2023年03月12日

今日を生きる心意気


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今、それぞれのオンラインクラスで、シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』と『テオゾフィー 人と世を知るということ』の二冊を講義させてもらっています。


奇しくも、どちらのクラスでも、テーマがシンクロしていまして、「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」なのです。


つまり、この肉体の眼では確かめることのできない、いわゆる「スピリチュアル」な事柄なのですね。


しかし、この「スピリチュアル」なことこそ、筋道を辿ってしっかりと考えることを通して、こころの内に、その「スピリチュアル」な階段を一段一段昇ってゆくことができるということを教えてくれているのが、ルードルフ・シュタイナーです。


「感覚」だけでなく、しっかりとしたその「論理性」、つまり考える働きによって、精神の世への道を一歩一歩進んでいく。


その考える働きを、静かに、浄めて行く作業、それがメディテーション(瞑想)です。


毎日繰り返されるそのメディテーションによって、わたしたちは、どこに向かうかと言いますと、それは、先ほど挙げたテーマである「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を己が身をもって知ってゆくこと、まことの<わたし>を知りゆくことにあるのです。


そして、その知ったところから、今日という一日をどう生きるかという心意気に転換すること、そこにアントロポゾフィーの学びの最大の眼目があると言ってもいいように私は実感しているのです。


「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を学ぶとは、それは、これまでの、長い、長い、時間の中で、わたし自身がなして来たこと、なすことができなかったこと、すべてのわたしの来し方のありようが、今のわたしの毎日の暮らしに運命として働きかけて来ていることの意味をリアルに知ることなのです。


我が運命の意味を知る、とは、その運命が、「幸せ」の仮面をかぶっていようと、「不幸せ」の仮面をかぶっていようと、必然性を持ってわたしの人生に訪れた我が運命を愛することであり、我が運命を抱きしめ、我が運命に体当たりしていくことであります。


その体当たりしていくこと、それが、「今日という日をどう生きるかという心意気」に転換されるアントロポゾフィーの学びの真髄であると、わたしは確信しています。


わたしもまた、ひとりの人として、長い、大いなる旅をして来ました。そして、今、生かされて、ここに、います。


そして、すべての人、すべての子どもたちも、大いなる旅の果てに、いま、生かされて、ここで、出会っている。


できることはたかが知れていたとしても、少なくともわたしが出会うすべての人に、その考えと感覚とを重ね合わせて、お付き合いをしていきたい。


それが、アントロポゾフィーの学びと実践に、相も変わらず、付き合い続けている、わたしの悲願なのです。


地味な歩みですが、確かな道を歩いていると、わたしもまた、実感しています。





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2023年03月09日

わたしたちの屈折『ヴァルドルフ教育における歴史の授業』に参加して



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先日、Shikoku Anthroposophie-Kreis主催の 「対談『ヴァルドルフ教育における歴史の授業』〜問いと実践〜」というオンラインでの営みに参加させていただきました。


京田辺シュタイナー学校の中村真理子先生が歴史の授業の実践を分かりやすく語り直して下さる、滅多にない、まことにありがたい機会でした。


中村先生の語って下さったポイントはいくつもあり、どれもがとても大切なことだったのですが、その中でも、とりわけ印象深いものと受け取ったことがありました。


それは、子どもの年齢に応じて、そのときそのときに子どもがこころの奥底で求めているものを、神話における神々の振る舞いや歴史上の人物像を通して、物語ることの重要性です。


子どもの幾つの年齢で、何を素材として取り上げることができるのかということは、まさしく、シュタイナーの教育学から、アントロポゾフィーの人間学から見識を得ることができます。


そこで、このオンラインの営みが設けられるに至った、ひとつの問いがありました。


それは、子どもたちに歴史を教えてゆく際に、アントロポゾフィーの人間観・世界観から得られる歴史への見識に基づく授業をすることと、日本の歴史について教える際の、微妙な(もしくは、明らかな)違和感を現場の先生方はどう感じ、実際にどう授業されているのか、という問いでした。


中村先生は、物語の出自の洋の東西を問わず、子どもがいま求めているもの、子どもの成長に資するものを、絵姿豊かに語ることが、大切であることを教えて下さいました。


そして、むしろ、日本の神話や物語、人物伝に、子どもの成長に資するものをより多く見いだして行くことの重要性を仰っていたことも印象的でした。


この時間を共に過ごさせていただいた後、わたし自身の中で、生産的な問いが生まれて来てくれていることもありがたいことだと感じています。


学びという学びは、つまるところ、自己認識を目指していて、古代ギリシャの密儀の中のことば「汝みずからを知れ」は、いまも、わたしたちに痛切な響きをもたらしているように実感します。


それは、個人個人のことでもありますが、きっと、民族のこと、国家のことでもあるでしょうし、歴史を学ぶとは、人類が人類を知る、民が民を知る、人が人を知るということに他ならないように思います。


世界の中に日本があり、外があるからこそ、内がある。


外国のことをよく知ることを通して、内なる国、自国のことを知る、そんな自己認識のありかた。


学びには、そういう側面が欠かせません。


そして、もうひとつ、自分自身の中心軸をしっかりと打ち樹てるべく、我が民族、我が国の独自の精神文化をより深く追求していくことによる自己認識のあり方。


どちらかひとつではなく、両方の学びの間に釣り合いが取られて、わたしたちは、個人においても、民族のことにおいても、国家のことにおいても、内と外とのハーモニーを健やかに生きることができるように思います。


小学生から中・高校生の歴史の学びにも、その視点がとても重きをなします。


ただ、ここに大きく深い問題があるように感じています。


それは、日本の近・現代史は、精確に言うならば、日本の精神は、相当、屈折している、もしくは、屈折させられているということです。


明治維新以来、西洋の最新の文明に追いつけ、追い越せという文明開化のスローガンの下、とりわけ、若いエリートたちは、それまでの自国の文明文化をある意味、大いに否定し、父や祖父、母や祖母の持っていた考え方、生き方を古臭いものとして葬り去ろうとして来た、そんな近代の歩みであったからです。


言い方を変えますならば、もともと成長していた樹木を、真ん中、もしくは根もとからぶった切って、全く違うところで育った木を接ぎ木した上で、「それ生えろ、それ伸びろ、それ花咲け、それ稔れ」とばかりに大急ぎでやってきたものですから、無理がたたる。


それは、外国から開国を要求され、植民地化されるかどうかという瀬戸際での国家的判断からなされたことですので、歴史の必然としか言いようがない、けれども、何とも言えないような苦しみと哀しみを感じざるを得ないことがらです。


その無理が無理のまま最後に爆発してしまったのが、78年前の世界大戦での日本の大敗北であったのではないかと思うのです。


そして、戦後、明治維新以来の無理の反動でしょうか、わたしたちは自主独立する心意気など全く失い、しかし、また、明治維新以来のヨーロッパとアメリカこそが主(あるじ)であり、我々は従(おきゃく・しもべ)であるという底深い観念・心情がこころの奥底に染み付いてしまっているように思われますが、どうでしょう。


そして、シュタイナー教育が、今は亡き子安美知子さんの「ミュンヘンの小学生」という一冊の新書の1975年発刊以来、約50年近くに亘って、日本に少しずつ広まって参りました。


ヨーロッパからの精神文化として伝わって来たシュタイナー教育運動、その日本における伝播においても、やはり、先ほど書きました、日本民族の近・現代にずっと引きずっている、どうしようもない屈折とコンプレックス、自己不信感が伴われて来たのではないだろうか。


わたし自身の問題意識として、そのことがずっとあります。


子どもたちに歴史を教えるということは、そういう事情の上になされることだからこそ、わたしたち大人の意識のありようがまことに難しい。


その屈折を屈折のまま子どもに伝えることもひとつの教育と言えるのかもしれませんが、やはり、大人自身が、明治維新以来の屈折を、ひとり、引き受け、人としてその屈折をまっすぐにしようという意識と気概が要るように念うのです。


屈折を屈折と自覚せずに、子どもたちに歴史を教えることは、子どもたちを複雑な、まさに屈折せざるを得ない存在へと育ててしまうことにならないだろうか・・・。


わたしたち昭和の後半から平成に教育を受けて来た者たちは皆、そういう教育を受けて来たのではないだろうか。だからこそ、内において、皆、とても屈折している・・・。


アントロポゾフィーを学ぶわたしたち日本人は皆、そのことに向き合い始めていると思います。


そして、これは、大変なことだとわたしは考えています。だからこそ、このオンラインに参加させていただきました。そして、この問い、この考える営みを持続させていくこと、さらには、実際の教育現場を創りなしてゆくことで、これからの教育を新しく創ってゆくことが、わたしにとっての人生の大きな課題のひとつなのです。


Shikoku Anthroposophie-Kreisの皆様、そして中村先生、まことに貴重な機会を与えて下さいました。どうもありがとうございました。





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2023年03月05日

意識していい自分の息遣い



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子どもを育んでいこうとするわたしたちの課題。


わたしたちの教育の課題は、子どもの精神・こころを、からだと調和させるということです。


その調和のためには、呼吸というものが、とても重きをなします。


わたしたちは、子どもの傍で、歌を歌い、お話を読んだり語ってあげたりすることができます。


また、ものを観る時、聴く時、ものに触れる時、ものを扱う時、ものを言う時、わたしたちは深い息遣い、活き活きとした息遣いで、それらの行為をなしていくことができます。


その時になされるわたしたち大人の息遣いが、子どもの息遣いをおのずと整えていくのです。


その整えられた息遣いは、その子の胸の領域から下腹部を中心とする新陳代謝を司る領域に働きかけ、その子の血の巡りを促し、臓器を健やかに成り立たせていくことの助けになります。


さらに、呼吸の働きが持つより大事な側面として、呼吸のリズミカルな繰りなしは、頭を中心とする神経・感官のシステムにも働きかけていき、その子が、深い息遣いで、静かに、ものを観、ものを聴き、ものに触れることのできる力をみずから育んでいくことを支えていきます。


子どもが静かさの中で世に生きることを、理屈からではなく、息遣いというおのずからの働きによって学んでいくことができるのです。


その子の精神・こころが、その子のからだ(とりわけ神経・感官のシステム)に健やかに流れ込んでいくことによって、その子は静かさの中で生きることを学んでいきます。


精神・こころとからだの間にハーモニーが生まれてくるのです。


子どもの息遣いは大人の息遣いからなりたっていきますので、わたしたち大人の意識次第で、そのハーモニーが子どもの中に生まれることを助けることができます。


教師の方だけではなく、子どもをを持つ親御さんの方々とも、この意識を分かち合っていくことができたらと希っています。


そのためには、大人自身が折々の芸術体験、芸術実践の時間を持つことです。


人は、科学だけでは、人として生きていくことはできません。芸術が必要です。


そして、家庭こそが、子どもの育ちにとっての無尽蔵に豊かな場所なのです。



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2023年01月21日

時の節目(ふしめ)に 〜1924年1月1日「クリスマスの集ひ」にて ルードルフ・シュタイナー〜



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時の節目(ふしめ)に
世の靈(ひ)の光 顕れし
地のものへの流れに

夜の闇
司(つかさど)りたりし
昼の明るき光
人のこころに輝けり


暖めむ
貧しき羊飼ひの胸を

照らさむ
賢き王の頭(かうべ)を

神の光
キリストの陽(ひ)
暖めよ
我らの胸を
照らせよ
我らの頭(かうべ)を

よきものとなりゆくやうに
我ら 胸より織りなすもの
我ら 頭(かうべ)より目指し導きゆかむもの



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


これまで夜の闇に支配されてゐましたが、昼の明るい光に照らされていい時がやつて来たやうに感じてゐます。

しかし、その節目を迎えるのも、その人の<わたし>次第かもしれません。

「ひとりでいかに生き切るか(倫理的個体主義)」といふシュタイナーが1894年に『自由の哲学』で書いたことばが時代のことばとして、いまだに鳴り響いてゐるのが、ありありと聴こえます。


新しく年が明けて、三週間が経ちました。2023年のいま、「クリスマスの集ひ」における最後のシュタイナーのことばを、わたしも我がことばとして胸の内にて歌ひます。


よきものとなりゆくやうに
我ら 胸より織りなすもの
我ら 頭(かうべ)より目指し導きゆかむもの





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2023年01月17日

信頼の中の、密(ひめ)やかな学び



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和歌山や滋賀、大阪、そして青森、仙台、神奈川の方々とここ数年来取り組んでゐることがあります。


それはルードルフ・シュタイナーから生まれた「密(ひめ)やかな学び」です。


「密(ひめ)やかな学び」は、「Geheimschulung」といふドイツ語を鈴木一博さんが翻訳されたものです。高橋巌さんは「神秘学」と訳されてゐたのではなかつたかな(いま手元にないので、不確かでごめんなさい)。


いずれのクラスも、皆さん、子育てと子どもへの教育をきつかけに集まられた方々です。


しかし、子どもを育てるとは、つまるところ、大人自身の自己教育に懸かつてゐること。


その自己教育は資格を取ることや、何かの能力をつけること以上に、つまるところ自分自身のこころの育みに尽きるといふこと。


そのことへと思ひ至られ、かうして、「密(ひめ)やかな学び」へと皆さん参じられてゐます。


仙台で行つてゐますシュタイナー教員養成においても、二年間で八回集まる講座の時間以外に、オンラインで毎週全員が集まり、この「密やかな学び」をこつこつと積み重ねてゐて、自分自身のこころへのこの密やかな働きかけこそが、教員養成の要(かなめ)であることを分かち合つてゐます。


また、この学びは、その名の通り、「密やかな」ものですので、繊細なこころのことに取り組み、メンバーが互いにこころを開き合つて、互いのこころと精神に目覚めゆく時間になつてゐます。.


ですので、どのクラスの雰囲気も本当に親しみある信頼の情に浸されてゐます。


アントロポゾフィーの学びと実践は、この親しみと信頼の雰囲気を社会へともたらしていくことを目指してゐます。


そのためには、仲間との信頼を感じられるクラスと、ひとりきりになる時間との往復の中で、わたしがわたしに向き合ふ、そんな「密やかな学び」が必要なのです。




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2022年10月04日

『ミカエルのお祭り』ルードルフ・シュタイナー



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我々、いまを生きる人

靈(ひ)の朝の呼び聲

ミカエルの朝の呼び聲を

ふさはしく聴き取りてしかり

靈(ひ)を知ること

そはこころに啓かむ

まことの朝の呼び聲への聴き耳を



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2022年09月22日

骨に立ち返る



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どんなに不精な人でも、実は、日がな一日、ずつと、手足をぶらぶらさせて生きてゐます。つまり、常に、動いてゐます。からだは、ずつと、動いてゐるのです。


そして、こころも、常に動いてゐます。それは、気持ちの揺れ動き、浮き沈み、こころ変はり、といふやうに言ひ表されますが、現代人であるわたしたちに最も特徴的なのは、常に、考へてゐるといふことです。


しかも、その考へられてゐる考へが、次から次へと、とめどもなく、移り変はつてゆくこと。さらには、その考へが、その人みづからが考へたいことではなく、何か外からの働きかけを受けて、考へさせられてゐることによるものだといふことです。


考へたいことを考へてゐるのではなく、考へさせられてゐるのです。


その考への生には、自由といふものがありません。


その考への生には、精神といふものがありません。


わたしたちは、立ち止まる必要があります。


さう、からだは、常に動きの中にあります。


しかし、こころこそ、自由になるために、立ち止まる必要があります。


こころが立ち止まればこそ、そこに精神・靈(ひ)が現れます。宿ります。留まります。


精神・靈(ひ)は、外からの影響がすべて鎮まつたこころのしづかさの中に現れます。


精神・靈(ひ)は、時間の外に現れます。


こころが、時間の流れから出ることができた時に現れるもの、それが、精神・靈(ひ)です。


こころを止むことのない動きから解放し、しづかさの中へといざなふためには、意識的に、からだの動きをも、ゆつくりとさせる、もしくは、止める、といふことが有効だと感じてゐます。


さらには、こころのしづかさへと至るために、からだの中の骨を意識するといふことがとても有効です。


からだの内なる骨の存在を意識するのです。


からだを動かす時にも、筋肉で動かず、骨を動かす、骨が体の動きを導く、そんな感覚です。


骨は、からだの内で、死んでゐます。


生きてゐるこのからだの内側にあるのにもかかはらず、死が司つてゐる場所なのです。


死んでゐるからこそ、そこに、精神・靈(ひ)が通ひます。


そのやうな骨を意識し始めると、こころに、しづかさが、しづしづと、流れ始め、拡がり始めます。


そのとき、こころはしづまり、安らかさ、穏やかさに立ち戻り、外からの桎梏から解き放たれる自由を生き始めることができます。


しづかさの中で、本当に、わたしが考へたいことを考へる。


その時、人は、自由です。


ミカエルの秋(とき)に向けて、そんなことを念ひます。




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2022年08月10日

その人がその人になりゆく場



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朝の光が差し込む聖なる空間。


昨日まで教員養成講座のために滞在してゐた「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」の教室を、鳥の鳴き声が聞こえ始める早朝、観てゐて、様々なことを想ひました。


ことさら特別に驕り高ぶつた意識を持ちだして「聖なる」などといふことばを使はなくてもいいと思ひます。


ただ、「聖なるもの」は、この世にあると思ふのです。


いえ、精確に言ふと、「聖なるもの」は、人によつて創り出されるのだとわたしには思はれるのです。


本当の聖なる空間とは、子どもを含め、ひとりひとりの人が、その人になりゆく場である。


人が、自由へと羽ばたいてゆくことのできる場であり、その力を養ふ場であります。


それは、シュタイナー学校でなくても、この世のいたるところに創られうる。


ただ、アントロポゾフィーの学びに育まれて、わたしたちは意識してさういふ場を創つてゆくことができる。


その意識からなされる仕事場のひとつが、このシュタイナー学園。


そこは、シュタイナー教育の方法論ではなく、ひとりひとりの人の誠実さが生きうる場です。


そこでは、誠実にことばが語られます。


これは、成長してゆく子どもたちにとつて、何よりのことではないでせうか。


そして、わたしたち大人にとつても、何よりのことではないでせうか。


なぜなら、そこでは、大人であるわたしたち自身が、誠実にことばを語らうと努めることで、こころを誠実さへと、精神へと、引き戻すことができるからです。


誠実さとは、人がみづからのこころをみづからで観ることから、だんだんと育つてくるものです。


人は、誠実になると、その人そのものへと立ち返ります。


外から取つてつけるやうな特別なものは何も要りません。


上手くことが運ばないことも多々あるでせう。綺麗ごとでは済まないこともままあるでせう。


しかし、そんな時こそ、みづからのこころをみづからで観る。


このことが、アントロポゾフィーからの教員養成の基のことだとわたしは念ひます。


また、まうひとつのことをも思ひました。


それは、育ちゆく人を見守つてゐるこの聖なる空間の誠実さを担保してゆくためには、場をある程度の「小ささ」に留め置くこと。


日本の古いことばに、「初国(はつくに)、小さく作らせり」といふ切なく美しいことばがあります。


人と人とが誠実に語り合へる「小ささ」を守りゆくことも大切なことのやうに思へるのです。


それは、幾とせを経ようとも、「初心(ういういしいこころ)」「初国(ういういしい国づくり)」の念ひに立ち返ることへとわたしたちをみちびいてくれるのです。


さういふ聖なる場で育つことができた人は、その国を出でて、荒々しいとも言へる大海原(おほうなばら)へと漕ぎ出してゆくことのできる力をも持つことができる。


その力を持つ前に、いきなり、荒々しい大海原に子どもたちを投げ出してはならない。


さういふ意識を、ルードルフ・シュタイナーは持つてゐました。







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2022年06月12日

感覚を実現すること



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画家とは、何をする人なのだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられます。


セザンヌをはじめ、「印象派」と言はれる画家たちの実現しようとしてゐたこと、それは肉の眼に見える自然のものをなぞるやうに描くことではなかつた。


目の前にある、山であれ、湖水であれ、樹木であれ、花瓶であれ、果物であれ、人であれ、画家が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものもぢつと彼を見つめる。


自然が自然そのものの内に秘めてゐる密(ひめ)やかで、持続的で、強く、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。


それは既に、感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。


そして、そのやうな自然からの「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大な画家自身の「こころそのもの」が立ち上がつてくる。


その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。


そのふたつの出会ひをこそ、キャンバスの上に、色彩で顕はにしろと、自然そのものが彼に強く求める。


セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それこそが絵を描くといふことであつたやうです。


まさに「仕事」として絵を描くとは、彼にとつては、それであつた、と。


わたし自身は、画家ではありませんが、この「ものをぢつと観ること・聴くこと」といふこころの練習を習つてゐます。


それは、ルードルフ・シュタイナーが書き残してくれた幾冊かの書に沿つてです。


その練習は、ものから、ものものしい何かを受け取ることのできるこころの集中力の養ひです。


このこころの力は、本当に、何年も何十年もかけて養はれていくものだと実感します。


そして、この力は、子どもを育てることにおいてとても重きをなす力です。


子どもといふ存在から、ものものしい何かを受けとり、それをこころにリアルに感覚することができるかどうか。


ですので、シュタイナー教員養成において、この内なる習ひ・養ひは欠かせないことの一つであります。


そして、あらためて、セザンヌは、そのことを、意識的になした人であつたと感じるのです。


ですので、美術館で実物の彼の絵を観るとき、いつも、画布の前でわたしはとてもとてもアクティブなこころのありやうでゐざるをえません。


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2022年05月28日

本を読むときと講義を聴くときの違ひ



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たつた一枚残されてゐる講義中のシュタイナー




何かを学ばうとして、その何かに関する本を読むことと、その何かに関して、誰かから講義を受けることとの間には、少し違ひがあります。


本当に学びたいといふ内なる真剣さ。それは、どちらにも共通して必要です。


さて、本を読む時に、望むべくは、その内容によつて、こころが変に乱されたり、煽られたりすることなく、静かに考へつつ、かつ、熱い想ひをもつて、理解すること(分かること)へといたることです。


さうして、その読書が、こころにばかりか、からだのすべての力、すべての液にいたるまで働きかけて、日々の暮らし方、生き方に影響を与へて行くとき、その学問そのものには、理性や知識だけでなく、精神的ないのちが宿つてゐます。


そのやうな書を読む人は、死んでゐる文字を甦らせるやうな読み方へといざなはれます。その書に込められてゐる内容の精神、考へとしての精神が、書き手から読み手へと流れ込んで行くのです。


一方、講義などを通して、人の語ることばから何かを学ばうとするとき、その講義を聴く人は、語る人から教義を受け取るのではありません。語る人その人の精神を受け取るのです。


語る人の精神が、語られることの精神とひとつになつてゐるからです。


つまり、「人」に出会ひにゆくために、「人の精神」「精神の人」に出会ひにゆくために、講義を聴きに行くのです。


その人との出会ひのひとときに、その学問の精神は、そのつど、そのつど、生まれます。甦ります。むすばれます。


講義とは、人と人との間に繰りなされる、精神の劇でもあります。一回かぎりの劇なのです。


そこにおいては、和やかで親しみに溢れる雰囲気のなかに、内なる真剣さがあるほどに、精神的ないのちが宿ります。


かうして、本を読むときとは違ふ精神の受け取り方を、講義を聴くときに意識してゐますと、人と人とが、共に学びつつ生きて行くといふことの意味深さを感じることができます。







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2022年05月27日

自由への三つの密めやかな次第



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セザンヌ「果物鉢とコップとりんご」


人は、自分の外に広がる世界にはよく目を注ぎます。


しかし、こころといふ、内なるところに広がる世界に目を注ぐことには、あまり慣れてゐないのではないでせうか。


こころ(ドイツ語ではSeele)が、湖(See)だとしますと、その水面に浮かび上がつて来た様々な感情や考へ、それらはなぜ浮かび上がつて来たのでせう。


それらは、きつと、どこかから風がこちらに向かつて吹いて来るやうに、外の世界に何らかの出来事が起こつたり、他者の言動をきつかけに、こころが揺さぶられて、浮かび上がつてきたものですね。


それらは、湖の底に沈められてゐたものが、運命(仕合はせ)といふ風に吹かれ、湖の水まるごとが揺さぶられることによつて、沈殿物が湖水の面に浮かび上がつて来た、といふことでせう。


これまでの人生の中で経験せざるをえなかつた傷や痛みからの、自分自身では認めたくない自分自身の情が、そのつど繰り返し浮かび上がつて来ます。


その浮かび上がつて来たものを、いまこそ、ひとつひとつ丁寧に汲みとつてあげること。


それが、人の成長にとつて、とてもたいせつなことだと強く思ひます。


どのやうな、はき違へられた考へも、不健康な情も、抑えつけたり、排除したりせず、あるがままの客として、すべて、丁寧に汲みとつて、迎へて、響かせて、送る。


そんなとき、人は、客と一体化してゐない、ひとりの主(あるじ)です。


その内なる行為は、「光の息遣ひ」を通して、こころといふ湖水を浄めていく、非常に地道な作業です。


さうして人はゆつくりと、みづからのこころに精神の光を当てて行くことで、みづからを総べ、律していくことを学ぶことができます。


他者を責めず、世を批判せず、ただただ、誠実さと親身なこころもちに、みづからを委ねて仕事に邁進することができる。


自分の好みや性向、お馴染みの考へ方、感じ方を、できうるかぎり洗ひ流し、そのつどその場で新しく精神を迎へ入れ、流れ込ませる生き方、これが一つ目の次第、「自律」です。ここからすべては始まります。


さらに人は、暮らしの中で、仕事を通して、みづからのこころにだけでなく、みづからのからだにも精神の光を当てて行く。からだにまで光を当てて行くのです。


このとき、すべての人の行為、仕事は、芸術行為です。死んだものに精神のいのちを吹き込み、甦らせる、すべての行為が芸術です。絵を描くことや音楽を奏でることだけでなく、お料理も、お掃除も、お散歩も、すべての行為が、そもそも芸術行為です。


これもひとつの修業です。倦まず弛まず練習をつづけることで、人はみづからの足で、立つことができるやうになりゆきます。これが二つ目の次第、「自立」です。 


そして、人は、そのつど、そのつど、世に精神の光を当てて行くこと、みづからのこころやからだにだけでなく、世のものごとに光を当てて行くことを学びゆきます。


社会の中で自分はそもそも精神なのだといふこと、精神みづからであるといふことを見通すことができるやうになり、そこからこそ、ひとりひとりの他者、ひとつひとつのものごとをふさはしく立てることができるやうになります。これが三つ目の次第、「見識」です。


この自由へといたる三つの次第、「自律」「自立」「見識」は、ルードルフ・シュタイナーの『自由を考える(自由の哲学)』第三章、「世をつかむに仕える考える」に、詳しく述べられてゐます。


「アントロポゾフィーハウス ことばの家」では、これからも、「光の息遣ひ」を通して、この一つ目の次第に習ひ、生活の中で習慣にしてゆく、そして、だんだんと、第二、第三の次第へと、そんな稽古の場をもつていきます。


こころざしを持つ方よ、共に、精神の「みすまるの珠」を繋いでいきませう。




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2022年05月23日

学びの細道


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京都の大原の里


あるクラスでは、こころの育みのために、種(たね)を目の前に置いて、じつと見る練習をしてゐます。


そして、その種を見つつ、いくつもの次第を経て、定められたあるいくつかの考へを重ねて行きます。


定められた考へにきつちりと沿ひ続けることによつて、その考へに結び付く情が、こころに深く染み込んでゆくのです。


また、あるクラスでは、自分自身の呼吸の営みと、外の世に拡がる植物の一木一草との間に、その生命の循環の持つ神々しい関はりあひに意識を注ぐことで、植物を見るたびに静かな情の深まり、高ぶりを得ることを学びます。米や野菜や果物などを口にいただくたびにありがたいといふ感謝の念ひを持つことを学びます。


それらの学びや練習は、わたしたちのこころに何を促すのでせう。


その深められ強められた情の営みが、わたしたちのありやうを甦らせるのです。フレッシュにするのです。生まれ変はらせるのです。


毎日を、新しく生きるいのちの健やかさ、こころの健やかさをみづから生み出してゆく、そんな精神からの学びと練習です。


アントロポゾフィーからの教員養成といふ営みも、そんな大人を育てようとする営みなのです。知識を頭の中に溜め込むのではなく、ものを観るたびごとに、深い情、強い情を覚えることのできる人を育てること、それがアントロポゾフィーからの教員養成です。


ここで、シュタイナーの『神秘劇』の中のことばを上げさせてもらひます。



ーーーーー



種子は力を秘める。
その力は育つ植物にどう育つべきかを教へますか。
いいえ、教へるかはりに、
植物のうちに生きた力として働きます。
わたしたちの理念も教へではありません。
教へるかはりに、わたしたちの営みそのものとなり、
いのちを沸かし、いのちを放つにいたります。
わたしにしても、さうして理念の数々をものにして来ました。
だからいま、ひとつひとつのことに生きる意味が汲み取れます。
生きる力ばかりか、わたしはものごとを見る力をも得てゐます。
子どもたちを育てるにも希望があります。
これまでのやうに、
ただ仕事ができる、ただ外面で役立つだけではない、
内面で釣り合ひがとれる、
満たされたところを保つて生きていける、
そんな人へと育ててみたい。



ーーーーーー
.



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2022年05月09日

一代の名優 耳を澄ます人 鈴木一博氏



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江戸時代の「学問」。とりわけ、私学。「わたくしの学問」。その学問をそれぞれ一身に背負つた学者たちの列伝。


小林秀雄の『考へるヒント』を読むたびに、その学びといふものに対するこころざしの系譜に、胸躍らされます。


幕府が官学として定めた朱子学への批判を、どこの組織にも属さずに一身で体現した、儒学の中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠、国学の契沖、賀茂真淵、本居宣長・・・。


彼らは、一代の名演技をもつて生きた名優たち、私学の化身でした。


―――――
勝負は、文字通り、ただ、
読みの深さといふ事で決まつたのである。
彼等の思想獲得の経緯には、
団十郎や藤十郎が、
ただ型に精通し、
その極まるところで型を破つて、
抜群の技を得たのと同じ趣がある。
彼等の学問は、
渾身の技であつた。
(小林秀雄『学問』より)
――――――


ここで、わたくしの師匠である鈴木一博氏のことについて述べたく思ひました。


小林秀雄と同じく、鈴木さんも、いはゆるアカデミックな学、大学といふ制度や体制に守られた、近代諸科学の知の体系から匂つて来る、「毒」「臭さ」「害」「さかしら」に対して、闘つた人であつたやうに感じてゐます。


それは、孤独な闘ひでありました。


江戸の私学者たちが、幕府お達しの官学・朱子学に、敢然と抗してひとり立つたやうにです。


わたしにとつて、鈴木一博氏はまさに一代の名優でありました。


アントロポゾフィーなる、いはゆる「輸入物の」学問を、権威に寄りかかることや、大御所と言はれてゐる者たちのことばなどに一切関はらず、己れの身ひとつで受け止め、噛み砕き、考へ、感じ、己れのことばに鋳直した、その技たるや、惚れ惚れとするものでした。


そこでは、見事に、アントロポゾフィーが、「鈴木一博学」になつてゐました。


誤解を招く言ひ方かもしれませんが、それでいいのです。いや、さうでなければならないのです。


学問といふものは、その学問をする人の全体重がかかつてゐなければ、なんら用のないものです。


どんな鈍物にでも分かるやうに、平均化され、標準化され、一般化されたものでは、人のこころの糧になることは決してありません。


汲んでも汲んでも汲みつくしえない深みを湛えた、一世一代の仕事なのです。


――――――
僕は、(宣長の)さういふ思想は
現代では非常に判りにくいのぢやないかと思ふ。
美しい形を見るよりも先づ、
それを現代流に解釈する、
自己流に解釈する、
所謂解釈だらけの世の中には、
『古事記傳』の底を流れてゐる、
聞こえる人には殆ど音を立てて流れてゐるやうな
本当の強い宣長の精神は
判りにくいのぢやないかと思ひます。
(小林秀雄『歴史の魂』より)
―――――


本居宣長や小林秀雄、そして鈴木一博さんが闘つてゐたのは、解釈だらけのたくさんのことばと頭の群れたち、「さかしら」や「からごころ」をもつての学問です。


ものものしく聴こえてくる、対象そのものの声に耳を澄ます者だけが聴くことのできる精神の美しいすがた、しらべ。それがどれほど生命に満ちた豊かなものか。


そのことを鈴木さんは、アントロポゾフィーを通して、わたしに伝へようとしてくれました。




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2022年05月07日

「ある」から始める 〜教員養成プレ講座より〜



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子どもたちを育てる芸術においておほもとのところが確かめられた、「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」での、今回のプレ講座のアントロポゾフィーの時間。


それは、わたしたち自身の「エゴイズム」を凌いでいくといふことでした。


ここで、また、講座で語らせてもらひましたことを繰り返させてもらひますね。


「エゴイズム」とは、未来を不安に思ふこと、行く先のことを思ひ患ふこと。失ふことを恐れること。だからこそ、むさぼります。欲しがります。攻撃します。


わたしたちは、ありありてあつた、わたしたちの過去、来し方をかへりみませう。


そして、いかに多くも多くの人やものごとに、わたしたちは支へ、守られて来たかを想ひ起こしませう。


その精神からの想ひ起こしは、わたしたちに、こころの安らかさを取り戻させます。こころの充ちたりを取り戻させます。感謝を念ひ起こさせます。


ずつと、ずつと、わたしのわたしたるところ、<わたし>は、守られ、支へられ、育まれて来ました。


行く先において何かを失ふこと(お金が無くなる、病気になつて健康を失ふ、他人からの愛を失ふ、いのちを失ふ・・・などなど)を恐れることをやめて、これまでにありありとあつた、そして、このいまも、ありありとある、<わたし>を見ませう。想ひ起こしませう。この<わたし>は、決して、傷つけられることも、失はれることもなく、とこしへにありつづけます。


「ない」から始めるのではなく、「ありありとある」「あり続けてゐる」「既にある」「既にすべてを持つてゐる」といふ考へ、念ひから、一日を、毎日を、始めませう。


子どもたちは、その「ありありてあり続けてゐる」精神の世から降りて来たばかりです。


そのことを思ひつつ、教育に勤しみませう。


『普遍人間学』の第一講。


そこには、シュタイナーからのそのやうなメッセージが述べられてゐます。





この二年間を通しての継続的なシュタイナーの学び(アントロポゾフィーと言ひます)の道を共に歩いてみたいといふ方々をお待ちしてをります。


8月5日から年4回、各三日間の実際に皆が集まっての講座に、同じ8月の第二週目の水曜日夜から始まる毎週のオンラインクラスをもって、わたしたちのシュタイナー教育教員養成講座が始まります。


ご関心のおありになる方、ぜひ、ご勘案下さい。


ホームページに詳しく情報を掲載してゐます。
https://www.ohisamanooka-steiner.or.jp/kyouin-yousei



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2022年04月24日

感官の育み 特に、上の四つの感官



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セザンヌ「トランプをする人々」



人には、感官が五つどころか、十二ある。ルードルフ・シュタイナーはそのやうに述べてゐます。


その「十二の感官」の論、わたしも何度も何度も我が身に引きつけて考へ直してゐます。


人に感官は十二あり、「下の四つの感官」「中の四つの感官」「上の四つの感官」と三つに分けて理解することができます。


この世に生まれておよそ七年ごとに、ゆつくりと、感官の育みが下から順になされてしかりだといふ法則があります。


0歳から7歳あたりまでに「下の四つの感官」が、7歳あたりから14歳あたりまでに「中の四つの感官」が、14歳あたりから21歳あたりまでに「上の四つの感官」が、順にゆつくりと育まれて行くこと。


もちろん、その十二の感官の育みは生涯続くものですが、その基はそのやうな順で21歳あたりまでに培はれてゆくことが、教育のひとつの指針でもあります。


が、人は年齢を経ると共に、ますますその人・〈わたし〉へとなりゆき、社会を活き活きと創つて行くメンバーのひとりとして働くためにも、とりわけ、「上の四つの感官」の育みが重きをなします。


「聴く感官」の育みには、内における安らかさと静かさを要します。


「ことばの感官」の育みには、内における動きとアクティビティー、闊達さを要します。


「考への感官」の育みには、内における敬ひとへりくだりの情を要します。


「〈わたし〉の感官」の育みには、内における仕へる力、捧げる力を要します。


いづれも、わたし自身にとつて、育みを要することを痛感します。




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2022年04月15日

ふさはしい見識を求めて



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ものごとには、何事も順序といふものがあると思ふのです。

いま、わたしは何をすべきかとか、だれそれは何をすべきかなどと問ふのではなく、いまの世のありやうについてどうしたら見識が得られるか、と問ふことが先に来るべきではないでせうか。

見識を得る、つまりは、ふさはしい知を求める、みづからの考へる力をもつて知を求めること。

もう、政府や学者たちやマスコミが言つてゐることを鵜呑みにはできないことを感じてゐるならば、みづからの考へる力を信頼して見識を得ようとすることが、まづ、最初にしていいことではないか、さうしてこそ、人は自由といふものの礎を勝ち取ることができ、そこからこそ新しい何かが、きつと、始まる。

ルードルフ・シュタイナーが『歴史における徴(しるし)を論ずる』(1918年10月〜11月ドルナッハにて)といふ講義で、「いまは、多くの幻想を捨てて、確かな見識に行きつくことを要する」と述べてゐます。

その見識とは、「外に起こることは内の繰り出しの徴(しるし)に他ならない」といふことです。

そして、「その見識が十分にあることによつて、ふさはしいことが生じ、ふさはしい見識が繰り出せば、きつと、ふさはしいことが繰り出す」のだと。

2022年の甦りの祭りを二日後に控え、聖なる金曜日の今日、わたしも、いま、この世で起こつてゐるこの信じられないやうな茶番劇の舞台裏では何が繰り出してゐるのか、といふ問ひを立てざるを得ません。

その舞台裏とは、精神の世です。

それは、本当に明らかな問ひですが、答えるにはとても難しい問ひだと感じてゐます。

しかし、「精神の世では何が起こつてゐるのか」といふ見識を得ようと努め、その見識への探索から人と人とが語りあひ、共に仕事をしていくことが、この理不尽な世の繰り出しに対して、人の自由を取り戻すために必要だと考へます。

自由、それは、与へられるものではなく、ひとりひとりがみづから育て上げ、勝ち取るもの。

わたしたちは、いま、まぎれなく、さういふ時代を生きてゐるやうに思ひます。



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2022年04月14日

敬ひのハーモニー



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今日は、ある企業の方々とのズームミーティングに臨ませてもらつたのですが、そこでのやりとりがなんとも素晴らしかつたのです。

時の流れの中で、どんどん、おひとりおひとりが自由なこころもちでことばを発せられ、他者のことばに刺激を受けつつ、それをみづからのことばに鋳なおして、また新しい局面をその場に拓いてゆく。

それゆゑ、3時間に亘るミーティングだつたのですが、長さを全く感じることがなかつたのでした。

おひとりおひとりから発せられることばの向かう側に、それぞれの奥深いものが密(ひめ)やかに湛へられてゐて、お互ひがお互ひを敬ひあつてゐることを感じます。

皆の間に、敬ふことを大事にする細やかな気転がしづかに流れてゐるからこそ、場にこころのハーモニーが奏でられ、そして、さういふ和やかさからこそ、ひとりひとりから自由な考へが紡ぎ出されて来る。

きつと、日本人は、かういふハーモニー(調和)を奏でることが昔から得意な民族だつたのではないかな。

ひとりひとりが自由に輝きつつ自由に考へ、自由を生きながら、その場の全体の調和を奏でること。

そのためには、内なる細やかなやりとりが重視されることが欠かせないといふことを、今日の企業の方々とのミーティングでも感じさせてもらへたのでした。

わたしなどは、ルードルフ・シュタイナーといふ約100年前の中部ヨーロッパの人から多大なる学恩を被つてゐるのですが、その彼の学は、どうも、日本人がとても大切に育んできたその精神文化への憧れを内包してゐるやうに思はれてならないのです。もちろん、そのやうなことは、彼の表明としてはなんらなされてゐないのですが・・・。

わたしたちは、あらためて、みづからの根もとを丁寧に掘り起こして行つていいのではないかと思ふのです。




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2022年03月22日

こころの健やかさは、ひとり「考へる」から



わたしたちは、皆、健やかでありたい。さう希つて生きてゐます。からだが健やかであることはもちろんのことですが、しかし、肝心かなめなのは、こころの健やかさですよね。

その、こころの健やかさは何によつて促がされるのでせうか。

それは、まづもつて、「考へる」ことによつてなのだといふことを、繰り返し、わたしはわたしみづからに諭してゐるのです。

なぜでせう。

なぜ、こころの健やかさは「考へる」によつて促がされるのでせう。

人は、まるまる独り立ちすることによつて、本当に、健やかになりうるからです。

まるまる独り立ちできるのは、「考へる」人であつてこそです。

そのほかのこころの働き、例へば、「感じる」ではどうでせう。

「感じる」においては、確かに、ある部分は、自分自身が、つまり、<わたし>が、感じようとして感じてゐますが、しかし、ある部分は、外の世からの影響・働きかけに大きくこころが動かされてゐます。そして、いはゆるその感じられた「感じ・情」は、やつて来ては、過ぎ去つてゆき、とどまることがありません。

こころにやつて来る「感じ・情」といふお客様は、ある意味、得体のしれない外部からの侵入者でもあり、まづもつては、<わたし>には隅々まで見通すことはできません。「感じる」といふ働きは、人にとつて、かけがへのない営みではありますが、その「感じる」だけにこころの営みが尽きてゐることにおいては、<わたし>は不安定なままです。独り立ちどころではありません。

一方、「考へる」ことによつて稼がれる「考へ」は、それが他者の「考へ」を鵜呑みにしてゐたり、予断や先入観に偏つてゐたり(思ひ込み、思ひ患ひ、などなど・・・)しないかぎり、つまり、まぎれなく、この<わたし>が考へてゐるかぎり、その「考へ」は<わたし>が隅々まで見通すことができます。すべてが、<わたし>の働きによつて生まれて来たものであり、外からの得体のしれない侵入者ではないからです。その「考へ」は、ひとり、<わたし>といふ、内なるもの、高いものからむすばれた宝物だからです。その宝物をもつて、人は、まるまる、独り立ちすることができます。(「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」からの恵みであります😇)

人は「考へる」ことによつて、精神の世と繋がる第一歩を踏み出します。そして、その繋がりが、その人の独り立ちをますます促がすのです。

人のこころは、からだとは自動的に繋がりますが、精神と繋がるには、その人のアクティビティーが要ります。しかし、だからこそ、精神と繋がることでこころはまこと満たされます。アクティビティーこそが人のこころを満たすのです。受動的な消費生活のみでは、人のこころは結局は満たされません。「考へる」は、精神との繋がりを取り戻す、こころのアクティブな働きのはじまりなのです。

そして、そのやうな時を重ねて行くことで、人は、だんだんと、その人の軸が生まれて来る。人は、だんだんと、その人になつてゆく。わたしが、ますます、<わたし>になることができる。それが、人の人たるところであり、「考へる」は、人にのみ授かつてゐる神々しい働きです。

<わたし>が考へる。

そのアクティビティー、その内なる仕事によつてこそ、人はまるまる独り立ちへの道を歩き始めるのでせうし、こころの健やかさ、果ては、からだの健やかさまでもが促され、もたらされる。

さう実感してゐます。




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2022年02月12日

普遍人間学オンラインクラス ありがたうございました!



今日は、2020年5月のゴールデンウィークから始めさせてもらつた『普遍人間学』オンラインクラスの最終回でありました。約一年と10か月、月に二回のペースで学び続けて参りました。ご参加下さつた方々に、こころからの、こころからの、感謝をいたします。

この学びを一言で言ふならば、みづから考へ、感じ、欲してゐることを、どう仕事の中で創造的なものへと昇華していくか、といふことになります。

それは、誰も教へてくれない領域へと、みづからを信頼して飛び込んでいく、その勇気の源である、精神への信頼を培ふ道でした。

無手勝流でもなく、杓子定規でもない、ただただ、精神といふものへのリアリティーを元手に毎日みづから仕事を創り続けて行く教育といふ芸術の道でした。

この道は、教育といふ仕事に限らず、どんな仕事をしてゐるとしましても、貫かれてゐる精神の道です。人が人として、この時代に決してゆるがせにはできない、精神の道です。

人であることのあまねき知。世があることのあまねき知。そして、精神の世における大元のものとこの世における現れのかかはり。さらには、ひとりの人の内なる育み。すべてが、この時代のすべての人の成長に必須の学びです。それらは、すべて、愛へと通じるからです。

人の自由が瀬戸際に立たされてゐるこの時代、ひとりひとりが、平成の三十年間には思ひも寄らなかつた目覚めの時を迎へてゐるのではないでせうか。

1919年当時、ドイツ帝国が崩壊した未曽有の国難、危機の時に、人の精神の自由だけは守り抜かうとシュタイナーが成し遂げた「自由ヴァルドルフ学校開校」。

当時も、きつと、さうだつたと思ふのですが、いまも、わたしは、かう思ひます。

最期に生き残るのは、愛だけだと思ふのです。




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2022年02月06日

ことばの主(あるじ)になりゆくこと



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それまではひたすら昔話やわらべうたを全身で聴いてゐた小学一年生たちに、どのやうに国語を伝へてゆくか。幼い彼らは、ことばに関しては、もつぱら全身をもつて聴くことに専心してゐました。どんなにおしゃべりな子どもでも口に出して言ふことばより、聴いて覚えることばの数の方が幾倍も多いはずです。

そんな子どもたちが、歯が生へ変はる頃には、ことばを「話す」こと、空間に向かつてことばを「放つ」ことを学びたいと切に希んでゐます。「聴く」から「話す」への移り行きのときです。

そんなとき、彼らに、まっすぐに立つこと、前に歩くこと、そして腕を解き放つやうに動かすことで胸を世に向けて開いたり閉じたりすることでことばを声にして話すことを促がしてあげられたら。つまり、からだまるごとを使つて、ことばを発することをだんだんと学ぶ(まねぶ)ことが、とても大切なことなのですね。

それは、子どもたちが活きたことばの使ひ手、ことばの主(あるじ)になりゆく道の歩みを促がしてあげることなのです。

人は、聴きつつ話し、話しつつ聴くことに習熟して行くことで、やがて、談(かた)らふことの喜びを知り始めます。

そして、ことばの主(あるじ)になるといふことは、言はなくてもいいことを言つたり、思つてゐることの半分も言へなかつたりすることなく、言ひたいことを過不足なくぴたりと言へる人になること、こころを活き活きとことばにすることができる人になるといふことです。

そして、その話す力は、きつと、他者のことばをよく聴くことのできる力、他者のことばの奥を感じ取る力、行間を読み取る力と裏表の関係をなしてゐます。

ことばの主(あるじ)になりゆくといふことは、人が人として、わたしが<わたし>として生きて行く上で、どれほど大切なことでせう。

詩芸術は、数ある芸術の中でも、人の<わたし>の育み如何に懸かつてゐます。日本人は、祝詞から始まり、神話、昔話、物語、和歌、俳諧などの創作・享受を通して、それら詩芸術に国民あげて取り組んできた稀有な民です。

ご先祖様が育んできたその芸術的感覚を、わたしたち大人自身が意識的に学び、それを子どもたちに伝へて行くことの大切さをわたしはひたすらに念ふのです。それは、こころをことばにする、精神をことばにする訓練であり、ことばからこころと精神を聴き取る訓練でありました。




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