2022年08月10日

その人がその人になりゆく場



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朝の光が差し込む聖なる空間。


昨日まで教員養成講座のために滞在してゐた「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」の教室を、鳥の鳴き声が聞こえ始める早朝、観てゐて、様々なことを想ひました。


ことさら特別に驕り高ぶつた意識を持ちだして「聖なる」などといふことばを使はなくてもいいと思ひます。


ただ、「聖なるもの」は、この世にあると思ふのです。


いえ、精確に言ふと、「聖なるもの」は、人によつて創り出されるのだとわたしには思はれるのです。


本当の聖なる空間とは、子どもを含め、ひとりひとりの人が、その人になりゆく場である。


人が、自由へと羽ばたいてゆくことのできる場であり、その力を養ふ場であります。


それは、シュタイナー学校でなくても、この世のいたるところに創られうる。


ただ、アントロポゾフィーの学びに育まれて、わたしたちは意識してさういふ場を創つてゆくことができる。


その意識からなされる仕事場のひとつが、このシュタイナー学園。


そこは、シュタイナー教育の方法論ではなく、ひとりひとりの人の誠実さが生きうる場です。


そこでは、誠実にことばが語られます。


これは、成長してゆく子どもたちにとつて、何よりのことではないでせうか。


そして、わたしたち大人にとつても、何よりのことではないでせうか。


なぜなら、そこでは、大人であるわたしたち自身が、誠実にことばを語らうと努めることで、こころを誠実さへと、精神へと、引き戻すことができるからです。


誠実さとは、人がみづからのこころをみづからで観ることから、だんだんと育つてくるものです。


人は、誠実になると、その人そのものへと立ち返ります。


外から取つてつけるやうな特別なものは何も要りません。


上手くことが運ばないことも多々あるでせう。綺麗ごとでは済まないこともままあるでせう。


しかし、そんな時こそ、みづからのこころをみづからで観る。


このことが、アントロポゾフィーからの教員養成の基のことだとわたしは念ひます。


また、まうひとつのことをも思ひました。


それは、育ちゆく人を見守つてゐるこの聖なる空間の誠実さを担保してゆくためには、場をある程度の「小ささ」に留め置くこと。


日本の古いことばに、「初国(はつくに)、小さく作らせり」といふ切なく美しいことばがあります。


人と人とが誠実に語り合へる「小ささ」を守りゆくことも大切なことのやうに思へるのです。


それは、幾とせを経ようとも、「初心(ういういしいこころ)」「初国(ういういしい国づくり)」の念ひに立ち返ることへとわたしたちをみちびいてくれるのです。


さういふ聖なる場で育つことができた人は、その国を出でて、荒々しいとも言へる大海原(おほうなばら)へと漕ぎ出してゆくことのできる力をも持つことができる。


その力を持つ前に、いきなり、荒々しい大海原に子どもたちを投げ出してはならない。


さういふ意識を、ルードルフ・シュタイナーは持つてゐました。







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2022年06月12日

感覚を実現すること



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画家とは、何をする人なのだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられます。


セザンヌをはじめ、「印象派」と言はれる画家たちの実現しようとしてゐたこと、それは肉の眼に見える自然のものをなぞるやうに描くことではなかつた。


目の前にある、山であれ、湖水であれ、樹木であれ、花瓶であれ、果物であれ、人であれ、画家が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものもぢつと彼を見つめる。


自然が自然そのものの内に秘めてゐる密(ひめ)やかで、持続的で、強く、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。


それは既に、感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。


そして、そのやうな自然からの「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大な画家自身の「こころそのもの」が立ち上がつてくる。


その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。


そのふたつの出会ひをこそ、キャンバスの上に、色彩で顕はにしろと、自然そのものが彼に強く求める。


セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それこそが絵を描くといふことであつたやうです。


まさに「仕事」として絵を描くとは、彼にとつては、それであつた、と。


わたし自身は、画家ではありませんが、この「ものをぢつと観ること・聴くこと」といふこころの練習を習つてゐます。


それは、ルードルフ・シュタイナーが書き残してくれた幾冊かの書に沿つてです。


その練習は、ものから、ものものしい何かを受け取ることのできるこころの集中力の養ひです。


このこころの力は、本当に、何年も何十年もかけて養はれていくものだと実感します。


そして、この力は、子どもを育てることにおいてとても重きをなす力です。


子どもといふ存在から、ものものしい何かを受けとり、それをこころにリアルに感覚することができるかどうか。


ですので、シュタイナー教員養成において、この内なる習ひ・養ひは欠かせないことの一つであります。


そして、あらためて、セザンヌは、そのことを、意識的になした人であつたと感じるのです。


ですので、美術館で実物の彼の絵を観るとき、いつも、画布の前でわたしはとてもとてもアクティブなこころのありやうでゐざるをえません。


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2022年05月28日

本を読むときと講義を聴くときの違ひ



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たつた一枚残されてゐる講義中のシュタイナー




何かを学ばうとして、その何かに関する本を読むことと、その何かに関して、誰かから講義を受けることとの間には、少し違ひがあります。


本当に学びたいといふ内なる真剣さ。それは、どちらにも共通して必要です。


さて、本を読む時に、望むべくは、その内容によつて、こころが変に乱されたり、煽られたりすることなく、静かに考へつつ、かつ、熱い想ひをもつて、理解すること(分かること)へといたることです。


さうして、その読書が、こころにばかりか、からだのすべての力、すべての液にいたるまで働きかけて、日々の暮らし方、生き方に影響を与へて行くとき、その学問そのものには、理性や知識だけでなく、精神的ないのちが宿つてゐます。


そのやうな書を読む人は、死んでゐる文字を甦らせるやうな読み方へといざなはれます。その書に込められてゐる内容の精神、考へとしての精神が、書き手から読み手へと流れ込んで行くのです。


一方、講義などを通して、人の語ることばから何かを学ばうとするとき、その講義を聴く人は、語る人から教義を受け取るのではありません。語る人その人の精神を受け取るのです。


語る人の精神が、語られることの精神とひとつになつてゐるからです。


つまり、「人」に出会ひにゆくために、「人の精神」「精神の人」に出会ひにゆくために、講義を聴きに行くのです。


その人との出会ひのひとときに、その学問の精神は、そのつど、そのつど、生まれます。甦ります。むすばれます。


講義とは、人と人との間に繰りなされる、精神の劇でもあります。一回かぎりの劇なのです。


そこにおいては、和やかで親しみに溢れる雰囲気のなかに、内なる真剣さがあるほどに、精神的ないのちが宿ります。


かうして、本を読むときとは違ふ精神の受け取り方を、講義を聴くときに意識してゐますと、人と人とが、共に学びつつ生きて行くといふことの意味深さを感じることができます。







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2022年05月27日

自由への三つの密めやかな次第



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セザンヌ「果物鉢とコップとりんご」


人は、自分の外に広がる世界にはよく目を注ぎます。


しかし、こころといふ、内なるところに広がる世界に目を注ぐことには、あまり慣れてゐないのではないでせうか。


こころ(ドイツ語ではSeele)が、湖(See)だとしますと、その水面に浮かび上がつて来た様々な感情や考へ、それらはなぜ浮かび上がつて来たのでせう。


それらは、きつと、どこかから風がこちらに向かつて吹いて来るやうに、外の世界に何らかの出来事が起こつたり、他者の言動をきつかけに、こころが揺さぶられて、浮かび上がつてきたものですね。


それらは、湖の底に沈められてゐたものが、運命(仕合はせ)といふ風に吹かれ、湖の水まるごとが揺さぶられることによつて、沈殿物が湖水の面に浮かび上がつて来た、といふことでせう。


これまでの人生の中で経験せざるをえなかつた傷や痛みからの、自分自身では認めたくない自分自身の情が、そのつど繰り返し浮かび上がつて来ます。


その浮かび上がつて来たものを、いまこそ、ひとつひとつ丁寧に汲みとつてあげること。


それが、人の成長にとつて、とてもたいせつなことだと強く思ひます。


どのやうな、はき違へられた考へも、不健康な情も、抑えつけたり、排除したりせず、あるがままの客として、すべて、丁寧に汲みとつて、迎へて、響かせて、送る。


そんなとき、人は、客と一体化してゐない、ひとりの主(あるじ)です。


その内なる行為は、「光の息遣ひ」を通して、こころといふ湖水を浄めていく、非常に地道な作業です。


さうして人はゆつくりと、みづからのこころに精神の光を当てて行くことで、みづからを総べ、律していくことを学ぶことができます。


他者を責めず、世を批判せず、ただただ、誠実さと親身なこころもちに、みづからを委ねて仕事に邁進することができる。


自分の好みや性向、お馴染みの考へ方、感じ方を、できうるかぎり洗ひ流し、そのつどその場で新しく精神を迎へ入れ、流れ込ませる生き方、これが一つ目の次第、「自律」です。ここからすべては始まります。


さらに人は、暮らしの中で、仕事を通して、みづからのこころにだけでなく、みづからのからだにも精神の光を当てて行く。からだにまで光を当てて行くのです。


このとき、すべての人の行為、仕事は、芸術行為です。死んだものに精神のいのちを吹き込み、甦らせる、すべての行為が芸術です。絵を描くことや音楽を奏でることだけでなく、お料理も、お掃除も、お散歩も、すべての行為が、そもそも芸術行為です。


これもひとつの修業です。倦まず弛まず練習をつづけることで、人はみづからの足で、立つことができるやうになりゆきます。これが二つ目の次第、「自立」です。 


そして、人は、そのつど、そのつど、世に精神の光を当てて行くこと、みづからのこころやからだにだけでなく、世のものごとに光を当てて行くことを学びゆきます。


社会の中で自分はそもそも精神なのだといふこと、精神みづからであるといふことを見通すことができるやうになり、そこからこそ、ひとりひとりの他者、ひとつひとつのものごとをふさはしく立てることができるやうになります。これが三つ目の次第、「見識」です。


この自由へといたる三つの次第、「自律」「自立」「見識」は、ルードルフ・シュタイナーの『自由を考える(自由の哲学)』第三章、「世をつかむに仕える考える」に、詳しく述べられてゐます。


「アントロポゾフィーハウス ことばの家」では、これからも、「光の息遣ひ」を通して、この一つ目の次第に習ひ、生活の中で習慣にしてゆく、そして、だんだんと、第二、第三の次第へと、そんな稽古の場をもつていきます。


こころざしを持つ方よ、共に、精神の「みすまるの珠」を繋いでいきませう。




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2022年05月23日

学びの細道


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京都の大原の里


あるクラスでは、こころの育みのために、種(たね)を目の前に置いて、じつと見る練習をしてゐます。


そして、その種を見つつ、いくつもの次第を経て、定められたあるいくつかの考へを重ねて行きます。


定められた考へにきつちりと沿ひ続けることによつて、その考へに結び付く情が、こころに深く染み込んでゆくのです。


また、あるクラスでは、自分自身の呼吸の営みと、外の世に拡がる植物の一木一草との間に、その生命の循環の持つ神々しい関はりあひに意識を注ぐことで、植物を見るたびに静かな情の深まり、高ぶりを得ることを学びます。米や野菜や果物などを口にいただくたびにありがたいといふ感謝の念ひを持つことを学びます。


それらの学びや練習は、わたしたちのこころに何を促すのでせう。


その深められ強められた情の営みが、わたしたちのありやうを甦らせるのです。フレッシュにするのです。生まれ変はらせるのです。


毎日を、新しく生きるいのちの健やかさ、こころの健やかさをみづから生み出してゆく、そんな精神からの学びと練習です。


アントロポゾフィーからの教員養成といふ営みも、そんな大人を育てようとする営みなのです。知識を頭の中に溜め込むのではなく、ものを観るたびごとに、深い情、強い情を覚えることのできる人を育てること、それがアントロポゾフィーからの教員養成です。


ここで、シュタイナーの『神秘劇』の中のことばを上げさせてもらひます。



ーーーーー



種子は力を秘める。
その力は育つ植物にどう育つべきかを教へますか。
いいえ、教へるかはりに、
植物のうちに生きた力として働きます。
わたしたちの理念も教へではありません。
教へるかはりに、わたしたちの営みそのものとなり、
いのちを沸かし、いのちを放つにいたります。
わたしにしても、さうして理念の数々をものにして来ました。
だからいま、ひとつひとつのことに生きる意味が汲み取れます。
生きる力ばかりか、わたしはものごとを見る力をも得てゐます。
子どもたちを育てるにも希望があります。
これまでのやうに、
ただ仕事ができる、ただ外面で役立つだけではない、
内面で釣り合ひがとれる、
満たされたところを保つて生きていける、
そんな人へと育ててみたい。



ーーーーーー
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2022年05月09日

一代の名優 耳を澄ます人 鈴木一博氏



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江戸時代の「学問」。とりわけ、私学。「わたくしの学問」。その学問をそれぞれ一身に背負つた学者たちの列伝。


小林秀雄の『考へるヒント』を読むたびに、その学びといふものに対するこころざしの系譜に、胸躍らされます。


幕府が官学として定めた朱子学への批判を、どこの組織にも属さずに一身で体現した、儒学の中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠、国学の契沖、賀茂真淵、本居宣長・・・。


彼らは、一代の名演技をもつて生きた名優たち、私学の化身でした。


―――――
勝負は、文字通り、ただ、
読みの深さといふ事で決まつたのである。
彼等の思想獲得の経緯には、
団十郎や藤十郎が、
ただ型に精通し、
その極まるところで型を破つて、
抜群の技を得たのと同じ趣がある。
彼等の学問は、
渾身の技であつた。
(小林秀雄『学問』より)
――――――


ここで、わたくしの師匠である鈴木一博氏のことについて述べたく思ひました。


小林秀雄と同じく、鈴木さんも、いはゆるアカデミックな学、大学といふ制度や体制に守られた、近代諸科学の知の体系から匂つて来る、「毒」「臭さ」「害」「さかしら」に対して、闘つた人であつたやうに感じてゐます。


それは、孤独な闘ひでありました。


江戸の私学者たちが、幕府お達しの官学・朱子学に、敢然と抗してひとり立つたやうにです。


わたしにとつて、鈴木一博氏はまさに一代の名優でありました。


アントロポゾフィーなる、いはゆる「輸入物の」学問を、権威に寄りかかることや、大御所と言はれてゐる者たちのことばなどに一切関はらず、己れの身ひとつで受け止め、噛み砕き、考へ、感じ、己れのことばに鋳直した、その技たるや、惚れ惚れとするものでした。


そこでは、見事に、アントロポゾフィーが、「鈴木一博学」になつてゐました。


誤解を招く言ひ方かもしれませんが、それでいいのです。いや、さうでなければならないのです。


学問といふものは、その学問をする人の全体重がかかつてゐなければ、なんら用のないものです。


どんな鈍物にでも分かるやうに、平均化され、標準化され、一般化されたものでは、人のこころの糧になることは決してありません。


汲んでも汲んでも汲みつくしえない深みを湛えた、一世一代の仕事なのです。


――――――
僕は、(宣長の)さういふ思想は
現代では非常に判りにくいのぢやないかと思ふ。
美しい形を見るよりも先づ、
それを現代流に解釈する、
自己流に解釈する、
所謂解釈だらけの世の中には、
『古事記傳』の底を流れてゐる、
聞こえる人には殆ど音を立てて流れてゐるやうな
本当の強い宣長の精神は
判りにくいのぢやないかと思ひます。
(小林秀雄『歴史の魂』より)
―――――


本居宣長や小林秀雄、そして鈴木一博さんが闘つてゐたのは、解釈だらけのたくさんのことばと頭の群れたち、「さかしら」や「からごころ」をもつての学問です。


ものものしく聴こえてくる、対象そのものの声に耳を澄ます者だけが聴くことのできる精神の美しいすがた、しらべ。それがどれほど生命に満ちた豊かなものか。


そのことを鈴木さんは、アントロポゾフィーを通して、わたしに伝へようとしてくれました。




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2022年05月07日

「ある」から始める 〜教員養成プレ講座より〜



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子どもたちを育てる芸術においておほもとのところが確かめられた、「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」での、今回のプレ講座のアントロポゾフィーの時間。


それは、わたしたち自身の「エゴイズム」を凌いでいくといふことでした。


ここで、また、講座で語らせてもらひましたことを繰り返させてもらひますね。


「エゴイズム」とは、未来を不安に思ふこと、行く先のことを思ひ患ふこと。失ふことを恐れること。だからこそ、むさぼります。欲しがります。攻撃します。


わたしたちは、ありありてあつた、わたしたちの過去、来し方をかへりみませう。


そして、いかに多くも多くの人やものごとに、わたしたちは支へ、守られて来たかを想ひ起こしませう。


その精神からの想ひ起こしは、わたしたちに、こころの安らかさを取り戻させます。こころの充ちたりを取り戻させます。感謝を念ひ起こさせます。


ずつと、ずつと、わたしのわたしたるところ、<わたし>は、守られ、支へられ、育まれて来ました。


行く先において何かを失ふこと(お金が無くなる、病気になつて健康を失ふ、他人からの愛を失ふ、いのちを失ふ・・・などなど)を恐れることをやめて、これまでにありありとあつた、そして、このいまも、ありありとある、<わたし>を見ませう。想ひ起こしませう。この<わたし>は、決して、傷つけられることも、失はれることもなく、とこしへにありつづけます。


「ない」から始めるのではなく、「ありありとある」「あり続けてゐる」「既にある」「既にすべてを持つてゐる」といふ考へ、念ひから、一日を、毎日を、始めませう。


子どもたちは、その「ありありてあり続けてゐる」精神の世から降りて来たばかりです。


そのことを思ひつつ、教育に勤しみませう。


『普遍人間学』の第一講。


そこには、シュタイナーからのそのやうなメッセージが述べられてゐます。





この二年間を通しての継続的なシュタイナーの学び(アントロポゾフィーと言ひます)の道を共に歩いてみたいといふ方々をお待ちしてをります。


8月5日から年4回、各三日間の実際に皆が集まっての講座に、同じ8月の第二週目の水曜日夜から始まる毎週のオンラインクラスをもって、わたしたちのシュタイナー教育教員養成講座が始まります。


ご関心のおありになる方、ぜひ、ご勘案下さい。


ホームページに詳しく情報を掲載してゐます。
https://www.ohisamanooka-steiner.or.jp/kyouin-yousei



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2022年04月24日

感官の育み 特に、上の四つの感官



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セザンヌ「トランプをする人々」



人には、感官が五つどころか、十二ある。ルードルフ・シュタイナーはそのやうに述べてゐます。


その「十二の感官」の論、わたしも何度も何度も我が身に引きつけて考へ直してゐます。


人に感官は十二あり、「下の四つの感官」「中の四つの感官」「上の四つの感官」と三つに分けて理解することができます。


この世に生まれておよそ七年ごとに、ゆつくりと、感官の育みが下から順になされてしかりだといふ法則があります。


0歳から7歳あたりまでに「下の四つの感官」が、7歳あたりから14歳あたりまでに「中の四つの感官」が、14歳あたりから21歳あたりまでに「上の四つの感官」が、順にゆつくりと育まれて行くこと。


もちろん、その十二の感官の育みは生涯続くものですが、その基はそのやうな順で21歳あたりまでに培はれてゆくことが、教育のひとつの指針でもあります。


が、人は年齢を経ると共に、ますますその人・〈わたし〉へとなりゆき、社会を活き活きと創つて行くメンバーのひとりとして働くためにも、とりわけ、「上の四つの感官」の育みが重きをなします。


「聴く感官」の育みには、内における安らかさと静かさを要します。


「ことばの感官」の育みには、内における動きとアクティビティー、闊達さを要します。


「考への感官」の育みには、内における敬ひとへりくだりの情を要します。


「〈わたし〉の感官」の育みには、内における仕へる力、捧げる力を要します。


いづれも、わたし自身にとつて、育みを要することを痛感します。




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2022年04月15日

ふさはしい見識を求めて



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ものごとには、何事も順序といふものがあると思ふのです。

いま、わたしは何をすべきかとか、だれそれは何をすべきかなどと問ふのではなく、いまの世のありやうについてどうしたら見識が得られるか、と問ふことが先に来るべきではないでせうか。

見識を得る、つまりは、ふさはしい知を求める、みづからの考へる力をもつて知を求めること。

もう、政府や学者たちやマスコミが言つてゐることを鵜呑みにはできないことを感じてゐるならば、みづからの考へる力を信頼して見識を得ようとすることが、まづ、最初にしていいことではないか、さうしてこそ、人は自由といふものの礎を勝ち取ることができ、そこからこそ新しい何かが、きつと、始まる。

ルードルフ・シュタイナーが『歴史における徴(しるし)を論ずる』(1918年10月〜11月ドルナッハにて)といふ講義で、「いまは、多くの幻想を捨てて、確かな見識に行きつくことを要する」と述べてゐます。

その見識とは、「外に起こることは内の繰り出しの徴(しるし)に他ならない」といふことです。

そして、「その見識が十分にあることによつて、ふさはしいことが生じ、ふさはしい見識が繰り出せば、きつと、ふさはしいことが繰り出す」のだと。

2022年の甦りの祭りを二日後に控え、聖なる金曜日の今日、わたしも、いま、この世で起こつてゐるこの信じられないやうな茶番劇の舞台裏では何が繰り出してゐるのか、といふ問ひを立てざるを得ません。

その舞台裏とは、精神の世です。

それは、本当に明らかな問ひですが、答えるにはとても難しい問ひだと感じてゐます。

しかし、「精神の世では何が起こつてゐるのか」といふ見識を得ようと努め、その見識への探索から人と人とが語りあひ、共に仕事をしていくことが、この理不尽な世の繰り出しに対して、人の自由を取り戻すために必要だと考へます。

自由、それは、与へられるものではなく、ひとりひとりがみづから育て上げ、勝ち取るもの。

わたしたちは、いま、まぎれなく、さういふ時代を生きてゐるやうに思ひます。



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2022年04月14日

敬ひのハーモニー



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今日は、ある企業の方々とのズームミーティングに臨ませてもらつたのですが、そこでのやりとりがなんとも素晴らしかつたのです。

時の流れの中で、どんどん、おひとりおひとりが自由なこころもちでことばを発せられ、他者のことばに刺激を受けつつ、それをみづからのことばに鋳なおして、また新しい局面をその場に拓いてゆく。

それゆゑ、3時間に亘るミーティングだつたのですが、長さを全く感じることがなかつたのでした。

おひとりおひとりから発せられることばの向かう側に、それぞれの奥深いものが密(ひめ)やかに湛へられてゐて、お互ひがお互ひを敬ひあつてゐることを感じます。

皆の間に、敬ふことを大事にする細やかな気転がしづかに流れてゐるからこそ、場にこころのハーモニーが奏でられ、そして、さういふ和やかさからこそ、ひとりひとりから自由な考へが紡ぎ出されて来る。

きつと、日本人は、かういふハーモニー(調和)を奏でることが昔から得意な民族だつたのではないかな。

ひとりひとりが自由に輝きつつ自由に考へ、自由を生きながら、その場の全体の調和を奏でること。

そのためには、内なる細やかなやりとりが重視されることが欠かせないといふことを、今日の企業の方々とのミーティングでも感じさせてもらへたのでした。

わたしなどは、ルードルフ・シュタイナーといふ約100年前の中部ヨーロッパの人から多大なる学恩を被つてゐるのですが、その彼の学は、どうも、日本人がとても大切に育んできたその精神文化への憧れを内包してゐるやうに思はれてならないのです。もちろん、そのやうなことは、彼の表明としてはなんらなされてゐないのですが・・・。

わたしたちは、あらためて、みづからの根もとを丁寧に掘り起こして行つていいのではないかと思ふのです。




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2022年03月22日

こころの健やかさは、ひとり「考へる」から



わたしたちは、皆、健やかでありたい。さう希つて生きてゐます。からだが健やかであることはもちろんのことですが、しかし、肝心かなめなのは、こころの健やかさですよね。

その、こころの健やかさは何によつて促がされるのでせうか。

それは、まづもつて、「考へる」ことによつてなのだといふことを、繰り返し、わたしはわたしみづからに諭してゐるのです。

なぜでせう。

なぜ、こころの健やかさは「考へる」によつて促がされるのでせう。

人は、まるまる独り立ちすることによつて、本当に、健やかになりうるからです。

まるまる独り立ちできるのは、「考へる」人であつてこそです。

そのほかのこころの働き、例へば、「感じる」ではどうでせう。

「感じる」においては、確かに、ある部分は、自分自身が、つまり、<わたし>が、感じようとして感じてゐますが、しかし、ある部分は、外の世からの影響・働きかけに大きくこころが動かされてゐます。そして、いはゆるその感じられた「感じ・情」は、やつて来ては、過ぎ去つてゆき、とどまることがありません。

こころにやつて来る「感じ・情」といふお客様は、ある意味、得体のしれない外部からの侵入者でもあり、まづもつては、<わたし>には隅々まで見通すことはできません。「感じる」といふ働きは、人にとつて、かけがへのない営みではありますが、その「感じる」だけにこころの営みが尽きてゐることにおいては、<わたし>は不安定なままです。独り立ちどころではありません。

一方、「考へる」ことによつて稼がれる「考へ」は、それが他者の「考へ」を鵜呑みにしてゐたり、予断や先入観に偏つてゐたり(思ひ込み、思ひ患ひ、などなど・・・)しないかぎり、つまり、まぎれなく、この<わたし>が考へてゐるかぎり、その「考へ」は<わたし>が隅々まで見通すことができます。すべてが、<わたし>の働きによつて生まれて来たものであり、外からの得体のしれない侵入者ではないからです。その「考へ」は、ひとり、<わたし>といふ、内なるもの、高いものからむすばれた宝物だからです。その宝物をもつて、人は、まるまる、独り立ちすることができます。(「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」からの恵みであります😇)

人は「考へる」ことによつて、精神の世と繋がる第一歩を踏み出します。そして、その繋がりが、その人の独り立ちをますます促がすのです。

人のこころは、からだとは自動的に繋がりますが、精神と繋がるには、その人のアクティビティーが要ります。しかし、だからこそ、精神と繋がることでこころはまこと満たされます。アクティビティーこそが人のこころを満たすのです。受動的な消費生活のみでは、人のこころは結局は満たされません。「考へる」は、精神との繋がりを取り戻す、こころのアクティブな働きのはじまりなのです。

そして、そのやうな時を重ねて行くことで、人は、だんだんと、その人の軸が生まれて来る。人は、だんだんと、その人になつてゆく。わたしが、ますます、<わたし>になることができる。それが、人の人たるところであり、「考へる」は、人にのみ授かつてゐる神々しい働きです。

<わたし>が考へる。

そのアクティビティー、その内なる仕事によつてこそ、人はまるまる独り立ちへの道を歩き始めるのでせうし、こころの健やかさ、果ては、からだの健やかさまでもが促され、もたらされる。

さう実感してゐます。




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2022年02月12日

普遍人間学オンラインクラス ありがたうございました!



今日は、2020年5月のゴールデンウィークから始めさせてもらつた『普遍人間学』オンラインクラスの最終回でありました。約一年と10か月、月に二回のペースで学び続けて参りました。ご参加下さつた方々に、こころからの、こころからの、感謝をいたします。

この学びを一言で言ふならば、みづから考へ、感じ、欲してゐることを、どう仕事の中で創造的なものへと昇華していくか、といふことになります。

それは、誰も教へてくれない領域へと、みづからを信頼して飛び込んでいく、その勇気の源である、精神への信頼を培ふ道でした。

無手勝流でもなく、杓子定規でもない、ただただ、精神といふものへのリアリティーを元手に毎日みづから仕事を創り続けて行く教育といふ芸術の道でした。

この道は、教育といふ仕事に限らず、どんな仕事をしてゐるとしましても、貫かれてゐる精神の道です。人が人として、この時代に決してゆるがせにはできない、精神の道です。

人であることのあまねき知。世があることのあまねき知。そして、精神の世における大元のものとこの世における現れのかかはり。さらには、ひとりの人の内なる育み。すべてが、この時代のすべての人の成長に必須の学びです。それらは、すべて、愛へと通じるからです。

人の自由が瀬戸際に立たされてゐるこの時代、ひとりひとりが、平成の三十年間には思ひも寄らなかつた目覚めの時を迎へてゐるのではないでせうか。

1919年当時、ドイツ帝国が崩壊した未曽有の国難、危機の時に、人の精神の自由だけは守り抜かうとシュタイナーが成し遂げた「自由ヴァルドルフ学校開校」。

当時も、きつと、さうだつたと思ふのですが、いまも、わたしは、かう思ひます。

最期に生き残るのは、愛だけだと思ふのです。




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2022年02月06日

ことばの主(あるじ)になりゆくこと



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それまではひたすら昔話やわらべうたを全身で聴いてゐた小学一年生たちに、どのやうに国語を伝へてゆくか。幼い彼らは、ことばに関しては、もつぱら全身をもつて聴くことに専心してゐました。どんなにおしゃべりな子どもでも口に出して言ふことばより、聴いて覚えることばの数の方が幾倍も多いはずです。

そんな子どもたちが、歯が生へ変はる頃には、ことばを「話す」こと、空間に向かつてことばを「放つ」ことを学びたいと切に希んでゐます。「聴く」から「話す」への移り行きのときです。

そんなとき、彼らに、まっすぐに立つこと、前に歩くこと、そして腕を解き放つやうに動かすことで胸を世に向けて開いたり閉じたりすることでことばを声にして話すことを促がしてあげられたら。つまり、からだまるごとを使つて、ことばを発することをだんだんと学ぶ(まねぶ)ことが、とても大切なことなのですね。

それは、子どもたちが活きたことばの使ひ手、ことばの主(あるじ)になりゆく道の歩みを促がしてあげることなのです。

人は、聴きつつ話し、話しつつ聴くことに習熟して行くことで、やがて、談(かた)らふことの喜びを知り始めます。

そして、ことばの主(あるじ)になるといふことは、言はなくてもいいことを言つたり、思つてゐることの半分も言へなかつたりすることなく、言ひたいことを過不足なくぴたりと言へる人になること、こころを活き活きとことばにすることができる人になるといふことです。

そして、その話す力は、きつと、他者のことばをよく聴くことのできる力、他者のことばの奥を感じ取る力、行間を読み取る力と裏表の関係をなしてゐます。

ことばの主(あるじ)になりゆくといふことは、人が人として、わたしが<わたし>として生きて行く上で、どれほど大切なことでせう。

詩芸術は、数ある芸術の中でも、人の<わたし>の育み如何に懸かつてゐます。日本人は、祝詞から始まり、神話、昔話、物語、和歌、俳諧などの創作・享受を通して、それら詩芸術に国民あげて取り組んできた稀有な民です。

ご先祖様が育んできたその芸術的感覚を、わたしたち大人自身が意識的に学び、それを子どもたちに伝へて行くことの大切さをわたしはひたすらに念ふのです。それは、こころをことばにする、精神をことばにする訓練であり、ことばからこころと精神を聴き取る訓練でありました。




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2022年02月02日

ことばの教育を礎にするアントロポゾフィーからの教員養成






日本の昔からの子どもへの教育方法。それは、「一人前にものが言へるやうにする」といふものでした。そして、それは、「しつかりと人のことばを聴き取ることができる」ことと表裏一体のものでした。


つまり、聴きつつ話す、話しつつ聴く、その力を養ふべく、国語教育が学校などが無い時代に盛んに行はれてゐたのです。


わたしたちアントロポゾフィーハウスは、そのやうな我が国ならではの文化・歴史におけることばへの深い見識、ことばへの芸術的な取り組みを礎にもつ教育を、これからの時代に新しく芽吹かせて行くことを、ひとつの使命としてゐます。


シュタイナー教育の我が国における独自の展開として、この国語教育をすべての教育の根底に据ゑるものを、わたしたちアントロポゾフィーハウスも準備して行きたいのです。


日本のことば、国語への確かな見識を基にもつ教員養成の必要性から、その実現を考へ続けてゐます。


その養成は、いまだ日本にはほんの少ししかないシュタイナー学校での実践を超えて、あらゆる教育現場における根底的なこととして必要不可欠なものを提示していく使命を持つものです。


「国語への確かな見識」と書きましたが、それは、子どもへの教育をする人が、言語学や言語哲学を学ぶといふことでは全くありません。


そのやうな机上のスタディーではなく、長い時に亘つて読み継がれてゐる、ことばの芸術作品を身のまるごとをもつてみづから奏でてみることによつて生きられる「ことばの感官」の育みから授かる見識のことを言つてゐます。


つまり、言語造形とオイリュトミーから稼がれる精神の手応へこそが、教員養成に必要なのです。


だつて、すべての授業は、教師のことばで組み立てられ、織りなされてゐるのですから。


ことばを生きる。そこにアントロポゾフィーの営みの中心があるやうに思ひますし、ひとりの人が、みづから、さう生きたい、さう生きるのだ、とこころを決めることは、世に少なくない働きをもたらすやうに思ひます。




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2022年01月20日

ひとりの人 ルードルフ・シュタイナー



このクリスマスからお正月にかけて、わたしは、ルードルフ・シュタイナーの自伝や手紙を読むことに時を費やしてゐました。以前に読んだときよりも、はるかに親しく、熱く読むことができたことに、わたし自身とても満ち足りを感じることができたのでした。それは、彼の仕事の偉大さに近年ますます驚きと感動を覚えてゐて、このやうな仕事を成し遂げたひとりの人をもつと深く、親しく知りたいといふ念ひが強くなつてゐたからでした。彼の人としてのパーソナルな喜びだけでなく、痛みや悲しみ、苦しみがしたためられてゐる手紙、そしてそれらのことごとを精神において消化した上で述べられてゐる自伝の記述、どちらも、ひとりの人に宿つた精神の巨大さと、それゆゑの彼のこころの葛藤、みづからの孤独との語らひの様が、わたしに迫つて来るのでした。それらすべての内なる障害を潜り抜けつつの、あの膨大な仕事。どれほど時間をかけようとも、消化しえない課題を読み手に与へる、あの膨大、かつ深遠な仕事。


わたしは、その膨大な彼の仕事の中のたつた一冊『いかにして人が高い世を知るにいたるか』に、いま、じつくりと取り組んでゐます。個人的な案件が起こつたがゆゑに、この三年ほど、わたしはこの書に、まこと、師事してゐるのです。いや、師事せざるをえない、と言つた方がいいかもしれません。


この『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書に込められてゐる深い知は、ゆつくりと時をかけてこそ、人に明かされて行くやうに思ひます。さう、ゆつくりと、時をかけて、です。読むときも、文字を書くほどの速さ(遅さ)でゆつくりと読んでみます。さうしますと、一筋の道が読むわたしの前に伸びてゐて、その道は、めくるめく高みに向かつて通じてゐることをおぼろにも感じ、その道の遠さ、果てしなさ、と共に、その道のかけがへのない尊さと確かさに、こころが立ち上がるのを感じもするのです。


その道の上で少しでも前に進むほどに、それまで分からなかつたことがらに、新しい秘密を見いだすことができます。読むこちらが生きることの悲しみや苦しみを乗り越えて成長するほどに、ルードルフ・シュタイナーその人とこの書に対する敬ひと尊びの念ひがますます高まります。その念ひと情をもつて、この書の導きに沿ふほどに、読む人の内なる啓けが促がされ、志と勇気を起こされます。


この書は、そのやうに道を歩きゆくわたしたちを導く師であり、道を昇りゆくわたしたちを支へる梯子です。


この一冊の書は、わたしにとつて、ひとりの生きてゐる師なのです。




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2022年01月11日

冬、考へを育む季節



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ひとつの考へは、人のこころにしつかりと宿れば、その人にとつてやがて成長して行くひとつの種になりえます。


種は、情報として本に書かれたままであつたり、インターネットの空間で行き交つてゐるだけでは、死んだものとして人々の間を忙しく交換・消費・廃棄されるだけです。


しかし、その考へといふ種をこころの内側にみづから宿すやうに受け入れ、お日様の光を当て、水分を補給してあげるやうに、何度も何度も繰り返し、その考へを、改めて、引き続き、考へ続けることによつて、その種は命を持ち始め、こころの内において芽を出し、葉を茂らせ、やがて、きつと、花咲かせ、稔りを得ます。


考へとは、一旦、死んでしまつてゐて、仮死状態にあるのですが、人が積極的にそれを自分自身の内側で育てますと、見事に息を吹き返し、その人に稔りを与へるのです。


そして考へは生き物として、その人の人生を前後左右に導いていきます。


ですので、どのやうな考へを胸の内に抱くのかが、とても大切なことなのです。それは、良き考へであれ、悪しき考へであれ、胸の内で生き物となつて、その人の生を導いて行くのですから。


それほどに、「考へ」といふものは、素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもあります。


その考へが、良きものか、悪しきものか、その判断はどうしてつけることができるのでせうか。


良き考へは、それを抱いたときに、こころが、胸の内が、広々と、明るく、暖かく、時に柔らかく、時に強く、開かれたやうな情をその人に与へませんか。


悪しき考へは、こころに固さと冷たさと狭さと暗さをもたらすでせう?


さう、情が、教へてくれますね。


情が教へてくれるためには、その情が健やかに育てられてゐなければならないでせう。


情を育てるのは、何でせう。


ひとつは、循環したものの言ひ方になつてしまひますが、よき考へを日々抱く練習をすること。それは、考へることの練習です。メディテーション、瞑想です。


まうひとつは、何か同じ行為をすることを繰り返すこと。それは、芸術的行為です。それは、意欲の練習、欲することの鍛錬です。


考へるの練習と、欲するの鍛錬とが、感じるの健やかな成長へと稔つてゆきます。メディテーションと芸術実践です。


かうして、人のこころの育みとは、考へること、感じること、欲すること、それら三つの働きにみづから働きかけることであり、とりわけ、冬の季節においては、考へることの練習を始めるのに、適してゐるのです。


年の初めには、良き考へを抱き、その考へを考へつづけることによつて、種から芽へ、目から葉へ、葉から花へ、とこころに大切なものを時間をかけて稔らせて行く。


その習慣がこころを精神へと導きます。


その精神が、その人を、ますます、その人にして行くでせう。


その精神の育ちが、手取り足取り人から教へられなくても、自分自身の足で自分自身の道を、その都度その都度あやまたず選び取れるやうになることでせう。


アントロポゾフィーハウス大阪「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



※写真は、平櫛田中「平安老母」
 何を読んでをられるのか・・・。




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2021年12月30日

聖なる日々 胸から羽ばたく鳩



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今日、今年最後のオンラインクラスを終へました。本当に、ご参加くださつた皆さん、こころからお礼を申し上げます。ありがたうございました。


そこで扱つてゐる内容を、常に、ことばをもつて表してきたのですが、あまりにも素晴らしく視覚化されたものを見つけたものですから、ここに貼らせてもらひます。


常にルーツィファー化されがちな頭と、アーリマン化されがちな手足を含む下半身の間に挟まれた、真ん中、胸・心臓こそが、キリストが息づくところであります。そこでは、暖かで光に満ちた深い情が育まれ、さうしていくほどに、頭からと下半身からのふたつの侵略から守られ、<わたし>といふ真ん中が、透明に光り輝く鳩として健やかに世に羽ばたかうとします。とりわけ、このクリスマスの時期に!





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2021年11月26日

11月 おひさまの丘 宮城シュタイナー学園



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東北で唯一の全日制シュタイナー学校おひさまの丘 宮城シュタイナー学園。


先月に引き続いて、二日間に渡つて、2年生、4年生、6年生のエポック授業を見学させていただきました。


漢字の学び、運動遊び(体育)、地理から他国の文化・風習、そしてお料理実習、機織りまで・・・。


担任の先生によるそれら授業のひとつひとつが、すべて、芸術の営みでした。子どもたちとひとつになつて創り出す芸術実践でありました。そこには、常に、歌があり、音楽があり、声があり、動きがあるのです。


学年が上がつてゆくにつれて、子どもたちの意欲への促しから、知性への働きかけへと授業のありやうも移りゆくのですが、そこに変はらず通つてゐるのが、「いのちの流れ」と言つたらいいのでせうか、息遣ひの闊達さと晴れやかさ、そして何より喜びがあるのです。


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さういつた先生方による教育芸術の営みは、どこから生まれてくるのか。


そこにルードルフ・シュタイナーの精神の学「アントロポゾフィー」が深く胚胎されてゐるからこそ、そこからの芸術実践として、あのやうな授業が毎回、毎回、新しく生まれいづるのですね。


100年前のシュタイナーから発された精神が、まさに、この仙台の地に「からだ」を持つて生まれ、育つてゐることを実感します。


この生まれた「からだ」は、いま、6年目を終へようとしてゐます。そして新たな七年期に入らうとしてゐるのです。


この「からだ」は、最低でも21年間はしつかりと育て上げられていいはずだ、とはつきりと思ふのです。


そのためにも、この「からだ」を育ててゆくひとりとしてわたしもまた、12月20日までのクラウドファンディングが成功することをこころから祈つてゐるのです。
クラウドファンディング ↓
https://readyfor.jp/projects/miyagi_ohisama2021


わたしからもまた、言語造形による授業をさせていただきました。一・二年生は昔話を聴き、四年生は和歌を朗唱し、六年生は『萬葉集』の生まれた意義を知り、巻頭第一首目の雄略天皇による長歌を共に動きながら詠ひ上げる、そんな時間を共に過ごしました。


おほらかな息遣ひ、共感(シンパシー)と反感(アンチパシー)の交錯、動きあることばの生命力と豊かな情感。そんな音楽的なことばの体験です。


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2021年10月21日

家・いへ



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伊勢神宮内宮御正殿


わたしは、朝、布団の中で目を覚ましたとき、よく、なんらかのことばや考へが、一見脈絡なく(実は脈絡はありますが)、こころに訪れるのですが、皆さんはいかがですか。


夜の眠りのときを経て、朝の目覚めと共に訪れるそのことばや考へが、わたしにたいせつな何かを教へようとしてゐるやうに感じられてならないのです。


今朝、訪れてくれたことばと考へは、なぜか、「家・いへ」でした。


日本語の「家・いへ」。それは、古くからあることばで、神がお住まひなされるところといふ意味です。後に、屋代(やしろ・社)に、神はお移りになられました。そのことばは、空間を指すだけではなく、その家に住まふ人々の暮らしも含み、その一家、家族、家柄をも言ひます。(白川静『字訓』より)


そして、その響きからも感じられること、思はれることがあります。


「い」といふ音韻が、縦に貫く動きを感じさせること、幸田露伴もその『音幻論』で説いてゐますが、それは、天と地を結ぶ光の音韻と言ふこともできるのではないでせうか。「いのち」「いきる」「いきづかひ」「いきどほる」の「い」でもあります。


「へ」とは、おそらく「辺」といふ意味で、方向や場所のことでせう。そして、その「へ」といふ音韻に響く「え」といふ母音に、わたしたちは、「い」の垂直の線と交はる水平の動きを感じることができます。「え」といふ音韻によつて感じられるその水平の線は、地上の暮らしにおけるあれこれ、人生における横なる関係性を表してゐるやうに思はれるのです。


古の日本人は、「いへ」を、精神において垂直と水平の線が交はり十字をなす場所として捉へてゐたのではないだらうか。


「いへ」とは、そもそも、神と人とが共に暮らす場(同殿共床)としてありました。


その精神的な遺産の継承は、日本の精神の真ん中をかたちづくり続けて来た皇室でなされて来たお蔭で、日本全国津々浦々にいたるまで、この精神は国土に根付いて来ました。


以下のことばが、太陽の神であられる天照大御神のご神勅として、日本書紀などにも記録されてゐます。


「吾(あ)が兒(みこ)、此(こ)の寶鏡(たからのかがみ)を視まさむこと、當(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、以て齋鏡(いわひのかがみ)と為す可し」


これは、天照大御神の子孫である歴代天皇は、鏡を天照大御神と思つてお祀りする事。さらに、同じ生活空間にあり、離れずに同じ住家に共にある事、そのやうな意味になります。




わたしたちの「いへ」は、これからどのやうな意味を持つことができるのでせう。


現代において、とりわけ、垂直の線の意味が「いへ」に見失はれてゐるからこそ、意識的にひとりひとりが今ゐるその場において、光の柱を樹てゆくこともできるのではないだらうか。


天地を結ぶ垂直の線と、人と人とを結ぶ水平の線とが、交はる結節点としての「家・いへ」。


そんな精神の絵姿を、今朝、想ひました。


アントロポゾフィーは、そのやうな精神からの営みを暮らしに密やかにもたらさうとするひとりひとりの働きです。


「天地(あめつち)と共に久しく住まはむと
 念(おも)ひてありし家(いへ)の庭はも」
(萬葉集578 大伴宿祢三依)




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2021年07月17日

求めよ さらば与へられん



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ルードルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』のはじめの方に、この密(ひめ)やかな学びの教へ手が守るべき掟(おきて)がふたつ、記されてあります。


ひとつめは、この密やかな学びを求める人には、惜しむことなく、学びを授けること。


ふたつめは、この密やかな学びを受けるための備へがいまだない人には、決して学びを授けてはいけないこと、授けることはできないこと。


このふたつの掟は、ふたつのやうで、実は、ひとつです。


この学びを受けられない人は、実は、「この学びを求めてゐない」といふことなのです。


必要であるのは、まこと、求めること。


ですので、深く精神において、学び手は、誰にも拒否されることはありません。


そして、この一冊の本こそが、この密やかな学びの師です。


さうであるからこそ、それは、読み手のまこと求めるこころのみが、その本を師となしうるのだといふこと。


しづかに、こころの耳を澄ましながら、一頁一頁、読み続けること。


それは、とても、しづかな行ひでありますが、しかし、熱く、求めること、門を叩きつづけることであります。


さうして、時が熟して来るにつれて、師であるこの本の一頁一頁、一文一文、ひとこと、ひとことが、実に優しく暖かい声で語りかけて来るやうになります。


このシュタイナーの書に限らず、本物の本といふものは、読み手に、この掟をもつて向き合はうとしてゐます。


子どもたちが本を読む人になりゆくには、傍にゐる大人自身が本を読む人であることが条件であり、ひとりひとりの大人が本物の本を求めることが、この世の社会の命綱です。




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