2020年04月09日

種を播かなければならない



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ミレー「種をまく人」



友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
  フリードリッヒ・シュレーゲル
 
 
 

わたしも、いま、豊かな収穫に向けて、
種を、たくさん、播いてゐます。
貧しかつた自分自身といふ大地に。
 
 
ウィルス感染の事実はどうであれ、
いま、わたしには、
さういふ時間が赦されて与へられてゐます。
 
 
人それぞれ事情はあるでせう。
 
 
しかし、こと、わたしには、
いま、豊かな収穫に向けた、
準備の時間をいただいてゐる、
さう感じてゐます。
さう確信してゐます。
 
 

 
友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
 
 
 


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2020年03月30日

新学期を迎へる今


 
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平櫛田中作「第一歩」


 
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時
高天原(たかまのはら)に
なりませる神の御名(みな)は・・・
 
 
この文から『古事記(ふることぶみ)』は始まります。
 
 
日本の神話では、
天地の初めといふ意識を
つねなること、
いまのいま、
と教へてきたやうに思ひます。
 
 
それが『古事記』が伝へる、
思想であり、精神的感覚です。
 
 
古は今にあり、
今に古がある。
 
 
つねに、
初めに還る、
永遠といふ循環の思想です。
 
 
さあ、
新しく勉強を始めよう。 
新しく稽古を始めよう。
新しく仕事を始めよう。
 
 
学校が新学期を迎へられるのか、どうか、
勉強を始めるのに、
そんなことはどうでもいいことなのです。
 
 
自分自身から始めていきませう!
 
 
 


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2020年02月08日

型を叩き込む


 
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基本練習といふものが、
言語造形にもあります。
 
 
その練習を積み重ねることによつて、
型をからだに叩き込むのです。
 
 
知性で捉えられた知識は、
芸術においては頼りにならないもので、
なにほどのものでもありませんが、 
からだに叩き込まれた型は、
その人を根底から支へます。
 
 
型とは、
その芸術に固有の法則から生まれてゐます。
 
 
自然のものすべてに法則があるやうに、
ことばといふものにも法則があるのです。
 
 
ことばは人間が作つたものではなく、
神が造られたものだからです。
自然のものだからです。
 
 
その法則を知識としてではなく、
繰り返し、繰り返し、
練習といふ実践を通して、
からだまるごとで、
ことばの法則に則つてゆくのです。
 
 
昔、あるオイリュトミストが、
わたしに言つたことがあります。
 
 
「練習はあまり必要ありません。
むしろ、意識の持ち方が大事。
いまは、意識魂の時代だから」
 
 
わたしは、その方には申し上げませんでしたが、
それは絶対に違ふと思ひました。
 
 
意識などは、すぐに変へられる。
 
 
しかし、その変へられた意識は、
ふたたび、また、元の木阿弥に返つてしまふのだ。
 
 
元の木阿弥に返つて、
お馴染みのやり方、あり方になつてしまふのが、
人のからだだ。
 
 
人は、繰り返し練習を重ねること以外には、
己れみづからのからだを通しての技量を
めていくことは決してできません。
 
 
からだとは、それほどに、
手のかかるものであります。
 
 
また、その繰り返しの練習から、
身に叩き込まれた型があるからこそ、
逆に、その人からしか生まれない、
個性的なものが生み出されます。
 
 
しかし、この個性は、
長い時間の中でこそ生まれて来るものです。
 
 
十年、二十年、三十年・・・
限りはありませんが、
そのやうな長い時間を通して、
培はれた基礎がものを言ひます。
 
 
わたしも、
不遜に聴こゑるのを恐れるのですが、
基礎練習を重ねつつ、
これからどういふものが、
この身から生まれて来るのかと、
気を引き締めてゐます。
 
 
 

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2020年02月04日

すべての学びの根柢 〜歴史と風土教育〜

 

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いま、自分も含めてですが、
神社や歴史的遺蹟を巡り歩いてゐる人が、
とても多くなつてゐます。
(特に、関西・近畿地方において?)
 
 
多くの人が、
思ひ出すべき何かを思ひ出さうとして、
さういふ所を訪ね歩いてゐるのだと感じます。
 
 
奈良の大和路の辺りを歩いてゐて、
つくづく感じることが、
我が国の文化と歴史を
知りながらかういふ所を歩いてゐるのと、
知らないで歩いてゐるのとの違ひは大きい、
とてつもなく大きい、といふことでした。
 
 
そして、かういふ学びと行為は本来、
小学生、中学生、高校生のときに
やつておきたいことだ、
といふことです。
 
 
いまの大抵の修学旅行や遠足などは、
ただのレクリエイションになつてしまつてゐて、
学校では我が国の歴史や文化のなりたち、
敬ふべき大切なものをなんら教へずに、
ただ子どもたちを名所旧蹟に引つ張つていき
歩き回らせてゐる。
 
 
子どもたちには何の感興も感動もない。
酷いものになると、
ディズニーランドや、
テーマパークなどに連れて行つて、
子どもたちの浅はかな機嫌を取る。
 
 
歴史や風土を教へるにも、
子どもたちが我が国、我が土地、我が風土に、
誇りと美しさを覚えるやうな、
人の成長にふさわしい教へ方と内容が必要です。
 
 
そのやうな教育の根源は、我が国に於ては、
幸ひながら、
古事記や萬葉集や風土記といつた、
古典作品に収められてゐます。
声高に叫んだりしませんが、
静かに収められてゐます。
 
 
我が国の古典作品は、
我が国の土着のものでありながら、
どこまでも高くて深い見識をいまだに湛えながら、
わたしたちのこころのとばりの向かう側に、
ひつそりと佇んでゐます。
 
 
その古典を学びながら、
そこから歴史と風土と文化を知らうとしながら、
その固有の精神・神々と、
土地の精神・地霊の方々との、
交はりを求めて、
その伝来の土地の上に足を踏み出していく。
 
 
その足をもつての学びは、
人に自己肯定感と、
故郷に戻つた時のやうな、
どこまでも深い安心感をもたらすのです。
 
 
多くの問題、こころの問題のおほもとは、
己れの出自・源に対する
不見識、否定感、不信感にある。
 
 
しかしこれは、そもそも、
学校教育に期待するやうなものではないのかもしれない。
 
 
家庭での、わたしたち親たちによる、
わたしたち親自身の自覚の問題です。
 
 
それは、夫婦関係、親子関係、人間関係の深まりといつた、
小さな社会の礎創りこそが、
すべての学びの根底にあるからです。
 
 
自分自身の足元を見直す。
 
 
そんなあり方を探つていきたい、
と考へてゐます。
 
 
 
#国学  #教育

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2020年02月03日

憧れと現象



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わたしには、憧れがあります。
 
 
その憧れとは、
発声される国語芸術を、
この国に成立させることです。
 
 
その憧れは、明らかに、
精神から来てゐます。
 
 
そして、わたしは、
ここ地上にて、
人々と共に生きてゐます。 
 
 
そこで生じる現実は、
明らかに地上的現象です。
 
 
この憧れと地上的現象とを、
ひとつに重ね合はせて行く。
 
 
わたしには、それができるだらうか。
 
 
そんな懐疑などありません。
 
 
やつて行くしかないのです。
 
 
昨日は、素晴らしいお料理と和やかな談話、
皆さんに本当にお世話になりました。
 
 
どうもありがたう。


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2020年02月01日

今日の稽古『 をとめ と つるぎ 』



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演出する者が涙を流してゐては、
仕方がないと思ふのです。
 
 
だけれども、出るんだから、仕方がない。
 
 
役者の方々、
各々の役をだんだん深めてゐて、
そのひとこと、その一音に、
涙が出るのです。
 
 
今日は、メークの方も来て下さり、
わたしたち劇の中にどつぷり入り込んでゐる者
とは違ふ別の角度から意見を下さり、
とてもありがたい。
 
 
国の歴史を支へた人物たちの人格や、
精神の片鱗にでも触れることができたら、
さう希つて、
この言語造形劇『をとめとつるぎ』
を創り続けてゐます。
 
 
そして、
舞台芸術としてのことばの芸術を
この日本に仕立てて行きたい。
 
 
そんな理想をもつてやつてゐます。
 
 
応援いただけましたら、
とても嬉しいです。
 
 
ぜひ、
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
https://kotobanoie.net/play/
お運びください!
 
 
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2020年01月31日

娘の声



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わたしからは何も言はないのに、
明日の稽古に備へて、
小5の娘が稽古場で大声出してゐるのが、
聴こゑてきます。
 
 
今度の「 をとめ と つるぎ 」の舞台を
最後の出演にすると彼女は言ひました。
 
 
小さいときから、
親に随分つきあつてくれたこと、
本当にありがたく思ひます。

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2020年01月16日

信じるこころが一番たいせつ


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写真撮影:山本 美紀子さん

 
 
小学生の子どもたちには、
どんな書物がふさはしいか。
 
 
などと、
大人があまり考へない方がいいやうに思ふ。
 
 
本人が読みたいものを
どんどん読むことができるやうに、
計らつてあげるだけでいいと思ふのです。
 
 
ただ、これだけはたいせつだと考へてゐるのは、
一冊の本が祕めてゐる未知の何かに対する、
限りない愛情、尊敬、信頼。
 
 
そこから、本に限らず、
ものといふものに対する、
愛情、尊敬、信頼がおのづと育つていきます。
 
 
何を学ぶにしても、
そのこころもち、感情さへあれば、いい。
 
 
もし、そこに熱烈な尊敬、
熟していく愛情が育つていくなら、
大げさな言ひ方になりますが、
その人のこころには、
誰に何かを言はれなくとも
自分の意欲だけで学んでいく力、
世界中を相手に回しても
自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、
それが、この身ひとつで、世を生きていく、
といふ力。
 
 
それが、
自由への道を歩いていくといふことではないかと思ふ。
 
 
学ぶ人にとつては、
学ぶ対象に対する疑ひではなく(!)、
学ぶ対象に対する信頼・信といふものがとても大事です。
 
 
では、
その対象についてははじめは未知であるのに、
どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
 
それは、その人のこころのうちに、
既に信じるこころが育つてゐるからだ。
 
 
信じるこころが、
信ずるに値する書物を引き寄せる。
信ずるに値する人を引き寄せる。
 
 
小学生のこころとからだにまづは何を植ゑつけるか。
 
 
それは、信じるこころの力であり、感情の育みです。
 
 
その信じる感情の力が、
やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、
きつと、その子がその子の人生に必要なものを、
おのづと引き寄せるやうになるでせう。
 
 
その子が、
その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
 
 
ではそのためには、大人は何をすればいいのか?
 
 
その子の傍にゐる先生が、親が、大人自身が、
熱烈に、一冊の本ならその本に、
何かの存在ならその存在に、
尊敬と愛情と信頼を持つことです。
 
 
多くの本でなくてもいい、
この一冊といふ本を見いだせたなら、
本当に幸ひです。
 
 
その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、
その本こそが、その人の古典になります。
 
 
信じる力と言つても、
それは何かあやしいものを信じてしまふことに
なりはしないかといふ危惧は不要です。
 
 
信じる力の枯渇、
それがまがひものを引き寄せてしまひます。
 
 
信じる力の育み、
それが信じるに値する何かを引き寄せます。
 
 
 

 

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2020年01月06日

現代人への警告



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100年近く前の
ルドルフ・シュタイナーが語つたことばを、
fbfの山際勇起さんが書き込んでをられました。
 
 
――――――
 
今日の人間は、
全く考えなくても済むように、
全てのものを一目瞭然、
たとえば、
スライドで映し出してもらえるような形を
求めているのであります。(…)
 
 
たとえば、
『ハムレット』が演劇として上演されます時には、
私達はまだ劇中の出来事に入りこんで、
そこで語られる言葉を
追わなければならないのでありますが、
今日では劇場が映画館にとって代わり、
そこでは私たちはもはや
積極的に参加する必要はなく、
画像が機械で映写されますので、
私達は完全に受身的であることが
可能になってしまっているのであります。
 
 
このようにして、
私達は徐々に人間としての精神活動を
喪失してしまってきているのであります。
 
 
しかし、把握されなければならぬのは、
まさにこの精神活動でありまして、
精神活動の掌握によって初めて、
思考は単に外部から
活力を与えられるだけのものではなく、
人間それ自体の内部に存する
精神的な力であることが認識されるのであります。
 
 
(GA307
 1923年8月5日イルクリーでの講義より、
 佐々木正昭訳
 『現代の教育はどうあるべきか』
 人智学出版社、26ページ)
 
――――――
 
 
 

ここに示されてゐる現代人への警告は、
本当に身に沁みて感じさせられることです。
 
 
わたしがさせてもらつてゐる講義も、
舞台公演も、すべて、
この警告への応答のつもりであります。
 
 
講義では、
レジメやパワーポイントなど、
用意したことがなく、
板書もほとんどせず、
ただただ、
語ることばで、
どこまで場を創ることができるか。
 
 
舞台公演でも、
ときに、現代語訳を全くせず、
古語のまま、
ことばのうねりを
全身全霊で聴いていただけるやう、
ことばを造形していきます。
 
 
そのとき、
講義をする者、講義を聴く者、
舞台に立つ者、客席に座る者、
共に必要とされるのは、
まさしく精神の活発さ・アクティビティーです。
 
 
さうして、
精神を目覚めさせることのみが、
唯一、大切なことであり、
知識を覚え込んで、
家に持ち帰ることなど、
何ほどのものでもなく、
実践の上でも全く役に立たないことに気づくのは、
難しいことかもしれません。
 
 
このやうな学び方は、極めて、
反現代的なことです。
 
 
しかし、
時代の風潮に迎合することは、
なんら本質的なことではないのでした。
 
 
わたしたちは、
尊敬できる方々の生き方に
学びたいのでした。
 
 
そして、尊敬できる方々は、
時代の風潮に迎合することは、
なかつたのです。
 
 

posted by koji at 21:05 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月17日

人はいかにして生きるか


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学問とは、そもそも、
「人はいかにして生きるか」
を考へ抜くものだつたはず。
 
 
大の大人が端坐してでも、
聴くに値するやうな講座であるか。
 
 
自分自身の仕事場として、
毎回、毎回、
この場を与へてもらつてゐること、
本当に感謝以外の何ものでもありません。
 
 
皆さん、本当に、ありがたう。

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2019年12月09日

健やかな判断力

 
 
知識の図式化・組織化はできるのだらうけれど、 
判断力の組織化はできない。
 
 
いいか、悪いか。
 
 
美しいか、醜いか。
 
 
まことか、嘘か。
 
 
判断を下すのに、公式も図式もない。
 
 
その判断は、その時、その場で、
その人によつて、なされる。
 
 
だから、判断力とは、
知性や教養よりも深いところでなされる、
働きである。
 
 
では、判断力といふ、
人が生きて行く上でなくてはならない力は、
どこから生まれて来るのか。
 
 
それは、知性ではなく、
その人の内側で育まれて来た、
感じる力、情の力である。
 
 
だから、人は、少年少女の時にこそ、
感じる力・情の働きを育むことこそが、
最も肝要である。
 
 
混迷を極めるこの世において、
これから、ますます、人は、
何を選ぶか、どちらを選ぶか、
判断を迫られることが増えて来るだらう。 
 
 
健やかな判断力。
 
 
それは、
その人の感じる力をもつて、
そのつど、その場で、なされる。

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2019年12月08日

ものが見え過ぎる人

 

先日、ある友人と話しをしてゐて、
様々なことを思ひました。
 
 
長いお付き合ひの中で、
感じてきたことですが、
その人は言はば、
「ものが見える」人でした。
 
 
「ものが見え過ぎる」人、
と言つてもいいかもしれません。
 
 
さて、
今日12月8日は、
大東亜戦争の火蓋が切つて落とされた日ですが、
その戦時の真っ只中に、
文芸批評家の小林秀雄が書いた古典論のひとつ、
「徒然草」といふ短い一篇があります。
 
 
その中で、こんなことが記されてゐます。
 
 
――――――
 
 
(吉田兼好の)あの正確な鋭利な文体は
稀有なものだ。
 
 
一見さうは見えないのは、
彼が名工だからである。
 
 
『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。
 妙観が刀は、いたく立たず』、
 
 
彼は利き過ぎる腕と鈍い刀との必要とを
痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。
 
 
物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、
これが『徒然草』の文体の精髄である。
 
 
――――――
 
 
「ものが見え過ぎる」人の苦悩は、
ものの見えてゐないわたしなどには、
到底分かりやうのないものだと思ひます。
 
 
その友人は、だからこそ、
外側の世界に向かつて己れを表現するときには、
きつと「少し鈍き刀を使」つてゐることでせう。
 
 
おのづから手にしてしまつてゐる鋭過ぎる刀では、 
外の世をあまりにも鮮やかに切つてしまふからです。
 
 
わたしなどの凡庸な者にできることは、
そのやうな友人が語らざるところをこそ、
我が乏しい力でも、なんとか、
汲み取り、聴き取ることです。
 
 
いや、そのことをどれほど、
し損ねてきたことか、
忸怩たる念ひがあります。

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2019年12月02日

精神が泣かないやうに



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一冊の本を書棚から引き抜き、
頁を開いて、
一行一行読んで行く時、
当り前のことだが、
その時、他の本を読むことはできない。
 
 
その時には、
わたしはまさにこの一冊を選び取つてゐる。
 
 
この世に幾千万とある他の本を読むことはできない。
 
 
他のすべての本を読むことを断念しなければならない。
 
 
そこで、もし、いま、
この一冊といふ本を選び取つて、
その一頁一頁に向かひ合ふならば、
わたしはみづからがみづからに課す責任において、
その一頁一頁を全力で読みたい。
 
 
ややもすれば、
今読んではゐない本のことを、
ちらちら思ひながら、気にしながら、
こころここにあらずの状態で
本を読んでしまふ。
 
 
しかし、さうではなく、
今向かひ合つてゐるこの一冊に、
己れのまるごとをもつてぶつかつて行きたい。
 
 
なぜならば、
己れの自由の精神のもとにおいて、
このひとときをみづから選び取つたのなら、
そこに己れの全精力を注ぎ込まねば、
己れの精神が泣くではないか。
 
 
これは本を読む時だけでなく、
わたしたちの一挙手一投足に
かかはつて来ることだと思ふ。
 
 
わたしたちは己れの行為を
自由の精神のもとでみづから選んでゐる。
 
 
それならば、
その行為そのものを
〈わたし〉の行ひとして、
全精力をもつて行ひたい。
 
 
その時に、人は、
この人生を支配しようと襲ひかかつてくる、
相対性といふ甘い罠から脱し得ることができる。
 
 
〈わたし〉は、ここにゐる。
 
 
この〈わたし〉は、
この世でたつたひとりの人であり、
わたしがそのことを選び取つたのだ。
 
 
精神とこころとからだが重ね合はさる
絶対の境に立つことができる。

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2019年11月25日

若さと老い

 
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若い時、わたしはよく人と群れてゐた。
 
 
しかし、内においては、孤独であつた。
 
 
なぜなら、からだをもつて生きてゐたから。
 
 
からだは、ひとつひとつ離れてゐるから。
 
 
年老いるに従ひ、群れずに仕事をするやうになつてきた。
 
 
しかし、内においては、世と繋がつてゐる。
 
 
なぜなら、精神において生きるやうになるから。 
 
 
精神は、時空を超えて、自由自在に交はりうるから。
 
 

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2019年11月24日

道を訊く



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大神神社摂社の桧原神社から西の二上山を臨む道


携帯もスマホも持たないわたしは、
初めての場所に行く時、
よく道に迷ひ、
よく道ゆく人に道を訊きます。
 
 
特に、旅してゐる時など、
見知らぬ土地で、
見知らぬ人に、
道を訊くことが楽しみでもあるのです。
 
 
道で人から話しかけられることに、
警戒する人もゐますが、
なぜか喜んで案内して下さる方もゐます。
 
 
さういつたことも、
文明の機器を持たないことから得られる、
人とのふれあひです。
 
 
五十五才にならんとする自分も、
人に道を尋ねる時は、
なぜか、
二十五才くらゐの自分になつてゐます。
 
 
不思議な感覚であります。
 
 


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老いることと考へる力

 
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先日、ある方とお話しをたつぷりすることができた。
 
 
その方は、わたしよりも八歳年長の方であつたが、
精神的には、もつと年上の方であるやうに感じた。
 
 
それは、その方の考へる力から来るやうに思はれた。
 
 
人文学の領域であるが、
古典文学その他の読書の量が本当に豊かであられる。
 
 
そして、
御自身独自の見識をしつかりと保持されながら、
話し相手であるわたしのことばにも、
注意深く耳を傾け、
それに対して、
確かな口調で答へられる。
 
 
読書で育まれた考へる力によつて、
対話といふものを、
健やかに爽やかに営むことができることを、
その方は身をもつて証明してをられる方だつた。
 
 
対話とは、
考へる力と、
感じる力と、
それらをことばに鋳直す力、
これら三つの力の共同作業である。
 
 
さらには、
聴く力である。


人は、五十から六十の年齢へと進んで行くにつれ、
若い時のやうにからだは利かないし、
こころもみづみづしさや弾みを失ひがちだ。
 
 
さうして、さらに老いていくに従つて、
考へることや言ふことも、
的を得なくなり、
どこか支離滅裂になつていくことを見るのは、
とても、とても、悲しいことだ。
 
 
からだは老いていく。
 
 
しかし、その衰えていくからだの甦りの力が、
考へる力・精神の力としてなり変はりゆく。
 
 
さうして、こころは、
みづみづしさを失ふことを避けることができる。
 
 
精神の働きによつて、
こころは、若々しくあることができるし、
年令を重ねることによつて、
熟していくことができる。
 
 
ただ、そのためには、
からだから自由になる考へる力を
うまく汲み取ることを、
若い頃から先だつて習ふことが必要になる。
 
 
理想をもつて生活し続けること。
 
 
自分などよりも、
遥かに上を行く存在があることを知つてゐること。
 
 
己れのライフワークがあることを自覚してゐること。
 
 
それらは、
読書によつて、
歴史を知り、
文学を知り、
人生を感じ、
己れを知りゆくことからこそ、
生じる意識である。
 
 
生命力は、
からだを保持する働きからだんだんと、
こころを精神に向けて、
透明にしていく働きへとなり変はつてゆく。
 
 
さうして、
みづからのこころに炎をつけることもできる。 
 
 
若いうちから読書を通して、
考へる力を養ひ続けることは、
人生の終盤において、
何かが深く違つて来るだらう。
 
 
そのことは、
男性も女性も変はりはない。
 

生きてゐて、
先達に出会ふことができるといふことは、
ありがたく、仕合はせなことだ。
 
 

 


posted by koji at 16:23 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月18日

自分自身の声を好きになること


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今日も、
保育園の0〜2歳児、3歳児、4歳児、5歳児、
それぞれのクラスで昔話をさせてもらひました。
 
 
そして、
その保育園の先生方と
言語造形のワークショップをしたとき、
おひとりおひとりの先生に、
こんなことを訊きました。
 
 
皆さんは、
御自身の声が好きですか。
 
 
すると、すべての先生が、
嫌ひだとお答えになりました!
 
 
そこで、こんなお話をさせてもらひました。
 
 
先生といふ職業は、
その存在まるごとで、
子どもたちに向き合ふお仕事。
 
 
だけれども、まづもつて、
子どもたちに働きかけるのは、
先生の声とことばです。
 
 
その先生自身が、
御自身の声を好きになれないとしたら、
その好きになれない声で、
子どもたちに話しかけることになりますね。
 
 
声とことばが、
人にとつての道具だとするなら、
その人自身が愛してゐない道具で
決していい仕事はできません。
 
 
声とことばは道具だと言ひましたが、
道具にしては、あまりにも、
我が身と我がこころに密着している道具です。
 
 
だからこそ、まづもつて、
我が親しい道具である、
自分自身の声を好きになることから始めませう。
 
 
そんな話をさせてもらひました。
 
 
その後、保育園からの帰りの電車の中で、
こんなことを考へました。 
 
 
なぜ、自分自身の声が好きになれないのだらう。
 
 
たとへば、
録音された自分自身の声を聴く時の違和感。
 
 
自分は、こんな声で話してゐるのか!
 
 
そのショックは、
どこからやつて来るのだらう。
 
 
もちろん、
録音された音声は、
生の音声とは質が全く違ふ。
 
 
しかし、本質的なこととして、
そのショックは、
普段、自分自身の声に耳を傾けることが
ほとんどないことから来てゐる。
 
 
思ひ切つたことを言つてみよう。
 
 
そもそも、ことばとは、
意を伝へるものではない。
 
 
ことばで、
自分自身の言ひたいことが、
他人に伝はると、
本当に思ふか。
 
 
どこまで、ことばを尽くしても、
人と人との間には、
常に理解の差異が存在しないだらうか。
 
 
むしろ、ことばとは、
自分自身が聴くために、
発せられる。
 
 
自分が発する声とことばに、
どこまで、
自分自身が耳を澄ますことができるか。
 
 
その瞬間瞬間に、
わたしたちは、
ことばといふものの本当の価値を感じる。
 
 
自分の声を好きになるには、
自分自身の声を、
よおく聴くことだ。
 
 
自分自身の声とことばに、
よおく意を注いであげることだ。
 
 
そもそも、
どの人の声も、美しいのだ。
 
 
その美しさは、
人から、
自分自身から、
意を注がれて、
初めて顕わになる。
 
 


 
 



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2019年11月01日

「利用」と「入門」の違ひ



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この言語造形といふ芸術に携わはり始めて、
二十六年ほどになります。
 
 
東京で、師匠のもとに入門して七年を過ごし、
地元の大阪に帰つてきて、
なんとかこの芸術を仕事にし始めました。
 
 
ですので、いはゆる「言語造形をする人」として、
ひとさまの前でひとり仕事を始めて、
約二十年が経つたことになります。
 
 
お陰様で、この仕事ひとつで、家族四人が、
幸せに暮らしていくことができてゐることに、
本当にありがたい念ひがします。
 
 
この芸術を自分の「仕事」にすることができたのは、
ひとへに、
「入門」したからだと確信してゐます。
 
 
「入門」とは、
文字通り、「門」に入ることです。
 
 
それは、身を預けることです。
 
 
わたしの場合は、月曜日から金曜日まで、
毎日、師匠のもとに通ひました。
 
 
大切なことを学ぶことができたのは、
師匠といふ「人」がこの世に存在してゐたからでした。
 
 
言語造形といふ芸術に身を投じてゐる、
まさにその人あつてのことでした。
 
 
そこで毎日繰り広げられてゐたのは、
まさに、人と人とのわたりあひに他なりませんでした。
 
 
七年間、毎日、です。
 
 
そのやうな「毎日」があつたからこそ、
師匠の許から離れた後、
その「毎日」が「仕事」として結晶化し、
おのづから世に発展・展開していきました。
 
 
それは、能力のあるなしが問題なのではなく、
積み重ねてきた「時間」と「労力」と「精神」の問題です。
 
 
わたしは、とりわけ、「時間」といふものの積み重ねは、
決して馬鹿にならないものだといふことを、
この身で実感してゐます。
 
 
既定の自分のできる範囲でしか動こうとせず、
何かを、誰かを、「利用」しつつ、
それを「仕事」にすることは、
決してできません。

 
その「入門すること」と「利用すること」の
違ひが、現代人の多くに分からなくなつてゐるやうです。
 
 
わたし自身、その違ひに対する認識が、
これまで甘かつたがゆゑに、
自分の生徒さんたちに、
このことを明確に伝へてゐ来なかつたことを、
痛感してゐます。
 
 
よつて、何人かの人が、
「入門」してゐないのにも関はらず、
それを「仕事」にしようとしました。 
 
 
さう、いくらでも「利用」していいと思ふのです。
 
 
それは、現代人にとつて、ごくごく、
当たり前のことです。
 
 
しかし、
その「利用」と「入門」とは違ふのだ、
といふことは明確にするべきです。
 
 
「入門」しなければ、
仕事にはならないこと。
 
 
より精確に言ふと、
「入門」してゐなければ、
片手間の仕事にはなるかもしれませんが、
決して、本物の仕事として展開していかないこと。
 
 
このことは、平成の三十年間には、
誰も教へてくれなかつたことのひとつです。
 
 
だから、現代人は、
この「利用」と「入門」の違ひを、
「知らない」のです。
 
 
「入門」できる仕組みを創ることでしか、
このことは、現代人には分かり得ないことでせう。

 
これは、
派閥を造ることとか、
王国を築き上げるといふやうなこととは、
精神を異にすると確信します。
 
 
言語造形といふ芸術を、
まこと、この日本の地に根付かせ、
芽を出させ、
花開かせ、
稔らせること、
そのために他なりません。
 
 
わたしの令和年間の仕事は、
そのための仕組みを創り始めることです。
 
 
師匠がして下さつたやうに。
 
 


『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/
 


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2019年10月27日

「現実」といふ詩


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現実に己が身の周りに起こることごとと、
〈わたし〉が抱かざるをえない「理想」とは、
どういふ関係にあるのだらう。
 
 
着々とその「理想」が現実化してゐる一方、
その「理想」を嘲笑ふかのやうな出来事も目の前で起こる。
 
 
そのやうな出来事が起こるたびごとに、
自分自身の「理想」など、
身の程知らずの愚か者が喋々する「夢物語」に思へてくる。
 
 
そんな「理想」を喋々してゐる自分自身への不信感に苛まれる。
 
 
自己不信の淵に立つてしまふとき、
わたしには昔の人の事績に救われる思ひがする。
 
 
偉大な先人は、皆、苦闘されてゐた。
 
 
甘い道など、何もなかつた。
 
 
再読してゐる最中の保田與重郎の『後鳥羽院』の頁をまた開く。
 
 
ーーーーー
 
 
限あれば さても耐へける 身の憂さよ
民のわらやに 軒をならべて
 
 
この遠い孤島(隠岐の島)に十九年の歳月を送られたことは、
ご壮健の玉体によるとはいへ、
それ以上に激しい精神と烈々の意志に、
末世の我らは畏れ多い教訓さへ感じられたのである。
 
 
(後鳥羽院の詩心は)
廣い茫漠とした天地と人間の歴史からわく感銘の自己反省であらうし、
ある永遠な決意と志の詩化である。
 
 
ーーーーー
 
 
志を貫かうとされた人が、
外的な敗北ゆゑに、
内なる精神が光り輝くありやうを、
かういふ文章からも知ることができる。
 
 
いや、そのこと以上に、
失意の中でも「理想」を決して手放さうとはなさらなかつた、
後鳥羽院の孤島での日々の過ごされ方に、
驚異を覚えるのだ。
 
 
偉大な先人と自分を比べるのは、
余りにもの不敬の誹りを免れえないが、
しかし、その精神のありやうに、
わたしは最大限に励まされる。
 
 
「理想」を生き抜くためには、
毎日、「理想」を熱く考へることではないだらうか。
 
 
毎日、その「理想」と内においてひとつになること。
 
 
毎日、この「道」を歩くのだといふ決意を、
新たにすること。
 
 
そして、毎日、少しずつでも、
この「理想」を現実に行為に移すことである。
 
 
毎日、考へ続けることを通して、
「理想」を決して手放さず、
毎日、決意と志から、
「現実」といふ詩を作ることである。



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2019年10月25日

尊敬する存在


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平櫛田中作「養老


 
わたしたちは、各々、
尊敬に値する人をこころに持つてゐるだらうか。
 
 
もし、持つてゐないといふのなら、
それは、しんどいことだ。
 
 
生きて行く上で、
それはとてもしんどいことである。
 
 
人は、
敬ひ、尊ぶ存在を、
こころにしつかりと持つてゐることで、
人になるのだから。
 
 
自分自身になるのだから。
 
 
人が人であることの感覚。
 
 
それは、他者を敬ひ、尊ぶことから、
だんだんと育まれていく。
 
 
幼な子は、皆、
この念ひを無意識に持つて生まれてくるのだが、
小学校に入つて数年経つうちに、
その念ひを失くしてしまふことがある。
 
 
大人になつて、その念ひを失つてしまつてゐる人は、
自分自身の意志でその念ひを持つことができるやう、
自分自身を導くことで、こころが健やかさに向かつていく。
 
 
 

日本に於いては、歴史の中で随分と長い間、
人が人であることの感覚が育まれてゐた 。
 
 
それは、ひとりひとりの民が、各々、
尊敬する存在を持つことで育まれてゐた感覚であり、延びてゆく道であつた。
 
 
生きていく上でのお手本を見いだすことで育つてゆく樹木であつた。
 
 
樹木が育つていくためには、
上から陽の光と雨水が降り注がれなければならないやうに、
とりわけ、子どもにとつて、そのやうな尊敬に値する存在が必要なのだ。
 
 
子どもは、
尊敬する存在が傍にゐてくれることで、
健やかに成長していく。
 

実は、大人だつて、さうである。
 
 
あなたには、尊敬する人がゐるだらうか・・・。
 
 
大人になつてゐる以上、
おのづと尊敬できる存在が目の前に現れてくることはない。
 
 
尊敬する存在を自分自身の意志で持つことだ。
 
 
さうすることで、人は、
己れのこころが健やかに浄められるのを感じることができる。
 
 
人は、
己れよりも、高い存在がゐる、といふことを認めることで、
初めて謙虚になることができる。
 
 
古来、日本の民は皆、強制されてではなく、
どこまでもこころから尊敬する存在、
大君といふ存在を己れのうちにいただいてゐた。
 
 
昔の日本人は、さういふ道を歩いてゐたのだ。
 
 
このことは、令和元年のいま、これから、
国民的な趨勢として、
意識的に学び直されて行くだらう。
 
 
なぜなら、それは、
これまでわたしたちが受けて来た教育では、
意図的に全く教へてもらへなかつたことだからだ。
 
 
批判的に、客観的に、
ものごとや、人や、すべてのものを見るやうに、
つまり、科学的に見ることを、
ひたすらに教へられてきたのだ。
 
 
これからは、ひたすらに意識的に古(いにしへ)を学ぶ、
そんな古学が甦つて来るだらう。
 
 



 
 

 

posted by koji at 18:26 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする