京都御苑の母と子の森
これからの国語教育を考へるなら、手軽な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのではなく、自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、丁寧に、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。
昔から我が国の人は、和歌や俳諧を通して、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を尽くして、ことばにする力に秀でてゐたやうに思はれますが、善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふことです。
日々の暮らしにおいても、自分自身の考へてゐること、思つてゐること、感じてゐること、感覚してゐることなどを、言ひ過ぎることなく、言ひ足りぬことなく、精確に、過不足なく、ことばにする力を養ふことです。
国語のその力は、おのづから、聴く人、読む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辞の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。
文章を書くためのそのやうな力は口から出ることばに、口から出ることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあうことでせう。
話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた、書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。
そして、国語教育にさらに、ことばを話す芸術、言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。
前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて発声する、その行為はいつたい何を意味するのでせうか。
話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。
さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
言語の運用において、そのやうな芸術的感覚をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味です。
さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに尽きずに、音楽のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聴き手に感覚される。
詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。
言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
そして、ことばの精神、言霊といふものが、リアルなものとして、人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。
言語造形を通して、書かれたことばが、活き活きとしたことばの響きとして甦り、やがて、その生きた感覚から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。
そんな国語教育。
子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを実感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聴かせることです。
これまで、わたしも、『古事記』や『萬葉集』、『風土記』、『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、現代語訳することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に届くのだといふことを、確信するに至りました。
昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覚を通してそのやうな芸術的なことばを享受していく機会を、どんどん与へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
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これは、保田与重郎が『近代の終焉』といふ本の中で、昭和15年に述べてゐることですが、手軽に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
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また、わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、日本のことばを知る労力を費やしてまで近寄るに値しないので、出来る限り学ぶ者の負担を軽減してやらうといふだけなら、いつさうこの国はアメリカやヨーロッパ諸国の植民地となつていくのでせう。
70年、80年前の話しではなく、いまの、そして、これからの話しだと思ふのです。
古典を古典として敬ふことを学ぶ。その学びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる国が、一貫した国史をもつてゐることを実感していきます。
さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が国ならではの精神を伝へていく。それはきつと他の国々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。
いつの日か、己れの文章が言語造形されることを希ふ、そんな詩人・文人が現れること。
この国が、再び、言霊の幸はふ国へと甦ることをこころから希つてゐます。そのために、何かできないか、模索してゐます。
posted by koji at 08:28
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ことばづくり(言語造形)
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