2019年11月19日

(ま)といふ真実



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言語造形をするときに、
大事にされるまづ最初のことは、
息遣ひ、呼吸です。
 
 
そして、深く吐き出される息が、
ことばとことばのあひだ、
文と文のあひだに、
おのづと(ま)を生み出すのです。
 
 
その無音の閧ヘ、
豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
 
ことばが発音されるときよりも、
むしろ、その無音の閧フ中にこそ、
ことばの精神、言霊が響きます。
 
 
ですから、時閧ニ空閧、
ことばといふもので埋め尽くさないのです。
 
 
無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、
そこに物質的なものではない、
精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
 
その精神の豊かさは、
人の頭にではなく、
人の知性にではなく、
胸から腹、そして手足へと、
人の情、
人の意欲へと働きかけてきます。
 
 
そのやうな(ま)に触れるとき、
人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
 
からだの調子が悪い時、
そのやうな閧ノ触れて、
人は眠りにいざなはれるやうです。
きつと、精神がその人を、
休息へと導いてくれるのでせう。
 
 
逆に、からだもこころも健やかな時、
そのやうな閧ヘ、
その人の意識をますます目覚めさせ、
ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、
様々な感覚を享受させてくれます。
 
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、
それら様々な情景を、
「もののあはれ」として、
「言霊の風雅(みやび)」として、
「わび、さび」として、
人は享受することができるのです。
 
 
「(ま)」に耳を澄ます。
 
 
それは、静けさに耳を澄ますことであり、
かつ、
豊かに、活き活きと、
精神的な動きを共にすることです。
 
 
また更に、次のことは、これからの時代、
ますます顕著になつてきます。
 
 
それは、
こころの奥に、
自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、
自分自身に嘘をついてゐるとき、
自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、
人は、そのやうな閧ノ触れると、
不快感を感じたり、不機嫌になつたり、
耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、
「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、
この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを
直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
 
「真(ま)」に触れて人は、
だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、
健やかに、
欣びを存分に享受しながら仕事をし、
人生を生きていくでせう。
 
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
言語造形もそのやうな芸術のひとつです。
 

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2019年11月06日

日本の新しい舞台言語

 
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西戸崎の浜から日本海を臨む
 
 
 
『 をとめ と つるぎ 』。
 
 
この戯曲は、
「古事記」『日本書紀」「古語拾遺」などの、
我が国の古典文学を礎にしながら、
第十四代・仲哀天皇とその皇后・神功皇后を、
主人公とする現代戯曲として書いたものです。
 
 
先日は、
この作品のテーマが、
史実として展開した地、
福岡の香椎宮、宇美八幡宮に行き、
志賀島近くで三日間の合宿を行つて来ました。
 
 
この作品の中では、
現代的なことば遣ひもあれば、
古語そのまま、
古典そのまま、
そんなことば遣ひも多用されてゐます。
 
 
それら古語によつて記されてゐる古典、
とりわけ、「古事記」は、
本来、朗唱・朗読されるものでした。
 
 
その本当の意味は、
発声・発音によつてこそ、
初めてこころに深く受け取られるものです。
 
 
しかし、問題は、
「ふさはしい」発声・発音とは、
いかなるものなのか、といふことです。
 
 
これまで、我が国の演劇においては、
能楽、歌舞伎、文楽、その他いくつかのものが、
その様式を保ちつつ、生彩を放ちつつ、
生き残つてゐます。
  
 
昭和二十年代半ばあたりから、
木下順次といふ劇作家が、
「山本安英の会」といふ会を創り、
日本の舞台言語としての芸術性の追求を
試みたことがありました。
 
 
舞台公演としては、
『夕鶴』や『子午線の祀り』が特に有名です。
 
 
そこでは、
それらの古い様式をもつ演劇と明治以降の新劇とを、
なんとか、舞台上で合一させて、
新しい日本の舞台言語を生みだせないか。
 
 
木下順二の試みはそのやうなものであつた、
と思ひます。
 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」も、
これまで、古典作品を原語のままで、
舞台作品化することに挑戦してきました。
 
 
それは、古語の持つてゐる、
ことばのダイナミズム、生命感、奥深さ、美しさを
引き立てたかつたからに他なりません。
 
 
そのために、古典作品に、新しい意識で取り組むこと。
 
 
それは、言語造形といふことばの芸術をもつてです。
 
 
話す人の間合ひ、勢ひ、身遣ひ、息遣ひ、
そこから空間の中に解き放たれる、
音韻の形、動き、リズム、ハーモニー、タクト・・・。
 
 
それらは、
生きた言語の精神の法則に則つたものです。
 
 
それら、ことばから生まれる様々な要素を一身に響かせ、
音韻の動きと形に導かれ、奏でながら、
ことばを話す。
 
 
それは、ことばの意味を踏まえつつも、
ことばの表層的な意味から離れ、
ことばの音韻、ことばの調べを感覚しつつ、
ことばを奏で、ことばでその場を満たし、
空間をことばのお宮にすること。
 
 
演じる人も、観る人、聴く人も、共に、
そのことばのお宮のなかに包まれること。
 
 
その技量と見識を養ひ、培ひ、育んでいくのが、
わたしたち「ことばの家 諏訪」の仕事なのです。
 
  
日本の舞台言語とはどのやうなものでありうるのか。
 
 
明治以来、いまだに見いだせてゐないそのことに、
わたしたちはひとつの具体的可能性を提示しようとしてゐます。
 
 
日本の新しい舞台言語を生み出すこと。
 
 
それが、わたしたちの仕事です。
 
 
しかし、その最も新しいものは、
最も古いものと、きつと、響き合ふことでせう。
 
 
 
 

来年、令和2年3月28日(土)に大阪にて、
3月29日(日)に東京にて、上演いたします。
 
 
ぜひ、聴きにいらして下さい。


 


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2019年10月25日

私立高校の先生方とのワークショップ


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昨日、今日と、
日能研の下藤 陽介さんの肝煎りによつて、
東京の江東区にある、
ふたつの私立中・高校へ伺わせていただきました。
(下藤さん、どうもありがたうございました!)
 
 
昨日は、江東区東雲にある、
かえつ有明中学校・高等学校。
 
 
来月、11月に、高校生たちに特別授業として、
和歌のワークショップをするのですが、
まづは、国語の先生方と図書室司書の方とで、
言語造形を体験していただきました。
 
 
テキストは、
本居宣長読み下し文による『古事記』と、
中島敦『山月記』。
 
 
先生方は、
それらのテキストに、
まさに体当たりで挑んで下さいました。
 
 
印刷されてゐる文字を、
空間に生き物としてありありと甦らせる言語造形。


この芸術に初めて触れられたのにも関はらず、
先生方のその理解のダイレクトなこと。


先生方のそのご理解の直接性、深みは、
国語教育の長いご経験から、
長い自問自答の重なりから、
即座に摑まれた感覚の鋭さに基づいてゐること。
 
 
わたし自身、深く感銘を受けました。
 
 
ことばの働きに通じてゐない若者たちの現況。
 
 
それは、
わたしたち親の世代の国語力の反映に他なりません。


わたしたちは、これから、
どのやうな国語教育を模索・敢行していくことができるか。
 
 
国語教育を、
言語造形から、
創り始めて行く。
 
 
わたしは、
そんなプロジェクトを起こしていくことはできないか、
そのことをずつと考へ続けてゐます。
  
 
これから先生方と語りあふことができれば、
さう希つて止みません。
 
 
 

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そして、今日は、
江東区清澄にある中村中学・高等学校にお邪魔しました。
 
 
来年の3月29日(日)にする、
東京言語造形公演『 我らが神秘劇 をとめ と つるぎ 』。
 
 
その公演のためのホールを見させていただきました。
 
 
人の声がまろやかに優しく、かつ、明瞭に響く、
とても優れたホールでした。
 
 
担当して下さる中村高等学校の先生も、
言語造形にご関心を抱いて下さり、
12月に、
先生方で言語造形のワークショップをすることも決まりました。
 
 
 
わたしは、国語教育は、
国史教育と並んで、
国創りの根幹をなす大切なものだと考へてゐます。
 
 
新しい時代を生きる若い人たちのために、
新しい国創りのために、
少しずつ、種を蒔いて行きたいと思ひます。

 
 



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2019年10月09日

目で読むだけでは見いだせない面白さ


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大阪城公園内の豐國神社

 
今日は、水曜・言語造形クラス。
 
引き続き、『古事記』を本居宣長の読み下し文でしてみました。
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が、八俣遠呂智(やまたおろち)を十拳剣(とつかつるぎ)で斬るに至る場面。
 
建速須佐之男命と足名椎命(あしなづちのみこと)との間の、二柱の神による、畳み掛けるやうな対話がもたらす、息詰まる切迫感!
 
この切迫感などは、実際に人によつて言語造形を通して響かせられねば、見いだせないもの。
 
しかも、現代語訳されたものでなく、古語のままだからこそ感じられる、ことばの音韻がもたらす音楽性と彫塑性。
 
目で読むだけでは見いだせない、かういふ面白さ、文学の味はひ深さが、言語造形にはある。
 
言語造形するにふさはしい言語芸術が、日本には古典として残されてゐること・・・。
 
ことばの感官(言語感覚)を啓くためにも、小学校・中学校から、この古典作品を言語造形することを国語教育に取り入れる先生が出てくればいい・・・。
 
国の歴史が神話のふところから生まれて来ることの神秘感が、人の内に育てばいい・・・。
 
 
 

 

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2019年10月08日

ことばの音韻は神である


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今日は、親子えんげき塾 ことばの泉の皆さんと言語造形。
 
ルドルフ・シュタイナー曰く、「ことばの音韻は神である」。
 
そのことを毎日毎日、確かめようと意識してゐます。
 
今日もまた、このシュタイナーのことばが真実であることを実感したのでした。
 
人のこころには、浮き沈みがあり、時に戸惑ひ、彷徨ひ、落ち込み、それゆゑ、自分で自分が分からなくなることもありますよね。
 
言語造形は、息遣ひをフルに繰りなしながら、ことばの音韻のひとつひとつに意を注いで行く作業にひたすらに取り組んでいきます。
 
ことばが空間に解き放たれて鳴り響く、そのとき、その音韻のひとつひとつが空間の中を動きゆくのを追い掛けて行くのです。
 
さうして、息の流れに伴つて、音韻から音韻へと造形と運動が繰りなされていく時、わたしたちはいつしか、己れのことを忘れてゐます。
 
ことばの音韻は、精神だからです。
 
精神に沿ふ時、人は己れのこころの外に出ることができます。
 
ことばの音韻にかたちを与へ、動きを生みなしていくとき、さらにことばは、リズム(長短)とタクト(強弱)とメロディー(高低)をも奏で始めます。
 
さうして、ことばは芸術として甦ります。
 
そのとき、人も、甦ります。
 

 

「古事記(ふることぶみ)の傳(つた)へ」と題して、今年の12月22日(日)、和歌の浦にて上演予定です。
 
我が国の古典『古事記』から、どのやうな音楽が聴こえて来るのでせうか。
 

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2019年09月18日

聴くときの身ぶり 京田辺言語造形クラス

 
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京田辺・言語造形クラス「森のしずく」は、毎月毎月欠かさず集まるメンバーの方々のお蔭で、もう始まつてから16年経ちます。
 
中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんがずつとお世話して下さつてゐます。
 
普段の暮らしの中で堆積した想ひを語りあひ、聴きあふ時間からいつもこのクラスが始まります。
 
聴き手は、己れのこころに浮かび来る共感と反感をうしろに措いておきながら、他者の声とことばをただただ聴く。この時間は、語り手にとってだけでなく、聴き手にとつても、とても大切な時間になつてゐます。
 
しかし、聴き手は、語られることばをそのやうに受容することは、実はとても難しく、度重ねての練習が要ります。
 
まさしく、聴くときの内的な身ぶりを聴き手自身で「みる」こと。
 
精神から他者の語ることばを聴くための身ぶりといふものが、だんだんと会得されてきます。
 
十二の感官の論で、「聴く感官」と対に位置してゐる「釣り合ひの感官」から、その身ぶりを学ぶことができます。
 
または、「ことばの感官」と対に位置してゐる「動きの感官」をもつても、学ぶことができます。
 
さうして、言語造形の稽古に入つて行き、昔話などをたつぷりと真髄から聴くことができるのです。
 
言語造形では、それらのことをからだとこころと精神をもつて学ぶことができます。
 
言語造形クラス「森のしずく」は、毎月第三水曜日午前9時45分から12時まで、京都府京田辺市中央公民館にて行つてゐます。
 
お問ひ合はせは、中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんまで、お願ひします。
電話 0774-64-2645
 
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2019年09月16日

幼な子が熱望してゐるもの

 
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幼い子どもたちは、何を熱望してゐるか。
 
数多くあるうち、最も熱望してゐるものは、大人です。
 
テレビやインターネットなどを通さない、活き活きとした大人といふ存在そのもの、実在そのものです。
 
嘘のない表現、活き活きとした息遣ひ、こころのこもつたことば遣ひ。
 
さういふものは、昔の日本においては、普段の日常生活でも、たつぷりと、ありました。ありありとありました。
 
いま、子どもたちは、日常において、さういふ、なまの大人の表現に出会へません。
 
だからこそ、教育の現場において、さういふ見識と技量をもつ大人が必要です。
 
何を教へるかも大切なことですが、それ以上に、どう教へるか、どう語りかけるか、といふ「いかに」といふ側面をわたしたち大人は学んでいく必要があります。
 
「ことばの家 諏訪」で、言語造形の学びをしていきませんか。
 
実践として、定期的に、子どもたちにお話しを語りかける場も設けていきます。
 
クラスの情報は、以下をどうぞご覧下さい。
https://kotobanoie.net/spra/
 
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2019年06月24日

ことば、精神


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今日も、幼な子たちと昔話を分かち合ふ。
 
幼な子たちは、ことばのかたちを求めてゐる。
 
ことばの音韻のもつ動きとすがたを、まるで大好物の食べ物を求めるやうに求めてゐる。
 
粗雑なことばの使ひ方から離れ、丁寧にひとつひとつの音韻が扱はれるとき、「あ」の開かれた響きや「い」の緊張をもたらす響きなどが、幼な子たちのからだをひそやかに織りなしていく。
 
ことばが、幼な子のからだを創り、小学生のこころを創る。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、精神だから。
 
精神が、0歳から7歳ごろまでの子どものからだを創り、7歳から14歳ごろまでの子どものこころを創る。
 
語り部とは、昔から、精神の伝道師だつた。
 
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一列目の男の子たちの頭がずらりとそろってゐるのが可愛らしいなあ・・・。

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男の子たち、一生懸命、お話しを聴いてゐる・・・。



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2019年06月15日

信頼と創造 〜言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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来春公演予定の言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』。
 
今日は、稽古の前にたつぷりと時間をかけて、ストレッチ&ムーブメント。
 
指導は、帯中日子天皇(仲哀天皇)を演じる、平木 大士さん。
 
かうして、他者と肌を触れ合ひ、押し合ひ、へし合ひする時間を重ねて行くことで、他者を感じ、自分自身を感じ、仲間との間に流れる信頼を醸造し、劇といふ芸術ならではの創造が始まること。
 
そして、なによりも、そこには、喜びが生まれること。
 
そんなことを平木さんは教へてくれます。
 
お陰様で、メンバーの間にも、互いに対する理解と信頼とが回を追ふごとに深まつて来ました!
 
そして、これから夏にかけて、たつぷり時間をかけて、本格的に言語造形劇に、ひとつひとつの役、ひとつひとつの身ぶり、ひとつひとつのことばの造形に取り組んでいきます。
 
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2019年06月12日

呼吸の交響曲


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和歌山でげんごぞうけいによる演劇に取り組んでゐるグループ「親子えんげき塾 ことばの泉」のメンバーの方が書いて下さった記事のご紹介。
 
演劇といふ芸術に取り組んでいく中で何が喜びかと言ふと、言ふ迄もないことかもしれませんが、「共に創つてゆく」といふことです。
 
しかも、普段は触れたこともない他人の手や肩や背中に触れて、摑んで、取つ組み合ひながら、創つてゆく。
 
腕や脚といふ箇所は、人体のなかで、とりわけ、宇宙と繋がる場所だからこそ、その箇所をたわわに使つて、他者といふ宇宙と繋がりつつ、交はりつつ、劇を創り上げて行くのです。
 
また、ことばの芸術であるがゆゑに、共演者と息を合はせること。
 
たとへ自分のセリフでない時でさへも、共演者が話してゐるその呼吸に合はせて無言でゐながら自分も呼吸をし、外側には見えなくても、共演者の声に注意深く耳を澄ましつつ、見えない身ぶりをしてゐますと、この記事にも書いて下さつてゐるやうに、汗だくになります。
 
演劇は、息遣ひによる耳には聴こえない合奏、もしくは交響曲とも言へるのです。
 
双子座は、ことばの芸術を感覚する感官を天で支へてゐる星の宮です。
 
その双子のやうに、大人になつた今、子どもの時のやうに互いの身体に触れ合ひながら芸術を通して汗を流す。
 
かういふ練習は、人を甦らせます。
 
そして、その人をますますその人にしていきます。
 
なぜなら、人は他者をリアルに迎へてこそ、己れといふものを感じ、知りゆくからです。
 
他者が、世が、人には必要です。
 

 
親子えんげき塾 ことばの泉の皆さん、どうもありがたう!
 

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2019年05月19日

走る! 〜『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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言語造形をもつて舞台に立つために、皆さん、走る、走る!
 
大地と己れのからだとのかかはり、一瞬天空に浮かび上がる身の感覚を、親しく、密やかに感じながら走ることで、ことば遣ひが俄然活き活きとしてきます。
 
また、それぞれの役が演じ始められる中で、戯曲を目で読んでゐるだけのときには気づかなかつたことが気づかれてゆく。
 
その、手と足が教へてくれる叡智は、わたしたちの小さな頭からは出て来やうがないものです。
 
来春公演予定の『 をとめ と つるぎ 』に向けて、一歩一歩、歩みを進めてゐます。

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2019年05月14日

『古事記の傳へ』〜令和元年冬至に向けての準備〜


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親子えんげき塾 ことばの泉は、今年、令和元年の暮れ、師走の月、冬至の日に、和歌の浦で『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題して、天の岩戸開きに至る日本の神話を演じます。
 
冬至の、最も太陽の力が弱まり、最も闇の力が強まるそのとき、天照大御神様が天の岩戸からお出ましになられ、陽の光の力が再び甦るのを、わたしたち日本人は毎年、毎冬、お祝ひしてゐました。
 
その冬至の日に向けて、わたしたちも準備を少しずつ始めてゐます。
 
日本人がこころから大切に守り続けてきた物語り。
 
それは、神話です。
 
それは、語り伝へられて来ただけでなく、演じられ、祭りを通して祝はれ続けて来たものです。
 
つまり、古事記の神話は、今年、この月、このとき、いま、起こつてゐることを言語化したものであります。
 
闇の極まる日の冬至の祭りは、そもそも、新嘗(にひなへ)の祭りでした。
 
一年の米作りの終結点として祝はれ、収穫に対して太陽の神、天照大御神に感謝を捧げる、日本人の暮らしの中でなくてはならない、とても重要なものでした。
 
神話といふ文学と、米作りを中心にした暮らしと、信仰が、ひとつになつて何百年も、いや、きつと何千年も営まれて来た国、それが日本です。
 
わたしたちは、いま、何に繋がらうとしてゐるのだらうか。
 
そんなことをこの『古事記の傳へ』を演じようとしてゐる、えんげき塾のメンバーたちはこころの中で感じ始め、考へ始めてゐます。
 
わたしもそんなメンバーの方々と共にこの令和元年を生きることができることが、なんだか晴れがましいのです。
 
昨日の稽古に、見学に来て下さつた村尾 初子 (Hatsuko Murao)さんが動画を撮つて下さいました。
 
https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305188046208315/?t=5

https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305187706208349/?t=7
 
初子さん、どうもありがたうございます。

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古さを慕ふ


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芸術において、自分自身を解放する、自分自身をみつめる、そのことの素晴らしさ、尊さ。
 
そして、つひには、芸術とは、「道」であることに気づくことの、妙なること。

そのことに、気づくことは、芸術が自己実現を促すことといふよりも、「道」そのものを尊び、存続させていくことに、人の務めがあることに気づくことでもあるでせう。

とりわけ、日本に於いて芸術とは、そもそも、すべて「道」です。

「道」とは、人がゆくところ、人が己れの足を動かせて歩くところです。
 
さう言へば、わたしがまだ若くて、随分精神的にも未熟だつた頃、フォルメン線描といふ、シュタイナー芸術のレッスンに出た時、わたしが、今から思えば非常に「つまらない」質問を先生にしたことを想ひ出します。
 
すると先生は、「づべこべ言はずに、手を動かせ」と厳しくわたしに言ひました。
 
まだ三十代前半の若い女の先生でしたが、なぜだか、すぐにわたしは羞恥心と共に、「これは、道なのだ」と直感しました。
 
わたしは、日本人のさういふ先生に教へてもらへたことを幸運に思ひます。
 
言語造形も、「道」です。
 
ことばの発声に取り組めば取り組むほど、ことばそのものの秘密、それを発声してゐる人の秘密、そのことばによつて描かれようとしてゐるものごとの秘密を、だんだんと明かすやうになる。
 
ことばとは、まさしく神から人だけに与へられてゐる「自然」です。

ことばは、己れの「自然」を、人によつて、解き明かされたがつてゐます。
 
人によつて、造形されたがつてゐます。
  
その「自然」の秘密を解き明かしていく「道」をしつかりと歩いて行くための稽古を毎日続けていくこと。
 
そして、その「道」を求める人にここにもひとつの「道」があることをお伝へすること。
 
それが、わたし自身にことよさしされてゐることだと改めて念ひます。




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2019年05月08日

『言語造形と演劇芸術のための学校』のお知らせ


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これは、言語造形に真摯に取り組んでみたいといふ人のための学校です。
 
語るといふ芸術。
演じるといふ芸術。
詠ふといふ芸術。
 
言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。
 
精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。
 
また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。
 
そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。

日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。
  
ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。

週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。
 
 

この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。
 
実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
 
 
●就学期間:
 
五年間
 
毎週平日4日間/年間45週
 
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み
 
 
 
●時間:
 
午後6時〜午後8時
 
 
 
●場所:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

 
●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji 
 

 
●授業料:
 
入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関わらず。合宿などの費用別途)
 
 
 
●授業内容:
 
言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他
 
 
 
●お申し込み:
 
履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添えて、
メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
後日、面接日をお知らせいたします。

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2019年04月29日

国語教育としての言語造形

 
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京都御所に北隣する母と子の森

 
これからの国語教育を考へたいのです。
 
手軽な話しことばの習得や、おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かはせるのでは、もう埒があかないはずです。
 
自分自身の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、明確に、ていねいに、活き活きと、ことばにして話すことのできる力、文章にして書くことのできる力を、養はせてあげることに向かふべきだと思ふのです。
 
昔から我が国の人は、とりわけ、美しいものを美しいと、簡潔に、かつ、委細を尽くして、ことばにする力に秀でてゐました。
 
善きものを善きものと、美しいものを美しいものと、まことなるものをまことなるものと、ことばにする、そんな力を養ふこと、それが昔から一貫してゐる我が国の国語教育です。
 
国語のその力は、おのづから、聴く人、読む人のこころをはつとさせるやうな、ひいては、日本の精神文化を啓くやうな言辞の道へと、文章の道へと、若い人たちを導いていくでせう。
 
文章を書くためのそのやうな力は口からいずることばに、口からいずることばはやがて文を綴りゆく力に、きつと、深さをもたらしていき、互ひにその深みで作用しあうことでせう。
 
話しことばは、練られ、研がれ、磨かれた書きことばに準じて、おのづからその質を深めるでせう。
 
書きことばは、活き活きとした話しことばに準じて、おのづと生命力を湛えるやうになりゆくでせう。
 
 
 
そして、国語教育にさらに言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、これからの教育になくてはならないものだとわたしは思つてゐます。
 
前もつて詩人たち、文人たちによつて書き記されたことばを、言語造形をもつて発声する、その行為はいつたい何を意味するのでせうか。
 
話すことのうちにも、書くことのうちにも、リズムのやうなものが、メロディーのやうなものが、ハーモニーのやうなものが、時に晴れやかに、時に密やかに、通ひうる。
 
さらには、色どりのやうなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
 
言語の運用において、そのやうな芸術的感覚をもたらすこと。それが言語造形をすることの意味なのです。
 
さうして話されたことば、語られた文章は、知性によつて捉へられるに尽きずに、音楽のやうに、色彩のやうに、彫塑のやうに、全身で聴き手に感覚される。
 
詩人や文人は頭でものを書いてゐるのではなく、全身で書いてゐます。
 
言語造形をもつて、口から放たれることばは、そのことばを書いたときの書き手の考へや思ひだけでなく、息遣ひ、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
 
そして、ことばの精神、言霊といふものが、リアルなものとして、人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。
 
書かれたことばが、言語造形を通して活き活きとした話しことばとして甦り、やがて、その感覚から、自分の書くことばにも生命が通ひだす。
 
そんな国語教育。
 
子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。言語造形をやつてみることです。ことばのことばたるところを実感することです。そして、こどもたちの前でやつて見せること、やつて聴かせることです。
 
ここ数年、わたしも、『古事記』や『平家物語』、能曲、そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、現代語訳することなく、原文のまま、古語を古語のまま、言語造形をもつて響かせることで、現代を生きてゐるわたしたちのこころにも充分に届くのだといふことを、確信するに至りました。
 
昔のことばだからといつて無闇に避けずに、感覚を通してそのやうな芸術的なことばを享受していく機会を、どんどん与へていくことで、子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
 
 
手軽に日常の用を足し、お互ひの生活に簡便なことばだけを、子どもたちに供するだけなら、わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰へていくでせう。
 
わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、古いことばを学ぶ労力を費やしてまで近寄るに値しないので、出来る限り易しいことばに変へて、学ぶ者の負担を軽減してやらうといふだけなら、ますます現代人は昔の人が考へてゐたこと、感じてゐたこと、欲してゐたことが分からなくなるでせう。
 
過去に学ばない人は、決して新しい創造をなしゆくことはできません。
 
やがてこの国は己れのアイデンティティーを失つていくでせう。
 
古典を古典として敬ふことを学ぶ。その学びによつて、子どもたちはやがて自分たちが住んでゐる国が、一貫した国史をもつてゐることを実感していきます。
 
さうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもつて、我が国ならではの精神を伝へていく。それはきつと他の国々の歴史をも敬ひ理解していくことへと繋がつていくでせう。
   



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2019年04月20日

ことばが甦るとき 〜明日の甦りの祭の日にちなんで〜


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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にする。
 
自分は、言語造形といふ仕事のために、ことばを素材にしてゐます。声にして発せられることばを素材にしてゐます。
 
ただ、普段の日常生活の中で、特に仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考へられ分別から組み立てられることばで、それはさうであつてこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのやうなことば遣ひは人間の生活になくてはならないものです。
 
仕事の上で守るべきマニュアルに沿つて発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守つて、上の人の言ふことを聞いて、できるだけ失礼のないやうに、頑張つて、人は、一生懸命、ことばを話してゐます。
 
しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発してゐる人自身の生命がだんだんと涸渇してくるのです。
 
そのことばは実は死んだことばだからです。
 
生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでゐます。死んでゐるからこそ、人の思惑に沿つていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。
 
人の頭は死した部分で、別の言ひ方をすれば、もう完全に出来上がつてゐる部分なのです。頭骨で固く閉ぢられた部分なのです。
 
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであつても、死んでゐます。物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣ひ、それが頭から発せられることば遣ひです。しかし、それは、だんだんと人を死に促進します。
 
だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。死から生への甦りを乞ひ求めるがゆゑにです。それは、手足の動きから生まれることばです。手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。呼吸が活き活きとしてくると、おのづとことばを話す時の表情も豊かになります。
 
そんな風に表情豊かにことばを発してゐると、自分自身が生まれ変はつたやうな新鮮なこころもちに包まれてゐるのをそこはかとなく感じたりもします。
 
人は折をみて、そのやうなことばの発し方に触れることによつて、生きてゐることばの世界に入るのです。
 
言語造形の練習をする上でのまずもつての次第は、四の五の言はずに、そんな生きてゐることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。
 
そして、何年にもわたつてだんだんと練習を重ねていくにしたがつて、呼吸といふことの秘密に気づき始めます。
 
吸ふ息によつて、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、精神の響きに出逢ひます。
 
そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢ひを引つさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによつて、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。
 
そのやうに、呼吸によつて天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになつて生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。
 
普段は、土と水だけになりがちなのを、ことばの甦りをもつて、人は、光と風をも合はせて生きるのです。
 
さうして、いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。
 
だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念ひをもたらします。
 
言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思ひます。
 
さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きつと、かう語つてゐます。(出典が何だつたのか思ひ出せず、すいません)
 
風と光が織りなす中での、そのやうなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなつた人や、天の使ひの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えてゐるのだ、と。
 
ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。
 
さういつた肉の眼や耳には捉へられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きつと、深い関係があつて、ただ、さういふことを机上で考へるのではなく、繰り返される練習の中でのみ聴き取るがごとく受け取つていく。感覚していく。
 
その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。
 
魚屋さんも、大工さんも、人の仕事とは、本来、似たやうな練習の繰り返しからおのづと生まれてくる無私へと歩いていく、そのことを言ふのかもしれません。
 

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2019年02月28日

マリー・シュタイナーによる序文C


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話されることば、それは、そもそも、芸術です。
 
ことばそのものの内に潜められてゐる法則があります。
 
取り組む素材や対象に潜んでゐるその法則を知ること。
 
そして、その法則に沿ふことができる技量を身につけて行くこと。
 
それが芸術行為であることは、どの芸術分野においても共通のことであります。
 
それには、練習が要ります。
 
練習こそが、法則の知をもたらし、技量の練磨を促します。
 
では、言語・ことばに、どのやうな法則があるのか。
 
それを知性で述べ伝へることはとても難しいものですが、マリー・シュタイナーが見事に、芸術的に、言ひ表してくれてゐます。
 
わたしなりに原文から意訳をし、順序も入れ替えますが、載せてみます。
 
少し長くなりますが、文意を味はつてくだされば、幸ひです。
 
 
―――――――
 
●ことばの癒す力、魔法の力を感覚できる日が、きつと、やつて来る。
 
それは、気高い仕事である。
 
呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなし。それらは、まこと、気高い仕事である。
 
そのまことは芸術の線に相応し、その線は意欲の向きとして途切れてもならず、動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
そもそも、言語は流れる動きであり、内なる音楽に担はれ、彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
ことばの線、それは動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
その芸術としての線が、人を突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイアされ、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
その線がこわばつてはならない。間(ま)においてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひを取りこむ。
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
―――――――
 
 
ことばによつて己れを表さうとするのではなく、ことばそのものが表さうとしてゐるものを表す。
 
ことばを、客として、迎える。
 
そんな道をマリー・シュタイナーは述べてゐます。
 
 

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2019年02月27日

幼な子の息遣ひに耳を澄ませながら


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幼い子どもたちは、神秘的なお話しの時には、静かさの中、全身を耳にして、深く深くこころの境にまで入つて行く。
 
そして、楽しいお話しの時には、もんどりうつ位の喜びの中で、お話しを味はふ。
 
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グリム童話の『おいしいお粥』、柳田国男再録の昔話『鷲の卵』、『桃太郎』、歌舞伎十八番から『ういらう売り』・・・。
 
今日も、子どもたちの息遣ひに耳を澄ませながら語らせてもらふことができた。
 
ことばが、空間に弾んで、飛んで、溶け去つて行つた。
 
保育園の先生方も自分自身の語り方にだんだんと言語造形を取り入れてくれてゐて、とても頼もしいことだ。
 
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2019年02月24日

マリー・シュタイナーによる序文B


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―――――――
 
●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
―――――――
 
人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。
 
自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。
 
「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。
 
言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。
 
その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。
 
さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。
 
頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。
 
それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。
 
その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。
 
さうしますと、人は、そもそもの自分自身に立ち返つてまいります。
 
麗(うるは)しいことではないですか。
 
 
 

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2019年02月22日

マリー・シュタイナーによる序文A


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―――――――
 
●人がみづからの己れを摑むまでの迷ひ道では、なほ人の源から遠く飛ばされようとも、ひとつの精神の絆、言語は、人にとどまつてある。
 
―――――――
 
 
わたしも、「みづからの己れを摑むまで」どれほど、迷ひに迷ひ、今から思ひますと、どれほど「人の源から遠く飛ばされ」てゐたことでせうか。
 
しかし、四十歳ごろにして、人は、己れを摑み始めます。
 
そのことは、孔子も「四十にして惑はず」と言つてをります。 
 
己れを摑むこと、そのとき、頼りになるのは、自分自身の話すことばの質です。
 
自分の話すことばを、練り直し始めます。
 
その年齢までは、自分を守り、囲んでくれてゐた「ことば」、わたしたちで言へば「日本語」があり、その言語が「一つの精神の絆」としてその人の人生に付き添つてくれてゐました。
 
ことばが、人を守つてくれてゐました。
 
しかし、四十歳を過ぎるころからは、人自身がことばをみづから己れのことばとして立てて行くことが、要求されるはずです。
 
ことばは、もう、人を守つてくれません。
 
人は、四十歳ごろから、社会の中でしつかりと自分自身を表現し、事物をしつかりと言ひ表すことができるやう、その精神の絆としてのことばをみづから練り直し始めるのです。
 
もし、この時期に、このことを逸しますと、いつまで経つても、自分の思つたことをそのまま口にすることで、人との關係性を壊し続けてしまつたり、逆に、思つてゐることがうまくことばにできなくて、これもまた人との關係性に支障が多々出て來ることになりかねません。
 
自分の話すことばが、ちゃんと自分の体重が乗つてゐるやうな、重みのあるものとなりゆくやう、自分自身を意識的に教育し始めていい時なのです。
 
また、自分自身が話したいことをそのまま話していい時期は過ぎ行き、聴き手である相手のこころを汲みとりつつ、ことばを選んで丁寧に話すといふことを学び始めていい時期なのです。
 
人は、ことばといふものがあればこそ、そのことばを通して、己れのこころをみづから教育していくことができます。
 
人といふものが、幾つになつても成長できる生き物なのは、「ことば」といふものを授かつてゐるからなのでせう。
 
 

posted by koji at 16:09 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする