2020年07月05日

話者は和者である



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これもまた、
下手な駄洒落のやうですが、
今朝の眠りの中からいただいた想ひです。
 
 
ことばを話す人は、
人のこころに和やかさをもたらす。
 
 
ことばを話す人は、
人の和を織りなす。
 
 
理想は、
人が実現できるかできないかに関はりなく、
精神としてありありとある。
 
 
振る舞ひの理想主義、
考への理想主義と共に、
ことばの理想主義が、
人には与へられてゐる。
 
 
その理想を裏切つて、
わたしたち人は苦しみ、  
その理想を少しでもものにして、
人は力を得る。
 
 
ことばの理想主義は、
その民族をつかさどる精神の位の方から、
その力をいただいてゐる。
 
 
そして、
己が民族を愛する人は、
その民族をつかさどる精神から愛されるし、
己が国語を愛する人は、
国語をつかさどる精神から愛される。
 
 
己が住む土地を愛する人は、
その土地を護る精神から愛されるし、
己が家を愛する人は、
その家を護る精神から愛される。
 
 
己が発することばを愛する人は、
己が発することばを護る精神から愛される。
 
 
そのやうに、
理想とは、
絵に描いた餅などではなく、
人を護るもの。
人に力を与へるもの。
 
 
そのやうな想ひが、
眠りの世から降りてくるのです。
 
 
 

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2020年07月04日

土曜の朝の精神の水浴び



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セザンヌ「大水浴」


 
わたしのからだの中に、
こころと精神があるのではなく、
からだを包んでゐるのがこころであり、
そのこころを大きく超えて、
世の隅々まで広がり渡つてゐるのがわたしの精神です。
 
 
メディテーションの繰り返しによつて、
そのことに実に親しむやうになります。
 
 
光の息遣ひによつて、
そのことを実に感覚することができます。
 
  
言語造形といふ芸術によつても、
そのことを生きることができます。
 
  
人は、からだを越えてこころを感じ得たとき、
さらには、こころを越えて精神に触れ得たとき、
みづからの桎梏から自由になり、
愛と自由が流れてゐる精神の川にて、
水浴びをすることができます。
 
 
 


 
 
 


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2020年06月24日

世の光と世の熱による禊ぎ 〜ヨハネ祭を迎へて〜



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ダヴィンチ『洗礼者聖ヨハネ』



今日6月24日は、キリスト文化圏では、
『ヨハネ祭』といふお祭りの日です。
 
 
その祭りの日について、
ルドルフ・シュタイナーの
『こころのこよみ 第12週』に則して書かせてもらひました。
 
 
今週のこの「こころのこよみ」のことばに、
わたしは本当に助けられてゐます。

 

 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
世の美しい輝き、
 
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
 
内に生きる神々の力を
 
世の彼方へと解き放つやうにと。
 
わたしは己れから離れ、
 
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
 
世の光と世の熱の中に。
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
とくに、後半の三行です。
 
 
「わたしは己れから離れ
 ただ信じつつ、みづからを探し求める
 世の光と世の熱の中に」
 
 
己れから離れること。
 
 
光の息遣ひをもつて、
からだをフルに使つて練習をすることで、
己れのからだからこころを解き放つこと。
 
 
さうすることで、
恐れと憎しみに囚はれてしまひがちなこころが、
からだの外側を流れてゐる精神の光と熱の流れに、
触れることができる。
 
 
その流れに触れてこそ、
〈わたし〉が目覚めるのです。
 
 
その流れの中にこそ、
〈わたし〉が生きてゐるのです。
 
 
そのやうに感覚できるみづからを、
この感覚を、
ただ、ただ、信じて、
己れのこころを救ひ、落ち着かせ、養つてゐます。
 
 
それは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で行つてゐた、
水の洗礼にも似る、
世の光と世の熱による禊ぎ、洗礼であります。

 
 




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2020年06月10日

自由への道A メディテーション「考へるといふこと」


 
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人をこころから愛することができるのは、
その人を「想ふ」からであり、
その想ひは、「考へる」ことにより初めて得られる。
 
 
さう、『自由の哲学』第一章にあります。
 
 
昨日は、
「見初める」ことから、
誰かを、何かを、愛する道筋を述べました。
 
 
今日は、
「考へる」ことから、
誰かを、何かを、愛する道筋です。
 
 
初対面の時は、
さほど印象付けられない相手であつても、
何度も会ひ、何度も語りあふうちに、
その人のことばや振る舞ひから、
だんだんとその人についての「想ひ」を抱くやうになる。
 
 
「想ひ」とは、
その字のごとく、
ある相が心の上の描かれてゐるありやうです。
 
 
その人のことをこころに想ひ描くには、
その人のことを考へなければなりません。
  
 
考へるからこそ、想ひが抱かれます。
 
 
そして、その想ひから、
やがて、その人を愛する道が始まります。
 
 
それは、メディテーションの道です。
 
 
精神の世から生まれてゐるある高貴な考へを、
こころの中で想ひとしてしつかりと抱くのです。
 
 
すると、その考へが力を持ち始めます。
 
 
その考へが、その人のまるごとに浸みこんで来ます。
 
 
こころとからだ、まるごとが、
その考への精神から方向づけられて来ます。
 
 
メディテーションとは、
精神を敬ひ、尊び、愛しつつ、
精神とひとつになりゆくこころの道なのです。
 
 
昨日述べた、
芸術実践といふ「見初める」ことの練習、
そして、今日述べてゐる、
メディテーションといふ「考へる」ことの練習、
このふたつを意識的に修めて行くこと。
 
 
これが、人がひとりの人になりゆく道、
自由への道、
アントロポゾフィーの要でもあります。
 
 
この夏、言語造形といふ芸術を礎にして、
四日間連続の講座『言語造形 その実践と理論
を開催します。(7/23〜7/26)
 
 
アントロポゾフィーといふ精神の学びに、
言語造形といふ芸術にどつぷりと、
入り込んで行く、ひとつの門に、
この夏、共に入つていきませんか。
 
 
 

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2020年06月09日

自由への道@ 芸術実践「見初めるといふこと」


 
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あるものの前を多くの人が通り過ぎてゆく。
 
 
しかし、ひとりがそのものの前に立ち止まり、
そのものを見初める。
  
 
そして、その人は、
他の誰も見向きもしなかつたそのものを
愛し始める。
 
 
愛がこころに宿る時には、
こんなプロセスがあることを、
シュタイナーは『自由の哲学』の第一章で述べてゐます。
 
 
いろいろと頭で考へてから愛するのではなく、
一目見たその時から、
なぜか、愛するこころが発動する。
 
 
さう、「考へる」からではなく、
「見る」から始まるのです。
 
 
そして、「見る」とは、
そもそも、いつも、
「見初める」であるはずです。
 
 
「見る」といふ行為は、
いつも新しい何かを人に運んでくれます。
 
 
幼な子は、いつもそんな目を持つてゐますし、
初々しいこころを持つ大人も、
そんな目を持ち続けてゐます。
 
 
その「見初める」といふ、
愛に向かふ初々しいこころの働きに、
皆さんも覚えがあると思ひます。
 
 
実は、芸術実践とは、
この「見初める」働きであり、
この働きを繰り返し、繰り返し、
繰りなしていくことです。
 
 
眼を働かせるそのたびごとに、
手を動かすそのたびごとに、
からだを使ひ、身を震わせるそのたびごとに、
新しく、まつさらの感覚に見舞はれる。
 
 
決まり切つた答へなどなく、
行為をするたびごとに、
新しい精神に出会へる。
 
 
それは、
芸術行為の本質的な道筋です。
 
 
それは、
世の何かを愛することに向けての、
自己認識の道、
自由への道なのです。
 
 
たとへば、誰かを愛する時、
眼で、耳で、からだで、感官で、
その人と出逢つたその時に、
その人の魅力と真価を理屈抜きに感じてしまふがゆゑに、
その人を愛し始める。
その人への愛がこころに芽生へる。
 
 
それは、
その人の内に、
その人を愛し始めてゐるわたしを見いだす、
別のことばで言へば、
世の内にみづからを見いだす、
そんな自己認識のひとつの方向なのです。
 
 
自己認識、
みづからを知る、
それは、自由への道でもあります。
 
 
芸術実践とは、
そのやうな「見初める」ことから
愛することへの道を歩いて行くことであり、
それこそが、自己認識へと至る道となるのです。
 
 
次に自己認識のもうひとつの方向も、
シュタイナーは述べてゐます。
 
 
つづく・・・。
 

 
『第二金曜アントロポゾフィークラス・オンライン』
『第二土曜アントロポゾフィークラス・オンライン』


『真夏の連続講座 言語造形 その実践と理論』7/23〜7/26



 

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2020年06月04日

5/25 アントロポゾフィー・ゼミクラス参加者レポートA  t.m.さん



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3ヶ月ぶりくらいの読書会で、久々に精神の世に触れさせていただきました。光の呼吸を教えていただいた時、昨年の古事記の世界が浮かび上がってきました。
 
 
「私たち一人一人が光を下ろす柱となる。」
 
 
このことこそが、アントロポゾフィを学び続ける意味であり、終わることのない自己教育の意味だと思います。
 
 
私たち日本人ならではの感覚で、光の呼吸のメディテーションを普段から意識していきたいと思いました。
 
 
私は今、パプリカの農作業のバイトをしているのですが、紐でつるしたり、芽や葉をつんだりと様々な作業がありますが、そのまず初めにあるのが「見る」という行為です。 
 
ここでも、シンパシー、ファンタジー、そしてふだんのイマジネーションによって「見る」ということができているのだと考えたりしています。
 
 
意識して眼差しを向けないと「見えない」ことを実感しています。そして、そのように意識して「見る」「愛でる」という行為を行うことで、実際に手を入れる必要がないパプリカ苗も生き生きとしているように思うのです。
 
 
人間が意識を向ける、働きかけることをしないままだと、「死」の方向へ進む。しかし、人が意識を向けて働きかけることで、「死」から「生」へと命が注がれていく。農作業は本当にそのことに身をもって実感させてくれます。
 
 
家の掃除や整頓、庭の手入れも子育ても、みな芸術であるということ。芸術は「死んだものに命を吹き込む」ものであることを改めて実感しました。
 
 
そこで、ひとつ疑問に思ったことは、自然と人間との関係です。人の手が入り込まない自然そのものは、「死」とは私は思えないのです。ありのままの自然は生命力にあふれています。
 
 
その一方、農業など、自然の中に人の手が加わることで、その植物や風景は芸術として命を吹き込まれる。
 
 
この命の違いはなんだろうかと、考えていたのですが、本来の自然は無意識の世界であり、人間の働きが自然に加わることで、意識的になるのかもしれないと思いました。その意識的な世界が芸術を生む。そこに、自然界、植物界、動物界、と人間の違いが見えてくるのかもしれません。そう考えていくと、なぜ、「人間だけがそうなのか」という問いが私の中に生まれてくるのです。とても面白いです。 
 
 
私たちの中にある「天の真名井」から真実や本質を汲み出すこと。人が生きる意味はこの作業の繰り返しのように思います。
 
 
そしてそこにはいつも人間への、世界へのわくわくとする興味からくる「問い」があってこそです。
 
 
それは私たちの「欲する」力が健全に働いていること、そして「欲する」働きが「考える」働きと「こころ」でバランスを取りながら、私の中を行き来していることが大切だと思いました。
 
 
 
―――――
 
 
 
t.m.さんの問ひ。
 
 
人の意識が向けられず、
全く人の手が入つてゐない自然と、
人の意識が向けられ、手入れされてゐる場。
そこに通つてゐる精神のいのちの違ひ。
 
 
それは何でせうか。
 
 
問ひを立てるひとりひとりが、
答へを見いだしていくことができます。
 
 
そして、
地球といふこの場が、
いかにして神々によつて織りなされて来たのか、
そして、
人といふもののが、
どのやうにしてなりたつて来たのか、
それらを学ぶといふこと、
それらを知りゆくといふことは、
それらをなしてこられた存在を、
敬ひ、愛するといふこと。
 
 
ですから、それらを学ぶといふことは、
この地球を創つた方々、
わたしたち人を創つた方々へ、
恩をお返しすることなのです。
 
 
わたしたちのアントロポゾフィーの学びは、
その感情と意欲を基にしてゐます。
 
 
それゆゑ、
我が身にその基を築くための練習も
欠かせないものです。
 
 
知を稼ぐことと、
意欲を培ひ、
情を育むこととが、
織りなし合つて、
わたしたちも少しずつ、
繰りなしていきます。
 
 
 
※写真は、講師・諏訪のノート
 

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2020年05月31日

5/25 アントロポゾフィー・ゼミクラス参加者レポート@ y.yさん

 

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オンラインでのアントロポゾフィー・ゼミクラス
 
そこではルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』を扱ひ、
参加者が前もつて読みこみ、
講義を聴きつつ、
自分自身のことばで語らひ、
講義の後、
メディテーション(瞑想)に取り組みながら、
自分自身のことばで書く、
そんな学びの循環を大切にするクラスです。
 
参加してゐる方々のレポートなどを
公開させていただき、
アントロポゾフィーを真摯に学び、
自分のものにしていく気概の輪を創つて行く、
なんらかの機縁に繋がることを熱望してゐます。
 
5月25日には、第二講を取り上げました。
この講から、人といふものについて、
微に入り細に入り説かれていきます。
 
 
―――――
 
 
普遍⼈間学 第2講  y.y(イニシャル)
 
私達は呼吸する。その呼吸によって、私達の精神は、⽣まれる前の世界と死んだ後の世界を⾏き来している。⼀息ごとに⽣まれ、⼀息ごとに死んでいると⾔うことも出来る。⽣も死も今この瞬間にともに存在しているのだと気づいた。一瞬前の⾃分はもう今の⾃分ではないし、今の⾃分は一瞬後の⾃分を⽣み出していることだ。
 
さらに私達は常に何かを考えている、その考えは⽣まれる前の世界において決めていた、「⽣まれた後する仕事」を想い起こさせようと働きかける。そして、その事を為すべく私達は⼿⾜を動かす。想い起こしながら、考え、欲しながら進む、それが呼吸による精神の助けをかりて、我々の⽣きている時間の中で繰りなされている。
 
この想い、または意欲が「感じる」という事に跳ね返されて、シンパシーとアンチパシーが⽣じる。このシンパシーとアンチパシーの間でどちらにも偏りなく中庸を保つ事、その事で私達は⾃分の内⾯を健やかに保ち、あらゆる想念、感情から⾃由でいる事ができる。
 
その位置は、「考える事を⾒る」という作業によって獲得する事ができる。
 
この「考える事を⾒る」という事を⾏なってみると、⼀つの気づきがあった。それは考えた⾃分を⾒ている、もう⼀⼈の⾃分に出会うという事だ。さらに、考えた⾃分とそれを⾒ている⾃分の両⽅を⾒ている⾃分を感じるのだ。
 
ありのままを⾒る、感じる、考えるという事から、ある程度の距離を保ち、内⾯が健やかでいられる時、私達は⾃由であるという事が出来る。この「考えを⾒る」という事で私達は内⾯の⾃由、精神の⾃由を⼿にする事が出来る。そしてその事がリアルに今を⽣きる、⾃分を今、ここに、健やかに存在させるという事の助けになる。
 
そのように⾃分の内⾯を健やかに保ちつつ、教師は世界の物事に対してシンパシックに受け取り、その事柄に命を吹き込む。⼀⾒静かに存在している花や⽊、⽯や動物、または歴史や物語。⼦供達が出会うこの世界の様々な事柄は、⼀⾒無機質でそっけない表情をしている。
 
しかし教師がそこに関⼼を持ちつつ深く⾒ることで、その静かな物が雄弁に語りはじめ、その秘密を明かしてくれる。教師はそれらと対話し、感じ、捉え、⾃らの中に描いた「絵姿」を⽣き⽣きとした⾔葉で⼦供に伝える。この事が「教師の仕事」である。
 
そういう意味では、⼦供の前に⽴ち、授業をすつ遥か前から「教師の仕事」は始まっている。呼吸し、感じ、観察し、想い描き、⼿放し、前に進む、これら全てが教師の仕事の⼀部である。
 
しかし、この仕事は、常に闇の世界からの抵抗にさらされる。それは恐れ、不安、欲望、⾃尊⼼、という形で私達に働きかけ、その感情⾃体がが⾃分そのものであるかのような錯覚を起こさせる。そして精神の世界から私達を遠ざける。
 
この闇の⼒はルシファ、⼜はアーリマンと呼ばれる存在である。健やかな呼吸によって、そして、考えを正しく感情から分かつ術を⾝につける事によって私達はこの闇の勢⼒に精神を⽀配される事に抵抗する事ができる。この⼀瞬⼀瞬の弛まぬ業によって⾃我が強められ、常に精神界の助けをかりつつ教育者となってゆくことが出来る。⾃⼰の内⾯と向かいあわずして、他者を教育する者とはなり得ないという事なのか。
 
教育はまず⾃⼰教育からであると⾔われるのは、このような教育者の姿勢こそが地下通路を通して⼦供へと伝わって⾏くからなのだとつくづく感じる事が出来た。
 
―――――
 
 
写真は、講師・諏訪のノートから

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2020年05月28日

本を読むときと講義を聴くときの違ひ

 
 
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たつた一枚写真に残されてゐる講義中のシュタイナー


 
何かを学ばうとして、
その何かに関する本を読むことと、
その何かに関して、
誰かから講義を受けることとの間には、
少し違ひがあります。
 
 
本当に学びたいといふ内なる真剣さ。
それは、どちらにも共通して必要です。
 
 
さて、
本を読む時に、望むべくは、
その内容によつて、
こころが変に乱されたり、
煽られたりすることなく、
静かに考へつつ、かつ、熱い想ひをもつて、
理解すること(分かること)へといたることです。
 
 
さうして、その読書が、
こころにばかりか、
からだのすべての液、
すべての力にいたるまで働きかけて、
日々の暮らし方、生き方に影響を与へて行くとき、
その学問そのものには、
理性や知識だけでなく、
精神的ないのちが宿つてゐます。
 
 
そのやうな書を読む人は、
死んでゐる文字を甦らせるやうな
読み方へといざなはれます。
 
 
その書に込められてゐる内容の精神、
考へとしての精神が、
書き手から読み手へと流れ込んで行くのです。
 
 
 

 
一方、講義などを通して、
人の語ることばから何かを学ばうとするとき、
その講義を聴く人は、
語る人から教義を受け取るのではありません。
 
 
語る人その人の精神を受け取るのです。
 
 
語る人の精神が、
語られることの精神とひとつになつてゐるからです。
 
 
つまり、「人」に出会ひにゆくために、
「人の精神」
「精神の人」に
出会ひにゆくために、
講義を聴きに行くのです。
 
 
その人との出会ひのひとときに、
その学問の精神は、そのつど、そのつど、
生まれます。甦ります。むすばれます。
 
 
講義とは、
人と人との間に繰りなされる、
精神の劇でもあります。
 
 
一回かぎりの劇なのです。
 
 
そこにおいては、
和やかで親しみに溢れる雰囲気のなかに、
内なる真剣さがあるほどに、
精神的ないのちが宿ります。
 
 
かうして、
本を読むときとは違ふ精神の受け取り方を、
講義を聴くときに意識してゐますと、
人と人とが、
共に学びつつ生きて行くといふことの
意味深さを感じることができます。



 
 
 

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2020年05月27日

自由への三つの密めやかな次第



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人は、自分の外に広がる世界にはよく目を注ぎます。
 
 
しかし、こころといふ、
内なるところに広がる世界に目を注ぐことには、
あまり慣れてゐないのではないでせうか。
 
 
こころ(ドイツ語ではSeele)が、
湖(See)だとしますと、
その水面に浮かび上がつて来た様々な感情や考へ、
それらはなぜ浮かび上がつて来たのでせう。
  
 
それらは、きつと、
どこかから風がこちらに向かつて吹いて来るやうに、
外の世界に何らかの出来事が起こつたり、
他者の言動をきつかけに、
こころが揺さぶられて、
浮かび上がつてきたものですね。
 
 
それらは、湖の底に沈められてゐたものが、
運命(仕合はせ)といふ風に吹かれ、
湖の水まるごとが揺さぶられることによつて、
沈殿物が湖水の面に浮かび上がつて来た、
といふことでせう。
 
 
これまでの人生の中で
経験せざるをえなかつた傷や痛みからの、
自分自身では認めたくない自分自身の情が、
そのつど繰り返し浮かび上がつて来ます。
 
 
その浮かび上がつて来たものを、
いまこそ、
ひとつひとつ丁寧に汲みとつてあげること。
 
 
それが、人の成長にとつて、
とてもたいせつなことだと強く思ひます。
 
 
どのやうな、はき違へられた考へも、
不健康な情も、
抑えつけたり、排除したりせず、
あるがままの客として、
すべて、丁寧に汲みとつて、
迎へて、響かせて、送る。
 
 
そんなとき、人は、
客と一体化してゐない、
ひとりの主(あるじ)です。
 
 
その内なる行為は、
「光の息遣ひ」を通して、
こころといふ湖水を浄めていく、
非常に地道な作業です。
 
 
さうして人はゆつくりと、
みづからのこころに精神の光を当てて行くことで、
みづからを総べ、
律していくことを学ぶことができます。
 
 
他者を責めず、
世を批判せず、
ただただ、誠実さと親身なこころもちに、
みづからを委ねて仕事に邁進することができる。
 
 
自分の好みや性向、お馴染みの考へ方、感じ方を、
できうるかぎり洗ひ流し、
そのつどその場で新しく精神を迎へ入れ、
流れ込ませる生き方、
これが一つ目の次第、「自律」です。
 
 
ここからすべては始まります。
 
 
さらに人は、
暮らしの中で、
仕事を通して、
みづからのこころにだけでなく、
みづからのからだにも精神の光を当てて行く。
からだにまで光を当てて行くのです。
 
 
このとき、すべての人の行為、仕事は、
芸術行為です。
 
 
死んだものに精神のいのちを吹き込み、
甦らせる、すべての行為が芸術です。
 
 
絵を描くことや音楽を奏でることだけでなく、
お料理も、お掃除も、お散歩も、
すべての行為が、
そもそも芸術行為です。
 
 
これもひとつの修業です。
 
 
倦まず弛まず練習をつづけることで、
人はみづからの足で、
立つことができるやうになりゆきます。
 
 
これが二つ目の次第、「自立」です。 
 
 
そして、人は、
そのつど、そのつど、
世に精神の光を当てて行くこと、
みづからのこころやからだにだけでなく、
世のものごとに光を当てて行くことを学びゆき、
社会の中で自分はそもそも精神なのだといふこと、
精神みづからであるといふことを知るやうになります。
 
 
これが三つ目の次第、「見識」です。
 
 
この自由へといたる三つの次第、
「自律」「自立」「見識」は、
ルドルフ・シュタイナーの
『自由の哲学』第三章、
「考へるは世をとらえるに仕へる」に、
詳しく述べられてゐます。
  
 
「ことばの家 諏訪」では、これから、
「光の息遣ひ」を通して、
この一つ目の次第に習ひ、
生活の中で習慣にしてゆく、
そして、だんだんと、
第二、第三の次第へと、
そんな稽古の場をもつていきます。
 
 
こころざしを持つ人と共に、
精神の「みすまるの珠」を繋いでいきませう。



 

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2020年05月26日

いのちを吹き込む学問 〜普遍人間学・第二講から〜

 

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大神神社の末社、天皇社の上空


 
こころとは、月のやうなものだ。
お日様に照らされて、
満ちたり欠けたりしながら輝く。
 
 
こころとは、水のやうなものだ。
お日様の熱によつて、
熱くなつたり、冷たくなつたりする。
 
 
イタリア中世の神学者、
トマス・アクィナスのことばです。
  
 
現代の心理学は、
そのお日様、
つまり、人の精神、世の精神を見失つてしまつてゐる。
 
 
さういふ、お日様を見失つた心理学では、
ひとりひとりの人のこころを暖めない。
 
 
こころを失つたこころの学問になつてしまつてゐる。
 
 
それゆゑ、
精神から、こころといふものを捉える、
そんな心理学こそが、
いま求められてゐる。
 
 
自分自身を、そして子どもを教育する上で、
そんなお日様に照らされ、暖められた心理学が必要だ。
 
 
こころを甦らせる、いのちを吹き込む、
そんな学問が必要だ。
 
 
ルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』の第二講では、
そんなことがまづ、述べられ、
そこからこころのことがらが、
精神の観点から詳細に見てとられてゐます。
 
 
感覚に偏りがちな人には、
考へることの大切さを。
 
 
考へることに偏りがちな人には、
感覚し、感じ、欲することの大切さを。
 
 
アントロポゾフィーは、
人のこころに、
そんなバランスをもたらさうとします。
 
 

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2020年05月16日

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書の意味



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背後の、天を仰ぐ亀と共に

 
 
「密(ひめ)やかに学ぶ人が問ふてほしいのは、
 みづからといふものを、
 育つといふことに向けていくのに、
 何が役立つかである」
 
 
今朝読んだこの書の一文です。
 
 
わたしは育つ。
わたしは、みづからを育てて行くことができる。
みづからを育てて行けばこそ、
世を育てるに資することができる。
 
 
わたしが輝くことによつてこそ、
他者の輝きがいよいよ見えて来るのでした。
世の輝きが初めて見えるやうになるのでした。
 
 
では、このわたしを育てるためには、
何が役立つのだらう。
 
 
こと、わたしにとつては、
とりわけ、
与へられてゐる仕事のために、
最善の準備をすること、
そして、それにより、
己れを充実させ切ることです。
 
 
しかし、わたしを育てるための方途は、
この書に具体的に記されてある通り、
他にもまだまだ数多あります。
 
 
その可能性を己が身で常に試していたい、さう思ひます。
 
 
この『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書が、
何度もの読みの中で、
どれほど、なりかはつて行くことか。
 
 
そのことを実感するのは、
とても感慨深いことです。
 
 
ただ、この書が指し示すところの、
微妙な味はひ、香り、深みは、
いくつもの痛みと苦しみ、悲しみを
人生の中で経験することによつて、
いよいよ触知できる、
さう実感します。
 
 
また、いくつもの回り道を迂回して、
ふたたびこの書に立ち戻つて来る、
その機縁を待たねばならないやうにも思ひます。
  
 
さうして、
この書に静かに取り組む人に、
この書は語りかけてきます。
 
 
その声は、とても静かで、密(ひめ)やかで、かつ、
この身に熱をもたらすやうな確かさを湛えてゐます。
 
 
現実の時間の中で、
この書の内容に沿つて、
こころの練習をつづけること、
実際にしつけることこそが、
すでに、その人を、
精神への道に置くやうに感じられます。
 
 
この鈴木一博氏による翻訳は、
ドイツ語と日本語といふ、
ふたつの言語の間の隔たりを隔たりとして、
意識的に捉えながら、
その違和感と同時に、
目覚ましい親しさを生みだしてゐます。
 
 
違和感と親しさ。
その二律背反は、翻訳することの中に、
常に浮かび上がつてくることでせう。
 
 
この翻訳は、とりわけ、
違和感「と」親しさ、と言ふときの、
この「と」に意識的になることで、
積極的に人のこころに、
新しい言語感覚をもたらさうとしてゐます。
 
 
どの国の人であれ、どの民族の人であれ、
ふだんの親しくしてゐる身の動きがあり、
その動きはある程度、普遍的なものであるはずです。
 
 
そして、シュタイナーは、
親しみのある動きを湛える動詞といふことばを、
特に念入りに用ひました。
 
 
翻訳においても、
その動きを引き立てることで、
ふたつの言語にある隔たりに新しい橋を架けようと、
訳者は努めてゐるやうに感じられます。
 
 
たとへば、
denken (考へる)といふ動詞から生まれてゐる、
Denken といふ名詞は、普通、「思考」と訳されますが、
ここでは、その内なる動き
「か・向かふ」「か・迎へる」を殺さないやうに、
「考へる」とそのまま訳されてゐます。
だから、
「人の思考は・・・」と普通訳されるところが、
「人の考へるは・・・」となります。
 
 
普段、わたしたちが言はない言ひ方です。
 
 
また、たとへば、
sein といふ be 動詞に当たる動詞から生まれてゐる、
Dasein といふ名詞も「存在」と訳されずに、
「ある」と訳されてゐます。
だから、
「精神の存在として・・・」などと普通訳されるところが、
「精神のあるとして・・・」
「ありありとした精神として・・・」と訳されてゐます。
 
 
また、
Verwandlung は、
普通「変化、変容」などと訳されますが、
ここでは、
「なる」「変はる」といふ親しい動詞を身に引きつけながら、
「なりかはり」と訳されてゐます。
 
 
これらは、ほんの一例に過ぎませんが、
この翻訳は、一貫して、
からだとこころに親しくつきそふことばを、
精神の観点から選択してゐます。
 
 
動詞に湛えられてゐる「動き」を汲み取りながら、
読んでみて下さい。
 
 
文字を追ひつつ、
声に出しながら本を読む人は、
自分の考へる働きに、
自分の欲する働き、意欲の働きが注ぎ込まれるのを、
感じるでせう。
 
 
考へると欲するが重なります。
 
 
みづからの身の働きをもつて本を読むといふことが、
この翻訳によつて促されてゐますし、
そもそも、この書を書き記したシュタイナーも、
その促しをこそ、人の意識にもたらさうとしました。
 
 
考へる働きに、
欲する働きを注ぎ込んで、
意識を持続させ、
意識を活性化させ、
その反復によつて、
外の世の動きに惑はされない、
内なる力を育む。
 
 
そのことが、時代の課題でもある。
 

この書に限らず、
シュタイナーによるすべての著作は、
そのことの促しに満ちてゐます。 

 
 

 


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2020年04月22日

希む、哲学


  
エッカーマン著『ゲーテとの対話』。
 
 
昨日読んだところに、こんなゲーテのことばが。
 
 
―――――
 
わたしも自分で経験したことがある。
 
腐敗熱(おそらく伝染病の一種)がはやつた時、
どうしても伝染が避けられない状態にあつたが、
わたしはただ断固たる意志だけで、
その病気を追ひ払つてしまつた。
 
さういふ場合に道徳的な意志は、
信じられないほどの強い力を持つてゐるものだ。
 
いはばその意志がからだに浸み通つて、
すべて有害な影響を跳ね返すやうな、
積極的な状態にからだをおくものだ。
 
ところが、恐怖心といふものは、
積極性のない弱い感染しやすい状態で、
どんな敵でも簡単に我々を占領してしまふ。
 
―――――
 
 
ゲーテのことばは、
真実を穿つてゐるやうに感じる。
 
 
「道徳的な意志は、
 信じられないほどの強い力を持つてゐる」
 
 
ここで、わたしが問ふてしまふのは、
意志の強さのことでは実はなく、
次のことなのです。
 
 
あれだけ自然科学に通じてゐたゲーテにして、
この「信じられないほどの」ものに対する、
驚きの念、信頼の念。
 
 
この念は、何に根差してゐるのか。
 
 
これは200年前のことばだが、
いま、わたしたちは、
現在の疫学の「専門家たち」のことばをどう受け取る?
 
 
「専門家」が何を言はうと、
どう受け取り、
どう行動するかは、
ひとりひとり、自由ではないのか?
 
 
少なくとも、考へる人にとつては。
 
 
哲学は、机上の学問に過ぎないのか?
 
 
それとも、
恐怖を越えて、
わたしたちの真の人生と文明を支へる、
永遠のことばのひとつではないのか? 
 
 

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2020年04月20日

免疫力のおほもと

 

精神とは何か。
 
 
それは、わたしのわたしたるところ、
〈わたし〉です。
 
 
その〈わたし〉は、
わたしがこの世に生まれる前からありましたし、
わたしがこの世を去つた後もあります。
 
 
この〈わたし〉を確かに知ること、
そのことを古代ギリシャの賢人は、
「汝みづからを知れ」と述べたのでせう。
 
 
このたびのウィルス騒ぎで、
わたしが、もし、
恐怖におののいてゐるとしたら、
外の世からの攻撃に、
内の〈わたし〉が怯んでゐる、
といふことでせう。
 
 
外よりも内が小さくなつてゐる、
といふことでせう。
 
 
精神であるこの〈わたし〉は、
生死を越えてあるものです。
 
 
この〈わたし〉を認めること、
この〈わたし〉を強く保つことこそが、
恐怖を凌いでいく原動力であり、
からだの免疫力のおほもとです。
 
 
〈わたし〉に普段から親しみ、
それを育んでゐますと、
精神ほど自由なものはない、
と実感します。
 
 
しかし、
〈わたし〉といふものを
普段から見損なつてゐますと、
精神といふものが、
逆に自分を不自由にすると感じ、
またなぜだか他者にも不自由を強いてしまひがちです。
 
 
そして、
精神から何かを強制されてゐると感じ、
また精神を自分自身が受け入れられないために、
もっともらしいことを言ひながら、
他者にも何かを強制しまひがちです。
 
 
つまりは、
恐怖の感情に巻き込まれてしまふのです。
 
 
非常時だと思はれてゐる今、
平時の時と変はらずに、
この〈わたし〉の育みを。
 
 
まだやつて来てゐない未来のことや、
自分のテリトリー外のことを
心配することから自由になり、
「いま、ここ」に意識を立ち戻らせることから、
練習を始めることができます。



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2019年10月21日

現場における精神の役割


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わたしは、若い頃から、ずつと、
精神からの指針を求めてゐました。
 
 
何を学ぶにしても、何をするにしても、
そこに、精神からの指針が貫かれてゐないものに、
どうしても満足することができなかつたのです。
 
 
二十代の後半、
ルドルフ・シュタイナーに出会ひ、
わたしは、その喘ぎと渇きにも似た認識欲を、
初めて満たすことができました。


しかし、その認識といふものは、
無限の深みをもつものであること、
学べば学ぶほど、
人生の痛みと共に、
気づかされて来たのでした。
 
 
分かつてゐたつもりで、
実は、何も分かつてはゐなかつたことに、
痛みと共に何度も何度も気づかされるのです。
 
 
しかし、かうして仕事をしながら確信することは、
精神からの指針を己れのものにしてゐることほど、
強いものはないといふことです。
 
 
現場で働いてゐる人は、
その職場の教育がよほどしつかりしてゐて、
伝統といつていいやうな環境に恵まれてでもゐない限り、
たいてい、
何を指針にしていいか分からず、
その場その場の状況に、
右往左往してゐます。

 
アントロポゾフィーを学ぶといふこと。
 
 
それは、たとへ翻訳であつても、
原書をひたすらに読みこむことです。

 
そして、そこから必然的に生まれて来る学びの道に、
素直に従つて行くことです。
 
 
そこには、精神からの指針が、
生き物のやうに、脈打つてゐて、
現場で働く人を、
どこまでも支へ、
どこまでも自由にします。
 
 
決して、精神は、人を縛りません。
 
 
その人の真ん中に軸を打ち樹てます。
 

ぶれません。
 
 
さういふ学びこそが、大切に、守護されてしかりです。
 
 
癒しをもたらすやうな体験では、
決して、人生の本当の活路は開かれません。
 
 
これまで「ことばの家 諏訪」においても、
ルドルフ・シュタイナーによる、
『テオゾフィー』、
『自由の哲学』、
『いかにして人は高い世を知るにいたるか』
(いずれも、鈴木一博氏訳)
を講座として読みこんできました。
 
 
そして今は、『普遍人間学』を、
月に一回、
参加者の皆さんと一緒に読みこんでゐます。
 
 
そこに語られてゐること。
 
 
それは、
「人とは何か」
「そして、人はどのやうにすれば、成長していくのか」
といふことに尽きます。
 
 
言語造形を仕事としてゐるわたしなどは、
原書の読みこみ、読み重ね、熟読に助けてもらつて、
その精神の確かさを実感しながら、
子どもたちや生徒さんたちと共に生きてゐます。
 
 
とりわけ、子どもたちは、
その仕事の精神の確かさに、
素直に反応を返してくれます。
 
 
今日は、日本の昔話「さとりのばけもの」を中心に、
いろいろなことばの芸術を楽しみました。
 
 
アントロポゾフィーは、
そんな精神からの仕事を、
静かですが、強烈に推し進めていくための、
現代人にとつてとても大切な精神の糧たりえるものです。
 

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2019年10月07日

本の読み方


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今日は、和歌山の岩出市にてシュタイナーの『普遍人間学』の講義。
 
わたしが、何よりもお伝へさせていただきたいこと。
 
それは、本の読み方なのです。
 
わたしは、そのことをこそ、我が師・鈴木一博さんから教へてもらへたと信じてゐます。
 
また、ルドルフ・シュタイナーも、そのことをこそ、現代人に伝へたかつたであらうと思はれてならないのです。
 
自力で大切な何かをつかみとる力をひたすらに培ふ。
 
そのためには、一文一文、一語一語に立ちどまりつつ、問ひつつ、答へつつ、さうして、イメージ(想ひ)をみづから創つてゆく作業をもつて、少しずつゆつくりと読み進めていきます。
 
遅読、熟読、再読、再々読、・・・です。
 
読み終えて、やがて、そのイメージ(想ひ)は、こころの奥深くに沈んでいきます。
 
つまり、忘れ去られていきます。
 
しかし、アクティブにことばに向かひ合つた、精神の働きそのものは、わたしのこころに痕跡を残してゐます。
 
アクティブであればあるほど、その痕跡は深くこころに印しをつけてゐます。
 
その精神の働きによるこころの痕跡が深いほどに、忘れられたイメージ(想ひ)を、忘却の泉の底からふたたび引き上げる力・想ひ起こす力が、増します。
 
そして、そのつど、そのつど、新しく想ひ起こされたイメージ(想ひ)は、こころを暖め、甦らせ、癒す力をもたらします。
 
人のこころといふものは、そのやうに、みづからアクティブに働くことによつてこそ、充たされます。
 
その、アクティブに、ことばに取り組むといふ働き、さらに、意識的に勤しんで想ひ起こすといふ働き、それこそが、この時代ならではの勉強法なのです。
 
本とは、偉大なる先人が死にもの狂いになつて残した叡智の結晶、生の痕跡です。
 
さういふ本しか、時代の変遷を超えて、残りません。
 
さういふ本を、さういふ読み方で、読む。
 
書くことが、人によるひとつの偉大なる「仕事」であるやうに、読むことも、まさしく紛れもない「仕事」です。
 
その本の読み方は、その人をますますその人にします。
 
その人の〈わたし〉を磨き、研ぎ、鍛え上げます。
 
ルドルフ・シュタイナーが、20世紀以降の現代人になんとしても伝へたかつたのは、その〈わたし〉の育みでした。
 
〈わたし〉の自律・自立・自由・自尊でした。

若い人たちにこそ、このことを伝へたい、さう念ふのです。
 


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2019年10月01日

幼な子の欲することば 〜グリム童話「へんな旅芸人」〜


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むかしむかしのおほむかし、ことばは、人の意欲への呼びかけでした。
 
現代のやうに、抽象的な思考をみすぼらしく表現するものではありませんでした。
 
人は、ことばを聴くたびに、からだがうずうずしたのです。
 
さらに、それに応ずる動きをしてしまふことが身についてゐたのです。
 
ことばは、発声器官だけでなく、人の運動器官まるごとのなかに息づいてゐました。
 
いま、人は、このことを忘れてしまつてゐます。
 
しかし、幼な子たちは、まだ、このむかしのことばの性質のなんたるかを知つてゐて、それを欲してゐます。
 
「はじめにことばありき」といふ時の「ことば」のなんたるかを知つてゐます。
 
「ことば」とは、世を創り、動かし、人を創り、動かすものでした。
 
そして、いまも、その「ことば」の働きの精神は、少なくとも幼な子には失はれてをりません。
 
 
 
 
昨日は、グリム童話の8番「へんな旅芸人」を語りました。
 
幼な子たちは、森の中の動物たちが旅芸人(音楽を生きる人)によつて次々とやりこめられる(統御される)様を絵を観るやうに聴きます。
 
語り手の(〈わたし〉による)目覚めて統御された意識。
 
(アストラルのからだによる)鮮やかな身振りと表情。
 
(エーテルのからだによる)呼吸の長短。
 
(フィジカルなからだによる)表現のまるごと、表現のすみずみに動きがあること。
 
旅芸人は、つひに、森の中で、「人」に出会ひます。
 
「人」は斧(つるぎ、でもいいでせう)を振り上げ、けものたちを退散させ、旅芸人を守ります。
 
音楽とは、人の精神に出会ふためのものであり、かつ、人の内なる動物性を統御するものであること。
 
このお話は、そんな精神から語られてきました。
 
そして、ことばのひとつひとつが、動きとかたちをもつて、語られます。
 
それは、ことばそのものが、動きの精神を孕み、かたちの精神を秘めてゐるからです。
 
語り手は、その動きとかたちを顕はにするべく、声にするのです。
 
そのことばの精神と物語の精神は、実際に子どもの前で語る数多くの回数の中で実感されてきます。

 
 
  
 
幼な子たちは、お話を聴きながら、ことばとともに走りたがつてゐます。空を飛びたがつてゐます。海に、川に潜りたがつてゐます。
 
幼な子たちが欲してゐる、そんなことばを与へて行くこと。
 
それが、幼児教育のひとつの指針です。
 
そんなことばで育つことができたなら、その子は、後年、大人になつてから、生命に満ちた精神を、自分自身の力で把握することができます。
 

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2019年09月22日

エーテル界の太陽と月(古事記)



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人は、13,14歳ごろから性的な成熟がからだに現れて来る。
 
男の子は、男のからだのありやうへ、女の子は女のからだのありやうへと、成熟していく。
 
しかし、丁度、そのころ、男の子のエーテルのからだは、まさしく女性の姿をとり始めるのであり、女の子のエーテルのからだは、男性の姿をとり始める。(※)
 
さうして、フィジカル(物理的)なからだにおいて性が表立つことに対して、エーテルのからだにおいては、その対の性を姿としてとることで、人としてのバランスをとらせるといふ、神の計らひだらうか。
 
 
 
さて、ここで、『古事記(ふることぶみ)』の話になる。
 
そこにおいては、とりわけ神代の巻にはエーテル界の顛末が描かれてある。
 
天照大御神は高天原において、太陽を司る「女神」として描かれてゐる。
 
それは、いまだ、フィジカル(物理的)な状態にまで凝つてはゐないエーテルの状態の太陽が女性的な姿をされてをられるからである。
 
そして、フィジカルな次元では、太陽は、まさしく男性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
それは、光と熱を通して、すべての地上のものに命を吹き込む、受精させる、そんな働きである。
 
一方、月は、エーテル界においては月讀命(つくよみのみこと)といふ「男神」として描かれてゐる。
 
そしてフィジカルな次元では、月は、まさしく、女性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
太陽の光を照り返し、夜の国をしろしめされてをられる。
 
 
 
『古事記』は、そのやうに、この大宇宙と地球のなりたちをエーテルの次元において、さらにアストラルの次元において、さらにまぎれない精神の次元において、描いてゐる。
 
 
 

※Rudolf Steiner : Gegenwärtiges Geistesleben und Erziehung 第4講より 
 
 

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2019年09月20日

みすまるの玉 〜情の育み〜


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上向いてゐたと思つてゐたら、下向いてゐたり。
 
 
右向いてゐたと思つてゐたら、左向いてゐたり。
 
 
欠けてゐたと思つてゐたら、満ちてゐたり。
 
 
それが、人の情といふもの。
 
 
思ふままにならないものの最たるものが、己れの情ではないだらうか。
 
 
おもに小学生の頃あたりから、褒められることと叱られることを通して、わたしたちは情といふ、己れに湧き上がる得体の知れないものを少しずつ膨らませて来た。
 
 
しかし、大人になつた今でも、その己れに湧き上がる情といふものを手なずけられずに、苦労してゐる。
 
 
 

 
むかしの高貴な人は、胸に玉を下げてゐた。
 
 
「みすまるの玉」と言ふ。
 
 
「みすまる」とは、「総(す)べる」のもとのことば「すばる」といふ動詞が「すまる」となりかはり、その頭に「み」がついて生まれたことば。
 
 
美称としての「み」に、統御するといふ意味の「すまる」を合はせて、「みすまる」。
 
 
「みすまるの玉」とは、「統御された玉」といふことにならう。
 
 
そして、「玉」は、「勾玉」である。
 
 
あの形。
 
 
満ち欠けする月の形。
 
 
伊耶那伎命は月讀命(つくよみのみこと)に「夜の食国(をすくに)を知らせ」とことよさしされた。
 
 
こころの働きの内でも、感じる働き、情の働きは、まるで夜の夢見る営みに似て、無意識と意識の間を漂つてゐる。
 
 
胸に下げられた「みすまるの玉」は、みづからによつて統御された情の徴である。
 
 
そして、きつと、月讀命(つくよみのみこと)は、わたしたち人の情の育みを支へて下さつてをられる神である。
 
 
夜の食国(をすくに)を知らされてをられる神である。
 
 

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剣を研ぐ 〜意欲の育み〜

 
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毎朝、寝床から起き上がる意欲、歩き出す意欲、仕事に行かうといふ意欲、人と会はうといふ意欲、何かを学ばうといふ意欲、それらの意欲が湧き上がつてくるのはどうしてなんだらう。
 
 
もし、この意欲がこの身に授けられてゐなかつたとしたら、わたしたちは、寝床から起き上がれないだらう。仕事場に行かうとして駅に何とか着きはしたものの、電車がホームに入つて来ても、ドアの前で立ち尽くしてしまふかもしれない。
 

人の意欲。
 
 
それは、どこから、誰から、与へられてゐるのだらう。
 
 
我が国の神話において、人の意欲といふものが、つるぎとしてかたどられてゐる。
 
 
それは、常に、未来へと立ち上がり続ける剣(つるぎ)だ。
 
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて八俣遠呂智(やまたおろち)の尾から取り出された剣、草薙(くさなぎ)の剣だ。
 
 
殺し合ふための剣ではなく、こころに妄念のやうにのさばり生へる草を薙ぎ祓ひ、人が己れの足で歩くことができるこころの道、人が己れの腕で耕すことのできるこころの田、人と人とがこころから出会へ、睦みあへる広々とした野原を現出させるための剣だ。
 
 
その剣は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて高天原の天照大御神に預けられ、その上で、天照大御神から地上に降臨するホノニニギノミコトに授けられた。
 

その剣は、意欲の力として、ひとりひとりの人に神より授けられ、ひとりひとりの人によつて未来へと掲げられる。
 
 
それは、血の中に流れる鉄の剣である。
 
 
死の後の世にまで届く剣だ。
 
 
この剣の働きは、とりわけ、歯が生へ変はるまでの幼児期に育まれる。
  
 
そして、この意欲の働きは、大人になつてからも、自己教育としてみづから育んでいくことができる。
 
 
わたしも、この剣を、毎日、研ぎ続け、高く、低く、掲げ続けていきたい。
 
 
 

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2019年09月19日

鏡を磨いて待つ 〜考への育み〜

 
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わたし自身、講座をしながら、想ひ、考へ、そしてまた想ひ起こす、といふ一連の作業をしつつ、ことばを選んで、他者に語りかけていきます。
 
語るべきことがらを想ひ起こすのは、天に拡がつてゐる「考への空間」からきらきらと金色の何かが降り注いでくるのを我がこころの鏡に照らし出すやうな感覚なのです。
 
しかし、時には、想ひ起こさう、想ひ起こさうと焦つてしまひ、天から降つてくる何かを待てずに、こころの腕を振り回して空回りしてしまふやうなことも、ままあります。
 
そんな時は、たいてい、ことばが宙に浮いてしまふ。
 
焦らずに、待つこと。
 
それを会得・体得することが、ずつと、わたしのテーマでもあります。
 
 
 
日本神話から、こんなイメージが、湧き上がつてきます。
 
我がこころの鏡に照らし出される光、それは、つまるところ、高天原にをわします天照大御神といふ精神存在からの光であります。
 
このこころの鏡は、まづもつては、頭の位置、脳にあつて、そこにわたしたちの抱く考への像が映りますが、その考への像に親しめば親しむほど、その鏡は胸の位置、心臓にまで降りて来ます。
 
わたしたちはひとりひとり、そのやうな光を照らし返し、像を映し出す鏡を、この身に授かつてゐます。
 
「この鏡は、もはら吾(あ)が御霊(みたま)として、吾が御前(みまへ)をいつくがごとく、いつきまつり給へ」と天照大御神がホノニ二ギノミコトに授けられたやうに、です。
 
 
 
 
わたしたちは、己れのその鏡を磨いて待つほどに、鏡面は曇りなく像を映し出し、しつかりと想ひ起こすべきことを想ひ起こすことができる。
 
その「待つ」といふこと、それは、できうる限り準備を重ねるだけでなく、落とされる小石が拡げるどんな波紋も見ることができる湖面のやうにこころを磨き、平明に静かに整えておくこと。
 
そのためには、深い息遣ひ、呼吸のありやうが、鍵を握つてゐます。
 
想ひ起こすこと、考へること、その考へを的確に精確にことばに鋳直すこと、それは、高天原からの光を我が鏡に出来る限り曇りなく映し出すことなのです。
 
 

posted by koji at 21:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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