本を繰り返し読むといふこと。
講義を聴くといふこと。
そして自分自身のことばに鋳直していくといふこと。
その地道な作業は、
決して知的なだけの作業なのではありません。
それは、意志の作業であるがゆゑに、
おのづから情をも育みます。
知に取り組む。
それを何度も繰り返す。
そして、これまで以上にしみじみと感じる。
これらの作業の繰り返しが、
「学び」といふものではないでせうか。
そして、
人は学ぶことで、
何を求めてゐるのでせうか。
その「動機」は?
そこに静かに響いてゐる「願ひ」は?
「はからひ」は?
「つもり」は?
齢を重ねていきつつ、
学ぶ朋(とも)の間で、
その精神の趣きを分かち合つていきたいのです。
諏訪耕志
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【t.m.さんのレポート】 今回は人間の「意欲」とは、一体何かということについて、学んでいきました。
私自身、現在の教育現場で子どもたちに一番大切に育むべきものは、「意欲」ではないだろうかと、ここ数年は実感していました。
ただ、それは学ぶ意欲であったり、世界への好奇心であったり、子どもたちがワクワクして学ぶ場所はどうやってつくられるのか、といった私の思う日本の教育の課題の1つとして存在していました。
では、意欲とはなんぞや?と言われても、そんなこと考えたこともなく、「意欲」は「意欲」でしょう。と丸ごと1つに考えていたのです。
だた、今回人間の「意欲」というものについて見ていくと、それはこの肉体が生まれてから死ぬまでの間、段階的にずっと育っていくものだということに気づかされたのです。
なるほど、確かにそうであるなと実感せざるを得ませんでした。
意欲には、7つの段階がある。
生まれてから だいたい7年間隔で人の成長をみていくのがシュタイナーの人間観ですが、それに沿って意欲の種類も、変化、成長していくのです。
0〜7歳 本能
7〜14 もよおし
14〜21 欲
21〜28
28〜35 動機
35〜42
42〜49 願い
49〜56 はからい
56〜63 つもり
これだけ書いても、わかりませんが、意欲にはこの7つの種類があり、その意欲の質を年齢とともに理解することができます。
つまり、赤ちゃんの「意欲」と学童期の「意欲」は違うものなのです。高められつつ意識に引き上げられつつ成長しているのです。意欲の成長というのはあまり聞いたことはないですね。
赤ちゃんの意欲「本能」は全て外側に現れます。それは、無意識です。おなかが空いたら泣く、心地悪かったらぐずる。そういう形で外にすぐに現れます。
でも小学生くらいになると、「ああお腹がすいたな」ということを自分でつかむことができ、伝えることができます。待つことができます。すぐに泣いて欲しがったりしません。これがこの時期の「もよおし」の意欲です。自転車に乗れるようになるということもそうです。
何かしたいことが「もよおし」として内面化され、そして待ち望んだことをやり遂げる、一貫した意欲です。
そして、思春期から青年期にかけて、意欲は「もよおし」が「慾」に仕立てられます。
これは、また質が違ってきて、感性豊かなの時期を生きる若者たちならではの「慾」です。意識に上がっては、またすぐに消えさる、または揺れ動く、「感情」に深く関わる時期だからこそ、そのような意欲の形、「慾」がしたてられていく。それは一人一人違った慾です。私はこれが好き、僕はこれが好きというその人ならではが生き始めます。
そして、ここからが、人間にしかない意欲の領域です。
動物にはここから先はないのです。
「慾」が「動機」に仕立てられていきます。
この「動機」は、人間の21歳から42歳までの時期(7年を3回)にあたります。ここだけ、21年もかかっているのは、なぜなのでしょうか?この時期は人間を「からだ」、「こころ」、「精神」という3つに分けてみたときの、「こころ」の領域を育む時期です。
この「こころ」の領域にそれまでの0歳から21歳の「からだの領域」の「本能」「もよおし」「慾」という意欲が取り入れられます。そのときに、意欲はどのように仕立てられるのか。
このときの「動機」という意欲は、こころ、つまり「わたし」がそれまでの自分の意欲をより詳しくつかむことで、より
「わたしというものが何者か」
「わたしのわたしならではのところは何か」
「自分が為そうとしていることはなんなのか」
という本質的な自分自身が見えてくることだと思います。
それは、それまでの意欲がこころの領域に取り込まれ、「考える」ことを通して「動機」へと高まるのです。
「動機」は「考える」ということを通して掴まれる意欲です。まさに、「考える」ことができるのが、人間と動物の大きな違いです。
ここが、人のなりたちの中で意欲の質が人間ならではの意味を持つところかもしれません。
しかし、人が「動機」を繰り出すとき、それだけではなく、そのもとに何かが静かに響いています。
その静かに鳴り響いているものが、「願い」というものです。
「願い」は精神の領域から鳴り響く意欲です。
「動機」から何かをなすときに、さらによく為す、あるいは間違えて為す「願い」が、「動機」意欲の下にいつも鳴り響いています。
「願い」というと、うまく為すことへの思いのような気がしますが、この場合、間違えることへも響く「願い」なのです。
それは、うまくやりたいことが成功しても、そこで満足するのではなく、さらによく為すためにどうしたらいいか考えること。
また、うまくいかず間違えたり、失敗したときも悔やむのではなく、そこから学び、さらによく為すために考えて行動することが、失敗を悔やむよりずっと大きな価値のあることなのだということ。
すべてに意味を見出し、成長し続けることが、下意識のもう一人の「わたし」の「願い」なのです。
きっと、そういう願いが、自分のうちになり響いていることを知る人は、どんな人生の荒波も、自分の糧として生きることができるのではないでしょうか。
そして、「動機」をさらによく為そうという意欲において、「願い」が「はからい」へと仕立てられ、「はからい」も静かに響き始めます。
これはもう、無意識の世界、意識化されないところで、下意識の「わたし」が人生の道をしいている、大いなる「はからい」です。
考えて動くのではなく、「なんとなくここへ行きたい。」とか「何度もこの人と出会ってしまう」といった、偶然のような「はからい」です。
最後に、こころがからだと解き放たれるようになって、その「はからい」が「つもり」となります。
「はからい」が兆しのようにこころに響き続け、そこに「つもり」が続きます。
「つもり」は今生のテーマです。生まれる前から死んだ後も、きっと鳴り響いている。
それは、「わたしはなぜ生まれてきたのか、わたしは何のために生きているのか」という問いの答えなのかもしれません。
「つもり」それは、この生のうちだけでつかむことができないものかもしれません。
しかし、確実になり響いている。
「本能」「もよおし」「慾」というからだの領域から仕立て上げられる意欲と、
「願い」「はからい」「つもり」という精神の領域からなり響いてくる「意欲」が、
交わり合うこころの領域の意欲、「動機」。
「動機」は、下意識の「わたし」の意欲の響きに耳を澄ませることで新たに湧き出る泉のように、さらにやまない意欲が生まれるのではないか?
大いなる「願い」「はからい」「つもり」が人間誰しも、なり響いていることを忘れないでいたいと思います。
(t.m.)
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