オンラインクラスで、シュタイナーの『普遍人間学』を学び続けてゐる方のレポートをご紹介させてください。
「わたしは、目覚めてゐたい」といふ切なる念ひ。
自分自身が「目覚めてゐない」ことによつて、他者との間にどれほど軋轢をみづから作り出してきてしまつたか・・・。わたし自身痛感してゐます。
「目覚める」ことによつてのみ、自分自身をふさはしく仕立てて行くことができ、世のためにハーモニックに生きて行くことができる。
わたしたちの学びは、みづからの統御をもつて、世に健やかに働きかけて行くことをこころから希ひます。
子どもたちが健やかに育ちゆくことへ、世が弥栄に栄へゆくことへ、少しでも、資すことを希つて仕事をして行きます。
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾
普遍人間学第七講 y.y.さん
私はこの普遍人間学を勉強し始めてもう6年目になる。
本来勉強が好きではない私がもう5年もこの本について学んでいる。
内容は難解で、いまだにはっきりとは理解できていない。でも、嫌だと思った事は一度もない、月1回の講義が楽しみで仕方がない。
私は一体何を知りたいんだろう?なぜこんなに分からない本を勉強しているのか?いつかわかる日が来るのだろうか?そんな事を考えてみても答えが見つからないし、学び続けていれば、いつかわかるようになるのでは?などと考えていた。
でも、今回この7講の講義を繰り返し、繰り返し聴いているうちに、「私は何かを知りたくて学んでいるのではない。知る事そのものがしたいのではないか」という考えが浮かんできた。『「知る」事は闇の中に光を灯す行為です』と先生は言われた。この言葉を聴いた時、「私は今確かに闇の中にいる」と感じた。
いつも自分の中にある、拭きれない焦燥感、不安感。その為に私はいつも知る事に必死だ。真っ暗な家の中にいて、急いで家中の明かりをつけて回っていくようなそんな感じだったのではないだろうか?でも、つけてもつけても、また暗い部屋が見つかってしまう。その事にまた焦りを覚えてしまう自分がいる。
このまま一生こうして、分からないままいくのだろうか?なぜ満足する事がでないのだろうか?最近そんな事を思い始めていた。そしてこの7講を学んではっとした。
私は知る事ばかりに気を取られて、考える事をしていなかったのではないだろうか?いや、「聴いた」だけで、「知った」と勘違いしていたのだ。
本当の「知る」は「見る」に「考え」を重ね合わせてこそ、得られるもののようだ。私は聴いた事そのことに満足してしまって、そこに考えを重ねる時間を持つ事を怠っていた。だから、いつまでも闇の中に光がさす実感、喜びを得られないで焦っていたのではないだろうか?
知るという事は良く見る、そして立ち止まって、その見たことを良く考えてみることで初めて獲得できるものだったのだ。自分の中にある焦燥感がこの「立ち止まる」という行為をさせないようにしていた。立ち止まることが怖いのだ。
何もしていない時間が怖い。静かにじっとしていられない。時間がもったいないような気がして、ネズミのように動き回っていた。
しかし、何もしていない時の、自分からは何も考えようとしていない時の、真空状態における思慮深さこそ、知に至る道に必要なプロセスであると言う事がわかった。そして私に「知る」事をさせまいとする力が働いている事を知覚した。
だが、その力も私の中にある「闇」の力、言い換えれば、私の一部なのだ。闇も光と同様に認める。私は闇も光も包含してるという事を初めて認める事ができた。
そして今回この7講を学んで、初めて自分の闇を捉える事ができた。闇は闇として存在している時はとてもわかりやすい、今までも悪しき思いに駆られてた時に自分の闇を知覚したことは何度もあった。
でも、本当の闇はそんなわかりやすいあり様はしていない。自分の光の部分であると認識している性質のその裏に巧妙に闇は潜んでいるのだ。少なくとも私の闇は私の中で光のふりをしていた。だから長い間その中をじっくりと見てみる事なく放っておいたのだ。
「私の内を静かに見て、考えてみる」この事によって、今回私は私の内を知る事ができたのではないかと思う。
立ち止まる=停止=怠惰。ではない。立ち止まった時の静けさの中で耳を澄ます事ができた時に叡智を聞く事ができる。
「知る」とはこういう事だったのか、私はもう、立ち止まることを恐れない。むしろ意識して静かに、立ち止まってみようと思う。最も遠回りだと思っていた行為は、知に至る唯一の細道だったのだ。
毎日、私はローソクの灯火を10分間見つめるという日課がある。
それは、強制的に心静かな時間を取ってみて、自分に何が起こるのか、そもそも心静かな時間など過ごせるのか、一度体験してみたかったのだ。やってみると、案の定、ローソクを前にしてみても心ここにあらず、全く心が静まらない。静まるどころか次から次に出るわ出るわ、 自分でも呆れてしまう程に私は要らぬ事を考えて生きている事に気づく。
その雑念を「見て」「留める」。これを「認める」。良い、悪い。などというジャッジではなく、自分にはこの様に低い側面、卑しい側面、恥ずかい側面があるということを、ただ見て留める事に挑戦している。そして、諏訪先生は「それを敬いなさいと」と言われた。
否定したり、見ぬふりをしたりするのではなく、炙り出された自分の闇を見るのは正直しんどい。でもこの「見て」「留める」事を続けていくと、その闇が無意識から意識の世界に現れて、自分の手の中にあるような気がしてくるから不思議だ。川の中で自由に動き回っていた魚が、釣り上げれて水槽の中にいる様な感じとでもいえばいいのか。。とにかく得体の知れないものから、手にとれるものになっている気がしてくるのだ。
この7講では心の3つの側面「欲する、感じる、考える」に重なるように精神の側面「眠り、夢み、目覚め」という要素が体の血液、神経を通して、欲しつつ眠り、感じつ夢み、考えつつ目覚める事が述べられていた。
心と精神、感情、この得体の形のないもの達が自分の体とどう関わっているのか、それを知っただけでも収穫なのだが、毎日の日課を通して私はある問いを得ている。「欲する、感じる、考える。それぞれに眠り、夢み、目覚めの様な状態がありはしないだろうか?」という事だ。
この「眠り」を「無意識のうちに」、夢みを「当然の様に」、「目覚め」を「意識して」という言葉に言い換えてみる。
例えば、10分間の沈黙中に浮かんでくる考えは、普段は無意識の中に沈んでいる。それは、自分の欲深さ、傲慢さ、稚拙さ、さまざまあるが、普段はそれを知覚していない。いわば、自分の無意識の領域に眠らせている考えだ。次に、今自分は、蝋燭の前に座って、10分間瞑想しよう。というのは日課であるので「当然の様に行ってる。夢みながら考えいる。そして、瞑想をしているとき浮かんでくる想念、雑念を「見て」「留める」作業は、自分を知るためにその闇を認識したいと意識して行っている。この10分で、「考え」が眠り→夢み→目覚めの旅をして意識下に登ってきている様な気がするのだ。
また、「感じる」ついてはどうだろうか?体で感じる、心で感じる。色々あるが、家にいる時、無意識のうち私たちは、安らぎを感じている。また四季の移ろいを当然の事と感じ、日々青々としていく木々を眺めている。そして芸術作品に触れる時などは、意識してその作品が表現しているになにかを感じようとしている。
そして、「欲する」については、 眠りつつはいうまでもなく、私たちが生きていく為にこの体内において無意識のうちに行われている生命を維持する活動、また目の前に出された美味しそうな料理は当然、自分のものであると思う。しかし、今ここにない物、如何しても手に入れたい物、辿り着きたい場所がある場合は、常
にその事を意識して目的達成の為に自分を動かす。これは、目覚めて欲していると言えるのではないだろか?
.
私は、今回この7講において、心、精神の3分節を改めて考えてみる事ができた。そして、それは混沌とした自分の内面を捉え整理する事に大いに役に立った。そうして、私は何をしたかったのかも分かるようになってきた。つまり結局私は、目覚めたかったのだ。目覚めて欲し、目覚めて感じ、目覚めて考えていたい。無意識からやってくる感情や考えに翻弄されるのではなく、それらを意識のひかりの中に招き入れ、認めて受け入れた上で、意識的に私はどのように感じ、考え、行動するかを選択していきたいと思っている。それが、目覚めて生きるという事ではないだろうか?
♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