2007年09月11日

こころの釣り合い

こころの次元においてですが、
毎日の生活の中には、
ほんのちょっとした喜び、
ほんのちょっとした楽しみがあったりしますよね。

朝一番の水のおいしさであったり、
買い物に行った時の店の人のちょっとした気配りであったり、
こどもの笑顔であったり・・・
そういう小さな喜び・楽しみを積極的に見出していくことは、
わたしにとってすごく大事なことです。

特に、朝、目を覚ました時がとても大切です。
一日をほんの一瞬でもいいから喜びで始めること。
わたしの日課です。

しかし、どちらかと言うと、
わたしは喜びや快よりも、
とかく痛みや不快を敏感に感じやすい質(たち)のように思います。

でも、それは言い換えると、
そうした痛みや不快から、
わたしは『何か』を学ぶことができる、
ということでもあるんだなと思うのです。

最近も、人とのお付き合いの中で、
痛み・不快、感じてしまいました(~_~;)

以前の自分だったら、
そんな痛みや不快に、一瞬で巻き込まれ、
その状態の中からすぐになんらかの反応をしてしまっていました。
すぐに不機嫌になるとか、
言い返すとか、
喧嘩してしまうとか・・・

しかし、歳は重ねてみるもの、
学びはし続けるものですね。

そんな痛みや不快を、
別の角度から、少し離れて見ることができる自分に、
我ながら不思議に思いました。

強い衝撃をもってやってくる痛みや不快に対して、
少なくとも、その時その場では、
その衝撃に巻き込まれずに、なんとか立っていられる。

そして、時間を置いてみて、
その痛みや不快が告げようとしている『何か』に、
耳を傾けることができるようになっている。

それらの『何か』を知っていくことを重ねるほどに、
自分の内側の「こころの釣り合い」を実感するのです。

喜びだけでなく、
痛みも、
人生にとっては、
何か大切なメッセージを運んできてくれているんですね。

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2007年09月03日

いい時間

今日、妻と映画を観に行った。

今年7月に亡くなったイングマール・ベルイマンの1956年の作品『第七の封印』。
http://www.cinenouveau.com/x_cinemalib2007/x_cinefes/cinefes_Frame.html

素晴らしかった。

素晴らしい芸術に触れたとき、
わたしは、いつも「死」を思い出す。

人間は死ぬのだということを、芸術は思い出させてくれる。

それは、「生きる」ということをあらためて鮮やかに浮かび上がらせてくれる。

わたしたちが今取り組んでいる舞台「藪の中」も、
そのような手触りを残すようなものへと、迫って行きたい。

そして、この映画では、
過去(もしくは恐れ)に生きる男、
未来(もしくは喜び)に生きようとしている女、
そんなひとりひとりの人間の志向性が、
強くわたしの印象に刻まれた。

わたしは今、「女」というものの高く深いあり方から、
大きなものを学ぼうとしている。

映画館を出たあと、歩く町並み、すれ違う人の顔が、
いつもよりも違って見えるねと、
妻と二人で語らいながら帰ってきた。


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2007年08月26日

自分のことばで語ること

IMG_0367.jpg IMG_0415.jpg IMG_0419.jpg

速いもので、8月も残すところあと1週間。

この夏も、特別なところで仕事をさせてもらいました。

7月の終わりには、岐阜の賢治の学校「ほほっと」で、
8月の前半2週間、北海道伊達の人智学共同体「ひびきの村」で、
つい先日には、和歌山のNさん宅にて言語造形と「こころの講座」をあわせた合宿。

普段と違う場所で、どこか特別な雰囲気の中で、
何日間かを共にするこういった場。

わたし自身、本当に恵まれた人生の中で、
本当に恵まれた仕事をさせていただいているのだな・・・

普段の毎日の仕事においても勿論なのですが、
このようないつもとは違う場での仕事においては、
そういったことをいっそう強く強く感じさせられます。

それは、そういった場では、必ず、わたし自身にとって、
より大きな新しい体験・新しい学びが待っているからなのです。

仕事において、
自分の言っていることと自分のあり方との整合性が、
鋭く問われている。

わたしにおいての最大の学びは、
「仕事をすること」において得ることができます。

どんな仕事にもある程度言えることなんじゃないかなと思うのですが、
わたしの仕事は、言語造形とアントロポゾフィーを通して、
「他者に、世界に、光を与えること」なのです。

そして、「与える」ことの中に既に「受け取る」ことが胚胎されていることに、
仕事を通して気づかせてもらえるのです。

この仕事を通して、わたし自身が誰よりも「光をいただいている」。

だから、より豊かなものを与えることができるように、受け取ることができるように、
毎日、沈黙の内に、学びを深め、
そして仕事において、
その学びをハンマーで打って鉄を鋳直すように、
自分のことばにして他者に伝えていく。

本当に生きた日本語の中にアントロポゾフィーの事柄が語れるようになることが大きな課題であること、
そしてそれは100年、200年、300年かかるプロセスだということを、
わたしの師匠は、語ってくれているのですが、

自分のことばでアントロポゾフィーを語っていく仕事に、
今からでも取り掛かりたいのです。

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2007年08月06日

勉強 と 『いないいないば〜』

natsuki  awajisima.jpg

毎年8月は、仕事の量をぐっと抑えて、
次なる仕事の充電のために、
時間を集中的に勉強にあてるようにしている。

しかし・・・!

仕事をしていくためには、どんどん勉強せねば!
と、2階の部屋の机に向かおうとするのだが、
必ず、2歳になったばかりの娘が階段を這い上がってきて、
にこっと笑いながら「いないいないば〜、して〜☆」とずりよってくる。

もしくは、一日に何回も同じ絵本を持ってきて、
「これ〜!読む〜!(『読んで!』という意味)」
とすがりついてくる。

勉強どころではない。
だから、喫茶店に行くことが多くなる。

しかし、娘は、
人間からいかにしてことばが立ち上がってくるかを
教えてくれている。

彼女は、なんと一日一日新しくことばを身につけていくことだろう。
なんと歌うようにことばを話すことだろう。
なんとからだ全体で声を発していることだろう。

当たり前と言えば、当たり前なのかもしれない。

でも、この一瞬一瞬が貴重。

人間が全身で生きている様を見ることができるということ。
人間が全身で学んでいる様を見ることができるということ。

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2007年07月18日

二重生活 その1(感情において)

アントロポゾフィーによる「知ることの細道」。

それは、自分のこころの内なる力を高め、育むことで、
日常生活と精神的な生活との交差をふんだんに生み出していこうとする
学びと実践の道です。

この道を歩みだしますと、
日常生活と精神生活という二重生活が始まっていくことを
徐々に感じ出します。

こころの内では、常に、
思考・感情・意志という三つの主な働きが繰りなされています。

そのこころの働きの内、
まずは感情の面での二重生活についてです。

わたしたちは、日頃の生活において、
まずは、快を求めます。
そして、不快を避けます。

快を快として楽しむこと。味わうこと。
不快を不快として退けようとすること。
その日常におけるこころの働きは、
当然と言えば当然ですし、
その働きがしっかりとあるからこそ、
その人はある意味、健やかさを保っていると言えます。

しかし、快を追求することや、不快を排除することにおいて、
度が過ぎてしまいますと、
わたしたちは、からだに、またはこころに、
病を抱えてしまわざるをえません。


一方、わたしたちは「知ることの細道」を歩み続けることによって、
自分の感情を通して、精神的なものを育んでいくことの意味を見出します。
感情の意味を見出します。

そのとき、
快は快としてしっかりと受け取る。
不快・痛みは不快・痛みとしてしっかりと受け取る。
しかし、その快と不快、双方に、
巻き込まれない自分を育てることができます。

快であれ、不快・痛みであれ、
それに対して、いい・悪い、 正しい・間違っている、
などの判断を早急に自分から下さずに、
その快と痛みをそのまま受け取ってみる。

そこから、その快、その不快が、
いったい自分に何を教えてくれているのだろうか、
と問うことを練習してみる。

その繰り返し繰り返しなされる練習によって、
日常的な感情生活とは別に、
わたしの内にもうひとつの精神的な感情生活が始まってきます。

「快と不快、喜びと痛みが、ものごとについて習うチャンス」
になってくる。

「快と痛みが、いかに教え上手であるか」
を見抜くようになってくる。


日常生活において、
快や不快に巻き込まれてしまうことが多々あるとはいえ、
やはり、わたしたち人は、その状態から脱していきたいですし、

また、一方、精神生活において、
快や不快に鈍感になってしまうことも、人間的ではありません。
(上の練習によっては、決してそのようにはならず、
 むしろ快や不快に対してより繊細に、より豊かになってきます)

この新しく始まった二重生活(日常的な感情生活と精神的な感情生活)においては、
ふたつの間のバランスを取ることが、
とても大事なことです。


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2007年07月15日

ありがたい。ほんまそう思う。

言語造形に携わり始めて14年になります。

思えば、これまでの時間は、
師匠から教えてもらってきたことの整理・消化で精一杯だったようです。

しかし、最近ようやく感じ始めたのですが、
師匠から教えていただいたことからもっと踏み込んで、
自分を信じてさらに深みを探っていこうという意欲が、
初めて芽生えてきました。

これは師匠に怒られそうですが、
今は、あの頃に比べて、より情熱をもって、
本当に自主的に言語造形の研究・練習に取り組むことができる自分にようやく((^^ゞ)なってきたように思います。

ほんとに恥ずかしい話ですが、
今、ようやく、そんな自分です。

今は、毎日人とお会いして言語造形に共に取り組んでいます。

自分が本当に熱中できるものが、わたしに与えられたこと。

自分が本当に関心を持って取り組んでいることに、
毎日、付き合ってくださる方々がいるということ。

そして、思いを寄せ、志を寄せ合って、舞台を創っていこうという何人かの人たちと出会えたこと。

自分の愛していることを思う存分やれて、ご飯が食べられるということ。

この仕合せに対してどう感謝を表せばいいのか、
本当に、わたしの周りの人、皆さんに感謝、感謝、感謝。
ありがとうございます!

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2007年05月22日

変化を引き起こすぞ

わたしはなぜか毎年5月から6月にかけてが外的にも内的にも大きな変動が起こる。

これまでのわたしの3回の引越しは、図らずもなぜか必ず5月の終わりだった。

住環境の変化は、目に見える変化、目には見えない変化を引き起こした。

いや、逆に目には見えない変化がもうすでに起こっているからこそ、
住環境も変わっていくのだろう。

今年は引越しこそしないけれども、
主に仕事の面において新しい風が吹いてきそうだ。

何人かの人たちと力をあわせて舞台を創っていくことが、
以前からずっとわたしのこころの中でイメージされてしようがないのだが、
その仕事にいよいよこの6月から取り組むことができる。

わたしは、こころの中で繰りなされる考えのイメージ、感情のイメージを大事にしたいと思っている。

何度も繰り返しイメージされるそれらの考えの相は、
きっとわたしにとって大切な何かを伝えようとしてくれていると確信している。

そしてそれらの考えは、わたしの手足を通してこの世になんらかの形で実現されたがっていることを感じるのだ。

そのアイデア・考えを実現しようとすると、
なにかしらその実現を阻もうとするようなことが起こってくることもままある。

しかし、そんなときこそ、わたしはわたしのこころに聴いてみるのだ。
「本当に実現させたいのか?本当にそれを望んでいるのか?」

以前にも書いたが、こころを通して問えば、必ず答えはいただける。

答えてくれるのは、普段のわたしを越えたより高いわたし、もしくは精神的な存在、もしくは神であると思っている。

「実現したい。どうしてもやってみたい。」
そんな答えが返って来た時、それは実現へ向けて必ず動き出す。

これからも仕事を通して、生活を通して、問うて答えて、問うて答えて・・・
この自問自答を繰り返していくだろう。

しかし、これまでは外からやってくる事々におのずと変化させられていた自分であったように思うのだが、
これからは変化や成長を自分から徐々に引き起こしていく、
そんな生き方をしていきたい。


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2007年05月08日

おやじ

父が亡くなって2週間経ちました。
本当にあっというまに時間が過ぎています。

病が判明してから約8ヶ月、父は本当によく頑張ってくれました。

今、とても不思議なのは、
亡くなってからずっと、
生前中よりも父のことをとても親しく、間近に、
感じることです。

一見平凡な家族ですが、
やはり様々な問題が内からも外からもわたしたちにやってきました。

わたしと父とはやはりとても密接な濃い関係で、
わたしたちの間にも様々なことがありました。

しかし今は、
今回の人生を通して彼が感じ続けていた心理的な苦しみ、
そして今回の病からの苦しみ、
それらすべてから解き放たれ、
笑顔でしみじみとわたしたち家族を見守ってくれている父だけが感じられます。

今、わたしたちの間に残されているのは、愛だけです。

父は彼自身、父親を知らずに育ってきたので、
よく「俺は父親というものがどういうものか分からんのや」
と言っていました。
だから「父親として何をどうしたらいいのか分かってない」
とも言っていました。

しかし、わたしにとっては、家族をどこまでも守ってくれた素晴らしい父でした。
父の子であることを誇りに思っています。

息を引き取る前の晩に、
これまでずっと、
わたしを、家族を、見守ってくれていたおやじに、
感謝の気持ちをことばにして伝えることができてよかった。


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2007年04月10日

問うて答えて、問うて答えて・・・

『小さなわたし』が問う。

たとえば、なんらかの判断を迫られている時、
「こういう場合、いったいどうするのが一番ええんやろ・・・?」
というようにじっくり腰を据えて自分自身に問うてみる。

すると、しばらくして、
ときにはたちまち、
ときには一晩置いて、
一番いい答えがやってくる。どこからともなく。

これは、
『大きなわたし』がそのときに一番ふさわしい答えを、
『小さなわたし』に教えてくれてる、
ということなんだと思っている。

下手な考えよりも、
『大きなわたし』が休むことなくしてくれている精神の働きの方が、
そのときそのときの一番ふさわしい答えをちゃんと知っている。

その精神におでましいただくには、
基本的には、問うこと。
ふさわしく問いを立てること。

「自分はいったい今、何をしたいんだ?」
「自分はいったい今、どうありたいんだ?」

問いを立てるたびに、答えをいただくことができる。

ああ、「考える」とは、
問いを立てて、後は、あれこれ考えずに、
『大きなわたし』から答えをもらえるように、
自分を空にするということなんやな。

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2007年03月31日

ことばに出会う日

人間というものは、
ことばに出会う日を待っている。

何十回、本に書かれたそのことばの上に目を滑らせても、
何十回、他人からそのことばを聴かされても、
その日が来なければ、
わたしたちはそのことばとひとつになれない。

ことばとひとつになる時。
それは、平坦な道を歩いている時よりも、
谷底や険しい道を歩いている時。
もしくはそれらを経巡ったあと、今まで歩いてきた道を遠く望む時。
ことばとひとつになる日は訪れる。

ジョン・レノンの「All You Need Is Love」。
歌の中だけのことだと、これまでどこかで感じていたのだけれども、
最近、はらわたのそこから、本当だと感じる。

大好きなポール・ウェラーも、
最近オアシスのノエルと一緒にあるチャリティーコンサートでこの歌を歌ってて、
チャリティーに終わらない何かを感じさせてくれる。
http://www.youtube.com/watch?v=V34QoklT7p8

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2007年03月28日

長い時間の中で生き方変わってきたな〜

自分は何かの縁で、
シュタイナーに学び続けてきました。

結局のところ、
愛について学んできているように思います。

愛は、自他ともに裁かない。

平安のなかでは、自分がもうすでに満たされているのを知っているから、
自分と他者を特別に線引きして、
優越感を感じたり、劣等感に苛まれたりしなくなってきた。

自分自身をもう責めないことから生じる情の暖かさを味わっている。
だから他者を責めないですむ。

他者との差異よりも、
他者との共通点を探るようになってきた。

ともに他者と動いていくなかで、
なんだかうまくいくようになってきた!
以前は苦労したけど・・・^_^;

ありがたい。感謝☆






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2007年03月22日

アウラを観る

「アウラ・オーラ」と呼ばれているもの。

それは、こころのありよう・考えのありよう・情のありようが顕れたものです。
それは、色や光に類似しているような性質をもって、
わたしたちの精神の目の前に顕れます。

くすんだ色合いから、明るみをもった光、そして漲りつつたぎりつつ常に生成している輝きとしてのものまで、
アウラには様々なヴァリエーションと程があるようです。

「アウラを観る」とは、
いったいどういうことで、何の意味があるのか。

そもそも「観る」ということには、
「観る人の程」に応じたものしか観えないという条件がついてまわっています。
そして、そのことは、わたしたち人間に対する神の深いはからい・愛であると感じます。

わたしたちが、おのれのこころのありようを辛抱強く詳細に観れば観るほど、
おのれのこころを深く生きれば生きるほど、
その程に相応したものが初めて与えられて観ることができる。

観察とは、そもそもそういうことを言うのだと思うのです。

だから、「アウラが見える」ということのセンセーションに惑わされないし、
その見えた色でもって、
他者のこころのありようからその他者に対して早急に判断を下してしまうようなことをしない。

おのれに相応したものしか観えないのだということを知ることは、
おのずと自分に謙虚さをもたらしてくれるのではないでしょうか。



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2007年03月06日

春先の毒だし

春先は、毒だし(デトックス)の季節?

身体の面でもこころの面でも。

皆さん、いかがですか。
わたしは、水面下に潜んでいたらしいいろんなものが、
表に現れてきました。この2週間ほどの間。
特にこころの面においてなのですが。

外の何かがきっかけとなって、
自分でも思ってもみなかったような感情が浮かび上がってきたり、
それによって他人とぶつかったり、
そしてまたそれによって自分の新しい面を知ることができたりしました。

感情というものも、こころの中のことですが、
自分ではあずかり知らないところからやってきます。
そして感情が湧き上がってくることには、
なかなか主導権を握ることが難しい。
感情というものも、
わたしの芯のところから見れば、
それは外側からやってくるものです。

それはもう、様々なものやことが、
毎日毎日外側からわたしに向かってやってきて、
またそれに対してわたしはいちいち反応しようとするのですが、

きっと大事なことは、やってくるものを正面から見据えること。
なんであれ、否定することなく、じっとそれらを見つめること。
そしてそれらに、自動的に反応するのではなく、
それらを赦すことを学ぶこと。

そのことにこの2週間、気づくことができたような気がしています。

毒は出してみなきゃ、いかん。
そんなことを思います。


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2007年02月22日

ことばのよろこび

わたしが、わたしたち自身の活動に、
「ことばの家」と名づけたのは、
随分、シュタイナーに影響されてでした。

シュタイナーによるアントロポゾフィー
(人智学とよく訳されています)は全世界に広まっています。
スイスのドルナッハという村のある丘の上に、
そのセンターである「ゲーテアヌム(ゲーテ館)」があります。
彼自身そのゲーテアヌムのことを「ことばの家」と呼んだことがありました。

その建築物の内部では、
壁の浮彫のひとつひとつ、窓ガラスの色彩のひとつひとつ、
芸術的なフォルム、色彩を通して、
精神が、神々が、わたしたちに語りかけてくる・・・

そんなことをシュタイナーは語っています。

わたしは、そんな建物こそわたしの周りには何もありませんが、
気持ちの上で、
そのような精神が、神が、ことばを語りかけてくれ、
わたしたちがそれを聴き取ることができるような場所と時間を
創っていきたいと願っています。

精神、神の語りかけは、
きっと、わたしたちによろこびを感じさせるはずです。

そもそも人間は、そのような神々のことば(ロゴス)を聴きえる存在であった。

しかし時代が進むにつれて、人はその力を失っていき、
そのかわりに物質をあやつるためのことば、
物質的にすべてを解釈していくためのことばを発達させてきたのかもしれません。

わたしたちは、今、人間のことばを通して、
ふたたび神々しいもの、よろこびを見出していきたい。

人間から発せられることばを通して、
なによりも「よろこび」が感じられる場所を創っていきたいのです。

そんな「ことばの家」、
どうぞご声援よろしくお願いします!


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2007年02月09日

なんだか変化の兆しが・・・

出会う人、出会うもの、出会うことごと、
それらによろこびを感じることが随分と多くなりました。

なにかに導かれるようにして出会うものが、
よろこびをもたらしてくれることが、
最近多くなったのです。
去年の秋ごろからです。

怒りや失望を誘うものもあるかもしれません。
しかし、出会うものや出会う人には必ず、
よろこびや味わい深さ、ちょっとやそっとで見出せない意味深さ、
そうしたポジティブななにかが潜んでいる!
そんなことが最近実感をもって感じられてきました。

これはどうやらわたしの内側の変化と関連があるように思われるのです。

「朝」という時間が大切なのだということが、
段々と分かってきました。
朝起きる。
そして、よろこび、感謝、そんな気持ちから始める。
内側にそんな思いを息づかせる。
そういうふうに、一日を始める。
その思いが段々と日中の生活の中に持ち込まれてくる。

そんな毎日を過ごしているうちに、
外側からもよろこびがやってくるんです。
なぜだろう。
何と出会うにしても、
その出会いがポジティブなものになることが多くなってきます。

以前は随分と、落ち込んだり、何かに失望したり、イライラしたり、怒りを感じたりしている自分がいました。

今思うと、
そうした自分の内側には、
何かに出会うまえからすでに、
怒りや満たされなさ、自己不信に満ちたものがあったようです。
自分はそのことに気づかないままで。

その内側にあるもの、怒りや自己不信、恐れが、
日々、外側で出会う人やひとつひとつのものや出来事に触発されて、
意識の表に出てくる。

そして、その内の自分に向けられた感情に距離をとらざるをえないので、
他者に、外の出来事に、
その怒りや不信や恐れ、自分を責める気持ちを転嫁する。
他者を責めることで、破裂しそうな内側の恐れをガス抜きしようとする。

結果、誰よりも自分自身を苛んでいたし、
自分の周りをも苛んでいた、
そんなふうに感じるのです。

つまり、わたしのこころのありようという内側こそが、
日頃接する出来事、ひととの関係、ものとの関係という一見外側のように思えるものを生み出している。

外から起こってくることが原因で、内側で何らかの感情が結果として生じるのではない。
思考や感情という内側で営まれているものが原因であり、
その結果として外側からそれに相応した出来事がわたしに向かってくるんだ。

だから、まず、朝!
内側によろこびを見出すこと。
瞑想から始めること。
そうしていくうちに、
外側からそれに相応しいものやことがわたしに向かってやってきます。

毎日、細かく見ていくと、
もちろんいまだにポジとネガのあいだを行ったり来たりしています。

でも、随分とポジよりになってこれたこの方向性、
とても楽です。

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2007年02月06日

「テオゾフィー」からの羽ばたき

このテオゾフィーという本を読んでいて、
これは、人が培う技量のうちで最も大切な「筋道だって考える力」をあてにして書かれている、
だからこそ、この本はいまだに読まれ続けているし、
これからも読まれ続けるだろう、
しかし、やはり、これは100年前の本なんだなと、最近よく考えさせられます。
自然科学のみがどんどん隆盛していく時代の、真っ只中に書かれた本だということを感じるのです。

三版の序文にこんなことが書かれてあります。

 この本に「終の」まことを求める者なら、満たされずに手放しもしよう。まさに掲げたいのは、精神科学の全領域から、さしあたり、基のまことである。
 確かに、人の自然だろう。ただちに世の始まりと終わり、あるということがなんのためのことであり、神というものがなにものであるかを問うのは。しかし、ことばと考えを分別に向けてもつ者でなく、実に知ることを生きることに向けてもつ者なら、知っていよう。精神を知ることの始まりを扱う書において、さらに高い品の知恵に属するものごとを云々してはなるまい。その始まりが分かるによってこそ、さらに高い問いをどう立てたらいいかが明らかになる。
  (16〜17ページ)

物質的文明・物質的生活をいかに切り開いていくか、
いかに推し進めていくかにおそらく血道を上げていた100年前、20世紀の初頭のヨーロッパにおいて、
「神というものがなにものであるか」などという問いは、
完全に科学の領域からはずされたものとして、
まともにはアカデミックなものとして扱われてはいなかったのでしょう。

だから、そんな時代の中で、シュタイナーもそういう問いを「高い問い」と言っています。
確かにわたしも、その問いはいまだに「高い品の知恵に属する」問いであると感じます。


しかし、今は21世紀初頭。
ものごとというものごとに、これまで100年間に当てられていた照明とは違う角度から新しい光を当てていこうとする人がどんどん出てきています。

人それぞれが自分の人生を生き切って行こうと意識的に取り組んでいくとき、まずどこから始めるか。

シュタイナー言うところの「終」のまこと、
それはもちろんいまだに「終」のまことでありますが、
これからの時代、それは同時に「始め」のまことであり、
「自明」のまことであり、
「思い出されるべき」まことなのではないかとわたしは感じています。

つまり、何を見、何を考えるにつけても、
神をどう見、どう考え、どう感じているかがベースとなって、
わたしたちの生活は営まれているのではないだろうかと思うのです。

もし、神とはわたしたち人間の外にあり、はるかの高みにある存在としてのみ表象しているのなら、
それは100年前に生きていた多くの人と同じこころの構えと言えるかもしれません。

そのこころもちから、人は高みに登っていこうとします。
しかしその道程の長さについに屈して、みずからを責め、傷つけている人が後を絶ちません。
その結果、その人は他者をも責め、傷つけてしまいます。

「高い」知恵を求めるのではなく、それはもうすでにみずからの内奥にある。
内的平静も、畏敬の念も、神も、すでにわたしのこころの内奥にある。
そこに気づきさえすればいい。
そのことを思い出すだけでいい。
そして、そこから生活と学びを始める。

世の精神的な発展が進んでいくスピードはどんどんどんどん速まっています。
100年前に「高み」だと考えられていたことが、
今わたしたちはまさに「いま、ここ」で立てられるべき問いとして、もうすでに持っています。

テオゾフィーから羽ばたくときが近づいています。


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2007年01月23日

共同作業

五体満足に生きているわたしは、
このからだを使って何をするのか。

身近に、病を得て苦しんでいる人がいるとき、
ようやくわたしはわたし自身にその問いを引き寄せる。

たしかにその問いを毎日自分に突きつけてきたとは言えない。

しかし、毎日突きつけて生きたいと強く願っている自分があることを感じている。

このからだを使う。
このからだをわたしは死ぬまで使う。

歩こうと一瞬思っただけで、両脚がみごとに働いてくれる。
脈打とうと思わないにもかかわらず、
こんなにしっかりと毎日毎時毎分毎秒、心臓は働いてくれている。

こんなにもみごとに、わたしのからだはなりたたされてある。

何が、誰が、このからだを、このようになりたたせているのか。
神だ。

そうして、みごとになりたたせてあるこのからだを使って、
わたしは何をするのか。
それは、わたしが毎日決める。


(シュタイナー著「テオゾフィー」の「物質の世、およびその、こころと精神の地との繋がり」を読んで)

posted by koji at 21:39 | 大阪 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月27日

若い友人たち

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今日、北海道の人智学共同体「ひびきの村」の大村次郎さんとともに、
スイスやカナダから、ユースセクションを担っている若い友人たちが、
「ことばの家」を訪れてくれた。

さまざまなことを語り合うことができた。
自分の夢、すでに取り組んでいるプロジェクトのこと、
生きる上で何がいったい大事なのかということ、
人生の転機に至っていて今は立ち止まりつつ模索しているということ・・・。

暖かく微笑みを浮かべながら聴き手の目をしっかりと見つめながら話す彼ら。
「まなざしの中に、愛があるんだ」と語ってくれた21歳のブライアン。

それぞれのビジョンをもって、こうして日本にまで足を運んで、人と語り合おうとする彼ら。

大きな刺激を受けるとともに、
本当に「人」と出会うことができたあとの暖かさに、今も包まれている。

こころの芯のところで、考えていること、願っていることを、語り合えるのは、
なんとこころ満たされることだろう。

わたしたちは、ディープ・ダイアローグ(深い対話)こそを、必要としているのではないだろうか。

これから彼らは東京に出て、最後に北海道に行きます。
時間を見つけて、彼らに会いに出かけてみませんか。
大村次郎さんからの連絡をここに転載しておきます。

 ひびきの村の大村次郎です。

2006年11月30日
東京、表参道にある青山学院大学にて18:00〜20:00シュタ
イナー勉強会の名称で第11会議室(正門入ってすぐ右の背の高い
ビル:総研ビルの3階の会議室で
す。)にて若者の集まりをします。

今、私のとても親しい海外のユースセクションの友達が5人(24〜
29歳)、日本に来ています。是非、彼らにあってみませんか?
もちろん私も皆さんに会いたいです。お話しする内容は特に決めていま
せんが世界中で活躍する彼らといろんな話を聞けると思いますし、とに
かくいろんな話ができますよ!

彼らは、五井平和財団が主催したユースフォーラム
http://www.goipeace.or.jp/japanese/activities/news/2006/07.html
に参加するため、そして日本を旅するために来日しました。

ユースセクションの本部があるスイスのゲーテアヌムからヴァレンティ
ンとユリアナが来ています。彼らは去年ブラジルで行われた「コネク
ティビティー」を主催しました。
詳細はこちら↓
http://www.connectivity2006.org/

ノルウェーのユースセクションからはマティアスとハイディ、そしても
う一人彼らの友人であるブライアンが来ています。

英語のページですがヴァレンティン、マティアス、ハイディの紹介をし
てあるホームページがありますのでご覧下さい。
http://www.youthsection.org/index.php?id=23&L=5


急な案内で申し訳ございませんが、是非いらして下さい。
お待ちしております。


posted by koji at 22:58 | 大阪 ☔ | Comment(8) | TrackBack(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月24日

内なる静かさ

自分のこころの内側を観るということは、時にとても苦しいものだ。

特に、人と会って、話を交わしたあと、
その影響が、自分に不自由を感じさせるように色濃く残っているとき、
自分のいま感じている情、
自分のいま抱いている考え、
これらへのとらわれからなんとかみずからをもぎ離して距離をとることは、
本当に、本当に、一筋縄ではいかない。

「この情、この考えがいま、自分に何を教えてくれている?」
とみずからに問いかけるということは、ある種の力技だ。


  エネルギッシュに、
  内なるまことと、掛け値なしの真率さをもって、
  おのれ自身に、まったくの他人のように、向かって立つことができるか
       (『いかにして高い世を知るにいたるか』「内なる静かさ」の章から)



格闘しなければならないときは、何度でもやってくる。

しかし、大きな力を必要とするほどに、
得られるものは大きい。


posted by koji at 06:17 | 大阪 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月14日

「わたし」への信頼

時々、「何のために生きているのだろう」「生きるってどういう意味があるんだ」
という疑問(まさに疑いつつ問うこと)を抱くことがある。

生きることを疑うことは、こころの健康にとって良くないことを直感しているので、
なるべく、疑うことをさしおいて、問うことをしてみる。

私はいったい、何を求めて生きているのだろう。
そう問う時、はたしてこの「私」とは何だ、ということにまず行き当たる。
この「私」にも、さまざまな次元があって、
「水が欲しい」から始まって、
さまざまな次元で求めるものも変わる。

しかし、ここで問うている時の「私」は、
「私の私たるところが何を求めているか」というときの「わたし」であり、
「私が心底求めていることは何か」というときの「わたし」のことである。

そして「私の私たるところ」「わたし」を「精神」というならば、
その私の精神は何を求めているのだろうか。

愛を生み出すこと、愛することを、求めている。
そんな応えが自分自身に返ってくる。

では、愛するとは、どういう行為なのだろう、何をすることなのか。
愛するとは知ることだ、とシュタイナーの「自由の哲学」の第一章で読んだ。
そう、何かに目をとめることで、その何かに対する愛が目覚め、
その何かを知りゆくことで、愛は深まっていく。

では、知らないことがら、知らない人を、愛することができるだろうか。
やはり、現実として、知らないものは愛することができない。愛しようがない。

しかし、何かを知っていこうとするには、
自分の関心をその何かにアクティブに向けるという働きかけがやはり必要だ。

では、関心を向けようとする力、アクティブな働きかけをしていくその力は、
どこから生まれてくるのだろう。
自分の性質からだろうか?
その時その時の思いつき、きまぐれからだろうか?

その力の源は、たぶん、いや、きっと、
私の私たるところへの愛・信頼だ。

私の私たるところへの愛・信頼によって自分自身が満たされてこそ、
他へ向かう力が生まれる。

自分の中にしっかりとした軸を立てつつ、
アクティブに、かつ安定した気持ちを世に送り(贈り)出すためには、
自分自身の最たるところ、私の私たるところ、まさしく「わたし」への愛と信頼が、
その原動力になる。

まずは、私から「わたし」への愛と信頼を培っていくこと。
そのことに自覚的になるところまでが、
今、自分が精一杯できることだと感じている。

そして、そこからならば、何かに関心を向けていく気持ちや、
何かを知っていこうとする意欲や、
誰かを愛する力を、思い出すことができる。

その思い出されたこころの力が、自分自身を立ち上がらせ、歩み出させる。
わたしの道が、そのつどそのつど自覚される。
生きる意味を何度も思い出すことができる。

そして「わたし」を含めた世のすべてのいちいちのことや他者を迎え、
それらに向かい合うことができるようになる。

 いちいちのすべてが、いちいちの意味を、
 あることのとわになる歩みに向けてもつ   (『テオゾフィー』鈴木一博訳 P.191)


このことばをみずからのこころに噛み締めつつ、惟(おもん)みつつ、読むことができる。

そんなふうに、今日もまた、
自分に問い、なんとかかんとか、応えている。



posted by koji at 16:02 | 大阪 ☁ | Comment(6) | TrackBack(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする