むかしむかしのおほむかし、ことばは、人の意欲への呼びかけでした。
現代のやうに、抽象的な思考をみすぼらしく表現するものではありませんでした。
人は、ことばを聴くたびに、からだがうずうずしたのです。
さらに、それに応ずる動きをしてしまふことが身についてゐたのです。
ことばは、発声器官だけでなく、人の運動器官まるごとのなかに息づいてゐました。
いま、人は、このことを忘れてしまつてゐます。
しかし、幼な子たちは、まだ、このむかしのことばの性質のなんたるかを知つてゐて、それを欲してゐます。
「はじめにことばありき」といふ時の「ことば」のなんたるかを知つてゐます。
「ことば」とは、世を創り、動かし、人を創り、動かすものでした。
そして、いまも、その「ことば」の働きの精神は、少なくとも幼な子には失はれてをりません。
昨日は、グリム童話の8番「へんな旅芸人」を語りました。
幼な子たちは、森の中の動物たちが旅芸人(音楽を生きる人)によつて次々とやりこめられる(統御される)様を絵を観るやうに聴きます。
語り手の(〈わたし〉による)目覚めて統御された意識。
(アストラルのからだによる)鮮やかな身振りと表情。
(エーテルのからだによる)呼吸の長短。
(フィジカルなからだによる)表現のまるごと、表現のすみずみに動きがあること。
旅芸人は、つひに、森の中で、「人」に出会ひます。
「人」は斧(つるぎ、でもいいでせう)を振り上げ、けものたちを退散させ、旅芸人を守ります。
音楽とは、人の精神に出会ふためのものであり、かつ、人の内なる動物性を統御するものであること。
このお話は、そんな精神から語られてきました。
そして、ことばのひとつひとつが、動きとかたちをもつて、語られます。
それは、ことばそのものが、動きの精神を孕み、かたちの精神を秘めてゐるからです。
語り手は、その動きとかたちを顕はにするべく、声にするのです。
そのことばの精神と物語の精神は、実際に子どもの前で語る数多くの回数の中で実感されてきます。
幼な子たちは、お話を聴きながら、ことばとともに走りたがつてゐます。空を飛びたがつてゐます。海に、川に潜りたがつてゐます。
幼な子たちが欲してゐる、そんなことばを与へて行くこと。
それが、幼児教育のひとつの指針です。
そんなことばで育つことができたなら、その子は、後年、大人になつてから、生命に満ちた精神を、自分自身の力で把握することができます。
posted by koji at 12:55
| 大阪 ☀
|
Comment(0)
|
アントロポゾフィー
|

|