2020年09月17日

持ち場に徹するといふこと



昔の大多数の日本人は、
米作りに従事する農民でした。


手足をフルに使つて農作業に勤しんでゐました。
その農作業は経済生活の営みであり、
同時に信仰生活の営みでありました。


手足の営みが、
胸の奥深くの神との繋がりを、
リアルに実感させてくれてゐました。


いま、日本人の大多数は農民ではなく、
スマホを手に握りしめるやうになりました。


わたしたちの大多数はもう、
米作りに従事してゐません。


しかし、米をこの手で作りはしないのですが、
自分に与へられてゐる仕事に、
こころを込めて勤しむことで、
何かをまごころを込めて作りだすこと、
生みだすことはできる。


さうですよね。


いま、かうしてインターネットといふ、
極めて高精度で便利なものを
わたしたちは手にしてゐることで、
大量の情報を得ることができてゐます。


しかし、それゆゑに、
わたしたちは表層的な知に恵まれ過ぎて、
頭でつかちにならざるを得ず、
一方で、わが手足を使つて、
何をすればいいのか、
分からなくなつてゐはしないでせうか。


手足をもつて何かをする、
何かを生みだすことができたとき、
その意欲の発露は、
頭でつかちになりがちなわたしたち現代人にも、
健やかさを取り戻させてくれます。


頭でつかちとは、
「自分にはすべてが分かつてゐる、
 すべてを見渡すことができる」と、
鳥瞰的・俯瞰的立場に立ちたがることを言ひます。


一方、
わたしたちの手足は、
いま、ここにしか、
触れることができません。
しかし、その手足こそが、
世とリアリティーを持つて繋がり、
世に何かを生み出すことのできる、
通路であります。


いま、わたしたちは、
みづからの手足を使つて何をしませうか。


自分自身を敢えて俯瞰的立場に置かず、
世のひとところに立つて、
この手足をもつて生きてゐることをしつかりと弁へることで、
いま、ここで、
自分に与へられてゐる持ち場に徹することが、
人を健やかにするやうに思へてならないのです。



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2020年09月12日

お手本となる存在



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わたしのライフワークのひとつとして、
普遍人間学(ルドルフ・シュタイナー)講座があります。


わたしがこのやうな講座をするに当たつて、
懐旧の念ひと共に、
お手本にしてゐる先生がふたりゐます。


おひとりは、
我が言語造形とアントロポゾフィーの師であられる、
鈴木一博さん(「先生」とはお呼びしなかつた)ですが、
もうおひとりは、
北海道伊達市にあるひびきの村で、
十数年前にご一緒したベン・チェリー先生です。


彼はそのとき確か二週間にわたる、
オカルト生理学を担当されてゐました。


彼の授業の進め方は、
一冊の本を深く深く読み込み咀嚼した上で
(その作業はおそらく
 何年もの長い年月が掛けられてゐるだらう)、
その本の記述に捉われることなく、
パワーポイントなど一切使はず、
きはめて自由自在に毎日の授業を繰りなしてをられました。


ベン先生は、
普段はもの静かな立ち居振る舞ひをされる方。
しかし授業になると、
とても表情豊かに、身振り豊かに、
全身全霊で語り、説かれるのでした。


わたしは、授業内容の魅力と共に、
ことばにおける表現に全身全霊を懸けてをられるやうな、
彼のあり方そのものにとても、とても、惹かれたのです。


高い叡智に満ちたことばを、
精神、こころ、からだのまるごとをもつて、語る人。


さういふ存在に出会へたことは、
本当に僥倖だと念ひます。


ベン先生が、いまも、
お元気でゐらつしゃることを乞ひ希みます。

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2020年09月04日

星のお宮と感官と家族の名前



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十二の感官の育みと十二の黄道上にある星の宮との関はり。


そのことを考へてゐて、こころの内に漂つてきたのは、我が家族ひとりひとりの生まれた月日の星座と名前についてです。


次女のかさねは、おうし座生まれ。おうし座は、他者の考へを感覚する「考への感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。彼女は十二歳ですが、学校での学びでも、日々の暮らしの中でも、家族中で一番際立つた「思考家」です。考へを「かさねて、かさねて、かさねながら」日々成長してゐるのを強く感じます。わたしが彼女の名前を「かさね」とつけたのは、松尾芭蕉の『奥の細道』にその名の少女が出てきて、「かさねとは八重撫子の名なるべし」といふ句に魅了されたからなのですが、まさしく、こころの細道を辿りゆく芭蕉は、北へ北へと、那須から陸奥へと旅を進めて行つたのでした。それは、また、考へを重ねて行くことで行き着くこころの北方を目指してもゐたのでした。


長女の夏木は、かに座生まれ。かに座は、響きに耳を澄ます「聴く感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。いまは十五歳で、吹奏楽部に所属し、休むことのない音楽漬けの毎日です。聴くといふ営みは、物理的な空気の振動を精神的な調べに変換させることでなりたつてゐること、アントロポゾフィーから学ぶことができることの内の驚きのひとつです。7月半ば、くすのきの大樹に蝉が鳴きしきる夏の最中に生まれて来た長女。直感的に「夏木」と名付けました。同じく、芭蕉で有名な句「閑かさや岩にしみいる蝉のこゑ」がありますが、芭蕉は、蝉の声と共に、閑かさといふ沈黙の調べに耳を澄ましてをりました。物理の次元と精神の次元とを重ねつつの句であります。長女も、きつと、物理の次元と精神の次元とを結びつけるやうな人へとなりゆくであらうこと、我が子ながら、その独特のセンスにどこか感じるところがあります。


妻の千晴は、ふたご座生まれ。ふたご座は、何らかの響きや音声とは全く別に、ことばをことばとして受け取る感官「ことばの感官」の育みに力を贈り続けてゐる星のお宮です。双子のやうに、ふたつの腕のやうに、自由に動き、自由に遊ぶ、そんなときこそ、こころが羽ばたき、ことばが息づく。まさに、そんな人です(笑)。その双子といふことばに象徴されるふたりの幼な子の間には、遊びを通してこそ、自由と美が生まれます。それが、そもそも、本来的な「ことば」です。彼女は言語造形に生きてゐます。「千晴」といふ名も、とこしへの晴天を指してゐるのでせうか。ゲーテが、たしかこのやうなことをどこかに書いてゐました。「人と人とが語りあふこと、それは、光よりもすこやかなものをもたらす」。すこやかさと晴れやかさ。晴れ渡る大きな空を吹き過ぎる千の風です。


わたくしこと耕志は、いて座生まれ。いて座は、自分自身のからだが動いてゐることを内側から感覚する「動きの感官」を育む力を贈り続けてゐる星のお宮です。志(こころざし)を耕すといふ名を父がつけてくれたのですが、こころが指す方向に向かつて動いて行く、その力はいて座から、そして名前から頂いてゐるのかもしれないと思つてゐます。また、子ども時代に体を目一杯動かしながら遊べば遊ぶほど、ことばを活き活きと話すことができる、そんな関連に、我が子ども時代の環境をありがたく思ふのです。


昨日、空を見上げると、虹が懸つてゐました。





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2020年08月26日

半沢直樹



生きてゐて、
人のこころの世ほど、
複雑怪奇なところはないと思ひませんか。


そこに一筋の光を当てることができたなら・・・。


その願ひをヴァーチャルに叶へてくれる、
『半沢直樹』🌟


今日も録画しておいたものを観る。


出てくるどの人物もすべて、
実は観てゐるこのわたしの内側に
ありありと存在してゐて、
一番複雑怪奇なのは、
この自分自身であり、
この自分自身のこころの内に、
一筋も二筋も光を当てて行かねば、
にっちもさっちも行かないところまで、
わたしも来てゐるし、
日本の社会も来てゐるのでせう。


いや、さうは言つても、
社会といふ生き物のこころの内側に光を当てる、
なんて、どうすればいい?


さう、つまるところ、
自分自身のこころに、
自分自身で光を当てて行くことだけが、
ひとりひとりの人に任されてゐる、
大いなる仕事なのだ〜



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2020年08月25日

ある日 娘とカフェで



次女(小学六年生)とふたりで難波に出て、
タワーレコードへ。
 

彼女は、ここ一、二年、
音楽(ポップス)に猛烈にのめりこんでゐて、 
いまの音楽のことなら、
55歳のわたしなどより
遥かに深く広く知識をもつてゐる。
 
 
今日は視聴コーナーでたつぷり楽しんだやう。
 

その後、カフェに寄つて、彼女から、
戦争のことや近代・現代史のことを話し始め、
思はず知らずいろんな話しをする。
 
 
これからの若い人にとつて、
学校をあてにせず、
本当に自力で勉強して、
真実を見抜く力をもつことが大切だと話したとき、
すごく真剣な目をして聴いてゐた。
 
 
数千の歩きゆくすべての人が、
かうしてマスクをして歩いてゐる、
この難波の街の風景を忘れないでおかう。
 
 
そんな話しをして帰つて来ました、とさ🙆‍♂️
 



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2020年08月07日

健やかな意識を失はず






小池知事がああ言つてゐる、
吉村知事がかう言つてゐる、
安倍首相が言つてゐる、
また全く違ふことを言ふ人がゐる、
一体、誰が言つてゐることが本当のことなのか。 
 
 
しかし、次のやうなことが言へると、
思はざるをえません。
 
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 
 
 
ドイツの建設大臣とフランスの大臣との立場に
どんな相違があるかとか、
どちらの論拠を正しいと思ふかとかは、
すべてたわごとです。
 
 
現代文明の進歩に関はるためには、
そんなことが大事なのではなく、
なぜ誰かが不正直な態度をとるのか、
なぜ別の誰かが別の不正直さを示してゐるかを、
よくしらべることがたいせつなのです。
 
 
わたしたちの時代は、
語ることばの内容に何の意味も見いだせず、
そこに支配してゐる力だけが意味をもつてゐます。
そのやうな時代にわたしたちは生きてゐます。
 
 
今日、
誰かがアントロポゾフィーを意識の中に取り入れて、 
あちこちのアントロポゾフィーの集ひに
出かけたとします。
 
 
その人は、人間を見いださないでせう。
見いだすのは、閉ざされた、
ごく狭い場所を動き回つてゐるモグラたちばかりです。
彼らは狭苦しい場所の中で、考へてゐます。 
そしてその考へをその範囲を越えて拡げようとしません。
その場所以外のところに関心を向けようとは、
全く思はないのです。
 
 
わたしたちがこのやうな、
モグラ的生き方を克服する可能性を見いだせず、 
常に同じところで同じ判断を繰り返すだけなら、
そのやうにして、
19世紀から20世紀初頭の時代に呪縛されてゐるだけなら、 
悲惨な状況から脱け出す仕事に加わることはできないでせう。
 
 
(ルドルフ・シュタイナー 
 1921年6月17日 シュテュットガルトにて)
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
 
百年前の中部ヨーロッパにおける状況と、
いまのわたしたちの状況とが、
全く重なつて見えてしまひます。
 
 
アントロポゾフィーなどの精神的な学びの場に、
起こりがちなことも、
シュタイナー在世当時からしつかりと起こつてゐたのでした。
 
 
ここで語られてゐる「力」といふものは、
目には見えず、
多くの人といふ人の内側に巣食ひ、
隣近所の人、
そして、大衆を動かすのですね。
もちろん、
この自分自身をも動かさうと強烈に働きかけてきます。
 
 
しかし、わたしたちは、
この「力」といふものに引きずり廻されてゐる、
この悲惨な状態から、
きつと、脱け出すことができます。
 
 
電車の中で、
マスクをしてゐないわたしを
睨み付けてくる人がゐる中で、
かう考へます。
 
 
この百年の間に、
わたしたちひとりひとりは、
どこまで目覚めた意識を獲得できたか。
 
 
得体の知れない「力」に目を注ぎつつ、
健やかな意識を失はず、
朗らかに生きて行くための、
こころの力。
 
 

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2020年06月30日

7〜8月アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
 
『普遍人間学の第三講』に取り組む次回のクラスの日程をお知らせいたします。
 
 
●金曜10時〜12時クラス(7/10, 7/31, 8/28)
 
 
●土曜10時〜12時クラス(7/11, 8/1, 8/29)
 
 
ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』のオンライン講座のお知らせです。
(録画したものを観ていただくこともできます)
 
 
全十四講義、
シュタイナーによつて語られてゐるのですが、
シュタイナーの各講義を
三回ひとつづきで、
わたくし諏訪耕志が、
ていねいに語り降ろさせていただきます。
 
 
このたびは、第三講のクールです。

 
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。
 
 
ライン上ですが、
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
時を共有しながら、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 
この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。
 
 
途中からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。
 
 
共に、精神の学びに取り組んで行きませう。
 
 
※これまでの金曜クラスの時間が変はり、
 朝10時から12時までになります。
 ご注意ください。

 

講師:
諏訪 耕志

 
  
 

今回は、第三講を三回に分けて取り組みます。
 
 
@7月10日(金)10時〜12時
 7月11日(土)10時〜12時
『 人とは何かが分からなくなつたわたしたち 』
 
 
A7月31日(金)10時〜12時
 8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
B8月28日(金)10時〜12時
 8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 
 
  

●参加費 
 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
  
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 
●お申し込み・お問ひ合はせ
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 

鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
 
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

ありがたうございます。 


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2020年06月25日

遊びと集中力

 
 
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小林秀雄の
『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、
とりわけ魅力的なのは、
江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところだ。
 
 
ものを学ぶには、
本ばかり読んで、机上の智識を弄ぶのではなく、
外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。
 
 
さう言ふ人は幾らでもゐる。
 
 
しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、
市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、
俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐた。
だから、
さういふ当たり前のことは、
わざわざ口に出して言はなかつた。
 
 
むしろ、独りになること、
そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、
本であること。
師と古き友を、本に求める。
本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、
信を寄せるに値するものはないと迄、
こころに思ひ決め、その自恃を持つて、
みづからを学者として生きようとした人たち。
 
 
そして、古典といふ書の真意は、
独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、
だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。
 
 
そのときの工夫と力量を、
彼らは心法とか心術と云ふた。
 
 
一度きりの読書による知的理解と違つて、
精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、
その人の体得物として、
暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。
 
 
数多ある註釈書を捨てて、
寝ころびながら、歩きながら、
体で験つすがめつ、
常に手許から離さず、
さういふ意気に応へてくれるものが、
古典といふものだらう。
 
 
さうしてゐるうちに、
学び手のこころの奥深くで真実は熟し、
やがて表の意識に浮かび上がつてくる。
 
 
そのとき浮かび上がつてくるものは、
学説などといふものではなく、
真理を追ひ求めた古人の人格であり、
それは浮かび上がつた後も、
依然多くの謎を湛えてゐる筈だ。
 
 
ちなみに、
部屋に独り籠もつて、
かういふ本の読み方ができる人は、
きつと、幼い頃、
目一杯、からだを動かせて遊んだ人だ。
 
 
その遊びの中で、
意欲が、ファンタジーへと昂ぶり、
さらには、
ものをまじまじと見ることのできる力
(ふだんのイマジネーション)にまで、
稔つてゐる。
 
 
からだを芸術的に動かす、
その働きは、 
よく観る力、よく聴く力、よく読む力に、
後年なりかはるからだ。
 
 
子どもの頃の身体を使つた遊び程、
人の意欲を強める芸術はない!
 
 
 

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2020年06月21日

子どもの宗教性

 

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今日、娘たちが贈つてくれた花束

 
 
これも、8年前に書いた文章なのですが、今日、父の日を祝つてくれた娘たちのことを想ひつつ、再掲します。またしても長文ですが、ご勘弁を。
 
 
―――――――
 
 

毎日、小さな子どもたちと暮らしてゐて、何よりも感じさせられることは、とにかく子どもたちは、意志・意欲の力に満ち溢れてゐるといふことです。
 
 
「・・・したい!」「・・・が欲しい!」の連続。時に、反対に「・・・したくない!」と言つたりもしますが。
 
 
その意欲は、周りの大人の都合や思惑をものともせず、子どもはその願ひが叶へられるまでその声で連呼するか、「ダメ!」と言はれ、怒られて、泣きぢやくるか、です。
 
 
その子の気質によつて意欲の発露の仕方にも違ひはあるでせうが、共通してゐるのは、歯が生え変はるまでの子どもの意欲の強さは並大抵ではないことです。
 
 
「強く欲する」といふこの力は、そもそも、大いなるシンパシー(共感)の力です。何かを欲しがるといふのは、その何かとひとつになりたい、誰かと同じやうにしたい、誰かと同じやうになりたい、真似したいといふ、大いなるこころの力です。
 
 
なぜ、これほどまでに、小さな子どもたちのシンパシーの力は強いのでせうか。
 
 
それは、世を信頼してゐるからです。世は善きところだと信頼してゐるからです。善きものと同じやうになりたい。善きものとひとつになりたい。すべての人が本来その願ひをもつてゐます。だからこそ、子どもたちは、周りのものといふもの、ことといふことを欲します。真似します。
 
 
その「善きものとひとつになりたい」といふ願ひを、人の宗教性と呼びたいのです。
 
 
大人はその宗教性をからだから自由になつてゐる精神とこころにおいて育むことができます。大人の宗教的感情は、自分自身の精神とこころをもつて高い世の精神とこころに帰依することで育まれます。
 
 
しかし、幼い子どもはいまだ精神とこころがからだから自由になつていず、精神、こころ、からだ、まるごとで周りの世に帰依してゐます。その帰依の仕方は、大人のやうにこころで意識的にしてゐるのではなく、からだにおいて、無意識に、血液循環、消化、呼吸の働きなどにいたるまで、周りに帰依してゐます。全身が感覚器官であり、だからこそ、幼い子どもは徹底的に周りを摸倣する存在です。からだそのものが、おのづから宗教的雰囲気の中に生きてゐます。
 
 
子どもが「Aがしたい」「Bが欲しい」などと言ふときに、わたしたち大人はそのAやBに意識が向きがちであつたり、そのわがままなありかたに堪忍袋の緒が切れたりするものですよね。しかし、「・・・したい」「・・・が欲しい」といふこころの力、シンパシーの力そのものに目を向けますと、子どもの中にはからだに至るまでの宗教性が息づいてゐることに気づかされます。
 
 
そして、子どもは、善きものだけでなく、悪しきものまで、すべてを真似ます。大人においては、善きものに向かつてこころを意識的に育んでいくといふことができますが、子どものからだにおける宗教性は、おのづからなもの、無意識のものであるゆゑに、悪しきものにも帰依できるのです。
 
 
悪しきものとは、なんでせう。現代において、わたしたちは挙げていけばきりがないほどの悪しきものに囲まれてゐるのかもしれません。子どもをもつ親は、何を信頼し、何に帰依していくことができるのか、判断しかねてゐます。
 
 
人の育ちにとつて、善きもの、悪しきものは確かにそれぞれありますが、その中でもつとも大切で、人の育ちを応援してくれる善きものは、その人自身の考へる力、感じる力、欲する力、この三つのこころの力が健やかになりゆくことだと、わたしは感じ、考へてゐます。その力こそが、外の様々な状況や環境に対しあひ、適応しながらも、己れ自身を信頼し、道を切り開いてゆくことを可能にしてくれるのではないでせうか。
 
 
そして、子どもは密やかに、からだにいたるまで親の内に生きるこのこころの力を真似します。それは、考へ方、感じ方、欲し方が、おのづからな習ひのもの、習慣になるだけでなく、そこからこころとからだの健やかさまでをも左右していくといふことです。
 
 
わたし自身、親として感じ、考へ、そして失敗を繰り返しながら練習してゐることなのですが、わたし自身の考へるその考へ、感じるその感じ、欲するその欲が、子どもに真似されていいものかどうかを、そのつどそのつど見てとることです。
 
 
子どもがゐてくれなかつたら、わたしはこんなことを思ひもよらなかつたでせう。思ひにはゐたつても、実際に成長していく人をまぢかに見なければ、深くこころに記すこともなく、練習することもなかつたでせう。その機会を与へてくれてゐる子どもたちに、こころから感謝したいのです。
 
 
子どもの宗教性に応へること。それをまづ、自分自身の考へ方、感じ方、欲し方を見てとることから始めたいと、いま、こころから思ひます。できる、できないにとらはれません。とにかく、さうこころがけたい、こころざしたい、といふことです。
 
 
シュタイナー幼稚園などで、よく唱へられる詩に次のものがあります。
 
 
 

  わたしの頭も、わたしの足も、
  神さまのすがたです。
  わたしはこころにも、両手にも、
  神さまの働きを感じます。
  わたしが口を開いて話すとき、
  わたしは神さまの意志に従ひます。
  どんなものの中にも、お父さん、お母さん、
  すべての愛する人の中にも、
  動物や、草花、木や、石の中にも、
  神さまのすがたが見えます。
  だから、怖いものはなにもありません。
  わたしの周りには、愛だけがあるのです。  
           (ルードルフ・シュタイナー)
 
 
 
大人として子どもの傍にゐるわたしが、どんな不条理な世にゐたとしても、あへて、周りのいたるところに、この詩に述べられてゐる尊いもの、愛を見つけ出していく・・・。詩のことば、祈りのことばから、わたしは自分の考へる力、感じる力、欲する力を、耕します。子どもの宗教性に応へられるやうなこころの力を、毎日の生活の中で、呼び起こします。昨年2011年の春から、特に、意識してゐることを書かせてもらいました。
 
 
 
 


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2020年06月19日

若い人に向けて 〜たとへば、東京と大阪〜



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七年間通つた、新宿牛込柳町にある銭湯「柳湯」
 
 

随分以前に書いた文章で、自分自身のことを振り返りながら、人生の中の発意・自主性・イニシアティブの重要性について書いたものです。長文ですが、ご勘弁を。
 
 
 
――――――
 

 
わたし自身のことから書き始めるのですが、シュタイナーといふ人を初めて知り、アントロポゾフィーの本を読み出したのは、二十八歳のときでした。まづは、子どもへの教育についての本を読み始めたのですが、そこに書かれてある教育観、人間観、世界観、宇宙観を貫いてゐるまぎれもない精神からの観点にこころを鷲づかみにされました。更に、言語造形といふ芸術に出会ひ、自分の仕事は、この言語造形とアントロポゾフィーを生きることそのことだと、出会つてすぐに感じ、それまでの仕事をやめて、それから約七年間、言語造形とアントロポゾフィーを学ぶために、毎日アルバイトをしながら、東京に住んでゐました。
 
 
東京といふところは、学びの機会だけに限らず、観るもの、聴くものが、世界中からと言つてもいいくらゐ、豊かに供給されてゐますよね。わたしは、アントロポゾフィーと言語造形を通して、特に芸術に向けての関心と情熱が深まつていき、それに応へてくれるかのやうに、東京は質の高いものを豊かにわたしに与へてくれました。こちらがその気にさへなれば、そしてお金さへあれば、東京といふところはいくらでも享受と学びの機会を与へてくれました。わたしにとつては、東京の街そのものが、大学のやうでした。
 
 
そして三十五歳になつたときに、ふるさとの大阪に帰つてきました。そのとき、わたしがまづ感じたのは、芸術の享受、学びの享受といふ面に関しては、東京と比べると、その量においては、五分の一、いや、十分の一ぐらゐかもしれない、といふことでした。これはあくまでも、当時のわたしの個人的な感覚です。
 
 
しかし、ここでも、すぐに気がつきました。外側から得るものはさほど多くないかもしれない。けれども、自分が意味を見いだし、やつてみたいこと、やつていかうとしてゐることを、いま、ここから、自分から、始めてみることはできる。自分自身がたとへまだまだ未熟であつても、こころざしさへあれば、です。大阪といふところはそんな気風がある。そのことを肌で感じました。
 
 
それまで、東京でたつぷりと豊かで深い学びをさせてもらへたといふ実感があつたのですが、同時に、その外的な豊かさから必然的に生まれてしまふこころの受動性、そして何よりも、人を何かのレベルで判別しようとする強すぎる批判性・選別性を人との関係の中でどこか感じてゐました。それは、東京といふ大都会に生きる人がもつてしまはざるをえないものかもしれませんし、それよりも、きつと、わたし自身の中にあるこころのありやう(受動性と批判性)でもあります。ただ、大阪に帰つてきて、初めてはつきりと意識したのは、東京にゐたときのやうなありやうの中では、わたしは、わたしとして自立するのがとても難しかつた、といふことでした。外側から与へてもらえるものは、とても質の高いもので、量も豊かなのですが、それゆゑに、こころが受け身になりがちで、また、批判するこころの力が強すぎて、人と人とが警戒しあつてゐる、他者の目が常に気になる、「誰かのお墨付きをもらへないうちは、自分で何かを始めるなんてとんでもない」といふやうな雰囲気をわたしはどこか感じてゐました。
 
 
わたしが、アントロポゾフィーから、そしてシュタイナーといふ人から学んだもつとも大きなことは、「わたし」を育むこと、そのために何度失敗してもいいから、恐れずにトライしつづけること、さうすることによつてのみ、だんだんと「わたし」に対する信頼が自分の中に育つてくるといふことです。「わたし」に対する信頼こそが、生きていく上で、もつとも大きなもののひとつだといまも感じてゐます。
 
 
十九世紀後半から約三百年かけて、時代精神ミヒャエルが、わたしたちを見守り、支へ、応援してくれてゐると、シュタイナーは語り、そのミヒャエルとの結びつきをひとりひとりが真摯に受けとめながら生きていくことがどれほど大事なことかを、病床にいながらも書き続け、それが遺言のやうに『ミヒャエルの手紙』として、わたしたちに残されてゐます。
 
 
その『手紙』において、ミヒャエルの働きは様々な面で深められてゐるのですが、その基本的なことのひとつとして、時代精神ミヒャエルは、「わたし」に目覚めつつ、「わたし」を信頼しつつ、発意・イニシアティブをもつ人と結びつかうとします。
 
 
あくまでも、わたし個人が感じたことですが、東京における、豊かさと同時にもたざるをえなかつた恐れと不安。そして自分のふるさとである大阪に帰つてきて生まれたイニシアティブ。失敗を恐れず、他者の目を気にかけず、とにかく、やつてみよう、そして、やりつづけていかうとするイニシアティブ。だから、東京は住みにくい、ふるさとや大阪は住みやすいなどとは勿論一概に言へませんが、やはり、そこに、現代を生きることの難しさと希望を見るのです。場所の問題ではないのですが、場所は、人が、創つてきたものです。要(かなめ)は、これからの人の意識です。
 
 
目に見える外側の豊かさが本当の豊かさではないことに、人は、きつと、気づいていくでせう。これからはますます、人が各々の「わたし」をもつて、ためつすがめつ、ひとつひとつのものごとを消化し、深め、ものにしていくプロセスそのものが豊かさであること、そして、「わたし」に対する信頼を育んでいくことこそが豊かさであると感じとつていくでせう。
 
 
人が、「わたし」をもつて、ひとり立ちすること。そこをこそ、ミヒャエルは応援しようとしてゐます。そして、その応援をもらへるやうな環境を他者のため、自分のためにわたしたちはどのやうにして創つていくことができるでせうか。共に、考へ、各々実際に創つていきたいですね。
 
 
 

 

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2020年05月31日

生まれ変はり


 
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フリードリッヒ「雲海を見おろすさすらひ人」

 
わたしたちは、この同じ時代を
共に生きてゐます。
 
 
同じ空気、同じ雰囲気のなかに生きてゐます。
 
 
しかし、これからは、同じ空気のなか、
同じ時代のなかであつてさへも、
ひとりひとりの意識の違ひで、
これまでとは比べものにならないほど、
人によつて生き方も大きく分かれてくるだらう、
さう想ひます。
 
 
これからは、ますます、
皆が皆、横並びになることで、
安心するやうな生き方は終はり、
ひとりひとりが、
言ふならば、自分勝手に生き始める。
 
 
さうして、どんどんその人らしい、
自由な生き方に入つて行く人もあれば、
逆に、自分勝手に生き始めることで、いつさう、 
こころの底のじりじりとした不安は、
誤魔化せないやうになる人もゐる。
 
 
わたしもさうです。
この不安を誤魔化して生きて行くことはできないと、
痛感してゐます。
 
 
最も恐れてゐたことが起こるやうに、
人生はできてゐる。
 
 
そんなことをリアルに痛感するのです。
 
 
問題は、この恐れといふ情に、
しつかりと向き合ふことだと
思はざるをえないやうになりました。
 
 
向き合はないと、
わたしは、一生涯、
自分といふ人間の本質にアクセスしないまま、
生涯を終へてしまふことになる。
 
 
わたしといふ人間の本質にアクセスする、
自己認識といふものが、
これほど抜け落ちるものなのかと、
これまでの人生を振り返つて愕然とします。
 
 
これまでと同じやうな、
考へ方、感じ方、生き方を繰り返すのは、
もう御免だ、
新しい生き方を始めたい、
さう熱望するのは、
きつと、
支配欲や承認欲求や愛の不足感からではなく、
さうせざるをえない、
ぎりぎりのところまで来てゐるのです。
 
 
下手な比喩ですが、
靄のかかつた山の遥か向かうに、
雲の切れ間からかすかに光が見えてゐるとしたら、
それは、どんな生き方を人に指し示してゐるのだらう。

 
少なくとも、わたしは、
自分自身の弱みといふところに、
真正面から向き合へるときが来てゐるのなら、
そこからゆつくりとでもいいから、
あらためて高みを目指す生き方をしたい。
 
 
自分自身の精神の向きに従つて、
切磋琢磨して己れを磨きつづけたい。
 
 
さうして、わたしは、人に学びたい。
 
 
その人は、生きてゐる現世の人であり、
またすでにこの世を去つてゐる人もある。
  
 
すべての人のことばに、もつともつと、
耳を澄まして聴き入りたい。
 
 
人のことばの後ろにあるこころと精神、
それは、わたし自身のこころを育てる、
なによりのものだから。
 
 
また、
この世を去つて、
数十年、数百年、数千年経つても、
厳としてわたしのこころの前に直立してゐる方々の
こころと精神。
 
 
彼らが残した仕事の価値は、
時の流れの試練をくぐり抜けて、
今も果てしなく重く、高い。
 
 
彼らが残してくれたのは、「ことば」、
書かれた「ことば」です。
 
 
その「ことば」は、
ひつそりと静かに慎んでゐながら、
それを読みに来る人、
聴きに来る人、
摑みに来る人を待つてゐます。
 
 
その「ことば」から溢れ、流れて来る、
その人のこころと精神に、
禊ぎをさせてもらふやうに、
洗はれ浄められる必要がわたしにはある。
 
 
毎日の暮らしのなかで、
さういふ精神の営み、
精神からの受洗、
こころの生まれ変はりを生きていく。
 
 
さう、こころを決めてゐます。
 
  



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2020年05月23日

オンライン講義を始めて



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現在のこの状況において、
新しいものに疎いこのわたしも、
5月になつて漸く、
オンラインによる仕事を始めさせてもらひました。
(ちつとも、新しくはないのでせうね😅)
 
 
わたしにとつては初めてのことで、
受講して下さつてゐる皆さんには、
いろいろとご迷惑をお掛けしてゐます。
 
 
しかし、わたしは、
このたびのこのやうな仕事の仕方から、
思はぬ気づきを与へられてゐます。
 
 
それは、このオンラインでの仕事が、
プライバシーとパブリシティーとが
交錯するやうな時空間で成り立つてゐることからの、
気づきなのです。
 
 
普段のプライバシーの領域で、
どういふ考へと情をもつて生きてゐるか。
 
 
外に出て行つて人様と会ひ、
緊張感をもつて仕事をするとき以上に、
プライベートな空間に身を置いたまま仕事をする、
このオンラインでの仕事では、
自分独りでゐるときの意識のあり方が、
その質に、より密やかに影響することを
感じてゐます。
 
 
プライベートな時間の中でこそ、
自分のこころを
自分で見守ることの大切さを感じるのです。
 
 
この仕事の形態はわたしに、
精神の舵取りの必要性を教へてくれてゐます。
 
 
現代の文明の利器に、
精神からの感謝の念ひを向けることの大切さを思ひます。
 
 



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2020年05月22日

幸せと不幸せに揺れ動く生のさなかで

 
 
人が雄々しく舵をとる
 
舟は風と波とに揺られるも
 
内なるところは揺れもせず
 
風と波とを従へつつ
 
人がはてなき深みを見やる
 
難に会はうと会ふまいと
 
頼れるは内なるところの力なり
 
 
(シュタイナーによつて改変されたゲーテのことば)

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2020年05月09日

みる、愛づ、愛でる 〜乙女座からの贈り物〜

 
 
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ものをよく「みる」こと、
じつと「みる」ことから始めることの意味深さ。
 
 
「みる」といふことばの底には、
「愛(め)づ」「愛(め)でる」といふ、
極めて感情的・意欲的なことばが息づいてゐる。
 
 
「愛(め)づ」といふことばから
「めづらし」といふことばも生まれる。
 
 
人は、何でも見てゐるやうに思ひ込んでゐるが、
愛してゐるものしか、
実は見てゐないし、見ゑてゐない。
 
 
何かを「愛でる」。
だからこそ、その何かを「みる」ことができる。
 
 
そして、その「みる」といふことばは、
他の動詞に付くことで、
その行為をますます意欲的な行為へと押し進める。
 
 
「触れてみる」「動いてみる」「立つてみる」
「嗅いでみる」「味はつてみる」「見てみる」
「湯加減をみる」「聴いてみる」「話してみる」
「感じてみる」「考へてみる」「してみる」・・・。
 
 
おほよその動詞に付くことのできる「みる」。
 
 
人がその意欲的な行為をするための働きを、
大いなる世から与へてくれてゐるのは、
乙女座のお宮である。
 
 
乙女座。
それは永遠の乙女であり、
永遠の女性性であることの宇宙的表現である。
 
 
「みる」といふ行為は、
対象に光を当てる働きであり、
光を当てることによつて、
その対象からその対象たるところ、
本質といふものを引き出す愛の働きである。
 
 
だから、「みる」は多くの動詞に付くことで、
その行為を意欲的なものに、愛に満ちたものにする。
 
 
 
 
 
本を読むときでも、それは当てはまる。
 
 
本といふ人格と精神が総動員されてゐるものを、
まづは、徹底的に信頼して、愛して、
目を皿のやうにして愛でて読むことによつて、
本は秘めてゐる秘密を初めて打ち明けてくれる。
 
 
さうして、
そんな「みる」といふ意欲的・感情的な行為から、
やがてゆつくりと「考へる」「知る」といふ、
対話的行為へと、こころが深まつてゆく。
 
 
そんな行為にいざなう本こそが、
読むべき本だと感じる。
 
 
 
 
 

昔の日本人は、
そんな「みる」力を相当強く養つてゐたやうだ。
 
 
結婚するために、「お見合ひ」をする。
 
 
そのとき、
相手の年齢や職業などをそこそこ弁えるだけで、
あとは、ほとんど、「一目でみて」決めてゐた。
 
 
 
相手の趣味や収入や性格や、
その他様々な情報などは置いておき、
たつた「一目みて」
こころを決める力を持つてゐた。
 
 
さういふこころの力を育むことが教育の基だと念ふ。 
 
 
 
 

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2020年04月16日

仕事をより深めて

 
  
かういふ時は、
手を動かして、
ものを作ることができたり、
楽器を弾くことができたり、
そんなことができる人、
いいですよね。
 
 
創造するといふことが、
どれほど人を健やかにすることか!
 
 
毎日、
次の舞台に向けての稽古をしてゐるのですが、 
この稽古といふものが、
からだだけでなく、
どれほどこころを健やかにしてくれることか。
 
 
そして読書もわたしにとつては、
汗を流すやうな創造行為なのです。
 
 
この二週間は、
午前中はゲーテの『詩と真実』、
『(エッカーマンとの)対話』に、
午後は『平家物語』に、
夜はノヴァーリスにどつぷりと浸かつてゐます。
 
 
かうして、
稽古と読書を続けて行き、
深めて行くことで、
これからの自分の作品に、
より深みと含蓄をもたらしていきたいですし、
多面的で前進的な力をも、
さらには、
総合的な高さをも、
もたらしていくことができたら、
と熱望するのです。
 
 
これらはすべて分かりにくいことですが、
いよいよ自分自身の
芸術感覚と技量を
磨くこと以外に手はないやうです。
 
 
芸術とは何か、
人として生きるとはどういふことか、
芸術を真の仕事としていくためには、
どういふ精神を要するか、
それらのことを学ぶ上で、
ゲーテも、彼と同時代を生きた、
ノヴァーリスも本居宣長も、
わたしにとつては、
まことに、まことに、掛け替へのない先生です。
 
 
そして、わたしは、
自分自身の渇きを癒す泉がどこにあるのかを、
より明瞭にして行くことと共に、
同じ渇きを抱いてゐる友の助けになれるやう、
その泉の透明度と清潔を共有できるやう、
これからは仕事をしていきたいと考へてゐます。
 
 
その渇きとは、
ことばの美を求める渇きです。
 
 
表層にあるのではない、
深みに流れる美です。
 
 
それは、きつと、
人といふものの探求、
〈わたし〉といふものの探求と
ひとつなのでせう。
 
 
そのために、
毎日のからだの鍛錬が
必要であることはもちろんなのだけれども、
こころの栄養を
こつこつと丹念に集めていくことも
欠かせません。
 
 
稽古と共に、
洋の東西を問はず、
読み継がれてきた「古典」を読みこむ。
 
 
それは、
「ことばの理解」に向けてです。
 
 
表層的な意味に拘泥するのではなく、
ことばの深い意味を了解できる人を育てるためです。
 
 
そんなことを、毎日、精力的にやつていく、
「ことばの家」を、
ますますそんな場所にして行くことが、
わたしのこれからの仕事です。
 
 
読んで下さつて、ありがたう!
 

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2020年04月15日

この騒ぎの向かう側

  
  
今まで経験したことのない毎日を暮らしてゐます。
 
 
それはウィルス騒ぎのこと、そのことではなく、
そのことゆゑに、 
すべての仕事がキャンセルされるといふ、
わたしにとつては前代未聞のことです。
 
 
しかし、そのことよりもさらに、
わたしは、
これまでに生きたことのないやうな
時間をいただいてゐる、
と感じてゐること、そのことが、
わたしにとつて真に前代未聞のことなのです。
 
 
わたしには、いま、
不思議と不安がありません。
 
 
なにひとつ経済的な保証もないのですが、
ただただ、芸術のことだけを考へてゐます。
 
 
ウィルス騒ぎと、
国からの経済的支援云々の騒ぎの、
向かうを遠く観つつ、
芸術のことだけを考へてゐます。
 
 
そして、できることから始めて行かう、
さう考へてゐます。
 
 
そのやうに考へられてゐるといふことは、
わたしにとつてとても不思議なことです。
 
 
なぜなら、これまでのわたしは、
経済的な不安と、
死に対する不安、
そして、愛を失ふことに対する不安に
苛まれてゐたからです。
 
 
ものの考へ方を、
感じ方を、
人生の生き方そのものを、
変へよ。
 
 
この事態が、明らかに、
そのことを伝へようとしてゐます。
 
 
この世界を挙げての騒ぎが終息したとしても、
わたしの内側が生まれ変はつてゐなければ、
わたしが今生、この世に生まれてきた甲斐がない。
 
 
さう思へることが、
自分でも不思議なのですが、
時が熟してゐるのだと
思つてゐます。 
 
 
ですから、
新しい精神からの息吹きが、
わたしといふ虚空の器に、
いま、吹き込んで来てゐます。
 
 
楽しみだ!


これを読む皆さんに、
安らかさと 落ち着きが与へられんことを・・・。




posted by koji at 18:46 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月12日

復活祭の日に



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カスパー・ダーヴィット・フリードリッヒ『復活祭の朝』
 
 
 
今日は、北海道を除いて全国的に雨。
 
 
大阪も、朝から、雨と風です。
 
 
間違ひなく、この雨と風は、
この世を洗ひ浄めてゐる、
さう感じます。
 
 
この世の人のこころを癒し、慰める、
精神からの雨風です。
 
 
わたしたち人類は、いま、
静かに、慎ましく、
こころとからだを我が家に鎮めてゐます。
 
 
宇宙の、世の精神が、
人のこころに、
静かに染み渡らうとして下さつてゐる。
 
 
これまで、どうしても、どうやつても、
止めることのできなかつた、
経済成長への無限の欲望を止めざるを得ない今。
 
 
その欲望の炎が、
この精神の雨風で静かに消されようとしてゐる。
 
 
炎が消えると、
人々は呆気にとられるだらう。
「これまでは、一体、何だつたんだ」と。
 
 
さうして、わたしたち人類は、
己れのまことのこころから、
太陽のやうな精神の曙の光が、
昇つて来るのを見るだらう。
 
 
経済成長が人を支へるのではなく、
こころの奥底からの成長こそが、
人を支へてゐることに、
人類の多くが気づき始める。
 
 
そして、
そのやうに物質至上主義を脱するとき、
最後に居残るエゴイズムは、
「心配」として人の脳に巣食ひ、
「憂ひ」として人の胸を闇の中に閉ざすと言ひます。
(ゲーテ『ファウスト』第二部第五章より)
 
 
いま、「心配」「憂ひ」に、
こころを捉われてゐる友よ。
 
 
目覚め、こころの甦る日は、
今日です。
 
 
復活祭の日の前の夜に、
そんな夢を見たら、
やつぱり朝から雨と風でした😊

 
 
 


 

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2020年04月11日

教義も理屈もない信仰



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水の神をお祀りする、
その名も「水神社」が、
一昨日訪れた滋賀県瀬田の建部大社の、 
奥の林に、境内社として、
ひつそりと小さな社が佇むやうに鎮まつてゐる。

 
本殿にてお参りしたあと、
いざなはれるやうに、
その水神社の前に立ち、 
小さなお社の前で、
感謝の念ひをこころのうちで唱へました。
 
 
さうすると、風が吹いてきて、
明らかにわたしの背後に、
どなたかが優しく佇んでをられるのが直知されます。
 
 
吹き寄せてくる春の風に、
地から立ち昇つてくる気配に、
明らかに感じる神秘。
 
 
かうした感覚は、
外的に証明することなどできない、 
こころのリアリティーであり、
体感と言つてもいいものです。
 
 
知性ではない、
わたしといふまるごとをもつての感覚です。
 
 
わたしの父も、
よくさういふ話をしてくれてゐました。
 
 
かうした感覚を、
いまは多くの人と共有できる時代になつたことを
感じます。
 
 
三十年前には、
こんなことを口に出さうものなら、
まさに奇人変人扱ひでした(よね・笑)。
 
 
時代も変はつてきたやうに思ひます。
(いまも、もしかしたら、さうかもしれませんが 苦笑)
 
 
しかし、関西地方では、
かういふ感覚が比較的大事にされてきたやうに思ひます。
 
 
眼に見えないもの、こと、方々・・・。
 
 
さういふ存在に対する愛。
 
 
それが、ことばに表現できず、
教義も理屈もない、
信仰の顕れです。
 
 
さういつた、庶民の感覚が、
(「市民」ではない)
きつと、この国を護つてゐます。
 
 
このウィルス騒ぎが始まつてから、
緊急非常事態宣言が出されるまでは、
神社へ参詣される方がとても多く、
また熱心さを増していたやうに見受けられました。
 
 



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2020年04月09日

種を播かなければならない



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ミレー「種をまく人」



友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
  フリードリッヒ・シュレーゲル
 
 
 

わたしも、いま、豊かな収穫に向けて、
種を、たくさん、播いてゐます。
貧しかつた自分自身といふ大地に。
 
 
ウィルス感染の事実はどうであれ、
いま、わたしには、
さういふ時間が赦されて与へられてゐます。
 
 
人それぞれ事情はあるでせう。
 
 
しかし、こと、わたしには、
いま、豊かな収穫に向けた、
準備の時間をいただいてゐる、
さう感じてゐます。
さう確信してゐます。
 
 

 
友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
 
 
 


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2020年03月30日

新学期を迎へる今


 
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平櫛田中作「第一歩」


 
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時
高天原(たかまのはら)に
なりませる神の御名(みな)は・・・
 
 
この文から『古事記(ふることぶみ)』は始まります。
 
 
日本の神話では、
天地の初めといふ意識を
つねなること、
いまのいま、
と教へてきたやうに思ひます。
 
 
それが『古事記』が伝へる、
思想であり、精神的感覚です。
 
 
古は今にあり、
今に古がある。
 
 
つねに、
初めに還る、
永遠といふ循環の思想です。
 
 
さあ、
新しく勉強を始めよう。 
新しく稽古を始めよう。
新しく仕事を始めよう。
 
 
学校が新学期を迎へられるのか、どうか、
勉強を始めるのに、
そんなことはどうでもいいことなのです。
 
 
自分自身から始めていきませう!
 
 
 


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