2017年12月16日

子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜


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人における「子ども時代」。
 
それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。
 
しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。
 
よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。
 
「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかつた」
 
でも、大人になつても、遅くはない。
 
なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潛めてゐるからなのです。
 
「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのやうなことばが思はず呟かれるのかもしれません。
 
「子ども時代」を強く保ち続けてゐる人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ち続けてゐる。
 
子どもの氣持ちにいつでも帰ることができる。
 
自分の中の子どもに語りかけるやうに、何かを創つたり、語つたり、書いたりすることができる。
 
その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。
 
幾つになつても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。
 

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2017年12月13日

ものへゆくみち 〜萬葉集より〜


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絵 安田靫彦『大伴家持』

 
我が国の古(いにしへ)よりの暮らしの美しさ。
 
それは、ものと云ふものを愛(いつく)しみ、ものと云ふものに神を認め、ものと云ふものの内側に入つていくことで、世の森羅萬象に美を見いだしてゐたわたしたちの暮らしだつた。
 
江戸時代の国学者、本居宣長は、そのやうな自他の境を越えてひとつになつてゆく暮らしの方法を、「ものへゆくみち」と言つた。
 
山をも、海をも、空をも、風をも、いのちある自然とみて、それらに包まれ、語りかけられてゐる己れを感じる。
 
暮らしの中の器物ひとつひとつとの交流。
 
いただく米、一粒一粒を通つて、大いなるものに向かふ、人のまごころ。
 
ことば数は少なけれど、唇からこぼれるひと言ひと言の豐かさ。
 
今の暮らしは、昔とは随分、様相は変はつてしまつたけれども、さう云ふ「ものへゆくみち」を、たつたいまからでも、わたしたちは歩きはじめることができるのだと思ふ。
 
 
 
歌の季節は、いまとずれるが、『萬葉集』といふ我が国最初の和歌による詩歌集を編纂した大伴家持の歌。
 
 春の苑(その)紅(くれない)にほふ桃の花
 下照(したで)る道に出で立つ少女(をとめ)

 
この歌を詠んだ当時、家持は深刻な運命を生きてゐた。
 
しかし、それにもかかはらず、彼は目の前の風景すべてに神を觀るがゆゑに、ここに描かれてゐるものと云ふものすべてが、まぼろしのやうに彼のこころの視界に浮かび上がり、空間の彼方へと美しい心象となつて拡がりゆき、その心象風景と彼はひとつになつてゐる。
 
まるで自分のからだが軽くなり、透明になつたかのやうに感じながら、言語造形を通して、息を解き放ちつつ、聲を響かせると、この歌からさう云ふ感覺がからだまるごとで味ははれる。
 
目に見えないもの、こころに映る心象風景、さう云ふものともひとつになることのできる、こころの力を、昔の人は育んでゐたやうだ。

『萬葉集』は、さういふ古の人たちのこころと精神の記録・歴史であり、日本人の永遠のよりどころである。
 


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2017年12月12日

ジョンの顔


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ちょつと前の「ほぼ日刊イトイ新聞」で、糸井重里さんが「もしもビートルズがいなかったら」という連載で語つてゐるのが載つていたんだけれど、第一回目に彼が言つてたことが、自分にもぴつたり当てはまつてゐて、おかしかつた。
 
それは、ビートルズの何が好きかつて言ふと、「ジョンの顔が好きだ」(笑)。身もふたもない話。
 
男が男の顔が好きだつて言ふのも変な話だが、少年の頃から、糸井さんと同じで、ジョンの歌つてゐる時の顔、立ち方、ギターの構へ方。声、歌はもちろんだけれども、あの巨大な才能と共にその姿がなぜだか大好きだつた。
 
しかし、小野洋子さんに会つて、彼女に本格的に恋をし出してからのジョンの顔が激変するのだ。髭面になつたからといふことではなくて、ビートルズの初期と後期で、ジョンの顔を見比べて、とても同じ人とは思へない。
 
そして、その顔がいつさう、いいなあと思へる(笑)。
 
身もこころも生涯を共にしたいと思へる人と出会へた人は、こんな顔になるんだなあ。
 
個人的に思ふことだが、「 Imagine 」のやうに国境のない世界、地獄も天国もない世界、またものの所有、富の所有を疑ふやうな頭で想ひ描く観念・理想を歌つた曲よりも(それは、多くの人が陥つてしまつてゐるインターナショナルな世を想い描く夢想や小児的・左翼的な似非平等主義を思はせる)、「 Oh, My Love 」のやうに個人的な愛、慈しみ、念ひを歌ひ、運命の人と出会へたことによるこころの開眼、精神の目覚めを歌つたものにこそ、より普遍的な深さを感じる。
 
無数の多くの人と繋がることよりも、たつたひとりの人に出会へることこそが、この人生の意味なんだといふことを、彼は晩年になるにつれて歌つた。
 
ビートルズのこと、ジョンのこと、語り出すと止まらない人、きつと世界中で数へきれないほどゐるんだらうな。

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五十三歳表彰状

昨日は、名古屋で、オイリュトミーの方々と来年二月の舞台に向けて、朝から夕方までみっちり稽古。とても充実した稽古だつた。オイリュトミーの方々の言語造形に対する認識が、十年前に比べて、とてもとても深まつてゐることに感銘を受ける。言語造形と重ねあはされることで、オイリュトミストの方々の動きが俄然甦つたやうに活き活きとしだし、笑顔が溢れてくることが、何より嬉しい。
 
夜八時にくたくたになつて帰宅したら、家族がわたしの誕生日祝ひをしてくれた。五十三歳記念の花と表彰状を渡してくれる。

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2017年12月05日

国榮えむと月は照るらし


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昨夜、夜も随分と更けて、漸く雨雲が去つてゆき、天頂近くにまるまるとしたお月様がお顔を見せて下さつた。
 
その満月を見上げて、萬葉集を編んだ大伴家持が詠んだ歌を声に出す。
 
靫懸(ゆきか)くる 伴(とも)の男(を)広き 大伴に
国榮えむと 月は照るらし
 (萬葉集 1086)
 
自分が住んでゐる場所は、天孫降臨以来、天皇の御守護を司る大伴氏の金村が六世紀はじめに住んでゐたあたりで、帝塚山古墳が彼の陵墓ではないかといはれてゐる。
 
そんなこともあつて、大伴氏と勝手に縁を感じてゐる自分は、とりわけ大伴家持のこころに接近していきたく思つてゐるのだ。
 
この歌の「国榮えむと」といふところを誦するたびに、なぜだか、こころに迫つてくるもののあはれがあり、娘たちと一緒になつて誦した時も、いくつかの歌の中で、この歌が一番好きだといつてゐた。
 
それにしても、お月様を見上げて、「スーパームーン」といふ風情のない言ひ方をわたしもしたくないなあ。
 

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2017年12月04日

家族と芸術


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言語造形のためのアトリエ・舞台である、ことばの家のメンバー四人。 
 
諏訪家の家族でもあるのですが、この十四年ほどで、わたし自身も含めて、本当にひとりひとり成長してきたんだなあと思ひます。 
 
大人も子どもも、芸術といふものを媒介にして成長していくことができるといふこと、その発見に驚き、喜んでゐます。
 
先日の舞台「おはなしペチカ」の時に、写真撮影を荷つて下さつた山本 美紀子さんの手によつて、そんな成長の相のやうなものが印されてゐるやうに感じられて、とてもありがたく思ひます。

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2017年12月03日

幼な子の意欲の繰り出し


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写真は、六年前、うちの次女が三歳のときのものです。
 
お母さんが作つてくれた人形を使つて、思ふ存分遊んでゐました。
 
目立つ飾りもなく、人形のお顔も点を打つた眼があるだけといふ素朴な造りだからこそ、娘の想像力・創造力は膨らんでゐたやうに思ひ出します。
 
人形に語りかけ、人形を動かし、人形からも語りかけられて、自由自在に遊んでゐました。
 
誰からの指図もなく、こころの赴くまま、ひとり人形芝居をずつと続けてゐました。
 
この幼いときの遊びの中で感じる自由の感覚。自分から創りなしていくこの感覚。
 
どんどん意欲が繰りなされるがままに繰りなしていく。まるでこころに羽が生えたやうに想ひの世界に羽ばたいていく。
 
仕上がり済み・出来上がつたものを与へるのではなく、幼児の想像力・創造力・意欲を引き出すやうな物理的・精神的な設へが、子どもの成長を助けるのだなあ。さう思ひ返してゐます。

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2017年11月28日

家庭での語りB完


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家庭の中で、お父さんとお母さんが語りあつてゐる。
 
日頃の気にかかつてゐることから、お互いの最も大事に大切に考へてゐることまで、ことばにしあつてゐる。
 
何気なく過ぎていきがちな日々の暮らしの中に、そのやうなことばを交わしあふ時間を持たうとする意識。努力。習慣。
 
そんな大人の男と女の対話の時間に、思春期を迎えてゐる若者が加わることができるなら。
 
そこは、大人の言い分を無理矢理押しつけられる場ではなく、大人も若者も、各々感じてゐること、思つてゐること、考へてゐることを、ことばにする練習をし、それを聴きあふ場であるといふこと。
 
もう、お父さんもお母さんも、独自の役割を担ふといふよりは、ひとりの大人とひとりの大人としていかに向きあふことができるのか。
 
そんなことを、日々若者と共に探つていく場が、家庭です。
 
家庭での語らひが、どれほど子どもの国語力を育てるか。
 
子どもの成長にとつて、どれほど創造的なことか。
 
本当に大事なことです。

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2017年11月27日

家庭での語りA


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子どもがこの世に生まれてきて、その子どもにとつて、まづもつての大切な存在は母親でした。
 
ところが、小学生中学年から高学年になつてくるにつれて、子どものこころの中に、最も大切だつた母親の存在感に変化が生じてきます。
 
どのやうな変化か、それは、子どもひとりひとりで違つてくるのですが、ただ、子どものこころの中にはその変化に対する戸惑ひのやうな感情が拡がつてきます。
 
そんなとき、いよいよ、父親の出番が巡つてきます。
 
父親が、子どもに、母親のことを親しく語つてあげる。
 
お母さんは、こんなこと、あんなことを毎日してくれてゐるね・・・。
 
お母さんはああ言つたけれども、本当はかういふ気持ちだとお父さんは思ふよ・・・。
 
お母さんの好きなケーキは何だと思ふ?
  
子どもにとつて存在してゐるのがあまりにも当たり前のお母さんといふ存在を、お父さんが改めて親しくことばで描き出してみる。
 
そんなお父さんによる語りが、子どもの内側に新しい母親像をもたらします。
 
それは、子どものこころに、父性と母性の結びとして深く印づけられます。
 
 

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2017年11月26日

家庭での語り@


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お父さんが仕事で忙しくて、滅多に家にゐない、ゐたとしても夜中遅く帰つてきて、子どもたちやお母さんとゆつくり話す時間などない、そんな家庭が少なくないのではないでせうか。
 
そんなとき、できるなら、お母さんはお父さんのことを子どもに話してあげてください。語つてあげてください。
 
お父さんは頑張つて仕事をしてゐるよ、お父さんがあなたたち子どものことをこんな風に話してゐたよ、あんな風に話してゐたよ、お父さんはこんなこと、あんなことが好きなんだよ・・・。
 
そのやうにお父さんのことを語つてあげることで、子どもは目の前にはゐないのにもかかはらず、お父さんのことをまざまざとこころに描くことができます。
 
子どもに、父なる存在、父性といふものがしつかりとありあはせるやうになります。
 
ことばによつて存在を描き出す。
 
その働きは、人の成長にとつて随分と大きな働きをなします。
 

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2017年11月18日

ときの変はり目

 
今日は、旧暦十月一日。神無月の新月。
 
今朝、夜が明けたときに、本当に新しくなつたことを感じた。何が新しくなつたかは、ごめんなさい、説明なしで。
 
この前の日曜日から、わたしは三十九度ほどの熱のまま、五日間を医者にも行かず過ごしてしまひ、つい二日前にやつと医者に診てもらひ、肺炎の診断を受けた。
 
この一週間、仕事はすべてできなかつた。
 
夜も、この七日間はほとんど一睡もしてゐない。
 
といふのも、考へが目を閉じても止まらないのだ。
 
何かのひとつのことば、ひとことをきっかけに、青天の霹靂のやうに怪鳥のやうな考へが舞い降りて来て、そいつが跳梁跋扈する。
 
猛烈な勢いで走り回ってその考へが終着地点に辿りついたとしても、またどこか別の場所を求めて終わりなく考へることを止めようとしない。
 
そして、すぐに朝が来てゐる。
 
普通は、考へといふものは、死んでくれてゐる。
 
死んでくれてゐるからこそ、昼間、自由に、その死んだ考へをつぎはぎしてわたしたちは生きてゐる。
 
考へがいのちを得る、とは、こんなにも恐ろしいことなのか。
 
こんなにも、人を引き摺り、引っ張り回すものなのか。
 
わたしの場合は、三十九度の高熱が、この状態をもたらし、意識を覚醒させたまま、精神世界のありやうに触れさせてもらつてゐるのだらう。
 
だから、一週間眠つてゐないのにも関はらず、昼の体力は大変に消耗してしまつてゐるのだが、意識は全く混濁してゐない。
 
肺炎といふ病も、言語造形といふ息の仕事をしてゐる自分にとつては致命傷にもなりかねないものであつた。いのちにも係わる病であつた。
 
また、いま書こうとしてゐる『丹生都比売』といふ舞台の戯曲のために、肺と水星の関係について学び始めた途端にこのやうなことが起こるといふことも見通し切れない意味がありさうだ。
 
そして、何が起こらうとも、感謝したい。
 
本当に、ありがたい。

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2017年11月10日

ことばへの祈り

 
どのやうな縁(えにし)で出会つたのか分からねど、今生、わたしは人と結ばれて、生きてゐる。
 
このやうに、わたしと人とを結はえてゐるのは、何だらう。
 
分からない。
 
分からねど、この縁(えにし)は大切にしたい。
 
ことば・・・。
 
胸の内につぶやくことば。
 
背筋に沿つて、立ちあがることば。
 
口に出すことば。
 
ことばは、天からの贈り物。
 
ことばが、わたしと人とを結はえるものとなりますやうに。

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2017年11月05日

本氣と本氣の出会ひにお金は一役買つてくれる

 
人が本氣で何かをなすとき、そこにはお金が流れるべきだ。
 
なぜなら、お金とは、人と人との間に流れるエネルギーが可視化されたものであり、だからこそ、人がまごころから本氣で何かをなし、何かを創造するときに流れ出るエネルギーに対して、それを意識して自覺的に受け取つた人は、必ず自分自身のこころからの氣持ちとしてお金といふエネルギーをお返ししたくなるのだ。人間の本質上、それは極めて自然なことである。
 
エネルギーとエネルギーが行き交ふこと、それを経済といふのではないだらうか。そもそも経済とは、感謝といふエネルギーの交流のことを言ふのではないだらうか。
 
そして、プロとアマとの違ひは、他者からの評価から決定されるのでは実はなく、根本的にはその人の意識次第なのである。自分はプロなんだと意識するほどにその人はますますプロになつていくのであり、自分はアマなんだと思つてゐる、その通りにその人はアマである。
 
さらに根本的には、プロでもアマでもどちらかがより価値があるといふことでもない。
 
要は、その人がまごころからしてゐるかどうか、本氣で創造してゐるかどうか、であつて、そのまごころ、本氣からの行為こそが社会的行為であつて、さういふ行為をこそ人は求めてゐて、さういふ行為にこそ人はお金を支払ひたいのだ。その時支払ふお金は、感謝と喜びと愛の表現である。
 
その行爲に於ける技量の高低も、そもそもはその人のエネルギーの強さによつてゐる。
 
 
 
個人的なことだけれども、「無償だが、原稿を書いてくれ」といふ依頼も以前は多々あつた。
 
ある催しに主催者から呼ばれて、この際丁度いいから諏訪さんに詩の朗唱や物語の語りをやつてもらひませうといふやうなものもいくつかあつた。
 
また、言語造形の生徒さん達の間にも「わたしたちはまだまだ未熟だから、お金をお客さんから戴くなんて畏れ多い」といふ考へがあつた。
 
 
 
このことは、本当に、自分自身と仲間たちの肝に銘じておきたい。
 
いい加減に何かをするといふことは本当に人をスポイルしてしまふといふこと。
 
人が人として本当に輝くためには、未來にではなく、いま、ここで、本氣になることのみによつてなのだといふこと。
 
そして、さういふ本氣の行為をこそ、人は求めてゐるのだといふこと。
 
だからこそ、人と人との本氣の出会ひの場において、お金はしつかりと介在するべきだといふこと。
 
かうしたことへの理解が、これからはだんだんと多くの人に共有されていくだらう。
 
だから、意識の転換である。大転換である。
 
本氣と本氣の出会ひこそが必要なのであつて、いい加減な行為はしない方がいい。
 
本氣と本氣の出会ひに、お金は一役買つてくれる。
 

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2017年11月04日

十一月三日 明治の日へと


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飛鳥川上座宇須多岐比売命神社

 
昨日は、文化の日で祝日でした。大阪も抜けるやうな青空で、まさしく「天高く馬肥ゆる秋」の一日を感じさせてくれました。
 
この十一月三日は、そもそも明治天皇の御生誕を寿ぐ祝日「明治節」でした。
 
それが先の大戰後、連合国軍が日本占領中に設置した総司令部 GHQ によつて、「文化の日」と名称を変えられました。
 
祝日の名前とは、もしかしたら、大切なものではないかと思ひ始めてゐます。
 
この日が「明治節」と名付けられてゐたとき、想像ですが、毎年、この日に多くの人々が明治天皇のことを想ひ出し、当時のことに想ひを馳せてゐただけでなく、きつと、「明治の精神」というものを想ひ出し、再び噛みしめる機縁にしてゐただらう。さう思ふのです。
 
その精神とは、何か特別なものといふよりかは、当たり前の日常坐臥のなかに表れる人々の振る舞ひ、ことば遣ひ、生き方に、まずは見てとれるものだつたのではないだらうか。
 
そこには、人に対する信頼、親に対する敬意、家族に対する信愛が息づいてゐて、それらはおのづから、萬物に宿つてゐる神々との繋がりを大切に守り、育みつづけてをられる、天皇といふ御存在に対する親しみ、崇敬といふ感情とも繋がつてゐたのでせう。
 
さらに、あの明治の御代に於いては、アメリカ、そしてヨーロッパ諸国からの侵略的圧力にどう向き合つていくか、といふ未曾有の国難のなかに日本人は生きてゐたわけですから、自分たちのアイデンティティーをどう立てていくかについて必死であり、混乱の中でも、相当な緊張感を孕んでゐた精神だつたのではないかと思ふのです。
 
当時、インドも中国もその他たくさんのアジア諸国も、欧米列強国によつて植民地化され、自国の伝統や精神を踏みにじられてゐましたが、日本はさうなつてはならない、そんな緊張感だつたのではないでせうか。
 
わたしは、個人的には、いまだ学んでゐる最中なのですが、森鷗外、島崎藤村、岡倉天心、内村鑑三、伊藤博文、乃木希典、それらの男たち、多くの多くの日本の男たち、そして誰よりも明治天皇ご自身に明治の精神の顕現を感じます。
 
その精神は、世界に向けて日本といふ国のアイデンティティー、独自の崇高さを、なんとか聲を振り絞りながら歌はうとしたのではないか。
 
十一月三日が、明治維新からちやうど百五十年になる來年、平成三十年(2018年)には、「明治の日」とその名を持つことができるやう、わたしも希んでゐる者です。


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2017年11月02日

意識して前の時代に立ち戻る

 
現代に於いては、子どもを教育するとき、若い人を教育するとき、自分自身を教育するとき、教へる人(自分自身)は古い時代のありかたに、意識的に立ち戻る必要がある。
 
この「意識して」と云ふところが、單なる先祖がへりではなく、いまならではのわたしたちのありかただ。
 
現代の人が頭に抱く〈考へ〉。それは、科学的であること、理智的であること、客觀的であること、さうであつてこそ、その〈考へ〉は外の世を生きていく上で欠かせないものになるだらう。その〈考へ〉は、外の世の発展に大いに寄与するだらう。
 
これらの<考へ>を、いかにして效率よく若い人たちに教へ込んでいくかが、現代教育にいまだに見られるありかたかもしれない。
 
しかし、それらの<考へ>は、肝腎かなめの、人を育てない!
人の中身を育てない。
 
頭のいい人を世に出すかもしれないが、情をもつて、寛やかに、暖かく、意欲をもつて、確かに、熱く、考へることができにくい人を創つてしまふ。
 
それは、<考へ>と云ふものが、いまは、ことごとく、死んでゐるからだ。
 
死んだ<考へ>をいくら与へられても、生きた人は育たない。
 
いかにして、死んだ<考へ>に、いのちを吹き込み、再び生きた<考へ>をこころに植ゑていくか。
 
これは、15世紀以前においては當たり前にしてゐたことで、<考へ>にはそもそもいのちが宿つてゐたからだ。
 
だからこそ、人は、その生きた<考へ>に、生きものに沿ふやうに附き合ひ、從ふことで、精神からの、神々からの、恵みと戒めを授かつてゐたのだ。
 
アジアにおいては、とりわけ我が国にをいては、その前時代の<考へ>のありかたが15世紀以降も殘つてゐたやうで、わたしたち日本人独特の、ものの考へ方、感じ方に、他と比べて劣つた、後進性を見てとるのか、むしろ微笑みをもつて誇りを感じ、この特異性を生かす道を新しく見いだして行くのかは、人それぞれだらう。
 
それは、ともかくも、現代において、その死んだ<考へ>を子どもたちに与へることを止めて、前時代のやうにおのづから息づいてゐた生きた<考へ>を、新しく意識的に子どものこころに植ゑていくこと。
 
小学校時代の子どもたちには、正しいことを教へ込むのではなく、美しいことへの感覺をひとりひとりの子のなかから引き出したい。
 
中・高時代の若い人たちには、仕上がり濟みの<考へ>・定義を教へ込むのではなく、觀察し、ひとりひとり新しく活き活きと考へ、ともに語り合ふ場を創つていくことを助けたい。
 
そもそも、どの子のなかにも美しさへの感覺はあり、どの若い人のなかにも、自分自身で、まこととは何かを考へる力があるのだから。
 
その「美への感覺」「まことを追ひ求める力」、それを誘ひ出すやうな、像をもつた語り口。そこに、生きた<考へ>が宿る。
 
いづれも、この世に生まれてきて、まだ年かさもゆかない人たちが、一個の存在としての己れに不安を覺え始めてゐるときに、世と云ふものと再び鮮烈に出会ふことへと促していくのが、傍にゐる大人の役目。
 
そのためには、大人であるわたし自身が、毎日、鮮烈に、世と云ふものと出会つてゐるのか?どうなんだ?
 
さう、改めて、自分自身に問うてゐる。
 
その毎日の鮮烈な出会ひを産みだしていくためにどうしていつたらいいかを、仲間と共に探つていきたい。
 

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2017年10月31日

分からぬまま突き進め

 
何が起こるか分からない暗闇の中を歩くのは、とても怖い。
 
先が見えないとき、どこへ連れて行かれるか分からないときの恐れ。
 
あつて当然であらう。
 
しかし、突き進め。
 
その道がどのやうな道であつたのか、分かる日がきつと来る。
 
秋が深まつてくるにつれて、そのやうな声なき声が聴こえるやうな気がしてゐる。
 
冬の聖き夜に向かつて、暗闇の中を歩いて行くのだ。
 
そこには、必ず、ともしびが灯つてゐる。

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2017年10月29日

ありがたいお知らせ


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和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売(にふつひめ)神社。
 
わたしが足を運ぶときは、決まつて雨。しかも、今日は和歌山県に台風22号直撃。
 
しかし、その物凄い雨と風の天野の里で、丹生都比売といふ神さまをテーマにした新しい言語造形の舞台創りのために、今日もいろいろな話し合ひを丹生宮司夫妻とさせてもらふことができた。
 
夫妻から様々な提案をいただき、思つてもみなかつた全く新しい展開が開けて來る。
 
人と会つて話しをするといふことは、それまでの自分自身といふ小さな枠組みをはずすといふことである。
 
本質的で大切なことに向かつて、自分自身をどんどん変えていくといふことである。
 
これまでのやり方とは全く違ふやり方で仕事をせよ。
これまでの人とのつき合ひ方とは全く違ふつき合ひ方をせよ。
 
さういふお知らせをもらへてゐるやうに感じてゐる。
 
とてもありがたく、とても充実した時間だつた。

台風が過ぎ去つて、帰りの電車の中から、青空にかかつてゐる龍の姿の雲とその雲に虹が顕れてゐるのが見えた。
 
また、何かをお知らせしてくれてゐたやうに思ふ。
 

 

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2017年10月25日

尊敬する存在

 
子どもが思はず知らず発することばに、どきつとすることがないだらうか。
 
そこに、神の姿を観ることがないだらうか。神の声を聴くことがないだらうか。
 
人が、おのづから洩らす息遣ひ、おのづから呟く響き、おのづから発することば。
 
そこに、耳を傾けよう。
 
わたしたち日本人の仕事は、その人がおのづから発することばを美しくすることである。
 
人が、巧まず、弄せず、こころの底から打ち出す響きを、純粋なものにすることである。
 
ことばとこころがひとつになるとき、その響きは純粋なものになる。子どもたちは本来そんな響きの中に生きてゐる。
 
その響きを、大人たちが生きるのは、本当に難しいことである。
 
しかし、これほど、思つてゐることと話してゐることとが乖離してしまつてもそのことを恥とも思はない人が増えてきた昨今、わたしたちの仕事は、その恥の感覚をいま一度想ひ起こすことが肝要である。
 
古(いにしへ)の道。
 
我が国の古の道では、人が人であることの感覚が育まれてゐた 。
 
それは、ひとりひとりの民が、各々、尊敬する存在を持つことで延びてゆく道である。
 
生きていく上でのお手本を見いだすことで育つてゆく樹木である。
 
さういふ道を歩くこと、さういふ樹木を育てることは、他者から要請されることではなく、各々の自発性、自主性に基づく自由に根差した行為である。
 
子どもは、尊敬する存在が傍にゐてくれることで、健やかに成長していく。
 
大人だつて、さうなのだ。
 
尊敬する存在を持つことで、人は、己れのことばとこころが重なりあふ、健やかさを獲得していくことができるのだ。
 
さういふ国語教育が、我が国では古来なされてゐた。
 
古来、日本の民は皆、尊敬する存在を頂いてゐた。
 
昔の日本人は、さういふ神ながらの道を皆歩いてゐたのだ。

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2017年10月23日

垂直を仰ぐ


己れみづからへの信頼。いはゆる、自信といふもの。自尊心といふもの。
 
それは、他人との比較、他人からの模倣、ましてや他人との交流などから生まれるものではない。
  
人が、本当に、自分自身の力を発揮するには、水平的な現実や世間などをあへて視野の外にはずして、ひとりきりになつて徹底的に垂直を仰ぎ見続ける訓練をすること。
 
その訓練の内に、だんだんゆつくりと、己れへの信頼が生まれてくる。
 
己れの真ん中を貫いて樹(た)つ大いなる信を育てるのだ。
 
この己れへの信が最も強く要請されるのは、非常時ではないか。
 
しかし、平常時からこの「垂直を仰ぐ」こころの訓練をしておかねば、非常時にこのこころの力、精神の働きが作動するはずもない。
 
そもそも、すべての学問に於いて、この「垂直を仰ぐ」ことこそが本当の目当てであつたはずだ。
 
自分自身にとつて「垂直」とは何を指すのか。
 
そこを常に問ふことで、澱んでゐたこころといのちが、ほとばしり始める。
 

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2017年10月22日

永遠(とこしへ)に焦がれる

 
私は「憧れ」に生きることこそが、人間の本質と考えている。
憧れは、燃えさかる悲しみである。
自己の生命が燃焼し、その燃え尽きた先にある「何ものか」だ。
            (『「憧れ」の思想 』 執行草舟 著)

 

己れのいのちを燃やし尽くしたその先にあるものに向かふ。その時、人は「憧れ」に生きてゐる。執行氏はさう書いてゐる。
 
憧れとは、そもそも、ぼやつとした曖昧なものではない。「あこがれ」であり、わたしたちは焦がれるのだ。「あ」に向かつてこころ焦がすのだ。
 
「あ」とは、世の始源である。天地(あめつち)の初発(はじめ)である。「はじめのとき」とは、永遠(とこしへ)である。
 
その永遠に於いて、わたしは何に焦がれてゐるのか。どのやうな「憧れ」を抱いて生きようとしてゐるのか。
 
それは、もはや、単一のことばでは言ひやうがない。百万言費やしても言ひ尽くせないもの、それがわたしたちの「憧れ」ではないだらうか。
 
その言ひ尽くせないものに向かふとき、人は己れのいのちを燃やし尽くさねばゐられない。だからこそ、執行氏は憧れとは燃えさかる悲しみであると記してゐる。
 
いのちとは、脈打ち、波打つものである。勢ひよく流れることもあれば、澱み、濁り、疲れ果てることもある。
 
そのいのちの働きが、人生の様々な幸せ・不幸せに出会ふ。
 
その幸せ、不幸せを貫く「仕合わせ」を受け入れ、味はひ、つんざいて、進んでいく。
 
そこに悲しみが伴はずにゐられようか。
 
死に向かつて生きてゐるわたしたちは、死の向かうにある何かにこころ焦がして生きていく。
 
「憧れ」。それは、決して、この世に於いては成就しない、永遠(とこしへ)へと向かふ、人の性(さが)である。
 

posted by koji at 13:51 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする