2025年12月05日

醍醐寺の紅葉



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朝、家から歩いて醍醐寺に紅葉を観にいく。冬がすでに始まっている寒気の中、青空を向こうに、黄、橙、紅、赤に色づく葉を観るよろこび。それはまさにこの季節を織りなす光を観るよろこび。


こころに、この冬のはじまりを告げる色あいを響かせると、わたしは胸の内に瞬時に拡がる炎を感じる。


その炎は、暖かく、かつ、どこか謎めいてもいる。わたしを目覚めさせつつ、魅き入れようともする。ふるさとを想い起こさせつつ、未知なる世へと入りゆくことを予感させもする。わたしはたったひとりの人でありつつ、世のすべてとひとつであるようにも感じる。目を開いて視る世と、目を閉じて観る世が、遠いところでひとつに重なる。


わたしはどこから来て、どこへゆこうとしているのか。なにゆえ、この仕合わせ(運命)がわたしを訪のうているのか。


わたしは答えを焦らない。世が与えてくれているこのしからしめを信ずる。

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2025年11月25日

感じあい語りあう人



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セザンヌ Farmhouse and Chestnut Trees at Jas de Bouffan



自然のすべてのものには靈(ひ)が隠されている。

そのことをこころで感じて生きてゆきたい。

暮らしの折々にそのことを傍にいる人と語りあって生きてゆきたい。

周りを包んでくれている自然のありとあらゆるものは、靈(ひ)の喩えなのだから。

鳥の歌声は、光を孕んだ風を通して世(宇宙)が喜びを感じ、その喜びを表現していることに他ならないこと。

蝶々は、その羽の上に絵の具で描かれてある色と共に、世(宇宙)の喜びを舞っているということ。

与えられている残りの人生、そんなことを語りあい、感じあいながら、人と生きてゆこう。





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2025年08月29日

ゆく河の流れは絶えずして・・・






昨日の三条駅前の鴨川。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。鴨長明の『方丈記』の冒頭の文章です。


そう、この川の水の流れのように、何ひとつ、この世にはとどまるものはありません。


だからこそ、この目の前のひとときを大切に愛(いつく)しみたい。目の前の一羽の蝶を愛しみたい。目の前のひとりの人を愛しみたい。


そう念います。


この動画を撮ったあと、小さな女の子がお父さんに手を繋がれて川辺を歩いて来て、手前の小さな流れに足をつけて、きゃっきゃきゃっきゃ笑いながら遊んでいました。


そう、このときは、二度と戻ってきいひん。けれど、お父さんの優しさは永遠にあなたの中に息づいてゆくよ。それは決して去りゆきはせえへんのやで。


そう念いました。




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2025年08月11日

ひそかに、かつ、穏やかに闘ふ



わたしにも誘惑の手が伸びて来てゐる。それは、ひめやかな学びをなほざりにするやう、わたしに働きかけてゐる。


さうして、日々の仕事においてわたしが口にしてゐることと、実際にわたしがしてゐることとの間に、溝を掘らうとするのだ。


わたしは、その働きかけと、ひそかに、かつ穏やかに闘ふ。


この、口にしてゐるアントロポゾフィーのことばは、わたしにとつて、まことのものなのか。


何度でも、さう、おのれに問ひかける。


そして、他者にはもちろんのこと、おのれみづからにも決して嘘をついてはならないことを念ふ。


昨晩の「こころのこよみ」クラスでわたしは何を述べたか。


それは、お喋りをやめ、みづから黙ることを通し、「世のことば」「御聲(みこゑ)」に耳を澄ます、といふことではなかつたか。


「しづかさ」をみづから創りだすべく、アクティブにこころを働かせ、感官の営みの内へと入つてゆくといふことではなかつたか。


アストラ―ルのからだの光の輝きを意識し、エーテルのからだのいのちの流れをいきいきと巡らせることで、「世のことば」こそを述べる仕事を我が天職として貫くのではなかつたか。


そして、おのれの情や欲望を世に押しつけてゆくことをやめ、愛だけが流れ、ひろがりゆくことを、この人生でなしてゆくのではなかつたか。




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2025年08月06日

あのときから八十年



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十年前、このように考え、感じていたわたしは、いま、この問いをどこまで深めえただろうか。そして依然として、わたしはこの長谷川三千子氏の『神やぶれたまはず』を読み続けています。


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『七十年前の八月六日から十五日にかけて』 2015.8.6.


その九日間、わたしたち日本人は何を感じ、考え、欲して、生きていたのだろう。


広島に世界最初の原子爆弾がアメリカによって落とされ、その三日後に長崎にも投下され、その惨状を知りゆきつつ、B29が自分の住んでいる地の上を飛来してくる音を聴くとき、わたしたち日本人は何を観念したのだろう。


それまでの戦争による極度の緊張状態から、さらにひとつもふたつも、奥を観たのではないだろうか。


一億の日本人全員が、死刑台の上に上らされているような状態の中で・・・。


そんなときを、わたしたち日本人は確かに生きたのではないだろうか。たかだか七十年前なのである。


わたしはこの夏、なぜか、二重のこころの生を生きているように感じている。夏の陽射しと共に、子どもたちと共に、喜びと共に、毎日を精一杯生きる。そして、それと同時に、七十年前の人たち、とりわけ、戦争によって亡くなっていった方々と共に、密かに毎日を生きている感じなのだ。


その方々は、どうも、現代のわたしたちとはものの考え方、感じ方において、随分違っていた。彼らの感じていたこと、考えていたこと、欲していたことが、現代人であるわたしたちには分かりにくい、理解しにくいものであったらしいことを知るにつれて、わたしは生きること、命を持ち、育み、讃えることについて、これまでの戦後社会の中で当たり前のように思っていたわたしなりの考え方、感じ方の枠を拡げさせられ、壊されるような夏である。


七十年という月日は、何か特別な働きをわたしに運んでくれているのだろうか。


当時の人々のこころのありようを忖度するのではなく、そのありように沿うことが、これほど困難になっていることに、わたしは驚きと共に悲しみを味わわざるをえない。


戦後七十年の間に何が日本人の精神のなかに進行したのか。


そして、その敗戦後とそれまでの敗戦前の日本のあり方との結節点ともいえる一九四五年八月十五日に、日本人の精神に何が起こったのか。


そのことへの認識を深めることから始めて、わたしはこれからの生を強く明るく照らし続けていきたい。






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2025年08月03日

こころを空に放つ



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自分ひとりのいのちの営みが、つまるところ、誰かのいのち、何かのいのちと繋がっているということ。もっと言えば、永遠と繋がっているということ。それは誰が説いた教えでもなく、素朴な事実。


先日、ある人と夕方から会ってお酒を飲みながら話しをしたのですが、その人はそのときに話したいことをわざわざ前もってノートにたくさんしたためて、その場に来てくれたのでした。


いかにその人が、一期一会ということばで言い表されている真実を大切にしているか。そのことをわたしは肌身で感じました。


一期一会とは、なんと厳粛で、かつ、楽しいものなのでしょう。精神の意味では厳粛で、この世の意味ではこの上ない喜びなのです。


その場では、西洋の歴史の中で営まれて来た哲学や科学の話をしていたのですが、最後には図らずも日本の精神、靈(ひ)の伝統について、ふたりの話は深まってゆきました。


その人は五十、わたしは六十の歳になり、年齢を重ねることのありがたさを互いに認め合いつつ、酒を飲み、これほど旨い酒はないと感じ、互いを認め、敬いながら交わされることばはどこまでも爽やかで、わたしなどは和歌を唱えたくなるような時間でありました。


こころを空に放つような時間です。


これが、日本人の自然だった。そんなことを不思議にも既視感と共に感じたのでした。





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2025年07月26日

こころを空っぽにして耳を澄まして聴いてごらん






観て下さつて、どうもありがたうございます。

これからも、アントロポゾフィーに学びつつ、ことばづくり(言語造形)の研鑽に励みつつ、発信を続けて参りますので、どうぞよろしくお願ひいたします。

you tube channel「シュタイナー ことばの家 諏訪耕志」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

ことばの家 諏訪耕志



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【ことばの家 zoomによるオンラインクラスのご案内】


2025年5月7日(水)から始めました、
新「いかにして人が高い世を知るにいたるか」オンラインクラス

いつからでもご参加可能です!

●開催日時
毎週水曜日 20時半〜21時半

●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円

●お振込み先
三菱UFJ銀行 北畠支店 普通 0662296 諏訪 耕志

鈴木一博氏翻訳「いかにして人が高い世を知るにいたるか」をご用意ください。

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お問い合わせ・お申し込み:
ことばの家 諏訪
e-mail suwa@kotobanoie.net






【zoomによる言語造形クラス】

声の出して読みたい文学作品、昔話、詩などをひとつご用意ください。

ことばを発することが芸術であることをからだで感じるひとときです。

ことばを表現すること、それは、人そのものの表現であり、こうごうしいものの表現となってゆきます。

ことばを発する芸術、それは人そのものを芸術としてゆく営みなのです。


●日程
第二金曜日10時〜11時半(ご参加人数により12時まで)

●参加費
体験ご参加 5000円
その後6回連続ご参加 24000円
※連続ご受講の際、受講者の方のご都合でのお休みに際してご返金できかねますので、ご了承ください。

●お振込み先
三菱UFJ銀行 北畠支店 普通 0662296 諏訪 耕志

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。

●お問い合わせ・お申し込み:
ことばの家 諏訪
e-mail suwa@kotobanoie.net


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【滋賀草津 シュタイナー教育「子どもの教育」読書会】

筑摩書房刊『シュタイナーコレクション「子どもの教育」の読書会』です。
どうぞお気軽にご参加ください。

●日時:毎月第二火曜日 10時から12時

●場所:滋賀県草津市内の個人宅

●ご参加費:
体験ご参加 3600円
4回連続ご参加 12400円

●お問い合わせ・お申し込み:
ことばの家 諏訪
e-mail suwa@kotobanoie.net



【アントロポゾフィーハウス和歌山 クラスのご案内】

●日時:毎月第三の月曜日
   10時から12時 アントロポゾフィーの学び
   12時半から14時 言語造形

●場所:和歌山県岩出市内の個人宅

●参加費:初回体験 5000円
     5回連続 20000円

●お問い合わせ・お申し込み:
ことばの家 諏訪
e-mail suwa@kotobanoie.net



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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/


you tube channel「シュタイナー ことばの家 諏訪耕志」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos


ことばづくり・言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの靈(ひ)の学び、精神科学、アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。


わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、そして、2024年10月から京都市伏見区醍醐にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。


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2025年04月24日

三羽の揚羽蝶



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庭というところは、不思議な場所ですね。当たり前のことですが、自分の家の中なのに、外の空間と混じり合って、囲まれているけれども、開かれてもいる、そんな場所です。


こうして、毎朝、庭に出したデッキの上で勉強しながら、春の陽の光を浴びている草木や花々、飛んでくる蝶々、水の中を泳ぐメダカなどを観ていますと、小学生だった頃の自分を想い起こすのです。


そのとき、本当に小さい小さい、庭ともいえない庭に面した廊下に座り込んで、籠の中に飼っている虫たちや亀などの動物を見つめながら、図鑑のページをめくって、飽きることがなかったのでした。


それは、今でもよく憶えているのですが、本当に至福の時間で、流れる時間と空間の中に何か我が王国を建設しているかのように感じていたのでした。


この感覚は、庭に面している時だけでなく、家のすぐ近くにあった野原の深い草むらを掻き分けて地べたに這いつくばって土の匂いを存分に嗅ぎながらバッタやカマキリ、コオロギなどの虫を追いかけていたときや、ひとりで電車やバスに乗って行き、山の中の渓流でキラキラ光る川魚を朝から夕方まで釣っていたときにも、その感覚を存分に味わっていたのでした。そういうことが、ここ最近、よく想い起こされるのです。


小学生の子どもの頃にそういう味わいを存分に体験していたからこそ、六十の歳になった今、そのみずみずしい時間と空間を俺は求めていたんだなあと気づきます。


感官を存分に使って遊ぶという子ども時代が、どれほど、後年の人生を彩ってくれることでしょう。


そんなことを想っていますと、目の前に、光に輝きながら、くるくると風に舞うように、三羽の揚羽蝶がわたしの眼の前にやって来てくれます。


その三羽に語りかけていますと、何度も去っては、また来て、そして、ようやくして舞い去ったあと、その羽の羽ばたきによって揺らいだ風と光の中に、目には見えませんがフォルムが描かれ、わたしのこころの情を膨らませてくれます。


そうでした。蝶とは、陽からやって来た、光と風の化身でした。また、亡き方々の靈(ひ)の顕われでした。


光と風。土と水。その靈(ひ)に親しむ。春から夏にかけて、わたしたち人にありとあらゆるものが語りかけて来てくれます。


ここ数日、毎朝、一羽の揚羽蝶がやって来てくれるのですが、今朝は三羽揃って来てくれたのでした。


そうでした。今日、4月24日はわが父の命日でした。三日前に墓参りをし、そこに眠っている父と父の弟、そして祖母に挨拶をしたのでした。


※蝶を数えるのに、「頭」を使うそうですが、なんだか、無粋な気がして、漱石の『草枕』に倣って「羽」を使いました。









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2025年04月23日

ひとりひとりの歩幅



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京都御苑横の「母と子の森」へゆく道



ある保育園で保育士さんがわたしに話してくれたこと・・・。


ひとりの2歳児の子どもが、トイレのあと、ズボンを履くのにとても手間取っていました。


保育士さんは、他の大勢の子どもたちが外遊びに出て行ったあとも、慌てずにそのひとりの子どもにずっとつきあってあげたそうです。


そのことが、その子にとてもよかったようだと。


わたしも、それは、とてもよいことだと思いました。


人は、ひとりひとり、歩幅が違う。息遣いのリズム・テンポが違う。


とりわけ0〜3歳児の幼な子たちは、その歩幅をその歩幅のまま、その息遣いをその息遣いのまま、傍にいる大人から尊重されると、その子はきっと、自己肯定感をもって一生涯にわたって生きていく土台が築かれる。


おのれの歩幅をしっかりと歩むことができるよう、ひとりひとりの子どもを支えること。


おのれの息遣いをしっかりと遣い切ることができるよう、ひとりひとりの子どもの息遣いを見守ること。


それは、この上ない、その子、その子へのプレゼントです。


道を歩いて行くのに、前もって先々の見通しがあるから歩き始めるのではないはずです。


人がその人として生きていくのにたいせつなことは、まずは、歩きたいといふ欲求を大事にすることであり、次に歩いていく際に未来に対する見通しを前もって手に入れることではなく、自分自身の歩幅をよく知っていることではないでしょうか。


歩き方がしっかりとしていること、そのことが、その人をゆくべきところへと導いてくれます。





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京都市伏見区醍醐勝口町でのことばの家 ことばづくり(言語造形)クラスのご案内



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右側手前が「ことばの家」



京都の醍醐山のふもとにて、ルードルフ・シュタイナーから生まれたことばの芸術「ことばづくり(言語造形)」クラスを毎月一回、第三土曜日の午後13時より開催しています。


「ことば」というもの。


それは、人を育ててゆく上で、もしくは、その人がその人自身になってゆく上で、本当に重きをなすものです。


そのことを、理屈ではなく、体感で、芸術的に感じ、味わっていきましょう。


その芸術の営みは、何よりも、おのれの解放と喜びが湧き上がって来る祝祭的な営みであり、教育だけでなく、生きることの根底を支えるものなのです。


何か一つ、声に出して読んでみたい作品(物語の一部や詩、昔話など)を持ってきて下さいね。


ご参加、こころよりお待ちしています。



●日時 

毎月第三土曜日
(2025年8月のみ第五土曜日)

午後13時〜15時 
ことばづくり(言語造形・お話や詩を語る時間です)


●ご参加費
初回体験・単発 5000円  4回連続 16000円

(この芸術の学びは、知的な学びではなく、からだを通しての学びでありますので、できうる限り続けてご参加いただきたいと考えております。ですので、連続ご参加のお申し込みいただいた場合は、ご本人のご都合によるお休みは他の月への振り替えはいたしておりません。もし、たとえば、4回連続、16000円をお支払いいただいて、ご本人のご都合でお休みなされるほかない場合は、まことに恐縮なのですが、一回ごとのご参加費を5000円として計上させていただくことにしております。端数で出ましたご参加費は、次のご参加の時に充てさせていただくことにしています)


●お振込み
三菱UFJ銀行 北畠支店 普通 0662296 諏訪 耕志

(口座へのお振り込みをもちまして、お申し込みを受け付けさせていただくことになります)


●場所
ことばの家  京都市伏見区醍醐勝口町3-102


●交通
地下鉄東西線「醍醐」駅 徒歩20分
京阪バス 「山科」停留所発から約25分「醍醐和泉町」停留所降りる 徒歩7分

お車でのお越しは「ことばの家」に一台分のスペースがあります。


●お問い合わせ・お申し込み
ことばの家 諏訪  
tel 075-203-5919
e-mai suwa@kotobanoie.net





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2025年04月18日

鏡像



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我が目の前で、気になる身の動きをしきりにする人がいました。

わたしは、しかし、気にしているということを表には表さず、じっと黙っていましたが、こころの内ではかなり気に病んでいたのでした。

ところが、ある考えがふとやってきたのでした。

それは、その動きをする人の、表側ではなく、内なるこころのありように意を向けてみようという考えでした。

そして、そうしてみた、その一瞬、わたしははっとしたのです。

それは、その人のこころの動きと、わたしの内なるこころの動きとが、恐らくですが、全く同じだということに気づいたのです。

わたしにとって目障りと言ってもいい、その人の動きは、まさに、わたしが自分のこころの内でしている不調和で、ある意味、不誠実な動きそのものをからだの動きや顔の表情をもって表してくれていたのでした。

わたし自身はこころの内に秘めていて、他者に気づかれていないし、自分自身さえも気づいていないそのこころの動きを、その人は表側に身振りや表情として出してしまっている、という違いがあるだけなのだということに気づいたのでした。

そして、はっと、思い至ったのでした。

つまり、これは、おそらく無意識でしょうが、その人がわたしの目の前でそのような動きをすることによって、わたしにアンチパシーを呼び起こし、わたしにわたし自身のこころの内なる動きのありようを気づかせよう、意識させようとしてくれているということなのではないか。

この人は、わたしだ。

本当に青天の霹靂とはこのことを言うのだ、そう思えたのでした。

そして、この気づきが起こるやいなや、わたしはその人の動きに対して、いや、その人に対して、全く新たな情が湧きおこって来たのでした。

さらに、そればかりでなく、まるで悪魔が去って行ったかのように、その人のその動きが止んで行き、その人が話し出すと、叡智に満ちたとても深みのあることばが発せられるではありませんか。

わたしの目の前で起こるあらゆることごとは、わたしの内なるこころの鏡像だと、改めて思い知ったのでした。

こころの眼が開けると、みずからのこころの内なる恐れや怒りや低い情欲が、こころの世における動物や人のすがたとなって外から自分自身に襲い掛かって来ることについて、ルードルフ・シュタイナーが『いかにして人が高い世を知るにいたるか』という本の中に書いています。

金縛りにあった時、そのような恐ろしいすがたにリアルにまみえることがあること、ご経験のおありになる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

こころの世では、物質の世で起こることの真相が顕わになるということなのですね。

こころの世で起こっていることは、無意識であろうとも、現代の多くの人に働きかけています。

理由の分からない不安感や怖れに苛まれている人も多く、こころの免疫力が相当落ちていることを痛感しています。

それゆえに、精神の観点、靈(ひ)の観点からこころの世のことを学ぶ必要があるとわたしは思います。

物質的な観点からでは、絶対に人生の謎は解けないからです。

わたしには、勇気が必要だと思いました。

現象と本質を分けて観てとる、心臓からの勇気です。





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2025年04月09日

これから子どもたちと創ってゆきたい国語の時間



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「古今和歌集」の仮名序が紀貫之によって記されています。その中で彼のコメントと共に、在原業平(ありはらのなりひら)の和歌(やまとうた)が取り上げられていて、読んでいるとこころに染み入るように響いて来ます。


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在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

(「古今和歌集」の仮名序より)



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一千何百年前の古き人と密(ひめ)やかにこころを通わせることのできる喜び。


そんな喜びをこそ、子どもたちとも分かちあいたいと願います。そんな国語芸術の時間を創りたいと思うのです


確かに、小学生や中学生では(もしかしたら、高校生や大学生でも)、これらの高くて深い文学の味わいはまだ分かりかねるでしょう。しかし、すべてをすぐに分かる必要はどこにもないのです。


よきもの、本物に触れることが大切なのですから。


そして、何年かのち、何十年かのちに、想い起こし、その味わいがようやく分かること。


生きることの深みを味わえる能力は、人生を根底で支える力でもあります。


そしてその能力は、促成栽培できず、長いときの中で大切なことを学び、そしてそれを忘れ、またそれを想い起こすことの繰り返しの中で、培われてゆくのです。


その忘却と想起のダイナミズムが、人にこの人生を生き抜いてゆく力を与えるのです。






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2025年03月11日

互いを讃え、敬うことへの意識のなり変わり



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『古事記(ふることぶみ)』に「黄泉の国のくだり」があります。


そのくだりは、多くの人によく知られているところで、死んでしまった妻イザナミノミコトを夫イザナギノミコトが死の国、黄泉の国まで追いかけて行くところから始まります。


しかし、そこで妻のおそろしい姿をのぞき見してしまったイザナギノミコトは、黄泉の国の鬼とも言える醜女(しこめ)たちや八柱(やばしら)の雷神(いかづちのかみ)たちに追いかけられながらも、生の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ帰ってきます。


そして、そのくだりの最後に、夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトとが大きな岩を間に据えて向かい合い、ことばを交わし合います。


死の国の女神は申されます。「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)くびりころさむ」。


そして、生の国の男神が申されます。「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててむ」と。


最後に、精神からのことばをもって、このくだりが閉じられます。「ここをもて一日にかならず千人(ちひと)死に、一日にかならず千五百人(ちいほひと)なも生まるる」。




甦り(黄泉帰り)の祭りを来月4月20日に控え、今、わたしは、この我が国の神語りが伝えてくれていることにいたくこころを惹きつけられています。


それは、死(の神)と生(の神)が、大きな岩(意識)で隔てられてはいても、ことばを交わし合ったということなのです。


そして、その談(かた)らいは、いまも、ずった続いている、そう思われてなりません。死と生は談らい続けています。その談らいによって死と生は表裏一体のものです。どちらかひとつが欠けても世はなりたちません。ふたつはひとつなのです。


死と生とが、そのように断絶しているように見えているのは、わたしたちの意識のせいです。


しかし、我が国の神話・神語りのありがたいところは、その大きな岩という断絶を超えて、死と生が談らひ合つているという、このことであり、さらには、この談らいがこれまでの多くの解釈によるような憎しみをもってやりとりされているのではなく、互いに互いの存在と役割を讃え合っているということです。


それは、如実に響きとして響いています。互いに呼びかける時に、どちらも相手のことを「うつくしき・・・」ということばを発しているのです。それは、死と生とが、もとは、ひとつであったことから来る情の発露です。


世は分かたれなければならないこと。しかし、憎しみをもって分断が宣言されるのではありません。


分かたれたからこそ、互いが互いを認め、讃え、敬っています。


分断を煽るのではなく、互いを讃え、敬うという、葛藤を超えたひとりひとりの人の意識の変容こそが、世を生成発展させ、弥栄に栄えさせることへと深いところで働きかけています。


個人のことだけでなく、男女間のことだけでなく、国と国、民と民との間のことにおいても、分断しようとする力が強く働いている今ですが、国防や国際社会における政治的駆け引きなどもその必要性から当然なされてしかるべきだと考えつつも、この内なるひとりひとりのこころのなり変わりこそが世に新しい場を創りなす鍵となるのだということを肝に銘じたいのです。


政治的な面において、世には残酷なところがあるとわたしは痛感しています。(願わくば、このことばが、分断を言いつのることではなく、事実を事実として認めることへと繋がりますように。)その現実を知るほどに、上に書いたことのかけがえのない精神からの伝えとしての我が国の神話・神語りの重要性をいまさらながら念うのです。


そのことをわたしたち日本人は深みで知っています。ご先祖様はそのことをわたしたち現代人以上に遥かに深く遠く知っておられました。


そして、その古くからの伝統や習慣が失われてしまった今、わたしたちは、教育を通して、意識的に、我が国の神語りを暮らしの基にもう一度据え直すことができないでしょうか。


我が国の神話・神語りによって、死と生が二極対立としてあるのではなく、ふたつがまるごとでひとつなのだとおおらかに(かつ、密やかな悲しみを湛えながら)捉える力を育むことが大切なことではないかと思うのです。


その内なる力が、世の分断を防ぎ、和してあることへ、そしてその和すことそのことが、弥栄に栄えゆくことへとわたしたちを導くという、いにしへからの我が国の精神の伝統をわたしも信じています。


この内なる密(ひめ)やかなこころのなり変わりを、わたしたちは、もう一度、意識的に練習して行くこと。この大切さ、必要性を強く念うのです。







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2025年01月12日

もののあはれを知る人を育てる教育 〜宮城蔵王 ひのみやこ 主催 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座〜



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冬のさなか。こころの内なる空間が、濁りをだんだんと去って、澄みわたる季節。こころの内の透明度が増してゆくように感じるのですが、皆さんいかがでしょうか。


今年の五月から始めます「宮城蔵王 ひのみやこ主催 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座」。


わたしは、シュタイナー教育の基礎となる人間学「アントロポゾフィー」、そしてことばの芸術「ことばづくり(言語造形)」を担当させてもらいます。


さらに、この教員養成講座は「日本文化に根ざす」という副題を冠しています。


そのことの意味を述べることをしますと、本当に、多くのことばを費やしてしまわざるをえないのですが、今日は、そのうちのひとつを述べさせていただきたいのです。(それでも、こんなに長いものになってしましました。ごめんなさい!)


それは、人が「ひと」として育ちゆくということが、その人の内にどれほど、「ことば」が育っているかということとひとつであるということなのです。


ことばとは、外側に飾りとして身につけるものではなく、母から与えられた母国語を通して、こころの内側からの生命を生きるものなのです。


日本人ならば、日本語を通して、おのれのいのちを生きるのです。


ことばを飾るのではなく、ことばをどう生きるか。日本語をどれほど深く、豊かに、活き活きと生きるか。


そのことが、人が「ひと」になりゆく上で、実は、欠かせない道なのです。


「ひと」ということばは、靈(ひ)が宿り、留(とど)まり、灯(とも)る存在のことを言う、古い日本語です。


靈(ひ)が灯るとき、初めてその存在は「ひと」になります。つまり、「ひと」とは、わたしたちの理想を言い表すことばなのですね。


そして、シュタイナーから生まれた靈(ひ)の学び(精神科学)「アントロポゾフィー」は、別名、「ひととしての意識」とシュタイナー自身が言っています。つまり、靈(ひ)の灯っているおのれを意識すること、靈(ひ)の灯っているおのれを知りゆくこと、それが、アントロポゾフィーの道なのです。


日本においては、その靈(ひ)を灯すのはことばであるということが、とりわけ、引き立てられたのでした。そして、その灯った靈(ひ)のことを「言霊(ことだま)」と呼びました。


その「言霊」に親しむこと、通われること、結びつくこと、そのことが人生を貫くひとつの道だったことが、歴史に残る文献や芸術作品からはっきりと知ることができます。


そのことを最初に意識的にまとめ上げたのが、江戸時代の本居宣長です。


わたしには、同時代に、ゲルマン精神に靈(ひ)を見いだそうとしたゲーテと相通じるところがあるように思われてなりません。


宣長の歌論『あしわけ小船』や『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を読みますと、本当に勉強になるなあ、と今朝もため息をついていました。


そう、この「ため息」。この「ため息」「嘆息」をつくときの人のこころのありようを表すことばをこそ、「あはれ」と言うのだと宣長は説いています。


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阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざま言ひ方は変はりたれども、その意(こころ)はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふなり。

俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしとも、おかしとも、たのしとも、かなしとも、恋しとも、情(こころ)に感ずる事はみな阿波礼(あはれ)なり。


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「あはれ」とは、まさに、なににつれ、「あぁ・・・」と胸から、こころから、息が吐かれるときに湛えられている情のありようです。


その吐息には、どれほど、その人の嘘のない、まごころが籠められていることでしょう。また、籠もってしまうことでしょう。


息を吐いてみる。声に出してみる。ことばにしてみる。


そのように、人は、おのれの内にあるものを外に出して、初めて我がこころを整えることができ、鎮めることができる。そうして、ようやく、自分自身に立ち戻ること、立ち返ることができる。


さらには、外に響くことばの調べをより美しく整えて行く。その吐息に乗って、整えられたことばづかい、それが和歌(うた)です。


不定形だったこころのありさまを、和歌(うた)として整えられた調べへと造形することによって、人は、「もののあはれを知る」ことができるのでした。それは、「おのれを知る」ということへとおのずから繋がってゆき、さらには、「人というものを知る」ことへと、道は続くのです。


その和歌(うた)に習熟していくことによって、人はますます「もののあはれを知る」人になりゆくのだと。


本居宣長は、そのような、この国の歴史の底にしずしずと流れていることばの生命力を、ひとりひとりの人がみずから汲み上げることの大いなる価値を、その生涯の全仕事を通して謡い上げ、語り尽くしたのです。


わたしは、これからますます、この「もののあはれを知りゆく」ことが、子どもから大人にいたるすべての人にとっての最もたいせつな教育目標であると考えています。


日本人が日本人であること、それは、「もののあはれを知る」人であるということなのです。つまり、情の豊かさを生きつつ、その豊かさを豊かさと「知っている」人であるということなのです。世界にも他にあまり例をみない、言語化された人間観です。そして、これからの世界をある意味、新たな次元へと導いて行く世界観ではないでしょうか。


そのためには、国語教育、文学教育が、どれほど重きをなすことでしょう。


小学校へ上がる前は、たっぷりと、昔話やわらべ歌、美しい詩歌や和歌を全身で聴くことができるように、そばで大人が語り、詠ってあげる。


小学校へ上がってからは、子どもたち自身が全身で詠う和歌(うた)や神話の朗唱から授業を始めるのです。ことばの意味は措いておいてもいい。まずは、ことばの流れるような調べを、先生の声、自分自身の声の響き、震えを通して、全身で味わうところから。そうして、国語の授業だけでなく、色々な授業を通して、ゆっくり、だんだんと、自分自身のことばを整えてゆくことを学んで行く。


ことばを整えてゆくことによって、子どもたちは、自分自身のこころを整えてゆくことを学んで行くことができるのです。


こころとことばとが、ひとつに重なること。これは、本当にたいせつなことです。


なぜなら、人は、ことばによってこそ、ものを考え、「もののあはれ」を感じ、自分自身のこころを決めること、意志の遂行をなしとげるからです。


吐かれる息づかいに、顔に表れる表情に、することなすことに、その人のこころのありようが写しだされます。


しかし、とりわけ、こころのありようは、すべて、ことばに表れます。選択されることばの趣きに、発せられることばの響きの後ろに、表れます。


小学校時代には、知識を詰め込むのでもなく、知識に取り組むのでもなく、外なる世に現に向き合っている自分のこころに豊かな情が育ってゆくことこそを、子どもたちは求めています。その情の育みのためには、こころとことばが美しく重なった言語生活が最もものを言うのです。


これまで、国語教育では、正しいことばづかいは教えられてきたのかもしれません。しかし、これからは、靈(ひ)に通われた美しいことばづかいを学んでゆくことに、人としての教育の如何が懸かっています。


重ねて言いますが、その美しさは、表面的なものではなく、こころとことばがひとつに重なる美しさです。


和歌(うた)をはじめとすることばの芸術から学びを始めること。美しいハーモニー。調べをもったことばづかい。


宣長は、その日本人が古来たいせつにして来た精神の伝統を意識的に甦らせてくれた人なのです。


わたしたちのシュタイナー教員養成講座は、「ひと」の成長は、ことばの成長と軌を一にしているという、そのことを主眼のひとつとして打ち樹てています。


日本語ということばを守り、日本語を受け繋いで来た歴史を貫く縦の糸と、日本の大地に根ざす農の営みという横の糸とを、共に織りなし合わせ、広くて深い意味での「自然」と繋がる人の生き方を提示して行く、それが、わたしたちのシュタイナー教員養成講座の眼目で、だからこそ、「日本文化にねざす」という副題をつけたのでした。



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1月17日(金)20:30~ オンライントークライブ
(ゲスト:設楽清和 /パーマカルチャーセンタージャパン代表)

1月22日(水)20:30~ オンライン説明会

1月29日(水)20:30~22:00 プレ講座『講義「世は美しい」 & 声のワークショップ・ことばづくり(言語造形)』(講師:諏訪耕志 /ひのみやこ コースリーダー)

2月5日(水)20:30~ オンライントークライブ
(ゲスト:岸 英光 /コミュニケーショントレーニングネットワーク統括責任者)


ご関心をお持ちの方、ぜひ、お気軽に、ご参加下さい。お申し込みをお待ちしておりますね。



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参加ご希望の方は<こちらのフォーム>より
お申し込みください。 (定員5名)
https://docs.google.com/.../1FAIpQLSdPBJ6CPd3RuR.../viewform



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ひのみやこ 主催 第1回 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座ホームページはこちらです↓
https://himomiyako.wixsite.com/hinomiyako





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2025年01月09日

自然に包まれて



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冬本番になって来て、山の上に拡がる空の美しさを毎朝仰ぎながら生きています。


昨年暮れのクリスマスからお正月を超えて、ひとり、部屋にいるとき、どこか透き通るような考えに恵まれるような日々を過ごしているように思えます。本当にありがたいことです。


どこにいようとも、いつであろうとも、自然はわたしを包み込み、貫いてくれている。そして、最も豊かで密やかな自然が一番近くにある。それが、自分のからだです。このからだを、こころをこめて用いれば用いるほど、その働きは豊かなものをこころにもたらしてくれる。


こころをこめて目を用いれば、神からいただいた目という自然がこころに密やかに「徳」という靈(ひ)の質をもたらしてくれる。


こころをこめて耳を用いれば、神からいただいた耳という自然がこころに密やかに「聖」という靈(ひ)の質をもたらしてくれる。


「徳」は目の働きに順(したが)い、「聖」は耳の働きに順う。


漢字という文字が人に教えようとしてくれていることにも、耳を澄ますことができます。


目という自然も、耳という自然も、唯物的感覚に裏打ちされた情報を仕入れるためだけに使われるのではなく、そのようにこころをこめて用いられることで、人のこころに、深く、豊かで、澄んだ情と考えを育むことができます。


からだという自然は、偉いものです。その自然は、こころを込めて使われるほど、靈(ひ)から働かせられるほど、その機能を深化させます。


我が身を包み、通い、貫いてくれている光や風や水といった自然。そして、自分自身のからだという自然。さらには、それらすべてを内において支えている靈(ひ)という目には見えない自然。


それらすべての自然に包まれてあることを感じ、すべての自然とこころからつきあい、すべての自然をていねいに用いることで、わたしたちに与えられている感官という感官を養うことができます。そのような感官の養いは、こころを整え、律し、靈(ひ)の拡がりと高みへと導きます。からだの感官を超えて、こころの感官、靈の感官を養うことへと道が続きゆきます。


冬のさなか、そのことを感じています。





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2024年12月30日

前田英樹氏の謦咳に接する 〜響き続けてゐるひとつの調べ〜



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今年を想い返して、最も嬉しかつたことのひとつが、夏の終わり、池袋の飲み屋で、我が敬愛の方である文芸・映像批評家の前田英樹氏と杯を酌み交はさせていただいたことである。


昨年上梓された『保田與重郎の文学』にあまりにも感動したがゆゑに、ブログに拙い感想を書き記したところ、なんとそれを読んで下さり、いくたびかメールの交換をさせていただいたあと、わざわざ盃の席を設けて下さつたのだつた。


わたしは、この二十年近く、彼の著作のおほよそすべてを愛読して来てゐて、こんなもつたいないことはないと、ひたすらに念じつつ、こんな楽しいことはないといふ時間を味ははせていただいた。


それは、前田氏が本当に気を使つて下さり、わたしのやうな素人にも分かるやうにいろいろと丁寧にお話をして下さつたからだらうと思ふ。


様々なお話をして下さり、すべてが夢の中での想ひ出のやうになつてしまつてゐるのだが、保田與重郎が亡くなつたときの小林秀雄のこと、そして、その日本の文学にこころといのちを捧げ続けたふたりの批評家のこころざしに、いま、繋がるやうな前田氏ご自身の矜持を本当に控えめに、しかし、真実の籠る眼差しでわたしに語つて下さつた語気と精神が、わたしの胸にずつと響き続けてゐる。そして、それはこれから先もずつと響き続けてゆくだらう。


それは、わたし自身がわたし自身として生きてゆくための、ひとつの調べ・トーンなのだ。


こんな幸せなことはない。


こんなありがたい生の時間はない。


本当にかけがへのない時間であつた。






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2024年12月22日

ことばにすること



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昨日、冬至の日に、南禅寺から銀閣寺へと続く静かな東山沿いの哲学の道をゆっくりと歩いて、仕事の場へと足を運んだのでした。


こうして京都に住み始めて個人的に思うことは、ここ京都でも極めて近代的、商業的な思惑が大胆に打ち出されている場所と、古くからそういうものと一線を画し、ずっと守られている精神的、人間的な場所とが、無意識内に截然と分かたれているということです。


商業的な場所といいましても、大阪ほど厚かましくはなく、看板の色合いやその他いくつかの規制がなされているので、整然としたところがあることが大いなる救いであり、うちの娘たちなどはそういった京都の街並みをこころゆくまで満喫しながら毎日を過ごしているようです。


商業的な場所とここで言いますのは、人の欲望が激しく行き交っている場という意味なのですが、欲望はあって当然ですし、あらねばならないものです。しかし、その欲望が自然な形で人の内に湧き上がって来るものではなく、刺激的に、時には暴力的にと言っていいくらいの強さで掻き立てられ、消費へとひたすらに追い込まれてしまっている。そんなありようへと人を追い込もうとする意図が行き交っている場だという意味です。


長い間、大阪で生きて来たわたしは、大阪の商業空間である「ミナミ」や「キタ」などには文化などないということをしみじみ感じておりました。


文化とは何でしょう。


まず、こういう言い方をしてみます。それは、それが失われる危機に見舞われたとき、もしくは失われてしまってから、痛切に感じられる何かです。


しかし、失われてしまってからでは、遅い。


文化とは、人の生き方であり、そこから生まれる何かです。


文化とは、人から人へと長い長いときを重ねて、引き継がれていく生き方、ものの考え方、感じ方、創り方を基にして、その目には見えない何かを大切に育み続けながら、目に見えるものへとかたちづくってゆくこと、そのいとなみを文化といいます。


さらに言うならば、文化とは、利害損得を超えるところにあるもので、だからこそ、アメリカニズムからの商業主義とははっきりと違う何かを人にもたらします。それは、落ち着き、やすらぎ、静かなよろこび、明晰さ、確かさであり、何かと交換不可能なもの、唯一無二のもの、つまり、〈わたし〉という靈(ひ)が、その人のこころに根付いて行きます。


反対にその偏り過ぎた商業主義は、金銭を介してすべてを交換可能なものとし、取り換えの利くものとします。そして、やがては人をも機械部品化、商品化し、交換可能なものとして扱ってしまいます。その流れが、落ち着きのなさ、不安、不満、愚昧、狂気へと人をゆっくりといざなってゆき、靈(ひ)の通わない人、いわゆる俗物となってゆきます。


だからこそ、文化の危機に面しているわたしたちはいかにしてその危機に立ち向かってゆくことができるのかという問いを、いま、ここに、あらためて、立てることができる。そう哲学の道を歩きながら念いました。


その文化の象徴として、たとえば、風景があります。「情景」ということばもあるように、情緒に満ちた風景というものが、人の人生、人の情緒をかたちづくってゆく上で、どれほど深い働きをなすことでしょう。それはその場その場が秘めている価値を身のまるごとで知っている、という感覚です。


それらは、人によって守られ、育まれなければ、この時代の商業主義的な思惑の流れの中でいともたやすく壊され、失われていってしまいます。


わたしは大阪の、まこと風光明媚な情景が萬葉集に詠われた場所近くに住まいしていましたが、その風景は明治以来の近代化によって壊され始め、いまは跡形もありません。ただ、萬葉集を開くときにのみ、こころに想い描くだけです。


では、何によって、何を通して、文化を、風景を、情緒を、守ることができるのか。


多くの人と同じく、わたしも、まずは、根本のところを想います。それは、萬葉集を挙げましたように、そのような文化、風景、価値が言語化されたものをふさわしく評価することです。それは、過去の文学を新しい意識で愛することです。


さらには、いま、当たり前に恵まれているものやことをわたしたちが、これからの時代、意識的に、わたしたち自身で、言語にし、詠い、語り、語り合うのです。


その場所の美しさ、素晴らしさ、親しみをことばにし、語り、語り合うのです。また、その場で生まれた人と人とのドラマを、自分自身の人生を、その場所との結びつきの中で意識化するのです。


人と人とのかかわり、人と土地とのかかわり、さらには、その場における人と神とのかかわり、それらを知ることは、長い歴史の時間軸においても、自分が生きている場所としての空間性においても、人を孤立から救い出し、眠りから目覚めさせます。そして、それらを意識化し、人々と共有し、世へ発信してゆくのです。


ですので、歴史学、地理学、博物学、そして文学が手に手をとりあって、その場所、その土地、そこに生きて来た人々の美しさ、善さを積極的に芸術的に言語化していく。


そういう学びがわたしたちの文化を守り、育ててゆく、ひとすじの道となって、人を孤立から救い、新しい協働性を産んでゆきます。


なぜなら、人は、時間の流れの中、空間の拡がりの中で、「深いつながり」を見いだせたとき、いま、ここにある、〈わたし〉が立つからです。そしてまた、〈わたし〉がひとり立ちするからこそ、他者との共同・協働がその深みからなされゆくからです。


文化が失われる危機に対して、まず、わたしたちができること、それは、その文化の価値をことばにすること、ことばに鋳直し、それを発していくことです。


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2024年11月06日

ああよかったな ありがとう



京都で暮らすようになって、一か月が過ぎたが、仕事で出る以外は、ほとんど家から出ることもなく、過ごしている。庭にゆっくりと菜園を作り始めていて、まったくの素人が毎日土を動かしたり、耕したりして、本当に楽しい。土の匂いが心地いい。風が気持ちいい。蝶や蜂たちが飛んで来てくれて嬉しい。野菜を植え付ける前に、まずは花屋で花を買って来て鉢に植えてみたのだ。小さいこの庭がこれからどんな風に成長して行くかを想い巡らせながら、朝のひと仕事のあと、じっと眺めていて飽きない。暑くもなく寒くもない季節に引っ越しをしてよかったな。住宅地だけれども我が家の東側のすぐ近くに山がそびえていて、その山の向こうから昇って来る朝日としずかさが、大阪に住んでいた時には味わったことのないもので、自分がこういうところに今こうして生きていること、生かされていることに不思議な感じを抱きつつ、ああよかったな、ありがとうと思う。


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2024年10月26日

「神」ということば



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秋の奈良。春日大社をはじめ摂社を巡り、こころの内に敬虔さが降りて来る恩恵を深く感じさせてもらった後、参道で一匹の鹿と目が合いました。


他の鹿たちは、餌を求めてうろつき回っているのに、その鹿は静かに脚を曲げて座っているのでした。


わたしは立ち止まらざるを得なくて、数秒間、その鹿の眼をじっと視ていました。そして、「優しい目をしているね。ありがとう」とこころの内に呼びかけると、明らかにその鹿は、微笑み始めたのでした。


動物が微笑むなどと言いますと、一笑にふされるかもしれないのですが、そうとしか言いようのない光景だったのです。


そして、その眼差しに、なんとも言えない、慈愛、慈しみを湛える光を宿し始めたのです。


その光に照らされ、包まれて、わたしはこう感じざるを得ませんでした。「神が、いま、ここに、おられる」と。


ここで、わたしがお伝えしたいと思うことは、日本語における「神」ということばのことなのです。それは、英語における「God」ではないということなのです。


神々しいものすべて、靈(ひ)の通うものすべてを、日本では、古来、「神」と呼んでいました。


ですので、山にも風にも海にも、狐にも牛にも鹿にも一木一草にも、そして、自分自身の奥様にも幼い子どもにも、神々しいもの、普段のありようを超える何かを感じるものには、「神」と呼んだのでした。


そうして、それらの「神々」は、観る人にとって観えるところの光を放っており、また同時に、その光で神々は人のこころの営みを見通し、見晴るかし、見守られる、ということなのです。


先にも述べましたように、我が国では、人も「神」となるのであります。それは、人であることの理想を体した存在のことであり、いにしえにおいては、そのための修練を積み重ね、その意識をもって毎日を生きることをおのれに課し、しかるべき儀式を経て、内に「靈(ひ)がともる、靈(ひ)がとどまる」ことによって、まことの「ひ・と」になり変わるのです。


「神」ということばは、西洋の観点で捉えるべきものではない、本当に古くからの日本のことばなのですね。


日本人は、その意味での、「神」を観ていました。こころに敬虔さ、敬いの情が満ちているとき、外の世の様々なものが、思いも寄らぬ秘密を打ち明けてくれたのでした。そのとき、日本人は、ものというものに「靈(ひ)の光」を、「神」を、観ていたのです。


敬わざるを得ない人、こうべを垂れざるを得ないものに対して、わたしたちは、「神」と呼んでいたのです。



※写真の鹿は、ここで述べさせてもらった鹿ではなく、春日大社にたどり着く前にカメラに収めさせてもらった鹿です。ここで述べさせてもらいました当の神々しい鹿を、わたしは写真に撮ることは到底できませんでした。






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2024年09月27日

大阪帝塚山「ことばの家」さよならパーティー



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大阪市住吉区帝塚山で約20年間いたしていました「ことばの家」が解体されるにつき、お声をかけさせていただいた方々と共に先日、「ことばの家さよならパーティー」をいたしました。


来て下さった方々が、ここでの想い出を語りながら、狂言の謡いをして下さったり、ライアーの演奏をして下さいました。それはこの家へのこころからのはなむけでした。本当に、ありがとうございました。この家が喜んでおりました。


この小さな部屋には、本当に様々な想い出と共に、ことばの芸術から生まれる目には見えない痕跡があまた刻まれています。それは、エーテルの造形物といってもいいような、不可視の生きていることばのお宮です。


毎週毎週、毎月毎月、ことばづくりの学びに通って下さった方々、そして、数々の公演に足を運んで下さった多くの方々、おひとりおひとりにこころより、こころより、お礼を申し上げます。


わたしもまた、いま、引っ越しの作業をしながら、この家に包まれてあることの、なんとも言えない気持ちを感じて、こころから、まこと、まことの感謝を感じています。


そして、新しい「ことばの家」への精神の引き継ぎをして行く道の上に今います。


2024年10月より京都市伏見区醍醐にて、新しく「ことばの家」を創り、アントロポゾフィーを学ぶ靈(ひ)の学び舎として、そして、日本のことばの古くて全く新しい芸術を織りなしてゆく「ことばづくり」の工房として、こつこつと活動してゆきます。


わたし自身、60歳からの新しい人生のはじまりです。


どうぞまた、お越しくださいね。


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