2019年01月19日

わたしたちの新しい文化の礎


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新しい年が明けまして、もうすぐ三週間が過ぎようとしてゐます。
 
昨年の様々な仕事を通して、わたしも様々な想ひを抱いたのですが、今年の初めになり、改めて、これからの「ことばの家 諏訪」の言語造形の仕事の中でも、舞台活動・上演こそをより充実させていく必要があることを、これまで以上に痛切に感じました。
 
芸術には、その教育的・治療的な実践のやうに様々な側面がありますが、やはり、まことと信じうることを世に造形していくこと、捧げていくこと、つまりわたしたちの場合ですと、作品を創り続け、本番を上演し続けていくことが最もたいせつなことであります。
 
わたしたちにとりましては、一回一回の舞台公演が本当により深い内実を湛えていくことが必須であると考へてゐます。
 
そのためには、第一に、わたし自身も含めて、舞台に立つ人の養成です。
 
ことばが芸術であることを、身をもつて証していく道です。
 
舞台、そこは、人が、その人自身になりゆく秘儀の場であります。
 
秘儀の場でありつつ、芸術といふ姿で多くの人に開かれてゐます。
 
この、多くの人に開かれてゐるといふこと、それは、理屈抜き、知識抜きで、こころを開き、己が身をもつて行為に徹していけば、どの人もその芸術に通じていくことが必ずできるといふことです。
 
なぜならば、芸術とは、人間教育だからです。
 
そして、観る側、聴く側にとりましても、こころさへ開いてゐれば、舞台の魅力を直感することができます。
 
なぜならば、舞台とは、知識がものを言ふ場所ではなく、その人の生き方がものを言ふ場所であり、その生き方を共にするひとときだからです。
 
それが、とりわけ舞台芸術の魅力です。
 
そんな、舞台芸術としての言語造形を天職とする人の養成のための学校創りがわたしにとりまして最もたいせつな仕事になります。
 
さういふ人の養成を視野の中心に置きながら、わたしは実際の舞台創りに取り組んでいかうと考へてゐます。
 
言語造形は、音楽・舞踊といふ芸術と同じく、ミューズの神からの恵みとともに営むことばの芸術であります。
 
それゆゑ、その分野に携わつてをられる方々、さういふ芸術への感覚を共にする方々に、これからは積極的に助けていただき、実際の舞台創りをしながら、舞台に立つ人の養成に取り組んでいきたい。
 
そんな念ひで、昨日は、足利智子さんに時間を作つていただき、お会ひすることができました。
 
彼女は、音楽といふ芸術に、精神の一筋の確かな調べを聴き取らうと耳を傾け続けてゐるおひとりです。
 
15年以上前からの古い友人としてお付き合ひ頂いてゐるのですが、改めて、わたしたちの仕事へのお手伝ひをお願ひしました。
 
音楽総監督といふかたちで、舞台創りに関はつていただきたかつたのです。
 
ことばと音楽がひとつになり、ともに美を奏でていくことにわたしたちが仕へられるやう、修業を重ねていきたいと希つてゐます。 
 
言語造形といふことばの芸術が、日本の国に真に根付いていき、あとあと、ことばが芸術であること、日本語がこの上なく芸術的な言語であることを多くの子どもたちが誇りに思へるやう、そのための地盤創りに、また、これからも、多くの方々に助けていただきたいと切望してゐます。
 
長文、失礼いたしました。
 
 
●『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/


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2019年01月14日

Aといふ道とBといふ道 〜和歌山での新年会〜


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「親子えんげき塾 ことばの泉」の皆さんと和歌山での新年会。
 
料理は旨い、酒も旨い、昨年暮れのキリスト生誕劇を演じ終えて、言語造形といふことばの芸術に開眼され始めた皆さんとの会話もとてもとても楽しい。
 
芸術について、からだで感じることのできたリアルな事柄、そしてそこから生まれた新しい認識を語り合ふことは、本当に楽しいのです。
 
今日、新年会に参加されなかつたメンバーの方々も含めて、皆さん本当にありがたうございました。勿体ないほどの素敵な花束までいただきました。皆さんのお気持ちが、本当に嬉しいです。
 
 
さて、こんな話をさせてもらひました。
 
Aといふ道と、Bといふ道が、ある。
 
Aといふ道は、精一杯、全力で言語造形の舞台に立つことで、自己実現を目指す。それまでの自分自身のあり方から、一皮も二皮も脱皮して、新しい自分自身を発見することを目指す道です。一生懸命やつた自分自身を自分自身で認めてあげること、それを学ぶ道です。
 
Bといふ道は、自己実現といふものは、結果としておのづと生じるものであり、むしろ、ことばに仕えること、ことばの精神により深く入つて行くことを目指す道です。芸術としての精度を深めていく道ですので、終わりはありません。しかし、その道は、利点があつて、その人その人には様々な個性がありますが、この道を歩んで行くうちに、おのづとエゴが抜け落ちていく道でもあります。さうして、自分たちの行為を通して、世にたいせつな何かを訴えていきます。
 
Aといふ道も、Bといふ道も、つまるところ、重なつていくのですが、しかし、人によつては、その微妙な違ひが、やがて大きな違ひになつてゆくのだけれども、皆さんは、これからも言語造形を通してお芝居を創つていく上で、どちらを選びますか。どちらを選んでも自由なのです、といふことをお話ししました。
 
 
「ことばの泉」のメンバーが早速、今日のことを記事に上げてくれました。ここに転載させてもらひます。

 
ーーーーーーーーーーーーーー 
 
ことばの泉、生誕劇打ち上げ兼新年会。
 
昨年は本当に演劇を通して、濃い時間を過ごしました。
 
今日来れないメンバーもいましたが、前日にシェアリングし、今後のことばの泉の理念も話し合いました。
 
昨年の生誕劇への取り組みが私たちにもたらしたものは、とても大きかった。
 
今やっと、親子えんげき塾ことばの泉が本当の意味で始まります。
 
今年の活動もとても楽しみです。
 
諏訪先生とともに、ことばの世界、ことばの力を身をもって体験したいと思います。
 
 
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2018年12月03日

言語造形と演劇芸術のための学校


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言語造形と演劇芸術のための学校

言語造形といふ芸術活動をしていく上で、なぜこのやうな学校的なものを打ち樹てていくことが、必要なのかを改めて考へてみました。 
 
人は誰でも、思ひ上がりといふルーツィファー的なものと、自己不信感・絶望といふアーリマン的なもの、そして、そのどちらにもまたがる不満・満たされなさといふものを、必ず、抱えて生きてゐます。
 
この、こころにどうしても宿つてしまふ三つの業は、大人になつてからこそ、わたしたちが向き合はなければならないものです。
 
でなければ、わたしが、〈わたし〉になつてゆくことが阻まれるからです。
 
〈わたし〉とは、パーソナリティーを越えた、インディヴィジュアリティーとしての〈わたし〉のことです。
 
それは、まさに、わたしのわたしたるところです。
 
作品を創つてゆく際、作品の精神にわたしが呑み込まれてゐる間は、自分ではできてゐるつもりでも、実のところ、作品として成り立つてをらず、作品として説得力のあるものとして作品が作品として一人立ちしてゐません。
 
いはば透明なわたしである〈わたし〉が、作品の精神よりも、大きくなつて初めて、作品として真価を発揮し出します。
 
〈わたし〉が、作品よりも大きくならなければなりません。
 
そのためには、もう、繰り返しの練習しか、道はないのです。早道などありません。
 
先ほど書いた三つの宿業とも言へるものを凌いでいき、ひとつひとつの作品を透明な〈わたし〉をもつて包み込んでいくためには、どうしても相応しい指導とそれに応じるこつこつとした練習が必要です。
 
繰り返し繰り返しの稽古といふものこそが、人にそれらの宿業を凌がせていく道であることを実感してゐます。
 
ゆゑに、一定期間、毎日、指導を受け、稽古をしつづける環境の中に入つていくことが、これを天職になさうと志す人にとつて、どうしても要るのです。
 
言語造形では、五年といふ期間をもつてそれがなされます。
 
その五年といふ時間こそが、その人を学校から自由に羽ばたかせうるのです。
 
月に一回や、週に一回では、どうしても埒が明かないところがあるのです。

わたし自身には、その理想に対する実感と確信がありましたが、そのやうな環境を準備する心積もりと決意が、長い間できませんでした。
 
しかし、時が熟して来たのかもしれません。
 
わたしのなかで、その志がどうしても萌し、地上に生へ出て来たのです。
 
天職としての言語造形をなしていく日本人が必要だと考へてゐます。
 
日本語といふわたしたちの国語の美しさと喜びを、子どもたち、未来の日本人たちに受け継いで行つてもらふためです。
 
そのためには、国語の芸術家が必要なのです。
 
日本といふ国に、言語造形といふ芸術が、今後、五十年後、百年後、二百年後、いよいよ榮えていくために、わたしも、いま、始めたいと思つてゐます。
 
楽器の演奏者が、指揮者といふ外の眼・外の耳によつてよりふさわしく導かれてゆくやうに、ことばを話す芸術、言語造形をする者にも、さういふ外なる眼と耳が必要です。
 
志をもつ人に向けて開かれる学校です。
 
 

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2018年11月19日

(ま)といふ真実


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和歌(うた)の神を祀る玉津島神社の裏の山から観た夕方の和歌の浦

言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、息遣ひ、呼吸です。
 
そして、深く吐き出される息が、ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、おのづと(ま)を生み出すのです。
 
その無音の閧ヘ、豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
ことばが発音されるときよりも、むしろ、その無音の閧フ中にこそ、ことばの精神、言霊、言語のゲニウスが響きます。
 
ですから、時閧ニ空閧、ことばといふもので埋め尽くさないのです。無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、そこに物質的なものではない、精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
その精神の豊かさは、人の頭にではなく、胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。
 
そのやうな(ま)に触れるとき、人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
からだの調子が悪い時、そのやうな間に触れて、人は眠りにいざなわれるやうです。きつと、精神がその人を休息へと導いてくれるのでせう。
 
逆に、からだもこころも健やかな時、そのやうな閧ヘ、その人の意識をますます目覚めさせ、ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、様々な感覚を享受させてくれます。
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、それら様々な情景を「もののあはれ」として、人は享受することができるのです。
 
またさらに、次のことは、これからの時代、ますます顕著になつてきます。
 
それは、こころの奥に自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、自分自身に嘘をついてゐるとき、自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、人は、そのやうな閧ノ触れると、不快感を感じたり、不機嫌になつたり、耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
「真(ま)」に触れて、人は、だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、健やかに、欣びを存分に享受しながら仕事をしていくでせう。
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
 
言語造形もそのやうな芸術のひとつだと思ひます。
 



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2018年11月13日

水がすうつと流れる


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稽古場で、稽古そのものがいのちを得ていく瞬間があります。
 
声を出してゐる人と、声に耳を傾けてゐる人と、空間とが、共に動き出して、各々の息遣ひが噛み合つてくる瞬間です。
 
むかし、稽古場によく出入りする我が家の娘が幼いとき、こんなことを言ひました。
 
「練習してゐる人の声を聞いてるとね、からだのなかに、水がすうつと流れるの」
 
昨日の稽古でも、生徒さんの語りを聴いてゐて、わたしのからだの中を「水がすうつと流れ」ていくのをまざまざと感じました。
 
それは、生徒さんが受け身でなく、課題に挑む準備を積極的にして、その場に立つてゐたからでせう。
 
基本的に、学びといふものは、独学の精神に尽きるのです。
 
理路整然とした理論や、整つたカリキュラムや、周りのよき環境などを求めてゐるとき、たいがい、人は、怠惰な精神しかもつてゐないやうです。
 
教へてもらふのではなく、自分から掴み取つてゆくぞ、といふ気概と精神が、本当にたいせつです。
 
何はなくとも、まづからだを動かして、汗を流さうとする人と人からは、爽やかな精神の息吹きが生まれ、笑顔が生まれる。
 
言語造形に勤しむ皆さんに本当に感謝です。
 

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2018年10月29日

淡々と語る? 〜幼児への語りかけ〜


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以前、言語造形のレッスンを受けて下さつたある方から「幼児へのお話しの語り方」について、ご質問を受けました。
 
それは、シュタイナー教育などでよく言われてゐる「幼児教育の場で、感情を込めず¨淡々と¨語ることで、子どものイメージの力を使わせる」ということについてのご質問でした。
 
このご質問は、わたしにも、本当に、よく問はれます。
 
そこで、書かせてもらひましたことを、改めてここでも記させてもらひます。
 
 
ーーーーー
 
わたしは、幼児であれ、大人であれ、「本物の言語」を語って聴かせることが絶対に大事だと思っています。
 
幼児用のことば遣いやお話の語り方などは、ないのです。
 
感情は込めるものではなく、生まれるものであり、おのずから立ち上がってくるものであり、それこそが本当の感情です。
 
よく言われていることで、幼児教育の場で「感情を込めず¨淡々と¨語ることで、子どものイメージの力を使わせる」ということは、その「込められた」感情を嫌っているということではないでしょうか。
 
そして、「込められた、捏造された感情」を嫌うあまり、「淡々と」というお題目に甘えて、実に平板な語りに安住してしまっている。
 
それが実情だと思います。
 
そこには、ことばに対する見識がほとんどありません。
 
シュタイナー教育でよく言われている「感情を込めず¨淡々と¨語る」だけしていますと、確かに子どもにイメージを使わせますが、「知的なイメージ」ばかりふくらます子どもを育ててしまいます。
 
そこに、意志の働きをもたらさないと、つまり、身振りに裏打ちされたことばでないと、子どもの意志が育ちません。
 
ことばにふさわしい人間的な身振りをもって話すこと。身振り、それは、人の意欲や意志の働きから生まれます。
 
一方、ことばの発声はできうるかぎり明瞭にすること。この明瞭さこそが、思考の働きであり、「淡々と」という意味なのです。
 
その明瞭に発音されることばと、身振り。
 
そのことばは、思考と意志の融合となります。
 
そのときの表出は、そのことば、そのことばに、ふさわしい感情の表出になります。
 
それは、ときに、静かな響きになる時もあれば、活発で劇的な響きになる時もあります。
 
それは、ことばと文に沿って変わってきます。
 
その響きは、いずれも、人のイマジネーションを引きだします。
 
実際に、言語造形による物語りを聴いていただく機会を、どんどん増やしていきたいと考えています。
 
 
ーーーーーーーーーーーー
2019年1月開校!
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/
 

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2018年10月28日

ことばの奥にあるもの


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写真撮影 山本 美紀子さん

今日、言語造形クラスに参加して下さつてゐるおひとりの方がこんな話をして下さつた。
 
先日、演劇を観に行つた。それは、何らかの心理的障害を抱えてゐる子どもと大人の方が出演してゐるもの。
 
その俳優さんたちが舞台の上でことばを語るのだが、その発音されることばが、ことばの形をなしてゐなくて、全く何を言つてゐるのか、分からない時がある。
 
しかし、観客である自分には、何がそこで語られようとしてゐるのかよく分かつた。
 
さうお話ししてくれた。
 
声の質だとか、表面に於けることばの意味、さういふことよりも大切なのは、ことばを発しようとするときの、こころのアクティブな動きである。
 
ことばが生まれてくる大もとの泉、それは、こころのアクティブな働きなのである。
 
その泉が、こんこんと新しい清水を湧き立たせてゐるかどうか、こころの動き(アストラルのからだの働き)が活き活きと動いてゐるかどうかが、最も大切なことなのだ。
 
その演劇では、きつと、こころの働きが活き活きと繰りなされてゐたに違ひない。
 
人は、ともすれば、ことばを発するときに、表面だけきれいに整えようとしたり、意味や情報さへ伝はればそれでよしとしてしまふ。
 
しかし、それでは、いくら丁寧に話されてゐても、いくら淡々と話されてゐても、こころやいのちの営みの欠けた虚ろで死んだことばを聴いてゐる人に手渡すことになつてしまふのだ。
 
さういふときのことばは、精彩といふものが欠けてしまつてゐる。
 
そもそも、活き活きとしたこころの働き(アストラルのからだの働き)が、いのちの働き(エーテルのからだの働き)に作用していくとき、人は母音を発する。
 
一方、そのこころの働き(アストラルのからだの働き)が、〈わたし〉に作用するとき、人は子音を発する。
 
ことばの働きの大元は、こころの働き(アストラルのからだの働き)なのだ。
 
こころの働きをいかにしてアクティブなものにするか。それが、ことばを話す上での欠かせないことである。
 
だから、逆に言へば、ことばの練習を積極的にすることで、人は、アストラルのからだ(こころの働き)とエーテルのからだ(いのちの繰りなし)、そして〈わたし〉の営みとを連動させながら、自分自身を育んでいくことができる。
 


  

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2018年10月23日

幼な子への語りかけ 〜保育園での一日〜


今日も、ある保育園にて、幼な子たちとことばの芸術をたんと味はふ時間。
 
一歳、二歳児から三歳、四歳、五歳児まで、それぞれのクラスでお話しをさせてもらひました。
 
もう本当に楽しい。
 
一歳児も、ずうっとお話しを聴いてくれます。

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言語造形がもつ、ことばの力を感じます。
 
それは、深く、活き活きとした息遣ひとこころの籠もる身振り、そして明瞭な音韻のかたちに裏打ちされたことばの力です。
 
お話しの語り方は、大人に語る時と、なんら変はりません。
 
第一七年期の子どもたちに、言語造形によるお話しや歌をたつぷり聴かせてあげること。
 
これは、本当にたいせつな国語教育の礎です。

なぜなら、考へと情と意欲に通はれたことばに触れることで、いつしか子どもたち自身が、そんなことばの話し手になつてゆくからです。
 
保育園の先生方とも、意味深いワークショップの時間をもつことができました。
 
未来の日本を生きていくこれらの子どもたちと共に、日本語の魅力、喜び、活力、すべてが幸はひますやうに!
 
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2019年1月開校!
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/

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2018年10月01日

『言語造形と演劇芸術のための学校』1月開校のお知らせ 


わたしが師匠にしていただいたことを、わたしも若い志ある誰かにしようと、こころを決めることができました。
 
志ある方、下の趣旨を見て感じるところある方、どうぞ共に歩いていきましょう。
 
これは、言語造形を一生の仕事・天職にしていく道です。
 
  

『言語造形と演劇芸術のための学校』1月開校のお知らせ
 
語るという芸術。演じるという芸術。詠うという芸術。言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによって、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
そういう実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。
 
週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。開校日は2019年1月8日(火)です。
 
この学校は、いわゆる卒業証書のようなものはお渡しできません。実際の舞台に立っていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 

「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
●就学期間:
2019年1月8日(火)から2023年12月まで(五年間)  
毎週平日4日間/年間45週
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)
祝日はお休み

 
●時間:午後6時〜午後8時(ことばの家 諏訪 にて)
 
 
●講師:諏訪耕志(ことばの家 諏訪 主宰) 
他オイリュトミー講師   
 
 
●授業料:
入学金3万円(入学決定時に納入)
毎月4万円(休みの有無に関わらず。合宿などの費用は別)
 
 
●授業内容:
言語造形、ことばのオイリュトミー 
テオゾフィー、普遍人間学、「言語造形と演劇芸術」講義録
(出版書籍は各自お求めいただきます)  その他
 
 
●申し込み:履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通 を添えて、info@kotobanoie.net あるいは郵便で申し込む。 (〒558-0053 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20 ことばの家 諏訪)
後日、ことばの家 諏訪においての面接日を、お知らせいたします。
申し込み期間  2018年10月1日より12月31日まで
 

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2018年09月25日

幼な子との共同作業

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聴くといふ行為は、まぎれもなく、愛です。
 
ある保育所での幼な子たちとの時間。
 
かういふ時に、特に、言語造形をやつてゐて、よかつたなあ、幸せだなあと思ふのです。
 
活き活きとした息遣ひとことばの精神(言霊)に導かれて、幼な子たちのこころもからだも弾みます。
 
幼な子たちは、耳でお話しを聴いてゐません。
 
全身で聴いてゐるのです。全身が耳なのです。 
 
だからこそ、知性の勝る賢い大人とは違ひ、幼な子は、共に舞台を創つてくれます。
 
演じ手と共に、聴き手が創造に参加してくれるのです。
 
こんな豊かさはありません。

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2018年09月24日

新しい人形劇芸術 〜山崎淳子さんの「三匹のやぎのがらがらどん」〜


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小さな保育室 こっこでの今日の講座『ことばと子どもの育ち 』、無事終わりました。
 
山崎さんによる人形劇「三匹のやぎとがらがらどん」が、本当に素晴らしかつたのです。
 
演者の深くて活き活きとした息遣ひに導かれて、空間に静かに響き渡ることばと人形の動き。
 
そのことば遣ひと、一挙手一投足が、ひと呼吸ひと呼吸の息遣ひに貫かれてゐます。
 
いのちの営みである呼吸が、物語りのことばと人形の動きを芸術的なスタイルの上で織り合はせ、音楽的な調べを生み出す様をありありと、まざまざと目の当たりにすることができました。
 
また、その息遣ひに貫かれた人形の動きは、いはゆる写実的なものから離れ、法則に沿つて抑制された芸術的な動きであり、それゆゑ、いつさう観る人の想像力を掻き立ててくれます。
 
言語造形を通して演じられる人形劇は、大人が観ても、こころ揺さぶられる芸術であることを、今日の山崎さんによる上演が無言の内に教へてくれました。
 
願はくは、このやうな人形劇芸術が幼児教育の場に拡がつてゆきますやうに・・・。
 
来て下さつた皆さん、そして山崎さん、どうもありがたうございました。

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2018年08月28日

人はみな言語造形をしてゐた 〜寅さんの生業〜



 
感情を交へずに、淡々と声にすることを旨とすべし。
 
シュタイナー教育において子どもに向かつて物語を語りかけるときに、このことをこれまでよく本などで目にしましたし、人がさう言ふのを耳にしました。
 
しかし、シュタイナー自身がかう語つてゐます。ことばの味はひを本来的に感じはじめる小学生のこころと精神をあまりに強くからだに受肉させることから守るために、いかに語りかけるか、といふことに関して、です。
 
ーーーーーーー
歴史の物語に子どもが強く情をもつてかかはるやうに、教師自身が、人物について、強く情から心を寄せ、敬ひ、あるいはまた憎むに値する人物のことを述べるときには、敬ひ、あるいは憎しみを湛えて語ることです。そのことをもつて歴史の授業は、子どもが物質的になりすぎないことに、ことのほか役立ちます。(『メディテーションをもつてものにする人間学』鈴木一博訳)
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シュタイナーが語つてゐることがらを長い時をかけてわたし自身で確かめてみるに、語り手自身が、言語造形を通して、ことばに沿ふことによつて、おのづから抱かれる深い情を湛えながらことばを発すること、それは決して聴き手への情の押し売り、頭でつかちな考への押し付けには決してなりません。
 
芸術とは、人の知性にではなく、情に訴へてくるもの。要(かなめ)は、語り手の独りよがりな情ではなく、作品そのもの、ことばそのものに潜んでゐる、まことの情が、ものをいふことです。まことの情こそが、小学生を育てます。まことの情こそが、子どもたちと、分かち合はれ、その分かち合ひは、わたしたちのふるさとである精神の世を想ひ起こさせます。
 
また、シュタイナーはかうも言つてゐます。今度は、子どもをある程度、その子その子に応じてふさわしく地上的にするために、いかに語りかけるかです。
 
ーーーーーーー
子どもがあまりに夢見がちであると気づいたなら、その子が言語の唱へられるところ、音楽的なところ、リズム、拍を受け止めることのはうへと目覚めるやうに試みます。言語の音楽的なところは、<わたし>をからだに入り込ませるのに役立ちます。育てる人としては、それを芸術として身につけることが欠かせません。(同書)
ーーーーーーー
 
ことばの音楽的な側面。それは、子どもの意欲を強め、萎えがちなところにいのちを吹き込むだけでなく、子どもを意識の目覚めへとゆつくりと導きます。
 
ーーーーーーー
いにしへには、人がそもそもリズムなしに話すなどありえない代々がありました。人がリズムのうちに話さうとする向きをもつてゐました。たとへば何ごとかを言ふのに、言語造形によらずに言ふことはありえませんでした。(『言語造形と演劇芸術』鈴木一博訳)
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本当の意味での、人といふものの育み。それには、生の中に、授業の中に、いのちを吹き込む芸術的な情が欠かせません。
 
と、いふところで、あまりにも急な展開かと思はれるのも無理はありませんが、そんな情をあまりにも豊かに湛えてゐた達人のひとりを紹介いたします。
 
寅さんです!
 
こころ(アストラルのからだ)からのはずみを基に話されてこそ、ことばは生きて来ること。
 
そのことのモデルケースを見せてくれてゐます。
 
子どもたちを育て、人を活き活きと活かすためには、このことばを話す「はずみ」が促されることが、教育の上で取り上げられていい、さう思ひます。
 
寅さんが、先生だつたらなあ。

 


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2018年07月26日

明日からのねっこぼっこ合宿


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明日からの信濃の諏訪のすぐ南に位置する伊那にての『ねっこぼっこ合宿』に向けて、いまから大阪を出発します。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/460565120.html
 
詩を自分の中から生み出し、自分の声をもつてその詩を響かせる。そんな三日間です。
 
頭を捻つて、詩を生み出すのではないのです。
 
風や光にからだまるごとをゆだね、草木を見つめ、そして、己れのこころのささやきに耳を澄ませることで、聴こえてくることばを掬ひ上げ、結び上げていくのです。
 
詩、歌は、まごころだけが載る、不思議な文芸です。
 
文芸、文学とは、こころとことばの不即不離なありやうに通じていく、ことばの道。
 
それは、人のこころの道であり、磨けば磨くほどに、ことばとその人がひとつになりゆき、その人がますますその人になりゆく道です。
 
そして、詩人とは、「人は、いかにして、人となりゆくか」を神に問ひ続ける人であります。
 
とりわけ、我が国の詩人たちは、土着のことば、先祖たちから手渡されたことば・やまとことばを通して、己れのこころの源を探り、己れのこころを先祖の方々と結ぶことで民族の血に繋がることを祈願し、未来の子孫たちにその精神を繋げることを乞ひ願つてゐました。
 
日本語には、その希ひの精神がいまも息づいてゐます。
 
この三日間の合宿で、わたしたちは、言語造形を通して、我が国の詩人たちに連なる、そのきつかけに触れてみたいと思つてゐます。
 
そもそも、人は、誰しも、詩人です。

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2018年07月10日

小西収さんによる『名人伝』ご感想


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先日、行ひました大阪での言語造形公演『名人伝』を聴きに来て下さつた小西 収さんが、日を経て、感想の文章を送つて下さいました。
 
芸術が依つて立つのは、目や耳に感覚できないものの受肉ではなく、むしろ、感覚的・事実的なものの転形・造形なのだといふことを、今回、わたし自身、感じてをりました。
 
芸術といふ、ひとりの人の行為によつて得られた姿・形は、わたしたちを満ち足らせる姿・形であります。
 
その姿・形が、そのまま、精神の顕れでもあります。
 
ことばに、そのやうな姿・形をもたらす。動きをもたらす。いのちをもたらす。
 
音楽における楽譜のやうに、文学のテキストもまたひとつの譜面のやうに扱ふことが可能です。
 
言語造形の試みを、このやうに汲み取つてくださつたこと、それは創造的立場からの極めてありがたい批評で、小西さんには感謝の念に堪えません。
 
密やかにわたしのしてゐることが、ことばをもつて言ひ表されてゐる・・・。
 
それは、本当に嬉しい驚きです。
 
以下、小西さんによる文章を掲げさせていただきます。
 
小西さん、どうもありがたうございます。
 
 

 
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中島敦のこの短編が,これほどまでに高密度に内容の詰まったものであったとは!来場直前の黙読予習ではまったく想像だにできませんでした。
 
「名人伝」の,短いといっていいあの活字の列が,一文・一節・一句・一語・一音・一韻が,音声となって,場所/空間へ次々に降り立ってくる。言葉の彫刻。
 
できあがった彫刻作品ではなく,今,彫られていっている,行為としての彫刻。その“彫刻刀遣い”の振る舞いの,何という忙しさ!そして,それを聴くという充実した時間。
 
どこをとっても聴きどころであるそれらすべてを,逃さず味わい追っていこうとして聴き手の私もまた目紛しく(“耳”紛しく)集中しました。
 
私はただ客として聴いているだけなのに,まるで目の前の芸術家と同時進行で何かをともに作り上げているかのような喜ばしい錯覚もふと起きたほどです。
 
他では真に得難い,貴重な体験でした。
 
上に「内容」と書きましたが,それは私にとっては,物語の意味内容よりもむしろ言葉そのもの(のつながり)・音韻の妙です。
 
そしてそれらの間にある間(ま)や語の発せられる直前の呼気(吸気?)の息遣いまでもが「内容」となって迫ってきました。
 
例えば,「最早師から」の「も」と「もしそれが本当だとすれば」の「も」の何という違い。でありながら同じ「も」でもあるという,造形。…と,例を挙げてしまうと卑小なことのように聞こえることを惧れます。
 
こういう一瞬一瞬の連続であり総体だった,と受け止めました。その全貌はとても書ききれません…。
 
そうした細部のリアリティーがあってこそ,起昌が,飛衛が,甘蠅師が「そこに現れ」,中島敦の「声がした」のだ…と,思い出しつつ今改めて感じております。
 
「真実は細部に宿る」とは,こういうときのためにある言葉ではないかと想起した次第です。
 
また,(終演後も少しお話ししましたが)今回のご公演を受けて,諏訪先生の言語造形の行為が,私の普段携わる音楽演奏表現の行為と通底するということを改めてますます強く感じ入ることができました。
 
失礼を重々承知で書かせて頂きますと「先生と私は,ひょっとしてまったく同じことをしようとしているのではないか」と,嬉しくなり,これからの自分の活動への大いなる勇気づけを頂きました。
 
深い感謝の気持ちでいっぱいです。
 


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2018年06月20日

マリー・シュタイナーによる序文D・完


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ルドルフ・シュタイナー作『Mysteriendrama(秘めやかな事についての劇)』の一場面


●この、『言語造形と演劇芸術』のコースで話されてゐるところを弁へるには、感官への現はれの背後に隠れる世の内容に踏み込むことを要する。このコースでわたしたちに与へられてゐるところを実践に於いてフルに利用するには、その世の内容を生きることが欠かせない。そこにわたしたちが予断や嫌ふ気持ちを差し挟まなければ、その世の内容を生きるであらう。
 
わたしたちがしようとしてゐることは、何をするにも、精神的な観点から、見てとり、感じとり、考へ、取り組んでみるところからであります。
 
ことばの舞台芸術が、物質主義の軛(くびき)から解き放たれて、人のこころと精神を満たすやうなものになるやう、わたしたちは試み続けます。
 
しかし、その道は、ひたすらな練習しかありません。
 
何か特別な秘訣や謎めいた秘密はありません。
 
ただ、練習を続けていくことの中に、見えてくることばの線、聴こえてくる確かな調べ、伴走しうることばの動きを、己れのものにしていくしか、方法はありません。
 
しかし、それらは、明らかに、この世の物質的なものでなく、ことばと作品まるごとに秘められてゐた精神的な法則に他なりません。
 
芸術は、机上の勉強ではなく、汗を流しながらの、精神に向けた新しい認識の学そのものなのです。
 
そして、息を解き放ち、声を発し、ことばを話す人自身が、みづからその線を追ひ続け、調べを聴き続け、動きを動き続けるのは、とても難しい故に、言語造形には、学校が必要なのです。
 
自分で自分の声を聴きとることができるまでには、とても長い年月が要るのであります。
 
自己流では、決して、摑み得ない学びです。
 
 
●そもそも、音韻は精神の使ひであり、息は神々の実質である。そして、演劇は、秘めやかな事から出て来てをり、わたしたちは再びそこに立ち返りうる。
 
こころの柔軟さ、素直さ、アクティビティーが生きてゐさへすれば、そして、様々な予断や、精神を嫌ひ、恐れる気持ちが、道を塞ぎさへしなければ、きつと、客としてのことばの精神(言霊)がわたしたちを導いてくれます。
 
音韻と息が、言語の芸術をする人にとつての素材であり、道具であり、教師であります。

それらの元手をもつて、日本の「秘めやかな事についての劇」を創ることを目指していきたいと考へてゐます。
 
#言語造形 
 


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2018年06月19日

マリー・シュタイナーによる序文C


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●言語造形へと迫るといふことは、音韻の働きかけを、空気、吐かれる息といふ媒体に於いて生きることであり、音韻のつくりなし、音韻の発しかたを手のうちにおくことが、言語の器官の法則と求めに応じ、まさに仕事としてなされるといふことである。
 
●それは、音のインタヴァル、響きの陰影への、シャープに育まれた聴覚である。ことばの線は動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢いを与へる。その芸術としての線が、突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイア―され、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑みとられる。その線がこわばつてはならない。間(ま)に於いてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひをとりこむ。そのつど、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは己れを見てとる線がでしゃばつてしまふこと、ナルシスの例で知られるとほりである。

 
 
吐かれる息に乗つて、音韻ひとつひとつが空間に造形されます。そして、その息の連続から、おのづとことばとことば、文と文のあひだに生きた間(ま)が生まれ、その間を見えない線が繋ぎます。その線の動きは、どこまでもダイナミックであり、繊細であり、かつ自由です。その線を見失はないこと。見失つてしまひますと、途端に、己れのマスクがものを言ひだし、ナルシスティックな表現の連続となつてしまひます。
 
そして、日本民族ほど、「間(ま)」にこれほどの動きと生命と精神を感得してゐる民族は、さうはいないやうに実感してゐます。
 
間に於ける響きの陰影、ことばの動的な線、それは、あくまでも、話す人のナルシスティックな像の投影ではもちろんなく、主観的・恣意的な生産物でもなく、客としての息遣ひとことばの音韻がもたらす精神の顕現です。
 
わたしたち日本人は、ことばの生命と精神(すなはち、それこそが、「言霊」です)を、民族精神の伝統としてたいせつに育んできた者であります。
 
日本の精神文化のなかに、改めて言語造形が根付いていくやう、毎日励んでいきたいと希つてゐます。


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2018年06月18日

マリー・シュタイナーによる序文B


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●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
芸術とは、常に、意識と無意識とのせめぎ合ひであり、混交であります。頭部・神経系の目覚めた意識と、四肢・血液系の眠れる意識との融合であります。
 
意識だけで、芸術が出来上がるわけもなく、その意識と、訓練され無意識に動くまでになつた「からだ」との重なりこそが、ものを言ひます。
 
そして、その重なりは、その人その人の癖(マスクのごときパーソナリティ)から、ことばと共にその人をも解き放ち、ことばそのものが秘めてゐた精神、その人そのものが秘めてゐた精神<わたし>が立ち顕れて来るのです。そのとき、人は、自由です。
 
 

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マリー・シュタイナーによる序文A


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●今日、悪趣味の時代に、いくつかのことばの頭文字から味気ないことばのすがたが構えられ、精神が追ひ出されるのは、言ひやうもなく痛ましく、深くから芸術でないと感じられる。そのことばのすがたは、骸骨のごとく骸(むくろ)を震はせて嘲笑ふ。
 
●悪の力がことばの力を囲い込み、打ちこわさうとする。そこに救ひ手が出で立つた、ルドルフ・シュタイナーである。その救ひ手が、ことばの癒す力、魔法の働きかけをわたしたちに返し、陽の矢の輝きとことばのうちに投げられる槍をもつて、わたしたちの傷を閉ざす。
 
●その日はいつ来るか。感覚が、ことばの癒す力、魔法の力へ、ことばのもとにうねりつつ開ける精神の波へと、返される日は。
 
●呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなしは、まこと、気高い仕事である。

 
 
ここ日本に生きてゐるわたしたちも、現代、ことばに於いて、ことばの使ひ方に於いて、ことばの交わしあひに於いて、痛ましく傷ついてゐるやうに感じます。
 
ことばの芸術であらうとする言語造形は、まことの意味で、人を癒さうとし、人を甦らせようとする、精神からの営みです。
 
ことばは、この世で、人だけが授かつてゐるものです。
 
そのことばを、どこまでも、人間的なものにして行かう、磨いて行かう、研いで行かうとする営み。
 
それが言語造形だと思ひます。
 
 

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2018年06月16日

マリー・シュタイナーによる序文@


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『言語造形と演劇芸術』といふルドルフ・シュタイナーによる連続講演録があります。
 
その本の初版の序として、妻であり、仕事の上でのかけがへのないパートナーでもあつたマリー・シュタイナーが記してゐる「クリエイティブな言語」といふ文章の内容を少しご紹介したいと思ひます。(言語造形家 鈴木一博さん訳)
 
彼女は、ルドルフ・シュタイナーの最も近くにゐながら仕事を共にした人であり、言語造形といふことばの芸術をルドルフと共に産みだした人です。
 
ルドルフのことばをどこまでも深く受け止め、消化しつつも、読む人、聴く人にさらに知的かつ意欲的に働きかけるやうな文体をもつて彼女は真摯に語りかけてくれてゐるやうに感じます。
 
 

●言語に於いて人が人の神々しいところをつかむ。音韻がクリエイティブな力であり、人を人のみなもとに結び、人が精神への道をふたたび見いだすに任せる。音韻によつて人が動物の上に上がり、探りながらでみづからの<わたし>に立ちかへる。
 
●いよいよ言語に於いて人のインディヴィジュアルな<わたし>の力が、その音としての表れを見いだし、その力そのものに気づきうる。
 
●人が立ちあがり、動物の横の線が縦になりかはつて、人がみづからのうちに言語の力を解き放つ。

 
 
 
かういつた文章は、実際に言語造形に取り組んでゐないと、リアリティーを感じにくいものであるかもしれません。
 
しかし、言語造形の魅力を知り初めてをられる方々にとつて、これらの文章が何らかのメディテーションの営みへと資するものであれたらと思ひ、掲載してみます。
 

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2018年05月17日

新横浜にて 若い人たちとの言語造形


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今日は、新横浜で朝から夕方まで言語造形。
 
社会人になつたばかりの23歳から25歳までの14名の方々と。
 
自分が選んできた文学作品を朗読することに挑戦してもらつたのだが、これまでの学校生活では、文字を間違ひなく発音することは教へられて来ただらうが、ことばを美しく話すことは全く教へられては来なかつたと思ふ。
 
だから、はじめは、皆とても早口で、ことばの味、ことばの美しさ、ことばの力を表現することができない。
 
しかし、若い人はとても柔軟で、文章に沿つて共に身体を動かしながら、息を解き放ちつつ、声を出していくうちに、見る見る、ことばの話し方が変はつてくる。
 
これから様々な仕事の局面で、人前に出てパブリックなスタイルで話しをすることがだんだんと増えてくるだらうが、今日の体験を想ひ出し、活かしてもらへたらと思ふ。
 
朝から夕方までへとへとになりながらやつて来て、最後に、自分自身が書いた、自分自身についての文章を言語造形をもつて声にしてもらつた。
 
それはそれは皆、目覚ましいばかりの素晴らしい表現だつた。
 

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