[アントロポゾフィー]の記事一覧

2010年11月06日

D知ることと願うことはひとつ 〜『いかにして〜』 実践的な観点その8

「幸せになりたい」という願いを持っているとする。

しかし、「幸せになる」とはどういうことなのか。

もしくは「幸せ」とはなにを指すのか。

そのことをしんと考えてみて、
そして、その上で、
「幸せになりたい」という願いを持つことと、

そういうことを全く考えずに、
ただただ「幸せになりたい」という願いを持つこととの間にどういう違いがあるか。


五つ目の小さな教則としてシュタイナーは次のように書いている。

   ひとつの願いが満たされるのは、きっと、
   その背後にひとつのまったくことさらな力が控えているときである。
   その力は「ふさわしく知る」からやってくる。
   「ひとつの分野でふさわしいことを知るまえには、いかようにも願わないこと」、
   それが密やかに学ぶ人にとってひとつの黄金律である。(p.127)



普通、人は「幸せを考える」のではなく、「幸せを感じる」。
幸せとは、考えられるものではなく、感じられるものだと、
漠然と当たり前のように思ってはいないだろうか。

しかし、シュタイナーは、
幸せとは何かを考えてみること、幸せとは何かを知ることが背後にあって、
幸せになりたいという願いが満たされると言っている。

考えること、そして知ることを通してのみ、
人は明らかさを得ることができる。

その明らかさから、願いが満たされる道が始まる。

それが何かを知らずに、それを求めるというのは、
考えてみればとても不思議なことだし、
それはやはり人の闇雲な不自由な姿として写ってくる。

ただ、この「ふさわしく考える」「ふさわしく知る」という行為がミソだ。

この「ふさわしく考える」行為とは、
恣意を交えず、頭でこねくり回さず、
ものごとに接近していくこと、ものごとに沿うこと、ものごとと直に交わること、
別の言い方をすれば、聴き耳を立て、
考えという響きを精確に聴き取ることではないだろうか。

そこから「ふさわしく知る」ということへと繋がっていく。

「幸せとは何か」という考えに耳を澄ませること。

問うて、開いて、答えを待つ。

そのことが、ふさわしく考え、知るということだとするならば、
その行為そのものの中にすでに願いが現実となる力が胚胎している。


   賢い人はまずもって世の法則を習って知るようになる。
   それから、その人の願いが力となって、現実となる。(p.127)



実際、どうだろう。

自分が本当は何を求めて生きているのかを、
その都度その都度、
ふさわしく知ることができたなら、
そこに生じた想いの明瞭さ、イメージの明瞭さが、
すでに願いの実現の始まりと感じられないだろうか。

知ることそのことの内に何かが孕まれていないだろうか。


●密やかな学びの実践的観点の五つ目の小さな教則
    ふさわしく知ることと願うことはひとつ(知の練習)

posted by koji at 22:27 | 大阪 ☀ | Comment(2) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

C好奇心ではなく敬虔さを  〜『いかにして〜』 実践的な観点その7

実践的な観点における小さな教則の4番目。

  密やかに学ぶ人においては、
  きっと、いちいちの好奇心が萎(しぼ)む。
  その人が、きっと、
  パーソナルな知識欲を満たすためだけに知ろうとするものごとについては、
  できるかぎり問うことをしないようになる。
  その人が問うてほしいのは、
  みずからというものを、育つということに向けて仕立てていくのに、
  なにが役立つかである。(p.126)


好奇心って、なんだろう。

奇を好むこころ、と書く。

シュタイナーが使っている原語は、 Neu(新しさへの)gierde(欲)。

自分のこころをよく観察してみると、
奇を好むときのおのれのありようは、
どこか焦っている。
急いている。

何かが足りないような気がして、
より新しいもの、新鮮なもの、目新しいものを漁っている。

「自分には何かが足りない」というところからスタートするとき、
好奇心が発動する、
そんなふうに見えてくる。

「あなたが、もし、密やかな学びに取り組むのなら、きっと、好奇心は萎(しぼ)む」
とシュタイナーは言っている。

好奇心に沿って動いていくことも、
そうではないものに基づいて動いていくことも、
まずもっては、
人の自由に任されている。

しかし、密やかな学びに取り組むにしたがって、
人は、きっと、好奇心とは異なるこころの基から動いていく自由を選ぶようになる。

その好奇心とは異なるこころの基とは、
敬虔さである。

そうシュタイナーは述べている。

  (中略)その人はそのような目標に役立つことのすべてに敬虔に聴きいり、
  そのような敬虔さのための折りを見いだしてほしい。(p.127)

同じものごとに対する関心でも、
自分には何かが足りないという焦り、欠乏感から発動するのが、好奇心ならば、
急いてはいず、安らかであることから発動するのが、敬虔さではないだろうか。

この実践的な観点の根本テーマは、根気であった。

根気を育むこと。

それは、また、敬虔さを育んでいくことでもある。

敬虔さとは、
ものごとに対し、
人に対し、
みずからをむなしくして、
ひとつになろうと歩み寄っていくこと。

好奇心とは、趣きが随分違う。

敬虔さは、An(ついて)dacht(考えること)。

ものごとに、人に、ひっついて、寄り添って、考えていくこと。

その内的行為が敬虔さに繋がっていくのだろうか。

いますぐ、できなくてもいいじゃないか。

密やかな学びに、根気をもって取り組んでいこうじゃないか。

ならば、きっと・・・・。

繰り返すが、
このことばは、
密やかに学ぶ人に向けて、
書かれている。

この鈴木一博氏の訳でとりわけ特徴的なのは、
原文でのmuss(英語でのmust)を、
「〜しなければならない」とするのではなく(!)、
「〜するならば、きっと、〜になる」
「〜であるならば、きっと、〜になる」
という、人の成長を見据えた、「必然」のモードとして訳してあることだ。

だから、「好奇心を捨て去らねばならない」ではなく、
「きっと、好奇心は萎(しぼ)む」となる。

これは、シュタイナーのことばの使い方において、
おそらくとても重要なことだ。

つまり、シュタイナーは、
読む人の主体性、アクティビティーにどこまでも信頼と期待を寄せている。

密やかな学びは、
どこまでも、その人のアクティビティーに懸かっている。

そのことの微妙だけれども、アントロポゾフィーにとって肝心要のことが、
日本語として記されている。

書き手はあるモードを確かに伝えようとし、
そのことから読み手は励まされたり、
また逆に知らず知らずのうちに意気阻喪してしまい、
読書を途中で投げ出してしまうことにもなる。

それは、ことばの使い方、ことばとの付き合い方から決まってくる。

そして、ことばの使い方は、おもにその人の情のありようを伝える。

「〜しなければならない」ということばを他者から連発して聞かされていると、
人は、きっと、アクティビティーを失う。


●密やかな学びの実践的観点の四つ目の小さな教則
    好奇心ではなく、敬虔さに裏打ちされた関心を育む(情の練習)

posted by koji at 23:00 | 大阪 ☁ | Comment(2) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月21日

Bみずからをふさわしく知ること  〜『いかにして〜』 実践的な観点その6

これまで、実践的な観点のひとつめ、ふたつめを挙げてきました。

@他者からの侮辱に対する怒りをおさめる練習 ⇒ わたしの値をわたしが定めるということ(情の練習)
A請いと欲を黙らせる練習 ⇒ 自分の足で歩いていくということ(意欲の練習)

今回は三つめです。

三つめに入る前の文章には、
みずからの内にある焦りから生まれる請いと欲を黙らせること、
すなわち、高い知がこちらへ来てくれるのを請うのではなく、
こちらから一歩一歩歩いていくことについて書いてありました。

その毎日の行為(読書と集中・瞑想)によって初めて、
高い世を知るにいたる道を歩くことが実践的なものとなっていきます。

次にこういう文章があります。

   そして、そのことが、なによりもこのことを要請する。
   すなわち、人がこころの深みにおいて、みずからに対し誠実であることである。
   なにごとにおいても、みずからについて思い違いをしてはならない。
   人が、きっと、みずからの過ち、弱さ、ふがいなさを内なる誠実さをもって真っ向から見据える。                                       (p.125)


一文目の「そのこと」とは、つまり、自分の足で一歩一歩歩いていくことです。
「自分の足で一歩一歩歩いていく」時にこそ、
みずからに対する誠実さがおのずとみずからで問われるところとなりえます。

「歩く」という行為そのものが、きっと、
みずからの内の弱さを真っ向から見据えることを引き出します。

「見据えなければならない」のではなくて、
「きっと、見据える」のです。
道を歩いていれば。

根気をもって行為を続けていくことそのことが、人に、きっと、新たな次元を啓きます。

   みずからの過ちと弱さを脱する道は、ただひとつあるきりである。
   そして、その道はその過ちと弱さをふさわしく知ることである。(p.125)

このふたつめの文章にある、「過ちと弱さをふさわしく知る」ということ。

「みずからの内なる過ちを知る」とは、
みずからの内にある過ちに、
いい、悪いの判断を下すことなく、
ただ「その過ちがある」こと、そのことを認めること。

そして、その「過ち」と正反対の「ふさわしさ」もみずからの内にあることを認めること・思い出すことです。

同じく、みずからの内にある弱さに、
いい、悪いの判断を下さずに、
ただ「その弱さがある」ことを認めること。

そして、その弱さと正反対の「強さ」もみずからの内にあることを認める・思い出すことです。

「ふさわしく知る」とは、このように、
ただ「過ちや弱さ」のような内なる性質がみずからにあることをまず認めることから始まり、
そしてそれぞれの性質とは正反対の性質が必ずみずからの内にあること、
つまり、必ず両面の性質を持っていることを認めることです。

この地上世界に生きているわたしたちは、
みずからのこころをよくよく観察してみますと、
正反対と思われる性質を必ず両面持っています。

「弱さ」なら「強さ」を、
「ふがいなさ」なら「頼もしさ」を、
「愚かさ」なら「賢さ」を、
「冷たさ」なら「暖かさ」を、
必ず内に持っています。

その時々に応じて、どちらかの面が浮上してきているに過ぎません。

わたしたちは、その両面ある性質の片側だけを見て、
自信を失ったり、自信過剰になったりするのかもしれません。

しかし、人の内には必ず両面の性質がありますし、
また、みずからの内の「弱さ」を認められる人は、
きっとみずからの内にある「強さ」をも認めることができます。

ここでシュタイナーが言っている「ふさわしく知る」とは、
「みずからの内にある弱さと共にある強さを認める」ということです。

この内的な、密やかな行為は、きっと、
他者の内なる両面性をも認めることへと繋がっていきます。

そして、
みずからの弱さを責め、他者の過ちを責め、世の乱れを責める、
そのような思考のスパイラルから抜け出すことへと繋がっていきます。

  Bみずからの内なる弱さを真っ向から見据える練習 ⇒ 
   弱さと共にある強さをもみずからの内に認める練習 ⇒
   みずからをふさわしく知ること (知の練習)


長い文章を読んでくださって、ありがとうございます。




posted by koji at 22:26 | 大阪 ☁ | Comment(3) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月10日

東京  鈴木一博さんのアントロポゾフィー講座

東京での鈴木一博さんのアントロポゾフィー講座のお知らせをさせてください。

http://www.anthroposophische-gesellschaft.jp/
http://mixi.jp/view_event.pl?id=55986318&comm_id=1859685

同じようなことをわたしは繰り返し言ったり、書いたりしているように思うのですが、
でも、どうしても、書きたくて書いています。



東京だけでなく、
昨今、日本の各地においても、
アントロポゾフィーから生まれた様々な実践的な試みがなされていますね。

ライフスタイルの見直し、子どもへの教育、農業、医療、芸術実践、社会有機体への働きかけなどなど・・・。

それらすべての実践のもといにあるシュタイナーその人のことば。

わたしなりに、わたしの身とこころとをもって実践的な試みをしようとするほどに、
彼のことばを読み直す、辿り直す、咀嚼し直そうと勤しむことの大切さを実感します。

なぜならば、
あらゆる実践には、
血気盛んさと不自由さが入れ替わり立ち代りして、
正当性の名のもとに、
人の自由を侵そうとするからです。

シュタイナーは、今となってはことばを通してのみですが、
わたしたちに、
「人が自由になりゆくこと」の重い意味をひたすらに説いています。

彼が生きているときには、
ことばだけでなく、
その立ち居振る舞いをもってして、
そのことを人々に伝えていたようです。

あらゆる実践のさなかに、
「わたしは、いま、自由だろうか」
「わたしは、いま、他者を自由な存在として遇しているだろうか」
と、立ち止まって、みずからに問うこと。

その問いを自分で立てること。

そのための練習として、
アントロポゾフィーの読書があります。

読書(アントロポゾフィーの書を読むということ)はひとつの芸術行為です。

それはもう、アクティブな取り組みがなければ、何も始まりません。

そして、たいていの人には、そのような読書のための師が要ります。

あらゆる芸術に通じていくためには、
たいていの人にとって師が必要なように。

今回の講座も、
その必要を満たそうとするものです。

posted by koji at 17:35 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月31日

A自分の足で歩いていく  〜『いかにして〜』 実践的な観点その5

ようやく、小さな教則の2番目に入ります。(p.125)

   根気が高い知識の富に対して引き寄せる働きを及ぼす。
   急くこころがその富に対して突き返す働きを及ぼす。


「根気」という基本のテーマを際立たせるために、
その真逆の「急くこころ」ということばが出てきました。

   焦りと揺らぎのなかでは、
   存在の高い分野のなにごとも得られはしない。


「急くこころ」ということばを、
更に「焦りと揺らぎ」ということばで言い表しています。

「急くこころ」。「焦りと揺らぎ」。

わたしたち現代人にとって、
このこころのありようを自覚することの意外な難しさ。

なおここで言わんとしていることは、
こういったありようを裁くのではなくて、
こういったありようは「高い知をことごとく遠ざけてしまう」という法則を認めることの大事さです。

   なによりも請いと欲が黙るということが欠かせない。
   請いといい欲というのもこころの性質であり、
   そのまえでは高い知識のすべてが怖じて退く。


「請う」とは、「こちらへ来てほしいと思う」ことです。
一方、先の「得る」は、「こちらから行きつく」「いたる」こと、つまり「自分の足で歩いていく」ことです。
向きが逆です。

その「請い」、もしくは「欲」を黙らせること。

みずからの足は止めたまま向こうから来てほしいと欲しがることを止める。

そのことはできうる限り快適に、楽に、すべての情報を仕入れたいと願っている現代人には、
耳の痛いことかもしれません。
まさにそのようなわたしたちのありようこそが「急くこころ」「焦りと揺らぎ」から来ているのでしょう。

自分の足を使って、ここから一歩一歩歩いていく。
そのことは、ここでは日々の読書であり、瞑想であり、つまりは考える練習のことです。

その汗を流すようなプロセスにおいて、
人は高い知を得る道を歩いているのではないでしょうか。

この本の題名にもなっている「高い世を知るに『いたる』」プロセスです。

   高い知という知にどれほど価値があろうとも、
   それがわたしたちへとやって来てほしいならば、
   それを請うてはならない。


なぜでしょう。

それはわたしたちはとかく、
表面だけ、概略だけを人から教えてもらって、満足してしまいがちです。

そのように「請う」のではなく、
「歩く」のです。自分の足で。

つまり、自分で読み、自分で考えるのです。

その歩くことによってつく足の力に価値があります。

そして、最後の文章です。

   それをみずからのために持とうとする人は、
   それを得はしない。


では、誰のために高い知識を持てばいいのでしょうか。

これは、知識という知識すべてに言えることですが、
まずもっては、自分が知りたいから知ろうとします、当然。

しかし、知識というものが本当に活き活きとしてくるのは、
その知識を得ることによって、その持ち主その人が変わってしまう時こそです。

そして、その知識の持ち主の変容が必ず、周りに影響していきます。

死んだ知識はひとりの内に貯め置かれます。

活きた知識は必ずその人を変え、他者と共有される道を歩きはじめます。

ここでシュタイナーが言っている「みずからのために持とうとする」は、
みずからは変わらず、知識だけを増やそうとすることを言っているのでしょう。

そのような知識の請い求め方は、
ここでは取らないということなのです。

高い知を得るためには、
自分から歩いていくということ。
意志を強めるということ。

   教則A 意志の育み 〜「自分の足で歩いていく」

posted by koji at 16:46 | 大阪 ☀ | Comment(2) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月27日

細やかで、静かななりかわり  〜『いかにして〜』 実践的な観点その4

「わたしの値をふさわしく定める」練習。

それは自分で自分のありのままを感じているだけではなく、
より高みから自分のありようを定める練習。

感じることはおのずとできますが、
そのようにアクティブに考えることを身につけていくには、
根気がなきゃ、できません。

その「定める」という行為は勿論、思考の働きなのですが、
情として感じられるくらい、繰り返しみずからの値をみずからで定めていきます。

その教則@について書かれてある段落の最後にこうあります。

  いつなりとも、きっと、顧みられることであるが、
  密やかな学びは粗い、外のプロセスにおいてではなく、
  細やかで、静かな、情と考えの生のなりかわりにおいてこととなる。(p.124)


この学びを根気をもって続けるにおいては、
とても細やかで、静かなプロセスが、
自分の情と考えに生じてきます。

外側からは何の変化も見えないでしょうし、
自分でさえもその細やかさのゆえに、
みずからのなりかわりを見過ごしてしまうこともあります。

しかし、ほんのわずかでも、
ものごとに対して、
もしくは自分自身に対して、
これまでの自分とは違った感じ方、考え方をしているならば、
それを繊細に掬い取って、
大切にしたいのです。

そうやって初めて、
他者の中で起こっている繊細ななりかわりにも目が向けられるようになるのではないか。

人と人とが集い合って織りなされる学びの場において、
この細やかさと静かさこそを、
意識的に敬まい、守りたい。

そのために、
他者のことばに、そして自分自身のことばに、
じっくりと耳を傾けることができる場が必要です。

アントロポゾフィーを学ぶ人にとってだけではなく、
きっと現代人にとって必要です。

そのような意識的な小さなサークルこそが、
人のなりかわり(成長)を支えてくれます!

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を大事に読むサークルが各地に生まれたら、
アントロポゾフィーの重要性もより多くの日本人に共有されていくかもしれない。

posted by koji at 23:55 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月17日

@わたしの値  〜『いかにして〜』 実践的な観点その3

こころの育みにおける実践的な観点について、第3回目です。

第1回目、2回目では、
どこまでも自主的にアクティブにこころを育んでいく練習を続けていく上で、
まずは安らかさ、畏れの気分をもつこと、
そして何よりも根気をもってその練習を続けていくことの重要性が述べられていました。

  そこでは見かけは重要でない小さな教則が、見てとられるところとなる。

これから、その小さな教則が12に渡って、ある規則性をもって述べられていきます。

まずは小さな教則その@

  たとえば、だれかがわたしたちを侮辱したとする。
  密やかな育みの前において、わたしたちはその侮辱する人にはむかう情をいだく。
  怒りが内にこみあげる。
  しかし、密やかに学ぶ人においては、そのような折り、
  ただちにこういう考えが浮かびくる。
  「そのような侮辱は、わたしの値をいささかも変えない。」


ここでは、侮辱に対する怒りについて述べられています。

そして、その「怒り」という情に対して、「わたしの値」という考えを俎上に載せます。

  「そのような侮辱は、わたしの値をいささかも変えない。」

つまり、外の世において何が起ころうと、
「わたしの値」はいささかも傷つけられず、変わらない。

要(かなめ)は、
わたしが「わたしの値」をどう定めているかである。

他の誰でもなく、
このわたし自身が「わたしの値」を定める。

わたしに称号を与えるのは、わたしみずからである。

この考えを癖になるぐらい、情になるまで、徹底させる。

考えからこの練習は始まりますが、
むしろ情にまでなるほど、情の練習として、この考えを身につけるのです。

喜多川泰さんという人が書いた『手紙屋』という本に、
こんなことが書いてありました。

偉人と呼ばれる人々は、ある共通点があると。
偉人として成功する前から、母親から、または周りの大人から、
「誰がなんと言おうと、おまえは、将来世の中の多くの人のためになる素晴らしい才能をもっているんだよ」という称号をその人は与えられて育ったのだと。

なぜなら、人は、与えられた『称号』どおりの人間になろうとするのだからと。

この周りからの応援、周りから与えられた称号を、
みずからがみずからに与える。

たとえ、周りの状況がどんなものであろうと、
このみずからの称号、「わたしの値」は、
この世を越えたところである「わたし」から来ます。

「称号」「値」は、精神から来ます。

この世的な観点で「わたしの値」を定めず、
「本来自分はこんな人間になりたい」
「わたしの値は、このわたし自身が定めるんだ」
という観点を取り続ける練習です。

そういった練習が、侮辱に対する怒りを乗り越えていく大元の情に成長していく。

この大元の情を育んでいくことが、
小さな教則の一番目です。

  教則@ 情の育み 〜「わたしの値はわたしが定める」〜


posted by koji at 21:47 | 大阪 ☀ | Comment(5) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月03日

果実 〜『いかにして〜』 実践的な観点その2

  

  人がそのような(こころにおける、精神における)折り目正しさへ、
  それとともに高い知へと行きつくのは、
  みずからの情、考え、気分にそれなりの整いをもたらすにおいてである  (p.122)



自分のこころがどうにも統御できなかったり、
しっちゃかめっちゃかになってしまうことは、
日常生活でままあります。

そのたびに、
「密やかな学び」などどこに行ってしまったのか、
と思ってしまいます。

そんな自分をも裁かずに、
いい、もしくは悪いと判断せずに、
「認める(見る+止める・止まる)こと」。

それは、とても大切なことです。

しかし、それでもこころの底では、
そんな自分に「整い」をもたらしたい、
「折り目正しさ」をこのこころにもたらしたいと乞うていることも事実です。

人は、結局のところ、成長したい生き物なのではないでしょうか。



前回では、
12の小さな教則に入る前のおおもとの命題として、
「根気」ということがシュタイナーによって挙げられていたことを取り上げました。

もう少し、そのことについて続けます。

どんな自分であろうと、
どれほど失敗しようと、
根気をもって、
本を読み続けること、
その「読むこと」からこそ(つまり、師は本そのものです)、
おのずと瞑想することが始まり、
おのずと集中する時間を持つことが始まり、
その行為をどこまでも自主的に続けていく。

そのときに、要する力が、根気であり、安らかさであり、畏れの気分です。

また、そのことを続ける中で生まれてくる力も、
根気であり、安らかさであり、畏れの気分です。

つまり、
行いがおのずと果実を生み、
果実がおのずと行いを促します。


  ほんの僅かであっても得られたところをもっての満ち足り、安らかさ、落ち着きが、
  こころをなおさらに領してほしい。(p.123)



まさしく、
実行している人なら分かること。

それは、根気をもって安らかに内なる養いを続けている人ならば、
その行為そのものの中に、
満ち足り、安らかさ、落ち着きがあることを。

それは、僅かであるかもしれませんが、
しかし、確かに、あることを。

それを感じている人ならば、
その情、考え、気分に信頼を感じ、
その状態を愛するようになること、
またそれにつれて、自分自身の内なるものが少しずつ育ってきていることにも気づきます。

また、上に、「畏れの気分」のことを書きましたが、
自然科学における時とは違い、
精神科学においては、
まことに近づくためには、
安らかに待つことと、
聖なる畏れの気分をもってひたすらに準備を整えることが欠かせない、
とシュタイナーは言っています。

それは、本を読む時も、
人の話を聴く時も、
瞑想に取り組む時もです。

「密やかな学び」における実践的な観点、
皆さん、どう感じられますか。

posted by koji at 20:48 | 大阪 ☁ | Comment(1) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月26日

根気 〜『いかにして人が高い世を知るにいたるか』 実践的な観点その1

いかにして.gif

日々、仕事をしていて、生活をしていて、いろいろなことが起こり、
そのたびごとに、様々にこころが動きますし、動かされもします。

シュタイナーが書き残してくれた本は日本語になっているものだけでも、
おそらく百冊は超えていると思うのですが、
良かれ悪しかれ、こころが動いてしまってどうしようもない時、
そういう時こそ、
わたしはこの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(鈴木一博訳)を開きます。
http://www.seikodo-print.co.jp/products/sub_36.html

特に、「実践的な観点」という章は、
瞑想のための特別な時間の中で取り組む事柄が書かれてあるというよりも、
日常のどの時間でも気がついたときに思い起こしたい、思いを深めたい事柄について書かれてあります。

特に、外的な生活からの影響でこころが揺れ動いている時こそ、
わたしはこの章の文章に繰り返し戻っていきます。



大阪の水曜講座でその章をこの7月に読み終えました。

ここに、順に、その章にいかなる事柄が書かれているかを述べていきたいと思います。

お付き合い下されば、嬉しいです。


******************************************


そこには、
育みたいおのれのこころのありようについて、
12の小さな教則が述べられているのですが、
そのすべてに通底する根本のことは、
【根気】を育むということです。

この本で述べられている「密(ひめ)やかな学び」に、
もしあなたが取り組んでみたいのなら、
何はなくとも、安らかに学びを続けること、
待つということそのことを学ぶこと、
そのことがあなたを根底において養い、育むだろう。

まず、そのように述べられています。

ここに言う「密やかな学び」とは、
情、考え、気分、そのような内なるものにおける養いのことです。

そしてこの学びは、みずからがみずからに重ねてする養い、育み、行為です。
他の誰からも勧められませんし、
当たり前のことですが、代わってやってくれもしません。
いつ始めるか、やめるかは、その人の自由に任されています。

つまり、ひたすら、
「わたし」はこれを本当にしたいのかどうかを、
常にみずから問いながらする意識的な行為です。

「密やかな学び」の最も根本において、
そのように自分の意志から始める(イニシアティブ)ことが大切なのですが、
それと共に大事なこととして、
【根気】を持つことがまずはじめに挙げられています。

   わたしはこころと精神の養いに向けてすべてをする必要がある。(p.123)

もし、あなたが、そう考えているなら、
少なくとも、そう感じる質(たち)ならば、
次のような考えにみずからを沿わせてほしいとあります。
 
   わたしはまったく安らかに待とう。
   わたしが高い力によって、定かな照らしにふさわしいと見出されるまで。(p.123)

安らかに続けていくこと。
急くこころからは、実は、何も得られないこと。

このように、
自分からすべてを始めていくということと、
なおかつ、安らかに待つということとが、
「密やかな学び」における根本の大切な両面なのです。

このふたつの行為が、わたしの「わたし」を強めてくれます。

このふたつのこころの行為によって、
わたしのまなざしが安らかになるでしょうか。

わたしの動きが確かになるでしょうか。

こころを決めることが定かになされるでしょうか。

神経質と呼ばれるところが、わたしからおもむろに退いていくでしょうか。

これらのことを、
日常の生活の中で、ことあるごとに、確かめていきたいのです。



倦まず弛まず、長期間をかけて、励むこと。

何事もそれがすべてではないですか。

それ以外のどんな方法があるのでしょうか。

posted by koji at 00:54 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月17日

こころの乞食(ほかい)

「こころの乞食(ほかい)は、幸いなり」

「こころの乞食」とは、こころの糧を乞う人。

昔もいまも、「祈る」ことによって、
人はこころの糧を得ていたんだろうし、得ていると思うのです。

ただ、現代(いま)、もしくはこれからは、よりいっそう、
「問う」こと、
「このわたしが問う」ことこそが、
わたしのこころに糧を届けてくれます。

「他の誰でもないこのわたしが」問うということにこそ、重心がかけられるのでしょう。

分別をもってしても、
いくら情報を仕入れても、
からだを鍛えても、
その尻からこころは飢え干からびていきます。

いま、まさに、ここで、
意識的に、
わたしが、
問う。

問いを明らかに抱く。

そうすることで、
こころが初々しく糧を得て、
みずみずしく蘇ります。

『自由の哲学』を読むほどに、
そのことに意識的になります。

本を読むことそのことが、
ひとりで考えてみることのはじまりになりますし、
問うことの促しになるんです。

こういうことは、ちかごろ、はやらないんですけど、
ひとり立ちするための地味な作業です。

posted by koji at 15:38 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

わたしのミカエル祭その2

  
  (精神から新しく祝祭をつくりだす)そのことは、
  人の内を見やることにとって、多くを意味します。
  ひとりの人と向き合い、
  その人の思うことを見てとることができるということ、
  その人のことばがふさわしく分かるということです。
  巡りつつの世が、秋にかけて、いかに働くかを、
  人が、いまにおいて、見てとることができるなら、
  世の相の謎を、
  人が読み解き、それを汲んでつくりだしつつ働くことができるなら、
  そうした祝祭をつくることにおいて、
  人が、人の欲することをあらわにするのみか、
  神々の欲すること、精神たちの欲することをも、あらわにします。
  ならば、ふたたび精神が人々のところにありあわせます。 
        (『ミカエルの祝祭を精神からつくる』1923年5月23日ベルリン)



 「ことばの家」では、学びの時間の前に必ず参加される方々がひとりひとりおのれのことをおのれのことばで語る時間を設けている。最近、感じていたり、考えたりしていることであったり、経験したことであったり、学びに直接、間接に関係することであったり、それは様々だが、自分のことばで、語っていただいている。人が語っているその間、周りの人は口を挟まず、ただひたすら聞き耳を立てている。そのように聴こうとする人がいてくれることが、話し手の口をどれだけほぐしてくれることか。人は、ただ聴いてくれる人がいるだけで、おのれのこころから様々なものを取り出してくることができる。その作業は、おのれのこころに横たわっている様々な思い、感情、考えをことばに仕立てて空間に投げてみる行為である。そのように、他者との間に、ことばが投げられて初めて、自分はこんなことを感じ、考えていたのかということに気づくことがある。その気づきは、聴いている者だけでなく、語る当人をも癒すことがある。
 毎回のそんな時間が、アントロポゾフィーの学び、言語造形の学びにとって不可欠だと感じている。人が、いま傍にいる人のことを(自分自身のことをも含めて)少しでも知っていこうとせずに、どうしてアントロポゾフィーの学びができるだろう。
 人と向かい合い、その人のことばを聴く。その人の思うところを見てとろうとする。その人のことばを分かろうとする。その意欲こそが、学びの土壌を作る。
 毎回の学びの場が、シュタイナーの言う祝祭でありえる。

 しかし、とりわけ、この秋という季節は、人の深まってくる想いや考えを聴くことができる、いい季節だと思う。わたしも、この秋、ミカエルの祝祭の時期、何人かの本当にいきいきとした人からいきいきとした「はなし」を聴くことができて、こころに力がみなぎって来るのを感じている。人が語り合うって、こんなすごいことだったか、と改めて感じている。
 7年ほど前、わたしは人に呼びかけて、四季折々の祝祭をつくろうと何度も試みていた。ありがたいことにそのたびに10人から20人の人が集まって自分たちなりに祝祭をつくることを試みていた。
 しかし、今、振り返ってみると、その当時のわたしは祝祭をつくりながらも、こころの底の底まで、それら各々の祝祭の深みを感じてはいなかった。祝祭の意義をシュタイナーから受け取り、その意味を感じてはいたが、今から思えば、まだ胸の浅いところでその意味を感じていたに過ぎなかった。
 祝祭は、まずは、ひとりの人の胸の深みから生まれる。精神から祝祭をつくろうとするひとりの人から何かが発する。いまという時代は、その意識さえ持っていれば、その人が足を運ぶところが祝祭の場所になりえる。
 今は、もうあえて、人に呼びかけずともいいのだという自由な気持ちだ。  

posted by koji at 17:57 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月28日

『自由の哲学』序文から

なぜ、この本を読もうとするんだろう。

自分で自分によく問います。

そして、この本の序文をそのたびによく読みます。

一部を載せます。



 わたしたちはもはやひたすら信じようとはしない。
 わたしたちは知っていようとする。
 信仰はわたしたちのまるごと見通していないまことを認めよと求める。
 わたしたちのまるごと見通していないところは、
 すべてをひとりの内も内なるところをもって生きようとする者の嫌うところだ。
 外から来るきまりに従いつつでなく、
 人となりの内に生きるから沸き立ちつつの知っているこそが、
 わたしたちを充ちたらせる。

 ・・・わたしたちは確かに知っているを求める、
 しかし誰しもが誰しもなりにだ。

 ・・・哲学はひとつの芸術だ。
 実の哲学者はみな考えの芸術家だった。
 かれらにとり人の考えは芸術の素材となり、知識の方法は芸術の技法となった。
 それにより、象を具えない考えが象を具えた、ひとりなりの生きるを得る。
 考えが生きるの力となる。
 そのとき、わたしたちはただにものを知っているのみか、
 知っていることそのことが、実の、そのことでそのことを統べる生きた織りなしとなっている。
 わたしたちの実の、すすんで働く意識が、ただにまことを受けとるを凌いでいる。

 芸術としての哲学が人の自由といかにかかわるか、
 人の自由のなんたるか、
 わたしたちが人の自由にあずかっているか、あずかりえないか、
 これがわたしの本の主たる問いだ。
 ・・・ひとつの「自由の哲学」が、この本に記されるところだ。
                     (1894年 ルードルフ・シュタイナー  鈴木一博訳)


勤しめば、勤しむほどに、人が人として生き生きとしてくるのは、不思議ですよね。
言語造形という芸術もまさしく、そうなのですが、
この考えのみを素材にした『自由の哲学』という芸術も、
勤しみに満ちて自分から(!)読んでいくほどに、
まさしく、「考えが生きた力となる」ことを実感します。

その、「自分から読んでいく」ことへのひとつのきっかけになるようにと、
講座を続けています。

考えの芸術に共に取り組んでいくための場です。 



日曜 『自由の哲学』講座

   日程     8/30, 9/27, 10/25, 11/22, 12/27, 1/31, 2/28, 3/28,・・・・・
           (8月,1月以外すべて第四日曜)


   講師     諏訪耕志

   時間     13:30 - 16:00

   参加費    各回 1,500円 , 計12回連続 16,000円

   会場     「ことばの家」帝塚山教室
             南海高野線「帝塚山」駅より、北へ徒歩5分
             地下鉄四つ橋線「玉出」駅2番出口より、南港通を東へ上がり徒歩約10分
             上町線「姫松」駅より、南港通を西へ徒歩約7分

http://www.kotobanoie.net/access.html

posted by koji at 16:08 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

小さなサークルの勧め

自分自身の内なるところ「こころ」に目を注いでいくことが、
アントロポゾフィーの学びにおいて、まずもって、大事なところですよね。

でも、内なるところに目を注ぎすぎて、
外の世界が目に入らなくなってしまう、
外の世界との交流が途切れがちになってしまう、
孤立してしまう、
そんな危険性も、この学びにはあるかもしれません。

この学びは、個人が個人として立つためのものですが、
それには他者との共同、他者からのサポートから得られる励ましがとても大切な要素だと思うのです。

まず、小さくてもいいから、学びのためのサークルを作れるならば、
そこで、ひとりひとりが、たっぷりと、他者に話を聴いてもらえる時間を設定すること。

近況や、こころに思っていること、感じていることについて、
たどたどしくてもいい、自分の話すことばを、
(アドバイスやサジェッションなどなく)複数の人が傾聴してくれている、
そんな時間を創っていくこと。
(もちろん、何もことばが出ないのなら、話さなくてもいいのです)

これが、とても大事です。

人は、まず、こころの中にあるもの・ことばを肯定されることもなく、否定されることもなく、
ただただ受けとめてもらいたい。

それが実現することによって、
どれほどたくさんの人のこころが、
不安や恐れから解き放たれるきっかけをつかめるだろう。

そこからこそ、
人は、自分自身の内なるところへ目を注ぐことができる余裕が出てくるのではないか。

そして、一対一でもなく、たくさんの人数でもない、
継続性・持続性のあるそんな小さな学びのサークルにおいてこそ、
負担や物足りなさを感じたりすることなく、
こころの学びを共に内的に励ましあいながら続けていけるんじゃないか。

そんな風に考えながら、「ことばの家」もやっています。

posted by koji at 00:50 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

鈴木一博さん訳『いかにして人が高い世を知るにいたるか』出版!

sub_36.gif


昨年12月25日に、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』が、
鈴木一博さん訳で出版された。
http://www.seikodo-print.co.jp/products/sub_36.html

これまで、高橋巌さん、松浦賢さんの翻訳で同書を読んでいたが、
鈴木さん訳でこの本を一文一文、一語一語、丹念に読んでいくと、
これまでなかなか感じられなかったシュタイナーの真意がしんしんと沁みてくるように感じられる。

シュタイナーは、とにかく、読む人を励ましている。

この真意が大切にされなければならない。

その真意は、文章の向こうに見えてくるもの、聴こえてくるものであり、
著者シュタイナーの内側からの声であるが、
意欲あるどの人にも見えてくるもの、聴こえてくるもの、読み取れるものだ。

一語一語のことばの選び方、
一文一文の文の運び方、
一段一段の文章の構え方が実は大きくものを言うのではなかろうか。

それは、文体・スタイルの問題だ。
そのことばというもの、文というものの姿・相(すがた)のあり方によってこそ、
著者の真意が生き生きと行間に立ち上がってくるかどうかが懸かっている。
そして読者は熱心に読むことによって、その真意をつかむことが出来る。

翻訳は、きっと、このことを踏まえて、
その内なる声が聴こえて来るためのことば選びに苦心惨澹するのだろう。

ひとつひとつのことばは、それぞれに固有の意味を担っている。
だからこそそれによって、人から人へと、ことばは流通していくことができる。

しかし、人は、ひとつひとつのことばをこころを込めて使うことによって、
その流通している意味なるものを、
どこまでも深めていくことができるものなのだ。

例えば、「自由」「愛」「精神」「理想」・・・。
このようなことばほど、
使う人によって違った響きになるものはない。

古典として読み続けられている本という本の中には、きっと、
このようなことばを記した人によって深められたことばの意味が、
真意として密やかな声で響き続けている。
本を読むことを通して、その声を聴き取るか、聞き逃すかは、
読む人に懸かっている。

また、文を辿っていき、鈴木さんが懇切丁寧につけてくれていることばの註を併せて読み込んでいくと、
ひとつの文、ひとつのことばが、
ひとりの人のひとつの動作・身振りとして、感じられてくる。
動詞を明瞭で親しみのある動きあるものとして、
意識的にシュタイナーは使っているが、
そのことがこの訳では最大限に考慮されて、日本語に仕立て直されている。

そして、シュタイナーが大変な気配りを持って、
己のこころの成長を願う読者の独立歩行を促してくれていることが、
この翻訳によって、初めて感じられる。

自主独立をこころの底から求めているすべての現代に生きる人に、
余計なプレッシャーや反発心を呼び起こさせないように、
著者がものの言い方に大変気を配っていること。
訳者の鈴木さんはそのことにもまた大変意識的である。

この意識的な鈴木さんの仕事は、
『自由の哲学』『テオゾフィー』においても、一貫している。


助動詞(動きを助け、支えることば)の持っている細やかなニュアンスを存分に生かしながら、
シュタイナーは文章を綴っている。
翻訳において、その細やかさが汲み取られている。

だから、わたしはこの翻訳を読んで、
内なる静かさ、安らかさの中で、「よし、取り組んでいこう」という勇気・意欲が湧いてくるのを感じることが出来る。






posted by koji at 21:32 | 大阪 ☁ | Comment(2) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月05日

日曜日 「今」を生きる

日曜日の朝は、月曜から土曜までのことばを振り返りつつ、
自分の中で咀嚼しています。

 健やかであること (月)
 ひとつであること (火)
 考えと情のチェック (水)
 わたしがわたしであること (木)
 愛からすること (金)
 ありがとうを起こす(土)

ポジティビティーに向かおうとすると、
必ずや、自らのうちのネガティビティーの囁きが聴こえてきたりもします。
また、なぜか、他者のうちのポジティビティーとネガティビティーにも出会うことになります。

しかし、この「他者のうちのポジティビティーとネガティビティー」も畢竟、
「わたしのポジティビティーとネガティビティー」なのでしょう。

このポジもネガも、すべてがわたしにとって、必然。

そして、自己に閉じこもるのではなく、他者に向けて自分のこころを開きながらも、
しかし、他を恃まず、当てにせず、
自己をこそ恃みたい。

ぐずぐず言わず、「今」に生きる!

「今」にありがとう。

わたしの今週は、ここに辿りつきました。

毎週続けて、内側で、それぞれ同じことばを日ごとに新しく辿ってゆきます。

posted by koji at 07:42 | 大阪 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月04日

土曜日 ありがとうを起こす

土曜の朝は、ありがとう、から。

すべてのものにありがとう、です。

目を開けた途端、飛び込んでくる光に。
顔を洗う時、蛇口から出てくる水に。

生活の中の細やかなひとこまひとこまに対してだけでなく、
いつもなら、うまくいかずにむしゃくしゃするような事柄にも。

すべてが、わたしに、恵みとして、
必要なものとして、
与えられているのでは・・・。

すべてのものにありがとう、です。

こういったことは、すべてこころの力仕事です。

起きないものをよいこらしょっと起こすのです。

しかし、力仕事も度重ねてしているうちに、
堂に入ってくる。

そのことを経験として知っていく。

posted by koji at 07:59 | 大阪 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月03日

金曜日 愛からすること

なぜそれをするのですか、と問われて、
愛しているからこれをするのです、と答えられるか。

金曜日の朝は、そのことを自分のこころに問いかけながら、一日を始めています。

何かを愛することは、人から言われてできることじゃない。
自分のこころの内から沸いてくる熱からしか、何かを愛することはできない。

その熱があるか、ないか。
あるなら、それを大事にしたい。
ないならないで、いいじゃないか。

また、外からやってきた仕事に、愛を注げるか、注げないか。
「外からやってくる」というのも、実はわたしに必要があるからやってくるもの。
だから、そういった仕事にも、愛を注ぐことができれば、どんどん仕事は充実してくる。
注げないなら・・・
その仕事から離れる勇気があるか、どうか。

愛とは、結果を求めない。プロセスのみを愛する。
していることのみ、与えていることのみを愛することだ。

posted by koji at 06:37 | 大阪 | Comment(2) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

木曜日 わたしがわたしであること

「わたしがわたしであること」
このことに、こころを凝らしますと、
必ず「今、ここ」にあることができます。

ずっと以前から、わたしはわたしでありましたし、
これから先もずっと、わたしはわたしであります。

しかし、精確に考えますと、
以前であっても、これから先であっても、
どんな時だって、常に「今」にしか「わたし」はいません。
「今」しか生きられません。

「今」にいるとき、人は、こころ静かであり、安らかさの内にあります。

過去に生きたり、未来に生きることはできません。
自分のこころが過去に、未来に彷徨いでるとき、
人は「今」にいず、こころここにあらず、です。
こころがざわつきます。

そして、他の事はいろいろ変わっていきますが、
この「わたしはわたしである」ということは、引き続き引き続き、変わりません。
つまり、「今、わたしはここにある、わたしはわたしである」がずっと続いてゆくのです。

そしてこの変わらない「わたし」は、
これまでの様々な外側の変化をそのたびごとに見事に乗り越えてきましたし、
これからも乗り越えてゆくのです。

旧約聖書の『出エジプト記』第三章に、
自分の名を問われた神が、その名を「わたしはある」だと告げています。

わたしたちひとりひとりの内に、
「今、わたしはある」
「今、わたしはわたしである」
が息づいています。

木曜日の朝、そのことをこころに記して。

posted by koji at 08:48 | 大阪 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月01日

水曜日 考えと情のチェック

どこからともなく我が頭にやってくる考え。
どこからともなく我が胸に湧き上がってくる感情。

これらひとつひとつを、
「あっ、今、こんな考えがやってきた」
「あっ、今、こんな感情でこころが一杯になっている」
などとしっかりと意識できればいいのですが、
往々にして、それらの考えや情に翻弄されていたり、巻き込まれたりしませんか?

わたしなど、よく、そうなってしまいます。

しかし、ここは、こころの練習と思って、
それら向こうからやってくる考えや情のいちいちに、
こちらから意識の光を当ててみる。

つまり、無意識に何かに翻弄されたり反応したりすることから少しずつ脱して、
考えと情のチェックを通して、できる限り意識的に自らのこころを生きてみる。

「いま!」何を考えているか。
「いま!」何を感じているか。

この観察の作業もまた次第に、わたしに大きなプレゼントをくれます。
こころの安らかさ、静かさ、確かさというプレゼントです。

水曜日の朝、そのことをこころに記して。

posted by koji at 08:05 | 大阪 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月30日

火曜日 ひとつであること

「わたしは、わたしである」

このことにこころを集中させていると、
「わたし」という湖の水質の透明度が増していくような感覚があります。

そして、すべての人の内には「わたし」があり、
私の内にもこの「わたし」があり、
それが「わたし」ということばで言いあらわせられるものである以上、
これら「わたし」と「わたし」は繋がってひとつであることをも感じるのです。

人は、それぞれ個別に「わたし」をこの肉体に授かっているのだが、
その淵源では、ひとつに繋がってあること。

そのことをこころに記しつつ、
火曜日を生きることができれば・・・。



posted by koji at 08:36 | 大阪 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
■ 新着記事
滋賀シュタイナー ちいさいおうち園での語らい (04/27)
アントロポゾフィー 人であることの意識 (04/24)
三羽の揚羽蝶 (04/24)
ひとりひとりの歩幅 (04/23)
京都市伏見区醍醐勝口町でのことばの家 ことばづくり(言語造形)クラスのご案内 (04/23)
ことばが甦るとき 〜甦りの祭り(復活祭)の日にちなんで〜 (04/20)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 (04/20)
鏡像 (04/18)
4/20(日)復活祭からの「こころのこよみ」オンラインクラス (04/14)
学んだことは忘れていい (04/13)
■ カテゴリ
クリックすると一覧が表示されます。
ことばづくり(言語造形)(244)
アントロポゾフィー(182)
断想(575)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(460)
こころのこよみ(魂の暦)(497)
動画(333)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(41)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
■ 最近のコメント
5/7(水)からのシュタイナー著「いかにして人が高い世を知るにいたるか」毎週水曜日夜オンラインクラスへのご案内 by 諏訪耕志 (04/11)
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
■ 記事検索
 
RDF Site Summary
RSS 2.0