2024年09月29日

理想をことばに鋳直すお祭り ミカエルのお祭り



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秋の祭りである、ミカエルのお祭り。


それは、夏の間、高く大いなる世に拡がつてゐたわたしたちのこころと靈(ひ)が、冬のクリスマスに向けて、再び、わたしたちのからだへと戻りくることを、強く、確かに、促すためのお祭りです。


だからこそ、この秋のお祭りを創ることによつて、人は、自分自身の本当の理想やまことの考へをふさはしく、靈(ひ)の鉄の剣をもつて「ことば」にする力、「ことば」に鋳直す力を得ることができるのです。


言語の理想主義。


それは、わたしたちのこころを健やかに甦らせてくれます。


アントロポゾフィーから、そのやうな靈(ひ)のお祭りを創つてゆく。


それは、アントロポゾフィー運動のひとつの仕事なのです。



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『ミカエルのお祭り』ルードルフ・シュタイナー


我々、いまを生きる人

靈(ひ)の朝の呼び聲

ミカエルの朝の呼び聲を

ふさはしく聴き取りてしかり

靈(ひ)を知ること

そはこころに啓かむ

まことの朝の呼び聲への聴き耳を



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靫(ゆき)懸(か)くる伴(とも)の男(を)広き大伴(おほとも)に国栄えむと月は照るらし(萬葉集1086)


国のはじまり以来、宮廷を守り続けて来た武門「大伴氏」。


靫(ゆき)を背に懸(か)け勢揃ひした大伴のつはものたちの集団に、「国栄えんと」月が照つてゐる。


引き締まる秋の目覚めを思はせる。


なにゆゑか、諏訪家の娘たち二人が幼い頃、この歌を好みました。



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2024年09月24日

エーテルの世を描いている古事記



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人は、13、14歳ごろから性的な成熟がからだに現れて来ます。


男の子は、男のからだのありようへ、女の子は女のからだのありようへと、成熟していく。


しかし、ちょうど、そのころ、男の子のエーテルのからだは、まさしく女性の姿をとり始めるのであり、女の子のエーテルのからだは、男性の姿をとり始めます。(※)


そうして、フィジカル(物理的)なからだにおいて性が表立つことに対して、エーテルのからだにおいては、その対の性を姿としてとることで、人としてのバランスをとらせるという、神の計らいなのでしょうか。


さて、ここで、『古事記(ふることぶみ)』の話になります。


そこにおいては、とりわけ神代の巻にはエーテルの世のありようが描かれてあります。


天照大御神は高天原において、太陽を司る「女神」として描かれています。


それは、いまだ、フィジカル(物理的)な状態にまで凝ってはいないエーテルの状態の太陽が女性的な姿をされておられるからです。


そして、フィジカルな次元では、太陽は、まさしく男性的な働きを荷つて下さっています。


それは、光と熱を通して、すべての地上のものに命を吹き込む、受精させる、そんな働きです。


一方、月は、エーテル界においては月読命(つくよみのみこと)という「男神」として描かれています。


そしてフィジカルな次元では、月は、まさしく、女性的な働きを荷つて下さっている。


太陽の光を照り返し、夜の国をしろしめされておられる。


『古事記』は、そのように、この大宇宙と地球のなりたちをエーテルの次元において、さらにアストラルの次元において、さらにまぎれない靈(ひ)の次元において、描いているのです。



※Rudolf Steiner : Gegenwärtiges Geistesleben und Erziehung 第4講より 





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2024年07月11日

我がこころのこよみ


いま、自分の中に、ある問いがあります。しかし、どうしても、その問いに対する答えが見いだせず、苦しくもどかしいこころもちでした。まるで靄がかかっているようで、辿り着きたいところが霞んで見えない、そんな感覚です。しかし、『こころのこよみ 第15週』が丁度、今週に当たっていて、「わたしの<わたし>は己れの囲ひのうちにある」ということばを改めて見つめているうちに、こう気づいたのでした。ああ、これでいいのだ、わたしのわたしたるところ<わたし>は、いま、魔法にかかっているかのように、囲いのうちにいるのだから、これでいいのだ。そして、来たる週に、このこころは、きっとなるべくようになりゆき、答えを見いだすことを阻んでいるこの囲いを乗り越え、待つことを通して熟した答えに訪れられるだろう。そして、こころの安らかさにいたるのでした。年を重ねて、この『こころのこよみ』がますます、我がこころに重なって来、まさに、我がこころのこよみとなって来るのです。

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2024年07月07日

「分かる」の深まり



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「分かる」ということには、いくつかの順序、次第があります。まずは、眼で見て分かる、頭で理解して分かる。そこから始まり、だんだんと、こころに受け止めて分かる、胸で感じて分かるへと深まりゆき、最後に、腑に落ちる、腹で分かる、やってみてますます分かるという道を人は歩いて行くのですね。この三つの次第を生きるためには、学びを続けて行く必要がありますし、長く時間がかかることです。しかし、だからこそ、喜びがあります。同じ「分かる」でも、その質に違いがある。時をかけて、ゆっくりと、掘り進めて行くことで、深みへといたるのです。同じ本をいくたび読んでも、読むたびに、新しく「分かる」ことができ、新しく喜びが訪れます。

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2024年06月23日

ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ばたくとき



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ルードルフ・シュタイナーによる『ヨハネ福音書講義』を読み続けています。


新約聖書にある「ヨハネ福音書」。それは、前半と後半に構成が分かれています。


前半が、洗礼者ヨハネについて。後半が、この福音書の書き手であるヨハネについて、です。


そして、いま、洗礼者ヨハネの誕生日(ヨハネ祭)を間近に控えるこの初夏の日に、わたしは、キリストをキリストとして受け止めた最初の人、洗礼者ヨハネのことを改めて学んでいます。


彼は、みずからを、「ひとりにて呼ぶ者の声なり」と言いました。(「荒野にて呼ぶ者の声なり」はふさわしくない翻訳だそうです)


「みんなで呼ぶ」のではなく、「ひとりにて呼ぶ」のです。


この「ひとりにて」というところに、新しい時代の始まりがあります。


そして彼は、たったひとりにて、キリストを、世の光を、陽の神を、この地に呼びました。


そのことは、何を、わたしたちに教えるでしょうか。


それは、意識の目覚めです。


聴き耳をたてるのは、この<わたし>ひとりです。


誰も、わたし自身に代わって、神の訪れを告げてくれる者はいません。


意識の目覚めを生きる人は、協力し合いますが、群れません。


そのひとりの<わたし>の、内も内にこそ宿るのがキリスト・世の光だ、とヨハネ福音書は語っています。


世の光、陽の神は、いま、この大地に立つひとりひとりの人のこころの真ん中に宿り、そこから、ヨハネの祭りのときを中心にして、夏の季節、広やかな天空の彼方へと拡がりゆこうとします。おおよそ二千年このかた、毎年です。


古代においては、この夏のお祭りにおいては、洋の東西を問わず、燃え上がる炎と共に、歌い、踊り、舞い、祈りを陽の神に捧げていました。


その時には、イスラエルの国では葡萄の実から絞り出したワイン、最も東の国、日本では、米から醸した酒によって、その炎の祭りがいやがおうにも高揚したものになりました。


その夏の祭りの時にこの世に生まれた洗礼者ヨハネも、神と人とを結ぶべく、燃えるような情熱をもってヨルダン川のほとりにて人々に洗礼を授けていましたが、ただひとつ、古代から引き継がれてきたものとは全く違う意識をもっておりました。


それは、酒の助けを借りて高揚するのではなく、意識を目覚めさせて、たったひとりでことをなすことでした。


高揚するとは、いわば、夢見つつ、神々しい天へと昇ること。


しかし、洗礼者ヨハネは、意識を目覚めさせることによって、この大地にしっかりと足を踏みしめながら、天へと羽ばたく術を人々に与えていました。


それは、古代の在り方とは異なる、これからの人びとの夏の生き方を指し示しています。


そうして、ついに、冬のただなか(1月6日)にナザレの青年イエスが彼の前にやって来たのです。


そのときから、おおよそ二千年が経ちましたが、そのような洗礼者ヨハネの生き方が、ゆっくりと、これからの多くの人の生き方になりゆくでしょう。


わたしたちも、この夏、どういう生き方をするかによって、来たる冬の迎え方が決まって来るでしょう。


一日の過ごし方によって、人は、からだを満たしたり、不満を感じたりします。


しかし、人は、一年の過ごし方によって、こころを満たしたり、不満を感じたりするのです。ひととせを靈(ひ)に沿って生きることは、こころを健やかにするのです。


ひととせを生きる。それは、こころの、ひとめぐりです。


そして、いま、夏を生きます。目覚めつつ。静かに。かつ、燃え上がりつつ。こころの深みから。






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2024年06月21日

夏至考



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小林和作「日照雨」



いよいよ梅雨に入ったようですね。大阪でも朝から豊かな雨が降り注いでいます。


今日は、夏至で、一年のうち、最も陽(ひ)が高いところで輝き、それゆえ、日照時間が最も長いときです。


しかし、そんな、陽が高く輝き、地球に強く働きかけて来る日々のはじまりが、雨雲に覆われた梅雨の空と同居している、この日本という国の天恵のような不思議さを念います。


夏至、もしくは、西洋でのヨハネの祭りは、我が国では、旧暦での皐月(さつき)の雨、五月雨(さみだれ)の日々のさなかであります。


その不思議さは、きっと、こういうことではないだろうかとも思うのです。


我が国では、物質としての陽の働きを雲が隠し、そのことによって、靈(ひ)としての陽、陽の陽たるところ、陽の本質を感覚することこそが、人の生き方を導くものであったということです。


「お天道さま」と昔の人が言うとき、それは陽の神さまのことを言っていたはずですし、時代が下るにつれて、高い意味での「良心」のことを言うようになって来ました。


そして、いま、わたしたちへの良心のささやきは、まさしく、高いわたし、〈わたし〉からの声であると、はっきりと知る時代に入って参りました。


〈わたし〉とは、そもそも、陽(ひ)であり、靈(ひ)であったということも、やがて知るようになります。


「お天道さまがみているよ」ということば。


それは、「他の誰でもなく、このわたしのわたしたるところ、〈わたし〉がわたしをみているよ」という意識からのことばへと育って参ります。


雨雲に覆われる、この夏至からの日々、旧暦では、皐月(さつき)の後半、わたしたちはだからこそ、積極的に、隠されている「お天道さま」を、星々の彼方にまで拡がっている「〈わたし〉」を、探し求めます。


太平洋に面した極東に位置するこの国において、自然の条件が織りなすわたしたちの生き方、暮らし方。そしてそこに通い続けている靈(ひ)の働き。


そのことをアントロポゾフィーを学びつつ生きているわたしたちは、これから、新しい意識からの「祭りづくり」をもって育んで行きます。




そして、本来の日本の夏のお祭りである、七夕の節供については、新暦の八月のはじめごろ、また、書いてみたいと思います。


西洋とは異なり、夏のお祭りをおおよそひと月半ほどずらして、新暦の八月はじめ、旧暦の文月(ふみづき)七月七日に、澄み切った夜空に星々をはるかに臨みながら、わたしたちは日本の夏祭りを祝うことができるのです。





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2024年06月06日

幼な子の夢見る意識を守ること



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幼い子どもたちの夢見るような意識。


そんな夢見るような幼な子の意識をできるかぎりそのままにしてあげたい。


早急に意識の目覚めをさせてしまうことは、知性の早すぎる目覚めを同時に促してしまいます。


知性の早すぎる目覚めは、幼い子どもたちに特有の手足の動きをもって大人の振る舞いやことばを見よう見まねで習得していく力、すなわち、真似る力を失わせ、はやばやと自分の頭で考えさせるようになってしまいます。


「下手の考え、休むに似たり」と昔から言います。


小さな頭でこざかしく考えることなど、なにほどのことでもない、ということを子どもや若い人たちに教えることは大切なことです。そのこざかしさは、生涯にわたる禍根を残し、世に災いを与えてしまいます。そのこざかしさは、悪知恵になるからです。


むしろ、考える力が本来出て来るべき9、10歳あたりまでは、周りを真似る力、手足を用いて行う力をふんだんに育んでやることが大切です。


そうして、そのあとから、ふさわしい導きによって子どもたちの考える力を育んでやることができるなら、その力は子どもたちの中で、やがて、活き活きと育つ植物のように健やかに育ち、本質的なことを明瞭に考えることのできる、こころの強い芯、高く太い樹木となるでしょう。


自分自身が考えることに信頼のおけることほど、大切なことはありません。


その考える力には、促成栽培にはない、自然な成長の力、いのちの力、意欲の力が通っていることを実感するからこそ、その生命に対して信頼を置くことができるのです。にせものではなく、本物のいのちに対するおのずからな信頼です。


その考えに通う生命の力こそが、幼児期における夢見るような意識の保護によって育つのです。


また、幼児期に、夢見るような意識が守られ、だからこそ、見えないものを観る力を大切に暖め続けることができた子は、きっと、小学生や中学生になって行っても、意志や意欲の強い子になります。そして、大人になって、自分自身でみずからのこころを決めることのできる力を持つ人になりゆきます。


いま、「何が正しいことか分からない」と言う大人の声をこれほど多く聞くことになるとは、という忸怩たる思いでいます。


それは、自分自身で考えて、自分自身でみずからのこころを決められない大人の嘆きの声のように思えるのです。


それは、多くの国民の受けて来た幼児期から始まる教育からの、必然的な帰結です。


もう、これ以上、このような教育を続けて行っては、社会そのものが立ちゆかないことをはっきりと意識していい時が来ています。学校の先生だけに教育を任せていていい時代は過ぎ去っています。


だから、この2020年代からは、ひとりひとりの大人が、未来の社会を担う子どもたちや若者たちを育てて行くために、自分自身が何ができるのかを考えて行くべき時だとわたしは考えています。


本当に、考えて、何か、実際に、始めて行きたいと思います。





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2024年06月02日

メディテーションのことばと言語造形



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メディテーション(瞑想)において内に響かせられることばは、お日様に向かう花弁のように、こころに靈(ひ)を取り入れる入り口になります。


そして、ことばづくり(言語造形)で養われることばの感官(言語感覚)は、メディテーション(瞑想)するときにおいて、とてもたいせつなものです。


ことばに意味だけを求めるのではなく、その響き、リズム、動き、かたち、バイブレーションをありありと見て、聴いて、感覚する。


その機能と器官が、ことばの感官です。


このことばの感官が、日常のことばの世界を離れた、靈(ひ)の力を呼び集めてくれます。ことばづくり(言語造形)はこの感官を養います。


そして、日本人は、和歌や俳諧などことばの芸術を通して、ずつと、この「ことばの感官」を養い続けてきました。


また、この感官は、みずからの動きを感覚する動きの感官(運動感覚)と表裏一体のものですので、からだの動きを養うことでもあります。


しかし、この動きというものが、静かさ、安らかさと共にある。


せわしなく動きまわるのではなく、静かさが動いている。


そういう感官の働きを養います。


日本の神話に、「天(あめ)の安(やす)の川」という川が、出てきますが、あの高天原(靈の世)に流れている川は、弥(ゐや)進む川、流れ流れて流れつづける川でありつつ、その流れは安らかで、しずかなのです。


靈(ひ)とは、常に、一瞬も休むことなく動き続けていますが、しずかさを失わず、光が凄い勢いで流れている。


そのいのちの靈の流れは、人の疲れて病んだこころとからだを癒し、生命力を甦らせるのです。


そんな靈の流れ、天の安の川の水と共に、言語造形をしていきたいと思います。


滞らずに、安らかに、動きの中に入って行く。


それこそが、こころに健やかさをもたらし、また、人体の免疫力を上げる上で、とてもたいせつなものです。


メディテーション(瞑想)、そしてことばづくり(言語造形)。


それは、靈から生まれて来る学びと芸術です。






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2024年05月24日

音楽家ツェルターに宛てた手紙から ゲーテ



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ひと呼吸ごとに、エーテルのいのちの流れがわたしたちの内に染み渡る。


すると、喜びがほどよく拡がり、苦しみがほとんど消え去ってしまう。


そのことを想ってみるがいい。



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ゲーテも、メディテーションとコンセントレーションのいかなるかを知っていました。


それは、物理的な息遣いから、靈(ひ)による光の息遣いの働きへのなりかわりをリアルに感覚することなのです。


毎朝の営みが、今日という一日に健やかさをもたらします。


こつこつと続けることだけを、みずからに課す、どこまでも自由なる行いです。








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2024年05月21日

『神秘劇』(シュタイナー作)より



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種子は力を秘めている。


その力は育つ植物にどう育つべきかを教えますか。


いいえ、教えるかわりに、植物のうちに生きた力として働きます。


わたしたちの理念も教えではありません。


教えるかわりに、わたしたちの営みそのものとなり、いのちを沸かし、いのちを解き放つにいたります。


わたしにしても、そうして理念の数々をものにして来ました。


だからいま、ひとつひとつのことに生きる意味が汲み取れます。


生きる力ばかりか、わたしはものごとを見る力をも得ています。


子どもたちを育てることにも希望があります。


これまでのやうに、ただ仕事ができる、ただ外面で役立つだけではない、内面で釣り合いがとれる、満たされたところを保って生きていける、そんな人へと育って行ってほしいのです。





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2024年05月19日

日本における聖き靈(ひ)の降り給ふ祭り(聖霊降臨祭)



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エル・グレコ『聖霊降臨』



今日といふ日は、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭り(聖霊降臨祭)の日です。


新約聖書の中にある『使徒行伝』によると、十字架刑のあと、キリストが甦りし後の五十日後に、ひとところに集まつて一心に祈りを捧げてゐたひとりひとりの弟子の頭の上に、炎の舌のすがたをもつて聖き靈が降り給ひ、その靈に満たされたひとりひとりが、キリストのことばを国々のことば(己れのことば)で語り出したのでした。


炎。聖き靈。ことば。


ひとりひとりが、借り物でない己れのことばで、生きることの理想を熱(炎)をもつて語る。キリストのこころざしを語る。


それは、その人を自由へと導きます。その人をその人にします。


ひとりの自由なる人の祭り。聖き靈の降り給ふ祭り。今日からその日が始まるのです。


日本においては、旧暦における五月五日の端午(菖蒲)の節句を祝ふことと軌を一にしてゐます(新暦では毎年、旧暦五月五日にあたる日が変はります)。


菖蒲の葉がりんと天に向かって立つこと、そして鯉のぼりの幡が空に向かってまっすぐに立つこと。


それは、そもそも、すべての子どもの健やかな成長を願ひ、いつの日か自分自身の足でまつすぐに立つその子に、聖き靈が降り給ふやうにと願ふ親たちの祈りの表れです。


それゆゑ、旧暦五月五日の節句をわたしたちは聖き靈の降り給ふ祭りとして祝ふことができます。


わたしたちは、全く新しい意識で、旧暦の五月五日の節句(新暦では今年は六月十日)に向けて、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭り(聖霊降臨祭)として、この三週間余りの間、ひとりの自由なる人の祭りを静かに祝ふことができます。





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2024年05月11日

教員養成講座 受講生のことば



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二年前のプレ講座からずっと引き続きシュタイナー教員養成を受講して下さった大河原芙由子さんが、この二年間のことを言語化して下さいました。

このアントロポゾフィーの学びは、消化するのに、何年も何十年もかかるものです。その学びを静かに深く受け止めて下さっていることが分かります。

わたしたちは、かけるべき時間を「ゆっくり」とかけることに、これからは意識的になって行っていいと思うのです。



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5月のGWの3日間をもって、約2年にわたるシュタイナー教員養成課程が終わりました。
3日間の対面講座が8回、そしてオンラインクラスが毎週1回、本当に、本当に深い学びの時間でありました。
幼な子がどのように成長していくか。
最初の7年は身体をたっぷり使い欲する働きを育み、次の7年は胸の領域を使い感じる働きを、14歳からの7年は頭に働きかけて考える働きを育む、といった子どもの成長や教育はもちろんですが、なんといっても、子どもの前に立つ、私たち大人がどのように在るか、深い呼吸をしているか、人間とはいかなるものか、この世はいかなるものか、それらをおおいに学びました。
座学は毎回、さまざまなこの世や人生の事象が、実に有機的にシュタイナーの”人智学”により受け止められることに感動し、また、知的好奇心を掻き立てられ、一言も聴きもらすまいと全身をそばだてました。
そして芸術体験。
古事記、和歌、詩などの言葉を空間に立ち上らせる「言語造形」
身体で言葉の音韻を味わい表現する「オイリュトミー」
色そのものを味わう「水彩」
響きを味わう「音楽」
彫塑、自然観察、手仕事等々、”感覚の修練”もたっぷり行いました。
たくさんの学びがありすぎて…。
しかし、一番は、私が私であること、また、人生にはさまざまなことが起こりますが、それらをどう”仕立てるか””物語るか”の学びが大きかったでしょうか。
そういったことを、頭で知るだけではなく、学びが2年間日々の生活の中にあったので、ほんとうに日々の生活の中の修練(修行)として実践に努めてきました。
といっても、頭では分かっても心がついてかなかったり、なかなかうまくはいきませんので、まだまだ学びの細道の途上にいますが、でも、道の入り口からは道の中にだいぶ進みましたので、あとは歩んでいくのみです。
私的には、最後に学んだシュタイナーの「社会三分節」も非常にツボでありました。社会をどう考えるか。精神の世界がまずあって、そこから法・政治の世界、また、経済の世界に精神が流れ込んでいくという連関。また、「政治」とは、調和をつくる、胸・心の領域であるということ。
「慮る」という言葉が先生から出たのも唸りました。
「慮る」とは、大学で政治学を学んでいた際に、政治とは何か?という問いをずっと持っていて、当時の恩師の佐々木毅先生の著書や論文をひたすら読みまくって、たどり着いた言葉だったのです。
教員養成講座をずっと導いてくださった諏訪耕志先生、主催された仙台市中山にある「おひさまの丘宮城シュタイナー学園」の福島先生たち、そして一緒に学んだ仲間の皆さん、本当にありがとうございました。
講座が終わっても私は一生この学びを続けていくつもりでしたが、なんと有志で引き続き、シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』から学んでいく時間が週1回持たれることになりました。今後もたのしみであります😌🕊🌿



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2024年04月24日

アントロポゾフィーを分かち合う場



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本当にたいせつなものは、眼にはみえないんだよ。


『星の王子様』でサン=テグジュペリが書き記したことばで言い表そうとしていることを大の大人たちがまごころから受け止めて、語り合い、学び合うこと。


シュタイナーのアントロポゾフィーの学びの場は、そういう場です。


そこで交わされることばを介して、こころとこころが出会い、触れ合うことができる。また、おのおののこころが靈(ひ)へと昇りゆき、降りゆく道を探ることができる。


人と人とが互いのそばを通り過ぎず、眼差しを交わし合いながら、「本当にたいせつなもの」を学ぶために集う場。


そのような場を、ひとつ、またひとつと育ててゆくことが、これからの時代において欠かせないことです。


20世紀はじめに生まれたアントロポゾフィーという靈(ひ)の学びは、100年経った今、そしてこれからこそ、ますます必要とされます。


そして、その学びの場を育ててゆくことの必要性も実感します。


それは、ひとりひとりの人を敬うことから、この学びが始まり、場の運営もすべて、そこから始めているからです。


敬うこと、それは、ひとりわたしの内なるひめやかなこころの営みです。


それは、学びそのものへの敬いであるからこそ、おのずから、その学びの場に集う仲間に対する敬いへとこころのハーモニーが広がってゆきます。


その敬いと信頼が場という場に欠かせないものなのだという意識をもって、学びが深められていくこと。そして、人の集いが創られていくこと。


それが、アントロポゾフィーという靈(ひ)の学びが現代人にもたらそうとしている、精神文化なのです。



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滋賀県草津市での毎月第三火曜日午前のアントロポゾフィークラス。このクラスも発足して七年になります(皆さん、ありがとう!)。


アントロポゾフィーの学び、ともにやって参りませんか。お近くの方、ぜひ、いらして下さい。


お申し込みは、諏訪まで。
学びのための詳しい場所をお伝えします。


ご参加費は、一回の体験ご参加は3600円。その後、4回連続のご参加で12400円です。


内容は、そのつど、こころの育みをテーマにしながら、学びを深めて参ります。







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2024年04月22日

アントロポゾフィーという練習の道



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シュタイナーの『こころのこよみ』の学びを毎週日曜日の夜、クラスの皆さんと進めています。


ことばの息づかいと響きをたいせつにしながら言語造形を通して詠み味わってゆくと、オンラインのクラスであるのにもかかわらず、空間にひろがる感覚が、頭へではなく、我がこころと胸に何かを語りかけてくれるのを覚えることができます。


その感覚を受けとる「ことばの感官」。


それは、聴く感官(聴覚)ではなく、ことばのことばたるところを受けとる感官なのです。


その感官が育まれることによって、わたしたちは靈(ひ)のことば、言靈(ことだま)というものを覚えることへとゆっくりと導かれてゆきます。


そして、響きと意味、感覚と思考、欲することと考えること、迎えることと向かうこと、こころの内のこの両極のふたつの営みが重なり、わたしたちのこころに釣り合いをもたらそうとしてくれているのを感じるのです。


そういう学びを深めてゆくに従って、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』における「ひめやかな学び」がたいせつなものであることが、こころに沁みるように感じられます。


このように、『こころのこよみ』がもたらす靈(ひ)の働きを確かに受けとることと、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』のひめやかな学びとが、こころの深みで繋がりあっています。


その繋がりは、次のようなことをもたらそうとしてくれます。


「靈(ひ)が生きてある」ということへの実感と理解。


そして、その実感と理解の重なりを、暮らしに注ぎゆくこと。


実際に、靈(ひ)の生活を毎日育んでゆくこと。


アントロポゾフィーは、理解への道だけでなく、「練習の道」を21世紀のわたしたちに提示しています。








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2024年04月21日

ことばが甦るとき



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魚屋さんが魚を仕入れて、それをさばく。大工さんが木材にかんなをかけ、のこぎりをあてる。彼らは自分の仕事のために魚を素材にし樹木を素材にします。


自分は、言語造形という仕事のために、ことばを素材にしています。声にして発せられることばを素材にしています。


ただ、普段の日常生活の中や、日々の仕事の上で発せられる大抵のことばは、頭で考えられ分別から組み立てられることばで、それはそうであってこそ、ことばは生活を潤滑に運ぶために役に立ちますし、そのようなことば遣いは人間の生活になくてはならないものです。


仕事の上で守るべきマニュアルに沿って発せられる台詞や、なんとか利益を上げるため、人の気を引くために繰り出される巧みなトーク。時間を守って、上の人の言うことを聞いて、できるだけ失礼のないように、頑張って、人は、一生懸命、ことばを話しています。


しかし、その分別からのみ発せられることばばかりだと、それを発している人自身の生命がだんだんと枯渇してくるのです。


そのことばは実は死んだことばだからです。生活の役に立つのですが、それらのことばは死んでいます。死んでいるからこそ、人の思惑に沿っていかようにも操作でき、生活や仕事の役に立つのです。生き物だと自分勝手に操作などできません。


人の頭は死した部分で、別の言い方をすれば、もう完全に出来上がっている部分なのです。頭骨で固く閉じられた部分なのです。
その頭の中の操作から繰り出されることばは、どんなに威勢のいいことばであっても、死んでいます。


物質世界をひたすらに効率よく生き抜いていくために欠かせないことば遣い、それが頭から発せられることば遣いです。しかし、それは、だんだんと人をも死の方向へと促してしまいます。


だからこそ、人は芸術から発せられることばを求めます。死から生への甦りを乞い求めるがゆえにです。それは、手足の動きから生まれることばです。手足の動きがあるからこそ、呼吸がより活き活きと促されます。呼吸が活き活きとしてくると、おのずとことばを話す時の表情も豊かになります。そんな風に表情豊かにことばを発していると、自分自身が生まれ変わったような新鮮なこころもちに包まれているのをそこはかとなく感じたりもします。


人は折をみて、そのようなことばの発し方に触れることによって、生きていることばの世界に入るのです。


言語造形の練習をする上でのまずもっての次第は、四の五の言わずに、そんな生きていることばの世界に飛び込んでみることから始まります。動きの中でことばを発してみるのです。そのことから練習し始めます。


そして、何年にもわたってだんだんと練習を重ねていくにしたがって、呼吸ということの秘密に気づき始めます。


吸う息によって、人の意識は上なる天に昇り、光の領域に至ります。そこで、いまだ耳には聴こえはしないけれども、ことばのもとなるいのちの響き、靈(ひ)の響きに出逢います。


そして、息を吐きつつ、人はその光の領域でのことばとの出逢いを引っさげて地に降りてきます。更に吐く息を通してことばを発声することによって、外なる空気(風)の中にことばと自分自身を解き放つのです。


そのように、呼吸によって天と地を行き来することを通して、人は光が織り込まれた風の中にことばとひとつになって生きるのです。その時、ことばは死んだものとしてでなく、いのちが吹き込まれ、甦ります。


いのちを吹き込まれたことばは、人の思惑などを遥かに超えて、ことば本来の輝きを発します。


だからこそ、その甦りは、人を活気づかせ、健やかにし、こころに喜びと感謝と畏敬の念いをもたらします。


言語造形を体験して、上記の内なるプロセスを意識をすることはないとしても、活気ある喜びを感じる人は多いと思います。


さて、ルードルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーは、きっと、こう語っています。(出典が何だったのか思い出せず、すいません)


風と光が織りなす中での、そのようなことばの甦りにおいて、わたしたちは、亡くなった人や、天の使いの方々、更に高い世の方々が受肉する場をその都度設えているのだ、と。


ことばとことばの間(ま)、余韻の中、沈黙の中にこそ、キリスト的瞬間、キリストの復活的瞬間が生まれる、と。


そして、この日本という国では、その「間、余韻、沈黙」に宿るものを「言靈(ことだま)」と言い慣わして来ました。


そういった肉の眼や耳には捉えられない方々の働きかけと、わたしたちが感じる活き活きとした喜びとの間には、きっと、深い関係があって、ただ、そういうことを机上で考えるのではなく、繰り返される練習や体験の中でのみ聴き取るがごとく受け取っていく。感覚していく。


その練習の繰り返しは、わたしたちに、無私を要求します。空(から)の器になることを要求します。瞑想から生まれる志(こころざし)を要求します。


アントロポゾフィーから生まれた教育芸術、そしてその芸術への志願者に与えられる教員養成というものも、また、無私になりゆくひたすらな稽古、練習、実践によってこそ、なりたってゆくものなのです。


魚屋さんも大工さんも、人の仕事とはすべてそのような練習の繰り返しからおのずと生まれる無私への道です。






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2024年01月06日

破壊のかまど



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今日の1月6日という日は、太陽の神キリストが、洗礼者ヨハネによる洗礼によって、当時30歳だった青年イエスに降り給うた日でありました。


そして、幼な子イエスがお生まれになった12月24日の深夜からこの1月6日までの12日13夜こそがクリスマスのときだと、ルードルフ・シュタイナーは語っています。


今日が、クリスマスの最後の日だったのですね。


この1月6日という日において、何を感じ、何を生きることができるか。そのことをわたしもまた意識して、今日という一日を過ごしていました。


今日掲載しましたシュタイナーによる『こころのこよみ 第40週』のことば通りでありました。


それは、己れであることの虚しい想い込みが、世のことば(キリスト)の炎によって焼き尽くされる、というこころの内なる事態です。


こころには、通常、鏡が張り付いていまして、大抵、日々の物質的な外界から受ける感覚や刺激、または物質界におけるこれまでの人生の中の記憶や知識などが、その内なる鏡面に写っています。


しかし、わたしたちは、そのこころに張り付いている鏡を打ち破ることによって、日々の当たり前の意識のさらなる奥に、何かが流れ、息づいていることを感覚するのです。


その何かが流れ、息づいていることに対して、様々な言い方ができるとは思うのですが、その場のことを、シュタイナーは『こころのこよみ 第40週』では「靈(ひ)の深み」「こころの基」と言っていますし、ある講義では「破壊のかまど」と言っています。


なぜ、「破壊」なのか。


それは、自分自身で勝手に想い込んでいる自分自身の像、記憶、判断、知識などというものが、実は、本当に、虚しい想い込みに根付いているものに過ぎなくて、それらが炎に焼き尽くされて、初めて、人は、本当の生を生き始めることができるからなのです。


その炎は、キリスト、太陽の神からの炎であること、とりわけ、1月6日に、強く激しく受け取るのです。





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2023年12月30日

冬、それは見えないものを考える季節



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クリスマスの日の空から観た富士山


「いま、何時だろう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」「車のローンの返済を今月の末までにちゃんと済ませなきゃ」・・・。


わたしたちのふだんの考える力は、そのように、目に見えるもの、物質的な事柄に対して、使われることが多いのではないでしょうか。


そのときの考える力は、特に意志の力を要せず、事柄と事柄を頭の中で結び付けるぐらいで、外からやってきたものを内に受けとり、適度に消化し、あとはすぐに外へと流していくことに仕えている、とも言えます。


また、目に美しいもの、心地よいもの、快をもたらしてくれるものが周りにある時、それらを味わい、享受するのに、取り立てて考えるまでにも及ばず、特に努力は要りません。


しかし、この冬のとき。


たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。それらをじっと見つめながら、こころの内で、考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込んでみます。


来たる春や夏に咲きいずるはずの、目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、その木というものの命に精神の眼差しを向けてみます。そうすると、その寒々しかった冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないでしょうか。


植物存在に限らず、わたしたちは、何かを失ってしまったとき、何かが自分の前から往き去ってしまったとき、目を逸らさずにその空隙をじっと見つめながら、新しく訪れるもののことを考え、想い描くことによって、我がこころに新しく清らかな息吹きを感じることができはしないでしょうか。


そういう、考える練習をしていますと、やがて、自分の内に、決して失われることのない〈わたしがあること〉への情、「己れであること」の情が育って来るのです。自分自身への信頼が育って来るのです。


アントロポゾフィーの眼目が、ここにあります。このクリスマスの時期に集約的にこのような内なる練習することが、アントロポゾフィーの本質を自分自身の内に打ち樹てていくことになるように思います。


それぐらい、考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみますと、その考えられた考えが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものや事柄の内に通っているかのような、活き活きと命を漲らせたものになって来ます。


考える力を、そのように、感官を超えたもの(目に見えないもの)に意志をもって向けていくことによって、わたしたちは内において、ひとつひとつの考えを、自然界に写る死んだ影の像から、精神における命ある像に転換できるのです。


死を生に転換できる。


そして、その考える力によって、わたしたちみずからも活き活きとして参ります。その活き活きとして来るわたしに、「わたしがあること」「己れであること」の情が、呼び覚まされて来ます。


この情は、おのずから生まれるのではなく、このようにして、ひとりひとりの人がみずから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情です。


「わたしがあること」「己れであること」の情とは、みずからに由るという情、「自由」の情です。


その情が我がこころに育っているからこそ、きっと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいが生まれはしないでしょうか。家族との語らいの中や、店先でのちょっとした受け答えの中などで・・・。


たとえ闇に覆われているように見える中にも、輝いているものや、輝いている人、そして輝いている「わたし」を見いだすことができないでしょうか。


「わたしがある」「己れである」という情、「おさな子」の情を育みつづけるならば。


この冬、年末年始にかけて、そのことをメディテーションする(追って繰り返しアクティブに考える)ことができ、生活の中で確かめて行くことができます。





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2023年12月22日

本を通して自由になるといふこと



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今日の午前中、『人と世を知るということ テオゾフィー』(ルドルフ・シュタイナー著 鈴木一博訳)を明日の講座に備へて読んでゐました。


この本も、やはり、数へ切れないほど読んでゐるのですが、そのたびごとに、こころが整へられることを覚えます。からだのこと、こころのこと、さらには精神・靈(ひ)のことにいたるまで、ひたすらに論理的に書かれてゐるので、読むうちに我がこころが浄められて来るのです。


さらに言ふなら、通常のこころのモードでは足りず、ずいぶんとこころのアクセルを踏んで馬力を出し、胆力を籠めて一文一文を舐めるやうに読んでゆく意志の力、欲する働きをもつて読むことで、この本がまこと愛することのできる本になるのです。


そのとき、読んでゐるわたしがわたし自身を見つめながら読むことにおのづからなり、本の中にわたしが入つてゆくやうな感覚が生まれます。


序文にかうあります。


わたしたちの時代において習いとなっている読み方では、この本を読むことができない。それなりの重なりにおいて、どの頁にしても、多くの文にしても、読む人がその人のする働きによって、その人のものにすることを要するようになる。そもそも、そのようにしてこそ、この本は、読む人にとり、その人にとってなるべきところとなりうる。この本のまことのかずかずは、生きられることを要する。精神の学が値を有するのは、ひとえにその意味においてである。


惚れぼれとする文章です。


読む人が己れを見てとり、験(ため)すことによつて、本が本としてなりたつて来る。


さらに、その本を内において生きることによつて、その本がまことの本としてつくられていく。


そして、重要なこととして次のことが言へるやうに思ひます。


それは、そのやうに本と自分自身との関わりを親しく深めていくことによつて、そこに書かれてある内容に逆に縛られなくなつて来る。


いい加減に上つ面だけで読んでゐると、「シュタイナーはこう言つてゐる、ああ言つてゐる」と言ひ募るやうになり、なんらかの権威主義に陥り、自分自身を見失ひ、借り物のことばを喋々するやうになる。


何かを学び取らうとするときは、本の著者とその本の精神を真つ向から信頼して、腰を据ゑて対象に取り組み続けることによつてのみ、きつと、人は自由になりうる。その人自身にますますなつてゆく。


不思議な逆説ですが、このことは真実だとわたしは実感してゐます。








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2023年12月21日

クリスマス・新嘗祭への備え 〜いのちの営みにときめく胸〜



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たとえば、米粒のようなほんの小さなものでも、そこにはいのちが宿っている。その一粒の米粒に、こころからじっと向き合ってみる。こころを込めて、そのものに意を注ぎ込んでみる。そのいのちの営みに、眼差しを注ぎつつ、受動的でなく、積極的にいのちの法則に沿って考える働きを重ねてゆく。一粒萬倍に稔りゆくすがたを想い描きながら、「いのちは繰り出す」という考えをありありと抱きつつ、その一粒の米粒を見つめ続ける。


すると、我が胸が、心臓が、その考えに促され、ときめき始める。感情が呼吸を始める。その情の息づかい、そのときめきを育ててゆくことが、クリスマスという聖き夜に向かいゆくための備え。


古来わたしたちのご先祖様たちが旧暦11月23日の新嘗祭(にいなめのまつり)という祭りを迎えるためになしていた備え。


新暦という今の数え方だと、2024年1月4日がその日だ。まさに、クリスマスの時(12月24日の夜から1月6日の朝まで)に重なる。


新嘗祭は、クリスマスの祭りであった。


クリスマス、そして昔の新嘗祭は、ひとりひとりの人の胸の奥深くに、真新しく清らかな幼なごころ、まごころ、靈(ひ)の生まれ出づる時。陽の神イエス・キリスト、歳神さまが生まれ出づる時。


その幼なごころ、初心をもって、「ありがとうございます」、そして「おめでとうございます」と述べあう時。





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2023年08月13日

むすんでひらいて



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するか、しないか。かうするか、ああするか。


人には、みづからのこころを決める力があります。


その、こころをみづから決める力は、しかし、育まなければ、いくつになつても得られません。


これは、若いころからの練習に懸かつてゐるやうに思ひます。さらには、幼いころからの親や教師からの働きかけも大いに深く関はつてゐるやうです。


アントロポゾフィーからの子どもへの教育においては、次のやうに、はからひます。


なんでもかんでも親や教師が外から「ああしろ、かうしろ」と指図するのではなく、その、こころを決める力がひとりひとりの子の内側から、だんだんとゆつくり生まれて来るやうに。


さう、だんだんとゆつくり、ですので、小学生時代から子どもに大切なことについての判断をさせたり、こころを決めさせたりはしません。ゆっくりと、ゆっくりと、やがて思春期を経て二十歳前後にその判断する力、みずからこころを決める力が熟して行くことを促して行きます。


早産させず、かけるべき時間をかけて、待てばこそ、生まれて来るものは、健やかで力強いのです。


そして、人は、二十歳ぐらいから、みづからのこころをみづからで決め始め、おずおずとながら、世へと踏み出して行くのです。


幼い頃から、小学生の頃あたりまで、何でも「自分で考へなさい」とか「自分のことでしよ、自分で決めなさい」と親や教師から言はれて来た子どもは、大人になつてから、逆に、自分自身では何も決めることができない大人になつてしまひます。


何らかの権威の後ろ盾がなければ、ものごとを判断することのできない、判断力の弱い人にならざるをえないのです。


判断力の早産の結果なのです。


ちなみに、ドイツ語では、「こころを決める、みづからを決める」といふことばは、「sich(みずからを) erschließen(まさに結ぶ)」となります。


そして、「開けてくる」といふことばは、「sich(みずからを) entschließen(結びからほどく)」となります。


「こころを決める、こころをむすぶ」と「こころがひらける、ものごとがひらける」とは、対になつてゐるやうです。


対になつてゐるふたつのことばは、精神のいのちの流れにおいて深いところで繋がつてゐます。


人は、みづからこころを決めればこそ、初めて、自分自身も啓けて来、また世界も開けてくるのですね。


こころを決める時、ものごとがひらかれ、自分自身のこころがひらかれるからこそ、腹も座るのでせう。


いま、そして、これから、ますます、大人であるわたしたちこそが、右往左往することから抜け出し、みづからで、みづからの、こころを決める力を培はなければならないと思はれてならないのです。


その力は、暮らしの中で、ひと場面ひと場面ごとに、自分はどう考へるか、どう感じてゐるか、どうしたいかを、意識することによつて、まづは育つてゆくものであり、それは、まぎれもない〈わたし〉の力です。


その〈わたし〉の力が、世を啓きます。





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