2012年10月30日

今日の言語造形 〜アクティビティーと素直さ〜


今日も、ことばの家で、言語造形。
毎週通ってきてくださる方々のためのクラス。

ここでは、その人のアクティブな心意気が、いのちだ。

その人のことばや声やからだの姿勢に、
あるいは、時に、こころのありように、
働きかけるべくサジェスションをさせてもらう。

すると、ことばや声が、がらりと変わるだけでなく、
部屋の空気感まで変わってしまう。

この変容をもたらすのは、
その人のアクティビティーだ。

自宅でからだを使って練習を積んでいるほどに、
この週一回の稽古の中でその人が降りることのできる深さが増してくる。

そして、そのアクティビティーがあるほどに、
不思議なことだが、
その人は謙虚に、素直になっていかれる。

その謙虚さと素直さも、
その人の変容を促す大切な要因だということが今日も実感できた。

その謙虚さと素直さは、
人に対する盲信や盲従ではなく、
その場で行われていることに対する敬いと尊びからのものだと感じているのだが、
どうだろうか。

現代の人は、アクティブであろうとするほどに、
謙虚に、素直になっていく道が開かれていくようだ。
そのアクティビティー、意志の力は、
ある意味、授かりものかもしれない。

今日も、そんな意志の力が満ち溢れる稽古場にいて、ありがたくありがたく思った。

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2012年10月28日

今日の言語造形と『自由の哲学』

今日は、ことばの家で、仕事。

午前は日曜言語造形クラス。
宮澤賢治の作品などを生徒さんが言語造形しているのを聴いていると、
物語というものが、ことばを通して、
「情というもの」を彩り豊かに伝えようとしてくれているのがまざまざと分かる。

頭で考えていることを声に出すのではなく、
腰から前に出つつ、息を吐ききることを通してことばを発していくことで、
ことばの響きから、豊かな情というものが立ち上がってくるのだ。

物語はストーリー(物語)を伝えること以上に、
声によって物語られることによって、
シーン・風景の中に秘められている情(情景)というものを顕わにしてくれる。
そう、ものには、表情というものがあり、相(すがた)というものがある。

意味はすぐに伝えられる。
すぐ伝えられるが故に、いくらでも浅薄なものとして流通しやすい。
しかし、ものごとの相(すがた)は伝えられにくい。
世におけるものごとは、
平面においてではなく、深みにおいて、相(すがた)として顕れてくる。
その相を相として提示していくのが、
物語の目指しているところであるし、
芸術の向かうところでもある。

子どもは、
その相(すがた)をこそ愛する。
その相から、表層的な意味ではなく、情というものがおのずと湧き上がってくるからだ。

ストーリーは浅い知性でも捉えられる。
情はこころで捉えられる。
わたしたち人の内なる子どもは、その情(もののあはれ)をこそ求めている。
その「もののあはれを知る」ことは、いわば、深い知である。
芸術を通しての新しい認識である。


午後は『自由の哲学』クラス。
わたしたちは、なぜ、この本を読むのだろう。
それは、外の世から様々なものやことが押し寄せてきても、
いつでも、おのれ自身の真ん中に立ち返り、
その真ん中、おのれの内からこそ、
みずからの進んでいく方向性を決定していく力を培うためだ。

人間関係よりも、
おのれの真ん中との関係を視野の中心に据えるための力。

おのれの真ん中にこそ、
大いなる力、精神の力、神の恵みが降りたまふことを知るが故に。

その真ん中が、ひとりひとりの内で意識されているからこそ、
人と人とのかかわりが深まりえる。

そのことを確かめ合いながら、この本を読んでいくこと。
それは、学びの喜びを噛み締めさせてくれる。


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2012年10月27日

今日の演劇塾 和歌山県岩出 〜いのちの漲りとこころの歓び〜


今日は、和歌山の岩出で、演劇塾。

木下順二の『聴き耳頭巾』と宮澤賢治の『やまなし』に取り組んでいる。

ことばが息遣いの深さと俊敏さによって、俄然活き活きと響き出す。

全身を震わせながら声を響かせることの体験を、まずは大人たちが懸命になってやること。

以前は練習中もずっと暴れまわっていた1年生の男の子が、

回を重ねるごとに、練習を静かに盗み観ている。

今日は、お母さんが川の濁流に巻き込まれるシーンで、お母さんと一緒になって巻き込まれていた(笑)。

何より、お母さんが喜びをもって芸術に全身で取り組んでいるのを、彼はずっと観ているのだ。

そんな風でもいいから、だんだんと、子どもたちとお芝居を分かち合っていきたい。

ことばを口先でなく全身で語ろうとする大人が側にいることで、
子どもは、いのちの漲りとこころの歓びを引き継いでいってくれるのではないだろうか。

いつもながら、場所を提供してくれている後藤さん御家族と練習に通い続けてくれている皆さんに、今日も、本当に感謝、感謝だ。

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2012年09月26日

子どもの感覚を信じて 〜演劇塾での試み〜


水曜日の午後4時から始めている「帝塚山演劇塾」では、
まず、子どもも大人も、
からだまるごとを使ってことばを発声していくことから始めている。
全身が声になるほどに。

小学生の一年生と二年生の子どもたちが、
ライゲンで歌い、踊ることから始め、
学校の宿題である国語の教科書に載っている文章や、
工藤直子さんの詩集『のはらうた』を全身で動きながら音読した後、
原文で語られる『古事記』『古今和歌集』『平家物語』『論語』を復唱したり、
ことばのシャワーを浴びるように全身で聴いている。

その時の子どもたちの表情から、
昔の古典文学作品は、いまも、生きていることを、まざまざと感じさせてもらえる。

子どもたちは、
頭の知性で、それらの作品から発せられることばを聴いていない。
からだで、リズムと息遣いを感じながら、
こころで、時にそこはかとなく時に強烈な情緒を感じながら、
古典作品を原文で味わっている。

解釈したり、意味を追って跡付けたり、歴史的背景に目配せをすることなど全くせず、
ことばの世界に、文学の世界に、ダイレクトに入っていく。

そこには、人が記した、いのちとこころの漲りが、いまも、息づいているのだ。

そんな世界に、大人が飛び込もうとするからこそ、
子どもも一緒になって飛び込む。

からだの体験、感覚の体験を通して、
ことばと結びついていく。

そんなことを演劇塾で験している。



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2012年06月01日

言語造形することにおいて 備忘録(2)

言語造形の練習をしていて最も恩恵を感じるのは、
天と地のあいだにある自分を感じることができる、ということだ。

定型のことばを発し続けることによって、
息遣いがより闊達な、振幅のあるものになってくる。

天と地のあいだ、高みと深みのあいだを行き来する呼吸。

そして、そのあいだに立つ「わたし」。

この感覚は、本当に、ありがたい。

ひとりでありつつ、おおいなるものに支えられ、見守られている感覚だ。

この感覚が、普段の生活の中でも感じられるようになれたらな。

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2012年05月22日

言語造形することにおいて 備忘録(1)

言語造形においても、
稽古というものから、計り知れないほどの気づきが与えられる。
その細かいけれども、自分自身にとっては大きな気づきを記すための、
備忘録のようなものをつけていきたい。

シュタイナーが与えてくれた、
Hum Ham Häm Him
その他、いくつかの基礎練習を毎日時間をかけて、何年も何年もし続けること。

その基礎練習の中で、
呼吸の秘密、
からだと意識と精神を持っていることの密やかな関係、
ことばが見えるということのリアリティー、
それらが動きの中で観えてくる。

だんだんとからだの主(あるじ)になることへの希みが、
手応えをもって生まれてくる。

「外をうろつきまわる必要はない、お前は毎日、基となる練習をせよ」
という声が聴こえる。

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2012年03月27日

春の言語造形フェスティバル! 合同発表会 終わりました

発表会.JPG

「春の言語造形フェスティバル!」と銘打ちました、
にじいろの会(奈良)と森のしずく(京都)合同発表会を今日終えました。

お久しぶりにお会いする方々も含め、たくさんの方々に聴いていただき、
本当に嬉しい一日でした。

なにより、おひとりおひとりの語りが本当に充実してきて、聴き応えたっぷりで、
クリスタルボールと「古事記」の響きあい、
ライアーと宮澤賢治の『よだかの星』とのハーモニー、
その他その他、声のシャワーが部屋一杯に注がれていました。

小学生の子どもたちが、朝の10時半から3時までのすべてのお話を聴いていたのが、
嬉しかったなあ。

数々の文学作品を、からだまるごと耳にして、音のシャワーを浴びるように聴き入る、
ゆったりとした時間の流れ。
素晴らしい時間でした。

来てくださった皆さん、
またこれまで練習を重ねて、この日を迎えられたメンバーの皆さん、
本当にありがとうございました!

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2012年03月20日

糧としての言語造形

わたしが受け持けもたせてもらっている言語造形のクラスは、
どのクラスも5年から10年間ほど続いているのですが、
多少の人の出入りはあっても、
ほとんどの人は、クラスのはじめから言語造形を続けている人です。

クラスの中でそれらの人の語りに耳を傾けていると、
わたし自身、こころが震えたり、揺さぶられたり、鷲づかみにされたりすることが、
最近、頻繁に起こるのです。

聴いてくれる人たちから、わたしもよく言われたことで、
語り終わった後、
「よくそれだけ憶えましたね」「お上手ですね」「声がいいですね」などなど・・・、
声を掛けてくださいました。
ありがとうございます(汗)。

しかし、クラスで続けておられる方々の語りを聴いていますと、
もう、そんなレベルではなく、
発せられていることばそのものが、
命をもって空間を動き回っているのです。

そして、
ことばとことばのあいだ、音と音の間(ま)において、
その命がいっそう、盛んになって動いているのが観えます。

そのことばそのものの動きに見てとられることばそのものの命は、
稽古を自分自身で続けていることから生まれています。

それはその人から発せられる輝きと言ってもいいでしょう。

人が輝いているので、
ことばも輝くのです。

ですから、お稽古日とお稽古日の間の時間の中で、
どれだけ自分自身で稽古に励んだかが、
まっすぐに、クラスの中に現れます。

その意欲の持続の力と、
クラスでやってみることによってその都度新たに生まれる発見とが、
織りなしあい、
その人ならではのこころの輝きと命の漲りが生まれてきて、
わたしのこころを揺さぶります。

人って、凄いなあ、
理屈ではなく、
本当に意欲の力を芸術を通して発揮し続けていくことで、
こんなにも人は輝きを発して、
なおかつ、周りの人にその輝きを贈ることができるんだ、
ずっと、言語造形をやってきて、そのことを実感するのです。

本質的なことにおけるプロフェッショナルであることの重要性を認識しつつも、
外側の区切りによるプロとかアマという人に対する判断は、
だんだんと、どうでもよくなってくるのではないだろうかと感じます。

つまり、芸術をすることにおいて、
それによって飯が食えるとか、食えないとかに、意識が集中していくのではなく、
芸術をすることによって、
日々、わたしが、精神の糧、こころの糧、命をつないでいく糧を、
得られるかどうか。

そこへと、人の意識がだんだんと深まってくるでしょう。

これからの時代において、
どの人も、どの人も、芸術を通して、ますますその人になっていく、
そのような認識が広まり、深まっていくことでしょう。

芸術というものは、
何よりも、生み出していくこと、創造し続けていくことですので、
それは、必然的に自己教育なのです。

失敗を恐れず、
こつこつと、やり続ける何かを持つこと。

そのことの大切さを、
これからの人は、身をもって、知っていくべき時代に入ってきています。


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2012年02月15日

言語造形〜幼児期の子どもへの語りかけにおいて〜

昨日、兵庫県姫路市のある保育園に昔語りに行きました。

4歳児と5歳児、それぞれおよそ25人づつの子どもたちが丸い円になって、
お話とわらべ歌を聴き、唄い、踊りました。

約50人の真っ直ぐな瞳、健やかな声に囲まれて、
わたし自身が洗われたようになりました。

昨日、あらためて感じ、確かめられたことは、
その時期の子どもたちの成長にとって要となるものは、
動きなんだということです。

お話や歌のことばが分かる、分からないよりも、
そのことばに合わせて、
内的にも外的にも、動くことができるかどうか。

動きのあることばが、子どもたちの傍にいる大人たちによって話されているか。

なぜなら、
ことばとは、そもそも、
動きに裏打ちされていてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。

ことばというものを通して、
この時期は、すべてのものが、生きている、動いている!
わたしも僕も、みんな生きている、動いている!
そして、ことばというものも生きている、動いている!
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。

ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、
大人のように静かにして聴いているのではなく、
動きの中でこそ、動きによって生まれるバランス感覚の中でこそ、
育まれます。

もちろん、大人でさえも、何かに一心に耳を傾けているときには、
からだは動かさずとも、内側を動かしています。

シュタイナーは、
「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声しています。
 それは内なるオイリュトミーなのです」
と語っています。

その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。

子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、
彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。

外的に動くときは、できるだけ、
調和のとれた動き、
かたちある動き、
かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すような動きに導いていくことができたら、
素晴らしいですし(ライゲンやお話ごっこも工夫すると素晴らしいものになります)、
羽目をはずした子どもたちの動きにも、
「座りなさい、静かにしなさい」ということばではなく、
そのつどそのつど、芸術的に対応して、
ことばの裏側にある動きを通して、
子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。

幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育った子は、
小学校に入ってから、
今度は自分から動きのあることばを使うこと、話すことができるようになっていきます。

言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、
大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。



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2012年01月07日

大いなる恵み〜演劇祭 in 大阪あびこ ありがとうございました〜

あびこくすのき園に来ていただいたたくさんのお客様、どうもありがとうございました。
そして、手伝ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。
皆さんの暖かい気持ち、善意、喜びが、創り手であるわたしたちを包んでくれました。

終演後、アンケートを書いていただいたのですが、
こんなに絶賛されたことは、いまだかつてわたしは経験したことがない!(笑)

子どものまだあどけない、しかし、まっすぐな瞳と声。
お母さんたちの真摯な想い。
それらを、皆さんは感じてくださり、暖かい眼差しで見守ってくださったのでしょう。

今回のお芝居で、わたしが気づかされた最も大事なことは、
創り手であるわたしたち仲間のあいだに、
信頼と愛と各々の自立が育まれようとしているなら、
そこから見えない何かがわたしたちのお芝居創りの輪から拡がってゆく、
ということです。

その何かを、
観に来てくださったお客さんは、もしかしたら感じて下さっているのかもしれない。
きっと、そうに違いない。

そのことに気づき、実感できたことが、
この2012年という新しい年が始まるに当って、
天から授けられた大いなる恵みです。

まずは、小さなサークルの中の、
人と人との関係を丁寧に大事に育んでいくことから。
その関係性を、側にいる子どもたちは、きっと、見てくれている。

和歌山岩出シュタイナー演劇塾の皆さんとの共同作業のお陰で、
その確信をこれからも一歩一歩深めていく道を歩みだすことができそうです。

この世にいま共にいる朋、
そして見えないけれども応援して下さっている方々。

こころから感謝します。

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2011年12月28日

冬は、内を育む季節〜演劇祭in和歌山ありがとうございました〜

かさじぞう写真.JPG おはなし子ども写真.JPG  後藤さん「かさじぞう」.JPG
 

先日のクリスマス・イブの日、
「子どもも大人も演劇祭」を和歌山で開きました。

会場は古い民家をお借りしたのですが、
お陰さまで、満員のお客様で、
暖かい気持ちに包まれた、とても和やかな時間になりました。

初めて人の前で演じる子どもたちとその親御さんたち。
初々しい張りのある声と動き。

あれだけの人の前で、
思いっきり声を出し、歌い、演奏し、動いた子どもたちの内側では、
どのようなものが生まれただろうか。

そして、これからも、彼らといっしょに何を創っていくことができるだろう。

そう考えると、
この年の暮れに、わたし自身、本当に大きな宝の山をいただいたなあ、
と念うのです。


また、特に、今回の親御さんたちが演じた「かさじぞう」において、
演じ手の皆さんが、
外側のこととともに、
各々みずからの内側のことに意を注いでくださったことを感じました。

わたしたちは、
外側のものに沿うことも大切なのですが、
特にこの冬の季節においては、
むしろ外に沿うことから脱して、
意識的に、内側の生をいきいきと育むことで、
個人的なものを越えて、
より深く広やかな情と想いに生きることができる。

そして、その情と想いからこそ、お芝居に身を投じる。
もしくは、身を投じることによって初めて、
そのような情と想いが湧きあがってくる。

その深められ、強められた情と想い、そして捧げるということこそが、
「かさじぞう」というお芝居には必要でした。

舞台装置も背景も何もなく、
たったひとつの照明と、
ただ、演じ手さんたちがこころを籠めて作った素朴な衣装と、
抑制された動きと表情と、
そしてなにより、内なる情と想いを立ち上がらせることばの響き。

それだけです。

この冬の季節に、
意識的に内の生をいきいきと育むことで、
来る春と夏において、
わたしたちは、
外の世の美しさに出会うことができる道が啓けてきます。

冬は、内を育む季節。

わたしたちは、外でも、内でも、いろいろとあり、忙しくしていますが、
冬のこの時期こそは、
高いものをこころに宿すことを意識して、
静かに過ごしたい季節ですね。


    密やかに学ぶ人は、
   外の世に対して鈍くなってはほしくない。
   しかし、
   みずからのたわわな内の生がみずからに向きを与えるようにしてほしい。
   そして、
   その向きでみずからを外の世の印象に沿わせてほしい。
   ・・・
   まずもってわたしたちの内に生きるところが、
   わたしたちに外の世の美しさへの鍵を与える。
   ・・・
   人が外の世に向かう、内容のあるありようを育もうとするにおいては、
   きっと、みずからの情と想いにつきあうということを習っている。
   外の世はその現れという現れにおいて、
   こうごうしい晴れやかさに満ちている。
   しかし、人が、きっと、
   こうごうしさをみずからのこころに見いだしているからこそ、
   周りに見いだそうとする。
                 (『いかにして人が高い世を知るにいたるか』P.31〜32)


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2011年12月20日

クリスマスと「かさじぞう」

和歌山の岩出で、小学生の子どもたちとその親御さんたちとで、
この3ヶ月、お芝居の練習に取り組んできました。

そしてこの土曜日、クリスマス・イブの日に和歌山の米市農園で、
年を越えて1月6日(金)、顕現祭の日に大阪我孫子のくすのき幼稚園で、
「かさじぞう・おはなしのおはなし」を演じさせてもらいます。

子どもたちも親御さんたちも、それは頑張って練習してこられました。

ありがたいことに、
練習を重ねるほどに、
子どもたちの内側に増してくる喜び、
親御さんたちの内側に耕されていくこころの深みが、
感じられました。

それは、だんだんと育まれていく作品への愛でした。

この育みは、本当にありがたいことで、
人の力だけではなく、
わたしたちを見守ってくださっている目には見えない方々があられるかのように思えるのも不思議です。



お芝居を練習していますと、
そのプロセスの中で、いつもおのおのの作品の深みが見えてきます。

(「おはなしのおはなし」については、
 今回出演されるおひとりの方が書いてくださっています。
 どうぞご覧下さい。
 http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=279

今回、大人たちが演じる「かさじぞう」。

日本人には馴染み深いお話です。

貧しさのあまり食べるものもないじいさまは、
冬の夜に、
風と雪が吹き付ける中へと、
人の冷たいこころが吹き付け、通り過ぎていく中へと、
出て行きます。

それはまるで、この世における地獄巡りです。

その巡りの果てに、じいさまは六人の地蔵様に捧げものをします。

そして、じいさまは雪で真っ白になって、ばあさまのもとへと帰ってきます。

その白さとは、人の何を表しているのでしょうか。

その白いじいさまを、ばあさまは喜びをもって迎えます。

そのふたりの結びつきは、人の何を表しているのでしょうか。

その結びつきのもとに、
六人の地蔵様が、
どっさりこと、
豊かさをもたらしてくれます。

その豊かさとは、人に授けられる何を表しているのでしょうか。

パレスチナという地に、
イエスが生まれたことを祝うクリスマス・イブの夜。

そのイエスが30歳になったとき、
ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受け、
太陽の神であるキリストがイエスに降りたもうたことを祝う顕現祭。

そのクリスマス・イブの夜と顕現祭の日を結ぶ十二夜・十三日の、
丁度真ん中である大晦日の夜とお正月の朝との間に、
何が起こったのでしょうか。

古来、多くの民族の伝統において、
この時期に、新しく太陽の神さまが歳神として人々のもとに降りてこられ、
新しい年に備え、新しいたましいを与えてくださることを待ち望み、祝う、
宗教的な儀式が執り行われていたそうです。

わたしたち日本人も、その「新しいたましい」として、
大人たちから「お年玉」をもらっていたのでしょうね。

シュタイナーは、その太陽の神さまは六人おられると語っています。

そしてその六人の神さまの力をひとつにしてこの地に降りてこられたのが、
キリストだと語っています。

このクリスマスの時期に、
どっさりこと授けられる豊かさは、
わたしたちが新しい一年を生き抜いていくことができるための「お年玉」かもしれませんね。

皆さんとこの聖きことの雰囲気を、
いくたりかでも分かち合うことができればと願っています。


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2011年10月20日

シュタイナー演劇塾(和歌山岩出) 始まってます

毎週土曜日の午前、
田んぼと畑に囲まれた農家を改築した一軒家をお借りして、
小学生、中学生から大人、それに赤ん坊や幼児まで14,5人集まり、
演劇を創っていく作業に入っています。

まずは、大人の方々が、どんどん自分の殻を脱いで、声を響かせ始めていること。
子どもたちは、その大人たちの姿にきっと何かを敏感に感じているでしょう。

わたしたち大人がまず、
まっすぐに大地の上に立ち、
人と向かい合い、
からだを動かし、
声を震わせ、
語りかけ、
語り合っていくこと。

そんな環境の中で、
子どもたちが、
まずは、
まっすぐに立ち、歩き、
声を朗々と響かせながら、
だんだんと育っていく。

「子ども時代」を守るために、
いまという時代においては、
意識的にそのような場を創っていくことがあってもいいのではないかと思うのです。

わたしたち大人は、自分の子どものためにだけでなく、
協力して互いの子どもたちを、
そして、子ども時代を、
見守っていきたいと希んでいます。


参加されている方のおひとりが、
ブログに塾の時間を振り返って書いてくださっています。
http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=273
http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=275

Gさん、どうもありがとうございます。

posted by koji at 19:35 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月05日

昔話・メルヘンの人格

遠藤登志子さんという、
福島で昔語りをされていた方がいて、
その語りは『遠藤登志子の語り』(一声社)として出版されている。

昭和4年(1929)に福島県福島市吾妻町土船でお生れになった方だ。

その遠藤さんの「語り部人生」という文章に、
こんなことが書かれてある。

   昔話とは不思議なもので、
  代々懐に抱かれ暖められて次の世代に渡されるものですが、
  幾百千年人肌の暖かみに育てられて来たためか、
  一話一話に、
  命があり意志があるようなんです。
  私は話殿と言って居りますが、
  その話殿、それぞれ格があって面白いんです。
  紋付袴の話殿や、
  尻切半天の爺さま話、これが又飄々として結構なんですが・・・
  その話殿に守られて生きているような気がします。



ひとつひとつのお話し、昔話、メルヘンには、
それぞれひとつの人格があるように感じられる。

遠藤さんがおっしゃっている「話殿」だ。

人はみな、こころを持っている。
そのこころの中には、
いつも意志(欲する)と思考(考える)と感情(感じる)が働いているが、
お話しを語り続けているうちに、
お話しひとつひとつにもこころがあり、
思考と感情と意志があることを感じ始める。

ただ、そのと意志と思考と感情は、
それが本に印刷されたままでは、
眠っている状態であり、死んでいる状態である。

それらひとつひとつの昔話は、
人によって蘇らせてもらえるのを、
願い、希んでいる。

まず、お墓に入っているようなそれら「話殿」の意志は、
人に息を吹き込んでほしいと欲している。
人に、アクティブに、からだの奥から、息遣い豊かに、愛を持って、
声に出して語ってほしいと願っている。

内なる身ぶりと内なる歩行をもってことばを話すこと、
それはお話しの一文一文、一語一語に描かれてある動きを、
語り手自身が模倣して動くことなのだが、
その行為によって、
話に命がもたらされる。

言語造形は、そのことを実感させてくれる。

そして、「話殿」の思考は、
印刷されてあることによって、
また、人に表面的に付き合われることによって、
まだ、死んだ思考のままである。

つまり、
「これこれ、こういうお話しです」
「ああ、そういうお話しね」という情報だけが、
話し手から聞き手に伝えられはするが、
そこに絵姿はない。
あっても精彩に欠けたものである。

しかし、人の意志によって「話殿」の意志に火が点くと、
その死んでいた思考が活き活きと蘇ってくる。
活き活きとした絵姿、生きた思考をもって、
語り手と聴き手の間に動き始める。

死んだ思考が生きた思考に蘇る。

アクティブに一音一音の造形に取り組んでいくことで、
話の精神、ことばの精神が生きた思考、生きた絵姿として動き出す。

そのことも、言語造形によって実感される。

その、蘇った意志(母)と思考(父)の結び合い、結婚によって、
活き活きとした感情(子)が立ち上がってくる。

語り手が聴き手に押し付けがちな恣意的な感情ではなく、
「話殿」が本来持っている感情である。

人為的に、捏造された感情ではなく、
お話しそのものにそもそも宿っていた感情である。

だから、語り手は、
語るたびごとに、
生きものである「話殿」の意志と思考と感情に触れることになるので、
何回語っても、飽きることはない。

「話殿」
それは、間違いなく、こころと精神からなる存在である。

そのような存在と共に、
語り手として聴き手として毎日生きていると、
まずは目に見えないこころと精神の次元で、
そしておのずと目に見える次元においても、
自分が満たされていくのを実感していく。

遠藤さんも、こう書かれている。

   ・・・唯、友達が語れと言う、
  面白いから聞かせてと言われれば、
  思い出すままに喋って来て、
  珍しいものを見せて頂き、美味しいものをご馳走になったり、
  素敵な友人が沢山居て大事にしてもらって、なんて勿体ない話です。
  時々思うのですが、私、こんなに幸せで良いのか、どうも夢のようだ、
  覚めた時困るから、余り信用しないでおこう、と、ブスッとして居ます。
  ・・・金の外は此の世の幸は皆頂いて居ります。


ルードルフ・シュタイナーは、
『精神科学の光の下にみるメルヘン』という講演でこう語っている。

   メルヘンや伝説は、
  人が生まれたときに生きる歩みに備えて故郷から授けられる善き天使である。
  それは生きる歩みを通して、人にかいがいしく付き添う伴侶である。
  そして、それが人に付き添うことによって、
  生きることそのことがまこと、内的に活き活きとしたメルヘンになるのだ。

追記:遠藤登志子さんは、今、どのようにお過ごしでいらっしゃるのでしょうか。
    今、見た、「今回の震災(東北大震災)でお亡くなりになり身元が確認された方々の一覧表」に、
    「遠藤登志子 84歳 福島県南相馬市小高区井田川」とありました。
    別の方かも知れないのですが・・・・。
    遠藤さん、ありがとうございます。


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2011年06月22日

絵本の読み聞かせ

シュタイナー教育においては、絵本ではなく、語りで、
子どもたちに物語を伝えることの大切さが説かれています。

それは、決められた絵によって制限されることなく、
子どもがことばのみを受け取ることによって内側に絵姿を自由に繰り広げつつ、
言葉の世界、物語の世界にファンタジーを持って生きることの重要性を知っているからです。

しかし、その他多数の教育現場、もしくは家庭においては、
絵本を通しての生の声による読み聞かせが、
大人にとってやはりより近づきやすく、親しみやすいと言えるでしょう。

絵本は、絵そのものが、すでに、ことばを語っている芸術でもあります。
しかし、その絵に重ねて、愛を持ってことばがふさわしく発せられるならば、
その働きかけは子どもの内側に時間をかけて入り込んでいくでしょう。

また、読み手のふさわしい息遣いによって、
絵そのものは止まっているのにもかかわらず、
その絵が動きを持つかのように、輝きと色彩を発するかのように、
子どもに受け取られていきます。

絵本の読み聞かせ。
そこにも、子どもの内なる意欲と情の培い、ファンタジーの育みを促す機会を見いだすことができます。

絵本の読み聞かせについてのインタビュー記事です。↓
教育情報誌 『キッズレーダー』2011年7月号  特集 「絵本のチカラ」
http://www.nichinoken.co.jp/wing/magazine/2011/spe_kids1107.html


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2011年02月08日

園児たちとの時間

幼稚園や保育園で、
ライゲンと歌、詩、お話を通して、
子どもたちとの静かで、かつ活き活きとした息の深い時間を創っています。

四季それぞれに応じ、
日常の仕事の仕草から、
またメルヘンから、
明瞭でおおらかな身ぶりを通して、
身体を動かし、
詩を口ずさみ、
歌を歌い、
お話を聴き、
そのお話にあわせて再び動いたりします。

ライゲン、詩、歌、お話。

芸術をこころから大人が生きようとしますと、
子どもたちは見事にその動きに沿って動こうとします。

東京で活躍されている角口さかえさんの示唆なのですが、
http://tsunobue.jimdo.com/
歯が生え変わるまでの子どもは、
他者の動きを真似ようとするときに、
大人と違って、
考えを差し挟まない。
いちいち、右手を動かして、次は左手・・・などと考えずに、
感官を目一杯開いて、
そこにやってくる感覚からまっすぐに動きに入っていく。

なんとすごいことなのでしょうか。

そのような子どもの感覚を育むために、
大人は芸術的に動き、歌い、話す。

後になって子どもが他人から動かされるのではなく、
生涯に渡って、「わたし」から、
動き、ことばを話しつつ生きていくための基を築くことの大切さを想います。

この時期に感官を育むことで根を育てることで、
後に自分自身で考えることのできる力としての
その人ならではの花を咲かせることへと繋がって行きます。


昨日も、子どもたちとそんな時間を共に過ごしました。

春の目覚めをかすかに感じながら、
大地からだんだんと起きあがっていき、
うららかな日の光の下で遊び、
また日が落ちて行き、眠りに入る。

その詩と歌と動きの繰り返し。

また、グリムメルヘンの「おいしいお粥」。

そしてそのメルヘンに沿って動きながら再びお話を味わう。

確かで活き活きとしたことばの形と動き。

言語造形からできることをどんどんやっていきたいと思っています。

posted by koji at 08:15 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月03日

ことばと行為の一致

先日、「シュタイナー教育からの文法の授業&言語造形体験講座」を、
奈良の学園前で開きました。

そこでの授業内容の大きな前提として述べたことを、
ここでもお伝えしたいと思います。

これは、ミヒャエル・グレックラーさんの『両親の問診時間』で述べられていたことです。

子どもに文法の授業であれ、何の授業であれ、
まず大きな前提としてあっていいのは、
それを語る大人自身が、
おのれの語ることばとしっかりと結びついていることです。

何かについて語り、何かについて考える。

しかし、わたしたち現代人はとかく、その何かの内にはいず、
その何かと結びついてはいない。

外からその何かについて考え、語る傾きがありますよね。

考えていること、言っていることと、
やっていることとが分かれてしまっている。

せめて、その分かれてしまっている事を自覚しながら考え、語ることができればいいのですが。

特に、子どもに対しては、
そのような習いとなってしまっている結びつきの緩いことばが、
徹底的に力がないことを、
わたしたちは実感し始めています。

まずは、すること。

次に、言うこと。

そして、言うならば、することが伴なっていること。

これが、0歳から7歳、いや、
本来ならば8歳、9歳のあたりまでの子どもに対してとても有効な働きかけです。

その頃までの子どもは、
周りの「すること」「行為」を真似る力がとてもとても強いのですから。

その人間としてのよりふさわしいありかたである、
ことばと行為との一致を、
大人が改めて学べる機会を、
言語造形は差し出しています。

子どもに向き合おうとしている教師の方、大人の方に、
今年はなんとか道を見いだして、
この言語造形を紹介していきたいと考えています。


posted by koji at 22:28 | 大阪 ☀ | Comment(2) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月11日

広島 昔がたりの講座と公演 ありがとうございました!

昨日、今日と、快晴の下、
瀬戸内の海を間近にするカフェ「Holistic Living Space Zion」での講座、公演が終わりました。

1年に1回伺わせていただいて、
皆さんと言語造形に取り組んでいるのですが、
今回、この1年に1回というペースのなかにおいてさえも、
毎回必ず参加される皆さんが確実に、
言語造形の言語造形たるところに少しずつ迫られていることをはっきりと感じました。

継続の力を感じました。

言語造形とは、
ことばの芸術であり、
それは芸術であるがゆえに
生活のありようと深みにおいて不可分に結びついている。

生活を丁寧に見直すこと、
そこから、ことばへの意識も育まれていく。

言語造形により、ことばへの意識を育んでいくこと、
そこから、生活を丁寧に見直すことへと意識がまた育まれていく。

そんなことをみんなで確認しあえた時間であったように思います。

わたし自身も公演をさせてもらって、
言語造形の大事な要素を思い出させてもらいました。
わたしにとって、大きな大きな気づきです。

皆さん、本当にありがとうございました。

posted by koji at 22:03 | 大阪 ☁ | Comment(6) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月05日

身を挺することができる人

北海道のミカエルカレッジでのワークショップ。

9月の末から5日間連続でした。

14人の方たちと毎朝4時間ずつ言語造形。

まず最初に皆さんにこんなことを伝えました。

「この5日間は、朝の時間だけでなく、一日のうちの他の時間も授業だと思ってください。
できる限り稽古してください。そして稽古したものを引っさげてこの授業に出てきてください」

こうしたことばをまるごと受け取るには、
きっと何らかのこころの状態・準備が必要になりますよね。

おひとりおひとり、様々な受け取り方をしてくださったと思います。

今回、何よりもわたしがこころ深く動かされたのは、
多くの方が一生懸命練習を重ねつつ、
授業に臨んでくださったことです。

そういった努力を重ねている人の姿は本当に美しい。

うまくできる人が美しいのではなくて、
純粋に何かに身を挺することができる人から発する光と熱が美しい。

そして、5日目の発表のときのその光、光、光がスパークする様に、
わたしは本当にうたれました。

参加してくださった皆さん、
皆さんのこころ意気は、
わたし自身のこころざしの方向性の確かさをはっきりと確認させてくれました。

ありがとう!



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2010年08月13日

星の銀貨

わたしは、このグリムメルヘンをいくたび語ってきただろう。

おそらく、何百回だろうか。

しかし、これまでに「ああ、これだっ」と感じられたことは一度もなかった。

様々な試行錯誤を繰り返しながら、
そのたびそのたびにチャレンジするのだが、
いつもこのメルヘンの底を流れているはずの感情の上を上滑りしている自分を発見させられてしまう。

今日、練習していて、
初めて、この感情の水底に足を立て、
流れる水を感じることができたように思ったので、
思わずこうした文章を書いてしまっている。

表現というものではない。

何かを付け加えたり、加工したり、工夫することではない。

ただ、ただ、音の響きにみずからを捧げるのだ。

そのとき、世そのものが、恩寵のように、
この物語が秘めていた感情としての意味をわたしに与えてくれる。

posted by koji at 08:59 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする