[動画・ポッドキャスト・語り聴かせ教室 (キッズレーダーより)]の記事一覧

2021年09月18日

「比べる」から「敬ふ」へ






学びといふ学びのはじめもはじめに、この「うやまふ」といふこころもちをわたしたちは持つことができるでせうか・・・。


「すべてを試し、選び、そして、最善を取れ」。


このやうなスローガンのもと、わたしたちは、極めて便利で快適な生活を享受してゐます。


しかし、そのために払はなければならなかつた代償を、わたしたちは払ひ続けてゐます。


これから、わたしたちは、このやうな精神の借金状態を続けていくのでせうか。


それとも・・・。

2021年09月14日

言語造形「雨ニモマケズ」(宮沢賢治作)






いつの日か、この作品を、と思ひ続けてゐました。


あまりにも人口に膾炙した作品であるだけに、自分勝手に躊躇して、取り組むまでに時間を要してしまひました。


賢治の複雑な思ひを、このノートに鉛筆で書き殴られた作品の表情を、表すことができただらうか・・・。


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2021年09月13日

人を働きものにするアントロポゾフィー






『普遍人間学』といふタイトルのこの本には、副題がついてゐて、「教育の基として」とあります。


その副題ゆゑに、シュタイナー教育に関心をもつ多くの人が、この本を手に取り、そしてそのシュタイナーの述べ方の難解さのゆゑに、多くの人が読むことを途中でやめてしまひます。


この本に限らず、シュタイナーの著述・陳述は難解さに満ちてゐる、そんな印象をどうしても抱いてしまひます。


なぜでせう。


なぜ、シュタイナーは、そのやうなことばの使ひ方をしたのでせう。


そこには、とても大切な意味が秘められてゐます。




2021年09月09日

老人になつた時の姿 シュタイナー「普遍人間学」から



セザンヌ「庭師ヴァリエの肖像」



皆さんは、毎日、自分自身に、どんな「ことば」を語りかけてあげてゐますか。


人は、みづからに語りかける「ことば」通りの人となりゆく。


年老いた時、長い人生の内に、みづからに語りかけて来たとおりの人になる。


人は、ことばを話す存在です。


そして、ことばは、人といふものを語り、人といふものを作りゆくのです。




2021年09月08日

作法に潜む日本の精神文化






日本に昔から伝へられて来た、外なる振る舞ひ、外なる作法にこそ、深いこころの秘儀が湛へられてゐました。


その外なる作法が壊され、失はれてしまつた今にいたるまでの必然的な歴史の流れを、わたしたちは見通すことができます。


さうして、わたしたちは、改めて、意識的に、こころに日本ならではの美しく、気高く、誇り高い気風を取り戻すことが、きつと、できるはずです。


そのためには、わたしたちの歴史「国史」を知ること、その歴史の悲しみを感じることです。


情をもつて、ご先祖様の生きた道筋を辿り直すこと、それが、歴史を学ぶといふことです。



『「ゆつくりと」時の内側に入る』
https://youtu.be/U4HXJUB96IA 
『身振りで学ぶ「うやまひ」と「へりくだり」の細道』
https://youtu.be/cYMCL5_IUe0
の続編です。




2021年09月06日

行はれたし 精神の想ひ起こしを






わたしたちは、未来に向かつて、いまを生きてゐますね。


自分が抱くよき想ひやアイデアが実現することをひたすら願ふ人もゐる。


一方、他人が考へ、想つたことをそのまま受け入れ、押し付けられるがままに、その考へや想ひが実現しないやうに、ひたすら恐れつつ生きてゐる人もゐる。


考へが実現するやうに希ひながら生きる人。


一方、考へが実現しないやうに恐れながら生きる人。


わたしは、できうるならば、前者でありたい。


そのために、みづから抱く考へをみづからよく選びたいと思ひます。


そして、わたしみづからによつて選ばれるその考へは、実は、わたしの過去からやつて来てゐるのですね。


未来を創り上げていく上で、考へることは欠かせない。しかし、その考へとは、過去からやつて来るもの。


よつて、上手に、過去を想ひ起こすといふことが、過去と未来を繋ぎつつ、今を健やかに生きる上で、とても大切なことであり、それは日々のこころの練習なのです。


過去を上手に想ひ起こすために、昔の人は、よく、昔話を子どもたちに語り聴かせてゐました。


昔話や伝説や神話を語り、それを聴くといふことは、すべて、過去を上手に、芸術的に、想ひ起こすことに他なりませんでした。


自分はひとりで生きてゐるのではないこと、大いなるものに守られ育まれて生かされて来たこと、そのやうな「むかし、むかし」「天地の初発(あめつちのはじめ)」から続く、世と〈わたし〉との繋がりを想ひ起こすことでした。


その精神の想ひ起こしによつて、人は、未来を神々と共に創りゆくことができる、健やかな今を稼いでゐたのです。


2021年を生きてゐるわたしたちにとつて、いまといふ時代は、その想ひ起こしを、誰も外からは与へてくれない時代です。そのやうなほのぼのとこころもからだも暖まり、元気が溢れて来るやうな想ひ出を持つこと、育むことが難しい時代です。


だからこそ、その想ひ起こしを意識的に、積極的に、みづから始めようと念ひます。


アントロポゾフィー運動とは、その想ひ起こしを積極的に人に促さうとする精神の運動です。


アントロポゾフィーからの語り部の養成。それは、深い意味での「教員養成」なのです。


「教員」とは、ひとりの語りかける人のことです。


わたしも、ひとりの人として、考へを実現して行きたいと念ひます。


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2021年09月04日

身振りで学ぶ「うやまひ」と「へりくだり」の細道






「うやまひ」といふ日本語。それは、「うや(ゐや・禮)」+「まひ・舞」といふなりたちださうです。つまり、「礼」をもつて舞ふこと、そのやうな立ち居振る舞ひから生まれたことばなのですね。


わたしたち日本人は、そのやうな振る舞ひから、日本語を織りなして来たのですね。



この動画は、オンラインクラス『いかにして人が高い世を知るにいたるか』からのもので、『「ゆつくりと」時の内側に入る』https://youtu.be/U4HXJUB96IA 
の続編です。


そして、この動画の後、三つ目として
『作法に潜む日本の精神文化』https://youtu.be/Eaz7mDynxqk
へと続きます。

2021年08月29日

「ゆつくりと」時の内側に入る






「いかにして人が高い世を知るにいたるか」木曜オンラインクラスからの動画です。


時とは、いのちの流れである。


ミヒャエル・エンデの『モモ』に、そのやうなことばが出て来ます。


この暮らしの中で、いかに、ゆつくりと、ていねいに、ひとつひとつの行為をなしていくか。


そんな行為から、身の振る舞ひから、わたしたちは、こころの練習に取り掛かることができます。

2021年08月28日

オイリュトミーを学びませんか 言語造形を学びませんか






かうして自分自身で動画を見直してみますと、ことばに対する熱すぎる信を、我ながら感じてしまひます😆


人の内なるもの、精神、神々しいものをこそ敬つてゐた、昔。


いま、わたしたちは、この「うやまふ」といふこころの力を意識的に取り戻していつていい時代を生きてゐます。


そして、そもそも、神々しいものである「ことば」をうやまふ術を学ぶ道。それが、オイリュトミーと言語造形です。

2021年08月27日

メディテーション、それは丘の上に立つこと






ことば。


それは、わたしたちが日々の暮らしで当たり前に使つてゐるものです。


そのことばを、メディテーションの素材とする。


そのとき、ことばは高まり、こころに、精神の世から精神の光をもたらす働きをします。


まるで、夜空に瞬く星の光にまみえるがごとくです。



チャンネル登録もどうぞよろしくお願ひします。https://www.youtube.com/user/suwachim...


2021年08月22日

教へる人になりゆく・・・アントロポゾフィーハウスの仕事として






「シュタイナー教員養成」の仕事、それは、これまでに日本においても三十年近くにわたりなされて来た仕事であり、その仕事の継続と成果に多大なる尊崇の念ひを抱きます。


そして、これからアントロポゾフィーハウスが担つて行くであらう仕事として、なすべき仕事をした後の数年後になりますが、新しく「シュタイナー教育に向けての教員養成」を織りなして行くといふ仕事があります。


より精確に言ふと、「アントロポゾフィーから人の教育を荷はうとするこころざしの養成」といふ仕事です。


その仕事によつて促されるこころざしとは何かと言ふと、子どもへの教育、大人への教育、いずれにおいても、ひとりその人が、みづから学び続けつつ、人としてたいせつなことを教へる人になりゆくといふことなのです。


「学ぶ」といふことは、「教へる」人になりゆくことです。それが、「人」であることのひとつの証です。


職業として教師であるか否かにかかはらず、子を持つ親であるか否かにかかはらず、「何かたいせつなこと」を教へ、伝へる人になりゆくこと、それが「人」になりゆくといふことではないでせうか。


ですので、「教員養成」とは、子どもへの教育ばかりではなく、人として人への教育を荷ふ人を育てることを言ひます。


それは、学ぶその人自身が、学ぶことを通して、教へるといふことを通して、ますます、その人になつてゆくといふことです。


「シュタイナー教育はかうあるべき、あああるべき」「シュタイナーといふ看板を掲げるなら、少なくとも、ここはクリアーしておかねば」「どこかからのお墨付きがなければ、シュタイナー教育などと名乗ることは許されない」といふやうな考へや思ひ込みや決めつけから、学ぶ人が自由になり、本当に大切なこと、本質的なことを己れのものにするそのきつかけを分かち合ふことです。


かういふものの言ひ方は、ややもすると、誤解を招きがちな言ひ方でもあります。


確かに、資格を得るために、人は一生懸命学びますので、その資格取得が、ひとつの技量の証ともなりうる訳ですが、しかし、人の仕事といふものは、卒業証書や肩書などによつてその質を担保されるものでは全くないこと、それは、世においておのづから分かることです。


その、おのづから分かることを、暗黙の了解としてゐた20世紀から、明確に共有される意識として持つていい21世紀に入つて、すでに20年以上が経ちます。


だからこそ、アントロポゾフィーの学びをもつて、より一層、まこと、その本質に根差したスタイルで、深く、確かに、粛々と行はれる教員養成の場を創る、その明確な意識をもつ、といふことなのです。


そもそも、「学ぶ」「分かる」とは、どういふことなのか。そして、その意味を踏まえた上で、人が人へとなりゆくために、「教へる」といふことの大切さを知ることのいかなるかを、わたしたちは明らかに意識しつつ、仕事を進めて行きたいと考へてゐます。


この教員養成を経た人たちが、みづからの考へる力と観る力を基の元手にして、シュタイナー学校と名付けられてゐるところであると否とに関はらず、積極的に、人を育て、育むといふ仕事に邁進して行くことを促すことができるやうに、わたしたちアントロポゾフィーハウスは、この仕事に意を注いで行きたいと思ひます。


また、わたし諏訪ひとりでさせていただいてゐるこのオンラインクラスも、その「教員養成」に向けての、ひとつのなすべき仕事なのです。このオンラインクラスそのものが、すでに、学ぶ人みづからが自由へと育ちゆく教員養成の場であります。


※聴き手となつて下さつた鈴木さん、本当にいつもありがたうございます。


諏訪耕志





2021年08月20日

あなたにはあなたの花を育てる責任がある






「くれくれ星人からの脱皮!」からの続編です。
https://youtu.be/LmyPZJa7ASE


「自由」。


それは、わたしたちひとりひとりの内も内から溢れ出す、強烈な憧れであり、理想です。


西暦869年のカトリック教会での公会議を機に、ひとりひとりに宿る精神を見失ひゆく歴史を歩まざるをえなかつたヨーロッパ。


自分自身の内なる精神を見失ふ、とは、外なる何かから、外なる誰かから、生きてゆく道筋を教へてもらはねばならなくなり、内よりも外が優位に立つこと、つまりは、不自由な生を強いられるといふことです。


その精神史の流れの中で、人々が、一千年に亘つてだんだんと精神を見失つてゆき、19世紀に至つて不自由のどん底まで落ちたからこそ、ひとりひとりの人がみづから「自由」を見いだすべく、みづから「自由」を勝ち取るべく、いま、その葛藤は続いてゐます。


アントロポゾフィーは、人が、ふたたび、その「自由」への道をみづから見いだすことへと促す、精神の学であり、だからこそ、それはまた、芸術の源泉です。


わたしにとつて、わたしが育てるべき「花」とは・・・。


アントロポゾフィーの営みとは、その問ひを育てて行くことなのです。


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2021年08月18日

9/1(水)【青森荒川】言語造形の集ひ 〜絵本の読み聞かせのヒント 〜










●「アントロポゾフィーハウス【青森荒川】
9月1日(水)10時〜12時 言語造形ワークショップ
場所:青森市荒川市民センター2階会議室 https://www.city.aomori.aomori.jp/.../kouminkan/07.html...
参加費: ドネーション制
保育あり(お問ひ合はせ下さい)
お問ひ合はせ・お申し込み 五十嵐寛子さん suedi_bobbdi_boo@yahoo.co.jp


この青森荒川のクラスでは、絵本を持つて来ていただいて、言語造形に取り組んでいただいてゐます。


シュタイナー教育においては、子どもへの働きかけとして、絵本は用ゐずに、素話で、といふことがよく言はれます。


それは、子どもに仕上がり済みの絵を与へるのではなく、素話によることばの響きだけで、子どもたちがこころに絵姿を描く自由でアクティブな力を養つてあげたい、との希ひからのものなのですね。


ただ、そのことを重々承知した上で、やはり、家庭におけるお母さんやお父さんにとつて、素話をするといふことは少々荷が重いのではないか。


絵本といふ芸術作品を通して、子どもとのかけがへのない時間を大切にすることもできるのではないか。


そんなことを思ふのです。


わたしは、言語造形といふことばを話す芸術に親しんでゆくことで、絵本の読み聞かせも、随分とその質を深め得ることができることを、多くの親御さんに、幼児教育者の方々に、ご紹介していきたいのです。


絵を観ながらも、言語造形を通してのことばの響きと調べに、子どもたちは絵を超えて空間の広がりのなかへと、こころを羽ばたかせることができるのです。


さうしますと、お部屋全体、空間まるごとが、精神の絵姿や響きに満ちたお話しや詩の世界になつてしまふのです。ことばのお宮、ことばのお社になるのです。


実際に、クラスにおいて、そのことをわたしたち大人が、まづ、体験してみませう。


コメント欄に、「絵本の読み聞かせを言語造形で」といふ趣旨で以前作りました動画を貼つてゐます。


よろしければ、お時間のおありになるときに、どうぞご覧になつてみて下さい。



2021年08月15日

見渡すこと、見晴るかすこと






毎日の暮らしと仕事を通して、さまざまなことを経験し、体験する中で、時に、本質的なことと本質的でないこととがごっちゃになつてしまふことがあります。


そんな一日を過ごしたあと、夜眠る前に、わたしは、よく静かな丘の上に登ります。こころの中の丘ですが。


そのこころの丘の上から、丘のふもとを見下ろすと、自分のしたこと、誰かがしたこと、様々なことを、距離をもつて見ることができます。


距離をもつことで、それらひとつひとつのことが、まこと本質的に大切なことなのか、本質的でないことなのかが、見えて来ます。本質的でないことにも関はらず本質的なこととごっちゃにして自分はそのことにいかに拘泥してゐたのかも、見えて来ます。


安らかに見渡すことができ、また、その結果、遠くを見晴るかすことができる。それは、光を、丘のふもとのみづからのこころまるごとに当て、また同時に細やかに当てるといふ感覚です。


そして、その光は、丘の上に登つたからこそ、安らかに見上げることのできた天の夜空に瞬く星々からもらつた光でした。それは、精神・靈(ひ)の光です。


我が国の古代から、ずつと、すめらみこと(天皇)も、山や丘や台地の上に立たれ、まさしく「国見」をしました。


わたしの住んでゐる大阪の住吉、帝塚山といふ上町台地の南端に位置するところにも、明治天皇が国見をなされた聖跡があります。


それは、きつと、精神・靈(ひ)の光をもつて、安らかに国を見渡し、見晴るかすことによつて、本質的なことを本質的でないことから分かち、さうして、すめらみことご自身を通して天から降りて来る光と国とをむすぶ密(ひめ)やかな営みであるのでせう。


そのやうな密儀のありやうが、萬葉集開巻第二首目にすめらみことその方により詠はれてゐます。


その調べをいま一度聴くことで、わたしたちもその丘の上に立つことの風儀、身振り、手振り、精神を感じること、萬葉集はそのことを促してくれるのです。


大和には 群山(むらやま)あれど 
とりよろふ 天(あめ)の香具山
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ 
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は
                 第三十四代・舒明天皇


わたしたちは、いま、その密やかな行ひを、みづからのこころの内にて密やかに行ふことができる時代に生きてゐます。


密やかな行ひを軽んじたり、無視したりするのは、20世紀で終はりを告げられた、古い価値観、先入観となつてゐます。


そして、その密やかな行ひこそが、外の世を和やかなもの、よきものへとなりかはらせて行くことのできる、大切なことなのだといふことを知つてゐるのは、わたしたち日本の人かもしれません。


デモ行進などは、この国の人は、そもそも、好かないのかもしれません。


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2021年08月13日

小学生と一緒に!粘液質で訓んでみる「やまなし」






小学校の教科書に出てゐた宮沢賢治の「やまなし」。あの冒頭の、蟹の子どもらの奇妙な会話がとても印象的な作品でした。音読をした、といふ記憶を持たれてゐる方もゐらつしゃるのではないでせうか。


『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳ねてわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』


しかし、小学校から毎日出される宿題の時も、国語の授業の時も、その文章を音読する時の味気なさといつたら・・・。


声色を変へるといふやうな表面的な修飾を施したりすることはせず、国語を健やかに朗唱すること。


それは、言語造形によつて、実現します。


ことばの意味以上に、ことばの音韻の調べが、わたしたちに訴へて来ます。「ことばの魅力とは、このことか!」とはつきりと感覚できます。その魅力とは、ことばの響きが詩的な空間と時間を持つことから生まれて来ます。


小学生から大人まで、日本語を、母国語を健やかに、芸術的に、朗唱、朗読することの楽しみ、喜びを、わたしは伝へて行きたいのです。



※関連動画 
『多血質で訓んでみる「学問のすすめ」福沢諭吉作』 
https://youtu.be/-qoPLgf_wjU

『憂鬱質で訓んでみる「高瀬舟」森鷗外作』 https://www.youtube.com/watch?v=85Obl...


2021年07月26日

「くれくれ星人からの脱皮!」『普遍人間学」オンラインクラスから 






ルードルフ・シュタイナーの『普遍人間学』第10講の内容から、述べさせてもらひました。

現代の唯物主義的世界観。それは、ヨーロッパにおいて、9世紀あたりから始まりました。


21世紀に入つて20年が過ぎ、わたしたちは、何を、どのやうに学んで、どこへ向かつて生きて行かうとしてゐるのでせうか。




2021年07月17日

憂鬱質で訓んでみる「高瀬舟」






文学作品を、その文体から、ふさはしい気質をもつて訓んでみる二回目の試み。


今回は、森鷗外の「高瀬舟」から聴いていただきます。


訓み手が、みづからのからだの用ゐ方、足の運び方をもつて、文体における気質の顕れを表現する。


さうすることで、単に淡々と声に出すだけでは表はされない、その作品、その文体、そのことばに潜んでゐる情や意欲といつたこころの深みをも引き出すことができます。


書き手の内にて働いてゐた気質を、そのやうに訓み手が引き上げることによつて、ことばの響きと調べが一気に活き活きと息づいて来はしないでせうか。


※関連動画 『多血質で訓んでみる「学問のすすめ」福沢諭吉作』https://youtu.be/-qoPLgf_wjU

アントロポゾフィー『普遍人間学』からの性教育?






ルードルフ・シュタイナーの『普遍人間学』第14講の内容から、述べさせてもらひました。


生殖器は胴体の最も下に位置してゐますが、そのことと、その働きの意味を、アントロポゾフィーの観点から見てとらうとしてゐます。


わたし自身は、そのことを若い人たちにことばで伝へるよりも、ここで述べさせてもらつてゐる意識をこころの内に持つて、彼らの傍にゐようと思つてゐます。

2021年07月11日

天使の方々との交はり・・・?😇 青森での講座から






2021年6月5日、青森県三沢市にて行ひました講座「芸術を生きる こころを生きる」の一部、アントロポゾフィーからの自己教育における天使の方々との交はりをテーマにして話させていただいたところをご覧いただきます。


毎晩、眠りに就く前に、わたしたちがすること、それは、「大切なこと、大切な人への想ひを深める」といふことです。


さうして、眠りに入つてゆき、眠りの世において、人よりも高い方々、天使の方々との交はりをもつこと。


その眠りのときの後に、朝目覚め、わたしたちは、思ひも寄らないフレッシュな力を眠りの世からいただいてゐるのを感覚して行くことができます。


眠りと目覚めを意識的にそのやうに整へて行く。


アントロポゾフィーからの自己教育の一端です。


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青森空港にて






2021年07月07日

「ことばの感官(言語感覚)」について(十二の感官論より)



若き日のミヒャエル・エンデ


これまで、シュタイナーのいはゆる「十二感覚論」の中の言語感覚については、寡聞にしてシュタイナー自身が詳しく説いてゐるものを知らず、他の人によつて書かれてゐるいくつかの解説書などを読んでも、どれも、ぴんと来なかつた、釈然としなかつたのです。


他者が発することばを聴くとき、感覚できるものとは、何でせう。


それは、ことばの意味ではありません。


では、ことばから、わたしたちは何を感覚してゐるのでせう。


情報を伝達するための手段としてのみ、ことばが使はれるのだといふ認識が染みついてしまつた現代においては、この「ことばの感官」を意識し、理解することはむづかしいやうです。


それは、言語造形をすることによつて、より明らかに、より深く、よりリアルに感覚することができます。


その感覚を人にもたらすのは、聴く感官(聴覚)ではありません。ことばの感官(言語感覚)です。


わたしたちは、光を目といふ感官で感覚するやうに、響きを耳といふ感官で感覚するやうに、人から発せられたことばを「ことばの感官」によつて感覚してゐます。


ここでは、言語造形をする者として培ひ続けてゐるこの感官について、述べさせてもらつてゐます。


どうぞ、お聴きください。



※感官(Sinn)とは、人に備はつてゐる目や耳などの器官と機能(働き)を指します。一方、感覚(Empfindung)とは、その感官によつて、迎へられ、見いだされるものを言ひます。シュタイナーは、明確に、そのふたつのことばを使ひ分けてゐます。ここでは、感覚を迎へ、見いだすことを、「感覚する」といふ言ひ方もしてゐます。