2008年09月29日

月曜日 健やかであること

時に、ことばから、こころが導かれることがあります。

一週間、日々ごとに、毎朝、ことばに導かれています。

まず月曜の朝。

「健やかであること」

いま、この瞬間、健やかであることに感謝。
しっかり眠ることができて、
家族と目を見交わしながら、おはよう!って言えて、
ご飯を何気なくいただけて、
トイレにも行けて、
こんな当たり前のことが当たり前にできることに感謝。

たとえ、外の状況がどんなことになっていようとも、
いま、わたしが、ここにいることに、感謝。

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2008年09月04日

ひとつのことに集中する

シュタイナーが1901年から精神科学の講義を始めて、
1924年に最後の講義を終えるまで、
膨大な講義録が本になって残されています。

当時は、テープレコーダーに類するものが何もなかったので、
シュタイナーの弟子たちが一生懸命速記してくれたのです。

シュタイナーだけでなく、
彼の側にいて、すごい集中力で懸命に仕事をしてくれた当時の方々に、
こころから感謝したいと思っています。

しかし恐らく当時の学び手たちも、
それらの講義を受けただけではすぐさま充分に理解できず、
消化不良に類するような感覚を感じたことと思います。

それは、シュタイナーがひとつのことがらに対して、
様々な方向から意識の光を当ててながら、その都度、別の角度から語り、
聴く人にものごとを複眼的・総合的に考えてもらえるようにしようとしたからです。

当然、当時の学び手たちも残された速記録を貪るように読み込んだのではないでしょうか。
一度読んだだけでは、まるで表面をかすったような理解しかできず、
まだ自分の血肉にはなりえないし、
自分のことばでそのことがらを語ることができません。
本を読み込むことは、
相当の情熱と意欲と体力が必要なことをわたし自身、感じます。

『プネウマトゾフィー』第4講(1911年12月16日・ベルリン)に次のようなことが語られています。

   私たちの共同体では、
   自立しようとする意志と衝動をもった魂たち同志が互いに出会っています。
   この魂たちは、私が示唆することしかできなかった内容を、
   独自に深めて研究していこうとする真剣な意志を持っています。(中略)
   銘々が本当に独立した魂の働きに向き合おうとするとき、
   そして自分の内的に独立した感情をますます大きく育てていく時、
   私たちの共同体は真価を発揮できるようになるのです。
   これまで『テオゾフィー』の名で呼ばれてきた私たちの大切な精神潮流によって、
   人類に開示されるべき諸世界をますます共体験しようと努めて下さい。
   そのためにも、銘々が、自立して下さい。

シュタイナーが、学び手に対して望んでいたことが、
ここにはっきりと述べられているように思うのです。

本を読むことでも、人の話を聴くことでもいいのですが、
この瞬間、ひとつのことに、集中して向かい合うこと、
そのことが、どんどんその人をその人にしていく、
その人を自立させていく大きな力になるのではないでしょうか。

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2008年07月30日

こころの7文節(続き) 学校 講義 その6

5番目、6番目、7番目は、シンパシーのみ、光のみの領域です。

5番目は、「こころの光」の領域です。
下の四領域ではシンパシーが何かに遮られることがありますが、
ここからは遮るものは何もありません。
私たちはこの第5領域を生きることがよくあります。
例えば、自分から進んで人のことを気遣うことができたときです。
この領域で、人は他者をも立てることができるのです。
この領域で、人はこころから何かを、誰かを、愛することができるのです。
いちいちの植物や動物を愛でるということ、
それはいちいちの植物や動物に光を当てるということです。
人からこころの光を当てられた植物や動物が語り出します。
他者からこころの光を当てられた人は、照らされ、暖められ、こころを解きほぐし、
その人のことばを語り出します。

第6の領域は、もっとアクティブな光の領域です。
「する働きのこころ」の領域です。
これだと思う義務に邁進する。
集約的にこころの光を注ぎ続ける領域です。
第5領域では、自と他がありましたが、
第6領域は、他を喜ばせることが自分の喜びだというように、自と他がひとつになっています。

第7の領域は、「こころが生きること」の領域です。
愛しかない状態です。
物質的なものを欲していない状態、精神にだけ目を向けている状態です。
もう肉体はいいんだ、という領域です。

下の三領域は、からだにとても影響を受けるこころの領域といえるかもしれません。
そして上の三つは、精神からの働きかけを受けています。
そして、四つ目が、こころの中のこころなのです。

さて、ここで、虹の7領分とどう繋がっているか、ですが、
それは、ご自分で観察してみてください。
色彩を見て取って、自分のこころがどのような動きになるのかを感じてみてください。
そのかすかな動きを観察する助けとして、この7領域の話があるのです。


質問 「義務に邁進するということはどういうことでしょうか。」

「モモ」に出てくるベッポじいさんのように、仕事をすること自体が喜びだということです。
人を喜ばせるためにやっているというよりは、やること自体が喜びなのです。


質問 「自分勝手な願いということがあると思うのですが。」

世界が教えてくれるといいましょうか。
本当に光の領域から来ているのか、どこかにアンチパシーが潜んでいるのか、
それは世界が教えてくれ、人間は修正を求められていきます。
その人がこの世に生まれてきて本当にやりたいこと、もしくは使命と言ったらいいんでしょうか、
そういった本当にやりたいことをやらないと、まわりの人をハッピーにできないんですね。
自分の立ち位置をはっきりさせること、
それを問い続けることを続ければ続けるほど、まわりをハッピーにできる、ということを、私はリアルに感じています。
自分がしたことの価値は、内なる喜びとなって必ず帰ってきます。
その喜びによって、人は世界と自分が調和しているということに気付くことができます。
他人からの評価ではなく、証明できることでもなく、自らのこころの内でリアリティを感じるのです。
そのリアリティーを自内証といいます。

宮沢賢治は「春と修羅」という作品の序文において、
自らのこころの内でリアリティを感じることがらが世の人々にとってもきっと意味のあることなんだという確信を記していますが、彼はそういった自分の仕事の意味を自覚していたと思います。

例えば、我が子をつくづく、しみじみと見つつ考えて、
「この子なら、この子が本当にやりたいことをやったとき、きっと周りをハッピーにさせることができる」という信頼がないでしょうか。
人はみな、よきものです。それは人が精神の世界から来ているからです。

俳優のこころの練習として、
この七つの領域を生きているみずからのこころをみずから見て取ることに取り組んでみてください。

(完)

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2008年07月27日

こころの7文節   学校 講義 その5

質問 「自己中心的なシンパシーはあるんでしょうか。」

あるのです。こころの7分節の、“下”(あえて、下と言いますが)三つはある意味で自己中心的です。
四つ目は中立、“上”三つはそこから離れていきます。

ひとつめは、あえてこんな名前をつけています。「欲(ほ)りの熾(おき)」。
熾というのは熾火のような火です。
シンパシーとアンチパシーは通常拮抗しています。
そのアンチパシーが大きくなってくるとき、
その時を欲りの熾の領域と呼んでいます。
例えばそれはチョコレートがほしいと思って、チョコレートだけにはシンパシーを持ちますが、
それ以外には強烈なアンチパシーを持っています。
チョコレートが口に入れば、その熾は消えてシンパシーがいったんは満たされますが、
周りのアンチパシーが強いために、満たされるということが長く続きません。また次を、また別のを、求めざるをえません。
これは、物質に執着しているこころの領域です。
 
ふたつめは、「そそられつつ流れつつ」の領域です。
とかく執着心を持たないことがたくさんあります。
しかし、かすかにそそられてはいます。
たとえば空の青さにかすかにそそられるからこそ、空にも目を向けるのですが、
しかしすぐに次のところ、次のものに目が移っていきます。
これはシンパシーとアンチパシーがどちらも突出していない状態です。
これが「そそられつつ流れつつ」の領域です。

1番目の領域が大地のような固さであるとするならば、
2番目は流れる水のようです。

3番目は、「願い」の領域です。
これはシンパシーの力によっています。
こんな人間になりたい、こんな生活がしたい、こんなことがしてみたい、というようなこころです。
「高瀬舟」でも語られていたように、願いはきりがないこととも言えます。どこまでも拡がっていきます。たとえれば風のようなものです。
しかし、この領域に於いても、かすかにアンチパシーが紛れ込んでいます。願いというのはそういうものです。
少しだけ、自分にこだわる、頑ななところがあるのです。

4番目は、「快・不快」の領域です。ここでアンチパシーが消えます。シンパシーのみの領域です。
不快はアンチパシーではありません。
たとえば、歯が痛い、というのは、自と他と分けるアンチパシーではありません。
シンパシーが少しでも減ると不快感がやってきます。
この快と不快の間の行き来は、日常生活で常にやっていることなのです。
4番目の領域は、光と影とたとえられるでしょう。
快として感じられる光が遮られて、不快として感じられる影が生じます。

(続く)

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2008年07月25日

質疑応答  学校 講義 その4

質問 「シンパシックに見るというとき、アブラムシがいるかしらとか考えるけれども、
     そういう見方でもいいのか。
     成長しているかどうかわからないものを見るとき、
     そのときも、成長しているとか、衰退しているとかいう大まかな思考を持った方がいいのか。」

最初は、アブラムシがいる、でもいいじゃないですか。
目に見えるものをしっかりと見つめていく。
段々と見ることに習熟していくと、植物の成長する力の相をまずは感じることができてきます。
感じたもの、それが何なのか、を詮索しなくてもいいのです。
成長か衰退かわからないときも、生命はそこに営まれています。
ここで大切なのは、
その成長か衰退、いずれかのプロセスにある植物の生命の相を受け取るということなのです。



質問 「シンパシックに受け取るというのは、自分が植物になる気持ちでするんですか。」

「自分が植物になる気持ちでする」ということは、
すでに「考える」から始めていますね。
まずは、「見る」ことです。
こころ、感官をひらいて、世界を受け取ることです。
そしてその「見る」のアクティビティーが高まるほどに、
植物の生命の相が感じられてくる、
また、見ている「わたし」と見られている「植物」とがひとつに合わさる経験、
「主客合一」という験しがある、ということが、様々な人・賢人によって言われています。
世阿弥も松尾芭蕉もそのようなことを書き記しています。



質問 「見るとき、考えが入ってくることがあります。
     それに対してはどういう対応をとったらいいのでしょう。」
 
考えるが入ってくることこそ、まさに自然なあり方だと言えます。
しかし、その考えるが、見られるものごとにふさわしいものかは、また別のことです。
ものごとは、いかようにも考えられます。
それは、考えるが人の自由に任されているからなのです。
しかし、だからこそ、人は、自分勝手に考えるのではなく、
ものごとに沿っていきいきと考える力を養っていいですし、
よりこころの力を使う練習として、あえて、考えるを排するという方法もあります。
考えること、それこそがまさしく自由の領域です。
自由ですから、敢えて考えるを差し置くことも、人はできるものです。
それは、よりアクティブな行為のはずです。



質問 「苦手な人や物に対しては、シンパシーを持って見るのは難しいのですが。」

ここで大切なのは、練習の対象として見るということです。
練習の対象として見ようとしたときに、シンパシーを持つようにすることはできます。
しかし、素の自分であるときに、それを「しなければいけない」ということでは決してないのです。
ある時間、決まった時間、そう決めてすればいいのです。

(続く)


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2008年07月23日

『見る』ことの練習  学校 講義 その3

シンパシーを育むということ。
“今まで以上にものを注意深くみる”。それを練習してほしいんですね。

「見呆ける」ということばがあります。
考えることを差し挟まない見方ですね。
これを意識的にする練習はとても意味があります。
つまり、考えることを敢えて差し控える見方です。

例えば成長していく植物を見呆けてみてください。
そのとき、大まかな考え、「これは成長の相にある植物だな」という考えを持って見呆けるのです。
その時にどういうことがこころの中に生じるかを見てください。
成長する相に目を向けるということは俳優にとって意味があります。
そして同時に、衰退する相を見ていくのです。

そして、そのように見る練習をしていく中で、
こころがどういう動きをするかに、深く深く自覚的であるということなのです。

俳優としてテキストと向き合う時、
登場人物の姿、こころの中を見るのです。
見る練習をしてほしいのです。
そしてその時、自分のこころがどのように動いているかを見ることができればしめたものです。

本来人は見たことしか提示できません。
だからこそ、普段の人が通り過ぎてしまうことをでも見ること、深みを見ることが、
俳優にとって必要なことです。
俳優は、生きることの深みを舞台の上で顕わにすることが仕事ですから。

シュタイナーも同じでした。
彼は、肉眼の眼だけでなく、こころの眼、精神の眼をも通して見たものだけを、
できるかぎり科学的に語り、記述しました。

ですから、見ることがとても大切になってきます。
感官を拓くということですね。
成長する相、衰微する相に目を向けることです。
幼子と老いた人とをこころにむかえたとき、その時、こころの内の動きは全く違ってきます。
舞台上でも同じです。
俳優のそのこころの働きが育まれていればいる程、舞台も力強くなります。

わたしたちのクラスでは、
午前の時間で、からだという楽器を整え、午後の時間ではこころを、内面を培っていきます。
そして、わたしたちひとりひとりのからだとこころが段々とともどもに起こされ、育まれ、なりたたせられていき、より自由なあり方で舞台に立てることを目指しています。

(続く)

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2008年07月21日

『考える』と『見る』    学校 講義 その2

「考える」という精神の働きは、
まずもっては、アンチパシーというこころの力と、ともどもひとつです。

アンチパシーの力は、何かとの距離を取ろうとする働きであります。
考えることによって、ものごとと距離が取れるからこそ、
人は冷静に、ある意味、客観的な立場に立つこともできます。

一方、「見る」という精神の働きは、
シンパシーというこころの力とともどもひとつです。

シンパシーの力は、何かとの距離をなくそう、ひとつになろうとする働きです。
「見る」という働きは、何かを「迎える」「覚(おぼ)える」「受け取る」ことと言ってもいいですし、
またその根底には「愛でる」「愛する」という働きが潜んでいます。
「見る」とは、自分に親しく物事を引き寄せる、とも言えます。
わたしが、光とともにすること、とも言えますし、さらには、光を得ようとしてすること、とも言えます。


わたしたち人は、
この「見る」と「考える」というふたつの働きをいつなりともしつつ、生活を送っていますが、
人の歩む歴史の必然からでしょうか、
現代人は、兎角ものごとをアンチパシックに捉えがちでありますし、
「見る」と「考える」のバランスを欠き、
「考える」の方へと精神の働きが傾きがちでもあります。
知性のみが重視されてしまう教育のあり方も省みられていいときが来ているように思われます。

ものごとをシンパシックに捉える、もっとものをよく「見る」ということは、
現代人にとっては、意識的にしていっていいことです。

「見る」ということ、それは目だけでなく、感官を通して覚える、感覚するということです。
意識的に感官をより豊かに拓いていくということ、
それが現代人の新しい課題といえるかもしれませんし、
俳優にとって、とても大切な課題です。


シュタイナーは、全部で12の感官があり、
そして更なる精神の感官もあると言っています。
それらの感官を拓いていくこと、見ることを練習するためには、
シンパシーの力を育む必要があるんですね。

万葉のころの人たちは、本当にものを愛でていた、そして歌を詠んでいたということが分かります。
シンパシーがまだ人のこころに際立っていました。

それが、古今和歌集、新古今和歌集と時代を経るにしたがって、
ものと距離を取るようになっていきます。
アンチパシーの力が、人のこころの内でより強くなってきたと言えるでしょう。

そのアンチパシックなこころのありよう、考えるというありようが極まったところに俳諧があり、
松尾芭蕉はそれをひっくり返し、世界と自分とのより高い合一・シンパシックなあり方を打ち立てました。

(続く)

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2008年07月19日

俳優修業におけるこころの育み  ことばとドラマのためのシュタイナー学校 講義その1

毎週3回、帝塚山教室にて、7人の方々が、
「ことばとドラマのためのシュタイナー学校」第1期生クラスとして、
この4月から学び始めて約4ヶ月が経とうとしています。

今は、この秋、11月2日(日)に公演予定の宮澤賢治作品の語り芝居に向けて、
みんな汗を流しつつ稽古に励んでいます。

ことばを語るための基礎的なからだづくりから、
作品の細部に入り込んでいって、いきいきと表情豊かに語れるまでのプロセスを、
みなさん、歩まれています。

また、そういった言語造形の稽古とあわせて、
月2回、俳優修業のための「こころの育み」としてのアントロポゾフィーの学びをもやっています。

順を追って、そこでの講義で語られたことをご紹介していければと思います。

この講義録は、この学校に通っているHさんの筆記したものに、わたしが加筆・訂正したものです。
Hさん、どうもありがとうございます。


_______________________________

「俳優修業におけるこころの育み」

俳優という仕事にとって大切なこととしてこころの育成があります。
俳優は舞台に立ちますが、俳優自身のこころというものも、いわばひとつの内なる舞台です。
その内なる舞台、内なるこころをふさわしくなりたたせていくことが、俳優にとって大切な事柄です。

そのこころという舞台においてなされる大きなふたつの働き、「見る」と「考える」。
そのふたつは、人の精神の働きと言えますが、
俳優に限らず、人は、そのふたつをその都度、その都度、
こころという舞台の上で重ね合わせていくことによって何かを「知る」ことができます。

俳優も、稽古の連続というプロセスの中で、その「見る」と「考える」を重ね合わせていくことによって、
「う〜ん、こうじゃない・・・」「こうでもない・・・」から、「これだっ!」へと至る道筋を歩みます。
それもひとつの「知る」へのプロセスです。
そのように、俳優は、「見る」と「考える」を通して、
段々とこころを起こし、からだを起こし、こころをなりたたせ、からだをもなりたたせていきます。

(続く)

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2008年07月01日

「いかにして高い世を知るにいたるか(8)」

個人ができる社会への最も大きな働きかけとは何でしょうか?

いろいろなことが、考えられるのですが、
やはり、つまるところ、自らのこころをより善くすることだという考えに、
わたしのこころは深いところでイエスと言っています。

社会とは、ひとりひとりの人間のこころから成り立っています。

そして、基本的に、人は他者を変えることはできず、
自らを変革・成長させていくことができるのみです。

自らのこころをじっくりと観ていくことから始まり、
だんだんと磨きをかけていく、より善くしていく。

その力は、社会に対して、世に対して、
強く大きいものです。


シュタイナーのこの本も、
「自分自身のこころのトレーニング」を主題としています。

そして、ここに書かれてある事柄は、
読む人に、
「今、そのことができているかどうか」、
もしくは「成果」を問うものではありません。

読む人が、「自分自身のこころのトレーニング」の必要性を感じており、
そのような趣の自己教育に取り組んでいく「つもり」があるのなら、
その「つもり」「こころざし」こそが、その人を引っ張っていきます。

課題を果たせようが、果たせまいが、です。

「今の自分」を基準にするのではなく、
「わたしのこころざし」を基準にします。


この道を歩み続けようとする意志とこころの構えのみが大切と言えます。

この本にこうも書かれてあります。

「成果への愛ではなく、努力への愛だけが、成長を促す」

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2008年06月17日

「いかにして高い世を知るにいたるか(7)」

人を暖めることばって、どういうことばだろう。
人を力づける考えって、どういう考えだろう。

もしかしたら、ことばや考えの内容以上に、
そのことばや考えの裏に息づいている感情のあり方が、
人を暖めたり、力づけたりするのではないだろうか。

自分の感情のあり方に、もっと注意を注いでいきたい。


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2008年05月20日

「いかにして高い世を知るにいたるか(6)」

「内なる静かさの練習」


怒り。

この感情が、なぜかわたしの人生において、時に顔を出すのです。

よくないと分かっていながら、
いつまで経っても、ことあるごとにその情が立ち上がってくるのを抑えることができずにいる・・・。

しかし、この学びを始めてから、
この情を抑えようとすることよりも、
この情にしっかりと向かい合ってみることが、
まずわたしのしなくてはならないことだと気づきました。

向かい合ってみると、
ようやくその情と距離を取ることができる。

そして、その情に巻き込まれるのではなく、
その情が、わたしに何を教えてくれようとしているのかが、
だんだんと分かるようになってくる。

ちゃんと意味があって、わたしの中にその情は湧き上がってきているのですから。

一日の終わりに、
内なる静かさの中で、
その情が教えてくれている意味を、声を、聴く。

この毎日の作業は、わたしに力をくれます。

これまで書いてきたこころの練習(敬いと尊びの練習)は、
いつでも気づいた折にやっていっていいものですが、
この作業はたとえ短くても時間を決めて、、日々続けることが大切な練習です。

なぜなら、自分の内に生じている感情を観察するという作業は、
静かさの中で集中してせざるをえないからです。

自らを他人視する練習と言ってもいいかもしれません。

それは、メディテーション(瞑想)の始まりです。

メディテーションの中で取り上げる素材はいくつもありますが、
まずは、自分の感情を素材にしてみることがこの練習の取っ掛かりになります。

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2008年05月05日

「いかにして高い世を知るにいたるか(5)」

人に会うときに、敬いを持って会うのと、そうでないのとでは、
随分その出会いの質が変わってきますよね。

シュタイナーの本を読むときも、それとよく似ていると思うのです。

たとえ、そこに書かれてある事柄がすべて理解できなくても、
「自分にはいまだ理解できない、しかし、いつか時が熟せば分かる時が来るだろう」
そんな信頼を持って、敬いを持って、本に対していくならば、
敬いを持たない時と全く違って、
ある豊かさを本から受け取ることができるようになってきます。
豊かなことばが、本から聴こえてきます。

このことは、人に会う時、本を読む時に限らず、
花を見る時、鳥の声を聴く時、空を見る時、コンピューターの前に座る時、
ものというものに接する時すべてに言えることではないかと思うのです。

わたし自身が語るのではなく、
対象に語らせるには、
敬いというこころの構えが要るのだということなのかもしれません。


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2008年05月02日

「いかにして高い世を知るにいたるか(4)」

「わたしのわたしたるところが目覚めること」、
そして「わたしのわたしたるところへの敬い」
について、書いてきました。

目覚めと敬いはひとつです。

敬いなきところに本当の目覚めはありませんし、
目覚めていることによってのみ本当の敬い・愛があるのでしょう。

まずは自分自身の内なるところへの敬い。

毎日、ことばをかけていきましょう。

自分のことばで、自分自身の内なるところへ。


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2008年04月28日

「いかにして高い世を知るにいたるか(3)」

「わたしみずからへの敬いと尊び」について、前回書きました。

この「みずから」というのは、
自分自身の身体のことでもなく、
喜怒哀楽が渦巻いているこころのことでもなく、
「わたしはわたしだ」というところ、
「わたしのわたしたるところ」、
「わたしの精神」「精神としてのわたし」を言いたいと思います。

アントロポゾフィーの学びとは、様々な言い方ができますが、
つまるところ「わたし」を育むこと、
「わたしのわたしたるところ」を育むこと、
そう言ってしまっていいように思うのです。

この「わたし」は、人間の構成要素の中で最も若く、ある意味、未熟なところと言えます。

私は今、43歳ですが、それは、この肉体がこの世に出てきて43年ということですよね。

しかしこの「わたし」がこの世になんとかひとり立ちしようと出てくるのは、
生まれてから7年を3回くり返したあと、
おおよそ21歳以降です。

ですから私の「わたし」の年齢はいまだ43歳−21歳=22歳にしか過ぎません。
まだ随分若いです。

グリムメルヘンの「いばら姫」でも語られているように、
厚く生い茂ったいばらの垣根の奥の奥に美しいいばら姫が眠っていて、
100年経ったその日に、勇気ある若い王子がやってきて、くちずけをすることによって、
姫は目覚める。

若い、未熟な「わたし」を目覚めさせること、
それは、自分の中の「いばら姫」を目覚めさせるということでもある。

100年経ったその日に、あれほど厚く繁っていたいばらの垣根が開かれる。
100年というのは比喩です。
長いプロセスを経て、人は、厚いいばらの垣根を開き、
必ず、己に目覚める。

しかし、同時に、勇気ある若い王子の熱い思いと行いが必要でした。

その「勇気ある若い王子の熱い思いと行い」とは、
こころに差し込む光のような自己への働きかけです。

そう、
「わたし」が目覚めるために、
まずこういう問いかけをしてみるというのはどうでしょうか。

植物の種が芽吹き、成長していくために太陽の光が必要なように、
「わたし」に意識の光を注いでやる。

意識の光を注ぐ。
みずからへ、こういう問いかけをしてみます。

    わたしはいったい、どんな人間でありたいのか?
    わたしは、何をすることにこころの底から喜びを感じるのか?

毎日、こういう問いかけをみずからにするのです。

いばらの垣根は厚いものです。
こころの内にみずからを否定するような、恐れやその他様々な感情も渦巻いています。

しかし、この問いかけを毎日しつづけていくことで、
いつか必ずいばらの垣根は開け、
姫は目覚めます。
「精神としてのわたし」が目覚めていきます。



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2008年04月23日

「いかにして高い世を知るにいたるか(2)」

「敬う」
この「敬」という字は、そもそも神に仕える心意を表すそうです。(白川静『字通』)


ゲーテという人は、
人が求めて止まない真実・真理から始まって、
日々出会うひとりひとりの人、
そしてひとりひとりの子ども、
地球の上に存在している様々な動物・植物・石ころ、
また太陽の光と闇の交差から生まれる色彩に至るまで、
上から下まで、対象という対象に対して、
この「敬」という字をもって表される念いから向かい合う練習をしたそうです。

そしてゲーテは、
「敬」の念いを向けるのに最も困難を極める対象は、
「わたし自身」、この「わたしのわたしたるところ」だと語っています。

しかしわたしは、
この今という現代を生きていて、
困難を極めるかもしれないが、
この「わたしのわたしたるところ」こそが、
「敬」という念いを向けるべき最も大事な対象だと感じています。

「わたしのわたしたるところ」を対象というのも、おかしいかもしれません。
しかし、わたしが、わたし自身の最も内なるところを敬う。

この自尊心を育んでいくことは、
倣岸さを増長させることではもちろんなく、
自己への信頼を確かに打ち立てていくことです。

それは、きっと、他者への信頼につながり、
つまりは、神への信頼につながっていく。

自己不信こそが他者不信の大元だと痛感するのです。


現代、
まずは、わたしという人間の最も内なるところ、
わたしのわたしたるところへの敬いと尊びを育んでいくこと、
このことが更に重要なことだと感じています。

また、ここで書いていますことは、
今、現時点で、これらのことができているとか、できていないとかいうことではなく、

これらのことに取り組んでいく気持ち(こころざし)があるならば、
誰に言われるまでもなく、自分自身の課題として、練習していくことができる、
ということです。


posted by koji at 22:43 | 大阪 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月22日

「いかにして高い世を知るにいたるか(1)」

今年の1月から月2回、大阪市中央区の空堀での水曜アントロポゾフィー講座で、
シュタイナーの「いかにして高い世を知るにいたるか」を読むことを始めました。

これまでの約3ヶ月で、わたしたちは次の三つについて学びを進めてきたように思います。

@敬いと尊びの道

A内なる静かさ

Bメディテーション(瞑想)


まず今日は、@の敬いと尊びの道について、改めて考え直したいと思いました。

わたしの場合、
自分でそれ相当の責任を担いながら仕事をしていますと、
この@の道を踏まえなければ、
そもそも仕事が成り立たないことを身をもって痛感します。

出会うひとりひとりの人への敬いと尊びをまず根底において持たないと、
仕事がうまくいかないことを身をもって知るのです。

しかし、これは外での仕事においてばかりではありません。
この学びをしていきますと、
最もプライベートな場所、家庭において
この@を実践していくことの大切さを身をもって知ることになります。

敬い。 尊び。

人やものごとに対するこの念いを言い表すことは難しいのですが、
この念いをもとにして、
家族に対する新しい接し方、対し方、向き合い方を学んでいくこと。

これは、人として大事なことだなあ〜、とつくづく思うのです。

身内であるという親しさを通して、
そしてその親しさに甘えずに、
ひとりの人をひとりの人として迎えるこころの練習。

ひとりの人を、天から来た人として迎える練習。

この家族という関係の中で、
この人と出会うことができたということに対する驚きと感謝を育んでいくこと。

人をそんな念いから観ていくこと、
それは、精神の観点から、人を観ていくことです。

人を属性から観るのではなく、
その人のその人たるところを観ようとすることです。

シュタイナーに助けられて、そんな観点を育んでいくことができます。

固定したメンバーであるだけに、
家族はこの練習に最も適しています。

一番近しい間柄である家族からこの練習を始めることが、
最も緊急で大事なことに思えます。

結局は、社会のあらゆる問題の根っこが、
この練習から解きほぐされていくのではないでしょうか。

posted by koji at 20:49 | 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月18日

こころの視線の行先

たとえば、日々の生活の中で、
何かによってイライラさせられたり、
時には怒りを感じてしまうこともありますよね。

そんなとき、
どうしてもイライラさせられる対象や相手に意識を向けてしまうのですが、
ここはひとつ、こころの練習として、
自分自身の内側で、今起こっているイライラそのものに、
こころの眼を注いでみる。
その練習をイライラが起こるたびに何度も繰り返してみる。

このようなこころの視線の行先の方向転換は、
自分のこころを自分で律していく道「知ることの細道」を歩んでいく上で、
大きな、大きな一歩になります。

みずからのこころの内で起こっている快・不快の情を、
みずからでみつめようとすることが、
内なる静かさを自分の中に育んでいくことに繋がっていきます。

外にある対象にではなく、
内にある自分のこころの動きに意識を向けることによって、
自分自身を対象化できるのです。
自分自身を他人のように見ると言ってもいいかもしれません。

そうしないうちは、
自分は自分であるまま、ある種の安全地帯にとどまったままで、
外にある対象・人・出来事に翻弄されてしまいます。

外にではなく、
こころの内に繰りなされる快・不快の情に目を注ぐ。
そのとき、快と不快の情こそが、
その人への最もよき教え手である。

そのことをシュタイナーは語っています。


posted by koji at 12:54 | 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月15日

メルヘンはごちそう

夜になって、からだやこころが疲れた時、
よくメルヘンや昔話の本に手を伸ばしたり、
憶えているものを自分自身に語ってみたりします。

読み終わったあと、語り終わったあと、
なぜか自分がリフレッシュされていることに気づくことがあります。
次の日の朝、目覚めが爽快に感じることもあります。

なぜでしょうね。

一読して、物語の意味がよく分からない時もあるのです。
しかし、たとえ意味がすっきり分からなくても、
メルヘンの読後感というものは独特です。

こころの奥底が求めているものを供給した実感があるのです。

この実感は、わたしに大切なことを教えてくれます。

人というものは、からだだけの存在ではなく、
眼に見えない領域「こころの世」「精神の世」にまたがる存在なんだ、
ということをシュタイナーのアントロポゾフィーから学ぶ事ができます。

毎日、食べ物や暖かさといったからだの糧を求めているように、
人は本来、こころの糧、精神の糧をも毎日欲していて、
それが満たされる時、人は仕合せなのだ。

メルヘンや昔話は、その「こころの糧、精神の糧」を与えてくれる。
そんな実感・満足感を覚えるのです。

わたしはアントロポゾフィーを学び始めて、
初めてメルヘン・昔話の存在意義、魅力、そのなりたちを理解し、
味わっていく事ができるようになってきました。

自分の実感と理解がひとつに合わさるようになってきたのです。

メルヘン・昔話は、
人というものがいかなる存在なのか、
その法則というものが生き生きと息づいている精神の世の物語であり、
その世からのイメージ・絵姿から織り成された物語です。

精神の世から降りてきてまだ間もない幼いこどもたちが、
これらを好みます。

読んでもらったり、語ってもらったりすることは、
とりわけ嬉しいものです。

それこそ、ごちそうです。

そして、わたしたち大人も、これらを好みます。

特に日中の多すぎたり強すぎたりする刺激にさらされ、疲れた時には。

posted by koji at 21:21 | 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月29日

見ること

こどもって、大人が「見ていてくれる」ことで、
随分安心してご機嫌でいてくれることが最近、ようやく会得できました((^^ゞ)。

「見る」ということばは、やはり「愛でる」ということばと合い通じている。
「見る」ことは、まさしく「愛でる」ことであり、
「愛している」からこそ、人は何かを「見る」のですね。
愛していないと、人は、ものを、人を、よく見ない。

こどもは、その愛を感じるから、きっとくつろいでいきいきといてくれるのでしょう。

しかし、大人の側に、その何かを「見る」「見続ける」、
わが子を「見る」「見続ける」という行為をするこころの余裕がない。

愛しているはずなのに、こころの余裕がなく、自分のことで精一杯だから、
わが子さえも、よく見ない。

こころを決めて、「見る」ことに専念できると、こどもも落ち着くし、
自分自身も、こころここにあらずの状態から、
「いま、ここ」にしっかりと「ある」ことができる。

何かを意識して「見る」こと、「見続ける」こと、
それは、「わたし」と「対象」を「いま、ここ」という絆で結んでくれる行為、
愛から生まれる意志の発露でもあるのですね。

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2007年12月03日

シュタイナーを読んでいて

仏陀が滅してのち、

教(おしえ)と行(修行・こころの練習)と証(さとり)がある時代が、正法。500年続くと言う。

教と行のみあって、証のない時代が、像法。千年続くと言う。

教のみあって、行も証もない時代が、末法。万年続くと言う。

しかし、道元は、こう言った。
そのような時代区分は「その人」によって乗り越えられる、と。

  
  仏法に正像末を立ツ事、しばらく一途の方便なり。
  真実の教道はしかあらず。
  依行(えぎょう)せん、皆習うべきなり。・・・
  
  人々皆仏法の機なり。
  非器なりと思ふ事なかれ。
  依行せば必ず得べきなり。
               (『正法眼蔵隋聞記』より)


シュタイナーを読んでいて、
随所随所にリアリティーを感じながらも、
時に「これは、今の自分には、大きすぎる事柄だ」と感じてしまうことがある。

しかし、そんな時、道元のこのことばを思い出す。

「非器なりと思う事なかれ」

自分はそんな器ではない、と考えるな。

怖気づいてしまいそうな、
卑下してしまいそうなこのこころのありようは、
道のおおいさの前に、どうでもいいことのように思われる。

自分の日常において、
こころの大事さを心底感じるこのごろだが、
法の偉大さ、精神の一大事へ、スポットライトを当てることの必要性を感じている。


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