[断想]の記事一覧

2006年02月20日

何が、人を追い立て、追い詰めているのか

知人のAさんは40歳。
ある企業で働いていて、毎朝5時半に家を出て夜中の12時前に帰ってくる日々です。
毎週土日のどちらかの日にも臨時の仕事に駆り出されています。
体調もおもわしくないようで、不規則な食生活とおそらくストレスのせいか、
体重も増え続けている。
自宅にいて妻や二人の子どもたちと過ごすわずかな時間においても、
こころここにあらずという風だそうです。

明らかに、人間的なゆとりが奪われている。

いったい、どうしてこんなことになってしまっているのか。

企業のいわゆる上層にいる人達も、なにも憎くて、こんな形でAさんに仕事をさせている訳
では勿論ないでしょう。
仕事とは、そういうものなのだから...?

先週起こった滋賀県大津の事件。
幼稚園児二人が、同じ幼稚園に子どもを通わせている母親の凶行によって、
無惨にも亡くなってしまいました。
その中国人女性は、その二人の子どもが憎くて、そのようなことをしてしまったのではないと
言っているそうです。
ただ、中国から日本に来て約6年間、周囲の人達からの孤立感を感じ続けていた。
その孤立感からその凶行に及んでしまった。

ある意味わかりやすい憎しみからではない、しかし社会の中にある何かが、
人間の中にある何かが、私たちひとりひとりの人間を追い立てようとしている。

いったい、何が、人を追い立て、追い詰めているのか。

起こってしまった事件だけではなく、毎日の社会生活・家庭生活の中で顕われる
出来事・顕われない出来事の裏に潜んでいる人間のこころ。

間違いなく、それは、他人事ではない。

この自分の中にある孤立感、焦燥感、虚無感....。

1995年に亡くなったドイツの作家ミヒャエル・エンデの
「第三次世界大戦はもう始まっている」ということばが、
今本当にリアリティをもって感じられる。

地域と地域との戦闘ではなく、自分達の世代が、子や孫や曾孫に対して仕掛けている戦争。

この戦争の大元はなんでしょうか。

今、この時代の中で、人間的に生きるとは....?

答えが簡単には出ないのです。ただ、問うことしかできません。



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2005年11月15日

道の行き来

アントロポゾフィー。言語造形。
その学びは、考えること、本を読むこと、身を立てること、
身をもってことばを話すこと、身を使うこと、それらから始まる。
わけても、考えることと身を使うことを行き来することによって、
その学びは捗る。

他の様々な学びと同じく、それらのことをアクティブに「すること」によって、
人は内なる稼ぎを得ることができる。
そして稼ぎを得ることによって人はだんだんとなりかわっていく。


  することによってこそ、人はなりかわっていく。
  することによってこそ、人は失敗もすれば、葛藤も生まれる。
  しなければ、失敗もしないし、葛藤もない。
  しかし、なりかわることはない。



秋から冬にかけて、そのことを推し進めてくれる精神、
ひらめきから来る勢いを感じる。

秋から冬にかけて、そういった道を行くこと。
それは、ひとりひとりの道であろうし、孤独の道、細道であろう。

しかし個に立とうとするものは、人との出会いの中でこそ、
その個を磨くことができる。
そのとき、学びの共同体が強く求められるのではないだろうか。

「ことばの家」がその強い求めに応じられるか。


   この道や行く人なしに秋の暮れ
   人声やこの道かへる秋のくれ      松尾芭蕉


道を行き来することによって、人は健やかになりかわっていく。



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2005年10月16日

目覚め

本当に思ってもみなかったような様々なことが、私の身の周りで起こり、
私に弱くない印象を与えていく。

人が生まれてくること、生きること、そして死んでいくことにおける様々な相が
私に働きかけてくる。

その働きかけを通して、私を取り巻く世界そのものが、特に今年になって強く、
私に「目覚めよ!」と語りかけてきてくれているように感じる。


「目覚め」
それは何からの「目覚め」なのだろうか。


私は生きている。
しかし、眠っている。
半ば夢見心地で生きているのではないか。

私の船の舵を握っているのは誰だ。
私本人ではなく、どこか私の亡霊じみたような者たちがその舵を握っていることが
往々ある。


「わたし」がこの船の舵を握ること。
生活や人生が私を運んでいきはするが、なおかつ、
「わたし」がこの生活を導くこと。

この実行が、私にとっての「目覚め」である。



 はかなしと まさしくみつる 夢のよを おどろかで寝る われは人かは
                                和泉式部

 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
                                藤原敏行


古語で「おどろく」とは、そもそも「眠りから目覚める」という意味であったそうで、
またそこから「気づく」「気づかされる」の意味にも重ねて用いられている。





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2005年09月26日

「テオゾフィー」を読んでいます(2)

「なり、こころ、精神」という章の第一文目(p.43)です。

「人が、人を巡って、人をふさわしく啓くことができるのは、
人であることの内における考えることの意味を明るめるにおいてである」

私は、精神科学の学び手です。
私にとってこの一文は、この学びにおける出発点であるように感じています。

様々な人がいて、この社会に生きている。様々な生き方がある。
しかし、私は、私として、私以外の誰でもない生き方をしている。
私は私以外の誰でもない。
このことの不思議。
社会の中で生きていくほどに、私のなかで私自身の何かが「不思議だ、不思議だ」と呟いている。

私は、この「テオゾフィー」という本を繰り返し読むうちに、「私は私である」という以前は当たり前でなんとも思ってもみなかったようなことが、「不思議である」ということに、はっきりと気付いたと言ってもいいかもしれません。
先の一文を、何度目かに読んだとき、私は何故この学びに取り組み続けているのかという自分自身の動機を自覚しました。

「私は、人というものを巡って、私というものをふさわしく啓きたい」と。

そして、「人であることの内における考えることの意味を明るめる」という言葉が、この学びの出発点として、つまり私の抱いている「不思議」を追っていく出発点として、ふさわしくとてもリアリティーあるものとして私に響いてきます。

「考えることの意味を明るめる」

これほど我が身を持って直接的に確かめてみることができるものは他にないのではないでしょうか。

何よりリアリティーがあるのは、「この自分が、今、考えている」という一事です。

生きている限り、ものというもの、ことということが、私に向かってきます。
色として、音として、熱として・・・様々に。
それら全ては私の外からやってくるものであり、私の感情や催し、突き上げといった意欲さえも私の内から湧きあがってくるとはいえ私の与り知らないところから突然やってきて去っていきます。

外からやってくるもの、または内からではあっても私のコントロールの網の目をくぐりぬけてくるものに対して、私は安定してはいられません。
その都度ゆり動かされます。

しかし、「考えることの意味を明るめ」ようと「自分が、今、考えている」という現在進行形のことに目を向けるとき、つまり考えるということを静かに考えてみるとき、それより他には得られない静かさ、安らかさ、確かさを私は得ていることに気付きます。

何故なら、「考える」という働きは、外からやってきたのでもなく、内の私の与り知らないところからやってきたのでもなく、しっかりと私が生み出すからこそ、「考える」ことができるのであり、その働きの隅々まで見通すことが出来ます。

自分の生み出すものを自分が見る。
考えるは他の誰でもなくこの私がしている。

こうして、考えるを考えてみるとき、私は「私が私である」ということに対する、ある感情を獲得します。
ここから得られる内なる静かさ、確かさによって、私が私であることの不思議を、そしてひいては他者が他者であることの不思議を、不思議を不思議として、畏れ、敬う情が起こされます。

あるものについて、あることについて、そして果ては考えるということについて、考えてみること。

その静かな、しかしアクティブな働きは、「私が私であること」の不思議に、そして「世が世であること」の不思議に、その都度その都度光を当ててくれます。
そして、この働きこそが、静かさ、安らかさ、確かさを私に与え、きっと私を通して他者へ、社会へと作用していきます。

ここから歩みだす細道は果てしはないが、確かである。
そう感じながら「テオゾフィー」を読み続けていきます。





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2005年09月07日

内と外を重ねる

この夏、私は北海道伊達市のひびきの村において、多くの方々と言語造形の時間を分かち合うことができました。

その三週間を通して、私自身がこの身をもって学んだことは何だったのか、
そのことを書かせていただきたいと思います。

この時期、ひびきの村には全国各地からたくさんの方々がお出でになられます。
おひとりおひとりの方が、それぞれ様々な動機、きっかけをもって来るべく来られます。
しかし、一筋、共に通ずる願いがあるように私には想えるのです。
それは、自らを見つめたい、豊かにしたい、深めたい、変革したい、更新したいという
願いです。

「自ら」という内側。
そこに対して何らかの働きかけをしたい。
その願いが、人によっては「この機会にもっと学びたい」「日々の実践への手掛かりを掴みたい」、もしくは「癒されたい」「自分を解放して、ゆっくりしたい」という様々なことばとなるのかもしれません。

しかし、自身を見つめること、自身を変えること、それはなかなか難しいことです。
「癒されたい」という人も、自らの内側が清々しくまた熱くなることによって本来的に癒される筈ですし、それは自身のアクティブな自身への働きかけを要します。

そこで、私たちはこのひびきの村にやってきます。
そこには、人、人、人、たくさんの人が集まってきます。
当たり前のことですが、自分と他者が時間と場所を共にする中で、プログラムが進んでいきます。
自らの内側に働きかけたいと願ってやってきたその場所には、スタッフ、講師を含め大勢の他者がいます。

しかしそのことは矛盾したことではなく、自らの外側、つまりれっきとした他者がいるからこそ私たちはそこにやってくるのだ、と言えないでしょうか。

自分と他者、自らの内と外を織り合わせることは一筋縄では行かず、日々困難を感じもしますし、どうすればその内と外を織り合わせ、重ね合わせることができるのだろうという問いを抱きもします。

しかし、確かなことは、他者や世界という自らの外側と、自分なりの思い、願い、考えという
自らの内側が、ダイレクトに出会ってこそ、初めて人はその喜びや、時には葛藤、矛盾を
通して、自らの内に働きかけることができます。

人は、内と外を自らが自らで重ね合わせてこそ、喜びを味わいます。
自らの更新を、新生を味わいます。
自分はここに生きているというリアリティを持つことができます。

私自身も、三週間の講座に臨むにあたって、「こうしてみたい、ああしてみたい」という私なりの念いや願いがありましたが、その場に臨んでみますと、そのような表面的な念いや願いの奥には、やはりもっともっと「自らを更新したい」という自分自身にも隠された、しかしとても強い願いがあったということに気づきました。

このプログラムをよりよいものにしていくためには、参加者の方が内に抱いていらっしゃる念いや願いに負けない位、私自身の内側において、自らを更新するのだという強い念いを持つこと。

しかしその念いはやみくもなものであってはならず、おひとりおひとりの方と出会う中で、
何が今なされなければならないかを探りつつ、見て取っていく、その時その時の出会いの中で
考えていく、そんな内と外を重ねていく、精神とこころと身体の共同作業を体験することが
できたように思うのです。

自らの内と外を重ねる練習がどれだけできただろうか。
その練習によって、自らの外はより親しく、明るくなりゆきます。
自らの内はより深まり、豊かに、確かになりゆきます。

このひびきの村において私たちはその練習をしているのだということに、プログラムが終わって、私は気づかされました。
私自身、まだまだうまくいきません。
しかし、その練習の場がひびきの村にはあるのです。

参加者の方々、ひびきの村の方々おひとりおひとりと、その練習を共にできますことに、
こころから感謝します。





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2005年01月26日

人間になる

このホームページの「『ことばの家』について」というページで、
「ことばが人間的であることが求められている」と書きました。

ことばが人間的であるということは、すなわち、そのことばを話している人が
人間的なこころもちから話し、また人間的に生きているということです。

では、その「人間的」とは、どういったことを指すのか。

人の世で、「人間的である」という言い方がなされるということは、
「人間的でない」という言い方も、なされることになります。
つまり、私たち人は、「人間的であること」と「人間的でないこと」のはざまに立って、
生きているのでしょう。

「人間的」ということばから察するに、「人間」というものは、きっとひとつのおおいなる
「理想」です。

だから、「あの人は人間的だ」という時に、
その「人間という理想」が実現されている様を見て、人はそう言うのでしょう。

「人間という理想」

人は様々な理想を考え、想い描きます。
しかし、「人間」という理想、「人間的になる」「人間になる」「れっきとした人として生きる」といった理想ほど、実は、すべての人にとって切実で、重要なものはないのではないでしょうか。

「人間」ということばが、あまりにも当たり前すぎて、そのことばが私たちのおおいなる
「理想」を指し示すことばだとは思えないのかもしれません。

しかし、他人に対して、いや、自分自身に対して、「私は人間だ」と言うとき、
こころの中で、何かがぽっと火が着くような気がしませんか。
それは、そのことばで、自分の中の「理想」が一瞬間、思い出されるのではないかと思うのです。

理想としての「人間」とは、どういうものなのか。

自分のことに引き付けて考えてみると、当然ながら、自分は本当にまだまだ途上にいることに気づく。
そして、ことばの芸術に限らず、様々な古典作品に親しんでいく中で、人間というものは限りなく奥深く、果てしなく、決して「こんなもんだろう」といえるところに納まっていられるような存在ではないということにも、気づかされる。

様々な人が、その時代時代で、人間という理想を求めて、闘い続けています。
そのプロセスを「歴史」といい、また「精神史」というのであれば、私たちひとりひとりは
各々立場は違っても、人間という理想、「人間」という一語で表されるものに向かって、
歴史を織り成しつつ、前進しているのではないでしょうか。

シュタイナーは、「アントロポゾフィー」ということばをそれぞれの国のことばで言い換えるなら、「人間の智恵」というのではなく、「人間であること」もしくは「人間であることの意識」と言い換えてほしいと語りました。

私もなにやら大きなことを書いてしまったように思いもしますが、
この言語造形企画「ことばの家」も、言語造形ということばの芸術を通して、
アントロポゾフィー(人間であることの意識)を学ぶ、つまり「人間的になる」「人間になる」ことを意識的に学ぶための、ひとつの家・社(やしろ)となりゆくように、自分達の研鑽を積んでいきたいと考えています。




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2005年01月15日

信頼

言語造形のクラスが、今年もまた地域ごとに始まりました。
いつも言語造形のレッスンに入る前に、おひとりおひとりに最近思いにかけていることや
今考えていることなどをリラックスして話していただいているのですが、年の始めということ
もあって、この年末年始の過ごし方について皆さん話してくださいました。

家族のこと、家庭の中のわたし、そして家庭を持つこのわたしの生き方という事などについて
皆さん、こころをこめて話して下さいます。
私自身もここ数ヶ月、家庭ということについてよく考えていました。

こころを震撼させるような出来事が、外の世界から情報として入って来る。
私たちはそこから漠とした不安を感じている。
また地域社会の中で生きることにさえ、心理的な不安を感じている。

私たちの生活に何か拠り所はあるのか。
生活に経済的な基盤があることも勿論とても大切なことだが、それにしても、
伝統的な生活習慣や宗教的習慣を失ってしまった私たちひとりひとりが、
生活の軸とすべきものは何だろう。
新たに育んでゆかねばならないものがあるとすれば、それは何だろう。

皆さんのお話を聴かせてもらっているうちに、おひとりおひとりの語り口は違うのですが、
「家族」「家庭」というものに対して、ある共通の希望のようなものを皆さんが胸に持たれて
いることに気づきました。

家族のメンバーが、共に、ゆっくりと、時間を過ごすこと。
対話。
そして、信頼を築きあげてゆくこと。

社会の中で、この「信頼」というものが、これほどまでに危機に晒されている今、
だからこそ私たちは、家庭の中で、この「信頼」を築き上げることを学び出そうとしているの
かもしれません。

家庭の中での親子の関係、パートナーとの関係において、「みずからを開く」こと。
そのことを学んでゆきながら、人は、徐々に、「信頼」というものを我がこころの中に
築き上げていくことができます。
それはひとりひとりが練習し、稽古しなければ獲得できないこころの質です。

みずからへの信頼。他者との間に育まれる信頼。
お互い、人ひとりの運命を全面的に引き受け、認め合う家庭という現場において、
その信頼というこころの質を育むことができる。

アントロポゾフィーによって私たちは、人間の本質、教育のこと、また運命ということ、
カルマということを学びます。
そこから改めて考えてみますと、「家族」というものが、各々の人の生きることにとって
非常に大きな意味を持っていることがわかります。

今、社会の中核を担うべき30代、40代、50代の人間各々が「家庭」「家族」というものを
新たに見直す必要性を感じ出しているということ、それは大人である私たちひとりひとりの
こころの変容・成長によってのみ、社会の変容・成長がありえるのだということを予感しているからでしょう。

「信頼」というこころの質。「感謝できる」というこころの質。
そして「愛する」というこころの質。

家庭の中でそれらのことを学び、育んでゆき、それらを生活の見えざる軸とすることによって、私たちは静かに、しかし確かに、社会の歩み、世の歩みを前に進ませている筈です。

さて、主に20代の、家庭を離れて独り立ちしようとしている若い人たちにとって、「信頼」をみずからの内に育むためには、どのような社会的な器を考え、創ることができるのだろうか......





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2005年01月04日

共同作業

私は、日々の生活というものが、私たち人と、見えざるものやこととの共同作業によって
支えられている、成り立っていると思えて仕方がないのです。

見えざるもの、見えざること。
神という存在、仏という存在、天使という存在、妖精という存在。
ことばで読み、聞きはしますが、決してこの目には見えない存在。
そして、「人間」という存在!その人のその人たるところは決して目には見えない。

しかし、その存在のことを「考える」ことができる。そして考えることによって、初めて、
その考えには「力」があることに気づきます。その「力」がリアルに私のこころに働きかける
ことに気づきます。生活がその「力」に支えられていることにも気づきます。

アントロポゾフィーから私はそのことを何よりも繰り返し学び続けています。
今、目の前にいる大切な人のこころ、近くに、遠くにいる人のこころ、
死の国へと旅立った人のこころ、これから生まれてくるこどものこころ。
そのひとつひとつが、「考える」ことによって、空間や時間を超えて、今、ここに、ある。
それらひとつひとつのこころ、ひとつひとつの精神との共同作業によって、
私たちの生活は成り立っているのではないでしょうか。
人間が意識的に生きているということ(考えるということ)と、意識を超えた領域から
やってくる恵み、恩寵(ひらめき、出会い、または考えからやってくる力)とが、
交じり合い、組み合わさって、人の生活は成り立っています。

勿論、身体をもって生きている以上、お金も服も住む所も食料も必要ですが、
しかしそれらだけでは「人間」として生きられない。
むしろそれら目に見えるものや事柄の奥に潜んでいる「もの」や「事柄」を考えなければ、
人として生きていくことができません。

決して独力で生きているのじゃない。決して独りではない。
決して人間だけではない。

数知れないこころと精神が私に働きかけているように、私も「考える」こと、「想う」こと、
「念う」ことによって、他の見えざるこころと精神に、私から、働きかけることができると
思うのです。

この年の始めに、様々な国で悲しみ、苦しんでいる人がいます。
その多くの人のこころよ、どうぞ、少しでも寧らかでありますように。





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2004年12月18日

学びの共同体

水曜講座「テオゾフィー」を読む会は、丹念に一文一文読み進めながら、参加者の方々が
それぞれ自らの生活に引き寄せつつ、語り合いながら講座を進めていますので、
一時間半の予定があっと気がつくといつも二時間を越えてしまいます。
先日の会でも、印象深い対話がなされました。

「自分のこどもが学校からもらってくる成績表に並んでいる点数.....
はぁ〜という溜息とともに、点数がすべてではないと頭では分かっていながら、ついつい出てしまうお小言。言いたくないことも言ってしまう。
家庭の雰囲気も何かトゲトゲしいものになってしまいます...」

「シュタイナー教育の理念をこころに留めながら今まで子育てをすることができたんです。
にもかかわらず、こどもの点数を見てガクゼンとしてしまう....大事なことは点数なんかでは
ないと分かっていたつもりだった、しかし我が子のこと、こんな点数ではどうしよう....今、
自分自身が揺れています」

どちらの方も中学生のお子さんを持ったお母さんです。
直面していること、背負っていることから語られたことばは、真実なものとして響き、
私たちはそれを分かち合うことができました。

しかし、こういうことばも話されました。

「今の世の中の価値基準なんて本当にメチャクチャなんだから。
今の学校でつけられる点数なんかでは、絶対に、その子の何も分かることができない。
点数でこどものことを判断していくなんていう、そんなムチャクチャな価値基準によって傷つけられることからこそ、親は絶対に我が子を守ってやらなければならないんだと思います。
その子の生まれながらにして持っている光を傷つけずに、守ってやりさえすれば、必ず、その子の生きる力はどんどん伸びてくるはずなんです」

その方は、三人のお子さんをすでに成人へと育てられた方です。
その方は、ご自分の子育ての経験を踏まえて語ってくださったのですが、
その語られた内容とともに、そのことばの響き自体が与えてくれた確かさ。
私自身も含めて参加しているみんなが、その確かさの恩恵に与りました。

継続して学びに集っていますと、参加されているおひとりおひとりの「光」といったらいいんでしょうか、「確かな明かり」といったらいいんでしょうか、そのようなものが、立ち上がってくるんです。

独りではなく、集って学んでいくことの、大いなる恵みが確かにあります。




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2004年11月28日

応援

舞台やワークショップでよく東京に行くのですが、その時に必ず世話になる友人がいて、
沢口直也君という人がいます。
彼はアントロポゾフィーの学びの会として「花咲ブランチ」を、また人と人とがその都度ごとのテーマの下に出会い、語りあう会として「Welcome Aboard!」を立ち上げ、
定期的に熱く活動を続けています。
先日、東京での彼との語りあいの中で、彼から非情に印象深いことばをもらいました。

「ひとりひとりの人がもっともっと応援されていい」

私自身、本当に様々な人から「応援」されています。アントロポゾフィーの学びを通して、
私が気付くことができた最大のことはそのことです。社会的地位や能力などに全く関係なく、
人はひとりひとりもっともっと応援されて然るべき存在です。
頻発する事件などに接して想わざるをえないのですが、それらの事件を引き起こしてしまった人が、それまでの人生の中でどれ程応援されていなかったか......。
この学びを通して、私がなすべきこと、なしたいことが何なのか、それが少しずつ見えてくるように思います。

今、大阪の勉強会で一冊の本「両親の問診時間」を読んでいます。
この世に生まれてきたこどもたちがまずは何を求めているのか。それは様々な意味で
「守られる」ことではないでしょうか。
この本の第一章は「教育における父親」であり、第二章は「一人で育てる母親」です。
こどもを守り、その健やかな育ちを応援できるのは、私たちひとりひとりの大人である
ということ。
そんなある意味当たり前のことが、今、改めて意識的に学ばれる必要があります。
何故なら、私たち多くの大人自身が、「守られている」「応援されている」と感じにくい
社会環境、時代状況の中に生きています。自分自身が守られていない人が、どうしてこどもを
守ることができるでしょう。

大人自身の守り、それはどこからくるでしょうか。
そこで、この本の第三章に「天使」が来ます。
私たちがみずからの内の騒がしさを静め、その静けさの中で考えること。
そこから初めて「慰め」と「守り」がやって来る。静かに考えること、それは自分自身との
対話といってもいいですし、よりよき自己(わたし)との語らいといってもいい。
そこから初めて自分自身の「慰め」と「守り」、そして新たな「見通し」を獲得することが
大人にはできます。
「慰め」「守り」「見通し」それらの質が天使の持つ質であるとその章に述べられています。

私たちひとりひとりがまず、応援されて然るべきだということ。
そして、すでに「天使」なる存在がそのことをしてくれていることに気づくこと、
そしてそれにならうことができるということ。そこから、こどもたちへの教育の地盤が
つくられるのではないでしょうか。




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2004年10月05日

アントロポゾフィーは、今、必要でしょうか?

日本アントロポゾフィー協会常任理事の鈴木一博さんによる毎月一度の大阪での講座
「自己認識と生活実践」。
この10月までに計14回行われてきました。

つい先日行われた第14回目「社会は生きている(社会有機体三分節論)」においては、
シュタイナーの著作「社会問題の核心」の内容をふまえて日常的で具体的な事柄にそって
非常に充実した講義がなされました。

その中で話されたひとつのことが、私には、この学びをしていく上での大きな前提であること
を感じたのです。
シュタイナーは、理想的な社会はこういうものであるとか、こうすればいいというような
ヴィジョンを提供したのではないということ。彼はこの「社会問題の核心」という著作に
おいて、また当時1919年前後の一連の講義、声明文を通して、社会というその都度その都度の
人と人とのかかわりあいが、健康なものであるか不健康なものであるかを「見抜く手立て」を
提供したのだということ。
人と人とのかかわりあいが人間的なものであるか、そうでないかを「感じる感覚」を養うため
の手引きを提供したのだということです。

このことは、そもそもアントロポゾフィーが「自由」とは、「愛」とはこういうものです、
こうすればいいのです、というような定義づけをするものでも、マニュアルを与えるものでも
ないということを再び確認させてくれました。
そのような理想像・ヴィジョン・目指すべきものは、決して固定されたものではなく、
ひとりひとりが様々なレベルにおいて、その都度具体的に掴むことができるものです。
杓子定規な、机上の議論や理論によるのではなく、現場にいる人間こそが、現場において
より人間的な、より自由な、より善い手立てを講じるものです。
アントロポゾフィーは、そのより善い手立てを講じるためには、こころの練習が必要だという
ことをひたすら言っています。
それは日々の生活における実践的な練習でもあります。
アントロポゾフィーは、その練習のための手立て・きっかけを与えてくれます。
残念ながら、マニュアルらしきものは与えてくれません。

私たちが生きていくこと、日々の生活、人生ということ。そしてアントロポゾフィー。
他人まかせにはできない、自分しか自分の人生を切り開いていくことはできない・・・。
自己認識という仕事を一歩また一歩と進めていく中で、他者に対する批判や非難をしている
場合ではないことにも気付きます。
自分しか、自分のこころを耕す者はいない。
私は、私自身が変わり続けていきたい。

アントロポゾフィーは、今、必要でしょうか?


※来月11月7日(日)、「結婚」をテーマにした講座が行われます。詳しくは「ワークショップ・講座」欄をご覧ください。



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2004年09月07日

不安と目覚め

Messageにもありましたが、つい先日、そして今日も、大阪にいて強い地震にあいました。
確固として自分たちを支えてくれていると思い込んでいた大地がグラグラと揺れる。
そのとき抱いた、ことばにできないような不安。
肉体が危機にさらされるときの恐れ。
肉体が独りであることのこころ細さ。
 
しかしその不安の中で、私は強く、「自分」を感じたのです。
危機にさらされたり、不安に襲われ緊張を強いられるとき、
私は、強く「わたし」を感じるのです。

そして、「わたし」は、今、この世に生を享けていて、
何をしたいか、何をすべきかを改めて考えようとしています。

不安。そして、不安を抱くからこそ得られる目覚め。
それは、内的な緊張と葛藤を伴いますが、
だからこそ勝ち取られたその目覚めは、毎日を生きていく推進力になります。





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2004年09月06日

出会い

のろい歩みではあるのですが、アントロポゾフィーを学んでいく中で、私は自分が生きている
この世界を、大きな円、もしくは球のように観る練習をしているのだと感じます。
自分が、いかにこれまで周りの世界を、四角く切り取られた狭いフレームの中に見ていた
ことか、またこれからも見ていくことだろうかと気づかされるのです。
あくまでも自分の肉眼の眼で観える範囲のことなのですが、
世界が狭められた四角の中に見えるときと、大きな円の中に観れるときが確かにあります。

私のこころが塞がっているとき、世界は切り取られたように狭く見える。
しかし、アントロポゾフィーの学びから、「人というもの」について何度も何度も考えたり、
考え損ねたりを繰り返すうちに、私はそのときそのときで、やっとひとつの考えに辿り着く。

「ひとりひとりの人が、永遠を貫いて、今、ここに、いるのだ」

という考え。
その考えが、私のもとに降りてくることがあります。
その考えが、胸の内を深め、暖めてくれます。
そのとき、私は、大きな円の中に世界を観ることができ、その円の中で、人ひとりひとりが
それまでよりもくっきりと観えます。
 
そして、ひとりひとりの人にかならず「名前」がついているということを念うとき、
念ずるとき、その人の姿が、リアリティーをもってきます。
私はそのとき、密かにこころの中で、「出会い」を感じる。

出会い、それは観ることから、そして念うことから。





posted by koji at 00:00 | 大阪 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする