2018年01月22日

奇跡


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去年の11月半ばから、この1月半ばまでの約二か月間。
 
わたしにとつて、苦しみと大いなる学びの時間だつたやうに思ふ。 
 
去年の11月の中頃に一週間40度近くの高熱が続き、その一週間はほとんど眠れなかつた。
 
人間が、一週間も眠らずに生きてゐるなんてことは、これまで想像もできなかつた。夜の間、ただ、めくるめく考へがずつと頭の中を暴走して、わたしを休ませてくれない。まるで、考への大河の奔流の只中に抛り込まれたやうで、次から次へと考へがわたしを引き摺り回して、あつといふ間に朝が来る。そして、夜間も昼間も弱りゆく体力を感じながらも、ずつと、意識は完全に目覚めたままだつた。
 
そして、肺炎を患つてしまつた。息をするたびに肺が強く痛み、その後も、肺炎がなかなか治らず、肺がんの疑ひありとのことで、精密検診を受けた。
 
しかし、がんに当たるやうなものは何もないといふことだつた。
 
そして、クリスマスの生誕劇を越へて、年が明けて間もなく、強いめまひに襲われ、10日間ほど、そのめまひと吐き気といくつかの付随する症状にとても苦しんだ。真っ直ぐ歩くことも、立つこともできなかつた。
 
典型的な、脳梗塞の前触れである。
 
そこで、また精密検査を受けたが、脳には何の異常もないとのことだつた。
 
身体的に、心理的に、随分と、追い詰められたやうな二か月だつたやうに思ふ。
 
油断は大敵だが、しかし、いま、かうして、健やかさを取り戻させてもらつてゐる。
 
どちらの病も、共に、呼吸と血液循環といふ胸部の循環器系の故障に淵源があると思ふ。これは、こころの働き、主に感情の働きと関係があるのではないだらうか。
 
精密検査とはいつても、科学的でありつつ、実は、運の巡り、神からの恵みといふところが多分にあるのではないだらうか、といふ実感がある。
 
神は、何をわたしに諭さうとされ、与へようとされてゐるのだらうか。
 
たくさんのことだ。
 
その、たくさんのことを、いま、やうやく、噛みしめさせてもらつてゐる。
 
生かされてあるといふことは、奇跡だ。


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2018年01月05日

天職相続 〜ことばの家 諏訪〜

 
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よく人は言ふ。
 
「理想」と「現実」は、違ふと。
 
それは、さうだらうと思ふ。「理想」といふものが頭で考へられてゐるかぎり、そのやうな「理想」は、どこまで行つても「絵に描いた餅」で、舌をも腹をも満ち足らせはすまい。
 
わたしたちは、ただただ、言語造形の練習だけを毎日し、舞台をひとつひとつ創り続けてゐる。
 
道を毎日歩き続けてゐるやうなものだ。
 
わたしたちは、「理想」と「現実」との関係を生きてはゐない。
 
さうではなく、「道」と「現実」との関係を生きてゐる。そしてそこには乖離がない。
 
「道」。
 
それは、ただ、行為することの連続である。
 
そして、それは、きつと、天からひとりひとりの人が与へられてゐる。
 
日本の伝統では、さういふ天から与へられた仕事を「天職」として、おほらかに、親から子へ、そして孫へと、受け継ぎ、引き継いで、「家の名」を立てることをたいせつにした。
 
「天職相続」。
 
それは、現代の個人主義的な生き方とは正反対のものだ。
 
そもそも、ひとりひとりが、何かの仕事を「ことよさし」されてゐる。
 
その「天職」に籠もる精神を自覚し、子や孫へと受け渡していくこと、それがそもそも、日本の「家」といふものであるか。
 
ただただ、毎日を歩き続ける。行為し続ける。稽古し続ける。
 
わたしたちも、さうしようと、考へてゐる。
 
 
「ことばの家 諏訪」ホームページはこちら ↓
https://kotobanoie.net/
 

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2017年12月29日

十年後


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平櫛田中作「尋牛」

 
いま懸命になつて学び勉強してゐることが、己れのことば、己れの力となつて世に羽ばたいていく。
 
それは、おほよそ、十年後である。
 
人に於いては、何事も、熟し、稔りを迎へるには、十年を要する。
 
ひとつのことを毎日懸命になつて、十年やり続けてみる。それは必ずその人の技量となつて世に働きかけ始める。
 
もちろん、その道に終はりはなく、二十年、三十年と学びは続くだらう。
 
 
今日一日、懸命。今日一日、懸命。そんな生き方をしていきたい。
 
子どもたちや若い人たちにも理屈ではなく、知識でもない、そのやうな人のあり方を身をもつて伝へていきたく念ふ。
 
 


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2017年12月27日

祭りとその準備

 
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春日大社のおんまつり

わたしたち「ことばの家」がしてゐることは何だらう。ふとさう思つた。
 
それは、「遊び」だ。「遊び」とは神と交わることだ。
 
「遊び」であり、また「労働」だ。それは、同じことである。
 
さらに言へば、「祭り」だ。
 
祭りを執り行ふには、準備が要る。
 
古来、日本といふ国に於ける祭りの準備とは、神に捧げるものの生産のことでもあつた。米であり、餅であり、酒であり、その他この一年に生産・収穫・加工されたものを神に感謝して神の前に捧げるべく、働くことが、そのまま祭りの準備だつた。その労働は、人力で成し遂げられるといふ思ひ込みでなされるのではなく、大いに神のご加護とご神威をもつて成し遂げられるのだといふ信仰心とひとつであつた。生産のための労働自体がすでに信仰的行為だつた。日本では、そもそも、経済活動と信仰活動がひとつだつた。
 
それらが神前に捧げられ、そして改めて民のいのちを養ふ糧として民がそれらを頂き、神と共に飲み食い、饗宴すること、さらにこの年の豊作への感謝と来たる年の収穫を乞ひ願ふことばを祝詞として唱へること、舞ひ踊ること、それが祭りといふものだつた。
 
その意味で、準備としての生産と、祭りとは、ひとつのものであつた。
 
わたしたち「ことばの家」は、毎日の稽古を通して、「ことば」をだんだんと練り上げ、磨き上げ、研ぎ上げながら、言語作品を生産してゐる。
 
それは、祭りに向けてのひたすらな準備である。
 
わたしたちにとつては、舞台公演といふものが、まぎれのない「祭り」であり、「ことばが肉となること」を多くの人と共に喜び、祝ひ合ふ場である。
 
生産物が神前に供へられ、同時にそれらが民の糧ともなるやうに、来たる年も、わたしたち「ことばの家」は、ことばを生産し、それを皆で「こころの糧、魂の糧」として食すことができるやう、毎日を遊びつつ、働きつつ、生産に励んでいきたいと思つてゐる。
 

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2017年12月21日

闇、だんだんと光を捉える


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例へば、シュタイナー教育の実践の場や、わたしが取り組んでゐる言語造形の場など、精神的なものの実現・定着を目指してゐる場において、気をつけなければならないな、と感じ、考えてゐることがあります。
 
そのやうな「光の場」において、人は、みづからの内に深くしまいこんでゐるものが出て来てしまふ、といふことです。
 
その場が、光を目指すほどに、闇が忍び寄つてくる。
 
そして、その闇の忍び寄り方には、ふたとほりある。
 
普段、どちらかといふと、熱狂しやすく、陶酔しやすく、熱くなりやすく、またその反動で冷たくなってしまふ、そのやうな質(たち)をわたしが持つてゐるならば、光の場に入ると、その場がここちよく感じられるあまりに、「このことのみが真実だ、他はたいしたことがない、いつまでもここにゐたい、この場から、出て行きたくない」と感じる方へわたしは傾いてしまふ。
 
一方、精神的なものごとを信じてゐる、信じてゐないに関わらず、精神から離れている生活を営んでしまってゐるやうなとき、ものごとはすべて計算で割り切れるとの思ひ込み、すべては計画通りに進んでいつてもらいたいとの偏つた希み、人のことも自分のことも信じられなくなってしまふやうなとき、光の場に入ると、その場の雰囲気が嘘臭く思へたり、こんなものは現実的ではない、と思つたり、早くこの場から出て行きたい、と願つたり、疲れや失望を過剰に感じたり、その向きへとわたしは傾いてしまふ。
 
どちらの傾きも、わたしの内にあります。
 
光の場だからこそ、そのやうに闇が強くふたとほりに人のこころを通して忍び寄つてきます。
 
光の場は、きつと、いま、人に、強く求められてゐます。
 
わたしたちは、気づいた者から、そのやうな光の場を各地に創つていくことを始めてゐます。
 
そして同時に、そのやうな場に闇が忍び寄つてくることに、遅かれ早かれ誰しもが直面します。
 
直面して初めて人は学ぶことができます。
 
光の場を創っていく上で、イニシアティブを持つて創っていくとき、己れのこころに忍び寄つてくるふたとほりの闇に意識的であることが大切なことだと、自戒してゐます。
 
そして、そのふたとほりの闇のあり方に傾かず、その間でバランスを取つて立つとはどういふことなのか、それを意識的に追い求めていかざるをえません。
 
光、闇にそそぎき、しかし、闇、光をとらえずありき (ヨハネ一)
 
そして、闇はだんだんに光をとらえるにいたる。
 
それは、「人が内なるところにおいて闇に打ち勝ち、ロゴスの光を知る」との意味です。

クリスマスのテーマであり、お年越しのテーマであります。 
 

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2017年12月18日

子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたしの内の子ども(青春)時代〜


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そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。
 
大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」。
 
わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。
 
わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしは問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていきます。
 
そして、わたしの中の「子ども時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。
 
第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。
 
その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。
 
そして、他者と語り合ふ中でこそ、そのひとりで考へる力が育まれていきます。
 
若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。
 
そんなとき、時間をかけながら、側にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。
 
そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。
 
そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、側にゐる大人が見てとつてあげられたら。
 
『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。
 
第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。
 
さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。
 
他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。
 
「では、わたしは、世に対して、何をしていかうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。
 
第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。
 
若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の側にゐる大人のひとつの役割でせう。
 
ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。
 
「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。
 
彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。
 
人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。
 
そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。
 
それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。
 
さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んでいかうか。引き続き、わたしにとつての2018年の課題です。
 
(完)

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子ども時代D 〜順序を間違えないこと〜


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欲する力・意欲の働きがむき出しの0歳から7歳。

その欲する力の上に、感じる力・情の衣をまとひ始めるのが7歳から14歳。
 
そしてその欲する力、感じる力から、だんだんとひとりで考へる力が育つてくるのが14歳から21歳。
 
それら三つの力はどれも、その人のその人たるところ、「わたし」から生まれてこようとしてゐるものですが、年齢によつてその表れ方が異なつてゐて、欲する力として、感じる力として、考へる力として、順番に現れてきます。
 
それらおのづと生まれてくる力の順序を間違へずに、その順序どほりに育んでいくことが、人の育ちにとつてとても大事な意味を持ちます。
 
小学生に、「自分で考へなさい」と言つてしまふこと、ありませんか。
 
人といふものをよく見てとつてみると、小学校に通つてゐる時期には、子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、おのづと、感じる力といふ衣をまとひ始めてゐる、しかし、自分ひとりで考へる力は、まだ生まれてきてゐない。
 
「自分で考へなさい」「自分で判断しなさい」といふ指導は、その時期の子どもには早すぎるのです。
 
「シュタイナー教育では、かう考へる」といふのではなく、人をあるがまま観てとる練習をしていけば、そのやうな順序を間違へない判斷がだんだんとなされるやうになつてきます。
 
人をあるがままに観てとる練習。その練習は、きつと、生涯、続きます。
 

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2017年12月17日

子ども時代C 〜民族言語の主(あるじ)になる練習〜


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写真 山本美紀子さん撮影


小学校時代の第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、子どもと地域との関係性、それは一対多の関係性とも言へるのですが、より本質的に言へば、それは人と民族との関係性です。
 
民族とは、ひとつの言語を母語として共有してゐる人々の集まりを言ひます。
 
ひとつの言語を共有することによつて、人々は共にある、といふことを実は感じてゐます。ほとんど無意識、もしくは夢のやうな意識の次元においてですが、感じてゐます。
 
日本語を話すことによつて、その人は日本人になるのです。だんだんと日本人のものの考へ方、暮らしの仕方へと身もこころも同化していきます。なぜなら言語は、おもに、感情の次元から発せられてゐて、感情とは民族に根付いてゐる根柢に通ふものがあるからです。
 
そして、言語を話す人には、その言語からの叡智が贈られてゐます。
 
ことばの叡智、日本伝統のことばで言ふ「言霊の風雅(みやび)」、キリスト教の密で言ふ「ロゴス・ことば」、もしくは、人をどこまでも育てようとする、ことばの神からの「愛」です。
 
ことばを大切に扱ふ人のところに、ことばの精神から、愛と叡智への予感が降りてきます。
 
言語造形を通して、ことばにはそのやうな働きがあることを学んでいくこともできます。
 
そのやうに実は叡智に裏打ちされてゐることばを通して、他者と素直に語り合ひ、違ひを見いだし、それを尊び、自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。
 
第二・七年期の子ども時代、それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。
 
また、大人にとつては、自分自身の内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによつて、ことばと己れとの関係にいま一度目覺めることができるのではないでせうか。
 
わたしたち大人自身が、複数の他者との関係の中で、どう、ことばとつきあひ、どうみづからを育んでいくことができるか。
 
そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、この上なく大切な働きかけになります。
 

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子ども時代B 〜彩りの豊かさ〜


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子どもは歯が生へ変はりだし、小学校へと上がつてゆきますが、第ニ・七年期に入つていく子どもの成長にとつて本質的なことは、それまでの個と個の関係性を育むといふことから、だんだんと、個とそのほか多勢の大人たちや子どもたちとの関係を、いかに創つていくかといふことへと移り行きます。
 
地域の中には、様々な職種につき、様々な価値観で生きてゐる人々がゐます。それまでほとんど親にしか意識が向かつてゐなかつた子どもが、そのやうな人といふ人の彩りの豐かさにどんどん目が奪はれていくことでせう。
 
かつ、クラスといふ集団の中においても、いろんな子どもがゐます。
 
幼児期においては、子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、ある意味、原始的なものでした。
 
しかし、第二・七年期の子どもにおいては、だんだんと、その意欲が感情といふ衣を着つつ現れてきます。
 
そして、そのクラスの中で、様々な色の違ふ感情の衣を着た子どもたちに出会ふのです。
 
その彩りの豐かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。
 
ひとりひとりの子どもは、みんな、違ふ。
 
みんな、それぞれ、色合ひが違ひ、向きが違ひ、もつて生まれてゐるものが違ふ。
 
その違ひが、感情の表れの違ひとして際立つてきます。
 
ひとりひとりの違ひを尊重する、そして、そこから、ひとりひとりの尊嚴を見る、そんなこころの姿勢が教師によつてなされるのなら、どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでせう。 どれほど大切なものが子どもたちの内側から流れ出してくるでせう。
 
さういふ大人の下で、子どもは、自分といふ個にゆつくりと目覺め始め、そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個といふ個に、だんだんと目覺め、その彩りの豐かさに目覺めていきます。
 
社会といふ集まりの中で、自分といふ個と、多勢の他者との関係を、だんだんと見いだしていく、一対多の関係の本來的な豐かさを、第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。
 
もし、そこで、「よい点数を取ることが、よい人になる道です」 もしくは、「よい点数を取ることで、あなたは他の人に拔きん出ることができますよ」といふひといろの価値観がまかり通るのなら、子どもの内側から生まれ出ようとする、その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。
 
小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着てゐるやうなものです。
 
ひとりひとりの子どもたちは、本来、各々、別々の色を持つてゐます。
 

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2017年12月16日

子ども時代A 〜あのね、かあさんが、すきなのよ〜


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「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳に至るあたりまで、幼い子どもは、自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としてゐます。
 
その一対一の関係を通して、子どもは「世は善きところである」といふ信頼を、きつと、ますます深めていくことができるのでせう。
 
その個と個の関係において、人はまづ最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。
 
その最初の<わたし>の健やかな成長のために、子どもは、内側から湧き上がつてくる「意志・意欲」を、そのまま固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、ひとりの大人の存在を必要としてゐます。
 
その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、家庭があり、その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。
 
この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すやうな童歌があつて、まどみちおさんが作詞した「ざうさん」といふ歌があります。
 
  ざうさん、ざうさん、おーはながながいのね
  さうよ、かあさんも、なーがいのよ
 
  ざうさん、ざうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ
 
幼い子どもが、ひとりのお母さん(もしくは、それに代はる誰か)との結びつきを通して、個と個の信頼を育んでゐる姿が描かれてゐますね。
 
ひいては、自分自身への信頼をも育んでゐます。
 
わたしたち大人の内側に、第一・七年期の子どもにとつての大切なテーマでもある、この個と個の関係性をあらためて創つていくことの重要性を、いやと云ふほど感じてゐるのが、現代といふ時代かもしれません。
 
その関係性の基とも言へる、家庭の中における個と個の関係性、家庭の中における夫と妻の関係性、そこには、その人の第一・七年期のありようが映し出されてゐます。
 
そここそに、新しい宗教性が啓かれるのです。
 
それは、ひとりの人とひとりの人との間の信頼の問題、そして、自己信頼の問題なのです。
 
そのことが、もつとも現代的なテーマとして、わたしたち大人が向かひ合つていくべきことだと、あらためてわたしは考へさせられてゐます。
 

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子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜


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人における「子ども時代」。
 
それはこの世に生まれたときから、7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。
 
しかし、実のところ、その「子ども時代」は、その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。
 
よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。
 
「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかつた」
 
でも、大人になつても、遅くはない。
 
なぜならば、人の内側には、いまだにその人の「子ども時代」が息を潛めてゐるからなのです。
 
「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、シュタイナー教育などに接したときに、そのやうなことばが思はず呟かれるのかもしれません。
 
「子ども時代」を強く保ち続けてゐる人などは、どれだけ年を重ねても、若さを持ち続けてゐる。
 
子どもの氣持ちにいつでも帰ることができる。
 
自分の中の子どもに語りかけるやうに、何かを創つたり、語つたり、書いたりすることができる。
 
その創られ、語られ、書かれたものが、また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。
 
幾つになつても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。
 

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2017年12月13日

ものへゆくみち 〜萬葉集より〜


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絵 安田靫彦『大伴家持』

 
我が国の古(いにしへ)よりの暮らしの美しさ。
 
それは、ものと云ふものを愛(いつく)しみ、ものと云ふものに神を認め、ものと云ふものの内側に入つていくことで、世の森羅萬象に美を見いだしてゐたわたしたちの暮らしだつた。
 
江戸時代の国学者、本居宣長は、そのやうな自他の境を越えてひとつになつてゆく暮らしの方法を、「ものへゆくみち」と言つた。
 
山をも、海をも、空をも、風をも、いのちある自然とみて、それらに包まれ、語りかけられてゐる己れを感じる。
 
暮らしの中の器物ひとつひとつとの交流。
 
いただく米、一粒一粒を通つて、大いなるものに向かふ、人のまごころ。
 
ことば数は少なけれど、唇からこぼれるひと言ひと言の豐かさ。
 
今の暮らしは、昔とは随分、様相は変はつてしまつたけれども、さう云ふ「ものへゆくみち」を、たつたいまからでも、わたしたちは歩きはじめることができるのだと思ふ。
 
 
 
歌の季節は、いまとずれるが、『萬葉集』といふ我が国最初の和歌による詩歌集を編纂した大伴家持の歌。
 
 春の苑(その)紅(くれない)にほふ桃の花
 下照(したで)る道に出で立つ少女(をとめ)

 
この歌を詠んだ当時、家持は深刻な運命を生きてゐた。
 
しかし、それにもかかはらず、彼は目の前の風景すべてに神を觀るがゆゑに、ここに描かれてゐるものと云ふものすべてが、まぼろしのやうに彼のこころの視界に浮かび上がり、空間の彼方へと美しい心象となつて拡がりゆき、その心象風景と彼はひとつになつてゐる。
 
まるで自分のからだが軽くなり、透明になつたかのやうに感じながら、言語造形を通して、息を解き放ちつつ、聲を響かせると、この歌からさう云ふ感覺がからだまるごとで味ははれる。
 
目に見えないもの、こころに映る心象風景、さう云ふものともひとつになることのできる、こころの力を、昔の人は育んでゐたやうだ。

『萬葉集』は、さういふ古の人たちのこころと精神の記録・歴史であり、日本人の永遠のよりどころである。
 


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2017年12月12日

ジョンの顔


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ちょつと前の「ほぼ日刊イトイ新聞」で、糸井重里さんが「もしもビートルズがいなかったら」という連載で語つてゐるのが載つていたんだけれど、第一回目に彼が言つてたことが、自分にもぴつたり当てはまつてゐて、おかしかつた。
 
それは、ビートルズの何が好きかつて言ふと、「ジョンの顔が好きだ」(笑)。身もふたもない話。
 
男が男の顔が好きだつて言ふのも変な話だが、少年の頃から、糸井さんと同じで、ジョンの歌つてゐる時の顔、立ち方、ギターの構へ方。声、歌はもちろんだけれども、あの巨大な才能と共にその姿がなぜだか大好きだつた。
 
しかし、小野洋子さんに会つて、彼女に本格的に恋をし出してからのジョンの顔が激変するのだ。髭面になつたからといふことではなくて、ビートルズの初期と後期で、ジョンの顔を見比べて、とても同じ人とは思へない。
 
そして、その顔がいつさう、いいなあと思へる(笑)。
 
身もこころも生涯を共にしたいと思へる人と出会へた人は、こんな顔になるんだなあ。
 
個人的に思ふことだが、「 Imagine 」のやうに国境のない世界、地獄も天国もない世界、またものの所有、富の所有を疑ふやうな頭で想ひ描く観念・理想を歌つた曲よりも(それは、多くの人が陥つてしまつてゐるインターナショナルな世を想い描く夢想や小児的・左翼的な似非平等主義を思はせる)、「 Oh, My Love 」のやうに個人的な愛、慈しみ、念ひを歌ひ、運命の人と出会へたことによるこころの開眼、精神の目覚めを歌つたものにこそ、より普遍的な深さを感じる。
 
無数の多くの人と繋がることよりも、たつたひとりの人に出会へることこそが、この人生の意味なんだといふことを、彼は晩年になるにつれて歌つた。
 
ビートルズのこと、ジョンのこと、語り出すと止まらない人、きつと世界中で数へきれないほどゐるんだらうな。

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五十三歳表彰状

昨日は、名古屋で、オイリュトミーの方々と来年二月の舞台に向けて、朝から夕方までみっちり稽古。とても充実した稽古だつた。オイリュトミーの方々の言語造形に対する認識が、十年前に比べて、とてもとても深まつてゐることに感銘を受ける。言語造形と重ねあはされることで、オイリュトミストの方々の動きが俄然甦つたやうに活き活きとしだし、笑顔が溢れてくることが、何より嬉しい。
 
夜八時にくたくたになつて帰宅したら、家族がわたしの誕生日祝ひをしてくれた。五十三歳記念の花と表彰状を渡してくれる。

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2017年12月05日

国榮えむと月は照るらし


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昨夜、夜も随分と更けて、漸く雨雲が去つてゆき、天頂近くにまるまるとしたお月様がお顔を見せて下さつた。
 
その満月を見上げて、萬葉集を編んだ大伴家持が詠んだ歌を声に出す。
 
靫懸(ゆきか)くる 伴(とも)の男(を)広き 大伴に
国榮えむと 月は照るらし
 (萬葉集 1086)
 
自分が住んでゐる場所は、天孫降臨以来、天皇の御守護を司る大伴氏の金村が六世紀はじめに住んでゐたあたりで、帝塚山古墳が彼の陵墓ではないかといはれてゐる。
 
そんなこともあつて、大伴氏と勝手に縁を感じてゐる自分は、とりわけ大伴家持のこころに接近していきたく思つてゐるのだ。
 
この歌の「国榮えむと」といふところを誦するたびに、なぜだか、こころに迫つてくるもののあはれがあり、娘たちと一緒になつて誦した時も、いくつかの歌の中で、この歌が一番好きだといつてゐた。
 
それにしても、お月様を見上げて、「スーパームーン」といふ風情のない言ひ方をわたしもしたくないなあ。
 

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2017年12月04日

家族と芸術


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言語造形のためのアトリエ・舞台である、ことばの家のメンバー四人。 
 
諏訪家の家族でもあるのですが、この十四年ほどで、わたし自身も含めて、本当にひとりひとり成長してきたんだなあと思ひます。 
 
大人も子どもも、芸術といふものを媒介にして成長していくことができるといふこと、その発見に驚き、喜んでゐます。
 
先日の舞台「おはなしペチカ」の時に、写真撮影を荷つて下さつた山本 美紀子さんの手によつて、そんな成長の相のやうなものが印されてゐるやうに感じられて、とてもありがたく思ひます。

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2017年12月03日

幼な子の意欲の繰り出し


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写真は、六年前、うちの次女が三歳のときのものです。
 
お母さんが作つてくれた人形を使つて、思ふ存分遊んでゐました。
 
目立つ飾りもなく、人形のお顔も点を打つた眼があるだけといふ素朴な造りだからこそ、娘の想像力・創造力は膨らんでゐたやうに思ひ出します。
 
人形に語りかけ、人形を動かし、人形からも語りかけられて、自由自在に遊んでゐました。
 
誰からの指図もなく、こころの赴くまま、ひとり人形芝居をずつと続けてゐました。
 
この幼いときの遊びの中で感じる自由の感覚。自分から創りなしていくこの感覚。
 
どんどん意欲が繰りなされるがままに繰りなしていく。まるでこころに羽が生えたやうに想ひの世界に羽ばたいていく。
 
仕上がり済み・出来上がつたものを与へるのではなく、幼児の想像力・創造力・意欲を引き出すやうな物理的・精神的な設へが、子どもの成長を助けるのだなあ。さう思ひ返してゐます。

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2017年11月28日

家庭での語りB完


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家庭の中で、お父さんとお母さんが語りあつてゐる。
 
日頃の気にかかつてゐることから、お互いの最も大事に大切に考へてゐることまで、ことばにしあつてゐる。
 
何気なく過ぎていきがちな日々の暮らしの中に、そのやうなことばを交わしあふ時間を持たうとする意識。努力。習慣。
 
そんな大人の男と女の対話の時間に、思春期を迎えてゐる若者が加わることができるなら。
 
そこは、大人の言い分を無理矢理押しつけられる場ではなく、大人も若者も、各々感じてゐること、思つてゐること、考へてゐることを、ことばにする練習をし、それを聴きあふ場であるといふこと。
 
もう、お父さんもお母さんも、独自の役割を担ふといふよりは、ひとりの大人とひとりの大人としていかに向きあふことができるのか。
 
そんなことを、日々若者と共に探つていく場が、家庭です。
 
家庭での語らひが、どれほど子どもの国語力を育てるか。
 
子どもの成長にとつて、どれほど創造的なことか。
 
本当に大事なことです。

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2017年11月27日

家庭での語りA


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子どもがこの世に生まれてきて、その子どもにとつて、まづもつての大切な存在は母親でした。
 
ところが、小学生中学年から高学年になつてくるにつれて、子どものこころの中に、最も大切だつた母親の存在感に変化が生じてきます。
 
どのやうな変化か、それは、子どもひとりひとりで違つてくるのですが、ただ、子どものこころの中にはその変化に対する戸惑ひのやうな感情が拡がつてきます。
 
そんなとき、いよいよ、父親の出番が巡つてきます。
 
父親が、子どもに、母親のことを親しく語つてあげる。
 
お母さんは、こんなこと、あんなことを毎日してくれてゐるね・・・。
 
お母さんはああ言つたけれども、本当はかういふ気持ちだとお父さんは思ふよ・・・。
 
お母さんの好きなケーキは何だと思ふ?
  
子どもにとつて存在してゐるのがあまりにも当たり前のお母さんといふ存在を、お父さんが改めて親しくことばで描き出してみる。
 
そんなお父さんによる語りが、子どもの内側に新しい母親像をもたらします。
 
それは、子どものこころに、父性と母性の結びとして深く印づけられます。
 
 

posted by koji at 19:37 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

家庭での語り@


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お父さんが仕事で忙しくて、滅多に家にゐない、ゐたとしても夜中遅く帰つてきて、子どもたちやお母さんとゆつくり話す時間などない、そんな家庭が少なくないのではないでせうか。
 
そんなとき、できるなら、お母さんはお父さんのことを子どもに話してあげてください。語つてあげてください。
 
お父さんは頑張つて仕事をしてゐるよ、お父さんがあなたたち子どものことをこんな風に話してゐたよ、あんな風に話してゐたよ、お父さんはこんなこと、あんなことが好きなんだよ・・・。
 
そのやうにお父さんのことを語つてあげることで、子どもは目の前にはゐないのにもかかはらず、お父さんのことをまざまざとこころに描くことができます。
 
子どもに、父なる存在、父性といふものがしつかりとありあはせるやうになります。
 
ことばによつて存在を描き出す。
 
その働きは、人の成長にとつて随分と大きな働きをなします。
 

posted by koji at 14:47 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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