今日、娘たちが贈つてくれた花束
これも、8年前に書いた文章なのですが、今日、父の日を祝つてくれた娘たちのことを想ひつつ、再掲します。またしても長文ですが、ご勘弁を。
―――――――
毎日、小さな子どもたちと暮らしてゐて、何よりも感じさせられることは、とにかく子どもたちは、意志・意欲の力に満ち溢れてゐるといふことです。
「・・・したい!」「・・・が欲しい!」の連続。時に、反対に「・・・したくない!」と言つたりもしますが。
その意欲は、周りの大人の都合や思惑をものともせず、子どもはその願ひが叶へられるまでその声で連呼するか、「ダメ!」と言はれ、怒られて、泣きぢやくるか、です。
その子の気質によつて意欲の発露の仕方にも違ひはあるでせうが、共通してゐるのは、歯が生え変はるまでの子どもの意欲の強さは並大抵ではないことです。
「強く欲する」といふこの力は、そもそも、大いなるシンパシー(共感)の力です。何かを欲しがるといふのは、その何かとひとつになりたい、誰かと同じやうにしたい、誰かと同じやうになりたい、真似したいといふ、大いなるこころの力です。
なぜ、これほどまでに、小さな子どもたちのシンパシーの力は強いのでせうか。
それは、世を信頼してゐるからです。世は善きところだと信頼してゐるからです。善きものと同じやうになりたい。善きものとひとつになりたい。すべての人が本来その願ひをもつてゐます。だからこそ、子どもたちは、周りのものといふもの、ことといふことを欲します。真似します。
その「善きものとひとつになりたい」といふ願ひを、人の宗教性と呼びたいのです。
大人はその宗教性をからだから自由になつてゐる精神とこころにおいて育むことができます。大人の宗教的感情は、自分自身の精神とこころをもつて高い世の精神とこころに帰依することで育まれます。
しかし、幼い子どもはいまだ精神とこころがからだから自由になつていず、精神、こころ、からだ、まるごとで周りの世に帰依してゐます。その帰依の仕方は、大人のやうにこころで意識的にしてゐるのではなく、からだにおいて、無意識に、血液循環、消化、呼吸の働きなどにいたるまで、周りに帰依してゐます。全身が感覚器官であり、だからこそ、幼い子どもは徹底的に周りを摸倣する存在です。からだそのものが、おのづから宗教的雰囲気の中に生きてゐます。
子どもが「Aがしたい」「Bが欲しい」などと言ふときに、わたしたち大人はそのAやBに意識が向きがちであつたり、そのわがままなありかたに堪忍袋の緒が切れたりするものですよね。しかし、「・・・したい」「・・・が欲しい」といふこころの力、シンパシーの力そのものに目を向けますと、子どもの中にはからだに至るまでの宗教性が息づいてゐることに気づかされます。
そして、子どもは、善きものだけでなく、悪しきものまで、すべてを真似ます。大人においては、善きものに向かつてこころを意識的に育んでいくといふことができますが、子どものからだにおける宗教性は、おのづからなもの、無意識のものであるゆゑに、悪しきものにも帰依できるのです。
悪しきものとは、なんでせう。現代において、わたしたちは挙げていけばきりがないほどの悪しきものに囲まれてゐるのかもしれません。子どもをもつ親は、何を信頼し、何に帰依していくことができるのか、判断しかねてゐます。
人の育ちにとつて、善きもの、悪しきものは確かにそれぞれありますが、その中でもつとも大切で、人の育ちを応援してくれる善きものは、その人自身の考へる力、感じる力、欲する力、この三つのこころの力が健やかになりゆくことだと、わたしは感じ、考へてゐます。その力こそが、外の様々な状況や環境に対しあひ、適応しながらも、己れ自身を信頼し、道を切り開いてゆくことを可能にしてくれるのではないでせうか。
そして、子どもは密やかに、からだにいたるまで親の内に生きるこのこころの力を真似します。それは、考へ方、感じ方、欲し方が、おのづからな習ひのもの、習慣になるだけでなく、そこからこころとからだの健やかさまでをも左右していくといふことです。
わたし自身、親として感じ、考へ、そして失敗を繰り返しながら練習してゐることなのですが、わたし自身の考へるその考へ、感じるその感じ、欲するその欲が、子どもに真似されていいものかどうかを、そのつどそのつど見てとることです。
子どもがゐてくれなかつたら、わたしはこんなことを思ひもよらなかつたでせう。思ひにはゐたつても、実際に成長していく人をまぢかに見なければ、深くこころに記すこともなく、練習することもなかつたでせう。その機会を与へてくれてゐる子どもたちに、こころから感謝したいのです。
子どもの宗教性に応へること。それをまづ、自分自身の考へ方、感じ方、欲し方を見てとることから始めたいと、いま、こころから思ひます。できる、できないにとらはれません。とにかく、さうこころがけたい、こころざしたい、といふことです。
シュタイナー幼稚園などで、よく唱へられる詩に次のものがあります。
わたしの頭も、わたしの足も、
神さまのすがたです。
わたしはこころにも、両手にも、
神さまの働きを感じます。
わたしが口を開いて話すとき、
わたしは神さまの意志に従ひます。
どんなものの中にも、お父さん、お母さん、
すべての愛する人の中にも、
動物や、草花、木や、石の中にも、
神さまのすがたが見えます。
だから、怖いものはなにもありません。
わたしの周りには、愛だけがあるのです。
(ルードルフ・シュタイナー)
大人として子どもの傍にゐるわたしが、どんな不条理な世にゐたとしても、あへて、周りのいたるところに、この詩に述べられてゐる尊いもの、愛を見つけ出していく・・・。詩のことば、祈りのことばから、わたしは自分の考へる力、感じる力、欲する力を、耕します。子どもの宗教性に応へられるやうなこころの力を、毎日の生活の中で、呼び起こします。昨年2011年の春から、特に、意識してゐることを書かせてもらいました。