2019年10月08日

ことばの音韻は神である


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今日は、親子えんげき塾 ことばの泉の皆さんと言語造形。
 
ルドルフ・シュタイナー曰く、「ことばの音韻は神である」。
 
そのことを毎日毎日、確かめようと意識してゐます。
 
今日もまた、このシュタイナーのことばが真実であることを実感したのでした。
 
人のこころには、浮き沈みがあり、時に戸惑ひ、彷徨ひ、落ち込み、それゆゑ、自分で自分が分からなくなることもありますよね。
 
言語造形は、息遣ひをフルに繰りなしながら、ことばの音韻のひとつひとつに意を注いで行く作業にひたすらに取り組んでいきます。
 
ことばが空間に解き放たれて鳴り響く、そのとき、その音韻のひとつひとつが空間の中を動きゆくのを追い掛けて行くのです。
 
さうして、息の流れに伴つて、音韻から音韻へと造形と運動が繰りなされていく時、わたしたちはいつしか、己れのことを忘れてゐます。
 
ことばの音韻は、精神だからです。
 
精神に沿ふ時、人は己れのこころの外に出ることができます。
 
ことばの音韻にかたちを与へ、動きを生みなしていくとき、さらにことばは、リズム(長短)とタクト(強弱)とメロディー(高低)をも奏で始めます。
 
さうして、ことばは芸術として甦ります。
 
そのとき、人も、甦ります。
 

 

「古事記(ふることぶみ)の傳(つた)へ」と題して、今年の12月22日(日)、和歌の浦にて上演予定です。
 
我が国の古典『古事記』から、どのやうな音楽が聴こえて来るのでせうか。
 

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2019年09月18日

聴くときの身ぶり 京田辺言語造形クラス

 
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京田辺・言語造形クラス「森のしずく」は、毎月毎月欠かさず集まるメンバーの方々のお蔭で、もう始まつてから16年経ちます。
 
中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんがずつとお世話して下さつてゐます。
 
普段の暮らしの中で堆積した想ひを語りあひ、聴きあふ時間からいつもこのクラスが始まります。
 
聴き手は、己れのこころに浮かび来る共感と反感をうしろに措いておきながら、他者の声とことばをただただ聴く。この時間は、語り手にとってだけでなく、聴き手にとつても、とても大切な時間になつてゐます。
 
しかし、聴き手は、語られることばをそのやうに受容することは、実はとても難しく、度重ねての練習が要ります。
 
まさしく、聴くときの内的な身ぶりを聴き手自身で「みる」こと。
 
精神から他者の語ることばを聴くための身ぶりといふものが、だんだんと会得されてきます。
 
十二の感官の論で、「聴く感官」と対に位置してゐる「釣り合ひの感官」から、その身ぶりを学ぶことができます。
 
または、「ことばの感官」と対に位置してゐる「動きの感官」をもつても、学ぶことができます。
 
さうして、言語造形の稽古に入つて行き、昔話などをたつぷりと真髄から聴くことができるのです。
 
言語造形では、それらのことをからだとこころと精神をもつて学ぶことができます。
 
言語造形クラス「森のしずく」は、毎月第三水曜日午前9時45分から12時まで、京都府京田辺市中央公民館にて行つてゐます。
 
お問ひ合はせは、中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんまで、お願ひします。
電話 0774-64-2645
 
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2019年09月16日

幼な子が熱望してゐるもの

 
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幼い子どもたちは、何を熱望してゐるか。
 
数多くあるうち、最も熱望してゐるものは、大人です。
 
テレビやインターネットなどを通さない、活き活きとした大人といふ存在そのもの、実在そのものです。
 
嘘のない表現、活き活きとした息遣ひ、こころのこもつたことば遣ひ。
 
さういふものは、昔の日本においては、普段の日常生活でも、たつぷりと、ありました。ありありとありました。
 
いま、子どもたちは、日常において、さういふ、なまの大人の表現に出会へません。
 
だからこそ、教育の現場において、さういふ見識と技量をもつ大人が必要です。
 
何を教へるかも大切なことですが、それ以上に、どう教へるか、どう語りかけるか、といふ「いかに」といふ側面をわたしたち大人は学んでいく必要があります。
 
「ことばの家 諏訪」で、言語造形の学びをしていきませんか。
 
実践として、定期的に、子どもたちにお話しを語りかける場も設けていきます。
 
クラスの情報は、以下をどうぞご覧下さい。
https://kotobanoie.net/spra/
 
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2019年06月24日

ことば、精神


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今日も、幼な子たちと昔話を分かち合ふ。
 
幼な子たちは、ことばのかたちを求めてゐる。
 
ことばの音韻のもつ動きとすがたを、まるで大好物の食べ物を求めるやうに求めてゐる。
 
粗雑なことばの使ひ方から離れ、丁寧にひとつひとつの音韻が扱はれるとき、「あ」の開かれた響きや「い」の緊張をもたらす響きなどが、幼な子たちのからだをひそやかに織りなしていく。
 
ことばが、幼な子のからだを創り、小学生のこころを創る。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、精神だから。
 
精神が、0歳から7歳ごろまでの子どものからだを創り、7歳から14歳ごろまでの子どものこころを創る。
 
語り部とは、昔から、精神の伝道師だつた。
 
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一列目の男の子たちの頭がずらりとそろってゐるのが可愛らしいなあ・・・。

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男の子たち、一生懸命、お話しを聴いてゐる・・・。



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2019年06月15日

信頼と創造 〜言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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来春公演予定の言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』。
 
今日は、稽古の前にたつぷりと時間をかけて、ストレッチ&ムーブメント。
 
指導は、帯中日子天皇(仲哀天皇)を演じる、平木 大士さん。
 
かうして、他者と肌を触れ合ひ、押し合ひ、へし合ひする時間を重ねて行くことで、他者を感じ、自分自身を感じ、仲間との間に流れる信頼を醸造し、劇といふ芸術ならではの創造が始まること。
 
そして、なによりも、そこには、喜びが生まれること。
 
そんなことを平木さんは教へてくれます。
 
お陰様で、メンバーの間にも、互いに対する理解と信頼とが回を追ふごとに深まつて来ました!
 
そして、これから夏にかけて、たつぷり時間をかけて、本格的に言語造形劇に、ひとつひとつの役、ひとつひとつの身ぶり、ひとつひとつのことばの造形に取り組んでいきます。
 
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2019年06月12日

呼吸の交響曲


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和歌山でげんごぞうけいによる演劇に取り組んでゐるグループ「親子えんげき塾 ことばの泉」のメンバーの方が書いて下さった記事のご紹介。
 
演劇といふ芸術に取り組んでいく中で何が喜びかと言ふと、言ふ迄もないことかもしれませんが、「共に創つてゆく」といふことです。
 
しかも、普段は触れたこともない他人の手や肩や背中に触れて、摑んで、取つ組み合ひながら、創つてゆく。
 
腕や脚といふ箇所は、人体のなかで、とりわけ、宇宙と繋がる場所だからこそ、その箇所をたわわに使つて、他者といふ宇宙と繋がりつつ、交はりつつ、劇を創り上げて行くのです。
 
また、ことばの芸術であるがゆゑに、共演者と息を合はせること。
 
たとへ自分のセリフでない時でさへも、共演者が話してゐるその呼吸に合はせて無言でゐながら自分も呼吸をし、外側には見えなくても、共演者の声に注意深く耳を澄ましつつ、見えない身ぶりをしてゐますと、この記事にも書いて下さつてゐるやうに、汗だくになります。
 
演劇は、息遣ひによる耳には聴こえない合奏、もしくは交響曲とも言へるのです。
 
双子座は、ことばの芸術を感覚する感官を天で支へてゐる星の宮です。
 
その双子のやうに、大人になつた今、子どもの時のやうに互いの身体に触れ合ひながら芸術を通して汗を流す。
 
かういふ練習は、人を甦らせます。
 
そして、その人をますますその人にしていきます。
 
なぜなら、人は他者をリアルに迎へてこそ、己れといふものを感じ、知りゆくからです。
 
他者が、世が、人には必要です。
 

 
親子えんげき塾 ことばの泉の皆さん、どうもありがたう!
 

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2019年05月19日

走る! 〜『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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言語造形をもつて舞台に立つために、皆さん、走る、走る!
 
大地と己れのからだとのかかはり、一瞬天空に浮かび上がる身の感覚を、親しく、密やかに感じながら走ることで、ことば遣ひが俄然活き活きとしてきます。
 
また、それぞれの役が演じ始められる中で、戯曲を目で読んでゐるだけのときには気づかなかつたことが気づかれてゆく。
 
その、手と足が教へてくれる叡智は、わたしたちの小さな頭からは出て来やうがないものです。
 
来春公演予定の『 をとめ と つるぎ 』に向けて、一歩一歩、歩みを進めてゐます。

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2019年05月14日

『古事記の傳へ』〜令和元年冬至に向けての準備〜


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親子えんげき塾 ことばの泉は、今年、令和元年の暮れ、師走の月、冬至の日に、和歌の浦で『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題して、天の岩戸開きに至る日本の神話を演じます。
 
冬至の、最も太陽の力が弱まり、最も闇の力が強まるそのとき、天照大御神様が天の岩戸からお出ましになられ、陽の光の力が再び甦るのを、わたしたち日本人は毎年、毎冬、お祝ひしてゐました。
 
その冬至の日に向けて、わたしたちも準備を少しずつ始めてゐます。
 
日本人がこころから大切に守り続けてきた物語り。
 
それは、神話です。
 
それは、語り伝へられて来ただけでなく、演じられ、祭りを通して祝はれ続けて来たものです。
 
つまり、古事記の神話は、今年、この月、このとき、いま、起こつてゐることを言語化したものであります。
 
闇の極まる日の冬至の祭りは、そもそも、新嘗(にひなへ)の祭りでした。
 
一年の米作りの終結点として祝はれ、収穫に対して太陽の神、天照大御神に感謝を捧げる、日本人の暮らしの中でなくてはならない、とても重要なものでした。
 
神話といふ文学と、米作りを中心にした暮らしと、信仰が、ひとつになつて何百年も、いや、きつと何千年も営まれて来た国、それが日本です。
 
わたしたちは、いま、何に繋がらうとしてゐるのだらうか。
 
そんなことをこの『古事記の傳へ』を演じようとしてゐる、えんげき塾のメンバーたちはこころの中で感じ始め、考へ始めてゐます。
 
わたしもそんなメンバーの方々と共にこの令和元年を生きることができることが、なんだか晴れがましいのです。
 
昨日の稽古に、見学に来て下さつた村尾 初子 (Hatsuko Murao)さんが動画を撮つて下さいました。
 
https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305188046208315/?t=5

https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305187706208349/?t=7
 
初子さん、どうもありがたうございます。

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古さを慕ふ


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芸術において、自分自身を解放する、自分自身をみつめる、そのことの素晴らしさ、尊さ。
 
そして、つひには、芸術とは、「道」であることに気づくことの、妙なること。

そのことに、気づくことは、芸術が自己実現を促すことといふよりも、「道」そのものを尊び、存続させていくことに、人の務めがあることに気づくことでもあるでせう。

とりわけ、日本に於いて芸術とは、そもそも、すべて「道」です。

「道」とは、人がゆくところ、人が己れの足を動かせて歩くところです。
 
さう言へば、わたしがまだ若くて、随分精神的にも未熟だつた頃、フォルメン線描といふ、シュタイナー芸術のレッスンに出た時、わたしが、今から思えば非常に「つまらない」質問を先生にしたことを想ひ出します。
 
すると先生は、「づべこべ言はずに、手を動かせ」と厳しくわたしに言ひました。
 
まだ三十代前半の若い女の先生でしたが、なぜだか、すぐにわたしは羞恥心と共に、「これは、道なのだ」と直感しました。
 
わたしは、日本人のさういふ先生に教へてもらへたことを幸運に思ひます。
 
言語造形も、「道」です。
 
ことばの発声に取り組めば取り組むほど、ことばそのものの秘密、それを発声してゐる人の秘密、そのことばによつて描かれようとしてゐるものごとの秘密を、だんだんと明かすやうになる。
 
ことばとは、まさしく神から人だけに与へられてゐる「自然」です。

ことばは、己れの「自然」を、人によつて、解き明かされたがつてゐます。
 
人によつて、造形されたがつてゐます。
  
その「自然」の秘密を解き明かしていく「道」をしつかりと歩いて行くための稽古を毎日続けていくこと。
 
そして、その「道」を求める人にここにもひとつの「道」があることをお伝へすること。
 
それが、わたし自身にことよさしされてゐることだと改めて念ひます。




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2019年05月08日

『言語造形と演劇芸術のための学校』のお知らせ


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これは、言語造形に真摯に取り組んでみたいといふ人のための学校です。
 
語るといふ芸術。
演じるといふ芸術。
詠ふといふ芸術。
 
言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。
 
精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。
 
また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。
 
そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。

日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。
  
ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。

週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。
 
 

この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。
 
実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
 
 
●就学期間:
 
五年間
 
毎週平日4日間/年間45週
 
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み
 
 
 
●時間:
 
午後6時〜午後8時
 
 
 
●場所:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

 
●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji 
 

 
●授業料:
 
入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関わらず。合宿などの費用別途)
 
 
 
●授業内容:
 
言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他
 
 
 
●お申し込み:
 
履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添えて、
メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
後日、面接日をお知らせいたします。

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2019年04月29日

国語教育としての言語造形

 
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京都御所に北隣する母と子の森

 
これからの国語教育を考へたいのです。
 
手軽な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのでは、もう埒があかないはずです。
 
自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、ていねいに、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。
 
昔から我が国の人は、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を尽くして、ことばにする力に秀でてゐました。
 
善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふこと、それが昔から一貫してゐる我が国の国語教育です。
 
国語のその力は、おのづから、聴く人、読む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辞の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。
 
文章を書くためのそのやうな力は口からいずることばに、口からいずることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあうことでせう。
 
話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。
 
書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。
 
 
 
そして、国語教育にさらに言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。
 
前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて発声する、その行為はいつたい何を意味するのでせうか。
 
話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。
 
さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
 
言語の運用において、そのやうな芸術的感覚をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味なのです。
 
さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに尽きずに、音楽のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聴き手に感覚される。
 
詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。
 
言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
 
そして、ことばの精神、言霊といふものが、リアルなものとして、人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。
 
書かれたことばが、言語造形を通して活き活きとした話しことばとして甦り、やがて、その感覚から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。
 
そんな国語教育。
 
子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを実感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聴かせることです。
 
ここ数年、わたしも、『古事記』や『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、現代語訳することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に届くのだといふことを、確信するに至りました。
 
昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覚を通してそのやうな芸術的なことばを享受していく機会を、どんどん与へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
 
 
手軽に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
 
わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、古いことばを学ぶ労力を費やしてまで近寄るに値しないので、出来る限り易しいことばに変へて、学ぶ者の負担を軽減してやらうといふだけなら、ますます現代人は昔の人が考へてゐたこと、感じてゐたこと、欲してゐたことが分からなくなるでせう。
 
過去に学ばない人は、決して新しい創造をなしゆくことはできません。
 
やがてこの国は己れのアイデンティティーを失つていくでせう。
 
古典を古典として敬ふことを学ぶ。その学びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる国が、一貫した国史をもつてゐることを実感していきます。
 
さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が国ならではの精神を伝へていく。それはきつと他の国々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。
   



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2019年04月20日

ことばが甦るとき 〜明日の甦りの祭の日にちなんで〜


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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。
 
自分は、言語造形といふ仕事のために、ことばを素材にしてゐます。声にして発せられることばを素材にしてゐます。
 
ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考へられ分別から組み立てられることばで、それはさうであつてこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのやうなことば遣ひは人間の生活になくてはならないものです。
 
仕事の上で守るべきマニュアルに沿つて発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守つて、上の人の言ふことを聞いて、できるだけ失礼のないやうに、頑張つて、人は、一生懸命、ことばを話してゐます。
 
しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発してゐる人自身の生命がだんだんと涸渇してくるのです。
 
そのことばは実は死んだことばだからです。
 
生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでゐます。死んでゐるからこそ、人の思惑に沿つていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。
 
人の頭は死した部分で、別の言ひ方をすれば、もう完全に出来上がつてゐる部分なのです。頭骨で固く閉ぢられた部分なのです。
 
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであつても、死んでゐます。物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣ひ、それが頭から発せられることば遣ひです。しかし、それは、だんだんと人を死に促進します。
 
だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。死から生への甦りを乞ひ求めるがゆゑにです。それは、手足の動きから生まれることばです。手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。呼吸が活き活きとしてくると、おのづとことばを話す時の表情も豊かになります。
 
そんな風に表情豊かにことばを発してゐると、自分自身が生まれ変はつたやうな新鮮なこころもちに包まれてゐるのをそこはかとなく感じたりもします。
 
人は折をみて、そのやうなことばの発し方に触れることによつて、生きてゐることばの世界に入るのです。
 
言語造形の練習をする上でのまずもつての次第は、四の五の言はずに、そんな生きてゐることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。
 
そして、何年にもわたつてだんだんと練習を重ねていくにしたがつて、呼吸といふことの秘密に気づき始めます。
 
吸ふ息によつて、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢ひます。
 
そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢ひを引つさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによつて、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。
 
そのやうに、呼吸によつて天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになつて生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。
 
普段は、土と水だけになりがちなのを、ことばの甦りをもつて、人は、光と風をも合はせて生きるのです。
 
さうして、いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。
 
だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念ひをもたらします。
 
言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思ひます。
 
さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きつと、かう語つてゐます。(出典が何だつたのか思ひ出せず、すいません)
 
風と光が織りなす中での、そのやうなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなつた人や、天の使ひの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えてゐるのだ、と。
 
ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。
 
さういつた肉の眼や耳には捉へられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きつと、深い関係があつて、ただ、さういふことを机上で考へるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取つていく。感覚していく。
 
その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。
 
魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たやうな練習の繰り返しからおのづと生まれてくる無私へと歩いていく、そのことを言ふのかもしれません。
 

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2019年02月28日

マリー・シュタイナーによる序文C


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話されることば、それは、そもそも、芸術です。
 
ことばそのものの内に潜められてゐる法則があります。
 
取り組む素材や対象に潜んでゐるその法則を知ること。
 
そして、その法則に沿ふことができる技量を身につけて行くこと。
 
それが芸術行為であることは、どの芸術分野においても共通のことであります。
 
それには、練習が要ります。
 
練習こそが、法則の知をもたらし、技量の練磨を促します。
 
では、言語・ことばに、どのやうな法則があるのか。
 
それを知性で述べ伝へることはとても難しいものですが、マリー・シュタイナーが見事に、芸術的に、言ひ表してくれてゐます。
 
わたしなりに原文から意訳をし、順序も入れ替えますが、載せてみます。
 
少し長くなりますが、文意を味はつてくだされば、幸ひです。
 
 
―――――――
 
●ことばの癒す力、魔法の力を感覚できる日が、きつと、やつて来る。
 
それは、気高い仕事である。
 
呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなし。それらは、まこと、気高い仕事である。
 
そのまことは芸術の線に相応し、その線は意欲の向きとして途切れてもならず、動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
そもそも、言語は流れる動きであり、内なる音楽に担はれ、彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
ことばの線、それは動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
その芸術としての線が、人を突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイアされ、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
その線がこわばつてはならない。間(ま)においてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひを取りこむ。
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
―――――――
 
 
ことばによつて己れを表さうとするのではなく、ことばそのものが表さうとしてゐるものを表す。
 
ことばを、客として、迎える。
 
そんな道をマリー・シュタイナーは述べてゐます。
 
 

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2019年02月27日

幼な子の息遣ひに耳を澄ませながら


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幼い子どもたちは、神秘的なお話しの時には、静かさの中、全身を耳にして、深く深くこころの境にまで入つて行く。
 
そして、楽しいお話しの時には、もんどりうつ位の喜びの中で、お話しを味はふ。
 
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グリム童話の『おいしいお粥』、柳田国男再録の昔話『鷲の卵』、『桃太郎』、歌舞伎十八番から『ういらう売り』・・・。
 
今日も、子どもたちの息遣ひに耳を澄ませながら語らせてもらふことができた。
 
ことばが、空間に弾んで、飛んで、溶け去つて行つた。
 
保育園の先生方も自分自身の語り方にだんだんと言語造形を取り入れてくれてゐて、とても頼もしいことだ。
 
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2019年02月24日

マリー・シュタイナーによる序文B


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―――――――
 
●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
―――――――
 
人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。
 
自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。
 
「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。
 
言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。
 
その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。
 
さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。
 
頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。
 
それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。
 
その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。
 
さうしますと、人は、そもそもの自分自身に立ち返つてまいります。
 
麗(うるは)しいことではないですか。
 
 
 

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2019年02月22日

マリー・シュタイナーによる序文A


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―――――――
 
●人がみづからの己れを摑むまでの迷ひ道では、なほ人の源から遠く飛ばされようとも、ひとつの精神の絆、言語は、人にとどまつてある。
 
―――――――
 
 
わたしも、「みづからの己れを摑むまで」どれほど、迷ひに迷ひ、今から思ひますと、どれほど「人の源から遠く飛ばされ」てゐたことでせうか。
 
しかし、四十歳ごろにして、人は、己れを摑み始めます。
 
そのことは、孔子も「四十にして惑はず」と言つてをります。 
 
己れを摑むこと、そのとき、頼りになるのは、自分自身の話すことばの質です。
 
自分の話すことばを、練り直し始めます。
 
その年齢までは、自分を守り、囲んでくれてゐた「ことば」、わたしたちで言へば「日本語」があり、その言語が「一つの精神の絆」としてその人の人生に付き添つてくれてゐました。
 
ことばが、人を守つてくれてゐました。
 
しかし、四十歳を過ぎるころからは、人自身がことばをみづから己れのことばとして立てて行くことが、要求されるはずです。
 
ことばは、もう、人を守つてくれません。
 
人は、四十歳ごろから、社会の中でしつかりと自分自身を表現し、事物をしつかりと言ひ表すことができるやう、その精神の絆としてのことばをみづから練り直し始めるのです。
 
もし、この時期に、このことを逸しますと、いつまで経つても、自分の思つたことをそのまま口にすることで、人との關係性を壊し続けてしまつたり、逆に、思つてゐることがうまくことばにできなくて、これもまた人との關係性に支障が多々出て來ることになりかねません。
 
自分の話すことばが、ちゃんと自分の体重が乗つてゐるやうな、重みのあるものとなりゆくやう、自分自身を意識的に教育し始めていい時なのです。
 
また、自分自身が話したいことをそのまま話していい時期は過ぎ行き、聴き手である相手のこころを汲みとりつつ、ことばを選んで丁寧に話すといふことを学び始めていい時期なのです。
 
人は、ことばといふものがあればこそ、そのことばを通して、己れのこころをみづから教育していくことができます。
 
人といふものが、幾つになつても成長できる生き物なのは、「ことば」といふものを授かつてゐるからなのでせう。
 
 

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2019年02月21日

マリー・シュタイナーによる序文@


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『言語造形と演劇芸術』といふルドルフ・シュタイナーによる連続講演録があります。
 
その本の初版の序として、妻であり、仕事の上でのかけがへのないパートナーでもあつたマリー・シュタイナーが記してゐる「クリエイティブな言語」といふ文章の内容を少しご紹介したいと思ひます。(言語造形家 鈴木一博さん訳)
 
彼女は、ルドルフ・シュタイナーの最も近くにゐながら仕事を共にした人であり、言語造形といふことばの芸術をルドルフと共に産みだした人です。
 
―――――
 
言語に於いて人が人の神々しいところをつかむ。音韻がクリエイティブな力であり、人を人のみなもとに結び、人が精神への道をふたたび見いだすに任せる。音韻によつて人が動物の上に上がり、探りながらでみづからの<わたし>に立ちかへる。
 
―――――
 
言語とは、ことばとは、一体、何でせう。
 
印刷された文字のことではなく、音声として空気の中に響くとき、ことばは、そもそも、人を精神に繋ぐよりどころであります。
 
人がことばを話すとき、その人その人の声の響きに顕れるその人のこころと精神。
 
人は、そもそも、己れの精神からことばを発することができるといふこと。
 
人は、そもそも、ことばの精神に助けてもらふことで、初めて活き活きと話すことができるといふこと。
 
もし、声を発してことばを話すことを芸術的に学び始めたなら、人は予感するかもしれません。
 
これは、わたしが、これまでの人生とは全く違つて、どんどんクリエイティブになつて行く道だと。
 
勇気さへあれば、誰でも、この道を歩き始めることができるのだと。
 
言語は、神々しいものです。
 
音韻を追ひつつ、ことばを話すことを学んでいくことは、まさしく自分自身の源に繋がるといふことであり、自分がますます自分自身になつて行くといふことであり、動物的なこれまでのあり方から、ますます、人になりゆく道であるといふことです。

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2019年02月18日

言語造形を通して俳優術に迫る@

 
俳優にとつて、己れのからだは、その俳優によつて奏でられる楽器であるがゆゑに、わたしたちは、己れの「からだ」を親しく知つてゆくことを要します。
 
ピアノの奏者がピアノをよく知ることを要するやうにです。
 
どのやうな立ち方、歩き方をしてゐるのか、そのときに、足の裏のどの辺りに重心がかかりがちであり、膝をどう曲げてゐるのか、腕をどう動かしてゐるのか、等々、己れのからだを親しく観る必要があります。
 
そして、わたしたちは言語造形に勤しみながら、己れの声を己れみづからで聴くことができるやうになるまで、練習を重ねることを要します。
 
己れの発したことばが、どういふ形をもつて、どういふ動きをもつて、喉からすつかり放たれ、空気に響き渡つていくかを、感官をもつて、また感官を越えて、観ることができるやうに、練習されてしかるべきなのです。
 
昨日、『ことばの家 諏訪』で行つてゐます『普遍人間学の会』での言語造形の時間に、こんな話をさせてもらひました。
 
ーーーーーーーー 

ある役者がゐました。
 
彼は、見た目の姿も、声も、ほとんど役者には向いてゐませんでした。その彼が、演じる芸術について、かう述べてゐます。
 
「もしわたしが舞台にただ立つにまかせて立つてゐたとしたら、わたしは役者が務まらなかつたでせう。
 
からだは小さいし、猫背ですし、しわがれ声で、顔は不細工です。しかし、わたしはわたしなりにやつて来ました。
 
舞台でのわたしは、常に三人の人です。
 
一人は、小さく、猫背の、しわがれ声で、不細工な人です。
 
二人目は、猫背と、しわがれ声から全く抜け出してゐる人、まぎれなくイデ―であり、全く精神である人です。その人をわたしは常に前に迎えることになります。
 
そして、いよいよ三人目の人です。わたしは、さきの二人から抜け出し、三人目の人として、二人目の人と共に、一人目の、しわがれ声で、猫背の人をもとに演じます」
 
(ルドルフ・シュタイナー『演じるといふ芸術について』から)

 
 
ーーーーーーー
 

わたしたち、言語造形をする人は、この三つの分かちを、常に意識して舞台に立つことを修練していきます。
 
いつも格好よくあらうとする人、いつも美しくあらうとする人は、己れのからだについてなにひとつ諾ふことをしないゆゑに、己れのからだとの関わりの中で己れを知るといふことができません。
 
からだ、そして声、それは、わたしたちが己れみづからを知るためのたいせつなたいせつな元手なのです。
 
 
 

posted by koji at 21:34 | 大阪 | Comment(0) | ことばづくり(言語造形) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月15日

幼な子はわたしたちの先生

 
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赤ん坊や幼い子どもを前にするとき、わたしたちは微笑ましい思ひや、ときにあらたまつた思ひに一挙に包まれはしないでせうか。
 
そして、思はず微笑んだり、その子に話しかけたりしたくなります。
 
あの独特の感覚。
 
その感覚を意識的に大事に保ちながら、子どもに昔話を語りかけたり、絵本を読んで聴かせたりするとき、語り手のわたしたちは、逆に子どもたちから、「語る」といふ行為とはどういふ行為であるのかを学ばせてもらつてゐます。
 
そして、さらに、あらためて感じられることは、その時期の子どもたちの成長にとつて要となるものは、動きなんだといふことです。
 
子どもたちはお話や歌のことばが分かる、分からないよりも、そのことばに合はせて、内的にも外的にも、動くことができるかどうか。
 
動きのあることばが、子どもたちの傍にゐる大人たちによつて話されてゐるか。
 
それらのことが、ことのかなめなのです。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、動きに裏打ちされてゐてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。
 
ことばといふものを通して、この時期は、すべてのものが、生きてゐる、動いてゐる!
 
わたしも僕も、みんな生きてゐる、動いてゐる!
 
そして、ことばといふものも生きてゐる、動いてゐる!
 
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。
 
ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、大人のやうに静かにして聴いてゐるのではなく、動きの中でこそ、動きによつて生まれるバランス感覚の中でこそ、育まれます。

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もちろん、大人でさへも、何かに一心に耳を傾けてゐるときには、からだは動かさずとも、内側を動かしてゐます。
 
シュタイナーは、「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声してゐます。それは内なるオイリュトミーなのです」と語つてゐます。
 
その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。
 
しかし、子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。
 
外的に動くときは、できるだけ、調和のとれた動き、かたちある動き、かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すやうな動きに導いていくことができたら、素晴らしいですし(ライゲンやお話ごつこも工夫すると素晴らしいものになります)、羽目をはづした子どもたちの動きにも、「座りなさい、静かにしなさい」といふことばではなく、そのつどそのつど、芸術的に対応して、ことばの裏側にある動きを通して、子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。
 
幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育つた子は、小学校に入つてから、今度は自分から動きのあることばを使ふこと、話すことができるやうになつていきます。
 
言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。
 
さういつた、言語にとつて、人にとつて、いのちを湛えるありやうとはどのやうな語り方をすればいいのか、それを、幼な子たちは、大人であるわたしたちに教へてくれます。
 

 
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2019年02月13日

言葉の工夫

 
言霊(ことだま)とは、人がことばに触れて、こころが動かされるとき、誰もが当たり前に感覚してゐる、言語の精神の働きのことを言ひます。
 
ことばと、こころが接触する空間に、立ち上がり、拡がつて来る、あるかたち、動き、色彩、それら言霊の働きを丁寧に迎へ、聴き取り、見て取り、取り扱ふのが、わたしたち言語造形をする者です。
 
さて、小林秀雄の『本居宣長』は、何度、再読しても、そのたびに、こころが唸るやうな、ときに、晴々とするやうな、そのやうな手応えを感じさせてくれる日本文学の最高峰の書だとわたしは常々感じてゐます。
 
その第三十四章に、かうあります。
 

●「言霊」といふ古語は、生活の中に織り込まれた言葉だつたが、「言霊信仰」といふ現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのままに認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智恵だつたので、特に信仰と呼ぶやうなものではなかつた。(昭和五十二年発刊版 422頁)
 

「言霊信仰」などと言ひつつ、机上の精緻な学問体系を作り上げるのではなく、自分が発したことばが、いかに、他者に深刻に働きかけることがあるかといふことであつたり、他者が発したほんのちょつとのひとことで、己れのこころがいかに激しく揺さぶられてしまふか、といふ当たり前のことに、古代の人々は当たり前に気づいてゐた、といふことなのです。
 
言語造形といふ芸術を生み出したルドルフ・シュタイナーも、そのやうな、一音一音の精神的な性質、精神的な背景を説いてゐますが、ややもすれば、さういふ机上の理解だけで尽きてしまふ「空理」を振り回すことの馬鹿らしさを彼もきつと痛感してゐて、生き物としての言語の芸術的働きを見失ふことは決してありませんでした。
 

●天も海も山も、言葉の力で、少しも動ずる事はないが、これを眺める人の心は、僅かの言葉が作用しても動揺する。心動くものに、天も海も山も動くと見えるくらゐ当り前なことはない。(422頁)
 

山の動く日。それは、到底動くはずのなかつた、このこころが、ことばによつて、揺さぶられ、動かされてしまつたとき、目の前の山も動く日が、現にあるのです。その感覚を、通常の散文的理解と取り違へることは、古代人にも決してなかつたことでせう。
 

●天や海や山に、名を付けた時に、人々は、この「言辞(ことば)の道」を歩き出したのである。天や海や山にしてみても、自分達を神と呼ばれてみれば、人間の仲間入りをせざるを得ず、其処に開けた人間との交はりは、言葉の上の工夫次第で、望むだけ、恐しくも、尊くも、豊かにもなつただらう。(422頁)
 

言語造形とは、かうした「言葉の工夫」です。
 
工夫次第で、人は、ものごととの関係をいかやうにも深くしていくことができるのです。
 
 

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