2024年10月26日

「神」ということば



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秋の奈良。春日大社をはじめ摂社を巡り、こころの内に敬虔さが降りて来る恩恵を深く感じさせてもらった後、参道で一匹の鹿と目が合いました。


他の鹿たちは、餌を求めてうろつき回っているのに、その鹿は静かに脚を曲げて座っているのでした。


わたしは立ち止まらざるを得なくて、数秒間、その鹿の眼をじっと視ていました。そして、「優しい目をしているね。ありがとう」とこころの内に呼びかけると、明らかにその鹿は、微笑み始めたのでした。


動物が微笑むなどと言いますと、一笑にふされるかもしれないのですが、そうとしか言いようのない光景だったのです。


そして、その眼差しに、なんとも言えない、慈愛、慈しみを湛える光を宿し始めたのです。


その光に照らされ、包まれて、わたしはこう感じざるを得ませんでした。「神が、いま、ここに、おられる」と。


ここで、わたしがお伝えしたいと思うことは、日本語における「神」ということばのことなのです。それは、英語における「God」ではないということなのです。


神々しいものすべて、靈(ひ)の通うものすべてを、日本では、古来、「神」と呼んでいました。


ですので、山にも風にも海にも、狐にも牛にも鹿にも一木一草にも、そして、自分自身の奥様にも幼い子どもにも、神々しいもの、普段のありようを超える何かを感じるものには、「神」と呼んだのでした。


そうして、それらの「神々」は、観る人にとって観えるところの光を放っており、また同時に、その光で神々は人のこころの営みを見通し、見晴るかし、見守られる、ということなのです。


先にも述べましたように、我が国では、人も「神」となるのであります。それは、人であることの理想を体した存在のことであり、いにしえにおいては、そのための修練を積み重ね、その意識をもって毎日を生きることをおのれに課し、しかるべき儀式を経て、内に「靈(ひ)がともる、靈(ひ)がとどまる」ことによって、まことの「ひ・と」になり変わるのです。


「神」ということばは、西洋の観点で捉えるべきものではない、本当に古くからの日本のことばなのですね。


日本人は、その意味での、「神」を観ていました。こころに敬虔さ、敬いの情が満ちているとき、外の世の様々なものが、思いも寄らぬ秘密を打ち明けてくれたのでした。そのとき、日本人は、ものというものに「靈(ひ)の光」を、「神」を、観ていたのです。


敬わざるを得ない人、こうべを垂れざるを得ないものに対して、わたしたちは、「神」と呼んでいたのです。



※写真の鹿は、ここで述べさせてもらった鹿ではなく、春日大社にたどり着く前にカメラに収めさせてもらった鹿です。ここで述べさせてもらいました当の神々しい鹿を、わたしは写真に撮ることは到底できませんでした。






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2024年09月27日

大阪帝塚山「ことばの家」さよならパーティー



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大阪市住吉区帝塚山で約20年間いたしていました「ことばの家」が解体されるにつき、お声をかけさせていただいた方々と共に先日、「ことばの家さよならパーティー」をいたしました。


来て下さった方々が、ここでの想い出を語りながら、狂言の謡いをして下さったり、ライアーの演奏をして下さいました。それはこの家へのこころからのはなむけでした。本当に、ありがとうございました。この家が喜んでおりました。


この小さな部屋には、本当に様々な想い出と共に、ことばの芸術から生まれる目には見えない痕跡があまた刻まれています。それは、エーテルの造形物といってもいいような、不可視の生きていることばのお宮です。


毎週毎週、毎月毎月、ことばづくりの学びに通って下さった方々、そして、数々の公演に足を運んで下さった多くの方々、おひとりおひとりにこころより、こころより、お礼を申し上げます。


わたしもまた、いま、引っ越しの作業をしながら、この家に包まれてあることの、なんとも言えない気持ちを感じて、こころから、まこと、まことの感謝を感じています。


そして、新しい「ことばの家」への精神の引き継ぎをして行く道の上に今います。


2024年10月より京都市伏見区醍醐にて、新しく「ことばの家」を創り、アントロポゾフィーを学ぶ靈(ひ)の学び舎として、そして、日本のことばの古くて全く新しい芸術を織りなしてゆく「ことばづくり」の工房として、こつこつと活動してゆきます。


わたし自身、60歳からの新しい人生のはじまりです。


どうぞまた、お越しくださいね。


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2024年09月22日

命綱としての文学



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人と人との集まりの中で、いわゆる人間関係における世代間や性差、個人と個人の間の違和、不調和、断絶というようなものがあります。


理想を求めて集まった人たちの中でも、そういったものから生まれる情のせめぎ合ひが激しくきしむことがあります。


100年前のルードルフ・シュタイナーは、学びに集まった人たちに対して、若い世代には「もっと謙虚になって、これまでに古い世代が積み重ねてきたものを敬いつつ認めることを学んではどうか」と呼びかけ、古い世代には「変に若ぶらずに、しっかりと精神において老いるように、こころにおいて熟するように」と諭しました。


しかし、そのように世代間の断絶と見えるようなことも、おおもとの問題は、よくみて、よく考えている人たちと、よくみず、よく考えていない人たちとが、いつの代にも存在していて、争いは、よくみず、よく考えない人たち同士の間で起こっているということです。


よくみず、よく考えない古い世代と、よくみず、よく考えない若い世代とがぶつかり合っていたということです。


さらには、人と人との間のやりとりは、すべて、ものの言い方、ことばの用い方の問題であることをわたしは念います。


つまり、人と人とがぶつかり合うとき、いま、何が本質的に大切なことで、何が非本質的なことであるかをみずからで、よくみることができていなかったり、よく考えることができなかったりしているのではないでしょうか。


さらに見落とされがちなこととしてわたしが思うのは、人はものの言い方を学ぶ機会をもってはいないということです。


自分の立場や、自分にとってこれまでのお決まりの思い方、感じ方、考え方にしがみついたまま、そこからものを言ってしまう。


それは、文学や舞台芸術から、もっと素朴なものでは親や祖父・祖母からの言い伝えによることばづかいの芸術的なありように触れ、親しむ修練を積んでいないことによって、ことばがその人のまるごとを顕わにしてしまうことへの畏れをもっていないことから、どうしても生じてしまうことです。


そうして、わたしたちは、万人が万人の敵となる、あの黙示録に予言されているあり方へと突き進んで行くのでしょう。


ことばの用い方をもって、人はものの考え方、感じ方を織りなしてゆきます。


決して、思想や理念がことばに先立って醸成され、それがことばとして表現されるのではありません。


人は、いくつになっても、ことばの用い方に、その都度その都度、新たに新たに、意を注いでいかねばならない存在なのです。


そのためには、ことばの芸術、芸術としてのことばづかいに触れていることがとても大切なことなのです。


賢者のことばであったとしても、それを一言一句厳格に捉えることをもって足れりとしている老人も、自由にものを言うことこそが人であることの証だと思い込んでいる若者も、新たに新たに、みずからを律すること、みずからを研ぐこと、みずからを磨くことによつてのみ、「ことば」は人と人とを繋ぐ自由な何かになりうる、ということを学ぶ必要がある。


そういう、ことばの教育、国語教育、これは、わたしたち大人が真剣に取り組んでいくべきものですが、そのためには、日教組や国語審議会の人たちでなく、真の文学者、真の詩人という存在がおのおのの民には要ります。つまり、まごころをもって世界のこと、この国のこと、人や子どもたちのことを念うことばの力が要ります。


それらの文学者、詩人という存在は、時の流れの速さなどには決して負けない、しずしずと地下を流れる清水のような精神の力をことばに湛えて仕事をします。


ですので、昨今、売れている作家などではなく、わたしたちで言うと、祖父の世代の文学作品を落ち着いたこころもちで若い人たちが読み深めることを奨励するような雰囲気が学校や家庭にあることが大切なことです。


そういうものに触れることによって、若いこころをもつ人ならば、必ず、靈(ひ)においてこころといのちが甦ることを覚えるはずです。


ひとりひとりの人が、そういうありようを生きることこそが、すべてのはじまりです。


人と人との間の断絶をわたしたちは積極的に超えてゆくことが、きっと、できるはずです。





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2024年09月14日

社会の大勢に抗してひそやかに



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東京でのことばづくりの仕事。

大都会の中で働いている人たちのこころづかい、ことばづかい、息づかいがどんどん息苦しいものになっているとしても、靈(ひ)から生まれる芸術には何かができるはず。

人が、時に、コンプライアンスやハラスメントといったことばに縛られざるをえず、人としての内なる自由への愛が不如意をかかえざるをえなかったとしても、こころを自由に解き放って、自分自身を十全に表現できる時と場をその芸術は打ち開いてゆきます。

社会の大勢がどうなってゆこうとも、わたしたちは愛から何かができるはず。


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2024年08月15日

靈(ひ)の文明を創ってゆく新しい時代の先端を行く国



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木村伊兵衛「秋田おばこ」秋田大曲 1953



近頃、印刷術や写真術などに関する本を読んでいます。印刷術はグーテンベルグによって15世紀半ばに、写真術はダゲールによって19世紀初頭にこの世に出現したのでした。それら15世紀のヨーロッパから始まった、時代精神の巨大な変化の中で生まれて来た機械文明による営みは、人の暮らしや仕事における利便性や効率性を著しく増大させましたが、一方で、人の考える力やものを見る力を著しく減退させ続けています。その機械文明によるわたしたちのこころへの働きかけは、どこから生まれて来たのか。それはアーリマンという悪魔からの働きかけであることをシュタイナーは述べています。アーリマンは、考える力や見る力といった人の内なるこころの健やかな営みをひたすらに衰えさせ、人が無機質で機械的で唯物的なものにどっぷりと浸かるように、刹那的、快楽主義的、受動的な存在になるようにしてしまおうとしています。しかし、ルードルフ・シュタイナーは、そのアーリマンからの働きかけが、人の成長にとって必然的なものであること、その功罪の両側面を、深みから捉えていて、わたしたちにその悪魔からの働きかけを知ること、意識することこそが、現代を生きているわたしたちにとって欠くべからざることなのだと述べています。悪の力を知ることによって、この機械文明に靈(ひ)の息吹きを吹き込むことができるのは、21世紀を生きているわたしたちなのですね。


わたしは今、特に写真術に携わって来た20世紀の日本人(木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩、入江泰吉)のことを初めて知り始めているのですが、彼らがしていた仕事とは、まさしく、ヨーロッパからの機械文明に靈の息吹きを吹き込むことなのでした。彼らは、機械であること、その無機性を徹底して吟味し、それを全身全霊で愛するところまで、我がこころを機械の内部に通じさせていく道を歩んだのでした。つまり、ここでも、日本人は、「ものへゆく道」を歩もうとしていたのです。近代主義との葛藤を深刻に受け止めざるを得なかった明治、大正、昭和を生きた日本人がなしていた仕事の質を、令和に生きているわたしたちは知る必要があることを思います。それらの仕事は、新しい時代における人の考える力と見る力を養っていくことに向けてのものだったからこそ、西洋近代化の後塵を拝していたこの日本が、実は、密(ひめ)やかにですが、靈(ひ)の文明を創ってゆく新しい時代の先端を行く国であったこと、そしてこれからますますそうであることを知るためにです。






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2024年07月11日

愛するゆゑに手放すといふこと


キリストが語ったという「父、母、妻、子、兄妹、姉妹を捨てざる者、我が弟子にあらず」ということ。それは、それらの肉の繋がりある人、血の繋がりある人を愛しているがゆえに、「捨てる」時が来る、「離れる」時が来るということです。それらの人を愛せないから「捨てる」のではないのです。愛しているがゆえに、人はひとりでゆくのです。

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2024年06月25日

遊びと独立

 

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小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでいて、とりわけ魅力的なのは、江戸時代の学者たちについて縷々述べているところです。


ものを学ぶには、本ばかり読んで、机上の智識を弄ぶのではなく、外に出て、人と世に交われ、人と世に働きかけよ。そう言う人は幾らでもいます。


しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つていました。だから、そういう当たり前のことは、わざわざ口に出して言わなかったのです。


むしろ、独りになること。


そして、その「独り」を強く確かに支え、励ますものが、本であること。


師と古き友を、本に求める。本というもの、とりわけ、古典というものほど、信を寄せるに値するものはないと迄、こころに思い決め、その自恃を持って、みずから学者として生きようとした人たち。


そして、古典という書の真意は、独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。そのときの工夫と力量を、彼らは心法とか心術といいました。


一度きりの読書による知的理解と違って、精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、その人の体得物として、暮らしを根柢から支へる働きを密かにします。


数多ある註釈書を捨てて、寝ころびながら、歩きながら、体でためつすがめつ、常に手許から離さず、そういう意気に応えてくれるものが、古典というものです。


そうしているうちに、学び手のこころの奥深くで真実は熟し、やがて表の意識に浮かび上がってくる。


そのとき浮かび上がってくるものは、学説などというものではなく、真理を追い求めた古人の人格であり、それは浮かび上がった後も、依然多くの謎を湛えている筈です。


昔は、今と違い、学者という存在が、人の理想を追い求める人として、人々から遥かに尊敬されていました。


そして、そのように、部屋に独り籠もって、孤独を愛して、そのような本の読み方ができる人は、きっと、幼い頃、目一杯、からだを動かせて遊んだ人なのです。


その遊びの中で、手足の動きを通して意欲が、こころのファンタジーへと昂ぶり、さらには、ものをまじまじと見ること、聴くことのできる力(ふだんのイマジネーション)にまで、稔っているのです。


からだまるごとで遊ぶ、さらには、からだを芸術的に動かす、その働きは、よく観る力、よく聴く力、よく読む力、独りでいられる力、他に寄りかからずに済む力、つまりは、自主独立・自由の力に、後年なりかわるからです。


子どもの頃のからだを使った遊びは、本当にたいせつなものなのです。





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2024年05月10日

落ち着きと勇気と知恵



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神よ 願はくば われらに授けたまへ

変へることのできないものを受け入れる落ち着きを

変へることのできるものを変へる勇気を

そしてその違ひを常に見分ける知恵を・・・


          ラインホールド・ニーバーの祈り

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2024年04月29日

次なる新たなところへと歩みゆく希み



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我が「ことばの家」の裏に百年にわたって佇立していた古い家が取り壊されてしまいました。


そして、この「ことばの家」ももうすぐ取り壊されてしまいます。


何ごとも何ものも常ならざるものですが、眼の前でどんどん古いもの、親しみある馴染みのものが消えて行くのを、わたしもまた、いま、目の当たりにしています。


しかし、それは、わたしに、思い出に耽り、悲しみに憩うことよりも、人生の次なる新たなところへと歩みゆく希みを抱かせます。


わたしには、勇気が必要ですし、実際、その勇気をこころにもらえていることに恩寵を感じます。


わたしは、ひとりで生きているのではない。わたしは、生かされている。そして、赦されている。こうして生きることを赦されている。


ずっと変わらず見守って下さっている方々がおられること。


そのリアリティーを抱いて、ゆっくりと歩いて行きたいと思っています。


次の住まいが決まりましたら、その前に、大阪帝塚山のここ「ことばの家」にて「言語造形の最後の晩餐?」ができたらと切望しています。






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2024年04月23日

己れの道を独自に歩いて行くべき時代



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四年前、外出して街に出たり、電車に乗るたびに、「なぜだ」「なぜだ」という煩悶に満ちた苦しみを本当に感じていたことを思い出します。


そして、子どもたちが通う学校という場で当時なされていたことに対して、わたしはいまも全く納得がいかない。


だからこそ、他のみんながそうしているから自分もそうするのだというような生き方ではなく、それぞれの家庭や、ひとりひとりの人が、自分たち自身のこころの声をしずかに聴くことから判断をゆっくりと下していき、己れの道を独自に歩いて行くべき時代が明らかに始まっているのだと思わずにはいられません。


それは、己れという人を裏切らない、自分自身に嘘をつかない、ということであり、これからの時代が求めていることです。


三年前の文章です。



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中学一年生になったばかりの次女、果たして来週からの登校事情はどうなるのだろうか。


大阪市からの要請で、午前中は、自宅でオンライン授業になり、昼食は学校に行って食べ、午後の二時間だけ授業を受け、クラブ活動は原則中止となるかもしれないとのことです。


オンラインによる授業が毎日続くことの、子どもたちへの弊害についてはいろいろと想うところがあります。


ひとりの先生、そして大勢の友だちが集う教室という空間において、何が営まれるか。


人は、知性だけを育てればいいのではなく、なまの世界を生きること、他者とつきあうこと、ものを受け取ること、活きた息遣いのやりとりの中で生きること、つまりは感官を育てるということが、人にとって、とりわけ、若者にとって、たいせつなことなのです。


笑い合ったり、けんかしたり、瞳を交わし合ったり、しかとしたり、そんな人と人との間の複雑な営みすべてが、感官の育みに資するはずです。


人には、十二の感官があります。その十二の感官を養うことにおいて、空間を共にするということの必要性はとても大きい。


感官の働きは十二通りであり、それらの働きが人の内側で複雑に、かつ繊細に、織りなし合わされて、その人にパーソナリティ(人となり)の豊かさ、インディヴィジュアリティー(その人のその人たるところ)の尊さをもたらします。


なぜなら、十二通りの感官の働きを内において、織りなし合わせ、繋ぎ合わせることによって、人は、判断力を養うことができ、その判断力は、実は、情の力、感じる働きを土台にしているからです。


ものごとを判断する、その力は、実は、健やかな情の力が礎になるのです。


いくら頭が良くても、健やかな情が育っていなければ、その人が下す判断という判断は、非人間的なものとなる嫌いがあります。


毎日、午前中一杯、パソコンやスマホの前に座り続けさせることで、十二の感官の育みに障りと害いと偏りが生じて来ることを思うと、これが運命とは言え、子どもたちがこの2020年から2021年を生きること(今年でなんとか終わらせたい・・・!)の過酷さに、その意味を問わずにはいられません。


家でのなにげない会話ややりとりが、とても大事になって来ます。






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2024年04月21日

新しい場所探し



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青い森自然農園にて、苗床を作り、米粒の種おろしを学ばせていただいています。鍬の使い方ひとつを身につけることも、なかなか上手くいきません。しかし、新しいことに挑む機会を与えて下さる青い森自然農園のおふたりに本当にこころから感謝しています。

新しい生き方、新しい住まい、新しい仕事。今、模索しながら、駆け回ってます。

シュタイナーの学び「アントロポゾフィー」とことばの芸術「言語造形」、そして米づくりを中心とした、本当に新しい精神文化の営みを日本に創ってゆくために、新しい場所を探しています。

どこかお薦めの場所をご存知でしたら、ぜひ教えて下さい!


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2024年03月21日

ゆっくり



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ゴッホ「花咲くアーモンドの木の枝」



まずは、我がからだをゆっくりと使うことから始めてみる。


意識できるとき、気づいたとき、からだをゆっくりと用いるのです。


このキーボードを打つときも、立ち上がるときも、この部屋を出るときも、ゆっくり、ゆっくりと動いてみる。


そして、その動きにていねいさや静かさや落ち着きが湛えられているのを自分自身で感じてみる。


そのゆっくりとした動きが、おのずから、息遣いの穏やかさ、ことば遣いの静かさ、こころもちの安らかさへと導いてくれる。


からだをゆっくりとした時間の中へ入れて行くのです。重さ・重力の中へではなく、軽さ・浮力の中へからだを持って行くのです。


ちょっとした意識の転換で、からだの用い方を変えてみること。


そして、それをゆっくりと習慣にして行くこと。


そのような習慣を身につけることは、一朝一夕には叶わないが、それこそ、ゆっくりと、こつこつと、毎日、やっていけばいい。


なんど、慌てふためき、取り乱すようなことがあろうとも、また、気づいたとき、「ゆっくり」の中へ帰っていけばいい。


そのように、時というものを新しく生きて行くこと。


それは、このからだに授かっている「いのち」を自分自身から甦らせる、本当の保養なのです。





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2024年03月10日

日本のシュタイナー教育における歴史教育



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下北半島の突端から



日本にもシュタイナー教育が入って来て、おそらく50年近く経っていると思われるのですが、わたしの内には、日本でのシュタイナー教育実践においてのひとつの問いがありました。


それは、子どもたちに「歴史」を教えてゆく際に、アントロポゾフィーの人間観・世界観から得られる歴史への見識に基づく授業をすることと、日本の歴史について教える際の、微妙な(もしくは、明らかな)違和感を現場の先生方はどう感じ、実際にどう授業されているのか、という問いでした。


次のような考え方があると思います。


洋の東西南北を問わず世界中の物語の中から、子どもがいま求めているもの、子どもの成長に資するものを、絵姿豊かに語ることが、大切であるということ。


まことにその通りだと思いますが、それを踏まえた上で、やはり、わたし自身の中で、さらなる問いが生まれて来ます。


人がする学びという学びは、つまるところ、己れを知るということ、自己認識を目指しています。


古代ギリシャの密儀の中のことば「汝みずからを知れ」は、いまも、わたしたちに痛切な響きをもたらしているように実感します。


それは、個人個人のことでもありますが、きっと、民族のこと、国家のことでもあるでしょうし、歴史を学ぶとは、人類が人類を知る、民が民を知る、人が己れみずからを知るということに他ならないように思います。


そして、その学びの営みのうちに、二つの方向性がある。


己れみずからを知りたければ、世をみよ。世を知りたければ、己れみずからをみよ。


そして、この二つの意識の方向性は、長いときをかけた学びのうちに、ついには、ひとつになる。「〈わたし〉は世であり、世が〈わたし〉である」。


さて、話は、「歴史教育」のことに戻ります。


世界の中に日本があり、外があるからこそ、内がある。


外国のことをよく知ること、知的にも情的にも世を広く見晴るかし、親しく他者について知りゆくことを通して、内なる国、自国のことを知る、そんな自己認識のありかた。


学びには、そういう側面が欠かせません。


そして、もうひとつ、自分自身の中心軸をしっかりと打ち樹てるべく、我が民族、我が国の独自の精神文化をより深く追求していくこと、足元を深く掘り進んで行くことによる自己認識のあり方。


どちらかひとつではなく、両方の学びの間に釣り合いが取られて、わたしたちは、個人においても、民族のことにおいても、国家のことにおいても、内と外とのハーモニーを健やかに生きることができるように思います。世界史と日本史の間に、ある歴史的繫がりを見いだすべく、わたしたちは学びを進めて行かねばなりません。


小学生から中・高校生の歴史の学びにも、その視点がとても重きをなします。


ただ、ここに大きく深い問題があるように感じています。


それは、日本の近・現代史は、精確に言うならば、日本の精神は、相当、屈折している、もしくは、屈折させられているということです。


明治維新以来、西洋の最新の文明に追いつけ、追い越せという文明開化のスローガンの下、とりわけ、若いエリートたちは、それまでの自国の文明文化をある意味、大いに否定し、父や祖父、母や祖母の持っていた考え方、生き方を古臭いものとして葬り去ろうとして来た、そんな近代の歩みであったからです。


言い方を変えますならば、もともと成長していた樹木を、真ん中、もしくは根もとからぶった切って、全く違うところで育った木を接ぎ木した上で、「それ生えろ、それ伸びろ、それ花咲け、それ稔れ」とばかりに大急ぎでやってきたものですから、無理がたたる。


それは、外国から開国を要求され、植民地化されるかどうかという瀬戸際での国家的判断からなされたことですので、歴史の必然としか言いようがない、けれども、何とも言えないような苦しみと哀しみを感じざるを得ないことがらです。


その無理が無理のまま最後に爆発してしまったのが、79年前の世界大戦での日本の大敗北であったのではないかと思うのです。


そして、戦後、明治維新以来の無理の反動でしょうか、わたしたちは自主独立する心意気など全く失い、しかし、また、明治維新以来のヨーロッパとアメリカこそが主(あるじ)であり、我々は従(おきゃく・しもべ)であるという底深い観念・心情がこころの奥底に染み付いてしまっているように思われますが、どうでしょう。


そして、シュタイナー教育が、今は亡き子安美知子さんの「ミュンヘンの小学生」という一冊の新書の1975年発刊以来、約50年近くに亘って、日本に少しずつ広まって参りました。


ヨーロッパからの精神文化として伝わって来たシュタイナー教育運動、その日本における伝播においても、やはり、先ほど書きました、日本民族の近・現代にずっと引きずっている、どうしようもない屈折とコンプレックス、自己不信感が、多くの場合、自覚なく、伴われて来たのではないだろうか。


いわゆる、「自虐史観」の囲いの中で自国の歴史を捉えて来たがゆえに、シュタイナー教育においても、その影が無自覚に教育実践の上に落とされて来た嫌いはなかろうか。


わたし自身の問題意識として、そのことがずっとあります。


子どもたちに歴史を教えるということは、そういう事情の上になされることだからこそ、わたしたち大人の意識のありようがまことに難しい。


その屈折を屈折のまま子どもに伝えることもひとつの教育と言えるのかもしれませんが、やはり、大人自身が、明治維新以来の屈折を、ひとり、引き受け、人としてその屈折をまっすぐにしようという意識と気概が要るように念うのです。


屈折を屈折と自覚せずに、子どもたちに歴史を教えることは、子どもたちを複雑な、まさに屈折せざるを得ない存在へと育ててしまうことにならないだろうか・・・。


わたしたち昭和の後半から平成に教育を受けて来た者たちは皆、そういう教育を受けて来たのではないだろうか。だからこそ、内において、皆、とても屈折している・・・。


アントロポゾフィーを学ぶわたしたち日本人は皆、そのことに向き合い始めていると思います。


そして、これは、大変なことだであり、だからこそ、この問い、この考える営みを持続させていくことが大切なことだと、わたしは考え続けています。


さらには、実際の教育現場を創りなしてゆくことで、新しい時代の教育を新しく創ってゆくことが、この問いに答えを見いだしゆくプロセスになるでしょう。


それは、わたしにとっての人生の大きな課題のひとつなのです。





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2024年02月10日

からだとこころと靈(ひ)が奏でる調べ



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旧暦では今日が一月一日。個人的にも新しい年の初めを感じる。


昨日までおほよそ20日間ほど、風邪でずつと寝込んでゐた。


夜になると咳の苦しみで眠られず七転八倒してゐる最中にも、精神的な取り組みだけで、このからだの自己回復力を頼んでゐたのだが、どうにもかうにも仕様がなく、やうやく昨日、いいお医者さんに出会ひ、人工的な処置をたくさんしていただいた。


そして、今朝、本当に久しぶりに健やかな目覚めを感じたのだ。まさに元日である。


当たり前のことだらうが、現代医学の助けを借りなければならない自分自身のからだの弱さを認めざるを得ない。


なほかつ、それでもやはり、我がものの考へ方、想ひ方、感じ方にこそ、病の根本の原因はあると思はざるを得ない。


そして、青い森自然農園の齋藤 健司さんと豊泉 未来子さんにいただいた、昨年収穫された大切な新しいお米を炊いていただく。頬が落ちるほど旨い。


素朴な食べ物と素朴なこころ。


その享受を即座に喜びの情で応へてくれるのが、我がからだである。


そのこころとからだのハーモニーに、ますます、靈(ひ)として、ことばが天(あめ)より流れ降りて来る。


からだとこころと靈(ひ)が奏でる調べを、今年から、歌つて行きたい。






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2024年01月22日

未来に芽吹いて行く種



昨日、京都の青い森自然農園から遥々、我が家を訪ねてくれた齋藤 健司さんと豊泉 未来子さん。おふたりから様々な未来に芽吹いて行く種をいただく。


その種とは、「からだ」にまで意識を確かに降ろすといふこと。


抽象的な思弁に右往左往するのではなく、毎日毎日、「からだ」といふものを慈しみながら生きて行くこと。


そして、暮らしの中で、歌と踊りとことばの美がおのづから湧き上がつて来る、そんな生き方を、暮らしの「かたち」を、ゆつくりと創り上げて行くこと。


そこには、食と仕事と芸術が、自然な調べを奏でてゐる。


豊かな充足と活力と安らかさをもたらしてくれる、そのやうな精神。


そんな古くて新しい生き方を、いま一度、意識的に創つてゆかうといふ試みをこの春から始めたいといふ、おふたり。


わたし自身、この「からだ」と「こころ」を超えた靈(ひ)なるものの自由な羽ばたきをもつて、なほかつ、この「からだ」のすみずみにまで降り切つて汗を流しながら新しい生を創つて行かうといふ新しく生まれて来た念ひを持つてゐて、その念ひとおふたりの想ひが重なり合ふ。


しづかな瞑想。活力に満ちた仕事。こころ満ち足りる芸術と学問。


シンプルな、念ひと暮らし。


その精神は、日本といふ「くに」に連綿と伝わつてきてゐる「祭り」の精神。


きつと、かういふ生き方は、これから3年から10年の間に、日本の社会に驚くほど広まつてゆくだらうと思ふ。





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2024年01月11日

大丈夫だよ 



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年のはじめから思はぬことが勃発し、わたしたち日本の民は、安らかならざるこころもちを抱えて、この令和六年、2024年を生き始めてゐます。


かうしてゐるうちにも、寒さで凍えるやうな思ひでをられる方もゐらつしゃることに、想ひを馳せます。


しかし、わたしたちは、かういふ時こそ、「大丈夫だよ」といふ靈(ひ)からの念ひを積極的に抱きたいと念ひます。


メディテーションの折りや、普段の何気ないひとときに、この「大丈夫だよ」といふ念ひを拡げてゆくのです。


決して「かわいそう」だとか、「お気の毒に」ではなく・・・。


年末に、仙台でいたしました言語造形劇『古事記(ふることぶみ)の傳へ』の最後の場面で、天岩戸が開き、天照大御神様がふたたびお出ましになられた時、八百万の神々が唱へることばがありました。このことばは、『古事記』には記されてゐないのですが、『古語拾遺(こごじうゐ)』といふ大切な古書に記されてゐるものです。


あはれ
あな おもしろ
あな たのし
あな さやけ
おけ


たつぷり息を吸つてから、次に長く息を吐きながら、この詩の一音一音の音韻を空間に向かって解き放つやうに綺麗に発声するのです。


さうしますと、物理と精神の空間が、まこと晴れやかに輝かしく照り映え出し、わたしたちのこころの恐れや不安が祓ひ浄められるのを体験いたします。


この営みを、日々のメディテーションや想ひの中で、ひめやかにしていきます。


それは、ひめやかな営みですが、きつと、ひめやかに人のこころに及んでゆくのです。


日本人みんなが自覚的に、余計な悪しき想念や不安に苛まれることから自由になり、この精神を生きることに専念するなら、それは本当の陽の力の甦りをもたらす。


それは、物質的な次元から、靈(ひ)の境へと、自由に羽ばたくことのできる、これからの人の生き方を指し示すものです。





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2023年12月29日

馬鹿の治癒



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大阪の住吉大社の太鼓橋



今年の仕事納めに、仙台での教員養成講座をさせていただいたのですが、一年の最後だからこそ、とりわけ、鮮やかに、自分自身にとって最も大切なことに気づかせてもらえたように感じています。


それは、法則に沿うことの尊さ、美しさです。


今回、演劇創りで参加された受講生のおひとりの方が、とりわけ、ご自身の内側において葛藤されていました。誰に不平を言うでもなく、ひたすらに自分自身の内側で、葛藤されていました。


その葛藤とは、これまでの自分自身の生き方の中ではさほど意識の上にのぼって来なかった、あることが、この言語造形という芸術に取り組むことで浮かび上がって来るのだということ。


そう、その方自身が静かに語ってくれたのです。


そのあることとは、己れみずからの偽りない情を偽りなく表現することへの恐れでありました。


演劇は、役を演じることを通して、様々な情に通われることであり、そして、その訪れて来た客としての情を、嘘偽りなく全身全霊で表現していくことに取り組んで行く芸術です。


その嘘偽りなく全身全霊で表現するという芸術、ことばの本質に取り組むという芸術を体験することで、浮かび上がって来た、恐れでありました。


恐れとは、現代を生きているすべての人におのおののすがたで巣食っているものですが、すべての人がそのことを自覚しているとは限りません。


そのことに気づくことは、意識の上で、情の上で、「揺れ」「動揺」「取り乱し」を生じさせます。ですので、多くの人は、取り乱したくないので、巣食っている恐れの上にふたをしてできうる限り自分自身で見ないようにしています。


しかし、その方は、この三日間の内に、ご自身の中で、そのような闇の中での葛藤を経たのちに、「わたしが何を求めているのかではなくて、ことばそのものがどうわたしに表現されたがっているのかに思い至る」、その気づきに至られたのでした。


個人的なわたしの満足ではなく、ことばというものが精神としてどう人によって表現されたがっているか、というところにまでその方の意識は至られたのです。


法則とは、そもそも、堅苦しいものではなく、精神からの靈(ひ)なる道筋なのです。


しかし、人は、たやすくその道筋を見いだすには、あまりにも幼い。だからこそ、何度ものこの世への生まれ変わりを経る必要がある。


そして、何度もの生まれ変わりを経て、その生きることにおける闇をくぐりゆくからこそ、光を見いだす道の端緒に就くことができる。


闇を経るからこそ、光を見いだす。


わたしは、そのことが、「まこと」であることを痛感しています。


その端緒に就かれた方の表現は、まこと、まこと、めざましいものでありました。


すべての仕事、すべての技術、すべての芸術は、それぞれに固有の法則を持っています。


そして、舞台の上での表現、さらには、ことばというもの、ことばづかいというものにも、固有の法則が通っているのです。


その方は、その固有の法則があることに、ある苦しみを通して実感として気づかれたのでした。


さて、わたしは、わたしに与えられた仕事を貫く法則に則ることができているだろうか。


その問いを一晩かかって問い続けておりますと、答えが朝やって来てくれたのでした。


わたしは、まだ、その法則に則れていない。


まだまだ、自分自身の考え方、想い方、感じ方の癖に引きずられて、これまでの自分に巣食っている宿痾のようなものを完全に自覚するに至っていない。


そのことを、受講しておられる方のこころのありようを拝見させてもらい、気づかせてもらえたのです。


これは、一年の終わりに至って、これ以上ないほどの本当にありがたい気づきでありました。


馬鹿は死ぬまで治らない、と言いますが、来年、もっと、その馬鹿の治癒、精神の健やかさの回復、そこから、世へ仕えることへと勤しんで行きたいと強く念願します😌





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2023年12月25日

友へ メリークリスマス




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三年前のクリスマスイブの日に、友人から電話があった。


彼とは、それまでの10年近くの間、本当に親しくつき合ってきた間柄だった。


その年の夏ごろ、すでに始まっていたコロナウイルス禍によってわたしの仕事がなくなって行くことを心配して、少なくないこころづけまで送ってくれた彼だった。


その彼が、その夜の電話で語ってくれたことは、自分が犯した罪を償うためにこれから牢屋に入るのだ、ということだった。


彼は、彼自身と一緒に写っているわたしの写真はあらゆるところから全部削除してくれ、と言った。そうしないと、わたしに迷惑がかかるから、と言った。


そして、いまどこにいて、これからどこに収容されるかもわたしに全く言わなかった。


こんなことがあっていいのかと思った。


どうして、こんなことが起こるのだろう。


どうして、こんな悲しみが訪れるのだろう。


不条理というものがあることをはっきりと感じた。


彼の話を聴きながら、彼と共にいた時間の中のいろんなことごとを想い起こした。


電話の最後で、彼は「メリークリスマス」と言って、電話を切った。


メリークリスマス。メリークリスマス。メリークリスマス。


今年も、どうか、静かで、聖き夜が訪れますように。






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2023年12月11日

ありがたい 59歳になりました



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59歳になりました。年齢のせいにしては駄目ですが、少し抜けているところが多くなってきたようなのです(汗)。これは本当に気をつけなければ・・・!

ひと様との約束や時間を大事にしていきたい。ひと様からいただいている思いに少しでも応えていきたい。

そして、何より、このわたしを産んでくれた母が元気でいてくれること、本当にありがたい。

娘たちが想いをこめて絵を描いてくれ、メッセージをしたためてくれ、時間をかけてコーヒーカップを選んでくれました。

本当にありがたい。

わたし自身、より、からだを動かし、汗を流して、新しい生活に向かって行く一年にしようと思っています。

また、皆さま、なにとぞ、なにとぞ、どうぞよろしくお願いいたします。

諏訪耕志

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2023年12月08日

当たり前に思つてゐた近代的生活からの脱却



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自主独立とは、本当のところ、どういふ状態を言ふのだらうか。そんなことを我が身で考へ続けてゐる。


そして、保田與重郎の全集二十四巻に収録されてゐる『農村記』を丹念に読み続けてゐる。


「農村生活の改良を云ふ人々は多少とも農民生活を快適にし、負担を軽くしてやらうと思ふ人々である。農村の父たちはさういふ文化的都会生活的動向を、家のため、村のため、さらに国のためにおそれてゐるのである。・・・ある農家の青年に、君らが毎日重い荷物を運ぶ時これを馬車に一鞭あてて運ぶと云つたことを想像しないかと問うたところ、彼は言下に自分らはもつと大事なことを考へてゐると一蹴した・・・。」


「農村に於て誰の目にも自明な改良策をこばむものは、固陋でもなく、無智でもなかつた。それはアジアの自衛そのものであつた。」


「血気軽率の人は、必ず欺瞞に立脚した扇動者に奉仕するに到るだらう。かの扇動者らは、己の祭る幽霊や悪魔を、軽率な善人の祭る神とすりかへ、彼らに幽霊や悪魔を祭らせ、扇動して犠牲となす技術を了知してゐるのである。故に多事の日にこそ文学を深く学んで、美辞麗句の欺瞞性を見破らねばならぬ。困苦欠乏と貧乏を固守すると見える古い百姓の、その心持と考へ方を、その原因に於てさまざまに考へることは、今日の文學の緊急の課題の一つである。」



令和の代において、もはや、農民だけでなく、都会に住む大多数の日本人が「困苦欠乏」の中で生きてゐる。


しかし、ここに言ふ「農村生活」を「令和の代の市民生活」と言ひ換へたとしても、「生活の改良をこばむ父」は、どこにゐるだらう。


そして、日本中、「血気軽率の人」ばかりになつてしまつてゐて、扇動者が言ひ募る「時間がない!」といふことばに見事に煽られてゐはしないか。


快適さ、効率性、利便性、それらよりも「もつと大事なこと」とは何だらう。


「家のため、村のため、さらには国のため」に護らねばならない「もつと大事なこと」とは何だらう。


それらのことを、扇動者に動かされず、ぢつと立ち止まつて、ひとり考へる力。


2023年、令和五年の終はりに近づき、わたしたちは、ますます、この力の重要性を痛感せざるをえない状況ではないか。


どうしても、立ち上がつて来る問ひがある。


果たして、これまで当たり前に思ひ込んでゐた「経済を盛んにして、国民を豊かにするべく、我々から富を奪ひ盗つてゐるこの社会の仕組みを変へていかねばならない!」といふことは、本当に真実なのだらうか。


悪事を働いてゐる者を制することは当然のことだとして、しかし、搾取してゐる一部の者たちからその富を奪ひ返すといふ考へ方そのものに、近代を生きて来たわたしたち現代人の大いなる強欲さがすでにどこかに潜んではゐないだらうか。


本当に、難しい議論である。この近代的な生活を二十世紀から変はらずにさらに二十一世紀においても追ひ続けて行くことが、人の「みち」なのであらうか。いまさらと多くの人は思ひ、そんなこと、出来るはずがないと多くの人が鼻であざ笑ふだらうが、近代的生活のあり方を止めることができないかといふことである。


しかし、丁寧に、礼儀正しく、しかし、情熱を持つて、考へ続ける人と人とが出会ひ、語り合ひ、「もつと大事なこと」を確かめ合ひ、創り出すことが、きつと、できる。


そんな2024年、令和六年にするべく、いまから、ひとりひとり、各々、何かを始めることができる。




posted by koji at 17:19 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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