2022年08月21日

我が友 高田和彦よ






16歳のときからの友人が、いま、亡くなつた。58歳だつた。わたしにとつては、たつたひとりの友人だつた。


昨日、ご自宅に見舞ひに行つたのだつた。8月の初めから立つこともできなくなり、昨日は意識も朦朧としてゐたのだけれど、わたしの顔が見えるかいと訊くと、「目が三つに見える」と笑つてくれた。そして、高校時代の思ひ出を語り合ふことができた。


「からだはかうして動かんようになつてしまふたけど、こころは動いとるやろ」と訊いたら、「めちゃ強う動いてる」と答へてくれた。


病院で、たつた独り隔離されてしまふことに比べて、自宅で家族に看取つてもらふことができた彼は、幸せだと思ふ。


しかし、自宅での看病で奥様は大変だつただらう。


高校時代に一緒に歌つた歌を病床でyou tubeを使つて彼に聴かせると、声を出して歌つてくれた。


いま、安らかに眠つた友よ。「君の欲しいものはなんですか。僕の欲しかったものはなんですか」

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2022年08月01日

屈託のない時間と考へを深める時間



昨日は、わたしたちアントロポゾフィーハウスによる「ヨハネ福音書講義」の後、「イエス・キリスト生誕劇」クラスを汗だくでやり終へ、暑い夏の夕方になつて十代の若い人たちが8人ほどやってきて、バーベキュー😀 大いに食べて、大いにおしゃべりして、こころを寛がせてゐる彼らの様子を観てゐると、彼らはかういふ「大人に管理されない時間」が要るのだなあと思はずにはゐられませんでした。自由といふものに何とかして向かつて歩いて行きたい、その秘められた念ひが、表情や言葉遣ひの端々に見え隠れします。そして、同時に、「大人から何らかのきつかけが与へられること」によつて、自分自身の頭と心でしつかりと考へて行きたいといふ切なる求めがあることも垣間見ることができたのでした。バーベキューのあと、輪になつて座り、学校といふところに通ひつづけることへの意味をそれとなく問ひかけるやうなことばをわたしの方から出させてもらつた時、彼らはそれまでのはしゃぐやうな振る舞ひを一変させて、口々に想ひのこもつたことばを静かな趣きで話し始めたのでした。もちろん、そこでは、何らかの決まつた答へや大人からの誘導めいたことばなどなく、ただただ、若い人たちのこころの内で、ひとり考へつづけてゆくきつかけが生まれたかのやうでした。そのとき、ひとりひとりの若者の頭の周りにそれまでとは全く違ふ、光のやうな「考へるオーラ」が放たれてゐるかのやうな様子なのでした。若い人たちには両方が必要です。ひとつは「大人に管理されない時間」。まうひとつは「大人によつて促がされつつ考へる働きを用ゐる時間」。その両輪によつて、彼らは「自由への道」を歩き始めることができる。仲間と和しながら、たつたひとりつきりの道を歩いて行くのです。そんな若い人の輝きが、いえ、人といふもののとこしへの輝きが見えた昨日なのでした。




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2022年07月10日

静にして閑



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青森県白神山地



自分のいまゐる場所で、宮中のやうな静かさを創り、山のみづうみを前にしたやうな閑かさを創り出すこと。


このことを身をもつて感じつつ、分かつてくると、自分のいまゐる場所がこの世で最高の場所となります。


こころとは実に繊細な生き物。こころは、真に美しい静かさを湛えるときにこそ育むことができる。


だから、己れのこころを修練し育み成長させたいならば、その環境をみづから、いま、ここで、生み出す勇気をもつこと。


静にして閑。


そこは宮中と同じ厳粛さが生まれ、思索を行ふにまたとない、静かな環境をその人に提供してくれます。


そこはまぎれもなく、各々の人にとっての宮中になり、社中となります。


「己れ」「家」「宮」とは、大切に守り育みたいものを、ぢつと見つめる場所。


その人の意志次第で、そのやうな時と場所を意識的に創ることができる。


いつでも、どこでも。



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2022年07月06日

猛勉強こそ、世を啓く



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咸臨丸難航の図(鈴藤勇次郎画)



いま、世で大いに働いてゐる人は、猛勉強の末に、そのやうに働くことができてゐるのですね。


大人になつてからも、何年、いや、何十年にもわたつて、勉強に勉強を重ねて来た人が、いま、世のため、人のために、働いてくれてゐます。


そのやうなことは、昔からさうでした。


日本の歴史の中で最も人が勉強したのは、おそらく江戸時代ではないかと思ひます。


功利や立身出世を思はず、江戸時代の人たちは、ひたすらに学ぶことそのことに対する楽しさ・喜びに目覚めてゐました。


ただただ学ぶことを通して、生きることの意味を追ひ求めることのできた学びの場の中では、ひとりひとりの人が当時の封建的な社会の枠組みから自由になることができました。


だから、気骨のある、こころざしに燃える若者などは、熾烈なと言つてもいい位の猛勉強をしてゐました。


その学びは、目先の利益やそれに類するやうなことにかかずらわるのではなく、十年後、五十年後、百年後の社会のこと、日本のことを思ひつつ、なされてゐました。


学びの中に、こころもからだも総動員しながらの精神がありました。


だからこそ、逆に、その後に訪れる幕末から明治維新の急激で切迫した時代の変化に翻弄されるのではなく、むしろ時代を切り開き、創り出してゆく創造的な働きを多くも多くの若者がすることができたのでした。


その意識の目覚めと意志のパワーたるや、今では想像することも難しいほどの驚きです。


自由学問都市であつた当時の大阪(大坂)の街を闊歩してゐた福沢諭吉などは、緒方洪庵の適塾で猛烈な学びの日々をからからと笑ひながら送つてゐました。


明治維新が起こつた1868年(明治元年)から77年経つた1945年(昭和20年)に日本の大転換があり、その年から77年経つ2022年(令和四年)が今年です。


いま、大変な危機が日本に訪れてゐると、多くの人が意識してゐますね。


今こそ、国民こぞつての(とりわけ、世の男たちの!)「猛勉強」が要るのだとわたしは念つてゐます。


わたし個人としては、アントロポゾフィーといふ中部ヨーロッパからおほよそ百年前に発した学問と芸術の道を通して、日本といふ国のこの危機に向き合つて行くことを意識します。


真夏の訪れと共に、からからと笑ひながら、57歳、不肖わたくしも猛勉強に勤しんでゐます。




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2022年07月01日

精神と政治



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このふたつは、わたしには裏表の関はりにあると見えます。

たとへば、政治において、国民に約束したことを実現しない政治家を国民は弾劾することができていいはずです。

なんらかのしからしめで約束を実行しないのでせうが、約束を履行しなかつたり、国民の総意を確かめもせず勝手に政策を実行していく政治家や政党は、責められていいはずです。

悪いところをいいとすることはできませんし、間違ひをまことと見ることもできません。

これは、政治における人のあるべきあり方であり、人の意識の向け方、意識の育み方と言つてもいいやうに思ひます。

しかし、精神においては、まるで正反対の意識の育み方を要しはしないでせうか。

つまり、どれほど間違つたことをしてしまつても、過ちを犯したとしても、それらのことを悪しきこととしつかり認識しつつも、それをしてしまつてゐる人のよきところに目を注ぐ意識を怠つては、精神の育ちに支障をきたすといふことなのです。

また、さらには、悪の中に、高い役割を見いだすといふことなのです。

間違つてゐるもの、悪しきものへの批判・批評は、政治的に必要なものですが、同時に、人には、その間違つてゐるもの、悪しきものへの理解が精神において必要でもある。

この精神からの作業は、難航を極めます。

しかし、だからこそ、この作業をすることによつて、人は、この、精神と政治の間で、こころのバランスを取る技量を得ていくことができます。

そして、精神と政治の境における、各々のことばの使ひ方をも意識的に分ける必要があります。

具体的に言ふと、繰り返しになりますが、政治においては、いいものはいい、駄目なものは駄目とはつきりと表明する必要があります。

しかし、さう表明する政治的なわたしに重ねて、精神的なわたしが、密(ひめ)やかに、それら善きものに対する熱狂を統御する必要があるのではないか。また、それら悪しきものがこの世にあらざるをえないことへの理解と悲しみの意識を稼ぐことが大切なことになるのではないか。

だからこそ、政治のことばは、時に大きな声で叫ばれる必要があり、精神のことばは常に密(ひめ)やかに語られる必要がある。

しかし、どちらのことばも、ひとりの人が併せ持つものです。

さういふ精神と政治といふ、二重の意識の重なりを育む必要が、すべての現代人にあるやうに感じてゐます。

人の教育とは、そのやうな精神と政治の間の外なる区別と内なる重層を育むものであり、子どもたちへもそのやうな意識をもつて伝へるべきことは伝へていく必要があるとわたしは考へてゐます。

国際的な生き方におけるそんな密(ひめ)やかな意識をここ日本でも培ふ必要がこれからはあると、わたしは考へてゐます。



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2022年06月26日

意識の目覚め 青森・三沢にて



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梅雨の湿気ですでに蒸し暑い大阪を抜け出て、とても爽やかな風が吹いてゐる青森の三沢にゐます。

ここには米軍基地があるため、特別な財政予算が組まれ続けてゐるのか、この街はとても美しく整備されてゐて、滞在させてもらつてゐる場所の近くにも、たくさんの樹木がみづみづしい緑を湛えて植えられた比較的広い公園が幾つもあり、見事に区画整備された地域に立ち並ぶ家々もそれぞれ思ひ思ひの花々でとても美しく彩られてゐます。

先月、ここに来たときは、この写真を撮つた公園の上を、米軍の戦闘機が爆音を立てながら、凄いスピードで幾機も縦横無尽に飛び交つてゐましたが、今日は全く飛んでゐず、とても静かです。

子どもたちや若者たちが無邪気に遊び回つてゐます。大人たちもしばし佇んで静かに話しなどをしてゐます。

この街を散歩しながら、このやうな静かで和やかな風景に触れることが、なんだかとてもありがたく感じます。

これまでの戦後77年間の日本とアメリカの間の関係が、これからは、きつと、変はつてゆくと思はれるのですが、この街はどのやうに変はつてゆくのでせうか。

この穏やかな日常が、これから迫りくる変化(その変化は、思ひもよらないやうなものになるのではないかと予感します)によつて、どう守られていくことができるのだらう。

わたしたち大人は、子どもたちがこれから生きてゆくこれらの場所について、どう考へ、どう話し合ひ、どう動いてゆくことができるだらう。

意識の目覚め。

わたしが毎日必要としてゐるのは、それです。




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2022年06月25日

眼光紙背に徹す、といふこと



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深沢清「松坂の一夜」



小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、とりわけ魅力的なのは、江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところです。


ものを学ぶには、本ばかり読んで、机上の知識を弄ぶのではなく、外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。さう言ふ人は幾らでもゐます。


しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐました。


だから、さういふ当たり前のことはわざわざ口に出して言ひませんでした。


寧ろ、独りになること。


そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、本であること。


師と古き友を、本に求める。


本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、信を寄せるに値するものはないと迄、こころに思ひ決め、その自恃を持つて、みづからを学者として生きようとした人たち。


そして、古典といふ書の真意は、独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。


そのときの工夫と力量を、彼らは心法とか心術と言ひました。


一度きりの読書による知的理解と違つて、精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、その人の体得物として、暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。


数多ある注釈書を捨てて、寝ころびながら、歩きながら、体で験つすがめつ、常に手許から離さず、さういふ意気に応へてくれるものが、古典といふものです。


さうしてゐるうちに、学び手のこころの奥深くで真実は熟し、やがて表の意識に浮かび上がってくる。そのとき浮かび上がつてくるものは、学説などといふものではなく、真理を追ひ求めた古人の人格であり、それは浮かび上がつた後も、依然多くの謎を湛えてゐる筈です。


今日、ルードルフ・シュタイナーの『テオゾフィー 人と世を知るということ』のオンラインクラスをしながら、学といふものに骨身を削つた日本の古い人たちを思ひ浮かべてゐました。




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2022年05月21日

岩木山に降り注ぐ陽の光



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昨日、青森に入りました。飛行機の窓から青森の地を見下ろすと、遥かの岩木山に夕暮れの光が降り注いでゐました。ここには神々しい何かが古代から今も常に降り注いでゐることを、眼で確かめさせてくれるやうな光景でした。


陽の光、それは、一体、何なのか。その陽の光を浴びて、地球といふ大地は、植物は、動物は、人は、一体、何を受け取つてゐるのか。陽の光に、わたしたちは、深みにおいて、何をいただいてゐるのか。


そんなことを念ひながら、青森にやつてきました。

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2022年05月19日

ゆつくり


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今日は、ある企業の方々とのオンラインミーティングのひとときを持ちました。


このミーティングは、言語造形といふ芸術を土台にして、定期的にもたれてゐます。


オンサイトでしてゐた時から、この場をもたせてもらつて、もう二十年近くになりますが、ここには、みづからを開いて活き活きとことばを述べ合ひ、聴き合ふ、「自由」といふものが、ずつと、息づいてゐます。


時間の流れの中で、おのおのが、おのおのに、なりゆくのです。


その秘密はどこにあるのか。


それは、息づかひに導かれた「ゆつくり」さにあるのです。


「ゆつくり」。


ひとつひとつの息づかひ、ことばづかひ、立ち居ふるまひをゆつくりと意識的にしてみるのです。


その深さ、たわわさの中から、おのづと、伸び伸びとした、活き活きとした、こころのみづみづしさが泉のやうに湧き上がつて来ます。


そして、いつしか、乱れがちなこころの佇まひも鎮まつてゐます。


「ゆつくり」を、意識的に大事にするこの場では、なぜかおのづと、互ひが互ひを敬ふことができ、尊ぶことができるのです。


企業戦士であらざるを得ない皆さんも、ほつと一息つくやうな感覚で、わたしが<わたし>であることに安心することができる。


「ゆつくり」といふ、精神の浸透は、ひとりひとりが自分自身の<わたし>を大切にすることへと人を導きます。


そして、だからこそ、人と人との間にハーモニーを奏でることを促します。


<わたし>であることと、ハーモニー。


これが、人が自由になりゆくための礎(いしづえ)です。


今日も、そのやうなことを談り合ひ、感じ合ひました。


本当に、奇(くす)しく、ありがたいことです。




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2022年05月05日

朝の自然の静かな安らぎ



https://1drv.ms/v/s!Ak9MpuSmZtWKsAXUXzw6nZm-0xyE?e=pTjfPs


密(ひめ)やかに学ぶ人がときおり自然の静かな安らぎ、内なる尊さ、雅(みやび)やかな周りを迎へることは、とにかくよいことである。ことに好ましいのは、密(ひめ)やかな学びを緑の草木にかこまれ、あるいは光る山々と愛すべきシンプルな営みのあいだですることができることである。そのことが内なる器官をハーモニーのうちに引き出す。

(『いかにして人が高い世を知るにいたるか』「実践的な観点」から p.135)


昨日、おひさまの丘 宮城シュタイナー学園での教員養成のためのプレ講座を終へました。

校舎に寝泊まりさせてもらつてゐます。鳥の声が静かに響く朝、この丘のふもとで目覚め、「うやまひ」といふ四つの音韻からなることばをうちに響かせることから始まる一日。

こちらに来て、毎日なのですが、ことに今朝は、すがすがしい朝です。

大阪といふ街に住んでゐるわたしにとつては貴重な時間です。


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2022年05月02日

天地の分かれし時ゆ 富士の高嶺は



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仙台へ向かふ飛行機の窓から富士山を拝みます。


山部宿祢赤人 富士の山をのぞめる歌一首 

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放けみれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
             
萬葉集317

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2022年04月29日

わたしたちの食生活



先日のアントロポゾフィーハウス青森三沢のクラスの後、とても美味しいおにぎり(佐藤初女さんの教へに沿つて作つて下さつたもの)と野菜の和え物をいただきました(Nさん、本当にありがたうございました😇)。

あまりに美味しくて、まるで若い人のやうに大きなおにぎりを三つもいただいてしまひました。

このこころの満ち足りた感じは何なのでせうね。

昨夜のオンラインクラス『いかにして人が高い世を知るにいたるか』でも、人の三つに分かれてゐるなりたちについて、少し、お話をさせてもらひました。

からだ、こころ、精神。この三つの節(ふし)からなりたつてゐる人。

真ん中にあるこころは、からだ、精神、両方から働きかけを受けつつ、毎日、新しく息づいてゐます。

そのこころの育みにとつて、精神からよき糧を得ることの大切さをアントロポゾフィーは縷々述べるのですが、一方のからだからよき糧を取り入れることも、とても大切なことですよね。

からだから取り入れる糧の内、からだにとつて、こころにとつて、さらには、精神にとつて、よき糧とは何か。

からだから取り入れるよき糧、それは光であり、熱であり、風であり、水であり、大地からのもの、つまり、からだに備はつてゐる感官からとりいれることのできるものですが、とりわけ、食べるものについて、少しづつ、考へていきたいと個人的に思つてゐます。

もちろん、そのことも、アントロポゾフィーにおいて端々で述べられてゐるのですが、日本に生きるわたしたちにとつて昔からの日本人ならではの食生活を見直すことが、実は、とても、とても、大切なことではないかと。

わたしたちが、毎日摂つてゐた、玄米、味噌、そして少しの魚と野菜。

その食材そのもの、そしてそれらを作り、採つて下さつた産業従事者の方々、さらにはお天道様に対する感謝の念ひ。つまり、食生活そのものが信仰生活だつた暮らし振りが、ごく当たり前の日常でした。

さういつた食生活が、おそらく、何千年も営まれてきたわたしたちに、戦後、一気に、さうではない食生活が始まりました。そして、日本ならではの信仰生活も真つ向から否定されました。

そのときから77年が経ち、わたしたち日本人の癌の発症は約3.6倍に、糖尿病の発症は約50倍になりました(誠敬会クリニック銀座 吉野敏明氏)。

癌は、いま、日本人のふたりにひとりが発症し(国立がん研究センター2018年統計)、4人にひとりが癌で亡くなつてゐます(同2020年統計)。

からだから取り入れられる食べ物によつて、そのやうな状態が必然的に引き起こされ、多くも多くの日本人が、毎日何種類もの薬を一生涯飲まされ続け、病院通ひをせざるをえないのではないか。

さう思はざるをえないのです。

からだの健やかさ。

それは、人生を支へる大きな拠り所でもありますし、こころと精神の育みに、大いに助けとなつてくれる基であり、ものの考へ方、感じ方、生き方に深い働きかけをなすものですので、その健やかさを支へる食生活を見直し、立て直していきたい。

そして、日本の第一次産業を再び甦らせていく運動のほんの一端でも荷うふことはできないだらうか。

からだと精神から、よき糧を取り入れて行くことで、真ん中のこころは健やかになる。

令和の日本人が健やかになりゆくことを支へて行く仕事をしたいと念ひます。




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2022年04月28日

光はつねに闇より強い



昨夜、実家の母も含めて、家族五人で外食をしました。家族揃つて外食を食べに行くのは我が家では年に二、三回で、だからこそ、特別感があつてとても楽しいひとときなのです。

昨夜はとりわけ、もうすぐ17歳と14歳になる娘たちがとてもよく話をしてくれました。自分たちが考えてゐること、感じてゐることを、丁寧に真つ直ぐに活き活きとことばにしてくれました。

他のお客さんもたくさんゐるある種の公の場で、ばあばもゐるし、当然家庭とはずいぶんと違ふ雰囲気が、彼女たちのこころと口を開かせてくれてゐるのだなあ、と思ひながら、彼女たちのこころとことばに耳を澄ませてゐました。

また、年齢相応の考へる力が育つてゐて、自分自身の考へと大人たちの考へとを突き合わせてみたい、ことばのやりとりを通して互ひに敬ひつつ対話することの醍醐味を感覚してみたい、そんな欲求が十代の人にはあるのですね。

話題は、やはり、いまの「はやり病」から「麻巣苦」のこと、「枠珍接種」のことなど、若い人にとつてこの社会といふところがいかに、いま、おかしなことになつてゐるかといふことに関して、様々な考へ、思ひを分かち合つたのでした。

そして、いま、わたしが、人として、親として、内に保ちたいことは、「光はつねに闇より強い」といふことです。

季節外れのものの言ひ方になりますが、いま、わたしたちは皆、大いなるクリスマス、真冬の時、天の岩戸開きの時を迎へつつあると感じてゐます。

闇を闇としてしつかりと見据ゑるからこそ、ひとりの人として内において光を毎日迎へる練習をすること。内なるお祭りを毎日すること。

そのやうなことを娘たちには話しませんが、きつと、長い時の中で感じてくれることだと思つてゐます。




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2022年04月19日

仕合はせ(カルマ)といふもの



わたし自身、確か、大学を卒業する間際に、友人が貸してくれた西川隆範氏による『シュタイナー思想入門』に強烈に惹きつけられた思ひ出があります。しかし、その一冊を読んだきり、あとは就職先での仕事に身もこころも完全に没入せざるを得なくなり、シュタイナーのことを忘れてしまつてゐました。

しかし、会社を辞め、アフリカで一年間過ごした後、28歳の時に、ある人からの紹介で、アントロポゾフィー(ルードルフ・シュタイナーから生まれた学問)に出会つたのですが、その時の感情は、およそ、次のやうなものでした。

「これだ。これこそ、俺が求めてゐたものだ。そして、俺はずつと、ずつと、昔から(この人生の前から)、これを知つてゐた」

不思議と言へば不思議な感情です。しかし、その感情に突き動かされるやうに、東京の新宿に引つ越して、独り暮らしをしながら、当時、高田馬場にあつた大人の学び場「ルドルフ・シュタイナーハウス」にいそいそとほぼ毎日通ひ始めたのでした。

そして、さらに不思議だつたのは、シュタイナーハウスに通ひ始めて、すぐに、鈴木一博さんが教へてをられる「言語造形」といふ、聞いたこともない名を持つ芸術のクラスに初めて参加させてもらつた時に、ふたたび、アントロポゾフィーに出会つた時以上の不思議な感覚に見舞はれたのでした。

その時、確か、イソップ物語を語ることをさせてもらつたのですが、物語を声に出して人の前で読むなどといふことは、おそらく小学生か中学生の頃以来だつたのにもかかはらず、その時わたしが感じたのは、またしても、次のやうな不思議な感情でした。

「これはずつと、ずつと、以前に(この人生の前から)してゐたことじゃないか。俺にはなぜか馴染みのものだ。俺は、この芸術を俺の仕事にする」

そして、その後も、鈴木さんといふ先生に手取り足取り教へてもらつてゐる、ある瞬間に、「この情景は、前に観たことがある」といふ、いはゆる、「デジャブ」といふのでせうか、不思議な感覚にたびたび見舞はれました。

そのことを、そのとき、そのときに、鈴木さんに打ち明けると、「さうなんだよ。さうなんだよな」としか仰られませんでした。

つれづれと個人的なことを書いてしまひました。

精神の学び舎は、この地上にありましたし、いまも、わたしはそれを創り続けようとしてゐますが、そもそもは、生まれる前にあつたのではないか、といふ「おぼろな感覚」のもとに書いてしまひました。
(『こころのこよみ 第一週』参照 https://www.facebook.com/.../a.32984430.../8054095937949255/

男女の仲ではないですが、「縁は異なもの味なもの」ですね。

他の方は、シュタイナーといふ人やアントロポゾフィーといふ学、または、そこから生まれた芸術実践、社会実践に出会つた時に、直観としてどのやうなことを感じられただらうか・・・。そんなことを、ふと、思ひました。

なぜなら、シュタイナーこそ、そのやうな「縁」についての深い考察をしてくれてゐるのですから。




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2022年04月17日

日本における甦りの祭



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大阪の住吉大社の祈年祭の時



今日、4月17日が今年はキリスト教圏で言ふ「復活祭の日」ですね。

日本では、この「甦りの日」をどう祝つてゐたのでせうか。

古来、「祈年祭(としごひのまつり)」が、耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈る祭として、旧暦の2月4日(今の暦ですと3月半ばごろでせうか)に宮中はじめ全国津々浦々の神前において執り行はれてゐました。

それは、前年における旧暦の11月23日(今の暦ではおほよそ年末のクリスマスにあたる時期です)に、その年の新しい収穫を神前に感謝を捧げつつ、神と共にそれらを食する祭、新嘗祭(にひなへのまつり)からの新しい引き継ぎでもあります。

昔は、「米」のことを「とし」と言ひ、冬至の陽の力が新しく生まれ変はる時に、新嘗祭をもつて、新しい「米」「とし」の魂をいただくことを期してゐたのです。ですので、年の初めの「お年玉」とは、神からいただいた新しい米に宿る精神を身に授かるものだつたのですね。その新嘗祭は、宮中をはじめ各地の神社においていまだに踏襲されて執り行はれてゐます。

その新しい年の精神を身に宿しつつ、お籠りの時を経て、わたしたち人は花開く春を迎へます。

それは、地の深み、身の深みに籠つてゐたわたしたちのこころが、地上に芽吹き始めるかのごとく、からだから解き放たれ始めるときでもあるのです。

日本では、いまでは不可視となつてしまつてゐる、そのこころのおのづからな営みをリアルに受け取りつつ、古来、「祈年祭(としごひのまつり)」として神々に祈りを捧げてをりました。

新しい「米・とし」の豊穣を乞ひ願ふことで、暮らしの経済を成り立たせつつ、実は、精神として新しく生まれ変はり(甦り)、成長していくことを乞ひ願ひ、実際にそれを促す、共同の精神の秘儀、それが「祈年祭」でした。

いま、こころは、からだから少しづつ解き放たれてゆき、世の高みに向かつて、世の精神(高天原)へと自由に羽ばたいて行きたがつてゐます。

そのやうな、こころの甦りを祭る日が日本にもありました。

『こころのこよみ 第一週 〜甦りの祭の調べ〜』として、ルードルフ・シュタイナーによるこよみのことばと共にわたしの拙ない訳とコメントを付したものを以下に掲載してゐます。よろしければ、ご覧いただければ、嬉しく思ひます。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/486685983.html




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2022年04月09日

和歌は人の心を種として・・・



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「古今和歌集」の仮名序、紀貫之の文章。その中で在原業平(ありはらのなりひら)の和歌(やまとうた)が貫之のコメントと共に取り上げられてゐて、夜更けに読んでゐるとこころに染み入るやうに響く。


在原業平は その心あまりて言葉たらず しぼめる花の 色なくてにほひ残れるがごとし

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして


一千何百年前の古き人と密(ひめ)やかにこころを通はせることのできる喜び。


まづは、そんな喜びをこそ、子どもたちとも分かちあひたい。そんな国語芸術の時間を創りたいと思ふ。


確かに、小学生や中学生では(もしかしたら、高校生や大学生でも)、これらの高くて深い文学の味はひはまだ分かりかねるだらう。しかし、すべてをすぐに分かる必要などどこにもない。


よきもの、本物に触れることが大切なのだから。




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2022年03月16日

こころの深みで静かに鳴り響いてゐること




ルドルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(鈴木一博氏訳)を読んでゐて、そこに記されてあることばに対し、わたし自身、すぐには明晰な意識で応答できないものの、こころの深みで静かに鳴り響いてゐることがらがあります。

それは、生きとし生けるものの命は世の深みにおいてひとつの流れとなつて流れてをり、わたしはその一節(ひとふし)なのだといふ考へを深めてみる練習のことを述べてゐる、次のやうな文章です。(146頁)



「わたしも、その人(犯罪者)も、まさにひとりの人である。わたしがその人の運命を辿らなかつたのは、もしかすると、ひとへにもろもろの事情によつてわたしに授かつた教育のおかげかもしれない。」

「わたしに労力を注いでくれた先生がたが、もし、その人にも労力を注いでゐたとしたら、その人が違つた人になつてゐたであらう。」

「その人から奪はれたものが、わたしには授かつてゐる。わたしのよいところは、まさにそのよいところがその人からは奪はれてゐることに負つてゐる。」

「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」

「そのやうな考へが静かにこころにおいて培はれてほしい。」



この激動の時代において、わたしはどう生きていくことができるだらう。わたしに一体何ができるだらう。

そのことをいま、多くの人がみづからに問ふてゐるのではないでせうか。いや、なんの葛藤もなしに生きてゐる人などゐないはずです。

多くの言論、多くの意見が、この二年以上にわたり世界中を飛び交つてゐます。井戸端会議に似たやうな人と人とのことばのやりとりだけでなく、いま、世界中の大局において、「ことばによる戦争」「情報戦争」が行はれてゐるといつてもいいのではないかと思はれます。

しかし、ことばが粗く、荒く、使はれざるをえないこのやうな時だからこそ、わたしも密(ひめ)やかな学びの値をこれまで以上に深く、強く、確かに、痛感してゐます。

己れのこころの内なる仕事を大切に守りたい、いま、さう希つてゐます。

「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」

上記のシュタイナーによつて記されてゐる考へを、外なる扇動的な行動に移すといふことでは毛頭なく、ただ、ただ、静かにこころの深みに響かせ、培ひ続ける。

その培ひは、全く、外には現れません。

しかし、内なるそのやうな行ひが、まづは、わたしひとりのこころの内でなされること。

その自由なる内なるふるまひが、わたしの強い砦になり、世に向けてのまことの働きかけとなつてゆくのではないか。

そのことに対して明晰な応答はできない、と先ほど書きましたが、やはり、こころの深みで、「その通りだ」とかすかに聴こえて来るのです。




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2022年03月15日

源氏物語を娘と共に



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去年2021年の秋のはじめごろから次女と一緒に家で、『源氏物語』を、紫式部の原文と昭和の文人・円地文子の現代語訳で読み続けてゐます。

学校とは別に、ひとりの大人が(親ですが・・・)若い人に何を与へることができるだらうと下手に考へてゐたのですが、やはり、自分自身が楽しめることでないと、継続的にかういふことはできないことに気づき、次女とそんな時間を持ち続けてゐます。

次女自身は、さほど、まだ、この物語に思ひ入れは持ててゐないと思ひます。しかし、ひとりの大人が(父ですが・・・)惚れ込んでゐるものを、できるならば、押しつけがましくなく、若い人に紹介できるならば、それもまたいいのではないかと・・・。のちのち、彼女自身の人生における成熟の中で、この古典への改めての見識と感情が生まれて来るのではないかと・・・。

光源氏が継母である藤壺の宮と密かに、かつ、これ以上ない情熱をもつて通じてしまふところなどは、わたし自身最も感極まるところでありながらも、思春期の娘とどのやうに分かち合へるのか、定かではないのですが、模索しつつ(笑)、読み進めてゐます。

文学を通し、芸術を通し、こころとこころの繋がりを家族の中でも創つてゆくことができたら、さう希つてゐるのです。

なぜなら、家族といふものも、時間と共にありやうが移り変はつてゆき、そのことへの意識がお留守になり、ほったらかしにしておくと、つひつひ、家庭が個人主義者と個人主義者がただ寄り集まつてゐるだけの仮の場になり果ててしまふことへの危惧があるからかもしれません。

ひとつの家庭だけでなく、ひとつの地域共同体も、ひとつの国も、そのやうなひとりひとりの共同体に対する意識的な働きかけがあつて、初めて共同体として甦る。さう思ふんです。

何ができるかなあ・・・。




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2022年03月11日

互ひを讃え、敬ふことへの意識のなり変はり



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いま、『古事記(ふることぶみ)』から「黄泉の国のくだり」をひとりで練習してゐます。

そのくだりは、多くの人によく知られてゐるところで、死んでしまつた妻イザナミノミコトを夫イザナギノミコトが死の国、黄泉の国まで追ひかけて行くところから始まります。

しかし、そこで妻のおそろしい姿をのぞき見してしまつたイザナギノミコトは、黄泉の国の鬼とも言へる醜女(しこめ)たちや八柱(やばしら)の雷神(いかづちのかみ)たちに追ひかけられながらも、生の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ帰つてきます。

そして、そのくだりの最後に、夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトとが大きな岩を間に据ゑて向かひ合ひ、ことばを交はし合ひます。

死の国の女神は申されます。「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)くびりころさむ」。

そして、生の国の男神が申されます。「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててむ」と。

最後に、精神からのことばをもつて、このくだりが閉じられます。「ここをもて一日にかならず千人(ちひと)死に、一日にかならず千五百人(ちいほひと)なも生まるる」。



甦り(黄泉帰り)の祭りを来月4月17日に控え、今、わたしは、この我が国の神語りが伝へてくれてゐることにいたくこころを惹きつけられてゐます。

それは、死(の神)と生(の神)が、大きな岩(意識)で隔てられてはゐても、ことばを交はし合つたといふことなのです。

そして、その談(かた)らひは、いまも、ずつと続いてゐる、さう思はれてなりません。死と生は談らひ続けてゐます。その談らひによつて死と生は表裏一体のものです。どちらかひとつが欠けても世はなりたちません。ふたつはひとつなのです。

死と生とが、そのやうに断絶してゐるやうに見えてゐるのは、わたしたちの意識のせいです。

しかし、我が国の神話・神語りのありがたいところは、その大きな岩といふ断絶を超えて、死と生が談らひ合つてゐるといふ、このことであり、さらには、この談らひがこれまでの多くの解釈によるやうな憎しみをもつてやりとりされてゐるのではなく、互ひに互ひの存在と役割を讃へ合つてゐるといふことです。

それは、如実に響きとして響いてゐます。互ひに呼びかける時に、どちらも相手のことを「うつくしき・・・」といふことばを発してゐるのです。それは、死と生とが、もとは、ひとつであつたことから来る情の発露です。

世は分かたれなければならないこと。しかし、憎しみをもつて分断が宣言されるのではありません。

分かたれたからこそ、互ひが互ひを認め、讃え、敬つてゐます。

分断を煽るのではなく、互ひを讃え、敬ふといふ、葛藤を超えたひとりひとりの人の意識の変容こそが、世を生成発展させ、弥栄に栄へさせることへと深いところで働きかけてゐます。

個人のことだけでなく、男女間のことだけでなく、国と国、民と民との間のことにおいても、分断しようとする力が強く働いてゐる今ですが、国防や国際社会における政治的駆け引きなどもその必要性から当然なされてしかるべきだと考へつつも、この内なるひとりひとりのこころのなり変はりこそが世に新しい場を創りなす鍵となるのだといふことを肝に銘じたいのです。

政治的な面において、世には残酷なところがあるとわたしは痛感してゐます。(願はくば、このことばが、分断を言ひつのることではなく、事実を事実として認めることへと繋がりますやうに。)その現実を知るほどに、上に書いたことのかけがへのない精神からの伝えへとしての我が国の神話・神語りの重要性をいまさらながら念ふのです。

そのことをわたしたち日本人は深みで知つてゐます。ご先祖様はそのことをわたしたち現代人以上に遥かに深く遠く知つてをられました。

そして、その古くからの伝統や習慣が失はれてしまつた今、わたしたちは、教育を通して、意識的に、我が国の神語りを暮らしの基にまう一度据ゑ直すことができないでせうか。

我が国の神話・神語りによつて、死と生が二極対立としてあるのではなく、ふたつがまるごとでひとつなのだとおほらかに(かつ、密やかな悲しみを湛へながら)捉へる力を育むことが大切なことではないかと思ふのです。

その内なる力が、世の分断を防ぎ、和してあることへ、そしてその和すことそのことが、弥栄に栄へゆくことへとわたしたちを導くといふ、いにしへからの我が国の精神の伝統をわたしも信じてゐます。

この内なる密(ひめ)やかなこころのなり変はりを、わたしたちは、まう一度、意識的に練習して行くこと。この大切さ、必要性を強く念ふのです。




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2022年02月20日

こころの矢



今日僕等の周囲に提供されてゐる莫大な知識の堆積と、無秩序な事態の樣相に銳敏であれば、僕等の內憂の力が絕えずさういふものに應ずる爲に浪費されざるを得ない。

さういふ新らしい時代の不運を逃避してはならぬ。

僕等はたつた一つの的を射抜くのに十年前の⾭年が思つてもみなかつたほど澤山の矢を射ねばならぬのである。

今日、心の浪費を惜しむものは何事も成就し得ないと僕は考へてをります。

大切な事は、矢といふものはいくら無駄に使つても決して射る矢に欠乏を感ずるといふ事はない、さういふ自信を持つ事です。矢は心のうちから発する、そして人間の心といふものはいつも誰の心でも無限の矢を藏してゐる、さういふ自信を得る事です。

(『現代の學生層』小林秀雄 昭和十一年六月)


これは、昭和11年、1936年に小林秀雄によつて書かれた文章の一部です。

「大正デモクラシー」といふコトバにまみれるやうにして、日本の世相が近代化の成熟、爛熟に至つてゐた約十五年間。その大正時代を経て、昭和に入り、多くの若い人たちが、物質的な豐かさ故の虚しさを抱えて煩悶してゐたことを、わたしは多くの先人たちが殘してくれた文章を通して、知ることができました。

「大正デモクラシーをひと口で言ふと『猫なで声』と答へる」
(山本夏彦) 

いつの時代でも、若者たちは、志を己れの内に秘めてゐます。昭和十年代のその秘められてゐる志に向けて、小林秀雄は己れのこころざし・ことばの矢を放つてゐます。

わたしたちは、人生の荒波を超えてゆきながらも、一生涯、学生です。

そして、学生であるといふことは、外からやつてくるものに負けずに、その都度、その都度、目指す的に向かつて、みづからのこころから無数の矢を放ち続ける、その気力とこころざしにあります。

なるほど、的を見据ゑることは、気持ちの良いことでも楽しいことでもないかもしれませんが、その的を見失はずにしつかりと観る見識を養ふことと、さらにその的に向かつて矢を放ち続けて欠乏を知らない、みづからへの信頼を持つことは、この時代、本当に、本当に、必要です。

86年前のかういつた文章を読むことによつて、こころの泉から清い水が湧き出てくるやうな感慨を感じます。いま、かういつたものを滅多に読むことができません。

大きなものに、小さなものに、みずから貢献する力の一部となりたい、といふ若い人たちの志に火を点けること、さういふことばを発し合ふ関係性こそが、ことばの道、文章の道、文藝の道によつて念ひ起こされて行くのです。

アントロポゾフィーといふ精神の運動からですが、人の自由を守り、人の創造性を促す、さういふ運動にわたしも馳せ參じてゐます。




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