても、
ことばや音楽に密やかに手足を沿わせるようにして聴こうとするとき、
そのことばや音楽の「中味」「こころ」「精神」に触れることができる。
そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。

しかし、聴き手がそのように聴くことができるのも、
話し手が手足をもって語ろうとするときです。

話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、
そのことばは、聴き手の手足によっては受け取られず、頭のみに働きかけます。


昨日の百年長屋さんでの言語造形のワークショップで、参加者の方が、高校の教師をされていて、授業で井伏鱒二の『山椒魚』を30分かけて語ったと仰っていました。そして終わったあと、ひとりの女の子が「ありがとうございました」とわざわざ伝えに来てくれたそうです。

密やかに、手足を動かしたくなるような感覚を感じながら、語られることばに耳を傾ける機会。
そんな機会をもっと、もっと、創っていくことができたら、と思っています。


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2015年09月17日

人はみな言語造形をしていた

「感情を交えずに、淡々と声にすることを旨とすべし」
シュタイナー教育において子どもに向かって物語を語りかけるときに、
このことをこれまでよく本などで目にしましたし、人がそう言うのを耳にしました。

しかし、シュタイナー自身がこう語っています。
子どものこころと精神をあまりに強くからだに受肉させることから守るために、
いかに語りかけるか、ということです。

   歴史の物語に子どもが強く情をもってかかわるように、
  教師自身が、人物について、強く情から心を寄せ、敬い、
  あるいはまた憎むに値する人物のことを述べるときには、
  憎しみを湛えて語ることによってです。
  そのことをもって歴史の授業は、
  子どもが物質的になりすぎないことに、ことのほか役立ちます。
           (『メディテーションをもってものにする人間学』鈴木一博訳)


シュタイナーが語っていることがらを長い時をかけて自分自身で確かめてみるに、
語り手自身が、言語造形を通して、ことばに沿うことによって、
おのずから抱かれる深い情を湛えながらことばを発すること、
それは決して聴き手への情の押し売り、頭でっかちな考えの押し付けにはなりません。

芸術とは、人の知性にではなく、情に訴えてくるもの。
要(かなめ)は、語り手の独りよがりな情ではなく、
作品そのもの、ことばそのものに潜んでいる、まことの情が、ものをいうことだと思うのです。
まことの情こそが、子どもたちと、分かち合われ、
その分かち合いは、わたしたちのふるさとである精神の世を想い起こさせます。


また、シュタイナーはこうも言っています。
今度は、子どもをある程度、その子その子に応じてふさわしく地上的にするために、
いかに語りかけるかです。

   子どもがあまりに夢見がちであると気づいたなら、
  その子が言語の唱えられるところ、音楽的なところ、
  リズム、拍を受け止めることのほうへと目覚めるように試みます。
  言語の音楽的なところは、
  <わたし>をからだに入り込ませるのに役立ちます。
  育てる人としては、それを芸術として身につけることが欠かせません。
                               (同書)


ことばの音楽的な側面。
それは、子どもの意欲を強めます。
萎えがちなところに、いのちを吹き込みます。

   いにしえには、
  人がそもそもリズムなしに話すなどありえない代々がありました。
  人がリズムのうちに話そうとする向きをもっていました。
  たとえばなにごとかを言うのに、
  言語造形によらずに言うことはありえませんでした。
                    (『言語造形と演劇芸術』鈴木一博訳)


本当の意味での、人というものの育み。
それには、生の中に、授業の中に、いのちを吹き込む芸術的な情が欠かせません。

そんな情をあまりにも豊かに湛えていた達人のひとりを紹介します。
寅さんです!

  



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2015年09月13日

神経系から血液系へ

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先日、モモの会(こども園ほしの子)にての月に一回の言語造形でした。
 
口先だけでことばを操るのではなく、
からだまるごとをもってことばを発していく。
 
神経系を用いることから、呼吸を通して、血液系を多用する話し方へ。
 
そうすることで、話す人と共に、聴いている人も、
からだまるごとでことばを感覚するのです。 
 
ことばを感覚する。
 
言語感覚を養っていく。
 
その古代の人たちがおのずから持っていた感覚を、
わたしたちは意識的にみずから啓いていくのです。
 
その行為は、人を裸にします。
 
その感覚は、人を「ことば」にし、「歌」にします。
 
「人というもの」が、
そもそもは「ことば」であり、「歌」であったことを想い出すのです。
 
そして、そんな大人のあり方に、幼い子どもは、即座に、反応します。

モモの会では、言語造形に全力で取り組む大人の声を、
全身で浴びるように聴いている子どもたちが周りに何気なくいて、
そういう環境は幼児期における国語教育の基として、
とてもいいものだと感じています。
 
 
以下、モモの会(こども園ほしの子)さんのことばをご紹介します。
 
____________________________
 
9月の言語造形。
ありのままの自分と向き合うため、
一人ひとりが今まで身にまとっていたものを、
一皮ずつ脱いでいくような作業をしていると改めて思います。
とても勇気がいることですが、それぞれの人の内側で何かが変わってきているのがわかります。

ことばを迎える、ことばを味わう、そんな大人の行為を
子ども達は、遊びながらも、からだ中で聴いていました。

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2014年11月09日

和歌山県岩出市 モモの会にて


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来年1月の言語造形発表を控えて、皆さん、作品への取り組みに熱が入っています。
 
ことばの芸術に取り組む。
 
それは、からだとこころをフルに動かすうちに、やって来ることばの響き(精神)を聴きとる作業の連続です。
 
こころから手足を動かし、働かせる、そこにこそ、精神が宿ります。
 
そして、語り手が聴き耳を澄ませるほどに、聴き手も耳を澄ませることができます。
聴き手が耳を澄ませるほどに、更に語り手は自由にことばを羽ばたかせることができます。
 
語り手と聴き手の、そのような交流は、現代においては、ある意味、秘儀と言われてもいいように思われます。
 
それは当たり前の社会生活の中に潜んでいる「秘儀」です。
 
そのような秘めやかな人と人との交わりをこそ、大事に見てとっていく。
 
『普遍人間学』の学びも、そのことに気づき、更に深く入り込んでいく助けになってくれます。
 
こころとからだを耕していく。
 
そんな学びを共にしています。

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2014年10月16日

「使う」から「仕える」へのメタモルフォーゼ(言語造形について)


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ことばとは、わたしたち人が「使う」ものだと、通常思っている。自分の考えていることや思っていることを言い表すための道具として、日本人ならば日本語を当たり前のように使いこなせるものだと、ある意味、高をくくっている。

人と人との間において情報という情報が交わされている。その際、情報の中身、伝えようとしている内容、意味、それらをできる限り簡潔に分かりやすく伝えることができればいいのであるから、ことばはその情報を伝えるための道具であり、記号にすぎない。そんな風にわたしたちは漠然と感じているのではないだろうか。そういう漠然とした意識の中で漠然と教育されてきたわたしたちに、例えばシュタイナーのことばがひどく難解に感じられてしまうのも致し方ないのかもしれない。

そのことばに対する漠然とした意識に、アントロポゾフィーから生まれたことばの芸術「言語造形」は揺さぶりをかける。

試しに、ひとつの短いメルヘンを語ってみる。昔のように人に語ってもらって聴いて覚えるのではなく、現代においては紙に印刷された文字を読んで覚えるメルヘンである。書いてある通りに読めばいいと思って、まずは声に出してみるのだが、やはりそれだけではどうも物足りなく感じてしまう。ただ読んでいるだけの読み聞かせに、聴き手はほとんど魅力を感じにくいはずだ。そこで、ちょっとここは感情を込めてだとか、ここは盛り上がりをもって表現してみようだとか、自分なりに工夫を凝らしてやってみる。

ところが、そのような、ことばを知性からの判断でもって表現しようという試みは、言語造形をすることにおいて、ことごとく却下される。なぜなら、そのような頭における考えによってことばを操作しようとするとき、えてして、その表現はことばそのものの表現ではなくなり、話す人その人の人となりを押し付けがましく表立たせることになってしまうからだ。

ことばを声に響かせて話すとき、自分なりの解釈をもってするのではなく、ことばの音韻ひとつひとつの響きや、ことばとことばのあいだに生まれる間(ま)や、呼吸のくりなしに沿うことに挑戦していく。

そのようにことばに沿いつつ手足を動かすことによる身ぶりを通してこそ、ことばそのものが本来もっている感情や深みのある意味が立ち上ってくる。ことばとは、本来、手足による行為とひとつのものなのだ。手足の動きは、頭における操作よりもずっと賢いところがあることに気づくのは、現代人にとってはことさらに厄介なことかもしれない。できるだけ動かずに、ボタンひとつの操作で情報をやりとりできる現代においては。

頭とは、人体の中で最も物質的なところであり、死が支配しているところである。一方、手足とは、最も精神的なところであり、生命が漲ろうとしているところである。動きを通して手足は、まさに精神に通われ、精神の世を生きる。ことばの響きとことばに内在している動きに沿って手足を連動させながらそのことばを声に出し、身ぶりをもって一文一文響かせていく練習を重ねることで、だんだんとことばの味わいやメルヘンのもっている密やかなささやきを感覚していくことができる。

そして、そのように、吐かれる息の中で声になったことばがかたちと動きをもっていることで、聴き手もそのかたちと動きを共に生きることができる。そのかたちと動きに通ういのちを人と人とが分かち合うことが、芸術がこの世にあることの意味のひとつでもある。

まずはことばを、頭でもって捉えることで、わたしたちはことばをキャッチするのだが、それを練習によってだんだんと胸へ、腰へと降ろしていき、ついには、頭でいちいち考えなくても、手足の動きの感覚から語れるようにもっていくこと。そのようなからだまるごとを通した経験が言語造形によってなされる。それは、ことばの外側に立ってあれこれ考え、操作していくのではなく、ことばの響きと動きの真っ只中に飛び込むことで、ことばの芸術を生き、新しい認識に至ることなのだ。

印刷されている文字から読み取られることばというものは、まずもって、死んでいる。その死んでいることばにいのちを吹き込むのは、生きている人である。精神を活発に働かせながら、活き活きと読み取り、活き活きと理解し、活き活きと発声することで世に響かせる人である。

若い人たちに、子どもたちに、このような観点から、ことばの芸術を伝えていくこと。それが言語造形をする人の担うことだと感じている。

ことばを死んだものとして「使いまわそう」とするのではなく、人よりもより賢い叡智を秘めたものとして、そこにいのちを吹き込むべく、ことばに「仕える」こと。「わたしが手前勝手に使う」のではなく、「みずからすすんで使われる」こと、「仕える」こと。その行為によってこそ、人は、満ち足りていくのだということを、シュタイナーは言語造形を通しても教えてくれる。

シュタイナーが1924年に行った連続講演「言語造形と演劇芸術」の中でのことばを紹介させてもらって、終わりにしたい。


舞台芸術の養成学校で必ず次のことを学んでいただきたいのです。
そもそも、響きに対する宗教的なこころもちをわたしたちの芸術に引き込むことができてこそ、舞台芸術につきまとう危険を凌ぐことができるはずです。道徳的に堕落してしまう危険すらあるのです。
わたしたちは、非日常的なもの、聖なることに踏み込んでいいのです。
こうごうしい教師である音韻をものにして然るべきなのです。
そもそも音韻の内に根源的なまるごとの世があるからです。
ことばの造形者になりたいのなら、まず、「はじめにことばありき」というヨハネ福音書に書かれてあることばを忘れてはなりません。
(中略) 芸術に宗教的なこころもちが披かれるまで、俳優はこころのメタモルフォーゼを経ていって然りなのです。
それは、音に耳を傾ける精神への帰依をもつことから始まります。




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2014年07月14日

一本の樹木 詩を紡ぐ人と言語造形をする人


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昨日の稲尾教彦さんの公演を終え、一日を経て、ゆっくりと想い起こす。

やはり、他人様の言語造形を聴かせてもらうことは、本当に刺激になり、勉強になる。

昨日の公演の題は『詩とメルヘン』だったのだけれども、詩というものこそ、自分自身が切に求めているものなのだということを今更ながら自覚した。

ことばが詩であるとき、とりわけ、そのことばが声として響くとき、わたしは、何を聴き、何を観ているのだろう。

それは、考えることでは摑むことはできない「何か」であり、ことばではくるむことのできない「何か」。

ことばが空間に解き放たれ、響き、余韻を残す。

そのプロセスが幾度も繰り返され、聴き手として詠い手と共にそのプロセスを辿っているうちに、わたしはこの地にいながら、この地とは別のところにいるような感覚に入ってゆく。

そして、こころは、少年の日に謳歌していた、あのどこまでも自由な世界、懐かしいふるさとにもうすでに帰っている、そんな感覚を想い出すのだ。

稲尾さんによって選ばれたことばは、「じっと待つ人」のみが聴きとることができる響きそのものであり、そこには天との繋がりから生まれてくるもの以外の響きは注意深く取り除かれているように感じられる。

