2025年07月04日

メディテーションとことばづくり



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セザンヌ「大水浴図」



わたしのからだの中にこころと靈(ひ)があるのではなく、からだを包んでいるのがこころであり、そのこころを大きく超えて、世の隅々まで、世の果てまで広がり渡っているのがわたしたちの靈(ひ)です。


メディテーションの繰り返しによって、そのことに実に親しむようになります。


光の息遣いによって、そのことを実に感覚することができます。


ことばづくり(言語造形)といふ芸術によつても、そのことを生きることができます。


今日、オンラインで『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を学んで下さっている方が、京都まで足を運んで下さり、ことばづくりに取り組んで下さいました。


そこで、共に、メディテーションのことばを芸術的に奏でることをしてみました。声を実際に空間に向けて発することによって、まさに、メディテーションを通して感じられる靈の内なる感覚が外なる空間の中で共有できるのでした。


人は、からだを越えてこころを感じ得たとき、さらには、こころを越えて靈に触れ得たとき、みずからの好みや向き不向き、桎梏から自由になり、愛と自由が流れている靈の川にて、水浴びをすることができます。


今日も酷暑の京都でしたが、ことばづくりの空間はなんと爽やかな光に満ちたものでしょう!


来て下さり、この瞑想的とも言えることばの芸術に勤しんで下さった方に、こころから、感謝です。





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2025年04月20日

ことばが甦るとき 〜甦りの祭り(復活祭)の日にちなんで〜



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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。


自分は、ことばづくり(言語造形)という仕事のために、ことばを素材にしています。声にして発せられることばを素材にしています。


ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考えられ分別から組み立てられることばで、それはそうであってこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのようなことば遣いは人間の生活になくてはならないものです。


仕事の上で守るべきマニュアルに沿って発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守って、上の人の言うことを聞いて、できるだけ失礼のないように、頑張って、人は、一生懸命、ことばを話しています。


しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発している人自身の生命がだんだんと枯渇してくるのです。


そのことばは実は死んだことばだからです。


生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでいます。死んでいるからこそ、人の思惑に沿っていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。


人の頭は死した部分で、別の言い方をすれば、もう完全に出来上がっている部分なのです。頭骨で固く閉じられた部分なのです。
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであっても、死んでいます。物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣い、それが頭から発せられることば遣いです。しかし、それは、だんだんと人を死へといざないます。


だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。


死から生への甦りを乞い求めるがゆえにです。それは、手足の動きから生まれることばです。手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。呼吸が活き活きとしてくると、おのずとことばを話す時の表情も豊かになります。そんな風に表情豊かにことばを発していると、自分自身が生まれ変わったような新鮮なこころもちに包まれているのをそこはかとなく感じたりもします。


人は折をみて、そのようなことばの発し方に触れることによって、生きていることばの世界に入るのです。


ことばづくり(言語造形)の練習をする上でのまずもっての次第は、四の五の言わずに、そんな生きていることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。


そして、何年にもわたってだんだんと練習を重ねていくにしたがって、呼吸ということの秘密に気づき始めます。


吸う息によって、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢います。


そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢いを引っさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによって、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。


そのように、呼吸によって天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになって生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。


いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念いをもたらします。


ことばづくり(言語造形)を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思います。


さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きっと、こう語っています。(出典が何だったのか思い出せず、すいません)


風と光が織りなす中での、そのようなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなった人や、天の使いの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えているのだ、と。


ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。


そういった肉の眼や耳には捉えられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きっと、深い関係があって、ただ、そういうことを机上で考えるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取っていく。感覚していく。


その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。


魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たような練習の繰り返しからおのずと生まれてくる無私へと歩いていく、その「ものへゆく道」のことを言うのかもしれません。






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2025年01月19日

アドリブでお話を語ってみる



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保育園で続けている昔語り。


その園では、三つのクラスで、それぞれ二つから三つのお話をするのですが、その日の最後にしたクラスで、子どもたちからのアンコールの声、鳴り止まず( ´艸`)。


その日に用意してきたお話はすべてしてしまったし、どうしようかと。


そこで、「たぬきのメガネ屋さん」というお話をアドリブで語り始めてみたところ、子どもたちの眼がそれまで以上に爛々と輝いて来るではないですか。


いつも、ひとクラスで二十人ほどの子どもたちがいるのですが、その中には、お話を本当は聴きたいのに、なんらかの事情やこころもちで拗ねたようなふりをして向こうを向いていたり、お話の途中で大きな声を上げたりする子がいるものです。


その時もそんな子が何人かいたのですが、特にその子たちが、アドリブのお話を始めるやいなや、まさしく笑顔を顕わにしながらこちらを凝視し、じっとお話を聴くのです。また、お話のふしぶしで、そのふしぶしに応じた受け答えをするような声を上げ始めるのです。


そして、わたし自身も結末がどうなるか知らないまま、息づかいが導いてくれるままにお話をくりなしてゆき、そして行きつくべきところに行きつくかのようにお話を終えた時、子どもたちがみんなまとわりついて来ます。


楽しいのでしょうね。嬉しいのでしょうね。ファンタジーの奔出に触れることが。


アドリブでお話を創るのです。誰にでもできます。語る本人が楽しめばいいのです。


そう、幼い子どもたちが求めているものはこれなのです。


ファンタジーとは、お定まりの思考から生まれて来るのではなく、その都度その都度の意欲からおのずと繰り出して来るシンパシーの働きから生まれ出づるものなのです。それは、エゴからの働きではなく、高い世からものを仕立ててゆく力なのです。


その意欲の力を育みたがっている幼な子たちは、そういうファンタジーを通して、自分自身のからだを、自分自身の息づかいを育みたがっているのですね。


意欲の力、それは、息づかいに通います。からだまるごとの動きに通います。こころまるごとに通います。


そのように通われた意欲の力は、後年、その人の情の豊かさと、活き活きと考える力として、植物が成長してゆくように繰りなして行きます。意欲の力とは、人の根にあたるところに通う力なのですね。


深い息づかいとことばの内側に孕まれている身振り、そして音韻の細やかな造形から生まれる昔語り。


この子たちが大人になって40歳、50歳、60歳、70歳になったとき、目に見えないもの、遠く憧れを呼び起こし続けるものに対する感受性をもつ人になることを確かに見込んで、この芸術の営みを続けています。


ことばって、本当に人にとって生涯魅力を感じるものなのです。それは、幼児期、少年少女期に活きたことばをからだまるごとで味わうことから、その感受性が育ちます。


そして、そういうことばの魅力を知っていることから、人として、こころをどうくりなしてゆくことができるのかという自己教育の源に常に立ち返ることができるのです。


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2024年12月25日

七年前、六年前のクリスマス イエスキリスト生誕劇






七年前の今日、2017年12月25日(月)、大阪市立住吉区民センター小ホールにて、また六年前の今日、2018年12月25日、大阪市立阿倍野区民センター小ホールにて行いました、わたしたち「ことばの家」のクリスマスのキリスト生誕劇。


「人よ 思い起こせ 
人にしてこうごうしいところを 
天の高みより 降りて来られた おさな子」


ただひたすらに、そのような念いを抱く素朴な誠の心意気から発しているこの劇。


イエスご誕生のそのとき、何がこの世に到来したのか。


そのことに対する理解と共に、細やかな、とても細やかな感覚をこころに実感したい。


七年前も、今も、変わらず、その念いが募ります。


この時の劇を動画に撮影したのですが、なぜか全編、録画されていなかったのでした。


しかし、観客の方が撮影して下さった短い動画が見つかりましたので、よろしければその歌声にお耳をお貸しください。


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2024年12月17日

わたしたちの新嘗祭(にひなめのまつり)



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京都府南丹市の青い森自然農園にて、先日、ことばづくり(言語造形)の発表会をいたしました。美しい田園のまなかで・・・。


今年のお米づくりと今年のことばづくりが、神と人との共同作業で稔りを迎えました。


一方はからだの糧、もう一方は靈(ひ)の糧です。


ことばは、人から湧きいづる光です。


そんな靈(ひ)の光の放散が田園から宇宙へとひろがりゆきます。


また、来たる新しい年にも、新しいことばづくりをお米づくりの傍でして参ります。


よろしければ、共に、創っていきませんか。





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2024年11月28日

「母の国 滋賀」でのことばづくり



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なんでこんなに絵本を読むことが楽しくなるんだろう。

絵本を口に出して響かせることが、なんでこんなにわくわくするんだろう。

ことばづくり(言語造形)をするたびごとに、いつもいつも、この感情に満たされます。

淡々と読むだけでは決して生まれない、言語のほんものの力。

その力には、二歳の子どもも思わず引き入れらます。

母の国、滋賀でのひとときでした。


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2024年11月10日

昔話や神話を信じること



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幼な子にお話を語る時、それは、昔話であり、神話であったりするのですが、大切にしたいことがいくつかあります。


その内のひとつに、お話を「まこと」と信じることがあります。


風や山や動物、植物のひとつひとつが、人と同じようにいのちを持ち、こころを持っている。そして、互いに語り合ったり、喧嘩したり、仲直りしたり・・・。


そして、そのようなお話はまことを語っているのだと信じることを大人であるわたしたちは学ぶのです。


それは、どの人も幼い子どもの頃に感じていたリアルなことです。


幼な子は、いまだ、いのちのあるものとないもの、こころのあるものとないもの、〈わたし〉と世とを、分かつことをしません。分かつことができません。


〈わたし〉を含めて、世はまるごとでひとつ。そんな意識を幼な子は生きています。


それは、神々しい意識とも言えます。その神々しい意識は、いまだ神々のお姿を見ますし、神々のお声を聴きます。


そして、そのような神々の振る舞い、姿を描いたものが、昔話であり、神話であります。


幼な子は、そのような昔話や神話を、ことばに出して言ったりしませんが、こころの底から、からだまるごとで求めています。


幼な子にお話を語る時、こんな昔話は荒唐無稽だけれども子どもは喜ぶんだから、まあ、それ風に語っておこうというような意識で、頭に分別をたっぷりと詰め込んで声を出す時には、幼な子のこころもからだも荒(すさ)んでしまいます。


