[言語造形]の記事一覧

2013年09月30日

『宮澤賢治の世界』公演、ありがとうございました!

めくらぶどう.jpg

めくらぶどう 4.jpg

虔十 2.jpg


9月27日、29日の言語造形公演『宮澤賢治の世界』に来てくださった皆様、
本当にありがとうございました。

2日間で3回に渡る公演だったのですが、
どの公演もお客様に喜んでいただけたようで、
(また後日、公演後のアンケートを掲載させていただきます)
とりわけ、最後の29日の夕の部の公演では、
わたしたち演者三人ともに、全精神力と全体力を使い切ることができ、
それぞれのお話とわたしたち自身が一つになる感覚を味わえた、
本当にこころの芯から満ち足りた時間でした。

姫路公演で準備し、手配し、様々な労力を払って下さった三好さん、三浦さん、
そして大阪公演で手伝ってくれた中川君、村上さんに、こころから、感謝です。


まずはさておき、わたしたちたち自身が満ち足りていること。
意欲と感謝に満ち満ちていること。
わたしは、今回、妻である千晴と長女の夏木と共に三人で、
そのことを実感し合えたことが本当に嬉しかった。

(ちなみに、次女のかさねは、玄関先の入口前で、お客様に「こんにちは!いらっしゃいませ!お靴は奥にお持ちください!」ということばを嬉々として言ってくれる案内係をやってくれました。どうしてもこれがやりたかったそうです。そして彼女はどうも、こころの芯からわたしたち三人のやっていることがどういうことなのか、その深みが分かっているようで、深い深い祈りをもっているように感じました)

CIMG7791.JPG

大阪に帰ってきてこれまでのおおよそ14年間は、
独りでこの言語造形の仕事をやってきて、
いつもいちいちのことに一喜一憂していたのだけれども、
こうして、言語造形に熱く取り組もうとする人と一緒に仕事ができるということに、
こころの平安を見いだしているのです。
その人がわが妻であるという、この人生の奇妙な(あるいは至極まっとうな?)事実。
その事実に、八歳の娘も親からは何も言われなくても大事な何かを感じ取っているようです。

わたしたちが、これから「ことばの家」での活動を通して、していくこと。
それはただただ言語造形を深めていくことだと思っています。
喜びという鋤と感謝という鍬で、
ひたすらに自分たちのからだとこころを耕していくことで、
言語造形の実りを多くの人たちと分かち合っていく。

ことばの家というとても小さなアトリエから発する、
とても小さな動き・ムーブメントですが、
その小ささからこそ、
まごころからの、精神からの、世に対する問いかけ、訴えかけができます。

「ことば」への誠意、信頼、愛をもう一度取り戻していくこと、
それは自分自身への誠意、信頼、愛を取り戻していくこと。

その取り組みのきっかけとして、
ことばの芸術である文学作品を言語造形で活き活きと、いまに生き返らせること、
それは、自分自身をも活き活きといまに生き返らせること。

だからこそ、日本語のお話しを、文学を、日本の古典を、もっと味わおうよ。
日本のことばのおもしろみ、魅力、美を見いだしていこうよ。

そんな訴えかけです。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

書いていただいたアンケート、フェイスブックでの文章を掲載させていただいています。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/376399684.html
どうぞご覧になってください。



posted by koji at 21:36 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月21日

住吉(すみのゑ)の神とともに言語造形を

625451_521661191247884_1865335148_n.jpg

昨日(9月19日)の住吉大社の観月祭。

住吉(すみのゑ)の神は、
和歌や俳句などことばの芸術を通して人から意宣(いの)りを捧げられ、讃えられるのを待ち希んでいらっしゃる神さま。

この住吉の社すぐ近くに住んでいる自分たちも、
これから満月の夜に言語造形を通して和歌と俳句の朗誦をしながら、一緒に食べ、飲みしながら、
神さまを讃える時を定期的に持っていけたらと思っています。

また近々、告知しますので、ご関心のある方、どうぞご連絡くださいね!

まずは、万葉集からかな。  

(「ことばの家」諏訪耕志)

_____________________________________________


昨夜、住吉大社の「観月祭」は、
なんだかとてもよかった。

その余韻が、
翌日になってもこころの内を満たしている。

赤い反橋(太鼓橋)の上で、
美しい「中秋の名月」を讃えて、
和歌や俳句、そして舞楽を捧げるこの儀式。

橋の上から少しずつ登ってゆく名月を仰ぎながら
この祭りが行われるというタイミングはなかなかに貴重で、
次は8年後らしい。

和歌にも雅楽にもなんの素養のない私だけれど、

そのゆっくりとした、幻想的な時空間を共にできたことは
こころの内にとてつもない充実感をもらたしてくれた。

あの、何の派手さもない、シンプルな舞と演奏を
頭はほとんど理解できない。

けれども、こころは確かに満たされていったのだ。

私たち人間と、
お月さまに宿っている目には見えない精神的存在との
“共同作業” によって生まれた空間に、

私は確かに大きなエネルギーをいただいたのだった。

そして、そういう種類のエネルギーはどうやら、
翌日になっても
こころに満ち足りた「余韻」をもたらすようだ。

私はきっと、
言語造形においても、

こんな余韻をもたらす舞台を創りたいのだと思う。

見えない高貴な存在たちと、
その場に集まったすべての人たちと、
ひとつになって、

こんな空間を創造し、体験していきたい。

http://kotobanoie.seesaa.net/article/372681698.html
(大阪公演「昼の部」、まだもう少しお席あります♪)

(「ことばの家」諏訪千晴)

posted by koji at 09:08 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月18日

毎日、『宮澤賢治の世界』に向かって

CIMG7538.JPG

CIMG7546.JPG


今月末の言語造形公演『宮澤賢治の世界』(http://kotobanoie.seesaa.net/article/372681698.html)に向かって、稽古しているところです。

娘は学校から帰ってきて二時間ほどたっぷり遊んでから、晩御飯の前に稽古してるのですが、
そのせいか、毎晩九時になると、ばたんきゅ〜で寝てしまっています。
お母さんと一緒に毎日同じことに取り組むこと、
そして毎日少しずつ上達していくことが相当嬉しいようで、
喜んで一生懸命声を出していて、
その姿は、我が娘ながら、なんともありがたく、尊敬の念すら感じます。

わたしたちがすることは、
賢治の作品に、できうるかぎり、できうるかぎり、沿っていくこと。
作品と、声を出すわたしたちが、ひとつになること。
そして、こうして声を出すことができる喜びと感謝を稽古のたびごとに感じること。

毎日、それらのことだけをしながら、淡々と日々を生きています。

確かに、公演の当日は、ある種の、「お祭り」なのですが、
その日になすことと、毎日稽古でしていることとは全く同じで、
これが人生なんだとも思うのです。

しかし、やはり、公演の当日が、
誰よりも、声を出させてもらうわたしたち自身が楽しみで楽しみでしょうがないのです。

作品とひとつになる喜び。
来てくださったお客様と共感を分かち合える喜び。
からだとこころをもってこの世に生まれてきてよかったと本当に感じられる喜び。

そういった喜びが、本当に膨れ上がる日でもあるのです。

皆さん、お待ちしていますね。
一緒にこの喜びを分かち合いましょう!


posted by koji at 23:24 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月15日

『おくのほそ道』at 百年長屋 ありがとうございました!

top-entrance-1.jpg

CIMG7556.JPG

CIMG7562.JPG


CIMG7593.JPG

CIMG7597.JPG

CIMG7643.JPG



大阪玉造の百年長屋さん(http://nagaya100.com/)にて、
今日、言語造形による『おくのほそ道』を聴く会が催されました。

出演は、御年八十にもうすぐなられるという北川三代さん。
ここ七年間、月に二回、ことばの家の言語造形レッスンに通って下さっています。

北川さんのその声の張り、ことばの一音一音の粒立ち、身振りの伸びやかさ、身体全体のアクティビティー、
すべてが本当に素晴らしく、聴く人を芭蕉のことばの世界に即座に招き入れる、そんな時空を創り出してくださいました。

ご本人はご謙遜されて、「わたしは何にも分からずにやっております」と仰るのですが、
本当に素晴らしかった・・・。

今日聴きに来てくださったお客様方が、
「最近、まわりで聞こえてくることばが上滑りしているように感じられてしょうがなくて、
もどかしい思いをしていたところに、今日、まず、第一声から、
ことばが突き刺さってくるのを感じたんです。本当に今日ここへ来てよかったと思いました」
「おくのほそ道をこうして生の声で聴くのは初めてだったのですが、
ことばが流れ去って行かずに、しっかりとデザインされていることを感じました」
と話してくださいました。

この三年間、ずっと『おくのほそ道』を練習して下さっている北川さんおひとりのために、
このような会を開くことができたこと、
これはわたしにとっても本当に大切なことでした。
彼女の言語造形に対する変わらない信頼、止むことのない言語造形を楽しむこころ。
そんな、本当に、貴重な、彼女のこころもちに対して、
わたしはどういう形でお応えできるだろうかと探り続けていました。

そんなわたしに、今日の会の話を持ってきてくださったのが、
空堀ことば塾(http://www.karahori.jp/)の塙狼星さんでした。

塙さんは北川さんと同じクラスに所属していて、
北川さんの『おくのほそ道』の稽古にずっと触れていらしたのです。

塙さんは、司会もしてくださいました。
彼はいくつもの質問、問いを用意してくれていて、
言語造形による語りの後、北川さんとわたしに絶妙な問いを投げかけてくれます。

この『おくのほそ道』をすること、言語造形をし続けること、そのわけ。
言語造形とほかの語りや朗読との違いは何か。
シュタイナーの言語観。
そして、ことばとは、そもそも何であるのか。

そのような問いを通して、その人の大事にしていることをその人から絶妙に引き出してくれるのです。
今日は、そんな彼の力で、素晴らしく濃密で、かつ、風通しのいい会になりました。

言語造形の実演だけでなく、普段北川さんとしている稽古を皆さんの前でお見せするミニワークショップや、そのような質疑応答も織り込んで、
今日の会は、これから言語造形がより多くの人たちに知られてゆくための、
ひとつのモデルケースのようなものを見いだせた手応えを感じるものでした。

そして、今日の場所を提供して下さった百年長屋の中西緑さん、そしてお手伝いをしてくださった中西さんのお仲間の皆さん、こころよりお礼を申し上げます。

「日本人が本当に大切にしなければならないものは何なのか」という問いに答えてゆくような催しを、これからも百年長屋でしていきたいという中西さんの志に、
わたし自身、こころが共鳴するのを覚えています。
本当に今日はありがとうございました。これからもどうぞお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


posted by koji at 00:31 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

広島仁方での公演・ワークショップ、ありがとう! 8/31〜9/1

DSC_2737.jpg
 DSC_2726.jpg
 DSC_2730.jpg


今年でもう12年目になる広島・仁方のzionさんでの毎年恒例の会。

毎年、この言語造形の会を支え続けて下さっているzionさんの昇さん、裕子さんご夫妻に、
本当にこころから感謝・・・!

そして、毎年欠かさず参加して下さっているメンバーの方々、初めて今回お会いする方々、
本当にどうもありがとうございました。

年ごとに皆さんの取り組みそのものが深まってきていて、
そして何よりも楽しく爆笑しながら毎回言語造形を分かち合える、
この喜びは、zionさんのこころからのサポートのお蔭、参加して下さっている皆さんのお蔭なのです。

今回の宮澤賢治の『ざしき童子のはなし』『虔十公園林』公演は初演であったのですが、
わたし自身も力を出し切ることができたように感じています。

紅潮したような笑顔とともに、
終演後、聴き終わった公演や作品についてみんながわいわい語り合う時間が、
堪らなく嬉しく、ありがたいもので、演者冥利に尽きます。

ワークショップでは、
継続して参加して下さっている方々とともに、
これまでにない深みを観ることができたように思うのです。
皆さんの中に言語造形に対するまた新しい熱意が湧き上がってくるのを見させてもらえたのが、
これまた、にやにやしたいぐらい、嬉しいことでした。

皆さんとたくさん話しもしました。
言語造形をすることの意味、
言語造形を世に問うていくことの意義、
わたしがこの仕事を通して考えている夢のこと、
皆さんが自分の仕事を通して追い求めていることなど・・・。

こういう話しができることが、なによりの喜びです。

こんな素晴らしい二日間を、皆さん、本当にありがとうございました。

しかし、我が家へ帰ってきて、いまはもうくたくた・・・
明日は休むぞ〜!


posted by koji at 22:12 | 大阪 ☁ | Comment(2) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月15日

時間どろぼうと言語造形

CIMG7213.JPG

小学二年生の長女に、まだ少し早いかもしれないのだけれども、
ミヒャエル・エンデの『モモ』の読み聞かせをここのところずっとしている。
5歳の次女も、分かってても分かってなくても、じっと耳を澄まして聴いている。

今日は、前半のクライマックスと言ってもいい、「時間どろぼう」の章に差し掛かってきた。

「時間どろぼう」の語りかけることばにこころを奪われてしまった人は、
いかに時間を節約して、
いかに無駄を省き、
いかに計算通りに効率的に生きていくかに血道を上げていくことになる。

その生き方、そのこころのあり方が、
他の誰でもない、まさに俺のことだ!
「時間が足りない」「お金が足りない」「・・・が足りない」「足りない」「足りない」・・・。
そんな、思考にもならない深い感情のところで何かに急かされるように意識が焦っている。

そして、
どれほど子どもの前で「早くしなさい!」「ぐずぐずするなっ!」ということばを連発しているだろう。

自分自身のあり方が戯画として描かれているのを観て、
『モモ』を読むそのたびごとに、こころが治癒されるのである。
「時間どろぼう」に取りつかれていた自分自身をこの読書が治癒するのである。

この本を読むことで、お父さん自身の呼吸がだんだんゆっくりとなり、表情も豊かに優しくなってくるのを、子どもたちも感じるんだろう。

「お父さんやお母さんが『早くしなさいっ』なんてゆう時、時間どろぼうがお父さんやお母さんの背中に張り付いてるねん」なんてことを話しても、
娘たちはにこにこして、親のそんなあり方を懐深く広く受け止めてくれる。

次女がこんなことを今日言ったので大笑いした。
「生まれてくる前に、神さまにお願いしてん。時間どろぼうさんが一杯いるところじゃなくて、言語造形さんが一杯いるところに生まれますようにって。そやからお父さんも言語造形さんになってん」

そうや、そうや、
言語造形をするから、
普段よりもずっと息を深くして間(ま)をもってことばを話すことができるな。
言語造形さんは、時間どろぼうさんを追い払うんや。

そんなことを娘たちと話して笑いながら、
本当に言語造形さんのいま、ある意味をいつもよりも深く感じた。

posted by koji at 17:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月13日

京都の宇治 夏休み演劇塾 終わりました!

dsf_0086a.jpg

昨日まで、五日間連続の「夏休み演劇塾」を京都の宇治で行いました。

この暑い中、毎日、親子が午前に集まり、
小学低学年の子どもたちは、工藤直子さんの『のはらうた』を、
高学年の子どもたちは、『古事記』冒頭の「天地の初めのとき〜」から「おのごろ島なり」までを、
大人たちは、『平家物語 那須与一』を朗読・群読で練習し、
最終日にはお客様の前で発表にまでこぎつけたのです。

とにかく、毎日、笑いが絶えなかったことが何よりでした。

そして、何も言わなくても自分から頑張って文を憶え、
臆することなく大声で発声していた幼い子どもたちの姿。

大人である親御さんとわたし自身、目覚ましい念いでした。

ことばは、頭で理解してから取り入れたり、発したりするものなのではない。

まずは、全身の動きを通して、呼吸を解き放つことを通して、空間に響かせてみる。
そうすると、ことばはいのちを吹き込まれたように俄然精彩を帯びてくる。

五日間連続でしたからこそ、ことばの力を理屈抜きで体感する、いい機会になったように思います。

夏休みならではの出会いでした。

みんな、ありがとう!楽しかったね!




posted by koji at 21:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月07日

ありがとうございました!ワークショップと昔話公演 in 島根県松江&出雲 



CIMG7242.JPG



CIMG7244.JPG



CIMG7267.JPG



CIMG7273.JPG



松江公演.jpg



CIMG7276.JPG





来てくださった皆さん、そして島根シュタイナーの会の皆さん、ありがとうございました!

言語造形を通して島根の皆さんと歓びと共感を分かち合えたこと、こんなに嬉しいことはありません。

頭で考えすぎなところから自分を解放して、
兎にも角にも手足を動かしてことばを発していく、息を解き放っていくこと、
そこに人と人が出逢える秘密がありそうですね。

この機会を考え、実現して下さった久美子さん、広志さん、そしてスタッフの皆さんにこころから感謝します。

皆さんのお蔭で二日間共に、言語造形を通して「絵本の読み聞かせ」という比較的誰にも通じやすく、取り組んでいきやすいテーマを深めることができました。

島根シュタイナーの会のこれからのこつこつとした活動、注目させてください。本当にありがとうございました。


参加して下さった方のブログです。どうもありがとうございました!
「トライアングル・ダイアリー」
http://blog.goo.ne.jp/sorairo_may/e/f12b5b75f981091927f06bc300c17c5f


posted by koji at 17:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月02日

『みのお演劇塾 お母さんと子ども二人一組で語りに挑戦!』終了

CIMG7231.JPG

今日、とても素晴らしい雰囲気の中、
『みのお演劇塾 お母さんと子ども二人一組で語りに挑戦!』終了いたしました。

暑い中、来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。
聴いてくださっている皆さんの暖かいこころもちが、
演り手である子どもたちと大人たちの勇気とユーモアと心意気を引き出してくれました。

演り手だけでなく、聴き手も一緒になって歌うようにせりふを声にする場面も何度かありました。
その時の聴き手の幼い子たちの嬉しそうな表情といったら!

腹の底から声を出すことはこころの断捨離です!と演り終えたひとりの生徒さんが仰っていましたが、その断捨離は今日の会場全体に息遣いとして、こころもちとして、広がっていたのを感じました。

会場を貸してくださったみのおシュタイナーこども園の皆さんも、本当にありがとうございました。

posted by koji at 18:44 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月23日

昨日の岩出演劇塾 〜青と黄 声の輝き〜

子どもの声、そこには、
「これからこの地上世界を生きていくぞ」
というような生命の漲りとこころの晴れやかさがある。

それは、植物が持つ成長していく力、上へと伸びゆく力ととてもよく似ている。
こころが余計な夾雑物を混じらせていない。

その力は、青い輝きを持っていて、黄色い輝きを包み込んでいる。

その、生きていく力である、発声力、ことばの力をできる限り損ないたくない。

そして、その力は、大人になっても改めて育んでいくことができる。

______________________________________

ここのところ、岩出の演劇塾があるたびに、写真を撮ってくださり、
その日にあったこと、学んだことなどを、報告してくださる。
わたしにとっても、ありがたいことです。

1003432_540404902686035_156052446_n.jpg

〜モモの会の方の報告〜
今日の演劇塾。
大人の落語劇では、粘液質、多血質、憂鬱質、胆汁質の人格が役柄によってどんどん明確に現れはじめました。
大人たちの本気演技中、子どもたちは年上のお姉ちゃんと楽しそうに遊んでいました。
もちろん小さい子は演技中の母の背中におんぶされたり、足にしがみついたりという光景もしばしばですが。
大人たちのエネルギーをおおいに浴びている0歳から小学生の子どもたちは、どんな大人に育っていくのかな。
写真は、小学生の落語の練習です。


posted by koji at 08:20 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月20日

公演を終えて


CIMG6691.JPG



大阪での『高瀬舟』公演を終えました。
聴きに来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。


頂いた感想、アンケート(http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/366950510.html)や、

当日の公演パンフレット(http://www.kotobanoie.net/past.html)を掲載させていただきました。

また、ヴァイオリンで共演してくださった森田徹さんもブログに公演のことを書いてくださっています。
http://springing.jugem.jp/?eid=796

よろしければ、どうぞご覧下さい。



今回、『高瀬舟』の舞台に立ちながらこんなことを感じていました。
「死」というものに向き合うことで、人はどうこころのなりかわりを得ていくことができるのか、
そもそも「死」というものに向きあうとはいかなることなのか、
そして「死」ということを間に挟んで人と人はどういう豊かな深い交流を営めるのか・・・。

八年前にもこの作品を演じたのですが、
その時には「自死における悲惨な状況描写」への反応がお客様の中にも多かったようです。
しかし演じる回数が増えるにつれて、
「悲惨な現実(絶望)のリアリティを超えた精神性(希望)」を感じられるお客様が増えてきているようです。
「希望」「感謝」そして「足るを知る」というこころをものにしている喜助のありように、
わたし自身初めてシンパシーを抱き始めていることと関連しているのかもしれません。


わたしの人生における課題として、
言語造形というものの魅力を、世に伝えていく、
そのことだけをしたいと思っています。
言い訳せずに、他の誰でもなく、自分自身が舞台に立って、
言語造形をすることに全力を注いでいこうとこころを決めています。

今回の舞台が、大阪帝塚山での「ことばの家」のこけらおとし公演。

舞台装置も照明もほとんど何もない空間で、
ただ言語造形をする人ひとりの肉体のみが目に見える、
そんな空間ですが、
これから、言語造形のできるかぎり良質の舞台を創って、
ことばが本来持っている力で、
肉の目には見えずとも、こころと精神の眼に鮮やかに見えてくる豊かな世界を披いてゆきたいと思っています。

どうぞ、聴きにいらしてください。

posted by koji at 20:17 | 大阪 ☔ | Comment(1) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

『高瀬舟』との年月(としつき)   

Friedrich 海辺の修道士.jpg


開演が迫っています『高瀬舟』について、
言語造形をすることから感じたことを書いてみます。

この『高瀬舟』という作品にわたしが出逢ったのは三十代半ばで、
いまから十四年ほど前になります。
この十四年の間、わたしはこの作品にたびたび挑戦してきました。
その間、二つの面において、牛のような歩みでありますが、
少しずつ新しいものを見いだしてこれたように思っています。

ひとつは、「芸」においてです。
この作品は、高瀬川を流れていく舟に乗る二人の男の対話が軸になっています。
そして対話といいましても、一方の長い独白のあと、
もう一方がそれを再び己の身に引き寄せて考え直してみる、
そのようなやりとりになっていますので、それを演じる場合、
派手な動きなど全くありません。
川の流れとひとつになったような静かさに包まれている二人の男の姿が浮かび上がってきます。
しかし、その静かさという水面上の姿とは裏腹に、
水面下においてはなんという激しく切迫したこころの動きが秘められていることでしょう。

わたしは、この作品に取り組みつづけることを通して、
身ぶりという身ぶりがことばの内に収斂されうるということ、そして、静の内に動があり、
時に動の内に静があるという、密やかな芸のありようを学ばせてもらっているように思います。

そのようなことばの秘儀と言ってもいいような芸の境へと、
時間をかけてわたしを導いてくれる「言語造形」という芸術に繰り返し畏怖の念を覚えています。

もうひとつは、「作品の読み」においてです。
わたしが自分のからだという重みをもつものを立ち上がらせ、それを汗と共に動かし、
声の響きを通してからだとこころのハーモニーに耳を傾けていくことによって、
作品は新しい表情を少しずつ顕わしてくれるのです。
三十代や四十代前半にはわたしには全く見えなかった表情をこの頃は垣間見せてくれます。

描かれている事件の表層や思惟の織りなしよりもいまわたしに強く響いてくるのは、
人として生きてきた年月の重なりや、背負ってしまっているさだめと自意識との葛藤から
浮かび上がってくる二人の男の深みある表情。
この作品に秘められている人として生きることの根本的な悲しさと美しさが
惻々とわたしの胸を打ち始めたのは、漸くここ最近のことです。

ものに秘められている本当の豊かさと深さに出逢うため、
人は年月を重ねてそのものにつきあいつづける必要がある。

そのことをこの『高瀬舟』は、わたしに教えてくれるのです。


※6月16日(日)夕の部には、あと数席、空きがあります。
 よろしければ、どうぞ聴きにいらしてください。
 http://kotobanoie.seesaa.net/article/358706547.html


posted by koji at 12:43 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月08日

今日の岩出演劇塾 〜人は何にだってなれる〜

485639_533814163345109_723027487_n.jpg


今日の一枚(笑)。

やっているときは、唯ひたすら、脚本に書かれてある通りに、おじさんになったり、娘になったり、風になったり、青空になったり、花になったり、「あ」の音そのものになったり、「う」の音そのものになったり・・・。

こうやって、後で写真で見ると、ちょっとおかしい!

お話を聴いているだけでも、子どもはこころの中で何にでもなれる。お姫様にだって、王子様にだって、どんな動物にだってなれる。そして、からだまるごとで自分以外の存在になる「ごっこ遊び」をたっぷりする。

そんなふうに、己から離れて、他者を生きること、世界そのものを生きることをすればするほど、人はその人自身を見いだしていくことができる。不思議な逆説ですね。

大人になってからも、遅くはないのです。

posted by koji at 20:23 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月02日

昨日の岩出演劇塾

954894_530817203644805_673844135_n.jpg

この写真は、大人たちが精一杯落語をお芝居にして演じる練習に取り組んだ後、小学3年生の女の子がお母さんとペアになって物語を語り、演じているところ。
昨日の演劇塾でも感じました。大人が本気になって楽しんで、することへの意味を見いだして、精一杯何かに取り組んでいるときこそ、子どもは大人から何も言われなくても、自分から気持ちとからだを動かしてくる。
そんなときの子どもの美しさは、花が開き始めた、とか、光が輝いている、しか言いようがありません。

写真は、「モモの会」の方から拝借しました。ありがとうございます。

posted by koji at 09:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月18日

言語造形 〜ともに仕事をしていくこと〜

白いバラひとり 2013・5・18 うつぼ公園.JPG

白いバラたち 2013・5・18 うつぼ公園.JPG



シュタイナーが示してくれた数多くのメディテーションの中に、
わたしは、ある
ということばを眉間において意識することから始まるものがあります。

このことばから始まるメディテーションに包まれている力はとても強く、
時に他者のことや過去の自分のことを気にかけてこころが乱れているわたしは、
「いま、ここに、ひとりで、あること」の力強さ、確かさ、安らかさに立ち戻ります。

わたしは、いま、ここに、ある。

わたしには、役目と使命があります。

それは、言語造形をすることです。

言語造形を通して共感と喜びと認識と祝福を人と分かち合うことです。

そして、ともなる信頼を基にして力と智恵を合わせて働いていくことです。

言語造形の深みを分かち合い、語り合い、探究し合いながら、ともに仕事をしていくことです。

ことばという、人にとってのおおもとのところに立ち戻ってみることの喜びと驚きを共有していくことです。

そして、ことばを、日本語を、
古くて新しい意識で捉え直すことを多くの人と一緒に日本中で推進していくことです。

これこそが、わたしのしたいことです。したくてしたくて堪らないことです。


そして、そのことを、もうさせてもらえ始めていることに、感謝してもしてもし尽せない。

この気持ちをどこへ持っていったらいいだろうと思います。

「わたしは、ある」
ということばの力が、いつも本来のわたしを想い出させてくれ、
生きていく力となります。

そうして、わたしは言語造形の仕事と稽古に入っていくことができます。


いま、そんなふうに、自分のしたいことをしている人、
理想を実現しようとしている人、もうしている人が、
自分の周りにたくさんいるんです。

他人のことをいろいろと気にかけるのをやめて、
意識を「わたしは、ある」にもってくることをしている人たちかもしれません。


posted by koji at 23:25 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月13日

広島大学にて言語造形 〜衛藤先生、西井さんと〜

諏訪先生、西井さんと.JPG


先週の水曜日、そして今日と、広島大学に伺って、言語造形の時間を持ってきました。

大学院で学んでいる若い人も加わって、
こころが清々しくなるような素晴らしい時間を生きることができました。

呼んでくださったのは、同大学院文学研究科准教授をされている衛藤吉則先生。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/bungaku/staff/p_f12334.html

シュタイナーのアントロポゾフィーにおける哲学・認識論を通して、
人の自己教育、自己認識、自己実現を、大学の中でずっと学生さんたちとともに追求されている先生です。
そして、将来、ご自身のイニシアティブで治療教育・看護を軸とする場を創っていく夢を熱く抱いている方なのです。
そのような熱い情熱を抱かれている方だからこそ、
今回わざわざ言語造形を体験するために大阪からわたしを呼んでくださったのだと思うのですが、
その熱い想いにもかかわらず、
穏やかで、ものごとを柔らかく受け止められる衛藤先生のあり方に、
わたしは本当に敬意を覚えました。

また、今回の衛藤先生とのご縁を作ってくださった西井美穂さん。
http://ameblo.jp/mihorintatsurin/
彼女は同じく広島大学大学院でアントロポゾフィーの認識論・倫理哲学を研究されています。
彼女は、そもそも、言語というものに以前から関心を抱き続けていらっしゃって、
そしてとてもとても熱心な方で、
わたしが兵庫県姫路市でしている言語造形の会にも足を運んでくださっています。
さらに彼女は日本語での『神秘劇』上演を目指すプロジェクトにも参加されています。


言語造形のこと、ヴァルドルフ教育のこと、現在の日本の大学という場におけるアントロポゾフィーの受容のされ方、そしてさらに互いの家族のこと、将来の夢のこと・・・
話は尽きませんでした。

衛藤先生、西井さんの熱い想いと細やかで暖かいお心遣いのおかげで、
素晴らしい時間を持つことができたことに感謝、感謝です。

今回のように、言語造形の体験を通して、
人と人とが共感を分かち合い、互いに語り合い、互いを知り合う、
そのような時と場を提供していく仕事。
これは、わたしに与えられたまぎれない使命であり、恩恵です。

衛藤先生、西井さん、どうもありがとうございました。





posted by koji at 22:50 | 大阪 ☁ | Comment(2) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月28日

新しい内なる誕生 〜みのお演劇塾 春の演劇祭、終わりました〜

ならなしとり4.JPG

ならなしとり6.JPG

ならなしとり2.JPG

ならなしとり5.JPG



昨年の秋から始まった「みのお演劇塾」。
当時、小学一年生、二年生の子どもたちと親たちで言語造形による語りとお芝居に取り組み始め、初めてのお披露目をみのおシュタイナーこども園で昨日行いました。
演目は日本昔話から「ならなしとり」。

子どもたち全員が、自主的に、喜んで、声を出し始めたのは今年に入ってからで、
始めてから数か月は、声を出すことに随分戸惑っていました。
傍で、大人が本気になってからだを動かし、声を出しているのです。
そんなことをこれまでに体験していなかった子どもにとって、
それは戸惑うことだったでしょう。

また、小学校に入ったばかり、ということもあったのかもしれません。
子どもたちのこころの中で様々なものが渦巻いているようでした。

しかし、子どもたちは、本当は思いっきり声を出したがっているのです。
これまでのひたすら感覚することに勤しんでいた子どもたちのあり方が、
歯の生え変わりに伴って、
何か自分の内なるものを外へと発していきたい、
そんな「する」ことを欲するあり方へとだんだんと変容を遂げつつあります。

わたしたちは、子どものその内側の見えざる欲求に応えようとします。
その欲求に応えるためには、大人が本気になることが肝要なのですね。

今回のお披露目会では、子どもたちひとりひとり、精一杯声を響かせていました。

これは、傍にいる親御さんたちが本気になってからだまるごとで言語造形に取り組んでいたからこそなのです。

劇の最後に、小学三年生になった男の子が、
「また新しい作品をやっていきたい」とお客さんの前で堂々と言っていたことが、
その子の意欲と感情のまた新しい誕生を見させてもらったかのようでした。

来てくださり、子どもたちとその親たちを見守ってくださった皆さん、
そしてすべてを包み込むような場を提供してくださったみのおシュタイナーこども園の皆さんに、
こころから感謝します。ありがとうございました。

チェロ演奏.JPG
出演した子のお父さんがチェロの演奏で今回の演劇祭ならではの雰囲気を見事に醸し出してくださいました。

みのお おいしいお粥.JPG

わたしもグリムメルヘンの「おいしいお粥」を語らせてもらいました。

posted by koji at 21:53 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月26日

昔話・メルヘンの人格 〜遠藤登志子さんへ〜

path.jpg

遠藤登志子さんという、
福島で昔語りをされていた方がいて、
その語りは『遠藤登志子の語り』(一声社)として出版されている。

昭和4年(1929)に福島県福島市吾妻町土船でお生れになった方だ。

その遠藤さんの「語り部人生」という文章に、
こんなことが書かれてある。

   昔話とは不思議なもので、
  代々懐に抱かれ暖められて次の世代に渡されるものですが、
  幾百千年人肌の暖かみに育てられて来たためか、
  一話一話に、
  命があり意志があるようなんです。
  私は話殿と言って居りますが、
  その話殿、それぞれ格があって面白いんです。
  紋付袴の話殿や、
  尻切半天の爺さま話、これが又飄々として結構なんですが・・・
  その話殿に守られて生きているような気がします。


ひとつひとつのお話し、昔話、メルヘンには、
それぞれひとつの人格があるように感じられる。

遠藤さんがおっしゃっている「話殿」だ。

人はみな、こころを持っている。
そのこころの中には、
いつも意志(欲する)と思考(考える)と感情(感じる)が働いているが、
お話しを語り続けているうちに、
お話しひとつひとつにもこころがあり、
思考と感情と意志があることを感じ始める。

ただ、その思考と感情と意志は、
それが本に印刷されたままでは、
眠っている状態であり、死んでいる状態である。

それらひとつひとつの昔話は、
人によって蘇らせてもらえるのを、
願い、希んでいる。

まず、お墓に入っているようなそれら「話殿」の意志は、
人に息を吹き込んでほしいと欲している。
人に、アクティブに、からだの奥から、息遣い豊かに、愛を持って、
声に出して語ってほしいと願っている。

内なる身ぶりと内なる歩行をもってことばを話すこと、
それはお話しの一文一文、一語一語に描かれてある動きを、
語り手自身が模倣して動くことなのだが、
その行為によって、
話に命がもたらされる。

言語造形は、そのことを実感させてくれる。

そして、「話殿」の思考は、
印刷されてあることによって、
また、人に表面的に付き合われることによって、
まだ、死んだ思考のままである。

つまり、
「これこれ、こういうお話しです」
「ああ、そういうお話しね」という情報だけが、
話し手から聞き手に伝えられはするが、
そこに絵姿はない。
あっても精彩に欠けたものである。

しかし、人の意志によって「話殿」の意志に火が点くと、
その死んでいた思考が活き活きと蘇ってくる。
活き活きとした絵姿、生きた思考をもって、
語り手と聴き手の間に動き始める。

死んだ思考が生きた思考に蘇る。

アクティブに一音一音の造形に取り組んでいくことで、
話の精神、ことばの精神が生きた思考、生きた絵姿として動き出す。

そのことも、言語造形によって実感される。

その、蘇った意志(母)と思考(父)の結び合い、結婚によって、
活き活きとした感情(子)が立ち上がってくる。

語り手が聴き手に押し付けがちな恣意的な感情ではなく、
「話殿」が本来持っている感情である。

人為的に、捏造された感情ではなく、
お話しそのものにそもそも宿っていた感情である。

だから、語り手は、
語るたびごとに、
生きものである「話殿」の意志と思考と感情に触れることになるので、
何回語っても、飽きることはない。

「話殿」
それは、間違いなく、こころと精神からなる存在である。

そのような存在と共に、
語り手として聴き手として毎日生きていると、
まずは目に見えないこころと精神の次元で、
そしておのずと目に見える次元においても、
自分が満たされていくのを実感していく。

遠藤さんも、こう書かれている。

   ・・・唯、友達が語れと言う、
  面白いから聞かせてと言われれば、
  思い出すままに喋って来て、
  珍しいものを見せて頂き、美味しいものをご馳走になったり、
  素敵な友人が沢山居て大事にしてもらって、なんて勿体ない話です。
  時々思うのですが、私、こんなに幸せで良いのか、どうも夢のようだ、
  覚めた時困るから、余り信用しないでおこう、と、ブスッとして居ます。
  ・・・金の外は此の世の幸は皆頂いて居ります。


ルードルフ・シュタイナーは、
『精神科学の光の下にみるメルヘン』という講演でこう語っている。

   メルヘンや伝説は、
  人が生まれたときに生きる歩みに備えて故郷から授けられる善き天使である。
  それは生きる歩みを通して、人にかいがいしく付き添う伴侶である。
  そして、それが人に付き添うことによって、
  生きることそのことがまこと、内的に活き活きとしたメルヘンになるのだ。

追記:遠藤登志子さんは、今、どのようにお過ごしでいらっしゃるのでしょうか。
   「今回の震災(東北大震災)でお亡くなりになり身元が確認された方々の一覧表」に、
    「遠藤登志子 84歳 福島県南相馬市小高区井田川」とありました。
   別の方かも知れないのですが・・・・。
   遠藤さん、ありがとうございます。



posted by koji at 20:30 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月23日

『高瀬舟』京都公演を終えて

リハ3.JPG


リハ4.JPG

リハ2.JPG


リハ1.JPG

(リハーサル時の写真)



先日、京都紫野上門前の家での『高瀬舟』公演を終えました。
その家は、その昔は西陣地域の中の、西陣織の機織機があった住居兼工場だったところです。
今回、作曲とヴァイオリンの演奏をしてくださった森田徹さんが建築事務所として、
奥さんの久美さんがお料理教室として使われています。

主人公の「喜助」とその「弟」が働いていたというこの西陣で、
そしていまも仕事場としてとても強い意識で育まれているこの場で、
今回『高瀬舟』という物語が奏でられたことは、
この物語にとって、ひとつの仕合わせだったのではないかと感じています。

表面的な符合ではなく、
この物語と、この場と、この場に集ったわたしたち、
それぞれの精神が深いところで和音を奏でていた、
そんな感慨を、いま、抱いています。

場と人を得ていのちを吹き込まれ、
そしてこの物語を聴いたわたしたちのこころの深みに、
これからも密やかに鳴り続けていく通路を見いだせた、
そんなささやかだけれども深い喜びを、
この作品自体が、いま、感じているようです。

共演してくださった徹さんのヴァイオリンの響きは、
あるときは春の夜の夢のようにわたしを包み、
あるときは水面のさざなみのようにわたしを震わせ、
あるときは光を発するようにわたしを貫いていきました。

その響きは、
ものごとの深みを追い求めていこうという真摯で喜びに満ちた徹さんからこそ、
生まれでたものでした。

そんな響きに支えられながら、
ことばの精神が降りてくるのを待ちつつ全力疾走をした今回の公演。

わたしにとって、
葛藤と危機と自律と自己信頼、そして世への信を稼ぐことのできた、大いなる一日でした。

公演という公共の場でことばを発していくときに、
ことばがことばとして歩いていく道を妨げようとする障害が次から次へと立ち現れてきます。
それは、目に見えない障害で、わたしの外に現れてきますが、
わたしのこころの内実に他ならないのです。

わたしのこころに長く、永く、巣食っていた、「恐れ」。
それは、わたしのこころを一瞬の内に硬く冷たくさせ、
前に向かって歩いていこうとするわたしの腰を後ろに引かせます。

その「恐れ」は、いまもあるでしょうし、これからもわたしのこころに立ち現れてくるでしょう。
しかし、今回の公演を通して、
その「恐れ」というものを、これまでにないほどしっかりと目の前に据えることができ、
それをわたしは乗り越えられるということを知りました。

お昼と夜の二回公演だったのですが、
お昼において、わたしは葛藤の只中でもがきながら、這いずりまわりながら、
物語を生きました。
そして夜において、わたしはこれまでわたしを縛っていた鎖を引きちぎって、
ことばの海の中へ飛び込んで行きました。

そのように、熟することとは程遠いわたしの語りを聴きに来てくださった皆さん、
公演を隅から隅まで支えてくださった久美さんとスタッフの皆さん、
そしてこれ以上ないほどの充実したときを共に生きてくださった徹さん、
本当にありがとうございました。


確かに在るものを語るのではなく、
語ることによってものを確かに在らしめること。

『高瀬舟』という作品が確かに在るということに、
わたしは仕えられただろうか。

これからも、何度も何度も言語造形の舞台に立って、
「ものが確かに在る」ということ、
「はじめにことば在りき」ということに、
仕えるべく挑戦していきたいと思っています。

森田徹さん http://springing.jugem.jp/?eid=772
久美さん  http://mo-circulate.jugem.jp/?eid=1411
スタッフの西口さん  http://moritakitchen.jugem.jp/?day=20130422
そして聴きに来てくださった後藤さん  http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=331
harmony-kodamaさん  http://harmonyk.exblog.jp/20355832
rieさん(ワークショップにご参加) http://blogs.yahoo.co.jp/dh762714/8895422.html

ブログに書いてくださっています。
どうもありがとうございます。


posted by koji at 09:53 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月08日

「淡々と語る」だけでは片手落ち 〜より高い自然としてのことば〜

語らい.jpg
写真・平島邦生(日本写真家協会会員)


子どもたちに物語を語っていて、つくづく感じることがあります。彼らは、大人が取り繕ったものや大人自身の身についていないものは、受け入れないということです。

言語造形をしてやろうなどと勢い込んでわたしなどが語ろうとしても、子どもたちはそのような技におぼれているようなものには耳を傾けてくれません。毎日の生活の中で我が子に語ってみるときなど特にそのことは明らかなのです。

「何が悪いんだろう。どうしたら聴いてもらえるんだろう」

そんな問いに、こんな答えが、こころの中に風のように帰ってきます。

自然に。そう、「自然」に。

しかし、その「自然」というあり方。ここで答えとして帰ってきた「自然」とは、どのような状態のものなのだろうか。またまた、そう問わずにはいられません。

その「自然」とは、どのような状態を言うのでしょうか。それは、ありきたりのもの、そこらぢゅうに転がっているものでは、きっと、ないのです。人の精神は、そこらぢゅうに流通しているものから隔たりを置こうとします。流通しているものの中から石を除き、玉を選ぼうとします。もしくは、流通しているものの中にこそ、玉を見いだそうとします。

自分にとって大事なことを話すとき、打ち明けるとき、人は自然にことばを選びます。その大事なこと、大切にしているものを、どう、ことばで言ったらいいのか。わたしたちが日常の生活の中でときに思案することでもあります。

そして、思案していくほどに、それはややもすれば不自然になっていったり、ことばを無くしてしまうということにもなります。そして、人は、もがきます。どういうことばなら、言いたいことがうまく言い表せるのだろう。分かってもらえるのだろう。

そして、それ相当の時間を置いて、ようやくふさわしいことばが、浮かび上がってくるがごとく、天から降りてくるがごとく、わが口から放たれ、筆によって、キーボードによって記されます。

その時の、もがき、葛藤を経た後の、「自然」とは、どのような状態でしょうか。

日常、ことばを話すときにわたしたちがしているそのようなことは、実は、人類がその歴史を通して最も精力を注いでいることではないでしょうか。

その大事なこと、大切にしていることを、どうことばで言い表すかということは、ひいては、〈わたし〉という精神の人を、こうごうしいことがらを、神を、ことばとしてどう顕し、どう組み立てていくか、ということへと深まっていきます。人の精神は、古今東西、方法は変われども、こころざしを一貫して育みながら、宗教のことばとして、文学のことばとして、哲学のことばとして、科学のことばとして、それらのことを顕わにしようと勤しみ続けています。

人は、人から人へ、時代から時代へ、大切にしているもの、大事にしたいことがら、「自然の自然たるところ」を、葛藤を経つつ、できるかぎり「自然なことば」をもって、伝えようとしています。

その「自然なことば」とは、「芸術としてのことば」だと言っていいのではないでしょうか。

人が「当たり前に(自然に)」ものにしていると思い込んでいることばが、芸術になりえる。その「芸術としてのことば」とは、ことばそのものとの葛藤を経ることによって獲得される、自然を超えた「より高い自然」です。「どう伝えたらいいのだろうか」という葛藤を経、だんだんと伝えようとしていることがらのより深い面が見えてきて、ことばそのものに沿うことのできる謙虚さが自分の中で育ってくるにつれて獲得されていく「より高い自然としてのことば」、それが「芸術としてのことば」です。その「ことば」は、そもそも、響きにおいて活き活きとした生命と深みある叡智とを湛えます。

ことばという、神から授かった自然は、人によって、「より高い自然」になりたがっているのです。

シュタイナーの教育分野、特に、幼児教育においてよく述べられていることのひとつで、子どもたちへ物語などを語り聞かせるとき、「淡々と声にするのがよろしい」ということがあります。その「淡々と」とは、これまでに書いてきました「より高い自然としてのことば」のありようとしては、あまりにも舌足らずな言い方だと感じています。

生まれて歯が生え変わるまでの子どもたちは物語や詩を大人のようには聴いていません。ひとつのストーリーあるものとして、なんらかのメッセージが込められたものとしては、聴いていないのです。

その頃の子どもたちは、意志に満ちたことばを全身で聴くことを通して、物語や詩に潜んでいるかたちや動きや絵姿や色彩や音楽に触れています。親しく活き活きと、語られ、歌われることばを通してそれらの要素に触れ、包まれ、ともに動きながらことばを味わうことが、子どもの意志を育むのです。

ですから、幼い子どもたちに対して、できうるかぎり、活き活きとそれらの芸術的要素を引き上げながら、つまり意志の要素を注ぎいれながら語りますと、ことばの持つ力を通して、将来ことばの主になりゆくための土台の力、意志の力を子どもたちの内に芸術的に育んでいくことに資するのです。

誤解を招くような言い方に聞こえるかもしれませんが、平坦に語られるのを聴いて満足できるのは、知性に生きる大人だけです。知性は、もちろん、人にとって大切な要素です。しかし、子どもは、ことばに、より豊かな意志の要素を求めています。

幼い頃に情緒過多なことばやお話ししか耳にしていない子どもは、真実ならざるもの、嘘がこころに染み入り、こころが毒されていきます。子どもは、大人によって捏造された感情を押し付けられ続けることによって、こころが毒されていきます。

また、「淡々と語られるだけの」ことばやおはなしを聞いている子どもは、知的にはなりますが、のちのち成長したあとも、ことばと自分自身が結びつきにくく、意志に欠けた己を見いだすことになります。

情緒過多も、知性偏重も、どちらも、人に、ことばへの信頼を無くさせます。

特に、方言や母語に籠もっている意志の要素は、人を生涯に渡って励まし続け、<わたし>を育み続けるのです。インスタントに養成できないその要素は、長い年月を経て、言語的経験を経て、その人その人の意志の力として、その人から生まれ出てきます。

静かに、知的に、「淡々と」語りながらも、意志をもって意欲的にかたちや動きや絵姿や色彩や音楽を感じながらことばを響かせていくこと、その知性(父)と意志(母)の結びつき、結婚を通して、結果としておのずと生まれてくる感情(子)こそが、本物の感情で、捏造された感情ではありません。

そのように、思考と意志と感情、三位一体からのことばをこそ子どもは求めています。そのようなことばをこそ人は求めています。

ですから、日本人であるならば誰でも日本語を話せるものであるというという認識は、きわめて浅薄なものと言えるかもしれません。日本語を話す人になるということは、どこまでも続く研鑽の道なのです。

ことばを話し、ことばを聴く、という人に授けられている自然を、アントロポゾフィーはどこまでも深く捉え、その自然の力を高く深く確かに育む道を示唆しています。

大事なこと、大切なことを、飾らずに、こころをもって、こころの真ん中から、どうことばにしていくことができるのか。子どもたち、特に、幼児期にある子どもたちの周りでこそ、「ことばのことばたるところ」「より高い自然としてのことば」「人が人としてよって立つところであることば」が響くように。

そう高い願いを持ちながら、失敗を何度も繰り返しつつ、今日も力を抜いて、楽に、しかし、こころの真ん中から、お話を語っていきます。

(雑誌「めたもるふぉーぜ」2012年9月号掲載分に加筆修正)


posted by koji at 20:03 | 大阪 ☀ | Comment(1) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする