[読書ノート]の記事一覧

2024年03月21日

アラン『幸福論』から



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礼儀作法の習慣はわれわれの考えにかなり強い影響を及ぼしている。

優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ直ってしまうものだ。

こういうお辞儀をしたりほほ笑んだりするしぐさは、まったくの反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある。

だから社交生活や訪問や儀式やお祝いがいつも好まれるのである。それは幸福を演じてみるチャンスなのだ。

この種の喜劇はまちがいなくわれわれを悲劇から解放する。

(神谷幹夫訳)

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からだがあることは、人にとつて自然なことです。


しかし、からだをどう用ゐるかといふことは、自然なことではなく、つまり、おのづとできることではなく、学んで、習つて、意識して、身につけるものです。


それは技量となつて、人の生涯を支へるものとなります。


このアランといふ人は、こころに安らかさを取り戻させるための秘訣を知つてゐて、それを執拗なくらゐ書き続けてゐます。


さう、執拗なくらゐ同じことを書かなければ、それが読む人の習慣といふものに働きかけないことも知つてゐたからでせう。






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2024年02月26日

小林秀雄『ゴツホの手紙』



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小林秀雄の『ゴツホの手紙』を夜な夜な読み継いで、最後の頁を読み終へた時、ぼろぼろと涙がこぼれて来た。

そこには、狂気を抱えざるをえなかつた画家と、その狂気の向かう側にある魂の純粋をひたすらに見守り続けた画家の弟との間に通つてゐた、人といふ存在そのものへの信が刻印されてゐた。

ゴツホのポケットに入つてゐた弟テオへの最後の手紙。

それは、人と人との間に存在した最も美しいこころのひとつの表れである。

この書では、ゴツホからテオへの手紙がまことに多く引用され、その手紙の文章と次なる手紙の文章との間に、小林の文章が差し挟まれてゐる。

しかし、ゴツホと小林の文体が、まるでひとりの文学者が紡ぎあげるやうに混然一体となつて、遥かに遠く夜空に瞬く星の輝きを見つめ続けるやうなある精神の足跡が頁に刻み込まれて行く。

ゴツホも、小林も、共に、肉体に与へられてゐる機能をフルに使ひ切ることによつてこそ、人は、己れに執着するこころを、自由で広やかな靈(ひ)なる世へと解き放つことができることを知つてゐる。

そのやうなふたりの人が交互に語り交はすかのやうなスタイルをもつて、運命が待ち受けるところへとひた走りに走つてゆく人の様を批評文学として書き記すこと。

小林はそのやうな仕事を己れに課した。

肉体と精神・靈(ひ)といふ相反するものが、実は深いところで共鳴し合ふことの神秘を知つてゐる者から発せられる言語の美。

それは、結末へ向かふにつれて昂じて来る切迫感と共に読む者の胸の底を叩くやうに打つ。

そして、その言語の美は、つひに突然襲い掛かつて来る悲劇といふ暗黒の雲の合間に覗く遥かな青空のやうに、人そのものの美へと昇華して、この作品は幕を閉じる。

残されてゐるゴツホの絵と手紙から、他者という他者に伝はつてゆかうとしてゐるもの。

それは信仰を見失つてしまつた現代人が、もし、それでも純粋なこころがゆく道があるならば、その道は神へといたる道以外ないといふこと。

小林は、そのことを告げ知らせてくれてゐるやうに思ふ。





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2023年11月17日

辞典ではなく註釈書を! 〜保田與重郎『わが萬葉集』 吉川幸次郎『古典について』〜



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小波(ささなみ)の 波越す畔に 落(ふ)る小雨 
間(あひだ)も置きて 吾(あ)が思(も)はなくに 
(萬葉集3046)


保田與重郎の最晩年の大著『わが萬葉集』にある、詠み人知らずのこの歌に対する註釈がわたしにとつて、とても印象的だつた。


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「波越す畔に」と訓まれたのは、まことになつかしく心のふかい詩情である。

「小波(ささなみ)の波越す畔に落(ふ)る小雨」といふ叙景は、感情のしめやかにあふれた詩情、忘れ難いあはれが感じられた。

かういふ濃かななつかしさが、萬葉集の詩情にて、その多くは名も無き人たちの作歌である。

しかしさういふ遠世の無名の人の歌を、多くの代々の人々が心にとどめてよみ傳へ、やがて(大伴)家持によつて記し残されたといふことを考へ併せると、私の心はわが無限の遠つ人への感謝で一杯となる。

しかもこの感謝は、自他を一つとするやうな、うれしくなつかしく、よろこばしい気持である。

そして、この日本の國に生まれ、萬葉集をよみ得るといふことに、悠久な感動を味ふのである。

この時、私にとつて、すべての愛國論は雲散霧消し、わが心は遠つ御祖の思ひと一つとなる。

この國に生まれたよろこびと、この國のいとほしさで、わが心は一杯となる。

(『わが萬葉集 第26章』より)

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これが、註釈といふものであり、批評文学といふものであると改めて念ふ。


叙景に重なつた詩情が淡く湛へられてゐる様を、かくも見事に言ひ表し、萬葉集といふわが國に残された古典の意味をかくもしたしみぶかく語る、このやうな文章こそ、われらの文學である。


この和歌が一千三百年前のものとは到底思へぬのは、このやうな萬葉歌への最良の手引きあつてこそである。


このやうに、歌のことば遣ひとそのリズムを身体に響かせることを通して、歌人のこころの襞に分け入り、歌とひとつになりゆく註釈といふ文学の営為が失はれてしまつたのは、明治以来であつた。


吉川幸次郎といふ中国文学者が『古典について』といふ本の中でおほよそこんなことを書いてゐる。


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江戸の代まであつた日本の文明・文化のきめこまかさが、明治の代になつて失はれてしまつた。

そのひとつが「註釈の學」である。

そして、明治は、古典の註釈として、江戸までにあつた名著を生んでゐない。

明治時代が代はりに得たものは、大槻文彦らの辞典の學であり、また歴史の學であつた。

辞典の対象とするものは、単語である。単語は概念の符牒にすぎない。

「いい」といふ単純極まりないことばでさへも、「いい人」「いい男」「人がいい」などでは、意味が変はつて来る。他のことばといかに結びつくかによつて、かくも意味を分裂させ、変化させる。辞典はその平均値を言ひ得るにすぎない。

「しづかさや岩にしみいる蝉の聲」。「しみいる」は日常のことばである。しかし、芭蕉のこの句におけるそれは非凡である。また、しみいるの非凡によつて、しづかさももはや辞典の追跡し得るところでは完全にない。

精緻な註釈の學のみが、その力をもつ。

明治の歴史学は、『古事記』などの書を、もつぱら史料として読んだにすぎなかつた。言語はただ事実を伝達するための媒介と見なされ、言語そのもののもつ心理のきめなどはあまり問題にされなくなつた。

古典をその言語に即して読む場合は、単に何を言ふかが問題ではない。いかに言つてゐるかが問題なのだ。

宣長の言ふ「言(ことば)と事(わざ)と心(こころ)とはそのさま大抵相かなひて」といふ見識からこそ、文章を発したその人のこころと精神を汲み取るといふことこそが、読書といふ行為の眼目なのだ。

それは、つひには、人といふものを見いだすか、見失ふかの、瀬戸際の行為なのである。

明治の近代生活のはじまりによつて、わたしたちは本当に大切なものを失つて来てしまつてゐる。

「古典」といふ語、それがすでに明治漢語のひとつである。それは、クラシックといふ西洋語の翻訳として、明治の時代に生まれたものである。その時代から、かへつて、きめのこまかな古典の學を衰退させてしまつたのだ。

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註釈とは、江戸の代にまで息づいてゐた、ことばの働きそのものに対する尊び、敬ひ、畏れ、そして愛しみの情と念ひからなされる「人の仕事」であつた。


わたし自身も、奇しくも、シュタイナーに出会ふとほぼ同時に、鈴木一博といふ人に出会ひ、彼から、シュタイナーの書を通して、その註釈の仕事とはいかなることかを学んで来れた。


ことばにしたしく、熱をもつて取り組むことによつて、どれほど、活力とよろこびと知の明瞭さを授かつたことだらう。それは、ひとりの人の精神・靈(ひ)のありかをも告げ知らせてくれるものであり、世の靈(ひ)に触れるやうな感覚をももたらしてくれるものだつた。


わたしの内において、アントロポゾフィーの学びが、我が国の「神(かむ)ながらの道」へと伸びて来たこと、戻つて来たことは、まさしくおのづからなことだつた。


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宣長が「言」を尊ぶのは、「言」が「史」を記すからではない。少なくとも、そのためばかりではない。

「言」そのものが「史」であるからである。

言語は事実を記載するがゆゑに尊いのではなく、言語そのものが事実なのである。

(吉川幸次郎『本居宣長 世界的日本人』)

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言語そのものが事実である、言語そのものが人の歴史である、その認識を元手にして生きて行くとき、人は、どのやうな生き方をすることになるのか。


わたしは、ずつとそのことを問ふて来た。


おそらく、鈴木一博氏もそのことを問ふてをられ、シュタイナーも、ゲーテも、宣長も、そのことを問ふてをられた。










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2023年10月13日

前田英樹氏著「愛読の方法」



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この書の題名は「愛読の方法」ですが、いかにして、どのやうにして、本を愛読するかについて説いてゐる本ではありません。


「愛読」といふ、人の精神がなさずにはゐられないひとつの鮮やかな振る舞ひがいかなるものであるかといふこと。


そして、その一冊の本を愛読する読者が、時代を超えて連綿とあり続けることによつて、その本は古典となり、また後世の誰かによつて愛読される。


その愛読といふ行為の人から人への継承が、人の世に精神からの一筋の道を通して来たことのいかなるかが、親しく語られるやうに書き記されてゐます。


たとへば、この人生をいかにして生きるかを問ふてやまない、わたしといふ人が、ここにゐます。


そのわたしが本を読む時、おのづから生じるこころからの振る舞ひ、せずにはゐられない振る舞ひ、それが、愛読といふ行為なのです。


そして、そのやうに求めるわたしには、必ず、向かうから、愛読に値する本がやつて来るのです。


著者の前田氏もこの不思議への信頼を基にして、そのやうな不思議を一途に信じて生き抜いた豪傑たちの列伝を描いてをられます。


愛読に愛読を重ねることのみで、水平世界を突き抜けて、宇宙へと通じる垂直の次元へと至つた豪傑たちです。


そして、また、この前田氏のこの本を愛読するわたしは、この本に語られてゐる豪傑たちの精神に触れることで、自分自身の本の読み方の工夫の仕方を自力で見いだす旅へと出るのです。


本を読むとは、精神が精神をみて取ることを促す、ひとつの導きです。


その尊敬する人が書き残してくれた一冊の本を愛読するとは、その著者の精神が、光の波のやうに我がこころに浸透し、貫いて来ることです。


そのありやうを、前田氏が、ことのほか、上手に指して説いてをられます。


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「影響」とは、ちょっと惹かれて、真似してみたりすることではない。

何かとひとつになって、それまでの自分が消えることである。

消えて、言うに言えない一種の振動だけが、新しくなった自分を満たしている、そういう経験をすることだ。


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文字といふ道具がこの世に生まれて以来、人はみづからを精神の牢獄へと追ひやらずにはゐられませんでした。


物質主義に傾く抽象性と、そこから生まれて来る思ひ上がつた不遜さといふ精神の牢獄です。


道具とは、常に、さういふ面があるといふこと、「なんとかと、鋏は、使ひやう」といふことわざ通りです。


文字は、人によつて生きられてゐた活き活きとしたことばの生命感やおのづから生じる身振り、表情を殺しました。そして人は殺したものを記録して貯蔵しました。そして、その貯蔵された文字を重宝がることによつて、だんだんと人は生きる活気を失ひ、衰へ、死の牢獄の中にみづから入り込んで行きます。


すべての道具には、そのやうに、人をより便利で効率的な生き方へと導きつつ、人を不精、無能にし、つひには死へと追ひやる性質があるのですが、しかし、もう一方の性質があります。


それは、道具の使用に深く習熟していくことによつて、世界の内側の奥へ、奥へと通じて行くことができる、といふ芸術的、精神的な面です。


大工さんは、鋸や金槌の使ひ方に習熟して行くことによつて、木材の内側へと深く入り込み、木といふ植物存在と対話するやうな境へと進んでゆく。さうして、木が依然呼吸し続けてゐるやうな家を、社を、彼は建てる。


米づくりに勤しむ農夫は、毎年毎年繰り返される稲の世話を通して、米粒一粒一粒に神が宿られてゐることを直感するまでになりゆく。


そして、文字といふ道具は、情報の取得や伝達といふ機能を超えて、用ゐられることがある。


いい文章といふものは、その連続された文字の記述に潜んでゐる、ことばのいのちの流れ、響きに満ちた調べ、意味、すべてを含む精神の運動・律動の中へ読む人を引き入れ、その動きが奏でてゐるリズムとハーモニーの世へと導く。


文字といふ道具を通して、人はそのやうなことばが奏でる精神の運動に入り込んでゆくことができます。


愛読とは、そのやうなことばの内に秘められた働きとひとつになりゆくことです。


そして、それは、何の予備知識も要らない、この身ひとつで辿る精神の運動です。


人はいかにして生きるかといふ問ひを持つ人にとつて、すべての道具は、己れの道を歩みゆく上でのかけがへのない導きとなりうるのです。


そのやうな道具との深い付き合ひは、時流に流されることのない、絶えざる生きる喜びを人にもたらします。


一冊の愛読書を持つといふことは、たとへばその一冊が古典であるならば、文字を介して昔の人と自分自身とを繋ぐ歴史のまことの継承を意味し、そのことが人をどれほどの充実感で満たすことでせう。


水平世界の中で閉じ込められた現世での息苦しさから自分自身を解き放ちつつ、垂直の精神の柱を打ち樹て、歴史を貫く宇宙のリズムへと連ならうとする行為、それが一冊の本を愛読することなのです。





以前、この本について書いた読書ノート『愛読のよろこび』2020年2月28日





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2023年07月30日

前田英樹氏「保田與重郎の文學」



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今年の四月の末に出版された前田英樹氏著『保田與重郎の文學』。2018年、平成三十年二月に出た前作の『批評の魂』から、五年ぶりの新作の出版でした。


この五年間、わたしは前田氏の新しい著作をこころ待ちにしてゐました。


しかし、不覚にも、2018年9月號から前田氏が雜誌「新潮」にこの「保田與重郎の文學」を連載してゐたことをわたしは全く知らなかつたのでした。


だから、本屋に行く度に、該当する棚に、前田氏の新作がないのを見ては、落胆に近い慨然とした思ひを味はつて來たのでした。


もしかしたら、前田氏はもう執筆出來ない何らかの理由があるのではないかと余計な心配までしてゐたぐらゐでした。


しかし、五月のある日、いつもの本屋に行き、この本の背表紙が目に飛び込んで來たのでした。


しかも、題名が『保田與重郎の文學』。


棚にその背表紙を見たとき、一瞬、時が止まつたやうに感じました。


保田與重郎といふ人は、わたしにとつて、唯一無二の本当に特別な人でありました。


さらに、その本の値段を見て、またまた、時が止まつてしまひました(笑)。税込みで14,300円。


これまで前田氏の著作には、2009年、平成二一年二月に出たちくま新書の『独学の精神』を最初の出会ひとして、その後、彼の数多の著作をまさに貪り読んで来ました。


そして、とりわけ、2010年、平成二二年十一月に出た『保田與重郎を知る』といふ一册は、わたしの人生を変へたのでした。


それまでおぼろげに名前だけは知つてゐた保田與重郎。しかも、わたしはその人に対して、戰前・戰中の我が国を軍国主義へと煽動した人物といふ、まことに曖昧で勝手な先入觀を持つてゐたのでした。


しかし、それまで愛読に愛読を重ねてゐた前田英樹氏の新作として、当然の如く、その時もその書を購入しました。


そして、一読、こころの底が拔けたやうな思ひが訪れたのです。


それまでの淺はかな先入觀が剥がれ落ち、この保田與重郎といふ人こそ、わたしが精神の師として求めに求めてゐた人であると直感したのでした。


勿論、それまでにも、内村鑑三、小林秀雄といふ人たちの著作から、深くて熱い感動と精神の糧を戴いてゐました。しかし、これほど、我がこころに刮目を与へ、かつ、どこまでも親しく語りかけて来、我がこころを搖り動かし、我が生を支へゆく力を持つ文學者は、日本人においてこの保田與重郎が初めての人だつたのです。


さう、保田與重郎は、日本人でありました。日本語で、日本といふ「くに」の精神と歴史と文學と生活を語る、まことの日本人でありました。


わたしは、日本語をもつて、文學のことばをもつて、神を語つてくれる人に出会へた喜びに打ち震へたのでした。


そして、その喜びと覺醒をもたらしてくれる保田與重郎に導いてくれたのが、前田氏の『保田與重郎を知る』だつたのです。その一冊は、わたしの人生を本当に、まことに、新しく切り開いてくれたのでした。


それ以来、この十数年、保田與重郎全集、全五十卷の一冊一冊を読み続けて来ました。


だからこそ、このたびの前田氏の『保田與重郎の文學』の出版は、わたしにとつて、何か特別なものを感じてしまひました。


800頁にわたるこの大著を手に取つて、ただちに直感したのは、五年を掛けてこの書をなした前田氏も、もしかしたら、これはご自身の人生のひとつの集大成にあたるものだと思つて仕事をなされたのではないかといふことでした。


高価な値段なので、しばらく、財布工合と相談しながら、日を過ごしてゐたのでしたが、ある日、こころを決して本屋に足を運びました。一冊の本に対する態度が、まるで、明治か大正の貧乏な書生さんのやうだと自分でも思ひます(笑)。
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しかし、わたしは、読む前から、すでにかう思つてゐました。わたしは、この一冊に大切な何かを賭けたい。この本を読み、この本を通して、本当に大切な何かを生きたい。


家に帰り、すぐに、序章「倭(やまと)し麗(うるは)し」を貪るやうに読み始めたのでした。


そして、今日、約二か月かけて、全三十七章を読み終へました。


読み続けつつ、感極まつて、何度も、涙が溢れて來ました。


それは、まだうまくことばに出来ませんが、この書の地下には、まるで、涙の川が流れてゐて、ところどころでその川から人の悲願が吹き上げて来るやうに感じるのです。


日本における精神文明の系譜が、人から人への、いのちのほとばしりとして傳へられてきた樣がありありと書き記されてゐて、その流れは、この本を読んでゐる自分自身にもまぎれもなく流れ込んで来てゐる事を感じるからでした。


そして、敬ひとへりくだりのこころをもつて、古(いにしへ)を知る事が、わたしたちが生きてゐる今といふ今を一新し、さらには未来を創造していく原動力に必ずなる事を信じる事が出来るからでした。


この書は、大伴家持が、紀貫之が、後鳥羽院が、芭蕉が、本居宣長が、そして保田與重郎が、「人とは何か」「人はいかに生きる事が出来るのか」といふことに関して受け継いできた精神の傳統を、身体中を流れる涙の川の流れと共に前田氏が書き記したものなのでした。


それは、21世紀の今、わたしたちが生き拔いて行く上でどうしても直面せざるを得ない、まことに根本的な価値感の大転換を依然として示唆し続けてゐるのです。


わたしは、前田英樹氏に、本当に、感謝するのでした。


このやうな仕事をなしとげて下さつたことにです。


現在を生きる事のみにこころ囚はれてゐる人には感覺し理解することが難しいことですが、いつの代にも、世を根柢で支へるのは、人の悲願を記す文學のことばであり、詩人の精神です。


我々凡人がそのことに氣づくのは、詩人がこの世を去つて何十年、いや何百年あとです。


ですので、保田與重郎が生涯を通して述べ続けた「偉大なる敗北」が詩人には運命づけられてゐます。


まだ一読目ですが、この本を通して、読む前に予感してゐた通り、わたしは新しい生を生き始める事を実感してゐます。




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2023年07月02日

江戸時代にすでにあつた独学の精神 小林秀雄『本居宣長 補記』



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己れの剣ひとつで生きる武士のやうな精神をもつて、「いかにして人は生きるか」といふ学問に身命を賭した人たち。


当時の江戸時代の日本に存在した豪傑たち。


小林秀雄の『本居宣長』には、さういう人たちの精神が、小林のこころに映じるままに描かれてゐます。


近江聖人と言はれた儒学者・中江藤樹も、そのひとりです。



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先生の問ひに正しく答へるとは、先生が予め隠して置いた答へを見附け出す事を出ない。

藤樹に言はせれば、さういふ事ばかりやつてゐて、「活発融通の心」を失つてしまつたのが、「今時はやる俗学」なのであつた。

取戻さなければならないのは、問ひの発明であつて、正しい答へなどではない。

今日の学問に必要なのは師友ではない、師友を頼まず、独り「自反」し、新たな問ひを心中に蓄へる人である。

さういふ所から、彼は、「独学」という事をやかましく言つた。


(小林秀雄著『本居宣長 補記』17頁)


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たつた独りで「問ふ」こと。たつた独りで、ものごとに対して「問ひ」を立てること。他の誰もしない「問ひ」を発明すること。


もちろん、答へが欲しくて問ひを立ててゐる。


しかし、答へを得られようが得られまいが、そのことに拘泥せず、むしろ、即座に得られる答へなどには真実はないと思ひ定めて、問ひを立てる。立て続ける。


それは、意識を目覚めさせることと全く軌を一にしてゐる。


端的に、そのことに向かふこと。


それが、「学ぶ」といふことではないか。


江戸時代にすでにあつた、「独学の精神」です。






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2023年06月18日

前田英樹氏『保田與重郎の文学』読書ノートA「第一章 注釈の姿を取った文学」



●昭和の文芸批評家として生きた保田與重郎は、ずいぶん多作な人だったが。彼の多作ぶりには、重複を少しも厭わない肝の太さ、自作を振り返りもせず、力尽き、斃れるまで進んでいく志士(もののふ)の剛毅があった。(23頁)


●(最後の著作『わが萬葉集』において)幾つかの歌、特に大伴家持の作をめぐっては、何度引き、いくら釈いても決して表し切れない称賛、愛着、親しみを、じっと抑えているように見える。そこに、僅かばかりの繰り返しが、やむなく現れてしまう。そんな趣である。(23頁)


●繰り返しは、不注意から来るのではない、彼が心中で耐えてきたものの避け難い ― それが故に美しい ー綻びのように現れて来る。その綻びの姿に接することができるのは、私には、むしろ有り難いのである。(24頁)



保田與重郎の著作を読み続けてゐると、彼のその猛然とした筆の進み方に、唖然とするのである。どうして、これほどまでに、筆が止まらないのか。


彼は、思ひに思ひを重ねつつも、いつたん筆を執つたなら、こころの中から蚕が糸を吐くやうにするするとことばを紡ぎ始め、その営みは糸を吐き終はるまでは到底止むことはない、そんな趣きではなかつたかと感じるのである。


保田の文章を綴る際の、その原動力は、まさに、ここで前田氏が述べてゐる、「いくら釈いても決して表し切れない称賛、愛着、親しみ」といふ溢れんばかりの情だつた。そのことを、即座に感じる。


そして、後代のわたしたちは、この情の奔逸とその抑制を味はふことを、文学の喜び、読書の喜び、生きることの喜びとするのである。


だから、わたしはまづは問ふてしまふのだ。現代のわたしたちは、いや、このわたしは、このやうな溢れんばかりの情を湛へて生きてゐるだらうか、と。この情の過剰と言つてもいい、生の昂ぶりを持つてゐるだらうか。


さう問ふたときに、その情のみづみづしい昂ぶりこそをわたしは希(こひもと)めてゐると、わたしは応へてゐる。


そして、そのこころのありやうを、ことばに鋳直すことへの憧れに憑かれてゐる、と。


ことばに鋳直すといふ行為は、まさに、こころをかたどることであり、それは不定形なものにかたちを与へること、抑制を加へ、言語表現における一回きりのすがたを得ようとすることである。


そのやうな、奔逸と抑制といふ相反する精神の力の均衡を培ふことへの憧れが、古来、人にはあり続けてゐる。なぜなら、その均衡と、僅かばかりの綻びが、美しいすがたを生み出すからである。


保田與重郎の文章は、その精神の美しさを味ははせてくれるのだ。




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2023年06月15日

前田英樹氏『保田與重郎の文学』読書ノート@「序章 倭し麗し」



この国をどのやうな「くに」に創り直して行きたいのか、自分自身の精神の声にとくと耳を澄ましてみなければならないと思ふ。その聴こえて来る声の内実について深く考へること。


そして、その「くにづくり」のために、順序を立てて、何からし始め、何を経て、何に向かつて歩いて行くことができるのかを、実際に立ち上がり、歩き続けながら、必死に考へること。


そんな仕事をされたのが、本居宣長であり、小林秀雄であり、保田與重郎であり、この『保田與重郎の文学』の著者、前田英樹氏であると感じる。


そして、わたしは一読者にすぎないのだが、その聖なる仕事にわたし自身も繋がりたいと切に願つてゐる。これが、我が生涯に残されてゐる仕事である。


政治のそもそものおほもとの精神とは、人と人との関はりを調へ、律し、育んでゆく、といふことであつた。


その精神を、常に、こころに照らして考へるならば、このくには、四角四面の「道徳」や「憲法」以前に、暮らしの中からおのづと生まれいづる「みち」といふものが、深く広く民の間で共有され受け継がれて来たことを想ひ起こさねばならない。


つまり、「法」や「国家」の前に、「精神」があり「信仰」があり「みち」があり、それこそが、人を人たらしめるため、国を「くに」ならしめるための「天との絆」なのである。


そして、いま、わたしたちは、その「道徳」「憲法」以前の不文律といつてもいいやうな「みち」を確かに共有し直す大人の勉強会が要るやうに思ふ。


なぜならば、わたしたちは、歴史の必然からであらうか、我がくに固有の精神をゆゑあつて、失つてしまつたからである。


その「みち」は、人為のものではなく、天与のものだつた。


そのことをわたしたち現代人も知ることができる。しかし、そのことをそのこととして、まぎれなく、教へてくれるのは、我がくにの「古典」であることを、保田與重郎は生涯を賭けてわたしたちに告げ続けた。


保田大人(うし)は、『古事記』『日本書紀』『萬葉集』『古語拾遺』『延喜式祝詞』の五つこそが、古典であると喝破した。


学問は芸術になりうるといふこと。そして、信仰への「みち」に繋がりうるものであるといふこと。


そのことを念ひ起こさせたのは、江戸期においてなしとげられた国学といふ学問であつた。国学は、それら「古典」を解き明かす、大いなる精神文化の復興として、こころある人によつて好まれ、志ある人によつて生きられ、つひには、江戸幕府を瓦解にまで導き、明治維新を起こすそもそもの精神の主調基音となつた。


「みち」がすでに、このくににはあるといふこと。


そのことを国学は述べて倦まない。


●『古事記』『日本書紀』『延喜式祝詞』に描かれた、神々と農の民との契りの物語は、人類のこの運命(必然的に争ひや殺戮を含んでしまふ狩猟、牧畜の暮らし)が、いかに改変され、克服され得たか、あるいはされ得るのかを、驚くべき単純さで、明々とした言葉でもって示している。(11頁)


●・・・文人たる保田が、国学の本流から摑み、学び取ったものは、明確であった。彼の膨大な文業には、肇国(ちょうこく)以来の信仰の姿を根本から明らめ、恢弘(かいこう)するという目的があった。その信仰は、多く文学の形をとっている。いや、文学の言葉を産む源泉そのものとなっていた。(11頁)


農業を中心とした衣食住の暮らしを精神から支へる四季の祭りが、このくにのすべての源なのだといふことを、まごころから語つた学問が国学であつた。だから、国学の文章そのものが、古典に対する精緻極まりない研究に基づくものでありながら、冷たい理知に訴へるものではなく、どの人もが当たり前に持つてゐる素直なこころにぢかに訴へて来る、芸術的な文学そのものなのである。


本質的なこととして、我がくにの民は、外国のやうに、生きるための経典や教書を必要とせず、暮らしのあり方そのものが生き方を導いてくれたことを国学は江戸期の日本人たちに伝へたのだ。


それは、曾祖父や祖父や父母からずつと続いてゐる、言はば、あまりにも当たり前のものの考へ方、生き方に関することごとを、細やかにありありとことばに鋳直した、意識の目覚めに向けての覚醒の学問だつた。


わたしたち令和に生きる現代人も、そのやうな覚醒の学問を必要としてはゐないだらうか。








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2023年04月11日

吉田健一「本が語つてくれること」



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本を読むといふこと、読書するといふことについてしたためられてゐる本を読むことがわたしは好きで、さういふ本を書店で見るとつい手に取つてしまひます。きつと、多くの読書好きの人も、さうではないでせうか。


ここのところ、吉田健一著『本が語つてくれること』を毎晩寝る前に少しずつ読み進めて来て、昨晩読み終へたのです。


これは、約半世紀前に新潮社から出版されたもので、つい最近、平凡社ライブラリーからの一冊としても出版されてゐます。

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彼の文章を読み始めると、最初は、一体、何を言はうとしてゐるのか、あまりにも判然としないその粘液質的な文体に驚き、その癖の強い(と感じられる)ことばの綴り方にアンチパシーを覚えたのでした(^_^;)。


ところで、購入したあと、頁を開き、読み始めて、なぜか、読み進めることができなくて、机の上か本棚の肥やしになつてゐる本があります。いはゆる「積読(つんどく)」ですが、この積読されてゐる本を何年か、もしくは何十年か後に、読んでみようといふ気運が自分の中に立ち上がつて来て、本棚から取り出し、やうやく読み始めることが時々あります。さうして、読み始めるやいなや、なぜかぐいぐいと読み進むことができてしまふことがあります。


ある本に親しむには時間が必要で、読む側の準備が整ふまで、本の方が待つてくれてゐる、そんな感じなのですね。


しかし、この吉田健一の『本が語つてくれること』は、頁を閉じかけたのですが、なぜか、すぐふたたび、手に取つたのでした。


それは、わたしにとつてはとても難解に思へたこの本の文体の後ろ側に、とても高貴な人がひめやかに佇んでゐる気配を感じたからでした。


まるで、静かに揺れながら立つ林のやうな、もしくは、くねりながら流れる川の水のやうな文体。


しかし、その林の奥に入つて行く粘り強さ、水の流れに沿ふやうな柔軟ささへこちらにあれば、つまりは、読むこちら側の精神さへ整へれば、きつと、読んでいくことができるといふ予感があつたのでした。


そこで、腰を据ゑて読み始めたのでした。


すると、間もなく、著者の柔軟にしなりつつ、凛として立つてゐる精神から流れて来る、実に豊かな音楽が静かに奏でられてゐることを感覚し、ことばの林を歩いてゆく喜びがこんこんと湧き上がつて来るではないですか。


さうして、この著者に対する信頼の情といつてもいいやうなものが増してくるのです。これは、とても嬉しく、ありがたいことです。


対象に対するこちら側の成熟だけが問はれてゐるといふ感覚を抱くことができるのは、幸せなことです。


なぜならば、そんな問ひを抱かせてくれる人は、きつと、大人だからです。本当の大人だからです。そんなまことの大人、まことの成熟した人に出会へることは、本当に喜びです。


あくまでも、わたし個人の感覚にすぎないのですが、この本を読み終へて感じてゐることは、そのやうな「大人」が昭和40年頃まではここ日本にも多くいたのではないかといふことです。それは、戦前に教育を受けた人がまだ昭和40年頃まで社会の一線におられて活躍してゐたのではないかといふことなのです。


吉田健一といふひとりの人から生まれたことばを通して、そのやうな風合ひを憶ひ起こすことができたことは、わたしにとつて、まことに嬉しいことでした。


ちなみに、彼は、46代目の戦後の総理大臣、吉田茂の長男で、イギリス、ケンブリッジ大学で学び、英語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語に通じ、評論や小説、そして英文学の翻訳などを多数なした方です。


最後に、この本の中でも、比較的、分かりやすい( ´艸`)文章をここに掲げさせてもらひます。



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本を書くといふのは言葉を探すことであつてそれを読むことで言葉を探す手間が省けると思つてはならない。

或る本に一連の言葉が出て来る時にそれを得る前の作者の状態に自分を置いて自分もそれを探すのでなければ言葉は響いて来ない。

そんなことはないと思ふならば実際に何か読んでゐる時の自分の状態に注意を向けるといいのでそこに書いてある言葉の通りと自分でも感じるのはそれを見付けて言つてゐることに確信を得た作者の立場に自分を置くからである。

それでこそ本を読むことで精神が働き出す。

この生気が本を読む時に必要であつて従つてこれはそれを促すだけのものがない本は読むに価いしないといふことでもある。

(140頁)


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2023年01月30日

執行草舟氏『人生のロゴス』



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執行草舟氏の最新刊『人生のロゴス』。

本屋に並ぶ初日に贖ひ、毎日、二頁から六頁程づつ読み続けてゐる。

見開き二頁づつに、大いなる先人ひとりひとりのことばが執行氏によつてひとつづつ選ばれ、見開いた左の頁には、そのことばを座右銘とし、ご自身の生をかたちづくつて来られた執行氏による、渾身の文章が記されてゐる。

これらのひと筆で描かれたやうな、ひとつひとつのことば、そして執行氏がそれらのことばにどれほど接近し、どれほど存在まるごとで交はつて来られたのか。

今日の時点では、まだ、十人の先人の方々のことばしか読んではゐないのだが、まさに、これらこそが、「ロゴス」と古代ギリシャで言はれたものではないかと念ふ。

それらひとつひとつのことばが(まさに「ひとつひとつ」である!)読むわたしの精神に強く重く響く。

他の本を読んでゐる時には鈍くしか響かないわたしの鈍い精神が、この書の一頁一頁、ひとことひとことに、強く響かせられ、揺り動かされ、目覚めさせられるのだ。

「ことば」「ロゴス」「言霊」とは、そのやうに、人の身の奥に眠つてゐる鉄床(かなとこ)を叩く鉄の鎚(つち)なのではないか。

手に繰る二頁ごとに、こころの鉄床から火花が飛び散る。

だから、さうやすやすと頁を繰りたくはない。

頁を遡り、また繰り返し、先に読んだ二頁を見つめる。

先ほど、「ひと筆書き」などと書いてしまつたが、その「ひと筆」に、先人の方々はどれほど莫大な命の元手を懸けてをられることだらう。

ゆつくりと、じつくりと、ひとりひとりに、ひとつひとつのことばに、付き合ひたい。

また、登場するそれぞれの人のポートレイトが高田典子氏によつてペン画で描かれてゐて、その表情、身振りが、まこと、その人の精神を映し取つてゐると直感する。

子どもの頃に読んだ文学作品などによく美しい挿絵が描かれてあり、とりわけ、子どもであつたそのころの自分にとつては、小さくない印象がその作品と共に我がこころに刻まれたものだが、ここに描かれてあるペンによる肖像画も、二頁ごとに創られてゐるこの精神の芸術、魂の芸術、人といふものの芸術作品を一層印象深いものに仕立ててゐるのだ。

190人による190のことば、そして執行氏による文章が収められてあり、彼のそれらの文章は、わたしにはどこか人類の嘆きと叫びのやうに聴こえて来る。

また、その文章は「批評するといふことは愛するといふことである」ことを証するものであり、そして、時系列に並べられてはゐないが、これこそ、「人としての歴史」が綴られてゐる書だとわたしに感じさせるのだ。

毎日、たいせつに、読んでゆきたい。






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2022年10月31日

学びについての学び 〜小林秀雄『本居宣長』〜



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何度目かの小林秀雄『本居宣長』の熟読。この本は、何度読んでも、わたしを魅了します。


「ものを学ぶ」といふことが、どれほど人間的な、全人的な行為であることか。


宣長は若い頃、地元の松坂を出て京都に留学し、契沖といふ人の書いた「百人一首改観抄」といふ本を見て、いつぺんに目を覚まします。


それは当時、江戸時代の中期ですが、四角四面のものになり過ぎてゐた学びといふもののあり方を根底から覆して、学びそのものを芸術行為となす、契沖の「大明眼」に驚いたからでした。


学びの仕方に決まりきつた方法などない。ただただ、対象に向き合ひ、それと付き合ひ続け、それへの共感を育て、その内部へと入り込み、それを愛し、それとひとつになること。それこそが学びといふものに他ならないといふこと。つまりは、「ものへゆくみち」を歩く以外にないのです。


わたしなどは、高校生ぐらゐの人たちと、例えば、この本を読むだけで一年間授業をしてみたいと夢見ます。


読むことによつて、まさに声に出して訓むことによつて、古語の内に入りゆく。いにしへの人のこころの内へと入りゆく。そこに聴こえて来る精神は、絵空事としての精神ではない、今と未来へと突き抜ける生きた精神だと直感する。


学びについての学び。


知的な学びの中にファンタジーが湧き上がつて来ます。


「源氏(物語)二カギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞ヒトツヒトツ、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物二ナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ」(あしわけをぶね)


契沖、宣長、小林秀雄といふ人を通して江戸時代から昭和の時代へと引き継がれた「ものへゆくみち」のリアリティーは、わたしはこれからの時代にも決して古びては行かないものだと感じてゐます。




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2022年02月23日

小川榮太郎氏『作家の値うち』



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仕事の必要上、読みたい本、読まなければならない本が、本当にたくさんあつて、これ以上、読む時間を取れそうにないのにもかかはらず、小川榮太郎氏の「作家の値うち」を買つてしまつた。自分自身に「買うたらあかん、買うたらあかん」と言ひ聞かせてゐたのにもかかはらず、書店で手に取り、ページを繰り始めるやいなや、100人の日本人作家による505の現代文学作品の魅力とつまらなさを、一作一作述べてゐるこの書をレジへ持つて行くことになつてしまつたのでした。これはあきません。このガイドブックのページをめくるほどに、読みたい本が出て来る、出て来る。思はずAMAZONでぽちっとしたくなる誘惑に勝つことが、今の課題です。それでも、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」と宮本輝の「蛍川・泥の河」を贖ひ、隙間の時間を使つて読んでしまひました。小川氏の高評価に沿つてのことです。この二冊の文庫本を読んだだけでも感じてしまふ、もののあはれ。ああ、なんと、豊饒な人の世よ。それは、文学者・詩人によつて産み出される人の深い愛と叡智に他ならない。そんな同時代を生きてゐる人によつて紡ぎ出されることばの芸術を紹介してくれてゐるこの「作家の値うち」。本当にありがたく、かつ、とてつもなく、面白いのです。

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2021年10月12日

芸術としての文章 遠山一行著作集(二)



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ふと、購つてそのままにしておいた『遠山一行著作集(二)』を読み始めました。


ヨーロッパのクラシック音楽に対する批評文集です。


はじめの数十頁を読んだだけですが、すぐさま感じとられたのは、昭和の文人による文章の素晴らしさです。


想ひが思索によつて整へられ、奥行きのある清潔な文体。


著者にとつては、その対象は音楽ですが、対象が何であれ、考へる働きをもつてこころを導きながら、己れの想ひを深めて行くことのできる対象に出会へたとき、その人は仕合はせです。


そのやうな「もの」との出会ひ方、つきあひ方、取り組み方ができたとき、その人は対象についての知だけではなく、己れみづからの〈わたし〉といふものの充実をも受け取ることができる。


それが、科学的認識とは一線を画する芸術体験(芸術的認識)のもつ意味なのです。


そのやうな芸術的認識へと導くものこそが、批評といふものだと思ひます。


文章といふものそのものが、芸術になりうる。遠山氏の文章も、そのやうな文章であります。


たとへ、そこに記されてある音楽をこの身で聴いたことがなかつたとしても、文章そのものを読む喜び、感動、知的刺激を得ることができる。


芸術としての文章、そのやうなものをたくさん読みたい、声にも出してみたい、と念ふのです。


先人の織りなしてきた文目(あやめ)豊かな文章の織物に触れ、それを着こなして己れのものにする、そんな自己教育のあり方を模索していかうと念ふのです。


こころを慰め、疲れを癒し、喜びを感じること、それは人が何よりも芸術に求めるものですが、そこだけに尽きない、考へる働きを促し、想ひを拡げ、得心を深める、そんなこころの使ひ方をしたくなるやうな芸術や文章に出会ひたい。


時代から時代へとそのつど情勢は移りゆきますが、それらを貫いて、決してそれらに左右されない根本の精神を語り、謡ふ、文芸の道、ことばの道を指し示してゐる数多の本を読み込んでいく、その喜びを子どもたちにも伝へて行きたい。


また、これは大変な身の程知らずの不遜な言ひ方になつてしまひますが、自分自身もそのやうな芸術作品を生み出していきたい、と切に希ふのです。




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2021年09月18日

精神の教科書 詩集ソナタ/ソナチネ



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石村利勝氏の第一詩集が出版されました。


これほど出版を待つた本は、これまでになかつたことでした。


春、夏、秋、冬、四季の巡りに添つて「詞(ことば)」が綴られ、最後に「SONATINE」と題された一連の恋愛詩で構成された、一冊の詩集です。


いにしへにおいては、本を読むといふことが、晴れやかな日の晴れのことであつたこと。


第一頁を開き、まづはそのやうなことを想ひ起こしてしまふ、懐かしくも不思議な手触りを感じたのでした。


この混乱した世情のさなか、しかし、季節は確かに秋へと移りゆく、このとき、わたしは、この詩集の【秋の詞】ばかりを、手元に届いてからのこの三日間、ずつと、夜更けに訓み続けてゐます。


さうして訓むことで、こころの深みからなにがしかが引き出されて来るのをゆつくりと覚えるのです。


その覚えは、こころにありありと感覚されるそれでありつつも、しかし、ことばにできない、風の色のやうな、立ち上がり、舞い上がり、吹きすぎてゆくやうなおぼろな絵姿なのです。


それら様々な絵姿・イマジネーションは、我が胸の奥を突くやうにわたしに働きかけて来、情を揺さぶり、震はせます。


さらには、我がこころから引き出されて来る、これらの力が、創造的、生産的な力であることも、いま、予感されてゐます。


まだ、秋の詞にしか接してゐないのですが、これらの作品が、この世の次元を超える遥かな過去をどこかわたしには感じさせるのにも関はらず、確かなリアリティーと共に、すべてがまことの人間性を湛へてゐると直感されるがゆゑに、この一冊は創造性と生産性をわたしに促す精神の教科書になつてゆく、そんな予感なのです。


この詩集には、著者が21歳(1990年)から27歳(1996年)までに書き記した最初期の作品が選ばれてゐます。


青年のこころと精神が織りなしたこれらの作品に、56歳の自分がこのやうに胸を衝かれるのは、どういふことなのだらうと、考へて続けてもゐるのです。


ひとりの人の、こころからの敬ひが注ぎ込まれた、日本の文学。


そして、著者の友であり、文芸評論家である小川榮太郎氏の真実の献身により、根底で支へられた日本の文学。


まづは、そのやうに、感じてゐます。



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2021年08月30日

語り口調の闊達さ 福翁自傳



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明治31年(1898年)、福沢諭吉が65歳の時、速記者を前にして語り尽くし、みづから校正し出版した『福翁自傳』。


幕末から明治にかけての激動の時代を、本当にさばさばした気性と透徹した先見性をもつて駆け抜けた男。


読んでゐて、そんな印象が最初から最後まで持続する、無類に面白い自伝でありました。


人生におけるなんとも身軽で闊達な彼の足取りは、その文体が如実に表してゐますが、とりわけ、この作品は口から語られたことばの並びをそのまま活かしてゐるので、その息遣ひとことばの運びが彼の気質とひとつになつて、まぎれもなく、ここに福沢諭吉といふひとりの人がゐるといふ感覚を読み手にもたらしてくれるのです。


ここに人がゐる、といふ感覚。ここで人が語つてゐる、といふ感覚。


それは、この上なく、貴重なものです。


このやうな健やかな人を知ることで、彼のことばを読む人、聴く人にも、その健やかさが流れ込んできます。


その健やかさは、自分自身を信じ、何かをとことんまでやり抜く、その貫く力から生まれて来てゐます。


すがすがしいのです。



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2021年04月16日

柳田國男 ささやかなる昔(その一)



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柳田國男全集第三十一巻(ちくま文庫)に入つてゐる「ささやかなる昔」が、味はひ深く、読んでゐて面白くて堪らない。


その巻頭の文章「萩坪翁追懐」から、すでに、抜き書きしたくなつたので、しておかうと思ふ。


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(わたしが十七年間の感化を受けた松浦先生は)まさしく「昔」を人にしたやうな、徳川時代足利時代を超脱して、もつと古い処へ腰をかけたやうな心行きの人であつた。


私は初め歌を修行するために先生の門に入つたのであつたが、歌よりほかに露骨にいへば人生の観方といふやうなものをも教へられた。先生の訓によつて日本の歌に限つて「人の心の真(まこと)より」といふやうな特殊の条件のあるのを奇異とは感じなくなつた。先生の説では歌は紙に書いて人に見せての面白味よりも、いはゆる口吟(ずさ)むといふ興味を尚(たつと)ぶべきものだといふことであつた。新しい言葉で説明するならば、理解の労力なしに自分の感情を伝へるのを専(もつぱら)にすべきものだといふ趣旨であつた。


(先生は)時として幽冥を談ぜられた事がある、しかし意味の深い簡単な言葉であつたから私には遂に了解し得られなかつた。「かくり世」は私と貴方との間にも充満してゐる、ひとりでゐても卑しい事はできぬなどと折々いはれた。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾




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2021年03月08日

幸田露伴 〜美しい生き方〜



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ここ二週間ほど、明治から昭和初期にかけての文人、幸田露伴をずつと読んでゐました。二十年ぶりぐらゐの再読です。


娘の幸田文から読み始めたら、まう、その父親のものを読まずにはゐられなくなつたのでした。


「五重塔」から始めて、「太郎坊」「貧乏」「夜の雪」「雁坂越」「蒲生氏郷」に、とりわけ魅せられました。改めて、堪えられない味はひだと思ひました。


二十四歳の時に「五重塔」を書いたなんて、まう天才としか言ひやうがありません。小学校は成績不良で落第し、中学校は中退し、図書館で独りで学びつつ、こつこつ、こつこつと、文章道に邁進して行きました。


「努力論」「音幻論」といつた随筆もとても魅力的ですが、露伴の何がわたしにとつて最も魅力的かといふと、「人としての美しい生き方」をこの人は尊んで、文章に刻み込んでゐるといふ一点です。


その骨の部分を娘の幸田文も確かに最大の敬意と畏れと愛情をもつて受け止め、彼女ならではの筆の運びの細やかさと闊達さと艶を感じさせますが、やはり父親は偉大でした。


美しい生き方。


それは、いくらしたくても言ひ訳などせず、自分の仕事に全身全霊を注ぎ込む人にして初めて表れるものであること。


さういふ生き方を、文章で示してくれる文人を、本当にわたしは好みます。ありがたいです。自分を恥じます。たいせつなことを想ひ起こさせてくれます。

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2020年11月11日

命ある芸術 〜フルトヴェングラー『音と言葉』〜



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「まさに、我が意を得たり・・・!」
フルトヴェングラーの著書『音と言葉』の中の「作品解釈の問題」を読んでゐて、こころを揺さぶられました。


それは、作曲する者の営みと、その曲を再現・演奏する者の営みとを、対照的に描きつつ、つひには、ひとつのところへと収斂していきながらも、作曲した者も演奏する者も思つてもみなかつた、より広やかでより奥深い境へと解き放たれていく、そんな芸術的な秘儀の道筋を描いてくれてゐる。


かういふことばで言ひ表しにくいことを的確に言ひ表してくれる先人があることは、本当にありがたいことです。


これは、文学作品を音声として芸術化する時にもそのまま当て嵌まるのです。


なかなか、このことは上手く言へないのですが、今日の言語造形のクラスでも実感したこととして、鍵は、足の運び、腕の動きにあります。


つまり、意欲をいかにして芸術的に洗練させるか。眠れる意欲こそが、新しい生き物を産み出す秘訣。特に足の運びは、普段無意識でなされてゐるけれども、その無意識の領域、眠りの領域にまで、ことばを降ろすことができたとき、ことばが命を持ち、また、新しいことばが生まれてくる。


この、眠りの意識にこそ働きかけるありやうは、書く人にも、それを再現する人にも、ことばの生命に預からせます。


ゲーテは、狭い書斎の中を歩き回りながら、『ファウスト 第二部』の彫りの深いことばを次々と秘書に書き取らせていつたさうです。


きつと、『ファウスト』を演じる俳優も、その足の運びが、ものを言ふはずです。


要(かなめ)は、ものに命を吹き込むこと、ものの命を汲み取ること、ものから命を甦らせること、そのためには、人はみづからの意欲をもつて芸術的にものに働きかけていくことだと思ふのです。



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2020年07月16日

見る、考へる、そして、身を捧げる 〜トーマス・マン「魔の山」を読んで〜


 
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書くわたし自身が、
こころの練習をすることができることもあつて、
拙くもかうした読書ノートをつけてゐます。
 
 
また、ことばの仕事をしてゐるからか、
このノートを読んで下さる方と、
読書による言語芸術の魅力の味はひを、
少しでも分かち合ふことができたら、
といふ身の上知らずの希ひがあります。
 
 
トーマス・マンの『魔の山』を読み終へました。
 
 
マンは、
この作品を十二年といふ長い歳月をかけて書きました。
 
 
わたしは、ゆつくりと読みました。
 
 
それなりの時をかさね、
この作品の精神に沿はうとこころみ、
主人公の青年ハンス・カストルプと共に、
本の中に続くこころのあぜみちを、
わたしも歩いたのでした。
(みちの両側には、
 次々に色合ひの異なる様々な人物が登場し、
 それぞれの色合ひの作物を、
 豊かにも、貧しくも、稔らせてゐるのでした)
 
 
そのみちは、たいがいはぬかるんでゐましたが、
そのぬかるみをまどろこしく感じた時もあれば、
その土壌の柔らかさ・温かさに、
こころの落ち着きと、
このみちを歩いてゆくことに間違ひはないといふ、
確かさとリアリティをも感じたのでした。
 
 
わたしも長い時をかけて読んだためかもしれません、
最後の頁に辿り着いたとき、
肚の底からこみ上げてくる嗚咽と、
深く暗い淵をのぞきこむこころもちに、
ずつと包まれてしまひました。
 
 
しかし、その時間が停止するときの手応へは、
わたしがずつと求め続けてゐるものでした。
 
 
文庫本、上下巻千五百頁にわたる作品であるゆゑ、
再読し尽す時間はもうないかもしれませんが、
この作品の精神が、
わたしの精神に響き続けることは確かに感じます。
 
 
その精神とは何でせう。
 
 
主人公を通して、
人の三つの機能が、
長い、長いときをかけて溶け合ふことの奇跡です。
 
 
見る。考へる。そして、身を捧げる。
この三つの機能です。
 
 
長いときをかけて、
その三つの機能を溶け合はせた果てに、
人は花を一輪咲かせて、
この世を去ります。
  
 
千五百頁の最後に至つて、
人といふものの、その美しさを語り切る。
 
 
それが、この作品の精神だと感じたのです。
 
 

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2020年05月02日

シェイクスピア「あらし(テンペスト)」


 
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シェイクスピアの最後の作品「あらし」の読後感をまづ言ふなら、「いま、ここに、わたしはゐる!」「そして、いま、ここで、わたしは何をすることができるだらうか!?」といふ強い直感にも似たことばになります。
 
 
シェイクスピアは何を描き、何を問ふたか。
 
 
どんなに厳しい状況であらうと、全く新しい境地へ一歩踏み出すことのできる「人間の可能性」を描いたのだ。
 
 
そして、夢からのひとりひとりの目覚めと、その目覚めたところから、「あなたは何をするのか」といふ問ひを、観客、そして読者のひとりひとりに突き付けた。
 
 
さう感じます。
 
 
その発せられた問ひは、400年の時を越えて、民族の違ひを越えて、意識のこころを耕すことを課題としてゐる、いまを生きてゐるわたしに強烈に響いてきます。
 
 
ルドルフ・シュタイナーは、シェイクスピアについて、次のやうに述べてゐます。
 
 
「野次馬根性」「八方美人性」「冷淡さ」「全世界的感覚」、そして、「ただ見る」といふことのアクティビティ、それらの心的態度をもつて、意識的に作品のひとつひとつ、人物のひとりひとりを造形して行つたといふこと。
 
 
特定にこだわるのではなく、すべての人、ひとりひとりの内に潜む普遍にこそ、こだわつた、といふこと。
 
 
自分を無にして、あらゆる人の内面と親和しようとした、シェイクスピアの「献身性」。
 
 
人の意識の変遷、東と西の照応、天と地の交流、個と社会の新しいあり方、そこに問はれるイニシアティブの秘密、そして不完全・未熟・未完であるからこそ、人は成長できるのだといふこと、運命と自由、愛と自由といふこと・・・。
 
 
それらの考へが、すべてこの作品の中で有機的に繋がり合ひ、わたしの内に、今を生き抜いて行かうといふ、意欲を湧き立たせてくれます。
 
 
文学が、まさに今、わたしがここにあることのアクチュアルな問題として切迫してくるのです。
 
 
アントロポゾフィーからの文学研究を、舞台芸術としての言語造形を通して、なしていく。
 
 
わたしの後半生のテーマなのです。
 
 
 

posted by koji at 21:46 | 大阪 | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする