2025年03月11日

互いを讃え、敬うことへの意識のなり変わり



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『古事記(ふることぶみ)』に「黄泉の国のくだり」があります。


そのくだりは、多くの人によく知られているところで、死んでしまった妻イザナミノミコトを夫イザナギノミコトが死の国、黄泉の国まで追いかけて行くところから始まります。


しかし、そこで妻のおそろしい姿をのぞき見してしまったイザナギノミコトは、黄泉の国の鬼とも言える醜女(しこめ)たちや八柱(やばしら)の雷神(いかづちのかみ)たちに追いかけられながらも、生の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ帰ってきます。


そして、そのくだりの最後に、夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトとが大きな岩を間に据えて向かい合い、ことばを交わし合います。


死の国の女神は申されます。「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)くびりころさむ」。


そして、生の国の男神が申されます。「一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててむ」と。


最後に、精神からのことばをもって、このくだりが閉じられます。「ここをもて一日にかならず千人(ちひと)死に、一日にかならず千五百人(ちいほひと)なも生まるる」。




甦り(黄泉帰り)の祭りを来月4月20日に控え、今、わたしは、この我が国の神語りが伝えてくれていることにいたくこころを惹きつけられています。


それは、死(の神)と生(の神)が、大きな岩(意識)で隔てられてはいても、ことばを交わし合ったということなのです。


そして、その談(かた)らいは、いまも、ずった続いている、そう思われてなりません。死と生は談らい続けています。その談らいによって死と生は表裏一体のものです。どちらかひとつが欠けても世はなりたちません。ふたつはひとつなのです。


死と生とが、そのように断絶しているように見えているのは、わたしたちの意識のせいです。


しかし、我が国の神話・神語りのありがたいところは、その大きな岩という断絶を超えて、死と生が談らひ合つているという、このことであり、さらには、この談らいがこれまでの多くの解釈によるような憎しみをもってやりとりされているのではなく、互いに互いの存在と役割を讃え合っているということです。


それは、如実に響きとして響いています。互いに呼びかける時に、どちらも相手のことを「うつくしき・・・」ということばを発しているのです。それは、死と生とが、もとは、ひとつであったことから来る情の発露です。


世は分かたれなければならないこと。しかし、憎しみをもって分断が宣言されるのではありません。


分かたれたからこそ、互いが互いを認め、讃え、敬っています。


分断を煽るのではなく、互いを讃え、敬うという、葛藤を超えたひとりひとりの人の意識の変容こそが、世を生成発展させ、弥栄に栄えさせることへと深いところで働きかけています。


個人のことだけでなく、男女間のことだけでなく、国と国、民と民との間のことにおいても、分断しようとする力が強く働いている今ですが、国防や国際社会における政治的駆け引きなどもその必要性から当然なされてしかるべきだと考えつつも、この内なるひとりひとりのこころのなり変わりこそが世に新しい場を創りなす鍵となるのだということを肝に銘じたいのです。


政治的な面において、世には残酷なところがあるとわたしは痛感しています。(願わくば、このことばが、分断を言いつのることではなく、事実を事実として認めることへと繋がりますように。)その現実を知るほどに、上に書いたことのかけがえのない精神からの伝えとしての我が国の神話・神語りの重要性をいまさらながら念うのです。


そのことをわたしたち日本人は深みで知っています。ご先祖様はそのことをわたしたち現代人以上に遥かに深く遠く知っておられました。


そして、その古くからの伝統や習慣が失われてしまった今、わたしたちは、教育を通して、意識的に、我が国の神語りを暮らしの基にもう一度据え直すことができないでしょうか。


我が国の神話・神語りによって、死と生が二極対立としてあるのではなく、ふたつがまるごとでひとつなのだとおおらかに(かつ、密やかな悲しみを湛えながら)捉える力を育むことが大切なことではないかと思うのです。


その内なる力が、世の分断を防ぎ、和してあることへ、そしてその和すことそのことが、弥栄に栄えゆくことへとわたしたちを導くという、いにしへからの我が国の精神の伝統をわたしも信じています。


この内なる密(ひめ)やかなこころのなり変わりを、わたしたちは、もう一度、意識的に練習して行くこと。この大切さ、必要性を強く念うのです。







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2025年01月12日

もののあはれを知る人を育てる教育 〜宮城蔵王 ひのみやこ 主催 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座〜



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冬のさなか。こころの内なる空間が、濁りをだんだんと去って、澄みわたる季節。こころの内の透明度が増してゆくように感じるのですが、皆さんいかがでしょうか。


今年の五月から始めます「宮城蔵王 ひのみやこ主催 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座」。


わたしは、シュタイナー教育の基礎となる人間学「アントロポゾフィー」、そしてことばの芸術「ことばづくり(言語造形)」を担当させてもらいます。


さらに、この教員養成講座は「日本文化に根ざす」という副題を冠しています。


そのことの意味を述べることをしますと、本当に、多くのことばを費やしてしまわざるをえないのですが、今日は、そのうちのひとつを述べさせていただきたいのです。(それでも、こんなに長いものになってしましました。ごめんなさい!)


それは、人が「ひと」として育ちゆくということが、その人の内にどれほど、「ことば」が育っているかということとひとつであるということなのです。


ことばとは、外側に飾りとして身につけるものではなく、母から与えられた母国語を通して、こころの内側からの生命を生きるものなのです。


日本人ならば、日本語を通して、おのれのいのちを生きるのです。


ことばを飾るのではなく、ことばをどう生きるか。日本語をどれほど深く、豊かに、活き活きと生きるか。


そのことが、人が「ひと」になりゆく上で、実は、欠かせない道なのです。


「ひと」ということばは、靈(ひ)が宿り、留(とど)まり、灯(とも)る存在のことを言う、古い日本語です。


靈(ひ)が灯るとき、初めてその存在は「ひと」になります。つまり、「ひと」とは、わたしたちの理想を言い表すことばなのですね。


そして、シュタイナーから生まれた靈(ひ)の学び(精神科学)「アントロポゾフィー」は、別名、「ひととしての意識」とシュタイナー自身が言っています。つまり、靈(ひ)の灯っているおのれを意識すること、靈(ひ)の灯っているおのれを知りゆくこと、それが、アントロポゾフィーの道なのです。


日本においては、その靈(ひ)を灯すのはことばであるということが、とりわけ、引き立てられたのでした。そして、その灯った靈(ひ)のことを「言霊(ことだま)」と呼びました。


その「言霊」に親しむこと、通われること、結びつくこと、そのことが人生を貫くひとつの道だったことが、歴史に残る文献や芸術作品からはっきりと知ることができます。


そのことを最初に意識的にまとめ上げたのが、江戸時代の本居宣長です。


わたしには、同時代に、ゲルマン精神に靈(ひ)を見いだそうとしたゲーテと相通じるところがあるように思われてなりません。


宣長の歌論『あしわけ小船』や『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を読みますと、本当に勉強になるなあ、と今朝もため息をついていました。


そう、この「ため息」。この「ため息」「嘆息」をつくときの人のこころのありようを表すことばをこそ、「あはれ」と言うのだと宣長は説いています。


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阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざま言ひ方は変はりたれども、その意(こころ)はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふなり。

俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしとも、おかしとも、たのしとも、かなしとも、恋しとも、情(こころ)に感ずる事はみな阿波礼(あはれ)なり。


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「あはれ」とは、まさに、なににつれ、「あぁ・・・」と胸から、こころから、息が吐かれるときに湛えられている情のありようです。


その吐息には、どれほど、その人の嘘のない、まごころが籠められていることでしょう。また、籠もってしまうことでしょう。


息を吐いてみる。声に出してみる。ことばにしてみる。


そのように、人は、おのれの内にあるものを外に出して、初めて我がこころを整えることができ、鎮めることができる。そうして、ようやく、自分自身に立ち戻ること、立ち返ることができる。


さらには、外に響くことばの調べをより美しく整えて行く。その吐息に乗って、整えられたことばづかい、それが和歌(うた)です。


不定形だったこころのありさまを、和歌(うた)として整えられた調べへと造形することによって、人は、「もののあはれを知る」ことができるのでした。それは、「おのれを知る」ということへとおのずから繋がってゆき、さらには、「人というものを知る」ことへと、道は続くのです。


その和歌(うた)に習熟していくことによって、人はますます「もののあはれを知る」人になりゆくのだと。


本居宣長は、そのような、この国の歴史の底にしずしずと流れていることばの生命力を、ひとりひとりの人がみずから汲み上げることの大いなる価値を、その生涯の全仕事を通して謡い上げ、語り尽くしたのです。


わたしは、これからますます、この「もののあはれを知りゆく」ことが、子どもから大人にいたるすべての人にとっての最もたいせつな教育目標であると考えています。


日本人が日本人であること、それは、「もののあはれを知る」人であるということなのです。つまり、情の豊かさを生きつつ、その豊かさを豊かさと「知っている」人であるということなのです。世界にも他にあまり例をみない、言語化された人間観です。そして、これからの世界をある意味、新たな次元へと導いて行く世界観ではないでしょうか。


そのためには、国語教育、文学教育が、どれほど重きをなすことでしょう。


小学校へ上がる前は、たっぷりと、昔話やわらべ歌、美しい詩歌や和歌を全身で聴くことができるように、そばで大人が語り、詠ってあげる。


小学校へ上がってからは、子どもたち自身が全身で詠う和歌(うた)や神話の朗唱から授業を始めるのです。ことばの意味は措いておいてもいい。まずは、ことばの流れるような調べを、先生の声、自分自身の声の響き、震えを通して、全身で味わうところから。そうして、国語の授業だけでなく、色々な授業を通して、ゆっくり、だんだんと、自分自身のことばを整えてゆくことを学んで行く。


ことばを整えてゆくことによって、子どもたちは、自分自身のこころを整えてゆくことを学んで行くことができるのです。


こころとことばとが、ひとつに重なること。これは、本当にたいせつなことです。


なぜなら、人は、ことばによってこそ、ものを考え、「もののあはれ」を感じ、自分自身のこころを決めること、意志の遂行をなしとげるからです。


吐かれる息づかいに、顔に表れる表情に、することなすことに、その人のこころのありようが写しだされます。


しかし、とりわけ、こころのありようは、すべて、ことばに表れます。選択されることばの趣きに、発せられることばの響きの後ろに、表れます。


小学校時代には、知識を詰め込むのでもなく、知識に取り組むのでもなく、外なる世に現に向き合っている自分のこころに豊かな情が育ってゆくことこそを、子どもたちは求めています。その情の育みのためには、こころとことばが美しく重なった言語生活が最もものを言うのです。


これまで、国語教育では、正しいことばづかいは教えられてきたのかもしれません。しかし、これからは、靈(ひ)に通われた美しいことばづかいを学んでゆくことに、人としての教育の如何が懸かっています。


重ねて言いますが、その美しさは、表面的なものではなく、こころとことばがひとつに重なる美しさです。


和歌(うた)をはじめとすることばの芸術から学びを始めること。美しいハーモニー。調べをもったことばづかい。


宣長は、その日本人が古来たいせつにして来た精神の伝統を意識的に甦らせてくれた人なのです。


わたしたちのシュタイナー教員養成講座は、「ひと」の成長は、ことばの成長と軌を一にしているという、そのことを主眼のひとつとして打ち樹てています。


日本語ということばを守り、日本語を受け繋いで来た歴史を貫く縦の糸と、日本の大地に根ざす農の営みという横の糸とを、共に織りなし合わせ、広くて深い意味での「自然」と繋がる人の生き方を提示して行く、それが、わたしたちのシュタイナー教員養成講座の眼目で、だからこそ、「日本文化にねざす」という副題をつけたのでした。



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1月17日(金)20:30~ オンライントークライブ
(ゲスト:設楽清和 /パーマカルチャーセンタージャパン代表)

1月22日(水)20:30~ オンライン説明会

1月29日(水)20:30~22:00 プレ講座『講義「世は美しい」 & 声のワークショップ・ことばづくり(言語造形)』(講師:諏訪耕志 /ひのみやこ コースリーダー)

2月5日(水)20:30~ オンライントークライブ
(ゲスト:岸 英光 /コミュニケーショントレーニングネットワーク統括責任者)


ご関心をお持ちの方、ぜひ、お気軽に、ご参加下さい。お申し込みをお待ちしておりますね。



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参加ご希望の方は<こちらのフォーム>より
お申し込みください。 (定員5名)
https://docs.google.com/.../1FAIpQLSdPBJ6CPd3RuR.../viewform



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ひのみやこ 主催 第1回 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座ホームページはこちらです↓
https://himomiyako.wixsite.com/hinomiyako





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2025年01月09日

自然に包まれて



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冬本番になって来て、山の上に拡がる空の美しさを毎朝仰ぎながら生きています。


昨年暮れのクリスマスからお正月を超えて、ひとり、部屋にいるとき、どこか透き通るような考えに恵まれるような日々を過ごしているように思えます。本当にありがたいことです。


どこにいようとも、いつであろうとも、自然はわたしを包み込み、貫いてくれている。そして、最も豊かで密やかな自然が一番近くにある。それが、自分のからだです。このからだを、こころをこめて用いれば用いるほど、その働きは豊かなものをこころにもたらしてくれる。


こころをこめて目を用いれば、神からいただいた目という自然がこころに密やかに「徳」という靈(ひ)の質をもたらしてくれる。


こころをこめて耳を用いれば、神からいただいた耳という自然がこころに密やかに「聖」という靈(ひ)の質をもたらしてくれる。


「徳」は目の働きに順(したが)い、「聖」は耳の働きに順う。


漢字という文字が人に教えようとしてくれていることにも、耳を澄ますことができます。


目という自然も、耳という自然も、唯物的感覚に裏打ちされた情報を仕入れるためだけに使われるのではなく、そのようにこころをこめて用いられることで、人のこころに、深く、豊かで、澄んだ情と考えを育むことができます。


からだという自然は、偉いものです。その自然は、こころを込めて使われるほど、靈(ひ)から働かせられるほど、その機能を深化させます。


我が身を包み、通い、貫いてくれている光や風や水といった自然。そして、自分自身のからだという自然。さらには、それらすべてを内において支えている靈(ひ)という目には見えない自然。


それらすべての自然に包まれてあることを感じ、すべての自然とこころからつきあい、すべての自然をていねいに用いることで、わたしたちに与えられている感官という感官を養うことができます。そのような感官の養いは、こころを整え、律し、靈(ひ)の拡がりと高みへと導きます。からだの感官を超えて、こころの感官、靈の感官を養うことへと道が続きゆきます。


冬のさなか、そのことを感じています。





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2024年12月30日

前田英樹氏の謦咳に接する 〜響き続けてゐるひとつの調べ〜



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今年を想い返して、最も嬉しかつたことのひとつが、夏の終わり、池袋の飲み屋で、我が敬愛の方である文芸・映像批評家の前田英樹氏と杯を酌み交はさせていただいたことである。


昨年上梓された『保田與重郎の文学』にあまりにも感動したがゆゑに、ブログに拙い感想を書き記したところ、なんとそれを読んで下さり、いくたびかメールの交換をさせていただいたあと、わざわざ盃の席を設けて下さつたのだつた。


わたしは、この二十年近く、彼の著作のおほよそすべてを愛読して来てゐて、こんなもつたいないことはないと、ひたすらに念じつつ、こんな楽しいことはないといふ時間を味ははせていただいた。


それは、前田氏が本当に気を使つて下さり、わたしのやうな素人にも分かるやうにいろいろと丁寧にお話をして下さつたからだらうと思ふ。


様々なお話をして下さり、すべてが夢の中での想ひ出のやうになつてしまつてゐるのだが、保田與重郎が亡くなつたときの小林秀雄のこと、そして、その日本の文学にこころといのちを捧げ続けたふたりの批評家のこころざしに、いま、繋がるやうな前田氏ご自身の矜持を本当に控えめに、しかし、真実の籠る眼差しでわたしに語つて下さつた語気と精神が、わたしの胸にずつと響き続けてゐる。そして、それはこれから先もずつと響き続けてゆくだらう。


それは、わたし自身がわたし自身として生きてゆくための、ひとつの調べ・トーンなのだ。


こんな幸せなことはない。


こんなありがたい生の時間はない。


本当にかけがへのない時間であつた。






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2024年12月22日

ことばにすること



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昨日、冬至の日に、南禅寺から銀閣寺へと続く静かな東山沿いの哲学の道をゆっくりと歩いて、仕事の場へと足を運んだのでした。


こうして京都に住み始めて個人的に思うことは、ここ京都でも極めて近代的、商業的な思惑が大胆に打ち出されている場所と、古くからそういうものと一線を画し、ずっと守られている精神的、人間的な場所とが、無意識内に截然と分かたれているということです。


商業的な場所といいましても、大阪ほど厚かましくはなく、看板の色合いやその他いくつかの規制がなされているので、整然としたところがあることが大いなる救いであり、うちの娘たちなどはそういった京都の街並みをこころゆくまで満喫しながら毎日を過ごしているようです。


商業的な場所とここで言いますのは、人の欲望が激しく行き交っている場という意味なのですが、欲望はあって当然ですし、あらねばならないものです。しかし、その欲望が自然な形で人の内に湧き上がって来るものではなく、刺激的に、時には暴力的にと言っていいくらいの強さで掻き立てられ、消費へとひたすらに追い込まれてしまっている。そんなありようへと人を追い込もうとする意図が行き交っている場だという意味です。


長い間、大阪で生きて来たわたしは、大阪の商業空間である「ミナミ」や「キタ」などには文化などないということをしみじみ感じておりました。


文化とは何でしょう。


まず、こういう言い方をしてみます。それは、それが失われる危機に見舞われたとき、もしくは失われてしまってから、痛切に感じられる何かです。


しかし、失われてしまってからでは、遅い。


文化とは、人の生き方であり、そこから生まれる何かです。


文化とは、人から人へと長い長いときを重ねて、引き継がれていく生き方、ものの考え方、感じ方、創り方を基にして、その目には見えない何かを大切に育み続けながら、目に見えるものへとかたちづくってゆくこと、そのいとなみを文化といいます。


さらに言うならば、文化とは、利害損得を超えるところにあるもので、だからこそ、アメリカニズムからの商業主義とははっきりと違う何かを人にもたらします。それは、落ち着き、やすらぎ、静かなよろこび、明晰さ、確かさであり、何かと交換不可能なもの、唯一無二のもの、つまり、〈わたし〉という靈(ひ)が、その人のこころに根付いて行きます。


反対にその偏り過ぎた商業主義は、金銭を介してすべてを交換可能なものとし、取り換えの利くものとします。そして、やがては人をも機械部品化、商品化し、交換可能なものとして扱ってしまいます。その流れが、落ち着きのなさ、不安、不満、愚昧、狂気へと人をゆっくりといざなってゆき、靈(ひ)の通わない人、いわゆる俗物となってゆきます。


だからこそ、文化の危機に面しているわたしたちはいかにしてその危機に立ち向かってゆくことができるのかという問いを、いま、ここに、あらためて、立てることができる。そう哲学の道を歩きながら念いました。


その文化の象徴として、たとえば、風景があります。「情景」ということばもあるように、情緒に満ちた風景というものが、人の人生、人の情緒をかたちづくってゆく上で、どれほど深い働きをなすことでしょう。それはその場その場が秘めている価値を身のまるごとで知っている、という感覚です。


それらは、人によって守られ、育まれなければ、この時代の商業主義的な思惑の流れの中でいともたやすく壊され、失われていってしまいます。


わたしは大阪の、まこと風光明媚な情景が萬葉集に詠われた場所近くに住まいしていましたが、その風景は明治以来の近代化によって壊され始め、いまは跡形もありません。ただ、萬葉集を開くときにのみ、こころに想い描くだけです。


では、何によって、何を通して、文化を、風景を、情緒を、守ることができるのか。


多くの人と同じく、わたしも、まずは、根本のところを想います。それは、萬葉集を挙げましたように、そのような文化、風景、価値が言語化されたものをふさわしく評価することです。それは、過去の文学を新しい意識で愛することです。


さらには、いま、当たり前に恵まれているものやことをわたしたちが、これからの時代、意識的に、わたしたち自身で、言語にし、詠い、語り、語り合うのです。


その場所の美しさ、素晴らしさ、親しみをことばにし、語り、語り合うのです。また、その場で生まれた人と人とのドラマを、自分自身の人生を、その場所との結びつきの中で意識化するのです。


人と人とのかかわり、人と土地とのかかわり、さらには、その場における人と神とのかかわり、それらを知ることは、長い歴史の時間軸においても、自分が生きている場所としての空間性においても、人を孤立から救い出し、眠りから目覚めさせます。そして、それらを意識化し、人々と共有し、世へ発信してゆくのです。


ですので、歴史学、地理学、博物学、そして文学が手に手をとりあって、その場所、その土地、そこに生きて来た人々の美しさ、善さを積極的に芸術的に言語化していく。


そういう学びがわたしたちの文化を守り、育ててゆく、ひとすじの道となって、人を孤立から救い、新しい協働性を産んでゆきます。


なぜなら、人は、時間の流れの中、空間の拡がりの中で、「深いつながり」を見いだせたとき、いま、ここにある、〈わたし〉が立つからです。そしてまた、〈わたし〉がひとり立ちするからこそ、他者との共同・協働がその深みからなされゆくからです。


文化が失われる危機に対して、まず、わたしたちができること、それは、その文化の価値をことばにすること、ことばに鋳直し、それを発していくことです。


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2024年11月06日

ああよかったな ありがとう



京都で暮らすようになって、一か月が過ぎたが、仕事で出る以外は、ほとんど家から出ることもなく、過ごしている。庭にゆっくりと菜園を作り始めていて、まったくの素人が毎日土を動かしたり、耕したりして、本当に楽しい。土の匂いが心地いい。風が気持ちいい。蝶や蜂たちが飛んで来てくれて嬉しい。野菜を植え付ける前に、まずは花屋で花を買って来て鉢に植えてみたのだ。小さいこの庭がこれからどんな風に成長して行くかを想い巡らせながら、朝のひと仕事のあと、じっと眺めていて飽きない。暑くもなく寒くもない季節に引っ越しをしてよかったな。住宅地だけれども我が家の東側のすぐ近くに山がそびえていて、その山の向こうから昇って来る朝日としずかさが、大阪に住んでいた時には味わったことのないもので、自分がこういうところに今こうして生きていること、生かされていることに不思議な感じを抱きつつ、ああよかったな、ありがとうと思う。


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2024年10月26日

「神」ということば



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秋の奈良。春日大社をはじめ摂社を巡り、こころの内に敬虔さが降りて来る恩恵を深く感じさせてもらった後、参道で一匹の鹿と目が合いました。


他の鹿たちは、餌を求めてうろつき回っているのに、その鹿は静かに脚を曲げて座っているのでした。


わたしは立ち止まらざるを得なくて、数秒間、その鹿の眼をじっと視ていました。そして、「優しい目をしているね。ありがとう」とこころの内に呼びかけると、明らかにその鹿は、微笑み始めたのでした。


動物が微笑むなどと言いますと、一笑にふされるかもしれないのですが、そうとしか言いようのない光景だったのです。


そして、その眼差しに、なんとも言えない、慈愛、慈しみを湛える光を宿し始めたのです。


その光に照らされ、包まれて、わたしはこう感じざるを得ませんでした。「神が、いま、ここに、おられる」と。


ここで、わたしがお伝えしたいと思うことは、日本語における「神」ということばのことなのです。それは、英語における「God」ではないということなのです。


神々しいものすべて、靈(ひ)の通うものすべてを、日本では、古来、「神」と呼んでいました。


ですので、山にも風にも海にも、狐にも牛にも鹿にも一木一草にも、そして、自分自身の奥様にも幼い子どもにも、神々しいもの、普段のありようを超える何かを感じるものには、「神」と呼んだのでした。


そうして、それらの「神々」は、観る人にとって観えるところの光を放っており、また同時に、その光で神々は人のこころの営みを見通し、見晴るかし、見守られる、ということなのです。


先にも述べましたように、我が国では、人も「神」となるのであります。それは、人であることの理想を体した存在のことであり、いにしえにおいては、そのための修練を積み重ね、その意識をもって毎日を生きることをおのれに課し、しかるべき儀式を経て、内に「靈(ひ)がともる、靈(ひ)がとどまる」ことによって、まことの「ひ・と」になり変わるのです。


「神」ということばは、西洋の観点で捉えるべきものではない、本当に古くからの日本のことばなのですね。


日本人は、その意味での、「神」を観ていました。こころに敬虔さ、敬いの情が満ちているとき、外の世の様々なものが、思いも寄らぬ秘密を打ち明けてくれたのでした。そのとき、日本人は、ものというものに「靈(ひ)の光」を、「神」を、観ていたのです。


敬わざるを得ない人、こうべを垂れざるを得ないものに対して、わたしたちは、「神」と呼んでいたのです。



※写真の鹿は、ここで述べさせてもらった鹿ではなく、春日大社にたどり着く前にカメラに収めさせてもらった鹿です。ここで述べさせてもらいました当の神々しい鹿を、わたしは写真に撮ることは到底できませんでした。






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2024年09月27日

大阪帝塚山「ことばの家」さよならパーティー



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大阪市住吉区帝塚山で約20年間いたしていました「ことばの家」が解体されるにつき、お声をかけさせていただいた方々と共に先日、「ことばの家さよならパーティー」をいたしました。


来て下さった方々が、ここでの想い出を語りながら、狂言の謡いをして下さったり、ライアーの演奏をして下さいました。それはこの家へのこころからのはなむけでした。本当に、ありがとうございました。この家が喜んでおりました。


この小さな部屋には、本当に様々な想い出と共に、ことばの芸術から生まれる目には見えない痕跡があまた刻まれています。それは、エーテルの造形物といってもいいような、不可視の生きていることばのお宮です。


毎週毎週、毎月毎月、ことばづくりの学びに通って下さった方々、そして、数々の公演に足を運んで下さった多くの方々、おひとりおひとりにこころより、こころより、お礼を申し上げます。


わたしもまた、いま、引っ越しの作業をしながら、この家に包まれてあることの、なんとも言えない気持ちを感じて、こころから、まこと、まことの感謝を感じています。


そして、新しい「ことばの家」への精神の引き継ぎをして行く道の上に今います。


2024年10月より京都市伏見区醍醐にて、新しく「ことばの家」を創り、アントロポゾフィーを学ぶ靈(ひ)の学び舎として、そして、日本のことばの古くて全く新しい芸術を織りなしてゆく「ことばづくり」の工房として、こつこつと活動してゆきます。


わたし自身、60歳からの新しい人生のはじまりです。


どうぞまた、お越しくださいね。


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2024年09月22日

命綱としての文学



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人と人との集まりの中で、いわゆる人間関係における世代間や性差、個人と個人の間の違和、不調和、断絶というようなものがあります。


理想を求めて集まった人たちの中でも、そういったものから生まれる情のせめぎ合ひが激しくきしむことがあります。


100年前のルードルフ・シュタイナーは、学びに集まった人たちに対して、若い世代には「もっと謙虚になって、これまでに古い世代が積み重ねてきたものを敬いつつ認めることを学んではどうか」と呼びかけ、古い世代には「変に若ぶらずに、しっかりと精神において老いるように、こころにおいて熟するように」と諭しました。


しかし、そのように世代間の断絶と見えるようなことも、おおもとの問題は、よくみて、よく考えている人たちと、よくみず、よく考えていない人たちとが、いつの代にも存在していて、争いは、よくみず、よく考えない人たち同士の間で起こっているということです。


よくみず、よく考えない古い世代と、よくみず、よく考えない若い世代とがぶつかり合っていたということです。


さらには、人と人との間のやりとりは、すべて、ものの言い方、ことばの用い方の問題であることをわたしは念います。


つまり、人と人とがぶつかり合うとき、いま、何が本質的に大切なことで、何が非本質的なことであるかをみずからで、よくみることができていなかったり、よく考えることができなかったりしているのではないでしょうか。


さらに見落とされがちなこととしてわたしが思うのは、人はものの言い方を学ぶ機会をもってはいないということです。


自分の立場や、自分にとってこれまでのお決まりの思い方、感じ方、考え方にしがみついたまま、そこからものを言ってしまう。


それは、文学や舞台芸術から、もっと素朴なものでは親や祖父・祖母からの言い伝えによることばづかいの芸術的なありように触れ、親しむ修練を積んでいないことによって、ことばがその人のまるごとを顕わにしてしまうことへの畏れをもっていないことから、どうしても生じてしまうことです。


そうして、わたしたちは、万人が万人の敵となる、あの黙示録に予言されているあり方へと突き進んで行くのでしょう。


ことばの用い方をもって、人はものの考え方、感じ方を織りなしてゆきます。


決して、思想や理念がことばに先立って醸成され、それがことばとして表現されるのではありません。


人は、いくつになっても、ことばの用い方に、その都度その都度、新たに新たに、意を注いでいかねばならない存在なのです。


そのためには、ことばの芸術、芸術としてのことばづかいに触れていることがとても大切なことなのです。


賢者のことばであったとしても、それを一言一句厳格に捉えることをもって足れりとしている老人も、自由にものを言うことこそが人であることの証だと思い込んでいる若者も、新たに新たに、みずからを律すること、みずからを研ぐこと、みずからを磨くことによつてのみ、「ことば」は人と人とを繋ぐ自由な何かになりうる、ということを学ぶ必要がある。


そういう、ことばの教育、国語教育、これは、わたしたち大人が真剣に取り組んでいくべきものですが、そのためには、日教組や国語審議会の人たちでなく、真の文学者、真の詩人という存在がおのおのの民には要ります。つまり、まごころをもって世界のこと、この国のこと、人や子どもたちのことを念うことばの力が要ります。


それらの文学者、詩人という存在は、時の流れの速さなどには決して負けない、しずしずと地下を流れる清水のような精神の力をことばに湛えて仕事をします。


ですので、昨今、売れている作家などではなく、わたしたちで言うと、祖父の世代の文学作品を落ち着いたこころもちで若い人たちが読み深めることを奨励するような雰囲気が学校や家庭にあることが大切なことです。


そういうものに触れることによって、若いこころをもつ人ならば、必ず、靈(ひ)においてこころといのちが甦ることを覚えるはずです。


ひとりひとりの人が、そういうありようを生きることこそが、すべてのはじまりです。


人と人との間の断絶をわたしたちは積極的に超えてゆくことが、きっと、できるはずです。





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2024年09月14日

社会の大勢に抗してひそやかに



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東京でのことばづくりの仕事。

大都会の中で働いている人たちのこころづかい、ことばづかい、息づかいがどんどん息苦しいものになっているとしても、靈(ひ)から生まれる芸術には何かができるはず。

人が、時に、コンプライアンスやハラスメントといったことばに縛られざるをえず、人としての内なる自由への愛が不如意をかかえざるをえなかったとしても、こころを自由に解き放って、自分自身を十全に表現できる時と場をその芸術は打ち開いてゆきます。

社会の大勢がどうなってゆこうとも、わたしたちは愛から何かができるはず。


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2024年08月15日

靈(ひ)の文明を創ってゆく新しい時代の先端を行く国



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木村伊兵衛「秋田おばこ」秋田大曲 1953



近頃、印刷術や写真術などに関する本を読んでいます。印刷術はグーテンベルグによって15世紀半ばに、写真術はダゲールによって19世紀初頭にこの世に出現したのでした。それら15世紀のヨーロッパから始まった、時代精神の巨大な変化の中で生まれて来た機械文明による営みは、人の暮らしや仕事における利便性や効率性を著しく増大させましたが、一方で、人の考える力やものを見る力を著しく減退させ続けています。その機械文明によるわたしたちのこころへの働きかけは、どこから生まれて来たのか。それはアーリマンという悪魔からの働きかけであることをシュタイナーは述べています。アーリマンは、考える力や見る力といった人の内なるこころの健やかな営みをひたすらに衰えさせ、人が無機質で機械的で唯物的なものにどっぷりと浸かるように、刹那的、快楽主義的、受動的な存在になるようにしてしまおうとしています。しかし、ルードルフ・シュタイナーは、そのアーリマンからの働きかけが、人の成長にとって必然的なものであること、その功罪の両側面を、深みから捉えていて、わたしたちにその悪魔からの働きかけを知ること、意識することこそが、現代を生きているわたしたちにとって欠くべからざることなのだと述べています。悪の力を知ることによって、この機械文明に靈(ひ)の息吹きを吹き込むことができるのは、21世紀を生きているわたしたちなのですね。


わたしは今、特に写真術に携わって来た20世紀の日本人(木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩、入江泰吉)のことを初めて知り始めているのですが、彼らがしていた仕事とは、まさしく、ヨーロッパからの機械文明に靈の息吹きを吹き込むことなのでした。彼らは、機械であること、その無機性を徹底して吟味し、それを全身全霊で愛するところまで、我がこころを機械の内部に通じさせていく道を歩んだのでした。つまり、ここでも、日本人は、「ものへゆく道」を歩もうとしていたのです。近代主義との葛藤を深刻に受け止めざるを得なかった明治、大正、昭和を生きた日本人がなしていた仕事の質を、令和に生きているわたしたちは知る必要があることを思います。それらの仕事は、新しい時代における人の考える力と見る力を養っていくことに向けてのものだったからこそ、西洋近代化の後塵を拝していたこの日本が、実は、密(ひめ)やかにですが、靈(ひ)の文明を創ってゆく新しい時代の先端を行く国であったこと、そしてこれからますますそうであることを知るためにです。






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2024年07月11日

愛するゆゑに手放すといふこと


キリストが語ったという「父、母、妻、子、兄妹、姉妹を捨てざる者、我が弟子にあらず」ということ。それは、それらの肉の繋がりある人、血の繋がりある人を愛しているがゆえに、「捨てる」時が来る、「離れる」時が来るということです。それらの人を愛せないから「捨てる」のではないのです。愛しているがゆえに、人はひとりでゆくのです。

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2024年06月25日

遊びと独立

 

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小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでいて、とりわけ魅力的なのは、江戸時代の学者たちについて縷々述べているところです。


ものを学ぶには、本ばかり読んで、机上の智識を弄ぶのではなく、外に出て、人と世に交われ、人と世に働きかけよ。そう言う人は幾らでもいます。


しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つていました。だから、そういう当たり前のことは、わざわざ口に出して言わなかったのです。


むしろ、独りになること。


そして、その「独り」を強く確かに支え、励ますものが、本であること。


師と古き友を、本に求める。本というもの、とりわけ、古典というものほど、信を寄せるに値するものはないと迄、こころに思い決め、その自恃を持って、みずから学者として生きようとした人たち。


そして、古典という書の真意は、独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。そのときの工夫と力量を、彼らは心法とか心術といいました。


一度きりの読書による知的理解と違って、精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、その人の体得物として、暮らしを根柢から支へる働きを密かにします。


数多ある註釈書を捨てて、寝ころびながら、歩きながら、体でためつすがめつ、常に手許から離さず、そういう意気に応えてくれるものが、古典というものです。


そうしているうちに、学び手のこころの奥深くで真実は熟し、やがて表の意識に浮かび上がってくる。


そのとき浮かび上がってくるものは、学説などというものではなく、真理を追い求めた古人の人格であり、それは浮かび上がった後も、依然多くの謎を湛えている筈です。


昔は、今と違い、学者という存在が、人の理想を追い求める人として、人々から遥かに尊敬されていました。


そして、そのように、部屋に独り籠もって、孤独を愛して、そのような本の読み方ができる人は、きっと、幼い頃、目一杯、からだを動かせて遊んだ人なのです。


その遊びの中で、手足の動きを通して意欲が、こころのファンタジーへと昂ぶり、さらには、ものをまじまじと見ること、聴くことのできる力(ふだんのイマジネーション)にまで、稔っているのです。


からだまるごとで遊ぶ、さらには、からだを芸術的に動かす、その働きは、よく観る力、よく聴く力、よく読む力、独りでいられる力、他に寄りかからずに済む力、つまりは、自主独立・自由の力に、後年なりかわるからです。


子どもの頃のからだを使った遊びは、本当にたいせつなものなのです。





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2024年05月10日

落ち着きと勇気と知恵



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神よ 願はくば われらに授けたまへ

変へることのできないものを受け入れる落ち着きを

変へることのできるものを変へる勇気を

そしてその違ひを常に見分ける知恵を・・・


          ラインホールド・ニーバーの祈り

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2024年04月29日

次なる新たなところへと歩みゆく希み



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我が「ことばの家」の裏に百年にわたって佇立していた古い家が取り壊されてしまいました。


そして、この「ことばの家」ももうすぐ取り壊されてしまいます。


何ごとも何ものも常ならざるものですが、眼の前でどんどん古いもの、親しみある馴染みのものが消えて行くのを、わたしもまた、いま、目の当たりにしています。


しかし、それは、わたしに、思い出に耽り、悲しみに憩うことよりも、人生の次なる新たなところへと歩みゆく希みを抱かせます。


わたしには、勇気が必要ですし、実際、その勇気をこころにもらえていることに恩寵を感じます。


わたしは、ひとりで生きているのではない。わたしは、生かされている。そして、赦されている。こうして生きることを赦されている。


ずっと変わらず見守って下さっている方々がおられること。


そのリアリティーを抱いて、ゆっくりと歩いて行きたいと思っています。


次の住まいが決まりましたら、その前に、大阪帝塚山のここ「ことばの家」にて「言語造形の最後の晩餐?」ができたらと切望しています。






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2024年04月23日

己れの道を独自に歩いて行くべき時代



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四年前、外出して街に出たり、電車に乗るたびに、「なぜだ」「なぜだ」という煩悶に満ちた苦しみを本当に感じていたことを思い出します。


そして、子どもたちが通う学校という場で当時なされていたことに対して、わたしはいまも全く納得がいかない。


だからこそ、他のみんながそうしているから自分もそうするのだというような生き方ではなく、それぞれの家庭や、ひとりひとりの人が、自分たち自身のこころの声をしずかに聴くことから判断をゆっくりと下していき、己れの道を独自に歩いて行くべき時代が明らかに始まっているのだと思わずにはいられません。


それは、己れという人を裏切らない、自分自身に嘘をつかない、ということであり、これからの時代が求めていることです。


三年前の文章です。



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中学一年生になったばかりの次女、果たして来週からの登校事情はどうなるのだろうか。


大阪市からの要請で、午前中は、自宅でオンライン授業になり、昼食は学校に行って食べ、午後の二時間だけ授業を受け、クラブ活動は原則中止となるかもしれないとのことです。


オンラインによる授業が毎日続くことの、子どもたちへの弊害についてはいろいろと想うところがあります。


ひとりの先生、そして大勢の友だちが集う教室という空間において、何が営まれるか。


人は、知性だけを育てればいいのではなく、なまの世界を生きること、他者とつきあうこと、ものを受け取ること、活きた息遣いのやりとりの中で生きること、つまりは感官を育てるということが、人にとって、とりわけ、若者にとって、たいせつなことなのです。


笑い合ったり、けんかしたり、瞳を交わし合ったり、しかとしたり、そんな人と人との間の複雑な営みすべてが、感官の育みに資するはずです。


人には、十二の感官があります。その十二の感官を養うことにおいて、空間を共にするということの必要性はとても大きい。


感官の働きは十二通りであり、それらの働きが人の内側で複雑に、かつ繊細に、織りなし合わされて、その人にパーソナリティ(人となり)の豊かさ、インディヴィジュアリティー(その人のその人たるところ)の尊さをもたらします。


なぜなら、十二通りの感官の働きを内において、織りなし合わせ、繋ぎ合わせることによって、人は、判断力を養うことができ、その判断力は、実は、情の力、感じる働きを土台にしているからです。


ものごとを判断する、その力は、実は、健やかな情の力が礎になるのです。


いくら頭が良くても、健やかな情が育っていなければ、その人が下す判断という判断は、非人間的なものとなる嫌いがあります。


毎日、午前中一杯、パソコンやスマホの前に座り続けさせることで、十二の感官の育みに障りと害いと偏りが生じて来ることを思うと、これが運命とは言え、子どもたちがこの2020年から2021年を生きること(今年でなんとか終わらせたい・・・!)の過酷さに、その意味を問わずにはいられません。


家でのなにげない会話ややりとりが、とても大事になって来ます。






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2024年04月21日

新しい場所探し



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青い森自然農園にて、苗床を作り、米粒の種おろしを学ばせていただいています。鍬の使い方ひとつを身につけることも、なかなか上手くいきません。しかし、新しいことに挑む機会を与えて下さる青い森自然農園のおふたりに本当にこころから感謝しています。

新しい生き方、新しい住まい、新しい仕事。今、模索しながら、駆け回ってます。

シュタイナーの学び「アントロポゾフィー」とことばの芸術「言語造形」、そして米づくりを中心とした、本当に新しい精神文化の営みを日本に創ってゆくために、新しい場所を探しています。

どこかお薦めの場所をご存知でしたら、ぜひ教えて下さい!


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2024年03月21日

ゆっくり



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ゴッホ「花咲くアーモンドの木の枝」



まずは、我がからだをゆっくりと使うことから始めてみる。


意識できるとき、気づいたとき、からだをゆっくりと用いるのです。


このキーボードを打つときも、立ち上がるときも、この部屋を出るときも、ゆっくり、ゆっくりと動いてみる。


そして、その動きにていねいさや静かさや落ち着きが湛えられているのを自分自身で感じてみる。


そのゆっくりとした動きが、おのずから、息遣いの穏やかさ、ことば遣いの静かさ、こころもちの安らかさへと導いてくれる。


からだをゆっくりとした時間の中へ入れて行くのです。重さ・重力の中へではなく、軽さ・浮力の中へからだを持って行くのです。


ちょっとした意識の転換で、からだの用い方を変えてみること。


そして、それをゆっくりと習慣にして行くこと。


そのような習慣を身につけることは、一朝一夕には叶わないが、それこそ、ゆっくりと、こつこつと、毎日、やっていけばいい。


なんど、慌てふためき、取り乱すようなことがあろうとも、また、気づいたとき、「ゆっくり」の中へ帰っていけばいい。


そのように、時というものを新しく生きて行くこと。


それは、このからだに授かっている「いのち」を自分自身から甦らせる、本当の保養なのです。





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2024年03月10日

日本のシュタイナー教育における歴史教育



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下北半島の突端から



日本にもシュタイナー教育が入って来て、おそらく50年近く経っていると思われるのですが、わたしの内には、日本でのシュタイナー教育実践においてのひとつの問いがありました。


それは、子どもたちに「歴史」を教えてゆく際に、アントロポゾフィーの人間観・世界観から得られる歴史への見識に基づく授業をすることと、日本の歴史について教える際の、微妙な(もしくは、明らかな)違和感を現場の先生方はどう感じ、実際にどう授業されているのか、という問いでした。


次のような考え方があると思います。


洋の東西南北を問わず世界中の物語の中から、子どもがいま求めているもの、子どもの成長に資するものを、絵姿豊かに語ることが、大切であるということ。


まことにその通りだと思いますが、それを踏まえた上で、やはり、わたし自身の中で、さらなる問いが生まれて来ます。


人がする学びという学びは、つまるところ、己れを知るということ、自己認識を目指しています。


古代ギリシャの密儀の中のことば「汝みずからを知れ」は、いまも、わたしたちに痛切な響きをもたらしているように実感します。


それは、個人個人のことでもありますが、きっと、民族のこと、国家のことでもあるでしょうし、歴史を学ぶとは、人類が人類を知る、民が民を知る、人が己れみずからを知るということに他ならないように思います。


そして、その学びの営みのうちに、二つの方向性がある。


己れみずからを知りたければ、世をみよ。世を知りたければ、己れみずからをみよ。


そして、この二つの意識の方向性は、長いときをかけた学びのうちに、ついには、ひとつになる。「〈わたし〉は世であり、世が〈わたし〉である」。


さて、話は、「歴史教育」のことに戻ります。


世界の中に日本があり、外があるからこそ、内がある。


外国のことをよく知ること、知的にも情的にも世を広く見晴るかし、親しく他者について知りゆくことを通して、内なる国、自国のことを知る、そんな自己認識のありかた。


学びには、そういう側面が欠かせません。


そして、もうひとつ、自分自身の中心軸をしっかりと打ち樹てるべく、我が民族、我が国の独自の精神文化をより深く追求していくこと、足元を深く掘り進んで行くことによる自己認識のあり方。


どちらかひとつではなく、両方の学びの間に釣り合いが取られて、わたしたちは、個人においても、民族のことにおいても、国家のことにおいても、内と外とのハーモニーを健やかに生きることができるように思います。世界史と日本史の間に、ある歴史的繫がりを見いだすべく、わたしたちは学びを進めて行かねばなりません。


小学生から中・高校生の歴史の学びにも、その視点がとても重きをなします。


ただ、ここに大きく深い問題があるように感じています。


それは、日本の近・現代史は、精確に言うならば、日本の精神は、相当、屈折している、もしくは、屈折させられているということです。


明治維新以来、西洋の最新の文明に追いつけ、追い越せという文明開化のスローガンの下、とりわけ、若いエリートたちは、それまでの自国の文明文化をある意味、大いに否定し、父や祖父、母や祖母の持っていた考え方、生き方を古臭いものとして葬り去ろうとして来た、そんな近代の歩みであったからです。


言い方を変えますならば、もともと成長していた樹木を、真ん中、もしくは根もとからぶった切って、全く違うところで育った木を接ぎ木した上で、「それ生えろ、それ伸びろ、それ花咲け、それ稔れ」とばかりに大急ぎでやってきたものですから、無理がたたる。


それは、外国から開国を要求され、植民地化されるかどうかという瀬戸際での国家的判断からなされたことですので、歴史の必然としか言いようがない、けれども、何とも言えないような苦しみと哀しみを感じざるを得ないことがらです。


その無理が無理のまま最後に爆発してしまったのが、79年前の世界大戦での日本の大敗北であったのではないかと思うのです。


そして、戦後、明治維新以来の無理の反動でしょうか、わたしたちは自主独立する心意気など全く失い、しかし、また、明治維新以来のヨーロッパとアメリカこそが主(あるじ)であり、我々は従(おきゃく・しもべ)であるという底深い観念・心情がこころの奥底に染み付いてしまっているように思われますが、どうでしょう。


そして、シュタイナー教育が、今は亡き子安美知子さんの「ミュンヘンの小学生」という一冊の新書の1975年発刊以来、約50年近くに亘って、日本に少しずつ広まって参りました。


ヨーロッパからの精神文化として伝わって来たシュタイナー教育運動、その日本における伝播においても、やはり、先ほど書きました、日本民族の近・現代にずっと引きずっている、どうしようもない屈折とコンプレックス、自己不信感が、多くの場合、自覚なく、伴われて来たのではないだろうか。


いわゆる、「自虐史観」の囲いの中で自国の歴史を捉えて来たがゆえに、シュタイナー教育においても、その影が無自覚に教育実践の上に落とされて来た嫌いはなかろうか。


わたし自身の問題意識として、そのことがずっとあります。


子どもたちに歴史を教えるということは、そういう事情の上になされることだからこそ、わたしたち大人の意識のありようがまことに難しい。


その屈折を屈折のまま子どもに伝えることもひとつの教育と言えるのかもしれませんが、やはり、大人自身が、明治維新以来の屈折を、ひとり、引き受け、人としてその屈折をまっすぐにしようという意識と気概が要るように念うのです。


屈折を屈折と自覚せずに、子どもたちに歴史を教えることは、子どもたちを複雑な、まさに屈折せざるを得ない存在へと育ててしまうことにならないだろうか・・・。


わたしたち昭和の後半から平成に教育を受けて来た者たちは皆、そういう教育を受けて来たのではないだろうか。だからこそ、内において、皆、とても屈折している・・・。


アントロポゾフィーを学ぶわたしたち日本人は皆、そのことに向き合い始めていると思います。


そして、これは、大変なことだであり、だからこそ、この問い、この考える営みを持続させていくことが大切なことだと、わたしは考え続けています。


さらには、実際の教育現場を創りなしてゆくことで、新しい時代の教育を新しく創ってゆくことが、この問いに答えを見いだしゆくプロセスになるでしょう。


それは、わたしにとっての人生の大きな課題のひとつなのです。





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2024年02月10日

からだとこころと靈(ひ)が奏でる調べ



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旧暦では今日が一月一日。個人的にも新しい年の初めを感じる。


昨日までおほよそ20日間ほど、風邪でずつと寝込んでゐた。


夜になると咳の苦しみで眠られず七転八倒してゐる最中にも、精神的な取り組みだけで、このからだの自己回復力を頼んでゐたのだが、どうにもかうにも仕様がなく、やうやく昨日、いいお医者さんに出会ひ、人工的な処置をたくさんしていただいた。


そして、今朝、本当に久しぶりに健やかな目覚めを感じたのだ。まさに元日である。


当たり前のことだらうが、現代医学の助けを借りなければならない自分自身のからだの弱さを認めざるを得ない。


なほかつ、それでもやはり、我がものの考へ方、想ひ方、感じ方にこそ、病の根本の原因はあると思はざるを得ない。


そして、青い森自然農園の齋藤 健司さんと豊泉 未来子さんにいただいた、昨年収穫された大切な新しいお米を炊いていただく。頬が落ちるほど旨い。


素朴な食べ物と素朴なこころ。


その享受を即座に喜びの情で応へてくれるのが、我がからだである。


そのこころとからだのハーモニーに、ますます、靈(ひ)として、ことばが天(あめ)より流れ降りて来る。


からだとこころと靈(ひ)が奏でる調べを、今年から、歌つて行きたい。






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