先日のシュタイナー教員養成講座でもお話しさせてもらつたのだけれど、子どもたちだけでなく、まづわたしたち大人自身が、ものをよく「みる」こと、じ〜つと「みる」ことから始めることの意味深さ。
「みる」といふことばの底には、「愛(め)づ」「愛(め)でる」といふ極めて感情的・意欲的なことばが息づいてゐる。「愛(め)づ」といふことばから「めづらし」といふことばも生まれる。
人は、何でも見てゐるやうに思ひ込んでゐるが、愛してゐるものしか、実は見てゐないし、見えてゐない。
何かを「愛でる」。だからこそ、その何かを「みる」ことができる。
その「みる」といふことばは、他の動詞に付くことでその行為をますます意欲的な行為へと押し進める。
「触れてみる」「動いてみる」「立つてみる」「嗅いでみる」「味はつてみる」「見てみる」「湯加減をみる」「聴いてみる」「話してみる」「感じてみる」「考へてみる」「会つてみる」・・・。
おほよその動詞に付くことのできる「みる」。
人がその意欲的な行為をするための働きを、大いなる世から与へてくれてゐるのは、乙女座のお宮である。
乙女座。それは永遠の乙女であり、永遠の女性性であることの宇宙的表現である。
「みる」といふ行為は、対象に光を当てる働きであり、光を当てることによつて、その対象からその対象たるところ、本質といふものを引き出す愛の働きである。
だから、「みる」は多くの動詞に付くことで、その行為を意欲的なものに、愛に満ちたものにする。
本を読むとき。
本といふ人格と精神が総動員されてゐるものを、まづは、徹底的に信頼して、愛して、目を皿のやうにして愛でて読むことによつて、本は秘めてゐる秘密を初めて打ち明けてくれる。
さうして、そんな「みる」といふ意欲的・感情的な行為から、やがてゆつくりと「考へる」「知る」といふ対話的行為へと、こころが深まつてゆく。
そんな行為にいざなふ本こそが、読むべき本だと感じる。
昔の日本人は、そんな「みる」力を相当強く養つてゐたやうだ。
結婚するために、「お見合ひ」をする。
そのとき、相手の年齢や職業などをそこそこ弁えるだけで、あとは、ほとんど、「一目でみて」決めてゐた。
相手の趣味や収入や性格やその他様々な情報などは置いておき、たつた「一目みて」こころを決める力を持つてゐた。
さういふこころの力を育むことが教育の基だと念ふ。
posted by koji at 08:36
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