[アントロポゾフィー]の記事一覧

2019年09月15日

精神のゲリラ 〜アントロポゾフィーのこれからのひとつの可能性〜



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アントロポゾフィーといふ学問に随分と長い間、取り組んできて、念ふところあつて、以下のやうな文章をしたためてみました。長文です😇
 
 
(アントロポゾフィーとは、ルドルフ・シュタイナーによる精神科学のことです)
 
 
ーーーーーー
 
 
アントロポゾフィーが「地上で」繁栄することは、すでに20世紀末で終焉を迎えた。
 
 
いま、アントロポゾフィーは、各国、各地域においてその国の文化、精神とひとつとなり、いはば地下に潜り、土壌となつて、つまりアントロポゾフィーといふ名が消えて、生き抜いていく時代になつてゐる。
 
 
(いはゆるアントロポゾフィーの本場と考へられてゐるドイツを中心としたヨーロッパ人や、またはアメリカ人などがどのやうに思はうと、です)
 
 
しかし、精神を求め、精神に学ばうとする人は世に絶えないだらう。
 
 
(特に、日本においては、です)
 
 
さういふ潜在的なニーズに、どう、応へて行くかが、アントロポゾフィーを学んで来たわたしの人生のテーマのひとつである。
 
 
シュタイナーやアントロポゾフィーといふ名のついた、なんらかの団体や協会や学校が地上的に栄える時も、すでに終はつてゐる。
 
 
さうではなく、一冊一冊の本と、ひとりひとりの人(精神の人)が、最後の拠り所になるだらう。
 
 
本を真摯に読み抜くことを通して、ひとりの精神の人からどこまでも真摯に学ぶことを通してこそ、学びがどこまでも深められて行くだらう。
 
 
その孤独な学びをもつて自分の足元にある土壌を耕すのだ。
 
 
孤独に学ぶひとりひとりの人から生まれて来る創造的なもの。
 
 
その創造的なものをもつて、自分自身にすでに与へられてゐる現場で、働くのだ。
 
 
それは、ことさらに新しくアントロポゾフィーの共同体作りに向かふものではなく、すでに持つてゐる自分自身の家庭や職場に活かされる学びと働きである。
 
 
そのやうなゲリラ的な働きをもつて、世に密やかにアントロポゾフィーを問ふていく時代になつてゐる。
 
 
これからは、世にゲリラ的に、かつ密やかにアントロポゾフィーは浸透していき、志をもつひとりひとりが各々の働く現場でその精神的な力を発揮していく時代だ。
 
 
これまでのシュタイナー学校やアントロポゾフィー的な共同体は残るだらう。
 
 
しかし、より多くの子どもたちが通ふ一般の学校の中、アントロポゾフィー的人間学を踏まえた、たつたひとりの先生によつて、確かな教育が少しずつ少しずつ広まつてゆく可能性。
 
 
たつたひとりの人によつて、少しずつ何かが変はりゆく可能性。
 
 
家庭の中が、少しずつ、変はりゆく可能性。
 
 
その可能性を育むために、どんな仕事ができるかを考へてゐる。
 
 
共にこの仕事を考へる人、共にこの仕事をする人を、求めてゐる。
 
 
公立や私立の学校の先生たち、社会で働いてゐる人たち、家庭の親たち、それらの方々おひとりおひとりに、アントロポゾフィーからの人間学とことばの芸術「言語造形」をお伝へしていくことが、わたしの仕事である。
 

 
 

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2019年09月09日

100年後の普遍人間学 in 和歌山


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今日は、和歌山での『普遍人間学を読む』第一回目でした。
 
丁度100年前の9月。
 
ルドルフ・シュタイナーは、世界で初めてのヴァルドルフ学校 ( 俗称シュタイナー学校 ) 開校のため、14日間に渡つて、教師として立つ人に向けて講義を行ひました。
 
その速記録を一文一文、丁寧に、考へつつ、感じつつ、読んで行くのです。
 
その丁寧さから、今日など、3ページしか進みませんでした。
 
最初の一日目の講義の一番初めにシュタイナーは述べました。 
 
これから学校を始めて行くにあたつて、なによりもまづ大切にしたいことがある。
 
それは、精神の世とのつながりを各々育てていくことである。
 
さう述べました。
 
精神の世。
 
重要な概念です。
 
同時に誤解を生みやすい概念です。
 
しかし、ごくごく、真つ当に、人が、余計なことを考へるのではなく、必要なことを、必要な時に、ふさはしく、まぎれなく、わたくしなく、あきらかに、「考へる」こと。
 
それこそが、精神の世とのつながりを育むことのはじまりです。
 
少なくとも、「考へる」ことは、その礎であります。
 

 

この勉強会も、わたしからの講義になるのですが、それでも、参加者のおひとりおひとりからの声を聴き合ふ、相互コミュニケーション性を大切にする時間でもあります。
 
そして、わたしがいくら講義をしたいと思ひましても、その講義を受けたいといふ人がゐなければ、かうした時間は生まれないことは当然であります。
 
さう考へますと、わたしたちがかうして集まることができ、かういふ勉強会をなりたたせることができるといふことは、はじまりの時点で、精神の世とのつながり、精神の力からの励まし、精神の方々からの応援があるといふことでせう。
 
わたしたちは、このやうな勉強会をもつことの意味をこれからみづからに問ひ続けることが、この上なく大切なことだと考へます。
 
わたしたちが会の存在意義を毎回、その都度その都度、意識的に問ふこと。
 
そのやうな問ひを重ねて行くことこそが、精神の世からの応援をこれからもいただく礎になります。
 
そして、この勉強会をもつわたしたち自身の課題とは、人間学を学ぶことによつて、「自分自身を知ること」です。
 
大人の自己教育。
 
それは、己れを知ることであります。
 
それなしに、子どもへの教育はありえないのです。
 
 
Mitteの庭

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2019年08月31日

プロセス


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講義をさせてもらへるといふことは、本当にありがたいことです。
 
なぜならば、なすべき講義があるからこそ、その講義に向けての準備ができるのであり、その講義に至るまでの準備こそが、わたしにとつて最も大切な時間だからです。
 
本番に向けての準備といふ営み、それは、ものごとのプロセスといふものであり、獲得された知識が重要なのではなく、知識に至るためにみづから動いたプロセスこそが、己れの成長に資するからなのです。
 
つまり、誰よりも、講義をさせてもらつたわたしこそが、最も学ばせてもらつてゐるのです。
 
知識よりも、知識を得るために働いた、その労力こそが、人の成長にとつて大切であること、このたびも、強く感じました。
 
講義を聴いて下さつた方の内側で、これからこそ、その知識が再び練り直され、消化され、新しい光と力になりますやうに。


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2018年10月18日

手足で聴く


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写真撮影 山本 美紀子​さん
 
人は、いつも、何かを見てゐますし、何かを聞いてゐます。
 
ただ、そのふたつの感覚器官の働きは、実はとても対照的な働き方をしてゐます。
 
ルドルフ・シュタイナーの『メディテーションをもつてものにする人間学』にかうあります。
 
ーーーーーー

視るに於て迎へられるところが覚えられるのは、それなりの自立性をもつた頭のなりたちによつてであります。
 
聴くに於て迎へられるところが覚えられるのは、節分かれしたからだのまるごとによつてです。
 
見るに於て迎へられるところは、頭からからだへと向かふ流れ(上から下)をもちます。
 
聴くに於て迎へられるところは、からだから上へ(下から上)と向かふ流れをもちます。
 
ーーーーーーー 
 
シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。
 
視えるもの。
 
それは、目といふ感覚器官を通して、頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。
 
一方、聴こえるもの。
 
それは、本質的には、節分れしてゐる手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、上へと密やかに昇つていき、頭に於て想はれる。
 
耳と云ふ感覚器官で聴かれるのは、むしろ、残響と云へるものではないか。
 
空気の震へを集約的に受け取るのは確かに耳だらうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、更には手足に於て受け取つてゐる。
 
ことばや音楽と云ふものは、手足によつて聴かれてゐる!
 
なぜなら、ことばとは、音楽とは、そもそも、精神の運動であるからです。
 
頭、耳で聞かうとするのではなく、たとへからだはぢつと静かにしてゐても、ことばや音楽に密やかに手足を沿はせるやうにして聴かうとするとき、そのことばや音楽の「中味」「こころ」「精神」に触れることができる。
 
そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。
 
しかし、聴き手がそのやうに聴くことができるのも、話し手が手足をもつて語らうとし、音楽を奏でようとするときです。
 
話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、そのことばは、聴き手の手足によつては受け取られず、頭のみに働きかけます。
 
だから、聴き手が手足をもつて聴くことができるやう、とりわけ子どもたちには手足の動きをもつて語りかけることがたいせつです。
 
これらのことは、まさに、メディテーションによつて、身を使つての芸術行為を通して、初めてリアルに受け取られるものです。
 

 

 
 
ーーーーーーーーーー
2019年1月開校!
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/

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2016年05月19日

7年間の読書会終わりました! 『自由の哲学』


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『自由の哲学』(ルドルフ・シュタイナー)の講読会。
2009年4月から月に一回から二回のペースで7年間かけて、
今日終わりました。
 
皆さん、本当に、頑張りました。
楽しかった。
 
自由ということをどう捉えるか。
 
そのことが我が人生を織りなしていますし、
そのことが我が家庭でも最も大事なことです。
 
受講者の方で、
この本を一世一代の本と捉えた方がいらっしゃいました。
 
わたし自身にとっても、つまるところ、
この本こそが、
ルドルフ・シュタイナーから今生で学びたい、
最重要のことでした。
 
この本について、序でシュタイナーはこう語っています。
  
  哲学はひとつの芸術だ。
  実の哲学者はみな考えの芸術家だった。
  芸術としての哲学が人の自由といかにかかわるか、
  人の自由のなんたるか、
  わたしたちが人の自由にあずかっているか、
  あずかりえないか、
  これがわたしの本の主たる問いだ。
 
まさに、この本を読むことで、
ついついこんなことを考える「癖」がついてしまったことを、
嬉しく思うのです。
 
いま、自分は、
自由に考えているのか、
自由に話しているのか、
自由に振る舞っているのか、
自由に生きているのか、
 
と問うことからさかのぼり、
 
考えるって、どういうことなんだ、
その、考えることと、
見ること(覚えること)とが、
普段の暮らしの中で、
どう関わりあっているんだ、
 
と更に内側に入っていき、
 
人は、何をどう考えて、どう生きるときに、
その人がその人らしく、
活き活きと、
仕合わせになりうるんだろう、
どんな考えを抱くと、
その人を腐らせ、
不仕合わせにさせるのか、
 
と、再び、人生観察と人生実践に戻ってくる「癖」です。
 
芸術とは、癖になるまで、徹底して繰り返し練習することで、
その人の「もの」になるので、
わたしたちも、徹底して繰り返し、
読み、
考え、
生きようとしましたし、
これからも、この読書は、
おのおのの作業として、
深く沈潜していくでしょう。
 
シュタイナーと、
この本の渾身の翻訳をしてくださった鈴木一博さんに、
そして会に通い続けられた皆さんに、
万感の念いと感謝を捧げたいのです。
 

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2016年01月25日

ことばの家について


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先日、ある方から、
「ことばの家」ってどういうところなんですか、
と尋ねられたのです。
 
具体的、現象的な事柄と、
精神的、潜在的な事柄を、
ともに、順序良く、
その人その人に応じて、語ることって、難しいことですね。
 
以前ホームページに書いてみたことなのですが、
自分で読み直してみました。
 
そして、人が、
ことばというもの、
ことばの精神、
言霊の風雅(ことだまのみやび)を大切にしていくならば、
どの空間も「ことばの家」となりうるのではないかと、
考えているのです。
 
 
_______________
 
 
ことばの家。
 
その名前の由来は、20世紀初頭を生きた精神科学者ルードルフ・シュタイナーのことばです。
 
アントロポゾフィー運動のホームグラウンドとしての「ゲーテアヌム(ゲーテ館)」を、彼は「ことばの家」と呼びました。
 
ゲーテアヌム建築中の1914年6月17日にドルナッハの丘の上でシュタイナーは、「ことばの家」について以下のように語っています。(要約です)
 
 
  人びとは口から耳へと伝えられるものが、
  平和と調和を作り出せると本当に信じています。
  しかし、平和、調和、人が人としてあるありようは、
  神々がわたしたちに語りかけるとき、初めて生まれるのです。
 
  このゲーテアヌムの壁、
  そして窓に施される芸術的なフォルムによって、
  神々はわたしたちに語りかけてきます。
  フィジカルな壁は生きていませんが、
  エーテルの、精神の、壁は、生きて動くものなのです。
 
  地球の大地がその懐から植物たちを生み出すように、
  わたしたちが造形する壁のフォルムは、
  (内において)生きて動くものを生み出します。
 
  わたしたちの建築は、そのフォルムによって、
  きっと、神々のことばを語り始めます。
  植物のエーテルのフォルムに耳を傾け、
  それらをわたしたちの壁のフォルムによって、
  創ろうではありませんか。
 
  自然に潜む神々が、人に、語る喉頭を創られたように、
  わたしたちは、芸術によって、
  神々が語りかける喉頭を創るのです。
 
  わたしたちは、
  これらのフォルムが何を意味するのかを解釈するのではなく、
  心臓で聴くかのように神々のことば、
  精神のことばを分かろうとします。
  その分かる力を育むこと、
  それがわたしたちのなすべきことです。
 
  このように、
  精神への道を見いだそうという聖きこころもちが、
  この仕事場に満ちますように。
 
  仕事場とは、きっと、
  人がその精神を愛の内に見いだし、
  平和と調和を地上に拡げていくような、
  精神への道を見いだす場です。
 
  真の芸術への、真の精神への、
  そしてすべての人への愛をもって、
  「ことばの家」「神が語る家」を建てようではありませんか。

 
 
その豊かな精神、その豊かな内実を、わたしたちは、乏しい中にも、受け止めることができるのだろうか。そう考えています。
 
わたしたちも、フィジカルなものはなくとも、エーテルの生きたフォルムが、場に織りなされていくならば、そこは、「神が語ることば」に耳を傾けることができるような場として、成長していくことができる。
 
そのエーテルのフォルムは、いかにして空間に織りなされることができるだろうか。外的なつくり、フィジカルなかたちではなくとも、内なる建築作業は、いかにしてなりたちうるのだろうか。
 
そのことを問いながら、この「ことばの家」を仕事場にしています。
 
空間に、内なるエーテルのフォルムが織りなされていくには、「ことばの家」において語られることばが、ひたすらに、人間的であること、生命的であること、エーテルの動きを湛えていること。そのことが要であるように思われます。
 
ことばが、人間的であり、生命的であることを求められている。100年前のヨーロッパにおいても既に、ことばは非人間的な響きを湛えていたのでしょう。
 
その、人が語ることばの内なるつくりによって、神々が語りかける場としての芸術的なフォルムを用意していくことはできないだろうか。
 
 
 
わたしたちの「ことばの家」は、舞台・ワークショップ・講座などを通して、ことばを話すこと、語ることが、芸術になりえるのだということを提示していきたいと考えています。
 
そして、ひとりでも多くの方と共にそのことばの芸術を受け取り、楽しみ、
創造していきたいと願っています。
 
そして、さらに、ことばの芸術を通して、神々が語りかけ、ひとりひとりの人がますますその人その人になりゆく、平和と調和が育まれていく、そのことを意識しています。
 
ことばには、その「こうごうしさ」が湛えられるような、芸術的なフォルム・つくりが欠かせないように思われてなりません。
 
わが身を通して、ことばを発すること。そのことを繰り返し、繰り返し、練習していく中で、「人間的であること」「こうごうしいこと」を共に、探っていきたいのです。
 
芸術とは、「人はこうもありえる、もっと、こうもありえる!」というところをわたしたちの前に提示してくれます。わたしたちに「人であること」「こうごうしいところ」を思い出させてくれます。だからこそ、芸術は、人が生きることにおいて絶対に必要なものであります。
 
今、ことばが見直されようとしています。それは、ことばに人間的な響きを取り戻したいという時代の願いであります。
 
では、人間的な響きとは?
 
そのことこそ、「ことばの家」において、実践的に見出していきたいことです。
 
どうぞ、ご参加下さい。

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2015年11月02日

意識して前の時代に立ち戻る


昨日、和歌山市で開かれたシュタイナー教育講座、
仲正雄さんの『7歳から14歳、感動を育む教育』と、
中村重朗さんの『14歳から21歳、イメージする力(高等部人類学)』に参加してきました。

たくさん受け取りました。
たくさん消化しました。
そして、自分自身のなかで改めて新鮮に考えていること。

それは、現代においても、
子どもを教育するとき、
若い人を教育するとき、
自分自身を教育するとき、
教える人(自分自身)は15世紀半ば以前の古い時代のありかたに、
意識的に立ち戻る必要がある、ということです。
この「意識して」というところが、単なる先祖がえりではなく、
いまならではのわたしたちのありかたです。

現代の人が頭に抱く〈考え〉。
それは、科学的であること、理知的であること、客観的であること、
そうであってこそ、その〈考え〉は外の世を生きていく上で欠かせないものになるでしょう。
その〈考え〉は、外の世の発展に大いに寄与するでしょう。
これらの<考え>を、いかにして効率よく若い人たちに教え込んでいくかが、
現代教育にいまだに見られるありかたかもしれません。

しかし、それらの<考え>は、肝心の、人を育てない!
人の中身を育てない。
頭のいい人を世に出すかもしれませんが、
情をもって、寛やかに、暖かく、
意欲をもって、確かに、熱く、
考えることができにくい人を創ってしまう。

それは、<考え>というものが、いまは、ことごとく、死んでいるから。

死んだ<考え>をいくら与えられても、生きた人は育たない。

いかにして、死んだ<考え>に、いのちを吹き込み、
再び生きた<考え>をこころに植えていくか。

これは、15世紀以前においては当たり前にしていたことで、
<考え>にはそもそもいのちが宿っておったそうな・・・。
だからこそ、人は、その生きた<考え>に、
生きものに沿うように付き合い、従うことで、
精神からの、神々からの、恵みと戒めを授かっていたそうな・・・。

アジアにおいては、
とりわけ我が国においては、
その前時代の<考え>のありかたが15世紀以降も残っていたようで、
わたしたち日本人独特の、ものの考え方、感じ方に、
他と比べて劣った、後進性を見てとるのか、
むしろ微笑みをもって誇りを感じ、
この特異性を生かす道を新しく見いだして行くのかは、
人それぞれでしょう。

それは、ともかくも、
現代において、その死んだ<考え>を子どもたちに与えることを止めて、
前時代の時のようにおのずから息づいていた生きた<考え>を、
新しく意識的に子どものこころに植えていくこと。

小学校時代の子どもたちには、
正しいことを教え込むのではなく、
美しいことへの感覚をひとりひとりの子のなかから引き出したい。

中・高時代の若い人たちには、
仕上がり済みの<考え>・定義を教え込むのではなく、
観察し、ひとりひとり新しく考え、ともに語り合う場を創っていくことを助けたい。

そもそも、どの子のなかにも美しさへの感覚はあり、
どの若い人のなかにも、自分自身で、まこととは何かを考える力があるのだから。

その「美への感覚」「まことを追い求める力」、
それを誘い出すような、像をもった語り口。
そこに、生きた<考え>が宿る。

いずれも、この世に生まれてきて、まだ年かさもゆかない人たちが、
一個の存在としての己れに不安を覚え始めているときに、
世というものと再び鮮烈に出会うことへと促していくのが、傍にいる大人の役目。

そのためには、
大人であるわたし自身が、毎日、鮮烈に、
世というものと出会っているのか?
どうなんだ?
そう、改めて、自分自身に問うています。

その毎日の鮮烈な出会いを産みだしていくためにどうしていったらいいかを、
自分自身で探っていくための提言がシュタイナーからもなされているので、
またいずれ書いてみます。

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2015年06月03日

和歌山での未来の学校をつくる会


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和歌山北部にて、シュタイナー学校を創っていく試みを始めた主要メンバーたちと、小さくない関心を寄せてこられる方々。
 
子どもたちのための教育の場というだけにとどまらず、
「文化の行ない(人を耕していくこと)」に勤しんでいくところとして、つまり、大人自身もみずからをなりかわらせていくことに勤しむところとして、自分たちの場を成長・発展させていくことを胸に抱いている仲間たちです。
 
この『普遍人間学』を通して学び、
そして、実際に授業をどう創っていくかを研究していくこの場は、
そのまま、教師会・教員会議へと繋がっていき、
それは、きっと、教師のための本来的なある種のカレッジ・大学の機能を持つようになるでしょう。
 
シュタイナー教育に造詣の深い方々から教えをこうことも勿論大切なことですが、それ以上に、勇気をもって、自分たち自身から自分たち自身への教員養成を始めていく気概。
そんな心根を確認し合えた、今日でした。
 
 
ご関心のおありになる方、「和歌山でシュタイナー学校の教師の仕事をやってみよう」という思いをこころの片隅にでも抱いた方、どうぞ、未来の学校をつくる会(モモの会)へアクセスしてみてください。
http://momo-society.org/contact.html

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2013年02月09日

『アントロポゾフィーとメルヘンのためのクラス』その目指すところとそこへの導き



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この4月からの新しいクラス、
『Anthroposophie und Märchen Kreis (アントロポゾフィーとメルヘンのためのクラス)』で進めていきたいテーマは、
メルヘン・昔話を幾度も幾度も語りこんでいくことを通して、
そこに秘められている神秘、真実を浮かび上がらせていくことである。

「アントロポゾフィーは、ひとつの知ることの道である、
人というものにおける精神を、
世における精神に導こうとする、知ることの道である」

シュタイナーは死の前年に、
『アントロポゾフィーのライトモチーフ』でそう書き記している。

わたしのわたしたるところ、わたしの精神、<わたし>に目覚め、
わたしよりもさらに高い世の精神に目覚め、
その精神と精神の交流を日々営んでいくための方図を示すことが、
アントロポゾフィーなのだとこの文で理解することができる。

そしてわたしたちは、
その示されている方図を体得していきたいという気持ちとこころざしをもっているなら、
こころを修していき、幾歳月をも、一生涯をも費やす。

このこころの構え方と時の掛け方が、
自然科学を超えた精神科学としてのアントロポゾフィーのアントロポゾフィーたるところだと実感する。


そして、
そもそも、メルヘン・昔話というものは、神秘的なものである。
しかし、その神秘は、隠されている。
わたしたちが、それを、机上で考えるだけで終わるのではなく、
繰り返し、時間をかけて、身を使って語りこんでいくことを通して、
だんだんとメルヘンに隠されている神秘が、
語る人のこころに立ち顕れてくる。
それはとても密やかで細やかなものである。

語る人の内側が深まってくるに従って、
メルヘンもその内側をゆっくりと時をかけて打ち明けてくれる、
そのような法則がある。

それは、芸術をすること(芸術行為)によって啓かれてくる、
新しい密やかな知ることの道(認識の道)だ。

そのような言語造形によるメルヘンの語りと、
アントロポゾフィーという知ることの道が、
織りなしあって、
わたしたちのこころに、
精神の通い道が生まれてくる。

この、精神こそを、わたしたち人は乞い求めているのではないだろうか。

ひとつひとつのメルヘン・昔話を各々語り重ねていくことともに、
『いかにして人は高い世を知るにいたるか』やその他のアントロポゾフィーの書を通して、
学びと習いを織り重ねていきたい。

クラス詳細は、http://www.kotobanoie.net/marchen.html


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2012年10月26日

今日の『密の学のあらまし(神秘学概論)』の読書


今日は、姫路こころの事業団で、『密の学のあらまし(神秘学概論)』の読書と言語造形。

この『密の学のあらまし』は、あらましであるにもかかわらず、
通常の「あらまし」であることに尽きていない。

「あらまし」であることによって、
むしろ、読む人が、読みながら肉と血を注いでいくことが促される。

そして、この本から、彼の多くの講義録へと読み進めていくことができる。

そうしていくほどに、日々の生活に、光が灯され、熱が生まれてくる。

「密やかなこと」が、「顕の日々」を支えてくれていることを、感じるようになってくる。

感謝の想いに、目を覚まされる。

posted by koji at 19:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月11日

100年前の今日、シュタイナーは。

丁度、100年前の昨日と今日(10月10日と11日)、
シュタイナーは、
「キリストの復活」について語りました。

「復活」「よみがえり」とはそもそもどういうことなのか、
そのことを語ったのです。

1911年10月5日から14日にかけて、
ドイツのカールスルーエという町で行った連続講演『イエスからキリストへ』のなかの、
ハイライトとも言える講演です。
(アルテ社から邦訳が出ています)

「死んだからだが、甦る」
とは、どういうことなのか、
それをなし遂げたというキリストとはどういう存在なのか、
ということです。

この講演の後あたりから、
シュタイナーに対する世間からの攻撃が始まった、と言います。

近現代人特有の唯物的なものの考え方からだけではなく、
宗教界からの攻撃こそが強くあったのではないかと考えられます。

キリスト教と言われている既存の宗教、もしくは宗教学のあり方が、
キリストの復活についてどのような解き明かしをしているのか、
わたしは詳らかには知らないのですが、
おそらく、そのあたりからの攻撃、もしくは黙殺が強くあったのではないでしょうか。

そして、
シュタイナーによる「復活」についての述べ伝えは、
「人間のからだ」とは、
そもそもどういうものなのか(どういうものだったのか)、
ということについての解き明かしでもあります。

それは、
現代という時を生きているわたしたちにとって、
からだをもって生きていることの意味を、
一段も二段も三段も深めてくれるような内容だと感じます。

この世にからだをもって生まれてきて、
生きて、
死んでいく。

そのことの謎が、
こころの内でひたすら問われたのが、
15世紀以前のギリシャ・ローマ文化期においてでありました。

15世紀以降、現代においては、
その生と死の謎が、
現実における謎・不可解さとしてからだの次元にまで降りてきて、
(健康の問題・医療の問題・人生の問題として現実化して)、
人の意識に突き刺さるように迫ってきています。

「からだというもの」にどう向き合い、
「からだというもの」をどう読み解くか。

100年前のシュタイナーのことばは、
そのことの基にまで迫っています。


そして、現代においてより喫緊なこと、
それは、悪の問題です。

生と死の問題がからだの次元で迫られているとするなら、
悪の問題は、
一見、外からわたしたちに迫り来るように見えるにもかかわらず、
実は、
ひとりひとりの内なるこころの次元で、
ひとりひとりが己のこととして向き合うこととして要請されています。

この講演では、悪というものについても、
キリストとの関係、「キリストの復活」ということを通して、
考えを深めていこうとしています。

「こころというもの」にどう向き合い、
「こころというもの」をどう読み解くか。

悪の問題も、
そのように己のこころの問題として意識に上らせることが必要とされているように感じます。

シュタイナーが攻撃され始めたのが、この講演あたりからだと書きましたが、
それらの攻撃のもとのもとにあるのは、
きっと、
人の精神の育みとそこから生まれてくる人の自由をなんとか阻もうとする悪の力です。


わたしたちは、この100年前の講演から、
容易に汲みつくせないものを、
これから繰り返し繰り返し勤しんで、
汲んでいくことができます。

「キリストの復活」ということが、
からだというものに対するより深い知として、
そして、
春における「キリストの復活」ということが、
秋における「人のこころの復活」として、
己の内なる悪との対話として、
人の内で、どこまでまともに深みをもって意識されていくか。

これからわたしたちは、
この「復活」という理念をどこまで深く熱く分かち合っていくことができるでしょうか。


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2011年10月08日

アントロポゾフィーと言語造形から何ができるのか

アントロポゾフィーから一体何ができるのだろうか。

アントロポゾフィーを学ぶことを通して、
アントロポゾフィーを生きることを通して、
一体わたしに何ができるのだろうか。

そんな問いが、この春からずっと、わたしの内に萌していました。

アントロポゾフィー、
それは人の内なるものを密(ひめ)やかに育んでいくことから始まる道です。

その人の内なる密やかさを育んでいくことは、
現代社会を生きていく上で、
きっと、その人の助けになりうるし、支えになってくれる。

ひとりひとりが、学びを深めつつ、学びを生きつつ、
その確かさをアントロポゾフィーに見いだすことができます。

そしてわたしは、
そのアントロポゾフィーから生まれた芸術「言語造形」に取り組んでいて、
それは、ことばを発するということそのことの深みを探っていく道です。

アントロポゾフィーにおいては、
おそらく人にかかわることならば、
ありとあらゆることがらが追求されうるでしょう。

わたしは、
その中でも、ことに、
ことばに意識的に取り組むことが、
アントロポゾフィーという学びの道に不可欠のものだと考えています。

アントロポゾフィーと言語造形。

その道を歩くことから、
わたしに何ができるのだろうか。

そう問い続けています。



今日、子どもと大人のための演劇塾が和歌山で発足しました。

アントロポゾフィーと言語造形から、
何かができる。

そう信じることができる晴れやかな初日でした。

そこでこれから、
子どもも大人も、
互いに応援しあいながら、
高い存在に見守られながら、
みずからを育むということがなされていきますように。

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2011年02月23日

K都市生活における学び 〜『いかにして〜』 実践的な観点その16

今回が、教則としては最後の12番目のものです。

「利己的な関心、現代の生存競争に満ちた環境」の中で、
人はいかにして密やかな学びの練習をしていくことができるか。

そのような「環境」は、
つまるところ、
人の内も内なるところの方向性を変えてしまったりはしない。

しかし、練習する人は、このことを意識する必要がある。


    密やかに学ぶ人がときおり自然の静かな安らぎ、
   内なる尊さ、雅(みやび)やかさを
   周りに迎えることは、とにかくよいことである。
   ことに好ましいのは、密やかな学びを緑の草木にかこまれ、
   あるいは
   光る山々と愛すべきシンプルな営みのあいだですることができることである。
   そのことが内なる器官をハーモニーのうちに引き出す。
   そのハーモニーは現代都市では生じようがない。      (P.136)


このことは、密やかな学びにとって欠かせない一観点なのだということを押さえた上で、
現代においてより意識していたいのは、むしろ次のことでしょう。


    都会に生きることが課題となっている人ならば、
   つくりなされつつあるこころと精神の器官に、
   精神を究める人のインスピレーションによる教えを
   糧として届けることを怠ってはならない。
   春が来るたびに森が日に日に緑を増していくさまを追うことができない人ならば、
   そのかわりにバガヴァッド・ギーター、
   ヨハネ福音書、
   トマス・フォン・ケンペンの気高い教え、
   および精神科学の成果をみずからのこころに届けてほしいものである。(P.136)



周りの環境が外からわたしたちに作用してくること、
それによってわたしたちは外的にも内的にも確かに動かされてしまいます。

その外からの作用は、よくも悪くも、人に働きかけます。

その作用について精神科学から研究していくことは、
わたしたちにとって、とても大切な課題です。

その研究を実際に、教育、医療、農業その他の産業として、
わたしたちは応用実践していくのです。

また人によるすべての仕事が、芸術によって貫かれること。

これがアントロポゾフィーという精神の生きものの、
21世紀における課題です。

この外の世を創っていく仕事と共に、
人の内の世を育んでいく仕事に取り組んでいくことも、
アントロポゾフィーの課題です。

外が先か、内が先か。

環境や社会が、人をつくるのか。

人が、環境や社会をつくるのか。

要は、バランスでしょう。

ただ、そのバランスを生み出すのも、
ひとりひとりの内を育んでいくことこそが鍵だということを、
人は人生における深い経験を通して、
ますます強く意識していかざるをえなくなります。

現代都市生活の真っ只中において、
積極的に、意識的に、精神の糧を稼いでいくことによって、
ひとりひとりの内側を、
各々銘々育んでいくことの重要性。

都市こそを人にとって息のつける場所にしていくこと。

それは、ひとりひとりが精神を自覚することから。

こころという内なる自然を、
年の巡り、四季の巡り、月や週や日の巡りといった外なる自然と、
重ね合わせていくこと。

精神科学アントロポゾフィーは、きっと、そのことに大きな助けを差し出します。


●密やかな学びの実践的観点の十二番目の小さな教則

    現代の都市生活における、人の内なるものの育みの重要性。
   精神の糧を稼ぐこと。              (知の育み)


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2011年01月13日

J健康と、幸いと、こころの穏やかさ〜『いかにして〜』 実践的な観点その15

    ここに伝えることが許されるのは、
   からだとこころの健康にとっていかなる危険も伴なわないことのみである。
                                   (P.134)


これが、11番目の教則です。

シュタイナーが指し示す密やかな学びの細道は、
決して外からの強制やドグマ、恐れからなされるものではありえません。

常に、
その人その人の「まんなか(わたし)」の熱いこころざしから、
その道は歩き出されます。

また、常に、
酔わず、惑わされず、
「まんなか(わたし)」の目覚めた意識で、
その歩みは進みゆきます。

そして、
どこかに隠棲してこの道を歩くのではなく、
日々の仕事をこなしながら、
人と人とのつきあいをしっかりと生きながら、
この学びはなされます。

この「まんなか(わたし)」の育みこそが、
ここで言う「密やかな学び」です。

この「わたし」というものは、
エゴのことではありません。

むしろ、人の内も内なるところであるこの「わたし」が、
こころに、アストラールのからだに、通いきれていないことからこそ、
エゴ、我執が生まれます。

この「わたし」は、
天にも昇るような喜びと地の底に落ちるような苦しみとの間の、
様々なこころの波立ちを治める働きをだんだんと獲得していきます。

つまり、
その人は、その人の「まんなか」を立てることができるようになっていきます。

また、ゆくゆくは、
「わたし」からの働きで、
嘘と過ちから遠のいていきます。

また、遥かな遥かな先には、
「わたし」からの働きで、
病と死を凌ぎ、息災と健やかさのみを獲得しています。

それが、長きに渡っての人の理想だとシュタイナーは語っています。

健康と、幸いと、こころの穏やかさ。

それらが、きっと、この「密やかな学び」から生まれます。

そのために、この実践的な観点があります。



密やかな学びの実践的観点の十一番目の小さな教則
      
      決して、からだとこころが危険に陥らず、
      健康と、幸いと、こころの穏やかさが、
      この学びの道に伴なっているかをチェックする。(情の育み)




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2011年01月02日

I黙ることのアクティビティー〜『いかにして〜』 実践的な観点その14

年も明けて、大阪の空はとてもとても爽やかに晴れ渡っています。

12月24日の晩から1月6日までの日々を聖き十三の夜と言います。

年越し、年明けは、丁度、その13昼夜のまんなかにあたります。

今日も、その時の続きゆきを、わたしたちは生きています。

この時期、こころにとりわけ際立ってくることがらが、
ちょうどこの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」でも取り上げられます。

10番目の教則です。


    そして、優しさとともに、まもなくもうひとつの風合いがこころのうちに養われる。
   すなわち、
   周りにおけるこころの生の細やかさを、
   みずからのこころの動きがすっかり黙るなかで、
   安らかに尊ぶということである。                  (P.133)



「黙る」というこころの行為。

静かにあり続ける。

それはとてもアクティブなこころの働きでもあります。

そうしていくことを通して初めて、 
周りのこころの生の細やかさがわたしに流れてくる。

そのこころの流れは、
他者のこころの流れであるでしょうし、
空や風や水の流れ、動物たち、植物、鉱物の「こころ」の流れでもあります。

物質という物質に隠れているこころの流れを尊ぶことへと、
この練習は必ず繋がっていきます。


    そして、人がそこまでにことを運んだなら、
   その人の周りのこころの動きがその人に働きかけ、
   その人のこころが育ち、
   そして育ちつつ節分かれする。
   さながら植物が陽の光のなかで繁るがごとくである。       (P.133)


その人のこころを育むのは、
実はその人の周りのこころの動きだということ。

例えば、人と人とが集まる学びの場などにおいて、
学びの内容を受けとることと同じくらい大切なことは、
共に学んでいる周りの人という人のこころへの関心です。

学びへの集中力と周りの人への関心、
どちらにおいても、
内側において黙ることをみずからに課しつつ、
その間にバランスをとりつつ、
学びの場に参加するということこそが、
その人にとって最も学びが深まり、捗っていくことになります。

その周りのこころの動きこそが、
わたしのこころを育んでくれるのです。

とかく人はその周りのこころの動きなどに構わずに、
学びに集中したいと思ってしまうときがあるのですが、
むしろそここそを大事にしていくことが、
人間的な学びの場、こころの育みの場に欠かせないことです。

それは、みずからの内なるエゴイズムとの闘いです。


    まことの根気における優しさと黙るということが、
   こころをこころの世へと開き、
   精神を精神の国へと開く。                    (P.133)


●密やかな学びの実践的観点の十番目の小さな教則
        こころを黙らせることによる周りへの細やかな尊び
        周りのこころの動きにこそ意を注ぐ(意志の練習)


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2010年12月31日

H優しさの気味合い〜『いかにして〜』 実践的な観点その13

アントロポゾ−フ(アントロポゾフィーを生きようとする人)にとって、
この9番目の教則は、折りにふれ、意識に上るものかもしれません。

いや、はっきり言えば、
このわたしこそがこの教則につまづいています。

人と会って、話しを交わすたびごとに、
この教則に則ることができなかった自分に後から気づくからです。

それは、こうです。

 
    人が行く密やかな学びの道へと石を投げるのは、
   その人がおおもとから考えてすっきりさせることなく語ることごとである。
   
   (中略)
   
   たとえば、だれかがわたしになにかを言い、
   わたしがそれに対して言い返すとする。
   そのときにはわたしが、きっと、
   話題にしている事柄について言わなければならないことよりも、
   相手の意見、情、予断のほうに意を注ごうと努める。
   もって言わんとするのは、
   ひとつの細やかな気転の養いであり、
   その養いに、密やかに学ぶ人は細心にみずからを捧げる必要がある。

   (中略)

   できるかぎりしっかりと相手に耳を貸し、そして、
   聴きとったことからみずからの言い返すことのつくりをかたどってほしい。

   (中略)

   「要はわたしが相手と異なる意見であることではなくて、
   相手がふさわしいことを相手のほうから見いだすようになることであり、
   わたしがそのことにいささかなりとも手を貸すことである。」    (P.131〜132)


正しいことを学べば学ぶほど、
人生経験を積むほど、
他人のことばに耳を貸せなくなる。

他人のこころもちは目に入らず、その人に教えたくなる。

この誘惑は思いのほか強いのではないのでしょうか。

この誘惑を乗り越えて、
次のように練習していく。

対話しているとき、
実は、正しい答えを、自分はまだ知らない、
むしろ、対話を通して、互いに答えを探っていく。

もし密やかな学びを通して、
そのような対話のたびごとに意識的になれるのなら、
意識的に聴き続けること、
耳を傾け続けること、
そのうちにきっと、話す相手みずからがふさわしい答えを導き出してくる。

また自分もそのときその場にふさわしいことばをかたどることができるようになる。

聴くということがなんと大いなる働きをすることか。

またそれはきっと、むりやり我慢してすることではない。

これまでの実践的な観点を踏まえていくうちに、
おのずとその練習に移行できている自分を見いだします。

その「聴く」という行為は、
愛からでなくてなんでしょう。

愛は人から強制されて発揮できるものではないです。

そうして、だんだんと、ゆっくりと、
次のようなかたちで学びが表立ってきます。


    密やかに学ぶ人のキャラクターと振舞いに優しさの気味合いが及んでくる。
   その優しさが密やかな学びという学びの主立つ手立てのひとつである。
   きつさがあなたの周りの、
   あなたのこころの目を呼び覚ますこころの相(すがた)を追い払う。
   優しさが阻むものを取り除け、
   あなたの器官を開く。          (P.132)



強く己を導いていくことができる人こそが、
優しさと安らかさへとたどり着くのでしょうか。

道は長いのです(汗)

●密やかな学びの実践的観点の九つ目の小さな教則
     他者の声に耳を傾ける練習・意を注ぐ練習(意志の練習)


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2010年12月29日

Gこころの傾きに囚われない〜『いかにして〜』 実践的な観点その12

    憤り、怒りと同じく、人が戦う必要のある性質に属するのは、
   たとえば臆病、
   迷信と予断への依存、
   虚栄心と功名心、
   好奇心とお喋りという性癖、
   人を地位、性別、出自といった外なる指標によって差別すること
   などなどである。  (P.130)



ここに挙げられている性質を、
ことばとしてひとつひとつ胸の内で呟いてみると、
どれもが、多かれ少なかれ、
自分も身につけてしまっているものだと気づくかもしれません。

こうして、こころの向きや傾きを細やかに「ことば」にすることで、
わたしたちは、みずからのこころのありように意識的になりゆくことができます。


    わたしたちの時代においては、
   そのような性質との戦いが、
   知る技量を高めることにかかわりがあるということを、
   人がなかなかとらえるようにならない。
   しかし、密やかな知識をもつ人なら、どの人も、
   そうしてことのほうに、
   知性を広げるということよりも、
   また、わざとらしい練習をするということよりも、
   多くが懸かっているのを知っている。   (P.130)



わたしたちは、ことに普段の人との付き合いにおいて、
このみずからの身につけてしまっている性質・性癖に、
ある種の痛みと共に気づかされることが多々あります。

その気づきを「意識的に」獲得していくことが、
まさしく密やかな学びにおいての実践的な観点です。

みずからのこころのありように意識的に向かい合うこと。

それは、繰り返し言うことになってしまいますが、
みずからを裁くことではなく、
観察とその観られたもの(考えや情やもよおしなど)をことばにすることです。

何ごとにも、いい・悪いと判断を早急に下してしまうことから、
じっと観察することへと、
そして辛抱強く、ことばへの道を探ることへと、
自分を持っていくのですから、
これは「戦い」と言えます。

その毎日毎時の練習が、
密やかな学びにおいては、きっと欠かせないと感じるようになります。


    それについての取り違えがたやすく生じるのは、
   こういうことからである。
   すなわち、かなりの人が、
   恐れをもたずにいるべきなのだから、
   みずからを勇敢な人に仕立てるべきだと信じ、
   地位や人種などについての予断と戦うべきなのだから、
   人と人との違いに目をつぶるべきだと信じる。  (P.130)



人はこういったことを杓子定規にとらえると、ついつい、
恐れをもっている自分を修正しなければ駄目だ、
予断をもっているのは駄目だから、判断しないでおくべきだ、
と取り違えてしまいます。分かりそこなってしまいます。


    むしろ、人がいよいよふさわしく知るということを習うのは、
   予断に囚われなくなるにおいてである。  (P.130〜131)


自分の中に他者やものごとに対する予断があることが駄目なのではないのです。

それは誰だって、その人なりの人生経験がありますから、
ものごとに対するたびに、
まっさらな生まれたての赤ん坊のように世界に対するなんてことはできません。
必ず、予断をもってしまいます。

ここで言われていることは、
「予断に囚われなくなること」を目指して練習するということです。

予断を置いておける練習です。

予断に、恐れに、ものを言わさないようにする練習です。

予断そのものを視る練習です。

これはかなり意識的な作業になり、
こころを鍛えてくれます。


    すでにふだんの意味において正しいことであるが、
   わたしにとって、
   ひとつの現象に対する恐れがその現象を明らかに判断するのを阻み、
   人種についての予断がひとりの人のこころを見遣るのを阻む。
   そのふだんの意味を、
   密やかに学ぶ人は、きっと、
   大いに細やかに、
   鋭く育み育てる。    (P.131)



「大いに細やかに」
「鋭く」
これらの練習をすること。



●密やかな学びの実践的観点の八つ目の小さな教則
  こころの傾きに囚われなくなる練習→ふさわしく知ること(考える練習)


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2010年12月28日

Fこころの目を育む〜『いかにして〜』 実践的な観点その11

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「実践的な観点」の記事が、
しばらく滞っていました。

前回の文章を引き継いでまた書き起こしてみたいと思います。

前回に引いたシュタイナーの文章をいま一度ここに載せます。


   わたしが憤る、ないし怒るにおいては、
   こころの世においてわたしが周りに壁を立てる。

   そして、わたしのこころの目を育むべき力が、
   わたしへと迫ることができない。

   たとえば、ある人がわたしを怒らせるにおいては、
   その人がひとつのこころの流れをこころの世に注ぐ。

   わたしがまだ怒る技量をもつかぎりは、
   その流れを視ることができない。
   わたしの怒りがその流れを覆う。   (p.129)





この2連目の文章の中で、
「こころの目を育むべき力」とあります。

ある人がわたしを怒らせたとして、
その人が発したこころの流れこそが、
その「わたしのこころの目を育むべき力」だとシュタイナーは書いています。

ちょっと、絶句しませんか。

日々のニュースに、また日々の人付き合いにおいても、
小さなことから大きなことまで、人を怒らせるような出来事が頻発している。

そのように感じているのは決してわたしひとりではないと思うのです。

人をイライラさせている何か。

人を怒りに駆り立てるようにしている何かの力。

それを悪の力と呼ぶことができるでしょうか。

人から安らかさと確かさと誇りと愛を見失わせてしまう力です。

しかし、その悪の力がなぜ、人とともにこの世にあるのか。

もしかしたら、その力があることに、意味があるからではないのか。

その力が、人のこころの目を育む力だと、
シュタイナーは書いています。

その力は発せられる時、場所がふさわしくないことから、
悪しきものになってしまっている力だということ。

時と場により、また、受けとる人により、
力という力は、
いいものにもなれば、悪いものにもなってしまう。

そして、結局は、その悪の力は、発した者のところへ帰っていくということ。

わたしたち人が、その力に対して、どう立つか。

そこが問われています。

「怒る」というのは、その人の「技量」だと前回書きました。
そして技量とは「人のする働きによって人の身についた機能」のことだと。
そうであるならば、本来、人は、
その機能を用いたり、用いずに差し控えたりできるはずだと。

もし、わたしがその機能を用いずに差し控えることができたとしたなら、
時と場所に生きる次元からわたしは抜け出ているということなのかもしれません。

このことは実に大きなことです。

それは、まずもって、練習です。

実の人生をもって、すべてそれで賄うということにはなりえません。

しかし、わたしたちは、人生において、
こころの目を開いていくこと、
こころの流れを視ることの必要性を感じているからこそ、
密やかな学びに加わったのではないでしょうか。


●密やかな学びの実践的観点の七つ目の小さな教則
   怒る技量を差し控える→こころの目の育み(情の育み)


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2010年12月09日

毒を吐く人に対して 〜『いかにして〜』 実践的な観点その10

今回の7番目の教則から8番目、9番目は、
特に人間関係における実践的観点です。

シュタイナーは、驚くようなことを言います。


   わたしが憤る、ないし怒るにおいては、
   こころの世においてわたしが周りに壁を立てる。

   そして、わたしのこころの目を育むべき力が、
   わたしへと迫ることができない。

   たとえば、ある人がわたしを怒らせるにおいては、
   その人がひとつのこころの流れをこころの世に注ぐ。

   わたしがまだ怒る技量をもつかぎりは、
   その流れを視ることができない。
   わたしの怒りがその流れを覆う。   (p.129)



たとえば、誰かが、わたしに対して、嫌なことを言ったり、書いたり、毒を吐いたりして、
わたしを怒らせた時。

そのときわたしは自分の周りに壁を立てている、と言うのです。

そして、それだと、わたしにはその人が注いだ「こころの流れ」が視えない、と言うのです。

シュタイナーは、
すでに1番目の教則で、
「侮辱に対する怒りをおさめること」の重要性を述べていました。

それは「みずからの値はみずからが決める」というこころの情の育み故の重要性でした。

人がどう言おうと自分の真の値には関係ない。

その考えを徹底させていくことで、
己への信頼を再び取り戻すのです。

まっすぐに自分の足で立つこと。

己のまんなかを思い出すこと。

それが1番目の教則でした。

そして、3番目の教則においては、
「みずからの弱さを真っ向から見据えること」が書かれていました。

「怒り」という感情が、
己のまんなかから生まれたものではなく、
外からの刺激によって己のあずかり知らないところからやってきた波のようなものだと知ること。

だからその怒りという感情を自分の「弱さ」の表れだということを認めたとしても、
それは己のまんなかの表れではなく、
己の外側に付きまとっている衣装のようなものなのだから、
己を責める必要はない。

その「弱さ」を通して自分にどのようなメッセージが世から(外から)与えられているのか。

その気づきからこそ、
己の弱さを乗り越えていく道、
好みの衣装を好みのままに着ていく道が始まっているのだ。
と、そんなことが書かれていました。


そこで、7番目の教則。

わたしを怒らせるような毒を吐く人は、
単に「ひとつのこころの流れをこころの世に注ぐ」とだけ言って、
そのことの良し悪しを云々しないのです。

密やかな学びに加わる人は、
吐かれた毒に対して怒るよりも、
その毒を吐いた人が流している「こころの流れ」を視ること、
その視ることに意識を向けよ、と言っています。

なにせ、シュタイナーは、
「怒る技量」と書いています。

「技量」とは、
訳者の鈴木さんの註によりますと、
「人のする働きによって人の身についた機能」のことです。

人が自分で身につけた機能なのですから、
本来は自分でその機能を用いたり、用いずに差し控えたりできるはずなのです。

しかし、差し控えるためには、
よりいっそうのアクティビティーが要ります。

密やかな学びとは、
他者の心理を云々し、批判するのではなく、
他者のことばなり、言動なり、
それらの現象を受けとめる際の、
己のこころのありよう、働きようを育むことです。

(この文章、もう少し続きます)

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2010年11月29日

E学びのプロセスそのものを愛する 〜『いかにして〜』 実践的な観点その9

六つ目の小さな教則。

   また、こんなふうに言っても、なんにもならない。
   わたしはわたしのかつての生を視たいのであり、そのために習いたいのだと。
   むしろ、人がその願いをすっかり落とすこと、すっかり締め出すことができ、
   さしあたりはその意図をまったくもたずに習うことが欠かせない。(p.128)


四つ目の教則は、
好奇心ではなく、「敬虔さに裏打ちされた関心」を育むことだった。

五つ目の教則は、
願いの成就は「ふさわしく知る」からやってくるということだった。

ここでも、「かつての生を視たい」という願いが例として挙げられている。

その願いが、好奇心から生まれているものなのか、そうでないのか、
「かつての生」というものをそもそも今の自分は本当に視る必要があるのかどうか、
いや、「かつての生」とは何か、
「生」とは何か、
そのことをまずは考えてみることが、
つまり、いま、ここに、自分の足で立つことが、
密やかな学びには欠かせないとシュタイナーは言おうとしている。

そうすると、
人のなりたちをもっと学ぼうというこころざしが生まれてくる。

人が生きるとはどういうことか、
世とは何か、
この「わたし」はどのようなありかたをしているのか、
どのようにしていったら、このこころを育んでいくことができるのか、
それらをもっと親しく知りゆくことの必要を感じ出す。

それは前の五つ目の教則の「ふさわしく知る・考える」から生まれてくるこころざしと感情だ。

必要があって、いま、自分には、前の世が視えないのだ。

いまはそういうものが視えては困るのだ、自分自身が。

そのようなシュタイナーのことばが、
ふさわしく知りゆくほどに、感情として納得される。

そのような自分の身に不相応な、浅はかな願いをすっかりあきらめて、根気をもって、
こころざしと感情に沿って学び続けていくこと、
いったん学んだことを何度も習い続けていくこと。

   人が習ったことについての喜びと、
   習ったことに沿うということを、
   いうところの意図をもたずに育む必要がある。
   そもそも、それによってこそ、
   人が同時にふさわしい願いをもつということを習う。
   その人がその願いを満たすということをするようになる。(p.128)


小林秀雄が「モオツァルト」の中で書いている。

   芸術や思想の世界では、目的や企図は、
   科学の世界における仮定の様に有益なものでも有効なものでもない。
   それは当人の目を眩(くら)ます。
   或る事を成就したいという野心や虚栄、
   いや真率な希望さえ、
   実際に成就した実際の仕事について、
   人を盲目にするものである。
   大切なのは目的地ではない、
   現に歩いているその歩き方である。


人がとかく陥ってしまう穴を小林秀雄はよほどよく知っていたらしい。

人はとかく目が眩んでしまう。

目覚めていられず、口を開けば寝言を言ってしまう。

いま、ここに、目覚める。

すると浅はかな願いがおのずと落ちて、
学ぶこと、習うこと、そのことを愛するようになる。


●密やかな学びの実践的観点の六つ目の小さな教則
   浅はかな願いをすっかり落とし、
   学び、習うプロセスを愛すること(意志の育み)

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