
毎月、青森の三沢で、今年のクリスマスに向けて、キリスト生誕劇創りのためのクラスを開いてゐます。
そこでは、演劇創りと合はせて、ルードルフ・シュタイナーによる『ヨハネ福音書講義』を毎回一時間講義させてもらつてゐます。
「ヨハネ福音書」。それは、前半と後半に構成が分かれてゐます。
前半が、洗礼者ヨハネについて。後半が、この福音書の書き手であるヨハネについて、です。
そして、いま、洗礼者ヨハネの誕生日(ヨハネ祭)を間近に控えるこの夏の日に、わたしたちは、キリストをキリストとして受け止めた最初の人、洗礼者ヨハネのことを学ぶのです。
彼は、みづからを、「ひとりにて呼ぶ者の声なり」と言ひました。(「荒野にて呼ぶ者の声なり」はふさはしくない翻訳ださうです)
「みんなで呼ぶ」のではなく、「ひとりにて呼ぶ」のです。
この「ひとりにて」といふところに、新しい時代の始まりがあります。
そして彼は、たつたひとりにて、キリストを、世の光を、陽の神を、この地に呼びました。
そのことは、何を、わたしたちに教へるでせうか。
それは、意識の目覚めです。
聴き耳をたてるのは、この<わたし>ひとりです。
誰も、わたし自身に代はつて、神の訪れを告げてくれる者はゐません。
意識の目覚めを生きる人は、協力し合ひますが、群れません。
そのひとりの<わたし>の内も内にこそ宿るのがキリスト・世の光だ、とヨハネ福音書は語つてゐます。
世の光、陽の神は、いま、この大地に立つひとりひとりの人のこころの真ん中に宿り、そこから、ヨハネの祭りのときを中心にして、夏の季節、広やかな天空の彼方へと拡がりゆかうとします。おほよそ二千年このかた、毎年です。
古代においては、この夏のお祭りにおいては、洋の東西を問はず、燃え上がる炎と共に、歌ひ、踊り、舞ひ、祈りを陽の神に捧げてゐました。
その時には、西の国では葡萄の実から絞り出したワイン、最も東の国、日本では、米から醸した酒によつて、その炎の祭りがいやがおうにも高揚したものになりました。
その夏の祭りの時にこの世に生まれた洗礼者ヨハネも、神と人とを結ぶべく、燃えるやうな情熱をもつてヨルダン川のほとりにて人々に洗礼を授けてゐましたが、ただひとつ、古代から引き継がれてきたものとは全く違ふ意識をもつてをりました。
それは、酒の助けを借りて高揚するのではなく、意識を目覚めさせて、たつたひとりでことをなすことでした。
高揚するとは、いはば、夢見つつ、神々しい天へと昇ること。
しかし、洗礼者ヨハネは、意識を目覚めさせることによつて、この大地にしつかりと足を踏みしめながら、天へと羽ばたく術を人々に与へてゐました。
それは、古代の在り方とは異なる、これからの人びとの夏の生き方を指し示してゐます。
さうして、つひに、冬のただなかにナザレの青年イエスが彼の前にやつて来たのです。
そのときから、おほよそ二千年が経ちましたが、そのような洗礼者ヨハネの生き方が、ゆつくりと、これからの多くの人の生き方になりゆくでせう。
わたしたちも、この夏、どういふ生き方をするかによつて、来たる冬の迎へ方が決まつて来るでせう。
一日の過ごし方によつて、人は、からだを満たしたり、不満を感じたりします。
しかし、人は、一年の過ごし方によつて、こころを満たしたり、不満を感じたりするのです。
ひととせを生きる。それは、こころの、ひとめぐりです。
そして、いま、夏を生きる。内的に。
今週の生誕劇クラスで、そのことをメディテーションと芸術実践をもつて、みんなと分かち合つてみたいと思つてゐます。