2021年05月11日

稽古のあとのすがすがしさ



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昨日も言語造形のクラスをしてゐまして、芸術実践とは、まあ、なんと、「道」であらうことか、と汗を流しつつ皆でつぶやき合つたのでした。


ひとことで言へば、「楽じゃない」。


でも、なぜか、練習のあと、稽古のあと、すがすがしいこころもちになつてゐるのです。


作品作りをしてゐて、少しづつ、少しづつ、その作品に磨きをかけて行くわけですが、そのプロセスは、自分自身を研ぎ、磨き、練り、研いで行くプロセスでもあるのですね。


個人的な好き嫌ひの情や、恣意や、我が儘といつたエゴが、だんだん、落とされて行くのです。


ゲーテは旨く言つてくれてゐます。


「自然の頂きに置かれることで、人は、みづからの内に、ふたたびひとつの頂きを、きつと、生み出す。みづからとは、そのやうなまるごとの自然なのだ。あらゆる全きもの、徳に浸され、選び、運び、奏で、まことを呼び覚まし、遂に、芸術作品を創りだすまでみづからを高めて行くことによつて、人は、さういふ、まるごとのありやうにいたることができるのだ」(『ヴィンケルマン』より)


芸術実践を通してこそ、人は、まるごとの自然としてみづからを感覚するのです。


ひたすらに、美しいすがた、美しいかたちを求めて、みづからをこそ、磨いて行くのです。


そのとき、人は、求める人として、すでに、美しい。


さう感じます。


芸術実践も、また、ひとつの、高い世を知るにいたる密やかな細道なのです。



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2021年04月10日

国語教育としての言語造形



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京都御苑の母と子の森


これからの国語教育を考へるなら、手軽な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのではなく、自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、丁寧に、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。


昔から我が国の人は、和歌や俳諧を通して、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を尽くして、ことばにする力に秀でてゐたやうに思はれますが、善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふことです。


日々の暮らしにおいても、自分自身の考へてゐること、思つてゐること、感じてゐること、感覚してゐることなどを、言ひ過ぎることなく、言ひ足りぬことなく、精確に、過不足なく、ことばにする力を養ふことです。


国語のその力は、おのづから、聴く人、読む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辞の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。


文章を書くためのそのやうな力は口から出ることばに、口から出ることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあうことでせう。


話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた、書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。


そして、国語教育にさらに、ことばを話す芸術、言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。


前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて発声する、その行為はいつたい何を意味するのでせうか。


話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。


さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。


言語の運用において、そのやうな芸術的感覚をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味です。


さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに尽きずに、音楽のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聴き手に感覚される。


詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。


言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。


そして、ことばの精神、言霊といふものが、リアルなものとして、人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。


言語造形を通して、書かれたことばが、活き活きとしたことばの響きとして甦り、やがて、その生きた感覚から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。


そんな国語教育。


子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを実感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聴かせることです。


これまで、わたしも、『古事記』や『萬葉集』、『風土記』、『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、現代語訳することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に届くのだといふことを、確信するに至りました。


昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覚を通してそのやうな芸術的なことばを享受していく機会を、どんどん与へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
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これは、保田与重郎が『近代の終焉』といふ本の中で、昭和15年に述べてゐることですが、手軽に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
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また、わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、日本のことばを知る労力を費やしてまで近寄るに値しないので、出来る限り学ぶ者の負担を軽減してやらうといふだけなら、いつさうこの国はアメリカやヨーロッパ諸国の植民地となつていくのでせう。


70年、80年前の話しではなく、いまの、そして、これからの話しだと思ふのです。


古典を古典として敬ふことを学ぶ。その学びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる国が、一貫した国史をもつてゐることを実感していきます。


さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が国ならではの精神を伝へていく。それはきつと他の国々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。


いつの日か、己れの文章が言語造形されることを希ふ、そんな詩人・文人が現れること。


この国が、再び、言霊の幸はふ国へと甦ることをこころから希つてゐます。そのために、何かできないか、模索してゐます。





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2021年02月24日

マスクを剥がさう 2021😉


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―――――――

意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。

意識は芸術を殺さずに、深める。

意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。 (マリー・シュタイナー)

―――――――


人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。


自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。


「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。


言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。


その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。


さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。


頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。


それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。


その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。


さうしますと、人は、そもそもの自分自身〈わたし〉に立ち返つてまいります。


麗(うるは)しいことではないですか。

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2021年02月09日

エジプト時代の甦りとしての言語造形  


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わたしたちは、いま、西暦2021年に生きてゐます。


現代社会の中で現代的な暮らし方で生きてゐます。


ことばも、最新の文明に囲まれた暮らしの中でひたすら機能的に使はれ、大量の物と同じやうに、人と人との間に大量に流通してゐます。


さて、遥か昔においては、当然、暮らし方が違ふので、ことばに対する感覚、姿勢も随分と違つてゐました。


日本では、室町時代以前では、ことばを話すときには、ひたすらに、精確に、間違ひのないやうに話すこと、正しく話すことが重視されてゐました。ことばとそれを話す人の思ひ・考へとが、ひとつに重なつてゐることが、とても重要なことなのでした。ことば数は少なくても、ひとことひとことに論理性がありましたし、さらには、その人の思ひが籠もつてゐました。


ただ、だからこそ、と言つてもいいのかもしれませんが、西暦の紀元前500〜600年辺りから室町時代辺り(14〜15世紀)までに、ことばは、人が内側で思ひ、考へてゐることと重なつて来たが故に、ゆつくりとことばに生命が失はれて来ました。


「正しく話す」といふ価値観のもとに、言霊に満ち溢れてゐたことばの精神が、考へとひとつに重なるにつれて、ことばだけの独り立ちした美しさ、力強さ、賢さが失はれ、考への僕(しもべ)へと、いはば、その地位が転落してきたのです。つまり、だんだんと、考へを表すための道具になつて来ざるを得なかつたのです。


そして、戦国時代から江戸時代、明治、大正、昭和、平成と経て来て、いま。


考へ同様、ことばも、その「正しさ」さへ担保されなくなり、一体、人の何を信じればいいのか、日本だけでなく世界中の人が、大きな岐路に立つてゐる。さう、わたしは実感してゐます。


いまといふ、このとき、わたしたちは、本当に、立ち止まつて、人とことばの関係を深く捉へ直し、見つめ直し、教育を新しく始めなければならない、と念ひます。


さて、わたしが携わつてゐることばの芸術「言語造形」。


それは実は、西暦紀元前500〜600年よりも、さらに古い時代、アフリカのエジプトに文明が榮へてゐた頃、日本では、おそらくですが、大和朝廷がその初代天皇、神武天皇によつて一文明国となり始めてゐた日本のはじまりの頃、ことばを「美しく話す」ことに重点が置かれ、信仰が持たれてゐた頃の名残・反映だと思つてゐます。


ことばを美しく話す。


それは、今から三千年、四千年以上昔、遥か古代の実際的な営みでもあつた、言語の精神、言霊への信仰の中心的テーマでありました。それは、礼拝、祭といふ営みと不可分のものでありました。言辞・文学といふものも、それは、詩人に降りて来た神を祭る営みでした。


ことばは、考へから独立して、ことばそのものとして、空を風に乗つて響き渡る、生きた作用力でした。ひとつひとつの音韻のかたち、動き、響きの高低、長短、強弱などが、明瞭にものを言ひ、音楽のやうに美しく話すことが目指されてゐたのでした。


その当時のことばの使はれ方が、いまも、礼拝のときや、祝詞やお経が誦される時に、感じられます。


言語造形といふ20世紀の中部ヨーロッパから生まれた芸術は、きつと、そのころの営みの再現・甦りです。


しかも、全く新しく、意識された人の営みとして、意識された、神への供御として、なされて行く、新しい芸術です。


それは、おほよそ四千年前の宗教的営みの生まれ変はりとして、いま、芸術として、この世に息づかうとしてゐる「をとめ」のやうな存在です。


なんだか、大風呂敷を広げたやうなお話になつてしまひましたが、述べさせていただいたことを、〈考へ〉としてよりも、むしろ「感覚」で掴んでをられる方が増えて来てゐるやうに思ふのです。


ことばを聴くこと、そして、話すこと。


そのことを練習し、稽古することによつて、「感覚」「みること」と、「これは何だらうか」と「考へること」を重ねて行くことができます。


さうして、わたしたちは、新しい息吹を言語に吹き込んで行きつつ、「美しく話すこと」「正しく話すこと」を踏まえた上で、意識的に新しい時代のテーマを探ることをこころざしてゐます。






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2020年12月24日

キリスト生誕劇を語るシュタイナー



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キリスト生誕劇について、シュタイナーはある講演で語つてゐます。
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このイエス・キリストがお生まれになつた聖き夜の劇は、村の誰それの家に手書きで残されて、それはそれは神聖なものとして保たれてゐました。

かつてそれを演じるには、十月に入り、やおらその年の上演のことがこころにかかり、演じ手の若衆男女が選ばれ、選ばれた若衆は当日までの備へのあいだ酒を断ち、日曜日に喧嘩をしないとか、様々な慎みごとをして、彼ら言ふところの『聖らかな暮らし』を送ります。

