2010年10月23日

手当て

先日、頭のうしろと左目の奥に鈍い痛みがずっと続いていた日があって、

夜、妻にそのことを話したら、

頭と目に手を当ててくれた。

だんだんと痛みが消えていく。

眠たくなってきて、

ありがとうと言って寝てしまった。

手を当てながら、

彼女は彼女自身のうちに現れる黒い何かをみつめてくれる。

みつめることを続けていくうちに、

それは消えていく。

彼女の手はいつも俺を癒してくれる。

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2010年10月22日

親バカ日記

朝、仕事に出かけていくとき必ず、
5歳と2歳の娘たちが家の外に走り出て、
「ばあ〜いばあ〜い! いってらっしゃ〜い!」と叫んでくれる。

何度も何度も叫んでくれる。

家の前が坂道になっていて、
俺が坂を降りていって俺の姿が見えなくなっても、
まだ叫んでくれている。

朝の青空が声でいっぱいになる。

朝から、涙が出そうになる。

こんなことをしてくれるのは、
何歳ごろまでなんだろ。

でも、手を振っている娘たちの姿と空に響く声、
一生忘れないな。

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2010年10月14日

寂寞の波紋

言語造形を通して何がなされうるのか。

いま取り組んでいる草野心平の『古池や蛙とびこむ水の音』という一篇の詩が、
教えてくれる。


  音は消えてしまつた
  音のあつたその一点から
  寂寞の波紋が漲る
  
  うるし色の暗闇の夜を
  寂寞の波紋が宇宙大に拡がる

  芭蕉は芭蕉を見失つた
 
  無限大虚無(ニヒル)の中心の一点である


この詩をこの通り、口ずさんでみる。

まさしく、この通りになる。


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2010年09月16日

素直さ

人との出会いも、
人との別れも、
まったく、すべて、必然に思えます。

自分のこころが素直になればなるほど、
素直なこころをもった人が自分の目の前にやってきてくれるし、
素直になれず、どこか自分自身に対して無理強いしているときは、
自分自身に無理強いしている人がやってきてくれるような気がします。

無理強いと無理強いが出会っても、
必ず別れがやってきますね。

そういう別れが現実化するということは、嬉しいことです。

自分が自分に無理強いしていたことがはっきり分かるかけがえのない機会なんですから。

何ごとも現実化してくれないかぎり、
結構、そのものごとの本質は分からないものですね。

本当にこころが向く方向はどちらなのかを、よく見る。

本当にしたいことをする。

そんなおのれへの素直さにもう一度向かっていこうと感じています。


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2010年06月11日

お恥ずかしい噺で・・・

他人を責めているとき、
実は自分を責めている。

他人を責めるのをやめるとき、
そのとき、自分は自分を責めるのをやめている。

今日、他人を責めるのをやめました。

おおっ。

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2010年06月09日

お母さんのことが大好き

我が家の娘ふたり(もうすぐ5歳と2歳)、
もうお母さんがほんとに大好き。

子どもって、こんなにお母さんのことが好きなんだなぁ〜。

そして、お母さんと娘たちがほっこりしている姿を見て、声を聴いているのが、
これまた至福だ。

ツイッターで呟くようなことだけども、
書いてしまった。

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2010年05月26日

自分自身にとって大事なこと

朝、よく竹西寛子さんの文章を読みます。

今朝は、講演集『言葉を恃む』のなかの「野上弥生子の文章」を読んだのですが、
いつもながら、こころが熱くさせられます。

読んで、あらためて自分自身にとって大事なことを思い出します。

以下は、こころの中のつぶやきです、あしからず。



こころの深みに降りていくことによってみえてくるものをことばにしていく作業。
俺もそれをしていきたい。

その作業をしていくためには、
どうしても学びが必要だと感じる。

多くの先人がいる。
丁寧に、時に、勇気をもって、
みずからのこころの深みに降りていき、
そこからことばを紡いだ多くの先人。

俺はいま、
古今東西の彼らから学ぶことのできる場所にいる。

彼らひとりひとりのこころの深みに俺も降りていくことを学ぼう。

人は人であるのではなく、
人になりゆく存在なのだ、と誰かが書いていた。

人それぞれ、各々の個性に応じて、
その人ならではの道を歩いて、人は人になっていくのだろうけれども、
俺は、ことばを受けとり、運用し、活用することを通して、
人になっていく道を歩いていこう。
(もう、歩いてるよっ!)

みずからの内へ一段また一段と降りていくことができるかを試しながら、
そしてみずからの両脚でしっかりとこの大地に立ちながら、
日一日と生きていこう。

生きること、こころ、ことば、全部、いっしょだ!

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2010年05月24日

昨日は、聖霊降臨祭

昨日は、妻が激しい頭痛に一日中悩まされ、
わたしは背中の激痛にからだを動かせなくなり、
お互いに安静にしているしかない状態でした。

しかし!
そうしてお互い臥せっている間に、
いや、臥せっておらざるをえなかったからこそ、
夫婦そろって、それぞれにこころに新しい状態が生まれ、
今日はなぜだかこころ晴れ。

妻は出かけていって、またまた素晴らしい人との出会いを得、
わたしは新横浜での仕事を一日することができ、
これまでにない充実感を参加者の皆さんから頂くことができました。

昨日は、聖霊降臨祭。

夫婦そろって、痛みを通して聖霊が降りてきてくださったように感じています。

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2010年05月22日

子どもってこころが見えるんでしょうか

うちの2歳の娘が夜中、泣いて泣き止まない夜がありました。

わたしは次の朝はやくから仕事があるので、
その子をあやしはするものの、
はやく泣き止んでくれよ、と正直イライラもしていました。

1時間、もしくはそれ以上経っても泣き止まず、もうお手上げだ〜!となったとき、
なぜかわたしのこころに大きな変化が起こり、
なぜかこの娘が可愛くて可愛くてたまらなくなり、
からだをさすってあげながら、
自分自身がとてつもなく尊い存在の横にいるような気持ちになりました。

すると、その娘はす〜っと眠っていきました。

子どもって、側にいる人のこころが見えるんでしょうか。

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2010年03月23日

空堀ことば塾 子どもたちの春の芸能発表会!

一昨日、仕事が終わってから、夜に空堀ことば塾(http://blogs.yahoo.co.jp/kotoba_jyuku)の子どもたちが落語の発表会をするというので、楽しみに出かけていきました。

いや〜、楽しかったなあ。

小学2年生から6年生までの子どもたちが次々と舞台に上がって、
お噺を繰り出していく。
たくさんの大人たちが見守る中、はじめはもじもじしながらも、
声を思いっきり出しはじめ、客の中から笑いがはじけるたびごとに、
どんどん調子が出てきます。

空堀ことば塾の子どもたちはとにかく口を開けて、通りのいい声を出してくれます。

その声さえあれば、噺のことばが笑いを引き出してくれます。

舞台に上がる時のどきどき。
でもなんだか自分がパフォーマンスをするのが待ち遠しいような、
そんな感情、意欲が子どもたちの表情から感じられました。

ああ、こんな風に子どもが大人に見守られながら、
ことばをパブリックな場で朗々と出すことができる経験を積むことができたなら、
どれほどの自信とことばに対する信頼を得ることができるでしょうか。

こんないい雰囲気で大人と子どもがひとつの場所を共有できていることにとても感じ入ったのです。

シュタイナー教育を軸にしながら、
塙さんがこの3年間、空堀という場で闘ってこられたことから生まれたひとつの果実の香りをおすそ分けいただいたような気分になりました。





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2010年03月21日

ことばというものへの繊細さ

人が発するひとことひとことが、他者のこころに波紋を拡げていきます。

その波紋というものを、人のこころはとても繊細に感じています。

それが幼児となりますと、こころでは感じていません。
からだで感じています。

血のめぐり、呼吸のめぐり、食べ物のこなし、
それらで実に繊細に感じています。

こまやかなからだのなりたちそのものが
側で話されることばの一音一音によって働きかけられ、かたちづくられています。

幼児においては、こころではなく、からだそのものが周りのすべてに帰依している、祈っている、
そう言えます。

その帰依、祈りをもって、毎日子どもたちは自分のからだを創り上げていきます。

わたしたち子どものそばにいる大人は、
そのような幼児が本来持っている宗教性をどれほど尊重していくことができるだろうか。

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2009年12月19日

永遠なるものにして女性的なるもの(『夕鶴』を通して)

 この身体は父と母からいただいた。そして土へと帰っていく。

 しかし「こころというもの」はどこから来てどこへ行くのだろう。こころというものは、地にある故郷ではなく、天にある故郷からやってきて、またそこへと帰っていくのではないか。

 故郷、ふるさと、というと、人はなぜか母のことを憶い出す。必ずしも実在の母ではないかもしれない。ふるさと、そこでは人という人が宿り、生まれ、育まれ、守られている。そこは「母なるもの」が息づいている場所、「母の国」と言ってもいい。

 人のこころにとっての母の国、それは天にあるのかもしれない。そしてそこから、『夕鶴』のつうはやってきたのかもしれない。母の国からの使者、母なるもの、「永遠なるものにして女性的なるもの」として。

 すべてを生み育む母たちは、織りなしつつ生きている。そしてつうも、機を織ることによってこの地上世界に何かを生み出している。しかし、人のこころはいつしか母の国、母なるものに目を向けることを忘れ、母たちによって生み出された「ものごと」に固執するようになってしまう。

 しかし、この地上のものは、人も、ものも、何もかもが、生じ来たっては過ぎ去って行く無常のものだ。この無常感に人は耐えられず、様々なものにしがみつこうとする。常なるものに触れること、永遠なるものとひとつになることによってのみ、人は安らかさと確かさと健やかさを取り戻すことができる。あらゆる宗教、芸術、科学はその具体的な方図をなんとか見いだそうとしている。それが人の歴史だ。

 ゲーテが『ファウスト』の幕切れにこう書き記している。

   なべて過ぎ行くものは
   比喩に過ぎず。
   地上にては至らざりしもの
   ここにまったきものとして現われ
   およそ言葉に絶したること
   ここに成就す。
   永遠なるものにして女性的なるもの
   われらを彼方へと導き行く。
                       (柴田翔訳)

 彼方とは死の国であるが、そこは同時にすべてが生み出され織りなされるところ、生のおおもとの国でもある。そこに人を導くものは「永遠なるものにして女性的なるもの」だとゲーテは生涯最後の作品の最終部に書き記した。

 わたしたちはこの世に生きている。しかし、この地上の人生の毎日をどう、生きているだろう。果たして、過ぎ行くものを過ぎ行くものとして知りつつ、永遠なるものに触れつつ、おのれ自身が永遠なるものとして毎日を生きていくことはできるだろうか。この地上の国と母なる国とはひとつになりえるだろうか。その導き手である「つう」とともに暮らしていくことがわたしたちにはできるだろうか。「つう」に去られた今、わたしたちはその暮らし方をあらためて学ぼうとしている。

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2009年12月08日

恵みを感じて

 今月の大阪での舞台に向けて、わたしたちは子どもたちと合同で練習したり、その親御さんたちから物心両面での応援をいただいたり、そのほか様々な方々からの貴重な時間と労力の提供をいただいている。
 
 まずは、わたしと妻とでやり始めたことに、徐々に人が集まってきてくださり、ささやかだけれども活きた動きが生じてきている。始めたのは自分だが、これは決して自力のみでやり続けられるものではない。わたしたちのこころざしに幾人かの方々が共感と働きを寄せてくださるのはまったくの他力、恵みであるに違いない。

 わたしたちが意識していくことは、ただ、自分たちの技量を高め深め磨いていくことだけ、それによって美しいものを実現していくことだけだ。物欲しげな顔をしている自分に気づく。もうそんな顔をするのは金輪際やめだ。わたしたちの研ぎ澄ませた意識。そして稽古の積み重ねを通して無意識の領域から発散される肥沃な技量。それを舞台の上に立ち上がらせること。それのみを考え、想い、行動していこう。

 そして、わたしたち自身から「これは、いい」ということばが生まれてくるまで続けるのだ。 

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2009年12月02日

人の欲に貴賎はない

 人の欲に貴賎はない。ただ、その欲が精神の側に寄っているのか、もしくはからだの側に寄っているのかの違いがあるだけで、人の欲という欲にはすべて高貴な考えが秘められている

 こんな考え方、シュタイナーとアントロポゾフィーに出会うまではできなかった。いや、出会った後でさえもわたしは随分と自分の欲に対して貴賎の別をつけていた。

 ただ、人の内なる自然とも言えるその欲は、否定され押さえ込まれたりしているといつしかバランスを崩して、逆に他者にも自分自身にも破壊的な働きとなって表立ってしまう。

 欲というのは、人の内なる自然。意志、意欲なのだ。

 では、人はなぜ何かを欲するのか。

 それは、人は何かを、誰かを、愛したいからなのだ。

 人はそもそも愛だからだ。

 人に愛されたいという欲も、実は、人を心底愛したいという高貴な考えが秘められているからだ。

 まずは、自分自身の中に生じている欲を、見よう。それは春夏秋冬の四季の巡りと共に植物が成長、衰微を繰り返すことと同じく自然の繰りなしなのだ。自分の中に生じている欲を内なる自然として認めてあげよう(認める=見とめる)。認めてあげることをずっと続けていくことができたのなら、その欲はいずれまた成長、変容していく。
 
 人の欲に貴賎はない。
 
 ただ、欲は、人にちゃんと見てほしがっている。無視されたり、押さえ込まれたりするのはゴメンだと言っている。

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2009年11月25日

生命はみられることを待っている

 生命という生命は、人にみられることを待っている。

 美術館にある一枚の絵でもいい、道端に咲いている一輪の花でもいい、名前や形状を表面的に確認してそれだけで済ましてしまうのではなくて、じっとしばらく何も頭で考えず、みることに徹してみよう。そのとき、思ってもみなかった相(すがた)がありありと自分の目にだけではなくて、こころに映ってきて、まるでものからことばを話しかけられているように感じるときがある。
 
 そう、花だけではなく、動物だけでもなく、人間だけでもなく、絵にも、本にも、生命はある。その生命に目を注ぐこと、それはその生命に「つきあう」こと、その生命を愛することだ。

 「考える」ことはもちろん人によってアクティブになされることだが、ひたすら「みる」ことに徹するということも、これまたとてもアクティブな人の行為だ。

 みるという行為は、愛すること、愛でることから生まれる。子どもも、ただみられることを待っている。すべての生命がみられることを待っている。

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2009年11月24日

本の生命

 昨日、銀杏並木からはみ出し揺らめいているように感じた生命のことを書いたが、今日は本の生命について感じさせられた。

 本は生きている、と感じることがある。

 本を読むとき、目で追っているだけではもの足りず、できれば声に出して詠む。線を文の横に引いていく。頁の上下左右の余白にこれまでの読書経験、人生経験から浮かび上がってきたことをどんどんと書き込んでいく。

 目で読むだけでなく、手にペンを握り書き込みつつ、声を出して詠むことで耳でも文を味わいつつ、一頁一頁、一文一文につきあいつづけていく内に、わたしのアクティビティとその本自体、文自体、ことば自体の持つアクティビティとが生きものと生きもののように交わり始める。こちらがアクティブになればなるほど、本のアクティビティ、本の生命もが引き出されてくるように感じる。

 そのような読書の痕跡が毎頁に書き込みとして残される。もちろん、それらのすべての痕跡がわたしの中で記憶としてしっかりと定着していることなどない。しかし、本の生命にいきいきとわたしが向かい合うことで交わされたアクティビティとアクティビティの働きあいは、内なる痕跡としてずっとわたしの中で引き続いていく。

 その引き続きが、毎日を生きていく上での確かさと安らかさとこころざしを与えてくれる。

 岩波書店から『読書のすすめ』という無料で読むことのできる文庫が出ている。その第9集に、作家の多和田葉子さんの「本は麻薬」というエッセイがある。その文章には、引用したいものがたくさんあるのだけれど、今日は最後に書かれてある文章だけを挙げたい。

  本は読むだけでなく、同時に書かなければいけないといつからか思うようになった。
  受身に読むのではなく、自分がその本を書いているのだというくらいの意気込みで、
  身を乗り出して、読む。
  そうすれば小さくて質素な本ほど大きくなるような気がする。



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2009年11月23日

生命の美しさ

 秋晴れの午後、御堂筋を少し歩いた。銀杏並木の黄色い葉に秋の穏やかな陽の光がきらきらしていた。そういう風景を眺めながら歩いていたが、そのたくさんの黄色い葉が風にそよいでいる木々の列をもっと、じっくりと、こころをとどめて、見渡してみると、なんと言ったらいいのか、生命そのものの美しさがぐわっとせり出してくるように感じた。

 生きている。これらの木々は生きている。全く当たり前のことだが、そのとき、わたしのこころに迫ってきたのは、立ち上がってくる生命そのものだった。しかも、とても清潔な生命だ。生命というものは、こんなにも綺麗なものなのか。純なものなのか。同じ地球に生きていて、こんなにも生命を美しく謳歌している存在が、こんなにも身近にいてくれることに、こころの視野が晴れ渡ったように感じた。

 丁度、今日の午前は小学生の子どもたちと劇の練習をしていて、彼らの純なこころと生命に触れることができたせいか、御堂筋を歩くのに足取りも軽かった。

 わたしも、これらの子どもたちの生命力、そして植物という植物が持っている生命の清潔を少しでも取り戻していこう。

   秋晴れて青き潮の中に在るここちすわれも葉を落とす木も
                                  (与謝野晶子『流星の道』より)


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2009年11月22日

昔話の魅力

yuzuru-f.JPG yuzuru-b.JPG 

 人が人に話をするということ。また、人が人から話を聴くということ。それらの行為はおそらく人間が人間としての営みを紡ぎ始めた極めて原始的な時代からあったものだろうが、そこに秘められている魅力は何だろう。生身のからだと寛いだこころに囲まれて交わされるその行為からわたしたちが今も変わらず感じ続けている魅力とは何だろう。

 それは、その時に生み出される話の魅力と共に、話す人、聴く人が各々胸をひらいて、今、出会っているというそのことの静かな高揚感を感じることができる、そのことにあるのではないだろうか。
 
 また、時を越えて、時代を超えて、地域をまたいで、同じ話がなされ続けるということがある。同じ話が複数の人々によってなされ続ける。考えてみれば、不思議なことだ。そういうお話を昔話・伝説・神話ということが多いが、そういう話の魅力とは何だろうか。
 そこには、人から人へ、時代を越えても、地域を越えても、古びない、錆びつかない魅力が、きっとあるのだろう。それは何か。しかし、その魅力が何か、わたしたちはそう深く考えはしないものだ。その魅力を考えることはおろか、感じることさえ難しくなってきているのかもしれない。
 
 今回取り組んでいる『絵姿女房』『夕鶴』の重ね重ねの稽古を通して、その魅力とは何かに気づき始めている。そこに「人そのもの」がなんと奥深く描かれていることか。

 『絵姿女房』『夕鶴』は、共に古くから語り伝えられている昔話をもとに木下順二が書き下ろした語り物と戯曲だ。特に『夕鶴』は1958年の初演から1000回以上もの上演を経た作品で、そのプロセスにおいて、多くの人々からの様々な創造的な働きかけがなされたようである。
 
 今回のわたしたちの舞台が、それら「昔話というもの」に潜んでいる魅力を提示することができたらと希んでいる。物語に対して様々な解釈は可能であるだろうが、それらの昔話が長い時間の中でも風化せず、ずっと持ち続けているある原型を提示することができたらと。
 そして、その提示にはきっと、今を生きる人にとって極めて現代的な問題もが孕まれている、そう感じている。

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2009年11月19日

バランス

 世界は広い。世界は多様だ。学ぶことは、それこそ、限りなくあるだろう。自分の小さい城を築くことだけで精一杯だったこれまでの自分を乗り越えて、40代後半に入っていくにあたって、できる限り、様々な人と交わって、学んで行きたい。今までに読んだことのなかったジャンルの本もどんどん読んでいきたいし、機会を見つけて、新しい人との出会いを大事にしていきたい。

 しかし、自分が本心本当に求めているものについても、明らかになってきたように感じる。マイスター・エックハルトの説教集を読むと、初っ端からこころが引きつけられる。
   
   人のこころこそが、神の社(やしろ)になりうる。
   そこには、一切の取り引き(商い)がなく、
   過去も未来もない、
   ただ、今、という永遠に新しいこの瞬間において、
   キリストただひとりのみがある。
   そのとき、このこころは、神の社となる。

 どこにいても、何をしていても、そこには、常に、「わたし」がある。「わたし」からは絶対に逃れられない。その「わたし」に、健やかさをもたらすものと、そうでないものとを分別するならば、何が健やかさをもたらすかが、もうはっきりと分かる。

 多面的な人生の側面をもっと味わっていくことと、自分が本心本当に大切にすることとのバランスをよりいきいきと取ることができればいいな。

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2009年11月12日

スターバックスにて。歴史とは。

 スターバックスでコーヒーを飲みながら、池田晶子さんの『メタフィジカル・パンチ』を読んだ。
 
 「戦争の時代を考えよう。生死のぎりぎりが生活の日常であるような時代を考えよう。その方がよほどすっきり話がわかる。(中略)君は君の生活上の不平や不安やメソメソが、爆弾を抱えて敵艦へ突っ込めという至上命令に対して、どのような位置にあると思いますか。」(P.94)

 隣で二人の女の人が声高にいろいろなお喋りをしていた。その横で、池田さんのこんなことばに出会う。

 「確たる世界認識は、自分の死を知るその明らかさと引き換えに獲得されるものだ。ひとたび死んで無になった自分だからこそ、世界のすべてを自分と知るのだ。認識は自在だ。どの時代におけるどの誰かも、全て、『私』だ。私は戦争を知っている。爆弾を抱えて敵艦に突っ込んだことがある。幼い部下にそれを命じたこともある。戦争の愚劣さを知りながら、しかし愚劣を真率に生きるよりしようがなかった人間の悲しみを知っている。『戦争を知らない世代』と自ら名のるなど、恥ずかしいことと思った方がいい。」(P.95)

 歴史とは、ことばだ。そして、まずもって、他者という他者が生きた「しるし」のことだ。しかし、その歴史としてしるされているすべてが、それらのことばすべてが、この「わたし」を映している鏡であり、すべてが「わたし」に関する記述なのだと合点していくならば、歴史は歴史でなくなり、他者は他者でなくなってくる。歴史を学ぶということが、「わたし」について学ぶということになる。ことばを深めていくということになる。
 歴史とは、行為だ。わたしが誰かを、何かを、熱く想うことだ。想い描くことだ。想い起こすことだ。そのとき、その行為は、きっと、時空を超えて「わたし」という意識をだんだんと深め、広げていく。
 シュタイナー語るところ、有史以前に生きていた人々は、己個人の人生をはるかに超えて、先祖たちの人生経験にまで遡って、記憶を保持していた。
 これからのわたしたちは、歴史の中にしるされていること、他者を通して現れていること、それらすべてが己のことであると徹見していくことによって、意識的に自らを超えて記憶を、「想い起こすこと」「想い描くこと」を、育んでいくのだろう。
 スターバックスで隣り合って座った人がいてくれたからこそ、池田さんのことばがわたしに突き刺さってきた。


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