2020年06月17日

シュタイナーが語る「ことばの家」



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ことばには、光が潜んでゐます。
色彩として顕れ、
そして、詩には音楽が密かに響いてゐます。
 
 
その光と楽の音をこそ引き上げたくて、
言語造形といふ芸術に携わつてゐます。
 
 
今日も、再開したクラスで、
その光と音楽を感覚する喜びを
味はふことができたのでした。
 
 
ずつと我が仕事場・アトリエである、
「ことばの家」では、
様々な人によつて、
様々な作品から、
光と音楽が生みなされてきました。
 
 
その精神で、
「ことばの家」は営まれてきました。
 
 
「ことばの家」とは「神が語る家」であるといふ、
ルドルフ・シュタイナーのことばに、
どこまでも支へられてゐるからです。
 
 
第一ゲーテアヌム建築中の、
106年前の今日、
1914年6月17日にドルナッハの丘の上で響いた、
彼のことばから、いまも、
わたしの胸の内にその精神が、
泉のやうにこんこんと湧き上がつてきます。
 
 
 
―――――――
 
 

(要約)
 
 
人びとは口から耳へと伝へられるものが、
平和と調和を作り出せると本当に信じてゐます。
 
 
しかし、平和、調和、人が人としてあるありやうは、
神々がわたしたちに語りかけるとき、
初めて生まれるのです。
 
 
このゲーテアヌムの壁、
そして窓に施される芸術的なフォルムによつて、
神々はわたしたちに語りかけてきます。
フィジカルな壁は生きてゐませんが、
エーテルの、精神の、壁は、生きて動くものなのです。
 
 
地球の大地がその懐から植物たちを生み出すやうに、
わたしたちが造形する壁のフォルムは
(内において)生きて動くものを生み出します。
 
 
わたしたちの建築は、そのフォルムによつて、
きつと、神々のことばを語り始めます。
植物のエーテルのフォルムに耳を傾け、
それらをわたしたちの壁のフォルムによつて
創らうではありませんか。
 
 
自然に潜む神々が、人に、語る喉頭を創つたやうに、
わたしたちは、芸術によって、
神々が語りかける喉頭を創るのです。
 
 
わたしたちは、
これらのフォルムが
何を意味するのかを解釈するのではなく、
心臓で聴くかのやうに、
神々のことば、精神のことばを分からうとします。
その分かる力を育むこと、
それがわたしたちのなすべきことです。
 
 
このやうに、
精神への道を見いださうといふ聖きこころもちが、
この仕事場に満ちますやうに。
 
 
仕事場とは、きつと、人がその精神を愛の内に見いだし、
平和と調和を地上に拡げていくやうな
精神への道を見いだす場です。
 
 
真の芸術への、真の精神への、
そしてすべての人への愛をもって、
「ことばの家」「神が語る家」を建てようではありませんか。
 
 
       (1914年6月17日 ドルナッハ)
 
 
 

―――――――
 
 
 


本当に、このことばに尽きます。
 
 
そして、この精神があるところならどの場所も、
「ことばの家」「ことばの宮」「ことばの社」
になりえます。
 
 
このシュタイナーのことばに何かを感じる方は、
この世のどこかにをられるはずだ、
さう信じてゐるのです。
 
 
 
 

posted by koji at 23:03 | 大阪 | Comment(0) | ことばづくり(言語造形) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月15日

まっさらな、新しい21年



「言語造形をしたい!」といふ人たちと、
今日、言語造形をすることができました。
  
 
参加者の方が綴つて下さつた文章です。↓
『 あたらしく、はじまる。 mitteの庭 note 』

 

 
リアルな空間で、
ことばのまぎれもない精神が拡がりゆくのを、
感覚することの神秘と喜び。
 
 
なんて、ありがたいことか。
 
 
わたし自身、
師匠の下から離れて、
おほよそ21年経つのですが、
今日から、
まっさらな、新しい21年を始めるのだ、
と念ひました。
 
 
クラスご案内 ↓

『言語造形クラス〜宮澤賢治と共に〜
(和歌山県岩出市)』


 
 
 

posted by koji at 22:52 | 大阪 ☀ | Comment(0) | ことばづくり(言語造形) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月02日

瞑想のことばと言語造形


  
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メディテーション(瞑想)において
響かせられることばは、
お日様に向かふ花弁のやうに、
こころに精神を取り入れる入り口になります。
 
 
そして、
言語造形で養はれることばの感官(言語感覚)は、
メディテーション(瞑想)するときにおいて、
とてもたいせつなものです。
 
 
ことばに意味だけを求めるのではなく、
その響き、リズム、動き、かたち、
バイブレーションをありありと見て、聴いて、
感覚する。
 
 
その機能と器官が、ことばの感官です。
 
 
このことばの感官が、
日常のことばの世界を離れた、
精神の力を呼び集めてくれます。
 
 
言語造形はこの感官を養ひます。
 
 
また、この感官は、
みづからの動きを感覚する動きの感官
(運動感覚)と表裏一体のものですので、
からだの動きを養ふことでもあります。
 
 
しかし、この動きといふものが、
静かさ、安らかさと共にある。
 
 
せわしなく動きまわるのではなく、
静かさが動いてゐる。
 
 
さういふ感官の働きを養ひます。
 
 
日本の神話に、
「天(あめ)の安(やす)の川」といふ川が、
出てきますが、
あの高天原(精神の世)に流れてゐる川は、
弥(ゐや)進む川、
どんどん流れて流れつづけてゐる川でありつつ、
安らかな流れなのです。
 
 
精神とは、常に、
一瞬も休むことなく動き続けてゐますが、
静かさを失はない、
静さが凄い勢ひで動いてゐる。
 
 
その生命の精神の流れは、
人の疲れて病んだこころとからだを癒し、
生命力を甦らせるのです。
 
 
そんな精神の流れ、
天の安の川の水と共に、
言語造形をしていきたいと思ひます。
 
 
滞らずに、安らかに、動きの中に入つて行く。
 
 
それこそが、人体の免疫力を上げる、
とてもたいせつなものです。
 
 
瞑想、そして言語造形、
精神からの学びと芸術です。
 
 

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2020年04月24日

天と地の交流としての息遣ひ

 

わたしたちは毎時毎瞬、
呼吸をしてゐます。
 
 
させていただいてゐる、
と言ふ方がいいやうに思ひます。
 
 
その営みによつて、
いのちを授けられてゐるのですから。
 
 
その呼吸の営みとは、実は、
驚くべき営みなのです。
 
 
そもそも、それは、
大気を吸ふことによつて、
天の次元にまで昇つていき、
吐くことで、
その天の実質を地に降ろし、
地にもたらし、
地に拡げる、
そんな天と地を交はらせる働きなのです。
 
 
毎時毎瞬、
呼吸によつて、
こころが天と地を往復する。
 
 
それは、瞑想に通ずる営みです。
 

息遣ひは、
神からいのちを吹き込まれ、
神へといのちを送り返す、
そんな風に言つてみてもいい働きです。
 
 
ですから、
ことばを話すといふ営みも、
実は、その天と地の交流である、
息遣ひを動力にして働いてゐます。
 
 
本当に、奇しき働きです。
 
 
ことばをそのやうな、
清々しく爽やかな息遣ひに載せて発していく。
 
 
さうであつてこそ、
ことばはその生命を甦らせます。
 
 
息を吸ふたびごとに、
「天地(あめつち)の初発(はじめ)」に還り、
息を吐くたびごとに、
ことばといふ形をもつ「国」生みをするのです。
 
 
ことばを話すといふことは、
そのやうに、
神からの息吹きによつて、
国生みをしていく作業なのです。
 
 
芸術は、
そのやうな宇宙の根源の力と共に働くものです。
 
 
ことばを話す営みも、
芸術として甦りうるのです。
 
 

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2020年04月04日

継続することのたいせつさ



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4年前の今日も舞台をやつてゐたんだなあ。
 
 
樋口一葉の『十三夜』です。
 
 
一葉の擬古文を現代語訳せず、
そのまま言語造形にかけたものでした。
 
 
ことばの意味ではなく、
ことばの動きや間、
内的な身振りや音楽的な調べで、
表現して行つていいんだ、
といふことを、
理屈ではなく身体で学び始めたのは、
この作品あたりからでした。
 
 
何事も続けることがたいせつだと、
いまあらためて念ひます。
 
 
――――― 
 
 
先日の川崎市まぶね教会での言語造形公演、
「十三夜」を無事終へさせていただきました。
 
 
足を運んでいただいた皆さん、
本当にありがたうございました。
 
 
当日を終へて個人的に感じましたことが、
ふたつありました。
 
 
まづは、
樋口一葉の文章を
全身をもつて発声していくといふこと。
 
 
きつと、作家は、
頭だけで文章を書いてゐません。
全身で書いてゐます。
ですから、文章を書くには、
健康なからだが要ります。
 
 
しかし、一葉は、
からだを健やかに保つだけの
生活的条件にあまりにも恵まれてゐませんでした。
それゆゑ、みづからのからだを蝕んでしまいました。
  
 
そのやうに、
からだに刻み込むやうにして
記された文章といふものを、
わたしたちが発声するとき、
口先だけで発するのではなく、
充分な健康をもつて、
全身をもつて発するときにこそ、
文章はその精神を顕はにしてくれる
といふことです。
 
 
精神的な仕事といふものは、
全身を使つての、
からだまるごとからの仕事からのみ
成り立つのだといふこと。
 
 
ひとつひとつの発声で
自分自身の立ち位置が決定されてきます。
一文一文、
前方に限りなく広がつてゐる空間に
ダイヴィングするやうに、
ことばを発していくことによつて、
世界が変はつていくのです。
活路が開かれていくのです。 
 
 
そして、もうひとつは、
小さなことをていねいに描くことを、
いくつもいくつも積み重ねることによつてのみ、
大きなことを表現することができるのだといふこと。
 
 
具体的なディテールを
どんどん描き続けていくうちに、 
ぐわつと大きな感情の波が立ち上がつてくる。
この作品の奥底に静かに流れてゐるテーマの
大きさに触れることができる。
 
 
今回の稽古においては、
わたしの方が、
パートナーの千晴にたくさんの細やかな示唆をもらひ、
多くのことを学び、助けられました。
 
 
地に足をしつかりとつけて、
この手でしつかりと物を摑むが如く、
この目で見、
この耳でじかに聴くが如く、
汗を流し、
涙と血を流すが如く、
このからだを通してこそ響いてくるものを、
ひとつひとつ大事にすること。
 
 
どれほどのものが聴いて下さつた方々と共有できたのか、
それは未知のものではありますが、
同じ時と場を共に創ることができたやうな、
そんなこの上ない充実感を
わたし自身いただくことができました。
 
 
素晴らしいギター演奏をしてくれた清水さん。
司会を務めて下さつた大原さん。
受付をひとりでやつてくれた志穂ちやん。
会場の外でお客様を誘導してくれた瓦吹さん、加藤さん。
お客様にお茶の用意をしてくださつた愛さん。
暖かいこころで
わたしたちの儀式を見守つてくださつた石井牧師。
そして来て下さつたすべてのお客様。 
皆さんのお蔭で公演は成り立ちました。
かさねがさね、本当にありがたうございました。
 
 
またこれからも言語造形の舞台を
創りつづけていきますので、
どうぞ、どうぞ、よろしくお願ひいたします。 


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2020年03月06日

仕事と死生観



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人それぞれ、仕事がありますが、
人生観、もつと突つ込んで言へば、
死生観と重なるやうな仕事を毎日していくことが、
とても仕合はせなことであると思つてゐます。
 
 
わたしの場合、
なぜか若い頃から、
言語と人間の関係を摑みたいといふ、
漠然とした希みがあり、
二十代の終はりに、
言語造形に出会つたとき、
まるで生まれる前から希んでゐたことに
出会へたやうに感じたことを憶えてゐます。
 
 
言語と人間の関係を、
学問的にでなく、
科学的にでなく、
芸術的に追ひ求めていく。
 
 
我が身をもつて、
わたしのまるごとをもつて、
言語に取り組んでいく。
 
 
さういふ芸術的行為が、
真の認識の訪れを招きよせる。 
 
 
舞台の上で、
一回限りの、
ことばとわたしといふ人との合一が起こるなら、
そのときのリアリティこそ、
わたしに、
ことばが人に授けられてゐる意味、
文学といふことばの芸術が存在する意味、
世が存在する意味、
神がありありとあられる意味を、
教へてくれる。
 
 
舞台とは、
新しい世紀における宗教的トポスだと、
感じざるをえません。
 
 
そんな舞台の上で、
生き、死んでいく。
 
 
そのやうな仕事をしていきたいと思ひます。
 
 
 
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
https://kotobanoie.net/play/
 
 

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2020年02月21日

見た夢を想ひ起こす 〜『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


 
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自分が夜見た夢を想ひ起こす。
 
 
本番に近くなり、
そんな練習をわたしたち舞台に立つ者はします。
 
 
それは、表の練習といふよりも、
裏の練習・密の練習と言つてもいいかもしれません。
 
 
夢の中で、
あの人はこんな表情をして、
わたしを見つめた・・・。
 
 
あの人はこんな風に背中を向けて、
向かうへと去つて行つた・・・。
 
 
こんな風に扉が閉まり、
わたしは家の外に締め出されてしまつた・・・。
 
 
たとへばそのやうに、
夢の中に起こつたできごとを、
目覚めた今、追ひかけ、辿つてゆく。
 
 
その作業は、
わたしたち舞台に立つ者の身の振る舞ひを、
芸術的にします。
 
 
夢を生きる。
 
 
それは、芸術を芸術的に生きるといふことです。
 
 
夢、
それはなかば目覚めつつ、
なかば眠りつつの世です。
 
 
それは、情の世でもあります。
 
 
だから、目覚めてゐるときでも、
虹の七色を大空に見たり、
風のそよぎを頬に感じたり、
道端に咲く花びらにこころを注いだり、
雷鳴轟く響きに身を震はせたりするとき、
つまり自然の営みを感覚するとき、
わたしたちは、
その自然が送つてよこす情を、
注意深く生きること。
 
 
それが、
芸術をする人にとつての深い養ひになります。
 
 
 
 
 

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)


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2020年02月11日

音楽のやうに 『 をとめ と つるぎ 』


 
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音楽を聴くとき、
いろいろな聴き方があります。
 
 
ただ、聞いてゐるだけでは、
音といふ音が、
時間の中を流れて行くばかりです。
 
 
しかし、
熱心に音の流れに耳を澄まし、
ひとつひとつの音を追ひゆくことで、
優れた音楽は、
思ひもよらない深みと繊細さを帯びた、
情と叡智に満ちたものへと、
変貌します。
 
 
まるで、大自然の命の営みに等しく、
あるときは空の風のごとく吹き過ぎ、
あるときは海の波のごとく打ち寄せ、
またあるときは山脈のごとく聳え立ち、
音楽は生まれ、死に、そしてまた甦ります。

 
 
そのやうに「音楽を聴く」には、
聴こゑて来る音を
意味に満ちた「ことば」に、
再構築する精神の能力が要ります。
 
 
そして、そのやうな能力は、
鍛えれば鍛えるほどに、
研ぎ澄まされて来るやうに感じます。
 
 
 

 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」では、
言語を、そのやうに聴きたい人に向けて、
作品を創り上げていきたいと希つてゐます。
 
 
 
 

 
今日も言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」のために、
メンバーが集まり、各々、
目一杯の精神力をこの作品に注いでくれました。
 
 
この劇を書かせてもらつたわたしが
作曲者とするならば、
メンバーみんなは演奏家で、
この拙い曲を通して、
愛といふものを一生懸命演奏しようと、
懸命に取り組んでくれてゐます。
 
 
本当に奇跡のやうなことだと
わたしは思つてゐます。
 
 
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2020年02月07日

型を叩き込む


 
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基本練習といふものが、
言語造形にもあります。
 
 
その練習を積み重ねることによつて、
型をからだに叩き込むのです。
 
 
知性で捉えられた知識は、
芸術においては頼りにならないもので、
なにほどのものでもありませんが、 
からだに叩き込まれた型は、
その人を根底から支へます。
 
 
型とは、
その芸術に固有の法則から生まれてゐます。
 
 
自然のものすべてに法則があるやうに、
ことばといふものにも法則があるのです。
 
 
ことばは人間が作つたものではなく、
神が造られたものだからです。
自然のものだからです。
 
 
その法則を知識としてではなく、
繰り返し、繰り返し、
練習といふ実践を通して、
からだまるごとで、
ことばの法則に則つてゆくのです。
 
 
昔、あるオイリュトミストが、
わたしに言つたことがあります。
 
 
「練習はあまり必要ありません。
むしろ、意識の持ち方が大事。
いまは、意識魂の時代だから」
 
 
わたしは、その方には申し上げませんでしたが、
それは絶対に違ふと思ひました。
 
 
意識などは、すぐに変へられる。
 
 
しかし、その変へられた意識は、
ふたたび、また、元の木阿弥に返つてしまふのだ。
 
 
元の木阿弥に返つて、
お馴染みのやり方、あり方になつてしまふのが、
人のからだだ。
 
 
人は、繰り返し練習を重ねること以外には、
己れみづからのからだを通しての技量を
めていくことは決してできません。
 
 
からだとは、それほどに、
手のかかるものであります。
 
 
また、その繰り返しの練習から、
身に叩き込まれた型があるからこそ、
逆に、その人からしか生まれない、
個性的なものが生み出されます。
 
 
しかし、この個性は、
長い時間の中でこそ生まれて来るものです。
 
 
十年、二十年、三十年・・・
限りはありませんが、
そのやうな長い時間を通して、
培はれた基礎がものを言ひます。
 
 
わたしも、
不遜に聴こゑるのを恐れるのですが、
基礎練習を重ねつつ、
これからどういふものが、
この身から生まれて来るのかと、
気を引き締めてゐます。
 
 
 

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2020年01月27日

再びひとつになりゆく


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神と人とが分かれてしまつた痛みを、
詩人たち、
とりわけ、日本の詩人たちは、
昔から、
個人的な悲しみを超えた、
国の悲しみと捉へました。
 
 
さうして、
再びその分離が収まりゆくことを
悲願としたのです。
 
 
神と人との分離は、まづ、
人のこころの乱れとして潜在し、
それは、ことばの乱れ、国語の乱れとして、
明らかに現はれてくるのでした。
 
 
松尾芭蕉の語録『三冊子』に、
「俳諧の益は俗語を正すなり」といふ、
ことばがあります。
 
 
「正す」といふと、どこか、
「上から目線」な趣を与へてしまひますが、
しかし、芭蕉は、明らかに、
国の歴史を貫く高い精神を
しつかりと覚え、
みづからもそれを把持しよう、
後世に伝へようとしてをりました。
 
 
その高い精神からこそ、
俳諧師は、
正しい国語を普及しようといふ考へをもつて、
全国を旅しました。
 
 
詩人とは、
とても足の強い人たちだつたのですね。
 
 
ことばと、足の運び。
 
 
そこには深い関係があります。
 
 
そのやうな足の運びをもつて、
古典の中に流れてゐる考へ方や感じ方を、
世俗の人に分かるやうに説いて行きました。
 
 
真の詩人とは、
国の歴史を背負ひつつ、
国語運動の先端たる担ひ手です。
 
 
そして、全国の様々なところで、
深い志を共にすることのできる人々と
輪を囲む。
 
 
その場では、
ほんのひとこと、ことばが口に出ただけで、
その心意気と風雅が分かち合はれる。
 
 
泣いてしまふ。
 
 
そのやうに思ひと情が
深くから動くやうな、
人を創ること。
 
 
一語一句で千古の情が湧き上がるやうな、
切迫した感覚を磨くこと。
 
 
和歌、連歌、俳諧、
それらのことばの芸術に勤しむことで、
詩人たちは、
さういふ切迫した「ことばの感官」を
人々と共に育んできました。
 
 
江戸時代、二百何十年にわたる、
そのやうな国民的な国語教育が、
各地で詩人たちによつてなされてゐたからこそ、
地方における明治維新への強烈な志もまた、
準備されたのでせう。
 
 
不肖わたくしも、
言語造形といふ国語芸術をもつて、
「俗語を正す」運動、
「ことばの感官を育む」運動、
「神と人とが再びひとつになりゆく」運動に、
連なりたいと希つてゐるのです。
 
 
「神と人とが再びひとつになりゆく」。
 
 
もはや、宗教の場においてではなく、
まごころとまごころが通ひ合ひ、
研鑽と見識が織りなし合ふ、
芸術の場においてこそ、
神と人との出会ひが生まれる。
さう感じてゐます。
 

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2019年12月21日

意志の芸術 言語造形 「 をとめ と つるぎ 」クラス


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今日は、「をとめとつるぎ」クラスの稽古。
 
 
建築・彫塑が思考を芸術化したものであり、
音楽・絵画が感情を芸術化したものであるやうに、 
言語造形とは意志の芸術であります。
 
 
それゆゑ、
俳優の皆さんは、
ひたすらに走ることを要求されます。
 
 
ことばを話してゐる間だけでなく、
他の俳優のせりふの間も、
常に走つてゐます。
 
 
その動きは、
外には見えず、
内的な走りなのです。
 
 
しかし、運動量はさほど変はりません。
 
 
ですので、
冬の最中であるのにもかかはらず、
皆、汗びつしょりです。
 
 
  
 
★言語造形劇公演『 をとめ と つるぎ 』
 
 
日時・場所:
 
令和2年
3月28日(土) 大阪公演
山中能舞台 14時開演 
 
3月29日(日) 東京公演
中村中学・高等学校フェニックスホール 
15時開演
 
※大阪公演のみ、
住吉大社権禰宜の小出英詞氏による講演
『今蘇る神功皇后の伝承』があります。
 
 
料金:
ご予約 4000円  当日4500円  全席自由
 
 
 
お申し込み・お問い合わせ:  
「ことばの家 諏訪」 
Tel/Fax 06-7505-6405  
Mail info@kotobanoie.net

 
  

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2019年12月14日

教室こそ、ことばのお宮

 

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東京のとある女子中・高の先生方と、
『枕草子』の言語造形に取り組んでみました。
 
 
一段目の、
四季おりおりの景物とこころの織りなし合ひ。
 
 
そのやうな日本人ならではの感覚が、
和歌ではなく、
エッセイとして書き残されてゐます。
 
 
そこに滲み出る情をこそ、
文を声に出すことで、
じつくりと感じてみる。
 
 
そこに聴こえて来る沈黙の間の豊かさに、
耳を澄ます。
 
 
先生方ご自身が、
自身の息遣ひとことば遣ひから、
そもそも「ことばとは芸術そのものなのだ」
といふことに気づくほどに、
教室といふところが、
意味深い場になりえます。
 
 
教室が、ことばのお宮になりえます。
 
 
神聖な場といつてもいいやうに思へます。
 
 

この場を準備して下さつた方、
教務その他でまことにお忙しい中、
新しいことに挑戦された先生方、
本当にありがたうございました。
 
 
子どもたちや若い人たちが、
国語の底知れぬ魅力に目覚めていく、
そのことを何よりも希ひます。
 
 

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2019年12月10日

笠地蔵


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今日は、
昔話「笠地蔵」を子どもたちに語りました。
 
 
このお話をしてみて、
これは日本の昔話の中でも、
本当のまごころと神秘を伝へる、
屈指の国語芸術だと思はざるをえません。
 
 
町に出て笠が売れないといふことが、
生きることの苦しみを、
どれほど子どもたちに予感させるか。
 
 
そして、売れなかつた笠を
お地蔵様にかぶせて家に帰ってきた爺様を、
「それはよいことをしなさつたなあ」
と言つて迎へる婆様。
 
 
きつと、日本人が何百年にも何千年にも渡つて、
「人はこんなにも美しいこころを持つてゐるのだ」
といふことを静かに感じ続けてきたお話です。
 
 
そして、
一年の終はりに捧げられる神仏への思ひ。 
一年の初めに甦る太陽の神からの恵み。 

 
そんなお話が終はつた時の静寂の深さ。
 
 
年の終はりと始まりに、
いまもなくてはならない、
幼な子たちとのかけがへのない時間です。
 
 

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2019年12月01日

わたしたちの舞台創りにおける観点A



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今年1月に奈良で行はれた「古事記のまつり」にて


――――――――
 

シェイクスピアの英語は
語彙、語法、すべての点において、
他の同時代の作者に較べて遥かに難しい。
 
 
一般大衆の日常英語と較べたら、
それこそ雲泥の差であつた。
 
 
彼等は或る意味では
シェイクスピアのせりふは難しくて
よく理解できなかつたに相違ない。
 
 
エリザベス時代よりはるかに教育が普及し、
その程度も遥かに高くなつてゐる
今日のイギリス人にとつても、
シェイクスピアは難解なのである。
 
 
それでもイギリスでシェイクスピア劇を
一般観客が理解し易い様に
現代語訳して上演したりはしない。
 
 
そんな事を考へもしない。
 
 
だが、語彙、語法が難しいといふのは、
だからといつてそれが
楽しめないといふ事とは全く別事である。
 
 
近松の浄瑠璃の一語一語が理解できなくとも、
無学な江戸の民衆はそれを充分に楽しむ事ができた。
 
 
同様にエリザベス時代の大衆も今日のイギリスの一般観客も
原文のままのシェイクスピアを楽しんでゐるのである。
 
 
       (福田恒存『言葉の芸術としての演劇』より)
 
―――――――
 
 
 
たとへ、ことばの「意味」が分からなくとも、
わたしたちは、ことばの芸術としての演劇を
楽しむことができます。
 
 
前回の文章でも述べさせていただいたやうに、
ことばは、まづ、
その響きであり、
その質であり、
その形であり、
その動き、うねり、拡がりこそが、
その本質なのです。
 
 
ことばを理解しようとするのではなく、
ことばのそれらの質を感覚すること。
 
 
それらを感覚できるといふことが、
舞台で俳優が生の声をもつて演じるのを、
観に行き、聴きに行く、楽しみであるのです。
 
 
詩人のやうに言ふなら、
ことばとは音楽であり、
彫塑であり、
舞踊なのです。
 
 
幼い子どもたちは、皆、
理解してからことばを使ふのではなく、
そのやうに感覚をもつてことばを味はひつつ、
だんだんと日本語に上達して行きます。
 
 
大人は、ややもすると、
そのやうなことばの感官を閉じてしまひ、
理性だけでことばを聞き、
情報伝達のためにだけことばを使はうとしてしまひます。
 
 
しかし、ことばとは、もつと、もつと、
全人間的なもの、
宇宙的なもの、
神々しいものなのです。
 
 
だから、
わたしたちの舞台では、
その言語の言語たるところを引き立てるべく、
主に日本の古典作品を
原語のまま上演することに挑戦し続けてゐます。
 
 
これまでに、
『古事記』や『萬葉集』『風土記』に、
『源氏物語』や『平家物語』などを取り上げて来ました。
 
 
まだまだこれらの作品を深めて行きたいですし、
また別の作品にも挑戦して行くことで、
ことばに生命あり、精神ありと深く信仰してゐた、
日本古来の古典精神を、
ことばの造形を通して、
追ひ求めていきたいと希つてゐるのです。
 
 
そして、そのやうなわたしたちの仕事が、
新しくこの国の精神文化を支へ、育み、
後代へと大切な何かを受け渡していく
橋となることを
固く信じてやつてゐます。



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2019年11月29日

わたしたちの舞台創りにおける観点@



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文芸評論家であり、
翻訳家、戯曲家、演出家でもあつた、
福田恒存がこんなことを書いてゐます。 
 
―――――――
 
 
演劇とは、
せりふの芸術、
ことばの芸術である。
 
 
そして、
そもそも、
そのことばの「意味」が
分からうが分かるまいが、
そのことばに身ぶりがあれば、
観客は存分に楽しめるのだ。
 
 
なぜなら、せりふとは、
俳優の口を突いて出てくる、
その身悶えであり、
身振りであるからだ。
 
 
どんなに悲劇的な場面であつても、
ハムレットは、
自分のことばが身振りとしての律動に乗つて、
宙に飛び散つてゆくのを、
実はひそかに楽しみ、
その楽しみに酔つてゐる。
 
 
何かの「意味」などを
伝へようとしてゐるのではなく、
彼は自分のことばを吐き出してゐる。
 
 
ことばで自分を鞭打ち、
ことばで自分にまじなひを掛け、
自分をことばの次元にまで引き上げようと、
暴れ回つてゐるのだ。
 
 
わたしは、それを演戯とも呼んだ。
 
 
        (福田恒存『翻訳論』より)
 
 
―――――――
 
 

ことばこそが、
演劇を芸術へと高めるのであり、
決して理論や思考や思惑が
さうするのではないといふこと。
 
 
より精確に言ふなら、
ことばの音韻と律動とスタイルに導かれて、
ことばを生きれば生きるほど、
初めて演戯が成り立つ。
 
 
さらには、身振り、身悶え、しぐさ、
さういふ人のこころからの行ひこそが、
ことばの内実なのだといふこと。
 
 
だから、
俳優は、
音韻から音韻へ、
身振りから身振りへと、
繰りなしていくことができるほどに、
舞台の上での自由を獲得できる。
 

ハムレットが話すことばの「意味」を探つて、
役作りをするなどといふことは、
芸術としてお門違ひなことであり、
ことばからことばへと、
リズムに乗つて口ずさむ心地よさから、
しだいにことばの流れ、波、うねりの中へと、
入り込んでいくことで、
俳優はその役を摑んでいくのです。 
 
  
演出家とは、さういふ、
ことばの芸術としての演戯を
俳優ひとりひとりから引き出すべく働く者です。
 
 
今年の暮れの12月22日(日)の、
和歌の浦での『古事記の傳へ』。
 
 
来年3月28日(土)、29日(日)の、
大阪・東京での『 をとめ と つるぎ 』。
 
 
いづれも、
演出家のわたしとして、
その観点に絞り切つて創る舞台です。
 
 
木下順二や福田恒存が押し進めたかつた、
日本の舞台言語を芸術へと高める仕事を、
もう一歩奥へと進めたい、
と希つてゐます。
 

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2019年11月28日

己れの声を己れが聴く


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先日、高校生たちに伝へようとした事柄を、
いま一度、ここに記してみようと思ひます。 
 
 
そもそも、
和歌(うた)は読むものではなく、
声に出して歌ふものです。
 
 
なぜか。
 
 
和歌とは、そもそも、
なげきであつたからです。
 
 
なげきとは、
長く息を吸ひ、
長く息を吐くことだからです。
 
 
息遣ひから、
声が発せられ、
ことばの響きが宙に拡がつてゆく。
 
 
さうして虚空に拡がりゆく響きと調べが、
人の乱れに乱れてゐたこころを鎮め、
落ち着くべきところに落ち着かせるのです。
 
 
この声の作用は、
頭で考へられるだけのことばよりも、
いつさう、深く、強く、
人のこころとからだに降りて行きます。
 
 
なぜなら、
考へは過去に根差すものですが、
声は現在にあるものだからです。
 
 
ひたすらに、
声を出す人の「いま」を響かせます。
 
 
よつて、
声あることばの力によつて、
情が慰められ、
思ひが整へられ、
動揺に耐えることができ、
己れを建て直す機縁が得られます。
 
 
何千年前から日本人は、
そのやうにして、
激しい情の渦に巻き込まれさうになる
己れのこころを律し、
こころの解放と自由を生きるために、
和歌を声に出して歌ひつづけてきました。
 
 
その声は誰に聴かれたでせうか。
 
 
もちろん、人に聴かれました。
 
 
人に聴いてもらふべく、
ことばを整へました。
 
 
より上手く、より深く、
我がこころのありやうを
人に聴き取つてもらへるやうに
ことばを整へました。
 
 
しかし、本質的なこととして、
まづもつて、
他でもない自分自身によつて聴かれるべく、
その声は発せられたのです。
 
 
己れの声を己れが聴く。
 
 
これほどに、
ことばの持つ力が実感されるときはありません。
 
 
己れの声は、己れの「いま」であります。
 
 
嘘をつくことのできない「いま」であります。
 
 
己れの「いま」を、
己れが見いだし、
己れが深く受け取り、
己れが己れを消化するため、
人は、
和歌を歌つたのです。
 
 
『萬葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』・・・
それらは、
ことばの芸術に通じるわたしたちの御先祖様たちが、
なんとかこころの悶えを抑えようとして抑ええた、
ことばの事績の集積なのです。
 
 
さういふ声による自己陶冶の道を、
いまに甦らせるのが、
言語造形の道です。
 
 
ことばに鋳直され、造形された、
先人のこころの振幅を、
わたしたちは、
言語造形をもつて、
いま一度、追体験してみます。
 
 
そのとき、
わたしたち現代人と、
古(いにしへ)の人とが、
一挙に、こころを通はすことが生まれ得る。
 
 
それは、国語の、
さらには歴史・国史の最善の学びやうだと、
わたしは思ひます。

 
 

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2019年11月19日

(ま)といふ真実



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言語造形をするときに、
大事にされるまづ最初のことは、
息遣ひ、呼吸です。
 
 
そして、深く吐き出される息が、
ことばとことばのあひだ、
文と文のあひだに、
おのづと(ま)を生み出すのです。
 
 
その無音の閧ヘ、
豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
 
ことばが発音されるときよりも、
むしろ、その無音の閧フ中にこそ、
ことばの精神、言霊が響きます。
 
 
ですから、時閧ニ空閧、
ことばといふもので埋め尽くさないのです。
 
 
無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、
そこに物質的なものではない、
精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
 
その精神の豊かさは、
人の頭にではなく、
人の知性にではなく、
胸から腹、そして手足へと、
人の情、
人の意欲へと働きかけてきます。
 
 
そのやうな(ま)に触れるとき、
人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
 
からだの調子が悪い時、
そのやうな閧ノ触れて、
人は眠りにいざなはれるやうです。
きつと、精神がその人を、
休息へと導いてくれるのでせう。
 
 
逆に、からだもこころも健やかな時、
そのやうな閧ヘ、
その人の意識をますます目覚めさせ、
ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、
様々な感覚を享受させてくれます。
 
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、
それら様々な情景を、
「もののあはれ」として、
「言霊の風雅(みやび)」として、
「わび、さび」として、
人は享受することができるのです。
 
 
「(ま)」に耳を澄ます。
 
 
それは、静けさに耳を澄ますことであり、
かつ、
豊かに、活き活きと、
精神的な動きを共にすることです。
 
 
また更に、次のことは、これからの時代、
ますます顕著になつてきます。
 
 
それは、
こころの奥に、
自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、
自分自身に嘘をついてゐるとき、
自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、
人は、そのやうな閧ノ触れると、
不快感を感じたり、不機嫌になつたり、
耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、
「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、
この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを
直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
 
「真(ま)」に触れて人は、
だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、
健やかに、
欣びを存分に享受しながら仕事をし、
人生を生きていくでせう。
 
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
言語造形もそのやうな芸術のひとつです。
 

posted by koji at 06:58 | 大阪 ☁ | Comment(0) | ことばづくり(言語造形) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

日本の新しい舞台言語

 
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西戸崎の浜から日本海を臨む
 
 
 
『 をとめ と つるぎ 』。
 
 
この戯曲は、
「古事記」『日本書紀」「古語拾遺」などの、
我が国の古典文学を礎にしながら、
第十四代・仲哀天皇とその皇后・神功皇后を、
主人公とする現代戯曲として書いたものです。
 
 
先日は、
この作品のテーマが、
史実として展開した地、
福岡の香椎宮、宇美八幡宮に行き、
志賀島近くで三日間の合宿を行つて来ました。
 
 
この作品の中では、
現代的なことば遣ひもあれば、
古語そのまま、
古典そのまま、
そんなことば遣ひも多用されてゐます。
 
 
それら古語によつて記されてゐる古典、
とりわけ、「古事記」は、
本来、朗唱・朗読されるものでした。
 
 
その本当の意味は、
発声・発音によつてこそ、
初めてこころに深く受け取られるものです。
 
 
しかし、問題は、
「ふさはしい」発声・発音とは、
いかなるものなのか、といふことです。
 
 
これまで、我が国の演劇においては、
能楽、歌舞伎、文楽、その他いくつかのものが、
その様式を保ちつつ、生彩を放ちつつ、
生き残つてゐます。
  
 
昭和二十年代半ばあたりから、
木下順次といふ劇作家が、
「山本安英の会」といふ会を創り、
日本の舞台言語としての芸術性の追求を
試みたことがありました。
 
 
舞台公演としては、
『夕鶴』や『子午線の祀り』が特に有名です。
 
 
そこでは、
それらの古い様式をもつ演劇と明治以降の新劇とを、
なんとか、舞台上で合一させて、
新しい日本の舞台言語を生みだせないか。
 
 
木下順二の試みはそのやうなものであつた、
と思ひます。
 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」も、
これまで、古典作品を原語のままで、
舞台作品化することに挑戦してきました。
 
 
それは、古語の持つてゐる、
ことばのダイナミズム、生命感、奥深さ、美しさを
引き立てたかつたからに他なりません。
 
 
そのために、古典作品に、新しい意識で取り組むこと。
 
 
それは、言語造形といふことばの芸術をもつてです。
 
 
話す人の間合ひ、勢ひ、身遣ひ、息遣ひ、
そこから空間の中に解き放たれる、
音韻の形、動き、リズム、ハーモニー、タクト・・・。
 
 
それらは、
生きた言語の精神の法則に則つたものです。
 
 
それら、ことばから生まれる様々な要素を一身に響かせ、
音韻の動きと形に導かれ、奏でながら、
ことばを話す。
 
 
それは、ことばの意味を踏まえつつも、
ことばの表層的な意味から離れ、
ことばの音韻、ことばの調べを感覚しつつ、
ことばを奏で、ことばでその場を満たし、
空間をことばのお宮にすること。
 
 
演じる人も、観る人、聴く人も、共に、
そのことばのお宮のなかに包まれること。
 
 
その技量と見識を養ひ、培ひ、育んでいくのが、
わたしたち「ことばの家 諏訪」の仕事なのです。
 
  
日本の舞台言語とはどのやうなものでありうるのか。
 
 
明治以来、いまだに見いだせてゐないそのことに、
わたしたちはひとつの具体的可能性を提示しようとしてゐます。
 
 
日本の新しい舞台言語を生み出すこと。
 
 
それが、わたしたちの仕事です。
 
 
しかし、その最も新しいものは、
最も古いものと、きつと、響き合ふことでせう。
 
 
 
 

来年、令和2年3月28日(土)に大阪にて、
3月29日(日)に東京にて、上演いたします。
 
 
ぜひ、聴きにいらして下さい。


 


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2019年10月25日

私立高校の先生方とのワークショップ


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昨日、今日と、
日能研の下藤 陽介さんの肝煎りによつて、
東京の江東区にある、
ふたつの私立中・高校へ伺わせていただきました。
(下藤さん、どうもありがたうございました!)
 
 
昨日は、江東区東雲にある、
かえつ有明中学校・高等学校。
 
 
来月、11月に、高校生たちに特別授業として、
和歌のワークショップをするのですが、
まづは、国語の先生方と図書室司書の方とで、
言語造形を体験していただきました。
 
 
テキストは、
本居宣長読み下し文による『古事記』と、
中島敦『山月記』。
 
 
先生方は、
それらのテキストに、
まさに体当たりで挑んで下さいました。
 
 
印刷されてゐる文字を、
空間に生き物としてありありと甦らせる言語造形。


この芸術に初めて触れられたのにも関はらず、
先生方のその理解のダイレクトなこと。


先生方のそのご理解の直接性、深みは、
国語教育の長いご経験から、
長い自問自答の重なりから、
即座に摑まれた感覚の鋭さに基づいてゐること。
 
 
わたし自身、深く感銘を受けました。
 
 
ことばの働きに通じてゐない若者たちの現況。
 
 
それは、
わたしたち親の世代の国語力の反映に他なりません。


わたしたちは、これから、
どのやうな国語教育を模索・敢行していくことができるか。
 
 
国語教育を、
言語造形から、
創り始めて行く。
 
 
わたしは、
そんなプロジェクトを起こしていくことはできないか、
そのことをずつと考へ続けてゐます。
  
 
これから先生方と語りあふことができれば、
さう希つて止みません。
 
 
 

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そして、今日は、
江東区清澄にある中村中学・高等学校にお邪魔しました。
 
 
来年の3月29日(日)にする、
東京言語造形公演『 我らが神秘劇 をとめ と つるぎ 』。
 
 
その公演のためのホールを見させていただきました。
 
 
人の声がまろやかに優しく、かつ、明瞭に響く、
とても優れたホールでした。
 
 
担当して下さる中村高等学校の先生も、
言語造形にご関心を抱いて下さり、
12月に、
先生方で言語造形のワークショップをすることも決まりました。
 
 
 
わたしは、国語教育は、
国史教育と並んで、
国創りの根幹をなす大切なものだと考へてゐます。
 
 
新しい時代を生きる若い人たちのために、
新しい国創りのために、
少しずつ、種を蒔いて行きたいと思ひます。

 
 



posted by koji at 22:22 | 大阪 ☁ | Comment(0) | ことばづくり(言語造形) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月09日

目で読むだけでは見いだせない面白さ


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大阪城公園内の豐國神社

 
今日は、水曜・言語造形クラス。
 
引き続き、『古事記』を本居宣長の読み下し文でしてみました。
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が、八俣遠呂智(やまたおろち)を十拳剣(とつかつるぎ)で斬るに至る場面。
 
建速須佐之男命と足名椎命(あしなづちのみこと)との間の、二柱の神による、畳み掛けるやうな対話がもたらす、息詰まる切迫感!
 
この切迫感などは、実際に人によつて言語造形を通して響かせられねば、見いだせないもの。
 
しかも、現代語訳されたものでなく、古語のままだからこそ感じられる、ことばの音韻がもたらす音楽性と彫塑性。
 
目で読むだけでは見いだせない、かういふ面白さ、文学の味はひ深さが、言語造形にはある。
 
言語造形するにふさはしい言語芸術が、日本には古典として残されてゐること・・・。
 
ことばの感官(言語感覚)を啓くためにも、小学校・中学校から、この古典作品を言語造形することを国語教育に取り入れる先生が出てくればいい・・・。
 
国の歴史が神話のふところから生まれて来ることの神秘感が、人の内に育てばいい・・・。
 
 
 

 

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