2006年11月14日

「わたし」への信頼

時々、「何のために生きているのだろう」「生きるってどういう意味があるんだ」
という疑問(まさに疑いつつ問うこと)を抱くことがある。

生きることを疑うことは、こころの健康にとって良くないことを直感しているので、
なるべく、疑うことをさしおいて、問うことをしてみる。

私はいったい、何を求めて生きているのだろう。
そう問う時、はたしてこの「私」とは何だ、ということにまず行き当たる。
この「私」にも、さまざまな次元があって、
「水が欲しい」から始まって、
さまざまな次元で求めるものも変わる。

しかし、ここで問うている時の「私」は、
「私の私たるところが何を求めているか」というときの「わたし」であり、
「私が心底求めていることは何か」というときの「わたし」のことである。

そして「私の私たるところ」「わたし」を「精神」というならば、
その私の精神は何を求めているのだろうか。

愛を生み出すこと、愛することを、求めている。
そんな応えが自分自身に返ってくる。

では、愛するとは、どういう行為なのだろう、何をすることなのか。
愛するとは知ることだ、とシュタイナーの「自由の哲学」の第一章で読んだ。
そう、何かに目をとめることで、その何かに対する愛が目覚め、
その何かを知りゆくことで、愛は深まっていく。

では、知らないことがら、知らない人を、愛することができるだろうか。
やはり、現実として、知らないものは愛することができない。愛しようがない。

しかし、何かを知っていこうとするには、
自分の関心をその何かにアクティブに向けるという働きかけがやはり必要だ。

では、関心を向けようとする力、アクティブな働きかけをしていくその力は、
どこから生まれてくるのだろう。
自分の性質からだろうか?
その時その時の思いつき、きまぐれからだろうか?

その力の源は、たぶん、いや、きっと、
私の私たるところへの愛・信頼だ。

私の私たるところへの愛・信頼によって自分自身が満たされてこそ、
他へ向かう力が生まれる。

自分の中にしっかりとした軸を立てつつ、
アクティブに、かつ安定した気持ちを世に送り(贈り)出すためには、
自分自身の最たるところ、私の私たるところ、まさしく「わたし」への愛と信頼が、
その原動力になる。

まずは、私から「わたし」への愛と信頼を培っていくこと。
そのことに自覚的になるところまでが、
今、自分が精一杯できることだと感じている。

そして、そこからならば、何かに関心を向けていく気持ちや、
何かを知っていこうとする意欲や、
誰かを愛する力を、思い出すことができる。

その思い出されたこころの力が、自分自身を立ち上がらせ、歩み出させる。
わたしの道が、そのつどそのつど自覚される。
生きる意味を何度も思い出すことができる。

そして「わたし」を含めた世のすべてのいちいちのことや他者を迎え、
それらに向かい合うことができるようになる。

 いちいちのすべてが、いちいちの意味を、
 あることのとわになる歩みに向けてもつ   (『テオゾフィー』鈴木一博訳 P.191)


このことばをみずからのこころに噛み締めつつ、惟(おもん)みつつ、読むことができる。

そんなふうに、今日もまた、
自分に問い、なんとかかんとか、応えている。



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2006年10月31日

「自分ができることをする」

この「自分」ということばの意味するところには、
なんと大いなる深みがあることだろう。

もちろん、浅はかな自分もある。
しかし、考えるほどに謎めいてはいるが、
ほんの少し予感できる深みが、「自分」というものにはないだろうか。

日頃の生活の中で、それぞれの人が営む細々(こまごま)としたこと。

そしてそれらに尽きず、さらに個人的な願望を越えて、
人というもののために、世界のために、
何かをなりたたせようとして、人がすること。

そのように、どんな小さなことがらにも、
どんな大きな構想に基づいた行動においても、
そこにおいて、人は「自分ができることをしている。」

この時代が、常に不安と恐れの影に包まれがちであるからこそ、
いま、社会をいきいきとしたものにしていくために、
私たちがやっていっていいことは、
ことがらの小ささ大きさに拘らず、囚われずに、
自分ができることをしていく。
そしてその「自分」を信頼していくことを学ぶことだ。

「私は、こんな細々としたことに関わっているひまはない」
これは、多分に、時間の中に生きている「いのち」を虐げていることばではないだろうか。

「こんな私では、たいしたことはできない」
一方これは、自分自身という尊い存在を虐げていることばではないだろうか。

それら「細々」「たいした」ということに、惑わされず、
そのひとつひとつをする「自分」に信頼を置くことを学ぶのだ。
その「深み」に信頼を寄せることを学ぶのだ。

自分自身に対する敬意、
そして、時間とものごとに対する敬意を取り戻したい。
そこに対する無視・虐げをなんとか乗り越えたい。

そのためにも、小さなことから、大きなことまで、できるかぎりエネルギッシュに往復して、
そのつどそのつど、「自分ができることをやっていく」こと。

そうしていくことで、「わたしは何をするためにこの世に生きているのか」という問いに、
そのつどそのつどの行為こそが、
そのつどそのつどの「自分」に応えてくれる。

「自分」など信頼できない、という人もいるだろう。
しかし、そのことばは、
「自分を信頼したい」という奥底の気持ちが厳然とあるということを、
図らずも表明してしまっているのではないだろうか。

「自分」を、「わたし」を、信頼していくこと。
それは、学ばれなければならないことだ。
修されなければならないことだ。
「する」ことの中で。「実践」の中で。

「自分ができることをしていく。」
そのこと(イニシアティヴ)が、その人を、その人の道(ミッション)へと導いていく。
また、そのこと(イニシアティヴ)が既に、
道(ミッション)の中に、生きているということなのではないだろうか。






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2006年10月12日

さとりのばけもん

アントロポゾフィーの学びのひとつの側面に、
こころの練習があるということを以前にもここで書きました。

自分のこころの動きを丁寧に見て取っていくこと。
その練習をまさに練習として繰り返し繰り返し日々やりつけていく、し続けていくことを通して、
大切なことを習える。
そのことのリアリティーを感じています。

秋もだんだんと深まってきた今になって、
すでに今年を想い返してみれば、
春から夏にかけては、花の色や香り、水のきらめき、生き物たちの鳴き声など、
自然のにぎにぎしさ、いのちのにぎにぎしさが、
わたしのこころに様々なことを訴えてきました。
まるで死ぬことなどありはしない、生きることを謳歌するかのように、
あらゆる自然物が、人が、わたしのこころに語りかけてきました。

しかし、
「夏から秋へ、そして冬へといちにちいちにち練習の日々を歩み続けていくうちにいつしか、
こころに訴えかけてくるものの質が変容していくということに人は気づく」
というシュタイナーのことばが、本当のことなのだということを知ります。

生きてさかえているものは必ず衰え死にゆくという、
自然の相の確かな巡り行きと共に、
わたしのこころの内には、自然やいのちのにぎにぎしさよりもむしろ、
わたし自身の想いや考えのにぎにぎしさ、ひらめきが訴えかけてきます。

以前から考えつつ、想いつつ、探り求めつつしてきながら、
どこか曖昧模糊としていたところが、
少しずつ見通すことができるようになってきたり、
また時には一気に見渡せたり。
「あぁ、そういうことだったのか・・・・」というように。

まさに、意識の光がわたしのこころに降りてきて、隅々を照らしてくれる。
そんな表現がふさわしく感じられます。

ところで、こんな昔話があります。

秋も深くなったある日、
山奥の一軒家で木や竹で細工仕事をしているじいさまのところへ、
さとりという化けものが現れた。
奥山から出てきたところだという。
この化け物は人の気持ちを何でも悟ることができる。
じいさまは自分のこころの内で考えていることや想っていることを、
すっかりこの化けものに見透かされてしまって、気持ち悪いものだから、
もう相手にせずに自分の仕事に専念して、竹を丸めていた。
するとじいさまの手から丸めていた竹が思わず離れて、飛んでいって、さとりの顔にパッチーンと当たった。
さとりは叫んだ。
「人間っちゅうもんは恐ろしい。悟りきれねえことをする!」
そうして奥山へと逃げていった。

「さとりのばけもん」というお話です。(こぐま社「日本の昔話」)

わたしのこころにも、化けものではありませんが、
それまで無意識に蠢いていた想いや考えを見通すような、
そこに光を当てるような「さとり」がやってきます。

この昔話で語られている化けものは、いわばわたしの精神です。
それは秋深くなった頃に、奥山からわたしのこころへと降りてきます。
その奥山は天へと通じています。

この昔話には、わたしの精神とこころのつきあいがユーモアたっぷりに描かれています。
また、精神・悟りがこころに降りてくるだけでなく、
おしまいにあるように、突然去っていくようなことも、ままあるものですよね。

この時期、目から鱗が落ちたり、気づいていなかった大切なことに気づくことができる、
そのような内的な経験が、人を待っています。

春は、人にとって外的なスタートの時期です。
一方、秋は人にとって内的なスタートの時期です。
新しい何かが啓けます。
そのときそのときの「さとり」が啓け、学びはこれからも続いていきます。


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2006年10月02日

秋深き隣は何をする人ぞ

東京の日本アントロポゾフィー協会にて、
9月の間、ミヒャエル祭に向けて、連続した勉強会があり、
そこでの鈴木一博さんの講座の中でのやりとりが、
インターネット上に公開されている。
http://bloginza.de-blog.jp/steinerjp/

そこで語られていることがらが、私にとって、とても印象深いものだった。

  秋深き隣は何をする人ぞ   芭蕉

これまで何度となく読んでは口にしていた句なのだが、
今回改めて鈴木さんの話を通して、
その句の中で、季節の巡りという規則正しい宇宙の運行と、
人間自身の透徹した心境の深まりとが、
響き合っているさまをしみじみ味わうことができた。

ご関心のある方は、ぜひ、読んでみてください。


季節の巡りと共に、人間の内側においても相応したこころの巡りがある。
人間の外側と内側に、それぞれ巡り・移り行きがあり、
そのふたつをひとつに重ね合わせていく。

もちろん、自然の動きはそれとして、
我がこころの動きもそれとして、
それぞれまったく切り離されてあるのだが、
なおかつ、そのふたつの間に、何かの関連を見出していく。

この関連を見出すこと、わたしにとって、いや、これは、
なかなかそのことのリアリティーを掴み取ることができない。

シュタイナーが、そのリアリティーについて語っているからといって、
すぐにおいそれと自分自身のリアリティーにはならない。

しかし、
花を見て、何を想う。
花が散りゆくの見て、何を想う..........。
風に、何を想う。
そして、わがこころの、このありように、何を想う。

その「何」に意識的になっていく。

そのことは、できる。

それは、自分自身のこころのありようを観るという、
人間の意識的・自発的な行為だから。

その行為は、わたしのこころの騒ぎを鎮める。
わたしのこころを深め、拡大し、決して不自由にはさせない、と感じる。

そして、そう、確かに、この行為を続けていくうちに、秋が深まってきている。
いや、秋が深まってきているからこそ、このような行為をしつづけることができているのだろうか。

秋の深まりと共に、人は、内面での繰りなしに、より意識的になりうる。

秋という季節と、こころの動き。
その関連。
シュタイナーのことばのリアリティーを、
少しづつ感じている。

心境の深まり、安らかさ、確かさ。
そのことが、外を観る目をより豊かに、細やかに、鋭くしていく...........。

そして、そのこころのありようと、
目や耳や肌がとらえる外の世界・季節の巡りゆきとの間に、
より確かな関連が見出されるとき、
そのとき、何がわたしのこころの内に啓けるのか。

わたしはその「とき」を待ちたいと思う。

その「とき」に立ち会ったことを、
芭蕉というひとりの芸術家によるこの作品が教えてくれる。

  秋深き隣は何をする人ぞ

「あなたは、何をする人なのですか」

「隣に生きる、あの人は、何をする人なのだろうか」

「わたしは何をする人なのだろうか。
 そもそも、わたしは何をするために、今、生きているのだろうか」

そんな「人というもの」に対するおおいなる問いが、
秋の深まりのなかで、芭蕉の胸に降りてきた。
タグ:芭蕉


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2006年09月19日

「建てる」(シュタイナー「テオゾフィー」を読みつつ)

人は、死の後、「精神の地」に上り、留まる。
そしてその地での稔りを携えて、再びこの地に生まれるべく降りてくる。

そのことの意味をシュタイナーは、
「テオゾフィー」の「精神の地における、死の後の精神」の章において、
卓越した比喩を使って語っている。


「この地(生まれてから死を迎えるまでに生きるこの地、この人生)における、
 課題の見つもりと目標が、この地において体をなすことの内では、
 なりたたされも、儲けられもしないこと、
 家の設計が、建てる場においては立たないのと同じである。
 そこにおいては、建てる仕事をする者が働く。
 その設計が、建築家の事務所において仕上げられるように、
 この地における作すことの目標と見つもりが『精神の地』においてなりたたされる
                                 (鈴木一博訳 P.174〜P.175)


私たちは、この人生において、何かを建てている。
この「建てる」ということば、動詞。
この簡素なことばが、読む私たちに、
何か動きをもたらすような力を感じさせてくれないだろうか。

この人生において、私たちは、
「育ちつつ、長きに及びかつゆったりと」(「自由の哲学」第4章より)
何かを建てていく。

そして、そのためには、建築家が、建てる場ではなく、事務所において、
その設計をなりたたせるように、
私たちは、この人生の課題・見つもり・目標を、この人生においてではなく、
死の後の精神の地において、なりたたせる。

それから、そのなりたたせた設計を施工するべく、建築の現場に向かうように、
私たちは、また新しい人生へと踏み込んでいく。

この「なりたたせる」ということば、動詞。
このことばには、より目標を目指しているような動き、
見通しを持ってするような働きを、感じないだろうか。

シュタイナーは、このようなひとりひとりの人間の内側からの、
自発的な動きを促すことば、仕事のことばを用いて、本を書いている。

すでに精神の地においてなんらかの設計を、
わたしがなりたたせたからこそ、
わたしは、今、この地に、
その設計にそって何かを建てるべく、生きている。

たとえ、ここで述べられていることのまるごとが、
今の私には見通せられなくても、
このようなことばの用い方によって、
この考えは、私の中で腑に落ちるだけでなく、
こころの中から動く何かを感じさせる。

わたしがなりたたせた設計とは?

それは、この地の人生のその時その時に応じて、
この現場に立ちつつ、何かを建てていくことからしか、
知りようがない。

そのことのリアリティーを感じつつ、
わたしは働いていきたい。

わたしは建てている。何かを建てている。
自分がなりたたせた見つもり・目標・課題を探りつつ。









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2006年08月13日

癒し(ひびきの村にて)

北海道の人智学(アントロポゾフィー)共同体「ひびきの村」に約2週間、サマープログラムの仕事で滞在していた。

今回、私自身、大切なことを学ぶことができたと、強く感じている。

そこには全国からたくさんの人が集まってくる。
様々な想いから、何かを求めて、人が集う。

スタッフの方から、
「『癒し』を求めて来られる方が毎年どんどん増えている」
という話を聴いた。
普段の生活の中で疲れた身体とこころを癒すために、
この暑い時期に涼しい北海道で時を過ごしたいという人はきっと多いだろう。

私はことばの芸術に携わっているが、
「癒し」ということを考えて仕事をしたことは、実は今までなかった。
「癒し」、それは何だろう。
これまで、そのことばに対して、あまりいいイメージを持ったことはなかった。
どこか受動的で、「その場限りのてっとりばやく得ることができる安楽さ」といったイメージを持っていたのだ。

しかし、そんな自分が持っているイメージにこだわっている場合では、まったくなく、
現実に、たくさんの方々が何かを求めて、たくさんの時間とお金をさいて、ここにいる。

だからスタッフの方のことばを聴いて、改めて考えた。

この時、この場所で、自分ができることは、いったい何だろう。

勿論、この北海道という場の清々しい空気と夏の陽の光にふさわしい、
こころの解放、新しい何かの発見・体感をしてもらうべく、
言語造形の時間を創っていくことは、私の第一の役目だ。
それは、私自身のアントロポゾフィーの学びから発するもの以上でも以下でもない、
等身大の私が披かれることでもある。

更に今回は、今までの仕事のやり方以上にもっと内的な作業をしたいと感じた。

こういった、人がたくさん集まり、毎日を過ごす場だからこそ、
ひとりひとりの人にたっぷりとこころの視線を注ぎたい。

私は、「講師」という役割をこの場ではいただいている。
だからこそ、私情を持たずにひとりひとりの人にこころの視線を注ぐことができる。

また、受講する方だけではなく、村にはたくさんのスタッフ、ボランティアの方々が働いているし、寝泊りしている。
だからそこで自分と人との間にどういう関係を創っていくかが、
仕事をしていく上で、非常に大事な事柄である。

毎晩、眠る前の時間が、とても大切なものになった。
その日一日の、ひとりひとりの方の表情・振る舞い・ことばを、
こころの中であらためて振り返り、見守ってみた。
特に、自分との距離が少し遠く感じている人に、こころをあらためて寄せてみた。

必ず、次の日に、こころを寄せた人と私との関係が変わった。

夏の合宿といった、集中した時間が生まれる場だからこそ、
そのような夜の時間、眠りの時間の中で、
集中した関係の変容が人と人とのあいだに生まれるのかもしれない。

しかし、今回、私自身、身を以って学ぶことができた。
私がこれから生きていく上で、仕事をしていく上で、
どこに身を置こうとも、どういうことをまず自分自身がやっていったらいいのかを知ることができた。

内的な作業。
そのことによって、人に「癒しを与える」のでは、おそらくなく、
人と「癒しを分かち合う。」

出会うひとりひとりの人と自分自身との関係を少しずつ少しずつ、いいものにしていきたい。

そのことから、聖なる癒しが、人と人との間に降りてくる。

自分はその方向で仕事をしていくことができればと願っている。


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2006年07月23日

内と外

今日は第7回目のアントロカフェ大阪だった。
今日のジャーナルのつもりで書いてみる。

出会いの会のあと、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」という本の読書会をしている。

今日は、この本の第1章である「条件」の章を最後まで読むことができた。
一章を読むのに、七回読書会を開いたことになる。

「ことばはもうたくさんだ。いい加減、行動をして見せてくれ。」
そんなことばが、シュタイナー在命中にも、彼の学び舎・ゲーテアヌムの周りで聴かれたそうだ。
このようなことばは、今でも「いわゆる実践的な人」からよく発せられる。

しかし、アントロポゾフィーの学びの道の途上においては、
「そのような感官の目に見える行為によって生じるものとは、
 別の道を見出すことができる」
ということを、私たちははっきり知っておきたいと思う。

「考える(思考)」ということ・「ものを知ってゆく(認識)」ということは、
わたしが主導権を握ることができる唯一の内的な行為だ。
その行為によって内的な生命を感じるまでになることができるのであり、
それだけで既に、世に力強く働きかけるひとつの創造行為でもある。

そのことを、今日のひとりの参加者の方のことば・体験談から気づくことができた。


今日のアントロカフェのテーマは、
「生活の中で感じている喜び・楽しみ、苦しみ・ストレスに意識の光を当ててみる」というものだったが、
そのテーマを通して、自らの「内と外」にこれまで以上に、細やかな目を注いでみたかった。

日々過ごす中で、目の前に広がる景色、共に生きる人々、様々な情報、
これらは、すべて自分の外側からやってきて、自分のこころに何らかの印象を残していくが、
そのときに自動的に生じる情や意欲の繰りなし、もよおしなども、
本当の自分にとっては、外側のものではないか。

日々感じている、喜び・楽しみも、苦しみ・ストレスも、一見内的なことのように見えて、
考えるという自律的行為をなす自分から観てみれば、
それらこころの動きも外側のことではないか。

その自らの「内と外」とを明らかに対比させ、
外からやってくるものを拒まず、むしろ積極的に求め、
かつ、それらのことごとに対応する内的な行為こそが主導権を握る。

敬いの情、尊敬の情を我がこころに繰り返し繰り返しはぐくむことと共に、
そんなこころの練習をやっていくことが、
このアントロポゾフィーの学びの「条件」である。

その日々の、個的な、内的な、密やかな、意識的な練習を
私たち、この「知ることの細道」を歩もうとするひとりひとりは、実践していきたい。

そして、まだ数は少ないが、そういった個人が集まるこの学びの集団において、
お互いに切磋琢磨して、応援しあい、刺激しあうことができればと考えて、この集まりを続けている。





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2006年07月18日

脱出

今回は、パートナーのブログに書き込んでくれている何人かの方の文章を読んで、
考えたことを書きます。

この1,2ヶ月、
個人的なことで随分とこころが右往左往してしまって、
自分自身という軸を見失いそうになってしまっていたのです。

個人的なことを書きますが、ゴメンナサイ。
少々お付き合いくだされば、嬉しいです。

梅雨が明けるか明けないか、
まだ微妙な時期なのですが、
どうやら私のこころの梅雨は明けたようです。

こころの健康を取り戻すために意識したのは、
次のことでした。

自分を肯定的に見ること。
自分を批判的に見ること。
そして、その間に立つこと。もしくは、その両方を持ちつつ立つこと。

それは、私自身の中に精神を自覚するということでした。

自分を肯定的に見ること。
それは、自分は精神なんだということを思い出すことでした。
からだを持った存在でもあり、
諏訪某(なにがし)といった名前とこころを持つ存在でもあるのだけれど、
同時に、精神というまことのもの・善きものと自分は繋がっている、ひとつである。
宗教的な言い方ですが、神と繋がっている。
そのことを思い出すことが、私には随分と助けになりました。
あるがままの自分というよりかは、
精神と繋がっている、繋がろうとしている自分を思い出すとき、
自分という人間を肯定的に見ることができました。


一方、自分を批判的に見ること。
それは、精神と繋がっていることを忘れ去っている自分に気づくことでした。
正当性を主張しているつもりなのですが、
実は自分なりの考え・思い込み、自分の都合と好みで、
世のありとあらゆることにジャッジメントを下している、
そんな自分に気づくことでした。
これも宗教的な言い方ですが、
自分よりも高い存在がいることを忘れ去っている。
そのことに気づくことが、私には必要なことでした。

自分を肯定的に見ることと批判的に見ることとは、
私にとっては、ふたつでひとつでした。

その両方を持つことで、
自分自身を取り戻すことができたように思うのです。

そして、ここに至るためには、
パートナーとの対話がなくてはならないものでした。

ひとりひとりの人が、
きっとそれぞれの脱出の方図を持っている。

しかし、我ながら面白いなと思うのは、
渦の中にいるときは、とてもそのことに関しては文章を書くことができない、
ということです。
脱出して、やっと、書くことができます。
みなさんは、どうですか?

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2006年07月13日

あんとろ375!(となりにいる人を大事にしたい)

375.JPG

私は、「人が学ぶ」ということを、
「人間」という存在をより深く、多様な観点から知っていくことを通して、
新しく捉え直していきたいと考えています。

こどもが教育を受けることに限らず、
そもそも人は生涯に渡って学ぶことのできる存在ですし、
学び続けることによってこそ、
人はこころにおいても、からだにおいても健やかさを見出すことができるのではないでしょうか。

アントロポゾフィーを、言語造形を、
学びたいという意思を持っている大人の方のために、
その学びの場を創造し、提供していくことが、私の仕事です。

よくある大人の学びの場では、
例えば、講座があるとすれば、一人の講師が語り続けるのを、
多くの受講者がじっと黙って聴き、時にノートを取る。
受講者はその講座が終わると、
また別の、しかし同じようなパターンの講座を受けに出かける。
そんなパターンが多かったのではないかと思います。

そのようなパターンだけでは、
私自身も何かが足りないと感じ続けてきて、
自分がもしその学びの場においてイニシアティブを持つなり、
ファシリテーターを務めるとするならば、
必ず、そこに集っているひとりひとりの人を引き立てたい、フューチャーしたい、
と考えていました。

ですから、自分のクラスでは、いつも最初の時間を取って、
参加者の方が、ご自分のことや、感じていること、考えていることを、
ご自分のことばで語っていただき、
他のすべての人が、そのことばに耳を傾ける時間を必ず設けています。

そのことは、特にこのアントロポゾフィーの学びにおいては、
必要なことだと考えています。

人間のことについて、私たちは学んでいます。
だからこそ、そこに集っているひとりひとりの人・他者に関心を向けることが、
実に大切なことだと考えます。
集まって学んでいる者同士が互いを人間として知り行くプロセスそのものが、
このアントロポゾフィーの学びの大変重要な一側面です。

学びの場において、同じ空間にいる人の顔が見えてくることによって、
警戒心が解かれ、安心できる......
そのことも勿論大事ですが、すぐ傍にいる人に関心を寄せることこそが、
人間学を学ぶ場において本質的なことのひとつではないでしょうか。


さて、ここでご紹介する「あんとろ375(みんなでゴー)」。
このフリーペーパーは、日本アントロポゾフィー協会員を中心とした製作チームによって、
手作りされています。

ここでは、まさに、「ひとりひとりの『人』をフューチャー」しています。
知名度があったり、社会的な肩書きを持っている人よりも、
むしろ、「となりにいる人」にフォーカスを当てようとしています。
光っている人をフューチャーするというよりは、
そもそも、どの人もどの人も、その人のその人たるところから光を放っている、
その光を「見出す」ことこそが大切なんだという視点で創られています。

特に、アントロポゾフィーの学びの場においてこそ、
このような方向性があってほしい。

それが、こうしてフリーペーパーという形で創られ、まとめられ、世に出てきた。

こうした意識を持ってこの仕事をしている編集チームに、こころから感服です。

彼らは日本全国(いや、世界)を飛び回って取材し、
東京を拠点にして編集・発行をしています。
そういった仕事を通して、共に働くチームを創っていくその様、
そして、そのチームを構成しているメンバーひとりひとりに光が当たっていく様をも、
紙面から感じることができます。
それは、アントロポゾフィーの活動・運動をしていこうとしている多くの人に、
大きな刺激と示唆を与えるのではないでしょうか。

そして、「あんとろ375」は、「人であることの意識」、
誰しもに宿る「人そのもの」にフォーカスを当てていこうとするこの仕事を通して、
「どんな場所であろうとも自分が立っている立ち位置から『人』に意識的になっていくこと」
を世に問うています。

となりにいる人に意識の光を当てる、関心を寄せる、人間性を感じ取る、その方向性こそが、
アントロポゾフィーの新しい立ち上げ、新しい風であることを、感じます。


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2006年07月06日

京田辺シュタイナー学校 高等部 卒業演劇

今日、京田辺シュタイナー学校高等部14人による卒業演劇を観させてもらった。
シェイクスピアの「テンペスト」。

何に打たれたか。
それは、彼ら14人の、この舞台に懸ける心意気。
若い彼らが、からだを張って、前に出るその姿、その身振り。
せりふからせりふへ、ことばからことばへと、自分を解き放ってゆく姿が、
本当に美しかった。

彼らの親ではないのに、観ていて涙が出てきた。

彼らはこの舞台に向けて、約1年かけたという。

そう、ひとつの「もの」に向かって、時間を費やせば費やすほど、
からだを使って、こころを籠めれば籠めるほど、
その「もの」と「人」とが重なり合って、
「何か」が語りだす。
純粋な「何か」が。

この1年の中で、いくつかの壁を乗り越えてきたであろう彼らの立ち姿、彼らの躍動、目の輝き。

その息遣いが健やかであればあるほどに、
舞台の上で彼らが発することばは、観ている私たちにとって、
「透き通ったたべもの」「極上のたべもの」になる。

私は彼らの舞台を観て、舞台というところは、まさに、
人の輝き、人の人たるところを観ることができる場所なのだということ、

そして、私自身がこの純粋を獲得したいのだということを思い出す。

私たち大人は心意気を奮い起こして、この純粋をもう一度、取り戻すことができるだろうか。

このあと、7月9日から18日まで、
京都東山、名古屋、神奈川、京田辺と彼らは巡演します。
詳しくはこちらを↓
http://san-kyu.kir.jp/kyu_blog/log/eid31.html



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2006年07月03日

音、声、響き、それらを通してのこころの練習

引越しをして一ヶ月が経ち、漸く暮らしにも落ち着きが取り戻されてきた。
新しい家の二階に、私の部屋がある。

平日だが、仕事は休みで、机の前に座っていると、
後ろからは、家の向かいにある小学校の校舎からの、
カオスのような子どもたちの叫び声・笑い声、
教師の大きな声「みんなテストの勉強しいよう〜!」「座って勉強しなさあい!」、
遠く向こうからは、家々を隔てた幹線道路から響く車の音、
家の前を通るゴミ収集車から流れる音楽、
そして、前方のいつも決まった方向から聴こえてくる鳥たちの涼やかで伸びやかな鳴き声、
階下からは、もうすぐ一歳になる娘が、何かことばにならないことばで話している。

音、声の洪水である。
たくさんの人が生を営んでいる、
そのどまんなかに自分はいるのだということを感じる。

たくさんの音、声、それらひとつひとつは、
来たっては過ぎ去り、来たっては過ぎ去って、留まることがない。

そして、そのひとつひとつの音が、自分のこころに、
それぞれの波紋を拡げていく。
その波紋の美しさ、または、歪みに、
自分自身、知らず知らず、影響されている。
美しい波紋には、ここちよさを、
歪んだ波紋には、不快、少しの苛立ちを、
夢見心地ではあるが、感じている。

しかし、私は、それら快・不快という自らの情を貫き通して、
更に聴き耳を立てていきたいと思う。

耳をもっと開いて、
音の、声の、向こうにある「何か」が語りだすのを、
もっと受け止めていきたい。

シュタイナーは、その、「聴き取る」「聴き分ける」「ピンとくる」といった、耳の機能に重なる人間の力が、
インスピレーションという誰もが本来持っている精神の力から来ていると語っている。

音そのものに、ものを言わせる。

その「もの」は、きっと、私の日常の狭い了見や固い枠組みを解いてゆくだろう。

その意識的な練習が、私の肉体の耳だけではなく、
こころの耳を育てる。

こころの耳が新しいことばを聴きはじめる、
そのことを待とう。




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2006年05月16日

パートナーシップ

シュタイナー学校の校医をされていた方で、
ミヒャエラ・グレックラーさんという方がおられます。
その方の「両親の問診時間」(日本アントロポゾフィー協会発行)
という本を繰り返し読むのですが、
その度に、子どもの教育に最もものを言うのは何だろうかとよく考えさせられます。

幼稚園や学校の教育方針? もしくはレベルの高低?
親の教養?
親の我が子の教育に賭ける情熱?
家庭の経済状況?
.......................................?


私は、最もものを言うのは、
子どもを間に挟んでの、父と母のパートナーシップ、
男と女のパートナーシップなのではないかと、考えます。

子どもにどう教育を授けるかの前に、
自分たちがどういうパートナーシップを創っていくか。

このことが、子どもの教育を考える上で、
いや、社会をよりよくしていくことを考える上で、
とても大切なことだと思うのです。


勿論、家庭によっては、一人の親しかいないという場合などもあります。

そんな時、様々な他者が、その時その時、協力して、
ひとつの家庭という枠を越えて、
その子育てを励まし、応援し、支えることができれば、
きっとその子の親御さんは、力づけられます。

その時その時協力してくれる様々な他者と、
様々なパートナーシップを組みながら、
協力しあう関係の中で、そんな暖かさの中で、
親自身が「自分」「わたし」というものを確立していくことができます。

なぜなら、親自身が心理的・精神的に守られていると感じられていてこそ、
我が子を守ることができるのですし、
親自身も自分自身の生き方をしっかりと見出していくことができるのですから。

そして、その親自身の生き方が、
子育てに最もものを言うのではないでしょうか。


パートナーシップをいかに築き上げていくか、
それは、社会を構成する最も小さな単位である「家庭」を内側から創り上げる、
とても大切な、とても創造的な作業です。

「家庭」
それは、まずもって、ひとりの人とひとりの人が生活を営むところから始まります。
そのひとりの人とひとりの人が、毎日毎日、出会う。
その繰り返しの中でこそ、その繰り返しがあるからこそ、
人は、腰を据えて、腹を据えて、自己認識に取り組み始めることができます。

ひとりの他者と恒常的につきあい、語り合うからこそ、
初めて得られる「わたし」という人間の様々な側面・奥深さ。

そして「あなた」という人間の奥深さ。

男と女という性の側面を踏まえながらも、その側面・役割を超えた
「ひとりの人」ということがらに光を当てる。

この人は私の妻だけれども、いったいどういう人で、何を求めて生きているのか、
この人は私の夫だけれども、いったいどういう「つもり」で生きているのか、
その「つもり」を問う、そこに目を向けてみる。

「ひとりの人としてどう生きるか」、
それは本来「わたし」と「あなた」、「我」と「汝」のパートナーシップの中でこそ、
豊かに深く考えられます。

ふたりの間に様々に持ち上がる問題も、
ひとつひとつが、自分自身を育てる肥沃な土壌だと見て取ることができる。

「人間は育つ存在だということ(人は変わりゆくことができる!)」
そして、
「自分を育てる」という観点から、パートナーシップを改めて捉えなおしていこう、
シュタイナーの教育学から、そんな意欲が湧き起こされます。




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2006年04月30日

初めての合同発表会

今日は、「ことばの家」初めての合同発表会。

16人の方に語っていただきました。
時間が大幅に長くずれ込んでしまって、みなさん、本当にすみませんでした。
来年もまたしますが、もっとよくプログラムを考えて、会を創っていきますので、
また、どうぞよろしくお願いいたします。


会の冒頭に、シュタイナーの「こころのこよみ」第3週を読ませてもらいました。


  世のすべてに、語りかける。
  おのれ自身を忘れ、
  かつ、みずからの根源を肝に銘じながら、  
  人間の育ちゆく「わたし」が、語りかける。
  「お前の中で、私は解き放たれる、
  私自身であるということの鎖から。
  私は、まことわたしたるところを、解き明かす。」


言語造形をしていて、何が難しいといって、
「おのれ自身を忘れ、かつ、みずからの根源を肝に銘じながら」「世のすべてに語りかける」ことほど、
難しいことはないと思っています。

上手い、下手ではなく、
そういうみずからの上手・下手を考えている余裕などないところで、
いまある自分を精一杯賭けて、
この「わたし」が、語るのだ、
というその切実さ。

せせこましい意識を超えた「その人そのもの」「人間そのもの」を、
人は言語造形を通して体験したいのだ。
人間に出会いたいのだ。

今日のみなさんの語りをずっと聴かせてもらっていまして、
私は、誰よりも、私自身が、そのことにまっすぐに進んでいくのだということを、
はっきりと自覚させられました。

時間があまりにも押していたために、
今日の会の中では、お話できなかったのですが、

言語造形という芸術を通して、
そんな切実さを持って人と人が集まることによって、
その集まること、出会うことそのことが、宗教的な意識の深まりに繋がっていく、
芸術を通して、人と人とが出会うこと、そのことがすでに宗教的なことなのだということを、
私は信じています。

宗教的な意識、
それは、対する人のことを普段よりも一段も二段も深く感じられること、
そして「人間って、こうもありえるんだ」ということに気づかされること。

芸術を通して、そんな場を創っていきたい........

これからも、みなさんと一緒に、この言語造形に取り組んでいけたらと願っています。

今日は本当に、本当に、ありがとうございました。








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2006年04月24日

おもに、中学生・高校生達に伝えたい。

人は、ひとりぼっちにならざるをえない時があるからこそ、成長する。

子どもの頃や学生時代を振り返ると、そんなふうに思います。

幼いころ、どこかで迷子になってしまった時、
両親に自分のことを分ってもらえなかった時、
友達と喧嘩別れした時、
クラスの中で孤立してしまった時、
好きだった人に振られた時...........

胸の奥がキーンと冷たく痛くなるような感覚と共に、
自分は独りだと感じることが何度もありました。
(皆さんはどうですか?)

そして今から思えば、その度ごとに、
「自分」という感覚に目覚めたように憶えています。

ひとりぼっちであり、
自分と世界がはっきりと対しあうような。

とてもとても寂しいけれども、
同時に緊張感のある不思議な感触でした。

それは、子ども時代だけではなく、大人になってからも時に感じることがあります。

あの冷たさ・痛みを経験して、
その度ごとに「わたし」の感触があり、
その意味を少しずつ知っていく。

この痛みと共に経験する「自分」「わたし」の感覚、
これをもっと大事にしなければと思うのです。
この感覚をうやむやにしたらあかんと思うのです。

なぜなら、私自身、大人になるにつれて、痛みと共に覚えたこの「自分」「わたし」という感覚が、
いつしか、暖かく、確かなものとして感じられるようになってきたからです!

経験を積んで、勿論、失敗もたくさんして、そこからたくさんのことを学ぶことができて、
労してものにしたものの総計が、つまるところ、今の「自分」「わたし」だ。

この「わたし」は、あらゆる事々を乗り越えてやってきたし、これからもやっていく。
「わたし」は、時の流れの中で、育っている!
これからも私自身がこの「わたし」を大事に面倒みてやる。

この「わたしである」という感覚が教えてくれる「意味」は、
いまだ謎めいているし、きっと底知れないものがある。

しかし、この部分、この「わたしである」という感覚、
そこからすべてが始まるんだということに段々と信頼を置けるようになってきた。

そして今、仕事をしていて、他者の中、ひとりひとりの中に、おのおの「わたし」があることに、
その当たり前のことに、気づかされ、驚かされ、信頼を置けるようになってきたんです。
大人になるということ、いいもんです。

「わたしである」ということは、「ひとりぼっちである」ということでもあるし、なおかつ、
この感覚は、その範囲・深度をどこまでも広げ、深めていくことができそうな予感が強くあります。

このことを、シュタイナーの「自由の哲学」という本で、
認めつつ、確かめつつ、辿ることができます。

自分にとって、シュタイナーを学ぶことの原点は、
ここにあるように思っています。

もちろん、この本は中学生にはお勧めしません("^_^")

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2006年04月23日

今、ここで、この人と、出会っている

昨日、アントロ・カフェ大阪で、いつもの大阪市立中央会館に行った。
いつも応対してくれる事務の係りの人が、
「諏訪さん、ちょっと.........」と言って、私のいる部屋までやってきてくれた。

去年秋までそこの事務をしていたFさんが、一週間前にお亡くなりになったということだった。
Fさんは、確か私より3歳年上の44,5歳だった。

去年の秋、突然Fさんが事務室に顔を見せなくなったので、
その時、別の方に聞いてみたところ、
スポーツジムで脳梗塞で倒れられて、
そのまま意識不明になられてしまったと言う。
唖然とした。

Fさんは、なぜだか、いつも私が中央会館に行くたびに、親しく声を掛けてくださった。

その中央会館で、私は「ことばの家」の仕事のほとんどをしているのだが、
彼は、「今日は何人生徒さんが来ましたか?」
    「諏訪さんのお仕事、変わってますね〜、頑張ってくださいよ。」
    「諏訪さんのホームページ、見させてもらいましたよ、
     あれは、宗教じゃなくて、哲学ですか、シュタイナーというの
     は........」
    (天気がよかったので外の駐輪場で私がおにぎりを食べていると)    
    「そんなとこで、何してるんですか(笑)」と言いながら、
    横に来て、話をしてくれたりした。
私の奥さんと生まれたばかりの子どものことも、よく気遣ってくれた。
ご自分のご家庭のことも時々話してくれた。
とても元気そうだった。

倒れられて意識が無くなってしまってから、約半年間頑張られた。


笑顔を交し合って別れた人が、数ヵ月後には、もうこの世にいない........

昨日、言語造形のクラス、そしてアントロ・カフェで来てくださった
おひとりおひとりのお顔を見ていて、
私は「今、ここで、この人たちと出会っている!!!!」
ということを強く感じた。

本当にFさんが、笑顔で、見てくれているような気がした。




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2006年04月11日

人と話を交わすこと

人と人が同じ場所にいるのに、
話が交わされない、対話(向かい合って話し合うこと)がなされないって、
やっぱりとても寂しいことですよね。

社会の中で、生活の中で、家庭の中で、
ひとりひとりがバラバラになってしまっている。

たとえ、隣に人がいたとしても、目の前にいたとしても、
その人と話をしない、対話をしない............
毎日、どこへ行ってもそのことの繰り返し。
現代の私たちの生活形態そのものが、そのことを促進しているようです。

なるだけ独りで、もしくは自分たちの家族だけで、仲間だけで快適にいることができるようなライフスタイル。
他者と関わり合わなくても済むような生活を後押しするような様々な文明の機器。
卑しい勝ち負けのゲームをさせて、
人を権力の亡者・金の亡者・幸せの亡者になることへと仕向けるような言論の数々。

人を孤立させよう、孤立させようとする力が、強く働いている。

その得体の知れない力は、
人の内側にある自分では気づかない感情「不安・恐れ」を、
餌にしているように思うのです。

かく言う私自身も、この「不安・恐れ」をどう乗り越えるかが、
すごく大きなテーマです。


人は、きっと、
「わたし」から「あなた」に語りかける、
「あなた」から「わたし」に語りかけられる、
そのことばの交わし合いの中でこそ、
その繰り返しの中でこそ、
ひとつひとつの不安・恐れを乗り越える「わたし」の力を養うことができる、
そんな風に自分は思っています。

「わたし」の力とは、
その人のその人たるところから発する力、
その人の内側にある、何があっても永遠に傷つけられることがないところから発する力。

思考において、感情において、意志において、
人は、繰り返す対話の中でこそ、「わたし」の力を自ら育てることができる。

なぜなら人は、
「わたし」と「あなた」、「我」と「汝」の繰り返される関係の中でしか、
自分の「わたし・自我」を育てていくことができないからです。


人を孤立化させていくようなこの現代の得体の知れない力は、
人を孤立させることによって、
人の個の力・「わたし」の力を弱めよう、衰弱させようとしている。

議論して、勝ち負けを競うのではなく、
向かい合って、語り合うことで、努めて共通点を見出していく、
そんな対話の繰り返しが、
人の「わたし」の力を徐々に強め、高め、ひろやかに、深くしていく。

議論するというのは、考えと考えを闘わせるということですよね。
闘いというものには、常に、不安・恐れが裏打ちされている。

でも、対話とは、
「わたし」の中にある真実と、「あなた」の中にある真実を掬いだしていく、
その作業であって、それは一言で言えば、愛です。

また、ちょっとしたきっかけを見出して、
人とことばを交わすことで、
こころの中の情が、意志が、脈打ってくる。
(前にも書きましたが、この点においては、大阪のおばちゃんはスゴイ!

自分たちを孤立させようとしている大きな力が、
この自分にも及んでいることをもし認めるとするなら、
その力と対抗するために、
私はまず、どこから始めるか。

目の前にいる人の話を聴くことから。
目の前にいる人に関心を寄せることから。

徐々に、徐々に、やっていきたいのです。


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2006年04月01日

道の発端 (春が来た!学ぼう(^^♪)

 何を知ろうとするにも、何を学ぼうとするにも、
 その対象を愛そうとせずして、敬おうとせずしては、
 何も知ることができない、何も学ぶことができない。

 道の発端に、
 驚くことに開かれているこころ(情)、
 敬うこと、愛することに開かれているこころ(情)があって初めて、
 何かを知ろうとすること、学ぼうとすることが捗ってゆく。



シュタイナーの「いかにしてより高い世の知を得るか」という本の冒頭に、
「条件」として、上のような事柄が書かれています。

こうした情を培うことが、この学びにおけるひとつの条件だと。

では、この情をいかに培うか。

アントロポゾフィーを通して、
この情をいかに培っていくかをこそ、
まさに道の発端として、私は今、学んでいます。

学び手として、
人のことば・考えを(この場合シュタイナーのことば・考えですね)、
無批判に信じ込むのではなく、
また、批判的に分析し、それに早急な判断を下すのでもなく、
まずは、受け取ってみる。
まずは沿うてみる。

そして、それらのことば・考えが、
自分のこころの中でどのように作用しているかを吟味してみる。

もし、ことばの中に、まことのもの、真なるものが秘められているならば、
きっと、こころに、暖かくいきいきとした情が生まれてくる。

もしかしたら、はじめは、
あることばがうまく理解できなかったり、
理屈では分ったとしても、いまひとつピンとこなかったりするかもしれない。

しかし、本を読むたびに、ことばを聴くたびに、
そのつどそのつど、そのことばと考えに、
自らの考えを重ね合わせてみる。
何度も重ねて、吟味してみる。

その積み重ねの中で、
ことばと考えが、暖かくいきいきとした情を生み出すならば、
その時、その情を、信頼していい。

なぜなら、人は、健やかな情でもって、
まことかそうでないかを判断するものだから。

頭(理性)で判断していては、不健康になるばかり。

頭は、受け入れ、受け取る場所。

そのように、理性でもって判断しようとせず、
そこではことばと考えを受け取り、
情でもって、こころでもって、それらがまことか否かを判断していくことができるように、練習していくことができます。

これは、ちょっとムズカシイことかもしれません。
ついつい、私たちは、頭で一生懸命、考えますもんね。

 人は、頭で受け取り、こころで判断する。

 その時、人は健康である。


このことば、受け取ってみれば、
こころの中でどう作用していくでしょうか。

道の発端として、
情を培うこと。

この春から、また多くの人と、アントロポゾフィーの学びを、
新たに始めていきます。



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2006年03月23日

おおいなる人

赤ん坊と毎日暮らしていて、何に感心するか。

もう、それは、この子がここにいるというそのことだけで、
周りの私たちはこころ動かされてしまう。

どんな気の利いたことを言わなくても、
どんな感じのいいスマートな振る舞いをせずとも、
この子が何かをじぃーっと見つめているその姿に、
ぐぅーっとひきつけられてしまいます。

そして、こどもはまるまるおおいなるシンパシー(共感)の球に包まれている、
アンチパシー(反感)が全くないんだと、観ていて感じます。

泣いたり、わめいたりするのは、不快を感じているからであり、
つまり快の情が減じているだけであって、
決してアンチパシーから泣いているのではない。

では、この赤ん坊を包んでいるシンパシーは、どこから来ているんだろう。

それはきっと、こどもにとっては極めて当たり前の考え、

「この世はよきもの」

というおおいなる考えから生まれているのでしょう。

その考えは、この子にはあまりにも当たり前すぎて、
意識など当然できない。

生まれて間もないこの子はきっと、
「この世はよきもの」という考えとまるごとひとつになっているんですね。

考えと自分が分離していない。
だから意識もできない。

そうして、きっと三歳頃に、
おおいなる考えと自分が分離しはじめて、
初めて自意識が生まれる、
考えることをしだす、
アンチパシーが生まれる。

それまでの三年間、
赤ん坊という赤ん坊はすべて、
「この世はよきもの」というおおいなる考えと
ぴったりひとつになっている「おおいなる人」なんですね。

そのおおいなるものを宿している赤ん坊のおおいなる心根に沿いたい。

「この世はよきもの」という考えを、最大限に尊重したい。

恥かしながら、我が子が生まれてきてくれて初めて、
「この世をよきものにしたい」という考えが、
切実な想いとして、自分の胸に育ち始めている。

そして、赤ん坊にとっての「この世」とは、
まず、私たち、両親。
私たちのこころ。

こころをよくすること。

おおいなる人は、おおいなる課題を、私に与えてくれています。





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2006年03月20日

NPO法人 日本アントロポゾフィー協会を応援します!

今から十三年前のことです。
二十八歳だった自分は、いまだ「自分の仕事」というものを見出せず、
もがき苦しんでいました。ただ強く「何か」を求めてはいるのですが、
その「何か」が何なのかはっきりしない。

そんな時、私は人との出会いを通して、シュタイナー教育を知りました。
その教育理念、人間観、世界観に、こころが熱く揺さぶられ、
からだがすぐに立ち上がるような感動を覚えました。

そして、東京の新宿区高田馬場にある日本アントロポゾフィー協会/
ルドルフ・シュタイナーハウスに足繁く通い、様々な学習会、講座に参加したのです。

そこで、アントロポゾフィーの学びに入り込み、取り組みながら、
そのアントロポゾフィーから生まれた一芸術「言語造形」の練習に毎日を費やしました。

言語造形を自分の仕事としてやっていきたかったんです。
アルバイトで生活費を稼ぎつつ、日本アントロポゾフィー協会には、毎日通いました。

そこで学び、練習することによって、私は自身の内側に渦巻くエネルギーに、
ある方向性をもたらすことを学ぶことができ、また、
生きることの意味を求めているこころの渇きを癒すことができたようにも思います。
無論、その意味をいまだ求め続けてはいますが。

そこは、私にとって、人生の大きな学び舎でありましたし、
やはり強く縁のあるところでした。

その場が協会として日本に立ち上げられてから約20年、
NPO法人として日本社会の中に公けに運営され始めてから4年。

今、その協会も、大いなる変革の時を迎えていまして、
それまでの古くからの学び手、古参の会員に加えて、
若く新しい人達による新しい息吹きをその活動に吹き込んでいく時に来ているのです。

私も自身の仕事「言語造形」を通して、我が身を通して、
アントロポゾフィーをこの日本社会の中に寄与できるようないきいきとしたものにしたい、
そしてアントロポゾフィー協会の活動を支えていきたいと考えています。

その協会は、人の集まりの新しい内実とかたちを目指しています。

個を縛る集まりではなく、個の自由を育てる集まりを目指して、
より人間的で、よりオープンな場を創ろうとしています。


 2006年4月より、協会講座が生まれ変わります。
 ご関心のある方は是非こちらをご覧ください。
 NPO法人 日本アントロポゾフィー協会 [インフォメーション]





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2006年03月09日

問いを立てる(中学生とのワークショップ 2)

先日、中学校に行って2年生たちとワークショップをしたことを書きましたが、
その続きです。

前半の時間は、太宰治の「走れメロス」を題材にした言語造形を。
後半の時間は、私がみんなにどうしても問いかけたかった問いを
いくつか投げかけさせてもらい、じっくりと考えてもらいました。

その時した問いのひとつはこんなものでした。

「10年後でも20年後でもいい、未来において、
こんな世界が自分のまわりに広がっていれば、ごっつうええなあという世界とは、
あなたにとってどんな世界ですか?」

みんないろいろ考えてくれました。
渡した紙いっぱいにぎっしり書いている子もおりました。

その問いには、決まったひとつの正解というものはない。
自分にとっての「願い」「理想」。
普段はつい、こころのどこかに追いやられがちな、そんな自分の「考え」を、
こころの真ん中に引っ張り出してくる、掘り出してくる。

どこか自分の外側にあるひとつの正解ではなく、
自分の内側にあって自分自身が考えることによって掘り出したそんな「考え」って、
結構自分自身を元気にしないだろうか、ワクワクさせないだろうか。

たとえすぐに掘り出せなくても、
そんな問いかけを自分で自分にし続けることで、
きっと、その子はいつか自分の内側にその答えを見出すときが、必ず来る。

そう、本当に問うなら、必ず、答えのほうからやってきます。
逆に言えば、問いを立てない人には、いつまでも答えはやってこない。

いかに問いを立てるか。
いい答えを見つけようと焦るのではなく、
いかによりよい問いを自分自身に立て続けるか。

大人になれば、それは自分自身で賄おうとすればなんとか賄えます。
しかし第三・七年期、14歳から21歳までの若い人たちは、
それをうまく自分だけでするには覚束無いはずです。
実際、自分がそうだった。
やはり、大人のサポートが必要です。

そばにいる大人がいかに若い人たちに問いを投げかけることができるか。
すぐに答えられなくてもいい、
こころに抱き続けて考えていくことができるような問いをいかに、
若い人たちに投げかけるか。

そして若い人たちが、自分自身に、確かな問いを立てられるようにサポートする。
それは大人の役目でもあるかなあと思うのです。

若い人が自分に対して立てる問いから、自分で答えを導き出してくる、
その力って、生きて行くうえで、ものごっつう力になります。

「どんな世界を望むか」
そんな問いに対して、真剣に取り組んでくれる子もようさんおったのですが、
当然のごとく(普段のように?)サッサッと紙に書いて、
あとは隣の子とペチャクチャ喋っているやんちゃそうな子も結構おったんです。

そんな1人の子の紙をチラッと見たら、
「勉強のない世界」とだけ書いてあったんです。
私は「おおっ!」と思い、
「俺も中学のとき、そんな風に思ってたよ」って伝えました。
そして
「君の考え、よう分るような気がする。
そしたら今度は、こんな風に考えてほしいねん。
『勉強がない世界』がええってゆうんやったら、
じゃあ、『何があったらええ世界』なんか考えてみてくれへんか」
と問うてみました。

そしたら、その子、ペチャクチャ喋っていたのをピタッとやめて、
すうーっと考えるモードに入っていったんです。

「何があったら、ええんやろ.......」

でも、彼の考えるモード、3分ぐらいしか続きませんでした(笑)。
また、隣の子と喋ってる。

それでも、ええなあと思ったんです。
ほんの短い間でも、彼が考えようとしたその時、
あきらかに、それまでとは違う光が彼の表情に差した。

私は教師ではないですが、大人になろうとしているひとりの人として、
自分自身に問いを立て続けていきたい、
そして機会があるごとに若い人たちに対して問いを投げかけることで、
彼ら自身が自分で問いを立てる力を持てるようにサポートできればと考えています。




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12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
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