2009年03月19日

小さなサークルの勧め

自分自身の内なるところ「こころ」に目を注いでいくことが、
アントロポゾフィーの学びにおいて、まずもって、大事なところですよね。

でも、内なるところに目を注ぎすぎて、
外の世界が目に入らなくなってしまう、
外の世界との交流が途切れがちになってしまう、
孤立してしまう、
そんな危険性も、この学びにはあるかもしれません。

この学びは、個人が個人として立つためのものですが、
それには他者との共同、他者からのサポートから得られる励ましがとても大切な要素だと思うのです。

まず、小さくてもいいから、学びのためのサークルを作れるならば、
そこで、ひとりひとりが、たっぷりと、他者に話を聴いてもらえる時間を設定すること。

近況や、こころに思っていること、感じていることについて、
たどたどしくてもいい、自分の話すことばを、
(アドバイスやサジェッションなどなく)複数の人が傾聴してくれている、
そんな時間を創っていくこと。
(もちろん、何もことばが出ないのなら、話さなくてもいいのです)

これが、とても大事です。

人は、まず、こころの中にあるもの・ことばを肯定されることもなく、否定されることもなく、
ただただ受けとめてもらいたい。

それが実現することによって、
どれほどたくさんの人のこころが、
不安や恐れから解き放たれるきっかけをつかめるだろう。

そこからこそ、
人は、自分自身の内なるところへ目を注ぐことができる余裕が出てくるのではないか。

そして、一対一でもなく、たくさんの人数でもない、
継続性・持続性のあるそんな小さな学びのサークルにおいてこそ、
負担や物足りなさを感じたりすることなく、
こころの学びを共に内的に励ましあいながら続けていけるんじゃないか。

そんな風に考えながら、「ことばの家」もやっています。

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2009年01月29日

鈴木一博さん訳『いかにして人が高い世を知るにいたるか』出版!

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昨年12月25日に、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』が、
鈴木一博さん訳で出版された。
http://www.seikodo-print.co.jp/products/sub_36.html

これまで、高橋巌さん、松浦賢さんの翻訳で同書を読んでいたが、
鈴木さん訳でこの本を一文一文、一語一語、丹念に読んでいくと、
これまでなかなか感じられなかったシュタイナーの真意がしんしんと沁みてくるように感じられる。

シュタイナーは、とにかく、読む人を励ましている。

この真意が大切にされなければならない。

その真意は、文章の向こうに見えてくるもの、聴こえてくるものであり、
著者シュタイナーの内側からの声であるが、
意欲あるどの人にも見えてくるもの、聴こえてくるもの、読み取れるものだ。

一語一語のことばの選び方、
一文一文の文の運び方、
一段一段の文章の構え方が実は大きくものを言うのではなかろうか。

それは、文体・スタイルの問題だ。
そのことばというもの、文というものの姿・相(すがた)のあり方によってこそ、
著者の真意が生き生きと行間に立ち上がってくるかどうかが懸かっている。
そして読者は熱心に読むことによって、その真意をつかむことが出来る。

翻訳は、きっと、このことを踏まえて、
その内なる声が聴こえて来るためのことば選びに苦心惨澹するのだろう。

ひとつひとつのことばは、それぞれに固有の意味を担っている。
だからこそそれによって、人から人へと、ことばは流通していくことができる。

しかし、人は、ひとつひとつのことばをこころを込めて使うことによって、
その流通している意味なるものを、
どこまでも深めていくことができるものなのだ。

例えば、「自由」「愛」「精神」「理想」・・・。
このようなことばほど、
使う人によって違った響きになるものはない。

古典として読み続けられている本という本の中には、きっと、
このようなことばを記した人によって深められたことばの意味が、
真意として密やかな声で響き続けている。
本を読むことを通して、その声を聴き取るか、聞き逃すかは、
読む人に懸かっている。

また、文を辿っていき、鈴木さんが懇切丁寧につけてくれていることばの註を併せて読み込んでいくと、
ひとつの文、ひとつのことばが、
ひとりの人のひとつの動作・身振りとして、感じられてくる。
動詞を明瞭で親しみのある動きあるものとして、
意識的にシュタイナーは使っているが、
そのことがこの訳では最大限に考慮されて、日本語に仕立て直されている。

そして、シュタイナーが大変な気配りを持って、
己のこころの成長を願う読者の独立歩行を促してくれていることが、
この翻訳によって、初めて感じられる。

自主独立をこころの底から求めているすべての現代に生きる人に、
余計なプレッシャーや反発心を呼び起こさせないように、
著者がものの言い方に大変気を配っていること。
訳者の鈴木さんはそのことにもまた大変意識的である。

この意識的な鈴木さんの仕事は、
『自由の哲学』『テオゾフィー』においても、一貫している。


助動詞(動きを助け、支えることば)の持っている細やかなニュアンスを存分に生かしながら、
シュタイナーは文章を綴っている。
翻訳において、その細やかさが汲み取られている。

だから、わたしはこの翻訳を読んで、
内なる静かさ、安らかさの中で、「よし、取り組んでいこう」という勇気・意欲が湧いてくるのを感じることが出来る。






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2008年10月05日

日曜日 「今」を生きる

日曜日の朝は、月曜から土曜までのことばを振り返りつつ、
自分の中で咀嚼しています。

 健やかであること (月)
 ひとつであること (火)
 考えと情のチェック (水)
 わたしがわたしであること (木)
 愛からすること (金)
 ありがとうを起こす(土)

ポジティビティーに向かおうとすると、
必ずや、自らのうちのネガティビティーの囁きが聴こえてきたりもします。
また、なぜか、他者のうちのポジティビティーとネガティビティーにも出会うことになります。

しかし、この「他者のうちのポジティビティーとネガティビティー」も畢竟、
「わたしのポジティビティーとネガティビティー」なのでしょう。

このポジもネガも、すべてがわたしにとって、必然。

そして、自己に閉じこもるのではなく、他者に向けて自分のこころを開きながらも、
しかし、他を恃まず、当てにせず、
自己をこそ恃みたい。

ぐずぐず言わず、「今」に生きる!

「今」にありがとう。

わたしの今週は、ここに辿りつきました。

毎週続けて、内側で、それぞれ同じことばを日ごとに新しく辿ってゆきます。

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2008年10月04日

土曜日 ありがとうを起こす

土曜の朝は、ありがとう、から。

すべてのものにありがとう、です。

目を開けた途端、飛び込んでくる光に。
顔を洗う時、蛇口から出てくる水に。

生活の中の細やかなひとこまひとこまに対してだけでなく、
いつもなら、うまくいかずにむしゃくしゃするような事柄にも。

すべてが、わたしに、恵みとして、
必要なものとして、
与えられているのでは・・・。

すべてのものにありがとう、です。

こういったことは、すべてこころの力仕事です。

起きないものをよいこらしょっと起こすのです。

しかし、力仕事も度重ねてしているうちに、
堂に入ってくる。

そのことを経験として知っていく。

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2008年10月03日

金曜日 愛からすること

なぜそれをするのですか、と問われて、
愛しているからこれをするのです、と答えられるか。

金曜日の朝は、そのことを自分のこころに問いかけながら、一日を始めています。

何かを愛することは、人から言われてできることじゃない。
自分のこころの内から沸いてくる熱からしか、何かを愛することはできない。

その熱があるか、ないか。
あるなら、それを大事にしたい。
ないならないで、いいじゃないか。

また、外からやってきた仕事に、愛を注げるか、注げないか。
「外からやってくる」というのも、実はわたしに必要があるからやってくるもの。
だから、そういった仕事にも、愛を注ぐことができれば、どんどん仕事は充実してくる。
注げないなら・・・
その仕事から離れる勇気があるか、どうか。

愛とは、結果を求めない。プロセスのみを愛する。
していることのみ、与えていることのみを愛することだ。

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2008年10月02日

木曜日 わたしがわたしであること

「わたしがわたしであること」
このことに、こころを凝らしますと、
必ず「今、ここ」にあることができます。

ずっと以前から、わたしはわたしでありましたし、
これから先もずっと、わたしはわたしであります。

しかし、精確に考えますと、
以前であっても、これから先であっても、
どんな時だって、常に「今」にしか「わたし」はいません。
「今」しか生きられません。

「今」にいるとき、人は、こころ静かであり、安らかさの内にあります。

過去に生きたり、未来に生きることはできません。
自分のこころが過去に、未来に彷徨いでるとき、
人は「今」にいず、こころここにあらず、です。
こころがざわつきます。

そして、他の事はいろいろ変わっていきますが、
この「わたしはわたしである」ということは、引き続き引き続き、変わりません。
つまり、「今、わたしはここにある、わたしはわたしである」がずっと続いてゆくのです。

そしてこの変わらない「わたし」は、
これまでの様々な外側の変化をそのたびごとに見事に乗り越えてきましたし、
これからも乗り越えてゆくのです。

旧約聖書の『出エジプト記』第三章に、
自分の名を問われた神が、その名を「わたしはある」だと告げています。

わたしたちひとりひとりの内に、
「今、わたしはある」
「今、わたしはわたしである」
が息づいています。

木曜日の朝、そのことをこころに記して。

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2008年10月01日

水曜日 考えと情のチェック

どこからともなく我が頭にやってくる考え。
どこからともなく我が胸に湧き上がってくる感情。

これらひとつひとつを、
「あっ、今、こんな考えがやってきた」
「あっ、今、こんな感情でこころが一杯になっている」
などとしっかりと意識できればいいのですが、
往々にして、それらの考えや情に翻弄されていたり、巻き込まれたりしませんか?

わたしなど、よく、そうなってしまいます。

しかし、ここは、こころの練習と思って、
それら向こうからやってくる考えや情のいちいちに、
こちらから意識の光を当ててみる。

つまり、無意識に何かに翻弄されたり反応したりすることから少しずつ脱して、
考えと情のチェックを通して、できる限り意識的に自らのこころを生きてみる。

「いま!」何を考えているか。
「いま!」何を感じているか。

この観察の作業もまた次第に、わたしに大きなプレゼントをくれます。
こころの安らかさ、静かさ、確かさというプレゼントです。

水曜日の朝、そのことをこころに記して。

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2008年09月30日

火曜日 ひとつであること

「わたしは、わたしである」

このことにこころを集中させていると、
「わたし」という湖の水質の透明度が増していくような感覚があります。

そして、すべての人の内には「わたし」があり、
私の内にもこの「わたし」があり、
それが「わたし」ということばで言いあらわせられるものである以上、
これら「わたし」と「わたし」は繋がってひとつであることをも感じるのです。

人は、それぞれ個別に「わたし」をこの肉体に授かっているのだが、
その淵源では、ひとつに繋がってあること。

そのことをこころに記しつつ、
火曜日を生きることができれば・・・。



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2008年09月29日

月曜日 健やかであること

時に、ことばから、こころが導かれることがあります。

一週間、日々ごとに、毎朝、ことばに導かれています。

まず月曜の朝。

「健やかであること」

いま、この瞬間、健やかであることに感謝。
しっかり眠ることができて、
家族と目を見交わしながら、おはよう!って言えて、
ご飯を何気なくいただけて、
トイレにも行けて、
こんな当たり前のことが当たり前にできることに感謝。

たとえ、外の状況がどんなことになっていようとも、
いま、わたしが、ここにいることに、感謝。

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2008年09月04日

ひとつのことに集中する

シュタイナーが1901年から精神科学の講義を始めて、
1924年に最後の講義を終えるまで、
膨大な講義録が本になって残されています。

当時は、テープレコーダーに類するものが何もなかったので、
シュタイナーの弟子たちが一生懸命速記してくれたのです。

シュタイナーだけでなく、
彼の側にいて、すごい集中力で懸命に仕事をしてくれた当時の方々に、
こころから感謝したいと思っています。

しかし恐らく当時の学び手たちも、
それらの講義を受けただけではすぐさま充分に理解できず、
消化不良に類するような感覚を感じたことと思います。

それは、シュタイナーがひとつのことがらに対して、
様々な方向から意識の光を当ててながら、その都度、別の角度から語り、
聴く人にものごとを複眼的・総合的に考えてもらえるようにしようとしたからです。

当然、当時の学び手たちも残された速記録を貪るように読み込んだのではないでしょうか。
一度読んだだけでは、まるで表面をかすったような理解しかできず、
まだ自分の血肉にはなりえないし、
自分のことばでそのことがらを語ることができません。
本を読み込むことは、
相当の情熱と意欲と体力が必要なことをわたし自身、感じます。

『プネウマトゾフィー』第4講(1911年12月16日・ベルリン)に次のようなことが語られています。

   私たちの共同体では、
   自立しようとする意志と衝動をもった魂たち同志が互いに出会っています。
   この魂たちは、私が示唆することしかできなかった内容を、
   独自に深めて研究していこうとする真剣な意志を持っています。(中略)
   銘々が本当に独立した魂の働きに向き合おうとするとき、
   そして自分の内的に独立した感情をますます大きく育てていく時、
   私たちの共同体は真価を発揮できるようになるのです。
   これまで『テオゾフィー』の名で呼ばれてきた私たちの大切な精神潮流によって、
   人類に開示されるべき諸世界をますます共体験しようと努めて下さい。
   そのためにも、銘々が、自立して下さい。

シュタイナーが、学び手に対して望んでいたことが、
ここにはっきりと述べられているように思うのです。

本を読むことでも、人の話を聴くことでもいいのですが、
この瞬間、ひとつのことに、集中して向かい合うこと、
そのことが、どんどんその人をその人にしていく、
その人を自立させていく大きな力になるのではないでしょうか。

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2008年07月30日

こころの7文節(続き) 学校 講義 その6

5番目、6番目、7番目は、シンパシーのみ、光のみの領域です。

5番目は、「こころの光」の領域です。
下の四領域ではシンパシーが何かに遮られることがありますが、
ここからは遮るものは何もありません。
私たちはこの第5領域を生きることがよくあります。
例えば、自分から進んで人のことを気遣うことができたときです。
この領域で、人は他者をも立てることができるのです。
この領域で、人はこころから何かを、誰かを、愛することができるのです。
いちいちの植物や動物を愛でるということ、
それはいちいちの植物や動物に光を当てるということです。
人からこころの光を当てられた植物や動物が語り出します。
他者からこころの光を当てられた人は、照らされ、暖められ、こころを解きほぐし、
その人のことばを語り出します。

第6の領域は、もっとアクティブな光の領域です。
「する働きのこころ」の領域です。
これだと思う義務に邁進する。
集約的にこころの光を注ぎ続ける領域です。
第5領域では、自と他がありましたが、
第6領域は、他を喜ばせることが自分の喜びだというように、自と他がひとつになっています。

第7の領域は、「こころが生きること」の領域です。
愛しかない状態です。
物質的なものを欲していない状態、精神にだけ目を向けている状態です。
もう肉体はいいんだ、という領域です。

下の三領域は、からだにとても影響を受けるこころの領域といえるかもしれません。
そして上の三つは、精神からの働きかけを受けています。
そして、四つ目が、こころの中のこころなのです。

さて、ここで、虹の7領分とどう繋がっているか、ですが、
それは、ご自分で観察してみてください。
色彩を見て取って、自分のこころがどのような動きになるのかを感じてみてください。
そのかすかな動きを観察する助けとして、この7領域の話があるのです。


質問 「義務に邁進するということはどういうことでしょうか。」

「モモ」に出てくるベッポじいさんのように、仕事をすること自体が喜びだということです。
人を喜ばせるためにやっているというよりは、やること自体が喜びなのです。


質問 「自分勝手な願いということがあると思うのですが。」

世界が教えてくれるといいましょうか。
本当に光の領域から来ているのか、どこかにアンチパシーが潜んでいるのか、
それは世界が教えてくれ、人間は修正を求められていきます。
その人がこの世に生まれてきて本当にやりたいこと、もしくは使命と言ったらいいんでしょうか、
そういった本当にやりたいことをやらないと、まわりの人をハッピーにできないんですね。
自分の立ち位置をはっきりさせること、
それを問い続けることを続ければ続けるほど、まわりをハッピーにできる、ということを、私はリアルに感じています。
自分がしたことの価値は、内なる喜びとなって必ず帰ってきます。
その喜びによって、人は世界と自分が調和しているということに気付くことができます。
他人からの評価ではなく、証明できることでもなく、自らのこころの内でリアリティを感じるのです。
そのリアリティーを自内証といいます。

宮沢賢治は「春と修羅」という作品の序文において、
自らのこころの内でリアリティを感じることがらが世の人々にとってもきっと意味のあることなんだという確信を記していますが、彼はそういった自分の仕事の意味を自覚していたと思います。

例えば、我が子をつくづく、しみじみと見つつ考えて、
「この子なら、この子が本当にやりたいことをやったとき、きっと周りをハッピーにさせることができる」という信頼がないでしょうか。
人はみな、よきものです。それは人が精神の世界から来ているからです。

俳優のこころの練習として、
この七つの領域を生きているみずからのこころをみずから見て取ることに取り組んでみてください。

(完)

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2008年07月27日

こころの7文節   学校 講義 その5

質問 「自己中心的なシンパシーはあるんでしょうか。」

あるのです。こころの7分節の、“下”(あえて、下と言いますが)三つはある意味で自己中心的です。
四つ目は中立、“上”三つはそこから離れていきます。

ひとつめは、あえてこんな名前をつけています。「欲(ほ)りの熾(おき)」。
熾というのは熾火のような火です。
シンパシーとアンチパシーは通常拮抗しています。
そのアンチパシーが大きくなってくるとき、
その時を欲りの熾の領域と呼んでいます。
例えばそれはチョコレートがほしいと思って、チョコレートだけにはシンパシーを持ちますが、
それ以外には強烈なアンチパシーを持っています。
チョコレートが口に入れば、その熾は消えてシンパシーがいったんは満たされますが、
周りのアンチパシーが強いために、満たされるということが長く続きません。また次を、また別のを、求めざるをえません。
これは、物質に執着しているこころの領域です。
 
ふたつめは、「そそられつつ流れつつ」の領域です。
とかく執着心を持たないことがたくさんあります。
しかし、かすかにそそられてはいます。
たとえば空の青さにかすかにそそられるからこそ、空にも目を向けるのですが、
しかしすぐに次のところ、次のものに目が移っていきます。
これはシンパシーとアンチパシーがどちらも突出していない状態です。
これが「そそられつつ流れつつ」の領域です。

1番目の領域が大地のような固さであるとするならば、
2番目は流れる水のようです。

3番目は、「願い」の領域です。
これはシンパシーの力によっています。
こんな人間になりたい、こんな生活がしたい、こんなことがしてみたい、というようなこころです。
「高瀬舟」でも語られていたように、願いはきりがないこととも言えます。どこまでも拡がっていきます。たとえれば風のようなものです。
しかし、この領域に於いても、かすかにアンチパシーが紛れ込んでいます。願いというのはそういうものです。
少しだけ、自分にこだわる、頑ななところがあるのです。

4番目は、「快・不快」の領域です。ここでアンチパシーが消えます。シンパシーのみの領域です。
不快はアンチパシーではありません。
たとえば、歯が痛い、というのは、自と他と分けるアンチパシーではありません。
シンパシーが少しでも減ると不快感がやってきます。
この快と不快の間の行き来は、日常生活で常にやっていることなのです。
4番目の領域は、光と影とたとえられるでしょう。
快として感じられる光が遮られて、不快として感じられる影が生じます。

(続く)

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2008年07月25日

質疑応答  学校 講義 その4

質問 「シンパシックに見るというとき、アブラムシがいるかしらとか考えるけれども、
     そういう見方でもいいのか。
     成長しているかどうかわからないものを見るとき、
     そのときも、成長しているとか、衰退しているとかいう大まかな思考を持った方がいいのか。」

最初は、アブラムシがいる、でもいいじゃないですか。
目に見えるものをしっかりと見つめていく。
段々と見ることに習熟していくと、植物の成長する力の相をまずは感じることができてきます。
感じたもの、それが何なのか、を詮索しなくてもいいのです。
成長か衰退かわからないときも、生命はそこに営まれています。
ここで大切なのは、
その成長か衰退、いずれかのプロセスにある植物の生命の相を受け取るということなのです。



質問 「シンパシックに受け取るというのは、自分が植物になる気持ちでするんですか。」

「自分が植物になる気持ちでする」ということは、
すでに「考える」から始めていますね。
まずは、「見る」ことです。
こころ、感官をひらいて、世界を受け取ることです。
そしてその「見る」のアクティビティーが高まるほどに、
植物の生命の相が感じられてくる、
また、見ている「わたし」と見られている「植物」とがひとつに合わさる経験、
「主客合一」という験しがある、ということが、様々な人・賢人によって言われています。
世阿弥も松尾芭蕉もそのようなことを書き記しています。



質問 「見るとき、考えが入ってくることがあります。
     それに対してはどういう対応をとったらいいのでしょう。」
 
考えるが入ってくることこそ、まさに自然なあり方だと言えます。
しかし、その考えるが、見られるものごとにふさわしいものかは、また別のことです。
ものごとは、いかようにも考えられます。
それは、考えるが人の自由に任されているからなのです。
しかし、だからこそ、人は、自分勝手に考えるのではなく、
ものごとに沿っていきいきと考える力を養っていいですし、
よりこころの力を使う練習として、あえて、考えるを排するという方法もあります。
考えること、それこそがまさしく自由の領域です。
自由ですから、敢えて考えるを差し置くことも、人はできるものです。
それは、よりアクティブな行為のはずです。



質問 「苦手な人や物に対しては、シンパシーを持って見るのは難しいのですが。」

ここで大切なのは、練習の対象として見るということです。
練習の対象として見ようとしたときに、シンパシーを持つようにすることはできます。
しかし、素の自分であるときに、それを「しなければいけない」ということでは決してないのです。
ある時間、決まった時間、そう決めてすればいいのです。

(続く)


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2008年07月23日

『見る』ことの練習  学校 講義 その3

シンパシーを育むということ。
“今まで以上にものを注意深くみる”。それを練習してほしいんですね。

「見呆ける」ということばがあります。
考えることを差し挟まない見方ですね。
これを意識的にする練習はとても意味があります。
つまり、考えることを敢えて差し控える見方です。

例えば成長していく植物を見呆けてみてください。
そのとき、大まかな考え、「これは成長の相にある植物だな」という考えを持って見呆けるのです。
その時にどういうことがこころの中に生じるかを見てください。
成長する相に目を向けるということは俳優にとって意味があります。
そして同時に、衰退する相を見ていくのです。

そして、そのように見る練習をしていく中で、
こころがどういう動きをするかに、深く深く自覚的であるということなのです。

俳優としてテキストと向き合う時、
登場人物の姿、こころの中を見るのです。
見る練習をしてほしいのです。
そしてその時、自分のこころがどのように動いているかを見ることができればしめたものです。

本来人は見たことしか提示できません。
だからこそ、普段の人が通り過ぎてしまうことをでも見ること、深みを見ることが、
俳優にとって必要なことです。
俳優は、生きることの深みを舞台の上で顕わにすることが仕事ですから。

シュタイナーも同じでした。
彼は、肉眼の眼だけでなく、こころの眼、精神の眼をも通して見たものだけを、
できるかぎり科学的に語り、記述しました。

ですから、見ることがとても大切になってきます。
感官を拓くということですね。
成長する相、衰微する相に目を向けることです。
幼子と老いた人とをこころにむかえたとき、その時、こころの内の動きは全く違ってきます。
舞台上でも同じです。
俳優のそのこころの働きが育まれていればいる程、舞台も力強くなります。

わたしたちのクラスでは、
午前の時間で、からだという楽器を整え、午後の時間ではこころを、内面を培っていきます。
そして、わたしたちひとりひとりのからだとこころが段々とともどもに起こされ、育まれ、なりたたせられていき、より自由なあり方で舞台に立てることを目指しています。

(続く)

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2008年07月21日

『考える』と『見る』    学校 講義 その2

「考える」という精神の働きは、
まずもっては、アンチパシーというこころの力と、ともどもひとつです。

アンチパシーの力は、何かとの距離を取ろうとする働きであります。
考えることによって、ものごとと距離が取れるからこそ、
人は冷静に、ある意味、客観的な立場に立つこともできます。

一方、「見る」という精神の働きは、
シンパシーというこころの力とともどもひとつです。

シンパシーの力は、何かとの距離をなくそう、ひとつになろうとする働きです。
「見る」という働きは、何かを「迎える」「覚(おぼ)える」「受け取る」ことと言ってもいいですし、
またその根底には「愛でる」「愛する」という働きが潜んでいます。
「見る」とは、自分に親しく物事を引き寄せる、とも言えます。
わたしが、光とともにすること、とも言えますし、さらには、光を得ようとしてすること、とも言えます。


わたしたち人は、
この「見る」と「考える」というふたつの働きをいつなりともしつつ、生活を送っていますが、
人の歩む歴史の必然からでしょうか、
現代人は、兎角ものごとをアンチパシックに捉えがちでありますし、
「見る」と「考える」のバランスを欠き、
「考える」の方へと精神の働きが傾きがちでもあります。
知性のみが重視されてしまう教育のあり方も省みられていいときが来ているように思われます。

ものごとをシンパシックに捉える、もっとものをよく「見る」ということは、
現代人にとっては、意識的にしていっていいことです。

「見る」ということ、それは目だけでなく、感官を通して覚える、感覚するということです。
意識的に感官をより豊かに拓いていくということ、
それが現代人の新しい課題といえるかもしれませんし、
俳優にとって、とても大切な課題です。


シュタイナーは、全部で12の感官があり、
そして更なる精神の感官もあると言っています。
それらの感官を拓いていくこと、見ることを練習するためには、
シンパシーの力を育む必要があるんですね。

万葉のころの人たちは、本当にものを愛でていた、そして歌を詠んでいたということが分かります。
シンパシーがまだ人のこころに際立っていました。

それが、古今和歌集、新古今和歌集と時代を経るにしたがって、
ものと距離を取るようになっていきます。
アンチパシーの力が、人のこころの内でより強くなってきたと言えるでしょう。

そのアンチパシックなこころのありよう、考えるというありようが極まったところに俳諧があり、
松尾芭蕉はそれをひっくり返し、世界と自分とのより高い合一・シンパシックなあり方を打ち立てました。

(続く)

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2008年07月19日

俳優修業におけるこころの育み  ことばとドラマのためのシュタイナー学校 講義その1

毎週3回、帝塚山教室にて、7人の方々が、
「ことばとドラマのためのシュタイナー学校」第1期生クラスとして、
この4月から学び始めて約4ヶ月が経とうとしています。

今は、この秋、11月2日(日)に公演予定の宮澤賢治作品の語り芝居に向けて、
みんな汗を流しつつ稽古に励んでいます。

ことばを語るための基礎的なからだづくりから、
作品の細部に入り込んでいって、いきいきと表情豊かに語れるまでのプロセスを、
みなさん、歩まれています。

また、そういった言語造形の稽古とあわせて、
月2回、俳優修業のための「こころの育み」としてのアントロポゾフィーの学びをもやっています。

順を追って、そこでの講義で語られたことをご紹介していければと思います。

この講義録は、この学校に通っているHさんの筆記したものに、わたしが加筆・訂正したものです。
Hさん、どうもありがとうございます。


_______________________________

「俳優修業におけるこころの育み」

俳優という仕事にとって大切なこととしてこころの育成があります。
俳優は舞台に立ちますが、俳優自身のこころというものも、いわばひとつの内なる舞台です。
その内なる舞台、内なるこころをふさわしくなりたたせていくことが、俳優にとって大切な事柄です。

そのこころという舞台においてなされる大きなふたつの働き、「見る」と「考える」。
そのふたつは、人の精神の働きと言えますが、
俳優に限らず、人は、そのふたつをその都度、その都度、
こころという舞台の上で重ね合わせていくことによって何かを「知る」ことができます。

俳優も、稽古の連続というプロセスの中で、その「見る」と「考える」を重ね合わせていくことによって、
「う〜ん、こうじゃない・・・」「こうでもない・・・」から、「これだっ!」へと至る道筋を歩みます。
それもひとつの「知る」へのプロセスです。
そのように、俳優は、「見る」と「考える」を通して、
段々とこころを起こし、からだを起こし、こころをなりたたせ、からだをもなりたたせていきます。

(続く)

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2008年07月01日

「いかにして高い世を知るにいたるか(8)」

個人ができる社会への最も大きな働きかけとは何でしょうか?

いろいろなことが、考えられるのですが、
やはり、つまるところ、自らのこころをより善くすることだという考えに、
わたしのこころは深いところでイエスと言っています。

社会とは、ひとりひとりの人間のこころから成り立っています。

そして、基本的に、人は他者を変えることはできず、
自らを変革・成長させていくことができるのみです。

自らのこころをじっくりと観ていくことから始まり、
だんだんと磨きをかけていく、より善くしていく。

その力は、社会に対して、世に対して、
強く大きいものです。


シュタイナーのこの本も、
「自分自身のこころのトレーニング」を主題としています。

そして、ここに書かれてある事柄は、
読む人に、
「今、そのことができているかどうか」、
もしくは「成果」を問うものではありません。

読む人が、「自分自身のこころのトレーニング」の必要性を感じており、
そのような趣の自己教育に取り組んでいく「つもり」があるのなら、
その「つもり」「こころざし」こそが、その人を引っ張っていきます。

課題を果たせようが、果たせまいが、です。

「今の自分」を基準にするのではなく、
「わたしのこころざし」を基準にします。


この道を歩み続けようとする意志とこころの構えのみが大切と言えます。

この本にこうも書かれてあります。

「成果への愛ではなく、努力への愛だけが、成長を促す」

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2008年06月17日

「いかにして高い世を知るにいたるか(7)」

人を暖めることばって、どういうことばだろう。
人を力づける考えって、どういう考えだろう。

もしかしたら、ことばや考えの内容以上に、
そのことばや考えの裏に息づいている感情のあり方が、
人を暖めたり、力づけたりするのではないだろうか。

自分の感情のあり方に、もっと注意を注いでいきたい。


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2008年05月20日

「いかにして高い世を知るにいたるか(6)」

「内なる静かさの練習」


怒り。

この感情が、なぜかわたしの人生において、時に顔を出すのです。

よくないと分かっていながら、
いつまで経っても、ことあるごとにその情が立ち上がってくるのを抑えることができずにいる・・・。

しかし、この学びを始めてから、
この情を抑えようとすることよりも、
この情にしっかりと向かい合ってみることが、
まずわたしのしなくてはならないことだと気づきました。

向かい合ってみると、
ようやくその情と距離を取ることができる。

そして、その情に巻き込まれるのではなく、
その情が、わたしに何を教えてくれようとしているのかが、
だんだんと分かるようになってくる。

ちゃんと意味があって、わたしの中にその情は湧き上がってきているのですから。

一日の終わりに、
内なる静かさの中で、
その情が教えてくれている意味を、声を、聴く。

この毎日の作業は、わたしに力をくれます。

これまで書いてきたこころの練習(敬いと尊びの練習)は、
いつでも気づいた折にやっていっていいものですが、
この作業はたとえ短くても時間を決めて、、日々続けることが大切な練習です。

なぜなら、自分の内に生じている感情を観察するという作業は、
静かさの中で集中してせざるをえないからです。

自らを他人視する練習と言ってもいいかもしれません。

それは、メディテーション(瞑想)の始まりです。

メディテーションの中で取り上げる素材はいくつもありますが、
まずは、自分の感情を素材にしてみることがこの練習の取っ掛かりになります。

posted by koji at 16:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

「いかにして高い世を知るにいたるか(5)」

人に会うときに、敬いを持って会うのと、そうでないのとでは、
随分その出会いの質が変わってきますよね。

シュタイナーの本を読むときも、それとよく似ていると思うのです。

たとえ、そこに書かれてある事柄がすべて理解できなくても、
「自分にはいまだ理解できない、しかし、いつか時が熟せば分かる時が来るだろう」
そんな信頼を持って、敬いを持って、本に対していくならば、
敬いを持たない時と全く違って、
ある豊かさを本から受け取ることができるようになってきます。
豊かなことばが、本から聴こえてきます。

このことは、人に会う時、本を読む時に限らず、
花を見る時、鳥の声を聴く時、空を見る時、コンピューターの前に座る時、
ものというものに接する時すべてに言えることではないかと思うのです。

わたし自身が語るのではなく、
対象に語らせるには、
敬いというこころの構えが要るのだということなのかもしれません。


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