2019年12月21日

意志の芸術 言語造形 「 をとめ と つるぎ 」クラス


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今日は、「をとめとつるぎ」クラスの稽古。
 
 
建築・彫塑が思考を芸術化したものであり、
音楽・絵画が感情を芸術化したものであるやうに、 
言語造形とは意志の芸術であります。
 
 
それゆゑ、
俳優の皆さんは、
ひたすらに走ることを要求されます。
 
 
ことばを話してゐる間だけでなく、
他の俳優のせりふの間も、
常に走つてゐます。
 
 
その動きは、
外には見えず、
内的な走りなのです。
 
 
しかし、運動量はさほど変はりません。
 
 
ですので、
冬の最中であるのにもかかはらず、
皆、汗びつしょりです。
 
 
  
 
★言語造形劇公演『 をとめ と つるぎ 』
 
 
日時・場所:
 
令和2年
3月28日(土) 大阪公演
山中能舞台 14時開演 
 
3月29日(日) 東京公演
中村中学・高等学校フェニックスホール 
15時開演
 
※大阪公演のみ、
住吉大社権禰宜の小出英詞氏による講演
『今蘇る神功皇后の伝承』があります。
 
 
料金:
ご予約 4000円  当日4500円  全席自由
 
 
 
お申し込み・お問い合わせ:  
「ことばの家 諏訪」 
Tel/Fax 06-7505-6405  
Mail info@kotobanoie.net

 
  

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2019年12月14日

教室こそ、ことばのお宮

 

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東京のとある女子中・高の先生方と、
『枕草子』の言語造形に取り組んでみました。
 
 
一段目の、
四季おりおりの景物とこころの織りなし合ひ。
 
 
そのやうな日本人ならではの感覚が、
和歌ではなく、
エッセイとして書き残されてゐます。
 
 
そこに滲み出る情をこそ、
文を声に出すことで、
じつくりと感じてみる。
 
 
そこに聴こえて来る沈黙の間の豊かさに、
耳を澄ます。
 
 
先生方ご自身が、
自身の息遣ひとことば遣ひから、
そもそも「ことばとは芸術そのものなのだ」
といふことに気づくほどに、
教室といふところが、
意味深い場になりえます。
 
 
教室が、ことばのお宮になりえます。
 
 
神聖な場といつてもいいやうに思へます。
 
 

この場を準備して下さつた方、
教務その他でまことにお忙しい中、
新しいことに挑戦された先生方、
本当にありがたうございました。
 
 
子どもたちや若い人たちが、
国語の底知れぬ魅力に目覚めていく、
そのことを何よりも希ひます。
 
 

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2019年12月10日

笠地蔵


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今日は、
昔話「笠地蔵」を子どもたちに語りました。
 
 
このお話をしてみて、
これは日本の昔話の中でも、
本当のまごころと神秘を伝へる、
屈指の国語芸術だと思はざるをえません。
 
 
町に出て笠が売れないといふことが、
生きることの苦しみを、
どれほど子どもたちに予感させるか。
 
 
そして、売れなかつた笠を
お地蔵様にかぶせて家に帰ってきた爺様を、
「それはよいことをしなさつたなあ」
と言つて迎へる婆様。
 
 
きつと、日本人が何百年にも何千年にも渡つて、
「人はこんなにも美しいこころを持つてゐるのだ」
といふことを静かに感じ続けてきたお話です。
 
 
そして、
一年の終はりに捧げられる神仏への思ひ。 
一年の初めに甦る太陽の神からの恵み。 

 
そんなお話が終はつた時の静寂の深さ。
 
 
年の終はりと始まりに、
いまもなくてはならない、
幼な子たちとのかけがへのない時間です。
 
 

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2019年12月01日

わたしたちの舞台創りにおける観点A



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今年1月に奈良で行はれた「古事記のまつり」にて


――――――――
 

シェイクスピアの英語は
語彙、語法、すべての点において、
他の同時代の作者に較べて遥かに難しい。
 
 
一般大衆の日常英語と較べたら、
それこそ雲泥の差であつた。
 
 
彼等は或る意味では
シェイクスピアのせりふは難しくて
よく理解できなかつたに相違ない。
 
 
エリザベス時代よりはるかに教育が普及し、
その程度も遥かに高くなつてゐる
今日のイギリス人にとつても、
シェイクスピアは難解なのである。
 
 
それでもイギリスでシェイクスピア劇を
一般観客が理解し易い様に
現代語訳して上演したりはしない。
 
 
そんな事を考へもしない。
 
 
だが、語彙、語法が難しいといふのは、
だからといつてそれが
楽しめないといふ事とは全く別事である。
 
 
近松の浄瑠璃の一語一語が理解できなくとも、
無学な江戸の民衆はそれを充分に楽しむ事ができた。
 
 
同様にエリザベス時代の大衆も今日のイギリスの一般観客も
原文のままのシェイクスピアを楽しんでゐるのである。
 
 
       (福田恒存『言葉の芸術としての演劇』より)
 
―――――――
 
 
 
たとへ、ことばの「意味」が分からなくとも、
わたしたちは、ことばの芸術としての演劇を
楽しむことができます。
 
 
前回の文章でも述べさせていただいたやうに、
ことばは、まづ、
その響きであり、
その質であり、
その形であり、
その動き、うねり、拡がりこそが、
その本質なのです。
 
 
ことばを理解しようとするのではなく、
ことばのそれらの質を感覚すること。
 
 
それらを感覚できるといふことが、
舞台で俳優が生の声をもつて演じるのを、
観に行き、聴きに行く、楽しみであるのです。
 
 
詩人のやうに言ふなら、
ことばとは音楽であり、
彫塑であり、
舞踊なのです。
 
 
幼い子どもたちは、皆、
理解してからことばを使ふのではなく、
そのやうに感覚をもつてことばを味はひつつ、
だんだんと日本語に上達して行きます。
 
 
大人は、ややもすると、
そのやうなことばの感官を閉じてしまひ、
理性だけでことばを聞き、
情報伝達のためにだけことばを使はうとしてしまひます。
 
 
しかし、ことばとは、もつと、もつと、
全人間的なもの、
宇宙的なもの、
神々しいものなのです。
 
 
だから、
わたしたちの舞台では、
その言語の言語たるところを引き立てるべく、
主に日本の古典作品を
原語のまま上演することに挑戦し続けてゐます。
 
 
これまでに、
『古事記』や『萬葉集』『風土記』に、
『源氏物語』や『平家物語』などを取り上げて来ました。
 
 
まだまだこれらの作品を深めて行きたいですし、
また別の作品にも挑戦して行くことで、
ことばに生命あり、精神ありと深く信仰してゐた、
日本古来の古典精神を、
ことばの造形を通して、
追ひ求めていきたいと希つてゐるのです。
 
 
そして、そのやうなわたしたちの仕事が、
新しくこの国の精神文化を支へ、育み、
後代へと大切な何かを受け渡していく
橋となることを
固く信じてやつてゐます。



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2019年11月29日

わたしたちの舞台創りにおける観点@



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文芸評論家であり、
翻訳家、戯曲家、演出家でもあつた、
福田恒存がこんなことを書いてゐます。 
 
―――――――
 
 
演劇とは、
せりふの芸術、
ことばの芸術である。
 
 
そして、
そもそも、
そのことばの「意味」が
分からうが分かるまいが、
そのことばに身ぶりがあれば、
観客は存分に楽しめるのだ。
 
 
なぜなら、せりふとは、
俳優の口を突いて出てくる、
その身悶えであり、
身振りであるからだ。
 
 
どんなに悲劇的な場面であつても、
ハムレットは、
自分のことばが身振りとしての律動に乗つて、
宙に飛び散つてゆくのを、
実はひそかに楽しみ、
その楽しみに酔つてゐる。
 
 
何かの「意味」などを
伝へようとしてゐるのではなく、
彼は自分のことばを吐き出してゐる。
 
 
ことばで自分を鞭打ち、
ことばで自分にまじなひを掛け、
自分をことばの次元にまで引き上げようと、
暴れ回つてゐるのだ。
 
 
わたしは、それを演戯とも呼んだ。
 
 
        (福田恒存『翻訳論』より)
 
 
―――――――
 
 

ことばこそが、
演劇を芸術へと高めるのであり、
決して理論や思考や思惑が
さうするのではないといふこと。
 
 
より精確に言ふなら、
ことばの音韻と律動とスタイルに導かれて、
ことばを生きれば生きるほど、
初めて演戯が成り立つ。
 
 
さらには、身振り、身悶え、しぐさ、
さういふ人のこころからの行ひこそが、
ことばの内実なのだといふこと。
 
 
だから、
俳優は、
音韻から音韻へ、
身振りから身振りへと、
繰りなしていくことができるほどに、
舞台の上での自由を獲得できる。
 

ハムレットが話すことばの「意味」を探つて、
役作りをするなどといふことは、
芸術としてお門違ひなことであり、
ことばからことばへと、
リズムに乗つて口ずさむ心地よさから、
しだいにことばの流れ、波、うねりの中へと、
入り込んでいくことで、
俳優はその役を摑んでいくのです。 
 
