2009年09月26日

ぼろぼろになるまで

 ・・・と言っても、自分のことではなく、本のこと。
 本を読んでいて、自分の手で気づいたことを書き込み、線を引き、ぼろぼろになるまで何十回と繰り返し読み込んでいく、そんな本に出合えたなら、それは本当に幸福なことだと思える。
 なぜなら、一冊の本とは、ひとりの人間だからだ。そんな本に出合えたということは、そこまで信頼を寄せることのできるひとりの人に出会えたということに等しい。そして、その信頼する人を通して大事なことをとことん学ぶべく、腰を据えてその本に付き合い続ける。
 素晴らしい本は、何度読んでも、そのたびの発見、気づき、驚きがあり、こころが動かされる。そこに書かれてあることに潜んでいる細やかさ、味わい深さは、付き合い続けてみないと、前もっては決して分からない。本がそうなら、人なんて、もっとそうだ。だから結婚は、腰を据えてひとりの人と付き合い続けるということの深み、細やかさを知る上で願ってもない機会だ。(これは、また、別のはなし)
 そこで、またまた、シュタイナー。
 彼の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の前書きにこんなことが書いてある。

    こころの育みとして述べられていることを迎えるにおいては、
    他の論を迎えるときのように内容に親しむだけには尽きないことが必要である。
    述べられていることを親しく深めて生きることが必要である。 (P.9)

    ここでのように、生きられてほしいことごとが述べられ、見てとられるにおいては、
    内容をいくたびもとらえかえす必要があるということが明らかになる。
    ・・・人が多くをみずからにとって満ち足りのゆくようにわきまえるにいたるのは、
    いよいよそれを試し、試したあとでに、その事柄の細やかさに、
    いささかなりとも気づくにおいてである。
    その細やかさは、前もっては気づかれないものである。 (P.10)


 繰り返し読み、そこで書かれてあることを自分で試し、また繰り返し読み、また試す。そのプロセスを重ねていく程に、また人生における経験を積んでいく程に、そこにある細やかさに気づくことができるように、その本は書かれてある。時間とともに自分だけでなく本までもが成熟していくというそのことには、驚きとともに喜びがある。
 一冊の本を読み込むということの大切さ、そのことの人生におけるおおいなる意義。アントロポゾフィーの学びには多くの入り口があるが、そこのところを自分で確認しておきたかった。言いたかった。

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2008年09月02日

いまに生きる〜「正法眼蔵」から〜(2)

9月に入って、なぜだか、8月の日々に比べて、
頭がすっきりしてきたように感じます。

こころの中のつぶやきを書いてみました。


これまでに道に参学し、道をあきらかにしてきた人が、何人もいる。

そして、これからも道に参学し、道をあきらかにする人が、何人もいる。

しかし、いまここで「わたし」が、道に参学し、道をあきらかにしようとするならば、
すべての古今、未来に亘って存在する人は、
「わたし」と共に、いま、ここに、いる。
複数いる。
大勢いる。

しかして各々のありようは各々のまま光輝いており、
互いは「一切の固定的な決めつけを脱した自由自在・融通無凝な関係(森本和夫氏)」にある。
その関係は「なんら妨げたり束縛したりし合うことのないもので」ありつつ、
「それは関係がないということではないはず」である。
「このような卓越した働きがあることを参求すべきである。」

時の流れと空間の遠近を超えて、
すべての賢者は、
いま、ここに、いるのだ。

「いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、
 さらに古今を超出せり、
 古今に正直なり。」

この「わたし」が、いま、ここに、あること。
その意識を毎日、少しでも多くの時間重ねていきたい。

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2008年05月19日

稽古という行動〜「正法眼蔵」から〜(1)

頭で考えられたことばでなく、
身体で確かめられたことば、身体で生きられたことばのみが、
人から人へと深みにおいて伝わっていく。

仕事において、そのことを日々、痛感しています。

道元の「正法眼蔵」という本があるのですが、
この本は、しっかりと腰を据えて読もうとすればするほど、
わたしを必要以上に観念的にせず、
生きることの具体的な実践へと促してくれます。

わたしの場合は、この本を読んでいますと、
言語造形の稽古をしたくなってくるのです。

稽古せずにいられなくなってくるのです。

いま、立ち上がって、基礎練習から始めたくなってくるのです。

この「正法眼蔵」を読み進めるために、
森本和夫さんの「『正法眼蔵』読解 全10巻」をわたしは使わせてもらっているのですが、
この森本さんの本は本当に「読む」ということを丁寧にさせてくれます。




一文一文、一句一句、一語一語、
噛み砕き、繰り返し味わい、理解していこうとするその「読み」は、
道元の言語世界・言語宇宙(それは、「わたし」の言語世界・言語宇宙でもありえます)へとわたしを誘うと同時に、
「読む」そのたびごとにわたしを稽古という行動へとせき立ててくれます。

それは、取りも直さず、
道元のことばが、森本さんのことばが、身体を通したことばである、
とわたしが感じているからでしょう。

また、道元が語る「祗管打坐(しかんたざ)」、
ただひたすらに坐禅することの深みと、
わたしたちが言語造形に取り組むにおいて、ただひたすらに稽古していくことの深みとが、
響き合っているとわたしが感じているからでしょう。

この響き合いについて、これからも追い追い書いていきたいと思います。

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2008年04月26日

言語造形することにおいて 断想(6)

能、そして世阿弥に関する本は、
まさに汗牛充棟、ごっそりとあるが、
1978年、53歳で亡くなった観世流シテ方、観世寿夫(ひさお)氏の文章は、
身体を使った目からの観察であり、身体を使ったことばであると感じる。

『観世寿夫 世阿弥を読む』(平凡社ライブラリー)を日頃、愛読している。

  

そこには、「道」というものを明確に意識した人のことばが連ねられてある。

道を道たらしめているのは、意識的な稽古の積み重ね以外になく、
そのような稽古が深まってゆく中で紡ぎ出されたことばこそ、
言語造形の道を歩くわたしが欲しているものである。

いまだ彼の全集を手に入れられずにいるが、
このアンソロジーだけでも、舞台に立つ者にとっての宝のようなことばに満ちている。

   (能は)本質的には、からだ全体を用いて表現しなければ駄目なものです。
   能はまずすべての演技を、音も動きも抽象的なものに還元して造形しようとします。
   それが世阿弥にいわせれば幽玄な舞台を創り出すもとだというのです。
   ですから能役者にとっては、音すなわち声・調子・リズムといったものと、
   からだのカマエ、足のハコビ、つまり歩くことが常に重大な要素です。
   能は面をかけることでも明らかなように、すべての恣意的な動作を否定するところから
   はじまりますが、究極においては、精神的にも肉体的にもいかに自然にいられるかを
   求められます。
   ですから上手な人の場合は、その演者のからだがそのまま大きな実在感となって
   訴えてきます。下手のころにはよくからだが見えすぎるというダメを出される。
   それはその人の個人としての肉体がじゃまになるということです。  (P.42)


ここでの「能」ということばを、
そのまま「言語造形」ということばに換えても、いっこう差支えがない。

世阿弥、そして観世寿夫、
彼らが残してくれた稽古論をこれから一層実践的に研究していきたい。        

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2007年10月23日

一葉の日記

樋口一葉の日記を読んでいる。
以前、「わかれ道」という彼女の作品を舞台にのせ、ひとりで語った。
自分にとっては、とても難易度の高い作品だった。

思春期の敏感な少年と二十歳あまりの女との間の恋ともいえぬ恋を描いているのだが、
その一文一文に潜む細やかな息遣いと洗練された身振りの連続、また連続・・・、
それをリズミカルな文体で綴る一葉になんとかついていこうと、
語る自分も随分と走りこみをした。

日記を読むと、彼女は実にこと細かに人の仕種やことばに注意を払っており、
またそれを見事に記憶している。
その密やかさ、執着に、作家の精神の開け具合をまざまざと見る想いがする。
そして、生活を通しての持続的な(文学)修行をみずからに課していることにも気づかされる。

どの作品に取り組むときも、たいていそうなのだが、
はじめのうちはいかに自分がテキストを表面的にしか掴んでいないかに気づく。

いや、気づけばいいほうで、
気づかずにさっとやってみて、できているつもりになっていることほど、悲惨なことはない。
そんなことが修行中何度もあった。
そのたびに師匠に叱責された。(ことばで叱責されたのではない。)

底知れぬ深みを描くために、作家はどれほどの意識の明晰・深みから、ことばを紡ぐのか。
同時にどれほどの無意識の援けが、ものを言っているのだろう。
ことばの芸術の深淵である。

語るために、また演じるために、
文学作品に接近していく、作家の紡ぎだしたことばに立ち向かっていく、寄り添っていく、
その作業は、少なくとも作家が流した汗を自分も流すべく試みるということかもしれない。

ことばを造形するということが芸術であり、
それは他の芸術と同様、修行されねばならない。

posted by koji at 17:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする