[普遍人間学を読む会]の記事一覧
- 2015/05/29 『普遍人間学を読む会 第二講@』 〜「想い」とは 〜
- 2015/04/16 『普遍人間学を読む会 第一講C』〜目覚めと眠りのリズム 〜
- 2015/03/05 『普遍人間学を読む会 第一講B』〜静かさの中に生きる子ども 〜
- 2015/02/05 『普遍人間学を読む会 第一講A』〜エゴイズムを凌ぐには〜
- 2014/12/15 『普遍人間学を読む会 第一講@』〜上の方々とのつながりを育むこと〜
- 2014/12/01 『普遍人間学を読む会 序章』〜協力して仕事をしていくために〜
- 2014/10/30 11月からの新しいクラスのお知らせ 和歌山県岩出市 『普遍人間学 〜教育の基として〜』を読む
- 2014/10/09 『普遍人間学を読む』クラスと言語造形クラスのご案内・毎月第二水曜日
2015年05月29日
『普遍人間学を読む会 第二講@』 〜「想い」とは 〜
本来的に、人は、
幼児期には、ひたすら、欲します。
小学校期には、ひたすら、感じます。
中学校期から成人するまでは、ひたすら、考えます。
この普遍人間学では、主に小学校期の子どもたちに対する教育を扱っていますが、
その小学生の子どもたちの「感じる力」を育てていくために、
この第二講では、
両サイドの「欲する力」と「考える力」の育みのバランス・塩梅加減を、
まずは、見てとっていくのです。
まず、今回は、「考える力」についてです。
「考える力」は、「想う力」でもあります。
「想う」とは、読んで字の如く、考えつつ、心の前に相を据えること、像を描くことです。
小学生の子どもたちは、
初めて、文字を習ったり、計算を習ったりしながら、
この「想う力」「考える力」をだんだんと使っていくことになります。
ここからは、シュタイナーが語る事柄を、
目で見るが如く確かめることができなくとも、
まずは、こころに受け取ってみましょう。
わたし自身も、その受け取ったところと、
自分自身の人生の中で感じ、考えていることとを、
重ね合わせつつ、学んでいます。
この第二講で論じられることを先取りして言いますが、
授業によってどれほど活き活きとした像に満ちた「想い」が子どもに与えられるか、
そのことが、子どものからだとこころの健やかさを大きく左右します。
そもそも、像とは、ありありと、そこにあるものではなく、何かの像です。
鏡の像のように、何かが映っているのです。
そして、像は、生きたものではなく、生命をもたないもの、死んだものです。
そして、「想い」とは、常に、像です。
死んでいる像です。
死んでいる像だからこそ、
わたしたちは「想い」を様々につぎはぎしたり、自由に操ることができるのです。
自由に考えることができます。
もし、像が生きていたら、生き物だとしたら、
わたしたちは、その生き物の都合を見てとらなければなりません。
自分の勝手には扱えません。
想いは像であり、像は死んでいるがゆえに、わたしたちはそれに自由にアクセスできます。
では、「想い」「考え」とは、何の像なのでしょうか。
何が映っているのでしょうか。
この世に生まれる前の生です。
わたしたちが日々、時々刻々、抱く「想い」「考え」は、
わたしたちがこの世に生まれる前に精神存在として生きたことごとの像です。
生まれる前のことごとが、
いまも、リアルタイムで、時々刻々、想いとして、像として、こころに映っているのです。
ですから、ひとりひとり、想い方、考え方が違います。
その人がこの人生において、何を、どう、想い、考えるか、
それは、生まれる前の精神の生き方に随分左右されてもいます。
人が、想いつつ、考えつつ、学ぶものというのは、
すでに生まれる前に経験したところのもの、
すでに知っていることであり、
この世に生まれた時に、すべてを忘れ、
人は、学ぶことによって、それらを想い起こすのだ。
そう、プラトンも語っています。
すでに知っていることごとを想い起こす。
それが学びです。
「想い」が、いったんは、死んだ像となって、こころにやってこようとします。
しかし、小学生のころから、
その像が、抽象的な死んだものとしてではなく、
教師によって、より具象的な、活き活きとした絵姿を帯びたものとして与えられるならばどうでしょう。
日々、こころにやって来る想いが、
固定的なものとしてではなく、
生きた動きのあるもの、やがては自分自身の中で成長していくものとして、
その子自身の成長を促すものとなります。
「想い」が、こどものこころの中で、死んだものから甦るのです。
より活き活きとした像・絵姿として「想い」を語ること。
死んでいるものに息を吹き込むこと。
それによって、子どもの「想う力」を活き活きと育てること。
そのことがおのずと子どもの「感じる力」を育んでいきます。
それが、小学生の傍にいる教師や大人が各々工夫しながら練習していいことです。
●『普遍人間学を読む』クラス
日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
和歌山県岩出市 Aクラス 第一水曜 午前10時〜12時
Bクラス 第二土曜 午後13時〜15時
参加費: 毎回3,000円 6回連続15,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
場所・お問い合わせ・お申込み:
帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
岩出クラス モモの会 http://momo-society.org/contact.html
講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html
2015年04月16日
『普遍人間学を読む会 第一講C』〜目覚めと眠りのリズム 〜
(散りぬる桜を惜しみつゝ)
普遍人間学第一講の最終回です。
おおよそ、0歳から14歳までの子どもの成長にとって、
大切なことが、まずは、ふたつ挙げられています。
繰り返しになりますが、
ひとつ目は、前回に取り上げたことで、
呼吸こそが子どものからだを創り上げ、とりわけ、感官の生を育む、ということでした。
感官の生を育むとは、
目で見、耳で聴き、口で味わう、などを通して、
世界をより豊かに、深く、活き活きと、静かに、感覚していくための力を育んでいくということです。
傍にいる大人自身の息遣いが子どもの息遣いに日々働きかけます。
そのおのずからな働きかけを通して、
子どもは自分自身の息遣いを深く、活き活きとすることができるのです。
その息遣いのなかで、子どもはものごとをじっと見る力、聴く力、味わう力を育んでいくことができます。
そのような呼吸の仕方を子どもに直接教えることはできません。
ただ、大人が自分自身のすることなすこと、話すことばに深くて活き活きとした息遣いを伴わせることによって、こうした教育がなりたちます。
ここまでが、前回取り上げたことです。
そして、子どもの成長に欠かせないこととして、ふたつ目、
それは、眠りと目覚めのリズミカルな交代を育む、ということです。
子どもは、大人からのふさわしい働きかけを受けなければ、
実は、まだ、眠りと目覚めの交代をふさわしく生きることができないのです。
とりわけ歯が生え変わり始めてから思春期に至るまでの子どもが、何を求めているか。
彼らは、芸術を求めています。
芸術の授業をのみ求めているということではなく、
生きることそのものが芸術に浸されていること、
授業そのものが芸術的であることをこころから求めているということなのです。
なぜならば、芸術とは、ものごとに生命を注ぎ込む作業だからです。
生命、いのちの流れこそが、その頃の子どものからだとこころにとって、なくてはならないものだからです。
そして、芸術に浸された昼の時間の経験こそが、
夜の眠りの時間に健やかに注ぎ込まれます。
昼間、芸術を通して生きたことこそが、
眠りの時間のあいだに変容させられ、
次の朝、新しく起き上がり、立ち上がり、歩み出す、生きる力となって、
その子に授けられます。
眠りの時間、それは、人が天に帰る時間であり、
昼間の経験を携えて、精神の方々にまみえる時間なのです。
精神の方々は、科学的な事柄ではなく、芸術的な事柄を人がもたらしてくれることを待っています。
科学的な事柄は、ある意味、人に死をもたらし、
芸術的な事柄は、ある意味、人に生をもたらします。
ですから、とりわけ、精神の方々は子どもに生の力を授けたいがために、
子どもが芸術的な事柄をもたらしてくれることを待っています。
そして、芸術的な事柄は、大人が用意してあげないと、子どもは自分で賄うことはできません。
子どもは精神的には豊かであっても、地上的にはまだ貧しいのです。
オイリュトミー。
それは、手足をもって、空間を芸術的に、音楽的に、動くことで、
子どもが四肢の重さを克服していくことを助けます。
逆に、動きの速さや巧みさを競うべく、非芸術的に筋肉を鍛えることなどを過度にすると、
その子は、後年、逆に筋肉の弛みに苦しみ、
自分のこころと精神が、からだを思うように動かすことに困難を覚えます。
フォルメン線描。
それは、かたち、フォルムを全身で動くことから始め、
やがて腕と手を通して、
目で捉えたものを明瞭に活き活きと描くことで、
線というもの、かたちというものが、
死んだものではなく、生きたものになりえることを実感していきます。
彫塑。
粘土をこね、質感とかたちを手の中で感じ取ることを学ぶことで、
外のものに対して、知性をもってではなく、
こころの内側で、感情をもって、かたちあるものの法則を捉えていく力を育んでいきます。
言語造形。
それは、思考の伝達のためではない、
ことばのいのちをじかに感覚で捉えること、
ことばが本来もっている芸術性、音楽性、彫塑性、はては宗教性を実感することを人に促します。
これらの芸術の素養を大人自身がみずからのからだとこころをもって育むことで、
生活において、
授業において、
子どもが真に求めているものに直感的に気づいていくことができます。
国語や、算数や、その他の授業も、大人自身のそれら芸術的な培いから、
その場その場で子どもに生命を授けていくことができるものを新しく創っていくことができます。
四肢の重さを芸術的に克服することで、
かたちや線を生命あるものとして感じることで、
ことばが人のまるごとにかかわっていることをじかに感じることで、
子どもは、自分自身の豊かさをありありと味わうことができます。
その豊かさが満ち溢れてきて、
子どもは、その豊かさを自分の中から減らしたい、と感じるようになる時が訪れます。
その時こそが、子どもの知性を育むような教育をしていいはずです。
知性の育みが早すぎると、
その子は後年、おのれのこころ・精神と、からだとの分離に苦しむようになります。
精神とこころだけなら自由に生きることができるのに、
だんだんと、自分のからだが重荷に感じられ、
やがては、からだを封じ込めるような、押し殺すような、生き方をせざるをえなくなります。
昼の時間に芸術的に活き活きと生きることで、
子どもは、初めて、夜の眠りの時間におのれの成長にふさわしいものをもたらし、
次の朝、フレッシュに目覚めることができます。
そんな眠りと目覚めのリズミカルな交代を、
わたしたち大人は、未来を生きる子どもたちひとりひとりに、
個人的にでも、組織的にでも、
なんらかのかたちでもたらせたら。
そう希って、この『普遍人間学』を熱く読んでいます。
●『普遍人間学を読む』クラス
日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
和歌山県岩出市 第二土曜 午後13時00分〜15時00分
参加費: 毎回3,000円 6回連続15,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
場所・お問い合わせ・お申込み:
帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
岩出クラス モモの会 http://momo-society.org/contact.html
講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html
2015年03月05日
『普遍人間学を読む会 第一講B』〜静かさの中に生きる子ども 〜
大阪と和歌山で開いています『普遍人間学の会』。
そこでの講義は、二時間半から三時間をかけて一文一文じっくりと読んでいき、三つか四つの段落を読み進めていく、そんなペースで進められています。
ここでは、その講義の中のエッセンスの一部のようなものをお伝えできればと思っています。
依然、シュタイナーによる第一日目の講義からです。
子どもを育んでいこうとするわたしたちの課題。
前回では、それはわたしたち大人自身が、いかにエゴイズムから自由になりゆくことができるか、と言うことでした。
その課題を、そこから派生しながら、別の観点で、より具体的に観ていきます。
わたしたちの教育の課題は、子どもの精神・こころを、からだと調和させるということです。
その調和のためには、呼吸というものが、とても重きをなします。
わたしたちは、子どもの傍で、歌を歌い、お話を読んだり語ってあげたりすることができます。
また、ものを観る時、聴く時、ものに触れる時、ものを扱う時、ものを言う時、わたしたちは深い息遣い、活き活きとした息遣いで、それらの行為をなしていくことができます。
その時になされるわたしたち大人の息遣いが、子どもの息遣いをおのずと整えていくのです。
その整えられた息遣いは、その子の胸の領域から下腹部を中心とする新陳代謝を司る領域に働きかけ、その子の血の巡りを促し、臓器を健やかに成り立たせていくことの助けになります。
さらに、呼吸の働きが持つより大事な側面として、呼吸のリズミカルな繰りなしは、頭を中心とする神経・感官のシステムにも働きかけていき、その子が、深い息遣いで、静かに、ものを観、ものを聴き、ものに触れることのできる力をみずから育んでいくことを支えていきます。
子どもが静かさの中で世に生きることを、理屈からではなく、息遣いというおのずからの働きによって学んでいくことができるのです。
その子の精神・こころが、その子のからだ(とりわけ神経・感官のシステム)に健やかに流れ込んでいくことによって、その子は静かさの中で生きることを学んでいきます。
精神・こころとからだの間にハーモニーが生まれてくるのです。
子どもの息遣いは大人の息遣いからなりたっていきますので、わたしたち大人の意識次第で、そのハーモニーが子どもの中に生まれることを助けることができます。
教師の方だけではなく、子どもをを持つ親御さんの方々とも、この意識を分かち合っていくことができたらと希っています。
家庭こそが、子どもの育ちにとっての無尽蔵に豊かな場所です。
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●『普遍人間学を読む』クラス
日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
和歌山県岩出市 第二土曜 午後13時00分〜15時00分
参加費: 毎回2,500円 6回連続12,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
場所・お問い合わせ・お申込み:
帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
岩出クラス モモの会 http://momo-society.org/contact.html
講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html
2015年02月05日
『普遍人間学を読む会 第一講A』〜エゴイズムを凌ぐには〜
先月一月のクラスにおいても、14日間連続講義の第一日目を引き続き読み進めました。
15世紀中ごろ以降、わたしたちは、新しいエポック(時代の周期)に生きている、とシュタイナーは語ります。
この新しいエポックにおける教育という仕事にとっての課題を、わたしたちははっきりと見通せてはいないのかもしれません。
しかし、その課題があるということ、もしくは、課題のなんらかを感覚・予感はしています。
感覚・予感しているからこそ、シュタイナーというひとりの賢者のもとに集まるのですし、この『普遍人間学』を読もうとしますし、このブログの記事も読もうとしているのではないでしょうか。
その感覚・予感から始めつつも、わたしたちはだんだんとその課題を検討していきます。
わたしたちのエポックにおける課題としてまず挙げられているのは、わたしたちの文化がエゴイズムにもとづいていることに意識的であることです。
わたしたちの文化は、とりわけ、宗教の領分でのエゴイズムの上に成り立っている。
死の後、人は<わたし>というものがなくなりはしないだろうかという恐怖から、宗教を求める。
その求めがどれほど切実で、細やかなものであっても、やはりそれはエゴイズムである。
その求めに、説教をする人が応える。
慰安を与えようとして説教をする。
しかし、その説教が、人を益々エゴイスティックにしていく。
儀式ではなく説教がなされることに重きが置かれるようになってくるにしたがって、ますます教区内の人々は分裂していく。
説教をする人が個人としてリアリティのあることを語ろうとするほどに、聴いている人たちは、「個人」としてそれを聴くようになり、その教えが「個人」を強め、ますます人々は分裂していくという事態になってきている。
説教は、エゴイズムのもとにある不安を打ち消そうとして、逆に人々の個人化を押し進めてしまい、さらなる不安に駆りたててしまっている。
それは、説教をする人のことばの内容にではなく、こころの奥に、何があるか、ということだろう。
つまるところ、「ない」ということへの不安、恐れに裏打ちされているからこそ、その宗教の領分から発しているエゴイズムはここまで現代のわたしたちの生活の隅々に、そしてこころの奥深くにまで巣食っているのではないでしょうか。
安全・安心がないことへの不安。
お金がないことへの不安。
友がいないことへの不安。
健康が失われることへの不安。
死ぬことによって<わたし>がなくなることへの不安。
子どもたちに対しても、この「ないこと」への不安から教育をしようとしてはいないか。
わたしたちのエゴイズムが「ないこと」、「なくなること」への不安から発しているとするなら、そのエゴイズムを凌いでいく要(かなめ)のものはなんでしょう。
それは、「あること」を認識することであり、「あること」への信頼を育むことであり、「あること」への信仰を生きることです。
その道筋は、「ないこと」にではなく、身近に、すぐ近くに「あること」に目を向けることから始める。
そして、その「あること」に目を向けていくうちに辿りつくのは、「わたしは、ある」ということではないでしょうか。
「わたしは、ない」とは、人は現在形で決して言うことができません。
「わたしは」と言うとき、必ず、それは、「ある」のです。
人は死んだ後も「わたしは、あるのか」と問うけれども、生まれる前に「わたしは、あったのか」とはあまり問わない。
未来への不安にさいなまれているゆえに、わたしたちは死ぬということばかりにこころが捉われ、生まれるということを忘れてしまっている。
わたしたちが、「わたしは、ある」という現在形の認識・信頼・信仰を深めていくほどに、この、意識が意識を捉えていること自体の不思議さに驚くと共に、こころがからだの制限から解き放たれ、精神に向かって安らかに、確かに、力強く息づいてくることに気づきます。
そして、地上に生きている時間だけではなく、死の後も、生まれる前も、この「わたしは、ある」という、意識が意識を捉えているこのありようは変わりようがないのではないか、と問い始めるのです。
わたしたちは、生まれる前も、死んだ後も、「ある」。
その念いから、わたしたちは、ひとりひとりの子どもを前に迎えるに際して、こんなことに意識的でいましょう、とシュタイナーは語ります。
ここでのフィジカルな「ある」は、精神の「ある」の続きであり、
わたしたちのすることが加わらずに高いものが世話してきたことを、
わたしたちが教育によって引き継ぐことができます。
わたしたちが子どもたちにする教育というものは、その子たちが生まれてくる前に精神の世において高い方々がしていきたことの引継ぎである。
そう意識しつつ、子どもに向かい合う。
その時に醸される雰囲気・気分こそが、わたしたちの仕事を支えてくれるのです。
そのこころもちが、わたしたちの内に巣食うエゴイズムを浄めてくれます。
●『普遍人間学を読む』クラス
日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
和歌山県岩出市 第二土曜 午後13時00分〜15時00分
参加費: 毎回2,500円 6回連続12,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
場所・お問い合わせ・お申込み:
帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
岩出クラス モモの会 http://momo-society.org/contact.html
講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html
2014年12月15日
『普遍人間学を読む会 第一講@』〜上の方々とのつながりを育むこと〜
大阪と和歌山、それぞれのクラスで、祈りのことばの後、いよいよ第一講を読み始めました。
14日間連続講義の第一日目、1919年の8月21日、すでに秋の気配を感じさせるシュテュットガルトの爽やかな朝をシュタイナーはじめ約二十人の受講者たちは感じていたのではないでしょうか。
読むわたしたちも、その時の講義の空気感・雰囲気を想像しながら、感じながら、学びを進めています。
その初日の朝、シュタイナーは、「今日、仕事をはじめるに当たり、ひとまず、精神の世とのかかわりを惟(おもん)みましょう」と語り始めます。
仕事とは、文化の行ないとしての、子どもたちへの教育・授業のことですが、わたしたちがする仕事という仕事のことでもありえます。
その仕事をはじめるに当たり、「精神の世とのかかわりを惟みる」。
それは、きっと、この日だけではなく、今日という今日、毎日、行われてほしいことであります。
「惟(おもん)みる」とは、「be(まさに)sinnnen(感官を通して覚える)」です。
ここでの感官とは、肉体の眼や耳ではなく、こころの感官、精神の感官であり、精神の世とのかかわりをそれらの感官を通して覚えていってほしい、とのシュタイナーのまずもっての教師の方々に向けての提言です。
そのために、シュタイナーは、メディテーションのための、祈りのための、ことばをその時に口にしました。
そのことばには、精神の世の方々とわたしたち仕事をする者との間のかかわりが具体的に述べられています。(詳しくは、本書の註にある、参加者のヘルベルト・ハーン氏はじめ何人かの手記を読んでみてください)
人の上に立つ九つのヒエラルキー(位階)の方々のうち、下の、最も人に近い九つ目(天使)、八つ目(大天使)、七つ目(アルカイ)の方々の行ないを毎日、考え、想いにして、こころの内に繰り返すことこそが、わたしたちの仕事を支えていくのです。
肉の目には覚えられない、そのような方々のことをまずは丹念に考えること、想うこと。
その内的な行為の働きたるや、その行為を真摯になしていけばいくほどに、生活に働きかけてくるのが実感されます。
その毎晩毎朝の繰り返しが、こころと精神の感官をもって、そのような方々の働きを覚えること、惟みることへと育っていきます。
そのような上の方々とのつながり、かかわりを意識的に育んでいくほどに、昼間の仕事の質が深まってきます。
そのひとりひとりの人の内的な育みが、社会のなりたちをなりかわらせていく、基(もとい)の力になります。
わたしたちひとりひとりの力は、ややもすれば、未熟に感じられ、また孤立しがちで、だからこそ、まずは、上の方々とのつながりを育むことなしには、もはや仕事を支え、もちこたえることが難しくなり、横の人々とのかかわりもが難しいものになっていきます。
しかし、その上の方々とのつながりの中でこそ、わたしたちは仕事をしていくことができます。
たったひとりで頑張るのではありません。
そのつながりが、わたしたちに力と勇気と光を毎日贈ってくれます。
アントロポゾフィーは、仕事を創っていき営んでいく際の、この観点をとてもとても大事にしています。
この観点で人と人とが集まって仕事をしていくならば、どのような集まりになっていくでしょうか。
人と人との集まりは、まさに生き物であり、こころとこころの織物です。
そこに精神からの力(天使の方からのイマジネーション)、精神からの勇気(大天使の方からのインスピレーション)、精神からの光(アルカイの方からのイントュイション)が注ぎ込まれること。
イマジネーションとは、まずは仕事をしていく上での活きた考え、活き活きとした絵姿、極めて具象的な明瞭なアイデアとして、人に贈られます。
インスピレーションとは、人と人とが和していくための勇気を与えてくれる「ことば」のようなものとして、人の内に響き、人の情を暖めてくれます。
イントュイションとは、わたしたち仕事をする者が、もはや世と分離しているのではなく、世と(教室にいるみんなと、教室そのものと)ひとつになっているような精神的な感覚から始まり、生きることそのものの深みへと降りていくような意志の力の変容として、人に授けられます。
それらは、人と人との集まりに、これからは特に欠かせないものになっていくでしょう。
言語造形をしているわたしにとっても、本当に、欠かせないものになっています。
わたしたちは、仕事に潜んでいる課題をすべて見通している訳ではないかもしれません。
しかし、その課題の大きさ、重さを、あらかじめ感覚(予感)しています。
だからこそ、ヴァルドルフ学校創立の時が迎えられたのでしょうし、わたしたちもこの小さなサークルですが、学びの会に集っています。
課題へのその感覚から始めましょう。
感覚を、予感を、大事に育てていきましょう。
これから、14日間の講義を通して、そして実際の日々の仕事を通して、その感覚に活きた考えを重ね合わせていくことによって、わたしたちはずっと具象的に課題を迎えつつ、仕事をしていくことができるでしょう。
この学びは、きっと、仕事へと、変容していくでしょう。
●『普遍人間学を読む』クラス
日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
和歌山県岩出市 第二土曜 午後13時00分〜15時00分
参加費: 毎回2,500円 6回連続12,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
場所・お問い合わせ・お申込み:
帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
岩出クラス モモの会 http://momo-society.org/contact.html
講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html
下の記事を和歌山岩出のモモの会の方が書いて下さいました。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=808569589202897&id=230183530374842
アントロポゾフィーから仕事を創ろうとする人と共にいるのは、理想を互いに鼓舞し合いつつ、その理想という考えを現実化しようという意欲に満ち溢れているので、とてもすがすがしいのです。
2014年12月01日
『普遍人間学を読む会 序章』〜協力して仕事をしていくために〜
2014年11月から大阪と和歌山で始めた『普遍人間学を読む会』。
祈りのことばから始め、シュタイナーによるこの連続講義録の、まずは序章を読み込むのに、2時間から2時間半かかりました。
この連続講義は、アントロポゾフィーから生まれる子どもたちへの教育実践として、世界において初めて開校するヴァルドルフ学校に赴任する教師たちや関係者たち約20名を相手になされたものです。
この序章は、14日間の連続講義が始まる前の晩になされたシュタイナーの挨拶からなっています。
「今晩は予備的なことだけを話します」ということばから始まっていて、これからなされる仕事の意義、価値、意味についての極めて本質的なことが、予備的にですが、しかし、いきなり熱く語られ始めています。
「子どもへの教育」という仕事をする者への話であるにもかかわらず、ここでの内容を深く受け止めるほどに、これは人類史のなかの、現代ならではの、エポックメイキングな仕事論であることがひしひしと感じられます。
まさしく「現代において人として仕事をしていく上で、何を、どう、意識していくことができるか」という話なのです。
「文化の行ない」としての教育。
「文化」とは「耕すこと」であり、つまるところ、「人を耕すこと」。
「耕す」とは「田返(たがえ)す」「田の土を返す」ことであり、「人を耕すこと」とは「人の秘められたところを表てへと顕わにする、引き上げる」ことです。
ひとりひとりの子ども、ひとりひとりの人、そして、この〈わたし〉という人の内なる秘められているところをゆっくりと、ゆったりと、引き上げていく。
人の可能性を見いだしていく。引き上げていく。
それこそが「文化の行ない」です。
そのためには、わたしたちは、「人というもの」を、「人というものの秘められたところ」を、まずは、学ぶ必要がある。
「人というもの」は、そもそも、「秘められているもの」です。
その「秘められているもの」を学ぶこと。
仕事をしながら、学ぶこと。
人と人とが協力して働きながら、共に学び続けること。
そのことをかえすがえすも意識的になしていくことが、この仕事をなりたたせる条件なのだ。
そう、シュタイナーは語り始めます。
そして、現実的な人と人との共和、ここでは、教員会議こそが、ことの鍵を握っている。
教員と教員との共なる語り合いこそが、学校の心臓部であり、その心臓からどれほどの力と勇気と光がひとりひとりの教員に与えられるか。
その語り合いの場は、教育現場だけでなく、ありとあらゆる仕事の現場や家庭で精神的に深められていく可能性に満ちたところです。しかし、その語り合いが不毛なものにではなく、深まりに向かうためには、やはり、ひとりひとりが己と他者とを徹底的に高い視点、深い視点から顧みる絶えざる練習が欠かせない。
「人というもの」を学ぶこと、そして、ひとりひとりのみずからの内に向けての練習は、仕事という仕事を支える力になります。
アントロポゾフィーが現実を前に進めていく力、ことを推し進めていく力があるのか、どうか。
そのことを、この学校は証していくだろう。
そう、シュタイナーは始めに語るのです。
いま、わたしたち、ひとりひとりが、ひとりひとりから、仕事を始めていくとき、この『普遍人間学』を新しく読み直すことは、読みようによっては、深く、強く、確かに、その人の頭だけでなく、胸に、手足に働きかけ、浸透していきます。
言語造形という芸術に携わっているわたしにとっても、この行為が人の世に何らかの働きかける力・ことを推し進めていく力をより有するためにも、これまで以上に多様な形で柔軟に緩やかに他者と共に仕事をしていく必要を感じています。
翻訳は、言語造形家の鈴木一博さんの訳を使っています。
●『普遍人間学を読む』クラス
日時: 大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
和歌山県岩出市 第二土曜 午後13時00分〜15時00分
参加費: 毎回2,500円 6回連続12,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
場所・お問い合わせ・お申込み:
帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
岩出クラス モモの会 http://momo-society.org/contact.html
講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html
2014年10月30日
11月からの新しいクラスのお知らせ 和歌山県岩出市 『普遍人間学 〜教育の基として〜』を読む
☆ 和歌山県岩出市にて、ルドルフ・シュタイナー の『普遍人間学 〜教育の基として〜』を読むクラスが 11月8日(土) よりスタートします☆
和歌山岩出のモモの会(こども園ほしの子)では、すでに言語造形ということばの芸術に取り組むクラスが育っているのですが、11月から、その子どもの教育の場に集う大人たちが、地道に、真摯に、焦らず、こつこつと、アントロポゾフィーからの人間学を学んでゆく場を新しく創り始めます。
『普遍人間学 〜教育の基として〜』を読むクラスへのご案内
「教育」ということば、それはドイツ語では Erziehung ですが、Er(まさにziehung (引き出すこと)として、子どもを育てることから、大人の自己教育、生涯教育まで総じて指します。
このクラスでは、わたしたち大人自身の自己教育、生涯教育としても、この人間学をアントロポゾフィーの観点から味わいつつ学んでいきたいと考えています。
わたしたち大人は、わたしたち自身から、何を、どう、引き出していくことができるでしょうか。
この本は、実に大いなる深みをもって、人というものがどういうものなのか、それを詳細に伝えてくれています。
わたしたちはその人間学から、人を耕し、育て、培うということの基を摑みましょう。
そして、その基の考えをこころの芯まで、手足の先まで、育みつつ深めていき、ひとりひとり、己の仕事にその精神を注ぎ込んでいきましょう。
翻訳は、言語造形家の鈴木一博さんの訳を使います。
『普遍人間学を読む』クラス
◯日時 毎月第二土曜 午後13時00分〜15時00分
◯参加費 毎回2,500円 6回連続12,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所
http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
◯場所 モモのおうち(紀の川市西三谷670)
◯講師 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html
お申し込みは wakayama.momonokai@gmail.comまで
2014年10月09日
『普遍人間学を読む』クラスと言語造形クラスのご案内・毎月第二水曜日
昨年から始まっている「ことばの家」での第二水曜午前の言語造形クラスの改めてのご案内と、
同じ日の午後、11月から新しく、『普遍人間学を読む』クラスを開講しますので、そのご案内をいたします。
昨年の秋から始まった第二水曜・言語造形クラスにおいては、初めて言語造形に取り組む方が多く参加されています。
ことばを話すということが芸術になりうるのだ、ということ。
そのことをからだで験(ため)していくうちに、ことばを話す人間ひとりひとりが、唯一無二の芸術的ななりたちをしていることに気づきはじめます。
練習を重ねるほどに、ことばというものの魅力と共に、人というものの魅力に目覚め始めます。
なぜなら、ことばとは人であり、人とはことばの響きと共に人となりゆくからです(ヘレン・ケラーのことを思い出します)。
このクラスも一年経って、前向きな姿勢のメンバーが集まってくださり、毎回とてもいい雰囲気に満ちています。
あと、若干のメンバーを募集しています。
この秋冬から、新しく言語造形に取り組んでみたいという方、一度、ぜひ体験にお越しください。お待ちしています。
●水曜言語造形クラス
日時: 毎月第二水曜 午前10時〜12時30分
参加費: 初回体験 3,500円 その後12回連続 36,000円
_______________________________________
次に、『普遍人間学を読む』クラスのご案内です。
ルドルフ・シュタイナーがヴァルドルフ学校(通称シュタイナー学校)をシュテュットガルトで開校する直前に、その学校の教師になる人々に向かって行った14日間連続講義の記録が『普遍人間学 〜教育の基として〜』として残されています。
「教育」ということば、それはドイツ語では Erziehung ですが、Er(まさに)ziehung (引き出すこと)として、子どもを育てることから、大人の自己教育、生涯教育まで総じて指します。
このクラスでは、わたしたち大人自身の自己教育、生涯教育としても、この人間学をアントロポゾフィーの観点から味わいつつ深く学んでいきたいと考えています。
わたしたち大人は、わたしたち自身から、何を、どう、引き出していきましょうか。
この現代の自然科学至上主義・機械産業隆盛のもとに、どんなものが、どんな風潮が、わたしたちに押し寄せてきているでしょうか。
これからを生きる、子どもを含むすべての人が、人として、ひとりひとりの人として、いのちを謳歌していくことができる社会的な動き(それは同時に、とても個人的な内なる動きでもあります)をどのように創り出していきましょうか。
また、芸術をする人、言語造形をする人にとっても、みずからのまるごと、からだ、こころ、精神を実践的に見てとっていくことが欠かせないことです。
そのためにも、この書は、実に大いなる深みをもって、そのまるごとの人のありようを詳細に伝えてくれています。
この本を丹念に読み深めながら、教育(まさに引き出す)ということの基を摑み、その基の考えをこころの芯まで、手足の先まで、育みつつ深めていきましょう。
そして、ひとりひとり、己の仕事にその精神を注ぎ込んでいきましょう。
翻訳は、言語造形家の鈴木一博さんの訳を使います。
●『普遍人間学を読む』クラス
日時: 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
参加費: 毎回2,500円 6回連続12,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所
場所・お問い合わせ・お申込み: ことばの家
講師: 諏訪耕志
■ 諏訪耕志 プロフィール
「ことばの家」ホームページ
「ことばの家」は、言語造形による舞台創りのためのアトリエです。 お話を語り、お芝居を演じ、詩を詠うことを学ぶための講座・ワークショップ、このことばの芸術の源泉であるルードルフ・シュタイナーの人間学アントロポゾフィーを学ぶ場も設けています。 ことばへの芸術的な取り組みのなかで、どの人もその人自身として成長していくことができるような場にしたいと希んでいます。
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