2019年01月16日

信じるこころが一番たいせつ


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写真撮影:山本 美紀子さん

 
小学生の子どもたちには、どんな書物がふさはしいか。
 
などと、大人があまり考へない方がいいやうに思ふ。本人が読みたいものをどんどん読むことができるやうに、計らつてあげるだけでいいと思ふのです。
 
ただ、これだけはたいせつだと考へてゐるのは、一冊の本が祕めてゐる未知の何かに対する、限りない愛情、尊敬、信頼。
 
そこから、本に限らず、ものといふものに対する、愛情、尊敬、信頼がおのづと育つていきます。
 
何を学ぶにしても、そのこころもち、感情さへあれば、いい。
 
もし、そこに熱烈な尊敬、熟していく愛情が育つていくなら、大げさな言ひ方になりますが、その人のこころには、誰に何かを言はれなくとも自分の意欲だけで学んでいく力、世界中を相手に回しても自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、それが、この身ひとつで、世を生きていく、といふ力。
 
それが、自由への道を歩いていくといふことではないかと思ふ。
 
学ぶ人にとつては、学ぶ対象に対する疑ひではなく(!)、学ぶ対象に対する信頼・信といふものがとても大事です。
 
では、その対象については、はじめは未知であるのに、どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
それは、その人のこころのうちに、既に信じるこころが育つてゐるからだ。
 
信じるこころが、信ずるに値する書物を引き寄せる。信ずるに値する人を引き寄せる。
 
小学生のこころとからだにまづは何を植ゑつけるか。
 
それは、信じるこころの力であり、感情の育みです。
 
その信じる感情の力が、やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、きつと、その子がその子の人生に必要なものを、おのづと引き寄せるやうになるでせう。
 
その子が、その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
 
ではそのためには、大人は何をすればいいのか?
 
その子の傍にゐる先生が、親が、大人自身が、熱烈に、一冊の本ならその本に、何かの存在ならその存在に、尊敬と愛情と信頼を持つてゐる姿を、子どもに示しつづけるのです。
 
多くの本でなくてもいい、この一冊といふ本を見いだせたなら、本当に幸ひです。その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、その本こそが、その人の古典になります。
 
信じる力と言つても、それは何かあやしいものを信じてしまふことになりはしないかといふ危惧は不要です。
 
信じる力の枯渇、それがまがひものを引き寄せてしまひます。
 
信じる力の育み、それが信じるに値する何かを引き寄せます。
 
 


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2018年12月31日

ことばの家 諏訪 平成三十年(2018年) 言語造形舞台活動


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7月7日『名人伝』

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10月8日『舟』

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もうすぐ平成三十年も暮れようとしてゐます。
 
お世話になつた方々、本当にありがたうございました。
 
この一年、わたしたち「ことばの家 諏訪」も、言語造形といふことばの芸術を通して、様々な活動をいたして参りました。
 
これまでのクラスや企業研修に加へて、新しい言語造形クラスとして、3月から諏訪千晴による「やまとことはを味わうクラス」、4月より三重の桔梗が丘にて「ゆいの家クラス」、和歌山の岩出にて「親子えんげき塾『ことばの泉』」、9月から兵庫の姫路の城見が丘保育園にて「むかしむかしの物語り」を毎月始めさせてもらふことができました。
 
そして、舞台活動として、4月29日に『古事記の精神』、7月7日に『名人伝』、10月8日に『舟』、11月30日に『山月記』、12月25日『キリスト生誕劇』を開催いたしました。
 
言語造形といふ芸術が、この日本の地に根付いていくやう、わたしたちはひたすらにこの仕事を続けていくことだけを考へてゐます。
 
とりわけ、舞台作品を倦まず弛まず創り続けていくことが、なによりたいせつなことなのです。
 
それは、まぎれもない、わたしたち自身による創造行為であり、さらに言へば、ぎりぎりの生命の燃焼行為であるからなのです。
 
このいのちを燃やし、使ひ切ることこそが、この世に生まれて来て、なすべきことだと念ひ至つてゐます。
 
そして、この行為こそが、本当の意味で社会的な行為であり、時代を繋いでいく歴史的・伝統的行為でありうると確信してゐます。
 
 
来たる新しい年、わたしは、そのやうな、言語造形への志をもつて舞台に立つてゆく人を求めてゐます。
 
そのための五年間に亘る、日々の学びの場を用意してゐます。
 
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/
 
ことばの芸術「言語造形」への、まこと若々しい参加を求めてゐます。
 

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11月30日『山月記』

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12月25日『キリスト生誕劇』

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12月25日『キリスト生誕劇』山本美紀子さん撮影


 

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2018年12月08日

こころ踊るひととき


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自分自身が普段胸の底に大切に収めてゐることを、ひとさまの口から聴かせてもらへることほど、ありがたく、嬉しく、こころ踊ることはない。
 
とりわけ、芸術と人との間に脈打つ血について、こころ熱く語り合ふことができることほど、血沸き肉躍ることはない。
 
いつもは、わたしたち夫婦の間でのみ交してゐるそのやうな話しを、何の遠慮もなく語り合へた三重の名張での一夕。
 
本当に、ありがたい、得難い時間だつた。
 
来年は、こんな時間をもつと積極的に持つていかう。
 
※小西さん、写真どうもありがたうございます。

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2018年11月28日

ことばを待ち望んでゐる子どもたち


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この、にぎにぎしてゐる子どもたち。
 
ことばを待ち望んでゐる子どもたち。
 
活き活きとしたこころと生命に通われてゐることばを、待ち望んでゐる子どもたち。
 
しかし、ことばを受け取る姿勢に、1歳児と6歳児の違いが如実に写真に現れてゐます。

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ーーーーーーーーーーーー 
大阪・名張 言語造形公演『山月記』
11月30日(金)・12月1日(土)
https://www.facebook.com/events/355150188559093/
 
ーーーーーーーーーーーー
ことばの家 クリスマス公演・キリスト生誕劇2018
2018年12月25日(火)17時開演
於 大阪市立阿倍野区民センター小ホール
https://www.facebook.com/events/894100854122598/
 
ーーーーーーーーーーーー
親子演劇塾「ことばの泉」キリスト生誕劇
2018年12月28日(金)13時開演
於 和歌の浦アート・キューブ
https://www.facebook.com/events/2147958465524679/
 
ーーーーーーーーーーーー
2019年1月開校
『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/

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2018年11月20日

帯中津日子天皇の御陵、そしてカフェ杜の灯


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休日には、神社や御陵・古墳を訪ね歩くことが、この四年ほどの習慣になつてゐます。
 
神社や御陵の上に拡がる大空を見上げるのが、好きなのかもしれません。
 
お日様の光と白い雲の行き交ひ、そしてその下を吹き過ぎる風は、こころと神との行き交ひを促してくれるやうで、いのちを洗濯してゐるやうな気持ちになります。
 
今日は、大阪府藤井寺市の仲哀天皇の御陵、恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)へ。
 
仲哀天皇、御生前は帯中津日子(たらしなかつひこの)天皇と申されました。
 
この方は、かの倭武命の御子息であり、神功皇后(息長足姫命)の夫君であり、応神天皇の父君でありました。
 
神に反逆したために、命を絶たれてしまはれた帯中津日子天皇。
 
わたしは、この方を偲ぶこと浅からず、今日も陵の周りを歩き廻りながら、思ひを巡らせてゐました。
 
人類が、われらが民すべてが、経験しなければならないことを、一身に背負はれて生きられたお方。
 
その御陵の上には、秋の穏やかで静かな空が澄み渡つてゐました。
 
景色といふものは、わがこころの情と重なり合つて、情景になるものなのですね。
 
我が家から一時間も経たずに行くことのできる場所に、このやうな歴史的「情景」をふんだんに持つことができるこの日本といふ国、とりわけ近畿地方は、精神的に贅沢な地です。
 
思ひで一杯になつた自分は、御陵の近くのカフェ「杜の灯」に入りました。
 
ここは、辛國神社に面してゐる静かなカフェです。
 
美味しいコーヒーとシフォンケーキを頂きながら、マスターのコレクションされてゐる蓄音機からSP盤のジャズ、そして、大きなオルゴールから流れてきたその調べは、不思議な感覚なのですが、子どもの頃に部屋の片隅を見つめつづけてゐるうちに、壁の向こうに通ずる穴をくぐり抜けて、どこか他の世界に踏み込んだやうな感覚を、一瞬、垣間見せてくれました。

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11月30日(金)・12月1日(土)
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ことばの家 クリスマス公演・キリスト生誕劇2018
2018年12月25日(火)17時開演
於 大阪市立阿倍野区民センター小ホール
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親子演劇塾「ことばの泉」キリスト生誕劇
2018年12月28日(金)13時開演
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2018年11月07日

世は美しい


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「百人一首の歌をいまやつてるねん」と言ひながら、小学四年生の次女が、国語の教科書を持つてきました。
 
 

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき 
猿丸大夫
 

秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔
 

嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
能因法師

 
 

鹿の鳴き声が悲しいといふこと。
 
雲からもれ出づる月の光をうち見るときの感覚を「さやけさ」といふことばで言ひ表すといふこと。
 
川面に落ちたたくさんのもみぢの葉の流れる様を「錦」と見立てること。
 
子どもにとつては、いまだ経験したことのない景色と感情かもしれません。
 
しかし、まづ、このやうに、日本人は、詩人によつて「選ばれたことば」で、世を観ることを習つてきたのです。
 
さうして、鳴く鹿の声は悲しく哀れだ、散る桜は美しい、と感じてきたのです。
 
そのやうに詩に、歌に、誰かによつて、ことばで言ひ表されてゐなければ、ただ、鹿が鳴いてゐるだけであり、ただ、桜の花びらが時期が来たので散つてゐるだけとしか、人は感じられないはずです。
 
国語とは、価値観であり、世界観であり、人生観であり、歴史観です。
 
世は美しい。
 
その情を最も豊かに育むことができるのは、小学生のころ。
 
国語の風雅(みやび)を謳歌してゐる古い詩歌が、そんな教育を助けてくれます。
 
この世がどんな世であらうとも、子どもたちのこころの根底に、「世は美しい」といふ情が脈々と流れ続けるやうに、わたしたちができることは何だらう。
 
そんなことを思ひました。
 


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大阪・名張 言語造形公演『山月記』
11月30日(金)・12月1日(土)
https://kotobanoie.net/play/
 
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ことばの家 クリスマス公演・キリスト生誕劇2018
2018年12月25日(火)17時開演
於 大阪市立阿倍野区民センター小ホール
https://www.facebook.com/events/894100854122598/
 
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2019年1月開校!
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2018年10月27日

失はれ続ける風景に抗することばの芸術


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二日前の早朝、玉出といふ場所に降りて行く坂を歩いてゐて、西の空に落ちて行かうとする大きな、大きな満月に胸を衝かれる。
 
その坂は、大阪の上町台地の西南の端で、百何十年前からだんだんと大阪の海が埋め立てられていく前は、万葉の歌にも数多く歌はれてゐる住吉(すみのえ)の浜だつた。
 
それは、それは、美しい風景が拡がつてゐたであらう、「歴史的名所旧跡」である。
 
しかし、いま、かうである。
 
いま、落ちて行く望月を見ながら、目の前に張り巡らされてゐる電線と灰色の建物の群れを、こころの眼の前から追ひ払ふ。
 
 

住吉の岸の松が根うちさらし
寄せ来る波の音の清けさ (巻七 1159)

 
 
 
万葉の歌をもとでに想像する力をフルに使ふ。
 
さうすると、いまでも潮騒と海の香りと姫松並木、そしてその向かうに見えてゐた月が、浮かび上がつてくる。
 
失はれてしまつた風景。
 
文学といふことばの芸術を大事にしないと、人は容易に風景を壊し、そのかけがへのない美しさが失はれてしまつても、痛くも痒くも感じないやうになつてしまふ。
 
だからこそ、詩人によることばの調べをどこまでも尊重する教育を。国創りを。
 
 

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2018年10月25日

尊敬する存在


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平櫛田中作「養老」

わたしたちは、各々、尊敬に値する人をこころに持つてゐるだらうか。
 
もし、持つてゐないといふのなら、それは、しんどいことだ。
 
生きて行く上で、それはとてもしんどいことである。
 
人は、敬ひ、尊ぶ存在をこころにしつかりと持つてゐることで、人になるのだから。自分自身になるのだから。
 
人が人であることの感覚。
 
それは、他者を敬ひ、尊ぶことから、だんだんと育まれていく。
 
幼な子は、皆、この念ひを無意識に持つて生まれてくるのだが、小学校に入つて数年経つうちに、その念ひを失くしてしまふことがある。
 
大人になつて、その念ひを失つてしまつてゐる人は、自分自身の意志でその念ひを持つことができるやう、自分自身を導くことで、こころが健やかさに向かつていく。
 
 
 

日本に於いては、歴史の中で随分と長い間、人が人であることの感覚が育まれてゐた 。
 
それは、ひとりひとりの民が、各々、尊敬する存在を持つことで育まれてゐた感覚であり、延びてゆく道であつた。
 
生きていく上でのお手本を見いだすことで育つてゆく樹木であつた。
 
樹木が育つていくためには、上から陽の光と雨水が降り注がれなければならないやうに、とりわけ、子どもにとつて、そのやうな尊敬に値する存在が必要なのだ。
 
子どもは、尊敬する存在が傍にゐてくれることで、健やかに成長していく。
 
実は、大人だつて、さうである。
 
死者であり、また、それにどこまでも近い存在・・・。
 
さういふもののなかに尊敬する存在を自分自身の意志で持つことで、人は、己れのこころが健やかに浄められるのを感じることができる。
 
古来、日本の民は皆、強制されてではなく、どこまでもこころから尊敬する存在を己れのうちにいただいてゐた。
 
昔の日本人は、さういふ道を歩いてゐたのだ。
 
このことは、いま、これから、本当に強調されなければならない。
 
なぜなら、それは、これまでわたしたちが受けて来た教育では、意図的に全く教へてもらへなかつたことだからだ。
 
 
 
 
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2018年10月23日

垂直を仰ぐ


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人が、本当に、自分自身の力を発揮するには、水平的な現実や世間などをあへて視野の外にはずして、ひとりきりになつて徹底的に垂直を仰ぎ見続ける訓練をすること。
 
その訓練の内に、ゆつくりと、己れへの信頼が生まれてくることが、最近、だんだんと分かつてきたやうに思ふ。
 
己れの真ん中を貫いて樹(た)つ大いなる信を育てていく。
 
そもそも、すべての芸術や学問に於いて、この「垂直を仰ぐ」ことこそが何よりも欠かせない精神の態度だつたはずだ。
 
自分自身にとつて「垂直」とは何を指すのか。
 
それは、誰も教へてはくれない。
 
そこを常に自分で自分に問ふことで、澱んでゐたこころといのちが、ほとばしり始める。
 
 
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2018年10月18日

奮ひ立つ15歳のこころとからだ 〜中学校の体育大会〜


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長女が通ふ中学校の体育大会。
 
長女は中一ですが、来年卒業する中三の集団演技!これが圧巻でした。
 
全身全霊で声を出しながら、きびきびと、一糸乱れぬ正確さで、百人近くの生徒たちが集団で、幾何学的・芸術的な動きを披露するとき、竜巻のやうな「何か」が巻き上がるのです・・・。(感動しすぎて、写真を撮る暇がなかつた)
 
この日までの練習によつて、そして今日の本番をし終えて、15歳の人たちの胸にどんな感情が立ち上がつて来たことでせう。
 
その集中力、気合ひ、そして仲間への信頼感、結束力・・・。
 
観に来てゐた親御さんの誰もが感動してゐました。涙を流してゐた人もゐました。
 
こんな演技を観た下の学年の子たちは、どれほどこころに刺激を受けたことでせう。
 
この中学校はわたし自身の母校でもあるのですが、日々、娘からも聞いてゐましたが、本当に素晴らしい学校に変貌してゐました。
 
普通の公立中学校ですが、生徒たち自身が、卒業したことを誇りに思ふやうな、そんな人間的な学び舎であるなあ、そんなことを強く感じました。

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2018年10月16日

自分自身を健やかに忘れる


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10月13日に行はれた大海神社の秋の大祭の空。 

自分自身の弱点や痛みを真正面から見つめることは、人にとつて、大変苦しいことであります。
 
さうして、その見つめるところにまで辿り着き、それを認め、それを許し、それを乗り越えていくのに、人はとても長い時間を必要とします。
 
しかし、ややもすると、その内的な作業は、自分自身の内側ばかりを見ることに尽きてしまひがちです。
  
自分自身のことばかりにこだわつてしまふ。
 
さうして、やがて、そんな弱点や痛みなどは、自分自身の中にはないのだと、自分に嘘をつき、ごまかすまでになつてしまふ。
 
そんなとき、すべての芸術と同じく、言語造形の営みは、そのやうな自分自身の内側ばかりを覗きこんでばかりゐる意識のありやうを外側へ引つ張り出します。
 
言語造形では、ことばの音韻といふ、自然から授かつてゐる、とても客観的なものを素材とし、その素材に懸命に取り組むうちに、人は自分自身を健やかに忘れるのです。
 
ただ、その素材への取り組みは、やはり、法則に則つて進めて行かねばなりません。
 
無手勝流では、つひには、自分自身のくせから抜け出せない、いびつなものを産み出すばかりです。
 
法則といふ極めて客観的なものに則ることによつてこそ、その人その人の個性が初めて輝き出し、美しい主観が顕れてきます。
 
この仕事が自分に合ふかどうか、そんなことばかり前もつて考へて、自分のことだけが気になつてゐるのではなく、自分自身のことなど忘れて目の前に提示されてゐるものに懸命に取り組んでみるうちに、これまで思ひもよらなかつた自分自身と対面することになる。  
 
このことは、人のすべての仕事に共通することでもありますね。
 
もう、自分自身のこと、自分の性格や、自分の個性や、自分の好き嫌ひやを言ひ立てることではなく、「仕事」に向き合つていく、そんな爽やかな道が、きつと、あります。
 


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2018年10月09日

これだ


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「これもあり、あれもあり」ではなく、「ここからとあそこから、いいとこだけ取つて自分の役にたてよう」でもない。
 
「これだ」といふものを深めていく。 
 
自分たちのやり方、仕事の進め方、人生の生き方、それらが、ますます、明確なものになつてきたやうに感じてゐます。
 
現代人に多く見られる相対的なものの見方、生き方。
 
それは、大いにあつていいことだと思ふのです。
 
何事も比較して、検討して、そこから良きもの、役立つもの、得するものを取り入れる。
 
そんな生き方は、現代人にとつては当たり前に近い感覚でせう。
 
しかし、それは、どこか、自分自身のこころに対する信頼のなさに裏打ちされてゐるありやうに感じられる。
 
さういふ生き方とは、また違ふ、もう一つの生き方もあつていい。
 
「これだ」といふものを深めていく。
 
そのやうなあり方は、ときに、なだらかでない、不器用さが表立つやうなことにもなるでせう。
 
お洒落でもなく、垢抜けないたくさんの時期もくぐらなければならないでせう。
 
しかし、どんな世界にも、「これだ」といふ次元があり、その「これだ」の奥へ、奥へと入つていくことによつて、そこには思つてもみなかつた豊穣な沃野が広々と拡がつてゐることに、人は驚異と畏敬と尊崇の念ひにうたれるのです。
 
依怙地になつて言ふのではないのですが、己れのうちに「これだ」といふものを深めていく絶対の力をもつこと。
 
そしてそのためには、自分なりの意見だとか、自分なりのやり方をいつたん捨て去り、自己を空つぽにして学ばうとする謙虚で素直なこころの力が必要です。
 
我流ではなく、世の法則に沿ふことです。
 
亜流とは、全くの素人から生まれるのではありません。
 
道に好意を寄せてゐる人々。しかし、そのやうな人々のうちに潜む軽薄から、もしくは己れを見つめ切らうとしないごまかしから、必然的に生まれます。
 
ただ、亜流はいくらあつてもいい。
 
しかし、しかし、本流を細らせてはならない。枯らせてはならない。
 
本流を生きるのは、「これだ」を生きる者です。
 
自分なりのやり方をおいておき、世の法則に沿ふ道、さういふ科学的・芸術的・宗教的な道を歩くことの健やかさを、これからはいっさう意識的に生きていきたいと思ふのです。
 

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2018年10月06日

三つの次第

 
大人になつてゐるわたしたちにも、その成長に於いては三つの段階があるやうに思ひます。そしてその三つは、何歳になつても混じりあつてゐるやうです。
 
一つ目。
それは、あるがままの自分自身を嘘偽りなく受け入れ認めること。
 
世の趨勢は、多く、この一つ目のことに意識が向かつてゐるやうに感じます。それだけ、わたしたちの多くが、自分自身を自分自身で肯定できないことに苦しみを抱えながら生きてゐる。
 
しかし、このことがこれほどクローズアップされてゐるといふことは、とりわけ、この日本といふ国が変はり始めてゐるといふことでせう。つまり、この国自体が、己れを己れで認められない宿痾から抜け出し、新しい自己像を描き出す、そのスタート地点に立つてゐます。国の変容とひとりひとりの変容は、きつと、重なりあつてゐます。
 
わたしたちひとりひとりも、この一つ目を、この人生に於いて、きつと、成し遂げていきます。
 
二つ目。
それは、新しく見いだされた(想ひ起こされた)自分自身から、新しく湧き上がつてくるものを、自分自身で見いだし、それが発展していくことを喜ぶことができること。
 
それは、ひとりひとりの人には無尽蔵の創造力が秘められてゐるといふことに気づき、ひとりひとりの人がその力を汲み上げていく方法を知る、といふことです。
 
「あるがままの自分」を知るだけでは、人は満足できないやうです。
 
己れを肯定し、己れへの信頼を育んでゐる人は、きつと、己れの内から何かが産まれたがつてゐるのを感じる。そして、ときが熟し、何かとの、誰かとの出会ひの中で、人は己れの内なる創造力の存在に驚き、喜びを見いだすことができる。
 
そんな二つ目の次第に、いま、多くの人が目覚めるときが来てゐるやうに感じられて仕方がありません。
 
三つ目。
それは、おのおのが歩む人生の道の上で、人は先達を探し、師に就き、己れの創造力を専一に磨いていく。そこに至つて初めて、志といふものが人の生に通ひだす。志といふものに沿つて、己れを導き、道を歩み続ける。喜びも苦しみも悲しみも、すべての情が洗はれ、濯がれ、ただ毎日、道を歩むことだけが、生きることの真ん中に位置してきます。その道に、終はりはありません。
 
人は、この三つの次第を行き来しながら、生きてゐるやうに思はれるのです。
 
わたし自身も、この三つを行き来しながら、つひに、三つ目を目指して「ことばの家」をしてゐます。
 
そして、三つ目を目指す人よ、集まれ、といふ覚悟が生まれてきたことも、わたしにとつてのよろこびです。
 

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2018年09月23日

前夜の準備


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仕事をする上でわたしが大切にしてゐることのひとつに、前日の晩、眠る前に、次に日に会ふひとりひとりの人のお顔、姿、声、表情などを親しく想ひ浮かべるといふことがあります。
 
さらに、そのおひとりおひとりの後ろにをられる、目には見えない存在の方々とわたしの仕事が結びつくやうお祈りをします。
 
ちょつと、ぎょつと思はれるかもしれませんが、そのやうな精神の世の方々との共同作業こそが、これまでのわたしの仕事を支えてきてくれたやうに思ひます。
 
また、メルヘンや昔話を、夜寝る前に改めて味はふことがとてもよくて、その行為によつて、お話しの中に息づいてゐる精神の世の方々との協働が翌日生まれます。
 
例へば、グリムメルヘンの『ルンペルシュティルツヘン』。
 
夜の間に藁(わら)を紡いで金にすることができる小人、ルンペルシュティルツヘン。
 
メルヘンを味はふ、わたしの内なる藁を、金に変えてくれる。
 
願ひではなく、そんな確信をもつての前夜の準備です。
 

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2018年09月05日

嵐のあとの万代池


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一夜明けて、すぐ近くの万代池の様子。
 
唖然とした。凄まじい。
 
こんな万代池を見るといふことが信じられない、と通りがかりの人(同じ年代で、わたしと一緒で生まれた時から同じこの地域にずつと住んでゐる方)と話しした。
 
子どもの頃から見慣れ、親しんでゐたこれらの樹木が倒れてしまつた。

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2018年09月04日

風の神の物凄さ 〜台風21号〜


こんな凄い台風は生まれて初めてでした。
 
家の窓のガラスが風圧で湾曲してる!(古すぎる家で雨戸が閉まらない!)
 
猛烈な風の音と共に、家がきしんで悲鳴を上げてゐる!
 
二階の大きなトタンの屋根と木の庇が吹っ飛んで、空にぐるぐると舞いあがつてゐる!
 
天井から雨水が流れ出してゐる!
 
家族四人で、家にゐながら、まるでボロボロの一艘の舟に乗り込んで荒波を越えながら懸命に航海してゐるやうな(ちょつと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)、そんな三時間でした。
 
娘たちも窓ガラスにテープを貼つたり、床に溢れ出る雨水を拭き取つたり、懸命に働いてゐました。
 
嵐が過ぎ去つたあと表に出てみると、驚きました。
 
お隣の家や家の前の道路に、何枚もの全長四、五メートルあるトタン屋根や、バラバラになつた木材や瓦が散乱して、車が通れなくなつてゐます。
 
しかし、まだ雨の降る中、次々に近所の方々が出てきて下さり(通りがかりの人も)、片づけを手伝つてくれました。
 
自然災害に遭つたときのために、色々な用心を前もつてしておかなければならないのですね。わたしは、台風のことを甘く見てゐました。
 
またこんな時にこそ、人の暖かさを感じることができて、日頃のご近所様とのお付き合ひがあるからこそだと(特に我が家では妻が気を配つてくれてゐます)、強く念はされました。
 
汗まみれ、泥だらけの一日でした。

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2018年09月01日

仕事と暮らしの関係


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絵:東山魁夷『緑響く』(1982)

言語造形の舞台をしてゐて、どうあがいてみても、美しく歌ふことができない時があります。
 
準備も重ねてきたし、意識の上でも前向きになつてゐるのに、どうしてだらう・・・。
 
しかし、本当は分かつてゐるのです。
 
生活に原因がある。毎日の生活のなかで重ねられていく意識はやがて無意識の底に沈められていきますが、その沈められてゐるものの質に原因がある。
 
生活がまつすぐになつてゐない。生活の中で余計なことをしすぎてゐる。余計なことを思ひすぎてゐる。
 
そして、作品に対するまごころ、ことばに対する敬意への意識がどこか不鮮明になつてゐるのです。
 
かういふときに、立ち戻る場所のひとつとして、わたしには昭和の文人・保田與重郎のことばがあります。
 
全集第二十巻にある『古典論』を開いてみました。
 
ーーーーーーー 
心持が如何にことばの風雅(みやび)の上に現れてゐるかは、心持の深さや美しさのものさしとなるし、作者が神の創造の思想に達してゐる度合のめもりである。
 
かくして言葉に神のものが現れるといふ言霊の風雅(みやび)の説、人各々の精神の努力と誠心とから遊離せぬものである。
 
人各々の心にある神が、ことばにも現れたときに、その歌は真の美しい歌となるといふ意味だからである。
 
我が内に鎮(しづ)まる神が現れることは、かりそめの誠意ではあり得ないことであつた。
ーーーーーーー
 
與重郎のことばは、わたしにとつて清潔で志の通つた山であり、谷であり、川であり、海であります。そこに帰つていくことで、わたしは漸くそのことばの内に宿つてゐるいのちの泉から清冽な水を汲み、喉を潤すことができます。
 
ただ、何度も、よく読まなければなりません。
 
ことばに沿つて、ことばのうしろにある、ことばの真意をとくと味はひ、骨身に徹して感じることは、実はそれほど易しいことではありません。
 
わたしといふひとりの人間。
 
その暮らしのひとこま、ひとこまに、どのやうなこころが抱かれ、育まれてゐるのか。
 
美(まこと)は、いかにして、我が身を通して生きうるものなのか、醜(うそ)は、なにゆゑ、我が身に忍び寄り、寄生しようとするのか。
 
「かりそめの誠意」ではなく、自分の、まごころとは。
 
稽古を毎日し続け、舞台に立ち続ける、といふことによつてこそ、暮らしの中で育み続けることのできるこころの領域。
 
ここでの、「稽古」「舞台」とは、すべての人に通じる「仕事」のことであります。
 
どんな険しい経験も、新しい認識となつてくれるといふことは、何とありがたいことでせう。
 

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2018年08月23日

本番

 
本番の舞台があるといふこと、試合があるといふこと、決戦があるといふこと、試験があるといふこと、それらは、本当にありがたいことである。
 
それらがあるからこそ、人は本気になつて努力することができる。
 
根本的には、他人に認められることを求めて努力するのではない。
 
人は、本気になつて、自分自身を生き切りたいのだ。
 
神とこそ交はりたいのだ。
 
練習のための練習では、埒があかない。
 
数知れず失敗を繰り返しながら、準備を重ね、本番に挑み続ける。
 
その連続こそが、人を成長させる。
 
だから、打ち続く暮らしの中に、常にどこかに本番を設定することが、よいやうに思ふ。
 
もつとも、世が、必ずそのやうな舞台を用意してくれてはゐる。
 
そのやうな舞台をそのつど決戦と見据えることができることが、たいせつだと思ふ。

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2018年08月22日

己れのことばを持つ人

 
ことばは、人に考へがあることを知らせる。
 
感情があることを知らせる。
 
欲求があることを知らせる。
 
そして、希ひがあることを知らせる。
 
その希ひとは、精神からのものであることもある。
 
ことばは、人に精神があることを知らせてくれる。
 
だから、己れのことばを持つ人は、自分自身の考へや情や思ひを精確に表現することができるやうになつてゆくだけでなく、自分自身の内側にある豊かなもの、無尽蔵なものに気づくことができるやうになつてくる。
 
そもそも、人とは、ことばを持つことによつて、<わたし>といふものに気づいていくことができ、<わたし>といふ人になりゆくことができる存在なのだ。
 
考へがあつて、ことばにするのではない。
 
ことばを発し、聴くことから、人は、考へることを習ひ、覚えへていくことができる。 
 
ことばの発し方、聴き方に習熟していくほどに、己れの考へ方が明瞭になり、深まり、繊細になる。
 
だから、「はじめにことばありき」であり、とりわけ我が国は、「言霊の幸はふ国」である。
 
日本語を話すといふこと。日本語を深く聴きとるといふこと。
 
国語力といふものが、人が人になりゆく上で、どれほど、たいせつな力か。

「ことばの家 諏訪」では、自分自身を、そして子どもたちをことばを持つ人となるべく育てていく、そんな働きをしていきたいと希つてゐる。
 


※これらのことがらについて深めたい方は、ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学(鈴木一博訳)』第九講をご参照ください。
 





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2018年08月20日

普通じゃない我が家?


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うちは、「ことばの家」なるものを屋号にして、言語造形といふ芸術をなりはひにしてゐるやうな変はつた家。
 
大人である私や妻にとつては、そのやうな家にすると自分たち自身で決めたことだから問題はなんらない。
 
だけど、娘たちにとつては、学校の友達たちの家庭と随分と毛色の変はつてゐる我が家のありやうが、ときに恥づかしく感じたりもする。
 
娘たち曰く、うちは「普通じゃない家」。
 
思春期に入つて来た中一の長女にとつては、特に、そんなことを敏感に感じたりしてゐると思ふ。
 
そんな娘たちが帰ることのできる神奈川県の祖父や祖母のところ。
 
そこには「普通の暮らし」があつて、テレビも観ることができるし、買い物をしにドライブにも連れて行つてもらへるし、羽も伸ばすことができる。
 
「普通じゃない」我が家のあり方と、さうでない「普通のあり方」との両方を体験できること。
 
娘たちにとつて、わたしたち夫婦にとつて、それは、ありがたいことだと思つてゐます。
 
満たされた顔で、娘たちが一週間ぶりで大阪に帰つて来ました。
 
お義父さん、お義母さんに、感謝・・・。


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posted by koji at 08:56 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする