2018年10月16日

自分自身を健やかに忘れる


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10月13日に行はれた大海神社の秋の大祭の空。 

自分自身の弱点や痛みを真正面から見つめることは、人にとつて、大変苦しいことであります。
 
さうして、その見つめるところにまで辿り着き、それを認め、それを許し、それを乗り越えていくのに、人はとても長い時間を必要とします。
 
しかし、ややもすると、その内的な作業は、自分自身の内側ばかりを見ることに尽きてしまひがちです。
  
自分自身のことばかりにこだわつてしまふ。
 
さうして、やがて、そんな弱点や痛みなどは、自分自身の中にはないのだと、自分に嘘をつき、ごまかすまでになつてしまふ。
 
そんなとき、すべての芸術と同じく、言語造形の営みは、そのやうな自分自身の内側ばかりを覗きこんでばかりゐる意識のありやうを外側へ引つ張り出します。
 
言語造形では、ことばの音韻といふ、自然から授かつてゐる、とても客観的なものを素材とし、その素材に懸命に取り組むうちに、人は自分自身を健やかに忘れるのです。
 
ただ、その素材への取り組みは、やはり、法則に則つて進めて行かねばなりません。
 
無手勝流では、つひには、自分自身のくせから抜け出せない、いびつなものを産み出すばかりです。
 
法則といふ極めて客観的なものに則ることによつてこそ、その人その人の個性が初めて輝き出し、美しい主観が顕れてきます。
 
この仕事が自分に合ふかどうか、そんなことばかり前もつて考へて、自分のことだけが気になつてゐるのではなく、自分自身のことなど忘れて目の前に提示されてゐるものに懸命に取り組んでみるうちに、これまで思ひもよらなかつた自分自身と対面することになる。  
 
このことは、人のすべての仕事に共通することでもありますね。
 
もう、自分自身のこと、自分の性格や、自分の個性や、自分の好き嫌ひやを言ひ立てることではなく、「仕事」に向き合つていく、そんな爽やかな道が、きつと、あります。
 


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2018年10月09日

これだ


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「これもあり、あれもあり」ではなく、「ここからとあそこから、いいとこだけ取つて自分の役にたてよう」でもない。
 
「これだ」といふものを深めていく。 
 
自分たちのやり方、仕事の進め方、人生の生き方、それらが、ますます、明確なものになつてきたやうに感じてゐます。
 
現代人に多く見られる相対的なものの見方、生き方。
 
それは、大いにあつていいことだと思ふのです。
 
何事も比較して、検討して、そこから良きもの、役立つもの、得するものを取り入れる。
 
そんな生き方は、現代人にとつては当たり前に近い感覚でせう。
 
しかし、それは、どこか、自分自身のこころに対する信頼のなさに裏打ちされてゐるありやうに感じられる。
 
さういふ生き方とは、また違ふ、もう一つの生き方もあつていい。
 
「これだ」といふものを深めていく。
 
そのやうなあり方は、ときに、なだらかでない、不器用さが表立つやうなことにもなるでせう。
 
お洒落でもなく、垢抜けないたくさんの時期もくぐらなければならないでせう。
 
しかし、どんな世界にも、「これだ」といふ次元があり、その「これだ」の奥へ、奥へと入つていくことによつて、そこには思つてもみなかつた豊穣な沃野が広々と拡がつてゐることに、人は驚異と畏敬と尊崇の念ひにうたれるのです。
 
依怙地になつて言ふのではないのですが、己れのうちに「これだ」といふものを深めていく絶対の力をもつこと。
 
そしてそのためには、自分なりの意見だとか、自分なりのやり方をいつたん捨て去り、自己を空つぽにして学ばうとする謙虚で素直なこころの力が必要です。
 
我流ではなく、世の法則に沿ふことです。
 
亜流とは、全くの素人から生まれるのではありません。
 
道に好意を寄せてゐる人々。しかし、そのやうな人々のうちに潜む軽薄から、もしくは己れを見つめ切らうとしないごまかしから、必然的に生まれます。
 
ただ、亜流はいくらあつてもいい。
 
しかし、しかし、本流を細らせてはならない。枯らせてはならない。
 
本流を生きるのは、「これだ」を生きる者です。
 
自分なりのやり方をおいておき、世の法則に沿ふ道、さういふ科学的・芸術的・宗教的な道を歩くことの健やかさを、これからはいっさう意識的に生きていきたいと思ふのです。
 

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2018年10月06日

三つの次第

 
大人になつてゐるわたしたちにも、その成長に於いては三つの段階があるやうに思ひます。そしてその三つは、何歳になつても混じりあつてゐるやうです。
 
一つ目。
それは、あるがままの自分自身を嘘偽りなく受け入れ認めること。
 
世の趨勢は、多く、この一つ目のことに意識が向かつてゐるやうに感じます。それだけ、わたしたちの多くが、自分自身を自分自身で肯定できないことに苦しみを抱えながら生きてゐる。
 
しかし、このことがこれほどクローズアップされてゐるといふことは、とりわけ、この日本といふ国が変はり始めてゐるといふことでせう。つまり、この国自体が、己れを己れで認められない宿痾から抜け出し、新しい自己像を描き出す、そのスタート地点に立つてゐます。国の変容とひとりひとりの変容は、きつと、重なりあつてゐます。
 
わたしたちひとりひとりも、この一つ目を、この人生に於いて、きつと、成し遂げていきます。
 
二つ目。
それは、新しく見いだされた(想ひ起こされた)自分自身から、新しく湧き上がつてくるものを、自分自身で見いだし、それが発展していくことを喜ぶことができること。
 
それは、ひとりひとりの人には無尽蔵の創造力が秘められてゐるといふことに気づき、ひとりひとりの人がその力を汲み上げていく方法を知る、といふことです。
 
「あるがままの自分」を知るだけでは、人は満足できないやうです。
 
己れを肯定し、己れへの信頼を育んでゐる人は、きつと、己れの内から何かが産まれたがつてゐるのを感じる。そして、ときが熟し、何かとの、誰かとの出会ひの中で、人は己れの内なる創造力の存在に驚き、喜びを見いだすことができる。
 
そんな二つ目の次第に、いま、多くの人が目覚めるときが来てゐるやうに感じられて仕方がありません。
 
三つ目。
それは、おのおのが歩む人生の道の上で、人は先達を探し、師に就き、己れの創造力を専一に磨いていく。そこに至つて初めて、志といふものが人の生に通ひだす。志といふものに沿つて、己れを導き、道を歩み続ける。喜びも苦しみも悲しみも、すべての情が洗はれ、濯がれ、ただ毎日、道を歩むことだけが、生きることの真ん中に位置してきます。その道に、終はりはありません。
 
人は、この三つの次第を行き来しながら、生きてゐるやうに思はれるのです。
 
わたし自身も、この三つを行き来しながら、つひに、三つ目を目指して「ことばの家」をしてゐます。
 
そして、三つ目を目指す人よ、集まれ、といふ覚悟が生まれてきたことも、わたしにとつてのよろこびです。
 

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2018年09月23日

前夜の準備


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仕事をする上でわたしが大切にしてゐることのひとつに、前日の晩、眠る前に、次に日に会ふひとりひとりの人のお顔、姿、声、表情などを親しく想ひ浮かべるといふことがあります。
 
さらに、そのおひとりおひとりの後ろにをられる、目には見えない存在の方々とわたしの仕事が結びつくやうお祈りをします。
 
ちょつと、ぎょつと思はれるかもしれませんが、そのやうな精神の世の方々との共同作業こそが、これまでのわたしの仕事を支えてきてくれたやうに思ひます。
 
また、メルヘンや昔話を、夜寝る前に改めて味はふことがとてもよくて、その行為によつて、お話しの中に息づいてゐる精神の世の方々との協働が翌日生まれます。
 
例へば、グリムメルヘンの『ルンペルシュティルツヘン』。
 
夜の間に藁(わら)を紡いで金にすることができる小人、ルンペルシュティルツヘン。
 
メルヘンを味はふ、わたしの内なる藁を、金に変えてくれる。
 
願ひではなく、そんな確信をもつての前夜の準備です。
 

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2018年09月05日

嵐のあとの万代池


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一夜明けて、すぐ近くの万代池の様子。
 
唖然とした。凄まじい。
 
こんな万代池を見るといふことが信じられない、と通りがかりの人(同じ年代で、わたしと一緒で生まれた時から同じこの地域にずつと住んでゐる方)と話しした。
 
子どもの頃から見慣れ、親しんでゐたこれらの樹木が倒れてしまつた。

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2018年09月04日

風の神の物凄さ 〜台風21号〜


こんな凄い台風は生まれて初めてでした。
 
家の窓のガラスが風圧で湾曲してる!(古すぎる家で雨戸が閉まらない!)
 
猛烈な風の音と共に、家がきしんで悲鳴を上げてゐる!
 
二階の大きなトタンの屋根と木の庇が吹っ飛んで、空にぐるぐると舞いあがつてゐる!
 
天井から雨水が流れ出してゐる!
 
家族四人で、家にゐながら、まるでボロボロの一艘の舟に乗り込んで荒波を越えながら懸命に航海してゐるやうな(ちょつと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)、そんな三時間でした。
 
娘たちも窓ガラスにテープを貼つたり、床に溢れ出る雨水を拭き取つたり、懸命に働いてゐました。
 
嵐が過ぎ去つたあと表に出てみると、驚きました。
 
お隣の家や家の前の道路に、何枚もの全長四、五メートルあるトタン屋根や、バラバラになつた木材や瓦が散乱して、車が通れなくなつてゐます。
 
しかし、まだ雨の降る中、次々に近所の方々が出てきて下さり(通りがかりの人も)、片づけを手伝つてくれました。
 
自然災害に遭つたときのために、色々な用心を前もつてしておかなければならないのですね。わたしは、台風のことを甘く見てゐました。
 
またこんな時にこそ、人の暖かさを感じることができて、日頃のご近所様とのお付き合ひがあるからこそだと(特に我が家では妻が気を配つてくれてゐます)、強く念はされました。
 
汗まみれ、泥だらけの一日でした。

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2018年09月01日

仕事と暮らしの関係


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絵:東山魁夷『緑響く』(1982)

言語造形の舞台をしてゐて、どうあがいてみても、美しく歌ふことができない時があります。
 
準備も重ねてきたし、意識の上でも前向きになつてゐるのに、どうしてだらう・・・。
 
しかし、本当は分かつてゐるのです。
 
生活に原因がある。毎日の生活のなかで重ねられていく意識はやがて無意識の底に沈められていきますが、その沈められてゐるものの質に原因がある。
 
生活がまつすぐになつてゐない。生活の中で余計なことをしすぎてゐる。余計なことを思ひすぎてゐる。
 
そして、作品に対するまごころ、ことばに対する敬意への意識がどこか不鮮明になつてゐるのです。
 
かういふときに、立ち戻る場所のひとつとして、わたしには昭和の文人・保田與重郎のことばがあります。
 
全集第二十巻にある『古典論』を開いてみました。
 
ーーーーーーー 
心持が如何にことばの風雅(みやび)の上に現れてゐるかは、心持の深さや美しさのものさしとなるし、作者が神の創造の思想に達してゐる度合のめもりである。
 
かくして言葉に神のものが現れるといふ言霊の風雅(みやび)の説、人各々の精神の努力と誠心とから遊離せぬものである。
 
人各々の心にある神が、ことばにも現れたときに、その歌は真の美しい歌となるといふ意味だからである。
 
我が内に鎮(しづ)まる神が現れることは、かりそめの誠意ではあり得ないことであつた。
ーーーーーーー
 
與重郎のことばは、わたしにとつて清潔で志の通つた山であり、谷であり、川であり、海であります。そこに帰つていくことで、わたしは漸くそのことばの内に宿つてゐるいのちの泉から清冽な水を汲み、喉を潤すことができます。
 
ただ、何度も、よく読まなければなりません。
 
ことばに沿つて、ことばのうしろにある、ことばの真意をとくと味はひ、骨身に徹して感じることは、実はそれほど易しいことではありません。
 
わたしといふひとりの人間。
 
その暮らしのひとこま、ひとこまに、どのやうなこころが抱かれ、育まれてゐるのか。
 
美(まこと)は、いかにして、我が身を通して生きうるものなのか、醜(うそ)は、なにゆゑ、我が身に忍び寄り、寄生しようとするのか。
 
「かりそめの誠意」ではなく、自分の、まごころとは。
 
稽古を毎日し続け、舞台に立ち続ける、といふことによつてこそ、暮らしの中で育み続けることのできるこころの領域。
 
ここでの、「稽古」「舞台」とは、すべての人に通じる「仕事」のことであります。
 
どんな険しい経験も、新しい認識となつてくれるといふことは、何とありがたいことでせう。
 

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2018年08月23日

本番

 
本番の舞台があるといふこと、試合があるといふこと、決戦があるといふこと、試験があるといふこと、それらは、本当にありがたいことである。
 
それらがあるからこそ、人は本気になつて努力することができる。
 
根本的には、他人に認められることを求めて努力するのではない。
 
人は、本気になつて、自分自身を生き切りたいのだ。
 
神とこそ交はりたいのだ。
 
練習のための練習では、埒があかない。
 
数知れず失敗を繰り返しながら、準備を重ね、本番に挑み続ける。
 
その連続こそが、人を成長させる。
 
だから、打ち続く暮らしの中に、常にどこかに本番を設定することが、よいやうに思ふ。
 
もつとも、世が、必ずそのやうな舞台を用意してくれてはゐる。
 
そのやうな舞台をそのつど決戦と見据えることができることが、たいせつだと思ふ。

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2018年08月22日

己れのことばを持つ人

 
ことばは、人に考へがあることを知らせる。
 
感情があることを知らせる。
 
欲求があることを知らせる。
 
そして、希ひがあることを知らせる。
 
その希ひとは、精神からのものであることもある。
 
ことばは、人に精神があることを知らせてくれる。
 
だから、己れのことばを持つ人は、自分自身の考へや情や思ひを精確に表現することができるやうになつてゆくだけでなく、自分自身の内側にある豊かなもの、無尽蔵なものに気づくことができるやうになつてくる。
 
そもそも、人とは、ことばを持つことによつて、<わたし>といふものに気づいていくことができ、<わたし>といふ人になりゆくことができる存在なのだ。
 
考へがあつて、ことばにするのではない。
 
ことばを発し、聴くことから、人は、考へることを習ひ、覚えへていくことができる。 
 
ことばの発し方、聴き方に習熟していくほどに、己れの考へ方が明瞭になり、深まり、繊細になる。
 
だから、「はじめにことばありき」であり、とりわけ我が国は、「言霊の幸はふ国」である。
 
日本語を話すといふこと。日本語を深く聴きとるといふこと。
 
国語力といふものが、人が人になりゆく上で、どれほど、たいせつな力か。

「ことばの家 諏訪」では、自分自身を、そして子どもたちをことばを持つ人となるべく育てていく、そんな働きをしていきたいと希つてゐる。
 


※これらのことがらについて深めたい方は、ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学(鈴木一博訳)』第九講をご参照ください。
 





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2018年08月20日

普通じゃない我が家?


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うちは、「ことばの家」なるものを屋号にして、言語造形といふ芸術をなりはひにしてゐるやうな変はつた家。
 
大人である私や妻にとつては、そのやうな家にすると自分たち自身で決めたことだから問題はなんらない。
 
だけど、娘たちにとつては、学校の友達たちの家庭と随分と毛色の変はつてゐる我が家のありやうが、ときに恥づかしく感じたりもする。
 
娘たち曰く、うちは「普通じゃない家」。
 
思春期に入つて来た中一の長女にとつては、特に、そんなことを敏感に感じたりしてゐると思ふ。
 
そんな娘たちが帰ることのできる神奈川県の祖父や祖母のところ。
 
そこには「普通の暮らし」があつて、テレビも観ることができるし、買い物をしにドライブにも連れて行つてもらへるし、羽も伸ばすことができる。
 
「普通じゃない」我が家のあり方と、さうでない「普通のあり方」との両方を体験できること。
 
娘たちにとつて、わたしたち夫婦にとつて、それは、ありがたいことだと思つてゐます。
 
満たされた顔で、娘たちが一週間ぶりで大阪に帰つて来ました。
 
お義父さん、お義母さんに、感謝・・・。


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2018年08月17日

神功皇后の御陵と想芸館


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朝早く起きて、夫婦で奈良市山陵町にある神功皇后(息長足姫)の御陵にお参りするために足を運びました。
 
来年、没後1750周年を迎へられる神功皇后をテーマにした舞台創りを目指してゐるわたしたちなのです。
 
御陵の敷地内に入つた途端、空気が変はり、静かな秋を想はせる爽やかな空と風と光が一気にわたしたちを包んでくれるやうな感覚がするのでした。
 
 

その後、佐紀のひなびた大和路をゆつくりと歩いて、この秋に千晴さんが言語造形の公演『舟』をさせていただく想芸館を訪れました。
 
ここでは普段、奥田 英明 (Eimei Okuda)さんご夫妻によつて浮遊体アートといふ水中オブジェの制作・展覧が行はれてゐます。
 
先日、息子さんの奥田峻史さんとお会ひして、今日はご両親の英明さん、なほさんにお会ひすることができたのでした。
 
19歳の息子さんから伺つてゐたご両親についてのお話しと、ご両親から伺ふ息子さんについてのお話しが、今日は重なりあふやうで、わたしにとつては、とても趣深い時間なのでした。
 
浮遊体アートといふ、非常に繊細な素材を独自のアイデアとこれまた非常に繊細な工夫とで創りあげられた作品についても、少しお話を伺ふことができました。
 
わたしたち夫婦も、おふたりの優しく柔らかなお人柄にすつかり寛がせていただいたのでした。
 
ここで改めましてですが、英明さん、なほさん、峻史さん、今日はどうもありがたうございました。
 
 
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2018年08月15日

言語造形さん


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五年前に書いた記事です。 
 
小学二年生の長女に、まだ少し早いかもしれないが、ミヒャエル・エンデの『モモ』の読み聞かせをここのところ、ずつとしてゐる。5歳の次女も、分かつてても分かつてなくても、じつと耳を澄まして聴いてゐる。
 
今日は、前半のクライマックスと言つてもいい、「時間どろぼう」の章に差し掛かつてきた。
 
「時間どろぼう」の語りかけることばにこころを奪はれてしまつた人は、いかに時間を節約して、いかに無駄を省き、いかに計算通りに効率的に生きていくかに血道を上げていくことになる。
 
その生き方、そのこころのあり方が、他の誰でもない、この本を読んでゐる自分自身のことだとまもなく気づく。 
 
「時間が足りない」「お金が足りない」「・・・が足りない」「足りない」「足りない」・・・。そんな、思考にもならない深い感情のところで、こころが何かに急かされるやうに焦つてゐる。
 
さうして、人は人のこころを失つていき、この世をみづから住みにくい世にしてゐるのだ。
 
どれほど子どもの前で「早くしなさい!」「ぐずぐずするな!」といふことばを連発してゐるだらう。
 
自分自身のあり方が戯画として描かれてゐるのを観て、『モモ』を読むそのたびごとに、こころが治癒されるのである。
 
「時間どろぼう」に取りつかれてゐた自分自身をこの読書が治癒するのである。
 
この本を読むことで、お父さん自身の呼吸がだんだんゆつくりとなり、表情も豊かに優しくなつてくるのを、子どもたちも感じるんだらう。
 
「お父さんやお母さんが『早くしなさい!』なんてゆふ時、時間どろぼうがお父さんやお母さんの背中に張り付いてるねん」なんてことを話しても、娘たちはにこにこして、親のそんなあり方を懐深く広く受け止めてくれる。
 
次女がこんなことを今日言つたので大笑ひした。
「生まれてくる前に、神さまにお願ひしてん。時間どろぼうさんが一杯ゐるところぢやなくて、言語造形さんが一杯ゐるところに生まれますやうにつて。そやからお父さんも言語造形さんになつてん」
 
さうや、さうや、言語造形をするから、普段よりもずつと息を深くして間(ま)をもつてことばを話すことができるな。言語造形さんは、時間どろぼうさんを追ひ払ふんや。
 

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2018年08月12日

母なる蛇の環

 
安易に繋がりを求めることなかれ。
 
安易に応援を求めることなかれ。
 
ひとりになれ。
 
たつたひとりになりきれ。
 
さうしなければ、汝はとこしへに、母なる蛇の環のなかに閉じ込められた男の子にすぎぬ。
 
当時、三十代前半のわたしに、未来のわたしが、さう語りかけてゐた。
 
男は、母なる蛇の環から出なければならぬ。
 
女は、さういふ男の子を甘やかしてはならぬ。

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2018年08月09日

感想文といふもの

このたびの『名人伝』公演終演後にいただいた感想文をもう少し掲載させていただきます。

●語りが始まったとたん、自分の耳だけでなく、全身、いや、からだが上下左右大きくのび拡がって聴いてる、というような不思議な体験をしました。圧倒されました。後半はもう語り手の諏訪さんと自分と部屋の空間の区別がつかないような状態になりました。
(y.j.さん)

●中島敦が諏訪さんに乗り移ったような、一つの物・弓・言語造形を追い求めていく姿が、重なりあっていたような気がしました。独特の世界にひきこまれました。
(m.k.さん)

●中島敦のことは全く知りませんでしたが、諏訪さんの彼についての前もっての説明を聴き、何と不運な方で、無念を残して、この世を去ったんだ、と知りました。諏訪さんの話芸も一段とそのすご味を増して、名人の域に達して来た気がします。落語、講談とは、また違った芸であると思います。応援しています!!
(m.m.さん)

●今日は人生の課題をもって観させていただきました。本格的に芸術家としてやっていけるのか、どうか、というわたしの課題です。そして、大きなヒントをいただきました。芸術家のやりたいことは、「目にみえないものをみんなにわかるように表現すること」、それに尽きる。そのことがわかりました。その媒体が、諏訪さんの場合は「ことば」であること。そして本当の媒体は「カラダ」なのだということです。そんなヒントをいただきました。
(m.s.さん)
 
公演が終演したすぐ後にお客様に感想文を書いていただくなど、あまりにも素早い応答をお客様に求めすぎてゐはしないか。

そんな懸念があるにはあるのですが、もう少し違ふ角度から、わたしは感想文を読ませてもらふことを楽しみにしてゐます。

ここでも、恐縮するようなことばを頂いてゐるのですが、書かれたことば、話されたことばといふものは、どこか、瞬間的にも、その人のこころのありやうをまざまざと写すものです。

そのやうな感想文は飾られた上っ面なものに過ぎない、などといふことを言ふ人がゐますが、どのぐらいのこころの深さで文字が綴られてゐるのかは読めば、たいてい人は感じます。

たとへ辛口の感想であつても、まごころを感じる感想文を終演後、読ませていただくことが、とても楽しみなのです。

その楽しみとは、演者であるわたしに対する賛辞を期待してのことと言ふよりかは、観客おひとりおひとりとの、芸術を通しての、ことばを通しての、真剣な出会ひを求めてのことです。




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2018年08月04日

ひとりの人が世界を変へる Douglas Newton



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ひとりの人が世界を変へる。
 
今回の「ねっこぼっこ合宿」では、そのことばが本当であることを知りました。
 
Douglas Newton、ひとりがゐるだけで、子どもたちの生きる歓びが甦る。
 
世の自然のいちいちに驚くことのできるこころ。
 
人の生まれながらのみずみずしさに涙することのできるこころ。
 
子どもの時からいまも依然輝き続ける彼のこころは、同時に、蒼い湖の水面(みなも)のやうに、閑かに鎮まつてゐる。
 
人といふものは、かうもありえるのか・・・。
 
わたし自身、そんな深い想ひを抱かせてもらひながら、Douglasと共に三日間を過ごすことができたのです。
 
集まつた子どもたちみんなが、生きて、いま、ここにあることの喜びに浸り切ることのできた、この夏の三日間は、おそらく、生涯の宝物になると、わたしは確信してゐます。
 
Douglas 、本当にありがたう。 
 
また、一緒に仕事をしよう!


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2018年07月12日

涼しさのおすそ分け 桃尾の滝


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真白にも 落ちてたぎつる 石上(いそかみ)の 
岩肌黒く 鳥の声かな

 
先日、奈良の石上神社の奥の宮といはれてゐる社の少し上流にある桃尾の滝に触れてきました。
 
涼しさのおすそ分け・・・
 

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2018年07月10日

誠と嘘

 
自分のゐる場所で、いつでも宮中のやうな静けさを創り、深山へ籠つたやうな深遠さを創り出すこと。
 
このことがわかれば、自分のいまゐる場所がこの世で最高の場所となる。
 
こころとは実に繊細な生き物。こころは、真に美しく静かで豊かな場所でこそ育むことができる。
 
だから、己れのこころを修練し育み成長させたいならば、その環境をみづから、いま、ここで、生み出す勇気をもつこと。
 
肉眼をもつてみえないものを「幽」と言ふ。つまり、外の顕わなものでなく、内の幽なるものを見る練習をする。
 
『静にして閑』とは、この世の中で最も豊かな場所を表す。それは己れが己れの意志で創るのである。
 
門を厳重にして、念には念を入れて戸閉まりをし、また出入りをする人間の質を選ぶ。さうすれば、そこには宮中と同じ厳粛さが生まれ、思索を行ふにまたとない、静かな環境をその人に提供してくれる。
 
そこはまぎれもなく、各々の人にとっての宮中になり、社中となる。
 
これらのことは、以前、執行草舟氏の著書『友よ』の中で読んだことです。
 
「己れ」「家」「宮」とは、大切に守り育みたいものを、じつと見つめる場所。
 
その人の意志次第で、そのやうな時と場所を意識的に創ることができる。
 
その人の意志次第で。
 
いつでも、どこでも。
 
だから、「どこそこへ行かなければ、学べない」とか、「どこそこが本場だ」とか言つてゐるのは、嘘である。
 
さう思ひます。

posted by koji at 09:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月09日

神さまの計らひ


今日、和歌山行きの電車に、堺の三国ヶ丘駅で急いで飛び乗つたら、言語造形の二十五年来の我が師匠にお会ひする。
 
東京から、彼も和歌山での勉強会に講師として呼ばれたために、列車を乗り継いで来られたとのこと。
 
言語造形をしつかりと仕事としていくことのできる人をここ日本で育てていくことについて、どうしていくことがいいのか。
 
そのことが、ここ数か月、意識の真ん中に座り出したこともあつて、そのことを師匠に問ひ、語り合ふことができた。
 
非常に、非常に、有益な小一時間を、共に過ごさせてもらふことができた。
 
神さまは、本当に、計らつて下さつてゐる。
 

posted by koji at 18:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月05日

人の考へる力 (1)


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最後の大著『本居宣長』を書き終へた小林秀雄

わたしたちのむかしむかしのご先祖さまたちのこと、ひいては、神々のことを、「考へる」こと、それが、わたしたちの歴史を織りなしてゐます。
 
科学的に冷たく分析しつつ検証しつつ考へていくことをわたしたちは学問だ、としてゐますが、日本に於ける本来の学問とは、対象について、親しく、愛をもつて、「考へる」こと、それを学問としてきました。
 
歴史とは、過去に於ける、人々の力と力の争ひや殺し合ひのレポートを書き連ねることではありません。
 
わたしたちの歴史とは、わたしたちひとりひとりが、信をもつて、愛をもつて、親しさをもつて、わたしたちのご先祖さまたちが苦労して積み上げて来たものごとについて「考へる」ことから織りなされていきます。
 
そこから、ご先祖さまたちが、何を民族の理想として考へてをられたのかを、現代のわたしたちが追つて考へること、汲みとること、それがとてもたいせつな歴史の学びであります。
 
その観点にこそ、学問が本当に人間的な学問に生まれ変はる可能性が秘められてゐます。
 
そのやうな過去を遡るべく営まれ育まれる「考へる力」が、さらに、未来を創り出す「考へる力」へとなり変はります。
 
未来の人たちに対する信をもつて、愛をもつて、親しさをもつて、「考へる力」へとなり変はります。
 
歴史を考へる力は、未来を創る力へとなり変はります。
 
そのやうな「考へる力」によつて織りなされた歴史こそが、未来の人たちの生きる指針、生きる理想ともなります。
 
 
考へる力は、過去を検証し、自然に潜んでゐる法則を説き明かすものですが、また、いまだこの世には存在してゐないものを新しく産み出す力でもあります。
 
そのやうな「考へる力」を育んでいく。
 
わたしたち現代人の大きな課題のひとつです。
 



posted by koji at 11:26 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月01日

こころの環境


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皆が皆、横並びになるやうな生き方に甘んじず、ひとりひとり、高みを目指す生き方をすればいい。
 
各々の精神の向きに従つて、男も女も切磋琢磨して己れを磨けばいい。
 
わたしは、先人に学びたい。
 
先人とは、生きてゐる現世の人ではない。
 
この世を去つて数十年、数百年、数千年経つても、厳としてわたしのこころの前に直立してゐる方々である。
 
彼らが残した仕事の価値は、時の流れの試練をくぐり抜けて、今も果てしなく重く、高い。
 
彼らが残したのは、「ことば」である。書かれた「ことば」である。
 
その「ことば」は、ひつそりと静かに慎んでゐながら、それを読みに来る人、聴きに来る人、摑みに来る人を待つてゐる。
 
その「ことば」にあらはれる人のこころに思ひを致すことがたいせつである。
 
そしてこれからは、そのやうなこころが成り立つ環境を配慮しなければと考へてゐる。
 
人のこころを精神に向かつて高く育て上げる環境を創つていきたいと思ふ。
 

 

posted by koji at 08:12 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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