2011年03月17日

これからだ

いま、大変なときを過ごしていらっしゃる方々に、
少しでも暖かさと明るさがもたらされますことを祈っています。

わたしは大阪で暮らしていますが、
夜眠る時布団と毛布でわが身を守っていても感じる寒さに、
東北で避難されている方々が感じていられる寒さ、辛さ、恐れ、不安はどれ程のものなのだろうかと思わずにはいられません。

まず自分ができることは、物理的になんらかの支援を考え、実行していくこと。

そして、こころの力、精神の力をもって、
その地の人々と、自然と、原子力発電所というものに、
念いの光を届けること。

これからのわたしの仕事においても、
生きていくことへの確かさと安らかさを、
暖かさと明るさを、
分かち合える時間にしたいと思っています。

特に、これからは、西に生きているものが頑張らねば。

どうか、
何があっても、こころが折れない力、耐える力、持ちこたえる力が、
わたしたちに、授かりますように。

これからだ。


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2011年03月01日

裁くこと

わたしは、これまで、自分が裁かれるのが怖くて、
人を裁いてきたなあ。

自分なりの基準をこしらえて、
それに合致しない事柄と人を裁いてきた。

わたしの奥深く巣食っている恐怖が自分にそうさせてきた。

どのような状況をも、
どのような側面をも、
まるごと愛していくということの必要性を、
実際の生活は教えてくれる。

なかなか、そうはできないのかもしれない。

理想ばかり言っていられないわたしの限界は確かにあるが、
周りの人に倣おう。

日々、おのれのあり方と格闘しているからこそ、
素晴らしい家庭と仕事を創っている人が実際にいる。

そして、精神に直接学ぶこともできる。

真剣に問いを立てられたなら、
これから先、
人として生きていくには、
自分の授けられている可能性をまるごと啓いていくには、
何が必要なのかを必ず精神は答えてくれる。

家庭と仕事。

それはこの世の最高の道場で、最高の恵み。

それは、自分の眠っている力がこれから啓かれるところ。

その道場では、
裁くということが不要であるばかりでなく、有害であることが分かる。

自分の狭く硬く小さな枠を少しずつ拡げていこう。

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2011年01月27日

今朝読んだブログ

今朝読んだいくつかのブログが、こころに飛び込んできた。

ことばとは、本当にありがたいものだと思う。

林竜之助さん、yos​*ih​*ra​j*a​ さん、勝手に引用させてもらいました。
どうもありがとうございます。



『やや長き沈黙』
http://91963524.at.webry.info/201101/article_3.html
  
  ブラジリアン柔術の生ける伝説ヒクソン・グレイシー。
  彼の試合は数えるほどしか見たことがないが
  どの試合にも共通して感じたことは
  試合前のヒクソンも
  試合中のヒクソンも
  試合後のヒクソンも
  どのヒクソンも
  さざ波一つ立てない
  湖面のような静けさを
  内に湛えていたということ

  その動きは野性的ではあるが
  その精神は動物的ではない

  まるで哲学者が
  鏡に映った自分の鏡像と
  闘っているような
  そんな印象を受けた

  あるときヒクソンは
  勝負について
  こんなことを話をしたという

  「勝負に勝敗はある。だが、その中で私は、
  勝つことよりも相手と戦うことに喜びを感じている。
  いちばん気をつけているのは、戦いの中で、
  自分が怪我をせず、
  相手にも怪我をさせないということだ。
  両者がともに怪我をせずに戦いを終えるということが、
  勝負における私のいちばんの狙いどころだ」
  (桜井章一 『負けない技術』より)

  あの熾烈な戦いの背後には
  これほど崇高な思想が
  そびえていたのだ



『波の寄る見ゆ』
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshiharajya/51338250.html

  諸君は、自分は何も決められない人間に生まれついてゐるのだ、
  そんな人間だと決められてゐるのだ、と言ふだらうか。
  しかし、どうして君にそれが分かるのか。
  諸君は、自分で決めるのは嫌だ、自信がない、他人に頼りたい、他人の所為にしたい、
  さう言つてゐるだけなのだ。

  この世で一番楽しいことの一つは、
  自分が考へたことを実現する、
  自分の夢を形にするといふことだらう。
  生み出す喜びこそ、生きる喜びなのだ。
  それを知らずに死んでしまつては、それこそ、生れた甲斐がない。

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2011年01月08日

『自由の哲学』を読むブログ

「ことばの家」の『自由の哲学』の会で学んでいらっしゃる方が、
ブログを立ち上げてくれました。

http://blog.goo.ne.jp/oneby1/e/d18c532d46cd2c30d8beb0287ba2d39a

最初の序文の一段落目から、懸命に読みあっています。

シュタイナーが『テオゾフィー』という本で書いてくれていることが、
この『自由の哲学』を読む上にはさらにいっそう大切に思えてきます。

  わたしたちの時代における習いの読みようでは、
  この本を読むことはできまい。
  なんらかひとつの重なりにおいて、
  頁という頁、
  多くも多くの文が、
  きっと、読み手によって稼がれよう。
  それが、意識をもって努めるところである。
  そもそも、そうであってこそ、
  本が読み手にとって、なって欲しいところとなりうる。
  ただに読みとおす者なら、いささかも読んだことにはなるまい。
  本のまことは、きっと、生きられる。
  精神科学は、その意味においてこそ、値をもつ。(三版の序 P.15〜16)


本は、しっかり読まないと、その人を縛ります。

そのことを痛感します。

シュタイナーは、ああ言ってる、こう言ってる・・・。
だから、こうあらねばならない、あああらねばならない・・・。
シュタイナー教育はこうあるべきだ、あああるべきだ・・・などなど。

本は、しっかり読むと、その人を縛りません。
ますますその人をその人自身にします。
自由にします。


アントロポゾフィーからの外の目に見える活動が盛んになればなるほど、
こうした基のところにかえっての繰り返しの読書と瞑想が大事に育まれることの有用性を
強く感じています。

さらに言えば、
ことばを真摯に受け取ることこそが、すべてです。

ご関心のある方、ぜひお立ち寄り下さい。

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2010年12月25日

クリスマスですね

シュタイナーが第一次世界大戦の真っ只中、
1915年のクリスマス前にこんなことを語っています。

 
      在りの高みに、こうごうしきのしるし
     地の人びとに 平和
     地の人びとによき力のかよいてあれば

  この年、聖き夜の訪れをまじかに、
  このことばに結ぶ思いの、ことばの深い意味に結ぶ思いのどれほどでしょう。
  ことばの深い意味にいかに多くの人びとが思いをはせ、
  平和なることばの響きとなり、声となることでしょう。
  いまわたしたちの地にこうまで平和の失せたこのとき、
  聖き夜のこのことばに結ぶ思いのいかがでしょう。
  
  (中略)

  戦争と苦痛と不和との広がるこの地をこえて、
  こころの深みにかれとの絆をたもち、
  たがいに和せることを。
  かれキリスト・イエスはほかならぬ聖き夜にこの世へと来たりました。
  聖き夜の節、
  なべての敵意をこえ、
  なべての不和をしのぎ、
  なべての憎悪をつらぬき、
  人という人のこころにキリスト・イエスへの思いがいだかれることを。
  かれへの思いが流血と憎悪のただなかに湧きいずることを。   

                 (『聖き夜との考えとわたしなる秘密』 鈴木一博訳より)




いま、世界大戦は目に見えるかたちでは起こっていませんが、

人と人とのあいだに、

目には見えない戦争が、

起こっていることにいまさらながら気づきます。

目には見えない流血が、憎悪が、きしっているのを感じたりもします。

すべては、わたしのこころの内にあることかもしれません。

子どもたちのために、

わたしたち大人の内なる子どものためにも、

この内側に、よき力が通うことを。

この内側に、平和があることを。
  


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2010年11月28日

歩き方の問題

たとえば、勤めに出ていたとしたら、
日々、するべきことをすべく、
会うべき人と会うべく、
行くべきところへ行き、
そのような外からの自分への強制がかえって、
自分の内のこころを整えてくれることもあろうかと思う。

しかし、そういった外からやってくるものごとも、
自分の内から積極的に己のこととして捉えられたとき初めて、
本格的に内なるこころと外側の世界との合一が生まれ、
魂と精神が踊りだすのを覚えるのだろう。

とすれば、
誰からの強制もなく芸術のことを一日中考えようとし、
生きようとしている人にとっても、
そのような秘儀においては、
勤め人と変わりはないように思える。

要は、歩き方の問題だ。

この今という今を、どう歩くか。

その一点に焦点を絞ることにおいて、
勤め人もそれ以外のすべての人もなんら変わりはない。

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2010年10月26日

工房とアントロポゾフィー

俺たちの稽古場はいわば工房だ。

ことばを発することを通して自分自身を彫り、刻み、磨きをかけていく工房だ。

そこに自分を入り浸りにさせ、汗を流す。

涙が流れるときもある。

喜びも悲しみも何もかも込みで、すべてその工房で燃やし尽くしたい。

ちくしょーっ。

と思う。

また、ありがたい、と思う。



この工房はアントロポゾフィーからできていて、
ここで流される汗を通して初めて果実としての作品が生まれていく。

アントロポゾフィーはきっと、汗を求め、笑いを求め、涙を求め、
人の内なる力の総動員を求めている。

シュタイナーはある存在に名前をつけて、アントロポゾフィーとした。
(存在の名前だから他のことばで訳せない)

その存在は俺たちにいつも活力と暖かさをくれる。

言語造形という芸術にまるごと入っていくことで、
アントロポゾフィーという存在は人をますます人にしようと働きかけてくる。
としか、言いようがない。

この工房でこれからも汗を流していきたい。

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2010年10月23日

手当て

先日、頭のうしろと左目の奥に鈍い痛みがずっと続いていた日があって、

夜、妻にそのことを話したら、

頭と目に手を当ててくれた。

だんだんと痛みが消えていく。

眠たくなってきて、

ありがとうと言って寝てしまった。

手を当てながら、

彼女は彼女自身のうちに現れる黒い何かをみつめてくれる。

みつめることを続けていくうちに、

それは消えていく。

彼女の手はいつも俺を癒してくれる。

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2010年10月22日

親バカ日記

朝、仕事に出かけていくとき必ず、
5歳と2歳の娘たちが家の外に走り出て、
「ばあ〜いばあ〜い! いってらっしゃ〜い!」と叫んでくれる。

何度も何度も叫んでくれる。

家の前が坂道になっていて、
俺が坂を降りていって俺の姿が見えなくなっても、
まだ叫んでくれている。

朝の青空が声でいっぱいになる。

朝から、涙が出そうになる。

こんなことをしてくれるのは、
何歳ごろまでなんだろ。

でも、手を振っている娘たちの姿と空に響く声、
一生忘れないな。

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2010年10月14日

寂寞の波紋

言語造形を通して何がなされうるのか。

いま取り組んでいる草野心平の『古池や蛙とびこむ水の音』という一篇の詩が、
教えてくれる。


  音は消えてしまつた
  音のあつたその一点から
  寂寞の波紋が漲る
  
  うるし色の暗闇の夜を
  寂寞の波紋が宇宙大に拡がる

  芭蕉は芭蕉を見失つた
 
  無限大虚無(ニヒル)の中心の一点である


この詩をこの通り、口ずさんでみる。

まさしく、この通りになる。


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2010年09月16日

素直さ

人との出会いも、
人との別れも、
まったく、すべて、必然に思えます。

自分のこころが素直になればなるほど、
素直なこころをもった人が自分の目の前にやってきてくれるし、
素直になれず、どこか自分自身に対して無理強いしているときは、
自分自身に無理強いしている人がやってきてくれるような気がします。

無理強いと無理強いが出会っても、
必ず別れがやってきますね。

そういう別れが現実化するということは、嬉しいことです。

自分が自分に無理強いしていたことがはっきり分かるかけがえのない機会なんですから。

何ごとも現実化してくれないかぎり、
結構、そのものごとの本質は分からないものですね。

本当にこころが向く方向はどちらなのかを、よく見る。

本当にしたいことをする。

そんなおのれへの素直さにもう一度向かっていこうと感じています。


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2010年06月11日

お恥ずかしい噺で・・・

他人を責めているとき、
実は自分を責めている。

他人を責めるのをやめるとき、
そのとき、自分は自分を責めるのをやめている。

今日、他人を責めるのをやめました。

おおっ。

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2010年06月09日

お母さんのことが大好き

我が家の娘ふたり(もうすぐ5歳と2歳)、
もうお母さんがほんとに大好き。

子どもって、こんなにお母さんのことが好きなんだなぁ〜。

そして、お母さんと娘たちがほっこりしている姿を見て、声を聴いているのが、
これまた至福だ。

ツイッターで呟くようなことだけども、
書いてしまった。

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2010年05月26日

自分自身にとって大事なこと

朝、よく竹西寛子さんの文章を読みます。

今朝は、講演集『言葉を恃む』のなかの「野上弥生子の文章」を読んだのですが、
いつもながら、こころが熱くさせられます。

読んで、あらためて自分自身にとって大事なことを思い出します。

以下は、こころの中のつぶやきです、あしからず。



こころの深みに降りていくことによってみえてくるものをことばにしていく作業。
俺もそれをしていきたい。

その作業をしていくためには、
どうしても学びが必要だと感じる。

多くの先人がいる。
丁寧に、時に、勇気をもって、
みずからのこころの深みに降りていき、
そこからことばを紡いだ多くの先人。

俺はいま、
古今東西の彼らから学ぶことのできる場所にいる。

彼らひとりひとりのこころの深みに俺も降りていくことを学ぼう。

人は人であるのではなく、
人になりゆく存在なのだ、と誰かが書いていた。

人それぞれ、各々の個性に応じて、
その人ならではの道を歩いて、人は人になっていくのだろうけれども、
俺は、ことばを受けとり、運用し、活用することを通して、
人になっていく道を歩いていこう。
(もう、歩いてるよっ!)

みずからの内へ一段また一段と降りていくことができるかを試しながら、
そしてみずからの両脚でしっかりとこの大地に立ちながら、
日一日と生きていこう。

生きること、こころ、ことば、全部、いっしょだ!

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2010年05月24日

昨日は、聖霊降臨祭

昨日は、妻が激しい頭痛に一日中悩まされ、
わたしは背中の激痛にからだを動かせなくなり、
お互いに安静にしているしかない状態でした。

しかし!
そうしてお互い臥せっている間に、
いや、臥せっておらざるをえなかったからこそ、
夫婦そろって、それぞれにこころに新しい状態が生まれ、
今日はなぜだかこころ晴れ。

妻は出かけていって、またまた素晴らしい人との出会いを得、
わたしは新横浜での仕事を一日することができ、
これまでにない充実感を参加者の皆さんから頂くことができました。

昨日は、聖霊降臨祭。

夫婦そろって、痛みを通して聖霊が降りてきてくださったように感じています。

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2010年05月22日

子どもってこころが見えるんでしょうか

うちの2歳の娘が夜中、泣いて泣き止まない夜がありました。

わたしは次の朝はやくから仕事があるので、
その子をあやしはするものの、
はやく泣き止んでくれよ、と正直イライラもしていました。

1時間、もしくはそれ以上経っても泣き止まず、もうお手上げだ〜!となったとき、
なぜかわたしのこころに大きな変化が起こり、
なぜかこの娘が可愛くて可愛くてたまらなくなり、
からだをさすってあげながら、
自分自身がとてつもなく尊い存在の横にいるような気持ちになりました。

すると、その娘はす〜っと眠っていきました。

子どもって、側にいる人のこころが見えるんでしょうか。

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2010年03月23日

空堀ことば塾 子どもたちの春の芸能発表会!

一昨日、仕事が終わってから、夜に空堀ことば塾(http://blogs.yahoo.co.jp/kotoba_jyuku)の子どもたちが落語の発表会をするというので、楽しみに出かけていきました。

いや〜、楽しかったなあ。

小学2年生から6年生までの子どもたちが次々と舞台に上がって、
お噺を繰り出していく。
たくさんの大人たちが見守る中、はじめはもじもじしながらも、
声を思いっきり出しはじめ、客の中から笑いがはじけるたびごとに、
どんどん調子が出てきます。

空堀ことば塾の子どもたちはとにかく口を開けて、通りのいい声を出してくれます。

その声さえあれば、噺のことばが笑いを引き出してくれます。

舞台に上がる時のどきどき。
でもなんだか自分がパフォーマンスをするのが待ち遠しいような、
そんな感情、意欲が子どもたちの表情から感じられました。

ああ、こんな風に子どもが大人に見守られながら、
ことばをパブリックな場で朗々と出すことができる経験を積むことができたなら、
どれほどの自信とことばに対する信頼を得ることができるでしょうか。

こんないい雰囲気で大人と子どもがひとつの場所を共有できていることにとても感じ入ったのです。

シュタイナー教育を軸にしながら、
塙さんがこの3年間、空堀という場で闘ってこられたことから生まれたひとつの果実の香りをおすそ分けいただいたような気分になりました。





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2010年03月21日

ことばというものへの繊細さ

人が発するひとことひとことが、他者のこころに波紋を拡げていきます。

その波紋というものを、人のこころはとても繊細に感じています。

それが幼児となりますと、こころでは感じていません。
からだで感じています。

血のめぐり、呼吸のめぐり、食べ物のこなし、
それらで実に繊細に感じています。

こまやかなからだのなりたちそのものが
側で話されることばの一音一音によって働きかけられ、かたちづくられています。

幼児においては、こころではなく、からだそのものが周りのすべてに帰依している、祈っている、
そう言えます。

その帰依、祈りをもって、毎日子どもたちは自分のからだを創り上げていきます。

わたしたち子どものそばにいる大人は、
そのような幼児が本来持っている宗教性をどれほど尊重していくことができるだろうか。

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2009年12月19日

永遠なるものにして女性的なるもの(『夕鶴』を通して)

 この身体は父と母からいただいた。そして土へと帰っていく。

 しかし「こころというもの」はどこから来てどこへ行くのだろう。こころというものは、地にある故郷ではなく、天にある故郷からやってきて、またそこへと帰っていくのではないか。

 故郷、ふるさと、というと、人はなぜか母のことを憶い出す。必ずしも実在の母ではないかもしれない。ふるさと、そこでは人という人が宿り、生まれ、育まれ、守られている。そこは「母なるもの」が息づいている場所、「母の国」と言ってもいい。

 人のこころにとっての母の国、それは天にあるのかもしれない。そしてそこから、『夕鶴』のつうはやってきたのかもしれない。母の国からの使者、母なるもの、「永遠なるものにして女性的なるもの」として。

 すべてを生み育む母たちは、織りなしつつ生きている。そしてつうも、機を織ることによってこの地上世界に何かを生み出している。しかし、人のこころはいつしか母の国、母なるものに目を向けることを忘れ、母たちによって生み出された「ものごと」に固執するようになってしまう。

 しかし、この地上のものは、人も、ものも、何もかもが、生じ来たっては過ぎ去って行く無常のものだ。この無常感に人は耐えられず、様々なものにしがみつこうとする。常なるものに触れること、永遠なるものとひとつになることによってのみ、人は安らかさと確かさと健やかさを取り戻すことができる。あらゆる宗教、芸術、科学はその具体的な方図をなんとか見いだそうとしている。それが人の歴史だ。

 ゲーテが『ファウスト』の幕切れにこう書き記している。

   なべて過ぎ行くものは
   比喩に過ぎず。
   地上にては至らざりしもの
   ここにまったきものとして現われ
   およそ言葉に絶したること
   ここに成就す。
   永遠なるものにして女性的なるもの
   われらを彼方へと導き行く。
                       (柴田翔訳)

 彼方とは死の国であるが、そこは同時にすべてが生み出され織りなされるところ、生のおおもとの国でもある。そこに人を導くものは「永遠なるものにして女性的なるもの」だとゲーテは生涯最後の作品の最終部に書き記した。

 わたしたちはこの世に生きている。しかし、この地上の人生の毎日をどう、生きているだろう。果たして、過ぎ行くものを過ぎ行くものとして知りつつ、永遠なるものに触れつつ、おのれ自身が永遠なるものとして毎日を生きていくことはできるだろうか。この地上の国と母なる国とはひとつになりえるだろうか。その導き手である「つう」とともに暮らしていくことがわたしたちにはできるだろうか。「つう」に去られた今、わたしたちはその暮らし方をあらためて学ぼうとしている。

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2009年12月08日

恵みを感じて

 今月の大阪での舞台に向けて、わたしたちは子どもたちと合同で練習したり、その親御さんたちから物心両面での応援をいただいたり、そのほか様々な方々からの貴重な時間と労力の提供をいただいている。
 
 まずは、わたしと妻とでやり始めたことに、徐々に人が集まってきてくださり、ささやかだけれども活きた動きが生じてきている。始めたのは自分だが、これは決して自力のみでやり続けられるものではない。わたしたちのこころざしに幾人かの方々が共感と働きを寄せてくださるのはまったくの他力、恵みであるに違いない。

 わたしたちが意識していくことは、ただ、自分たちの技量を高め深め磨いていくことだけ、それによって美しいものを実現していくことだけだ。物欲しげな顔をしている自分に気づく。もうそんな顔をするのは金輪際やめだ。わたしたちの研ぎ澄ませた意識。そして稽古の積み重ねを通して無意識の領域から発散される肥沃な技量。それを舞台の上に立ち上がらせること。それのみを考え、想い、行動していこう。

 そして、わたしたち自身から「これは、いい」ということばが生まれてくるまで続けるのだ。 

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