2017年11月10日

風の人

 
今日も、『キリスト生誕劇』のための練習。
 
人の息遣ひから、演劇が、生まれる。
 
さらに、風から、人は生かされてゐる。
 
風、それは、神の息遣ひである。
 
そこに、言語造形の稽古は常に帰つていく。
 
舞台の上で、俳優はなんらかの身ぶりをすることによつて演技をしていくのであるが、今日は、言語造形の基本に立ち返つて、まづ最も基本の身ぶりに取り組んだ。
 
それは、「息をする」といふ身ぶりだ。
 
普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣ひから、ことばと共に、見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。
 
その息遣ひの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。
 
外から取つてつけた身振りではない、息遣ひから生まれてくる「空氣人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。
 
そのすがたは、わたしたちに「人のおほもとのすがた」を想ひ起こさせてくれる。
 
そのすがたは、遙かな昔に人がとつてゐたすがたであり、そして、遙かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであらうすがたでもあつて、芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、未來にあるであらう「人のすがた」を密やかに提示していく。
 
それは、ことばが、單に情報を伝へるためだけの抽象的なものではなく、活きたことばとなり、人そのものとなり、そして、
だんだんと、人がことばそのものとなることである。
 
「はじめにことばありき」へと、これからはだんだんと遡つていくのだ。
 
ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、かうある。
 
 まこと、まこと、わたしは、あなたに言ふ、
 それ、人、水と風から生まれん、
 そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず
 (ヨハネ 三章五節)



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2017年10月17日

古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜


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『古事記(ふることぶみ)』の古文を言語造形を通して語り伝へていく。
 
ことばの家では、そのためのクラスを開いてゐます。
 
生徒さんたちには毎週来てもらつてゐます。
 
週に一回、全身全霊で古事記の原文を、身振りを伴はせつつ声に出す。動き回りながら、古語を語る。
 
息を切らせながら、汗を流しながら、古事記の本文が秘めてゐる古代の身振り・手振りを習ひ、まねび、体得していく。
 
この『古事記』に記されてゐる宇宙の始まり「天地(あめつち)の初発(はじめ)」の描写。
 
「イザナギとイザナミ」といふ男性性と女性性の原型でもあられる神々の営み。
 
言語造形とは何なのかといふ根源的な問ひと共に、『古事記』といふ古典作品をどのやうに舞台作品となしていくのかについて、毎回、生徒さんたちから、深い問ひが投げかけられる。
 
この自分自身の生きてゐる国の建国神話を、ことばの精神に沿ふことによつて、自分自身が生きるのだ、といふ念ひ。
 
いま、といふ時代、ここ、日本といふ地にをいて、自分自身の生を生き切るのだといふ希ひ。
 
生徒さんたちは、本当に深い念ひを持つてアトリエに通つて来てゐます。
 
その真剣さと喜びが、そんな問ひの深さを生んでゐる。
 
この学びがどのやうに展開していくか。
 
これからの日本といふ国に生きていく多くの人にとつて、己れの国のそもそものなりたちを芸術的に味わひ、知つてゆくといふことは、とても大切なことだと確信してゐるのです。
 
小・中・高校生たちにも、こんな学びを提供していきたい。
 
その機縁のひとつになることを祈つてゐます。
 




火曜 帝塚山 演劇クラス (月4回) 
.
★2017年度テーマ
「古事記の傳へ〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜」

古事記(ふることぶみ)から、我が國の神話と歴史を、語り物として、演劇として、詩劇として、舞台化するべく、言語造形に取り組んでいくクラスです。

舞台藝術として、我が國の文化の源流である神話と歴史物語に取り組み、あわせてルドルフ・シュタイナーの舞台藝術論を學んでいきます。

2018年のゴールデンウィークの上演を目指しつつ、參加される方各々、ご自身の中で、我が國の神話と歴史が、己れの物語として、己れの詩として根附いていくことが目指すところです。

・日程 毎週火曜日(月に4回)

・時間 10:00 – 13:00

・参加費 月謝制 15,000円
(資料代、衣裝代、發表參加費含む)

・会場 「ことばの家」帝塚山教室
  https://kotobanoie.net/access/
・お申し込み・お問い合わせ 「ことばの家」
  https://kotobanoie.net/access/ 

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2017年10月08日

村上 恭仁子さんの言語造形『葉桜と魔笛』


今日、村上 恭仁子さんの言語造形を聴きに行つた。
 
「古典」に影響を受けた明治から昭和文学を読む、といふテーマでの朗読ライブの第一回目。
 
太宰治の『葉桜と魔笛』といふ作品で、約一時間の一人語り。
 
ことばといふものが、日本語といふものが、こんなにも情感を湛える言語なのかといふこと、そして明治に生きた年若い女性の切ない思ひをひしひしと全身で感じることができた。 
 
彼女が第一声を発した瞬間から、空間がぎゅつと凝縮し、一気に文学的な空間になり、それが最後の瞬間まで途切れない。
 
圧巻であつた。
 
 
今回の舞台のチラシやパンフレットに記されてゐる彼女のことばから吹き出てくるやうな心意気が本当に嬉しくなる。
 
「日本語はこんなにも美しい」
 
「なぜ、日本人がかくも高い文明、技術をもって世界に踊り出ることができたのか・・・。それは、日本語の持つ力である、と言えば、大袈裟であろうか。」
 
 
これまで、『牛をつないだ椿の木』『台所のおと』『安達原』などの言語造形舞台を重ねてきた村上さん。
 
彼女の真価がこれから発揮されていく、その第一歩目に立ち会へたやうな夜だつた。
 
言語造形による舞台、ことばとは藝術なのだということが全身で直感される今日のやうな舞台が、これからどんどんなされていくこと。
 
それは、日本といふ国が、いまだ、言霊の幸ふ国だといふことを証していくことだと思つてゐる。
  
わたしもいっさう励んでいきたい。
 
素晴らしい映画を観たあとのやうに気持ちがよく、終演後、大阪の本町から難波まで歩いて帰つてきた。


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2017年09月30日

言語造形についてC(完) 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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印刷されてゐる文字から読み取られることばといふものは、まづもつて、死んでゐる。
 
その死んでゐることばにいのちを吹き込むのは、まさしく、人である。精神を活溌に働かせながら、活き活きと読み取り、活き活きと理解し、活き活きと発聲することで世に響かせる人である。
 
若い人たちに、子どもたちに、このやうな觀点から、ことばの藝術の魅力と意義を伝へていくこと。それが言語造形をする人の荷ふことだと感じてゐる。
 
ことばを死んだものとして「使ひまわさう」とするのではなく、人よりもより賢い叡智を祕めたものとして、そこにいのちを吹き込むべく、ことばに「仕へる」こと。
 
「わたしが手前勝手に使ふ」のではなく、「みづから進んで使はれる」こと、「仕へる」こと。
 
その行爲によつてこそ、人は滿ち足りていくのだといふことを、言語造形を通して學ぶことができる。
 
シュタイナーが1924年に行つた連続講演「言語造形と演劇藝術」の中でのことばを紹介させてもらつて、終はりにしたい。
 
ーーーーーーーーーーー
 
舞台藝術の養成學校で必ず次のことを學んでいただきたいのです。
 
そもそも、響きに対する宗教的なこころもちをわたしたちの藝術に引き込むことができてこそ、舞台藝術につきまとふ危險を凌ぐことができる筈です。
 
道徳的に墮落してしまふ危險すらあるのです。
 
わたしたちは、非日常的なもの、聖なることに踏み込んでいいのです。 かうごうしい教師である音韻をものにしてしかるべきなのです。
 
そもそも音韻の内に根源的なまるごとの世があるからです。
 
ことばの造形者になりたいのなら、まづ、「はじめにことばありき」といふヨハネ福音書に書かれてあることばを忘れてはなりません。
 
(中略) 藝術に宗教的なこころもちが披かれるまで、俳優はこころのメタモルフォーゼを經ていつてしかりなのです。
 
それは、音に耳を傾ける精神への帰依をもつことから始まります。
 
(ルドルフ・シュタイナー)
 
ーーーーーーーーーーーー

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2017年09月29日

言語造形についてB 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜


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頭とは、人体の中でもつとも物質的なところであり、死が支配してゐるところである。一方、手足とは、もつとも精神に通はれてゐるところであり、生命が漲らうとしてゐるところである。
 
動きを通して手足は、まさに精神の世を生きる。
 
ことばの響きとことばに内在してゐる動きに沿つて手足を連動させながらそのことばを聲に出し、身ぶりをもつて一文一文響かせていく練習を重ねることで、だんだんとことばの味はひやお話しのもつてゐる密やかなささやきを感覺していくことができる。
  
そして、そのやうに、吐かれる息の中で聲になつたことばがかたちと動きをもつてゐることで、聽き手もそのかたちと動きを共に生きることができる。そのかたちと動きに通ふいのちを人と人とが分かち合ふことが、ことばの藝術がこの世にあることの意味である。
 
まづは、頭でもつて、知性でもつて、わたしたちはことばを捉えるのだが、それを練習によつてだんだんと胸へ、腰へと降ろしていき、つひには、頭でいちいち考へなくても、手足の動きの感覺から語れるやうにもつていくこと。そのやうなからだまるごとを通した經驗が言語造形によつてなされる。
 
それは、ことばの外側に立つてあれこれ考へ、操作していくのではなく、ことばの響きと動きの眞つ只中に飛び込むことで、ことばの藝術を生き、新しい認識に至ることなのだ。
 
 

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言語造形についてA 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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試しに、ひとつの短い昔話を語つてみる。昔のやうに人に語つてもらつて聽いて覚えるのではなく、現代にをいては紙に印刷された文字を見て、読んで覚える昔話である。
 
書いてある通りに読めばいいと思つて、まづは聲に出してみるのだが、やはりそれだけではどうも物足りなく感じてしまふ。ただ読んでゐるだけの読み聞かせに、聽き手は殆ど魅力を感じにくい筈だ。
 
そこで、ちょつとここは感情を込めてだとか、ここは盛り上がりをもつて表現してみようだとか、自分なりに工夫を凝らしてやつてみる。
 
ところが、そのやうな、ことばを知性からの判斷でもつて表現しようといふ試みは、言語造形をすることにをいて、ことごとく却下される。なぜなら、そのやうな頭にをける考へによつてことばを操作しようとするとき、えてして、その表現はことばそのものの表現ではなくなり、話す人その人の人となりを押しつけがましく表立たせることになつてしまふからだ。
 
ことばを聲に響かせて話すとき、自分なりの解釈をもつてするのではなく、まづは、呼吸のくりなしに沿ふことから始めていく。
 
そして、だんだんと、ことばの音韻ひとつひとつの響きや、ことばとことばのあひだに生まれる間(ま)や、ことばの響きから生まれる動きに沿ふことに挑戰していく。
 
さうして、さらに、ことばに沿ひつつ手足を動かすこと、身ぶりを通してこそ、ことばそのものが本來もつてゐる感情や深みのある意味が立ち上つてくる。
 
ことばとは、本來、手足による行爲とひとつのものなのだ。手足の動きは、頭にをける操作よりもずつと賢いところがあることに氣づくのは、現代人にとつてはことさらに厄介なことかもしれない。できるだけ動かずに、ボタンひとつの操作で情報をやりとりできる現代にをいては。
 
 

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2017年09月28日

言語造形について@ 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 


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お陰様で、今年から言語造形の舞台、言語造形の体験に新しく触れられる方がいつさう増えてきました。
 
本当にありがたいことです。
 
ことばの精神、日本語の風雅(みやび)に目覚めていくことは、日本の国のこれからにとつて、とてもとても大切なことだとわたしは思はずにはゐられません。
 
この古くて新しい藝術は、体験していただくことでしかそのものが何なのかをお伝へできないのですが、それでも、言語造形についてわたしが以前書いたものを何回かに分けて再び、掲載しようと思ひました。 
 
諏訪耕志記
 
 

 
『言語造形について 〜「使ふ」から「仕へる」へのメタモルフォーゼ〜 @』
 
ことばとは、わたしたち人が「使ふ」ものだと、通常思つてゐる。自分の考へてゐることや思つてゐることを言ひ表すための道具として、日本人ならば日本語を当たり前のやうに使ひこなせるものだと、ある意味、高をくくつてゐる。
 
人と人との間にをいて情報といふ情報が交はされてゐる。その際、情報の中身、伝へようとしてゐる内容、意味、それらをできる限り簡潔に分かりやすく伝へることができればいいのであるから、ことばはその情報を伝へるための道具であり、記号にすぎない。そんな風にわたしたちは漠然と感じてゐるのではないだらうか。わたしたちは、さういふ漠然とした意識の中で漠然と教育されてきたと感じられる。
 
そのことばに対する漠然とした意識に、アントロポゾフィーから生まれたことばの藝術「言語造形」は搖さぶりをかける。

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2017年07月14日

企業研修にて 若い人たちを動きと静けさに導く


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社員の方々のための言語造形研修のために、ある企業に毎月2〜3回伺つてゐます。
 
昨日は、新入社員の方々のための時間でした。
 
毎日をもがきつつ、模索しつつ、懸命に生きようとしてゐる二十代前半の若い人たちと共に言語造形に取り組みました。
 
研修の一つの形として、ひとりひとり自分自身が声に出してみたい文学作品に挑むのですが、昨日は谷ア潤一郎や坂口安吾の作品などが選ばれてゐて、それらの文体に全身の動きをもつて沿つていく体験が若い彼らにも相当響いてゐるやうでした。
 
動きがことばにもたらされることで、こんなにも響きの質が変わるのか。
 
ことばとことばの響きのあひだに、生きた無音の時間、間(ま)がうまれることによつて、こんなにも聴き手の内側に想像力が掻き立てられるのか。
 
動きと静けさ。
 
かういふものに触れていくことで、仕事の質が変わつていく。
 
 
 
マックス・ピカートの『沈黙の世界』にかういふ文章がありました。
 

『沈黙の世界』の「古代の言葉」より
 
古代の言葉のなかに認められることであるが、言葉の発生、即ち、言葉が沈黙から生じたというこのことは、決して自明のことではなかった。一つの言葉が沈黙から生まれる場合、それは一つの事件であった。だから、ふたたび何か新しい言葉が生れ得るまえに、一種の間(ま)が生じたのである。言葉は常に沈黙によって中断された。(中略)
 
古代の言語においては、言葉は単に沈黙の中断に過ぎなかった。そして、各々の言葉は沈黙によって縁取られていた。だから、言葉は先ず第一に自己自身のもとにあり、さてその後にやっと次ぎの言葉へと赴いた。かくて、言葉は明確に形づくられ、沈黙からあたえられる縁取りによって形を獲得したのだ。 
 
もしも言葉と言葉のあいだに沈黙がなければ、言葉はもはや彫塑的ではなくなってしまう。たとえて言えば、言葉はもはや人格ではなく、単なる烏合の衆に堕するのである。
 
古代の言葉においては、二つの言葉の中間には沈黙が横たわっていた。言葉は沈黙を呼吸し、沈黙を語っていた。そして言葉は、自分がそこから生じてきた偉(おお)いなる沈黙にむかって、自己の沈黙を語っていたのだ。
 
(みすず書房 p.61~62)


経済活動と法生活と精神行為がもみくちゃになつて毎日が進んでいきがちな企業や会社などの仕事の中で、そんな精神からの人間的な働きを自分自身に少しずつ注いでいくこと。

さういふ研修です。

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2017年05月09日

文学サロン・國語教育の場としての言語造形クラス


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奈良・桜井の等弥神社にある
「申大孝(親の教へに従ふことを述べる)」石碑(保田與重郎)

 
今日から、週一回の火曜古典文学舞台クラス『古事記の傳へ・萬葉のいのち〜言語造形で甦る我が國の神話と歴史〜』が始まりました。

文學とは、人が人として生きていくのになくてはならない、とても大切な仕事なのだと、この頃はとみに考へるやうになりました。
 
文學とは、言ひ方を替へるならば、ことばの藝術、です。
 
ことばの藝術に取り組む代々の志ある詩人・文人は、そもそも、國のことば「國語」の運用といふものが人の世を右にも行かせれば、左にも行かせる魔力を持つたものであるゆゑに、いかにして中庸の道であることば本來の活き活きとした働きを最大限に活かし、人のこころを高めていくかに、精魂を込め、生命を賭けてきた人たちでした。
 
國語の運用がその國の人を健やかにする鍵を握つてゐることを知つてゐたのです。
 
力を育んでいくことを抛棄すると、こころが荒んでいきます。國語を捨てると、その人はその國の人ではなくなつてしまひます。國とは、ここでは、獨自の文化を生み出し、育て、受け渡していくフィールドのことを云ひたく思ひます。ですから、その國のことばは、その國の、民族の、歴史と傳統を内に深く祕め、いまも未來の世代に傳へていかうとしてゐます。わたしたち現代人も、知らず知らずのうちに、我が國の歴史のいのちと傳統の精神に繋がつて生きてゐるのです。
 
母國語を愛することは、母國の歴史と傳統を尊ぶことでもあります。母國語の藝術に親しんでいくことは、母國の歴史と傳統に推參していくことでもあります。
 
今を生きてゐる人の立場から考へるならば、歴史とは、その人その人が主體的に過去を捉へてこそ生まれることばの藝術のひとつのかたちです。傳統とは、その人その人が主體的にいのちを吹き込んでこそ生きる精神そのものです。
 
そして、母國の歴史と傳統に立つ人こそが、他國の歴史と傳統を深みにおいて理解でき、尊敬できるのです。そのやうに自立してゐる者同士の間でこそ、眞の交流が生まれるのでせう。
 
言語造形といふルドルフ・シュタイナーによつて新しく意識化された藝術は、各々の國のことばとその人その人の聲をもつて、その國の歴史と傳統に推參した詩人・文人たちの仕事を今に生き返らせるものです。
 
それは、詩人・文人たちの仕事を引き繼ぐことでもあり、生まれ變はらせることでもあり、擴大させていくことでもあります。
 
國語を愛し、育て、受け渡していく、その本來的な文學の仕事を言語造形も荷つてゐます。
 
言語造形のクラスは、その意味で、國の歴史を傳えていく文學サロンであり、ことばの藝術を磨いていく場であり、國語教育の場でもあります。
 
文學作品をひとりひとりが聲に出していくことによつて、目で讀むだけでは全く氣づかなかつたその作品の魅力が新しく立ち上がつてくる。そして、個々の作品の魅力を通して、文學といふもの、國語といふもの、ことばといふものへの認識を新たにしていくことへも繋がつていきます。
 
その認識も机上で得たものではなく、全身の運動を通して得たものだけに、その認識を更にことばにして互ひに語り合ふ喜びもしみじみとした、趣深いものです。
 
空間に響くことば。そこにこそ、そもそもの文學の文學たるところがある。
 
文學をいまに生まれ變はらせ、自分たちの國語のいのちに觸れていく、そんな場が「ことばの家」です。

火曜古典文学舞台クラスのお知らせはこちら↓
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

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2017年05月04日

日本仕様 〜普遍人陋{と言語造形〜


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今日は、ことばの家での第二回目の「普遍人陋{と言語造形クラス」でした。少しづつ共に學ぶ方が増えてきて、嬉しくありがたいことです。
 
シュタイナーが渾身の念ひで語つた人間學が日本の文化風土、独自の歴史観とどう絡み合ひ、渡り合ふのか、そこに向かひあひ、更にことばの藝術である言語造形に取り組まうとする人が、ひとり、またひとりと、日本で増えていくこと。
 
それは、ヨーロッパで生まれたものが日本のものとして換骨奪胎され、全く新しい「日本仕様」になりゆく、ひとつの日本人のお家藝とも言へる文化創造のあり方を踏襲してゐます。
 
なぜなら、ここでは、子どもの教育にとつてことばの教育、国語教育がどれほど大切で根幹をなすものか、といふことを踏まえ、自国のことばといふものを意識的に捉えながら、国語の藝術に取り組むことによつて、そのことをからだで体感していく時閧創り出してゐるからです。
 
 
 
さあ、明日からは、この普遍人陋{と言語造形をシュタイナー教員養成講座で多くの方々と分かち合ふ三日間。
 
体力と気力をフル回転させていきます。

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2017年05月02日

ことばの農作業


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夏も近づく八十八夜・・・。
 
立春から數へて八十八日目の今日。農においては、種を蒔くに相応しい時期ださうです。
 
晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもつて讀書しながら心穩やかに暮らすことを「晴耕雨讀の暮らし」とよく云ふけれど、自分は晴れても降つても、耕して、讀んでるなあ、と今朝ふと思つたのです。
 
自分の場合、「耕す」といふことは、すなはち、言語造形の稽古をするといふことになるのですが、それは身體をもつて稽古しながら、この身體といふ土壤を耕し、ここにことばの種を蒔き、ここからやがてことばの花が咲き、ことばの実がなりゆく。
 
その花なり実なりを人と分かち合ふことができれば、そして更に高い世の方々に奉ることができれば、これほどの喜びはない、といふほどの喜び。
 
わたしは、日本のもつともベーシックな食べ物であるお米を作る感覺に近いのかもしれないと思つてゐるのですが。
 
自然の作用といふ天からの扶けをもつて米作りに勤しむ人は、きつと、その過程で米といふ植物存在の内部にだんだんと入りこんでいくでせう。
 
言語造形の場合、ことばといふ神から授かつてゐるものが、稽古を通してだんだんと植物のやうにわが身體を土壤にして育つていく。
 
その身體を通してわたしのこころはだんだんとことばといふものの内側に入りこんでいき、ひとつになつて、花あることば、実のあることばとして、世に羽ばたいていく。
 
稽古といふものは、獨り部屋に籠つて、同じことばや文を繰り返し繰り返し口にして身體に覺え込ませることから始まるとても地味な作業です。
 
しかし、その作業が、ことばに潛んでゐるいのちを育て、育んでいくことであり、また、つひには、そのいのちとひとつになつていく、内なる見えない農作業なのだと思ひながらやつてゐると、喜びが溢れてくるのです。
 
うだうだと悩んだり考へたりしてゐる暇があるなら、稽古をする。
 
さうして手足を動かしながら何かに勤しむことができるのは、仕合はせなことです。

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2017年04月10日

國語教育としての言語造形


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これからの國語教育を考へるなら、手輕な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのではなく、自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、叮嚀に、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。
 
昔から我が國の人は、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を盡くして、ことばにする力に秀でてゐたやうに思はれますが、善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふことです。
 
國語のその力は、おのづから、聽く人、讀む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辭の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。
 
文章を書くためのそのやうな力は口からいずることばに、口からいずることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあふことでせう。
 
話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた、書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。
 
 
 
そして、國語教育にさらに言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。
 
前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて發聲する、その行爲はいつたい何を意味するのでせうか。
 
話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。
 
さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
 
言語の運用において、そのやうな藝術的感覺をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味なのです。
 
さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに盡きずに、音樂のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聽き手に感覺される。
 
詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。
 
言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉體の動かし方、氣質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
 
そして、ことばの精神、言靈といふものが、リアルなものとして、
人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを實感する。
 
言語造形を通して、書かれたことばが、活き活きとした話しことばとして甦り、やがて、その感覺から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。
 
そんな國語教育。
 
子どもたちがそんな言語生活を營んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを實感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聽かせることです。
 
ここ數年、わたしも、『古事記』や『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞臺化してきたのですが、現代語譯することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に屆くのだといふことを、確信するに至りました。
 
昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覺を通してそのやうな藝術的なことばを享受していく機會を、どんどん與へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遙かに柔軟に全身で感覺できます。
 
 
これは、保田與重郎が『近代の終焉』といふ本の中で、昭和15年に述べてゐることですが、手輕に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの國語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
 
また、わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、日本のことばを知る勞力を費やしてまで近寄るに値しないので、出來る限り學ぶ者の負擔を輕減してやらうといふだけなら、いつさうこの國はアメリカやヨーロッパ諸國の植民地となつていくのでせう。
 
70年、80年前の話しではなく、いまの、そして、これからの話しだと思ふのです。
 
古典を古典として敬ふことを學ぶ。その學びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる國が、一貫した國史をもつてゐることを實感していきます。
 
さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が國ならではの精神を傳へていく。それはきつと他の國々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。
 
いつの日か、己れの文章が言語造形されることを希ふ、そんな詩人・文人が現れるでせう。

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2017年04月09日

「淡々と語る」だけでは片手落ち (再掲)


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写真・平島邦生(日本写真家協会会員)

子どもたちに物語を語つてゐて、つくづく感じることがあります。彼らは、大人が取り繕つたものや大人自身の身についてゐないものは、受け入れないといふことです。
 
言語造形をしてやらうなどと勢ひ込んでわたしなどが語らうとしても、子どもたちはそのやうな技におぼれてゐるやうなものには耳を傾けてくれません。毎日の生活の中で我が子に語つてみるときなど特にそのことは明らかなのです。
  
「何が惡いんだらう。どうしたら聽いてもらへるんだらう」
 
そんな問ひに、こんな答へが、こころの中に風のやうに歸つてきます。
 
自然に。さう、「自然」に。
 
しかし、その「自然」といふあり方。ここで答へとして歸つてきた「自然」とは、どのやうな状態のものなのだらうか。またまた、さう問はずにはゐられません。
 
その「自然」とは、どのやうな状態を言ふのでせうか。それは、ありきたりのもの、そこらぢゆうに轉がつてゐるものでは、きつと、ないのです。人の精神は、そこらぢゆうに流通してゐるものから隔たりを置かうとします。流通してゐるものの中から石を除き、玉を選ばうとします。もしくは、流通してゐるものの中にこそ、玉を見いださうとします。
 
自分にとつて大事なことを話すとき、打ち明けるとき、人は自然にことばを選びます。その大事なこと、大切にしてゐるものを、どう、ことばで言つたらいいのか。わたしたちが日常の生活の中でときに思案することでもあります。
 
そして、思案していくほどに、それはややもすれば不自然になつていつたり、ことばを無くしてしまふといふことにもなります。そして、人は、もがきます。どういふことばなら、言ひたいことがうまく言ひ表せるのだらう。分かつてもらへるのだらう。
 
そして、それ相當の時間を置いて、ようやくふさはしいことばが、浮かび上がつてくるがごとく、天から降りてくるがごとく、わが口から放たれ、筆によつて、キーボードによつて記されます。
 
その時の、もがき、葛藤を經た後の、「自然」とは、どのやうな状態でせうか。
 
日常、ことばを話すときにわたしたちがしてゐるそのやうなことは、實は、人類がその歴史を通して尤も精力を注いでゐることではないでせうか。
 
その大事なこと、大切にしてゐることを、どうことばで言ひ表すかといふことは、ひいては、〈わたし〉といふ精神の人を、かうごうしいことがらを、神を、ことばとしてどう顯し、どう組み立てていくか、といふことへと深まつていきます。人の精神は、古今東西、方法は變はれども、こころざしを一貫して育みながら、宗教のことばとして、文學のことばとして、哲學のことばとして、科學のことばとして、それらのことを顯わにしようと勤しみ續けてゐます。
 
人は、人から人へ、時代から時代へ、大切にしてゐるもの、大事にしたいことがら、「自然の自然たるところ」を、葛藤を經つつ、できるかぎり「自然なことば」をもつて、傳へようとしてゐます。
 
その「自然なことば」とは、「藝術としてのことば」だと言つていいのではないでせうか。
 
人が「當たり前に(自然に)」ものにしてゐると思ひ込んでゐることばが、藝術になりえる。その「藝術としてのことば」とは、ことばそのものとの葛藤を經ることによつて獲得される、自然を超えた「より高い自然」です。「どう傳へたらいいのだらうか」といふ葛藤を經、だんだんと傳へようとしてゐることがらのより深い面が見えてきて、ことばそのものに沿ふことのできる謙虚さが自分の中で育つてくるにつれて獲得されていく「より高い自然としてのことば」、それが「藝術としてのことば」です。その「ことば」は、そもそも、響きにおいて活き活きとした生命と深みある叡智とを湛えます。
 
ことばといふ、神から授かつた自然は、人によつて、「より高い自然」になりたがつてゐるのです。
 
シュタイナーの教育分野、特に、幼兒教育においてよく述べられてゐることのひとつで、子どもたちへ物語などを語り聞かせるとき、「淡々と聲にするのがよろしい」といふことがあります。その「淡々と」とは、これまでに書いてきました「より高い自然としてのことば」のありようとしては、あまりにも舌足らずな言ひ方だと感じてゐます。
 
生まれて齒が生え變はるまでの子どもたちは物語や詩を大人のやうには聽いてゐません。ひとつのストーリーあるものとして、なんらかのメッセージが込められたものとしては、聽いてゐないのです。
 
その頃の子どもたちは、意志に滿ちたことばを全身で聽くことを通して、物語や詩に潛んでゐるかたちや動きや繪姿や色彩や音樂に觸れてゐます。親しく活き活きと、語られ、歌はれることばを通してそれらの要素に觸れ、包まれ、ともに動きながらことばを味はふことが、子どもの意志を育むのです。
 
ですから、幼い子どもたちに對して、できうるかぎり、活き活きとそれらの藝術的要素を引き上げながら、つまり意志の要素を注ぎいれながら語りますと、ことばの持つ力を通して、將來ことばの主になりゆくための土臺の力、意志の力を子どもたちの内に藝術的に育んでいくことに資するのです。
 
誤解を招くやうな言ひ方に聞こえるかもしれませんが、平坦に語られるのを聽いて滿足できるのは、知性に生きる大人だけです。知性は、もちろん、人にとつて大切な要素です。しかし、子どもは、ことばに、より豐かな意志の要素を求めてゐます。
 
幼い頃に情緒過多なことばやお話ししか耳にしてゐない子どもは、眞實ならざるもの、嘘がこころに染み入り、こころが毒されていきます。子どもは、大人によつて捏造された感情を押し附けられ續けることによつて、こころが毒されていきます。
 
また、「淡々と語られるだけの」ことばやおはなしを聞いてゐる子どもは、知的にはなりますが、のちのち成長したあとも、ことばと自分自身が結びつきにくく、意志に缺けた己を見いだすことになります。
 
情緒過多も、知性偏重も、どちらも、人に、ことばへの信頼を無くさせます。
 
特に、方言や母語に籠もつてゐる意志の要素は、人を生涯に渡つて勵まし續け、<わたし>を育み續けるのです。インスタントに養成できないその要素は、長い年月を經て、言語的經驗を經て、その人その人の意志の力として、その人から生まれ出てきます。
 
靜かに、知的に、「淡々と」語りながらも、意志をもつて意欲的にかたちや動きや繪姿や色彩や音樂を感じながらことばを響かせていくこと、その知性(父)と意志(母)の結びつき、結婚を通して、結果としておのづと生まれてくる感情(子)こそが、本物の感情で、捏造された感情ではありません。
 
そのやうに、思考と意志と感情、三位一體からのことばをこそ子どもは求めてゐます。そのやうなことばをこそ人は求めてゐます。
 
ですから、日本人であるならば誰でも日本語を話せるものであるといふといふ認識は、きはめて淺薄なものと言へるかもしれません。日本語を話す人になるといふことは、どこまでも續く研鑽の道なのです。
 
ことばを話し、ことばを聽く、といふ人に授けられてゐる自然を、アントロポゾフィーはどこまでも深く捉へ、その自然の力を高く深く確かに育む道を示唆してゐます。
 
大事なこと、大切なことを、飾らずに、こころをもつて、こころの眞ん中から、どうことばにしていくことができるのか。子どもたち、特に、幼兒期にある子どもたちの周りでこそ、「ことばのことばたるところ」「より高い自然としてのことば」「人が人としてよつて立つところであることば」が響くやうに。
 
さう高い願ひを持ちながら、失敗を何度も繰り返しつつ、今日も力を拔いて、樂に、しかし、こころの眞ん中から、お話を語つていきます。

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2017年03月03日

言語造形と企業研修


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言語造形は、
企業の研修にも応用されてゐます。
 
ビジネスの場でも、
いかにことばといふものが、
大切な役割を果たしてゐるか。
 
人と人との間の、
信頼を築きあげていく上で、
いかにことばの使い方、
ことばの聴き方が、
重みを持つてゐるか。
 
そのことに、
今更ながら、
気づくことのできる研修。
 
そして、
ことばの響きに、
敏感になるほどに、
人のこころを大切にする、
そんな気風が、
社内の中に生まれてきます。

ある企業は、
もう十四、五年の間、
この研修を、
毎月二回から三回のペースで続けてゐます。
 
当たり前に話してゐる日本語。
 
その日本語を話すといふことに、
改めて意識の光を当ててみると、
意識する前とは、
こんなにもことばの響きが変わるものかと、
誰もが、本当に、誰もが、
驚きます。
 
日本の社会に、
この言語造形といふ芸術が、
深く浸透していくことを、
わたしはこころから、
こころの奥底から、
希つてゐます。

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2016年11月19日

(ま)といふ眞實

 
言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、
息遣ひ、呼吸です。
 
そして、深く吐き出される息が、
ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、
おのづと(ま)を生み出すのです。
 
その無音の閧ヘ、
豐かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
ことばが發音されるときよりも、
寧ろ、其の無音の閧フ中にこそ、
ことばの精神、言靈が響きます。
 
ですから、時閧ニ空閧、
ことばといふもので埋め盡くさないのです。
無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、
そこに物質的なものではない、
精神的な豐かさが立ち顯れてくるのです。

その精神の豐かさは、人の頭にではなく、
胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。
 
そのやうな(ま)に觸れるとき、
人によつて、隨分と違ふ反応が表れます。
 
からだの調子が惡い時、
そのやうな間に觸れて、人は眠りにいざなはれるやうです。
きつと、精神が其の人を休息へと導いてくれるのでしやう。
 
逆に、からだもこころも健やかな時、
そのやうな閧ヘ、その人の意識をますます目覺めさせ、
ことばの響きと閧ノ呼び起こされる樣々な感覺を享受させてくれます。
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模樣、
それら樣々な情景を「もののあはれ」として人は享受することができるのです。
 
また更に、次のことは、これからの時代、
ますます顯著になつてきます。
 
それは、
こころの奧に自分自身で隱し持つてゐるものがあるとき、
自分自身に嘘をついてゐるとき、
自分自身のこころの闇を見やうとしないとき、
人は、そのやうな閧ノ觸れると、
不快感を感じたり、不機嫌に成つたり、
耐へられない思ひに捉われたりするやうに成ります。
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、
「(ま)」を避けやうとする傾向が見られるのは、
この自分自身のこころの奧底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
しかし、それは、きつと、「眞(ま)」なのです。
 
「眞(ま)」に觸れて人は、だんだんとみづからの眞實に目醒めつつ、
健やかに、欣びを存分に享受し乍ら仕事をしていくでしやう。
 
藝術はそんな仕事を荷つてゐます。
言語造形もそのやうな藝術のひとつだと思ひます。

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2016年06月16日

夏至における甦り(黄泉帰り)


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夏至を前にして、ことばの家に来られている生徒さんの多くの方が体調を崩されている。今日来られた方も、全員がそうだった。
 
しかし、帰られる頃には、みんな、お風呂上がりのような晴々とした笑顔になっておられることがとても多くて、今日もありがたいことにそうだった。(皆さん、そんな時間を共に創ってくださって、どうもありがとう!)
 
どうも、ことばには、そもそも、そんな人の生命力を呼び起こす力があるようだ。
 
活き活きとした呼吸を通してことばが発声されるとき、まるで空間自体が動くように感じられる。
 
そして、そのことばにふさわしい身振りに伴われることで、その空間に、肉体の眼には見えない色彩やフォルムや絵姿が瞬間瞬間に立ち顕れるように感じられ、肉体の耳には聞こえない調べが奏でられるのが感じられる。
 
また、時には、まるでデジャブのようになんらかの記憶の像のようなものが立ち顕れたりする。
 
そして、何より、声を発するその人ならではの精神のようなものが立ち顕れてくる。
 
そんな、ことばの力に触れると、人は甦るようだ。
 
甦る。それはまさしく黄泉から帰ることだろう。
 
黄泉とは、我が国の神話では、死んだ者がゆく国として描かれてある。
 
この死とは、きっと、肉体において間断なく進行しているあるプロセスのことでもあろうし、こころにおいては光が見えず、闇の中を彷徨い歩くようなプロセスのことでもあるだろう。
 
一年のうち、冬至の前には、最も外的な光が失われ、闇が極まるが、夏至の前には、内的な光が見失われ、こころの闇に直面することがとても激しくなるのではないかと感じている。
 
闇からの甦り(黄泉帰り)は、きっと、この夏至を境にして多くの人にリアルに感じられるだろう。
 
言語造形も、きっと、その甦りを支え、促す、ひとつの人間的な行為だ。

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2016年06月07日

全身で感覚することの意味深さ


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やまとことばの響きは、
胸、こころ、ハートに波打つように感じる。 
 
漢字による音読みの響きは、
頭、知性、ヘッドに向かってやってくるように感じる。
 
また、
古い日本語による文章を全身で浴びるように聴いていると、
たとえ、意味はすぐには分からなくても、
ことばと息遣いの流れに身を浸すような感覚を味わうことがある。
 
その古い日本語を現代語訳したものを聴いていると、
なるほど意味は分かりやすくなるのだけれども、
ことばの響きの音楽性が途切れ、
いちいち説明されているようで、
くどく感じることがままある。

 
 
例えば、『和泉式部日記』の冒頭部分。
 
原文では、
 
夢よりもはかなき世の中を、
嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、
四月十余日(うづき じふよひ)にもなりぬれば、
木の下暗がりもてゆく。

 
それを現代語訳したもののひとつの例だが挙げてみると、
 
夢よりもはかない男女の仲を、
嘆き悲しんで日々を明かし暮らすうちに、
四月十日過ぎになったので、
(たくさん葉がついてきて)木の下がしだいに暗くなってゆく。

 
 
一行目の「夢よりもはかなき世の中を」という原文が、
「夢よりもはかない男女の仲を」という現代文に訳されるとき、
確かに正確な意味を理解するにはいいのだろうけれども、
それを耳で聴くとき、
「世の中を」ということばの響きのもつ、
なだらかで、含み豊かな調べが失われ、
「男女の仲」という、この文にはふさわしからぬ、
ごつごつとした、
即物的にも聞こえる響きをもたらしてしまうように感じる。
 
そして、このひと節まるごとが、
原文の簡潔さを失わせてしまい、
聴く人の想い描く力を損なってしまっているようにも感じる。
 
 
 
頭で意味を捉えようとすることから、
からだまるごとで響きと調べを味わうことへ。
 
意味をすぐさま捉えられないことの恐れを置いておき、
全身で感覚することの意味深さを、
あらためて学んでいくこと。
 
今日も、言語造形のクラスで、
そんなことを皆と分かち合ったのでした。

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2016年06月02日

土着の精神

 
言語造形の生徒さんたちの稽古する作品、
 
まどみちおの詩、
小林秀雄の『無常といふこと』、
森鴎外の『じいさんばあさん』、
佐々木喜善採取による昔話『つぶ長者』、
などなど、
 
それらの作品が研がれ、磨かれ、琢(かざ)られてゆくとき、
作品自体に隠されていて、
眼で読むだけでは見てとることができなかったもの、
香りのようなもの、
味わいのようなもの、
明暗のようなもの、
熱のようなもの、
それらが立ち上がってくるのを、
まざまざと感覚できる。
 
その立ち上がってくるものを古人は、
言霊の風雅(みやび)といっていた。
 
とりわけ、
毎週火曜日の詩歌クラスでは、
皆、萬葉集に取り組んでいて、
その言霊の風雅が、
ある精神性の表われとして、
現代の時空にさえ強く響き渡るのだ。
 
萬葉集に録されている歌が、
素朴な古代人の、
素朴な感情を謳い上げたものだという、
明治以来の国文学的紋切り型な定見!
 
そんなものを打ち破る激しさ、悲願、こころざし、
国史に対する人の抱き得る最も高い理念が、聴こえてくる。
 
それは、
現代のわたしたちが己れのこころと身体の奥底に、
いまだ秘めていると思われる、
輸入物ではない、土着の精神性だ。
 
わたしたちの国の歴史の深みに、
地下水のように流れていた、
その土着の精神。
 
その精神を学ぶ、国学。
 
そこに立ち返ることで、
わたしたちひとりひとりも、
自分自身を貶めることなく、
他者と比べて劣等感に苛まれることなく、
己れという存在そのものに、
信頼と愛をもって生き抜いていくことができる。
 
そう、確かに念う。

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2015年10月20日

「てにをは」の秘儀


いま、日本語が話されるとき、
ややもすれば<語>の意味さえ伝わればいいのだとばかりに、
名詞、動詞、副詞、形容詞、形容動詞が駆使され羅列される。

でも、日本語をこころから使おうとする人は古来、
助詞や助動詞の使いようにこそ、こころを配ってきた。

なぜなら、「てにをは」にこそ、
「語のふり」(本居宣長)があるからだ。


  「てにをは」は、<語>ではなく「語のふり」を支えるものであり、
  「言霊のさだまり」はこれらの運動を常に貫流している・・・
                     (前田英樹『小林秀雄』)

  国語はこれ(てにをは)に乗じて、われわれの間を結び、
  『いきほひ』を得、『はたらき』を得て生きるのである、宣長はさう考へてゐた。
                     (小林秀雄『本居宣長』)


わたしも、言語造形をするとき、「てにをは」にこそ、内なる身振りを注ぎ込むことによって、ことばと文に命が吹き込まれ、文体が生きたものになることを実感する。

いま、取り組んでいる樋口一葉の『十三夜』における文体。
そこに、今ならではの命を吹き込んでゆくためには、
一葉が精魂込めて、まさに、そこに、記し置いた、「てにをは」に、
わたしがどれほど意識的になれるかということに懸っていると感じている。

朗読や語り、演劇の舞台を聴きに行って、
ストーリー(情報のつながり)が分かっただけでは、何にもならない。
それならば、黙って本を読んでいればいい。
同じ作品を、人の肉声で聴くのならば、
そこに、ストーリー展開を追うのではなく、
人の活き活きとしたこころの「いきほひ」「はたらき」をこそ感じたいのだ。
生きている「人」を感じたいのだ。

「てにをは」の響きのなかにこそ、人が、息づいていると感じる。



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2015年10月18日

手足で聴く


   視るにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  それなりの自立性をもった頭のなりたちによってであり、
  聴くにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  節分かれしたからだのまるごとによってです。
  見るにおいて迎えられるところは、
  からだへと向かう流れをもち、
  聴くにおいて迎えられるところは、
  からだから上へと向かう流れをもちます。
         (『メディテーションをもってものにする人間学』)



シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、
丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。

視えるもの。
それは、目という感覚器官を通して、
頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。

一方、聴こえるもの。
それは、本質的には、節分れしている手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、
上へと密やかに昇っていき、頭において想われる。
耳という感覚器官で聴かれるのは、むしろ、残響といえるものではないか。
空気の震えを集約的に受け取るのは確かに耳だろうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、さらには手足において受け取っている。

ことばや音楽というものは、手足によって聴かれている!

頭、耳で聞こうとするのではなく、
たとえからだはじっと静かに据えられていても、
ことばや音楽に密やかに手足を沿わせるようにして聴こうとするとき、
そのことばや音楽の「中味」「こころ」「精神」に触れることができる。
そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。

しかし、聴き手がそのように聴くことができるのも、
話し手が手足をもって語ろうとするときです。

話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、
そのことばは、聴き手の手足によっては受け取られず、頭のみに働きかけます。


昨日の百年長屋さんでの言語造形のワークショップで、参加者の方が、高校の教師をされていて、授業で井伏鱒二の『山椒魚』を30分かけて語ったと仰っていました。そして終わったあと、ひとりの女の子が「ありがとうございました」とわざわざ伝えに来てくれたそうです。

密やかに、手足を動かしたくなるような感覚を感じながら、語られることばに耳を傾ける機会。
そんな機会をもっと、もっと、創っていくことができたら、と思っています。


posted by koji at 09:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする