2017年05月16日

稲尾教彦さん 詩と言語造形のアトリエ「ゴドー舎」


IMGP0981.JPG

IMGP0998.JPG



稲尾教彦さんによる、詩と言語造形の仕事が北海道で始まつてゐます。
 
詩と言語造形のアトリエ「ゴドー舎」
 
ことばの脈。ことばの格。ことばの美。
 
ことばとは、そもそも、藝術でした。
 
そんなことを想ひ起こす一日。
 
真摯に稲尾さんは創り続けてゐます。




  

2017年04月27日

われらが萬葉集 【国語芸術の源 諏訪耕志】


CIMG9034.JPG
写真は、三輪山の麓の山の辺のみち。

『われらが萬葉集』出演者の想ひの最後に、わたくしの拙文を掲載します。 
 
【われらが萬葉集 國語藝術の源 諏訪耕志】
 
皆さんは、萬葉集の歌をどんな風に口ずさみますか?
 
わたしたち日本人は古來、ことばを大切に扱ふ民族でした。ことばの使ひ方、運用に纖細な意識を持つ民族でした。
 
それはなぜでせうか。ことばとはそこに神が通ふものであると云ふ信仰が、我が國にはあつたからです。一年の始まりに、神に米の豐作を祈るべく、祝詞(のりと)と云ふことばを發し、一年の終はりには、その年の豐作を感謝すべく、再び祝詞を唱へる。そのときの、ことばの神聖さを決して蔑ろにしてはいけないと云ふ感覺が、わたしたち日本民族には、からだの奧底まで滲みとおつてゐるのです。なにせ、米の出來不出來は死活問題だからです。神への信仰は、年から年への、季節から季節への暮らしの營みと全くひとつでした。そして、そのふたつを、祝詞と云ふことばの藝術が繋ぎ合はせてゐました。
 
神との応答を荷う、そのやうなことばの藝術は、眞實と創造力とを孕んでゐて、さう云ふことばの働きを、本來、言靈(ことだま)と云ひました。その言靈と云ふものを信じ、その善きことばの力・日本語の力が日本と云ふ國の精神を守ることを祈念・熱祷した人々がをりました。それは、『萬葉集』に於る最大の藝術家・柿本人麻呂であり、その彼の精神を繼承し、この『萬葉集』を編纂した大伴家持であり、更には、ここに登場する多くの歌人たちです。國の危機に面したとき、武の力を尊さと重要性を充分に認識しつつ、敢へて、文の力、ことばの力で、國の精神を守らうとした人たちでした。
 
皆さんは、萬葉集の歌をどんな風に口ずさみますか?
 
その文字の後ろには、わたしたちの祖先の方々による、神への遙かな念い、激しい祈り、己が民族の運命への深い悲しみ、晴れやかな歡びが、潛んでゐます。それら樣々な念いを貫くひとつの精神を感じるなら、皆さんも萬葉集の歌を全身全靈をもつて謠ひ上げざるをえないでせう。
 
わたしは、この舞臺のやうに萬葉の歌が謠はれるのを現代に於て他で聽いたことがありません。おそらく初めての試みです。何が正しく、何がふさはしいのか、決まつた答へはありません。しかし、わたしたちが、殘されてゐる萬葉集から聽き取つた響きは、このやうに今も鳴り響いてゐるのです。
 
國語藝術の源である『萬葉集』の歌を、皆さんとともに味はひ、謠ひ上げたいと思ひます。日本と云ふ國のおおもとにあることばの精神・言靈の働きを、共に壽ぎ、祝ひ、讃へ合ひませう。
 

2017年04月26日

われらが萬葉集【鳥の賦〜大伴家持の情の軌跡  塙狼星】


IMG_5251.jpg


三番目にご紹介しますのは、塙狼星さんです。
まさに、全身全霊で萬葉集の歌、大伴家持の歌に取り組んでおられます。
 
 
【鳥の賦〜大伴家持の情の軌跡  塙狼星】 
 
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」
 
百人一首にあるこの歌は、大伴家持の作とされています。天孫降臨以来の名門貴族に生まれた家持は、冬空のもと霜の降りた宮中の階を天の川にかかる鵲(かささぎ)の橋と見立て、彦星と織姫の逢瀬を思い描いたのでしょう。
 
大伴家持は、日本最古の歌集である萬葉集の編集に深く関わっていたとみられています。全二十巻、四五一六首の歌は、雄略天皇の歌に始まり家持の歌に終わります。家持の生きた時代は聖武天皇が長らく在位をした華やかな天平の世。大陸の文化を受け入れて大和の國が大きく変わりゆく時代でもありました。その激動の時代に懸命に生き、魂を震わせ身を削りながら歌を詠み続けた人間家持に、私は千二百五十年の時を越えて強く魅かれます。
 
家持は、鳥を愛し多くの歌を詠みました。雉、鴫、燕、千鳥、鷹、鶯、霍公鳥、そして雲雀。中国、日本の古代において、鳥は天と地、あの世とこの世をつなぐ霊威をもった存在と認識されていたようです。岩戸に籠った天照を導いたのは鶏の長鳴きでした。國ゆずりで建御雷神とともに芦原の中つ国に降り立ったのは天鳥船神。神武天皇は八咫烏に導かれ、橿原の宮の東方に位置する鳥見山で即位式、大嘗祭を行いました。倭建命は、伊勢の國で死して白鳥となって大和へ飛び去ったといいます。
 
家持は鳥の中でも、ことのほか霍公鳥(ほととぎす)を愛しました。國守として赴任した越(現在の富山県高岡市)の政庁から望む二上山を訪れるこの鳥は、京に住む大君、そして初恋の相手であり愛する妻である坂上大嬢と自分を結ぶかけがえのない存在だったのでしょう。あるいは、霍公鳥は家持自身だったのかもしれません。
 
このたび、言語造形によって萬葉集の響きを表現するにあたり、私は、家持を天翔ける一羽の鳥に見立てました。地にあって天を希求する一羽の鳥。その鳥の移ろいゆく魂の様を、全身全霊で表現できればと思います。


塙狼星 (はなわ ろうせい)プロフィール
一九六三年生まれ。京都大学理学博士(人類学、アフリカ研究)。二〇〇四年より言語造形家の諏訪耕志氏のもとでアントロポゾフィー(人智学)と言語造形を学ぶ。二〇〇六年十一月に、大阪市谷町において空堀ことば塾を立ち上げる。二〇一二年アウディオぺーデ・シュタイナー教育教員養成講座第六期修了。二〇一四年八月に非営利一般社団法人アントロコミュを設立。代表理事。


2017年04月25日

われらが萬葉集 【山上憶良 志を繋ぐ 中将ゆみこ】


IMG_20150628_.jpg
宇治敏彦氏制作板画

  
二番目にご紹介するのは、中将ゆみこさんです。この度の舞台では、クリスタル・ボールの演奏も荷はれます。
 
 
【憶良からの呼びかけ 中将ゆみこ】
 
「憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ その彼の母も 吾を待つらむそ」 (「宴を罷る歌」三三七)
 
こんな歌を詠んで、飄々と宴席を退出するとは、なんと温かく粋な人であったのだろう。国語の教科書で出会った山上憶良という万葉歌人は、「貧窮問答歌」を詠う社会派であると同時に、子供に較べれば金銀も何ほどのものだと詠う子煩悩な家庭人であった。
 
そんな印象に対して感じていた親しみやすさだけを頼りに、憶良の歌を取り上げることにした私は、ほどなく困惑することになる。
 
調べてみると、憶良の主な歌は、晩年、七〇歳頃から作られている。「子らを思へる歌」は、幼子を慈しむ若い父親による歌ではない。「貧窮問答歌」は貧者の生活に直面して作られたものではない。憶良は国守であり、為政者の立場だったのである。「宴を罷る歌」は、その席でおそらく最も位が高く、年長者である国守・憶良が宴をお開きにして、若い人たちを帰らせようとしたものとも考えられる。
 
無位無冠の人でありながら、自らの才覚によって、四二歳で遣唐使に選ばれたほどの学識者であった憶良は、漢籍に通じ、仏教や儒教にも造詣が深く、硬質で哲学的な漢詩漢文を残してもいる。しかし、晩年期には、やまと歌でさまざまな立場の人の歌を詠んでいる。子を亡くした人の歌、妻を亡くした人の歌、貧しさや病に苦しむ人の歌、近づく死に苦しむ人の歌、親を置いて死んだ若者の歌、・・・。どこまでが実人生の体験なのか、他者になりかわっての作なのかわからないほど、憶良は克明に歌い上げる。
 
 
憶良という人の素直な感情はどこにあったのだろう。憶良がやまと歌で残そうとしたものはなんだったのだろう。憶良の歌を自分の声に乗せようとすると、説教じみてとまどう日々が続いた。解説本や評論本を何冊か読んだが、答えは得られなかった。憶良が生きた奈良時代が、よく万葉集の歌風の評価にあるように、素朴でおおらかなと言ってしまえるものではないことだけがわかってきたのだが・・・。
 
言語造形とは不思議な業だと思う。憶良の歌を何度も声にして、稽古をつけてもらい、ただひたすら音の響きに耳を傾ける。頭で考えること、自分の意図をはさむことを排して、汗ばむほど体を動かして声を出す。繰り返すうちに、少しずつ憶良の歌が私に染みこんでくる。そうすると、憶良が話しかけてきてくれるわけではないのだが、憶良の歌の精神とでもいうものが、見えてきたような気がするのである。
 
言霊への畏敬の念。普遍の人生苦に対して鎮魂の歌を捧げる歌詠みとしての自覚。国を思い、身近な人を思い、若い世代を思う心。文字に収まらない激しくもやさしい慈愛に触れて、私は日本人として、わたしなりにこの志を継いでいきたいと思うようになった。おそらくは憶良も繋いできてくれた 志を。その志を、私は現代に生きる自分の身体を以て、其の都度迎えに行こう。それが、言語造形という行為なのだ。
  
万葉集に残されたやまと歌を通して、先人達が繋いでくれた志に触れて戴けたらと願って演じます。楽しんでいただけたら幸いです。
 
 
中将ゆみこ(ちゅうじょう ゆみこ)プロフィール
一九六四年京都府生まれ。元国語科教諭。三児の子育て中、一〇年をシュタイナー育児のサークル運営に関わる。二〇〇四年より言語造形家 諏訪耕志氏に師事。二〇〇五年よりインターナショナルスクールで国語教育に携わる。日本声診断協会音声心理士。クリスタルボウル演奏と言語造形の語りの公演活動をしている。
 
『われらが萬葉集』お申込みはこちら↓
      https://kotobanoie.net/play/

2017年04月24日

われらが萬葉集 【額田王の道 鹿喰容子】 

このたびの『われらが萬葉集』公演の四人の出演者による想ひを、順にご紹介します。

b0162728_7174139.jpg


【額田王の道  鹿喰容子】 
 
言語造形で萬葉集に取り組み、私が皆さんにいちばんお話ししたいことは自分が見つけたひとつの幸せです。
 
私は萬葉集をキリスト教文化における新約聖書のようなものだと理解しています。大陸文化の到来や壬申の乱によって、日本人はそれまで調和して生きていた八百万の神さまたちを自然と呼び手の中に入れることを始めました。それでもそこには神さまが人の手の中には納まらないものだと知っている人たちもいました。その人たちの想いが集められたのが萬葉集のように感じるからです。日本人が神さまからひとり立ちを始め、仏教の到来で自らの感情に「正しい」「間違い」という判断を持ち始めた頃のことです。
 
萬葉集はやまとことばで謡われていて、それらの印象は現代を生きる私には詩歌というより音楽に近いです。意味や内容ではなく響きが届くからです。ことばを響きとして受け止めるとき、私にはことばに込められた、しっかりと息吹く想いが伝わりました。日常とは逆のこの感覚は、私に日本語の美しさを思い出させてくれました。母国語の美しさに出会えた幸せはことばにはなりません。
 
私が選んだ額田王は、萬葉集の初期、日本がこのように大きく変わろうとする少し前に生きた人です。世の中のいろいろなことが完了し、先行きは見えず人々は行き詰まりを感じていたのではないかと想像できます。その時代を選んで生まれてきた額田王は、自らが日本にあり、日本が地球の中にあり、地球が神さまの住む宇宙の中にあるとても小さなものだと知っていた変化の前を生きた最後の人だったかもしれません。神さまの大きな愛に静かに耳を傾けその人生の答えを神さまの判断に託すことを選ぶことのできた彼女は、皇族のひとりとして歌詠みのひとりとして自分の感情を神さまの声にまで高め歌に詠む人生を歩みました。
 
私は額田王の和歌のおかげで、自分の小さな頭で判断することをやめ神さまの大きな頭に判断を委ねることに出会いました。判断を神さまに委ねることは、自分の心に正直であることから始まり、自分を宝物のように大切にすることにつながりました。そしてそれはまわりの人を大切にしていることへとつながりました。私はこれをとても幸せなことだと感じました。自分の心を抑えてまわりの和を大切にしてはせっかくの和も崩れ悲しい思いをしていた以前の自分を今は気の毒に思います。
 
私たちは八百万の神さまのいる国に生きています。私たち日本人はもっと我が儘であっていいと思います。それは自分勝手な判断をやめ、自分の感情に正直であるべきだということです。ひとりの私より八百万もいる神さまの方が良い判断をできるのですから。
 
「われらが萬葉集」クラスに、諏訪先生とクラスメートに、額田王に、萬葉集に、日本の古典に、そしてこのクラスを選んだ私に心から感謝しています。
 
日本語の美しさと、日本人であることの喜びが皆さんに届きますように。
 

鹿喰 容子(ししくい ようこ)プロフィール
一九七二年愛知県名古屋市生まれ。造形美術家。キャンプヒル共同体での生活体験を経て二〇〇二年よりヨーロッパにて造形美術と酪農を通してアントロポゾフィーを学ぶ。二〇一五年よりことばの家にて言語造形家諏訪耕志氏に師事。

『われらが萬葉集』お申込みはこちら↓
      https://kotobanoie.net/play/

2016年02月23日

中将ゆみこさん「言葉とわたし」


先日、『安達原』に出演された中将ゆみこさんが、
「言葉とわたし」と題して、
言語造形と中将さんとの内的な関わりを綴られた文章をご紹介します。
(雑誌「めたもるふぉーぜ」掲載のものを中将さんの承諾を得て転載しています)

日本人が、日本語を愛し、日本語を育てていくことの尊さを、
未来の人である若い人たちに手渡していきたい。
そんな深い願いを抱いておられること。
中将さんに接しているとき、いつも強く感じられることです。


言葉とわたし

芸術行為における道具のお話を、鹿喰容子さんから受け継ぎます。粘土が造形教育に携わっておられる鹿喰さんの大切な道具であるように、確かに言葉は言語造形に取り組むわたしの大切な道具と言えます。いえ、道具であるに留まらず、畏敬の対象でもあります。

わたしは、お話を読むのが大好きな子どもでした。図書館の本を片っ端から読みふけっておりましたが、ルビコン河を渡った頃、ある本の中でひとつの言葉に出会います。

「ひとは命の言葉に出会うために生きている。」命の言葉!命の言葉とは一体何なのか…。それは、聖書にある「はじめに言葉ありき。」の“言葉”に近い響きがして、また日常の遣り取りの言葉とはどうも違うものとして、子ども心に鮮烈な印象を残したのでした。

長じてわたしは国語の教師になり、三児の育児を経て、またある学校の国語科アドバイザーに就任しましたが、二〇〇三年、諏訪耕志先生の言語造形に出会ってご指導を仰ぐことになります。そしてわたしは言語造形を学ぶ中で、実は自分が学んでいることは“命の言葉”へ続く小径を歩んでいることなのだと気づいたのです。その歩みはじりじりするほどに遅々としたもので、しかも対象は虹のように、追いかけても追いかけても近づけないものに感じられるのですが。


言葉の本質のなかに沈潜すると、言葉が生み出す生命がいかに創造的かを感じ取ることができます。言葉の内的な音の意味が感じられます。しかし言葉は論理的理解にではなく、芸術的な創作にのみ、みずからを開きます。論理は言語の骸骨です。言語の呼吸と脈動は、言語を形成する精霊と接することによって感じられるものです。


人が言葉を話すという行為は、本来は言語の精神の内的な創造の体験であるとシュタイナーは教えてくれています。内的に耳を澄ませて言語の精霊を迎えようとすれば、私たちの存在全体を通して創造される言葉の一音一音は、目には見えない色や拡がりを持ち、確かな息使いとリズムに導かれます。

このとき言語の精霊・言葉の精神といった存在から人間が授かった言葉は、語るという芸術行為を通して、確かに生き生きとしたものを空間に解き放ってくれます。つまり、言語造形という営みは、“命の言葉”と出会い、それを自らを通して再創造していくことだとわたしは確信するのです。

これまで、学校でサークルで公演でと、老若男女さまざまな方に語りを聞いていただく機会に恵まれました。お話が終わった瞬間の静寂の時は、まさに至福の時間です。語り手も聞き手も、お話の世界に浸った後の何とも言えない心の躍動がありながら、ただ静かに空間を共有しているとき、その場に響いているのは、音なき“命の言葉”なのだと思います。

子どもたちは、お話を通して、“命の言葉”に育まれます。その営みは実は人類が綿々と繋いできたものであることに思いを馳せると、数多の祖先の愛や願いが語りを後押ししてくれるように感じます。そしてわたしもまた、謙虚に真摯にこの営みを継承したいと思います。

現代においては、言葉とは論理思考の道具であり、コミュニケーションのツールであるといった認識が一般化していますが、大いなるものへと繋がる芸術の神聖な道具としての認識が取り戻されることを願ってやみません。