2016年01月28日

創る力、汲みとる力


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何かものを生みだそうとするとき、創ろうとするとき、
考え、準備をし、練習をし、磨きをかけていき、
毎日をその創造に向けて生きることができる。
 
これほど仕合わせなことがあるだろうか。
 
結果として顕れ出ることは、
過程においてどれほど打ち込んだか、
ということに見事に懸っている。
 
与えられた時間のなかで、精一杯やるだけのことをやる。
また逆に、必要であるならばいくら時間をかけてもいい。
 
その打ち込み具合によって、
どんな結果であれ(!)、
その人自身の喜びの深みが定められてきて、
その深みは、
過程を大事に考える周りの人にもじかに感じられる。
 
しかし、それは当たり前のことのようで、
実はそれほど分かりやすいことではない。
 
その過程のありように想いを馳せ、想いを深めることは、
ものを創る本人にも、ものを観る他者にも、
当たり前のことではなく、
強い内なる力が要るように思われてならない。
 
わたし自身、
その、内なるものを創りつづけていく力をこそ育んでいきたい。 
その、内なるものを観る力をこそ育んでいきたい。
 
結果を迎える。
しかし、その結果に至るまでの内なるプロセスをこそ、
大事に創り、大事に汲みとる。
  
その内なる力。
 
それは、
見えないところ、
聞こえないところ、
触れえないところを、
感覚する力ではないだろうか。
 
 
  すべての見えるものは、見えないものに触れている。
  聞こえるものは、聞こえないものに触れている。
  感じられるものは、感じられないものに触れている。
  きっと、
  考えられるものは、
  考えられないものに触れているのだろう。(ノヴァーリス)


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2016年01月16日

わたしの古典


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いま、下の娘は、『長くつ下のピッピ』を、
上の娘は、江戸川乱歩の諸作品を、
妻は、高村光太郎の『智恵子抄』を、
わたしは、保田與重郎全集を、
ひたすら、再読、愛読、熟読。
 
小学生時代の娘たちにどんな書物がふさわしいか、などと、
うちでは親があまり考えないようにしているのです。
本人が読みたいものをどんどん読むことができるように、
計らってあげるだけです。
 
ただ、これだけは娘たちに授けてあげられたらと考えているのは、
一冊の本が秘めている未知の何かに対する、限りない愛情、尊敬、信頼。
 
そこから、本に限らず、
ものというものに対する、
愛情、尊敬、信頼がおのずと育っていくだろうな、
何を学ぶにしても、そのこころもち、感情さえあれば、
と思っているのです。
 
もし、そこに熱烈な尊敬、熟していく愛情が育っていくなら、
その人のこころには、
大げさな言い方になりますが、
それさえあれば、世界中を相手に回しても、
誰に何かを言われなくとも、
自分の意欲だけで学んでいく力、
自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、
それが、この身ひとつで、世を生きていく、
ということではないかな。
 
それが、自由への道を歩いていくということではないかと思うのです。
 
学ぶ人にとっては、
学ぶ対象に対する疑いではなく(!)、
学ぶ対象に対する信頼・信というものがとても大事で、
では、その対象については、はじめは未知であるのに、
どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
それは、
その人のこころのうちに、
すでに信じるこころが育っているからです。
 
信じるこころが、
信ずるに値する書物を引き寄せる。
 
小学生のこころとからだにまずは何を植えつけるか。
 
それは、信じるこころの力・感情。
 
その力が、やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、
きっと、その子がその子の人生に必要なものを、
おのずと引き寄せるようになるでしょう。
 
その子が、その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
そのためには、その子の傍にいる大人が、
大きくて、深い役割を果たすことができるんじゃあないかな。
 
大人自身が、熱烈に、
一冊の本ならその本に、尊敬と愛情と信頼を育みつづけている。
 
多くの本でなくてもいい、
この一冊という本を見いだせたなら、本当に幸い。
その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、
その本こそが、その人の古典になる。
 
これから、娘たちが、
そんな「わたしの古典」を創りだす時が来るのを楽しみにしています。 

 

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2016年01月13日

考えることとすることの間 〜講座『日本の祝祭とシュタイナー教育』に備えて〜 

 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考えることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだろうか。
 
これは、シュタイナーの『こころのこよみ』の第41週のために、
以前書いた文です。
 
丁度、今週が第41週にあたるのですが、 
二日後に和歌山での講座『日本の祝祭とシュタイナー教育』を控えて、
自分自身のこととして、
己れの考えること(理想)と、
己れのすること(仕事)との、
距離を考えざるをえない・・・。
 
そして、この『こころのこよみ』の今週の内容が、
二日後に述べようと考えていることを、
深みから支えてくれていることに気づくのです。
 
ここに書いてある、「キリスト」の働きと、
わたしたち日本人が古来リアリティをもって感じてきた、
「神さま」たちの働きとを、
表面的に結び付けるようなことはせず、
自分自身の内なるはかりではかりつつ、
神々の力と、
わたしたち人の力との協働を、
二日後には述べてみたいと思っているのです。
 
再掲させてもらいます。
 
 
 

【第41週】
 
 
こころから生み出す力、
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさわしい働きへと燃え上がらせるべく、
己れみずからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考えることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだろうか。
考えることや思いえがくこと。
そして、実際に、すること。
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日バーゼル)
と題された講演でシュタイナーが語っていることをじっくり読んで、
今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみたい。
 
 
  人は、昼間、目覚めつつ考えているとき、
  心臓からエーテル化した血が光となってほとばしりでて、
  頭の松果体にまで昇っていき、輝く。
  そして、人は、夜眠っているあいだ、考える力が眠り込み、
  逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
  そのとき、
  大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体をとおり、
  心臓に向かって、
  「いかに生きるべきか」
  「いかに人として振舞うべきか」
  といった道徳的な力が、
  その人に朝起きたときに新しく生きる力を与えるべく、
  色彩豊かに流れ込んでくる。
  それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈ってくれている力だ。
  だから、人は夜眠らなければならない。
  人が少しでも振る舞いにおいて成長していくためには、
  眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。
  昼間、人において、
  「こころから生み出す力」、考える力が、「心(臓)の基」から、
  エーテル化した血が光となってほとばしりでる。
  その下から上へのエーテルの流れは、
  頭の松果体のところで、夜、上から下への神々の力と出会い、
  そこで光が色彩をもって渦巻く。
  その光の輝きは心臓あたりにまで拡がっていく。
  それが、人というミクロコスモスで毎日起こっていることがらだ。
  そして、マクロコスモス、大いなる世からの視野には、
  キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
  そのキリストの血がエーテル化し、
  地球まるごとを中心から輝かせているのが視える。
  そのとき以来、ひとりひとりの人が、
  キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
  みずからの内なるエーテル化した血の流れが、
  キリストのエーテル化した血とひとつになって、
  昼間、人を輝かせ、力づけている。
  そのキリスト化したエーテルの血と、
  マクロコスモスから夜毎やってくる神々の力とが出会うことで、
  人は、さらに昼間、愛において、仕事において、
  その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
  考えることや思いえがくこと
  (心臓から上っていくエーテル化した血の流れ)。
  そして、実際に、すること
  (高い世から心臓に降りてくる力)。
  その間を、人みずからが埋めていく。
  そのふたつを、人みずからが重ねていく。
  それが時代のテーマだ。

 
 
シュタイナーによって語られたこれらの精神科学からのことばを、
何度も繰り返して自分の考えで辿ってみる。
鵜呑みにするのではなく、
折に触れて、何度も考えてみる。
キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
本当に自分のこころが、輝き、力づけられているかどうか、
感じつつ、確かめていく。
そして、そのように輝き、力づけられた自分のこころと、
神々の力が、交わっているのかどうか。
その交わりがあることによって、
自分の仕事が、充実して、
まるで自分以上の力、
神々の力が燃え上がるような瞬間を迎えることができるのかどうか。
そのことを感じつつ、確かめていく。

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2016年01月05日

列をなして歩くという魔術

 
今日は、今年の仕事始め。
来月の演劇クラス発表会『安達原』の稽古でした。
 
まずは、歩くということ。
足を上げ、運び、降ろすこと。
この行為をひたすらゆっくりと繰り返す。
 
その足を上げることが、息を吸うことを促し、
足を運ぶことが、息を保つことを促し、
足を降ろすことが、息を吐くことを促してくれる。
 
歩くという行為が、息遣いと連動していく。
 
そして、息遣いと連動する足の動きが、
天と地を行き来する意識と重なってくる。
 
人は、息を吸うことによって、天に昇り、
息を吐くことによって、地に降りてくる。

人は歩くことによって、天と地を繋ぐ。
一足ごとに、天と地の間を人の意識が昇り降りする。
  
一日における目覚めと眠り、
一生涯における誕生と死、
そういう局面が、
歩くということにおいて、
一足一足の運びとともに象られる。
 
そんな基礎練習の後、 
今回の舞台のテーマのひとつでもある、
複数の人が一列になって歩くということ。
歩を揃える。
それは、皆で息を整えつつ、息を合わせつつ、足を運ぶこと。
一糸乱れぬように。
 
舞台の上を歩く人たちが、息を整え、揃え、天と地の間を行き来する。
その歩くということの内にリズムが醸し出されてくる。
そのリズムと、
客席のおひとりおひとりの方々の息遣いが、
だんだんとひとつになってくる。
 
複数の人による息遣いの交響。
これが演劇の醍醐味のひとつだと感じている。
 
歩くということ、さらに列をなして進むということが、
精神の働きとじかに繋がっていることを、
昔の人は知っていたようで、
そもそも、行列は祭りや儀式において大切な行為だった。
 
そのことを柳田國男が『日本の祭』の中で説いている。
 
  式と行列とは最初から、
  関係のあったものに相違ない。
  耶蘇(キリスト)教の祭典にしても
  やはり小規模ながらプロセッションは見られる。
  もともと儀式には足を使うものが多く、
  従って空間を必要とし、
  またその行事が細かく立会人が多くなれば、
  順序をまちがひなく守るためにも、
  行列をつくらずにはいられなかったであらう。

 
昔の人は、きっと、
「順序をまちがひなく守るため」だけに列をなしていたのではないだろう。
 
行列によって呼吸がおのずから整えられ、
リズムが刻みだされることによる魔術的な働きを、
今の人以上にリアルに感じていたに違いない。
 
昔は、宗教の儀式の中でそのことがなされていたが、
いま、宗教のなかではなく、
演劇の中で、
新しくそのことの意味を見いだしていくことが、きっと、できるだろうと思う。

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2016年01月01日

平成二十八年 「いや重け吉事」 明けましておめでとうございます


皆さん、明けましておめでとうございます。
 
  新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事 大伴家持
 
昨年の年の初めに引き続き、
雪こそ降ってはいませんが、
今年も萬葉集のこの最後の歌を家族で唱えました。
 
『萬葉集』の最後にこの歌を置くことで、
とこしえになべての日本人が年の初めに唱え、
ことばの精神(民族精神)と共になること、
その宗教的な希い、念いをもって、
編纂者、大伴家持は、
日本最初の和歌(やまとうた)のアンソロジーを閉じたのでしょう。
 
そもそも、和歌とは、
ことばの精神、ことばの神と繋がるべく、
学ばれ修され実践されたひとつの信仰のかたちでした。
 
今年も「ことばの家」では、
言語造形をもって、ことばの精神に芸術的に取り組むことで、
その信仰に繋がってゆくような仕事を深めていきます。
 
いや重け吉事 (いやましに重なりゆけ、よきことよ)。
 
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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2015年12月31日

わたしの平成27年(2015年)のこころの練習   

 
もっともらしいこと、正しいことを言ったとしても、
その言っている自分のこころの奥の奥に、
「俺のことをもっと認めてほしい」
「わたしのことをもっと愛してほしい」
という声が響いていて、
その声に本人が無自覚なら、
そのとき、そのことばは、
とても押しつけがましく他人に響いてしまう。 
 
何が正しくて、何が間違っているか、ではなく、
自分自身のこころの真ん中の、
さらにその奥から聴こえてくる声に耳を傾けながら、
そのこころの奥底からの、
子どものような求めを自分自身で慈しみながら、生きる。
 
その声がまるで幼い子どものような、
「もっと自分のことを認めてほしい!」であったとするなら、
まずは、その求めがあることを自分で認める。
いい大人になっても、いまだに、
そんなこころの奥底からの求めに喘いでいることを受け止める。
 
そして、その求めを、
他人によってではなく、
自分自身によって満たしてあげる練習をする。
 
他の誰かによってではなく、
わたしが、わたしを、認める練習を毎日する。
 
そんな、自分自身の内なる子どものような叫び声を聴き取る毎日。
 
他人のこころではなく、
自分自身のこころを見て、聴いて、慈しんでいく練習。
 
その練習を続けていると、
子どものような求めがやがて癒されていき、
他者との関係も柔らかく、穏やかなものになっていき、
さらに、真実、本当の、こころの奥底からの求め、意欲、希望、夢が、
立ち上がってくる。
 
他人がどう思うだろうか、とか、
こういう場合は、どう考え、どう振る舞うべきだろうか、とか、
普通〜すべきでしょう、とか、
そのような余所からの声ではなく、
自分自身のこころの奥底からの声。
 
ひとりひとりの、そのこころの奥底からの声、
その人の、その人たるところからの声、
その声そのものが、イエス・キリストであることが、
新約聖書に描かれていて、
たとえば、マタイ福音書八章二十一から二十二にこうある。
 
  また弟子の一人いふ、
  『主よ、先づ、往きて、我が父を葬ることを許したまへ』
  イエス言ひたまふ
  『我に従へ、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ』

 
もし、その弟子のこころの奥底からの声が、
「父のもとへ帰りたい、父を葬る時、その場に何があっても駆けつけたい」
というものであったならば、
イエスは、
「父を葬りに、いますぐに帰りなさい」と言っただろうと思う。
 
しかし、
「父を葬る、そのときには、世間の常識から言っても帰らねばなるまい」
とその弟子が思っていることをイエスはすぐに見抜き、
「主とともに行きたい」という彼のこころの奥底からの真実の声を、
彼本人に代わって代弁した。
 
そのとき、イエスのことばに従うことは、
その弟子にとって、
押しつけがましさや、不自由を強いられるものではなく、
こころの迷いから吹っ切れた、
爽やかで晴れやかなものだったろう。
 
 
皆さん、今年も本当にありがとうございました。
来年、平成二十八年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。
よきお年をお迎えください。

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2015年12月24日

聖し、この夜


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娘たち(10歳と7歳)は、
サンタさんへの手紙を書き、
捧げものを金の紙に包んで、
クリスマスツリーの下に置いて、
いま、眠りに就きました。
 
子どもたちのこころの中には、
丸いものがいまだ、光を放っています。
 
このまま、この丸いものが、とわに回り続けますように。

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闇のあとのひかり

 
昨日、ある会に招かれて、昔話を語りました。
30人ほどの人が集まっている会でした。
 
ひとつのお話を語り終えたとき、
そこにいるすべての人があまりにも静まり返ってしまい、
深い、深い、闇の底を視るような時間のなかに入ってしまったように感じたのでした。
容易に二の句が継げず、
わたしもしばらく黙って、その闇を視ようとしました。
 
その闇は、ちょっと、恐ろしいものでした。
その奥に何が潜んでいるのか、何が蠢いているのか、分からない闇でした。
 
イザナミの神が降りていった黄泉(よみ)の国。
 
天照大御神がお隠れになられ、
天岩戸(あまのいわと)が閉じられたあとの世。
 
そのようなこころの闇を降りてゆく一瞬でした。
 
一昨日は冬至でありました。

世に闇が極まる日です。
 
そして、昨日から、新しくお日さまの力が甦る日々が始まりました。

ふたつめのお話をおもむろに語り始め、語り終えたあと、
再び、世に穏やかな光が差し込んできたように感じられたのでした。
 
わたしたちは、
「きよしこの夜」の歌と「ハレルヤ」のオイリュトミーをもって、
会を閉じました。
  
光と闇をまざまざと感じた昨日でした。
 
 
 
「ひかりとやみ ふくろうげんぞう」
 
  みあげれば
  よぞらの ほしが
  まつりのように まぶしい
 
  ああ
  ひかるためには
  くらやみも ひつようだ
 
          (工藤直子『のはらうた』より)

  



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2015年11月29日

子どもが視る神さま


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今朝早起きして、ひとりでいたら、
次女がやってきて、彼女が先日視た神さまの話しをしてくれた。
 
家族みんなで家で仲良く話ししているときに、
次女がふと向こうを見ると、
微笑みを浮かべ合掌をしながら、古い衣装を着た女性が光に包まれてこちらを見守ってくださっていたそうだ。
 
そのときは、あまりの神秘な感じに、
そのことを家族には言えなかった、と。
 
小学校にひとりの座敷わらしが現れ、
子どもたちと一緒に遊び戯れたが、
尋常一年生の小さい子どもらの他には見えず、
「小さい子がそこにいる」と言っても大人にも年上の子にも見えなかった、
と柳田國男も報告している・・・。
 
次女がそんな話しをしてくれたあと、
朝だというのに、昔話を話して聴かせ、
そのお話にもお互い感じ入りながら、昔話についてひとくさり。
昔は、子どもだけでなく、多くの大人も神さまたちを視ていたんだよ。
 
そのあと、
クリスマスツリーという依り代である聖樹に、
12月という聖なる月に備えて、飾りつけをした。

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2015年11月21日

引き続いている「密やかな、来し方」と「密やかな、いま」


つい、先日、あまりの腹部の痛みに、救急車に乗せられて真夜中病院に担ぎ込まれた。

そのとき、30代ぐらいの年齢とおぼしき担当医二人が施してくれたことは、何度も機械のなかにわたしのからだを横たえさせ、検査ということを繰り返し、そして最後には、「これといった原因が分からないので、しばらく様子を見るしかないので、お引き取り下さい」ということばを4〜5メートル離れたところからコンピューターの画面を見ながら言うだけであった。

一方、20代に見える若い方お二人も傍にいて、その方々は、親しく声をかけてくれ、痛みにうめくわたしのからだを支えてくれたり、何よりも目の前のわたしという「人」に向き合い、寄り添って下さった。

それは、ありがたいことだった。
科学的な検査結果ではなく、目の前の生きている「人」を診てくれる本当のお医者さんに出逢えた感覚で、感謝でいっぱいになった。


「いま」というときには、二種類あるように感じている。

「表に表れている、いま」と「密(ひめ)やかな、いま」。

「表に表れている、いま」において、人はいつも先のことを考えつつ、その「いま」にいる。未来のことがこころにかかり、より安全でより有益な未来に進むために、「いま」というときを費やす。しかし、その「未来のためのいま」を生きるところからは、本質的には、何の安心も、何の救いも、見いだせない。

人は、「密やかな、いま」においてこそ、「人」としてこの世に生かされている喜びと安らかさを感じることができる。そのような「いま」においてこそ、人は人間的になれる。

そして「密やかな、いま」は「密やかな、来し方」と結びついているのを感じる。

あの若い方々は、なぜ、あのような人間的な優しいありかたができたのだろうか。

きっと、彼らはこれまでの人生の中で、両親に、または他の多くの誰かに、人間的に、優しく、相対(あいたい)してもらったことがあるに違いない。そして、人と人とが愛し合い、語り合い、助け合う、そんな姿を身をもって感じたことがあるに違いない。それは、その人の中に、まさしく「密やかな、来し方」として息づいているからこそ、「いま」の中にも「密やかさ」を見てとることができるのだろう。

しかし、そのような人間的な経験(密やかな、来し方)は、就職の際に出される面談表や、成績通知書や、学位証明書や学歴などには表れでない。


どの人にも、「密やかな、来し方」が、きっとある。

要(かなめ)は、己れの「密やかな、来し方」を、想い起こすことかもしれない。とにもかくにも、こうして「人」として生きてくることができたということ。誰かに育ててもらったからこそ、こうして「いま」があるということ。そして、その想い起こしを積極的にしていくうちに、人の起源というような宗教的な想い起こしにまで至ること。

そして、わたしたちは、それぞれ、「密やかな、いま」を見いだすことのできる通路が、いたるところにあることに気づく。

人として生きていくうちには、いろいろなことがあるが、「密やかな、いま」を共有できる人と出逢える喜びは、本当にかけがえのないものだ。


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2015年10月02日

こころの安らかさ、静けさ、そしてまぎれなく考える 

 
南沢シュタイナー子ども園の園長をされている吉良創さんと、
先日、仕事でご一緒させてもらったのですが、
そのときに彼が言っていたことが、ずっとこころに響き続けています。
 
「その人のこころの内側に、静けさがなければ、平和な外側の世界は生まれない」
 
こころの安らかさ、静けさ。
ここにこそ、<わたし>がある。
ここにこそ、個人があり、
さらには、個人というパーソナリティーをも超える、
<人>(インディヴィジュアリティー)がある。
 
意識のこころの培いは、人と議論をしたり、批判的に考えたりすることによってではなく(それは15世紀以前の分別のこころの培いにおいてなされてきたことでした)、意識的にみずからのこころを静かに、安らかにする訓練の中から生まれてくる精神の声に耳を澄ますことによってこそ、促される。
 
それが、「まぎれなく考える」ということ。
(シュタイナーはそのことを「reine Denken」と言っていますが、「純粋思考」という訳語はわたしには分かりにくく、「まぎれなく考える」という言い方をさせてもらっています)
 
ある観点、ある立場のもとに立って考えることによって、
そうではない観点、そうではない立場を批判すること。
「批判的にものごとを考える」というあり方は、どうしてもそのようなあり方にならざるをえないのではないでしょうか。
 
一方、「まぎれなく考える」というあり方は、
そのように、批判的にものごとを捉えることを言うのではなくて、
ものごとをまずは、
優劣なしに、高低なしに、正邪なしに、純粋と不純を分けることなしに、
ありのままに、迎え、親しく付き合ってみることを言います。
そうでこそ、まさしく、理性的なあり方に立つことができるのではないでしょうか。
そこからこそ、本質的なところが、本質的でないところからおのずと別れる道が開けてくるのではないでしょうか。

そのことは、わたしたちのこれまでの習いのありようには、いまだ、馴染まない、ある種の跳躍を要求します。

きっと、練習が要ると思っています。
 
だからこそ、意識のこころの培いです。
 
その培いの備えが「こころの安らかさ、静けさ」ですし、
外なる世が安らかになりゆくことへの礎に、きっと、なります。

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2015年09月28日

静かな声 〜母国語への愛〜

 
「愛国心」などと口に出すと、途端に「ああ、この人は右寄りの人、保守系なんだな」というような先入観がついてくるように感じられる。
 
これは、いつから、こんな「感じ」になってしまったんだろうと考えてみると、おそらく70年前の敗戦以降ではないだろうか。
 
どういう回路でそうなってしまったのか、ここでは書かないが、戦後の教育が、どこか、いわゆる、左寄りの、自虐的史観に塗りつぶされていて、それ以外のものの見方や考え方が封殺されてきたように思われる。
 
それは、精神的なものに対する、嫌悪、逃避、排斥というような意識となり、ひたすら唯物的な思考、生活スタイルを促してきた。
 
一方で、右寄りというと、他国に向かって、他者に向かって、暴力的に、我が国のことを、大声で、拡声器を使って、喚き散らす。どこか幼稚な、コスプレチックな、そんなイメージがある。
 
 
わたしが想うに、「愛国心」とは、他人に向かって大声で叫びたてるようなものではなく、他人に強要するものでもなく、密やかに、己れのこころのなかに響き続けている静かな声のようなものだ。
 
失われていく、もしくは失われてしまった、この国の固有の文化に湛えられていた美しさ、尊さを乞い求め、それらと自分たちの生き方が不可分のものだったことへの静かな誇り。
 
そのようなこころが代々、守られてきた。
 
そして、そのこころは、国語への愛、ことばへの愛、母国語への愛に基づいていて、主に、こころざしを失くさない文学者たちによって守られてきた。
 
そのようなあり方が、保守であり、ひいては温故知新という生き方・学び方に繋がっていたのだろう。
 
母国語を静かに大事にする人が増えること、それが何よりの、防衛ではないだろうか。
 
母国語の精神が人の中で崩れてしまい、それへの愛が失われてしまったところに、おのずから母国への愛も育ちようがなく、世界全体の中でも、己れに自信がない、おずおずとしたありようで右往左往し、立ち尽くさざるをえない人々の集団になってしまう。
 
70年前に断絶させられたように見える精神の流れが、実は、いまだに密かに連続していること。
 
決して失われ切ってはいないこと。
 
そのことをいまの現代人が実感していく道を探っていく。
 
微力でもなんでもいい。
それが、わたしの仕事、「ことばの家」があることの意味でもある。 

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2015年09月23日

ありがとう、ルンペルシュティルツヘン!


今日まで五日間連続で、あるシュタイナー教員養成講座での仕事をさせていただいていた。朝9時から夜7時ごろまで、ずっとアントロポゾフィーと言語造形漬けの毎日。
 
こういう仕事が何を教えてくれるかって、自分は決して独りで生きている訳じゃないってこと。
 
共に仕事をし、その仕事を支えて下さっている仲間の方々とのあいだの信頼感、そして受講生の皆さんからの真摯な関心。
 
さらに、毎日の仕事を裏で支えてくれている、精神の世の方々。
 
とりわけ、こういった集中したセッションが続く毎日では、この精神の世の方々との協働がなければ、とても、もたない。
 
自分の場合は、夜寝る前のメディテーションやメルヘンや昔話を改めて味わうことが必要不可欠で、その行為が次の日のそれらの方々との協働に必ず繋がる。
 
今回は、グリムメルヘンの『ルンペルシュティルツヘン』が特に味わい深く、そして自分を支えてくれた。
 
夜の間に藁を紡いで金にすることができる小人、ルンペルシュティルツヘン。
 
わたしのなかの藁なるところを、今回も金に変えてくれた、そんな気がしている。ありがとう、ルンペルシュティルツヘン!

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2015年09月15日

神(かむ)ながらの道 〜「もの」に対する敬意と習熟〜

「芸術」という言葉を見たり、聞いたりすると、わたしたち多くの現代人はどのような感情・考えを抱くだろうか。

食べることや働くことなど、生きていく上で絶対に必要なことごとと比べて、付属品、嗜好品、贅沢品のような感覚が醸されないだろうか。

また、テレビやその他多数の娯楽に比べても、「芸術」という言葉は、どこか縁遠いもの、「高尚なもの」として感じられることが多いのではないだろうか。

なぜだろう。

それは、きっと、子どもの頃に受けた教育のうちに、芸術というものがありあわせていなかったからだ。

それは、絵を描くことや踊ることを学ぶような特別な芸術教育ということではなく、
国語、算数、理科、社会などの授業そのものが芸術であること。
子どもに向かい合うということそのことが、芸術行為における素材に向き合うことと同じであること。
人であるということそのことを、科学的に観察していくことに先立って、芸術的に見てとっていくこと。

そんな授業を通して、子どもたちは、きっと、人を、世を、美しいもの、善きもの、まことなるものとして見てとっていく力をみずから育んでいくだろう。

わたしたち現代人が「芸術」というものを縁遠いものに感じてしまわざるをえないのは、そのようなことが教育のうちにありあわせていないことに原因があるように思う。

若い人に、
「科学としての、学問としての教育研究」「教育学」を教室や机上で学ぶよりも、
「芸術としての教育」「教育芸授」を全身で学び知る場を提供していくことはできないだろうか。

そして、教師と共に、大人と共に、子どもたちが教育芸術を生きる毎日を創っていくことはできないだろうか。



芸術とは、素材のなかに、飽きることなく、繰り返し繰り返し、入っていく行為のこと。

外側に立って客観的にものを眺め回すことではなく、
「もの」のうちに入っていくこと、通じていくことであり、
「ものへゆく道」を歩むことであろう。

その道を歩むには、「もの」に対する敬意と習熟こそが必要だと思う。

言語造形において、
人は、「ことばというもの」に対する敬意と習熟が要されることに時間をかけて気づいていく。
日本人が日本語という母国語に対する敬意と習熟を改めて習っていく。
その道は、ただただ、練習があるだけで、まさしく「ものへゆく道」である。
その「ものへゆく道」を昔の日本人は「神(かむ)ながら」と言い、芸術とはその神ながらの道である。

子どもたちや若い人たちにも、この「ものへゆく道」を歩いていく喜びを知ってもらえるような生活をしていきたいなあと毎日思っている。

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2015年09月08日

血潮

美しいことをからだまるごとで知っている人。
そういう人になるためには努力も苦労も厭いたくない。
幾つになっても、この世は謎だ。
 
子どもの頃、全身で夕日を浴びたことがあるか。
大地に背をあずけて、たえだえに鳴く虫の音に空を見上げたことがあるか。
人の深い切ないこころに触れたことがあるか。
 
幾つになっても、遅くはない。
赤い血潮を注ぎ込みたい。





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2015年09月07日

 
この世界には、美しいものが、きっとある。
 
しかし、それは、表にはあらわれていない。

失われている、もしくは、隠れている。
 
だからこそ、脈を探り出そうと思う。
 
かけらとかけらを繋ぐ脈を見いだしたいと思う。

余所の場所ではなく、
自分自身の立つ場所、
我が身、我が家、我が地域、我が国においてだ。

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2015年09月03日

「・・・であるべし」からの自由 〜和歌山モモの会〜


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未来の学校をつくる会さんからの投稿をシェアします。
昨日の和歌山のモモの家での手作り(?)教員養成講座のひとこまです。
 
「学校」という存在そのもの自体を問い直してみる。
「シュタイナー学校」といわれているもの自体をも問い直してみる。
 
人間学をこそ深く体得すること。
芸術こそがすべての教科を貫くものであることをありありと実感すること。
教師である大人自身が他の誰よりも変容していくこと。
それはアントロポゾフィーという精神科学を弛まず学んでいくことから成り立っていくということ。
 
これは、すぐさま授業実践に役立たせるための授業テクニックやノウハウを身につけることでは、きっとないでしょう。
 
けれども、それだからこそ、「人というもの」「世というもの」の内に潜んでいる美しさ、真実、善きところに、こころ動かされ、こころ震わされ、こころ律される毎日を送っていきたい・・・!
そんな希いを育てていくことこそが、教員養成かもしれませんね。

20世紀から21世紀に入って、15年ほど経ちますが、
「シュタイナー教育は〜あるべし」
「シュタイナー学校は〜であるべし」というような、
「〜であるべし」という考えに潜んでいる嘘に気づき出している若い人が多くなってきていることを感じます。
 
「・・・であるべし」に知らず知らず取り込まれているこころもちよりも、
「自分はこれからもずっと成長していくのだ」
「腑に落ちない他人のペースに合わせていくのではなく、自分自身を知っていくことに向かいながら自分自身のペースで成長していくのだ」
というこころもちを大事にしたい。
そんなところから「働きたい!」という意欲が出てくるんじゃないかな。
 
『自由への教育」を目指すシュタイナー教育に携わる大人自身が、
自由になろうとしているか、他人をも自由になりゆく人として遇しているか、
そのことが大事に、意識的に、問われていいことだと思います。

「教師こそは、子どものことを一番大事に思って、そのために毎日働くべき」
という考えの内容自体は、何も間違っていないのですが、
そのような「・・・するべき」「・・・であらねばならない」という考え方が、
人を自由という理想に向かって育てる方向に行かず、だんだんと人の自由を殺いでいきます。

「べき」を自分自身と他者に押し付けるのではなく、
その人その人が己れのこころの奥底で求めていることを認め、大事にしていくことを学んでいく必要が、アントロポゾフィーの学び、そしてシュタイナー教員養成の学びにあることを感じています。

「わたしなんて、まだまだ未熟だから・・・」という思いにこころが占められて、仕事に取り組むことができなくなるのは、もったいなく、残念なことだと思うのです。



以下、未来の学校をつくる会さんの昨日の会の紹介文です。
________________________
 
9月の普遍人間学水曜クラスとエポック勉強会。
人間学の初めに、諏訪先生が南米チリのマイクロスクールのお話をしてくれました。
「そもそも、学校ってなんだろう」という問いから始まった、小さなコミュティの挑戦。
学校はこうあるべきという私たちの概念をひっくり返えすような、働く大人と共にある教育。環境そのものが子どもの学び、また、大人自身の学びの場となる、教育する環境づくりに取り組んでいるということでした。

挑戦することはとても勇気がいることだけど、「私」が心の奥に意志したことを、あきらめずに生きていくことが今ここ和歌山でも試みられているのもしれません。

午後からの勉強会では、フォルメンの体験をしました。
まず、大人自身が芸術体験をすることの大切さを再確認し、これからは、歌や、水彩や、演劇など、私たち自身の心が感動するような体験ができたらいいな〜。とまたやりたいことが膨らみました。

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2015年08月06日

七十年前の八月六日から十五日にかけて



七十年前の八月六日から十五日にかけて。

その九日間、わたしたち日本人は何を感じ、考え、欲して、生きていたのだろう。

広島に世界最初の原子爆弾がアメリカによって落とされ、
その三日後に長崎にも投下され、
その惨状を知りゆきつつ、
B29が自分の住んでいる地の上を飛来してくる音を聴くとき、
わたしたち日本人は何を観念したのだろう。

それまでの戦争による極度の緊張状態から、さらにひとつもふたつも、奥を観たのではないだろうか。

一億の日本人全員が、死刑台の上に上らされているような状態の中で・・・。

そんなときを、わたしたち日本人は確かに生きたのではないだろうか。

たかだか七十年前なのである。



わたしはこの夏、
なぜか、二重のこころの生を生きているように感じている。

夏の陽射しと共に、子どもたちと共に、喜びと共に、毎日を精一杯生きる。

そして、それと同時に、七十年前の人たち、とりわけ、戦争によって亡くなっていった方々と共に、
密かに毎日を生きている感じなのだ。

その方々は、どうも、現代のわたしたちとはものの考え方、感じ方において、随分違っていた。

彼らの感じていたこと、考えていたこと、欲していたことが、現代人であるわたしたちには分かりにくい、理解しにくいものであったらしいことを知るにつれて、わたしは生きること、命を持ち、育み、讃えることについて、これまでの戦後社会の中で当たり前のように思っていたわたしなりの考え方、感じ方の枠を拡げさせられ、壊されるような夏である。

七十年という月日は、何か特別な働きをわたしに運んでくれているのだろうか。

当時の人々のこころのありようを忖度するのではなく、そのありように沿うことが、これほど困難になっていることに、わたしは驚きと共に悲しみを味わわざるをえない。

戦後七十年の間に何が日本人の精神のなかに進行したのか。

そして、その敗戦後とそれまでの敗戦前の日本のあり方との結節点ともいえる一九四五年八月十五日に、日本人の精神に何が起こったのか。

そのことへの認識を深めることから始めて、わたしはこれからの生を強く明るく照らし続けていきたい。

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2015年05月17日

太宰治の手紙から、想い起こす

太宰治書簡 河盛好蔵宛

  文化と書いて、それに文化(ハニカミ)とルビを振る事、大賛成。
 私は優という字を考えます。
 これは優れるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、
 でも、もう一つ読み方があるでしょう?
 優しいとも読みます。
 そうして、この字をよく見ると、人偏に憂うると書いています。
 人を憂うる、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、
 また人間として一番優れている事じゃないかしら、
 そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。
 私は含羞で、われとわが身を食っています。
 酒でも飲まなけりゃ、ものも言えません。
 そんなところに「文化」の本質があると私は思います。
 「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、
 それでよいと思います。
 私は自身を「滅亡の民」だと思っています。
 まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学じゃないのかしらん。



自分の仕事ってなんだろうなと、改めて考えていて、この太宰の手紙のことを想い起こしました。

我が国ならではのもの、その根もとに息づいているものを意識すること。

太宰は、それを優しさ、とも、含羞(はにかみ)、とも、表現される「文化」だと言っています。
古来、我が国の詩人たちは、その奥底に息づいているものを様々に言い表してきました。
「言霊の風雅(みやび)」、「侘び」、「寂び」、「しおり」・・・
本居宣長に至って、「もののあはれを知ること」とも言い表されました。

それは、特に自分の場合、
日本語という、ことばを意識していくことでもあって、
日本語ならではの調べに意を注ぎながら、
ことばの運用を大事にしていくことでもあります。

日本では、特に、こころを整えてから、ことばを話す、というよりも、
ことばを整えることで、こころを整え、育んでいく、
そんな道があることに、ある種の驚きと誇りをも感じるのです。

言語造形を通して、
その根もとに息づいているものを、
葉と繁らせ、花と開かせ、実とならせること。

それこそが、自分の仕事であるのだな。
そして、もしかしたら、それこそが、世界中に通じていくような、
まこと遍き意味(こころの味わい)をもつのではないだろうか。
よその国の人がこころから感心しうるもの、
それは、日本なら日本ならではの、こころの味わいの深さ、豊かさ。

これは、己だけ(日本だけ)を観ていて済むことでは、きっと、なくて、
他者(外の国、民族)との出会いの中でこそ見いだされていくことでしょうが、
自分自身の足許をこそ深く掘ってゆく、
そんなおおもとの志が大きくものを言うように思われます。

また、こんなことも考えるのです。

わたしたち日本人の意識の深みに古代から引き続きずっと憩っているもの。
それは、「神から引き離されてしまったわたし」ではなく、
いまだに「神とひとつである<わたし>」
いわば、「神(かむ)ながら」であること・・・。

もし、そうであるならば、その奥底にあるものをこそ、改めて意識に引き上げ、
それを、活き活きと、溌剌と、表現し、表に顕していくこと。
それは、わたしたち日本人が荷っていっていい、ひとつの役割かもしれない。

ヨーロッパやアメリカを中心とした「文化」のあり方は、
やがて、古来から秘められ続けているアジア、
とりわけ日本の「文化」のあり方と、出会うでしょう。
これは、未来のことだと思うのです。

その時、どちらかがどちらかを征服するのでなく、
真に出会う未来に向けて、
わたしたちは、己の本来もっているものを磨き、研ぎ澄ませるぐらいの意識を育んでいくことが大事だなと思うのです。

でも、そんなことは、たいてい、
日常の生活の中では忘れ去られてしまっているものですから、
だからこそ、想い起こす必要がある。

慎ましく、かつ、怠ることなく。

なんだか、大風呂敷をひくようなことを書いてしまった嫌いがありますが、
そんなことを考えつつ、仕事をしています。


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2015年04月05日

人としての芯をつくる 〜シェア『働くママ&パパに役立つノウハウ情報サイト「日経デュアル」』〜


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働くママ&パパに役立つノウハウ情報サイト「日経デュアル」によるシュタイナー幼児教育を紹介する記事をシェアさせてもらいます。↓
http://dual.nikkei.co.jp/article.aspx?id=3540&page=1
 
東京の広尾シュタイナーこども園の園長をされている赤川幸子さんへのインタヴューから書かれた記事で、これを書いた方の力量にもとても嬉しくなりました。
 
アントロポゾフィーということばは一語も出てこないけれども、赤川さんのお仕事ぶりを読ませてもらうと、幼児教育というものは、人というものの原型を知っている芸術家による仕事だと思わされます。
 
芸術をする人とは、ものごとの深みを見ようとする人と言ってもいいように思うのです。
 
更に、幼児教育の場は、現代において本来的には、(誤解を恐れずに言えば)教師という司祭に司られる礼拝、儀式の場であっていい、ということを改めて感じるのです。
 
それは、幼児期の子どもは、本来、周りのすべてを信頼し、世は善きところであるという前提のもとに生きようとしているからです。
 
子どもは教師の一挙手一投足、ことばのひとつひとつ、息遣いや、考え、情にいたるまで、その善きことを信頼して、すべてをからだの奥まで取り入れるのです。
 
そんな幼児期を過ごすことができた人は、おのれの老年期において、ただ、そこにいるだけで、何もせずとも、他者に祝福を分かち与えることができる・・・。
 
わたしも、深みを見据えたこのような人間観が当たり前に世間に受け取られてゆくような仕事をしていこうと希んでいます。

posted by koji at 15:39 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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