2022年04月28日

光はつねに闇より強い



昨夜、実家の母も含めて、家族五人で外食をしました。家族揃つて外食を食べに行くのは我が家では年に二、三回で、だからこそ、特別感があつてとても楽しいひとときなのです。

昨夜はとりわけ、もうすぐ17歳と14歳になる娘たちがとてもよく話をしてくれました。自分たちが考えてゐること、感じてゐることを、丁寧に真つ直ぐに活き活きとことばにしてくれました。

他のお客さんもたくさんゐるある種の公の場で、ばあばもゐるし、当然家庭とはずいぶんと違ふ雰囲気が、彼女たちのこころと口を開かせてくれてゐるのだなあ、と思ひながら、彼女たちのこころとことばに耳を澄ませてゐました。

また、年齢相応の考へる力が育つてゐて、自分自身の考へと大人たちの考へとを突き合わせてみたい、ことばのやりとりを通して互ひに敬ひつつ対話することの醍醐味を感覚してみたい、そんな欲求が十代の人にはあるのですね。

話題は、やはり、いまの「はやり病」から「麻巣苦」のこと、「枠珍接種」のことなど、若い人にとつてこの社会といふところがいかに、いま、おかしなことになつてゐるかといふことに関して、様々な考へ、思ひを分かち合つたのでした。

そして、いま、わたしが、人として、親として、内に保ちたいことは、「光はつねに闇より強い」といふことです。

季節外れのものの言ひ方になりますが、いま、わたしたちは皆、大いなるクリスマス、真冬の時、天の岩戸開きの時を迎へつつあると感じてゐます。

闇を闇としてしつかりと見据ゑるからこそ、ひとりの人として内において光を毎日迎へる練習をすること。内なるお祭りを毎日すること。

そのやうなことを娘たちには話しませんが、きつと、長い時の中で感じてくれることだと思つてゐます。




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2022年04月19日

仕合はせ(カルマ)といふもの



わたし自身、確か、大学を卒業する間際に、友人が貸してくれた西川隆範氏による『シュタイナー思想入門』に強烈に惹きつけられた思ひ出があります。しかし、その一冊を読んだきり、あとは就職先での仕事に身もこころも完全に没入せざるを得なくなり、シュタイナーのことを忘れてしまつてゐました。

しかし、会社を辞め、アフリカで一年間過ごした後、28歳の時に、ある人からの紹介で、アントロポゾフィー(ルードルフ・シュタイナーから生まれた学問)に出会つたのですが、その時の感情は、およそ、次のやうなものでした。

「これだ。これこそ、俺が求めてゐたものだ。そして、俺はずつと、ずつと、昔から(この人生の前から)、これを知つてゐた」

不思議と言へば不思議な感情です。しかし、その感情に突き動かされるやうに、東京の新宿に引つ越して、独り暮らしをしながら、当時、高田馬場にあつた大人の学び場「ルドルフ・シュタイナーハウス」にいそいそとほぼ毎日通ひ始めたのでした。

そして、さらに不思議だつたのは、シュタイナーハウスに通ひ始めて、すぐに、鈴木一博さんが教へてをられる「言語造形」といふ、聞いたこともない名を持つ芸術のクラスに初めて参加させてもらつた時に、ふたたび、アントロポゾフィーに出会つた時以上の不思議な感覚に見舞はれたのでした。

その時、確か、イソップ物語を語ることをさせてもらつたのですが、物語を声に出して人の前で読むなどといふことは、おそらく小学生か中学生の頃以来だつたのにもかかはらず、その時わたしが感じたのは、またしても、次のやうな不思議な感情でした。

「これはずつと、ずつと、以前に(この人生の前から)してゐたことじゃないか。俺にはなぜか馴染みのものだ。俺は、この芸術を俺の仕事にする」

そして、その後も、鈴木さんといふ先生に手取り足取り教へてもらつてゐる、ある瞬間に、「この情景は、前に観たことがある」といふ、いはゆる、「デジャブ」といふのでせうか、不思議な感覚にたびたび見舞はれました。

そのことを、そのとき、そのときに、鈴木さんに打ち明けると、「さうなんだよ。さうなんだよな」としか仰られませんでした。

つれづれと個人的なことを書いてしまひました。

精神の学び舎は、この地上にありましたし、いまも、わたしはそれを創り続けようとしてゐますが、そもそもは、生まれる前にあつたのではないか、といふ「おぼろな感覚」のもとに書いてしまひました。
(『こころのこよみ 第一週』参照 https://www.facebook.com/.../a.32984430.../8054095937949255/

男女の仲ではないですが、「縁は異なもの味なもの」ですね。

他の方は、シュタイナーといふ人やアントロポゾフィーといふ学、または、そこから生まれた芸術実践、社会実践に出会つた時に、直観としてどのやうなことを感じられただらうか・・・。そんなことを、ふと、思ひました。

なぜなら、シュタイナーこそ、そのやうな「縁」についての深い考察をしてくれてゐるのですから。




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2022年04月17日

日本における甦りの祭



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大阪の住吉大社の祈年祭の時



今日、4月17日が今年はキリスト教圏で言ふ「復活祭の日」ですね。

日本では、この「甦りの日」をどう祝つてゐたのでせうか。

古来、「祈年祭(としごひのまつり)」が、耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈る祭として、旧暦の2月4日(今の暦ですと3月半ばごろでせうか)に宮中はじめ全国津々浦々の神前において執り行はれてゐました。

それは、前年における旧暦の11月23日(今の暦ではおほよそ年末のクリスマスにあたる時期です)に、その年の新しい収穫を神前に感謝を捧げつつ、神と共にそれらを食する祭、新嘗祭(にひなへのまつり)からの新しい引き継ぎでもあります。

昔は、「米」のことを「とし」と言ひ、冬至の陽の力が新しく生まれ変はる時に、新嘗祭をもつて、新しい「米」「とし」の魂をいただくことを期してゐたのです。ですので、年の初めの「お年玉」とは、神からいただいた新しい米に宿る精神を身に授かるものだつたのですね。その新嘗祭は、宮中をはじめ各地の神社においていまだに踏襲されて執り行はれてゐます。

その新しい年の精神を身に宿しつつ、お籠りの時を経て、わたしたち人は花開く春を迎へます。

それは、地の深み、身の深みに籠つてゐたわたしたちのこころが、地上に芽吹き始めるかのごとく、からだから解き放たれ始めるときでもあるのです。

日本では、いまでは不可視となつてしまつてゐる、そのこころのおのづからな営みをリアルに受け取りつつ、古来、「祈年祭(としごひのまつり)」として神々に祈りを捧げてをりました。

新しい「米・とし」の豊穣を乞ひ願ふことで、暮らしの経済を成り立たせつつ、実は、精神として新しく生まれ変はり(甦り)、成長していくことを乞ひ願ひ、実際にそれを促す、共同の精神の秘儀、それが「祈年祭」でした。

いま、こころは、からだから少しづつ解き放たれてゆき、世の高みに向かつて、世の精神(高天原)へと自由に羽ばたいて行きたがつてゐます。

そのやうな、こころの甦りを祭る日が日本にもありました。

『こころのこよみ 第一週 〜甦りの祭の調べ〜』として、ルードルフ・シュタイナーによるこよみのことばと共にわたしの拙ない訳とコメントを付したものを以下に掲載してゐます。よろしければ、ご覧いただければ、嬉しく思ひます。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/486685983.html




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2022年04月09日

和歌は人の心を種として・・・



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「古今和歌集」の仮名序、紀貫之の文章。その中で在原業平(ありはらのなりひら)の和歌(やまとうた)が貫之のコメントと共に取り上げられてゐて、夜更けに読んでゐるとこころに染み入るやうに響く。


在原業平は その心あまりて言葉たらず しぼめる花の 色なくてにほひ残れるがごとし

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして


一千何百年前の古き人と密(ひめ)やかにこころを通はせることのできる喜び。


まづは、そんな喜びをこそ、子どもたちとも分かちあひたい。そんな国語芸術の時間を創りたいと思ふ。


確かに、小学生や中学生では(もしかしたら、高校生や大学生でも)、これらの高くて深い文学の味はひはまだ分かりかねるだらう。しかし、すべてをすぐに分かる必要などどこにもない。


よきもの、本物に触れることが大切なのだから。




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2022年03月16日

こころの深みで静かに鳴り響いてゐること




ルドルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(鈴木一博氏訳)を読んでゐて、そこに記されてあることばに対し、わたし自身、すぐには明晰な意識で応答できないものの、こころの深みで静かに鳴り響いてゐることがらがあります。

それは、生きとし生けるものの命は世の深みにおいてひとつの流れとなつて流れてをり、わたしはその一節(ひとふし)なのだといふ考へを深めてみる練習のことを述べてゐる、次のやうな文章です。(146頁)



「わたしも、その人(犯罪者)も、まさにひとりの人である。わたしがその人の運命を辿らなかつたのは、もしかすると、ひとへにもろもろの事情によつてわたしに授かつた教育のおかげかもしれない。」

「わたしに労力を注いでくれた先生がたが、もし、その人にも労力を注いでゐたとしたら、その人が違つた人になつてゐたであらう。」

「その人から奪はれたものが、わたしには授かつてゐる。わたしのよいところは、まさにそのよいところがその人からは奪はれてゐることに負つてゐる。」

「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」

「そのやうな考へが静かにこころにおいて培はれてほしい。」



この激動の時代において、わたしはどう生きていくことができるだらう。わたしに一体何ができるだらう。

そのことをいま、多くの人がみづからに問ふてゐるのではないでせうか。いや、なんの葛藤もなしに生きてゐる人などゐないはずです。

多くの言論、多くの意見が、この二年以上にわたり世界中を飛び交つてゐます。井戸端会議に似たやうな人と人とのことばのやりとりだけでなく、いま、世界中の大局において、「ことばによる戦争」「情報戦争」が行はれてゐるといつてもいいのではないかと思はれます。

しかし、ことばが粗く、荒く、使はれざるをえないこのやうな時だからこそ、わたしも密(ひめ)やかな学びの値をこれまで以上に深く、強く、確かに、痛感してゐます。

己れのこころの内なる仕事を大切に守りたい、いま、さう希つてゐます。

「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」

上記のシュタイナーによつて記されてゐる考へを、外なる扇動的な行動に移すといふことでは毛頭なく、ただ、ただ、静かにこころの深みに響かせ、培ひ続ける。

その培ひは、全く、外には現れません。

しかし、内なるそのやうな行ひが、まづは、わたしひとりのこころの内でなされること。

その自由なる内なるふるまひが、わたしの強い砦になり、世に向けてのまことの働きかけとなつてゆくのではないか。

そのことに対して明晰な応答はできない、と先ほど書きましたが、やはり、こころの深みで、「その通りだ」とかすかに聴こえて来るのです。




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2022年03月15日

源氏物語を娘と共に



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去年2021年の秋のはじめごろから次女と一緒に家で、『源氏物語』を、紫式部の原文と昭和の文人・円地文子の現代語訳で読み続けてゐます。

学校とは別に、ひとりの大人が(親ですが・・・)若い人に何を与へることができるだらうと下手に考へてゐたのですが、やはり、自分自身が楽しめることでないと、継続的にかういふことはできないことに気づき、次女とそんな時間を持ち続けてゐます。

次女自身は、さほど、まだ、この物語に思ひ入れは持ててゐないと思ひます。しかし、ひとりの大人が(父ですが・・・)惚れ込んでゐるものを、できるならば、押しつけがましくなく、若い人に紹介できるならば、それもまたいいのではないかと・・・。のちのち、彼女自身の人生における成熟の中で、この古典への改めての見識と感情が生まれて来るのではないかと・・・。

光源氏が継母である藤壺の宮と密かに、かつ、これ以上ない情熱をもつて通じてしまふところなどは、わたし自身最も感極まるところでありながらも、思春期の娘とどのやうに分かち合へるのか、定かではないのですが、模索しつつ(笑)、読み進めてゐます。

文学を通し、芸術を通し、こころとこころの繋がりを家族の中でも創つてゆくことができたら、さう希つてゐるのです。

なぜなら、家族といふものも、時間と共にありやうが移り変はつてゆき、そのことへの意識がお留守になり、ほったらかしにしておくと、つひつひ、家庭が個人主義者と個人主義者がただ寄り集まつてゐるだけの仮の場になり果ててしまふことへの危惧があるからかもしれません。

ひとつの家庭だけでなく、ひとつの地域共同体も、ひとつの国も、そのやうなひとりひとりの共同体に対する意識的な働きかけがあつて、初めて共同体として甦る。さう思ふんです。

何ができるかなあ・・・。




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2022年03月11日

互ひを讃え、敬ふことへの意識のなり変はり



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いま、『古事記(ふることぶみ)』から「黄泉の国のくだり」をひとりで練習してゐます。

そのくだりは、多くの人によく知られてゐるところで、死んでしまつた妻イザナミノミコトを夫イザナギノミコトが死の国、黄泉の国まで追ひかけて行くところから始まります。

しかし、そこで妻のおそろしい姿をのぞき見してしまつたイザナギノミコトは、黄泉の国の鬼とも言へる醜女(しこめ)たちや八柱(やばしら)の雷神(いかづちのかみ)たちに追ひかけられながらも、生の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ帰つてきます。

そして、そのくだりの最後に、夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトとが大きな岩を間に据ゑて向かひ合ひ、ことばを交はし合ひます。

死の国の女神は申されます。「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)くびりころさむ」。

そして、生の国の男神が申されます。「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててむ」と。

最後に、精神からのことばをもつて、このくだりが閉じられます。「ここをもて一日にかならず千人(ちひと)死に、一日にかならず千五百人(ちいほひと)なも生まるる」。



甦り(黄泉帰り)の祭りを来月4月17日に控え、今、わたしは、この我が国の神語りが伝へてくれてゐることにいたくこころを惹きつけられてゐます。

それは、死(の神)と生(の神)が、大きな岩(意識)で隔てられてはゐても、ことばを交はし合つたといふことなのです。

そして、その談(かた)らひは、いまも、ずつと続いてゐる、さう思はれてなりません。死と生は談らひ続けてゐます。その談らひによつて死と生は表裏一体のものです。どちらかひとつが欠けても世はなりたちません。ふたつはひとつなのです。

死と生とが、そのやうに断絶してゐるやうに見えてゐるのは、わたしたちの意識のせいです。

しかし、我が国の神話・神語りのありがたいところは、その大きな岩といふ断絶を超えて、死と生が談らひ合つてゐるといふ、このことであり、さらには、この談らひがこれまでの多くの解釈によるやうな憎しみをもつてやりとりされてゐるのではなく、互ひに互ひの存在と役割を讃へ合つてゐるといふことです。

それは、如実に響きとして響いてゐます。互ひに呼びかける時に、どちらも相手のことを「うつくしき・・・」といふことばを発してゐるのです。それは、死と生とが、もとは、ひとつであつたことから来る情の発露です。

世は分かたれなければならないこと。しかし、憎しみをもつて分断が宣言されるのではありません。

分かたれたからこそ、互ひが互ひを認め、讃え、敬つてゐます。

分断を煽るのではなく、互ひを讃え、敬ふといふ、葛藤を超えたひとりひとりの人の意識の変容こそが、世を生成発展させ、弥栄に栄へさせることへと深いところで働きかけてゐます。

個人のことだけでなく、男女間のことだけでなく、国と国、民と民との間のことにおいても、分断しようとする力が強く働いてゐる今ですが、国防や国際社会における政治的駆け引きなどもその必要性から当然なされてしかるべきだと考へつつも、この内なるひとりひとりのこころのなり変はりこそが世に新しい場を創りなす鍵となるのだといふことを肝に銘じたいのです。

政治的な面において、世には残酷なところがあるとわたしは痛感してゐます。(願はくば、このことばが、分断を言ひつのることではなく、事実を事実として認めることへと繋がりますやうに。)その現実を知るほどに、上に書いたことのかけがへのない精神からの伝えへとしての我が国の神話・神語りの重要性をいまさらながら念ふのです。

そのことをわたしたち日本人は深みで知つてゐます。ご先祖様はそのことをわたしたち現代人以上に遥かに深く遠く知つてをられました。

そして、その古くからの伝統や習慣が失はれてしまつた今、わたしたちは、教育を通して、意識的に、我が国の神語りを暮らしの基にまう一度据ゑ直すことができないでせうか。

我が国の神話・神語りによつて、死と生が二極対立としてあるのではなく、ふたつがまるごとでひとつなのだとおほらかに(かつ、密やかな悲しみを湛へながら)捉へる力を育むことが大切なことではないかと思ふのです。

その内なる力が、世の分断を防ぎ、和してあることへ、そしてその和すことそのことが、弥栄に栄へゆくことへとわたしたちを導くといふ、いにしへからの我が国の精神の伝統をわたしも信じてゐます。

この内なる密(ひめ)やかなこころのなり変はりを、わたしたちは、まう一度、意識的に練習して行くこと。この大切さ、必要性を強く念ふのです。




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2022年02月20日

こころの矢



今日僕等の周囲に提供されてゐる莫大な知識の堆積と、無秩序な事態の樣相に銳敏であれば、僕等の內憂の力が絕えずさういふものに應ずる爲に浪費されざるを得ない。

さういふ新らしい時代の不運を逃避してはならぬ。

僕等はたつた一つの的を射抜くのに十年前の⾭年が思つてもみなかつたほど澤山の矢を射ねばならぬのである。

今日、心の浪費を惜しむものは何事も成就し得ないと僕は考へてをります。

大切な事は、矢といふものはいくら無駄に使つても決して射る矢に欠乏を感ずるといふ事はない、さういふ自信を持つ事です。矢は心のうちから発する、そして人間の心といふものはいつも誰の心でも無限の矢を藏してゐる、さういふ自信を得る事です。

(『現代の學生層』小林秀雄 昭和十一年六月)


これは、昭和11年、1936年に小林秀雄によつて書かれた文章の一部です。

「大正デモクラシー」といふコトバにまみれるやうにして、日本の世相が近代化の成熟、爛熟に至つてゐた約十五年間。その大正時代を経て、昭和に入り、多くの若い人たちが、物質的な豐かさ故の虚しさを抱えて煩悶してゐたことを、わたしは多くの先人たちが殘してくれた文章を通して、知ることができました。

「大正デモクラシーをひと口で言ふと『猫なで声』と答へる」
(山本夏彦) 

いつの時代でも、若者たちは、志を己れの内に秘めてゐます。昭和十年代のその秘められてゐる志に向けて、小林秀雄は己れのこころざし・ことばの矢を放つてゐます。

わたしたちは、人生の荒波を超えてゆきながらも、一生涯、学生です。

そして、学生であるといふことは、外からやつてくるものに負けずに、その都度、その都度、目指す的に向かつて、みづからのこころから無数の矢を放ち続ける、その気力とこころざしにあります。

なるほど、的を見据ゑることは、気持ちの良いことでも楽しいことでもないかもしれませんが、その的を見失はずにしつかりと観る見識を養ふことと、さらにその的に向かつて矢を放ち続けて欠乏を知らない、みづからへの信頼を持つことは、この時代、本当に、本当に、必要です。

86年前のかういつた文章を読むことによつて、こころの泉から清い水が湧き出てくるやうな感慨を感じます。いま、かういつたものを滅多に読むことができません。

大きなものに、小さなものに、みずから貢献する力の一部となりたい、といふ若い人たちの志に火を点けること、さういふことばを発し合ふ関係性こそが、ことばの道、文章の道、文藝の道によつて念ひ起こされて行くのです。

アントロポゾフィーといふ精神の運動からですが、人の自由を守り、人の創造性を促す、さういふ運動にわたしも馳せ參じてゐます。




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2022年01月16日

父の思ひが分かること



父が亡くなつてから、もうすぐ15年が経たうとしてゐるのですが、夜更けになつて、ふと、父が生前、話してくれた、彼自身の幼い頃の思ひ出話を想ひ起こしました。それは、彼の母親(わたしの祖母)が水商売をしてゐたため、大阪の難波の店から生駒近くの家まで帰つて来るのが毎日夜の遅い時間、自分が眠つてしまつた後だつたこと。そして、自分の寝床にまで聴こえて来る、家の近くを過ぎ行く電車の走る音がするたびに、お母さんがこの電車で帰つて来てくれたのではないかと寝床の中で待つてゐたこと。

父よ。いまは、もう、お母さんと一緒にゐるのだね。


・・・・・・・


父の感じてゐた悲しみや切なさに、当時のわたしはやはり距離を持つて感じざるをえなかつたのですが、それが、何十年と経つことで、その距離が埋められて、とても、とても、リアルに感じてしまふやうになつてしまひました。


・・・・・・・


小林秀雄の『栗の樹』といふ短いエッセイからの文章を想ひ起こしました。


「思ひ出となれば、みんな美しく見えるとよく言ふが、その意味をみんなが間違へてゐる。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思ひをさせないだけである。」


わたしたちは、さう、つまらないことは忘れるに任せ、本当に大切なことを想ひ起こすことができる。それがまことの歴史といふものではないでせうか。


本当に大切なことを上手に想ひ起こすといふことは、時間がかかることですし、難しいことであると思ひます。




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2022年01月09日

からだといふ自然



冬本番になつたとはいへ、自然の美しさに触れることもなく、大阪の家に籠もるやうに生きてゐました。自然といへば、窓から見上げる青い空と流れる雲ぐらゐでせうか。

しかし、このクリスマスからお正月を超えて、ひとり、部屋にゐるわたしは、どこか透き通るやうな考へに恵まれるやうな日々を過ごしてゐるやうに思へたのです。本当にありがたいことです。

どこにゐようとも、いつであらうとも、自然はわたしを包み込み、貫いてくれてゐる。そして、最も豊かで密やかな自然が一番近くにある。それが、自分のからだです。このからだを、こころをこめて用ゐれば用ゐるほど、その働きは豊かなものをこころにもたらしてくれる。

こころをこめて目を用ゐれば、神からいただいた目といふ自然がこころに密やかに「徳」といふ精神の質をもたらしてくれはしないか。

こころをこめて耳を用ゐれば、神からいただいた耳といふ自然がこころに密やかに「聖」といふ精神の質をもたらしてはくれないか。

「徳」は目の働きに順(したが)ひ、「聖」は耳の働きに順ふ。

漢字といふ文字が人に教へようとしてくれてゐることにも、耳を澄ますことができます。

目といふ自然も、耳といふ自然も、唯物的感覚に裏打ちされた情報を仕入れるためだけに使はれるのではなく、そのやうにこころをこめて用ゐられることで、人のこころに、深く、豊かで、澄んだ情を育むことができるやうです。

からだといふ自然は、偉いものです。

そのやうに精神からの作法で、自然と共にあり、自然とつきあひ、自然を用ゐることで、高い感官(こころと精神の感官)を養ふことができるのだなあ・・・。

そんな思ひでゐます。



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2022年01月03日

永遠(とこしへ)の文学



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天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、

高天原(たかまのはら)に成りませる神の名(みな)は、

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、

次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。

この三柱(みばしら)の神はみな、
獨神(ひとりがみ)成りまして、
身(みみ)を隠したまひき。

次に國稚(くにわか)く、
浮き脂(あぶら)の如くして、
海月(くらげ)なす漂よへる時、
葦牙(あしかび)のごと
萌えあがる物によりて成りませる神の名(みな)は、
宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)、

次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。

この二柱(ふたばしら)の神もまた、
獨神(ひとりがみ)成りまして、
身(みみ)を隠したまひき。

上(かみ)の件(くだり)、
五柱(いつばしら)の神は、
別(こと)天(あま)つ神。


┅┅┅┅┅┅┅┅┅┅


本居宣長による訓み下しで『古事記(ふることぶみ)』の冒頭です。

古き人(神)が唱へたままの「古語(ふること)」を、その息遣ひのままに、唱へ唱へて、とこしへに、この神語りを語り継いでゆく。

その声から声への継承をもつて、この国を、地上の国でありつつ、とこしへに精神の国たらしめん。

それが、第四十代・天武天皇の悲願でありました。

古事記冒頭の「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時」から、この「別(こと)天(あま)つ神」まで、まさに、人のことばではなく、神のことばだと感じる感覚。

『古事記(ふることぶみ)』のこれらのことばは、世(宇宙)のはじまりを描きつつ、いま、ここにある、〈わたし〉のありやうを描いてゐるやうに感じられてなりません。

〈わたし〉においては、つねに、いまが、「天地の初発」です。そして、次々に神々が生まれてをられます。

その精神の生命力。賦活力。創造力。

日本の文学の大元であり、とこしへを希ふ、この神語りを、令和のわたしたちが声に響かせる。

この国をこの国たらしめつづけるべく、この神語りを、これからの日本の子どもたちにも、伝へてゆきたいと念ふのです。




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2021年12月31日

「責任」といふことばのかけがへのなさ



とても個人的なことですが、思へば、2019年からこの2021年の終はりにいたるまで、いくつもの「なぜ・・・!?」といふことにわたしは襲ひかかられて来ました。襲ひかかられてゐる最中は、「なぜ、俺が、こんな目に会はねばならないのか」と歯ぎしりするやうな苦しみと怒りに懊悩しました。

でも、いま、それらすべての不合理が、わたしにとつて、なくてはならないものであつたことを知るのです。すべては、わたしのこころの奥底にあるものが引き起こして来たことであり、すべてがわたしの責任に負ふてゐるのです。

この世を生きるといふことは、この不合理を抱きしめることだといふことを、わたしはいま実地に学ばせてもらつてゐる、そんな思ひでゐます。


このやうな生き方は、多くの、無数の、勇気ある人がして来たことだと思ひます。すべてが自分自身の責任なのだといふ考へ方、生き方です。


わたしには、まだまだ、そのやうな胆力はついてゐないのですが、それでも、生きるといふことの深みに、少しづつ、少しづつ、触れさせてもらへてゐる、そんな感触があり、わたしは、この感触を愛さうとしてゐます。

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天の使ひ



朝、家を出て、駅まで歩いて行かうとすると、道でひとりの女の子が向かうから歩いて来ました。この近くの私立の小中高一貫学校の制服を着てゐます。とても背が小さいので、おそらく小学一年生だと思ひました。本当に珍しいことに、その子はマスクをせずに歩いてゐます。わたしもマスクをせずに歩いてゐます。歩いてゐて、互ひの距離が狭まつて来るにつれて、その子はわたしの顔をまぢまぢと観ます。わたしもその子の顔を観ました。とても白い肌をした美しい大きな瞳をした子でした。わたしは思はず微笑み、その子もうなづきながら微笑んでゐます。すれ違ふときに、わたしはゆつくりと「おはようございます」と声にしました。すると、その子は立ち止まつて「おはようございます」ととても丁寧に声にしてくれました。さうして、すれ違つて、互ひに、それぞれの方向へ歩いて行きました。


わたしは、天の使ひが女の子の姿をとつて、わたしの前に現れて下さつたと思はずにゐられませんでした。昨晩、眠る前から、天の使ひの方の助力を願つてゐたのです☺️。

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2021年12月30日

夜更けの慰め



夜更けになると、からだもこころも疲れてゐるので、もう根を詰めた読書はできないが、美しい日本語を読むことは、本当にこころを慰め、暖め、潤してくれる。萬葉集、保田與重郎の『日本の文学史』、石村利勝氏の詩集『ソナタ/ソナチネ』の冬の詩をひとつ、またひとつと、味はふ。日本のことばといふものがもたらす美しさと悲しさ。それは、物の世を離れ、こころと精神の世への憧れと感覚の啓けを促すことばの力である。この国の強みのひとつは、ことばを美しく、確かに用ゐることのできる人がゐることだと思ふ。

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2021年12月25日

元保育士の方のことば



下にご紹介する文章は、この秋、二回の枠珍接種を受けられた保育士をされてゐた女性の方のことばです。わたしの言語造形のクラスにずつとご参加されてゐた方で、接種を受けられる前は、ほとんど病気などもなされず、ごく健康な日常を送つてをられました。


ーーーーーー
「元保育士の方のことば」


もともと打つ気など全然無かったが、職場の同調圧力に負けて業務命令としてうってしまいました。園で体調を崩して、早退・休職してから、傷病手当の受給を条件に自己退職に追い込まれました。

私の住む市は保育士は職域接種の対象ではないです。しかし勤務先の園のある市は、保育士も職域接種の対象になり、予約の取れない他市から通う保育士には、キャンセルがでたら接種に行くようにと市から再三連絡がありました。

園長は枠珍推進派で、自分の娘に頸がん枠珍の接種もさせていた人で、「正職は『子ども達のために』接種して」と再三同調圧力をかけられました。

保育士は『子どものために』と言われたら命もかけられます!

1回目の接種の時は子ども達が一緒にいる前で『キャンセルが出たから子ども達のために接種に行って』と言われて拒否出来ず、私はそれを『業務命令』と受け止めて行きました。

左親指が腫れて腕に痺れが出たのですが高熱が出なかったので、大したことないと思ってしまい、2回目も市役所から連絡を貰い接種に行きました。

接種2回目後から体調不良となり、紹介された病院から処方された薬が合わず、体調が悪化していくうちに、理容院のヘアスプレーの匂いで呼吸困難などの症状が出ました。

現在は歩行障害があり杖歩行となっています。平衡機能検査では100点中1点という結果で、浮遊性のめまいで常に船酔いの状態です。脳の平衡機能を司る部位をやられたそうで、1点というのは、私が平衡感覚が命と言えるオイリュトミーの稽古を積み、身体が記憶していて無意識のうちにバランスをとっていたので取れた1点だと先生が仰っていました。

そこでセカンドオピニオンで化学物質過敏症の専門クリニックを受診して、重度の化学物質過敏症と、それに伴う神経機能障害と診断されました。事実、感覚過敏も酷く特に五感に常に攻撃されている感覚に襲われております。化学物質過敏症は、誰でも発症する可能性があります。

私の無念をどうか世の人に伝えて、世界が正しい判断をすることを祈ります。


ーーーーーー


そして、接種後、この方は言語造形をお休みされてゐたのですが、わたしにメッセージを下さいました。(ご本人の許可を得て載せさせていただいてゐます)


ーーーーーーー


こんばんは。

先日、化学物質過敏症とそれに伴う神経機能障害で確定診断がおりました。(念のため受診した精神科でも精神疾患ではなく、例のモノにより脳が誤認し誤作動がおきていると診断されました)

神経機能障害により、歩行障害がでて杖歩行となっていましたが、坂を転げ落ちるように日々悪化の一途をたどり、杖なしでは立っていることも難しくなってきました。(座位はとれています)

更に歯が1本知覚過敏をおこしたら、あっというまに全ての歯に痛みが拡がり、今は離乳食の中期レベルのものしか食べられない状態です。

今の苦しみは喩えるなら、生きながら煉獄に投げ込まれたような感覚です。

しかし私には信仰という盾と、言語造形という芸術という槍がまだ残されている事を信じて生きていく所存でございます。

もう、以前のような声量もなく、記憶、思考もとびだしていて、なかなか稽古も進みません。

日々色々なことが出来なくなって箸も上手く使えなくなり、まるで赤ちゃんに戻っていくような感覚です。

化学物質過敏症の先輩患者さんに聞いた話では、寝たきりになる方もいるそうです。

私も、もしかすると先々そうなっていくかもしれませんが、もし寝たきりになり何も出来なくなったとしても、呼吸し声が出せて話しが出来るかぎり、天に向かって物語を語り続けていきたいと思います。

今の私にとって、それが生きる証です。

26日の稽古、どこまで出来るかわかりません。もう、座ってしか語ることが出来なくなりました。それでも参加させていただけますでしょうか?

もう保育士に戻ることは出来ませんが、もし少しでも回復したならば、いつか子どもたちの前で物語を語りたい。その夢だけが、今の私の支えになっております。

日本語には『万が一』という言葉が示すように、その万が一が起きてしまったのです。

私は、保育者、教育者、そして人智学徒として、これを世に示していくことが、私の使命と感じております。


ーーーーーーー


この方は、40代です。接種前は、本当に元気であられました。

そして、いま、ここに書かれてゐるありやうへと「坂を転げ落ちるやうに」なられたのです。

わたしが、この方だつたら、果たして、かうして、ことばにする気力を持つことができるだらうか、さう思ひます。

本当に、物凄い営みです。ことばにするといふことは。こころのまるごとが懸かつてゐます。いのちが懸かつてゐます。

調べると、すぐに出て来ますが、このやうな苦しみを味はつてをられる方がたくさんゐらつしゃり、彼らの多くも、なんとか、からだを引きずるやうにして、ことばを綴り、ツイッター上に思ひを吐露されてゐます。

つい先日、ほかの言語造形の生徒さんの親しいご友人のご子息、19歳の青年が接種後、心筋梗塞で急に亡くなられました。その因果関係も伏せられてゐます。

「デマ」などではないと感じてゐます。

そして、この苦しみの中から皆さん同じく漏らされてゐることばには、病院もマスコミも政府もこの苦しみに至る因果関係をほとんど認めようとせず、それどころか、隠蔽しようとしてゐることへの困惑であり、そしてそれ以上の何かです。

なぜ、多くの被害実態を隠蔽しつつ、接種をこれほどまでに勧めるのか。

そのことについて、「何かある」と考へられない人はゐないはずです。

ともかくも、どうか、苦しんでゐる方の痛みや苦しみが少しでも治まりゆき、静かな夜を過ごす時が増えますやうに。




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2021年12月09日

冬の夜 本と語らふ



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冬の夜は、本と語り合ふ時間です。本と対話するのです。


わたしは、本を読むとき、できるならば、その本と語り合ひたいなあと思ひながら読んでゐます。


本とは、ひとりの人が血と汗と涙をもつて書き上げたものであると思ふのです。


ひとりの「人そのもの」が、そこに鎮まつてゐる。


だから、そんなひとりの人と語り合ふとき、わたしはその人のことを信じたい。


はじめから疑ひつつ、半身に構へて、その人に向かひ合ひたくない。


さう、本を読むときは、著者とその著作に全信頼をもつてその本に向かひ合ふのです。


なぜなら、ひとつのことを疑ひ出すと、次から次へと疑ひにこころが占領されて、しまひには、その本との対話など全く成り立たなくなるからです。


こちらのこころのすべてをもつて、一冊の本を読む。


人を尊び、敬はなければ、対話は成り立ちません。


本の著者を尊ばなければ、本との親密な対話は生まれません。


しかも、一度では埒が明かないので、何度も何度も語らふがごとく、一冊の本を繰り返し読み重ねます。


さうしてこそ、その本は、その人は、己れの秘密を打ち明け始めるのです。


また、皆が読んでゐる本だから、その本がベストセラーだから、その本を読むのではありません。


わたしは、こころから会ひたい人と会ふやうに、こころの奥底から読みたいと思ふ一冊の本を読みたい。


そのやうなこころの吟味に適ひ、繰り返される読書の喜びに応へてくれるのは、よほどの良書です。


時の試練を越えて生き残つた「古典」。


そして、そのやうな古典は、古(いにしへ)と今を貫いてゐて、現在進行形の問ひを読む人に突き付けてきます。


永遠(とこしへ)です。


わたしが、ここ数年、変はらず語らひ続けさせてもらつてゐるのは、『古事記(ふることぶみ)』と『萬葉集』と保田與重郎全集全四十巻、そして、ルードルフ・シュタイナーの全集から限られた数の翻訳されたものです。


『古事記』は本居宣長の『古事記伝(ふることぶみのつたへ)』で、『萬葉集』は鹿持雅澄の『萬葉集古義』で、ルードルフ・シュタイナーは鈴木一博氏の翻訳で、読んでゐます。


ことばといふもの、日本語といふものに、すべてを賭けた先人の方々との対話。読書の豊かさ。ひとりとひとりであることの真剣勝負の喜び。


残りの人生のすべてをかけても、語らひは決して尽きないのです。




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2021年10月25日

神なる鹿



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秋の奈良。春日大社をはじめ摂社を巡り、こころの内に敬虔さが降りて来る恩恵を深く感じさせてもらつた後、参道で一匹の鹿と目が合ひました。


他の鹿たちは、餌を求めてうろつき回つてゐるのに比して、その鹿は静かに脚を曲げて座つてゐるのでした。


わたしも立ち止まり、数秒間、その鹿と眼差しを交はしながら、「優しい目をしてるね。ありがたう」とこころの内に呼びかけると、明らかにその鹿は、微笑み始めました。


そして、その眼差しに、なんとも言へない、慈愛、慈しみを湛へる光を宿し始めました。


その光に照らされ、包まれて、神がをられる、さう、ぢかに、わたしは感じました。




日本語における「神」は、英語における「God」ではなく、神々しいものすべて、精神の通ふものすべてを、そのやうに、呼んでゐたのですね。


ですので、山にも風にも海にも、狐にも、牛にも、そして一木一草にも、神々しいもの、普段のありやうを超える何かを感じるものには、「神」と名付けたのでした。さうして、それらの「神々」は、人のこころの営みを見通す、見晴るかす、見守る、といふことでした。


よつて、我が国では、「現人神(あらひとがみ)」は当然をられるわけです。西洋の観点で捉へるべきものではありません。


話がずれました。




要(かなめ)のことは、こころに宿す敬虔さ、敬ひの情のあるやなしやで、外の世は、思ひも寄らぬ秘密を打ち明けることもあれば、沈黙することもあるのだといふことなのです。





※写真の鹿は、ここで述べさせてもらつた鹿ではなく、春日大社にたどり着く前にカメラに収めさせてもらつた鹿たちです。当の神々しい鹿は、わたしには写真に撮ることはできませんでした。

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2021年10月21日

崩壊と再生







子どもたちに、かういふことを言はせなければならないことが、歯痒く、悔しく・・・。


しかし、ここで言つてゐることは、すべて、この一年半、わたし自身がまさに思ふて来たことであり、わたし自身の認識のことばでもある。


この小学校の校長先生の仰ることがひどすぎると感じる。学校に勤められてゐる方々にはたくさんの素晴らしい方々がをられることは、もちろん承知してゐるが、わたしは思はざるをえない。学校といふ場所は、もはや、真実が伝へられるところでは全くない。


この全世界的な「プランデミック」は、見えざる世界大戦であると同時に、思ひもかけなかつた崩壊と再生の大いなる機縁だ。

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2021年10月15日

夜明け



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ものごとを考へるきつかけは、やはり、痛みや苦しみに触れるところからではないでせうか。


人は、どれほど、幸ひを求めて生きようとしましても、その人の成長に必要な痛みならば、必ずそれはやつてくる。そして、その痛みはその人に何かを教へようとしてゐる。


しかし、その痛みや苦しみが何をわたしに教へようとしてゐるのかと、その人がみづから問ひを立てなければ、その痛みや苦しみは消化されることなく、繰り返し繰り返しその人を訪れる。


問ひを立てるといふ内なる行為は、考へるといふ内なる行為によつて起こされます。


少し話は別のところへ赴きますが、ここ数十年、感じ続けてゐることがあります。


それは、男であること、肉体的なことよりもより深い性質としての男性性といふ、人におけるある側面、表現が否定される場面に出くわすことが多いといふことなのです・・・。


男性性とは、昔流のことばで言へば、「男らしいあり方」となるでせうか。もしくは、肉体のあり方から離れ、より抽象的に表現するならば、「優れてゐる」「強い」「大きい」「立派な」「偉い」「緊張感」「一頭地、抜きんでてゐる」「理想的な」「高みを目指す」「すること」「創ること」「なしとげていくこと」「変へていくこと」、そんなことばで表現されてゐた「何か」だと感じますが、いかがでせうか。


しかし、わたしは、この言ひ方が指し示さうとしてゐるものが否定されてゐるのでは、実はなく、男性性の不健康なあり方が、人々に嫌悪されてゐる、さう思はれてならないのです。


上にあげた「ことば」がすべて、他者を抑圧する方向へと人を陥れる向きをいつしか持つてしまつた。人の自由を抑圧する向き、人の存在を抑圧する向き、人の精神を抑圧する向きを、上にあげた男性性を表す「ことば」といふ「ことば」が持つやうになつてしまつた。なぜ、さうなつてしまつたのかを書かうとすれば、一冊の本になつてしまふのかもしれません。


人は、いま、その不健康な向きを嫌悪します。激しいと言つてもいいほどの怒りをもつて嫌悪します。


しかし、だからと言ひましても、一方の女性性といふものだけで、世は出来てゐるのではないがゆゑに、世のまるごとが傾き、崩れゆかうとしてゐる。


その女性性といふものを言はうとするなら、これも昔流の言ひ方ですが、「女らしいあり方」となるでせうか。このことばは、「優しさ」「繊細さ」「柔らかさ」「細やかさ」「ふくよかさ」「うちとけること」「リラックス」「あること」「あるがまま」「護ること」「変はらないこと」などなどを指し示すやうに思はれます。


わたしは、あへて、男性性といふものを「精神」と捉へます。そして、女性性といふものを「こころ」と捉へます。


どちらも、人において、なくてはならないものです。


精神とは、天からの光といふやうにイメージされます。叡智や高い知識、イデー、理念、理想です。


一方、こころとは、そもそも、天からの光を受け止め、宿し、孕み、産みなし、育てる、大地の豊かさ、そのやうにイメージされます。


天と地といふふたつの健やかなあり方が内において重なり合つて、その人はその人になりゆく。


問ひを立て、天からの光を降ろす、それがそもそもの男性性の健やかなあり方ではないだらうか。


その天からの光、天からの答へを待ち望み、そして降りて来た光を受け止め、孕み、産みなし、育む、それがそもそもの女性性の健やかなあり方ではないだらうか。


そのふたつのあり方、働き方は、ひとりの人の内側に、そもそもあるものですし、育ちゆくものです。


しかし、現代は、喜びだけではなく、すべての人が、天と地の間に立たうとするみづからといふ存在を意識せざるをえないがゆゑの、痛みや苦しみを負つてゐる時代、意識のこころの時代です。


いや、むしろ、痛みや苦しみを通してこそ、こころを豊かに、成長させることができる時代に生きてゐはしないでせうか。


なぜならば、痛みや苦しみが人生に訪れることによつて、人は、初めて、この世に生まれて来たこと、いま生きてゐること、死にゆくことの「意味」を問ふからです。


楽しみや幸せや快楽だけに包まれてゐますと(それらは、とても、とても、大切なことであり、天からの恩寵でもありますが、そもそも、それのみの人生はありえません)、人は、決して、問ひません。


痛みや苦しみ、そして死を避けて避けて避け続けた果てに、わたしたちは何を生きるのでせうか。


その痛みや苦しみを恐れずに、勇気を持つて問ひを立て続けることが、男性性のそもそも持つてゐる本当の健やかな仕事ではないでせうか。


問ひを立てればこそ、その痛みや苦しみこそが、思ひもよらぬ秘密を明かすやうになります。


そして、その明かされる秘密こそが、その人のこころが稼ぐ、その人の理想です。


その理想は、痛みや苦しみを潜り抜けてこそ得られる宝物ではないでせうか。


夜明け前の闇が最も暗いやうに、わたしたちが、いま、闇を見ざるをえないのならば、勇気を持つてその闇をあるがままに迎へ、闇であること、そして、闇があることそのものを認めること、闇が教へてくれようとしてゐることに対して、勇気を持つて問ひを立てることをするならば、きつと、思ひもよらない秘密が明かされる。


夜明けが来ます。





※写真は、なかむら よしこさんが撮られた青森県田子町(たっこまち)の大黒森の丘からの夜明けの光景です。

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2021年10月08日

奥入瀬川沿ひにて



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あるところから駅まで歩いて行かうと、道を歩いてゐて、静かで大きな夜空の下、自分が今どこにゐるのか分からなくなり(スマホを持つてゐないわたし)、しばらくさまよひ歩いてゐました。


街灯も乏しいところを歩いてゐて、だんだんと、のんきなわたしもなぜだか不安になつて参ります。


そんなとき、「ああ、かうして、若い時から道を歩いて、道に迷ひ、途方に暮れたこともたくさんあつたけれども、必ず、誰かに出会ひ、助けてもらへたなあ・・・」と想ひ起こすのです。


さうして、このたびも、中に明かりがついてゐる消防団の施設の前にやつてきました。


中で、人の声がします。人の声つて、かういふとき、とても暖かく感じるものです。


「すみませーん」とわたしが声を上げてみると、中から屈強な男の人が出てきてくれました。


「すみません、スマホを持つてゐないものですから、駅までの道が分からなくなつてしまひました。ここから、どう行けばいいでせうか」とわたしが尋ねると、その人は「どこから来たの」。


「はい、向かうのイオンからです」。「はあ、そんで、歩いて行くの」「はい」「遠いよ」「はい」「ちょつと待つてて」。

さう言つて、中に入り、仲間の人と話しした後、また出てきてくれて、「この前を流れてる奥入瀬川に沿つて、まーすぐ歩いて行つたら、線路にぶつかるから、そこを左に曲がつて、また、まーすぐ歩いて行けば、着くよ」と教へてくれました。


「ありがたうございます。助かりました」と言ふと、にこつと笑つて、「気をつけてね」と言ひながら見送つてくれました。


青森の南部の訛りのあることばが、何か暖かいものをわたしに贈つてくれるのでした。


スマホがないから、かうして、人に道を訊ける、といふこともあります。


さうして、奥入瀬川沿ひを、誰も人がゐないのをいいことに、大声をあげて、なぜだか笑ひながら、歩いて行きました。







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