2016年09月22日

賢治さん・・・


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自分が呆けてなければいいんだけど・・・。
 
昨晩、風呂から上がると、家族はもう寝ていて、
自分のパソコンの前に『宮澤賢治全集1』が置いてある。
 
「あれ、妻が讀みたくなって本棚から出してきたのかな」
と思っただけで、自分も手に取りはせず、そのままにして寝る。
 
今朝、妻に、
「なんで、賢治の本、讀もうと思ったの」と訊いたら、
「えっ、わたし知らないよ」と言う。
「だって、そこに置いたでしょ」とまた訊くと、
「置いてない、置いてない、
だいたい、賢治の本がどこにあるか知らないもん」と言う。
 
娘たちにも本をここにもってきたかと訊いても、
知らないと言う。
 
わたし自身も全くそこに本を置いた憶えはないし、
ここ最近、賢治の本を繙いていない。
意識も賢治に向かっていない。
 
ふと思いついて、
賢治の命日を調べてみたら、
昨日の九月二十一日だった。
 
ああ・・・と思った。
 
でもなぜだろう。

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2016年09月20日

苦しみからの新生


この十日閧ルど、
口の内側、顎の上、下、奥、耳、喉の奥にいたるまで、
激しい痛みに襲われた。
本當に久しぶりの苦しみ。
痛みどめの藥がなかったら、と考えたら恐ろしい。
 
しかし、ありがたいことに、
その藥が効いている間に、
生徒さんがことばの家まで足を運んでくれ、
すべて仕事はすることができた。
 
さらにありがたいことに、
と言っていいのかどうか分からないのだけれど、
全く考えることができず、
本を讀むこともできず、
からだが利かないのは勿論だけれど、
心理の働きまでもが止まってしまって、
じっと痛みに耐えている閨A
なにかこころが空っぽになってゆくような、
そんな時閧過ごすことができたように思う。
 
ただ、痛みが峠を越した頃あたりから、
萬葉集だけがこころの寄る邊になりだして、
古い日本人が紡ぎだしたことばの調べに、
己れの感情が共に響(とよ)み、慰められ、
こういった古典が残されていることへの
感謝と喜びをしみじみと味わうことができた。
 
さらに、さらに、
苦しみにのた打ち回る自分をまるごと受け止めてくれ、
どんなに情けない姿をも赦し、慰めてくれる、家族。
 
全く新しい感謝。
 
ことばに言えないほどの新しい生を感じています。

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2016年09月09日

子どもたちとの言語造形


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日能研 ソーシャルコミュニケーションラボにおいて、 
小學生たちと一緒に言語造形をやりました。
 
子どもたち、そしてこの場を用意・準備して下さった方々、
本當に感謝です。ありがとうございました。
 
そして、
こうして目に見える形で體驗したことを殘しておく。
目に触れる場所に記録がある。
 
こういう仕組みは、
親御さんたちへの報告ということでもあるだろうけれど、
子どもたちにとっても、
體驗の想い起こしをとても有効に助けるだろうなあ。
 
體驗したことを振り返ることのできる仕組み。
 
子どもたちには、こういった仕組みを、
大人が丁寧に用意してあげる必要もあるのかもしれないな。
 
大人はこれを自分自身に對して、
自主的に自覚的にやっていく。
 
でも、ひょっとして、
大人にもこういう仕組みが必要になってきているのかな。
 
どうだろう・・・。

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2016年08月22日

風に靡く高原の緑!


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風に靡く高原の緑!
走り出す子どもたち! 
 
奈良県と三重県の県境にある曽爾高原に一日遊びました。
 
誘って下さった南ゆうこさんとたっぷり話しができて、
子どもたちもこれ以上ないぐらい、
ぶんぶん手足を振り回しながら、
山を登り、走り回った、走り回った。
 
大昔から人はここで憩い、神と遊んでいたのだろう。
 
光と風をからだ一杯に浴びることのできた、
素晴らしい一日でした。

日本の美しい場所を、
子どもたちと一緒に歩いていけたらな。
そう希っています。

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倭建命(やまとたけるのみこと)の故郷をしのぶ歌をここに立って憶い出す。
  倭(やまと)は 国のまほろば
  たたなづく 青垣山(あをかきやま)
  隠(ごも)れる 倭し 美(うるは)し

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2016年08月15日

夏を駆け抜ける子ども


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お氣に入りの友達と、
なんの制限もなく、
夏休みの毎日を
思いっきり走り回って、
喋くりあって、
生きる!
 
わたしも、小學生のとき、
こんな夏休みの日を過ごしたなあ。


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大人が必要以上にコントロールしなくてもいい、
そう思う。
 
子どもと毎日過ごしていると、
近すぎて、
かえって見えなくなる部分もあるかもしれないが、
しかし、
子どもの感じていることに對する、
独特の繊細な感覺はたいがいの親の中に、
育っているものだ。
 
素晴らしい夏!
 
こんな時閧ニ場所を設えて下さっている高き方々に感謝!

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2016年08月07日

聖と俗の両立 〜丹生川上神社への參拜と川遊び〜


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奈良県東吉野の丹生川上神社へ參拜に。
 
家族の役割として、
男性であるわたしは、
行く先を決め、その場所までみんなを連れて行く。
 
三人の女性は、
その場で杉の樹に触れながら樹木と語りあい、
社の靈気に包まれ、
社の前を流れる川の水で身を濯ぎ、遊ぶ。 

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ここの御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、
水一切を司る神様。
 
吉野宮滝ではなく、
この丹生川上の神域こそ吉野離宮であると、
考えた研究者、文人も多く、
萬葉集を讀んでいくにつれ、
わたしもその想いが深まっている。
 
この社から車で五分ほど東へ入っていった所に、
「ふるさと村」があって、
約百年前に建てられたという小学校校舎を中心に、
宿泊や食事や温泉のためのセンターがある。
 
夏の川遊びに大勢の人が來ていて、
愉しい「俗」の空閧ェそこにしっかりと営まれている。
 
一方、少ない人しか來ていないようだったが、
神の社や、お宮址といった「聖」なる空閧焉A
強固な意志で保持されている。
 
ひとつの場所が栄えてゆくには、
そのような「俗と聖」とが両立していること、
そして、現代においては、とりわけ、
「聖」のあり方を大事に育む意識を、
子どもたちに傳えていくことが大切だと痛感している。
 
「俗と聖」を體(からだ)いっぱいに感じる、
毎年、我が家の夏の恒例行事。

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2016年07月29日

ある學童保育の場で


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今日は、ある學童保育の場で、
小學生の子どもたちと詩の音讀を一緒にした後、
昔語りをさせていただいた。
 
子ども、それは、大人の言うことを聞かせる相手ではなく、
一緒に傍にいることで、
實(じつ)は大人自身が助けられている。
 
それにしても、
子どものこの近寄り方。
シンパシーに溢れている!
本當にありがとう。

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2016年07月01日

健やかな師弟關係


師が、弟子に對して、
この人は、きっと、
わたし自身よりも遥かに高く成長していく存在だ、
という見識をもって、その弟子に對することができれば・・・。
 
弟子が、師に對して、
この人は、きっと、
わたし自身の限りない豐かさを引き出すべく、
わたしの目の前に現れてくれたのだ、
という感情をもって、その師に對することができれば・・・。
 
師と弟子のかかわり、
教師と生徒のかかわり、
それは、
人という存在が、人という類が、
これからどういう道を歩んでいくことができるか、
自由への道か、
そうでない、奴隷への道かを決める、
ひとつの里程標になる。 
 
師弟関係ということば自體が、
いまはもう意味不明というか、
死語になってしまっているのかもしれないけれども。

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2016年06月25日

眼光紙背に徹す、ということ


小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を讀んでいて、
とりわけ魅力的なのは、
江戸時代の學者たちについて縷々述べているところだ。
 
ものを學ぶには、
本ばかり讀んで、机上の知識を弄ぶのではなく、
外に出て、人と世に交われ、人と世に働きかけよ。
 
そう言う人は幾らでもいる。
 
しかし、江戸時代中後期に現れた學者たちは、
市井で生きていくことの中に眞實を見いだすこと、
俗中に眞を見いだすことの価値の深さを知っていた。
だから、
そういう當たり前のことはわざわざ口に出して言わなかった。
 
寧ろ、獨りになること、
そして、その「獨り」を強く確かに支え、励ますものが、
本であること。
師と古き友を、本に求める。
本というもの、とりわけ、古典というものほど、
信を寄せるに値するものはないと迄、
こころに思い決め、その自恃を持って、
みずからを學者として生きようとした人たち。
 
そして、古典という書の眞意は、
獨りきりで、幾度も幾度も讀み重ねることから、
だんだんと讀む人のこころの奥に、啓けて來る。
 
そのときの工夫と力量を、
彼らは心法とか心術と云うた。
 
一度きりの讀書による知的理解と違って、
精讀する人各自のこころの奥に映じて來る像は、
その人の體得物として、
暮らしを根柢から支える働きを密かにする。
 
數多ある注釋書を捨てて、
寝ころびながら、歩きながら、
體で驗つすがめつ、
常に手許から離さず、
そういう意氣に応えてくれるものが、
古典というものだろう。
 
そうしているうちに、
學び手のこころの奥深くで眞實は熟し、
やがて表の意識に浮かび上がってくる。
 
そのとき浮かび上がってくるものは、
學説などというものではなく、
眞理を追い求めた古人の人格であり、
それは浮かび上がった後も、
依然多くの謎を湛えている筈だ。

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2016年06月15日

住吉大社の御田植神事


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御田植神事に先立ち御田の代掻きを荷ってくれる斎牛。

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早苗を捧げ持つ植女(うえめ)。

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昨日、我が氏神様である住吉大社の御田植神事に参詣。
 
神功皇后がここ住吉(すみのゑ)の地に水神様をお祀りするためにお社を据えられたのが、約千八百年前。
 
その時から毎年行われている古式ゆかしい神事だ。
 
我が国の神話では、
お米を作ることは、神様からことよさしされたこと。 
 
その厳粛さをもって、いまだに営まれ続けている。
 
お米は、太陽の光と熱をいっぱいに浴びて、
わたしたちのからだのなかに入り、
内なるお陽さまの力として、
毎日を生きていく力となる。
 
そのことへの信仰。
なんと古き素朴な信仰であろうか。

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2016年06月13日

神話の意義、そして感覚の協同体


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メディテーションを怠ると、
自分のこころのなかに謙虚さが見失われてしまう。
自分のこころのなかに謙虚さが見失われていると、
目の前に、謙虚さを見失った人が現れる。
 
そうして念い出す。
そもそも、内と外は、ひとつなのだった。
 
自分の日々の仕事の中で、
そのことを痛覚する。
 
満足や喜びよりも、痛みの方が、
より意識の目覚めをもたらすものだということを、
我が身において思い知ることがよくある。
しかし、それは、とてもありがたいものだ。
 
そして、この、内と外がひとつであることを
伝えようとしているのが、
我が国の古典文学であることに思い至る。
 
それは、神話的世界観から生まれているものだからだ。
 
内と外を分け隔てて、
その連絡をいかにしてとろうかと苦闘しているのが、
西洋の近代的世界観だと思うのだが、
ここ日本においては、永く、
内も外もない神話的世界観が少なくともこころに生きられていた。
 
しかし、やがて、その内と外の断絶の始まりは、
我が国でも、
萬葉集を編んだ大伴家持においてはっきりと意識され、
その断絶というよりかは、
その内と外という関係を撤回しようとする苦闘の跡が、
萬葉集に刻み込まれている。
 
平成も二十八年になっているいま、
西暦では21世紀になっているいま、
ふたたび、
幾度かのとてつもない天災・人災を経て、
わたしたち日本に生きている者から、
その神話的世界を学び直すことを始めていい時だと強く感じている。
 
しかも、日本語を生きる人においては、
とりわけ、我が国の神話である。
 
内も外も、
そもそもひとつであるということを伝える神話である。
 
各々のこころの内に、
いまもその神話が活き活きと生きて働いている。
 
言語造形を通しても、
そのことを感覚することを学び始めている。
 
ことばの家は、
理念の共同体ではなく、
ことばの精神をそのときそのとき共に生きる、
感覚の共同体である。

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2016年06月04日

語りあうことの学びと喜び


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妻のブログの記事をシェア。
http://suwachiharu.seesaa.net/article/438603932.html
 

妻と毎日話しながらお互いにいろいろなことに気づく。
そうして、各々気づいたことを、こうして互いに文章にしあっている。
 
対話、それは互いの胸の奥の扉をそっと叩き合う行為で、自分自身で叩くよりも、ときに、より奥の、本当はより叩きたかった扉を叩くことを促してくれる。
 
対話があるからこそ、相手を知っていきつつ、自分は自分という人をだんだんと知っていくことができる。
 
わたしたちは、目に見える物理の世だけを生きているのでなく、こころの世もとてもリアルに生きている。そのことは、家庭を生き、夫婦で毎日暮らしていく中でいやおうなく実感することだ。
 
こころの世を互いに大事にしあうこと、それは毎日同じ屋根の下で暮らす他者がいてくれることで学ぶことができた。
 
そして、さらに、わたしたちは、精神の世を生きている。
こころの世を突き抜けたところにあるその世は、こころの世のように不規則なものではなく、法則に則っているがゆえに、より不可思議な印象をこころに与え、神秘的な世でもある。
 
その世は、わたしたちの目に見える暮らしのすべてを根底から支え、動かし、導いてくれているように感じる。
 
その世のことを親しく語りあうことができる人と出会えたことをこの上なくありがたく念う。

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2016年06月03日

井の中のかわず、天空を見上げる 〜磯城端籬宮を訪ねて〜


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休みの日で、お天気のいい日に、奈良の桜井を出発点にして、そこから東西南北に、少しずつ、ひとり歩くことが楽しみ。
 
今日は、奈良の三輪山の南端にいまも残る、第十代・崇神天皇の磯城端籬宮(しきのみづがきのみや)があったところに足を運ぶ。
 
いまはもうすでに拡がってしまっている住宅の群れをこころの視界から追い出して、千八百年から二千年近く前の景色に想いを馳せた。
 
しかし、いまも三輪山と初瀬川に隣り合うその辺りの景色は、我が国のはじめの姿を彷彿とさせるような、小さくも、この上なく美しい場所だ。
 

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崇神天皇は、第一代・神武天皇に匹敵する大きな事業をされた方で、日本の国のおおもとを定められた天皇として讃えられてきた。
 
その宮の址(あと)が、本当に小さい。
しかし、その場の光と風の流れの澄み切った清浄さと、地から天に向けて立ちのぼってゆくような力の荘厳さは、古びた我が身の疲れなど一息に洗い流してしまう。
まるで、永遠の若水が喉を潤すようだ。
 
小さな場であってこそ、きっと、そこに美が育まれ、高い文化・文明が育ってゆく。
 
外なるものの限定が、内なる無限の豊かさを生むことを、わたしたちは知っていた。

井の中のかわずは、大海を知ることよりも、天空に瞬く星を見上げることの崇高さを知っていた。
 
この上ないお天気の下、今日も光と風と土が穏やかだった。

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山の辺の道の南の端(小林秀雄大兄筆の石碑がここにも)

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大神神社

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金屋の石仏

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ここ、石仏に向かって歩いていた時、保田與重郎大兄が微笑んでくれているのを感じた。

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2016年05月16日

びくともしない美しさ


正岡子規という人が、
毛唐の大砲や軍艦をもって攻めてきても、
びくともしない日本文芸を作るのだ、
と、どこかに書いたそうです。
 
明治の人のことばですので、
いま、聞くと、
二重にも、三重にも、訳が分からず、藪から棒、奇妙奇天烈に感じられるでしょう。
 
これは、
人のこころの奥深くに育むべき精神は必ず土着のものでなければならない、
ということを言っているのだと思うのです。
 
自分の国の古典作品に出会っていくことは、
外国作品に出会っていくことよりも、
いまは縁遠いことのように感じられます。
 
しかし、自国の古典や物語はほとんど知らず、
他国の作品には親しんでいる、
そのありようは、どう考えても、おかしくはないでしょうか。
 
自分の国の文物に対する縁遠さは克服していっていいのではないか。
 
言語造形をすること、言語造形を聴くことをもって、
我が国の昔話や古典作品に向かい合うひとときを重ねていくことができます。
そしてだんだんと、
この国の上に暮らしてきた先つ祖(さきつおや)たちの、
こころのありように親しみを感じてきます。
 
そんな文学への参入から、
だんだんと、自国の歴史というものを、情でもって受け止めてゆく。
 
歴史というものを、
闘いと殺戮の事件報告ではなく、
人が大切な何かを、誰かを、愛そうとしたことを伝える、
精神からの叙事文学なのだと捉える練習を重ねていくのです。
 
先つ祖(さきつおや)たちが歩んできた文化の営みを尊び、愛するほどに、
きっと、未来の人たち、未来の子どもたちの暮らしに対する責任の情も、
おのずから高まってきます。
 
それが、過去の人たちと未来の人たちを繋ぐ、
わたしたち現在に生きる者の、
国に対する愛なのではないかと、個人的に捉えています。
 
愛する気持ちだけが、栄えさせる。
己れを愛するものだけが、己れを栄えさせるように、
家族を愛する者が、家族を栄えさせるように、
国を愛する者が多ければ多いほど、
その国は栄えてゆくでしょう。
 
ひとつの国が栄えるとは、
覇権を誇ることではなく、
世界まるごとが栄えることに繋がってゆくことでしょう。
 
ひとつの国が栄えるとは、
静かに己れの分を守り、
己れを愛するほどに他を尊び、
静かに他と和することができる、
そんな精神のありようが時と共に益々顕れてゆく、
ということです。
 
過去、二千年以上にわたって、
日本の美しさは、米作りを中心にした暮らしの中に息づいていました。
 
米作りの暮らしから折々の祭りが営まれ、
ことばが神と人とを繋ぐ美しさを備えていました。
 
そのことばの美しさ、暮らしの美しさがこれからも守られ、育まれるほどに、
他国の人から喜びと尊崇の念いとが寄せられるでしょう。
 
ケニア人も、アメリカ人も、フランス人も、
ロシア人も、中国人も、すべての外国人たちにとって、
日本人おのおのが己れのこころの奥底に流れている美を自覚し、
日本で暮らすということが独自の美しさを取り戻すほどに、
そのことは尊い喜びになるでしょう。
 
美しさは儚いものだと言いますが、あえて、云うなら、
びくともしない美しさ。
それこそが土着の精神です。
 
それは、ひとりひとりの人が
ちょっとしたきっかけを得て、
暮らしの中で実践し、発展させてゆくことのできる、
文化創造です。

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2016年05月01日

ていねい

 
わたしは、
一冊の本をていねいに読んでいるだろうか。
一枚の絵をていねいに観ているだろうか。
 
家族とていねいに時間を過ごしているだろうか。
行くところ、行くところで、
ひととき、ひとときを、ていねいに生きているだろうか。
 
たいした用もないのに、
こちらからあちらへと、
忙しい、忙しい、と言いながら動き回って、
そのとき、そのときを雑に扱い、
自分自身の存在自体をも雑に扱ってはいないだろうか。
 
ゆっくりと、腰を落ち着けて、ていねいに、生きる。
 
それだけである。

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2016年04月15日

見れど飽かぬも


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見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく
またかへり見む      柿本人麻呂




何度も、何度も、眼で味わい、耳をそばだて、肌で親しむ。
それでも、飽きない。

人が持っていると思い込んでいる目や耳やその他の感覚器官は、
さらに育めば育むほど、
磨けば磨くほど、
その機能を深めていくものです。

柿本人麻呂によって歌い始められ、
その後、萬葉集の中だけでも五十以上の歌で使われている、
「見れど飽かぬ」ということば。

見るほどに、聴くほどに、触れるほどに、
ものは、ものものしく、ものを言い始める。

感覚の重要性、からだをもって生きることのかけがえのなさ、
そういうことをわたしたちは学びつつ生きています。

我が国では、古来、そのような、
ものというものに細やかな精神を注いでいくことで、
生活と精神がひとつになりゆく、
そんな「ものへゆくみち」が、
当たり前のように多くの人によって歩まれていました。

わたしたちの身が、ものの内側に入っていく。
暮らしそのものが、そういう秘儀の遂行を極めておのずから湛えていました。

理論や教義のなかにではなく、
暮らしのなかのいちいちにこそ神を観る。

そんな神ながらの道が踏まれていました。

そういう日本の文化の表現の後ろに潜む繊細な感覚は、
やはり、宮廷生活から発していたようです。

神との繋がりを保ち、育て、讃えてゆく、
そういう祭りの生活を専一に営んでいる宮廷に、
我が国の文化・文明の源がありました。

いまも、わたしたち日本人のこころの奥底に、
その源からの流れが静かに響きを立てているのではないでしょうか。

わたしたち家族も、そして、ことばの家でも、
その静かな響きに耳を傾けていきたいという希いを、
さらに意識的に育んでいこうと思っています。


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2016年04月06日

金沢で過ごす時間


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妻とは四度目、二年ぶりの金沢への旅。
同じ所へ旅して、飽きないのです。
 
何度、兼六園に行っても、行くたびごとにこころが静まり、
樹木や花々が活き活きとものを言ってきます。
 
歩き廻るだけでなく、
立ち止まって、腰を下ろしてみて、じっくりと、静かに、
眼を据え、耳をそばだててみることで、
草木や石たちはものを言ってきます。
 
また、そこにある植物は、
見識と技量ある人たちによって、
細心に手を入れられています。
 
人の意識が注がれることによって、
世のすべては甦るのですね。

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また、今回は、泉鏡花を読み直すべく、
彼の営んだ暮らしの一端に触れることを求めて、
浅野川沿いの記念館にも足を運び。

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そして、金沢の夜は、おいしいお酒とお魚。
今回は金沢駅から歩いて3分の漁々丸というお店。
堪えられない旨さと、
お店の方々のホスピタリティーに感動しました。
飲食店というところは、
旨さを求めるのは基としてありますが、
本当に、その店主の方の人となりに出会いに行くところですね。
インターネットで、店主の方のお顔を拝見して、
訪ねることを決めたのです。
間違いはありませんでした。
喜び、満ち足り、千鳥足で宿に帰る夜になりました。
 
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金沢という小さな町。
新幹線が開通して一年、多くの人でにぎわっていますが、
まだ、かろうじて、その小さな町ならではの、
人のこころの細やかさを保っていることを実感します。
小京都といわれる町は他にも多くありますが、
この町は、いまだ、
人のこころを大事にしようという風雅(みやび)を、
いいバランスで保とう、育もうとしていることを感じます。
 
同じ町に、妻とこうして何度も通って、
その町で過ごす時間の豊かさ、深さを、
ふたりで発見しあい、感じあい、語りあう。
 
紛れもない天からの恩恵です。
 
わたしたちにとって、金沢は、
何度通っても、通い飽きない、味わい深い町なのです。

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2016年03月21日

身銭を切る

 
今日で閉店してしまう難波千日前のジュンク堂に行き、本を購ってきました。
 
大阪にいくつかあるジュンク堂の中でも品ぞろえが充実していたお店で、我が家から20分ほどの距離にあるので、数えきれないほどこの店にはお世話になりました。
 
こんな大きな店が潰れるのには、いろいろなことがあるのでしょうけれど、お金を出して本を買う人が少なくなってきているということなのでしょうか。
 
大切なものにはちゃんとお金を支払っていきたいなあ。
 
お金をどう使うかは人それぞれの自由ですが、確かなことは、何か、ものを学ぶには、身銭を切らなければならないということ。
 
出し惜しみする人はいつまで経っても、ものを学ぶことはできないということ。
 
そして、思いと労力を籠めて創られたものに、しっかりとお金を払っていくことで、人は文化を創り、育んでいくことに資している。
 
そのことは、しっかりと、娘たちに伝えておきたいな。

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2016年03月04日

鳥見山靈畤(とみやま まつりのには)


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寒さが緩み、風に春の訪れを感じた今朝、
我が国最初の天皇、神武天皇が、
天皇即位の祭り(大嘗祭)を、
いまからおよそ二千六百七十年以上前になされた場所に行ってきました。
 
奈良県櫻井市の等彌(とみ)神社に控える鳥見山の、
その頂きにある靈畤(まつりのには)です。
 
樹々のあいまから覗く春の青空と輝く陽の光りにまみえながら、
山道を登りに登って辿りついたその畤(には)は、
誰もいず、しいんとしておりました。
 
青く広がる大空と、
この靈畤(まつりのには)という小さな小さな場の間に、
太古の昔から今も引き続いているような精神的な働きが、
盛んに行き来し、呼応しあっていることを全身で感じ、
こころをひそめ、
山を降りてきました。
 
祭りの場、それは、神との交流の場であり、
また、舞台芸術の原型を造形していた場であること。
 
いまは見失われているかのような、
我が国の信仰のあり方を、
舞台芸術とのかかわりのなかで、
もっと探っていこう、
そう考えながら、山を降りてきました。


posted by koji at 21:24 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

一月一日 (いちげついちじつ)


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 年の始めの 例(ためし)とて
 終(おはり)なき世の めでたさを
 松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
 祝(いほ)ふ今日こそ 楽しけれ
 
 初日(はつひ)のひかり さしいでて
 四方(よも)に輝く 今朝のそら
 君がみかげに比(たぐ)へつつ
 仰ぎ見るこそ 尊(とほ)とけれ

 
 
 
出雲大社第80代出雲国造だった千家尊福(せんげ たかとみ)
という方の作詞による歌です。
 
「年」とは「稲」の古語でもあり、
その「年の始め」に、
米作りを暮らしと信仰の基として永遠に循環させよ、
という神からのことよさし(『日本書紀』『古語拾遺』)を想い起こし、
「終なき世の めでたさ」を謡う。
 
そんな歌だと感じています。
 
旧暦元旦の今日は、まさに、
「初日のひかり さしいでて 四方に輝く 今朝のそら」
のごとく、大阪住吉は澄み切った青空でした。
 
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 
          
                  ことばの家 諏訪印
 
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posted by koji at 19:16 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする