[言語造形]の記事一覧

2014年05月02日

ことばの農作業

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夏も近づく八十八夜・・・。

立春から数えて八十八日目の今日。
農においては、種を蒔くに相応しい時期だそうです。

田園で世間のわずらわしさを離れて、晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもって読書しながら心穏やかに暮らすことを「晴耕雨読の暮らし」とよく云うけれど、自分は晴れても降っても、耕して、読んでるなあ、と今朝ふと思ったのです。

自分の場合、「耕す」ということは、すなわち、言語造形の稽古をするということになるのですが、それは身体をもって稽古しながら、この身体という土壌を耕し、ここにことばの種を蒔き、ここからやがてことばの花が咲き、ことばの実がなりゆく。

その花なり実なりを人と分かち合うことができれば、そして更に高い世の方々に奉ることができれば、これほどの喜びはない、というほどの喜び。

わたしは、日本の最もベーシックな食べ物であるお米を作る感覚に近いのかもしれないと思っているのですが。

自然の作用という天からの扶けをもって米作りに勤しむ人は、きっと、その過程で米という植物存在の内部にだんだんと入りこんでいくでしょう。

言語造形の場合、ことばという神から授かっているものが、稽古を通してだんだんと植物のようにわが身体を土壌にして育っていく。
その身体を通してわたしのこころはだんだんとことばというものの内側に入りこんでいき、ひとつになって、花あることば、実のあることばとして、世に羽ばたいていく。

稽古というものは、独り部屋に籠って、同じことばや文を繰り返し繰り返し口にして身体に覚え込ませることから始まるとても地味な作業です。

しかし、その作業が、ことばに潜んでいるいのちを育て、育んでいくことであり、また、ついには、そのいのちとひとつになっていく、内なる見えない農作業なのだと思いながらやっていると、喜びが溢れてくるのです。

2014年度の「ことばの家」でも、ことばの種を蒔き始めています。
秋から冬にかけてその収穫を多くの方々と分かち合えることをこころから希って耕し始めました。
見守っていただければ、ありがたいです。

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2014年04月20日

ことばが甦るとき 〜復活祭の日にちなんで〜


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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。
大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。
彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。

自分は、言語造形という仕事のために、ことばを素材にしています。
声にして発せられることばを素材にしています。

ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考えられ分別から組み立てられることばで、それはそうであってこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのようなことば遣いは人間の生活になくてはならないものです。

仕事の上で守るべきマニュアルに沿って発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守って、上の人の言うことを聞いて、できるだけ失礼のないように、頑張って、人は、一生懸命、ことばを話しています。

しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発している人自身の生命がだんだんと枯渇してくるのです。
そのことばは実は死んだことばだからです。
生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでいます。死んでいるからこそ、人の思惑に沿っていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。
人の頭は死した部分で、別の言い方をすれば、もう完全に出来上がっている部分なのです。頭骨で固く閉じられた部分なのです。
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであっても、死んでいます。
物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣い、それが頭から発せられることば遣いです。
しかし、それは、だんだんと人を死に促進します。

だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。
死から生への甦りを乞い求めるがゆえにです。
それは、手足の動きから生まれることばです。
手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。
呼吸が活き活きとしてくると、おのずとことばを話す時の表情も豊かになります。
そんな風に表情豊かにことばを発していると、自分自身が生まれ変わったような新鮮なこころもちに包まれているのをそこはかとなく感じたりもします。

人は折をみて、そのようなことばの発し方に触れることによって、生きていることばの世界に入るのです。

言語造形の練習をする上でのまずもっての次第は、四の五の言わずに、そんな生きていることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。

そして、何年にもわたってだんだんと練習を重ねていくにしたがって、呼吸ということの秘密に気づき始めます。

吸う息によって、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢います。

そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢いを引っさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによって、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。

そのように、呼吸によって天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになって生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。

いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。

だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念いをもたらします。

言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思います。

さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きっと、こう語っています。(出典が何だったのか思い出せず、すいません)

風と光が織りなす中での、そのようなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなった人や、天の使いの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えているのだ、と。

ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。

そういった肉の眼や耳には捉えられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きっと、深い関係があって、ただ、そういうことを机上で考えるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取っていく。感覚していく。

その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。

魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たような練習の繰り返しからおのずと生まれてくる無私へと歩いていく、そのことを言うのかもしれません。




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2014年04月13日

お話のお宮 〜ある幼稚園の卒園式にて〜


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ある幼稚園の先生をされているAさんが、「ことばの家」で言語造形の稽古を積まれています。
この一年は、昔話の『大工と鬼六』を、倦まず弛まず、ずっと練習されていました。

その幼稚園で先月3月の終わりごろに卒園式が開かれ、林檎色のほっぺをした子どもたちがたくさんの保護者や関係者の方々に囲まれて卒園を祝われたそうです。
その式の締めくくりに、『大工と鬼六』が語られました。
今日、Aさんからその時の様子を聴いて、とても感慨深いものを感じたのです。
(Aさんのご了承を得て、書かせてもらっています)

昨年度初めて子どもたちの担任として仕事に就かれたAさんは、ご自身にとっての初めての卒園式をとにかく無事に滞りなく進行させることと、大勢の大人の方々の前で初めて昔話の語りをするということで、とても緊張され、前日にはお腹の調子もおかしくなられるぐらいだったそうです。

しかし、昔話を語り始めるやいなや、Aさんの息遣いと共に部屋中の皆がしいんと静まり返り、お話の間中、まるで部屋の中に目には見えないけれども大きな丸みを帯びたお話のお宮のようなものが生まれ出て、語り手も聴き手もみんなその中に包まれていた。

普段、目に見えないことを口に出して言うような人ではないAさんが、「お宮のようなものを観た、としか言いようがないんです」と仰る。

そう仰るのを聴かせてもらって、わたしは妙にリアリティーを感じるのです。そのお宮に。

「お話のお宮」「ことばのお社(やしろ)」、そういう目には見えないけれども、その場にいる人たちを包み込む精神的な空間をわたしたちは創り出すことができる。
言語造形を通して、わたしたちはその精神的・有機的建築に意識的に取り組んでいくことができるのではないか。

母音を通して、土を固め、柱を立て、梁を渡し、屋根を架けるかのごとく・・・。
子音を通して、細やかな細工がなされるように・・・。

その時、言語造形が行われる空間では、語り手も聴き手も共にある儀式に参加するひとりひとりの人である。
そういう希いをもって、わたしも自分たちのアトリエに「ことばの家」と名付けました。

そういう空間と時間が、多くの場所で生まれること。
そのことを希って自分も仕事をしている。

その卒園式でも、「お宮」の中に入った子どもは、お話の内容が記憶から遠ざかったとしても、「お宮の内部に入った感覚」は生涯を通してその子の内側で生き続けるんじゃないだろうか。
そう思われてならないのです。

その幼稚園から旅立っていくひとりひとりの子どもたちの仕合わせ、そしてAさんのお仕事のこれからの自由な深まりと拡がりを、こころから祝福します。


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2014年01月14日

ありがとうございました!百年長屋さんでの言語造形ワークショップ

今日の百年長屋さんでの言語造形ワークショップ。

ラフカディオ・ハーンの『おしどり』、森鴎外の『寒山拾得』、梶井基次郎の『闇の絵巻』など、参加された皆さんが持ってきて、語ってくださった数篇の物語。

息を解き放ちながら、
語り始めたら腰を一切引かずに最後まで前進し続けるかのように声にして響かせると、
本当に鮮やかな情景と深みを湛えた情感が自然に立ち上がってくる。
それぞれの作品の表面を読んだだけでは読み取れなかったことがらが、
だんだんと、どんどんと、顕わになってくる。

そして、その時、声を出しているその人が本来持っている輝きもが顕わになってくる。

他人の前で声を出すことがとても苦手だと言っていた方さえも、
いや、むしろ、そういう方の方が、
本当は声を出すことの喜びをこころの奥底から求めていて、
言語造形のレッスンが進むごとに、
伸びのある声の響きと共に、華が開くようにこころとことばが羽ばたきだす。

おひとりおひとりの選んだ作品を通して、
その方ならではの味わいと趣が、
そこはかとなく、また、時にはっきりと、感じられる。

言語造形のワークショップは、
作品がそもそも持っている深みと、
声を出す人がそもそも持っている輝きを、
だんだんと引き出していく共同作業です。

今日も本当に楽しい作業でした。

百年長屋に集まってくださった皆さん、本当にありがとうございました。

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2013年11月19日

滋賀守山での言語造形ワークショップ 〜2013年11月18日 満月の日の豊かさ〜

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昨晩は満月で、第二回目の「満月の夜の集い」を我が家で敢行。

妻とふたりの娘と一緒に、満々と光り輝くお月様に祈りと感謝を捧げる。
そして萬葉集の和歌を声に出して唱えると、
「やまとうた」とは何と霊妙な作用をもつものかと念う。
ことばの絶妙な選択から生まれる響きの連なりの美しさと、
余韻においてビンビン感じられるほどの精神の光。
その間(ま)において、人と神との繋がりを乞い求める願いの強さが立ち現われてくる。
そして、この毎月の集いを家族で共有できていることが本当に嬉しい。
5歳の娘も萬葉集の歌を聴いていて「こころに響くの」と嬉しそうに言う。


そして、わたしにとって、昨日はたくさんの出会いと再会に満ちた日だった。


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まずは、滋賀県守山、「うの家」での言語造形のワークショップ。
初めての方ばかり9人が参加されて、本当に笑いと気づきに満ち満ちた時間になった。
ひとりひとりの人が自分の息遣いを解き放ちながらことばを声に出していくうちに、
どんどん、その人ならではの新しい魅力が立ち現われてきて、
何度やっていても、この言語造形という作業はおもしろい!そう強く思える。
ことばの響きから感じられる、それは、まぎれもなく、
その人が生まれながらにして持っているその人ならではの、
その人自身も気づいていなかったようなその人の魅力だ。
声を聴かせてもらうわたしは、
声を通して、参加されるひとりひとりの人に出会う。
この隠しようもない、その人そのものに出会える喜びは、掛け値なしの喜び。
飾らない、その人その人の原質の輝きなんだなあ。

今回のワークショップを企画・実行して下さった小川さんにこころから感謝します。
ありがとうございました。



その他、昨日は、
何年かぶりに、昔の生徒さんが「ことばの家」を訪ねて来てくれて、当時感じていた互いのわだかまりを解きほぐすような対話ができた。
また、遠くに住んでいる友人が電話をかけて来てくれて、来年に向けての新しいプロジェクトを共にやっていこうという、人と人との信頼関係をまた信じさせてくれるような話しができた。
また、何年も言語造形に関心を持てなかった人が急に関心を寄せて下さって、おまけにその人のパートナーまでが言語造形の稽古に加わりたいとメールを下さった。

多くの豊かさが顕在化した、昨日の満月の晩だった。


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2013年10月02日

「宮澤賢治の世界」大阪公演でのご感想

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演じ手と聴き手が、共なる時空間を創っていく。

わたしたちがすでに演じ手として満ち足りていて、聴き手としても満ち足りていることで、
そこに豊かな世界がいきなり立ち現われてきます。

満ち足りとは、きっと、
こころの積極的なありよう、素直なありよう、目覚めから、もたらされるのでしょう。

わたしたちは本来皆、創造的な存在なのです。
創造的な時、最も、その人はその人らしくなっていくのでしょう。

皆さん、本当にありがとうございました。
これからも「ことばの家」の言語造形公演へのご声援、どうぞよろしくお願いします。

今回の「宮沢賢治の世界」大阪公演でのアンケート、ならびにフェイスブックにお書きいただいた文章を掲載させていただいています。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/376399684.html

どうぞご覧になってください。

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2013年09月30日

『宮澤賢治の世界』公演、ありがとうございました!

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9月27日、29日の言語造形公演『宮澤賢治の世界』に来てくださった皆様、
本当にありがとうございました。

2日間で3回に渡る公演だったのですが、
どの公演もお客様に喜んでいただけたようで、
(また後日、公演後のアンケートを掲載させていただきます)
とりわけ、最後の29日の夕の部の公演では、
わたしたち演者三人ともに、全精神力と全体力を使い切ることができ、
それぞれのお話とわたしたち自身が一つになる感覚を味わえた、
本当にこころの芯から満ち足りた時間でした。

姫路公演で準備し、手配し、様々な労力を払って下さった三好さん、三浦さん、
そして大阪公演で手伝ってくれた中川君、村上さんに、こころから、感謝です。


まずはさておき、わたしたちたち自身が満ち足りていること。
意欲と感謝に満ち満ちていること。
わたしは、今回、妻である千晴と長女の夏木と共に三人で、
そのことを実感し合えたことが本当に嬉しかった。

(ちなみに、次女のかさねは、玄関先の入口前で、お客様に「こんにちは!いらっしゃいませ!お靴は奥にお持ちください!」ということばを嬉々として言ってくれる案内係をやってくれました。どうしてもこれがやりたかったそうです。そして彼女はどうも、こころの芯からわたしたち三人のやっていることがどういうことなのか、その深みが分かっているようで、深い深い祈りをもっているように感じました)

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大阪に帰ってきてこれまでのおおよそ14年間は、
独りでこの言語造形の仕事をやってきて、
いつもいちいちのことに一喜一憂していたのだけれども、
こうして、言語造形に熱く取り組もうとする人と一緒に仕事ができるということに、
こころの平安を見いだしているのです。
その人がわが妻であるという、この人生の奇妙な(あるいは至極まっとうな?)事実。
その事実に、八歳の娘も親からは何も言われなくても大事な何かを感じ取っているようです。

わたしたちが、これから「ことばの家」での活動を通して、していくこと。
それはただただ言語造形を深めていくことだと思っています。
喜びという鋤と感謝という鍬で、
ひたすらに自分たちのからだとこころを耕していくことで、
言語造形の実りを多くの人たちと分かち合っていく。

ことばの家というとても小さなアトリエから発する、
とても小さな動き・ムーブメントですが、
その小ささからこそ、
まごころからの、精神からの、世に対する問いかけ、訴えかけができます。

「ことば」への誠意、信頼、愛をもう一度取り戻していくこと、
それは自分自身への誠意、信頼、愛を取り戻していくこと。

その取り組みのきっかけとして、
ことばの芸術である文学作品を言語造形で活き活きと、いまに生き返らせること、
それは、自分自身をも活き活きといまに生き返らせること。

だからこそ、日本語のお話しを、文学を、日本の古典を、もっと味わおうよ。
日本のことばのおもしろみ、魅力、美を見いだしていこうよ。

そんな訴えかけです。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

書いていただいたアンケート、フェイスブックでの文章を掲載させていただいています。
http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/376399684.html
どうぞご覧になってください。



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2013年09月21日

住吉(すみのゑ)の神とともに言語造形を

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昨日(9月19日)の住吉大社の観月祭。

住吉(すみのゑ)の神は、
和歌や俳句などことばの芸術を通して人から意宣(いの)りを捧げられ、讃えられるのを待ち希んでいらっしゃる神さま。

この住吉の社すぐ近くに住んでいる自分たちも、
これから満月の夜に言語造形を通して和歌と俳句の朗誦をしながら、一緒に食べ、飲みしながら、
神さまを讃える時を定期的に持っていけたらと思っています。

また近々、告知しますので、ご関心のある方、どうぞご連絡くださいね!

まずは、万葉集からかな。  

(「ことばの家」諏訪耕志)

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昨夜、住吉大社の「観月祭」は、
なんだかとてもよかった。

その余韻が、
翌日になってもこころの内を満たしている。

赤い反橋(太鼓橋)の上で、
美しい「中秋の名月」を讃えて、
和歌や俳句、そして舞楽を捧げるこの儀式。

橋の上から少しずつ登ってゆく名月を仰ぎながら
この祭りが行われるというタイミングはなかなかに貴重で、
次は8年後らしい。

和歌にも雅楽にもなんの素養のない私だけれど、

そのゆっくりとした、幻想的な時空間を共にできたことは
こころの内にとてつもない充実感をもらたしてくれた。

あの、何の派手さもない、シンプルな舞と演奏を
頭はほとんど理解できない。

けれども、こころは確かに満たされていったのだ。

私たち人間と、
お月さまに宿っている目には見えない精神的存在との
“共同作業” によって生まれた空間に、

私は確かに大きなエネルギーをいただいたのだった。

そして、そういう種類のエネルギーはどうやら、
翌日になっても
こころに満ち足りた「余韻」をもたらすようだ。

私はきっと、
言語造形においても、

こんな余韻をもたらす舞台を創りたいのだと思う。

見えない高貴な存在たちと、
その場に集まったすべての人たちと、
ひとつになって、

こんな空間を創造し、体験していきたい。

http://kotobanoie.seesaa.net/article/372681698.html
(大阪公演「昼の部」、まだもう少しお席あります♪)

(「ことばの家」諏訪千晴)

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2013年09月18日

毎日、『宮澤賢治の世界』に向かって

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今月末の言語造形公演『宮澤賢治の世界』(http://kotobanoie.seesaa.net/article/372681698.html)に向かって、稽古しているところです。

娘は学校から帰ってきて二時間ほどたっぷり遊んでから、晩御飯の前に稽古してるのですが、
そのせいか、毎晩九時になると、ばたんきゅ〜で寝てしまっています。
お母さんと一緒に毎日同じことに取り組むこと、
そして毎日少しずつ上達していくことが相当嬉しいようで、
喜んで一生懸命声を出していて、
その姿は、我が娘ながら、なんともありがたく、尊敬の念すら感じます。

わたしたちがすることは、
賢治の作品に、できうるかぎり、できうるかぎり、沿っていくこと。
作品と、声を出すわたしたちが、ひとつになること。
そして、こうして声を出すことができる喜びと感謝を稽古のたびごとに感じること。

毎日、それらのことだけをしながら、淡々と日々を生きています。

確かに、公演の当日は、ある種の、「お祭り」なのですが、
その日になすことと、毎日稽古でしていることとは全く同じで、
これが人生なんだとも思うのです。

しかし、やはり、公演の当日が、
誰よりも、声を出させてもらうわたしたち自身が楽しみで楽しみでしょうがないのです。

作品とひとつになる喜び。
来てくださったお客様と共感を分かち合える喜び。
からだとこころをもってこの世に生まれてきてよかったと本当に感じられる喜び。

そういった喜びが、本当に膨れ上がる日でもあるのです。

皆さん、お待ちしていますね。
一緒にこの喜びを分かち合いましょう!


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2013年09月15日

『おくのほそ道』at 百年長屋 ありがとうございました!

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大阪玉造の百年長屋さん(http://nagaya100.com/)にて、
今日、言語造形による『おくのほそ道』を聴く会が催されました。

出演は、御年八十にもうすぐなられるという北川三代さん。
ここ七年間、月に二回、ことばの家の言語造形レッスンに通って下さっています。

北川さんのその声の張り、ことばの一音一音の粒立ち、身振りの伸びやかさ、身体全体のアクティビティー、
すべてが本当に素晴らしく、聴く人を芭蕉のことばの世界に即座に招き入れる、そんな時空を創り出してくださいました。

ご本人はご謙遜されて、「わたしは何にも分からずにやっております」と仰るのですが、
本当に素晴らしかった・・・。

今日聴きに来てくださったお客様方が、
「最近、まわりで聞こえてくることばが上滑りしているように感じられてしょうがなくて、
もどかしい思いをしていたところに、今日、まず、第一声から、
ことばが突き刺さってくるのを感じたんです。本当に今日ここへ来てよかったと思いました」
「おくのほそ道をこうして生の声で聴くのは初めてだったのですが、
ことばが流れ去って行かずに、しっかりとデザインされていることを感じました」
と話してくださいました。

この三年間、ずっと『おくのほそ道』を練習して下さっている北川さんおひとりのために、
このような会を開くことができたこと、
これはわたしにとっても本当に大切なことでした。
彼女の言語造形に対する変わらない信頼、止むことのない言語造形を楽しむこころ。
そんな、本当に、貴重な、彼女のこころもちに対して、
わたしはどういう形でお応えできるだろうかと探り続けていました。

そんなわたしに、今日の会の話を持ってきてくださったのが、
空堀ことば塾(http://www.karahori.jp/)の塙狼星さんでした。

塙さんは北川さんと同じクラスに所属していて、
北川さんの『おくのほそ道』の稽古にずっと触れていらしたのです。

塙さんは、司会もしてくださいました。
彼はいくつもの質問、問いを用意してくれていて、
言語造形による語りの後、北川さんとわたしに絶妙な問いを投げかけてくれます。

この『おくのほそ道』をすること、言語造形をし続けること、そのわけ。
言語造形とほかの語りや朗読との違いは何か。
シュタイナーの言語観。
そして、ことばとは、そもそも何であるのか。

そのような問いを通して、その人の大事にしていることをその人から絶妙に引き出してくれるのです。
今日は、そんな彼の力で、素晴らしく濃密で、かつ、風通しのいい会になりました。

言語造形の実演だけでなく、普段北川さんとしている稽古を皆さんの前でお見せするミニワークショップや、そのような質疑応答も織り込んで、
今日の会は、これから言語造形がより多くの人たちに知られてゆくための、
ひとつのモデルケースのようなものを見いだせた手応えを感じるものでした。

そして、今日の場所を提供して下さった百年長屋の中西緑さん、そしてお手伝いをしてくださった中西さんのお仲間の皆さん、こころよりお礼を申し上げます。

「日本人が本当に大切にしなければならないものは何なのか」という問いに答えてゆくような催しを、これからも百年長屋でしていきたいという中西さんの志に、
わたし自身、こころが共鳴するのを覚えています。
本当に今日はありがとうございました。これからもどうぞお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


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2013年09月01日

広島仁方での公演・ワークショップ、ありがとう! 8/31〜9/1

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今年でもう12年目になる広島・仁方のzionさんでの毎年恒例の会。

毎年、この言語造形の会を支え続けて下さっているzionさんの昇さん、裕子さんご夫妻に、
本当にこころから感謝・・・!

そして、毎年欠かさず参加して下さっているメンバーの方々、初めて今回お会いする方々、
本当にどうもありがとうございました。

年ごとに皆さんの取り組みそのものが深まってきていて、
そして何よりも楽しく爆笑しながら毎回言語造形を分かち合える、
この喜びは、zionさんのこころからのサポートのお蔭、参加して下さっている皆さんのお蔭なのです。

今回の宮澤賢治の『ざしき童子のはなし』『虔十公園林』公演は初演であったのですが、
わたし自身も力を出し切ることができたように感じています。

紅潮したような笑顔とともに、
終演後、聴き終わった公演や作品についてみんながわいわい語り合う時間が、
堪らなく嬉しく、ありがたいもので、演者冥利に尽きます。

ワークショップでは、
継続して参加して下さっている方々とともに、
これまでにない深みを観ることができたように思うのです。
皆さんの中に言語造形に対するまた新しい熱意が湧き上がってくるのを見させてもらえたのが、
これまた、にやにやしたいぐらい、嬉しいことでした。

皆さんとたくさん話しもしました。
言語造形をすることの意味、
言語造形を世に問うていくことの意義、
わたしがこの仕事を通して考えている夢のこと、
皆さんが自分の仕事を通して追い求めていることなど・・・。

こういう話しができることが、なによりの喜びです。

こんな素晴らしい二日間を、皆さん、本当にありがとうございました。

しかし、我が家へ帰ってきて、いまはもうくたくた・・・
明日は休むぞ〜!


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2013年08月15日

時間どろぼうと言語造形

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小学二年生の長女に、まだ少し早いかもしれないのだけれども、
ミヒャエル・エンデの『モモ』の読み聞かせをここのところずっとしている。
5歳の次女も、分かってても分かってなくても、じっと耳を澄まして聴いている。

今日は、前半のクライマックスと言ってもいい、「時間どろぼう」の章に差し掛かってきた。

「時間どろぼう」の語りかけることばにこころを奪われてしまった人は、
いかに時間を節約して、
いかに無駄を省き、
いかに計算通りに効率的に生きていくかに血道を上げていくことになる。

その生き方、そのこころのあり方が、
他の誰でもない、まさに俺のことだ!
「時間が足りない」「お金が足りない」「・・・が足りない」「足りない」「足りない」・・・。
そんな、思考にもならない深い感情のところで何かに急かされるように意識が焦っている。

そして、
どれほど子どもの前で「早くしなさい!」「ぐずぐずするなっ!」ということばを連発しているだろう。

自分自身のあり方が戯画として描かれているのを観て、
『モモ』を読むそのたびごとに、こころが治癒されるのである。
「時間どろぼう」に取りつかれていた自分自身をこの読書が治癒するのである。

この本を読むことで、お父さん自身の呼吸がだんだんゆっくりとなり、表情も豊かに優しくなってくるのを、子どもたちも感じるんだろう。

「お父さんやお母さんが『早くしなさいっ』なんてゆう時、時間どろぼうがお父さんやお母さんの背中に張り付いてるねん」なんてことを話しても、
娘たちはにこにこして、親のそんなあり方を懐深く広く受け止めてくれる。

次女がこんなことを今日言ったので大笑いした。
「生まれてくる前に、神さまにお願いしてん。時間どろぼうさんが一杯いるところじゃなくて、言語造形さんが一杯いるところに生まれますようにって。そやからお父さんも言語造形さんになってん」

そうや、そうや、
言語造形をするから、
普段よりもずっと息を深くして間(ま)をもってことばを話すことができるな。
言語造形さんは、時間どろぼうさんを追い払うんや。

そんなことを娘たちと話して笑いながら、
本当に言語造形さんのいま、ある意味をいつもよりも深く感じた。

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2013年08月13日

京都の宇治 夏休み演劇塾 終わりました!

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昨日まで、五日間連続の「夏休み演劇塾」を京都の宇治で行いました。

この暑い中、毎日、親子が午前に集まり、
小学低学年の子どもたちは、工藤直子さんの『のはらうた』を、
高学年の子どもたちは、『古事記』冒頭の「天地の初めのとき〜」から「おのごろ島なり」までを、
大人たちは、『平家物語 那須与一』を朗読・群読で練習し、
最終日にはお客様の前で発表にまでこぎつけたのです。

とにかく、毎日、笑いが絶えなかったことが何よりでした。

そして、何も言わなくても自分から頑張って文を憶え、
臆することなく大声で発声していた幼い子どもたちの姿。

大人である親御さんとわたし自身、目覚ましい念いでした。

ことばは、頭で理解してから取り入れたり、発したりするものなのではない。

まずは、全身の動きを通して、呼吸を解き放つことを通して、空間に響かせてみる。
そうすると、ことばはいのちを吹き込まれたように俄然精彩を帯びてくる。

五日間連続でしたからこそ、ことばの力を理屈抜きで体感する、いい機会になったように思います。

夏休みならではの出会いでした。

みんな、ありがとう!楽しかったね!




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2013年08月07日

ありがとうございました!ワークショップと昔話公演 in 島根県松江&出雲 



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来てくださった皆さん、そして島根シュタイナーの会の皆さん、ありがとうございました!

言語造形を通して島根の皆さんと歓びと共感を分かち合えたこと、こんなに嬉しいことはありません。

頭で考えすぎなところから自分を解放して、
兎にも角にも手足を動かしてことばを発していく、息を解き放っていくこと、
そこに人と人が出逢える秘密がありそうですね。

この機会を考え、実現して下さった久美子さん、広志さん、そしてスタッフの皆さんにこころから感謝します。

皆さんのお蔭で二日間共に、言語造形を通して「絵本の読み聞かせ」という比較的誰にも通じやすく、取り組んでいきやすいテーマを深めることができました。

島根シュタイナーの会のこれからのこつこつとした活動、注目させてください。本当にありがとうございました。


参加して下さった方のブログです。どうもありがとうございました!
「トライアングル・ダイアリー」
http://blog.goo.ne.jp/sorairo_may/e/f12b5b75f981091927f06bc300c17c5f


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2013年08月02日

『みのお演劇塾 お母さんと子ども二人一組で語りに挑戦!』終了

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今日、とても素晴らしい雰囲気の中、
『みのお演劇塾 お母さんと子ども二人一組で語りに挑戦!』終了いたしました。

暑い中、来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。
聴いてくださっている皆さんの暖かいこころもちが、
演り手である子どもたちと大人たちの勇気とユーモアと心意気を引き出してくれました。

演り手だけでなく、聴き手も一緒になって歌うようにせりふを声にする場面も何度かありました。
その時の聴き手の幼い子たちの嬉しそうな表情といったら!

腹の底から声を出すことはこころの断捨離です!と演り終えたひとりの生徒さんが仰っていましたが、その断捨離は今日の会場全体に息遣いとして、こころもちとして、広がっていたのを感じました。

会場を貸してくださったみのおシュタイナーこども園の皆さんも、本当にありがとうございました。

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2013年06月23日

昨日の岩出演劇塾 〜青と黄 声の輝き〜

子どもの声、そこには、
「これからこの地上世界を生きていくぞ」
というような生命の漲りとこころの晴れやかさがある。

それは、植物が持つ成長していく力、上へと伸びゆく力ととてもよく似ている。
こころが余計な夾雑物を混じらせていない。

その力は、青い輝きを持っていて、黄色い輝きを包み込んでいる。

その、生きていく力である、発声力、ことばの力をできる限り損ないたくない。

そして、その力は、大人になっても改めて育んでいくことができる。

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ここのところ、岩出の演劇塾があるたびに、写真を撮ってくださり、
その日にあったこと、学んだことなどを、報告してくださる。
わたしにとっても、ありがたいことです。

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〜モモの会の方の報告〜
今日の演劇塾。
大人の落語劇では、粘液質、多血質、憂鬱質、胆汁質の人格が役柄によってどんどん明確に現れはじめました。
大人たちの本気演技中、子どもたちは年上のお姉ちゃんと楽しそうに遊んでいました。
もちろん小さい子は演技中の母の背中におんぶされたり、足にしがみついたりという光景もしばしばですが。
大人たちのエネルギーをおおいに浴びている0歳から小学生の子どもたちは、どんな大人に育っていくのかな。
写真は、小学生の落語の練習です。


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2013年06月20日

公演を終えて


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大阪での『高瀬舟』公演を終えました。
聴きに来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。


頂いた感想、アンケート(http://kotobanoie-family.seesaa.net/article/366950510.html)や、

当日の公演パンフレット(http://www.kotobanoie.net/past.html)を掲載させていただきました。

また、ヴァイオリンで共演してくださった森田徹さんもブログに公演のことを書いてくださっています。
http://springing.jugem.jp/?eid=796

よろしければ、どうぞご覧下さい。



今回、『高瀬舟』の舞台に立ちながらこんなことを感じていました。
「死」というものに向き合うことで、人はどうこころのなりかわりを得ていくことができるのか、
そもそも「死」というものに向きあうとはいかなることなのか、
そして「死」ということを間に挟んで人と人はどういう豊かな深い交流を営めるのか・・・。

八年前にもこの作品を演じたのですが、
その時には「自死における悲惨な状況描写」への反応がお客様の中にも多かったようです。
しかし演じる回数が増えるにつれて、
「悲惨な現実(絶望)のリアリティを超えた精神性(希望)」を感じられるお客様が増えてきているようです。
「希望」「感謝」そして「足るを知る」というこころをものにしている喜助のありように、
わたし自身初めてシンパシーを抱き始めていることと関連しているのかもしれません。


わたしの人生における課題として、
言語造形というものの魅力を、世に伝えていく、
そのことだけをしたいと思っています。
言い訳せずに、他の誰でもなく、自分自身が舞台に立って、
言語造形をすることに全力を注いでいこうとこころを決めています。

今回の舞台が、大阪帝塚山での「ことばの家」のこけらおとし公演。

舞台装置も照明もほとんど何もない空間で、
ただ言語造形をする人ひとりの肉体のみが目に見える、
そんな空間ですが、
これから、言語造形のできるかぎり良質の舞台を創って、
ことばが本来持っている力で、
肉の目には見えずとも、こころと精神の眼に鮮やかに見えてくる豊かな世界を披いてゆきたいと思っています。

どうぞ、聴きにいらしてください。

posted by koji at 20:17 | 大阪 ☔ | Comment(1) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

『高瀬舟』との年月(としつき)   

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開演が迫っています『高瀬舟』について、
言語造形をすることから感じたことを書いてみます。

この『高瀬舟』という作品にわたしが出逢ったのは三十代半ばで、
いまから十四年ほど前になります。
この十四年の間、わたしはこの作品にたびたび挑戦してきました。
その間、二つの面において、牛のような歩みでありますが、
少しずつ新しいものを見いだしてこれたように思っています。

ひとつは、「芸」においてです。
この作品は、高瀬川を流れていく舟に乗る二人の男の対話が軸になっています。
そして対話といいましても、一方の長い独白のあと、
もう一方がそれを再び己の身に引き寄せて考え直してみる、
そのようなやりとりになっていますので、それを演じる場合、
派手な動きなど全くありません。
川の流れとひとつになったような静かさに包まれている二人の男の姿が浮かび上がってきます。
しかし、その静かさという水面上の姿とは裏腹に、
水面下においてはなんという激しく切迫したこころの動きが秘められていることでしょう。

わたしは、この作品に取り組みつづけることを通して、
身ぶりという身ぶりがことばの内に収斂されうるということ、そして、静の内に動があり、
時に動の内に静があるという、密やかな芸のありようを学ばせてもらっているように思います。

そのようなことばの秘儀と言ってもいいような芸の境へと、
時間をかけてわたしを導いてくれる「言語造形」という芸術に繰り返し畏怖の念を覚えています。

もうひとつは、「作品の読み」においてです。
わたしが自分のからだという重みをもつものを立ち上がらせ、それを汗と共に動かし、
声の響きを通してからだとこころのハーモニーに耳を傾けていくことによって、
作品は新しい表情を少しずつ顕わしてくれるのです。
三十代や四十代前半にはわたしには全く見えなかった表情をこの頃は垣間見せてくれます。

描かれている事件の表層や思惟の織りなしよりもいまわたしに強く響いてくるのは、
人として生きてきた年月の重なりや、背負ってしまっているさだめと自意識との葛藤から
浮かび上がってくる二人の男の深みある表情。
この作品に秘められている人として生きることの根本的な悲しさと美しさが
惻々とわたしの胸を打ち始めたのは、漸くここ最近のことです。

ものに秘められている本当の豊かさと深さに出逢うため、
人は年月を重ねてそのものにつきあいつづける必要がある。

そのことをこの『高瀬舟』は、わたしに教えてくれるのです。


※6月16日(日)夕の部には、あと数席、空きがあります。
 よろしければ、どうぞ聴きにいらしてください。
 http://kotobanoie.seesaa.net/article/358706547.html


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2013年06月08日

今日の岩出演劇塾 〜人は何にだってなれる〜

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今日の一枚(笑)。

やっているときは、唯ひたすら、脚本に書かれてある通りに、おじさんになったり、娘になったり、風になったり、青空になったり、花になったり、「あ」の音そのものになったり、「う」の音そのものになったり・・・。

こうやって、後で写真で見ると、ちょっとおかしい!

お話を聴いているだけでも、子どもはこころの中で何にでもなれる。お姫様にだって、王子様にだって、どんな動物にだってなれる。そして、からだまるごとで自分以外の存在になる「ごっこ遊び」をたっぷりする。

そんなふうに、己から離れて、他者を生きること、世界そのものを生きることをすればするほど、人はその人自身を見いだしていくことができる。不思議な逆説ですね。

大人になってからも、遅くはないのです。

posted by koji at 20:23 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月02日

昨日の岩出演劇塾

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この写真は、大人たちが精一杯落語をお芝居にして演じる練習に取り組んだ後、小学3年生の女の子がお母さんとペアになって物語を語り、演じているところ。
昨日の演劇塾でも感じました。大人が本気になって楽しんで、することへの意味を見いだして、精一杯何かに取り組んでいるときこそ、子どもは大人から何も言われなくても、自分から気持ちとからだを動かしてくる。
そんなときの子どもの美しさは、花が開き始めた、とか、光が輝いている、しか言いようがありません。

写真は、「モモの会」の方から拝借しました。ありがとうございます。

posted by koji at 09:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする