2024年06月21日

ことばづくり(言語造形)という芸術の必要性



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一昨日、昨日と、ともに二十一年間、毎月続けていることばづくり(言語造形)のクラスと企業研修を、京田辺、新横浜にてさせていただきました。


どちらも、古くからのお付き合いと新しい方との出会いが交錯するような、まことに、まことに、豊かな時間です。この豊かさが、きっと、場が長く続いている原因でしょうし、この豊かさは、まぎれもなく、かけがえのない人さまからの恵みであり、さらにはもったいないほどの天からの恵みです。


おひとりおひとりのうちに、そのたびごとの新しいこころの解放と靈(ひ)への飛翔が生まれます。


そういった時間が本当に人に必要であることが、ひしひしと感じられるのです。


昨今の社会における合理性と機能性を持ち上げるかのような偏った生き方・行き方によって、人が自覚がないまま、気づかないまま、いかに苦しんでいるか。


こういった芸術を生きる時間が、そのことを逆に知らしめてくれます。


ことばという、天から与えられている素材を芸術的に扱うことで、こんなにも喜びが、輝きが、いのち溢れるものが顕れる!


その体験は、人が人であること、わたしが〈わたし〉であること、つまりは、まことの故郷(ふるさと)を念い起こすことなのですね。


はじめにことばがあったのです。


ことばづくり(言語造形)という芸術は、まことの保養であり、開眼であり、回帰だと、わたしはここ数十年実感させてもらっています。






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2024年06月19日

京田辺シュタイナー学校でのことばづくり(言語造形)研修



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先日、京田辺シュタイナー学校で、ことばづくり(言語造形)の研修を先生方とさせていただきました。

ちょうど、夏の祝祭「ヨハネの祭り」が近づいて来ていますが、研修の時間の中で、その「ヨハネの祭りの調べ」を先生方と共に生きることができたように実感しています。

「ヨハネの祭りの調べ」とは、どのような調べなのでしょう。

それは、大人であるわたしたちが、いまいちど、子どもに還るかのように、地上的・物質的なところから己れを解き放ち、天へと昇りゆくエーテルの拡がりを生きることによって聴き取られるものなのです。

いま、この季節、多くの人が、この世への拡がり、宇宙への昇りゆきを生きることができず、逆に、地上的なものに縛り付けられているがごとく、考えと情が固くこわばってしまっておられます。

これは、この季節ならではのことなのですね。

地球の吐く息に沿って、わたしたちひとりひとりの人も、天空へとエーテルとアストラ―ルのからだの拡がり、昇りゆきを生きていい、この季節だからこそ、そうはさせまいとする悪の力が強く激しく働くのです。

こうして、神々が望む人の成長を妨げるために、悪の力(ルーシファー、アーリマンをはじめとする悪魔たち)は人の内側を攻撃します。

それゆえ、人は昔から、祭り、祝祭を営んで来ました。

己れのいのちとこころの営みを肉のからだから自由にするべく、歌い、踊り、舞い、ことばを高らかに唱えました。それは、陽に向かって昇りゆく炎のような情熱的な夏のお祭りでした。

そういったいにしえの祭りに対する感覚、感情、感激を失ってしまっているわたしたち現代人は、これから、意識的に、その祭りを靈(ひ)の観点、次元から、新しくつくってゆくのです。

そのためには、芸術実践こそが要なのであり、ことばづくり(言語造形)を通して、人は新たな意識をもって、四季の祭りづくりをしていくことができます。

先日の先生方との研修も、そのような祭りのような時間になりました。

一日の授業のあと多分相当お疲れになっておられたと思うのですが、萬葉集の数々の和歌(うた)が、先生方のこころのからだ(アストラ―ルのからだ)を羽ばたかせ、いのちのからだ(エーテルのからだ)が活き活きとした流れを取り戻し、お風呂上がりのような紅潮されたお顔でその時間を終えたのでした。

常に、地上的・物質的・エゴイスティックなものに縛りつけられようとしているわたしたちには、「祭り」が要ります。


※写真は、FACEBOOKの学校のページからお借りしました。




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2024年06月16日

味わい深いひとときの積み重ね



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今日の午前は、毎月通って来て下さっている方々とのことばづくり(言語造形)。


ひとつひとつの物語には、「風」が吹いています。


それは、様々な強さと穏やかさ、乾きと湿り気、熱の高低をはらんでいて、そして様々な色合いまでも感じさせます。


その「風」とは、物語や詩に潜んでいる情感であり、日本の古来の言い方ですと「もののあはれ」であります。


人は、己れのアストラ―ルのからだをもって、その「風」を生きます。語り手も聴き手も共に生きるのです。


肉の目には見えませんが、語り手によって作られるオイリュトミッシュな身振り、とりわけ母音の身振りから空間に情が風の流れのように生まれます。


その流れに乗るように、包まれるように、ことばが空間の中を運ばれ、語り手も聴き手もその動きを共に生きるのです。そうして、「もののあはれ」を分かち合うのです。


それは、本当に、味わい深い、ひとときです。


物語を聴くとは、ストーリーを理解することではありません。詩を聴くとは、ことばの意味を分かることではありません。


「もののあはれ」という情を感じること、それこそが、ことばの芸術、いや、すべての芸術がもたらそうとしているものです。


「あはれ」とは、悲しみだけを指すことばなのではなく、人が「ああ・・・」と長い息をつきつつすべての深い情を生きるとき用いられたことばです。


ものというものに触れ、ものというもののうちへと入り込んでゆき、そこに交わされる密(ひめ)やかな交わりの感覚を意識すること。それを「もののあはれを知る」と言います。


その芸術実践から生まれる状態は、たとえて言うならば、アストラ―ルのからだによる「風」が、エーテルのからだに湛えられている「水面(みなも)」にいのちの波立ちを起こし、その芸術の場にいるわたしたち人を靈(ひ)において、こころにおいて、生命において、甦らせる、一連の芸術プロセスです。


今朝も、まさにそのような「もののあはれを知る」、そんな本当に豊穣な時間の連続でした。


そして、今日のその時間を終えて、こう思わざるを得ませんでした。


あと何か月、いや何日、ここでこのような芸術活動ができるのだろう。


この大阪の帝塚山の「ことばの家」は、本当にことばづくりという芸術にとって絶好の場でした。


十二年にもわたってここでなされてきた芸術実践がこの物質の場を靈(ひ)の次元において変容させ続けて来ました。


今朝も、そのような濃厚なひとときが生まれたのでした。


いま、次なる「ことばづくりの場」を探し求めています。






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2024年06月15日

こころよろこぶ 「ことばのひ」 in 青い森自然農園・京都南丹



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手足の動きを通して、ことばを生きてみる。


すると、ことばが活き活きと甦って、空間に光と風がもたらされる。


深い息づかいで言葉を解き放ってみる。


すると、ことばとことばのあいだ、間(ま)に、生きてうごめく靈(ひ)をリアルに感じる。


ことばの靈(ひ)を感覚する。


ことばづくり(言語造形)は、そんなことばの感官を養って、古来、日本人がたいせつに育んで来た「言靈(ことだま)」を感覚するよろこびを甦らせてくれる、未来の芸術。


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2024年06月11日

かたちづくられる人



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萩原碌山『女』



「人の肉体の中で一番裸の部分は、肉声である」と書いたのは、小林秀雄でした。


生の声。


それは、その人の裸体を示します。


しかし、通常、ことばが見せかけの衣装になってしまい、その裸体を覆ってしまっています。


ことばで、なんとか、かんとか、裸体の自分を隠そうとします。


いや、こう言った方がいいかもしれません。


いくらことばで誤魔化そうとしても、生の声がその人の裸体を透けて見させる。


しかし、こころとからだの奥底から響いてはいない表層的なことばでは、取り繕って己れの裸体を隠そうとしているために、聴いている者は、なんとも言い難い違和感を感じる。


その違和感に違和感が重なって来ますと、人と人とが信頼し合うことが難しくなって来るばかりか、自分自身を信頼することも難しくなってきます。


そういう取り繕いをやめてゆく「道」があります。


そういう違和感から解き放たれてゆく「道」があります。


表層的なことばのまやかしから、人は己れを自由にし、自分でも思ってもみなかった自分自身の声とこころに出会うことができる「道」があるのです。


それは、ことばを芸術的に造形すること、「ことばづくり(言語造形)」によつて、なしえることなのです。


不可思議に思えますが、ことばとは、息づかいに満たされ、かたちを整えられて発声されることによって、人のまごころ、そして、ことばの靈(ひ)たるところを顕わにしてくれます。


そのようにかたちづくられたことばは、人のまことの裸体をまざまざと示してくれます。


まことの裸体は、すべて美しい。


こわばり節くれだつた裸体から、磨かれ輝くやうな裸体まで。


音楽のような、絵画のような、彫刻のような、線描のような、舞踊のような、建築のような、ことばのすがた。


造形されたことばとは、造形されたその人のこころと靈(ひ)のすがたであります。


人とは、本来、そのような、風と光からかたちづくられ、目には見えない粒子のやうなものが時に集合し、時に拡散する、「物の怪(け)」ならぬ、「人の怪(け)」なのです。


ことばのすがたが造形されることによつて、その光と風からできた「人の怪」がかたちをとつて一瞬一瞬立ち顕れる。


そのような、「人の怪」「人のこころのすがた」「ことばの靈(ひ)」「言霊(ことだま)」に触れることによって、人はすこやかさを取り戻すことができます。


ことばをかたちづくろうとするその芸術的行為が、ふたたび、その人をその人たらしめるのです。


ことばと人とは、存在することの根底でむすびあわされている、まこと不可思議なものなのです。





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2024年04月26日

靈(ひ)の学びと言語造形



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昨日は、東京西日暮里で、小学生低学年の子どもたちへの教育に携わっている方々に集まっていただき、言語造形の時間を持ちました。

ことばには、話す人の考え、情、意欲、この三つの要素が入り混じって響きますが、現代の特に教育現場においては、やはり、考えを伝えることのみに偏ったことばの話し方が、依然としてなされているのではないでしょうか。

言語造形の体験によって、ことばが通常の意味を超えた、より深くて味わいに富んだ「まことの意味」を伝えてくれることをからだまるごとで感じることができます。

わたしたちが息を吐きつつことばを発する時、わたしたちを包んでいる風・空気が震え、その震える風・空気を通して、ことばのことばたるところがわたしたちにやって来る。

その、外からやって来る「ことばの響き」に耳を澄ませつつ、ことばを話す。

その時、わたしたちがことばを作り出すのではなく、ことばが光の営みのようにわたしたちに訪れるのです。

それは、喜び、楽しさ、確かさ、安らかさ、ありがたさ、畏れ、敬い、満ち足り、みやび、あはれなる情として、わたしたちに訪れます。

それは、わたしたちに本質的な癒しを与えます。靈(ひ)の保養です。

それは、わたしたちに意識の目覚めへの新しいきっかけをもたらします。靈(ひ)への開眼です。

そのひとときひとときにおいて、わたしたちは天(あめ)なる使いの方やこの世を去った方々に、ことばの内に宿っていただく可能性を与えます。

だからこそ、本質的な保養と開眼をわたしたち言語造形をする者は体験できるのです。

初めて言語造形を体験された皆さんは、そういったひめやかなことについての説明など一切聞かなくても、素直なこころとからだまるごとで、その靈(ひ)なるものを感じるのです。

わたしは、シュタイナーが残してくれた芸術に勤しむ人へのことばを繰り返し肝に命じながら、この仕事をさせてもらっています。

●わたしたちは、どのひとときひとときも、正しいことをなすことが務めなのであり、その他すべてのことは、行く先に委ねるべきなのです。…生活の保障もなく、ただ純粋に、つねにそこにある靈(ひ)の世からの助けを信頼して生きる。どんなことがあっても、気落ちなどしている暇はなく、わたしたちは今日もそうして新たに新たに生きて抜いて行くのです。
(『悟りのことば、詩、神々しいことば』GA40a)

そのように生きることが、本当にわたしを毎日甦らせてくれます。力の源は枯れることがありません。

そう、靈(ひ)と繋がって生きること、それが芸術実践であり、言語造形はそのひとつです。

そして、その繋がりのいかなるかを理解し、実感してゆくこと、それがメディテーションを軸にした靈(ひ)の学び「アントロポゾフィー」なのです。

そのような芸術実践とメディテーションは、現代を生きるすべての人が、こころの奥底で乞い求めていることではないでしょうか。






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2024年01月18日

言語の音楽性



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昨日の言語造形で生徒さんが宮澤賢治の作品「どんぐりと山猫」に取り組まれてゐる時、改めて強く感じたことがありました。


まるで交響樂を聴いてゐるやうな感覺。


行が進み、場面が繰り広げられて行くに従つて、めくるめくやうに音樂が、それぞれの樂器に奏でられるやうに、ひめやかに、そして同時に明らかに、響いてゐるのです。


言語藝術から生まれるその音樂的感覺は、時に、語つてゐる者も聴いてゐる者も歩き出し踊り出したくなるやうな生命の噴出、再生、甦りを呼び起こしてくれます。


その場にゐるみんなの頬が紅潮し、身もこころも開かれてくるのです。


作品の場面によつて、時に長調、時に短調と、そのひめやかな音樂の樣相はさまざまに、当然変はります。


ところで、映画などでしたら、何かの状況が描写される時、そこに觀客の感情を掻き立てるべく、よくバックグランドミュージックが流れますよね。その音樂や效果音が、映像と相まつて觀てゐるわたしたちの情を搖さぶります。


しかし、文學作品が言語造形される時には、基本的に、場面を修飾するやうな音樂は不要なのです。ましてや、場面を説明するやうな音樂や音響效果のやうなものは全く不要なのです。


そのやうな、外から重ねるやうな音樂は非藝術的なものです。


耳を澄ませてゐますと、ことばと文章の内側に祕められてゐる「内なる音樂」が聴こえて來ます。


せつかく「内なる音樂」が奏でられてゐるのに、外から人工的に音を附け足し、更にはことばの朗読に重ね合はせるやうにすることは、まことに非藝術的な行爲であります。


もちろん、映画などでつけられるバックグランドミュージックが效果的な時、それは音樂を担当する方が「内なる音樂」を聴いてをられる時です。


言語の音樂性とは、〈わたし〉が耳を澄ましながらことばの流れに沿つて自分自身のこころのからだ(アストラ―ルのからだ)を動かす時に感覺される「耳には聞こえない音樂」のことを言ひます。


その「耳には聞こえない音樂」を聴き取る音樂家が奏でる音樂こそが、きつと、言語藝術と結びあい、新たないのちを生み出します。


賢治の作品に耳を傾けてゐますと、なんと雄弁に音樂が奏でられてゐることでせう!


この言語の音樂性に親しんでいくための藝術的修練が、アントロポゾフィーから生まれた言語造形によつて提示されてゐます。


息づかひに沿つてことばのひとつひとつの音韻に耳を澄ますこと、ことばと共に動くこと、と云つた藝術的修練があるのです。


かう云つた藝術的修練を、國語教育や言語藝術の領域にもたらして行かうと考へてゐます。




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2023年12月29日

教員養成の要としてのことばの修練



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おひさまの丘 宮城シュタイナー学園での、12月の教員養成講座を今日終えました。


オイリュトミーの他、『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題した古事記の原文のままのテキストをそのまま身体化し、演劇としたものに取り組んだのでした。


今から一千三百年から二千年以前の日本語です。


そういったことばを生き、神々を演じることを通して、現代人であるわたしたちの、こころばかりか、全身が感情に貫かれたなら、そのとき、神々によるいにしえの次元といまのわたしたちとが一気に繋がるのです。


そのことを目指して、ことばの意味だけでなく、その響きの質や文のリズム、さらには、音韻のかたちと動きを表現していくのです。


また、今回は、さらに、演じ手が身振りをことばに注ぎ込むことによって、ことばがいのちを甦らせるのでした。


ことばというものは、人のこころ(アストラ―ルのからだ)から発されます。こころが活き活きと働くからこそ、ことばがいのちを湛えるのです。


そのことに取り組んで行くには、自分自身のこころを活き活きと働かせる稽古を重ねていくことになります。


こころを活き活きと働かせるためには、どうすればいいのか。


そこに、教員養成において、ことばの芸術、言語造形に取り組む意味があります。


子どもたちに向き合うため、わたしたち大人は、まずもって、我がこころを活き活きと働かせることを意識的にできるようになっていく必要があるということなのですね。


そのためには、からだ全身を用いて、ことばを話す練習をするのです。


そういうことばの話し方は、実は、古代の方々がなしていたことでした。


だからこそ、古代の、いにしえの、人々、いや、神々の手ぶり、身振りをわたしたちは学んでゆく必要があるのです。


そのためのうってつけのテキストが、日本文学には数多ありますが、その原型はまぎれなく『古事記(ふることぶみ)』なのです。


ことばを口先だけでやりとりするのではなく、からだまるごとを用いて、こころを活き活きと働かせつつ、精神を表現していく。


これが、教育の要のひとつですし、人としての重きをなす課題なのです。





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2023年12月16日

おほもとの詩芸術を統べる道筋  マリー・シュタイナー

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2023年11月28日

己れの声を聴きながら



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そもそも、和歌(うた)は読むものではなく、声に出して歌うものです。
 
 
なぜか。
 
 
和歌とは、そもそも、なげきであったからです。
 
 
なげきとは、長く息を吸い、長く息を吐くことだからです。
 
 
息遣いから、声が発せられ、ことばの響きが宙に拡がってゆく。
 
 
そうして虚空に拡がりゆく響きと調べが、人の乱れに乱れていたこころを鎮め、落ち着くべきところに落ち着かせるのです。
 
 
この声の作用は、頭で考えられるだけのことばよりも、いつそう、深く、強く、人のこころとからだに降りて行きます。
 
 
なぜなら、考えは過去に根差すものですが、声は現在にあるものだからです。
 
 
ひたすらに、声を出す人の「いま」を響かせます。
 
 
よって、声あることばの力によって、情が慰められ、思いが整えられ、動揺に耐えることができ、己れを建て直す機縁が得られます。
 
 
何千年前から日本人は、そのようにして、激しい情の渦に巻き込まれそうになる己れのこころを律し、こころの解放と自由を生きるために、和歌を声に出して歌いつづけてきました。
 
 
その声は誰に聴かれたでしょうか。
 
 
もちろん、人に聴かれました。
 
 
人に聴いてもらうべく、ことばを整えました。
 
 
より上手く、より深く、我がこころのありゃうを人に聴き取ってもらえるようにことばを整えました。
 
 
しかし、本質的なこととして、まずもって、他でもない自分自身によって聴かれるべく、その声は発せられたのです。
 
 
己れの声を己れが聴く。
 
 
これほどに、ことばの持つ力が実感されるときはありません。
 
 
己れの声は、己れの「いま」であります。
 
 
嘘をつくことのできない「いま」であります。
 
 
己れの「いま」を、己れが見いだし、己れが深く受け取り、己れが己れを消化するため、人は、和歌を歌ったのです。
 
 
『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』・・・それらは、ことばの芸術に通じるわたしたちの御先祖様たちが、なんとかこころの悶えを抑えようとして抑ええた、ことばの事績の集積なのです。
 
 
そういう声による自己陶冶の道を、いまに甦らせるのが、言語造形の道です。
 
 
ことばに鋳直され、造形された、先人のこころの振幅を、わたしたちは、言語造形をもって、いま一度、追体験してみます。
 
 
そのとき、わたしたち現代人と、古(いにしえ)の人とが、一挙に、こころを通わすことが生まれ得る。
 
 
それは、国語の、さらには歴史・国史の最善の学びようだと、わたしは思います。





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2023年10月01日

幼な子の欲することば 〜グリム童話「へんな旅芸人」〜



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昨日は、グリム童話の8番「へんな旅芸人」を語りました。


主人公は、旅芸人です。森の中で音楽を奏でます。バイオリンでです。


すると、バイオリンの音色に誘はれて、次々と動物たちが現れます。


しかし、その旅芸人(音楽を生きる人)が、音楽を奏でることで、なんと、森の中の動物たちを次々とやりこめ(統御し)、旅を続けます。


最後に、旅芸人は、森の中で、「人(狩人)」に出会ひます。旅芸人は、動物ではなく、「人」の前で音楽を奏でることができることをことのほか喜び、狩人もその音色に惚れ惚れとします。


そこへ、やりこめられた動物たちが、旅芸人を追ひかけ、つひには襲い掛かつて来ます。


しかし、「人(狩人)」は斧(つるぎ、でもいいでせう)を振り上げ、けものたちを退散させ、旅芸人を守ります。


さうして、旅芸人は、音楽の旅を続けて行くのです。


音楽とは、何でせう。


音楽は、人を精神と繋ぎ、神々しいものと出会はせることができます。


かつ、まことの音楽は、人の内なる動物性を駆り立てるものではなく、統御するものであります。


このお話は、昔より、そんな精神から語られてきました。


そして、語り手によつて、ことばのひとつひとつが、動きとかたちをもつて、語られます。


それは、ことばそのものが、動きの精神を孕み、かたちの精神を秘めてゐるからです。


語り手は、その動きとかたちを顕はにするべく、声にするのです。


語り手の(〈わたし〉による)目覚めて統御された意識。
(アストラルのからだによる)鮮やかな身振りと表情。
(エーテルのからだによる)呼吸の長短。
(フィジカルなからだによる)表現のまるごと、表現のすみずみに動きがあること。


さうして、ことばの精神と物語の精神は、実際に子どもの前で語る数多くの回数の中で実感されてきます。


むかしむかしのおほむかし、そもそも、ことばは、人の意欲への呼びかけでした。


現代のやうに、抽象的な思考をみすぼらしく表現するものではありませんでした。


人は、ことばを聴くたびに、からだがうづうづしたのです。


さらに、それに応ずる動きをしてしまふことが身についてゐたのです。


ことばは、発声器官だけでなく、人の運動器官まるごとのなかに息づいてゐました。


いま、人は、このことを忘れてしまつてゐます。


しかし、幼な子たちは、まだ、このむかしのことばの性質のなんたるかを知つてゐて、それを欲してゐます。


「はじめにことばありき」といふ時の「ことば」のなんたるかを知つてゐます。


「ことば」とは、世を創り、動かし、人を創り、動かすものでした。


そして、いまも、その「ことば」の働きの精神は、少なくとも幼な子には失はれてをりません。


幼な子たちは、お話を聴きながら、ことばとともに走りたがつてゐます。空を飛びたがつてゐます。海に、川に潜りたがつてゐます。


幼な子たちが欲してゐる、そんなことばを与へて行くこと。


それが、幼児教育のひとつの指針です。


そんなことばで育つことができたなら、その子は、後年、大人になつてから、生き生きとしたいのち溢れることばをものにする人生を歩いて行くことができるのです。


そして、ひとりひとりの人のことばが、世を創り、世を切り開き、世に仕合はせをもたらしてゆくのです。





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2023年09月11日

日本古典文学を奏でる人


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詩心とは何だらう。


それは、目には見えず、耳には聞こえないものを、ことばにしようとこころざし、切望するこころだ。


だから、詩心は、この世の物質的なくびきからこころとことばを解き放ち、ことばの響きが産み出す間(ま)と余韻に、ものを言はせようとする。


そこには、言霊といはれてゐる精神の働きが湛えられ、それに耳を澄ませる者をこの地にゐながら天上へと運ぶ。


そこには、ことばの音韻が描く精神のフォルムと動きがあり、そのフォルムと動きに沿はうとするわたしたちを精神の自由へといざなふ。


アントロポゾフィーは、古代人がおのづから持つてゐた、そのやうなフォルムと動きに沿ふ力を失つてしまつた現代人が、意識的に、改めて、その力を取り戻し、そこに遊び、さうして自由を勝ち取るための道を示してくれてゐる。


その道が、言語造形といふ芸術実践だ。


言語造形を通して、詩心を豊かに育み始めることができる。


目に見えず、耳には聞こえない精神のかたちと動きと響きを感覚し、表現していく道を歩むのだ。


世の詩人たちが聴き取つてゐる調べを、言語造形をする者が身をもつて奏でることで、詩人の求めた精神をより大きくより深く響かせる可能性を啓く。


そして、我が国は、言霊の幸ふ国であつた。


日本の古典文学は、本当に豊富に、また無限に深く、その道を拓いてくれてゐる。


とりわけ、天地(あめつち)の初発(はじめ)から語り始め、この国のとこしへに榮へ続ける原理を語る、古事記(ふることぶみ)。


そこで語られることば遣ひは、神々の手ぶりを顕はすものであり、それがそのまま、いにしへの人々の手ぶり、ことば遣ひとして記録されてゐる。


その神々の手ぶり、いにしへの人々のことば遣ひから聴き取られる、このくにの悲願。


その悲願を全身全霊で受け取つた人々によつて詠はれた抒情詩、ことばの芸術が、萬葉集(よろづのよのふみ)である。


その調べを奏でることができるのは、言語造形しかない。


わたしは、しかと、そのことを思ひ定めてゐる。


だから、言語造形をもつて、ともに、古事記と萬葉集をはじめとする日本古典文学を奏でる人を求めてゐる。


それは、この国とわたしたちひとりひとりを精神において甦らせ始めるための、根底の礎を築きゆく仕事である。


地味ではあるが、大いなる仕事である。



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2023年08月29日

言語造形といふ大なる願ひ



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もうすぐ8月も終はるが、この一か月、大阪から、京都、和歌山、新横浜、東京、仙台、そして青森の弘前へと渡りゆき、さらにはオンラインでの機会も併せて、言語造形を重ねて来た。


わたしには、大なる願ひがある。


それは、神ながらに脈々といまだに脈打ち続けてゐる言霊(ことだま)の風雅(みやび)を、言語造形によつて、多くも多くの人々のこころに甦らせること。


そして、その風雅(みやび)が我が国の精神そのものである皇神(すめがみ)の道義(みち)であり続けて来たことを体感すること。


皇神(すめがみ)の道義(みち)は、言霊(ことだま)の風雅(みやび)に顕れる。


さう喝破したのは、『萬葉集古義』を著した江戸時代末期の土佐の国学者、鹿持雅澄(かもちまさずみ)である。


この一か月の間でも、言語造形を通して、萬葉集、古今和歌集、新古今和歌集、百人一首、芭蕉、草野心平と、詩の歴史を下り降りて来た。


抒情詩によつて盛んに情がみなぎり、我々はまごころといふもののまことの響きと調べに、耳を澄まし、身を預ける。


そのまごころは、日本人が古来、大切に守らうとして来た、人としての理想、悲願、永遠である。


まごころを響かせる詩、和歌、俳諧は、その響きに耳を澄ます人に、己が身を超える神なるものへの信頼を育むひとつの機縁となり、唯物主義が極まつてゐるこの現世の桎梏から自由になりうるといふ希みを與へるものなのだ。


代々の志ある詩人は、皆、その願ひを抱いて死んで行つた。


ことばの感官を研ぎ澄まし、その感官に語りかけて来る神なるものとしての音韻の導きに沿ふ人、それが詩人であつた。


言語造形は、その詩人の行為を引き続き、なしゆく営みであり、それは、ある意味、詩を演奏することであり、ことばの甦りをもたらす一(いつ)なる芸術である。


日本の伝統の精神文化の土壌に、言語造形といふ芸術が根づき、打ち樹てられること。


それは、間違ひなく、この国を精神的に甦らせ、人々を弥栄に栄へゆかせる、原動力のひとつとなる。


なぜなら、言語造形が甦らせるのは、この国のいのち、ことばの精神、言霊だからである。


それこそが、我が非才を顧みず願ふ、大なるものである。





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2023年07月07日

タイパよ、消え去り給へ



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昨日は、東京にて言語造形をいたしました。


夏の陽射しでしたが、幾分爽やかな風が吹いていて、とても過ごしやすい朝からの芸術実践の時間。


午前の時間は、教育関係の方々ですが、コロナウイルス騒ぎのため、三年ぶりにお会ひして、語り合ひつつの久々の芸術実践の時間。言語造形を通して、からだまるごとで、腹の底からことばを声にすることを一気に想ひ起こす時間になりました。本当に嬉しくありがたい時間です。


そして、午後には、冠木 友紀子さんが主宰されている通訳藝術道場の特別クラスとして、初めての方々と言語造形をいたしました。


英語と日本語の間を取り持つ通訳者の方々と、こうして日本語と英語の言語造形に取り組むといふことは、本当に小さくない意味と意義をもつと、わたしは思つてゐます。


ことばといふものを、意味の側面で捉へることに尽きずに、その響きが持つてゐるリズムや抑揚、強弱といふ音楽性、そして音韻ひとつひとつが持つ彫塑性を引き上げることで、情報伝達のための単なる道具としてではなく、芸術として扱ふのです。


わたしは思ひます。


通訳者の方がそのやうな見識と感官をもつて場に臨むことによつて、異なる民族の文化と文化がより深い層において交流し合ふ場になることへと繋がりはしないでせうか。


それは通訳するといふひとりの人の行為が、各々の民族が背負ってゐる歴史性と歴史性とを結ぶ、限りない可能性に満ちたものになることへと繋がりゆきはしないでせうか。


昨日は、午前も午後も、どちらも、松尾芭蕉の俳諧作品を採り上げて、一音一音の響きに意を注ぎつつ、十七音からなることばの芸術作品を音楽的に、彫塑的に、仕上げてゆく過程に一歩だけ踏み込んでみました。


日々の暮らしにあくせくしてゐるわたしたちが、たつた十七音の世界に全身全霊で取り組むことによつて、深淵さに満ちた、どこか永遠を感じさせる精神の時間へと入り込んでゆくのでした。


最近は、コスパ(コストパフォーマンス)ではもはやなく、タイパ(タイムパフォーマンス)といふものが特に若者の間では重視されてゐて、いかに切り詰めた短い時間の中で高い満足感を得られるかといふ性向に傾いてゐるやうですね。


you tube の動画でも1分ほどで作られる「ショート動画」や映画などを1.5倍速や2倍速で観ることによつて、その「タイパ」を高めるといひます。


そのやうな流行といひ、時代の趨勢といふものは、えてして若者から始まるものですね。


さういうことを仕掛てゐる者が誰かは別のこととして、若者からさういふ流れが生まれることはいつの世においてもあることだと思ひます。


しかし、芸術といふものがあるお陰で、わたしたちは、そのやうな性向から自由になり、たつぷりと時間をかけて、しかもその時間の中にできる限り多くを詰め込まうとせず、ゆつくりと、たつぷりと、静かさの中に入つてゆく、そんなあり方を生きることができます。


そして、さういふ時間を生きることによつてこそ、人は人であることの意味を実感できる。


「タイパ」などといふことばが遠く彼方へ消え去つて行きます。


人は、情報を貪るブタではない、といふ言い方はきつすぎる感情的なことばだと思ふのですが、さういひたくなる自分がゐます。


しかし、さう信じる大人がゐることが、若者や子どもたちを何かの家畜にすることから守ります。


繊細で意識の目覚めた人は若者の中にも勿論ゐますが、多くの人が主体性を失くし、右顧左眄するだけで精一杯の輩になるのは、世の常ですね。


言語造形といふことばの芸術は、さういふ時代の流れにストップをかけて、じつと立ち止まるひとときを持つことへと人を導きます。


若者は大人に唯々諾々と従ふべからざること。そして、年寄りは若者に媚びざること。


わたしたちは、大人になりたいと思ひます。




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2023年03月02日

七年生たちとの狂言の舞台づくり シュタイナー教育



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今週初めから、仙台にある「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」に来て、もうすぐ七年生を終えようとしている子どもたちと狂言のお稽古をしています。


言語造形を通しての狂言の作品作りなのです。


わたしが来るまでに、担任の福島玲子先生の導きの下、ほとんど完璧にせりふを憶えている子どもたちには、本当に感心しました。この子たちにとっては、記憶するということが、頭の作業というよりも、からだまるごとの営みだと、観ていて感じます。


舞台の上を幾何学におけるフォルムの上を正確に歩きつつ、日を追うごとに、腹の底から空間一杯に轟くような声を出し、ひとつひとつの所作も型に沿って作りなして来た子どもたちは、まるで、大地から樹液を吸い上げて大空高く聳え立つ樹木のようになって参りました。


思春期に入って来た子どもたちは、これまでの軽やかさ、透明さを湛えたありようから、重さに支配されるありようへと成長して来ますが、だからこそ、大地にしっかりと根付くような、我が足でしっかりと立つ力をこそ求めています。


狂言という舞台芸術は、そういう子どもたちにとって、何か、とてもよき作用を及ぼしているようです。


まだまだ寒い仙台ですが、稽古を終えた後の子どもたちは、汗をかき、ほっぺも紅潮しています。


また、これまで一度も生の狂言の舞台を観たことがないというこの子たちですが、だからこそ、舞台に立つということの直接的な体験をすることができているのではないか、そう感じています。


子どもたちが毎日このような芸術体験だけでなく、まさに芸術性に満ちた国語・算数・理科・社会の授業を積み重ねることができる、このシュタイナー学園、子どもたちだけでなく、大人にとっても、すべての人にとっても、本当に天からの恵みのような場所だということを、今回も、つくづく実感しています。


この学園を支えているすべての方々に、感謝と讃嘆です。


わたし自身、この一週間、学園の様々な方々と、学園のこと、共同体というもののこと、教員養成のこと、ひとりひとりのありかたなどについて深く親しく語り合えていることにも、得難いありがたさを感じています。


明日は、狂言への取り組みの最終日。子どもたちとことばの芸術を生きたいと思います。





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2023年01月23日

こころを謳ひ上げる いのちを解き放つ 言語造形発表会「かえる」



ショートバージョン



楽しくて、悲しくて、嬉しくて、寂しい、そんなこころといのちを生きるといふこと。


呼吸を解き放つて、目を輝かせて、手足をのびのびと動かして、人は、もつと、もつと、そんなこころといのちを活き活きと生きることができる。


ことばの芸術、言語造形が、そのことを促がしてくれます。


ことばとは、身振りと共なる、人の甦りです。


2023年1月22日、よく晴れ上がつた日曜日、和歌山の岩出市にて、草野心平の作品を集めた『言語造形 かえる』の発表をし、新しいいのちの甦りとこころの浄まり願つて、お祝ひしたのでした。


アントロポゾフィーハウス和歌山の発表会に来て下さつた皆様、どうもありがたうございました。終演後に輪を囲んで話して下さつたひとつひとつのことばが、演者のわたしたちのこころに響いてゐます。


そして、言語造形といふ芸術に喜びをもつて勤しんでくれた、西さん、東郷さん、平尾さん、本当にありがたうございました。、月に一回の稽古にもかかわらず、わたしたちは、ずつと、笑顔と喜びを湛えて、この作品に取り組み続けることができました。お三方の働きで、世にこころの健やかさといのちの巡りが確かにもたらされました。


ロングバージョン



三人の女性による詩の朗唱です。

出演
西京子
東郷桃子
平尾由美子




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【アントロポゾフィー和歌山 クラスのご案内】

日時:毎月第二の月曜日
   10時から12時 言語造形
   12時半から14時 アントロポゾフィーの学び

場所:和歌山県岩出市内の公民館

参加費:初回体験 5000円
    5回連続 20000円

お問い合わせ・お申し込み:
  アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/



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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

 月曜クラス(毎週) 20時〜21時
 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 
●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円




【「シュタイナーの会員への手紙」』クラス】

【日時】
2023年1月20日(金)を第一回目としまして、
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラスです。 
途中からでもご参加可能です。

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【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円
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参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。
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※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。




【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
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you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru


言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。


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2022年09月19日

母なるいのちの源からの力



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絵は安田育代氏



子どもがこの世に生まれて来て、初めて地上で触れる芸術。


それが、お母さんの声、お母さんのことばですよね。


声といふ芸術は、母なる生命の源から流れ來る、命の川の流れにも似た、人生の始まりを支えるものです。


それゆゑでせうか、人生の終はりにおいても、その源へ帰るといふ情から、戦争などで死んでゆく若者などは、「おかあさあん!」と絶叫すると聞きます。


いのちの流れ、それはエーテルの流れです。


息遣ひに裏打ちされた声とことばは、エーテルの流れに沿つて、人から人へと働きかけ、空間を満たさうとします。


親からことばをかけてもらふことが、幼い子どもにとつて、どれほど欠かせないことか。


子どもに食べ物さへ与へれば、からだは大きくさせて行くことができるかもしれません。


しかし、その子にことばがかけられなければ、その子は、生命力を育むことができないのです。


生命力。生きて行くための力。根源の力。母なるいのちの源からの力。


それは、子どもの傍にゐる、大人からのことば遣ひ、息遣ひによつて、子どもに与へられるのです。


言語造形は、そのことをリアルに感覚するための絶好の芸術です。


幼い子どもたちへのことば。


そんなことばの芸術、「言語造形」の発表会を、青森・三沢にて11月26日(土)に、和歌山・岩出にて12月18日(日)に、行ひます。





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2022年08月23日

子どもたちと古典との出会ひ 〜国語教育のひとつの試み〜



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これは、六年前の今日、書いてゐた記事。ここでしてゐる古典文学への取り組みは、ぜひとも、我が仕事として再び新しく、より力強く展開して行かうと思つてゐる。


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『子どもたちと古典との出会ひ 〜国語教育のひとつの試み〜』


小学二年生の我が次女が、『古事記(ふることぶみ)』冒頭部分の言語造形に挑戦してゐる。


天地の始まり、神々の名が次々に出てくるところで、本居宣長の訓み下しによる原文そのままだ。


古典との出会ひ。


それをふんだんに子どもたちに提供していきたい。


我が国の古典は、ことばの意味を伝へること以上に、ことばの響きが醸し出すことばの感覚、言語感覚を深く共有することに重きを置いてゐた。


過去のことば遣ひや、古い文の綴りは、芸術的であり、信仰生活に裏打ちされてゐたので、現代人であるわたしたちをも、国語の精神、母語の精神のもとへと導いてくれる力をいまだに秘めてゐる。


わけても、『古事記』は、とても強い働きを孕んでゐて、子どもたちのからだとこころに健やかに伸びやかに働きかけてゐる。


国語の精神が子どもたちに宿りだす。


それは、おのづと、ことばを大事にすること、こころを大事にすること、人を大事にすることへと繋がつてゆく。


そんな国語教育の試み。



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2022年02月17日

20年目の京田辺クラス「森のしづく」



昨日は、毎月一回(第二水曜日の午前10時より)の言語造形に取り組み続けてゐる京田辺のクラス、今年で20年目になります。

クラスのはじめに、どのクラスでもしてゐますやうに、参加された方おひとりおひとりから発せられることばを聴き合ふシェアリングの時間を取るのですが、このクラスは、とりわけ、この時間をとてもたいせつにしてゐるのです。

家庭でも、職場でも、友達同士でも、なかなか口に出して言ひえないやうな事柄を、このクラスでなら、皆が黙つて聴いてゐますので、こころを安んじて話すことができるのでせうか。そんな時間を不文律のやうにたいせつにし続けてゐるクラスなのです。

だから、そのシェアリングの時間が長くなるときもあり、ときに、一時間ほどになるときも・・・(笑)。

しかし、だからといつて、言語造形への取り組みがおざなりになるといふことは全くなく、皆、とても真剣に、かつ、毎回新しい喜びを持つて作品に各々向かひ合つてをられます。ことばに対するその真摯さとこの芸術の時間そのものの充実度は、どこのクラスにも負けません。

そんなとてもゆる〜い時間と真摯な時間がいつも併存してゐる不思議なクラス。だからこそ、20年も続いてゐるのかもしれません。

毎月、参加し続けて下さつてゐる皆さん、そして部屋の予約やその他様々な手配を担つて下さつてゐるNさんに、こころより、こころよりの、感謝を・・・。ありがたうございます。

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2021年12月10日

幼な子たちとの至福の時間



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また、昨日も、幼な子たちとの至福の時間。


そこに、お話があれば、昔話があれば、深く闊達な息遣ひと身振りがあれば、幼な子たちから溢れ出すシンパシーに芸術的に応へることができるのです。


ことばをことばたらしめる、深くて活き活きとした息遣ひ。そこから生まれる身振り。そこから響くことば。


それは、幼な子たちの意欲を促します。


アントロポゾフィーから生まれることばの芸術「言語造形」が、いま、必要だと思ふのです。

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