2024年01月18日

言語の音楽性



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昨日の言語造形で生徒さんが宮澤賢治の作品「どんぐりと山猫」に取り組まれてゐる時、改めて強く感じたことがありました。


まるで交響樂を聴いてゐるやうな感覺。


行が進み、場面が繰り広げられて行くに従つて、めくるめくやうに音樂が、それぞれの樂器に奏でられるやうに、ひめやかに、そして同時に明らかに、響いてゐるのです。


言語藝術から生まれるその音樂的感覺は、時に、語つてゐる者も聴いてゐる者も歩き出し踊り出したくなるやうな生命の噴出、再生、甦りを呼び起こしてくれます。


その場にゐるみんなの頬が紅潮し、身もこころも開かれてくるのです。


作品の場面によつて、時に長調、時に短調と、そのひめやかな音樂の樣相はさまざまに、当然変はります。


ところで、映画などでしたら、何かの状況が描写される時、そこに觀客の感情を掻き立てるべく、よくバックグランドミュージックが流れますよね。その音樂や效果音が、映像と相まつて觀てゐるわたしたちの情を搖さぶります。


しかし、文學作品が言語造形される時には、基本的に、場面を修飾するやうな音樂は不要なのです。ましてや、場面を説明するやうな音樂や音響效果のやうなものは全く不要なのです。


そのやうな、外から重ねるやうな音樂は非藝術的なものです。


耳を澄ませてゐますと、ことばと文章の内側に祕められてゐる「内なる音樂」が聴こえて來ます。


せつかく「内なる音樂」が奏でられてゐるのに、外から人工的に音を附け足し、更にはことばの朗読に重ね合はせるやうにすることは、まことに非藝術的な行爲であります。


もちろん、映画などでつけられるバックグランドミュージックが效果的な時、それは音樂を担当する方が「内なる音樂」を聴いてをられる時です。


言語の音樂性とは、〈わたし〉が耳を澄ましながらことばの流れに沿つて自分自身のこころのからだ(アストラ―ルのからだ)を動かす時に感覺される「耳には聞こえない音樂」のことを言ひます。


その「耳には聞こえない音樂」を聴き取る音樂家が奏でる音樂こそが、きつと、言語藝術と結びあい、新たないのちを生み出します。


賢治の作品に耳を傾けてゐますと、なんと雄弁に音樂が奏でられてゐることでせう!


この言語の音樂性に親しんでいくための藝術的修練が、アントロポゾフィーから生まれた言語造形によつて提示されてゐます。


息づかひに沿つてことばのひとつひとつの音韻に耳を澄ますこと、ことばと共に動くこと、と云つた藝術的修練があるのです。


かう云つた藝術的修練を、國語教育や言語藝術の領域にもたらして行かうと考へてゐます。




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2023年12月29日

教員養成の要としてのことばの修練



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おひさまの丘 宮城シュタイナー学園での、12月の教員養成講座を今日終えました。


オイリュトミーの他、『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題した古事記の原文のままのテキストをそのまま身体化し、演劇としたものに取り組んだのでした。


今から一千三百年から二千年以前の日本語です。


そういったことばを生き、神々を演じることを通して、現代人であるわたしたちの、こころばかりか、全身が感情に貫かれたなら、そのとき、神々によるいにしえの次元といまのわたしたちとが一気に繋がるのです。


そのことを目指して、ことばの意味だけでなく、その響きの質や文のリズム、さらには、音韻のかたちと動きを表現していくのです。


また、今回は、さらに、演じ手が身振りをことばに注ぎ込むことによって、ことばがいのちを甦らせるのでした。


ことばというものは、人のこころ(アストラ―ルのからだ)から発されます。こころが活き活きと働くからこそ、ことばがいのちを湛えるのです。


そのことに取り組んで行くには、自分自身のこころを活き活きと働かせる稽古を重ねていくことになります。


こころを活き活きと働かせるためには、どうすればいいのか。


そこに、教員養成において、ことばの芸術、言語造形に取り組む意味があります。


子どもたちに向き合うため、わたしたち大人は、まずもって、我がこころを活き活きと働かせることを意識的にできるようになっていく必要があるということなのですね。


そのためには、からだ全身を用いて、ことばを話す練習をするのです。


そういうことばの話し方は、実は、古代の方々がなしていたことでした。


だからこそ、古代の、いにしえの、人々、いや、神々の手ぶり、身振りをわたしたちは学んでゆく必要があるのです。


そのためのうってつけのテキストが、日本文学には数多ありますが、その原型はまぎれなく『古事記(ふることぶみ)』なのです。


ことばを口先だけでやりとりするのではなく、からだまるごとを用いて、こころを活き活きと働かせつつ、精神を表現していく。


これが、教育の要のひとつですし、人としての重きをなす課題なのです。





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2023年12月16日

おほもとの詩芸術を統べる道筋  マリー・シュタイナー

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2023年11月28日

己れの声を聴きながら



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そもそも、和歌(うた)は読むものではなく、声に出して歌うものです。
 
 
なぜか。
 
 
和歌とは、そもそも、なげきであったからです。
 
 
なげきとは、長く息を吸い、長く息を吐くことだからです。
 
 
息遣いから、声が発せられ、ことばの響きが宙に拡がってゆく。
 
 
そうして虚空に拡がりゆく響きと調べが、人の乱れに乱れていたこころを鎮め、落ち着くべきところに落ち着かせるのです。
 
 
この声の作用は、頭で考えられるだけのことばよりも、いつそう、深く、強く、人のこころとからだに降りて行きます。
 
 
なぜなら、考えは過去に根差すものですが、声は現在にあるものだからです。
 
 
ひたすらに、声を出す人の「いま」を響かせます。
 
 
よって、声あることばの力によって、情が慰められ、思いが整えられ、動揺に耐えることができ、己れを建て直す機縁が得られます。
 
 
何千年前から日本人は、そのようにして、激しい情の渦に巻き込まれそうになる己れのこころを律し、こころの解放と自由を生きるために、和歌を声に出して歌いつづけてきました。
 
 
その声は誰に聴かれたでしょうか。
 
 
もちろん、人に聴かれました。
 
 
人に聴いてもらうべく、ことばを整えました。
 
 
より上手く、より深く、我がこころのありゃうを人に聴き取ってもらえるようにことばを整えました。
 
 
しかし、本質的なこととして、まずもって、他でもない自分自身によって聴かれるべく、その声は発せられたのです。
 
 
己れの声を己れが聴く。
 
 
これほどに、ことばの持つ力が実感されるときはありません。
 
 
己れの声は、己れの「いま」であります。
 
 
嘘をつくことのできない「いま」であります。
 
 
己れの「いま」を、己れが見いだし、己れが深く受け取り、己れが己れを消化するため、人は、和歌を歌ったのです。
 
 
『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』・・・それらは、ことばの芸術に通じるわたしたちの御先祖様たちが、なんとかこころの悶えを抑えようとして抑ええた、ことばの事績の集積なのです。
 
 
そういう声による自己陶冶の道を、いまに甦らせるのが、言語造形の道です。
 
 
ことばに鋳直され、造形された、先人のこころの振幅を、わたしたちは、言語造形をもって、いま一度、追体験してみます。
 
 
そのとき、わたしたち現代人と、古(いにしえ)の人とが、一挙に、こころを通わすことが生まれ得る。
 
 
それは、国語の、さらには歴史・国史の最善の学びようだと、わたしは思います。





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2023年10月01日

幼な子の欲することば 〜グリム童話「へんな旅芸人」〜



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昨日は、グリム童話の8番「へんな旅芸人」を語りました。


主人公は、旅芸人です。森の中で音楽を奏でます。バイオリンでです。


すると、バイオリンの音色に誘はれて、次々と動物たちが現れます。


しかし、その旅芸人(音楽を生きる人)が、音楽を奏でることで、なんと、森の中の動物たちを次々とやりこめ(統御し)、旅を続けます。


最後に、旅芸人は、森の中で、「人(狩人)」に出会ひます。旅芸人は、動物ではなく、「人」の前で音楽を奏でることができることをことのほか喜び、狩人もその音色に惚れ惚れとします。


そこへ、やりこめられた動物たちが、旅芸人を追ひかけ、つひには襲い掛かつて来ます。


しかし、「人(狩人)」は斧(つるぎ、でもいいでせう)を振り上げ、けものたちを退散させ、旅芸人を守ります。


さうして、旅芸人は、音楽の旅を続けて行くのです。


音楽とは、何でせう。


音楽は、人を精神と繋ぎ、神々しいものと出会はせることができます。


かつ、まことの音楽は、人の内なる動物性を駆り立てるものではなく、統御するものであります。


このお話は、昔より、そんな精神から語られてきました。


そして、語り手によつて、ことばのひとつひとつが、動きとかたちをもつて、語られます。


それは、ことばそのものが、動きの精神を孕み、かたちの精神を秘めてゐるからです。


語り手は、その動きとかたちを顕はにするべく、声にするのです。


語り手の(〈わたし〉による)目覚めて統御された意識。
(アストラルのからだによる)鮮やかな身振りと表情。
(エーテルのからだによる)呼吸の長短。
(フィジカルなからだによる)表現のまるごと、表現のすみずみに動きがあること。


さうして、ことばの精神と物語の精神は、実際に子どもの前で語る数多くの回数の中で実感されてきます。


むかしむかしのおほむかし、そもそも、ことばは、人の意欲への呼びかけでした。


現代のやうに、抽象的な思考をみすぼらしく表現するものではありませんでした。


人は、ことばを聴くたびに、からだがうづうづしたのです。


さらに、それに応ずる動きをしてしまふことが身についてゐたのです。


ことばは、発声器官だけでなく、人の運動器官まるごとのなかに息づいてゐました。


いま、人は、このことを忘れてしまつてゐます。


しかし、幼な子たちは、まだ、このむかしのことばの性質のなんたるかを知つてゐて、それを欲してゐます。


「はじめにことばありき」といふ時の「ことば」のなんたるかを知つてゐます。


「ことば」とは、世を創り、動かし、人を創り、動かすものでした。


そして、いまも、その「ことば」の働きの精神は、少なくとも幼な子には失はれてをりません。


幼な子たちは、お話を聴きながら、ことばとともに走りたがつてゐます。空を飛びたがつてゐます。海に、川に潜りたがつてゐます。


幼な子たちが欲してゐる、そんなことばを与へて行くこと。


それが、幼児教育のひとつの指針です。


そんなことばで育つことができたなら、その子は、後年、大人になつてから、生き生きとしたいのち溢れることばをものにする人生を歩いて行くことができるのです。


そして、ひとりひとりの人のことばが、世を創り、世を切り開き、世に仕合はせをもたらしてゆくのです。





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2023年09月11日

日本古典文学を奏でる人


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詩心とは何だらう。


それは、目には見えず、耳には聞こえないものを、ことばにしようとこころざし、切望するこころだ。


だから、詩心は、この世の物質的なくびきからこころとことばを解き放ち、ことばの響きが産み出す間(ま)と余韻に、ものを言はせようとする。


そこには、言霊といはれてゐる精神の働きが湛えられ、それに耳を澄ませる者をこの地にゐながら天上へと運ぶ。


そこには、ことばの音韻が描く精神のフォルムと動きがあり、そのフォルムと動きに沿はうとするわたしたちを精神の自由へといざなふ。


アントロポゾフィーは、古代人がおのづから持つてゐた、そのやうなフォルムと動きに沿ふ力を失つてしまつた現代人が、意識的に、改めて、その力を取り戻し、そこに遊び、さうして自由を勝ち取るための道を示してくれてゐる。


その道が、言語造形といふ芸術実践だ。


言語造形を通して、詩心を豊かに育み始めることができる。


目に見えず、耳には聞こえない精神のかたちと動きと響きを感覚し、表現していく道を歩むのだ。


世の詩人たちが聴き取つてゐる調べを、言語造形をする者が身をもつて奏でることで、詩人の求めた精神をより大きくより深く響かせる可能性を啓く。


そして、我が国は、言霊の幸ふ国であつた。


日本の古典文学は、本当に豊富に、また無限に深く、その道を拓いてくれてゐる。


とりわけ、天地(あめつち)の初発(はじめ)から語り始め、この国のとこしへに榮へ続ける原理を語る、古事記(ふることぶみ)。


そこで語られることば遣ひは、神々の手ぶりを顕はすものであり、それがそのまま、いにしへの人々の手ぶり、ことば遣ひとして記録されてゐる。


その神々の手ぶり、いにしへの人々のことば遣ひから聴き取られる、このくにの悲願。


その悲願を全身全霊で受け取つた人々によつて詠はれた抒情詩、ことばの芸術が、萬葉集(よろづのよのふみ)である。


その調べを奏でることができるのは、言語造形しかない。


わたしは、しかと、そのことを思ひ定めてゐる。


だから、言語造形をもつて、ともに、古事記と萬葉集をはじめとする日本古典文学を奏でる人を求めてゐる。


それは、この国とわたしたちひとりひとりを精神において甦らせ始めるための、根底の礎を築きゆく仕事である。


地味ではあるが、大いなる仕事である。



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2023年08月29日

言語造形といふ大なる願ひ



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もうすぐ8月も終はるが、この一か月、大阪から、京都、和歌山、新横浜、東京、仙台、そして青森の弘前へと渡りゆき、さらにはオンラインでの機会も併せて、言語造形を重ねて来た。


わたしには、大なる願ひがある。


それは、神ながらに脈々といまだに脈打ち続けてゐる言霊(ことだま)の風雅(みやび)を、言語造形によつて、多くも多くの人々のこころに甦らせること。


そして、その風雅(みやび)が我が国の精神そのものである皇神(すめがみ)の道義(みち)であり続けて来たことを体感すること。


皇神(すめがみ)の道義(みち)は、言霊(ことだま)の風雅(みやび)に顕れる。


さう喝破したのは、『萬葉集古義』を著した江戸時代末期の土佐の国学者、鹿持雅澄(かもちまさずみ)である。


この一か月の間でも、言語造形を通して、萬葉集、古今和歌集、新古今和歌集、百人一首、芭蕉、草野心平と、詩の歴史を下り降りて来た。


抒情詩によつて盛んに情がみなぎり、我々はまごころといふもののまことの響きと調べに、耳を澄まし、身を預ける。


そのまごころは、日本人が古来、大切に守らうとして来た、人としての理想、悲願、永遠である。


まごころを響かせる詩、和歌、俳諧は、その響きに耳を澄ます人に、己が身を超える神なるものへの信頼を育むひとつの機縁となり、唯物主義が極まつてゐるこの現世の桎梏から自由になりうるといふ希みを與へるものなのだ。


代々の志ある詩人は、皆、その願ひを抱いて死んで行つた。


ことばの感官を研ぎ澄まし、その感官に語りかけて来る神なるものとしての音韻の導きに沿ふ人、それが詩人であつた。


言語造形は、その詩人の行為を引き続き、なしゆく営みであり、それは、ある意味、詩を演奏することであり、ことばの甦りをもたらす一(いつ)なる芸術である。


日本の伝統の精神文化の土壌に、言語造形といふ芸術が根づき、打ち樹てられること。


それは、間違ひなく、この国を精神的に甦らせ、人々を弥栄に栄へゆかせる、原動力のひとつとなる。


なぜなら、言語造形が甦らせるのは、この国のいのち、ことばの精神、言霊だからである。


それこそが、我が非才を顧みず願ふ、大なるものである。





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2023年07月07日

タイパよ、消え去り給へ



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昨日は、東京にて言語造形をいたしました。


夏の陽射しでしたが、幾分爽やかな風が吹いていて、とても過ごしやすい朝からの芸術実践の時間。


午前の時間は、教育関係の方々ですが、コロナウイルス騒ぎのため、三年ぶりにお会ひして、語り合ひつつの久々の芸術実践の時間。言語造形を通して、からだまるごとで、腹の底からことばを声にすることを一気に想ひ起こす時間になりました。本当に嬉しくありがたい時間です。


そして、午後には、冠木 友紀子さんが主宰されている通訳藝術道場の特別クラスとして、初めての方々と言語造形をいたしました。


英語と日本語の間を取り持つ通訳者の方々と、こうして日本語と英語の言語造形に取り組むといふことは、本当に小さくない意味と意義をもつと、わたしは思つてゐます。


ことばといふものを、意味の側面で捉へることに尽きずに、その響きが持つてゐるリズムや抑揚、強弱といふ音楽性、そして音韻ひとつひとつが持つ彫塑性を引き上げることで、情報伝達のための単なる道具としてではなく、芸術として扱ふのです。


わたしは思ひます。


通訳者の方がそのやうな見識と感官をもつて場に臨むことによつて、異なる民族の文化と文化がより深い層において交流し合ふ場になることへと繋がりはしないでせうか。


それは通訳するといふひとりの人の行為が、各々の民族が背負ってゐる歴史性と歴史性とを結ぶ、限りない可能性に満ちたものになることへと繋がりゆきはしないでせうか。


昨日は、午前も午後も、どちらも、松尾芭蕉の俳諧作品を採り上げて、一音一音の響きに意を注ぎつつ、十七音からなることばの芸術作品を音楽的に、彫塑的に、仕上げてゆく過程に一歩だけ踏み込んでみました。


日々の暮らしにあくせくしてゐるわたしたちが、たつた十七音の世界に全身全霊で取り組むことによつて、深淵さに満ちた、どこか永遠を感じさせる精神の時間へと入り込んでゆくのでした。


最近は、コスパ(コストパフォーマンス)ではもはやなく、タイパ(タイムパフォーマンス)といふものが特に若者の間では重視されてゐて、いかに切り詰めた短い時間の中で高い満足感を得られるかといふ性向に傾いてゐるやうですね。


you tube の動画でも1分ほどで作られる「ショート動画」や映画などを1.5倍速や2倍速で観ることによつて、その「タイパ」を高めるといひます。


そのやうな流行といひ、時代の趨勢といふものは、えてして若者から始まるものですね。


さういうことを仕掛てゐる者が誰かは別のこととして、若者からさういふ流れが生まれることはいつの世においてもあることだと思ひます。


しかし、芸術といふものがあるお陰で、わたしたちは、そのやうな性向から自由になり、たつぷりと時間をかけて、しかもその時間の中にできる限り多くを詰め込まうとせず、ゆつくりと、たつぷりと、静かさの中に入つてゆく、そんなあり方を生きることができます。


そして、さういふ時間を生きることによつてこそ、人は人であることの意味を実感できる。


「タイパ」などといふことばが遠く彼方へ消え去つて行きます。


人は、情報を貪るブタではない、といふ言い方はきつすぎる感情的なことばだと思ふのですが、さういひたくなる自分がゐます。


しかし、さう信じる大人がゐることが、若者や子どもたちを何かの家畜にすることから守ります。


繊細で意識の目覚めた人は若者の中にも勿論ゐますが、多くの人が主体性を失くし、右顧左眄するだけで精一杯の輩になるのは、世の常ですね。


言語造形といふことばの芸術は、さういふ時代の流れにストップをかけて、じつと立ち止まるひとときを持つことへと人を導きます。


若者は大人に唯々諾々と従ふべからざること。そして、年寄りは若者に媚びざること。


わたしたちは、大人になりたいと思ひます。




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2023年03月02日

七年生たちとの狂言の舞台づくり シュタイナー教育



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今週初めから、仙台にある「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」に来て、もうすぐ七年生を終えようとしている子どもたちと狂言のお稽古をしています。


言語造形を通しての狂言の作品作りなのです。


わたしが来るまでに、担任の福島玲子先生の導きの下、ほとんど完璧にせりふを憶えている子どもたちには、本当に感心しました。この子たちにとっては、記憶するということが、頭の作業というよりも、からだまるごとの営みだと、観ていて感じます。


舞台の上を幾何学におけるフォルムの上を正確に歩きつつ、日を追うごとに、腹の底から空間一杯に轟くような声を出し、ひとつひとつの所作も型に沿って作りなして来た子どもたちは、まるで、大地から樹液を吸い上げて大空高く聳え立つ樹木のようになって参りました。


思春期に入って来た子どもたちは、これまでの軽やかさ、透明さを湛えたありようから、重さに支配されるありようへと成長して来ますが、だからこそ、大地にしっかりと根付くような、我が足でしっかりと立つ力をこそ求めています。


狂言という舞台芸術は、そういう子どもたちにとって、何か、とてもよき作用を及ぼしているようです。


まだまだ寒い仙台ですが、稽古を終えた後の子どもたちは、汗をかき、ほっぺも紅潮しています。


また、これまで一度も生の狂言の舞台を観たことがないというこの子たちですが、だからこそ、舞台に立つということの直接的な体験をすることができているのではないか、そう感じています。


子どもたちが毎日このような芸術体験だけでなく、まさに芸術性に満ちた国語・算数・理科・社会の授業を積み重ねることができる、このシュタイナー学園、子どもたちだけでなく、大人にとっても、すべての人にとっても、本当に天からの恵みのような場所だということを、今回も、つくづく実感しています。


この学園を支えているすべての方々に、感謝と讃嘆です。


わたし自身、この一週間、学園の様々な方々と、学園のこと、共同体というもののこと、教員養成のこと、ひとりひとりのありかたなどについて深く親しく語り合えていることにも、得難いありがたさを感じています。


明日は、狂言への取り組みの最終日。子どもたちとことばの芸術を生きたいと思います。





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2023年01月23日

こころを謳ひ上げる いのちを解き放つ 言語造形発表会「かえる」



ショートバージョン



楽しくて、悲しくて、嬉しくて、寂しい、そんなこころといのちを生きるといふこと。


呼吸を解き放つて、目を輝かせて、手足をのびのびと動かして、人は、もつと、もつと、そんなこころといのちを活き活きと生きることができる。


ことばの芸術、言語造形が、そのことを促がしてくれます。


ことばとは、身振りと共なる、人の甦りです。


2023年1月22日、よく晴れ上がつた日曜日、和歌山の岩出市にて、草野心平の作品を集めた『言語造形 かえる』の発表をし、新しいいのちの甦りとこころの浄まり願つて、お祝ひしたのでした。


アントロポゾフィーハウス和歌山の発表会に来て下さつた皆様、どうもありがたうございました。終演後に輪を囲んで話して下さつたひとつひとつのことばが、演者のわたしたちのこころに響いてゐます。


そして、言語造形といふ芸術に喜びをもつて勤しんでくれた、西さん、東郷さん、平尾さん、本当にありがたうございました。、月に一回の稽古にもかかわらず、わたしたちは、ずつと、笑顔と喜びを湛えて、この作品に取り組み続けることができました。お三方の働きで、世にこころの健やかさといのちの巡りが確かにもたらされました。


ロングバージョン



三人の女性による詩の朗唱です。

出演
西京子
東郷桃子
平尾由美子




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【アントロポゾフィー和歌山 クラスのご案内】

日時:毎月第二の月曜日
   10時から12時 言語造形
   12時半から14時 アントロポゾフィーの学び

場所:和歌山県岩出市内の公民館

参加費:初回体験 5000円
    5回連続 20000円

お問い合わせ・お申し込み:
  アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/



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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

 月曜クラス(毎週) 20時〜21時
 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 
●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円




【「シュタイナーの会員への手紙」』クラス】

【日時】
2023年1月20日(金)を第一回目としまして、
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラスです。 
途中からでもご参加可能です。

.
【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円
.
参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。
.
※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。




【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
.
you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru


言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。


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2022年09月19日

母なるいのちの源からの力



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絵は安田育代氏



子どもがこの世に生まれて来て、初めて地上で触れる芸術。


それが、お母さんの声、お母さんのことばですよね。


声といふ芸術は、母なる生命の源から流れ來る、命の川の流れにも似た、人生の始まりを支えるものです。


それゆゑでせうか、人生の終はりにおいても、その源へ帰るといふ情から、戦争などで死んでゆく若者などは、「おかあさあん!」と絶叫すると聞きます。


いのちの流れ、それはエーテルの流れです。


息遣ひに裏打ちされた声とことばは、エーテルの流れに沿つて、人から人へと働きかけ、空間を満たさうとします。


親からことばをかけてもらふことが、幼い子どもにとつて、どれほど欠かせないことか。


子どもに食べ物さへ与へれば、からだは大きくさせて行くことができるかもしれません。


しかし、その子にことばがかけられなければ、その子は、生命力を育むことができないのです。


生命力。生きて行くための力。根源の力。母なるいのちの源からの力。


それは、子どもの傍にゐる、大人からのことば遣ひ、息遣ひによつて、子どもに与へられるのです。


言語造形は、そのことをリアルに感覚するための絶好の芸術です。


幼い子どもたちへのことば。


そんなことばの芸術、「言語造形」の発表会を、青森・三沢にて11月26日(土)に、和歌山・岩出にて12月18日(日)に、行ひます。





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2022年08月23日

子どもたちと古典との出会ひ 〜国語教育のひとつの試み〜



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これは、六年前の今日、書いてゐた記事。ここでしてゐる古典文学への取り組みは、ぜひとも、我が仕事として再び新しく、より力強く展開して行かうと思つてゐる。


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『子どもたちと古典との出会ひ 〜国語教育のひとつの試み〜』


小学二年生の我が次女が、『古事記(ふることぶみ)』冒頭部分の言語造形に挑戦してゐる。


天地の始まり、神々の名が次々に出てくるところで、本居宣長の訓み下しによる原文そのままだ。


古典との出会ひ。


それをふんだんに子どもたちに提供していきたい。


我が国の古典は、ことばの意味を伝へること以上に、ことばの響きが醸し出すことばの感覚、言語感覚を深く共有することに重きを置いてゐた。


過去のことば遣ひや、古い文の綴りは、芸術的であり、信仰生活に裏打ちされてゐたので、現代人であるわたしたちをも、国語の精神、母語の精神のもとへと導いてくれる力をいまだに秘めてゐる。


わけても、『古事記』は、とても強い働きを孕んでゐて、子どもたちのからだとこころに健やかに伸びやかに働きかけてゐる。


国語の精神が子どもたちに宿りだす。


それは、おのづと、ことばを大事にすること、こころを大事にすること、人を大事にすることへと繋がつてゆく。


そんな国語教育の試み。



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2022年02月17日

20年目の京田辺クラス「森のしづく」



昨日は、毎月一回(第二水曜日の午前10時より)の言語造形に取り組み続けてゐる京田辺のクラス、今年で20年目になります。

クラスのはじめに、どのクラスでもしてゐますやうに、参加された方おひとりおひとりから発せられることばを聴き合ふシェアリングの時間を取るのですが、このクラスは、とりわけ、この時間をとてもたいせつにしてゐるのです。

家庭でも、職場でも、友達同士でも、なかなか口に出して言ひえないやうな事柄を、このクラスでなら、皆が黙つて聴いてゐますので、こころを安んじて話すことができるのでせうか。そんな時間を不文律のやうにたいせつにし続けてゐるクラスなのです。

だから、そのシェアリングの時間が長くなるときもあり、ときに、一時間ほどになるときも・・・(笑)。

しかし、だからといつて、言語造形への取り組みがおざなりになるといふことは全くなく、皆、とても真剣に、かつ、毎回新しい喜びを持つて作品に各々向かひ合つてをられます。ことばに対するその真摯さとこの芸術の時間そのものの充実度は、どこのクラスにも負けません。

そんなとてもゆる〜い時間と真摯な時間がいつも併存してゐる不思議なクラス。だからこそ、20年も続いてゐるのかもしれません。

毎月、参加し続けて下さつてゐる皆さん、そして部屋の予約やその他様々な手配を担つて下さつてゐるNさんに、こころより、こころよりの、感謝を・・・。ありがたうございます。

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2021年12月10日

幼な子たちとの至福の時間



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また、昨日も、幼な子たちとの至福の時間。


そこに、お話があれば、昔話があれば、深く闊達な息遣ひと身振りがあれば、幼な子たちから溢れ出すシンパシーに芸術的に応へることができるのです。


ことばをことばたらしめる、深くて活き活きとした息遣ひ。そこから生まれる身振り。そこから響くことば。


それは、幼な子たちの意欲を促します。


アントロポゾフィーから生まれることばの芸術「言語造形」が、いま、必要だと思ふのです。

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2021年12月03日

言語造形ワークショップの様子 宮城シュタイナー学園






『言語造形ワークショップの様子 
 おひさまの丘 宮城シュタイナー学園にて
 そして、クラウドファンディングのお願ひ』


2021年11月25日に、おひさまの丘 宮城シュタイナー学園にて行ひました言語造形ワークショップの様子をご紹介させて下さい。


まづもつて、言語造形において踏まえられてしかるべきなのは、身の動きに伴はれた息遣ひの闊達さと深さです。


このたびの動画に収められた作品は、どれも、宮澤賢治の作品になりました。


ワークショップ参加者の皆さん、そして『おひさまの丘 宮城シュタイナー学園』の皆さん、本当にありがたうございました。




いま、『おひさまの丘 宮城シュタイナー学園』では、ひとりひとりの子どもたちが持つてゐる無限の可能性が啓かれて行くことを願つて、毎日の授業がなされてゐます。


ここは、「人といふもの」への深い認識と高い希望が、毎日、生まれる場所なのです。


ただ、いまはまだ、一般の世間での認知度も低く、生徒数も多くありません。


それゆゑ、この学園をなんとかの維持・発展させて行くために、12月20日までクラウドファンディングを行つてゐます。https://readyfor.jp/projects/miyagi_ohisama2021...

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なにとぞ、どうぞ、皆様の高き御芳志をお寄せいただけましたら、この上ない喜びです。ご協力をお願ひいたします。




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2021年12月01日

愛知県豊橋市にじの森幼稚園での言語造形 12/1



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今日は初めて愛知県豊橋市にある「にじの森幼稚園」に伺ひ、お母さんたちと一緒に言語造形を楽しみました。


この園は、取り立てて「シュタイナー」といふ名を出しての告知はしてゐませんが、本当に深くからシュタイナーの精神「アントロポゾフィー」を50年近くにも渡つて大切に育んでゐる園で、園長をされてゐる堀内節子さんとも今回、そのことをたんと語り合ふことができました。


幼い子どもたちの傍にゐるわたしたち大人が、息遣ひを安らかに深く繰りなす毎日。


幼な子たちの何を大切に守り、何を大切に育んで行くことができるのか。


そのことを考へながらも、また一方で、からだを目一杯動きのなかへ導きつつ、話し、語ることばに意欲を注ぎ込みつつ、ことばの芸術「言語造形」に、皆さん初めて取り組まれたのでした。


参加して下さつた皆さんの柔軟で積極的な姿勢、穏やかな微笑み、昨晩からの大雨だつた空も晴れ上がり、わたしたちはとても健やかで朗らかな時をいただきました。


皆さん、この健やかな息遣ひをお家に持つて帰つて下さつたのではないかな・・・。


この言語造形といふ芸術が、静かに、日本の地に住むひとりひとりの暮らしの中に根付いて行くこと、そして、アントロポゾフィーといふ精神の学がひとりひとりの人のこころに宿り始めることをこころから希ひ、皆さんとこれからも学び続けて行きます。


にじの森幼稚園の方、写真を撮つて下さり、ありがたうございました😇





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2021年10月16日

自分自身を健やかに忘れる



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自分自身のことばかりにこだわつてしまふ。


さういふときが、あります。


そんなとき、すべての芸術と同じく、言語造形の営みは、そのやうな自分自身の内側を覗きこんでばかりゐる意識のありやうを外側へ引つ張り出します。


言語造形では、ことばの音韻といふ、自然から授かつてゐる、とても客観的なものを素材とし、その素材に懸命に取り組むうちに、人は自分自身を健やかに忘れるのです。


ただ、その素材への取り組みは、やはり、法則に則つて進めて行かねばなりません。無手勝流では、つひには、自分自身のくせから抜け出せない、いびつなものを産み出すばかりです。


法則といふ極めて客観的なものに則ることによつてこそ、その人その人の個性が初めて輝き出し、美しい主観が顕れてきます。


この仕事が自分に合ふかどうか、そんなことばかり前もつて考へて、自分のことだけが気になつてゐるのではなく、自分自身のことなど忘れて目の前に提示されてゐるものに懸命に取り組んでみるうちに、これまで思ひもよらなかつた自分自身と対面することになる。 


このことは、人のすべての仕事に共通することでもありますね。


もう、自分自身のこと、自分の性格や、自分の個性や、自分の好き嫌ひやを言ひ立てることではなく、「仕事」に向き合つていく、そんな爽やかな道が、きつと、あります。


※写真は、大阪市住吉区の大海神社の秋の大祭の空。



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2021年07月21日

生の語りを通してこそ見えて来るもの



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今日は、京都にて、言語造形のクラスでしたが、わたしにとつても、深い発見ができた時間だつだのです。


北欧のメルヘン「屋根がチーズでできた家」と、グリムメルヘン「ヘンゼルとグレーテル」。


それぞれのお話は、とても内容が似てゐて、どちらも、兄と妹が年老いた女(魔女)の家におびき寄せられ、その老女に食べられさうになるのですが、最後は、どちらも、その老女を火の中に追ひやることができ、ふたりは逃げ延びることができたといふお話なのです。


しかし、生の声による語りを聴いてゐますと、ふたつのお話におけるそれぞれ異なる語り手のスタンスを打ち出すことで、それぞれのお話の魅力がより一層引き立つのでした。


北欧のメルヘン「屋根がチーズでできた家」の方は、老女の立場に語り手が立ち、ふたりの子どもを何としても食べてしまひたいといふ欲望が語り手の身振りによつて表されることで、そのお話が一層、陰影と、ユーモアと言つてもいいやうな表情に満ちた、魅力的なものになるのでした。


一方、グリムメルヘン「ヘンゼルとグレーテル」においては、老女を描く時に、できうる限り淡々と表現し、老女といふ存在が記号化するかのやうな描き方をするのですね。逆に、ふたりの子どものありやう、行ひのひとつひとつ、ことばが持つ表情を細やかに造形することで、このお話の持つ精神からの高貴さを深みから引き出すことができるのでした。


このそれぞれのメルヘンに潜んでゐる深みある味はひは、目で印刷された文字を読んでゐるだけでは、到底分かりえないものです。


同じ精神からのモチーフでも、受肉する地域、国、民の違ひによつて異なつてくる趣きの違ひ。


それを生の声をもつて表現し、味はつてゆく、ことばの芸術「言語造形」ならではの時間を持つことができました。


参加された方々とも語り合つたのですが、この一年半以上にも渡る非常事態においても、このやうな芸術を生きる時間を無くしてしまつてはならないといふこと。


むしろ、かういふ時だからこそ、精神からの文化活動に励むのだといふことを、感覚的に分かち合へたひとときでした。




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2021年07月12日

ことばをたいせつにする幼児教育の場



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昨日は、幼児教育をされてゐる方と言語造形をしてゐて、あらためて、幼な子たちへの大人からのことばによる働きかけの意味深さ、大切さを語り合つたのです。


幼児教育をされてをられる方々にこそ、この言語造形といふ芸術に親しんでほしい。


なぜなら、人生の最初の何年間を幼な子たちはその方々と共に生き、いまや、親御さんと共にゐる時間よりも遥かに長い時間をその方々と共に過ごし、その方々のことばで育ちゆくのですから。


人生の最初の何年間といふエポックは、大人になつてから記憶から忘れ去られてしまふがゆゑに、逆に、その人のからだの奥深くまでその影響が及ぶことを思ふのです。


わたし自身も、なんとか、幼児教育の内側に入り、言語造形からたつぷりとお話を幼な子たちと分かち合ふ日々を取り戻して行かう・・・。


むしろ、ことばをたいせつに育むことをひとつの主眼にした幼児教育の場を新しく創れないだらうか・・・。




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2021年06月30日

言語造形と演劇芸術のための学校



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いま、人が人であり続けるために、言語造形といふ芸術を生きる人、アントロポゾフィーといふ精神の学を生きる人が必要だと、わたしは考へ、感じてゐます。


ですので、アントロポゾフィーを学びつつ、言語造形を天職とする人を産み出す学校が、この日本にも必要です。


精神の縁(えにし)とともにあなた自身を見いだすべく、予感しつつ、探し求める人よ。(『こころのこよみ 第13週』より)


始めませう。



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語るといふ芸術。演じるといふ芸術。詠ふといふ芸術。


言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。


練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。


精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。


また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。


そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。


これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。


日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。


ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。


週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。


この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。


実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。


すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このやうな学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめませう。


これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。


「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志



●就学期間:

五年間

毎週平日4日間/年間45週

春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み


●時間:

午後6時〜午後8時


●場所:

ことばの家 諏訪 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
もしくは、日本中、この道を歩んで行きたい人がゐるなら、どこでも。


●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)


●授業料:


入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関はらず。合宿などの費用別途)


●授業内容:

言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他


●お申し込み:

履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添へて、メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 info@kotobanoie.net
〒558-0053 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20

後日、面接日をお知らせいたします。



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