2020年05月09日

キャロル・キング『ミュージック』と清々しい朝



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昨日までの三日間、
本当に久しぶりに仕事をさせてもらひました!
 
 
仕事を通して、
人様と繋がることができることは、
なんて素晴らしいことなんだらう。
 
 
あらためて、ありがたさを痛感しました。
 
 



一晩明けて今朝は、
これまでの長い自粛期間の、
修行僧のやうな(?)こころもちとは、
随分と違ふ、
穏やかで、安らかな朝を迎へることができた。
 
 
こんなときは、
コーヒーを飲みながら、
キャロル・キングのアルバム『ミュージック』。
 
 
前作『タペストリー(つづれおり)』での
大成功で深く自信をつけたであらう彼女が、
お腹に御子を宿しながら、
おそらくゆつたりと創り上げた、
約50年前の珠玉の作品。
 
 
聴いてゐて、
こころに寛ぎと安らぎと喜びが湧き上がつてくる。
 
 
からだの隅々の細胞が甦つてくる。
 



 
個人的には、
このウィルス騒ぎはフェイクだと見てゐますが、
とにかくも、
緊急事態宣言が発信された、
この自粛期間は、
わたし自身が新しく生まれ変はるための、
この上ない絶好の機会でありました。
 
 
お先、真つ暗、先が見えないからこそ、
第九・七年期のはじまり、
今年56歳になるこれから先の自分自身が、
どんな人になりゆくのか、
楽しみで仕方がないのです。


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2020年02月28日

戸嶋靖昌記念館にて



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東京の半蔵門にある、
戸嶋靖昌記念館を訪れました。
http://shigyo-sosyu.jp/toshima/index.html
 
 
この美術館を開いた執行草舟氏の著書をこよなく
愛読し、熟読し、精読するわたしにとつて、
ここを訪れることは、数年来の念願でした。
 
 
初めて戸嶋の絵を観るわたしに、
主席学芸員の安倍三崎さん、坂田さんが、
勿体ないほどのまことに暖かい対応をして下さり、
ていねいでこころの籠もつたお話をして下さいました。
 
 
「おもてなし」といふ、
昔から日本人が大切にしてきた行ひの恩恵に、
わたしは触れ、浴させていただいたのです。
 
 
戸嶋の絵の前に立ち、
わたしは「これが絵だ」といふ、
身も蓋もない言ひ方しかできないやうな、
烈しく強い振動と、
奥行きへと引き摺り込まれるやうな運動を感じ、
それは、
絵といふ芸術でのみ感じるものでありました。
 
 
そして、思ひもかけず、
執行氏の書斎でもある社長室へ
招き入れていただいたのでした。
 
 
執行氏はまだ出社されてゐなかつたのですが、
そこに満ち満ちてゐる渦巻きのやうな精神が、
部屋の隅々に、
膨大な本の背表紙といふ背表紙に、
ぶち当たつては還流してゐるのでした。
 
 
精神の労働のための工房の只中にゐるやうな、
興奮と感激がわたしを打つのです。
 
 
執行氏御本人がゐらつしゃらなくて、
よかつたと思ひました。
 
 
また、執行氏の文業から感じてゐた精神が、
案内をして下さつたお二方の
ことばの端々、隅々に満ちてゐるのです。
 
 
死を見据えるひとりひとりの人が、
どうひとつひとつの仕事と向き合ひ、
どうひとりひとりの人と向き合ひ、
どうひとつひとつの芸術作品と向き合ふのか。
 
 
おそらく、社員の方々、皆、
そのことの実行に、
体当たりで毎日を費やされてをられます。 
 
 
その姿を目の当たりにし、
わたしはこの記念館(企業体)は、
現代における「奇跡」だ、
そんな念ひで千鳥ヶ淵の帰り道を歩きました。
 
 
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執行草舟氏の社長室にて。三島由紀夫自筆の額の前。




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2020年01月30日

音の内へ 〜フルトヴェングラー第九を聴いて〜



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クラシック音楽を
少しづつ、少しづつ、聴き出して、
数年になります。
 

まだ、何が何やらよく分からず、
ただ、買ひ求めた数少ないアルバムを、
繰り返し、繰り返し、聴き続けてゐます。
 
 
何度も聴いて来た、
フルトヴェングラー指揮、
ベートーヴェン第九交響曲(1951年バイロイト)を、
家人が誰も家にゐないことをいいことに、
今日は大音量で聴きました。
 
 
時間の中を疾走するが如く、
フレーズからフレーズへ
ダイナミックに音が移りゆき、
しかも一音一音へ意識が細やかに配られ、 
時には、まるで天上から
突然神々が降りて来られたかのやうに感じたり、
ベートーヴェンの精神が
聴いてゐるわたしの身を揺さぶり、舞はせ、
肉体があることを忘れさせるやうな時間。
 
 
第四楽章の最後の加速していく演奏に、
ほとんど我を忘れてゐる自分がゐました。
 
 
ひとつひとつの音と声によつて、
完璧なまでに精緻に組み立てられた構造物なのに、
そのひとつひとつの響きが、
肚の底から鳴らされ切つてゐる。
 
 
すべての演奏が終はつた瞬間、
嗚咽に似た感情が、
身の内から滾々と湧き上がつて来たことに、
自分自身、驚いてしまひました。
 
 
このやうに、クラシック音楽を聴くことは、
酔狂者の一種の暇つぶしなのだらうか、
さう、みづからに問ふてみました。
 
 
さうではない、と思ひました。
 
 
喜びも悲しみもすべての感情を生き切る。
それを歌ひ上げる。
 
 
人は、そのやうに生き切らなければならない。
 
 
この演奏は、演奏そのもので、
そのことを示してくれてゐるやうに
思はれてなりません。
 
 
人生を生き切つて、
人はくたくたになり、
へたばつてしまふかもしれない。
 
 
それと同じやうに、
この演奏を聴いたあと、
やはり、くたくたになります。
 
 
しかし、
音の中に真正面から入り込んでいくことによつて、
普段の生ぬるい自分が死んでしまふ。
 
 
そんな事態に踏み込める音楽、芸術が、
いまだ存在してゐることが、
ありがたいことです。
 
 
なにごとも外に居ては分からないものですね。
 
 
内へ、内へと、入り込まねば、
と改めて念はされました。 
 
 

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2019年11月27日

Mikko 写真展「40±」



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山本 美紀子さんの初めての個展。
 
 
今日が、もしかして、初めて、
写真といふものの良さ、
芸術として存在する意味を
知ることのできた日かもしれない・・・。
 
 
お恥づかしや・・・😓
 
 
撮る人と同年代の40歳前後の女性たちが被写体。
 
 
40歳といへば、
男も女も、
これまでの人生と、
これからの人生との間の、
分水嶺に立ち尽くす時ではないか。
 
 
これまでの自分なりの生き方を続けていくのか。
 
 
それとも、
全く新しく、
己れ本来の道を、
己れの理想を追い求めて生きると、
こころを決めるのか。
 
 
ある人は揺らめき、
ある人はこころを決め、
ある人はまさに立ち尽くしゐる。
 
 
写真に写るおひとりおひとりの背景に何があるか。
 
 
明示されてはゐないが、
おひとりおひとりの後ろに拡がる風景が、
室内であらうと室外であらうと、
おひとりおひとりの情のありやう、
情景となつて、
写真の画面に映つてゐる。
 
 
それは、おそらく、
撮る人と撮られる人との歩調の重なり、
一瞬の息遣ひの重なり、
そして、その内的な歩行から見いだされる、
合意された場所。
 
 
その時、そこにしか生まれ得ない
雰囲気が写つてゐて、
それが、
人の、
重さと軽さを、
図らずも表してゐる。
 
 
写真について何も知らない、
素人の感想に過ぎないのだけれど・・・。
 
 
勝手に、
写真の見方を教へてもらへたやうな気になつてゐます。
 
 
みっこさん、ありがたう!
 
 
心斎橋の大阪農林会館の地下一階にある、
solaris(ソラリス)にて、
12月8日(日)までです。
イベントページ ↓
https://solaris-g.com/portfolio_page/191126/?fbclid=IwAR1e_WaEVmbC-32O0b5e9O8zzrcaL_j51Uq1BBc4U6ZS7LmNgX0NYCtVisk

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2019年11月09日

演劇企画体ツツガムシ「ドイツの犬」


 
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先日、新宿区中落合にある小劇場「風姿花伝」にて、舞台「ドイツの犬」を観ました。
 
 
劇団の主宰者であり、劇作家である日向十三氏の舞台。やつと観れた。
 
 
人間の姿の向かう側に存在するものへの、日向氏の良心を感じる。
 
 
それは、痛みと希み、怖れと憧れ、切なさと優しさとが、交差する舞台。
 
 
フリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜の歌」のことばがこれほどこころに浸みるとは。
 
 
いい俳優ばかり。素晴らしい演出。そして深くて重い輝きを持つ宝石のやうな作品。
 
 
いくつもの場面でこころを深く動かされたのですが、中でも、ある登場人物が最後にみづからに死を与へる。
 
 
そのとき、それはドイツ人の死であるはずなのだけれども、日本人がみづから死を決するときのやうな、極めて日本的な死の印象。わたしには感銘が深かつたのです。
 
 
11月11日(月)まで。
 
 
シアター風姿花伝 (目白)です。
http://www.fuusikaden.com/
〒161-0032 東京都新宿区中落合2-1-10
TEL:03-3954-3355
JR山手線「目白駅」より 徒歩18分
西武池袋線「椎名町駅」より 徒歩8分
西武新宿線「下落合駅」より 徒歩10分

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2019年09月30日

箕面高校OB吹奏楽団演奏会


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昨日、箕面高校OB吹奏楽団の演奏会に出かけました。

 
音楽を聴くといふこと。
 
それは、わたしにとつては、演奏者の背景に巨大な音の精神が立ち上がつて来るのを、ありありと迎えることです。
 
昨日の演奏は、まさに、まさに、そのやうな時間でありました。

わたしは聴いてゐて、涙が流れました。
 
音楽の精神とは、音の法則。
 
法則とは、厳しさ、精(くわ)しさ、確かさをくぐり抜けたあとに顕はれてくるもの。
 
それは、なんと、活き活きとしてゐて、美しく、明るく、澄み徹つたものなのでせう。
 
 
現役高校生を含めた吹奏楽団の皆さん、指揮された小西収さん、大迫智さん、旨くことばにならず申し訳ないのですが、本当に素晴らしい時間をありがたうございました。
 
演奏してゐる皆さんの姿を観てゐて、陳腐な表現で恥ずかしいのですが、音楽つていいなあ、仲間つていいなあ、人間つていいなあ、さういふ想ひで一杯になつて、夕方の箕面の街を歩いて駅に向かひました。

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2019年05月07日

未来の芸術 〜関根祥人を想ひ起こす〜


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九年前に急逝した能楽師・関根祥人。
 
わたしは、彼の舞台を初めて観たのは、確か1990年代中頃、『萬歳樂』といふ舞台だつた。
 
彼が舞台に登場すると、舞台上の空気が一変し、その一挙手一投足の動きと、彼の発することばの響きから、彫りの深い波が大きくうねりながら舞台上から客席後方へと拡がつてゆくのが感じられた。
 
そんな舞台は、それまでに観たことがなかつた。
 
しかし、これこそが、わたしが求めてゐる舞台芸術だ、さう、震へるやうな感動の中でわたしは感じ、その後、できうる限り彼の舞台を繰り返し観た。
 
能といふ舞台芸術が、極めて未来的な芸術であることを教へてくれたのは、能楽師は数多をれども、わたしにとつては彼ひとりであつた。
 
その彼が、2010年、五十歳の若さで急逝した。
 
その後、能といふ舞台芸術からわたしは遠ざかつてしまつた。
 
今日、住吉大社で、天皇陛下御即位記念の奉祝曲「大典」が演じられ、それを観てゐて、しきりに彼のことが思ひ出された。
 
からだとこころと精神の感官を研ぎ澄ませ、伝統の力を敏感に繊細に感じること。
 
さうしていかないと、伝統主義の虚偽を見破ることはできない。
 
それは、演じる者にとつても、観る者にとつてもだ。
 
もはや、伝統主義やお決まりのスタイルに拠りかかつてゐるだけでなく、清新な息吹きを舞台に吹き込まなければ。
 
そのとき、我が国の伝統が新しいかたちで甦る。


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2019年03月22日

富岡鉄斎 ――文人として生きる

 
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大和文華館の『富岡鉄斎 ――文人として生きる』展に足を運んだ。
 
圧巻だつた。 
 
絵を観るといふ行為は、色彩と線と余白に秘められてゐるこころを観ることである。
 
こころを観ると書くとき、「観」の字を使つたが、この「観」といふ字はそもそも「觀」と書き、左側の偏は「雚」で、鳥である。
 
だから、「觀る」とは、鳥のやうに翼を羽ばたかせ自由に空を舞ひながらものを見る、そんなこころの若々しい働きのことである。
 
「觀る」とはまた、高みに舞ひ上がりながら、まるごとを見晴るかすことであり、同時に高みから下方にある一点に突撃急降下するやうな、こころの働きである。
 
絵を通して画人のこころの働き、氣の動きを觀る。それは、画人の内的な動きに沿つて、觀る者も共に動き、踊り、舞ひ上がるといふことだ。鉄斎は、その共なる舞踊と飛行の歓びをたつぷりと味ははせてくれる。
 
ちなみに鉄斎はあくまでも自らを学者とし、画は余技とみなした。それは、一個の作品が己れのこころの動きを収めるだけでなく、そこに、古今にわたる先人たちの叡智・学識といふ河の流れのやうな精神の伝統を注ぎ込まうと志したからである。
 
「萬巻の書を読み、千里の路をゆく」といふ隣国だつた明の文人画家が掲げた志とも言ふべき職業倫理を、鉄斎は終生貫いた。
 
ひとつひとつの作品の、絵と文と余白からなる平面における構成。それは、何十年にもわたつて先人の筆の運びに倣ひつつ身につけたものであらうが、いささかも単なる模倣に堕してゐない。過去に徹底的に学んだ者だけが得る自由自在が、その構成の妙として顕れてゐて非常に味はひ深い。
 
今回の展示で掲げられてゐる作品のひとつ『月ヶ瀬図巻』など、どうだらう。
 
春の月ヶ瀬の渓谷にわたる白梅と紅梅の連なり。山の面を占めるほのかな緑と、あなたにたたなづく青い山蔭。
 
縦十九センチ、横三メートル半にわたるこの長巻の前を、右から左へ歩を進ませながら觀るとき、その一筆一筆の運びから、淡く彩られた色の配置から、得も言はれぬ音楽が聴こえて来る。
 
「山水を築き、門戸に身をゆだねると、画を觀る者の内には煙霞(えんか)が限りなく拡がる」と、ある画の跋にある(原文は漢文)。
 
絵を觀るとは、一枚の画布の向かうに「煙霞」のやうに限りなく拡がる「別世界」に、入つて行くことである。
 
 

 

大和文華館に、わたしは、おそらく、おほよそ十年に一度位の割合で足を運んでゐると思ふ。二十代、三十代、四十代、そしていま五十四。
 
奈良の学園前、閑静な住宅街を通り抜け、どこかしら大和路の香りのする雰囲気にそのつど胸をときめかしながら、ここに絵を觀に来る。
 
館の前に、福島県三春町から移植したといふ三春滝桜が見事な枝ぶりで、その蕾が桜色に膨らんでゐた。あと一週間もすれば、滔々とした春の美を発散させるだらうと思はれた。
 
 

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2019年02月18日

小西 収さんによる『音楽テーゼ集』


小西 収 (小西収)さんが記されてゐる文集『音楽の編み物』。
 
ここに収められてゐる文章は、筆者が演奏者、指揮者、編曲者として音楽の内側に活き活きと入り込む何十年もの時間の中から生まれたもので、どれも非常に興味深く、含蓄と芸術的・哲学的示唆に溢れたものです。
 
とりわけ、十数年前に書かれた文章で、最近再録されたものである『音楽テーゼ集』。
 
これは、芸術に直接携わつてゐる者には、ジャンルの違ひはあれども、そこにはつきりとした共感を寄せうる記述の連続です。
 
思はず、さうさう、と膝を打ちながら喜悦の内に読んでゐます。
 
 
 
 テクスト=書物(本)は、
 文章の《存在以前の状態》の典型である
 
 楽譜=スコアは、
 音楽の《存在以前の状態》の典型である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)

 
 

さうなのです。
 
「文章の存在以前の状態」が、確かにあるのです。
 
言語造形といふことばの演奏は、テクストといふ元手(典型)を踏み台にしながら、その「文章の存在以前の状態」に歩み寄つて行く営みであります。
 
きつと、音楽を奏でる行為とは、楽譜を元手(典型)としながら、音楽の《存在以前の状態》へと踏み入つて行く営みです。
 
だからこそ、そこには、精神の自由が生まれ得ます。
 
 
 
 一つの音楽作品を編曲の対象としてみるとき、
 それには、微分方程式の一般解に相当するような、
 “原曲以前”の原初的側面がある
 
 (第五章「編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である」から)

 
 
この「“原曲以前”の原初的側面」は、作曲者本人でさへも意識してゐない可能性がある側面です。
 
よつて、文学作品も、作者本人に触知されてゐない精神の傳へを、演奏家である言語造形をする者が触知することがあり得ます。
 
なぜなら、音楽演奏も言語造形も、「音」と「ことばの音韻」といふ人が創り出したのではない、神が人に贈り給ひしものをその素材としてゐるからなのです。
 
その素材こそが、作曲者や作家の意図を越えて、ものを言ひ、演奏者や俳優は、その音の響きが何を伝へようとしてゐるかに耳を澄ますことが仕事であるからです。
 
 
 作曲者とて演奏する「私」にとっては他人である。
 ときには作者をも脇に置き、
 作品そのもののテクスト=楽譜を自分で読むこと
 ──それが、読譜の基本である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)




2018年09月23日

音楽による空間造形のリアリティー 〜箕面高校OB吹奏楽団第8回演奏会〜


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小西 収さんが指揮する、箕面高校OB吹奏楽団第8回演奏会を次女と共に聴きに行きました。
 
場所は、箕面市立メイプルホール。音の響きが素晴らしい会場でした。
 
そして、なにより、驚愕の小西さんの指揮。
 
全身全霊の指揮によつて、楽団のポテンシャルを引き出す、引き出す!
 
音楽に関して、全く語彙力のない自分が情けないのですが、彼の指揮によつて、楽器を奏でる楽団員ひとりひとりの背後の空間から、その都度その都度、音楽的建築物が立ち上がつてくるのです。
 
この音楽による空間造形の圧倒的なリアリティーに、涙が溢れてきます。
 
小西さんはじめ箕面高校を卒業してから40年以上経つOBの方々から現役高校生まで、楽団一丸となつて音の芸術に喜びと共に奉仕してゐる姿。
 
音楽に対する情熱と愛。
 
それは、本当に、かけがへのないものだと感じました。
 
演奏に一心に取り組んで下さつた皆さんにこころから感謝します。
 

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2018年08月07日

美という理想と偉大なる敗北 〜映画『風立ちぬ』を観て〜


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五年前、ジブリの映画『風立ちぬ』を観た時の「美」について感じた拙文章です。
 
その映画の中で、主人公が何度か「美しい」といふことばを言つてゐました。
 
「美」とはなんだらう。
 
「美といふ考へ・イデ―」・・・。
 
考へ・イデ―といふものは、そもそも、目に見えません。それらは精神の世にあります。
 
この世に実現されるべき「理想」といつてもいいのではないでせうか。
 
その考へ・イデ―・理想が見事に整ひつつも活き活きと躍動しながら、この世の何かに宿つてゐるのを見いだした時に、そのイデーをことばにできず、ことばになる前に人は「美しい」と感じてしまふ。
 
主人公は、大空を駆け巡る飛行機のフォルムと機能性にその「美」を追ひ求めてゐます。
 
さう、飛行機といふイデ―そのものが、きつと、「美」を体現しうるものだといふ憧れと予感を手放さずに、その「美」を実現するために飛行機の設計に取り組みつづけます。
 
飛行機が戦闘機として人を殺戮するための兵器であることを求められたとしても、彼は、子どもの頃からこころのうちに大切に育んできた「美といふ理想」を決して手放さず、その「理想」の実現のために毎日を静かに、しかし、懸命に生きます。
 
それは、人が空を飛ぶといふイデ―そのものが、もう既に「美」であり、「人であることの更なる可能性」であると彼が感じてゐるからなのでせうか・・・。
 
そして、彼はこころの次元に於て、既に空を飛んでゐます。美しく大空を駆け巡つてゐます。
 
既にこころに於て理想を生きてゐる人が、己れのこころのありかたに等しい世界を求めるのでせう。
 
「美」を求める生活、「美」を追ひ求める生き方、それは、表層のものではなく、既にもうこころに宿つてしまつてゐる「理想としてのわたし」を、ただ表の世界に実現する、その人その人のありかたなのでせう。
 
こころの奥に「美」を既にもつてゐる人こそが、その「美」に等しいものを外の世界にも見いだし、創りださうとする。
 
そのやうな、美を求める唯美的、理想主義的精神は、この世の経済戦争、政治戦争、そして人と人とが実際に殺し合ふ本物の戦争に於ては、必ず、敗れ去るでせう。
 
しかし、この世では敗れ去るからこそ、逆に精神として勝ち、時の試煉を経て必ず人から人へと引き継がれていく不朽の生命を得る。
 
そのやうな逆説をわたしたちはどこまで本気になつて受け止めることができるでせうか。
 
映画から、そのやうなことを感じました。
 
宮崎駿氏の言ふことや書く文章は、個人的にはわたしはあひ入れられないところが多々あります。
 
一見グローバルに拡がる意識の連帯・共有を目指しながら、その実、狭い戦後的言論空間に無意識的に閉じ込められてゐる知識人特有の悲しさを感じてしまふのです。
 
しかし、彼が、それこそ、意識の向かうから引つ張られるやうに描いてしまふ画像の連なりから必然的に生まれて来る物語には、ほとほと魅せられてしまひます。
 
不思議なことです。
 

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2018年06月23日

小西 収さんによる『楽藝の会』


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小西 収さんによる『楽藝の会』の演奏を聴きました。
 
<わたし>といふ意識と、わたしから離れた「おのづからなる働き」といふ無意識の働き。
 
このふたつの間になりたつ美を育てていきたい。
 
そんな小西さんの音楽に対する憧憬と情熱が、精神的に、かつ肉体的に繰り広げられるのを、一気に目の当たりにした。
 
そんな感慨です。
 
本当に、素晴らしい、一瞬、一瞬、でした。
 
柳宗悦の民藝運動の音楽版のやうな活動を、といふ志を持たれてゐる小西さんの『楽藝の会』の活動、わたしはこれからも大注目なのです。
 
小西さん、山崎さん、そして演奏された皆様、今日は本当にありがたうございました。

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2018年06月02日

見える音楽 〜福間洸太朗氏のピアノ〜


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多国籍の人々で賑はふ四条大橋の上から美しい夕方の鴨川

昨夜は、京都に福間洸太朗氏のピアノを聴きに行く。
 
圧巻のムソルグスキーの「展覧会の絵」。
 
音楽とは、聴きとられた天の楽音だ。
 
からだまるごとで舞ひ上がるフォルム、切り裂く稲妻、満天に瞬く星々のきらめき、宇宙大に屈伸される上腕と十指によつて描かれる色彩。
 
舞台の遥か上、それらは瞬間の閃光のやうだ。
 
音楽が見える。
 
聴き終へたあとの夜の眠りは、再び、拡大された音楽に満たされてゐる。
 
 
 


2017年05月18日

The Beatles『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 』


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12歳の時、小遣ひで生まれて初めてわたしが買つたLPが、この『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 』でした。
 
それからといふもの、學校から歸つてきては、毎日毎日、聽き續けました。
 
あのときに感じてゐた、この音樂の持つ魔法のやうなものは、わたしの毎日を劇的にひつくり返したのです。
 
そして、今年2017年。このアルバムが世に出て50年。いま聽いてもそのみずみずしさを感じることができます。
 
なぜなんだらう、と、2014年發賣のモノラルアナログ盤で改めて聽き直してみました。
 
彼らは1966年の夏を最後にライブツアーをやめて以來、自身の内側で成熟してきた新しいアイデア、音樂的見識、レコーディングの技倆、そして人生觀と世界觀のすべてをこのレコードに叩き込んだ。そんな強い印象を受けます。
 
『Help』『Rubber Soul』『Revolver』で、既に彼ら(特に、ジョン)の内側で膨らんできてゐた、外側で起こつてゐる狂騒劇に對する葛藤・憤懣・問ひが顯わになり、それと共に、作曲、作詞、アレンジ、演奏、録音技術などにわたつて急激にその質を高めてきてゐたのですが、このアルバム『Sgt Pepper's Lonely Hearts Club Band 』には、それまでに欝積してゐたフラストレーションから完全に解き放たれ、その時點で自分たちが持つすべてを爆發させることができた彼らの姿が音として刻み込まれてゐるやうに感じます。
 
その音像は、第二のデビューのやうな初々しさ、みずみずしさ、躍動感に滿ち溢れてゐて、サマーラブと云はれた1967年夏、どれほどのときめきをもつて世界中の若者がこれを激しく聽いただらう、そんな想像に駆られます。
 
「Getting Better 」「She's Leaving Home 」「When I'm Sixty Four 」「Lovely Rita 」(全部、ポールの曲)など、青盤(1973年発売のベスト盤)には入つてゐない名曲が目白押し。
 
とりわけ「She's Leaving Home 」はこのモノラル盤ではステレオ盤に比べてピッチが速く、この靜かで美しい曲には、この輕やかさがとてもよく合つてゐて、個人的にはステレオ盤のものより大好きです。
 
アナログ盤のB面一曲目の「Within You Without You」。ジョージがインド音樂に深く深く入り込んで生まれた作品で、『Revolver』に收められてゐた「Love You To」よりも數段深みを増し、このアルバムに瞑想的な靜けさをもたらしてゐます。
 
そして最後の曲「 A Day In The Life 」において、それまでの狂氣の沙汰といつてもいいやうなビートルズ旋風をジョンは高みから見下ろしてゐるやうです。
 
ジョンは、音樂を創つていく共同體としてのビートルズに對して、「俺は、いち拔けた」といふ念ひを意識と無意識のはざまで、持ち始めたやうに感じられます。
 
ポールの「さあ、俺たちはこれからだ!」といふ意氣込みと對照的であるがゆゑに、このアルバムは獨特の複雜な調べを底に響かせてゐます。
 
だからこそ、この作品には盡きせぬ魅力があるのかもしれない。
 
ジャケットにも、これまでにないカラフルさと、底知れないやうな不安が同居してゐて、1967年の空氣感を見事に表し、更にシーンを牽引していつたことが伺はれます。
 
今年6月、このアルバムが発売されて50年。
わたしがこのアルバムを手に入れて40年。
 
ザ・ビートルズによる20世紀大衆音樂アルバムの最高傑作だと、いまだに思ふのです。

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2016年05月07日

気韻生動 山水は生きて動く 〜鉄斎展を観て〜 


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終展間近の兵庫県立美術館『富岡鉄斎展』を観る。
 
ここのところ熱中してずっと読んでいる島崎藤村の『夜明け前』。
 
その作品の主人公・青山半蔵(藤村の実父・島崎正樹がモデル 1831年生)と、同時代を生きたであろうこの富岡鉄斎(1837年生)の画業とが、どこか重なるのではないか、そんな想いで足を運んだ。
 
『夜明け前』は、日本という国のおおもとを問うべく、近世国学に殉じた半蔵の生涯を描いた作品である。
 
鉄斎も若くして奔走した明治維新のあとに堺の大鳥神社の宮司を務めていた。そのころの写真が展覧会の最初に掲げられてあり、まず、じっと見入ってしまった。

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鉄斎は自身を画描きではなく、文人・学者であると思い、公言もしていたそうだが、その彼が八十九年の生涯の最後まで描いて描いて描こうとしたものを観た。
 
しかし、切磋琢磨に貫かれたその長年月の業を、二、三時間で観ようとは浅はかである。小林秀雄でさえ、一度、四日間朝から夜までぶっとおしで鉄斎を観たという。
 
そんな自分にも感じられるものが多いにあった。
 
水墨画を描くときにおける基本の六法の一つ目に、「気韻生動」というありかたが挙げられているそうなのだが、その気韻が今も圧倒するように活き活きと動き、初めて鉄斎の画の前に立つ自分のまるごとを掻きまわし、動かし、世の奥へと、陶然とさせる透明さへと連れてゆこうとする。 
 
山水というものは、生きて動いているのだ。
 
日本という国のおおもと、それは我が国の神話に語られているとおりである。
 
いまも、国生みはなされ続けていて、神々は生きて働いておられる。

そしてわたしたちの生き方の奥底には、いまだ、生きて働いている自然との共生感、親しみ、畏怖の念いが息づいていはしないだろうか。
 
そのことを鉄斎の画は、画讃とひとつになって教えてくれようとしている。
 
その神話を、現代においても、真摯に、密やかに、自分の生活と人生の根底に見いだすことは、あなたにとってどういう意味があるのか。 
 
読了前ではあるが、『夜明け前』という、藤村の問いも、そこを突いてきているように思われる。 

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2016年02月12日

濱田庄司 〜民藝運動の髄〜


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今朝は、東大阪市民美術センターにて開催中の、
「濱田庄司と芹沢_介ー民芸運動の巨匠とゆかりの作家達」
を観に行ってきた。
http://higashiosaka-art.org/exhibition/index.html
 
濱田庄司の陶芸作品をたっぷりと味わう。
 
作品と眼の間に初めからシンパシーの糸が通い、
眼(まなこ)吸い寄せられる如くであった。
 
焼き上げられた土の質。
その表に顕れた色彩。
 
触りたい気持ちを抑えつつ、
それらに面していると、
その美しさは、
この身もろとも、
そのままどこかへ沈んでいくように感じる。
 
表に輝きいずるのではない、
裏に潜んでゆこうとする美しさ。
 
この美しさは、
いったいどういう生活から生まれてくるのだろう。
 
おそらく、そここそが、
柳宗悦によって、
我が国に大正末期から昭和初期にかけて生みだされた、
民藝運動というものの髄のところだ。
 
(写真の陶芸作品は、今展覧会のものではありません)

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2016年02月11日

能舞台 すべてがある空間 〜狂言発表会終わりました〜


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大和座狂言事務所 ≪Kyogen YAMATOZA≫・艸言会主催の
『 2016 狂言之会 』に家族そろって出演させていただきました。
 
百年長屋での約一年間の稽古をつけて下さった安東元先生、
また、今日の舞台を創ってくださった大和座の皆様、
本当にこころから感謝いたします。
 
このような舞台を創り上げることの大変さ。
いかにたくさんの方々の無償の御働きがあることか。
 
その舞台に上がらせてもらうことの贅沢。
 
それは、ことばでは言い表すことのできないほどです。
 
そして、能舞台というところに立たせてもらい、
その空間の持つ、果てしのない可能性を、
予感・実感・体感することができました。
 
何もない。
しかしすべてがある。
 
能舞台とは、
舞台というイデ―をほとんど直截にかたちにしたものだと感じます。
 
舞台に立つことを「ことよさし」としての仕事としている、
わたしたち家族にとって、
この経験は、とても、とても、重要なものになりました。
 
四方八方から見えない力の線によって引っ張られているかのような、
能舞台の真ん中に立った子どもたちにとって、
さて、この度の体験はどのようなものとなって、
これから先の人生において、
からだとこころの内に深まっていくことでしょうか。
 
2016年度も、引き続き、百年長屋にて親子狂言教室が開催されます。
 
ご関心のある方は、ぜひ、どうぞ。
こころからお勧めします。
 
共演してくれた仲間たち、
朝の早くから今日の舞台を観に来て下さった皆さん、
稽古場を提供して下さった百年長屋の緑さん、
毎回の稽古を見守ってくださり、
写真も撮ってくださった古賀さん、
かさねがさねになりますが、こころより感謝いたします。
どうもありがとうございました。

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2016年02月05日

ひとりひとりの顔 〜モーリス、ありがとう!〜  


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大袈裟なようだけど、わたしの人生を変え、その後も支えつづけてくれているような作品『FACES』。
 
果てしなく深い世界観、宇宙観を抱きつつも、
極めて高い技量をもって、
極めて平易なことばでの表現を、
みずからに課しつづけていたモーリス・ホワイトと仲間たち。
 
ひとりひとりの顔、そしてそこにおのずと表れる微笑み。
それこそが、
この世界を築き直していくための、基(もとい)なんだ、と。
 
そう、毎日を生きていく上での指針を、
高らかに、明らかに、誇りをもって、謳い上げる。
 
闇を見た人にして、初めて、
このシンプルな「ことば」に触れることができるのではないだろうか。
 
わたしなど、実際に、家庭を持ち、家族を養っていく上で、
家長(死語?)の微笑みが妻や子どもたちに与える目に見えない影響は、
深く、ずっと長く続くものだと実感している。
 
家庭こそが、世の基だものね。
 
いまだに1980年に買ったアナログ盤で聴いているアナログ男なんだけど、
この二枚組のアナログ盤を通してもたらされる、この上ない喜び。
決して飽きることのないポピュラリティーに満ち溢れている。
 
そして、モーリスとフィリップによる、
ヴォーカルとコーラスのアレンジの驚異的な素晴らしさ。
このふたりは、どう歌えば、聴き手を気持ちよさのなかに一気にもっていくことができるかを知り抜いている。
 
スティーヴィー・ワンダーの『Songs in the Key of Life』に比しても、全く遜色ない、と個人的に感じている。

モーリス、
あなたは巨大なミュージック・ビジネスのなかでも、
人間的なこころを失わず、
人間的な音楽を創りつづけてくれました。
ありがとう!

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2015年12月26日

音楽の喜び クリスマスの夜

 
昨晩、大阪市立大学生による交響楽コンサートを家族で聴きに行きました。
昨年のクリスマスに引き続き、今年で二回目。
 
若い人たちによる演奏。
緊張気味ながらも、端正に、重みをもって奏でられたシベリウスの「フィラデルフィア」から始まり、最後は、圧巻のチャイコフスキーの「悲愴」。
 
持てる力を振り絞って演奏している彼らの姿の上に、
楽音そのもののが、軌道を描きながらめくるめくように運動しています。
 
こころの世を駆け巡る運動そのもの、
瞬間瞬間にこころの世に映し出される、色彩をもった景でもありました。
 
ことばには言い表すことのできない情というものが、
景色として立ち顕れる。
「情景」とは、よく言ったものだと思います。
 
演奏家がプロでも、アマでも、関係なく、
聴き手であるわたしたちは、
きっと、どこまでも、人の深さを聴き取ることができます。
 
妻も娘たち二人も一緒に深い喜びに包まれて家に帰ってこれた、
嬉しいクリスマスの夜でした。

2014年07月03日

セザンヌ 感覚を実現すること

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画家とは、何をする人なんだろう。
確か2年前、セザンヌ展を観に行って、そのことを考えさせられた。
http://cezanne.exhn.jp/

道楽で絵を描くのではなく、
「仕事」として絵を描くとは、どういうことか。

セザンヌのことばによると、
「感覚を実現すること」、
それが彼にとって絵を描くことによってなしていきたいことであり、
彼の「仕事」だった。

彼が強い意欲をもって、ものを見ようとすればするほど、
自然が自然そのものの内に秘めている持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。

そして、
自然からのそのような「もの」の流れに応じるかのように、
あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。

その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。
そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
そのふたつの出会いそのものを、
キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。

その求めに応えるのが、「感覚の実現」であろうし、彼の仕事であった。
その求めに応え続けたのが、彼の生涯だった。

少し時期がずれるが、ルードルフ・シュタイナーの『こころのこよみ 第5週』を引いてみる。

Im Lichte, das aus Geistestiefen

精神の深みからの光の中で、

Im Räume fruchtbar webend

その場その場で実り豊かに織りなしつつ、

Der Götter Schaffen offenbart:

神々の創りたまふものが啓かれる。

In ihm erscheint der Seele Wesen

その中に、こころそのものが顕れる、

Geweitet zu dem Weltensein

ありありとした世へと広がりつゝ、

Und auferstanden

そして立ち上がりつゝ、

Aus enger Selbstheit Innenmacht.

狭い己の内なる力から。



世は、人に、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまうもの」を啓いてほしいと、
希っている。

なぜなら、それによって、
人は、
狭い己の内なる力から、
 ありありとした世へと広がりつつ、
 自分の足で立ち上がりつつ、
 自分自身のこころそのものを顕わにする」
ことができるからなのだろう。

セザンヌは、そのことを、意識的になそうとした人だと感じた。

posted by koji at 07:20 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする