2018年04月22日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜

IMGP0037.JPG

世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
わたし自身であることの鎖から。
 
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
ルドルフ・シュタイナー

 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
 
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。
ひらめきが語りを導いてくれるやうに。
 
「ひらめき」とは、語り手の己れが空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
 
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
 
そのやうに、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
そのやうな「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。「ああつ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
 
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
特に、この季節、自然といふものをよく観ることによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然との対話の内に、他者との対話の内に、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。
 
芽吹き、花開くものたちにたつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしくのだ。
 
 
 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」

 

posted by koji at 19:38 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月21日

楠公さんと明治維新


IMGP0190.JPG

IMGP0174.JPG

今日は、南朝の忠臣・楠木正成を神としてお祀りする神戸の湊川神社に行き、明治天皇によつてこの社の創祀の御沙汰がなされて150年周年記念のシンポジウムに参加した。
 
一坂太郎氏の基調講演「楠公さんと明治維新」、また湊川神社の宮司・垣田宗彦氏その他の方々によるパネルディスカッションで、計4時間以上の時間があつといふ間に過ぎていつた。
 
楠木正成が死して残した志と、その志を引き継いだ幕末維新の志士たちのことを、様々な角度から考察することのできた、非常に有意義な時間だつた。
 
また、楠木正成の国を護らうとする志だけでなく、細やかな人としての情の深さを教えてもらへたことも、とても嬉しかつた。
 
神社奥にある彼が自決した場所に立つて、お祈りをしたときの風と光の優しさと静けさが、何かをわたしたちに伝へようとしてくれてゐるやうに感じられて仕方がなかつた。

IMGP0183.JPG

 

posted by koji at 22:00 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月18日

今晩8時 ラジオ番組「しぃーん〜walking with you〜」


30742160_1648000651963370_939081684303740928_n.jpg

度重ねてのお知らせ、恐縮です。
 
インターネット・ラジオで、言語造形といふことばの芸術について、また日本の古のことばの芸術作品『古事記』について語らせていただきました。
 
今晩8時から30分間の再放送です。
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
  
日本人がそもそも育んでゐた「ことばへの信頼」「ことばへの信仰」について、そしてわたしたち「ことばの家 諏訪」が志してゐることについて話してみました。
 
パソコン・スマホなど、インターネット環境があれば、どこでも無料で放送が聴けます。
 
よろしければ、ぜひ、お聴きください。
 
中田ゆかりさんによる、
ネットラジオ番組「しぃーん〜walking with you〜」
水曜夜8時から
ゆめのたね放送局
関西チャンネルで放送中☆
 
 
 
〈ラジオ「ゆめのたね」の聴き方〉
 
@【関西チャンネル タイムテーブル】のページ
   ↓
http://www.yumenotane.jp/kansai-wed
 
A今夜8時になれば
 
B「関西チャンネル」下の再生をクリック
 
 
*つながるまで、数十秒かかる場合があります。その時は少々お待ち下さい。

30742829_1648000658630036_9067831192094507008_n.jpg


posted by koji at 17:33 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

住吉の価値、そして神功皇后


IMGP0334 (2).jpg

住吉大社の権禰宜を務めてをられる方とじつくり話しをさせてもらつた。
 
ここ住吉がどれほど歴史的、文学的に、引き出しの多い地であるか。
 
数限りない歴史的旧辞・旧跡をとことん知り尽くされてゐる方との話しは、いつまでも語り合つてゐたい魅力に溢れ切つてゐた。
 
神社であれ、どのやうな団体であれ、大きな組織になるほどに、旧態依然としたあり方を守つてゐるだけでは、さういふ精神的文化がおのづから磨滅して行つてしまふ。
 
だからといつて、新奇さを狙ふものなど、箸にも棒にもかからない。
 
聖と俗との両面を包含しながら、時の試練を潜り抜けて永遠の価値を放出し続ける場所。
 
それが、神の社であらう。
 
住吉の大神の御鎮座をここに導き住吉大社を創建された神功皇后を、その御存在にふさわしく顕彰し、芸術的に物語つていく。
 
そんな仕事が、神功皇后ご逝去1750周年の来年、待つてゐる。 
 
ここ住吉の地が、住吉大社を中心に、歴史的・文化的・精神的な視野の中で新しく多くのこころある人に見いだされるやう、わたしも微力ながら邁進していきたい。
 

posted by koji at 20:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月12日

窓を大きく開け放つ


窓を大きく開け放つと、かうも見える景色が変はるものなのか。
 
これまでの自分がどれほど窓の扉をほんの少ししか開いてゐなかつたか。
 
どれほど、自分を守らうとして戦々恐々としてゐたことか。
 
それは、大きく開けてみて初めて分かることだつた。
 
精確にいふと、自分で開けたのではなく、大いなるものがわたしのために開けてくれた、といふ紛れもない感覚だ。
 
こんなにも、静かで、安らかで、晴々とした景色が拡がつてゐたのか・・・。


posted by koji at 10:43 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月31日

はじめての諏訪大社


IMGP0271.JPG

IMGP0248.JPG

IMGP0332.JPG

IMGP0267.JPG

 
ずつと訪れたかつた諏訪大社の前宮、本宮、春宮、秋宮、四社、そして諏訪湖を、昨日漸く訪ねることができた。
 
明日からの甦りの祭り(復活祭)を「わたしの祭り」にするために、わたしはわたしの先つ祖(さきつおや)、諏訪の神にどうしてもお参りしたかつた。
 
恵まれたお天気と友人に、こころから感謝・・・。


IMGP0285.JPG

IMGP0341.JPG




posted by koji at 23:02 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

相対でなく、絶対


img_0.jpg
『和気清麿奏神教図』 佐久間文吾


己れの意識を目覚めさせるのは、できれば、外からの衝撃によつてではなく、己れみづからでありたい。

意識が目覚めてゐることによつて、世がものものしく語りかけてくる。
 

村岡典嗣(つねつぐ)著『本居宣長』から

彼(宣長)は、
自己の学問を相対的よりはむしろ絶対的に考へたので、
彼は自己の学問を儒学に対してはもとより、
本草学とか、蘭学とか、医学とか、
当時一般の学問に対して並存的位地を保つてゐる所の、
一の分科の学とは、決して考へなかつた。
また、ベエクが考へたやうに、
諸方面の研究に入る準備の学とも考へなかつた。

文献学の一要素たる人間の学といふ考へを、
更に極端ならしめた意味に於いて、
自分の学問は、日本国民たるものが、
すべて人間としての教養を得るために、
学ばざるべからざる学問であると考へたのはもとより、
さらに、その以上にいでて、
自己の学問は、皇国の学として学問の学問である。
換言すれば、絶対的学問である、と考へた。



己れの向かつてゐることがらに、かうまで絶対性を見いだせることは、恩寵であり、至上の仕合はせである。

それは、強弁でも何でもない。

ただ、己れのこころの眼にまざまざと見いだされた確信なのである。

学ぶとき。
何かのための情報として仕入れようとか。
何かに利用し、役立たせようとか。
仕事に就くための必要条件であるとか。
さういふ意識は、ことごとく抜け落ちていい。

ただただ、この学びが最もたいせつなものであり、己れの足の下に鎮まつてゐるものであるゆゑ、他の誰でもない、この、わたしが、それを掘り起こすのだといふ意識の目覚めと気概をもつことだけが、重要だと思ふ。

これは、学問や芸術や仕事のことだけに限定して言ひうることではなく、人生の問題である。

どの人も、他者との比較の中で、時代の風潮や大勢に浸りきり、右往左往して相対的に生きたいのではない。

どの人も、唯一無二の己れだけの人生を生きるのである。

絶対を生きるのだ。





【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
●言語造形クラス
https://kotobanoie.net/spra/

●和歌(やまとうた)を学ぶ会
https://kotobanoie.net/yamatouta/

●生誕劇を演じるクラス
https://kotobanoie.net/spra/#pageant

●言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス
https://kotobanoie.net/spra/#kojiki

●日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)
https://kotobanoie.net/kototama/

●普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/tue/

●名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了




posted by koji at 11:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

ひな祭りと春の女神


CIMG2368.JPG

 
三月三日の桃の節句。
と言つても桃の花はまだ咲いてゐません。
 
本来の桃の節句は、旧暦における三月三日ですから、新暦では、今年は四月十八日になります。
 
本来は、花の桃色の美しさを賛へて祭りを行つてゐたのでせうが、そもそも桃は古来、邪気を払ひ百鬼を制するといふ魔除けの信仰がありました。
 
伊邪那岐神(イザナギノカミ)が黄泉の国で醜い姿となつた伊邪那美神(イザナミノカミ)に驚き、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)まで逃げてきたとき、なほも追つてきた黄泉醜女(ヨモツシコメ)にそこの桃の実を三つ取つて投げると、逃げて帰つたといひます。
 
桃の節句における行事として「穢れを祓ふ」といふことの我が国ならではの古来からの宗教的意味合ひ。
 
それと合はせて、キリスト教の伝統における復活祭の意味合ひとが想ひ起こされます。
 
それは、真東から昇り来る太陽(春分)と甦る月(満月)とを柱として、人のこころと精神における甦り(死して成ること)を祈念する祭りです。(In Christo morimur)
 
その復活祭の日は、今年は四月一日です。
 
復活祭のドイツ語 Ostern は、ゲルマンの春の女神から来てゐると推測されてゐるさうです。
 
桃の節句におけるひな祭り。
そして、復活祭における春の女神を賛へること。
 
 
我が家「ことばの家 諏訪」では、復活祭を越えて、旧暦の桃の節句までお雛様を飾つてお祀りを続けようと思つてゐます。 
 
 
【ことばの家 諏訪 平成三十年度クラスのご案内】
 
言語造形クラス

和歌(やまとうた)を学ぶ会

生誕劇を演じるクラス

言語造形で甦る我が国の神話と歴史クラス

日本の言霊を味わうクラス(講師:諏訪千晴)

普遍人間学そして言語造形を学ぶクラス

●名張・言語造形を体験する会『ことばを聴く 語る』

講師: 
諏訪耕志 (「ことばの家 諏訪」主宰 )

日時: 
4月16日(月) 10:00〜13:00

場所:
三重県名張市内 (お申込み頂いた方に詳細をお知らせします)

参加費: 
3,000円

お問い合わせ・お申込み: 
ことばの家 諏訪 
 e-mail info@kotobanoie.net
 Tel 06-7505-6405

プログラム:
10:00 お話しを語るワークショップ
(言語造形を体験していただきます)

12:00 お話しに耳を澄ます朗読会 
(言語造形による語りを聴いていただきます)

「風呂に入るお地蔵さん(名張の昔話)」 南ゆうこ
「和泉式部日記」より 森野友香理
「蛇の輪(創作昔話)」 諏訪耕志

12:45 シェアリング

(全員で感想を語りあい聴きあいましょう)

13:00 終了



posted by koji at 22:00 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月24日

ゲーテ 人の人たるところを求めて


Goethe_Stieler_1828_trans_NvBQzQNjv4BqpyXMTfi07R0MMe9ezaRRiY0co811kL7dgj6wsvhBkqM.jpg

先日、オイリュトミーの舞台で、ゲーテの詩をいくつか朗唱させてもらつた。
 
ゲーテは、東の人の生き方、世の捉へ方、宇宙観に、激しくこころを動かされ、その感動を当時のドイツに知らせようとしてゐる。
 
ドイツ、そしてヨーロッパには、まうそのやうなこころが失はれてゐたがゆゑ。
 
一篇の詩が、オーケストラの一団が奏でる響きを越え出ることがある。
 
 
『昇天のあこがれ』から
 
・・・
蛾よ おまえは
火に跳びこんで 身を焼いてしまふ
 
死ね そして 生まれよ
このこころを
わがものとしない限り
おまえは この暗い地上で
はかない客人(まらうど)に 
過ぎないだらう
 

 

posted by koji at 10:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

春待ちぬ


IMGP0155.JPG


次女のかさねを寝かしつけるため、先ほど、布団の中で一緒にゐた。
 
突然、何か俳句をひとつ創つてくれといふ。
 
 ひと夜ごと 沿ひ寝をかさね 春待ちぬ
 
さうしたら、人の俳句を聴くのは好きだといつたあと、眠つてしまつた。
 
(吾輩は猫である)

posted by koji at 21:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

動かずに

 
いま、机の上に何冊もの本を積み重ねてしまつてゐる。
 
どの本も読むほどに唸らされてしまふ奥行きの深い内容を湛へたものだ。
 
それらの本は、わたしにとつては、精神からの糧である。
 
その精神からの糧は、こころに与へられる。
 
頁から頁へ、文字列から文字列へとゆきわたつてゐるその精神を、なんとか読み取る。
 
萬巻の書をよみ、萬里の道を征け、とは、かの富岡鉄斎翁のことばであつた。
 
人には、時間といふものが与へられてゐる。
 
この「時」とは、流れゆくものであるが、一方、その人その人の立ち停まるその場に於いて、垂直に、天へと昇り、地の坑へとくだりゆくものでもある。
 
動かずに、その場で、下へと降りよ。そして、天へと昇れ。
 
本を通して、精神を読む作業が、そのことを教へてくれてゐる。


posted by koji at 11:10 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月07日

比べるから敬ふへ

 
誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、その誰かや何かに近づかうと気持ちが盛り上がることが、特に若いときにはよくある。
 
その憧れの対象は、マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、職種といふ職種における有能な人、魅力的な人、魅力的な生活スタイル、考へ方、生き方、そして人を超えた存在、神のやうなあり方、精神界、霊界、天国、神に至るまで、物質的なものから精神的なものまで、人各々、それぞれだ。
 
しかし、その誰かがやつてゐることや、素敵な何かに向かつて、自分自身も努力し始めることができればいいのだが、その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらいがないだらうか。
 
そして、自分自身とその憧れの対象とを比べて、自分自身を卑下しだす。
 
「自分には無理だ」と。
 
わたしがアントロポゾフィーを学んでゐるとき、最も強く励まされるのが、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の「条件」の章にある、

次のことばだ。
 
ーーーーーーーーーーーー
 
こころのしかるべき基調が、きつと、はじまりとなる。
 
密やかに究める人は、その基調を敬ひの細道と呼ぶ。
 
わたしたちはわたしたちよりも高いものがあるといふ、深みからの情を内に育まないのであれば、高いものに向けてみづからを育み高める力を内に見いだすこともないであらう。

 
ーーーーーーーーーーーーー
 
 
憧れのもの、状態、それは、別な言ひ方をするならば、人にとつての「高いもの」と言つてもいいかもしれない。
 
「わたしたちよりも高いものがある」。
 
その「高いもの」と己れを比べるのではなく、「高いもの」を敬ふ。
 
そのこころの向きは、自然には生まれない。
 
意識的に練習しなければ、「敬ふ」といふこころの力は身につかない。
 
「高いもの」に対する敬ひから始まり、生きとし生けるものに対する敬ひ、ありとあらゆるすべてに対する敬ひへと、その練習は続けられる。
 
しかし、人は、放つておいたら、その対象と自分自身との距離をもてあまし、自分自身を卑下しだす。
 
そして、敬ひとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのずと傾いていく。
 
「高いもの」と己れを比べるといふこと、それは実はその人のエゴであり、「高いもの」を敬ふといふこと、それはその人のこころの高い力だ。
 
比べる、から、敬ふ、へ意識的に方向を変へる。
 
敬ふからこそ、その対象と共にゐられる。
 
人間関係など、まつたく、そのことが当てはまる。
 
敬ふことによつて、初めて、その対象から力が自分に流れ込んでくる。
 
そして、敬ふからこそ、その対象に向かつて、いや、まうすでに、その対象と内的にひとつになつて、こつこつと根気をもつてその人その人の憧れの道を歩いていけるのだらう。
 
誰がなんと言わうと、歩き続けられるのだらう。
 
シュタイナーが、その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、それだけ現代人にとつて、比べることから敬ふことへのこころの移行が必要なことだからだらう。
 

posted by koji at 07:20 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

奇跡


IMGP0110.JPG


去年の11月半ばから、この1月半ばまでの約二か月間。
 
わたしにとつて、苦しみと大いなる学びの時間だつたやうに思ふ。 
 
去年の11月の中頃に一週間40度近くの高熱が続き、その一週間はほとんど眠れなかつた。
 
人間が、一週間も眠らずに生きてゐるなんてことは、これまで想像もできなかつた。夜の間、ただ、めくるめく考へがずつと頭の中を暴走して、わたしを休ませてくれない。まるで、考への大河の奔流の只中に抛り込まれたやうで、次から次へと考へがわたしを引き摺り回して、あつといふ間に朝が来る。そして、夜間も昼間も弱りゆく体力を感じながらも、ずつと、意識は完全に目覚めたままだつた。
 
そして、肺炎を患つてしまつた。息をするたびに肺が強く痛み、その後も、肺炎がなかなか治らず、肺がんの疑ひありとのことで、精密検診を受けた。
 
しかし、がんに当たるやうなものは何もないといふことだつた。
 
そして、クリスマスの生誕劇を越へて、年が明けて間もなく、強いめまひに襲われ、10日間ほど、そのめまひと吐き気といくつかの付随する症状にとても苦しんだ。真っ直ぐ歩くことも、立つこともできなかつた。
 
典型的な、脳梗塞の前触れである。
 
そこで、また精密検査を受けたが、脳には何の異常もないとのことだつた。
 
身体的に、心理的に、随分と、追い詰められたやうな二か月だつたやうに思ふ。
 
油断は大敵だが、しかし、いま、かうして、健やかさを取り戻させてもらつてゐる。
 
どちらの病も、共に、呼吸と血液循環といふ胸部の循環器系の故障に淵源があると思ふ。これは、こころの働き、主に感情の働きと関係があるのではないだらうか。
 
精密検査とはいつても、科学的でありつつ、実は、運の巡り、神からの恵みといふところが多分にあるのではないだらうか、といふ実感がある。
 
神は、何をわたしに諭さうとされ、与へようとされてゐるのだらうか。
 
たくさんのことだ。
 
その、たくさんのことを、いま、やうやく、噛みしめさせてもらつてゐる。
 
生かされてあるといふことは、奇跡だ。


posted by koji at 13:59 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

天職相続 〜ことばの家 諏訪〜

 
d1.jpg


よく人は言ふ。
 
「理想」と「現実」は、違ふと。
 
それは、さうだらうと思ふ。「理想」といふものが頭で考へられてゐるかぎり、そのやうな「理想」は、どこまで行つても「絵に描いた餅」で、舌をも腹をも満ち足らせはすまい。
 
わたしたちは、ただただ、言語造形の練習だけを毎日し、舞台をひとつひとつ創り続けてゐる。
 
道を毎日歩き続けてゐるやうなものだ。
 
わたしたちは、「理想」と「現実」との関係を生きてはゐない。
 
さうではなく、「道」と「現実」との関係を生きてゐる。そしてそこには乖離がない。
 
「道」。
 
それは、ただ、行為することの連続である。
 
そして、それは、きつと、天からひとりひとりの人が与へられてゐる。
 
日本の伝統では、さういふ天から与へられた仕事を「天職」として、おほらかに、親から子へ、そして孫へと、受け継ぎ、引き継いで、「家の名」を立てることをたいせつにした。
 
「天職相続」。
 
それは、現代の個人主義的な生き方とは正反対のものだ。
 
そもそも、ひとりひとりが、何かの仕事を「ことよさし」されてゐる。
 
その「天職」に籠もる精神を自覚し、子や孫へと受け渡していくこと、それがそもそも、日本の「家」といふものであるか。
 
ただただ、毎日を歩き続ける。行為し続ける。稽古し続ける。
 
わたしたちも、さうしようと、考へてゐる。
 
 
「ことばの家 諏訪」ホームページはこちら ↓
https://kotobanoie.net/
 

posted by koji at 22:29 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月29日

十年後


003_jingyu.jpg
平櫛田中作「尋牛」

 
いま懸命になつて学び勉強してゐることが、己れのことば、己れの力となつて世に羽ばたいていく。
 
それは、おほよそ、十年後である。
 
人に於いては、何事も、熟し、稔りを迎へるには、十年を要する。
 
ひとつのことを毎日懸命になつて、十年やり続けてみる。それは必ずその人の技量となつて世に働きかけ始める。
 
もちろん、その道に終はりはなく、二十年、三十年と学びは続くだらう。
 
 
今日一日、懸命。今日一日、懸命。そんな生き方をしていきたい。
 
子どもたちや若い人たちにも理屈ではなく、知識でもない、そのやうな人のあり方を身をもつて伝へていきたく念ふ。
 
 


posted by koji at 11:00 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

祭りとその準備

 
IMGP6796.JPG
春日大社のおんまつり

わたしたち「ことばの家」がしてゐることは何だらう。ふとさう思つた。
 
それは、「遊び」だ。「遊び」とは神と交わることだ。
 
「遊び」であり、また「労働」だ。それは、同じことである。
 
さらに言へば、「祭り」だ。
 
祭りを執り行ふには、準備が要る。
 
古来、日本といふ国に於ける祭りの準備とは、神に捧げるものの生産のことでもあつた。米であり、餅であり、酒であり、その他この一年に生産・収穫・加工されたものを神に感謝して神の前に捧げるべく、働くことが、そのまま祭りの準備だつた。その労働は、人力で成し遂げられるといふ思ひ込みでなされるのではなく、大いに神のご加護とご神威をもつて成し遂げられるのだといふ信仰心とひとつであつた。生産のための労働自体がすでに信仰的行為だつた。日本では、そもそも、経済活動と信仰活動がひとつだつた。
 
それらが神前に捧げられ、そして改めて民のいのちを養ふ糧として民がそれらを頂き、神と共に飲み食い、饗宴すること、さらにこの年の豊作への感謝と来たる年の収穫を乞ひ願ふことばを祝詞として唱へること、舞ひ踊ること、それが祭りといふものだつた。
 
その意味で、準備としての生産と、祭りとは、ひとつのものであつた。
 
わたしたち「ことばの家」は、毎日の稽古を通して、「ことば」をだんだんと練り上げ、磨き上げ、研ぎ上げながら、言語作品を生産してゐる。
 
それは、祭りに向けてのひたすらな準備である。
 
わたしたちにとつては、舞台公演といふものが、まぎれのない「祭り」であり、「ことばが肉となること」を多くの人と共に喜び、祝ひ合ふ場である。
 
生産物が神前に供へられ、同時にそれらが民の糧ともなるやうに、来たる年も、わたしたち「ことばの家」は、ことばを生産し、それを皆で「こころの糧、魂の糧」として食すことができるやう、毎日を遊びつつ、働きつつ、生産に励んでいきたいと思つてゐる。
 

posted by koji at 17:53 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月21日

闇、だんだんと光を捉える


img56225878.jpg

 
例へば、シュタイナー教育の実践の場や、わたしが取り組んでゐる言語造形の場など、精神的なものの実現・定着を目指してゐる場において、気をつけなければならないな、と感じ、考えてゐることがあります。
 
そのやうな「光の場」において、人は、みづからの内に深くしまいこんでゐるものが出て来てしまふ、といふことです。
 
その場が、光を目指すほどに、闇が忍び寄つてくる。
 
そして、その闇の忍び寄り方には、ふたとほりある。
 
普段、どちらかといふと、熱狂しやすく、陶酔しやすく、熱くなりやすく、またその反動で冷たくなってしまふ、そのやうな質(たち)をわたしが持つてゐるならば、光の場に入ると、その場がここちよく感じられるあまりに、「このことのみが真実だ、他はたいしたことがない、いつまでもここにゐたい、この場から、出て行きたくない」と感じる方へわたしは傾いてしまふ。
 
一方、精神的なものごとを信じてゐる、信じてゐないに関わらず、精神から離れている生活を営んでしまってゐるやうなとき、ものごとはすべて計算で割り切れるとの思ひ込み、すべては計画通りに進んでいつてもらいたいとの偏つた希み、人のことも自分のことも信じられなくなってしまふやうなとき、光の場に入ると、その場の雰囲気が嘘臭く思へたり、こんなものは現実的ではない、と思つたり、早くこの場から出て行きたい、と願つたり、疲れや失望を過剰に感じたり、その向きへとわたしは傾いてしまふ。
 
どちらの傾きも、わたしの内にあります。
 
光の場だからこそ、そのやうに闇が強くふたとほりに人のこころを通して忍び寄つてきます。
 
光の場は、きつと、いま、人に、強く求められてゐます。
 
わたしたちは、気づいた者から、そのやうな光の場を各地に創つていくことを始めてゐます。
 
そして同時に、そのやうな場に闇が忍び寄つてくることに、遅かれ早かれ誰しもが直面します。
 
直面して初めて人は学ぶことができます。
 
光の場を創っていく上で、イニシアティブを持つて創っていくとき、己れのこころに忍び寄つてくるふたとほりの闇に意識的であることが大切なことだと、自戒してゐます。
 
そして、そのふたとほりの闇のあり方に傾かず、その間でバランスを取つて立つとはどういふことなのか、それを意識的に追い求めていかざるをえません。
 
光、闇にそそぎき、しかし、闇、光をとらえずありき (ヨハネ一)
 
そして、闇はだんだんに光をとらえるにいたる。
 
それは、「人が内なるところにおいて闇に打ち勝ち、ロゴスの光を知る」との意味です。

クリスマスのテーマであり、お年越しのテーマであります。 
 

posted by koji at 10:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月18日

子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたしの内の子ども(青春)時代〜


IMG_2873.jpg

 
そもそも、教育とは、子どもだけでなく大人をも励ますものです。
 
大人の中にもずつと在り続ける「子ども時代」。
 
わたしの中の「子ども時代」第一・七年期。わたしは問ひます。「わたしは他者との一対一の関係をしつかりと生きてゐるだらうか」 。その関係をわたし自身がどう生きてゐるかといふことこそが、第一・七年期にある実際の子どもへと深く働きかけていきます。
 
わたしの中の「子ども時代」第二・七年期。わたしは問ひます。「わたしは複数の他者との間で社会的な交はりをしつかりと生きてゐるだらうか」。そのわたし自身の姿が、きつと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていきます。
 
そして、わたしの中の「子ども時代」第三・七年期。わたしは更に問ひます。「わたしは世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、どう生きようとしてゐるのか」。日頃してゐる考への回路から少しでも飛翔し、少しでも靜かに、かつしつかりと考へることができるのなら、さう自分自身に問ひかけることができます。さう自分自身に問ひかけ続ける人こそが、第三・七年期にある若い人たちとの対話を創つていくことができます。
 
第三・七年期にある若い人たちは、その問ひを密かに持つてゐて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。
 
その若い人の「わたし」の力が、いよいよ、ひとりで考へる力としてなり変はつてきたからこそです。
 
そして、他者と語り合ふ中でこそ、そのひとりで考へる力が育まれていきます。
 
若い人は、ときに、大人にとつて突拍子もないことを言ひ出したりしますよね。
 
そんなとき、時間をかけながら、側にゐる他者、特に年長の者が、「その考へは、本当に、あなたによつて、考へられたものなのか」「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」といふやうな問ひを投げかけることによつて、若い人の内側から浮かび上がつてくる欲する力、感じる力を、彼・彼女自身の考へる力でいま一度貫かせてみることができたら。
 
そして、若い人たちの内側から湧きあがつてくる、世界に対するより根源的な問ひに対して、「世界では、いま、かういふ問題が起こつてゐて、それらに対して、かういふ人たちが、かういふ意識をもつて、取り組んでゐる」といふやうな具体的に摑むことができる情報を情熱をもつて語る大人がゐれば。
 
そして、さらに、他者にはなかなか氣づかれにくい、もしかして自分自身でさへ氣づいてゐない、若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、側にゐる大人が見てとつてあげられたら。
 
『シンデレラ』のお話。 他の誰も認めようとしなかつたシンデレラの美しさ、それはどの人の内にも潛む密やかなところであり、そこを見いだし、認め、愛した王子さま。
 
第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めてゐます。
 
さらに本質的なことは、若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、手伝つてもらひたいのです。
 
他者と語り合ふことによつて、語りを聴くことによつて、また己れのうちの密やかなところを認めてもらひ、自分で認めることを通して、若い人の内側に、考へる力がだんだんと目覺めてきます。
 
「では、わたしは、世に対して、何をしていかうか」といふ考へがだんだんと立ち上がつてきます。
 
第三・七年期にある人にとつては、その力はまだおぼつかなく、きつと支へが要ります。
 
若い人がひとりで考へる練習をサポートする。それが、若い人の側にゐる大人のひとつの役割でせう。
 
ここでとても大切なポイントは、大人の考へ方を押し附けない、といふことかもしれません。
 
「わたしは、かう考へるのだけれども、あなたは、どう考へますか」といふこころの姿勢をとりながら、語り合ふことができれば。
 
彼らが求めてゐるのは、自分の考へる力をひとり立ちさせていくことです。
 
人は、練習すれば必ず目覺めてくる「考へる力」を深く信頼したいのです。それが、己れに対する信頼に、ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きつと、繋がつていきます。
 
そのやうに順番を間違へずに、滿を持して出できた考へる力が、感じる力、欲する力と、手に手を取りあつて、ひとり立ちしていくこと。
 
それこそが、教育の目指すところであつていいのではないか。
 
さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んでいかうか。引き続き、わたしにとつての2018年の課題です。
 
(完)

posted by koji at 17:49 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子ども時代D 〜順序を間違えないこと〜


IMGP4627.JPG

 
欲する力・意欲の働きがむき出しの0歳から7歳。

その欲する力の上に、感じる力・情の衣をまとひ始めるのが7歳から14歳。
 
そしてその欲する力、感じる力から、だんだんとひとりで考へる力が育つてくるのが14歳から21歳。
 
それら三つの力はどれも、その人のその人たるところ、「わたし」から生まれてこようとしてゐるものですが、年齢によつてその表れ方が異なつてゐて、欲する力として、感じる力として、考へる力として、順番に現れてきます。
 
それらおのづと生まれてくる力の順序を間違へずに、その順序どほりに育んでいくことが、人の育ちにとつてとても大事な意味を持ちます。
 
小学生に、「自分で考へなさい」と言つてしまふこと、ありませんか。
 
人といふものをよく見てとつてみると、小学校に通つてゐる時期には、子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、おのづと、感じる力といふ衣をまとひ始めてゐる、しかし、自分ひとりで考へる力は、まだ生まれてきてゐない。
 
「自分で考へなさい」「自分で判断しなさい」といふ指導は、その時期の子どもには早すぎるのです。
 
「シュタイナー教育では、かう考へる」といふのではなく、人をあるがまま観てとる練習をしていけば、そのやうな順序を間違へない判斷がだんだんとなされるやうになつてきます。
 
人をあるがままに観てとる練習。その練習は、きつと、生涯、続きます。
 

posted by koji at 08:26 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

子ども時代C 〜民族言語の主(あるじ)になる練習〜


DSC03456.jpg
写真 山本美紀子さん撮影


小学校時代の第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、子どもと地域との関係性、それは一対多の関係性とも言へるのですが、より本質的に言へば、それは人と民族との関係性です。
 
民族とは、ひとつの言語を母語として共有してゐる人々の集まりを言ひます。
 
ひとつの言語を共有することによつて、人々は共にある、といふことを実は感じてゐます。ほとんど無意識、もしくは夢のやうな意識の次元においてですが、感じてゐます。
 
日本語を話すことによつて、その人は日本人になるのです。だんだんと日本人のものの考へ方、暮らしの仕方へと身もこころも同化していきます。なぜなら言語は、おもに、感情の次元から発せられてゐて、感情とは民族に根付いてゐる根柢に通ふものがあるからです。
 
そして、言語を話す人には、その言語からの叡智が贈られてゐます。
 
ことばの叡智、日本伝統のことばで言ふ「言霊の風雅(みやび)」、キリスト教の密で言ふ「ロゴス・ことば」、もしくは、人をどこまでも育てようとする、ことばの神からの「愛」です。
 
ことばを大切に扱ふ人のところに、ことばの精神から、愛と叡智への予感が降りてきます。
 
言語造形を通して、ことばにはそのやうな働きがあることを学んでいくこともできます。
 
そのやうに実は叡智に裏打ちされてゐることばを通して、他者と素直に語り合ひ、違ひを見いだし、それを尊び、自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。
 
第二・七年期の子ども時代、それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。
 
また、大人にとつては、自分自身の内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによつて、ことばと己れとの関係にいま一度目覺めることができるのではないでせうか。
 
わたしたち大人自身が、複数の他者との関係の中で、どう、ことばとつきあひ、どうみづからを育んでいくことができるか。
 
そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、この上なく大切な働きかけになります。
 

posted by koji at 18:09 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする