2021年01月11日

冬、考へを育む季節


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平櫛田中「平安老母」 何を読んでをられるのか・・・。




ひとつの考へは、人のこころにしつかりと宿れば、その人にとつてやがて成長して行くひとつの種になりえます。


種は、情報として本に書かれたままであつたり、インターネットの空間で行き交つてゐるだけでは、死んだものとして人々の間を忙しく交換・消費・廃棄されるだけです。


しかし、その考へといふ種をこころの内側にみづから宿すやうに受け入れ、お日様の光を当て、水分を補給してあげるやうに、何度も何度も繰り返し、その考へを、改めて、引き続き、考へ続けることによつて、その種は命を持ち始め、こころの内において芽を出し、葉を茂らせ、やがて、きつと、花咲かせ、稔りを得ます。


考へとは、一旦、死んでしまつてゐて、仮死状態にあるのですが、人が積極的にそれを自分自身の内側で育てますと、見事に息を吹き返し、その人に稔りを与へるのです。


そして考へは生き物として、その人の人生を前後左右に導いていきます。


ですので、どのやうな考へを胸の内に抱くのかが、とても大切なことなのです。それは、良き考へであれ、悪しき考へであれ、胸の内で生き物となつて、その人の生を導いて行くのですから。


それほどに、「考へ」といふものは、素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもあります。


その考へが、良きものか、悪しきものか、その判断はどうしてつけることができるのでせうか。


良き考へは、それを抱いたときに、こころが、胸の内が、広々と、明るく、暖かく、時に柔らかく、時に強く、開かれたやうな情をその人に与へませんか。


悪しき考へは、こころに固さと冷たさと狭さと暗さをもたらすでせう?


さう、情が、教へてくれますね。


情が教へてくれるためには、その情が健やかに育てられてゐなければならないでせう。


情を育てるのは、何でせう。


ひとつは、循環したものの言ひ方になつてしまひますが、よき考へを日々抱く練習をすること。それは、考へることの練習です。メディテーション、瞑想です。


まうひとつは、何か同じ行為をすることを繰り返すこと。それは、芸術的行為です。それは、意欲の練習、欲することの鍛錬です。


考へるの練習と、欲するの鍛錬とが、感じるの健やかな成長へと稔つてゆきます。


かうして、人のこころの育みとは、考へること、感じること、欲すること、それら三つの働きにみづから働きかけることであり、とりわけ、冬の季節においては、考へることの練習を始めるのに、適してゐるのです。


年の初めには、良き考へを抱き、その考へを考へつづけることによつて、種から芽へ、目から葉へ、葉から花へ、とこころに大切なものを時間をかけて稔らせて行く。


その習慣がこころを精神へと導きます。


その精神が、その人を、ますます、その人にして行くでせう。


その精神の育ちが、手取り足取り人から教へられなくても、自分自身の足で自分自身の道を、その都度その都度あやまたず選び取れるやうになることでせう。



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

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2021年01月05日

「靈・ひ」の学び 言語造形とアントロポゾフィー


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昨日から始まつてゐるお正月連続講座『言語造形とアントロポゾフィー』。


午前は、からだもこころも精神(靈・ひ)も、総動員して、ことばの芸術・言語造形に取り組みます。朗々と発せられる声と息遣ひに、歳のはじめのすがすがしさが空間に満ち渡ります。


午後は、アントロポゾフィー(人を知ること、人を意識するといふこと)といふルドルフ・シュタイナーによる精神(靈・ひ)の学びに取り組みます。


人といふもの、それは、からだ、こころ、精神(靈・ひ)から、なりたつてゐます。


人といふものは、そもそも、動物から一頭地抜け出てゐる存在ですが、しかし、さうなるためには、精神(靈・ひ)を学び、精神(靈・ひ)に習ひ、精神(靈・ひ)を生きることがどうしても必要になります。


精神(靈・ひ)がやどり、とどまるところを「ひと・人」と古来、日本では言ひました。


「ひ」とは、靈であり、火であり、陽であります。


太陽の力、靈・ひの力を宿して、人間は、「ひと」になります。


そして、「ことば」とは、精神(靈・ひ)の境から生まれたものです。肉を持つ人間が作り出したものではありません。天地(あめつち)の初発(はじめ)にことばがあり、民族を司る神、靈・ひの方を通して、そして、いまも、一瞬一瞬、天地の初発から、ことばは生まれてゐます。


ですので、ことばがやどり、とどまつて、人間は「人・ひと」になることができましたし、いまも、さうなのです。ことばがしつかりと根付くとき、ことばを己れのことばとすることができたとき、その存在は「ひと」となります。


言語造形といふ芸術によつて、そのことを知性だけで理解しようとするのではなく、自分のまるごとをもつて確かめて行くのです。



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2020年12月24日

子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたしの内なる青春時代〜



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そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。


大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」、そして「青春時代」。


わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。


わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしはまた問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていくのです。


そして、わたしの中の「子ども時代・青春時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。


第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。それは、その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。そして、他者と語り合ふ中でこそ、ひとりで考へる力が育まれていきます。


若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。


そんなとき、時間をかけながら、傍にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。


そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。


そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、傍にゐる大人が見てとつてあげられたら。


『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。


さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。


他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。「では、わたしは、世に対して、何をして行かうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の傍にゐる大人のひとつの役割でせう。


ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。


彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。


人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。


そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。


さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んで行かうか。引き続き、わたしにとつての2021年の課題です。
(完)


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2020年12月23日

子ども時代D 〜順序を間違へないこと〜


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欲する力・意欲の働きがむき出しの0歳から7歳。


その欲する力の上に、感じる力・情の衣をまとひ始めるのが7歳から14歳。


そしてその欲する力、感じる力から、だんだんとひとりで考へる力が育つてくるのが14歳から21歳。


それら三つの力はどれも、その人のその人たるところ、「わたし」から生まれてこようとしてゐるものですが、年齢によつてその表れ方が異なつてゐて、欲する力として、感じる力として、考へる力として、順番に現れてきます。


それらおのづと生まれてくる力の順序を間違へずに、その順序どほりに育んでいくことが、人の育ちにとつてとても大事な意味を持ちます。


小学生に、「自分で考へなさい」と言つてしまふこと、ありませんか。


人といふものをよく見てとつてみると、小学校に通つてゐる時期には、子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、おのづと、感じる力といふ衣をまとひ始めてゐる、しかし、自分ひとりで考へる力は、まだ生まれてきてゐない。


「自分で考へなさい」「自分で判断しなさい」といふ指導は、その時期の子どもには早すぎるのです。


小学生に対して、自分自身で考へさせ、判断させることをあまりにも強いてしまふと、こころの働きを早産させてしまひ、後になつて、大人になつても相応しく考へる力、判断する力がなく、また、こころに茨のやうなアンチパシーが生い茂り、生きていく上でにがい思ひをすることになりかねません。


「シュタイナー教育では、かう考へる」といふのではなく、人をあるがまま観てとる練習をしていけば、そのやうな順序を間違へない判斷がだんだんとなされるやうになつてきます。


人をあるがままに観てとる練習。その練習は、きつと、生涯、続きます。



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子ども時代C 〜言語からの愛、言語からの叡智〜


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小学校時代の第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、子どもと地域との関係性、それは一対多の関係性とも言へるのですが、より本質的に言へば、それは人と民族との関係性です。


民族とは、ひとつの言語を母語として共有してゐる人々の集まりを言ひます。ひとつの言語を共有することによつて、人々は共にある、といふことを実は感じてゐます。ほとんど無意識、もしくは夢のやうな意識の次元においてですが、感じてゐます。


日本語を話すことによつて、その人は日本人になるのです。だんだんと日本人のものの考へ方、暮らしの仕方へと身もこころも同化していきます。なぜなら言語は、おもに、感情の次元から発せられてゐて、感情とは民族に根付いてゐる根柢に通ふものがあるからです。


そして、言語を話す人には、その言語からの叡智が贈られてゐます。


ことばの叡智、日本伝統のことばで言ふ「言霊の風雅(みやび)」、キリスト教の密で言ふ「ロゴス・ことば」、もしくは、人をどこまでも育てようとする、ことばの神からの「愛」です。ことばを大切に扱ふ人のところに、ことばの精神から、愛と叡智への予感が降りてきます。


言語造形を通して、ことばにはそのやうな働きがあることを学んでいくこともできます。


そのやうに実は叡智に裏打ちされてゐることばを通して、他者と素直に語り合ひ、違ひを見いだし、それを尊び、自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。


第二・七年期の子ども時代、それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。


また、大人にとつては、自分自身の内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによつて、ことばと己れとの関係にいま一度目覺めることができるのではないでせうか。わたしたち大人自身が、複数の他者との関係の中で、どう、ことばとつきあひ、どうみづからを育んでいくことができるか。そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、この上なく大切な働きかけになります。



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子ども時代B 〜彩りの豊かさ〜


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子どもは歯が生へ変はりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとつて本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか多勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。


地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豐かさにどんどん目が奪はれていくことでせう。


かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。


幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。


しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情といふ衣を着つつ現れてきます。


そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。その彩りの豐かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。


ひとりひとりの子どもは、みんな、違ふ。みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。


ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊嚴を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。 どれほど大切なものが子どもたちの内側から流れ出してくるでせう。


さういふ大人の下で、子どもは、自分といふ個にゆつくりと目覺め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覺め、その彩りの豐かさに目覺めていきます。


社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、多勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本來的な豐かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。


もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」 もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に拔きん出ることができますよ」といふひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれ出ようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着てゐるやうなものです。


ひとりひとりの子どもたちは、本来、各々、別々の色を持つてゐます。


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2020年12月22日

子ども時代A 〜自己信頼の基 あのね かあさんが すきなのよ〜


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「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳に至るあたりまで、幼い子どもは、自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としてゐます。


その一対一の関係を通して、子どもは「世は善きところである」といふ信頼を、きつと、ますます深めていくことができるのでせう。


その個と個の関係において、人はまづ最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。


その最初の<わたし>の健やかな成長のために、子どもは、内側から湧き上がつてくる「意志・意欲」を、そのまま固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、ひとりの大人の存在を必要としてゐます。


その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、家庭があり、その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。


この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すやうな童歌があつて、まどみちおさんが作詞した「ざうさん」といふ歌があります。


  ざうさん、ざうさん、おーはながながいのね
  さうよ、かあさんも、なーがいのよ

  ざうさん、ざうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ


幼い子どもが、ひとりのお母さん(もしくは、それに代はる誰か)との結びつきを通して、個と個の信頼を育んでゐる姿が描かれてゐますね。


ひいては、自分自身への信頼をも育んでゐます。


わたしたち大人の内側に、第一・七年期の子どもにとつての大切なテーマでもある、この個と個の関係性をあらためて創つていくことの重要性を、いやといふほど感じてゐるのが、現代といふ時代かもしれません。


その関係性の基とも言へる、家庭の中における個と個の関係性、家庭の中における夫と妻の関係性、そこには、その人の第一・七年期のありやうが映し出されてゐます。


そここそに、新しい宗教性が啓かれるのです。


それは、ひとりの人とひとりの人との間の信頼の問題、そして、つまるところ、自己信頼の問題なのです。


そのことが、もつとも現代的なテーマとして、わたしたち大人が向かひ合つていくべきことだと、あらためてわたしは考へさせられてゐます。

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子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜


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人における「子ども時代」。それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。


よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。


「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかつた」


でも、大人になつても、遅くはない。なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潛めてゐるからなのです。


「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのやうなことばが思はず呟かれるのかもしれません。


「子ども時代」を強く保ち続けてゐる人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ち続けてゐる。子どもの氣持ちにいつでも帰ることができる。自分の中の子どもに語りかけるやうに、何かを創つたり、語つたり、書いたりすることができる。その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。


幾つになつても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。

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2020年12月17日

聴くことの育み 〜青森での日々から〜


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青森での十七日間、毎日、オイリュトミーをする人、越中奉さんと朝から晩まで、ずつと話をし、飯を食ひ、練習をし、酒を飲んでゐましたが、こんなに話を聴いてもらへたことは、わたしのこれまでの人生でなかつたやうに思ひます。

わたしたちの間では、思ひやりの深さと遠慮のなさと尊敬と悪口と信仰とが混然一体となつてをりました。学生時代に帰つたやうでした。

そして、彼のオイリュトミーにおいて何が素晴らしいかと言ふと、それは、肉の耳に聴こえない、人のこころの動き、息遣ひを確かに聴くことのできるオイリュトミーであることでした。

その目には見えないかたち、耳には聴こえない余韻が描くフォルムを多くも多くの人が見えない、聴こえない、といふことに、わたしは仕事をしながら、気が狂いさうにもなつてをりました。

しかし、その不可視のもの、不可聴のものに対する感覚を分かち合へたことは、何か神からの恩寵のやうに感じ、特別の喜びでした。

さういふ感覚は、「ことばの感官」によつて感覚されます。

それは特別な人だけが持つ感官では、決してなく、すべての人が持つてゐるものなのですが、ことばを意味でしか捉えない、物理的な響きでしか聴くことのできない、知性に偏り過ぎた現代人の多くは、その感官をみづから閉ざしてしまつてゐます。

幼な子たちは、新鮮な生まれたての「ことばの感官」をもつて全身全霊で人のことばを聴いてゐますが、小学校に入り、知的な教育ばかり受けてゐるうちに、いつしか子どもたちはみづからの「ことばの感官」を閉ざして行きます。

そして、ことばの響きから生まれる色彩や運動、かたちや音楽などを感覚することができなくなつて行き、ことばを単なる情報を伝達するための符牒に貶めて行くのです。

では、その閉じられてしまつた感官をどうやつて再び開き、豊かに育んで行くことができるのか。

それは、一生懸命、ことばを「聴かうとする」ことです。アクティブな意欲を持つて、一つの音韻から一つの音韻を聴かうとすることです。注意深く静けさを聴かうとすることです。

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2020年12月15日

りんごのまんなか*夢の種



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オイリュトミストの越中奉さんと共に、先日、岩手県金ヶ崎にあるシュタイナー学校「ちっちゃな学校 りんごのまんなか*夢の種」にお邪魔しました。


いくつもの神社に囲まれるやうにして、農村地帯の真ん中にある小さな学校。


わたしも昔話を語らせてもらひ、本当に息を思ひつ切り吸つたり吐いたりしながら、子どもたちのこころと触れあひ、手取り足取り一緒に遊ばせてもらひました。


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そこに子どもたちを連れてお母さんたちも集まつて来られます。たつたおひとりで働いてをられる教師の及川弘子さんとも様々なお話を交はすことができたのです。及川さんは、子どもと共に「考へる」ことの美しさ、楽しさを心底追ひ求めてをられる人。


ルドルフ・シュタイナーは、教育そのものは科学であつてはならず、芸術であつていい、あるべきだと言ひました。ここで言はれてゐる芸術とは何でせうか。


昨日、おひとりのお母さん、そして教師の及川さんと語り合ふ時間を通して、わたしはかう感じさせてもらひました。


芸術とは、人と人とが再び信頼し合ふことを学ぶ営みである。芸術とは、人が世を信頼することを学ぶ営みである。芸術とは、人が神を信頼することを学ぶ営みである。そして、芸術とは、己れのことを信頼することを学ぶ営みである。


その学びを通して、肉体を持つわたしたちは、精神に触れる修練、精神に通はれる修練を数多く重ね、「聴く」ことができるやうになつて来る。


何を聴くのか。


人のこころ、子どものこころ、己れのこころを聴く。人のこころ、子どものこころ、己れのこころの囁きを聴く。嘆きを聴く。さうして、精神を聴く。精神は常に、いつも、何かを語つてくれてゐる。そのことばに耳を澄ます修練。


その修練を積み合ふ者同士が集ふことの貴重さ、かけがへのなさ。子どもたちをそんな場所で育て合つて行かないか。


そんな人との出会ひに満ち溢れた一日でした。ありがたさにこころ暖められる一日でした。


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※「りんごのまんなか*夢の種」来年2021年1月4日から一週間、越中奉さんによるオイリュトミー連続講座がここであります!



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課題としての結婚



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今日は、滋賀県草津市でのアントロポゾフィーの学びの会『両親の問診時間』。テーマは「課題としての結婚」。


「結婚」といふ最大の自己教育の場において、その自己教育を阻むふたつの力。ルーツィファーとアーリマン。


そのふたつの力に、わたしはどれほど蝕まれて来たことだらう。


十何年前にも、四・五年前にも、同じテーマで講義をさせてもらつたのですが、それらの時とはまるで違ふトーンで語らせてもらふことができたのでした。

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2020年11月18日

結婚の意味



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といふテーマで、昨日は講義をさせてもらひました。わたしにとつて、なんと身の程知らずなテーマでせう!

昔の人にとつては、伝統的な暮らしぶり、長い月日から生まれて来た叡智が大家族といふシステムの中で見事なまでに機能的に作用してゐましたので、ひとりひとりのエゴもある意味、集団の中で撓められ、育まれ、結婚を通して家族を持つといふこと、「結婚の意味」がおのづと分かるやうになつてゐました。

しかし、現代、ライフスタイルは激変し、大家族がどんどん分化して、核家族として結婚生活を営むやうになつて、昔では考へることもできないやうな自由を享受しながらも、エゴとエゴとがまともにぶつかり合ふ、そんなきわどいバランスの上でわたしたちは生きてゐます。そして、「結婚の意味」は誰も教へてくれません。ひとりひとりが自分自身で見いだし、つかみ取つていく他なくなつてしまひました。

つまるところ、結婚の意味とは、様々な社会的な意味のさらに深みにある、「愛」の問題に尽きますので、人の内なる精神への問ひかけになつてしまひます。

愛とは、からだを超える精神の次元があること。いや、むしろ、精神の次元でこそ、愛が本質を顕はにすること。さらに、痛みや苦しみや悲しみを痛切に感じ、死といふものが目前に迫らないと、たいていの人は愛に目覚めることができないので、「結婚」とは何を意味するのか、といふ問ひを本心本当に自分の問ひとして抱くことは、とてもとても難しいことです。

エルンスト・フォン・フォイヒタースレーベンといふ人が、こんなことばを残してゐます。

精神のみだ。
こころが外に希んで得られないものを
つくりだすことができるのは。
愛を求める者は愛を見いだすまい。
が、愛を与へる者は愛を受けるだらう。

これらのことばは、重くはないでせうか。
わたしには、とても重いことばと感じられます。



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2020年10月21日

ふたつの悪魔



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己れが愛してゐることを、
仕事としてすることができることほど、
ありがたいことはない。
今朝、仕事に行くために、
長い時間、電車に乗つてゐて、
心底、さう思つたのでした。


二十九歳のとき、
師匠である鈴木一博さんの講義を聴き始め、
言語造形の稽古をつけてもらひ始めました。
そのとき、すぐに、
アントロポゾフィーを己れのものにして、
自分自身のことばで自由自在に語ること、
そして言語造形といふ芸術を生きること、
そのふたつのことを仕事にするのだ。
さう、こころを決めたのでした。
彼の講義を聴きつつ、
おのづから、さう、こころを決めてゐたのでした。


こころを決める。
ああだ、かうだ、言はずに、
自分の実力や、向き不向きなど思案せず、
こころを決める。


その不思議な志の誕生と巡り合はせに、
ただただ、感謝するしかないのです。


今日も、こころから語らせてもらつたことを、
こころから聴いて下さる方々がゐて下さる。
こんなにありがたいことはありません。


言語造形の舞台についても、
もうこの世に生きてゐる間、
ああだ、かうだ、言はずに、
ただただ、こつこつと、根気を持つて、
ひたすら創り続けるだけです。
そのために毎日稽古できることこそが、
自分自身への信頼を育て、
こころとからだを健やかになりたたせてくれます。
これも、本当にありがたいことです。


今日、させてもらつた講義は、
「理想主義」についてでした。


「理想」と「現実」といふことばは、
いまは、対義語のやうにして人々に使はれてゐますが、
そもそも、どちらも、
人が自己との闘ひから勝ち取るものであり、
他者や世から与へられるものではなく、
自分自身が創り出すものです。


本当の「現実」、本当の「理想」とは、
まぎれもなく、
「わたしがわたしになる」といふことではないでせうか。


「いい人になる」「素晴らしい成果を産み出す」・・・
それらも理想となりうるでせうが、
「わたしが〈わたし〉になる」
それこそが真の理想であり、
それこそが真の現実であり、
それは自己教育なしにはなしとげられないものです。
その他のことはすべて、
「わたしが〈わたし〉になりゆく」ことに伴つて、
必然的についてくる。


しかし、その自己教育を阻むふたつの働きかけが、
すべての人に及んでゐる。


ひとつは、ルーツィファーといふ、
人を虚ろな思ひ上がり、高慢、妄想、夜郎自大へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
「人から認めてほしい」
「人から褒められたい」
「人から愛されたい」
といふ承認欲求の過剰、
と同時に他者への批判へと誘ふ、
悪魔、堕天使からの働きかけです。


まうひとつは、アーリマンといふ、
人を自己不信へ、自信喪失へ、自暴自棄へ、自殺へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
諦め、不安、過剰な享楽、
自己への不満、自己への必要以上の批判へと誘ふ、
悪魔、堕ちた大天使からの働きかけです。


リアリスティックな自分自身の姿を直視せず、
思ひ上がつた自己像といふ幻想の中に戯れ続ける人。
それは、わたしのことでした。
ルーツィファーといふ堕天使に、
なずみ続けてきた長い年月でした。


幻想の中で自己に戯れることと、
リアリティーの中で自己と闘ふこと。
この間の違ひは、
年月を経れば経るほど大きくなつて来るのでした。


一方、アーリマンからの働きかけは、
日々、わたしの日常を当たり前に蝕んで行きました。
それは、わたしのまことのエネルギー、精神からの力を、
密やかに、しかし、確実に、毎日、殺いで行きました。
自己不信を確かに証明するやうに、
外の世もそんな仕事の成果をわたしに見せつけるのでした。


これからも、
そんなふたつの悪魔的な働きかけは、
休まずわたしに及ぶのですが、
「すべてに感謝すること」
「精神的なことに関心を持つこと」
「こつこつと根気を持つて、
 仕事を繰り返し続けて行くこと」
この三つを練習することによつて、
ふたつの悪魔に向き合ひつつ、
その働きかけを凌いで行く。
さうして少しづつ自由への道を歩みゆく。
それこそが人生であり、
さうして、
わたしが〈わたし〉になりゆくことこそが、
我が理想であることは確かです。


練習することを、こころに決める。
それだけです。



posted by koji at 07:39 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月05日

これが自己教育の要かと・・・



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公演が迫つて来てゐるので、
当然、毎日、稽古を重ねてゐるのですが、
この稽古をするといふことそのことが、
わたしにとつては、
本当に「確かな手応へ」を与へてくれるのです。
生きてゐることの、いや、
生かされてあることの「確かな手応へ」です。


人にも会はず、繰り返し繰り返し、練習する。
これがとても充実した作業なのです。
ありがたい・・・。


音と音の境目である間(ま)の深みと拡がり、
そこに走る活き活きとした精神の躍動。
余計なことを考へずに、
それらのものを追つてゐると時間を忘れてしまふ。
とても地味な作業だけれども、
確かなものと出逢つてゐる感覚に、
内から満たされる。


お金にはならないけれども、
かうした「行為」そのもの、
「すること」そのことが、
人に健やかさをもたらすんですね〜。


「生きるといふことへの健やかな情」
「確かな手応へをもつて毎日を生きる」


これがあれば、
わたしは何とか生きていくことができる(笑)。


この先どんなことがあるか、どんなことになるか、
誰も予想がつかない。
自分の人生がどんな風に転がつて行くのか、
本当にわからない!


けれども、
先ほど書いた、
「生きるといふことへの健やかな情」
「確かな手応へをもつて毎日を生きる」
といふ生きるための内的な元手は、
「健やかに、まぎれなく、考へる」といふ、
さらなる内の営みから生まれてくるものなんだ、
といふことが年齢を重ねるごとに、
「まこと」のこととして胸に迫るのです。


「考へる」。


ごちゃごちゃと余計なことを
なるべく考へないやうにしてゐます。


もし、考へるなら、
健やかな情と確かな意欲(手応へ)を産み出すやうに、
「考へる」。


それが、自己教育の要(かなめ)かなと思ひます。


いろいろな感情や欲望が
ありありと内側に渦巻くのですが、
すべて認めて、ゆるす。
そして内なる作業として解き放つ。


さうして、毎日、この、
「考へる」向きを、
先ほど書いた方向へもつて行く。


折角何かを「考へる」なら、
健やかさに向けて。
そして、毎日稽古して、
確かな手応へを稼ぎつつ。


わたしもあと二か月ほどで、
五十六歳になるのですが、
自由になりゆくための、
九つ目の新しい七年期が始まると感じてゐます。


自分自身が自由になりゆかないと、
周りの人も自由になれませんものね。


「考へる」をそっちの方向にもつて行くための、
環境づくりはとても大切なことで、
そのことも始めようと考へてゐます。


オンラインで始められるだらうかと思案中です。


また、ご関心のおありになる方は、
どうぞご連絡くださいね〜。





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2020年10月04日

シュタイナーの新翻訳「人と世を知るということ」



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二十二年前に鈴木一博さんの翻訳で出版された、
ルドルフ・シュタイナーの『テオゾフィー』。
この本を読むことが、
どれほどわたしの人生において、
とりわけ三十代から四十代、
支へになつてくれたことか・・・。


その書が、同じ翻訳者によつて、
新しい版として出ました。
『人と世を知るということ』と、
タイトルがアレンジされてゐます。


早速読み始めました。
声に出して訓みながら、
おのづと自分自身のこころの働きを確かめることになります。


それは、言語造形をしてゐる時と、
全く同じ感覚です。


鈴木さんの仕事はずつとさうだつたと、
読みながら念ひます。


読む人のこころに、
内なるアクティビティーを呼び起こさうと、
意図することばの使ひ方、こころの使ひ方。


さういふこころから精神への道を歩くことを、
読書を通して促す指南者でもありました。


「事と心と言はひとつなり」
さう本居宣長が書き記したことを、
鈴木さんは自身の見解・見識を述べる時だけでなく、
ドイツ語の翻訳でも成し遂げてをられる。


まさしく「学」を全身全霊で生きる人は、
皆そのことを証明してくれてゐます。


わたしの非常に狭い管見の限りではありますが、
本居宣長も鹿持雅澄も内村鑑三も小林秀雄も、
ゲーテもフィヒテも、
そしてシュタイナー、鈴木一博も、
「事」と「こころ」にひとつに重なる「ことば」に、
すべてを賭けてをります。


彼らは皆、
いはゆる「学者」といふ、
ある意味狭くカテゴライズされた立場などから、
自由に力強く羽ばたいてゐる人ばかりです。


そのやうな著者の書を出版してくれる、
「Hannogi Books」さんにこころから感謝です。


そして、かうして新しい版が出ることによつて、
古い読者には改めてじつくりと読み直させ、
また新しい読者がういういしく読み始める、
そんな機縁が生まれます。



日本語によつて、
アントロポゾフィーを語ること。
その意味深い仕事を、
しつかりと見つめ続けていきたい。
わたしの志もそこにあります。



posted by koji at 19:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月09日

わたしといふ人に与へるべき水とは何だらう



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以下、去年の今日、書いた文章なのですが、
今年も全く同じことを考へ、感じ、してゐました。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


なぜだかとても疲れた時などには、
いろんな疲労回復法がありますが、
自分はよくシュタイナーの『自由を考へる』を読みます。


そして、そこに書かれてある文に沿つて、
考へることによつて、
自分自身の偏つてゐるこころを立て直すことができ、
救はれることがよくあるのです。


第5章の「世を知る」を読むと、
そこにこんなことが書いてあります。


_________________


いま、わたしが、
蕾をつけた薔薇の枝をもつてゐるとすれば、
きつと、その枝を水に活けるだらう。


なぜか。


薔薇の蕾は、薔薇の花となるからだ。


薔薇が蕾の状態であることも、
薔薇であることのひとつのプロセスだし、
花開いてゐる状態も、
薔薇であることのひとつのプロセスだ。


しかし、
プロセスの中のそのときそのときの面持ちを見るだけでは、
これこそが薔薇だ、といふことは、やはり、できないし、
水に活けて花開かせるといふ想ひにも至り得ない。


考へることで、プロセスといふものを捉へるからこそ、
薔薇の枝を水に活ける。


その薔薇が、
「なる」といふこと、
「育つ」といふこと、
「成長する」といふことを、
考へるからこそ、
わたしは薔薇の蕾がついた枝を水に活け、
その薔薇が薔薇としての美しさを十全に出し切るのを待つ。


見てゐるだけで、考へなければ、
きつと、水に活けはしないだらうし、
薔薇が薔薇であることも分からないままだらう。


           (『自由を考へる』第五章より)


________________


わたしが、
「薔薇は育つ」といふプロセスを考へずに、
水に活けてもてなさなければ、
薔薇の蕾は枯れてしまい、
その美しさを見せてくれはしない。


きつと、人であるこのわたしも、薔薇と同じだらう。


薔薇が育つやうに、わたしといふ人も必ず育つ。


そこで、
このわたしといふ人に与へるべき水とは、何だらう。


この考へに立ち戻るのです。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


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2020年07月31日

7/27 普遍人間学第四講 レポート t.m.さん


 
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本を繰り返し読むといふこと。
 
 
講義を聴くといふこと。
 
 
そして自分自身のことばに鋳直していくといふこと。
 
 
その地道な作業は、
決して知的なだけの作業なのではありません。
 
 
それは、意志の作業であるがゆゑに、
おのづから情をも育みます。
 
 
知に取り組む。
それを何度も繰り返す。
そして、これまで以上にしみじみと感じる。
 
 
これらの作業の繰り返しが、
「学び」といふものではないでせうか。
 
 
そして、
人は学ぶことで、
何を求めてゐるのでせうか。
 
 
その「動機」は?
 
 
そこに静かに響いてゐる「願ひ」は?
「はからひ」は?
「つもり」は?
 
 
齢を重ねていきつつ、
学ぶ朋(とも)の間で、
その精神の趣きを分かち合つていきたいのです。
 
 
諏訪耕志
 
 


 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
【t.m.さんのレポート】
 
 
 
今回は人間の「意欲」とは、一体何かということについて、学んでいきました。
 
 
私自身、現在の教育現場で子どもたちに一番大切に育むべきものは、「意欲」ではないだろうかと、ここ数年は実感していました。
 
 
ただ、それは学ぶ意欲であったり、世界への好奇心であったり、子どもたちがワクワクして学ぶ場所はどうやってつくられるのか、といった私の思う日本の教育の課題の1つとして存在していました。
 
 
では、意欲とはなんぞや?と言われても、そんなこと考えたこともなく、「意欲」は「意欲」でしょう。と丸ごと1つに考えていたのです。
 
 
だた、今回人間の「意欲」というものについて見ていくと、それはこの肉体が生まれてから死ぬまでの間、段階的にずっと育っていくものだということに気づかされたのです。
 
 
なるほど、確かにそうであるなと実感せざるを得ませんでした。
 
 
意欲には、7つの段階がある。
 
 
生まれてから だいたい7年間隔で人の成長をみていくのがシュタイナーの人間観ですが、それに沿って意欲の種類も、変化、成長していくのです。
 
 
0〜7歳  本能
7〜14  もよおし
14〜21 欲
21〜28
28〜35  動機
35〜42
42〜49 願い
49〜56 はからい
56〜63 つもり
 
 
これだけ書いても、わかりませんが、意欲にはこの7つの種類があり、その意欲の質を年齢とともに理解することができます。
 
 
つまり、赤ちゃんの「意欲」と学童期の「意欲」は違うものなのです。高められつつ意識に引き上げられつつ成長しているのです。意欲の成長というのはあまり聞いたことはないですね。
 
 
赤ちゃんの意欲「本能」は全て外側に現れます。それは、無意識です。おなかが空いたら泣く、心地悪かったらぐずる。そういう形で外にすぐに現れます。
 
 
でも小学生くらいになると、「ああお腹がすいたな」ということを自分でつかむことができ、伝えることができます。待つことができます。すぐに泣いて欲しがったりしません。これがこの時期の「もよおし」の意欲です。自転車に乗れるようになるということもそうです。
 
 
何かしたいことが「もよおし」として内面化され、そして待ち望んだことをやり遂げる、一貫した意欲です。
 
 
そして、思春期から青年期にかけて、意欲は「もよおし」が「慾」に仕立てられます。
 
 
これは、また質が違ってきて、感性豊かなの時期を生きる若者たちならではの「慾」です。意識に上がっては、またすぐに消えさる、または揺れ動く、「感情」に深く関わる時期だからこそ、そのような意欲の形、「慾」がしたてられていく。それは一人一人違った慾です。私はこれが好き、僕はこれが好きというその人ならではが生き始めます。
 
 
そして、ここからが、人間にしかない意欲の領域です。
動物にはここから先はないのです。
 
 
「慾」が「動機」に仕立てられていきます。
 
 
この「動機」は、人間の21歳から42歳までの時期(7年を3回)にあたります。ここだけ、21年もかかっているのは、なぜなのでしょうか?この時期は人間を「からだ」、「こころ」、「精神」という3つに分けてみたときの、「こころ」の領域を育む時期です。
 
 
この「こころ」の領域にそれまでの0歳から21歳の「からだの領域」の「本能」「もよおし」「慾」という意欲が取り入れられます。そのときに、意欲はどのように仕立てられるのか。
 
 
このときの「動機」という意欲は、こころ、つまり「わたし」がそれまでの自分の意欲をより詳しくつかむことで、より
 
 
「わたしというものが何者か」
「わたしのわたしならではのところは何か」
「自分が為そうとしていることはなんなのか」
 
 
という本質的な自分自身が見えてくることだと思います。
それは、それまでの意欲がこころの領域に取り込まれ、「考える」ことを通して「動機」へと高まるのです。
 
 
「動機」は「考える」ということを通して掴まれる意欲です。まさに、「考える」ことができるのが、人間と動物の大きな違いです。
 
 
ここが、人のなりたちの中で意欲の質が人間ならではの意味を持つところかもしれません。
 
 
しかし、人が「動機」を繰り出すとき、それだけではなく、そのもとに何かが静かに響いています。
 
 
その静かに鳴り響いているものが、「願い」というものです。
 
 
「願い」は精神の領域から鳴り響く意欲です。
 
 
「動機」から何かをなすときに、さらによく為す、あるいは間違えて為す「願い」が、「動機」意欲の下にいつも鳴り響いています。
 
 
「願い」というと、うまく為すことへの思いのような気がしますが、この場合、間違えることへも響く「願い」なのです。
 
 
それは、うまくやりたいことが成功しても、そこで満足するのではなく、さらによく為すためにどうしたらいいか考えること。
 
 
また、うまくいかず間違えたり、失敗したときも悔やむのではなく、そこから学び、さらによく為すために考えて行動することが、失敗を悔やむよりずっと大きな価値のあることなのだということ。
 
 
すべてに意味を見出し、成長し続けることが、下意識のもう一人の「わたし」の「願い」なのです。
 
 
きっと、そういう願いが、自分のうちになり響いていることを知る人は、どんな人生の荒波も、自分の糧として生きることができるのではないでしょうか。
 
 
そして、「動機」をさらによく為そうという意欲において、「願い」が「はからい」へと仕立てられ、「はからい」も静かに響き始めます。
 
 
これはもう、無意識の世界、意識化されないところで、下意識の「わたし」が人生の道をしいている、大いなる「はからい」です。
 
 
考えて動くのではなく、「なんとなくここへ行きたい。」とか「何度もこの人と出会ってしまう」といった、偶然のような「はからい」です。
 
 
最後に、こころがからだと解き放たれるようになって、その「はからい」が「つもり」となります。
 
 
「はからい」が兆しのようにこころに響き続け、そこに「つもり」が続きます。
 
 
「つもり」は今生のテーマです。生まれる前から死んだ後も、きっと鳴り響いている。
 
 
それは、「わたしはなぜ生まれてきたのか、わたしは何のために生きているのか」という問いの答えなのかもしれません。
 
 
「つもり」それは、この生のうちだけでつかむことができないものかもしれません。
 
 
しかし、確実になり響いている。
 
 
「本能」「もよおし」「慾」というからだの領域から仕立て上げられる意欲と、
 
 
「願い」「はからい」「つもり」という精神の領域からなり響いてくる「意欲」が、
 
 
交わり合うこころの領域の意欲、「動機」。
 
 
「動機」は、下意識の「わたし」の意欲の響きに耳を澄ませることで新たに湧き出る泉のように、さらにやまない意欲が生まれるのではないか?
 
 
大いなる「願い」「はからい」「つもり」が人間誰しも、なり響いていることを忘れないでいたいと思います。
 
 
(t.m.)
 
 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 


posted by koji at 07:45 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月27日

精神の喜び



7月27日 アントロポゾフィーゼミクラス.png 2 (1).png



昨日までの四日間連続の講座、
『言語造形 実践と理論』。
 
 
そして、今日の、
『アントロポゾフィー・ゼミクラス』。
 
 
精神の喜びこそが、
人を甦らせるのですね。
 
 
ことばが語られ、
そのことばが真摯に受け止められる。
 
 
さうすると、
ことばが喜んでゐるのがよく分かります。
 
 
ことばを司る精神の方々が喜んでをられることが、
よく感じられます。
 
 
ことばが、空間の中で、オンライン上で、
活き活きと踊り出すのです。
 
 
アントロポゾフィーとは、
そんなことばの芸術でした。
 
 
そんなことばのやりとりに、
身をもつて跳び込んで来てくれる、
皆さん、おひとりおひとりに、
本当にこころから感謝します。 
 
 
ありがたう!
 
 

posted by koji at 22:18 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月13日

精神との通ひ路(みち)

 
 
Figura-2-Mujer-ante-el-sol-poniente-Fuente-Friedrich-1818.png>
Caspar David Friedrich「Frau in der Morgensonne」

 

言語造形のクラスをさせてもらふ仕事も、
だんだんと新しく生まれて来ました。
 
 
この仕事を始めたのが、
二十年ほど前なのですが、
いま、その時に戻つたやうな、
いや、むしろ、
全くのゼロから始める、
デビューしたてのやうな気持ちが
溢れて来る日々なのです。
 
 
この感慨は、
このたびのウイルス騒ぎによる社会の停滞が、
わたしにもたらした「恩恵」です。
 
 
「初心に帰る」といふことは、まさに、
「死ね。そしてふたたび生きよ」
といふほどの起死回生のことなのですね。
 
 
言語造形といふ芸術の仕事を再び始めて、
いまとりわけ感じてゐることは、
冷たく、狭い世界に閉じ込められてゐる人が、
いまはまだどれほど多くゐることだらう、
といふことです。
 
 
わたしの言語造形のクラスに来る方には、
教師をしてゐる方が多いのですが、
学校でのウイルス対策に、
報道での感染者数だけを挙げるそのあり方に、
そして、つまるところは、
死への恐怖に、
身もこころも雁字搦めになつてゐて、
こころとからだが冷たく、固く、閉じたありやうで、
毎日を生きてゐて、
そのありやうでクラスに来られるのです。
 
 
それでも何か月かぶりに、
このクラスに来られるといふことは、
やはりみづからがみづからを救済したい、
といふ無意識の念ひに動かされてのことなのでせう。
 
 
そして、クラスが終はる頃には、
来られた時とは、まるで、まるで、異なる、
湯上りのやうに紅潮した頬と、
輝きを取り戻したまなざしをもつて、
その人のその人たるところを
ありありと表に輝かせながら、
帰つて行かれます。
 
 
人の意識をなんらかの隠微な形で、
一色に覆ひ尽くさうとする、
いまのやうな状況の中で、
芸術といふものは、
やはり、人にとつて、
なくてはならないものです。
 
 
外側の状況がどのやうなものにならうとも、
それでも、わたしは生きて行く、
生き抜いて行くのだ、といふ、
意欲と希望を取り戻すことが促されるからです。
 
 
その意欲と希望は、
精神との通ひ路(みち)が運んで来てくれます。
 
 
人は、精神との通ひ路がこころにできた時、
ふたたび、自由になります。
 
 
 

 
 


posted by koji at 09:53 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月11日

こころざしと情熱



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昨日と今日の朝、
「アントロポゾフィークラス・オンライン」。
シュタイナーの『普遍人間学』の講義でした。
 
 
三十年前、わたしには、
このやうなアントロポゾフィーの学びを
得ることができた場がありました。
高田馬場にあつた「シュタイナーハウス」です。
 
 
東京です。
 
 
東京に身を置かなければ、
生身の人から活き活きとした学問として、
アントロポゾフィーを学び得ないのでした。
 
 
だから、大阪から東京へ行き、
その場に自分のすべてを注ぎ込み、
学びのために身を削りながら、
同時に喜びに震え、
悲しみを舐めながら、
毎日を生きたのでした。
 
 
人によつては、
その地がドイツであつたり、
イギリスであつたり、
アメリカであつたりしたのでせう。
 
 
いまは、全国の地の人が、
オンラインでかうして集まつて、
アントロポゾフィーの学びをすることができるといふこと。
 
 
隔世の感があります。
 
 
しかし、今日、参加者の方が仰つて下さいました。
 
 
忙しく家事を片づけて、
10時になつた。
さあ、『普遍人間学』の講義だ。
自分にとつてたいせつなことだとは
分かつてゐながらも、
ひとりではなかなか続けて行くことが難しい、
そのアントロポゾフィーの学びだ。
さう自宅で考へながら、
コンピューターの前に座り、
同じ志をもつ仲間にオンラインの上ではあれ、
また会ふことができる。
このことのありがたさを念ふ、と。
 
 
皆、何かを熱く求めてゐるのです。
 
 
理由を説明できない、
みづからの内にこみ上げてくる「こころざし」。
 
 
そして、学びの仲間に加はるといふこと。
 
 
それは、何かの縁(カルマ)です。
 
 
三十年前であらうと、今であらうと、
その「こころざし」の輝きは変はりませんし、
カルマの糸は織り続けられてゐます。
 
 
リアルであらうと、
オンラインであらうと
肝心要のことは、
その人のこころざしと情熱です。
 
 
それは、静かで穏やかな表情を纏つてはゐますが、
内側では自分でも思ふ以上に熱く激しいものなのです。
 
 
そんなこころざしと情熱に応へることができるやう、
アントロポゾフィーを語る。
  
 
わたし自身の「こころざし」を想ひ起こすことのできた、
そんな今朝でした。
 
 



posted by koji at 18:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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