2019年08月11日

日本の家庭 (一) 〜我が国固有の文化としての〜


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我が家の長女も十四歳。七年期を二つ通り抜けて、所謂「難しいお年頃」も、はや過ぎ、もうひとつ別の次第に入つてきました。
 
親子の間、家庭の中に、日々いろいろなことが起こりますが、いま、とりわけ、かう感じてゐます。
 
生まれてから十四年間、彼女は父と母のことをとてつもなく大きな愛と無条件の信頼で見守つてくれ、なによりすべてを許してくれました。
 
これからの七年間は、こころの自立に向かつてゐる彼女を、わたしたち夫婦が、からだもこころもべつたりだつた時のやうな愛ではなく、より精神的な愛と信頼をもつて見守り、その自立を促し、世間へと送り出していく時期なのだなあ・・と。
 
さう感じてゐる今日この頃、自分は男であり、娘との向かひ合ひにも必然的に意識的にならざるをえません。そこで、改めて、「父親」といふ役割について考へることが最近増えてきました。
 
わたしは、このご時世の中、いろいろなものが入り混じつてゐて、ここ日本が東洋なのか西洋なのか、判然としないありさまに生きてゐます。
 
世の中には様々な価値観があり、また時の移り行きの中で、その時代その時代特有の価値観もあると思ふのですが、わたしはひとりの日本人として、何か確かなもの、美しいと感じられるもの、地に足の着いた土着のもの、つまり我が国固有の文化を求める気持ちの高まりを強く感じてゐます。
 
そこで、先の大東亜戦争の敗戦以前の、日本の家庭観、日本の父親像と云ふやうなものを調べ、考へてゐます。
 
戦後のあまりにも偏向した左翼的な教育思想から、できるかぎり自由になりたいと考へてゐます。
 
シュタイナー教育などを学んでゐるわたし自身、決して、我が国ならではのこの家庭観を忘れず、守り続け、この文化の礎の上に立ちながら、新しくて古い「人間教育」を追ひ求め、実践していきたいと希つてゐます。

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2019年08月06日

生死の向かうをみた八月六日から十五日にかけて


四年前の今日、下記の記事に書いたやうに、たしかに、わたしは戦後七十年を境にして、随分内側が変はつた。
 
自分自身の表層意識では意図してゐなかつたことが、自分の内側で進行し出した感がある。
 
さうすると、それまでは、もつともらしく聞こえてゐた事柄の、本質的な「ごまかし」「おためごかし」「ダブルスタンダード」のありやうが、はつきりと見えてきた。
 
まづ、自分の中の何が変はつたかと言つて、それまでの「権力者は悪、政治家は信用ならない、金持ちは貧しい者から富を搾取してゐる、自分たちは弱者で、様々な所で虐げられてゐる」といふやうな被害者根性から抜け出せたことである。
 
その病的な根性は、こざかしさとひとつになつて、思つてもゐないほど深く、わたしに染みついてしまつてゐた。
 

 
 
 

『七十年前の八月六日から十五日にかけて』
 
 
その九日間、わたしたち日本人は何を感じ、考へ、欲して、生きてゐたのだらう。
 
広島に世界最初の原子爆弾がアメリカによつて落とされ、その三日後に長崎にも投下され、その惨状を知りゆきつつ、B29が自分の住んでゐる地の上を飛来してくる音を聴くとき、わたしたち日本人は何を観念したのだらう。
 
それまでの戦争による極度の緊張状態から、さらにひとつもふたつも、奥を観たのではないだらうか。
 
一億の日本人全員が、死刑台の上に上らされてゐるやうな状態の中で・・・。
 
そんなときを、わたしたち日本人は確かに生きたのではないだらうか。
 
たかだか七十年前なのである。
 
 
 
わたしはこの夏、なぜか、二重のこころの生を生きてゐるやうに感じてゐる。
 
夏の陽射しと共に、子どもたちと共に、喜びと共に、毎日を精一杯生きる。
 
そして、それと同時に、七十年前の人たち、とりわけ、戦争によつて亡くなつていつた方々と共に、密かに毎日を生きてゐる感じなのだ。
 
その方々は、どうも、現代のわたしたちとはものの考へ方、感じ方において、随分違つてゐた。
 
彼らの感じてゐたこと、考へてゐたこと、欲してゐたことが、現代人であるわたしたちには分かりにくい、理解しにくいものであつたらしいことを知るにつれて、わたしは生きること、命を持ち、育み、讃えることについて、これまでの戦後社会の中で当たり前のやうに思つてゐたわたしなりの考へ方、感じ方の枠を拡げさせられ、壊されるやうな夏である。
 
七十年といふ月日は、何か特別な働きをわたしに運んでくれてゐるのだらうか。
 
当時の人々のこころのありやうを忖度するのではなく、そのありやうに沿ふことが、これほど困難になつてゐることに、わたしは驚きと共に悲しみを味ははざるをえない。
 
戦後七十年の間に何が日本人の精神のなかに進行したのか。
 
そして、その敗戦後とそれまでの敗戦前の日本のあり方との結節点ともいへる一九四五年八月十五日に、日本人の精神に何が起こつたのか。
 
そのことへの認識を深めることから始めて、わたしはこれからの生を強く明るく照らし続けていきたい。


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2019年08月02日

真夏の海辺の禊ぎ 片男波の浜


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和歌の浦の玉津島神社のすぐそばにある片男波の浜。
 
とても美しい浜でした。
 
暑い真夏の太陽の下、穏やかな波の揺れにたゆたふひととき。
 
いろいろな想ひ出が甦ります。
 
海といふ海は精神の海と繋がつてゐて、その精神の海には、人といふ人の太古からの想ひ出が波打つてゐます。
 
その精神の海のみなそこに竜宮があります。
 
想ひ出の宮こそ、竜宮です。
 
わたしたちは、そのみづぎわで、禊ぎさへも、させてもらへるのです。
 
こころとからだの禊ぎです。

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2019年07月28日

生きてゐる心地

  
今日、生徒さんと話しをしてゐて、男性性と女性性の話になつた。
 
女性性のことはともかくも、自分は男性であるので、つい自分に引きつけて、「男性は遠くを見晴るかしながら、先のことを、先のことを、考へてゐるやうに思ふ」と話した。
 
つまり、何かを目指して、目的をもつて、毎日仕事をしていくのが、男性性では、といふ思ひだつた。
 
しかし、その後、よくよく、考へ直してみると、何かの目的をもつて仕事をするといふのは、表層のことで、こころのより深みでは、「生きるために仕事をしてゐる」といふのが本当のところだなと気づく。
 
それは、「生きて行くためにはお金が必要でそのために仕事をする」といふ意味ではなく、仕事してゐなくては生きてゐる心地がしないといふ感覚に近い。
 
自分の場合は、人様に言語造形とアントロポゾフィーからの人間学を伝へるといふことの他、言語造形の稽古と作品創り、そして読書が仕事なのだが、いずれも、手足を使つて汗を流しながらすることなのだ。
 
手足を使つて仕事をしてゐなければ、生きてゐるといふ心地がしない。
 
だから、生きて行くために、毎日、仕事をしてゐる。
 
さういふ仕事をしたいから、さういふ仕事をしてゐる。
 
もし、仕事をしてゐなければ、どんな余計なことを考へ、どんな余計なことにいらつき、どんな余計なことをしでかしてしまふか分からない。
 
そんな感覚だ。
 
目的があるから仕事をするといふのは、少し違ふな。
 
男性性といふ話しではなくなつたのだけれど。


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2019年07月23日

まなこ、ひらけば


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今日の午前、下の娘は学校のプールから帰つて来たあと、粛々と夏休みの宿題をしてゐる。
 
自分は、午前の勉強を終えて、万代池のほとりで、本を読んだり、雲を眺めたりした。
 
梅雨の晴れ間の青い空に浮かぶ雲。
 
風にそよぐ緑の木の葉。
 
なにひとつ止まつてゐるものがない。
 
特に雲は、ちょつと見ると緩やかに流れているだけのやうだけど、じつと見つめていると、非常に微細な動きを活発にしてゐるのがだんだんとはつきりと見えてくるのが不思議で仕様がなかつた。
 
その生きもののやうな微細な動きを追つてゐると、まるで雲はことばをささやき合つてゐるやうだ。
 
こちらのこころまでそわそわ、わくわく動いてくる。
 
そして、あらためて空全体を渡るたくさんの雲を視界の中に入れてみると、大きな青いキャンバスに大きな動きで、何かを絵ことばで伝へようとしているかのやうに感じてくる。
 
この感じは単なる気のせいだらうか。
 
側で将棋を指すおじさんたち。交はすことばは、「ふ〜ん」「ほっ、ほっ、ほっ」ぐらゐ。
 
思考のゲームをあんなにも楽しむことができるなんて。
 
いや、他人のことは言へない。
 
自分も雲を見て、こんなに喜んでゐるんだものな。
 
 
 
 

しかし、世の激しさ、恐ろしさ、荒ぶるものたち、それらをみる目を曇らさないでゐたい。
 
この穏やかさ、安らかさをみる目を曇らさないのと同じくらゐに。


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2019年07月22日

いつもの風景 〜参議院選挙が終はつて〜


漸く、参議院選挙が終はりました。
 
選挙期間中は、インターネット上でも様々な意見や思ひが行き交ひ、飛び交ひます。
 
そして、かうして、結果が出ました。
 
日本に住む国民の多数は、はつきりとは意識し切つてはゐないとしても、いまだに健やかな感覚を失つてはゐない、さう、わたしは見ます。
 
日本を侵食しようとしてゐる外国の政治勢力の指示によつて行動する徒党を許さないのです。
 
もちろん、さういふ徒党は、そのやうな指示のことなどおくびにも出しません。
 
いくつかのそれら徒党は、ただただ美辞麗句を国民の人柄の善さと国民自身の自己不信に付け込んで吹き込みます。
 
吹き込まれた人は、歴史についての認識のなさゆゑ、美辞麗句のもたらす雰囲気に一気に摑まれてしまふこと、明治以来、繰り返されて来たことです。
 
わたしの周りに、この「摑まれてしまふ」人があまりにも数多をられること、そのことの意味を考へ続けてゐます。
 
 

以前、わたしは、政治と精神文化における「ことばの違ひ」を大切にしたほうがよいのでは、と書きました。
 
人は、間違ひなく、己れの一身で政治と文化を生きてゐます。
 
しかし、「ことば遣ひ」をしつかりと分ける必要がある。
 
精神文化においては、「尊ぶこと」「慈しむこと」「育てること」こそが至上命題であり、一方、政治における至上命題は、「勝つこと」です。
 
このたびの選挙で、「敗けた」といふことを他者のせいにせず、自分自身のこととして、どう見つめ、どう考へていくか、それがないのなら、永遠に「敗け続ける」ことでせう。
 
なぜ、敗けたのか。
 
「弱者である自分たちは抑圧されてゐる」といふルサンチマン(恨み)にどれほど自分たちの思想が基づいてゐるものであり、その感情そのものがこの国の文化には受け入れられないものであり、この国に根付いてゐないものであり、木に枝を継ぐやうなものだといふことを見つめないかぎり、なぜ、敗け続けるのか分からないままではないでせうか。
 
選挙前まで大騒ぎしてゐたはずなのに、もう「敗けた」ことを忘れたかのやうに、他の話題に浮き身をやつしてゐる。
 
なぜ、「敗けた」そのことの原因を真摯に見つめないのか。
 
あの負け方はひとつの戦略だつた、とか、何者かが投票用紙をひそかに改ざんしたから敗けたのだ、などといふのを見て、馬鹿を言ふのもいい加減にしたらどうだらうと思ひます。
  
そして、ただ、選挙に行きました、自分自身の意志を持ちました、参加したことに意味があるといふ、それだけでは、ただの精神論に堕してゐる、と思はずにをられません。
 

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2019年06月26日

仕事と信仰心


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琵琶湖東岸の能登川付近の水田 

わたしたちはめいめい仕事を持つてゐる。
 
その仕事の中にこそ、信仰心が育つ肥沃な土壌がある。
 
仕事といふものが、その人その人によつてからだとこころを総動員させながら数限りない反復を通してなされる時、その反復は極めて微妙で繊細ながらも確かな手応へといふものを人に授ける。
 
それは、仕事といふ「もの」のなかにその人が入りこんで、共に呼吸をするやうな工合とも言へる。
 
その時、わたしたちは、自身のこころが静まり、清まり、深まつてゐることにも気づく。
 
そして、そのやうなこころのありやうによつて喜びと感謝と共に初めて見えてくるもの・ヴィジョンがあることをも知つてゐる。
 
そのヴィジョン・見えてくるものを、わたしたち日本人は、神として捉へてきた。
 
わたしたち日本の無数の無名の水田耕作者は、神からの「ことよさし」である米作りを通して、植物的生命の中に入り込み、神への感謝と喜びと畏れと共に生活してきた、その信仰を身をもつて感じ取つてゐた。
 
日本人の信仰は、経典や説教や伝道で育まれて来たのではない。
 
米作りといふ生産生活そのものが信仰を育んできたのだし、米作りによる祭の生活そのものが信仰生活だつた。
 
それは、「神ながらの道」「ものへゆく道」であつた。
 
「言挙げ」を拒む静かな日々の労働、無言の反復こそが、人を神に導く。
 
いま、わたしたちは、各々、各自の仕事を「ことよさし」された仕事として捉へ直すことができるだらうか。
 
そして、外側の何かに反発するのでも同調するのでもなく、自分の生業に静かに立ち戻り、感謝をもつてそれに取り組むことができるだらうか。
 
それ以外の言動や行動は、結局のところ、いつたい何を引き起こすことになるのだらうか。
 
あまりにもかまびすしい「言挙げ」に満たされてゐる現在、いかにしてあへて目を閉じ、耳を塞ぎ、理屈を言はずに、手足を動かしていくか。
 
その胆力が問はれてゐる。
 
 


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2019年06月18日

教育の根本

 
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二階でわたしが勉強してゐると、学校から帰つてきた次女が早速二階に上がつてくる。
 
さうして、今月終はりに演じる「高砂」の稽古をする。
 
ほんの二十分ほどの稽古だが、このことの積み重ねは、どういふ作用を彼女にもたらすだらう。
 
間違ひないのは、わたし自身の芸術に対する積極性、能動性、創造性のみが、彼女に働きかけるだらうといふこと。
 
創造する力を子供に望むことはできるが、それを引き起こす方法は教へることはできない。
 
また、教へるものではない。
 
こちら側に、その創造性があるか、ないか。
 
それだけが問題だと思ふ。
 
知識に知識を重ねて教へ込むことを第一としない。
 
創造する働き、整へる働き、行為する働きが大切なこと。
 
しかし、それらの大切さをいくら口で説いてもたいして意味はないやうにも思ふ。
 
自分自身で悟り知るまで待つこと。
 
これらのことは、おそらく、わたしの親から受け継いだものだと思ふ。

 
6月30日(日)言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』
於 山中能舞台
 

写真は、去年の奈良での公演先でのひとこま。
(撮影:山本美紀子さん)

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2019年06月11日

造形された人


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萩原碌山『女』

「人の肉体の中で一番裸の部分は、肉声である」と書いたのは、小林秀雄だつた。
 
生の声。
 
それは、その人の裸体を示す。
 
しかし、通常、ことばといふ衣装が、その裸体を覆つてしまつてゐる。
 
ことばで、なんとか、かんとか、裸体の自分を隠さうとする。
 
いや、かう言つた方がいいだらうか。
 
いくらことばで誤魔化さうとも、生の声がその人の裸体を透けて見させる。
 
しかし、ことばでは取り繕つて己れの裸体を隠さうとしてゐるために、聴いてゐる者は、なんとも言ひ難い違和感を感じる。
 
 

歌声は、さういふ取り繕ひから、人を解き放つ。
 
歌は、ことばのまやかしから人を救ひ出す。
 
歌ふこと。
 


言語造形は、歌ではない。
 
歌ではないが、言語造形によつて話されることばも、再び、人の裸体をまざまざと示してくれる。
 
磨かれ輝くやうな裸体から、こわばり節くれだつた裸体まで。
 
音楽のやうな、絵画のやうな、彫刻のやうな、線描のやうな、舞踊のやうな、建築のやうな、ことばのすがた。
 
造形されたことばとは、造形されたその人である。
 
人とは、本来、そのやうな、風と光で出来たやうな、目には見えない粒子のやうなものが時に集合し、時に拡散する、「物の怪」ならぬ、「人の怪」である。
 
ことばのすがたが造形されることによつて、その「人の怪」がかたちをとつて一瞬一瞬立ち顕れる。
 
ことばを造形しようとするその行為が、ふたたび、その人をその人たらしめる。
 


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2019年06月08日

血といふもの


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血といふものは、とても謎めいてゐるものだ。
 
男と女では、流れてゐる血に違ひがあるのではないだらうか。
 
これは、わたし個人の思ひなので、ご笑覧いただき、できればご了解いただければ幸ひである。
 
男の血は、外なる対象に、己れの何かを与へ、己れ色に染めようとする。
 
女の血は、外なる何者かから、何かを受け取り、その何者かの色に染まらうとする。
 
男がとかく「自分が、俺が、わたしが」といふことを主張したがり、能動的で、ややもすると他者に対して戦闘的で、野心や支配欲に動かされやすいのに比べて、女はどちらかといふと、受動的であり、共感的であり、むしろ他者を受け入れることを望んでゐるやうにさへ思へる。
 
これは、意識的なものといふよりかは、ほとんど無意識の領域、夢のやうな意識の領域で生起してゐることではないだらうか。
 
それゆゑ、結婚の式を迎える時、伝統的には女は白無垢を纏ふ。
 
さらには、女は、無意識の領域で、できうる限り優れた血を受け取りたいと希つてゐる。
 
そして、優れた血から優れた種を宿し、よきものをこの地に生み出していきたいと希つてゐる。
 
己れの本能的な根柢の希ひからかけ離れた血を受け取つてしまつては、己れの存在そのものが乱され、壊されかねない。
 
だからこそ、ほとんど本能的に女は男を選ぶ。
 
しかし、基本的に、女は待つ。
 
高い精神を宿してゐる男の血が己れに注がれることを待つてゐる。
 
血とは、道であり、道を人の世に敷くために、男は高い精神を己れの血に宿し、その血を女に注ぎ込まうと、幾度もの生を経ながら切磋琢磨し続けてゐる。
 
女は、己れを守るため、家を守るため、そしてつひには、道を守るために、男から高い精神を宿した血を受け取るために、己れを磨き続けてゐる。



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2019年05月29日

己れのこころを護る

 
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ここ数日の、世における様々な出来事に震撼せざるをえない。
 
人のこころは、何かの考へに付け込まれてしまふと、どこまで狂ひ、暴れ廻るものか、知れたものではない。
 
わたしたちは、己れのこころを護らなければならない。
 
しかし、基本的に、外側からやつて来るものに対しては、護りやうがないやうに思はれる。
 
わたしたちは、己れのこころの内側からやつてくるものにこそ用心をして、その害毒に抵抗できる力をつけていくことが、本当のところの護りだと思ふ。
 
昨日、滋賀の『両親の問診時間の会』で参加者の方が、魚類が好きで好きで仕方がない「さかなクン」の話しをしてくれた。
 
そこで、次のやうなことを思ひ出した次第。
 
こころの内に生じる害毒から身を護り、健やかさに立ち戻るための方図のひとつに、わたしは自分の「好き」を想ひ出すといふことをしてゐる。
 
「好き」といふこころの働きを尊重し、こころの内にたいせつに育て上げることが、己がこころを健やかに己れのあるべき場所に立ち戻らせてくれる有効なひとつの薬となりうる。
 
たとへば、他人のちょつとした振る舞ひや、ほんのひとことで、人は、たつたそれだけで、いかに容易く己れを見失つてしまふことだらう。
 
しかし、そんなとき、「自分は、そもそも、何が好きか。何が好きであつたのか」といふひとつの考へを想ひ起こすことができれば、それが人を支へるものになりうること、いくたび深い淵に沈んでしまつても、そこから浮かび上がることができることを、わたしは実感してゐる。
 
仕事といふものは、決して「好き嫌ひ」に従つてしてゐるのではない。
 
しかし、この「好き嫌ひ」といふ感情が、人生の存外深みに流れ続けてゐることは否定しやうがないやうに思ふ。
 
この、人の内にいやおうなく流れ続けてゐる感情の川の流れに沿ふて、山深い川上と海原とを何度でも往復するがよい。
 
何かを、好きで、好きで、それだけを好み通した人生は、人に何を与へ、何を教へてくれるのだらう。
 
理屈では容易に片づけられない、そのやうな性癖をわたしたちは己れのどうしやうもない宿痾と見ることもできる。
 
しかし、また逆に、それを意識的に捉へ直すことによつて、それが、己れを奥深いところで下支へしてくれてゐるありがたい宝物だと見直すこともできるのではないだらうか。



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2019年05月26日

晴れと褻


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「ことばの家 諏訪」といふ我が仕事場に、かうして人様が来て下さるといふことの不思議さとありがたさを念ふ。
 
普段、この場は、教室、稽古、勉強の繰り返しで営まれてゐて、情熱が叩き込まれ、汗と涙(本当に!)が床に沁み込んでゐる。
 
さういふ褻の場が、ときにかうして晴れの日を迎へ、舞台が織りなされてあること。
 
神棚にお祀りさせていただいてゐる神々の方々にご協力いただいてゐるとしか考へられない。
 
皆さん、本当に、ありがたうございます。

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2019年05月17日

太宰治の手紙から、想ひ起こす


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 文化と書いて、
 それに文化(ハニカミ)とルビを振る事、
 大賛成。
 私は優といふ字を考へます。
 これは優れるといふ字で、
 優良可なんていふし、優勝なんていふけど、
 でも、もう一つ読み方があるでせう?
 優しいとも読みます。
 さうして、この字をよく見ると、
 人偏に憂ふると書いてゐます。
 人を憂ふる、
 ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、
 これが優しさであり、
 また人間として
 一番優れてゐる事ぢやないかしら、
 さうして、そんな、やさしい人の表情は、
 いつでも含羞(はにかみ)であります。
 私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。
 酒でも飲まなけれあ、ものも言へません。
 そんなところに
 「文化」の本質があると私は思ひます。
 「文化」が、もしそれだとしたなら、
 それは弱くて、敗けるものです、
 それでよいと思ひます。
 私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。
 まけてほろびて、その呟きが、
 私たちの文学ぢやないのかしらん。

          (太宰治書翰 河盛好蔵宛)
 
 
自分の仕事つてなんだらうなと、改めて考へてゐて、この太宰の手紙のことを想ひ起こしました。
 
我が国ならではのもの、その根もとに息づいてゐるものを意識すること。
 
太宰は、それを優しさ、とも、含羞(はにかみ)、とも、表現される「文化」だと言つてゐます。
 
古来、我が国の詩人たちは、その奥底に息づいてゐるものを様々に言ひ表してきました。
 
「言霊の風雅(みやび)」、「侘び」、「寂び」、「しおり」・・・
 
本居宣長に至つて、「もののあはれを知ること」とも言ひ表されました。
 
それは、特に自分の場合、日本語といふ、ことばを意識していくことでもあつて、日本語ならではの調べに意を注ぎながら、ことばの運用を大事にしていくことでもあります。
 
日本では、特に、こころを整へてから、ことばを話す、といふよりも、ことばを整へることで、こころを整へ、育んでいく、そんな道があることに、ある種の驚きと誇りをも感じるのです。
 
言語造形を通して、その根もとに息づいてゐるものを、葉と繁らせ、花と開かせ、実とならせること。
 
それこそが、自分の仕事であるのだな。
 
そして、もしかしたら、それこそが、世界中に通じていくやうな、まこと遍き意味(こころの味わい)をもつのではないだらうか。
 
よその国の人がこころから感心しうるもの、それは、日本なら日本ならではの、こころの味わいの深さ、豊かさ。
 
これは、己れだけ(日本だけ)を観てゐて済むことでは、きつと、なくて、他者(外の国、民族)との出会ひの中でこそ見いだされていくことでせうが、自分自身の足許をこそ深く掘つてゆく、そんなおほもとの志が大きくものを言ふやうに思はれます。
 
また、こんなことも考へるのです。
 
わたしたち日本人の意識の深みに古代から引き続きずつと憩つてゐるもの。
 
それは、「神から引き離されてしまつたわたし」ではなく、いまだに「神とひとつである<わたし>」、いはば、「神(かむ)ながら」であること・・・。
 
もし、さうであるならば、その奥底にあるものをこそ、改めて意識に引き上げ、それを、活き活きと、発剌と、表現し、表に顕していくこと。それは、わたしたち日本人が荷つていつていい、ひとつの役割かもしれない。
 
ヨーロッパやアメリカを中心とした「文化」のあり方は、やがて、古来から秘められ続けてゐるアジア、とりわけ日本の「文化」のあり方と、出会ふでせう。これは、未来のことだと思ふのです。
 
その時、どちらかがどちらかを征服するのでなく、真に出会ふ未来に向けて、わたしたちは、己の本来もつてゐるものを磨き、研ぎ澄ませるぐらゐの意識を育んでいくことが大事だなと思ふのです。
 
でも、そんなことは、たいてい、日常の生活の中では忘れ去られてしまつてゐるものですから、だからこそ、想ひ起こす必要がある。
 
慎ましく、かつ、怠ることなく。
 
なんだか、大風呂敷をひくやうなことを書いてしまつた嫌ひがありますが、そんなことを考へつつ、仕事をしてゐます。
 

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2019年05月04日

わたしたちが欲してゐるのは自己の宿命である


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「わたしたちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」

「自己が居るべきところに居るといふ実感」

(福田恆存『人間・この劇的なるもの』より)
 
かういふものの感じ方、考へ方を、「もののあはれを知る」といふ認識方法として多くの日本人は理屈抜きに体得してゐたやうに思ふ。
 
「権利!」「人権!」「個人!」「自由、自由!」などと叫んでゐるよりも、腹が据わつてゐて、よほど人としての弁へがあるやうに思ふ。
 
 

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2019年04月30日

陛下、どうもありがたうございました


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「今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終へることになりました」
 
このおことばに、なにか、万感の、思ひを感じ、涙が溢れて来るのを止めることができなかつた。
 
この国が、分断されたり、籠絡されたり、侵略されたりする危険は、実はいくらでもあつた。その危険性はいまもあり、かつてないほど、その危険性は高まり続けてゐるといふ事実を、わたしたちはどうして視ようとしないのか。
 
しかし、皇室がそのやうな日本の分断を防ぐべく、懸命のご努力をし続けて下さつてゐることを、わたしたちは、あまりにも知らなさすぎる。
 
なにせ、現在の日本国憲法にさへ(!)、かう記されてゐるのに。
 
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて・・・」
 
さう、日本国民を分裂・分断させることを防ぐ、日本国民「統合」の象徴であられると。
 
そして、経済大国といふ表側のわたしたちのマスクの裏側に、敗戦国といふ苦難の運命がありありと脈打つてゐるわたしたちのこの現況。
 
その苦難を先代の昭和天皇から深く引き継がれ、さらに災害大国を癒やすためのお働きを汗を流しながらし続けて下さつた。
 
さらに、皇室の伝来の最も深いご任務、国民の安寧を己が身をもつてお祈りされるといふこと。
 
そのことの厳しさは、わたしたちの想像を絶する。
 
その精神面、心理面、肉体面、すべてに渡る激務を、今日、終へられたのだ。
 
皇室が、日本を守り続けて下さつてゐる。
 
国民は、そのことを知る必要がありはしないか。
 
わたしたちは、学校で何もそれらのことについて教へられてゐない。
 
だからこそ、わたしは自主的に学びをしていきたい。
 
そして、子どもたちに、この美しく、いとほしい国を受け渡していきたい。

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2019年04月27日

読まれるべきことばを読む国語教育

 
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例へば、小学校六年生の授業参観に行くとする。
 
そこでは、「日本の古典(俳句・短歌)を味わおう」といふテーマで、授業が行はれてゐる。
 
しかし、その国語の授業を見させてもらふと、いろいろなことを考へさせられる。
 
教科書に載つてゐる詩歌の何人かの作者の顔写真を黒板に貼り出し、この歌の作者は誰かを子どもたちに当てさせる授業である。
 
そこで唱へられる詩歌も、一回だけ、ぼそぼそと発声されるだけで、その詩歌やことばの味はひなど全く感じられない。
 
つまり、詩歌といふことばの芸術作品を先生はどう扱つていいのか分からないのだらう。作者の顔を当てさせたり、その詩歌の中にどんな言葉遊びが潜まされてゐるかを子どもに当てさせるのが、子どもたちの気を引く、その時の最上の手段だと思はれたのだらう。
 
我が国の文化を支へる、最も大切なものである国語教育が、小学六年生の時点でかういふものであることに、愕然としてしまふ。
 
しかし、わたしたちが受けて来た国語教育も、おほよそ、このやうな線でなされてきたことを思ひ起こす。
 
だいぶん前になるが、水村美苗氏によつて書かれた『日本語が亡びるとき』といふ本が随分話題になつた。
 
わたしもその本には魅了され、幾度も読み返した。
 
子どもたちへの国語教育の質いかんによつて、わたしたちが営むこの社会を活かしもすれば殺しもすることを多くの人が認識してゐないこと。
 
国語教育の腐敗によつて、必ず一国の文明は亡びゆくこと。
 
そのことは、多くの他国の歴史が証明してくれてゐること。
 
その時代の典型的な精神は必ずその時代に書かれた文学作品に現れるが、現代文学の実情を「『荒れ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のようにすべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった」と帰国子女である彼女は痛覚する。
 
そんな「ひたすら幼稚」である、現代のわたしたちのことばの運用のあり方から、どのやうにすれば抜け出すことができるのか。
 
未来にとつて最も具体的な、ひとつの処方箋を彼女は挙げてゐる。
 
「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである」
 
なぜ、さうなのか、この本はとても説得的な論を展開してゐる。詳しくは、ぜひ、この本をお読みいただきたい。
 
また、水村氏のこの論を、より明確に、より奥深く、批評してをられる小川榮太郎氏の『小林秀雄の後の二十一章』の中の「日本語といふ鬼と偉さうな男たち」も読まれることを強くお勧めしたい。
 
国語教育の理想とは、〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てることである。
 
そして、その言葉を声に出して表現していくことが、さらにたいせつなことである。
 
どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉があり、それを読みついで行き、それを高らかに詠ひあげることのできることがその国ならではの文化であり、その国のいのちなのである。
 
子どもたちへの国語教育。わたしたち自身の国語教育。
 
これはわたしたちの国づくりだと念つてゐる。
 

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2019年04月24日

ことばの違ひ


芸術や教育における「ことば」と、政治における「ことば」の違ひには、意識的であるべきだと思ふ。
 
 
前者の教育・芸術における「ことば」には何が欠かせないか。それは「尊敬」や「畏敬」といふ念ひである。
 
ひとりの人を尊敬し、ひとりの人にふさはしい権威を覚えること、これは小学生が最も心の底から求めてゐることである。
 
しかし、わたしをも含め現代の日本人は、このこころの力のなんたるかを全くと言つていいほど教へてもらつてゐない。このこころの力を育んでゐない。
 
例へば、日本の歴史を考へていくときなど、この「尊敬」「畏敬」といふ感情をもつてこそ、国民を過去から未来に渡つて支へることのできる学問・芸術になるのだ。
 
教育・学問・芸術における「ことば」は、人を根底から支へる、そんな働きをもつ、永遠を志向するものであるべきだと思ふ。
 
 
しかし、後者の政治における「ことば」には、「勝利」「勝つこと」に向かふ思考力と決意が欠かせない。
 
日下公人氏の著書『優位戦思考で世界に勝つ』を読むと、印象深いアメリカの小噺が載せてあつた。
 
●メリーちゃんとマーガレットちゃんは大の仲良し姉妹でした。あるとき、「オヤツの時間ですよ」と言われて二人が行ってみると、テーブルにはケーキが一つしか載っていませんでした。メリーちゃんは「マーガレットちゃんの分がない」と泣き出しました。
 
そして、日下氏はかう述べてゐる。
 
●これが優位戦思考である。メリーちゃんはケーキを確保できるうえ、「妹思いの、いいお姉さんですね」と褒められる。先んずれば人を制す。劣位に追い込まれることなく自分の利益を確保できる。欧米の政治家や外交官、経済人は、そうした思考に長けている。
 
  
この政治における「ことば」のリアリティーを知らない、自称教育家・知識人が多いやうに思ふ。
 
さういふリアリティーの欠如は、つまるところ、自分をも他人をも、不幸にするのではないかと思ふのだ。
 
わたし自身、この「ことばの違ひ」に対して、いつさう意識的でありたい。

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2019年04月23日

自分自身の歩幅


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昨日、ある保育園で保育士さんがわたしに話してくれたこと・・・。
 
ひとりの2歳児の子どもが、トイレのあと、ズボンを履くのにとても手間取つてゐた。
 
保育士さんは、他の大勢の子どもたちが外遊びに出て行つたあとも、慌てずにそのひとりの子どもにずつとつきあつてあげたさうです。
 
そのことが、その子にとてもよかつたやうだと。
 
わたしも、それは、とてもよいことだと思ひました。
 
人は、ひとりひとり、歩幅が違ふ。息遣ひのリズム・テンポが違ふ。
 
とりわけ0〜3歳児の幼な子たちは、その歩幅をその歩幅のまま、その息遣ひをその息遣ひのまま、傍にゐる大人から尊重されると、その子はきつと、自己肯定感をもつて一生涯にわたつて生きていく土台が築かれる。
 
己れの歩幅をしつかりと歩むことができるやう、ひとりひとりの子どもを支へること。
 
己れの息遣ひをしつかりと遣ひ切ることができるやう、ひとりひとりの子どもの息遣ひを見守ること。
 
それは、この上ない、その子、その子へのプレゼントです。
 
道を歩いて行くのに、前もつて先々の見通しがあるから歩き始めるのではないはずです。
 
人がその人として生きていくのにたいせつなことは、まづは、歩きたいといふ欲求を大事にすることであり、次に歩いていく際に未来に対する見通しを前もつて手に入れることではなく、自分自身の歩幅をよく知つてゐることではないでせうか。
 
歩き方がしつかりとしてゐること、そのことが、その人を行くべきところへと導いてくれます。

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2019年04月22日

国を支へる国語の力


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ことばを大切に話す人が傍にゐれば、幼な子たちはやがてことばを大切にする人へと成長していきます。
 
活き活きとした国語を話す人が傍にゐれば、幼な子たちはやがて国語を活き活きと話す人へと成長していきます。
 
国語が活き活きと生命力を保ち、ひとりひとりの人がそのことばの生命力を存分に生きてゐれば、国は安泰です。

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2019年03月21日

獣道(けものみち)と人の道


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ルオー『ピエロ』

 
人は芸術に触れてゐなければ、獣となつて、のさばり出さずにはゐられない。
 
獣になるとは、己が身の要求するところに、己がこころが引き寄せられすぎる、そのやうな偏りをもつてしまふことである。もちろん、こころは、己が身の働きの充足に満ち足りを覚える。腹が減つてゐれば、当然、食べ物を欲する。
 
しかし、こころといふものは、「パン」のみにて満たされるやうにできてはゐない。こころは、精神といふ、天地(あめつち)のあり方を支えてゐる奇(くす)しきことわりに触れなければ、干乾びてしまふ。
 
その天地を貫く精神がこの世に生きて親しく人の身に味ははれるのは、ひとり、芸術をもつてである。芸術は、人が人であるために、なくてはならないものなのだ。芸術は、必ず、人に道を示す。芸術を行ふこと、生きること、そのことが、「道」である。「道」とは、ゆくところである。
 
そして、人が行ふことすべてが、芸術となりうる。この世のすべて、森羅万象が、神によつて織りなされてゐる芸術作品であるやうに、人によつてなされるすべて、作られるすべては、芸術行為となりえ、芸術作品となりうる。
 
わたしたちは、いともたやすく獣道に降つてしまふ悲しい存在である。しかし、その悲しみが、かえつて、ひとりの人として、人の道を歩まうといふ意欲を掻き立てる。わたしたちは、その意欲をこそ育てたい。意欲さへ殺さずに育み続けてゐれば、人はおのづから、人としての道をめいめい歩み始めるのだ。何度、崩れ折れても、必ず、立ち上がるのだ。
 
芸術は、意欲をもつて、毎日の練習といふ繰り返しの行為を人に求めるものである。そして、その芸術の練習が、また、人の意欲を育てる。その、芸術と自分との集中した意識の交換、己が意欲の更新を感じることは、人を幸福にする。
 
古来、日本人は、「言霊のさきはふ国」として、この国を讃えてゐた。それは、人は誰しも、生きる喜び、悲しみ、すべての感情を感じ、かつ、ことばといふ芸術の中でこそ、初めてその感情を表すことができ、その感情に対する主(あるじ)になることができる不思議に、鋭く気づいてゐたからである。ことばこそが、獣道(けものみち)から、人をまことの道へと引き戻す、なくてはならないものであることを知つてゐたからである。
 
ことばそのものに秘められてゐるたましひ・精神自身が、何を希(ねが)つてゐるか。そこに耳を澄ましつつことばを発していく。聴き耳を立てながら、ことばを話す。そのとき、ことばの精神・言霊は、ものを言ひ始める。ものものしく、ものを言ひ出す。
 
わたしたち人は、どのやうなことばを、どのやうに使ふかによつて、その「言霊」との関係を深めることもできれば、浅薄なものに貶めてしまふこともできる。それは、ひとりひとりの人の自由に任されてゐる。
 
獣道を歩むこともできるし、ひたすら長い、人の道を歩みゆくこともできるのだ。
 


posted by koji at 16:33 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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