未来の学校をつくる会さんからの投稿をシェアします。
昨日の和歌山のモモの家での手作り(?)教員養成講座のひとこまです。
「学校」という存在そのもの自体を問い直してみる。
「シュタイナー学校」といわれているもの自体をも問い直してみる。
人間学をこそ深く体得すること。
芸術こそがすべての教科を貫くものであることをありありと実感すること。
教師である大人自身が他の誰よりも変容していくこと。
それはアントロポゾフィーという精神科学を弛まず学んでいくことから成り立っていくということ。
これは、すぐさま授業実践に役立たせるための授業テクニックやノウハウを身につけることでは、きっとないでしょう。
けれども、それだからこそ、「人というもの」「世というもの」の内に潜んでいる美しさ、真実、善きところに、こころ動かされ、こころ震わされ、こころ律される毎日を送っていきたい・・・!
そんな希いを育てていくことこそが、教員養成かもしれませんね。
20世紀から21世紀に入って、15年ほど経ちますが、
「シュタイナー教育は〜あるべし」
「シュタイナー学校は〜であるべし」というような、
「〜であるべし」という考えに潜んでいる嘘に気づき出している若い人が多くなってきていることを感じます。
「・・・であるべし」に知らず知らず取り込まれているこころもちよりも、
「自分はこれからもずっと成長していくのだ」
「腑に落ちない他人のペースに合わせていくのではなく、自分自身を知っていくことに向かいながら自分自身のペースで成長していくのだ」
というこころもちを大事にしたい。
そんなところから「働きたい!」という意欲が出てくるんじゃないかな。
『自由への教育」を目指すシュタイナー教育に携わる大人自身が、
自由になろうとしているか、他人をも自由になりゆく人として遇しているか、
そのことが大事に、意識的に、問われていいことだと思います。
「教師こそは、子どものことを一番大事に思って、そのために毎日働くべき」
という考えの内容自体は、何も間違っていないのですが、
そのような「・・・するべき」「・・・であらねばならない」という考え方が、
人を自由という理想に向かって育てる方向に行かず、だんだんと人の自由を殺いでいきます。
「べき」を自分自身と他者に押し付けるのではなく、
その人その人が己れのこころの奥底で求めていることを認め、大事にしていくことを学んでいく必要が、アントロポゾフィーの学び、そしてシュタイナー教員養成の学びにあることを感じています。
「わたしなんて、まだまだ未熟だから・・・」という思いにこころが占められて、仕事に取り組むことができなくなるのは、もったいなく、残念なことだと思うのです。
以下、未来の学校をつくる会さんの昨日の会の紹介文です。
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9月の普遍人間学水曜クラスとエポック勉強会。
人間学の初めに、諏訪先生が南米チリのマイクロスクールのお話をしてくれました。
「そもそも、学校ってなんだろう」という問いから始まった、小さなコミュティの挑戦。
学校はこうあるべきという私たちの概念をひっくり返えすような、働く大人と共にある教育。環境そのものが子どもの学び、また、大人自身の学びの場となる、教育する環境づくりに取り組んでいるということでした。
挑戦することはとても勇気がいることだけど、「私」が心の奥に意志したことを、あきらめずに生きていくことが今ここ和歌山でも試みられているのもしれません。
午後からの勉強会では、フォルメンの体験をしました。
まず、大人自身が芸術体験をすることの大切さを再確認し、これからは、歌や、水彩や、演劇など、私たち自身の心が感動するような体験ができたらいいな〜。とまたやりたいことが膨らみました。
posted by koji at 09:51
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