2021年08月25日

朝の来ない夜はない



IMGP0093.JPG



人と会ひ、話しを交はすことの豊かさよ。東京、新宿、八王子と、中央線ラインを動いた二日間。アントロポゾフィーの仕事をどう根付かせ、芽吹かせ、花咲かせて行くことができるか。そのことに集中した二日間でした。


それにしましても、いま、東京の街は、何かのお化けに本当にがんじがらめになつてゐる、そんな印象です。(大阪もほとんど変はりありません)


普段全く観てゐないテレビなどを、ホテルの部屋で夜更けにつけてみると、わたしには、物凄い印象操作の連続に感じられて、これは観てゐてはあかん、となつて、すぐにスイッチオフ!


街を歩いてゐる人は、みんな、息苦しさうなのですが、それでも、それでも、きつと、夜明けが来る、さう念ひつつ、大阪に帰つて来ました。


肝心要のことは、人のこころにおける考へと情のありやうではないかと思ふ次第です。


何かを裁かうとする、そのときに、みづからのこころに「お鍋のお粥よ(考へよ、思ひよ)、止まつてけろ!」と言へるかどうか。(グリムメルヘン『おいしいお粥』より)


そんなことを実地で学ぶことのできる、いま、です。


ホテルの窓から外を望むと、新宿にも、朝陽は昇つて来ます😃!




posted by koji at 09:59 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月12日

むすんでひらいて



するか、しないか。かうするか、ああするか。


人には、みづからのこころを決める力があります。


その、こころをみづから決める力は、しかし、育まなければ、いくつになつても得られないこと、自分自身のことと共に衝撃的に知ることにもなります。


これは、若いころからの練習に懸かつてゐるやうに思ひます。さらには、幼いころからの親や教師からの働きかけも大いに深く関はつてゐるやうです。


アントロポゾフィーからの子どもへの教育においては、次のやうに、はからひます。


その、こころを決める力が、外からではなく、やがて成長しつつ、ひとりひとりの子の、内も内から生まれて来るやうに。


その力の汲みだしを焦つて、小学生時代から子どもに判断をさせたり、こころを決めさせたりはしません。ゆつくりと、ゆつくりと、やがて思春期を経て二十歳前後にその判断する力、みづからこころを決める力が熟して行くことを促して行きます。


早産させず、かけるべき時間をかけて、待てばこそ、生まれて来るものは、健やかで力強いのです。


ちなみに、ドイツ語では、「こころを決める、みづからを決める」といふことばは、「sich erschließen」となります。


そして、「開けてくる」といふことばは、「sich entschließen」となります。


人は、みづから、こころを決めればこそ、初めて、ものごとも、また、みづからもが、開けてくるのですね。


「こころを決める、こころをむすぶ」と「こころがひらける、ものごとがひらける」とは、対になつてゐるやうです。


こころを決める時、ものごとがひらかれ、自分自身のこころがひらかれ、腹も座るのでせう。


大人であるわたしたちが、右往左往することから抜け出し、いま、みづからで、みづからの、こころを決める時を迎へてゐるやうに思はれてならないのです。



posted by koji at 10:13 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月11日

論理とファンタジー


シュタイナーの本を読み始めて、何年になるのだらう・・・。とにかくも、ムズカシイ! しかし、その難しいものに、何度も何度も挑む意欲をわたしの内に育ててくれたのは、間違ひなくシュタイナーさん、その人なのです。


さうして、読み続けて来て、わたしがいちばん感じてゐるのは、その難しさの固い結び目は、必ず、解けるといふリアリティーなのです。その解けるといふこと、それは、分かる、といふことでもあります。


その「分かる」にいたるには、近道など決してなく、何度も何度も読み重ねることのみなのです。


さうして、頭における「分かる」から、心臓における「分かる」へ、そしてつひには腹と手足における「分かる」にいたる、そんな道筋が、このアントロポゾフィーの学びにはあります。「分かる」にも三つの次第があるのです。


その三つの次第を経るには、何日も、何週間も、何か月も、何年も、何十年も、もしくは、一生涯かかるのですね。時が必要なのです。


読書における、その時の積み重ねの内に、書かれてゐることをより論理的に辿ることができるやうになることと共に、一文一文、もしくは、一語一語に対して立ち上がつてくるファンタジーを感じられることも、読書の喜びなのです。


ファンタジーとは、目の前にないことを、目の前にあることから仕立ててゆくこころの力のことを言ひます。


それは、想像力とも訳されますが、創造力へと成長して行くものでもあるのです。


論理を見てとる力と創造力を掻き立ててゆく力。


このやうなご時世、そのふたつの力をますます育てて行きたい、さう念つてゐます。



posted by koji at 15:46 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月10日

ことばには、氣をつけないと



たとへば、「平和」や「差別反対」や「自由・平等・愛」といふやうなことば。意味を汲めば、すこぶるいいことばです。


しかし、それらのことばが声高に語られるほど、そのことばを語つてゐる人、語り合つてゐる人の内から、そのことばと正反対のものが溢れ出して来ることがあることを、人生を生きてゐると体験するわけです。


わたしが携はつてゐるアントロポゾフィーにおいても、「神秘的な」とか、「経済の友愛」だとか、様々なことばを聞きます。


しかし、そのやうな「ことば」が、そのことばを発してゐるその人自身を裏切つてゐることがままあることを、人生の苦味として経験するのです。


ですので、江戸時代の国学者・本居宣長が、「死んだあとのことや、見えない世について、あれこれ沙汰することは愚かだ。さういふこころのありやうを、からごころと言ふのだ」と言ひ続けたことにも、わたしは納得するのです。


彼は、「死んだ人は、皆、黄泉の国に行く」とだけ言ひ、それ以上言はないことによつて、自分自身をはじめとして知性を駆使しようとするすべての人に、その「からごころ」が世に振り回されることを警戒させようと懸命にしてゐました。


なぜなら、人は、ややもすると、大切なことを余りにも安易にことばにしてしまふことで、そのことばが指し示さうとしてゐる精神を裏切ることになることを、彼はよく知つてゐたからだと思はれるのです。


わたしは、彼以上に、見えない世と神のことを、うやまひ、とうとび、親しみつつ、ことばの研究を重ねた人を、同時代に見いだすことは難しいです。彼は、いにしへのことばから、いにしへのものごとを知りゆき、さらに、いにしへのこころを、精神を知りゆくことを自分の生涯に課しました。ことばと、ことと、こころは、ひとつなり、と言ひました。


ことばを安易に使ふことから、できうる限り離れて、ことばに仕へるがごとく、ことばを大切に用ゐることによつて、そのことばの真意がことばそのものから語りだされるのを待つ、聴きとる、そのこころの作業に専心し、「からごころ」とは異種の「やまとごころ」を人に想ひ起こさせようとしてゐたのです。その「やまとごころ」は、何も過剰なナショナリズムを煽るやうなものではなく、人としての素直なこころを指します。


ですので、アントロポゾフィーにおいても、密(ひめ)やかな境に入り込まうとするゆゑに、ことばを大切に扱ふ、ことばに仕へる、その意識を育むことが、本当に重きをなすことだと思はずにはゐられないのです。


たしかに、人が、ことばを語ります。


しかし、ことばも、人を語るのです。


※「からごころ」とは、当時のいはゆる「グローバルスタンダード」としての中国からの文明・文化の文脈に則つた、もののの考へ方をしたがるこころのことです。



posted by koji at 08:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月08日

片鱗と真髄



IMGP0057.JPG



この二十一年間、おもに、第二の七年期を生きてゐる小学生の年代の子どもに、ことばを話し、語り、謡ひ、演じる、言語造形といふ芸術を授けて来ました。それは、芸術といふ精神の滴を、その子その子に注ぐ営みであり、その子に芸術の片鱗を味はつてもらふ営みでした。


そして、その延長線上に大人の方々との言語造形の取り組みがありました。つまり、大人の方々にも、週に一回から月に一回のペースで、小学生の時のやうなこころもちに帰つてもらひ、芸術の片鱗に触れてもらふ営みをしてきました。


子どもも大人も、そのやうな芸術の片鱗に触れることが、いまの代には、欠かせません。


なぜなら、現代においては、ことばをはじめとしてすべてを、静止した、死んだ、決まり切つたものとして、扱ふ、処理する、軽んじる、そんな趣きが世を支配してゐるやうに感じるからです。


わたし自身、28歳でアントロポゾフィーと言語造形に出会ふまで、ことばを、生きたものとして、うやまひの念ひをもつて、ていねいに客として迎へ、響かせ、空へと送る、そんなことばとの付き合ひ方を、誰も教へてはくれなかつた。


自分自身と芸術とのそのやうな親しく密(ひめ)やかな関はりを育み始めるのには、乳歯が生へ変はり始める小学生の頃からが、うつてつけなのだといふアントロポゾフィーからの見識を活かして仕事をさせてもらつて来ました。そして、大人の方々にも、そのやうに、子どもの頃に帰つていただいて、その芸術の片鱗に触れる時間を盛んに設けさせてもらひました。


しかし、わたしも、人生の半ばを、きつと、とほに越してゐる今、考へ、感じてゐることがあります。


片鱗に触れていただくやうな機会を創り出して行くことはこれからも盛んにして行くのですが、さらに、より専門の、この芸術の「仕事」へのこころざしをもつ人との学びの場をも創つてゆくことです。


それは、わたしが師から長い年月を通して身をもつて教へていただいたこと、芸術の片鱗ではなく真髄に触れる、さういふ毎日の場を生み出すことです。


芸術の真髄に触れるとは、その人がその人の真髄に触れるといふことでもあります。それゆゑに、わたしの場合も、その作業は、必然的に、重く、深く、厳しいものでした。真髄に触れようとすると、必然的に、それに抵抗するかのやうに、手前勝手な感じ方、考へ方の癖や、好き嫌ひや、他者を責めるやうな思ひ込みが表面化して来ます。いはば、エゴが溢れ出て来るのです。


そこに向き合ひ、そこを認め、そこを赦し、そこを凌いで行くことは、生半可なことではない内なる作業です。


わたしも、大の大人であるのにもかかはらず、どれほど涙を流して、自分の技量のなさ、度量のなさに地団太を踏みながら悔しがつたことでせう。そこをくぐり抜けることが、一番大切なことだとわたしは確信してゐます。それなしには、世に仕へ、捧げるといふ仕事をする人にはなりえない、といふことを身をもつて教へてもらへたことが、師から授かつた本当に大切な宝物です。


そこで、いまのわたしが問ふべきは、自分自身はその真髄に触れてゐるのか、触れ続けてゐるのか、といふことです。


出来てゐるか、出来てゐないかではなく、そのことの大切さに目覚めてゐるか、ゐないか、といふことであり、その意識の道の上を歩いてゐるか、ゐないかといふことです。


人それぞれに、学びの道はあると思ふのです。


もちろん、この芸術の片鱗に触れていただく機会も、これまで以上に、どんどん創つて行きます。


ただ、そんな専門の、真髄に触れる、仕事としての芸術の道があるのだ、といふことをも、身をもつて提示して行くことができたら、そんなことを考へてゐます。






posted by koji at 13:58 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月07日

たつたひとりから



IMGP0020.JPG
日本海上空の雲の上から望む、たつたひとりの富士山


とどのつまり、ひとりであること。それゆゑに、周りに支へられてゐることを知ることができる。感謝することができる。たつた、ひとりであること。それゆゑに、世に仕へることができる。捧げることができる。たつた、ひとりから、始めることができる。




posted by koji at 17:24 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月02日

夏の東北の旅


IMGP0105 (1).JPG


このたびも、青森に滞在しながらアントロポゾフィーの仕事をさせてもらつてゐるのですが、本当にこころ優しい方々が、読書と言語造形、オイリュトミーに没頭してゐるわたしと越中さんを自然の景観拡がる場所へと案内して下さるのでした。


小学生ふたりも加はり、車の中では、輪唱あり、ナゾナゾの掛け合ひあり、くすぐり合ひありの、まるでわたしたち大人も子どもに帰つたやうな、それはそれは抱腹絶倒の珍道中。


IMGP0074.JPG


224519981_215928896994493_6378679907545933784_n.jpg


223221900_2065116016977423_5629690014797250525_n.jpg



青森の三戸から、縄文の息吹きいまだ漂ふ秋田の大湯環状列石へ、そして県境に夢のやうに碧く鎮まつてゐる十和田湖、さらには、新郷村にある伝説のキリストの墓へと・・・。


溢れ出る命のやうな山清水の甘さと清冽さも味はふことができました。


IMGP0043.JPG


祭祀の場として人々と神々とが集約的に生きてゐた縄文のときの余韻でせうか、大湯環状列石の遺跡へと向かふために小さな森をくぐり抜けて歩いてゐると、はや、霧のやうな白い精神の流れに包まれるのでした。


また、そこで初めてお会ひできた方が本当に素敵な方で、大湯環状列石についていろいろと教へて下さるのです!なんと嬉しいこと😇


218979875_538882037315441_6889601980945316771_n.jpg

225493585_205808461504783_1891742533421671349_n.jpg


224542741_807651576608434_7557163850367524808_n.jpg



そして、見晴るかす大空と十和田湖の青い景色。


IMGP0099.JPG

228807278_142422408034847_3022193693854152374_n.jpg



旅の最後には、念願叶つて訪れることができたキリストの墓の前にしばし佇みました。ゴルゴダの丘の上で十字架の刑に処せられたのは、実は弟のイスキリであり、兄のイエスはその後ひそかに日本に落ち延びて、ここ青森の新郷村にて106歳にて人生を閉じたのだといふ伝説の真偽はともかくも、墓の上に立てられてゐる十字架の周りには、しきりに白い雲のやうな、光のやうなものが放射してゐて、わたしはここへ足を運ばせてもらへたその意味をみづからに問ふのでした。


IMGP0114.JPG



この美しい旅を丁寧にこころを籠めて計画し、朝早くから車を運転し続けて下さつた中村さん、そして、細やかにこころを配つて下さつた佐々木さん、夜にご自宅を開放して下さり、夕食までご用意下さつた中村さんのご主人様。こころよりお礼を申し上げます。ありがたうございました。






posted by koji at 14:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月22日

ひとりから



電車に乗り、大阪の街を歩いてゐて、マスクをしてゐないのは、ほぼ、わたしのみ。電車の全車両の中では、おそらくわたしひとりのみ。しかし、ほんの、ときたま、歩いてゐて、してゐない方とすれ違ふ。でも、大体の感覚だけれども、五千人にひとり位の割合。大阪のこの酷暑の中で、このマスク装着率は凄まじいことだ。かうしてマスクをしないわたしのやうな人を見て、反感を感じる人もたくさんゐるだらう。戸惑ふ人もゐるだらう。でも、こころから、心臓から暖かい何かを発しながら、わたしがゐるならば、きつと、慰められ、励まされる人もゐるのではないかな。歩いてゐて、すれ違ふ子どもなどは、まぢまぢとわたしの顔を観る。わたしは、ニコつと笑ふ。こんな大人もゐるよといふことを感じてもらへれば・・・。それもわたしの勝手な思ひ込みかもしれないのだけれども。

posted by koji at 08:55 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月15日

稲光と雷鳴と大雨



218592347_4179664898780191_9169467078106251356_n.jpg



今朝4時から5時過ぎまでの大阪の物凄い稲光と雷鳴と大雨。


真上の空を何十回とつんざくひつきりなしの稲光と怒涛のやうな雷鳴に、おそらく、多くの人は眠れなかつたと思ひます。


不安と恐怖と緊張。そんな情に包まれたのでした。これほどまでのものは、わたしはおそらく生まれて初めてでした。


それらの情を覚えると共に、布団の中で、次のやうなことに思ひが延びて行きました。


外の世では、いま、これまでの常識では測り知れないことが進行してゐる。


今朝のやうに、自然は時に、人に恐怖や畏怖の念ひを与へ、わたしたちに人智では太刀打ちできない無力感を味ははせるけれど、そのやうな無力感を人為的に人に植え付けようとしてゐる、ある種の悪しき働きがある。


この空からの雄叫びは、このいまの世のありやうの何らかの顕れのやうだ。


しかし、いま、内の世、すなはち、自分自身のこころにおいては、自由が息づく領域を稼がせてもらへてゐることが、本当にありがたいと思へる。


これからの激しく動く外の世と、釣り合ひを取るべく、安らかで確かな内の世(こころと精神の世)をしつかりと守り、育んで行かう。


それこそが、わたしにとつて、最もたいせつな仕事。


恐れと不安と無力感に、きつと、人は打ち勝つことができる。


それは、内なる安らかさの育みにかかつてゐる。



posted by koji at 14:58 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月03日

お金を得ること以上のたいせつな何か



IMGP0063.JPG



先日は、自分がどれだけ他人様に支へられて生かしてもらつてゐるかを感じることができた、宝物のやうな一日でした。


長年、言語造形といふ芸術を、企業に勤めてをられる方々に紹介する仕事をさせてもらつてゐます。ひと月に二・三度づつしながら、もう二十年近くになると思ひます。


芸術ですので、ひたすらに、その人その人のことばの感官に働きかけ、感覚の育みを促すやうなスタイルで、ずつと、言語造形といふことばを話す芸術をその企業の方々と分かち合つて来たのです。


しかし、昨日は、ここ一年半のコロナウイルス禍による影響でなさざるをえないオンラインによる時間となつたのですが、そこで、古代ギリシャ時代に行はれてゐた五種の体育についての講義をさせてもらつたのです。


それは、からだの行為による無意識の領域にまで働きかける学びですので、その講義の質も、けだし、密(ひめ)やかな教へ、オクルトな教へにならざるをえないものでした。


それは、宙に浮いたやうなものではなく、徹底して、からだにまで降りるリアリティーのあることばで語られる必要のある事柄でした。


この状況下で、なんとか、企業における仕事に毎日勤しんでをられる方々が、このやうなことばをどう受け止めて下さるだらうか・・・。そんな危惧をわたしは勝手に抱いてゐたのでした。


わたしが語り終へた後、口々に皆さんが仰られたことばに、わたしはかなり驚きました。


この十数年間、やつてきた言語造形にこんな深みのある思想・精神が裏打ちされてゐたことを、今日、知ることができたと感じてゐる、嬉しい、と。


芸術に対するこのやうな信頼。精神に対するこのやうな開かれたこころ。


これは、かういふ場を創り続け、維持し続けるために、意識をもつて担当して来た方の、そして、社会の真っ只中を生きつつも、このやうな芸術的な営みにこころを開き続けて来られた方々のお蔭でしかありません。


人が、社会の中で、お金を得ること以外のたいせつな何かに長い年月の間、意を注ぎ続けることの難しさを思ひますと、わたしは、本当に、本当に、こころから感嘆の念ひに打たれ、そして、わたしも、また、その人と人との関はりの中で生かされていることを感じるのです。


また、写真のやうな日が戻つて来て、からだまるごとで、こころまるごとで、声を発することのできる日が来ることをこころから願ひます。



posted by koji at 17:18 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月21日

父の役割・・・



IMGP0057.JPG



昨日、父の日だといふことで、娘たちからバラの花束をもらひました。


父であることを毎日させてもらつてゐまして、つくづく感じ、考へることなのですが、思春期以降の若者にとつて、父といふ存在は「精神」を示しうるものなんだな、といふことです。


あくまでも「示し『うる』」なのですが・・・😅


精神とは、現代において、その人が求めなければ、決してその人を訪れないもの、訪れられないものであるといふことです。


父親とは、思春期以降の子どもたち、若い人たちが、こころから父親を求める時にこそ、彼らの前に現れ、彼らの内に働きかけうる存在である、さう感じるのです。


だから、彼らが求めてゐない時には、出る幕無し😅


それでいいのだなあ、と惟ふのです。


精神とは、その人が求めればこそ、その人を訪れ、その人を自由にするべく、働きかけるものです。




posted by koji at 08:21 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月10日

彩りを味はふ



IMGP0002 (1).JPG



人は、北へ向かふとき、精神の緊張に向かふ。


南に向かふとき、精神の弛緩、リラクゼーションに戻る。


いや、そんなことはないよ、と思ふ方もゐるだらう。


しかし、日本においては、昔の人は、特に、西南の人は、さう、感じてゐたやうです。


松尾芭蕉も、精神の緊張を追ひ求めるがごとく、江戸を発ち、東北への奥の細道を歩き、また、母なる地、生まれ故郷である西南の地、近畿へと戻る、そんな旅をみづからに課しました。


イギリスなどでも、例へばスコットランドに向かふことは、日本における東北地方にこころを向けることに似てゐるのだらうか。どうだらうか・・・。


現代においては、北へ行つても、南へ行つても、街だとどこも同じ風景、同じ文化に埋め尽くされてゐる感がありますが、やはり、少し街から離れると、そこには、いまだ、その土地ならではの独自の濃厚な色があるやうに思ひました。


そして、このたび、東北へ旅して、静かだけれども深く思つたことは、意識的に、東西南北、ゆく道、帰る道、それぞれの趣きの違ひに目覚めること、それが、現代人のわたしたちにとつて、たいせつなことではないか、といふことでした。


グローバリズムといふ名の画一性、均一性、全体主義が蔓延らうとしてゐる今、独自性に満ちた、彩りの豊かさを、わたしたちひとりひとりが、みづから、意識し、生み出し、創り出して行く。


その土地、その場、そのとき、その人の、独自性を尊ぶことは、わたし自身を尊ぶことへと深いところで繋がつてゐるのですね。


世を知りたければ、あなたみづからをみよ。あなたみづからを知りたければ、世をみよ。


多面的に生きることが、確固たるものを育てる。


ひとりを生きることが、世の彩りの豊かさを味はふことへと繰りなしてゆく。


こころを破壊しようとする悪しき力が働いてゐる、今、わたしたちは、こころを守り、育ててゆかうとする精神の力を、世に贈らうとする者です。



posted by koji at 08:21 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月21日

いまも飢ゑてゐる



62644067_2328742700539096_212814461285695488_n.jpg
ザンジバルの家を訪ねて来た友人が持つてきた日本の雑誌を貪るやうに読んでゐる俺。



思ひ出すのですが、自分が27歳のとき、アフリカの各地をまる一年、転々としたあげく、インド洋に浮かぶザンジバル島で二ヶ月、独り暮らしをしたことがありました。


周りはスワヒリ語のみの毎日だつたのですが、そのとき、仮住まひをした一軒家に、なぜか、福沢諭吉の『文明論之概略』の文庫本が一冊置き去りになつてゐたのです。


以前に住んでゐた日本人が置いて行つたのでせう。


わたしは、とても、とても、日本語に飢ゑてゐましたから、その一冊を貪るやうに読みました。


そのときの感銘はとても衝撃的で、重層的で、わたしの何かを深く果てしなく満たしてくれたのでした。月並みな言ひ方ですが、乾いた喉に清水が流れ込むやうな感覚を覚え続けました。


あの、ザンジバル島での「福沢諭吉」読書体験が、日本語で生きていく上でのわたしにとつて決定的なものだつたと想ひ起こします。


そんな内なるアクティビティーを発動させるきつかけを与へてくれた若いころの旅。アフリカで、インド洋に浮かぶ島の上で、福沢諭吉といふのも、変な話ですが、仕合はせ(運命)を感じます。





posted by koji at 20:01 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月15日

まるごとで、ひとつ




自由な精神を持つ人は、他者をも自由にする。


残念なことだけれども、不自由な精神を持つ者は、もつともらしいことを言ひながら、他者にも不自由を強いる。


しかし、すべてが、まるごとで、ひとつである。


posted by koji at 10:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月29日

マイン・ファンタスティーク



EfC0f1xUEAAyTjU (1).jpg



今日、4月29日、昭和天皇のご誕生日でありました。


昨晩からずつと激しく降り続く雨。


無数の、無限の雨音。その雨音と雨音の間に耳を澄ますと、号泣してゐる無数の人々の泣き声が聴こえるではありませんか。


その泣き声のさらに奥に入つて行きますと、まさに、悲しくて悲しくて仕方がない民族のこころと、ひとつになつてしまふのでした。

posted by koji at 19:52 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月23日

学校もオンライン授業か



中学一年生になつたばかりの次女、果たして来週からの登校事情はどうなるのだらうか。


大阪市からの要請で、午前中は、自宅でオンライン授業になり、昼食は学校に行つて食べ、午後の二時間だけ授業を受け、クラブ活動は原則中止となるかもしれないとのことです。


オンラインによる授業が毎日続くことの、子どもたちへの弊害についてはいろいろと想ふところがあります。


ひとりの先生、そして大勢の友だちが集ふ教室といふ空間において、何が営まれるか。


人は、知性だけを育てればいいのではなく、なまの世界を、他者を、ものを受け取ること、活きた息遣ひのやりとりの中で生きること、つまりは感官を育てるといふことが、人にとつて、とりわけ、若者にとつて、たいせつなことなのです。


笑ひ合つたり、けんかしたり、瞳を交はし合つたり、しかとしたり、そんな人と人との間の複雑な営みすべてが、感官の育みに資するはずです。


人には、十二の感官があります。その十二の感官を養ふことにおいて、空間を共にするといふことの必要性はとても大きい。


感官の働きは十二通りであり、それらの働きが人の内側で複雑に、かつ繊細に、織りなし合はされて、その人にパーソナリティ(人となり)の豊かさ、インディヴィジュアリティー(その人のその人たるところ)の尊さをもたらします。


なぜなら、十二通りの感官の働きを内において、織りなし合はせ、繋ぎ合はせることによつて、人は、判断力を養ふことができ、その判断力は、実は、情の力、感じる働きを土台にしてゐるからです。


ものごとを判断する、その力は、実は、健やかな情の力が礎になるのです。


いくら頭が良くても、健やかな情が育つてゐなければ、その人が下す判断といふ判断は、非人間的なものとなる嫌ひがあります。


毎日、午前中一杯、パソコンやスマホの前に座り続けさせることで、十二の感官の育みに障りと害いと偏りが生じて来ることを思ふと、これが運命とは言へ、子どもたちがこの2020年から2021年を生きること(今年でなんとか終はらせたい・・・!)の過酷さに、その意味を問はずにはゐられません。


家でのなにげない会話ややりとりが、とても大事になつて来ます。


posted by koji at 18:09 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること



いま、世で進行してゐることに対して、「何かおかしい」と、わたしは感じてゐます。


この「おかしい」といふ考へと情が、わたしに何を教へようとしてゐるのか。


「自由」といふ精神の働きは、自分自身で稼いで得るものであり、他者から与へられるものではないことを、わたしは、いま、痛感してゐます。


ここにご紹介してゐる動画も、「ひとつの情報」と言へるでせう。


コメント欄に貼つてゐます動画を観た人が、自由へと向かふ意欲を湧き立たせるか、恐怖に捉へられ、逆に不自由になるかは、その人その人によると思ひます。


わたしは、一年前から考へ、思ひ、感じてゐたことですが、このまま、マスク装着、時短営業、「枠珍」接種などを、唯々諾々と受け入れてゐると、完全監視社会への道を転がり落ちて行くことになる。


監視社会へと全体主義を押し進めてゐるなんて、同じ人である者が、まさか、そこまでのことはしないだらうと、わたしたち日本人は、世の動きを観察してゐると思ふのですが、あれよあれよといふ間に、次々と、世の形態が崩れ、変はつてゆく様に、もう、安楽の枕の上に頭を置きながら、居眠りをし続けてゐることは、未来の世を生きていく子どもたちに申し訳ない、といふ念ひがあります。


ここで語られてゐる「Great Reset」を、わたしは、受け入れられないのです。どうしても。


なぜなら、人といふものの別名は、「自由な精神」であると考へるからです。


「自由」へと歩いて行くのは、ひとりひとりの勤しみによりますが、その歩いて行く道そのものを壊さうとする存在があることに目覚めつつ、粛々と、わたしは自由への道を歩き続けて行かうと思ひます。



posted by koji at 10:55 | 大阪 | Comment(1) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月22日

『希む、哲学』


3618680503.jpg
 

エッカーマン著『ゲーテとの対話』。
昨日読んだところに、こんなゲーテのことばが。


―――――


わたしも自分で経験したことがある。
腐敗熱(おそらく伝染病の一種)がはやつた時、
どうしても伝染が避けられない状態にあつたが、
わたしはただ断固たる意志だけで、
その病気を追ひ払つてしまつた。
さういふ場合に道徳的な意志は、
信じられないほどの強い力を持つてゐるものだ。
いはばその意志がからだに浸み通つて、
すべて有害な影響を跳ね返すやうな、
積極的な状態にからだをおくものだ。
ところが、恐怖心といふものは、
積極性のない弱い感染しやすい状態で、
どんな敵でも簡単に我々を占領してしまふ。


―――――


ゲーテのことばは、真実を穿つてゐるやうに感じる。
「道徳的な意志は、 信じられないほどの強い力を持つてゐる」
ここで、わたしが問ふてしまふのは、意志の強さのことでは実はなく、次のことなのです。


あれだけ自然科学に通じてゐたゲーテにして、この「信じられないほどの」ものに対する、驚きの念、信頼の念。


この念は、何に根差してゐるのか。


これは200年前のことばだが、いま、わたしたちは、現在の政治家たちのことばを、疫学の「専門家たち」のことばを、どう受け取る?


「専門家」が何を言はうと、どう受け取り、どう行動するかは、ひとりひとり、自由ではないのか?


少なくとも、考へる人にとつては。


好き勝手に行動すればいい、といふことでは全くなく、自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へて、納得できるのならば、その上で、ふさはしいと見いだした行動をわたしたちはできる。


さうできることが、自由といふことなのではないのか。


さうできるのが、人ではないのか。


哲学は、机上の学問に過ぎないのか?


机上の学問などでは全くなく、恐怖を越えて、わたしたちの真の人生と文明を支へる、永遠のことばのひとつではないのか? 


ゲーテは、少なくとも、自分自身の目で見、自分自身の頭で考へることを、重ねに重ねた上で、自然科学では証明できないことにも、みづからのこころが確信することを、堂々と表明し、堂々と行動に移した人だつた、さう思ふのです。


わたしたちの行動を導くのは、誰なのか。何なのか。


政治家の言ふことでもなく、専門家の言ふことでもなく、つまるところ、わたし自身の見る力と考へる力なのではないでせうか。




posted by koji at 15:01 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月17日

「人であることの意識」を守ること



いま、世は明らかに第何次目かの世界大戦の勃発中であり、それは、ここ日本においても、です。


わたしたちは、いま、爆弾を落とし、落とされるやうな戦争ではなく、人の意識を操作し、人が自由になりゆくことを阻まうとする何かからの総攻撃を受けてゐる真つ最中で、これは明らかに戦時下に自分たちはゐるとわたしは認識してゐます。


令和といふ新しい御代に入り、わたしたちの国も、きつと激しい時代に突入して行くだらうと予感はしてゐたのですが、ここまでとは思はなかつた・・・。


第二次世界大戦後、家族や、人と人との親身で伝統的な中間共同体、そして国家を破壊しようとする執拗な攻撃は、これまでにもありましたが、こんな露骨な地球規模の人類共同体そのものへの攻撃は2020年といふ年から始まりました。


この攻撃は、何か霊的な、悪しき精神的なものからの働きかけであると感じざるをえないほど、多くも多くの人々を洗脳し、考へる力を奪つてゐるやうに感じます。


考へる力を奪はれた人は、もう、人ではなく、他の何かになるのではないでせうか。


「陰謀論」といふことばに抵抗を感じることは、これまでの常識では仕方がないのかもしれませんが、これはもう、「論」ではなく、明らかに、悪しきものたちからの「陰謀」そのものであることをわたしたちは認識した方がいいと思ひます。


しかし、ここでとても大切なことを思ひます。


それは、この悪しきものからの働きかけに対して、危機感をもつことはとても大切なことですが、怒りや恐れをもつて向き合ふことは、逆に、悪しきものたちの思ふ壺に入ることだといふことです。


偉さうなことは、わたしは言へません。わたしもこれから社会が進みゆく状況を思ふと恐怖を感じます。


しかし、それでも、それら悪しきものからの働きかけに対して、自分自身の怒りや恐れをみづから乗り越えて、内なる安らかさと粘り強さ、根気強さをなんとか培ひつつ向かひ合ひ続けることの価値を信じます。


この異常な現象から、まことと、さうでないところとを、見分けること。


そして、まことをこそ、尊ぶこと。


そして、そして、何より、己れの内側をていねいに、毎日、育み続けること。


その、ひとりひとりの内における仕事こそが、いま、何よりも、たいせつなこと・・・。


こんなにも、人が自由になりゆくこと、人としての誇りをもつことの意義深さを思ひ知らされる時代になるとは・・・。


たいせつなものを守ること、保守主義とは、ずつと、人が己れの「人であることの意識」を守ることでありました。その意識の集合体である「国」を、「世」を、守ることでありました。


だからこそ、そのたいせつなものを守るために、知ることの細道、密(ひめ)やかな細道を歩む必要を、これほどまで切実に感じてゐることは、自分の人生の中で、初めてであります。


内なる安らかさと確かさ。


まづ、己れみづからに・・・。



posted by koji at 22:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月11日

人の陰影



人生も50年以上も生きてゐますと、一応、人並みに様々な経験もさせてもらへます。


しかし、今日といふ一日は、実に多様な経験を経て来られた複数の方々(ご年齢、20代から80代にわたる)にお会ひし、お顔を拝見し、お話を伺ふことができたのでした。


その経験には、辛く、想像を絶するやうな激しい経験もあり、しかも、そのやうな経験をされて来たのにも関はらず、穏やかで柔和なご表情、そして明るくことばを語られる方ばかりでした。


ひとりひとりの人には、表には表はさない、深い陰影があります。


その陰影を無言のうちに了解し合へる、敬ひ合へる、そんな人と人との集ひ・・・。


わたしにとつて、今日は、ご褒美のやうな一日であり、このやうな一日一日を積み重ねて生きて行かうと、改めて、いま、念ふのです。

posted by koji at 22:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
■ 新着記事
滋賀シュタイナー ちいさいおうち園での語らい (04/27)
アントロポゾフィー 人であることの意識 (04/24)
三羽の揚羽蝶 (04/24)
ひとりひとりの歩幅 (04/23)
京都市伏見区醍醐勝口町でのことばの家 ことばづくり(言語造形)クラスのご案内 (04/23)
ことばが甦るとき 〜甦りの祭り(復活祭)の日にちなんで〜 (04/20)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 (04/20)
鏡像 (04/18)
4/20(日)復活祭からの「こころのこよみ」オンラインクラス (04/14)
学んだことは忘れていい (04/13)
■ カテゴリ
クリックすると一覧が表示されます。
ことばづくり(言語造形)(244)
アントロポゾフィー(182)
断想(575)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(460)
こころのこよみ(魂の暦)(497)
動画(333)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(41)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
■ 最近のコメント
5/7(水)からのシュタイナー著「いかにして人が高い世を知るにいたるか」毎週水曜日夜オンラインクラスへのご案内 by 諏訪耕志 (04/11)
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
■ 記事検索
 
RDF Site Summary
RSS 2.0