2012年06月15日

表情と家庭

自分の娘が小学校へ通い出してから2ヶ月ちょっと経った。
こんな短い期間だけでも、娘の内側でいろいろなことが起こっているんだなあと感じる。

それまでのシュタイナー幼稚園で過ごしていた牧歌的で、安心に満ちた雰囲気から出て、
新しい環境で精一杯、やっている。
目一杯、楽しみ、遊び、勉強している。
それでも、友だちとのやりとりで、これまで味わったことのない感情にも出会っているようだ。

これから先、思いもかけないような経験を重ねていくことだろう。
戸惑い、悩み、落ち込むことも、たくさんあるだろう。

親心として、できる限り子どもが嬉しく楽しく充実した時間を生きることを希むのは無理もない。
でも、子どもが出会ういちいちの経験のうちでやっかいなものは避けさせ、
躓く石のない平坦な道だけを行かせることなど、決してできないだろう。

親ができることは、親としてやりたいことは、
子どもが帰ってきて、どこまでも伸び伸びと安心できて、
自分のどんなあり方も受け止めてもらえる家を創ることだ。
娘の表情を見ていて、あらためて、そう気づく。

そのためには、
親自身のこころのあり方、そして夫婦の関係を意識的に育てていくことが、
どうしても大切になってくるなあと感じる。

わたし自身もたくさんの人と出会い、
その人その人の表情に出会う。
ことばや、知性や、意見や、主義主張の前に、その人の表情に出会う。

そして、その表情に出会い、その内側に入り込みたいと願うとき、
その人のその表情はどのような人生のどのような経験から生じてきたのだろうか、
という想いと感情に満たされる。

そして、どの人の経験においても、
家庭のありようは小さくない働きを及ぼし続けているのではないかな。

もう子どもではなく、若者でもなく、ひとりの大人になるということとは、
もらうばかりではなく、与えることができるということであるならば、
わたしは、妻や子どもたちや、誰より自分自身の表情を安らかで満ち足りたものにしていくような、
そんな家を創っていきたいと想う。


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2012年05月17日

くすのき園 〜語り合いつつ学び合う会〜

我が子がお世話になっている「くすのき園あびこシュタイナー幼稚園」。

長女が卒園するまでの約三年間を過ごし、
そしてこの4月から次女が通い始めることを機に、
わたし自身がもっと積極的にこの園にかかわりたく思い、
先月から月に一回の「語り合いつつ学び合う会」を開き始めた。

これは、このくすのき園に縁あって集う、大人たちの会で、
その縁というものにしっかりと意識的に気づいていきたい、
そんな願いで始めている。

この時代、特に昨年の3月11日以降、
わたしたちがこれまでに積み重ねてきてしまっている生活スタイル、思考習慣をどうにかして転換して、
より人間にふさわしいもの、より子どもたちにふさわしいものとはなんなんだろう、
そう考え続けていて、
これも、その考えの繰りなしからのひとつの試みだ。

何か既成のものでは、もう人は自分自身を健やかなあり方にしにくくて、
下手でもいいから、自分自身から何かをやり始め、誰かに働きかけ始める。
そんな大人の姿こそが、
きっと、子どもたちの意識されないこころとからだに深く働きかけていくんじゃないか。

ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)は、
ひとりひとりの子どもの内側に、
自分の足で立ち、自分の胸で感じ、自分の頭で考えることのできる力を育てようとしている。
それは、別の側面から言えば、
人と人との繋がりを積極的に創りだし見いだしていく力を子どもの内側に育んでいくことでもある。

それならば、まず、わたしたち大人が、これまで以上に、
おのれのこころを開き、
他者にもっともっと関心を抱いて、
それによって自分自身を再発見していくこと、
そして、みずから自由への道を見いだし、歩き出していくことが、
一大事じゃないか。

そんな大人たちの思いと行為が、
地下の水脈を伝わって、生きていく力として子どもたちにきっと流れていく。


今日は、その二回目の会だった。

わらべ歌を唄いながら、身体をリズミカルに動かし、
園で毎日子どもたちが耳にしている「幼児のための詩」を唱えることから、会を始めている。

そして、これまでの人生の中で、もしくは、いま現在において、
自分自身が強い関心を抱いていることがら、意識せざるをえないようなことがらを語り合った。

集ったひとりひとりの人から深くて、熱い、時にユーモアたっぷりの、こころからのことばが響いて、
とてもとても濃密な時間になった。

人が話しているとき、一切他者は口を挟まず、
耳を澄ましてその人その人のことばを聴こうとする場の中だからこそ、
皆こころを開いて語ってくださる。
改めて、「人というもの」に出会うような、こころ揺さぶられる時間だった。

インターバルとして、
絵本の『大きなかぶ』をひとりひとりの役を演じながら声に出してやってみた。
インターバルとは言っても、
こうした芸術的な要素が語り合いの場にも含まれることで、
時間の流れの中に呼吸の伸縮が生まれる。

そして、後半の語り合いでは、
前半におのおのが語った自分自身の関心とシュタイナー教育とを結びつけて考え、
ことばにすることをしてみた。

そうすると、前半に語った事柄がいっそう深められて、
その人のその人たるところがだんだんと表にことばとなって現れてくる。

こうして毎月、ことばを通して、その人その人の深みに触れるということは、
なんと貴重な、他では得がたいことなんだろうと思う。

最後に、
シュタイナーが最初のシュタイナー学校の教師たちに、
こころから真剣に語ったことを引きあいに出させてもらった。

それは、
わたしたち何らかの理想をもって何かをなそうとする人ひとりひとりの上に高い存在の方がおられること。

そして、わたしたちの集りそのものの上に、
より大いなる天の使いの方々が輪を描いて舞いつつ見守ってくださっていること。

さらに、社会をより人間的なものにしていくために、
この教育が今なくてはならないものなのだというメッセージを伝えるべく、
時代の精神として遥かに高い天からの方々が、
わたしたちの上に上り下りされていること。

わたしたちは、教師ではないが、子どもたちを見守り、育てていく親として、
そのことを眼を閉じて、静かにしばらく想ってみた。


このような会を通して、
ヴァルドルフ教育を根元に持つ幼稚園がこの地にあることの貴重さ、重要性に気づいていけたら。
そして、やがて、積極的に、かつ、自由に、
園をひとつの人間共同体として運営していくことへのこころざしと勇気と力を、
ひとりひとりが発揮できるようになることを希っている。

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2012年04月29日

怒りと愛

ひとりの人の内で、
怒りと愛とは同居しえるのだろうか。

例えば、
誰かに対する怒りと、
我が子に対する愛とは、
根本的に、
わたしの内で同居しえるのだろうか。

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2012年04月15日

春の始まり 岩出演劇塾!

今日からまたまた始まりました、和歌山岩出の演劇塾。

参加してくださっているGさんのブログの記事をご紹介します。
http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=295

大人の方々、そして引き続き参加している子どもたちも、内側でこんなにもこころを動かしてくれている。
今日から、この喜びを一緒に深めていこう。

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2012年03月11日

あの時から一年、3月11日 午後2時46分

ルードルフ・シュタイナーが、第一次世界大戦の間、
講演のたびに、このことばを唱えていたそうです。

生きている人、そして、死んでしまった人、
それぞれを守ってくださっている方、守護天使に向けてのことばです。

わたしも、このことばに沿いたいと思います。

(一連目が、生きている人を守る天使の方へ、
 二連目が、亡くなった人を守る天使の方へのことばです)

   
    あなたがたは、この世のこころの上に目覚める、
   あなたがたは、この世のこころについて織りなす。
   精神にして、人のこころの上に守りつつ、
   世の賢さから愛しつつ働く方々よ、
   わたしたちの乞いを聴き、わたしたちの愛を観られよ。
   それが、あなたがたの助ける力の輝きに満たされて、
   精神に適いつつ、愛を送るように。


   あなたがたは、中有のこころの上に目覚める、
   あなたがたは、中有のこころについて織りなす。
   精神にして、こころの人の上に守りつつ、
   世の賢さから愛しつつ働く方々よ、
   わたしたちの乞いを聴き、わたしたちの愛を観られよ。
   それが、あなたがたの助ける力の流れとひとつになり、
   精神を感じつつ、愛を輝かせるように。

                       ルードルフ・シュタイナー

                              鈴木一博さん訳


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2012年02月07日

比べる、から、敬うへ

誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、
その誰かや何かに近づこうと気持ちが盛り上がることが、
特に若いときにはよくありますよね。

その憧れの対象は、
マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、
職種という職種における有能な人、魅力的な人、
魅力的な生活スタイル、考え方、生き方、
そして人を超えた存在、
神のようなあり方、
精神界、霊界、天国、神に至るまで、
物質的なものから精神的なものまで、
人各々、それぞれです。

しかし、その誰かがやっていることや、
素敵な何かに向かって、
自分自身も努力し始めることができればいいのですが・・・。

その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、
いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、
その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらいがないでしょうか。

そして、
自分自身とその憧れの対象とを比べて、
自分自身を卑下しだす。

「自分には無理だ」と。

わたしがアントロポゾフィーを学んでいて、
最も強く励まされるのが、
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「条件」の章にある、
次のことばです。

    こころのしかるべき基調が、きっと、はじまりとなる。
   密やかに究める人は、その基調を敬いの細道と呼ぶ。


    わたしたちはわたしたちよりも高いものがあるという、
   深みからの情を内に育まないのであれば、
   高いものに向けてみずからを育み高める力を内に見いだすこともないであろう。


憧れのもの、状態、それは、別な言い方をするならば、
人にとっての「高いもの」と言ってもいいかもしれません。

「わたしたちよりも高いものがある」。

その「高いもの」と己を比べるのではなく、
「高いもの」を敬う。

そのこころの向きは、
自然には生まれない。
意識的に練習しなければ、
「敬う」というこころの力は身につかない。

「高いもの」に対する敬いから始まり、
生きとし生けるものに対する敬い、
ありとあらゆるすべてに対する敬いへと、
その練習は続けられる。

しかし、人は、放っておいたら、
その対象と自分自身との距離をもてあまし、
自分自身を卑下しだす。
そして、
敬いとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのずと傾いていく。

「高いもの」と己を比べるということ、それは実はその人のエゴであり、
「高いもの」を敬うということ、それはその人のこころの高い力です。

比べる、から、敬う、へ意識的に方向を変える。

敬うからこそ、
その対象と共にいられるのです。
人間関係など、まったく、そのことが当てはまります。

敬うことによって、
初めて、その対象から力が自分に流れ込んできます。


そして、敬うからこそ、
その対象に向かって、
いや、もうすでに、その対象と内的にひとつになって、
こつこつと根気をもってその人その人の憧れの道を歩いていけるのでしょう。

誰がなんと言おうと、
歩き続けられるのでしょう。

シュタイナーが、
その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、
それだけ現代人にとって、
比べることから敬うことへのこころの移行が必要なことだからです。

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2012年02月04日

くすのき園あびこシュタイナー幼稚園 開園三周年コンサート

3周年リハ.JPG 3周年本番.JPG


今日は、「くすのき園あびこシュタイナー幼稚園」の、
開園三周年記念コンサートでした。

開園のときから娘が通わせてもらっていますので、
もう三年も経つのかと、感慨深く、今日を迎えました。

「音登夢(おととむ)」http://ototom.com/
という名前で活動されている、
バイオリンの木村直子さんとチェロの木村政雄さんのご夫婦デュオのコンサートでした。

園の樋口早知子先生の古くからのお知り合いの方々です。

くすのき園一杯に拡がる弦楽器の表情豊かな響き。

普段、聞きなれていると思っていた曲たちが、
目の前で確かな技量で演奏されることで、
活き活きと動きをもってわたしたち聴き手に迫ってきます。

そして演奏してくださるお二人の間の絶妙な息遣いとユーモア。

大人も子どももこころから楽しむことができました。

わたしも『星の銀貨』の語りで参加させてもらいました。

語りに合わせて、これまた絶妙の音を奏でてくださり、
このメルヘンの中から「人というものの素直さ」
を引き出してくださったように感じています。

節分を過ぎて春に向けて太陽が歩み始めているその明るさと、
人のこころとこころが交わりあう暖かさに包まれたコンサートでした。

音登夢の木村直子さん、政雄さん、
コンサートを準備してくださったくすのき園の先生方、
来てくださった皆さん、
そして三周年を迎えた「くすのき園」、
どうもありがとうございました。

このくすのき園は、
これからも、子どもたちの生きていくための基を見守り育む場であり、
わたしたち大人にとってもこころとこころが通い合い、文化を生み出していく、
そんな場になっていきます。

これをお読みくださった方で、またご縁がありましたら、
どうぞよろしくお願いいたします。

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2012年01月29日

新春のこころざしを分かち合う集い in 岩出

遅ればせながら、
「新春のこころざしを分かち合う集い」を和歌山岩出のシュタイナー演劇塾でいたしました!

後藤家の前.JPG

何が人間にとって大切で、何が子どもたちにとって大切なのか。
そのことがますます分かりにくくなってきているように感じる現代。
でも、ものごとの本質は、
以前からずっと多くの人たちによって営まれ続けていた生活のあり方に、
潜んでいるのではないだろうか。

子どもだけが特別な場所に離れて、特別な教育を受けるのではなく、
大人も子どもも一緒になって、
あるものを創っていく。

その創造行為のなかで、おのずと、
子どもたちは大人たちのあいだで、
「見ながら」「聴き取りながら」「見よう見真似で」、学び、育っていくのではないか。

そして、その共同の学びの場で、
人として、
尊ぶべきものを尊び、
敬うべきものを敬う、
ある種の「宗教的感覚」を大事に、感情を通して、芸術を通して、育んでいきたい。

とりわけ、小学生のときの、第二・七年期にある子どもたちが、
情を通して、そのような宗教的感覚を育むことを逸しさせたくない。

そんな考えを分かち合えた素晴らしい時間でした。

持ち寄ってくださったお昼のお食事も本当においしかった!

ありがとうございました。


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2012年01月23日

心配はしないことにする

よく、シュタイナーの学びなどの集まりについて、こんなことを聞くことがあります。

どれほど宣伝に苦心しても、人が集まりにくいということ。

わたしはそのことについて、こう考えます。

これは、一応、利益を追求することのみが目的ではない人が考えることとして、
読んでいただければと思うのですが、
もしかしたら、
これからの時代において、
経済のあり方そのものが、人に沿ったものになるのなら、
考えていってもいい考え方かもしれないと、
わたしは思っています。


その考えというのは、
きっと、宣伝ということそのことが、
いまはもう、ことがらの中の本当に大事なことではない、ということ。

「人を集めなければいけない」という、
「・・・せねばならない」という気持ちがあるところからの宣伝には、
もう人が動かない時代に入っているのです。

人は、どういう気持ちが発せられているところに集まってくるのか。

それは、まぎれもなく、愛です。

そして何かを主催し、開催する側において、
ことがらの本質的なことは、
集まる人数のことを考えるのではなく、
そのことをすることに対して、
自分たちが「喜び」と「愛」を感じているかどうか、
ということではないでしょうか。

いくら人数が集まっても、そこにノルマのようなものがあっては、
そのときは、
「やった。ちゃんと採算が合った。儲けが出た」と考えられて一応の満足はするのですが、
そのことをずっとずっと続けていくには、
いつも何かに急きたてられてやっているような感覚に人は段々と陥ってきます。

そして、集まってくる人のことを、
「お金を持ってくる人」と感じるように段々となってくるのではないでしょうか。

本質的なことは、
他者を動かすことにベストを尽くすのではなく、
自分たちが愛のある集まりを創っていくことにベストを尽くすこと。

そこから、きっと、出会う人が必然的に出会うことになっている。
その結果、集まってくる人が多かろうと、少なかろうと、
あとは、神様に委ねる。

もちろん、宣伝はし、できる限りのことはする。

でも、心配は一切、しないことにする。

これは、わたしの考え方です。

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2012年01月16日

惑わされずに、考える力を鍛える 〜アーリマンとわたし〜

冬の只中です。いよいよ寒くなってきましたね。

外の世界では寒さが増し、闇が広がっています。

しかし、この冬、わたしは、
こんなことを考え、感じるように、自分を仕向けています。


外の世では寒さと闇が広がっている。

しかし、自分の内側では正反対に熱と光が広がろうとしている。

その内なる熱と光こそが、
「考える力」。

その考える力は、物質に囚われていない。

物質に囚われない、とは、
見た目に囚われない、ということ。

囚われていないからこそ、
むしろ、物質を、あらためて、内なる光で照らし、内なる熱で貫き、暖める。

それは、日々接するものごとに新しい意味を見いだすということ。

そして、もしわたしが、
外なる感官を通しての情報を受け取りつつも、
それに囚われずに、
内なる意欲を持ちながら、考える力を保ちつづけたなら、
それはわたしのわたしたるところからの力だけに、
わたし自身をも意欲で満たし始める。

わたし自身をも、
意欲に満ちた考える力の熱と光で、
照らし、貫き、暖める。

考える力は、
人が、人であることの、
わたしがわたしであることの拠り所だ。

その考えを、ことばとともに、
何度も何度も繰り返し反芻する。

すると、
その考えを理解するだけでなく、
その考えを生き始めている自分を感じる。




このように、自分から自分を仕向けているのも、
この「考える力」を萎えさせようとする力が、
自分に働きかけてきていることを確かに感じているからなのです。

考える力が長け始める、この時期だからこそ、
逆に、その考える力を萎えさせようとする力も、
きっと、人に働きかけてくるのでしょう。

他者の言動、その見た目や、見かけ、
それらが、わたしを惑わそうとしているのを感じます。

まるで、気温が下がり、光が失われていくのを、
人のこころにも及ぼそうとするかのように、
何かが、誰かが、わたしに働きかけているのを感じます。

その何か、誰か、に名前をつけて、
「アーリマン」とシュタイナーは言いました。

その精神存在は、
どの人の内側にも働きかけていて、
人に、愛を、忘れさせます。

恐れと疑いと憎しみを人にもたらそうとします。

その精神存在の実在を証明することは不可能でしょうが、
しかし、
そのようなこころのありようが自分の中に生まれ、
自分の中でリアリティーを持っていることは、
誰も否定できないのではないでしょうか。

この「人に、愛を、忘れさせる」力に対抗できるのが、
「キリストのこころざし」である、
「考える力」ではないでしょうか。

見た目に惑わされず、
現象に惑わされず、
外側に囚われずに、
「本質的なことを、本質的でないことから、分かつ」べく、
考える。

しかし、
その力は、
外側からの惑わしという働きかけがあって初めて、
鍛えられることを感じます。

他者との接触を通してこそ、
その考える力は、そのつど、そのつど、鍛えられるなあ、というのが実感です。

新しい年が始まり、
わたしは、また、そのことに、
新しく挑戦していきたい。

そう考えています。


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2011年12月21日

闇はだんだんに光をとらえるにいたる

例えば、シュタイナー教育の実践の場や、
わたしが取り組んでいる言語造形の練習場や「ことばとメディテーション」の場など、
精神的なものの実現・定着を目指している場において、
気をつけなければならないな、と感じ、考えていることがあります。

そのような「光の場」において、
人は、みずからの内に深くしまいこんでいるものが出て来てしまうのではないか、
ということです。

その場が、光を目指すほどに、
闇が忍び寄ってくる。

そして、その闇の忍び寄り方には、ふたとおりある。

普段、どちらかというと、
熱狂しやすく、陶酔しやすく、熱くなりやすく、またその反動で冷たくなってしまう、
そのような質(たち)をわたしが持っているならば、
光の場に入ると、
その場がここちよく感じられるあまりに、
「このことのみが真実だ、
 他はたいしたことがない、
 いつまでもここにいたい、この場からもう、出て行きたくない」
と感じる方へわたしは傾いてしまう。

一方、
精神的なものごとを信じている、信じていないに関わらず、
精神から離れている生活を営んでしまっているようなとき、
ものごとはすべて計算で割り切れるとの思い込み、
すべては計画通りに進んでいってもらいたいとの偏った希み、
人のことも自分のことも信じられなくなってしまうようなとき、
光の場に入ると、
その場の雰囲気が嘘臭く思えたり、
こんなものは現実的ではない、と思ったり、
早くこの場から出て行きたい、と願ったり、
疲れや失望を過剰に感じたり、
その向きへとわたしは傾いてしまう。

どちらも、わたしの内にないことではないのです。

光の場だからこそ、
そのように闇が強くふたとおりに人のこころを通して忍び寄ってきます。

光の場は、きっと、いま、人に、強く求められています。

わたしたちは、気づいた者から、
そのような光の場を各地に創っていくことを始めています。

そして同時に、
そのような場に闇が忍び寄ってくることに、
遅かれ早かれ誰しもが直面します。

直面して初めて人は学ぶことができると思うのです。

光の場を創っていく上で、
イニシアティブを持って創っていく人は、
己のこころに忍び寄ってくるふたとおりの闇に意識的であることが大切なことだと、
自戒しています。

そして、そのふたとおりの闇のあり方に傾かず、
その間でバランスを取って立つとはどういうことなのか、
それを意識的に追い求めていかざるをえません。

シュタイナーは『ヨハネ福音書講義』の第二講でこう語っています。

    光、闇にそそぎき、闇、光をとらえずありき (ヨハネ一)

   闇はだんだんに光をとらえるにいたります。


それは、
「人が内なるところにおいて闇に打ち勝ち、ロゴスの光を知る」との意味です。


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2011年12月18日

〜シンデレラ、わたしの内の子ども時代〜 入間カイさんの講演会 7(終わり)

シュタイナー教育は、子どもだけでなく大人をも励ますものです。
そう、入間さんは、講演の始めに言いました。

大人の中にずっと在り続ける「子ども時代」。

講演を聴いたあと、わたしはこんなことを考え続けています。

わたしの中の第一・七年期についての問い。
それは、
「わたしと他者との、一対一の関係をしっかりと生きているだろうか」
という問いです。
その関係をわたし自身がどう生きているかこそが、
第一・七年期にある子どもへの働きかけとなっていくでしょう。

わたしの中の第二・七年期についての問い。
それは、
「わたしは、複数の他者との間で、社会的な交わりをしっかりと生きているだろうか」
という問いです。
同じく、そのわたし自身の姿が、
きっと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていきます。

そして、
わたしの中の第三・七年期についての問い。
それは、
「わたしは、世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、
どう生きようとしているのか」
という問いです。
日頃している考えの回路から少しでも飛翔し、
少しでも静かに、かつしっかりと考えることができるのなら、
そう自分自身に問いかけることができます。

そう自分自身に問いかけ続ける人こそが、
第三・七年期にある若い人たちとの対話を創っていくことができるのでしょう。

第三・七年期にある若い人たちは、
その問いを密かに持っていて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。

その若い人の「わたし」の力が、
いよいよ、ひとりで考える力としてなりかわってきたからこそです。

そして、他者と語り合う中でこそ、そのひとりで考える力が育まれていきます。

若い人は、ときに、大人にとって突拍子もないことを言い出したりしますよね。

そんなとき、時間をかけながら、
側にいる他者、特に長じた者が、
「その考えは、本当に、あなたによって、考えられたものなのか」
「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」
「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」
というような問いを投げかけることによって、
若い人の内側から浮かび上がってくる意志・意欲・感情を、
彼・彼女自身の考える力でいま一度貫かせてみることができたら。

そして、
若い人たちの内側から湧きあがってくる、
世界に対するより根源的な問いに対して、
「世界では、いま、こういう問題が起こっていて、
それらに対して、こういう人たちが、こういう意識をもって、取り組んでいる」
というような具体的に摑むことができる情報を情熱をもって語る大人がいれば。

そして、さらに、
他者にはなかなか気づかれにくい、
もしかして自分自身でさえ気づいていない、
若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、
側にいる大人が見てとってあげられたら。

(そのことを入間さんは、『シンデレラ』のお話を通して話されました。
 他の誰も認めようとしなかったシンデレラの美しさ、
 それはどの人の内にも潜む密やかなところであり、
 そこを見いだし、認め、愛した王子さま。
 第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めているし、
 さらに本質的なことは、
 若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、
 手伝ってもらいたいのです)


他者と語り合うことによって、
語りを聴くことによって、
また己のうちの密やかなところを認めてもらい、自分で認めることを通して、
若い人の内側に、
考える力がだんだんと目覚めてきます。

「では、わたしは、世に対して、何をしていこうか」
という考えがだんだんと立ち上がってきます。

第三・七年期にある人にとっては、その力はまだおぼつかなく、きっと支えが要ります。

若い人がひとりで考える練習をサポートする。
それが、若い人の側にいる大人のひとつの役割でしょう。

ここでとても大切なポイントは、
大人の考え方を押し付けない、ということかもしれません。

「わたしは、こう考えるのだけれども、あなたは、どう考えますか」
というこころの姿勢をとりながら、語り合うことができれば。

彼らが求めているのは、
自分の考える力をひとり立ちさせていくことです。

人は、練習すれば必ず目覚めてくる「考える力」を深く信頼したいのです。
それが、己に対する信頼に、
ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きっと、繋がっていきます。

そのように順番を間違えずに、満を持して出できた考える力が、
感じる力、欲する力と、手に手を取りあって、ひとり立ちしていくこと。

それこそが、教育の目指すところであっていいのではないか。

そう、シュタイナーは語り続けました。

さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んでいこうか、
これがわたしにとっての2012年からのあらためての課題です。

読んでくださって、ありがとうございました。

そして、講演をしてくださった入間さん、
講演を準備してくださった箕面シュタイナー幼稚園友愛会の皆さん、
素晴らしい時間でした。
どうもありがとうございました。


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2011年12月17日

〜順序を間違えないこと〜 入間カイさんの講演会 6

欲する力・意欲・意志がむき出しの0歳から7歳。

その意欲・意志が感じる力・情の衣をまとい始めるのが7歳から14歳。

そしてその意欲・意志・情から、
だんだんとひとりで考える力が生まれてくるのが14歳から21歳。

それら三つの力はどれも、
その人のその人たるところ、
「わたし」から生まれてこようとしているものですが、
年齢によってその表れ方が異なっていて、
欲する力として、
感じる力として、
考える力として、
順番に現れてきます。

それらおのずと生まれてくる力の順序を間違えずに、
その順序どおりに育んでいくことが、
人の育ちにとってとても大事な意味を持ちます。


講演会において、こんな質問が出ました。

小学生に、「自分で考えなさい」という指導がよくなされるのだが、
シュタイナー教育に云う「意志を育てる」ということと果たして噛み合うのか。

人というものをよく見てとってみると、
小学校に通っている時期には、
子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、
おのずと、感じる力という衣をまとい始めている、
しかし、自分ひとりで考える力は、まだ生まれてきていない。

「自分で考えなさい」「自分で判断しなさい」という指導は、
その時期の子どもには早すぎる。

「シュタイナー教育では、こう考える」というのではなく、
人をあるがまま観てとる練習をしていけば、
そのような判断・順序を間違えない判断がだんだんとなされるようになってくる。

その旨を入間さんはことばにしておられました。

人をあるがままに観てとる練習は、様々に差し出されていますが、
そのひとつをアントロポゾフィーも差し出していますね。


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2011年12月16日

〜ことばの主(あるじ)になる練習〜 入間カイさんの講演会 5

入間さんは、こうも語っていました。
第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、
子どもと地域との関係性、
それは一対多の関係性とも言えるのですが、
より本質的に言えば、それは人と民族との関係性である。

民族とは、
ひとつの言語を母語として共有している人々の集まりを言います。

ひとつの言語を共有することによって、
人々は共にある、ということを実は感じています。
ほとんど無意識、もしくは夢のような意識の次元においてですが、感じています。
なぜなら言語は、おもに、感情の次元において、ものを言うからです。
感情とは、夢のような意識において、繰りなされています。
そして、ことばもその感情から発せられています。

そして、これは分かりにくいことかもしれませんが、
言語は、それを話す人に、
その言語に沿った叡智を贈ってくれています。

ことばの叡智、
キリスト教の密で言われる「ロゴス・ことば」、
もしくは、人をどこまでも育てようとする「愛」です。

ことばを大切に扱う人のところに、
ことばの精神から、
愛と叡智への予感が降りてきます。

ことばにはそのような働きがあることを、
言語造形を通しても学んでいくことができます。

そのように実は叡智に裏打ちされていることばを通して、
他者と素直に語り合い、
違いを見出し、それを尊び、
自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、
第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。

それは、子どもにとってのことであるだけでなく、
親というひとりの大人と、
学校生活を含む地域社会というものとの間の関係において、
意識されていっていいことでもあるでしょう。

第二・七年期の子ども時代、
それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、
ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。

大人自身の、
内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによって、
ことばと自分自身との関係にいま一度目覚めることができるのではないでしょうか。

わたしたち大人自身が、
複数の他者との関係の中で、
どう、ことばとつきあい、
どうみずからを育んでいくことができるでしょうか。

そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、
このうえなく大切な働きかけになります。

考えつつ、取り組んでいければ、と思っています。

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2011年12月15日

〜彩りの豊かさ〜 入間カイさんの講演会 4

わたくしごとで恐縮なのですが、
上の娘が来年の春から小学校へ上がります。

我が娘がそういう年齢になって、
わたしの中でも教育に対する意識が、
恥ずかしながらようやく目覚めてきたように感じています。

これまでの約6年間は、
まさしく個と個、
娘と母親である妻、もしくは、娘と父親であるわたしとの関係の中で、
すべてが完結していた。
そう実感します。

そして、そこには、
個と個の関係の中でもっとも基のものと言える妻とわたしとの関係が、
良かれ悪しかれ、
とても色濃く娘に影響していたように感じます。

もちろん、
どちらか一方の親しかいない家庭においても、
大人と大人との関係性、
子どもに目を注いでくれる誰か他の大人と、子どもの親との関係性が、
とても重要になってくるということでもあります。

幼稚園にも、共にそこに通う園児たちや親御さんたちもいるわけですが、
それでも、そこは先生を親とするもうひとつのより広やかな家庭です。
そこでは、基本的・本来的に、
先生という親と子どもの、
一対一の関係が子どもにとって大切なものでした。

いまの多くの施設では、
そのような一対一の、
ひとりの子どもにしっかりと目を注ぐことのできるひとりの大人がいるようなところは、
本当に少なくなっているのかもしれません。

そんな状況において、
第一・七年期にある子どもに必要な個と個の関係性を、
どのようにしてひとりひとりの子どもに質的に補っていくことができるか。
そのことがとても大事なテーマでもありますね。



さて、子どもは歯が生え変わりだし、小学校へと上がってゆきますが、
第ニ・七年期に入っていく子どもの成長にとって本質的なことは、
それまでの個と個の関係性を育むということから、
だんだんと、
個とそのほか大勢の大人たちや子どもたちとの関係を、
いかに創っていくかということへと移り行きます。

地域の中には、様々な職種につき、
様々な価値観で生きている人々がいます。
それまでほとんど親にしか意識が向かっていなかった子どもが、
そのような人という人の彩りの豊かさにどんどん目が奪われていくことでしょう。

かつ、クラスという集団の中においても、
いろんな子どもがいます。

幼児期においては、
子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、
ある意味、原始的なものでした。

しかし、第二・七年期の子どもにおいては、
だんだんと、その意欲が感情という衣を着つつ現れてきます。

そして、そのクラスの中で、
様々な色の違う感情の衣を着た子どもたちに出会うのです。

その彩りの豊かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。

人は、みんな、違って、いい。

みんな、それぞれ、色合いが違い、向きが違い、もって生まれているものが違う。

その違いが、感情の表れの違いとして際立ってきます。

ひとりひとりの違いを尊重する、
そして、そこから、ひとりひとりの尊厳を見る、
そんなこころの姿勢が教師によってなされるのなら、
どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでしょう。

そういう大人の下で、
子どもは、自分という個にゆっくりと目覚め始め、
そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個という個に、
だんだんと目覚め、
その彩りの豊かさに目覚めていきます。

社会という集まりの中で、
自分という個と、
大勢の他者との関係を、
だんだんと見いだしていく、
一対多の関係の本来的な豊かさを、
第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。

もし、そこで、
「よい点数を取ることが、よい人になる道です」
もしくは、
「よい点数を取ることで、あなたは他の人に抜きん出ることができますよ」
というひといろの価値観がまかり通るのなら、
子どもの内側から生まれでようとする、
その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、
感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。

小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着ているようなものです。

(そのことを入間さんは、
 「ありときりぎりす」というイソップのお話と、
 レオ・レオニの「フレデリック」という絵本からのお話との対比で話されていました)

子どもたちの周り、
そして内側を、
カラフルにしておいてあげたいですね。




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2011年12月14日

〜個と個〜 入間カイさんの講演会 3

「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳にいたるあたりまで、
幼い子どもは、
自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としています。

その一対一の関係を通して、
子どもは「世は善きところである」という信頼を、
きっと、ますます深めていくことができるのでしょう。

その個と個の関係において、
人はまず最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。

その最初の<わたし>の健やかな成長とは、
その子の内側から湧き上がってくる「意志・意欲」を、
そのままその子固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、
ひとりの大人の存在を必要としています。

その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、
家庭があり、
その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。

入間さんは、
この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すような童歌があって、
まどみちおさんが作詞した「ぞうさん」を挙げられていました。

  ぞうさん、ぞうさん、おーはながながいのね
  そうよ、かあさんも、なーがいのよ

  ぞうさん、ぞうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ

幼い子どもが、
ひとりのお母さん(もしくは、それに代わる誰か)との結びつきを通して、
個と個の信頼を育んでいる姿が描かれていますね。

ひいては、自分自身への信頼をも育んでいます。
(そのことに関しては、「ぞうさん」との対比で、
「うさぎとかめ」のイゾップの話を入間さんは挙げられていました。
とても面白い対比です。
どうぞ、彼の著書『三月うさぎのティータイム』をお読みください)



入間さんの話しを聴くうちに、
わたしの中にこれまで考え、感じていたことが、
あらためて意識の上に上ってきています。

わたしたち大人の内側に、
第一・七年期の子どもにとっての大切なテーマでもある、
この個と個の関係性をあらためて創っていくことの重要性を、
いやと云うほど感じているのが、現代という時代かもしれません。

その関係性の基とも言える、
家庭の中における個と個の関係性、
家庭の中における夫と妻の関係性、
そこには、
その人の第一・七年期のありようが映し出されていて、
もしかしたら、
そここそに、
新しい宗教性が啓かれるかもしれません。

そのことが、
もっとも現代的なテーマとして、
わたしたち大人が向かい合って行っていいことだと、
あらためてわたしは考えさせられています。


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2011年12月13日

〜大人の内なる子ども時代〜 入間カイさんの講演会 2

入間カイさんの講演会から、日が経つにつれて、
そこで語られた事柄を、
だんだんと想い起こされるままに書いています。

そこで語られることがシュタイナーのことばを基にしたものであっても、
人がその人ならではのことばで語るところに、
新しい意味合いと深い味わいが生まれるのですね。

わたしにとっては、とても印象深く、
これからも様々に想いが深まってくるのではないだろうかと感じています。


人における「子ども時代」。
それはこの世に生まれたときから、
7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。

しかし、実のところ、その「子ども時代」は、
その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。

よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。

「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかった」

でも、大人になっても、遅くはない。

なぜならば、人の内側には、
いまだにその人の「子ども時代」が息を潜めているからなのです。

「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、
シュタイナー教育などに接したときに、
そのようなことばが思わず呟かれるのかもしれません。

「子ども時代」を強く保ち続けている人などは、
どれだけ年を重ねても、若さを持ちつづけている。

子どもの気持ちにいつでも帰ることができる。

自分の中の子どもに語りかけるように、
何かを創ったり、語ったり、書いたりすることができる。

その創られ、語られ、書かれたものが、
また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。

幾つになっても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、
そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。

少しずつ、入間さんによって語られたその「子ども時代」について、
想い起こしつつ書いていけたらと思います。



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2011年12月11日

〜大人と大人の間の信頼〜 入間カイさんの講演会 1

今日、入間カイさんの伊丹での講演会、
「今、この時代に大人がこどもにできること」を聴きに行ってきました。

アントロポゾフィーを深くから摑んだ彼の話は、
いつもとても明晰で、かつ繊細にことばを選びつつ、
大切な考えをわたしたちに伝えてくれます。

今回は、この講演会の題名からも伺えるのですが、
3月11日後のわたしたちにとって、
とても重く、切実なメッセージが彼から伝わってきました。

このときにあって、
わたしたち大人がいま、もっとも意識して創り上げていくべきもの。

それは、人と人との信頼、
そしてそこからこそ生まれる「つながり」だということ。

3.11後の世は、
わたしたちにいま一度、
人と人との信頼というものを取り戻せ、
そして、大人たちよ、そのために、いま一度、目覚めよ、
というメッセージを送ってくれているのではないでしょうか。


子どもは、大人たちの間の信頼関係をこそ土台にして、
人間として成長していくことができる、
自分の<わたし>を育んでいくことができる。

もしかしたらこれから、
子どもたちにとって、
こころの上でも、
からだの上でも、
健やかに生きていくことが大変厳しい時代になろうとしているのなら、
わたしたち大人は、
なんとかして、
子どもたちひとりひとりの個の成長、
子どもたちの内側から発し、伸び、花開こうとする<わたし>の力を、
邪魔しないようにしなければならない。

そうして子どもの中で育った<わたし>のみが、
外の世界からやってくる様々なものに太刀打ちできる。

その<わたし>のみが、
困難な道を切り開いていくことができる。

そのための具体的、かつ発展的な示唆が、
シュタイナー教育によってなされているのですが、
そのような教育上の示唆以上に、
子どもの側にあるわたしたち大人のありようそのものが、
これからはますます問われていくだろう。

ひとりひとりの子どもの<わたし>は、
大人と大人の間の信頼関係を側で感じることによって、
そしてひとりひとりの大人の自己信頼から生まれる気概に接することによって、
育まれる。

人と人との信頼からこそ生まれる「つながり」。

そして、ひとりひとりの人の内から発せられる自己信頼の光と力。

そのことに真摯に取り組んでいくのに、
アントロポゾフィーからのこころの練習が、
ますます、ものを言ってくるだろう、
今日の講演を聴きつつ、そう強く感じました。

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2011年11月04日

アントロポゾフィー医学入門講座に参加しました



昨日、11月3日午前、
東京の新宿でアントロポゾフィー医学入門講座に参加した。
ドイツの産婦人科医師、クリストフ・ツェルム氏の講演。

医学・医療の前提となる、
「どのような人間認識から医療はなされうるか」ということが語られ、
わたしにとって、とても有益な時間になった。

それは、
普段の医療において、
「どのような人間認識から医療はなされうるか」ということは、
語られているのだろうか、
語られていないのではないか、
ということに改めて気づかされたからだった。

普段の人間のありようを観察していくことで気づかされる、
人というものの多層性。

その観察から人のからだだけではなく、
こころ、精神を視野に入れた何らかの医療がありえる。

そのような人のまるごとを尊重するあり方が、
これからの時代になくてはならないものになっていくだろう。

  自分の亡くなった父のことを思い出すに、
  そう、強く実感する。

まずもっては、
目には入ってこないこころと精神。

それらは、しかし、必ず、からだに、その働きのしるしを残す。

そのかすかなしるしを読み取ることこそが鍵なのだ。

人は、
冷えと熱、
硬さと柔らかさ、
集中と拡散、
そのような両極性において、
まんなかに立つこと、バランスをとることを通して、
その人、その人ならではの健康を獲得していく。

健康とは、
その人がその人になるべく辿るプロセスそのものなのだ。

だから、病気というものも、
崩れたバランスをとり戻して、
その人がその人になるべく辿る、
プロセスの一部ということになる。



ツェルム氏のユーモアを交えた話から、
本に書いてある知を、
語る人ならではの息遣いから聴くことの大切さを感じる。

この聴いた話を、
家庭において病気の人の面倒を見ること、
家庭医学・医療にどう深めていくことができるか。

それが、これからの、わたしの課題である。


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2011年10月17日

問いが熟してきた

わたしはずっと自分の仕事についてどこか違和感を感じていました。

目指したいものの青写真のようなものがあり、
それが見えているような気にはなっているのですが、
仕事をしている内に、
どうしてもその目指したい方向からいつの間にかずれていってしまっていることに、
うすうす気がついているのです。

そして、その「ずれ」とは何なのかをずっと問うてきました。

しかし、3月11日のこと以来、
春、夏、そしてこの秋に入り、
この問いそのものが熟してきたように、いま、感じています。

そんなときに、また、ひとつ、シュタイナーのことばを読みました。


1909年8月22日に、ドイツのミュンヘンにおいて、
エドゥアール・シュレーの戯曲『ルーツィファーの子どもたち』が上演され、
それにあわせて、8月23日から31日まで、
シュタイナーは連続講演『西洋の光の中の東洋』を行いました。

その初日の講演で彼はまず、
『ルーツィファーの子どもたち』を上演することの、
そもそものつもりを述べています。

上演することが大事なのではない。

準備や仕上げが大事なのでもない。

大事なのは、劇を見に来る人々だ。

劇を見に来る人々のこころの中に、ひとつの共なるいのちが生まれることだ。

作品から発する内なるハーモニーに息づくいのち、情、
それらがおのずと見に来る人々のこころの中にも流れ込み、
こだますることが大事なのだ。



そこから、シュタイナーは、劇の上演だけに限らず、
彼が取り組んでいるアントロポゾフィー運動のそもそものつもりについても言及しています。

わたしたちの運動の第一のモチーフは、
人と人との愛が生きる、「核」をかたちづくることだ。

その人と人との愛、友への愛は、
密やかで細やかな植物のようだ。

この植物は、
こころがハーモニーの中で共鳴するとき、
共なる精神生活が共なるあり方でこころを貫いて震えるとき、
そのときにのみ、
花開く。

わたしたちの運動がそのようになりえるとき、
友愛の果実、
精神のハーモニーの果実が、
人々のなかで実る。



わたしたちの運動が、
つまり、わたしたちの最も近い人間関係こそが、
信頼と愛のハーモニーを奏でるとき、
共なる精神によってこころが貫かれるとき、
そのときにのみ、
他の人々、新しくやってくる人々のなかにもそのハーモニーが響く。

そのハーモニーがあるところにこそ、
人はおのずとやってくるのでしょう。


わたしも、
劇を創ろうとしている者であり、
アントロポゾフィーを育んでいこうとしている者でもあります。

これから、わたしは、このハーモニーにこそ、意識的でありたい。

まずは、わたし、友、運動を育んでいこうとする仲間たち、
その内から、ハーモニーを大事に育てること。

劇を創る人同士の関係から生まれる内なるハーモニー、信頼、愛、理想。

それがあってこそ、初めて、劇は、そしてこの運動は、
多くの人々と共に育っていくのだという予感が、
いまは、浮ついたものではなく、
仕事として定着していこうという意欲になりかわっているのを感じています。

わたしが感じ続けていた「ずれ」は、
このハーモニーのかけがえのなさをこころの奥底で感じているのにもかかわらず、
そのことに十分に意識的でなかったことから生まれていました。


posted by koji at 00:08 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする