2007年12月23日

言語造形することにおいて 断想(3)

これまで、言語造形というと、
人が、言語を造形するのだと、思っていた。

しかし、そのことに徐々に通じていくと、

言語が、言語を造形するのであり、
言語が、人を造形するのだと気づいてきた。

人は、この世に生まれて二年ごろから、ことばを話しだし、
年齢を重ねるにつれて、言語(の精神)によって、造形されていく。
言語の似姿へと造形されていく。
人間へとなっていく。

そして、人は、「まこと」を語る人へと、言語そのものによって、造形されていく。

言語造形をすることを通して、人は、そのプロセスを実践的に辿っていく。



ことばは人を造形する。

     はじめにことばありき、ことば神のところにありき、ことば、ひとつの神なりき、
     こうごうしかりき
     ことば、はじめに神のところにありき
     すべてはことばによりてなれり、ことばによらずなれるは、なれるかぎりいささかもなし
                                  (ヨハネ福音書 第一章より)

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2007年12月21日

言語造形することにおいて 断想(2)

言語造形の稽古において、まず目標としていいのは、
「からだを育むこと」、体育である。

身に使われるのではなく、身を使う。

静かに、しかし強烈に観客を惹き付ける語り、
それは、語り手の内部がいきいきと動き、遊ぶことにより、初めて可能となる。

外なるからだの動きとしては目には見えないが、
内なるからだの動きとして、まずは常に歩き、走っている。

その身軽さ・アクティビティーが必要である。

そして、腰をかなめとしてからだを自在に使えるよう意識する。
語ろうとすると、肩や首、胸にまで余計な力が入りがちだ。
腰をかなめにすることで、もしくは足と大地がしっかりと、かつ柔軟に噛み合うことで、
上半身がもっと自由になるはずである。

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2007年12月18日

言語造形することにおいて 断想(1)

ことばは語られるとき、ともすると、旋律に誘惑されてしまいがちになる。
ことばの一音一音の粒だちをしっかりと捉え、造形していくことで、
旋律をことばみずからがつくりだしていくよう、練習すべきである。

過ぎ去ることを予期して音を迎える。
迎えるとき、それを離すまいとして固執してしまいがちであるが、
常にそれは、去り行くもの、送り出すものとして、音を迎えるのだ。

ことばも、あらゆる事物も、そして人も、そのように、迎え、響かせ、送るのだ。

ことばの実相に近づいていくこと、
それは普遍人間学に近づき、親しむことでもある。

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2007年12月17日

岐阜でのおはなし会

この一年にたまった疲れからだろうか、今、身体がぼろぼろである。

でも、そんな今だからこそ、身体の具合に左右されずに生きていけるかが
試されているような気がする。

身体を超え、自分のこころを超え、よりおおいなるこころ、おおいなるわたしがある。

そのおおいなるわたしこそが、すべてを治癒するのだと信頼できるか。
精神が、生活の主導権を握ることができるのかどうかが試されているような気がする。


おととい、昨日と、岐阜で昔ばなしの会と言語造形のワークショップを行ってきた。

昔ばなしの会では、「星の銀貨」「笠地蔵」「子守どろぼう」を語らせてもらった。

語るということ、また、お話しというものには、深みがあって、
何年、演っていても、これで充分、という気持ちに本当になれない。

しかしそれらのお話しを深く、真摯に受け止めて下さった方々がいて、
そのことをわたしに伝えてくれた。

「人のこころの素直さ、純一さ」という三つのお話に通底するテーマに、
しみじみと感じ入ったと伝えてくださった。ありがとうございます。

お話しを語っていて、そのように深みをもって受け止めて下さることは、本当にありがたく、
これからもこのお話を語る修行を続けていく勇気をいただける。

聴き手の豊かさ・深さ・広やかさに本当に感謝だ。

「こころの素直さ、純一さ」を「まごころ」といってもいいと思う。

「まごころ」で生きる人にどんな出来事が起こるのか。
「人のまごころは、どのようなものごとを引き寄せるのか」。

お話しに通底するそのテーマは、人間というものの普遍的な法則を素朴に語っている。

「まごころ」を「まごころ」として自覚してはいないが、
「まごころ」の中にすでに生きている人の姿に、
わたしたちはしみじみと人生の本当を感じ入る。

またしみじみと感じ入ってきたからこそ、
人は昔からこれらのお話しを長い時間を通して語り継いできたのだろう。

その意識されざる「まごころ」というものが、
昔も今も、個人的なこころを超えたところにある。

わたしも、繰り返し繰り返し、これらのお話を語っていくことを通して、
この「意識されざるまごころ」に、意識を持って入っていきたい。

そしてその「まごころ」こそが、すべてを癒すのだ。

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2007年07月28日

やってみてみ!

言語造形のレッスンのとき、時々、
「頭で考えないでくださいね〜!」
と生徒の皆さんに言うことがあります。

ことばを話す練習のとき、
どうしても「ああすればいいんだろうか?こうすればいいんだろうか?」と
頭で考えてしまうことがあります。

「充分、理解した上でないと行動に移せない」
そんなふうに考えられる習慣があるのかもしれません。

もちろん頭の部分で、講師のアドバイスを受け取るんですけれども、
コツは、
そのあと頭で考えすぎないこと。
すぐ、やってみること。

ピアノだって、他の楽器だって、自転車だって、
それとよく似たことが言えるんじゃないでしょうか。

間違ったっていいんです。
転んだっていいんです。
まずは、指を動かしてみること。
まずは、乗ってペダルをこいでみること。
まずは、からだまるごとを使って、声を発してみること。
頭で考えるのではなく、
繰り返し繰り返し、からだを使ってやってみること。

前もってあれこれ考えるのではなく、
やっている中で、
「ああ、そうか!  ああ、こうすればいいんだ!」
という発見を重ねていくんです。

ことばは、頭の部分から発せられるので、
つい、ことばは頭で話すものだという無意識の思い込みがあるのかもしれません。

しかし、ことばは、からだ全体で発せられるものです。
口だけではなく、胸で、腹で、腰で、脚で、
語られるものです。

ですから、頭だけで考えていて、からだを使って声を出していかなければ、
埒があかないわけです。

まずは、どんどん、恐れを捨てて、やってみること。
言語造形に限らず、芸術はそんなことを後押ししてくれます。


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2007年06月19日

俳優芸術の存在意義

この6月から、舞台に立つ俳優を養成していくことを目標にしたクラスを始めました。

まずは第1期として、芥川龍之介作「藪の中」を語り芝居に仕上げていくことに取り組んでいます。

言語造形に基づいた俳優養成学校の雛形だと考えています。


この肉体をひとつの楽器として、ことばを奏でること。
そのことを通して、人が生きることの、表面的なコピーではなく、
深みや神秘までをも表現していくこと。
俳優とは、それらを意識的にしていく人であり、
人誰しもが俳優になりえる。

そんなシュタイナーのことばに喚起されて、
このクラスを始めています。


この人間の肉体というものは、肉体それだけで存在しているのではなく、
こころ、精神という目には見えないものに浸されています。

ですから、この肉体を使って何かを表現していくために、
実際に声を出し、からだを動かすという稽古を重ねていくだけでなく、
俳優自身の内的な意識の育成を視野に入れていくことがどうしても必要です。

できうる限り様々なものごとに関心を持つこと。
まわりをより繊細に感じること。
ひとつひとつのものごとに新しい驚きを発見すること。
内側の情を豊かに育むこと。
動きという動きにこころを注ぐこと。

そんな練習を積み重ねることによって、
深みを観るこころの姿勢を培っていくことができます。
そのように、内なるこころの道を辿っていく。


そして、あらゆるこころ・情の動きに対して繊細に反応し適応し、
その深みをテキストに沿って、時に力強く、時に繊細に表現できるからだづくり。


このふたつの軸を意識しながら、それらを、稽古の上で、舞台の上で統合していきたい。


そのような言語造形による俳優芸術の道筋をつけていきたいと考えています。


具体的なインフォメーションは、どうぞホームページのトップをご覧下さい。
http://www.kotobanoie.net/



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2006年12月12日

かたくなさを解き放つ

かたくなさを解き放つ。
言語造形のレッスンをさせてもらっていて、
まずそのことに取り組むことから始めるのだが、これが一朝一夕にはうまくいかない。
いや、自分自身でさえ、いまだにうまくいかない。

しかし、取り組むうちに、そのかたくなさがほぐれ出すときが来る。
その人その人の輝き、豊かさが次から次へと出てくるときが来る。

このひとりひとりの人の輝きを阻んでいる「かたくなさ」とは何だろう。
様々な名前でもって、その「かたくなさ」の原因を言い表すことができるだろうが、
とりわけ、「不安」「自己への不信」が大きな要因ではないだろうかと思い当たる。

自分が「不安」を抱えている、もしくは「自己への不信」に苛まれていることを、
みずからに認めることには、勇気がいる。
その「不安」「自己不信」のためにかたくなになってしまっていることを認めるには、
さらに勇気がいるのだ。

みずからの内のものをみずからで気づくこと、認めること、いい/悪いの判断を早急に下さずに受け取ること、そしてみずからを裁くのを止めること。

そこから、創造が始まる。
みずからを世に向けてクリエイトしていくことが始まる。

それら一連のプロセスは、人それぞれ様々なあり方を取るのだろう。
言語造形もまた、全心身をもって取り組むならば、そのプロセスを促してくれる。

レッスンの中で、ひとりひとりの方の語ることばに耳を傾けていると、
かたくなさがまだ感じられるのにもかかわらず、
その時にすでにそのかたくなさから解き放たれ、いきいきとしているその人の姿がおのずと見えてくる。

きっと、その人が行き着く先は、歩き始めたもうその時にある。
その行き着いた状態を、その人は可能性として一歩踏み出すその時にすでに胚胎している。

言い方を変えれば、人は本来すでに、輝いている。
その輝きは何かによって覆われ、隠されてしまっている。
その人のすることはその覆い隠しているものを脱ぎ去って、本来の姿を思い出すこと。
その思い出された輝きから、その人のその人にしかない語りが始まる。

その姿に近づくように、その状態を思い出してもらえるように、助言を与えるのが、
自分の仕事である。

その人の表情、その人のことば、その人の息づかい、すべてが生気を取り戻し、いきいきとしてくる。
その人にしかない豊かなものが表に顕れてくる。
その人の生命がことばの生命と織り成しあって、空間に響きだす。
そして、それに触れる他人までもが、その豊かさを享受できる。
その人がその人らしさを表に出すことができるほどに、自由になればなるほどに、
周りの人々に喜びと活力と勇気を与えることができる。

言語造形のクラスにおいて、そのことが展開されるたびごとに、
私はこの芸術、この仕事の意味を噛み締める。
ひとりひとりの人が輝きを放つことに向けて仕事をしているのだと、
そのたびごとに確かめている。

この12月に私は42歳になった。
本格的にこの「かたくなさ」を解き放っていくプロセスに入っていったのは、
28歳の時だったように思う。
シュタイナーを、アントロポゾフィーを、言語造形を知ったのは、
その時だった。
私の場合は、その時から「かたくなさそのもの」を心底経験する必要があったようだ。
しかし、その時すでに、
私はその「かたくなさ」から解き放たれた自分自身をどこか胸の奥でイメージしていたように思う。

そして、いま、その「かたくなさ」から自由になっていく私自身、
ひとりひとりの人と協力して、力をあわせて、
「人の輝き」を世に溢れ出させる仕事をしていく。

みなさん、2007年をいい年にしよう。


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2005年03月10日

空の器

言語造形の稽古、そしてアントロポゾフィーを学ぶこと、
これらふたつは自分にとってなくてはならぬ人生の主要事である。

これら二つのことによって、自分は「何かになる」ことを目指しているのではなく、
この稽古と学びそのものが自分の人生であることを自分は知っている。

言語造形という芸術を通して、この稽古している一瞬一瞬を生きるということが
わたしの生きる意味なのであり、
舞台さえもそこに何かの成果を期待するものでは本来なく、
その「とき」を生ききることに、
わたしは喜びと充足を見出している。

さて、大阪における鈴木一博さんの連続講座、全19回が、この3月で終了した。
シュタイナーによる講演録などを通して、わたしたちは、
一言で言えば 「こころのアクティビティー」 ということを学んできた。

こころの自主、自律、そして自由へと続く細道。
それは自らを熱く燃え立たせ、人と出会っていくこと、世界と出会っていくこと、
そして精神というものに信を置くことによって、
自らを捧げることへと続いていく道である。

何度も何度も繰り返し、
残された講義録と自分が取ったメモを読み直す。
その内容をそのたびごとに、このこころでこなしてみる。
こなすごとに、自分の生きることに明るさと力がもたらされるのを感じる。

そう、このアントロポゾフィーを学ぶことにおける明るさと力、
そして言語造形の稽古における喜びと充足が、
常に新しく繰り返されるべき克己への原動力である。

そして、すべては、己れを空しくする、
空(から)の器にすることへと、
自らを徐々に徐々に導いていく。

歩く一足ごとが、苦しみであり、
それを超える喜びである。

だから、前へと歩いていけるのだろう。




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2004年11月01日

舞台

10月30、31日の「高瀬舟」奈良・大阪公演が終わりました。
雨の中、来て下さった方々に心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。

公演の度に感じることなのですが、ひとりひとりの方が何らかの想いをもって舞台に足を
運んでくださる。そこで何十人という方と舞台を通して私は出会うことができます。
そして、ひとつの場で、言語造形を通して静寂の時を分かち合うとき、その時、そこで、
何が起こっているのか。

単にこれこれこういう物語ですよという情報が鳴り響いているだけではない、
何かがそこで起こっていることを私は感じます。
私はその何かを「精神」といいたいと思います。
物語の精神、ことばの精神、音の精神。
私自身が空(から)の器になれればなれる程、その精神がその時その場に降りて来る。
私の中の余計なものを取りのぞいていく程に、本当のものが、鳴り響き、顕れてくる。

宮澤賢治のことばですが、精神とは、「ある程度まではみんなに共通」するものであり、
「すべてがわたくしの中のみんなであるように、みんなのおのおののなかのすべてですから」
という言い方で表されている「すべて」にあたるものではないでしょうか。

ひとつひとつの舞台が、そのような精神と人が結びつく場、精神の中で人と人が出会う場、
もっと言えば、精神の中で人と神との結びつきを確認する場になりえるのではないか。
そんなこうごうしい場、ひとつの祝祭として、これからも舞台を創っていきたい、
と私は希っています。




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