2019年10月21日

現場における精神の役割


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わたしは、若い頃から、ずつと、
精神からの指針を求めてゐました。
 
 
何を学ぶにしても、何をするにしても、
そこに、精神からの指針が貫かれてゐないものに、
どうしても満足することができなかつたのです。
 
 
二十代の後半、
ルドルフ・シュタイナーに出会ひ、
わたしは、その喘ぎと渇きにも似た認識欲を、
初めて満たすことができました。


しかし、その認識といふものは、
無限の深みをもつものであること、
学べば学ぶほど、
人生の痛みと共に、
気づかされて来たのでした。
 
 
分かつてゐたつもりで、
実は、何も分かつてはゐなかつたことに、
痛みと共に何度も何度も気づかされるのです。
 
 
しかし、かうして仕事をしながら確信することは、
精神からの指針を己れのものにしてゐることほど、
強いものはないといふことです。
 
 
現場で働いてゐる人は、
その職場の教育がよほどしつかりしてゐて、
伝統といつていいやうな環境に恵まれてでもゐない限り、
たいてい、
何を指針にしていいか分からず、
その場その場の状況に、
右往左往してゐます。

 
アントロポゾフィーを学ぶといふこと。
 
 
それは、たとへ翻訳であつても、
原書をひたすらに読みこむことです。

 
そして、そこから必然的に生まれて来る学びの道に、
素直に従つて行くことです。
 
 
そこには、精神からの指針が、
生き物のやうに、脈打つてゐて、
現場で働く人を、
どこまでも支へ、
どこまでも自由にします。
 
 
決して、精神は、人を縛りません。
 
 
その人の真ん中に軸を打ち樹てます。
 

ぶれません。
 
 
さういふ学びこそが、大切に、守護されてしかりです。
 
 
癒しをもたらすやうな体験では、
決して、人生の本当の活路は開かれません。
 
 
これまで「ことばの家 諏訪」においても、
ルドルフ・シュタイナーによる、
『テオゾフィー』、
『自由の哲学』、
『いかにして人は高い世を知るにいたるか』
(いずれも、鈴木一博氏訳)
を講座として読みこんできました。
 
 
そして今は、『普遍人間学』を、
月に一回、
参加者の皆さんと一緒に読みこんでゐます。
 
 
そこに語られてゐること。
 
 
それは、
「人とは何か」
「そして、人はどのやうにすれば、成長していくのか」
といふことに尽きます。
 
 
言語造形を仕事としてゐるわたしなどは、
原書の読みこみ、読み重ね、熟読に助けてもらつて、
その精神の確かさを実感しながら、
子どもたちや生徒さんたちと共に生きてゐます。
 
 
とりわけ、子どもたちは、
その仕事の精神の確かさに、
素直に反応を返してくれます。
 
 
今日は、日本の昔話「さとりのばけもの」を中心に、
いろいろなことばの芸術を楽しみました。
 
 
アントロポゾフィーは、
そんな精神からの仕事を、
静かですが、強烈に推し進めていくための、
現代人にとつてとても大切な精神の糧たりえるものです。
 

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2019年10月07日

本の読み方


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今日は、和歌山の岩出市にてシュタイナーの『普遍人間学』の講義。
 
わたしが、何よりもお伝へさせていただきたいこと。
 
それは、本の読み方なのです。
 
わたしは、そのことをこそ、我が師・鈴木一博さんから教へてもらへたと信じてゐます。
 
また、ルドルフ・シュタイナーも、そのことをこそ、現代人に伝へたかつたであらうと思はれてならないのです。
 
自力で大切な何かをつかみとる力をひたすらに培ふ。
 
そのためには、一文一文、一語一語に立ちどまりつつ、問ひつつ、答へつつ、さうして、イメージ(想ひ)をみづから創つてゆく作業をもつて、少しずつゆつくりと読み進めていきます。
 
遅読、熟読、再読、再々読、・・・です。
 
読み終えて、やがて、そのイメージ(想ひ)は、こころの奥深くに沈んでいきます。
 
つまり、忘れ去られていきます。
 
しかし、アクティブにことばに向かひ合つた、精神の働きそのものは、わたしのこころに痕跡を残してゐます。
 
アクティブであればあるほど、その痕跡は深くこころに印しをつけてゐます。
 
その精神の働きによるこころの痕跡が深いほどに、忘れられたイメージ(想ひ)を、忘却の泉の底からふたたび引き上げる力・想ひ起こす力が、増します。
 
そして、そのつど、そのつど、新しく想ひ起こされたイメージ(想ひ)は、こころを暖め、甦らせ、癒す力をもたらします。
 
人のこころといふものは、そのやうに、みづからアクティブに働くことによつてこそ、充たされます。
 
その、アクティブに、ことばに取り組むといふ働き、さらに、意識的に勤しんで想ひ起こすといふ働き、それこそが、この時代ならではの勉強法なのです。
 
本とは、偉大なる先人が死にもの狂いになつて残した叡智の結晶、生の痕跡です。
 
さういふ本しか、時代の変遷を超えて、残りません。
 
さういふ本を、さういふ読み方で、読む。
 
書くことが、人によるひとつの偉大なる「仕事」であるやうに、読むことも、まさしく紛れもない「仕事」です。
 
その本の読み方は、その人をますますその人にします。
 
その人の〈わたし〉を磨き、研ぎ、鍛え上げます。
 
ルドルフ・シュタイナーが、20世紀以降の現代人になんとしても伝へたかつたのは、その〈わたし〉の育みでした。
 
〈わたし〉の自律・自立・自由・自尊でした。

若い人たちにこそ、このことを伝へたい、さう念ふのです。
 


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2019年10月01日

幼な子の欲することば 〜グリム童話「へんな旅芸人」〜


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むかしむかしのおほむかし、ことばは、人の意欲への呼びかけでした。
 
現代のやうに、抽象的な思考をみすぼらしく表現するものではありませんでした。
 
人は、ことばを聴くたびに、からだがうずうずしたのです。
 
さらに、それに応ずる動きをしてしまふことが身についてゐたのです。
 
ことばは、発声器官だけでなく、人の運動器官まるごとのなかに息づいてゐました。
 
いま、人は、このことを忘れてしまつてゐます。
 
しかし、幼な子たちは、まだ、このむかしのことばの性質のなんたるかを知つてゐて、それを欲してゐます。
 
「はじめにことばありき」といふ時の「ことば」のなんたるかを知つてゐます。
 
「ことば」とは、世を創り、動かし、人を創り、動かすものでした。
 
そして、いまも、その「ことば」の働きの精神は、少なくとも幼な子には失はれてをりません。
 
 
 
 
昨日は、グリム童話の8番「へんな旅芸人」を語りました。
 
幼な子たちは、森の中の動物たちが旅芸人(音楽を生きる人)によつて次々とやりこめられる(統御される)様を絵を観るやうに聴きます。
 
語り手の(〈わたし〉による)目覚めて統御された意識。
 
(アストラルのからだによる)鮮やかな身振りと表情。
 
(エーテルのからだによる)呼吸の長短。
 
(フィジカルなからだによる)表現のまるごと、表現のすみずみに動きがあること。
 
旅芸人は、つひに、森の中で、「人」に出会ひます。
 
「人」は斧(つるぎ、でもいいでせう)を振り上げ、けものたちを退散させ、旅芸人を守ります。
 
音楽とは、人の精神に出会ふためのものであり、かつ、人の内なる動物性を統御するものであること。
 
このお話は、そんな精神から語られてきました。
 
そして、ことばのひとつひとつが、動きとかたちをもつて、語られます。
 
それは、ことばそのものが、動きの精神を孕み、かたちの精神を秘めてゐるからです。
 
語り手は、その動きとかたちを顕はにするべく、声にするのです。
 
そのことばの精神と物語の精神は、実際に子どもの前で語る数多くの回数の中で実感されてきます。

 
 
  
 
幼な子たちは、お話を聴きながら、ことばとともに走りたがつてゐます。空を飛びたがつてゐます。海に、川に潜りたがつてゐます。
 
幼な子たちが欲してゐる、そんなことばを与へて行くこと。
 
それが、幼児教育のひとつの指針です。
 
そんなことばで育つことができたなら、その子は、後年、大人になつてから、生命に満ちた精神を、自分自身の力で把握することができます。
 

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2019年09月22日

エーテル界の太陽と月(古事記)



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人は、13,14歳ごろから性的な成熟がからだに現れて来る。
 
男の子は、男のからだのありやうへ、女の子は女のからだのありやうへと、成熟していく。
 
しかし、丁度、そのころ、男の子のエーテルのからだは、まさしく女性の姿をとり始めるのであり、女の子のエーテルのからだは、男性の姿をとり始める。(※)
 
さうして、フィジカル(物理的)なからだにおいて性が表立つことに対して、エーテルのからだにおいては、その対の性を姿としてとることで、人としてのバランスをとらせるといふ、神の計らひだらうか。
 
 
 
さて、ここで、『古事記(ふることぶみ)』の話になる。
 
そこにおいては、とりわけ神代の巻にはエーテル界の顛末が描かれてある。
 
天照大御神は高天原において、太陽を司る「女神」として描かれてゐる。
 
それは、いまだ、フィジカル(物理的)な状態にまで凝つてはゐないエーテルの状態の太陽が女性的な姿をされてをられるからである。
 
そして、フィジカルな次元では、太陽は、まさしく男性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
それは、光と熱を通して、すべての地上のものに命を吹き込む、受精させる、そんな働きである。
 
一方、月は、エーテル界においては月讀命(つくよみのみこと)といふ「男神」として描かれてゐる。
 
そしてフィジカルな次元では、月は、まさしく、女性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
太陽の光を照り返し、夜の国をしろしめされてをられる。
 
 
 
『古事記』は、そのやうに、この大宇宙と地球のなりたちをエーテルの次元において、さらにアストラルの次元において、さらにまぎれない精神の次元において、描いてゐる。
 
 
 

※Rudolf Steiner : Gegenwärtiges Geistesleben und Erziehung 第4講より 
 
 

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2019年09月20日

みすまるの玉 〜情の育み〜


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上向いてゐたと思つてゐたら、下向いてゐたり。
 
 
右向いてゐたと思つてゐたら、左向いてゐたり。
 
 
欠けてゐたと思つてゐたら、満ちてゐたり。
 
 
それが、人の情といふもの。
 
 
思ふままにならないものの最たるものが、己れの情ではないだらうか。
 
 
おもに小学生の頃あたりから、褒められることと叱られることを通して、わたしたちは情といふ、己れに湧き上がる得体の知れないものを少しずつ膨らませて来た。
 
 
しかし、大人になつた今でも、その己れに湧き上がる情といふものを手なずけられずに、苦労してゐる。
 
 
 

 
むかしの高貴な人は、胸に玉を下げてゐた。
 
 
「みすまるの玉」と言ふ。
 
 
「みすまる」とは、「総(す)べる」のもとのことば「すばる」といふ動詞が「すまる」となりかはり、その頭に「み」がついて生まれたことば。
 
 
美称としての「み」に、統御するといふ意味の「すまる」を合はせて、「みすまる」。
 
 
「みすまるの玉」とは、「統御された玉」といふことにならう。
 
 
そして、「玉」は、「勾玉」である。
 
 
あの形。
 
 
満ち欠けする月の形。
 
 
伊耶那伎命は月讀命(つくよみのみこと)に「夜の食国(をすくに)を知らせ」とことよさしされた。
 
 
こころの働きの内でも、感じる働き、情の働きは、まるで夜の夢見る営みに似て、無意識と意識の間を漂つてゐる。
 
 
胸に下げられた「みすまるの玉」は、みづからによつて統御された情の徴である。
 
 
そして、きつと、月讀命(つくよみのみこと)は、わたしたち人の情の育みを支へて下さつてをられる神である。
 
 
夜の食国(をすくに)を知らされてをられる神である。
 
 

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剣を研ぐ 〜意欲の育み〜

 
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毎朝、寝床から起き上がる意欲、歩き出す意欲、仕事に行かうといふ意欲、人と会はうといふ意欲、何かを学ばうといふ意欲、それらの意欲が湧き上がつてくるのはどうしてなんだらう。
 
 
もし、この意欲がこの身に授けられてゐなかつたとしたら、わたしたちは、寝床から起き上がれないだらう。仕事場に行かうとして駅に何とか着きはしたものの、電車がホームに入つて来ても、ドアの前で立ち尽くしてしまふかもしれない。
 

人の意欲。
 
 
それは、どこから、誰から、与へられてゐるのだらう。
 
 
我が国の神話において、人の意欲といふものが、つるぎとしてかたどられてゐる。
 
 
それは、常に、未来へと立ち上がり続ける剣(つるぎ)だ。
 
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて八俣遠呂智(やまたおろち)の尾から取り出された剣、草薙(くさなぎ)の剣だ。
 
 
殺し合ふための剣ではなく、こころに妄念のやうにのさばり生へる草を薙ぎ祓ひ、人が己れの足で歩くことができるこころの道、人が己れの腕で耕すことのできるこころの田、人と人とがこころから出会へ、睦みあへる広々とした野原を現出させるための剣だ。
 
 
その剣は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて高天原の天照大御神に預けられ、その上で、天照大御神から地上に降臨するホノニニギノミコトに授けられた。
 

その剣は、意欲の力として、ひとりひとりの人に神より授けられ、ひとりひとりの人によつて未来へと掲げられる。
 
 
それは、血の中に流れる鉄の剣である。
 
 
死の後の世にまで届く剣だ。
 
 
この剣の働きは、とりわけ、歯が生へ変はるまでの幼児期に育まれる。
  
 
そして、この意欲の働きは、大人になつてからも、自己教育としてみづから育んでいくことができる。
 
 
わたしも、この剣を、毎日、研ぎ続け、高く、低く、掲げ続けていきたい。
 
 
 

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2019年09月19日

鏡を磨いて待つ 〜考への育み〜

 
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わたし自身、講座をしながら、想ひ、考へ、そしてまた想ひ起こす、といふ一連の作業をしつつ、ことばを選んで、他者に語りかけていきます。
 
語るべきことがらを想ひ起こすのは、天に拡がつてゐる「考への空間」からきらきらと金色の何かが降り注いでくるのを我がこころの鏡に照らし出すやうな感覚なのです。
 
しかし、時には、想ひ起こさう、想ひ起こさうと焦つてしまひ、天から降つてくる何かを待てずに、こころの腕を振り回して空回りしてしまふやうなことも、ままあります。
 
そんな時は、たいてい、ことばが宙に浮いてしまふ。
 
焦らずに、待つこと。
 
それを会得・体得することが、ずつと、わたしのテーマでもあります。
 
 
 
日本神話から、こんなイメージが、湧き上がつてきます。
 
我がこころの鏡に照らし出される光、それは、つまるところ、高天原にをわします天照大御神といふ精神存在からの光であります。
 
このこころの鏡は、まづもつては、頭の位置、脳にあつて、そこにわたしたちの抱く考への像が映りますが、その考への像に親しめば親しむほど、その鏡は胸の位置、心臓にまで降りて来ます。
 
わたしたちはひとりひとり、そのやうな光を照らし返し、像を映し出す鏡を、この身に授かつてゐます。
 
「この鏡は、もはら吾(あ)が御霊(みたま)として、吾が御前(みまへ)をいつくがごとく、いつきまつり給へ」と天照大御神がホノニ二ギノミコトに授けられたやうに、です。
 
 
 
 
わたしたちは、己れのその鏡を磨いて待つほどに、鏡面は曇りなく像を映し出し、しつかりと想ひ起こすべきことを想ひ起こすことができる。
 
その「待つ」といふこと、それは、できうる限り準備を重ねるだけでなく、落とされる小石が拡げるどんな波紋も見ることができる湖面のやうにこころを磨き、平明に静かに整えておくこと。
 
そのためには、深い息遣ひ、呼吸のありやうが、鍵を握つてゐます。
 
想ひ起こすこと、考へること、その考へを的確に精確にことばに鋳直すこと、それは、高天原からの光を我が鏡に出来る限り曇りなく映し出すことなのです。
 
 

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2019年09月15日

精神のゲリラ 〜アントロポゾフィーのこれからのひとつの可能性〜



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アントロポゾフィーといふ学問に随分と長い間、取り組んできて、念ふところあつて、以下のやうな文章をしたためてみました。長文です😇
 
 
(アントロポゾフィーとは、ルドルフ・シュタイナーによる精神科学のことです)
 
 
ーーーーーー
 
 
アントロポゾフィーが「地上で」繁栄することは、すでに20世紀末で終焉を迎えた。
 
 
いま、アントロポゾフィーは、各国、各地域においてその国の文化、精神とひとつとなり、いはば地下に潜り、土壌となつて、つまりアントロポゾフィーといふ名が消えて、生き抜いていく時代になつてゐる。
 
 
(いはゆるアントロポゾフィーの本場と考へられてゐるドイツを中心としたヨーロッパ人や、またはアメリカ人などがどのやうに思はうと、です)
 
 
しかし、精神を求め、精神に学ばうとする人は世に絶えないだらう。
 
 
(特に、日本においては、です)
 
 
さういふ潜在的なニーズに、どう、応へて行くかが、アントロポゾフィーを学んで来たわたしの人生のテーマのひとつである。
 
 
シュタイナーやアントロポゾフィーといふ名のついた、なんらかの団体や協会や学校が地上的に栄える時も、すでに終はつてゐる。
 
 
さうではなく、一冊一冊の本と、ひとりひとりの人(精神の人)が、最後の拠り所になるだらう。
 
 
本を真摯に読み抜くことを通して、ひとりの精神の人からどこまでも真摯に学ぶことを通してこそ、学びがどこまでも深められて行くだらう。
 
 
その孤独な学びをもつて自分の足元にある土壌を耕すのだ。
 
 
孤独に学ぶひとりひとりの人から生まれて来る創造的なもの。
 
 
その創造的なものをもつて、自分自身にすでに与へられてゐる現場で、働くのだ。
 
 
それは、ことさらに新しくアントロポゾフィーの共同体作りに向かふものではなく、すでに持つてゐる自分自身の家庭や職場に活かされる学びと働きである。
 
 
そのやうなゲリラ的な働きをもつて、世に密やかにアントロポゾフィーを問ふていく時代になつてゐる。
 
 
これからは、世にゲリラ的に、かつ密やかにアントロポゾフィーは浸透していき、志をもつひとりひとりが各々の働く現場でその精神的な力を発揮していく時代だ。
 
 
これまでのシュタイナー学校やアントロポゾフィー的な共同体は残るだらう。
 
 
しかし、より多くの子どもたちが通ふ一般の学校の中、アントロポゾフィー的人間学を踏まえた、たつたひとりの先生によつて、確かな教育が少しずつ少しずつ広まつてゆく可能性。
 
 
たつたひとりの人によつて、少しずつ何かが変はりゆく可能性。
 
 
家庭の中が、少しずつ、変はりゆく可能性。
 
 
その可能性を育むために、どんな仕事ができるかを考へてゐる。
 
 
共にこの仕事を考へる人、共にこの仕事をする人を、求めてゐる。
 
 
公立や私立の学校の先生たち、社会で働いてゐる人たち、家庭の親たち、それらの方々おひとりおひとりに、アントロポゾフィーからの人間学とことばの芸術「言語造形」をお伝へしていくことが、わたしの仕事である。
 

 
 

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2019年09月09日

100年後の普遍人間学 in 和歌山


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今日は、和歌山での『普遍人間学を読む』第一回目でした。
 
丁度100年前の9月。
 
ルドルフ・シュタイナーは、世界で初めてのヴァルドルフ学校 ( 俗称シュタイナー学校 ) 開校のため、14日間に渡つて、教師として立つ人に向けて講義を行ひました。
 
その速記録を一文一文、丁寧に、考へつつ、感じつつ、読んで行くのです。
 
その丁寧さから、今日など、3ページしか進みませんでした。
 
最初の一日目の講義の一番初めにシュタイナーは述べました。 
 
これから学校を始めて行くにあたつて、なによりもまづ大切にしたいことがある。
 
それは、精神の世とのつながりを各々育てていくことである。
 
さう述べました。
 
精神の世。
 
重要な概念です。
 
同時に誤解を生みやすい概念です。
 
しかし、ごくごく、真つ当に、人が、余計なことを考へるのではなく、必要なことを、必要な時に、ふさはしく、まぎれなく、わたくしなく、あきらかに、「考へる」こと。
 
それこそが、精神の世とのつながりを育むことのはじまりです。
 
少なくとも、「考へる」ことは、その礎であります。
 

 

この勉強会も、わたしからの講義になるのですが、それでも、参加者のおひとりおひとりからの声を聴き合ふ、相互コミュニケーション性を大切にする時間でもあります。
 
そして、わたしがいくら講義をしたいと思ひましても、その講義を受けたいといふ人がゐなければ、かうした時間は生まれないことは当然であります。
 
さう考へますと、わたしたちがかうして集まることができ、かういふ勉強会をなりたたせることができるといふことは、はじまりの時点で、精神の世とのつながり、精神の力からの励まし、精神の方々からの応援があるといふことでせう。
 
わたしたちは、このやうな勉強会をもつことの意味をこれからみづからに問ひ続けることが、この上なく大切なことだと考へます。
 
わたしたちが会の存在意義を毎回、その都度その都度、意識的に問ふこと。
 
そのやうな問ひを重ねて行くことこそが、精神の世からの応援をこれからもいただく礎になります。
 
そして、この勉強会をもつわたしたち自身の課題とは、人間学を学ぶことによつて、「自分自身を知ること」です。
 
大人の自己教育。
 
それは、己れを知ることであります。
 
それなしに、子どもへの教育はありえないのです。
 
 
Mitteの庭

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2019年08月31日

プロセス


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講義をさせてもらへるといふことは、本当にありがたいことです。
 
なぜならば、なすべき講義があるからこそ、その講義に向けての準備ができるのであり、その講義に至るまでの準備こそが、わたしにとつて最も大切な時間だからです。
 
本番に向けての準備といふ営み、それは、ものごとのプロセスといふものであり、獲得された知識が重要なのではなく、知識に至るためにみづから動いたプロセスこそが、己れの成長に資するからなのです。
 
つまり、誰よりも、講義をさせてもらつたわたしこそが、最も学ばせてもらつてゐるのです。
 
知識よりも、知識を得るために働いた、その労力こそが、人の成長にとつて大切であること、このたびも、強く感じました。
 
講義を聴いて下さつた方の内側で、これからこそ、その知識が再び練り直され、消化され、新しい光と力になりますやうに。


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2018年10月18日

手足で聴く


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写真撮影 山本 美紀子​さん
 
人は、いつも、何かを見てゐますし、何かを聞いてゐます。
 
ただ、そのふたつの感覚器官の働きは、実はとても対照的な働き方をしてゐます。
 
ルドルフ・シュタイナーの『メディテーションをもつてものにする人間学』にかうあります。
 
ーーーーーー

視るに於て迎へられるところが覚えられるのは、それなりの自立性をもつた頭のなりたちによつてであります。
 
聴くに於て迎へられるところが覚えられるのは、節分かれしたからだのまるごとによつてです。
 
見るに於て迎へられるところは、頭からからだへと向かふ流れ(上から下)をもちます。
 
聴くに於て迎へられるところは、からだから上へ(下から上)と向かふ流れをもちます。
 
ーーーーーーー 
 
シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。
 
視えるもの。
 
それは、目といふ感覚器官を通して、頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。
 
一方、聴こえるもの。
 
それは、本質的には、節分れしてゐる手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、上へと密やかに昇つていき、頭に於て想はれる。
 
耳と云ふ感覚器官で聴かれるのは、むしろ、残響と云へるものではないか。
 
空気の震へを集約的に受け取るのは確かに耳だらうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、更には手足に於て受け取つてゐる。
 
ことばや音楽と云ふものは、手足によつて聴かれてゐる!
 
なぜなら、ことばとは、音楽とは、そもそも、精神の運動であるからです。
 
頭、耳で聞かうとするのではなく、たとへからだはぢつと静かにしてゐても、ことばや音楽に密やかに手足を沿はせるやうにして聴かうとするとき、そのことばや音楽の「中味」「こころ」「精神」に触れることができる。
 
そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。
 
しかし、聴き手がそのやうに聴くことができるのも、話し手が手足をもつて語らうとし、音楽を奏でようとするときです。
 
話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、そのことばは、聴き手の手足によつては受け取られず、頭のみに働きかけます。
 
だから、聴き手が手足をもつて聴くことができるやう、とりわけ子どもたちには手足の動きをもつて語りかけることがたいせつです。
 
これらのことは、まさに、メディテーションによつて、身を使つての芸術行為を通して、初めてリアルに受け取られるものです。
 

 

 
 
ーーーーーーーーーー
2019年1月開校!
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/

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2016年05月19日

7年間の読書会終わりました! 『自由の哲学』


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『自由の哲学』(ルドルフ・シュタイナー)の講読会。
2009年4月から月に一回から二回のペースで7年間かけて、
今日終わりました。
 
皆さん、本当に、頑張りました。
楽しかった。
 
自由ということをどう捉えるか。
 
そのことが我が人生を織りなしていますし、
そのことが我が家庭でも最も大事なことです。
 
受講者の方で、
この本を一世一代の本と捉えた方がいらっしゃいました。
 
わたし自身にとっても、つまるところ、
この本こそが、
ルドルフ・シュタイナーから今生で学びたい、
最重要のことでした。
 
この本について、序でシュタイナーはこう語っています。
  
  哲学はひとつの芸術だ。
  実の哲学者はみな考えの芸術家だった。
  芸術としての哲学が人の自由といかにかかわるか、
  人の自由のなんたるか、
  わたしたちが人の自由にあずかっているか、
  あずかりえないか、
  これがわたしの本の主たる問いだ。
 
まさに、この本を読むことで、
ついついこんなことを考える「癖」がついてしまったことを、
嬉しく思うのです。
 
いま、自分は、
自由に考えているのか、
自由に話しているのか、
自由に振る舞っているのか、
自由に生きているのか、
 
と問うことからさかのぼり、
 
考えるって、どういうことなんだ、
その、考えることと、
見ること(覚えること)とが、
普段の暮らしの中で、
どう関わりあっているんだ、
 
と更に内側に入っていき、
 
人は、何をどう考えて、どう生きるときに、
その人がその人らしく、
活き活きと、
仕合わせになりうるんだろう、
どんな考えを抱くと、
その人を腐らせ、
不仕合わせにさせるのか、
 
と、再び、人生観察と人生実践に戻ってくる「癖」です。
 
芸術とは、癖になるまで、徹底して繰り返し練習することで、
その人の「もの」になるので、
わたしたちも、徹底して繰り返し、
読み、
考え、
生きようとしましたし、
これからも、この読書は、
おのおのの作業として、
深く沈潜していくでしょう。
 
シュタイナーと、
この本の渾身の翻訳をしてくださった鈴木一博さんに、
そして会に通い続けられた皆さんに、
万感の念いと感謝を捧げたいのです。
 

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2016年01月25日

ことばの家について


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先日、ある方から、
「ことばの家」ってどういうところなんですか、
と尋ねられたのです。
 
具体的、現象的な事柄と、
精神的、潜在的な事柄を、
ともに、順序良く、
その人その人に応じて、語ることって、難しいことですね。
 
以前ホームページに書いてみたことなのですが、
自分で読み直してみました。
 
そして、人が、
ことばというもの、
ことばの精神、
言霊の風雅(ことだまのみやび)を大切にしていくならば、
どの空間も「ことばの家」となりうるのではないかと、
考えているのです。
 
 
_______________
 
 
ことばの家。
 
その名前の由来は、20世紀初頭を生きた精神科学者ルードルフ・シュタイナーのことばです。
 
アントロポゾフィー運動のホームグラウンドとしての「ゲーテアヌム(ゲーテ館)」を、彼は「ことばの家」と呼びました。
 
ゲーテアヌム建築中の1914年6月17日にドルナッハの丘の上でシュタイナーは、「ことばの家」について以下のように語っています。(要約です)
 
 
  人びとは口から耳へと伝えられるものが、
  平和と調和を作り出せると本当に信じています。
  しかし、平和、調和、人が人としてあるありようは、
  神々がわたしたちに語りかけるとき、初めて生まれるのです。
 
  このゲーテアヌムの壁、
  そして窓に施される芸術的なフォルムによって、
  神々はわたしたちに語りかけてきます。
  フィジカルな壁は生きていませんが、
  エーテルの、精神の、壁は、生きて動くものなのです。
 
  地球の大地がその懐から植物たちを生み出すように、
  わたしたちが造形する壁のフォルムは、
  (内において)生きて動くものを生み出します。
 
  わたしたちの建築は、そのフォルムによって、
  きっと、神々のことばを語り始めます。
  植物のエーテルのフォルムに耳を傾け、
  それらをわたしたちの壁のフォルムによって、
  創ろうではありませんか。
 
  自然に潜む神々が、人に、語る喉頭を創られたように、
  わたしたちは、芸術によって、
  神々が語りかける喉頭を創るのです。
 
  わたしたちは、
  これらのフォルムが何を意味するのかを解釈するのではなく、
  心臓で聴くかのように神々のことば、
  精神のことばを分かろうとします。
  その分かる力を育むこと、
  それがわたしたちのなすべきことです。
 
  このように、
  精神への道を見いだそうという聖きこころもちが、
  この仕事場に満ちますように。
 
  仕事場とは、きっと、
  人がその精神を愛の内に見いだし、
  平和と調和を地上に拡げていくような、
  精神への道を見いだす場です。
 
  真の芸術への、真の精神への、
  そしてすべての人への愛をもって、
  「ことばの家」「神が語る家」を建てようではありませんか。

 
 
その豊かな精神、その豊かな内実を、わたしたちは、乏しい中にも、受け止めることができるのだろうか。そう考えています。
 
わたしたちも、フィジカルなものはなくとも、エーテルの生きたフォルムが、場に織りなされていくならば、そこは、「神が語ることば」に耳を傾けることができるような場として、成長していくことができる。
 
そのエーテルのフォルムは、いかにして空間に織りなされることができるだろうか。外的なつくり、フィジカルなかたちではなくとも、内なる建築作業は、いかにしてなりたちうるのだろうか。
 
そのことを問いながら、この「ことばの家」を仕事場にしています。
 
空間に、内なるエーテルのフォルムが織りなされていくには、「ことばの家」において語られることばが、ひたすらに、人間的であること、生命的であること、エーテルの動きを湛えていること。そのことが要であるように思われます。
 
ことばが、人間的であり、生命的であることを求められている。100年前のヨーロッパにおいても既に、ことばは非人間的な響きを湛えていたのでしょう。
 
その、人が語ることばの内なるつくりによって、神々が語りかける場としての芸術的なフォルムを用意していくことはできないだろうか。
 
 
 
わたしたちの「ことばの家」は、舞台・ワークショップ・講座などを通して、ことばを話すこと、語ることが、芸術になりえるのだということを提示していきたいと考えています。
 
そして、ひとりでも多くの方と共にそのことばの芸術を受け取り、楽しみ、
創造していきたいと願っています。
 
そして、さらに、ことばの芸術を通して、神々が語りかけ、ひとりひとりの人がますますその人その人になりゆく、平和と調和が育まれていく、そのことを意識しています。
 
ことばには、その「こうごうしさ」が湛えられるような、芸術的なフォルム・つくりが欠かせないように思われてなりません。
 
わが身を通して、ことばを発すること。そのことを繰り返し、繰り返し、練習していく中で、「人間的であること」「こうごうしいこと」を共に、探っていきたいのです。
 
芸術とは、「人はこうもありえる、もっと、こうもありえる!」というところをわたしたちの前に提示してくれます。わたしたちに「人であること」「こうごうしいところ」を思い出させてくれます。だからこそ、芸術は、人が生きることにおいて絶対に必要なものであります。
 
今、ことばが見直されようとしています。それは、ことばに人間的な響きを取り戻したいという時代の願いであります。
 
では、人間的な響きとは?
 
そのことこそ、「ことばの家」において、実践的に見出していきたいことです。
 
どうぞ、ご参加下さい。

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2015年11月02日

意識して前の時代に立ち戻る


昨日、和歌山市で開かれたシュタイナー教育講座、
仲正雄さんの『7歳から14歳、感動を育む教育』と、
中村重朗さんの『14歳から21歳、イメージする力(高等部人類学)』に参加してきました。

たくさん受け取りました。
たくさん消化しました。
そして、自分自身のなかで改めて新鮮に考えていること。

それは、現代においても、
子どもを教育するとき、
若い人を教育するとき、
自分自身を教育するとき、
教える人(自分自身)は15世紀半ば以前の古い時代のありかたに、
意識的に立ち戻る必要がある、ということです。
この「意識して」というところが、単なる先祖がえりではなく、
いまならではのわたしたちのありかたです。

現代の人が頭に抱く〈考え〉。
それは、科学的であること、理知的であること、客観的であること、
そうであってこそ、その〈考え〉は外の世を生きていく上で欠かせないものになるでしょう。
その〈考え〉は、外の世の発展に大いに寄与するでしょう。
これらの<考え>を、いかにして効率よく若い人たちに教え込んでいくかが、
現代教育にいまだに見られるありかたかもしれません。

しかし、それらの<考え>は、肝心の、人を育てない!
人の中身を育てない。
頭のいい人を世に出すかもしれませんが、
情をもって、寛やかに、暖かく、
意欲をもって、確かに、熱く、
考えることができにくい人を創ってしまう。

それは、<考え>というものが、いまは、ことごとく、死んでいるから。

死んだ<考え>をいくら与えられても、生きた人は育たない。

いかにして、死んだ<考え>に、いのちを吹き込み、
再び生きた<考え>をこころに植えていくか。

これは、15世紀以前においては当たり前にしていたことで、
<考え>にはそもそもいのちが宿っておったそうな・・・。
だからこそ、人は、その生きた<考え>に、
生きものに沿うように付き合い、従うことで、
精神からの、神々からの、恵みと戒めを授かっていたそうな・・・。

アジアにおいては、
とりわけ我が国においては、
その前時代の<考え>のありかたが15世紀以降も残っていたようで、
わたしたち日本人独特の、ものの考え方、感じ方に、
他と比べて劣った、後進性を見てとるのか、
むしろ微笑みをもって誇りを感じ、
この特異性を生かす道を新しく見いだして行くのかは、
人それぞれでしょう。

それは、ともかくも、
現代において、その死んだ<考え>を子どもたちに与えることを止めて、
前時代の時のようにおのずから息づいていた生きた<考え>を、
新しく意識的に子どものこころに植えていくこと。

小学校時代の子どもたちには、
正しいことを教え込むのではなく、
美しいことへの感覚をひとりひとりの子のなかから引き出したい。

中・高時代の若い人たちには、
仕上がり済みの<考え>・定義を教え込むのではなく、
観察し、ひとりひとり新しく考え、ともに語り合う場を創っていくことを助けたい。

そもそも、どの子のなかにも美しさへの感覚はあり、
どの若い人のなかにも、自分自身で、まこととは何かを考える力があるのだから。

その「美への感覚」「まことを追い求める力」、
それを誘い出すような、像をもった語り口。
そこに、生きた<考え>が宿る。

いずれも、この世に生まれてきて、まだ年かさもゆかない人たちが、
一個の存在としての己れに不安を覚え始めているときに、
世というものと再び鮮烈に出会うことへと促していくのが、傍にいる大人の役目。

そのためには、
大人であるわたし自身が、毎日、鮮烈に、
世というものと出会っているのか?
どうなんだ?
そう、改めて、自分自身に問うています。

その毎日の鮮烈な出会いを産みだしていくためにどうしていったらいいかを、
自分自身で探っていくための提言がシュタイナーからもなされているので、
またいずれ書いてみます。

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2015年06月03日

和歌山での未来の学校をつくる会


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和歌山北部にて、シュタイナー学校を創っていく試みを始めた主要メンバーたちと、小さくない関心を寄せてこられる方々。
 
子どもたちのための教育の場というだけにとどまらず、
「文化の行ない(人を耕していくこと)」に勤しんでいくところとして、つまり、大人自身もみずからをなりかわらせていくことに勤しむところとして、自分たちの場を成長・発展させていくことを胸に抱いている仲間たちです。
 
この『普遍人間学』を通して学び、
そして、実際に授業をどう創っていくかを研究していくこの場は、
そのまま、教師会・教員会議へと繋がっていき、
それは、きっと、教師のための本来的なある種のカレッジ・大学の機能を持つようになるでしょう。
 
シュタイナー教育に造詣の深い方々から教えをこうことも勿論大切なことですが、それ以上に、勇気をもって、自分たち自身から自分たち自身への教員養成を始めていく気概。
そんな心根を確認し合えた、今日でした。
 
 
ご関心のおありになる方、「和歌山でシュタイナー学校の教師の仕事をやってみよう」という思いをこころの片隅にでも抱いた方、どうぞ、未来の学校をつくる会(モモの会)へアクセスしてみてください。
http://momo-society.org/contact.html

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2013年02月09日

『アントロポゾフィーとメルヘンのためのクラス』その目指すところとそこへの導き



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この4月からの新しいクラス、
『Anthroposophie und Märchen Kreis (アントロポゾフィーとメルヘンのためのクラス)』で進めていきたいテーマは、
メルヘン・昔話を幾度も幾度も語りこんでいくことを通して、
そこに秘められている神秘、真実を浮かび上がらせていくことである。

「アントロポゾフィーは、ひとつの知ることの道である、
人というものにおける精神を、
世における精神に導こうとする、知ることの道である」

シュタイナーは死の前年に、
『アントロポゾフィーのライトモチーフ』でそう書き記している。

わたしのわたしたるところ、わたしの精神、<わたし>に目覚め、
わたしよりもさらに高い世の精神に目覚め、
その精神と精神の交流を日々営んでいくための方図を示すことが、
アントロポゾフィーなのだとこの文で理解することができる。

そしてわたしたちは、
その示されている方図を体得していきたいという気持ちとこころざしをもっているなら、
こころを修していき、幾歳月をも、一生涯をも費やす。

このこころの構え方と時の掛け方が、
自然科学を超えた精神科学としてのアントロポゾフィーのアントロポゾフィーたるところだと実感する。


そして、
そもそも、メルヘン・昔話というものは、神秘的なものである。
しかし、その神秘は、隠されている。
わたしたちが、それを、机上で考えるだけで終わるのではなく、
繰り返し、時間をかけて、身を使って語りこんでいくことを通して、
だんだんとメルヘンに隠されている神秘が、
語る人のこころに立ち顕れてくる。
それはとても密やかで細やかなものである。

語る人の内側が深まってくるに従って、
メルヘンもその内側をゆっくりと時をかけて打ち明けてくれる、
そのような法則がある。

それは、芸術をすること(芸術行為)によって啓かれてくる、
新しい密やかな知ることの道(認識の道)だ。

そのような言語造形によるメルヘンの語りと、
アントロポゾフィーという知ることの道が、
織りなしあって、
わたしたちのこころに、
精神の通い道が生まれてくる。

この、精神こそを、わたしたち人は乞い求めているのではないだろうか。

ひとつひとつのメルヘン・昔話を各々語り重ねていくことともに、
『いかにして人は高い世を知るにいたるか』やその他のアントロポゾフィーの書を通して、
学びと習いを織り重ねていきたい。

クラス詳細は、http://www.kotobanoie.net/marchen.html


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2012年10月26日

今日の『密の学のあらまし(神秘学概論)』の読書


今日は、姫路こころの事業団で、『密の学のあらまし(神秘学概論)』の読書と言語造形。

この『密の学のあらまし』は、あらましであるにもかかわらず、
通常の「あらまし」であることに尽きていない。

「あらまし」であることによって、
むしろ、読む人が、読みながら肉と血を注いでいくことが促される。

そして、この本から、彼の多くの講義録へと読み進めていくことができる。

そうしていくほどに、日々の生活に、光が灯され、熱が生まれてくる。

「密やかなこと」が、「顕の日々」を支えてくれていることを、感じるようになってくる。

感謝の想いに、目を覚まされる。

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2011年10月11日

100年前の今日、シュタイナーは。

丁度、100年前の昨日と今日(10月10日と11日)、
シュタイナーは、
「キリストの復活」について語りました。

「復活」「よみがえり」とはそもそもどういうことなのか、
そのことを語ったのです。

1911年10月5日から14日にかけて、
ドイツのカールスルーエという町で行った連続講演『イエスからキリストへ』のなかの、
ハイライトとも言える講演です。
(アルテ社から邦訳が出ています)

「死んだからだが、甦る」
とは、どういうことなのか、
それをなし遂げたというキリストとはどういう存在なのか、
ということです。

この講演の後あたりから、
シュタイナーに対する世間からの攻撃が始まった、と言います。

近現代人特有の唯物的なものの考え方からだけではなく、
宗教界からの攻撃こそが強くあったのではないかと考えられます。

キリスト教と言われている既存の宗教、もしくは宗教学のあり方が、
キリストの復活についてどのような解き明かしをしているのか、
わたしは詳らかには知らないのですが、
おそらく、そのあたりからの攻撃、もしくは黙殺が強くあったのではないでしょうか。

そして、
シュタイナーによる「復活」についての述べ伝えは、
「人間のからだ」とは、
そもそもどういうものなのか(どういうものだったのか)、
ということについての解き明かしでもあります。

それは、
現代という時を生きているわたしたちにとって、
からだをもって生きていることの意味を、
一段も二段も三段も深めてくれるような内容だと感じます。

この世にからだをもって生まれてきて、
生きて、
死んでいく。

そのことの謎が、
こころの内でひたすら問われたのが、
15世紀以前のギリシャ・ローマ文化期においてでありました。

15世紀以降、現代においては、
その生と死の謎が、
現実における謎・不可解さとしてからだの次元にまで降りてきて、
(健康の問題・医療の問題・人生の問題として現実化して)、
人の意識に突き刺さるように迫ってきています。

「からだというもの」にどう向き合い、
「からだというもの」をどう読み解くか。

100年前のシュタイナーのことばは、
そのことの基にまで迫っています。


そして、現代においてより喫緊なこと、
それは、悪の問題です。

生と死の問題がからだの次元で迫られているとするなら、
悪の問題は、
一見、外からわたしたちに迫り来るように見えるにもかかわらず、
実は、
ひとりひとりの内なるこころの次元で、
ひとりひとりが己のこととして向き合うこととして要請されています。

この講演では、悪というものについても、
キリストとの関係、「キリストの復活」ということを通して、
考えを深めていこうとしています。

「こころというもの」にどう向き合い、
「こころというもの」をどう読み解くか。

悪の問題も、
そのように己のこころの問題として意識に上らせることが必要とされているように感じます。

シュタイナーが攻撃され始めたのが、この講演あたりからだと書きましたが、
それらの攻撃のもとのもとにあるのは、
きっと、
人の精神の育みとそこから生まれてくる人の自由をなんとか阻もうとする悪の力です。


わたしたちは、この100年前の講演から、
容易に汲みつくせないものを、
これから繰り返し繰り返し勤しんで、
汲んでいくことができます。

「キリストの復活」ということが、
からだというものに対するより深い知として、
そして、
春における「キリストの復活」ということが、
秋における「人のこころの復活」として、
己の内なる悪との対話として、
人の内で、どこまでまともに深みをもって意識されていくか。

これからわたしたちは、
この「復活」という理念をどこまで深く熱く分かち合っていくことができるでしょうか。


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2011年10月08日

アントロポゾフィーと言語造形から何ができるのか

アントロポゾフィーから一体何ができるのだろうか。

アントロポゾフィーを学ぶことを通して、
アントロポゾフィーを生きることを通して、
一体わたしに何ができるのだろうか。

そんな問いが、この春からずっと、わたしの内に萌していました。

アントロポゾフィー、
それは人の内なるものを密(ひめ)やかに育んでいくことから始まる道です。

その人の内なる密やかさを育んでいくことは、
現代社会を生きていく上で、
きっと、その人の助けになりうるし、支えになってくれる。

ひとりひとりが、学びを深めつつ、学びを生きつつ、
その確かさをアントロポゾフィーに見いだすことができます。

そしてわたしは、
そのアントロポゾフィーから生まれた芸術「言語造形」に取り組んでいて、
それは、ことばを発するということそのことの深みを探っていく道です。

アントロポゾフィーにおいては、
おそらく人にかかわることならば、
ありとあらゆることがらが追求されうるでしょう。

わたしは、
その中でも、ことに、
ことばに意識的に取り組むことが、
アントロポゾフィーという学びの道に不可欠のものだと考えています。

アントロポゾフィーと言語造形。

その道を歩くことから、
わたしに何ができるのだろうか。

そう問い続けています。



今日、子どもと大人のための演劇塾が和歌山で発足しました。

アントロポゾフィーと言語造形から、
何かができる。

そう信じることができる晴れやかな初日でした。

そこでこれから、
子どもも大人も、
互いに応援しあいながら、
高い存在に見守られながら、
みずからを育むということがなされていきますように。

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2011年02月23日

K都市生活における学び 〜『いかにして〜』 実践的な観点その16

今回が、教則としては最後の12番目のものです。

「利己的な関心、現代の生存競争に満ちた環境」の中で、
人はいかにして密やかな学びの練習をしていくことができるか。

そのような「環境」は、
つまるところ、
人の内も内なるところの方向性を変えてしまったりはしない。

しかし、練習する人は、このことを意識する必要がある。


    密やかに学ぶ人がときおり自然の静かな安らぎ、
   内なる尊さ、雅(みやび)やかさを
   周りに迎えることは、とにかくよいことである。
   ことに好ましいのは、密やかな学びを緑の草木にかこまれ、
   あるいは
   光る山々と愛すべきシンプルな営みのあいだですることができることである。
   そのことが内なる器官をハーモニーのうちに引き出す。
   そのハーモニーは現代都市では生じようがない。      (P.136)


このことは、密やかな学びにとって欠かせない一観点なのだということを押さえた上で、
現代においてより意識していたいのは、むしろ次のことでしょう。


    都会に生きることが課題となっている人ならば、
   つくりなされつつあるこころと精神の器官に、
   精神を究める人のインスピレーションによる教えを
   糧として届けることを怠ってはならない。
   春が来るたびに森が日に日に緑を増していくさまを追うことができない人ならば、
   そのかわりにバガヴァッド・ギーター、
   ヨハネ福音書、
   トマス・フォン・ケンペンの気高い教え、
   および精神科学の成果をみずからのこころに届けてほしいものである。(P.136)



周りの環境が外からわたしたちに作用してくること、
それによってわたしたちは外的にも内的にも確かに動かされてしまいます。

その外からの作用は、よくも悪くも、人に働きかけます。

その作用について精神科学から研究していくことは、
わたしたちにとって、とても大切な課題です。

その研究を実際に、教育、医療、農業その他の産業として、
わたしたちは応用実践していくのです。

また人によるすべての仕事が、芸術によって貫かれること。

これがアントロポゾフィーという精神の生きものの、
21世紀における課題です。

この外の世を創っていく仕事と共に、
人の内の世を育んでいく仕事に取り組んでいくことも、
アントロポゾフィーの課題です。

外が先か、内が先か。

環境や社会が、人をつくるのか。

人が、環境や社会をつくるのか。

要は、バランスでしょう。

ただ、そのバランスを生み出すのも、
ひとりひとりの内を育んでいくことこそが鍵だということを、
人は人生における深い経験を通して、
ますます強く意識していかざるをえなくなります。

現代都市生活の真っ只中において、
積極的に、意識的に、精神の糧を稼いでいくことによって、
ひとりひとりの内側を、
各々銘々育んでいくことの重要性。

都市こそを人にとって息のつける場所にしていくこと。

それは、ひとりひとりが精神を自覚することから。

こころという内なる自然を、
年の巡り、四季の巡り、月や週や日の巡りといった外なる自然と、
重ね合わせていくこと。

精神科学アントロポゾフィーは、きっと、そのことに大きな助けを差し出します。


●密やかな学びの実践的観点の十二番目の小さな教則

    現代の都市生活における、人の内なるものの育みの重要性。
   精神の糧を稼ぐこと。              (知の育み)


ぜひ、皆さん各々に本を手にとっていただき、お読みいただければ、嬉しいです。
http://www.seikodo-print.co.jp/products/sub_36.html

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