一方、わたしたち大人がみずからの心臓にファンタジーを湛えつつ、このお話は真実を語っているのだという念いで声を響かせることで、繊細な感覚を持つ幼な子は、からだとこころまるごとでそのお話を聴き、血の巡りと氣の働きを活き活きとさせます。


そして、そのような繰り返されるお話体験は、その後の人生に、自分自身から創りなすアクティブな力(創造力・想像力・ファンタジー)に満ちた健やかなこころの礎をもたらします。


アントロポゾフィーは、昔話や神話にはまことが湛えられていることをわたしたちに教えてくれます。


アントロポゾフィーによって、昔話や神話を信じることをわたしたちは学ぶことができるのです。


アントロポゾフィーからの叡智を咀嚼しつつ、メディテーションを重ねつつ、ことばづくり(言語造形)を通してお話という芸術に通じて行く、そのような芸術実践を重ねて行き、日本中の多くも多くの幼な子たちにお話を語り聞かせてゆく。それは、昔、吟遊詩人と呼ばれた方々がしていた仕事です。


わたしも、まっさらな気持ちで、この仕事をして行こうと思っています。





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2024年10月18日

これからの共同作業



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一昨日は京都の京田辺にて、昨日は新横浜にて、ことばづくり(言語造形)の芸術実践の時間をいつものように持ったのですが、仕事をさせてもらっているわたし自身が、毎回毎回、一番、驚いているかもしれません。


人のこんな輝きと漲りには、日常生活においては滅多に出会えるものではありません!


ことばづくりを通して、そのときそのときに集うおひとりおひとりの方から、靈(ひ)におけるこころの輝きといのちの漲りが産まれて来るのです。


そのこころの輝きといのちの漲りは、人とことばの間に流れている法則を踏まえた時のみに産まれて来ます。


法則は数々あるのですが、そのうちのひとつとして、手足の動きがことばの生命力と精彩を甦らせるということがあります。



 視るにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
 それなりの自立性をもった頭のなりたちによってであり、
 聴くにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
 節分かれしたからだのまるごとによってです。
 見るにおいて迎えられるところは、
 からだへと向かう流れをもち、
 聴くにおいて迎えられるところは、
 からだから上へと向かう流れをもちます。
    (『メディテーションをもってものにする人間学』)



シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。


視えるもの。それは、目という感官を通して、頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。


一方、聴こえるもの。それは、本質的には、節分れしている手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、上へと密やかに昇っていき、頭において想われる。


.耳という感官で聴かれるのは、むしろ、残響といえるものではないか。空気の震えを集約的に受け取るのは確かに耳だろうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、さらには手足において受け取っている。


ことばや音楽というものは、手足によって聴かれている!


頭、耳で聞こうとするのではなく、たとえからだはじっと静かに据えられていても、ことばや音楽に密やかに手足を沿わせるようにして聴こうとするとき、そのことばや音楽の「中味」「こころ」「靈(ひ)」に触れることができる。そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。


だんだんと、聴き手である子どもたちの内側に、自分自身の意欲・感情とことばが手に手を取って動き出す、そんな感覚が育まれてゆきます。ことばが、情報のかけらではなく、死んだ考えのものではなく、生き物として、輝きと漲りを湛えながら、絵姿とその他の様々な内的感覚を伴って、子どもの内に息づくようになって来るのです。


そのようなことばを手足をもって、または、胸の脈打ちをもって聴き続ける子どもは、やがて、その子自身が、活き活きとしたことばの話し手、語り手になってゆきます。


しかし、聴き手がそのように聴くことができるのも、話し手が手足をもって語ろうとし、音楽を奏でようとするときです。


話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、そのことばは、聴き手の手足によっては受け取られず、頭のみに働きかけます。


本当に大きな落とし穴のようなのですが、淡々と語るだけの語り口から出て来ることばやお話を聴いていますと、特に幼い子どもたちにはその影響が深く入り込み、知性のみでことばを聞く人になって行ってしまいます。ことばを聞いても、手足が冷えたまま、胸がときめきにくいまま、意欲や感情が動きにくい人になって行ってしまいます。簡単に言いますと、頭でっかちの人になってしまうということなのです。


密(ひめ)やかに、手足を動かしたくなるような感覚を感じながら、語られることばに幼い子どもたちや小学生たちが繰り返し繰り返し耳を傾ける機会。


そんな機会と場所を創って行き、そこに向けて、大人たちがことばづくり(言語造形)の練習に勤しむことのできるような機会を、これから仕立てて行くことを考えています。


そんな場を創って行きたいと考える方との共同作業をして行くことを考えています。


もし、そんな想いと願いを持っている方がいらっしゃるのなら、ぜひ、お知らせ下さい。共に創って行きませんか。




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2024年10月10日

青い森自然農園でのことばづくり「ことばのひ」






からだとこころが喜ぶ美味しいお昼ご飯をいただきながら、午前と午後ににわたって、ことばづくり(言語造形)にみんなで取り組みました。


先月に引き続き、『古事記(ふることぶみ)』の本居宣長の読み下し文に挑戦です。


冒頭の「天地(あめつち)の初発(はじめ)の場面における神々の名が次々と語られ、さらには、イザナギノミコトとイザナミノミコトによる「おのごろ嶋」を産みだす場面にかかります。


ことばの音韻と文の流れに沿うからだの動き、身振りによって息づかいが促され、ことばづくりを通して響かせられると、途端に古事記の記述がいきいきとした生き物になり変わるようです。


それは、現代語訳されたものでなく、いにしえのことば、古語のままだからこそ感じられる、ことばの音韻がもたらす音楽性と彫塑性。そこにこそ、我が国の言語がいまも湛えていることばの靈(ひ)、ことばのゲニウス、言霊があります。


目で読むだけでは見いだせない、こういう面白さ、文学の味わい深さ、神話の真実性が、ことばづくり(言語造形)から立ち上がって来ます。


ことばの靈(ひ)に触れられ、包まれ、通われたみんな、また、お風呂上がりのような上気したすがすがしい面持ちで家路についたのでした。


こうした言語芸術が、日本には古典として残されていること・・・。


ことばの感官(言語感覚)を啓くためにも、小学校・中学校から、こうした古典作品を言語造形することを国語教育に取り入れる先生が出てくること。そのことを切に望んでいます。


国の歴史が神話のふところから生まれて来ることの神秘感が子どもたちの内に育ってゆくことをこころから願うのです。


それは、ひとりひとりの個人が自立して生きて行く上で欠かせない、土着性、風土性、連続性、持続性を担保してくれるのが、その国その国の神話ですし、ことばの靈(ひ)の力だからです。


集まって下さった皆さん、どうもありがとうございました!


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2024年09月11日

ことばのひ 京都南丹でのことばづくり



昨日、いつもの青い森自然農園でのことばづくり(言語造形)の一日でした。ご参加してくれた皆さん、本当にありがとうございました。天(あま)の浮橋のように空に虹もかかり、皆さんと共に、また、ひとつの「祭り」を創り上げたような感覚です。


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その「祭り」とは、何なのでしょうか。


それは、ひとりひとりどの人も、詩人であり、その人の内に鎮まっている詩心(しごころ)、歌心(うたごころ)が溢れ出して来、まるで熱と光と風と水の流れを浴びるように互いに味わい合うひとときなのです。


目には見えず、耳には聞こえないものを、ことばにしようとする人、それが詩人です。


その詩人が、こころに歌い、書き記したことばを、空間に響きをもって奏でようとする芸術が、ことばづくり(言語造形)なのです。


空間の中でことばを響かせることで、ことばづくりをする人は、この世の物質的なくびきからこころとことばを解き放ち、ことばの響きが産み出す間(ま)と余韻に、ものを言わせようとします。それは、詩人がこころの内においてなしたことを、外なる空間の中に顕わす作業なのです。


その間(ま)には、言霊といわれている靈(ひ)の働きが湛えられ、そこに耳を澄ませる者のこころを、この地から靈(ひ)の世、天上へと運びます。


ことばの音韻が描く靈(ひ)のフォルムと動きに沿おうとするわたしたちのこころを靈(ひ)なる自由へといざないます。


ルードルフ・シュタイナーから生まれた靈(ひ)の学び、アントロポゾフィーは、古代人がおのずから持っていた、そのようなフォルムと動きに沿う力を失ってしまった現代人が、意識的に、改めて、その力を取り戻し、そこに遊び、そうして自由を勝ち取るための道を示してくれています。


ことばづくり(言語造形)という芸術実践は、そのアントロポゾフィーから生まれて来ました。


ことばづくり(言語造形)を通して、ことばの靈(ひ)「言霊」に触れ、包まれ、貫かれ、満たされるのです。


目に見えず、耳には聞こえない靈(ひ)のかたちと動きと調べを感覚し、表現していく道を歩むのです。


世の詩人たちが聴き取っている調べを、ことばづくり(言語造形)をする者が身をもって奏でることで、詩人の求めた靈(ひ)をより大きくより深く響かせる可能性を啓きます。


そして、我が国は、言霊の幸ふ国でありました。


天皇陛下や宮人たち、武士たち、そして庶民に至るまで多くの日本人は、詩人でありました。


その詩人であることを促す文化の土台は、和歌、祝詞、そして神話などの日本の古典文学にありました。それらは、本当に豊富に、また無限に深く、ことばを生きる、その道を拓いてくれています。


とりわけ、天地(あめつち)の初発(はじめ)から語り始め、この国のとこしえに栄え続ける原理を語る、古事記(ふることぶみ)。


そこで語られることば遣いは、神々の手ぶりを顕わすものであり、それがそのまま、いにしえの人々の手ぶり、ことば遣いとして記録されています。


その神々の手ぶり、いにしえの人々のことば遣いから聴き取られる、このくにの悲願。


その悲願を全身全霊で受け取った人々によって詠われた叙情詩、ことばの芸術が、万葉集(よろずのよのふみ)です。


ことばづくり(言語造形)によって、その調べを奏でることができます。


わたしは、そのことを、深く確かに感じています。


ことばづくり(言語造形)をもって、ともに、古事記と万葉集をはじめとする日本古典文学を空間に奏でてゆくことを、これからも、多くの方々としていきたいと願っています。


それは、この国とわたしたちひとりひとりを靈(ひ)において甦らせ始めるための、根底の礎を築きゆく仕事だと信じています。


地味ではありますが、大いなる仕事だと信じています。


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2024年08月14日

ありありとあるものに触れる喜びをはっきりと我がものにする努力



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昨日は、京都府南丹市でのことばづくり(言語造形)の一日「ことばのひ」でした。この日も、分かち合えたことなのですが、ことばとは、物理的な空間を超える、眼に見えない靈(ひ)の運動そのものなのですね。その内なる動きは、そのことばの音韻の連なりによってそこにいる人という人のこころを導き、予想もつかない新しい世の扉を開いてくれます。それは理知では捉えられない、靈(ひ)によって観られる靈(ひ)の運動なのです。そして、その運動、その動きそのものに、素直なこころを持つ人ならばどの人も触れることができるのです。その、なりなりてなりゆくもの。絶えざる変化という継続。それこそが、ことばであり、その、なりなりてなりゆくものに触れること、そのありありとあるものに直接触れる喜び、直接包まれる喜び、そのリアルな感覚は、人をお風呂上がりのように健やかに甦らせるのでした。ことばづくりという芸術。それは、そのありありとあるものに触れる喜びをはっきりと我がものにする努力そのものなのです。それは、まことの芸術行為、まことの哲学的行為、まことの道の営み、すべてに共有される、絶え間なく更新していく靈の営みであり、絶え間なくなり変わりゆくメロディーの流れなのです。その営みは、前もって決められた固定化した観念からではなく、その場その場で新しく創造される精神からの自己拡張であり、だからこそ、〈わたし〉というものは、実は、どこまでも拡張可能なものなのです。そして、拡張していくほどに〈わたし〉は、無私なる〈わたし〉へと、なりなりてなりゆきます。その行為は、決して、人を眠りへといざなうような安易なものではありませんが、そもそも、人は、狭い体に閉じ込められた日常の生から自由に飛翔し、先に書いたように、「ありありとあるものに触れる喜びをはっきりと我がものにする努力」をしたいのです。そんな機会を提供することが、わたしの仕事ですし、芸術行為が持つ意義だと思っています。この行為は、日々の暮らしの中に潜んでいる「まことのもの」を引き出す糸口を摑むための、長期的、継続的な人生の稽古そのもので、わたし自身、ずっと、道の上にいます。

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2024年08月02日

家庭教育の基 百人一首



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風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮れは 禊(みそ)ぎぞ夏のしるしなりける
藤原家隆 (百人一首 九十八番)


百人一首。それは、我が国の家庭教育の基でありました。


近畿地方ならば、どの家にも必ず百人一首のカルタがあったものです。


それは、ことばというものの美しい声の調べを子どもたちに伝える母たちの心用意でした。


和歌やことばの意味は、子どもたちが後に成長してから、時が熟した時に会得されるものでした。


しかし、幼いときに覚えたその調べと律動は、美的でないことば遣いに対する本能的な拒否となって、その人の一生を静かに導いたのです。


夏の季節に詠まれた、藤原家隆の歌を挙げてみました。


風そよぐ 楢(なら)の小川の 夕暮れは
禊(みそ)ぎぞ夏の しるしなりける
藤原家隆 (百人一首 九十八番)


「風そよぐ」の「そ」という音韻が涼しさをこの歌にまずはもたらしてくれます。


.次に、「楢(なら)の小川の 夕暮れは 」の「ならの」の「ら」という音韻、「夕暮れは」の「れ」の音韻が、柔らかく穏やかな風と水の流れを感じさせてくれます。


そして、最後に、「禊(みそ)ぎぞ夏の しるしなりける」と唱えるとき、「禊ぎ」の「そ」の音韻、「しるし」の「し」の音韻が、まさに身もこころも清く濯がれる体感を感じさせてくれるのです。


「楢(なら)の小川」は京都の上賀茂神社境内を流れる川で、わたしの娘たちも幼い頃、何度かこの川で水遊びをさせてもらいました。


川辺の水遊びとは、禊ぎという、身の浄まり、甦り、生まれ変わりを促す神事に通じる、我が国古来の日本人の営みです。


たとえ、そばにこのような清らかな川の流れはなくとも、この百人一首の和歌をこころに唱えるだけで、わたしたちは体感にいたるまでのことばの靈(ひ)の恩恵に預かることができたのでした。


わたしたちのこれからの日本の文化・文明に、このような、ことばの美と靈(ひ)による芸術的、宗教的な深まりと高まりをふたたびもたらすこと。


そのことを意識的にして行こうと思っています。






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2024年07月31日

きららの森サマースクールでのことばづくり



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今日は、兵庫県猪名川にて、一般社団法人「きららの森サマースクール」でのことばづくり(言語造形)の時間。この暑い暑い日の中、なんて涼しげな時間だったことでしょう。それは、ご参加下さった皆さんのとんでもない素直さが生み出した涼しさなのです。伸びやかに息づかいを解き放つことによって、ことばと共に、こころまでもが空間に広がり渡る、その活き活きとしたいのちに満ちた空間。わたしたち大人こそが、まず、自分自身を解き放つことのたいせつさ。そもそもことばとは、聞いて理解するものではなく、全身で動きつつ体験するもの。そんなことを感じながら、おひとりおひとりが、靈(ひ)から織りなされた涼しげな衣(ころも)をまとわれて、ことばと共に舞う姿が美しいのです。

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2024年06月21日

ことばづくり(言語造形)という芸術の必要性



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一昨日、昨日と、ともに二十一年間、毎月続けていることばづくり(言語造形)のクラスと企業研修を、京田辺、新横浜にてさせていただきました。


どちらも、古くからのお付き合いと新しい方との出会いが交錯するような、まことに、まことに、豊かな時間です。この豊かさが、きっと、場が長く続いている原因でしょうし、この豊かさは、まぎれもなく、かけがえのない人さまからの恵みであり、さらにはもったいないほどの天からの恵みです。


おひとりおひとりのうちに、そのたびごとの新しいこころの解放と靈(ひ)への飛翔が生まれます。


そういった時間が本当に人に必要であることが、ひしひしと感じられるのです。


昨今の社会における合理性と機能性を持ち上げるかのような偏った生き方・行き方によって、人が自覚がないまま、気づかないまま、いかに苦しんでいるか。


こういった芸術を生きる時間が、そのことを逆に知らしめてくれます。


ことばという、天から与えられている素材を芸術的に扱うことで、こんなにも喜びが、輝きが、いのち溢れるものが顕れる!


その体験は、人が人であること、わたしが〈わたし〉であること、つまりは、まことの故郷(ふるさと)を念い起こすことなのですね。


はじめにことばがあったのです。


ことばづくり(言語造形)という芸術は、まことの保養であり、開眼であり、回帰だと、わたしはここ数十年実感させてもらっています。






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2024年06月19日

京田辺シュタイナー学校でのことばづくり(言語造形)研修



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先日、京田辺シュタイナー学校で、ことばづくり(言語造形)の研修を先生方とさせていただきました。

ちょうど、夏の祝祭「ヨハネの祭り」が近づいて来ていますが、研修の時間の中で、その「ヨハネの祭りの調べ」を先生方と共に生きることができたように実感しています。

「ヨハネの祭りの調べ」とは、どのような調べなのでしょう。

それは、大人であるわたしたちが、いまいちど、子どもに還るかのように、地上的・物質的なところから己れを解き放ち、天へと昇りゆくエーテルの拡がりを生きることによって聴き取られるものなのです。

いま、この季節、多くの人が、この世への拡がり、宇宙への昇りゆきを生きることができず、逆に、地上的なものに縛り付けられているがごとく、考えと情が固くこわばってしまっておられます。

これは、この季節ならではのことなのですね。

地球の吐く息に沿って、わたしたちひとりひとりの人も、天空へとエーテルとアストラ―ルのからだの拡がり、昇りゆきを生きていい、この季節だからこそ、そうはさせまいとする悪の力が強く激しく働くのです。

こうして、神々が望む人の成長を妨げるために、悪の力(ルーシファー、アーリマンをはじめとする悪魔たち)は人の内側を攻撃します。

それゆえ、人は昔から、祭り、祝祭を営んで来ました。

己れのいのちとこころの営みを肉のからだから自由にするべく、歌い、踊り、舞い、ことばを高らかに唱えました。それは、陽に向かって昇りゆく炎のような情熱的な夏のお祭りでした。

そういったいにしえの祭りに対する感覚、感情、感激を失ってしまっているわたしたち現代人は、これから、意識的に、その祭りを靈(ひ)の観点、次元から、新しくつくってゆくのです。

そのためには、芸術実践こそが要なのであり、ことばづくり(言語造形)を通して、人は新たな意識をもって、四季の祭りづくりをしていくことができます。

先日の先生方との研修も、そのような祭りのような時間になりました。

一日の授業のあと多分相当お疲れになっておられたと思うのですが、萬葉集の数々の和歌(うた)が、先生方のこころのからだ(アストラ―ルのからだ)を羽ばたかせ、いのちのからだ(エーテルのからだ)が活き活きとした流れを取り戻し、お風呂上がりのような紅潮されたお顔でその時間を終えたのでした。

常に、地上的・物質的・エゴイスティックなものに縛りつけられようとしているわたしたちには、「祭り」が要ります。


※写真は、FACEBOOKの学校のページからお借りしました。




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2024年06月16日

味わい深いひとときの積み重ね



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今日の午前は、毎月通って来て下さっている方々とのことばづくり(言語造形)。


ひとつひとつの物語には、「風」が吹いています。


それは、様々な強さと穏やかさ、乾きと湿り気、熱の高低をはらんでいて、そして様々な色合いまでも感じさせます。


その「風」とは、物語や詩に潜んでいる情感であり、日本の古来の言い方ですと「もののあはれ」であります。


人は、己れのアストラ―ルのからだをもって、その「風」を生きます。語り手も聴き手も共に生きるのです。


肉の目には見えませんが、語り手によって作られるオイリュトミッシュな身振り、とりわけ母音の身振りから空間に情が風の流れのように生まれます。


その流れに乗るように、包まれるように、ことばが空間の中を運ばれ、語り手も聴き手もその動きを共に生きるのです。そうして、「もののあはれ」を分かち合うのです。


それは、本当に、味わい深い、ひとときです。


物語を聴くとは、ストーリーを理解することではありません。詩を聴くとは、ことばの意味を分かることではありません。


「もののあはれ」という情を感じること、それこそが、ことばの芸術、いや、すべての芸術がもたらそうとしているものです。


「あはれ」とは、悲しみだけを指すことばなのではなく、人が「ああ・・・」と長い息をつきつつすべての深い情を生きるとき用いられたことばです。


ものというものに触れ、ものというもののうちへと入り込んでゆき、そこに交わされる密(ひめ)やかな交わりの感覚を意識すること。それを「もののあはれを知る」と言います。


その芸術実践から生まれる状態は、たとえて言うならば、アストラ―ルのからだによる「風」が、エーテルのからだに湛えられている「水面(みなも)」にいのちの波立ちを起こし、その芸術の場にいるわたしたち人を靈(ひ)において、こころにおいて、生命において、甦らせる、一連の芸術プロセスです。


今朝も、まさにそのような「もののあはれを知る」、そんな本当に豊穣な時間の連続でした。


そして、今日のその時間を終えて、こう思わざるを得ませんでした。


あと何か月、いや何日、ここでこのような芸術活動ができるのだろう。


この大阪の帝塚山の「ことばの家」は、本当にことばづくりという芸術にとって絶好の場でした。


十二年にもわたってここでなされてきた芸術実践がこの物質の場を靈(ひ)の次元において変容させ続けて来ました。


今朝も、そのような濃厚なひとときが生まれたのでした。


いま、次なる「ことばづくりの場」を探し求めています。






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2024年06月15日

こころよろこぶ 「ことばのひ」 in 青い森自然農園・京都南丹



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手足の動きを通して、ことばを生きてみる。


すると、ことばが活き活きと甦って、空間に光と風がもたらされる。


深い息づかいで言葉を解き放ってみる。


すると、ことばとことばのあいだ、間(ま)に、生きてうごめく靈(ひ)をリアルに感じる。


ことばの靈(ひ)を感覚する。


ことばづくり(言語造形)は、そんなことばの感官を養って、古来、日本人がたいせつに育んで来た「言靈(ことだま)」を感覚するよろこびを甦らせてくれる、未来の芸術。


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2024年06月11日

かたちづくられる人



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萩原碌山『女』



「人の肉体の中で一番裸の部分は、肉声である」と書いたのは、小林秀雄でした。


生の声。


それは、その人の裸体を示します。


しかし、通常、ことばが見せかけの衣装になってしまい、その裸体を覆ってしまっています。


ことばで、なんとか、かんとか、裸体の自分を隠そうとします。


いや、こう言った方がいいかもしれません。


いくらことばで誤魔化そうとしても、生の声がその人の裸体を透けて見させる。


しかし、こころとからだの奥底から響いてはいない表層的なことばでは、取り繕って己れの裸体を隠そうとしているために、聴いている者は、なんとも言い難い違和感を感じる。


その違和感に違和感が重なって来ますと、人と人とが信頼し合うことが難しくなって来るばかりか、自分自身を信頼することも難しくなってきます。


そういう取り繕いをやめてゆく「道」があります。


そういう違和感から解き放たれてゆく「道」があります。


表層的なことばのまやかしから、人は己れを自由にし、自分でも思ってもみなかった自分自身の声とこころに出会うことができる「道」があるのです。


それは、ことばを芸術的に造形すること、「ことばづくり(言語造形)」によつて、なしえることなのです。


不可思議に思えますが、ことばとは、息づかいに満たされ、かたちを整えられて発声されることによって、人のまごころ、そして、ことばの靈(ひ)たるところを顕わにしてくれます。


そのようにかたちづくられたことばは、人のまことの裸体をまざまざと示してくれます。


まことの裸体は、すべて美しい。


こわばり節くれだつた裸体から、磨かれ輝くやうな裸体まで。


音楽のような、絵画のような、彫刻のような、線描のような、舞踊のような、建築のような、ことばのすがた。


造形されたことばとは、造形されたその人のこころと靈(ひ)のすがたであります。


人とは、本来、そのような、風と光からかたちづくられ、目には見えない粒子のやうなものが時に集合し、時に拡散する、「物の怪(け)」ならぬ、「人の怪(け)」なのです。


ことばのすがたが造形されることによつて、その光と風からできた「人の怪」がかたちをとつて一瞬一瞬立ち顕れる。


そのような、「人の怪」「人のこころのすがた」「ことばの靈(ひ)」「言霊(ことだま)」に触れることによって、人はすこやかさを取り戻すことができます。


ことばをかたちづくろうとするその芸術的行為が、ふたたび、その人をその人たらしめるのです。


ことばと人とは、存在することの根底でむすびあわされている、まこと不可思議なものなのです。





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2024年04月26日

靈(ひ)の学びと言語造形



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昨日は、東京西日暮里で、小学生低学年の子どもたちへの教育に携わっている方々に集まっていただき、言語造形の時間を持ちました。

ことばには、話す人の考え、情、意欲、この三つの要素が入り混じって響きますが、現代の特に教育現場においては、やはり、考えを伝えることのみに偏ったことばの話し方が、依然としてなされているのではないでしょうか。

言語造形の体験によって、ことばが通常の意味を超えた、より深くて味わいに富んだ「まことの意味」を伝えてくれることをからだまるごとで感じることができます。

わたしたちが息を吐きつつことばを発する時、わたしたちを包んでいる風・空気が震え、その震える風・空気を通して、ことばのことばたるところがわたしたちにやって来る。

その、外からやって来る「ことばの響き」に耳を澄ませつつ、ことばを話す。

その時、わたしたちがことばを作り出すのではなく、ことばが光の営みのようにわたしたちに訪れるのです。

それは、喜び、楽しさ、確かさ、安らかさ、ありがたさ、畏れ、敬い、満ち足り、みやび、あはれなる情として、わたしたちに訪れます。

それは、わたしたちに本質的な癒しを与えます。靈(ひ)の保養です。

それは、わたしたちに意識の目覚めへの新しいきっかけをもたらします。靈(ひ)への開眼です。

そのひとときひとときにおいて、わたしたちは天(あめ)なる使いの方やこの世を去った方々に、ことばの内に宿っていただく可能性を与えます。

だからこそ、本質的な保養と開眼をわたしたち言語造形をする者は体験できるのです。

初めて言語造形を体験された皆さんは、そういったひめやかなことについての説明など一切聞かなくても、素直なこころとからだまるごとで、その靈(ひ)なるものを感じるのです。

わたしは、シュタイナーが残してくれた芸術に勤しむ人へのことばを繰り返し肝に命じながら、この仕事をさせてもらっています。

●わたしたちは、どのひとときひとときも、正しいことをなすことが務めなのであり、その他すべてのことは、行く先に委ねるべきなのです。…生活の保障もなく、ただ純粋に、つねにそこにある靈(ひ)の世からの助けを信頼して生きる。どんなことがあっても、気落ちなどしている暇はなく、わたしたちは今日もそうして新たに新たに生きて抜いて行くのです。
(『悟りのことば、詩、神々しいことば』GA40a)

そのように生きることが、本当にわたしを毎日甦らせてくれます。力の源は枯れることがありません。

そう、靈(ひ)と繋がって生きること、それが芸術実践であり、言語造形はそのひとつです。

そして、その繋がりのいかなるかを理解し、実感してゆくこと、それがメディテーションを軸にした靈(ひ)の学び「アントロポゾフィー」なのです。

そのような芸術実践とメディテーションは、現代を生きるすべての人が、こころの奥底で乞い求めていることではないでしょうか。






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2024年01月18日

言語の音楽性



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昨日の言語造形で生徒さんが宮澤賢治の作品「どんぐりと山猫」に取り組まれてゐる時、改めて強く感じたことがありました。


まるで交響樂を聴いてゐるやうな感覺。


行が進み、場面が繰り広げられて行くに従つて、めくるめくやうに音樂が、それぞれの樂器に奏でられるやうに、ひめやかに、そして同時に明らかに、響いてゐるのです。


言語藝術から生まれるその音樂的感覺は、時に、語つてゐる者も聴いてゐる者も歩き出し踊り出したくなるやうな生命の噴出、再生、甦りを呼び起こしてくれます。


その場にゐるみんなの頬が紅潮し、身もこころも開かれてくるのです。


作品の場面によつて、時に長調、時に短調と、そのひめやかな音樂の樣相はさまざまに、当然変はります。


ところで、映画などでしたら、何かの状況が描写される時、そこに觀客の感情を掻き立てるべく、よくバックグランドミュージックが流れますよね。その音樂や效果音が、映像と相まつて觀てゐるわたしたちの情を搖さぶります。


しかし、文學作品が言語造形される時には、基本的に、場面を修飾するやうな音樂は不要なのです。ましてや、場面を説明するやうな音樂や音響效果のやうなものは全く不要なのです。


そのやうな、外から重ねるやうな音樂は非藝術的なものです。


耳を澄ませてゐますと、ことばと文章の内側に祕められてゐる「内なる音樂」が聴こえて來ます。


せつかく「内なる音樂」が奏でられてゐるのに、外から人工的に音を附け足し、更にはことばの朗読に重ね合はせるやうにすることは、まことに非藝術的な行爲であります。


もちろん、映画などでつけられるバックグランドミュージックが效果的な時、それは音樂を担当する方が「内なる音樂」を聴いてをられる時です。


言語の音樂性とは、〈わたし〉が耳を澄ましながらことばの流れに沿つて自分自身のこころのからだ(アストラ―ルのからだ)を動かす時に感覺される「耳には聞こえない音樂」のことを言ひます。


その「耳には聞こえない音樂」を聴き取る音樂家が奏でる音樂こそが、きつと、言語藝術と結びあい、新たないのちを生み出します。


賢治の作品に耳を傾けてゐますと、なんと雄弁に音樂が奏でられてゐることでせう!


この言語の音樂性に親しんでいくための藝術的修練が、アントロポゾフィーから生まれた言語造形によつて提示されてゐます。


息づかひに沿つてことばのひとつひとつの音韻に耳を澄ますこと、ことばと共に動くこと、と云つた藝術的修練があるのです。


かう云つた藝術的修練を、國語教育や言語藝術の領域にもたらして行かうと考へてゐます。




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