2023年07月28日

地下の水脈

 

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先日、生徒さんと話しをしてゐて、男性性と女性性の話になつたのです。


女性性のことはともかくも、自分は男性であるので、つい自分に引きつけて、「男性は遠くを見晴るかしながら、先のことを、先のことを、考へてゐるやうに思ふ」と話したのでした。


つまり、何かを目指して、目的をもつて、毎日仕事をしていくのが、男性性では、と云ふ思ひでした。


しかし、その後、よくよく、考へ直してみると、何かの目的をもつて仕事をすると云ふのは、表層のことで、こころのより深みでは、「生きるために仕事をしてゐる」と云ふのが本當のところだなと氣づくのでした。


それは、「生きて行くためにはお金が必要でそのために仕事をする」と云ふ意味ではなく、仕事してゐなくては生きてゐる心地がしないと云ふ感覺に近い。


自分の場合は、人樣に言語造形とアントロポゾフィーからの人間學を傳へると云ふことの他、言語造形の稽古と作品創り、そして讀書が仕事なのだが、いづれも、手足を使つて汗を流しながらしてゐる。


手足を使つて仕事をしてゐなければ、生きてゐると云ふ心地がしない。


だから、生きて行くために、毎日、仕事をしてゐる。


さう云ふ仕事をしたいから、さう云ふ仕事をしてゐる。


若し、仕事をしてゐなければ、どんな餘計なことを考へ、どんな餘計なことにいらつき、どんな餘計なことをしでかしてしまふか分からない。


そんな感覺です。


しかし、しかし、更に考へてみると、何かをする、しないにかかはらず、時間が充實してゐると云ふこと。


さう云ふときこそ、人が人として生きてゐると云ふときであり、わたしが<わたし>としてあると云ふことぢやないか。


さう云ふときを生きるためには、こころの内に何かが育ちつつあること、しずかさの内に何かが根附き始めてゐること。


さうして、つまるところ、何をしてゐてもいいし、何もしてゐなくてもいい、と云ふ<わたし>がここにあると云ふ情。


それは、考へと云ふよりも、情。


だから、その情がこころに根附くには、練習の積み重ねが要る。長いときがかかる。


そして、その情が導き手となつて、仕事をして行く。


シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の中に、こんなことばがあります。


「闇から光を目指してみづからと渉(わた)りあふことをやりぬかうとする人」


道は果てしなく續きます。




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地下の水脈

 

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先日、生徒さんと話しをしてゐて、男性性と女性性の話になつたのです。


女性性のことはともかくも、自分は男性であるので、つい自分に引きつけて、「男性は遠くを見晴るかしながら、先のことを、先のことを、考へてゐるやうに思ふ」と話したのでした。


つまり、何かを目指して、目的をもつて、毎日仕事をしていくのが、男性性では、と云ふ思ひでした。


しかし、その後、よくよく、考へ直してみると、何かの目的をもつて仕事をすると云ふのは、表層のことで、こころのより深みでは、「生きるために仕事をしてゐる」と云ふのが本當のところだなと氣づくのでした。


それは、「生きて行くためにはお金が必要でそのために仕事をする」と云ふ意味ではなく、仕事してゐなくては生きてゐる心地がしないと云ふ感覺に近い。


自分の場合は、人樣に言語造形とアントロポゾフィーからの人間學を傳へると云ふことの他、言語造形の稽古と作品創り、そして讀書が仕事なのだが、いづれも、手足を使つて汗を流しながらしてゐる。


手足を使つて仕事をしてゐなければ、生きてゐると云ふ心地がしない。


だから、生きて行くために、毎日、仕事をしてゐる。


さう云ふ仕事をしたいから、さう云ふ仕事をしてゐる。


若し、仕事をしてゐなければ、どんな餘計なことを考へ、どんな餘計なことにいらつき、どんな餘計なことをしでかしてしまふか分からない。


そんな感覺です。


しかし、しかし、更に考へてみると、何かをする、しないにかかはらず、時間が充實してゐると云ふこと。


さう云ふときこそ、人が人として生きてゐると云ふときであり、わたしが<わたし>としてあると云ふことぢやないか。


さう云ふときを生きるためには、こころの内に何かが育ちつつあること、しずかさの内に何かが根附き始めてゐること。


さうして、つまるところ、何をしてゐてもいいし、何もしてゐなくてもいい、と云ふ<わたし>がここにあると云ふ情。


それは、考へと云ふよりも、情。


だから、その情がこころに根附くには、練習の積み重ねが要る。長いときがかかる。


そして、その情が導き手となつて、仕事をして行く。


シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の中に、こんなことばがあります。


「闇から光を目指してみづからと渉(わた)りあふことをやりぬかうとする人」


道は果てしなく續きます。




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2023年07月26日

米づくりの一端に触れさせていただきました



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猛暑極まる夏の京都。しかし、ここは、標高650メートル近くあるとても爽やかな光と涼しい風に恵まれてゐる山あひの一村。南丹市園部町に住まはれてゐる齋藤さんご夫妻のご自宅を訪ね、田に入らせていただき、お米づくりの一端に触れさせてもらふ。


苗の植ゑ付けを遅らせられたとのことで、水はまだ抜かれてをらず、今月初めに植ゑられ終はつた苗たちの根が水の下の柔らかい土に根を伸ばし始めてゐるところ。


水の漲つてゐる田に這ひつくばつて、稲の苗と苗の間の水中に生え伸びてゐる草を引き抜く。二時間ほどだけだが、水田の泥の中に膝まづきながら、匍匐前進していく。それは、稲といふ植物との親しい、密やかな対話をさせてもらつてゐるやうな時間だつた。


稲に対する愛、米に対する敬意がおのづから自分自身の内側に根付いて来る。


そして、そのこころに育つものこそが、暮らしを、生を、人生を織りなして行く予感。それは、社会といふ人と人とのかかはりあひを作る目に見えない基盤なのではないだらうか。


米といふ天与の糧を植ゑて育てて刈り取りいただくといふ「米づくり」こそが、わたしたちの「くにづくり」の基なのだと神話は語つてゐるが、そのリアリティーのほんの一端だけれども触れさせてもらつた。


齋藤 健司さん、豊泉 未来子さん、二日間にわたつてお世話になりました。こころからお礼を申し上げます。本当にありがたうございました。


おふたりとの静かな語らひの時間。語り合ふといふことがメディテーションそのものであるといふこと。そして、からだとこころにひたすら滋養と回復を与へる、こころづくしのお料理。


ありがたい、ありがたい、時間をいただきました。


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2023年07月09日

プロレタリア?



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ルードルフ・シュタイナーの「社会の生きた織りなしの三分節」の研究に取り組んでゐて、まづ思ふのは、ここに述べられてゐる「プロレタリア(労働者)」とは、一階級の人たちのことを言ふことばじやなく、100年後のいまでは、現代人の多くも多くの人を指すことばじやないかと思ふのです。


プロレタリアは、四つの観念に縛られてゐるといひます。


一つ目は、「経済がすべてだ。自分たち労働者の暮らしをよくするためには、経済システムを改善すること。これに尽きる」といふ経済至上主義の観念。


二つ目は、「労働者である我々は一部の資本家たちに我々の富を搾取されてゐる」といふ階級差別の観念。


三つめは、「我々の労働にはすべて価格がつけられてゐる。我々の労働自体が商品のひとつにすぎないのだ」といふ自己疎外の観念。


そして、四つ目は最も奥深い観念だと思はれるのですが、「我々の人生にとつて、経済生活だけがリアルなものなのであり、精神や理想なんてものは単なるイデオロギー(死んだ概念)にすぎない」といふ唯物主義的な観念。


かうして、四つ目が、また、一つ目に帰つてゆき、ぐるぐるとこの四つの観念を巡り廻つてゐるのが、プロレタリアの心理状態であるといふことなのです。


これつて、現代のわたしたちの大部分の者の意識状態に似てゐませんか。


その結果、わたしたちひとりひとりは、自分自身への不信感、矮小感、無力感に苦しんではゐないでせうか。


200年前にこの世に生を享けたカール・マルクス。その思想が、ソ連邦の崩壊で政治的には崩壊したやうに見えましたが、かえつて、思想的、文化的に、深く、執拗に、わたしたちの内部に入り込んで、わたしたちの意識を眠りへといざなっているやうに思へてなりません。


このことは、国際的な問題として、また、歴史的な問題として、想像以上に、複雑で困難な問題であり、特に2020年からは、グローバリズム(全体主義)の明確な台頭として現象面で顕はになつて来てゐます。


しかし、すべては、ひとりひとりの意識の目覚めからしか、始まらないのだと思ひます。


この四つの観念をひとつひとつよく吟味して、それぞれの観念から、わたしたちは、どうしたら、目覚め、自由になりうるのか、勉強していきたいと思つてゐます。




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2023年06月25日

わたしたちの暮らしを支える礎とは何かA



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大阪市住吉区の生根神社の夏祭り



これまで「国家」といふことばが発せられるときになぜか生じる多くの人の反感の似た情動に対して、わたしはどこか違和感を感じて来ました。


「国家」について考へること、ことばに出して言ふこと、それらがなぜか憚られるやうな雰囲気が、これまでのわたしたちにありはしないでせうか。


普段日頃の人との付き合ひにおいて、「国家」について話すこと、「政治」について語り合ふこと、それらがどこか避けられてゐるし、自分自身も避けてゐる、そんな風に感じられてゐる方は多いのではないでせうか。


それは、こういう理由からではないかと思ひます。


幕末の黒船来航以来、西洋からの軍事的、文化的侵略に対抗すべく、どうしても成り立たせねばならなかつたもの、それが「国家」であつた。


明治維新以来、急造されたものとしての「国家」、すなはち、「近代国家」です。


それが、「国家」といふ名で、現代人が意識してゐる(させられてゐる)ものなのではないでせうか。


その「国家」とは、自国の尊厳や希望からではなく、ましてや他国との協調、友愛から生まれたものなどでは全くなく、争ひ、闘ひ、反目、緊張の中でこしらえざるをえなかつたものだつたのではないでせうか。


その経緯は、この日本という国が歩まねばならなかつた運命の必然、しかし近代史のまことに特異な特徴です。


さう、わたしたちの「国家」は、始めも始めから「近代国家」でした。ある意味、無理強いされて作らざるをえなかつた近代国家でした。


ですので、「国家」といふことばを聞くと、反射的に、「戦争」「軍事国家」といふイメージを思ひ浮かべてしまふのです。


日本の歴史を丹念に振り返つてみますと、この日本はそもそも、そのやうな「国家」ではなかつたことに思ひ至ります。もちろん、「国家」といふことばはありました。しかし、明治維新が起こると同時に、わたしたちのご先祖様たちは、外圧によつて、近代的な「国家」を打ち樹てざるをえなかつたのです。そのときのスローガンは、「文明開化」と「富国強兵」です。


この日本はそもそも、そのやうな「国家」ではなかつた、と書きました。


古くからある他の多くの国家は、自分たちの「神話」を持つてゐます。それは、自分たちの国を生み出し、世界を生み出し、地球を生み出し、宇宙を生み出した神々の物語です。


そして、我が国、日本にも神話がありがたいことに残つてゐます。そのひとつが「古事記」ですが、そこに記されてあることは、人と人とのエゴのぶつかり合ひ、弱肉強食の世界から結果的に生まれた、いはゆる「国家」ではなく、この国もまた、天つ神(あまつかみ)から授かつた「くに」を実現しようとして、葛藤の末、成り立つて来たものであること、それは、神々の崇高な意図を人が受け継いで生まれたものとしての「くにつち」でありました。


つまり、そもそも、他のいくつかの国々と等しく、日本も、天から降りて来たものである「くに」であるといふ神話を持ち続けてゐたのでした。


わたしたちは、その神話の中にずつと長く生きて来た民でした。神話が語り継がれて来たからこそ、少なくても何千年にわたつて、ひとつの「くに」が引き続いて来られたのです。神話がなければ、絶対に、途中で、「くに」は奪はれ、他の民族に「くにつち」は侵され、侵入され、転覆してゐたことでせう。


いま、わたしたちは、「神話」をもつてゐるでせうか。


「神話」とは、ひとつの民族が「くに」といふ人の共同体をとこしへに引き続かせてゆくための大事なストーリー・物語です。「神話」とは、人が、自由な人へと成長して行くための、とこしへに続く精神の糧です。なぜなら、物語こそ、ことばこそが、人をその人たらしめる、源の精神だからです。


ひとりひとりの人に精神的な履歴が確かにあつて初めて、その人はその人であるといふことが自他ともに意識されるやうに、ひとつひとつの共同体もさういふ履歴をしつかりと持つといふことがその共同体の存続にとって重要なことです。さらには、ひとつひとつの「くに」が健やかに自身を成長させていくためには、己れの精神の履歴、精神の歴史を意識し続けていく必要があるのです。


さういふ精神の履歴、精神史がその「くに」を貫いてゐるからこそ、未来に向けて、「こういうくにでありたい」といふことば、絵姿をもつた想ひ、ビジョンを、ひとりひとりの人が持つことができ、その「くに」のさらなる歩みを導いて行きます。


そのビジョンとは、ことばを換へて言ふならば、建国の精神です。


この日本には、そのビジョンが、建国の精神が、はじまりのことばが、あつたのです。


それは、決して、「富国強兵」「文明開化」ではありませんでした。


天の高天原からのことよさしとして、「天地(あめつち)極まりなく栄へゆかむ」といふものでした。


しかし、そのビジョンは、共有されなければ、何の意味もありません。


どのやうにして、そのビジョンは共有されてゐたのでせうか。


それは、経典でも教説でもなく、米作りを中心とした神と人との共同作業をもつて営まれる暮らしの営みそのもの、そして、その暮らしの連続に句読点を打つ祭りをもつてです。


それは、手足の働きからぢかに生まれて来た神々の叡智でありました。


そして、いま、わたしたちに、共同体のビジョン、「くに」のビジョンを描くためには何が必要でしょうか。


それには、米作りを中心とした農、漁、林といふ第一次産業の新しい立て直しによる食生活の見直しや、祭りの精神的な意味に目覚めること、その他多くも多くの課題があります。


しかし、より本質的なことは、その共同体に参加するひとりひとりのこころの内に、ビジョンがしつかりと描かれてゐることです。


ひとりひとりの人が、みづからのこころの内で、わたし自身がどのやうな人になりたいのか、どのやうな人生を送りたいのか、そしてそこからこそ、わたしはこの国をどういふ「くに」にして行きたいか、と熱く考へ、想ふことです。


とりわけ、現代に生きているわたしたちは、誰かひとりの人によって、リーダーによつて、ビジョンが描かれるのではなく、ひとりひとりの人が意識を目覚めさせ、みづから己れのこころの内に明確にビジョンを描かなければならない時代に生きてゐます。





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2023年06月24日

わたしたちの暮らしを支える礎とは何か@



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住吉大社の夏越祓神事



人の意識が、時代の流れの中で、移り変はつて來てゐます。


これまで当たり前だつた家庭のあり方。これまで当たり前に通つてゐた學校と云ふところ。これまで当たり前だつたお金の稼ぎ方、働き方、生き方。


さういつたもののあり方、存在する意味が、特に、ここ十年ほどの間、少しづつ少しづつ、しかし、はつきりと変はつてきてゐることを実感します。


それは、これまであつたそれぞれの共同体のあり方が崩れて來てゐるといふことであり、ひとりひとりの人が「個人であること」を確立しようとする方向性に向かつてゐるといふことではないかと思ふのです。


しがらみや窮屈な人間関係から自由になりたくて、多くの人が、これまで当たり前のものとしてゐたそれらの共同体からの離脱をなしてゐるやうに思はれます。


それは、人とは「自由」を求める存在であるといふ、時代の徴(しるし)です。時代が進むにつれて、その願ひ、こころざしはだんだん強まつてきました。


しかし、それは同時に、ひとりひとりが孤立していく方向性の加速を意味してゐます。


21世紀の20年代のいま、自由を求める上で必然的に生じて來る自分自身のエゴイズムとの葛藤、挌鬪を經ずして、それをそのまま放置してきたあまり、ひとりひとりが真にその人自身を生きるといふ、まことの自由を味はふことができずに、單なる孤立に追ひ込まれてゐる己れのありように苦しんでゐます。


そして、人は、これまで離脱してきた家庭や地域社会やその他樣々の人間關係が、実は、他の何よりも自分自身の成長にとつてかけがえのないものであつたことに氣づき始めてゐる、さう感じます。


つまり、目覺めつつある若い人ほど、共同体なるものへの憧れ、人と協力し合つて生きること、暮らすことへの憧れが増して來てゐるといふことなのです。


人は獨りきりで生きることなどできませんし、獨りきりでゐて自由になることもできません。


人は他者との關係性の中でこそ、だんだんと、その人自身になつてゆくのであり、共同体といふ背景があつて初めてひとりの人としての自立と自由への道を歩きうるのです。


まことの自由とは、ひとりひとりの人と、社会共同体との間に、活き活きとしたこころのこもつたやりとり、精神に滿ちたやりとりがなされてゐる時に、育つてゆくものです。


いま、わたしは、その共同体のひとつとして、いきなり大きな話になるやうですが、「国家」い云ふものをあらためて、しつかりと、考へてみたいと思つてゐます。


なぜならば、「国家」とは、ひとつの言語を共有してゐる民族を樣々な意味でまとめつつ共生して行く上での、最大の共同体であることが、ひとつ。


しかし、その国家といふものが、わたしたちの暮らしを覆ふ唯一の傘のやうなものではないのだといふことが、二つ目。


そして、三つ目は、日本といふ国で、戰後、「国家」について、しつかりと、確かに、考へさせる教育といふものがほとんどなされてゐないといふことを思ふからです。そして、わたし自身、これまで積極的にそのことを學んで來なかつたからです。


いま、ここでは、一つ目、二つ目のことはとても意味深いことですので、わたし自身これから更にゆつくりと考へて行くことにします。そこで、順序が逆になつてしまひますが、三つ目のことから考へて行きたいと思ひます。





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2023年06月15日

「人」 剣聖 持田盛二



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明治から昭和にかけて生きられた剣道十段であり剣聖とも言われた持田盛二といふ方のこんなことばがある。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


わたしは剣道の基礎をからだで覚えるのに五十年かかつた。


わたしの剣道は五十を過ぎてから本当の修行に入つた。こころで剣道しようとしたからである。


六十歳になると足腰が弱くなる。この弱さを補ふのはこころである。こころを働かせて弱点を強くするやうに努めた。


七十歳になるとからだ全体が弱くなる。今度はこころを動かさない修行をした。こころが動かなくなれば、相手のこころがこちらの鏡に映つてくる。こころを静かに動かされないやうに努めた。


八十歳になるとこころが動かなくなつた。だが時々雑念が入る。こころの中に雑念を入れないやうに修行してゐる。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


まことに穏やかなお人柄であつたといふその人の八十歳にならんとしてをられた頃の動画を観たが、風を切る鋭さと大地に根づく確かさとが、静かさの中で常に統べられてゐる様に圧倒される。


かういふ方が実際にをられるからこそ、弱弱しい自分自身を本当の自分自身へ導いて行くことができるやうに感じてゐる。





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2023年05月19日

仕合はせに沿ふことの喜び



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おほよそ3年ぶりですが、新横濱のある企業に足を運び、對面での言語造形の時間を持ちました。


コロナウイルス禍の下、全くもつて、研修でもある對面での藝術活動をなすことができなかつたのですが、本當に久しぶりに皆さんとお會ひすることができたのでした。


かういつた場をコーディネイトして下さる方を通して、再び、このやうな場を持つことができたことの仕合はせ(運命)。


それは、我が能力などを全く超えた仕合はせ・幸せだと感じます。


その仕合はせのしからしめに沿ふて、言語造形といふ藝術を仕事として全力でさせてもらへる喜び。


萬葉集と古今和歌集からの和歌に取り組みました。


ことばの内側に入り込み、その精神の世を經めぐるひととき。


それは、難しいことを全部拔きにして、誰もが直感でき、自分のさかしらな思ひを超えた世を生きる、素直できれいなひとときなのです。


だから、そんなひとときは、人を子どもの頃のその人に還します。


男たちが(最近は女たちも)、藝術をもつこと。


そのことの値と必要性を感じるのです。


普段の日常性と、精神の氣高さを、ひとりの人の内側に共存させることの大切さを傳へるべく、仕合はせがわたしを促がしてくれてゐます。


ありがたいことです。




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2023年04月23日

この学びの眼目 それは人と分かり合ふこと






すべて、問題の原因は、他人にあるのではないこと。

すべて、己れの内にあるといふこと。

アントロポゾフィーは、そのことを身を持つて知るための、切実な学びです。

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2023年04月22日

ある授業参観から考えさせられたこと シュタイナー教育



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ある小学校での六年生の授業参観、テーマは「日本の古典(俳句・短歌)を味わおう」です。


先生は、教科書に載っている詩歌の何人かの作者の顔写真を黒板に貼り出します。


なんと、歌の作者は誰かを子どもたちに当てさせる授業でした。


そこで声に出して唱えられる詩歌も、一回だけ、ぼそぼそと発声されるだけで、その詩歌やことばの味わいを残念ながら感じることはできません。


つまり、詩歌ということばの芸術作品を先生はどう扱っていいのか分からないのだろうと思われるのです。


作者の顔を当てさせたり、その詩歌の中にどんな言葉遊びが潜まされているかを子どもに当てさせるのが、子どもたちの気を引く、その時の最上の手段だと思われたのでしょう。


我が国の文化を支える、最も大切なものである国語教育が、小学六年生の時点でこういうものであること。


本当に、様々なことを考えさせられました。


随分と前になりますが、水村美苗氏によって書かれた『日本語が亡びるとき』という本が随分話題になりました。


わたしもその本を幾度も読み返しました。


子どもたちへの国語教育の質いかんによって、わたしたちが営むこの社会を活かしもすれば殺しもすることを多くの人が認識していないこと。


国語教育の腐敗によって、必ず一国の文明は亡びゆくこと。


そのことは、多くの他国の歴史が証明してくれていること。


その時代の典型的な精神は必ずその時代に書かれた文学作品に現れるが、現代文学の実情を「『荒れ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のようにすべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった」と帰国子女である彼女は痛覚します。


そんな「ひたすら幼稚」である、現代のわたしたちのことばの運用のあり方から、どのようにすれば抜け出すことができるのか。


未来にとって最も具体的な、ひとつの処方箋を彼女は挙げています。


「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである」


なぜ、そうなのか、この本はとても説得的な論を展開しているのです。


また、水村氏のこの論を、より明確に、より奥深く、批評している小川栄太郎氏の『小林秀雄の後の二十一章』の中の「日本語という鬼と偉そうな男たち」も読み、我が意を強くしました。


国語教育の理想とは、〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てることである。


どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉があり、それを読みつぐのがその国ならではの文化であり、その国のいのちなのです。


子どもたちへの国語教育。わたしたち自身の国語教育。


それは、30年後、50年後、100年後を視野に入れた、人の根もとへと働きかける教育なのです。


わたし自身、その仕事を始めて行こうと思っています。





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2023年03月29日

大阪のオバチャン



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今日、久しぶりに大阪市営バスに乗ったのです。


すると、来ました来ました、典型的と言ってもいいような「大阪のオバチャン」。


バスに乗り込んでくるやいなや、二人席の奥に先に乗って座っておられたご婦人の横に座って、そのオバチャン、大きな声でお話になり出されました。横のご夫人とは、初めて会った人です、きっと。


「アタシ、ほんまに、この前も、バス乗ったとき、若い人にゆうたんです。お年寄りに席譲ってあげてねって。そりゃ、万にひとりぐらいは、『なんで席譲らなあかんねん、おばはん』ゆうてくる人もいますけど、ていねいに理を尽くしてゆえば、分かってもらえますねん。」


私が座っている席のすぐ後ろで、いきなりそんな話を始められたもんですから、「あっ、俺のことゆうてんのかな、しかし、俺は若ないしな。いや、どうやろ・・・」と複雑な気持ちでいたのです。


そうしましたら、次から次へと話は展開していくのでした。


「いや、ほんまに、今どきの人は、そういうことから始まって、この国のこと、どう思うてますんやろ。生き方ゆうたらええんでっしゃろか、道徳ゆうたらええんでっしゃろか。ほんで、外国のもん、ばっかり買(こ)うて、日本製のもん、買(か)えへんさかい、こんなに産業も衰退して、国も弱あなってるんとちゃいますか。この国は、ほんまにええ国やのに、こんなに恵まれてんのに、それを当たり前みたいに思うてる。どないなってまんねやろうなあ」と明るく元気な声で国のことを憂えてはります。


「そやけど、なんでんな。毎日、アタシも元気発散してますねん。くよくよしてても、しゃあないですもんねえ。この前、バス乗るのに列並んで待ってます時に、前に並んでる人に『お互い、こうやって長いこと立ちながら待ってんのん、しんどいことですなあ』ってアタシいいましてん。ほしたら、その前の人、ニコッと笑うて『ほんまですなあ』ゆうてくれましてん。アタシ嬉しなったから『今年120歳なりましたから、ほんましんどいですわ』言いましたら、列に並んでるみんな、ぎょろっとこっち見ますねん、ぎょろっと。毎日、そんな、アホみたいなことばっかりゆうてますねん。」


まだまだ続きます。


「コロナ前のいつやったか忘れましたけど、今日みたいな天気のええ日に大阪城の下でお花見しましてねえ。その時、隣のシートのグループさんと仲良うなりましたさかい、『まあ、一杯、酒飲みませんか』ゆうてお酒勧めてくれはりますねん。アタシ、嬉しゅうて、『いややわあ、あんまり、飲ませんといて下さいね』いいましてん。ほしたら、そのグループの人、『おばさん、お酒、いけそうなお顔してますやん』言いはりますから、アタシ『そら、二十歳(はたち)は過ぎてますからねえ』言いましてん。これは、嘘ちゃいますやろ。もう、毎日、そんなアホみたいなことばっかりゆうて発散してますねん」


もう少し続きます。


「大阪の人は、おもろい、おもろい、って、よそ様から、ようゆわれますやん。そやさかい、こっちかて、おもろせなあかんかな、思うて、またバス乗る前、列並んでるときに、前に仲良う話してるお母さんと息子さんおりましたから、わたしもいつのまにか話の仲間に入って、話してましてん。話も弾んでだんだん興に乗ってきて、指でピストル撃つ真似したら、知らん人でも大阪人は『ううっ』ゆうてリアクションするゆう話になって、試しにやってみましょか、ゆうことになって、列の後ろの人にやったんです。ほしたら、男の人やったんですけど、何もリアクションしませんねん。『しょうもないことして、すみません』ゆうて、その男の人に謝ったら、その人『弾、はずれたさかい』いいますねん。」


わたしは、前の席で、笑いをこらえるのに、どれだけ我慢したか・・・。多分、バスの中のみんなもそうやったと思います。春のひととき、緩みました( ´艸`)。




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2023年03月21日

精神の仮想空間



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朝日新聞デジタルより



遅ればせながら、昨日、初めて、「メタバース」なるものについて人様から教えていただきました。


それは、「 3 次元の仮想空間(バーチャル空間)」を指すことばで、そこで複数の人との間でゲームを楽しんだり、会議をしたり、コミュニティーを営むことができ、新しいビジネスも展開されているそうです。


目や耳を覆う VR ゴーグルやヘッドセットを装着して、その仮想空間に没入することができ、また、アバターという自分の分身を作ることで、自分のキャラクターを取り替えたりしながら、その仮想空間の中で人とやりとりをするとのこと。


このような新しい仮想空間、仮想社会が生まれて来るのは、時代の流れの中における必然だと思います。


こういった、ことの運びに対して言うべきことは一杯、一杯、ありますよね。


ただ、この時代の必然的な流れをどう迎えるか、この悪魔的とも言える流れに沿いつつも(無視することはできない!)、どう人としての根底の力を培い続けて行くか、そこにわたしたちの意識にとっての課題があるように思います。


人としての根底の力とは何か。


それは、またしても、手前勝手なことになってしまうのですが、昨日、生徒さんたちと言語造形をしていまして、わたしたちもまた、「仮想空間」を創りなしているではないか!ということに気がついたのであります。


人から息遣いを通して空間に発せられる、ことばの響きが、肉の眼には見えませんが、明らかに精神のとしか言いようがない、「絵姿」を描き出している!ということです。


ことばの音韻が息の流れと共に連なって、空気中に形と動きをもって動く様、そしてことばに沿った情景や色彩、匂い、調べなどをありありと感覚できる、この言語造形の時間と空間は、まさに、ことばという芸術による「精神の仮想空間」です。


その「精神の仮想空間」の中では、わたしたちはこころがみずみずしく甦るような、いのちが活き活きと甦るような時を生きることができるのです。


そして、この「仮想空間」を織りなすには、VR ゴーグルやヘッドセットを必要とせず、身ひとつあればできることであります。


からだとこころが、精神に向かって健やかに働くこと、つまり、芸術をまるごとで生きること、そこに向かって汗を流すこと、そこに向かって血をたぎらせることが要求されます。


時代の流れの必然を認めつつ、わたしたちは、からだとこころの内側からの欲する力、感じる力、考える力を目一杯使い切る、そんな時間をあえてこしらえることで、外側からの様々な流れや動きに翻弄されない、しなやかで強い内側を養い、培い、育て上げていくことに、邁進していきたいと思ったのでした。










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2023年01月27日

すべての学びは愛へと繋がつてゆくこと シュタイナー教育



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昨日、我が家の窓から空を見上げた時の写真です。



近現代史を色々な面から学びたい、さう思ひ、色々な所へ足を運び、また本を読んでゐます。


まづは、自分たちの国の歴史に対して、とりわけ、先の大戦に対して、多角的に、かつ、しつかりと自分の中の認識を深めたいと思つてゐます。


大きなものごとを動かすとき、文書といふものがたいてい残されます。


わたしたちは、その残されてゐる文書を丁寧に見て取つていくことによつて、時の政局の中で、人がどう考へ、どう動いたかが、客観的に見えて来る。


さうして得られていく認識を積み重ね、自分自身で考へ、判断していくならば、だんだんと、ことの真相が啓けてくる。


1995年にアメリカ政府によつて公開されたヴェノナ文書によつて、日米関係においてそれまで秘されてゐた事実が公になつたことや、近年、一次資料への研究を重ねて来られてゐる林千勝氏などの報告を読んだり、you tubeで観たりしますと、驚愕の念ひに襲はれるほどです。


アメリカでも、ヨーロッパでも、ここ日本でも、むしろ、いはゆる高学歴といふものもなく、ただひたすらに働き続けてゐる人が、自分自身の頭で考へ、こころで感じる経験を積み重ねることで、ことの真実がどこにあるかを摑むことができる。


しかし、それらの多くの人々は、それをことばに表す術を知らず、利口な人たちの雄弁の前に沈黙を強いられてゐる。


自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へる。そして、自分自身のことばで語る。


この当たり前のことが如何に難しいか。


歴史観を自分自身の中で育てていくことは、大変なことです。


また、だからこそ、真実を我がことばに鋳直して行く技量を育てて行くこと、国語力を育んで行くことは、本当に、人としての一大事なのです。


その営みが、きつと未来を闇から光へと導く。


わたしたち大人は、テレビや新聞、もしくはインターネットの表層的な情報やなんとなくのイメージに踊らされたり、凝り固まるのではなく、本当に学んでいきたいものです。


世界の歴史を、とりわけ自国の歴史を、色眼鏡をかけずに学んでいくこと、本質的にはそれはとても密やかな学びですが、それはきつと、子どもたちと、さらには自分自身に希望を与へます。


失望や落胆、自虐ではありません。


希望と自尊と、そこから必然的に生まれて来る、愛です。


すべての学びは、愛に繋がつてゆきます。







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2022年12月07日

原罪意識に基づいてゐない日本の精神文化






わたしたち日本人は、これから、みづからの精神文化を摑み直し、立て直し、改めて、世界に向けてまっすぐに発していく。

そのために、アントロポゾフィーといふ精神の学を通して、日本の精神文化を見直し、鋳直し、自分自身の足元に据ゑ直すのです。




シュタイナーによるまぎれなく考へること(メディテーション・瞑想)への導きの書、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』。

この書は、読み込むほどに、読む人の内において、そのまぎれなく考へることと芸術実践とがひとつに重なつてくる、自己教育・自己啓発の書です。

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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

★2023年1月9日よりの
 新・月曜クラス(毎週) 20時〜21時

 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 日曜クラス(毎週) 20時〜21時

●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円


【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
.
諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
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you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
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2022年11月06日

信州・安曇野 おぐらやま農場さんからの爽やかな風と水



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17歳の長女が、先月10月のまるまる一か月間、長野県の農場にお世話になつて、11月1日に大阪に帰つて来ました。

WWOOFといふ、有機農業を生業にされてゐる方々と、その農業を体験してみたい老若男女の人たちとを、お金を介在させることなく結びつけるシステムがあります(WWOOFへの登録に際しては年間あたりの登録費用がかかります)。そのシステムを通して、二つの農場にお世話になつてゐたのでした。

登録から連絡、何から何まですべて自分自身でし、バイトで貯めたお金ですべてやりくりして、彼女は旅立つて行き、そして帰つて来たのでした。

どちらの農場でも、娘にとつて、これから生きて行く上で、本当にかけがへのない貴重な時間を過ごさせてもらつたやうなのです。

夜行バスで朝、帰つて来たのですが、まるで、信州の爽やかな風と水が一気に我が家に流れ込んできたやうな彼女のありやうでした。

農業といふ土着の営みを通して、感じられるこころの健やかさと無私性。

そして、毎日毎晩のご家族の方々や各地からやつて来られてゐた多くのWWOOFERの方々との語らひを通して、人といふものの根源・愛に触れたやうな感覚を得たやうでした。

そのことを帰つて来てからの毎日の中で、彼女は語つてくれてやみません。その話を聴いてゐて、わたし自身もすがすがしい石清水が喉と胸を通り過ぎてゆくやうです。

その後、ふたつめのホストであるおぐらやま農場さんのおまかせセットを注文させていただき、それが届いた朝、早速、食させてもらひました。幾種類かのリンゴと和梨が届いたのですが、現地でみづからの手で収穫し、それを食させてもらつてゐた彼女は、そのお味を、超、超、激賞してゐたのでした。

一口、口に入れ、果実を噛むやいなや、何とも言へないみづみづしい甘みと高貴なと言つてもいいやうな香りが口蓋の中に一気に拡がるのです!

信州・安曇野でおぐらやま農場をされてゐる松村さんご家族。ご夫婦の発せられてゐるメッセージからも、お人柄の暖かさと明るさ、そしてこころざしの高さを読むことができます。WWOOFホストとしての経歴ももうすでに18年以上重ねてをられ、世界中から日本一多くのWWOOFERたちがやつて来られてゐるところです。それは、きつと、口コミで世界中にご家族の暖かさとすがすがしさが伝はつてゐるのでせう。

「おぐらやま農場」
ホームページ https://www.ogurayamashop.com/
facebook https://www.facebook.com/ogurayama
you tube channel https://www.youtube.com/.../UCQnxcEPPjCtSZ.../featured

混迷してゐる現代の日本の社会の中で、このやうな高くて深いこころざしと愛をもつて仕事をなされてゐる方々がをられることを知ることができたこと、これは、娘からもらつた最高の贈り物です。




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2022年09月18日

目覚めよ



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甲山(かぶとやま)が後ろに控えるわたしが卒業した関西学院大学



昨夜も、とても嬉しいことに、娘たちとたつぷりと話しを交はすことができました。


何気なく話し始めるところから、やがて深い語り合ひにおのづと入つて行く中で、十代の若い人たちが、また、ご縁のある方々が、学ぶ喜びを自分自身で呼び覚まして行く。


それは、ひとりの親としても、また我が仕事としても、コツコツとなして行きたい仕事です。


わたし自身の十代後半の想ひ出として、お恥ずかしいことながらいまだ夢見心地の意識でありましたが、ひたすらに大学といふところへの期待がありました。


はつきりと意識されてはゐなかつたのですが、わたしには、学ぶといふことへの強い強い憧れがありました。それは、すなはち、「人といふもの」を知ることへの強い憧れでした。


だからこそ、人を求めてゐました。


客観的な科学などではなく、学問に、芸術に、仕事に、精魂込めて生きてゐる「人」を求めてゐました。


客観的な、冷たいものではなく、こころからの暖かさに触れたかつたのです。


しかし、大学で、人を見いだすことはできませんでした。


そこには、教室がありました。図書館がありました。研究所もありました。事務所もありました。しかし、「人」はゐませんでした。


別のたとへになりますが、子どもも、若者も、自分たちだけでは、いくら大自然のもとにゐようとも、その自然から何も学ぶことはできません。自然について生きた語りをする大人が、どうしても要るのです。


同じく、文化の営みに入つて行きたい若者も、その文化の営みを生きてゐる大人がそばにゐる必要があるのです。


そして、さらに大切なことは、学び手である若者に、「うやまひ」と「へりくだり」の情が内に育まれてゐてこそ、初めて彼は「人」に出会ふことができるといふことです。


客観的な科学を第一の主要課題とする現代の教育機関では誰も教へてくれないことです。


そのやうな客観的な科学に押しのけられて、ほんものの智慧(この「智」といふ漢字は、「とも」とも読みます)は泣いてゐる。まさに100年前、そんなことをルードルフ・シュタイナーは語つてゐます。


「わたしの名は、客観的な科学の前では名のることを許されてゐない。わたしは、フィロソフィー、ソフィア、智慧である。わたしは、愛といふ恥ずべき名と、その名によつて含まれてゐるものを持つてゐる。そして、それは、人のこころの奥深くの愛と関はりがある。わたしは、人前には出られない。どうしても顔を伏せて歩いてしまふ。「客観的な科学」は、「フィロ(愛)」を含まないことを誇りにしてゐる。さうして、そもそもの「ソフィア(智)」を失つてゐる。しかし、それでも、わたしは歩んで行く。そもそも、わたしは、なほ、人であることの気高い情を内に担つてゐる」(1922年10月4日 シュテュットガルト 「青年のための教育講座」から)


若い人たちは、まどろんでゐます。しかし、そのまどろみをみづから引き裂いて、目覚めたいと切に求めてゐます。


しかし、その求めに応へるには、わたしたち大人こそが、まどろみをみづから切り裂き、目覚めなければなりません。


フィロソフィー(愛智)に出会ふこと。


フィロソフィー(愛智)を生きる人に出会ふこと。


そのやうな仕事を始めて行く必要が、あるやうに思はれてなりません。


そのためには、まづ、わたし自身が、目覚めてゐる必要があります。








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2022年09月17日

敬ふ人(敬ふ精神)がこころにある、といふこと



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わたしのこころの内には、何人かの精神の巨人が、ありありと生きてゐるがごとく、ずつと存在してゐます。


それは、20世紀初頭に中部ヨーロッパで生き、働いたルードルフ・シュタイナーであり、また、この日本の昭和時代を生き抜いた小林秀雄、保田與重郎、三島由紀夫といふ方々です。そして、現存されてゐる方で、執行草舟氏が古典的な精神の人としてわたしの内に存在してゐます。


ルードルフ・シュタイナーは、ひたすらに、ヨーロッパの精神をふさはしい方向へと導くべく黙々と仕事を積み重ねた人であり、人々がまことのキリストのこころざし(Christ Impuls)に目覚めるためのことばを倦まず弛まず語り続けて死んで行つた人だとわたしには思へます。


小林、保田、三島、それらの方々は皆、日本の精神を日本の精神として打ち樹てるべく黙々と仕事をし、人々がまさに日本古来の神ながらの精神にふたたび目覚めるべくことばを倦まず弛まず語り続けた方々であり、そして今も、執行氏はひとりその仕事に邁進してをられます。


西と東において、文化に大きな違ひがありますが、わたしの内においては同じ響きを強く確かに奏でる方々なのです。


それは、人が、精神といふもの、神々しいものを意識に目覚めさせ、その上で、みづからの足で立つこと、自立すること、自主独立すること、人として自由になりゆくこととはどういふことかを、真摯に考へ続け、それを己が身において実行し続けた人である、そんな歌を生涯を賭けて、片やドイツ語で、片や日本語で歌ひ上げた(歌ひ上げてゐる)方々なのです。


キリストのこころざし(Christ Impuls)。


神(かむ)ながらの道。


それらは思念で重ね合はせるものではなく、我が人生においてこそ、その重なりを自得してゆくものである。


それらが重ね合はされるのを待ちつつ稼ぐことが、我が生涯の仕事であります。


だから、毎日、その方々の全集を読み続けることが、我が日々の仕事です。


それは、わたしにとつては、そこに山があるから登る、といふ、登山家にとつての当然の行為の対象であり、また、垂涎の的でもある山に向かふがごとき行為なのです。


敬ふ人(敬ふ精神)がこころにある、といふことは、まこと、幸せなことだと思ひます。




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2022年09月14日

人生は、いつでも、これからだ



年齢が幾つになつても、自分自身を成長させて行くことができれば、と念ひます。


だけれども、ややもすると、「変はりゆくんだ」といふ気持ちを忘れてしまひ、「このままでいい」「変はりたくない」「余計なことはしたくない」「わたしには関係ない」といふやうな思ひに、わたしも支配され、外の動きに対してオープンではなくなつてしまふことがあります。


だからこそ、そんな「変はりたくない」といふ怠惰な自分に向かつてやつて来る仕合はせ(運命・カルマ)は、わたしの眠気まなこを目覚めさせてくれるのです。


その仕合はせは、他者からある仕事を依頼されるといふやうな形でわたしを訪れることがよくあるのです。


その外からのわたしへの働きかけに対して、先ほど書いたやうに、自分の怠惰なこころもちから、なかなか気が乗らなかつたり、苦手意識が首をもたげて来たりして、その働きかけに即座に応じることができなかつたりします。


でも、そんなことが起こるたびごとに感じることですが、「えいやっ」と気持ちを引き締めて、その頼まれた仕事に自分自身からアクティブに取り組みだすと、必ず、その仕事は今の自分自身にとつて必要であり、とても有益なものであること、そして己れの成長に実は欠かせないものであつたことに気づかされるのです。必ず、です。


精神の学、アントロポゾフィーに学ぶことは、数限りなくありますが、この、仕事への取り組み方、もつと言へば、仕合はせ(我が運命)への向き合ひ方を習得させてもらふことこそが、わたしにとつて本当にたいせつで、ありがたいものかもしれません。


なぜなら、その練習によつて、わたしは、ますます<わたし>になりゆくことができるからなのです。


わたしと精神・靈(ひ)を繋げることができるからなのです。


結果的に、わたしは人様との関係を信頼に満ちたものへと深めゆくことができる。


そのことは、明らかに、わたし自身、この人生において、最も求めてゐるものであります。


だからこそ、そんな練習に沿へなかつた幾つかの経験を苦く想ひ起こします。ご迷惑をかけてしまつた幾人もの方、ごめんなさい。


人生は、これからだ、と思つてゐます。




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2022年09月03日

『これからの28年』から一年が経ちました



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下の文章を書いてから今日で丁度一年が経ち、改めて念ひます。この一年、わたしにとつて経なければならない紆余曲折、我が穢れを祓ひ落とす禊ぎのやうな出来事を経た後、新しい方々との出会ひ、新しい仕事、新しい人生が、まこと、ありがたくも、始まつてゐます。今年に入つて冬から春へ、そして夏、そして秋へと向かはうとしてゐる今、出航し始めたばかりのこの人生の新しい大海原はどこまで遠くへ広がつてゆくのか見当がつかないのですが、自分自身のオールを握つて、航路を渡つてゆくのだといふこころもちを授かつてゐます。本当に、ありがたいことです。それは、この旅が、多くも多くの方々(生きてゐる人、亡くなつてしまつた人、人以上の方々)に守られ、支へられ、導かれてゐることを感じるからです。
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♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


『これからの28年』


健やかに生きて行くこと。


「あなたが生きて行く上での目標は」などと、たとへば、街頭アンケートで問はれたら、わたしは、たぶん、そのやうな答へをすると思ひます。


からだにおいて健やかであることもさうですが、とりわけ、こころにおいて健やかであることです。


しかし、健やかに生きて行くこと、それは、並大抵のことではありませんよね。


人生の複雑怪奇さに通暁して行くためには、何かが必要だと感じます。


そして、探します。


そして、前の人生からのご縁で、その何かに出会ひます。


様々なものと人に出会ふことができましたが、わたしにとつて決定的だつたのは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーとの出会ひでした。28歳の時でした。


そして、いま、56歳です。


この28年間、わたしは、アントロポゾフィーといふ海の中に飛び込み、泳ぎ続けて来ました。


その海は、ルドルフ・シュタイナーといふひとりの人の「行ひ」と「ことば」と「考へ」から、生きて織りなされてゐます。


そして、すぐに気づかされることなのですが、それらの織りなしは、個人性を超えて、深く、深く、世と人類の始原、天地の初発(あめつちのはじめ)に届くものでした。


とにもかくにも、わたしは、その海を泳ぎ続けて来たのです。


そのやうな海の深さがあるのにも関わらず、わたしは水面近くをアップアップしながらの格好のよくない泳ぎ方でしたが、それでも、泳ぎ続けては来ました。


そして、56歳のいま、もし許されるなら、かすかすながらもこの海を泳いできた力をもつて、のちの人とのちの世に少しでも資する仕事をさせてもらひたい。


世と人が健やかになりうるやうな、アントロポゾフィーからの仕事をさせてもらひたい。


さう、こころに決めてゐます。


何ができるのか、本当に未知ではあります。しかし、これまでにして来たことの先に道は長く果てしなく延びてゐます。


アントロポゾフィーといふ精神の学の根源と言つてもいい、「ことばの教育・ことばの芸術」を礎(いしづえ)にした「子どもたちの教育、若者たちの教育、人の教育」を織りなす社(やしろ)造り。


それが、全く新しく、友と力を合はせながら織りなして行きたい仕事です。


たくさんの方々に教へを乞ひながら、これまで海を泳いで来た自身の力を注ぎ込みつつ、友と協力し合つて、やつて行きたい。


これからの28年をもつてです(😆)!




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2022年09月01日

かりそめの誠意ではなく



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東山魁夷「白い馬の見える風景」



言語造形の舞台をしてゐる時や、講義や講演をしてゐる時、どうあがいてみても、美しく歌ふことができない時があります。


どうしてだらう。準備も重ねたし、気持ちの面でも意識の上では前向きになつてゐるのに。


しかし、本当は分かってゐるのです。


生活。


生活に原因がある。


毎日の生活のなかで重ねられていく意識はやがて無意識の底に沈められていくのだけれども、その沈められてゐるものの質に原因がある。


生活がまつすぐになつてゐないのである。


生活の中で余計なことをしすぎ、余計なものを喰らいこみすぎている。


そして、作品に対するまごころ、ことばに対する敬意への意識がどこか不鮮明になつてゐるのです。


そのことを念ふとともに、保田與重郎のことばにすぐに帰りました。


 心持が如何にことばの風雅(みやび)の上に現れてゐるかは、
 心持の深さや美しさのものさしとなるし、
 作者が神の創造の思想に達している度合のめもりである。
 かくして言葉に神のものが現れるといふ言霊の風雅(みやび)の説は、
 人各々の精神の努力と誠心とから遊離せぬものである。
 人各々の心にある神が、ことばにも現れたときに、
 その歌は真の美しい歌となるといふ意味だからである。
 我が内に鎮(しづ)まる神が現れることは、
 かりそめの誠意ではあり得ないことであった。
                      (『古典論』より)


與重郎のことばは、わたしにとつて清潔で志の通った山であり、谷であり、川であり、海であります。


そこに帰つていくことで、わたしは漸くそのことばの内に宿つてゐるいのちの泉から清冽な水を汲み、喉を潤します。


美(まこと)は、いかにして、我が身を通して生きうるものなのか。


醜(うそ)は、なにゆえ、我が身に忍び寄り、寄生しようとするのか。


「かりそめの誠意」ではなく、精神からの本当のこころの糧を求め、まごころを尽くす生活を。


だから、どんな険しい経験も、新しい認識となつてくれます。





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