2020年11月23日

神代の手ぶり


126782095_3541030349310319_5908032633384273559_n.jpg


今日、11月23日は、新嘗祭(にひなめさい、より古くは「にひなへのまつり」)です。そもそも旧暦の11月23日に行はれてゐた祭。だから、今の暦・新暦だと、一年の終はりにあたり、冬至の祭でありました。思ひを再び昇りゆく太陽に向ける祭でありました。

コロナウイルス禍で社会が大混乱を起こしてゐる最中にも関はらず、宮中では、天皇陛下御みづから、今年の米の収穫を天恵として、神に感謝の念ひを粛々と捧げて下さつてゐる。高天原での神々の「手ぶり」をそのまま行つてをられる。神代の手ぶりとおきてをそのまま伝へるのが、我が国・瑞穂の国の祭です。

このことがいかなる精神的意味をいまだに持つてゐるかを子どもたちに教へることは、大切なことであると思ひます。

そして、全国各地の神社においても同様に祭が執り行はれてゐます。

ハイテク文明に支へられてゐる近代国家である日本は、この神代の手ぶりを何千年も(何万年も?)伝へ来つてゐます。このやうな国は近代国家群の中では、世界で唯一です。

posted by koji at 20:44 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月17日

人と世を知るといふこと



いま、地上の世における大動乱のさなかにゐつつも、それがサイバー空間の中での出来事に思へて、「都構想」選挙が終はつた大阪にゐるわたしは呑気に過ごしがちだ。


しかし、ほんの少しでも想像力を働かせてみれば、これは大変なことであることにすぐに気づく。


アメリカにおいて、大統領選を通して、非常に危機的な状況が繰り広げられてをり、これまで闇に蠢いてゐたものが白日のもとに引きずり出されようとしてゐる。そして、この結果は、必ず、日本に激烈な影響を及ぼす。


そして、これは本当に不思議なことだが、おそらく、わたしだけでなく、多くも多くの人が、みづからの内面の闇にこれまで蠢いてゐたものに直面せずにはゐられなかつたのが、この2020年、令和二年といふ年なのではないだらうか。


隠されてゐたものが顕はになる。


むしろ、今年、己れの内なる「膿」を出さずにゐるとするならば、逆に後々、より大変なことになるのではないだらうか。


コロナウイルスによる脅威などでは全くなく、捏造されてゐるコロナウイルス「禍」による社会の大混乱によつて、実は、ひとりひとりの内なる闇、そしてなんと全世界にこれまで隠微にはびこり続けてきた巨大な闇が、白日の下に引きずり出されようとしてゐる。


この2020年、令和二年といふ年は、なんといふ年だらう!

posted by koji at 19:29 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月14日

精神からの何か


BEAUTIFUL PLANET EARTH.jpg
「BEAUTIFUL PLANET EARTH」から


先日、ある人と話しをしてゐるうちに、どんどんこちらのこころが晴れやかに、健やかになつて行くのを感じたのです。


その時、確かにわたしが持つたのは、精神から発せられることばと声を聴いてゐるといふ感覚でした。


ルサンチマン・恨みつらみからではなく、精神から発せられてゐるならば、たとへ、その発言が怒りから発せられてゐるとしても、その声とことばは、聴いてゐる人の深みに健やかに働きかける。


そのことをとても強く感じて、嬉しかつた。


発言のひとつひとつ、書くことのひとことひとことに、精神からの何かがあるのかないのか。


わたし自身、顧みることを常にしたいし、だんだんとリアルタイムで感じられるやうになりたい。


さう思ひます。


では、精神とは、何か。


それに対する答へではなく、その問ひそのもののリアリティーを見失はないことがたいせつなことであるとも感じられます。





posted by koji at 09:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月08日

世は美しい 〜国語教育のこれから〜



124254677_3497509220329099_7710683285652791926_o.jpg
晩秋の箕面山


「百人一首の歌をいまやつてるねん」と言ひながら、小学六年生の次女が、国語の教科書を持つてきました。


奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき 
猿丸大夫


秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔


嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
能因法師


鹿の鳴き声が悲しいといふこと。


雲からもれ出づる月の光をうち見るときの感覚を「さやけさ」といふことばで言ひ表すといふこと。


川面に落ちたたくさんのもみぢの葉の流れる様を「錦」と見立てること。


子どもにとつては、いまだ経験したことのない景色と感情かもしれません。


しかし、まづ、このやうに、日本人は、詩人によつて「選ばれたことば」で、世を観ることを習つてきたのです。


さうして、鳴く鹿の声は悲しく哀れだ、と感じてきたのです。


そのやうに詩に、歌に、ことばで誰かによつて言ひ表されてゐなければ、ただ、鹿が鳴いてゐるだけであり、ただ、月が出てゐるだけであり、ただ、川に葉っぱが流れてゐるだけとしか、人は感じられないはずです。


国語とは、価値観であり、世界観であり、人生観であり、歴史観です。


世は美しい。


その情を最も豊かに育むことができるのは、小学生のころ。


国語の風雅(みやび)を謳歌してゐる古い詩歌が、そんな教育を助けてくれます。


その時、その高い情は、決して先生や大人から押し付けられるのではなく、子どもひとりひとりの内側でおのづから生まれてくるのを待たれる情です。


しかし、その高い情を、大人がまづ真実、心底、感じてゐなければ話になりません。


そのやうな、子どものうちにことばの芸術を通して生まれてくる情を待つこと、それが国語教育です。決して、決まり切つた情、決めつけられた作者の意図などを教え込むことが国語教育ではありません。


作者の意図を汲み取らせることなど、特に小学校時代には意味がありません。知性で意図されたものなど、たかが知れてゐます。ことばといふものは、それを話す人、それを書く人にも、意識できないところを含んでゐて、その意識できないところに潜んでゐる豊かな世界を、それぞれひとりひとりの人が汲み上げて行く喜び。それこそが国語芸術の存在意義です。そのやうな含む所豊かな本物の文章しか、時代を超えて残りません。どんな小さな子にも本物を与えることが、大人に課せられてゐる課題です。


この世がどんな世であらうとも(いま!)、子どもたちのこころの根底に、「世は美しい」といふ情が脈々と流れ続けるやうに、わたしたちができることは何だらう。


そんなことを念ひます。





posted by koji at 00:50 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月05日

文学の徳用(さきはひ)



IMGP0129.JPG



芸術、特に文学には親しんでおいた方がいいと思ふのです。


文学は、人といふものの複雑さ、怪奇さ、異常さ、怪しさ、崇高さ、美しさ、愛らしさ、駄目さ、情けなさ・・・といふやうなありとあらゆる人の内なるものを感じ、知ることのできるものだからです。


例へば、何かに対して極端に感情的な嫌悪を表す人は、その何かに対する羨望を密かに隠し持つてゐることなど。怪奇なことです。


具体的に挙げると、権力といふものに対して嫌悪を抱く人の内側には、密かに、権力を持つことへの欲望が隠れ潜んでゐたり、政治家の腐敗や芸能人のスキャンダルなどをやたらとバッシングする人の内側には、自分自身もできるならそのやうな酒池肉林の体験をしてみたいといふ隠れた欲望を持つてゐたり・・・。


そのやうに、自分自身が「正義」であることを振り回すことが、実は、無意識のジェラシー・嫉妬、そして恐怖からの振る舞ひであること、この社会では結構ありますよね。


「権力」といふものに対する欲望が自分自身の内にもあることや、自分自身も決して清廉潔白であり続けることなどできないことを認めることができてゐたり、または、人の世には「権力」といふものも必要な時と場があることをしつかりと認めることができてゐる人は、「権力」や「腐敗」に対してさほど感情的にもならないでせう。


そのやうな人の内をみて、自分自身を顧みる練習をするのには、文学がうつてつけです☺️


もちろん、文学、芸術には、人の崇高さ、偉大さ、美しさを描くといふ中心課題があるからこそ、それを精神の糧として取り込むことなしに、人は人として生きて行くことができないのです。


この二週間は、漱石の『行人』、三島由紀夫の『仮面の告白』、又吉直樹の『劇場』にどつぷりと浸かつてゐました。



posted by koji at 15:48 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月28日

ことばといふ世界



123086529_3470664233013598_7221719685179069316_n.jpg



ことば、といふものは、
人の世界観を形作るものです。


人はこの世に生まれて来て、
教育を受けなければ、
桜が美しいと感じるやうにはできてゐない。


さくら花 ちりぬる風の なごりには
水なきそらに 浪ぞたちける   紀貫之


このやうな、
先人によることばの美に触れるからこそ、
桜、ことにその散りゆく様に、
もののあはれを、美を、
感じるやうに人は教育されうるのです。


ことば、とは、そもそも、
美を伝へるものであります。
それゆゑ、情を育むものであります。
そして、「人の情(こころ)を知る」べく、
「もののあはれを知る」べく、
和歌が歌はれ、
ことばからことばへと文が編まれます。


「もののあはれを知る」
これこそが源氏物語の肝だと、
本居宣長は喝破しました。


王朝における精神生活の深まり。


それは、研ぎ澄まされたみづからの感覚を、
どうことばで言ひ定めることができるのか、
不定なこころの揺れ動きを、
どうことばに鋳直すことができるのか、
といふ現代人にも通ずる、
人生とことばの渡り合ひそのものです。
一千年以上前の王朝の人々、
とりわけ女性たちが、
その渡り合ひの深化を促しました。


文化の種を蒔くのは男性性かもしれませんが、
文化を文化として見いだし、
担保し、育むのは女性性ではないでせうか。


そのやうなひとりの人の内なる渡り合ひが、
また、男と女のひめやかな渡り合ひが、
王朝において日本精神文化の基盤を創り上げました。


日本人の育んできた世界観、
それは主にことばの美から、
創り上げられて来たのです。


ことば一語一語の用ゐ方、運用の仕方に、
ひとりの人のこころのすべてが賭けられてゐる。
そのやうな働きをする詩人たちの精神が、
過去にも現在にもあるからこそ、
ありきたりな言語生活を営んでしまひがちな、
わたしたち凡夫に、
目覚めを促してくれます。
「汝みづからを知れ」といふ目覚めを、です。


言語造形をするわたしは、
その目覚めへと人を促す詩人たちのことばを、
生き物として、声として、
空間に響かせることへと挑戦します。


詩人が意を注いだ、
一語一語、一音一音に耳を澄ませながら、
淀みない息の流れの中にことばを解き放つ。
さうして、あたらしい世界が、
ことばの響き、余韻から、生まれる。


そんな文化の誕生を、
いつも思つてゐます。



posted by koji at 18:43 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月14日

ひとつの社(やしろ)



IMGP0079.JPG



大阪市住吉区にある万代池。
子どものころからずつとここで遊んで育つてきました。
初めての女の子とのデートもここ(苦笑)。
池の周りをときにがむしゃらに走つたりして、
若いころの鬱屈を晴らしてくれる、
かけがへのない場所でした。
いまも毎日、
この池の周りを歩いたり走つたりしてゐます。


今朝も秋晴れのすばらしい朝。
ここへ来て、広がる空と木々の緑を目にするたびに、
幼いときの憧れのやうなものが甦ります。


そして、
いまだに、こころの泉のやうなものは、
干上がつてゐないこと、
子どものころの憧れが、
なんといまだに脈々と息づいてゐることに、
我ながらはつとしたり、
ありがたいと念つたりします。


この泉から、何度でも、
新しく清水を汲み出して行かう。


そのことをはつきりと想ひ出させてくれる場所です。


この池には竜神様が祀られてゐますが、
ここもわたしにとつてはひとつの社(やしろ)なのです。



posted by koji at 09:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月09日

静かに響いてゐるものに耳を澄ます



名称未設定のデザイン.png



学校で先生がわたしたちに、
「将来の夢は何か」つて訊くことつて、
よくないと思ふ。


あるとき、小学六年生の次女がさう言ひました。


自分で自分を決めてしまひたくない、
さういふことをことばで言ひたくない、
とも言つてゐました。


「将来の夢」といふことばは、
きつと「就きたい職業」といふ意味ですよね。


いまは、「You Tuber」といふ職業が、
小学生にもとても人気があるさうですね。


「You Tuber」といふ職業は、
昔で言ふと、
「歌手」「タレント」
とかに近い感覚で受け止められてゐるのでせうか。


とにもかくにも、
現在ある職業、社会に沿つて、
子どもを育てることを、
多くの親たちも望んでゐると思ひます。


しかし、それが一番いけない。


それは、
いまある職業のほとんどは、
10年後には無くなつてゐるだらう、だとか、
いまの時点では全く予想もつかないやうな職業が、
10年後には出てきてゐるから、とか、
さういふ理由からではありません。


教育といふものは、
社会といふ外の世に合はせてなされるものではなく、
人の精神といふ内の世に合はせてなされるべきものだからです。


社会に沿つて人を育てるのではなく、
まづもつて、
ひとりひとりの子どもの内なるものを引き出すこと。


そしてその引き出されたひとりひとりの精神が、
やがて社会を創つて行く。


もちろん、これは綺麗ごとかもしれません。
確かにこの世の社会は綺麗ごとでは済まないところです。
しかし、教育は綺麗ごとであるべきですし、
そもそも聖域での営みであるべきです。
大人が営んでゐる社会に沿つて、
子どもを教育しないこと。


社会を根本から見直し、
よくしていくことができるのは、
政治や社会といふ外側の世界からではなく、
ひとり人のみ、
ひとり〈わたし〉のみからです。
人が自分自身をよくして行くこと以外に、
道はありません。


どのやうな職業に就くか。


それは、
その人がこの世で様々なことを体験して、
深く何かを感じて生きていくうちに、
内側に深く静かに響いてゐるものに、
耳を澄ますなら、
きつと、
その人その人をふさはしい場所に導くものです。


posted by koji at 23:48 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いろいろあつていい、けれど・・・



43412261_1959278700818833_2212553377491976192_n.jpg
東山魁夷「道」



「これもあり、あれもあり」
「ここから、あそこから、
 いいとこだけ取つて自分の役にたてよう」


それが、わたしたち現代人に、
多く見られる相対的で、
スマートなものの見方、生き方。


あまりにも当たり前の考へ方なので、
その考へ方を疑ふことなど、
現代ではほとんどないと思ひます。
また、さういふ相対的な考へ方は、
大いにあつていいことだと思ふのです。
何事も比較して、検討して、
そこから良きもの、役立つもの、得するものを取り入れる。


しかし、それは、どこか、
自分自身のこころに対する
信頼のなさに裏打ちされてゐるありやうに感じられる。


さういふ生き方とは、また違ふ、
もう一つの生き方もあつていい。
「これだ」といふものを深めていく。
「ここだ」といふ場所にとどまりつづける。


そんな生き方は、
現代人にとつてはあまりにも奇異に感じられることでせう。
そのやうなあり方は、ときに、なだらかでない、
不器用さが表立つやうなことにもなるでせう。
お洒落でもなく、
垢抜けないたくさんの時期もくぐらなければならないでせう。


しかし、どんな世界にも、
「これだ」といふ次元があり、
その「これだ」の奥へ、奥へと入つていくことによつて、
そこには思つてもみなかつた豊穣な沃野が
広々と拡がつてゐることに、
人は驚異と畏敬と尊崇の念ひにうたれるし、
うたれてきたのです。


「これだ」といふものを深めていく、
絶対の力をもつこと。


そしてこれは逆説的なのですが、
そのためには、
自分なりの意見だとか、
自分なりのやり方をいつたん捨て去り、
自己を空つぽにして学ばうとする
謙虚で素直なこころの力が必要です。
我流ではなく、世の法則に沿ふことです。


亜流とは、全くの素人から生まれるのではありません。


道に好意を寄せてゐる人々。
しかし、そのやうな人々のうちに潜む軽薄から、
もしくは己れを見つめ切らうとしないごまかしから、
必然的に生まれます。
それはまさに必然的に、です。
軽薄と偽善は、すべての人の内に潜むものです。


だから、亜流はいくらあつてもいい。
しかし、しかし、本流を細らせてはならない。
枯らせてはならない。
世界を亜流ばかりの世界にしてはいけない。
本流を生きるのは、「これだ」を生きる者です。
自分なりのやり方をおいておき、世の法則に沿ふ道、
さういふ科学的・芸術的・宗教的な道を
歩くことの健やかさを、
後の世代に伝へていくことが、
現代人であるわたしたちの仕事でもあると思ふのです。


亜流と本流を分かつのは、能力の違ひではなく、
意識の違ひです。
亜流は、自分自身のことに意識が尽きてゐます。
孔子のことば、「三十にして立つ」に向かふのみです。


本流は、自分自身を越えて世代を越えて、
世に文化の礎をこつこつと築いていくこと、
過去から未来へと引き続く意識を
自分自身のなかに燃やし、育み、
他者へ、後の世代へと伝へようとしてゐます。
時間の連綿としたつながりをたいせつにする、
意識のありやうです。



posted by koji at 23:46 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月07日

神話を見いだす



120822373_3409127882500567_7248132409443686246_n.jpg
若き日のミヒャエル・エンデ


暮らしと芸術が、
深いところで通ひ合つてゐた時代があつた。


その通ひ合ひが、
暮らしと芸術の互ひを
生命力で満たしてゐた時代があつた。


連綿と続く、さういふ営み、
育みがあるといふことが、
文化に型があるといふことなのではないか。


文化の型が失はれ、
いや、文化そのものが失はれ始めて、
どれほどの年月が経つたのか。


わたしは、文化といふことばを、
物語と言ひ替へてもいいかもしれないと思つてゐる。


物語が、わたしたちから失はれてしまつた。
物語るとは、ものを語ること。


ものとは、そもそも、
見えないもの、
聴こえないもの、
さはれないもののことを指す。


物語りとは、
人のこころ、夢、内なる秘め事、
表沙汰にはならない隠されていたこと、
そして通常の感覚を超えた叡智を語ることであり、
果ては、神のことを語ることを指す。


だから、物語は、そもそも神話だ。
神話とは、
神自身が語られたことばを
そのまま人が語り継ぐことから始まり(古事記)、
神に触れ、神に通はれるやうな、
驚くべき、畏るべき経験を語ることであつた。


文化に型があつた時には、
物語の共有、
神話の共有がなされてゐた。


わたしたちは、
共有する物語を失ひ、
神話を失ひ、
文化の型を失ひ、
文化そのものさへも失つてしまつてゐる。
人と人とをむすぶエレメントを失つてしまつてゐる。


だから、いま、人は、
自分自身の神話を見出すしかない。
芸術を真摯に生きようとする人は、
とりわけさうだ。


ひとりひとりが孤独に夢を織り続け、
その孤独の中に、
自分ひとりだけの神話を見いだし、聴きとること。
そして見いだしたもの、聴きとつたものを、
下手でもなんでもいいので、
外に表し続ける。


そのやうな神話の個人的な表出の仕方が、
いつたい何にむすびつくのだらう。
わからない。


しかし、自分自身の足元を
掘つて掘つて掘り進むことによつて、
見たこともない岩盤にたどり着くかもしれない。
その岩盤はとても古く、とても新しい。
その岩盤が語りだす物語は、
新しい共有性を持つ可能性はないだらうか。


芸術を通して、
人と語り合ひたいと思ふ今日この頃。



posted by koji at 08:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月22日

新しい、始まりの始まり



見事にすつからかんに秋晴れが続く中の、
四日間連続の講座。
いますべてを終へ、
ひとりでビールで乾杯中。


参加してくださつた皆さんも、
いま、寛いでゐるかな。


朝から夕方まで四日間、
時を共にしてきて、
最後の講座が終はつたとき、
思はず口に出たのが、
「このまま、何日でも講座を続けられる」。

それほど、
自分の中から溢れ出てくる何かがあり、
それを無条件に受け止め、
さらには、
溢れる何かを返して下さる方々があり、
自由と躍動と感謝と微笑みに満ちた時間だつた。


わたしは、コロナウイルス禍の中、
春には本当に心理的に進退窮まり、
それゆゑに、
この仕事を、人生を、
ゼロからもう一度始めよう、
さう念ひ、ここまで来た。


今日は秋分の日。


この連続講座は、
わたしにとつての新しい、
本当に新しい、
始まりの始まりだつた。


そんなわたしの新しい始まりの時を
共にして下さつた皆さんに、
本当に、こころの底から感謝します。


受講された方々にとつても、
新しい始まりになりますやうに。



posted by koji at 23:45 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月20日

大阪弁で 〜母語の恵み〜



今日、講座を「ことばの家」でしてゐて、
このアントロポゾフィーなる精神科学を、
日本の文化の文脈で語り直すこと、
しつかりと日本語で語ること、
しつかりと自分自身のことばで語ること、
その大切さを話してゐて、
どうせならわたしの母語である大阪弁で語ることがよい、
なんてことになり、
さうしてみたら、
いやあ、驚きました。


大阪弁になつた途端に、
どれほどほつとした雰囲気が一気にその場に満ちたことか。


我が家である「ことばの家」においても、
稽古場であり、講義の場であり、
舞台でもあるこの場では、
わたしはこの部屋に入ると、
全く無意識に、おのづから、
標準語で仕事をしてゐました。


今日、おそらく初めて、
生徒さんの前で、
大阪弁で仕事をさせてもらへたのでした。


これは、思ひもかけぬことで、
わたし自身、いつも以上にとてもリラックスしながら、
仕事ができたのでした。


これも、講座を聴いてくれる方々がゐるからです。
その方々が新しいものを、
わたしから引き出してくれるのです。


いやあ、母語の恵み、それは、
人にこころから情の通ふことばを話させてくれるのですね。


仕事上、標準語を使ひながらも、
人それぞれの母語である方言は、
人それぞれ大切にした方がいいのですね。


ことばと自分自身との距離を改めて見つめる上で、
欠かせない二重性、豊かさを人にもたらすやうです。
これは、きつと、母国語と外国語との間でも、
多いに感じられることではないかと思ひます。



posted by koji at 19:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月17日

持ち場に徹するといふこと



昔の大多数の日本人は、
米作りに従事する農民でした。


手足をフルに使つて農作業に勤しんでゐました。
その農作業は経済生活の営みであり、
同時に信仰生活の営みでありました。


手足の営みが、
胸の奥深くの神との繋がりを、
リアルに実感させてくれてゐました。


いま、日本人の大多数は農民ではなく、
スマホを手に握りしめるやうになりました。


わたしたちの大多数はもう、
米作りに従事してゐません。


しかし、米をこの手で作りはしないのですが、
自分に与へられてゐる仕事に、
こころを込めて勤しむことで、
何かをまごころを込めて作りだすこと、
生みだすことはできる。


さうですよね。


いま、かうしてインターネットといふ、
極めて高精度で便利なものを
わたしたちは手にしてゐることで、
大量の情報を得ることができてゐます。


しかし、それゆゑに、
わたしたちは表層的な知に恵まれ過ぎて、
頭でつかちにならざるを得ず、
一方で、わが手足を使つて、
何をすればいいのか、
分からなくなつてゐはしないでせうか。


手足をもつて何かをする、
何かを生みだすことができたとき、
その意欲の発露は、
頭でつかちになりがちなわたしたち現代人にも、
健やかさを取り戻させてくれます。


頭でつかちとは、
「自分にはすべてが分かつてゐる、
 すべてを見渡すことができる」と、
鳥瞰的・俯瞰的立場に立ちたがることを言ひます。


一方、
わたしたちの手足は、
いま、ここにしか、
触れることができません。
しかし、その手足こそが、
世とリアリティーを持つて繋がり、
世に何かを生み出すことのできる、
通路であります。


いま、わたしたちは、
みづからの手足を使つて何をしませうか。


自分自身を敢えて俯瞰的立場に置かず、
世のひとところに立つて、
この手足をもつて生きてゐることをしつかりと弁へることで、
いま、ここで、
自分に与へられてゐる持ち場に徹することが、
人を健やかにするやうに思へてならないのです。



posted by koji at 07:15 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月12日

お手本となる存在



21752134_1515227645223943_4573083786446135443_n.jpg



わたしのライフワークのひとつとして、
普遍人間学(ルドルフ・シュタイナー)講座があります。


わたしがこのやうな講座をするに当たつて、
懐旧の念ひと共に、
お手本にしてゐる先生がふたりゐます。


おひとりは、
我が言語造形とアントロポゾフィーの師であられる、
鈴木一博さん(「先生」とはお呼びしなかつた)ですが、
もうおひとりは、
北海道伊達市にあるひびきの村で、
十数年前にご一緒したベン・チェリー先生です。


彼はそのとき確か二週間にわたる、
オカルト生理学を担当されてゐました。


彼の授業の進め方は、
一冊の本を深く深く読み込み咀嚼した上で
(その作業はおそらく
 何年もの長い年月が掛けられてゐるだらう)、
その本の記述に捉われることなく、
パワーポイントなど一切使はず、
きはめて自由自在に毎日の授業を繰りなしてをられました。


ベン先生は、
普段はもの静かな立ち居振る舞ひをされる方。
しかし授業になると、
とても表情豊かに、身振り豊かに、
全身全霊で語り、説かれるのでした。


わたしは、授業内容の魅力と共に、
ことばにおける表現に全身全霊を懸けてをられるやうな、
彼のあり方そのものにとても、とても、惹かれたのです。


高い叡智に満ちたことばを、
精神、こころ、からだのまるごとをもつて、語る人。


さういふ存在に出会へたことは、
本当に僥倖だと念ひます。


ベン先生が、いまも、
お元気でゐらつしゃることを乞ひ希みます。

posted by koji at 19:40 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

星のお宮と感官と家族の名前



69768374_2472825772797454_2327223141664817152_n.jpg



十二の感官の育みと十二の黄道上にある星の宮との関はり。


そのことを考へてゐて、こころの内に漂つてきたのは、我が家族ひとりひとりの生まれた月日の星座と名前についてです。


次女のかさねは、おうし座生まれ。おうし座は、他者の考へを感覚する「考への感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。彼女は十二歳ですが、学校での学びでも、日々の暮らしの中でも、家族中で一番際立つた「思考家」です。考へを「かさねて、かさねて、かさねながら」日々成長してゐるのを強く感じます。わたしが彼女の名前を「かさね」とつけたのは、松尾芭蕉の『奥の細道』にその名の少女が出てきて、「かさねとは八重撫子の名なるべし」といふ句に魅了されたからなのですが、まさしく、こころの細道を辿りゆく芭蕉は、北へ北へと、那須から陸奥へと旅を進めて行つたのでした。それは、また、考へを重ねて行くことで行き着くこころの北方を目指してもゐたのでした。


長女の夏木は、かに座生まれ。かに座は、響きに耳を澄ます「聴く感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。いまは十五歳で、吹奏楽部に所属し、休むことのない音楽漬けの毎日です。聴くといふ営みは、物理的な空気の振動を精神的な調べに変換させることでなりたつてゐること、アントロポゾフィーから学ぶことができることの内の驚きのひとつです。7月半ば、くすのきの大樹に蝉が鳴きしきる夏の最中に生まれて来た長女。直感的に「夏木」と名付けました。同じく、芭蕉で有名な句「閑かさや岩にしみいる蝉のこゑ」がありますが、芭蕉は、蝉の声と共に、閑かさといふ沈黙の調べに耳を澄ましてをりました。物理の次元と精神の次元とを重ねつつの句であります。長女も、きつと、物理の次元と精神の次元とを結びつけるやうな人へとなりゆくであらうこと、我が子ながら、その独特のセンスにどこか感じるところがあります。


妻の千晴は、ふたご座生まれ。ふたご座は、何らかの響きや音声とは全く別に、ことばをことばとして受け取る感官「ことばの感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。双子のやうに、ふたつの腕のやうに、自由に動き、自由に遊ぶ、そんなときこそ、こころが羽ばたき、ことばが息づく。まさに、そんな人です(笑)。その双子といふことばに象徴されるふたりの幼な子の間には、遊びを通してこそ、自由と美が生まれます。それが、そもそも、本来的な「ことば」です。彼女は言語造形に生きてゐます。「千晴」といふ名も、とこしへの晴天を指してゐるのでせうか。ゲーテが、たしかこのやうなことをどこかに書いてゐました。「人と人とが語りあふこと、それは、光よりもすこやかなものをもたらす」。すこやかさと晴れやかさ。晴れ渡る大きな空を吹き過ぎる千の風です。


わたくしこと耕志は、いて座生まれ。いて座は、自分自身のからだが動いてゐることを内側から感覚する「動きの感官」を育む力を贈り続けてゐる星のお宮です。志(こころざし)を耕すといふ名を父がつけてくれたのですが、こころが指す方向に向かつて動いて行く、その力はいて座から、そして名前から頂いてゐるのかもしれないと思つてゐます。また、子ども時代に体を目一杯動かしながら遊べば遊ぶほど、ことばを活き活きと話すことができる、そんな関連に、我が子ども時代の環境をありがたく思ふのです。


昨日、空を見上げると、虹が懸つてゐました。





posted by koji at 07:12 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月26日

半沢直樹



生きてゐて、
人のこころの世ほど、
複雑怪奇なところはないと思ひませんか。


そこに一筋の光を当てることができたなら・・・。


その願ひをヴァーチャルに叶へてくれる、
『半沢直樹』🌟


今日も録画しておいたものを観る。


出てくるどの人物もすべて、
実は観てゐるこのわたしの内側に
ありありと存在してゐて、
一番複雑怪奇なのは、
この自分自身であり、
この自分自身のこころの内に、
一筋も二筋も光を当てて行かねば、
にっちもさっちも行かないところまで、
わたしも来てゐるし、
日本の社会も来てゐるのでせう。


いや、さうは言つても、
社会といふ生き物のこころの内側に光を当てる、
なんて、どうすればいい?


さう、つまるところ、
自分自身のこころに、
自分自身で光を当てて行くことだけが、
ひとりひとりの人に任されてゐる、
大いなる仕事なのだ〜



posted by koji at 08:16 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月25日

ある日 娘とカフェで



次女(小学六年生)とふたりで難波に出て、
タワーレコードへ。
 

彼女は、ここ一、二年、
音楽(ポップス)に猛烈にのめりこんでゐて、 
いまの音楽のことなら、
55歳のわたしなどより
遥かに深く広く知識をもつてゐる。
 
 
今日は視聴コーナーでたつぷり楽しんだやう。
 

その後、カフェに寄つて、彼女から、
戦争のことや近代・現代史のことを話し始め、
思はず知らずいろんな話しをする。
 
 
これからの若い人にとつて、
学校をあてにせず、
本当に自力で勉強して、
真実を見抜く力をもつことが大切だと話したとき、
すごく真剣な目をして聴いてゐた。
 
 
数千の歩きゆくすべての人が、
かうしてマスクをして歩いてゐる、
この難波の街の風景を忘れないでおかう。
 
 
そんな話しをして帰つて来ました、とさ🙆‍♂️
 



posted by koji at 06:00 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月07日

健やかな意識を失はず






小池知事がああ言つてゐる、
吉村知事がかう言つてゐる、
安倍首相が言つてゐる、
また全く違ふことを言ふ人がゐる、
一体、誰が言つてゐることが本当のことなのか。 
 
 
しかし、次のやうなことが言へると、
思はざるをえません。
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 
 
 
ドイツの建設大臣とフランスの大臣との立場に
どんな相違があるかとか、
どちらの論拠を正しいと思ふかとかは、
すべてたわごとです。
 
 
現代文明の進歩に関はるためには、
そんなことが大事なのではなく、
なぜ誰かが不正直な態度をとるのか、
なぜ別の誰かが別の不正直さを示してゐるかを、
よくしらべることがたいせつなのです。
 
 
わたしたちの時代は、
語ることばの内容に何の意味も見いだせず、
そこに支配してゐる力だけが意味をもつてゐます。
そのやうな時代にわたしたちは生きてゐます。
 
 
今日、
誰かがアントロポゾフィーを意識の中に取り入れて、 
あちこちのアントロポゾフィーの集ひに
出かけたとします。
 
 
その人は、人間を見いださないでせう。
見いだすのは、閉ざされた、
ごく狭い場所を動き回つてゐるモグラたちばかりです。
彼らは狭苦しい場所の中で、考へてゐます。 
そしてその考へをその範囲を越えて拡げようとしません。
その場所以外のところに関心を向けようとは、
全く思はないのです。
 
 
わたしたちがこのやうな、
モグラ的生き方を克服する可能性を見いだせず、 
常に同じところで同じ判断を繰り返すだけなら、
そのやうにして、
19世紀から20世紀初頭の時代に呪縛されてゐるだけなら、 
悲惨な状況から脱け出す仕事に加わることはできないでせう。
 
 
(ルドルフ・シュタイナー 
 1921年6月17日 シュテュットガルトにて)
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
 
百年前の中部ヨーロッパにおける状況と、
いまのわたしたちの状況とが、
全く重なつて見えてしまひます。
 
 
アントロポゾフィーなどの精神的な学びの場に、
起こりがちなことも、
シュタイナー在世当時からしつかりと起こつてゐたのでした。
 
 
ここで語られてゐる「力」といふものは、
目には見えず、
多くの人といふ人の内側に巣食ひ、
隣近所の人、
そして、大衆を動かすのですね。
もちろん、
この自分自身をも動かさうと強烈に働きかけてきます。
 
 
しかし、わたしたちは、
この「力」といふものに引きずり廻されてゐる、
この悲惨な状態から、
きつと、脱け出すことができます。
 
 
電車の中で、
マスクをしてゐないわたしを
睨み付けてくる人がゐる中で、
かう考へます。
 
 
この百年の間に、
わたしたちひとりひとりは、
どこまで目覚めた意識を獲得できたか。
 
 
得体の知れない「力」に目を注ぎつつ、
健やかな意識を失はず、
朗らかに生きて行くための、
こころの力。
 
 

posted by koji at 20:58 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月30日

7〜8月アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
 
『普遍人間学の第三講』に取り組む次回のクラスの日程をお知らせいたします。
 
 
●金曜10時〜12時クラス(7/10, 7/31, 8/28)
 
 
●土曜10時〜12時クラス(7/11, 8/1, 8/29)
 
 
ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』のオンライン講座のお知らせです。
(録画したものを観ていただくこともできます)
 
 
全十四講義、
シュタイナーによつて語られてゐるのですが、
シュタイナーの各講義を
三回ひとつづきで、
わたくし諏訪耕志が、
ていねいに語り降ろさせていただきます。
 
 
このたびは、第三講のクールです。

 
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。
 
 
ライン上ですが、
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
時を共有しながら、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 
この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。
 
 
途中からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。
 
 
共に、精神の学びに取り組んで行きませう。
 
 
※これまでの金曜クラスの時間が変はり、
 朝10時から12時までになります。
 ご注意ください。

 

講師:
諏訪 耕志

 
  
 

今回は、第三講を三回に分けて取り組みます。
 
 
@7月10日(金)10時〜12時
 7月11日(土)10時〜12時
『 人とは何かが分からなくなつたわたしたち 』
 
 
A7月31日(金)10時〜12時
 8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
B8月28日(金)10時〜12時
 8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 
 
  

●参加費 
 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
  
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 
●お申し込み・お問ひ合はせ
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 

鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
 
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

ありがたうございます。 


posted by koji at 21:11 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月25日

遊びと集中力

 
 
CIMG5325.JPG


 
小林秀雄の
『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、
とりわけ魅力的なのは、
江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところだ。
 
 
ものを学ぶには、
本ばかり読んで、机上の智識を弄ぶのではなく、
外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。
 
 
さう言ふ人は幾らでもゐる。
 
 
しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、
市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、
俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐた。
だから、
さういふ当たり前のことは、
わざわざ口に出して言はなかつた。
 
 
むしろ、独りになること、
そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、
本であること。
師と古き友を、本に求める。
本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、
信を寄せるに値するものはないと迄、
こころに思ひ決め、その自恃を持つて、
みづからを学者として生きようとした人たち。
 
 
そして、古典といふ書の真意は、
独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、
だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。
 
 
そのときの工夫と力量を、
彼らは心法とか心術と云ふた。
 
 
一度きりの読書による知的理解と違つて、
精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、
その人の体得物として、
暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。
 
 
数多ある註釈書を捨てて、
寝ころびながら、歩きながら、
体で験つすがめつ、
常に手許から離さず、
さういふ意気に応へてくれるものが、
古典といふものだらう。
 
 
さうしてゐるうちに、
学び手のこころの奥深くで真実は熟し、
やがて表の意識に浮かび上がつてくる。
 
 
そのとき浮かび上がつてくるものは、
学説などといふものではなく、
真理を追ひ求めた古人の人格であり、
それは浮かび上がつた後も、
依然多くの謎を湛えてゐる筈だ。
 
 
ちなみに、
部屋に独り籠もつて、
かういふ本の読み方ができる人は、
きつと、幼い頃、
目一杯、からだを動かせて遊んだ人だ。
 
 
その遊びの中で、
意欲が、ファンタジーへと昂ぶり、
さらには、
ものをまじまじと見ることのできる力
(ふだんのイマジネーション)にまで、
稔つてゐる。
 
 
からだを芸術的に動かす、
その働きは、 
よく観る力、よく聴く力、よく読む力に、
後年なりかはるからだ。
 
 
子どもの頃の身体を使つた遊び程、
人の意欲を強める芸術はない!
 
 
 

posted by koji at 08:27 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
■ 新着記事
滋賀シュタイナー ちいさいおうち園での語らい (04/27)
アントロポゾフィー 人であることの意識 (04/24)
三羽の揚羽蝶 (04/24)
ひとりひとりの歩幅 (04/23)
京都市伏見区醍醐勝口町でのことばの家 ことばづくり(言語造形)クラスのご案内 (04/23)
ことばが甦るとき 〜甦りの祭り(復活祭)の日にちなんで〜 (04/20)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 (04/20)
鏡像 (04/18)
4/20(日)復活祭からの「こころのこよみ」オンラインクラス (04/14)
学んだことは忘れていい (04/13)
■ カテゴリ
クリックすると一覧が表示されます。
ことばづくり(言語造形)(244)
アントロポゾフィー(182)
断想(575)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(460)
こころのこよみ(魂の暦)(497)
動画(333)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(41)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
■ 最近のコメント
5/7(水)からのシュタイナー著「いかにして人が高い世を知るにいたるか」毎週水曜日夜オンラインクラスへのご案内 by 諏訪耕志 (04/11)
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
■ 記事検索
 
RDF Site Summary
RSS 2.0