2015年03月09日

ことばの力だけで充分 〜百年長屋での狂言の会〜


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百年長屋さんでの狂言の会に家族そろって参加させてもらいました。
 
御年八十歳になられるという大和座の安東伸元さんのお声の力強さと艶には、本当にからだまるごとで驚きました。
 
最前列に座っていたせいか、娘二人も妻も舞台に乗せていただき、『柿山伏』という作品に沿って安東元(あんどう げん)さんの指導の下、演習をさせてもらいました。
 
 
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全身を振り絞って声を出す気持ちよさを改めて感じたようで、終わった後、「本当に楽しかった、気持ちよかった!」と飛び跳ねながら言う娘たち。


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狂言や能にとりわけ顕著に顕れている、西洋の近代写実主義的なあり方とは全く方向を異にしている、我が国の舞台芸術のあり方。
 
ことばの力だけで、人の想い描く力と響き合うことを目指す舞台創り。
 
そういった我が国の文化ならではのこころざしを明確に育みつづけている彼ら狂言師の方々との出会いは、わたし自身にとっても、言語造形との重なりをおおいに感じることのできた得難いものでした。
 
この四月から毎月、家族そろって、狂言の世界に触れられる、こんな機会を用意して下さった百年長屋さんに、こころから感謝します。

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2015年03月03日

ひな祭りと春の女神


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三月三日の桃の節句。
と言っても桃の花はまだ咲いていません。
 
本来の桃の節句は、旧暦における三月三日ですから、
新暦では、今年は四月二十一日になります。
 
本来は、花の桃色の美しさを讃えて祭りを行っていたのでしょうが、
そもそも桃は古来、邪気を払い百鬼を制するという魔除けの信仰がありました。
 
伊邪那岐神(イザナギノカミ)が黄泉の国で醜い姿となった伊邪那美神(イザナミノカミ)に驚き、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)まで逃げてきたとき、なおも追ってきた黄泉醜女(ヨモツシコメ)にそこの桃の実を三つ取って投げると、逃げて帰ったといいます。
 
桃の節句における行事として「穢れを祓う」ということの我が国ならではの古来からの宗教的意味合い。
 
それと合わせて、キリスト教の伝統における復活祭の意味合いとが想い起こされます。
 
それは、真東から昇りゆく太陽(春分)と甦る月(満月)とを柱として、人のこころと精神における甦り(死して成ること)を祈念する祭りです。(In Christo morimur)
 
その復活祭の日は、今年は四月五日です。
 
復活祭のドイツ語 Ostern は、ゲルマンの春の女神から来ていると推測されているそうです。
 
桃の節句におけるひな祭り。
そして、復活祭における春の女神を讃えること。
 
 
我が家「ことばの家」では、復活祭あたりまでお雛様を飾ってお祀りを続けようと思っています。 

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2015年01月22日

人生は短し、されど芸術は永し

ここ十日間以上、風邪をこじらせてしまい、2月1日の公演に向けての稽古をしては寝込み、稽古をしては寝込み、という毎日。
風邪をひいたとき、以前ならば熱がぐっと上がって、汗としてからだの内側にあった余計なものが出ていってくれたのですが、今回は熱も上がらず、しかし常に微熱があるような感じです。
そんな体調の中、想いはぐるぐると同じようなところを廻るばかりで、少しも明瞭さに辿りつかない。
自分にしては、おそらく生まれて初めての、二週間近くのそんな経験でした。

今朝、からだを奮い起こして、また稽古に臨んでみました。
「人生は短し、されど芸術は永し」
改めて、そんなことを念いました。

ことばの響きに耳を澄ませていると、その音が希んでいる動き、かたちが見えてきて、「もっと、こう、動けるんじゃないか」とか、「ほら、もっと、こう、かたち造れるよ」というように、ことば自体が人を促してくれるのです。

そんな、ことばというものがそもそも持っている特性を引き上げたい。

からだの具合がどうであれ、人生の長さがどれぐらいであれ、その仕事に取り組んでいけば、このからだもまた動き出してくれるだろうし、このからだが動き続けるまでこの仕事をやっていけばいいんだ。

そんな意欲がまた起こってきました。

わたしたち人が、ことばというものを卑俗さから高貴さに引き上げる仕事をするほどに、
ことばという芸術が、わたしたち人を健康と不健康を超える地点へと引き上げてくれる。
そう感じました。

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2015年01月01日

「いや重け吉事」 明けましておめでとうございます


新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
                                   大伴家持

 
家族四人で、大声で、この歌を唱えました。
旧暦における年の初めに歌われた歌だし、大阪には今日雪は降ってはいないけれども。
 
何度も唱えて、ことばの家の空間が清爽な息吹に満たされていきます。
 
これは『萬葉集』最後の歌で、編纂者大伴家持最後の歌。
 
家持は、その歌に自分自身のその時の境遇における希いを籠めたのでしょう。
 
またそれだけでなく、『萬葉集』の最後にこの歌を置くことで、とこしえになべての日本人が年の初めに唱え、ことばの精神と共になること、その宗教的な希い、念いをもって、この日本最初の和歌(やまとうた)のアンソロジーを閉じたのでしょう。
 
そもそも、和歌とは、ことばの精神、ことばの神と繋がるべく、学ばれ修され実践されたひとつの信仰のかたちでした。
 
今年も「ことばの家」では、言語造形をもって、ことばの精神に芸術的に取り組むことで、その信仰に繋がってゆくような仕事を深めていきます。

いや重け吉事 (いやましに重なりゆけ、よきことよ)。
 
今年も、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。 

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2014年10月23日

人の成長を祝う


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季節の節目が巡り来るごとに、花や月の光を愛でながら、日本人は毎年、寄って集まって飲めや歌えやの宴を楽しんでいる。
それって、実は、目にも見えず、触ることもできない、何かを祝っている。
何を祝っているのだろう。
 
人生の節目にも、その人の周りに縁ある人々が集まって、何かを祝う。
何を祝っているのか、よくは意識できなくとも、祝福と喜びを分かち合う。
 
 
今回、自分の娘(次女)が、こうした生まれて七年目の節目を迎えて、実にはっきりとこの祝祭の意味を感じることができた。
 
人の成長。
それこそが、大いなる存在・神なるものが希っているものだということ。
 
そして、人の成長は、社会の繰りなしにだけでなく、季節の巡りを含む世の繰りなし、宇宙の繰りなしに、資するところ、大だということ。
 
 
遠くから七五三のお祝いに駆けつけてくれたお義父さん、お義母さんに、そして、娘の成長を見守り、喜んでくださっている大いなる方に、こころから感謝します。


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娘よ。
 
あなたは、これまで、世は善いもの、ということをまるごと生きてくれました。
 
その輝きは、ずっと、ずっと、失われないよ。
 
いま、一つ目の大きな橋を渡ったね。

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2014年09月24日

闇はだんだんに光をとらえるにいたる (再掲)

 
例えば、シュタイナー教育の実践の場や、わたしが取り組んでいる言語造形の練習場や「ことばとメディテーション」の場など、精神的なものの実現・定着を目指している場において、気をつけなければならないな、と感じ、考えていることがある。
 
そのような「光の場」において、人は、みずからの内に深くしまいこんでいる闇が出て来てしまうのではないか、ということ。
 
その場が、光を目指すほどに、闇が忍び寄ってくる。
 
そして、その闇の忍び寄り方には、ふたとおりある。
 
普段、どちらかというと、
熱狂しやすく、陶酔しやすく、熱くなりやすく、またその反動で冷たくなってしまう、
そのような質(たち)をわたしが持っているならば、
光の場に入ると、
その場がここちよく感じられるあまりに、
「このことのみが真実だ、
 他はたいしたことがない、
 いつまでもここにいたい、この場からもう、出て行きたくない」
と感じる方へわたしは傾いてしまう。
更には、他人を責め、批判し、自分こそが正しいことを殊更に言い募ってしまう。
 
一方、
精神的なものごとを信じている、信じていないに関わらず、
精神から離れている生活を営んでしまっているようなとき、
ものごとはすべて計算で割り切れると思い込み、
すべては計画通りに進んでいってもらいたいとの偏った希みを抱き、
人のことも自分のことも信じられなくなってしまうようなとき、
光の場に入ると、
その場の雰囲気が嘘臭く思えたり、
こんなものは現実的ではない、と思ったり、
早くこの場から出て行きたい、と願ったり、
疲れや失望を過剰に感じたり、
その向きへとわたしは傾いてしまう。
更には、自分自身への呵責の念が募って行ってしまう。
 
どちらも、わたしの内にないことではない。
 
前者はルーツィファーという精神のものからの、後者はアーリマンという精神のものからの、強い働きかけを被っていて、その時わたしは自分の中心軸を見失っていて、他者への対応、他者との交流のなかでトラブルを抱えることになる。 

光の場だからこそ、そのように闇が強くふたとおりに人のこころを通して忍び寄ってくる。
 
光の場は、きっと、いま、人に、強く求められている。
 
わたしたちは、気づいた者から、そのような光の場を各地に創っていくことを始めている。
 
そして同時に、そのような場に闇が忍び寄ってくることに、遅かれ早かれ誰しもが直面する。
 
直面して初めて人は学ぶことができると思う。
 
光の場を創っていく上で、イニシアティブを持って創っていく人は、己のこころに忍び寄ってくるふたとおりの闇に意識的であることが大切なことだと、自戒している。
 
そして、そのふたとおりの闇のあり方に傾かず、その間でバランスを取って立つとはどういうことなのか、それを意識的に追い求めていかざるをえない。
 
シュタイナーは『ヨハネ福音書講義』の第二講でこう語っている。
 
   光、闇にそそぎき、闇、光をとらえずありき (ヨハネ一)
   闇はだんだんに光をとらえるにいたります。

 
それは、「人が内なるところにおいて闇に打ち勝ち、ロゴスの光を知る」との意味だ。


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2014年09月22日

ひびきの村への新しい感謝


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北海道ひびきの村での言語造形を終えて一週間ぶりに大阪に帰ってきました。
 
村は、一週間の間ほぼこの上ないお天気に恵まれ、秋という季節の美しさの中にいたような気がしています。
 
5日間のワークショップの最終日に、ひとりひとり作品の発表をしたのですが、その素晴らしさにわたしは本当に打たれてしまいました。
 
わたしたちは各々大なり小なり様々な課題を人生の上に感じていますが、とりわけ困難な課題を感じている方々が、言語造形という芸術に一心に取り組むことで、日一日と重くて厚い鎧を、ゆっくりと、だんだんと、はずしていくかのように、飾りを捨てていくかのように、成りかわられていくのです。
 
そして、最後の発表の時、観客を前にして立ち、全身全霊でと言ってもいい位、必死になって、しかも変な力みなどなく、それぞれの文章・物語・詩のことばの法則に沿って発声する・・・。
 
聴いていて、わたしは涙が溢れてきました。
 
自分が講師であるとか、先生であるとか、そんなことはどうでもよく、その人そのものに出逢え、その人の成りかわりに出逢え、その人の隠れていた輝きにまみえることのできた喜びは、どうしてこんなに、こころをせいせいとしてくれるのだろう。
 
参加された方々おひとりおひとり、スタッフの皆さん、本当にかけがえのない時間でした。ありがとうございます。
 


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このたびは、家族全員を連れての滞在でした。
 
いつもの滞在とは違い、授業を終えて帰ると、そこに家族がいてくれることが、なんとありがたいことだったか。毎朝、まるで我が家にいるようにリフレッシュしながら授業に向かうことができたのでした。
 
そして今回、わたしたち家族全員が出演しての公演をオイリュトミーホールで行ったのですが、それはこれからのわたしたちの活動・仕事とひびきの村とのこれからの関わりが、より芸術的に、より人間的に、より社会的になりゆく最初のしるしのようでありました。
 
妻とわたしは、十一年前にこの村で出逢って以来、なんらかの形と頻度でこの村との関係が続いてきました。しかし、今回改めてこの場の深い精神的なありように心身ともに貫かれた様な感覚を感じたのです。
 
娘たち二人も、おそらく生涯忘れられないような、夢のような時間を過ごしたようです。
 
とりわけ、九歳の夏木にとっては、村を囲む自然の風や光、青空、湖のきらめき、そして動物たちに触れることを許された喜びで胸が一杯になってしまったようです。
 
ひびきの村そのものに、いま、深い深い感謝を感じています。
 

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2014年09月01日

かりそめの誠意ではなく


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言語造形の舞台をしていて、どうあがいてみても、美しく歌うことができない時があります。

どうしてだろう。
準備も重ねたし、気持ちの面でも意識の上では前向きになっているのに。

しかし、本当は分かっているのです。

生活。
生活に原因がある。
毎日の生活のなかで重ねられていく意識はやがて無意識の底に沈められていくのだけれども、その沈められているものの質に原因がある。

生活がまっすぐになっていないのである。
生活の中で余計なことをしすぎ、余計なものを喰らいこみすぎている。
そして、作品に対するまごころ、ことばに対する敬意への意識がどこか不鮮明になっているのです。

昨日、広島から帰ってきて、保田與重郎のことばにすぐに帰りました。

   心持が如何にことばの風雅(みやび)の上に現れてゐるかは、
  心持の深さや美しさのものさしとなるし、
  作者が神の創造の思想に達している度合のめもりである。
  かくして言葉に神のものが現れるといふ言霊(ことだま)の風雅(みやび)の説は、
  人各々の精神の努力と誠心とから遊離せぬものである。
  人各々の心にある神が、ことばにも現れたときに、
  その歌は真の美しい歌となるといふ意味だからである。
  我が内に鎮(しづ)まる神が現れることは、
  かりそめの誠意ではあり得ないことであった。
                      (『古典論』より)


與重郎のことばは、わたしにとって清潔で志の通った山であり、谷であり、川であり、海であります。
そこに帰っていくことで、わたしは漸くそのことばの内に宿っているいのちの泉から清冽な水を汲み、喉を潤します。

美(まこと)は、いかにして、我が身を通して生きうるものなのか。
醜(うそ)は、なにゆえ、我が身に忍び寄り、寄生しようとするのか。

「かりそめの誠意」ではなく、精神からの本当のこころの糧を求め、まごころを尽くす生活を。

だから、どんな険しい経験も、新しい認識となってくれます。
  

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2014年08月25日

賢治のいた場所へ 〜岩手 花巻の旅〜

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羅須地人協会 賢治のオルガン

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協会内の語りあい、奏であい、物と物を交換しあった部屋

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学校の生徒を誘って足しげく登った種山ヶ原

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4泊5日の宮城から岩手への旅をしました。
 
シュタイナー学校教員養成プログラムin仙台の番外編として、宮澤賢治の作品をテーマにしたワークショップと公演。
おひさまの丘 のメンバーの方々はじめ、多くの方が、お盆の大変忙しい時期であるのにもかかわらず、集って下さいました。
こころから感謝しています。
 
その後、岩手県花巻市に入って、賢治の足跡を辿る旅でした。
 
これまで、賢治の作品は理屈抜きにわたしのこころを異様なまでに揺さぶってきました。
 
これまで本からの知識だけで知っていた、賢治が足しげく通ったところ、生家、羅須地人協会だった家、移築される前にその家が元々あった場、などなどに、今回は実際に足を運んでその場に立ってみることができました。
 
いわゆるひとりの観光客にすぎない自分ですが、それでも足を動かして、その場に立ってみなければ、到底感じ得ないものがあり、歌枕を訪ねて歩いた我が国古来の詩人たちのこころもちのほんの一端を垣間見させてくれたような旅でした。
 
神秘主義を日本語で生きようとした賢治の足跡は、膨大な量の作品、手紙、手帳などに残されています。
 
その賢治の作品を、言語造形を通して生きること。
 
そうすることによって、人がこの世に生きることの神秘と悲しみと喜びが、わたしのからだとこころを貫いていきます。
 
今回、養成講座の学び手である方々と共に旅をすることができたことが、本当に嬉しかった。
そして、ひとりではなかなか足を延ばせないところへ案内して下さった木村さん、山田さん、本当にありがとうございました。


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2014年05月24日

春と帝塚山音楽祭とことば塾

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春の風と麗らかな陽射しが本当に心地よい今日、大阪の帝塚山は人と音楽と和やかさに満ち溢れています。

毎年行われている帝塚山音楽祭も今年で28回目。
万代池を中心にして、付近の飲食店や郵便局、学校、福祉センター、アトリエなどで様々な音楽が奏でられています。

今日、我が家の「ことばの家」において、塙狼星さんによる、小学生のためのシュタイナー教育土曜クラスの第一回目が行われました。
ことば塾「帝塚山土曜クラス」がいよいよ始まりました。

二階で行われている授業の様子が階下にも聴こえてくるのですが、なんだか、涙が出てきそうになるのです。
改めてシュタイナー教育において、ある信念があることを感じさせられます。
それは、本来人間は芸術というものを心底求めているのだということに対する信念です。

先生の歌声と共に、子どもたちも歌い、踊る。
色彩の中に浸ること、昔話に耳を傾けることによって静けさと共にこころと身体がひとつになっていく。

これは、きっと、子どもが、人間が、求めているものだ・・・、そういう実感がします。

そして、ときおり聞こえてくる笑い声。
常にユーモアを大切にしている先生です。

そんな風に、我が家も音楽祭・芸術祭に参加しているのでした。
帝塚山に多くの人が行き来し、文化が息づく町として少しずつでも新しく育っていくことを希んでいます。

これからも第二と第四の土曜日午前にことば塾が開かれます。

ご関心のある方はぜひご連絡ください。

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『帝塚山での土曜クラスについて』

場所:帝塚山ことばの家

開催日:第二・第四土曜日(1エポック5回) 
午前10時〜12時
   
対象学年:1〜3年生

内容:リズミック・アクティビティとオイリュトミー、季節に沿った手仕事(にじみ絵、フォルメン、粘土、ペーパークラフト、羊毛ほか)、お話(メルヘン、寓話、神話)

授業料:各回2500円、エポックのはじめに各エポックの授業料を前納(授業料袋をお渡しします。ご都合でお休みでも返金には応じかねます。)

2014年
春エポック(6月) 残り2回 授業料:5000円(教材費込)
6月 A14日午前10時〜 B28日午前10時〜

夏エポック(7月〜9月) 5回 授業料:12500円
7月 C12日午前10時〜 D26日午前10時〜
8月 9日はサマースクール開催のためお休み E23日午前10時〜 
9月 F13日午前10時〜 G27日午前10時〜

秋エポック 5回 授業料:12500円
10月 H11日午前10時〜 I25日午前10時〜
11月 J8日午前10時〜 K22日午前10時〜
12月 L13日午前10時〜 

冬エポック 5回 授業料:12500円
2015年 
1月 10日午前10時〜 N24日午前10時〜
2月 O14日午前10時〜 P28日午後2時〜(この日のみ午後授業)
3月 Q14日午前10時〜 

ご質問があれば、メールでご返信いただくか、今週の土曜日のクラスで承ります。
よろしくお願い致します。

塙 狼星

連絡先 空堀ことば塾 tel:050-1428-0855(090-8468-4174)
           e-mail:kotoba_jyuku@ybb.ne.jp


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2014年05月16日

源氏物語と冷酒 〜百年長屋さんでの『古典に親しむ夕べ 』〜

今夜も、百年長屋さんでの山崎方典さんによる『古典に親しむ夕べ 〜源氏物語〜』に出る。

今回は、「空蝉(うつせみ)」の巻。

見た目はさほど美しくもない空蝉という女に、17歳の光源氏がどうしようもなく魅せられてしまう。

その空蝉と対照的な、若くてピチピチとして目鼻立ちも際立つ軒端(のきば)の荻(おぎ)という女には、
源氏は一時的に好奇心をそそられはするが、こころの真ん中は動かない。

紫式部の筆は、双方の女の相(すがた)をある種の冷ややかな視線で精確に描く。

そして源氏という男のこころの眼を通して「まことの美とは何なのだろうか」という問いを読者に投げかけている。
そのように思われた。

さらに、当時における男と女の結びつきに対して人が持っていた観念やこころもちは、現代とはずいぶん違っていて、
源氏の女への執心のさまから、そこには両性の結合に対する深い信仰のようなものがあったのではないかと思われた。

美ということについて、男と女ということについて、また、つらつら、しみじみ、想いながら帰り道に就いた。

毎回、終わった後、なぜか、とてもいい気持ちで玉造の街を歩いて駅まで帰る。
なぜだろう。
芭蕉の言った「風雅の魔心」に少しだけ胸の中を誘われているのかもしれない。

それと旨い冷酒を頂きながらの勉強だったからかもしれない。

山崎さん、そして百年長屋の緑さん、大人のためのこんな勉強会、いつもどうもありがとうございます。

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2014年04月27日

南ゆうこさんの詩集「木のそばで」


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三重県名張にお住いのゆうじゅさん、こと、南ゆうこさん。http://yuju.exblog.jp/

お菓子を作り、絵を描き、そして自分のことばを探すことで詩を織りなしていく・・・。
そんな多彩な活動ながら、ゆうじゅさんは一貫して彼女ならではのものを表現し続けているように思います。
彼女の、目には見えないけれども確かに感じられる身振りの緩やかさ。
その立ち居振る舞いから感じられる生き方自体のおのづからさ。
そのおのづからさの向こう側にほの見える、世への根本的な信頼。

去年の秋から言語造形のレッスンにも通ってこられて、
ことばを声にして発していくことにも静かな意欲をみなぎらせておられます。

そんな彼女から、昨日の朝、一冊の詩集『木のそばで』が届けられました。
日常生活の一部分として「ことばを集める」。
その日常の連続から生まれてきた詩集。

この詩集のページを繰るごとに、朝の時間の流れがとても緩やかに、静かに、密やかになるのを感じます。
一日のはじまりを整えるのに毎朝、手元に引き寄せたくなる本です。
自分自身の呼吸を深める喜びを感じさせてくれるのです。

ゆうじゅさん、素敵なことばの贈り物、どうもありがとう。



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2014年03月14日

百年長屋での『古典(源氏物語)に親しむ夕べ』

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今日も百年長屋での『古典(源氏物語)に親しむ夕べ』に参加した。
http://nagaya100.sblo.jp/article/88213527.html

わたしたち現代人にはとても難解に見えてしまうことば遣いで編まれている『源氏物語』。

近づきたくても、機会が見いだせなくて、きっともどかしい想いを抱いていた大人たちが、今日も集まられていた。

初めて触れるのにもかかわらず、すんなりと物語の世界に導く山崎方典先生の解説と朗読。

原文の響きが持つ、日本語の奥行、細やかさ、ふくよかさ・・・。

講義が終わった後も、じんわり、しんみりと、味わいが後を引く、素晴らしい時間だった。

人はなんと繊細で揺れやすいこころというものを持ちつつ生きている存在か。
「帚木」の巻での空蝉という女のあり方に、そしてその女の性(さが)を引き出してしまう光源氏の君という男のあり方に、色々と想いを潜めつつ家に帰ってきた。

そして、変な言い方だけれども、百年長屋という空間自体が今日のような時間を持てていることをとても喜んでいる、そう改めて感じた。

本当に他では得難い時間と空間。

今日のような滋味深い学びの喜びを分かち合う人が、だんだんと増えていき、百年長屋がますます生命を、いのちを、孕んでいきますように。

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2014年03月04日

桃の節句とモモ


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娘たちふたりが相次いでインフルエンザに罹り、ここ数日ずっと苦しんでいた。幸いにも自分の仕事も休みが続けて取れて、妻と交代で娘たちの面倒をみることができた。

このように仕事の休みが続く時に、どういう訳か家族が順番にダウンすることがよくあって、身体はよく分かってくれていると言うか、見えない存在の方々がちゃんと采配してくれていると言うか、ありがたいことだと思う。こうして、じっくりと身体とこころを休ませることができて、家族の間がらが更に親しく、深く、刻まれるよう。

そして、何より、時間というものが、人には与えられていて、その時間はその人その人の思い次第で伸縮自在のものなんだということを再確認できる。自分が病気になるだけでなく、家族の誰かがイレギュラーな状態になると、時間の流れがいつもとは変わって、否が応でも、慌てず騒がず立ち止まれるようになる。そんな時こそ、時間というものを捉え直すいいチャンスであることを今回も感じた。

そんな今日、新暦だけれども3月3日ということで、桃の節句。
病が明けた娘たちと妻とで、近くの万代池に行き、桃の花は勿論まだ咲いていないけれども、竜神様に感謝の念いを伝えに行った。

万代池から帰ってきた後、ミヒャエル・エンデの『モモ』の読み聞かせを漸く今日終えた。去年の夏から娘たちに折をみて読み聞かせをしていたから随分時間をかけたけど、桃の節句の日に『モモ』のフィナーレを迎えるのも何だか偶然ではないように思ってしまった。
更に、時間というものは人には本来豊かに豊かに与えられているのだ、というこの本のメッセージ。
今日、読み終えるように誰かが采配してくれていたんだな。

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2014年02月27日

肥満を感じた朝

もし、自分が内的にも外的にも肥え太ってしまったとするなら
その感覚はおそらく頂点に達するまでは気づかれないもの。

自分が自分であることの充実を感じるには、
実はその贅肉を落としていくことが必要だと感じる。

ようやく自分自身の肥満に気づいた朝に、
敬意を覚えている本を取り出す。

文章というもののもつ香気によって、
肥え太っている自分のありようを洗い流していく。
そしてそもそも持っていた、こころざしというものを念い起こす。

文の相(すがた)は、
みずからを観、みずからとわたりあい、みずからを深めようとする、
静かな意志に通われた書き手その人の後ろ姿を見せてくれる。

その洗われ、浄められたように見える後ろ姿は、
決して生身の感覚や情を置き去りにして立ち去ってゆくようなものではなく、
むしろ、それらの人となりの要素として織りなされているものすべてを優しく抱きかかえながら、
なおかつ、一歩一歩前へ進みゆく意の強さを感じさせる。

文章とは、人の内的な姿・相なのではないだろうか。

   文章といふのは、
  その功(こう)広大熾盛(こうだいしじょう)で、
  その徳(とく)深厚悠久(しんこうゆうきゅう)な、
  実に人間の仕事の中での一の大事といつて然るべきものである。


幸田露伴の『普通文章論』の冒頭の一文を思いだす。

人は、みずからの内的な姿を虚空に刻みだすように文章をなす。

その内的な姿とは、
こころをたまさか通り過ぎる思い付きや考えや情の訴えなどの現れではなく、
こころに頑強に居座る主義・主張から形作られるのでもなく、
その人自身も半ば意識しえない、みずからの精神のありようではないだろうか。

文章によって、こころが洗い、浄められる。

そんな文章に、朝、触れることで、目覚めることができた。


posted by koji at 10:31 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月21日

そばにいて一緒に年を重ねてください


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言語造形とは関係ない、とても個人的な、だけれども、自分にとっては決定的に大切なこと。

今日は、自分たち夫婦が一緒に暮らし始めて丸々十年の、自分たちにとってはとてもとてもメモリアルな日。

よく行かせていただく近くのレストラン・カフェ『Django』さん(http://www.django-cafe.com/)にランチを頂きに。
このお店の料理、デザート、音楽(60〜70年代のロック、ソウル、ブルース、ジャズのレコード!)、空間の味わい、ご主人と働いているスタッフの方の仕事具合が本当に好きで、よく行きます。
今日は俺たちのために写真まで撮ってくださって、記念になりました。
大阪にいらしたら、ぜひ!

俺たち夫婦も十年一緒に暮らしてきて、その間に何だか、二人の関係性に玉が磨かれてまろみと艶が出てきたような感触があるんです。

今日、ふたりで話してたんですが、この十年間、お互いがお互いの人生にとっての救世主だったって。ふたりで成長してきたし、これからどんな十年が待っているのか、ほんと、楽しみしかない。

若い若いときから、小野洋子さんが云っていたことばが、いつも、こころのどこかにあったんです。
(Djangoさんでも、今日、ジョンのアルバムをなぜかかけてくださった)

_______________________

「夫婦の関係ってものは、十年すぎると
もっとよくなるんだってこと
みんなに知らせてあげなくちゃね」と
ジョンが言ってたのを思いだします。

ふつうの若い人たちは、十年も一緒にいたら
飽き飽きしちゃうんじゃないか、と思うでしょう。
それが、十年後になんとも言えない
夫婦の味が出てきた。これは大発見だ。
七年目の危険信号くらいで
簡単にあきらめちゃう若い人たちは、この味を
永遠に経験できないわけだ。
これは知らせなくては、と
いかにもジョンらしい心の配り方だと
そのとき思いました。

そういう気持ちもあって
「グロー・オールド・ウィズ・ミー」は
書かれたのだと思います。





努力して保った関係は
手をかけて作ったワインのように
十年後あたりから
一年ごとによくなるものですよ。

『グロー・オールド・ウィズ・ミー』 ジョン・レノン

 そばにいて一緒に年を重ねてください
 人生で最良の日々はこれからはじまる
 時がきたら
 ふたりは、ひとつになる
 神さま この愛に祝福を

 そばにいて一緒に年を重ねてください
 ひとつの樹から伸びた
 ふたつの枝のようなふたり
 一日が終わるときは
 肩をならべ夕日をながめていたい
 神さま この愛に祝福を

 それぞれの人生をともに
 分かち合って過ごしていく
 男とその妻が、ともに
 終わりのない世界を

 そばにいて一緒に年を重ねてください
 どのような運命がさだめられていても
 乗りきっていく
 ふたりの愛は、真実だから
 神さま この愛に祝福を
 神さま この愛に祝福を

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posted by koji at 22:08 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

俺は鈍臭いのだ

今回の公演『グリム童話のひととき』もいつも通り、昼夕ふたつの公演だったのですが、自分が語った「白雪姫」において、俺自身、昼の公演から夕の公演にかけてまるで起死回生の生まれ変わりを体験したような思いがしています。

昼の公演において、お客様はこれ以上ないほどの暖かさで耳を傾け続けてくれたのにもかかわらず、俺は過去において数限りなく繰り返してきた失敗することへの恐怖と幻滅を今回も再び味わい尽くしながら語り終えたのでした。

いったん、どこかの箇所で、ひとことのことば、一音の発し方をしくじった途端に、ことばが、上から、まったく降りてこなくなって、舞台の上で、しどろもどろ、頭で必死に考えながらことばを繋いで、繋いで・・・。

普段、生徒さんたちに、やってはまずいこととして言わせてもらっていることを、全部自分でしているのでした。

おまけに、ことばを間違えたり、灯さなければいけない蝋燭を倒してしまったり、失敗、失敗の連続。

格好悪いったらありゃしない。

全くもって、鈍臭い。

でも、なぜか、そんな自分の格好悪さ、鈍臭さ、駄目さ加減を、今回は自分自身に許すことができたのでした。

これまでの人生でずっとやってきた鈍臭いことや駄目なところ、それをなんとか隠そう、隠そうとしてきたと思うのですが、今度の舞台で丸見え、と言いますか、隠しようもなく露呈してしまっている・・・!

もう、隠さんでええやん!

恐怖と幻滅を味わい尽くし、駄目な自分をも認めることができたからこそ、もう、夕の舞台では、腹を決めて捨て身で舞台に立つことができたのかもしれません。
言語造形をしていくことに対する信頼、ひいては、自分自身に対する信頼を舞台をしながら取戻し、確信することができたのでした。

でも実は、自分だけのそんな内的な変化だけではなく、妻も舞台を見守りつつ、こころの中で、そんな俺をそのまま許し、応援し続けてくれていたのでした。

後から妻に聞いたのですが、舞台の上でのそんな俺を見守りながら、その駄目な部分、鈍臭いところは、実は妻自身のひとところとしてずっと纏わりついていたものであることに気づき、その彼女自身のマイナスであるようなところを妻自身が認め、許し、愛することができた。
そして、俺を内的に応援し続けてくれたのだそうです。

俺は、夕の公演の間中、ずっと、何かに守られていた様なこころもちでした。

公演に来てくださった方々、本当にありがとうございました。

こんなことを書いてしまって、お客様に申し訳ない思いもあるのですが、正直に書いてみました。

posted by koji at 14:18 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月20日

新しい日本語 〜鈴木一博さんによるグリム翻訳〜

言語造形家、鈴木一博さんによるグリム翻訳。
声に出すことで、そのお話が秘めている品格を引き出すような翻訳。

でも、この翻訳による日本語に自分のからだとこころを沿わせていくためには、
わたし自身、随分と時間をかけているような気がします。

日常生活にはもはや使われることのない言い回し。
日本語には通常ない語順。
その上で、
ことばひとつひとつ、音韻ひとつひとつの響き。
文から文への無駄のない歩みの中で生まれる空間の広さ、狭さ、高さ、低さ・・・。

それはドイツ語からの翻訳であることをあえて徹底的に意識し、
日本語としてこなれた翻訳をしようということではなく、
古いことばと今のことばとの出会い、ドイツ語と日本語との出会い、
その出会いそのものから生まれる違和をあえて引き立て、
さらに新しい融和を模索するような翻訳だと感じています。

そんなある意味、新しい日本語と云ってもいいこのグリム翻訳に通暁していくことに、はじめは随分と困難と不自由を覚えたものでした。

でも、それに通じていくほどに、
芸術的に簡潔なかたちを得たこれらのことば、文、文章には、
広やかで、豊かな滋味ある趣、思ってもみなかったような深み、そして自由を開いてくれる、そんな力をもっていることに気づきだすのです。

我が身と精神を総動員して取り組んでこそ、開かれてくる自由。

グリム童話との今回の仕事では、あらためて、そのことも感じたことでした。

posted by koji at 08:21 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

子どもたち、寄っておいで! くすのき園 - 大阪あびこシュタイナー幼稚園

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2008年から我が娘たちも通っている「くすのき園 - 大阪あびこシュタイナー幼稚園」。
http://kusunokien.exblog.jp

2014年度もこの園が開かれ運営されることは、大げさではなく、
本当に何かからの思し召しだと思っています。

この園があり続けているのは、
樋口早知子先生の大地のように揺るがない「満ち足りた優しさ」にあるんじゃないかなあ。

シュタイナーによるアントロポゾフィーを教条的に奉じることなく、
早知子先生の自主・自由・自発からすべてがなされているので、
そこから、先生の人としての懐の深さが園の雰囲気として生まれているように感じます。

シュタイナーに深く学びながら人としての本質、教育の本質からずれずに、
シュタイナー教育はこうすべき、あああるべき、というような鋳型から自由であることは、
意外と難しいのかもしれません。

シュタイナー幼稚園と言っても、ひとつひとつの園がそれぞれの先生の「ひとりの人」としてのかけがえのなさから魅力が生まれるような気がしてなりません。

大阪我孫子のくすのき園は、そんな先生のお人柄から生まれている人間教育・幼児教育が毎日なされている場所です。

うちの娘ふたりはこの園が大好きだということを毎日言います。
卒園して小学二年生になる長女は、本当によく幼稚園時代を嬉しそうに思い出し、懐かしがっています。

本当にからだの奥深いところ、こころの奥深いところまで、園の精神が及んでいる・・・。

さらに、多くの子どもたちがこの園に通ってきますように。

posted by koji at 13:53 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

萬葉集とグリムメルヘン

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日曜日2月16日に行われます「ことばの家」での言語造形公演『グリム童話のひととき』が、
一週間後に迫ってきました。
5時30分開演の夕の部にまだ少し空きのお席があります。
ご関心のある方、ぜひ、いらしてください。
詳しくはこちらです → http://www.kotobanoie.net/pray.html

今回、なぜグリム童話を公演で取り上げることにしたのかを改めて自分自身に問うてみたのです。

ここのところ、わたしにとってとてもリアルに響いてくるのが、『萬葉集』の詩歌でした。

五・七・五・七・七の三十一文字で描かれてあることばの世界。
そこに記録された様々な歌を口ずさんでいると、
この三十一文字の裏にもうひとつの文字になっていない歌があり、
その歌は創造や生成の場としての混沌と言っていいようなところから立ち上がってくるもので、
それは原形質の感情であるがゆえに、すぐにはことばにして言い表すことのできないものだと感じます。

この、歌の本質と言えるものこそを、古代の人は、「言霊」と言ったのだ。
この「言霊」ということばを、ことさらに新興宗教の教説めいて言うのではなく、
ごくまっとうに、どの人のこころの内にも感じられる、詩歌の味わい、詩の詩たるところ、ことばのことばたるところとして捉えたいのです。

そして、メルヘン、童話、昔話、というものを読んだ後、聴いた後にも、
その詩歌の味わいに似た、ことばではうまく説明できない余韻のようなものがこころの深みに揺曳しています。

そのこころの奥に揺らめくように生きる絵姿。響く調べ。きらめき、くすむ色彩。

そのようなことばにすぐにはできないところを、グリムメルヘンを通して人と分かち合いたい。

そう思ったのでした。


わたしの師の鈴木一博さんが以前に書かれたグリムメルヘンについての文章です。

ひとつ、こういう試みも役に立ちます。いわば実験的様式論です。
ひとつのメルヘンを取り上げて、一、二回、読み通したら、本を閉じ、相のひとつ、ことのひとつを、思い描きます、ありありと迎えてみます。
そして、そのひとくさりを、ことばにしてみます、声にだしてみます。
そしたら、また本を開いて、グリムがものしたその箇所を、よく見てみます。
ほとんどそのたびごとに、こういうことが分かるでしょう。
グリム兄弟が要しているのは、こちらが要したことばの、おおよそ三分の一ほどだと。
また、その少ないことばをもってつくられる文の、大いなる単純さも、際立つでしょう。
さらに、こう問うこともできます。
その簡潔な、「飾りのない」言語の形において、読む人が読んだ後に抱くとおり、そうした多彩で、豊かな相が生じるのは、なぜでしょう。
その問いをもって、こういうことがはっきりします。
まさにその控えめで、みごとに簡潔な形に触れてこそ、読む人のイマジネーションの力に火が点きます。
その力は、ひとつの形を要します。
普遍的で、広く、自由の余地を残す形であり、それが十分にそうであってこそ、読み手、聞き手の内なる働きに場が与えられます。



言語学者でもあり、民俗学者でもあったグリム兄弟によって、
人々から聴きとられたメルヘンは手を入れられ、彫琢され、造形されて、
見事なまでに簡潔なかたちをわたしたちに提示してくれています。

萬葉集の歌やこのグリムメルヘンのように、
そのような「かたち」をもって、
人の「イマジネーションの力に火を点ける」ことこそが、
文学の本望であり、ことばの芸術の本来の働きなのではないでしょうか。



posted by koji at 01:01 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする