2013年06月02日

昨日の岩出演劇塾

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この写真は、大人たちが精一杯落語をお芝居にして演じる練習に取り組んだ後、小学3年生の女の子がお母さんとペアになって物語を語り、演じているところ。
昨日の演劇塾でも感じました。大人が本気になって楽しんで、することへの意味を見いだして、精一杯何かに取り組んでいるときこそ、子どもは大人から何も言われなくても、自分から気持ちとからだを動かしてくる。
そんなときの子どもの美しさは、花が開き始めた、とか、光が輝いている、しか言いようがありません。

写真は、「モモの会」の方から拝借しました。ありがとうございます。

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2013年05月18日

言語造形 〜ともに仕事をしていくこと〜

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白いバラたち 2013・5・18 うつぼ公園.JPG



シュタイナーが示してくれた数多くのメディテーションの中に、
わたしは、ある
ということばを眉間において意識することから始まるものがあります。

このことばから始まるメディテーションに包まれている力はとても強く、
時に他者のことや過去の自分のことを気にかけてこころが乱れているわたしは、
「いま、ここに、ひとりで、あること」の力強さ、確かさ、安らかさに立ち戻ります。

わたしは、いま、ここに、ある。

わたしには、役目と使命があります。

それは、言語造形をすることです。

言語造形を通して共感と喜びと認識と祝福を人と分かち合うことです。

そして、ともなる信頼を基にして力と智恵を合わせて働いていくことです。

言語造形の深みを分かち合い、語り合い、探究し合いながら、ともに仕事をしていくことです。

ことばという、人にとってのおおもとのところに立ち戻ってみることの喜びと驚きを共有していくことです。

そして、ことばを、日本語を、
古くて新しい意識で捉え直すことを多くの人と一緒に日本中で推進していくことです。

これこそが、わたしのしたいことです。したくてしたくて堪らないことです。


そして、そのことを、もうさせてもらえ始めていることに、感謝してもしてもし尽せない。

この気持ちをどこへ持っていったらいいだろうと思います。

「わたしは、ある」
ということばの力が、いつも本来のわたしを想い出させてくれ、
生きていく力となります。

そうして、わたしは言語造形の仕事と稽古に入っていくことができます。


いま、そんなふうに、自分のしたいことをしている人、
理想を実現しようとしている人、もうしている人が、
自分の周りにたくさんいるんです。

他人のことをいろいろと気にかけるのをやめて、
意識を「わたしは、ある」にもってくることをしている人たちかもしれません。


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2013年05月13日

広島大学にて言語造形 〜衛藤先生、西井さんと〜

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先週の水曜日、そして今日と、広島大学に伺って、言語造形の時間を持ってきました。

大学院で学んでいる若い人も加わって、
こころが清々しくなるような素晴らしい時間を生きることができました。

呼んでくださったのは、同大学院文学研究科准教授をされている衛藤吉則先生。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/bungaku/staff/p_f12334.html

シュタイナーのアントロポゾフィーにおける哲学・認識論を通して、
人の自己教育、自己認識、自己実現を、大学の中でずっと学生さんたちとともに追求されている先生です。
そして、将来、ご自身のイニシアティブで治療教育・看護を軸とする場を創っていく夢を熱く抱いている方なのです。
そのような熱い情熱を抱かれている方だからこそ、
今回わざわざ言語造形を体験するために大阪からわたしを呼んでくださったのだと思うのですが、
その熱い想いにもかかわらず、
穏やかで、ものごとを柔らかく受け止められる衛藤先生のあり方に、
わたしは本当に敬意を覚えました。

また、今回の衛藤先生とのご縁を作ってくださった西井美穂さん。
http://ameblo.jp/mihorintatsurin/
彼女は同じく広島大学大学院でアントロポゾフィーの認識論・倫理哲学を研究されています。
彼女は、そもそも、言語というものに以前から関心を抱き続けていらっしゃって、
そしてとてもとても熱心な方で、
わたしが兵庫県姫路市でしている言語造形の会にも足を運んでくださっています。
さらに彼女は日本語での『神秘劇』上演を目指すプロジェクトにも参加されています。


言語造形のこと、ヴァルドルフ教育のこと、現在の日本の大学という場におけるアントロポゾフィーの受容のされ方、そしてさらに互いの家族のこと、将来の夢のこと・・・
話は尽きませんでした。

衛藤先生、西井さんの熱い想いと細やかで暖かいお心遣いのおかげで、
素晴らしい時間を持つことができたことに感謝、感謝です。

今回のように、言語造形の体験を通して、
人と人とが共感を分かち合い、互いに語り合い、互いを知り合う、
そのような時と場を提供していく仕事。
これは、わたしに与えられたまぎれない使命であり、恩恵です。

衛藤先生、西井さん、どうもありがとうございました。





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2013年04月28日

新しい内なる誕生 〜みのお演劇塾 春の演劇祭、終わりました〜

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昨年の秋から始まった「みのお演劇塾」。
当時、小学一年生、二年生の子どもたちと親たちで言語造形による語りとお芝居に取り組み始め、初めてのお披露目をみのおシュタイナーこども園で昨日行いました。
演目は日本昔話から「ならなしとり」。

子どもたち全員が、自主的に、喜んで、声を出し始めたのは今年に入ってからで、
始めてから数か月は、声を出すことに随分戸惑っていました。
傍で、大人が本気になってからだを動かし、声を出しているのです。
そんなことをこれまでに体験していなかった子どもにとって、
それは戸惑うことだったでしょう。

また、小学校に入ったばかり、ということもあったのかもしれません。
子どもたちのこころの中で様々なものが渦巻いているようでした。

しかし、子どもたちは、本当は思いっきり声を出したがっているのです。
これまでのひたすら感覚することに勤しんでいた子どもたちのあり方が、
歯の生え変わりに伴って、
何か自分の内なるものを外へと発していきたい、
そんな「する」ことを欲するあり方へとだんだんと変容を遂げつつあります。

わたしたちは、子どものその内側の見えざる欲求に応えようとします。
その欲求に応えるためには、大人が本気になることが肝要なのですね。

今回のお披露目会では、子どもたちひとりひとり、精一杯声を響かせていました。

これは、傍にいる親御さんたちが本気になってからだまるごとで言語造形に取り組んでいたからこそなのです。

劇の最後に、小学三年生になった男の子が、
「また新しい作品をやっていきたい」とお客さんの前で堂々と言っていたことが、
その子の意欲と感情のまた新しい誕生を見させてもらったかのようでした。

来てくださり、子どもたちとその親たちを見守ってくださった皆さん、
そしてすべてを包み込むような場を提供してくださったみのおシュタイナーこども園の皆さんに、
こころから感謝します。ありがとうございました。

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出演した子のお父さんがチェロの演奏で今回の演劇祭ならではの雰囲気を見事に醸し出してくださいました。

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わたしもグリムメルヘンの「おいしいお粥」を語らせてもらいました。

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2013年04月26日

昔話・メルヘンの人格 〜遠藤登志子さんへ〜

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遠藤登志子さんという、
福島で昔語りをされていた方がいて、
その語りは『遠藤登志子の語り』(一声社)として出版されている。

昭和4年(1929)に福島県福島市吾妻町土船でお生れになった方だ。

その遠藤さんの「語り部人生」という文章に、
こんなことが書かれてある。

   昔話とは不思議なもので、
  代々懐に抱かれ暖められて次の世代に渡されるものですが、
  幾百千年人肌の暖かみに育てられて来たためか、
  一話一話に、
  命があり意志があるようなんです。
  私は話殿と言って居りますが、
  その話殿、それぞれ格があって面白いんです。
  紋付袴の話殿や、
  尻切半天の爺さま話、これが又飄々として結構なんですが・・・
  その話殿に守られて生きているような気がします。


ひとつひとつのお話し、昔話、メルヘンには、
それぞれひとつの人格があるように感じられる。

遠藤さんがおっしゃっている「話殿」だ。

人はみな、こころを持っている。
そのこころの中には、
いつも意志(欲する)と思考(考える)と感情(感じる)が働いているが、
お話しを語り続けているうちに、
お話しひとつひとつにもこころがあり、
思考と感情と意志があることを感じ始める。

ただ、その思考と感情と意志は、
それが本に印刷されたままでは、
眠っている状態であり、死んでいる状態である。

それらひとつひとつの昔話は、
人によって蘇らせてもらえるのを、
願い、希んでいる。

まず、お墓に入っているようなそれら「話殿」の意志は、
人に息を吹き込んでほしいと欲している。
人に、アクティブに、からだの奥から、息遣い豊かに、愛を持って、
声に出して語ってほしいと願っている。

内なる身ぶりと内なる歩行をもってことばを話すこと、
それはお話しの一文一文、一語一語に描かれてある動きを、
語り手自身が模倣して動くことなのだが、
その行為によって、
話に命がもたらされる。

言語造形は、そのことを実感させてくれる。

そして、「話殿」の思考は、
印刷されてあることによって、
また、人に表面的に付き合われることによって、
まだ、死んだ思考のままである。

つまり、
「これこれ、こういうお話しです」
「ああ、そういうお話しね」という情報だけが、
話し手から聞き手に伝えられはするが、
そこに絵姿はない。
あっても精彩に欠けたものである。

しかし、人の意志によって「話殿」の意志に火が点くと、
その死んでいた思考が活き活きと蘇ってくる。
活き活きとした絵姿、生きた思考をもって、
語り手と聴き手の間に動き始める。

死んだ思考が生きた思考に蘇る。

アクティブに一音一音の造形に取り組んでいくことで、
話の精神、ことばの精神が生きた思考、生きた絵姿として動き出す。

そのことも、言語造形によって実感される。

その、蘇った意志(母)と思考(父)の結び合い、結婚によって、
活き活きとした感情(子)が立ち上がってくる。

語り手が聴き手に押し付けがちな恣意的な感情ではなく、
「話殿」が本来持っている感情である。

人為的に、捏造された感情ではなく、
お話しそのものにそもそも宿っていた感情である。

だから、語り手は、
語るたびごとに、
生きものである「話殿」の意志と思考と感情に触れることになるので、
何回語っても、飽きることはない。

「話殿」
それは、間違いなく、こころと精神からなる存在である。

そのような存在と共に、
語り手として聴き手として毎日生きていると、
まずは目に見えないこころと精神の次元で、
そしておのずと目に見える次元においても、
自分が満たされていくのを実感していく。

遠藤さんも、こう書かれている。

   ・・・唯、友達が語れと言う、
  面白いから聞かせてと言われれば、
  思い出すままに喋って来て、
  珍しいものを見せて頂き、美味しいものをご馳走になったり、
  素敵な友人が沢山居て大事にしてもらって、なんて勿体ない話です。
  時々思うのですが、私、こんなに幸せで良いのか、どうも夢のようだ、
  覚めた時困るから、余り信用しないでおこう、と、ブスッとして居ます。
  ・・・金の外は此の世の幸は皆頂いて居ります。


ルードルフ・シュタイナーは、
『精神科学の光の下にみるメルヘン』という講演でこう語っている。

   メルヘンや伝説は、
  人が生まれたときに生きる歩みに備えて故郷から授けられる善き天使である。
  それは生きる歩みを通して、人にかいがいしく付き添う伴侶である。
  そして、それが人に付き添うことによって、
  生きることそのことがまこと、内的に活き活きとしたメルヘンになるのだ。

追記:遠藤登志子さんは、今、どのようにお過ごしでいらっしゃるのでしょうか。
   「今回の震災(東北大震災)でお亡くなりになり身元が確認された方々の一覧表」に、
    「遠藤登志子 84歳 福島県南相馬市小高区井田川」とありました。
   別の方かも知れないのですが・・・・。
   遠藤さん、ありがとうございます。



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2013年04月23日

『高瀬舟』京都公演を終えて

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(リハーサル時の写真)



先日、京都紫野上門前の家での『高瀬舟』公演を終えました。
その家は、その昔は西陣地域の中の、西陣織の機織機があった住居兼工場だったところです。
今回、作曲とヴァイオリンの演奏をしてくださった森田徹さんが建築事務所として、
奥さんの久美さんがお料理教室として使われています。

主人公の「喜助」とその「弟」が働いていたというこの西陣で、
そしていまも仕事場としてとても強い意識で育まれているこの場で、
今回『高瀬舟』という物語が奏でられたことは、
この物語にとって、ひとつの仕合わせだったのではないかと感じています。

表面的な符合ではなく、
この物語と、この場と、この場に集ったわたしたち、
それぞれの精神が深いところで和音を奏でていた、
そんな感慨を、いま、抱いています。

場と人を得ていのちを吹き込まれ、
そしてこの物語を聴いたわたしたちのこころの深みに、
これからも密やかに鳴り続けていく通路を見いだせた、
そんなささやかだけれども深い喜びを、
この作品自体が、いま、感じているようです。

共演してくださった徹さんのヴァイオリンの響きは、
あるときは春の夜の夢のようにわたしを包み、
あるときは水面のさざなみのようにわたしを震わせ、
あるときは光を発するようにわたしを貫いていきました。

その響きは、
ものごとの深みを追い求めていこうという真摯で喜びに満ちた徹さんからこそ、
生まれでたものでした。

そんな響きに支えられながら、
ことばの精神が降りてくるのを待ちつつ全力疾走をした今回の公演。

わたしにとって、
葛藤と危機と自律と自己信頼、そして世への信を稼ぐことのできた、大いなる一日でした。

公演という公共の場でことばを発していくときに、
ことばがことばとして歩いていく道を妨げようとする障害が次から次へと立ち現れてきます。
それは、目に見えない障害で、わたしの外に現れてきますが、
わたしのこころの内実に他ならないのです。

わたしのこころに長く、永く、巣食っていた、「恐れ」。
それは、わたしのこころを一瞬の内に硬く冷たくさせ、
前に向かって歩いていこうとするわたしの腰を後ろに引かせます。

その「恐れ」は、いまもあるでしょうし、これからもわたしのこころに立ち現れてくるでしょう。
しかし、今回の公演を通して、
その「恐れ」というものを、これまでにないほどしっかりと目の前に据えることができ、
それをわたしは乗り越えられるということを知りました。

お昼と夜の二回公演だったのですが、
お昼において、わたしは葛藤の只中でもがきながら、這いずりまわりながら、
物語を生きました。
そして夜において、わたしはこれまでわたしを縛っていた鎖を引きちぎって、
ことばの海の中へ飛び込んで行きました。

そのように、熟することとは程遠いわたしの語りを聴きに来てくださった皆さん、
公演を隅から隅まで支えてくださった久美さんとスタッフの皆さん、
そしてこれ以上ないほどの充実したときを共に生きてくださった徹さん、
本当にありがとうございました。


確かに在るものを語るのではなく、
語ることによってものを確かに在らしめること。

『高瀬舟』という作品が確かに在るということに、
わたしは仕えられただろうか。

これからも、何度も何度も言語造形の舞台に立って、
「ものが確かに在る」ということ、
「はじめにことば在りき」ということに、
仕えるべく挑戦していきたいと思っています。

森田徹さん http://springing.jugem.jp/?eid=772
久美さん  http://mo-circulate.jugem.jp/?eid=1411
スタッフの西口さん  http://moritakitchen.jugem.jp/?day=20130422
そして聴きに来てくださった後藤さん  http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=331
harmony-kodamaさん  http://harmonyk.exblog.jp/20355832
rieさん(ワークショップにご参加) http://blogs.yahoo.co.jp/dh762714/8895422.html

ブログに書いてくださっています。
どうもありがとうございます。


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2013年04月08日

「淡々と語る」だけでは片手落ち 〜より高い自然としてのことば〜

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写真・平島邦生(日本写真家協会会員)


子どもたちに物語を語っていて、つくづく感じることがあります。彼らは、大人が取り繕ったものや大人自身の身についていないものは、受け入れないということです。

言語造形をしてやろうなどと勢い込んでわたしなどが語ろうとしても、子どもたちはそのような技におぼれているようなものには耳を傾けてくれません。毎日の生活の中で我が子に語ってみるときなど特にそのことは明らかなのです。

「何が悪いんだろう。どうしたら聴いてもらえるんだろう」

そんな問いに、こんな答えが、こころの中に風のように帰ってきます。

自然に。そう、「自然」に。

しかし、その「自然」というあり方。ここで答えとして帰ってきた「自然」とは、どのような状態のものなのだろうか。またまた、そう問わずにはいられません。

その「自然」とは、どのような状態を言うのでしょうか。それは、ありきたりのもの、そこらぢゅうに転がっているものでは、きっと、ないのです。人の精神は、そこらぢゅうに流通しているものから隔たりを置こうとします。流通しているものの中から石を除き、玉を選ぼうとします。もしくは、流通しているものの中にこそ、玉を見いだそうとします。

自分にとって大事なことを話すとき、打ち明けるとき、人は自然にことばを選びます。その大事なこと、大切にしているものを、どう、ことばで言ったらいいのか。わたしたちが日常の生活の中でときに思案することでもあります。

そして、思案していくほどに、それはややもすれば不自然になっていったり、ことばを無くしてしまうということにもなります。そして、人は、もがきます。どういうことばなら、言いたいことがうまく言い表せるのだろう。分かってもらえるのだろう。

そして、それ相当の時間を置いて、ようやくふさわしいことばが、浮かび上がってくるがごとく、天から降りてくるがごとく、わが口から放たれ、筆によって、キーボードによって記されます。

その時の、もがき、葛藤を経た後の、「自然」とは、どのような状態でしょうか。

日常、ことばを話すときにわたしたちがしているそのようなことは、実は、人類がその歴史を通して最も精力を注いでいることではないでしょうか。

その大事なこと、大切にしていることを、どうことばで言い表すかということは、ひいては、〈わたし〉という精神の人を、こうごうしいことがらを、神を、ことばとしてどう顕し、どう組み立てていくか、ということへと深まっていきます。人の精神は、古今東西、方法は変われども、こころざしを一貫して育みながら、宗教のことばとして、文学のことばとして、哲学のことばとして、科学のことばとして、それらのことを顕わにしようと勤しみ続けています。

人は、人から人へ、時代から時代へ、大切にしているもの、大事にしたいことがら、「自然の自然たるところ」を、葛藤を経つつ、できるかぎり「自然なことば」をもって、伝えようとしています。

その「自然なことば」とは、「芸術としてのことば」だと言っていいのではないでしょうか。

人が「当たり前に(自然に)」ものにしていると思い込んでいることばが、芸術になりえる。その「芸術としてのことば」とは、ことばそのものとの葛藤を経ることによって獲得される、自然を超えた「より高い自然」です。「どう伝えたらいいのだろうか」という葛藤を経、だんだんと伝えようとしていることがらのより深い面が見えてきて、ことばそのものに沿うことのできる謙虚さが自分の中で育ってくるにつれて獲得されていく「より高い自然としてのことば」、それが「芸術としてのことば」です。その「ことば」は、そもそも、響きにおいて活き活きとした生命と深みある叡智とを湛えます。

ことばという、神から授かった自然は、人によって、「より高い自然」になりたがっているのです。

シュタイナーの教育分野、特に、幼児教育においてよく述べられていることのひとつで、子どもたちへ物語などを語り聞かせるとき、「淡々と声にするのがよろしい」ということがあります。その「淡々と」とは、これまでに書いてきました「より高い自然としてのことば」のありようとしては、あまりにも舌足らずな言い方だと感じています。

生まれて歯が生え変わるまでの子どもたちは物語や詩を大人のようには聴いていません。ひとつのストーリーあるものとして、なんらかのメッセージが込められたものとしては、聴いていないのです。

その頃の子どもたちは、意志に満ちたことばを全身で聴くことを通して、物語や詩に潜んでいるかたちや動きや絵姿や色彩や音楽に触れています。親しく活き活きと、語られ、歌われることばを通してそれらの要素に触れ、包まれ、ともに動きながらことばを味わうことが、子どもの意志を育むのです。

ですから、幼い子どもたちに対して、できうるかぎり、活き活きとそれらの芸術的要素を引き上げながら、つまり意志の要素を注ぎいれながら語りますと、ことばの持つ力を通して、将来ことばの主になりゆくための土台の力、意志の力を子どもたちの内に芸術的に育んでいくことに資するのです。

誤解を招くような言い方に聞こえるかもしれませんが、平坦に語られるのを聴いて満足できるのは、知性に生きる大人だけです。知性は、もちろん、人にとって大切な要素です。しかし、子どもは、ことばに、より豊かな意志の要素を求めています。

幼い頃に情緒過多なことばやお話ししか耳にしていない子どもは、真実ならざるもの、嘘がこころに染み入り、こころが毒されていきます。子どもは、大人によって捏造された感情を押し付けられ続けることによって、こころが毒されていきます。

また、「淡々と語られるだけの」ことばやおはなしを聞いている子どもは、知的にはなりますが、のちのち成長したあとも、ことばと自分自身が結びつきにくく、意志に欠けた己を見いだすことになります。

情緒過多も、知性偏重も、どちらも、人に、ことばへの信頼を無くさせます。

特に、方言や母語に籠もっている意志の要素は、人を生涯に渡って励まし続け、<わたし>を育み続けるのです。インスタントに養成できないその要素は、長い年月を経て、言語的経験を経て、その人その人の意志の力として、その人から生まれ出てきます。

静かに、知的に、「淡々と」語りながらも、意志をもって意欲的にかたちや動きや絵姿や色彩や音楽を感じながらことばを響かせていくこと、その知性(父)と意志(母)の結びつき、結婚を通して、結果としておのずと生まれてくる感情(子)こそが、本物の感情で、捏造された感情ではありません。

そのように、思考と意志と感情、三位一体からのことばをこそ子どもは求めています。そのようなことばをこそ人は求めています。

ですから、日本人であるならば誰でも日本語を話せるものであるというという認識は、きわめて浅薄なものと言えるかもしれません。日本語を話す人になるということは、どこまでも続く研鑽の道なのです。

ことばを話し、ことばを聴く、という人に授けられている自然を、アントロポゾフィーはどこまでも深く捉え、その自然の力を高く深く確かに育む道を示唆しています。

大事なこと、大切なことを、飾らずに、こころをもって、こころの真ん中から、どうことばにしていくことができるのか。子どもたち、特に、幼児期にある子どもたちの周りでこそ、「ことばのことばたるところ」「より高い自然としてのことば」「人が人としてよって立つところであることば」が響くように。

そう高い願いを持ちながら、失敗を何度も繰り返しつつ、今日も力を抜いて、楽に、しかし、こころの真ん中から、お話を語っていきます。

(雑誌「めたもるふぉーぜ」2012年9月号掲載分に加筆修正)


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2013年04月01日

言語造形公演『高瀬舟』のプロセス

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今回の言語造形公演『高瀬舟』を準備するのに約一年かけてきたのですが、
http://kotobanoie.seesaa.net/article/353022274.html
わたしにとって、今回ほど、ものを創っていくプロセスそのものを楽しめたことはありませんでした。
ヴァイオリンで競演してくださる森田徹さんと会って稽古するたびごとに、
言語造形について、音楽について、芸術について、仕事というものについて、
『高瀬舟』という作品について、一文一文の解釈について、一音一音の響きについて、
語りあいながら、聴きあいながら、ことを進めてきました。

そうそう、いま思い出しましたが、初めての稽古のときに、
森田さんはわたしにインタヴューしてくれました。
言語造形とは何なのか、
シュタイナーとアントロポゾフィーと言語造形との関係はどういうものなのか、
なぜ、『高瀬舟』なのか、
諏訪は何を目指しているのか、などなど・・・。

かたちや外側のことがらだけを合わせるのではなく、
語りあい、聴きあうことを通して、
だんだんと理解を互いに深めていきながら、というプロセスでした。

どうせ遊ぶなら、真剣に遊ぼうよ。
その遊びの中で、
人というものを自由にし、かつ深めてくれる精神に出会うことができる。
そして、そんな自由に創造しあえたものを社会に積極的に還元していくことは、
いまの時代、とてもとても大切なことなんだ。
そんな気持ちを共有しあえたことが、とてもありがたかったのです。

公演の当日も、そのようなプロセスが内的に引き続くような時間になることと思います。

森田徹さんはじめ、
今回の公演を準備してくださった森田久美さん、スタッフの方に本当に感謝です。
 ※徹さん http://springing.jugem.jp/?eid=763
      http://springing.jugem.jp/?eid=764
      (『高瀬舟』でヴァイオリンを弾いてくださる森田徹さんならではの、
       言語造形の味わい方。
       聴き手の方々も、アクティブにその場に臨むことによって芸術体験は、
       きっと、より深まっていくだろうなあ。
       そんな聴き手の方々とわたし自身も精神の楽しみを分かちあえたら・・・
       芸術そのものが、人と人との深い邂逅の場となりますように。)
  そして久美さん http://mo-circulate.jugem.jp/?eid=1385 が、
  ブログに書いてくださっています。
 


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2013年03月08日

わたしたちの「ことばの家」。そしてその御案内。

第一ゲーテ.jpg


「ことばの家」。
その名前の由来は、20世紀初頭を生きた精神科学者ルードルフ・シュタイナーのことばです。
アントロポゾフィー運動のホームグラウンドとしての「ゲーテアヌム(ゲーテ館)」を、
彼は「ことばの家」と呼びました。

ゲーテアヌム建築中の1914年6月17日にドルナッハの丘の上でシュタイナーは、
「ことばの家」について以下のように語っています。(要約です)


 人びとは口から耳へと伝えられるものが、
 平和と調和を作り出せると本当に信じています。
 しかし、平和、調和、人が人としてあるありようは、
 神々がわたしたちに語りかけるとき、初めて生まれるのです。
 このゲーテアヌムの壁、そして窓に施される芸術的なフォルムによって、
 神々はわたしたちに語りかけてきます。
 フィジカルな壁は生きていませんが、
 エーテルの、精神の、壁は、生きて動くものなのです。
 地球の大地がその懐から植物たちを生み出すように、
 わたしたちが造形する壁のフォルムは(内において)生きて動くものを生み出します。
 わたしたちの建築は、そのフォルムによって、
 きっと、神々のことばを語り始めます。
 植物のエーテルのフォルムに耳を傾け、
 それらをわたしたちの壁のフォルムによって創ろうではありませんか。
 自然に潜む神々が、人に、語る喉頭を創られたように、
 わたしたちは、芸術によって、神々が語りかける喉頭を創るのです。
 わたしたちは、これらのフォルムが何を意味するのかを解釈するのではなく、
 心臓で聴くかのように神々のことば、精神のことばを分かろうとします。
 その分かる力を育むこと、それがわたしたちのなすべきことです。
 このように、精神への道を見いだそうという聖きこころもちが、
 この仕事場に満ちますように。
 仕事場とは、きっと、
 人がその精神を愛の内に見いだし、
 平和と調和を地上に拡げていくような精神への道を見いだす場です。
 真の芸術への、真の精神への、そしてすべての人への愛をもって、
 「ことばの家」「神が語る家」を建てようではありませんか。



その豊かな精神、その豊かな内実を、
わたしたちは、乏しい中にも、受け止めることができるのだろうか。
そう考えています。

わたしたちも、フィジカルなものはなくとも、
エーテルの生きたフォルムが、場に織りなされていくならば、
そこは、「神が語ることば」に耳を傾けることができるような場として成長していくことができる。

そのエーテルのフォルムは、
いかにして空間に織りなされることができるだろうか。
外的なつくり、フィジカルなかたちではなくとも、
内なる建築作業は、
いかにしてなりたちうるのだろうか。

そのことを問いながら、この「ことばの家」を仕事場にしています。

空間に、内なるエーテルのフォルムが織りなされていくには、
「ことばの家」において語られることばが、ひたすらに、
人間的であること、生命的であること、エーテルの動きを湛えていること。
そのことが要であるように思われます。

ことばが、人間的であり、生命的であることを求められている。
100年前のヨーロッパにおいても既に、
ことばは非人間的な響きを湛えていたのでしょう。

その、人が語ることばの内なるつくりによって、
神々が語りかける場としての芸術的なフォルムを用意していくことはできないだろうか。

わたしたちの「ことばの家」は、
舞台・ワークショップ・講座などを通して、
ことばを話すこと、語ることが、
芸術になりえるのだということを提示していきたいと考えています。
そして、
ひとりでも多くの方と共にそのことばの芸術を受け取り、楽しみ、創造していきたいと願っています。
そして、さらに、
ことばの芸術を通して、
神々が語りかけ、
ひとりひとりの人がますますその人その人になりゆく、
平和と調和が育まれていく、
そのことを意識しています。

ことばには、その「こうごうしさ」が湛えられるような、
芸術的なフォルム・つくりが欠かせないように思われてなりません。

わが身を通して、ことばを発すること。
そのことを繰り返し、繰り返し、練習していく中で、
「人間的であること」「こうごうしいこと」を共に、探っていきたいのです。
    
芸術とは、
「人はこうもありえる、もっと、こうもありえる!」というところをわたしたちの前に提示してくれます。
わたしたちに「人であること」「こうごうしいところ」を思い出させてくれます。
だからこそ、芸術は、人が生きることにおいて絶対に必要なものであります。

今、ことばが見直されようとしています。
それは、ことばに人間的な響きを取り戻したいという時代の願いであります。

では、人間的な響きとは?

そのことこそ、「ことばの家」において、実践的に見出していきたいことです。

この四月から、場を新しくして、改めて「ことばの家」を意識的に創っていきたいと思っています。
http://www.kotobanoie.net/access.html(このページの下のほうの地図をご覧下さい)

どうぞ、ご参加下さい。

posted by koji at 13:32 | 大阪 ☀ | Comment(2) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

受講者VOICE


塾で働く方々への企業研修として言語造形をさせてもらって、もう7〜8年経ちます。
研修を受ける方々の中に、自主的に何回も続けて受講される方がだんだんと増えてきました。
本当に嬉しく、ありがたいことです。

それは、ルードルフ・シュタイナーの仕事が、
どこまでもアントロポゾフィーでありつつ、
その名前や外的なかたちを透過して、
現代を生きる人にダイレクトに浸透していくことを、
拙いながらも我が仕事を通して実感させてもらうことができるからなのです。

その内のおひとりの方の受講後のメッセージ(その企業内に告知されたもの)を、
許可をいただき、下に掲載させてもらいます。
言語造形を受けとめ消化しようとしておられる川越さん、そして皆さん、
どうもありがとうございます。

___________________________________________________

昨年度は出来る限り毎月、言語造形に参加しました。
「声」「話し方」「息づかい」は、自分の生き方そのものであるので、
それに向き合うことがとても辛いときもあります。
それだけに新たな発見をしたときの喜びは大きいです。

「言語造形」に参加することで、私は自分の声に向き合う時間を持つことができました。
それには到達点もなければ、評価する点数もない、
どこまでも広く、深い世界であり、
生涯続く「学び」であると考えるようになりました。

 ◎くりかえし参加することで、探求が深まっていく
 ◎どんな人にも、その人の声の魅力がある
 ◎どんな人でも、それぞれの読み聞かせに味わいがある

この3つに気づいたことが、昨年度の私の大きな学びとなりました。
また今年、新たな出会いがあることを楽しみにしています。

                         (川越亜希子)

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2013年02月18日

ことばと人の育ち

去年の6月に雑誌『オープン・フォーラム』に書かせてもらった文章を加筆、修正して、
ブログに再録させてもらいました。


■ ことばとは芸術なり

子どもがこの世に生まれて、初めて接する芸術は、お母さんのことばです。
周りにいる人たちからの愛の込められたことばです。

芸術とは、人に「人であること」とはどういうことであるかを想い起こさせてくれる、なくてはならないものです。さらに、幼い頃に語りかけられることばは、人が人となるためになくてはならない芸術なのです。子どもは、自分に向かって親しく、優しくことばを語りかけられることによって、初めてそこからゆっくりと「人であることの意識」を育んでいくことができます。

ことばとは、子どもにとって、自分をこの世に導き、自分とこの世との関わりを開いてくれる大切なものであるばかりか、その子の内に確かで安らかな感情を育み、その子をまさしく「人」にするための原動力でもあるのです。人は、科学的な観点に沿うことだけで人として育っていくことはできません。ことばという芸術に浸透されながら、芸術的に育っていくのです。


■ 柳田國男 『昔の国語教育』

その、人として生きていくための原動力としてのことばを、子どもたちにどう与えていくか。

それを、わたしたち大人の大きな課題であることを、わが国の民俗学者、柳田國男は
昭和十二年に『昔の国語教育』という本で説き明かしています。

子どもへの教育を考える上で、昔はとてもシンプルに、あまり多くを若い人に望まないが、とにかく人前に出て一人前に口が利けるようにする。ことばの主(あるじ)になる。それが、教育の大きな目標だった、と柳田は書いています。まさしく、『言語のごときは呼吸飲食と同列に人の生活の実態をなしているもの』という認識を昔の多くの人は直感的に感じていたのでしょう。

余計なことやずれたことを言わず、自分が考えていることをピタリと、過不足なく、ものごとに即してことばを話すことができるように若い者を教育しようと、昔の人たちは考えていたそうです。その教育のために、昔の人はいかに豊富にことばの芸術を幼い子どもたちに用意してきたか、そのことが例も豊かに述べられています。


■ ひとつめの七年期において育まれる意志の力

アントロポゾフィーは言語造形ということばの芸術を通して、子どもたちにどう語りかけ、
どう生きる力を与えていくことができるのか、そのことについて示唆してくれています。

生まれて歯が生え変わるまでのひとつめの七年期において、子どもたちは物語や詩を大人のようには聴いていません。ひとつのストーリーあるものとして、なんらかのメッセージが込められたものとしては、聴いていないのです。

その頃の子どもたちは、ことばを通して、物語や詩に潜んでいるかたちや動きや絵姿や色彩や音楽に触れています。親しく活き活きと、語られ、歌われることばを通してそれらの要素に触れ、包まれ、ともに動きながらことばを味わうことが、子どもの意志を育むのです。ですから、幼い子どもたちに対して、ストーリーを伝えるべく物語を語ろうとするよりも、できうるかぎり、活き活きとそれらの芸術的要素を引き上げながら語りますと、ことばの持つ力を通して、将来ことばの主になりゆくための土台の力、意志の力を子どもたちの内に芸術的に育んでいくことに役立つのです。誤解を招くような言い方に聞こえるかもしれませんが、平坦に語られるのを聴いて満足できるのは、知性に生きる大人だけです。子どもは、ことばに、より豊かな意志の要素を求めています。その要素が後々ことばに籠もる自分自身の意志の力として、その子から生まれ出てきます。

静かに語りながらも、意欲的にかたちや動きや絵姿や色彩や音楽を感じながらことばを語っていくことが、子どもの求めに適っているのです。


■ ふたつめの七年期において育まれる感情の力

ふたつめの七年期に入っていきますと、子どもたちは、土台としての意志の力の上に立ちつつ、感情の力を、ことばを通して育みたがっています。先ほど挙げた芸術的な要素を大人から受けとるだけでなく、子ども自身が自分からだんだんとことばを生み出していくことで、その求めは満たされていきます。

ことばを意味で捉えるだけでなく、意志の力を通して精一杯からだまるごとを使って声を出しながら、その響きの質やかたちや動きを実際に生きてみることで、ことばと文そのものに秘められている感情をだんだんと自分のものにしていくことができます。朗唱や朗読、さらに演劇という芸術は、そのような子どもたちの求めに適う、うってつけのものです。そこでは、感情は、人が人為的に作り出すのではなく、繰り返しことばに沿う練習をすることによってのみ立ち上がってきます。その練習の繰り返しから、子どもたちはだんだんと感情そのものに深みがあることを、からだとこころまるごとで学んでいきます。

自分自身の感情をことばに込めるのではなく、文学作品というこころのお手本に沿って、
感情を耕していくことを学ぶのです。


■ みっつめの七年期において育まれる思考の力

思春期を迎え、ひとりの人としての意識が生まれ始める頃において、若い人はことばひとつひとつについて、考え始めます。大人のいちいちのことばに突っかかってきたりもします。人と人とのあいだに距離を感じ始めている彼らは、それだけ、ことばというものに、人というものに、あらためて信頼を置きたいのですね。

そのために、大人が若い人と一緒になって、ことばを通してしっかりと考えを深めていく作業ができれば、つまり対話がなされれば、それは若い人にとっての何よりの助けとなります。その対話をするためのきっかけとして、日常的な出来事やニュースだけでなく、学問、芸術、宗教からよりよい素材を用意することができます。

若い人は、対話ということばの芸術を通して、ひとり立ちして考える力をゆっくりと育んでいくことができるのです。


■ ことば、それは人の中で育ち、花咲き、実るもの

人が育っていくとは、種としてその人の内に授かっていることばの力を、だんだんと繰りなさせ、ついにはことばの花を開かせ、実を実らせるまで、生を熟させていくことではないでしょうか。

年齢を重ねて、口から出てくることばが、自分自身に、そして周りの人に、実りをもたらすことができる。それは、子どもの頃のはじめのみっつの七年期を通して周りの大人が用意した、ことばの土壌の豊かさ、そして降り注いだことばの光と水分によって育まれるものなのです。

人は、成長するにつれて、その人自身のことばの花を開かせ、実を稔らせるでしょう。



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2013年01月06日

新春の言語造形・演劇発表会 終わりました!


演劇塾 発表会 くすのき.JPG

やまなし@.JPG

かさじぞう.JPG

演劇塾発表会 岩出.JPG


二日間に渡っての言語造形の発表会を終えました。
やったわたしたちにとっては、ようやく年が明けた感じがします。

聴いてくださる人びとに何かを手渡すというよりも、
演り手である自分たちが「空(から)の器」になって「ことばの精神」が降りてくるのを待つ。
できうるならば、自分たちはそんな、
「ことばという精神のもの」がこの地上に降りてくるための媒体になりたい。

そんな希いをもってやっていますが、
道は遠いのです。

しかし、いや、だからこそ、この道を歩いていくことにとてつもない魅力を感じている。
そんな仲間が集って、やっています。

今年の3月の終わりにも、またお芝居「聴き耳頭巾」のお披露目をいたします。
どうぞまたいらしてください。
来てくださったたくさんの方々、どうもありがとうございました。

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2012年11月14日

今日の言語造形 と 帝塚山演劇塾 〜「ふ」の字〜 2012.11.14

午前は、京田辺での言語造形クラス。

いつもクラスの始まりの時間に、集ったひとりひとりが、
自分のこと、家族のことなどを想い起こしつつ、
感じていること、考えていることを自由に話すことにしている。
ある人の話しを聴いている間は、他者は決して口を差し挟まない。
じっと耳を傾ける。

いつもながら、この時間がとてもいい時間で、
各々の方が話してくださることが、
その後取り組む言語造形への、
思いもかけない深い示唆になっていることがよくある。

個人が深く感じていることを語りだすことで、
それがもうひとりの人の経験に深く響きあっていき、
その響きあいが、各々取り組んでいる作品のあの部分、この部分に、また響きあうのだ。

そこから、なぜ、自分が、いま、この作品に取り組んでいるのかが、
以前思っていたよりも、いっそう深い次元で啓けてくる。

作品と自分自身。
その関係が、客と主(あるじ)というものであるに尽きず、
思いもよらず、深くからみあった間柄であったことに今更ながら気づくことができる。

今日も、そんな気づきと言語造形を分かちあう喜びに満ちた時間になった。

本当に、このクラスの皆さんにも、感謝、感謝だ。



午後は、帝塚山の「ことばの家」で演劇塾。

小学二年生の子が、若山牧水の詩「白鳥は」に挑戦してくれた。

   白鳥はかなしからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ

その子は、天にまで届くような声をからだいっぱい震わせて響かせる。
すると、白鳥(かもめ)のただよふ姿が、空間に見えるがごとく感じられてくる。
「ただよふ」の「ふ」の音。
「ただよう」と書かずに、昔は「ただよふ」と書いた。
言語造形をやってみて、その「ふ」という表記が本当にふさわしいことを実感する。
「ふ」の響きによって、
空間にただよふ姿が立ち現れてくるのだ。

八歳の人が、このようなことばの芸術体験を理屈ぬきにどう受け止めるのか、
わたしには、まだ、はっきりとは見通せないのだけれども、
日本語が本来もっている精神的な美と動きと確かさは、
子ども時代にこそ、頭でではなく、からだとこころで、たっぷりと味わうことができると信じている。

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2012年11月13日

今日の言語造形 〜水がすーっと流れる〜 2012.11.13

稽古場で、稽古そのものがいのちを得ていく瞬間がある。

声を出している人と、
声に耳を傾けている人と、
空間とが、
共に動き出して、
各々の息遣いが噛み合ってくる瞬間だ。

普段、からだを使い、汗を流しながら自分ひとりで練習をしながら、
稽古場に入っていくと、
共に働きあうこういった場でそのような状態に入りやすい。

稽古場によく出入りする我が家の四歳の娘が昨日こんなことを言った。
「練習している人の声を聞いてるとね、からだのなかに、水がすーっと流れるの」

今日の稽古でも、
生徒さんの語りを聴いていて、
わたしのからだの中を「水がすーっと流れ」ていくのをまざまざと感じた。

それは、生徒さんが受け身でなく、課題に挑む準備を積極的にして、
その場に立っていたからだろう。

基本的に、
学びというものは、独学に尽きる。

理路整然とした理論や、整ったカリキュラムや、周りのよき環境などを求めているとき、
たいがい、人は、怠惰な精神しかもっていない。

何はなくとも、まずからだを動かして、汗を流そうとする人と人からは、
爽やかな精神の息吹きが生まれ、
笑顔が生まれる。

今日も、皆さん、ありがとう。



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2012年11月11日

今日の言語造形 〜娘たちへの恩恵〜 2012.11.11

今日は、月に二回の日曜言語造形クラス。

ここでは、バラエティーに富んだ作品を皆さんそれぞれ稽古している。
ある人は『奥の細道』を、ある人は日本昔話を、ある人はシェイクスピアを、ある人は落語を。

どの作品であれ、
一文一文、一節一節ことばを話すたびに、
呼吸を使い切ることによって、ことばにいのちが吹き込まれ、
活き活きとした見えない身ぶりまで生まれてくる。

何はさておき、息を使い切ること。
それが、ことばを芸術的に話すときの鉄則だ。

そうしていると、それが古典作品であろうと、シェイクスピアであろうと、
我が家の7歳と4歳の娘たちは稽古場までやってきて、
どんなに難しいことばでもじっと耳を傾けている。
勿論、昔話は彼女たちの大好物だし、
落語の魅力には一も二もなくまいっているよう。

稽古場が、実は我が家の子どもたちにとっての、最高のことばの教室になっている。

皆さん、ありがとう。
我が家の娘たちは、皆さんの声に育ててもらっています。

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2012年11月10日

今日の岩出演劇塾 〜風のすがた〜 2012.11.10

今日は、演劇というものが、そのおおもとにおいて、
人の息遣いから生まれてくるのだということ、
さらに、
人というものが、神の息から、風から生かされているのだということを、
感じさせてもらえた一日だった。

舞台の上で、俳優はなんらかの身ぶりをすることによって演技をしていくのであるが、
今日は、言語造形の基本に立ち返って、
まず最も基本の身ぶりに取り組んだ。

それは、「息をする」という身ぶりだ。

普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣いから、
ことばと共に、
見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。

その息遣いの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。

外から取ってつけた身振りではない、
息遣いから生まれてくる「空気人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。

そのすがたは、わたしたちに「人のおおもとのすがた」を想い起こさせてくれる。

そのすがたは、遥かな昔に人がとっていたすがたであり、
そして、
遥かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであろうすがたでもあって、
芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、
未来にあるであろう「人のすがた」を密やかに提示していく。

それは、ことばが、単に情報を伝えるためだけの抽象的なものではなく、
活きたことばとなり、人そのものとなり、
そして、
だんだんと、人がことばそのものとなることである。

「はじめにことばありき」へと、
これからはだんだんと遡っていくのだ。

ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、こうある。

   まこと、まこと、わたしは、あなたに言う、
   それ、人、水と風から生まれん、
   そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず  (ヨハネ 三章五節)


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2012年11月08日

今日の言語造形 企業研修にて 2012.11.8

ここ(小学生が通う塾)での企業研修(http://kotobanoie.seesaa.net/article/299953599.html)は研修とは言っても、
ここ数年、いや、特にこの一年、
言語造形が面白いという人、言語造形をやってみたいという人、
もしくは、
自分の仕事のなんらかの面に役立たせたいという人が、
自主的に集るようになってきている。

これも、この研修をコーディネイトしてくれている方の尽力のお陰である。

研修といえば、社員たちへの上からのお達しであろうから、
仕事の時間の中で、スケジュールをみながら、
皆さん身体を運んでこられるということが多いのではないだろうか。

ここでの研修ではだんだんと、
仕事の休みの日にわざわざ出てきて言語造形に取り組み続ける人たちが出てきた。

そんな人たちは、来るたびごとに成長されているのが分かる。
ことばを話す、語る、ということにおいて、意識とからだの使い方に、回毎の成長が見られる。

こういう人たちは、
すぐに仕事やキャリア・アップのために役立つものを得られることが、
学びでもなく、教育でもないことを知っている。

大人であっても子どもであっても、
教育の場における学びは、
その人その人の意志と意欲の力にその成否が懸かっている。

単なる知性において処理されうる学びではなく、
こころとからだの深いところにまで降ろされるべき学びにおいては、
意識的な反復練習こそが歩まれていい道であって、
近道などない。

このことを、子どもの教育に当たる人たちが我が身を通して知っているということは、
本質的な意味で、仕事における深い強みになるのではないかと思う。

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2012年11月06日

今日の言語造形 火曜クラス 〜密やかな学び〜

今日は23歳の若者と言語造形に取り組んだ後、
「密やかな学び(神秘学)」について、長い時間、話し込む。

彼は、バランスを失したありようでなく、
シュタイナーが提示していることがらに精確に則って、こころの練習に取り組もうとしている。

こういったことに浅くない関心を抱いている若い人に、
上辺のことばではない、いい加減でないものを、
示していくことができる自分になっていくことができたら。

遠い道のりではあるが、わたしも、とにかく、毎日、一歩一歩、歩いていくだけだ。


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2012年11月02日

今日の箕面演劇塾 〜天におられる方々との共同作業〜


こころがほどけていて、弾んでいるとき、
人は、初めて、声を響かせられる。

ことばは、胸の領域からこそ、飛び出してくる。

人は、ひとりひとり独自なものを荷っている。
そして、時に、こころをほどけないときもある。
そのような人のこころがほどかれていく時は、
他者ではなく、天からの働きかけがある時だと感じる。
天におられる方々が、人の胸の領域、こころ、心臓に、働きかけて下さるときにのみ、
人は声を響かせることができる。

わたしたちが、何気なく、日頃、声を出し、ことばを話すことができているというのは、
そのような見えざる扶けがあってのことではないだろうか。

特に、子どもはそのような扶けを本来的にはたっぷり得られるはずだし、得ているだろう。
大人になってしまった後とは違い、
いまだ、天におられる方々との交流が、きっと強くあるからだ。

子どもへの天からの力と恵みの流れが遮られないように、
わたしたち大人が、できることはなんだろう。

天におられる方々との共同作業をわたしたちはいかにして育んでいこうか。

そんなことを、今日の演劇塾で考えさせられた。

子どもたち、ありがとう。



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2012年11月01日

今日の言語造形 企業研修にて

新横浜にて、企業研修。
ここは、小学生のための大手進学塾で、
四、五百人の社員、講師、スタッフの方々が、
一回に平均七、八名ずつ集って、月に二、三回、
研修として言語造形に取り組んでいる。

もうかれこれ、八〜九年、言語造形という芸術に、企業が取り組んでいるのだ。

これは、凄いことで、なぜ凄いかといえば、
すぐに収益に結びつくような取り組みではないこのような芸術活動を全社員に向けて浸透させていくには、
相当の心意気と精神からの算段が必要であろうからだ。

始めてみて三〜四年は、このような研修に対する意義を見いだすのに、
少なからぬ社員の方々が困難を覚えただろう。

ひとりひとりの社員の方が、
音声言語としてのことばというものの意味深さを見いだしていくことができるように。
そして、ことばを発し、聴き取る力を自分自身の中に育んでいくことができるように。
そのことを願って研修を重ねていくうちに、
この二、三年、随分と多くの方が、
言語造形を企業の中ですることの重要性を認め始め、
共感が広まり、深まってきたように思う。

こういった取り組みを長い目でずっと見守り、育て、支えているこの企業の代表の方と、
実際に研修をプログラム化して下さっている方に、
感謝を感じる。そして、祝福をも感じている。

言語造形とは、アントロポゾフィーから生まれている。
言語造形という芸術の隅々にまでアントロポゾフィーが息づいているのだ。

だから、わたしにとってこの仕事は、
アントロポゾフィーがどのように世において働くことができるかということの、
ひとつの試みだと思っている。

今日は、気質の違いを踏まえつつ、様々な文学作品の朗読に取り組んでもらった。
今日も社員の方々と言語造形をすることの喜びと意味を分かち合うことができたこと。
これは、わたしにとって、本当に、恵みなのだ。

posted by koji at 21:40 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする