2022年01月20日

ひとりの人 ルードルフ・シュタイナー



このクリスマスからお正月にかけて、わたしは、ルードルフ・シュタイナーの自伝や手紙を読むことに時を費やしてゐました。以前に読んだときよりも、はるかに親しく、熱く読むことができたことに、わたし自身とても満ち足りを感じることができたのでした。それは、彼の仕事の偉大さに近年ますます驚きと感動を覚えてゐて、このやうな仕事を成し遂げたひとりの人をもつと深く、親しく知りたいといふ念ひが強くなつてゐたからでした。彼の人としてのパーソナルな喜びだけでなく、痛みや悲しみ、苦しみがしたためられてゐる手紙、そしてそれらのことごとを精神において消化した上で述べられてゐる自伝の記述、どちらも、ひとりの人に宿つた精神の巨大さと、それゆゑの彼のこころの葛藤、みづからの孤独との語らひの様が、わたしに迫つて来るのでした。それらすべての内なる障害を潜り抜けつつの、あの膨大な仕事。どれほど時間をかけようとも、消化しえない課題を読み手に与へる、あの膨大、かつ深遠な仕事。


わたしは、その膨大な彼の仕事の中のたつた一冊『いかにして人が高い世を知るにいたるか』に、いま、じつくりと取り組んでゐます。個人的な案件が起こつたがゆゑに、この三年ほど、わたしはこの書に、まこと、師事してゐるのです。いや、師事せざるをえない、と言つた方がいいかもしれません。


この『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書に込められてゐる深い知は、ゆつくりと時をかけてこそ、人に明かされて行くやうに思ひます。さう、ゆつくりと、時をかけて、です。読むときも、文字を書くほどの速さ(遅さ)でゆつくりと読んでみます。さうしますと、一筋の道が読むわたしの前に伸びてゐて、その道は、めくるめく高みに向かつて通じてゐることをおぼろにも感じ、その道の遠さ、果てしなさ、と共に、その道のかけがへのない尊さと確かさに、こころが立ち上がるのを感じもするのです。


その道の上で少しでも前に進むほどに、それまで分からなかつたことがらに、新しい秘密を見いだすことができます。読むこちらが生きることの悲しみや苦しみを乗り越えて成長するほどに、ルードルフ・シュタイナーその人とこの書に対する敬ひと尊びの念ひがますます高まります。その念ひと情をもつて、この書の導きに沿ふほどに、読む人の内なる啓けが促がされ、志と勇気を起こされます。


この書は、そのやうに道を歩きゆくわたしたちを導く師であり、道を昇りゆくわたしたちを支へる梯子です。


この一冊の書は、わたしにとつて、ひとりの生きてゐる師なのです。




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2022年01月11日

冬、考へを育む季節



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ひとつの考へは、人のこころにしつかりと宿れば、その人にとつてやがて成長して行くひとつの種になりえます。


種は、情報として本に書かれたままであつたり、インターネットの空間で行き交つてゐるだけでは、死んだものとして人々の間を忙しく交換・消費・廃棄されるだけです。


しかし、その考へといふ種をこころの内側にみづから宿すやうに受け入れ、お日様の光を当て、水分を補給してあげるやうに、何度も何度も繰り返し、その考へを、改めて、引き続き、考へ続けることによつて、その種は命を持ち始め、こころの内において芽を出し、葉を茂らせ、やがて、きつと、花咲かせ、稔りを得ます。


考へとは、一旦、死んでしまつてゐて、仮死状態にあるのですが、人が積極的にそれを自分自身の内側で育てますと、見事に息を吹き返し、その人に稔りを与へるのです。


そして考へは生き物として、その人の人生を前後左右に導いていきます。


ですので、どのやうな考へを胸の内に抱くのかが、とても大切なことなのです。それは、良き考へであれ、悪しき考へであれ、胸の内で生き物となつて、その人の生を導いて行くのですから。


それほどに、「考へ」といふものは、素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもあります。


その考へが、良きものか、悪しきものか、その判断はどうしてつけることができるのでせうか。


良き考へは、それを抱いたときに、こころが、胸の内が、広々と、明るく、暖かく、時に柔らかく、時に強く、開かれたやうな情をその人に与へませんか。


悪しき考へは、こころに固さと冷たさと狭さと暗さをもたらすでせう?


さう、情が、教へてくれますね。


情が教へてくれるためには、その情が健やかに育てられてゐなければならないでせう。


情を育てるのは、何でせう。


ひとつは、循環したものの言ひ方になつてしまひますが、よき考へを日々抱く練習をすること。それは、考へることの練習です。メディテーション、瞑想です。


まうひとつは、何か同じ行為をすることを繰り返すこと。それは、芸術的行為です。それは、意欲の練習、欲することの鍛錬です。


考へるの練習と、欲するの鍛錬とが、感じるの健やかな成長へと稔つてゆきます。メディテーションと芸術実践です。


かうして、人のこころの育みとは、考へること、感じること、欲すること、それら三つの働きにみづから働きかけることであり、とりわけ、冬の季節においては、考へることの練習を始めるのに、適してゐるのです。


年の初めには、良き考へを抱き、その考へを考へつづけることによつて、種から芽へ、目から葉へ、葉から花へ、とこころに大切なものを時間をかけて稔らせて行く。


その習慣がこころを精神へと導きます。


その精神が、その人を、ますます、その人にして行くでせう。


その精神の育ちが、手取り足取り人から教へられなくても、自分自身の足で自分自身の道を、その都度その都度あやまたず選び取れるやうになることでせう。


アントロポゾフィーハウス大阪「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



※写真は、平櫛田中「平安老母」
 何を読んでをられるのか・・・。




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2021年12月30日

聖なる日々 胸から羽ばたく鳩



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今日、今年最後のオンラインクラスを終へました。本当に、ご参加くださつた皆さん、こころからお礼を申し上げます。ありがたうございました。


そこで扱つてゐる内容を、常に、ことばをもつて表してきたのですが、あまりにも素晴らしく視覚化されたものを見つけたものですから、ここに貼らせてもらひます。


常にルーツィファー化されがちな頭と、アーリマン化されがちな手足を含む下半身の間に挟まれた、真ん中、胸・心臓こそが、キリストが息づくところであります。そこでは、暖かで光に満ちた深い情が育まれ、さうしていくほどに、頭からと下半身からのふたつの侵略から守られ、<わたし>といふ真ん中が、透明に光り輝く鳩として健やかに世に羽ばたかうとします。とりわけ、このクリスマスの時期に!





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2021年11月26日

11月 おひさまの丘 宮城シュタイナー学園



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東北で唯一の全日制シュタイナー学校おひさまの丘 宮城シュタイナー学園。


先月に引き続いて、二日間に渡つて、2年生、4年生、6年生のエポック授業を見学させていただきました。


漢字の学び、運動遊び(体育)、地理から他国の文化・風習、そしてお料理実習、機織りまで・・・。


担任の先生によるそれら授業のひとつひとつが、すべて、芸術の営みでした。子どもたちとひとつになつて創り出す芸術実践でありました。そこには、常に、歌があり、音楽があり、声があり、動きがあるのです。


学年が上がつてゆくにつれて、子どもたちの意欲への促しから、知性への働きかけへと授業のありやうも移りゆくのですが、そこに変はらず通つてゐるのが、「いのちの流れ」と言つたらいいのでせうか、息遣ひの闊達さと晴れやかさ、そして何より喜びがあるのです。


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さういつた先生方による教育芸術の営みは、どこから生まれてくるのか。


そこにルードルフ・シュタイナーの精神の学「アントロポゾフィー」が深く胚胎されてゐるからこそ、そこからの芸術実践として、あのやうな授業が毎回、毎回、新しく生まれいづるのですね。


100年前のシュタイナーから発された精神が、まさに、この仙台の地に「からだ」を持つて生まれ、育つてゐることを実感します。


この生まれた「からだ」は、いま、6年目を終へようとしてゐます。そして新たな七年期に入らうとしてゐるのです。


この「からだ」は、最低でも21年間はしつかりと育て上げられていいはずだ、とはつきりと思ふのです。


そのためにも、この「からだ」を育ててゆくひとりとしてわたしもまた、12月20日までのクラウドファンディングが成功することをこころから祈つてゐるのです。
クラウドファンディング ↓
https://readyfor.jp/projects/miyagi_ohisama2021


わたしからもまた、言語造形による授業をさせていただきました。一・二年生は昔話を聴き、四年生は和歌を朗唱し、六年生は『萬葉集』の生まれた意義を知り、巻頭第一首目の雄略天皇による長歌を共に動きながら詠ひ上げる、そんな時間を共に過ごしました。


おほらかな息遣ひ、共感(シンパシー)と反感(アンチパシー)の交錯、動きあることばの生命力と豊かな情感。そんな音楽的なことばの体験です。


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2021年10月21日

家・いへ



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伊勢神宮内宮御正殿


わたしは、朝、布団の中で目を覚ましたとき、よく、なんらかのことばや考へが、一見脈絡なく(実は脈絡はありますが)、こころに訪れるのですが、皆さんはいかがですか。


夜の眠りのときを経て、朝の目覚めと共に訪れるそのことばや考へが、わたしにたいせつな何かを教へようとしてゐるやうに感じられてならないのです。


今朝、訪れてくれたことばと考へは、なぜか、「家・いへ」でした。


日本語の「家・いへ」。それは、古くからあることばで、神がお住まひなされるところといふ意味です。後に、屋代(やしろ・社)に、神はお移りになられました。そのことばは、空間を指すだけではなく、その家に住まふ人々の暮らしも含み、その一家、家族、家柄をも言ひます。(白川静『字訓』より)


そして、その響きからも感じられること、思はれることがあります。


「い」といふ音韻が、縦に貫く動きを感じさせること、幸田露伴もその『音幻論』で説いてゐますが、それは、天と地を結ぶ光の音韻と言ふこともできるのではないでせうか。「いのち」「いきる」「いきづかひ」「いきどほる」の「い」でもあります。


「へ」とは、おそらく「辺」といふ意味で、方向や場所のことでせう。そして、その「へ」といふ音韻に響く「え」といふ母音に、わたしたちは、「い」の垂直の線と交はる水平の動きを感じることができます。「え」といふ音韻によつて感じられるその水平の線は、地上の暮らしにおけるあれこれ、人生における横なる関係性を表してゐるやうに思はれるのです。


古の日本人は、「いへ」を、精神において垂直と水平の線が交はり十字をなす場所として捉へてゐたのではないだらうか。


「いへ」とは、そもそも、神と人とが共に暮らす場(同殿共床)としてありました。


その精神的な遺産の継承は、日本の精神の真ん中をかたちづくり続けて来た皇室でなされて来たお蔭で、日本全国津々浦々にいたるまで、この精神は国土に根付いて来ました。


以下のことばが、太陽の神であられる天照大御神のご神勅として、日本書紀などにも記録されてゐます。


「吾(あ)が兒(みこ)、此(こ)の寶鏡(たからのかがみ)を視まさむこと、當(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、以て齋鏡(いわひのかがみ)と為す可し」


これは、天照大御神の子孫である歴代天皇は、鏡を天照大御神と思つてお祀りする事。さらに、同じ生活空間にあり、離れずに同じ住家に共にある事、そのやうな意味になります。




わたしたちの「いへ」は、これからどのやうな意味を持つことができるのでせう。


現代において、とりわけ、垂直の線の意味が「いへ」に見失はれてゐるからこそ、意識的にひとりひとりが今ゐるその場において、光の柱を樹てゆくこともできるのではないだらうか。


天地を結ぶ垂直の線と、人と人とを結ぶ水平の線とが、交はる結節点としての「家・いへ」。


そんな精神の絵姿を、今朝、想ひました。


アントロポゾフィーは、そのやうな精神からの営みを暮らしに密やかにもたらさうとするひとりひとりの働きです。


「天地(あめつち)と共に久しく住まはむと
 念(おも)ひてありし家(いへ)の庭はも」
(萬葉集578 大伴宿祢三依)




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2021年07月17日

求めよ さらば与へられん



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ルードルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』のはじめの方に、この密(ひめ)やかな学びの教へ手が守るべき掟(おきて)がふたつ、記されてあります。


ひとつめは、この密やかな学びを求める人には、惜しむことなく、学びを授けること。


ふたつめは、この密やかな学びを受けるための備へがいまだない人には、決して学びを授けてはいけないこと、授けることはできないこと。


このふたつの掟は、ふたつのやうで、実は、ひとつです。


この学びを受けられない人は、実は、「この学びを求めてゐない」といふことなのです。


必要であるのは、まこと、求めること。


ですので、深く精神において、学び手は、誰にも拒否されることはありません。


そして、この一冊の本こそが、この密やかな学びの師です。


さうであるからこそ、それは、読み手のまこと求めるこころのみが、その本を師となしうるのだといふこと。


しづかに、こころの耳を澄ましながら、一頁一頁、読み続けること。


それは、とても、しづかな行ひでありますが、しかし、熱く、求めること、門を叩きつづけることであります。


さうして、時が熟して来るにつれて、師であるこの本の一頁一頁、一文一文、ひとこと、ひとことが、実に優しく暖かい声で語りかけて来るやうになります。


このシュタイナーの書に限らず、本物の本といふものは、読み手に、この掟をもつて向き合はうとしてゐます。


子どもたちが本を読む人になりゆくには、傍にゐる大人自身が本を読む人であることが条件であり、ひとりひとりの大人が本物の本を求めることが、この世の社会の命綱です。




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2021年07月04日

日曜の朝の精神の水浴び



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セザンヌ「大水浴」



わたしのからだの中に、こころと精神があるのではなく、からだを包んでゐるのがこころであり、そのこころを大きく超えて、世の隅々まで、世の果てまで広がり渡つてゐるのがわたしの精神です。


メディテーションの繰り返しによつて、そのことに実に親しむやうになります。


光の息遣ひによつて、そのことを実に感覚することができます。


言語造形といふ芸術によつても、そのことを生きることができます。


人は、からだを越えてこころを感じ得たとき、さらには、こころを越えて精神に触れ得たとき、みづからの桎梏から自由になり、愛と自由が流れてゐる精神の川にて、水浴びをすることができます。




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2021年06月17日

ヨハネ祭と阿波踊りとアントロポゾフィー



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二十年ほど前、四国の徳島に、夏、阿波踊りをしに通つてゐた時があり、夏が近づいて来ると、毎年、想ひ起こすのです。


徳島の中心地は、夜が更けゆくほどに、街のあちらこちらで繰り広げられる阿波踊りによつて、だんだんとカーニバル化し、熱狂的になつて来るのでした。


熱狂的になると言ひましても、毎年繰り返されてゐるその熱狂は、祭りを荷ふ方々の永年の修練によつて、カオスに陥ることなく、健やかに保たれてゐるのでした。


たまたま、踊りが繰り広げられてゐる道の真ん中で、有名連で踊つてゐるひとりの中年の男性に踊りのレッスンをしてもらつたことをよく憶えてゐます。


彼のアドバイスは、短く、的確で、まづ、太鼓と鐘の響き、笛の音に注意深く耳を傾けること、そして肩や腕で調子をとるのではなく、それら一連の音が繰りなすリズム、勢ひと間(ま)を脚で稼ぐこと、つまり、阿波踊りは足から始まる、といふことでした。


そのとき、腰から下はどつしりと力強く安定して下に落ち、大地に沿つてゐますが、両足は一足ごとに新たに新たに活き活きとリズムをとりつつ、膝の力を緩めつつ、ステップを踏んでゐます。


一方、上半身はできうる限り力を抜いて、お腹から胸へかけて広々と、そして両腕はまるで天から降りてくる何かを迎へ入れるかのやうに、晴れ晴れと上へ差し上げます。


コーチをして下さつたその方の両腕はその指先に至るまでどこまでも優美なものでした。


天を迎へ入れるかのやうな柔らかな上半身と、そして大地に力強く沿ひながらも生命のリズムを刻む下半身をつなぐ要(かなめ)の一点が、やはり、腰にありつつも、頭は肩の上に静かに安らいでゐることも、汗だくになつて踊りながら感じ取れたことでした。


「わしも三十年踊つとるけど、まだまだ、うまあ踊れんわ」とその方は仰つてゐました。


みづからの意識しがたいところ、眠りの意識に領されてゐるからだに、みづからの意識をもつてみづから稽古をつけて行く訳ですから、それは、まさしく、わたしにとつては、アントロポゾフィーの実践練習、言語造形の稽古、そのものでした。


芸術実践において、このからだの三分節をリアルに感覚することが、大事な鍵なのです。


祭りにおいて人が舞ひ踊るといふことと、夏の一日、高き神々と繋がることへと人々が古来向かつてゐたといふこととの意味を、ヨハネ祭が近づいてゐる、いまも、想ひます。



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2021年06月12日

わたしは、他の誰でもない



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自然は、人を自然の者となすまで、
社会は、人をきまりに従つてする者となすまで、
人を自由な者となすは、ひとりその人だ。
    (シュタイナー『自由の哲学』第九章)


人につひ(最後)の磨きをかけるのは、その人自身に他ならない、といふこと。


誰しも、社会的に成功したいと願ふ。


しかし、人は、本当のところ、成功ではなく、他人に高く認められることでもなく、さらには、俗に言ふ「幸福」になることでもなく、みづからがみづからであること、わたしは他の誰でもない、〈わたし〉であることを、何よりも実感したい、さう、願つてゐるのではないでせうか・・・。


アントロポゾフィーとは、人がその人になりゆく道、人が自由へと歩み出すための道、そしてその先が果てしなく続く道だと感じてゐます。


そして、アントロポゾフィーの礎とも言へる『自由の哲学(鈴木一博氏による新訳「自由を考える」)』の第九章「自由なる考え」は、何度読んでも、こころから、精神から、感動してしまひます。



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2021年06月05日

内なる安らかなひととき



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今朝も、また、内なる安らかなひとときから、一日が始まりました。


本当に、ありがたく、欠かせない、ひとときです。


以下の文章は、ルードルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の中の「内なる安らかさ」からのものを少し書き改めたものです。



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密(ひめ)やかに学びつつ、内なる安らかなひとときを生きる人が、みづからに、かう語る。


わたしは、あらんかぎりの力を尽くして、わたしの事柄をできるかぎりよくしたい。


わたしは、気後れのもとになりかねない考へを抑へる。


わたしは、まさに気後れのゆゑに、することがおざなりになること、とにかく、その気後れがよりよくすることにはつながらないのを知つてゐる。


そして、わたしには、生きるといふことに向けて、稔り多く、促しとなる考へが次から次へと及びくる。


それらの考へが、わたしを阻み、弱くしてゐた考へに取つて代はる。


わたしが生の波立ちのさなかで、みづからの生を確かに、しつかりと導きはじめる。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



仕事のための力の源は、いつも、この「内なる安らかなひととき」にあります。




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2021年06月02日

メディテーションのことばと言語造形



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メディテーション(瞑想)において内に響かせられることばは、お日様に向かふ花弁のやうに、こころに精神を取り入れる入り口になります。


そして、言語造形で養はれることばの感官(言語感覚)は、メディテーション(瞑想)するときにおいて、とてもたいせつなものです。


ことばに意味だけを求めるのではなく、その響き、リズム、動き、かたち、バイブレーションをありありと見て、聴いて、感覚する。


その機能と器官が、ことばの感官です。


このことばの感官が、日常のことばの世界を離れた、精神の力を呼び集めてくれます。言語造形はこの感官を養ひます。


そして、日本人は、和歌や俳諧などことばの芸術を通して、ずつと、この「ことばの感官」を養ひ続けてきました。


また、この感官は、みづからの動きを感覚する動きの感官(運動感覚)と表裏一体のものですので、からだの動きを養ふことでもあります。


しかし、この動きといふものが、静かさ、安らかさと共にある。


せわしなく動きまわるのではなく、静かさが動いてゐる。


さういふ感官の働きを養ひます。


日本の神話に、「天(あめ)の安(やす)の川」といふ川が、出てきますが、あの高天原(精神の世)に流れてゐる川は、弥(ゐや)進む川、どんどん流れて流れつづけてゐる川でありつつ、安らかな流れなのです。


精神とは、常に、一瞬も休むことなく動き続けてゐますが、静かさを失はず、光が凄い勢ひで流れてゐる。


その生命の精神の流れは、人の疲れて病んだこころとからだを癒し、生命力を甦らせるのです。


そんな精神の流れ、天の安の川の水と共に、言語造形をしていきたいと思ひます。


滞らずに、安らかに、動きの中に入つて行く。


それこそが、こころに健やかさをもたらし、また、人体の免疫力を上げる上で、とてもたいせつなものです。


メディテーション(瞑想)、そして言語造形。


それは、精神からの学びと芸術です。


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2021年05月28日

長い時をかける(普遍人間学レポート)



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ゴッホ「道、ひのきと星」



再び、『普遍人間学』のオンラインクラスで学んでをられる方のレポートをご紹介します。


かけるべき時間ならば、かけるといふこと。


そして、眠りつつ夢見ることから、目覚めの意識へ。


この、わたし自身、みづからの目覚めのために、35年ほどの時をかけてしまつてゐます・・・。


本当に、わたしが〈わたし〉であることに「目覚める」のには、一生涯かかつても、おかしくないのではないかと思つてゐます。



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普遍人間学第七講  n.k.さん


シュタイナー を学びはじめて何年にもなる。何か本質的なことがあるのを感じつつどこから取りついても心からわかった気がしなかった。


最近の学びで、欲する、感じる、考えるということを分けて考えるという意味が少しわかってきた気がする。


まず、今まで日々起こる出来事、家族の問題、友人関係、社会的出来事、そのほか身の回りにうつされる良いこと悪いこと全て、自分の問題とは考えて来なかった。他の誰かが悪い、または素晴らしい。そして、自分を出す時は他人のことは考えず、わがままに振る舞う。たまに、うまくいかないことがあったりして、自分の問題だと気づいた時は、自分を責め否定し、私はダメな人間なのだとおとしめて、閉じこもってしまう。


何年も生きてきて、シュタイナー 学んでなんになる。


全て私の中にある。この私を知り、良いところもダメなところも愛してあげよう。最大の欲が愛されたいという欲だということだ。神様から愛されていると信じよう。


そして、まず、自分を愛そう。


今回、言われた敬いの細道を進もうとするとそれができていない自分に気がつく。そして、反対の感情がうようよあることに気がつく。さげすみ、嫉妬、怒り…。それを認めてあげる。見て留める…。あることに気づいてあげるだけでいい。私は良い人でそんな低い情はない!と良い人ぶって生きてきた。


私はシュタイナー を学びはじめた頃、理想ばかり書いてある…。わたしにはできない。と思った。でもその理想に頭で憧れた。でも、ここまできてやっとそんな自分を認めればいいということが書いてあることを知った。何を読んでいたのでしょう。カチカチの頭人間から心が動き出したのかも…。


また、幼い頃にしっかりと息を吐き、欲と情を生きる。出来るだけ目覚めさせず世界を信頼できる環境においてあげる。幼い頃の育て方の大切さを感じる。


歳を経て、多くの痛みを伴う体験を通し情のある考えができるようになる。目覚めるためには多くの痛みを伴うということだが、それを気づきや目覚めのきっかけにすることができるよう仕組まれているのかもしれない。


精神は血液、筋肉の中では生きようとしているので眠り、夢見ているが、骨、神経は死んでいるのでそこで目覚めることができる。精神はそこで生きることができる。精神の世界から真理が閃いてくる。老人になって精神の世界を生きるとはどういうことだろうか?肉体が弱るため、できないことも増える。自分も、他者も許せるようになっていく。多くの欲を情をを通して温かい考えにして生きていけるようになりたい。



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2021年05月27日

自由への三つの密めやかな次第



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セザンヌ「果物鉢とコップとりんご」



人は、自分の外に広がる世界にはよく目を注ぎます。


しかし、こころといふ、内なるところに広がる世界に目を注ぐことには、あまり慣れてゐないのではないでせうか。


こころ(ドイツ語ではSeele)が、湖(See)だとしますと、その水面に浮かび上がつて来た様々な感情や考へ、それらはなぜ浮かび上がつて来たのでせう。


それらは、きつと、どこかから風がこちらに向かつて吹いて来るやうに、外の世界に何らかの出来事が起こつたり、他者の言動をきつかけに、こころが揺さぶられて、浮かび上がつてきたものですね。


それらは、湖の底に沈められてゐたものが、運命(仕合はせ)といふ風に吹かれ、湖の水まるごとが揺さぶられることによつて、沈殿物が湖水の面に浮かび上がつて来た、といふことでせう。


これまでの人生の中で経験せざるをえなかつた傷や痛みからの、自分自身では認めたくない自分自身の情が、そのつど繰り返し浮かび上がつて来ます。


その浮かび上がつて来たものを、いまこそ、ひとつひとつ丁寧に汲みとつてあげること。


それが、人の成長にとつて、とてもたいせつなことだと強く思ひます。


どのやうな、はき違へられた考へも、不健康な情も、抑えつけたり、排除したりせず、あるがままの客として、すべて、丁寧に汲みとつて、迎へて、響かせて、送る。


そんなとき、人は、客と一体化してゐない、ひとりの主(あるじ)です。


その内なる行為は、「光の息遣ひ」を通して、こころといふ湖水を浄めていく、非常に地道な作業です。


さうして人はゆつくりと、みづからのこころに精神の光を当てて行くことで、みづからを総べ、律していくことを学ぶことができます。


他者を責めず、世を批判せず、ただただ、誠実さと親身なこころもちに、みづからを委ねて仕事に邁進することができる。


自分の好みや性向、お馴染みの考へ方、感じ方を、できうるかぎり洗ひ流し、そのつどその場で新しく精神を迎へ入れ、流れ込ませる生き方、これが一つ目の次第、「自律」です。ここからすべては始まります。


さらに人は、暮らしの中で、仕事を通して、みづからのこころにだけでなく、みづからのからだにも精神の光を当てて行く。からだにまで光を当てて行くのです。


このとき、すべての人の行為、仕事は、芸術行為です。死んだものに精神のいのちを吹き込み、甦らせる、すべての行為が芸術です。絵を描くことや音楽を奏でることだけでなく、お料理も、お掃除も、お散歩も、すべての行為が、そもそも芸術行為です。


これもひとつの修業です。倦まず弛まず練習をつづけることで、人はみづからの足で、立つことができるやうになりゆきます。これが二つ目の次第、「自立」です。 


そして、人は、そのつど、そのつど、世に精神の光を当てて行くこと、みづからのこころやからだにだけでなく、世のものごとに光を当てて行くことを学びゆきます。


社会の中で自分はそもそも精神なのだといふこと、精神みづからであるといふことを見通すことができるやうになり、そこからこそ、ひとりひとりの他者、ひとつひとつのものごとをふさはしく立てることができるやうになります。これが三つ目の次第、「見識」です。


この自由へといたる三つの次第、「自律」「自立」「見識」は、ルードルフ・シュタイナーの『自由を考える』第三章、「世をつかむに仕える考える」に、詳しく述べられてゐます。


「ことばの家」では、これから、「光の息遣ひ」を通して、この一つ目の次第に習ひ、生活の中で習慣にしてゆく、そして、だんだんと、第二、第三の次第へと、そんな稽古の場をもつていきます。


こころざしを持つ方よ、共に、精神の「みすまるの珠」を繋いでいきませう。





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2021年05月24日

学び続ける人(普遍人間学レポート)



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オンラインクラスで、シュタイナーの『普遍人間学』を学び続けてゐる方のレポートをご紹介させてください。


「わたしは、目覚めてゐたい」といふ切なる念ひ。


自分自身が「目覚めてゐない」ことによつて、他者との間にどれほど軋轢をみづから作り出してきてしまつたか・・・。わたし自身痛感してゐます。


「目覚める」ことによつてのみ、自分自身をふさはしく仕立てて行くことができ、世のためにハーモニックに生きて行くことができる。


わたしたちの学びは、みづからの統御をもつて、世に健やかに働きかけて行くことをこころから希ひます。


子どもたちが健やかに育ちゆくことへ、世が弥栄に栄へゆくことへ、少しでも、資すことを希つて仕事をして行きます。



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普遍人間学第七講  y.y.さん



私はこの普遍人間学を勉強し始めてもう6年目になる。


本来勉強が好きではない私がもう5年もこの本について学んでいる。


内容は難解で、いまだにはっきりとは理解できていない。でも、嫌だと思った事は一度もない、月1回の講義が楽しみで仕方がない。


私は一体何を知りたいんだろう?なぜこんなに分からない本を勉強しているのか?いつかわかる日が来るのだろうか?そんな事を考えてみても答えが見つからないし、学び続けていれば、いつかわかるようになるのでは?などと考えていた。


でも、今回この7講の講義を繰り返し、繰り返し聴いているうちに、「私は何かを知りたくて学んでいるのではない。知る事そのものがしたいのではないか」という考えが浮かんできた。『「知る」事は闇の中に光を灯す行為です』と先生は言われた。この言葉を聴いた時、「私は今確かに闇の中にいる」と感じた。


いつも自分の中にある、拭きれない焦燥感、不安感。その為に私はいつも知る事に必死だ。真っ暗な家の中にいて、急いで家中の明かりをつけて回っていくようなそんな感じだったのではないだろうか?でも、つけてもつけても、また暗い部屋が見つかってしまう。その事にまた焦りを覚えてしまう自分がいる。


このまま一生こうして、分からないままいくのだろうか?なぜ満足する事がでないのだろうか?最近そんな事を思い始めていた。そしてこの7講を学んではっとした。


私は知る事ばかりに気を取られて、考える事をしていなかったのではないだろうか?いや、「聴いた」だけで、「知った」と勘違いしていたのだ。


本当の「知る」は「見る」に「考え」を重ね合わせてこそ、得られるもののようだ。私は聴いた事そのことに満足してしまって、そこに考えを重ねる時間を持つ事を怠っていた。だから、いつまでも闇の中に光がさす実感、喜びを得られないで焦っていたのではないだろうか?


知るという事は良く見る、そして立ち止まって、その見たことを良く考えてみることで初めて獲得できるものだったのだ。自分の中にある焦燥感がこの「立ち止まる」という行為をさせないようにしていた。立ち止まることが怖いのだ。


何もしていない時間が怖い。静かにじっとしていられない。時間がもったいないような気がして、ネズミのように動き回っていた。


しかし、何もしていない時の、自分からは何も考えようとしていない時の、真空状態における思慮深さこそ、知に至る道に必要なプロセスであると言う事がわかった。そして私に「知る」事をさせまいとする力が働いている事を知覚した。


だが、その力も私の中にある「闇」の力、言い換えれば、私の一部なのだ。闇も光と同様に認める。私は闇も光も包含してるという事を初めて認める事ができた。


そして今回この7講を学んで、初めて自分の闇を捉える事ができた。闇は闇として存在している時はとてもわかりやすい、今までも悪しき思いに駆られてた時に自分の闇を知覚したことは何度もあった。


でも、本当の闇はそんなわかりやすいあり様はしていない。自分の光の部分であると認識している性質のその裏に巧妙に闇は潜んでいるのだ。少なくとも私の闇は私の中で光のふりをしていた。だから長い間その中をじっくりと見てみる事なく放っておいたのだ。


「私の内を静かに見て、考えてみる」この事によって、今回私は私の内を知る事ができたのではないかと思う。


立ち止まる=停止=怠惰。ではない。立ち止まった時の静けさの中で耳を澄ます事ができた時に叡智を聞く事ができる。


「知る」とはこういう事だったのか、私はもう、立ち止まることを恐れない。むしろ意識して静かに、立ち止まってみようと思う。最も遠回りだと思っていた行為は、知に至る唯一の細道だったのだ。


毎日、私はローソクの灯火を10分間見つめるという日課がある。​


それは、強制的に心静かな時間を取ってみて、自分に何が起こるのか、そもそも心静かな時間など過ごせるのか、一度体験してみたかったのだ。やってみると、案の定、ローソクを前にしてみても心ここにあらず、全く心が静まらない。静まるどころか次から次に出るわ出るわ、 自分でも呆れてしまう程に私は要らぬ事を考えて生きている事に気づく。


その雑念を「見て」「留める」。これを「認める」。良い、悪い。などというジャッジではなく、自分にはこの様に低い側面、卑しい側面、恥ずかい側面があるということを、ただ見て留める事に挑戦している。そして、諏訪先生は「それを敬いなさいと」と言われた。


否定したり、見ぬふりをしたりするのではなく、炙り出された自分の闇を見るのは正直しんどい。でもこの「見て」「留める」事を続けていくと、その闇が無意識から意識の世界に現れて、自分の手の中にあるような気がしてくるから不思議だ。川の中で自由に動き回っていた魚が、釣り上げれて水槽の中にいる様な感じとでもいえばいいのか。。とにかく得体の知れないものから、手にとれるものになっている気がしてくるのだ。


この7講では心の3つの側面「欲する、感じる、考える」に重なるように精神の側面「眠り、夢み、目覚め」という要素が体の血液、神経を通して、欲しつつ眠り、感じつ夢み、考えつつ目覚める事が述べられていた。


心と精神、感情、この得体の形のないもの達が自分の体とどう関わっているのか、それを知っただけでも収穫なのだが、毎日の日課を通して私はある問いを得ている。「欲する、感じる、考える。それぞれに眠り、夢み、目覚めの様な状態がありはしないだろうか?」という事だ。


この「眠り」を「無意識のうちに」、夢みを「当然の様に」、「目覚め」を「意識して」という言葉に言い換えてみる。


例えば、10分間の沈黙中に浮かんでくる考えは、普段は無意識の中に沈んでいる。それは、自分の欲深さ、傲慢さ、稚拙さ、さまざまあるが、普段はそれを知覚していない。いわば、自分の無意識の領域に眠らせている考えだ。次に、今自分は、蝋燭の前に座って、10分間瞑想しよう。というのは日課であるので「当然の様に行ってる。夢みながら考えいる。そして、瞑想をしているとき浮かんでくる想念、雑念を「見て」「留める」作業は、自分を知るためにその闇を認識したいと意識して行っている。この10分で、「考え」が眠り→夢み→目覚めの旅をして意識下に登ってきている様な気がするのだ。


また、「感じる」ついてはどうだろうか?体で感じる、心で感じる。色々あるが、家にいる時、無意識のうち私たちは、安らぎを感じている。また四季の移ろいを当然の事と感じ、日々青々としていく木々を眺めている。そして芸術作品に触れる時などは、意識してその作品が表現しているになにかを感じようとしている。


そして、「欲する」については、 眠りつつはいうまでもなく、私たちが生きていく為にこの体内において無意識のうちに行われている生命を維持する活動、また目の前に出された美味しそうな料理は当然、自分のものであると思う。しかし、今ここにない物、如何しても手に入れたい物、辿り着きたい場所がある場合は、常
にその事を意識して目的達成の為に自分を動かす。これは、目覚めて欲していると言えるのではないだろか?

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私は、今回この7講において、心、精神の3分節を改めて考えてみる事ができた。そして、それは混沌とした自分の内面を捉え整理する事に大いに役に立った。そうして、私は何をしたかったのかも分かるようになってきた。つまり結局私は、目覚めたかったのだ。目覚めて欲し、目覚めて感じ、目覚めて考えていたい。無意識からやってくる感情や考えに翻弄されるのではなく、それらを意識のひかりの中に招き入れ、認めて受け入れた上で、意識的に私はどのように感じ、考え、行動するかを選択していきたいと思っている。それが、目覚めて生きるという事ではないだろうか?



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2021年05月23日

聖き靈(ひ)の降り給ふ日 ことばを語り始める日



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エル・グレコ 聖霊降臨 (Pentecostes)



いまからおほよそ二千年前、キリストがゴルゴダの丘にて十字架に架かつてより、五十日目、今日、この日に、聖き靈(ひ)が弟子たちに炎の舌のすがたして降り給ひ、弟子たちひとりひとりが、精神の、靈(ひ)の、密のことばを、おのおの、異国語で語り出した、と言ひます。


そのとき、きつと、二千年後のわたしたちにも届くやうに、炎のやうな日本語にても、語られたはずです。


わたしたちは、もはや、民のかたわれとしてのみづからを感じるのではなく、わたしひとりからこそ、民の精神がもつこころざしと悲願を知らうとし、理想を創らうとする者であります。


今日といふ日は、そのための炎を授かり、「ことば」を語り始める日です。


離れた地にゐるわたしたちも、共に、この聖き靈(ひ)の降り給ふ日をおのおの祝ひ合ひ、自分自身で祭りを創りませんか。




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2021年05月19日

そもそも、何を求めてゐた?



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天の香久山にいたる道にて



未来のことをあれこれ心配することは、実は、エゴイズムに他ならないのだと教へてくれたのは、ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』でした。


そのエゴイズムから抜け出るために、わたしたちは、行く末のことを思ひ患ふのではなく、来し方、過去、生まれる前のことを想ひ起こすことがたいせつだよと教へるのでした。


「これから先、一体、どうなるんだ」「どうすればいいんだ」といふ方向に頭を働かせない。


さうではなく、「わたしは、そもそも、何を求めて、この世に生まれて来たんだつけ」「本当は何をしたかつたんだつけ」「どんな人になりたかつたんだつけ」と問ひ、考へ、想ひ起こす。


その考へ方が、こころの情を、冷たく、固く、閉じたありやうから、暖かく、柔らかく、開かれたありやうへと、だんだんとなり変はらせます。


この世に生まれて来る前に、〈わたし〉は、すでに、あつた。


そんな精神からの視点・観点・考察点を活き活きと取り戻す営み。


それが、アントロポゾフィーの営みです。



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2021年05月16日

「しづかさ」といふ四つの音韻



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いま、自然は、神々しい輝きを存分にわたしたちに披いてくれてゐます。


神々しい晴れやかさに満ちてゐます。


そして、自分自身の内に神々しさ、晴れやかさを見いだしてゐる人こそが、そんな外の世の神々しさ、晴れやかさに目を注ぐことができるのですね。


「しづかさ」といふ四つの音韻からなることば。


わたしにとつて、この四つの音韻が、内に神々しさ、晴れやかさを呼び戻してくれます。


こころの内で、しづかに、ていねいに、唱へると、そのことばの音韻の精神、靈(ひ)の働きがはじまります。


いま、人と人との間の調和を乱さうとする、目には見えない悪しき働きかけが盛んになされてゐるのを身近に感じてゐます。


ひとりひとりの人に、その力が忍び込み、その人のからだとこころから健やかさを奪ひ取らうとしてゐるのを感じてゐます。


そのやうな、いまだからこそ、まづは、わたしからこそ、こころの内に、「しづかさ」からはじまる神々しさ、晴れやかさを見いだして行きたく念ひます。


ことばの精神、ことばの靈(ひ)、言霊によつて、内に深まり、情が耕されてゆきます。


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※写真は、靭公園のバラ

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2021年05月09日

「見る」といふ愛する行為



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ものをよく「みる」こと、じ〜つと「みる」ことから始めることの意味深さ。


「みる」といふことばの底には、「愛(め)づ」「愛(め)でる」といふ極めて感情的・意欲的なことばが息づいてゐる。


「愛(め)づ」といふことばから「めづらし」といふことばも生まれる。


人は、何でも見てゐるやうに思ひ込んでゐるが、愛してゐるものしか、実は見てゐないし、見えてゐない。


何かを「愛でる」。だからこそ、その何かを「みる」ことができる。


その「みる」といふことばは、他の動詞に付くことでその行為をますます意欲的な行為へと押し進める。


「触れてみる」「動いてみる」「立つてみる」「嗅いでみる」「味はつてみる」「見てみる」「湯加減をみる」「聴いてみる」「話してみる」「感じてみる」「考へてみる」「会つてみる」・・・。


おほよその動詞に付くことのできる「みる」。


人がその意欲的な行為をするための働きを、大いなる世から与へてくれてゐるのは、乙女座のお宮である。


乙女座。それは永遠の乙女であり、永遠の女性性であることの宇宙的表現である。


「みる」といふ行為は、対象に光を当てる働きであり、光を当てることによつて、その対象からその対象たるところ、本質といふものを引き出す愛の働きである。


だから、「みる」は多くの動詞に付くことで、その行為を意欲的なものに、愛に満ちたものにする。


たとへば、本を読むとき。


本といふ人格と精神が総動員されてゐるものを、まづは、徹底的に信頼して、愛して、目を皿のやうにして愛でて読むことによつて、本は秘めてゐる秘密を初めて打ち明けてくれる。


さうして、そんな「みる」といふ意欲的・感情的な行為から、やがてゆつくりと「考へる」「知る」といふ対話的行為へと、こころが深まつてゆく。


そんな行為にいざなふ本こそが、読むべき本だと感じる。


昔の日本人は、そんな「みる」力を相当強く養つてゐたやうだ。


結婚するために、「お見合ひ」をする。


そのとき、相手の年齢や職業などをそこそこ弁えるだけで、あとは、ほとんど、「一目でみて」決めてゐた。


相手の趣味や収入や性格やその他様々な情報などは置いておき、たつた「一目みて」こころを決める力を持つてゐた。


さういふこころの力を育むことが教育の基だと念ふ。



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2021年05月07日

自由を考える(自由の哲学)



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鵜呑みにするのでも、妄信するのでもなく、ひたすらに、自分自身の目で見て、自分自身の力で考へて、少しづつ判断を重ねて行きたいと、わたしは思ひます。


「見る」と「考へる」。


そのふたつを重ね合はせて、はじめて「知る」がなりたつ。


いま世界中で同時に起こつてゐること、その本当の危機は、コロナウイルスの蔓延でもなく、経済の逼迫でもなく、多くも多くの人がこのふたつの力を行使してゐないといふことにあるのではないでせうか。


誰かが流す映像、誰かが言ふことば、そこからの印象に自分自身が操作されてゐないかどうか。


多くの人にとつて、起こつてゐる出来事に対する判断をすることが難しいのではなく、社会的な関係性の中でどう振る舞へばいいのかをこころに決めることに困難を覚えてゐるといふことではないでせうか。


1894年にルドルフ・シュタイナーは著書『自由を考える(自由の哲学)』において、その「見る」と「考へる」を重ね合はせることが、自由への道を歩み出す、その第一歩なのだといふことを説きました。


人は自由になりうるか、どうか、いま、全世界的に、同時的に、その瀬戸際に来てゐます。



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2021年04月24日

上の四つの感官の育み 〜普遍人間学から〜



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今日、『普遍人間学』土曜オンラインクラスにて、計三回の「十二の感官」の論を終へました。


この「十二の感官」に関しては、わたしからも述べるところ多々あり、受講してゐる皆さんにとつても、それらの知を消化するのにご苦労があつたと思ひます。


三回に分け、「下の四つの感官」「中の四つの感官」と順に説いて来まして、今日は、最後の「上の四つの感官」についてだつたのですが、わたし自身、話し終へて、改めて、この「上の四つの感官」の育みの大切さを思ひ知りました。


もちろん、すべての感官の育みが、常に、なされてしかりです。


が、まさに、この世に生まれて来て、年齢を経ると共に、わたしが、ますます〈わたし〉へとなりゆき、社会を活き活きと創つて行くメンバーのひとりとして働くためにも、この「上の四つの感官」の育みは、重きをなします。


「聴く感官」の育みには、内における安らかさと静かさを要します。


「ことばの感官」の育みには、内における動きとアクティビティー、闊達さを要します。


「考への感官」の育みには、内における敬ひとへりくだりの情を要します。


「〈わたし〉の感官」の育みには、内における仕へる力、捧げる力を要します。


いづれも、わたし自身、持ち合はせてゐない、育みを要するものです。


もう二度と、人生において同じ過ちをしたくないわたしとしては、だからこそ、意識的に、これら「上の四つの感官」を育んで行くことがどうしても必要だと強く念つたのでした。



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