2013年07月12日

これでいいのだ

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夜もそろそろ更けてきた今、
隣の部屋で、妻と小2の長女が、宮澤賢治の『めくらぶだうと虹』の練習をしている・・・。

その声の張りのみずみずしいこと!
こころのみずみずしさがそのまま声に出ていて、
二人の声を聴いていると、身内びいきに聞こえると思うのだけれど、胸が一杯になる。

「全部、憶えたら、どこででも練習できるなっ」と、
練習が終わった後、いい仕事を終えた仕事人のように爽やかに二人で話してる。

今日は、その長女の8歳の誕生日で、
学校が終わってから、二人で難波に出て本屋さんに行き、
誕生日のお祝いプレゼントにと、彼女の読んでみたい本を一緒に探した。
『イギリスとアイルランドの昔話』を彼女は選んで、
家に帰ってきて、早速むさぼるように読んでいた。

日本昔話やグリム童話や『古事記』や『旧約聖書』が大好きで、
お父さんやお母さんが小さい頃からずっと本を読んでくれたりお話してくれたから、
こんなに本が好きになったんだと、帰りの電車の中で話してくれた。
こころの中で、嬉し涙・・・(^^ゞ)。

わたし自身も、いま、賢治の作品をずっと練習している。
すると、これまでは読んでいても気づいていなかった様々なことがだんだんと意識に上ってくる。
練習をするたびにその作品の面白さや深みを見いだすことができて飽きることがない。

教育らしいことは、子どもたちに何も十分には用意してあげられないかもしれないけれども、
子どもも大人も一緒になって、
過去の人たちが愛し続けてきたことばの芸術作品をからだ一杯で味わってみよう!
そんな念いで子どもと一緒に生活している。

ことばに耳を澄ますこと。
ことばを声に出すこと。
ことばを読むこと。
そして追い追いことばを書いていくこと。

毎日、ことばを通して、生活の中のひとときを楽しむことができたら・・・。
「これでいいのだ」とバカボンのパパのようなこころもちである。

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2013年05月23日

追悼 狂言師・茂山千作さん 93歳



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狂言師・茂山千作さん、93歳でお亡くなりになられた。

舞台を何度か見させてもらった。そのたびに、茂山千作という人がこの世に存在していることの価値を感じた。

落語家の五代目柳家小さんを生で観た時も感じたことだが、芸のコクが増してくることと年齢を積み重ねていくことの間の浅くない関わりを感じさせてもらって、憧れとともに本当に勇気をもらえた。

名人の名人たるところは、おそらく、舞台を見終わった後、数日たっても数年たってもその時その場での余韻が残っていることで、むしろ時が経つほどにその時の味わいを噛みしめなおすことができる。彼の舞台は、そういう舞台だった。

僭越ながら、自分自身も、齢を重ねていくことに、恐れよりも、ずっと大きな希望を持てていること、それは千作さんのような方がいらっしゃったからだ。

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2013年04月14日

美しさと内なる充実

佐伯剛さんという方のブログ『風の旅人〜放浪のすすめ〜』から、
「暮らしの美しさは、何処に・・・」という記事を貼らせてもらいます。
http://kazetabi.weblogs.jp/blog/2013/04/post-7868.html

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ぜひ、読んでいただきたい文章なのですが、その中でも、次の部分を特に引用させてもらいたいと思います。
  
   本当の意味で、日本が世界に誇る文化というものがあるとすれば、
  それは、大きな声でアピールする必要なんてまったくなく、
  その存在自体が、今の粗雑な自分の在り方に対して、
  静かに反省を促すような力がある。
  その粗雑さというのは、世界や生命に対して、
  どこか傲慢になり、無神経になり、疎かにしているということ。
  世界や生命に対する無神経さというのは、
  実は、自分自身に対する無神経さともつながっていて、
  結果的にそれが、自分自身を荒廃させる。
  いくらたくさんの物に囲まれていても、生活が美しくならず、
  逆に荒廃していっているように感じてしまうのは、その為だろう。
  本当の意味で自分を大切にするとはどういうことか。
  そのことを考えない大人が、子供を大切にしているなどと言えやしない。



美しさとは、内なる充実だ。
神々が創りたもうた自然は、内からはちきれんばかりに充実している。
人が創るもの、使うもの、つきあうものは、人が内から充実をもたらすことによって初めて美しさを表に現してくれる。
わたしたちは、いつから、内なる充実を忘れてしまったのだろう。
世界中の人に、そして、これからの子どもたちに、
わたしたちの内なる充実をこそ、伝えていきたい。

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2013年04月13日

観ることと聴くこと

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絵であれ、写真であれ、直かに見るのであれ、
観るものから響きを持続的に聴きとっていくこと。
それは、わたしたちのフィジカルのではない、こころと精神の感官を育んでくれる。
そして、その感官を育むことは、モラルへの感覚へと導いてくれる。
この写真は格好の材料だと感じます。

   開かれた、自由な感覚をもって自然のまことをみずからのうちに生きる人は、
  そのまことを通して、精神のまことに導かれます。
  自然の美と偉大さと崇高さに貫かれた人のうちに、
  それらは精神における感覚の泉となります。
  善きことと悪しきことの彼岸において、
  永遠の無垢のうちにみずからを顕す無言の自然にこころを開く人に、
  精神の世へのまなざしが啓かれます。
  精神の世が無言の自然のうちに生きたことばを響かせ、
  そのことばが善きことと悪しきこととの区別を示してくれます。
  自然を観ることへの愛を通して精神を観ることは、
  こころのまことの宝となり、生を豊かにしてくれます。
  自然を観ずに繰り広げられる精神の夢は、
  人のこころを貧しくします。
          (ルードルフ・シュタイナー『会員への手紙7』1924年3月2日 より)

  
  
  

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2013年04月06日

密やかな儀式としての結婚

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結婚生活というもの、もしくは家庭生活というもの、そこにこそ、人はその人の課題を浮き彫りにする場を見いだすことになります。

人はひとりひとり、きっと、異なる課題をもってこの世に生まれてきています。その人のその人たるところにその人ならではの課題が与えられています。
現代において、様々な問題が立ち表れてきていて、それらひとつひとつは、ある個人の課題であり、またある地域、国、民族における課題であり、またこの時代に生きるすべての人が抱えざるを得ない課題でもあるでしょう。

それらの問題の中のひとつに、結婚生活、家庭生活の営みに対する困難さがあり、現代において多くの人がその問題に直面していることが、様々なニュースや情報や身近な人の話などから感じられます。それは、人と人とが共に存在し、生活し、働きかけあい、理解しあい、愛しあうことの難しさの表れであるのかもしれません。

シュタイナーは、結婚生活がだんだん難しくなってきているのは何故かと訊かれて、それは教育の問題です、というように答えています。
それは若い頃に受ける教育のことでもあるでしょうが、まさしく人が自分自身に向きあい、おのれの課題を意識し、それに取り組むこと、すなわち自己教育のことです。そのような自己教育によって自分自身に取り組み、生活を一日一日送り、結婚生活を織りなしていくということは、プライベートなことであり、とても密(ひめ)やかな、内的なことですよね。そのような密やかで内的なことに目を注ぐこと、取り組んでみることこそが、より本質的なことなのだと、シュタイナーは告げたかったのでしょう。

一方、結婚生活というものは、社会的な法の枠組み、制度の中に入っていくことでもあり、ひとりの人とひとりの人との内なる結びつきをパブリックで開かれた場において成り立たせ、やりくりをしながら生計を立て、生涯を計画していくことでもあります。
結婚生活というものには、そのように極めて内的な側面と外的な側面が重なり合っています。それは、人が、こころとからだで同時に生きているからです。

しかし、現代に生きているわたしたちは、内なる領域に生きているこの自分自身のこころというもの、そして他者のこころというものに対する不確かさ、不安、不信感などに苛まれがちです。
「こころほど、当てにならないものはない」
その内なるものへの不信が、外なるものとしての結婚制度そのものへの不信にも、きっと繋がります。
人はそのような、こころの世とからだ(物質)の世の間の往復だけでは、いずれ立ち止まってしまわざるをえません。

結婚生活を阻むような困難やそれに対する自己教育については、また別の機会に書くことができればと思っていますが、今回は、より大元のこととして、結婚というものを捉えたいのです。
結婚、もしくは結婚生活というものを、更に高い次元で捉えることが可能でしょうか。

シュタイナーをはじめ、高い精神の世から叡智を汲み出してきた様々な人が、そのような結婚の次元をことばにしています。
結婚とは、そもそもは、神と人との合一であったと。また、それは、こよなく高い精神からの知と人のこころとが結ばれることだと。そのような結婚ということの元の相(すがた)が、神話やメルヘンなどにも、美しい王子(高い知)と無垢な娘(人のこころ)の結婚などとして描かれています。結婚とは、ひとりの人の内に生じる、男性性としての精神と、女性性としてのこころとの合一のことを言い表すことばでした。いまも、わたしたちひとりひとりの内で、そのような内なる結婚が生じます。

なおかつ、ひとりの人とひとりの人との結婚を通して、そのふたりが結ばれ、育みあい、愛しあう、その男性性と女性性との重なりの真ん中に、高い知が降りてくる。ふたりの人の結びつきの上に、神が降りてくる。そのような場が、結婚なのだと。

シュタイナーは、特に、キリストという存在がこの世に来たことの大いなる意味を、結婚というものの中に見ています。
キリストがこの世にもたらそうとしているものは、ひとりひとりの人が自由な存在としてひとり立ちすることへの強いこころざしです。そして、人は、人との共同の中でこそひとり立ちしていくことができるのであり、男性性と女性性との合一として、結婚がそのような聖なる課題を人に与える最良のことなのです。
こういうことばが、キリスト自身から発せられています。
「ふたりが、わたしの名において、ともにあるところには、わたしが、ふたりの、ただなかにいる」
そのような結婚というものから、結婚式という儀式が必然的に生まれました。人と人との共同の中に、最も聖なる高いものを迎え入れる宗教的な儀式です。

もし、いまでも、わたしたちが、この意識をもって、内的に、密やかに、結婚式を創っていくならば、その儀式から生まれる精神の力というものを実感することができるかもしれません。その力は、儀式から始まる結婚生活の上に、一種の守りの力、恵みの力として降り注いできます。人が物質の世とこころの世の中で生きているだけでは必ず立ち止まってしまう道を打ち開く精神の力が毎日降り注いできます。

そのことは、決して、結婚生活が順風満帆に送られるということではないでしょう。その人その人に応じたカルマというものが必ず、課題として、その人に迫ってきます。しかし、密やかな儀式としての結婚式から生まれ続けるその力が、その人が自身のカルマを担っていくのを、きっと、助けてくれます。
ちなみに、その儀式としての結婚式は、内的にも、外的にも、意識次第で、いつでも、何歳になっても行うことができるのではないでしょうか?

結婚というものに、そのような、精神的な観点を与える。人によって、その有効度は違ってくるかもしれませんが、精神はまず、人の意識的なこころに、考えとして受けとられます。その考えが、だんだんと、生活の中で時に荒れ狂う感情や意欲や本能の嵐に立ち向かうものになりえます。

若い人たち、新しい人たちと、このような考えを分かちあうことができたら・・・。そんなことを思ったりもします。

結婚生活、家庭生活というものに巣食う不信、無力感、絶望が、この世の様々な問題という問題の根っことしてあります。そこに注ぎこまれていい精神的な観点を書いてみました。

(雑誌「めたもるふぉーぜ」2012年7月号掲載分に加筆修正)


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2013年03月30日

復活祭を前にして

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これが西暦33年に起こったことならば、たかだか1980年前のこと。
いまも、この悲惨と歓喜、この暗黒と光明は、繰り返されている。
わたしは、もう、道を歩いていこう。

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2013年02月23日

心配はしないことにする

自分たちが進めていこうとしているシュタイナーの学び、アントロポゾフィーの学びと「お金」にまつわることについて書いてみたいと思います。
お金といいましても、必ずしも、経済のことではありません。
精神の場においてのお金と人のこころの問題です。

よく、シュタイナーの学びなどの集まりについて、こんなことを聞くことがあります。
どれほど宣伝に苦心しても、人が集まりにくいということ。
それは、人びとに対するアントロポゾフィーの訴求力の低下(シュタイナーという名前が持っていた神通力?の低下)を憂うことでもあるでしょうが、実のところとしては、お金が集まらない、という、言ってみれば、身も蓋もない嘆きかもしれません。
わたしはそのことについて、よく、こう考えるのです。

これは、一応、利益を追求することのみが目的ではない人が、精神の場を創ることについて考えることとして、読んでいただければと思うのですが、もしかしたら、これからの時代において、お金に対する人のあり方を、真に人に沿ったものにしていきたいのなら、より広い範囲に重ねていってもいい考え方かもしれないと、わたしは思っています。

その考えというのは、きっと、「宣伝」ということそのことが、いまはもう、ことがらの中の本当に大事なことではない、ということ。「人を集めなければいけない」という、「・・・せねばならない」という気持ちがあるところからの宣伝には、もう人が動かない時代に入っていることを実感します。

人は、どういう気持ちが発せられているところに集まってくるのか。それは、まぎれもなく、自分たちがなそうとしていることに対する愛です。そして、集まっているひとりひとりの人の間に育まれている、お互いへのこころからの関心です。

わたしも何かを主催し、開催する時に、つい、集まる人数のことを考えてしまうのですが、それはことがらの本質的なことではないですよね。 いくら人数が集まっても、そこにノルマのようなものがあっては、そのときは、「やった。ちゃんと採算が合った。赤字が出ずに済んだ」と考えられて一応の満足はするのですが、そのことをずっとずっと続けていくには、いつも何かに急きたてられてやっているような感覚に人は段々と陥ってきます。そして、集まってくる人のことを、「お金を持ってくる人」と感じるように段々となってくるのではないでしょうか。

人は、高いこころざしを持つ生き物でありつつも、そのこころざしをつい忘れてしまう生き物でもあります。

自分たちがすることに対して、まず、自分たち自身が「喜び」と「愛」を感じているかどうか。わたし自身にとっても、その本質的なことを考えることから常にはずれずに、会を主催し、運営していくことは、易しいことではないのですが、こここそをしっかりと意識していきたいのです。

勿論、お金のことを考えないということではなく、しっかりと考えていく必要があるのですが、お金のことへの「心配」でこころを一杯にしながら、ものごとを動かしていくことへの惑わしがいくらでも容易に起こりがちであることを、わたし自身に感じます。

ですから、大人たちの学びの会であれ、子どもたちへの教育の場であれ、その他、人と人とが共に何かをなそうとする場においては、その活動の規模、サイズに意識的になる必要があるように思っています。意識的になるとは、人ひとりひとりに対応できる小さなサイズから始める、もしくは小さなサイズに徹する、ということです。そして自分たちの活動のためのスペースをその活動のサイズにふさわしいものに、しっかりと設定する。器を大きなものにしたい欲望が、人には、きっと、あるのですが、あえて、器を小さく丁寧に保ち続けることこそが、人の意識的な仕事として大切なことではないでしょうか。

そうすることで、そのサークルは、他からの支援を仰がなければやっていけない、というような苦しいあり方から己を分かつことができます。みずからのあり方をふさわしく見積もったサイズでこそ、そのサークルは他に寄りかからずにみずからの足で立つことができます。

人が生きていくにはそもそも、ふさわしいサイズのサークルが要り、人によってそのサイズの大小は変わってきますが、特に現代の人にふさわしいサイズとは、と考えていきますと、あまり大きなものでない方がいいのではないでしょうか。

参加するサークルが人というものにふさわしい規模であることは、人がみずからの精神に自覚的になっていくことへの重要なファクターです。みずからの精神に自覚的になっていくとは、その人がだんだんとその人になっていくということです。その人らしさが発揮されるということです。

ひとりひとりの人から自由なイニシアティブが生まれてくる。だからこそ、人と人との間に敬意、応援、支援、愛が育まれてくる。それには、人に適った規模のサークルが必要です。

そして、これからは、このアントロポゾフィー活動においても、そのような小さなサークルとサークルの間の応援や支援による繋がりあいが、意識的に育まれていき、その緩やかな繋がりを通して、新しいアントロポゾフィー運動の流れを生み出していきたいですね。

本質的なことは、他者を動かすことにベストを尽くすのではなく、自分たちが愛のある集まりを創っていくことにベストを尽くすこと。そこから、きっと、出会う人が必然的に出会うことになっている。その結果、集まってくる人が多かろうと、少なかろうと、あとは、神様に委ねる。
もちろん、宣伝はし、できる限りのことはする。でも、心配は一切、しないことにする。

これは、わたし自身の活動に対するわたしの考え方です。

(雑誌「めたもるふぉーぜ」2012年4月号掲載)




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2012年12月20日

『375』インタビュー その二 〜ことば、味わう〜

フリーペーパー『375』でのインタビュー記事、先月号からの続きです。
インタビューそして編集してくれた加地さん、375の皆さん、どうもありがとうございました。
(クリックして出てきた画像を再度クリックしてください。読みやすくなります)

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2012年10月27日

『375』インタビュー 〜ことば、味わう〜

ことば味わう.jpg


フリーペーパー『375』が、「ことばの家」の経緯や、アントロポゾフィーと言語造形への想い、本を繰り返し読み込んでいくことの意味などをインタビューしてくれました。
今月号、来月号と続きます。
まずは前半です。

(クリックして出てきた画像を再度クリックしてください。読みやすくなります)

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2012年07月23日

雲を見つめていると

今日は、娘たちと妻は幼稚園の皆さんと一緒に市民プールへ。
嬉しそうに、楽しそうに、帰ってきて、いっぱいプールでのこと、その後の皆との食事でのことを話してくれた。

自分は、家での仕事を終えて、万代池のほとりで、本を読んだり、雲を眺めたりしていた。
青い空に浮かぶ雲。風にそよぐ緑の木の葉。なにひとつ止まっているものがない。
特に雲は、ちょっと見ると緩やかに流れているだけのようだけど、
じ〜と見つめていると、非常に微細な動きを活発にしているのがだんだんとはっきりと見えてくるのが不思議で仕様がなかった。
その生きもののような微細な動きを追っていると、まるで雲はことばをささやきあっているようだ。
こちらのこころとからだまでそわそわ、わくわく動いてくる。
そして、あらためて空全体を渡るたくさんの雲を視界の中に入れてみると、
大きな青いキャンバスに大きな動きで、
何かを絵ことばで伝えようとしているかのように感じてくる。
この感じは単なる気のせいか、どうか、これからも折を見て、確かめてみたい。

側で将棋を指すおじさんたち。
交わすことばは、「ふ〜ん」「ほっ、ほっ、ほっ」ぐらい。
思考のゲームをあんなにも楽しむことができるなんて。
いや、他人のことは言えない。
自分も雲を見て、こんなに喜んでるんだものな。

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2012年06月22日

薔薇の蕾は花開く 〜『自由の哲学』より〜

人と会い、様々なことを感じ、なぜだかとても疲れた時などには、
いろんな疲労回復法があるのだろうけれども、
自分はよくシュタイナーの『自由の哲学』を読む。

そして、そこに書かれてある文に沿って、考えることによって、
自分自身の偏っているこころを立て直すことができ、
救われることがよくある。

第5章の「世を知る」を読んだ。
そこにこんなことが書いてある。

__________________________________________

いま、わたしが、蕾をつけた薔薇の枝をもっているとすれば、
きっと、その枝を水に活けるだろう。

なぜか。

薔薇の蕾は、薔薇の花となるからだ。

薔薇が蕾の状態であることも、薔薇であることのひとつのプロセスだし、
花開いている状態も、薔薇であることのひとつのプロセスだ。

しかし、プロセスの中のそのときそのときの面持ちを見るだけでは、
これこそが薔薇だ、ということは、やはり、できないし、
水に活けて花開かせるという想いにも至り得ない。

考えることで、プロセスというものを捉えるからこそ、
薔薇の枝を水に活ける。

その薔薇が、
なる」ということ、
育つ」ということ、
成長する」ということを、
考えるからこそ、
わたしは薔薇の蕾がついた枝を水に活け、
その薔薇が薔薇としての美しさを十全に出し切るのを待つ。

見ているだけで、考えなければ、きっと、水に活けはしないだろうし、
薔薇が薔薇であることも分からないままだろう。

__________________________________________

わたしが「育つ」というプロセスを考えずに、水に活けてもてなさなければ、
薔薇の蕾は枯れてしまい、その美しさを見せてくれはしない。

きっと、人であるこのわたしも、薔薇と同じだろう。

薔薇が育つように、わたしという人も必ず育つ。

この考えに立ち戻るのだ。

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2012年06月15日

表情と家庭

自分の娘が小学校へ通い出してから2ヶ月ちょっと経った。
こんな短い期間だけでも、娘の内側でいろいろなことが起こっているんだなあと感じる。

それまでのシュタイナー幼稚園で過ごしていた牧歌的で、安心に満ちた雰囲気から出て、
新しい環境で精一杯、やっている。
目一杯、楽しみ、遊び、勉強している。
それでも、友だちとのやりとりで、これまで味わったことのない感情にも出会っているようだ。

これから先、思いもかけないような経験を重ねていくことだろう。
戸惑い、悩み、落ち込むことも、たくさんあるだろう。

親心として、できる限り子どもが嬉しく楽しく充実した時間を生きることを希むのは無理もない。
でも、子どもが出会ういちいちの経験のうちでやっかいなものは避けさせ、
躓く石のない平坦な道だけを行かせることなど、決してできないだろう。

親ができることは、親としてやりたいことは、
子どもが帰ってきて、どこまでも伸び伸びと安心できて、
自分のどんなあり方も受け止めてもらえる家を創ることだ。
娘の表情を見ていて、あらためて、そう気づく。

そのためには、
親自身のこころのあり方、そして夫婦の関係を意識的に育てていくことが、
どうしても大切になってくるなあと感じる。

わたし自身もたくさんの人と出会い、
その人その人の表情に出会う。
ことばや、知性や、意見や、主義主張の前に、その人の表情に出会う。

そして、その表情に出会い、その内側に入り込みたいと願うとき、
その人のその表情はどのような人生のどのような経験から生じてきたのだろうか、
という想いと感情に満たされる。

そして、どの人の経験においても、
家庭のありようは小さくない働きを及ぼし続けているのではないかな。

もう子どもではなく、若者でもなく、ひとりの大人になるということとは、
もらうばかりではなく、与えることができるということであるならば、
わたしは、妻や子どもたちや、誰より自分自身の表情を安らかで満ち足りたものにしていくような、
そんな家を創っていきたいと想う。


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2012年05月17日

くすのき園 〜語り合いつつ学び合う会〜

我が子がお世話になっている「くすのき園あびこシュタイナー幼稚園」。

長女が卒園するまでの約三年間を過ごし、
そしてこの4月から次女が通い始めることを機に、
わたし自身がもっと積極的にこの園にかかわりたく思い、
先月から月に一回の「語り合いつつ学び合う会」を開き始めた。

これは、このくすのき園に縁あって集う、大人たちの会で、
その縁というものにしっかりと意識的に気づいていきたい、
そんな願いで始めている。

この時代、特に昨年の3月11日以降、
わたしたちがこれまでに積み重ねてきてしまっている生活スタイル、思考習慣をどうにかして転換して、
より人間にふさわしいもの、より子どもたちにふさわしいものとはなんなんだろう、
そう考え続けていて、
これも、その考えの繰りなしからのひとつの試みだ。

何か既成のものでは、もう人は自分自身を健やかなあり方にしにくくて、
下手でもいいから、自分自身から何かをやり始め、誰かに働きかけ始める。
そんな大人の姿こそが、
きっと、子どもたちの意識されないこころとからだに深く働きかけていくんじゃないか。

ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)は、
ひとりひとりの子どもの内側に、
自分の足で立ち、自分の胸で感じ、自分の頭で考えることのできる力を育てようとしている。
それは、別の側面から言えば、
人と人との繋がりを積極的に創りだし見いだしていく力を子どもの内側に育んでいくことでもある。

それならば、まず、わたしたち大人が、これまで以上に、
おのれのこころを開き、
他者にもっともっと関心を抱いて、
それによって自分自身を再発見していくこと、
そして、みずから自由への道を見いだし、歩き出していくことが、
一大事じゃないか。

そんな大人たちの思いと行為が、
地下の水脈を伝わって、生きていく力として子どもたちにきっと流れていく。


今日は、その二回目の会だった。

わらべ歌を唄いながら、身体をリズミカルに動かし、
園で毎日子どもたちが耳にしている「幼児のための詩」を唱えることから、会を始めている。

そして、これまでの人生の中で、もしくは、いま現在において、
自分自身が強い関心を抱いていることがら、意識せざるをえないようなことがらを語り合った。

集ったひとりひとりの人から深くて、熱い、時にユーモアたっぷりの、こころからのことばが響いて、
とてもとても濃密な時間になった。

人が話しているとき、一切他者は口を挟まず、
耳を澄ましてその人その人のことばを聴こうとする場の中だからこそ、
皆こころを開いて語ってくださる。
改めて、「人というもの」に出会うような、こころ揺さぶられる時間だった。

インターバルとして、
絵本の『大きなかぶ』をひとりひとりの役を演じながら声に出してやってみた。
インターバルとは言っても、
こうした芸術的な要素が語り合いの場にも含まれることで、
時間の流れの中に呼吸の伸縮が生まれる。

そして、後半の語り合いでは、
前半におのおのが語った自分自身の関心とシュタイナー教育とを結びつけて考え、
ことばにすることをしてみた。

そうすると、前半に語った事柄がいっそう深められて、
その人のその人たるところがだんだんと表にことばとなって現れてくる。

こうして毎月、ことばを通して、その人その人の深みに触れるということは、
なんと貴重な、他では得がたいことなんだろうと思う。

最後に、
シュタイナーが最初のシュタイナー学校の教師たちに、
こころから真剣に語ったことを引きあいに出させてもらった。

それは、
わたしたち何らかの理想をもって何かをなそうとする人ひとりひとりの上に高い存在の方がおられること。

そして、わたしたちの集りそのものの上に、
より大いなる天の使いの方々が輪を描いて舞いつつ見守ってくださっていること。

さらに、社会をより人間的なものにしていくために、
この教育が今なくてはならないものなのだというメッセージを伝えるべく、
時代の精神として遥かに高い天からの方々が、
わたしたちの上に上り下りされていること。

わたしたちは、教師ではないが、子どもたちを見守り、育てていく親として、
そのことを眼を閉じて、静かにしばらく想ってみた。


このような会を通して、
ヴァルドルフ教育を根元に持つ幼稚園がこの地にあることの貴重さ、重要性に気づいていけたら。
そして、やがて、積極的に、かつ、自由に、
園をひとつの人間共同体として運営していくことへのこころざしと勇気と力を、
ひとりひとりが発揮できるようになることを希っている。

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2012年04月29日

怒りと愛

ひとりの人の内で、
怒りと愛とは同居しえるのだろうか。

例えば、
誰かに対する怒りと、
我が子に対する愛とは、
根本的に、
わたしの内で同居しえるのだろうか。

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2012年04月15日

春の始まり 岩出演劇塾!

今日からまたまた始まりました、和歌山岩出の演劇塾。

参加してくださっているGさんのブログの記事をご紹介します。
http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=295

大人の方々、そして引き続き参加している子どもたちも、内側でこんなにもこころを動かしてくれている。
今日から、この喜びを一緒に深めていこう。

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2012年03月11日

あの時から一年、3月11日 午後2時46分

ルードルフ・シュタイナーが、第一次世界大戦の間、
講演のたびに、このことばを唱えていたそうです。

生きている人、そして、死んでしまった人、
それぞれを守ってくださっている方、守護天使に向けてのことばです。

わたしも、このことばに沿いたいと思います。

(一連目が、生きている人を守る天使の方へ、
 二連目が、亡くなった人を守る天使の方へのことばです)

   
    あなたがたは、この世のこころの上に目覚める、
   あなたがたは、この世のこころについて織りなす。
   精神にして、人のこころの上に守りつつ、
   世の賢さから愛しつつ働く方々よ、
   わたしたちの乞いを聴き、わたしたちの愛を観られよ。
   それが、あなたがたの助ける力の輝きに満たされて、
   精神に適いつつ、愛を送るように。


   あなたがたは、中有のこころの上に目覚める、
   あなたがたは、中有のこころについて織りなす。
   精神にして、こころの人の上に守りつつ、
   世の賢さから愛しつつ働く方々よ、
   わたしたちの乞いを聴き、わたしたちの愛を観られよ。
   それが、あなたがたの助ける力の流れとひとつになり、
   精神を感じつつ、愛を輝かせるように。

                       ルードルフ・シュタイナー

                              鈴木一博さん訳


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2012年02月07日

比べる、から、敬うへ

誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、
その誰かや何かに近づこうと気持ちが盛り上がることが、
特に若いときにはよくありますよね。

その憧れの対象は、
マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、
職種という職種における有能な人、魅力的な人、
魅力的な生活スタイル、考え方、生き方、
そして人を超えた存在、
神のようなあり方、
精神界、霊界、天国、神に至るまで、
物質的なものから精神的なものまで、
人各々、それぞれです。

しかし、その誰かがやっていることや、
素敵な何かに向かって、
自分自身も努力し始めることができればいいのですが・・・。

その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、
いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、
その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらいがないでしょうか。

そして、
自分自身とその憧れの対象とを比べて、
自分自身を卑下しだす。

「自分には無理だ」と。

わたしがアントロポゾフィーを学んでいて、
最も強く励まされるのが、
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「条件」の章にある、
次のことばです。

    こころのしかるべき基調が、きっと、はじまりとなる。
   密やかに究める人は、その基調を敬いの細道と呼ぶ。


    わたしたちはわたしたちよりも高いものがあるという、
   深みからの情を内に育まないのであれば、
   高いものに向けてみずからを育み高める力を内に見いだすこともないであろう。


憧れのもの、状態、それは、別な言い方をするならば、
人にとっての「高いもの」と言ってもいいかもしれません。

「わたしたちよりも高いものがある」。

その「高いもの」と己を比べるのではなく、
「高いもの」を敬う。

そのこころの向きは、
自然には生まれない。
意識的に練習しなければ、
「敬う」というこころの力は身につかない。

「高いもの」に対する敬いから始まり、
生きとし生けるものに対する敬い、
ありとあらゆるすべてに対する敬いへと、
その練習は続けられる。

しかし、人は、放っておいたら、
その対象と自分自身との距離をもてあまし、
自分自身を卑下しだす。
そして、
敬いとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのずと傾いていく。

「高いもの」と己を比べるということ、それは実はその人のエゴであり、
「高いもの」を敬うということ、それはその人のこころの高い力です。

比べる、から、敬う、へ意識的に方向を変える。

敬うからこそ、
その対象と共にいられるのです。
人間関係など、まったく、そのことが当てはまります。

敬うことによって、
初めて、その対象から力が自分に流れ込んできます。


そして、敬うからこそ、
その対象に向かって、
いや、もうすでに、その対象と内的にひとつになって、
こつこつと根気をもってその人その人の憧れの道を歩いていけるのでしょう。

誰がなんと言おうと、
歩き続けられるのでしょう。

シュタイナーが、
その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、
それだけ現代人にとって、
比べることから敬うことへのこころの移行が必要なことだからです。

posted by koji at 21:09 | 大阪 ☁ | Comment(2) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月04日

くすのき園あびこシュタイナー幼稚園 開園三周年コンサート

3周年リハ.JPG 3周年本番.JPG


今日は、「くすのき園あびこシュタイナー幼稚園」の、
開園三周年記念コンサートでした。

開園のときから娘が通わせてもらっていますので、
もう三年も経つのかと、感慨深く、今日を迎えました。

「音登夢(おととむ)」http://ototom.com/
という名前で活動されている、
バイオリンの木村直子さんとチェロの木村政雄さんのご夫婦デュオのコンサートでした。

園の樋口早知子先生の古くからのお知り合いの方々です。

くすのき園一杯に拡がる弦楽器の表情豊かな響き。

普段、聞きなれていると思っていた曲たちが、
目の前で確かな技量で演奏されることで、
活き活きと動きをもってわたしたち聴き手に迫ってきます。

そして演奏してくださるお二人の間の絶妙な息遣いとユーモア。

大人も子どももこころから楽しむことができました。

わたしも『星の銀貨』の語りで参加させてもらいました。

語りに合わせて、これまた絶妙の音を奏でてくださり、
このメルヘンの中から「人というものの素直さ」
を引き出してくださったように感じています。

節分を過ぎて春に向けて太陽が歩み始めているその明るさと、
人のこころとこころが交わりあう暖かさに包まれたコンサートでした。

音登夢の木村直子さん、政雄さん、
コンサートを準備してくださったくすのき園の先生方、
来てくださった皆さん、
そして三周年を迎えた「くすのき園」、
どうもありがとうございました。

このくすのき園は、
これからも、子どもたちの生きていくための基を見守り育む場であり、
わたしたち大人にとってもこころとこころが通い合い、文化を生み出していく、
そんな場になっていきます。

これをお読みくださった方で、またご縁がありましたら、
どうぞよろしくお願いいたします。

posted by koji at 17:02 | 大阪 ☀ | Comment(2) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月29日

新春のこころざしを分かち合う集い in 岩出

遅ればせながら、
「新春のこころざしを分かち合う集い」を和歌山岩出のシュタイナー演劇塾でいたしました!

後藤家の前.JPG

何が人間にとって大切で、何が子どもたちにとって大切なのか。
そのことがますます分かりにくくなってきているように感じる現代。
でも、ものごとの本質は、
以前からずっと多くの人たちによって営まれ続けていた生活のあり方に、
潜んでいるのではないだろうか。

子どもだけが特別な場所に離れて、特別な教育を受けるのではなく、
大人も子どもも一緒になって、
あるものを創っていく。

その創造行為のなかで、おのずと、
子どもたちは大人たちのあいだで、
「見ながら」「聴き取りながら」「見よう見真似で」、学び、育っていくのではないか。

そして、その共同の学びの場で、
人として、
尊ぶべきものを尊び、
敬うべきものを敬う、
ある種の「宗教的感覚」を大事に、感情を通して、芸術を通して、育んでいきたい。

とりわけ、小学生のときの、第二・七年期にある子どもたちが、
情を通して、そのような宗教的感覚を育むことを逸しさせたくない。

そんな考えを分かち合えた素晴らしい時間でした。

持ち寄ってくださったお昼のお食事も本当においしかった!

ありがとうございました。


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2012年01月23日

心配はしないことにする

よく、シュタイナーの学びなどの集まりについて、こんなことを聞くことがあります。

どれほど宣伝に苦心しても、人が集まりにくいということ。

わたしはそのことについて、こう考えます。

これは、一応、利益を追求することのみが目的ではない人が考えることとして、
読んでいただければと思うのですが、
もしかしたら、
これからの時代において、
経済のあり方そのものが、人に沿ったものになるのなら、
考えていってもいい考え方かもしれないと、
わたしは思っています。


その考えというのは、
きっと、宣伝ということそのことが、
いまはもう、ことがらの中の本当に大事なことではない、ということ。

「人を集めなければいけない」という、
「・・・せねばならない」という気持ちがあるところからの宣伝には、
もう人が動かない時代に入っているのです。

人は、どういう気持ちが発せられているところに集まってくるのか。

それは、まぎれもなく、愛です。

そして何かを主催し、開催する側において、
ことがらの本質的なことは、
集まる人数のことを考えるのではなく、
そのことをすることに対して、
自分たちが「喜び」と「愛」を感じているかどうか、
ということではないでしょうか。

いくら人数が集まっても、そこにノルマのようなものがあっては、
そのときは、
「やった。ちゃんと採算が合った。儲けが出た」と考えられて一応の満足はするのですが、
そのことをずっとずっと続けていくには、
いつも何かに急きたてられてやっているような感覚に人は段々と陥ってきます。

そして、集まってくる人のことを、
「お金を持ってくる人」と感じるように段々となってくるのではないでしょうか。

本質的なことは、
他者を動かすことにベストを尽くすのではなく、
自分たちが愛のある集まりを創っていくことにベストを尽くすこと。

そこから、きっと、出会う人が必然的に出会うことになっている。
その結果、集まってくる人が多かろうと、少なかろうと、
あとは、神様に委ねる。

もちろん、宣伝はし、できる限りのことはする。

でも、心配は一切、しないことにする。

これは、わたしの考え方です。

posted by koji at 07:26 | 大阪 ☁ | Comment(2) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする