2008年02月29日

こどもの中の宗教性

夏木とたまき君.jpg


宗教性ってなんだろう。とふと考えました。

しっかりと個的でありながら、自分の内にこもらず、
外の世に向かって開かれてあること。

おおおいなるものに対する信頼・帰依を育んでいること。

どんなささやかなものにも、ことにも、人にも、
おおいなるもの・光を見て取ろうとすること。

またまた我が娘が出てきて恐縮なのですが、
公園の砂場に入っていく娘を観ていて、感じたことなのです。

なぜ、こうも無防備に、ほかのこどもたちに近づいて行って、
自分からなんの屈託もなく、遊ぼうって誘えるんだろう・・・。

生まれてから歯が生え変わるまでの人間って、
生まれる前の精神の世での生活を継続しよう、しようとしている。

その世では、まさしく、天使と共に生きるがごとく、
人は優しく、のびのびと、愛に生きている。
開かれて、信頼して、生きている。本来。

精神の世でのそんな人間の生き方。
そんな人間の原像を、小さいこどもたちは、この世でも引き継いでいるように見えて仕方ないです。

こどもの中に宗教性を見出していきたい。
わたし自身の中に、宗教性を見出していきたい。
こどもが共にいてくれるお陰で、そんなふうに感じています。

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2008年02月27日

娘の寝顔

眠っている我が子を見る。

健やかな寝息。
桃色のほっぺ。

まるで、近くに置いてある雛人形のそばの桃の花のようだ。

眠っているとき、人はこうも健やかに、植物的・鉱物的生を生きることができる。

そこには、こころの揺れ動きがまったくない。

植物が生きることの純粋さを自分の内側にもう一度取り戻すことができるかを、
わたしは、こころの毎日の練習において試みている。



娘の健やかな寝顔から、そんなことを想いました。

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2008年02月09日

学ぶということ

言語造形に限らず、
「何かを学ぶということ」について、つくづく感じていること。

何のために、人は、学ぶのでしょうか。

何かを学ぶことによって、
その学びがみずからを変容させる、変革させる、生まれ変わらせる。
明瞭な意識は、とかく抱きがたいものですが、
根底においては、そんな希望のもとに、人は学びにつくのではないでしょうか。

だから、学ぶことにおいて、とても大切なのは、
みずからを空(から)にすること。しようとすること。

決して教える人や、教えられる事柄を妄信するのではないのですが、
できうる限り、みずからを空にして、そこで語られることばを、事柄を、
虚心に「受け取ってみる」こと。

そうすることが、人を大きく、強く、前進させます。

「受け取った」事柄を「受け入れる」かどうか、
消化して自分のものにするかどうか、
そのことは、また別の事柄で、
それは、ひとりひとりがみずから判断して、することです。

学びの前進をとかく阻むのは、
それまでの経験や獲得してきた知識をため込んだまま、学びの場に出る事です。

人の経験や知識は、それは大切なものです。
しかし、新しい学びの場においては、それを外にいったん置いておく。
置いておいても、決してなくなりはしない。大丈夫。

それらをため込んだまま、
それまでの自分の尺度、自分の意見、自分の感覚に
合致するものだけを取り入れようとする態度は、
最も得るところ少なく、
学びのおおいなる目標、自分自身を変革させることから遠のいてしまうのです。

学びの場においては、余計な分別心を置いておく。
その場において、どういうこころの態度が最もふさわしく、
また、自分自身にとっても最も益するところがあるのか、
それを「意識するこころ」が、学びを前進させます。


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2007年12月28日

もっともっと

昨日は奈良県生駒市で、今日は京都府京田辺市で、
昔ばなしの会をさせてもらった。
二日間で、200名近くの方々に昔ばなしを聴いていただいた。
どちらの会においても、
その準備や広報、会場の設置をしてくださった方々のご苦労とお気持ちがあってこその時間だった。
本当にありがとうございました。

年末のこの時期、
様々な用事などがある中で、お話の場所を選んで、たくさんの方が足を運んでくださった、
そのことに感謝するとともに、
このような時間と場所が求められていることの意味を考え、
また、自分の仕事の意味をも改めて考える。

生の声で、こころからの昔ばなしや物語りを聴く。
そんな時間と場所が必要とされている。

そんな需要が確実にあるからこそ、
できる限り、質の高い、真実味のある舞台をひとつひとつ丁寧に創っていきたい。

昨日、今日と、舞台をさせてもらい、
何よりも感じたのは、自分はもっともっと練習しなければ、ということだ。

もっともっと、人様に、こどもたちに、まことのことばを語れるように。
昔ばなしや物語りを通して。

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2007年12月24日

「ことばの家」のクリスマス祭

本日、「ことばの家」のクリスマス祭に来て下さった皆様、本当にありがとうございました。

「アヴェ・マリア」の歌から始まって、
玉井澄恵さんの「モモとジロラモ」のお話し、
榊法子さんの「星の銀貨(グリムメルヘン)」、
お二人の語りは、
練習の積み重ね、言語造形という芸術に対する心意気を感じさせてくれる素晴らしいものでした。
お話がなされることで、まるで、それぞれひとりの人がこの世に生み出されたようです。
そして、お二人はみごとにこのクリスマス祭にふさわしい空気をお話で創り上げてくださいました。
玉井さん、榊さん、本当にありがとうございました。

「モモとジロラモのお話し」において、精神的な結婚ということがらが語られていました。
求め合うもの同士がようやく出会い、結ばれ、そして、新しいいのちを生み出す。
それは、「結婚」ということがらにおいて、当たり前のこととされていることですが、同時に、
「結婚」ということがらが秘めている神秘的なことがらです。
それは、ひとりの人のこころ(母)の中で、精神の父によって、新しい考えの種が宿され、
新しい認識(おさな子)が生まれること・「本当のわたし」が生まれることの似姿でもあります。

そのとわに新しいおさな子こそが、天の国に入ることができるのだということ。
だから、わたしたちは生まれてくる時は、新たなおさな子として天から生まれてきますし、
死んだのちも、わたしたちはまたふたたびおさな子であった時点へと逆向きに人生を辿りなおし、
新たな世へと歩を進めていく。
そのことが「星の銀貨」において、語られていました。

求め合う父と母、そして結合から新しい子が生まれること、
それは精神とわがこころとの結びつきの似姿であり、
その結びつきから生まれた新しい認識の似姿でもあるのでしょう。

その新しく生まれる認識・新しく生まれるおさな子を讃え、祝う日が、明日のクリスマスです。

今日から1月6日の朝まで、13の夜と昼が繰りなされます。
この13昼夜を通して、わたしたちに密かに響いてくることば、
「おさな子に目を向けよかし」
このことばを胸に、
この期間を過ごしていきたいと思っています。

皆さん、どうもありがとうございました!

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2007年12月01日

地球よ!

箕面 紅葉.jpg  箕面 川.jpg

今朝起きて、天気がとても良く、
家族三人で箕面の山に紅葉を観に行った。

山の清爽な空気の中、頭は冷たい爽やかさを感じ、
枯葉が敷き詰められた川沿いの道を歩いていると、
足の下に大地に敷かれた絨毯の上を歩いているような心地よさ・暖かさを感じる。

枯れ行く葉が紅に染まるというあの相は、
わたしに、春の桜から受け取るものとはまた違う、内なる生命力を与えてくれる。

山を流れ下る冷たく清冽な川の水に手を差し入れると、
こころをも浄めるような感触を指先に与えてくれる。

地球のほんのひとところで、
そのような「もの」を受け取ることができた。

紅葉は目に見え、
水は手に触れられるけれども、
わたしが受け取ったその「もの」は、目には見えず、手にも触れえない。

しかし、それは、地球とのひとときのつきあいの中で、恵まれた「もの」。

山にいるあいだは、行楽で出てきた人ごみの中で、
そのような「もの」を享受するだけだったが、
さて、
家に帰ってきて、独りになって考えるに、
わたしから、地球に、どんな「もの」を与えることができるだろう・・・。

それは、おそらく、目に見える「もの」ではないだろう。

わたしは、今、この地球にお返しできる「もの」、
目には見えないが、そういった「もの」は何かを考えている。




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2007年11月25日

思考・感情・意志

植物と人間。

立ちようが上下逆になっている、
このありようの対比。

植物は、地中から、根を通して養分を受け取る。
人間は、精神(天)から、頭を通して宇宙の養分(思考)を受け取る。

植物は、緑の茎を伸ばし、葉を繁らすことによって、光の作用を受けて光合成を繰りなす。
人間は、こころを開いたり、閉じたりすることによって、感情を織りなす。

植物は、花を咲かせ、実を実らせることによって、世界に美と創造性を付与する。
人間は、この手と足を使って何かをなすこと(意志)によって、世界に美と創造性を付与する。


西村強さんの「『真なるわたし』に出会う」ワークショップ。
今日は、これらのことを、パステル画を通して、自分自身のこととして、
感じ、考えるきっかけを掴むことができたように思う。

毎日、精神の養分を受け取り、静かで熱い情をみなぎらせ、何かをやりつづけていこう。
植物が根を張らせ、葉を繁らせ、花咲かせるように。

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ワークショップ「『真なるわたし』に出会う 〜意志・感情・思考を通す〜」を終えて

ご参加くださった皆さん、今日はどうもお疲れ様でした!

パステルを使っての格闘!

「わたしのわたしたるところ」に迫るということ、
それは実は生半可なことなのではないという実感が、
いま、ワークショップが終わって、じわじわ感じられています。

わたしのまず第一の想いは、
「えっぐいな〜」という大阪弁で出てきました。

肉体というよりかは、自分の中の内なるからだを使い果たして、
一粒の種、ひともとの植物から花が開くまでを辿りおおせた、
そんな感じです。

自分のうちに巣食っている衝動・情念・性向などに向き合っていくこと。

また、そこから目をそらさないからこそ、
それらを克服する喜びがあるのだということ。

自分の花を咲かせるため辿ってきたプロセスを揺さぶるような外からの妨害。
しかしその妨害こそが、実は自分の成長にとって、なくてはならないものであるという気づき。

わたし個人にとっては、水のやりすぎで根元が腐ってしまうという妨害は、青天の霹靂。
しかし、その妨害のお陰で、みずからの根を太らせるということに意識が初めて向きましたし、
そのことが一体自分にとって、どういう意味があるのだろうかと、
家に帰ってからずっと考えさせられています。

みなさん、とにもかくにも、今日はお疲れ様です(~_~;)

そして、来てくださってありがとうございました。



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2007年11月19日

人、ことばを語り、 ことば、人を語る。

人間は何かを語る。
そのことばの何たるかによって、その語る人間の何たるかもが、語られる。

人、尊ければ、そのことば、その尊き人を語り、
人、劣なれば、そのことば、その劣なる人を語る。

自戒。自戒。

しかし、人はきっと、尊と劣の間に生きているのだろう。

我に求むべくは、志に切なることのみ。

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2007年11月07日

出来栄えを気にせずやり続けるということ

いよいよ秋も深まり、そぞろ寒さも感じられてくる。
冬支度もぼつぼつ始めていて、寒さに対する防御を始めた。

しかし、そういった冬に向けての自分のこころの構えに、
寒さに対する防御といった気持ちだけではなく、
今年はより一層、意気込みが台頭してきたように感じる。

それは、この秋のはじめ、
自分のイニシアティブからミカエル祭を始めたことが随分影響している。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/58189292.html

もう、5週間以上前になるが、いまだにわたしの中では、あのミカエル祭の余韻が響いている。

シュタイナーの『こころの暦』の第26週目が、ミカエル祭の週である。
時はそのときから随分経っているが、ここに書きとめてみる。


  自然、その母のようなありよう            Natur,dein mutterliches Sein,
  わたしは、それを、意欲において担う      Ich trage es in meinem Willenswesen;
  そして、わたしの意欲の火の力           Und meines Willens Feuermacht,
  それが、わたしの精神の萌しの数々を鍛える  Sie stahlet meines Geistes Triebe,
  その萌しの数々が、自らの情を生む        Dass sie gebaren Selbstgefuhl,
  わたしを、わたしにおいて担うべく          Zu tragen mich in mir.
     (鈴木一博訳)
   

秋のはじめにおいて、
こころの中の「火」の要素が際立っているのを、自分の中に感じていた。

今年は、その火の力を保ちつつ、こころの冬支度をすることができる。 

その火の力とは、
例えば、出来栄えを気にせず、喜びと愛をもって、何かをやりつづけること。

それが、仕事であれ、勉強であれ、芸術であれ、瞑想であれ、なんであっても、
自分がこれと決めたことを、まさに出来栄えを気にせずにすることによって、
どれほど多くを学べることだろう。

そして、誰から言われたのでもない、自分がすると決めたからするその何かをやり続けることによって、
わたしは自分自身に対して誠実さを守ることができる。

それは、こころの中に大きな力を生む。

そして、一年で最も夜が長いとき、闇が深いとき、
冬至・クリスマスへ向かって、毎日一歩一歩歩いている。      

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2007年10月28日

シュタイナー教育についてちょっと考えたこと

先日、あるシンポジウムで、
「シュタイナー教育はやはりドイツという西洋文化の中で生まれたものであるから、
ここ日本での実践には難しいものがあるのではないか」
というような意見がある人から出されていたのを聴いていて、
改めて考えた。

確かに、その国、その国、その土地、その土地で、
お国柄、土地柄は随分と違っていたりもする。

世界のいわゆるグローバル化・文化の画一化が進んではいるとはいうが、
人の生きる世界のところどころでは、
随分と違うものがまだまだ残っている。

そもそも世界は、違う文化と文化が無数に隣り合い、重なり合って、その歴史的時間を進行させている。

話しを一般化させずに、シュタイナー教育ということにあえて意識を絞って考えてみると、
ここ日本で、シュタイナー教育を実践していくにあたって、
まず意識したいことはなんだろう。

それは、おのれのものも含めそれぞれの民族・国・人が培ってきた文化に対する敬意を持つことがとても大切だということ。

それが、西洋と東洋との違いであれ、国と国との違いであれ、人と人との違いであれ、
その間に違うものがあるからこそ、学ぶべきこともごっそりあるのだということ。

ドイツで生まれたシュタイナー教育が、
その民族性や宗教的信条のゆえに、独特のものがあるならば、
わたしたち日本に生きる者も、
世界中の多くの国でこの教育を実践している者たちと同様、
そこから学んでいく意味はおおいにあると思う。

それは、よそのものを無批判に取り込んでいくこととは違い、
おのれの文化をよく知り、おのれの文化に敬意を抱くがゆえに、
他者の文化に接し、交わり、そこに学んでいこうとする積極的・意識的な行為である。


そして、より本質的な側面として、
洋の東西、国と国、人と人の間に通底している「普遍的なもの」こそを、
わたしたちはこれからの時代、
鋭く求めていくのだろうし、学んでいく
のだろう。

もし、シュタイナー教育にその文化の独自性を越えて普遍的なもの、
つまり「人間の教育」を見出すことができるなら、
わたしたちはそこにこそ、これからの教育へのおおいなる示唆を得、
自分の中から現代の人間によりふさわしい教育をそのつどそのつど創造していくことができる。

なぜなら、わたしは、日本人であるまえに、地球に生きるひとりの者で、
その意識からそのような世界観を求める者だから。

シュタイナー教育の運動に何らかの形で参与していく者は、
とどのつまり、
「ひとりの人間として自分はどう生きるのか」
という一点から、ものを見、感じ、考え、行動していくことに意識的になっていくだろう。

  秋深し隣は何をする人ぞ  松尾芭蕉

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2007年10月22日

むかしばなしを楽しもう! 10月27日(土)

今日は、こちらの都合で、ホームページの更新ができないので、
ここに今週のおはなし会のお知らせを掲載します。
みなさん、お時間ありましたら、ぜひ足をお運び下さい!

以下、空堀ことば塾の塙さんの記事転載です。

毎年恒例、路上の美術館、からほりまちアートが開催されます。
空堀ことば塾もこれに併せて親子を対象としたお話会を開きます。
また、直木記念館主催の文学講座では、
教育芸術としてのシュタイナー教育をふくめて「学び」をテーマに対談と講演会が開かれます。
秋の一日、芸術にどっぶりと使ってみませんか。


■たまには、むかしばなしを楽しもう!@からほりまちアート(10月27日)

路上の美術館、からほりまちアートにて、親子を対象として昔話のお話会を開きます。
秋の一日、からほりで昔話に耳をお澄ましください。
もちろんおひとりでのお越しも歓迎です。


演目
「かちかち山」 塙 狼星
「浦島太郎」 田寺寛子
「赤ずきん」 諏訪耕志


日時 10月27日 15時〜16時
場所 複合文化施設「萌」二階 直木三十五記念館(http://ho-karahori.com/index.html)
参加費 五百円(人数によらず親子一組、お一人では三百円)
お問い合わせ 空堀ことば塾



■連続講座「可能性のまち上町台地」第三回 学びの場・上町台地の可能性(10月27日)

物語を縦糸にした空堀ことば塾での学びの実践をふまえ、直木記念館の小辻さんと一緒に、文学的雰囲気に包まれた上町台地での教育の可能性について、楽しくお話したいと思います。


【第一部】ダイアログ
塙 狼星(空堀ことば塾)×小辻昌平(直木三十五記念館事務局長)
【第二部】講演会
芥川賞作家 玄月


日時 10月27日(土) 17時〜20時
場所 複合文化施設「萌」二階 直木三十五記念館
参加費 五百円(別途記念館入場料二百円が必要となります)
お申し込み・お問い合わせ 直木三十五記念館事務局 tel/ 06-6767-1906

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2007年10月13日

シュタイナー『テオゾフィー』を読み終えて

先日、主宰している講座で、
シュタイナーの主著ともいえる一冊『テオゾフィー』を読み終えることができた。

なんとありがたいことだろう。
足掛け3年半に渡って、毎月2回通ってくださった方々に本当にお礼を言いたい。

当たり前のことかもしれないが、
聴いてくださる方がいて、
初めてわたしは語ることができる。
 
そして、この講座があるお陰で、
わたし自身、この3年半の間、集中してシュタイナーの思考に寄り添うことができた。

ある人の思考に寄り添うということは、
その思考に迎合するとか、無批判に信じ込むということとは違い、
自分をいったんは置いておいて、客を迎える、
そんなこころの筋肉を鍛えるようなところがある。

自分を置いておける、
それは実は、自分に対する意識・自己意識がとても深い状態だ。

自己意識が深いからこそ、
自分を置いて、客を迎えることができる。

そんなふうに、自己意識を深めることに繋がっていく読書だったように感じる。

3年半前、みんなでこの本に向かい合った時は、
やはりこの本を通して、それぞれのおのれの中に、光を求めて歩き出した、
そして、読み進め、いくつもの山や谷や川を越え、読み終わった今、
この『テオゾフィー』を読むプロセスは、
光と愛がひとつになりゆくようなプロセスだったのだなと、強く感じる。
どこか、ルーチファーとキリストがひとつになるような・・・



ある人のブログに出会い、読書していくことについて書いてくれているのを読ませてもらって、
意を強くしている。

   「必要なのは読んではまた再読し、傑出した作品に親しむようになることだ〔……〕
    とにかく熟視することを学ばねばならない〔……〕
    教養が主な敵とするのは駆け足で行き、けっして帰ってもこず、
    けっして立ち止まりもしないような読み方だ」    (アラン『著作集7』225頁)

   『蒼天航路』というコミックに出てくる呉の君主の孫権も、
   「漢王朝とは何か」
   「曹操と戦う理由は何か」
   「大義とは何か」
   「天下三分の計とは何か」などについてひたすら考え詰める。
   呉の都にやってきた劉備が「天下三分てなぁーなあ、要は……」と云おうとすると、
   「“要は”で答えるな玄徳!」と一喝する。

   あるユダヤ教のラビは、聖典のたった3行を読むのに3時間を費やしていたという。
   今でも真摯な神学の徒はみなそうかもしれない。

   プラトンでもゲーテでも西田幾多郎でも誰でもいいから、
   じぶんの気に入った作家や思想家を一人さだめ、
   たっぷりと時間をかけてその人の著述を隅からすみまで読みつくす……
   という経験をもっておくと、後々すごい財産になっていくような気がします。

   知識はマクロ方面にまんぜんと広げるだけでは片肺飛行で、
   ミクロ方面にも深く根を下ろしていくことで、軸足ができ、
   バランスが保たれるのではないかなと思っています。

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2007年10月04日

われは、ひとりにて呼ぶ者の声である

北半球において、地球は今、秋という季節を迎えている。
この秋という季節の中で、地球の上に立っているわたしたちのこころの内には、
どんなことが起こっているのだろう。

地球が迎えている秋という季節と、人の内面とは、相関関係があるのだろうか。

ある。
いや、本来あるはずだということを、
あらためてシュタイナーから学んでいる。

そのことを自分で確かめたくて、秋の祝祭をやってみた。

「われは、ひとりにて呼ぶ者の声である」

ヨハネ福音書からの洗礼者ヨハネのことばだ。

聖書には、「われは、荒野にて呼ぶ者の声である」と訳されてあるが、
「荒野にて」は、ギリシヤ語から文字通り訳せば「ひとりにて」であり、
その「ひとりにて」ということばをまさに金の秤にかけるがごとく受け取っていいのだ。
そう、シュタイナーが語ってくれている。

今、この季節、わたしは、このヨハネのことばからとても強い励ましを受け取っている。

精神的な集いを創るのだという考えを、
実際に実現していくこと。

それは、はじめはぎこちないものかもしれないが、
だんだんと、必ずや、わたしに抱かれている考えが、
よりよい形で、人々と共有できるようになってくるはずだ。

わたしも、「ひとりにて」、イニシアティブを抱いている者だからだ。
そのイニシアティブは、わたしを本当に、自由にしてくれる。
そして、とてもエキサイティングで、おもろい。

秋という季節は、
この「ひとりにて」ということを思い出す時だ。

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2007年10月01日

こころの暦・秋の祝祭

昨日、空堀の直木三十五記念館で「秋のおはなし会」を開いた。
語り手は、西京子さん、榊法子さん、わたし。
また、空堀ことば塾の塙狼星さんにも随分、お手伝いいただいた。
本当にありがたい。

畳の間に二十数名の方が集まって下さって、
おはなしを聴くのに、丁度いいくらいの広さと暗さだった。

この会、おはなしを語り、おはなしに聴き耳を立てることを通して、
芸術の集いでありつつ、
季節の祝祭として、
ある意味精神的な集い宗教的な集いを創っていくのだと考えている。

宗教ということばを、
わたしは、どの人のこころの中にも潜んでいるより深いもの・より高いものへの憧れを満たそうとする人の内的な行い、
という意味で使いたい。

シュタイナーから学ぶ、この四季の巡りの宇宙的な意味。
その宇宙的な巡りと呼応するかのようなわたしたちひとりひとりのこころの中の巡り行き。

いや、むしろ現代においては、
その季節の巡りとは随分と乖離してしまったわたしたち人間の生活と内面性。

そのような人の内側の巡りを、
意識して、学ぶことを通して、
宇宙の巡りと重ね合わせていくことで、
こころの糧を得ていくきっかけが掴めないだろうか。

秋が来るたびに、その秋という季節感とのかかわりを通して、
毎年新鮮な息吹きを自分の中にプロデュースできないだろうか。

そのことがシュタイナーの『こころの暦』という本に記されてある。

今週は丁度ミカエル祭の週であるが、
その週に記されてあることばとともに、
三つのおはなしを皆さんに聴いていただいた。

秋という季節、人のこころの内に、どんなことが生じるのだろうか。

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2007年09月11日

こころの釣り合い

こころの次元においてですが、
毎日の生活の中には、
ほんのちょっとした喜び、
ほんのちょっとした楽しみがあったりしますよね。

朝一番の水のおいしさであったり、
買い物に行った時の店の人のちょっとした気配りであったり、
こどもの笑顔であったり・・・
そういう小さな喜び・楽しみを積極的に見出していくことは、
わたしにとってすごく大事なことです。

特に、朝、目を覚ました時がとても大切です。
一日をほんの一瞬でもいいから喜びで始めること。
わたしの日課です。

しかし、どちらかと言うと、
わたしは喜びや快よりも、
とかく痛みや不快を敏感に感じやすい質(たち)のように思います。

でも、それは言い換えると、
そうした痛みや不快から、
わたしは『何か』を学ぶことができる、
ということでもあるんだなと思うのです。

最近も、人とのお付き合いの中で、
痛み・不快、感じてしまいました(~_~;)

以前の自分だったら、
そんな痛みや不快に、一瞬で巻き込まれ、
その状態の中からすぐになんらかの反応をしてしまっていました。
すぐに不機嫌になるとか、
言い返すとか、
喧嘩してしまうとか・・・

しかし、歳は重ねてみるもの、
学びはし続けるものですね。

そんな痛みや不快を、
別の角度から、少し離れて見ることができる自分に、
我ながら不思議に思いました。

強い衝撃をもってやってくる痛みや不快に対して、
少なくとも、その時その場では、
その衝撃に巻き込まれずに、なんとか立っていられる。

そして、時間を置いてみて、
その痛みや不快が告げようとしている『何か』に、
耳を傾けることができるようになっている。

それらの『何か』を知っていくことを重ねるほどに、
自分の内側の「こころの釣り合い」を実感するのです。

喜びだけでなく、
痛みも、
人生にとっては、
何か大切なメッセージを運んできてくれているんですね。

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2007年09月03日

いい時間

今日、妻と映画を観に行った。

今年7月に亡くなったイングマール・ベルイマンの1956年の作品『第七の封印』。
http://www.cinenouveau.com/x_cinemalib2007/x_cinefes/cinefes_Frame.html

素晴らしかった。

素晴らしい芸術に触れたとき、
わたしは、いつも「死」を思い出す。

人間は死ぬのだということを、芸術は思い出させてくれる。

それは、「生きる」ということをあらためて鮮やかに浮かび上がらせてくれる。

わたしたちが今取り組んでいる舞台「藪の中」も、
そのような手触りを残すようなものへと、迫って行きたい。

そして、この映画では、
過去(もしくは恐れ)に生きる男、
未来(もしくは喜び)に生きようとしている女、
そんなひとりひとりの人間の志向性が、
強くわたしの印象に刻まれた。

わたしは今、「女」というものの高く深いあり方から、
大きなものを学ぼうとしている。

映画館を出たあと、歩く町並み、すれ違う人の顔が、
いつもよりも違って見えるねと、
妻と二人で語らいながら帰ってきた。


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2007年08月26日

自分のことばで語ること

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速いもので、8月も残すところあと1週間。

この夏も、特別なところで仕事をさせてもらいました。

7月の終わりには、岐阜の賢治の学校「ほほっと」で、
8月の前半2週間、北海道伊達の人智学共同体「ひびきの村」で、
つい先日には、和歌山のNさん宅にて言語造形と「こころの講座」をあわせた合宿。

普段と違う場所で、どこか特別な雰囲気の中で、
何日間かを共にするこういった場。

わたし自身、本当に恵まれた人生の中で、
本当に恵まれた仕事をさせていただいているのだな・・・

普段の毎日の仕事においても勿論なのですが、
このようないつもとは違う場での仕事においては、
そういったことをいっそう強く強く感じさせられます。

それは、そういった場では、必ず、わたし自身にとって、
より大きな新しい体験・新しい学びが待っているからなのです。

仕事において、
自分の言っていることと自分のあり方との整合性が、
鋭く問われている。

わたしにおいての最大の学びは、
「仕事をすること」において得ることができます。

どんな仕事にもある程度言えることなんじゃないかなと思うのですが、
わたしの仕事は、言語造形とアントロポゾフィーを通して、
「他者に、世界に、光を与えること」なのです。

そして、「与える」ことの中に既に「受け取る」ことが胚胎されていることに、
仕事を通して気づかせてもらえるのです。

この仕事を通して、わたし自身が誰よりも「光をいただいている」。

だから、より豊かなものを与えることができるように、受け取ることができるように、
毎日、沈黙の内に、学びを深め、
そして仕事において、
その学びをハンマーで打って鉄を鋳直すように、
自分のことばにして他者に伝えていく。

本当に生きた日本語の中にアントロポゾフィーの事柄が語れるようになることが大きな課題であること、
そしてそれは100年、200年、300年かかるプロセスだということを、
わたしの師匠は、語ってくれているのですが、

自分のことばでアントロポゾフィーを語っていく仕事に、
今からでも取り掛かりたいのです。

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2007年08月06日

勉強 と 『いないいないば〜』

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毎年8月は、仕事の量をぐっと抑えて、
次なる仕事の充電のために、
時間を集中的に勉強にあてるようにしている。

しかし・・・!

仕事をしていくためには、どんどん勉強せねば!
と、2階の部屋の机に向かおうとするのだが、
必ず、2歳になったばかりの娘が階段を這い上がってきて、
にこっと笑いながら「いないいないば〜、して〜☆」とずりよってくる。

もしくは、一日に何回も同じ絵本を持ってきて、
「これ〜!読む〜!(『読んで!』という意味)」
とすがりついてくる。

勉強どころではない。
だから、喫茶店に行くことが多くなる。

しかし、娘は、
人間からいかにしてことばが立ち上がってくるかを
教えてくれている。

彼女は、なんと一日一日新しくことばを身につけていくことだろう。
なんと歌うようにことばを話すことだろう。
なんとからだ全体で声を発していることだろう。

当たり前と言えば、当たり前なのかもしれない。

でも、この一瞬一瞬が貴重。

人間が全身で生きている様を見ることができるということ。
人間が全身で学んでいる様を見ることができるということ。

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2007年07月18日

二重生活 その1(感情において)

アントロポゾフィーによる「知ることの細道」。

それは、自分のこころの内なる力を高め、育むことで、
日常生活と精神的な生活との交差をふんだんに生み出していこうとする
学びと実践の道です。

この道を歩みだしますと、
日常生活と精神生活という二重生活が始まっていくことを
徐々に感じ出します。

こころの内では、常に、
思考・感情・意志という三つの主な働きが繰りなされています。

そのこころの働きの内、
まずは感情の面での二重生活についてです。

わたしたちは、日頃の生活において、
まずは、快を求めます。
そして、不快を避けます。

快を快として楽しむこと。味わうこと。
不快を不快として退けようとすること。
その日常におけるこころの働きは、
当然と言えば当然ですし、
その働きがしっかりとあるからこそ、
その人はある意味、健やかさを保っていると言えます。

しかし、快を追求することや、不快を排除することにおいて、
度が過ぎてしまいますと、
わたしたちは、からだに、またはこころに、
病を抱えてしまわざるをえません。


一方、わたしたちは「知ることの細道」を歩み続けることによって、
自分の感情を通して、精神的なものを育んでいくことの意味を見出します。
感情の意味を見出します。

そのとき、
快は快としてしっかりと受け取る。
不快・痛みは不快・痛みとしてしっかりと受け取る。
しかし、その快と不快、双方に、
巻き込まれない自分を育てることができます。

快であれ、不快・痛みであれ、
それに対して、いい・悪い、 正しい・間違っている、
などの判断を早急に自分から下さずに、
その快と痛みをそのまま受け取ってみる。

そこから、その快、その不快が、
いったい自分に何を教えてくれているのだろうか、
と問うことを練習してみる。

その繰り返し繰り返しなされる練習によって、
日常的な感情生活とは別に、
わたしの内にもうひとつの精神的な感情生活が始まってきます。

「快と不快、喜びと痛みが、ものごとについて習うチャンス」
になってくる。

「快と痛みが、いかに教え上手であるか」
を見抜くようになってくる。


日常生活において、
快や不快に巻き込まれてしまうことが多々あるとはいえ、
やはり、わたしたち人は、その状態から脱していきたいですし、

また、一方、精神生活において、
快や不快に鈍感になってしまうことも、人間的ではありません。
(上の練習によっては、決してそのようにはならず、
 むしろ快や不快に対してより繊細に、より豊かになってきます)

この新しく始まった二重生活(日常的な感情生活と精神的な感情生活)においては、
ふたつの間のバランスを取ることが、
とても大事なことです。


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