2017年11月18日

ときの変はり目

 
今日は、旧暦十月一日。神無月の新月。
 
今朝、夜が明けたときに、本当に新しくなつたことを感じた。何が新しくなつたかは、ごめんなさい、説明なしで。
 
この前の日曜日から、わたしは三十九度ほどの熱のまま、五日間を医者にも行かず過ごしてしまひ、つい二日前にやつと医者に診てもらひ、肺炎の診断を受けた。
 
この一週間、仕事はすべてできなかつた。
 
夜も、この七日間はほとんど一睡もしてゐない。
 
といふのも、考へが目を閉じても止まらないのだ。
 
何かのひとつのことば、ひとことをきっかけに、青天の霹靂のやうに怪鳥のやうな考へが舞い降りて来て、そいつが跳梁跋扈する。
 
猛烈な勢いで走り回ってその考へが終着地点に辿りついたとしても、またどこか別の場所を求めて終わりなく考へることを止めようとしない。
 
そして、すぐに朝が来てゐる。
 
普通は、考へといふものは、死んでくれてゐる。
 
死んでくれてゐるからこそ、昼間、自由に、その死んだ考へをつぎはぎしてわたしたちは生きてゐる。
 
考へがいのちを得る、とは、こんなにも恐ろしいことなのか。
 
こんなにも、人を引き摺り、引っ張り回すものなのか。
 
わたしの場合は、三十九度の高熱が、この状態をもたらし、意識を覚醒させたまま、精神世界のありやうに触れさせてもらつてゐるのだらう。
 
だから、一週間眠つてゐないのにも関はらず、昼の体力は大変に消耗してしまつてゐるのだが、意識は全く混濁してゐない。
 
肺炎といふ病も、言語造形といふ息の仕事をしてゐる自分にとつては致命傷にもなりかねないものであつた。いのちにも係わる病であつた。
 
また、いま書こうとしてゐる『丹生都比売』といふ舞台の戯曲のために、肺と水星の関係について学び始めた途端にこのやうなことが起こるといふことも見通し切れない意味がありさうだ。
 
そして、何が起こらうとも、感謝したい。
 
本当に、ありがたい。

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2017年11月10日

ことばへの祈り

 
どのやうな縁(えにし)で出会つたのか分からねど、今生、わたしは人と結ばれて、生きてゐる。
 
このやうに、わたしと人とを結はえてゐるのは、何だらう。
 
分からない。
 
分からねど、この縁(えにし)は大切にしたい。
 
ことば・・・。
 
胸の内につぶやくことば。
 
背筋に沿つて、立ちあがることば。
 
口に出すことば。
 
ことばは、天からの贈り物。
 
ことばが、わたしと人とを結はえるものとなりますやうに。

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2017年11月05日

本氣と本氣の出会ひにお金は一役買つてくれる

 
人が本氣で何かをなすとき、そこにはお金が流れるべきだ。
 
なぜなら、お金とは、人と人との間に流れるエネルギーが可視化されたものであり、だからこそ、人がまごころから本氣で何かをなし、何かを創造するときに流れ出るエネルギーに対して、それを意識して自覺的に受け取つた人は、必ず自分自身のこころからの氣持ちとしてお金といふエネルギーをお返ししたくなるのだ。人間の本質上、それは極めて自然なことである。
 
エネルギーとエネルギーが行き交ふこと、それを経済といふのではないだらうか。そもそも経済とは、感謝といふエネルギーの交流のことを言ふのではないだらうか。
 
そして、プロとアマとの違ひは、他者からの評価から決定されるのでは実はなく、根本的にはその人の意識次第なのである。自分はプロなんだと意識するほどにその人はますますプロになつていくのであり、自分はアマなんだと思つてゐる、その通りにその人はアマである。
 
さらに根本的には、プロでもアマでもどちらかがより価値があるといふことでもない。
 
要は、その人がまごころからしてゐるかどうか、本氣で創造してゐるかどうか、であつて、そのまごころ、本氣からの行為こそが社会的行為であつて、さういふ行為をこそ人は求めてゐて、さういふ行為にこそ人はお金を支払ひたいのだ。その時支払ふお金は、感謝と喜びと愛の表現である。
 
その行爲に於ける技量の高低も、そもそもはその人のエネルギーの強さによつてゐる。
 
 
 
個人的なことだけれども、「無償だが、原稿を書いてくれ」といふ依頼も以前は多々あつた。
 
ある催しに主催者から呼ばれて、この際丁度いいから諏訪さんに詩の朗唱や物語の語りをやつてもらひませうといふやうなものもいくつかあつた。
 
また、言語造形の生徒さん達の間にも「わたしたちはまだまだ未熟だから、お金をお客さんから戴くなんて畏れ多い」といふ考へがあつた。
 
 
 
このことは、本当に、自分自身と仲間たちの肝に銘じておきたい。
 
いい加減に何かをするといふことは本当に人をスポイルしてしまふといふこと。
 
人が人として本当に輝くためには、未來にではなく、いま、ここで、本氣になることのみによつてなのだといふこと。
 
そして、さういふ本氣の行為をこそ、人は求めてゐるのだといふこと。
 
だからこそ、人と人との本氣の出会ひの場において、お金はしつかりと介在するべきだといふこと。
 
かうしたことへの理解が、これからはだんだんと多くの人に共有されていくだらう。
 
だから、意識の転換である。大転換である。
 
本氣と本氣の出会ひこそが必要なのであつて、いい加減な行為はしない方がいい。
 
本氣と本氣の出会ひに、お金は一役買つてくれる。
 

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2017年11月04日

十一月三日 明治の日へと


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飛鳥川上座宇須多岐比売命神社

 
昨日は、文化の日で祝日でした。大阪も抜けるやうな青空で、まさしく「天高く馬肥ゆる秋」の一日を感じさせてくれました。
 
この十一月三日は、そもそも明治天皇の御生誕を寿ぐ祝日「明治節」でした。
 
それが先の大戰後、連合国軍が日本占領中に設置した総司令部 GHQ によつて、「文化の日」と名称を変えられました。
 
祝日の名前とは、もしかしたら、大切なものではないかと思ひ始めてゐます。
 
この日が「明治節」と名付けられてゐたとき、想像ですが、毎年、この日に多くの人々が明治天皇のことを想ひ出し、当時のことに想ひを馳せてゐただけでなく、きつと、「明治の精神」というものを想ひ出し、再び噛みしめる機縁にしてゐただらう。さう思ふのです。
 
その精神とは、何か特別なものといふよりかは、当たり前の日常坐臥のなかに表れる人々の振る舞ひ、ことば遣ひ、生き方に、まずは見てとれるものだつたのではないだらうか。
 
そこには、人に対する信頼、親に対する敬意、家族に対する信愛が息づいてゐて、それらはおのづから、萬物に宿つてゐる神々との繋がりを大切に守り、育みつづけてをられる、天皇といふ御存在に対する親しみ、崇敬といふ感情とも繋がつてゐたのでせう。
 
さらに、あの明治の御代に於いては、アメリカ、そしてヨーロッパ諸国からの侵略的圧力にどう向き合つていくか、といふ未曾有の国難のなかに日本人は生きてゐたわけですから、自分たちのアイデンティティーをどう立てていくかについて必死であり、混乱の中でも、相当な緊張感を孕んでゐた精神だつたのではないかと思ふのです。
 
当時、インドも中国もその他たくさんのアジア諸国も、欧米列強国によつて植民地化され、自国の伝統や精神を踏みにじられてゐましたが、日本はさうなつてはならない、そんな緊張感だつたのではないでせうか。
 
わたしは、個人的には、いまだ学んでゐる最中なのですが、森鷗外、島崎藤村、岡倉天心、内村鑑三、伊藤博文、乃木希典、それらの男たち、多くの多くの日本の男たち、そして誰よりも明治天皇ご自身に明治の精神の顕現を感じます。
 
その精神は、世界に向けて日本といふ国のアイデンティティー、独自の崇高さを、なんとか聲を振り絞りながら歌はうとしたのではないか。
 
十一月三日が、明治維新からちやうど百五十年になる來年、平成三十年(2018年)には、「明治の日」とその名を持つことができるやう、わたしも希んでゐる者です。


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2017年11月02日

意識して前の時代に立ち戻る

 
現代に於いては、子どもを教育するとき、若い人を教育するとき、自分自身を教育するとき、教へる人(自分自身)は古い時代のありかたに、意識的に立ち戻る必要がある。
 
この「意識して」と云ふところが、單なる先祖がへりではなく、いまならではのわたしたちのありかただ。
 
現代の人が頭に抱く〈考へ〉。それは、科学的であること、理智的であること、客觀的であること、さうであつてこそ、その〈考へ〉は外の世を生きていく上で欠かせないものになるだらう。その〈考へ〉は、外の世の発展に大いに寄与するだらう。
 
これらの<考へ>を、いかにして效率よく若い人たちに教へ込んでいくかが、現代教育にいまだに見られるありかたかもしれない。
 
しかし、それらの<考へ>は、肝腎かなめの、人を育てない!
人の中身を育てない。
 
頭のいい人を世に出すかもしれないが、情をもつて、寛やかに、暖かく、意欲をもつて、確かに、熱く、考へることができにくい人を創つてしまふ。
 
それは、<考へ>と云ふものが、いまは、ことごとく、死んでゐるからだ。
 
死んだ<考へ>をいくら与へられても、生きた人は育たない。
 
いかにして、死んだ<考へ>に、いのちを吹き込み、再び生きた<考へ>をこころに植ゑていくか。
 
これは、15世紀以前においては當たり前にしてゐたことで、<考へ>にはそもそもいのちが宿つてゐたからだ。
 
だからこそ、人は、その生きた<考へ>に、生きものに沿ふやうに附き合ひ、從ふことで、精神からの、神々からの、恵みと戒めを授かつてゐたのだ。
 
アジアにおいては、とりわけ我が国にをいては、その前時代の<考へ>のありかたが15世紀以降も殘つてゐたやうで、わたしたち日本人独特の、ものの考へ方、感じ方に、他と比べて劣つた、後進性を見てとるのか、むしろ微笑みをもつて誇りを感じ、この特異性を生かす道を新しく見いだして行くのかは、人それぞれだらう。
 
それは、ともかくも、現代において、その死んだ<考へ>を子どもたちに与へることを止めて、前時代のやうにおのづから息づいてゐた生きた<考へ>を、新しく意識的に子どものこころに植ゑていくこと。
 
小学校時代の子どもたちには、正しいことを教へ込むのではなく、美しいことへの感覺をひとりひとりの子のなかから引き出したい。
 
中・高時代の若い人たちには、仕上がり濟みの<考へ>・定義を教へ込むのではなく、觀察し、ひとりひとり新しく活き活きと考へ、ともに語り合ふ場を創つていくことを助けたい。
 
そもそも、どの子のなかにも美しさへの感覺はあり、どの若い人のなかにも、自分自身で、まこととは何かを考へる力があるのだから。
 
その「美への感覺」「まことを追ひ求める力」、それを誘ひ出すやうな、像をもつた語り口。そこに、生きた<考へ>が宿る。
 
いづれも、この世に生まれてきて、まだ年かさもゆかない人たちが、一個の存在としての己れに不安を覺え始めてゐるときに、世と云ふものと再び鮮烈に出会ふことへと促していくのが、傍にゐる大人の役目。
 
そのためには、大人であるわたし自身が、毎日、鮮烈に、世と云ふものと出会つてゐるのか?どうなんだ?
 
さう、改めて、自分自身に問うてゐる。
 
その毎日の鮮烈な出会ひを産みだしていくためにどうしていつたらいいかを、仲間と共に探つていきたい。
 

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2017年10月31日

分からぬまま突き進め

 
何が起こるか分からない暗闇の中を歩くのは、とても怖い。
 
先が見えないとき、どこへ連れて行かれるか分からないときの恐れ。
 
あつて当然であらう。
 
しかし、突き進め。
 
その道がどのやうな道であつたのか、分かる日がきつと来る。
 
秋が深まつてくるにつれて、そのやうな声なき声が聴こえるやうな気がしてゐる。
 
冬の聖き夜に向かつて、暗闇の中を歩いて行くのだ。
 
そこには、必ず、ともしびが灯つてゐる。

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2017年10月29日

ありがたいお知らせ


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和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都比売(にふつひめ)神社。
 
わたしが足を運ぶときは、決まつて雨。しかも、今日は和歌山県に台風22号直撃。
 
しかし、その物凄い雨と風の天野の里で、丹生都比売といふ神さまをテーマにした新しい言語造形の舞台創りのために、今日もいろいろな話し合ひを丹生宮司夫妻とさせてもらふことができた。
 
夫妻から様々な提案をいただき、思つてもみなかつた全く新しい展開が開けて來る。
 
人と会つて話しをするといふことは、それまでの自分自身といふ小さな枠組みをはずすといふことである。
 
本質的で大切なことに向かつて、自分自身をどんどん変えていくといふことである。
 
これまでのやり方とは全く違ふやり方で仕事をせよ。
これまでの人とのつき合ひ方とは全く違ふつき合ひ方をせよ。
 
さういふお知らせをもらへてゐるやうに感じてゐる。
 
とてもありがたく、とても充実した時間だつた。

台風が過ぎ去つて、帰りの電車の中から、青空にかかつてゐる龍の姿の雲とその雲に虹が顕れてゐるのが見えた。
 
また、何かをお知らせしてくれてゐたやうに思ふ。
 

 

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2017年10月25日

尊敬する存在

 
子どもが思はず知らず発することばに、どきつとすることがないだらうか。
 
そこに、神の姿を観ることがないだらうか。神の声を聴くことがないだらうか。
 
人が、おのづから洩らす息遣ひ、おのづから呟く響き、おのづから発することば。
 
そこに、耳を傾けよう。
 
わたしたち日本人の仕事は、その人がおのづから発することばを美しくすることである。
 
人が、巧まず、弄せず、こころの底から打ち出す響きを、純粋なものにすることである。
 
ことばとこころがひとつになるとき、その響きは純粋なものになる。子どもたちは本来そんな響きの中に生きてゐる。
 
その響きを、大人たちが生きるのは、本当に難しいことである。
 
しかし、これほど、思つてゐることと話してゐることとが乖離してしまつてもそのことを恥とも思はない人が増えてきた昨今、わたしたちの仕事は、その恥の感覚をいま一度想ひ起こすことが肝要である。
 
古(いにしへ)の道。
 
我が国の古の道では、人が人であることの感覚が育まれてゐた 。
 
それは、ひとりひとりの民が、各々、尊敬する存在を持つことで延びてゆく道である。
 
生きていく上でのお手本を見いだすことで育つてゆく樹木である。
 
さういふ道を歩くこと、さういふ樹木を育てることは、他者から要請されることではなく、各々の自発性、自主性に基づく自由に根差した行為である。
 
子どもは、尊敬する存在が傍にゐてくれることで、健やかに成長していく。
 
大人だつて、さうなのだ。
 
尊敬する存在を持つことで、人は、己れのことばとこころが重なりあふ、健やかさを獲得していくことができるのだ。
 
さういふ国語教育が、我が国では古来なされてゐた。
 
古来、日本の民は皆、尊敬する存在を頂いてゐた。
 
昔の日本人は、さういふ神ながらの道を皆歩いてゐたのだ。

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2017年10月23日

垂直を仰ぐ


己れみづからへの信頼。いはゆる、自信といふもの。自尊心といふもの。
 
それは、他人との比較、他人からの模倣、ましてや他人との交流などから生まれるものではない。
  
人が、本当に、自分自身の力を発揮するには、水平的な現実や世間などをあへて視野の外にはずして、ひとりきりになつて徹底的に垂直を仰ぎ見続ける訓練をすること。
 
その訓練の内に、だんだんゆつくりと、己れへの信頼が生まれてくる。
 
己れの真ん中を貫いて樹(た)つ大いなる信を育てるのだ。
 
この己れへの信が最も強く要請されるのは、非常時ではないか。
 
しかし、平常時からこの「垂直を仰ぐ」こころの訓練をしておかねば、非常時にこのこころの力、精神の働きが作動するはずもない。
 
そもそも、すべての学問に於いて、この「垂直を仰ぐ」ことこそが本当の目当てであつたはずだ。
 
自分自身にとつて「垂直」とは何を指すのか。
 
そこを常に問ふことで、澱んでゐたこころといのちが、ほとばしり始める。
 

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2017年10月22日

永遠(とこしへ)に焦がれる

 
私は「憧れ」に生きることこそが、人間の本質と考えている。
憧れは、燃えさかる悲しみである。
自己の生命が燃焼し、その燃え尽きた先にある「何ものか」だ。
            (『「憧れ」の思想 』 執行草舟 著)

 

己れのいのちを燃やし尽くしたその先にあるものに向かふ。その時、人は「憧れ」に生きてゐる。執行氏はさう書いてゐる。
 
憧れとは、そもそも、ぼやつとした曖昧なものではない。「あこがれ」であり、わたしたちは焦がれるのだ。「あ」に向かつてこころ焦がすのだ。
 
「あ」とは、世の始源である。天地(あめつち)の初発(はじめ)である。「はじめのとき」とは、永遠(とこしへ)である。
 
その永遠に於いて、わたしは何に焦がれてゐるのか。どのやうな「憧れ」を抱いて生きようとしてゐるのか。
 
それは、もはや、単一のことばでは言ひやうがない。百万言費やしても言ひ尽くせないもの、それがわたしたちの「憧れ」ではないだらうか。
 
その言ひ尽くせないものに向かふとき、人は己れのいのちを燃やし尽くさねばゐられない。だからこそ、執行氏は憧れとは燃えさかる悲しみであると記してゐる。
 
いのちとは、脈打ち、波打つものである。勢ひよく流れることもあれば、澱み、濁り、疲れ果てることもある。
 
そのいのちの働きが、人生の様々な幸せ・不幸せに出会ふ。
 
その幸せ、不幸せを貫く「仕合わせ」を受け入れ、味はひ、つんざいて、進んでいく。
 
そこに悲しみが伴はずにゐられようか。
 
死に向かつて生きてゐるわたしたちは、死の向かうにある何かにこころ焦がして生きていく。
 
「憧れ」。それは、決して、この世に於いては成就しない、永遠(とこしへ)へと向かふ、人の性(さが)である。
 

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2017年10月21日

仕組みづくり


例へば、いつも遅刻をしてくる人がゐる。
 
いつも遅刻をする人は、それが常習になつてしまつてゐて、その都度、もつともらしい言い訳をしたりする。

しかし、さういふ遅刻が常習となつてしまつてゐる人に対して、そのことを咎めても、その人を責めたてても、その人の心理に圧迫を与へはするが、結局、何か本当のところへは互いの認識が辿り着かないやうに思ふ。

いやいや、わたしも、遅刻をすることがある。いつなんどき自分自身がさういふ事態に陥るやもしれないのだ。他人に対するその責めがブーメランのやうに自分自身に帰つてきたりすることも、ままあるではないか。
 
とは言つても、遅刻が常習となつてゐるその人のことを思ひやつて、「遅刻するのも仕方ないよね、いろいろな事情があるよね」といふやうな曖昧な暗黙の了解・承認のやうにしてしまへば、人と人とが力を合わせて何か有意義なものを創り出さうとするその集まりにとつて徐々に破壊的な作用を及ぼしてしまふ。
 
より善きことは、どういふあり方だらう。
 
その人に「悔い改める」やうに説得することではおそらくないだらう。
 
ここでは、「いや、さういふあなたの外面で起こつてゐる出来事は、あなたの内面のありやうを何らかの形で鏡のやうに映し出してゐるのですよ」といふやうな「スピリチュアルな」捉え方はあへてしないでおきたい。
 
個人的な経験から言ふと、人はその場に責任をもつて臨んでゐると、そのやうな遅刻などはしない。
 
しかし、責任感がなく、一参加者、一消費者、もしくは傍観者的な立場にゐると、人は気が緩むのか、振る舞ひがルーズになりがちである。
 
何か有意義なものを創り出す集まりを持つときの要(かなめ)のことは、何だらう。
 
それは、人が各々責任をもつてその集まりに参加することを促すやうな、「仕組みづくり」ではないだらうか。
 
そもそも責任とは、自由意志が前提となるはずだ。
 
つまり、人は、自分自身の発意・考へをもつて何かをするときにのみ、そのことに対する責任を負うことができる。
 
さう考へると、各々、自分は何をしたいのかをしつかりと考へてから集まりに参加することで、その場に対して己れが負ふべき責任を自覚できるのではないか。
 
だから、何か有意義な集まりを創らうとするなら、そこに参加しようとするひとりひとりに、「あなたは、この集まりに於いて、何をしたいのか」といふことを明確に自覚させるやうな『仕組み』を作ることが有効なのではないか。
 
例へば、その都度その都度、「わたしは、この集まりに於いて、何をしたいのか」とひとりひとりが自分自身に問ひかけることを前提として集まりに参加してもらふこと。
 
集まりの中で、または、集まりの後で、さういふ自問自答が促されるやうな時間を持つこと、などなど・・・。
 
遅刻を常習としてゐる人に対する不満からその人を責めることをせずとも、そのやうな『仕組み』を作ることで随分とものごとは改善するのではないだらうか。
 
ただいま、実験中である。

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2017年10月18日

三十年


昨日、難波に向かふ電車に乗ると、黒いスーツを着て席に座つてゐる一人の男に目が行つた。
 
髪も髭も真つ白で、だいぶん薄くなつてゐる長めの頭髪を後ろに撫でつけてゐる。長い身丈をかがませるやうに座つてゐる。彫りの深いその顔には、疲れと苦悩を感じさせる表情が刻まれてゐた。じつと瞑目してゐるやうに見えた。
 
ぱつと視て、歳の頃は六十代後半から七十代に一瞬思つた。
 
しかし、その男は、わたしの友だつたことに、漸く気づいた。胸がなぜだか高鳴つた。
 
高校生から大学生だつた頃、お互いの家を行き来しながら、ギターを弾き、ドラムを叩きながら、音楽に夢中だつた頃の友だつた。同じ歳だ。
 
彼は、その後大阪を離れ、若くして結婚して、しばらくして離婚した、といふことは風の噂で聞いてゐた。
 
なかなか連絡が取れなくて、彼の親御さんを通して、「会ひたい」といふことを伝へたが、彼の方は「会ひたくない」といふ答へだと親御さんから伺ひ、それつきりになつてしまつてゐた。
 
三十年以上ぶりに彼をみた。
 
電車の中で少し離れたところに座つたわたしは、彼から目が離せなかつた。しかし、近寄つて行つて声をかけることはできなかつた。
 
終点の難波に着いて、思はずわたしは彼の後をつけてしまつたが、やがて彼は街の雑踏の中に消えてしまつた。
 
 
 
三十年。
 
互いに生きて来たんだなあ。
 

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2017年10月15日

「親しみ」といふ根源的な感情


 
昨年の今日10月13日、自分が書いた文章を讀むと、同じ時期には同じやうなことを考へ、感じるものなんだなあ、と思ふ。
 
ーーーーーーーーーーーーーー
 
実際に、人と会つて話すことで、インターネット上でその人のことばを讀むことよりも、その人のことがよ〜く理解できる。その人に親しみを感じる。
 
そんなことを感じる、ここ數日。今日もさうだつた。
 
この「親しみ」といふ感覺は本當に大切にしたいと思ふ。
 
人と人との純なつながりであり、人が人であることのおほもとの情だから。
 
 
ところで、いま、自分が取り組んでゐる『萬葉集』は、このおほもとの情を、とても大事にしようとしてゐた人、大伴家持が編んだ、和歌(やまとうた)のアンソロジーだつたことを、改めて感慨深く思ふ。
 
天地(あめつち)の初發(はじめ)に漲つてゐたであらう、天地未分の、主客未分の、愛以前の、「親しみ」といふ根源的な感情。
 
さう、昔は、「愛」なんてことばはなかった。「したしみ」であり、「いとしみ」であり、「いつくしみ」であつた。
 

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2017年10月01日

己れのすがた 己れのみなもと


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奥飛鳥の大仁保神社にて

 
藝術の世界での国際性は、民族の伝統を大切にする者からのみ生まれるのではないか。
 
一国と他国とを人間的に繋げていくことができるのは、己が国を愛し、民族の歴史と伝統を貫く精神のみではないか。
 
絵に描いたやうな普遍的な精神では、国と国とは繋がることができないのではないか。人と人とが繋がることはできないのではないか。
 
国といふものは大切なものではないか。
 
家といふものは大切なものではないか。
 
内と外との境をしつかりと形作り、見守り続けるといふことはとりわけ現代にをいて大切なことではないか。
 
かたちを持つといふこと、そのかたちを新たに新たに造形し続ける力を育むといふことは、大切なことではないか。
 
無国籍のものではなく、国籍をしつかりと持つてゐるもの。
 
精神的な漂流者ではなく、精神的土着の者。
 
さういふもののみが、他者へと通じる道を持つのではないか。
 
民族の伝統とは、民族の造形力である。
 
ひとりひとりの人には、実は、無限の創造力がある。
 
そして、ひとつひとつの民族には、民族独自の無限の造形力がある。
 
さういふ民族の無限の造形力、ひとりひとりの創造力をわたしたちが発揮していくことこそが、次の世代への希望のともしびとなる。
 
それは、よそからの借り物ではなく、己れの源泉からこんこんと湧き上がつてくる、尽きることのない精神の力なのだ。
 
己れのすがた。己れのみなもと。
 
わたしの仕事として、それこそをしつかりと見るやうな気風を育てること。そのやうな自己教育の指針を示唆していきたい。
 

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2017年09月19日

剣を研ぐ


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しかし、かうして、毎朝、「今日も学ぼう、学ぼう」といふ意欲が湧いてくるのはどうしてなんだらう。
 
学んで、学んで、何をしたい?何になりたい?
 
分からない。
 
ただ、人様と深い喜びを分かち合ひたい。
 
その意欲とは、常に、未来へと立ち上がり続ける剣(つるぎ)だ。
 
スサノオノミコトによつてヤマタノオロチの尾から取り出された剣、草薙(くさなぎ)の剣だ。
 
殺し合ふための剣ではなく、草を薙ぎ、人が歩くことができる道、人が耕すことのできる田、人と人とが睦みあへる広々とした野原を現出させるための剣だ。
 
その剣は、スサノオノミコトによつて高天原の天照大御神に預けられ、その上で、天照大御神から地上に降臨するホノニニギノミコトに授けられた。
 
その剣は、意欲の力としてひとりひとりの人に授けられ、ひとりひとりの人によつて未来へと掲げられる。
 
死の後の世にまで届く剣だ。
 
わたしも、この剣を毎日研ぎ続け、掲げ続けていくのだ。

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鏡を磨いて待つ


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シュタイナーの『普遍人間学』講座を受け持たせてもらつた昨日までの三日間の教員養成講座では、自分自身こそが学んだと思ふ。
 
想ふ、考へる、想ひ起こす、かういふ一連の瞬間的な作業をしつつ、ことばにして他者に語りかけるといふ行為がなされる。
 
想ひ起こすって大変だ。
自分独りで想ひ起こさう、想ひ起こさうとして、かえつて空回りしてしまふ。ことばが宙に浮いてしまふ。
 
そのやうにして独力でなんとかしようと焦らずに、過去からの光に我がこころの鏡が照らされるのを安らかに待つことができるとき、想ひ起こすといふことが健やかに立ち上がつてくるのに!
 
 
日本神話から、こんなイメージ、想ひが、こころに降りてくる。
 
過去からの光、それは、つまるところ、高天原にをわします天照大御神からの光であり、それがわたしたちの抱く考への像であり、わたしたちはひとりひとり、その光を照らし返し、像を映し出す鏡をこの身にことよさしされ、授かつてゐる。
 
「この鏡は、もはら吾(あ)が御霊(みたま)として、吾が御前をいつくがごとく、いつきまつり給へ」と天照大御神がホノニ二ギノミコトにことよさしなされたやうに。
 
 
わたしたちは、己れのその鏡を磨いて待つほどに、鏡面は曇りなく像を映し出し、しつかりと想ひ起こすべきことを想ひ起こすことができる。
 
その「待つ」といふこと、それは、できうる限り準備を重ねるだけでなく、落とされる小石が拡げるどんな波紋も見ることができるやうにこころを平明に静かに整えておくこと。
 
そのためには、深い息遣ひ、呼吸のありやうが、鍵を握つてゐる。
 
想ひ起こすこと、考へること、その考へを的確に精確にことばに鋳直すこと、それは、高天原からの光を我が鏡に出来る限り曇りなく映し出すことだ。
 
本当に、学びには限りがないなあ・・・。

posted by koji at 09:05 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月13日

右往左往せず大本に帰ること


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目隠しをされつづけてゐると、その目隠しされてゐることを忘れてしまふ。
 
そして、いまがどのやうな時なのかが分からないまま、漫然と今日といふ日を過ごしてしまふ。
 
間違ひなく、いま、日本は国際関係にをいて緊張状態にある。
 
しかし、そんな非常時だからこそ、情勢に右往左往せずに、むしろ、大本のところへ帰りたいと思ふ。
 
わたしにとつて、大本とは、精神に立ち返ること。
立ち返るべき精神とは、まづもつて無国籍の精神ではない。
日本の国にはこの国ならではの土着の精神性がある。
 
そこを掘り起こすためには、古典に常に立ち返ること。
さう立ち返ることのできる国が、世界で唯一、日本なのだ。
 
古事記(ふることぶみ)は、その序文に、天武天皇の勅命で作成が始められたとある。
 
そこでは、きわめて芸術的に、天地(あめつち)の初めからの物語が語り起こされてゐて、代々の天皇による肇国(はつくに=国創りのはじめ)の精神が説きつくされてある。
 
驚くべきことに、その精神が代々125代に亘つて継続されてゐるのが、我が国である。
 
古事記に記されてゐる歴代の御存在が、いま現在も存続してをられる。
 
だから、顕教ではなく、密教的な観点で、現代にをいて神がかつてゐる唯一の近代国家が日本である。
 
そのやうな国のあり方を伝える古典は、他の国には皆無なのだ。
 
あるとしても、その精神性は他国にをいて現代の社会生活の中では完全に断ち切られてゐる。
 
宇宙と国のはじまりを説く神話と歴史。
 
『古事記』は語り物として、それをいまに伝へてくれてゐる。
『萬葉集』は詩として、それをいまに伝へてくれてゐる。
 
この二書を熟読玩味することが、大本へ帰る志を己れの中に育てる。
 

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2017年09月12日

全身全霊で語る人 〜ベン・チェリー先生〜


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今週末に三日間連続でシュタイナー教員養成講座があり、そこで普遍人間学講座が控えてゐる。
 
わたしがこのやうな講座をするに当たつて、お手本にしてゐる先生がひとりゐる。
 
それは、ひびきの村で十数年前にご一緒したベン・チェリー先生だ。
 
彼はそのときオカルト生理学を一週間担当されてゐた。
 
彼の授業の進め方は、一冊の本を深く深く読み込み、咀嚼した上で(その作業はおそらく何年もの長い年月が掛けられてゐるだらう)、その本の記述に捉われることなく、きわめて自由自在に毎日の授業を繰りなしておられた。
 
ベン先生は、普段はもの静かな立ち居振る舞ひをされる方なのだが、授業になると、とても表情豊かに、身振り豊かに、全身全霊で語り、説かれるのだつた。
 
わたしは、授業内容の魅力と共に、彼のあり方そのものにとても惹かれた。
 
高い叡智に満ちたことばを、精神、こころ、からだのまるごとをもつて、語る人。
 
さういふ存在に出会えたことは、本当に僥倖だと念ふ。
 
ベン先生は、いまも、お元気だらうか。

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2017年08月28日

国語力


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自分の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、無駄なことばを使はず、ふさはしいことばで、端的に、語る力。
 
そして、そのやうに、書く力。
 
一方、他者の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを聴き取る力。
 
そして、他者の書いたことば、読むべきことばを熟読、味読し、行間を読み取る力。
 
これら四つの力、話す力、書く力、聴く力、読む力を育むことが、すべての人にとつて、人として生きていく上で、とても、とても、大切なことであるやうに思ふ。
 
とりわけ、読む力、書く力は、時代を越え、地域さへも越えて、人と人とが繋がりあふために育みたい大切な力だが、まづは、読む力について述べたい。
 
ことばと深く、長く、付きあひ続け、ことばが描く世界を最後まで辿り抜く内的な経験。
 
そんな熟読・味読といふ行為こそが、人が人であることを想ひ起こさせ、人を歴史と文化に接続し、精神的存在とする。
 
それは、己れと己れを囲んでゐる狭い時代性と地域性とを忘れてしまふやうな深い驚きと、孤独と孤独を繋ぐ安らぎと満ち足りを読者にもたらし、または、古と今を貫く連続性、伝統といふものに目覚めさせる。
 
この驚きと喜びを知ることが、どれほど生きることに力と指針を与へてくれることか。
 
そして、聴く力を促し、育むやうな働きをするのが、言語造形といふ芸術であると思ふ。
 
言語造形の舞台は、上に書いたやうな読書体験での味はひを、聴く体験へと精神的に深める。
 
ことばといふものが、知的に理解されるものであるだけでなく、全身で感覚され、情で感じられるものへと、その働きを拡げ、深める。
 
ことばを聴く時間を芸術的なものにすること。
読書を情報収集と一緒にしないこと。
 
その積み重ねが、芸術的に話す力へと、人間力そのままが出てしまふ書く力へと、おのづからなりかはつてゆく。
 
国語力が、人をその民族の子とし、その人をその人とする。 

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2017年08月26日

ユダヤと日本のひめやかな繋がり 〜クリスマスのキリスト生誕劇〜 


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今年のクリスマスに上演するキリスト生誕劇の稽古風景。
 
昨日は、歌を指導してくれる足利智子さん、ヴァイオリン担当の高垣さおりさんとともに、歌の稽古に励んだ。
 
この生誕劇では、川の流れのやうに歌の調べが深く豊かに支配する。
 
その流れをどれほどの透明度で奏でることができるだらう。
 
わたしたちの挑戦だ。
 
ユダヤの物語を日本のわたしたちが演じることの意味を、聖書の耽読と共にわたしたちは劇を創ることによつて探り求めてゐる。
 
そこには、思ひもよらないユダヤと日本のひめやかな繋がりが、きつと、聴こえてくるだらう。
  
 
『ことばの家・キリスト生誕劇』
12月25日(月)夕方5時開演 
於・大阪市住吉区民センター小ホール

posted by koji at 21:22 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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