2014年02月21日

俺は鈍臭いのだ

今回の公演『グリム童話のひととき』もいつも通り、昼夕ふたつの公演だったのですが、自分が語った「白雪姫」において、俺自身、昼の公演から夕の公演にかけてまるで起死回生の生まれ変わりを体験したような思いがしています。

昼の公演において、お客様はこれ以上ないほどの暖かさで耳を傾け続けてくれたのにもかかわらず、俺は過去において数限りなく繰り返してきた失敗することへの恐怖と幻滅を今回も再び味わい尽くしながら語り終えたのでした。

いったん、どこかの箇所で、ひとことのことば、一音の発し方をしくじった途端に、ことばが、上から、まったく降りてこなくなって、舞台の上で、しどろもどろ、頭で必死に考えながらことばを繋いで、繋いで・・・。

普段、生徒さんたちに、やってはまずいこととして言わせてもらっていることを、全部自分でしているのでした。

おまけに、ことばを間違えたり、灯さなければいけない蝋燭を倒してしまったり、失敗、失敗の連続。

格好悪いったらありゃしない。

全くもって、鈍臭い。

でも、なぜか、そんな自分の格好悪さ、鈍臭さ、駄目さ加減を、今回は自分自身に許すことができたのでした。

これまでの人生でずっとやってきた鈍臭いことや駄目なところ、それをなんとか隠そう、隠そうとしてきたと思うのですが、今度の舞台で丸見え、と言いますか、隠しようもなく露呈してしまっている・・・!

もう、隠さんでええやん!

恐怖と幻滅を味わい尽くし、駄目な自分をも認めることができたからこそ、もう、夕の舞台では、腹を決めて捨て身で舞台に立つことができたのかもしれません。
言語造形をしていくことに対する信頼、ひいては、自分自身に対する信頼を舞台をしながら取戻し、確信することができたのでした。

でも実は、自分だけのそんな内的な変化だけではなく、妻も舞台を見守りつつ、こころの中で、そんな俺をそのまま許し、応援し続けてくれていたのでした。

後から妻に聞いたのですが、舞台の上でのそんな俺を見守りながら、その駄目な部分、鈍臭いところは、実は妻自身のひとところとしてずっと纏わりついていたものであることに気づき、その彼女自身のマイナスであるようなところを妻自身が認め、許し、愛することができた。
そして、俺を内的に応援し続けてくれたのだそうです。

俺は、夕の公演の間中、ずっと、何かに守られていた様なこころもちでした。

公演に来てくださった方々、本当にありがとうございました。

こんなことを書いてしまって、お客様に申し訳ない思いもあるのですが、正直に書いてみました。

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2014年02月20日

新しい日本語 〜鈴木一博さんによるグリム翻訳〜

言語造形家、鈴木一博さんによるグリム翻訳。
声に出すことで、そのお話が秘めている品格を引き出すような翻訳。

でも、この翻訳による日本語に自分のからだとこころを沿わせていくためには、
わたし自身、随分と時間をかけているような気がします。

日常生活にはもはや使われることのない言い回し。
日本語には通常ない語順。
その上で、
ことばひとつひとつ、音韻ひとつひとつの響き。
文から文への無駄のない歩みの中で生まれる空間の広さ、狭さ、高さ、低さ・・・。

それはドイツ語からの翻訳であることをあえて徹底的に意識し、
日本語としてこなれた翻訳をしようということではなく、
古いことばと今のことばとの出会い、ドイツ語と日本語との出会い、
その出会いそのものから生まれる違和をあえて引き立て、
さらに新しい融和を模索するような翻訳だと感じています。

そんなある意味、新しい日本語と云ってもいいこのグリム翻訳に通暁していくことに、はじめは随分と困難と不自由を覚えたものでした。

でも、それに通じていくほどに、
芸術的に簡潔なかたちを得たこれらのことば、文、文章には、
広やかで、豊かな滋味ある趣、思ってもみなかったような深み、そして自由を開いてくれる、そんな力をもっていることに気づきだすのです。

我が身と精神を総動員して取り組んでこそ、開かれてくる自由。

グリム童話との今回の仕事では、あらためて、そのことも感じたことでした。

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2014年02月14日

子どもたち、寄っておいで! くすのき園 - 大阪あびこシュタイナー幼稚園

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2008年から我が娘たちも通っている「くすのき園 - 大阪あびこシュタイナー幼稚園」。
http://kusunokien.exblog.jp

2014年度もこの園が開かれ運営されることは、大げさではなく、
本当に何かからの思し召しだと思っています。

この園があり続けているのは、
樋口早知子先生の大地のように揺るがない「満ち足りた優しさ」にあるんじゃないかなあ。

シュタイナーによるアントロポゾフィーを教条的に奉じることなく、
早知子先生の自主・自由・自発からすべてがなされているので、
そこから、先生の人としての懐の深さが園の雰囲気として生まれているように感じます。

シュタイナーに深く学びながら人としての本質、教育の本質からずれずに、
シュタイナー教育はこうすべき、あああるべき、というような鋳型から自由であることは、
意外と難しいのかもしれません。

シュタイナー幼稚園と言っても、ひとつひとつの園がそれぞれの先生の「ひとりの人」としてのかけがえのなさから魅力が生まれるような気がしてなりません。

大阪我孫子のくすのき園は、そんな先生のお人柄から生まれている人間教育・幼児教育が毎日なされている場所です。

うちの娘ふたりはこの園が大好きだということを毎日言います。
卒園して小学二年生になる長女は、本当によく幼稚園時代を嬉しそうに思い出し、懐かしがっています。

本当にからだの奥深いところ、こころの奥深いところまで、園の精神が及んでいる・・・。

さらに、多くの子どもたちがこの園に通ってきますように。

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2014年02月09日

萬葉集とグリムメルヘン

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日曜日2月16日に行われます「ことばの家」での言語造形公演『グリム童話のひととき』が、
一週間後に迫ってきました。
5時30分開演の夕の部にまだ少し空きのお席があります。
ご関心のある方、ぜひ、いらしてください。
詳しくはこちらです → http://www.kotobanoie.net/pray.html

今回、なぜグリム童話を公演で取り上げることにしたのかを改めて自分自身に問うてみたのです。

ここのところ、わたしにとってとてもリアルに響いてくるのが、『萬葉集』の詩歌でした。

五・七・五・七・七の三十一文字で描かれてあることばの世界。
そこに記録された様々な歌を口ずさんでいると、
この三十一文字の裏にもうひとつの文字になっていない歌があり、
その歌は創造や生成の場としての混沌と言っていいようなところから立ち上がってくるもので、
それは原形質の感情であるがゆえに、すぐにはことばにして言い表すことのできないものだと感じます。

この、歌の本質と言えるものこそを、古代の人は、「言霊」と言ったのだ。
この「言霊」ということばを、ことさらに新興宗教の教説めいて言うのではなく、
ごくまっとうに、どの人のこころの内にも感じられる、詩歌の味わい、詩の詩たるところ、ことばのことばたるところとして捉えたいのです。

そして、メルヘン、童話、昔話、というものを読んだ後、聴いた後にも、
その詩歌の味わいに似た、ことばではうまく説明できない余韻のようなものがこころの深みに揺曳しています。

そのこころの奥に揺らめくように生きる絵姿。響く調べ。きらめき、くすむ色彩。

そのようなことばにすぐにはできないところを、グリムメルヘンを通して人と分かち合いたい。

そう思ったのでした。


わたしの師の鈴木一博さんが以前に書かれたグリムメルヘンについての文章です。

ひとつ、こういう試みも役に立ちます。いわば実験的様式論です。
ひとつのメルヘンを取り上げて、一、二回、読み通したら、本を閉じ、相のひとつ、ことのひとつを、思い描きます、ありありと迎えてみます。
そして、そのひとくさりを、ことばにしてみます、声にだしてみます。
そしたら、また本を開いて、グリムがものしたその箇所を、よく見てみます。
ほとんどそのたびごとに、こういうことが分かるでしょう。
グリム兄弟が要しているのは、こちらが要したことばの、おおよそ三分の一ほどだと。
また、その少ないことばをもってつくられる文の、大いなる単純さも、際立つでしょう。
さらに、こう問うこともできます。
その簡潔な、「飾りのない」言語の形において、読む人が読んだ後に抱くとおり、そうした多彩で、豊かな相が生じるのは、なぜでしょう。
その問いをもって、こういうことがはっきりします。
まさにその控えめで、みごとに簡潔な形に触れてこそ、読む人のイマジネーションの力に火が点きます。
その力は、ひとつの形を要します。
普遍的で、広く、自由の余地を残す形であり、それが十分にそうであってこそ、読み手、聞き手の内なる働きに場が与えられます。



言語学者でもあり、民俗学者でもあったグリム兄弟によって、
人々から聴きとられたメルヘンは手を入れられ、彫琢され、造形されて、
見事なまでに簡潔なかたちをわたしたちに提示してくれています。

萬葉集の歌やこのグリムメルヘンのように、
そのような「かたち」をもって、
人の「イマジネーションの力に火を点ける」ことこそが、
文学の本望であり、ことばの芸術の本来の働きなのではないでしょうか。



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2014年01月25日

ルドルフ・シュタイナーの『神秘劇』日本語上演に向けて

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今日、東京の新宿での、日本語での『神秘劇』(ルドルフ・シュタイナー作)上演に向けての会に伺い、言語造形に皆で取り組む。

オイリュトミストであり、翻訳・通訳業もされている香川裕子さんが中心になって2010年からなされている勉強会で、今日は20人ほどの方が集まられていた。
http://jade-initiative.net/bodywork.html

生硬な、とも思われる30年以上前に訳された日本語の文章ではあるが、それでも言語造形を通してからだまるごとでことばを発声していくと、そこにそれぞれの人物の表情や感情や性向などが如実に立ち上がってきて、とてもおもしろく魅力的だ。

参加された皆さんが、とても熱心で、そのお蔭で活気のある、ユーモアに満ちた暖かい時間と空間になる。


しかし、今回こうしてわたしも『神秘劇』に取り組む機会をいただいて、この作品は「おもしろい」だけでは済まない、相当の深みがあることに漸く気づかせてもらえた。

人というものが、なぜ、これほどまでに悲しい存在であるのか、しかし、そこに必ず、精神の光が、時間の有限性を越えてひとりひとりに差し込んでいる。

このドラマは、1910〜1913年に渡って初演されたのだが、そこにはその数年後に実際にアントロポゾフィー協会に起こった様々な悲劇がまざまざと予言されている。

まことを求める人が舐めざるを得ない痛切な「さだめ」、そしてそこからこそ人は痛切に何かを学べるのだということ、そのことをこの劇は芸術的に掘り下げている。

今日参加して下さった、子安美智子さんが仰っておられたが、この劇を演じることと、この先を生きていくのに不安を煽られるような、いまの日本に生きてゆくこととを重ね合わせること。

その重なりは、個人個人の、この「さだめ・運命」との真っ向からの向き合い以外に場を持たないだろうと思う。


今年の7月25日(金)、26日(土)、ドイツからミヒャエル・デーブス氏をお迎えして東京で日本語上演を含む神秘劇会議が開催される。

この会議をまたひとつの大きなスプリングボードにして、これから、年月をかけながら、日本語での上演を通して肉体を動かし、汗を流しながら、学びを深めていくことになる。
その「さだめ」との向き合いそのものを深めていくことになる。

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2014年01月03日

内なる歓声 〜2014年 新年おめでとう〜

2014年、あけましておめでとうございます。

今年が、わたしたちひとりひとりにとって、
より自分らしさへと、自由へと、そして更なる調和へと新しい一歩を踏み出していく、
そんな年になりますように。

送ってくれた年賀状にこんなことを書いてくれた友人がいました。
「ことばの家は、まるで虔十公園林のような存在だ」
(『虔十公園林』とは、宮澤賢治の作品です。http://kotobanoie.seesaa.net/article/381326779.html

そこでは、大の大人が、ことばの森林の中に入りこんで、
内なる歓声を上げ、内なるからだを目一杯に躍動させ、
内なる太陽と雨と風と共に歌い、踊る。

以前書いた文章を、年の初めに、もう一度、自分自身で確かめたくて、
再び載せさせてもらいます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

________________________________________



「ことばの家」。

その名前の由来は、20世紀初頭を生きた精神科学者ルードルフ・シュタイナーのことばです。
アントロポゾフィー運動のホームグラウンドとしての「ゲーテアヌム(ゲーテ館)」を、
彼は「ことばの家」と呼びました。

ゲーテアヌム建築中の1914年6月17日にドルナッハの丘の上でシュタイナーは、
「ことばの家」について以下のように語っています。(要約です)


   人びとは口から耳へと伝えられるものが、
  平和と調和を作り出せると本当に信じています。
  しかし、平和、調和、人が人としてあるありようは、
  神々がわたしたちに語りかけるとき、初めて生まれるのです。
  このゲーテアヌムの壁、そして窓に施される芸術的なフォルムによって、
  神々はわたしたちに語りかけてきます。
  フィジカルな壁は生きていませんが、
  エーテルの、精神の、壁は、生きて動くものなのです。
  地球の大地がその懐から植物たちを生み出すように、
  わたしたちが造形する壁のフォルムは(内において)生きて動くものを生み出します。
  わたしたちの建築は、そのフォルムによって、
  きっと、神々のことばを語り始めます。
  植物のエーテルのフォルムに耳を傾け、
  それらをわたしたちの壁のフォルムによって創ろうではありませんか。
  自然に潜む神々が、人に、語る喉頭を創られたように、
  わたしたちは、芸術によって、神々が語りかける喉頭を創るのです。
  わたしたちは、これらのフォルムが何を意味するのかを解釈するのではなく、
  心臓で聴くかのように神々のことば、精神のことばを分かろうとします。
  その分かる力を育むこと、それがわたしたちのなすべきことです。
  このように、精神への道を見いだそうという聖きこころもちが、
  この仕事場に満ちますように。
  仕事場とは、きっと、
  人がその精神を愛の内に見いだし、
  平和と調和を地上に拡げていくような精神への道を見いだす場です。
  真の芸術への、真の精神への、そしてすべての人への愛をもって、
  「ことばの家」「神が語る家」を建てようではありませんか。


その豊かな精神、その豊かな内実を、
わたしたちは、乏しい中にも、受け止めることができるのだろうか。
そう考えています。

わたしたちも、フィジカルなものはなくとも、
エーテルの生きたフォルムが、場に織りなされていくならば、
そこは、「神が語ることば」に耳を傾けることができるような場として成長していくことができる。

そのエーテルのフォルムは、
いかにして空間に織りなされることができるだろうか。
外的なつくり、フィジカルなかたちではなくとも、
内なる建築作業は、
いかにしてなりたちうるのだろうか。

そのことを問いながら、この「ことばの家」を仕事場にしています。

空間に、内なるエーテルのフォルムが織りなされていくには、
「ことばの家」において語られることばが、ひたすらに、
人間的であること、生命的であること、エーテルの動きを湛えていること。
そのことが要であるように思われます。

ことばが、人間的であり、生命的であることを求められている。
100年前のヨーロッパにおいても既に、
ことばは非人間的な響きを湛えていたのでしょう。

その、人が語ることばの内なるつくりによって、
神々が語りかける場としての芸術的なフォルムを用意していくことはできないだろうか。


わたしたちの「ことばの家」は、
舞台・ワークショップ・講座などを通して、
ことばを話すこと、語ることが、
芸術になりえるのだということを提示していきたいと考えています。

そして、ひとりでも多くの方と共にそのことばの芸術を受け取り、楽しみ、
創造していきたいと願っています。
そして、さらに、ことばの芸術を通して、神々が語りかけ、
ひとりひとりの人がますますその人その人になりゆく、平和と調和が育まれていく、
そのことを意識しています。

ことばには、その「こうごうしさ」が湛えられるような、
芸術的なフォルム・つくりが欠かせないように思われてなりません。

わが身を通して、ことばを発すること。
そのことを繰り返し、繰り返し、練習していく中で、
「人間的であること」「こうごうしいこと」を共に、探っていきたいのです。
    
芸術とは、
「人はこうもありえる、もっと、こうもありえる!」というところをわたしたちの前に提示してくれます。
わたしたちに「人であること」「こうごうしいところ」を思い出させてくれます。
だからこそ、芸術は、人が生きることにおいて絶対に必要なものであります。

今、ことばが見直されようとしています。
それは、ことばに人間的な響きを取り戻したいという時代の願いであります。

では、人間的な響きとは?

そのことこそ、「ことばの家」において、実践的に見出していきたいことです。



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2013年12月31日

イエス・キリスト生誕劇 in 仙台

今年の仕事収め!!!
仙台での5日間連続のシュタイナー教員養成講座から帰ってきました。

クリスマスのイエス生誕劇を参加者の皆さんと共に辿った5日間。
大村祐子さんの素晴らしい12感覚論と相まって、
言語造形を通して参加者の皆さんの内側に日を追うごとに変容が起こり、
最後の5日目にはとても厳粛で敬虔な時を分かち合えたように、
わたしには感じられたのです。

わたし自身も、おひとりおひとりの息遣いに寄り添って、
この「おさな子の生まれを寿ぐ」劇を生きていくうちに、
こころの浄まり、と言っていいのか、
余計なこころの傾きを洗い流してくれるような作用をこの劇から頂いていることに気づきました。

それもすべて、20名もの参加者の皆さんの、
暖かくて真っ直ぐで積極的なこころもちと、
この連続講座を運営されている福島玲子さんはじめスタッフの皆さんの献身的な働きと細やかなお気遣い、
そしてすべてを見守ってくださっている大村祐子さんの精神的なサポートのお蔭に他なりません。

講座の後の夕食を囲んでの語らいも堪らなく嬉しかったし、
すべての講座を終えた後、受講者のおひとりの方が松島まで観光に連れて行って下さるその優しさに胸が一杯になった宮城での時間でした。

それにしても、夜7時に仙台空港から飛び立って9時半には大阪の我が家に着いていることに、
何だか今まで自分は遠いところにいたのか近いところにいたのか分からなくなるような不思議な感覚に包まれてしまった。

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2013年11月27日

11/30「宮澤賢治の世界」再演にあたって

言語造形によって宮澤賢治の作品を語ること。
それは、自分自身の奥深くに眠っている「生きるということにおける原風景」のようなものを想い出させる作業です。

雪や雨や霧や風に晒され、吹き付けられ、ずぶ濡れになる。
また、その向こう側に輝いているおひさまの光に照らされ、包まれ、暖められる。

その寒さと暖かさ。暗さと明るさ。固さと柔らかさ。苦さと甘さ。濁りと清らかさ。

視界がまだはっきりとは開けていない時の、おそらく赤ん坊の時に感じていたであろう、古代人であった時に感じていたであろう、
それらの原体験を想い出していく作業です。

そのような原風景に包まれながら、わたしは、おのれの原感情のようなものに出会う。
「生きたいのか、死にたいのか、どっちなんだ?」と問われれば、間違いなく「生きたい!」と答えるような。
「生きて、何をしたいんだ?」と問われれば、「広がりたい、深まりたい、大きくなりたい、清々しく透明になりたい、この身体を越えてでも!」と答えるような。

そんな賢治の作品を繰り返し練習し、繰り返し舞台に乗せるごとに、そのようなおおもとの感情が自分自身の中でも実は息づいていることを感じるのです。

もしかしたら、繰り返しその語りに耳を傾ける人にとっても、自分自身の中にそのような原感情が息づいているのを感じることがあるのではないだろうかと思うのです。

そして、その原感情を共有しあえるときを、わたしはこうしてやっていながら、すでに予感しているのです。

ぜひ、聴きにいらしてください。

互いに、語り合い、聴き合いましょう。

今週の土曜日、百年長屋で、『宮澤賢治の世界』を再演いたします。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/379178682.html

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2013年11月21日

やるじゃないか

この春からの転校生である小学二年生の我が娘は、
クラスの中の女の子の友達たちとの関係に神経をすり減らしていたよう。
そのことが彼女のこころの内に大きな影となって、
授業についていけない、だから学校が面白くない、ということとも重なっていって、
もう学校に行きたくないという気持ちに何度か襲われていた。

しかし、今日学校から帰ってきて、とても晴れやかで、かつ、誇らしげな表情で言った。
「今日、その子たちに言ってやったんだ。わたし、そういう、ひそひそ話しとかするの、大嫌いって。」

娘とその子たちと、どちらが、いい、悪い、なんて言えないだろう。

でも、自分の感じていることをはっきりと口に出して言えた、ということ。
そのことは、我が娘ながら、偉いなと思った。

俺自身、いじめっ子にことばと態度で言い返せたのは、ようやく中学一年生の時。

娘よ。
おまえは、父が中学一年でできたことを小学二年でやれたのか。
やるじゃないか。

嬉しそうに、今日は、ギターをかき鳴らしていた。

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このギターは Rosei Hanawaさんが娘に下さったもの。
先日お宅へ娘たちがお邪魔した時におねだりしてしまったのか・・・。
Roseiさんはいつもこうしてさりげなく気持ちを遣ってくださる。
ありがとうございます。

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2013年11月05日

エネルギーとしてのお金

神楽をされている加藤俊彦という方がフェイスブックに以下のような記事を書かれていた。
自分自身にとっても思い当たることが多々あり、本当に多くの人からも反響を呼んでいる。


   「お年寄りの為に獅子舞やってください。一銭も払えませんが。。。」
  なんて老人ホームからの問い合わせが年間に50件近くある。  

  「僕も生まれ育った土地のご年配の方です、
  感謝もありますので交通費だけでいいですよ。」
  なんてわざと葉っぱかけてみるけど、
  「いやぁ、払えないんですけどね。でも喜んでもらいたいんですよ。」
  なんていう。
  「お前が企画してるんだから本当にお年寄りの為なら
  お前が身銭切れって言ってるんだよ。」
  って思うけど、ばかばかしいから言わない。
  ひねくれているがそんな言い回しされると妙にやる気が起きない。

  「お年寄りの為に獅子舞やってください。一銭も払えませんが。。。」じゃなくて、

  「今経営難でお金がないんですが、どうか獅子舞やって頂けませんか?」
  と言われれば男気見せるかもしれないし
  「ありがとうございました。
  お年寄りの方が喜んでくれましたよ」じゃなくて、

  「ありがとうございました。
  これでお客さんが増えて景気がよくなったら必ず次はお礼します。」
  って言われれば納得するのである。何をかっこつけてるのか、年寄りを利用して。

  芸の価値は金だけではなくて、もっと価値のある価値である。
  昔こんな事があった。

  「お兄ちゃん。友達が誕生日なんだ獅子舞やってよ」
  なんていう7歳の子供がやってきた。

  「嫌だよ、獅子舞を仕事にしているんです。ただでなんてやりません。」
  なんて断る。

  ほんの冗談の会話である。

  ところがこの子、5人の友達を連れてきて、500円持ってきた。
  「これしか払えないけど、やってください。」
  「本気だったのか、やってやるよ、(500円)いいからしまっておきな」
  「だってお兄ちゃんの仕事なんだからそれはだめだ」
  と言って引っ込めない。。。5人で100円ずつ集めて持ってきたらしい。

  その日の夕方、家にいろんな細工とお菓子を用意して獅子舞をした。
  「今日はお兄ちゃんが引き受けてくれたからいい誕生日になったよ、【ありがとう】」

  金だけの価値で言えばお菓子も細工も身銭きってるので赤字!
  だけど、もっとすごく大事な事を教わった。
  それから二年たつけど、その500円はなぜか使えないし
  未だにこの子に会うと頭が下がるのである。

  この子は俺にとってはなかなかの旦那である。




こう思う。
人が本気で何かをなすとき、そこにはお金が流れるべきだ。

なぜなら、お金とは、人と人との間に流れるエネルギーが可視化されたものであり、
だからこそ、人が真心から本気で何かをなし、何かを創造するときに流れ出るエネルギーに対して、
それを意識して自覚的に受け取った人は、必ず自分自身のこころからの気持ちとしてお金というエネルギーをお返ししたくなるのだ。
人間の本質上、それは極めて自然なことである。

エネルギーとエネルギーが行き交うこと、それを経済というのではないだろうか。
そもそも経済とは、感謝というエネルギーの交流のことを言うのではないだろうか。

そして、プロとアマとの違いは、他者からの評価から決定されるのでは実はなく、
根本的にはその人の意識次第なのである。
自分はプロなんだと意識するほどにその人は益々プロになっていくのであり、
自分はアマなんだと思っている、その通りにその人はアマである。

さらに根本的には、プロでもアマでもどちらかがより価値があるということでもない。

要は、その人が真心からしているかどうか、本気で創造しているかどうか、であって、
その真心と本気からの行為こそが社会的行為であって、
そういう行為をこそ人は求めていて、そういう行為にこそ人はお金を支払いたいのだ。
その時支払うお金は、感謝と喜びと愛の表現である。

その行為における技量の高低も、そもそもはその人のエネルギーの強さによっている。


個人的なことだけれども、「無償だが、原稿を書いてくれ」という依頼も以前は多々あった。
ある催しにに主催者から呼ばれて、この際丁度いいから諏訪さんに詩の朗唱をやってもらいましょうというようなものもいくつかあった。
また、言語造形の生徒さん達の間にも「わたしたちはまだまだ未熟だから、お金をお客さんから頂くなんて畏れ多い」という考えがあった。

いい加減に何かをするということは本当に人をスポイルしてしまうということ、
人が人として本当に輝くためには、未来にではなく、いま、ここで、本気になることのみによってなのだということ、
そして、そういう本気の行為をこそ、人は求めているのだということ、
だからこそ、人と人との本気の出会いの場において、お金はしっかりと介在するべきだということへの理解が、これからはだんだんと多くの人に共有されていくだろう。

だから、意識の転換である。大転換である。

本気と本気の出会いこそが必要なのであって、
いい加減な行為はしない方がいい。

本気と本気の出会いに、お金は一役買ってくれる。

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2013年10月30日

きりぎりす

もうすぐ10月も終わるけれども、この一か月は結構家にいて、子どもたちとたくさんの時間を過ごしたなあ。

子どもたち二人がどちらも水ぼうそうに罹って、それぞれ一週間づつ幼稚園と学校を休んだし、
上の小学校二年生の長女は、学校の授業についていくのが辛くて学校に行きたくないと訴え始め、
それでたっぷりと時間をとって彼女と時間を過ごしたりもした。

猫も優しさ全開。
疲れている人の膝に乗ってきてくれる。

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そして、なにより俺自身が、焦ることがなくなった。
たとえ、ばりばり働いていなくても、ばりばり稼いでいなくても、何をしていても、何もしていなくても、焦ることがなくなった。

これは、俺にとってすごい大きな変化で、
外側に何かを求めに出ていくことはますます少なくなって、
内側にすでにある自分自身という豊かな宝に目覚ましい想いをしている。

「何かが足りない」という想いに取りつかれなくなってきた。
「すでに満たされて、俺は、ここにいる」という想いが真ん中に居座るようになってきた。
結果的に、したいことしかしていない。

言語造形のことしか考えていない。その稽古と仕事しかしていない。

「蟻ときりぎりす」の中の「きりぎりす」になってしまった。

ずっと前から、したいことしかしていないと自分では思っていたのだけれど、そんな自分を超えて、新しさの中へどんどんと入って行っている。

そんな「きりぎりす」になったせいか、
子どもたちや妻と過ごす時間のかけがえのなさや美しさをより感じるようになった。

毎日、子どもの中の喜びや不安を共に分かち合って、
毎日、妻の中の花と女性性を充分感じて、
毎日、自分自身の内なる豊かさをすべて認め、味わい、解き放って、生きていくのだ。



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2013年10月05日

自由を応援する

毎日、稽古をする。

人にも会わず、繰り返し繰り返し、練習する。

これがとても充実した作業。

音と音の境目、間(ま)の深みと拡がり、そこに走る活き活きとした精神の躍動。

余計なことを考えずに、それらのものを追っていると時間を忘れてしまう。

とても地味な作業だけれども、確かなものと出逢っている感覚が俺を内から満たす。

これまで、勉強もそれなりにしたのかもしれない。
そこから汲み取られる叡智に数限りない恩恵を頂いてきたように思う。
これまでの人生になくてはならない筋道をずっと提示してくれ続けていた。
これかもきっとそうだろう。

ただ、近頃、その勉強したものごとをことばにして語るのが、
畏れ多いような気がするし、正直、億劫に感じられもする。

今までに学び、そしてこれからも学び続けるものを、
すべて自分のからだとこころの行動の内側に潜めたい。
すべて言語造形の稽古と舞台実践に籠めていきたい。
もう余計なことを言いたくない。

今年49歳になるのだけれども、
これからの七年間はそんな七年期にしていきたい。

そしてもしかしたら、56歳ごろからの次の七年期において、
初めて俺の内側から、
「ことば」と行動がひとつになって結晶になるのかもしれないし、
ならないのかもしれない。

いま、自由を生きる。

それは、自分自身に正直になること。

自分の中のものをすべて認めて、
なおかつ自分のこころの奥底からの声に素直に従い、素直に行動に移していく。

それこそが世界の中で誠実に生きることだと感じる。

毎日、アトリエで、稽古する。

そこからこそ、自由がリアルなものとして育っていくのを感じる。

そして、すべての人が、きっと、
その人その人の独自な行動からこそ、自由への道を歩きはじめる。

俺は自分自身の自由をどこまでも応援するし、
人様の自由をもどこまでも応援するのだ。

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2013年09月25日

新しい豊かさ

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わたしたちは、ひとりひとりどの人も、凄まじい位の豊かさをすでに与えられているように思う。

その豊かさは、内的なもので、目には見えないもので、
でも、だからこそ、決して失われたり奪われたりすることのないもの。

その豊かさは、精神からの贈り物であり、神からの授かりもの。

その豊かさは、ひとりひとり別々の豊かさで、その人がこの世に生まれてくるにあたって授かった独自のもの。

そのひとりひとり独自な豊かさを、その人その人のペースに合わせて、ただ、開いてゆくこと。
それがわたしたちひとりひとりの仕事かもしれない。

言語造形という芸術に携わっていて、その芸術が舞台の上で生まれてくるとき、
声を出すわたしを通して、その豊かさが溢れ出てくる。
ことばの力、ことばの精神、ことばの愛が溢れ出てくる。

そして、舞台を包む空間には、
わたしだけではない、その場に集って下さったすべての人、ひとりひとりの豊かさが共鳴して、
新しい豊かさが生まれてくる。

声を出さずとも、その場にいて聴き耳を立てている人の豊かさが、
わたしの発する声から溢れる豊かさに合流する。

聴くという行為は、まぎれもなく、愛だから。

演じ手と聴き手の豊かさの合流から生まれる「新しい豊かさ」。
言語造形の舞台は、きっと、そのような新しい豊かさを創造していく場。

これからの豊かさは、単に演じ手から聴き手に一方方向に与えられるものではなく、
演じ手と聴き手が共に創っていく新しい豊かさ。
演じ手と共に、聴き手が意識的に創造に参加することによって、本物の豊かさが生まれる。

言語造形の舞台は、その新しい豊かさへのいざないでもあります。

共に創る場。

新しい豊かさに向かって。



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2013年07月12日

これでいいのだ

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夜もそろそろ更けてきた今、
隣の部屋で、妻と小2の長女が、宮澤賢治の『めくらぶだうと虹』の練習をしている・・・。

その声の張りのみずみずしいこと!
こころのみずみずしさがそのまま声に出ていて、
二人の声を聴いていると、身内びいきに聞こえると思うのだけれど、胸が一杯になる。

「全部、憶えたら、どこででも練習できるなっ」と、
練習が終わった後、いい仕事を終えた仕事人のように爽やかに二人で話してる。

今日は、その長女の8歳の誕生日で、
学校が終わってから、二人で難波に出て本屋さんに行き、
誕生日のお祝いプレゼントにと、彼女の読んでみたい本を一緒に探した。
『イギリスとアイルランドの昔話』を彼女は選んで、
家に帰ってきて、早速むさぼるように読んでいた。

日本昔話やグリム童話や『古事記』や『旧約聖書』が大好きで、
お父さんやお母さんが小さい頃からずっと本を読んでくれたりお話してくれたから、
こんなに本が好きになったんだと、帰りの電車の中で話してくれた。
こころの中で、嬉し涙・・・(^^ゞ)。

わたし自身も、いま、賢治の作品をずっと練習している。
すると、これまでは読んでいても気づいていなかった様々なことがだんだんと意識に上ってくる。
練習をするたびにその作品の面白さや深みを見いだすことができて飽きることがない。

教育らしいことは、子どもたちに何も十分には用意してあげられないかもしれないけれども、
子どもも大人も一緒になって、
過去の人たちが愛し続けてきたことばの芸術作品をからだ一杯で味わってみよう!
そんな念いで子どもと一緒に生活している。

ことばに耳を澄ますこと。
ことばを声に出すこと。
ことばを読むこと。
そして追い追いことばを書いていくこと。

毎日、ことばを通して、生活の中のひとときを楽しむことができたら・・・。
「これでいいのだ」とバカボンのパパのようなこころもちである。

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2013年05月23日

追悼 狂言師・茂山千作さん 93歳



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狂言師・茂山千作さん、93歳でお亡くなりになられた。

舞台を何度か見させてもらった。そのたびに、茂山千作という人がこの世に存在していることの価値を感じた。

落語家の五代目柳家小さんを生で観た時も感じたことだが、芸のコクが増してくることと年齢を積み重ねていくことの間の浅くない関わりを感じさせてもらって、憧れとともに本当に勇気をもらえた。

名人の名人たるところは、おそらく、舞台を見終わった後、数日たっても数年たってもその時その場での余韻が残っていることで、むしろ時が経つほどにその時の味わいを噛みしめなおすことができる。彼の舞台は、そういう舞台だった。

僭越ながら、自分自身も、齢を重ねていくことに、恐れよりも、ずっと大きな希望を持てていること、それは千作さんのような方がいらっしゃったからだ。

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2013年04月14日

美しさと内なる充実

佐伯剛さんという方のブログ『風の旅人〜放浪のすすめ〜』から、
「暮らしの美しさは、何処に・・・」という記事を貼らせてもらいます。
http://kazetabi.weblogs.jp/blog/2013/04/post-7868.html

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ぜひ、読んでいただきたい文章なのですが、その中でも、次の部分を特に引用させてもらいたいと思います。
  
   本当の意味で、日本が世界に誇る文化というものがあるとすれば、
  それは、大きな声でアピールする必要なんてまったくなく、
  その存在自体が、今の粗雑な自分の在り方に対して、
  静かに反省を促すような力がある。
  その粗雑さというのは、世界や生命に対して、
  どこか傲慢になり、無神経になり、疎かにしているということ。
  世界や生命に対する無神経さというのは、
  実は、自分自身に対する無神経さともつながっていて、
  結果的にそれが、自分自身を荒廃させる。
  いくらたくさんの物に囲まれていても、生活が美しくならず、
  逆に荒廃していっているように感じてしまうのは、その為だろう。
  本当の意味で自分を大切にするとはどういうことか。
  そのことを考えない大人が、子供を大切にしているなどと言えやしない。



美しさとは、内なる充実だ。
神々が創りたもうた自然は、内からはちきれんばかりに充実している。
人が創るもの、使うもの、つきあうものは、人が内から充実をもたらすことによって初めて美しさを表に現してくれる。
わたしたちは、いつから、内なる充実を忘れてしまったのだろう。
世界中の人に、そして、これからの子どもたちに、
わたしたちの内なる充実をこそ、伝えていきたい。

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2013年04月13日

観ることと聴くこと

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絵であれ、写真であれ、直かに見るのであれ、
観るものから響きを持続的に聴きとっていくこと。
それは、わたしたちのフィジカルのではない、こころと精神の感官を育んでくれる。
そして、その感官を育むことは、モラルへの感覚へと導いてくれる。
この写真は格好の材料だと感じます。

   開かれた、自由な感覚をもって自然のまことをみずからのうちに生きる人は、
  そのまことを通して、精神のまことに導かれます。
  自然の美と偉大さと崇高さに貫かれた人のうちに、
  それらは精神における感覚の泉となります。
  善きことと悪しきことの彼岸において、
  永遠の無垢のうちにみずからを顕す無言の自然にこころを開く人に、
  精神の世へのまなざしが啓かれます。
  精神の世が無言の自然のうちに生きたことばを響かせ、
  そのことばが善きことと悪しきこととの区別を示してくれます。
  自然を観ることへの愛を通して精神を観ることは、
  こころのまことの宝となり、生を豊かにしてくれます。
  自然を観ずに繰り広げられる精神の夢は、
  人のこころを貧しくします。
          (ルードルフ・シュタイナー『会員への手紙7』1924年3月2日 より)

  
  
  

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2013年04月06日

密やかな儀式としての結婚

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結婚生活というもの、もしくは家庭生活というもの、そこにこそ、人はその人の課題を浮き彫りにする場を見いだすことになります。

人はひとりひとり、きっと、異なる課題をもってこの世に生まれてきています。その人のその人たるところにその人ならではの課題が与えられています。
現代において、様々な問題が立ち表れてきていて、それらひとつひとつは、ある個人の課題であり、またある地域、国、民族における課題であり、またこの時代に生きるすべての人が抱えざるを得ない課題でもあるでしょう。

それらの問題の中のひとつに、結婚生活、家庭生活の営みに対する困難さがあり、現代において多くの人がその問題に直面していることが、様々なニュースや情報や身近な人の話などから感じられます。それは、人と人とが共に存在し、生活し、働きかけあい、理解しあい、愛しあうことの難しさの表れであるのかもしれません。

シュタイナーは、結婚生活がだんだん難しくなってきているのは何故かと訊かれて、それは教育の問題です、というように答えています。
それは若い頃に受ける教育のことでもあるでしょうが、まさしく人が自分自身に向きあい、おのれの課題を意識し、それに取り組むこと、すなわち自己教育のことです。そのような自己教育によって自分自身に取り組み、生活を一日一日送り、結婚生活を織りなしていくということは、プライベートなことであり、とても密(ひめ)やかな、内的なことですよね。そのような密やかで内的なことに目を注ぐこと、取り組んでみることこそが、より本質的なことなのだと、シュタイナーは告げたかったのでしょう。

一方、結婚生活というものは、社会的な法の枠組み、制度の中に入っていくことでもあり、ひとりの人とひとりの人との内なる結びつきをパブリックで開かれた場において成り立たせ、やりくりをしながら生計を立て、生涯を計画していくことでもあります。
結婚生活というものには、そのように極めて内的な側面と外的な側面が重なり合っています。それは、人が、こころとからだで同時に生きているからです。

しかし、現代に生きているわたしたちは、内なる領域に生きているこの自分自身のこころというもの、そして他者のこころというものに対する不確かさ、不安、不信感などに苛まれがちです。
「こころほど、当てにならないものはない」
その内なるものへの不信が、外なるものとしての結婚制度そのものへの不信にも、きっと繋がります。
人はそのような、こころの世とからだ(物質)の世の間の往復だけでは、いずれ立ち止まってしまわざるをえません。

結婚生活を阻むような困難やそれに対する自己教育については、また別の機会に書くことができればと思っていますが、今回は、より大元のこととして、結婚というものを捉えたいのです。
結婚、もしくは結婚生活というものを、更に高い次元で捉えることが可能でしょうか。

シュタイナーをはじめ、高い精神の世から叡智を汲み出してきた様々な人が、そのような結婚の次元をことばにしています。
結婚とは、そもそもは、神と人との合一であったと。また、それは、こよなく高い精神からの知と人のこころとが結ばれることだと。そのような結婚ということの元の相(すがた)が、神話やメルヘンなどにも、美しい王子(高い知)と無垢な娘(人のこころ)の結婚などとして描かれています。結婚とは、ひとりの人の内に生じる、男性性としての精神と、女性性としてのこころとの合一のことを言い表すことばでした。いまも、わたしたちひとりひとりの内で、そのような内なる結婚が生じます。

なおかつ、ひとりの人とひとりの人との結婚を通して、そのふたりが結ばれ、育みあい、愛しあう、その男性性と女性性との重なりの真ん中に、高い知が降りてくる。ふたりの人の結びつきの上に、神が降りてくる。そのような場が、結婚なのだと。

シュタイナーは、特に、キリストという存在がこの世に来たことの大いなる意味を、結婚というものの中に見ています。
キリストがこの世にもたらそうとしているものは、ひとりひとりの人が自由な存在としてひとり立ちすることへの強いこころざしです。そして、人は、人との共同の中でこそひとり立ちしていくことができるのであり、男性性と女性性との合一として、結婚がそのような聖なる課題を人に与える最良のことなのです。
こういうことばが、キリスト自身から発せられています。
「ふたりが、わたしの名において、ともにあるところには、わたしが、ふたりの、ただなかにいる」
そのような結婚というものから、結婚式という儀式が必然的に生まれました。人と人との共同の中に、最も聖なる高いものを迎え入れる宗教的な儀式です。

もし、いまでも、わたしたちが、この意識をもって、内的に、密やかに、結婚式を創っていくならば、その儀式から生まれる精神の力というものを実感することができるかもしれません。その力は、儀式から始まる結婚生活の上に、一種の守りの力、恵みの力として降り注いできます。人が物質の世とこころの世の中で生きているだけでは必ず立ち止まってしまう道を打ち開く精神の力が毎日降り注いできます。

そのことは、決して、結婚生活が順風満帆に送られるということではないでしょう。その人その人に応じたカルマというものが必ず、課題として、その人に迫ってきます。しかし、密やかな儀式としての結婚式から生まれ続けるその力が、その人が自身のカルマを担っていくのを、きっと、助けてくれます。
ちなみに、その儀式としての結婚式は、内的にも、外的にも、意識次第で、いつでも、何歳になっても行うことができるのではないでしょうか?

結婚というものに、そのような、精神的な観点を与える。人によって、その有効度は違ってくるかもしれませんが、精神はまず、人の意識的なこころに、考えとして受けとられます。その考えが、だんだんと、生活の中で時に荒れ狂う感情や意欲や本能の嵐に立ち向かうものになりえます。

若い人たち、新しい人たちと、このような考えを分かちあうことができたら・・・。そんなことを思ったりもします。

結婚生活、家庭生活というものに巣食う不信、無力感、絶望が、この世の様々な問題という問題の根っことしてあります。そこに注ぎこまれていい精神的な観点を書いてみました。

(雑誌「めたもるふぉーぜ」2012年7月号掲載分に加筆修正)


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2013年03月30日

復活祭を前にして

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これが西暦33年に起こったことならば、たかだか1980年前のこと。
いまも、この悲惨と歓喜、この暗黒と光明は、繰り返されている。
わたしは、もう、道を歩いていこう。

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2013年02月23日

心配はしないことにする

自分たちが進めていこうとしているシュタイナーの学び、アントロポゾフィーの学びと「お金」にまつわることについて書いてみたいと思います。
お金といいましても、必ずしも、経済のことではありません。
精神の場においてのお金と人のこころの問題です。

よく、シュタイナーの学びなどの集まりについて、こんなことを聞くことがあります。
どれほど宣伝に苦心しても、人が集まりにくいということ。
それは、人びとに対するアントロポゾフィーの訴求力の低下(シュタイナーという名前が持っていた神通力?の低下)を憂うことでもあるでしょうが、実のところとしては、お金が集まらない、という、言ってみれば、身も蓋もない嘆きかもしれません。
わたしはそのことについて、よく、こう考えるのです。

これは、一応、利益を追求することのみが目的ではない人が、精神の場を創ることについて考えることとして、読んでいただければと思うのですが、もしかしたら、これからの時代において、お金に対する人のあり方を、真に人に沿ったものにしていきたいのなら、より広い範囲に重ねていってもいい考え方かもしれないと、わたしは思っています。

その考えというのは、きっと、「宣伝」ということそのことが、いまはもう、ことがらの中の本当に大事なことではない、ということ。「人を集めなければいけない」という、「・・・せねばならない」という気持ちがあるところからの宣伝には、もう人が動かない時代に入っていることを実感します。

人は、どういう気持ちが発せられているところに集まってくるのか。それは、まぎれもなく、自分たちがなそうとしていることに対する愛です。そして、集まっているひとりひとりの人の間に育まれている、お互いへのこころからの関心です。

わたしも何かを主催し、開催する時に、つい、集まる人数のことを考えてしまうのですが、それはことがらの本質的なことではないですよね。 いくら人数が集まっても、そこにノルマのようなものがあっては、そのときは、「やった。ちゃんと採算が合った。赤字が出ずに済んだ」と考えられて一応の満足はするのですが、そのことをずっとずっと続けていくには、いつも何かに急きたてられてやっているような感覚に人は段々と陥ってきます。そして、集まってくる人のことを、「お金を持ってくる人」と感じるように段々となってくるのではないでしょうか。

人は、高いこころざしを持つ生き物でありつつも、そのこころざしをつい忘れてしまう生き物でもあります。

自分たちがすることに対して、まず、自分たち自身が「喜び」と「愛」を感じているかどうか。わたし自身にとっても、その本質的なことを考えることから常にはずれずに、会を主催し、運営していくことは、易しいことではないのですが、こここそをしっかりと意識していきたいのです。

勿論、お金のことを考えないということではなく、しっかりと考えていく必要があるのですが、お金のことへの「心配」でこころを一杯にしながら、ものごとを動かしていくことへの惑わしがいくらでも容易に起こりがちであることを、わたし自身に感じます。

ですから、大人たちの学びの会であれ、子どもたちへの教育の場であれ、その他、人と人とが共に何かをなそうとする場においては、その活動の規模、サイズに意識的になる必要があるように思っています。意識的になるとは、人ひとりひとりに対応できる小さなサイズから始める、もしくは小さなサイズに徹する、ということです。そして自分たちの活動のためのスペースをその活動のサイズにふさわしいものに、しっかりと設定する。器を大きなものにしたい欲望が、人には、きっと、あるのですが、あえて、器を小さく丁寧に保ち続けることこそが、人の意識的な仕事として大切なことではないでしょうか。

そうすることで、そのサークルは、他からの支援を仰がなければやっていけない、というような苦しいあり方から己を分かつことができます。みずからのあり方をふさわしく見積もったサイズでこそ、そのサークルは他に寄りかからずにみずからの足で立つことができます。

人が生きていくにはそもそも、ふさわしいサイズのサークルが要り、人によってそのサイズの大小は変わってきますが、特に現代の人にふさわしいサイズとは、と考えていきますと、あまり大きなものでない方がいいのではないでしょうか。

参加するサークルが人というものにふさわしい規模であることは、人がみずからの精神に自覚的になっていくことへの重要なファクターです。みずからの精神に自覚的になっていくとは、その人がだんだんとその人になっていくということです。その人らしさが発揮されるということです。

ひとりひとりの人から自由なイニシアティブが生まれてくる。だからこそ、人と人との間に敬意、応援、支援、愛が育まれてくる。それには、人に適った規模のサークルが必要です。

そして、これからは、このアントロポゾフィー活動においても、そのような小さなサークルとサークルの間の応援や支援による繋がりあいが、意識的に育まれていき、その緩やかな繋がりを通して、新しいアントロポゾフィー運動の流れを生み出していきたいですね。

本質的なことは、他者を動かすことにベストを尽くすのではなく、自分たちが愛のある集まりを創っていくことにベストを尽くすこと。そこから、きっと、出会う人が必然的に出会うことになっている。その結果、集まってくる人が多かろうと、少なかろうと、あとは、神様に委ねる。
もちろん、宣伝はし、できる限りのことはする。でも、心配は一切、しないことにする。

これは、わたし自身の活動に対するわたしの考え方です。

(雑誌「めたもるふぉーぜ」2012年4月号掲載)




posted by koji at 17:45 | 大阪 ☀ | Comment(4) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする