10月13日に行はれた大海神社の秋の大祭の空。
自分自身の弱点や痛みを真正面から見つめることは、人にとつて、大変苦しいことであります。
さうして、その見つめるところにまで辿り着き、それを認め、それを許し、それを乗り越えていくのに、人はとても長い時間を必要とします。
しかし、ややもすると、その内的な作業は、自分自身の内側ばかりを見ることに尽きてしまひがちです。
自分自身のことばかりにこだわつてしまふ。
さうして、やがて、そんな弱点や痛みなどは、自分自身の中にはないのだと、自分に嘘をつき、ごまかすまでになつてしまふ。
そんなとき、すべての芸術と同じく、言語造形の営みは、そのやうな自分自身の内側ばかりを覗きこんでばかりゐる意識のありやうを外側へ引つ張り出します。
言語造形では、ことばの音韻といふ、自然から授かつてゐる、とても客観的なものを素材とし、その素材に懸命に取り組むうちに、人は自分自身を健やかに忘れるのです。
ただ、その素材への取り組みは、やはり、法則に則つて進めて行かねばなりません。
無手勝流では、つひには、自分自身のくせから抜け出せない、いびつなものを産み出すばかりです。
法則といふ極めて客観的なものに則ることによつてこそ、その人その人の個性が初めて輝き出し、美しい主観が顕れてきます。
この仕事が自分に合ふかどうか、そんなことばかり前もつて考へて、自分のことだけが気になつてゐるのではなく、自分自身のことなど忘れて目の前に提示されてゐるものに懸命に取り組んでみるうちに、これまで思ひもよらなかつた自分自身と対面することになる。
このことは、人のすべての仕事に共通することでもありますね。
もう、自分自身のこと、自分の性格や、自分の個性や、自分の好き嫌ひやを言ひ立てることではなく、「仕事」に向き合つていく、そんな爽やかな道が、きつと、あります。