2025年01月07日

無名の美



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ひととせのはじめに音楽の美しさに触れたい。


そんな願いから、小西 収さん率いるトリカード・ムジーカの「第三回 楽藝の会」に足を運びました。大阪北部の箕面です。山があり、とても空気のいいところです。


少しの休憩を挟んでの二時間強に及ぶプログラムでしたが、わたしにはあっという間の二時間でした。


以下、音楽の門外漢による拙い感想・「体験」記を記させていただきたく思います。


山崎淳子さんによるライアー演奏でプログラムがはじまり、わたしはひとつひとつの音(ね)に導かれるように、いま、ここにしかないひとつの世、音楽の世にいざなわれて行ったのでした。


その後、メンバーの皆さんおひとりずつの独奏や二重奏によって、聴き手のわたしのこころもちはやわらぎ、昂り、ほどかれ、その時点ですでに音楽の美しさが肌の内側に浸透して来ているのをありありと感じていました。


しかし、少しの休憩の後、指揮者の小西さんと十一人の演奏者によるモーツァルトの交響曲40番ト短調が鳴りだした途端、わたしは自分のからだの下の方から何かが湧き上がって来るのを感じ、まぶたに涙が溢れ出て来たのです。そして、大地から揺さぶられているような感覚でその第一楽章と第四楽章を聴き終えたのでした。この曲をこんな風に感じたことは、これまでにないことでした。


その後も、ベートーヴェンの交響曲第九の第一楽章と第一の全楽章を聴きながら、わたしはその空間に、山のような、川のような、風のような、光のような、「自然」が繰り出すのを観るのでした。


そして、小西さんの指揮と演奏者の方々の演奏の織りなし合いに、「人と世があることの意味」が建築物のように一瞬一瞬打ち樹てられて行きます。


ことばでおのれが観たものを表現することはとても難しいものですね。しかし、わたしは、ここ数日かけてあの音楽体験をなんとかことばにしたいと願っていました。しかし、このように拙く述べるしかありません。


プログラムパンフレットに小西さんが記された「楽藝の会に寄せて」という文章(下にコピペさせてもらっています)は、いくたびも読むほどに感を深くさせられるのですが、そこに「彼(柳宗悦)のいう民藝の音楽版のような活動ができれば・・・」とあります。


「柳が日本民藝館に無名の美の宿る多くの工藝品/民藝品を陳列したように、私はそばに咲く「楽の花/美の声」の担い手に参集してもらい、いわば“音楽の園芸家”として“楽藝館”内に“楽音の園”を整えんとしてみた、と私からは言えます。」


この「無名の美」というもの。


それは、どこから生まれ出づるのでしょう。


わたしは、そのことをここ数日、自分自身に問うていました。


そして、こう応えが返ってくるのです。「それはただひたすらに長いときをかけての、その人の成熟からだ」と。


俗にいう有名無名を超えて、すべての人に、美しさは宿りえる。その美しさは、きっと、その人の生き方であります。その生き方からおのずと生まれ出づるもの。そういうものに従って、わたしも生きて行きたい。


そんな念いを胸に、新しい年のはじまりを迎えることができました。


以下、シェアができなかったので、小西さんの上げられた文章をコピペして載せさせていただきます。


小西さんはじめ演奏された皆様、本当に美しき善きめでたき時間をありがとうございました。



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2025年1月4日(土)
第3回 楽藝の会。
今回も、私の敬愛する奏者たちの演奏を聴き、彼ら彼女らとの演奏を共にする、至福のひとときとなりました。
──と、前回は上のように書いたのみでしたが、今回はやや饒舌モードで。
打ち上げでは「速い!」「長い!」と責められ…って、もちろん談笑が伴いつつのものです😆が、「速い」も「長い」もその通りであり、ぐうの音も出ないわけでして…。
「(普段よりも)速い」について。リアルタイムに自覚できていた部分とそうでもない部分とがあり…(頭掻)。当方、年男でありますが、還暦というのは指揮者としてはまだまだひよっ子とも言え、ご容赦のほどを…という気持ちです。よりいっそう精進して参る次第です。
「長い」について。物理的に長時間だったのと、曲目によっては「普段の集いでの演奏回数/熟成」との比のギャップ(すなわち、巷の言い方ですと「練習不足」)がやや大きく、奏者に無用な負担をかけた部分があっただろう…ということです。
新年早々の開催ながら、前回よりも多くの、それでいて“質の高さ”は不変の、温かな観客の皆様に恵まれ、この点も嬉しく、とても感謝しています。ありがとうございました。こちらの方は細かくは休憩時間の設定の拙さなどあり…次は気をつけます。「“来たるべき”楽藝の会」へ向けての応援も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
以下に、プログラムに掲載した「楽藝の会に寄せて」の全文を引いておきます。トリカード・ムジーカ指揮者・“始動”者の自分を園芸家に喩えた所は我ながらやや強引かとも思いますが、柳宗悦の文章に心打たれて始めたのがトリカード・ムジーカであるということを短く伝えるための拙い凝縮と受け取ってもらえればありがたいです。
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 柳宗悦(やなぎむねよし 1889─1961)は、「ものの見極め」のために、何よりも「直観」を重視していました。彼のいう民藝(運動)の音楽版のような活動ができれば…という(まさにこれも直観的?)発想のもとに「トリカード・ムジーカ(音楽の編み物)」を私は始めたのでした。当会を「楽藝の会」と名付けたのも、もちろん「民藝」にあやかってのことです。
 私のような者でも、幸い、音楽の美を美と受け取る直観力は授かったように思います。その私が日々受け取ってきた身近の音楽美を一日に集結させたのが本日の「楽藝の会」だといえます。柳が日本民藝館に無名の美の宿る多くの工藝品/民藝品を陳列したように、私はそばに咲く「楽の花/美の声」の担い手に参集してもらい、いわば“音楽の園芸家”として“楽藝館”内に“楽音の園”を整えんとしてみた、と私からは言えます。“園芸家”=指揮者自身の腕の方は稚拙?で、tuttiではときに柳のいう「絣」のような「擦れ」たものになるとすれば、それはすべて私の至らなさに依るものです。いや、柳は「絣美について」で、そうした絣の「擦れ」をまさに讃えていたのでもありました(微笑)。いずれにしても、「楽の花」=「奏者の楽音の美」自体は確かに在る。そしてその美は、観客のみなさまを含めここに集ったすべての人がともに耳を澄ませ同じ時間を過ごす中で、より良く醸成されていくものでもあると考えます。



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2024年03月07日

世の深淵を開示する芸術家たち 〜モネ展を観て〜



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大阪の中之島美術館に、モネの作品を観に行きました。


絵の横に付してある題名も解説も何も読まず、ただただ、色だけを観てをりました。


その色彩から、めくるめくやうな、音楽が響いて来るのでした。一枚一枚の絵に固有のメロディーとハーモニーが奏でられてゐるのです。色彩と音楽がひとつとなつて流れ出し、絵の前に立つわたしはその流れに包み込まれるのでした。


そして、こう思はざるを得ないのでした。池に浮かぶ蓮の花、岩壁に波を打ち寄せる海の向かうに拡がる空を、こんな色あひで観た人は、モネ以外誰もゐない。色は、眼で見るのではなく、こころで観るのだ。


絵の前から絵の前へと流れゆく大勢の来場者の中においても、絵と音楽とわたしといふ、密(ひめ)やかな時間を生きることができるのでした。


家に帰つて来て、二十年ほど前に読んだ小林秀雄の『近代絵画』のモネの章を読み直してみました。


そこには、次にやうなことが書いてあります。


もつと直接に風景を摑みたい、光を満身に浴びて、鳥が歌う様に仕事をしたい。


モネの内に迸り始めた狂気のやうな情熱の根本の動機とは、それであつた、と。


そして、小林は、こう書いてゐます。


●光の音楽で、身体がゆらめく様な感じがする。これは自然の池ではない。誰もこんな池を見た事もないし、これからも見る人はあるまい。私はモネの眼の中にゐる、心の中にゐる、そして彼の告白を聞く。


●モネの印象は、烈しく、あらあらしく、何か性急に劇的なものさへ感じられる。それは自然の印象といふより、自然から光を略奪して逃げる人の様だ。


●印象主義によつて解放された光の新しい意識は、画家達を、今迄はつきり感じた事のない、音楽と絵画との相関関係の意識に導いた事は否めない。


文章を上手に書くといふことは本当に凄いことだと唸つてしまひました。


そして、絵であれ、文章であれ、芸術家は、手の内にある素材と格闘し、世の浅瀬ではなく、深淵を新しく開示する人なのだと、あらためて念ふのでした。





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2023年04月30日

「マタイ受難曲」を聴く



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昨日、大阪枚方市の關西醫科大學大ホールにて行はれたバッハの「マタイ受難曲」を次女とふたりで聽きに行きました。


以前、言語造形の公演でチェロを彈いて下さつた山口健さんがフェイスブックで紹介して下さつてゐた公演だつたのです。山口さん、ありがたうございます。本當に素晴らしい公演でした。


娘の誕生日が近いので、誕生日プレゼントのつもりで、當日朝、誘つてみましたら、「行く」と言つてついて來てくれました。


會場に着いてみますと、大ホールの一階はぎつしり滿員、おそらく二階も三階も聽きに來た人たちで一杯で、千人を超えるお客さんでした。


一曲目の合唱曲「來たれ娘たちよ、われと共に歎け」を聽いて、わたしは譯も分からないやうな情がいきなりこみ上げて來て、滂沱の涙です。


前半、後半、それぞれ一時間半、計三時間強の公演、何度、涙が溢れて來たことか・・・。


十字架に掛けられようとしてゐるイエスを弟子のペテロが三度否認し、自分はキリストと何のかかはりあひもないと云つて否定する箇所のあと、そのペテロが外へ出て行き、さめざめと泣いた、と云ふ短いけれども痛切極まりない旋律のことを、音樂評論家の吉田秀和氏が書いてゐました。


「ここを聽いて、胸をつかれないとしたら、その人は音樂を聽く必要のない人だ」と。


果たして、その場面における福音史家役の畑儀文氏の吐く息の中の震へるやうな小さな聲の響きたるや・・・。


終演後、客席からの拍手が鳴り止みませんでした。


歸りの電車の中で、娘は、キリストの意味、神と人との關係、人の罪、その他、樣々なことをわたしに訊いて來ました。


15歳の人にとつて、これからの生きて行く中で、今日の音樂が、どう響き續けるのか。


また、いつの日か、別の角度からでも、樣々なことを語り合へたらいいなと思ひます。






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2021年07月05日

遊びの遊びたるところ 〜ダンスカンパニー「チチカカコ」公演〜



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京都で、鈴村英理子さん率いるダンスカンパニーチチカカコの第一回公演『ともしび』。


「チチカカコ」は、乳飲み子を抱えたお母さんたちが始めたダンスカンパニーです。


蒸し暑い京都の街をくぐり抜けて、会場の京都芸術センターに辿り着きました。


しかし、4〜5歳の幼な子たち、小学生たち、母親たちが、舞台の上に現れ、ドラムの生演奏と共に公演が始まるやいなや、一気に、観てゐるわたしのいのちが甦つて来ます。


舞台の上で、幼い子どもたちから、遊びといふものの本質、遊びの遊びたるところが、顕れて来るのです。


踊らされてゐるのではなく、子どもたちの足元から、舞台の床から、大地から、「動きたい」「踊りたい」「遊びたい」、欲する力が沸き上がつて来るその瞬間。


その日が、三連続公演の最後だつたこともあつてか、幼な子も疲れてゐて当然、当たり前のやうに舞台の上で、動かなくなつたり、ふてくされてしまふ子もゐます。


しかし、見事にダンスとして造形された母親たちの動きの中で、母の背におんぶされ、腕に抱かれ、胸と胸を合はせ、あるとき、まるで、曇り空からお陽さまの光が差し込んできた時のやうに、元気一杯の遊びの精神が、喜びの微笑みが、再び、その子の全身に甦る。


それは、日常の中で、幼い子どもたちの様子として、よく見ることのできる光景ですが、その意図せぬあるがままの幼い子どものありやうが、見事に設へられた芸術の中で、浮き彫りにされたのです。


「芸術とは、高められた自然である」といふことを、目の当たりにした時、観てゐるわたしのこころが、なぜか激しく脈打ち始め、涙が溢れ出て来たのでした。


そして、母親の方々、おひとりおひとりの顔の表情、瞳の輝き、腕の動きが、とても美しく輝いてゐます。


母であること、女であることのふくよかさ、美しさと共に、おのおのひとりの人であることの輝き。


ダンスといふ芸術が引き出す愛のオーラの中で、幼な子たちと共に創り出す母なるものの精神をありありと観た稀有なる一時間でした。


また、HIDE さんによるドラムとパーカッション演奏。躍動に満ちつつ、繊細な、女性的でありつつ、深く太い男性性をもつ演奏。


その演奏が、この、母と子によつて生まれた新しい芸術を、舞台の上にすつくと立ち上がらせ、律動させ、時に鼓舞し、時に制御し、まるごとにいのちを吹き込んでゐたのです。


夏のはじめのひととき、この美しい、あまりに美しい公演を創り上げてくれた、幼な子たちとお母さんたち、スタッフの方々に、こころから感謝。


そして、このダンスカンパニーを率いてゐる英理子さんがもつてゐる精神に、脱帽なのです。


ありがたうございました。


京の夏のはじまりの一日(ひとひ)の出来事。忘れては想ひ起こし、忘れては想ひ起こす、そんな夢の中の星の輝きのやうな時間になるだらうなあ・・・。


その時は過ぎ去つて行つても、舞台芸術の魔法は、静かに、こころの奥底に流れ続けます。


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2021年02月24日

野上 峰さんの朗読会


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三重の名張にて、ラジオやテレビでのパーソナリティーのお仕事をされてゐらつしやる、野上 峰さんによる朗読会。大阪の難波でされるとのことで、伺はせてもらひました。


ご主人様の音楽と共に、絵本や昔話、そして詩の朗読。


美しいことば遣ひと軽妙な中にも暖かさと真率さに満ち溢れる、本当に素敵な時間でした。


昨年、京都で行ひましたわたしの公演の中で、石村利勝さん作の「やさしい世界の終はり方」といふ詩に感銘を受けられ、その後、ずつと、その詩のことばと情景がこころの中を「ループ」してゐるのですと仰られ、今日、その作品を朗読されたのです。


聴いてゐて、涙が流れました。やはり、かけがへのない作品です。


若い人も聴きに来てゐました。ことばが芸術であるといふことを体感できる、このやうな会が、またこれから盛んに行はれて行きますやうに・・・。


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2020年12月10日

秋田県立美術館 戸嶋靖昌展 縄文の焔と闇



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戸嶋靖昌の絵を求めて、秋田まで足を延ばしました。


『秋田県立美術館 戸嶋靖昌展 縄文の焔と闇』
http://shigyo-sosyu.jp/expo/toshima_yasumasa.html
彼の生涯に亙る画業をとつくりと観ることができるこの機会をどうしても逃したくなかつたのです。


絵とは何なのか、色とは何なのか、画家とは何をする人なのか、そんなことをずつと考へながらの3時間半、観ても観ても見飽きない、至福の時間でありました。


画面に描かれてゐる女の眼差しから「悲しみ」といふひとつのことばでは到底言ひ尽くせない混み入つた念ひが観てゐるわたしに向かつて放射され、その光を受けてわたしは「胸を衝かれる」といふことばの意味に、初めてリアルに撃たれるのです。


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「遠くを見つめるクリスティーヌ」
この絵も、実部を観なければ分からないのですが、絵まるごとから浮かび上がり、結ばれてくる眼差しの力に圧倒されます

また、画面の遥か後方に向かつて、描かれてゐる男の頭から夢想する想ひが解き放たれ、伸び拡がりゆく様に、絵を観てゐるわたしは目覚めつつ真実と美に陶酔することの三昧境を知るのです。もののあはれを知るのです。


戸嶋靖昌といふひとりの男の青年期から死に至るまでの仕事の変遷を今回辿り、人といふものは、まこと、成長するのだ、なりかはるのだ、といふことを驚きと共に実感しました。


本当にここ秋田にまで来てよかつたと思ふと同時に、今日しかここに来て観ることのできないことを激しく悔しく思ひました。

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2020年11月22日

カーネーション ライブ


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カーネーション CARNATION
五十代も半ばになつて好きになつてしまつたロックバンド。

コロナウイルス禍の中、わたしにとつて、本当にこのバンドの音と歌声にどれほど励まされ、支へられてきたことか、といふ存在でした。

そのカーネーションが大阪に来るといふので、今晩、ライブに馳せ参じました。

直枝政弘氏のギターと歌声で一曲目がゆつくりと始まり、ズシン、とドラムとベースとキーボードが入つて来て、静かに情念に満ちた歌が朗々と歌ひ上げられるのを聴いて、いきなり、さう、いきなり、涙がボロボロと流れ出し、胸を鷲掴みにされてゐることに、自分自身で驚く。

直枝氏の切ないメロディーと歌とギターの凄いコンビネーション、ベースの太田氏とドラムの張替氏による太くうねるやうなグルーブ、深いセンスに裏打ちされた伊藤氏によるキーボードワーク、たつた四人の男たちによる練り上げられた極上の演奏と歌に、次から次へと喜びが足元から立ち上がつて来る。涙が何度も溢れ出て来る。こんなことは初めてです。

ゲストの山本氏のギターも凄かつた。さう、「凄い」といふことばでしか言へない鋭さと一曲一曲に相応しい雄弁さ。

そして、静かな佇まひから生まれる強い感情に満ちた直枝氏の歌。さう、歌を聴きに来たのだ。歌が、聴きたかつたのだ。本当に、歌が聴けて、よかつた。

直枝氏も太田氏(カーネーションはこのおふたりで活動してゐる)も御年六十を超えてをられる。自分よりも年上の男たちが、こんなにもみづみづしく活き活きと、かつ味はひ深い仕事をしてゐるのを、目の当たりにして、生きて行く希みのやうなものまでももらつてゐることを感じる。

十四の歳からロックやソウルのライブコンサートに行き続けて来たのですが(一番最初は1979年の大阪フェスティバルホールでのクイーンでした!)、今晩は、もしかしたら五本の指で数へられる中に入る、わたしにとつて忘れられないライブだと感じてゐます。

会場に、小学生の男の子と父親らしき人が来てゐて、終演後、二人で話しながら、夜の梅田の街を帰つて行く後ろ姿を見ながら、わたしも家路に着きました。親子で、こんなにすばらしい音楽を、ともに、聴けるなんて、本当に、最高じゃないか。



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2020年09月19日

精神の運動へと 〜小森文雄氏の水墨画〜



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水墨画家・小森文雄さんの絵を観に、
京都府立文化芸術会館へ。


ご本人がゐらして、
絵を観ながらたくさんお話を伺へる幸運。


精神の運動へと、
いかにおのづから入つていくか。


それは、きつと、
絵を描く人も、絵を観る人も、
同じアクティビティーをもつて生きる、
こころの技量だ。


感覚をすぐさま画布の上に実現する。
その技量は、
毎日の倦まず弛まずなされるデッサンから生まれて来る。


機械的でない、
精神をもつての基礎練習の大切さを語つて下さる。


ああ、ひとりの人に出逢ふ喜びよ!


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2020年05月09日

キャロル・キング『ミュージック』と清々しい朝



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昨日までの三日間、
本当に久しぶりに仕事をさせてもらひました!
 
 
仕事を通して、
人様と繋がることができることは、
なんて素晴らしいことなんだらう。
 
 
あらためて、ありがたさを痛感しました。
 
 



一晩明けて今朝は、
これまでの長い自粛期間の、
修行僧のやうな(?)こころもちとは、
随分と違ふ、
穏やかで、安らかな朝を迎へることができた。
 
 
こんなときは、
コーヒーを飲みながら、
キャロル・キングのアルバム『ミュージック』。
 
 
前作『タペストリー(つづれおり)』での
大成功で深く自信をつけたであらう彼女が、
お腹に御子を宿しながら、
おそらくゆつたりと創り上げた、
約50年前の珠玉の作品。
 
 
聴いてゐて、
こころに寛ぎと安らぎと喜びが湧き上がつてくる。
 
 
からだの隅々の細胞が甦つてくる。
 



 
個人的には、
このウィルス騒ぎはフェイクだと見てゐますが、
とにかくも、
緊急事態宣言が発信された、
この自粛期間は、
わたし自身が新しく生まれ変はるための、
この上ない絶好の機会でありました。
 
 
お先、真つ暗、先が見えないからこそ、
第九・七年期のはじまり、
今年56歳になるこれから先の自分自身が、
どんな人になりゆくのか、
楽しみで仕方がないのです。


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2020年02月28日

戸嶋靖昌記念館にて



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東京の半蔵門にある、
戸嶋靖昌記念館を訪れました。
http://shigyo-sosyu.jp/toshima/index.html
 
 
この美術館を開いた執行草舟氏の著書をこよなく
愛読し、熟読し、精読するわたしにとつて、
ここを訪れることは、数年来の念願でした。
 
 
初めて戸嶋の絵を観るわたしに、
主席学芸員の安倍三崎さん、坂田さんが、
勿体ないほどのまことに暖かい対応をして下さり、
ていねいでこころの籠もつたお話をして下さいました。
 
 
「おもてなし」といふ、
昔から日本人が大切にしてきた行ひの恩恵に、
わたしは触れ、浴させていただいたのです。
 
 
戸嶋の絵の前に立ち、
わたしは「これが絵だ」といふ、
身も蓋もない言ひ方しかできないやうな、
烈しく強い振動と、
奥行きへと引き摺り込まれるやうな運動を感じ、
それは、
絵といふ芸術でのみ感じるものでありました。
 
 
そして、思ひもかけず、
執行氏の書斎でもある社長室へ
招き入れていただいたのでした。
 
 
執行氏はまだ出社されてゐなかつたのですが、
そこに満ち満ちてゐる渦巻きのやうな精神が、
部屋の隅々に、
膨大な本の背表紙といふ背表紙に、
ぶち当たつては還流してゐるのでした。
 
 
精神の労働のための工房の只中にゐるやうな、
興奮と感激がわたしを打つのです。
 
 
執行氏御本人がゐらつしゃらなくて、
よかつたと思ひました。
 
 
また、執行氏の文業から感じてゐた精神が、
案内をして下さつたお二方の
ことばの端々、隅々に満ちてゐるのです。
 
 
死を見据えるひとりひとりの人が、
どうひとつひとつの仕事と向き合ひ、
どうひとりひとりの人と向き合ひ、
どうひとつひとつの芸術作品と向き合ふのか。
 
 
おそらく、社員の方々、皆、
そのことの実行に、
体当たりで毎日を費やされてをられます。 
 
 
その姿を目の当たりにし、
わたしはこの記念館(企業体)は、
現代における「奇跡」だ、
そんな念ひで千鳥ヶ淵の帰り道を歩きました。
 
 
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執行草舟氏の社長室にて。三島由紀夫自筆の額の前。




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2020年01月30日

音の内へ 〜フルトヴェングラー第九を聴いて〜



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クラシック音楽を
少しづつ、少しづつ、聴き出して、
数年になります。
 

まだ、何が何やらよく分からず、
ただ、買ひ求めた数少ないアルバムを、
繰り返し、繰り返し、聴き続けてゐます。
 
 
何度も聴いて来た、
フルトヴェングラー指揮、
ベートーヴェン第九交響曲(1951年バイロイト)を、
家人が誰も家にゐないことをいいことに、
今日は大音量で聴きました。
 
 
時間の中を疾走するが如く、
フレーズからフレーズへ
ダイナミックに音が移りゆき、
しかも一音一音へ意識が細やかに配られ、 
時には、まるで天上から
突然神々が降りて来られたかのやうに感じたり、
ベートーヴェンの精神が
聴いてゐるわたしの身を揺さぶり、舞はせ、
肉体があることを忘れさせるやうな時間。
 
 
第四楽章の最後の加速していく演奏に、
ほとんど我を忘れてゐる自分がゐました。
 
 
ひとつひとつの音と声によつて、
完璧なまでに精緻に組み立てられた構造物なのに、
そのひとつひとつの響きが、
肚の底から鳴らされ切つてゐる。
 
 
すべての演奏が終はつた瞬間、
嗚咽に似た感情が、
身の内から滾々と湧き上がつて来たことに、
自分自身、驚いてしまひました。
 
 
このやうに、クラシック音楽を聴くことは、
酔狂者の一種の暇つぶしなのだらうか、
さう、みづからに問ふてみました。
 
 
さうではない、と思ひました。
 
 
喜びも悲しみもすべての感情を生き切る。
それを歌ひ上げる。
 
 
人は、そのやうに生き切らなければならない。
 
 
この演奏は、演奏そのもので、
そのことを示してくれてゐるやうに
思はれてなりません。
 
 
人生を生き切つて、
人はくたくたになり、
へたばつてしまふかもしれない。
 
 
それと同じやうに、
この演奏を聴いたあと、
やはり、くたくたになります。
 
 
しかし、
音の中に真正面から入り込んでいくことによつて、
普段の生ぬるい自分が死んでしまふ。
 
 
そんな事態に踏み込める音楽、芸術が、
いまだ存在してゐることが、
ありがたいことです。
 
 
なにごとも外に居ては分からないものですね。
 
 
内へ、内へと、入り込まねば、
と改めて念はされました。 
 
 

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2019年11月27日

Mikko 写真展「40±」



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山本 美紀子さんの初めての個展。
 
 
今日が、もしかして、初めて、
写真といふものの良さ、
芸術として存在する意味を
知ることのできた日かもしれない・・・。
 
 
お恥づかしや・・・😓
 
 
撮る人と同年代の40歳前後の女性たちが被写体。
 
 
40歳といへば、
男も女も、
これまでの人生と、
これからの人生との間の、
分水嶺に立ち尽くす時ではないか。
 
 
これまでの自分なりの生き方を続けていくのか。
 
 
それとも、
全く新しく、
己れ本来の道を、
己れの理想を追い求めて生きると、
こころを決めるのか。
 
 
ある人は揺らめき、
ある人はこころを決め、
ある人はまさに立ち尽くしゐる。
 
 
写真に写るおひとりおひとりの背景に何があるか。
 
 
明示されてはゐないが、
おひとりおひとりの後ろに拡がる風景が、
室内であらうと室外であらうと、
おひとりおひとりの情のありやう、
情景となつて、
写真の画面に映つてゐる。
 
 
それは、おそらく、
撮る人と撮られる人との歩調の重なり、
一瞬の息遣ひの重なり、
そして、その内的な歩行から見いだされる、
合意された場所。
 
 
その時、そこにしか生まれ得ない
雰囲気が写つてゐて、
それが、
人の、
重さと軽さを、
図らずも表してゐる。
 
 
写真について何も知らない、
素人の感想に過ぎないのだけれど・・・。
 
 
勝手に、
写真の見方を教へてもらへたやうな気になつてゐます。
 
 
みっこさん、ありがたう!
 
 
心斎橋の大阪農林会館の地下一階にある、
solaris(ソラリス)にて、
12月8日(日)までです。
イベントページ ↓
https://solaris-g.com/portfolio_page/191126/?fbclid=IwAR1e_WaEVmbC-32O0b5e9O8zzrcaL_j51Uq1BBc4U6ZS7LmNgX0NYCtVisk

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2019年11月09日

演劇企画体ツツガムシ「ドイツの犬」


 
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先日、新宿区中落合にある小劇場「風姿花伝」にて、舞台「ドイツの犬」を観ました。
 
 
劇団の主宰者であり、劇作家である日向十三氏の舞台。やつと観れた。
 
 
人間の姿の向かう側に存在するものへの、日向氏の良心を感じる。
 
 
それは、痛みと希み、怖れと憧れ、切なさと優しさとが、交差する舞台。
 
 
フリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜の歌」のことばがこれほどこころに浸みるとは。
 
 
いい俳優ばかり。素晴らしい演出。そして深くて重い輝きを持つ宝石のやうな作品。
 
 
いくつもの場面でこころを深く動かされたのですが、中でも、ある登場人物が最後にみづからに死を与へる。
 
 
そのとき、それはドイツ人の死であるはずなのだけれども、日本人がみづから死を決するときのやうな、極めて日本的な死の印象。わたしには感銘が深かつたのです。
 
 
11月11日(月)まで。
 
 
シアター風姿花伝 (目白)です。
http://www.fuusikaden.com/
〒161-0032 東京都新宿区中落合2-1-10
TEL:03-3954-3355
JR山手線「目白駅」より 徒歩18分
西武池袋線「椎名町駅」より 徒歩8分
西武新宿線「下落合駅」より 徒歩10分

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2019年09月30日

箕面高校OB吹奏楽団演奏会


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昨日、箕面高校OB吹奏楽団の演奏会に出かけました。

 
音楽を聴くといふこと。
 
それは、わたしにとつては、演奏者の背景に巨大な音の精神が立ち上がつて来るのを、ありありと迎えることです。
 
昨日の演奏は、まさに、まさに、そのやうな時間でありました。

わたしは聴いてゐて、涙が流れました。
 
音楽の精神とは、音の法則。
 
法則とは、厳しさ、精(くわ)しさ、確かさをくぐり抜けたあとに顕はれてくるもの。
 
それは、なんと、活き活きとしてゐて、美しく、明るく、澄み徹つたものなのでせう。
 
 
現役高校生を含めた吹奏楽団の皆さん、指揮された小西収さん、大迫智さん、旨くことばにならず申し訳ないのですが、本当に素晴らしい時間をありがたうございました。
 
演奏してゐる皆さんの姿を観てゐて、陳腐な表現で恥ずかしいのですが、音楽つていいなあ、仲間つていいなあ、人間つていいなあ、さういふ想ひで一杯になつて、夕方の箕面の街を歩いて駅に向かひました。

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2019年05月07日

未来の芸術 〜関根祥人を想ひ起こす〜


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九年前に急逝した能楽師・関根祥人。
 
わたしは、彼の舞台を初めて観たのは、確か1990年代中頃、『萬歳樂』といふ舞台だつた。
 
彼が舞台に登場すると、舞台上の空気が一変し、その一挙手一投足の動きと、彼の発することばの響きから、彫りの深い波が大きくうねりながら舞台上から客席後方へと拡がつてゆくのが感じられた。
 
そんな舞台は、それまでに観たことがなかつた。
 
しかし、これこそが、わたしが求めてゐる舞台芸術だ、さう、震へるやうな感動の中でわたしは感じ、その後、できうる限り彼の舞台を繰り返し観た。
 
能といふ舞台芸術が、極めて未来的な芸術であることを教へてくれたのは、能楽師は数多をれども、わたしにとつては彼ひとりであつた。
 
その彼が、2010年、五十歳の若さで急逝した。
 
その後、能といふ舞台芸術からわたしは遠ざかつてしまつた。
 
今日、住吉大社で、天皇陛下御即位記念の奉祝曲「大典」が演じられ、それを観てゐて、しきりに彼のことが思ひ出された。
 
からだとこころと精神の感官を研ぎ澄ませ、伝統の力を敏感に繊細に感じること。
 
さうしていかないと、伝統主義の虚偽を見破ることはできない。
 
それは、演じる者にとつても、観る者にとつてもだ。
 
もはや、伝統主義やお決まりのスタイルに拠りかかつてゐるだけでなく、清新な息吹きを舞台に吹き込まなければ。
 
そのとき、我が国の伝統が新しいかたちで甦る。


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2019年03月22日

富岡鉄斎 ――文人として生きる

 
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大和文華館の『富岡鉄斎 ――文人として生きる』展に足を運んだ。
 
圧巻だつた。 
 
絵を観るといふ行為は、色彩と線と余白に秘められてゐるこころを観ることである。
 
こころを観ると書くとき、「観」の字を使つたが、この「観」といふ字はそもそも「觀」と書き、左側の偏は「雚」で、鳥である。
 
だから、「觀る」とは、鳥のやうに翼を羽ばたかせ自由に空を舞ひながらものを見る、そんなこころの若々しい働きのことである。
 
「觀る」とはまた、高みに舞ひ上がりながら、まるごとを見晴るかすことであり、同時に高みから下方にある一点に突撃急降下するやうな、こころの働きである。
 
絵を通して画人のこころの働き、氣の動きを觀る。それは、画人の内的な動きに沿つて、觀る者も共に動き、踊り、舞ひ上がるといふことだ。鉄斎は、その共なる舞踊と飛行の歓びをたつぷりと味ははせてくれる。
 
ちなみに鉄斎はあくまでも自らを学者とし、画は余技とみなした。それは、一個の作品が己れのこころの動きを収めるだけでなく、そこに、古今にわたる先人たちの叡智・学識といふ河の流れのやうな精神の伝統を注ぎ込まうと志したからである。
 
「萬巻の書を読み、千里の路をゆく」といふ隣国だつた明の文人画家が掲げた志とも言ふべき職業倫理を、鉄斎は終生貫いた。
 
ひとつひとつの作品の、絵と文と余白からなる平面における構成。それは、何十年にもわたつて先人の筆の運びに倣ひつつ身につけたものであらうが、いささかも単なる模倣に堕してゐない。過去に徹底的に学んだ者だけが得る自由自在が、その構成の妙として顕れてゐて非常に味はひ深い。
 
今回の展示で掲げられてゐる作品のひとつ『月ヶ瀬図巻』など、どうだらう。
 
春の月ヶ瀬の渓谷にわたる白梅と紅梅の連なり。山の面を占めるほのかな緑と、あなたにたたなづく青い山蔭。
 
縦十九センチ、横三メートル半にわたるこの長巻の前を、右から左へ歩を進ませながら觀るとき、その一筆一筆の運びから、淡く彩られた色の配置から、得も言はれぬ音楽が聴こえて来る。
 
「山水を築き、門戸に身をゆだねると、画を觀る者の内には煙霞(えんか)が限りなく拡がる」と、ある画の跋にある(原文は漢文)。
 
絵を觀るとは、一枚の画布の向かうに「煙霞」のやうに限りなく拡がる「別世界」に、入つて行くことである。
 
 

 

大和文華館に、わたしは、おそらく、おほよそ十年に一度位の割合で足を運んでゐると思ふ。二十代、三十代、四十代、そしていま五十四。
 
奈良の学園前、閑静な住宅街を通り抜け、どこかしら大和路の香りのする雰囲気にそのつど胸をときめかしながら、ここに絵を觀に来る。
 
館の前に、福島県三春町から移植したといふ三春滝桜が見事な枝ぶりで、その蕾が桜色に膨らんでゐた。あと一週間もすれば、滔々とした春の美を発散させるだらうと思はれた。
 
 

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2019年02月18日

小西 収さんによる『音楽テーゼ集』


小西 収 (小西収)さんが記されてゐる文集『音楽の編み物』。
 
ここに収められてゐる文章は、筆者が演奏者、指揮者、編曲者として音楽の内側に活き活きと入り込む何十年もの時間の中から生まれたもので、どれも非常に興味深く、含蓄と芸術的・哲学的示唆に溢れたものです。
 
とりわけ、十数年前に書かれた文章で、最近再録されたものである『音楽テーゼ集』。
 
これは、芸術に直接携わつてゐる者には、ジャンルの違ひはあれども、そこにはつきりとした共感を寄せうる記述の連続です。
 
思はず、さうさう、と膝を打ちながら喜悦の内に読んでゐます。
 
 
 
 テクスト=書物(本)は、
 文章の《存在以前の状態》の典型である
 
 楽譜=スコアは、
 音楽の《存在以前の状態》の典型である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)

 
 

さうなのです。
 
「文章の存在以前の状態」が、確かにあるのです。
 
言語造形といふことばの演奏は、テクストといふ元手(典型)を踏み台にしながら、その「文章の存在以前の状態」に歩み寄つて行く営みであります。
 
きつと、音楽を奏でる行為とは、楽譜を元手(典型)としながら、音楽の《存在以前の状態》へと踏み入つて行く営みです。
 
だからこそ、そこには、精神の自由が生まれ得ます。
 
 
 
 一つの音楽作品を編曲の対象としてみるとき、
 それには、微分方程式の一般解に相当するような、
 “原曲以前”の原初的側面がある
 
 (第五章「編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である」から)

 
 
この「“原曲以前”の原初的側面」は、作曲者本人でさへも意識してゐない可能性がある側面です。
 
よつて、文学作品も、作者本人に触知されてゐない精神の傳へを、演奏家である言語造形をする者が触知することがあり得ます。
 
なぜなら、音楽演奏も言語造形も、「音」と「ことばの音韻」といふ人が創り出したのではない、神が人に贈り給ひしものをその素材としてゐるからなのです。
 
その素材こそが、作曲者や作家の意図を越えて、ものを言ひ、演奏者や俳優は、その音の響きが何を伝へようとしてゐるかに耳を澄ますことが仕事であるからです。
 
 
 作曲者とて演奏する「私」にとっては他人である。
 ときには作者をも脇に置き、
 作品そのもののテクスト=楽譜を自分で読むこと
 ──それが、読譜の基本である
 
  (第二章「 楽譜とはテクストである」から)




2018年09月23日

音楽による空間造形のリアリティー 〜箕面高校OB吹奏楽団第8回演奏会〜


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小西 収さんが指揮する、箕面高校OB吹奏楽団第8回演奏会を次女と共に聴きに行きました。
 
場所は、箕面市立メイプルホール。音の響きが素晴らしい会場でした。
 
そして、なにより、驚愕の小西さんの指揮。
 
全身全霊の指揮によつて、楽団のポテンシャルを引き出す、引き出す!
 
音楽に関して、全く語彙力のない自分が情けないのですが、彼の指揮によつて、楽器を奏でる楽団員ひとりひとりの背後の空間から、その都度その都度、音楽的建築物が立ち上がつてくるのです。
 
この音楽による空間造形の圧倒的なリアリティーに、涙が溢れてきます。
 
小西さんはじめ箕面高校を卒業してから40年以上経つOBの方々から現役高校生まで、楽団一丸となつて音の芸術に喜びと共に奉仕してゐる姿。
 
音楽に対する情熱と愛。
 
それは、本当に、かけがへのないものだと感じました。
 
演奏に一心に取り組んで下さつた皆さんにこころから感謝します。
 

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2018年08月07日

美という理想と偉大なる敗北 〜映画『風立ちぬ』を観て〜


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五年前、ジブリの映画『風立ちぬ』を観た時の「美」について感じた拙文章です。
 
その映画の中で、主人公が何度か「美しい」といふことばを言つてゐました。
 
「美」とはなんだらう。
 
「美といふ考へ・イデ―」・・・。
 
考へ・イデ―といふものは、そもそも、目に見えません。それらは精神の世にあります。
 
この世に実現されるべき「理想」といつてもいいのではないでせうか。
 
その考へ・イデ―・理想が見事に整ひつつも活き活きと躍動しながら、この世の何かに宿つてゐるのを見いだした時に、そのイデーをことばにできず、ことばになる前に人は「美しい」と感じてしまふ。
 
主人公は、大空を駆け巡る飛行機のフォルムと機能性にその「美」を追ひ求めてゐます。
 
さう、飛行機といふイデ―そのものが、きつと、「美」を体現しうるものだといふ憧れと予感を手放さずに、その「美」を実現するために飛行機の設計に取り組みつづけます。
 
飛行機が戦闘機として人を殺戮するための兵器であることを求められたとしても、彼は、子どもの頃からこころのうちに大切に育んできた「美といふ理想」を決して手放さず、その「理想」の実現のために毎日を静かに、しかし、懸命に生きます。
 
それは、人が空を飛ぶといふイデ―そのものが、もう既に「美」であり、「人であることの更なる可能性」であると彼が感じてゐるからなのでせうか・・・。
 
そして、彼はこころの次元に於て、既に空を飛んでゐます。美しく大空を駆け巡つてゐます。
 
既にこころに於て理想を生きてゐる人が、己れのこころのありかたに等しい世界を求めるのでせう。
 
「美」を求める生活、「美」を追ひ求める生き方、それは、表層のものではなく、既にもうこころに宿つてしまつてゐる「理想としてのわたし」を、ただ表の世界に実現する、その人その人のありかたなのでせう。
 
こころの奥に「美」を既にもつてゐる人こそが、その「美」に等しいものを外の世界にも見いだし、創りださうとする。
 
そのやうな、美を求める唯美的、理想主義的精神は、この世の経済戦争、政治戦争、そして人と人とが実際に殺し合ふ本物の戦争に於ては、必ず、敗れ去るでせう。
 
しかし、この世では敗れ去るからこそ、逆に精神として勝ち、時の試煉を経て必ず人から人へと引き継がれていく不朽の生命を得る。
 
そのやうな逆説をわたしたちはどこまで本気になつて受け止めることができるでせうか。
 
映画から、そのやうなことを感じました。
 
宮崎駿氏の言ふことや書く文章は、個人的にはわたしはあひ入れられないところが多々あります。
 
一見グローバルに拡がる意識の連帯・共有を目指しながら、その実、狭い戦後的言論空間に無意識的に閉じ込められてゐる知識人特有の悲しさを感じてしまふのです。
 
しかし、彼が、それこそ、意識の向かうから引つ張られるやうに描いてしまふ画像の連なりから必然的に生まれて来る物語には、ほとほと魅せられてしまひます。
 
不思議なことです。
 

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2018年06月23日

小西 収さんによる『楽藝の会』


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小西 収さんによる『楽藝の会』の演奏を聴きました。
 
<わたし>といふ意識と、わたしから離れた「おのづからなる働き」といふ無意識の働き。
 
このふたつの間になりたつ美を育てていきたい。
 
そんな小西さんの音楽に対する憧憬と情熱が、精神的に、かつ肉体的に繰り広げられるのを、一気に目の当たりにした。
 
そんな感慨です。
 
本当に、素晴らしい、一瞬、一瞬、でした。
 
柳宗悦の民藝運動の音楽版のやうな活動を、といふ志を持たれてゐる小西さんの『楽藝の会』の活動、わたしはこれからも大注目なのです。
 
小西さん、山崎さん、そして演奏された皆様、今日は本当にありがたうございました。

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