聖き夜の節、聖き劇を演じるには、それなり聖きこころでと、さういふ意識を人々は抱いてゐました。世俗のしきたり、浮き世の楽しみで臨んだのではありません。演じるのは、ふだん鋤よ鎌よで働く人たちですから、それは素朴なものでしたが、始まりから終わりまでを、ずつと深く厳かさが領しました」
(「聖き夜との考へとわたしなる秘密」より)

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この劇は、18世紀の半ば、シュレーアーといふ文学者であり民俗学者でもあつた人によつて、西ハンガリー地方のある村で採録されたものです。その劇を20世紀に入つて精神科学者であるシュタイナーが再び見いだし、それがやがて世界中のシュタイナー学校において、クリスマスの時期に先生たちから子どもたちへの贈り物として、毎年演じられるやうになりました。


人よ 思ひ起こせ  人にして神々しいところを
天の高みより 降りてこられた をさな子


そのやうな念ひを抱く素朴な誠の心意気。この劇は、ただひたすらに、そこから発してゐます。


この「キリスト生誕劇」を三年前、二年前、いずれもクリスマスのこの時期に大阪で上演しました。


光の降誕をこころよりお祝ひするべく、陰翳深く、芸術的に深く彫り込まれたものを子どもたちに、との希ひを持つて創りました。


来たる年、またどこかでこの劇を創らせていただきます。


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2020年12月08日

精神の境へ 〜青森公演『やさしい世界の終はり方』〜


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先日、青森県十和田市での言語造形公演『やさしい世界の終はり方』、終演いたしました。

七つの詩と物語、それぞれに、お客様の皆様は、思ふところ、感じるところを持たれたやうです。

ご来場下さつた皆様、どうもありがたうございました。


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山本恵美さんによる素晴らしいピアノの演奏、短い時間の中で、本当に精一杯、この作品に寄り添ひ、格闘して下さいました。その心意気が本当にありがたいですし、演奏そのものの抒情的な真実が際立つてゐました。


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そして、Mikameさんによる絶妙に効果的、芸術的な照明、受付や司会などを荷つて下さつた「シュタイナーに学ぶAOIもり」の皆さんに、こころから、こころから、感謝します。ありがたうございました。


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演者が自身の芸術を語ることは、やはり野暮なことだと思ひます。ただ、それなりの経験から、己れがなしてゐることへの聴覚、精確に言ふなら「ことばの感官」がおのづと教へてくれてゐることもあります。少なくとも、自分自身の内、こころと精神において、確かに起こつた出来事として、記述しておきたいと思ひます。


これまでの大阪、京都の公演では踏み込み不足であつた小林秀雄の「人形」において、今回の青森での言語造形公演では、より丁寧に細やかに扱はれた音韻のひとつひとつが、これまでにない深みを湛えた表情を精神の流れの中から引き上げて見せてくれました。この作品は、幾重もの細やかな情の衣を纏つてゐます。そしてその内に静かだけれども響き続けてゐる「もののあはれ」。日本人こそがとりわけ感覚できるものを、小林は薄い墨でさつと描いてゐるのですが、そこに籠められてゐる悲しみとユーモアが、このたび、わたしには澄み渡つて聴こえてきました。


そして、後半最後の作品、石村利勝氏作の「やさしい世界の終はり方」においては、地球の重力から自由になり、唯物的な感官のありかたから飛翔し、こころが精神の境へと一気に昇りゆき、ひとつになる、そんな時空間が生まれたのを確かに感覚しました。絶妙な照明の効果もあるのですが、まさに精神の顕現として、そのとき、演者のフィジカルなからだは発光してゐます。そこに生じた光と影は、肉の目で見るのではありません。


ことばの芸術が湛える、その感覚を持つことができる人は、まだ少数かもしれません。言語造形やオイリュトミーを何年も習つてゐる人でも、その人のこころの使ひ方が唯物的な知性に傾いてゐるほどにこの感官を啓くことは難しいやうです。精神の調べが聴こえないし、精神の動きが見えないのです。


しかし、中学二年生の女の子が終演後駆け寄つて来て、様々なことばを使ひながら、純粋な瞳で、「やさしい世界の終はり方」への感動をわたしに伝へてくれました。


このことは、何を意味するのでせう。


とにかくも、青森といふこの場所で、ひとりの純粋な精神の聴き手に出会へ、わたしは仕合はせでした。


かさねがさねになりますが、ルドルフ・シュタイナーが20世紀初頭に希んだこのやうな芸術のための場を、21世紀初頭の日本の青森の地に設へて下さつた皆さんに、こころからの感謝を述べさせていただきます。本当に、ありがたうございました。


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2020年12月05日

中学生とキリスト生誕劇の稽古



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中学生の女の子ふたりとキリスト生誕劇の稽古。


大天使ガブリエルとマリアの対話劇。芸術といふものに対するどこまでも素直で熱心な中学生。とても充実した稽古でした。


来週土曜日12日に、青森県八戸市種差で行ふ「冬のアドベントガーデン」(主催 シュタイナーに学ぶ会 AOIもり)に出演します。

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2020年11月25日

小さな芸術共同体



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今日の言語造形のクラスで、石垣りんの詩「儀式」に生徒さんと共に取り組んだのです。


「儀式」石垣りん

母親は
白い割烹着の紐をうしろで結び
板敷の台所におりて
流しの前に娘を連れてゆくがいい。

洗い桶に
木の香のする新しいまないたを渡し
鰹でも
鯛でも
鰈でも
よい。

丸ごと一匹の姿をのせ
よく研いだ庖丁をしっかり握りしめて
力を手もとに集め
頭をブスリと落すことから
教えなければならない。
その骨の手応えを
血のぬめりを
成長した女に伝えるのが母の役目だ。

パッケージされた肉の片々(へんぺん)を材料と呼び
料理は愛情です、
などとやさしく諭すまえに。
長い間
私たちがどうやって生きてきたか。
どうやってこれから生きてゆくか。


何度も何度も取り組んでいくうちに、朗唱してゐる者も聴いてゐる者も、たつた一語と一語の間に、涙が溢れてくる時が突然やつて来たのでした。

それは、語と語のあひだ、音と音の間(ま)に隠れてゐた秘密の扉が開けられ、詩の作者の思ひや意図を遥かに超える、人類の抱き続けざるをえない悲しみが溢れ出て来たのでした。

たつた一音の扱ひによつて、人は激しく情を動かされたりするのです。

ことばの芸術によつて、そこに集まる人たちが皆、涙を流す。

このやうな小さな場において芸術・文化・精神が育まれて来たこと、芭蕉の俳諧、連句の場などで江戸の元禄時代には特に集中的になされてゐました。

まことと美、それを真ん中に据ゑて、こころを開いた少数の人が集まる。そんな芸術共同体が、ふたたび、日本の各地に数多く生まれて来ることこそ、文化の国、日本の再生を促します。

クラスの終はりに、秋の七草の花の名を歌つた山上憶良の萬葉歌を言語造形でたつぷりと味はひました。

萩の花 尾花 葛花 なでしこの花
女郎花 また藤袴 朝貌の花  (萬葉集 1538)

花の名を唱へるだけで、花といふものの精神が空間一杯に拡がり、花の神さまと交はることの喜びを感じることができるのです。

この国の精神文化をふたたび甦らせることができると信じて、また今日も励んでゐます。



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2020年11月19日

間(ま)が怖い?


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言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、息遣ひ、呼吸です。

深く吐き出される息が、ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、おのづと間(ま)を生み出すのです。

その無音の間は、豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。ことばが発音されるときよりも、むしろ、その無音の間の中にこそ、ことばの精神、言霊が響きます。ですから、時閧ニ空間を、ことばといふもので埋め尽くさないのです。無音の間が活き活きとしてゐる事で、そこに物質的なものではない、精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。

その精神の豊かさは、人の頭にではなく、胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。

そのやうな間(ま)に触れるとき、人によつて、随分と違ふ反応が表れます。

からだの調子が悪い時、そのやうな間に触れて、人は眠りにいざなはれるやうです。きつと、精神がその人を休息へと導いてくれるのでせう。

逆に、からだもこころも健やかな時、そのやうな間は、その人の意識をますます目覚めさせ、ことばの響きと間に呼び起こされる、様々な感覚を享受させてくれます。色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、それら様々な情景を「もののあはれ」として、人は享受することができるのです。

また更に、次のことは、これからの時代、ますます顕著になつてきます。それは、こころの奥に自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、自分自身に嘘をついてゐるとき、自分自身のこころの闇を見やうとしないとき、人は、そのやうな間に触れると、不快感を感じたり、不機嫌に成つたり、耐へられない思ひに捉はれたりするやうになります。

現代人に、「間(ま)」を嫌ひ、「間(ま)」を避けやうとする傾向が見られるのは、この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。

「間(ま)」とは、魔なのかもしれません。しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。「真(ま)」に触れて人は、だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、健やかに、欣びを存分に享受しながら仕事をしていくでせう。

芸術はそんな仕事を荷つてゐます。

言語造形もそのやうな芸術のひとつだと思ひます。





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2020年11月18日

自分自身の声を聴くこと


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保育園の0〜2歳児、3歳児、4歳児、5歳児、それぞれのクラスで昔話をさせてもらつた時、その保育園の先生方と言語造形のワークショップもしたのですが、その時、おひとりおひとりの先生に、こんなことを訊きました。

皆さんは、御自身の声が好きですか。すると、すべての先生が、嫌ひだとお答へになりました!

そこで、こんなお話をさせてもらひました。先生といふ職業は、その存在まるごとで、子どもたちに向き合ふお仕事。だけれども、まづもつて、子どもたちに働きかけるのは、先生の声とことばです。その先生自身が、御自身の声を好きになれないとしたら、その好きになれない声で、子どもたちに話しかけることになりますね。

声とことばが、人にとつての道具だとするなら、その人自身が愛してゐない道具で決していい仕事はできません。声とことばは道具だと言ひましたが、道具にしては、あまりにも、我が身と我がこころに密着している道具です。だからこそ、まづもつて、我が親しい道具である、自分自身の声を好きになることから始めませう。

そんな話をさせてもらひました。
 
その後、保育園からの帰りの電車の中で、こんなことを考へました。 

なぜ、自分自身の声が好きになれないのだらう。たとへば、録音された自分自身の声を聴く時の違和感。自分は、こんな声で話してゐるのか!そのショックは、どこからやつて来るのだらう。

もちろん、録音された音声は、生の音声とは質が全く違ふ。しかし、本質的なこととして、そのショックは、普段、自分自身の声に耳を傾けることがほとんどないことから来てゐる。

思ひ切つたことを言つてみよう。そもそも、ことばとは、意を伝へるものではない。ことばで、自分自身の言ひたいことが、他人に伝はると、本当に思ふか。どこまで、ことばを尽くしても、人と人との間には、常に理解の差異が存在しないだらうか。むしろ、ことばとは、自分自身が聴くために、発せられる。そして、自分自身を知るために、発せられる。

自分が発する声とことばに、どこまで、自分自身が耳を澄ますことができるか。その瞬間瞬間に、わたしたちは、ことばといふものの本当の価値を感じる。

自分の声を好きになるには、自分自身の声を、よおく聴くことだ。自分自身の声とことばに、よおく意を注いであげることだ。

そもそも、どの人の声も、美しい。

その美しさは、人から、自分自身から、意を注がれて、初めて顕はになる。



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2020年11月10日

風の人


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ルオー『キリストと漁夫たち』


芸術をする人は、ときどき、おかしなことを言ひます。普通の感覚では決して捉えることができない、おかしなことを言ひます。今日もおかしなことを言ひます。


人の息遣ひから、ことばが、生まれる。
さらに、風から、人は生かされてゐる。
風、それは、神の息遣ひである。
そこに、言語造形の稽古は常に帰つていく。


昨日の言語造形クラスでも、言語造形の基本に立ち返つて、まづ最も基本の身ぶりに取り組んだ。それは、歩みつつ「息をする」といふ身ぶりだ。


普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣ひから、ことばと共に、見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。その息遣ひの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。


外から取つてつけた身振りではない、息遣ひから生まれてくる「空氣人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。そのすがたは、わたしたちに「人のおほもとのすがた」を想ひ起こさせてくれる。


そのすがたは、遙かな昔に人がとつてゐたすがたであり、そして、遙かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであらうすがたでもあつて、芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、未來にあるであらう「人のすがた」を密やかに提示していく。


それは、ことばが、單に情報を伝へるためだけの抽象的なものではなく、活きたことばとなり、人そのものとなり、そして、だんだんと、人がことばそのものとなることである。


「はじめにことばありき」へと、これからはだんだんと遡つていくのだ。


ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、かうある。


まこと、まこと、わたしは、あなたに言ふ、
それ、人、水と風から生まれん、
そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず
(ヨハネ 三章五節)





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2020年11月08日

旋律造形と言語造形



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ここに書かれてゐる「指揮するといふこと」についての小西収さんの文章は、何十年来持ち続けてゐるわたしの自問自答の道に一筋の光をもたらすものです。


時間といふ動きの世界の中で、何をよりどころにして、そして、いかにして、人は新しい世界を創造していくことができるのか。


一瞬一瞬の精神の身振りによつて、おのづから鳴らされる一音一音の音、音韻にわたしたち演者は導かれてこそ、恣意から大きく飛翔できる何かにまみえることができる。


その身振りの創造。その持続。


「冷静に言えば、できるはずのないこと」に「賭けている」。


その行為そのもの、その行為の持続そのことに、かけがへのない「意味」がある。


わたしには、さう思へて仕方がありません。


なぜならば、大仰な言ひ方になつてしまひますが、それこそが「音楽の神」「ことばの神」に導かれつつ、歩いてゆく道だと思ふからです。


出逢ひの僥倖をひたすらに思ひます。


ーーーーーー


言語造形家・ 諏訪 耕志さんの公演『やさしい世界の終はり方』、大阪、京都の2公演が終わりました。クラリネット演奏で共演させて頂きました。写真は今回のために編んだ楽譜の一部です。こんなことを考えこんなものを作るのもなかなか珍しい、と我ながら思っています(笑)。
 
今回はトークのコーナーもありました。が、当意即妙というのは苦手で…特に京都では、せっかく諏訪さんに振ってもらったお話に十分には応じることができなかったなあ、と省みておるところです。そこで、今ここで答えてみようかと思い立ちました。本来会場でこそ聞けるトークでしたので、ご来場頂いた方々にはご寛容のほどお願いしたく…、野暮を承知で書こうと思います。
 
指揮者とは何をしているのか。
 
「奏者が気持ちよく音を出せるように」とか「合わせやすいように示す」といったところに焦点を持つ指揮法・指揮者論が主たる潮流の一つとしてあることをもちろん知っていますが、私の指揮はそれとは異なる方の流儀といえます。もちろん、私の全身を奏者が読み取ってくれたおかげで、その奏者が弾きやすくも合わせやすくもなる…というふうに進めばたいへん幸いなことで、ぜひそうありたいものですが、それでもそれは結果に過ぎず、私にとっては、それが指揮をする目的ではありません。
 
「身振りそのものが、何らか、演奏する音符自体音楽自体をそのまま体現するものである」ように注力すること。私は、普段からほぼそれだけを考えています。極言すれば、その動きさえ追えば音を聴かなくとも曲がわかりどんな演奏かもわかる!のが理想です(笑)。実際の音楽は無くてもよいというのは、何とも荒唐無稽で反転した言い方ではありますが…。しかし、自らは音を出さずに、ひたすら空を切っては消えていく指揮者の動き、それは、1曲のスコアの中身を表すのにはあまりにも持ち合わせが少な過ぎるように思えます。しかも、上記で「全身」と書きはしましたが、主として用いるのはせいぜい両腕と両五指のみ。そのような指揮者の身振りに、1曲の音楽世界のすべてを体現する…なんて、冷静に言えば、できるはずはないのでしょう。が、そこに賭けている、というのもほんとうなんです。
 
初めて諏訪耕志さんの言語造形の舞台に接したとき、ああ、この人は私と同様の格闘をされている!と強く感じたのでした。一文・一語・一音を生成させることに賭けるという、無二の芸術。京都公演に来場した親友のKがいみじくも「神は細部に宿る」と。そう!この言葉こそふさわしい。その一瞬一瞬を聴き追うことが、言語造形鑑賞の醍醐味です。私は私の表現追求のことを「旋律造型」という造語で言うことがあるのですが、言語造形という語句との共通性も偶然ではないと思いました。そのようなわけで、諏訪さんとの共演(諏訪さんへの助演)は、指揮ではなくクラリネット演奏によってではありますが、他ではけっして得られない体験を与えられ、私の芸術活動の中でも小さくない意味を持ち続けます。

文 小西収氏


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2020年11月06日

息遣ひの徳用(さきはひ)〜フィジカルなからだから羽ばたく〜



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ある秋の日の四条畷の空


あなたは、フィジカルなからだの中に、こころを持つてゐるのでは全くない。

あなたの息遣ひのうちに、こころは生きてゐる。

わたしたちは、風の中にこころを持つて生きてゐる。

息を吸ひ、吐くときに、こころは風の中を、風と共に泳いでゐる。

地球は絶えず重力をもつて、人を病と死に追ひやらうとするが、呼吸をすることで、人は地球のその働きかけから守られ、健やかに生きることができる。

息遣ひとは、地球から与へられてゐる働きではなく、大いなる世(宇宙)から与へられてゐる働きであり、人のこころとからだの健やかさを守り、育む。

(ルドルフ・シュタイナー「精神科学における感官への教育の礎」第八講より)


言語造形といふ芸術は、その息遣ひを促すことにおいて、法則に沿ひつつ、かつ、フィジカルなからだから羽ばたいて、空間へとこころを自由に解き放ちます。その行為が、する人を、また聴く人をも、健やかさへと促すのです。




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2020年10月29日

大阪公演のご感想



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先日の言語造形公演を聴いて下さつた方が、
感想を寄せて下さいました。
ありがたいことです・・・。


ーーーーーー


大阪公演を実際に見てきました。
言語造形。
ことばで説明するのはとても難しいですが、
ことばとして響いているものの奥に、
何かほんとうのものがある。
クラリネットの素晴らしい音の奥にも
同じように深く響くものがある。
それがわたしの奥で触れ合って、
ただただ感動しました。
一つ一つの物語が、
ほんとうにあったことのように思えました。
見終わった後も、
自分の生活のなかに物語のかけらが生きているのです。
本当にあたたかく優しい舞台です。
(t.m.さん)


ーーーーー


11/3(火・祝)京都言語造形公演 
詩と物語「やさしい世界の終はり方」




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2020年10月21日

ひとつの批評 〜漱石「夢十夜」〜



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今日、言語造形のクラスをしてゐて、
夏目漱石の『夢十夜 第一夜』によつて、
部屋一杯に満ちる悲しみと、
その情の昇華に、
激しくこころを揺さぶられたのでした。


黙読するだけでは、
感じることのできないやうな、
女といふものへの、
漱石の乞ひ求めの切実さと切迫。
男といふものの性(さが)が持つ、
どうしやうもなさからの救ひへの渇望の深さ。


それは、神話に語られてゐる、
イザナギノミコトとイザナミノミコトによる、
「みとのまぐはひ」から、
「黄泉平坂(よもつひらさか)での別れ」以来の、
男と女の間に起こらざるをえない運命の必然を思はせます。


漱石に対する評論は、
全く読んだことはありませんが、
(近々、江藤淳のものを読むつもりでゐるのですが)
言語造形によつて作品が「演奏」されることは、
ひとつの最上の批評になりうるのではないか、
さう実感するのです。



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2020年10月04日

秋の花の名



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山上憶良の「秋の七草」として知られている歌二首。
『萬葉集」からの歌です。


 秋の野に 咲きたる花を 指折り(をよびをり)
 かき数ふれば 七種(ななくさ)の花


 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花(をみなえし)
 また藤袴 朝貌(あさがほ)の花


花の名を唱へるだけのこの歌。


しかし、その名を發音するとき、
部屋の空閧ノ、
その花、その花の奥深い内部が開かれ、
各々の植物がその精神を語りだす、
そんな感覺が生まれたのでした。


さうして、秋の野原がこころの目の前に拡がるのです。


すると、不覺にも目に涙が溢れてしまひました。


親しくて、懐かしく、そして悲しい、感情です。



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2020年09月19日

母なるいのちの源からの力



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子どもがこの世に生まれて来て、
初めて地上で触れる芸術。


それが、
お母さんの声、
お母さんのことばですよね。


声といふ芸術は、
母なる生命の源から流れ來る、
命の川の流れにも似た、
人生の始まりを支えるものです。


それゆゑ、
人生の終はりにおいても、
その源へ帰るといふ情から、
戦争などで死んでゆく若者などは、
「おかあさあん!」と絶叫するのかもしれません。


いのちの流れ、
それはエーテルの流れです。


息遣ひに裏打ちされた声とことばは、
エーテルの流れに沿つて、
人から人へと働きかけ、
空間を満たさうとします。


親からことばをかけてもらふことが、
幼い子どもにとつて、
どれほど欠かせないことか。


子どもに食べ物さへ与へれば、
からだは大きくさせて行くことができるかもしれません。


しかし、その子にことばがかけられなければ、
その子は、生命力を育むことができないのです。


生命力。
生きて行くための力。
根源の力。
母なるいのちの源からの力。


それは、子どもの傍にゐる、
大人からのことば遣ひ、息遣ひによつて、
子どもに与へられるのです。


言語造形は、
そのことをリアルに感覚するための絶好の芸術です。


幼い子どもたちへのことば。


いま、始まつたばかりの四日間連続講座で、
身をもつて学んでゐます。



※絵は、安田育代氏


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2020年09月10日

楽器の音色を聴く感官とことばを聴く感官の違ひ



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公演のための打ち合はせを小西さんと。


クラリネットから響く調べが、
空間に満ち渡ります。


小西さんのクラリネットからは、
公演のたびごとに、
様々な色合ひが感じられるのですが、
このたびの響きからは、
どこか懐かしいやうな少年のころの風景と、
老いて初めて見えてくるであらう情景とが
ことばの響きと輻輳して感じられます。


楽器の調べは、
天の使ひ(天使)が、
ことばの響きは、
大いなる天の使ひ(大天使・民族の精神の方)が、
わたしたち人の体内の水を震はせ、動かしつつ、
運んでくれる。


さういふシュタイナーのことばから
示唆をもらひながら、
人の芸術作業を見守つてゐる、
人以上の存在の方々からの繊細な働きかけを
かうして舞台への集中した時間の中で、
聴き取らうとする試みでもあります。


天の使ひの方と、
大いなる天の使ひの方との、
働きの違ひ・・・。


分別で、ではなく、
こころの感官、精神の感官において、
それらを聴き取らうとすればこそ、
そこにきつと豊かなハーモニーが生まれてくる。


さう、固く信じて、作業を行つてゐます。


しかし、わたしにとつては、
音楽の音を精確に聴き取るのは、
本当に難しいと感じます。
いはば、夢見心地で楽の音を聴いてゐるのでせう。
精確さにまだまだ欠けるのです。


ですので、音楽を奏で、
聴き取る耳を持つ方との共同作業には、
作品を創る上で本当に助けられるのです。
小西さん、今日もありがたうございました!



●大阪・京都 言語造形公演『やさしい世界の終はり方』
http://kotobanoie.seesaa.net/article/477284901.html


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2020年08月14日

基礎練習といふものの意味



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二十六年ほど前からわたしは、
言語造形といふ芸術に携はり始めたのですが、
基礎練習を、
本当に毎日、毎日、
繰り返しすることができてゐるのは、
我ながら不思議な感じがします。
 
 
それまでは、
つまり二十代までのわたしは、
ひとつのことを継続してやれた験しがなかつた(-_-;)
 
 
ですから、何かを継続できる、
その意志の力といふものは、
無理強ひして育つやうなものではなく、
この人生を越えたところから導かれる力であり、
継続してすることのできる何かは、
向かうからやつてくるものだと思ひますね。
 
 
しかし、それはさうとしても、
子どもの頃、たくさん遊ぶといふことは、
意志の力の育みにおいて、
とてもたいせつなことです。
 
 
そして、理想を言へば、
シュタイナー教育のやうに、
小学校時代に、芸術を通して、
繰り返し、繰り返し、創ることに挑むことができたら、
さぞかし、その人の意志の力は強まり、
感覚し、感じる情の力は豊かになる、
さらには、大人になるプロセスにおいて、
本当に行きたいところへ行くことができ、
会ひたい人に会ふことのできる、
その力が強まる、
さう思ひますねえ。
 
 
さて、わたしの基礎練習には、
40分から1時間ぐらゐ掛かります。
 
 
基礎練習をすることによつて、
芸術といふ仕事に必要な、
様々な要素が見えてくるのです。
 
 
歳を追ふごとに、
その基礎練習に対する感覚に、
深みが加はつてくることを感じるのですが、
以前は、汗を一杯かいてやり終へた後の、
「なすべきことをしてゐる」といふ、
充実感がずつと嬉しかつたのです。
 
 
しかし、ここ半年ほどは、
その基礎練習をすることそのことの中に、
喜びと楽しみを感じ始めました。
 
 
なんと、遅い、とても遅い、成長でせう!
 
 
これは、わたしにとつて、
とてもゆつくりと進行してきた、
ひとつの内なる変容、
大袈裟に言へば、
ひとつの小さな大革命(?)です。
 
 
どの芸術、どの仕事にも、
その営みを根底で支へてゐる、
基本の型といふものがあります。
 
 
仕事をする際に、
その型をいかに崩さないか。
 
 
そして、その崩れない型の中に、
いかに豊かで深い色合ひと調べが息づいてゐるか。
 
 
そのやうな型が身についてゐるからこそ、
仕事の対象に対する感覚が研ぎ澄まされて来ますし、
だからこそ自由自在に羽ばたくやうに仕事ができる。
 
 
そして、その型自体が、
長いときをかけてゆつくりと成長して行く。
 
 
どの仕事においても、
そのやうな基礎練習に支へられてゐる型が、
あるのではないでせうか。
 

むしろ、積極的に、
見いだして行つていいものだと思ひます。
 
 
 

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2020年06月29日

外郎売 〜教員養成のための言語造形〜


 
『普遍人間学』。それは、ルドルフ・シュタイナーが、世界で最初のヴァルドルフ(シュタイナー)学校の開校前に行つた教師に向けての14日間連続の講義です。
 
 
その『普遍人間学』のあとの演習の時間に、言語造形のレッスンのための素材を、ほぼ毎日、受講者に授けてゐます。
 
 
それは、意味のあつてないやうな、ことばの群れですが、それらを繰り返し練習することで、言語の器官を体操させ、しなやかにすることができるのです。
 
 
教師が、ひとつひとつの音の響きに全身で入り込んで、意識的に明瞭に話すことができること、子どもへの教育におけるそのことの重要性を彼は語つてゐます。
 
 
そこで与へられてゐる素材は、もちろんドイツ語です。
 
 
たとへば、こんな感じです。
 
 
Lalle Lieder lieblich
Lipplicher Laffe
Lappiger lumpiger
Laichger Lurch

 
わたしたち日本人が、そのやうな素材を探すとするなら、歌舞伎の『外郎売(ういろううり)』といふものがありますよ。
 
 

 
 
子どもたちの前で話すことを仕事にしてゐる方は、ぜひ、暗記して、繰り返し繰り返し、練習してみることをお勧めします。
 
 
言語造形を通して、母音、子音に意を配りながら、息遣ひ豊かに、内的な身振りをもつて、練習していくことができます。
 
 
子どもたちが求めてゐる「ことば」とはどのやうなものか、感じられてくると思ひます。
 
 
 

 
 
 

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