2019年05月19日

走る! 〜『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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言語造形をもつて舞台に立つために、皆さん、走る、走る!
 
大地と己れのからだとのかかはり、一瞬天空に浮かび上がる身の感覚を、親しく、密やかに感じながら走ることで、ことば遣ひが俄然活き活きとしてきます。
 
また、それぞれの役が演じ始められる中で、戯曲を目で読んでゐるだけのときには気づかなかつたことが気づかれてゆく。
 
その、手と足が教へてくれる叡智は、わたしたちの小さな頭からは出て来やうがないものです。
 
来春公演予定の『 をとめ と つるぎ 』に向けて、一歩一歩、歩みを進めてゐます。

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2019年05月14日

『古事記の傳へ』〜令和元年冬至に向けての準備〜


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親子えんげき塾 ことばの泉は、今年、令和元年の暮れ、師走の月、冬至の日に、和歌の浦で『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題して、天の岩戸開きに至る日本の神話を演じます。
 
冬至の、最も太陽の力が弱まり、最も闇の力が強まるそのとき、天照大御神様が天の岩戸からお出ましになられ、陽の光の力が再び甦るのを、わたしたち日本人は毎年、毎冬、お祝ひしてゐました。
 
その冬至の日に向けて、わたしたちも準備を少しずつ始めてゐます。
 
日本人がこころから大切に守り続けてきた物語り。
 
それは、神話です。
 
それは、語り伝へられて来ただけでなく、演じられ、祭りを通して祝はれ続けて来たものです。
 
つまり、古事記の神話は、今年、この月、このとき、いま、起こつてゐることを言語化したものであります。
 
闇の極まる日の冬至の祭りは、そもそも、新嘗(にひなへ)の祭りでした。
 
一年の米作りの終結点として祝はれ、収穫に対して太陽の神、天照大御神に感謝を捧げる、日本人の暮らしの中でなくてはならない、とても重要なものでした。
 
神話といふ文学と、米作りを中心にした暮らしと、信仰が、ひとつになつて何百年も、いや、きつと何千年も営まれて来た国、それが日本です。
 
わたしたちは、いま、何に繋がらうとしてゐるのだらうか。
 
そんなことをこの『古事記の傳へ』を演じようとしてゐる、えんげき塾のメンバーたちはこころの中で感じ始め、考へ始めてゐます。
 
わたしもそんなメンバーの方々と共にこの令和元年を生きることができることが、なんだか晴れがましいのです。
 
昨日の稽古に、見学に来て下さつた村尾 初子 (Hatsuko Murao)さんが動画を撮つて下さいました。
 
https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305188046208315/?t=5

https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305187706208349/?t=7
 
初子さん、どうもありがたうございます。

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古さを慕ふ


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芸術において、自分自身を解放する、自分自身をみつめる、そのことの素晴らしさ、尊さ。
 
そして、つひには、芸術とは、「道」であることに気づくことの、妙なること。

そのことに、気づくことは、芸術が自己実現を促すことといふよりも、「道」そのものを尊び、存続させていくことに、人の務めがあることに気づくことでもあるでせう。

とりわけ、日本に於いて芸術とは、そもそも、すべて「道」です。

「道」とは、人がゆくところ、人が己れの足を動かせて歩くところです。
 
さう言へば、わたしがまだ若くて、随分精神的にも未熟だつた頃、フォルメン線描といふ、シュタイナー芸術のレッスンに出た時、わたしが、今から思えば非常に「つまらない」質問を先生にしたことを想ひ出します。
 
すると先生は、「づべこべ言はずに、手を動かせ」と厳しくわたしに言ひました。
 
まだ三十代前半の若い女の先生でしたが、なぜだか、すぐにわたしは羞恥心と共に、「これは、道なのだ」と直感しました。
 
わたしは、日本人のさういふ先生に教へてもらへたことを幸運に思ひます。
 
言語造形も、「道」です。
 
ことばの発声に取り組めば取り組むほど、ことばそのものの秘密、それを発声してゐる人の秘密、そのことばによつて描かれようとしてゐるものごとの秘密を、だんだんと明かすやうになる。
 
ことばとは、まさしく神から人だけに与へられてゐる「自然」です。

ことばは、己れの「自然」を、人によつて、解き明かされたがつてゐます。
 
人によつて、造形されたがつてゐます。
  
その「自然」の秘密を解き明かしていく「道」をしつかりと歩いて行くための稽古を毎日続けていくこと。
 
そして、その「道」を求める人にここにもひとつの「道」があることをお伝へすること。
 
それが、わたし自身にことよさしされてゐることだと改めて念ひます。




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2019年05月08日

『言語造形と演劇芸術のための学校』のお知らせ


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これは、言語造形に真摯に取り組んでみたいといふ人のための学校です。
 
語るといふ芸術。
演じるといふ芸術。
詠ふといふ芸術。
 
言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。
 
精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。
 
また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。
 
そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。

日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。
  
ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。

週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。
 
 

この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。
 
実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
 
 
●就学期間:
 
五年間
 
毎週平日4日間/年間45週
 
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み
 
 
 
●時間:
 
午後6時〜午後8時
 
 
 
●場所:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

 
●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji 
 

 
●授業料:
 
入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関わらず。合宿などの費用別途)
 
 
 
●授業内容:
 
言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他
 
 
 
●お申し込み:
 
履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添えて、
メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
後日、面接日をお知らせいたします。

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2019年04月29日

国語教育としての言語造形

 
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京都御所に北隣する母と子の森

 
これからの国語教育を考へたいのです。
 
手軽な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのでは、もう埒があかないはずです。
 
自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、ていねいに、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。
 
昔から我が国の人は、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を尽くして、ことばにする力に秀でてゐました。
 
善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふこと、それが昔から一貫してゐる我が国の国語教育です。
 
国語のその力は、おのづから、聴く人、読む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辞の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。
 
文章を書くためのそのやうな力は口からいずることばに、口からいずることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあうことでせう。
 
話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。
 
書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。
 
 
 
そして、国語教育にさらに言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。
 
前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて発声する、その行為はいつたい何を意味するのでせうか。
 
話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。
 
さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
 
言語の運用において、そのやうな芸術的感覚をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味なのです。
 
さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに尽きずに、音楽のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聴き手に感覚される。
 
詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。
 
言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
 
そして、ことばの精神、言霊といふものが、リアルなものとして、人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。
 
書かれたことばが、言語造形を通して活き活きとした話しことばとして甦り、やがて、その感覚から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。
 
そんな国語教育。
 
子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを実感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聴かせることです。
 
ここ数年、わたしも、『古事記』や『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、現代語訳することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に届くのだといふことを、確信するに至りました。
 
昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覚を通してそのやうな芸術的なことばを享受していく機会を、どんどん与へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
 
 
手軽に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
 
わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、古いことばを学ぶ労力を費やしてまで近寄るに値しないので、出来る限り易しいことばに変へて、学ぶ者の負担を軽減してやらうといふだけなら、ますます現代人は昔の人が考へてゐたこと、感じてゐたこと、欲してゐたことが分からなくなるでせう。
 
過去に学ばない人は、決して新しい創造をなしゆくことはできません。
 
やがてこの国は己れのアイデンティティーを失つていくでせう。
 
古典を古典として敬ふことを学ぶ。その学びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる国が、一貫した国史をもつてゐることを実感していきます。
 
さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が国ならではの精神を伝へていく。それはきつと他の国々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。
   



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2019年04月20日

ことばが甦るとき 〜明日の甦りの祭の日にちなんで〜


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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。
 
自分は、言語造形といふ仕事のために、ことばを素材にしてゐます。声にして発せられることばを素材にしてゐます。
 
ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考へられ分別から組み立てられることばで、それはさうであつてこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのやうなことば遣ひは人間の生活になくてはならないものです。
 
仕事の上で守るべきマニュアルに沿つて発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守つて、上の人の言ふことを聞いて、できるだけ失礼のないやうに、頑張つて、人は、一生懸命、ことばを話してゐます。
 
しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発してゐる人自身の生命がだんだんと涸渇してくるのです。
 
そのことばは実は死んだことばだからです。
 
生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでゐます。死んでゐるからこそ、人の思惑に沿つていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。
 
人の頭は死した部分で、別の言ひ方をすれば、もう完全に出来上がつてゐる部分なのです。頭骨で固く閉ぢられた部分なのです。
 
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであつても、死んでゐます。物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣ひ、それが頭から発せられることば遣ひです。しかし、それは、だんだんと人を死に促進します。
 
だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。死から生への甦りを乞ひ求めるがゆゑにです。それは、手足の動きから生まれることばです。手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。呼吸が活き活きとしてくると、おのづとことばを話す時の表情も豊かになります。
 
そんな風に表情豊かにことばを発してゐると、自分自身が生まれ変はつたやうな新鮮なこころもちに包まれてゐるのをそこはかとなく感じたりもします。
 
人は折をみて、そのやうなことばの発し方に触れることによつて、生きてゐることばの世界に入るのです。
 
言語造形の練習をする上でのまずもつての次第は、四の五の言はずに、そんな生きてゐることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。
 
そして、何年にもわたつてだんだんと練習を重ねていくにしたがつて、呼吸といふことの秘密に気づき始めます。
 
吸ふ息によつて、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢ひます。
 
そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢ひを引つさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによつて、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。
 
そのやうに、呼吸によつて天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになつて生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。
 
普段は、土と水だけになりがちなのを、ことばの甦りをもつて、人は、光と風をも合はせて生きるのです。
 
さうして、いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。
 
だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念ひをもたらします。
 
言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思ひます。
 
さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きつと、かう語つてゐます。(出典が何だつたのか思ひ出せず、すいません)
 
風と光が織りなす中での、そのやうなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなつた人や、天の使ひの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えてゐるのだ、と。
 
ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。
 
さういつた肉の眼や耳には捉へられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きつと、深い関係があつて、ただ、さういふことを机上で考へるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取つていく。感覚していく。
 
その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。
 
魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たやうな練習の繰り返しからおのづと生まれてくる無私へと歩いていく、そのことを言ふのかもしれません。
 

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2019年02月28日

マリー・シュタイナーによる序文C


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話されることば、それは、そもそも、芸術です。
 
ことばそのものの内に潜められてゐる法則があります。
 
取り組む素材や対象に潜んでゐるその法則を知ること。
 
そして、その法則に沿ふことができる技量を身につけて行くこと。
 
それが芸術行為であることは、どの芸術分野においても共通のことであります。
 
それには、練習が要ります。
 
練習こそが、法則の知をもたらし、技量の練磨を促します。
 
では、言語・ことばに、どのやうな法則があるのか。
 
それを知性で述べ伝へることはとても難しいものですが、マリー・シュタイナーが見事に、芸術的に、言ひ表してくれてゐます。
 
わたしなりに原文から意訳をし、順序も入れ替えますが、載せてみます。
 
少し長くなりますが、文意を味はつてくだされば、幸ひです。
 
 
―――――――
 
●ことばの癒す力、魔法の力を感覚できる日が、きつと、やつて来る。
 
それは、気高い仕事である。
 
呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなし。それらは、まこと、気高い仕事である。
 
そのまことは芸術の線に相応し、その線は意欲の向きとして途切れてもならず、動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
そもそも、言語は流れる動きであり、内なる音楽に担はれ、彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
ことばの線、それは動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
その芸術としての線が、人を突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイアされ、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
その線がこわばつてはならない。間(ま)においてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひを取りこむ。
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
―――――――
 
 
ことばによつて己れを表さうとするのではなく、ことばそのものが表さうとしてゐるものを表す。
 
ことばを、客として、迎える。
 
そんな道をマリー・シュタイナーは述べてゐます。
 
 

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2019年02月27日

幼な子の息遣ひに耳を澄ませながら


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幼い子どもたちは、神秘的なお話しの時には、静かさの中、全身を耳にして、深く深くこころの境にまで入つて行く。
 
そして、楽しいお話しの時には、もんどりうつ位の喜びの中で、お話しを味はふ。
 
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グリム童話の『おいしいお粥』、柳田国男再録の昔話『鷲の卵』、『桃太郎』、歌舞伎十八番から『ういらう売り』・・・。
 
今日も、子どもたちの息遣ひに耳を澄ませながら語らせてもらふことができた。
 
ことばが、空間に弾んで、飛んで、溶け去つて行つた。
 
保育園の先生方も自分自身の語り方にだんだんと言語造形を取り入れてくれてゐて、とても頼もしいことだ。
 
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2019年02月24日

マリー・シュタイナーによる序文B


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―――――――
 
●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
―――――――
 
人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。
 
自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。
 
「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。
 
言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。
 
その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。
 
さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。
 
頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。
 
それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。
 
その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。
 
さうしますと、人は、そもそもの自分自身に立ち返つてまいります。
 
麗(うるは)しいことではないですか。
 
 
 

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2019年02月22日

マリー・シュタイナーによる序文A


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―――――――
 
●人がみづからの己れを摑むまでの迷ひ道では、なほ人の源から遠く飛ばされようとも、ひとつの精神の絆、言語は、人にとどまつてある。
 
―――――――
 
 
わたしも、「みづからの己れを摑むまで」どれほど、迷ひに迷ひ、今から思ひますと、どれほど「人の源から遠く飛ばされ」てゐたことでせうか。
 
しかし、四十歳ごろにして、人は、己れを摑み始めます。
 
そのことは、孔子も「四十にして惑はず」と言つてをります。 
 
己れを摑むこと、そのとき、頼りになるのは、自分自身の話すことばの質です。
 
自分の話すことばを、練り直し始めます。
 
その年齢までは、自分を守り、囲んでくれてゐた「ことば」、わたしたちで言へば「日本語」があり、その言語が「一つの精神の絆」としてその人の人生に付き添つてくれてゐました。
 
ことばが、人を守つてくれてゐました。
 
しかし、四十歳を過ぎるころからは、人自身がことばをみづから己れのことばとして立てて行くことが、要求されるはずです。
 
ことばは、もう、人を守つてくれません。
 
人は、四十歳ごろから、社会の中でしつかりと自分自身を表現し、事物をしつかりと言ひ表すことができるやう、その精神の絆としてのことばをみづから練り直し始めるのです。
 
もし、この時期に、このことを逸しますと、いつまで経つても、自分の思つたことをそのまま口にすることで、人との關係性を壊し続けてしまつたり、逆に、思つてゐることがうまくことばにできなくて、これもまた人との關係性に支障が多々出て來ることになりかねません。
 
自分の話すことばが、ちゃんと自分の体重が乗つてゐるやうな、重みのあるものとなりゆくやう、自分自身を意識的に教育し始めていい時なのです。
 
また、自分自身が話したいことをそのまま話していい時期は過ぎ行き、聴き手である相手のこころを汲みとりつつ、ことばを選んで丁寧に話すといふことを学び始めていい時期なのです。
 
人は、ことばといふものがあればこそ、そのことばを通して、己れのこころをみづから教育していくことができます。
 
人といふものが、幾つになつても成長できる生き物なのは、「ことば」といふものを授かつてゐるからなのでせう。
 
 

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2019年02月21日

マリー・シュタイナーによる序文@


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『言語造形と演劇芸術』といふルドルフ・シュタイナーによる連続講演録があります。
 
その本の初版の序として、妻であり、仕事の上でのかけがへのないパートナーでもあつたマリー・シュタイナーが記してゐる「クリエイティブな言語」といふ文章の内容を少しご紹介したいと思ひます。(言語造形家 鈴木一博さん訳)
 
彼女は、ルドルフ・シュタイナーの最も近くにゐながら仕事を共にした人であり、言語造形といふことばの芸術をルドルフと共に産みだした人です。
 
―――――
 
言語に於いて人が人の神々しいところをつかむ。音韻がクリエイティブな力であり、人を人のみなもとに結び、人が精神への道をふたたび見いだすに任せる。音韻によつて人が動物の上に上がり、探りながらでみづからの<わたし>に立ちかへる。
 
―――――
 
言語とは、ことばとは、一体、何でせう。
 
印刷された文字のことではなく、音声として空気の中に響くとき、ことばは、そもそも、人を精神に繋ぐよりどころであります。
 
人がことばを話すとき、その人その人の声の響きに顕れるその人のこころと精神。
 
人は、そもそも、己れの精神からことばを発することができるといふこと。
 
人は、そもそも、ことばの精神に助けてもらふことで、初めて活き活きと話すことができるといふこと。
 
もし、声を発してことばを話すことを芸術的に学び始めたなら、人は予感するかもしれません。
 
これは、わたしが、これまでの人生とは全く違つて、どんどんクリエイティブになつて行く道だと。
 
勇気さへあれば、誰でも、この道を歩き始めることができるのだと。
 
言語は、神々しいものです。
 
音韻を追ひつつ、ことばを話すことを学んでいくことは、まさしく自分自身の源に繋がるといふことであり、自分がますます自分自身になつて行くといふことであり、動物的なこれまでのあり方から、ますます、人になりゆく道であるといふことです。

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2019年02月18日

言語造形を通して俳優術に迫る@

 
俳優にとつて、己れのからだは、その俳優によつて奏でられる楽器であるがゆゑに、わたしたちは、己れの「からだ」を親しく知つてゆくことを要します。
 
ピアノの奏者がピアノをよく知ることを要するやうにです。
 
どのやうな立ち方、歩き方をしてゐるのか、そのときに、足の裏のどの辺りに重心がかかりがちであり、膝をどう曲げてゐるのか、腕をどう動かしてゐるのか、等々、己れのからだを親しく観る必要があります。
 
そして、わたしたちは言語造形に勤しみながら、己れの声を己れみづからで聴くことができるやうになるまで、練習を重ねることを要します。
 
己れの発したことばが、どういふ形をもつて、どういふ動きをもつて、喉からすつかり放たれ、空気に響き渡つていくかを、感官をもつて、また感官を越えて、観ることができるやうに、練習されてしかるべきなのです。
 
昨日、『ことばの家 諏訪』で行つてゐます『普遍人間学の会』での言語造形の時間に、こんな話をさせてもらひました。
 
ーーーーーーーー 

ある役者がゐました。
 
彼は、見た目の姿も、声も、ほとんど役者には向いてゐませんでした。その彼が、演じる芸術について、かう述べてゐます。
 
「もしわたしが舞台にただ立つにまかせて立つてゐたとしたら、わたしは役者が務まらなかつたでせう。
 
からだは小さいし、猫背ですし、しわがれ声で、顔は不細工です。しかし、わたしはわたしなりにやつて来ました。
 
舞台でのわたしは、常に三人の人です。
 
一人は、小さく、猫背の、しわがれ声で、不細工な人です。
 
二人目は、猫背と、しわがれ声から全く抜け出してゐる人、まぎれなくイデ―であり、全く精神である人です。その人をわたしは常に前に迎えることになります。
 
そして、いよいよ三人目の人です。わたしは、さきの二人から抜け出し、三人目の人として、二人目の人と共に、一人目の、しわがれ声で、猫背の人をもとに演じます」
 
(ルドルフ・シュタイナー『演じるといふ芸術について』から)

 
 
ーーーーーーー
 

わたしたち、言語造形をする人は、この三つの分かちを、常に意識して舞台に立つことを修練していきます。
 
いつも格好よくあらうとする人、いつも美しくあらうとする人は、己れのからだについてなにひとつ諾ふことをしないゆゑに、己れのからだとの関わりの中で己れを知るといふことができません。
 
からだ、そして声、それは、わたしたちが己れみづからを知るためのたいせつなたいせつな元手なのです。
 
 
 

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2019年02月15日

幼な子はわたしたちの先生

 
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赤ん坊や幼い子どもを前にするとき、わたしたちは微笑ましい思ひや、ときにあらたまつた思ひに一挙に包まれはしないでせうか。
 
そして、思はず微笑んだり、その子に話しかけたりしたくなります。
 
あの独特の感覚。
 
その感覚を意識的に大事に保ちながら、子どもに昔話を語りかけたり、絵本を読んで聴かせたりするとき、語り手のわたしたちは、逆に子どもたちから、「語る」といふ行為とはどういふ行為であるのかを学ばせてもらつてゐます。
 
そして、さらに、あらためて感じられることは、その時期の子どもたちの成長にとつて要となるものは、動きなんだといふことです。
 
子どもたちはお話や歌のことばが分かる、分からないよりも、そのことばに合はせて、内的にも外的にも、動くことができるかどうか。
 
動きのあることばが、子どもたちの傍にゐる大人たちによつて話されてゐるか。
 
それらのことが、ことのかなめなのです。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、動きに裏打ちされてゐてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。
 
ことばといふものを通して、この時期は、すべてのものが、生きてゐる、動いてゐる!
 
わたしも僕も、みんな生きてゐる、動いてゐる!
 
そして、ことばといふものも生きてゐる、動いてゐる!
 
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。
 
ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、大人のやうに静かにして聴いてゐるのではなく、動きの中でこそ、動きによつて生まれるバランス感覚の中でこそ、育まれます。

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もちろん、大人でさへも、何かに一心に耳を傾けてゐるときには、からだは動かさずとも、内側を動かしてゐます。
 
シュタイナーは、「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声してゐます。それは内なるオイリュトミーなのです」と語つてゐます。
 
その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。
 
しかし、子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。
 
外的に動くときは、できるだけ、調和のとれた動き、かたちある動き、かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すやうな動きに導いていくことができたら、素晴らしいですし(ライゲンやお話ごつこも工夫すると素晴らしいものになります)、羽目をはづした子どもたちの動きにも、「座りなさい、静かにしなさい」といふことばではなく、そのつどそのつど、芸術的に対応して、ことばの裏側にある動きを通して、子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。
 
幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育つた子は、小学校に入つてから、今度は自分から動きのあることばを使ふこと、話すことができるやうになつていきます。
 
言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。
 
さういつた、言語にとつて、人にとつて、いのちを湛えるありやうとはどのやうな語り方をすればいいのか、それを、幼な子たちは、大人であるわたしたちに教へてくれます。
 

 
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2019年02月13日

言葉の工夫

 
言霊(ことだま)とは、人がことばに触れて、こころが動かされるとき、誰もが当たり前に感覚してゐる、言語の精神の働きのことを言ひます。
 
ことばと、こころが接触する空間に、立ち上がり、拡がつて来る、あるかたち、動き、色彩、それら言霊の働きを丁寧に迎へ、聴き取り、見て取り、取り扱ふのが、わたしたち言語造形をする者です。
 
さて、小林秀雄の『本居宣長』は、何度、再読しても、そのたびに、こころが唸るやうな、ときに、晴々とするやうな、そのやうな手応えを感じさせてくれる日本文学の最高峰の書だとわたしは常々感じてゐます。
 
その第三十四章に、かうあります。
 

●「言霊」といふ古語は、生活の中に織り込まれた言葉だつたが、「言霊信仰」といふ現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのままに認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智恵だつたので、特に信仰と呼ぶやうなものではなかつた。(昭和五十二年発刊版 422頁)
 

「言霊信仰」などと言ひつつ、机上の精緻な学問体系を作り上げるのではなく、自分が発したことばが、いかに、他者に深刻に働きかけることがあるかといふことであつたり、他者が発したほんのちょつとのひとことで、己れのこころがいかに激しく揺さぶられてしまふか、といふ当たり前のことに、古代の人々は当たり前に気づいてゐた、といふことなのです。
 
言語造形といふ芸術を生み出したルドルフ・シュタイナーも、そのやうな、一音一音の精神的な性質、精神的な背景を説いてゐますが、ややもすれば、さういふ机上の理解だけで尽きてしまふ「空理」を振り回すことの馬鹿らしさを彼もきつと痛感してゐて、生き物としての言語の芸術的働きを見失ふことは決してありませんでした。
 

●天も海も山も、言葉の力で、少しも動ずる事はないが、これを眺める人の心は、僅かの言葉が作用しても動揺する。心動くものに、天も海も山も動くと見えるくらゐ当り前なことはない。(422頁)
 

山の動く日。それは、到底動くはずのなかつた、このこころが、ことばによつて、揺さぶられ、動かされてしまつたとき、目の前の山も動く日が、現にあるのです。その感覚を、通常の散文的理解と取り違へることは、古代人にも決してなかつたことでせう。
 

●天や海や山に、名を付けた時に、人々は、この「言辞(ことば)の道」を歩き出したのである。天や海や山にしてみても、自分達を神と呼ばれてみれば、人間の仲間入りをせざるを得ず、其処に開けた人間との交はりは、言葉の上の工夫次第で、望むだけ、恐しくも、尊くも、豊かにもなつただらう。(422頁)
 

言語造形とは、かうした「言葉の工夫」です。
 
工夫次第で、人は、ものごととの関係をいかやうにも深くしていくことができるのです。
 
 

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2019年01月31日

かたちを求める幼な子たち


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昨日、保育園にて、絵本『ごぶごぶ ごぼごぼ』の読み聞かせをやつてみました。
 
子どもたち、かういふ絵本、大好きなんですね!
 
保育士さんの腕に抱かれてゐる0歳児の子どもたちまで、ずつと惹きつけられて聴いてゐました。
 
まさに、言語造形を引き出す絵本なのです。
 
深い息遣ひから生まれる間(ま)と、ことばの音韻の一音一音の造形。
 
かういふ、「深い息遣ひと、かたちあることば」を、幼な子たちは、からだまるごとで欲してゐます。
 
なぜならば、その年頃の幼な子たちは、己れのからだを形づくつてゐる最中なのですから。
 
世に「かたちあるもの」を求めてゐるのです。

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2019年01月19日

わたしたちの新しい文化の礎


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新しい年が明けまして、もうすぐ三週間が過ぎようとしてゐます。
 
昨年の様々な仕事を通して、わたしも様々な想ひを抱いたのですが、今年の初めになり、改めて、これからの「ことばの家 諏訪」の言語造形の仕事の中でも、舞台活動・上演こそをより充実させていく必要があることを、これまで以上に痛切に感じました。
 
芸術には、その教育的・治療的な実践のやうに様々な側面がありますが、やはり、まことと信じうることを世に造形していくこと、捧げていくこと、つまりわたしたちの場合ですと、作品を創り続け、本番を上演し続けていくことが最もたいせつなことであります。
 
わたしたちにとりましては、一回一回の舞台公演が本当により深い内実を湛えていくことが必須であると考へてゐます。
 
そのためには、第一に、わたし自身も含めて、舞台に立つ人の養成です。
 
ことばが芸術であることを、身をもつて証していく道です。
 
舞台、そこは、人が、その人自身になりゆく秘儀の場であります。
 
秘儀の場でありつつ、芸術といふ姿で多くの人に開かれてゐます。
 
この、多くの人に開かれてゐるといふこと、それは、理屈抜き、知識抜きで、こころを開き、己が身をもつて行為に徹していけば、どの人もその芸術に通じていくことが必ずできるといふことです。
 
なぜならば、芸術とは、人間教育だからです。
 
そして、観る側、聴く側にとりましても、こころさへ開いてゐれば、舞台の魅力を直感することができます。
 
なぜならば、舞台とは、知識がものを言ふ場所ではなく、その人の生き方がものを言ふ場所であり、その生き方を共にするひとときだからです。
 
それが、とりわけ舞台芸術の魅力です。
 
そんな、舞台芸術としての言語造形を天職とする人の養成のための学校創りがわたしにとりまして最もたいせつな仕事になります。
 
さういふ人の養成を視野の中心に置きながら、わたしは実際の舞台創りに取り組んでいかうと考へてゐます。
 
言語造形は、音楽・舞踊といふ芸術と同じく、ミューズの神からの恵みとともに営むことばの芸術であります。
 
それゆゑ、その分野に携わつてをられる方々、さういふ芸術への感覚を共にする方々に、これからは積極的に助けていただき、実際の舞台創りをしながら、舞台に立つ人の養成に取り組んでいきたい。
 
そんな念ひで、昨日は、足利智子さんに時間を作つていただき、お会ひすることができました。
 
彼女は、音楽といふ芸術に、精神の一筋の確かな調べを聴き取らうと耳を傾け続けてゐるおひとりです。
 
15年以上前からの古い友人としてお付き合ひ頂いてゐるのですが、改めて、わたしたちの仕事へのお手伝ひをお願ひしました。
 
音楽総監督といふかたちで、舞台創りに関はつていただきたかつたのです。
 
ことばと音楽がひとつになり、ともに美を奏でていくことにわたしたちが仕へられるやう、修業を重ねていきたいと希つてゐます。 
 
言語造形といふことばの芸術が、日本の国に真に根付いていき、あとあと、ことばが芸術であること、日本語がこの上なく芸術的な言語であることを多くの子どもたちが誇りに思へるやう、そのための地盤創りに、また、これからも、多くの方々に助けていただきたいと切望してゐます。
 
長文、失礼いたしました。
 
 
●『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/


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2019年01月14日

Aといふ道とBといふ道 〜和歌山での新年会〜


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「親子えんげき塾 ことばの泉」の皆さんと和歌山での新年会。
 
料理は旨い、酒も旨い、昨年暮れのキリスト生誕劇を演じ終えて、言語造形といふことばの芸術に開眼され始めた皆さんとの会話もとてもとても楽しい。
 
芸術について、からだで感じることのできたリアルな事柄、そしてそこから生まれた新しい認識を語り合ふことは、本当に楽しいのです。
 
今日、新年会に参加されなかつたメンバーの方々も含めて、皆さん本当にありがたうございました。勿体ないほどの素敵な花束までいただきました。皆さんのお気持ちが、本当に嬉しいです。
 
 
さて、こんな話をさせてもらひました。
 
Aといふ道と、Bといふ道が、ある。
 
Aといふ道は、精一杯、全力で言語造形の舞台に立つことで、自己実現を目指す。それまでの自分自身のあり方から、一皮も二皮も脱皮して、新しい自分自身を発見することを目指す道です。一生懸命やつた自分自身を自分自身で認めてあげること、それを学ぶ道です。
 
Bといふ道は、自己実現といふものは、結果としておのづと生じるものであり、むしろ、ことばに仕えること、ことばの精神により深く入つて行くことを目指す道です。芸術としての精度を深めていく道ですので、終わりはありません。しかし、その道は、利点があつて、その人その人には様々な個性がありますが、この道を歩んで行くうちに、おのづとエゴが抜け落ちていく道でもあります。さうして、自分たちの行為を通して、世にたいせつな何かを訴えていきます。
 
Aといふ道も、Bといふ道も、つまるところ、重なつていくのですが、しかし、人によつては、その微妙な違ひが、やがて大きな違ひになつてゆくのだけれども、皆さんは、これからも言語造形を通してお芝居を創つていく上で、どちらを選びますか。どちらを選んでも自由なのです、といふことをお話ししました。
 
 
「ことばの泉」のメンバーが早速、今日のことを記事に上げてくれました。ここに転載させてもらひます。

 
ーーーーーーーーーーーーーー 
 
ことばの泉、生誕劇打ち上げ兼新年会。
 
昨年は本当に演劇を通して、濃い時間を過ごしました。
 
今日来れないメンバーもいましたが、前日にシェアリングし、今後のことばの泉の理念も話し合いました。
 
昨年の生誕劇への取り組みが私たちにもたらしたものは、とても大きかった。
 
今やっと、親子えんげき塾ことばの泉が本当の意味で始まります。
 
今年の活動もとても楽しみです。
 
諏訪先生とともに、ことばの世界、ことばの力を身をもって体験したいと思います。
 
 
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2018年12月03日

言語造形と演劇芸術のための学校


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言語造形と演劇芸術のための学校

言語造形といふ芸術活動をしていく上で、なぜこのやうな学校的なものを打ち樹てていくことが、必要なのかを改めて考へてみました。 
 
人は誰でも、思ひ上がりといふルーツィファー的なものと、自己不信感・絶望といふアーリマン的なもの、そして、そのどちらにもまたがる不満・満たされなさといふものを、必ず、抱えて生きてゐます。
 
この、こころにどうしても宿つてしまふ三つの業は、大人になつてからこそ、わたしたちが向き合はなければならないものです。
 
でなければ、わたしが、〈わたし〉になつてゆくことが阻まれるからです。
 
〈わたし〉とは、パーソナリティーを越えた、インディヴィジュアリティーとしての〈わたし〉のことです。
 
それは、まさに、わたしのわたしたるところです。
 
作品を創つてゆく際、作品の精神にわたしが呑み込まれてゐる間は、自分ではできてゐるつもりでも、実のところ、作品として成り立つてをらず、作品として説得力のあるものとして作品が作品として一人立ちしてゐません。
 
いはば透明なわたしである〈わたし〉が、作品の精神よりも、大きくなつて初めて、作品として真価を発揮し出します。
 
〈わたし〉が、作品よりも大きくならなければなりません。
 
そのためには、もう、繰り返しの練習しか、道はないのです。早道などありません。
 
先ほど書いた三つの宿業とも言へるものを凌いでいき、ひとつひとつの作品を透明な〈わたし〉をもつて包み込んでいくためには、どうしても相応しい指導とそれに応じるこつこつとした練習が必要です。
 
繰り返し繰り返しの稽古といふものこそが、人にそれらの宿業を凌がせていく道であることを実感してゐます。
 
ゆゑに、一定期間、毎日、指導を受け、稽古をしつづける環境の中に入つていくことが、これを天職になさうと志す人にとつて、どうしても要るのです。
 
言語造形では、五年といふ期間をもつてそれがなされます。
 
その五年といふ時間こそが、その人を学校から自由に羽ばたかせうるのです。
 
月に一回や、週に一回では、どうしても埒が明かないところがあるのです。

わたし自身には、その理想に対する実感と確信がありましたが、そのやうな環境を準備する心積もりと決意が、長い間できませんでした。
 
しかし、時が熟して来たのかもしれません。
 
わたしのなかで、その志がどうしても萌し、地上に生へ出て来たのです。
 
天職としての言語造形をなしていく日本人が必要だと考へてゐます。
 
日本語といふわたしたちの国語の美しさと喜びを、子どもたち、未来の日本人たちに受け継いで行つてもらふためです。
 
そのためには、国語の芸術家が必要なのです。
 
日本といふ国に、言語造形といふ芸術が、今後、五十年後、百年後、二百年後、いよいよ榮えていくために、わたしも、いま、始めたいと思つてゐます。
 
楽器の演奏者が、指揮者といふ外の眼・外の耳によつてよりふさわしく導かれてゆくやうに、ことばを話す芸術、言語造形をする者にも、さういふ外なる眼と耳が必要です。
 
志をもつ人に向けて開かれる学校です。
 
 

https://kotobanoie.net/school/

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2018年11月19日

(ま)といふ真実


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和歌(うた)の神を祀る玉津島神社の裏の山から観た夕方の和歌の浦

言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、息遣ひ、呼吸です。
 
そして、深く吐き出される息が、ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、おのづと(ま)を生み出すのです。
 
その無音の閧ヘ、豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
ことばが発音されるときよりも、むしろ、その無音の閧フ中にこそ、ことばの精神、言霊、言語のゲニウスが響きます。
 
ですから、時閧ニ空閧、ことばといふもので埋め尽くさないのです。無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、そこに物質的なものではない、精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
その精神の豊かさは、人の頭にではなく、胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。
 
そのやうな(ま)に触れるとき、人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
からだの調子が悪い時、そのやうな間に触れて、人は眠りにいざなわれるやうです。きつと、精神がその人を休息へと導いてくれるのでせう。
 
逆に、からだもこころも健やかな時、そのやうな閧ヘ、その人の意識をますます目覚めさせ、ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、様々な感覚を享受させてくれます。
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、それら様々な情景を「もののあはれ」として、人は享受することができるのです。
 
またさらに、次のことは、これからの時代、ますます顕著になつてきます。
 
それは、こころの奥に自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、自分自身に嘘をついてゐるとき、自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、人は、そのやうな閧ノ触れると、不快感を感じたり、不機嫌になつたり、耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
「真(ま)」に触れて、人は、だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、健やかに、欣びを存分に享受しながら仕事をしていくでせう。
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
 
言語造形もそのやうな芸術のひとつだと思ひます。
 



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2018年11月13日

水がすうつと流れる


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稽古場で、稽古そのものがいのちを得ていく瞬間があります。
 
声を出してゐる人と、声に耳を傾けてゐる人と、空間とが、共に動き出して、各々の息遣ひが噛み合つてくる瞬間です。
 
むかし、稽古場によく出入りする我が家の娘が幼いとき、こんなことを言ひました。
 
「練習してゐる人の声を聞いてるとね、からだのなかに、水がすうつと流れるの」
 
昨日の稽古でも、生徒さんの語りを聴いてゐて、わたしのからだの中を「水がすうつと流れ」ていくのをまざまざと感じました。
 
それは、生徒さんが受け身でなく、課題に挑む準備を積極的にして、その場に立つてゐたからでせう。
 
基本的に、学びといふものは、独学の精神に尽きるのです。
 
理路整然とした理論や、整つたカリキュラムや、周りのよき環境などを求めてゐるとき、たいがい、人は、怠惰な精神しかもつてゐないやうです。
 
教へてもらふのではなく、自分から掴み取つてゆくぞ、といふ気概と精神が、本当にたいせつです。
 
何はなくとも、まづからだを動かして、汗を流さうとする人と人からは、爽やかな精神の息吹きが生まれ、笑顔が生まれる。
 
言語造形に勤しむ皆さんに本当に感謝です。
 

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