2017年05月18日

The Beatles『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 』


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12歳の時、小遣ひで生まれて初めてわたしが買つたLPが、この『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 』でした。
 
それからといふもの、學校から歸つてきては、毎日毎日、聽き續けました。
 
あのときに感じてゐた、この音樂の持つ魔法のやうなものは、わたしの毎日を劇的にひつくり返したのです。
 
そして、今年2017年。このアルバムが世に出て50年。いま聽いてもそのみずみずしさを感じることができます。
 
なぜなんだらう、と、2014年發賣のモノラルアナログ盤で改めて聽き直してみました。
 
彼らは1966年の夏を最後にライブツアーをやめて以來、自身の内側で成熟してきた新しいアイデア、音樂的見識、レコーディングの技倆、そして人生觀と世界觀のすべてをこのレコードに叩き込んだ。そんな強い印象を受けます。
 
『Help』『Rubber Soul』『Revolver』で、既に彼ら(特に、ジョン)の内側で膨らんできてゐた、外側で起こつてゐる狂騒劇に對する葛藤・憤懣・問ひが顯わになり、それと共に、作曲、作詞、アレンジ、演奏、録音技術などにわたつて急激にその質を高めてきてゐたのですが、このアルバム『Sgt Pepper's Lonely Hearts Club Band 』には、それまでに欝積してゐたフラストレーションから完全に解き放たれ、その時點で自分たちが持つすべてを爆發させることができた彼らの姿が音として刻み込まれてゐるやうに感じます。
 
その音像は、第二のデビューのやうな初々しさ、みずみずしさ、躍動感に滿ち溢れてゐて、サマーラブと云はれた1967年夏、どれほどのときめきをもつて世界中の若者がこれを激しく聽いただらう、そんな想像に駆られます。
 
「Getting Better 」「She's Leaving Home 」「When I'm Sixty Four 」「Lovely Rita 」(全部、ポールの曲)など、青盤(1973年発売のベスト盤)には入つてゐない名曲が目白押し。
 
とりわけ「She's Leaving Home 」はこのモノラル盤ではステレオ盤に比べてピッチが速く、この靜かで美しい曲には、この輕やかさがとてもよく合つてゐて、個人的にはステレオ盤のものより大好きです。
 
アナログ盤のB面一曲目の「Within You Without You」。ジョージがインド音樂に深く深く入り込んで生まれた作品で、『Revolver』に收められてゐた「Love You To」よりも數段深みを増し、このアルバムに瞑想的な靜けさをもたらしてゐます。
 
そして最後の曲「 A Day In The Life 」において、それまでの狂氣の沙汰といつてもいいやうなビートルズ旋風をジョンは高みから見下ろしてゐるやうです。
 
ジョンは、音樂を創つていく共同體としてのビートルズに對して、「俺は、いち拔けた」といふ念ひを意識と無意識のはざまで、持ち始めたやうに感じられます。
 
ポールの「さあ、俺たちはこれからだ!」といふ意氣込みと對照的であるがゆゑに、このアルバムは獨特の複雜な調べを底に響かせてゐます。
 
だからこそ、この作品には盡きせぬ魅力があるのかもしれない。
 
ジャケットにも、これまでにないカラフルさと、底知れないやうな不安が同居してゐて、1967年の空氣感を見事に表し、更にシーンを牽引していつたことが伺はれます。
 
今年6月、このアルバムが発売されて50年。
わたしがこのアルバムを手に入れて40年。
 
ザ・ビートルズによる20世紀大衆音樂アルバムの最高傑作だと、いまだに思ふのです。

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2016年05月07日

気韻生動 山水は生きて動く 〜鉄斎展を観て〜 


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終展間近の兵庫県立美術館『富岡鉄斎展』を観る。
 
ここのところ熱中してずっと読んでいる島崎藤村の『夜明け前』。
 
その作品の主人公・青山半蔵(藤村の実父・島崎正樹がモデル 1831年生)と、同時代を生きたであろうこの富岡鉄斎(1837年生)の画業とが、どこか重なるのではないか、そんな想いで足を運んだ。
 
『夜明け前』は、日本という国のおおもとを問うべく、近世国学に殉じた半蔵の生涯を描いた作品である。
 
鉄斎も若くして奔走した明治維新のあとに堺の大鳥神社の宮司を務めていた。そのころの写真が展覧会の最初に掲げられてあり、まず、じっと見入ってしまった。

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鉄斎は自身を画描きではなく、文人・学者であると思い、公言もしていたそうだが、その彼が八十九年の生涯の最後まで描いて描いて描こうとしたものを観た。
 
しかし、切磋琢磨に貫かれたその長年月の業を、二、三時間で観ようとは浅はかである。小林秀雄でさえ、一度、四日間朝から夜までぶっとおしで鉄斎を観たという。
 
そんな自分にも感じられるものが多いにあった。
 
水墨画を描くときにおける基本の六法の一つ目に、「気韻生動」というありかたが挙げられているそうなのだが、その気韻が今も圧倒するように活き活きと動き、初めて鉄斎の画の前に立つ自分のまるごとを掻きまわし、動かし、世の奥へと、陶然とさせる透明さへと連れてゆこうとする。 
 
山水というものは、生きて動いているのだ。
 
日本という国のおおもと、それは我が国の神話に語られているとおりである。
 
いまも、国生みはなされ続けていて、神々は生きて働いておられる。

そしてわたしたちの生き方の奥底には、いまだ、生きて働いている自然との共生感、親しみ、畏怖の念いが息づいていはしないだろうか。
 
そのことを鉄斎の画は、画讃とひとつになって教えてくれようとしている。
 
その神話を、現代においても、真摯に、密やかに、自分の生活と人生の根底に見いだすことは、あなたにとってどういう意味があるのか。 
 
読了前ではあるが、『夜明け前』という、藤村の問いも、そこを突いてきているように思われる。 

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2016年02月12日

濱田庄司 〜民藝運動の髄〜


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今朝は、東大阪市民美術センターにて開催中の、
「濱田庄司と芹沢_介ー民芸運動の巨匠とゆかりの作家達」
を観に行ってきた。
http://higashiosaka-art.org/exhibition/index.html
 
濱田庄司の陶芸作品をたっぷりと味わう。
 
作品と眼の間に初めからシンパシーの糸が通い、
眼(まなこ)吸い寄せられる如くであった。
 
焼き上げられた土の質。
その表に顕れた色彩。
 
触りたい気持ちを抑えつつ、
それらに面していると、
その美しさは、
この身もろとも、
そのままどこかへ沈んでいくように感じる。
 
表に輝きいずるのではない、
裏に潜んでゆこうとする美しさ。
 
この美しさは、
いったいどういう生活から生まれてくるのだろう。
 
おそらく、そここそが、
柳宗悦によって、
我が国に大正末期から昭和初期にかけて生みだされた、
民藝運動というものの髄のところだ。
 
(写真の陶芸作品は、今展覧会のものではありません)

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2016年02月11日

能舞台 すべてがある空間 〜狂言発表会終わりました〜


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大和座狂言事務所 ≪Kyogen YAMATOZA≫・艸言会主催の
『 2016 狂言之会 』に家族そろって出演させていただきました。
 
百年長屋での約一年間の稽古をつけて下さった安東元先生、
また、今日の舞台を創ってくださった大和座の皆様、
本当にこころから感謝いたします。
 
このような舞台を創り上げることの大変さ。
いかにたくさんの方々の無償の御働きがあることか。
 
その舞台に上がらせてもらうことの贅沢。
 
それは、ことばでは言い表すことのできないほどです。
 
そして、能舞台というところに立たせてもらい、
その空間の持つ、果てしのない可能性を、
予感・実感・体感することができました。
 
何もない。
しかしすべてがある。
 
能舞台とは、
舞台というイデ―をほとんど直截にかたちにしたものだと感じます。
 
舞台に立つことを「ことよさし」としての仕事としている、
わたしたち家族にとって、
この経験は、とても、とても、重要なものになりました。
 
四方八方から見えない力の線によって引っ張られているかのような、
能舞台の真ん中に立った子どもたちにとって、
さて、この度の体験はどのようなものとなって、
これから先の人生において、
からだとこころの内に深まっていくことでしょうか。
 
2016年度も、引き続き、百年長屋にて親子狂言教室が開催されます。
 
ご関心のある方は、ぜひ、どうぞ。
こころからお勧めします。
 
共演してくれた仲間たち、
朝の早くから今日の舞台を観に来て下さった皆さん、
稽古場を提供して下さった百年長屋の緑さん、
毎回の稽古を見守ってくださり、
写真も撮ってくださった古賀さん、
かさねがさねになりますが、こころより感謝いたします。
どうもありがとうございました。

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2016年02月05日

ひとりひとりの顔 〜モーリス、ありがとう!〜  


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大袈裟なようだけど、わたしの人生を変え、その後も支えつづけてくれているような作品『FACES』。
 
果てしなく深い世界観、宇宙観を抱きつつも、
極めて高い技量をもって、
極めて平易なことばでの表現を、
みずからに課しつづけていたモーリス・ホワイトと仲間たち。
 
ひとりひとりの顔、そしてそこにおのずと表れる微笑み。
それこそが、
この世界を築き直していくための、基(もとい)なんだ、と。
 
そう、毎日を生きていく上での指針を、
高らかに、明らかに、誇りをもって、謳い上げる。
 
闇を見た人にして、初めて、
このシンプルな「ことば」に触れることができるのではないだろうか。
 
わたしなど、実際に、家庭を持ち、家族を養っていく上で、
家長(死語?)の微笑みが妻や子どもたちに与える目に見えない影響は、
深く、ずっと長く続くものだと実感している。
 
家庭こそが、世の基だものね。
 
いまだに1980年に買ったアナログ盤で聴いているアナログ男なんだけど、
この二枚組のアナログ盤を通してもたらされる、この上ない喜び。
決して飽きることのないポピュラリティーに満ち溢れている。
 
そして、モーリスとフィリップによる、
ヴォーカルとコーラスのアレンジの驚異的な素晴らしさ。
このふたりは、どう歌えば、聴き手を気持ちよさのなかに一気にもっていくことができるかを知り抜いている。
 
スティーヴィー・ワンダーの『Songs in the Key of Life』に比しても、全く遜色ない、と個人的に感じている。

モーリス、
あなたは巨大なミュージック・ビジネスのなかでも、
人間的なこころを失わず、
人間的な音楽を創りつづけてくれました。
ありがとう!

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2015年12月26日

音楽の喜び クリスマスの夜

 
昨晩、大阪市立大学生による交響楽コンサートを家族で聴きに行きました。
昨年のクリスマスに引き続き、今年で二回目。
 
若い人たちによる演奏。
緊張気味ながらも、端正に、重みをもって奏でられたシベリウスの「フィラデルフィア」から始まり、最後は、圧巻のチャイコフスキーの「悲愴」。
 
持てる力を振り絞って演奏している彼らの姿の上に、
楽音そのもののが、軌道を描きながらめくるめくように運動しています。
 
こころの世を駆け巡る運動そのもの、
瞬間瞬間にこころの世に映し出される、色彩をもった景でもありました。
 
ことばには言い表すことのできない情というものが、
景色として立ち顕れる。
「情景」とは、よく言ったものだと思います。
 
演奏家がプロでも、アマでも、関係なく、
聴き手であるわたしたちは、
きっと、どこまでも、人の深さを聴き取ることができます。
 
妻も娘たち二人も一緒に深い喜びに包まれて家に帰ってこれた、
嬉しいクリスマスの夜でした。

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2014年07月03日

セザンヌ 感覚を実現すること

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画家とは、何をする人なんだろう。
確か2年前、セザンヌ展を観に行って、そのことを考えさせられた。
http://cezanne.exhn.jp/

道楽で絵を描くのではなく、
「仕事」として絵を描くとは、どういうことか。

セザンヌのことばによると、
「感覚を実現すること」、
それが彼にとって絵を描くことによってなしていきたいことであり、
彼の「仕事」だった。

彼が強い意欲をもって、ものを見ようとすればするほど、
自然が自然そのものの内に秘めている持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。

そして、
自然からのそのような「もの」の流れに応じるかのように、
あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。

その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。
そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
そのふたつの出会いそのものを、
キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。

その求めに応えるのが、「感覚の実現」であろうし、彼の仕事であった。
その求めに応え続けたのが、彼の生涯だった。

少し時期がずれるが、ルードルフ・シュタイナーの『こころのこよみ 第5週』を引いてみる。

Im Lichte, das aus Geistestiefen

精神の深みからの光の中で、

Im Räume fruchtbar webend

その場その場で実り豊かに織りなしつつ、

Der Götter Schaffen offenbart:

神々の創りたまふものが啓かれる。

In ihm erscheint der Seele Wesen

その中に、こころそのものが顕れる、

Geweitet zu dem Weltensein

ありありとした世へと広がりつゝ、

Und auferstanden

そして立ち上がりつゝ、

Aus enger Selbstheit Innenmacht.

狭い己の内なる力から。



世は、人に、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまうもの」を啓いてほしいと、
希っている。

なぜなら、それによって、
人は、
狭い己の内なる力から、
 ありありとした世へと広がりつつ、
 自分の足で立ち上がりつつ、
 自分自身のこころそのものを顕わにする」
ことができるからなのだろう。

セザンヌは、そのことを、意識的になそうとした人だと感じた。

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2014年07月02日

映画『かみさまとのやくそく  〜胎内記憶を語る子どもたち〜』


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今日、妻とドキュメンタリー映画『かみさまとのやくそく 〜胎内記憶を語る子どもたち〜』を観に行きました。

胎内記憶や前世のこと、そして人がこの世に生まれてくることの意味などを、頭だけで分かっていることと、このような優れた映画を通して感情で味わうこととは、随分違うんですね。

「すべての子どもは、そもそも、人の役に立ちたくてこの世に生まれてくる」
「子どもはお母さんを幸せにしたいと思って生まれてくる」

この「役に立つ」であるとか、「幸せ」ということばが、本当はどういう意味なのか。

ことばや理屈では述べることのできない、それが、「かみさまとひとりひとりの人との間の約束」というもの。

いい映画を観た後、必ず、映画館から出たときの街の風景が一新して観えます。

その後、娘を幼稚園に迎えに行ったのですが、早く娘に会いたくてしょうがなくなりました。

関西の方、7月中しばらくは十三のシアターセブンで上映されているようです。
http://www.theater-seven.com/2014/movie_kamisama.html

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2014年04月23日

ようやく辿りついた一枚 『The John Lewis Piano』

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モダン・ジャズ・カルテットのピアニスト、ジョン・ルイスが1956年から57年にかけて録音したソロ・アルバム『The John Lewis Piano』

去年の秋、突然、ジャズ(特に1950年代のモダン・ジャズ)の魅力にとりつかれて、中古レコード屋に通うことが楽しみのひとつになってしまった。
12歳から20歳ぐらいまでロックに完全にこころを奪われていたけれど、50歳を前にして、今、こんなにもまた音楽に夢中になっている。
そうしてだんだんとコレクションが増えていき、100枚を超えるぐらいの時、漸くこのレコードに辿りついた。

両の掌にくるまっていた小さな鳥が、ゆっくりと指が緩められ開かれるにつれて、だんだんと羽を広げてゆくように、一曲一曲のうちに心地よい緊張と弛緩が密やかに静かに繰りなされる。

夜の帳が降りて窓の外も心の内も昼間の喧騒が静まり、部屋の中で椅子にひとり座っているとき、自分にこれほど寄り添ってくれる音楽はない、と思ってしまう。
何度も何度もターンテーブルに載せている。
これまでは音楽はできる限り大きな音で聴きたいと思ってきたのだけれど、このレコードはボリュームを絞ってジョンのピアノの音がまるで遠くから聴こえてくるような聴き方が好きだ。

おそらくビル・エヴァンスほど細い指ではない。
しかし、その太いけれどもしなやかな黒い指先には音楽の神が宿っている。
音数少なく紡いでいく彼の響きの向こう側に、感情の新鮮な昂り、喜びと悲しみが聴こえてくる。

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2013年09月03日

人のこころを深みで支えるような響き

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GRAND-LOVE-玉置浩二
静謐な調べで統一された数々の曲。
でも、そこには生きていることに対する希望と悲しみ、そして本当に大きな愛が息づいています。
ここでの玉置さんの歌は、人のこころを深みで支えるような響きを奏でています。
孤独で寂しくてどうしようもない時、このアルバムをよく聴きます。

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2013年08月01日

美という理想と偉大なる敗北 〜映画『風立ちぬ』を観て〜

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先日、妻とジブリの映画『風立ちぬ』を観てきました。

その映画の中で、主人公が何度か「美しい」ということばを言っていました。

「美」とはなんだろう。

この世には見えない考え・イデ―というものが精神の世にあって、
その考え・イデ―が見事に整いつつも活き活きと躍動しながら、
この世の何かに宿っているのを見いだした時に、
そのイデーをことばにできず、
ことばになる前に人は「美しい」と感じてしまう。

主人公は、大空を駆け巡る飛行機のフォルムと機能性にその「美」を追い求めています。

そう、飛行機というイデ―そのものが、
きっと、「美」を体現しうるものだという憧れと予感を手放さずに、
その「美」を実現するために飛行機の設計に取り組みつづけます。

飛行機が戦闘機として人を殺戮するための兵器であることを求められたとしても、
彼は、子どもの頃からこころのうちに大切に育んできた「美という理想」を決して手放さず、
その「理想」の実現のために毎日を静かに、しかし、懸命に生きます。

それは、人が空を飛ぶというイデ―そのものが、
もうすでに「美」であり、
「人であることの更なる可能性」であると彼が感じているからなのでしょうか・・・。

そして、彼はこころの次元において、すでに空を飛んでいます。
美しく大空を駆け巡っています。

すでにこころにおいて理想を生きている人が、
己のこころのありかたに等しい世界を求めるのでしょう。

「美」を求める生活、「美」を追い求める生き方、
それは、表層のものではなく、
すでにもうこころに宿ってしまっている「理想としてのわたし」を、
ただ表の世界に実現する、その人その人のありかたなのでしょう。

こころの奥に「美」をすでにもっている人こそが、
その「美」に等しいものを外の世界にも見いだし、創りだそうとする。

そのような、美を求める唯美的、理想主義的精神は、
この世の経済戦争、政治戦争、そして人と人とが実際に殺し合う本物の戦争においては、
必ず、敗れ去るでしょう。

しかし、この世では敗れ去るからこそ、
逆に精神として勝ち、
時の試練を経て必ず人から人へと引き継がれていく不朽の生命を得る。
そのような逆説をわたしたちはどこまで本気になって受け止めることができるでしょうか。

映画から、そのようなことを感じました。




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2011年11月05日

平櫛田中と快慶 彫刻の時間 ―継承と展開―

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先日、上野にある東京藝術大学美術館に、
平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の彫刻を観に行った。

田中の彫刻に魅せられて、
これまで何度、
岡山県井原市や東京都小平市の田中美術館へ足を運んだことだろう。

今回は、飛鳥から江戸にまで渡る木彫作品とともに展示されているので、
見比べつつ、田中の作品をゆっくり味わいたいと思って、行ってみた。

鎌倉時代の快慶の大日如来坐像(写真左)の側にいると、
その像の組まれた両手と丹田から、
とても強い力が発せられるのを感じ、
おのずと厳粛なこころもちになる。
悪しきものがその強い力によって祓われている感覚があった。

また同じ鎌倉時代の地蔵菩薩立像(写真真ん中)を見上げて、
その立ち姿の静かさに魅せられる。
その表情だけでなく、全身の姿から、
「耳を澄ましておられる」ことが感じられる。
何に耳を澄ましておられるのか、
わたしもその側に立ち、耳を澄ましてみる。


その後、田中の作品にまみえる。
彼は1872年岡山で生まれ、1979年、107歳で亡くなられた。
その生涯に渡る仕事から生まれた多くの作品に、
わたしはこれまでどれほど慰められてきたことだろう。

今回も、本当に見ごたえのある展覧で、こころから満ち足りた。

彼は近代に生きたのにもかかわらず、
以前の時代の芸術家のこころざしに迫るべく、
彫刻という芸術に潜むエーテルの動きを生きた人として、
わたしに強く訴えかけてくるのだ。

近代の田中の作品からは、
観る人の視覚から運動感覚に渡って強く働きかけてくるものを感じた。

いっぽう、
鎌倉時代のふたつの作品からは、
それだけでなく、
さらに観る人の聴覚までにも働きかけるようなものを感じた。

ちなみに、今回の展覧会は明日11月6日で終わってしまうのだが。

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2010年12月12日

人生は時々晴れ(All Or Nothing)

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マイク・リー監督の2002年の映画「人生は時々晴れ All Or Nothing」を観た。

何年か前に妻と二人で観たのだが、
そのことを忘れていて、また借り出して観たのだった。

しかし、前に観たときよりも、
深く深くこの映画にリアリティーを感じてしまった。

人間が生きていく上で根本的に絶対的に大切なところを、
大事にしている人、
忘れている人、
忘れかけている人、
予感している人、
思い出そうとしている人、
それぞれ、それぞれのあり方が、
それぞれ、それぞれのあり方で表に顕われてしまっていて、
映画を観ていると、
そこに出てくるすべての人のあり方に自分自身、覚えがあり、
切なくなってきてしようがない。

今日も妻と観たのだが、
もう何年も一緒に暮らしてきたからだろうか、
前に観たときよりも、
そこで描かれている夫婦のあり方にたまらないほどのリアリティーを感じた。

本当に、いい映画だったなあ。

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2010年05月30日

能『朝長』を観ました

昨日、大槻能楽堂で「朝長」という能を観ました。

大体の筋を摑んだだけで、
手元にある詞章なども見ずに、
ことばも何を言っているのかほとんど分からないままで、
できるだけ何も考えず、
ただ、目と耳とその他の感覚をできるだけ開いていたんです。

すると、
何もない能舞台の上に、
十何人の男たちの真剣な息吹から生み出される、
何か異様なものが動き回るのを感じました。

大鼓の一打ち一打ちから発せられる気迫、精神。

笛の音が、風を運んでき、虫の音までもが聞こえてくる。

8人の地謡の声(何を言っているのか、特に分からない)と、
楽器と、
シテ、ツレの演者の方々の声、語り、謡い、身ぶり、
それらが渾然一体となって、
変な言い方ですが、
目に見えない色が一瞬拡がったり、
耳に聴こえない音の動き、
また目に見えない生きもののようなものが、
のた打ち回り、這いずり回っているのを感じます。

能を観るのにも、
人それぞれ様々な観方があると思うのですが、
思考をある程度停止させて、
初めて接する音楽を聴くときのように能を観ると、
この芸術が、
時代遅れどころではなく、
時代の先を行っていることに気づかされます。

言語造形においても、
わたしが受け取ったこのリアリティーを実現していきたいと、
あらためて意を強くしました。

誘ってくださった塙さん、どうもありがとうございました!


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2009年08月09日

橋本関雪 呼吸があえば

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先日、京都銀閣寺そばにある、橋本関雪記念館に行って、
彼の残した絵と庭を味わってきた。

わたし一人しか見物する者がおらず、
夏の暑い一日であったが、
庭の木々の間を歩いていく時の涼しさと静かさ、
広い池に泳ぐただ一匹の鯉の鮮やかな黄色、
館の人たちの穏やかさ、丁重さ、優しさ、暖かさ、
それらに触れさせてもらい、
ありがたい時を過ごした。

そして、関雪の絵に強く惹きつけられた。

一瞬に全体を観てしまう画家の把握力の鋭さと、
それゆえの闊達な筆の運びから生まれる味わい。

描かれている人の深いまなざしのありようを通して、
「人というもの」の成熟を観る。

画家によって画布の上に固定されているのに、
人物、動物の佇まいは動きをはらんでいる。

それぞれの芸術、それぞれの人から、
それぞれ固有のことば、固有の呼吸が聴こえてくる。

その固有さが、
人のこころを満たしてくれるのだろう。

パンフレットにあった関雪のことば。

 石も木も呼吸している。
 それを見た瞬間、その呼吸さえぴったりすれば、
 すぐどこに据えるかという判断がつくべきである。
 これは私の信条である。
 一つの物象を見た刹那、
 これを描こう、
 そう感じた時、
 すでに画は出来ているのである。
 石を据え、木を植えるのも同じ理合いでなければならぬ・・・


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2009年07月01日

東洋陶磁美術館

朝鮮 白磁壺.jpg  朝鮮 白磁壺 2.jpg

信楽 甕.jpg  平安 灰釉 手付 瓶.jpg


今日、中ノ島にある東洋陶磁美術館に行き、
『淺川伯教が愛した韓国のやきもの』というテーマ展、
そして平常展による収蔵品をたっぷりじっくりと観てきた。

観ながら、その観ることに、感情が伴なってきて、
そのときの感情を忘れないうちに書き留めようと思う。

陶磁器のひとつひとつに、
固有の相(すがた)があることは当然のことなのだが、、
そのひとつひとつの相を迎えるごとに、
我がこころの内に、
各々異なったフォルムが生まれていることを覚え、
そのフォルムはまるで人の身振りから生まれる各々の呼吸の軌跡であるように感じる。

何のこざかしい作為も感じられず、
自然の法則に沿っておのずと生まれたような柔らかな曲線が、
器のフォルムとして顕われているとき、
より快い安らかな呼吸と共にある己を感じることができる。

碗といい、瓶といい、壺といい、甕といい、
それらやきものは、
人が、土と水と風と火との協働で創り上げ、
人が使い、
人から人へと使い廻され、
ものによっては、忘れ去られ、放置され、再び見直され、
またものによっては、愛され抜いてきたものだ。
それらが、今、目の前に静かにある。

それぞれの碗の縁に、
いったい何人の人の唇が触れてきただろう。

どんな人の手が、
これらのやきものを撫で擦ってきただろう。

視ているうちに、
そのものの後ろに、
なんだか、
それら人々の気配を感じるような気がする。

さて、韓国のものをずっと観つづけたあと、
日本のやきものの部屋があって、そこに入って観たとき、
もう、ひとつめの器の前に立つやいなや、
自分の呼吸のありようが変わったのに気づく。

これまで以上にゆるくほどけたような、
安心したような深い息遣いに変わって、
日本のものをひとつひとつ観ているうちに、
ニヤニヤしている自分に気づく。

韓国のものは、どこか潔さと気品の高さを総じてわたしに感じさせ、
それゆえか、無意識のうちにも、
己の外にあるものを迎えるときのような緊張を、
身内に生じさせていたのかもしれない。

日本のものを観るとき、
その緊張がほどけ、
それまでとは少し質の異なった時間が流れ始めている。
家に帰ってきたような感覚だ。

海を隔てた彼の地と比の地とでは、
その地水風火のありようがどれぐらい違ってあるのだろう。

その四大の要素の織り成しあいからそれらやきものは生まれる故、
この目に視て取られる表面の質感や色合いの違いだけでなく、
ことばで言い表しにくい違いが如実に感じられ、おもしろい。

観ることの練習。

これからも今日のように折をみて出かけて行って、
出来る限りものを親しく、精しく、みること、きくことをやっていきたい。

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2008年12月06日

こんなことを目指して

先日、ある方のコントラバス演奏会を聴きに行きました。

音が奏でられ、空間に響きが満ちるとき、
わたしたちは何を体験しているんだろうか、
その演奏とともに、わたしは何を体験したんだろうか、
そんなことを演奏会の後、考えていました。

そのとき、強く感覚したのは、
目には見えない、演奏者の方の内的な身振りでした。

それは、音楽に仕えるための身振りであり、
宗教的祭祀における儀式的な身振りをなぜか思い起こしたのです。

神を迎え、神のことばを聴こうとするとき、
儀式を担って立つ人がするような身振り。

わたしは、そのような身振りがこころからなされている宗教的な場に居合わせた経験はないのです。

しかし、コントラバスを演奏するその方のありようは、
わたしに、そのような想像から生まれる精神の高貴さをリアルに感じさせてくれました。


わたしは、書かれたことばを肉声として空間に発していく芸術「言語造形」に携わっています。

言語造形を通してなされることに対して、
それを朗読、語り、落語、芝居、なんと呼ぼうが、それは二次的・三次的なことです。

ただ、大切なことは、
どれほどの真摯さと情熱をもって、
ことばに仕えようとするか、です。

作品の原作者もまた、ことばに仕えようとした人であるならば、
わたしたち肉声をもってことばを発しようとする者も、ことばに仕えようとする者です。

わたしは、ことばそのものが語ろうとしているものに耳を澄まそうとしている人の作品に、
これからも取り組んで行きたいと思っています。

ことばというものの不可思議、妙(たえ)なるところ、原風景、
そこを直覚している人の作品に取り組んで行きたいのです。

ことばを肉声で発しようとする者は、
そのことばを書いた人(原作者)の意図を汲みつつ、意図を突き抜けて、
そもそも、ことばそのものが何を語ろうとしているかに、
耳を傾けようとします。

そしてその聴こえてきたところのものを迎えて、響かせて、送るのです。

ことばに仕えようとするわたしたちの内的な身振りが、
その時その場を祝祭の場に変えてしまうような、
そんなことを目指して、言語造形をしています。

音楽に仕え、音そのものに仕える。
そのような内的な身振りを通して、
演奏者はわたしたちに作曲家や演奏者自身の力量や天分を味わわせるだけでなく、
音の響きとしてこの世に顕われざるをえない「精神」を体験させてくれます。

わたしたち言語造形に携わる者も、
ことばに、ことばという「精神」に仕えることを通して、
ことばの響きとしてこの世に顕われざるをえない「精神」に向かい合って行きたい。

そんなことを目指しています。


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2008年05月26日

基本また基本

先週の日本経済新聞の夕刊に、
能役者の友枝昭世氏のコラムが連載されていました。

5月21日の記事の
「厳しい師、基本また基本」というキャプションがついた文章を、
とりわけわたしは印象深く読みました。

  厳しい師であった(喜多実)先生の暮らしぶりは質素で、
  着物もそれほど多くはお持ちではなかった。
  お素人に稽古をつけたほうが経済的にはよかったであろうが、
  家元の重責をになう先生はもっぱら玄人に稽古をつけた。
  玄人弟子への稽古は無償だ。
  そればかりか東京の練馬のご自宅には多いときで
  七、八人の弟子を住まわせ、朝昼晩と食べさせる。・・・・・

  先生は個性は後から出てくるものだというお考えで、
  稽古は徹底して基本また基本。
  その積み重ねと経験を通し、
  熟成してにじみ出てくるものを理想としておられた。
  そのためには教える方も相当の根が必要だ。


喜多実という能役者の考え方だけでなく、
その行為、生き方に唸らされます。

どういう舞台が、人のこころを打つのか。
それは、どういう生き方が、人のこころを打つのか、
という問いに重なるように思います。

わたしは、言語造形においても、
毎日の生活を貫いてなされる「基本の稽古また稽古」のみが、
ものを言ってくることを実感しています。

人のこころというものは、
なんと脆いものでしょう。

わたしなど、少しのことで、ぐらつき、
途端に平衡を失ってしまいそうになります。

しかし、毎日の稽古があるお陰で、
わたしはこころをわたしの中心軸に戻してくることができます。

この「基本また基本」を徹底してやっていくこと。

この重要性をわたし自身、
確認しながら生きています。


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2007年10月21日

室生寺のみほとけたち 立つ姿勢

先日、恵泉大学にて宮澤賢治の「座敷ぼっこのはなし」を、
また、大阪の高津神社の秋祭りで、中島敦の「名人伝」を語った。
来てくださった方々、準備をしてくださった方々に、本当にお礼を申し上げたい。


さて、自分の舞台も含めて、人さまの舞台を観ることもここ最近多くなってきた。
それが、ダンスであれ、歌であれ、楽器演奏であれ、語りであれ、
とても大事だと感じるのが、やはり当たり前のようだが、姿勢である。

立つ姿勢。


img002.jpg

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murouji_4.jpg

随分前に、博物館に、「女人高野 室生寺のみほとけたち」という展覧会に行って、
仏像彫刻を観た。

仏像彫刻に人が向かうとき、様々な関心の向け方から、それらを見つめることができるが、
やはりわたしは俳優としての観方だろうか、
人の理想型としての立ち方、あり方として、
一体の彫刻を食い入るように見つめる。

静かな佇まいのみほとけが、実に猛然とした疾走の中にある。
軽さと重さ、そして後方から前方へ。
しっかりと地を踏みしめながらも、そこに絶対に安住せず、
前へ前へと進む、形に表せない見えざる力を造形している足。

その踏みしめる力強さと、前へ突進む能動性が、
みほとけの腰から上、両腕、そして頭部のすっきりとして軽く優美な佇まいを生んでいる。

左手のひらには、その優美と静けさを象徴する玉。

静と動の見事なコントラスト。

おそらく、天頂から頭、背骨を通り、尾てい骨を突き抜ける一本の線が、
そのまま延長されて、両脚ののうしろの衣文を造形している。

その天と地をとり結ぶ結節点としての人。

十二神将立像のうち、九体が円形に配置されており、
それらをひとつひとつ巡り観てゆく。

どれを観ても、その両脚が死んでいるものはなく、
すっきりと目覚めた「立ち」である。

その目覚めた脚の上に、
それぞれの神将の精神が仏師の直感によって、
豊かな身振りとして描かれてある。
上質のユーモアを感じる。

本当に、俳優にとっての学びの宝の列であった。

posted by koji at 12:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月12日

能・狂言を観てきました

昨日、フェスティバルホールに能・狂言を観に行きました。
6時半から始まって10時まで、
みっちりと見ごたえ、聴きごたえのある舞台。
チラシにある謳い文句「最高峰の名人名手が結集」ということばを噛み締めることができた夜でした。

「翁」での友枝昭世氏の舞と謡いそして語りからは、
能独特の節回し、メロディーを通して、
今を生きるわたしのからだを震わせるような動きと響きが感じられました。

不勉強なため、大体のことがらを除いては、
細かいところの意味をつかむことのできないことばの連続ですが、
それゆえに、こころに、いやむしろ、身体に響いてくる、
そんなことばの体験でした。

まず舞台に出てきた友枝氏が舞台に跪いて礼拝すると、
一気に満場の意識が友枝氏がいる一点に集中しました。

また、「翁」に続き、野村万作氏の「三番叟」での鈴を振るいながらの舞には、
その後ろで演奏される音楽とともに、わたしをまさに祝祭・カーニヴァルの境地に連れて行きました。
鈴のひとふりひとふりに意識が通っている。
そして笛の一噌仙幸氏を中心とする囃子方の演奏のすごいこと。
そのループするように繰り返されつつ、熱気が高まっていくその様に、
「狂う」ということが神への接近をしるしていた我々のいにしえのありかたをまざまざと見せられました。

狂言の「悪太郎」は、名人三人の茂山千作氏・千五郎氏・七五三氏による、
熟練といまだ衰えない張りを感じさせてくれる舞台でした。
やはりとりわけ千作氏の絶妙の息遣いは、なんとも味わい深く、
元気な彼の演技をまた体験できたことは、本当に僥倖です。

最後の「彦市ばなし」は、新作狂言で、
始まってしばらくは、
狂言のスタイルと現代作劇の意識との間で微妙な違和感・ずれを感じさせなくもなかったのですが、
野村萬斎氏はじめ役者さんのからだを張った演技によって、
見事に会場全体を笑いの渦に巻き込みました。

あのフェスティバルホールという会場は、あれだけゆうゆうとした空間であるにもかかわらず、
生音がきりりとひきたつ素晴らしい空間ですね。
二階のてっぺんまでくっきりはっきりと役者さんのことばが聴こえてきました。

能・狂言、
いずれもそれらの伝統に則った演技術・型を通してわたしたちにひとつの空間・時間を提出してくれていて、
いまやその独特の芸術表現のありかたは現代においては随分と特殊性を感じさせるものなのかもしれませんが、
わたしは昨日の舞台から、
「人のことばとは」「人の身体とは」ということを考える上での新しい可能性をまた強く感じました。

また、おいおい書いていきたいと思っています。