2010年06月11日

お恥ずかしい噺で・・・

他人を責めているとき、
実は自分を責めている。

他人を責めるのをやめるとき、
そのとき、自分は自分を責めるのをやめている。

今日、他人を責めるのをやめました。

おおっ。

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2010年06月09日

お母さんのことが大好き

我が家の娘ふたり(もうすぐ5歳と2歳)、
もうお母さんがほんとに大好き。

子どもって、こんなにお母さんのことが好きなんだなぁ〜。

そして、お母さんと娘たちがほっこりしている姿を見て、声を聴いているのが、
これまた至福だ。

ツイッターで呟くようなことだけども、
書いてしまった。

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2010年05月26日

自分自身にとって大事なこと

朝、よく竹西寛子さんの文章を読みます。

今朝は、講演集『言葉を恃む』のなかの「野上弥生子の文章」を読んだのですが、
いつもながら、こころが熱くさせられます。

読んで、あらためて自分自身にとって大事なことを思い出します。

以下は、こころの中のつぶやきです、あしからず。



こころの深みに降りていくことによってみえてくるものをことばにしていく作業。
俺もそれをしていきたい。

その作業をしていくためには、
どうしても学びが必要だと感じる。

多くの先人がいる。
丁寧に、時に、勇気をもって、
みずからのこころの深みに降りていき、
そこからことばを紡いだ多くの先人。

俺はいま、
古今東西の彼らから学ぶことのできる場所にいる。

彼らひとりひとりのこころの深みに俺も降りていくことを学ぼう。

人は人であるのではなく、
人になりゆく存在なのだ、と誰かが書いていた。

人それぞれ、各々の個性に応じて、
その人ならではの道を歩いて、人は人になっていくのだろうけれども、
俺は、ことばを受けとり、運用し、活用することを通して、
人になっていく道を歩いていこう。
(もう、歩いてるよっ!)

みずからの内へ一段また一段と降りていくことができるかを試しながら、
そしてみずからの両脚でしっかりとこの大地に立ちながら、
日一日と生きていこう。

生きること、こころ、ことば、全部、いっしょだ!

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2010年05月24日

昨日は、聖霊降臨祭

昨日は、妻が激しい頭痛に一日中悩まされ、
わたしは背中の激痛にからだを動かせなくなり、
お互いに安静にしているしかない状態でした。

しかし!
そうしてお互い臥せっている間に、
いや、臥せっておらざるをえなかったからこそ、
夫婦そろって、それぞれにこころに新しい状態が生まれ、
今日はなぜだかこころ晴れ。

妻は出かけていって、またまた素晴らしい人との出会いを得、
わたしは新横浜での仕事を一日することができ、
これまでにない充実感を参加者の皆さんから頂くことができました。

昨日は、聖霊降臨祭。

夫婦そろって、痛みを通して聖霊が降りてきてくださったように感じています。

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2010年05月22日

子どもってこころが見えるんでしょうか

うちの2歳の娘が夜中、泣いて泣き止まない夜がありました。

わたしは次の朝はやくから仕事があるので、
その子をあやしはするものの、
はやく泣き止んでくれよ、と正直イライラもしていました。

1時間、もしくはそれ以上経っても泣き止まず、もうお手上げだ〜!となったとき、
なぜかわたしのこころに大きな変化が起こり、
なぜかこの娘が可愛くて可愛くてたまらなくなり、
からだをさすってあげながら、
自分自身がとてつもなく尊い存在の横にいるような気持ちになりました。

すると、その娘はす〜っと眠っていきました。

子どもって、側にいる人のこころが見えるんでしょうか。

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2010年03月23日

空堀ことば塾 子どもたちの春の芸能発表会!

一昨日、仕事が終わってから、夜に空堀ことば塾(http://blogs.yahoo.co.jp/kotoba_jyuku)の子どもたちが落語の発表会をするというので、楽しみに出かけていきました。

いや〜、楽しかったなあ。

小学2年生から6年生までの子どもたちが次々と舞台に上がって、
お噺を繰り出していく。
たくさんの大人たちが見守る中、はじめはもじもじしながらも、
声を思いっきり出しはじめ、客の中から笑いがはじけるたびごとに、
どんどん調子が出てきます。

空堀ことば塾の子どもたちはとにかく口を開けて、通りのいい声を出してくれます。

その声さえあれば、噺のことばが笑いを引き出してくれます。

舞台に上がる時のどきどき。
でもなんだか自分がパフォーマンスをするのが待ち遠しいような、
そんな感情、意欲が子どもたちの表情から感じられました。

ああ、こんな風に子どもが大人に見守られながら、
ことばをパブリックな場で朗々と出すことができる経験を積むことができたなら、
どれほどの自信とことばに対する信頼を得ることができるでしょうか。

こんないい雰囲気で大人と子どもがひとつの場所を共有できていることにとても感じ入ったのです。

シュタイナー教育を軸にしながら、
塙さんがこの3年間、空堀という場で闘ってこられたことから生まれたひとつの果実の香りをおすそ分けいただいたような気分になりました。





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2010年03月21日

ことばというものへの繊細さ

人が発するひとことひとことが、他者のこころに波紋を拡げていきます。

その波紋というものを、人のこころはとても繊細に感じています。

それが幼児となりますと、こころでは感じていません。
からだで感じています。

血のめぐり、呼吸のめぐり、食べ物のこなし、
それらで実に繊細に感じています。

こまやかなからだのなりたちそのものが
側で話されることばの一音一音によって働きかけられ、かたちづくられています。

幼児においては、こころではなく、からだそのものが周りのすべてに帰依している、祈っている、
そう言えます。

その帰依、祈りをもって、毎日子どもたちは自分のからだを創り上げていきます。

わたしたち子どものそばにいる大人は、
そのような幼児が本来持っている宗教性をどれほど尊重していくことができるだろうか。

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2009年12月19日

永遠なるものにして女性的なるもの(『夕鶴』を通して)

 この身体は父と母からいただいた。そして土へと帰っていく。

 しかし「こころというもの」はどこから来てどこへ行くのだろう。こころというものは、地にある故郷ではなく、天にある故郷からやってきて、またそこへと帰っていくのではないか。

 故郷、ふるさと、というと、人はなぜか母のことを憶い出す。必ずしも実在の母ではないかもしれない。ふるさと、そこでは人という人が宿り、生まれ、育まれ、守られている。そこは「母なるもの」が息づいている場所、「母の国」と言ってもいい。

 人のこころにとっての母の国、それは天にあるのかもしれない。そしてそこから、『夕鶴』のつうはやってきたのかもしれない。母の国からの使者、母なるもの、「永遠なるものにして女性的なるもの」として。

 すべてを生み育む母たちは、織りなしつつ生きている。そしてつうも、機を織ることによってこの地上世界に何かを生み出している。しかし、人のこころはいつしか母の国、母なるものに目を向けることを忘れ、母たちによって生み出された「ものごと」に固執するようになってしまう。

 しかし、この地上のものは、人も、ものも、何もかもが、生じ来たっては過ぎ去って行く無常のものだ。この無常感に人は耐えられず、様々なものにしがみつこうとする。常なるものに触れること、永遠なるものとひとつになることによってのみ、人は安らかさと確かさと健やかさを取り戻すことができる。あらゆる宗教、芸術、科学はその具体的な方図をなんとか見いだそうとしている。それが人の歴史だ。

 ゲーテが『ファウスト』の幕切れにこう書き記している。

   なべて過ぎ行くものは
   比喩に過ぎず。
   地上にては至らざりしもの
   ここにまったきものとして現われ
   およそ言葉に絶したること
   ここに成就す。
   永遠なるものにして女性的なるもの
   われらを彼方へと導き行く。
                       (柴田翔訳)

 彼方とは死の国であるが、そこは同時にすべてが生み出され織りなされるところ、生のおおもとの国でもある。そこに人を導くものは「永遠なるものにして女性的なるもの」だとゲーテは生涯最後の作品の最終部に書き記した。

 わたしたちはこの世に生きている。しかし、この地上の人生の毎日をどう、生きているだろう。果たして、過ぎ行くものを過ぎ行くものとして知りつつ、永遠なるものに触れつつ、おのれ自身が永遠なるものとして毎日を生きていくことはできるだろうか。この地上の国と母なる国とはひとつになりえるだろうか。その導き手である「つう」とともに暮らしていくことがわたしたちにはできるだろうか。「つう」に去られた今、わたしたちはその暮らし方をあらためて学ぼうとしている。

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2009年12月08日

恵みを感じて

 今月の大阪での舞台に向けて、わたしたちは子どもたちと合同で練習したり、その親御さんたちから物心両面での応援をいただいたり、そのほか様々な方々からの貴重な時間と労力の提供をいただいている。
 
 まずは、わたしと妻とでやり始めたことに、徐々に人が集まってきてくださり、ささやかだけれども活きた動きが生じてきている。始めたのは自分だが、これは決して自力のみでやり続けられるものではない。わたしたちのこころざしに幾人かの方々が共感と働きを寄せてくださるのはまったくの他力、恵みであるに違いない。

 わたしたちが意識していくことは、ただ、自分たちの技量を高め深め磨いていくことだけ、それによって美しいものを実現していくことだけだ。物欲しげな顔をしている自分に気づく。もうそんな顔をするのは金輪際やめだ。わたしたちの研ぎ澄ませた意識。そして稽古の積み重ねを通して無意識の領域から発散される肥沃な技量。それを舞台の上に立ち上がらせること。それのみを考え、想い、行動していこう。

 そして、わたしたち自身から「これは、いい」ということばが生まれてくるまで続けるのだ。 

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2009年12月02日

人の欲に貴賎はない

 人の欲に貴賎はない。ただ、その欲が精神の側に寄っているのか、もしくはからだの側に寄っているのかの違いがあるだけで、人の欲という欲にはすべて高貴な考えが秘められている

 こんな考え方、シュタイナーとアントロポゾフィーに出会うまではできなかった。いや、出会った後でさえもわたしは随分と自分の欲に対して貴賎の別をつけていた。

 ただ、人の内なる自然とも言えるその欲は、否定され押さえ込まれたりしているといつしかバランスを崩して、逆に他者にも自分自身にも破壊的な働きとなって表立ってしまう。

 欲というのは、人の内なる自然。意志、意欲なのだ。

 では、人はなぜ何かを欲するのか。

 それは、人は何かを、誰かを、愛したいからなのだ。

 人はそもそも愛だからだ。

 人に愛されたいという欲も、実は、人を心底愛したいという高貴な考えが秘められているからだ。

 まずは、自分自身の中に生じている欲を、見よう。それは春夏秋冬の四季の巡りと共に植物が成長、衰微を繰り返すことと同じく自然の繰りなしなのだ。自分の中に生じている欲を内なる自然として認めてあげよう(認める=見とめる)。認めてあげることをずっと続けていくことができたのなら、その欲はいずれまた成長、変容していく。
 
 人の欲に貴賎はない。
 
 ただ、欲は、人にちゃんと見てほしがっている。無視されたり、押さえ込まれたりするのはゴメンだと言っている。

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2009年11月25日

生命はみられることを待っている

 生命という生命は、人にみられることを待っている。

 美術館にある一枚の絵でもいい、道端に咲いている一輪の花でもいい、名前や形状を表面的に確認してそれだけで済ましてしまうのではなくて、じっとしばらく何も頭で考えず、みることに徹してみよう。そのとき、思ってもみなかった相(すがた)がありありと自分の目にだけではなくて、こころに映ってきて、まるでものからことばを話しかけられているように感じるときがある。
 
 そう、花だけではなく、動物だけでもなく、人間だけでもなく、絵にも、本にも、生命はある。その生命に目を注ぐこと、それはその生命に「つきあう」こと、その生命を愛することだ。

 「考える」ことはもちろん人によってアクティブになされることだが、ひたすら「みる」ことに徹するということも、これまたとてもアクティブな人の行為だ。

 みるという行為は、愛すること、愛でることから生まれる。子どもも、ただみられることを待っている。すべての生命がみられることを待っている。

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2009年11月24日

本の生命

 昨日、銀杏並木からはみ出し揺らめいているように感じた生命のことを書いたが、今日は本の生命について感じさせられた。

 本は生きている、と感じることがある。

 本を読むとき、目で追っているだけではもの足りず、できれば声に出して詠む。線を文の横に引いていく。頁の上下左右の余白にこれまでの読書経験、人生経験から浮かび上がってきたことをどんどんと書き込んでいく。

 目で読むだけでなく、手にペンを握り書き込みつつ、声を出して詠むことで耳でも文を味わいつつ、一頁一頁、一文一文につきあいつづけていく内に、わたしのアクティビティとその本自体、文自体、ことば自体の持つアクティビティとが生きものと生きもののように交わり始める。こちらがアクティブになればなるほど、本のアクティビティ、本の生命もが引き出されてくるように感じる。

 そのような読書の痕跡が毎頁に書き込みとして残される。もちろん、それらのすべての痕跡がわたしの中で記憶としてしっかりと定着していることなどない。しかし、本の生命にいきいきとわたしが向かい合うことで交わされたアクティビティとアクティビティの働きあいは、内なる痕跡としてずっとわたしの中で引き続いていく。

 その引き続きが、毎日を生きていく上での確かさと安らかさとこころざしを与えてくれる。

 岩波書店から『読書のすすめ』という無料で読むことのできる文庫が出ている。その第9集に、作家の多和田葉子さんの「本は麻薬」というエッセイがある。その文章には、引用したいものがたくさんあるのだけれど、今日は最後に書かれてある文章だけを挙げたい。

  本は読むだけでなく、同時に書かなければいけないといつからか思うようになった。
  受身に読むのではなく、自分がその本を書いているのだというくらいの意気込みで、
  身を乗り出して、読む。
  そうすれば小さくて質素な本ほど大きくなるような気がする。



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2009年11月23日

生命の美しさ

 秋晴れの午後、御堂筋を少し歩いた。銀杏並木の黄色い葉に秋の穏やかな陽の光がきらきらしていた。そういう風景を眺めながら歩いていたが、そのたくさんの黄色い葉が風にそよいでいる木々の列をもっと、じっくりと、こころをとどめて、見渡してみると、なんと言ったらいいのか、生命そのものの美しさがぐわっとせり出してくるように感じた。

 生きている。これらの木々は生きている。全く当たり前のことだが、そのとき、わたしのこころに迫ってきたのは、立ち上がってくる生命そのものだった。しかも、とても清潔な生命だ。生命というものは、こんなにも綺麗なものなのか。純なものなのか。同じ地球に生きていて、こんなにも生命を美しく謳歌している存在が、こんなにも身近にいてくれることに、こころの視野が晴れ渡ったように感じた。

 丁度、今日の午前は小学生の子どもたちと劇の練習をしていて、彼らの純なこころと生命に触れることができたせいか、御堂筋を歩くのに足取りも軽かった。

 わたしも、これらの子どもたちの生命力、そして植物という植物が持っている生命の清潔を少しでも取り戻していこう。

   秋晴れて青き潮の中に在るここちすわれも葉を落とす木も
                                  (与謝野晶子『流星の道』より)


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2009年11月22日

昔話の魅力

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 人が人に話をするということ。また、人が人から話を聴くということ。それらの行為はおそらく人間が人間としての営みを紡ぎ始めた極めて原始的な時代からあったものだろうが、そこに秘められている魅力は何だろう。生身のからだと寛いだこころに囲まれて交わされるその行為からわたしたちが今も変わらず感じ続けている魅力とは何だろう。

 それは、その時に生み出される話の魅力と共に、話す人、聴く人が各々胸をひらいて、今、出会っているというそのことの静かな高揚感を感じることができる、そのことにあるのではないだろうか。
 
 また、時を越えて、時代を超えて、地域をまたいで、同じ話がなされ続けるということがある。同じ話が複数の人々によってなされ続ける。考えてみれば、不思議なことだ。そういうお話を昔話・伝説・神話ということが多いが、そういう話の魅力とは何だろうか。
 そこには、人から人へ、時代を越えても、地域を越えても、古びない、錆びつかない魅力が、きっとあるのだろう。それは何か。しかし、その魅力が何か、わたしたちはそう深く考えはしないものだ。その魅力を考えることはおろか、感じることさえ難しくなってきているのかもしれない。
 
 今回取り組んでいる『絵姿女房』『夕鶴』の重ね重ねの稽古を通して、その魅力とは何かに気づき始めている。そこに「人そのもの」がなんと奥深く描かれていることか。

 『絵姿女房』『夕鶴』は、共に古くから語り伝えられている昔話をもとに木下順二が書き下ろした語り物と戯曲だ。特に『夕鶴』は1958年の初演から1000回以上もの上演を経た作品で、そのプロセスにおいて、多くの人々からの様々な創造的な働きかけがなされたようである。
 
 今回のわたしたちの舞台が、それら「昔話というもの」に潜んでいる魅力を提示することができたらと希んでいる。物語に対して様々な解釈は可能であるだろうが、それらの昔話が長い時間の中でも風化せず、ずっと持ち続けているある原型を提示することができたらと。
 そして、その提示にはきっと、今を生きる人にとって極めて現代的な問題もが孕まれている、そう感じている。

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2009年11月19日

バランス

 世界は広い。世界は多様だ。学ぶことは、それこそ、限りなくあるだろう。自分の小さい城を築くことだけで精一杯だったこれまでの自分を乗り越えて、40代後半に入っていくにあたって、できる限り、様々な人と交わって、学んで行きたい。今までに読んだことのなかったジャンルの本もどんどん読んでいきたいし、機会を見つけて、新しい人との出会いを大事にしていきたい。

 しかし、自分が本心本当に求めているものについても、明らかになってきたように感じる。マイスター・エックハルトの説教集を読むと、初っ端からこころが引きつけられる。
   
   人のこころこそが、神の社(やしろ)になりうる。
   そこには、一切の取り引き(商い)がなく、
   過去も未来もない、
   ただ、今、という永遠に新しいこの瞬間において、
   キリストただひとりのみがある。
   そのとき、このこころは、神の社となる。

 どこにいても、何をしていても、そこには、常に、「わたし」がある。「わたし」からは絶対に逃れられない。その「わたし」に、健やかさをもたらすものと、そうでないものとを分別するならば、何が健やかさをもたらすかが、もうはっきりと分かる。

 多面的な人生の側面をもっと味わっていくことと、自分が本心本当に大切にすることとのバランスをよりいきいきと取ることができればいいな。

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2009年11月12日

スターバックスにて。歴史とは。

 スターバックスでコーヒーを飲みながら、池田晶子さんの『メタフィジカル・パンチ』を読んだ。
 
 「戦争の時代を考えよう。生死のぎりぎりが生活の日常であるような時代を考えよう。その方がよほどすっきり話がわかる。(中略)君は君の生活上の不平や不安やメソメソが、爆弾を抱えて敵艦へ突っ込めという至上命令に対して、どのような位置にあると思いますか。」(P.94)

 隣で二人の女の人が声高にいろいろなお喋りをしていた。その横で、池田さんのこんなことばに出会う。

 「確たる世界認識は、自分の死を知るその明らかさと引き換えに獲得されるものだ。ひとたび死んで無になった自分だからこそ、世界のすべてを自分と知るのだ。認識は自在だ。どの時代におけるどの誰かも、全て、『私』だ。私は戦争を知っている。爆弾を抱えて敵艦に突っ込んだことがある。幼い部下にそれを命じたこともある。戦争の愚劣さを知りながら、しかし愚劣を真率に生きるよりしようがなかった人間の悲しみを知っている。『戦争を知らない世代』と自ら名のるなど、恥ずかしいことと思った方がいい。」(P.95)

 歴史とは、ことばだ。そして、まずもって、他者という他者が生きた「しるし」のことだ。しかし、その歴史としてしるされているすべてが、それらのことばすべてが、この「わたし」を映している鏡であり、すべてが「わたし」に関する記述なのだと合点していくならば、歴史は歴史でなくなり、他者は他者でなくなってくる。歴史を学ぶということが、「わたし」について学ぶということになる。ことばを深めていくということになる。
 歴史とは、行為だ。わたしが誰かを、何かを、熱く想うことだ。想い描くことだ。想い起こすことだ。そのとき、その行為は、きっと、時空を超えて「わたし」という意識をだんだんと深め、広げていく。
 シュタイナー語るところ、有史以前に生きていた人々は、己個人の人生をはるかに超えて、先祖たちの人生経験にまで遡って、記憶を保持していた。
 これからのわたしたちは、歴史の中にしるされていること、他者を通して現れていること、それらすべてが己のことであると徹見していくことによって、意識的に自らを超えて記憶を、「想い起こすこと」「想い描くこと」を、育んでいくのだろう。
 スターバックスで隣り合って座った人がいてくれたからこそ、池田さんのことばがわたしに突き刺さってきた。


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2009年10月23日

立つことと昔ばなし その2(終わり)

 アントロポゾフィーに沿って人間学を学んでいくと、昔ばなしを語ることが幾重にもおもしろくなってくる。それは、人というものが歩んできた道のり(人類史)、もしくは、ひとりの人の成長と、昔ばなしにおけるお話の展開が、重なって視えてくるからだ。その重なりをこじつけ、牽強付会(けんきょうふかい)と取る人がいるかもしれない。しかし、丹念に自分自身に沿ってアントロポゾフィーを吟味していくならば、数多くの昔ばなしや神話や伝説の持つ意味深さが己のこととしてリアルに分かってくる。


 ひとりの人間には、からだの面においても、こころの面においても、精神の面においても、それぞれに様々な位相がある。
 からだの面を取ってみると、まずは、感覚器官の大部分と脳を備えた頭の部分がある。そこは本来的に静かに丸く構えられていて、静かに紛れなく考え、また周りに生じていることやものをひたすら受けとる場所だ。それが天の領域だとするならば、運動と仕事を担う手足は地の領域にあって、外の世にひたすら働きかけようとしている。そしてそれら両極の間にあってふたつの働きのバランスを取ろうとしている胸。その胸の領域においては呼吸や血液循環といったリズムを刻む主要な働きが担われている。その胸の働き次第で、頭と足の間のバランスがうまく取れ、風通しの良さをもたらしたり、バランスが時に狂ってしまい、滞ってしまい風通しが悪くなったりしてしまう。
 このからだの三面を、こころの角度で捉えてみると、頭の領域には考えが宿り、手足の領域には意欲が現れ、そして胸の領域においては、まさしく、情が脈打つ。 それら、考え、意欲、情の三つは、こころにおいて常に織りなされて働いている。
 また、精神の角度でこの三面を捉えてみると、頭の領域で人は目覚め、手足の領域では眠っている。そして間の胸の領域では夢見ている。


 昔ばなしの中には、様々な存在が登場してくる。父や王様や殿様であったり、母や鬼婆やお后であったり、娘や王子であったり、その他様々な存在が闊歩するのだが、それらの存在はまさにそれぞれに独特の特徴を帯びている。しかし、それらの存在がすべて、ひとりの人の中にあるそれぞれの部分を担っている。そう考えながらお話をあらためて吟味していくと、そのお話に新しい理解の光が差し込んでくるように思われることが多い。
 例えば、父はわたしの中にいる父であり、母はわたしの中の母なのであり、子はわたしが何歳になろうとも、わたしの中にもありつづけている子なのではないか。そして、父がひとりの人の天に向かおうとする頭の役割、精神を、母が地の領域にあってわたしたち人を支えようとする手足の領域、からだを、子がその父と母との間で新たに生まれ、また葛藤を乗り越え成長していくことを通して、新しい世界を切り開いていくこころの領域を担っている。その子の成長こそがわたしたち人のこころの成長を表してくれている。
 そのように、物語の中で複数の存在が交じり合ってドラマを生じさせていくことは、ひとりの人の内で、頭と手足と胸が、考えと意欲と情が、精神とからだとこころが、それぞれふさわしく育ち、またふさわしくブレンドされていくことを言おうとしている。そのことを通して、ひとりの「人というもの」が立ち上がっていく過程を描いている。
 昔ばなしの中で、ひとりの人が立ち上がり、その人の道を歩き出すのだ。


 今度のわたしたちの舞台『夕鶴/絵姿女房』でも、(父、母、子は出てこないが)そのように、ひとりの人が立ち上がり、歩き出す相(すがた)を描き出すことができれば、本当に嬉しい。

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2009年10月14日

立つことと昔ばなし その1

 人は、しっかりと生きていくためには、自分の足で真っ直ぐに立つ必要がある。それは、からだの面においても、こころの面においても、精神の面においても、そうだろう。
 子どもが生まれて一年経つころには、やっとこさ自分の足で立とうとする。そして立てた時のその子の晴れやかな顔つきと言ったらない。この世に生まれてきて、生きていく上でのバランスをやっと取ったぜ!そう言わんばかりである。そのようにして、人は立つことをまずは覚え、その後に、生きていく上で必要不可欠なことを着々と学びつつ身につけていく。
 この「立つ」ということを改めて見てみると、子どもは何度失敗してもめげずに挑戦しながら、何とかおのれの頭を高み(天)へと向け、おのれの足をもって深み(地)を踏みつつ、バランスを取ろうとしている。その立つという行為が、からだの面ではもちろんのこと、こころの面においても精神の面においても人が人として生きていく上での土台になる。
 さて、人は、一応大人と言われる年頃になって、いよいよ様々な事柄にチャレンジしていかざるをえない。そのように人生はなっている。生きていると、毎日、いろいろなことが起こる。それは滔々と流れる河の流れのように、やってきては、過ぎ去り、またやってきては、過ぎ去る。生きていくというのは、その流れの中で、ひとり、足を踏ん張って立っている、そして少しずつでも歩いていくようなものだ。その時に生じる世の流れとおのれのとの間の抵抗、分離、摩擦を感じることから本格的に人生は始まる。そう、抵抗、分離、摩擦があるからこそ、次に新たな融和、合一があるのだ。そのために、人は、自分の足で立とうとする。そして、頭ひとつ水面から出して、周りを見回し、遠くを見はるかす。そして水の流れに乗って川底を歩き、時に泳いでいくのだ、海に辿り着くまで。(続く)

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2009年10月06日

ひびきの村・ミカエルカレッジにて(わたしのミカエル祭その1)

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 北海道のひびきの村・ミカエルカレッジで、9月28日から10月2日まで5日間、言語造形の講座だった。丁度、29日のミカエルの祝祭日がある週で、このときに、自分がミカエルカレッジにいることの意味を考えながら毎日を過ごした。
 仕事の準備として、何度もシュタイナーの講演『ミカエルの祝祭を精神から創る』(1923年5月23日ベルリン)を読み返した。そこに書かれてあることのひとつひとつに鼓舞されてミカエルカレッジでの仕事に臨んだ。ここでの言語造形5日間連続講座そのものがミカエル祭にきっとなりえると思った。

  人々が、いまにおいて、厳かに、
  ひとつのミカエルの祝祭を九月の終わりの日々に据えようと、
  こころを決めることができるなら、
  それが、ひとつのことであり、こよなく大きな意味をもつはずです。
  そのことにつけては、きっと人々のうちに勇気が見いだされることになります。
  たんに表側の社会組織について論じるとかだけでなく、
  この地を天に結ぶこと、
  物質のかかわりをふたたび精神のかかわりに結ぶことを、する勇気です。
  そして、それを通して、精神が、ふたたびこの地のかかわりへと導かれて、
  人々のあいだに、実に、ことが起こります。


 この5日間を始めるに当って、このわたしではなく、わたしを通して何か大いなるものが働いてくださるよう、全力を尽くしたい。そうすることが少しでもできれば、「この地を天に結ぶこと」、「ひとつのことが起こる」のではないか。そんなミカエル祭をまずはわたしひとりのこころからやってみようと、こころに決めた。
 ミカエルという大天使は、人がひとりこころを決めさえすれば、そのことが天に適うものである限り、大きなサポートを送ってくれる存在だと言う。こういう目には見えない存在の方々のことを考えつつ仕事をやるのと、そうでないのとでは、その成果が、本当に、違ってくることが、経験の上で分かってきた。
 そしてこの夏からの個人的なテーマである「勇気」。仕事をするに当って、もしくは、新しい世界に入っていくに当って、様々な不安・恐怖が湧き起こってくる。その不安・恐怖を抱くことにはきっと意味があるのだろうが、しかし、だんだんと、それらの感情を抱くことによってものごとは何もよくなりはしないこともこころで分かってきた。「勇気」。祝祭をわたしひとりの内側からだけでも始めるんだとこころを決めさえすれば、きっとそれに応じてくださる存在がいる。
 言語造形を通して、物語ることのダイナミックさ、ことばの力、内的なアクティビティーを共に感じたい。そんな願いを込めた5日間。最後の日の参加者7人の方々の発表を聴いて、わたし自身、本当にこころを揺さぶられた。ひとりひとりの方が自分の足で立っている。そして自分の足で前へ前へと歩みを進めながら身体を目一杯使って身ぶりを繰りなしながらことばを発している。そして最後の段階で、静かに立ちながら物語ることを通して、ひとりひとりの輝きが、本当に、見える。
 この5日間まるごとが、わたしにとってミカエルの祝祭だった。参加してくださった皆にとってもそうであるならと思う。 
 最後まで内的な火を燃やしつつ懸命に言語造形に取り組んでくださった皆さんに本当に感謝だ。 そして、こういう場を創ってくださっているひびきの村のスタッフの方々にこころから感謝。そして、わたしの中で、ミカエルという存在への信頼が強まっていることへの感謝。ありがとう。

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2009年09月25日

自分への助言

 小林秀雄が「作家志願者への助言」という文章を書いている。

   助言というものは決して説明でない、分析でない、
   いつも実行を勧誘しているものだと覚悟して聞くことだ。
   親身になって話しかけている時、
   親身になって聞く人が少ない。
   これがあらゆる名助言の常に出会う悲劇なのだ。


 話す人が覚悟して話しているならば、聞く人もその覚悟に応ずるような態度で聞こうとすること、それは人と人との関わり合いとして極めてまっとうなことであり、健やかなことではないか。それは書く人と読む人との関係にもきっと言えることだ。
 そこで彼は五つの助言を作家志望者に向けて書いている。

    一. つねに第一流作品のみを読め
   二. 一流作品は例外なく難解なものと知れ
   三. 一流作品の影響を恐れるな
   四. 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
   五. 小説を小説だと思って読むな


 これは作家志望者だけではなく、創造的な仕事をしていこうとするすべての人にとっての名助言だ。
 わたしが自分に向けて助言をするなら、こうなる。

   一. つねにシュタイナーのことばに交われ
   二. シュタイナーの書いたものは例外なく難解なものと知れ
   三. シュタイナーの書いたものからの影響を恐れるな
   四. シュタイナーの全集を読め
   五. 精神科学の書を精神科学の書だと思って読むな

 三つ目について。己が全身全霊を込めて信頼できる「人」をなんとかして見出すことの重要性。その「人」に全身全霊をもって交わり、ひとつになるのだ。その交わりの中からこそ、己のことば(オリジナリティー)を汲み出しえる。そこに書かれてあることがまことであるとの健全な予感があるなら、それを自分の力量で自分のことばとして語っていくために、まずは己を空にして対象に交わりつづけるのだ。
 五つ目について。精神をここから遠く離れたところにあるもののように思うな。「いま、ここ」のことであると鋭く悟りながら彼のことばを聴け。科学を、学びを、机上のもの、安楽椅子に座ってなされるものと思うな。全身全霊をもって、ものと交わることこそが科学であり、学びであると思って、彼のことばを聴け。

posted by koji at 13:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする