2006年05月16日

パートナーシップ

シュタイナー学校の校医をされていた方で、
ミヒャエラ・グレックラーさんという方がおられます。
その方の「両親の問診時間」(日本アントロポゾフィー協会発行)
という本を繰り返し読むのですが、
その度に、子どもの教育に最もものを言うのは何だろうかとよく考えさせられます。

幼稚園や学校の教育方針? もしくはレベルの高低?
親の教養?
親の我が子の教育に賭ける情熱?
家庭の経済状況?
.......................................?


私は、最もものを言うのは、
子どもを間に挟んでの、父と母のパートナーシップ、
男と女のパートナーシップなのではないかと、考えます。

子どもにどう教育を授けるかの前に、
自分たちがどういうパートナーシップを創っていくか。

このことが、子どもの教育を考える上で、
いや、社会をよりよくしていくことを考える上で、
とても大切なことだと思うのです。


勿論、家庭によっては、一人の親しかいないという場合などもあります。

そんな時、様々な他者が、その時その時、協力して、
ひとつの家庭という枠を越えて、
その子育てを励まし、応援し、支えることができれば、
きっとその子の親御さんは、力づけられます。

その時その時協力してくれる様々な他者と、
様々なパートナーシップを組みながら、
協力しあう関係の中で、そんな暖かさの中で、
親自身が「自分」「わたし」というものを確立していくことができます。

なぜなら、親自身が心理的・精神的に守られていると感じられていてこそ、
我が子を守ることができるのですし、
親自身も自分自身の生き方をしっかりと見出していくことができるのですから。

そして、その親自身の生き方が、
子育てに最もものを言うのではないでしょうか。


パートナーシップをいかに築き上げていくか、
それは、社会を構成する最も小さな単位である「家庭」を内側から創り上げる、
とても大切な、とても創造的な作業です。

「家庭」
それは、まずもって、ひとりの人とひとりの人が生活を営むところから始まります。
そのひとりの人とひとりの人が、毎日毎日、出会う。
その繰り返しの中でこそ、その繰り返しがあるからこそ、
人は、腰を据えて、腹を据えて、自己認識に取り組み始めることができます。

ひとりの他者と恒常的につきあい、語り合うからこそ、
初めて得られる「わたし」という人間の様々な側面・奥深さ。

そして「あなた」という人間の奥深さ。

男と女という性の側面を踏まえながらも、その側面・役割を超えた
「ひとりの人」ということがらに光を当てる。

この人は私の妻だけれども、いったいどういう人で、何を求めて生きているのか、
この人は私の夫だけれども、いったいどういう「つもり」で生きているのか、
その「つもり」を問う、そこに目を向けてみる。

「ひとりの人としてどう生きるか」、
それは本来「わたし」と「あなた」、「我」と「汝」のパートナーシップの中でこそ、
豊かに深く考えられます。

ふたりの間に様々に持ち上がる問題も、
ひとつひとつが、自分自身を育てる肥沃な土壌だと見て取ることができる。

「人間は育つ存在だということ(人は変わりゆくことができる!)」
そして、
「自分を育てる」という観点から、パートナーシップを改めて捉えなおしていこう、
シュタイナーの教育学から、そんな意欲が湧き起こされます。




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2006年04月30日

初めての合同発表会

今日は、「ことばの家」初めての合同発表会。

16人の方に語っていただきました。
時間が大幅に長くずれ込んでしまって、みなさん、本当にすみませんでした。
来年もまたしますが、もっとよくプログラムを考えて、会を創っていきますので、
また、どうぞよろしくお願いいたします。


会の冒頭に、シュタイナーの「こころのこよみ」第3週を読ませてもらいました。


  世のすべてに、語りかける。
  おのれ自身を忘れ、
  かつ、みずからの根源を肝に銘じながら、  
  人間の育ちゆく「わたし」が、語りかける。
  「お前の中で、私は解き放たれる、
  私自身であるということの鎖から。
  私は、まことわたしたるところを、解き明かす。」


言語造形をしていて、何が難しいといって、
「おのれ自身を忘れ、かつ、みずからの根源を肝に銘じながら」「世のすべてに語りかける」ことほど、
難しいことはないと思っています。

上手い、下手ではなく、
そういうみずからの上手・下手を考えている余裕などないところで、
いまある自分を精一杯賭けて、
この「わたし」が、語るのだ、
というその切実さ。

せせこましい意識を超えた「その人そのもの」「人間そのもの」を、
人は言語造形を通して体験したいのだ。
人間に出会いたいのだ。

今日のみなさんの語りをずっと聴かせてもらっていまして、
私は、誰よりも、私自身が、そのことにまっすぐに進んでいくのだということを、
はっきりと自覚させられました。

時間があまりにも押していたために、
今日の会の中では、お話できなかったのですが、

言語造形という芸術を通して、
そんな切実さを持って人と人が集まることによって、
その集まること、出会うことそのことが、宗教的な意識の深まりに繋がっていく、
芸術を通して、人と人とが出会うこと、そのことがすでに宗教的なことなのだということを、
私は信じています。

宗教的な意識、
それは、対する人のことを普段よりも一段も二段も深く感じられること、
そして「人間って、こうもありえるんだ」ということに気づかされること。

芸術を通して、そんな場を創っていきたい........

これからも、みなさんと一緒に、この言語造形に取り組んでいけたらと願っています。

今日は本当に、本当に、ありがとうございました。








posted by koji at 23:26 | 大阪 | Comment(4) | TrackBack(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月24日

おもに、中学生・高校生達に伝えたい。

人は、ひとりぼっちにならざるをえない時があるからこそ、成長する。

子どもの頃や学生時代を振り返ると、そんなふうに思います。

幼いころ、どこかで迷子になってしまった時、
両親に自分のことを分ってもらえなかった時、
友達と喧嘩別れした時、
クラスの中で孤立してしまった時、
好きだった人に振られた時...........

胸の奥がキーンと冷たく痛くなるような感覚と共に、
自分は独りだと感じることが何度もありました。
(皆さんはどうですか?)

そして今から思えば、その度ごとに、
「自分」という感覚に目覚めたように憶えています。

ひとりぼっちであり、
自分と世界がはっきりと対しあうような。

とてもとても寂しいけれども、
同時に緊張感のある不思議な感触でした。

それは、子ども時代だけではなく、大人になってからも時に感じることがあります。

あの冷たさ・痛みを経験して、
その度ごとに「わたし」の感触があり、
その意味を少しずつ知っていく。

この痛みと共に経験する「自分」「わたし」の感覚、
これをもっと大事にしなければと思うのです。
この感覚をうやむやにしたらあかんと思うのです。

なぜなら、私自身、大人になるにつれて、痛みと共に覚えたこの「自分」「わたし」という感覚が、
いつしか、暖かく、確かなものとして感じられるようになってきたからです!

経験を積んで、勿論、失敗もたくさんして、そこからたくさんのことを学ぶことができて、
労してものにしたものの総計が、つまるところ、今の「自分」「わたし」だ。

この「わたし」は、あらゆる事々を乗り越えてやってきたし、これからもやっていく。
「わたし」は、時の流れの中で、育っている!
これからも私自身がこの「わたし」を大事に面倒みてやる。

この「わたしである」という感覚が教えてくれる「意味」は、
いまだ謎めいているし、きっと底知れないものがある。

しかし、この部分、この「わたしである」という感覚、
そこからすべてが始まるんだということに段々と信頼を置けるようになってきた。

そして今、仕事をしていて、他者の中、ひとりひとりの中に、おのおの「わたし」があることに、
その当たり前のことに、気づかされ、驚かされ、信頼を置けるようになってきたんです。
大人になるということ、いいもんです。

「わたしである」ということは、「ひとりぼっちである」ということでもあるし、なおかつ、
この感覚は、その範囲・深度をどこまでも広げ、深めていくことができそうな予感が強くあります。

このことを、シュタイナーの「自由の哲学」という本で、
認めつつ、確かめつつ、辿ることができます。

自分にとって、シュタイナーを学ぶことの原点は、
ここにあるように思っています。

もちろん、この本は中学生にはお勧めしません("^_^")

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2006年04月23日

今、ここで、この人と、出会っている

昨日、アントロ・カフェ大阪で、いつもの大阪市立中央会館に行った。
いつも応対してくれる事務の係りの人が、
「諏訪さん、ちょっと.........」と言って、私のいる部屋までやってきてくれた。

去年秋までそこの事務をしていたFさんが、一週間前にお亡くなりになったということだった。
Fさんは、確か私より3歳年上の44,5歳だった。

去年の秋、突然Fさんが事務室に顔を見せなくなったので、
その時、別の方に聞いてみたところ、
スポーツジムで脳梗塞で倒れられて、
そのまま意識不明になられてしまったと言う。
唖然とした。

Fさんは、なぜだか、いつも私が中央会館に行くたびに、親しく声を掛けてくださった。

その中央会館で、私は「ことばの家」の仕事のほとんどをしているのだが、
彼は、「今日は何人生徒さんが来ましたか?」
    「諏訪さんのお仕事、変わってますね〜、頑張ってくださいよ。」
    「諏訪さんのホームページ、見させてもらいましたよ、
     あれは、宗教じゃなくて、哲学ですか、シュタイナーというの
     は........」
    (天気がよかったので外の駐輪場で私がおにぎりを食べていると)    
    「そんなとこで、何してるんですか(笑)」と言いながら、
    横に来て、話をしてくれたりした。
私の奥さんと生まれたばかりの子どものことも、よく気遣ってくれた。
ご自分のご家庭のことも時々話してくれた。
とても元気そうだった。

倒れられて意識が無くなってしまってから、約半年間頑張られた。


笑顔を交し合って別れた人が、数ヵ月後には、もうこの世にいない........

昨日、言語造形のクラス、そしてアントロ・カフェで来てくださった
おひとりおひとりのお顔を見ていて、
私は「今、ここで、この人たちと出会っている!!!!」
ということを強く感じた。

本当にFさんが、笑顔で、見てくれているような気がした。




posted by koji at 10:52 | 大阪 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月11日

人と話を交わすこと

人と人が同じ場所にいるのに、
話が交わされない、対話(向かい合って話し合うこと)がなされないって、
やっぱりとても寂しいことですよね。

社会の中で、生活の中で、家庭の中で、
ひとりひとりがバラバラになってしまっている。

たとえ、隣に人がいたとしても、目の前にいたとしても、
その人と話をしない、対話をしない............
毎日、どこへ行ってもそのことの繰り返し。
現代の私たちの生活形態そのものが、そのことを促進しているようです。

なるだけ独りで、もしくは自分たちの家族だけで、仲間だけで快適にいることができるようなライフスタイル。
他者と関わり合わなくても済むような生活を後押しするような様々な文明の機器。
卑しい勝ち負けのゲームをさせて、
人を権力の亡者・金の亡者・幸せの亡者になることへと仕向けるような言論の数々。

人を孤立させよう、孤立させようとする力が、強く働いている。

その得体の知れない力は、
人の内側にある自分では気づかない感情「不安・恐れ」を、
餌にしているように思うのです。

かく言う私自身も、この「不安・恐れ」をどう乗り越えるかが、
すごく大きなテーマです。


人は、きっと、
「わたし」から「あなた」に語りかける、
「あなた」から「わたし」に語りかけられる、
そのことばの交わし合いの中でこそ、
その繰り返しの中でこそ、
ひとつひとつの不安・恐れを乗り越える「わたし」の力を養うことができる、
そんな風に自分は思っています。

「わたし」の力とは、
その人のその人たるところから発する力、
その人の内側にある、何があっても永遠に傷つけられることがないところから発する力。

思考において、感情において、意志において、
人は、繰り返す対話の中でこそ、「わたし」の力を自ら育てることができる。

なぜなら人は、
「わたし」と「あなた」、「我」と「汝」の繰り返される関係の中でしか、
自分の「わたし・自我」を育てていくことができないからです。


人を孤立化させていくようなこの現代の得体の知れない力は、
人を孤立させることによって、
人の個の力・「わたし」の力を弱めよう、衰弱させようとしている。

議論して、勝ち負けを競うのではなく、
向かい合って、語り合うことで、努めて共通点を見出していく、
そんな対話の繰り返しが、
人の「わたし」の力を徐々に強め、高め、ひろやかに、深くしていく。

議論するというのは、考えと考えを闘わせるということですよね。
闘いというものには、常に、不安・恐れが裏打ちされている。

でも、対話とは、
「わたし」の中にある真実と、「あなた」の中にある真実を掬いだしていく、
その作業であって、それは一言で言えば、愛です。

また、ちょっとしたきっかけを見出して、
人とことばを交わすことで、
こころの中の情が、意志が、脈打ってくる。
(前にも書きましたが、この点においては、大阪のおばちゃんはスゴイ!

自分たちを孤立させようとしている大きな力が、
この自分にも及んでいることをもし認めるとするなら、
その力と対抗するために、
私はまず、どこから始めるか。

目の前にいる人の話を聴くことから。
目の前にいる人に関心を寄せることから。

徐々に、徐々に、やっていきたいのです。


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2006年04月01日

道の発端 (春が来た!学ぼう(^^♪)

 何を知ろうとするにも、何を学ぼうとするにも、
 その対象を愛そうとせずして、敬おうとせずしては、
 何も知ることができない、何も学ぶことができない。

 道の発端に、
 驚くことに開かれているこころ(情)、
 敬うこと、愛することに開かれているこころ(情)があって初めて、
 何かを知ろうとすること、学ぼうとすることが捗ってゆく。



シュタイナーの「いかにしてより高い世の知を得るか」という本の冒頭に、
「条件」として、上のような事柄が書かれています。

こうした情を培うことが、この学びにおけるひとつの条件だと。

では、この情をいかに培うか。

アントロポゾフィーを通して、
この情をいかに培っていくかをこそ、
まさに道の発端として、私は今、学んでいます。

学び手として、
人のことば・考えを(この場合シュタイナーのことば・考えですね)、
無批判に信じ込むのではなく、
また、批判的に分析し、それに早急な判断を下すのでもなく、
まずは、受け取ってみる。
まずは沿うてみる。

そして、それらのことば・考えが、
自分のこころの中でどのように作用しているかを吟味してみる。

もし、ことばの中に、まことのもの、真なるものが秘められているならば、
きっと、こころに、暖かくいきいきとした情が生まれてくる。

もしかしたら、はじめは、
あることばがうまく理解できなかったり、
理屈では分ったとしても、いまひとつピンとこなかったりするかもしれない。

しかし、本を読むたびに、ことばを聴くたびに、
そのつどそのつど、そのことばと考えに、
自らの考えを重ね合わせてみる。
何度も重ねて、吟味してみる。

その積み重ねの中で、
ことばと考えが、暖かくいきいきとした情を生み出すならば、
その時、その情を、信頼していい。

なぜなら、人は、健やかな情でもって、
まことかそうでないかを判断するものだから。

頭(理性)で判断していては、不健康になるばかり。

頭は、受け入れ、受け取る場所。

そのように、理性でもって判断しようとせず、
そこではことばと考えを受け取り、
情でもって、こころでもって、それらがまことか否かを判断していくことができるように、練習していくことができます。

これは、ちょっとムズカシイことかもしれません。
ついつい、私たちは、頭で一生懸命、考えますもんね。

 人は、頭で受け取り、こころで判断する。

 その時、人は健康である。


このことば、受け取ってみれば、
こころの中でどう作用していくでしょうか。

道の発端として、
情を培うこと。

この春から、また多くの人と、アントロポゾフィーの学びを、
新たに始めていきます。



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2006年03月23日

おおいなる人

赤ん坊と毎日暮らしていて、何に感心するか。

もう、それは、この子がここにいるというそのことだけで、
周りの私たちはこころ動かされてしまう。

どんな気の利いたことを言わなくても、
どんな感じのいいスマートな振る舞いをせずとも、
この子が何かをじぃーっと見つめているその姿に、
ぐぅーっとひきつけられてしまいます。

そして、こどもはまるまるおおいなるシンパシー(共感)の球に包まれている、
アンチパシー(反感)が全くないんだと、観ていて感じます。

泣いたり、わめいたりするのは、不快を感じているからであり、
つまり快の情が減じているだけであって、
決してアンチパシーから泣いているのではない。

では、この赤ん坊を包んでいるシンパシーは、どこから来ているんだろう。

それはきっと、こどもにとっては極めて当たり前の考え、

「この世はよきもの」

というおおいなる考えから生まれているのでしょう。

その考えは、この子にはあまりにも当たり前すぎて、
意識など当然できない。

生まれて間もないこの子はきっと、
「この世はよきもの」という考えとまるごとひとつになっているんですね。

考えと自分が分離していない。
だから意識もできない。

そうして、きっと三歳頃に、
おおいなる考えと自分が分離しはじめて、
初めて自意識が生まれる、
考えることをしだす、
アンチパシーが生まれる。

それまでの三年間、
赤ん坊という赤ん坊はすべて、
「この世はよきもの」というおおいなる考えと
ぴったりひとつになっている「おおいなる人」なんですね。

そのおおいなるものを宿している赤ん坊のおおいなる心根に沿いたい。

「この世はよきもの」という考えを、最大限に尊重したい。

恥かしながら、我が子が生まれてきてくれて初めて、
「この世をよきものにしたい」という考えが、
切実な想いとして、自分の胸に育ち始めている。

そして、赤ん坊にとっての「この世」とは、
まず、私たち、両親。
私たちのこころ。

こころをよくすること。

おおいなる人は、おおいなる課題を、私に与えてくれています。





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2006年03月20日

NPO法人 日本アントロポゾフィー協会を応援します!

今から十三年前のことです。
二十八歳だった自分は、いまだ「自分の仕事」というものを見出せず、
もがき苦しんでいました。ただ強く「何か」を求めてはいるのですが、
その「何か」が何なのかはっきりしない。

そんな時、私は人との出会いを通して、シュタイナー教育を知りました。
その教育理念、人間観、世界観に、こころが熱く揺さぶられ、
からだがすぐに立ち上がるような感動を覚えました。

そして、東京の新宿区高田馬場にある日本アントロポゾフィー協会/
ルドルフ・シュタイナーハウスに足繁く通い、様々な学習会、講座に参加したのです。

そこで、アントロポゾフィーの学びに入り込み、取り組みながら、
そのアントロポゾフィーから生まれた一芸術「言語造形」の練習に毎日を費やしました。

言語造形を自分の仕事としてやっていきたかったんです。
アルバイトで生活費を稼ぎつつ、日本アントロポゾフィー協会には、毎日通いました。

そこで学び、練習することによって、私は自身の内側に渦巻くエネルギーに、
ある方向性をもたらすことを学ぶことができ、また、
生きることの意味を求めているこころの渇きを癒すことができたようにも思います。
無論、その意味をいまだ求め続けてはいますが。

そこは、私にとって、人生の大きな学び舎でありましたし、
やはり強く縁のあるところでした。

その場が協会として日本に立ち上げられてから約20年、
NPO法人として日本社会の中に公けに運営され始めてから4年。

今、その協会も、大いなる変革の時を迎えていまして、
それまでの古くからの学び手、古参の会員に加えて、
若く新しい人達による新しい息吹きをその活動に吹き込んでいく時に来ているのです。

私も自身の仕事「言語造形」を通して、我が身を通して、
アントロポゾフィーをこの日本社会の中に寄与できるようないきいきとしたものにしたい、
そしてアントロポゾフィー協会の活動を支えていきたいと考えています。

その協会は、人の集まりの新しい内実とかたちを目指しています。

個を縛る集まりではなく、個の自由を育てる集まりを目指して、
より人間的で、よりオープンな場を創ろうとしています。


 2006年4月より、協会講座が生まれ変わります。
 ご関心のある方は是非こちらをご覧ください。
 NPO法人 日本アントロポゾフィー協会 [インフォメーション]





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2006年03月09日

問いを立てる(中学生とのワークショップ 2)

先日、中学校に行って2年生たちとワークショップをしたことを書きましたが、
その続きです。

前半の時間は、太宰治の「走れメロス」を題材にした言語造形を。
後半の時間は、私がみんなにどうしても問いかけたかった問いを
いくつか投げかけさせてもらい、じっくりと考えてもらいました。

その時した問いのひとつはこんなものでした。

「10年後でも20年後でもいい、未来において、
こんな世界が自分のまわりに広がっていれば、ごっつうええなあという世界とは、
あなたにとってどんな世界ですか?」

みんないろいろ考えてくれました。
渡した紙いっぱいにぎっしり書いている子もおりました。

その問いには、決まったひとつの正解というものはない。
自分にとっての「願い」「理想」。
普段はつい、こころのどこかに追いやられがちな、そんな自分の「考え」を、
こころの真ん中に引っ張り出してくる、掘り出してくる。

どこか自分の外側にあるひとつの正解ではなく、
自分の内側にあって自分自身が考えることによって掘り出したそんな「考え」って、
結構自分自身を元気にしないだろうか、ワクワクさせないだろうか。

たとえすぐに掘り出せなくても、
そんな問いかけを自分で自分にし続けることで、
きっと、その子はいつか自分の内側にその答えを見出すときが、必ず来る。

そう、本当に問うなら、必ず、答えのほうからやってきます。
逆に言えば、問いを立てない人には、いつまでも答えはやってこない。

いかに問いを立てるか。
いい答えを見つけようと焦るのではなく、
いかによりよい問いを自分自身に立て続けるか。

大人になれば、それは自分自身で賄おうとすればなんとか賄えます。
しかし第三・七年期、14歳から21歳までの若い人たちは、
それをうまく自分だけでするには覚束無いはずです。
実際、自分がそうだった。
やはり、大人のサポートが必要です。

そばにいる大人がいかに若い人たちに問いを投げかけることができるか。
すぐに答えられなくてもいい、
こころに抱き続けて考えていくことができるような問いをいかに、
若い人たちに投げかけるか。

そして若い人たちが、自分自身に、確かな問いを立てられるようにサポートする。
それは大人の役目でもあるかなあと思うのです。

若い人が自分に対して立てる問いから、自分で答えを導き出してくる、
その力って、生きて行くうえで、ものごっつう力になります。

「どんな世界を望むか」
そんな問いに対して、真剣に取り組んでくれる子もようさんおったのですが、
当然のごとく(普段のように?)サッサッと紙に書いて、
あとは隣の子とペチャクチャ喋っているやんちゃそうな子も結構おったんです。

そんな1人の子の紙をチラッと見たら、
「勉強のない世界」とだけ書いてあったんです。
私は「おおっ!」と思い、
「俺も中学のとき、そんな風に思ってたよ」って伝えました。
そして
「君の考え、よう分るような気がする。
そしたら今度は、こんな風に考えてほしいねん。
『勉強がない世界』がええってゆうんやったら、
じゃあ、『何があったらええ世界』なんか考えてみてくれへんか」
と問うてみました。

そしたら、その子、ペチャクチャ喋っていたのをピタッとやめて、
すうーっと考えるモードに入っていったんです。

「何があったら、ええんやろ.......」

でも、彼の考えるモード、3分ぐらいしか続きませんでした(笑)。
また、隣の子と喋ってる。

それでも、ええなあと思ったんです。
ほんの短い間でも、彼が考えようとしたその時、
あきらかに、それまでとは違う光が彼の表情に差した。

私は教師ではないですが、大人になろうとしているひとりの人として、
自分自身に問いを立て続けていきたい、
そして機会があるごとに若い人たちに対して問いを投げかけることで、
彼ら自身が自分で問いを立てる力を持てるようにサポートできればと考えています。




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2006年02月24日

イニシアティブと責任

様々な場所で、人と出会い、私は仕事をさせてもらっています。
自分は独りで仕事をやっているように、つい思ってしまいがちなのですが、そうではなく、
他者との関係性の中で、私の仕事は成り立っている。

当たり前と言ってしまえば、当たり前のことなのですが。

しかし、自分の仕事は他者との間でこそ成り立つということを大前提とした上で、
これまでの仕事を振り返ってみると、
しっかりと私自身が自覚してイニシアティブを持ってやった仕事だけが、
自分にとっても、周りの人たちにとっても、
よりよい成果を生み出していることがわかります。

他者と協力して何かを進めていく場合に、
自分だけがそのイニシアティブを持ってことを進めるというのでは勿論なく、
自分を含めて、責任を自ら担う人がそれぞれのイニシアティブを発揮していくことによって、
仕事は初めてうまくいきました。

イニシアティブと責任は表裏一体だ。

自分がイニシアティブを強く持たずに、また責任も充分感じずに参加した仕事・プロジェクトは、
たいてい、散々でした。

どんな仕事をするにしても、どんな場所に行くにしても、
他人に何かを求めるのではなく、
自分自身がどう進むか、どう生きるかを、意識の真正面に据えること。

そうしていくことで、
仕事を通して、人と人とが集まるときを通して、
他者のことばに深く耳を傾けつつ、
その場その場に相応しい判断を下していくことができる。
そんなことを日々、実感しています。



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2006年02月22日

大人であるって....(中学生とのワークショップ)

昨日、ある公立の中学校へ行って、2クラス約60人の二年生の人たちと
ワークショップをしてきた。

なんと素直で、繊細な人たちの集まりだろう.......。

私が腹の底から言えていることばには、その子たちは目を輝かせてくれているし、
力のない、浮ついたことばには、それに相応した態度をちゃんとしめしてくれる。

そして14歳という年頃だからだろうか、彼らが内側に様々な感情を抱いてここにいる
ということが、一緒に同じ部屋にいて、彼らの立ち居振る舞いを見て、
息苦しいぐらい感じる。

先生はきっと、大変だ。
そういった年頃の人たち、ひとクラス30人のそれぞれ違う繊細さを受け取るなんて。

思い返してみれば、自分の中学時代、高校時代を通して、
自分が内側に抱いていた感情・繊細さを先生に受け取ってもらえたことが一度もない。
受け取ってほしいと、先生たちに対して、自分から一歩踏み出したこともない。

先生とは、常に、遠い存在だったなあ。

先生にとって、他者であるその年頃の子どもたちを、ひとりひとり違う繊細さを、
受け取ること、それは、ものごっつう、しんどいことなんだ。

事実、自分はたった半日彼らと過ごしただけで、
翌日になっても身体の芯がまだビリビリ震えているぐらい疲れている。

でも、きっと、きっと、受け取ってくれる大人がひとりいてくれれば、
その子はこころの中に生涯消えないぐらいの、あかり(?)・ともしび(?)・
暖かさ・熱を抱いていくことができる。と思う。

先生という職業、いや、大人という職業、これは大変な職業だ。

与えること以上に、開いて、あるがままを受け取るという仕事。

大人であろうとしている俺、これ、やっていけるやろうか..........

いや、やっていかなあかん!



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2006年02月20日

何が、人を追い立て、追い詰めているのか

知人のAさんは40歳。
ある企業で働いていて、毎朝5時半に家を出て夜中の12時前に帰ってくる日々です。
毎週土日のどちらかの日にも臨時の仕事に駆り出されています。
体調もおもわしくないようで、不規則な食生活とおそらくストレスのせいか、
体重も増え続けている。
自宅にいて妻や二人の子どもたちと過ごすわずかな時間においても、
こころここにあらずという風だそうです。

明らかに、人間的なゆとりが奪われている。

いったい、どうしてこんなことになってしまっているのか。

企業のいわゆる上層にいる人達も、なにも憎くて、こんな形でAさんに仕事をさせている訳
では勿論ないでしょう。
仕事とは、そういうものなのだから...?

先週起こった滋賀県大津の事件。
幼稚園児二人が、同じ幼稚園に子どもを通わせている母親の凶行によって、
無惨にも亡くなってしまいました。
その中国人女性は、その二人の子どもが憎くて、そのようなことをしてしまったのではないと
言っているそうです。
ただ、中国から日本に来て約6年間、周囲の人達からの孤立感を感じ続けていた。
その孤立感からその凶行に及んでしまった。

ある意味わかりやすい憎しみからではない、しかし社会の中にある何かが、
人間の中にある何かが、私たちひとりひとりの人間を追い立てようとしている。

いったい、何が、人を追い立て、追い詰めているのか。

起こってしまった事件だけではなく、毎日の社会生活・家庭生活の中で顕われる
出来事・顕われない出来事の裏に潜んでいる人間のこころ。

間違いなく、それは、他人事ではない。

この自分の中にある孤立感、焦燥感、虚無感....。

1995年に亡くなったドイツの作家ミヒャエル・エンデの
「第三次世界大戦はもう始まっている」ということばが、
今本当にリアリティをもって感じられる。

地域と地域との戦闘ではなく、自分達の世代が、子や孫や曾孫に対して仕掛けている戦争。

この戦争の大元はなんでしょうか。

今、この時代の中で、人間的に生きるとは....?

答えが簡単には出ないのです。ただ、問うことしかできません。



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2005年11月15日

道の行き来

アントロポゾフィー。言語造形。
その学びは、考えること、本を読むこと、身を立てること、
身をもってことばを話すこと、身を使うこと、それらから始まる。
わけても、考えることと身を使うことを行き来することによって、
その学びは捗る。

他の様々な学びと同じく、それらのことをアクティブに「すること」によって、
人は内なる稼ぎを得ることができる。
そして稼ぎを得ることによって人はだんだんとなりかわっていく。


  することによってこそ、人はなりかわっていく。
  することによってこそ、人は失敗もすれば、葛藤も生まれる。
  しなければ、失敗もしないし、葛藤もない。
  しかし、なりかわることはない。



秋から冬にかけて、そのことを推し進めてくれる精神、
ひらめきから来る勢いを感じる。

秋から冬にかけて、そういった道を行くこと。
それは、ひとりひとりの道であろうし、孤独の道、細道であろう。

しかし個に立とうとするものは、人との出会いの中でこそ、
その個を磨くことができる。
そのとき、学びの共同体が強く求められるのではないだろうか。

「ことばの家」がその強い求めに応じられるか。


   この道や行く人なしに秋の暮れ
   人声やこの道かへる秋のくれ      松尾芭蕉


道を行き来することによって、人は健やかになりかわっていく。



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2005年10月16日

目覚め

本当に思ってもみなかったような様々なことが、私の身の周りで起こり、
私に弱くない印象を与えていく。

人が生まれてくること、生きること、そして死んでいくことにおける様々な相が
私に働きかけてくる。

その働きかけを通して、私を取り巻く世界そのものが、特に今年になって強く、
私に「目覚めよ!」と語りかけてきてくれているように感じる。


「目覚め」
それは何からの「目覚め」なのだろうか。


私は生きている。
しかし、眠っている。
半ば夢見心地で生きているのではないか。

私の船の舵を握っているのは誰だ。
私本人ではなく、どこか私の亡霊じみたような者たちがその舵を握っていることが
往々ある。


「わたし」がこの船の舵を握ること。
生活や人生が私を運んでいきはするが、なおかつ、
「わたし」がこの生活を導くこと。

この実行が、私にとっての「目覚め」である。



 はかなしと まさしくみつる 夢のよを おどろかで寝る われは人かは
                                和泉式部

 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
                                藤原敏行


古語で「おどろく」とは、そもそも「眠りから目覚める」という意味であったそうで、
またそこから「気づく」「気づかされる」の意味にも重ねて用いられている。





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2005年09月26日

「テオゾフィー」を読んでいます(2)

「なり、こころ、精神」という章の第一文目(p.43)です。

「人が、人を巡って、人をふさわしく啓くことができるのは、
人であることの内における考えることの意味を明るめるにおいてである」

私は、精神科学の学び手です。
私にとってこの一文は、この学びにおける出発点であるように感じています。

様々な人がいて、この社会に生きている。様々な生き方がある。
しかし、私は、私として、私以外の誰でもない生き方をしている。
私は私以外の誰でもない。
このことの不思議。
社会の中で生きていくほどに、私のなかで私自身の何かが「不思議だ、不思議だ」と呟いている。

私は、この「テオゾフィー」という本を繰り返し読むうちに、「私は私である」という以前は当たり前でなんとも思ってもみなかったようなことが、「不思議である」ということに、はっきりと気付いたと言ってもいいかもしれません。
先の一文を、何度目かに読んだとき、私は何故この学びに取り組み続けているのかという自分自身の動機を自覚しました。

「私は、人というものを巡って、私というものをふさわしく啓きたい」と。

そして、「人であることの内における考えることの意味を明るめる」という言葉が、この学びの出発点として、つまり私の抱いている「不思議」を追っていく出発点として、ふさわしくとてもリアリティーあるものとして私に響いてきます。

「考えることの意味を明るめる」

これほど我が身を持って直接的に確かめてみることができるものは他にないのではないでしょうか。

何よりリアリティーがあるのは、「この自分が、今、考えている」という一事です。

生きている限り、ものというもの、ことということが、私に向かってきます。
色として、音として、熱として・・・様々に。
それら全ては私の外からやってくるものであり、私の感情や催し、突き上げといった意欲さえも私の内から湧きあがってくるとはいえ私の与り知らないところから突然やってきて去っていきます。

外からやってくるもの、または内からではあっても私のコントロールの網の目をくぐりぬけてくるものに対して、私は安定してはいられません。
その都度ゆり動かされます。

しかし、「考えることの意味を明るめ」ようと「自分が、今、考えている」という現在進行形のことに目を向けるとき、つまり考えるということを静かに考えてみるとき、それより他には得られない静かさ、安らかさ、確かさを私は得ていることに気付きます。

何故なら、「考える」という働きは、外からやってきたのでもなく、内の私の与り知らないところからやってきたのでもなく、しっかりと私が生み出すからこそ、「考える」ことができるのであり、その働きの隅々まで見通すことが出来ます。

自分の生み出すものを自分が見る。
考えるは他の誰でもなくこの私がしている。

こうして、考えるを考えてみるとき、私は「私が私である」ということに対する、ある感情を獲得します。
ここから得られる内なる静かさ、確かさによって、私が私であることの不思議を、そしてひいては他者が他者であることの不思議を、不思議を不思議として、畏れ、敬う情が起こされます。

あるものについて、あることについて、そして果ては考えるということについて、考えてみること。

その静かな、しかしアクティブな働きは、「私が私であること」の不思議に、そして「世が世であること」の不思議に、その都度その都度光を当ててくれます。
そして、この働きこそが、静かさ、安らかさ、確かさを私に与え、きっと私を通して他者へ、社会へと作用していきます。

ここから歩みだす細道は果てしはないが、確かである。
そう感じながら「テオゾフィー」を読み続けていきます。





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2005年09月07日

内と外を重ねる

この夏、私は北海道伊達市のひびきの村において、多くの方々と言語造形の時間を分かち合うことができました。

その三週間を通して、私自身がこの身をもって学んだことは何だったのか、
そのことを書かせていただきたいと思います。

この時期、ひびきの村には全国各地からたくさんの方々がお出でになられます。
おひとりおひとりの方が、それぞれ様々な動機、きっかけをもって来るべく来られます。
しかし、一筋、共に通ずる願いがあるように私には想えるのです。
それは、自らを見つめたい、豊かにしたい、深めたい、変革したい、更新したいという
願いです。

「自ら」という内側。
そこに対して何らかの働きかけをしたい。
その願いが、人によっては「この機会にもっと学びたい」「日々の実践への手掛かりを掴みたい」、もしくは「癒されたい」「自分を解放して、ゆっくりしたい」という様々なことばとなるのかもしれません。

しかし、自身を見つめること、自身を変えること、それはなかなか難しいことです。
「癒されたい」という人も、自らの内側が清々しくまた熱くなることによって本来的に癒される筈ですし、それは自身のアクティブな自身への働きかけを要します。

そこで、私たちはこのひびきの村にやってきます。
そこには、人、人、人、たくさんの人が集まってきます。
当たり前のことですが、自分と他者が時間と場所を共にする中で、プログラムが進んでいきます。
自らの内側に働きかけたいと願ってやってきたその場所には、スタッフ、講師を含め大勢の他者がいます。

しかしそのことは矛盾したことではなく、自らの外側、つまりれっきとした他者がいるからこそ私たちはそこにやってくるのだ、と言えないでしょうか。

自分と他者、自らの内と外を織り合わせることは一筋縄では行かず、日々困難を感じもしますし、どうすればその内と外を織り合わせ、重ね合わせることができるのだろうという問いを抱きもします。

しかし、確かなことは、他者や世界という自らの外側と、自分なりの思い、願い、考えという
自らの内側が、ダイレクトに出会ってこそ、初めて人はその喜びや、時には葛藤、矛盾を
通して、自らの内に働きかけることができます。

人は、内と外を自らが自らで重ね合わせてこそ、喜びを味わいます。
自らの更新を、新生を味わいます。
自分はここに生きているというリアリティを持つことができます。

私自身も、三週間の講座に臨むにあたって、「こうしてみたい、ああしてみたい」という私なりの念いや願いがありましたが、その場に臨んでみますと、そのような表面的な念いや願いの奥には、やはりもっともっと「自らを更新したい」という自分自身にも隠された、しかしとても強い願いがあったということに気づきました。

このプログラムをよりよいものにしていくためには、参加者の方が内に抱いていらっしゃる念いや願いに負けない位、私自身の内側において、自らを更新するのだという強い念いを持つこと。

しかしその念いはやみくもなものであってはならず、おひとりおひとりの方と出会う中で、
何が今なされなければならないかを探りつつ、見て取っていく、その時その時の出会いの中で
考えていく、そんな内と外を重ねていく、精神とこころと身体の共同作業を体験することが
できたように思うのです。

自らの内と外を重ねる練習がどれだけできただろうか。
その練習によって、自らの外はより親しく、明るくなりゆきます。
自らの内はより深まり、豊かに、確かになりゆきます。

このひびきの村において私たちはその練習をしているのだということに、プログラムが終わって、私は気づかされました。
私自身、まだまだうまくいきません。
しかし、その練習の場がひびきの村にはあるのです。

参加者の方々、ひびきの村の方々おひとりおひとりと、その練習を共にできますことに、
こころから感謝します。





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2005年01月26日

人間になる

このホームページの「『ことばの家』について」というページで、
「ことばが人間的であることが求められている」と書きました。

ことばが人間的であるということは、すなわち、そのことばを話している人が
人間的なこころもちから話し、また人間的に生きているということです。

では、その「人間的」とは、どういったことを指すのか。

人の世で、「人間的である」という言い方がなされるということは、
「人間的でない」という言い方も、なされることになります。
つまり、私たち人は、「人間的であること」と「人間的でないこと」のはざまに立って、
生きているのでしょう。

「人間的」ということばから察するに、「人間」というものは、きっとひとつのおおいなる
「理想」です。

だから、「あの人は人間的だ」という時に、
その「人間という理想」が実現されている様を見て、人はそう言うのでしょう。

「人間という理想」

人は様々な理想を考え、想い描きます。
しかし、「人間」という理想、「人間的になる」「人間になる」「れっきとした人として生きる」といった理想ほど、実は、すべての人にとって切実で、重要なものはないのではないでしょうか。

「人間」ということばが、あまりにも当たり前すぎて、そのことばが私たちのおおいなる
「理想」を指し示すことばだとは思えないのかもしれません。

しかし、他人に対して、いや、自分自身に対して、「私は人間だ」と言うとき、
こころの中で、何かがぽっと火が着くような気がしませんか。
それは、そのことばで、自分の中の「理想」が一瞬間、思い出されるのではないかと思うのです。

理想としての「人間」とは、どういうものなのか。

自分のことに引き付けて考えてみると、当然ながら、自分は本当にまだまだ途上にいることに気づく。
そして、ことばの芸術に限らず、様々な古典作品に親しんでいく中で、人間というものは限りなく奥深く、果てしなく、決して「こんなもんだろう」といえるところに納まっていられるような存在ではないということにも、気づかされる。

様々な人が、その時代時代で、人間という理想を求めて、闘い続けています。
そのプロセスを「歴史」といい、また「精神史」というのであれば、私たちひとりひとりは
各々立場は違っても、人間という理想、「人間」という一語で表されるものに向かって、
歴史を織り成しつつ、前進しているのではないでしょうか。

シュタイナーは、「アントロポゾフィー」ということばをそれぞれの国のことばで言い換えるなら、「人間の智恵」というのではなく、「人間であること」もしくは「人間であることの意識」と言い換えてほしいと語りました。

私もなにやら大きなことを書いてしまったように思いもしますが、
この言語造形企画「ことばの家」も、言語造形ということばの芸術を通して、
アントロポゾフィー(人間であることの意識)を学ぶ、つまり「人間的になる」「人間になる」ことを意識的に学ぶための、ひとつの家・社(やしろ)となりゆくように、自分達の研鑽を積んでいきたいと考えています。




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2005年01月15日

信頼

言語造形のクラスが、今年もまた地域ごとに始まりました。
いつも言語造形のレッスンに入る前に、おひとりおひとりに最近思いにかけていることや
今考えていることなどをリラックスして話していただいているのですが、年の始めということ
もあって、この年末年始の過ごし方について皆さん話してくださいました。

家族のこと、家庭の中のわたし、そして家庭を持つこのわたしの生き方という事などについて
皆さん、こころをこめて話して下さいます。
私自身もここ数ヶ月、家庭ということについてよく考えていました。

こころを震撼させるような出来事が、外の世界から情報として入って来る。
私たちはそこから漠とした不安を感じている。
また地域社会の中で生きることにさえ、心理的な不安を感じている。

私たちの生活に何か拠り所はあるのか。
生活に経済的な基盤があることも勿論とても大切なことだが、それにしても、
伝統的な生活習慣や宗教的習慣を失ってしまった私たちひとりひとりが、
生活の軸とすべきものは何だろう。
新たに育んでゆかねばならないものがあるとすれば、それは何だろう。

皆さんのお話を聴かせてもらっているうちに、おひとりおひとりの語り口は違うのですが、
「家族」「家庭」というものに対して、ある共通の希望のようなものを皆さんが胸に持たれて
いることに気づきました。

家族のメンバーが、共に、ゆっくりと、時間を過ごすこと。
対話。
そして、信頼を築きあげてゆくこと。

社会の中で、この「信頼」というものが、これほどまでに危機に晒されている今、
だからこそ私たちは、家庭の中で、この「信頼」を築き上げることを学び出そうとしているの
かもしれません。

家庭の中での親子の関係、パートナーとの関係において、「みずからを開く」こと。
そのことを学んでゆきながら、人は、徐々に、「信頼」というものを我がこころの中に
築き上げていくことができます。
それはひとりひとりが練習し、稽古しなければ獲得できないこころの質です。

みずからへの信頼。他者との間に育まれる信頼。
お互い、人ひとりの運命を全面的に引き受け、認め合う家庭という現場において、
その信頼というこころの質を育むことができる。

アントロポゾフィーによって私たちは、人間の本質、教育のこと、また運命ということ、
カルマということを学びます。
そこから改めて考えてみますと、「家族」というものが、各々の人の生きることにとって
非常に大きな意味を持っていることがわかります。

今、社会の中核を担うべき30代、40代、50代の人間各々が「家庭」「家族」というものを
新たに見直す必要性を感じ出しているということ、それは大人である私たちひとりひとりの
こころの変容・成長によってのみ、社会の変容・成長がありえるのだということを予感しているからでしょう。

「信頼」というこころの質。「感謝できる」というこころの質。
そして「愛する」というこころの質。

家庭の中でそれらのことを学び、育んでゆき、それらを生活の見えざる軸とすることによって、私たちは静かに、しかし確かに、社会の歩み、世の歩みを前に進ませている筈です。

さて、主に20代の、家庭を離れて独り立ちしようとしている若い人たちにとって、「信頼」をみずからの内に育むためには、どのような社会的な器を考え、創ることができるのだろうか......





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2005年01月04日

共同作業

私は、日々の生活というものが、私たち人と、見えざるものやこととの共同作業によって
支えられている、成り立っていると思えて仕方がないのです。

見えざるもの、見えざること。
神という存在、仏という存在、天使という存在、妖精という存在。
ことばで読み、聞きはしますが、決してこの目には見えない存在。
そして、「人間」という存在!その人のその人たるところは決して目には見えない。

しかし、その存在のことを「考える」ことができる。そして考えることによって、初めて、
その考えには「力」があることに気づきます。その「力」がリアルに私のこころに働きかける
ことに気づきます。生活がその「力」に支えられていることにも気づきます。

アントロポゾフィーから私はそのことを何よりも繰り返し学び続けています。
今、目の前にいる大切な人のこころ、近くに、遠くにいる人のこころ、
死の国へと旅立った人のこころ、これから生まれてくるこどものこころ。
そのひとつひとつが、「考える」ことによって、空間や時間を超えて、今、ここに、ある。
それらひとつひとつのこころ、ひとつひとつの精神との共同作業によって、
私たちの生活は成り立っているのではないでしょうか。
人間が意識的に生きているということ(考えるということ)と、意識を超えた領域から
やってくる恵み、恩寵(ひらめき、出会い、または考えからやってくる力)とが、
交じり合い、組み合わさって、人の生活は成り立っています。

勿論、身体をもって生きている以上、お金も服も住む所も食料も必要ですが、
しかしそれらだけでは「人間」として生きられない。
むしろそれら目に見えるものや事柄の奥に潜んでいる「もの」や「事柄」を考えなければ、
人として生きていくことができません。

決して独力で生きているのじゃない。決して独りではない。
決して人間だけではない。

数知れないこころと精神が私に働きかけているように、私も「考える」こと、「想う」こと、
「念う」ことによって、他の見えざるこころと精神に、私から、働きかけることができると
思うのです。

この年の始めに、様々な国で悲しみ、苦しんでいる人がいます。
その多くの人のこころよ、どうぞ、少しでも寧らかでありますように。





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2004年12月18日

学びの共同体

水曜講座「テオゾフィー」を読む会は、丹念に一文一文読み進めながら、参加者の方々が
それぞれ自らの生活に引き寄せつつ、語り合いながら講座を進めていますので、
一時間半の予定があっと気がつくといつも二時間を越えてしまいます。
先日の会でも、印象深い対話がなされました。

「自分のこどもが学校からもらってくる成績表に並んでいる点数.....
はぁ〜という溜息とともに、点数がすべてではないと頭では分かっていながら、ついつい出てしまうお小言。言いたくないことも言ってしまう。
家庭の雰囲気も何かトゲトゲしいものになってしまいます...」

「シュタイナー教育の理念をこころに留めながら今まで子育てをすることができたんです。
にもかかわらず、こどもの点数を見てガクゼンとしてしまう....大事なことは点数なんかでは
ないと分かっていたつもりだった、しかし我が子のこと、こんな点数ではどうしよう....今、
自分自身が揺れています」

どちらの方も中学生のお子さんを持ったお母さんです。
直面していること、背負っていることから語られたことばは、真実なものとして響き、
私たちはそれを分かち合うことができました。

しかし、こういうことばも話されました。

「今の世の中の価値基準なんて本当にメチャクチャなんだから。
今の学校でつけられる点数なんかでは、絶対に、その子の何も分かることができない。
点数でこどものことを判断していくなんていう、そんなムチャクチャな価値基準によって傷つけられることからこそ、親は絶対に我が子を守ってやらなければならないんだと思います。
その子の生まれながらにして持っている光を傷つけずに、守ってやりさえすれば、必ず、その子の生きる力はどんどん伸びてくるはずなんです」

その方は、三人のお子さんをすでに成人へと育てられた方です。
その方は、ご自分の子育ての経験を踏まえて語ってくださったのですが、
その語られた内容とともに、そのことばの響き自体が与えてくれた確かさ。
私自身も含めて参加しているみんなが、その確かさの恩恵に与りました。

継続して学びに集っていますと、参加されているおひとりおひとりの「光」といったらいいんでしょうか、「確かな明かり」といったらいいんでしょうか、そのようなものが、立ち上がってくるんです。

独りではなく、集って学んでいくことの、大いなる恵みが確かにあります。




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