[言語造形]の記事一覧

2012年11月13日

今日の言語造形 〜水がすーっと流れる〜 2012.11.13

稽古場で、稽古そのものがいのちを得ていく瞬間がある。

声を出している人と、
声に耳を傾けている人と、
空間とが、
共に動き出して、
各々の息遣いが噛み合ってくる瞬間だ。

普段、からだを使い、汗を流しながら自分ひとりで練習をしながら、
稽古場に入っていくと、
共に働きあうこういった場でそのような状態に入りやすい。

稽古場によく出入りする我が家の四歳の娘が昨日こんなことを言った。
「練習している人の声を聞いてるとね、からだのなかに、水がすーっと流れるの」

今日の稽古でも、
生徒さんの語りを聴いていて、
わたしのからだの中を「水がすーっと流れ」ていくのをまざまざと感じた。

それは、生徒さんが受け身でなく、課題に挑む準備を積極的にして、
その場に立っていたからだろう。

基本的に、
学びというものは、独学に尽きる。

理路整然とした理論や、整ったカリキュラムや、周りのよき環境などを求めているとき、
たいがい、人は、怠惰な精神しかもっていない。

何はなくとも、まずからだを動かして、汗を流そうとする人と人からは、
爽やかな精神の息吹きが生まれ、
笑顔が生まれる。

今日も、皆さん、ありがとう。



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2012年11月11日

今日の言語造形 〜娘たちへの恩恵〜 2012.11.11

今日は、月に二回の日曜言語造形クラス。

ここでは、バラエティーに富んだ作品を皆さんそれぞれ稽古している。
ある人は『奥の細道』を、ある人は日本昔話を、ある人はシェイクスピアを、ある人は落語を。

どの作品であれ、
一文一文、一節一節ことばを話すたびに、
呼吸を使い切ることによって、ことばにいのちが吹き込まれ、
活き活きとした見えない身ぶりまで生まれてくる。

何はさておき、息を使い切ること。
それが、ことばを芸術的に話すときの鉄則だ。

そうしていると、それが古典作品であろうと、シェイクスピアであろうと、
我が家の7歳と4歳の娘たちは稽古場までやってきて、
どんなに難しいことばでもじっと耳を傾けている。
勿論、昔話は彼女たちの大好物だし、
落語の魅力には一も二もなくまいっているよう。

稽古場が、実は我が家の子どもたちにとっての、最高のことばの教室になっている。

皆さん、ありがとう。
我が家の娘たちは、皆さんの声に育ててもらっています。

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2012年11月10日

今日の岩出演劇塾 〜風のすがた〜 2012.11.10

今日は、演劇というものが、そのおおもとにおいて、
人の息遣いから生まれてくるのだということ、
さらに、
人というものが、神の息から、風から生かされているのだということを、
感じさせてもらえた一日だった。

舞台の上で、俳優はなんらかの身ぶりをすることによって演技をしていくのであるが、
今日は、言語造形の基本に立ち返って、
まず最も基本の身ぶりに取り組んだ。

それは、「息をする」という身ぶりだ。

普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣いから、
ことばと共に、
見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。

その息遣いの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。

外から取ってつけた身振りではない、
息遣いから生まれてくる「空気人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。

そのすがたは、わたしたちに「人のおおもとのすがた」を想い起こさせてくれる。

そのすがたは、遥かな昔に人がとっていたすがたであり、
そして、
遥かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであろうすがたでもあって、
芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、
未来にあるであろう「人のすがた」を密やかに提示していく。

それは、ことばが、単に情報を伝えるためだけの抽象的なものではなく、
活きたことばとなり、人そのものとなり、
そして、
だんだんと、人がことばそのものとなることである。

「はじめにことばありき」へと、
これからはだんだんと遡っていくのだ。

ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、こうある。

   まこと、まこと、わたしは、あなたに言う、
   それ、人、水と風から生まれん、
   そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず  (ヨハネ 三章五節)


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2012年11月08日

今日の言語造形 企業研修にて 2012.11.8

ここ(小学生が通う塾)での企業研修(http://kotobanoie.seesaa.net/article/299953599.html)は研修とは言っても、
ここ数年、いや、特にこの一年、
言語造形が面白いという人、言語造形をやってみたいという人、
もしくは、
自分の仕事のなんらかの面に役立たせたいという人が、
自主的に集るようになってきている。

これも、この研修をコーディネイトしてくれている方の尽力のお陰である。

研修といえば、社員たちへの上からのお達しであろうから、
仕事の時間の中で、スケジュールをみながら、
皆さん身体を運んでこられるということが多いのではないだろうか。

ここでの研修ではだんだんと、
仕事の休みの日にわざわざ出てきて言語造形に取り組み続ける人たちが出てきた。

そんな人たちは、来るたびごとに成長されているのが分かる。
ことばを話す、語る、ということにおいて、意識とからだの使い方に、回毎の成長が見られる。

こういう人たちは、
すぐに仕事やキャリア・アップのために役立つものを得られることが、
学びでもなく、教育でもないことを知っている。

大人であっても子どもであっても、
教育の場における学びは、
その人その人の意志と意欲の力にその成否が懸かっている。

単なる知性において処理されうる学びではなく、
こころとからだの深いところにまで降ろされるべき学びにおいては、
意識的な反復練習こそが歩まれていい道であって、
近道などない。

このことを、子どもの教育に当たる人たちが我が身を通して知っているということは、
本質的な意味で、仕事における深い強みになるのではないかと思う。

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2012年11月06日

今日の言語造形 火曜クラス 〜密やかな学び〜

今日は23歳の若者と言語造形に取り組んだ後、
「密やかな学び(神秘学)」について、長い時間、話し込む。

彼は、バランスを失したありようでなく、
シュタイナーが提示していることがらに精確に則って、こころの練習に取り組もうとしている。

こういったことに浅くない関心を抱いている若い人に、
上辺のことばではない、いい加減でないものを、
示していくことができる自分になっていくことができたら。

遠い道のりではあるが、わたしも、とにかく、毎日、一歩一歩、歩いていくだけだ。


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2012年11月02日

今日の箕面演劇塾 〜天におられる方々との共同作業〜


こころがほどけていて、弾んでいるとき、
人は、初めて、声を響かせられる。

ことばは、胸の領域からこそ、飛び出してくる。

人は、ひとりひとり独自なものを荷っている。
そして、時に、こころをほどけないときもある。
そのような人のこころがほどかれていく時は、
他者ではなく、天からの働きかけがある時だと感じる。
天におられる方々が、人の胸の領域、こころ、心臓に、働きかけて下さるときにのみ、
人は声を響かせることができる。

わたしたちが、何気なく、日頃、声を出し、ことばを話すことができているというのは、
そのような見えざる扶けがあってのことではないだろうか。

特に、子どもはそのような扶けを本来的にはたっぷり得られるはずだし、得ているだろう。
大人になってしまった後とは違い、
いまだ、天におられる方々との交流が、きっと強くあるからだ。

子どもへの天からの力と恵みの流れが遮られないように、
わたしたち大人が、できることはなんだろう。

天におられる方々との共同作業をわたしたちはいかにして育んでいこうか。

そんなことを、今日の演劇塾で考えさせられた。

子どもたち、ありがとう。



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2012年11月01日

今日の言語造形 企業研修にて

新横浜にて、企業研修。
ここは、小学生のための大手進学塾で、
四、五百人の社員、講師、スタッフの方々が、
一回に平均七、八名ずつ集って、月に二、三回、
研修として言語造形に取り組んでいる。

もうかれこれ、八〜九年、言語造形という芸術に、企業が取り組んでいるのだ。

これは、凄いことで、なぜ凄いかといえば、
すぐに収益に結びつくような取り組みではないこのような芸術活動を全社員に向けて浸透させていくには、
相当の心意気と精神からの算段が必要であろうからだ。

始めてみて三〜四年は、このような研修に対する意義を見いだすのに、
少なからぬ社員の方々が困難を覚えただろう。

ひとりひとりの社員の方が、
音声言語としてのことばというものの意味深さを見いだしていくことができるように。
そして、ことばを発し、聴き取る力を自分自身の中に育んでいくことができるように。
そのことを願って研修を重ねていくうちに、
この二、三年、随分と多くの方が、
言語造形を企業の中ですることの重要性を認め始め、
共感が広まり、深まってきたように思う。

こういった取り組みを長い目でずっと見守り、育て、支えているこの企業の代表の方と、
実際に研修をプログラム化して下さっている方に、
感謝を感じる。そして、祝福をも感じている。

言語造形とは、アントロポゾフィーから生まれている。
言語造形という芸術の隅々にまでアントロポゾフィーが息づいているのだ。

だから、わたしにとってこの仕事は、
アントロポゾフィーがどのように世において働くことができるかということの、
ひとつの試みだと思っている。

今日は、気質の違いを踏まえつつ、様々な文学作品の朗読に取り組んでもらった。
今日も社員の方々と言語造形をすることの喜びと意味を分かち合うことができたこと。
これは、わたしにとって、本当に、恵みなのだ。

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2012年10月31日

今日の帝塚山演劇塾 〜子どもの大いなる過去に驚く〜


今日、驚いたのは、
小学校2年生の女の子が自主的に『竹取物語』の古文原文を憶えて来て、
朗々と語ってくれたこと。

その子のお母さんは、いま、『平家物語』の「那須与一」の段に取り組んでいるのだけれど、
その子は、家でお母さんの練習する声を聴いて、その段の全文も憶えてしまった。

ひとりひとりの子どもが、大いなる過去を背負って、この世にやってきている。

わたしたち大人は、その過去からの求めに応じるべく、
その子その子の求めにふさわしい素材を提供していくことができるだろうか。
そんなことを想わされた。

そのような子がいるので、このクラスの他の子どもたちも、強い刺激を受けている。

「ことば」を求める人間たちが集るこの場で、
小学校のクラスの友だち関係とはおそらく違う関係があるのだということを、
子どもたちは知っていくだろう。

そして、このクラスが、毎週行われているということが、とても大切なことだと感じる。
小学校に上がってからの7歳から12、13歳辺りまでの子どもは、
自分の人となりをかたち作っていく上で、
継続して側にいる大人からの有言無言の働きかけを強く、深く受けるだろうから。
少なくとも、「毎週」というリズムは、必要だ。

子どもたちが、精一杯、全身を使って、『古事記』や『古今和歌集』を声に出している。
そしてお母さんたちも、ものすごく精力的に『平家物語』に取り組んでいる。

こちらも、猛勉強!

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2012年10月30日

今日の言語造形 〜アクティビティーと素直さ〜


今日も、ことばの家で、言語造形。
毎週通ってきてくださる方々のためのクラス。

ここでは、その人のアクティブな心意気が、いのちだ。

その人のことばや声やからだの姿勢に、
あるいは、時に、こころのありように、
働きかけるべくサジェスションをさせてもらう。

すると、ことばや声が、がらりと変わるだけでなく、
部屋の空気感まで変わってしまう。

この変容をもたらすのは、
その人のアクティビティーだ。

自宅でからだを使って練習を積んでいるほどに、
この週一回の稽古の中でその人が降りることのできる深さが増してくる。

そして、そのアクティビティーがあるほどに、
不思議なことだが、
その人は謙虚に、素直になっていかれる。

その謙虚さと素直さも、
その人の変容を促す大切な要因だということが今日も実感できた。

その謙虚さと素直さは、
人に対する盲信や盲従ではなく、
その場で行われていることに対する敬いと尊びからのものだと感じているのだが、
どうだろうか。

現代の人は、アクティブであろうとするほどに、
謙虚に、素直になっていく道が開かれていくようだ。
そのアクティビティー、意志の力は、
ある意味、授かりものかもしれない。

今日も、そんな意志の力が満ち溢れる稽古場にいて、ありがたくありがたく思った。

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2012年10月28日

今日の言語造形と『自由の哲学』

今日は、ことばの家で、仕事。

午前は日曜言語造形クラス。
宮澤賢治の作品などを生徒さんが言語造形しているのを聴いていると、
物語というものが、ことばを通して、
「情というもの」を彩り豊かに伝えようとしてくれているのがまざまざと分かる。

頭で考えていることを声に出すのではなく、
腰から前に出つつ、息を吐ききることを通してことばを発していくことで、
ことばの響きから、豊かな情というものが立ち上がってくるのだ。

物語はストーリー(物語)を伝えること以上に、
声によって物語られることによって、
シーン・風景の中に秘められている情(情景)というものを顕わにしてくれる。
そう、ものには、表情というものがあり、相(すがた)というものがある。

意味はすぐに伝えられる。
すぐ伝えられるが故に、いくらでも浅薄なものとして流通しやすい。
しかし、ものごとの相(すがた)は伝えられにくい。
世におけるものごとは、
平面においてではなく、深みにおいて、相(すがた)として顕れてくる。
その相を相として提示していくのが、
物語の目指しているところであるし、
芸術の向かうところでもある。

子どもは、
その相(すがた)をこそ愛する。
その相から、表層的な意味ではなく、情というものがおのずと湧き上がってくるからだ。

ストーリーは浅い知性でも捉えられる。
情はこころで捉えられる。
わたしたち人の内なる子どもは、その情(もののあはれ)をこそ求めている。
その「もののあはれを知る」ことは、いわば、深い知である。
芸術を通しての新しい認識である。


午後は『自由の哲学』クラス。
わたしたちは、なぜ、この本を読むのだろう。
それは、外の世から様々なものやことが押し寄せてきても、
いつでも、おのれ自身の真ん中に立ち返り、
その真ん中、おのれの内からこそ、
みずからの進んでいく方向性を決定していく力を培うためだ。

人間関係よりも、
おのれの真ん中との関係を視野の中心に据えるための力。

おのれの真ん中にこそ、
大いなる力、精神の力、神の恵みが降りたまふことを知るが故に。

その真ん中が、ひとりひとりの内で意識されているからこそ、
人と人とのかかわりが深まりえる。

そのことを確かめ合いながら、この本を読んでいくこと。
それは、学びの喜びを噛み締めさせてくれる。


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2012年10月27日

今日の演劇塾 和歌山県岩出 〜いのちの漲りとこころの歓び〜


今日は、和歌山の岩出で、演劇塾。

木下順二の『聴き耳頭巾』と宮澤賢治の『やまなし』に取り組んでいる。

ことばが息遣いの深さと俊敏さによって、俄然活き活きと響き出す。

全身を震わせながら声を響かせることの体験を、まずは大人たちが懸命になってやること。

以前は練習中もずっと暴れまわっていた1年生の男の子が、

回を重ねるごとに、練習を静かに盗み観ている。

今日は、お母さんが川の濁流に巻き込まれるシーンで、お母さんと一緒になって巻き込まれていた(笑)。

何より、お母さんが喜びをもって芸術に全身で取り組んでいるのを、彼はずっと観ているのだ。

そんな風でもいいから、だんだんと、子どもたちとお芝居を分かち合っていきたい。

ことばを口先でなく全身で語ろうとする大人が側にいることで、
子どもは、いのちの漲りとこころの歓びを引き継いでいってくれるのではないだろうか。

いつもながら、場所を提供してくれている後藤さん御家族と練習に通い続けてくれている皆さんに、今日も、本当に感謝、感謝だ。

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2012年09月26日

子どもの感覚を信じて 〜演劇塾での試み〜


水曜日の午後4時から始めている「帝塚山演劇塾」では、
まず、子どもも大人も、
からだまるごとを使ってことばを発声していくことから始めている。
全身が声になるほどに。

小学生の一年生と二年生の子どもたちが、
ライゲンで歌い、踊ることから始め、
学校の宿題である国語の教科書に載っている文章や、
工藤直子さんの詩集『のはらうた』を全身で動きながら音読した後、
原文で語られる『古事記』『古今和歌集』『平家物語』『論語』を復唱したり、
ことばのシャワーを浴びるように全身で聴いている。

その時の子どもたちの表情から、
昔の古典文学作品は、いまも、生きていることを、まざまざと感じさせてもらえる。

子どもたちは、
頭の知性で、それらの作品から発せられることばを聴いていない。
からだで、リズムと息遣いを感じながら、
こころで、時にそこはかとなく時に強烈な情緒を感じながら、
古典作品を原文で味わっている。

解釈したり、意味を追って跡付けたり、歴史的背景に目配せをすることなど全くせず、
ことばの世界に、文学の世界に、ダイレクトに入っていく。

そこには、人が記した、いのちとこころの漲りが、いまも、息づいているのだ。

そんな世界に、大人が飛び込もうとするからこそ、
子どもも一緒になって飛び込む。

からだの体験、感覚の体験を通して、
ことばと結びついていく。

そんなことを演劇塾で験している。



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2012年06月01日

言語造形することにおいて 備忘録(2)

言語造形の練習をしていて最も恩恵を感じるのは、
天と地のあいだにある自分を感じることができる、ということだ。

定型のことばを発し続けることによって、
息遣いがより闊達な、振幅のあるものになってくる。

天と地のあいだ、高みと深みのあいだを行き来する呼吸。

そして、そのあいだに立つ「わたし」。

この感覚は、本当に、ありがたい。

ひとりでありつつ、おおいなるものに支えられ、見守られている感覚だ。

この感覚が、普段の生活の中でも感じられるようになれたらな。

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2012年05月22日

言語造形することにおいて 備忘録(1)

言語造形においても、
稽古というものから、計り知れないほどの気づきが与えられる。
その細かいけれども、自分自身にとっては大きな気づきを記すための、
備忘録のようなものをつけていきたい。

シュタイナーが与えてくれた、
Hum Ham Häm Him
その他、いくつかの基礎練習を毎日時間をかけて、何年も何年もし続けること。

その基礎練習の中で、
呼吸の秘密、
からだと意識と精神を持っていることの密やかな関係、
ことばが見えるということのリアリティー、
それらが動きの中で観えてくる。

だんだんとからだの主(あるじ)になることへの希みが、
手応えをもって生まれてくる。

「外をうろつきまわる必要はない、お前は毎日、基となる練習をせよ」
という声が聴こえる。

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2012年03月27日

春の言語造形フェスティバル! 合同発表会 終わりました

発表会.JPG

「春の言語造形フェスティバル!」と銘打ちました、
にじいろの会(奈良)と森のしずく(京都)合同発表会を今日終えました。

お久しぶりにお会いする方々も含め、たくさんの方々に聴いていただき、
本当に嬉しい一日でした。

なにより、おひとりおひとりの語りが本当に充実してきて、聴き応えたっぷりで、
クリスタルボールと「古事記」の響きあい、
ライアーと宮澤賢治の『よだかの星』とのハーモニー、
その他その他、声のシャワーが部屋一杯に注がれていました。

小学生の子どもたちが、朝の10時半から3時までのすべてのお話を聴いていたのが、
嬉しかったなあ。

数々の文学作品を、からだまるごと耳にして、音のシャワーを浴びるように聴き入る、
ゆったりとした時間の流れ。
素晴らしい時間でした。

来てくださった皆さん、
またこれまで練習を重ねて、この日を迎えられたメンバーの皆さん、
本当にありがとうございました!

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2012年03月20日

糧としての言語造形

わたしが受け持けもたせてもらっている言語造形のクラスは、
どのクラスも5年から10年間ほど続いているのですが、
多少の人の出入りはあっても、
ほとんどの人は、クラスのはじめから言語造形を続けている人です。

クラスの中でそれらの人の語りに耳を傾けていると、
わたし自身、こころが震えたり、揺さぶられたり、鷲づかみにされたりすることが、
最近、頻繁に起こるのです。

聴いてくれる人たちから、わたしもよく言われたことで、
語り終わった後、
「よくそれだけ憶えましたね」「お上手ですね」「声がいいですね」などなど・・・、
声を掛けてくださいました。
ありがとうございます(汗)。

しかし、クラスで続けておられる方々の語りを聴いていますと、
もう、そんなレベルではなく、
発せられていることばそのものが、
命をもって空間を動き回っているのです。

そして、
ことばとことばのあいだ、音と音の間(ま)において、
その命がいっそう、盛んになって動いているのが観えます。

そのことばそのものの動きに見てとられることばそのものの命は、
稽古を自分自身で続けていることから生まれています。

それはその人から発せられる輝きと言ってもいいでしょう。

人が輝いているので、
ことばも輝くのです。

ですから、お稽古日とお稽古日の間の時間の中で、
どれだけ自分自身で稽古に励んだかが、
まっすぐに、クラスの中に現れます。

その意欲の持続の力と、
クラスでやってみることによってその都度新たに生まれる発見とが、
織りなしあい、
その人ならではのこころの輝きと命の漲りが生まれてきて、
わたしのこころを揺さぶります。

人って、凄いなあ、
理屈ではなく、
本当に意欲の力を芸術を通して発揮し続けていくことで、
こんなにも人は輝きを発して、
なおかつ、周りの人にその輝きを贈ることができるんだ、
ずっと、言語造形をやってきて、そのことを実感するのです。

本質的なことにおけるプロフェッショナルであることの重要性を認識しつつも、
外側の区切りによるプロとかアマという人に対する判断は、
だんだんと、どうでもよくなってくるのではないだろうかと感じます。

つまり、芸術をすることにおいて、
それによって飯が食えるとか、食えないとかに、意識が集中していくのではなく、
芸術をすることによって、
日々、わたしが、精神の糧、こころの糧、命をつないでいく糧を、
得られるかどうか。

そこへと、人の意識がだんだんと深まってくるでしょう。

これからの時代において、
どの人も、どの人も、芸術を通して、ますますその人になっていく、
そのような認識が広まり、深まっていくことでしょう。

芸術というものは、
何よりも、生み出していくこと、創造し続けていくことですので、
それは、必然的に自己教育なのです。

失敗を恐れず、
こつこつと、やり続ける何かを持つこと。

そのことの大切さを、
これからの人は、身をもって、知っていくべき時代に入ってきています。


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2012年02月15日

言語造形〜幼児期の子どもへの語りかけにおいて〜

昨日、兵庫県姫路市のある保育園に昔語りに行きました。

4歳児と5歳児、それぞれおよそ25人づつの子どもたちが丸い円になって、
お話とわらべ歌を聴き、唄い、踊りました。

約50人の真っ直ぐな瞳、健やかな声に囲まれて、
わたし自身が洗われたようになりました。

昨日、あらためて感じ、確かめられたことは、
その時期の子どもたちの成長にとって要となるものは、
動きなんだということです。

お話や歌のことばが分かる、分からないよりも、
そのことばに合わせて、
内的にも外的にも、動くことができるかどうか。

動きのあることばが、子どもたちの傍にいる大人たちによって話されているか。

なぜなら、
ことばとは、そもそも、
動きに裏打ちされていてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。

ことばというものを通して、
この時期は、すべてのものが、生きている、動いている!
わたしも僕も、みんな生きている、動いている!
そして、ことばというものも生きている、動いている!
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。

ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、
大人のように静かにして聴いているのではなく、
動きの中でこそ、動きによって生まれるバランス感覚の中でこそ、
育まれます。

もちろん、大人でさえも、何かに一心に耳を傾けているときには、
からだは動かさずとも、内側を動かしています。

シュタイナーは、
「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声しています。
 それは内なるオイリュトミーなのです」
と語っています。

その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。

子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、
彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。

外的に動くときは、できるだけ、
調和のとれた動き、
かたちある動き、
かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すような動きに導いていくことができたら、
素晴らしいですし(ライゲンやお話ごっこも工夫すると素晴らしいものになります)、
羽目をはずした子どもたちの動きにも、
「座りなさい、静かにしなさい」ということばではなく、
そのつどそのつど、芸術的に対応して、
ことばの裏側にある動きを通して、
子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。

幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育った子は、
小学校に入ってから、
今度は自分から動きのあることばを使うこと、話すことができるようになっていきます。

言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、
大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。



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2012年01月07日

大いなる恵み〜演劇祭 in 大阪あびこ ありがとうございました〜

あびこくすのき園に来ていただいたたくさんのお客様、どうもありがとうございました。
そして、手伝ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。
皆さんの暖かい気持ち、善意、喜びが、創り手であるわたしたちを包んでくれました。

終演後、アンケートを書いていただいたのですが、
こんなに絶賛されたことは、いまだかつてわたしは経験したことがない!(笑)

子どものまだあどけない、しかし、まっすぐな瞳と声。
お母さんたちの真摯な想い。
それらを、皆さんは感じてくださり、暖かい眼差しで見守ってくださったのでしょう。

今回のお芝居で、わたしが気づかされた最も大事なことは、
創り手であるわたしたち仲間のあいだに、
信頼と愛と各々の自立が育まれようとしているなら、
そこから見えない何かがわたしたちのお芝居創りの輪から拡がってゆく、
ということです。

その何かを、
観に来てくださったお客さんは、もしかしたら感じて下さっているのかもしれない。
きっと、そうに違いない。

そのことに気づき、実感できたことが、
この2012年という新しい年が始まるに当って、
天から授けられた大いなる恵みです。

まずは、小さなサークルの中の、
人と人との関係を丁寧に大事に育んでいくことから。
その関係性を、側にいる子どもたちは、きっと、見てくれている。

和歌山岩出シュタイナー演劇塾の皆さんとの共同作業のお陰で、
その確信をこれからも一歩一歩深めていく道を歩みだすことができそうです。

この世にいま共にいる朋、
そして見えないけれども応援して下さっている方々。

こころから感謝します。

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2011年12月28日

冬は、内を育む季節〜演劇祭in和歌山ありがとうございました〜

かさじぞう写真.JPG おはなし子ども写真.JPG  後藤さん「かさじぞう」.JPG
 

先日のクリスマス・イブの日、
「子どもも大人も演劇祭」を和歌山で開きました。

会場は古い民家をお借りしたのですが、
お陰さまで、満員のお客様で、
暖かい気持ちに包まれた、とても和やかな時間になりました。

初めて人の前で演じる子どもたちとその親御さんたち。
初々しい張りのある声と動き。

あれだけの人の前で、
思いっきり声を出し、歌い、演奏し、動いた子どもたちの内側では、
どのようなものが生まれただろうか。

そして、これからも、彼らといっしょに何を創っていくことができるだろう。

そう考えると、
この年の暮れに、わたし自身、本当に大きな宝の山をいただいたなあ、
と念うのです。


また、特に、今回の親御さんたちが演じた「かさじぞう」において、
演じ手の皆さんが、
外側のこととともに、
各々みずからの内側のことに意を注いでくださったことを感じました。

わたしたちは、
外側のものに沿うことも大切なのですが、
特にこの冬の季節においては、
むしろ外に沿うことから脱して、
意識的に、内側の生をいきいきと育むことで、
個人的なものを越えて、
より深く広やかな情と想いに生きることができる。

そして、その情と想いからこそ、お芝居に身を投じる。
もしくは、身を投じることによって初めて、
そのような情と想いが湧きあがってくる。

その深められ、強められた情と想い、そして捧げるということこそが、
「かさじぞう」というお芝居には必要でした。

舞台装置も背景も何もなく、
たったひとつの照明と、
ただ、演じ手さんたちがこころを籠めて作った素朴な衣装と、
抑制された動きと表情と、
そしてなにより、内なる情と想いを立ち上がらせることばの響き。

それだけです。

この冬の季節に、
意識的に内の生をいきいきと育むことで、
来る春と夏において、
わたしたちは、
外の世の美しさに出会うことができる道が啓けてきます。

冬は、内を育む季節。

わたしたちは、外でも、内でも、いろいろとあり、忙しくしていますが、
冬のこの時期こそは、
高いものをこころに宿すことを意識して、
静かに過ごしたい季節ですね。


    密やかに学ぶ人は、
   外の世に対して鈍くなってはほしくない。
   しかし、
   みずからのたわわな内の生がみずからに向きを与えるようにしてほしい。
   そして、
   その向きでみずからを外の世の印象に沿わせてほしい。
   ・・・
   まずもってわたしたちの内に生きるところが、
   わたしたちに外の世の美しさへの鍵を与える。
   ・・・
   人が外の世に向かう、内容のあるありようを育もうとするにおいては、
   きっと、みずからの情と想いにつきあうということを習っている。
   外の世はその現れという現れにおいて、
   こうごうしい晴れやかさに満ちている。
   しかし、人が、きっと、
   こうごうしさをみずからのこころに見いだしているからこそ、
   周りに見いだそうとする。
                 (『いかにして人が高い世を知るにいたるか』P.31〜32)


posted by koji at 09:37 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月20日

クリスマスと「かさじぞう」

和歌山の岩出で、小学生の子どもたちとその親御さんたちとで、
この3ヶ月、お芝居の練習に取り組んできました。

そしてこの土曜日、クリスマス・イブの日に和歌山の米市農園で、
年を越えて1月6日(金)、顕現祭の日に大阪我孫子のくすのき幼稚園で、
「かさじぞう・おはなしのおはなし」を演じさせてもらいます。

子どもたちも親御さんたちも、それは頑張って練習してこられました。

ありがたいことに、
練習を重ねるほどに、
子どもたちの内側に増してくる喜び、
親御さんたちの内側に耕されていくこころの深みが、
感じられました。

それは、だんだんと育まれていく作品への愛でした。

この育みは、本当にありがたいことで、
人の力だけではなく、
わたしたちを見守ってくださっている目には見えない方々があられるかのように思えるのも不思議です。



お芝居を練習していますと、
そのプロセスの中で、いつもおのおのの作品の深みが見えてきます。

(「おはなしのおはなし」については、
 今回出演されるおひとりの方が書いてくださっています。
 どうぞご覧下さい。
 http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=279

今回、大人たちが演じる「かさじぞう」。

日本人には馴染み深いお話です。

貧しさのあまり食べるものもないじいさまは、
冬の夜に、
風と雪が吹き付ける中へと、
人の冷たいこころが吹き付け、通り過ぎていく中へと、
出て行きます。

それはまるで、この世における地獄巡りです。

その巡りの果てに、じいさまは六人の地蔵様に捧げものをします。

そして、じいさまは雪で真っ白になって、ばあさまのもとへと帰ってきます。

その白さとは、人の何を表しているのでしょうか。

その白いじいさまを、ばあさまは喜びをもって迎えます。

そのふたりの結びつきは、人の何を表しているのでしょうか。

その結びつきのもとに、
六人の地蔵様が、
どっさりこと、
豊かさをもたらしてくれます。

その豊かさとは、人に授けられる何を表しているのでしょうか。

パレスチナという地に、
イエスが生まれたことを祝うクリスマス・イブの夜。

そのイエスが30歳になったとき、
ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受け、
太陽の神であるキリストがイエスに降りたもうたことを祝う顕現祭。

そのクリスマス・イブの夜と顕現祭の日を結ぶ十二夜・十三日の、
丁度真ん中である大晦日の夜とお正月の朝との間に、
何が起こったのでしょうか。

古来、多くの民族の伝統において、
この時期に、新しく太陽の神さまが歳神として人々のもとに降りてこられ、
新しい年に備え、新しいたましいを与えてくださることを待ち望み、祝う、
宗教的な儀式が執り行われていたそうです。

わたしたち日本人も、その「新しいたましい」として、
大人たちから「お年玉」をもらっていたのでしょうね。

シュタイナーは、その太陽の神さまは六人おられると語っています。

そしてその六人の神さまの力をひとつにしてこの地に降りてこられたのが、
キリストだと語っています。

このクリスマスの時期に、
どっさりこと授けられる豊かさは、
わたしたちが新しい一年を生き抜いていくことができるための「お年玉」かもしれませんね。

皆さんとこの聖きことの雰囲気を、
いくたりかでも分かち合うことができればと願っています。


posted by koji at 09:16 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする