2018年06月20日

マリー・シュタイナーによる序文D・完


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ルドルフ・シュタイナー作『Mysteriendrama(秘めやかな事についての劇)』の一場面


●この、『言語造形と演劇芸術』のコースで話されてゐるところを弁へるには、感官への現はれの背後に隠れる世の内容に踏み込むことを要する。このコースでわたしたちに与へられてゐるところを実践に於いてフルに利用するには、その世の内容を生きることが欠かせない。そこにわたしたちが予断や嫌ふ気持ちを差し挟まなければ、その世の内容を生きるであらう。
 
わたしたちがしようとしてゐることは、何をするにも、精神的な観点から、見てとり、感じとり、考へ、取り組んでみるところからであります。
 
ことばの舞台芸術が、物質主義の軛(くびき)から解き放たれて、人のこころと精神を満たすやうなものになるやう、わたしたちは試み続けます。
 
しかし、その道は、ひたすらな練習しかありません。
 
何か特別な秘訣や謎めいた秘密はありません。
 
ただ、練習を続けていくことの中に、見えてくることばの線、聴こえてくる確かな調べ、伴走しうることばの動きを、己れのものにしていくしか、方法はありません。
 
しかし、それらは、明らかに、この世の物質的なものでなく、ことばと作品まるごとに秘められてゐた精神的な法則に他なりません。
 
芸術は、机上の勉強ではなく、汗を流しながらの、精神に向けた新しい認識の学そのものなのです。
 
そして、息を解き放ち、声を発し、ことばを話す人自身が、みづからその線を追ひ続け、調べを聴き続け、動きを動き続けるのは、とても難しい故に、言語造形には、学校が必要なのです。
 
自分で自分の声を聴きとることができるまでには、とても長い年月が要るのであります。
 
自己流では、決して、摑み得ない学びです。
 
 
●そもそも、音韻は精神の使ひであり、息は神々の実質である。そして、演劇は、秘めやかな事から出て来てをり、わたしたちは再びそこに立ち返りうる。
 
こころの柔軟さ、素直さ、アクティビティーが生きてゐさへすれば、そして、様々な予断や、精神を嫌ひ、恐れる気持ちが、道を塞ぎさへしなければ、きつと、客としてのことばの精神(言霊)がわたしたちを導いてくれます。
 
音韻と息が、言語の芸術をする人にとつての素材であり、道具であり、教師であります。

それらの元手をもつて、日本の「秘めやかな事についての劇」を創ることを目指していきたいと考へてゐます。
 
#言語造形 
 


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2018年06月19日

マリー・シュタイナーによる序文C


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●言語造形へと迫るといふことは、音韻の働きかけを、空気、吐かれる息といふ媒体に於いて生きることであり、音韻のつくりなし、音韻の発しかたを手のうちにおくことが、言語の器官の法則と求めに応じ、まさに仕事としてなされるといふことである。
 
●それは、音のインタヴァル、響きの陰影への、シャープに育まれた聴覚である。ことばの線は動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢いを与へる。その芸術としての線が、突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイア―され、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑みとられる。その線がこわばつてはならない。間(ま)に於いてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひをとりこむ。そのつど、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは己れを見てとる線がでしゃばつてしまふこと、ナルシスの例で知られるとほりである。

 
 
吐かれる息に乗つて、音韻ひとつひとつが空間に造形されます。そして、その息の連続から、おのづとことばとことば、文と文のあひだに生きた間(ま)が生まれ、その間を見えない線が繋ぎます。その線の動きは、どこまでもダイナミックであり、繊細であり、かつ自由です。その線を見失はないこと。見失つてしまひますと、途端に、己れのマスクがものを言ひだし、ナルシスティックな表現の連続となつてしまひます。
 
そして、日本民族ほど、「間(ま)」にこれほどの動きと生命と精神を感得してゐる民族は、さうはいないやうに実感してゐます。
 
間に於ける響きの陰影、ことばの動的な線、それは、あくまでも、話す人のナルシスティックな像の投影ではもちろんなく、主観的・恣意的な生産物でもなく、客としての息遣ひとことばの音韻がもたらす精神の顕現です。
 
わたしたち日本人は、ことばの生命と精神(すなはち、それこそが、「言霊」です)を、民族精神の伝統としてたいせつに育んできた者であります。
 
日本の精神文化のなかに、改めて言語造形が根付いていくやう、毎日励んでいきたいと希つてゐます。


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2018年06月18日

マリー・シュタイナーによる序文B


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●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
芸術とは、常に、意識と無意識とのせめぎ合ひであり、混交であります。頭部・神経系の目覚めた意識と、四肢・血液系の眠れる意識との融合であります。
 
意識だけで、芸術が出来上がるわけもなく、その意識と、訓練され無意識に動くまでになつた「からだ」との重なりこそが、ものを言ひます。
 
そして、その重なりは、その人その人の癖(マスクのごときパーソナリティ)から、ことばと共にその人をも解き放ち、ことばそのものが秘めてゐた精神、その人そのものが秘めてゐた精神<わたし>が立ち顕れて来るのです。そのとき、人は、自由です。
 
 

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マリー・シュタイナーによる序文A


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●今日、悪趣味の時代に、いくつかのことばの頭文字から味気ないことばのすがたが構えられ、精神が追ひ出されるのは、言ひやうもなく痛ましく、深くから芸術でないと感じられる。そのことばのすがたは、骸骨のごとく骸(むくろ)を震はせて嘲笑ふ。
 
●悪の力がことばの力を囲い込み、打ちこわさうとする。そこに救ひ手が出で立つた、ルドルフ・シュタイナーである。その救ひ手が、ことばの癒す力、魔法の働きかけをわたしたちに返し、陽の矢の輝きとことばのうちに投げられる槍をもつて、わたしたちの傷を閉ざす。
 
●その日はいつ来るか。感覚が、ことばの癒す力、魔法の力へ、ことばのもとにうねりつつ開ける精神の波へと、返される日は。
 
●呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなしは、まこと、気高い仕事である。

 
 
ここ日本に生きてゐるわたしたちも、現代、ことばに於いて、ことばの使ひ方に於いて、ことばの交わしあひに於いて、痛ましく傷ついてゐるやうに感じます。
 
ことばの芸術であらうとする言語造形は、まことの意味で、人を癒さうとし、人を甦らせようとする、精神からの営みです。
 
ことばは、この世で、人だけが授かつてゐるものです。
 
そのことばを、どこまでも、人間的なものにして行かう、磨いて行かう、研いで行かうとする営み。
 
それが言語造形だと思ひます。
 
 

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2018年06月16日

マリー・シュタイナーによる序文@


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『言語造形と演劇芸術』といふルドルフ・シュタイナーによる連続講演録があります。
 
その本の初版の序として、妻であり、仕事の上でのかけがへのないパートナーでもあつたマリー・シュタイナーが記してゐる「クリエイティブな言語」といふ文章の内容を少しご紹介したいと思ひます。(言語造形家 鈴木一博さん訳)
 
彼女は、ルドルフ・シュタイナーの最も近くにゐながら仕事を共にした人であり、言語造形といふことばの芸術をルドルフと共に産みだした人です。
 
ルドルフのことばをどこまでも深く受け止め、消化しつつも、読む人、聴く人にさらに知的かつ意欲的に働きかけるやうな文体をもつて彼女は真摯に語りかけてくれてゐるやうに感じます。
 
 

●言語に於いて人が人の神々しいところをつかむ。音韻がクリエイティブな力であり、人を人のみなもとに結び、人が精神への道をふたたび見いだすに任せる。音韻によつて人が動物の上に上がり、探りながらでみづからの<わたし>に立ちかへる。
 
●いよいよ言語に於いて人のインディヴィジュアルな<わたし>の力が、その音としての表れを見いだし、その力そのものに気づきうる。
 
●人が立ちあがり、動物の横の線が縦になりかはつて、人がみづからのうちに言語の力を解き放つ。

 
 
 
かういつた文章は、実際に言語造形に取り組んでゐないと、リアリティーを感じにくいものであるかもしれません。
 
しかし、言語造形の魅力を知り初めてをられる方々にとつて、これらの文章が何らかのメディテーションの営みへと資するものであれたらと思ひ、掲載してみます。
 

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2018年05月17日

新横浜にて 若い人たちとの言語造形


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今日は、新横浜で朝から夕方まで言語造形。
 
社会人になつたばかりの23歳から25歳までの14名の方々と。
 
自分が選んできた文学作品を朗読することに挑戦してもらつたのだが、これまでの学校生活では、文字を間違ひなく発音することは教へられて来ただらうが、ことばを美しく話すことは全く教へられては来なかつたと思ふ。
 
だから、はじめは、皆とても早口で、ことばの味、ことばの美しさ、ことばの力を表現することができない。
 
しかし、若い人はとても柔軟で、文章に沿つて共に身体を動かしながら、息を解き放ちつつ、声を出していくうちに、見る見る、ことばの話し方が変はつてくる。
 
これから様々な仕事の局面で、人前に出てパブリックなスタイルで話しをすることがだんだんと増えてくるだらうが、今日の体験を想ひ出し、活かしてもらへたらと思ふ。
 
朝から夕方までへとへとになりながらやつて来て、最後に、自分自身が書いた、自分自身についての文章を言語造形をもつて声にしてもらつた。
 
それはそれは皆、目覚ましいばかりの素晴らしい表現だつた。
 

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2018年05月11日

演劇の醍醐味 〜生誕劇の稽古から〜


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言語造形による演劇の醍醐味は、俳優同士の呼吸と呼吸が織りなし合つて、精神的だけれども確かにリアルに存在するひとつの演劇空間を創り出していくことです。
 
一人の俳優がセリフを話してゐるとき、もうひとりの俳優もそのことばと息遣ひに全身で聴きながら、己れが話してゐるかのやうに共に動き続けることで、共同で太く活き活きとしたひとつの息遣ひの流れを生み出していきます。
 
今日の生誕劇の稽古でも、はじめのうちはひとりひとりが自分の内からまだ充分には出られず、息遣ひといふ大きな河の流れを生みだせずにいたのが、時間をかけていくうちにだんだんと各々が自分自身のこころとからだから解き放たれて、ともなる息遣ひの世界に生き始めたこと、写真からも見てとることができます。
 
はやくも今年のクリスマスの日の、わたしたちの新嘗祭(にひなへのまつり)を目指して、わたしたちは、先立つて、自分たちの田を耕し始めてゐます。

演劇の仲間に入つてみたい方、どうぞ一度、生誕劇クラス体験にお越しになられませんか。
 
 
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2018年05月01日

古事記の文章


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古事記の文章。
 
それは、天武天皇の御声によつてひとりの舎人・稗田阿礼の耳に伝へられたもの、口から耳へと伝へられたものです。
 
それから約三十年後、阿礼の声が太安万侶の筆によつて文字に書き起こされました。
 
そして、さらに千年以上後になつて、江戸近世の国学者・本居宣長によつて初めてふさはしい光を当てられ、それ以降、多くの学者や芸術家にインスピレーションを与へ続けてきただけでなく、皇室のありやうを密かに支へてきたのです。
 
天武天皇は、何に耳を澄まされたのか。
 
それは、神の声です。
 
文学とは、そもそも、声から声への伝へであり、神の声を聴きとることから生まれるものです。
 
日本の文学は、ここに発します。
 
文学とは、ことばの芸術であり、ことばとは、神から人へと吹き込まれた息吹きであります。
 
わたしたちは、その、いまも、神から吹き込まれてゐる息吹き、そしてことばを、ことばの法則に沿つて造形することで、空間に、ことばのお宮、お社を形造つていくことができます。
 
わたしたちは、造形されたことばを聴くことによつて、ことばのお宮、お社の中に包まれてゐることを体感します。
 
 
 
今回の『古事記(ふることぶみ)の精神』では、冒頭の箇所、「天地(あめつち)の初発(はじめ)」のくだりを、参加された皆さんとで、ことばを造形しながら発声してみました。
 
高天原にまします五柱(いつばしら)の「別(こと)天神(あまつかみ)」の御名を言語造形する。
 
それは、その文章が、まさに神のことば・神語であることを予感・体感するのにあまりある時間と空間を生み出します。
 
その調べは、日本書紀の該当する箇所と比べても、随分と違つてゐます。余計な飾り立てることばがなく、文体は引き締まつてをり、格調高く、詩美の風雅(みやび)が湛えられてゐます。
 
神々の御名を唱へることが、「なむまいだぶ」と唱へることよりはるか以前から、わたしたちのこころに安らかさと確かさをもたらす、よりどころでありました。
 
わたしは、ゆくゆくは、子どもたちに、意味から教へ込むのではなく、この「あめつちのはじめ」のくだりを朗々と朗唱できるやうな教育環境を整へることへと仕事を進めていきたいと考へてゐます。
 
江戸時代、儒教の強い影響から多くの家庭で『論語』の素読・暗唱が子どもの教育において盛んに行なはれてゐたやうですが、やはり、わたしたちにとつて、これからの国語教育、歴史教育、倫理教育の根幹となつていいのは、わたしたち自身の国民文学である『古事記』や『萬葉集』、もしくは『百人一首』ではないかとわたしは思つてゐます。
 
 
 
『古事記(ふることぶみ)』。
 
それは、他の文章、歴史書とは異なり、日本人が数へきれない昔の代から我が身に体してゐた「やまとことば」の語り口そのままのことば遣ひをもつて、我が国の精神と歴史を記さなければならない、との明確な認識のもとに、ものされてゐます。
 
しかも、その文章は、日本といふ国が永遠に神の国であり続けるやう、文化を根柢で精神的に支へつづけることのできるやうな、これまた非常に明確な意識で記されてゐます。
 
そのために、落とすべきものは落とし、汲み上げるべきものはしつかりと汲み上げる。さういふ声から声への伝へ、それが「古事記(ふることぶみ)」です。
 
 
 
昨日の『古事記の精神』の前半におけるワークショップ。皆さん、懸命に「あめつちのはじめ」の文章に取り組んで下さりました。
 
写真を見ますと、神の息吹きを迎へ、響かせ、送るのに、我々日本人は、腰といふからだの要を使ふことがいかに大切かといふことに気づかされます。
 
皆さん、どうもありがたうございました。
 
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2018年04月19日

人が甦る 〜企業研修、錦糸町にて〜

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今日は、東京の錦糸町での企業研修のための言語造形。
 
こちらも毎月2〜3回づつのペースで、今年で14年目に入つた。
 
大きな組織の中で働くベテランも若い人たちも集まつて下さる。
 
各人が嬉しい話、楽しい話、幸せになる話、役に立つ話、興味深い話をあらかじめ作文して、それを多くの人の前で語り聴かせる、といふ設定での言語造形。
 
かういふ設定を、毎日の忙しさに追はれがちな企業人に提案して複数の人に真摯に受け取つてもらふこと、そして、それをよくありがちな上から押しつけられる研修ではなく、参加するひとりひとりが自主的に前向きに取り組む研修として、実際の実現にまでこぎつけることは、並大抵の力ではできない。
 
ずつとこの研修をコーディネートしてくれてゐるSさんには、本当にことばがないほどの感謝を感じる。
 
今日も、言語造形を通して、参加されたおひとりおひとりが、企業人としてではなく、その人がその人として活き活きと甦る。
 
人が自由になるといふ、その様をまぢかに見せてもらへる。
 
そして、そのことの喜びを、皆で共有できることのありがたさ。
 
今日は、とりわけ、長い間、この言語造形研修を自主的に参加し続けて来た女性の方のスピーチが素晴らしく、聴いてゐて、涙がこぼれさうになつた。
 
研修が終わつた後、わたしもくたくたになつたが、これから西に沈んでゆく夕日を見ながら、かういふ疲れは本当にありがたいものだと思つた。
 

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2018年04月18日

15年目の京田辺クラス「森のしずく」


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今日の京田辺での言語造形クラス「森のしずく」。
 
ここで言語造形のクラスを始めさせてもらつてから毎月毎月続けて来て、今日から15年目。
 
このクラスも第三・七年期に入りました。
 
ひとつのことを長くリズミカルに続けていくことは、並大抵のことではないと思ひます。
 
これも主宰してくれてゐる中川恵美さんのひとかたならぬご尽力のお蔭です。
 
参加されてゐるうちに、はじめはのうちは「蚊の鳴くやうな声」だつたのが、いまでは人前に出て自分の声ではつきりと表現することが大好きになつた方。
 
日常生活の中で、考へてゐること、思つてゐること、感じてゐること、欲しがつてゐることをことばで表現することに恐れを抱かなくなつてゐる自分自身に気がつかれた方。
 
好きでなかつた物語が、言語造形を通して練習してゐるうちに、大好きになつてしまつた方。
 
その他、様々な話しを、クラスの練習時間の前後に皆さん打ち明けてくれます。
 
これも、ことばとその人とのかかはりが深いところに根付いてゐることの証左でせう。
 
わたしたちは、ことばと生涯つきあつて、生きていきます。
 
その、ことばとのつきあひを見つめ直し、自分自身を見つめ直す機縁を言語造形を通して摑んでいくことができます。
 
 
言語造形クラス「森のしずく」は、毎月第三水曜日午前9時45分から12時まで、京都府京田辺市中央公民館にて行つてゐます。
 
お問ひ合はせは、中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんまで、お願ひします。
電話 0774-64-2645
 
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2018年04月14日

お話のお宮 〜ある幼稚園の卒園式にて〜


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「ことばの家 諏訪」にずつと通ひ、言語造形を学び続けてをられる山崎淳子さんが、以前話してくださつたことを書いてみました。
 
 
『お話のお宮 〜ある幼稚園の卒園式にて〜』

当時、ある幼稚園の先生をされてゐた山崎さんは、「ことばの家」で昔話の『大工と鬼六』を、倦まず弛まず、ずつと練習されてゐました。
 
その幼稚園で、山崎さんにとつて初めて担任として受け持つた子どもたちの卒園式が開かれ、林檎色のほつぺをした子どもたちがたくさんの保護者や関係者の方々に囲まれて卒園を祝はれたさうです。
 
その式の締めくくりに、『大工と鬼六』が語られました。
 
山崎さんからその時の様子を聴いて、とても感慨深いものを感じたのです。
 
山崎さんは、ご自身にとつての初めての卒園式をとにかく無事に滞りなく進行させることと、大勢の大人の方々の前で初めて昔話の語りをするといふことでとても緊張され、前日にはお腹の調子もおかしくなられるぐらゐだつたさうです。
 
しかし、昔話を語り始めるやいなや、彼女の息遣ひと共に部屋中の皆がしいんと静まり返り、お話の間中、まるで部屋の中に目には見えないけれども大きな丸みを帯びたお話のお宮のやうなものが生まれ出て、語り手も聴き手もみんなその中に包まれてゐた。
 
普段、目に見えないことを口に出して言ふやうな人ではない山崎さんが、「お宮のやうなものを観た、としか言ひやうがないんです」と仰る。
 
さう仰るのを聴かせてもらつて、わたしは妙にリアリティーを感じるのです。そのお宮に。
 
「お話のお宮」「ことばのお社(やしろ)」。
 
さういふ目には見えないけれども、その場にゐる人たちを包み込む精神的な空間をわたしたちは創り出すことができる。
 
言語造形を通して、わたしたちはその精神的・有機的建築に意識的に取り組んでいくことができる。
 
母音を通して、土を固め、柱を立て、梁を渡し、屋根を架けるかのごとく・・・。子音を通して、細やかな細工がなされるやうに・・・。
 
その時、言語造形が行はれる空間では、語り手も聴き手も共にある儀式に参加するひとりひとりの人である。
 
さういふ希ひをもつて、わたしも自分たちのアトリエに「ことばの家」と名付けました。
 
さういふ空間と時間が、多くの場所で生まれること。
そのことを希つて自分も仕事をしてゐる。
 
その卒園式でも、「お宮」の中に入つた子どもは、お話の内容が記憶から遠ざかつたとしても、「お宮の内部に入つた感覚」は生涯を通してその子の内側で生き続けるんぢやないだらうか。
 
さう思はれてならないのです。
 
そして、この春から、大阪の箕面で、新しく子どもたちの保育の場「こっこ」を創り始められる山崎さん。
 
そんな山崎さんに見守られ、育まれるひとりひとりの子どもたちの仕合はせ、そして山崎さんのお仕事のこれからの自由な深まりと拡がりを、こころから祝福します。
 


【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
●言語造形クラス
https://kotobanoie.net/spra/

●和歌(やまとうた)を学ぶ会
https://kotobanoie.net/yamatouta/

●生誕劇を演じるクラス
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

●言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

●日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)
https://kotobanoie.net/kototama/

●普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/tue/



●4月16日(月) 名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了


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2018年04月11日

今晩のラジオ放送


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インターネット・ラジオで、言語造形といふことばの芸術について、また日本の古のことばの芸術作品『古事記』について語らせていただきました。
 
今晩8時から30分間の放送です。
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
  
日本人がそもそも育んでゐた「ことばへの信頼」「ことばへの信仰」について、そしてわたしたち「ことばの家 諏訪」が志してゐることについて話してみました。
 
パソコン・スマホなど、インターネット環境があれば、どこでも無料で放送が聴けます。
 
よろしければ、ぜひ、お聴きください。
 
中田ゆかりさんによる、
ネットラジオ番組「しぃーん〜walking with you〜」
水曜夜8時から
ゆめのたね放送局
関西チャンネルで放送中☆
 
 
 
〈ラジオ「ゆめのたね」の聴き方〉
 
@【関西チャンネル タイムテーブル】のページ
   ↓
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
 
A今夜8時になれば
 
B「関西チャンネル」下の再生をクリック
 
 
*つながるまで、数十秒かかる場合があります。その時は少々お待ち下さい。

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2018年04月05日

ことばのリズム 〜いろはうた〜


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いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし  ゑひもせす


色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて 
浅き夢見し 酔ひもせず


七五調で整えられたこの「いろはうた」。

ことばには、リズムが脈打つてゐます。

例へば、この歌を、かういふ感覚と動きで歌つてみることもできます。

短短長(いろは)短短短長(にほへと) 短短短短長(ちりぬるを)
・・・・

ひとつひとつの音に、短さと長さを感じながら。

ストップウォッチなどで測ることはできない、そこはかとない感覚、かそけき間合ひをもつて、ゆつたりと、このリズムを脚で運ぶかのやうに、唱えてみるのです。
 
さうすると、単に、七・五、七・五・・・と進んで詠んでいくよりも、さらに細やかな春ならではの詠嘆の情が感じられはしないでせうか。

そこに、単に、ことば遊びの面白さや、仏教の理論めいたことを引き立てるよりも、いつさう深い人の情のありやう、ことばにならないやうなもののあはれといふものをも、わたしたちは感じはしないでせうか。

かういつたことばの芸術的な側面を引き立てて練習することができます。

言語造形のひとつの側面です。




【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
●言語造形クラス
https://kotobanoie.net/spra/

●和歌(やまとうた)を学ぶ会
https://kotobanoie.net/yamatouta/

●生誕劇を演じるクラス
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

●言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

●日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)
https://kotobanoie.net/kototama/

●普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/tue/

●名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了




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2018年02月11日

休まないで、動き続けること


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今日も、いつもの日曜クラスで生徒さんたちと共に言語造形に取り組む。
 
このクラスも、生徒の皆さんが積み重ねて来てゐる少しずつの修練がものを言つて、本当に充実した時間だつた。
 
昔話も、草野心平の詩も、源氏物語も、いずれも、ことばの響きがもたらす余韻が、本当に凄い。
 
この余韻といふ沈黙こそを、昔の人は「言霊」と呼び、ここにことばの精神を聴きとつてゐたのだらう。
 
ことばの精神のことを、高知の国学者・鹿持雅澄は「言霊の風雅(みやび)」といつた。
 
沈黙の豊かさ・深さ・生命力は、ことばを発声する人がどれほど活き活きと内的に動きの中にありつづけてゐるかに懸つてゐる。
 
ことばの法則に沿つて動きが活き活きとなされることによつて、豊かな静かさ(言霊の風雅)が立ち顕れる。
 
写真は、一昨昨日の新横浜での、翻訳家の方々、アントロポゾフィー医学読書会の方々との言語造形のときのもの。(冠木さん、いつもありがたうございます)
 
太宰治の『駆け込み訴へ』に取り組んで下さつてゐる時の写真。
 
動いて、動いて、動きつくす。
 
大人になつて、こんなに動き回ることはなかつたのではないか、といふぐらい動いていただく。
 
ましてや、ことばを話すために、こんなに動くなんて、おそらくこれまでの人生の中でもご経験がないのではないか。
 
平家物語も、「コリント人への手紙」も、ミルトンの「失楽園」も、岡倉天心の「茶の本」も、シュタイナーの医学論も、言語造形を通して、動きをもつて発声されることを通して、すべてがことばの芸術になりゆく。
 
休まないで、動き続けること。
 
これが、ことばの芸術のいのちであり、人が人としてあることの秘密のひとつだ。
 
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2017年11月10日

風の人

 
今日も、『キリスト生誕劇』のための練習。
 
人の息遣ひから、演劇が、生まれる。
 
さらに、風から、人は生かされてゐる。
 
風、それは、神の息遣ひである。
 
そこに、言語造形の稽古は常に帰つていく。
 
舞台の上で、俳優はなんらかの身ぶりをすることによつて演技をしていくのであるが、今日は、言語造形の基本に立ち返つて、まづ最も基本の身ぶりに取り組んだ。
 
それは、「息をする」といふ身ぶりだ。
 
普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣ひから、ことばと共に、見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。
 
その息遣ひの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。
 
外から取つてつけた身振りではない、息遣ひから生まれてくる「空氣人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。
 
そのすがたは、わたしたちに「人のおほもとのすがた」を想ひ起こさせてくれる。
 
そのすがたは、遙かな昔に人がとつてゐたすがたであり、そして、遙かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであらうすがたでもあつて、芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、未來にあるであらう「人のすがた」を密やかに提示していく。
 
それは、ことばが、單に情報を伝へるためだけの抽象的なものではなく、活きたことばとなり、人そのものとなり、そして、
だんだんと、人がことばそのものとなることである。
 
「はじめにことばありき」へと、これからはだんだんと遡つていくのだ。
 
ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、かうある。
 
 まこと、まこと、わたしは、あなたに言ふ、
 それ、人、水と風から生まれん、
 そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず
 (ヨハネ 三章五節)



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2017年10月17日

古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜


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『古事記(ふることぶみ)』の古文を言語造形を通して語り伝へていく。
 
ことばの家では、そのためのクラスを開いてゐます。
 
生徒さんたちには毎週来てもらつてゐます。
 
週に一回、全身全霊で古事記の原文を、身振りを伴はせつつ声に出す。動き回りながら、古語を語る。
 
息を切らせながら、汗を流しながら、古事記の本文が秘めてゐる古代の身振り・手振りを習ひ、まねび、体得していく。
 
この『古事記』に記されてゐる宇宙の始まり「天地(あめつち)の初発(はじめ)」の描写。
 
「イザナギとイザナミ」といふ男性性と女性性の原型でもあられる神々の営み。
 
言語造形とは何なのかといふ根源的な問ひと共に、『古事記』といふ古典作品をどのやうに舞台作品となしていくのかについて、毎回、生徒さんたちから、深い問ひが投げかけられる。
 
この自分自身の生きてゐる国の建国神話を、ことばの精神に沿ふことによつて、自分自身が生きるのだ、といふ念ひ。
 
いま、といふ時代、ここ、日本といふ地にをいて、自分自身の生を生き切るのだといふ希ひ。
 
生徒さんたちは、本当に深い念ひを持つてアトリエに通つて来てゐます。
 
その真剣さと喜びが、そんな問ひの深さを生んでゐる。
 
この学びがどのやうに展開していくか。
 
これからの日本といふ国に生きていく多くの人にとつて、己れの国のそもそものなりたちを芸術的に味わひ、知つてゆくといふことは、とても大切なことだと確信してゐるのです。
 
小・中・高校生たちにも、こんな学びを提供していきたい。
 
その機縁のひとつになることを祈つてゐます。
 




火曜 帝塚山 演劇クラス (月4回) 
.
★2017年度テーマ
「古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜」

古事記(ふることぶみ)から、我が國の神話と歴史を、語り物として、演劇として、詩劇として、舞台化するべく、言語造形に取り組んでいくクラスです。

舞台藝術として、我が國の文化の源流である神話と歴史物語に取り組み、あわせてルドルフ・シュタイナーの舞台藝術論を學んでいきます。

2018年のゴールデンウィークの上演を目指しつつ、參加される方各々、ご自身の中で、我が國の神話と歴史が、己れの物語として、己れの詩として根附いていくことが目指すところです。

・日程 毎週火曜日(月に4回)

・時間 10:00 – 13:00

・参加費 月謝制 15,000円
(資料代、衣裝代、發表參加費含む)

・会場 「ことばの家」帝塚山教室
  https://kotobanoie.net/access/
・お申し込み・お問い合わせ 「ことばの家」
  https://kotobanoie.net/access/ 

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2017年10月08日

村上 恭仁子さんの言語造形『葉桜と魔笛』


今日、村上 恭仁子さんの言語造形を聴きに行つた。
 
「古典」に影響を受けた明治から昭和文学を読む、といふテーマでの朗読ライブの第一回目。
 
太宰治の『葉桜と魔笛』といふ作品で、約一時間の一人語り。
 
ことばといふものが、日本語といふものが、こんなにも情感を湛える言語なのかといふこと、そして明治に生きた年若い女性の切ない思ひをひしひしと全身で感じることができた。 
 
彼女が第一声を発した瞬間から、空間がぎゅつと凝縮し、一気に文学的な空間になり、それが最後の瞬間まで途切れない。
 
圧巻であつた。
 
 
今回の舞台のチラシやパンフレットに記されてゐる彼女のことばから吹き出てくるやうな心意気が本当に嬉しくなる。
 
「日本語はこんなにも美しい」
 
「なぜ、日本人がかくも高い文明、技術をもって世界に踊り出ることができたのか・・・。それは、日本語の持つ力である、と言えば、大袈裟であろうか。」
 
 
これまで、『牛をつないだ椿の木』『台所のおと』『安達原』などの言語造形舞台を重ねてきた村上さん。
 
彼女の真価がこれから発揮されていく、その第一歩目に立ち会へたやうな夜だつた。
 
言語造形による舞台、ことばとは藝術なのだということが全身で直感される今日のやうな舞台が、これからどんどんなされていくこと。
 
それは、日本といふ国が、いまだ、言霊の幸ふ国だといふことを証していくことだと思つてゐる。
  
わたしもいっさう励んでいきたい。
 
素晴らしい映画を観たあとのやうに気持ちがよく、終演後、大阪の本町から難波まで歩いて帰つてきた。


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2017年09月30日

言語造形についてC(完) 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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印刷されてゐる文字から読み取られることばといふものは、まづもつて、死んでゐる。
 
その死んでゐることばにいのちを吹き込むのは、まさしく、人である。精神を活溌に働かせながら、活き活きと読み取り、活き活きと理解し、活き活きと発聲することで世に響かせる人である。
 
若い人たちに、子どもたちに、このやうな觀点から、ことばの藝術の魅力と意義を伝へていくこと。それが言語造形をする人の荷ふことだと感じてゐる。
 
ことばを死んだものとして「使ひまわさう」とするのではなく、人よりもより賢い叡智を祕めたものとして、そこにいのちを吹き込むべく、ことばに「仕へる」こと。
 
「わたしが手前勝手に使ふ」のではなく、「みづから進んで使はれる」こと、「仕へる」こと。
 
その行爲によつてこそ、人は滿ち足りていくのだといふことを、言語造形を通して學ぶことができる。
 
シュタイナーが1924年に行つた連続講演「言語造形と演劇藝術」の中でのことばを紹介させてもらつて、終はりにしたい。
 
ーーーーーーーーーーー
 
舞台藝術の養成學校で必ず次のことを學んでいただきたいのです。
 
そもそも、響きに対する宗教的なこころもちをわたしたちの藝術に引き込むことができてこそ、舞台藝術につきまとふ危險を凌ぐことができる筈です。
 
道徳的に墮落してしまふ危險すらあるのです。
 
わたしたちは、非日常的なもの、聖なることに踏み込んでいいのです。 かうごうしい教師である音韻をものにしてしかるべきなのです。
 
そもそも音韻の内に根源的なまるごとの世があるからです。
 
ことばの造形者になりたいのなら、まづ、「はじめにことばありき」といふヨハネ福音書に書かれてあることばを忘れてはなりません。
 
(中略) 藝術に宗教的なこころもちが披かれるまで、俳優はこころのメタモルフォーゼを經ていつてしかりなのです。
 
それは、音に耳を傾ける精神への帰依をもつことから始まります。
 
(ルドルフ・シュタイナー)
 
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2017年09月29日

言語造形についてB 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜


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頭とは、人体の中でもつとも物質的なところであり、死が支配してゐるところである。一方、手足とは、もつとも精神に通はれてゐるところであり、生命が漲らうとしてゐるところである。
 
動きを通して手足は、まさに精神の世を生きる。
 
ことばの響きとことばに内在してゐる動きに沿つて手足を連動させながらそのことばを聲に出し、身ぶりをもつて一文一文響かせていく練習を重ねることで、だんだんとことばの味はひやお話しのもつてゐる密やかなささやきを感覺していくことができる。
  
そして、そのやうに、吐かれる息の中で聲になつたことばがかたちと動きをもつてゐることで、聽き手もそのかたちと動きを共に生きることができる。そのかたちと動きに通ふいのちを人と人とが分かち合ふことが、ことばの藝術がこの世にあることの意味である。
 
まづは、頭でもつて、知性でもつて、わたしたちはことばを捉えるのだが、それを練習によつてだんだんと胸へ、腰へと降ろしていき、つひには、頭でいちいち考へなくても、手足の動きの感覺から語れるやうにもつていくこと。そのやうなからだまるごとを通した經驗が言語造形によつてなされる。
 
それは、ことばの外側に立つてあれこれ考へ、操作していくのではなく、ことばの響きと動きの眞つ只中に飛び込むことで、ことばの藝術を生き、新しい認識に至ることなのだ。
 
 

posted by koji at 18:47 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

言語造形についてA 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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試しに、ひとつの短い昔話を語つてみる。昔のやうに人に語つてもらつて聽いて覚えるのではなく、現代にをいては紙に印刷された文字を見て、読んで覚える昔話である。
 
書いてある通りに読めばいいと思つて、まづは聲に出してみるのだが、やはりそれだけではどうも物足りなく感じてしまふ。ただ読んでゐるだけの読み聞かせに、聽き手は殆ど魅力を感じにくい筈だ。
 
そこで、ちょつとここは感情を込めてだとか、ここは盛り上がりをもつて表現してみようだとか、自分なりに工夫を凝らしてやつてみる。
 
ところが、そのやうな、ことばを知性からの判斷でもつて表現しようといふ試みは、言語造形をすることにをいて、ことごとく却下される。なぜなら、そのやうな頭にをける考へによつてことばを操作しようとするとき、えてして、その表現はことばそのものの表現ではなくなり、話す人その人の人となりを押しつけがましく表立たせることになつてしまふからだ。
 
ことばを聲に響かせて話すとき、自分なりの解釈をもつてするのではなく、まづは、呼吸のくりなしに沿ふことから始めていく。
 
そして、だんだんと、ことばの音韻ひとつひとつの響きや、ことばとことばのあひだに生まれる間(ま)や、ことばの響きから生まれる動きに沿ふことに挑戰していく。
 
さうして、さらに、ことばに沿ひつつ手足を動かすこと、身ぶりを通してこそ、ことばそのものが本來もつてゐる感情や深みのある意味が立ち上つてくる。
 
ことばとは、本來、手足による行爲とひとつのものなのだ。手足の動きは、頭にをける操作よりもずつと賢いところがあることに氣づくのは、現代人にとつてはことさらに厄介なことかもしれない。できるだけ動かずに、ボタンひとつの操作で情報をやりとりできる現代にをいては。
 
 

posted by koji at 08:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする