古事記の文章。
それは、天武天皇の御声によつてひとりの舎人・稗田阿礼の耳に伝へられたもの、口から耳へと伝へられたものです。
それから約三十年後、阿礼の声が太安万侶の筆によつて文字に書き起こされました。
そして、さらに千年以上後になつて、江戸近世の国学者・本居宣長によつて初めてふさはしい光を当てられ、それ以降、多くの学者や芸術家にインスピレーションを与へ続けてきただけでなく、皇室のありやうを密かに支へてきたのです。
天武天皇は、何に耳を澄まされたのか。
それは、神の声です。
文学とは、そもそも、声から声への伝へであり、神の声を聴きとることから生まれるものです。
日本の文学は、ここに発します。
文学とは、ことばの芸術であり、ことばとは、神から人へと吹き込まれた息吹きであります。
わたしたちは、その、いまも、神から吹き込まれてゐる息吹き、そしてことばを、ことばの法則に沿つて造形することで、空間に、ことばのお宮、お社を形造つていくことができます。
わたしたちは、造形されたことばを聴くことによつて、ことばのお宮、お社の中に包まれてゐることを体感します。
今回の『古事記(ふることぶみ)の精神』では、冒頭の箇所、「天地(あめつち)の初発(はじめ)」のくだりを、参加された皆さんとで、ことばを造形しながら発声してみました。
高天原にまします五柱(いつばしら)の「別(こと)天神(あまつかみ)」の御名を言語造形する。
それは、その文章が、まさに神のことば・神語であることを予感・体感するのにあまりある時間と空間を生み出します。
その調べは、日本書紀の該当する箇所と比べても、随分と違つてゐます。余計な飾り立てることばがなく、文体は引き締まつてをり、格調高く、詩美の風雅(みやび)が湛えられてゐます。
神々の御名を唱へることが、「なむまいだぶ」と唱へることよりはるか以前から、わたしたちのこころに安らかさと確かさをもたらす、よりどころでありました。
わたしは、ゆくゆくは、子どもたちに、意味から教へ込むのではなく、この「あめつちのはじめ」のくだりを朗々と朗唱できるやうな教育環境を整へることへと仕事を進めていきたいと考へてゐます。
江戸時代、儒教の強い影響から多くの家庭で『論語』の素読・暗唱が子どもの教育において盛んに行なはれてゐたやうですが、やはり、わたしたちにとつて、これからの国語教育、歴史教育、倫理教育の根幹となつていいのは、わたしたち自身の国民文学である『古事記』や『萬葉集』、もしくは『百人一首』ではないかとわたしは思つてゐます。
『古事記(ふることぶみ)』。
それは、他の文章、歴史書とは異なり、日本人が数へきれない昔の代から我が身に体してゐた「やまとことば」の語り口そのままのことば遣ひをもつて、我が国の精神と歴史を記さなければならない、との明確な認識のもとに、ものされてゐます。
しかも、その文章は、日本といふ国が永遠に神の国であり続けるやう、文化を根柢で精神的に支へつづけることのできるやうな、これまた非常に明確な意識で記されてゐます。
そのために、落とすべきものは落とし、汲み上げるべきものはしつかりと汲み上げる。さういふ声から声への伝へ、それが「古事記(ふることぶみ)」です。
昨日の『古事記の精神』の前半におけるワークショップ。皆さん、懸命に「あめつちのはじめ」の文章に取り組んで下さりました。
写真を見ますと、神の息吹きを迎へ、響かせ、送るのに、我々日本人は、腰といふからだの要を使ふことがいかに大切かといふことに気づかされます。
皆さん、どうもありがたうございました。
posted by koji at 14:48
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ことばづくり(言語造形)
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