彼の詩集を購って、改めて、一頁ごと、一文ごと、一語ごと、じっくりと読んでみる。こころの中で詠ってみる。

昨日、詩人自身の声で聴いたその詩群がいっそう親しく我が内側でこだまするように響き出す。
滅多にない、ことばの充実を味わう。

公演の後、そのときの経験を引き続き深めていくようにすることで感じられる喜びは、こころの受動性と能動性が織りなしあうようで、とても豊かな実りを感じさせてくれる。


そのようなまぎれのない響きを持っていることばを、そのまぎれなさのまま奏でること、それが言語造形をすることだと言えるのだが、そのことがどれほど簡単ではないかをも、昨日は痛感させてもらった。

舞台では、何がものをいうか。

初発の勢いだとか、表現技術の巧拙などではなく、繰り返される練習と舞台によってのみ育まれる太くておおらかなこころ。

そのこころは、その都度その都度耳を澄ますことで受け取られる天からの響きに幾度も共振している。

そのこころは、練習と舞台の反復、また反復を通して、まるで大地からもらうような意欲の力に通われている。

そのようにして、天と繋がり、そして大地に立ち、働き続けることが、人を一本のたくましい樹木にする。

詩人は、天に向かって耳を澄まし、その天の響きを大地にまで降ろすべく、ことばとして結晶させる。
言語造形をする人は、その聴き取られたことばをその響きのまま発声することで、我がからだという大地から再び精神という天に向かって詩をお返しさせてもらう。

詩人が我が身体を通してことばを声にして響かせようとするとき、おのずから言語造形をすることへと向かっていくのだろうし、言語造形をしようとする人が声を発するその刹那に、みずからの声に耳を澄ますことをするなら、おのずから詩人のありように近づいていくのだろう。

詩を紡ぐ人と言語造形をする人は、内なる意味で、ひとりの人のなかに同居していて、それは天に向かって高く枝葉を延ばし、大地に深く根を張る一本の樹木として、年を経るごとに太くおおらかに育ってゆく。




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2014年06月16日

古典文学作品を原文のままで 〜『おくのほそ道』公開ワークショップを終えて〜

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今日、大阪玉造の百年長屋さんで、「言語造形で味わう『おくのほそ道』公開ワークショップ」を行わせてもらいました。
 
昔の人のことば遣いを味わうということは、昔の人のこころのありかたを味わうということであります。
 
それはまた昔の人が生きる上で何を大切にし、何に向かって生きていたかという志を知ることでもあり、現代を生きている自分自身の志と繋げるときに、初めて昔の人のことばの芸術作品である古典が生きたものになりえます。
 
その、日本の古典文学作品を原文のままで、現代を生きているわたしたちがいかにすればリアルな声の芸術として響かせることができるか。
 
どのようにしたら今の舞台芸術としてなりたたせていくことができるか。
 
わたしにとって去年あたりから、そのことが大きなテーマとして意識に上ってきていました。
 
古典文学作品を原文のまま舞台上で言語造形を通して響かせたい。だけれども、そのままでは、聴き手にとって、取りつく島のないようなものになりかねない。
 
だからといって、その原文を現代語訳したものでは、そもそもことばのリズム、拍子、メロディーが全く違うものになってしまい、作品のおおもとの命が殺がれてしまう。
 
そこで、まず手始めに、言語造形を通して芭蕉の『おくのほそ道』を原文のままで取り組んでいる「人の姿」をお客様に観てもらい、その「人の声」を聴いてもらう、という「公開ワークショップ」というスタイルで、会を創ってみたのです。
 
言語造形に取り組んでいる姿からこそ、古典作品がリアルなものとして現代人の聴き手の前に立ち上がってくるのではないか。
 
そのような試みに馳せ参じてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
 
言語造形からも、そして聴きに来てくださった皆さんの反応からも、わたしは十分な手応えを感じました。
 
まずはこのスタイルで、古典作品をたっぷりと全身で味わっていく場を創っていこう。
 
そして、我が国のいにしえのことばの芸術作品から、ゆっくりと自分たちの生き方を探っていく学びの場を創っていこう。

断絶ではなく、系統を、伝統を考えよう。
 
どこか遠くへ出かけて行くのではなく、自分の足元を掘り進めていこう。
 
国語を愛し、守り、育むことによって生まれる祖先と自分自身に対する静かな敬意。
 
国語愛に生きるという志において、芭蕉と言語造形をするわたしたちが繋がります。

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2014年06月08日

「ことばの家」日曜クラスの皆さんとともに

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「ことばの家」日曜クラスの皆さんです。
 
日曜日の朝にすがすがしい陽の光と風を感じながら、からだを活き活きと動かし、息遣いをのびのびと繰りなしながら言語造形を分かち合う。本当に恵みの時間です。
 
源氏物語から昔話へ、そして与謝野晶子の詩から落語へとことばの華が咲き、それぞれのお話しが始まると空間が一変します。
 
日本語が日本語であることを喜び合う、そんな時間と空間。
  
汗を流して取り組めば取り組むほどに、こんな豊かなことばの空間が生まれるのか、とみんなで驚き合っています。
 
老いも若きも日本語のいのちに触れることで、もう一度若返る。
 
ことばにはそんな人を甦らせる生命力があって、それをこそ昔の人は「言霊(ことだま)の風雅(みやび)」と呼び、人間の文化の濫觴として大切にしてきたのです。
  
これからもそれを大事にしていきたい。
 
そう希う人がこれからも言語造形に出逢えるように。
  
今日も感謝、感謝の一日でした。

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2014年05月09日

文学サロンとしての言語造形クラス 〜百年長屋さんでの新クラスご案内も含めて〜


文学とは、人が人として生きていくのになくてはならない、とても大切な仕事なのだと、この頃はとみに考えるようになりました。

文学とは、言い方を替えるならば、ことばの芸術、です。

ことばの芸術に取り組む代々の志ある詩人・文人は、そもそも、国のことば「国語」の運用というものが人の世を右にも行かせれば、左にも行かせる魔力を持ったものであるゆえに、いかにして中庸の道であることば本来の活き活きとした働きを最大限に活かせて人のこころを高めていくかに、精魂を込め、生命を賭けてきた人たちでした。

国語の運用がその国の人を健やかにする鍵を握っていることを知っていたのです。
国語の運用力を育んでいくことを放棄すると、こころが荒んでいきます。
国語を捨てると、その人はその国の人ではなくなってしまいます。
国とは、ここでは、独自の文化を生み出し、育て、受け渡していくフィールドのことを云いたく思います。
ですから、その国のことばは、その国の、民族の、歴史と伝統を内に深く秘め、いまも未来の世代に伝えていこうとしています。
わたしたち現代人も、知らず知らずのうちに、我が国の歴史のいのちと伝統の精神に繋がって生きているのです。

母国語を愛することは、母国の歴史と伝統を尊ぶことでもあります。
母国語の芸術に親しんでいくことは、母国の歴史と伝統に推参していくことでもあります。
今を生きている人の立場から考えるならば、
歴史とは、その人その人が主体的に過去を捉えてこそ生まれることばの芸術のひとつのかたちです。
伝統とは、その人その人が主体的にいのちを吹き込んでこそ生きる精神そのものです。
そして、母国の歴史と伝統に立つ人こそが、他国の歴史と伝統を深みにおいて理解でき、尊敬でき、その自立している者同士の間で真の交流が生まれるでしょう。

言語造形というルードルフ・シュタイナーによって新しく意識化された芸術は、各々の国のことばとその人その人の声をもって、その国の歴史と伝統に推参した詩人・文人たちの仕事を今に生き返らせるものです。
それは、詩人・文人たちの仕事を引き継ぐことでもあり、生まれ変わらせることでもあり、拡大させていくことでもあります。
国語を愛し、育て、受け渡していく、その本来的な文学の仕事を言語造形も担っています。

言語造形のクラスは、その意味で、「文学サロン」です。

文学作品をひとりひとりが声に出していくことによって、目で読むだけでは全く気づかなかったその作品の魅力が新しく立ち上がってくる。

そして、個々の作品の魅力を通して、文学というもの、国語というもの、ことばというものへの認識を新たにしていくことへも繋がっていきます。

その認識も机上で得たものではなく、全身の運動を通して得たものだけに、その認識を更にことばにして互いに語り合う喜びもしみじみとしたいいものです。

空間に響くことば。

そこにこそ、そもそもの文学の文学たるところがある。

大阪の玉造にある百年長屋さんで、6月からまた新しく言語造形クラスが生まれそうです。

そのご案内です。

共に文学をいまに生まれ変わらせましょう。
そして自分たちの国語のいのちに触れていきましょう。

新しい出会いを待っています。

http://nagaya100.sblo.jp/article/95931814.html

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2014年05月02日

ことばの農作業

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夏も近づく八十八夜・・・。

立春から数えて八十八日目の今日。
農においては、種を蒔くに相応しい時期だそうです。

田園で世間のわずらわしさを離れて、晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもって読書しながら心穏やかに暮らすことを「晴耕雨読の暮らし」とよく云うけれど、自分は晴れても降っても、耕して、読んでるなあ、と今朝ふと思ったのです。

自分の場合、「耕す」ということは、すなわち、言語造形の稽古をするということになるのですが、それは身体をもって稽古しながら、この身体という土壌を耕し、ここにことばの種を蒔き、ここからやがてことばの花が咲き、ことばの実がなりゆく。

その花なり実なりを人と分かち合うことができれば、そして更に高い世の方々に奉ることができれば、これほどの喜びはない、というほどの喜び。

わたしは、日本の最もベーシックな食べ物であるお米を作る感覚に近いのかもしれないと思っているのですが。

自然の作用という天からの扶けをもって米作りに勤しむ人は、きっと、その過程で米という植物存在の内部にだんだんと入りこんでいくでしょう。

言語造形の場合、ことばという神から授かっているものが、稽古を通してだんだんと植物のようにわが身体を土壌にして育っていく。
その身体を通してわたしのこころはだんだんとことばというものの内側に入りこんでいき、ひとつになって、花あることば、実のあることばとして、世に羽ばたいていく。

稽古というものは、独り部屋に籠って、同じことばや文を繰り返し繰り返し口にして身体に覚え込ませることから始まるとても地味な作業です。

しかし、その作業が、ことばに潜んでいるいのちを育て、育んでいくことであり、また、ついには、そのいのちとひとつになっていく、内なる見えない農作業なのだと思いながらやっていると、喜びが溢れてくるのです。

2014年度の「ことばの家」でも、ことばの種を蒔き始めています。
秋から冬にかけてその収穫を多くの方々と分かち合えることをこころから希って耕し始めました。
見守っていただければ、ありがたいです。

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2014年04月20日

ことばが甦るとき 〜復活祭の日にちなんで〜


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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。
大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。
彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。

自分は、言語造形という仕事のために、ことばを素材にしています。
声にして発せられることばを素材にしています。

ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考えられ分別から組み立てられることばで、それはそうであってこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのようなことば遣いは人間の生活になくてはならないものです。

仕事の上で守るべきマニュアルに沿って発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守って、上の人の言うことを聞いて、できるだけ失礼のないように、頑張って、人は、一生懸命、ことばを話しています。

しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発している人自身の生命がだんだんと枯渇してくるのです。
そのことばは実は死んだことばだからです。
生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでいます。死んでいるからこそ、人の思惑に沿っていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。
人の頭は死した部分で、別の言い方をすれば、もう完全に出来上がっている部分なのです。頭骨で固く閉じられた部分なのです。
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであっても、死んでいます。
物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣い、それが頭から発せられることば遣いです。
しかし、それは、だんだんと人を死に促進します。

だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。
死から生への甦りを乞い求めるがゆえにです。
それは、手足の動きから生まれることばです。
手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。
呼吸が活き活きとしてくると、おのずとことばを話す時の表情も豊かになります。
そんな風に表情豊かにことばを発していると、自分自身が生まれ変わったような新鮮なこころもちに包まれているのをそこはかとなく感じたりもします。

人は折をみて、そのようなことばの発し方に触れることによって、生きていることばの世界に入るのです。

言語造形の練習をする上でのまずもっての次第は、四の五の言わずに、そんな生きていることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。

そして、何年にもわたってだんだんと練習を重ねていくにしたがって、呼吸ということの秘密に気づき始めます。

吸う息によって、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢います。

そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢いを引っさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによって、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。

そのように、呼吸によって天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになって生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。

いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。

だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念いをもたらします。

言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思います。

さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きっと、こう語っています。(出典が何だったのか思い出せず、すいません)

風と光が織りなす中での、そのようなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなった人や、天の使いの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えているのだ、と。

ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。

そういった肉の眼や耳には捉えられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きっと、深い関係があって、ただ、そういうことを机上で考えるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取っていく。感覚していく。

その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。

魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たような練習の繰り返しからおのずと生まれてくる無私へと歩いていく、そのことを言うのかもしれません。




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2014年04月13日

お話のお宮 〜ある幼稚園の卒園式にて〜


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ある幼稚園の先生をされているAさんが、「ことばの家」で言語造形の稽古を積まれています。
この一年は、昔話の『大工と鬼六』を、倦まず弛まず、ずっと練習されていました。

その幼稚園で先月3月の終わりごろに卒園式が開かれ、林檎色のほっぺをした子どもたちがたくさんの保護者や関係者の方々に囲まれて卒園を祝われたそうです。
その式の締めくくりに、『大工と鬼六』が語られました。
今日、Aさんからその時の様子を聴いて、とても感慨深いものを感じたのです。
(Aさんのご了承を得て、書かせてもらっています)

昨年度初めて子どもたちの担任として仕事に就かれたAさんは、ご自身にとっての初めての卒園式をとにかく無事に滞りなく進行させることと、大勢の大人の方々の前で初めて昔話の語りをするということで、とても緊張され、前日にはお腹の調子もおかしくなられるぐらいだったそうです。

しかし、昔話を語り始めるやいなや、Aさんの息遣いと共に部屋中の皆がしいんと静まり返り、お話の間中、まるで部屋の中に目には見えないけれども大きな丸みを帯びたお話のお宮のようなものが生まれ出て、語り手も聴き手もみんなその中に包まれていた。

普段、目に見えないことを口に出して言うような人ではないAさんが、「お宮のようなものを観た、としか言いようがないんです」と仰る。

そう仰るのを聴かせてもらって、わたしは妙にリアリティーを感じるのです。そのお宮に。

「お話のお宮」「ことばのお社(やしろ)」、そういう目には見えないけれども、その場にいる人たちを包み込む精神的な空間をわたしたちは創り出すことができる。
言語造形を通して、わたしたちはその精神的・有機的建築に意識的に取り組んでいくことができるのではないか。

母音を通して、土を固め、柱を立て、梁を渡し、屋根を架けるかのごとく・・・。
子音を通して、細やかな細工がなされるように・・・。

その時、言語造形が行われる空間では、語り手も聴き手も共にある儀式に参加するひとりひとりの人である。
そういう希いをもって、わたしも自分たちのアトリエに「ことばの家」と名付けました。

そういう空間と時間が、多くの場所で生まれること。
そのことを希って自分も仕事をしている。

その卒園式でも、「お宮」の中に入った子どもは、お話の内容が記憶から遠ざかったとしても、「お宮の内部に入った感覚」は生涯を通してその子の内側で生き続けるんじゃないだろうか。
そう思われてならないのです。

その幼稚園から旅立っていくひとりひとりの子どもたちの仕合わせ、そしてAさんのお仕事のこれからの自由な深まりと拡がりを、こころから祝福します。


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2014年01月14日

ありがとうございました!百年長屋さんでの言語造形ワークショップ

今日の百年長屋さんでの言語造形ワークショップ。

ラフカディオ・ハーンの『おしどり』、森鴎外の『寒山拾得』、梶井基次郎の『闇の絵巻』など、参加された皆さんが持ってきて、語ってくださった数篇の物語。

息を解き放ちながら、
語り始めたら腰を一切引かずに最後まで前進し続けるかのように声にして響かせると、
本当に鮮やかな情景と深みを湛えた情感が自然に立ち上がってくる。
それぞれの作品の表面を読んだだけでは読み取れなかったことがらが、
だんだんと、どんどんと、顕わになってくる。

そして、その時、声を出しているその人が本来持っている輝きもが顕わになってくる。

他人の前で声を出すことがとても苦手だと言っていた方さえも、
いや、むしろ、そういう方の方が、
本当は声を出すことの喜びをこころの奥底から求めていて、
言語造形のレッスンが進むごとに、
伸びのある声の響きと共に、華が開くようにこころとことばが羽ばたきだす。

おひとりおひとりの選んだ作品を通して、
その方ならではの味わいと趣が、
そこはかとなく、また、時にはっきりと、感じられる。

言語造形のワークショップは、
作品がそもそも持っている深みと、
声を出す人がそもそも持っている輝きを、
だんだんと引き出していく共同作業です。

今日も本当に楽しい作業でした。

百年長屋に集まってくださった皆さん、本当にありがとうございました。

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こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
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