2026年01月05日

ご感想『京都公演 宮沢賢治の世界』



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秋に行いました京都公演『宮沢賢治の世界 語りと歌とヴァイオリン』のご感想をいただきました。

わたしたちがなそうとしたことを、微に入り細を穿ち聴き取って下さり、言語化して下さること。それは本当にありがたく、わたしたち演者を励まし、次なる創作へと促がしてくれます。

この批評文を読ませていただき、あらためて念います。

それは、これまで宗教が担っていた役割を代わりに果たしてゆくもの、それがこれからの藝術だということです。

人というものが単にからだだけの存在であるのではなく、こころと靈(ひ)をもつ存在であることを提示し、リアルにそのことを実感してゆく時と場を創ってゆく、その役割を担っているもの、それが藝術です。

その役割を意識したとき、藝術を通して、信仰に似た情熱と、個人であることを超える愛と、世がどのような運びになろうとも失われない希望が、胸に流れ込んで来るのです。

そして、おのずからなことなのですが、その場が和やかな、親しみに満ちた、優しい場になり、理屈抜きに人と人とが語らい、感じあい、触れあいます。

それは特別な舞台でなくても、ひとつひとつの職場や家庭もが、そのような場になりうるということを、藝術はわたしたちに教えてくれるのですね。

藝術とは、自分に才能がある、ない、という問題ではなく、ひとりの人として、太古から受け継がれて来た古い仕事を、その都度その都度新しい意識で仕事をし続ける、そしてそのために練習し続けるという、ただそれだけのことであります。

暮らしも人生も、練習の連続です。

創りなすことをする者と、このように受け止めて下さる方とは、意識を目覚めさせつつ、共にその仕事に向かっている、そう思うのです。

靈(ひ)の文化を創りゆくこと、それは宗教のように団体でする仕事ではなく、きっと、ひとりの人がひとりの人として立ち、その上で協力し合う場をこつこつと創ってゆくことに他なりません。

2026年がその靈の文化づくりに、おのおのが向ってゆく年に、きっと、なります。

本当に楽しみです。


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小西収さんの文章をご紹介します。小西さん、本当にありがとうございます。


本来の芸術の在処を訪ねて (2)  諏訪 耕志 言語造形公演
語りで聴く宮沢賢治の世界 そして歌とヴァイオリンのひととき
─京都円町、恬淡寮(てんたんりょう)─

投稿時期が離れてしまいましたが、2025年11月は2週続けて「本来の芸術」に触れてきたのでした。

「赤い花白い花」「まっかだな」
共演者の小西浩子さんによる歌唱から始まりました。「赤い花白い花」「まっかだな」など、どれも、遠く囁かれるようなピアニシシモの発声。それを受けて会場の空気も静止し、静寂にも増して静かになりました。少なくとも私には初の体験であり、このような表現が可能だったのか、と驚くばかり。偶然ながら同姓の親近感も芽生え(微笑)。

星めぐりの歌
2025年TVドラマの佳作『僕はまだその星の校則を知らない』にも登場したこの歌を、会場にいる全員も歌詞カードを見ながら斉唱しました。

バッハのアリオーソ
「アメニモマケズ」の後に演奏された、ヴァイオリン独奏によるバッハのアリオーソは、歌のような特殊な弱音ではなく通常の器楽の優美さを備えながら、歌唱に通ずる静かな清らかさにも満ちていました。バッハの良い演奏に出会うと「バッハの音楽宇宙」に包まれるような感覚を呼び覚まされるのですが、今回もその宇宙を垣間見ることができました。やはりバッハは素晴らしい。

メインプログラム「学者アラムハラドの見た着物」
今回は事前に一読・予習ができた分、私にとって特別な意味を持つ演目となりました。
アラムハラドは私塾での子どもたちとの対話をいったんまとめ、次のように言います。
────
さて斯う云うふうに火はあつく、乾かし、照らし騰る、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、またなく。魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだらう、小鳥が啼かないでゐられず魚が泳がないでゐられないやうに人はどういふことがしないでゐられないだろう。人が何としてもさうしないでゐられないことは一体どういふ事だらう。考へてごらん。
──(『宮沢賢治全集 6』、ちくま文庫、211頁)──
この私にとって、しないでいられないこととは何か。その自問の終わらぬうちに、私は指揮しないではいられないと内心で即答していました。
以後、アラムハラドは生徒たちに問いかけ続け、次々と発言を引き出します。
────
(ブランダ)「人が歩くことよりも言ふことよりももっとしないでゐられないことはいゝことです。」
(セララバアド)「人はほんたうのいゝことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」
(アラムハラド)「うん、さうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんたうの道を求めるのだ。人が道を求めないでゐられないことはちゃうど鳥の飛ばないでゐられないとおんなじだ。[…中略…]人は善を愛し道を求めないではゐられない。それが人の性質だ。」
──(同213、214頁、丸括弧による補足付加)──

そして、予習の一夜が明けた午後、学者アラムハラド当人に会えたのです。アラムハラド自身の語りによって賢治の綴ったこれらの言葉に「今ここで」命が吹き込まれると、前夜の自分自身の黙読による感動の記憶にも改めて新たな水分養分が注ぎ込まれ、よくある「発芽の微速度撮影の再生」のようにむくむくと育ち上がってくるように感じました。上記のように、アラムハラドの緒言を受けた生徒たちの応答は、善と正義およびそれらへの愛という「大きな話」になっていきます。前夜の時点では、それらと私の即答の内容は何ら乖離したものではないように感じて読み進めてはいるも、この感覚は他の誰とも容易に共有できるものではなかろう、と自覚してもいました。そうして私だけの納得として秘匿されるはずだったその実感について、当のアラムハラド自身にも公演の場で「是」と認められ確証を与えられた気がしたのです。
──前段落第一文は通常「アラムハラド当人に会えたかのように見えた」等の表現になるのでしょうが、体感として、上記にいささかの誇張もありません。本の内容を語るといっても本を目にして読む朗読とは異なる。覚えたものを暗誦するといっても講談とも一人芝居とも異なる。「役の憑依」には、やや近いのか…。通常の芸能芸術とは別の次元において、言語そのものを発することに賭ける…言語造形芸術の粋はそういうところにあります。見る者にとっては、学者アラムハラドはもはや賢治の創作による架空の登場人物ではなくなり、目の前に現れ、「あぁ、アラムハラドってこんな人だったのか」と感じ、アラムハラドその人の声を聴く、という体験になるのです。言語造形という芸術の力とは、言語造形家・諏訪耕志の力とは、そういうものです。ここはおそらく、当日あそこに集ったすべてのみなさんの同意をすぐに得られると確信しています。
このアラムハラドのいう「人としてしないではゐられない」「善を愛し道を求めないではゐられない」ような「人の性質」「ほんたうの道」は、ルドルフ・シュタイナーのいう「キリスト衝動」と関連するとも直観しますが…。

言語造形のもう一つの側面として、シニフィエ=意味内容から離れた、言語・語句の「シニフィアン自体の力」を直に浴びるということがありました。公演が終わってからしばらく「アラムハラド」「セララバアド」とつい何度も口にしたくなる自分がいました。ここはもちろん賢治自身の造作もあってこそでしょうが、諏訪言語造形の力はさらに、上記のような名前と同様に意味不確定の面を持つ語句であるオノマトペに対しても作用していきます。
────
アラムハラドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼおっと燐の火のやうに青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくてそこに黄金の葉を持った立派な樹がぞろっと並んでさんさんさんと梢を鳴らしてゐるやうに思ったのです。
──(同213、214頁)──
文中の「さんさんさん」が「さーーーん、さーーーん、さーーーん!」と、突如として歌唱的音程を伴った楽音として発声され会場内にその音波─振動が伝播。事前の黙読からはけっして得られない、 “シニフィアンの直撃” に打たれた瞬間でした。そしてそれは、まずもって言語造形家による言語造形という芸術の大きな表現力といえます。

終演後には、美味しい珈琲とお菓子を頂きながらシェア会が催されました。諏訪耕志なればこその言語造形に賛辞を惜しまない我々「ファン」に囲まれた諏訪さんはしかし、「芸術への奉仕としてどれだけ自我を滅しえるか」について謙虚に語られました。ご本人によるそうした姿勢・言明も思い出すと、上記オノマトペのパワーも、実は「学者アラムハラドの見た着物」というテキストの中に「初めから」秘められていたともいえるものだったのだろう…と今になって振り返ることができます。

↓諏訪耕志さんご自身の振り返りはこちら。
写真家・諏訪夏木さん撮影による写真も当日の様子をよく伝えてくれています。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/519017459.html




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2025年12月23日

一千年前の和歌を味わうことができる日本文化



わたしたち日本語を生きている人は、一千年前に詠まれ謡われた和歌を楽しむことができます。

小学三年生の子どもたちが「かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける(中納言家持)」の百人一首の和歌と共に部屋の中をかささぎになって舞って遊ぶのです。

そして、いつか、その子たちの人生の途中で、そのかささぎが渡す天への橋に降りている霜の白さに果たし得ぬ憧れの清さを念い知る日が来る。

生きることの酸いも甘いも知った大人たちが「これやこのゆくもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)」の和歌に、人生に必ず訪れる別れの切なさを感じる。

そして、その切実な運命の舞台となるその土地その土地を聖なる場に高めゆくことばの力を感じて、こころを震わすのです。

わたしたちは、一千年を遥かに超えて日本語という一つの言語を保持してきた唯一の民族。

時を超えて、人のこころと靈(ひ)に触れることができるのは、もはや、「ことば」しかありません。いにしえに触れることで、人はゆく先を見晴るかすこころの永続性を理屈抜きに実感することができるのです。

日本語はそのことばの靈(ひ)をいまだ秘めている。

わたしのする仕事は、その秘められている日本のことばの靈(ひ)を、声の響きを通して、披き、共に味わい、共に楽しみ、共に分かち合うことです。

産経新聞記事
日本語残し、人類に貢献 小説家の水村美苗さん 「外国人に言語の本質突き付ける」 』

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2025年11月26日

かむながら



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先日の公演におきましても、わたし自身の未熟な芸のありようが、やはり、なかなか洗い去りがたいものであることを実感いたしました。


しかし、それでも、舞台に立つことを通して、はっきりと意識していることがあります。


それは、ひとつひとつの瞬間において、どれほど〈わたし〉を透明にするかということです。


足を動かしているのも、腕を動かしているのも、声を出しているのも、ことばを語っているのも、低い〈わたし〉ではなく、息づかいの流れが拡がりゆき、ことばのひとつひとつの音韻がかたちづくられることをもって、靈(ひ)が透明な高い〈わたし〉を通して流れ出づるように・・・。そのことへの一瞬一瞬の葛藤の連続でした。


そうして生まれ出てくるものが、靈の顕われであることを目指すことです。


それは、古代の宗教施設や秘儀の場においてなされていたことで、いまという時代においては、芸術家の担ってゆくありがたい務めだと実感しています。


21世紀の半ばに向かうこれからの時代に、芸術をする人には、そのような高いものと低い世とを繋ぎ、同時に、低い世を高い世へと高め、ものというものを再び神々しいものになすべく、我が身を用いるという仕事が与えられています。


わたしの場合は、当たり前に人に与えられている「ことば」という極めて身近なものを神々しいものへと高める仕事が与えられているように感じています。


わたしたちが授かっている日本語に、そもそもの神々しい響きを再びもたらすこと。俗語を高めること。


それは、俗な〈わたし〉を高貴な〈わたし〉へと高めること。そして、人々にまことの幸福をもたらすことであります。


まことの幸福とは、この世が実は幻であり、その幻の世を生きつつ、いや、幻を幻だとはっきりと知ることによって、そのことを通してこそ、幻のこの世に感謝しつつ、逆にわたしたちは、幻ではない、まことの〈わたし〉、高い〈わたし〉を知るにいたる。まことのふるさと(この世に生まれる前の世)へと再び立ち至る。


その高い〈わたし〉は、同時に、「わたしたち」を意味するものになります。


そのとき、わたしたちは、安らかさと確かさに包まれて、この世を生きてゆくのです。


「愛」とは、「自由」とは、そのようなこころのありようから生まれ出づる、高い世からのおのずからなものだと感じます。


そして、我が国、日本では、そのこころのありよう、その生き方を、「かむながら」と言っていました。


※写真撮影 Suwa Natsuki | 諏訪夏木 https://www.instagram.com/suwa_natsuki/?igsh=MXB2azNmYmQzZG50OA%3D%3D&utm_source=qr#
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2025年09月20日

時間どろぼう と ことばづくり(言語造形)



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12年前のことを想い出して・・・


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5歳の次女が、お姉ちゃんの横でじっと、わたしの読み聞かせを聴いています。


ミヒャエル・エンデの『モモ』です。


5歳の次女、分かってても分かってなくても、じっと耳を澄まして聴いている。


今日は、前半のクライマックスと言ってもいい、「時間どろぼう」の章に差し掛かってきた。


「時間どろぼう」の語りかけることばにこころを奪われてしまった人は、いかに時間を節約して、いかに無駄を省き、いかに計算通りに効率的に生きていくかに血道を上げていくことになる。


その生き方、そのこころのあり方が、他の誰でもない、まさに俺のことではないか!


「時間がない」「・・・が足りない」「足りない」「足りない」・・・。


そんな、思考にもならない深い感情のところで何かに急かされるやうに意識が焦っている。


そして、どれほど子どもの前で「早くしなさい!」「ぐずぐずするなっ!」ということばを連発していることだろう。


自分自身のあり方が戯画として描かれているのを観て、『モモ』を読むそのたびごとに、こころが目覚めるのです。


「時間どろぼう」に取りつかれていたわたしを、この読書が治癒するのです。


この本を読むことで、お父さん自身の呼吸がだんだんゆっくりとなり、表情も豊かに優しくなってくるのを、子どもたちも感じるのでしょう。


「お父さんが『早くしなさい!』なんて言う時、時間どろぼうがお父さんの背中に張り付いてるねん」なんてことをわたしが話しても、娘たちはにこにこして、親のそんなあり方を懐深く広く受け止めてくれる。


次女がこんなことを今日言ったので大笑いしました。


「生まれてくる前に、神さまにお願いしてん。時間どろぼうさんが一杯いるところやなくて、「ことばづくり」さんが一杯いるところに生まれますようにって。そやからお父さんも「ことばづくり」さんになってん」


そうや、そうや、ことばづくりをするから、普段よりもずつと息を深くして間(ま)をもってことばを話すことができるな。ことばづくりさんは、時間どろぼうさんを追い払うんや。


そんなことを娘たちと話して笑いながら、本当にことばづくりさんがある意味をいつもよりも深く感じたのでした。





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2025年09月02日

ことばづくり(言語造形)と演劇芸術



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今から約30年前に、わたしは、ことばづくり(言語造形)という芸術の道に入ったのですが、なぜそうなったのか、この道は何をわたしに伝えようとしているのかという問いに対する返答のようなことばが、101年前のシュタイナーの連続講演録『ことばづくり(言語造形)と演劇芸術』の最後の回に語られていました。


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【第19講 1924年9月23日 ドルナッハ】

実際、わたしが試みに話して来たこれらのことは、演じるという芸術を大いに尊ぶところから発しています。

そもそも、演じるという芸術は、人が実際、身を捧げつつ舞台に立ち、その人たるところを役というものの内に注ぐことにおいてなりたちます。

その芸術は大きな課題を有していますし、こんにちもなお、世に向かって、人に向かって、働きかけることができます。

すなわち、人が演じるという芸術によって、靈(ひ)の高みへと引き上げられます。

まるごとの人が、演劇という、靈(ひ)を湛えて生みなされたものに仕えながら、ことばと身振りに応じてどう据えられるか。それを見てとることは、靈(ひ)への道を養う道のひとつなのです。

ここに、ひとつのこころざしを観ていただけると思います。

芸術ならざる自然主義から、実際の、スタイルを湛えて立ち現れる、靈(ひ)の舞台芸術へ、道を敷こうとするこころざしです。


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そしてさらに、この連続講演の最後に詩人のアルベルト・シュテッフェンがこう述べています。


「シュタイナー博士は、人としてのわたしたちに助けの手を差し伸べました。そして、それより大きいことに、わたしたちの内なる、芸術をする人を救おうとしているのです。わたしたちそのものを、造形する人に、詩人に、演ずる人にしようとしています。わたしたちは何をもって礼を返すことができるでしょう。他でもありません。ことばを実際にある通りのものとして、すなわち、ミカエルのつるぎとしてつかみあげ、芸術への道を実際に打ち樹ててゆくことによってです。」


わたし自身、これらのことばに出会うために生まれて来たように思われて仕方がないのです。


そして、これから願うべくは、これらのことばに沿って、実際に、最後のときまで仕事をしてゆくことです。生きてゆくことです。


これまでの30年間もそのように生きて来たつもりでいたのですが、自分を包む繭の中にいたことに気づかされたのでした。


繭の外に出てみますと、そこは安らかで穏やかな光のようなものに満ちていて、その光の中を風に乗って舞うように仕事を織りなしてゆくことへの可能性を感じています。


その可能性を信じて、また、おのれに与えられている運命を信じて、そして、おのれのおのれたるところである〈わたし〉という靈を信じて、ことばの舞台芸術の道を生きて行きたい。この秋、あらためて、そう考えています。





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2025年07月04日

メディテーションとことばづくり



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セザンヌ「大水浴図」



わたしのからだの中にこころと靈(ひ)があるのではなく、からだを包んでいるのがこころであり、そのこころを大きく超えて、世の隅々まで、世の果てまで広がり渡っているのがわたしたちの靈(ひ)です。


メディテーションの繰り返しによって、そのことに実に親しむようになります。


光の息遣いによって、そのことを実に感覚することができます。


ことばづくり(言語造形)といふ芸術によつても、そのことを生きることができます。


今日、オンラインで『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を学んで下さっている方が、京都まで足を運んで下さり、ことばづくりに取り組んで下さいました。


そこで、共に、メディテーションのことばを芸術的に奏でることをしてみました。声を実際に空間に向けて発することによって、まさに、メディテーションを通して感じられる靈の内なる感覚が外なる空間の中で共有できるのでした。


人は、からだを越えてこころを感じ得たとき、さらには、こころを越えて靈に触れ得たとき、みずからの好みや向き不向き、桎梏から自由になり、愛と自由が流れている靈の川にて、水浴びをすることができます。


今日も酷暑の京都でしたが、ことばづくりの空間はなんと爽やかな光に満ちたものでしょう!


来て下さり、この瞑想的とも言えることばの芸術に勤しんで下さった方に、こころから、感謝です。





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2025年04月20日

ことばが甦るとき 〜甦りの祭り(復活祭)の日にちなんで〜



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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。


自分は、ことばづくり(言語造形)という仕事のために、ことばを素材にしています。声にして発せられることばを素材にしています。


ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考えられ分別から組み立てられることばで、それはそうであってこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのようなことば遣いは人間の生活になくてはならないものです。


仕事の上で守るべきマニュアルに沿って発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守って、上の人の言うことを聞いて、できるだけ失礼のないように、頑張って、人は、一生懸命、ことばを話しています。


しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発している人自身の生命がだんだんと枯渇してくるのです。


そのことばは実は死んだことばだからです。


生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでいます。死んでいるからこそ、人の思惑に沿っていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。


人の頭は死した部分で、別の言い方をすれば、もう完全に出来上がっている部分なのです。頭骨で固く閉じられた部分なのです。
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであっても、死んでいます。物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣い、それが頭から発せられることば遣いです。しかし、それは、だんだんと人を死へといざないます。


だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。


死から生への甦りを乞い求めるがゆえにです。それは、手足の動きから生まれることばです。手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。呼吸が活き活きとしてくると、おのずとことばを話す時の表情も豊かになります。そんな風に表情豊かにことばを発していると、自分自身が生まれ変わったような新鮮なこころもちに包まれているのをそこはかとなく感じたりもします。


人は折をみて、そのようなことばの発し方に触れることによって、生きていることばの世界に入るのです。


ことばづくり(言語造形)の練習をする上でのまずもっての次第は、四の五の言わずに、そんな生きていることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。


そして、何年にもわたってだんだんと練習を重ねていくにしたがって、呼吸ということの秘密に気づき始めます。


吸う息によって、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢います。


そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢いを引っさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによって、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。


そのように、呼吸によって天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになって生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。


いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念いをもたらします。


ことばづくり(言語造形)を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思います。


さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きっと、こう語っています。(出典が何だったのか思い出せず、すいません)


風と光が織りなす中での、そのようなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなった人や、天の使いの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えているのだ、と。


ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。


そういった肉の眼や耳には捉えられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きっと、深い関係があって、ただ、そういうことを机上で考えるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取っていく。感覚していく。


その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。


魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たような練習の繰り返しからおのずと生まれてくる無私へと歩いていく、その「ものへゆく道」のことを言うのかもしれません。






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2025年01月19日

アドリブでお話を語ってみる



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保育園で続けている昔語り。


その園では、三つのクラスで、それぞれ二つから三つのお話をするのですが、その日の最後にしたクラスで、子どもたちからのアンコールの声、鳴り止まず( ´艸`)。


その日に用意してきたお話はすべてしてしまったし、どうしようかと。


そこで、「たぬきのメガネ屋さん」というお話をアドリブで語り始めてみたところ、子どもたちの眼がそれまで以上に爛々と輝いて来るではないですか。


いつも、ひとクラスで二十人ほどの子どもたちがいるのですが、その中には、お話を本当は聴きたいのに、なんらかの事情やこころもちで拗ねたようなふりをして向こうを向いていたり、お話の途中で大きな声を上げたりする子がいるものです。


その時もそんな子が何人かいたのですが、特にその子たちが、アドリブのお話を始めるやいなや、まさしく笑顔を顕わにしながらこちらを凝視し、じっとお話を聴くのです。また、お話のふしぶしで、そのふしぶしに応じた受け答えをするような声を上げ始めるのです。


そして、わたし自身も結末がどうなるか知らないまま、息づかいが導いてくれるままにお話をくりなしてゆき、そして行きつくべきところに行きつくかのようにお話を終えた時、子どもたちがみんなまとわりついて来ます。


楽しいのでしょうね。嬉しいのでしょうね。ファンタジーの奔出に触れることが。


アドリブでお話を創るのです。誰にでもできます。語る本人が楽しめばいいのです。


そう、幼い子どもたちが求めているものはこれなのです。


ファンタジーとは、お定まりの思考から生まれて来るのではなく、その都度その都度の意欲からおのずと繰り出して来るシンパシーの働きから生まれ出づるものなのです。それは、エゴからの働きではなく、高い世からものを仕立ててゆく力なのです。


その意欲の力を育みたがっている幼な子たちは、そういうファンタジーを通して、自分自身のからだを、自分自身の息づかいを育みたがっているのですね。


意欲の力、それは、息づかいに通います。からだまるごとの動きに通います。こころまるごとに通います。


そのように通われた意欲の力は、後年、その人の情の豊かさと、活き活きと考える力として、植物が成長してゆくように繰りなして行きます。意欲の力とは、人の根にあたるところに通う力なのですね。


深い息づかいとことばの内側に孕まれている身振り、そして音韻の細やかな造形から生まれる昔語り。


この子たちが大人になって40歳、50歳、60歳、70歳になったとき、目に見えないもの、遠く憧れを呼び起こし続けるものに対する感受性をもつ人になることを確かに見込んで、この芸術の営みを続けています。


ことばって、本当に人にとって生涯魅力を感じるものなのです。それは、幼児期、少年少女期に活きたことばをからだまるごとで味わうことから、その感受性が育ちます。


そして、そういうことばの魅力を知っていることから、人として、こころをどうくりなしてゆくことができるのかという自己教育の源に常に立ち返ることができるのです。


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2024年12月25日

七年前、六年前のクリスマス イエスキリスト生誕劇






七年前の今日、2017年12月25日(月)、大阪市立住吉区民センター小ホールにて、また六年前の今日、2018年12月25日、大阪市立阿倍野区民センター小ホールにて行いました、わたしたち「ことばの家」のクリスマスのキリスト生誕劇。


「人よ 思い起こせ 
人にしてこうごうしいところを 
天の高みより 降りて来られた おさな子」


ただひたすらに、そのような念いを抱く素朴な誠の心意気から発しているこの劇。


イエスご誕生のそのとき、何がこの世に到来したのか。


そのことに対する理解と共に、細やかな、とても細やかな感覚をこころに実感したい。


七年前も、今も、変わらず、その念いが募ります。


この時の劇を動画に撮影したのですが、なぜか全編、録画されていなかったのでした。


しかし、観客の方が撮影して下さった短い動画が見つかりましたので、よろしければその歌声にお耳をお貸しください。


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2024年12月17日

わたしたちの新嘗祭(にひなめのまつり)



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京都府南丹市の青い森自然農園にて、先日、ことばづくり(言語造形)の発表会をいたしました。美しい田園のまなかで・・・。


今年のお米づくりと今年のことばづくりが、神と人との共同作業で稔りを迎えました。


一方はからだの糧、もう一方は靈(ひ)の糧です。


ことばは、人から湧きいづる光です。


そんな靈(ひ)の光の放散が田園から宇宙へとひろがりゆきます。


また、来たる新しい年にも、新しいことばづくりをお米づくりの傍でして参ります。


よろしければ、共に、創っていきませんか。





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2024年11月28日

「母の国 滋賀」でのことばづくり



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なんでこんなに絵本を読むことが楽しくなるんだろう。

絵本を口に出して響かせることが、なんでこんなにわくわくするんだろう。

ことばづくり(言語造形)をするたびごとに、いつもいつも、この感情に満たされます。

淡々と読むだけでは決して生まれない、言語のほんものの力。

その力には、二歳の子どもも思わず引き入れらます。

母の国、滋賀でのひとときでした。


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2024年11月10日

昔話や神話を信じること



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幼な子にお話を語る時、それは、昔話であり、神話であったりするのですが、大切にしたいことがいくつかあります。


その内のひとつに、お話を「まこと」と信じることがあります。


風や山や動物、植物のひとつひとつが、人と同じようにいのちを持ち、こころを持っている。そして、互いに語り合ったり、喧嘩したり、仲直りしたり・・・。


そして、そのようなお話はまことを語っているのだと信じることを大人であるわたしたちは学ぶのです。


それは、どの人も幼い子どもの頃に感じていたリアルなことです。


幼な子は、いまだ、いのちのあるものとないもの、こころのあるものとないもの、〈わたし〉と世とを、分かつことをしません。分かつことができません。


〈わたし〉を含めて、世はまるごとでひとつ。そんな意識を幼な子は生きています。


それは、神々しい意識とも言えます。その神々しい意識は、いまだ神々のお姿を見ますし、神々のお声を聴きます。


そして、そのような神々の振る舞い、姿を描いたものが、昔話であり、神話であります。


幼な子は、そのような昔話や神話を、ことばに出して言ったりしませんが、こころの底から、からだまるごとで求めています。


幼な子にお話を語る時、こんな昔話は荒唐無稽だけれども子どもは喜ぶんだから、まあ、それ風に語っておこうというような意識で、頭に分別をたっぷりと詰め込んで声を出す時には、幼な子のこころもからだも荒(すさ)んでしまいます。


一方、わたしたち大人がみずからの心臓にファンタジーを湛えつつ、このお話は真実を語っているのだという念いで声を響かせることで、繊細な感覚を持つ幼な子は、からだとこころまるごとでそのお話を聴き、血の巡りと氣の働きを活き活きとさせます。


そして、そのような繰り返されるお話体験は、その後の人生に、自分自身から創りなすアクティブな力(創造力・想像力・ファンタジー)に満ちた健やかなこころの礎をもたらします。


アントロポゾフィーは、昔話や神話にはまことが湛えられていることをわたしたちに教えてくれます。


アントロポゾフィーによって、昔話や神話を信じることをわたしたちは学ぶことができるのです。


アントロポゾフィーからの叡智を咀嚼しつつ、メディテーションを重ねつつ、ことばづくり(言語造形)を通してお話という芸術に通じて行く、そのような芸術実践を重ねて行き、日本中の多くも多くの幼な子たちにお話を語り聞かせてゆく。それは、昔、吟遊詩人と呼ばれた方々がしていた仕事です。


わたしも、まっさらな気持ちで、この仕事をして行こうと思っています。





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2024年10月18日

これからの共同作業



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一昨日は京都の京田辺にて、昨日は新横浜にて、ことばづくり(言語造形)の芸術実践の時間をいつものように持ったのですが、仕事をさせてもらっているわたし自身が、毎回毎回、一番、驚いているかもしれません。


人のこんな輝きと漲りには、日常生活においては滅多に出会えるものではありません!


ことばづくりを通して、そのときそのときに集うおひとりおひとりの方から、靈(ひ)におけるこころの輝きといのちの漲りが産まれて来るのです。


そのこころの輝きといのちの漲りは、人とことばの間に流れている法則を踏まえた時のみに産まれて来ます。


法則は数々あるのですが、そのうちのひとつとして、手足の動きがことばの生命力と精彩を甦らせるということがあります。



 視るにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
 それなりの自立性をもった頭のなりたちによってであり、
 聴くにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
 節分かれしたからだのまるごとによってです。
 見るにおいて迎えられるところは、
 からだへと向かう流れをもち、
 聴くにおいて迎えられるところは、
 からだから上へと向かう流れをもちます。
    (『メディテーションをもってものにする人間学』)



シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。


視えるもの。それは、目という感官を通して、頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。


一方、聴こえるもの。それは、本質的には、節分れしている手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、上へと密やかに昇っていき、頭において想われる。


.耳という感官で聴かれるのは、むしろ、残響といえるものではないか。空気の震えを集約的に受け取るのは確かに耳だろうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、さらには手足において受け取っている。


ことばや音楽というものは、手足によって聴かれている!


頭、耳で聞こうとするのではなく、たとえからだはじっと静かに据えられていても、ことばや音楽に密やかに手足を沿わせるようにして聴こうとするとき、そのことばや音楽の「中味」「こころ」「靈(ひ)」に触れることができる。そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。


だんだんと、聴き手である子どもたちの内側に、自分自身の意欲・感情とことばが手に手を取って動き出す、そんな感覚が育まれてゆきます。ことばが、情報のかけらではなく、死んだ考えのものではなく、生き物として、輝きと漲りを湛えながら、絵姿とその他の様々な内的感覚を伴って、子どもの内に息づくようになって来るのです。


そのようなことばを手足をもって、または、胸の脈打ちをもって聴き続ける子どもは、やがて、その子自身が、活き活きとしたことばの話し手、語り手になってゆきます。


しかし、聴き手がそのように聴くことができるのも、話し手が手足をもって語ろうとし、音楽を奏でようとするときです。


話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、そのことばは、聴き手の手足によっては受け取られず、頭のみに働きかけます。


本当に大きな落とし穴のようなのですが、淡々と語るだけの語り口から出て来ることばやお話を聴いていますと、特に幼い子どもたちにはその影響が深く入り込み、知性のみでことばを聞く人になって行ってしまいます。ことばを聞いても、手足が冷えたまま、胸がときめきにくいまま、意欲や感情が動きにくい人になって行ってしまいます。簡単に言いますと、頭でっかちの人になってしまうということなのです。


密(ひめ)やかに、手足を動かしたくなるような感覚を感じながら、語られることばに幼い子どもたちや小学生たちが繰り返し繰り返し耳を傾ける機会。


そんな機会と場所を創って行き、そこに向けて、大人たちがことばづくり(言語造形)の練習に勤しむことのできるような機会を、これから仕立てて行くことを考えています。


そんな場を創って行きたいと考える方との共同作業をして行くことを考えています。


もし、そんな想いと願いを持っている方がいらっしゃるのなら、ぜひ、お知らせ下さい。共に創って行きませんか。




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2024年10月10日

青い森自然農園でのことばづくり「ことばのひ」






からだとこころが喜ぶ美味しいお昼ご飯をいただきながら、午前と午後ににわたって、ことばづくり(言語造形)にみんなで取り組みました。


先月に引き続き、『古事記(ふることぶみ)』の本居宣長の読み下し文に挑戦です。


冒頭の「天地(あめつち)の初発(はじめ)の場面における神々の名が次々と語られ、さらには、イザナギノミコトとイザナミノミコトによる「おのごろ嶋」を産みだす場面にかかります。


ことばの音韻と文の流れに沿うからだの動き、身振りによって息づかいが促され、ことばづくりを通して響かせられると、途端に古事記の記述がいきいきとした生き物になり変わるようです。


それは、現代語訳されたものでなく、いにしえのことば、古語のままだからこそ感じられる、ことばの音韻がもたらす音楽性と彫塑性。そこにこそ、我が国の言語がいまも湛えていることばの靈(ひ)、ことばのゲニウス、言霊があります。


目で読むだけでは見いだせない、こういう面白さ、文学の味わい深さ、神話の真実性が、ことばづくり(言語造形)から立ち上がって来ます。


ことばの靈(ひ)に触れられ、包まれ、通われたみんな、また、お風呂上がりのような上気したすがすがしい面持ちで家路についたのでした。


こうした言語芸術が、日本には古典として残されていること・・・。


ことばの感官(言語感覚)を啓くためにも、小学校・中学校から、こうした古典作品を言語造形することを国語教育に取り入れる先生が出てくること。そのことを切に望んでいます。


国の歴史が神話のふところから生まれて来ることの神秘感が子どもたちの内に育ってゆくことをこころから願うのです。


それは、ひとりひとりの個人が自立して生きて行く上で欠かせない、土着性、風土性、連続性、持続性を担保してくれるのが、その国その国の神話ですし、ことばの靈(ひ)の力だからです。


集まって下さった皆さん、どうもありがとうございました!


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2024年09月11日

ことばのひ 京都南丹でのことばづくり



昨日、いつもの青い森自然農園でのことばづくり(言語造形)の一日でした。ご参加してくれた皆さん、本当にありがとうございました。天(あま)の浮橋のように空に虹もかかり、皆さんと共に、また、ひとつの「祭り」を創り上げたような感覚です。


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その「祭り」とは、何なのでしょうか。


それは、ひとりひとりどの人も、詩人であり、その人の内に鎮まっている詩心(しごころ)、歌心(うたごころ)が溢れ出して来、まるで熱と光と風と水の流れを浴びるように互いに味わい合うひとときなのです。


目には見えず、耳には聞こえないものを、ことばにしようとする人、それが詩人です。


その詩人が、こころに歌い、書き記したことばを、空間に響きをもって奏でようとする芸術が、ことばづくり(言語造形)なのです。


空間の中でことばを響かせることで、ことばづくりをする人は、この世の物質的なくびきからこころとことばを解き放ち、ことばの響きが産み出す間(ま)と余韻に、ものを言わせようとします。それは、詩人がこころの内においてなしたことを、外なる空間の中に顕わす作業なのです。


その間(ま)には、言霊といわれている靈(ひ)の働きが湛えられ、そこに耳を澄ませる者のこころを、この地から靈(ひ)の世、天上へと運びます。


ことばの音韻が描く靈(ひ)のフォルムと動きに沿おうとするわたしたちのこころを靈(ひ)なる自由へといざないます。


ルードルフ・シュタイナーから生まれた靈(ひ)の学び、アントロポゾフィーは、古代人がおのずから持っていた、そのようなフォルムと動きに沿う力を失ってしまった現代人が、意識的に、改めて、その力を取り戻し、そこに遊び、そうして自由を勝ち取るための道を示してくれています。


ことばづくり(言語造形)という芸術実践は、そのアントロポゾフィーから生まれて来ました。


ことばづくり(言語造形)を通して、ことばの靈(ひ)「言霊」に触れ、包まれ、貫かれ、満たされるのです。


目に見えず、耳には聞こえない靈(ひ)のかたちと動きと調べを感覚し、表現していく道を歩むのです。


世の詩人たちが聴き取っている調べを、ことばづくり(言語造形)をする者が身をもって奏でることで、詩人の求めた靈(ひ)をより大きくより深く響かせる可能性を啓きます。


そして、我が国は、言霊の幸ふ国でありました。


天皇陛下や宮人たち、武士たち、そして庶民に至るまで多くの日本人は、詩人でありました。


その詩人であることを促す文化の土台は、和歌、祝詞、そして神話などの日本の古典文学にありました。それらは、本当に豊富に、また無限に深く、ことばを生きる、その道を拓いてくれています。


とりわけ、天地(あめつち)の初発(はじめ)から語り始め、この国のとこしえに栄え続ける原理を語る、古事記(ふることぶみ)。


そこで語られることば遣いは、神々の手ぶりを顕わすものであり、それがそのまま、いにしえの人々の手ぶり、ことば遣いとして記録されています。


その神々の手ぶり、いにしえの人々のことば遣いから聴き取られる、このくにの悲願。


その悲願を全身全霊で受け取った人々によって詠われた叙情詩、ことばの芸術が、万葉集(よろずのよのふみ)です。


ことばづくり(言語造形)によって、その調べを奏でることができます。


わたしは、そのことを、深く確かに感じています。


ことばづくり(言語造形)をもって、ともに、古事記と万葉集をはじめとする日本古典文学を空間に奏でてゆくことを、これからも、多くの方々としていきたいと願っています。


それは、この国とわたしたちひとりひとりを靈(ひ)において甦らせ始めるための、根底の礎を築きゆく仕事だと信じています。


地味ではありますが、大いなる仕事だと信じています。


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2024年08月14日

ありありとあるものに触れる喜びをはっきりと我がものにする努力



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昨日は、京都府南丹市でのことばづくり(言語造形)の一日「ことばのひ」でした。この日も、分かち合えたことなのですが、ことばとは、物理的な空間を超える、眼に見えない靈(ひ)の運動そのものなのですね。その内なる動きは、そのことばの音韻の連なりによってそこにいる人という人のこころを導き、予想もつかない新しい世の扉を開いてくれます。それは理知では捉えられない、靈(ひ)によって観られる靈(ひ)の運動なのです。そして、その運動、その動きそのものに、素直なこころを持つ人ならばどの人も触れることができるのです。その、なりなりてなりゆくもの。絶えざる変化という継続。それこそが、ことばであり、その、なりなりてなりゆくものに触れること、そのありありとあるものに直接触れる喜び、直接包まれる喜び、そのリアルな感覚は、人をお風呂上がりのように健やかに甦らせるのでした。ことばづくりという芸術。それは、そのありありとあるものに触れる喜びをはっきりと我がものにする努力そのものなのです。それは、まことの芸術行為、まことの哲学的行為、まことの道の営み、すべてに共有される、絶え間なく更新していく靈の営みであり、絶え間なくなり変わりゆくメロディーの流れなのです。その営みは、前もって決められた固定化した観念からではなく、その場その場で新しく創造される精神からの自己拡張であり、だからこそ、〈わたし〉というものは、実は、どこまでも拡張可能なものなのです。そして、拡張していくほどに〈わたし〉は、無私なる〈わたし〉へと、なりなりてなりゆきます。その行為は、決して、人を眠りへといざなうような安易なものではありませんが、そもそも、人は、狭い体に閉じ込められた日常の生から自由に飛翔し、先に書いたように、「ありありとあるものに触れる喜びをはっきりと我がものにする努力」をしたいのです。そんな機会を提供することが、わたしの仕事ですし、芸術行為が持つ意義だと思っています。この行為は、日々の暮らしの中に潜んでいる「まことのもの」を引き出す糸口を摑むための、長期的、継続的な人生の稽古そのもので、わたし自身、ずっと、道の上にいます。

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2024年08月02日

家庭教育の基 百人一首



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風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮れは 禊(みそ)ぎぞ夏のしるしなりける
藤原家隆 (百人一首 九十八番)


百人一首。それは、我が国の家庭教育の基でありました。


近畿地方ならば、どの家にも必ず百人一首のカルタがあったものです。


それは、ことばというものの美しい声の調べを子どもたちに伝える母たちの心用意でした。


和歌やことばの意味は、子どもたちが後に成長してから、時が熟した時に会得されるものでした。


しかし、幼いときに覚えたその調べと律動は、美的でないことば遣いに対する本能的な拒否となって、その人の一生を静かに導いたのです。


夏の季節に詠まれた、藤原家隆の歌を挙げてみました。


風そよぐ 楢(なら)の小川の 夕暮れは
禊(みそ)ぎぞ夏の しるしなりける
藤原家隆 (百人一首 九十八番)


「風そよぐ」の「そ」という音韻が涼しさをこの歌にまずはもたらしてくれます。


.次に、「楢(なら)の小川の 夕暮れは 」の「ならの」の「ら」という音韻、「夕暮れは」の「れ」の音韻が、柔らかく穏やかな風と水の流れを感じさせてくれます。


そして、最後に、「禊(みそ)ぎぞ夏の しるしなりける」と唱えるとき、「禊ぎ」の「そ」の音韻、「しるし」の「し」の音韻が、まさに身もこころも清く濯がれる体感を感じさせてくれるのです。


「楢(なら)の小川」は京都の上賀茂神社境内を流れる川で、わたしの娘たちも幼い頃、何度かこの川で水遊びをさせてもらいました。


川辺の水遊びとは、禊ぎという、身の浄まり、甦り、生まれ変わりを促す神事に通じる、我が国古来の日本人の営みです。


たとえ、そばにこのような清らかな川の流れはなくとも、この百人一首の和歌をこころに唱えるだけで、わたしたちは体感にいたるまでのことばの靈(ひ)の恩恵に預かることができたのでした。


わたしたちのこれからの日本の文化・文明に、このような、ことばの美と靈(ひ)による芸術的、宗教的な深まりと高まりをふたたびもたらすこと。


そのことを意識的にして行こうと思っています。






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2024年07月31日

きららの森サマースクールでのことばづくり



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今日は、兵庫県猪名川にて、一般社団法人「きららの森サマースクール」でのことばづくり(言語造形)の時間。この暑い暑い日の中、なんて涼しげな時間だったことでしょう。それは、ご参加下さった皆さんのとんでもない素直さが生み出した涼しさなのです。伸びやかに息づかいを解き放つことによって、ことばと共に、こころまでもが空間に広がり渡る、その活き活きとしたいのちに満ちた空間。わたしたち大人こそが、まず、自分自身を解き放つことのたいせつさ。そもそもことばとは、聞いて理解するものではなく、全身で動きつつ体験するもの。そんなことを感じながら、おひとりおひとりが、靈(ひ)から織りなされた涼しげな衣(ころも)をまとわれて、ことばと共に舞う姿が美しいのです。

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2024年06月21日

ことばづくり(言語造形)という芸術の必要性



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一昨日、昨日と、ともに二十一年間、毎月続けていることばづくり(言語造形)のクラスと企業研修を、京田辺、新横浜にてさせていただきました。


どちらも、古くからのお付き合いと新しい方との出会いが交錯するような、まことに、まことに、豊かな時間です。この豊かさが、きっと、場が長く続いている原因でしょうし、この豊かさは、まぎれもなく、かけがえのない人さまからの恵みであり、さらにはもったいないほどの天からの恵みです。


おひとりおひとりのうちに、そのたびごとの新しいこころの解放と靈(ひ)への飛翔が生まれます。


そういった時間が本当に人に必要であることが、ひしひしと感じられるのです。


昨今の社会における合理性と機能性を持ち上げるかのような偏った生き方・行き方によって、人が自覚がないまま、気づかないまま、いかに苦しんでいるか。


こういった芸術を生きる時間が、そのことを逆に知らしめてくれます。


ことばという、天から与えられている素材を芸術的に扱うことで、こんなにも喜びが、輝きが、いのち溢れるものが顕れる!


その体験は、人が人であること、わたしが〈わたし〉であること、つまりは、まことの故郷(ふるさと)を念い起こすことなのですね。


はじめにことばがあったのです。


ことばづくり(言語造形)という芸術は、まことの保養であり、開眼であり、回帰だと、わたしはここ数十年実感させてもらっています。






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2024年06月19日

京田辺シュタイナー学校でのことばづくり(言語造形)研修



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先日、京田辺シュタイナー学校で、ことばづくり(言語造形)の研修を先生方とさせていただきました。

ちょうど、夏の祝祭「ヨハネの祭り」が近づいて来ていますが、研修の時間の中で、その「ヨハネの祭りの調べ」を先生方と共に生きることができたように実感しています。

「ヨハネの祭りの調べ」とは、どのような調べなのでしょう。

それは、大人であるわたしたちが、いまいちど、子どもに還るかのように、地上的・物質的なところから己れを解き放ち、天へと昇りゆくエーテルの拡がりを生きることによって聴き取られるものなのです。

いま、この季節、多くの人が、この世への拡がり、宇宙への昇りゆきを生きることができず、逆に、地上的なものに縛り付けられているがごとく、考えと情が固くこわばってしまっておられます。

これは、この季節ならではのことなのですね。

地球の吐く息に沿って、わたしたちひとりひとりの人も、天空へとエーテルとアストラ―ルのからだの拡がり、昇りゆきを生きていい、この季節だからこそ、そうはさせまいとする悪の力が強く激しく働くのです。

こうして、神々が望む人の成長を妨げるために、悪の力(ルーシファー、アーリマンをはじめとする悪魔たち)は人の内側を攻撃します。

それゆえ、人は昔から、祭り、祝祭を営んで来ました。

己れのいのちとこころの営みを肉のからだから自由にするべく、歌い、踊り、舞い、ことばを高らかに唱えました。それは、陽に向かって昇りゆく炎のような情熱的な夏のお祭りでした。

そういったいにしえの祭りに対する感覚、感情、感激を失ってしまっているわたしたち現代人は、これから、意識的に、その祭りを靈(ひ)の観点、次元から、新しくつくってゆくのです。

そのためには、芸術実践こそが要なのであり、ことばづくり(言語造形)を通して、人は新たな意識をもって、四季の祭りづくりをしていくことができます。

先日の先生方との研修も、そのような祭りのような時間になりました。

一日の授業のあと多分相当お疲れになっておられたと思うのですが、萬葉集の数々の和歌(うた)が、先生方のこころのからだ(アストラ―ルのからだ)を羽ばたかせ、いのちのからだ(エーテルのからだ)が活き活きとした流れを取り戻し、お風呂上がりのような紅潮されたお顔でその時間を終えたのでした。

常に、地上的・物質的・エゴイスティックなものに縛りつけられようとしているわたしたちには、「祭り」が要ります。


※写真は、FACEBOOKの学校のページからお借りしました。




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シュタイナーの祝祭論 聖き夜 クリスマスと新嘗祭 (12/24)
一千年前の和歌を味わうことができる日本文化 (12/23)
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5/7(水)からのシュタイナー著「いかにして人が高い世を知るにいたるか」毎週水曜日夜オンラインクラスへのご案内 by 諏訪耕志 (04/11)
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
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穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
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