2020年06月21日

子どもの宗教性

 

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今日、娘たちが贈つてくれた花束

 
 
これも、8年前に書いた文章なのですが、今日、父の日を祝つてくれた娘たちのことを想ひつつ、再掲します。またしても長文ですが、ご勘弁を。
 
 
―――――――
 
 

毎日、小さな子どもたちと暮らしてゐて、何よりも感じさせられることは、とにかく子どもたちは、意志・意欲の力に満ち溢れてゐるといふことです。
 
 
「・・・したい!」「・・・が欲しい!」の連続。時に、反対に「・・・したくない!」と言つたりもしますが。
 
 
その意欲は、周りの大人の都合や思惑をものともせず、子どもはその願ひが叶へられるまでその声で連呼するか、「ダメ!」と言はれ、怒られて、泣きぢやくるか、です。
 
 
その子の気質によつて意欲の発露の仕方にも違ひはあるでせうが、共通してゐるのは、歯が生え変はるまでの子どもの意欲の強さは並大抵ではないことです。
 
 
「強く欲する」といふこの力は、そもそも、大いなるシンパシー(共感)の力です。何かを欲しがるといふのは、その何かとひとつになりたい、誰かと同じやうにしたい、誰かと同じやうになりたい、真似したいといふ、大いなるこころの力です。
 
 
なぜ、これほどまでに、小さな子どもたちのシンパシーの力は強いのでせうか。
 
 
それは、世を信頼してゐるからです。世は善きところだと信頼してゐるからです。善きものと同じやうになりたい。善きものとひとつになりたい。すべての人が本来その願ひをもつてゐます。だからこそ、子どもたちは、周りのものといふもの、ことといふことを欲します。真似します。
 
 
その「善きものとひとつになりたい」といふ願ひを、人の宗教性と呼びたいのです。
 
 
大人はその宗教性をからだから自由になつてゐる精神とこころにおいて育むことができます。大人の宗教的感情は、自分自身の精神とこころをもつて高い世の精神とこころに帰依することで育まれます。
 
 
しかし、幼い子どもはいまだ精神とこころがからだから自由になつていず、精神、こころ、からだ、まるごとで周りの世に帰依してゐます。その帰依の仕方は、大人のやうにこころで意識的にしてゐるのではなく、からだにおいて、無意識に、血液循環、消化、呼吸の働きなどにいたるまで、周りに帰依してゐます。全身が感覚器官であり、だからこそ、幼い子どもは徹底的に周りを摸倣する存在です。からだそのものが、おのづから宗教的雰囲気の中に生きてゐます。
 
 
子どもが「Aがしたい」「Bが欲しい」などと言ふときに、わたしたち大人はそのAやBに意識が向きがちであつたり、そのわがままなありかたに堪忍袋の緒が切れたりするものですよね。しかし、「・・・したい」「・・・が欲しい」といふこころの力、シンパシーの力そのものに目を向けますと、子どもの中にはからだに至るまでの宗教性が息づいてゐることに気づかされます。
 
 
そして、子どもは、善きものだけでなく、悪しきものまで、すべてを真似ます。大人においては、善きものに向かつてこころを意識的に育んでいくといふことができますが、子どものからだにおける宗教性は、おのづからなもの、無意識のものであるゆゑに、悪しきものにも帰依できるのです。
 
 
悪しきものとは、なんでせう。現代において、わたしたちは挙げていけばきりがないほどの悪しきものに囲まれてゐるのかもしれません。子どもをもつ親は、何を信頼し、何に帰依していくことができるのか、判断しかねてゐます。
 
 
人の育ちにとつて、善きもの、悪しきものは確かにそれぞれありますが、その中でもつとも大切で、人の育ちを応援してくれる善きものは、その人自身の考へる力、感じる力、欲する力、この三つのこころの力が健やかになりゆくことだと、わたしは感じ、考へてゐます。その力こそが、外の様々な状況や環境に対しあひ、適応しながらも、己れ自身を信頼し、道を切り開いてゆくことを可能にしてくれるのではないでせうか。
 
 
そして、子どもは密やかに、からだにいたるまで親の内に生きるこのこころの力を真似します。それは、考へ方、感じ方、欲し方が、おのづからな習ひのもの、習慣になるだけでなく、そこからこころとからだの健やかさまでをも左右していくといふことです。
 
 
わたし自身、親として感じ、考へ、そして失敗を繰り返しながら練習してゐることなのですが、わたし自身の考へるその考へ、感じるその感じ、欲するその欲が、子どもに真似されていいものかどうかを、そのつどそのつど見てとることです。
 
 
子どもがゐてくれなかつたら、わたしはこんなことを思ひもよらなかつたでせう。思ひにはゐたつても、実際に成長していく人をまぢかに見なければ、深くこころに記すこともなく、練習することもなかつたでせう。その機会を与へてくれてゐる子どもたちに、こころから感謝したいのです。
 
 
子どもの宗教性に応へること。それをまづ、自分自身の考へ方、感じ方、欲し方を見てとることから始めたいと、いま、こころから思ひます。できる、できないにとらはれません。とにかく、さうこころがけたい、こころざしたい、といふことです。
 
 
シュタイナー幼稚園などで、よく唱へられる詩に次のものがあります。
 
 
 

  わたしの頭も、わたしの足も、
  神さまのすがたです。
  わたしはこころにも、両手にも、
  神さまの働きを感じます。
  わたしが口を開いて話すとき、
  わたしは神さまの意志に従ひます。
  どんなものの中にも、お父さん、お母さん、
  すべての愛する人の中にも、
  動物や、草花、木や、石の中にも、
  神さまのすがたが見えます。
  だから、怖いものはなにもありません。
  わたしの周りには、愛だけがあるのです。  
           (ルードルフ・シュタイナー)
 
 
 
大人として子どもの傍にゐるわたしが、どんな不条理な世にゐたとしても、あへて、周りのいたるところに、この詩に述べられてゐる尊いもの、愛を見つけ出していく・・・。詩のことば、祈りのことばから、わたしは自分の考へる力、感じる力、欲する力を、耕します。子どもの宗教性に応へられるやうなこころの力を、毎日の生活の中で、呼び起こします。昨年2011年の春から、特に、意識してゐることを書かせてもらいました。
 
 
 
 


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2020年06月19日

若い人に向けて 〜たとへば、東京と大阪〜



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七年間通つた、新宿牛込柳町にある銭湯「柳湯」
 
 

随分以前に書いた文章で、自分自身のことを振り返りながら、人生の中の発意・自主性・イニシアティブの重要性について書いたものです。長文ですが、ご勘弁を。
 
 
 
――――――
 

 
わたし自身のことから書き始めるのですが、シュタイナーといふ人を初めて知り、アントロポゾフィーの本を読み出したのは、二十八歳のときでした。まづは、子どもへの教育についての本を読み始めたのですが、そこに書かれてある教育観、人間観、世界観、宇宙観を貫いてゐるまぎれもない精神からの観点にこころを鷲づかみにされました。更に、言語造形といふ芸術に出会ひ、自分の仕事は、この言語造形とアントロポゾフィーを生きることそのことだと、出会つてすぐに感じ、それまでの仕事をやめて、それから約七年間、言語造形とアントロポゾフィーを学ぶために、毎日アルバイトをしながら、東京に住んでゐました。
 
 
東京といふところは、学びの機会だけに限らず、観るもの、聴くものが、世界中からと言つてもいいくらゐ、豊かに供給されてゐますよね。わたしは、アントロポゾフィーと言語造形を通して、特に芸術に向けての関心と情熱が深まつていき、それに応へてくれるかのやうに、東京は質の高いものを豊かにわたしに与へてくれました。こちらがその気にさへなれば、そしてお金さへあれば、東京といふところはいくらでも享受と学びの機会を与へてくれました。わたしにとつては、東京の街そのものが、大学のやうでした。
 
 
そして三十五歳になつたときに、ふるさとの大阪に帰つてきました。そのとき、わたしがまづ感じたのは、芸術の享受、学びの享受といふ面に関しては、東京と比べると、その量においては、五分の一、いや、十分の一ぐらゐかもしれない、といふことでした。これはあくまでも、当時のわたしの個人的な感覚です。
 
 
しかし、ここでも、すぐに気がつきました。外側から得るものはさほど多くないかもしれない。けれども、自分が意味を見いだし、やつてみたいこと、やつていかうとしてゐることを、いま、ここから、自分から、始めてみることはできる。自分自身がたとへまだまだ未熟であつても、こころざしさへあれば、です。大阪といふところはそんな気風がある。そのことを肌で感じました。
 
 
それまで、東京でたつぷりと豊かで深い学びをさせてもらへたといふ実感があつたのですが、同時に、その外的な豊かさから必然的に生まれてしまふこころの受動性、そして何よりも、人を何かのレベルで判別しようとする強すぎる批判性・選別性を人との関係の中でどこか感じてゐました。それは、東京といふ大都会に生きる人がもつてしまはざるをえないものかもしれませんし、それよりも、きつと、わたし自身の中にあるこころのありやう(受動性と批判性)でもあります。ただ、大阪に帰つてきて、初めてはつきりと意識したのは、東京にゐたときのやうなありやうの中では、わたしは、わたしとして自立するのがとても難しかつた、といふことでした。外側から与へてもらえるものは、とても質の高いもので、量も豊かなのですが、それゆゑに、こころが受け身になりがちで、また、批判するこころの力が強すぎて、人と人とが警戒しあつてゐる、他者の目が常に気になる、「誰かのお墨付きをもらへないうちは、自分で何かを始めるなんてとんでもない」といふやうな雰囲気をわたしはどこか感じてゐました。
 
 
わたしが、アントロポゾフィーから、そしてシュタイナーといふ人から学んだもつとも大きなことは、「わたし」を育むこと、そのために何度失敗してもいいから、恐れずにトライしつづけること、さうすることによつてのみ、だんだんと「わたし」に対する信頼が自分の中に育つてくるといふことです。「わたし」に対する信頼こそが、生きていく上で、もつとも大きなもののひとつだといまも感じてゐます。
 
 
十九世紀後半から約三百年かけて、時代精神ミヒャエルが、わたしたちを見守り、支へ、応援してくれてゐると、シュタイナーは語り、そのミヒャエルとの結びつきをひとりひとりが真摯に受けとめながら生きていくことがどれほど大事なことかを、病床にいながらも書き続け、それが遺言のやうに『ミヒャエルの手紙』として、わたしたちに残されてゐます。
 
 
その『手紙』において、ミヒャエルの働きは様々な面で深められてゐるのですが、その基本的なことのひとつとして、時代精神ミヒャエルは、「わたし」に目覚めつつ、「わたし」を信頼しつつ、発意・イニシアティブをもつ人と結びつかうとします。
 
 
あくまでも、わたし個人が感じたことですが、東京における、豊かさと同時にもたざるをえなかつた恐れと不安。そして自分のふるさとである大阪に帰つてきて生まれたイニシアティブ。失敗を恐れず、他者の目を気にかけず、とにかく、やつてみよう、そして、やりつづけていかうとするイニシアティブ。だから、東京は住みにくい、ふるさとや大阪は住みやすいなどとは勿論一概に言へませんが、やはり、そこに、現代を生きることの難しさと希望を見るのです。場所の問題ではないのですが、場所は、人が、創つてきたものです。要(かなめ)は、これからの人の意識です。
 
 
目に見える外側の豊かさが本当の豊かさではないことに、人は、きつと、気づいていくでせう。これからはますます、人が各々の「わたし」をもつて、ためつすがめつ、ひとつひとつのものごとを消化し、深め、ものにしていくプロセスそのものが豊かさであること、そして、「わたし」に対する信頼を育んでいくことこそが豊かさであると感じとつていくでせう。
 
 
人が、「わたし」をもつて、ひとり立ちすること。そこをこそ、ミヒャエルは応援しようとしてゐます。そして、その応援をもらへるやうな環境を他者のため、自分のためにわたしたちはどのやうにして創つていくことができるでせうか。共に、考へ、各々実際に創つていきたいですね。
 
 
 

 

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2020年05月31日

生まれ変はり


 
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フリードリッヒ「雲海を見おろすさすらひ人」

 
わたしたちは、この同じ時代を
共に生きてゐます。
 
 
同じ空気、同じ雰囲気のなかに生きてゐます。
 
 
しかし、これからは、同じ空気のなか、
同じ時代のなかであつてさへも、
ひとりひとりの意識の違ひで、
これまでとは比べものにならないほど、
人によつて生き方も大きく分かれてくるだらう、
さう想ひます。
 
 
これからは、ますます、
皆が皆、横並びになることで、
安心するやうな生き方は終はり、
ひとりひとりが、
言ふならば、自分勝手に生き始める。
 
 
さうして、どんどんその人らしい、
自由な生き方に入つて行く人もあれば、
逆に、自分勝手に生き始めることで、いつさう、 
こころの底のじりじりとした不安は、
誤魔化せないやうになる人もゐる。
 
 
わたしもさうです。
この不安を誤魔化して生きて行くことはできないと、
痛感してゐます。
 
 
最も恐れてゐたことが起こるやうに、
人生はできてゐる。
 
 
そんなことをリアルに痛感するのです。
 
 
問題は、この恐れといふ情に、
しつかりと向き合ふことだと
思はざるをえないやうになりました。
 
 
向き合はないと、
わたしは、一生涯、
自分といふ人間の本質にアクセスしないまま、
生涯を終へてしまふことになる。
 
 
わたしといふ人間の本質にアクセスする、
自己認識といふものが、
これほど抜け落ちるものなのかと、
これまでの人生を振り返つて愕然とします。
 
 
これまでと同じやうな、
考へ方、感じ方、生き方を繰り返すのは、
もう御免だ、
新しい生き方を始めたい、
さう熱望するのは、
きつと、
支配欲や承認欲求や愛の不足感からではなく、
さうせざるをえない、
ぎりぎりのところまで来てゐるのです。
 
 
下手な比喩ですが、
靄のかかつた山の遥か向かうに、
雲の切れ間からかすかに光が見えてゐるとしたら、
それは、どんな生き方を人に指し示してゐるのだらう。

 
少なくとも、わたしは、
自分自身の弱みといふところに、
真正面から向き合へるときが来てゐるのなら、
そこからゆつくりとでもいいから、
あらためて高みを目指す生き方をしたい。
 
 
自分自身の精神の向きに従つて、
切磋琢磨して己れを磨きつづけたい。
 
 
さうして、わたしは、人に学びたい。
 
 
その人は、生きてゐる現世の人であり、
またすでにこの世を去つてゐる人もある。
  
 
すべての人のことばに、もつともつと、
耳を澄まして聴き入りたい。
 
 
人のことばの後ろにあるこころと精神、
それは、わたし自身のこころを育てる、
なによりのものだから。
 
 
また、
この世を去つて、
数十年、数百年、数千年経つても、
厳としてわたしのこころの前に直立してゐる方々の
こころと精神。
 
 
彼らが残した仕事の価値は、
時の流れの試練をくぐり抜けて、
今も果てしなく重く、高い。
 
 
彼らが残してくれたのは、「ことば」、
書かれた「ことば」です。
 
 
その「ことば」は、
ひつそりと静かに慎んでゐながら、
それを読みに来る人、
聴きに来る人、
摑みに来る人を待つてゐます。
 
 
その「ことば」から溢れ、流れて来る、
その人のこころと精神に、
禊ぎをさせてもらふやうに、
洗はれ浄められる必要がわたしにはある。
 
 
毎日の暮らしのなかで、
さういふ精神の営み、
精神からの受洗、
こころの生まれ変はりを生きていく。
 
 
さう、こころを決めてゐます。
 
  



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2020年05月23日

オンライン講義を始めて



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現在のこの状況において、
新しいものに疎いこのわたしも、
5月になつて漸く、
オンラインによる仕事を始めさせてもらひました。
(ちつとも、新しくはないのでせうね😅)
 
 
わたしにとつては初めてのことで、
受講して下さつてゐる皆さんには、
いろいろとご迷惑をお掛けしてゐます。
 
 
しかし、わたしは、
このたびのこのやうな仕事の仕方から、
思はぬ気づきを与へられてゐます。
 
 
それは、このオンラインでの仕事が、
プライバシーとパブリシティーとが
交錯するやうな時空間で成り立つてゐることからの、
気づきなのです。
 
 
普段のプライバシーの領域で、
どういふ考へと情をもつて生きてゐるか。
 
 
外に出て行つて人様と会ひ、
緊張感をもつて仕事をするとき以上に、
プライベートな空間に身を置いたまま仕事をする、
このオンラインでの仕事では、
自分独りでゐるときの意識のあり方が、
その質に、より密やかに影響することを
感じてゐます。
 
 
プライベートな時間の中でこそ、
自分のこころを
自分で見守ることの大切さを感じるのです。
 
 
この仕事の形態はわたしに、
精神の舵取りの必要性を教へてくれてゐます。
 
 
現代の文明の利器に、
精神からの感謝の念ひを向けることの大切さを思ひます。
 
 



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2020年05月22日

幸せと不幸せに揺れ動く生のさなかで

 
 
人が雄々しく舵をとる
 
舟は風と波とに揺られるも
 
内なるところは揺れもせず
 
風と波とを従へつつ
 
人がはてなき深みを見やる
 
難に会はうと会ふまいと
 
頼れるは内なるところの力なり
 
 
(シュタイナーによつて改変されたゲーテのことば)

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2020年05月09日

みる、愛づ、愛でる 〜乙女座からの贈り物〜

 
 
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ものをよく「みる」こと、
じつと「みる」ことから始めることの意味深さ。
 
 
「みる」といふことばの底には、
「愛(め)づ」「愛(め)でる」といふ、
極めて感情的・意欲的なことばが息づいてゐる。
 
 
「愛(め)づ」といふことばから
「めづらし」といふことばも生まれる。
 
 
人は、何でも見てゐるやうに思ひ込んでゐるが、
愛してゐるものしか、
実は見てゐないし、見ゑてゐない。
 
 
何かを「愛でる」。
だからこそ、その何かを「みる」ことができる。
 
 
そして、その「みる」といふことばは、
他の動詞に付くことで、
その行為をますます意欲的な行為へと押し進める。
 
 
「触れてみる」「動いてみる」「立つてみる」
「嗅いでみる」「味はつてみる」「見てみる」
「湯加減をみる」「聴いてみる」「話してみる」
「感じてみる」「考へてみる」「してみる」・・・。
 
 
おほよその動詞に付くことのできる「みる」。
 
 
人がその意欲的な行為をするための働きを、
大いなる世から与へてくれてゐるのは、
乙女座のお宮である。
 
 
乙女座。
それは永遠の乙女であり、
永遠の女性性であることの宇宙的表現である。
 
 
「みる」といふ行為は、
対象に光を当てる働きであり、
光を当てることによつて、
その対象からその対象たるところ、
本質といふものを引き出す愛の働きである。
 
 
だから、「みる」は多くの動詞に付くことで、
その行為を意欲的なものに、愛に満ちたものにする。
 
 
 
 
 
本を読むときでも、それは当てはまる。
 
 
本といふ人格と精神が総動員されてゐるものを、
まづは、徹底的に信頼して、愛して、
目を皿のやうにして愛でて読むことによつて、
本は秘めてゐる秘密を初めて打ち明けてくれる。
 
 
さうして、
そんな「みる」といふ意欲的・感情的な行為から、
やがてゆつくりと「考へる」「知る」といふ、
対話的行為へと、こころが深まつてゆく。
 
 
そんな行為にいざなう本こそが、
読むべき本だと感じる。
 
 
 
 
 

昔の日本人は、
そんな「みる」力を相当強く養つてゐたやうだ。
 
 
結婚するために、「お見合ひ」をする。
 
 
そのとき、
相手の年齢や職業などをそこそこ弁えるだけで、
あとは、ほとんど、「一目でみて」決めてゐた。
 
 
 
相手の趣味や収入や性格や、
その他様々な情報などは置いておき、
たつた「一目みて」
こころを決める力を持つてゐた。
 
 
さういふこころの力を育むことが教育の基だと念ふ。 
 
 
 
 

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2020年04月16日

仕事をより深めて

 
  
かういふ時は、
手を動かして、
ものを作ることができたり、
楽器を弾くことができたり、
そんなことができる人、
いいですよね。
 
 
創造するといふことが、
どれほど人を健やかにすることか!
 
 
毎日、
次の舞台に向けての稽古をしてゐるのですが、 
この稽古といふものが、
からだだけでなく、
どれほどこころを健やかにしてくれることか。
 
 
そして読書もわたしにとつては、
汗を流すやうな創造行為なのです。
 
 
この二週間は、
午前中はゲーテの『詩と真実』、
『(エッカーマンとの)対話』に、
午後は『平家物語』に、
夜はノヴァーリスにどつぷりと浸かつてゐます。
 
 
かうして、
稽古と読書を続けて行き、
深めて行くことで、
これからの自分の作品に、
より深みと含蓄をもたらしていきたいですし、
多面的で前進的な力をも、
さらには、
総合的な高さをも、
もたらしていくことができたら、
と熱望するのです。
 
 
これらはすべて分かりにくいことですが、
いよいよ自分自身の
芸術感覚と技量を
磨くこと以外に手はないやうです。
 
 
芸術とは何か、
人として生きるとはどういふことか、
芸術を真の仕事としていくためには、
どういふ精神を要するか、
それらのことを学ぶ上で、
ゲーテも、彼と同時代を生きた、
ノヴァーリスも本居宣長も、
わたしにとつては、
まことに、まことに、掛け替へのない先生です。
 
 
そして、わたしは、
自分自身の渇きを癒す泉がどこにあるのかを、
より明瞭にして行くことと共に、
同じ渇きを抱いてゐる友の助けになれるやう、
その泉の透明度と清潔を共有できるやう、
これからは仕事をしていきたいと考へてゐます。
 
 
その渇きとは、
ことばの美を求める渇きです。
 
 
表層にあるのではない、
深みに流れる美です。
 
 
それは、きつと、
人といふものの探求、
〈わたし〉といふものの探求と
ひとつなのでせう。
 
 
そのために、
毎日のからだの鍛錬が
必要であることはもちろんなのだけれども、
こころの栄養を
こつこつと丹念に集めていくことも
欠かせません。
 
 
稽古と共に、
洋の東西を問はず、
読み継がれてきた「古典」を読みこむ。
 
 
それは、
「ことばの理解」に向けてです。
 
 
表層的な意味に拘泥するのではなく、
ことばの深い意味を了解できる人を育てるためです。
 
 
そんなことを、毎日、精力的にやつていく、
「ことばの家」を、
ますますそんな場所にして行くことが、
わたしのこれからの仕事です。
 
 
読んで下さつて、ありがたう!
 

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2020年04月15日

この騒ぎの向かう側

  
  
今まで経験したことのない毎日を暮らしてゐます。
 
 
それはウィルス騒ぎのこと、そのことではなく、
そのことゆゑに、 
すべての仕事がキャンセルされるといふ、
わたしにとつては前代未聞のことです。
 
 
しかし、そのことよりもさらに、
わたしは、
これまでに生きたことのないやうな
時間をいただいてゐる、
と感じてゐること、そのことが、
わたしにとつて真に前代未聞のことなのです。
 
 
わたしには、いま、
不思議と不安がありません。
 
 
なにひとつ経済的な保証もないのですが、
ただただ、芸術のことだけを考へてゐます。
 
 
ウィルス騒ぎと、
国からの経済的支援云々の騒ぎの、
向かうを遠く観つつ、
芸術のことだけを考へてゐます。
 
 
そして、できることから始めて行かう、
さう考へてゐます。
 
 
そのやうに考へられてゐるといふことは、
わたしにとつてとても不思議なことです。
 
 
なぜなら、これまでのわたしは、
経済的な不安と、
死に対する不安、
そして、愛を失ふことに対する不安に
苛まれてゐたからです。
 
 
ものの考へ方を、
感じ方を、
人生の生き方そのものを、
変へよ。
 
 
この事態が、明らかに、
そのことを伝へようとしてゐます。
 
 
この世界を挙げての騒ぎが終息したとしても、
わたしの内側が生まれ変はつてゐなければ、
わたしが今生、この世に生まれてきた甲斐がない。
 
 
さう思へることが、
自分でも不思議なのですが、
時が熟してゐるのだと
思つてゐます。 
 
 
ですから、
新しい精神からの息吹きが、
わたしといふ虚空の器に、
いま、吹き込んで来てゐます。
 
 
楽しみだ!


これを読む皆さんに、
安らかさと 落ち着きが与へられんことを・・・。




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2020年04月12日

復活祭の日に



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カスパー・ダーヴィット・フリードリッヒ『復活祭の朝』
 
 
 
今日は、北海道を除いて全国的に雨。
 
 
大阪も、朝から、雨と風です。
 
 
間違ひなく、この雨と風は、
この世を洗ひ浄めてゐる、
さう感じます。
 
 
この世の人のこころを癒し、慰める、
精神からの雨風です。
 
 
わたしたち人類は、いま、
静かに、慎ましく、
こころとからだを我が家に鎮めてゐます。
 
 
宇宙の、世の精神が、
人のこころに、
静かに染み渡らうとして下さつてゐる。
 
 
これまで、どうしても、どうやつても、
止めることのできなかつた、
経済成長への無限の欲望を止めざるを得ない今。
 
 
その欲望の炎が、
この精神の雨風で静かに消されようとしてゐる。
 
 
炎が消えると、
人々は呆気にとられるだらう。
「これまでは、一体、何だつたんだ」と。
 
 
さうして、わたしたち人類は、
己れのまことのこころから、
太陽のやうな精神の曙の光が、
昇つて来るのを見るだらう。
 
 
経済成長が人を支へるのではなく、
こころの奥底からの成長こそが、
人を支へてゐることに、
人類の多くが気づき始める。
 
 
そして、
そのやうに物質至上主義を脱するとき、
最後に居残るエゴイズムは、
「心配」として人の脳に巣食ひ、
「憂ひ」として人の胸を闇の中に閉ざすと言ひます。
(ゲーテ『ファウスト』第二部第五章より)
 
 
いま、「心配」「憂ひ」に、
こころを捉われてゐる友よ。
 
 
目覚め、こころの甦る日は、
今日です。
 
 
復活祭の日の前の夜に、
そんな夢を見たら、
やつぱり朝から雨と風でした😊

 
 
 


 

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2020年04月11日

教義も理屈もない信仰



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水の神をお祀りする、
その名も「水神社」が、
一昨日訪れた滋賀県瀬田の建部大社の、 
奥の林に、境内社として、
ひつそりと小さな社が佇むやうに鎮まつてゐる。

 
本殿にてお参りしたあと、
いざなはれるやうに、
その水神社の前に立ち、 
小さなお社の前で、
感謝の念ひをこころのうちで唱へました。
 
 
さうすると、風が吹いてきて、
明らかにわたしの背後に、
どなたかが優しく佇んでをられるのが直知されます。
 
 
吹き寄せてくる春の風に、
地から立ち昇つてくる気配に、
明らかに感じる神秘。
 
 
かうした感覚は、
外的に証明することなどできない、 
こころのリアリティーであり、
体感と言つてもいいものです。
 
 
知性ではない、
わたしといふまるごとをもつての感覚です。
 
 
わたしの父も、
よくさういふ話をしてくれてゐました。
 
 
かうした感覚を、
いまは多くの人と共有できる時代になつたことを
感じます。
 
 
三十年前には、
こんなことを口に出さうものなら、
まさに奇人変人扱ひでした(よね・笑)。
 
 
時代も変はつてきたやうに思ひます。
(いまも、もしかしたら、さうかもしれませんが 苦笑)
 
 
しかし、関西地方では、
かういふ感覚が比較的大事にされてきたやうに思ひます。
 
 
眼に見えないもの、こと、方々・・・。
 
 
さういふ存在に対する愛。
 
 
それが、ことばに表現できず、
教義も理屈もない、
信仰の顕れです。
 
 
さういつた、庶民の感覚が、
(「市民」ではない)
きつと、この国を護つてゐます。
 
 
このウィルス騒ぎが始まつてから、
緊急非常事態宣言が出されるまでは、
神社へ参詣される方がとても多く、
また熱心さを増していたやうに見受けられました。
 
 



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2020年04月09日

種を播かなければならない



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ミレー「種をまく人」



友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
  フリードリッヒ・シュレーゲル
 
 
 

わたしも、いま、豊かな収穫に向けて、
種を、たくさん、播いてゐます。
貧しかつた自分自身といふ大地に。
 
 
ウィルス感染の事実はどうであれ、
いま、わたしには、
さういふ時間が赦されて与へられてゐます。
 
 
人それぞれ事情はあるでせう。
 
 
しかし、こと、わたしには、
いま、豊かな収穫に向けた、
準備の時間をいただいてゐる、
さう感じてゐます。
さう確信してゐます。
 
 

 
友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
 
 
 


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2020年03月30日

新学期を迎へる今


 
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平櫛田中作「第一歩」


 
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時
高天原(たかまのはら)に
なりませる神の御名(みな)は・・・
 
 
この文から『古事記(ふることぶみ)』は始まります。
 
 
日本の神話では、
天地の初めといふ意識を
つねなること、
いまのいま、
と教へてきたやうに思ひます。
 
 
それが『古事記』が伝へる、
思想であり、精神的感覚です。
 
 
古は今にあり、
今に古がある。
 
 
つねに、
初めに還る、
永遠といふ循環の思想です。
 
 
さあ、
新しく勉強を始めよう。 
新しく稽古を始めよう。
新しく仕事を始めよう。
 
 
学校が新学期を迎へられるのか、どうか、
勉強を始めるのに、
そんなことはどうでもいいことなのです。
 
 
自分自身から始めていきませう!
 
 
 


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2020年02月08日

型を叩き込む


 
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基本練習といふものが、
言語造形にもあります。
 
 
その練習を積み重ねることによつて、
型をからだに叩き込むのです。
 
 
知性で捉えられた知識は、
芸術においては頼りにならないもので、
なにほどのものでもありませんが、 
からだに叩き込まれた型は、
その人を根底から支へます。
 
 
型とは、
その芸術に固有の法則から生まれてゐます。
 
 
自然のものすべてに法則があるやうに、
ことばといふものにも法則があるのです。
 
 
ことばは人間が作つたものではなく、
神が造られたものだからです。
自然のものだからです。
 
 
その法則を知識としてではなく、
繰り返し、繰り返し、
練習といふ実践を通して、
からだまるごとで、
ことばの法則に則つてゆくのです。
 
 
昔、あるオイリュトミストが、
わたしに言つたことがあります。
 
 
「練習はあまり必要ありません。
むしろ、意識の持ち方が大事。
いまは、意識魂の時代だから」
 
 
わたしは、その方には申し上げませんでしたが、
それは絶対に違ふと思ひました。
 
 
意識などは、すぐに変へられる。
 
 
しかし、その変へられた意識は、
ふたたび、また、元の木阿弥に返つてしまふのだ。
 
 
元の木阿弥に返つて、
お馴染みのやり方、あり方になつてしまふのが、
人のからだだ。
 
 
人は、繰り返し練習を重ねること以外には、
己れみづからのからだを通しての技量を
めていくことは決してできません。
 
 
からだとは、それほどに、
手のかかるものであります。
 
 
また、その繰り返しの練習から、
身に叩き込まれた型があるからこそ、
逆に、その人からしか生まれない、
個性的なものが生み出されます。
 
 
しかし、この個性は、
長い時間の中でこそ生まれて来るものです。
 
 
十年、二十年、三十年・・・
限りはありませんが、
そのやうな長い時間を通して、
培はれた基礎がものを言ひます。
 
 
わたしも、
不遜に聴こゑるのを恐れるのですが、
基礎練習を重ねつつ、
これからどういふものが、
この身から生まれて来るのかと、
気を引き締めてゐます。
 
 
 

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2020年02月04日

すべての学びの根柢 〜歴史と風土教育〜

 

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いま、自分も含めてですが、
神社や歴史的遺蹟を巡り歩いてゐる人が、
とても多くなつてゐます。
(特に、関西・近畿地方において?)
 
 
多くの人が、
思ひ出すべき何かを思ひ出さうとして、
さういふ所を訪ね歩いてゐるのだと感じます。
 
 
奈良の大和路の辺りを歩いてゐて、
つくづく感じることが、
我が国の文化と歴史を
知りながらかういふ所を歩いてゐるのと、
知らないで歩いてゐるのとの違ひは大きい、
とてつもなく大きい、といふことでした。
 
 
そして、かういふ学びと行為は本来、
小学生、中学生、高校生のときに
やつておきたいことだ、
といふことです。
 
 
いまの大抵の修学旅行や遠足などは、
ただのレクリエイションになつてしまつてゐて、
学校では我が国の歴史や文化のなりたち、
敬ふべき大切なものをなんら教へずに、
ただ子どもたちを名所旧蹟に引つ張つていき
歩き回らせてゐる。
 
 
子どもたちには何の感興も感動もない。
酷いものになると、
ディズニーランドや、
テーマパークなどに連れて行つて、
子どもたちの浅はかな機嫌を取る。
 
 
歴史や風土を教へるにも、
子どもたちが我が国、我が土地、我が風土に、
誇りと美しさを覚えるやうな、
人の成長にふさわしい教へ方と内容が必要です。
 
 
そのやうな教育の根源は、我が国に於ては、
幸ひながら、
古事記や萬葉集や風土記といつた、
古典作品に収められてゐます。
声高に叫んだりしませんが、
静かに収められてゐます。
 
 
我が国の古典作品は、
我が国の土着のものでありながら、
どこまでも高くて深い見識をいまだに湛えながら、
わたしたちのこころのとばりの向かう側に、
ひつそりと佇んでゐます。
 
 
その古典を学びながら、
そこから歴史と風土と文化を知らうとしながら、
その固有の精神・神々と、
土地の精神・地霊の方々との、
交はりを求めて、
その伝来の土地の上に足を踏み出していく。
 
 
その足をもつての学びは、
人に自己肯定感と、
故郷に戻つた時のやうな、
どこまでも深い安心感をもたらすのです。
 
 
多くの問題、こころの問題のおほもとは、
己れの出自・源に対する
不見識、否定感、不信感にある。
 
 
しかしこれは、そもそも、
学校教育に期待するやうなものではないのかもしれない。
 
 
家庭での、わたしたち親たちによる、
わたしたち親自身の自覚の問題です。
 
 
それは、夫婦関係、親子関係、人間関係の深まりといつた、
小さな社会の礎創りこそが、
すべての学びの根底にあるからです。
 
 
自分自身の足元を見直す。
 
 
そんなあり方を探つていきたい、
と考へてゐます。
 
 
 
#国学  #教育

posted by koji at 07:34 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月03日

憧れと現象



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わたしには、憧れがあります。
 
 
その憧れとは、
発声される国語芸術を、
この国に成立させることです。
 
 
その憧れは、明らかに、
精神から来てゐます。
 
 
そして、わたしは、
ここ地上にて、
人々と共に生きてゐます。 
 
 
そこで生じる現実は、
明らかに地上的現象です。
 
 
この憧れと地上的現象とを、
ひとつに重ね合はせて行く。
 
 
わたしには、それができるだらうか。
 
 
そんな懐疑などありません。
 
 
やつて行くしかないのです。
 
 
昨日は、素晴らしいお料理と和やかな談話、
皆さんに本当にお世話になりました。
 
 
どうもありがたう。


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posted by koji at 17:29 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月01日

今日の稽古『 をとめ と つるぎ 』



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演出する者が涙を流してゐては、
仕方がないと思ふのです。
 
 
だけれども、出るんだから、仕方がない。
 
 
役者の方々、
各々の役をだんだん深めてゐて、
そのひとこと、その一音に、
涙が出るのです。
 
 
今日は、メークの方も来て下さり、
わたしたち劇の中にどつぷり入り込んでゐる者
とは違ふ別の角度から意見を下さり、
とてもありがたい。
 
 
国の歴史を支へた人物たちの人格や、
精神の片鱗にでも触れることができたら、
さう希つて、
この言語造形劇『をとめとつるぎ』
を創り続けてゐます。
 
 
そして、
舞台芸術としてのことばの芸術を
この日本に仕立てて行きたい。
 
 
そんな理想をもつてやつてゐます。
 
 
応援いただけましたら、
とても嬉しいです。
 
 
ぜひ、
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
https://kotobanoie.net/play/
お運びください!
 
 
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posted by koji at 22:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月31日

娘の声



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わたしからは何も言はないのに、
明日の稽古に備へて、
小5の娘が稽古場で大声出してゐるのが、
聴こゑてきます。
 
 
今度の「 をとめ と つるぎ 」の舞台を
最後の出演にすると彼女は言ひました。
 
 
小さいときから、
親に随分つきあつてくれたこと、
本当にありがたく思ひます。

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2020年01月16日

信じるこころが一番たいせつ


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写真撮影:山本 美紀子さん

 
 
小学生の子どもたちには、
どんな書物がふさはしいか。
 
 
などと、
大人があまり考へない方がいいやうに思ふ。
 
 
本人が読みたいものを
どんどん読むことができるやうに、
計らつてあげるだけでいいと思ふのです。
 
 
ただ、これだけはたいせつだと考へてゐるのは、
一冊の本が祕めてゐる未知の何かに対する、
限りない愛情、尊敬、信頼。
 
 
そこから、本に限らず、
ものといふものに対する、
愛情、尊敬、信頼がおのづと育つていきます。
 
 
何を学ぶにしても、
そのこころもち、感情さへあれば、いい。
 
 
もし、そこに熱烈な尊敬、
熟していく愛情が育つていくなら、
大げさな言ひ方になりますが、
その人のこころには、
誰に何かを言はれなくとも
自分の意欲だけで学んでいく力、
世界中を相手に回しても
自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、
それが、この身ひとつで、世を生きていく、
といふ力。
 
 
それが、
自由への道を歩いていくといふことではないかと思ふ。
 
 
学ぶ人にとつては、
学ぶ対象に対する疑ひではなく(!)、
学ぶ対象に対する信頼・信といふものがとても大事です。
 
 
では、
その対象についてははじめは未知であるのに、
どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
 
それは、その人のこころのうちに、
既に信じるこころが育つてゐるからだ。
 
 
信じるこころが、
信ずるに値する書物を引き寄せる。
信ずるに値する人を引き寄せる。
 
 
小学生のこころとからだにまづは何を植ゑつけるか。
 
 
それは、信じるこころの力であり、感情の育みです。
 
 
その信じる感情の力が、
やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、
きつと、その子がその子の人生に必要なものを、
おのづと引き寄せるやうになるでせう。
 
 
その子が、
その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
 
 
ではそのためには、大人は何をすればいいのか?
 
 
その子の傍にゐる先生が、親が、大人自身が、
熱烈に、一冊の本ならその本に、
何かの存在ならその存在に、
尊敬と愛情と信頼を持つことです。
 
 
多くの本でなくてもいい、
この一冊といふ本を見いだせたなら、
本当に幸ひです。
 
 
その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、
その本こそが、その人の古典になります。
 
 
信じる力と言つても、
それは何かあやしいものを信じてしまふことに
なりはしないかといふ危惧は不要です。
 
 
信じる力の枯渇、
それがまがひものを引き寄せてしまひます。
 
 
信じる力の育み、
それが信じるに値する何かを引き寄せます。
 
 
 

 

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2020年01月06日

現代人への警告



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100年近く前の
ルドルフ・シュタイナーが語つたことばを、
fbfの山際勇起さんが書き込んでをられました。
 
 
――――――
 
今日の人間は、
全く考えなくても済むように、
全てのものを一目瞭然、
たとえば、
スライドで映し出してもらえるような形を
求めているのであります。(…)
 
 
たとえば、
『ハムレット』が演劇として上演されます時には、
私達はまだ劇中の出来事に入りこんで、
そこで語られる言葉を
追わなければならないのでありますが、
今日では劇場が映画館にとって代わり、
そこでは私たちはもはや
積極的に参加する必要はなく、
画像が機械で映写されますので、
私達は完全に受身的であることが
可能になってしまっているのであります。
 
 
このようにして、
私達は徐々に人間としての精神活動を
喪失してしまってきているのであります。
 
 
しかし、把握されなければならぬのは、
まさにこの精神活動でありまして、
精神活動の掌握によって初めて、
思考は単に外部から
活力を与えられるだけのものではなく、
人間それ自体の内部に存する
精神的な力であることが認識されるのであります。
 
 
(GA307
 1923年8月5日イルクリーでの講義より、
 佐々木正昭訳
 『現代の教育はどうあるべきか』
 人智学出版社、26ページ)
 
――――――
 
 
 

ここに示されてゐる現代人への警告は、
本当に身に沁みて感じさせられることです。
 
 
わたしがさせてもらつてゐる講義も、
舞台公演も、すべて、
この警告への応答のつもりであります。
 
 
講義では、
レジメやパワーポイントなど、
用意したことがなく、
板書もほとんどせず、
ただただ、
語ることばで、
どこまで場を創ることができるか。
 
 
舞台公演でも、
ときに、現代語訳を全くせず、
古語のまま、
ことばのうねりを
全身全霊で聴いていただけるやう、
ことばを造形していきます。
 
 
そのとき、
講義をする者、講義を聴く者、
舞台に立つ者、客席に座る者、
共に必要とされるのは、
まさしく精神の活発さ・アクティビティーです。
 
 
さうして、
精神を目覚めさせることのみが、
唯一、大切なことであり、
知識を覚え込んで、
家に持ち帰ることなど、
何ほどのものでもなく、
実践の上でも全く役に立たないことに気づくのは、
難しいことかもしれません。
 
 
このやうな学び方は、極めて、
反現代的なことです。
 
 
しかし、
時代の風潮に迎合することは、
なんら本質的なことではないのでした。
 
 
わたしたちは、
尊敬できる方々の生き方に
学びたいのでした。
 
 
そして、尊敬できる方々は、
時代の風潮に迎合することは、
なかつたのです。
 
 

posted by koji at 21:05 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月17日

人はいかにして生きるか


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学問とは、そもそも、
「人はいかにして生きるか」
を考へ抜くものだつたはず。
 
 
大の大人が端坐してでも、
聴くに値するやうな講座であるか。
 
 
自分自身の仕事場として、
毎回、毎回、
この場を与へてもらつてゐること、
本当に感謝以外の何ものでもありません。
 
 
皆さん、本当に、ありがたう。

posted by koji at 19:38 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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