2019年02月28日

マリー・シュタイナーによる序文C


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話されることば、それは、そもそも、芸術です。
 
ことばそのものの内に潜められてゐる法則があります。
 
取り組む素材や対象に潜んでゐるその法則を知ること。
 
そして、その法則に沿ふことができる技量を身につけて行くこと。
 
それが芸術行為であることは、どの芸術分野においても共通のことであります。
 
それには、練習が要ります。
 
練習こそが、法則の知をもたらし、技量の練磨を促します。
 
では、言語・ことばに、どのやうな法則があるのか。
 
それを知性で述べ伝へることはとても難しいものですが、マリー・シュタイナーが見事に、芸術的に、言ひ表してくれてゐます。
 
わたしなりに原文から意訳をし、順序も入れ替えますが、載せてみます。
 
少し長くなりますが、文意を味はつてくだされば、幸ひです。
 
 
―――――――
 
●ことばの癒す力、魔法の力を感覚できる日が、きつと、やつて来る。
 
それは、気高い仕事である。
 
呼吸に於いて生きる、呼吸を造形する、呼吸の鑿(のみ)をもつて空気のうちに造形する。
 
そして震え、細やかなヴァイブレーションを感じる。
 
空気のエーテルの、上音と下音の、ウムラウトの響きに於けるこよなく細やかなインターヴァルのヴァイブレーション。
 
それら精神を通はせるやうになるもののヴァイブレーション。 
 
さうした芸術としての、微妙この上ない物質に於ける生みなし。それらは、まこと、気高い仕事である。
 
そのまことは芸術の線に相応し、その線は意欲の向きとして途切れてもならず、動きの勢ひとして欠け落ちてもならない。
 
そもそも、言語は流れる動きであり、内なる音楽に担はれ、彩りのある相(すがた)と彫塑的なかたちをとる。
 
そのリズム、メロディ、彫塑的な輪郭、建築的な力、高らかな、あるひは、穏やかな韻律、誇らしい終止形、そのすべてをとりまとめ、解き放ち、絡み合わせる線、ディオニソス風の踊りへと盛り上がる動き、アポロ風の輪舞のやうに明るく澄んでなだらかに繰り出す動き・・・
 
ことばの線、それは動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢ひを与へる。
 
その芸術としての線が、人を突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイアされ、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑み取られる。
 
その線がこわばつてはならない。間(ま)においてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひを取りこむ。
 
その都度、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは、ナルシスティックになつてしまふ。
 
―――――――
 
 
ことばによつて己れを表さうとするのではなく、ことばそのものが表さうとしてゐるものを表す。
 
ことばを、客として、迎える。
 
そんな道をマリー・シュタイナーは述べてゐます。
 
 

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2019年02月27日

幼な子の息遣ひに耳を澄ませながら


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幼い子どもたちは、神秘的なお話しの時には、静かさの中、全身を耳にして、深く深くこころの境にまで入つて行きます。
 
そして、楽しいお話しの時には、もんどりうつ位の喜びの中で、お話しを味はひます。
 
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グリム童話の『おいしいお粥』、柳田国男再録の昔話『鷲の卵』、『桃太郎』、歌舞伎十八番から『ういろう売り』・・・。
 
今日も、子どもたちの息遣ひに耳を澄ませながら語らせてもらふことができました。
 
ことばが、空間に弾んで、飛んで、溶け去つて行きました。
 
保育園の先生方も自分自身の語り方にだんだんと言語造形を取り入れてくれてゐて、とても頼もしいことです。
 
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2019年02月24日

マリー・シュタイナーによる序文B


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―――――――
 
●意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。意識は芸術を殺さずに、深める。意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。
 
―――――――
 
人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。
 
自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。
 
「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。
 
言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。
 
その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。
 
さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。
 
頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。
 
それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。
 
その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。
 
さうしますと、人は、そもそもの自分自身に立ち返つてまいります。
 
麗(うるは)しいことではないですか。
 
 
 

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2019年02月22日

マリー・シュタイナーによる序文A


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―――――――
 
●人がみづからの己れを摑むまでの迷ひ道では、なほ人の源から遠く飛ばされようとも、ひとつの精神の絆、言語は、人にとどまつてある。
 
―――――――
 
 
わたしも、「みづからの己れを摑むまで」どれほど、迷ひに迷ひ、今から思ひますと、どれほど「人の源から遠く飛ばされ」てゐたことでせうか。
 
しかし、四十歳ごろにして、人は、己れを摑み始めます。
 
そのことは、孔子も「四十にして惑はず」と言つてをります。 
 
己れを摑むこと、そのとき、頼りになるのは、自分自身の話すことばの質です。
 
自分の話すことばを、練り直し始めます。
 
その年齢までは、自分を守り、囲んでくれてゐた「ことば」、わたしたちで言へば「日本語」があり、その言語が「一つの精神の絆」としてその人の人生に付き添つてくれてゐました。
 
ことばが、人を守つてくれてゐました。
 
しかし、四十歳を過ぎるころからは、人自身がことばをみづから己れのことばとして立てて行くことが、要求されるはずです。
 
ことばは、もう、人を守つてくれません。
 
人は、四十歳ごろから、社会の中でしつかりと自分自身を表現し、事物をしつかりと言ひ表すことができるやう、その精神の絆としてのことばをみづから練り直し始めるのです。
 
もし、この時期に、このことを逸しますと、いつまで経つても、自分の思つたことをそのまま口にすることで、人との關係性を壊し続けてしまつたり、逆に、思つてゐることがうまくことばにできなくて、これもまた人との關係性に支障が多々出て來ることになりかねません。
 
自分の話すことばが、ちゃんと自分の体重が乗つてゐるやうな、重みのあるものとなりゆくやう、自分自身を意識的に教育し始めていい時なのです。
 
また、自分自身が話したいことをそのまま話していい時期は過ぎ行き、聴き手である相手のこころを汲みとりつつ、ことばを選んで丁寧に話すといふことを学び始めていい時期なのです。
 
人は、ことばといふものがあればこそ、そのことばを通して、己れのこころをみづから教育していくことができます。
 
人といふものが、幾つになつても成長できる生き物なのは、「ことば」といふものを授かつてゐるからなのでせう。
 
 

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2019年02月21日

マリー・シュタイナーによる序文@


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『言語造形と演劇芸術』といふルドルフ・シュタイナーによる連続講演録があります。
 
その本の初版の序として、妻であり、仕事の上でのかけがへのないパートナーでもあつたマリー・シュタイナーが記してゐる「クリエイティブな言語」といふ文章の内容を少しご紹介したいと思ひます。(言語造形家 鈴木一博さん訳)
 
彼女は、ルドルフ・シュタイナーの最も近くにゐながら仕事を共にした人であり、言語造形といふことばの芸術をルドルフと共に産みだした人です。
 
―――――
 
言語に於いて人が人の神々しいところをつかむ。音韻がクリエイティブな力であり、人を人のみなもとに結び、人が精神への道をふたたび見いだすに任せる。音韻によつて人が動物の上に上がり、探りながらでみづからの<わたし>に立ちかへる。
 
―――――
 
言語とは、ことばとは、一体、何でせう。
 
印刷された文字のことではなく、音声として空気の中に響くとき、ことばは、そもそも、人を精神に繋ぐよりどころであります。
 
人がことばを話すとき、その人その人の声の響きに顕れるその人のこころと精神。
 
人は、そもそも、己れの精神からことばを発することができるといふこと。
 
人は、そもそも、ことばの精神に助けてもらふことで、初めて活き活きと話すことができるといふこと。
 
もし、声を発してことばを話すことを芸術的に学び始めたなら、人は予感するかもしれません。
 
これは、わたしが、これまでの人生とは全く違つて、どんどんクリエイティブになつて行く道だと。
 
勇気さへあれば、誰でも、この道を歩き始めることができるのだと。
 
言語は、神々しいものです。
 
音韻を追ひつつ、ことばを話すことを学んでいくことは、まさしく自分自身の源に繋がるといふことであり、自分がますます自分自身になつて行くといふことであり、動物的なこれまでのあり方から、ますます、人になりゆく道であるといふことです。

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2019年02月18日

言語造形を通して俳優術に迫る@

 
俳優にとつて、己れのからだは、その俳優によつて奏でられる楽器であるがゆゑに、わたしたちは、己れの「からだ」を親しく知つてゆくことを要します。
 
ピアノの奏者がピアノをよく知ることを要するやうにです。
 
どのやうな立ち方、歩き方をしてゐるのか、そのときに、足の裏のどの辺りに重心がかかりがちであり、膝をどう曲げてゐるのか、腕をどう動かしてゐるのか、等々、己れのからだを親しく観る必要があります。
 
そして、わたしたちは言語造形に勤しみながら、己れの声を己れみづからで聴くことができるやうになるまで、練習を重ねることを要します。
 
己れの発したことばが、どういふ形をもつて、どういふ動きをもつて、喉からすつかり放たれ、空気に響き渡つていくかを、感官をもつて、また感官を越えて、観ることができるやうに、練習されてしかるべきなのです。
 
昨日、『ことばの家 諏訪』で行つてゐます『普遍人間学の会』での言語造形の時間に、こんな話をさせてもらひました。
 
ーーーーーーーー 

ある役者がゐました。
 
彼は、見た目の姿も、声も、ほとんど役者には向いてゐませんでした。その彼が、演じる芸術について、かう述べてゐます。
 
「もしわたしが舞台にただ立つにまかせて立つてゐたとしたら、わたしは役者が務まらなかつたでせう。
 
からだは小さいし、猫背ですし、しわがれ声で、顔は不細工です。しかし、わたしはわたしなりにやつて来ました。
 
舞台でのわたしは、常に三人の人です。
 
一人は、小さく、猫背の、しわがれ声で、不細工な人です。
 
二人目は、猫背と、しわがれ声から全く抜け出してゐる人、まぎれなくイデ―であり、全く精神である人です。その人をわたしは常に前に迎えることになります。
 
そして、いよいよ三人目の人です。わたしは、さきの二人から抜け出し、三人目の人として、二人目の人と共に、一人目の、しわがれ声で、猫背の人をもとに演じます」
 
(ルドルフ・シュタイナー『演じるといふ芸術について』から)

 
 
ーーーーーーー
 

わたしたち、言語造形をする人は、この三つの分かちを、常に意識して舞台に立つことを修練していきます。
 
いつも格好よくあらうとする人、いつも美しくあらうとする人は、己れのからだについてなにひとつ諾ふことをしないゆゑに、己れのからだとの関わりの中で己れを知るといふことができません。
 
からだ、そして声、それは、わたしたちが己れみづからを知るためのたいせつなたいせつな元手なのです。
 
 
 

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2019年02月15日

幼な子はわたしたちの先生

 
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赤ん坊や幼い子どもを前にするとき、わたしたちは微笑ましい思ひや、ときにあらたまつた思ひに一挙に包まれはしないでせうか。
 
そして、思はず微笑んだり、その子に話しかけたりしたくなります。
 
あの独特の感覚。
 
その感覚を意識的に大事に保ちながら、子どもに昔話を語りかけたり、絵本を読んで聴かせたりするとき、語り手のわたしたちは、逆に子どもたちから、「語る」といふ行為とはどういふ行為であるのかを学ばせてもらつてゐます。
 
そして、さらに、あらためて感じられることは、その時期の子どもたちの成長にとつて要となるものは、動きなんだといふことです。
 
子どもたちはお話や歌のことばが分かる、分からないよりも、そのことばに合はせて、内的にも外的にも、動くことができるかどうか。
 
動きのあることばが、子どもたちの傍にゐる大人たちによつて話されてゐるか。
 
それらのことが、ことのかなめなのです。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、動きに裏打ちされてゐてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。
 
ことばといふものを通して、この時期は、すべてのものが、生きてゐる、動いてゐる!
 
わたしも僕も、みんな生きてゐる、動いてゐる!
 
そして、ことばといふものも生きてゐる、動いてゐる!
 
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。
 
ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、大人のやうに静かにして聴いてゐるのではなく、動きの中でこそ、動きによつて生まれるバランス感覚の中でこそ、育まれます。

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もちろん、大人でさへも、何かに一心に耳を傾けてゐるときには、からだは動かさずとも、内側を動かしてゐます。
 
シュタイナーは、「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声してゐます。それは内なるオイリュトミーなのです」と語つてゐます。
 
その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。
 
しかし、子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。
 
外的に動くときは、できるだけ、調和のとれた動き、かたちある動き、かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すやうな動きに導いていくことができたら、素晴らしいですし(ライゲンやお話ごつこも工夫すると素晴らしいものになります)、羽目をはづした子どもたちの動きにも、「座りなさい、静かにしなさい」といふことばではなく、そのつどそのつど、芸術的に対応して、ことばの裏側にある動きを通して、子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。
 
幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育つた子は、小学校に入つてから、今度は自分から動きのあることばを使ふこと、話すことができるやうになつていきます。
 
言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。
 
さういつた、言語にとつて、人にとつて、いのちを湛えるありやうとはどのやうな語り方をすればいいのか、それを、幼な子たちは、大人であるわたしたちに教へてくれます。
 

 
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2019年02月13日

言葉の工夫

 
言霊(ことだま)とは、人がことばに触れて、こころが動かされるとき、誰もが当たり前に感覚してゐる、言語の精神の働きのことを言ひます。
 
ことばと、こころが接触する空間に、立ち上がり、拡がつて来る、あるかたち、動き、色彩、それら言霊の働きを丁寧に迎へ、聴き取り、見て取り、取り扱ふのが、わたしたち言語造形をする者です。
 
さて、小林秀雄の『本居宣長』は、何度、再読しても、そのたびに、こころが唸るやうな、ときに、晴々とするやうな、そのやうな手応えを感じさせてくれる日本文学の最高峰の書だとわたしは常々感じてゐます。
 
その第三十四章に、かうあります。
 

●「言霊」といふ古語は、生活の中に織り込まれた言葉だつたが、「言霊信仰」といふ現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのままに認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智恵だつたので、特に信仰と呼ぶやうなものではなかつた。(昭和五十二年発刊版 422頁)
 

「言霊信仰」などと言ひつつ、机上の精緻な学問体系を作り上げるのではなく、自分が発したことばが、いかに、他者に深刻に働きかけることがあるかといふことであつたり、他者が発したほんのちょつとのひとことで、己れのこころがいかに激しく揺さぶられてしまふか、といふ当たり前のことに、古代の人々は当たり前に気づいてゐた、といふことなのです。
 
言語造形といふ芸術を生み出したルドルフ・シュタイナーも、そのやうな、一音一音の精神的な性質、精神的な背景を説いてゐますが、ややもすれば、さういふ机上の理解だけで尽きてしまふ「空理」を振り回すことの馬鹿らしさを彼もきつと痛感してゐて、生き物としての言語の芸術的働きを見失ふことは決してありませんでした。
 

●天も海も山も、言葉の力で、少しも動ずる事はないが、これを眺める人の心は、僅かの言葉が作用しても動揺する。心動くものに、天も海も山も動くと見えるくらゐ当り前なことはない。(422頁)
 

山の動く日。それは、到底動くはずのなかつた、このこころが、ことばによつて、揺さぶられ、動かされてしまつたとき、目の前の山も動く日が、現にあるのです。その感覚を、通常の散文的理解と取り違へることは、古代人にも決してなかつたことでせう。
 

●天や海や山に、名を付けた時に、人々は、この「言辞(ことば)の道」を歩き出したのである。天や海や山にしてみても、自分達を神と呼ばれてみれば、人間の仲間入りをせざるを得ず、其処に開けた人間との交はりは、言葉の上の工夫次第で、望むだけ、恐しくも、尊くも、豊かにもなつただらう。(422頁)
 

言語造形とは、かうした「言葉の工夫」です。
 
工夫次第で、人は、ものごととの関係をいかやうにも深くしていくことができるのです。
 
 

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2019年01月31日

かたちを求める幼な子たち


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昨日、保育園にて、絵本『ごぶごぶ ごぼごぼ』の読み聞かせをやつてみました。
 
子どもたち、かういふ絵本、大好きなんですね!
 
保育士さんの腕に抱かれてゐる0歳児の子どもたちまで、ずつと惹きつけられて聴いてゐました。
 
まさに、言語造形を引き出す絵本なのです。
 
深い息遣ひから生まれる間(ま)と、ことばの音韻の一音一音の造形。
 
かういふ、「深い息遣ひと、かたちあることば」を、幼な子たちは、からだまるごとで欲してゐます。
 
なぜならば、その年頃の幼な子たちは、己れのからだを形づくつてゐる最中なのですから。
 
世に「かたちあるもの」を求めてゐるのです。

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2019年01月19日

わたしたちの新しい文化の礎


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新しい年が明けまして、もうすぐ三週間が過ぎようとしてゐます。
 
昨年の様々な仕事を通して、わたしも様々な想ひを抱いたのですが、今年の初めになり、改めて、これからの「ことばの家 諏訪」の言語造形の仕事の中でも、舞台活動・上演こそをより充実させていく必要があることを、これまで以上に痛切に感じました。
 
芸術には、その教育的・治療的な実践のやうに様々な側面がありますが、やはり、まことと信じうることを世に造形していくこと、捧げていくこと、つまりわたしたちの場合ですと、作品を創り続け、本番を上演し続けていくことが最もたいせつなことであります。
 
わたしたちにとりましては、一回一回の舞台公演が本当により深い内実を湛えていくことが必須であると考へてゐます。
 
そのためには、第一に、わたし自身も含めて、舞台に立つ人の養成です。
 
ことばが芸術であることを、身をもつて証していく道です。
 
舞台、そこは、人が、その人自身になりゆく秘儀の場であります。
 
秘儀の場でありつつ、芸術といふ姿で多くの人に開かれてゐます。
 
この、多くの人に開かれてゐるといふこと、それは、理屈抜き、知識抜きで、こころを開き、己が身をもつて行為に徹していけば、どの人もその芸術に通じていくことが必ずできるといふことです。
 
なぜならば、芸術とは、人間教育だからです。
 
そして、観る側、聴く側にとりましても、こころさへ開いてゐれば、舞台の魅力を直感することができます。
 
なぜならば、舞台とは、知識がものを言ふ場所ではなく、その人の生き方がものを言ふ場所であり、その生き方を共にするひとときだからです。
 
それが、とりわけ舞台芸術の魅力です。
 
そんな、舞台芸術としての言語造形を天職とする人の養成のための学校創りがわたしにとりまして最もたいせつな仕事になります。
 
さういふ人の養成を視野の中心に置きながら、わたしは実際の舞台創りに取り組んでいかうと考へてゐます。
 
言語造形は、音楽・舞踊といふ芸術と同じく、ミューズの神からの恵みとともに営むことばの芸術であります。
 
それゆゑ、その分野に携わつてをられる方々、さういふ芸術への感覚を共にする方々に、これからは積極的に助けていただき、実際の舞台創りをしながら、舞台に立つ人の養成に取り組んでいきたい。
 
そんな念ひで、昨日は、足利智子さんに時間を作つていただき、お会ひすることができました。
 
彼女は、音楽といふ芸術に、精神の一筋の確かな調べを聴き取らうと耳を傾け続けてゐるおひとりです。
 
15年以上前からの古い友人としてお付き合ひ頂いてゐるのですが、改めて、わたしたちの仕事へのお手伝ひをお願ひしました。
 
音楽総監督といふかたちで、舞台創りに関はつていただきたかつたのです。
 
ことばと音楽がひとつになり、ともに美を奏でていくことにわたしたちが仕へられるやう、修業を重ねていきたいと希つてゐます。 
 
言語造形といふことばの芸術が、日本の国に真に根付いていき、あとあと、ことばが芸術であること、日本語がこの上なく芸術的な言語であることを多くの子どもたちが誇りに思へるやう、そのための地盤創りに、また、これからも、多くの方々に助けていただきたいと切望してゐます。
 
長文、失礼いたしました。
 
 
●『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/


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2019年01月14日

Aといふ道とBといふ道 〜和歌山での新年会〜


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「親子えんげき塾 ことばの泉」の皆さんと和歌山での新年会。
 
料理は旨い、酒も旨い、昨年暮れのキリスト生誕劇を演じ終えて、言語造形といふことばの芸術に開眼され始めた皆さんとの会話もとてもとても楽しい。
 
芸術について、からだで感じることのできたリアルな事柄、そしてそこから生まれた新しい認識を語り合ふことは、本当に楽しいのです。
 
今日、新年会に参加されなかつたメンバーの方々も含めて、皆さん本当にありがたうございました。勿体ないほどの素敵な花束までいただきました。皆さんのお気持ちが、本当に嬉しいです。
 
 
さて、こんな話をさせてもらひました。
 
Aといふ道と、Bといふ道が、ある。
 
Aといふ道は、精一杯、全力で言語造形の舞台に立つことで、自己実現を目指す。それまでの自分自身のあり方から、一皮も二皮も脱皮して、新しい自分自身を発見することを目指す道です。一生懸命やつた自分自身を自分自身で認めてあげること、それを学ぶ道です。
 
Bといふ道は、自己実現といふものは、結果としておのづと生じるものであり、むしろ、ことばに仕えること、ことばの精神により深く入つて行くことを目指す道です。芸術としての精度を深めていく道ですので、終わりはありません。しかし、その道は、利点があつて、その人その人には様々な個性がありますが、この道を歩んで行くうちに、おのづとエゴが抜け落ちていく道でもあります。さうして、自分たちの行為を通して、世にたいせつな何かを訴えていきます。
 
Aといふ道も、Bといふ道も、つまるところ、重なつていくのですが、しかし、人によつては、その微妙な違ひが、やがて大きな違ひになつてゆくのだけれども、皆さんは、これからも言語造形を通してお芝居を創つていく上で、どちらを選びますか。どちらを選んでも自由なのです、といふことをお話ししました。
 
 
「ことばの泉」のメンバーが早速、今日のことを記事に上げてくれました。ここに転載させてもらひます。

 
ーーーーーーーーーーーーーー 
 
ことばの泉、生誕劇打ち上げ兼新年会。
 
昨年は本当に演劇を通して、濃い時間を過ごしました。
 
今日来れないメンバーもいましたが、前日にシェアリングし、今後のことばの泉の理念も話し合いました。
 
昨年の生誕劇への取り組みが私たちにもたらしたものは、とても大きかった。
 
今やっと、親子えんげき塾ことばの泉が本当の意味で始まります。
 
今年の活動もとても楽しみです。
 
諏訪先生とともに、ことばの世界、ことばの力を身をもって体験したいと思います。
 
 
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2018年12月03日

言語造形と演劇芸術のための学校


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言語造形と演劇芸術のための学校

言語造形といふ芸術活動をしていく上で、なぜこのやうな学校的なものを打ち樹てていくことが、必要なのかを改めて考へてみました。 
 
人は誰でも、思ひ上がりといふルーツィファー的なものと、自己不信感・絶望といふアーリマン的なもの、そして、そのどちらにもまたがる不満・満たされなさといふものを、必ず、抱えて生きてゐます。
 
この、こころにどうしても宿つてしまふ三つの業は、大人になつてからこそ、わたしたちが向き合はなければならないものです。
 
でなければ、わたしが、〈わたし〉になつてゆくことが阻まれるからです。
 
〈わたし〉とは、パーソナリティーを越えた、インディヴィジュアリティーとしての〈わたし〉のことです。
 
それは、まさに、わたしのわたしたるところです。
 
作品を創つてゆく際、作品の精神にわたしが呑み込まれてゐる間は、自分ではできてゐるつもりでも、実のところ、作品として成り立つてをらず、作品として説得力のあるものとして作品が作品として一人立ちしてゐません。
 
いはば透明なわたしである〈わたし〉が、作品の精神よりも、大きくなつて初めて、作品として真価を発揮し出します。
 
〈わたし〉が、作品よりも大きくならなければなりません。
 
そのためには、もう、繰り返しの練習しか、道はないのです。早道などありません。
 
先ほど書いた三つの宿業とも言へるものを凌いでいき、ひとつひとつの作品を透明な〈わたし〉をもつて包み込んでいくためには、どうしても相応しい指導とそれに応じるこつこつとした練習が必要です。
 
繰り返し繰り返しの稽古といふものこそが、人にそれらの宿業を凌がせていく道であることを実感してゐます。
 
ゆゑに、一定期間、毎日、指導を受け、稽古をしつづける環境の中に入つていくことが、これを天職になさうと志す人にとつて、どうしても要るのです。
 
言語造形では、五年といふ期間をもつてそれがなされます。
 
その五年といふ時間こそが、その人を学校から自由に羽ばたかせうるのです。
 
月に一回や、週に一回では、どうしても埒が明かないところがあるのです。

わたし自身には、その理想に対する実感と確信がありましたが、そのやうな環境を準備する心積もりと決意が、長い間できませんでした。
 
しかし、時が熟して来たのかもしれません。
 
わたしのなかで、その志がどうしても萌し、地上に生へ出て来たのです。
 
天職としての言語造形をなしていく日本人が必要だと考へてゐます。
 
日本語といふわたしたちの国語の美しさと喜びを、子どもたち、未来の日本人たちに受け継いで行つてもらふためです。
 
そのためには、国語の芸術家が必要なのです。
 
日本といふ国に、言語造形といふ芸術が、今後、五十年後、百年後、二百年後、いよいよ榮えていくために、わたしも、いま、始めたいと思つてゐます。
 
楽器の演奏者が、指揮者といふ外の眼・外の耳によつてよりふさわしく導かれてゆくやうに、ことばを話す芸術、言語造形をする者にも、さういふ外なる眼と耳が必要です。
 
志をもつ人に向けて開かれる学校です。
 
 

https://kotobanoie.net/school/

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2018年11月19日

(ま)といふ真実


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和歌(うた)の神を祀る玉津島神社の裏の山から観た夕方の和歌の浦

言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、息遣ひ、呼吸です。
 
そして、深く吐き出される息が、ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、おのづと(ま)を生み出すのです。
 
その無音の閧ヘ、豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
ことばが発音されるときよりも、むしろ、その無音の閧フ中にこそ、ことばの精神、言霊、言語のゲニウスが響きます。
 
ですから、時閧ニ空閧、ことばといふもので埋め尽くさないのです。無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、そこに物質的なものではない、精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
その精神の豊かさは、人の頭にではなく、胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。
 
そのやうな(ま)に触れるとき、人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
からだの調子が悪い時、そのやうな間に触れて、人は眠りにいざなわれるやうです。きつと、精神がその人を休息へと導いてくれるのでせう。
 
逆に、からだもこころも健やかな時、そのやうな閧ヘ、その人の意識をますます目覚めさせ、ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、様々な感覚を享受させてくれます。
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、それら様々な情景を「もののあはれ」として、人は享受することができるのです。
 
またさらに、次のことは、これからの時代、ますます顕著になつてきます。
 
それは、こころの奥に自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、自分自身に嘘をついてゐるとき、自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、人は、そのやうな閧ノ触れると、不快感を感じたり、不機嫌になつたり、耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
「真(ま)」に触れて、人は、だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、健やかに、欣びを存分に享受しながら仕事をしていくでせう。
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
 
言語造形もそのやうな芸術のひとつだと思ひます。
 



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2018年11月13日

水がすうつと流れる


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稽古場で、稽古そのものがいのちを得ていく瞬間があります。
 
声を出してゐる人と、声に耳を傾けてゐる人と、空間とが、共に動き出して、各々の息遣ひが噛み合つてくる瞬間です。
 
むかし、稽古場によく出入りする我が家の娘が幼いとき、こんなことを言ひました。
 
「練習してゐる人の声を聞いてるとね、からだのなかに、水がすうつと流れるの」
 
昨日の稽古でも、生徒さんの語りを聴いてゐて、わたしのからだの中を「水がすうつと流れ」ていくのをまざまざと感じました。
 
それは、生徒さんが受け身でなく、課題に挑む準備を積極的にして、その場に立つてゐたからでせう。
 
基本的に、学びといふものは、独学の精神に尽きるのです。
 
理路整然とした理論や、整つたカリキュラムや、周りのよき環境などを求めてゐるとき、たいがい、人は、怠惰な精神しかもつてゐないやうです。
 
教へてもらふのではなく、自分から掴み取つてゆくぞ、といふ気概と精神が、本当にたいせつです。
 
何はなくとも、まづからだを動かして、汗を流さうとする人と人からは、爽やかな精神の息吹きが生まれ、笑顔が生まれる。
 
言語造形に勤しむ皆さんに本当に感謝です。
 

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2018年10月29日

淡々と語る? 〜幼児への語りかけ〜


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以前、言語造形のレッスンを受けて下さつたある方から「幼児へのお話しの語り方」について、ご質問を受けました。
 
それは、シュタイナー教育などでよく言われてゐる「幼児教育の場で、感情を込めず¨淡々と¨語ることで、子どものイメージの力を使わせる」ということについてのご質問でした。
 
このご質問は、わたしにも、本当に、よく問はれます。
 
そこで、書かせてもらひましたことを、改めてここでも記させてもらひます。
 
 
ーーーーー
 
わたしは、幼児であれ、大人であれ、「本物の言語」を語って聴かせることが絶対に大事だと思っています。
 
幼児用のことば遣いやお話の語り方などは、ないのです。
 
感情は込めるものではなく、生まれるものであり、おのずから立ち上がってくるものであり、それこそが本当の感情です。
 
よく言われていることで、幼児教育の場で「感情を込めず¨淡々と¨語ることで、子どものイメージの力を使わせる」ということは、その「込められた」感情を嫌っているということではないでしょうか。
 
そして、「込められた、捏造された感情」を嫌うあまり、「淡々と」というお題目に甘えて、実に平板な語りに安住してしまっている。
 
それが実情だと思います。
 
そこには、ことばに対する見識がほとんどありません。
 
シュタイナー教育でよく言われている「感情を込めず¨淡々と¨語る」だけしていますと、確かに子どもにイメージを使わせますが、「知的なイメージ」ばかりふくらます子どもを育ててしまいます。
 
そこに、意志の働きをもたらさないと、つまり、身振りに裏打ちされたことばでないと、子どもの意志が育ちません。
 
ことばにふさわしい人間的な身振りをもって話すこと。身振り、それは、人の意欲や意志の働きから生まれます。
 
一方、ことばの発声はできうるかぎり明瞭にすること。この明瞭さこそが、思考の働きであり、「淡々と」という意味なのです。
 
その明瞭に発音されることばと、身振り。
 
そのことばは、思考と意志の融合となります。
 
そのときの表出は、そのことば、そのことばに、ふさわしい感情の表出になります。
 
それは、ときに、静かな響きになる時もあれば、活発で劇的な響きになる時もあります。
 
それは、ことばと文に沿って変わってきます。
 
その響きは、いずれも、人のイマジネーションを引きだします。
 
実際に、言語造形による物語りを聴いていただく機会を、どんどん増やしていきたいと考えています。
 
 
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2019年1月開校!
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/
 

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2018年10月28日

ことばの奥にあるもの


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写真撮影 山本 美紀子さん

今日、言語造形クラスに参加して下さつてゐるおひとりの方がこんな話をして下さつた。
 
先日、演劇を観に行つた。それは、何らかの心理的障害を抱えてゐる子どもと大人の方が出演してゐるもの。
 
その俳優さんたちが舞台の上でことばを語るのだが、その発音されることばが、ことばの形をなしてゐなくて、全く何を言つてゐるのか、分からない時がある。
 
しかし、観客である自分には、何がそこで語られようとしてゐるのかよく分かつた。
 
さうお話ししてくれた。
 
声の質だとか、表面に於けることばの意味、さういふことよりも大切なのは、ことばを発しようとするときの、こころのアクティブな動きである。
 
ことばが生まれてくる大もとの泉、それは、こころのアクティブな働きなのである。
 
その泉が、こんこんと新しい清水を湧き立たせてゐるかどうか、こころの動き(アストラルのからだの働き)が活き活きと動いてゐるかどうかが、最も大切なことなのだ。
 
その演劇では、きつと、こころの働きが活き活きと繰りなされてゐたに違ひない。
 
人は、ともすれば、ことばを発するときに、表面だけきれいに整えようとしたり、意味や情報さへ伝はればそれでよしとしてしまふ。
 
しかし、それでは、いくら丁寧に話されてゐても、いくら淡々と話されてゐても、こころやいのちの営みの欠けた虚ろで死んだことばを聴いてゐる人に手渡すことになつてしまふのだ。
 
さういふときのことばは、精彩といふものが欠けてしまつてゐる。
 
そもそも、活き活きとしたこころの働き(アストラルのからだの働き)が、いのちの働き(エーテルのからだの働き)に作用していくとき、人は母音を発する。
 
一方、そのこころの働き(アストラルのからだの働き)が、〈わたし〉に作用するとき、人は子音を発する。
 
ことばの働きの大元は、こころの働き(アストラルのからだの働き)なのだ。
 
こころの働きをいかにしてアクティブなものにするか。それが、ことばを話す上での欠かせないことである。
 
だから、逆に言へば、ことばの練習を積極的にすることで、人は、アストラルのからだ(こころの働き)とエーテルのからだ(いのちの繰りなし)、そして〈わたし〉の営みとを連動させながら、自分自身を育んでいくことができる。
 


  

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2018年10月23日

幼な子への語りかけ 〜保育園での一日〜


今日も、ある保育園にて、幼な子たちとことばの芸術をたんと味はふ時間。
 
一歳、二歳児から三歳、四歳、五歳児まで、それぞれのクラスでお話しをさせてもらひました。
 
もう本当に楽しい。
 
一歳児も、ずうっとお話しを聴いてくれます。

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言語造形がもつ、ことばの力を感じます。
 
それは、深く、活き活きとした息遣ひとこころの籠もる身振り、そして明瞭な音韻のかたちに裏打ちされたことばの力です。
 
お話しの語り方は、大人に語る時と、なんら変はりません。
 
第一七年期の子どもたちに、言語造形によるお話しや歌をたつぷり聴かせてあげること。
 
これは、本当にたいせつな国語教育の礎です。

なぜなら、考へと情と意欲に通はれたことばに触れることで、いつしか子どもたち自身が、そんなことばの話し手になつてゆくからです。
 
保育園の先生方とも、意味深いワークショップの時間をもつことができました。
 
未来の日本を生きていくこれらの子どもたちと共に、日本語の魅力、喜び、活力、すべてが幸はひますやうに!
 
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2019年1月開校!
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/

posted by koji at 20:37 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月01日

『言語造形と演劇芸術のための学校』1月開校のお知らせ 


わたしが師匠にしていただいたことを、わたしも若い志ある誰かにしようと、こころを決めることができました。
 
志ある方、下の趣旨を見て感じるところある方、どうぞ共に歩いていきましょう。
 
これは、言語造形を一生の仕事・天職にしていく道です。
 
  

『言語造形と演劇芸術のための学校』1月開校のお知らせ
 
語るという芸術。演じるという芸術。詠うという芸術。言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによって、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
そういう実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。
 
週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。開校日は2019年1月8日(火)です。
 
この学校は、いわゆる卒業証書のようなものはお渡しできません。実際の舞台に立っていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 

「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
●就学期間:
2019年1月8日(火)から2023年12月まで(五年間)  
毎週平日4日間/年間45週
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)
祝日はお休み

 
●時間:午後6時〜午後8時(ことばの家 諏訪 にて)
 
 
●講師:諏訪耕志(ことばの家 諏訪 主宰) 
他オイリュトミー講師   
 
 
●授業料:
入学金3万円(入学決定時に納入)
毎月4万円(休みの有無に関わらず。合宿などの費用は別)
 
 
●授業内容:
言語造形、ことばのオイリュトミー 
テオゾフィー、普遍人間学、「言語造形と演劇芸術」講義録
(出版書籍は各自お求めいただきます)  その他
 
 
●申し込み:履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通 を添えて、info@kotobanoie.net あるいは郵便で申し込む。 (〒558-0053 大阪市住吉区帝塚山中2-8-20 ことばの家 諏訪)
後日、ことばの家 諏訪においての面接日を、お知らせいたします。
申し込み期間  2018年10月1日より12月31日まで
 

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2018年09月25日

幼な子との共同作業

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聴くといふ行為は、まぎれもなく、愛です。
 
ある保育所での幼な子たちとの時間。
 
かういふ時に、特に、言語造形をやつてゐて、よかつたなあ、幸せだなあと思ふのです。
 
活き活きとした息遣ひとことばの精神(言霊)に導かれて、幼な子たちのこころもからだも弾みます。
 
幼な子たちは、耳でお話しを聴いてゐません。
 
全身で聴いてゐるのです。全身が耳なのです。 
 
だからこそ、知性の勝る賢い大人とは違ひ、幼な子は、共に舞台を創つてくれます。
 
演じ手と共に、聴き手が創造に参加してくれるのです。
 
こんな豊かさはありません。

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2018年09月24日

新しい人形劇芸術 〜山崎淳子さんの「三匹のやぎのがらがらどん」〜


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小さな保育室 こっこでの今日の講座『ことばと子どもの育ち 』、無事終わりました。
 
山崎さんによる人形劇「三匹のやぎとがらがらどん」が、本当に素晴らしかつたのです。
 
演者の深くて活き活きとした息遣ひに導かれて、空間に静かに響き渡ることばと人形の動き。
 
そのことば遣ひと、一挙手一投足が、ひと呼吸ひと呼吸の息遣ひに貫かれてゐます。
 
いのちの営みである呼吸が、物語りのことばと人形の動きを芸術的なスタイルの上で織り合はせ、音楽的な調べを生み出す様をありありと、まざまざと目の当たりにすることができました。
 
また、その息遣ひに貫かれた人形の動きは、いはゆる写実的なものから離れ、法則に沿つて抑制された芸術的な動きであり、それゆゑ、いつさう観る人の想像力を掻き立ててくれます。
 
言語造形を通して演じられる人形劇は、大人が観ても、こころ揺さぶられる芸術であることを、今日の山崎さんによる上演が無言の内に教へてくれました。
 
願はくは、このやうな人形劇芸術が幼児教育の場に拡がつてゆきますやうに・・・。
 
来て下さつた皆さん、そして山崎さん、どうもありがたうございました。

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posted by koji at 18:39 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする