2010年08月13日

星の銀貨

わたしは、このグリムメルヘンをいくたび語ってきただろう。

おそらく、何百回だろうか。

しかし、これまでに「ああ、これだっ」と感じられたことは一度もなかった。

様々な試行錯誤を繰り返しながら、
そのたびそのたびにチャレンジするのだが、
いつもこのメルヘンの底を流れているはずの感情の上を上滑りしている自分を発見させられてしまう。

今日、練習していて、
初めて、この感情の水底に足を立て、
流れる水を感じることができたように思ったので、
思わずこうした文章を書いてしまっている。

表現というものではない。

何かを付け加えたり、加工したり、工夫することではない。

ただ、ただ、音の響きにみずからを捧げるのだ。

そのとき、世そのものが、恩寵のように、
この物語が秘めていた感情としての意味をわたしに与えてくれる。

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2010年06月19日

言語造形による朗読

言語造形による朗読。

それは、ひとりの語り手が、
ことばの持つ一音一音の響き、
かたち、
そこに刻まれるリズム、
ことばとことばの間合い、
ことばに潜む身振り、
その他様々な要素を引き上げ奏でる言語芸術です。

そして、そのような要素と語り手の深い息遣いがあいまって、
ことばの響きから聴き手の内側に活き活きとした絵姿が描かれることが目指されます。

ことばをニュートラルに発音し、表面的な整いや美しさを追求することよりもむしろ、
全身の動きを投入して、印刷されてある文字としてのことばを、
いかに空間に活き活きと人間らしく響かせられるか。
いかに生きものの如く立ち上がらせるか。

その時にこそ、
ことばとことばの間合いにおいて、
豊かな「もの」が立ち現れてきます!

その「もの」こそが、
人が生きていくための精神的な糧になりえます。

その「もの」を語るのが、
「ものがたり」です。

現代において朗読することの意味は、そこにこそあるのではないかと考えています。

言語造形という芸術は、朗読・演劇・朗唱にまたがりますが、
朗読ひとつとっても、
言語造形を通して、
日本人があらためて日本語ということばそのものに取り組んでいくためのひとつの方図を提供していくことができるのではと希っています。

ことば、それは、人とは切っても切れないものです。一生涯つきあうものです。
人はことばを生きています。人はことばによって生かされてもいます。

言語造形を通して、
そのように人を生かしていることばの力、魅力を再発見、再確認していくこと。

それは、きっと、人そのものの力、魅力の再発見、再確認であると実感しています。

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2010年05月31日

屋根のはと

澄み渡った空と木々の緑。

見上げれば、なんにもないけど、すべてがある。

こんなに綺麗だったっけ。

そんなふうにここ数日感じています。


おととい、昨日と舞台づいているのですが、
昨日はわたしのクラスで学んでいる花岡宗憲さんの舞台を奈良の王寺まで観に行きました。

花岡さんとピアノを弾く清水香織さんの二人のみの舞台。
「屋根のはと」というユニット名。

そして演目は、「原形論T 〜基礎練習」。

言語造形の稽古で毎日やっている基礎練習を素材にして、
ピアノの基礎練習と重ねるようにしながら、
その場の即興で40分の舞台を創り上げようとする。

あえいおう。

うおいえあ。

シュタイナーが作ったドイツ語の短い練習文。様々な身ぶり。

ピアノの音と共に、発せられる声と声以上のもの。

時に、どうにもこうにも、声が出せず、
黙り、動けなくなってしまう時間。


その舞台からわたしが受け取ったものは、
「ひとりの人がそこにいる」という手応えでした。

それは、掛け替えのない確かさでした。

舞台の上という、
制約と自由が本当に厳しい角度で交差する場で、
俳優があれほどまでに生身を晒して、
何かを問おうとする姿を、
もしかしてわたしはこれまで観たことがなかったかもしれないと感じています。

舞台の上に立てば、
その俳優の人となり、人間観、世界観のいかなるかが、
おのずと匂い出してくるのではないでしょうか。

俳優自身、その匂いに無自覚であらざるをえないことも、きっと多々あります。

しかし、昨日の舞台では、
現在進行形で舞台の上に立つひとりの俳優、ひとりの人としてのおのれを、
花岡さんみずからがじっとみていたように感じられて仕方がありませんでした。

おのれの匂いにひたすらに自覚的であろうとしていた。

舞台に立つひとなら(俳優だけでなく、きっと人前に出るすべての人なら)、
おのれの周りに立ち込める匂いに大なり小なり、
支えられ、励まされ、動かされることもあるでしょう。
また戸惑わされ、くさらされ、まごつかされることもあるでしょう。

昨日の舞台では、
その匂いを無視して先に進もうとは決してしていなかった。

その匂いをどこまでも敏く感じ、
その匂いに目覚めて向かい合っていた。

そのような、
ひとりの俳優が格闘する現場を目撃した。

観終わったあと、なぜか
ひとりの人と、
ことばを越えるような対話をした、
そんな気がした時間でした。

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2010年03月29日

3月28日 ことばの家の発表会を終えました


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昨日、言語造形の発表会を催しました。

語りでは、
西京子さんの「蜘蛛の糸」。
北川三代さんの「人形」。
上坂綾さんの「桜の樹の下には」。
塙狼星さんの「耳なし芳一」。

そして
佐野孝代さん、花岡宗憲さん、吉田史子さん、わたしによる
落語ドラマ「泣き塩」。

生の声による物語を聴くとは、いったいどういう行為か。
そのとき、その場には何が生じているのか。

わたしたちは人の声から生まれてくる静かさを求めています。

深い呼吸をもって明瞭に造形されたことばは常に、
静かさという人の精神の躍動を伴なっています。

耳には聞こえない、
しかしこころをもってはっきりと感覚される静かさの内にある精神の躍動です。

それは個々人のこころの成熟具合によっては、
現代における福音になります。

そして今という時代には、多くの人がその福音を求めています。

芸術という芸術、
そして、ことばの芸術である言語造形は、
以前ならば宗教施設が担っていたような、
人のこころへ精神をもたらすという仕事を遂行していきます。


8年ほど前から様々な場所で発表会を開いてきたのですが、
昨日の発表会においては、
本当におひとりおひとりの語る力が見違えるほど充実してきていて、
始まってから終わりまで、
聴き手の集中力を弱めさせない時間、
物語とともに静かさを享受できる稀有な時間が生まれたように感じています。

語りの方々はそれぞれ一年間、ひとつの作品に取り組んでこられて、
その時間の中で育んできたものが、
おのずと立ち現れてきます。

その立ち現われをその場にいた多くの人と分かち合えたような実感を、
今、わたしはいただいているような気がしています。

これからも、このような場を創っていくために、
様々な工夫をしながら仕事をしていきたいと思っています。

昨日来て下さった皆さん、
発表会に挑んでくださった学び手の方々、
そしていつも場を見守ってくださっている存在の方々、
皆さんに本当に感謝を述べたいと思います。

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2010年03月14日

心臓から下

人はお話を聴くとき、どこで聴いているのでしょうか。

耳で?

そう、確かに、耳という感覚器官を通して、頭を通して、響きを集中的に受けとっています。

しかし、耳を含めた頭の領域は、外の世界からものごとを静かに受けとる窓口にすぎなくて、
本来的に人はからだまるごとで響きを受けとります。

心臓、肺のある胸の領域で、響きのリズムを感じながら聴こうとします。

消化器官、新陳代謝を担う器官、手足の領域で、
その響きは活動的か停滞気味か、
活き活きとしているか元気がないか、
そのような精神的な生命のありようを感じながら聴こうとします。

ところが、話し手が胸もときめかさず、手足も活き活きとさせずにいますと、
ことばの響きという響きが、聴き手の頭にまでしか届きません。

このとき、聴き手はとても疲れます。

わたしたち現代人はどれほど頭と頭だけでやりとりをしようとしているでしょうか。

特に子どもはこの聴き方が習慣付けられますと、
だんだんとことばに耳を傾けようとしなくなります。

ですから、人の心臓へと語りかけなければなりません。

心臓から下へと働きかけなければなりません。

そのために、話し手自身が、
自らの心臓、そして心臓から下の領域を働かせながら語りかけることを、
言語造形を通して学んでいくことができます。


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2009年12月29日

一年の収穫 企業研修

 2009年も終わろうとしている。

 この一年、わたしにとっての新しい試みは、中学受験のための大手進学塾での言語造形の研修であった。1月から12月までほぼ毎週新横浜まで通って、朝から夕方まで教師の方々とともに言語造形に取り組んだ。

 ひたすら稽古の積み重ねを通してのみ体得されるこの言語造形というものが、企業研修に対してはたしてどのようなアプローチをとることができるのか、始める前はいろいろと考えてもみたが、結局のところ、自分がいつもやっていることをいつも通りに徹底してやることが誰にとっても一番いいことをこの一年で確信できた。

 進学塾とはいえ、毎日小学生に接する教師の方の声、ことば、息遣い、立ち居振る舞い、意識が変わっていく事には小さくない意義があるように思う。

 企業という人の集まるところは勿論、そこ独自の文化や気風があり、この言語造形という全く新しいものに対する感覚は社員の方々にとってそれぞれであるだろう。しかし研修であるにも関わらず、積極的に毎回参加してくださる方も出てきて、それらの方々の授業が確実に変わってきたということを毎回の言語造形研修の中で確かめ合う事ができた。

 そのことに対する社員の方々の驚きと喜びを共に感じることができたのが、わたしにとってのこの一年の大きな大きな収穫であった。

 
 さあ、明日からは尾道、大三島への旅だ。朋友である空堀ことば塾の塙さんと尾道で落ち合い、その後大三島に渡って大山祇神社に奉納されてある源氏・平家ゆかりの甲冑などを観にいく。塙さんは一足先に中国地方への『平家物語』にまつわる巡礼(!)の旅に出られている。

 今年の締めくくりは瀬戸内の風を受けながら酒を酌み交わしつつ大いに語り合おう。


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2009年12月24日

ありがとうございました!『夕鶴』

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言語造形によるお芝居『夕鶴』と語り『絵姿女房』,に来て下さった皆さん、
本当にありがとうございました!
またたくさんの方々が年末の忙しい中にもかかわらず駆けつけてくださいました。

これまで8ヶ月、この『夕鶴』『絵姿女房』に取り組んできまして、
今、ここで、やることができることはやった、と感じています。

また、皆さんからの声を受けて、研鑽、また研鑽でやっていきますので、
2010年からも、どうぞよろしくお願いいたします!

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2009年12月15日

奈良教育大学にて『夕鶴』初演

 先日、奈良教育大学にて日本教育宇宙学会が主催するお祭りがあり、そこにドラマ「夕鶴」をもって参加させていただいた。

 その学会はこれまでわたしが抱いてた学会というもののイメージを随分と拡げたものだ。現代に生きる人が本当は何を求めて「教育ということ」「学ぶということ」に向かい合っていくのか、その本当の部分に目を向けてみれば、人はみずからの過ぎ去りゆく部分ではなく、決して過ぎ去ってゆきはしないみずからのみずからたるところに気づくはずだ。
 
 その「みずからのみずからたるところ」を宇宙と言っていいではないか。

 そんなこころざしを持った学会を立ち上げられたのは、奈良教育大学の岡本定男教授。とてつもなく熱い情熱を抱いておられる方だ。

 さて、そこで演じさせていただいた「夕鶴」初演。客席そして舞台袖からわたしは見守っていたのだが、この劇がひとつのリアルな夢の塊りとして舞台と客席を覆い包みこんでいたのを感じた。芸術の命である感情が劇から立ち上がってきたのをまざまざと感じることができた。

 その日に観てくださった方から早速ご感想をいただいたので、その方の許可を得てここに載せさせていただきます。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/135719559.html

 教育宇宙学会の方々、聴きに来て下さった方々に、こころから感謝です。ありがとうございます。これから、この劇が引き続き引き続き命を得ていくことができますように。

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2009年11月13日

今日の稽古 〜基点としての足〜

 今日は大阪府箕面市で言語造形の稽古。月1回のペースで、もう7年以上続いている。皆さんそれぞれ参加された時期は様々だが、クラスというのは不思議なもので、なぜか期を一にして各々物語を語る力が充実してきている。長い時間の中では、クラスの雰囲気と言おうか、勢いと言おうか、ある時期には停滞した雰囲気になったり、またある時期には今日のように充実したものになってきたりする。今年になって参加された新しい方も周りの皆さんに合わせるかのように毎月どんどん腕を上げていかれるのだ。

 まず、円になって時計回りに歩くことから始めた。足の裏側のどの部分に重心がかかっているか、歩くにつれてその重心がどう移りゆくか、そんなことを意識しながら歩き続けている内に、注意深い足運びにつれて、だんだんと息が深くなっていくのを感じ出す。
 足の運びと呼吸が深く連動していることに気づくことは、言語造形をするうえでとても大事な支えになる。そのことを感じながら「あえいおう」と母音を響かせてみる。いかに上半身の力を抜いて、かつ、己の両の足裏に動きつつある重心を感ずることができるか。それがあれば、大きな声を出さずとも、響きのいい、地に足の着いた語り口が生まれてくる。ことばの一音一音は空間の中を自由自在に動き、同時に基点としての両足は大地と密かに語り合っている。その両足と大地との親密な接触から、身ぶりが生まれ、ことばが生まれる。そしてふさわしいことばとことばの間(ま)が生まれる。

 わたし自身、生徒さんたちとのこの毎日の言語造形を通して、基礎の再発見をさせてもらっている。それは、稽古というものを通してのみ見えてくるもので、そのたびにこころを動かされる。

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2009年09月01日

今日の稽古 〜ことばと身ぶり〜

特に力まず、誇張したりもせず、
淡々と話しているにも関わらず、
深くて確かなこころの内実が、
話されることばから立ち現れてくることを、
今日の稽古で、また、実感した。

活きていることばには必ず、
活きた身ぶりが伴なわれている。もしくは、潜んでいる。

文章やことばや音韻ひとつひとつに応じて、
身ぶりはその都度様々になされる。

シュタイナーは、人間としての典型的なものとして、
六つの身ぶりを挙げてくれている。

または、文章の内側に、まるで感情の通奏低音のように特定の母音が鳴り響いていて、
その母音に応じての身ぶりがなされる。

そして、ひとつひとつのことば、ひとつひとつの音韻の響き、母音、子音に応じた身ぶりもなされえる。

それら、そのときそのときに相応しい身ぶりを、
まずは外的に、そしてだんだんと内的に繰り成していきつつ、
ことばを発声していくことを徹底的に身につける。

そんな稽古を繰り返していくうちに、
俳優によって吐かれる息の中にことばの響きが聴き取られるだけでなく、
確かで深い情が、人間の内的な身ぶりとしてリアリティーをもって感じ取られる。

舞台の上で、ことばを話す。
たったそれだけのことから、
様々な色合いをもったこころのリアリティーが
確かさとともに生まれてくる。

そのこころのリアリティーは、
俳優個人が持とうとするひとりよがりなものではなく、
ことばから、文章から、作品から、おのずと立ち上がってくるものだ。

ことばが、文章が、作品自体が、
こんな風に発声してほしい、こんな風に表現してほしい、と願っている。

その願いに耳を傾ければ傾けるほど、
そして、活き活きとした呼吸を通して相応しい身ぶりを繰りなしつつ、
ことばを発していくことを稽古していくほどに、
わたしたち自身が、
その願いをことばとして鳴り響かせることのできる楽器になっていく。

わたしたちが実現しているのは、
シュタイナーが言語造形と俳優芸術に関して語り、伝えようとしてくれたことの、
ほんの幾ばくかに過ぎないだろう。

しかし、その幾ばくにすぎないものからだけでも、
とても確かなリアリティーを受け取っている。

ことばとは、こうあっていいのではないか。
演劇とは、こうあっていいのではないか。
そんなリアリティーである。

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2009年08月22日

今日の稽古 〜汗を流すこと〜

汗を流すこと。

夏の暑さの中、今日も稽古で、皆、たっぷりと汗をかいた。

言語造形をしていくに当たって、
まず何よりも、身体を動かし、身を使い、腕と脚を使って、汗を流しながら、
ことばを話すことに取り組んでいくのだけれども、
そうしているうちに、もう、ことばを頭で考えなくてもいいくらい、
できるかぎりことばが胸と腹と脚まで降りてくるように、
繰り返し、繰り返し、稽古していく。

そんな稽古の果てに、
頭が空っぽになって、身体が自由に動くようになって、
初めてことばの精神が、リアリティーあることばが、身体に降りてきて、
豊かな息遣いとともにことばが発せられるんだ。

豊かな、生きた息遣いって、
どうしてこうも人をいきいきとさせるのだろう、と、
今日も稽古で実感させられた。

その息遣いも、
すべては身をアクティブに使っていくことから、初めて生まれる。

汗を流すことができる場があること、
それはことばの芸術に取り組んでいく者にとって、
とてもとても大切なことだ。

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2009年03月20日

メルヘン・昔話のかたち

メルヘンには、わたしたちが現世的な頭で考える以上の深い内容が、
できるかぎりのシンプルなことばの並び・文章で組み立てられています。

そのシンプルさによって、逆に、聴く人が、
物語の絵姿をこころの内に豊かにアクティブに描くことができます。

そして、人は、そこに語られていることがらの深さをどこか予感し、
郷愁を覚え、魅せられるのです。

そして、目に見て、黙読するための文章ではなく、
声に出して、語るための文章なので、
そのリズミカルなことばの運び、音の連なりは、
聴く人の生命をいきいきとさせます。

また、今は多くの人にはもう使われていないようなことば遣いも、
そのようなメルヘンには多く見られます。

メルヘン・昔話独特のことば遣いです。

しかし、それらのことば遣いが、人の知性に訴えるというよりかは、
より人の情と意欲に働きかけるということも、
端的に感じられるところです。


人が自分からアクティブに描く絵姿。
平凡なものではなく、非凡なものにこそ潜んでいる輝き。
リズミカルに、人の情と意欲に働きかけることばの運用。

それらが、メルヘンの言語造形を通して、
人の意識の奥底に、生きることへの深い励ましを贈ります。



明日もメルヘンを大阪にてお贈りしますが、
これからも、各地で、頻繁に、
メルヘン・昔話を聴いていただくことが出来るよう、やっていきますので、
皆さん、楽しみにしていてくださいね。

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2009年03月07日

自立したひとつの芸術

       
       人間の限られた力だけによってするのではなく、
       自らを、世の創造力のためのひとつの道具にすることができれば、
       はじめに意図していたものよりもはるかに多くのことが、
       事柄そのものから芽生え、繰り成していくようになります。 
                       (ルードルフ・シュタイナー)



これは、シュタイナーが、
オイリュトミーを創りだし、発展させていくことについて語っているときに出てきたことばですが、
(他のだれでもなく、この「わたし」が)
言語造形を創りだし、発展させていくことにおいても、
まったく当てはまることです。

わたしの限られた力だけによってするのではなく、
世と、宇宙と、つながりをもって、やっていく。
自らを世に働く創造の力のための道具にしていく。

それが、まさに、稽古することの意味だと感じています。

稽古を重ねるほどに自らが空(から)の器になっていく。
その空になったところにこそ、
世の創造力が、ことばの精神が、流れ込んでくる。
そして、空気の震えとなって、ことばが、外の世に響き出づる。

芸術とは、時と場を踏み台にしながらも、それらを越えて、世に作用し続けていくもの。
そのとき、ことばは、目には見えず、耳には聞こえないあり方で、
世に働きかけていく。


自らを空の器にするための言語造形における練習の素材には、
シュタイナーが用意した数十の文章、
そして日本語では「外郎売」(!)などがあり、
それらを毎日繰り返し繰り返し、立って動きつつ口にのせて稽古します。

音韻のひとつひとつの造形、
ことばとことばの連なりから立ち上がってくる情のありよう、
ことばの勢いと間(ま)のバランス、
それらにリアルタイムに沿いながら、練習していきます。

ことばの精神という世のおおもとにあるものが響き出づる。
そこに向かって、こころから励んで、そのような稽古を重ねていくことによって、
ことばを話すということが、
自立したひとつの芸術なんだということを、
自らの身を通して、強く人々に伝えて行きたい。

そんなことを、上のシュタイナーのことばから、喚び起こされました。


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2009年01月30日

言語造形の稽古

稽古は稽古だけで充分であって、
稽古をして上手くなるとか、何かになるということではない。

稽古が稽古として自立すれば、
すなわち、わたしがわたしとして自立する。

これをして何になるのかとか、
どういう役に立つのか、などと考えているとき、
その人は、稽古というその行為を愛していない。
その行為からの見返りを要求している。

何かを要求している状態は、
いま己には何かが欠けているという認識にいるということだ。
行為の見返りを要求する段階を打ち棄てて、
行為をただ愛する。
ただ愛からのみ、行為する。

そのとき、わたしには何ひとつ欠けているところはなく、
わたしはそのままわたしであることで充満・充足している。

それ故、入門ということは、一期の境であると言える。

そう、毎日、本当に入門するかどうかを自らに問うて、
毎日新たに入門するのだ。

そして門に入ったなら、
ただひたすら稽古するのだ。

もし稽古することに疑いがあるのなら、
門に入ってはいけない。

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2008年09月21日

言語造形入門講座 第一回目終わりました!

本日、第一回目の入門講座を終えました。

来て下さった皆さん、本当にありがとうございます!

第一回目の今日は、まず、自らの呼吸と身体のありようを感じていただくことがテーマでした。

下半身(腰・脚・足)からの力をもらいつつ、
上半身(特に肩)の力を抜きながら声を発してみることに取り組みました。

そのとき同時に、
みずからの身体のセンターを臍下三寸のところに感じてみることによって、
そうしないときよりもはるかに呼吸が深く、しなやかになることを皆さんに感じていただけたようです。

あるいは、語ろうとするときに、
どうしても肩に力が入ってしまって、ことばがぎこちなくなる、
どうしても身体のセンターを感じられず、
ご自身の身体だけではない、こころの現在のありようにも思い至った方もいらっしゃいました。


今日取り組んでみた『白雪姫』『星の銀貨』などのメルヘンも、
そのように身体まるごとを使って、深い呼吸に乗せて語ってみることによって、
語りのうちに絵姿が立ち上がってくることを、
皆さんとともに体験できました。

その深い呼吸が、自分の本来のあり方に立ち戻らせてくれる・・・。
そんな気づきをおっしゃって下さった方もいらして、
わたし自身、あらためて、呼吸と意識の相関性に思いをいたすことができました。

自らのからだとこころのありように、今一度、目を向けてみる。

言語造形を通して、いかに語るかだけではない、自らのありようを知ってゆく、
そんな時間を皆さんと分かち合うことができました。

ありがとうございました!

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2008年03月31日

飾りをそぎ落とす

先日の「藪の中」の舞台、たくさんの方々に聴いていただけたこと、
本当に感謝です。

創ってみて、あらためて自分が何を求めているのかが、
より明瞭になってきました。

わたしが創っていきたい舞台は、
飾りがなくていい、いやむしろ、飾りをそぎ落としていくこと。

言語造形家・俳優が、ひとりの人として、ただそこにいる。

そして、からだとことばだけで、
時に巨大な、時に繊細なドラマ・感情を立ち上がらせていくこと。

14,5年前に、能楽師、関根祥人さんの舞台を観て、
その凝縮された形式を通しての圧倒的な人間の息吹と情念に、
からだの芯までしびれてしまった経験。

その時の芸術体験にわたしはインスパイアされています。

明日から再び、七人の方々と共に、
そんな舞台を創りだすための切磋琢磨が始まります。

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2008年02月23日

どんどん力がついてきた!

先月の末、そして今日と、2ヶ月連続で、
京都府の京田辺市で言語造形を学んでくださっている
「森のしずく」のメンバーによる発表会が行われました。

先月は、Nさんの童話「雪娘」とTさんの落語「黄金餅」。

今日は、Mさんのメルヘン「ホールおばさん」と、Jさんのメルヘン「白雪姫」。

普段、講師を勤めさせてもらっているわたしが聴いていて、
なんだか涙が出てくるような4人の方の語りでした。

皆さん、持てる力のすべてを使って、舞台に立ってくださっている。
輝いている!

稽古を積み重ねてきた分、それぞれの方のお人柄の味わいが際立つのはもちろん、
お話がお話として本当に魅力的に響いてくるんです。

皆さん、学び続けてくださって、本当に本当に感謝です。

来月3月は、20日(木・祝)に兵庫県姫路で、
22日(土)には大阪市天王寺区で、
劇団「ことばの家」による語り芝居公演「藪の中」が、

また27日(木)に再び京田辺市内で、
29日(土)には、大阪府箕面市で、
4月13日(日)、5月11日(日)には、大阪市内で、
聴き応えのある発表会・お話し会があります。

(また追々、ミクシーでもお知らせしますので、ご関心のおありになる方は、どうぞ!)

大阪、京都、奈良を中心に、
言語造形を通してことばに取り組む方々がどんどん力をつけてこられ、
必ずしも世間の表舞台にはまだ出てきてはいませんが、
充実した舞台を創り出しています。


ことばを話す・語る・演じるということは芸術になりえるんだ。
ひとりでも多くの大人が、もう一度日本語に取り組むことで、
「芸術としてのことば」をここ日本でも育てていこうよ!

そんな認識を日本においても関西においても定着させたいと、
7年間仕事をさせてもらってきました。

言語造形ということばの芸術の裾野が広がっていくこと。
そして力のある舞台がどんどん創られていくこと。

これからも仕事を続けていきたいです。

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2008年02月05日

みずからのこころをみずからで見る

先日、子どもとのかかわりの中で、
「見る」ことの意味深さについて感じたことを書きました。

あの後も、あれこれ考えることを置いておいて、
見てあげれば見てあげるほど、
子どもが喜びと安心に満たされていくのが、よく分かりました。

勿論、一日中、見ているわけにはいかないのですけれども。

大人は、自分がどんなまなざしを人に注いでいるのか、
そこにいる人にちゃんと目を注いでいるか、
自分がどんな表情で、いま、ここに、いるのか、
それらのことに、少し自覚的であっていいなと思います。

それは、単に表面的な立ち居振る舞いにとどまらず、
人間の内なるこころのありようを写していますよね。

だから、そのことに自覚的になるということは、
己で己のこころのありようを見る・観察するということだと思うのです。


俳優・語り手という職業は、そのことをまさに意識的にする仕事です。

「みずからのこころをみずからで見る」という内なる意識の培いを通して、
外なる立ち居振る舞いを洗練された、より自由なもの、より真実なものにしていきます。

また同時に、外なる立ち居振る舞いの稽古を何度も繰り返すことを通して、
内なる意識を育んでいく。

「見る」ことという、日常の生活から、
わたしたちは、芸術創造へのおおいなるヒントをいただけます。

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2008年01月28日

言語造形することにおいて 断想(5)

絵筆を持ってカンヴァスに向かい、作品を仕上げていくこと、
楽器を手に取り、楽曲を奏でること、
それらが芸術であるのと、全く同等に、
「人がことばを話すこと」、
そのことも確かな芸術になりうる。

ことばを話すということが、本来全く創造的な芸術行為であることを、
意識に引き上げる。
それが、わたしたちの仕事である。

「ことば」という客があって、初めて人は話すことができる。

同時に、「人」という主がいて初めて、ことばは話される。

「ことば」と「人」は、客と主、不即不離、表裏一体の関係である。

だからこそ、「ことばのつくり・なりたち」と「人のつくり・なりたち」を徹底的に学び、
それぞれがそれぞれに適うあり方を知っていくことこそが、
修業の道筋そのものである。

シュタイナーの『自由の哲学』『テオゾフィー』『普遍人間学』『いかにして高い世の知にいたるか』『神秘学概論』などの著作に通底するテーマは、
その「人のつくり」に適った生を生きよ、ということである。

言語造形を通して、抽象的にではなく、実践的に、その学びを進めていきたい。

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2007年12月26日

言語造形することにおいて 断想(4)

海面の波が目には見えない風によって動かされているように、
このからだは、目には見えないこころと精神によって形造られ、なりたたされ、動かされている。
神は、本来、人のからだというものを、精神から芸術的に、創られたのではないだろうか。

そして、人は、みずからのからだを通して、
精神からの造形、こころからの造形を、意識的に、世界に印そうとする。
人は、世界を、芸術的に、造形しうるのではないだろうか。

この、神からいただいている造形の力を、
そのまま、できるかぎり、何も付け加えず、何も損ねず、
人は、意識的に、世界に印すことができるだろうか。

言語造形することにおいて、わたしは、そのことを目指しているように思う。

しかし、造形がからだを通して意識的になされようとするとき、
その意識ゆえに、そのこころのありようゆえに、
造形がふさわしいものにならなくて、臍を噛む想いをすることが、
何度あることだろう。

この意識のありよう、こころのありようと、からだの構えとをどう調和させていくか。

そのとき、呼吸というものが、大きな鍵を握っている。

大きな息の流れに乗って、
助走から駆け足で走り抜けていく。
そのようにして、ことばを話すごとに、息を使い切る。

毎日のくりかえしの練習の中で、
この基本を自分のものにすることで、
からだとこころの重なり具合に調和が生まれ、
その調和そのものが、精神を入れる器となる。

わたしの人となりが、空(から)の器となる。

そうした器をつくるには、とにかくも、声を発しつつ、聴き取ることを、
毎日、倦まず弛まずくりかえす。

posted by koji at 23:17 | 大阪 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする