
日曜日2月16日に行われます「ことばの家」での言語造形公演『グリム童話のひととき』が、
一週間後に迫ってきました。
5時30分開演の夕の部にまだ少し空きのお席があります。
ご関心のある方、ぜひ、いらしてください。
詳しくはこちらです → http://www.kotobanoie.net/pray.html
今回、なぜグリム童話を公演で取り上げることにしたのかを改めて自分自身に問うてみたのです。
ここのところ、わたしにとってとてもリアルに響いてくるのが、『萬葉集』の詩歌でした。
五・七・五・七・七の三十一文字で描かれてあることばの世界。
そこに記録された様々な歌を口ずさんでいると、
この三十一文字の裏にもうひとつの文字になっていない歌があり、
その歌は創造や生成の場としての混沌と言っていいようなところから立ち上がってくるもので、
それは原形質の感情であるがゆえに、すぐにはことばにして言い表すことのできないものだと感じます。
この、歌の本質と言えるものこそを、古代の人は、「言霊」と言ったのだ。
この「言霊」ということばを、ことさらに新興宗教の教説めいて言うのではなく、
ごくまっとうに、どの人のこころの内にも感じられる、詩歌の味わい、詩の詩たるところ、ことばのことばたるところとして捉えたいのです。
そして、メルヘン、童話、昔話、というものを読んだ後、聴いた後にも、
その詩歌の味わいに似た、ことばではうまく説明できない余韻のようなものがこころの深みに揺曳しています。
そのこころの奥に揺らめくように生きる絵姿。響く調べ。きらめき、くすむ色彩。
そのようなことばにすぐにはできないところを、グリムメルヘンを通して人と分かち合いたい。
そう思ったのでした。
わたしの師の鈴木一博さんが以前に書かれたグリムメルヘンについての文章です。
ひとつ、こういう試みも役に立ちます。いわば実験的様式論です。
ひとつのメルヘンを取り上げて、一、二回、読み通したら、本を閉じ、相のひとつ、ことのひとつを、思い描きます、ありありと迎えてみます。
そして、そのひとくさりを、ことばにしてみます、声にだしてみます。
そしたら、また本を開いて、グリムがものしたその箇所を、よく見てみます。
ほとんどそのたびごとに、こういうことが分かるでしょう。
グリム兄弟が要しているのは、こちらが要したことばの、おおよそ三分の一ほどだと。
また、その少ないことばをもってつくられる文の、大いなる単純さも、際立つでしょう。
さらに、こう問うこともできます。
その簡潔な、「飾りのない」言語の形において、読む人が読んだ後に抱くとおり、そうした多彩で、豊かな相が生じるのは、なぜでしょう。
その問いをもって、こういうことがはっきりします。
まさにその控えめで、みごとに簡潔な形に触れてこそ、読む人のイマジネーションの力に火が点きます。
その力は、ひとつの形を要します。
普遍的で、広く、自由の余地を残す形であり、それが十分にそうであってこそ、読み手、聞き手の内なる働きに場が与えられます。
言語学者でもあり、民俗学者でもあったグリム兄弟によって、
人々から聴きとられたメルヘンは手を入れられ、彫琢され、造形されて、
見事なまでに簡潔なかたちをわたしたちに提示してくれています。
萬葉集の歌やこのグリムメルヘンのように、
そのような「かたち」をもって、
人の「イマジネーションの力に火を点ける」ことこそが、
文学の本望であり、ことばの芸術の本来の働きなのではないでしょうか。