2022年12月07日

原罪意識に基づいてゐない日本の精神文化






わたしたち日本人は、これから、みづからの精神文化を摑み直し、立て直し、改めて、世界に向けてまっすぐに発していく。

そのために、アントロポゾフィーといふ精神の学を通して、日本の精神文化を見直し、鋳直し、自分自身の足元に据ゑ直すのです。




シュタイナーによるまぎれなく考へること(メディテーション・瞑想)への導きの書、『いかにして人が高い世を知るにいたるか』。

この書は、読み込むほどに、読む人の内において、そのまぎれなく考へることと芸術実践とがひとつに重なつてくる、自己教育・自己啓発の書です。

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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

★2023年1月9日よりの
 新・月曜クラス(毎週) 20時〜21時

 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 日曜クラス(毎週) 20時〜21時

●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円


【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
.
you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru

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2022年11月06日

信州・安曇野 おぐらやま農場さんからの爽やかな風と水



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17歳の長女が、先月10月のまるまる一か月間、長野県の農場にお世話になつて、11月1日に大阪に帰つて来ました。

WWOOFといふ、有機農業を生業にされてゐる方々と、その農業を体験してみたい老若男女の人たちとを、お金を介在させることなく結びつけるシステムがあります(WWOOFへの登録に際しては年間あたりの登録費用がかかります)。そのシステムを通して、二つの農場にお世話になつてゐたのでした。

登録から連絡、何から何まですべて自分自身でし、バイトで貯めたお金ですべてやりくりして、彼女は旅立つて行き、そして帰つて来たのでした。

どちらの農場でも、娘にとつて、これから生きて行く上で、本当にかけがへのない貴重な時間を過ごさせてもらつたやうなのです。

夜行バスで朝、帰つて来たのですが、まるで、信州の爽やかな風と水が一気に我が家に流れ込んできたやうな彼女のありやうでした。

農業といふ土着の営みを通して、感じられるこころの健やかさと無私性。

そして、毎日毎晩のご家族の方々や各地からやつて来られてゐた多くのWWOOFERの方々との語らひを通して、人といふものの根源・愛に触れたやうな感覚を得たやうでした。

そのことを帰つて来てからの毎日の中で、彼女は語つてくれてやみません。その話を聴いてゐて、わたし自身もすがすがしい石清水が喉と胸を通り過ぎてゆくやうです。

その後、ふたつめのホストであるおぐらやま農場さんのおまかせセットを注文させていただき、それが届いた朝、早速、食させてもらひました。幾種類かのリンゴと和梨が届いたのですが、現地でみづからの手で収穫し、それを食させてもらつてゐた彼女は、そのお味を、超、超、激賞してゐたのでした。

一口、口に入れ、果実を噛むやいなや、何とも言へないみづみづしい甘みと高貴なと言つてもいいやうな香りが口蓋の中に一気に拡がるのです!

信州・安曇野でおぐらやま農場をされてゐる松村さんご家族。ご夫婦の発せられてゐるメッセージからも、お人柄の暖かさと明るさ、そしてこころざしの高さを読むことができます。WWOOFホストとしての経歴ももうすでに18年以上重ねてをられ、世界中から日本一多くのWWOOFERたちがやつて来られてゐるところです。それは、きつと、口コミで世界中にご家族の暖かさとすがすがしさが伝はつてゐるのでせう。

「おぐらやま農場」
ホームページ https://www.ogurayamashop.com/
facebook https://www.facebook.com/ogurayama
you tube channel https://www.youtube.com/.../UCQnxcEPPjCtSZ.../featured

混迷してゐる現代の日本の社会の中で、このやうな高くて深いこころざしと愛をもつて仕事をなされてゐる方々がをられることを知ることができたこと、これは、娘からもらつた最高の贈り物です。




posted by koji at 14:09 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月18日

目覚めよ



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甲山(かぶとやま)が後ろに控えるわたしが卒業した関西学院大学



昨夜も、とても嬉しいことに、娘たちとたつぷりと話しを交はすことができました。


何気なく話し始めるところから、やがて深い語り合ひにおのづと入つて行く中で、十代の若い人たちが、また、ご縁のある方々が、学ぶ喜びを自分自身で呼び覚まして行く。


それは、ひとりの親としても、また我が仕事としても、コツコツとなして行きたい仕事です。


わたし自身の十代後半の想ひ出として、お恥ずかしいことながらいまだ夢見心地の意識でありましたが、ひたすらに大学といふところへの期待がありました。


はつきりと意識されてはゐなかつたのですが、わたしには、学ぶといふことへの強い強い憧れがありました。それは、すなはち、「人といふもの」を知ることへの強い憧れでした。


だからこそ、人を求めてゐました。


客観的な科学などではなく、学問に、芸術に、仕事に、精魂込めて生きてゐる「人」を求めてゐました。


客観的な、冷たいものではなく、こころからの暖かさに触れたかつたのです。


しかし、大学で、人を見いだすことはできませんでした。


そこには、教室がありました。図書館がありました。研究所もありました。事務所もありました。しかし、「人」はゐませんでした。


別のたとへになりますが、子どもも、若者も、自分たちだけでは、いくら大自然のもとにゐようとも、その自然から何も学ぶことはできません。自然について生きた語りをする大人が、どうしても要るのです。


同じく、文化の営みに入つて行きたい若者も、その文化の営みを生きてゐる大人がそばにゐる必要があるのです。


そして、さらに大切なことは、学び手である若者に、「うやまひ」と「へりくだり」の情が内に育まれてゐてこそ、初めて彼は「人」に出会ふことができるといふことです。


客観的な科学を第一の主要課題とする現代の教育機関では誰も教へてくれないことです。


そのやうな客観的な科学に押しのけられて、ほんものの智慧(この「智」といふ漢字は、「とも」とも読みます)は泣いてゐる。まさに100年前、そんなことをルードルフ・シュタイナーは語つてゐます。


「わたしの名は、客観的な科学の前では名のることを許されてゐない。わたしは、フィロソフィー、ソフィア、智慧である。わたしは、愛といふ恥ずべき名と、その名によつて含まれてゐるものを持つてゐる。そして、それは、人のこころの奥深くの愛と関はりがある。わたしは、人前には出られない。どうしても顔を伏せて歩いてしまふ。「客観的な科学」は、「フィロ(愛)」を含まないことを誇りにしてゐる。さうして、そもそもの「ソフィア(智)」を失つてゐる。しかし、それでも、わたしは歩んで行く。そもそも、わたしは、なほ、人であることの気高い情を内に担つてゐる」(1922年10月4日 シュテュットガルト 「青年のための教育講座」から)


若い人たちは、まどろんでゐます。しかし、そのまどろみをみづから引き裂いて、目覚めたいと切に求めてゐます。


しかし、その求めに応へるには、わたしたち大人こそが、まどろみをみづから切り裂き、目覚めなければなりません。


フィロソフィー(愛智)に出会ふこと。


フィロソフィー(愛智)を生きる人に出会ふこと。


そのやうな仕事を始めて行く必要が、あるやうに思はれてなりません。


そのためには、まづ、わたし自身が、目覚めてゐる必要があります。








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2022年09月17日

敬ふ人(敬ふ精神)がこころにある、といふこと



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わたしのこころの内には、何人かの精神の巨人が、ありありと生きてゐるがごとく、ずつと存在してゐます。


それは、20世紀初頭に中部ヨーロッパで生き、働いたルードルフ・シュタイナーであり、また、この日本の昭和時代を生き抜いた小林秀雄、保田與重郎、三島由紀夫といふ方々です。そして、現存されてゐる方で、執行草舟氏が古典的な精神の人としてわたしの内に存在してゐます。


ルードルフ・シュタイナーは、ひたすらに、ヨーロッパの精神をふさはしい方向へと導くべく黙々と仕事を積み重ねた人であり、人々がまことのキリストのこころざし(Christ Impuls)に目覚めるためのことばを倦まず弛まず語り続けて死んで行つた人だとわたしには思へます。


小林、保田、三島、それらの方々は皆、日本の精神を日本の精神として打ち樹てるべく黙々と仕事をし、人々がまさに日本古来の神ながらの精神にふたたび目覚めるべくことばを倦まず弛まず語り続けた方々であり、そして今も、執行氏はひとりその仕事に邁進してをられます。


西と東において、文化に大きな違ひがありますが、わたしの内においては同じ響きを強く確かに奏でる方々なのです。


それは、人が、精神といふもの、神々しいものを意識に目覚めさせ、その上で、みづからの足で立つこと、自立すること、自主独立すること、人として自由になりゆくこととはどういふことかを、真摯に考へ続け、それを己が身において実行し続けた人である、そんな歌を生涯を賭けて、片やドイツ語で、片や日本語で歌ひ上げた(歌ひ上げてゐる)方々なのです。


キリストのこころざし(Christ Impuls)。


神(かむ)ながらの道。


それらは思念で重ね合はせるものではなく、我が人生においてこそ、その重なりを自得してゆくものである。


それらが重ね合はされるのを待ちつつ稼ぐことが、我が生涯の仕事であります。


だから、毎日、その方々の全集を読み続けることが、我が日々の仕事です。


それは、わたしにとつては、そこに山があるから登る、といふ、登山家にとつての当然の行為の対象であり、また、垂涎の的でもある山に向かふがごとき行為なのです。


敬ふ人(敬ふ精神)がこころにある、といふことは、まこと、幸せなことだと思ひます。




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2022年09月14日

人生は、いつでも、これからだ



年齢が幾つになつても、自分自身を成長させて行くことができれば、と念ひます。


だけれども、ややもすると、「変はりゆくんだ」といふ気持ちを忘れてしまひ、「このままでいい」「変はりたくない」「余計なことはしたくない」「わたしには関係ない」といふやうな思ひに、わたしも支配され、外の動きに対してオープンではなくなつてしまふことがあります。


だからこそ、そんな「変はりたくない」といふ怠惰な自分に向かつてやつて来る仕合はせ(運命・カルマ)は、わたしの眠気まなこを目覚めさせてくれるのです。


その仕合はせは、他者からある仕事を依頼されるといふやうな形でわたしを訪れることがよくあるのです。


その外からのわたしへの働きかけに対して、先ほど書いたやうに、自分の怠惰なこころもちから、なかなか気が乗らなかつたり、苦手意識が首をもたげて来たりして、その働きかけに即座に応じることができなかつたりします。


でも、そんなことが起こるたびごとに感じることですが、「えいやっ」と気持ちを引き締めて、その頼まれた仕事に自分自身からアクティブに取り組みだすと、必ず、その仕事は今の自分自身にとつて必要であり、とても有益なものであること、そして己れの成長に実は欠かせないものであつたことに気づかされるのです。必ず、です。


精神の学、アントロポゾフィーに学ぶことは、数限りなくありますが、この、仕事への取り組み方、もつと言へば、仕合はせ(我が運命)への向き合ひ方を習得させてもらふことこそが、わたしにとつて本当にたいせつで、ありがたいものかもしれません。


なぜなら、その練習によつて、わたしは、ますます<わたし>になりゆくことができるからなのです。


わたしと精神・靈(ひ)を繋げることができるからなのです。


結果的に、わたしは人様との関係を信頼に満ちたものへと深めゆくことができる。


そのことは、明らかに、わたし自身、この人生において、最も求めてゐるものであります。


だからこそ、そんな練習に沿へなかつた幾つかの経験を苦く想ひ起こします。ご迷惑をかけてしまつた幾人もの方、ごめんなさい。


人生は、これからだ、と思つてゐます。




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2022年09月03日

『これからの28年』から一年が経ちました



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下の文章を書いてから今日で丁度一年が経ち、改めて念ひます。この一年、わたしにとつて経なければならない紆余曲折、我が穢れを祓ひ落とす禊ぎのやうな出来事を経た後、新しい方々との出会ひ、新しい仕事、新しい人生が、まこと、ありがたくも、始まつてゐます。今年に入つて冬から春へ、そして夏、そして秋へと向かはうとしてゐる今、出航し始めたばかりのこの人生の新しい大海原はどこまで遠くへ広がつてゆくのか見当がつかないのですが、自分自身のオールを握つて、航路を渡つてゆくのだといふこころもちを授かつてゐます。本当に、ありがたいことです。それは、この旅が、多くも多くの方々(生きてゐる人、亡くなつてしまつた人、人以上の方々)に守られ、支へられ、導かれてゐることを感じるからです。
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『これからの28年』


健やかに生きて行くこと。


「あなたが生きて行く上での目標は」などと、たとへば、街頭アンケートで問はれたら、わたしは、たぶん、そのやうな答へをすると思ひます。


からだにおいて健やかであることもさうですが、とりわけ、こころにおいて健やかであることです。


しかし、健やかに生きて行くこと、それは、並大抵のことではありませんよね。


人生の複雑怪奇さに通暁して行くためには、何かが必要だと感じます。


そして、探します。


そして、前の人生からのご縁で、その何かに出会ひます。


様々なものと人に出会ふことができましたが、わたしにとつて決定的だつたのは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーとの出会ひでした。28歳の時でした。


そして、いま、56歳です。


この28年間、わたしは、アントロポゾフィーといふ海の中に飛び込み、泳ぎ続けて来ました。


その海は、ルドルフ・シュタイナーといふひとりの人の「行ひ」と「ことば」と「考へ」から、生きて織りなされてゐます。


そして、すぐに気づかされることなのですが、それらの織りなしは、個人性を超えて、深く、深く、世と人類の始原、天地の初発(あめつちのはじめ)に届くものでした。


とにもかくにも、わたしは、その海を泳ぎ続けて来たのです。


そのやうな海の深さがあるのにも関わらず、わたしは水面近くをアップアップしながらの格好のよくない泳ぎ方でしたが、それでも、泳ぎ続けては来ました。


そして、56歳のいま、もし許されるなら、かすかすながらもこの海を泳いできた力をもつて、のちの人とのちの世に少しでも資する仕事をさせてもらひたい。


世と人が健やかになりうるやうな、アントロポゾフィーからの仕事をさせてもらひたい。


さう、こころに決めてゐます。


何ができるのか、本当に未知ではあります。しかし、これまでにして来たことの先に道は長く果てしなく延びてゐます。


アントロポゾフィーといふ精神の学の根源と言つてもいい、「ことばの教育・ことばの芸術」を礎(いしづえ)にした「子どもたちの教育、若者たちの教育、人の教育」を織りなす社(やしろ)造り。


それが、全く新しく、友と力を合はせながら織りなして行きたい仕事です。


たくさんの方々に教へを乞ひながら、これまで海を泳いで来た自身の力を注ぎ込みつつ、友と協力し合つて、やつて行きたい。


これからの28年をもつてです(😆)!




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2022年09月01日

かりそめの誠意ではなく



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東山魁夷「白い馬の見える風景」



言語造形の舞台をしてゐる時や、講義や講演をしてゐる時、どうあがいてみても、美しく歌ふことができない時があります。


どうしてだらう。準備も重ねたし、気持ちの面でも意識の上では前向きになつてゐるのに。


しかし、本当は分かってゐるのです。


生活。


生活に原因がある。


毎日の生活のなかで重ねられていく意識はやがて無意識の底に沈められていくのだけれども、その沈められてゐるものの質に原因がある。


生活がまつすぐになつてゐないのである。


生活の中で余計なことをしすぎ、余計なものを喰らいこみすぎている。


そして、作品に対するまごころ、ことばに対する敬意への意識がどこか不鮮明になつてゐるのです。


そのことを念ふとともに、保田與重郎のことばにすぐに帰りました。


 心持が如何にことばの風雅(みやび)の上に現れてゐるかは、
 心持の深さや美しさのものさしとなるし、
 作者が神の創造の思想に達している度合のめもりである。
 かくして言葉に神のものが現れるといふ言霊の風雅(みやび)の説は、
 人各々の精神の努力と誠心とから遊離せぬものである。
 人各々の心にある神が、ことばにも現れたときに、
 その歌は真の美しい歌となるといふ意味だからである。
 我が内に鎮(しづ)まる神が現れることは、
 かりそめの誠意ではあり得ないことであった。
                      (『古典論』より)


與重郎のことばは、わたしにとつて清潔で志の通った山であり、谷であり、川であり、海であります。


そこに帰つていくことで、わたしは漸くそのことばの内に宿つてゐるいのちの泉から清冽な水を汲み、喉を潤します。


美(まこと)は、いかにして、我が身を通して生きうるものなのか。


醜(うそ)は、なにゆえ、我が身に忍び寄り、寄生しようとするのか。


「かりそめの誠意」ではなく、精神からの本当のこころの糧を求め、まごころを尽くす生活を。


だから、どんな険しい経験も、新しい認識となつてくれます。





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2022年08月21日

我が友 高田和彦よ






16歳のときからの友人が、いま、亡くなつた。58歳だつた。わたしにとつては、たつたひとりの友人だつた。


昨日、ご自宅に見舞ひに行つたのだつた。8月の初めから立つこともできなくなり、昨日は意識も朦朧としてゐたのだけれど、わたしの顔が見えるかいと訊くと、「目が三つに見える」と笑つてくれた。そして、高校時代の思ひ出を語り合ふことができた。


「からだはかうして動かんようになつてしまふたけど、こころは動いとるやろ」と訊いたら、「めちゃ強う動いてる」と答へてくれた。


病院で、たつた独り隔離されてしまふことに比べて、自宅で家族に看取つてもらふことができた彼は、幸せだと思ふ。


しかし、自宅での看病で奥様は大変だつただらう。


高校時代に一緒に歌つた歌を病床でyou tubeを使つて彼に聴かせると、声を出して歌つてくれた。


いま、安らかに眠つた友よ。「君の欲しいものはなんですか。僕の欲しかったものはなんですか」

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2022年08月01日

屈託のない時間と考へを深める時間



昨日は、わたしたちアントロポゾフィーハウスによる「ヨハネ福音書講義」の後、「イエス・キリスト生誕劇」クラスを汗だくでやり終へ、暑い夏の夕方になつて十代の若い人たちが8人ほどやってきて、バーベキュー😀 大いに食べて、大いにおしゃべりして、こころを寛がせてゐる彼らの様子を観てゐると、彼らはかういふ「大人に管理されない時間」が要るのだなあと思はずにはゐられませんでした。自由といふものに何とかして向かつて歩いて行きたい、その秘められた念ひが、表情や言葉遣ひの端々に見え隠れします。そして、同時に、「大人から何らかのきつかけが与へられること」によつて、自分自身の頭と心でしつかりと考へて行きたいといふ切なる求めがあることも垣間見ることができたのでした。バーベキューのあと、輪になつて座り、学校といふところに通ひつづけることへの意味をそれとなく問ひかけるやうなことばをわたしの方から出させてもらつた時、彼らはそれまでのはしゃぐやうな振る舞ひを一変させて、口々に想ひのこもつたことばを静かな趣きで話し始めたのでした。もちろん、そこでは、何らかの決まつた答へや大人からの誘導めいたことばなどなく、ただただ、若い人たちのこころの内で、ひとり考へつづけてゆくきつかけが生まれたかのやうでした。そのとき、ひとりひとりの若者の頭の周りにそれまでとは全く違ふ、光のやうな「考へるオーラ」が放たれてゐるかのやうな様子なのでした。若い人たちには両方が必要です。ひとつは「大人に管理されない時間」。まうひとつは「大人によつて促がされつつ考へる働きを用ゐる時間」。その両輪によつて、彼らは「自由への道」を歩き始めることができる。仲間と和しながら、たつたひとりつきりの道を歩いて行くのです。そんな若い人の輝きが、いえ、人といふもののとこしへの輝きが見えた昨日なのでした。




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2022年07月10日

静にして閑



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青森県白神山地



自分のいまゐる場所で、宮中のやうな静かさを創り、山のみづうみを前にしたやうな閑かさを創り出すこと。


このことを身をもつて感じつつ、分かつてくると、自分のいまゐる場所がこの世で最高の場所となります。


こころとは実に繊細な生き物。こころは、真に美しい静かさを湛えるときにこそ育むことができる。


だから、己れのこころを修練し育み成長させたいならば、その環境をみづから、いま、ここで、生み出す勇気をもつこと。


静にして閑。


そこは宮中と同じ厳粛さが生まれ、思索を行ふにまたとない、静かな環境をその人に提供してくれます。


そこはまぎれもなく、各々の人にとっての宮中になり、社中となります。


「己れ」「家」「宮」とは、大切に守り育みたいものを、ぢつと見つめる場所。


その人の意志次第で、そのやうな時と場所を意識的に創ることができる。


いつでも、どこでも。



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2022年07月06日

猛勉強こそ、世を啓く



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咸臨丸難航の図(鈴藤勇次郎画)



いま、世で大いに働いてゐる人は、猛勉強の末に、そのやうに働くことができてゐるのですね。


大人になつてからも、何年、いや、何十年にもわたつて、勉強に勉強を重ねて来た人が、いま、世のため、人のために、働いてくれてゐます。


そのやうなことは、昔からさうでした。


日本の歴史の中で最も人が勉強したのは、おそらく江戸時代ではないかと思ひます。


功利や立身出世を思はず、江戸時代の人たちは、ひたすらに学ぶことそのことに対する楽しさ・喜びに目覚めてゐました。


ただただ学ぶことを通して、生きることの意味を追ひ求めることのできた学びの場の中では、ひとりひとりの人が当時の封建的な社会の枠組みから自由になることができました。


だから、気骨のある、こころざしに燃える若者などは、熾烈なと言つてもいい位の猛勉強をしてゐました。


その学びは、目先の利益やそれに類するやうなことにかかずらわるのではなく、十年後、五十年後、百年後の社会のこと、日本のことを思ひつつ、なされてゐました。


学びの中に、こころもからだも総動員しながらの精神がありました。


だからこそ、逆に、その後に訪れる幕末から明治維新の急激で切迫した時代の変化に翻弄されるのではなく、むしろ時代を切り開き、創り出してゆく創造的な働きを多くも多くの若者がすることができたのでした。


その意識の目覚めと意志のパワーたるや、今では想像することも難しいほどの驚きです。


自由学問都市であつた当時の大阪(大坂)の街を闊歩してゐた福沢諭吉などは、緒方洪庵の適塾で猛烈な学びの日々をからからと笑ひながら送つてゐました。


明治維新が起こつた1868年(明治元年)から77年経つた1945年(昭和20年)に日本の大転換があり、その年から77年経つ2022年(令和四年)が今年です。


いま、大変な危機が日本に訪れてゐると、多くの人が意識してゐますね。


今こそ、国民こぞつての(とりわけ、世の男たちの!)「猛勉強」が要るのだとわたしは念つてゐます。


わたし個人としては、アントロポゾフィーといふ中部ヨーロッパからおほよそ百年前に発した学問と芸術の道を通して、日本といふ国のこの危機に向き合つて行くことを意識します。


真夏の訪れと共に、からからと笑ひながら、57歳、不肖わたくしも猛勉強に勤しんでゐます。




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2022年07月01日

精神と政治



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このふたつは、わたしには裏表の関はりにあると見えます。

たとへば、政治において、国民に約束したことを実現しない政治家を国民は弾劾することができていいはずです。

なんらかのしからしめで約束を実行しないのでせうが、約束を履行しなかつたり、国民の総意を確かめもせず勝手に政策を実行していく政治家や政党は、責められていいはずです。

悪いところをいいとすることはできませんし、間違ひをまことと見ることもできません。

これは、政治における人のあるべきあり方であり、人の意識の向け方、意識の育み方と言つてもいいやうに思ひます。

しかし、精神においては、まるで正反対の意識の育み方を要しはしないでせうか。

つまり、どれほど間違つたことをしてしまつても、過ちを犯したとしても、それらのことを悪しきこととしつかり認識しつつも、それをしてしまつてゐる人のよきところに目を注ぐ意識を怠つては、精神の育ちに支障をきたすといふことなのです。

また、さらには、悪の中に、高い役割を見いだすといふことなのです。

間違つてゐるもの、悪しきものへの批判・批評は、政治的に必要なものですが、同時に、人には、その間違つてゐるもの、悪しきものへの理解が精神において必要でもある。

この精神からの作業は、難航を極めます。

しかし、だからこそ、この作業をすることによつて、人は、この、精神と政治の間で、こころのバランスを取る技量を得ていくことができます。

そして、精神と政治の境における、各々のことばの使ひ方をも意識的に分ける必要があります。

具体的に言ふと、繰り返しになりますが、政治においては、いいものはいい、駄目なものは駄目とはつきりと表明する必要があります。

しかし、さう表明する政治的なわたしに重ねて、精神的なわたしが、密(ひめ)やかに、それら善きものに対する熱狂を統御する必要があるのではないか。また、それら悪しきものがこの世にあらざるをえないことへの理解と悲しみの意識を稼ぐことが大切なことになるのではないか。

だからこそ、政治のことばは、時に大きな声で叫ばれる必要があり、精神のことばは常に密(ひめ)やかに語られる必要がある。

しかし、どちらのことばも、ひとりの人が併せ持つものです。

さういふ精神と政治といふ、二重の意識の重なりを育む必要が、すべての現代人にあるやうに感じてゐます。

人の教育とは、そのやうな精神と政治の間の外なる区別と内なる重層を育むものであり、子どもたちへもそのやうな意識をもつて伝へるべきことは伝へていく必要があるとわたしは考へてゐます。

国際的な生き方におけるそんな密(ひめ)やかな意識をここ日本でも培ふ必要がこれからはあると、わたしは考へてゐます。



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2022年06月26日

意識の目覚め 青森・三沢にて



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梅雨の湿気ですでに蒸し暑い大阪を抜け出て、とても爽やかな風が吹いてゐる青森の三沢にゐます。

ここには米軍基地があるため、特別な財政予算が組まれ続けてゐるのか、この街はとても美しく整備されてゐて、滞在させてもらつてゐる場所の近くにも、たくさんの樹木がみづみづしい緑を湛えて植えられた比較的広い公園が幾つもあり、見事に区画整備された地域に立ち並ぶ家々もそれぞれ思ひ思ひの花々でとても美しく彩られてゐます。

先月、ここに来たときは、この写真を撮つた公園の上を、米軍の戦闘機が爆音を立てながら、凄いスピードで幾機も縦横無尽に飛び交つてゐましたが、今日は全く飛んでゐず、とても静かです。

子どもたちや若者たちが無邪気に遊び回つてゐます。大人たちもしばし佇んで静かに話しなどをしてゐます。

この街を散歩しながら、このやうな静かで和やかな風景に触れることが、なんだかとてもありがたく感じます。

これまでの戦後77年間の日本とアメリカの間の関係が、これからは、きつと、変はつてゆくと思はれるのですが、この街はどのやうに変はつてゆくのでせうか。

この穏やかな日常が、これから迫りくる変化(その変化は、思ひもよらないやうなものになるのではないかと予感します)によつて、どう守られていくことができるのだらう。

わたしたち大人は、子どもたちがこれから生きてゆくこれらの場所について、どう考へ、どう話し合ひ、どう動いてゆくことができるだらう。

意識の目覚め。

わたしが毎日必要としてゐるのは、それです。




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2022年06月25日

眼光紙背に徹す、といふこと



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深沢清「松坂の一夜」



小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、とりわけ魅力的なのは、江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところです。


ものを学ぶには、本ばかり読んで、机上の知識を弄ぶのではなく、外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。さう言ふ人は幾らでもゐます。


しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐました。


だから、さういふ当たり前のことはわざわざ口に出して言ひませんでした。


寧ろ、独りになること。


そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、本であること。


師と古き友を、本に求める。


本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、信を寄せるに値するものはないと迄、こころに思ひ決め、その自恃を持つて、みづからを学者として生きようとした人たち。


そして、古典といふ書の真意は、独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。


そのときの工夫と力量を、彼らは心法とか心術と言ひました。


一度きりの読書による知的理解と違つて、精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、その人の体得物として、暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。


数多ある注釈書を捨てて、寝ころびながら、歩きながら、体で験つすがめつ、常に手許から離さず、さういふ意気に応へてくれるものが、古典といふものです。


さうしてゐるうちに、学び手のこころの奥深くで真実は熟し、やがて表の意識に浮かび上がってくる。そのとき浮かび上がつてくるものは、学説などといふものではなく、真理を追ひ求めた古人の人格であり、それは浮かび上がつた後も、依然多くの謎を湛えてゐる筈です。


今日、ルードルフ・シュタイナーの『テオゾフィー 人と世を知るということ』のオンラインクラスをしながら、学といふものに骨身を削つた日本の古い人たちを思ひ浮かべてゐました。




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2022年05月21日

岩木山に降り注ぐ陽の光



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昨日、青森に入りました。飛行機の窓から青森の地を見下ろすと、遥かの岩木山に夕暮れの光が降り注いでゐました。ここには神々しい何かが古代から今も常に降り注いでゐることを、眼で確かめさせてくれるやうな光景でした。


陽の光、それは、一体、何なのか。その陽の光を浴びて、地球といふ大地は、植物は、動物は、人は、一体、何を受け取つてゐるのか。陽の光に、わたしたちは、深みにおいて、何をいただいてゐるのか。


そんなことを念ひながら、青森にやつてきました。

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2022年05月19日

ゆつくり


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今日は、ある企業の方々とのオンラインミーティングのひとときを持ちました。


このミーティングは、言語造形といふ芸術を土台にして、定期的にもたれてゐます。


オンサイトでしてゐた時から、この場をもたせてもらつて、もう二十年近くになりますが、ここには、みづからを開いて活き活きとことばを述べ合ひ、聴き合ふ、「自由」といふものが、ずつと、息づいてゐます。


時間の流れの中で、おのおのが、おのおのに、なりゆくのです。


その秘密はどこにあるのか。


それは、息づかひに導かれた「ゆつくり」さにあるのです。


「ゆつくり」。


ひとつひとつの息づかひ、ことばづかひ、立ち居ふるまひをゆつくりと意識的にしてみるのです。


その深さ、たわわさの中から、おのづと、伸び伸びとした、活き活きとした、こころのみづみづしさが泉のやうに湧き上がつて来ます。


そして、いつしか、乱れがちなこころの佇まひも鎮まつてゐます。


「ゆつくり」を、意識的に大事にするこの場では、なぜかおのづと、互ひが互ひを敬ふことができ、尊ぶことができるのです。


企業戦士であらざるを得ない皆さんも、ほつと一息つくやうな感覚で、わたしが<わたし>であることに安心することができる。


「ゆつくり」といふ、精神の浸透は、ひとりひとりが自分自身の<わたし>を大切にすることへと人を導きます。


そして、だからこそ、人と人との間にハーモニーを奏でることを促します。


<わたし>であることと、ハーモニー。


これが、人が自由になりゆくための礎(いしづえ)です。


今日も、そのやうなことを談り合ひ、感じ合ひました。


本当に、奇(くす)しく、ありがたいことです。




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2022年05月05日

朝の自然の静かな安らぎ



https://1drv.ms/v/s!Ak9MpuSmZtWKsAXUXzw6nZm-0xyE?e=pTjfPs


密(ひめ)やかに学ぶ人がときおり自然の静かな安らぎ、内なる尊さ、雅(みやび)やかな周りを迎へることは、とにかくよいことである。ことに好ましいのは、密(ひめ)やかな学びを緑の草木にかこまれ、あるいは光る山々と愛すべきシンプルな営みのあいだですることができることである。そのことが内なる器官をハーモニーのうちに引き出す。

(『いかにして人が高い世を知るにいたるか』「実践的な観点」から p.135)


昨日、おひさまの丘 宮城シュタイナー学園での教員養成のためのプレ講座を終へました。

校舎に寝泊まりさせてもらつてゐます。鳥の声が静かに響く朝、この丘のふもとで目覚め、「うやまひ」といふ四つの音韻からなることばをうちに響かせることから始まる一日。

こちらに来て、毎日なのですが、ことに今朝は、すがすがしい朝です。

大阪といふ街に住んでゐるわたしにとつては貴重な時間です。


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2022年05月02日

天地の分かれし時ゆ 富士の高嶺は



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仙台へ向かふ飛行機の窓から富士山を拝みます。


山部宿祢赤人 富士の山をのぞめる歌一首 

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放けみれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
             
萬葉集317

posted by koji at 22:41 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月29日

わたしたちの食生活



先日のアントロポゾフィーハウス青森三沢のクラスの後、とても美味しいおにぎり(佐藤初女さんの教へに沿つて作つて下さつたもの)と野菜の和え物をいただきました(Nさん、本当にありがたうございました😇)。

あまりに美味しくて、まるで若い人のやうに大きなおにぎりを三つもいただいてしまひました。

このこころの満ち足りた感じは何なのでせうね。

昨夜のオンラインクラス『いかにして人が高い世を知るにいたるか』でも、人の三つに分かれてゐるなりたちについて、少し、お話をさせてもらひました。

からだ、こころ、精神。この三つの節(ふし)からなりたつてゐる人。

真ん中にあるこころは、からだ、精神、両方から働きかけを受けつつ、毎日、新しく息づいてゐます。

そのこころの育みにとつて、精神からよき糧を得ることの大切さをアントロポゾフィーは縷々述べるのですが、一方のからだからよき糧を取り入れることも、とても大切なことですよね。

からだから取り入れる糧の内、からだにとつて、こころにとつて、さらには、精神にとつて、よき糧とは何か。

からだから取り入れるよき糧、それは光であり、熱であり、風であり、水であり、大地からのもの、つまり、からだに備はつてゐる感官からとりいれることのできるものですが、とりわけ、食べるものについて、少しづつ、考へていきたいと個人的に思つてゐます。

もちろん、そのことも、アントロポゾフィーにおいて端々で述べられてゐるのですが、日本に生きるわたしたちにとつて昔からの日本人ならではの食生活を見直すことが、実は、とても、とても、大切なことではないかと。

わたしたちが、毎日摂つてゐた、玄米、味噌、そして少しの魚と野菜。

その食材そのもの、そしてそれらを作り、採つて下さつた産業従事者の方々、さらにはお天道様に対する感謝の念ひ。つまり、食生活そのものが信仰生活だつた暮らし振りが、ごく当たり前の日常でした。

さういつた食生活が、おそらく、何千年も営まれてきたわたしたちに、戦後、一気に、さうではない食生活が始まりました。そして、日本ならではの信仰生活も真つ向から否定されました。

そのときから77年が経ち、わたしたち日本人の癌の発症は約3.6倍に、糖尿病の発症は約50倍になりました(誠敬会クリニック銀座 吉野敏明氏)。

癌は、いま、日本人のふたりにひとりが発症し(国立がん研究センター2018年統計)、4人にひとりが癌で亡くなつてゐます(同2020年統計)。

からだから取り入れられる食べ物によつて、そのやうな状態が必然的に引き起こされ、多くも多くの日本人が、毎日何種類もの薬を一生涯飲まされ続け、病院通ひをせざるをえないのではないか。

さう思はざるをえないのです。

からだの健やかさ。

それは、人生を支へる大きな拠り所でもありますし、こころと精神の育みに、大いに助けとなつてくれる基であり、ものの考へ方、感じ方、生き方に深い働きかけをなすものですので、その健やかさを支へる食生活を見直し、立て直していきたい。

そして、日本の第一次産業を再び甦らせていく運動のほんの一端でも荷うふことはできないだらうか。

からだと精神から、よき糧を取り入れて行くことで、真ん中のこころは健やかになる。

令和の日本人が健やかになりゆくことを支へて行く仕事をしたいと念ひます。




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2022年04月28日

光はつねに闇より強い



昨夜、実家の母も含めて、家族五人で外食をしました。家族揃つて外食を食べに行くのは我が家では年に二、三回で、だからこそ、特別感があつてとても楽しいひとときなのです。

昨夜はとりわけ、もうすぐ17歳と14歳になる娘たちがとてもよく話をしてくれました。自分たちが考えてゐること、感じてゐることを、丁寧に真つ直ぐに活き活きとことばにしてくれました。

他のお客さんもたくさんゐるある種の公の場で、ばあばもゐるし、当然家庭とはずいぶんと違ふ雰囲気が、彼女たちのこころと口を開かせてくれてゐるのだなあ、と思ひながら、彼女たちのこころとことばに耳を澄ませてゐました。

また、年齢相応の考へる力が育つてゐて、自分自身の考へと大人たちの考へとを突き合わせてみたい、ことばのやりとりを通して互ひに敬ひつつ対話することの醍醐味を感覚してみたい、そんな欲求が十代の人にはあるのですね。

話題は、やはり、いまの「はやり病」から「麻巣苦」のこと、「枠珍接種」のことなど、若い人にとつてこの社会といふところがいかに、いま、おかしなことになつてゐるかといふことに関して、様々な考へ、思ひを分かち合つたのでした。

そして、いま、わたしが、人として、親として、内に保ちたいことは、「光はつねに闇より強い」といふことです。

季節外れのものの言ひ方になりますが、いま、わたしたちは皆、大いなるクリスマス、真冬の時、天の岩戸開きの時を迎へつつあると感じてゐます。

闇を闇としてしつかりと見据ゑるからこそ、ひとりの人として内において光を毎日迎へる練習をすること。内なるお祭りを毎日すること。

そのやうなことを娘たちには話しませんが、きつと、長い時の中で感じてくれることだと思つてゐます。




posted by koji at 22:39 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする