(リハーサル時の写真)
先日、京都紫野上門前の家での『高瀬舟』公演を終えました。
その家は、その昔は西陣地域の中の、西陣織の機織機があった住居兼工場だったところです。
今回、作曲とヴァイオリンの演奏をしてくださった森田徹さんが建築事務所として、
奥さんの久美さんがお料理教室として使われています。
主人公の「喜助」とその「弟」が働いていたというこの西陣で、
そしていまも仕事場としてとても強い意識で育まれているこの場で、
今回『高瀬舟』という物語が奏でられたことは、
この物語にとって、ひとつの仕合わせだったのではないかと感じています。
表面的な符合ではなく、
この物語と、この場と、この場に集ったわたしたち、
それぞれの精神が深いところで和音を奏でていた、
そんな感慨を、いま、抱いています。
場と人を得ていのちを吹き込まれ、
そしてこの物語を聴いたわたしたちのこころの深みに、
これからも密やかに鳴り続けていく通路を見いだせた、
そんなささやかだけれども深い喜びを、
この作品自体が、いま、感じているようです。
共演してくださった徹さんのヴァイオリンの響きは、
あるときは春の夜の夢のようにわたしを包み、
あるときは水面のさざなみのようにわたしを震わせ、
あるときは光を発するようにわたしを貫いていきました。
その響きは、
ものごとの深みを追い求めていこうという真摯で喜びに満ちた徹さんからこそ、
生まれでたものでした。
そんな響きに支えられながら、
ことばの精神が降りてくるのを待ちつつ全力疾走をした今回の公演。
わたしにとって、
葛藤と危機と自律と自己信頼、そして世への信を稼ぐことのできた、大いなる一日でした。
公演という公共の場でことばを発していくときに、
ことばがことばとして歩いていく道を妨げようとする障害が次から次へと立ち現れてきます。
それは、目に見えない障害で、わたしの外に現れてきますが、
わたしのこころの内実に他ならないのです。
わたしのこころに長く、永く、巣食っていた、「恐れ」。
それは、わたしのこころを一瞬の内に硬く冷たくさせ、
前に向かって歩いていこうとするわたしの腰を後ろに引かせます。
その「恐れ」は、いまもあるでしょうし、これからもわたしのこころに立ち現れてくるでしょう。
しかし、今回の公演を通して、
その「恐れ」というものを、これまでにないほどしっかりと目の前に据えることができ、
それをわたしは乗り越えられるということを知りました。
お昼と夜の二回公演だったのですが、
お昼において、わたしは葛藤の只中でもがきながら、這いずりまわりながら、
物語を生きました。
そして夜において、わたしはこれまでわたしを縛っていた鎖を引きちぎって、
ことばの海の中へ飛び込んで行きました。
そのように、熟することとは程遠いわたしの語りを聴きに来てくださった皆さん、
公演を隅から隅まで支えてくださった久美さんとスタッフの皆さん、
そしてこれ以上ないほどの充実したときを共に生きてくださった徹さん、
本当にありがとうございました。
確かに在るものを語るのではなく、
語ることによってものを確かに在らしめること。
『高瀬舟』という作品が確かに在るということに、
わたしは仕えられただろうか。
これからも、何度も何度も言語造形の舞台に立って、
「ものが確かに在る」ということ、
「はじめにことば在りき」ということに、
仕えるべく挑戦していきたいと思っています。
森田徹さん http://springing.jugem.jp/?eid=772
久美さん http://mo-circulate.jugem.jp/?eid=1411
スタッフの西口さん http://moritakitchen.jugem.jp/?day=20130422
そして聴きに来てくださった後藤さん http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=331
harmony-kodamaさん http://harmonyk.exblog.jp/20355832
rieさん(ワークショップにご参加) http://blogs.yahoo.co.jp/dh762714/8895422.html
ブログに書いてくださっています。
どうもありがとうございます。