2016年05月01日

ていねい

 
わたしは、
一冊の本をていねいに読んでいるだろうか。
一枚の絵をていねいに観ているだろうか。
 
家族とていねいに時間を過ごしているだろうか。
行くところ、行くところで、
ひととき、ひとときを、ていねいに生きているだろうか。
 
たいした用もないのに、
こちらからあちらへと、
忙しい、忙しい、と言いながら動き回って、
そのとき、そのときを雑に扱い、
自分自身の存在自体をも雑に扱ってはいないだろうか。
 
ゆっくりと、腰を落ち着けて、ていねいに、生きる。
 
それだけである。

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2016年04月15日

見れど飽かぬも


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見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく
またかへり見む      柿本人麻呂




何度も、何度も、眼で味わい、耳をそばだて、肌で親しむ。
それでも、飽きない。

人が持っていると思い込んでいる目や耳やその他の感覚器官は、
さらに育めば育むほど、
磨けば磨くほど、
その機能を深めていくものです。

柿本人麻呂によって歌い始められ、
その後、萬葉集の中だけでも五十以上の歌で使われている、
「見れど飽かぬ」ということば。

見るほどに、聴くほどに、触れるほどに、
ものは、ものものしく、ものを言い始める。

感覚の重要性、からだをもって生きることのかけがえのなさ、
そういうことをわたしたちは学びつつ生きています。

我が国では、古来、そのような、
ものというものに細やかな精神を注いでいくことで、
生活と精神がひとつになりゆく、
そんな「ものへゆくみち」が、
当たり前のように多くの人によって歩まれていました。

わたしたちの身が、ものの内側に入っていく。
暮らしそのものが、そういう秘儀の遂行を極めておのずから湛えていました。

理論や教義のなかにではなく、
暮らしのなかのいちいちにこそ神を観る。

そんな神ながらの道が踏まれていました。

そういう日本の文化の表現の後ろに潜む繊細な感覚は、
やはり、宮廷生活から発していたようです。

神との繋がりを保ち、育て、讃えてゆく、
そういう祭りの生活を専一に営んでいる宮廷に、
我が国の文化・文明の源がありました。

いまも、わたしたち日本人のこころの奥底に、
その源からの流れが静かに響きを立てているのではないでしょうか。

わたしたち家族も、そして、ことばの家でも、
その静かな響きに耳を傾けていきたいという希いを、
さらに意識的に育んでいこうと思っています。


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2016年04月06日

金沢で過ごす時間


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妻とは四度目、二年ぶりの金沢への旅。
同じ所へ旅して、飽きないのです。
 
何度、兼六園に行っても、行くたびごとにこころが静まり、
樹木や花々が活き活きとものを言ってきます。
 
歩き廻るだけでなく、
立ち止まって、腰を下ろしてみて、じっくりと、静かに、
眼を据え、耳をそばだててみることで、
草木や石たちはものを言ってきます。
 
また、そこにある植物は、
見識と技量ある人たちによって、
細心に手を入れられています。
 
人の意識が注がれることによって、
世のすべては甦るのですね。

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また、今回は、泉鏡花を読み直すべく、
彼の営んだ暮らしの一端に触れることを求めて、
浅野川沿いの記念館にも足を運び。

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そして、金沢の夜は、おいしいお酒とお魚。
今回は金沢駅から歩いて3分の漁々丸というお店。
堪えられない旨さと、
お店の方々のホスピタリティーに感動しました。
飲食店というところは、
旨さを求めるのは基としてありますが、
本当に、その店主の方の人となりに出会いに行くところですね。
インターネットで、店主の方のお顔を拝見して、
訪ねることを決めたのです。
間違いはありませんでした。
喜び、満ち足り、千鳥足で宿に帰る夜になりました。
 
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金沢という小さな町。
新幹線が開通して一年、多くの人でにぎわっていますが、
まだ、かろうじて、その小さな町ならではの、
人のこころの細やかさを保っていることを実感します。
小京都といわれる町は他にも多くありますが、
この町は、いまだ、
人のこころを大事にしようという風雅(みやび)を、
いいバランスで保とう、育もうとしていることを感じます。
 
同じ町に、妻とこうして何度も通って、
その町で過ごす時間の豊かさ、深さを、
ふたりで発見しあい、感じあい、語りあう。
 
紛れもない天からの恩恵です。
 
わたしたちにとって、金沢は、
何度通っても、通い飽きない、味わい深い町なのです。

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2016年03月21日

身銭を切る

 
今日で閉店してしまう難波千日前のジュンク堂に行き、本を購ってきました。
 
大阪にいくつかあるジュンク堂の中でも品ぞろえが充実していたお店で、我が家から20分ほどの距離にあるので、数えきれないほどこの店にはお世話になりました。
 
こんな大きな店が潰れるのには、いろいろなことがあるのでしょうけれど、お金を出して本を買う人が少なくなってきているということなのでしょうか。
 
大切なものにはちゃんとお金を支払っていきたいなあ。
 
お金をどう使うかは人それぞれの自由ですが、確かなことは、何か、ものを学ぶには、身銭を切らなければならないということ。
 
出し惜しみする人はいつまで経っても、ものを学ぶことはできないということ。
 
そして、思いと労力を籠めて創られたものに、しっかりとお金を払っていくことで、人は文化を創り、育んでいくことに資している。
 
そのことは、しっかりと、娘たちに伝えておきたいな。

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2016年03月04日

鳥見山靈畤(とみやま まつりのには)


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寒さが緩み、風に春の訪れを感じた今朝、
我が国最初の天皇、神武天皇が、
天皇即位の祭り(大嘗祭)を、
いまからおよそ二千六百七十年以上前になされた場所に行ってきました。
 
奈良県櫻井市の等彌(とみ)神社に控える鳥見山の、
その頂きにある靈畤(まつりのには)です。
 
樹々のあいまから覗く春の青空と輝く陽の光りにまみえながら、
山道を登りに登って辿りついたその畤(には)は、
誰もいず、しいんとしておりました。
 
青く広がる大空と、
この靈畤(まつりのには)という小さな小さな場の間に、
太古の昔から今も引き続いているような精神的な働きが、
盛んに行き来し、呼応しあっていることを全身で感じ、
こころをひそめ、
山を降りてきました。
 
祭りの場、それは、神との交流の場であり、
また、舞台芸術の原型を造形していた場であること。
 
いまは見失われているかのような、
我が国の信仰のあり方を、
舞台芸術とのかかわりのなかで、
もっと探っていこう、
そう考えながら、山を降りてきました。


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2016年02月08日

一月一日 (いちげついちじつ)


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 年の始めの 例(ためし)とて
 終(おはり)なき世の めでたさを
 松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
 祝(いほ)ふ今日こそ 楽しけれ
 
 初日(はつひ)のひかり さしいでて
 四方(よも)に輝く 今朝のそら
 君がみかげに比(たぐ)へつつ
 仰ぎ見るこそ 尊(とほ)とけれ

 
 
 
出雲大社第80代出雲国造だった千家尊福(せんげ たかとみ)
という方の作詞による歌です。
 
「年」とは「稲」の古語でもあり、
その「年の始め」に、
米作りを暮らしと信仰の基として永遠に循環させよ、
という神からのことよさし(『日本書紀』『古語拾遺』)を想い起こし、
「終なき世の めでたさ」を謡う。
 
そんな歌だと感じています。
 
旧暦元旦の今日は、まさに、
「初日のひかり さしいでて 四方に輝く 今朝のそら」
のごとく、大阪住吉は澄み切った青空でした。
 
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 
          
                  ことばの家 諏訪印
 
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2016年02月07日

旧暦での大晦日


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我が家では、
当たり前のカレンダーに従って生活を送っているのですが、
もうひとつ、
明治5年まで施行されていた太陰太陽暦(旧暦)に沿って、
そのこころもちから生活していけないかと思っていて、
いわば、二重のこよみに沿って生活しています。
 
今日は、その旧暦での大晦日、おおつごもりです。
今日で平成27年がようやく終わります。
 
世間ではとっくに2016年という新しい年の、
はやふた月目にすでに入っているのですが、
旧暦の世界においては、明日から新年なのです。
 
この一年もたくさんの人と交わりながら、支えられながら、
わたしたち家族も毎日を送ってこられました。
 
お世話になった皆さん、こころから感謝しています。
 
ありがとうございました。

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2016年01月31日

諏訪印 狂言プレ発表会 ありがとうございました!


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今日、堺能楽会館にて、
百年長屋親子狂言教室のプレ発表会として、
家族四人、それぞれの作品に出演させていただきました。
 
月に一回でしたが、約一年間の学びのあと、
共演するメンバーの方々と、
初めての能舞台で声を出すことの喜び・・・!
 
小学生、中学生、高校生、
中年、熟年、様々な年齢層のわたしたち・・・
舞台に立たせてもらえたみんな、
からだまるごとで声を出し切った爽快感を、
味わわせてもらいました。
 
そして、2月11日(木・祝)、大阪能楽会館にて、
http://nougaku.wix.com/nougaku#!contact/c20x9
もう一度、舞台に上がり、本発表する機会をいただいています。
装束も次回は各々の役に応じたものを着させていただき、
今日以上に深い舞台体験ができることを希って、
家族そろって稽古を積んでおきたいと思っています。
 
朝10時からの出演。
張り切って参ります!
 
わたしたちの初めての発表の場を創り、支えて下さった、
安東元先生ならびに大和座の皆様、
こころより感謝いたし、お礼申し上げます。
どうもありがとうございました。

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2016年01月28日

創る力、汲みとる力


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何かものを生みだそうとするとき、創ろうとするとき、
考え、準備をし、練習をし、磨きをかけていき、
毎日をその創造に向けて生きることができる。
 
これほど仕合わせなことがあるだろうか。
 
結果として顕れ出ることは、
過程においてどれほど打ち込んだか、
ということに見事に懸っている。
 
与えられた時間のなかで、精一杯やるだけのことをやる。
また逆に、必要であるならばいくら時間をかけてもいい。
 
その打ち込み具合によって、
どんな結果であれ(!)、
その人自身の喜びの深みが定められてきて、
その深みは、
過程を大事に考える周りの人にもじかに感じられる。
 
しかし、それは当たり前のことのようで、
実はそれほど分かりやすいことではない。
 
その過程のありように想いを馳せ、想いを深めることは、
ものを創る本人にも、ものを観る他者にも、
当たり前のことではなく、
強い内なる力が要るように思われてならない。
 
わたし自身、
その、内なるものを創りつづけていく力をこそ育んでいきたい。 
その、内なるものを観る力をこそ育んでいきたい。
 
結果を迎える。
しかし、その結果に至るまでの内なるプロセスをこそ、
大事に創り、大事に汲みとる。
  
その内なる力。
 
それは、
見えないところ、
聞こえないところ、
触れえないところを、
感覚する力ではないだろうか。
 
 
  すべての見えるものは、見えないものに触れている。
  聞こえるものは、聞こえないものに触れている。
  感じられるものは、感じられないものに触れている。
  きっと、
  考えられるものは、
  考えられないものに触れているのだろう。(ノヴァーリス)


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2016年01月16日

わたしの古典


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いま、下の娘は、『長くつ下のピッピ』を、
上の娘は、江戸川乱歩の諸作品を、
妻は、高村光太郎の『智恵子抄』を、
わたしは、保田與重郎全集を、
ひたすら、再読、愛読、熟読。
 
小学生時代の娘たちにどんな書物がふさわしいか、などと、
うちでは親があまり考えないようにしているのです。
本人が読みたいものをどんどん読むことができるように、
計らってあげるだけです。
 
ただ、これだけは娘たちに授けてあげられたらと考えているのは、
一冊の本が秘めている未知の何かに対する、限りない愛情、尊敬、信頼。
 
そこから、本に限らず、
ものというものに対する、
愛情、尊敬、信頼がおのずと育っていくだろうな、
何を学ぶにしても、そのこころもち、感情さえあれば、
と思っているのです。
 
もし、そこに熱烈な尊敬、熟していく愛情が育っていくなら、
その人のこころには、
大げさな言い方になりますが、
それさえあれば、世界中を相手に回しても、
誰に何かを言われなくとも、
自分の意欲だけで学んでいく力、
自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、
それが、この身ひとつで、世を生きていく、
ということではないかな。
 
それが、自由への道を歩いていくということではないかと思うのです。
 
学ぶ人にとっては、
学ぶ対象に対する疑いではなく(!)、
学ぶ対象に対する信頼・信というものがとても大事で、
では、その対象については、はじめは未知であるのに、
どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
それは、
その人のこころのうちに、
すでに信じるこころが育っているからです。
 
信じるこころが、
信ずるに値する書物を引き寄せる。
 
小学生のこころとからだにまずは何を植えつけるか。
 
それは、信じるこころの力・感情。
 
その力が、やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、
きっと、その子がその子の人生に必要なものを、
おのずと引き寄せるようになるでしょう。
 
その子が、その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
そのためには、その子の傍にいる大人が、
大きくて、深い役割を果たすことができるんじゃあないかな。
 
大人自身が、熱烈に、
一冊の本ならその本に、尊敬と愛情と信頼を育みつづけている。
 
多くの本でなくてもいい、
この一冊という本を見いだせたなら、本当に幸い。
その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、
その本こそが、その人の古典になる。
 
これから、娘たちが、
そんな「わたしの古典」を創りだす時が来るのを楽しみにしています。 

 

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2016年01月13日

考えることとすることの間 〜講座『日本の祝祭とシュタイナー教育』に備えて〜 

 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考えることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだろうか。
 
これは、シュタイナーの『こころのこよみ』の第41週のために、
以前書いた文です。
 
丁度、今週が第41週にあたるのですが、 
二日後に和歌山での講座『日本の祝祭とシュタイナー教育』を控えて、
自分自身のこととして、
己れの考えること(理想)と、
己れのすること(仕事)との、
距離を考えざるをえない・・・。
 
そして、この『こころのこよみ』の今週の内容が、
二日後に述べようと考えていることを、
深みから支えてくれていることに気づくのです。
 
ここに書いてある、「キリスト」の働きと、
わたしたち日本人が古来リアリティをもって感じてきた、
「神さま」たちの働きとを、
表面的に結び付けるようなことはせず、
自分自身の内なるはかりではかりつつ、
神々の力と、
わたしたち人の力との協働を、
二日後には述べてみたいと思っているのです。
 
再掲させてもらいます。
 
 
 

【第41週】
 
 
こころから生み出す力、
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさわしい働きへと燃え上がらせるべく、
己れみずからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考えることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだろうか。
考えることや思いえがくこと。
そして、実際に、すること。
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日バーゼル)
と題された講演でシュタイナーが語っていることをじっくり読んで、
今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみたい。
 
 
  人は、昼間、目覚めつつ考えているとき、
  心臓からエーテル化した血が光となってほとばしりでて、
  頭の松果体にまで昇っていき、輝く。
  そして、人は、夜眠っているあいだ、考える力が眠り込み、
  逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
  そのとき、
  大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体をとおり、
  心臓に向かって、
  「いかに生きるべきか」
  「いかに人として振舞うべきか」
  といった道徳的な力が、
  その人に朝起きたときに新しく生きる力を与えるべく、
  色彩豊かに流れ込んでくる。
  それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈ってくれている力だ。
  だから、人は夜眠らなければならない。
  人が少しでも振る舞いにおいて成長していくためには、
  眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。
  昼間、人において、
  「こころから生み出す力」、考える力が、「心(臓)の基」から、
  エーテル化した血が光となってほとばしりでる。
  その下から上へのエーテルの流れは、
  頭の松果体のところで、夜、上から下への神々の力と出会い、
  そこで光が色彩をもって渦巻く。
  その光の輝きは心臓あたりにまで拡がっていく。
  それが、人というミクロコスモスで毎日起こっていることがらだ。
  そして、マクロコスモス、大いなる世からの視野には、
  キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
  そのキリストの血がエーテル化し、
  地球まるごとを中心から輝かせているのが視える。
  そのとき以来、ひとりひとりの人が、
  キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
  みずからの内なるエーテル化した血の流れが、
  キリストのエーテル化した血とひとつになって、
  昼間、人を輝かせ、力づけている。
  そのキリスト化したエーテルの血と、
  マクロコスモスから夜毎やってくる神々の力とが出会うことで、
  人は、さらに昼間、愛において、仕事において、
  その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
  考えることや思いえがくこと
  (心臓から上っていくエーテル化した血の流れ)。
  そして、実際に、すること
  (高い世から心臓に降りてくる力)。
  その間を、人みずからが埋めていく。
  そのふたつを、人みずからが重ねていく。
  それが時代のテーマだ。

 
 
シュタイナーによって語られたこれらの精神科学からのことばを、
何度も繰り返して自分の考えで辿ってみる。
鵜呑みにするのではなく、
折に触れて、何度も考えてみる。
キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
本当に自分のこころが、輝き、力づけられているかどうか、
感じつつ、確かめていく。
そして、そのように輝き、力づけられた自分のこころと、
神々の力が、交わっているのかどうか。
その交わりがあることによって、
自分の仕事が、充実して、
まるで自分以上の力、
神々の力が燃え上がるような瞬間を迎えることができるのかどうか。
そのことを感じつつ、確かめていく。

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2016年01月05日

列をなして歩くという魔術

 
今日は、今年の仕事始め。
来月の演劇クラス発表会『安達原』の稽古でした。
 
まずは、歩くということ。
足を上げ、運び、降ろすこと。
この行為をひたすらゆっくりと繰り返す。
 
その足を上げることが、息を吸うことを促し、
足を運ぶことが、息を保つことを促し、
足を降ろすことが、息を吐くことを促してくれる。
 
歩くという行為が、息遣いと連動していく。
 
そして、息遣いと連動する足の動きが、
天と地を行き来する意識と重なってくる。
 
人は、息を吸うことによって、天に昇り、
息を吐くことによって、地に降りてくる。

人は歩くことによって、天と地を繋ぐ。
一足ごとに、天と地の間を人の意識が昇り降りする。
  
一日における目覚めと眠り、
一生涯における誕生と死、
そういう局面が、
歩くということにおいて、
一足一足の運びとともに象られる。
 
そんな基礎練習の後、 
今回の舞台のテーマのひとつでもある、
複数の人が一列になって歩くということ。
歩を揃える。
それは、皆で息を整えつつ、息を合わせつつ、足を運ぶこと。
一糸乱れぬように。
 
舞台の上を歩く人たちが、息を整え、揃え、天と地の間を行き来する。
その歩くということの内にリズムが醸し出されてくる。
そのリズムと、
客席のおひとりおひとりの方々の息遣いが、
だんだんとひとつになってくる。
 
複数の人による息遣いの交響。
これが演劇の醍醐味のひとつだと感じている。
 
歩くということ、さらに列をなして進むということが、
精神の働きとじかに繋がっていることを、
昔の人は知っていたようで、
そもそも、行列は祭りや儀式において大切な行為だった。
 
そのことを柳田國男が『日本の祭』の中で説いている。
 
  式と行列とは最初から、
  関係のあったものに相違ない。
  耶蘇(キリスト)教の祭典にしても
  やはり小規模ながらプロセッションは見られる。
  もともと儀式には足を使うものが多く、
  従って空間を必要とし、
  またその行事が細かく立会人が多くなれば、
  順序をまちがひなく守るためにも、
  行列をつくらずにはいられなかったであらう。

 
昔の人は、きっと、
「順序をまちがひなく守るため」だけに列をなしていたのではないだろう。
 
行列によって呼吸がおのずから整えられ、
リズムが刻みだされることによる魔術的な働きを、
今の人以上にリアルに感じていたに違いない。
 
昔は、宗教の儀式の中でそのことがなされていたが、
いま、宗教のなかではなく、
演劇の中で、
新しくそのことの意味を見いだしていくことが、きっと、できるだろうと思う。

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2016年01月01日

平成二十八年 「いや重け吉事」 明けましておめでとうございます


皆さん、明けましておめでとうございます。
 
  新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事 大伴家持
 
昨年の年の初めに引き続き、
雪こそ降ってはいませんが、
今年も萬葉集のこの最後の歌を家族で唱えました。
 
『萬葉集』の最後にこの歌を置くことで、
とこしえになべての日本人が年の初めに唱え、
ことばの精神(民族精神)と共になること、
その宗教的な希い、念いをもって、
編纂者、大伴家持は、
日本最初の和歌(やまとうた)のアンソロジーを閉じたのでしょう。
 
そもそも、和歌とは、
ことばの精神、ことばの神と繋がるべく、
学ばれ修され実践されたひとつの信仰のかたちでした。
 
今年も「ことばの家」では、
言語造形をもって、ことばの精神に芸術的に取り組むことで、
その信仰に繋がってゆくような仕事を深めていきます。
 
いや重け吉事 (いやましに重なりゆけ、よきことよ)。
 
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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2015年12月31日

わたしの平成27年(2015年)のこころの練習   

 
もっともらしいこと、正しいことを言ったとしても、
その言っている自分のこころの奥の奥に、
「俺のことをもっと認めてほしい」
「わたしのことをもっと愛してほしい」
という声が響いていて、
その声に本人が無自覚なら、
そのとき、そのことばは、
とても押しつけがましく他人に響いてしまう。 
 
何が正しくて、何が間違っているか、ではなく、
自分自身のこころの真ん中の、
さらにその奥から聴こえてくる声に耳を傾けながら、
そのこころの奥底からの、
子どものような求めを自分自身で慈しみながら、生きる。
 
その声がまるで幼い子どものような、
「もっと自分のことを認めてほしい!」であったとするなら、
まずは、その求めがあることを自分で認める。
いい大人になっても、いまだに、
そんなこころの奥底からの求めに喘いでいることを受け止める。
 
そして、その求めを、
他人によってではなく、
自分自身によって満たしてあげる練習をする。
 
他の誰かによってではなく、
わたしが、わたしを、認める練習を毎日する。
 
そんな、自分自身の内なる子どものような叫び声を聴き取る毎日。
 
他人のこころではなく、
自分自身のこころを見て、聴いて、慈しんでいく練習。
 
その練習を続けていると、
子どものような求めがやがて癒されていき、
他者との関係も柔らかく、穏やかなものになっていき、
さらに、真実、本当の、こころの奥底からの求め、意欲、希望、夢が、
立ち上がってくる。
 
他人がどう思うだろうか、とか、
こういう場合は、どう考え、どう振る舞うべきだろうか、とか、
普通〜すべきでしょう、とか、
そのような余所からの声ではなく、
自分自身のこころの奥底からの声。
 
ひとりひとりの、そのこころの奥底からの声、
その人の、その人たるところからの声、
その声そのものが、イエス・キリストであることが、
新約聖書に描かれていて、
たとえば、マタイ福音書八章二十一から二十二にこうある。
 
  また弟子の一人いふ、
  『主よ、先づ、往きて、我が父を葬ることを許したまへ』
  イエス言ひたまふ
  『我に従へ、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ』

 
もし、その弟子のこころの奥底からの声が、
「父のもとへ帰りたい、父を葬る時、その場に何があっても駆けつけたい」
というものであったならば、
イエスは、
「父を葬りに、いますぐに帰りなさい」と言っただろうと思う。
 
しかし、
「父を葬る、そのときには、世間の常識から言っても帰らねばなるまい」
とその弟子が思っていることをイエスはすぐに見抜き、
「主とともに行きたい」という彼のこころの奥底からの真実の声を、
彼本人に代わって代弁した。
 
そのとき、イエスのことばに従うことは、
その弟子にとって、
押しつけがましさや、不自由を強いられるものではなく、
こころの迷いから吹っ切れた、
爽やかで晴れやかなものだったろう。
 
 
皆さん、今年も本当にありがとうございました。
来年、平成二十八年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。
よきお年をお迎えください。

posted by koji at 13:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月24日

聖し、この夜


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娘たち(10歳と7歳)は、
サンタさんへの手紙を書き、
捧げものを金の紙に包んで、
クリスマスツリーの下に置いて、
いま、眠りに就きました。
 
子どもたちのこころの中には、
丸いものがいまだ、光を放っています。
 
このまま、この丸いものが、とわに回り続けますように。

posted by koji at 22:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

闇のあとのひかり

 
昨日、ある会に招かれて、昔話を語りました。
30人ほどの人が集まっている会でした。
 
ひとつのお話を語り終えたとき、
そこにいるすべての人があまりにも静まり返ってしまい、
深い、深い、闇の底を視るような時間のなかに入ってしまったように感じたのでした。
容易に二の句が継げず、
わたしもしばらく黙って、その闇を視ようとしました。
 
その闇は、ちょっと、恐ろしいものでした。
その奥に何が潜んでいるのか、何が蠢いているのか、分からない闇でした。
 
イザナミの神が降りていった黄泉(よみ)の国。
 
天照大御神がお隠れになられ、
天岩戸(あまのいわと)が閉じられたあとの世。
 
そのようなこころの闇を降りてゆく一瞬でした。
 
一昨日は冬至でありました。

世に闇が極まる日です。
 
そして、昨日から、新しくお日さまの力が甦る日々が始まりました。

ふたつめのお話をおもむろに語り始め、語り終えたあと、
再び、世に穏やかな光が差し込んできたように感じられたのでした。
 
わたしたちは、
「きよしこの夜」の歌と「ハレルヤ」のオイリュトミーをもって、
会を閉じました。
  
光と闇をまざまざと感じた昨日でした。
 
 
 
「ひかりとやみ ふくろうげんぞう」
 
  みあげれば
  よぞらの ほしが
  まつりのように まぶしい
 
  ああ
  ひかるためには
  くらやみも ひつようだ
 
          (工藤直子『のはらうた』より)

  



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2015年11月29日

子どもが視る神さま


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今朝早起きして、ひとりでいたら、
次女がやってきて、彼女が先日視た神さまの話しをしてくれた。
 
家族みんなで家で仲良く話ししているときに、
次女がふと向こうを見ると、
微笑みを浮かべ合掌をしながら、古い衣装を着た女性が光に包まれてこちらを見守ってくださっていたそうだ。
 
そのときは、あまりの神秘な感じに、
そのことを家族には言えなかった、と。
 
小学校にひとりの座敷わらしが現れ、
子どもたちと一緒に遊び戯れたが、
尋常一年生の小さい子どもらの他には見えず、
「小さい子がそこにいる」と言っても大人にも年上の子にも見えなかった、
と柳田國男も報告している・・・。
 
次女がそんな話しをしてくれたあと、
朝だというのに、昔話を話して聴かせ、
そのお話にもお互い感じ入りながら、昔話についてひとくさり。
昔は、子どもだけでなく、多くの大人も神さまたちを視ていたんだよ。
 
そのあと、
クリスマスツリーという依り代である聖樹に、
12月という聖なる月に備えて、飾りつけをした。

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2015年11月21日

引き続いている「密やかな、来し方」と「密やかな、いま」


つい、先日、あまりの腹部の痛みに、救急車に乗せられて真夜中病院に担ぎ込まれた。

そのとき、30代ぐらいの年齢とおぼしき担当医二人が施してくれたことは、何度も機械のなかにわたしのからだを横たえさせ、検査ということを繰り返し、そして最後には、「これといった原因が分からないので、しばらく様子を見るしかないので、お引き取り下さい」ということばを4〜5メートル離れたところからコンピューターの画面を見ながら言うだけであった。

一方、20代に見える若い方お二人も傍にいて、その方々は、親しく声をかけてくれ、痛みにうめくわたしのからだを支えてくれたり、何よりも目の前のわたしという「人」に向き合い、寄り添って下さった。

それは、ありがたいことだった。
科学的な検査結果ではなく、目の前の生きている「人」を診てくれる本当のお医者さんに出逢えた感覚で、感謝でいっぱいになった。


「いま」というときには、二種類あるように感じている。

「表に表れている、いま」と「密(ひめ)やかな、いま」。

「表に表れている、いま」において、人はいつも先のことを考えつつ、その「いま」にいる。未来のことがこころにかかり、より安全でより有益な未来に進むために、「いま」というときを費やす。しかし、その「未来のためのいま」を生きるところからは、本質的には、何の安心も、何の救いも、見いだせない。

人は、「密やかな、いま」においてこそ、「人」としてこの世に生かされている喜びと安らかさを感じることができる。そのような「いま」においてこそ、人は人間的になれる。

そして「密やかな、いま」は「密やかな、来し方」と結びついているのを感じる。

あの若い方々は、なぜ、あのような人間的な優しいありかたができたのだろうか。

きっと、彼らはこれまでの人生の中で、両親に、または他の多くの誰かに、人間的に、優しく、相対(あいたい)してもらったことがあるに違いない。そして、人と人とが愛し合い、語り合い、助け合う、そんな姿を身をもって感じたことがあるに違いない。それは、その人の中に、まさしく「密やかな、来し方」として息づいているからこそ、「いま」の中にも「密やかさ」を見てとることができるのだろう。

しかし、そのような人間的な経験(密やかな、来し方)は、就職の際に出される面談表や、成績通知書や、学位証明書や学歴などには表れでない。


どの人にも、「密やかな、来し方」が、きっとある。

要(かなめ)は、己れの「密やかな、来し方」を、想い起こすことかもしれない。とにもかくにも、こうして「人」として生きてくることができたということ。誰かに育ててもらったからこそ、こうして「いま」があるということ。そして、その想い起こしを積極的にしていくうちに、人の起源というような宗教的な想い起こしにまで至ること。

そして、わたしたちは、それぞれ、「密やかな、いま」を見いだすことのできる通路が、いたるところにあることに気づく。

人として生きていくうちには、いろいろなことがあるが、「密やかな、いま」を共有できる人と出逢える喜びは、本当にかけがえのないものだ。


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2015年10月02日

こころの安らかさ、静けさ、そしてまぎれなく考える 

 
南沢シュタイナー子ども園の園長をされている吉良創さんと、
先日、仕事でご一緒させてもらったのですが、
そのときに彼が言っていたことが、ずっとこころに響き続けています。
 
「その人のこころの内側に、静けさがなければ、平和な外側の世界は生まれない」
 
こころの安らかさ、静けさ。
ここにこそ、<わたし>がある。
ここにこそ、個人があり、
さらには、個人というパーソナリティーをも超える、
<人>(インディヴィジュアリティー)がある。
 
意識のこころの培いは、人と議論をしたり、批判的に考えたりすることによってではなく(それは15世紀以前の分別のこころの培いにおいてなされてきたことでした)、意識的にみずからのこころを静かに、安らかにする訓練の中から生まれてくる精神の声に耳を澄ますことによってこそ、促される。
 
それが、「まぎれなく考える」ということ。
(シュタイナーはそのことを「reine Denken」と言っていますが、「純粋思考」という訳語はわたしには分かりにくく、「まぎれなく考える」という言い方をさせてもらっています)
 
ある観点、ある立場のもとに立って考えることによって、
そうではない観点、そうではない立場を批判すること。
「批判的にものごとを考える」というあり方は、どうしてもそのようなあり方にならざるをえないのではないでしょうか。
 
一方、「まぎれなく考える」というあり方は、
そのように、批判的にものごとを捉えることを言うのではなくて、
ものごとをまずは、
優劣なしに、高低なしに、正邪なしに、純粋と不純を分けることなしに、
ありのままに、迎え、親しく付き合ってみることを言います。
そうでこそ、まさしく、理性的なあり方に立つことができるのではないでしょうか。
そこからこそ、本質的なところが、本質的でないところからおのずと別れる道が開けてくるのではないでしょうか。

そのことは、わたしたちのこれまでの習いのありようには、いまだ、馴染まない、ある種の跳躍を要求します。

きっと、練習が要ると思っています。
 
だからこそ、意識のこころの培いです。
 
その培いの備えが「こころの安らかさ、静けさ」ですし、
外なる世が安らかになりゆくことへの礎に、きっと、なります。

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2015年09月28日

静かな声 〜母国語への愛〜

 
「愛国心」などと口に出すと、途端に「ああ、この人は右寄りの人、保守系なんだな」というような先入観がついてくるように感じられる。
 
これは、いつから、こんな「感じ」になってしまったんだろうと考えてみると、おそらく70年前の敗戦以降ではないだろうか。
 
どういう回路でそうなってしまったのか、ここでは書かないが、戦後の教育が、どこか、いわゆる、左寄りの、自虐的史観に塗りつぶされていて、それ以外のものの見方や考え方が封殺されてきたように思われる。
 
それは、精神的なものに対する、嫌悪、逃避、排斥というような意識となり、ひたすら唯物的な思考、生活スタイルを促してきた。
 
一方で、右寄りというと、他国に向かって、他者に向かって、暴力的に、我が国のことを、大声で、拡声器を使って、喚き散らす。どこか幼稚な、コスプレチックな、そんなイメージがある。
 
 
わたしが想うに、「愛国心」とは、他人に向かって大声で叫びたてるようなものではなく、他人に強要するものでもなく、密やかに、己れのこころのなかに響き続けている静かな声のようなものだ。
 
失われていく、もしくは失われてしまった、この国の固有の文化に湛えられていた美しさ、尊さを乞い求め、それらと自分たちの生き方が不可分のものだったことへの静かな誇り。
 
そのようなこころが代々、守られてきた。
 
そして、そのこころは、国語への愛、ことばへの愛、母国語への愛に基づいていて、主に、こころざしを失くさない文学者たちによって守られてきた。
 
そのようなあり方が、保守であり、ひいては温故知新という生き方・学び方に繋がっていたのだろう。
 
母国語を静かに大事にする人が増えること、それが何よりの、防衛ではないだろうか。
 
母国語の精神が人の中で崩れてしまい、それへの愛が失われてしまったところに、おのずから母国への愛も育ちようがなく、世界全体の中でも、己れに自信がない、おずおずとしたありようで右往左往し、立ち尽くさざるをえない人々の集団になってしまう。
 
70年前に断絶させられたように見える精神の流れが、実は、いまだに密かに連続していること。
 
決して失われ切ってはいないこと。
 
そのことをいまの現代人が実感していく道を探っていく。
 
微力でもなんでもいい。
それが、わたしの仕事、「ことばの家」があることの意味でもある。 

posted by koji at 08:40 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする