2011年10月20日

シュタイナー演劇塾(和歌山岩出) 始まってます

毎週土曜日の午前、
田んぼと畑に囲まれた農家を改築した一軒家をお借りして、
小学生、中学生から大人、それに赤ん坊や幼児まで14,5人集まり、
演劇を創っていく作業に入っています。

まずは、大人の方々が、どんどん自分の殻を脱いで、声を響かせ始めていること。
子どもたちは、その大人たちの姿にきっと何かを敏感に感じているでしょう。

わたしたち大人がまず、
まっすぐに大地の上に立ち、
人と向かい合い、
からだを動かし、
声を震わせ、
語りかけ、
語り合っていくこと。

そんな環境の中で、
子どもたちが、
まずは、
まっすぐに立ち、歩き、
声を朗々と響かせながら、
だんだんと育っていく。

「子ども時代」を守るために、
いまという時代においては、
意識的にそのような場を創っていくことがあってもいいのではないかと思うのです。

わたしたち大人は、自分の子どものためにだけでなく、
協力して互いの子どもたちを、
そして、子ども時代を、
見守っていきたいと希んでいます。


参加されている方のおひとりが、
ブログに塾の時間を振り返って書いてくださっています。
http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=273
http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=275

Gさん、どうもありがとうございます。

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2011年07月05日

昔話・メルヘンの人格

遠藤登志子さんという、
福島で昔語りをされていた方がいて、
その語りは『遠藤登志子の語り』(一声社)として出版されている。

昭和4年(1929)に福島県福島市吾妻町土船でお生れになった方だ。

その遠藤さんの「語り部人生」という文章に、
こんなことが書かれてある。

   昔話とは不思議なもので、
  代々懐に抱かれ暖められて次の世代に渡されるものですが、
  幾百千年人肌の暖かみに育てられて来たためか、
  一話一話に、
  命があり意志があるようなんです。
  私は話殿と言って居りますが、
  その話殿、それぞれ格があって面白いんです。
  紋付袴の話殿や、
  尻切半天の爺さま話、これが又飄々として結構なんですが・・・
  その話殿に守られて生きているような気がします。



ひとつひとつのお話し、昔話、メルヘンには、
それぞれひとつの人格があるように感じられる。

遠藤さんがおっしゃっている「話殿」だ。

人はみな、こころを持っている。
そのこころの中には、
いつも意志(欲する)と思考(考える)と感情(感じる)が働いているが、
お話しを語り続けているうちに、
お話しひとつひとつにもこころがあり、
思考と感情と意志があることを感じ始める。

ただ、そのと意志と思考と感情は、
それが本に印刷されたままでは、
眠っている状態であり、死んでいる状態である。

それらひとつひとつの昔話は、
人によって蘇らせてもらえるのを、
願い、希んでいる。

まず、お墓に入っているようなそれら「話殿」の意志は、
人に息を吹き込んでほしいと欲している。
人に、アクティブに、からだの奥から、息遣い豊かに、愛を持って、
声に出して語ってほしいと願っている。

内なる身ぶりと内なる歩行をもってことばを話すこと、
それはお話しの一文一文、一語一語に描かれてある動きを、
語り手自身が模倣して動くことなのだが、
その行為によって、
話に命がもたらされる。

言語造形は、そのことを実感させてくれる。

そして、「話殿」の思考は、
印刷されてあることによって、
また、人に表面的に付き合われることによって、
まだ、死んだ思考のままである。

つまり、
「これこれ、こういうお話しです」
「ああ、そういうお話しね」という情報だけが、
話し手から聞き手に伝えられはするが、
そこに絵姿はない。
あっても精彩に欠けたものである。

しかし、人の意志によって「話殿」の意志に火が点くと、
その死んでいた思考が活き活きと蘇ってくる。
活き活きとした絵姿、生きた思考をもって、
語り手と聴き手の間に動き始める。

死んだ思考が生きた思考に蘇る。

アクティブに一音一音の造形に取り組んでいくことで、
話の精神、ことばの精神が生きた思考、生きた絵姿として動き出す。

そのことも、言語造形によって実感される。

その、蘇った意志(母)と思考(父)の結び合い、結婚によって、
活き活きとした感情(子)が立ち上がってくる。

語り手が聴き手に押し付けがちな恣意的な感情ではなく、
「話殿」が本来持っている感情である。

人為的に、捏造された感情ではなく、
お話しそのものにそもそも宿っていた感情である。

だから、語り手は、
語るたびごとに、
生きものである「話殿」の意志と思考と感情に触れることになるので、
何回語っても、飽きることはない。

「話殿」
それは、間違いなく、こころと精神からなる存在である。

そのような存在と共に、
語り手として聴き手として毎日生きていると、
まずは目に見えないこころと精神の次元で、
そしておのずと目に見える次元においても、
自分が満たされていくのを実感していく。

遠藤さんも、こう書かれている。

   ・・・唯、友達が語れと言う、
  面白いから聞かせてと言われれば、
  思い出すままに喋って来て、
  珍しいものを見せて頂き、美味しいものをご馳走になったり、
  素敵な友人が沢山居て大事にしてもらって、なんて勿体ない話です。
  時々思うのですが、私、こんなに幸せで良いのか、どうも夢のようだ、
  覚めた時困るから、余り信用しないでおこう、と、ブスッとして居ます。
  ・・・金の外は此の世の幸は皆頂いて居ります。


ルードルフ・シュタイナーは、
『精神科学の光の下にみるメルヘン』という講演でこう語っている。

   メルヘンや伝説は、
  人が生まれたときに生きる歩みに備えて故郷から授けられる善き天使である。
  それは生きる歩みを通して、人にかいがいしく付き添う伴侶である。
  そして、それが人に付き添うことによって、
  生きることそのことがまこと、内的に活き活きとしたメルヘンになるのだ。

追記:遠藤登志子さんは、今、どのようにお過ごしでいらっしゃるのでしょうか。
    今、見た、「今回の震災(東北大震災)でお亡くなりになり身元が確認された方々の一覧表」に、
    「遠藤登志子 84歳 福島県南相馬市小高区井田川」とありました。
    別の方かも知れないのですが・・・・。
    遠藤さん、ありがとうございます。


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2011年06月22日

絵本の読み聞かせ

シュタイナー教育においては、絵本ではなく、語りで、
子どもたちに物語を伝えることの大切さが説かれています。

それは、決められた絵によって制限されることなく、
子どもがことばのみを受け取ることによって内側に絵姿を自由に繰り広げつつ、
言葉の世界、物語の世界にファンタジーを持って生きることの重要性を知っているからです。

しかし、その他多数の教育現場、もしくは家庭においては、
絵本を通しての生の声による読み聞かせが、
大人にとってやはりより近づきやすく、親しみやすいと言えるでしょう。

絵本は、絵そのものが、すでに、ことばを語っている芸術でもあります。
しかし、その絵に重ねて、愛を持ってことばがふさわしく発せられるならば、
その働きかけは子どもの内側に時間をかけて入り込んでいくでしょう。

また、読み手のふさわしい息遣いによって、
絵そのものは止まっているのにもかかわらず、
その絵が動きを持つかのように、輝きと色彩を発するかのように、
子どもに受け取られていきます。

絵本の読み聞かせ。
そこにも、子どもの内なる意欲と情の培い、ファンタジーの育みを促す機会を見いだすことができます。

絵本の読み聞かせについてのインタビュー記事です。↓
教育情報誌 『キッズレーダー』2011年7月号  特集 「絵本のチカラ」
http://www.nichinoken.co.jp/wing/magazine/2011/spe_kids1107.html


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2011年02月08日

園児たちとの時間

幼稚園や保育園で、
ライゲンと歌、詩、お話を通して、
子どもたちとの静かで、かつ活き活きとした息の深い時間を創っています。

四季それぞれに応じ、
日常の仕事の仕草から、
またメルヘンから、
明瞭でおおらかな身ぶりを通して、
身体を動かし、
詩を口ずさみ、
歌を歌い、
お話を聴き、
そのお話にあわせて再び動いたりします。

ライゲン、詩、歌、お話。

芸術をこころから大人が生きようとしますと、
子どもたちは見事にその動きに沿って動こうとします。

東京で活躍されている角口さかえさんの示唆なのですが、
http://tsunobue.jimdo.com/
歯が生え変わるまでの子どもは、
他者の動きを真似ようとするときに、
大人と違って、
考えを差し挟まない。
いちいち、右手を動かして、次は左手・・・などと考えずに、
感官を目一杯開いて、
そこにやってくる感覚からまっすぐに動きに入っていく。

なんとすごいことなのでしょうか。

そのような子どもの感覚を育むために、
大人は芸術的に動き、歌い、話す。

後になって子どもが他人から動かされるのではなく、
生涯に渡って、「わたし」から、
動き、ことばを話しつつ生きていくための基を築くことの大切さを想います。

この時期に感官を育むことで根を育てることで、
後に自分自身で考えることのできる力としての
その人ならではの花を咲かせることへと繋がって行きます。


昨日も、子どもたちとそんな時間を共に過ごしました。

春の目覚めをかすかに感じながら、
大地からだんだんと起きあがっていき、
うららかな日の光の下で遊び、
また日が落ちて行き、眠りに入る。

その詩と歌と動きの繰り返し。

また、グリムメルヘンの「おいしいお粥」。

そしてそのメルヘンに沿って動きながら再びお話を味わう。

確かで活き活きとしたことばの形と動き。

言語造形からできることをどんどんやっていきたいと思っています。

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2011年02月03日

ことばと行為の一致

先日、「シュタイナー教育からの文法の授業&言語造形体験講座」を、
奈良の学園前で開きました。

そこでの授業内容の大きな前提として述べたことを、
ここでもお伝えしたいと思います。

これは、ミヒャエル・グレックラーさんの『両親の問診時間』で述べられていたことです。

子どもに文法の授業であれ、何の授業であれ、
まず大きな前提としてあっていいのは、
それを語る大人自身が、
おのれの語ることばとしっかりと結びついていることです。

何かについて語り、何かについて考える。

しかし、わたしたち現代人はとかく、その何かの内にはいず、
その何かと結びついてはいない。

外からその何かについて考え、語る傾きがありますよね。

考えていること、言っていることと、
やっていることとが分かれてしまっている。

せめて、その分かれてしまっている事を自覚しながら考え、語ることができればいいのですが。

特に、子どもに対しては、
そのような習いとなってしまっている結びつきの緩いことばが、
徹底的に力がないことを、
わたしたちは実感し始めています。

まずは、すること。

次に、言うこと。

そして、言うならば、することが伴なっていること。

これが、0歳から7歳、いや、
本来ならば8歳、9歳のあたりまでの子どもに対してとても有効な働きかけです。

その頃までの子どもは、
周りの「すること」「行為」を真似る力がとてもとても強いのですから。

その人間としてのよりふさわしいありかたである、
ことばと行為との一致を、
大人が改めて学べる機会を、
言語造形は差し出しています。

子どもに向き合おうとしている教師の方、大人の方に、
今年はなんとか道を見いだして、
この言語造形を紹介していきたいと考えています。


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2010年10月11日

広島 昔がたりの講座と公演 ありがとうございました!

昨日、今日と、快晴の下、
瀬戸内の海を間近にするカフェ「Holistic Living Space Zion」での講座、公演が終わりました。

1年に1回伺わせていただいて、
皆さんと言語造形に取り組んでいるのですが、
今回、この1年に1回というペースのなかにおいてさえも、
毎回必ず参加される皆さんが確実に、
言語造形の言語造形たるところに少しずつ迫られていることをはっきりと感じました。

継続の力を感じました。

言語造形とは、
ことばの芸術であり、
それは芸術であるがゆえに
生活のありようと深みにおいて不可分に結びついている。

生活を丁寧に見直すこと、
そこから、ことばへの意識も育まれていく。

言語造形により、ことばへの意識を育んでいくこと、
そこから、生活を丁寧に見直すことへと意識がまた育まれていく。

そんなことをみんなで確認しあえた時間であったように思います。

わたし自身も公演をさせてもらって、
言語造形の大事な要素を思い出させてもらいました。
わたしにとって、大きな大きな気づきです。

皆さん、本当にありがとうございました。

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2010年10月05日

身を挺することができる人

北海道のミカエルカレッジでのワークショップ。

9月の末から5日間連続でした。

14人の方たちと毎朝4時間ずつ言語造形。

まず最初に皆さんにこんなことを伝えました。

「この5日間は、朝の時間だけでなく、一日のうちの他の時間も授業だと思ってください。
できる限り稽古してください。そして稽古したものを引っさげてこの授業に出てきてください」

こうしたことばをまるごと受け取るには、
きっと何らかのこころの状態・準備が必要になりますよね。

おひとりおひとり、様々な受け取り方をしてくださったと思います。

今回、何よりもわたしがこころ深く動かされたのは、
多くの方が一生懸命練習を重ねつつ、
授業に臨んでくださったことです。

そういった努力を重ねている人の姿は本当に美しい。

うまくできる人が美しいのではなくて、
純粋に何かに身を挺することができる人から発する光と熱が美しい。

そして、5日目の発表のときのその光、光、光がスパークする様に、
わたしは本当にうたれました。

参加してくださった皆さん、
皆さんのこころ意気は、
わたし自身のこころざしの方向性の確かさをはっきりと確認させてくれました。

ありがとう!



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2010年08月13日

星の銀貨

わたしは、このグリムメルヘンをいくたび語ってきただろう。

おそらく、何百回だろうか。

しかし、これまでに「ああ、これだっ」と感じられたことは一度もなかった。

様々な試行錯誤を繰り返しながら、
そのたびそのたびにチャレンジするのだが、
いつもこのメルヘンの底を流れているはずの感情の上を上滑りしている自分を発見させられてしまう。

今日、練習していて、
初めて、この感情の水底に足を立て、
流れる水を感じることができたように思ったので、
思わずこうした文章を書いてしまっている。

表現というものではない。

何かを付け加えたり、加工したり、工夫することではない。

ただ、ただ、音の響きにみずからを捧げるのだ。

そのとき、世そのものが、恩寵のように、
この物語が秘めていた感情としての意味をわたしに与えてくれる。

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2010年06月19日

言語造形による朗読

言語造形による朗読。

それは、ひとりの語り手が、
ことばの持つ一音一音の響き、
かたち、
そこに刻まれるリズム、
ことばとことばの間合い、
ことばに潜む身振り、
その他様々な要素を引き上げ奏でる言語芸術です。

そして、そのような要素と語り手の深い息遣いがあいまって、
ことばの響きから聴き手の内側に活き活きとした絵姿が描かれることが目指されます。

ことばをニュートラルに発音し、表面的な整いや美しさを追求することよりもむしろ、
全身の動きを投入して、印刷されてある文字としてのことばを、
いかに空間に活き活きと人間らしく響かせられるか。
いかに生きものの如く立ち上がらせるか。

その時にこそ、
ことばとことばの間合いにおいて、
豊かな「もの」が立ち現れてきます!

その「もの」こそが、
人が生きていくための精神的な糧になりえます。

その「もの」を語るのが、
「ものがたり」です。

現代において朗読することの意味は、そこにこそあるのではないかと考えています。

言語造形という芸術は、朗読・演劇・朗唱にまたがりますが、
朗読ひとつとっても、
言語造形を通して、
日本人があらためて日本語ということばそのものに取り組んでいくためのひとつの方図を提供していくことができるのではと希っています。

ことば、それは、人とは切っても切れないものです。一生涯つきあうものです。
人はことばを生きています。人はことばによって生かされてもいます。

言語造形を通して、
そのように人を生かしていることばの力、魅力を再発見、再確認していくこと。

それは、きっと、人そのものの力、魅力の再発見、再確認であると実感しています。

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2010年05月31日

屋根のはと

澄み渡った空と木々の緑。

見上げれば、なんにもないけど、すべてがある。

こんなに綺麗だったっけ。

そんなふうにここ数日感じています。


おととい、昨日と舞台づいているのですが、
昨日はわたしのクラスで学んでいる花岡宗憲さんの舞台を奈良の王寺まで観に行きました。

花岡さんとピアノを弾く清水香織さんの二人のみの舞台。
「屋根のはと」というユニット名。

そして演目は、「原形論T 〜基礎練習」。

言語造形の稽古で毎日やっている基礎練習を素材にして、
ピアノの基礎練習と重ねるようにしながら、
その場の即興で40分の舞台を創り上げようとする。

あえいおう。

うおいえあ。

シュタイナーが作ったドイツ語の短い練習文。様々な身ぶり。

ピアノの音と共に、発せられる声と声以上のもの。

時に、どうにもこうにも、声が出せず、
黙り、動けなくなってしまう時間。


その舞台からわたしが受け取ったものは、
「ひとりの人がそこにいる」という手応えでした。

それは、掛け替えのない確かさでした。

舞台の上という、
制約と自由が本当に厳しい角度で交差する場で、
俳優があれほどまでに生身を晒して、
何かを問おうとする姿を、
もしかしてわたしはこれまで観たことがなかったかもしれないと感じています。

舞台の上に立てば、
その俳優の人となり、人間観、世界観のいかなるかが、
おのずと匂い出してくるのではないでしょうか。

俳優自身、その匂いに無自覚であらざるをえないことも、きっと多々あります。

しかし、昨日の舞台では、
現在進行形で舞台の上に立つひとりの俳優、ひとりの人としてのおのれを、
花岡さんみずからがじっとみていたように感じられて仕方がありませんでした。

おのれの匂いにひたすらに自覚的であろうとしていた。

舞台に立つひとなら(俳優だけでなく、きっと人前に出るすべての人なら)、
おのれの周りに立ち込める匂いに大なり小なり、
支えられ、励まされ、動かされることもあるでしょう。
また戸惑わされ、くさらされ、まごつかされることもあるでしょう。

昨日の舞台では、
その匂いを無視して先に進もうとは決してしていなかった。

その匂いをどこまでも敏く感じ、
その匂いに目覚めて向かい合っていた。

そのような、
ひとりの俳優が格闘する現場を目撃した。

観終わったあと、なぜか
ひとりの人と、
ことばを越えるような対話をした、
そんな気がした時間でした。

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2010年03月29日

3月28日 ことばの家の発表会を終えました


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昨日、言語造形の発表会を催しました。

語りでは、
西京子さんの「蜘蛛の糸」。
北川三代さんの「人形」。
上坂綾さんの「桜の樹の下には」。
塙狼星さんの「耳なし芳一」。

そして
佐野孝代さん、花岡宗憲さん、吉田史子さん、わたしによる
落語ドラマ「泣き塩」。

生の声による物語を聴くとは、いったいどういう行為か。
そのとき、その場には何が生じているのか。

わたしたちは人の声から生まれてくる静かさを求めています。

深い呼吸をもって明瞭に造形されたことばは常に、
静かさという人の精神の躍動を伴なっています。

耳には聞こえない、
しかしこころをもってはっきりと感覚される静かさの内にある精神の躍動です。

それは個々人のこころの成熟具合によっては、
現代における福音になります。

そして今という時代には、多くの人がその福音を求めています。

芸術という芸術、
そして、ことばの芸術である言語造形は、
以前ならば宗教施設が担っていたような、
人のこころへ精神をもたらすという仕事を遂行していきます。


8年ほど前から様々な場所で発表会を開いてきたのですが、
昨日の発表会においては、
本当におひとりおひとりの語る力が見違えるほど充実してきていて、
始まってから終わりまで、
聴き手の集中力を弱めさせない時間、
物語とともに静かさを享受できる稀有な時間が生まれたように感じています。

語りの方々はそれぞれ一年間、ひとつの作品に取り組んでこられて、
その時間の中で育んできたものが、
おのずと立ち現れてきます。

その立ち現われをその場にいた多くの人と分かち合えたような実感を、
今、わたしはいただいているような気がしています。

これからも、このような場を創っていくために、
様々な工夫をしながら仕事をしていきたいと思っています。

昨日来て下さった皆さん、
発表会に挑んでくださった学び手の方々、
そしていつも場を見守ってくださっている存在の方々、
皆さんに本当に感謝を述べたいと思います。

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2010年03月14日

心臓から下

人はお話を聴くとき、どこで聴いているのでしょうか。

耳で?

そう、確かに、耳という感覚器官を通して、頭を通して、響きを集中的に受けとっています。

しかし、耳を含めた頭の領域は、外の世界からものごとを静かに受けとる窓口にすぎなくて、
本来的に人はからだまるごとで響きを受けとります。

心臓、肺のある胸の領域で、響きのリズムを感じながら聴こうとします。

消化器官、新陳代謝を担う器官、手足の領域で、
その響きは活動的か停滞気味か、
活き活きとしているか元気がないか、
そのような精神的な生命のありようを感じながら聴こうとします。

ところが、話し手が胸もときめかさず、手足も活き活きとさせずにいますと、
ことばの響きという響きが、聴き手の頭にまでしか届きません。

このとき、聴き手はとても疲れます。

わたしたち現代人はどれほど頭と頭だけでやりとりをしようとしているでしょうか。

特に子どもはこの聴き方が習慣付けられますと、
だんだんとことばに耳を傾けようとしなくなります。

ですから、人の心臓へと語りかけなければなりません。

心臓から下へと働きかけなければなりません。

そのために、話し手自身が、
自らの心臓、そして心臓から下の領域を働かせながら語りかけることを、
言語造形を通して学んでいくことができます。


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2009年12月29日

一年の収穫 企業研修

 2009年も終わろうとしている。

 この一年、わたしにとっての新しい試みは、中学受験のための大手進学塾での言語造形の研修であった。1月から12月までほぼ毎週新横浜まで通って、朝から夕方まで教師の方々とともに言語造形に取り組んだ。

 ひたすら稽古の積み重ねを通してのみ体得されるこの言語造形というものが、企業研修に対してはたしてどのようなアプローチをとることができるのか、始める前はいろいろと考えてもみたが、結局のところ、自分がいつもやっていることをいつも通りに徹底してやることが誰にとっても一番いいことをこの一年で確信できた。

 進学塾とはいえ、毎日小学生に接する教師の方の声、ことば、息遣い、立ち居振る舞い、意識が変わっていく事には小さくない意義があるように思う。

 企業という人の集まるところは勿論、そこ独自の文化や気風があり、この言語造形という全く新しいものに対する感覚は社員の方々にとってそれぞれであるだろう。しかし研修であるにも関わらず、積極的に毎回参加してくださる方も出てきて、それらの方々の授業が確実に変わってきたということを毎回の言語造形研修の中で確かめ合う事ができた。

 そのことに対する社員の方々の驚きと喜びを共に感じることができたのが、わたしにとってのこの一年の大きな大きな収穫であった。

 
 さあ、明日からは尾道、大三島への旅だ。朋友である空堀ことば塾の塙さんと尾道で落ち合い、その後大三島に渡って大山祇神社に奉納されてある源氏・平家ゆかりの甲冑などを観にいく。塙さんは一足先に中国地方への『平家物語』にまつわる巡礼(!)の旅に出られている。

 今年の締めくくりは瀬戸内の風を受けながら酒を酌み交わしつつ大いに語り合おう。


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2009年12月24日

ありがとうございました!『夕鶴』

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言語造形によるお芝居『夕鶴』と語り『絵姿女房』,に来て下さった皆さん、
本当にありがとうございました!
またたくさんの方々が年末の忙しい中にもかかわらず駆けつけてくださいました。

これまで8ヶ月、この『夕鶴』『絵姿女房』に取り組んできまして、
今、ここで、やることができることはやった、と感じています。

また、皆さんからの声を受けて、研鑽、また研鑽でやっていきますので、
2010年からも、どうぞよろしくお願いいたします!

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2009年12月15日

奈良教育大学にて『夕鶴』初演

 先日、奈良教育大学にて日本教育宇宙学会が主催するお祭りがあり、そこにドラマ「夕鶴」をもって参加させていただいた。

 その学会はこれまでわたしが抱いてた学会というもののイメージを随分と拡げたものだ。現代に生きる人が本当は何を求めて「教育ということ」「学ぶということ」に向かい合っていくのか、その本当の部分に目を向けてみれば、人はみずからの過ぎ去りゆく部分ではなく、決して過ぎ去ってゆきはしないみずからのみずからたるところに気づくはずだ。
 
 その「みずからのみずからたるところ」を宇宙と言っていいではないか。

 そんなこころざしを持った学会を立ち上げられたのは、奈良教育大学の岡本定男教授。とてつもなく熱い情熱を抱いておられる方だ。

 さて、そこで演じさせていただいた「夕鶴」初演。客席そして舞台袖からわたしは見守っていたのだが、この劇がひとつのリアルな夢の塊りとして舞台と客席を覆い包みこんでいたのを感じた。芸術の命である感情が劇から立ち上がってきたのをまざまざと感じることができた。

 その日に観てくださった方から早速ご感想をいただいたので、その方の許可を得てここに載せさせていただきます。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/135719559.html

 教育宇宙学会の方々、聴きに来て下さった方々に、こころから感謝です。ありがとうございます。これから、この劇が引き続き引き続き命を得ていくことができますように。

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2009年11月13日

今日の稽古 〜基点としての足〜

 今日は大阪府箕面市で言語造形の稽古。月1回のペースで、もう7年以上続いている。皆さんそれぞれ参加された時期は様々だが、クラスというのは不思議なもので、なぜか期を一にして各々物語を語る力が充実してきている。長い時間の中では、クラスの雰囲気と言おうか、勢いと言おうか、ある時期には停滞した雰囲気になったり、またある時期には今日のように充実したものになってきたりする。今年になって参加された新しい方も周りの皆さんに合わせるかのように毎月どんどん腕を上げていかれるのだ。

 まず、円になって時計回りに歩くことから始めた。足の裏側のどの部分に重心がかかっているか、歩くにつれてその重心がどう移りゆくか、そんなことを意識しながら歩き続けている内に、注意深い足運びにつれて、だんだんと息が深くなっていくのを感じ出す。
 足の運びと呼吸が深く連動していることに気づくことは、言語造形をするうえでとても大事な支えになる。そのことを感じながら「あえいおう」と母音を響かせてみる。いかに上半身の力を抜いて、かつ、己の両の足裏に動きつつある重心を感ずることができるか。それがあれば、大きな声を出さずとも、響きのいい、地に足の着いた語り口が生まれてくる。ことばの一音一音は空間の中を自由自在に動き、同時に基点としての両足は大地と密かに語り合っている。その両足と大地との親密な接触から、身ぶりが生まれ、ことばが生まれる。そしてふさわしいことばとことばの間(ま)が生まれる。

 わたし自身、生徒さんたちとのこの毎日の言語造形を通して、基礎の再発見をさせてもらっている。それは、稽古というものを通してのみ見えてくるもので、そのたびにこころを動かされる。

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2009年09月01日

今日の稽古 〜ことばと身ぶり〜

特に力まず、誇張したりもせず、
淡々と話しているにも関わらず、
深くて確かなこころの内実が、
話されることばから立ち現れてくることを、
今日の稽古で、また、実感した。

活きていることばには必ず、
活きた身ぶりが伴なわれている。もしくは、潜んでいる。

文章やことばや音韻ひとつひとつに応じて、
身ぶりはその都度様々になされる。

シュタイナーは、人間としての典型的なものとして、
六つの身ぶりを挙げてくれている。

または、文章の内側に、まるで感情の通奏低音のように特定の母音が鳴り響いていて、
その母音に応じての身ぶりがなされる。

そして、ひとつひとつのことば、ひとつひとつの音韻の響き、母音、子音に応じた身ぶりもなされえる。

それら、そのときそのときに相応しい身ぶりを、
まずは外的に、そしてだんだんと内的に繰り成していきつつ、
ことばを発声していくことを徹底的に身につける。

そんな稽古を繰り返していくうちに、
俳優によって吐かれる息の中にことばの響きが聴き取られるだけでなく、
確かで深い情が、人間の内的な身ぶりとしてリアリティーをもって感じ取られる。

舞台の上で、ことばを話す。
たったそれだけのことから、
様々な色合いをもったこころのリアリティーが
確かさとともに生まれてくる。

そのこころのリアリティーは、
俳優個人が持とうとするひとりよがりなものではなく、
ことばから、文章から、作品から、おのずと立ち上がってくるものだ。

ことばが、文章が、作品自体が、
こんな風に発声してほしい、こんな風に表現してほしい、と願っている。

その願いに耳を傾ければ傾けるほど、
そして、活き活きとした呼吸を通して相応しい身ぶりを繰りなしつつ、
ことばを発していくことを稽古していくほどに、
わたしたち自身が、
その願いをことばとして鳴り響かせることのできる楽器になっていく。

わたしたちが実現しているのは、
シュタイナーが言語造形と俳優芸術に関して語り、伝えようとしてくれたことの、
ほんの幾ばくかに過ぎないだろう。

しかし、その幾ばくにすぎないものからだけでも、
とても確かなリアリティーを受け取っている。

ことばとは、こうあっていいのではないか。
演劇とは、こうあっていいのではないか。
そんなリアリティーである。

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2009年08月22日

今日の稽古 〜汗を流すこと〜

汗を流すこと。

夏の暑さの中、今日も稽古で、皆、たっぷりと汗をかいた。

言語造形をしていくに当たって、
まず何よりも、身体を動かし、身を使い、腕と脚を使って、汗を流しながら、
ことばを話すことに取り組んでいくのだけれども、
そうしているうちに、もう、ことばを頭で考えなくてもいいくらい、
できるかぎりことばが胸と腹と脚まで降りてくるように、
繰り返し、繰り返し、稽古していく。

そんな稽古の果てに、
頭が空っぽになって、身体が自由に動くようになって、
初めてことばの精神が、リアリティーあることばが、身体に降りてきて、
豊かな息遣いとともにことばが発せられるんだ。

豊かな、生きた息遣いって、
どうしてこうも人をいきいきとさせるのだろう、と、
今日も稽古で実感させられた。

その息遣いも、
すべては身をアクティブに使っていくことから、初めて生まれる。

汗を流すことができる場があること、
それはことばの芸術に取り組んでいく者にとって、
とてもとても大切なことだ。

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2009年03月20日

メルヘン・昔話のかたち

メルヘンには、わたしたちが現世的な頭で考える以上の深い内容が、
できるかぎりのシンプルなことばの並び・文章で組み立てられています。

そのシンプルさによって、逆に、聴く人が、
物語の絵姿をこころの内に豊かにアクティブに描くことができます。

そして、人は、そこに語られていることがらの深さをどこか予感し、
郷愁を覚え、魅せられるのです。

そして、目に見て、黙読するための文章ではなく、
声に出して、語るための文章なので、
そのリズミカルなことばの運び、音の連なりは、
聴く人の生命をいきいきとさせます。

また、今は多くの人にはもう使われていないようなことば遣いも、
そのようなメルヘンには多く見られます。

メルヘン・昔話独特のことば遣いです。

しかし、それらのことば遣いが、人の知性に訴えるというよりかは、
より人の情と意欲に働きかけるということも、
端的に感じられるところです。


人が自分からアクティブに描く絵姿。
平凡なものではなく、非凡なものにこそ潜んでいる輝き。
リズミカルに、人の情と意欲に働きかけることばの運用。

それらが、メルヘンの言語造形を通して、
人の意識の奥底に、生きることへの深い励ましを贈ります。



明日もメルヘンを大阪にてお贈りしますが、
これからも、各地で、頻繁に、
メルヘン・昔話を聴いていただくことが出来るよう、やっていきますので、
皆さん、楽しみにしていてくださいね。

posted by koji at 20:31 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

自立したひとつの芸術

       
       人間の限られた力だけによってするのではなく、
       自らを、世の創造力のためのひとつの道具にすることができれば、
       はじめに意図していたものよりもはるかに多くのことが、
       事柄そのものから芽生え、繰り成していくようになります。 
                       (ルードルフ・シュタイナー)



これは、シュタイナーが、
オイリュトミーを創りだし、発展させていくことについて語っているときに出てきたことばですが、
(他のだれでもなく、この「わたし」が)
言語造形を創りだし、発展させていくことにおいても、
まったく当てはまることです。

わたしの限られた力だけによってするのではなく、
世と、宇宙と、つながりをもって、やっていく。
自らを世に働く創造の力のための道具にしていく。

それが、まさに、稽古することの意味だと感じています。

稽古を重ねるほどに自らが空(から)の器になっていく。
その空になったところにこそ、
世の創造力が、ことばの精神が、流れ込んでくる。
そして、空気の震えとなって、ことばが、外の世に響き出づる。

芸術とは、時と場を踏み台にしながらも、それらを越えて、世に作用し続けていくもの。
そのとき、ことばは、目には見えず、耳には聞こえないあり方で、
世に働きかけていく。


自らを空の器にするための言語造形における練習の素材には、
シュタイナーが用意した数十の文章、
そして日本語では「外郎売」(!)などがあり、
それらを毎日繰り返し繰り返し、立って動きつつ口にのせて稽古します。

音韻のひとつひとつの造形、
ことばとことばの連なりから立ち上がってくる情のありよう、
ことばの勢いと間(ま)のバランス、
それらにリアルタイムに沿いながら、練習していきます。

ことばの精神という世のおおもとにあるものが響き出づる。
そこに向かって、こころから励んで、そのような稽古を重ねていくことによって、
ことばを話すということが、
自立したひとつの芸術なんだということを、
自らの身を通して、強く人々に伝えて行きたい。

そんなことを、上のシュタイナーのことばから、喚び起こされました。


posted by koji at 00:10 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする