そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。
大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」。
わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。
わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしは問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていきます。
そして、わたしの中の「子ども時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。
第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。
その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。
そして、他者と語り合ふ中でこそ、そのひとりで考へる力が育まれていきます。
若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。
そんなとき、時間をかけながら、側にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。
そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。
そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、側にゐる大人が見てとつてあげられたら。
『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。
第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。
さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。
他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。
「では、わたしは、世に対して、何をしていかうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。
第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。
若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の側にゐる大人のひとつの役割でせう。
ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。
「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。
彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。
人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。
そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。
それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。
さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んでいかうか。引き続き、わたしにとつての2018年の課題です。
(完)
posted by koji at 17:49
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