  
演出家とは、さういふ、
ことばの芸術としての演戯を
俳優ひとりひとりから引き出すべく働く者です。
 
 
今年の暮れの12月22日(日)の、
和歌の浦での『古事記の傳へ』。
 
 
来年3月28日(土)、29日(日)の、
大阪・東京での『 をとめ と つるぎ 』。
 
 
いづれも、
演出家のわたしとして、
その観点に絞り切つて創る舞台です。
 
 
木下順二や福田恒存が押し進めたかつた、
日本の舞台言語を芸術へと高める仕事を、
もう一歩奥へと進めたい、
と希つてゐます。
 

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2019年11月28日

己れの声を己れが聴く


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先日、高校生たちに伝へようとした事柄を、
いま一度、ここに記してみようと思ひます。 
 
 
そもそも、
和歌(うた)は読むものではなく、
声に出して歌ふものです。
 
 
なぜか。
 
 
和歌とは、そもそも、
なげきであつたからです。
 
 
なげきとは、
長く息を吸ひ、
長く息を吐くことだからです。
 
 
息遣ひから、
声が発せられ、
ことばの響きが宙に拡がつてゆく。
 
 
さうして虚空に拡がりゆく響きと調べが、
人の乱れに乱れてゐたこころを鎮め、
落ち着くべきところに落ち着かせるのです。
 
 
この声の作用は、
頭で考へられるだけのことばよりも、
いつさう、深く、強く、
人のこころとからだに降りて行きます。
 
 
なぜなら、
考へは過去に根差すものですが、
声は現在にあるものだからです。
 
 
ひたすらに、
声を出す人の「いま」を響かせます。
 
 
よつて、
声あることばの力によつて、
情が慰められ、
思ひが整へられ、
動揺に耐えることができ、
己れを建て直す機縁が得られます。
 
 
何千年前から日本人は、
そのやうにして、
激しい情の渦に巻き込まれさうになる
己れのこころを律し、
こころの解放と自由を生きるために、
和歌を声に出して歌ひつづけてきました。
 
 
その声は誰に聴かれたでせうか。
 
 
もちろん、人に聴かれました。
 
 
人に聴いてもらふべく、
ことばを整へました。
 
 
より上手く、より深く、
我がこころのありやうを
人に聴き取つてもらへるやうに
ことばを整へました。
 
 
しかし、本質的なこととして、
まづもつて、
他でもない自分自身によつて聴かれるべく、
その声は発せられたのです。
 
 
己れの声を己れが聴く。
 
 
これほどに、
ことばの持つ力が実感されるときはありません。
 
 
己れの声は、己れの「いま」であります。
 
 
嘘をつくことのできない「いま」であります。
 
 
己れの「いま」を、
己れが見いだし、
己れが深く受け取り、
己れが己れを消化するため、
人は、
和歌を歌つたのです。
 
 
『萬葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』・・・
それらは、
ことばの芸術に通じるわたしたちの御先祖様たちが、
なんとかこころの悶えを抑えようとして抑ええた、
ことばの事績の集積なのです。
 
 
さういふ声による自己陶冶の道を、
いまに甦らせるのが、
言語造形の道です。
 
 
ことばに鋳直され、造形された、
先人のこころの振幅を、
わたしたちは、
言語造形をもつて、
いま一度、追体験してみます。
 
 
そのとき、
わたしたち現代人と、
古(いにしへ)の人とが、
一挙に、こころを通はすことが生まれ得る。
 
 
それは、国語の、
さらには歴史・国史の最善の学びやうだと、
わたしは思ひます。

 
 

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2019年11月19日

(ま)といふ真実



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言語造形をするときに、
大事にされるまづ最初のことは、
息遣ひ、呼吸です。
 
 
そして、深く吐き出される息が、
ことばとことばのあひだ、
文と文のあひだに、
おのづと(ま)を生み出すのです。
 
 
その無音の閧ヘ、
豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
 
ことばが発音されるときよりも、
むしろ、その無音の閧フ中にこそ、
ことばの精神、言霊が響きます。
 
 
ですから、時閧ニ空閧、
ことばといふもので埋め尽くさないのです。
 
 
無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、
そこに物質的なものではない、
精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
 
その精神の豊かさは、
人の頭にではなく、
人の知性にではなく、
胸から腹、そして手足へと、
人の情、
人の意欲へと働きかけてきます。
 
 
そのやうな(ま)に触れるとき、
人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
 
からだの調子が悪い時、
そのやうな閧ノ触れて、
人は眠りにいざなはれるやうです。
きつと、精神がその人を、
休息へと導いてくれるのでせう。
 
 
逆に、からだもこころも健やかな時、
そのやうな閧ヘ、
その人の意識をますます目覚めさせ、
ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、
様々な感覚を享受させてくれます。
 
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、
それら様々な情景を、
「もののあはれ」として、
「言霊の風雅(みやび)」として、
「わび、さび」として、
人は享受することができるのです。
 
 
「(ま)」に耳を澄ます。
 
 
それは、静けさに耳を澄ますことであり、
かつ、
豊かに、活き活きと、
精神的な動きを共にすることです。
 
 
また更に、次のことは、これからの時代、
ますます顕著になつてきます。
 
 
それは、
こころの奥に、
自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、
自分自身に嘘をついてゐるとき、
自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、
人は、そのやうな閧ノ触れると、
不快感を感じたり、不機嫌になつたり、
耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、
「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、
この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを
直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
 
「真(ま)」に触れて人は、
だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、
健やかに、
欣びを存分に享受しながら仕事をし、
人生を生きていくでせう。
 
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
言語造形もそのやうな芸術のひとつです。
 

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2019年11月06日

日本の新しい舞台言語

 
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西戸崎の浜から日本海を臨む
 
 
 
『 をとめ と つるぎ 』。
 
 
この戯曲は、
「古事記」『日本書紀」「古語拾遺」などの、
我が国の古典文学を礎にしながら、
第十四代・仲哀天皇とその皇后・神功皇后を、
主人公とする現代戯曲として書いたものです。
 
 
先日は、
この作品のテーマが、
史実として展開した地、
福岡の香椎宮、宇美八幡宮に行き、
志賀島近くで三日間の合宿を行つて来ました。
 
 
この作品の中では、
現代的なことば遣ひもあれば、
古語そのまま、
古典そのまま、
そんなことば遣ひも多用されてゐます。
 
 
それら古語によつて記されてゐる古典、
とりわけ、「古事記」は、
本来、朗唱・朗読されるものでした。
 
 
その本当の意味は、
発声・発音によつてこそ、
初めてこころに深く受け取られるものです。
 
 
しかし、問題は、
「ふさはしい」発声・発音とは、
いかなるものなのか、といふことです。
 
 
これまで、我が国の演劇においては、
能楽、歌舞伎、文楽、その他いくつかのものが、
その様式を保ちつつ、生彩を放ちつつ、
生き残つてゐます。
  
 
昭和二十年代半ばあたりから、
木下順次といふ劇作家が、
「山本安英の会」といふ会を創り、
日本の舞台言語としての芸術性の追求を
試みたことがありました。
 
 
舞台公演としては、
『夕鶴』や『子午線の祀り』が特に有名です。
 
 
そこでは、
それらの古い様式をもつ演劇と明治以降の新劇とを、
なんとか、舞台上で合一させて、
新しい日本の舞台言語を生みだせないか。
 
 
木下順二の試みはそのやうなものであつた、
と思ひます。
 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」も、
これまで、古典作品を原語のままで、
舞台作品化することに挑戦してきました。
 
 
それは、古語の持つてゐる、
ことばのダイナミズム、生命感、奥深さ、美しさを
引き立てたかつたからに他なりません。
 
 
そのために、古典作品に、新しい意識で取り組むこと。
 
 
それは、言語造形といふことばの芸術をもつてです。
 
 
話す人の間合ひ、勢ひ、身遣ひ、息遣ひ、
そこから空間の中に解き放たれる、
音韻の形、動き、リズム、ハーモニー、タクト・・・。
 
 
それらは、
生きた言語の精神の法則に則つたものです。
 
 
それら、ことばから生まれる様々な要素を一身に響かせ、
音韻の動きと形に導かれ、奏でながら、
ことばを話す。
 
 
それは、ことばの意味を踏まえつつも、
ことばの表層的な意味から離れ、
ことばの音韻、ことばの調べを感覚しつつ、
ことばを奏で、ことばでその場を満たし、
空間をことばのお宮にすること。
 
 
演じる人も、観る人、聴く人も、共に、
そのことばのお宮のなかに包まれること。
 
 
その技量と見識を養ひ、培ひ、育んでいくのが、
わたしたち「ことばの家 諏訪」の仕事なのです。
 
  
日本の舞台言語とはどのやうなものでありうるのか。
 
 
明治以来、いまだに見いだせてゐないそのことに、
わたしたちはひとつの具体的可能性を提示しようとしてゐます。
 
 
日本の新しい舞台言語を生み出すこと。
 
 
それが、わたしたちの仕事です。
 
 
しかし、その最も新しいものは、
最も古いものと、きつと、響き合ふことでせう。
 
 
 
 

来年、令和2年3月28日(土)に大阪にて、
3月29日(日)に東京にて、上演いたします。
 
 
ぜひ、聴きにいらして下さい。


 


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2019年10月25日

私立高校の先生方とのワークショップ


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昨日、今日と、
日能研の下藤 陽介さんの肝煎りによつて、
東京の江東区にある、
ふたつの私立中・高校へ伺わせていただきました。
(下藤さん、どうもありがたうございました!)
 
 
昨日は、江東区東雲にある、
かえつ有明中学校・高等学校。
 
 
来月、11月に、高校生たちに特別授業として、
和歌のワークショップをするのですが、
まづは、国語の先生方と図書室司書の方とで、
言語造形を体験していただきました。
 
 
テキストは、
本居宣長読み下し文による『古事記』と、
中島敦『山月記』。
 
 
先生方は、
それらのテキストに、
まさに体当たりで挑んで下さいました。
 
 
印刷されてゐる文字を、
空間に生き物としてありありと甦らせる言語造形。


この芸術に初めて触れられたのにも関はらず、
先生方のその理解のダイレクトなこと。


先生方のそのご理解の直接性、深みは、
国語教育の長いご経験から、
長い自問自答の重なりから、
即座に摑まれた感覚の鋭さに基づいてゐること。
 
 
わたし自身、深く感銘を受けました。
 
 
ことばの働きに通じてゐない若者たちの現況。
 
 
それは、
わたしたち親の世代の国語力の反映に他なりません。


わたしたちは、これから、
どのやうな国語教育を模索・敢行していくことができるか。
 
 
国語教育を、
言語造形から、
創り始めて行く。
 
 
わたしは、
そんなプロジェクトを起こしていくことはできないか、
そのことをずつと考へ続けてゐます。
  
 
これから先生方と語りあふことができれば、
さう希つて止みません。
 
 
 

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そして、今日は、
江東区清澄にある中村中学・高等学校にお邪魔しました。
 
 
来年の3月29日(日)にする、
東京言語造形公演『 我らが神秘劇 をとめ と つるぎ 』。
 
 
その公演のためのホールを見させていただきました。
 
 
人の声がまろやかに優しく、かつ、明瞭に響く、
とても優れたホールでした。
 
 
担当して下さる中村高等学校の先生も、
言語造形にご関心を抱いて下さり、
12月に、
先生方で言語造形のワークショップをすることも決まりました。
 
 
 
わたしは、国語教育は、
国史教育と並んで、
国創りの根幹をなす大切なものだと考へてゐます。
 
 
新しい時代を生きる若い人たちのために、
新しい国創りのために、
少しずつ、種を蒔いて行きたいと思ひます。

 
 



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2019年10月09日

目で読むだけでは見いだせない面白さ


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大阪城公園内の豐國神社

 
今日は、水曜・言語造形クラス。
 
引き続き、『古事記』を本居宣長の読み下し文でしてみました。
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が、八俣遠呂智(やまたおろち)を十拳剣(とつかつるぎ)で斬るに至る場面。
 
建速須佐之男命と足名椎命(あしなづちのみこと)との間の、二柱の神による、畳み掛けるやうな対話がもたらす、息詰まる切迫感!
 
この切迫感などは、実際に人によつて言語造形を通して響かせられねば、見いだせないもの。
 
しかも、現代語訳されたものでなく、古語のままだからこそ感じられる、ことばの音韻がもたらす音楽性と彫塑性。
 
目で読むだけでは見いだせない、かういふ面白さ、文学の味はひ深さが、言語造形にはある。
 
言語造形するにふさはしい言語芸術が、日本には古典として残されてゐること・・・。
 
ことばの感官(言語感覚)を啓くためにも、小学校・中学校から、この古典作品を言語造形することを国語教育に取り入れる先生が出てくればいい・・・。
 
国の歴史が神話のふところから生まれて来ることの神秘感が、人の内に育てばいい・・・。
 
 
 

 

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2019年10月08日

ことばの音韻は神である


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今日は、親子えんげき塾 ことばの泉の皆さんと言語造形。
 
ルドルフ・シュタイナー曰く、「ことばの音韻は神である」。
 
そのことを毎日毎日、確かめようと意識してゐます。
 
今日もまた、このシュタイナーのことばが真実であることを実感したのでした。
 
人のこころには、浮き沈みがあり、時に戸惑ひ、彷徨ひ、落ち込み、それゆゑ、自分で自分が分からなくなることもありますよね。
 
言語造形は、息遣ひをフルに繰りなしながら、ことばの音韻のひとつひとつに意を注いで行く作業にひたすらに取り組んでいきます。
 
ことばが空間に解き放たれて鳴り響く、そのとき、その音韻のひとつひとつが空間の中を動きゆくのを追い掛けて行くのです。
 
さうして、息の流れに伴つて、音韻から音韻へと造形と運動が繰りなされていく時、わたしたちはいつしか、己れのことを忘れてゐます。
 
ことばの音韻は、精神だからです。
 
精神に沿ふ時、人は己れのこころの外に出ることができます。
 
ことばの音韻にかたちを与へ、動きを生みなしていくとき、さらにことばは、リズム(長短)とタクト(強弱)とメロディー(高低)をも奏で始めます。
 
さうして、ことばは芸術として甦ります。
 
そのとき、人も、甦ります。
 

 

「古事記(ふることぶみ)の傳(つた)へ」と題して、今年の12月22日(日)、和歌の浦にて上演予定です。
 
我が国の古典『古事記』から、どのやうな音楽が聴こえて来るのでせうか。
 

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2019年09月18日

聴くときの身ぶり 京田辺言語造形クラス

 
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京田辺・言語造形クラス「森のしずく」は、毎月毎月欠かさず集まるメンバーの方々のお蔭で、もう始まつてから16年経ちます。
 
中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんがずつとお世話して下さつてゐます。
 
普段の暮らしの中で堆積した想ひを語りあひ、聴きあふ時間からいつもこのクラスが始まります。
 
聴き手は、己れのこころに浮かび来る共感と反感をうしろに措いておきながら、他者の声とことばをただただ聴く。この時間は、語り手にとってだけでなく、聴き手にとつても、とても大切な時間になつてゐます。
 
しかし、聴き手は、語られることばをそのやうに受容することは、実はとても難しく、度重ねての練習が要ります。
 
まさしく、聴くときの内的な身ぶりを聴き手自身で「みる」こと。
 
精神から他者の語ることばを聴くための身ぶりといふものが、だんだんと会得されてきます。
 
十二の感官の論で、「聴く感官」と対に位置してゐる「釣り合ひの感官」から、その身ぶりを学ぶことができます。
 
または、「ことばの感官」と対に位置してゐる「動きの感官」をもつても、学ぶことができます。
 
さうして、言語造形の稽古に入つて行き、昔話などをたつぷりと真髄から聴くことができるのです。
 
言語造形では、それらのことをからだとこころと精神をもつて学ぶことができます。
 
言語造形クラス「森のしずく」は、毎月第三水曜日午前9時45分から12時まで、京都府京田辺市中央公民館にて行つてゐます。
 
お問ひ合はせは、中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんまで、お願ひします。
電話 0774-64-2645
 
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2019年09月16日

幼な子が熱望してゐるもの

 
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幼い子どもたちは、何を熱望してゐるか。
 
数多くあるうち、最も熱望してゐるものは、大人です。
 
テレビやインターネットなどを通さない、活き活きとした大人といふ存在そのもの、実在そのものです。
 
嘘のない表現、活き活きとした息遣ひ、こころのこもつたことば遣ひ。
 
さういふものは、昔の日本においては、普段の日常生活でも、たつぷりと、ありました。ありありとありました。
 
いま、子どもたちは、日常において、さういふ、なまの大人の表現に出会へません。
 
だからこそ、教育の現場において、さういふ見識と技量をもつ大人が必要です。
 
何を教へるかも大切なことですが、それ以上に、どう教へるか、どう語りかけるか、といふ「いかに」といふ側面をわたしたち大人は学んでいく必要があります。
 
「ことばの家 諏訪」で、言語造形の学びをしていきませんか。
 
実践として、定期的に、子どもたちにお話しを語りかける場も設けていきます。
 
クラスの情報は、以下をどうぞご覧下さい。
https://kotobanoie.net/spra/
 
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2019年06月24日

ことば、精神


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今日も、幼な子たちと昔話を分かち合ふ。
 
幼な子たちは、ことばのかたちを求めてゐる。
 
ことばの音韻のもつ動きとすがたを、まるで大好物の食べ物を求めるやうに求めてゐる。
 
粗雑なことばの使ひ方から離れ、丁寧にひとつひとつの音韻が扱はれるとき、「あ」の開かれた響きや「い」の緊張をもたらす響きなどが、幼な子たちのからだをひそやかに織りなしていく。
 
ことばが、幼な子のからだを創り、小学生のこころを創る。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、精神だから。
 
精神が、0歳から7歳ごろまでの子どものからだを創り、7歳から14歳ごろまでの子どものこころを創る。
 
語り部とは、昔から、精神の伝道師だつた。
 
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一列目の男の子たちの頭がずらりとそろってゐるのが可愛らしいなあ・・・。

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男の子たち、一生懸命、お話しを聴いてゐる・・・。



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2019年06月15日

信頼と創造 〜言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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来春公演予定の言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』。
 
今日は、稽古の前にたつぷりと時間をかけて、ストレッチ&ムーブメント。
 
指導は、帯中日子天皇(仲哀天皇)を演じる、平木 大士さん。
 
かうして、他者と肌を触れ合ひ、押し合ひ、へし合ひする時間を重ねて行くことで、他者を感じ、自分自身を感じ、仲間との間に流れる信頼を醸造し、劇といふ芸術ならではの創造が始まること。
 
そして、なによりも、そこには、喜びが生まれること。
 
そんなことを平木さんは教へてくれます。
 
お陰様で、メンバーの間にも、互いに対する理解と信頼とが回を追ふごとに深まつて来ました!
 
そして、これから夏にかけて、たつぷり時間をかけて、本格的に言語造形劇に、ひとつひとつの役、ひとつひとつの身ぶり、ひとつひとつのことばの造形に取り組んでいきます。
 
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2019年06月12日

呼吸の交響曲


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和歌山でげんごぞうけいによる演劇に取り組んでゐるグループ「親子えんげき塾 ことばの泉」のメンバーの方が書いて下さった記事のご紹介。
 
演劇といふ芸術に取り組んでいく中で何が喜びかと言ふと、言ふ迄もないことかもしれませんが、「共に創つてゆく」といふことです。
 
しかも、普段は触れたこともない他人の手や肩や背中に触れて、摑んで、取つ組み合ひながら、創つてゆく。
 
腕や脚といふ箇所は、人体のなかで、とりわけ、宇宙と繋がる場所だからこそ、その箇所をたわわに使つて、他者といふ宇宙と繋がりつつ、交はりつつ、劇を創り上げて行くのです。
 
また、ことばの芸術であるがゆゑに、共演者と息を合はせること。
 
たとへ自分のセリフでない時でさへも、共演者が話してゐるその呼吸に合はせて無言でゐながら自分も呼吸をし、外側には見えなくても、共演者の声に注意深く耳を澄ましつつ、見えない身ぶりをしてゐますと、この記事にも書いて下さつてゐるやうに、汗だくになります。
 
演劇は、息遣ひによる耳には聴こえない合奏、もしくは交響曲とも言へるのです。
 
双子座は、ことばの芸術を感覚する感官を天で支へてゐる星の宮です。
 
その双子のやうに、大人になつた今、子どもの時のやうに互いの身体に触れ合ひながら芸術を通して汗を流す。
 
かういふ練習は、人を甦らせます。
 
そして、その人をますますその人にしていきます。
 
なぜなら、人は他者をリアルに迎へてこそ、己れといふものを感じ、知りゆくからです。
 
他者が、世が、人には必要です。
 

 
親子えんげき塾 ことばの泉の皆さん、どうもありがたう!
 

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2019年05月19日

走る! 〜『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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言語造形をもつて舞台に立つために、皆さん、走る、走る!
 
大地と己れのからだとのかかはり、一瞬天空に浮かび上がる身の感覚を、親しく、密やかに感じながら走ることで、ことば遣ひが俄然活き活きとしてきます。
 
また、それぞれの役が演じ始められる中で、戯曲を目で読んでゐるだけのときには気づかなかつたことが気づかれてゆく。
 
その、手と足が教へてくれる叡智は、わたしたちの小さな頭からは出て来やうがないものです。
 
来春公演予定の『 をとめ と つるぎ 』に向けて、一歩一歩、歩みを進めてゐます。

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2019年05月14日

『古事記の傳へ』〜令和元年冬至に向けての準備〜


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親子えんげき塾 ことばの泉は、今年、令和元年の暮れ、師走の月、冬至の日に、和歌の浦で『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題して、天の岩戸開きに至る日本の神話を演じます。
 
冬至の、最も太陽の力が弱まり、最も闇の力が強まるそのとき、天照大御神様が天の岩戸からお出ましになられ、陽の光の力が再び甦るのを、わたしたち日本人は毎年、毎冬、お祝ひしてゐました。
 
その冬至の日に向けて、わたしたちも準備を少しずつ始めてゐます。
 
日本人がこころから大切に守り続けてきた物語り。
 
それは、神話です。
 
それは、語り伝へられて来ただけでなく、演じられ、祭りを通して祝はれ続けて来たものです。
 
つまり、古事記の神話は、今年、この月、このとき、いま、起こつてゐることを言語化したものであります。
 
闇の極まる日の冬至の祭りは、そもそも、新嘗(にひなへ)の祭りでした。
 
一年の米作りの終結点として祝はれ、収穫に対して太陽の神、天照大御神に感謝を捧げる、日本人の暮らしの中でなくてはならない、とても重要なものでした。
 
神話といふ文学と、米作りを中心にした暮らしと、信仰が、ひとつになつて何百年も、いや、きつと何千年も営まれて来た国、それが日本です。
 
わたしたちは、いま、何に繋がらうとしてゐるのだらうか。
 
そんなことをこの『古事記の傳へ』を演じようとしてゐる、えんげき塾のメンバーたちはこころの中で感じ始め、考へ始めてゐます。
 
わたしもそんなメンバーの方々と共にこの令和元年を生きることができることが、なんだか晴れがましいのです。
 
昨日の稽古に、見学に来て下さつた村尾 初子 (Hatsuko Murao)さんが動画を撮つて下さいました。
 
https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305188046208315/?t=5

https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305187706208349/?t=7
 
初子さん、どうもありがたうございます。

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古さを慕ふ


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芸術において、自分自身を解放する、自分自身をみつめる、そのことの素晴らしさ、尊さ。
 
そして、つひには、芸術とは、「道」であることに気づくことの、妙なること。

そのことに、気づくことは、芸術が自己実現を促すことといふよりも、「道」そのものを尊び、存続させていくことに、人の務めがあることに気づくことでもあるでせう。

とりわけ、日本に於いて芸術とは、そもそも、すべて「道」です。

「道」とは、人がゆくところ、人が己れの足を動かせて歩くところです。
 
さう言へば、わたしがまだ若くて、随分精神的にも未熟だつた頃、フォルメン線描といふ、シュタイナー芸術のレッスンに出た時、わたしが、今から思えば非常に「つまらない」質問を先生にしたことを想ひ出します。
 
すると先生は、「づべこべ言はずに、手を動かせ」と厳しくわたしに言ひました。
 
まだ三十代前半の若い女の先生でしたが、なぜだか、すぐにわたしは羞恥心と共に、「これは、道なのだ」と直感しました。
 
わたしは、日本人のさういふ先生に教へてもらへたことを幸運に思ひます。
 
言語造形も、「道」です。
 
ことばの発声に取り組めば取り組むほど、ことばそのものの秘密、それを発声してゐる人の秘密、そのことばによつて描かれようとしてゐるものごとの秘密を、だんだんと明かすやうになる。
 
ことばとは、まさしく神から人だけに与へられてゐる「自然」です。

ことばは、己れの「自然」を、人によつて、解き明かされたがつてゐます。
 
人によつて、造形されたがつてゐます。
  
その「自然」の秘密を解き明かしていく「道」をしつかりと歩いて行くための稽古を毎日続けていくこと。
 
そして、その「道」を求める人にここにもひとつの「道」があることをお伝へすること。
 
それが、わたし自身にことよさしされてゐることだと改めて念ひます。




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2019年05月08日

『言語造形と演劇芸術のための学校』のお知らせ


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これは、言語造形に真摯に取り組んでみたいといふ人のための学校です。
 
語るといふ芸術。
演じるといふ芸術。
詠ふといふ芸術。
 
言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。
 
精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。
 
また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。
 
そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。

日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。
  
ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。

週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。
 
 

この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。
 
実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
 
 
●就学期間:
 
五年間
 
毎週平日4日間/年間45週
 
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み
 
 
 
●時間:
 
午後6時〜午後8時
 
 
 
●場所:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

 
●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji 
 

 
●授業料:
 
入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関わらず。合宿などの費用別途)
 
 
 
●授業内容:
 
言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他
 
 
 
●お申し込み:
 
履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添えて、
メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
後日、面接日をお知らせいたします。

posted by koji at 22:56 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする