2021年02月13日

アントロポゾフィーハウス設立のお知らせ 〜メディテーションと芸術実践〜



16-10524_1 (1).jpg
東山魁夷「道」



わたしは、自分自身の仕事であり、運動体であるものを、「ことばの家」と銘打つて、これまでアントロポゾフィーと言語造形といふ芸術活動に勤しんできました。


もちろん、これからも、わたしの仕事として「ことばの家」を勤しんで行きます。


しかし、今年、令和3年、2021年からは、自分ひとりだけで仕事をして行くのではなく、自分自身の仕事が他の方々の各々の仕事と結びつくやうな形を模索・実現して行きたいと希つてゐます。


仕事において、他者と協力し合ひながら、自分一人ではできなかつた仕事をひとつひとつ、創り出して行きたいと希つてゐます。


その際に、わたしにとつて大切になるのは、アントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)です。


このアントロポゾフィーを共有して行くことが、他者との共同・協働における大切な点です。


アントロポゾフィーとは何か。何か特別なものなのか。さうとも言へます。しかし、さうとも言へません。そのことには、様々な観点から答へることができるでせう。


ルードルフ・シュタイナー自身は、あるところで、端的に、それは「人であることの意識」だと言つてゐます。


「人であることの意識」。これは、現代を生きるすべての人にとつて、人として生きる上での何かとても大切なものではないでせうか。


「人であることの意識」、それは現代においては、「人がその人であること」「人が、ますます、その人になりゆくこと」「人が、人との関係性の中で、自由と愛を生きること」と言つてもいいのではないでせうか。


「自由と愛」などといふことばは、すぐに宙に浮いてしまふ、大変やつかいなことばでもあるのですが、きつと、どの人も、こころの奥底で、そのことばの実現を乞ひ求めてゐるはずです。


生きた日本語でこのアントロポゾフィーを語ること、それが、わたしがわたし自身に課してゐる大きな、途方もなく大きな仕事です。


アントロポゾフィーとは、「道」です。その「人であることの意識」を学び、それを己れのからだとこころで確かめて行く実践です。人であること、自由であること、愛することができるといふこと、そのことへの「道」と言つてもいいでせう。


その「道」とは、まぎれもなく、読書(講義の受講)と芸術実践です。


わたしは、アントロポゾフィーの基本文献を基にした講義をすることで、おひとりおひとりをみづからする読書へといざなひます。講義において、共に考へること。その考への世の内で、こころを暖めること、励ますこと、ひとりひとり目覚めゆくこと、へと共に歩いて行くのです。読書が、著者の助けを借りながらひとりでするメディテーションであるならば、講義とは、共なるメディテーションと言つてもいいでせう。


わたしは、さらに、言語造形といふことばの芸術を通して、ことばの力の内側に参入して行きます。


その営みを多くの人が必要としてゐることを確信してゐますので、必要とする人とその芸術を分かち合つて行きます。それもまた、極めて具体的な仕事です。


ことばを話すといふ、まぎれもなく、その人まるごとを使ふ芸術的な仕事です。


その仕事のためには、舞台づくりといふものが、何よりもうつてつけです。ですので、共に、舞台を創つて行き、舞台に立つことのできる人を養成していくことが必要です。


己れの外へと飛び出し、世の内に飛び込んで行き、そこでの世との関係性の中で、〈わたし〉を見いだして行くのです。それが芸術実践です。


メディテーション、それは、考へる〈わたし〉の内に、世を見いだすことです・・・。


芸術実践、それは、世の内に、〈わたし〉を見いだすことです・・・。


あなたみづからを見いだしたければ、世を見よ。
世を見いだしたければ、あなたみづからを見よ。


アントロポゾフィーの講義、そして言語造形、それは、どちらも、日本語をもつて「人であることの意識」を耕し、育て、稔らせるやうな仕事です。この仕事には、十年、三十年、百年、何百年とかかるはずです。


これは、わたしがして行く仕事ですが、さらに、他の芸術に勤しんでゐる方々とのコラボレーション、共同でアントロポゾフィーに根付いた仕事をして行くことを今年から始めます。






ひとつめの「読書」もしくは「講義の受講」とは、つまるところ、メディテーションをするといふことです。「本を読む」といふ行為、「講義を聴く」といふ行為は、読む人、聴く人をこころの旅に赴かせるのです。メディテーション・瞑想とは、からだはひとところに据ゑながら、精神(靈・ひ)に向かつてこころの旅をすることです。


それは、考へることから始まり、感じることへ、そして欲することへと、道は続いて行きます。本を読み、講義を聴くことで、著者や講師の考へを受け取り、そして、自分自身の内側に想ひと考へを生み出します。


その考へを囚はれなく受け取る、といふことが、精神の道のはじまりです。決して、盲目の信仰が強要されるのではなく、自分自身の意志で自由にその本に書いてある考へ、講師の語る考へを受け入れるのです。


囚はれなく受け取られた考へが、何度も繰り返し考へられて、曇りなく、まぎれなく考へられて、やがて、腑に落ちます。心根において、よく理解できるやうになつて来ます。そしてその考へを自分自身のこころの内に暖めます。その熱が情の昂ぶりとなりもします。そして、意欲の発露にもなります。その人の内側から、動きが生まれて来ます。


その動きがふたつめの「芸術実践」でもあります。


「芸術実践」とは、その人がその人を見いだして行くために、その人がその都度その都度新しいその人に出会ふために、いまの時代においては、なくてはならない作業なのです。





メディテーションと芸術実践。このふたつの柱をもつて、共にアントロポゾフィーを学びつつ生きて行く。そのための物理的な場を固定しない精神の共同の仕事場としての「アントロポゾフィーハウス」を設立いたします。


人は、何かとアイデンティファイすることによつて、そのアイデンティファイしたものから力をもらへることがあります。


誰かにとつて、「アントロポゾフィーハウス」が、その何かになることができれば、これほどありがたいことはありません。





令和3年(2021年)2月13日 諏訪耕志


posted by koji at 13:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月07日

比べる、から、敬ふへ



IMGP0132-a75ee.jpg



誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、その誰かや何かに近づかうと気持ちが盛り上がることが、特に若いときにはよくありますよね。


その憧れの対象は、マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、職種といふ職種における有能な人、魅力的な人、魅力的な生活スタイル、考へ方、生き方、そして人を超えた存在、神のやうなあり方、精神界、霊界、天国、神に至るまで、物質的なものから精神的なものまで、人各々、それぞれです。


しかし、その誰かがやつてゐることや、素敵な何かに向かつて、自分自身も努力し始めることができればいいのですが・・・。


その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらひがないでせうか。


そして、自分自身とその憧れの対象とを比べて、自分自身を卑下しだす。


「自分には無理だ」と。


わたしがアントロポゾフィーを学んでゐて、最も強く励まされるのが、『いかにして人が高い世を知るにゐたるか』の「条件」の章にある、次のことばです。


 こころのしかるべき基調が、
 きつと、はじまりとなる。
 密(ひめ)やかに究める人は、
 その基調を敬ひの細道と呼ぶ。
 わたしたちはわたしたちよりも
 高いものがあるといふ、
 深みからの情を内に育まないのであれば、
 高いものに向けて
 みづからを育み高める力を
 内に見いだすこともないであらう。



憧れのもの、状態、それは、別な言ひ方をするならば、人にとつての「高いもの」と言つてもいいかもしれません。


「わたしたちよりも高いものがある」。


その「高いもの」と己れを比べるのではなく、「高いもの」を敬ふ。


そのこころの向きは、自然には生まれない。意識的に練習しなければ、「敬ふ」といふこころの力は身につかない。


「高いもの」に対する敬ひから始まり、生きとし生けるものに対する敬ひ、ありとあらゆるすべてに対する敬ひへと、その練習は続けられる。


しかし、人は、放つておいたら、その対象と自分自身との距離をもてあまし、自分自身を卑下しだす。


そして、敬ひとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのづと傾いていく。


「高いもの」と己れを比べるといふこと、そしてみづからを卑下するといふこと、それはその相手を「さげすむ」ことと裏表であり、それは実はその人のエゴなのです。


そして、一方、「高いもの」を敬ふといふこと、それはその人のこころの高い力です。


比べる、から、敬ふ、へ意識的に方向を変へる。


敬ふからこそ、その対象と共にゐられるのです。人間関係など、まつたく、そのことが当てはまります。


敬ふことによつて、初めて、その対象から力が自分に流れ込んできます。


そして、敬ふからこそ、その対象に向かつて、いや、もうすでに、その対象と内的にひとつになつて、こつこつと根気をもつてその人その人の憧れの道を歩いていけるのでせう。


誰がなんと言はうと、歩き続けられるのでせう。


シュタイナーが、その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、それだけ現代人にとつて、比べることから敬ふことへのこころの移行が必要なことだからです。



posted by koji at 08:05 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月06日

精神の学びの場、精神の運動



145757891_3731482000265152_8728807263277237437_n.jpg



今日も、アントロポゾフィークラス・オンライン「普遍人間学」を行ふことができました。


前半、「学ぶ」といふことの本質的な意味を捉へることから必然的に、「アントロポゾフィーにおける基」、さらには、「アントロポゾフィー運動」「アントロポゾフィー協会」について、お話しをすることになりました。


「運動」といふと、そこに加はることは、なんらかの手先になるやうなイメージがありはしないでせうか。


「協会」といふと、そこに加はることは、なんらかの足枷を課せられるやうなイメージがありはしないでせうか。


しかし、アントロポゾフィーといふ「精神の学び Geisteswissenshaft」を地上的に進めていく、深めて行く、また運営していくことにおいては、決して、何かの手先になつたり、足枷を課せられるやうなことはありません。


なぜならば、この学びは、どこまでも現代といふ時代に根差したものであつて、それは、どこまでも、ひとりひとりの〈わたし〉を育てゆくもの、立てゆくものだからです。人が自由になりゆくための学びだからです。その人が、ますます、その人になつてゆく道だからです。


〈わたし〉が、何を、どう、考へ、感じ、欲してゐるのか。そして、〈わたし〉は、何を、どう、行為するのか。


あるものごとを、あるあり方で考へるのは、他の誰でもなく、この〈わたし〉がさう考へるからであります。


あることばを、ある言ひ方で話し、語るのは、他の誰が言つたからでもなく、この〈わたし〉がさう語りたいからさう語るのです。


あることをするのに、さうこころを決めるのは、他の誰が決めたからでなく、この〈わたし〉が、さうするとこころを決めたから、さうするのです。


シュタイナーが、ああ言つたから、かう言つたから、ではなく、神がかう仰つてゐるから、ああ仰つてゐるから、ではなく、〈わたし〉といふこの精神が語ることにわたし自身が耳を澄ますことから、こころを決めていくことの練習をすることこそが、このアントロポゾフィーの基であります。


ルードルフ・シュタイナーが、この世で仕事をしてゐた時から、おほよそ百年が過ぎました。


わたしは、以前にも「ゲリラ的アントロポゾフィー活動」といふやうな書き方で書かせてもらつたのですが、これからは、だんだんと、「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」といふ固有名詞が消えてゆくだらうと考へてゐます。「協会」といふものも、物質的なものから、だんだんとより精神的なものへとなりかはりゆくでせう。


しかし、シュタイナーといふ人に学べば学ぶほど、アントロポゾフィーを深めれば深めるほど、学ぶその人その人の内から発せられる精神(靈・ひ)の働きが、各々の仕事場、家庭、現場で、密(ひめ)やかに発揮されて行く、ひとりひとりの「仕事」に流れ込んでゆく、さう感じざるを得ません。


だからこそ、看板や表式や資格などが要(かなめ)などではなく(これまでもそのやうなものは決して要ではありませんでした!)、その人の学びの深さがこれからはますます問はれて行くのでせう。その人のこころの深さと豊かさと広さがますます、ものを言ふやうになつて行くのでせう。


だからこそ、逆説的ですが、ますます、その人がその人になりゆくための本当の学びの場(精神の協会)、精神の運動が心底求められるでせう。


わたしたちの社会は、切に、さういふものを求めてゐます。



posted by koji at 18:23 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月05日

自己教育における三つの道筋A 〜情への問ひ〜


08ee9aba.jpg
カスパー・ダーヴィッド・フリードリッヒ「窓辺の女」


日々の暮らしにおける感情の起伏。


わたしたちは、その情の営みあるからこそ、人としての喜びと悲しみ、その他様々なものに彩られながら毎日を生きてゐます。


しかし、時に強すぎる情の力に巻き込まれてしまひ、自分の中心軸を見失つてしまふこともあります。


情、それは、シンパシー(共感)とアンチパシー(反感)の間を常に揺れ動いてゐます。


その情が、シンパシーに偏り過ぎても、アンチパシーに偏り過ぎても、そのどちらかの情に巻き込まれてゐて、みづからを見失ひ、わたしたちは不自由なはずです。


わたしたちが求めてゐる自由とは、まづもつて、みづからの情のまんなかに立つことと言つてもいいでせう。


どうすれば、そのまんなかに立つことができるのか。


それは、情が起こるたびに、さういふみづからを正当化するのでもなく、罪悪感にさいなまれるが故に、その情を抑え込むのでもありません。


その情が起こつて来た意味を、みづからに問ふのです。


この怒りは、この嬉しさは、この悲しみは、この熱さは、わたしに一体、何を教へてくれようとしてゐるのか、と。


答へはすぐにやつては来ないかもしれません。しかし、そのやうに問ふことによつて、わたしは強すぎるシンパシーからもアンチパシーからも距離をとることができます。


みづからにそのやうに問ふことが、そのまま、こころのまんなかに立つことです。


そして、そのやうに問ふことを重ねてゆくほどに、こころのまんなかに、〈わたし〉が育つて来ます。


「快と痛みは教へ上手である」


ルードルフ・シュタイナーは、『テオゾフィー』にさう書き記してゐます。


情が教へてくれようとしてゐるものは、こころの奥深くに眠つてゐるものへの気づきの促しです。


気づくべき時が来てゐるからこそ、何らかの情が、その時に立ち上がつて来てゐるのです。


ひとつひとつの情に対して、「あなたは何を教へようとしてゐるのですか」と問ひを立てることが、〈わたし〉をこころのまんなかに育て、だからこそ、ものごとをより細やかに深く豊かに感じるやうになり、さらには、インスピレーションの出どころである精神に少しずつ目覚めさせていく道の歩みを促します。





posted by koji at 21:12 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月28日

自己教育における三つの道筋@ 〜考へを甦らせる〜


0181.jpg
カスパー・ダーヴィッド・フリードリッヒ「漂ふ雲」


精神・靈(ひ)としてのわたしのことを、ここでは、〈わたし〉と書きます。


わたしのわたしたるところであり、まことのわたしと言つてもいいものです。


この〈わたし〉を育てること。それが、21歳以降の、特に35歳以降の人の自己教育の眼目です。


それは、こころのまんなかに育ちます。


さうして、こころの三つの働きをだんだんと統御して行く力になります。こころの三つの力、それは、考へると感じると欲するです。いはば、思考、感情、意志、と呼ばれるものです。


人は何かを学ばうとする時、本を読むか、人の話を聴かうとすることが多いと思ひます。


さうして、他者の考へを受け取り、受け入れ、咀嚼しようとします。


その際の、考へを受け取り、受け入れ、噛み砕き、己れのものにする、といふプロセスに、こころの熱を注ぎ込むことによつて、〈わたし〉をこころのまんなかに育てて行く仕事に着手することができます。


本を読み、他者の話を聴く時、敬意と熱意、情と意欲をもつて、他者の考へを、こころの内に暖め続け、考へ続けるのです。


ここで、とても大切なのは、「自分自身の意見などは脇においておき、こころに、敬ひと篤さの情を持ちつつ、伝へられようとしてゐる内容に沿つて考へる」といふことなのです。


その予断に曇らされてゐない健やかな情と意欲といふ下地がこころにあつて初めて、考へ、特に高い考へがこころに根をはりだします。


さうしてゐると、自分のこころが熱く脈打つやうな、ときめくやうな、あるいは、懐かしいやうな情が沸き上がつて来ることがあるはずです。


本に記されてある考へ、そしてまだ己れのものになつてゐない他人の考へ、それは、いはば、「死んだ考へ」です。人にまづもつて与へられるのは、すべて、「死んだ考へ」なのです。人が、やりくり、やりとりしてゐる考へは、死んだものなのです。情報としての考へは死んだものだからこそ、人から人へと自由に、気ままに、やりとりされます。


その「死んだ考へ」が、先ほど書いたやうに、敬ひと篤さをもつて真摯に考へられ続けるならば、その考へは、いのちを吹き返します。甦ります。


「死んでゐた考へ」が、人のこころによつて、いのちを吹き込まれるのです。


他の誰から押し付けられたものでもなく、こころのまんなかのこの〈わたし〉が考へたことによつて、考へがいのちをもつて甦り、脈打ち始め、その人の内で輝き出し、熱を放ち出し、力を持ち始めます。


その人が、その人自身の内側で、その考へを自由に活き活きと育てることで、その考へはその人の暮らしを支へ、人生を導くやうな、理想といふものへとなり変はりゆきます。


「考へ」を大切に育てる。


そのやうに、考へるを鍛えるのです。


やがて、その仕事をし続けることによつて、しつかりと揺るぎなく二本の足で立ち、頭を雲の上高く掲げ、明るくお日様の光に照らされて、〈わたし〉がこころのまんなかに育ちゆき、小さなわたしを支へ、こころ貧しいわたしを導きます。


死んだ考へを活き活きと甦らせること。


それが、人の〈わたし〉を育てる、ひとつめのことです。




posted by koji at 14:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月27日

自己教育における三つの道筋「序」


Caspar David Friedrich - Moon Rising Over the Sea 1821  - (MeisterDrucke-80600).jpg
カスパー・デイビッド・フリードリッヒ「海の上に昇る月」



こころを育てるのは、外の物ではなく、精神・靈(ひ)だ。


さう、ルードルフ・シュタイナーは語ります。


もちろん、外の物質的なものに囲まれて生きてゐるわたしたちは、外の物や事から働きかけられつつ、内なるこころをもつてそれら外の物や事に対応しながら、毎日を懸命に生きてゐます。


また、外なる我がからだを育て、維持するには、外なる物が必要です。


もちろん、いま、この瞬間のわたしも、外なる物を必要としてゐます。


しかし、おほよそですが、人は、どうでせう、35歳を過ぎる頃から、外なる物も大事ですが、むしろ、自分自身の成長のために内なるこころを育てるのは、物じゃない、何か、もつと、大切なものがある、そんな風に感じ始めはしないでせうか。


その大切なもののことを、シュタイナーは、精神・靈(ひ)と言つたのです。


その精神・靈(ひ)を別のことばで言ひ換へるなら、それを、〈わたし〉と言ひませうか。


その〈わたし〉は、普段よく使つてゐる「わたしは〜です」「わたしは〜が欲しい」「わたしはすごく元気です」などといふ時の「わたし」ではありません。


また、「自我」といふ難しい言葉がややもすると指し示してしまふエゴイスティックなものでもありません。


ドイツ語だと、小文字の「i」で始まる「ich」と書いて、普通、「わたし」の意味でそのことばを使ふのですが、シュタイナー書くところの、大文字の「I」 で始まる 「Ich」、それは、どの人にも宿らうとしてゐる精神・靈(ひ)、エゴから自由になつてゐる〈わたし〉を表します。


その〈わたし〉こそが、こころを育てます。


逆に言へば、その〈わたし〉を、こころの内に健やかに育てて行くことこそが、すべての教育のテーゼだと言へます。


〈わたし〉を育てること。


おほよそ三つの七年期を費やして、三つの順番で、この世に生まれて来た幼な子は、二十一歳ごろにこの世での〈わたし〉の誕生を迎へます。


そこで、とても大切にしたいのが、人の成長にとつて相応しい三つの順番に沿つて、大人からのサポート・教育を受けられるやう21歳までの三つの七年期の教育を設えるといふことです。


そして、21歳以降、人は自分で自分を教育しようとしなければ、人としての内的な成長が止まつてしまひます。


たいていは、その人次第ですが、仕事を通して、人は成長して行くことができますよね。「仕事」とは「ことに仕へる」ことです。


しかし、ここでは、あらためて、アントロポゾフィーといふ精神・靈(ひ)の学び(Geisteswissenschaft)の観点から、大人自身の自己教育における、まづもつての、三つの道筋を挙げてみます。


これは、わたし自身の道なのです。


〈続く〉

posted by koji at 11:06 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月13日

今年から始まる仕事 アントロポゾフィーハウス


95065d8b76584f972803e7ee86eb9883.jpg
東山魁夷「白い馬の見える風景」



わたしは、自分自身の仕事であり、運動体であるものを、「ことばの家」と銘打つて、これまでアントロポゾフィーと言語造形といふ芸術活動に勤しんできました。


もちろん、これからも、わたしの仕事として「ことばの家」を勤しんで行きます。


しかし、今年、令和3年、2021年からは、自分ひとりだけで仕事をして行くのではなく、自分自身の仕事が他の方々の各々の仕事と結びつくやうな形を模索・実現して行きたいと希つてゐます。


仕事において、他の方と協力し合ひながら、自分一人ではできなかつた仕事をひとつひとつ、創り出して行きたいと希つてゐます。


その際に、わたしにとつて大切になるのは、アントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)です。


このアントロポゾフィーを共有して行くことが、他者との共同・協働における大切な点です。


さうすることで、アントロポゾフィーそのものを、日本といふ国に根付かせ、花咲かせ、稔らせるのです。


アントロポゾフィーとは何か。何か特別なものなのか。さうとも言へます。しかし、さうとも言へません。そのことには、様々な観点から答へることができるでせう。


ルードルフ・シュタイナー自身は、あるところで、端的に、それは「人であることの意識」だと言つてゐます。


「人であることの意識」。これは、現代を生きるすべての人にとつて、人として生きる上での何かとても大切なものではないでせうか。


それは現代においては、「人が、その人であることの意識」「人が、ますます、その人になりゆく意識」「人が、自由と愛を生きる意識」と言つてもいいのではないでせうか。


「自由と愛」などといふことばは、すぐに宙に浮いてしまふ、大変やつかいなことばでもあるのですが、きつと、どの人も、こころの奥底で、そのことばの実現を乞ひ求めてゐるはずです。


生きた日本語でこのアントロポゾフィーを語ること、それが、わたしがわたし自身に課してゐる大きな、途方もなく大きな仕事です。


アントロポゾフィーとは、「道」です。その「人であることの意識」を学び、それを己れのからだとこころで確かめて行く実践です。人であること、自由であること、愛することができるといふこと、そのことへの「道」と言つてもいい。


その「道」とは、まぎれもなく、読書(講義の受講)と芸術実践です。


わたしは、アントロポゾフィーの基本文献を基にした講義をします。そこにおいて、共に考へること。考への世の内でこころを暖めること、励ますこと、ひとりひとり目覚めゆくこと、へと共に歩いて行くのです。講義とは、共なる、メディテーションです。


わたしは、さらに、言語造形といふことばの芸術を通して、ことばの力の内側に参入して行きます。その営みを多くの人が必要としてゐることを確信してゐますので、必要とする人とその芸術を分かち合つて行きます。それは、極めて具体的な仕事です。ことばを話すといふ、まぎれもなく、その人まるごとを使ふ芸術的な仕事です。その仕事のためには、舞台づくりといふものが、何よりもうつてつけです。共に、舞台を創つて行くのです。


メディテーション、それは、考へる〈わたし〉の内に、世を見いだすことです・・・。


芸術実践、それは、世の内に、〈わたし〉を見いだすことです・・・。


あなたみづからを見いだしたければ、世を見よ。
世を見いだしたければ、あなたみづからを見よ。


アントロポゾフィーの講義、そして言語造形、それは、どちらも、日本語をもつて「人であることの意識」を耕し、育て、稔らせるやうな仕事です。この仕事には、十年、三十年、百年、何百年とかかるはずです。


これは、わたしができる仕事であり、わたしから始めて行くのですが、さらに、他の芸術に勤しんでゐる方々とのコラボレーション、共同でアントロポゾフィーに根付いた仕事をして行くことを、今年から、始めたいと考へてゐます。


メディテーションと芸術実践、わたしたちのテーマは、それです。


物理的・固定的な場を持たない、この精神からの仕事場を、「アントロポゾフィーハウス」と名付けます。


声を掛けさせていただきました時には、できましたら、お耳をお貸しいただきたく、なにとぞ、どうぞ、よろしくお願ひいたします。共に、日本語の内に、アントロポゾフィーの精神(靈・ひ)を灯していきませう。



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

posted by koji at 17:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月11日

冬、考へを育む季節


heianrobo.gif
平櫛田中「平安老母」 何を読んでをられるのか・・・。




ひとつの考へは、人のこころにしつかりと宿れば、その人にとつてやがて成長して行くひとつの種になりえます。


種は、情報として本に書かれたままであつたり、インターネットの空間で行き交つてゐるだけでは、死んだものとして人々の間を忙しく交換・消費・廃棄されるだけです。


しかし、その考へといふ種をこころの内側にみづから宿すやうに受け入れ、お日様の光を当て、水分を補給してあげるやうに、何度も何度も繰り返し、その考へを、改めて、引き続き、考へ続けることによつて、その種は命を持ち始め、こころの内において芽を出し、葉を茂らせ、やがて、きつと、花咲かせ、稔りを得ます。


考へとは、一旦、死んでしまつてゐて、仮死状態にあるのですが、人が積極的にそれを自分自身の内側で育てますと、見事に息を吹き返し、その人に稔りを与へるのです。


そして考へは生き物として、その人の人生を前後左右に導いていきます。


ですので、どのやうな考へを胸の内に抱くのかが、とても大切なことなのです。それは、良き考へであれ、悪しき考へであれ、胸の内で生き物となつて、その人の生を導いて行くのですから。


それほどに、「考へ」といふものは、素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもあります。


その考へが、良きものか、悪しきものか、その判断はどうしてつけることができるのでせうか。


良き考へは、それを抱いたときに、こころが、胸の内が、広々と、明るく、暖かく、時に柔らかく、時に強く、開かれたやうな情をその人に与へませんか。


悪しき考へは、こころに固さと冷たさと狭さと暗さをもたらすでせう?


さう、情が、教へてくれますね。


情が教へてくれるためには、その情が健やかに育てられてゐなければならないでせう。


情を育てるのは、何でせう。


ひとつは、循環したものの言ひ方になつてしまひますが、よき考へを日々抱く練習をすること。それは、考へることの練習です。メディテーション、瞑想です。


まうひとつは、何か同じ行為をすることを繰り返すこと。それは、芸術的行為です。それは、意欲の練習、欲することの鍛錬です。


考へるの練習と、欲するの鍛錬とが、感じるの健やかな成長へと稔つてゆきます。


かうして、人のこころの育みとは、考へること、感じること、欲すること、それら三つの働きにみづから働きかけることであり、とりわけ、冬の季節においては、考へることの練習を始めるのに、適してゐるのです。


年の初めには、良き考へを抱き、その考へを考へつづけることによつて、種から芽へ、目から葉へ、葉から花へ、とこころに大切なものを時間をかけて稔らせて行く。


その習慣がこころを精神へと導きます。


その精神が、その人を、ますます、その人にして行くでせう。


その精神の育ちが、手取り足取り人から教へられなくても、自分自身の足で自分自身の道を、その都度その都度あやまたず選び取れるやうになることでせう。



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

posted by koji at 17:34 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月05日

「靈・ひ」の学び 言語造形とアントロポゾフィー


125268531_3520047191408635_3622917150663218135_o.jpg


昨日から始まつてゐるお正月連続講座『言語造形とアントロポゾフィー』。


午前は、からだもこころも精神(靈・ひ)も、総動員して、ことばの芸術・言語造形に取り組みます。朗々と発せられる声と息遣ひに、歳のはじめのすがすがしさが空間に満ち渡ります。


午後は、アントロポゾフィー(人を知ること、人を意識するといふこと)といふルドルフ・シュタイナーによる精神(靈・ひ)の学びに取り組みます。


人といふもの、それは、からだ、こころ、精神(靈・ひ)から、なりたつてゐます。


人といふものは、そもそも、動物から一頭地抜け出てゐる存在ですが、しかし、さうなるためには、精神(靈・ひ)を学び、精神(靈・ひ)に習ひ、精神(靈・ひ)を生きることがどうしても必要になります。


精神(靈・ひ)がやどり、とどまるところを「ひと・人」と古来、日本では言ひました。


「ひ」とは、靈であり、火であり、陽であります。


太陽の力、靈・ひの力を宿して、人間は、「ひと」になります。


そして、「ことば」とは、精神(靈・ひ)の境から生まれたものです。肉を持つ人間が作り出したものではありません。天地(あめつち)の初発(はじめ)にことばがあり、民族を司る神、靈・ひの方を通して、そして、いまも、一瞬一瞬、天地の初発から、ことばは生まれてゐます。


ですので、ことばがやどり、とどまつて、人間は「人・ひと」になることができましたし、いまも、さうなのです。ことばがしつかりと根付くとき、ことばを己れのことばとすることができたとき、その存在は「ひと」となります。


言語造形といふ芸術によつて、そのことを知性だけで理解しようとするのではなく、自分のまるごとをもつて確かめて行くのです。



posted by koji at 09:03 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月24日

子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたしの内なる青春時代〜



132462403_3615749765171710_1168024527070743930_n.jpg


そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。


大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」、そして「青春時代」。


わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。


わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしはまた問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていくのです。


そして、わたしの中の「子ども時代・青春時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。


第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。それは、その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。そして、他者と語り合ふ中でこそ、ひとりで考へる力が育まれていきます。


若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。


そんなとき、時間をかけながら、傍にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。


そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。


そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、傍にゐる大人が見てとつてあげられたら。


『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。


さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。


他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。「では、わたしは、世に対して、何をして行かうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の傍にゐる大人のひとつの役割でせう。


ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。


彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。


人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。


そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。


さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んで行かうか。引き続き、わたしにとつての2021年の課題です。
(完)


posted by koji at 08:08 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月23日

子ども時代D 〜順序を間違へないこと〜


132190969_3613527328727287_8572077477030062236_n.jpg


欲する力・意欲の働きがむき出しの0歳から7歳。


その欲する力の上に、感じる力・情の衣をまとひ始めるのが7歳から14歳。


そしてその欲する力、感じる力から、だんだんとひとりで考へる力が育つてくるのが14歳から21歳。


それら三つの力はどれも、その人のその人たるところ、「わたし」から生まれてこようとしてゐるものですが、年齢によつてその表れ方が異なつてゐて、欲する力として、感じる力として、考へる力として、順番に現れてきます。


それらおのづと生まれてくる力の順序を間違へずに、その順序どほりに育んでいくことが、人の育ちにとつてとても大事な意味を持ちます。


小学生に、「自分で考へなさい」と言つてしまふこと、ありませんか。


人といふものをよく見てとつてみると、小学校に通つてゐる時期には、子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、おのづと、感じる力といふ衣をまとひ始めてゐる、しかし、自分ひとりで考へる力は、まだ生まれてきてゐない。


「自分で考へなさい」「自分で判断しなさい」といふ指導は、その時期の子どもには早すぎるのです。


小学生に対して、自分自身で考へさせ、判断させることをあまりにも強いてしまふと、こころの働きを早産させてしまひ、後になつて、大人になつても相応しく考へる力、判断する力がなく、また、こころに茨のやうなアンチパシーが生い茂り、生きていく上でにがい思ひをすることになりかねません。


「シュタイナー教育では、かう考へる」といふのではなく、人をあるがまま観てとる練習をしていけば、そのやうな順序を間違へない判斷がだんだんとなされるやうになつてきます。


人をあるがままに観てとる練習。その練習は、きつと、生涯、続きます。



posted by koji at 23:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代C 〜言語からの愛、言語からの叡智〜


131930881_3609849179095102_4671183022916095612_n.jpg


小学校時代の第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、子どもと地域との関係性、それは一対多の関係性とも言へるのですが、より本質的に言へば、それは人と民族との関係性です。


民族とは、ひとつの言語を母語として共有してゐる人々の集まりを言ひます。ひとつの言語を共有することによつて、人々は共にある、といふことを実は感じてゐます。ほとんど無意識、もしくは夢のやうな意識の次元においてですが、感じてゐます。


日本語を話すことによつて、その人は日本人になるのです。だんだんと日本人のものの考へ方、暮らしの仕方へと身もこころも同化していきます。なぜなら言語は、おもに、感情の次元から発せられてゐて、感情とは民族に根付いてゐる根柢に通ふものがあるからです。


そして、言語を話す人には、その言語からの叡智が贈られてゐます。


ことばの叡智、日本伝統のことばで言ふ「言霊の風雅(みやび)」、キリスト教の密で言ふ「ロゴス・ことば」、もしくは、人をどこまでも育てようとする、ことばの神からの「愛」です。ことばを大切に扱ふ人のところに、ことばの精神から、愛と叡智への予感が降りてきます。


言語造形を通して、ことばにはそのやうな働きがあることを学んでいくこともできます。


そのやうに実は叡智に裏打ちされてゐることばを通して、他者と素直に語り合ひ、違ひを見いだし、それを尊び、自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。


第二・七年期の子ども時代、それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。


また、大人にとつては、自分自身の内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによつて、ことばと己れとの関係にいま一度目覺めることができるのではないでせうか。わたしたち大人自身が、複数の他者との関係の中で、どう、ことばとつきあひ、どうみづからを育んでいくことができるか。そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、この上なく大切な働きかけになります。



posted by koji at 17:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代B 〜彩りの豊かさ〜


131926331_3608181325928554_5546501428580090025_o.jpg


子どもは歯が生へ変はりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとつて本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか多勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。


地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豐かさにどんどん目が奪はれていくことでせう。


かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。


幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。


しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情といふ衣を着つつ現れてきます。


そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。その彩りの豐かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。


ひとりひとりの子どもは、みんな、違ふ。みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。


ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊嚴を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。 どれほど大切なものが子どもたちの内側から流れ出してくるでせう。


さういふ大人の下で、子どもは、自分といふ個にゆつくりと目覺め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覺め、その彩りの豐かさに目覺めていきます。


社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、多勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本來的な豐かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。


もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」 もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に拔きん出ることができますよ」といふひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれ出ようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着てゐるやうなものです。


ひとりひとりの子どもたちは、本来、各々、別々の色を持つてゐます。


posted by koji at 07:39 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月22日

子ども時代A 〜自己信頼の基 あのね かあさんが すきなのよ〜


131732563_3605868519493168_4452362433214517699_n.jpg


「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳に至るあたりまで、幼い子どもは、自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としてゐます。


その一対一の関係を通して、子どもは「世は善きところである」といふ信頼を、きつと、ますます深めていくことができるのでせう。


その個と個の関係において、人はまづ最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。


その最初の<わたし>の健やかな成長のために、子どもは、内側から湧き上がつてくる「意志・意欲」を、そのまま固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、ひとりの大人の存在を必要としてゐます。


その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、家庭があり、その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。


この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すやうな童歌があつて、まどみちおさんが作詞した「ざうさん」といふ歌があります。


  ざうさん、ざうさん、おーはながながいのね
  さうよ、かあさんも、なーがいのよ

  ざうさん、ざうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ


幼い子どもが、ひとりのお母さん(もしくは、それに代はる誰か)との結びつきを通して、個と個の信頼を育んでゐる姿が描かれてゐますね。


ひいては、自分自身への信頼をも育んでゐます。


わたしたち大人の内側に、第一・七年期の子どもにとつての大切なテーマでもある、この個と個の関係性をあらためて創つていくことの重要性を、いやといふほど感じてゐるのが、現代といふ時代かもしれません。


その関係性の基とも言へる、家庭の中における個と個の関係性、家庭の中における夫と妻の関係性、そこには、その人の第一・七年期のありやうが映し出されてゐます。


そここそに、新しい宗教性が啓かれるのです。


それは、ひとりの人とひとりの人との間の信頼の問題、そして、つまるところ、自己信頼の問題なのです。


そのことが、もつとも現代的なテーマとして、わたしたち大人が向かひ合つていくべきことだと、あらためてわたしは考へさせられてゐます。

posted by koji at 23:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜


131300871_3602761936470493_1521186043502571873_o.jpg


人における「子ども時代」。それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。


よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。


「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかつた」


でも、大人になつても、遅くはない。なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潛めてゐるからなのです。


「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのやうなことばが思はず呟かれるのかもしれません。


「子ども時代」を強く保ち続けてゐる人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ち続けてゐる。子どもの氣持ちにいつでも帰ることができる。自分の中の子どもに語りかけるやうに、何かを創つたり、語つたり、書いたりすることができる。その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。


幾つになつても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。

posted by koji at 18:19 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月17日

聴くことの育み 〜青森での日々から〜


IMGP0108.JPG

IMGP0027.JPG

IMGP0023.JPG



青森での十七日間、毎日、オイリュトミーをする人、越中奉さんと朝から晩まで、ずつと話をし、飯を食ひ、練習をし、酒を飲んでゐましたが、こんなに話を聴いてもらへたことは、わたしのこれまでの人生でなかつたやうに思ひます。

わたしたちの間では、思ひやりの深さと遠慮のなさと尊敬と悪口と信仰とが混然一体となつてをりました。学生時代に帰つたやうでした。

そして、彼のオイリュトミーにおいて何が素晴らしいかと言ふと、それは、肉の耳に聴こえない、人のこころの動き、息遣ひを確かに聴くことのできるオイリュトミーであることでした。

その目には見えないかたち、耳には聴こえない余韻が描くフォルムを多くも多くの人が見えない、聴こえない、といふことに、わたしは仕事をしながら、気が狂いさうにもなつてをりました。

しかし、その不可視のもの、不可聴のものに対する感覚を分かち合へたことは、何か神からの恩寵のやうに感じ、特別の喜びでした。

さういふ感覚は、「ことばの感官」によつて感覚されます。

それは特別な人だけが持つ感官では、決してなく、すべての人が持つてゐるものなのですが、ことばを意味でしか捉えない、物理的な響きでしか聴くことのできない、知性に偏り過ぎた現代人の多くは、その感官をみづから閉ざしてしまつてゐます。

幼な子たちは、新鮮な生まれたての「ことばの感官」をもつて全身全霊で人のことばを聴いてゐますが、小学校に入り、知的な教育ばかり受けてゐるうちに、いつしか子どもたちはみづからの「ことばの感官」を閉ざして行きます。

そして、ことばの響きから生まれる色彩や運動、かたちや音楽などを感覚することができなくなつて行き、ことばを単なる情報を伝達するための符牒に貶めて行くのです。

では、その閉じられてしまつた感官をどうやつて再び開き、豊かに育んで行くことができるのか。

それは、一生懸命、ことばを「聴かうとする」ことです。アクティブな意欲を持つて、一つの音韻から一つの音韻を聴かうとすることです。注意深く静けさを聴かうとすることです。

IMGP0214.JPG

IMGP0028 (1).JPG




posted by koji at 07:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月15日

りんごのまんなか*夢の種



130681764_3588299217916765_4211290172573350114_n.jpg

131053489_3588299374583416_4484012031014165113_n.jpg


オイリュトミストの越中奉さんと共に、先日、岩手県金ヶ崎にあるシュタイナー学校「ちっちゃな学校 りんごのまんなか*夢の種」にお邪魔しました。


いくつもの神社に囲まれるやうにして、農村地帯の真ん中にある小さな学校。


わたしも昔話を語らせてもらひ、本当に息を思ひつ切り吸つたり吐いたりしながら、子どもたちのこころと触れあひ、手取り足取り一緒に遊ばせてもらひました。


130556097_3588299344583419_8698906194448694471_n.jpg



そこに子どもたちを連れてお母さんたちも集まつて来られます。たつたおひとりで働いてをられる教師の及川弘子さんとも様々なお話を交はすことができたのです。及川さんは、子どもと共に「考へる」ことの美しさ、楽しさを心底追ひ求めてをられる人。


ルドルフ・シュタイナーは、教育そのものは科学であつてはならず、芸術であつていい、あるべきだと言ひました。ここで言はれてゐる芸術とは何でせうか。


昨日、おひとりのお母さん、そして教師の及川さんと語り合ふ時間を通して、わたしはかう感じさせてもらひました。


芸術とは、人と人とが再び信頼し合ふことを学ぶ営みである。芸術とは、人が世を信頼することを学ぶ営みである。芸術とは、人が神を信頼することを学ぶ営みである。そして、芸術とは、己れのことを信頼することを学ぶ営みである。


その学びを通して、肉体を持つわたしたちは、精神に触れる修練、精神に通はれる修練を数多く重ね、「聴く」ことができるやうになつて来る。


何を聴くのか。


人のこころ、子どものこころ、己れのこころを聴く。人のこころ、子どものこころ、己れのこころの囁きを聴く。嘆きを聴く。さうして、精神を聴く。精神は常に、いつも、何かを語つてくれてゐる。そのことばに耳を澄ます修練。


その修練を積み合ふ者同士が集ふことの貴重さ、かけがへのなさ。子どもたちをそんな場所で育て合つて行かないか。


そんな人との出会ひに満ち溢れた一日でした。ありがたさにこころ暖められる一日でした。


130743447_3588299441250076_1222468796507969343_n.jpg

131076204_416947339495843_6411898893794366560_o (1).jpg



※「りんごのまんなか*夢の種」来年2021年1月4日から一週間、越中奉さんによるオイリュトミー連続講座がここであります!



posted by koji at 22:16 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

課題としての結婚



image.jpg



今日は、滋賀県草津市でのアントロポゾフィーの学びの会『両親の問診時間』。テーマは「課題としての結婚」。


「結婚」といふ最大の自己教育の場において、その自己教育を阻むふたつの力。ルーツィファーとアーリマン。


そのふたつの力に、わたしはどれほど蝕まれて来たことだらう。


十何年前にも、四・五年前にも、同じテーマで講義をさせてもらつたのですが、それらの時とはまるで違ふトーンで語らせてもらふことができたのでした。

posted by koji at 18:41 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月18日

結婚の意味



125521404_3525969527483068_9101039171966225837_n.jpg



といふテーマで、昨日は講義をさせてもらひました。わたしにとつて、なんと身の程知らずなテーマでせう!

昔の人にとつては、伝統的な暮らしぶり、長い月日から生まれて来た叡智が大家族といふシステムの中で見事なまでに機能的に作用してゐましたので、ひとりひとりのエゴもある意味、集団の中で撓められ、育まれ、結婚を通して家族を持つといふこと、「結婚の意味」がおのづと分かるやうになつてゐました。

しかし、現代、ライフスタイルは激変し、大家族がどんどん分化して、核家族として結婚生活を営むやうになつて、昔では考へることもできないやうな自由を享受しながらも、エゴとエゴとがまともにぶつかり合ふ、そんなきわどいバランスの上でわたしたちは生きてゐます。そして、「結婚の意味」は誰も教へてくれません。ひとりひとりが自分自身で見いだし、つかみ取つていく他なくなつてしまひました。

つまるところ、結婚の意味とは、様々な社会的な意味のさらに深みにある、「愛」の問題に尽きますので、人の内なる精神への問ひかけになつてしまひます。

愛とは、からだを超える精神の次元があること。いや、むしろ、精神の次元でこそ、愛が本質を顕はにすること。さらに、痛みや苦しみや悲しみを痛切に感じ、死といふものが目前に迫らないと、たいていの人は愛に目覚めることができないので、「結婚」とは何を意味するのか、といふ問ひを本心本当に自分の問ひとして抱くことは、とてもとても難しいことです。

エルンスト・フォン・フォイヒタースレーベンといふ人が、こんなことばを残してゐます。

精神のみだ。
こころが外に希んで得られないものを
つくりだすことができるのは。
愛を求める者は愛を見いだすまい。
が、愛を与へる者は愛を受けるだらう。

これらのことばは、重くはないでせうか。
わたしには、とても重いことばと感じられます。



posted by koji at 07:54 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月21日

ふたつの悪魔



122136624_3449880461758642_6059880393008167616_n.jpg



己れが愛してゐることを、
仕事としてすることができることほど、
ありがたいことはない。
今朝、仕事に行くために、
長い時間、電車に乗つてゐて、
心底、さう思つたのでした。


二十九歳のとき、
師匠である鈴木一博さんの講義を聴き始め、
言語造形の稽古をつけてもらひ始めました。
そのとき、すぐに、
アントロポゾフィーを己れのものにして、
自分自身のことばで自由自在に語ること、
そして言語造形といふ芸術を生きること、
そのふたつのことを仕事にするのだ。
さう、こころを決めたのでした。
彼の講義を聴きつつ、
おのづから、さう、こころを決めてゐたのでした。


こころを決める。
ああだ、かうだ、言はずに、
自分の実力や、向き不向きなど思案せず、
こころを決める。


その不思議な志の誕生と巡り合はせに、
ただただ、感謝するしかないのです。


今日も、こころから語らせてもらつたことを、
こころから聴いて下さる方々がゐて下さる。
こんなにありがたいことはありません。


言語造形の舞台についても、
もうこの世に生きてゐる間、
ああだ、かうだ、言はずに、
ただただ、こつこつと、根気を持つて、
ひたすら創り続けるだけです。
そのために毎日稽古できることこそが、
自分自身への信頼を育て、
こころとからだを健やかになりたたせてくれます。
これも、本当にありがたいことです。


今日、させてもらつた講義は、
「理想主義」についてでした。


「理想」と「現実」といふことばは、
いまは、対義語のやうにして人々に使はれてゐますが、
そもそも、どちらも、
人が自己との闘ひから勝ち取るものであり、
他者や世から与へられるものではなく、
自分自身が創り出すものです。


本当の「現実」、本当の「理想」とは、
まぎれもなく、
「わたしがわたしになる」といふことではないでせうか。


「いい人になる」「素晴らしい成果を産み出す」・・・
それらも理想となりうるでせうが、
「わたしが〈わたし〉になる」
それこそが真の理想であり、
それこそが真の現実であり、
それは自己教育なしにはなしとげられないものです。
その他のことはすべて、
「わたしが〈わたし〉になりゆく」ことに伴つて、
必然的についてくる。


しかし、その自己教育を阻むふたつの働きかけが、
すべての人に及んでゐる。


ひとつは、ルーツィファーといふ、
人を虚ろな思ひ上がり、高慢、妄想、夜郎自大へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
「人から認めてほしい」
「人から褒められたい」
「人から愛されたい」
といふ承認欲求の過剰、
と同時に他者への批判へと誘ふ、
悪魔、堕天使からの働きかけです。


まうひとつは、アーリマンといふ、
人を自己不信へ、自信喪失へ、自暴自棄へ、自殺へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
諦め、不安、過剰な享楽、
自己への不満、自己への必要以上の批判へと誘ふ、
悪魔、堕ちた大天使からの働きかけです。


リアリスティックな自分自身の姿を直視せず、
思ひ上がつた自己像といふ幻想の中に戯れ続ける人。
それは、わたしのことでした。
ルーツィファーといふ堕天使に、
なずみ続けてきた長い年月でした。


幻想の中で自己に戯れることと、
リアリティーの中で自己と闘ふこと。
この間の違ひは、
年月を経れば経るほど大きくなつて来るのでした。


一方、アーリマンからの働きかけは、
日々、わたしの日常を当たり前に蝕んで行きました。
それは、わたしのまことのエネルギー、精神からの力を、
密やかに、しかし、確実に、毎日、殺いで行きました。
自己不信を確かに証明するやうに、
外の世もそんな仕事の成果をわたしに見せつけるのでした。


これからも、
そんなふたつの悪魔的な働きかけは、
休まずわたしに及ぶのですが、
「すべてに感謝すること」
「精神的なことに関心を持つこと」
「こつこつと根気を持つて、
 仕事を繰り返し続けて行くこと」
この三つを練習することによつて、
ふたつの悪魔に向き合ひつつ、
その働きかけを凌いで行く。
さうして少しづつ自由への道を歩みゆく。
それこそが人生であり、
さうして、
わたしが〈わたし〉になりゆくことこそが、
我が理想であることは確かです。


練習することを、こころに決める。
それだけです。



posted by koji at 07:39 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする