2011年09月15日

頭寒足熱

この夏はいろんな発見が自分なりにあったのだけれど、

そのひとつは、
足を暖めるために靴下を何枚も重ねて履くということ、
そして毎日、半身浴をするということで、
それまでの自分のからだが冷えていたのだということが自覚され、
だんだんと頭涼しく、
足暖かという、
からだの理想とする熱バランスがとれてきたようで、
夏の暑さがほとんど気にならなかったということだ。

夏が始まろうかというころ、
もうすでに暑くて暑くて仕様がなくて堪らないというときに、
妻がずっとやっている靴下の重ね履きを、
ふとやってみる気になったのだ。

それまでは、妻がいくら、重ね履きがからだにいいんだと言っていても、
この暑いのにどうしてそんなことができるのかと、
まったく取り合えなかったのに、
その時は、なんの具合だろうか、
ふっとやってみる気になった。

1枚目絹の靴下、2枚目毛の靴下、3枚目また絹、4枚目綿の靴下と重ねて履いていくうちに、
それまで暑くて堪らなかったのが、
嘘のように涼しくなってきた。

それはより正確に言うと、
上半身、おもに頭が涼しくなったのを感じ、
下半身、おもに足が暖かさに包まれたがゆえに、
足がジンジンしてきて、それまでいかに足が冷え切っていたかということに初めて気づいた。

それは、からだの内の熱がそれまでは上へ、頭へと、上っていたのが、
靴下を重ね履きすることで、からだの下へ、足へと降りていき、
上涼しく、下暖かという熱のバランスになったからだった。

上半身が火照って、
逆に下半身が冷えていると、
夏は暑くて暑くて堪らず、
冬は寒くて寒くて堪らない。

そこで、夏は冷房をガンガンにかけ、冷たいものをしこたま飲まずにいられなくなる。

冬は暖房をガンガンにかけ、
でも熱は上に上に行くから、
足は冷えたままで、
本来は涼しくあるべき頭が、上がってくる熱でぼ〜っとしてしまう。

こんなふうに、からだの冷えを溜め込み続けていると、
きっと、自分は大きな病に出会うことになるだろうなと思った。
(妻よ、ありがと〜!)

もしかしたら、
自分の意識よりもずっと賢い「からだ」が、
もうこれ以上からだを冷やすような生活は止めるようにと、
シグナルを出してくれたのかもしれない。

この夏、頭寒足熱を試みてみたお陰で、
この夏は、我が家は一度もクーラーの冷房をつけずに済んだ。

昔の人たちは、きっと、
電力なしで、
こんなふうに夏と冬を乗り切ってたんだな。

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2011年08月23日

ことばが人を育てる

ことばは、人のこころを表してしまう。

それは、ことばの使い方、並べ方、
そしてとりわけ、ことばの響かせ方にそのこころが顕われます。

優しい人は、優しくことばを響かせますし、
内的に強い人は、ことばに芯の強さが宿っています。

そして、人は、こころが長け、深みをもってゆくにつれて、
語ることばも長け、深みをもってゆきます。

こころの育ちが、ことばに表れる。



しかし、人の育ち、特に子どもの育ちにおいては、
こころが先にあるのではないのです。

ことばが先なのです。

人というものは、
ことばを聴くことを通して、こころを創っていくのです。

特に生まれたばかりから幼少期のこどもだと分かりやすいのですが、
周りに人のことばが響いていなければ、
その子は人間的になれないのです。

人間らしいことばが周りに響いていないと、
子どもは人間らしくなれないのです。

なぜならば、ことばというものに、
人が生きてきた実質・実感がこもっているからなのです。

子どもはその実質・実感・リアリティーを外から受けとりつつ、
成長していきます。

ことばにこもっているその実質・実感・リアリティーを別のことばで言うならば、
ことばにこもっている「わたし」です。

「わたし」とは、こころの喜怒哀楽を統御する役目を荷い、
人生経験のいちいちを統合し、
こころを練り、磨き、鍛え、
ますますその人をその人にしていく役目を荷っている、
その人のその人たるところ、
その人の精神です。

そのことばを「わたし」が語っているのか、
それとも、
「わたし」ではなく、
体調や気質、喜怒哀楽にゆだねきったところからことばを発しているのか、
そこには随分と開きがあります。

また、「わたしのことば」で語っているのか、
それとも他者からの借り物のことばで語っているのか、
ここにも微妙な違いかもしれませんが、
確かに違いがあって、
その人をその人にしていくうえで、大きな違いになっていきます。

つまり、親や教師のことばがどれほど「わたし」から語られているかによって、
それを受けとる子どもの中の「わたし」の育ちが左右されます。

「わたし」の育ち、
それは、他の誰でもない、その人をその人にしていくことです。

また、ことばはこころばかりではなく、
特に子どもの場合、
からだを創っていきます。

語る人の声の質、
呼吸の深さ・滞りなさ、
音韻の明瞭さ、
それらが響きを通して子どもたちのからだに働きかけます。

ことばは人の呼吸を土台にしていますから、
語る人の呼吸のありようが、
聴く子どもの呼吸のありようへと働きかけ、
それが、その子の呼吸、血液循環、神経組織など、
からだまるごとのありようを左右していきます。

そして、呼吸のありようは、人の意識のありようと重なっています。

ですから、こころがせわしなく、慌しいならば、
その人の呼吸もきっと浅く、慌しいはずです。

逆にこころが落ち着いて、静かで、確かであるならば、
呼吸も深く、活き活きと息づいています。

そのありようは、子どものこころだけではなく、からだにまで働きかけます。



わたし自身、いまからでも遅くないと思っています。

「わたし」から語る練習をしていきたいと思います。

わたしみずからが、ますます「わたし」になっていく。

そしてその「わたし」からのことばを受けとる子どもたちが、
ますます各々の「わたし」になっていくように。

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2011年03月27日

俺よ、目を覚ませ、そして恐れるな

わたしたちはどれだけこれまで目を覚ましていなかったか。
斉藤武市氏講演http://www.ustream.tv/recorded/13339053

同じく広瀬隆氏の講演 http://www.ustream.tv/recorded/13509353#utm_campaigne=synclickback&source=http://johukuji.nanaoarchive.com/top

聴き、知った上で、行動していきたいし、発言していきたい。


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2011年03月22日

あまりにも変わってしまった

わたしは家族と共に、大阪に暮らしています。

大阪にいても、
この10日間あまりで、
この暮らしの内的なありようが本当に変わってしまったのを感じています。

3月11日以前の暮らしは、
今思うと、なんと牧歌的であったことか。

不安に振り回されるのではなく、
現実に何が起こっていて、これからどんなことが起こりうるのかを、
できる限り知りゆくことの重要性を痛感します。

もちろん、知れば知るほど、不安と恐怖が押し寄せてきますが、
その不安と恐怖は、いったんは必ず正面から受け止める必要のあるものだと思います。

そして、その上で、その不安と恐怖を乗り越えていく力を持てたときに、
人は「わたし」の強さを獲得してしていきます。

「不安と恐怖をもって世界を見ることは、かえって不安と恐怖を生み出す」という考えは、
その「不安と恐怖」という感情を受けとめること自体の難しさから生まれています。

わたしにしても、
もし、若狭の原発が福島と同じような事になれば、
もう関西には住むことができなくなるのですから、
その不安と恐怖はきっと、大変なものです。
現実をできる限り努力して知れば知るほど、
もういてもたってもいられなくなるような恐れに苛まれることになるかもしれない。
受けとめることは、とても、とても難しい。

少なくても、現実として、
福島で生きていくこと、特に子どもを育てていくことは、
これから何十年も難しいでしょう。

不安を煽るのではない。
不安という化け物をしっかりと見据え、ひとりひとりが戦うのです。

この現実をわたしたちは、どう受けとめていくのか。
この不安と恐怖をどう受けとめ、どう立ち向かっていくのか。
そして、この現実にどう働きかけていくのか。
具体的な方法がきっと見つかります!

そのことが、いま、わたしたち日本人に訴えかけられています。

不安と恐怖だけでなく、
わたしたちは、意気と希望をも強く感じています。

この毎日のあらゆる瞬間がどれほど、光り輝いて見えることか!

子どもたちの声と笑顔がどれほど美しいか!

仲良くご飯を食べている、このことが、どれほどありがたいことか!

こころさえ折れなければ、
きっと活路は見いだされていく。

被災されていらっしゃるたくさんの方々の生活を少しでもサポートしていくことと共に、
不安と恐怖という感情そのものをふさわしく成仏させてあげる仕事を、
わたしたち日本人は、きっと、やっていくのです。

その仕事は、わたしたち日本人の生活を外側からだけでなく、内側から変えていきます。

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2011年03月17日

これからだ

いま、大変なときを過ごしていらっしゃる方々に、
少しでも暖かさと明るさがもたらされますことを祈っています。

わたしは大阪で暮らしていますが、
夜眠る時布団と毛布でわが身を守っていても感じる寒さに、
東北で避難されている方々が感じていられる寒さ、辛さ、恐れ、不安はどれ程のものなのだろうかと思わずにはいられません。

まず自分ができることは、物理的になんらかの支援を考え、実行していくこと。

そして、こころの力、精神の力をもって、
その地の人々と、自然と、原子力発電所というものに、
念いの光を届けること。

これからのわたしの仕事においても、
生きていくことへの確かさと安らかさを、
暖かさと明るさを、
分かち合える時間にしたいと思っています。

特に、これからは、西に生きているものが頑張らねば。

どうか、
何があっても、こころが折れない力、耐える力、持ちこたえる力が、
わたしたちに、授かりますように。

これからだ。


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2011年03月01日

裁くこと

わたしは、これまで、自分が裁かれるのが怖くて、
人を裁いてきたなあ。

自分なりの基準をこしらえて、
それに合致しない事柄と人を裁いてきた。

わたしの奥深く巣食っている恐怖が自分にそうさせてきた。

どのような状況をも、
どのような側面をも、
まるごと愛していくということの必要性を、
実際の生活は教えてくれる。

なかなか、そうはできないのかもしれない。

理想ばかり言っていられないわたしの限界は確かにあるが、
周りの人に倣おう。

日々、おのれのあり方と格闘しているからこそ、
素晴らしい家庭と仕事を創っている人が実際にいる。

そして、精神に直接学ぶこともできる。

真剣に問いを立てられたなら、
これから先、
人として生きていくには、
自分の授けられている可能性をまるごと啓いていくには、
何が必要なのかを必ず精神は答えてくれる。

家庭と仕事。

それはこの世の最高の道場で、最高の恵み。

それは、自分の眠っている力がこれから啓かれるところ。

その道場では、
裁くということが不要であるばかりでなく、有害であることが分かる。

自分の狭く硬く小さな枠を少しずつ拡げていこう。

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2011年01月27日

今朝読んだブログ

今朝読んだいくつかのブログが、こころに飛び込んできた。

ことばとは、本当にありがたいものだと思う。

林竜之助さん、yos​*ih​*ra​j*a​ さん、勝手に引用させてもらいました。
どうもありがとうございます。



『やや長き沈黙』
http://91963524.at.webry.info/201101/article_3.html
  
  ブラジリアン柔術の生ける伝説ヒクソン・グレイシー。
  彼の試合は数えるほどしか見たことがないが
  どの試合にも共通して感じたことは
  試合前のヒクソンも
  試合中のヒクソンも
  試合後のヒクソンも
  どのヒクソンも
  さざ波一つ立てない
  湖面のような静けさを
  内に湛えていたということ

  その動きは野性的ではあるが
  その精神は動物的ではない

  まるで哲学者が
  鏡に映った自分の鏡像と
  闘っているような
  そんな印象を受けた

  あるときヒクソンは
  勝負について
  こんなことを話をしたという

  「勝負に勝敗はある。だが、その中で私は、
  勝つことよりも相手と戦うことに喜びを感じている。
  いちばん気をつけているのは、戦いの中で、
  自分が怪我をせず、
  相手にも怪我をさせないということだ。
  両者がともに怪我をせずに戦いを終えるということが、
  勝負における私のいちばんの狙いどころだ」
  (桜井章一 『負けない技術』より)

  あの熾烈な戦いの背後には
  これほど崇高な思想が
  そびえていたのだ



『波の寄る見ゆ』
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshiharajya/51338250.html

  諸君は、自分は何も決められない人間に生まれついてゐるのだ、
  そんな人間だと決められてゐるのだ、と言ふだらうか。
  しかし、どうして君にそれが分かるのか。
  諸君は、自分で決めるのは嫌だ、自信がない、他人に頼りたい、他人の所為にしたい、
  さう言つてゐるだけなのだ。

  この世で一番楽しいことの一つは、
  自分が考へたことを実現する、
  自分の夢を形にするといふことだらう。
  生み出す喜びこそ、生きる喜びなのだ。
  それを知らずに死んでしまつては、それこそ、生れた甲斐がない。

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2011年01月08日

『自由の哲学』を読むブログ

「ことばの家」の『自由の哲学』の会で学んでいらっしゃる方が、
ブログを立ち上げてくれました。

http://blog.goo.ne.jp/oneby1/e/d18c532d46cd2c30d8beb0287ba2d39a

最初の序文の一段落目から、懸命に読みあっています。

シュタイナーが『テオゾフィー』という本で書いてくれていることが、
この『自由の哲学』を読む上にはさらにいっそう大切に思えてきます。

  わたしたちの時代における習いの読みようでは、
  この本を読むことはできまい。
  なんらかひとつの重なりにおいて、
  頁という頁、
  多くも多くの文が、
  きっと、読み手によって稼がれよう。
  それが、意識をもって努めるところである。
  そもそも、そうであってこそ、
  本が読み手にとって、なって欲しいところとなりうる。
  ただに読みとおす者なら、いささかも読んだことにはなるまい。
  本のまことは、きっと、生きられる。
  精神科学は、その意味においてこそ、値をもつ。(三版の序 P.15〜16)


本は、しっかり読まないと、その人を縛ります。

そのことを痛感します。

シュタイナーは、ああ言ってる、こう言ってる・・・。
だから、こうあらねばならない、あああらねばならない・・・。
シュタイナー教育はこうあるべきだ、あああるべきだ・・・などなど。

本は、しっかり読むと、その人を縛りません。
ますますその人をその人自身にします。
自由にします。


アントロポゾフィーからの外の目に見える活動が盛んになればなるほど、
こうした基のところにかえっての繰り返しの読書と瞑想が大事に育まれることの有用性を
強く感じています。

さらに言えば、
ことばを真摯に受け取ることこそが、すべてです。

ご関心のある方、ぜひお立ち寄り下さい。

posted by koji at 23:34 | 大阪 ☀ | Comment(2) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月25日

クリスマスですね

シュタイナーが第一次世界大戦の真っ只中、
1915年のクリスマス前にこんなことを語っています。

 
      在りの高みに、こうごうしきのしるし
     地の人びとに 平和
     地の人びとによき力のかよいてあれば

  この年、聖き夜の訪れをまじかに、
  このことばに結ぶ思いの、ことばの深い意味に結ぶ思いのどれほどでしょう。
  ことばの深い意味にいかに多くの人びとが思いをはせ、
  平和なることばの響きとなり、声となることでしょう。
  いまわたしたちの地にこうまで平和の失せたこのとき、
  聖き夜のこのことばに結ぶ思いのいかがでしょう。
  
  (中略)

  戦争と苦痛と不和との広がるこの地をこえて、
  こころの深みにかれとの絆をたもち、
  たがいに和せることを。
  かれキリスト・イエスはほかならぬ聖き夜にこの世へと来たりました。
  聖き夜の節、
  なべての敵意をこえ、
  なべての不和をしのぎ、
  なべての憎悪をつらぬき、
  人という人のこころにキリスト・イエスへの思いがいだかれることを。
  かれへの思いが流血と憎悪のただなかに湧きいずることを。   

                 (『聖き夜との考えとわたしなる秘密』 鈴木一博訳より)




いま、世界大戦は目に見えるかたちでは起こっていませんが、

人と人とのあいだに、

目には見えない戦争が、

起こっていることにいまさらながら気づきます。

目には見えない流血が、憎悪が、きしっているのを感じたりもします。

すべては、わたしのこころの内にあることかもしれません。

子どもたちのために、

わたしたち大人の内なる子どものためにも、

この内側に、よき力が通うことを。

この内側に、平和があることを。
  


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2010年11月28日

歩き方の問題

たとえば、勤めに出ていたとしたら、
日々、するべきことをすべく、
会うべき人と会うべく、
行くべきところへ行き、
そのような外からの自分への強制がかえって、
自分の内のこころを整えてくれることもあろうかと思う。

しかし、そういった外からやってくるものごとも、
自分の内から積極的に己のこととして捉えられたとき初めて、
本格的に内なるこころと外側の世界との合一が生まれ、
魂と精神が踊りだすのを覚えるのだろう。

とすれば、
誰からの強制もなく芸術のことを一日中考えようとし、
生きようとしている人にとっても、
そのような秘儀においては、
勤め人と変わりはないように思える。

要は、歩き方の問題だ。

この今という今を、どう歩くか。

その一点に焦点を絞ることにおいて、
勤め人もそれ以外のすべての人もなんら変わりはない。

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2010年10月26日

工房とアントロポゾフィー

俺たちの稽古場はいわば工房だ。

ことばを発することを通して自分自身を彫り、刻み、磨きをかけていく工房だ。

そこに自分を入り浸りにさせ、汗を流す。

涙が流れるときもある。

喜びも悲しみも何もかも込みで、すべてその工房で燃やし尽くしたい。

ちくしょーっ。

と思う。

また、ありがたい、と思う。



この工房はアントロポゾフィーからできていて、
ここで流される汗を通して初めて果実としての作品が生まれていく。

アントロポゾフィーはきっと、汗を求め、笑いを求め、涙を求め、
人の内なる力の総動員を求めている。

シュタイナーはある存在に名前をつけて、アントロポゾフィーとした。
(存在の名前だから他のことばで訳せない)

その存在は俺たちにいつも活力と暖かさをくれる。

言語造形という芸術にまるごと入っていくことで、
アントロポゾフィーという存在は人をますます人にしようと働きかけてくる。
としか、言いようがない。

この工房でこれからも汗を流していきたい。

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2010年10月23日

手当て

先日、頭のうしろと左目の奥に鈍い痛みがずっと続いていた日があって、

夜、妻にそのことを話したら、

頭と目に手を当ててくれた。

だんだんと痛みが消えていく。

眠たくなってきて、

ありがとうと言って寝てしまった。

手を当てながら、

彼女は彼女自身のうちに現れる黒い何かをみつめてくれる。

みつめることを続けていくうちに、

それは消えていく。

彼女の手はいつも俺を癒してくれる。

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2010年10月22日

親バカ日記

朝、仕事に出かけていくとき必ず、
5歳と2歳の娘たちが家の外に走り出て、
「ばあ〜いばあ〜い! いってらっしゃ〜い!」と叫んでくれる。

何度も何度も叫んでくれる。

家の前が坂道になっていて、
俺が坂を降りていって俺の姿が見えなくなっても、
まだ叫んでくれている。

朝の青空が声でいっぱいになる。

朝から、涙が出そうになる。

こんなことをしてくれるのは、
何歳ごろまでなんだろ。

でも、手を振っている娘たちの姿と空に響く声、
一生忘れないな。

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2010年10月14日

寂寞の波紋

言語造形を通して何がなされうるのか。

いま取り組んでいる草野心平の『古池や蛙とびこむ水の音』という一篇の詩が、
教えてくれる。


  音は消えてしまつた
  音のあつたその一点から
  寂寞の波紋が漲る
  
  うるし色の暗闇の夜を
  寂寞の波紋が宇宙大に拡がる

  芭蕉は芭蕉を見失つた
 
  無限大虚無(ニヒル)の中心の一点である


この詩をこの通り、口ずさんでみる。

まさしく、この通りになる。


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2010年09月16日

素直さ

人との出会いも、
人との別れも、
まったく、すべて、必然に思えます。

自分のこころが素直になればなるほど、
素直なこころをもった人が自分の目の前にやってきてくれるし、
素直になれず、どこか自分自身に対して無理強いしているときは、
自分自身に無理強いしている人がやってきてくれるような気がします。

無理強いと無理強いが出会っても、
必ず別れがやってきますね。

そういう別れが現実化するということは、嬉しいことです。

自分が自分に無理強いしていたことがはっきり分かるかけがえのない機会なんですから。

何ごとも現実化してくれないかぎり、
結構、そのものごとの本質は分からないものですね。

本当にこころが向く方向はどちらなのかを、よく見る。

本当にしたいことをする。

そんなおのれへの素直さにもう一度向かっていこうと感じています。


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2010年06月11日

お恥ずかしい噺で・・・

他人を責めているとき、
実は自分を責めている。

他人を責めるのをやめるとき、
そのとき、自分は自分を責めるのをやめている。

今日、他人を責めるのをやめました。

おおっ。

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2010年06月09日

お母さんのことが大好き

我が家の娘ふたり(もうすぐ5歳と2歳)、
もうお母さんがほんとに大好き。

子どもって、こんなにお母さんのことが好きなんだなぁ〜。

そして、お母さんと娘たちがほっこりしている姿を見て、声を聴いているのが、
これまた至福だ。

ツイッターで呟くようなことだけども、
書いてしまった。

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2010年05月26日

自分自身にとって大事なこと

朝、よく竹西寛子さんの文章を読みます。

今朝は、講演集『言葉を恃む』のなかの「野上弥生子の文章」を読んだのですが、
いつもながら、こころが熱くさせられます。

読んで、あらためて自分自身にとって大事なことを思い出します。

以下は、こころの中のつぶやきです、あしからず。



こころの深みに降りていくことによってみえてくるものをことばにしていく作業。
俺もそれをしていきたい。

その作業をしていくためには、
どうしても学びが必要だと感じる。

多くの先人がいる。
丁寧に、時に、勇気をもって、
みずからのこころの深みに降りていき、
そこからことばを紡いだ多くの先人。

俺はいま、
古今東西の彼らから学ぶことのできる場所にいる。

彼らひとりひとりのこころの深みに俺も降りていくことを学ぼう。

人は人であるのではなく、
人になりゆく存在なのだ、と誰かが書いていた。

人それぞれ、各々の個性に応じて、
その人ならではの道を歩いて、人は人になっていくのだろうけれども、
俺は、ことばを受けとり、運用し、活用することを通して、
人になっていく道を歩いていこう。
(もう、歩いてるよっ!)

みずからの内へ一段また一段と降りていくことができるかを試しながら、
そしてみずからの両脚でしっかりとこの大地に立ちながら、
日一日と生きていこう。

生きること、こころ、ことば、全部、いっしょだ!

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2010年05月24日

昨日は、聖霊降臨祭

昨日は、妻が激しい頭痛に一日中悩まされ、
わたしは背中の激痛にからだを動かせなくなり、
お互いに安静にしているしかない状態でした。

しかし!
そうしてお互い臥せっている間に、
いや、臥せっておらざるをえなかったからこそ、
夫婦そろって、それぞれにこころに新しい状態が生まれ、
今日はなぜだかこころ晴れ。

妻は出かけていって、またまた素晴らしい人との出会いを得、
わたしは新横浜での仕事を一日することができ、
これまでにない充実感を参加者の皆さんから頂くことができました。

昨日は、聖霊降臨祭。

夫婦そろって、痛みを通して聖霊が降りてきてくださったように感じています。

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2010年05月22日

子どもってこころが見えるんでしょうか

うちの2歳の娘が夜中、泣いて泣き止まない夜がありました。

わたしは次の朝はやくから仕事があるので、
その子をあやしはするものの、
はやく泣き止んでくれよ、と正直イライラもしていました。

1時間、もしくはそれ以上経っても泣き止まず、もうお手上げだ〜!となったとき、
なぜかわたしのこころに大きな変化が起こり、
なぜかこの娘が可愛くて可愛くてたまらなくなり、
からだをさすってあげながら、
自分自身がとてつもなく尊い存在の横にいるような気持ちになりました。

すると、その娘はす〜っと眠っていきました。

子どもって、側にいる人のこころが見えるんでしょうか。

posted by koji at 12:40 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする