[言語造形]の記事一覧

2015年09月17日

人はみな言語造形をしていた

「感情を交えずに、淡々と声にすることを旨とすべし」
シュタイナー教育において子どもに向かって物語を語りかけるときに、
このことをこれまでよく本などで目にしましたし、人がそう言うのを耳にしました。

しかし、シュタイナー自身がこう語っています。
子どものこころと精神をあまりに強くからだに受肉させることから守るために、
いかに語りかけるか、ということです。

   歴史の物語に子どもが強く情をもってかかわるように、
  教師自身が、人物について、強く情から心を寄せ、敬い、
  あるいはまた憎むに値する人物のことを述べるときには、
  憎しみを湛えて語ることによってです。
  そのことをもって歴史の授業は、
  子どもが物質的になりすぎないことに、ことのほか役立ちます。
           (『メディテーションをもってものにする人間学』鈴木一博訳)


シュタイナーが語っていることがらを長い時をかけて自分自身で確かめてみるに、
語り手自身が、言語造形を通して、ことばに沿うことによって、
おのずから抱かれる深い情を湛えながらことばを発すること、
それは決して聴き手への情の押し売り、頭でっかちな考えの押し付けにはなりません。

芸術とは、人の知性にではなく、情に訴えてくるもの。
要(かなめ)は、語り手の独りよがりな情ではなく、
作品そのもの、ことばそのものに潜んでいる、まことの情が、ものをいうことだと思うのです。
まことの情こそが、子どもたちと、分かち合われ、
その分かち合いは、わたしたちのふるさとである精神の世を想い起こさせます。


また、シュタイナーはこうも言っています。
今度は、子どもをある程度、その子その子に応じてふさわしく地上的にするために、
いかに語りかけるかです。

   子どもがあまりに夢見がちであると気づいたなら、
  その子が言語の唱えられるところ、音楽的なところ、
  リズム、拍を受け止めることのほうへと目覚めるように試みます。
  言語の音楽的なところは、
  <わたし>をからだに入り込ませるのに役立ちます。
  育てる人としては、それを芸術として身につけることが欠かせません。
                               (同書)


ことばの音楽的な側面。
それは、子どもの意欲を強めます。
萎えがちなところに、いのちを吹き込みます。

   いにしえには、
  人がそもそもリズムなしに話すなどありえない代々がありました。
  人がリズムのうちに話そうとする向きをもっていました。
  たとえばなにごとかを言うのに、
  言語造形によらずに言うことはありえませんでした。
                    (『言語造形と演劇芸術』鈴木一博訳)


本当の意味での、人というものの育み。
それには、生の中に、授業の中に、いのちを吹き込む芸術的な情が欠かせません。

そんな情をあまりにも豊かに湛えていた達人のひとりを紹介します。
寅さんです!

  



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2015年09月13日

神経系から血液系へ

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先日、モモの会(こども園ほしの子)にての月に一回の言語造形でした。
 
口先だけでことばを操るのではなく、
からだまるごとをもってことばを発していく。
 
神経系を用いることから、呼吸を通して、血液系を多用する話し方へ。
 
そうすることで、話す人と共に、聴いている人も、
からだまるごとでことばを感覚するのです。 
 
ことばを感覚する。
 
言語感覚を養っていく。
 
その古代の人たちがおのずから持っていた感覚を、
わたしたちは意識的にみずから啓いていくのです。
 
その行為は、人を裸にします。
 
その感覚は、人を「ことば」にし、「歌」にします。
 
「人というもの」が、
そもそもは「ことば」であり、「歌」であったことを想い出すのです。
 
そして、そんな大人のあり方に、幼い子どもは、即座に、反応します。

モモの会では、言語造形に全力で取り組む大人の声を、
全身で浴びるように聴いている子どもたちが周りに何気なくいて、
そういう環境は幼児期における国語教育の基として、
とてもいいものだと感じています。
 
 
以下、モモの会(こども園ほしの子)さんのことばをご紹介します。
 
____________________________
 
9月の言語造形。
ありのままの自分と向き合うため、
一人ひとりが今まで身にまとっていたものを、
一皮ずつ脱いでいくような作業をしていると改めて思います。
とても勇気がいることですが、それぞれの人の内側で何かが変わってきているのがわかります。

ことばを迎える、ことばを味わう、そんな大人の行為を
子ども達は、遊びながらも、からだ中で聴いていました。

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2014年11月09日

和歌山県岩出市 モモの会にて


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来年1月の言語造形発表を控えて、皆さん、作品への取り組みに熱が入っています。
 
ことばの芸術に取り組む。
 
それは、からだとこころをフルに動かすうちに、やって来ることばの響き(精神)を聴きとる作業の連続です。
 
こころから手足を動かし、働かせる、そこにこそ、精神が宿ります。
 
そして、語り手が聴き耳を澄ませるほどに、聴き手も耳を澄ませることができます。
聴き手が耳を澄ませるほどに、更に語り手は自由にことばを羽ばたかせることができます。
 
語り手と聴き手の、そのような交流は、現代においては、ある意味、秘儀と言われてもいいように思われます。
 
それは当たり前の社会生活の中に潜んでいる「秘儀」です。
 
そのような秘めやかな人と人との交わりをこそ、大事に見てとっていく。
 
『普遍人間学』の学びも、そのことに気づき、更に深く入り込んでいく助けになってくれます。
 
こころとからだを耕していく。
 
そんな学びを共にしています。

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2014年10月16日

「使う」から「仕える」へのメタモルフォーゼ(言語造形について)


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ことばとは、わたしたち人が「使う」ものだと、通常思っている。自分の考えていることや思っていることを言い表すための道具として、日本人ならば日本語を当たり前のように使いこなせるものだと、ある意味、高をくくっている。

人と人との間において情報という情報が交わされている。その際、情報の中身、伝えようとしている内容、意味、それらをできる限り簡潔に分かりやすく伝えることができればいいのであるから、ことばはその情報を伝えるための道具であり、記号にすぎない。そんな風にわたしたちは漠然と感じているのではないだろうか。そういう漠然とした意識の中で漠然と教育されてきたわたしたちに、例えばシュタイナーのことばがひどく難解に感じられてしまうのも致し方ないのかもしれない。

そのことばに対する漠然とした意識に、アントロポゾフィーから生まれたことばの芸術「言語造形」は揺さぶりをかける。

試しに、ひとつの短いメルヘンを語ってみる。昔のように人に語ってもらって聴いて覚えるのではなく、現代においては紙に印刷された文字を読んで覚えるメルヘンである。書いてある通りに読めばいいと思って、まずは声に出してみるのだが、やはりそれだけではどうも物足りなく感じてしまう。ただ読んでいるだけの読み聞かせに、聴き手はほとんど魅力を感じにくいはずだ。そこで、ちょっとここは感情を込めてだとか、ここは盛り上がりをもって表現してみようだとか、自分なりに工夫を凝らしてやってみる。

ところが、そのような、ことばを知性からの判断でもって表現しようという試みは、言語造形をすることにおいて、ことごとく却下される。なぜなら、そのような頭における考えによってことばを操作しようとするとき、えてして、その表現はことばそのものの表現ではなくなり、話す人その人の人となりを押し付けがましく表立たせることになってしまうからだ。

ことばを声に響かせて話すとき、自分なりの解釈をもってするのではなく、ことばの音韻ひとつひとつの響きや、ことばとことばのあいだに生まれる間(ま)や、呼吸のくりなしに沿うことに挑戦していく。

そのようにことばに沿いつつ手足を動かすことによる身ぶりを通してこそ、ことばそのものが本来もっている感情や深みのある意味が立ち上ってくる。ことばとは、本来、手足による行為とひとつのものなのだ。手足の動きは、頭における操作よりもずっと賢いところがあることに気づくのは、現代人にとってはことさらに厄介なことかもしれない。できるだけ動かずに、ボタンひとつの操作で情報をやりとりできる現代においては。

頭とは、人体の中で最も物質的なところであり、死が支配しているところである。一方、手足とは、最も精神的なところであり、生命が漲ろうとしているところである。動きを通して手足は、まさに精神に通われ、精神の世を生きる。ことばの響きとことばに内在している動きに沿って手足を連動させながらそのことばを声に出し、身ぶりをもって一文一文響かせていく練習を重ねることで、だんだんとことばの味わいやメルヘンのもっている密やかなささやきを感覚していくことができる。

そして、そのように、吐かれる息の中で声になったことばがかたちと動きをもっていることで、聴き手もそのかたちと動きを共に生きることができる。そのかたちと動きに通ういのちを人と人とが分かち合うことが、芸術がこの世にあることの意味のひとつでもある。

まずはことばを、頭でもって捉えることで、わたしたちはことばをキャッチするのだが、それを練習によってだんだんと胸へ、腰へと降ろしていき、ついには、頭でいちいち考えなくても、手足の動きの感覚から語れるようにもっていくこと。そのようなからだまるごとを通した経験が言語造形によってなされる。それは、ことばの外側に立ってあれこれ考え、操作していくのではなく、ことばの響きと動きの真っ只中に飛び込むことで、ことばの芸術を生き、新しい認識に至ることなのだ。

印刷されている文字から読み取られることばというものは、まずもって、死んでいる。その死んでいることばにいのちを吹き込むのは、生きている人である。精神を活発に働かせながら、活き活きと読み取り、活き活きと理解し、活き活きと発声することで世に響かせる人である。

若い人たちに、子どもたちに、このような観点から、ことばの芸術を伝えていくこと。それが言語造形をする人の担うことだと感じている。

ことばを死んだものとして「使いまわそう」とするのではなく、人よりもより賢い叡智を秘めたものとして、そこにいのちを吹き込むべく、ことばに「仕える」こと。「わたしが手前勝手に使う」のではなく、「みずからすすんで使われる」こと、「仕える」こと。その行為によってこそ、人は、満ち足りていくのだということを、シュタイナーは言語造形を通しても教えてくれる。

シュタイナーが1924年に行った連続講演「言語造形と演劇芸術」の中でのことばを紹介させてもらって、終わりにしたい。


舞台芸術の養成学校で必ず次のことを学んでいただきたいのです。
そもそも、響きに対する宗教的なこころもちをわたしたちの芸術に引き込むことができてこそ、舞台芸術につきまとう危険を凌ぐことができるはずです。道徳的に堕落してしまう危険すらあるのです。
わたしたちは、非日常的なもの、聖なることに踏み込んでいいのです。
こうごうしい教師である音韻をものにして然るべきなのです。
そもそも音韻の内に根源的なまるごとの世があるからです。
ことばの造形者になりたいのなら、まず、「はじめにことばありき」というヨハネ福音書に書かれてあることばを忘れてはなりません。
(中略) 芸術に宗教的なこころもちが披かれるまで、俳優はこころのメタモルフォーゼを経ていって然りなのです。
それは、音に耳を傾ける精神への帰依をもつことから始まります。




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2014年07月14日

一本の樹木 詩を紡ぐ人と言語造形をする人


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昨日の稲尾教彦さんの公演を終え、一日を経て、ゆっくりと想い起こす。

やはり、他人様の言語造形を聴かせてもらうことは、本当に刺激になり、勉強になる。

昨日の公演の題は『詩とメルヘン』だったのだけれども、詩というものこそ、自分自身が切に求めているものなのだということを今更ながら自覚した。

ことばが詩であるとき、とりわけ、そのことばが声として響くとき、わたしは、何を聴き、何を観ているのだろう。

それは、考えることでは摑むことはできない「何か」であり、ことばではくるむことのできない「何か」。

ことばが空間に解き放たれ、響き、余韻を残す。

そのプロセスが幾度も繰り返され、聴き手として詠い手と共にそのプロセスを辿っているうちに、わたしはこの地にいながら、この地とは別のところにいるような感覚に入ってゆく。

そして、こころは、少年の日に謳歌していた、あのどこまでも自由な世界、懐かしいふるさとにもうすでに帰っている、そんな感覚を想い出すのだ。

稲尾さんによって選ばれたことばは、「じっと待つ人」のみが聴きとることができる響きそのものであり、そこには天との繋がりから生まれてくるもの以外の響きは注意深く取り除かれているように感じられる。

彼の詩集を購って、改めて、一頁ごと、一文ごと、一語ごと、じっくりと読んでみる。こころの中で詠ってみる。

昨日、詩人自身の声で聴いたその詩群がいっそう親しく我が内側でこだまするように響き出す。
滅多にない、ことばの充実を味わう。

公演の後、そのときの経験を引き続き深めていくようにすることで感じられる喜びは、こころの受動性と能動性が織りなしあうようで、とても豊かな実りを感じさせてくれる。


そのようなまぎれのない響きを持っていることばを、そのまぎれなさのまま奏でること、それが言語造形をすることだと言えるのだが、そのことがどれほど簡単ではないかをも、昨日は痛感させてもらった。

舞台では、何がものをいうか。

初発の勢いだとか、表現技術の巧拙などではなく、繰り返される練習と舞台によってのみ育まれる太くておおらかなこころ。

そのこころは、その都度その都度耳を澄ますことで受け取られる天からの響きに幾度も共振している。

そのこころは、練習と舞台の反復、また反復を通して、まるで大地からもらうような意欲の力に通われている。

そのようにして、天と繋がり、そして大地に立ち、働き続けることが、人を一本のたくましい樹木にする。

詩人は、天に向かって耳を澄まし、その天の響きを大地にまで降ろすべく、ことばとして結晶させる。
言語造形をする人は、その聴き取られたことばをその響きのまま発声することで、我がからだという大地から再び精神という天に向かって詩をお返しさせてもらう。

詩人が我が身体を通してことばを声にして響かせようとするとき、おのずから言語造形をすることへと向かっていくのだろうし、言語造形をしようとする人が声を発するその刹那に、みずからの声に耳を澄ますことをするなら、おのずから詩人のありように近づいていくのだろう。

詩を紡ぐ人と言語造形をする人は、内なる意味で、ひとりの人のなかに同居していて、それは天に向かって高く枝葉を延ばし、大地に深く根を張る一本の樹木として、年を経るごとに太くおおらかに育ってゆく。




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2014年06月16日

古典文学作品を原文のままで 〜『おくのほそ道』公開ワークショップを終えて〜

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今日、大阪玉造の百年長屋さんで、「言語造形で味わう『おくのほそ道』公開ワークショップ」を行わせてもらいました。
 
昔の人のことば遣いを味わうということは、昔の人のこころのありかたを味わうということであります。
 
それはまた昔の人が生きる上で何を大切にし、何に向かって生きていたかという志を知ることでもあり、現代を生きている自分自身の志と繋げるときに、初めて昔の人のことばの芸術作品である古典が生きたものになりえます。
 
その、日本の古典文学作品を原文のままで、現代を生きているわたしたちがいかにすればリアルな声の芸術として響かせることができるか。
 
どのようにしたら今の舞台芸術としてなりたたせていくことができるか。
 
わたしにとって去年あたりから、そのことが大きなテーマとして意識に上ってきていました。
 
古典文学作品を原文のまま舞台上で言語造形を通して響かせたい。だけれども、そのままでは、聴き手にとって、取りつく島のないようなものになりかねない。
 
だからといって、その原文を現代語訳したものでは、そもそもことばのリズム、拍子、メロディーが全く違うものになってしまい、作品のおおもとの命が殺がれてしまう。
 
そこで、まず手始めに、言語造形を通して芭蕉の『おくのほそ道』を原文のままで取り組んでいる「人の姿」をお客様に観てもらい、その「人の声」を聴いてもらう、という「公開ワークショップ」というスタイルで、会を創ってみたのです。
 
言語造形に取り組んでいる姿からこそ、古典作品がリアルなものとして現代人の聴き手の前に立ち上がってくるのではないか。
 
そのような試みに馳せ参じてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
 
言語造形からも、そして聴きに来てくださった皆さんの反応からも、わたしは十分な手応えを感じました。
 
まずはこのスタイルで、古典作品をたっぷりと全身で味わっていく場を創っていこう。
 
そして、我が国のいにしえのことばの芸術作品から、ゆっくりと自分たちの生き方を探っていく学びの場を創っていこう。

断絶ではなく、系統を、伝統を考えよう。
 
どこか遠くへ出かけて行くのではなく、自分の足元を掘り進めていこう。
 
国語を愛し、守り、育むことによって生まれる祖先と自分自身に対する静かな敬意。
 
国語愛に生きるという志において、芭蕉と言語造形をするわたしたちが繋がります。

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2014年06月08日

「ことばの家」日曜クラスの皆さんとともに

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「ことばの家」日曜クラスの皆さんです。
 
日曜日の朝にすがすがしい陽の光と風を感じながら、からだを活き活きと動かし、息遣いをのびのびと繰りなしながら言語造形を分かち合う。本当に恵みの時間です。
 
源氏物語から昔話へ、そして与謝野晶子の詩から落語へとことばの華が咲き、それぞれのお話しが始まると空間が一変します。
 
日本語が日本語であることを喜び合う、そんな時間と空間。
  
汗を流して取り組めば取り組むほどに、こんな豊かなことばの空間が生まれるのか、とみんなで驚き合っています。
 
老いも若きも日本語のいのちに触れることで、もう一度若返る。
 
ことばにはそんな人を甦らせる生命力があって、それをこそ昔の人は「言霊(ことだま)の風雅(みやび)」と呼び、人間の文化の濫觴として大切にしてきたのです。
  
これからもそれを大事にしていきたい。
 
そう希う人がこれからも言語造形に出逢えるように。
  
今日も感謝、感謝の一日でした。

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2014年05月09日

文学サロンとしての言語造形クラス 〜百年長屋さんでの新クラスご案内も含めて〜


文学とは、人が人として生きていくのになくてはならない、とても大切な仕事なのだと、この頃はとみに考えるようになりました。

文学とは、言い方を替えるならば、ことばの芸術、です。

ことばの芸術に取り組む代々の志ある詩人・文人は、そもそも、国のことば「国語」の運用というものが人の世を右にも行かせれば、左にも行かせる魔力を持ったものであるゆえに、いかにして中庸の道であることば本来の活き活きとした働きを最大限に活かせて人のこころを高めていくかに、精魂を込め、生命を賭けてきた人たちでした。

国語の運用がその国の人を健やかにする鍵を握っていることを知っていたのです。
国語の運用力を育んでいくことを放棄すると、こころが荒んでいきます。
国語を捨てると、その人はその国の人ではなくなってしまいます。
国とは、ここでは、独自の文化を生み出し、育て、受け渡していくフィールドのことを云いたく思います。
ですから、その国のことばは、その国の、民族の、歴史と伝統を内に深く秘め、いまも未来の世代に伝えていこうとしています。
わたしたち現代人も、知らず知らずのうちに、我が国の歴史のいのちと伝統の精神に繋がって生きているのです。

母国語を愛することは、母国の歴史と伝統を尊ぶことでもあります。
母国語の芸術に親しんでいくことは、母国の歴史と伝統に推参していくことでもあります。
今を生きている人の立場から考えるならば、
歴史とは、その人その人が主体的に過去を捉えてこそ生まれることばの芸術のひとつのかたちです。
伝統とは、その人その人が主体的にいのちを吹き込んでこそ生きる精神そのものです。
そして、母国の歴史と伝統に立つ人こそが、他国の歴史と伝統を深みにおいて理解でき、尊敬でき、その自立している者同士の間で真の交流が生まれるでしょう。

言語造形というルードルフ・シュタイナーによって新しく意識化された芸術は、各々の国のことばとその人その人の声をもって、その国の歴史と伝統に推参した詩人・文人たちの仕事を今に生き返らせるものです。
それは、詩人・文人たちの仕事を引き継ぐことでもあり、生まれ変わらせることでもあり、拡大させていくことでもあります。
国語を愛し、育て、受け渡していく、その本来的な文学の仕事を言語造形も担っています。

言語造形のクラスは、その意味で、「文学サロン」です。

文学作品をひとりひとりが声に出していくことによって、目で読むだけでは全く気づかなかったその作品の魅力が新しく立ち上がってくる。

そして、個々の作品の魅力を通して、文学というもの、国語というもの、ことばというものへの認識を新たにしていくことへも繋がっていきます。

その認識も机上で得たものではなく、全身の運動を通して得たものだけに、その認識を更にことばにして互いに語り合う喜びもしみじみとしたいいものです。

空間に響くことば。

そこにこそ、そもそもの文学の文学たるところがある。

大阪の玉造にある百年長屋さんで、6月からまた新しく言語造形クラスが生まれそうです。

そのご案内です。

共に文学をいまに生まれ変わらせましょう。
そして自分たちの国語のいのちに触れていきましょう。

新しい出会いを待っています。

http://nagaya100.sblo.jp/article/95931814.html

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2014年05月02日

ことばの農作業

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夏も近づく八十八夜・・・。

立春から数えて八十八日目の今日。
農においては、種を蒔くに相応しい時期だそうです。

田園で世間のわずらわしさを離れて、晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもって読書しながら心穏やかに暮らすことを「晴耕雨読の暮らし」とよく云うけれど、自分は晴れても降っても、耕して、読んでるなあ、と今朝ふと思ったのです。

自分の場合、「耕す」ということは、すなわち、言語造形の稽古をするということになるのですが、それは身体をもって稽古しながら、この身体という土壌を耕し、ここにことばの種を蒔き、ここからやがてことばの花が咲き、ことばの実がなりゆく。

その花なり実なりを人と分かち合うことができれば、そして更に高い世の方々に奉ることができれば、これほどの喜びはない、というほどの喜び。

わたしは、日本の最もベーシックな食べ物であるお米を作る感覚に近いのかもしれないと思っているのですが。

自然の作用という天からの扶けをもって米作りに勤しむ人は、きっと、その過程で米という植物存在の内部にだんだんと入りこんでいくでしょう。

言語造形の場合、ことばという神から授かっているものが、稽古を通してだんだんと植物のようにわが身体を土壌にして育っていく。
その身体を通してわたしのこころはだんだんとことばというものの内側に入りこんでいき、ひとつになって、花あることば、実のあることばとして、世に羽ばたいていく。

稽古というものは、独り部屋に籠って、同じことばや文を繰り返し繰り返し口にして身体に覚え込ませることから始まるとても地味な作業です。

しかし、その作業が、ことばに潜んでいるいのちを育て、育んでいくことであり、また、ついには、そのいのちとひとつになっていく、内なる見えない農作業なのだと思いながらやっていると、喜びが溢れてくるのです。

2014年度の「ことばの家」でも、ことばの種を蒔き始めています。
秋から冬にかけてその収穫を多くの方々と分かち合えることをこころから希って耕し始めました。
見守っていただければ、ありがたいです。

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2014年04月20日

ことばが甦るとき 〜復活祭の日にちなんで〜


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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。
大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。
彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。

自分は、言語造形という仕事のために、ことばを素材にしています。
声にして発せられることばを素材にしています。

ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考えられ分別から組み立てられることばで、それはそうであってこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのようなことば遣いは人間の生活になくてはならないものです。

仕事の上で守るべきマニュアルに沿って発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守って、上の人の言うことを聞いて、できるだけ失礼のないように、頑張って、人は、一生懸命、ことばを話しています。

しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発している人自身の生命がだんだんと枯渇してくるのです。
そのことばは実は死んだことばだからです。
生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでいます。死んでいるからこそ、人の思惑に沿っていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。
人の頭は死した部分で、別の言い方をすれば、もう完全に出来上がっている部分なのです。頭骨で固く閉じられた部分なのです。
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであっても、死んでいます。
物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣い、それが頭から発せられることば遣いです。
しかし、それは、だんだんと人を死に促進します。

だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。
死から生への甦りを乞い求めるがゆえにです。
それは、手足の動きから生まれることばです。
手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。
呼吸が活き活きとしてくると、おのずとことばを話す時の表情も豊かになります。
そんな風に表情豊かにことばを発していると、自分自身が生まれ変わったような新鮮なこころもちに包まれているのをそこはかとなく感じたりもします。

人は折をみて、そのようなことばの発し方に触れることによって、生きていることばの世界に入るのです。

言語造形の練習をする上でのまずもっての次第は、四の五の言わずに、そんな生きていることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。

そして、何年にもわたってだんだんと練習を重ねていくにしたがって、呼吸ということの秘密に気づき始めます。

吸う息によって、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢います。

そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢いを引っさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによって、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。

そのように、呼吸によって天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになって生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。

いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。

だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念いをもたらします。

言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思います。

さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きっと、こう語っています。(出典が何だったのか思い出せず、すいません)

風と光が織りなす中での、そのようなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなった人や、天の使いの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えているのだ、と。

ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。

そういった肉の眼や耳には捉えられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きっと、深い関係があって、ただ、そういうことを机上で考えるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取っていく。感覚していく。

その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。

魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たような練習の繰り返しからおのずと生まれてくる無私へと歩いていく、そのことを言うのかもしれません。




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2014年04月13日

お話のお宮 〜ある幼稚園の卒園式にて〜


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ある幼稚園の先生をされているAさんが、「ことばの家」で言語造形の稽古を積まれています。
この一年は、昔話の『大工と鬼六』を、倦まず弛まず、ずっと練習されていました。

その幼稚園で先月3月の終わりごろに卒園式が開かれ、林檎色のほっぺをした子どもたちがたくさんの保護者や関係者の方々に囲まれて卒園を祝われたそうです。
その式の締めくくりに、『大工と鬼六』が語られました。
今日、Aさんからその時の様子を聴いて、とても感慨深いものを感じたのです。
(Aさんのご了承を得て、書かせてもらっています)

昨年度初めて子どもたちの担任として仕事に就かれたAさんは、ご自身にとっての初めての卒園式をとにかく無事に滞りなく進行させることと、大勢の大人の方々の前で初めて昔話の語りをするということで、とても緊張され、前日にはお腹の調子もおかしくなられるぐらいだったそうです。

しかし、昔話を語り始めるやいなや、Aさんの息遣いと共に部屋中の皆がしいんと静まり返り、お話の間中、まるで部屋の中に目には見えないけれども大きな丸みを帯びたお話のお宮のようなものが生まれ出て、語り手も聴き手もみんなその中に包まれていた。

普段、目に見えないことを口に出して言うような人ではないAさんが、「お宮のようなものを観た、としか言いようがないんです」と仰る。

そう仰るのを聴かせてもらって、わたしは妙にリアリティーを感じるのです。そのお宮に。

「お話のお宮」「ことばのお社(やしろ)」、そういう目には見えないけれども、その場にいる人たちを包み込む精神的な空間をわたしたちは創り出すことができる。
言語造形を通して、わたしたちはその精神的・有機的建築に意識的に取り組んでいくことができるのではないか。

母音を通して、土を固め、柱を立て、梁を渡し、屋根を架けるかのごとく・・・。
子音を通して、細やかな細工がなされるように・・・。

その時、言語造形が行われる空間では、語り手も聴き手も共にある儀式に参加するひとりひとりの人である。
そういう希いをもって、わたしも自分たちのアトリエに「ことばの家」と名付けました。

そういう空間と時間が、多くの場所で生まれること。
そのことを希って自分も仕事をしている。

その卒園式でも、「お宮」の中に入った子どもは、お話の内容が記憶から遠ざかったとしても、「お宮の内部に入った感覚」は生涯を通してその子の内側で生き続けるんじゃないだろうか。
そう思われてならないのです。

その幼稚園から旅立っていくひとりひとりの子どもたちの仕合わせ、そしてAさんのお仕事のこれからの自由な深まりと拡がりを、こころから祝福します。


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2014年01月14日

ありがとうございました!百年長屋さんでの言語造形ワークショップ

今日の百年長屋さんでの言語造形ワークショップ。

ラフカディオ・ハーンの『おしどり』、森鴎外の『寒山拾得』、梶井基次郎の『闇の絵巻』など、参加された皆さんが持ってきて、語ってくださった数篇の物語。

息を解き放ちながら、
語り始めたら腰を一切引かずに最後まで前進し続けるかのように声にして響かせると、
本当に鮮やかな情景と深みを湛えた情感が自然に立ち上がってくる。
それぞれの作品の表面を読んだだけでは読み取れなかったことがらが、
だんだんと、どんどんと、顕わになってくる。

そして、その時、声を出しているその人が本来持っている輝きもが顕わになってくる。

他人の前で声を出すことがとても苦手だと言っていた方さえも、
いや、むしろ、そういう方の方が、
本当は声を出すことの喜びをこころの奥底から求めていて、
言語造形のレッスンが進むごとに、
伸びのある声の響きと共に、華が開くようにこころとことばが羽ばたきだす。

おひとりおひとりの選んだ作品を通して、
その方ならではの味わいと趣が、
そこはかとなく、また、時にはっきりと、感じられる。

言語造形のワークショップは、
作品がそもそも持っている深みと、
声を出す人がそもそも持っている輝きを、
だんだんと引き出していく共同作業です。

今日も本当に楽しい作業でした。

百年長屋に集まってくださった皆さん、本当にありがとうございました。

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2013年11月19日

滋賀守山での言語造形ワークショップ 〜2013年11月18日 満月の日の豊かさ〜

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昨晩は満月で、第二回目の「満月の夜の集い」を我が家で敢行。

妻とふたりの娘と一緒に、満々と光り輝くお月様に祈りと感謝を捧げる。
そして萬葉集の和歌を声に出して唱えると、
「やまとうた」とは何と霊妙な作用をもつものかと念う。
ことばの絶妙な選択から生まれる響きの連なりの美しさと、
余韻においてビンビン感じられるほどの精神の光。
その間(ま)において、人と神との繋がりを乞い求める願いの強さが立ち現われてくる。
そして、この毎月の集いを家族で共有できていることが本当に嬉しい。
5歳の娘も萬葉集の歌を聴いていて「こころに響くの」と嬉しそうに言う。


そして、わたしにとって、昨日はたくさんの出会いと再会に満ちた日だった。


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まずは、滋賀県守山、「うの家」での言語造形のワークショップ。
初めての方ばかり9人が参加されて、本当に笑いと気づきに満ち満ちた時間になった。
ひとりひとりの人が自分の息遣いを解き放ちながらことばを声に出していくうちに、
どんどん、その人ならではの新しい魅力が立ち現われてきて、
何度やっていても、この言語造形という作業はおもしろい!そう強く思える。
ことばの響きから感じられる、それは、まぎれもなく、
その人が生まれながらにして持っているその人ならではの、
その人自身も気づいていなかったようなその人の魅力だ。
声を聴かせてもらうわたしは、
声を通して、参加されるひとりひとりの人に出会う。
この隠しようもない、その人そのものに出会える喜びは、掛け値なしの喜び。
飾らない、その人その人の原質の輝きなんだなあ。

今回のワークショップを企画・実行して下さった小川さんにこころから感謝します。
ありがとうございました。



その他、昨日は、
何年かぶりに、昔の生徒さんが「ことばの家」を訪ねて来てくれて、当時感じていた互いのわだかまりを解きほぐすような対話ができた。
また、遠くに住んでいる友人が電話をかけて来てくれて、来年に向けての新しいプロジェクトを共にやっていこうという、人と人との信頼関係をまた信じさせてくれるような話しができた。
また、何年も言語造形に関心を持てなかった人が急に関心を寄せて下さって、おまけにその人のパートナーまでが言語造形の稽古に加わりたいとメールを下さった。

多くの豊かさが顕在化した、昨日の満月の晩だった。


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2013年10月02日

「宮澤賢治の世界」大阪公演でのご感想

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演じ手と聴き手が、共なる時空間を創っていく。

わたしたちがすでに演じ手として満ち足りていて、聴き手としても満ち足りていることで、
そこに豊かな世界がいきなり立ち現われてきます。

満ち足りとは、きっと、
こころの積極的なありよう、素直なありよう、目覚めから、もたらされるのでしょう。

わたしたちは本来皆、創造的な存在なのです。
創造的な時、最も、その人はその人らしくなっていくのでしょう。

皆さん、本当にありがとうございました。
これからも「ことばの家」の言語造形公演へのご声援、どうぞよろしくお願いします。

今回の「宮沢賢治の世界」大阪公演でのアンケート、ならびにフェイスブックにお書きいただいた文章を掲載させていただいています。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/376399684.html

どうぞご覧になってください。

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2013年09月30日

『宮澤賢治の世界』公演、ありがとうございました!

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9月27日、29日の言語造形公演『宮澤賢治の世界』に来てくださった皆様、
本当にありがとうございました。

2日間で3回に渡る公演だったのですが、
どの公演もお客様に喜んでいただけたようで、
(また後日、公演後のアンケートを掲載させていただきます)
とりわけ、最後の29日の夕の部の公演では、
わたしたち演者三人ともに、全精神力と全体力を使い切ることができ、
それぞれのお話とわたしたち自身が一つになる感覚を味わえた、
本当にこころの芯から満ち足りた時間でした。

姫路公演で準備し、手配し、様々な労力を払って下さった三好さん、三浦さん、
そして大阪公演で手伝ってくれた中川君、村上さんに、こころから、感謝です。


まずはさておき、わたしたちたち自身が満ち足りていること。
意欲と感謝に満ち満ちていること。
わたしは、今回、妻である千晴と長女の夏木と共に三人で、
そのことを実感し合えたことが本当に嬉しかった。

(ちなみに、次女のかさねは、玄関先の入口前で、お客様に「こんにちは!いらっしゃいませ!お靴は奥にお持ちください!」ということばを嬉々として言ってくれる案内係をやってくれました。どうしてもこれがやりたかったそうです。そして彼女はどうも、こころの芯からわたしたち三人のやっていることがどういうことなのか、その深みが分かっているようで、深い深い祈りをもっているように感じました)

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大阪に帰ってきてこれまでのおおよそ14年間は、
独りでこの言語造形の仕事をやってきて、
いつもいちいちのことに一喜一憂していたのだけれども、
こうして、言語造形に熱く取り組もうとする人と一緒に仕事ができるということに、
こころの平安を見いだしているのです。
その人がわが妻であるという、この人生の奇妙な(あるいは至極まっとうな?)事実。
その事実に、八歳の娘も親からは何も言われなくても大事な何かを感じ取っているようです。

わたしたちが、これから「ことばの家」での活動を通して、していくこと。
それはただただ言語造形を深めていくことだと思っています。
喜びという鋤と感謝という鍬で、
ひたすらに自分たちのからだとこころを耕していくことで、
言語造形の実りを多くの人たちと分かち合っていく。

ことばの家というとても小さなアトリエから発する、
とても小さな動き・ムーブメントですが、
その小ささからこそ、
まごころからの、精神からの、世に対する問いかけ、訴えかけができます。

「ことば」への誠意、信頼、愛をもう一度取り戻していくこと、
それは自分自身への誠意、信頼、愛を取り戻していくこと。

その取り組みのきっかけとして、
ことばの芸術である文学作品を言語造形で活き活きと、いまに生き返らせること、
それは、自分自身をも活き活きといまに生き返らせること。

だからこそ、日本語のお話しを、文学を、日本の古典を、もっと味わおうよ。
日本のことばのおもしろみ、魅力、美を見いだしていこうよ。

そんな訴えかけです。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

書いていただいたアンケート、フェイスブックでの文章を掲載させていただいています。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/376399684.html
どうぞご覧になってください。



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2013年09月21日

住吉(すみのゑ)の神とともに言語造形を

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昨日(9月19日)の住吉大社の観月祭。

住吉(すみのゑ)の神は、
和歌や俳句などことばの芸術を通して人から意宣(いの)りを捧げられ、讃えられるのを待ち希んでいらっしゃる神さま。

この住吉の社すぐ近くに住んでいる自分たちも、
これから満月の夜に言語造形を通して和歌と俳句の朗誦をしながら、一緒に食べ、飲みしながら、
神さまを讃える時を定期的に持っていけたらと思っています。

また近々、告知しますので、ご関心のある方、どうぞご連絡くださいね!

まずは、万葉集からかな。  

(「ことばの家」諏訪耕志)

_____________________________________________


昨夜、住吉大社の「観月祭」は、
なんだかとてもよかった。

その余韻が、
翌日になってもこころの内を満たしている。

赤い反橋(太鼓橋)の上で、
美しい「中秋の名月」を讃えて、
和歌や俳句、そして舞楽を捧げるこの儀式。

橋の上から少しずつ登ってゆく名月を仰ぎながら
この祭りが行われるというタイミングはなかなかに貴重で、
次は8年後らしい。

和歌にも雅楽にもなんの素養のない私だけれど、

そのゆっくりとした、幻想的な時空間を共にできたことは
こころの内にとてつもない充実感をもらたしてくれた。

あの、何の派手さもない、シンプルな舞と演奏を
頭はほとんど理解できない。

けれども、こころは確かに満たされていったのだ。

私たち人間と、
お月さまに宿っている目には見えない精神的存在との
“共同作業” によって生まれた空間に、

私は確かに大きなエネルギーをいただいたのだった。

そして、そういう種類のエネルギーはどうやら、
翌日になっても
こころに満ち足りた「余韻」をもたらすようだ。

私はきっと、
言語造形においても、

こんな余韻をもたらす舞台を創りたいのだと思う。

見えない高貴な存在たちと、
その場に集まったすべての人たちと、
ひとつになって、

こんな空間を創造し、体験していきたい。

http://kotobanoie.seesaa.net/article/372681698.html
(大阪公演「昼の部」、まだもう少しお席あります♪)

(「ことばの家」諏訪千晴)

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2013年09月18日

毎日、『宮澤賢治の世界』に向かって

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今月末の言語造形公演『宮澤賢治の世界』(http://kotobanoie.seesaa.net/article/372681698.html)に向かって、稽古しているところです。

娘は学校から帰ってきて二時間ほどたっぷり遊んでから、晩御飯の前に稽古してるのですが、
そのせいか、毎晩九時になると、ばたんきゅ〜で寝てしまっています。
お母さんと一緒に毎日同じことに取り組むこと、
そして毎日少しずつ上達していくことが相当嬉しいようで、
喜んで一生懸命声を出していて、
その姿は、我が娘ながら、なんともありがたく、尊敬の念すら感じます。

わたしたちがすることは、
賢治の作品に、できうるかぎり、できうるかぎり、沿っていくこと。
作品と、声を出すわたしたちが、ひとつになること。
そして、こうして声を出すことができる喜びと感謝を稽古のたびごとに感じること。

毎日、それらのことだけをしながら、淡々と日々を生きています。

確かに、公演の当日は、ある種の、「お祭り」なのですが、
その日になすことと、毎日稽古でしていることとは全く同じで、
これが人生なんだとも思うのです。

しかし、やはり、公演の当日が、
誰よりも、声を出させてもらうわたしたち自身が楽しみで楽しみでしょうがないのです。

作品とひとつになる喜び。
来てくださったお客様と共感を分かち合える喜び。
からだとこころをもってこの世に生まれてきてよかったと本当に感じられる喜び。

そういった喜びが、本当に膨れ上がる日でもあるのです。

皆さん、お待ちしていますね。
一緒にこの喜びを分かち合いましょう!


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2013年09月15日

『おくのほそ道』at 百年長屋 ありがとうございました!

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大阪玉造の百年長屋さん(http://nagaya100.com/)にて、
今日、言語造形による『おくのほそ道』を聴く会が催されました。

出演は、御年八十にもうすぐなられるという北川三代さん。
ここ七年間、月に二回、ことばの家の言語造形レッスンに通って下さっています。

北川さんのその声の張り、ことばの一音一音の粒立ち、身振りの伸びやかさ、身体全体のアクティビティー、
すべてが本当に素晴らしく、聴く人を芭蕉のことばの世界に即座に招き入れる、そんな時空を創り出してくださいました。

ご本人はご謙遜されて、「わたしは何にも分からずにやっております」と仰るのですが、
本当に素晴らしかった・・・。

今日聴きに来てくださったお客様方が、
「最近、まわりで聞こえてくることばが上滑りしているように感じられてしょうがなくて、
もどかしい思いをしていたところに、今日、まず、第一声から、
ことばが突き刺さってくるのを感じたんです。本当に今日ここへ来てよかったと思いました」
「おくのほそ道をこうして生の声で聴くのは初めてだったのですが、
ことばが流れ去って行かずに、しっかりとデザインされていることを感じました」
と話してくださいました。

この三年間、ずっと『おくのほそ道』を練習して下さっている北川さんおひとりのために、
このような会を開くことができたこと、
これはわたしにとっても本当に大切なことでした。
彼女の言語造形に対する変わらない信頼、止むことのない言語造形を楽しむこころ。
そんな、本当に、貴重な、彼女のこころもちに対して、
わたしはどういう形でお応えできるだろうかと探り続けていました。

そんなわたしに、今日の会の話を持ってきてくださったのが、
空堀ことば塾(http://www.karahori.jp/)の塙狼星さんでした。

塙さんは北川さんと同じクラスに所属していて、
北川さんの『おくのほそ道』の稽古にずっと触れていらしたのです。

塙さんは、司会もしてくださいました。
彼はいくつもの質問、問いを用意してくれていて、
言語造形による語りの後、北川さんとわたしに絶妙な問いを投げかけてくれます。

この『おくのほそ道』をすること、言語造形をし続けること、そのわけ。
言語造形とほかの語りや朗読との違いは何か。
シュタイナーの言語観。
そして、ことばとは、そもそも何であるのか。

そのような問いを通して、その人の大事にしていることをその人から絶妙に引き出してくれるのです。
今日は、そんな彼の力で、素晴らしく濃密で、かつ、風通しのいい会になりました。

言語造形の実演だけでなく、普段北川さんとしている稽古を皆さんの前でお見せするミニワークショップや、そのような質疑応答も織り込んで、
今日の会は、これから言語造形がより多くの人たちに知られてゆくための、
ひとつのモデルケースのようなものを見いだせた手応えを感じるものでした。

そして、今日の場所を提供して下さった百年長屋の中西緑さん、そしてお手伝いをしてくださった中西さんのお仲間の皆さん、こころよりお礼を申し上げます。

「日本人が本当に大切にしなければならないものは何なのか」という問いに答えてゆくような催しを、これからも百年長屋でしていきたいという中西さんの志に、
わたし自身、こころが共鳴するのを覚えています。
本当に今日はありがとうございました。これからもどうぞお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


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2013年09月01日

広島仁方での公演・ワークショップ、ありがとう! 8/31〜9/1

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今年でもう12年目になる広島・仁方のzionさんでの毎年恒例の会。

毎年、この言語造形の会を支え続けて下さっているzionさんの昇さん、裕子さんご夫妻に、
本当にこころから感謝・・・!

そして、毎年欠かさず参加して下さっているメンバーの方々、初めて今回お会いする方々、
本当にどうもありがとうございました。

年ごとに皆さんの取り組みそのものが深まってきていて、
そして何よりも楽しく爆笑しながら毎回言語造形を分かち合える、
この喜びは、zionさんのこころからのサポートのお蔭、参加して下さっている皆さんのお蔭なのです。

今回の宮澤賢治の『ざしき童子のはなし』『虔十公園林』公演は初演であったのですが、
わたし自身も力を出し切ることができたように感じています。

紅潮したような笑顔とともに、
終演後、聴き終わった公演や作品についてみんながわいわい語り合う時間が、
堪らなく嬉しく、ありがたいもので、演者冥利に尽きます。

ワークショップでは、
継続して参加して下さっている方々とともに、
これまでにない深みを観ることができたように思うのです。
皆さんの中に言語造形に対するまた新しい熱意が湧き上がってくるのを見させてもらえたのが、
これまた、にやにやしたいぐらい、嬉しいことでした。

皆さんとたくさん話しもしました。
言語造形をすることの意味、
言語造形を世に問うていくことの意義、
わたしがこの仕事を通して考えている夢のこと、
皆さんが自分の仕事を通して追い求めていることなど・・・。

こういう話しができることが、なによりの喜びです。

こんな素晴らしい二日間を、皆さん、本当にありがとうございました。

しかし、我が家へ帰ってきて、いまはもうくたくた・・・
明日は休むぞ〜!


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2013年08月15日

時間どろぼうと言語造形

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小学二年生の長女に、まだ少し早いかもしれないのだけれども、
ミヒャエル・エンデの『モモ』の読み聞かせをここのところずっとしている。
5歳の次女も、分かってても分かってなくても、じっと耳を澄まして聴いている。

今日は、前半のクライマックスと言ってもいい、「時間どろぼう」の章に差し掛かってきた。

「時間どろぼう」の語りかけることばにこころを奪われてしまった人は、
いかに時間を節約して、
いかに無駄を省き、
いかに計算通りに効率的に生きていくかに血道を上げていくことになる。

その生き方、そのこころのあり方が、
他の誰でもない、まさに俺のことだ!
「時間が足りない」「お金が足りない」「・・・が足りない」「足りない」「足りない」・・・。
そんな、思考にもならない深い感情のところで何かに急かされるように意識が焦っている。

そして、
どれほど子どもの前で「早くしなさい!」「ぐずぐずするなっ!」ということばを連発しているだろう。

自分自身のあり方が戯画として描かれているのを観て、
『モモ』を読むそのたびごとに、こころが治癒されるのである。
「時間どろぼう」に取りつかれていた自分自身をこの読書が治癒するのである。

この本を読むことで、お父さん自身の呼吸がだんだんゆっくりとなり、表情も豊かに優しくなってくるのを、子どもたちも感じるんだろう。

「お父さんやお母さんが『早くしなさいっ』なんてゆう時、時間どろぼうがお父さんやお母さんの背中に張り付いてるねん」なんてことを話しても、
娘たちはにこにこして、親のそんなあり方を懐深く広く受け止めてくれる。

次女がこんなことを今日言ったので大笑いした。
「生まれてくる前に、神さまにお願いしてん。時間どろぼうさんが一杯いるところじゃなくて、言語造形さんが一杯いるところに生まれますようにって。そやからお父さんも言語造形さんになってん」

そうや、そうや、
言語造形をするから、
普段よりもずっと息を深くして間(ま)をもってことばを話すことができるな。
言語造形さんは、時間どろぼうさんを追い払うんや。

そんなことを娘たちと話して笑いながら、
本当に言語造形さんのいま、ある意味をいつもよりも深く感じた。

posted by koji at 17:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする