[アントロポゾフィー]の記事一覧

2024年01月06日

破壊のかまど



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今日の1月6日という日は、太陽の神キリストが、洗礼者ヨハネによる洗礼によって、当時30歳だった青年イエスに降り給うた日でありました。


そして、幼な子イエスがお生まれになった12月24日の深夜からこの1月6日までの12日13夜こそがクリスマスのときだと、ルードルフ・シュタイナーは語っています。


今日が、クリスマスの最後の日だったのですね。


この1月6日という日において、何を感じ、何を生きることができるか。そのことをわたしもまた意識して、今日という一日を過ごしていました。


今日掲載しましたシュタイナーによる『こころのこよみ 第40週』のことば通りでありました。


それは、己れであることの虚しい想い込みが、世のことば(キリスト)の炎によって焼き尽くされる、というこころの内なる事態です。


こころには、通常、鏡が張り付いていまして、大抵、日々の物質的な外界から受ける感覚や刺激、または物質界におけるこれまでの人生の中の記憶や知識などが、その内なる鏡面に写っています。


しかし、わたしたちは、そのこころに張り付いている鏡を打ち破ることによって、日々の当たり前の意識のさらなる奥に、何かが流れ、息づいていることを感覚するのです。


その何かが流れ、息づいていることに対して、様々な言い方ができるとは思うのですが、その場のことを、シュタイナーは『こころのこよみ 第40週』では「靈(ひ)の深み」「こころの基」と言っていますし、ある講義では「破壊のかまど」と言っています。


なぜ、「破壊」なのか。


それは、自分自身で勝手に想い込んでいる自分自身の像、記憶、判断、知識などというものが、実は、本当に、虚しい想い込みに根付いているものに過ぎなくて、それらが炎に焼き尽くされて、初めて、人は、本当の生を生き始めることができるからなのです。


その炎は、キリスト、太陽の神からの炎であること、とりわけ、1月6日に、強く激しく受け取るのです。





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2023年12月30日

冬、それは見えないものを考える季節



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クリスマスの日の空から観た富士山


「いま、何時だろう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」「車のローンの返済を今月の末までにちゃんと済ませなきゃ」・・・。


わたしたちのふだんの考える力は、そのように、目に見えるもの、物質的な事柄に対して、使われることが多いのではないでしょうか。


そのときの考える力は、特に意志の力を要せず、事柄と事柄を頭の中で結び付けるぐらいで、外からやってきたものを内に受けとり、適度に消化し、あとはすぐに外へと流していくことに仕えている、とも言えます。


また、目に美しいもの、心地よいもの、快をもたらしてくれるものが周りにある時、それらを味わい、享受するのに、取り立てて考えるまでにも及ばず、特に努力は要りません。


しかし、この冬のとき。


たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。それらをじっと見つめながら、こころの内で、考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込んでみます。


来たる春や夏に咲きいずるはずの、目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、その木というものの命に精神の眼差しを向けてみます。そうすると、その寒々しかった冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないでしょうか。


植物存在に限らず、わたしたちは、何かを失ってしまったとき、何かが自分の前から往き去ってしまったとき、目を逸らさずにその空隙をじっと見つめながら、新しく訪れるもののことを考え、想い描くことによって、我がこころに新しく清らかな息吹きを感じることができはしないでしょうか。


そういう、考える練習をしていますと、やがて、自分の内に、決して失われることのない〈わたしがあること〉への情、「己れであること」の情が育って来るのです。自分自身への信頼が育って来るのです。


アントロポゾフィーの眼目が、ここにあります。このクリスマスの時期に集約的にこのような内なる練習することが、アントロポゾフィーの本質を自分自身の内に打ち樹てていくことになるように思います。


それぐらい、考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみますと、その考えられた考えが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものや事柄の内に通っているかのような、活き活きと命を漲らせたものになって来ます。


考える力を、そのように、感官を超えたもの(目に見えないもの)に意志をもって向けていくことによって、わたしたちは内において、ひとつひとつの考えを、自然界に写る死んだ影の像から、精神における命ある像に転換できるのです。


死を生に転換できる。


そして、その考える力によって、わたしたちみずからも活き活きとして参ります。その活き活きとして来るわたしに、「わたしがあること」「己れであること」の情が、呼び覚まされて来ます。


この情は、おのずから生まれるのではなく、このようにして、ひとりひとりの人がみずから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情です。


「わたしがあること」「己れであること」の情とは、みずからに由るという情、「自由」の情です。


その情が我がこころに育っているからこそ、きっと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいが生まれはしないでしょうか。家族との語らいの中や、店先でのちょっとした受け答えの中などで・・・。


たとえ闇に覆われているように見える中にも、輝いているものや、輝いている人、そして輝いている「わたし」を見いだすことができないでしょうか。


「わたしがある」「己れである」という情、「おさな子」の情を育みつづけるならば。


この冬、年末年始にかけて、そのことをメディテーションする(追って繰り返しアクティブに考える)ことができ、生活の中で確かめて行くことができます。





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2023年12月22日

本を通して自由になるといふこと



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今日の午前中、『人と世を知るということ テオゾフィー』(ルドルフ・シュタイナー著 鈴木一博訳)を明日の講座に備へて読んでゐました。


この本も、やはり、数へ切れないほど読んでゐるのですが、そのたびごとに、こころが整へられることを覚えます。からだのこと、こころのこと、さらには精神・靈(ひ)のことにいたるまで、ひたすらに論理的に書かれてゐるので、読むうちに我がこころが浄められて来るのです。


さらに言ふなら、通常のこころのモードでは足りず、ずいぶんとこころのアクセルを踏んで馬力を出し、胆力を籠めて一文一文を舐めるやうに読んでゆく意志の力、欲する働きをもつて読むことで、この本がまこと愛することのできる本になるのです。


そのとき、読んでゐるわたしがわたし自身を見つめながら読むことにおのづからなり、本の中にわたしが入つてゆくやうな感覚が生まれます。


序文にかうあります。


わたしたちの時代において習いとなっている読み方では、この本を読むことができない。それなりの重なりにおいて、どの頁にしても、多くの文にしても、読む人がその人のする働きによって、その人のものにすることを要するようになる。そもそも、そのようにしてこそ、この本は、読む人にとり、その人にとってなるべきところとなりうる。この本のまことのかずかずは、生きられることを要する。精神の学が値を有するのは、ひとえにその意味においてである。


惚れぼれとする文章です。


読む人が己れを見てとり、験(ため)すことによつて、本が本としてなりたつて来る。


さらに、その本を内において生きることによつて、その本がまことの本としてつくられていく。


そして、重要なこととして次のことが言へるやうに思ひます。


それは、そのやうに本と自分自身との関わりを親しく深めていくことによつて、そこに書かれてある内容に逆に縛られなくなつて来る。


いい加減に上つ面だけで読んでゐると、「シュタイナーはこう言つてゐる、ああ言つてゐる」と言ひ募るやうになり、なんらかの権威主義に陥り、自分自身を見失ひ、借り物のことばを喋々するやうになる。


何かを学び取らうとするときは、本の著者とその本の精神を真つ向から信頼して、腰を据ゑて対象に取り組み続けることによつてのみ、きつと、人は自由になりうる。その人自身にますますなつてゆく。


不思議な逆説ですが、このことは真実だとわたしは実感してゐます。








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2023年12月21日

クリスマス・新嘗祭への備え 〜いのちの営みにときめく胸〜



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たとえば、米粒のようなほんの小さなものでも、そこにはいのちが宿っている。その一粒の米粒に、こころからじっと向き合ってみる。こころを込めて、そのものに意を注ぎ込んでみる。そのいのちの営みに、眼差しを注ぎつつ、受動的でなく、積極的にいのちの法則に沿って考える働きを重ねてゆく。一粒萬倍に稔りゆくすがたを想い描きながら、「いのちは繰り出す」という考えをありありと抱きつつ、その一粒の米粒を見つめ続ける。


すると、我が胸が、心臓が、その考えに促され、ときめき始める。感情が呼吸を始める。その情の息づかい、そのときめきを育ててゆくことが、クリスマスという聖き夜に向かいゆくための備え。


古来わたしたちのご先祖様たちが旧暦11月23日の新嘗祭(にいなめのまつり)という祭りを迎えるためになしていた備え。


新暦という今の数え方だと、2024年1月4日がその日だ。まさに、クリスマスの時(12月24日の夜から1月6日の朝まで)に重なる。


新嘗祭は、クリスマスの祭りであった。


クリスマス、そして昔の新嘗祭は、ひとりひとりの人の胸の奥深くに、真新しく清らかな幼なごころ、まごころ、靈(ひ)の生まれ出づる時。陽の神イエス・キリスト、歳神さまが生まれ出づる時。


その幼なごころ、初心をもって、「ありがとうございます」、そして「おめでとうございます」と述べあう時。





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2023年08月13日

むすんでひらいて



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するか、しないか。かうするか、ああするか。


人には、みづからのこころを決める力があります。


その、こころをみづから決める力は、しかし、育まなければ、いくつになつても得られません。


これは、若いころからの練習に懸かつてゐるやうに思ひます。さらには、幼いころからの親や教師からの働きかけも大いに深く関はつてゐるやうです。


アントロポゾフィーからの子どもへの教育においては、次のやうに、はからひます。


なんでもかんでも親や教師が外から「ああしろ、かうしろ」と指図するのではなく、その、こころを決める力がひとりひとりの子の内側から、だんだんとゆつくり生まれて来るやうに。


さう、だんだんとゆつくり、ですので、小学生時代から子どもに大切なことについての判断をさせたり、こころを決めさせたりはしません。ゆっくりと、ゆっくりと、やがて思春期を経て二十歳前後にその判断する力、みずからこころを決める力が熟して行くことを促して行きます。


早産させず、かけるべき時間をかけて、待てばこそ、生まれて来るものは、健やかで力強いのです。


そして、人は、二十歳ぐらいから、みづからのこころをみづからで決め始め、おずおずとながら、世へと踏み出して行くのです。


幼い頃から、小学生の頃あたりまで、何でも「自分で考へなさい」とか「自分のことでしよ、自分で決めなさい」と親や教師から言はれて来た子どもは、大人になつてから、逆に、自分自身では何も決めることができない大人になつてしまひます。


何らかの権威の後ろ盾がなければ、ものごとを判断することのできない、判断力の弱い人にならざるをえないのです。


判断力の早産の結果なのです。


ちなみに、ドイツ語では、「こころを決める、みづからを決める」といふことばは、「sich(みずからを) erschließen(まさに結ぶ)」となります。


そして、「開けてくる」といふことばは、「sich(みずからを) entschließen(結びからほどく)」となります。


「こころを決める、こころをむすぶ」と「こころがひらける、ものごとがひらける」とは、対になつてゐるやうです。


対になつてゐるふたつのことばは、精神のいのちの流れにおいて深いところで繋がつてゐます。


人は、みづからこころを決めればこそ、初めて、自分自身も啓けて来、また世界も開けてくるのですね。


こころを決める時、ものごとがひらかれ、自分自身のこころがひらかれるからこそ、腹も座るのでせう。


いま、そして、これから、ますます、大人であるわたしたちこそが、右往左往することから抜け出し、みづからで、みづからの、こころを決める力を培はなければならないと思はれてならないのです。


その力は、暮らしの中で、ひと場面ひと場面ごとに、自分はどう考へるか、どう感じてゐるか、どうしたいかを、意識することによつて、まづは育つてゆくものであり、それは、まぎれもない〈わたし〉の力です。


その〈わたし〉の力が、世を啓きます。





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2023年06月23日

ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ばたくとき



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ルードルフ・シュタイナーによる『ヨハネ福音書講義』を讀み續けてゐます。


新約聖書にある「ヨハネ福音書」。それは、前半と後半に構成が分かれてゐます。


前半が、洗禮者ヨハネに就いて。後半が、この福音書の書き手であるヨハネに就いて、です。


そして、いま、洗禮者ヨハネの誕生日(ヨハネ祭)を間近に控へるこの夏の日に、わたしたちは、キリストをキリストとして受け止めた最初の人、洗禮者ヨハネのことを改めて學んでゐます。


彼は、みづからを、「ひとりにて呼ぶ者の聲なり」と言ひました。(「荒野にて呼ぶ者の聲なり」はふさはしくない飜譯ださうです)


「みんなで呼ぶ」のではなく、「ひとりにて呼ぶ」のです。


この「ひとりにて」と云ふところに、新しい時代の始まりがあります。


そして彼は、たつたひとりにて、キリストを、世の光を、陽の神を、この地に呼びました。


そのことは、何を、わたしたちに教へるでせうか。


それは、意識の目覺めです。


聽き耳をたてるのは、この<わたし>ひとりです。


誰も、わたし自身に代はつて、神の訪れを告げてくれる者はゐません。


意識の目覺めを生きる人は、協力し合ひますが、群れません。


そのひとりの<わたし>の内も内にこそ宿るのがキリスト・世の光だ、とヨハネ福音書は語つてゐます。


世の光、陽の神は、いま、この大地に立つひとりひとりの人のこころの眞ん中に宿り、そこから、ヨハネの祭りのときを中心にして、夏の季節、廣やかな天空の彼方へと擴がりゆかうとします。おほよそ二千年このかた、毎年です。



古代に於ては、この夏のお祭りに於ては、洋の東西を問はず、燃え上がる炎と共に、歌ひ、踊り、舞ひ、祈りを陽の神に捧げてゐました。


その時には、イスラエルの國では葡萄の實から絞り出したワイン、尤も東の國、日本では、米から釀した酒によつて、その炎の祭りがいやがおうにも昂揚したものになりました。


その夏の祭りの時にこの世に生まれた洗禮者ヨハネも、神と人とを結ぶべく、燃えるやうな情熱をもつてヨルダン川のほとりにて人々に洗禮を授けてゐましたが、ただひとつ、古代から引き繼がれてきたものとは全く違ふ意識をもつてをりました。


それは、酒の助けを借りて昂揚するのではなく、意識を目覺めさせて、たつたひとりでことをなすことでした。


昂揚するとは、云はば、夢見つつ、神々しい天へと昇ること。


しかし、洗禮者ヨハネは、意識を目覺めさせることによつて、この大地にしつかりと足を踏みしめながら、天へと羽ばたく術を人々に與へてゐました。


それは、古代の在り方とは異なる、これからの人びとの夏の生き方を指し示してゐます。


さうして、つひに、冬のただなか(1月6日)にナザレの青年イエスが彼の前にやつて來たのです。


そのときから、お凡そ二千年が經ちましたが、そのやうな洗禮者ヨハネの生き方が、ゆつくりと、これからの多くの人の生き方になりゆくでせう。


わたしたちも、この夏、どう云ふ生き方をするかによつて、來たる冬の迎へ方が決まつて來るでせう。


一日の過ごし方によつて、人は、からだを滿たしたり、不滿を感じたりします。


しかし、人は、一年の過ごし方によつて、こころを滿たしたり、不滿を感じたりするのです。ひととせを精神に沿つて生きることは、こころを健やかにするのです。


ひととせを生きる。それは、こころの、ひとめぐりです。


そして、いま、夏を生きる。内的に。




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2023年05月29日

促成栽培的でない自己教育の道



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我が「ことばの家」の近くにある万代池の龍神様のお社


現代に生きる多くの人は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れることのできるもの、それらの範囲のものしか、その存在を認めない傾向があるように思います。


それは、もっともなことだと思われます。感覚できないもの、分からないもの、知らないものを認めることはできないのですから。


しかし、人は、自分自身の限界を拡げ、高め、深めて行くことができるものですよね。


ですので、自分よりも、より広やかで、より高く、より深いものを感覚し、分かり、知っている人の存在を知り、その人のことばに耳を傾けることはとても大事なことだと思います。


そうして、現代人は、己れの見えているもの、聞こえているもの、知っているものから外へと視野を広げることができて、己れの傲慢さ、高慢さから、自由になることができる。


わたしは、そういう人の限りない成長のためには、芸術というものが欠かせないものだと実感しています。


芸術を通して、これまで観えていなかったものに対する視力が生まれて来る、聞こえていなかった響きや調べを聴くことができるようになって来る、触れることができなかったものに対する妙なる手応えを実感するようになって来る。


芸術は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れることのできるものを、その素材とするにもかかわらず、そこでだんだんと勝ち取られてゆくものは、物質の境にあるものではなく、こころの境、精神・靈(ひ)の境にあるものです。


その精神・靈(ひ)をリアルに感じ、分かり、それこそが頼りがいがあるものだ、まことのものだと信じて、生きて行くことができるようになる。


精神・靈(ひ)が実際にわたしたちの身のまわりにあるどころか、身を貫いて、世を貫いて、すべてを貫いて、ある。


そのことに対する理屈ではなく、実感、感覚を育てて行くことこそが、これからの時代を生きて行く上で、とても大切なものになってゆくようにわたしには思われます。


その精神・靈(ひ)から、生きて行く術(すべ)を身につけていく。


それは、芸術実践を通して、だんだんと身に織りなされて来るものです。


そして、さらに、瞑想・メディテーションが、その芸術実践を深みから支えてくれます。


それら、芸術実践とメディテーションとがあいまって、外なるものに支配されず、内なる〈わたし〉こそが主(あるじ)となってゆく、自由のリアリティーが自分の中で育ってくるように実感しています。


生の僕(しもべ)たるべからず、生の主(あるじ)たるべし。


こういった毎日の練習は、ややもすると、まことの目当てとは逆に、一見、人に不自由を強いるもののように受け取られがちです。


ただ、促成栽培のような自己意識変革メソッドを求めるのではなく、日々の暮らしの中で、焦らず、怠らず、こつこつと、長い、長い時をかけて、繊細に、自己教育していくことを好む人にも、ちゃんと、道があるのです。


知はすべての基なので勉強はもちろん必要ですが、知識だけでは歯が立たず、情も、意欲も、こころのすべてを注ぎ込んで、意識的に仕事と生活を創ってゆくことになります。






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2023年05月27日

聖き靈(ひ)の降り給ふ祭



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キリストが、十字架上にていのちを全うし、墓に埋められた後、甦り、その後四十日間にわたつて、十二の弟子たちの前に現れたと、新約聖書の「使徒行伝」に記されてあります。


そして、弟子たちが見守る中、キリストはふたりの白い衣を着た方々と共に天へと昇つてゆかれたと。


そのときから十日間、キリスト不在のときを、静かに身を慎んで、ひたすらに祈りのために円うてゐた十二の弟子たちの頭(かうべ)の上に、部屋中を激しく吹き渡る風の音と共に、炎の舌のかたちした聖き靈(ひ)が降りて来て、ひとりひとりの弟子が様々な言語でキリストのこころざし(Christ Impulse)を語り始めた。


その日を祝ふのが、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭(Pentecostes)です。


明日の日曜日がその日です。


毎年、毎年、この日を迎へるたびごとに、この祭が伝へようとしてゐる意味を自身で確かめたいといふ願ひを持ちます。


ひとりひとりの弟子に降りて来た炎の舌、それは、キリストといふ精神の存在が聖き靈(聖霊)となつてひとりひとりのこころに、炎のやうな情熱を湛へたことばとして宿つた、といふことです。


さうして、十二の弟子たちは、そのときより、ひとりひとり、炎のやうな情熱をもつて、ことの告げ手となり、使い手となつていったのでした。


日本で生きてゐるこのわたしにとつて、なにゆゑ、このキリストのこころざし、そして聖き靈のことばをもつての働きかけが、かうまで気にかかり、こころを動かし、我が生き方を導こうとするのだらうと考へ続けてゐます。


自分といふ存在がからだに束縛されてゐるのでは実はなく、精神こそが自分なのだといふこと。


その精神の中でこそ、まことの自分が羽ばたくことができるといふ感覚が、ほのかなものから、だんだんと明らかさに満ちたものとなつて来るにしたがつて、自由であるとはかういふことなんだと実感するのです。


わたしといふ存在は、肉ではなく、靈(ひ)である。


そうして、靈をもつて炎のやうに生きよ。


そのことこそが自由になるといふことであり、そのことを想ひ起こすこと。


この聖き靈の降り給ふ祭は、日本に生きてゐるわたしにも、かくも強く働きかけて来る祝祭なのです。


いはゆる比較文化学や比較宗教学などに倣うやうなことはせずとも、日本の精神文化の中にこの祭りを見いだすことは、もう何十年もかかつてゐますが、きつと、わたしの中でも熟して来るものだと信じてゐます。






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2023年05月19日

国語力の表の側面 話す力(一)


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幼児期、ことばを唱えながらたっぷりと身をもって遊ぶことができた子、また、お話をたっぷりと聴かせてもらった子は、その国語力の裏の力、聴く力を携えて小学校にやってきます。


そのように動きに満ちたことばの精神を浴びて来た子どもは、小学校に入ってから、今度は、生き生きと自分の口からことばを発することのできる子へと成長して行きます。


ことばを話す力、それは、国語力における表の力と言っていいものです。


学校制度が始まる前の昔の子どもたちは、どれほど、この生(なま)の生きたことばに包まれ、囲まれて、暮らしていたことでしょう。


幼少時、傍にいてくれた親や他の大人たち、お兄ちゃんお姉ちゃんたちが、活き活きとしたことば、その人その人のこころといのちが通っていることばを話してくれていたからこそ、その子はその裏のことばの力を、表のことばの力へと変換させていきます。


年上の人たちからたっぷりと与えられてきた多くのことばの中から、意味がそれとなく分かり、なおかつ、口にしやすい音韻の並びで出来ていることばを、ここぞというときに瞬間的に選んで、口にする。


その、ことばの選択の神秘。


それは、難しい言い方をしますと、ことばを聴くとき、自分の精神によって、ことばの精神を捉えて来た子どもが、やがて、その捉えたことばの精神を、我がこころ、我がからだにまで引き降ろすことができた、ということなのですね。


ことばの精神を、我が精神からこころへ、そしてからだへと、引き降ろす、受肉させる、それが、聴いたことばを憶え、それを口にするということなのですね。


それは、国語力が裏から表へなりかわること、とも言えますし、また国語力の裏表の行き来を盛んに促しもします。


そうして、だんだんと、自分自身の感じていること、思っていること、欲していること、考えていることを、的確にことばにしていくことができるようになってきます。


昔には、それが、「一人前にものが言える」という、子どもの成長におけるひとつの徴(しるし)でありました。


そうして、子どもたちは、聴く力の充実に裏打ちされた、話す力を育てて行くのです。


そのように、第二・七年期の子ども時代(7〜14歳)、それは、ことばの表の働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、それは、やがて、ことばの主(あるじ)になるべく、自己教育していくための礎になります。


その、ことばを話す力は、昔ならば、依然として引き続いている子ども同士の群れの中で、外なる自然の四季の移り行きの中で、ひたすら磨かれていたでしょう。


ことばを話す力は、まさに、その子、その子の固有のものから発せられる、こころを如実に表すもの、心情を確かに顕わすものとして、その子らしいものの言い方を活き活きと発現していたことでしょう。


ことばとその人とが分離していなかった。


いまならば、ひとつの教室の中に長時間閉じ込められている子どもたちにとって、何がその国語力の表の力の育みに資することができるでしょうか。


現代にふさわしい、本当に意識的な教育が必要だと思われます。


シュタイナー教育は、そのひとつになりうると、わたしは思っています。





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2023年05月12日

国語力の裏の側面 聴く力


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小学校に入る前の幼い子どもは、大人たちが話していることばに、じっと、耳を澄ませています。全身を耳にしていると言ってもいいでしょう。からだまるごとが耳なのです。


昔、幼い子どもたちは、群れて集団で遊ぶ中で、たくさんの遊びを通して、わらべ歌や数え歌、その他様々な聴いてすぐ憶えることのできるリズミカルでメロディックなことばの芸術を楽しみながら、ことばを聴く力を養っていました。


また、注意力を最大限に働かせながら、年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんのことばに耳を澄ませていました。


なぜって、見当はずれな下手なものの言い方をして、お兄ちゃんやお姉ちゃん、そして同朋の仲間に、残酷に笑われたくないですから。


そう、ことばを共有できることが、子どもの世界においても、ひとつの通過儀礼のようなものでした。


他者のことばを細やかに注意深く聴く力。


その力を豊かに養う機会が学校や幼稚園と言った特別な施設の外にあった、ということ。


いま、わたしたちは、そういう施設について、教育という精神の活動について、たくさんの問いを持たざるを得ない時代に生きているように感じています。


「ことばを聴く」というのは、難しい言い方をしますと、精神が精神を捉えるということでもあるのですね。


幼い子どもの無自覚な精神が、ことばの精神を本当に賢く捉えます。


それは、国語力の裏の側面であり、それが、「ことばを聴く」ということなのです。


現代において、ことばのその裏の力をいかにたわわに育んでゆくか。


幼い子どもを育てるうえで、昔も今も、特に幼児期においては、厳しい躾は、逆効果です。


むしろ、ファンタジーにあふれた夢のようなお話をたっぷりと聴かせてもらった子が、その聴く力、ふさわしい聴き分けのある性質を携えて成長して行きます。


いま、わたしたち、子どものそばにいる大人自身が、もう一度、身をもってことばの芸術を味わい、自分自身がことばの芸術を生きることが、子どもたちの国語力の育み、聴く力の育みにとって、まずは必要なことです。


大人自身が、ことばを楽しむこと。


ことばとは、情報ではなく、そもそも、神が与え給うた芸術です。


国語力を支え、それゆえ、人生を生きてゆく力を根底で支える「ことばを聴く力」。


その養いから始めて行く仕事をしようと、準備を重ねています。





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2023年05月11日

彩りの豊かさ 第二・七年期の子どもたちにとつての大切なこと シュタイナー教育


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小学校へ入る前の六年余りの間の子どもたちにとって大切なことは、まさしく個と個という関係の中で、子どもと母親、子どもと父親との関係の中で、すべてが完結している。自分自身の親としての経験からそう実感します。


そして、そこには、個と個の関係の中でもっとも基のものと言える夫と妻の関係が、良かれ悪しかれ、とても色濃く子どもたちに影響するように感じます。


もちろん、どちらか一方の親しかいない家庭においても、大人と大人との関係性、子どもに目を注いでくれる誰か他の大人と、子どもの親との関係性が、とても重要になってくるといふことでもあります。


幼稚園にも、共にそこに通ふ園児たちや親御さんたちもゐるわけですが、それでも、そこは先生を親とするもうひとつのより広やかな家庭です。


そこでは、基本的・本来的に、親の役割をしてくれてゐる先生と子どもの、一対一の関係が子どもにとつて大切なものでした。


いまの多くの施設では、そのやうな一対一の、ひとりの子どもにしつかりと目を注ぐことのできるひとりの大人がゐるやうなところは、本当に少なくなつてゐるのかもしれません。


そんな状況において、第一・七年期にある子どもに必要な個と個の関係性を、どのやうにしてひとりひとりの子どもに質的に補つていくことができるか。そのことがとても大事なテーマでもありますね。


さて、子どもは歯が生え変わりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとって本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか大勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。


地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豊かさにどんどん目が奪われていくことでせう。


かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。


幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。


しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情という衣を着つつ現れてきます。


そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。


その彩りの豊かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。


人は、みんな、違うといふこと。


みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。


その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。


ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊厳を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。


さういふ大人の下で、子どもは、自分という個にゆつくりと目覚め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覚め、その彩りの豊かさに目覚めていきます。


社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、大勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本来的な豊かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。


もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に抜きん出ることができますよ」といふ、ひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれでようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。


小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着ているやうなものです。


できるだけ、子どもたちの周り、そして内側を、カラフルにしておいてあげたいですね。


そのためには、わたしたち大人が、各々、カラフルであること、自分自身のあり方を際立たせること、「わたしはわたし」といふところをしつかりと持つて、子どもたちのそばで毎日を生きることが大切なことだと実感します。




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2023年05月10日

大人の内なる子ども シュタイナー教育


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人における「子ども時代」。


それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。


しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。


よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。


「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかった」


でも、大人になっても、遅くはない。


なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潜めているからなのです。


「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのようなことばが思わず呟かれるのかもしれません。


「子ども時代」を強く保ち続けている人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ちつづけている。


子どもの気持ちにいつでも帰ることができる。


自分の中の子どもに語りかけるように、何かを創ったり、語ったり、書いたりすることができる。


その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。


幾つになっても、わたしの中の「子ども」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。





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幼な子にとって大切なこと 〜個と個〜 シュタイナー教育


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「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳にいたるあたりまで、幼い子どもは、自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としています。


その一対一の関係を通して、子どもは「世は善きところである」という信頼を、きっと、ますます深めていくことができるのでしょう。


その個と個の関係において、まず最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。


幼な子は、ひとりの大人の存在を必要としています。


その子の内側から湧き上がってくる「欲する働き・意志・意欲」を、そのままその子固有の「欲する働き・意志・意欲」として受け止めてくれる、ひとりの大人の存在を、です。


その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、家庭があり、その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。


この第一・七年期の子どもの健やかな成長を指し示すような童歌があって、まどみちおさんが作詞した「ぞうさん」があります。


  ぞうさん、ぞうさん、おーはながながいのね
  そうよ、かあさんも、なーがいのよ

  ぞうさん、ぞうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ


幼い子どもが、ひとりのお母さん(もしくは、それに代わる誰か)との結びつきを通して、個と個の信頼を育んでいる姿が描かれていますね。


ひいては、自分自身への信頼をも育んでいます。

第一・七年期の子どもの成長にとっての大切なテーマでもある、この個と個の関係性。


それは、まずは、むしろ、わたしたち、ひとりひとりの大人の間でこそ、育まれるべきものなのかもしれません。


家庭の中における個と個の関係性、家庭の中における夫と妻の関係性、そこには、その人の幼い頃の第一・七年期のありようが映し出されているはずです。


もしかしたら、わたしたちは、その意識を持って、己れ自身の個としてのあり方、そして、相手を個として敬えているのかどうかを見て取る必要があるのかもしれません。


そのことが、もっとも現代的なテーマとして、わたしたち大人が向かい合って行っていいことだと、あらためてわたしは考えさせられています。






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2023年05月09日

子どもたちが生き抜いていけるために シュタイナー教育


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今、この時代に大人が子どもたちにできることとは、何だろうと、考えています。


このときにあって、わたしたち大人がいま、子どもたちのために、もっとも意識して創り上げていくべきもの。


それは、人と人との間の信頼、そしてそこからこそ生まれる「つながり」だということに、今更ながらなのですが、何度でも繰り返して思い至るのです。


この現代の社会的混乱は、わたしたちにいま一度、人と人との間の信頼というものを取り戻せ、そして、大人たちよ、そのために、いま一度、目覚めよ、というメッセージを送ってくれていると思われてなりません。


子どもは、大人たちの間の信頼関係をこそ土台にして、人として成長していくことができる、自分の<わたし>を育んでいくことができる。


もしかしたらこれから、子どもたちにとって、こころの上でも、からだの上でも、健やかに生きていくことが大変厳しい時代になろうとしているのなら、わたしたち大人は、なんとかして、子どもたちひとりひとりの個の成長、子どもたちの内側から発し、伸び、花開こうとする<わたし>の力を、邪魔しないようにしなければならない。


そうして子どもの中で育った<わたし>のみが、外の世からやってくる様々なものに太刀打ちできる。


これからの時代は、世の多くの人が言っていることに従うような人ではなく、ひとりひとりの内側からの<わたし>の力を持つ人のみが、困難な道を切り開いて、生きて行くことができる。


そのための具体的、かつ発展的な示唆が、シュタイナー教育によってなされているのですが、そのような教育上の示唆以上に、子どもの側にあるわたしたち大人のありようそのものが、これからはますます問われていくでしょう。


大人と大人の間の信頼関係を肌で感じることによって、そしてひとりひとりの大人の自己信頼から生まれる気概に接することによって、子どもは自分自身の〈わたし〉を育んでゆくことができる。


人と人との信頼からこそ生まれる「つながり」。


そして、こここそが、最も重きをなすことなのですが、その「人と人との間のつながり」の基は、ひとりひとりの人の内から発せられる自己信頼の光と力にある、ということなのです。


その光と力を己れのものにしていくためには、大人自身が、何よりもまず、みずからを律し、考えと情を整え、ことばと行いを一致させ、毎日を丁寧に生きて行くことがどうしても、要ります。


すべての人間関係の問題、社会問題の根底には、それらへの取り組みの如何が横たわっています。


そのことに真摯に取り組んでいくのに、アントロポゾフィーからのこころの練習の必要性が、ますます、感じられるのです。




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2023年05月07日

「ある」から始める


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シュタイナーの『普遍人間學』といふ一册の講義録。


それは、子どもたちを育てるといふ教育藝術に勤しむときの、基となる人間學が全十四講において述べられたものです。


その第一講で、わたしたち大人自身の「エゴイズム」を凌いでいくことの重要性が述べられてゐます。


「エゴイズム」とは、實は、未來を不安に思ふこと、行く先のことを思ひ患ふこと、將來、何かを失ふことを恐れること、そして、そこから必然的に生まれて來るこころの防衞反応だといふことなのです。


エゴイズムは、恐れから生まれてゐる。


「ない」「足りない」「失つてしまつたら、どうしよう」といふ恐れからエゴイズムは生まれて來るのだとシュタイナーは語ります。


そのやうな思ひは、人をどうしても不自由にします。


そのエゴイズムから自由になるためには、わたしたちは、いまだ訪れてゐない未來のことを思ひ患ふことをやめて、ありありてあつた、わたしたちの過去、來し方をかへりみること。


いかに多くも多くの人やものごとに、わたしたちは支へられ、守られて來たかを想ひ起こすこと。


その精神からの想ひ起こしは、わたしたちに、こころの安らかさを取り戻させます。こころの充ちたりを取り戻させます。感謝を念い起こさせます。


ずつと、ずつと、わたしのわたしたるところ、<わたし>は、守られ、支へられ、育まれて來たといふこと。


行く先において何かを失ふこと(お金がなくなる、病氣になつて健康を失ふ、他人からの愛を失ふ、いのちを失ふ・・・などなど)を恐れることをやめること。


これまでにありありとあつた、そして、このいまも、ありありとある、<わたし>を見ること。想ひ起こすこと。この<わたし>は、決して、傷つけられることも、失はれることもなく、とこしへにありつづけます。


一日を「ない」から始めるのではなく、「ある」から始めること。


「あり續けてゐる」「すでにある」「すでにすべてを持つてゐる」といふ考へ、念いから、一日を、毎日を、始めること。


毎日、毎朝のメディテーションとコンセントレーションが、その一日の始まりを創つてくれます。


子どもたちは、その「ありありてあり續けてゐる」精神の世から降りて來たばかりです。


そのことを思ひつつ、教育に勤しむ。


『普遍人間學』の第一講。


そこには、シュタイナーからのそのやうなメッセージが述べられてゐます。


こころの内にどのやうなことを考へ、どのやうな想ひを持つかといふことが、健やかに生きて行く上で、どれほど大切なことでせう。


そして、もちろん、教育といふ仕事においても、その健やかさが缺かせないのです。


このことが心底分かるのには、隨分と人生の酸いも甘いも嚙み分ける時間が必要なのだと、わたし自身、感じます。






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2023年03月12日

今日を生きる心意気


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今、それぞれのオンラインクラスで、シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』と『テオゾフィー 人と世を知るということ』の二冊を講義させてもらっています。


奇しくも、どちらのクラスでも、テーマがシンクロしていまして、「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」なのです。


つまり、この肉体の眼では確かめることのできない、いわゆる「スピリチュアル」な事柄なのですね。


しかし、この「スピリチュアル」なことこそ、筋道を辿ってしっかりと考えることを通して、こころの内に、その「スピリチュアル」な階段を一段一段昇ってゆくことができるということを教えてくれているのが、ルードルフ・シュタイナーです。


「感覚」だけでなく、しっかりとしたその「論理性」、つまり考える働きによって、精神の世への道を一歩一歩進んでいく。


その考える働きを、静かに、浄めて行く作業、それがメディテーション(瞑想)です。


毎日繰り返されるそのメディテーションによって、わたしたちは、どこに向かうかと言いますと、それは、先ほど挙げたテーマである「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を己が身をもって知ってゆくこと、まことの<わたし>を知りゆくことにあるのです。


そして、その知ったところから、今日という一日をどう生きるかという心意気に転換すること、そこにアントロポゾフィーの学びの最大の眼目があると言ってもいいように私は実感しているのです。


「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を学ぶとは、それは、これまでの、長い、長い、時間の中で、わたし自身がなして来たこと、なすことができなかったこと、すべてのわたしの来し方のありようが、今のわたしの毎日の暮らしに運命として働きかけて来ていることの意味をリアルに知ることなのです。


我が運命の意味を知る、とは、その運命が、「幸せ」の仮面をかぶっていようと、「不幸せ」の仮面をかぶっていようと、必然性を持ってわたしの人生に訪れた我が運命を愛することであり、我が運命を抱きしめ、我が運命に体当たりしていくことであります。


その体当たりしていくこと、それが、「今日という日をどう生きるかという心意気」に転換されるアントロポゾフィーの学びの真髄であると、わたしは確信しています。


わたしもまた、ひとりの人として、長い、大いなる旅をして来ました。そして、今、生かされて、ここに、います。


そして、すべての人、すべての子どもたちも、大いなる旅の果てに、いま、生かされて、ここで、出会っている。


できることはたかが知れていたとしても、少なくともわたしが出会うすべての人に、その考えと感覚とを重ね合わせて、お付き合いをしていきたい。


それが、アントロポゾフィーの学びと実践に、相も変わらず、付き合い続けている、わたしの悲願なのです。


地味な歩みですが、確かな道を歩いていると、わたしもまた、実感しています。





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2023年03月09日

わたしたちの屈折『ヴァルドルフ教育における歴史の授業』に参加して シュタイナー教育



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先日、Shikoku Anthroposophie-Kreis主催の 「対談『ヴァルドルフ教育における歴史の授業』〜問いと実践〜」というオンラインでの営みに参加させていただきました。


京田辺シュタイナー学校の中村真理子先生が歴史の授業の実践を分かりやすく語り直して下さる、滅多にない、まことにありがたい機会でした。


中村先生の語って下さったポイントはいくつもあり、どれもがとても大切なことだったのですが、その中でも、とりわけ印象深いものと受け取ったことがありました。


それは、子どもの年齢に応じて、そのときそのときに子どもがこころの奥底で求めているものを、神話における神々の振る舞いや歴史上の人物像を通して、物語ることの重要性です。


子どもの幾つの年齢で、何を素材として取り上げることができるのかということは、まさしく、シュタイナーの教育学から、アントロポゾフィーの人間学から見識を得ることができます。


そこで、このオンラインの営みが設けられるに至った、ひとつの問いがありました。


それは、子どもたちに歴史を教えてゆく際に、アントロポゾフィーの人間観・世界観から得られる歴史への見識に基づく授業をすることと、日本の歴史について教える際の、微妙な(もしくは、明らかな)違和感を現場の先生方はどう感じ、実際にどう授業されているのか、という問いでした。


中村先生は、物語の出自の洋の東西を問わず、子どもがいま求めているもの、子どもの成長に資するものを、絵姿豊かに語ることが、大切であることを教えて下さいました。


そして、むしろ、日本の神話や物語、人物伝に、子どもの成長に資するものをより多く見いだして行くことの重要性を仰っていたことも印象的でした。


この時間を共に過ごさせていただいた後、わたし自身の中で、生産的な問いが生まれて来てくれていることもありがたいことだと感じています。


学びという学びは、つまるところ、自己認識を目指していて、古代ギリシャの密儀の中のことば「汝みずからを知れ」は、いまも、わたしたちに痛切な響きをもたらしているように実感します。


それは、個人個人のことでもありますが、きっと、民族のこと、国家のことでもあるでしょうし、歴史を学ぶとは、人類が人類を知る、民が民を知る、人が人を知るということに他ならないように思います。


世界の中に日本があり、外があるからこそ、内がある。


外国のことをよく知ることを通して、内なる国、自国のことを知る、そんな自己認識のありかた。


学びには、そういう側面が欠かせません。


そして、もうひとつ、自分自身の中心軸をしっかりと打ち樹てるべく、我が民族、我が国の独自の精神文化をより深く追求していくことによる自己認識のあり方。


どちらかひとつではなく、両方の学びの間に釣り合いが取られて、わたしたちは、個人においても、民族のことにおいても、国家のことにおいても、内と外とのハーモニーを健やかに生きることができるように思います。


小学生から中・高校生の歴史の学びにも、その視点がとても重きをなします。


ただ、ここに大きく深い問題があるように感じています。


それは、日本の近・現代史は、精確に言うならば、日本の精神は、相当、屈折している、もしくは、屈折させられているということです。


明治維新以来、西洋の最新の文明に追いつけ、追い越せという文明開化のスローガンの下、とりわけ、若いエリートたちは、それまでの自国の文明文化をある意味、大いに否定し、父や祖父、母や祖母の持っていた考え方、生き方を古臭いものとして葬り去ろうとして来た、そんな近代の歩みであったからです。


言い方を変えますならば、もともと成長していた樹木を、真ん中、もしくは根もとからぶった切って、全く違うところで育った木を接ぎ木した上で、「それ生えろ、それ伸びろ、それ花咲け、それ稔れ」とばかりに大急ぎでやってきたものですから、無理がたたる。


それは、外国から開国を要求され、植民地化されるかどうかという瀬戸際での国家的判断からなされたことですので、歴史の必然としか言いようがない、けれども、何とも言えないような苦しみと哀しみを感じざるを得ないことがらです。


その無理が無理のまま最後に爆発してしまったのが、78年前の世界大戦での日本の大敗北であったのではないかと思うのです。


そして、戦後、明治維新以来の無理の反動でしょうか、わたしたちは自主独立する心意気など全く失い、しかし、また、明治維新以来のヨーロッパとアメリカこそが主(あるじ)であり、我々は従(おきゃく・しもべ)であるという底深い観念・心情がこころの奥底に染み付いてしまっているように思われますが、どうでしょう。


そして、シュタイナー教育が、今は亡き子安美知子さんの「ミュンヘンの小学生」という一冊の新書の1975年発刊以来、約50年近くに亘って、日本に少しずつ広まって参りました。


ヨーロッパからの精神文化として伝わって来たシュタイナー教育運動、その日本における伝播においても、やはり、先ほど書きました、日本民族の近・現代にずっと引きずっている、どうしようもない屈折とコンプレックス、自己不信感が伴われて来たのではないだろうか。


わたし自身の問題意識として、そのことがずっとあります。


子どもたちに歴史を教えるということは、そういう事情の上になされることだからこそ、わたしたち大人の意識のありようがまことに難しい。


その屈折を屈折のまま子どもに伝えることもひとつの教育と言えるのかもしれませんが、やはり、大人自身が、明治維新以来の屈折を、ひとり、引き受け、人としてその屈折をまっすぐにしようという意識と気概が要るように念うのです。


屈折を屈折と自覚せずに、子どもたちに歴史を教えることは、子どもたちを複雑な、まさに屈折せざるを得ない存在へと育ててしまうことにならないだろうか・・・。


わたしたち昭和の後半から平成に教育を受けて来た者たちは皆、そういう教育を受けて来たのではないだろうか。だからこそ、内において、皆、とても屈折している・・・。


アントロポゾフィーを学ぶわたしたち日本人は皆、そのことに向き合い始めていると思います。


そして、これは、大変なことだとわたしは考えています。だからこそ、このオンラインに参加させていただきました。そして、この問い、この考える営みを持続させていくこと、さらには、実際の教育現場を創りなしてゆくことで、これからの教育を新しく創ってゆくことが、わたしにとっての人生の大きな課題のひとつなのです。


Shikoku Anthroposophie-Kreisの皆様、そして中村先生、まことに貴重な機会を与えて下さいました。どうもありがとうございました。





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2023年03月05日

意識していい自分の息遣い シュタイナー教育



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子どもを育んでいこうとするわたしたちの課題。


わたしたちの教育の課題は、子どもの精神・こころを、からだと調和させるということです。


その調和のためには、呼吸というものが、とても重きをなします。


わたしたちは、子どもの傍で、歌を歌い、お話を読んだり語ってあげたりすることができます。


また、ものを観る時、聴く時、ものに触れる時、ものを扱う時、ものを言う時、わたしたちは深い息遣い、活き活きとした息遣いで、それらの行為をなしていくことができます。


その時になされるわたしたち大人の息遣いが、子どもの息遣いをおのずと整えていくのです。


その整えられた息遣いは、その子の胸の領域から下腹部を中心とする新陳代謝を司る領域に働きかけ、その子の血の巡りを促し、臓器を健やかに成り立たせていくことの助けになります。


さらに、呼吸の働きが持つより大事な側面として、呼吸のリズミカルな繰りなしは、頭を中心とする神経・感官のシステムにも働きかけていき、その子が、深い息遣いで、静かに、ものを観、ものを聴き、ものに触れることのできる力をみずから育んでいくことを支えていきます。


子どもが静かさの中で世に生きることを、理屈からではなく、息遣いというおのずからの働きによって学んでいくことができるのです。


その子の精神・こころが、その子のからだ(とりわけ神経・感官のシステム)に健やかに流れ込んでいくことによって、その子は静かさの中で生きることを学んでいきます。


精神・こころとからだの間にハーモニーが生まれてくるのです。


子どもの息遣いは大人の息遣いからなりたっていきますので、わたしたち大人の意識次第で、そのハーモニーが子どもの中に生まれることを助けることができます。


教師の方だけではなく、子どもをを持つ親御さんの方々とも、この意識を分かち合っていくことができたらと希っています。


そのためには、大人自身が折々の芸術体験、芸術実践の時間を持つことです。


人は、科学だけでは、人として生きていくことはできません。芸術が必要です。


そして、家庭こそが、子どもの育ちにとっての無尽蔵に豊かな場所なのです。



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2023年01月21日

時の節目(ふしめ)に 〜1924年1月1日「クリスマスの集ひ」にて ルードルフ・シュタイナー〜



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時の節目(ふしめ)に
世の靈(ひ)の光 顕れし
地のものへの流れに

夜の闇
司(つかさど)りたりし
昼の明るき光
人のこころに輝けり


暖めむ
貧しき羊飼ひの胸を

照らさむ
賢き王の頭(かうべ)を

神の光
キリストの陽(ひ)
暖めよ
我らの胸を
照らせよ
我らの頭(かうべ)を

よきものとなりゆくやうに
我ら 胸より織りなすもの
我ら 頭(かうべ)より目指し導きゆかむもの



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


これまで夜の闇に支配されてゐましたが、昼の明るい光に照らされていい時がやつて来たやうに感じてゐます。

しかし、その節目を迎えるのも、その人の<わたし>次第かもしれません。

「ひとりでいかに生き切るか(倫理的個体主義)」といふシュタイナーが1894年に『自由の哲学』で書いたことばが時代のことばとして、いまだに鳴り響いてゐるのが、ありありと聴こえます。


新しく年が明けて、三週間が経ちました。2023年のいま、「クリスマスの集ひ」における最後のシュタイナーのことばを、わたしも我がことばとして胸の内にて歌ひます。


よきものとなりゆくやうに
我ら 胸より織りなすもの
我ら 頭(かうべ)より目指し導きゆかむもの





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2023年01月17日

信頼の中の、密(ひめ)やかな学び



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和歌山や滋賀、大阪、そして青森、仙台、神奈川の方々とここ数年来取り組んでゐることがあります。


それはルードルフ・シュタイナーから生まれた「密(ひめ)やかな学び」です。


「密(ひめ)やかな学び」は、「Geheimschulung」といふドイツ語を鈴木一博さんが翻訳されたものです。高橋巌さんは「神秘学」と訳されてゐたのではなかつたかな(いま手元にないので、不確かでごめんなさい)。


いずれのクラスも、皆さん、子育てと子どもへの教育をきつかけに集まられた方々です。


しかし、子どもを育てるとは、つまるところ、大人自身の自己教育に懸かつてゐること。


その自己教育は資格を取ることや、何かの能力をつけること以上に、つまるところ自分自身のこころの育みに尽きるといふこと。


そのことへと思ひ至られ、かうして、「密(ひめ)やかな学び」へと皆さん参じられてゐます。


仙台で行つてゐますシュタイナー教員養成においても、二年間で八回集まる講座の時間以外に、オンラインで毎週全員が集まり、この「密やかな学び」をこつこつと積み重ねてゐて、自分自身のこころへのこの密やかな働きかけこそが、教員養成の要(かなめ)であることを分かち合つてゐます。


また、この学びは、その名の通り、「密やかな」ものですので、繊細なこころのことに取り組み、メンバーが互いにこころを開き合つて、互いのこころと精神に目覚めゆく時間になつてゐます。.


ですので、どのクラスの雰囲気も本当に親しみある信頼の情に浸されてゐます。


アントロポゾフィーの学びと実践は、この親しみと信頼の雰囲気を社会へともたらしていくことを目指してゐます。


そのためには、仲間との信頼を感じられるクラスと、ひとりきりになる時間との往復の中で、わたしがわたしに向き合ふ、そんな「密やかな学び」が必要なのです。




posted by koji at 22:40 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする