2018年05月11日

演劇の醍醐味 〜生誕劇の稽古から〜


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言語造形による演劇の醍醐味は、俳優同士の呼吸と呼吸が織りなし合つて、精神的だけれども確かにリアルに存在するひとつの演劇空間を創り出していくことです。
 
一人の俳優がセリフを話してゐるとき、もうひとりの俳優もそのことばと息遣ひに全身で聴きながら、己れが話してゐるかのやうに共に動き続けることで、共同で太く活き活きとしたひとつの息遣ひの流れを生み出していきます。
 
今日の生誕劇の稽古でも、はじめのうちはひとりひとりが自分の内からまだ充分には出られず、息遣ひといふ大きな河の流れを生みだせずにいたのが、時間をかけていくうちにだんだんと各々が自分自身のこころとからだから解き放たれて、ともなる息遣ひの世界に生き始めたこと、写真からも見てとることができます。
 
はやくも今年のクリスマスの日の、わたしたちの新嘗祭(にひなへのまつり)を目指して、わたしたちは、先立つて、自分たちの田を耕し始めてゐます。

演劇の仲間に入つてみたい方、どうぞ一度、生誕劇クラス体験にお越しになられませんか。
 
 
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2018年05月01日

古事記の文章


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古事記の文章。
 
それは、天武天皇の御声によつてひとりの舎人・稗田阿礼の耳に伝へられたもの、口から耳へと伝へられたものです。
 
それから約三十年後、阿礼の声が太安万侶の筆によつて文字に書き起こされました。
 
そして、さらに千年以上後になつて、江戸近世の国学者・本居宣長によつて初めてふさはしい光を当てられ、それ以降、多くの学者や芸術家にインスピレーションを与へ続けてきただけでなく、皇室のありやうを密かに支へてきたのです。
 
天武天皇は、何に耳を澄まされたのか。
 
それは、神の声です。
 
文学とは、そもそも、声から声への伝へであり、神の声を聴きとることから生まれるものです。
 
日本の文学は、ここに発します。
 
文学とは、ことばの芸術であり、ことばとは、神から人へと吹き込まれた息吹きであります。
 
わたしたちは、その、いまも、神から吹き込まれてゐる息吹き、そしてことばを、ことばの法則に沿つて造形することで、空間に、ことばのお宮、お社を形造つていくことができます。
 
わたしたちは、造形されたことばを聴くことによつて、ことばのお宮、お社の中に包まれてゐることを体感します。
 
 
 
今回の『古事記(ふることぶみ)の精神』では、冒頭の箇所、「天地(あめつち)の初発(はじめ)」のくだりを、参加された皆さんとで、ことばを造形しながら発声してみました。
 
高天原にまします五柱(いつばしら)の「別(こと)天神(あまつかみ)」の御名を言語造形する。
 
それは、その文章が、まさに神のことば・神語であることを予感・体感するのにあまりある時間と空間を生み出します。
 
その調べは、日本書紀の該当する箇所と比べても、随分と違つてゐます。余計な飾り立てることばがなく、文体は引き締まつてをり、格調高く、詩美の風雅(みやび)が湛えられてゐます。
 
神々の御名を唱へることが、「なむまいだぶ」と唱へることよりはるか以前から、わたしたちのこころに安らかさと確かさをもたらす、よりどころでありました。
 
わたしは、ゆくゆくは、子どもたちに、意味から教へ込むのではなく、この「あめつちのはじめ」のくだりを朗々と朗唱できるやうな教育環境を整へることへと仕事を進めていきたいと考へてゐます。
 
江戸時代、儒教の強い影響から多くの家庭で『論語』の素読・暗唱が子どもの教育において盛んに行なはれてゐたやうですが、やはり、わたしたちにとつて、これからの国語教育、歴史教育、倫理教育の根幹となつていいのは、わたしたち自身の国民文学である『古事記』や『萬葉集』、もしくは『百人一首』ではないかとわたしは思つてゐます。
 
 
 
『古事記(ふることぶみ)』。
 
それは、他の文章、歴史書とは異なり、日本人が数へきれない昔の代から我が身に体してゐた「やまとことば」の語り口そのままのことば遣ひをもつて、我が国の精神と歴史を記さなければならない、との明確な認識のもとに、ものされてゐます。
 
しかも、その文章は、日本といふ国が永遠に神の国であり続けるやう、文化を根柢で精神的に支へつづけることのできるやうな、これまた非常に明確な意識で記されてゐます。
 
そのために、落とすべきものは落とし、汲み上げるべきものはしつかりと汲み上げる。さういふ声から声への伝へ、それが「古事記(ふることぶみ)」です。
 
 
 
昨日の『古事記の精神』の前半におけるワークショップ。皆さん、懸命に「あめつちのはじめ」の文章に取り組んで下さりました。
 
写真を見ますと、神の息吹きを迎へ、響かせ、送るのに、我々日本人は、腰といふからだの要を使ふことがいかに大切かといふことに気づかされます。
 
皆さん、どうもありがたうございました。
 
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2018年04月19日

人が甦る 〜企業研修、錦糸町にて〜

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今日は、東京の錦糸町での企業研修のための言語造形。
 
こちらも毎月2〜3回づつのペースで、今年で14年目に入つた。
 
大きな組織の中で働くベテランも若い人たちも集まつて下さる。
 
各人が嬉しい話、楽しい話、幸せになる話、役に立つ話、興味深い話をあらかじめ作文して、それを多くの人の前で語り聴かせる、といふ設定での言語造形。
 
かういふ設定を、毎日の忙しさに追はれがちな企業人に提案して複数の人に真摯に受け取つてもらふこと、そして、それをよくありがちな上から押しつけられる研修ではなく、参加するひとりひとりが自主的に前向きに取り組む研修として、実際の実現にまでこぎつけることは、並大抵の力ではできない。
 
ずつとこの研修をコーディネートしてくれてゐるSさんには、本当にことばがないほどの感謝を感じる。
 
今日も、言語造形を通して、参加されたおひとりおひとりが、企業人としてではなく、その人がその人として活き活きと甦る。
 
人が自由になるといふ、その様をまぢかに見せてもらへる。
 
そして、そのことの喜びを、皆で共有できることのありがたさ。
 
今日は、とりわけ、長い間、この言語造形研修を自主的に参加し続けて来た女性の方のスピーチが素晴らしく、聴いてゐて、涙がこぼれさうになつた。
 
研修が終わつた後、わたしもくたくたになつたが、これから西に沈んでゆく夕日を見ながら、かういふ疲れは本当にありがたいものだと思つた。
 

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2018年04月18日

15年目の京田辺クラス「森のしずく」


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今日の京田辺での言語造形クラス「森のしずく」。
 
ここで言語造形のクラスを始めさせてもらつてから毎月毎月続けて来て、今日から15年目。
 
このクラスも第三・七年期に入りました。
 
ひとつのことを長くリズミカルに続けていくことは、並大抵のことではないと思ひます。
 
これも主宰してくれてゐる中川恵美さんのひとかたならぬご尽力のお蔭です。
 
参加されてゐるうちに、はじめはのうちは「蚊の鳴くやうな声」だつたのが、いまでは人前に出て自分の声ではつきりと表現することが大好きになつた方。
 
日常生活の中で、考へてゐること、思つてゐること、感じてゐること、欲しがつてゐることをことばで表現することに恐れを抱かなくなつてゐる自分自身に気がつかれた方。
 
好きでなかつた物語が、言語造形を通して練習してゐるうちに、大好きになつてしまつた方。
 
その他、様々な話しを、クラスの練習時間の前後に皆さん打ち明けてくれます。
 
これも、ことばとその人とのかかはりが深いところに根付いてゐることの証左でせう。
 
わたしたちは、ことばと生涯つきあつて、生きていきます。
 
その、ことばとのつきあひを見つめ直し、自分自身を見つめ直す機縁を言語造形を通して摑んでいくことができます。
 
 
言語造形クラス「森のしずく」は、毎月第三水曜日午前9時45分から12時まで、京都府京田辺市中央公民館にて行つてゐます。
 
お問ひ合はせは、中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんまで、お願ひします。
電話 0774-64-2645
 
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2018年04月14日

お話のお宮 〜ある幼稚園の卒園式にて〜


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「ことばの家 諏訪」にずつと通ひ、言語造形を学び続けてをられる山崎淳子さんが、以前話してくださつたことを書いてみました。
 
 
『お話のお宮 〜ある幼稚園の卒園式にて〜』

当時、ある幼稚園の先生をされてゐた山崎さんは、「ことばの家」で昔話の『大工と鬼六』を、倦まず弛まず、ずつと練習されてゐました。
 
その幼稚園で、山崎さんにとつて初めて担任として受け持つた子どもたちの卒園式が開かれ、林檎色のほつぺをした子どもたちがたくさんの保護者や関係者の方々に囲まれて卒園を祝はれたさうです。
 
その式の締めくくりに、『大工と鬼六』が語られました。
 
山崎さんからその時の様子を聴いて、とても感慨深いものを感じたのです。
 
山崎さんは、ご自身にとつての初めての卒園式をとにかく無事に滞りなく進行させることと、大勢の大人の方々の前で初めて昔話の語りをするといふことでとても緊張され、前日にはお腹の調子もおかしくなられるぐらゐだつたさうです。
 
しかし、昔話を語り始めるやいなや、彼女の息遣ひと共に部屋中の皆がしいんと静まり返り、お話の間中、まるで部屋の中に目には見えないけれども大きな丸みを帯びたお話のお宮のやうなものが生まれ出て、語り手も聴き手もみんなその中に包まれてゐた。
 
普段、目に見えないことを口に出して言ふやうな人ではない山崎さんが、「お宮のやうなものを観た、としか言ひやうがないんです」と仰る。
 
さう仰るのを聴かせてもらつて、わたしは妙にリアリティーを感じるのです。そのお宮に。
 
「お話のお宮」「ことばのお社(やしろ)」。
 
さういふ目には見えないけれども、その場にゐる人たちを包み込む精神的な空間をわたしたちは創り出すことができる。
 
言語造形を通して、わたしたちはその精神的・有機的建築に意識的に取り組んでいくことができる。
 
母音を通して、土を固め、柱を立て、梁を渡し、屋根を架けるかのごとく・・・。子音を通して、細やかな細工がなされるやうに・・・。
 
その時、言語造形が行はれる空間では、語り手も聴き手も共にある儀式に参加するひとりひとりの人である。
 
さういふ希ひをもつて、わたしも自分たちのアトリエに「ことばの家」と名付けました。
 
さういふ空間と時間が、多くの場所で生まれること。
そのことを希つて自分も仕事をしてゐる。
 
その卒園式でも、「お宮」の中に入つた子どもは、お話の内容が記憶から遠ざかつたとしても、「お宮の内部に入つた感覚」は生涯を通してその子の内側で生き続けるんぢやないだらうか。
 
さう思はれてならないのです。
 
そして、この春から、大阪の箕面で、新しく子どもたちの保育の場「こっこ」を創り始められる山崎さん。
 
そんな山崎さんに見守られ、育まれるひとりひとりの子どもたちの仕合はせ、そして山崎さんのお仕事のこれからの自由な深まりと拡がりを、こころから祝福します。
 


【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
●言語造形クラス
https://kotobanoie.net/spra/

●和歌(やまとうた)を学ぶ会
https://kotobanoie.net/yamatouta/

●生誕劇を演じるクラス
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

●言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

●日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)
https://kotobanoie.net/kototama/

●普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/tue/



●4月16日(月) 名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了


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2018年04月11日

今晩のラジオ放送


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インターネット・ラジオで、言語造形といふことばの芸術について、また日本の古のことばの芸術作品『古事記』について語らせていただきました。
 
今晩8時から30分間の放送です。
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
  
日本人がそもそも育んでゐた「ことばへの信頼」「ことばへの信仰」について、そしてわたしたち「ことばの家 諏訪」が志してゐることについて話してみました。
 
パソコン・スマホなど、インターネット環境があれば、どこでも無料で放送が聴けます。
 
よろしければ、ぜひ、お聴きください。
 
中田ゆかりさんによる、
ネットラジオ番組「しぃーん〜walking with you〜」
水曜夜8時から
ゆめのたね放送局
関西チャンネルで放送中☆
 
 
 
〈ラジオ「ゆめのたね」の聴き方〉
 
@【関西チャンネル タイムテーブル】のページ
   ↓
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
 
A今夜8時になれば
 
B「関西チャンネル」下の再生をクリック
 
 
*つながるまで、数十秒かかる場合があります。その時は少々お待ち下さい。

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2018年04月05日

ことばのリズム 〜いろはうた〜


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いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし  ゑひもせす


色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて 
浅き夢見し 酔ひもせず


七五調で整えられたこの「いろはうた」。

ことばには、リズムが脈打つてゐます。

例へば、この歌を、かういふ感覚と動きで歌つてみることもできます。

短短長(いろは)短短短長(にほへと) 短短短短長(ちりぬるを)
・・・・

ひとつひとつの音に、短さと長さを感じながら。

ストップウォッチなどで測ることはできない、そこはかとない感覚、かそけき間合ひをもつて、ゆつたりと、このリズムを脚で運ぶかのやうに、唱えてみるのです。
 
さうすると、単に、七・五、七・五・・・と進んで詠んでいくよりも、さらに細やかな春ならではの詠嘆の情が感じられはしないでせうか。

そこに、単に、ことば遊びの面白さや、仏教の理論めいたことを引き立てるよりも、いつさう深い人の情のありやう、ことばにならないやうなもののあはれといふものをも、わたしたちは感じはしないでせうか。

かういつたことばの芸術的な側面を引き立てて練習することができます。

言語造形のひとつの側面です。




【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
●言語造形クラス
https://kotobanoie.net/spra/

●和歌(やまとうた)を学ぶ会
https://kotobanoie.net/yamatouta/

●生誕劇を演じるクラス
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

●言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

●日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)
https://kotobanoie.net/kototama/

●普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/tue/

●名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了




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2018年02月11日

休まないで、動き続けること


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今日も、いつもの日曜クラスで生徒さんたちと共に言語造形に取り組む。
 
このクラスも、生徒の皆さんが積み重ねて来てゐる少しずつの修練がものを言つて、本当に充実した時間だつた。
 
昔話も、草野心平の詩も、源氏物語も、いずれも、ことばの響きがもたらす余韻が、本当に凄い。
 
この余韻といふ沈黙こそを、昔の人は「言霊」と呼び、ここにことばの精神を聴きとつてゐたのだらう。
 
ことばの精神のことを、高知の国学者・鹿持雅澄は「言霊の風雅(みやび)」といつた。
 
沈黙の豊かさ・深さ・生命力は、ことばを発声する人がどれほど活き活きと内的に動きの中にありつづけてゐるかに懸つてゐる。
 
ことばの法則に沿つて動きが活き活きとなされることによつて、豊かな静かさ(言霊の風雅)が立ち顕れる。
 
写真は、一昨昨日の新横浜での、翻訳家の方々、アントロポゾフィー医学読書会の方々との言語造形のときのもの。(冠木さん、いつもありがたうございます)
 
太宰治の『駆け込み訴へ』に取り組んで下さつてゐる時の写真。
 
動いて、動いて、動きつくす。
 
大人になつて、こんなに動き回ることはなかつたのではないか、といふぐらい動いていただく。
 
ましてや、ことばを話すために、こんなに動くなんて、おそらくこれまでの人生の中でもご経験がないのではないか。
 
平家物語も、「コリント人への手紙」も、ミルトンの「失楽園」も、岡倉天心の「茶の本」も、シュタイナーの医学論も、言語造形を通して、動きをもつて発声されることを通して、すべてがことばの芸術になりゆく。
 
休まないで、動き続けること。
 
これが、ことばの芸術のいのちであり、人が人としてあることの秘密のひとつだ。
 
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2017年11月10日

風の人

 
今日も、『キリスト生誕劇』のための練習。
 
人の息遣ひから、演劇が、生まれる。
 
さらに、風から、人は生かされてゐる。
 
風、それは、神の息遣ひである。
 
そこに、言語造形の稽古は常に帰つていく。
 
舞台の上で、俳優はなんらかの身ぶりをすることによつて演技をしていくのであるが、今日は、言語造形の基本に立ち返つて、まづ最も基本の身ぶりに取り組んだ。
 
それは、「息をする」といふ身ぶりだ。
 
普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣ひから、ことばと共に、見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。
 
その息遣ひの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。
 
外から取つてつけた身振りではない、息遣ひから生まれてくる「空氣人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。
 
そのすがたは、わたしたちに「人のおほもとのすがた」を想ひ起こさせてくれる。
 
そのすがたは、遙かな昔に人がとつてゐたすがたであり、そして、遙かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであらうすがたでもあつて、芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、未來にあるであらう「人のすがた」を密やかに提示していく。
 
それは、ことばが、單に情報を伝へるためだけの抽象的なものではなく、活きたことばとなり、人そのものとなり、そして、
だんだんと、人がことばそのものとなることである。
 
「はじめにことばありき」へと、これからはだんだんと遡つていくのだ。
 
ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、かうある。
 
 まこと、まこと、わたしは、あなたに言ふ、
 それ、人、水と風から生まれん、
 そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず
 (ヨハネ 三章五節)



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2017年10月17日

古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜


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『古事記(ふることぶみ)』の古文を言語造形を通して語り伝へていく。
 
ことばの家では、そのためのクラスを開いてゐます。
 
生徒さんたちには毎週来てもらつてゐます。
 
週に一回、全身全霊で古事記の原文を、身振りを伴はせつつ声に出す。動き回りながら、古語を語る。
 
息を切らせながら、汗を流しながら、古事記の本文が秘めてゐる古代の身振り・手振りを習ひ、まねび、体得していく。
 
この『古事記』に記されてゐる宇宙の始まり「天地(あめつち)の初発(はじめ)」の描写。
 
「イザナギとイザナミ」といふ男性性と女性性の原型でもあられる神々の営み。
 
言語造形とは何なのかといふ根源的な問ひと共に、『古事記』といふ古典作品をどのやうに舞台作品となしていくのかについて、毎回、生徒さんたちから、深い問ひが投げかけられる。
 
この自分自身の生きてゐる国の建国神話を、ことばの精神に沿ふことによつて、自分自身が生きるのだ、といふ念ひ。
 
いま、といふ時代、ここ、日本といふ地にをいて、自分自身の生を生き切るのだといふ希ひ。
 
生徒さんたちは、本当に深い念ひを持つてアトリエに通つて来てゐます。
 
その真剣さと喜びが、そんな問ひの深さを生んでゐる。
 
この学びがどのやうに展開していくか。
 
これからの日本といふ国に生きていく多くの人にとつて、己れの国のそもそものなりたちを芸術的に味わひ、知つてゆくといふことは、とても大切なことだと確信してゐるのです。
 
小・中・高校生たちにも、こんな学びを提供していきたい。
 
その機縁のひとつになることを祈つてゐます。
 




火曜 帝塚山 演劇クラス (月4回) 
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★2017年度テーマ
「古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜」

古事記(ふることぶみ)から、我が國の神話と歴史を、語り物として、演劇として、詩劇として、舞台化するべく、言語造形に取り組んでいくクラスです。

舞台藝術として、我が國の文化の源流である神話と歴史物語に取り組み、あわせてルドルフ・シュタイナーの舞台藝術論を學んでいきます。

2018年のゴールデンウィークの上演を目指しつつ、參加される方各々、ご自身の中で、我が國の神話と歴史が、己れの物語として、己れの詩として根附いていくことが目指すところです。

・日程 毎週火曜日(月に4回)

・時間 10:00 – 13:00

・参加費 月謝制 15,000円
(資料代、衣裝代、發表參加費含む)

・会場 「ことばの家」帝塚山教室
  https://kotobanoie.net/access/
・お申し込み・お問い合わせ 「ことばの家」
  https://kotobanoie.net/access/ 

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2017年10月08日

村上 恭仁子さんの言語造形『葉桜と魔笛』


今日、村上 恭仁子さんの言語造形を聴きに行つた。
 
「古典」に影響を受けた明治から昭和文学を読む、といふテーマでの朗読ライブの第一回目。
 
太宰治の『葉桜と魔笛』といふ作品で、約一時間の一人語り。
 
ことばといふものが、日本語といふものが、こんなにも情感を湛える言語なのかといふこと、そして明治に生きた年若い女性の切ない思ひをひしひしと全身で感じることができた。 
 
彼女が第一声を発した瞬間から、空間がぎゅつと凝縮し、一気に文学的な空間になり、それが最後の瞬間まで途切れない。
 
圧巻であつた。
 
 
今回の舞台のチラシやパンフレットに記されてゐる彼女のことばから吹き出てくるやうな心意気が本当に嬉しくなる。
 
「日本語はこんなにも美しい」
 
「なぜ、日本人がかくも高い文明、技術をもって世界に踊り出ることができたのか・・・。それは、日本語の持つ力である、と言えば、大袈裟であろうか。」
 
 
これまで、『牛をつないだ椿の木』『台所のおと』『安達原』などの言語造形舞台を重ねてきた村上さん。
 
彼女の真価がこれから発揮されていく、その第一歩目に立ち会へたやうな夜だつた。
 
言語造形による舞台、ことばとは藝術なのだということが全身で直感される今日のやうな舞台が、これからどんどんなされていくこと。
 
それは、日本といふ国が、いまだ、言霊の幸ふ国だといふことを証していくことだと思つてゐる。
  
わたしもいっさう励んでいきたい。
 
素晴らしい映画を観たあとのやうに気持ちがよく、終演後、大阪の本町から難波まで歩いて帰つてきた。


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2017年09月30日

言語造形についてC(完) 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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印刷されてゐる文字から読み取られることばといふものは、まづもつて、死んでゐる。
 
その死んでゐることばにいのちを吹き込むのは、まさしく、人である。精神を活溌に働かせながら、活き活きと読み取り、活き活きと理解し、活き活きと発聲することで世に響かせる人である。
 
若い人たちに、子どもたちに、このやうな觀点から、ことばの藝術の魅力と意義を伝へていくこと。それが言語造形をする人の荷ふことだと感じてゐる。
 
ことばを死んだものとして「使ひまわさう」とするのではなく、人よりもより賢い叡智を祕めたものとして、そこにいのちを吹き込むべく、ことばに「仕へる」こと。
 
「わたしが手前勝手に使ふ」のではなく、「みづから進んで使はれる」こと、「仕へる」こと。
 
その行爲によつてこそ、人は滿ち足りていくのだといふことを、言語造形を通して學ぶことができる。
 
シュタイナーが1924年に行つた連続講演「言語造形と演劇藝術」の中でのことばを紹介させてもらつて、終はりにしたい。
 
ーーーーーーーーーーー
 
舞台藝術の養成學校で必ず次のことを學んでいただきたいのです。
 
そもそも、響きに対する宗教的なこころもちをわたしたちの藝術に引き込むことができてこそ、舞台藝術につきまとふ危險を凌ぐことができる筈です。
 
道徳的に墮落してしまふ危險すらあるのです。
 
わたしたちは、非日常的なもの、聖なることに踏み込んでいいのです。 かうごうしい教師である音韻をものにしてしかるべきなのです。
 
そもそも音韻の内に根源的なまるごとの世があるからです。
 
ことばの造形者になりたいのなら、まづ、「はじめにことばありき」といふヨハネ福音書に書かれてあることばを忘れてはなりません。
 
(中略) 藝術に宗教的なこころもちが披かれるまで、俳優はこころのメタモルフォーゼを經ていつてしかりなのです。
 
それは、音に耳を傾ける精神への帰依をもつことから始まります。
 
(ルドルフ・シュタイナー)
 
ーーーーーーーーーーーー

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2017年09月29日

言語造形についてB 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜


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頭とは、人体の中でもつとも物質的なところであり、死が支配してゐるところである。一方、手足とは、もつとも精神に通はれてゐるところであり、生命が漲らうとしてゐるところである。
 
動きを通して手足は、まさに精神の世を生きる。
 
ことばの響きとことばに内在してゐる動きに沿つて手足を連動させながらそのことばを聲に出し、身ぶりをもつて一文一文響かせていく練習を重ねることで、だんだんとことばの味はひやお話しのもつてゐる密やかなささやきを感覺していくことができる。
  
そして、そのやうに、吐かれる息の中で聲になつたことばがかたちと動きをもつてゐることで、聽き手もそのかたちと動きを共に生きることができる。そのかたちと動きに通ふいのちを人と人とが分かち合ふことが、ことばの藝術がこの世にあることの意味である。
 
まづは、頭でもつて、知性でもつて、わたしたちはことばを捉えるのだが、それを練習によつてだんだんと胸へ、腰へと降ろしていき、つひには、頭でいちいち考へなくても、手足の動きの感覺から語れるやうにもつていくこと。そのやうなからだまるごとを通した經驗が言語造形によつてなされる。
 
それは、ことばの外側に立つてあれこれ考へ、操作していくのではなく、ことばの響きと動きの眞つ只中に飛び込むことで、ことばの藝術を生き、新しい認識に至ることなのだ。
 
 

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言語造形についてA 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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試しに、ひとつの短い昔話を語つてみる。昔のやうに人に語つてもらつて聽いて覚えるのではなく、現代にをいては紙に印刷された文字を見て、読んで覚える昔話である。
 
書いてある通りに読めばいいと思つて、まづは聲に出してみるのだが、やはりそれだけではどうも物足りなく感じてしまふ。ただ読んでゐるだけの読み聞かせに、聽き手は殆ど魅力を感じにくい筈だ。
 
そこで、ちょつとここは感情を込めてだとか、ここは盛り上がりをもつて表現してみようだとか、自分なりに工夫を凝らしてやつてみる。
 
ところが、そのやうな、ことばを知性からの判斷でもつて表現しようといふ試みは、言語造形をすることにをいて、ことごとく却下される。なぜなら、そのやうな頭にをける考へによつてことばを操作しようとするとき、えてして、その表現はことばそのものの表現ではなくなり、話す人その人の人となりを押しつけがましく表立たせることになつてしまふからだ。
 
ことばを聲に響かせて話すとき、自分なりの解釈をもつてするのではなく、まづは、呼吸のくりなしに沿ふことから始めていく。
 
そして、だんだんと、ことばの音韻ひとつひとつの響きや、ことばとことばのあひだに生まれる間(ま)や、ことばの響きから生まれる動きに沿ふことに挑戰していく。
 
さうして、さらに、ことばに沿ひつつ手足を動かすこと、身ぶりを通してこそ、ことばそのものが本來もつてゐる感情や深みのある意味が立ち上つてくる。
 
ことばとは、本來、手足による行爲とひとつのものなのだ。手足の動きは、頭にをける操作よりもずつと賢いところがあることに氣づくのは、現代人にとつてはことさらに厄介なことかもしれない。できるだけ動かずに、ボタンひとつの操作で情報をやりとりできる現代にをいては。
 
 

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2017年09月28日

言語造形について@ 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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お陰様で、今年から言語造形の舞台、言語造形の体験に新しく触れられる方がいつさう増えてきました。
 
本当にありがたいことです。
 
ことばの精神、日本語の風雅(みやび)に目覚めていくことは、日本の国のこれからにとつて、とてもとても大切なことだとわたしは思はずにはゐられません。
 
この古くて新しい藝術は、体験していただくことでしかそのものが何なのかをお伝へできないのですが、それでも、言語造形についてわたしが以前書いたものを何回かに分けて再び、掲載しようと思ひました。 
 
諏訪耕志記
 
 

 
『言語造形について 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 @』
 
ことばとは、わたしたち人が「使ふ」ものだと、通常思つてゐる。自分の考へてゐることや思つてゐることを言ひ表すための道具として、日本人ならば日本語を当たり前のやうに使ひこなせるものだと、ある意味、高をくくつてゐる。
 
人と人との間にをいて情報といふ情報が交はされてゐる。その際、情報の中身、伝へようとしてゐる内容、意味、それらをできる限り簡潔に分かりやすく伝へることができればいいのであるから、ことばはその情報を伝へるための道具であり、記号にすぎない。そんな風にわたしたちは漠然と感じてゐるのではないだらうか。わたしたちは、さういふ漠然とした意識の中で漠然と教育されてきたと感じられる。
 
そのことばに対する漠然とした意識に、アントロポゾフィーから生まれたことばの藝術「言語造形」は搖さぶりをかける。

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2017年07月14日

企業研修にて 若い人たちを動きと静けさに導く


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社員の方々のための言語造形研修のために、ある企業に毎月2〜3回伺つてゐます。
 
昨日は、新入社員の方々のための時間でした。
 
毎日をもがきつつ、模索しつつ、懸命に生きようとしてゐる二十代前半の若い人たちと共に言語造形に取り組みました。
 
研修の一つの形として、ひとりひとり自分自身が声に出してみたい文学作品に挑むのですが、昨日は谷ア潤一郎や坂口安吾の作品などが選ばれてゐて、それらの文体に全身の動きをもつて沿つていく体験が若い彼らにも相当響いてゐるやうでした。
 
動きがことばにもたらされることで、こんなにも響きの質が変わるのか。
 
ことばとことばの響きのあひだに、生きた無音の時間、間(ま)がうまれることによつて、こんなにも聴き手の内側に想像力が掻き立てられるのか。
 
動きと静けさ。
 
かういふものに触れていくことで、仕事の質が変わつていく。
 
 
 
マックス・ピカートの『沈黙の世界』にかういふ文章がありました。
 

『沈黙の世界』の「古代の言葉」より
 
古代の言葉のなかに認められることであるが、言葉の発生、即ち、言葉が沈黙から生じたというこのことは、決して自明のことではなかった。一つの言葉が沈黙から生まれる場合、それは一つの事件であった。だから、ふたたび何か新しい言葉が生れ得るまえに、一種の間(ま)が生じたのである。言葉は常に沈黙によって中断された。(中略)
 
古代の言語においては、言葉は単に沈黙の中断に過ぎなかった。そして、各々の言葉は沈黙によって縁取られていた。だから、言葉は先ず第一に自己自身のもとにあり、さてその後にやっと次ぎの言葉へと赴いた。かくて、言葉は明確に形づくられ、沈黙からあたえられる縁取りによって形を獲得したのだ。 
 
もしも言葉と言葉のあいだに沈黙がなければ、言葉はもはや彫塑的ではなくなってしまう。たとえて言えば、言葉はもはや人格ではなく、単なる烏合の衆に堕するのである。
 
古代の言葉においては、二つの言葉の中間には沈黙が横たわっていた。言葉は沈黙を呼吸し、沈黙を語っていた。そして言葉は、自分がそこから生じてきた偉(おお)いなる沈黙にむかって、自己の沈黙を語っていたのだ。
 
(みすず書房 p.61~62)


経済活動と法生活と精神行為がもみくちゃになつて毎日が進んでいきがちな企業や会社などの仕事の中で、そんな精神からの人間的な働きを自分自身に少しずつ注いでいくこと。

さういふ研修です。

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2017年05月09日

文学サロン・國語教育の場としての言語造形クラス


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奈良・桜井の等弥神社にある
「申大孝(親の教へに従ふことを述べる)」石碑(保田與重郎)

 
今日から、週一回の火曜古典文学舞台クラス『古事記の傳へ・萬葉のいのち〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜』が始まりました。

文學とは、人が人として生きていくのになくてはならない、とても大切な仕事なのだと、この頃はとみに考へるやうになりました。
 
文學とは、言ひ方を替へるならば、ことばの藝術、です。
 
ことばの藝術に取り組む代々の志ある詩人・文人は、そもそも、國のことば「國語」の運用といふものが人の世を右にも行かせれば、左にも行かせる魔力を持つたものであるゆゑに、いかにして中庸の道であることば本來の活き活きとした働きを最大限に活かし、人のこころを高めていくかに、精魂を込め、生命を賭けてきた人たちでした。
 
國語の運用がその國の人を健やかにする鍵を握つてゐることを知つてゐたのです。
 
力を育んでいくことを抛棄すると、こころが荒んでいきます。國語を捨てると、その人はその國の人ではなくなつてしまひます。國とは、ここでは、獨自の文化を生み出し、育て、受け渡していくフィールドのことを云ひたく思ひます。ですから、その國のことばは、その國の、民族の、歴史と傳統を内に深く祕め、いまも未來の世代に傳へていかうとしてゐます。わたしたち現代人も、知らず知らずのうちに、我が國の歴史のいのちと傳統の精神に繋がつて生きてゐるのです。
 
母國語を愛することは、母國の歴史と傳統を尊ぶことでもあります。母國語の藝術に親しんでいくことは、母國の歴史と傳統に推參していくことでもあります。
 
今を生きてゐる人の立場から考へるならば、歴史とは、その人その人が主體的に過去を捉へてこそ生まれることばの藝術のひとつのかたちです。傳統とは、その人その人が主體的にいのちを吹き込んでこそ生きる精神そのものです。
 
そして、母國の歴史と傳統に立つ人こそが、他國の歴史と傳統を深みにおいて理解でき、尊敬できるのです。そのやうに自立してゐる者同士の間でこそ、眞の交流が生まれるのでせう。
 
言語造形といふルドルフ・シュタイナーによつて新しく意識化された藝術は、各々の國のことばとその人その人の聲をもつて、その國の歴史と傳統に推參した詩人・文人たちの仕事を今に生き返らせるものです。
 
それは、詩人・文人たちの仕事を引き繼ぐことでもあり、生まれ變はらせることでもあり、擴大させていくことでもあります。
 
國語を愛し、育て、受け渡していく、その本來的な文學の仕事を言語造形も荷つてゐます。
 
言語造形のクラスは、その意味で、國の歴史を傳えていく文學サロンであり、ことばの藝術を磨いていく場であり、國語教育の場でもあります。
 
文學作品をひとりひとりが聲に出していくことによつて、目で讀むだけでは全く氣づかなかつたその作品の魅力が新しく立ち上がつてくる。そして、個々の作品の魅力を通して、文學といふもの、國語といふもの、ことばといふものへの認識を新たにしていくことへも繋がつていきます。
 
その認識も机上で得たものではなく、全身の運動を通して得たものだけに、その認識を更にことばにして互ひに語り合ふ喜びもしみじみとした、趣深いものです。
 
空間に響くことば。そこにこそ、そもそもの文學の文學たるところがある。
 
文學をいまに生まれ變はらせ、自分たちの國語のいのちに觸れていく、そんな場が「ことばの家」です。

火曜古典文学舞台クラスのお知らせはこちら↓
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

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2017年05月04日

日本仕様 〜普遍人陋{と言語造形〜


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今日は、ことばの家での第二回目の「普遍人陋{と言語造形クラス」でした。少しづつ共に學ぶ方が増えてきて、嬉しくありがたいことです。
 
シュタイナーが渾身の念ひで語つた人間學が日本の文化風土、独自の歴史観とどう絡み合ひ、渡り合ふのか、そこに向かひあひ、更にことばの藝術である言語造形に取り組まうとする人が、ひとり、またひとりと、日本で増えていくこと。
 
それは、ヨーロッパで生まれたものが日本のものとして換骨奪胎され、全く新しい「日本仕様」になりゆく、ひとつの日本人のお家藝とも言へる文化創造のあり方を踏襲してゐます。
 
なぜなら、ここでは、子どもの教育にとつてことばの教育、国語教育がどれほど大切で根幹をなすものか、といふことを踏まえ、自国のことばといふものを意識的に捉えながら、国語の藝術に取り組むことによつて、そのことをからだで体感していく時閧創り出してゐるからです。
 
 
 
さあ、明日からは、この普遍人陋{と言語造形をシュタイナー教員養成講座で多くの方々と分かち合ふ三日間。
 
体力と気力をフル回転させていきます。

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2017年05月02日

ことばの農作業


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夏も近づく八十八夜・・・。
 
立春から數へて八十八日目の今日。農においては、種を蒔くに相応しい時期ださうです。
 
晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもつて讀書しながら心穩やかに暮らすことを「晴耕雨讀の暮らし」とよく云ふけれど、自分は晴れても降つても、耕して、讀んでるなあ、と今朝ふと思つたのです。
 
自分の場合、「耕す」といふことは、すなはち、言語造形の稽古をするといふことになるのですが、それは身體をもつて稽古しながら、この身體といふ土壤を耕し、ここにことばの種を蒔き、ここからやがてことばの花が咲き、ことばの実がなりゆく。
 
その花なり実なりを人と分かち合ふことができれば、そして更に高い世の方々に奉ることができれば、これほどの喜びはない、といふほどの喜び。
 
わたしは、日本のもつともベーシックな食べ物であるお米を作る感覺に近いのかもしれないと思つてゐるのですが。
 
自然の作用といふ天からの扶けをもつて米作りに勤しむ人は、きつと、その過程で米といふ植物存在の内部にだんだんと入りこんでいくでせう。
 
言語造形の場合、ことばといふ神から授かつてゐるものが、稽古を通してだんだんと植物のやうにわが身體を土壤にして育つていく。
 
その身體を通してわたしのこころはだんだんとことばといふものの内側に入りこんでいき、ひとつになつて、花あることば、実のあることばとして、世に羽ばたいていく。
 
稽古といふものは、獨り部屋に籠つて、同じことばや文を繰り返し繰り返し口にして身體に覺え込ませることから始まるとても地味な作業です。
 
しかし、その作業が、ことばに潛んでゐるいのちを育て、育んでいくことであり、また、つひには、そのいのちとひとつになつていく、内なる見えない農作業なのだと思ひながらやつてゐると、喜びが溢れてくるのです。
 
うだうだと悩んだり考へたりしてゐる暇があるなら、稽古をする。
 
さうして手足を動かしながら何かに勤しむことができるのは、仕合はせなことです。

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2017年04月10日

國語教育としての言語造形


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これからの國語教育を考へるなら、手輕な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのではなく、自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、叮嚀に、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。
 
昔から我が國の人は、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を盡くして、ことばにする力に秀でてゐたやうに思はれますが、善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふことです。
 
國語のその力は、おのづから、聽く人、讀む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辭の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。
 
文章を書くためのそのやうな力は口からいずることばに、口からいずることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあふことでせう。
 
話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた、書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。
 
 
 
そして、國語教育にさらに言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。
 
前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて發聲する、その行爲はいつたい何を意味するのでせうか。
 
話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。
 
さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
 
言語の運用において、そのやうな藝術的感覺をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味なのです。
 
さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに盡きずに、音樂のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聽き手に感覺される。
 
詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。
 
言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉體の動かし方、氣質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
 
そして、ことばの精神、言靈といふものが、リアルなものとして、
人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを實感する。
 
言語造形を通して、書かれたことばが、活き活きとした話しことばとして甦り、やがて、その感覺から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。
 
そんな國語教育。
 
子どもたちがそんな言語生活を營んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを實感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聽かせることです。
 
ここ數年、わたしも、『古事記』や『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞臺化してきたのですが、現代語譯することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に屆くのだといふことを、確信するに至りました。
 
昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覺を通してそのやうな藝術的なことばを享受していく機會を、どんどん與へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遙かに柔軟に全身で感覺できます。
 
 
これは、保田與重郎が『近代の終焉』といふ本の中で、昭和15年に述べてゐることですが、手輕に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの國語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
 
また、わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、日本のことばを知る勞力を費やしてまで近寄るに値しないので、出來る限り學ぶ者の負擔を輕減してやらうといふだけなら、いつさうこの國はアメリカやヨーロッパ諸國の植民地となつていくのでせう。
 
70年、80年前の話しではなく、いまの、そして、これからの話しだと思ふのです。
 
古典を古典として敬ふことを學ぶ。その學びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる國が、一貫した國史をもつてゐることを實感していきます。
 
さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が國ならではの精神を傳へていく。それはきつと他の國々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。
 
いつの日か、己れの文章が言語造形されることを希ふ、そんな詩人・文人が現れるでせう。

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