2014年09月08日

形を見る詩人の直覚 〜小林秀雄『歴史の魂』を読んで〜


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あの本(本居宣長『古事記伝』)が立派なのは、
はじめて彼が「古事記」の立派な考証をしたといふ処だけにあるのではない。
今日の学者にもあれより正確な考証は可能であります。
然しあの考証に表れた宣長の古典に対する驚くべき愛情は、無比のものなのである。
彼には、「古事記」の美しい形といふものが、全身で感じられてゐたのです。
さかしらな批判解釈を絶した美しい形といふものをしつかりと感じてゐた。
そこに宣長の一番深い思想があるといふことを僕は感じた。
僕はさういふ思想は現代では非常に判りにくいのぢゃないかと思ふ。
美しい形を見るよりも先づ、
それを現代流に解釈する、自己流に解釈する、
所謂解釈だらけの世の中には、
「古事記伝」の底を流れてゐる様な本当の強い宣長の精神は判りにくいのぢゃないかと思ひます。
(中略)
・・・歴史を記憶し整理する事はやさしいが、
歴史を鮮やかに思ひ出すといふ事は難しい、
これには詩人の直覚が要るのであります。




夥しく人から人へと飛び交っている観念、思弁、定説、スローガンなどに捉われ、振り回され、惑わされてしまうとき、人は、その人ではなくなってしまう。

わたしは、わたしであるように、気をつけたい。

そのために、解釈・判断をしばらく置いておき、「形を見ること」「動きを聴くこと」に習熟していく。

そして、考える力がゆっくりと熟してくるのを待つ。

あらかじめの考えや意見を、ものや人に当て嵌めてものを言うのは、そのものや人だけでなく、自分自身を損なってしまう。


言語造形をするとき、わたしたちは発せられることばの響きの中に、同じく、形を見、動きを聴きます。

解釈や思惑を置いておき、そのときに見えてくる形、聴こえてくる動きを直覚する。

その感覚が、美しいものに触れることへとだんだんと近づいていく。

そこに、稽古の喜びがあります。

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2014年07月05日

小林秀雄の『助言』


小林秀雄が「作家志願者への助言」という文章を書いている。
 
    助言というものは決して説明でない、分析でない、
   いつも実行を勧誘しているものだと覚悟して聞くことだ。
   親身になって話しかけている時、
   親身になって聞く人が少ない。
   これがあらゆる名助言の常に出会う悲劇なのだ。

 
話す人が覚悟して話しているならば、聞く人もその覚悟に応ずるような態度で聞こうとすること、それは人と人との関わり合いとして極めてまっとうなことであり、健やかなことではないか。
 
助言を求めてもいない時、問うてもいない時に、その人に助言やアドバイスや答えを与えたり、教えたりしようとする人が時々いるが、それはやめた方がいいと思う。
 
しかし、人と人との間で問いと応えが交わされるとき、親身になって話しかけ、親身になって聴くということの深みが感じられてくることほど、生きている喜びを感じさせてくれることもなかなかない。
 
彼は五つの助言を作家志望者に向けて書いている。
 
    一. つねに第一流作品のみを読め
   二. 一流作品は例外なく難解なものと知れ
   三. 一流作品の影響を恐れるな
   四. 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
   五. 小説を小説だと思って読むな

 
これは作家志望者だけではなく、創造的な仕事をしていこうとするすべての人にとっての名助言だと思う。
 
特に、三つ目について。
自分のすべての感覚を開いて、学ぼうとしていることや仕事に飛び込んでみること。その対象に全身全霊をもって交わり、ひとつになるのだ。その交わりの中からこそ、己のことば(オリジナリティー)を汲み出しえる。まずは己を空にして対象に交わりつづけるのだ。
 
対象から距離を置いて、自分に都合のいいところだけを抜き取ろうというような態度では、何も得るところがない。それでは、自分が生まれ変わるということが起こりえない。
 
自分の仕事にすぐに役立てようというような態度だと、何も学ぶことはできないということを特に深く感じる。
 
「もの」の内側に入って行かないと、何も始まらないのだ。

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2014年06月29日

未来のセザンヌ論 〜前田英樹『セザンヌ 画家のメチエ』を読んで〜


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画家とは、何をする人なのか。
道楽で絵を描くのではなく、「仕事」として絵を描くとはどういうことか。

セザンヌのその「仕事」が過酷なまでに自然から命ぜられたことであり、「感覚を実現すること」、それこそが彼の「仕事」であったことを、彼が荷ったモチーフやひとつひとつの作品に沿いながら、前田氏は書き記していく。

この前田氏の作業は、セザンヌというある意味での透視者の仕事の内側に入ろうとしなければ成り立ち得ないものだ。

セザンヌが強い意欲をもって、ものを見ようとすればするほど、自然が自然そのものの内に秘めている持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
それはすでに肉体の目を超えて受信される「もの」である。

セザンヌによって受信されたその「もの」が、キャンバスの上で絵画記号としての色彩に転換される様を描こうとするには、従来の外側から(例えば、パースペクティブのことなど)の視点に拠る評論では埒があかないだろう。

その様を書き記す前田氏自身がその「もの」の受信に通じていなければ、書くことができないはずだ。

その意味で、前田氏のこのセザンヌ論は、おそらく、未来においてより深くより広く理解されてゆくものだろうと思う。

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2014年06月26日

「ことよさし」されている仕事 〜前田英樹『日本人の信仰心』を読んで〜


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わたしたちはめいめい仕事を持っている。

その仕事というものが、機械によってではなく、その人その人によってからだとこころを総動員させながら数限りない反復を通してなされる時、その反復は極めて微妙で繊細ながらも確かな手応えというものを人に授ける。

それは、仕事という「もの」のなかにその人が入りこんで、共に呼吸をするような具合とも言える。

その時、自身のこころが静まり、清まり、深まっていることにも気づく。

そして、そのようなこころのありようによって喜びと感謝と共に初めて見えてくるもの・ヴィジョンがあることをも知っている。

それをわたしたち日本人は、神として捉えてきた。

前田氏はこの本で、幾人かの先人たちの仕事を通して、そのことの内実を観ようとしている。

保田與重郎、小林秀雄、柳宗悦、柳田國男、本居宣長・・・
その先人たちはいずれも、「もの」のなかに入り込むことによって仕事をした人たちである。

彼らは、無数の無名の水田耕作者が神からの「ことよさし」である米作りを通して、植物的生命の中に入り込み、神への感謝と喜びと畏れと共に生活してきた、その信仰を身をもって感じ取っていたからである。

日本人の信仰は、経典や説教や伝道で育まれて来たのではない。

米作りという生産生活そのものが信仰を育んできたのだし、米作りによる祭の生活そのものが信仰生活だった。

それは、「神ながらの道」「ものへゆく道」であった。

「言挙げ」を拒む静かな日々の労働、無言の反復こそが、人を神に導く。

いま、わたしたちは、各々、各自の仕事を「ことよさし」された仕事として捉え直すことができるだろうか。

そして、外側の何かに反発するのでも同調するのでもなく、自分の生業に静かに立ち戻り、感謝をもってそれに取り組むことができるだろうか。

それ以外の言動や行動は、結局のところ、いったい何を引き起こすことになるのだろうか。

あまりにもかまびすしい「言挙げ」に満たされている現在、いかにしてあえて目を塞ぎ、耳を閉じ、理屈を言わずに、手足を動かしていくか。

その胆力が問われている。

_______________________________________

この本には、これまでの前田氏の仕事のエッセンスすべてが注ぎ込まれているように思われる。

そして、2010年の12月に出版されたこの本が、その約三ヶ月後に起こった未曾有の出来事に対して、すでに、ある「ことば」を予兆のように鳴らしている。

それは、人に根本的な覚醒を促す呼びかけの「ことば」である。


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2014年05月13日

詩人に神は現れる 〜保田與重郎『芭蕉』を読んで〜


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「わが(国の)歴史は祭りの歴史であった。文芸の歴史も、実に詩人にあらはれた神を祭る歴史に他ならなかったのである」

保田與重郎は『芭蕉』の冒頭に近いところでそう書いている。

詩人に神は現れる。
その現れた神を祭る歴史が文学史である。
その歴史の最期に位置するのが江戸の元禄期に生涯を終えた芭蕉である。
その芭蕉がいかにして俳諧をもって神を祭ることに人生を賭けたかを保田は論じている。

2011年3月11日以降、明治維新以来近代的経済成長を至上価値としてきた日本に生きるわたしたちは、その行き詰まりまで経験したのではないか。
そして、これほどの惨事を経験したいま、「神を祭る」ということの現実的意味を多くの人が求め始めているのではないか。
しかし、詩人たちが代々守り通してきたその精神は、現代を生きるわたしたちにとって、外側に何かを求めて探し回るようなものではなく、己の内側にすでにずっと流れているいのちの原理であって、何も特別なものではない。
その精神は、教義の中にあるのではなく、米作りを中心にした日本人の生活の中にある。その当たり前の生活こそが、神(かむ)ながらの道であるからだ。

その生活と分離せず一如である精神を、おおらかに軽みをもって、かつ激しく謳い上げたのが、芭蕉である。

そのような歴史を一貫する志の道を明確にあぶりだす保田の論は、彼自身の志とひとつになっている。論じる対象と自分自身の生きる原理たる志がひとつになっている。

保田のものを読む時の爽快感は、その言行一致のあり方、研究と志の一体性、そして自己と国の歴史を貫く精神の一貫性によっている。

芭蕉が、古人の跡を求めず古人の求めたるところを求めよ、と弟子に言い残したように、この本を書いた保田與重郎も、芭蕉を求めるのではなく芭蕉が求めたものを求めて生涯を生き抜いた。

この本を読む人も古人の跡を慕うのではなく古人の求めたるところを求めて生きていくことができるのだ、という励ましが文章の背後に満ち満ちているように感じる。

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2014年04月22日

俗語を正す詩人たちの歴史 〜保田與重郎『日本の文学史』を読んで〜


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この本の一頁一頁は、なんと熱い情と遠くを見はるかす深い見識に裏打ちされていることだろう。頁を繰るごとにそう感嘆する。

俗世ではとかく紛れがちな、「人間らしく生きることとは何か」「人は本来何を求めて生きようとするのか」という、人のこころの奥底にある憧憬。

その憧れを人と人との間で育み、確かめ、守ろうとする時、人は日常生活においてある指針、規範を求める。

我が国においてその指針、規範は、神代の初めからもうすでに「皇國(みくに)の道義(みち)」として与えられており、その「皇國の道義」は「言霊の風雅(みやび)」として現れる。
それを大切に守ろうとしてきたのが都風(みやこぶり)の文化であり、王朝の文学、ことばの芸術であった。

人のこころの乱れは、ことばの乱れとしても現れる。

だからこそ、多くの俗耳にも、
芸術的なことばから生まれる美を入れるために、
「皇國の道義」「言霊の風雅」を育み、守るために、
代々の詩人たちは胸に熱い情を滾らせて「俗語を正す」べく働いてきた。

ヨーロッパその他の国から輸入した精神史、文学史からの理論を下敷きにせずに、
今も日本人のこころの奥底に流れている情をこそ基にして、
ことばの美を目指して築き上げられてきた先人たちの営為のみを見て、
歴史を一貫している「みち」を明らかにすることで書き上げられた、
保田與重郎氏の『日本の文学史』。

この一貫しているものを感じ、知ることができるということは、
自分の国と国語への愛を自覚し、育んでいくためにはとても大切なことではないだろうか。

自分の国、自分の国のことば、そして自分自身を愛するがこそ、
他の国、他の国語、そして他者を愛することができるのだから。



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2014年01月07日

倭(やまと)し 美(うるは)し 〜保田與重郎の『ふるさとなる大和 日本の歴史物語』を読んで〜

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昨日買った、保田與重郎の『ふるさとなる大和 日本の歴史物語』。

ロマノ・ヴルピッタ氏による序文も素晴らしく、ここに引用します。

  保田の理解では、
 日本文化と民族国家としての日本の本質と精神的基盤は「しきしまの道」、
 つまり国語や文学、とりわけ和歌である。
 この観点から見ると、「百人一首」は日本における聖書のようなものであり、
 「百人一首」の伝播は日本文化と民族意識の伝播そのものである。
 
 ・・・一人の日本人でも日本の生活様式を守れば、日本文化は滅びないと確信した彼 (保田)・・・。




わたしが「ことばの家」の仕事を通してやっていきたいと念じているのも、
ことばの芸術を通して、
「道」の奥へと歩いていくことです。

ここでは「しきしまの道」というように言われています。

ひとりの人である<わたし>が己の精神的基盤に立つこと、
それを促すために、
ことばの芸術の奥へとだんだんと入って行くこと。

そのために、日本語の芸術作品を味わっていきたい。
もっと取り組んでいきたい。
もっと使っていきたい。

『古事記』『萬葉集』、和歌、物語、俳諧、近代文学、現代文学・・・。
まずは、自分の関心の向くところから。

しかし、これら日本語の芸術に、特に古典作品に、
自分たち多くの現代人は、馴染みがなく、親しみを持てず、
むしろ外国からの翻訳文学よりも縁遠く感じているのではないか。

だから、改めて、まず自分たち大人が、
国語による古典文学に親しみ、少しずつ通じていく。
面白み、喜び、深みを見いだしていく。

今年は、このことをわが身に徹底させようと思っています。

今日、幼稚園がまだ冬休みなので、
5歳の次女と一緒に、
倭建命(やまとたけるのみこと)の故郷をしのぶ歌を朗々と声に出してみました。

 倭(やまと)は 国のまほろば
 たたなづく 青垣山(あをかきやま)
 隠(ごも)れる 倭(やまと)し 美(うるは)し


なんと、想い、念い、憶いの深く織りなされている歌だろう。
この深さ、強さは、何度も声にしてみなければ、到底感じ得ないものに思われます。
娘も大声で暗唱できるようになりました。





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2013年07月29日

フタリッキリデ暮ラスノダ 〜谷川俊太郎エトセテラ リミックス〜

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(画像を二回クリックしていただくと、読みやすくなります)

『谷川俊太郎エトセテラ リミックス』(いそっぷ社)
赤塚不二夫さんとのコラボ劇画詩集より

「まことのわたし」と「日常のわたし」との二人暮らしなのだ。
それはずっと、ずっとありつづける事実なのだ。
その事実にどう気づき、どう向き合っていくかを問うていくだけなのだ。
こうしてことばにしてくれて、谷川さん、ありがとう。
赤塚さんの画もいい。
これは繰り返し声に出しながら詠んでいきたい。

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2013年05月12日

憧れの喚起 〜前田英樹『 民俗と民藝 (講談社選書メチエ) 』を読んで〜



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2015年11月、再読後、書き改める。

柳田國男と柳宗悦の仕事。
それは「似ている」というような次元でここで語られているのでは全くない。
この『民俗と民藝』という本は、ゆっくりと再読、愛読することで、そのことをはっきりと分からせてくれる。
まえがきでも、こう述べられている。
「実際、この本は、早く読み終わる必要など少しもない本なのだから」

柳田と柳の実際の出会いは、すれ違いに終わったのだが、二人の仕事は、精神の次元において、全く軌を一にしている。
二人は、まさに、前田氏の言う「原理としての日本」を認め、愛し、失われてゆくのを惜しむところから、何か大きなものに動かされるように、それぞれ自分の仕事をしたのである。
この『民俗と民藝』という本は、その二人の精神の邂逅を見てとり、描き切った前田氏の傑作のひとつである。

「原理としての日本」とは、米作りを基とする手足を投じてなされる暮らしそのものであり、それがそのまま信仰の道でもある生き方である。

それは、二人が生きた頃から随分と時を経たこの現代においては、表側ではほとんど徹底的に破壊されたように見えてはいる。

しかし、それでも、いまだに密やかにひとりひとりの日本人の内側も内側に息づいているのではないか、と、この本を読み終えて、わたしは感じている。

たとえ、自分自身が米作りに携わってはいないとしても、この繰り返される毎日のなかから、いかにして精神の産物を産みだしていくことができるか。
そのことを問い続けながら暮らしを創造的に織りなしていくことが、きっと、できる。

繰り返される毎日の暮らし。毎日の仕事。
その中で営まれる当たり前の幸せ。
そのような、いまも、わたしたち日本人の精神に微かに流れ続けている、生きること自体の美しさ、正しさ、善さへの訴求は、決して、止んではいないと、思う。

前田氏は、その清流の微かな流れの音を聴き取り、その調べを、まさしくフーガのごとく美しく、かつ力強く、歌うように奏でた。

この本に注ぎ込んだ前田英樹氏の精神の労働量をまざまざと感じる。

________________________________
以下、以前に書いたもの。

この前田氏の本は、柳田國男と柳宗悦、各々の本を更に読み深めていきたいという欲求をわたしのうちに呼び起こしてくれる。

自分自身が生きていくための指針を思い起こしたいという、こころの深い憧れを刺激するからだと思う。

柳田と柳が仕事において貫こうとした主要なモチーフが、今の日本で生きる自分自身のリアリティーと深いところでいまだ繋がっていて、その繋がりを更にこれから積極的に育んでいきたいという憧れだ。

そのリアリティーとは、この肉体は先祖の血を引き継いで、いま、ここにあるが、その肉体を通してこそ、先祖や民族を超える普遍的な生を生きること。

肉体をもって、いかに精神を生き切るか。

この肉体に秘められている血の深みを踏まえつつ、いかにして精神の骨を天に向けて直立させるか。

その問いがわたしにとってリアリティーを持つ。

この本を再読したくなるのも、自分自身の人生とこの本とを繋げるためだと感じている。

前田氏は、そんな憧れを読む者に呼び起こさせる文章を書き続けてくれている。




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2009年09月26日

ぼろぼろになるまで

 ・・・と言っても、自分のことではなく、本のこと。
 本を読んでいて、自分の手で気づいたことを書き込み、線を引き、ぼろぼろになるまで何十回と繰り返し読み込んでいく、そんな本に出合えたなら、それは本当に幸福なことだと思える。
 なぜなら、一冊の本とは、ひとりの人間だからだ。そんな本に出合えたということは、そこまで信頼を寄せることのできるひとりの人に出会えたということに等しい。そして、その信頼する人を通して大事なことをとことん学ぶべく、腰を据えてその本に付き合い続ける。
 素晴らしい本は、何度読んでも、そのたびの発見、気づき、驚きがあり、こころが動かされる。そこに書かれてあることに潜んでいる細やかさ、味わい深さは、付き合い続けてみないと、前もっては決して分からない。本がそうなら、人なんて、もっとそうだ。だから結婚は、腰を据えてひとりの人と付き合い続けるということの深み、細やかさを知る上で願ってもない機会だ。(これは、また、別のはなし)
 そこで、またまた、シュタイナー。
 彼の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の前書きにこんなことが書いてある。

    こころの育みとして述べられていることを迎えるにおいては、
    他の論を迎えるときのように内容に親しむだけには尽きないことが必要である。
    述べられていることを親しく深めて生きることが必要である。 (P.9)

    ここでのように、生きられてほしいことごとが述べられ、見てとられるにおいては、
    内容をいくたびもとらえかえす必要があるということが明らかになる。
    ・・・人が多くをみずからにとって満ち足りのゆくようにわきまえるにいたるのは、
    いよいよそれを試し、試したあとでに、その事柄の細やかさに、
    いささかなりとも気づくにおいてである。
    その細やかさは、前もっては気づかれないものである。 (P.10)


 繰り返し読み、そこで書かれてあることを自分で試し、また繰り返し読み、また試す。そのプロセスを重ねていく程に、また人生における経験を積んでいく程に、そこにある細やかさに気づくことができるように、その本は書かれてある。時間とともに自分だけでなく本までもが成熟していくというそのことには、驚きとともに喜びがある。
 一冊の本を読み込むということの大切さ、そのことの人生におけるおおいなる意義。アントロポゾフィーの学びには多くの入り口があるが、そこのところを自分で確認しておきたかった。言いたかった。

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2008年09月02日

いまに生きる〜「正法眼蔵」から〜(2)

9月に入って、なぜだか、8月の日々に比べて、
頭がすっきりしてきたように感じます。

こころの中のつぶやきを書いてみました。


これまでに道に参学し、道をあきらかにしてきた人が、何人もいる。

そして、これからも道に参学し、道をあきらかにする人が、何人もいる。

しかし、いまここで「わたし」が、道に参学し、道をあきらかにしようとするならば、
すべての古今、未来に亘って存在する人は、
「わたし」と共に、いま、ここに、いる。
複数いる。
大勢いる。

しかして各々のありようは各々のまま光輝いており、
互いは「一切の固定的な決めつけを脱した自由自在・融通無凝な関係(森本和夫氏)」にある。
その関係は「なんら妨げたり束縛したりし合うことのないもので」ありつつ、
「それは関係がないということではないはず」である。
「このような卓越した働きがあることを参求すべきである。」

時の流れと空間の遠近を超えて、
すべての賢者は、
いま、ここに、いるのだ。

「いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、
 さらに古今を超出せり、
 古今に正直なり。」

この「わたし」が、いま、ここに、あること。
その意識を毎日、少しでも多くの時間重ねていきたい。

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2008年05月19日

稽古という行動〜「正法眼蔵」から〜(1)

頭で考えられたことばでなく、
身体で確かめられたことば、身体で生きられたことばのみが、
人から人へと深みにおいて伝わっていく。

仕事において、そのことを日々、痛感しています。

道元の「正法眼蔵」という本があるのですが、
この本は、しっかりと腰を据えて読もうとすればするほど、
わたしを必要以上に観念的にせず、
生きることの具体的な実践へと促してくれます。

わたしの場合は、この本を読んでいますと、
言語造形の稽古をしたくなってくるのです。

稽古せずにいられなくなってくるのです。

いま、立ち上がって、基礎練習から始めたくなってくるのです。

この「正法眼蔵」を読み進めるために、
森本和夫さんの「『正法眼蔵』読解 全10巻」をわたしは使わせてもらっているのですが、
この森本さんの本は本当に「読む」ということを丁寧にさせてくれます。




一文一文、一句一句、一語一語、
噛み砕き、繰り返し味わい、理解していこうとするその「読み」は、
道元の言語世界・言語宇宙(それは、「わたし」の言語世界・言語宇宙でもありえます)へとわたしを誘うと同時に、
「読む」そのたびごとにわたしを稽古という行動へとせき立ててくれます。

それは、取りも直さず、
道元のことばが、森本さんのことばが、身体を通したことばである、
とわたしが感じているからでしょう。

また、道元が語る「祗管打坐(しかんたざ)」、
ただひたすらに坐禅することの深みと、
わたしたちが言語造形に取り組むにおいて、ただひたすらに稽古していくことの深みとが、
響き合っているとわたしが感じているからでしょう。

この響き合いについて、これからも追い追い書いていきたいと思います。

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2008年04月26日

言語造形することにおいて 断想(6)

能、そして世阿弥に関する本は、
まさに汗牛充棟、ごっそりとあるが、
1978年、53歳で亡くなった観世流シテ方、観世寿夫(ひさお)氏の文章は、
身体を使った目からの観察であり、身体を使ったことばであると感じる。

『観世寿夫 世阿弥を読む』(平凡社ライブラリー)を日頃、愛読している。

  

そこには、「道」というものを明確に意識した人のことばが連ねられてある。

道を道たらしめているのは、意識的な稽古の積み重ね以外になく、
そのような稽古が深まってゆく中で紡ぎ出されたことばこそ、
言語造形の道を歩くわたしが欲しているものである。

いまだ彼の全集を手に入れられずにいるが、
このアンソロジーだけでも、舞台に立つ者にとっての宝のようなことばに満ちている。

   (能は)本質的には、からだ全体を用いて表現しなければ駄目なものです。
   能はまずすべての演技を、音も動きも抽象的なものに還元して造形しようとします。
   それが世阿弥にいわせれば幽玄な舞台を創り出すもとだというのです。
   ですから能役者にとっては、音すなわち声・調子・リズムといったものと、
   からだのカマエ、足のハコビ、つまり歩くことが常に重大な要素です。
   能は面をかけることでも明らかなように、すべての恣意的な動作を否定するところから
   はじまりますが、究極においては、精神的にも肉体的にもいかに自然にいられるかを
   求められます。
   ですから上手な人の場合は、その演者のからだがそのまま大きな実在感となって
   訴えてきます。下手のころにはよくからだが見えすぎるというダメを出される。
   それはその人の個人としての肉体がじゃまになるということです。  (P.42)


ここでの「能」ということばを、
そのまま「言語造形」ということばに換えても、いっこう差支えがない。

世阿弥、そして観世寿夫、
彼らが残してくれた稽古論をこれから一層実践的に研究していきたい。        

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2007年10月23日

一葉の日記

樋口一葉の日記を読んでいる。
以前、「わかれ道」という彼女の作品を舞台にのせ、ひとりで語った。
自分にとっては、とても難易度の高い作品だった。

思春期の敏感な少年と二十歳あまりの女との間の恋ともいえぬ恋を描いているのだが、
その一文一文に潜む細やかな息遣いと洗練された身振りの連続、また連続・・・、
それをリズミカルな文体で綴る一葉になんとかついていこうと、
語る自分も随分と走りこみをした。

日記を読むと、彼女は実にこと細かに人の仕種やことばに注意を払っており、
またそれを見事に記憶している。
その密やかさ、執着に、作家の精神の開け具合をまざまざと見る想いがする。
そして、生活を通しての持続的な(文学)修行をみずからに課していることにも気づかされる。

どの作品に取り組むときも、たいていそうなのだが、
はじめのうちはいかに自分がテキストを表面的にしか掴んでいないかに気づく。

いや、気づけばいいほうで、
気づかずにさっとやってみて、できているつもりになっていることほど、悲惨なことはない。
そんなことが修行中何度もあった。
そのたびに師匠に叱責された。(ことばで叱責されたのではない。)

底知れぬ深みを描くために、作家はどれほどの意識の明晰・深みから、ことばを紡ぐのか。
同時にどれほどの無意識の援けが、ものを言っているのだろう。
ことばの芸術の深淵である。

語るために、また演じるために、
文学作品に接近していく、作家の紡ぎだしたことばに立ち向かっていく、寄り添っていく、
その作業は、少なくとも作家が流した汗を自分も流すべく試みるということかもしれない。

ことばを造形するということが芸術であり、
それは他の芸術と同様、修行されねばならない。

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