2009年12月15日

奈良教育大学にて『夕鶴』初演

 先日、奈良教育大学にて日本教育宇宙学会が主催するお祭りがあり、そこにドラマ「夕鶴」をもって参加させていただいた。

 その学会はこれまでわたしが抱いてた学会というもののイメージを随分と拡げたものだ。現代に生きる人が本当は何を求めて「教育ということ」「学ぶということ」に向かい合っていくのか、その本当の部分に目を向けてみれば、人はみずからの過ぎ去りゆく部分ではなく、決して過ぎ去ってゆきはしないみずからのみずからたるところに気づくはずだ。
 
 その「みずからのみずからたるところ」を宇宙と言っていいではないか。

 そんなこころざしを持った学会を立ち上げられたのは、奈良教育大学の岡本定男教授。とてつもなく熱い情熱を抱いておられる方だ。

 さて、そこで演じさせていただいた「夕鶴」初演。客席そして舞台袖からわたしは見守っていたのだが、この劇がひとつのリアルな夢の塊りとして舞台と客席を覆い包みこんでいたのを感じた。芸術の命である感情が劇から立ち上がってきたのをまざまざと感じることができた。

 その日に観てくださった方から早速ご感想をいただいたので、その方の許可を得てここに載せさせていただきます。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/135719559.html

 教育宇宙学会の方々、聴きに来て下さった方々に、こころから感謝です。ありがとうございます。これから、この劇が引き続き引き続き命を得ていくことができますように。

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2009年11月13日

今日の稽古 〜基点としての足〜

 今日は大阪府箕面市で言語造形の稽古。月1回のペースで、もう7年以上続いている。皆さんそれぞれ参加された時期は様々だが、クラスというのは不思議なもので、なぜか期を一にして各々物語を語る力が充実してきている。長い時間の中では、クラスの雰囲気と言おうか、勢いと言おうか、ある時期には停滞した雰囲気になったり、またある時期には今日のように充実したものになってきたりする。今年になって参加された新しい方も周りの皆さんに合わせるかのように毎月どんどん腕を上げていかれるのだ。

 まず、円になって時計回りに歩くことから始めた。足の裏側のどの部分に重心がかかっているか、歩くにつれてその重心がどう移りゆくか、そんなことを意識しながら歩き続けている内に、注意深い足運びにつれて、だんだんと息が深くなっていくのを感じ出す。
 足の運びと呼吸が深く連動していることに気づくことは、言語造形をするうえでとても大事な支えになる。そのことを感じながら「あえいおう」と母音を響かせてみる。いかに上半身の力を抜いて、かつ、己の両の足裏に動きつつある重心を感ずることができるか。それがあれば、大きな声を出さずとも、響きのいい、地に足の着いた語り口が生まれてくる。ことばの一音一音は空間の中を自由自在に動き、同時に基点としての両足は大地と密かに語り合っている。その両足と大地との親密な接触から、身ぶりが生まれ、ことばが生まれる。そしてふさわしいことばとことばの間(ま)が生まれる。

 わたし自身、生徒さんたちとのこの毎日の言語造形を通して、基礎の再発見をさせてもらっている。それは、稽古というものを通してのみ見えてくるもので、そのたびにこころを動かされる。

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2009年09月01日

今日の稽古 〜ことばと身ぶり〜

特に力まず、誇張したりもせず、
淡々と話しているにも関わらず、
深くて確かなこころの内実が、
話されることばから立ち現れてくることを、
今日の稽古で、また、実感した。

活きていることばには必ず、
活きた身ぶりが伴なわれている。もしくは、潜んでいる。

文章やことばや音韻ひとつひとつに応じて、
身ぶりはその都度様々になされる。

シュタイナーは、人間としての典型的なものとして、
六つの身ぶりを挙げてくれている。

または、文章の内側に、まるで感情の通奏低音のように特定の母音が鳴り響いていて、
その母音に応じての身ぶりがなされる。

そして、ひとつひとつのことば、ひとつひとつの音韻の響き、母音、子音に応じた身ぶりもなされえる。

それら、そのときそのときに相応しい身ぶりを、
まずは外的に、そしてだんだんと内的に繰り成していきつつ、
ことばを発声していくことを徹底的に身につける。

そんな稽古を繰り返していくうちに、
俳優によって吐かれる息の中にことばの響きが聴き取られるだけでなく、
確かで深い情が、人間の内的な身ぶりとしてリアリティーをもって感じ取られる。

舞台の上で、ことばを話す。
たったそれだけのことから、
様々な色合いをもったこころのリアリティーが
確かさとともに生まれてくる。

そのこころのリアリティーは、
俳優個人が持とうとするひとりよがりなものではなく、
ことばから、文章から、作品から、おのずと立ち上がってくるものだ。

ことばが、文章が、作品自体が、
こんな風に発声してほしい、こんな風に表現してほしい、と願っている。

その願いに耳を傾ければ傾けるほど、
そして、活き活きとした呼吸を通して相応しい身ぶりを繰りなしつつ、
ことばを発していくことを稽古していくほどに、
わたしたち自身が、
その願いをことばとして鳴り響かせることのできる楽器になっていく。

わたしたちが実現しているのは、
シュタイナーが言語造形と俳優芸術に関して語り、伝えようとしてくれたことの、
ほんの幾ばくかに過ぎないだろう。

しかし、その幾ばくにすぎないものからだけでも、
とても確かなリアリティーを受け取っている。

ことばとは、こうあっていいのではないか。
演劇とは、こうあっていいのではないか。
そんなリアリティーである。

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2009年08月22日

今日の稽古 〜汗を流すこと〜

汗を流すこと。

夏の暑さの中、今日も稽古で、皆、たっぷりと汗をかいた。

言語造形をしていくに当たって、
まず何よりも、身体を動かし、身を使い、腕と脚を使って、汗を流しながら、
ことばを話すことに取り組んでいくのだけれども、
そうしているうちに、もう、ことばを頭で考えなくてもいいくらい、
できるかぎりことばが胸と腹と脚まで降りてくるように、
繰り返し、繰り返し、稽古していく。

そんな稽古の果てに、
頭が空っぽになって、身体が自由に動くようになって、
初めてことばの精神が、リアリティーあることばが、身体に降りてきて、
豊かな息遣いとともにことばが発せられるんだ。

豊かな、生きた息遣いって、
どうしてこうも人をいきいきとさせるのだろう、と、
今日も稽古で実感させられた。

その息遣いも、
すべては身をアクティブに使っていくことから、初めて生まれる。

汗を流すことができる場があること、
それはことばの芸術に取り組んでいく者にとって、
とてもとても大切なことだ。

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2009年03月20日

メルヘン・昔話のかたち

メルヘンには、わたしたちが現世的な頭で考える以上の深い内容が、
できるかぎりのシンプルなことばの並び・文章で組み立てられています。

そのシンプルさによって、逆に、聴く人が、
物語の絵姿をこころの内に豊かにアクティブに描くことができます。

そして、人は、そこに語られていることがらの深さをどこか予感し、
郷愁を覚え、魅せられるのです。

そして、目に見て、黙読するための文章ではなく、
声に出して、語るための文章なので、
そのリズミカルなことばの運び、音の連なりは、
聴く人の生命をいきいきとさせます。

また、今は多くの人にはもう使われていないようなことば遣いも、
そのようなメルヘンには多く見られます。

メルヘン・昔話独特のことば遣いです。

しかし、それらのことば遣いが、人の知性に訴えるというよりかは、
より人の情と意欲に働きかけるということも、
端的に感じられるところです。


人が自分からアクティブに描く絵姿。
平凡なものではなく、非凡なものにこそ潜んでいる輝き。
リズミカルに、人の情と意欲に働きかけることばの運用。

それらが、メルヘンの言語造形を通して、
人の意識の奥底に、生きることへの深い励ましを贈ります。



明日もメルヘンを大阪にてお贈りしますが、
これからも、各地で、頻繁に、
メルヘン・昔話を聴いていただくことが出来るよう、やっていきますので、
皆さん、楽しみにしていてくださいね。

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2009年03月07日

自立したひとつの芸術

       
       人間の限られた力だけによってするのではなく、
       自らを、世の創造力のためのひとつの道具にすることができれば、
       はじめに意図していたものよりもはるかに多くのことが、
       事柄そのものから芽生え、繰り成していくようになります。 
                       (ルードルフ・シュタイナー)



これは、シュタイナーが、
オイリュトミーを創りだし、発展させていくことについて語っているときに出てきたことばですが、
(他のだれでもなく、この「わたし」が)
言語造形を創りだし、発展させていくことにおいても、
まったく当てはまることです。

わたしの限られた力だけによってするのではなく、
世と、宇宙と、つながりをもって、やっていく。
自らを世に働く創造の力のための道具にしていく。

それが、まさに、稽古することの意味だと感じています。

稽古を重ねるほどに自らが空(から)の器になっていく。
その空になったところにこそ、
世の創造力が、ことばの精神が、流れ込んでくる。
そして、空気の震えとなって、ことばが、外の世に響き出づる。

芸術とは、時と場を踏み台にしながらも、それらを越えて、世に作用し続けていくもの。
そのとき、ことばは、目には見えず、耳には聞こえないあり方で、
世に働きかけていく。


自らを空の器にするための言語造形における練習の素材には、
シュタイナーが用意した数十の文章、
そして日本語では「外郎売」(!)などがあり、
それらを毎日繰り返し繰り返し、立って動きつつ口にのせて稽古します。

音韻のひとつひとつの造形、
ことばとことばの連なりから立ち上がってくる情のありよう、
ことばの勢いと間(ま)のバランス、
それらにリアルタイムに沿いながら、練習していきます。

ことばの精神という世のおおもとにあるものが響き出づる。
そこに向かって、こころから励んで、そのような稽古を重ねていくことによって、
ことばを話すということが、
自立したひとつの芸術なんだということを、
自らの身を通して、強く人々に伝えて行きたい。

そんなことを、上のシュタイナーのことばから、喚び起こされました。


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2009年01月30日

言語造形の稽古

稽古は稽古だけで充分であって、
稽古をして上手くなるとか、何かになるということではない。

稽古が稽古として自立すれば、
すなわち、わたしがわたしとして自立する。

これをして何になるのかとか、
どういう役に立つのか、などと考えているとき、
その人は、稽古というその行為を愛していない。
その行為からの見返りを要求している。

何かを要求している状態は、
いま己には何かが欠けているという認識にいるということだ。
行為の見返りを要求する段階を打ち棄てて、
行為をただ愛する。
ただ愛からのみ、行為する。

そのとき、わたしには何ひとつ欠けているところはなく、
わたしはそのままわたしであることで充満・充足している。

それ故、入門ということは、一期の境であると言える。

そう、毎日、本当に入門するかどうかを自らに問うて、
毎日新たに入門するのだ。

そして門に入ったなら、
ただひたすら稽古するのだ。

もし稽古することに疑いがあるのなら、
門に入ってはいけない。

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2008年09月21日

言語造形入門講座 第一回目終わりました!

本日、第一回目の入門講座を終えました。

来て下さった皆さん、本当にありがとうございます!

第一回目の今日は、まず、自らの呼吸と身体のありようを感じていただくことがテーマでした。

下半身(腰・脚・足)からの力をもらいつつ、
上半身(特に肩)の力を抜きながら声を発してみることに取り組みました。

そのとき同時に、
みずからの身体のセンターを臍下三寸のところに感じてみることによって、
そうしないときよりもはるかに呼吸が深く、しなやかになることを皆さんに感じていただけたようです。

あるいは、語ろうとするときに、
どうしても肩に力が入ってしまって、ことばがぎこちなくなる、
どうしても身体のセンターを感じられず、
ご自身の身体だけではない、こころの現在のありようにも思い至った方もいらっしゃいました。


今日取り組んでみた『白雪姫』『星の銀貨』などのメルヘンも、
そのように身体まるごとを使って、深い呼吸に乗せて語ってみることによって、
語りのうちに絵姿が立ち上がってくることを、
皆さんとともに体験できました。

その深い呼吸が、自分の本来のあり方に立ち戻らせてくれる・・・。
そんな気づきをおっしゃって下さった方もいらして、
わたし自身、あらためて、呼吸と意識の相関性に思いをいたすことができました。

自らのからだとこころのありように、今一度、目を向けてみる。

言語造形を通して、いかに語るかだけではない、自らのありようを知ってゆく、
そんな時間を皆さんと分かち合うことができました。

ありがとうございました!

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2008年03月31日

飾りをそぎ落とす

先日の「藪の中」の舞台、たくさんの方々に聴いていただけたこと、
本当に感謝です。

創ってみて、あらためて自分が何を求めているのかが、
より明瞭になってきました。

わたしが創っていきたい舞台は、
飾りがなくていい、いやむしろ、飾りをそぎ落としていくこと。

言語造形家・俳優が、ひとりの人として、ただそこにいる。

そして、からだとことばだけで、
時に巨大な、時に繊細なドラマ・感情を立ち上がらせていくこと。

14,5年前に、能楽師、関根祥人さんの舞台を観て、
その凝縮された形式を通しての圧倒的な人間の息吹と情念に、
からだの芯までしびれてしまった経験。

その時の芸術体験にわたしはインスパイアされています。

明日から再び、七人の方々と共に、
そんな舞台を創りだすための切磋琢磨が始まります。

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2008年02月23日

どんどん力がついてきた!

先月の末、そして今日と、2ヶ月連続で、
京都府の京田辺市で言語造形を学んでくださっている
「森のしずく」のメンバーによる発表会が行われました。

先月は、Nさんの童話「雪娘」とTさんの落語「黄金餅」。

今日は、Mさんのメルヘン「ホールおばさん」と、Jさんのメルヘン「白雪姫」。

普段、講師を勤めさせてもらっているわたしが聴いていて、
なんだか涙が出てくるような4人の方の語りでした。

皆さん、持てる力のすべてを使って、舞台に立ってくださっている。
輝いている!

稽古を積み重ねてきた分、それぞれの方のお人柄の味わいが際立つのはもちろん、
お話がお話として本当に魅力的に響いてくるんです。

皆さん、学び続けてくださって、本当に本当に感謝です。

来月3月は、20日(木・祝)に兵庫県姫路で、
22日(土)には大阪市天王寺区で、
劇団「ことばの家」による語り芝居公演「藪の中」が、

また27日(木)に再び京田辺市内で、
29日(土)には、大阪府箕面市で、
4月13日(日)、5月11日(日)には、大阪市内で、
聴き応えのある発表会・お話し会があります。

(また追々、ミクシーでもお知らせしますので、ご関心のおありになる方は、どうぞ!)

大阪、京都、奈良を中心に、
言語造形を通してことばに取り組む方々がどんどん力をつけてこられ、
必ずしも世間の表舞台にはまだ出てきてはいませんが、
充実した舞台を創り出しています。


ことばを話す・語る・演じるということは芸術になりえるんだ。
ひとりでも多くの大人が、もう一度日本語に取り組むことで、
「芸術としてのことば」をここ日本でも育てていこうよ!

そんな認識を日本においても関西においても定着させたいと、
7年間仕事をさせてもらってきました。

言語造形ということばの芸術の裾野が広がっていくこと。
そして力のある舞台がどんどん創られていくこと。

これからも仕事を続けていきたいです。

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2008年02月05日

みずからのこころをみずからで見る

先日、子どもとのかかわりの中で、
「見る」ことの意味深さについて感じたことを書きました。

あの後も、あれこれ考えることを置いておいて、
見てあげれば見てあげるほど、
子どもが喜びと安心に満たされていくのが、よく分かりました。

勿論、一日中、見ているわけにはいかないのですけれども。

大人は、自分がどんなまなざしを人に注いでいるのか、
そこにいる人にちゃんと目を注いでいるか、
自分がどんな表情で、いま、ここに、いるのか、
それらのことに、少し自覚的であっていいなと思います。

それは、単に表面的な立ち居振る舞いにとどまらず、
人間の内なるこころのありようを写していますよね。

だから、そのことに自覚的になるということは、
己で己のこころのありようを見る・観察するということだと思うのです。


俳優・語り手という職業は、そのことをまさに意識的にする仕事です。

「みずからのこころをみずからで見る」という内なる意識の培いを通して、
外なる立ち居振る舞いを洗練された、より自由なもの、より真実なものにしていきます。

また同時に、外なる立ち居振る舞いの稽古を何度も繰り返すことを通して、
内なる意識を育んでいく。

「見る」ことという、日常の生活から、
わたしたちは、芸術創造へのおおいなるヒントをいただけます。

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2008年01月28日

言語造形することにおいて 断想(5)

絵筆を持ってカンヴァスに向かい、作品を仕上げていくこと、
楽器を手に取り、楽曲を奏でること、
それらが芸術であるのと、全く同等に、
「人がことばを話すこと」、
そのことも確かな芸術になりうる。

ことばを話すということが、本来全く創造的な芸術行為であることを、
意識に引き上げる。
それが、わたしたちの仕事である。

「ことば」という客があって、初めて人は話すことができる。

同時に、「人」という主がいて初めて、ことばは話される。

「ことば」と「人」は、客と主、不即不離、表裏一体の関係である。

だからこそ、「ことばのつくり・なりたち」と「人のつくり・なりたち」を徹底的に学び、
それぞれがそれぞれに適うあり方を知っていくことこそが、
修業の道筋そのものである。

シュタイナーの『自由の哲学』『テオゾフィー』『普遍人間学』『いかにして高い世の知にいたるか』『神秘学概論』などの著作に通底するテーマは、
その「人のつくり」に適った生を生きよ、ということである。

言語造形を通して、抽象的にではなく、実践的に、その学びを進めていきたい。

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2007年12月26日

言語造形することにおいて 断想(4)

海面の波が目には見えない風によって動かされているように、
このからだは、目には見えないこころと精神によって形造られ、なりたたされ、動かされている。
神は、本来、人のからだというものを、精神から芸術的に、創られたのではないだろうか。

そして、人は、みずからのからだを通して、
精神からの造形、こころからの造形を、意識的に、世界に印そうとする。
人は、世界を、芸術的に、造形しうるのではないだろうか。

この、神からいただいている造形の力を、
そのまま、できるかぎり、何も付け加えず、何も損ねず、
人は、意識的に、世界に印すことができるだろうか。

言語造形することにおいて、わたしは、そのことを目指しているように思う。

しかし、造形がからだを通して意識的になされようとするとき、
その意識ゆえに、そのこころのありようゆえに、
造形がふさわしいものにならなくて、臍を噛む想いをすることが、
何度あることだろう。

この意識のありよう、こころのありようと、からだの構えとをどう調和させていくか。

そのとき、呼吸というものが、大きな鍵を握っている。

大きな息の流れに乗って、
助走から駆け足で走り抜けていく。
そのようにして、ことばを話すごとに、息を使い切る。

毎日のくりかえしの練習の中で、
この基本を自分のものにすることで、
からだとこころの重なり具合に調和が生まれ、
その調和そのものが、精神を入れる器となる。

わたしの人となりが、空(から)の器となる。

そうした器をつくるには、とにかくも、声を発しつつ、聴き取ることを、
毎日、倦まず弛まずくりかえす。

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2007年12月23日

言語造形することにおいて 断想(3)

これまで、言語造形というと、
人が、言語を造形するのだと、思っていた。

しかし、そのことに徐々に通じていくと、

言語が、言語を造形するのであり、
言語が、人を造形するのだと気づいてきた。

人は、この世に生まれて二年ごろから、ことばを話しだし、
年齢を重ねるにつれて、言語(の精神)によって、造形されていく。
言語の似姿へと造形されていく。
人間へとなっていく。

そして、人は、「まこと」を語る人へと、言語そのものによって、造形されていく。

言語造形をすることを通して、人は、そのプロセスを実践的に辿っていく。



ことばは人を造形する。

     はじめにことばありき、ことば神のところにありき、ことば、ひとつの神なりき、
     こうごうしかりき
     ことば、はじめに神のところにありき
     すべてはことばによりてなれり、ことばによらずなれるは、なれるかぎりいささかもなし
                                  (ヨハネ福音書 第一章より)

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2007年12月21日

言語造形することにおいて 断想(2)

言語造形の稽古において、まず目標としていいのは、
「からだを育むこと」、体育である。

身に使われるのではなく、身を使う。

静かに、しかし強烈に観客を惹き付ける語り、
それは、語り手の内部がいきいきと動き、遊ぶことにより、初めて可能となる。

外なるからだの動きとしては目には見えないが、
内なるからだの動きとして、まずは常に歩き、走っている。

その身軽さ・アクティビティーが必要である。

そして、腰をかなめとしてからだを自在に使えるよう意識する。
語ろうとすると、肩や首、胸にまで余計な力が入りがちだ。
腰をかなめにすることで、もしくは足と大地がしっかりと、かつ柔軟に噛み合うことで、
上半身がもっと自由になるはずである。

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2007年12月18日

言語造形することにおいて 断想(1)

ことばは語られるとき、ともすると、旋律に誘惑されてしまいがちになる。
ことばの一音一音の粒だちをしっかりと捉え、造形していくことで、
旋律をことばみずからがつくりだしていくよう、練習すべきである。

過ぎ去ることを予期して音を迎える。
迎えるとき、それを離すまいとして固執してしまいがちであるが、
常にそれは、去り行くもの、送り出すものとして、音を迎えるのだ。

ことばも、あらゆる事物も、そして人も、そのように、迎え、響かせ、送るのだ。

ことばの実相に近づいていくこと、
それは普遍人間学に近づき、親しむことでもある。

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2007年12月17日

岐阜でのおはなし会

この一年にたまった疲れからだろうか、今、身体がぼろぼろである。

でも、そんな今だからこそ、身体の具合に左右されずに生きていけるかが
試されているような気がする。

身体を超え、自分のこころを超え、よりおおいなるこころ、おおいなるわたしがある。

そのおおいなるわたしこそが、すべてを治癒するのだと信頼できるか。
精神が、生活の主導権を握ることができるのかどうかが試されているような気がする。


おととい、昨日と、岐阜で昔ばなしの会と言語造形のワークショップを行ってきた。

昔ばなしの会では、「星の銀貨」「笠地蔵」「子守どろぼう」を語らせてもらった。

語るということ、また、お話しというものには、深みがあって、
何年、演っていても、これで充分、という気持ちに本当になれない。

しかしそれらのお話しを深く、真摯に受け止めて下さった方々がいて、
そのことをわたしに伝えてくれた。

「人のこころの素直さ、純一さ」という三つのお話に通底するテーマに、
しみじみと感じ入ったと伝えてくださった。ありがとうございます。

お話しを語っていて、そのように深みをもって受け止めて下さることは、本当にありがたく、
これからもこのお話を語る修行を続けていく勇気をいただける。

聴き手の豊かさ・深さ・広やかさに本当に感謝だ。

「こころの素直さ、純一さ」を「まごころ」といってもいいと思う。

「まごころ」で生きる人にどんな出来事が起こるのか。
「人のまごころは、どのようなものごとを引き寄せるのか」。

お話しに通底するそのテーマは、人間というものの普遍的な法則を素朴に語っている。

「まごころ」を「まごころ」として自覚してはいないが、
「まごころ」の中にすでに生きている人の姿に、
わたしたちはしみじみと人生の本当を感じ入る。

またしみじみと感じ入ってきたからこそ、
人は昔からこれらのお話しを長い時間を通して語り継いできたのだろう。

その意識されざる「まごころ」というものが、
昔も今も、個人的なこころを超えたところにある。

わたしも、繰り返し繰り返し、これらのお話を語っていくことを通して、
この「意識されざるまごころ」に、意識を持って入っていきたい。

そしてその「まごころ」こそが、すべてを癒すのだ。

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2007年07月28日

やってみてみ!

言語造形のレッスンのとき、時々、
「頭で考えないでくださいね〜!」
と生徒の皆さんに言うことがあります。

ことばを話す練習のとき、
どうしても「ああすればいいんだろうか?こうすればいいんだろうか?」と
頭で考えてしまうことがあります。

「充分、理解した上でないと行動に移せない」
そんなふうに考えられる習慣があるのかもしれません。

もちろん頭の部分で、講師のアドバイスを受け取るんですけれども、
コツは、
そのあと頭で考えすぎないこと。
すぐ、やってみること。

ピアノだって、他の楽器だって、自転車だって、
それとよく似たことが言えるんじゃないでしょうか。

間違ったっていいんです。
転んだっていいんです。
まずは、指を動かしてみること。
まずは、乗ってペダルをこいでみること。
まずは、からだまるごとを使って、声を発してみること。
頭で考えるのではなく、
繰り返し繰り返し、からだを使ってやってみること。

前もってあれこれ考えるのではなく、
やっている中で、
「ああ、そうか!  ああ、こうすればいいんだ!」
という発見を重ねていくんです。

ことばは、頭の部分から発せられるので、
つい、ことばは頭で話すものだという無意識の思い込みがあるのかもしれません。

しかし、ことばは、からだ全体で発せられるものです。
口だけではなく、胸で、腹で、腰で、脚で、
語られるものです。

ですから、頭だけで考えていて、からだを使って声を出していかなければ、
埒があかないわけです。

まずは、どんどん、恐れを捨てて、やってみること。
言語造形に限らず、芸術はそんなことを後押ししてくれます。


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2007年06月19日

俳優芸術の存在意義

この6月から、舞台に立つ俳優を養成していくことを目標にしたクラスを始めました。

まずは第1期として、芥川龍之介作「藪の中」を語り芝居に仕上げていくことに取り組んでいます。

言語造形に基づいた俳優養成学校の雛形だと考えています。


この肉体をひとつの楽器として、ことばを奏でること。
そのことを通して、人が生きることの、表面的なコピーではなく、
深みや神秘までをも表現していくこと。
俳優とは、それらを意識的にしていく人であり、
人誰しもが俳優になりえる。

そんなシュタイナーのことばに喚起されて、
このクラスを始めています。


この人間の肉体というものは、肉体それだけで存在しているのではなく、
こころ、精神という目には見えないものに浸されています。

ですから、この肉体を使って何かを表現していくために、
実際に声を出し、からだを動かすという稽古を重ねていくだけでなく、
俳優自身の内的な意識の育成を視野に入れていくことがどうしても必要です。

できうる限り様々なものごとに関心を持つこと。
まわりをより繊細に感じること。
ひとつひとつのものごとに新しい驚きを発見すること。
内側の情を豊かに育むこと。
動きという動きにこころを注ぐこと。

そんな練習を積み重ねることによって、
深みを観るこころの姿勢を培っていくことができます。
そのように、内なるこころの道を辿っていく。


そして、あらゆるこころ・情の動きに対して繊細に反応し適応し、
その深みをテキストに沿って、時に力強く、時に繊細に表現できるからだづくり。


このふたつの軸を意識しながら、それらを、稽古の上で、舞台の上で統合していきたい。


そのような言語造形による俳優芸術の道筋をつけていきたいと考えています。


具体的なインフォメーションは、どうぞホームページのトップをご覧下さい。
http://www.kotobanoie.net/



posted by koji at 22:57 | 大阪 ☁ | Comment(6) | TrackBack(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月12日

かたくなさを解き放つ

かたくなさを解き放つ。
言語造形のレッスンをさせてもらっていて、
まずそのことに取り組むことから始めるのだが、これが一朝一夕にはうまくいかない。
いや、自分自身でさえ、いまだにうまくいかない。

しかし、取り組むうちに、そのかたくなさがほぐれ出すときが来る。
その人その人の輝き、豊かさが次から次へと出てくるときが来る。

このひとりひとりの人の輝きを阻んでいる「かたくなさ」とは何だろう。
様々な名前でもって、その「かたくなさ」の原因を言い表すことができるだろうが、
とりわけ、「不安」「自己への不信」が大きな要因ではないだろうかと思い当たる。

自分が「不安」を抱えている、もしくは「自己への不信」に苛まれていることを、
みずからに認めることには、勇気がいる。
その「不安」「自己不信」のためにかたくなになってしまっていることを認めるには、
さらに勇気がいるのだ。

みずからの内のものをみずからで気づくこと、認めること、いい/悪いの判断を早急に下さずに受け取ること、そしてみずからを裁くのを止めること。

そこから、創造が始まる。
みずからを世に向けてクリエイトしていくことが始まる。

それら一連のプロセスは、人それぞれ様々なあり方を取るのだろう。
言語造形もまた、全心身をもって取り組むならば、そのプロセスを促してくれる。

レッスンの中で、ひとりひとりの方の語ることばに耳を傾けていると、
かたくなさがまだ感じられるのにもかかわらず、
その時にすでにそのかたくなさから解き放たれ、いきいきとしているその人の姿がおのずと見えてくる。

きっと、その人が行き着く先は、歩き始めたもうその時にある。
その行き着いた状態を、その人は可能性として一歩踏み出すその時にすでに胚胎している。

言い方を変えれば、人は本来すでに、輝いている。
その輝きは何かによって覆われ、隠されてしまっている。
その人のすることはその覆い隠しているものを脱ぎ去って、本来の姿を思い出すこと。
その思い出された輝きから、その人のその人にしかない語りが始まる。

その姿に近づくように、その状態を思い出してもらえるように、助言を与えるのが、
自分の仕事である。

その人の表情、その人のことば、その人の息づかい、すべてが生気を取り戻し、いきいきとしてくる。
その人にしかない豊かなものが表に顕れてくる。
その人の生命がことばの生命と織り成しあって、空間に響きだす。
そして、それに触れる他人までもが、その豊かさを享受できる。
その人がその人らしさを表に出すことができるほどに、自由になればなるほどに、
周りの人々に喜びと活力と勇気を与えることができる。

言語造形のクラスにおいて、そのことが展開されるたびごとに、
私はこの芸術、この仕事の意味を噛み締める。
ひとりひとりの人が輝きを放つことに向けて仕事をしているのだと、
そのたびごとに確かめている。

この12月に私は42歳になった。
本格的にこの「かたくなさ」を解き放っていくプロセスに入っていったのは、
28歳の時だったように思う。
シュタイナーを、アントロポゾフィーを、言語造形を知ったのは、
その時だった。
私の場合は、その時から「かたくなさそのもの」を心底経験する必要があったようだ。
しかし、その時すでに、
私はその「かたくなさ」から解き放たれた自分自身をどこか胸の奥でイメージしていたように思う。

そして、いま、その「かたくなさ」から自由になっていく私自身、
ひとりひとりの人と協力して、力をあわせて、
「人の輝き」を世に溢れ出させる仕事をしていく。

みなさん、2007年をいい年にしよう。


posted by koji at 17:27 | 大阪 ☁ | Comment(21) | TrackBack(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする