2018年05月20日

文学サロンとしての百年長屋


31431366_1741962755883763_5581157267819986944_o.jpg

31445152_1741962812550424_358805626651934720_o.jpg

大阪の玉造にある百年長屋での言語造形クラス。
 
この春で、もう丸四年。不動のメンバーです。
 
皆さん、教師をされてゐた方々。
 
その豊穣な経験から来るふところの深さだけでなく、果敢なチャレンジ精神たるや!
 
古典から現代のものまで、様々な文学作品に毎回チャレンジされて、肉声のことばの響きによる文学サロンと化してゐます。
 
講師のわたし自身、この百年長屋での時間、楽しくて仕方がありません。
 
この百年長屋は、落語や浪曲、講談、狂言などの日本の古くからの語り芸の他、源氏物語の勉強会、水彩画教室や書道教室、オルガン演奏会など、様々な文化の発信地となつてゐます。

posted by koji at 06:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月18日

朝のメディテーション


清らかな光が溢れ出る

大いなる神が輝いてをられる

あらゆるものへの清らかな愛

わたしのこころも神の如く輝く

わたしは大いなる神と共に安らふ

わたしはわたしみづからを見いだす

大いなる神に包まれて

     ルドルフ・シュタイナー



朝の静けさの中で、この七行の文をこころに唱えて、一日を始めます。

posted by koji at 20:59 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月16日

びくともしない美しさ

 
正岡子規といふ人が、毛唐の大砲や軍艦をもつて攻めてきても、びくともしない日本文芸を作るのだ、と、どこかに書いたさうです。
 
明治の人のことばですので、いま、聞くと、二重にも、三重にも、訳が分からず、藪から棒、奇妙奇天烈に感じられるでせう。
 
これは、人のこころの奥深くに育むべき精神は必ず土着のものでなければならない、といふことを言つてゐます。
 
自分の国の古典作品に出会つていくことは、外国作品に出会つていくことよりも、いまは縁遠いことのやうに感じられます。
 
しかし、自国の古典や物語はほとんど知らず、他国の作品には親しんでゐる、そのありやうは、どう考へても、おかしくはないでせうか。
 
自分の国の文物に対する縁遠さは克服していつていいのではないか。
 
言語造形をすること、言語造形を聴くことをもつて、我が国の昔話や古典作品に向かい合ふひとときを重ねていくことができます。
 
そしてだんだんと、この国に暮らしてきた先つ祖(さきつおや)たちの、こころのありように親しみを感じてきます。
 
そのやうに文学に親しんでいくことから、だんだんと、自国の歴史といふものを、情でもつて受け止めてゆく。
 
歴史といふものを、闘ひと殺戮の事件報告ではなく、人が大切な何かを、誰かを、愛さうとしたことを伝へる、精神からの叙事文学であり、抒情文学なのだと捉へる練習を重ねていくのです。
 
先つ祖(さきつおや)たちが歩んできた文化の営みを尊び、愛するほどに、きつと、未来の人たち、未来の子どもたちの暮らしに対する責任の情も、おのづから高まつてきます。
 
それが、過去の人たちと未来の人たちを繋ぐ、わたしたち現在に生きる者の、国に対する愛、地球に対する愛なのではないかと、個人的に捉へてゐます。
 
愛する気持ちだけが、栄えさせる。己れを愛するものだけが、己れを栄えさせるやうに、家族を愛する者が、家族を栄えさせるやうに、国を愛する者が多ければ多いほど、その国は栄えてゆくでせう。
 
ひとつの国が栄えるとは、覇権を誇ることではなく、暖かく開かれたこころと精神がおのづから湧き上がつてくることですし、それは世界まるごとが栄えることに繋がつてゆくことでせう。
 
ひとつの国が栄えるとは、静かに己れの分を守り、己れを愛するほどに他を尊び、静かに他と和することができる、そんな精神のありようが時と共に益々顕れてゆく、といふことです。
 
過去、何千年にもわたつて、日本の美しさは、米作りを中心にした暮らしの中に息づいてゐました。
 
米作りの暮らしから折々の祭りが営まれ、ことばが神と人とを繋ぐ美しさを備へてゐました。
 
そのことばの美しさ、暮らしの美しさがこれからも守られ、育まれるほどに、他国の人から喜びと尊崇の念いとが寄せられるでせう。
 
ケニア人も、アメリカ人も、フランス人も、ロシア人も、中国人も、すべての外国人たちにとつて、日本人おのおのが己れのこころの奥底に流れてゐる美を自覚し、日本で暮らすといふことが独自の美しさを取り戻すほどに、そのことは尊い喜びになるでせう。
 
美しさは儚いものだと言ひますが、あへて、云ふなら、びくともしない美しさ。それこそが土着の精神です。
 
それは、ひとりひとりの人がちよつとしたきつかけを得て、暮らしの中で実践し、発展させてゆくことのできる、文化創造です。
 

posted by koji at 07:08 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月13日

和歌山 キリスト生誕劇創り始まりました


32313416_1254782407986015_7268627374135050240_n.jpg

32308857_1254782371319352_5744879750401228800_n.jpg

32293583_1254782247986031_4911581667488956416_n.jpg


和歌山県岩出市のMitteの庭のキリスト生誕劇創りが今年のクリスマスに向かつて始まりました。
 
この劇創りに参加することを決めたお母さん方の情熱とまっすぐに伸びていく声と笑顔!
 
子どもたちも、これからだんだんと、おほらかに伸び伸びと声を響かせる練習をしていきます。
 
「静かさと敬虔さと穏やかなユーモアに満ちたクリスマスの夜。こんな年の暮れの過ごし方があるのか」
 
そんな想ひを、和歌山の多くの人と分かち合ふために生誕劇創りに取り組んでいきます。
 
 
 
 
以下に、Mitteの庭の記事をシェアさせてもらひます。
 
ーーーーーーーーーー
 
第2回目のえんげき塾。
 
こどもたちは親子で、手足を動かしながら詩やわらべ歌などを唱えます。
 
大人たちは、本格的に生誕劇の練習に入りました。
 
みな、宗教とは関係なく、この生誕劇に取り組む意味を感じています。
 
クリスマスに向けて、私たち自身の中にある幼子に光を当てながら、ともに創っていくこの生誕劇。
 
そこには、信頼と対話が間違いなく必要です。
 
恐れず私のことばを放つこと、人とつながることで、私たちはまた新たな気づきををたくさんもらいます。
 
みなが演劇を通して自由になること、それぞれの光が輝き出し、そしてそこが信頼を育んでいく場になることが何より幸せなことなのです。
 
32313055_1254782327986023_9192100289778286592_n.jpg

32331999_1254782291319360_949557139603456_n.jpg

32389453_1576685429110993_7579673741844545536_n.jpg


posted by koji at 13:37 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月09日

乙女座からの贈り物


IMGP0075.JPG


先日のシュタイナー教員養成講座でもお話しさせてもらつたのだけれど、子どもたちだけでなく、まづわたしたち大人自身が、ものをよく「みる」こと、じ〜つと「みる」ことから始めることの意味深さ。
  
 
「みる」といふことばの底には、「愛(め)づ」「愛(め)でる」といふ極めて感情的・意欲的なことばが息づいてゐる。「愛(め)づ」といふことばから「めづらし」といふことばも生まれる。
 
人は、何でも見てゐるやうに思ひ込んでゐるが、愛してゐるものしか、実は見てゐないし、見えてゐない。
 
何かを「愛でる」。だからこそ、その何かを「みる」ことができる。
 
その「みる」といふことばは、他の動詞に付くことでその行為をますます意欲的な行為へと押し進める。
 
「触れてみる」「動いてみる」「立つてみる」「嗅いでみる」「味はつてみる」「見てみる」「湯加減をみる」「聴いてみる」「話してみる」「感じてみる」「考へてみる」「会つてみる」・・・。
 
おほよその動詞に付くことのできる「みる」。
 
人がその意欲的な行為をするための働きを、大いなる世から与へてくれてゐるのは、乙女座のお宮である。
 
乙女座。それは永遠の乙女であり、永遠の女性性であることの宇宙的表現である。
 
「みる」といふ行為は、対象に光を当てる働きであり、光を当てることによつて、その対象からその対象たるところ、本質といふものを引き出す愛の働きである。
 
だから、「みる」は多くの動詞に付くことで、その行為を意欲的なものに、愛に満ちたものにする。
 
 
 
本を読むとき。
 
本といふ人格と精神が総動員されてゐるものを、まづは、徹底的に信頼して、愛して、目を皿のやうにして愛でて読むことによつて、本は秘めてゐる秘密を初めて打ち明けてくれる。
 
さうして、そんな「みる」といふ意欲的・感情的な行為から、やがてゆつくりと「考へる」「知る」といふ対話的行為へと、こころが深まつてゆく。
 
そんな行為にいざなふ本こそが、読むべき本だと感じる。
 
 

昔の日本人は、そんな「みる」力を相当強く養つてゐたやうだ。
 
結婚するために、「お見合ひ」をする。
 
そのとき、相手の年齢や職業などをそこそこ弁えるだけで、あとは、ほとんど、「一目でみて」決めてゐた。
 
相手の趣味や収入や性格やその他様々な情報などは置いておき、たつた「一目みて」こころを決める力を持つてゐた。
 
さういふこころの力を育むことが教育の基だと念ふ。
 

posted by koji at 08:36 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月08日

双子座からの贈り物 〜天の香具山にて萬葉の歌を歌ふ〜


IMGP0042.JPG
 
IMGP0043.JPG

IMGP0049.JPG

お天気に恵まれたゴールデンウィーク、わたしたちは最後の日に、天の香具山の上で萬葉集の歌をはるばると大和の国を見晴るかしながら歌つたのでした。
 
最寄りの駅から香具山まで歩いてゐて、数羽のひばりが田や畑の地から盛んに囀りながら空に向かつて舞ひ上がつてゐました。
 
わたしたちを迎へてくれてゐるなあ、と感じたものです。
 
萬葉集の歌は、我が国のことばの芸術の最高のものだと思ひます。
 
ことばの芸術、それはそもそも、人と人との間で歌ひ交はされるものです。さらには、人と神との間で歌ひ交はされるものです。
 
ことばのお宮、それは双子座にあります。
 
ふたりの子どもが、無心になつて遊んでゐる。
 
そんな遊びの中でこそ、ことばが美へ向かつて息づきはじめます。

遊びといふ遊びは、つまるところ、美へと向かひます。
 
子どもは、美を求めて、遊び続けます。
 
そして、すべての子音は、そもそも世とはこんなにも美しいものなのだということを伝へようとしてゐます。
 
すべての母音は、そもそも人のこころとはこんなにも美しいものなのだといふことを伝へようとしてゐます。
  
大いなる世、マクロコスモスでは、双子のお宮が、ことばを聴きあひ、歌ひあふための感官の働きを、人といふミクロコスモスに贈り物として授け続けてゐます。
 
ルドルフ・シュタイナーとマリー・シュタイナーも、双子が遊ぶやうにして、そんな言語造形といふことばの芸術を産み出したのでせう。
 
IMGP0065.JPG

IMGP0050.JPG

IMGP0053.JPG



posted by koji at 13:07 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月07日

江崎道朗氏講演『激動の東アジア、日本の命運』に参加して


IMGP0072.JPG


ものごとを現実から取り出すといふことに、
〈考へ〉をつなぐことが最も下手なのが、
社会主義を理論に於いて導かうとしてゐる人たちです。
 
その理論は、
ことばの説き明かしの堕落した形の最たるものです。
 
さういふ人たちは、
現実の何がしかをわきまへてゐるつもりですが、
その人が話し始めると、
空っぽなことばの殻をもつてやりくりします。

 
ーーーーーー
 
上のことばはルドルフ・シュタイナーが『普遍人間学』講座、第七講で話してゐることです。
 
できうる限り、現場に於いて、ものをよく観ること、よく聴くことを基にして、ものごとを現実から取り出すことがどれほど大切か。
 
そのことを近現代史研究家であり、国家安全保障の専門家である江崎 道朗 (Michio Ezaki)氏の講演で、眼から鱗が落ちるやうなお話しと共に今日は学ぶことができた。
 
【正論サロン 江崎道朗氏講演『激動の東アジア、日本の命運』】
 
世には、政治といふ極めて熾烈なバランス感覚を働かせながら、人と人とを結び、国と国とを結ぶために骨身を削つて行はざるをえない仕事がある。
 
さういふことがらについて本で読むだけでなく、今日のやうに、著者ご本人の生の声で学ぶことのできるありがたさよ。
 
この国の文化、暮らしに息づいてゐる人々のこころの安らかさと確かさと健やかさを、わたしも守つて生きていきたい。
 
そのための学びをこれからの日々、懸命に進めていきたい。

posted by koji at 22:40 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月05日

泉佐野での三日間連続、シュタイナー教員養成講座


IMGP0151.JPG

大阪泉佐野でのゴールデンウィーク三日間連続のシュタイナー教員養成講座。三日間、この赤ん坊もずつとつきあつてくれました。『古事記』の言語造形をしてゐる間も、ずつと笑ひながら、はいはいして、もう、可愛くて可愛くて。
 
参加者の皆さんも、『普遍人間学』、言語造形、共に活き活きと取り組んで下さり、皆さんの熱とわたしの熱が混じり合ひ、嬉しくありがたい限りでした。
 
アントロポゾフィーは、認識の道にせよ、芸術の道にせよ、人をできうる限りのアクティビティーへと促します。
 

posted by koji at 18:51 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月01日

ていねい

わたしは、一冊の本をていねいに読んでゐるだらうか。
一枚の絵をていねいに観てゐるだらうか。
 
家族とていねいに時間を過ごしてゐるだらうか。
行くところ、行くところで、ひととき、ひとときを、ていねいに生きてゐるだらうか。
 
たいした用もないのに、こちらからあちらへと、忙しい、忙しい、と言いながら動き回つて、そのとき、そのときを雑に扱ひ、自分自身の存在自体をも雑に扱つてはゐないだらうか。
 
ゆつくりと、腰を落ち着けて、ていねいに、生きる。
 
それだけである。

posted by koji at 11:47 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月21日

楠公さんと明治維新


IMGP0190.JPG

IMGP0174.JPG

今日は、南朝の忠臣・楠木正成を神としてお祀りする神戸の湊川神社に行き、明治天皇によつてこの社の創祀の御沙汰がなされて150年周年記念のシンポジウムに参加した。
 
一坂太郎氏の基調講演「楠公さんと明治維新」、また湊川神社の宮司・垣田宗彦氏その他の方々によるパネルディスカッションで、計4時間以上の時間があつといふ間に過ぎていつた。
 
楠木正成が死して残した志と、その志を引き継いだ幕末維新の志士たちのことを、様々な角度から考察することのできた、非常に有意義な時間だつた。
 
また、楠木正成の国を護らうとする志だけでなく、細やかな人としての情の深さを教えてもらへたことも、とても嬉しかつた。
 
神社奥にある彼が自決した場所に立つて、お祈りをしたときの風と光の優しさと静けさが、何かをわたしたちに伝へようとしてくれてゐるやうに感じられて仕方がなかつた。

IMGP0183.JPG

 

posted by koji at 22:00 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月18日

今晩8時 ラジオ番組「しぃーん〜walking with you〜」


30742160_1648000651963370_939081684303740928_n.jpg

度重ねてのお知らせ、恐縮です。
 
インターネット・ラジオで、言語造形といふことばの芸術について、また日本の古のことばの芸術作品『古事記』について語らせていただきました。
 
今晩8時から30分間の再放送です。
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
  
日本人がそもそも育んでゐた「ことばへの信頼」「ことばへの信仰」について、そしてわたしたち「ことばの家 諏訪」が志してゐることについて話してみました。
 
パソコン・スマホなど、インターネット環境があれば、どこでも無料で放送が聴けます。
 
よろしければ、ぜひ、お聴きください。
 
中田ゆかりさんによる、
ネットラジオ番組「しぃーん〜walking with you〜」
水曜夜8時から
ゆめのたね放送局
関西チャンネルで放送中☆
 
 
 
〈ラジオ「ゆめのたね」の聴き方〉
 
@【関西チャンネル タイムテーブル】のページ
   ↓
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
 
A今夜8時になれば
 
B「関西チャンネル」下の再生をクリック
 
 
*つながるまで、数十秒かかる場合があります。その時は少々お待ち下さい。

30742829_1648000658630036_9067831192094507008_n.jpg


posted by koji at 17:33 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

住吉の価値、そして神功皇后


IMGP0334 (2).jpg

住吉大社の権禰宜を務めてをられる方とじつくり話しをさせてもらつた。
 
ここ住吉がどれほど歴史的、文学的に、引き出しの多い地であるか。
 
数限りない歴史的旧辞・旧跡をとことん知り尽くされてゐる方との話しは、いつまでも語り合つてゐたい魅力に溢れ切つてゐた。
 
神社であれ、どのやうな団体であれ、大きな組織になるほどに、旧態依然としたあり方を守つてゐるだけでは、さういふ精神的文化がおのづから磨滅して行つてしまふ。
 
だからといつて、新奇さを狙ふものなど、箸にも棒にもかからない。
 
聖と俗との両面を包含しながら、時の試練を潜り抜けて永遠の価値を放出し続ける場所。
 
それが、神の社であらう。
 
住吉の大神の御鎮座をここに導き住吉大社を創建された神功皇后を、その御存在にふさわしく顕彰し、芸術的に物語つていく。
 
そんな仕事が、神功皇后ご逝去1750周年の来年、待つてゐる。 
 
ここ住吉の地が、住吉大社を中心に、歴史的・文化的・精神的な視野の中で新しく多くのこころある人に見いだされるやう、わたしも微力ながら邁進していきたい。
 

posted by koji at 20:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月12日

窓を大きく開け放つ


窓を大きく開け放つと、かうも見える景色が変はるものなのか。
 
これまでの自分がどれほど窓の扉をほんの少ししか開いてゐなかつたか。
 
どれほど、自分を守らうとして戦々恐々としてゐたことか。
 
それは、大きく開けてみて初めて分かることだつた。
 
精確にいふと、自分で開けたのではなく、大いなるものがわたしのために開けてくれた、といふ紛れもない感覚だ。
 
こんなにも、静かで、安らかで、晴々とした景色が拡がつてゐたのか・・・。


posted by koji at 10:43 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月31日

はじめての諏訪大社


IMGP0271.JPG

IMGP0248.JPG

IMGP0332.JPG

IMGP0267.JPG

 
ずつと訪れたかつた諏訪大社の前宮、本宮、春宮、秋宮、四社、そして諏訪湖を、昨日漸く訪ねることができた。
 
明日からの甦りの祭り(復活祭)を「わたしの祭り」にするために、わたしはわたしの先つ祖(さきつおや)、諏訪の神にどうしてもお参りしたかつた。
 
恵まれたお天気と友人に、こころから感謝・・・。


IMGP0285.JPG

IMGP0341.JPG




posted by koji at 23:02 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

相対でなく、絶対


img_0.jpg
『和気清麿奏神教図』 佐久間文吾


己れの意識を目覚めさせるのは、できれば、外からの衝撃によつてではなく、己れみづからでありたい。

意識が目覚めてゐることによつて、世がものものしく語りかけてくる。
 

村岡典嗣(つねつぐ)著『本居宣長』から

彼(宣長)は、
自己の学問を相対的よりはむしろ絶対的に考へたので、
彼は自己の学問を儒学に対してはもとより、
本草学とか、蘭学とか、医学とか、
当時一般の学問に対して並存的位地を保つてゐる所の、
一の分科の学とは、決して考へなかつた。
また、ベエクが考へたやうに、
諸方面の研究に入る準備の学とも考へなかつた。

文献学の一要素たる人間の学といふ考へを、
更に極端ならしめた意味に於いて、
自分の学問は、日本国民たるものが、
すべて人間としての教養を得るために、
学ばざるべからざる学問であると考へたのはもとより、
さらに、その以上にいでて、
自己の学問は、皇国の学として学問の学問である。
換言すれば、絶対的学問である、と考へた。



己れの向かつてゐることがらに、かうまで絶対性を見いだせることは、恩寵であり、至上の仕合はせである。

それは、強弁でも何でもない。

ただ、己れのこころの眼にまざまざと見いだされた確信なのである。

学ぶとき。
何かのための情報として仕入れようとか。
何かに利用し、役立たせようとか。
仕事に就くための必要条件であるとか。
さういふ意識は、ことごとく抜け落ちていい。

ただただ、この学びが最もたいせつなものであり、己れの足の下に鎮まつてゐるものであるゆゑ、他の誰でもない、この、わたしが、それを掘り起こすのだといふ意識の目覚めと気概をもつことだけが、重要だと思ふ。

これは、学問や芸術や仕事のことだけに限定して言ひうることではなく、人生の問題である。

どの人も、他者との比較の中で、時代の風潮や大勢に浸りきり、右往左往して相対的に生きたいのではない。

どの人も、唯一無二の己れだけの人生を生きるのである。

絶対を生きるのだ。





【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
●言語造形クラス
https://kotobanoie.net/spra/

●和歌(やまとうた)を学ぶ会
https://kotobanoie.net/yamatouta/

●生誕劇を演じるクラス
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

●言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

●日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)
https://kotobanoie.net/kototama/

●普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/tue/

●名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了




posted by koji at 11:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

ひな祭りと春の女神


CIMG2368.JPG

 
三月三日の桃の節句。
と言つても桃の花はまだ咲いてゐません。
 
本来の桃の節句は、旧暦における三月三日ですから、新暦では、今年は四月十八日になります。
 
本来は、花の桃色の美しさを賛へて祭りを行つてゐたのでせうが、そもそも桃は古来、邪気を払ひ百鬼を制するといふ魔除けの信仰がありました。
 
伊邪那岐神(イザナギノカミ)が黄泉の国で醜い姿となつた伊邪那美神(イザナミノカミ)に驚き、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)まで逃げてきたとき、なほも追つてきた黄泉醜女(ヨモツシコメ)にそこの桃の実を三つ取つて投げると、逃げて帰つたといひます。
 
桃の節句における行事として「穢れを祓ふ」といふことの我が国ならではの古来からの宗教的意味合ひ。
 
それと合はせて、キリスト教の伝統における復活祭の意味合ひとが想ひ起こされます。
 
それは、真東から昇り来る太陽(春分)と甦る月(満月)とを柱として、人のこころと精神における甦り(死して成ること)を祈念する祭りです。(In Christo morimur)
 
その復活祭の日は、今年は四月一日です。
 
復活祭のドイツ語 Ostern は、ゲルマンの春の女神から来てゐると推測されてゐるさうです。
 
桃の節句におけるひな祭り。
そして、復活祭における春の女神を賛へること。
 
 
我が家「ことばの家 諏訪」では、復活祭を越えて、旧暦の桃の節句までお雛様を飾つてお祀りを続けようと思つてゐます。 
 
 
【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
言語造形クラス

和歌(やまとうた)を学ぶ会

生誕劇を演じるクラス

言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス

日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)

普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス

●名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了



posted by koji at 22:00 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月24日

ゲーテ 人の人たるところを求めて


Goethe_Stieler_1828_trans_NvBQzQNjv4BqpyXMTfi07R0MMe9ezaRRiY0co811kL7dgj6wsvhBkqM.jpg

先日、オイリュトミーの舞台で、ゲーテの詩をいくつか朗唱させてもらつた。
 
ゲーテは、東の人の生き方、世の捉へ方、宇宙観に、激しくこころを動かされ、その感動を当時のドイツに知らせようとしてゐる。
 
ドイツ、そしてヨーロッパには、まうそのやうなこころが失はれてゐたがゆゑ。
 
一篇の詩が、オーケストラの一団が奏でる響きを越え出ることがある。
 
 
『昇天のあこがれ』から
 
・・・
蛾よ おまえは
火に跳びこんで 身を焼いてしまふ
 
死ね そして 生まれよ
このこころを
わがものとしない限り
おまえは この暗い地上で
はかない客人(まらうど)に 
過ぎないだらう
 

 

posted by koji at 10:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

春待ちぬ


IMGP0155.JPG


次女のかさねを寝かしつけるため、先ほど、布団の中で一緒にゐた。
 
突然、何か俳句をひとつ創つてくれといふ。
 
 ひと夜ごと 沿ひ寝をかさね 春待ちぬ
 
さうしたら、人の俳句を聴くのは好きだといつたあと、眠つてしまつた。
 
(吾輩は猫である)

posted by koji at 21:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

動かずに

 
いま、机の上に何冊もの本を積み重ねてしまつてゐる。
 
どの本も読むほどに唸らされてしまふ奥行きの深い内容を湛へたものだ。
 
それらの本は、わたしにとつては、精神からの糧である。
 
その精神からの糧は、こころに与へられる。
 
頁から頁へ、文字列から文字列へとゆきわたつてゐるその精神を、なんとか読み取る。
 
萬巻の書をよみ、萬里の道を征け、とは、かの富岡鉄斎翁のことばであつた。
 
人には、時間といふものが与へられてゐる。
 
この「時」とは、流れゆくものであるが、一方、その人その人の立ち停まるその場に於いて、垂直に、天へと昇り、地の坑へとくだりゆくものでもある。
 
動かずに、その場で、下へと降りよ。そして、天へと昇れ。
 
本を通して、精神を読む作業が、そのことを教へてくれてゐる。


posted by koji at 11:10 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月07日

比べるから敬ふへ

 
誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、その誰かや何かに近づかうと気持ちが盛り上がることが、特に若いときにはよくある。
 
その憧れの対象は、マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、職種といふ職種における有能な人、魅力的な人、魅力的な生活スタイル、考へ方、生き方、そして人を超えた存在、神のやうなあり方、精神界、霊界、天国、神に至るまで、物質的なものから精神的なものまで、人各々、それぞれだ。
 
しかし、その誰かがやつてゐることや、素敵な何かに向かつて、自分自身も努力し始めることができればいいのだが、その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらいがないだらうか。
 
そして、自分自身とその憧れの対象とを比べて、自分自身を卑下しだす。
 
「自分には無理だ」と。
 
わたしがアントロポゾフィーを学んでゐるとき、最も強く励まされるのが、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「条件」の章にある、

次のことばだ。
 
ーーーーーーーーーーーー
 
こころのしかるべき基調が、きつと、はじまりとなる。
 
密やかに究める人は、その基調を敬ひの細道と呼ぶ。
 
わたしたちはわたしたちよりも高いものがあるといふ、深みからの情を内に育まないのであれば、高いものに向けてみづからを育み高める力を内に見いだすこともないであらう。

 
ーーーーーーーーーーーーー
 
 
憧れのもの、状態、それは、別な言ひ方をするならば、人にとつての「高いもの」と言つてもいいかもしれない。
 
「わたしたちよりも高いものがある」。
 
その「高いもの」と己れを比べるのではなく、「高いもの」を敬ふ。
 
そのこころの向きは、自然には生まれない。
 
意識的に練習しなければ、「敬ふ」といふこころの力は身につかない。
 
「高いもの」に対する敬ひから始まり、生きとし生けるものに対する敬ひ、ありとあらゆるすべてに対する敬ひへと、その練習は続けられる。
 
しかし、人は、放つておいたら、その対象と自分自身との距離をもてあまし、自分自身を卑下しだす。
 
そして、敬ひとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのずと傾いていく。
 
「高いもの」と己れを比べるといふこと、それは実はその人のエゴであり、「高いもの」を敬ふといふこと、それはその人のこころの高い力だ。
 
比べる、から、敬ふ、へ意識的に方向を変へる。
 
敬ふからこそ、その対象と共にゐられる。
 
人間関係など、まつたく、そのことが当てはまる。
 
敬ふことによつて、初めて、その対象から力が自分に流れ込んでくる。
 
そして、敬ふからこそ、その対象に向かつて、いや、まうすでに、その対象と内的にひとつになつて、こつこつと根気をもつてその人その人の憧れの道を歩いていけるのだらう。
 
誰がなんと言わうと、歩き続けられるのだらう。
 
シュタイナーが、その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、それだけ現代人にとつて、比べることから敬ふことへのこころの移行が必要なことだからだらう。
 

posted by koji at 07:20 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
■ 新着記事
滋賀シュタイナー ちいさいおうち園での語らい (04/27)
アントロポゾフィー 人であることの意識 (04/24)
三羽の揚羽蝶 (04/24)
ひとりひとりの歩幅 (04/23)
京都市伏見区醍醐勝口町でのことばの家 ことばづくり(言語造形)クラスのご案内 (04/23)
ことばが甦るとき 〜甦りの祭り(復活祭)の日にちなんで〜 (04/20)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 (04/20)
鏡像 (04/18)
4/20(日)復活祭からの「こころのこよみ」オンラインクラス (04/14)
学んだことは忘れていい (04/13)
■ カテゴリ
クリックすると一覧が表示されます。
ことばづくり(言語造形)(244)
アントロポゾフィー(182)
断想(575)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(460)
こころのこよみ(魂の暦)(497)
動画(333)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(41)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
■ 最近のコメント
5/7(水)からのシュタイナー著「いかにして人が高い世を知るにいたるか」毎週水曜日夜オンラインクラスへのご案内 by 諏訪耕志 (04/11)
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
■ 記事検索
 
RDF Site Summary
RSS 2.0