2021年02月26日

遊び、その自由と美と耳を澄ますこと



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雑誌「モエ」の3月号、ミヒャエル・エンデの「モモ」の特集号。


「特別ふろく『モモ』史上初のクリアファイル」なる宣伝文句の意味の不可思議さにはてなと思ひながらも、そこに収録されてゐるエンデの昔のインタヴュー記事にまた深く感銘を受けたのでした。


「芸術といふものは、最高の意味における『遊び』なのだといふこと、そしてその遊びの本質は、『美』といふ質的シンボルを目指してゐる」といふ彼の芸術観に、まこと、意を深くするのです。


しかし、その『遊び』に通暁することが、がちがちに頭と体を固めてしまつてゐるわたしたち現代人には、ことのほか、難しいのです。


『遊び』には、必ずルールといふものが必要なのですが、ただ肝心なことは、昨日には昨日のルールがあり、今日には今日のルールがあつて、それは、その都度、自由に書き換へられるといふことなのです。


しかし、毎日変はるからといつて、でたらめなのではない。ちゃんと、その日その日のものとことをしつかり見て取つてゐて、そこに素直に順応して行くからこそ、その『遊び』は、いつも活き活きと弾みつつ、その『遊び』ならではの本質は決して失はれないのです。


「芸術」とは、そのやうなファンタジーといふシンパシーに基づいた大人の『遊び』なのです。


その『遊び』を遊びとして担保するものの要のものは、自由であり、「美」に向かふといふことであり、さらにまうひとつ挙げるとするなら、それは、互ひに互ひを聴き合ふ、耳を澄ますといふことではないでせうか。


長野県の信濃町黒姫童話館といふエンデの資料館にもなつてゐるところで、エンデが亡くなつて四年後の1999年の夏のある日、子安美知子さんのご紹介、師鈴木一博さんの演出のもとに、一柳慧作曲のオペラファンタジー『モモ』に出演させてもらつたことを想ひ起こしました。わたしは、床屋のフージーさんと吟遊詩人のジジ、二役でした。


そのオペラのパンフレットに鈴木さんが書かれた素晴らしい『モモのあらすじ』があります。その一部をご紹介したいと思ひます。


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モモがそこにゐると、仲たがひをしてゐる大人たちにも、いつかは仲なほりの道が見えてきたし、こころから遊ぶことに飢えてゐる子どもたちにも、ひとりでに遊びがわいてきたし、歌を忘れたカナリヤまでが、歌を思ひ出して鳴くやうになつた。


といつても、モモには、特別なことができたんじやない。モモは、ただ、そこにゐるだけ。いや、ゐるだけでもなかつた。おそらく、モモの友だちには、かういふことも、分かつてきてはゐないだらうか。


モモがゐるやうに、自分もゐあはせてゐると、かすかに響くいろいろな音が、いつの日か、はつきりと聞こえるやうになつてゐる。雨の時にも、風の時にも、蝉や、こおろぎの鳴き声にも、草木のたたずまひにも、大地の静けさ、青空の深み、星空のきらめき、そして人といふ人にも。


いろいろなものが、かすかに、いつだつて、響きをかなでてゐる。


でも、その響きは、耳に聞こえるやうでゐて、本当はこころに響く音だつた。


人が、時間や、音楽や、言葉と呼んでゐるものも、もともとは、その響きのことだつた。


モモに起こつたことは、これからも、いろいろなところで起こるだらう、それぞれどの人にも起こるだらう。


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さう、モモに起こつたこと、それは、人と人との間に織りなされる『遊び』、そして、そこに秘められてゐる豊かさ、美しさ、尊さだつたのです。

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2021年02月22日

春よ 来い はあやく 来い


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大阪の住吉、万代池にも春が近づいて来ました。


しかし、今年、「春よ 来い はあやく 来い」といふ歌を、四季の巡りだけでなく、「こころの巡り」としても、切実に歌つてゐます。


「こころ」とは、「人のこころ」です。


わたしたちは、ますます、その「人のこころ」を、「人のこころ」の次元で見てはゐられなくなつてゐるやうに思はれてなりません。


「人のこころ」を、精神・靈(ひ)の次元で、観たいと思ひます。


さうすることは、こころを健やかに、力強く、確かに、柔らかく育てて行くことに助けになるのです。


精神・靈こそが、こころの糧だからです。


その精神・靈のリアリティーを覚えて行く、そんなこころの春の始まりです。




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「知ることの細道」の章から


どの葉も、どの虫も、わたしたちに数えきれない秘密をあらわにするようになるのは、それらに、わたしたちの目だけでなく、その目をとおして精神が向けられているときである。


どのきらめきも、どの色のニュアンスも、どの音の調子も、目と耳にとっていきいきと覚えられるままでありつづけ、なにも失われはしない。ただ、それらに加えて、限りのない新たな生きるが得られるようになる。


ルドルフ・シュタイナー『人と世を知るということ テオゾフィー』(鈴木一博訳)


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2021年02月16日

文字を手書きで書く時のこころもち




毎日、日記といふか、読書ノートといふか、そのやうなものをノートに手書きで書き続けてゐます。


もう三十年以上だと思ひます。


書くときに意識してゐることがあつて、それは、何もまだ書き記されてゐない頁に文字を書き記さうとする時、部屋の空間のありやうを感じ取ることです。


その場の広さ、高さ、気温の寒暖、湿度、その空気のありやう、さういふものを感じながら、右手にペンをとつて、文字を書き連ねて行くのです。


ペン先と紙のページとが擦り合はされ、心地よい滑らかさでペンは紙の上を運ばれて行きます。


そして、その運びが、上から下へと、縦の方向になされる書法は、きつと、アジア地域、とりわけ、東アジアに特有のものではないでせうか。


上から下へと書き下ろして行き、また、上へと戻つて、下へと向かふ。


その運動は、まるで、天と地の間の往復のやうです。


ことばを話す、言語造形の練習の時に、天と地の間を行き来するかのごとく、息遣ひの練習を歩きながらするのですが、かうして毎日ノートに縦書きで文字を書く時にも、天と地を行き来する運動を引き継いでゐるやうに感じながら、書いてゐます。


部屋の中において、その部屋の空間の様々なものを感覚しながら、深い息遣ひと共に、文字を上から下へ書き下ろして行く。


これは、直立して存在してゐる人の精神の理法として矛盾のない、息遣ひの運動、命の脈動と機を一にするものなので、きつと、言語造形と同じく、文字の縦書きは人を健やかにするのではないかなと思つてゐます。


書を嗜む人などは、このことを深くリアルに感じてゐるのではないでせうか・・・。





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2021年01月27日

勉強といふ美しい気風


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昨日、和歌山のお墓参りに行つたので、一年半ぶりに南海線の和歌山市駅に降り立ちました。


すると、去年の六月に出来たといふ和歌山市民図書館が駅に隣接してゐました。


わたしの管見では見たことのない立派な図書館で、一階にはカフェや書店、文房具店、和歌山の郷土品店などがあり、4階建てのそれぞれの階の天井高い書棚には、膨大な書籍が美しく収められてゐます。


また、なにより、印象的だつたのは、多くの若い人が一生懸命、本を読みつつ、「勉強」してゐる姿でした。


もちろん、色々な人がゐるのでせうが、さういふ多くの若い人の姿が目に映りました。


日本人の特質のひとつに、「勉強」することの喜びを知つてゐることがあります。


猛然と勉強をする若い人が出てくればくるほど、この国は安心です。


さういふ人が、この国を安らかで力強い場所に創りなしてゆくのです。


そして、さういふ場所であるからこそ、子どもたちは安心して成長して行くことができるのです。


遥か古代から、昭和の初期まであつた、そんな美しい気風が甦つてくるやうに、こころから願ひつつ、大阪に帰つて来ました。



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亡くなつた方々との繋がり


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昨年、思ふやうに行くことができなかつた和歌山への墓参り。


十四年前に亡くなつた父、そして祖母と叔父が眠る墓なのですが、申し訳ないといふ思ひが積もつてゐました。


しかし、今日、小春日和の中、やうやく、お参りすることができ、ほつとしました。


このほつとする気持ちはどこから生まれてくるのだらうと、いつも墓参りをするたびに思ふのです。


それは、おそらく、墓参りをすることの義務を果たしたといふことではなく、亡くなつた方々と繋がることから来る、安堵感なのではないかな、と感じます。


いつも墓参りのたびごとに感じることなのですが、精神・靈(ひ)の国に帰つてゐる人は、この世にゐる時よりも遥かに浄められ高められ透き通つて、いまも、生きてをられる。


その清らかで慈しみに満ちてゐる高い情が、この世にこころ貧しく生きてゐるわたしを包んでくれるのです。


日本は、やはり、ご先祖崇拝を信仰心の基とし続けて来てゐる国なのだと思ひます。それは、きつと、仏教がこの国に流入して来る遥か以前からのものでせう。


墓を守る、といふことがだんだんと難しくなつて来てゐる、昨今の状況だと思ひます。


ただ、亡くなつた方々、特に先祖の方々の連なりの果てに、いま、かうして、わたしはここにあり、それらの方々は、この世に生きてゐるわたしを暖かく見守つて下さつてゐることを想ひ起こすよすがを持つことが、安らかさを我がこころに与へてくれるといふことは忘れない方がいい。


さう、改めて思ひました。

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2021年01月18日

通訳藝術道場 【シュタイナー学校の先生のための英詩講座】



外国語を学ぶ、といふこと。


わたしも27歳の時に、アフリカのケニアとタンザニアに一年間暮らして、スワヒリ語を一から学びましたが、その時の毎日は本当にエキサイティングでした。


何がこころ沸き立たせるかと言ふと、新しい言語を覚え、その言語を用ゐる際に、おのづから、こころを籠めてことばを聴き、話すことでした。そこに、全注意力を注ぎ込まざるをえなかつたのです。


日本に帰つて来て、一年も経たないうちに言語造形に出会つたのは、決して偶然ではないのでせうね。


注意深くことばを話す。それは、一音一音を大切にするといふことでもあり、ことばの抑揚、強弱など、音楽的な要素に自分の身もこころもおのづから沿はせようとすることにもなります。


そのことは、その外国語でお喋りできるやうになるといふことではなく、母国語とは異なる趣きの美しさをその外国語から汲み取るといふことへと道が続いて行くのですね。


その美しさには、その国、その民族の生き方のスタイル、姿勢が脈打つてゐて、そのスタイルを学ぶ(まねぶ)ことによつて、人は自分自身の内側にある多面性、多様性と共に固有性にも改めて気づかされたりもします。


そのために、詩といふ言語芸術の粋を原語で味はふことに取り組んでみる。


通訳藝術道場の修練長、冠木さんによつて広く開かれる学びの門から続く道は、民族を超えて、国を超えて、地域を超えて、価値観の違ひを超えて、自他の境を超えて、ことばで生きて行かうとする人にとつて、想ひ出したい一筋の命脈のやうに、わたしには感じられます。


なぜならば、学びとは、そもそも芸術的行為だから・・・。そして、通訳をするとは、ことばの芸術なのだから・・・。


【シュタイナー学校の先生のための英詩講座】


アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



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2021年01月08日

美の後ろに通ふ愛


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ここ数年、わたしの言語造形の活動にクラリネット吹奏でお手伝ひ頂いてゐる、小西 収さんと昨年の暮れ、いろいろと話しをするために箕面に赴きました。


箕面は山がすぐ近くにあり、清々しい空気にいつも包まれてゐる街で、阪急電車に乗つて行くのがいつも楽しみな場所でもあります。


その時も、話してゐて興趣尽きることなく、午後の陽もあつといふ間に落ちて行つてしまつたのですが、彼が話してくれた様々なことがらのひとつに、御自身の音楽活動「トリカード・ムジーカ(音楽の編み物)」での指揮活動についての話がありました。


ご自身の音楽活動が、どこか柳宗悦の「民藝運動」と重なりはしないか、と思ひ続けてゐるがゆゑに、その活動を「楽藝」と名付けてゐるのです、といふ話をしてくれました。


その時も、話は深まつてゆきました。


指揮者は当然、肉体を持つて指揮をします。


けれども、さうでありながらも、まるで、そのからだが透明になつてゆくかのやうに、こころと精神の存在となることを強烈に意識し、実現すること。指揮者が音楽の精神そのものとなること。


そして、楽団員は、無意識的にせよ意識的にせよ、精神に沿つて演奏をすることへと導かれて行く。


そのあり方は、柳の言ふ、工人たちのひたすらな繰り返しの作業を導いていくのが「仏」であり「神」である、といふことと、一脈通じてゐるのではないか。


連続・持続された人の意欲・技量の熟練からこそ美は生まれいづる、そのことへの信仰、その信仰の対象を「仏」「神」などといふことばで言ひ換へ、柳は何度も何度もその美の秘儀の次第について書き綴つてゐます。


その時、工人たちは、「わたくし」の小賢しい意図から自由になり、仕事の連続から立ち現れて来る「仏」「神」に導かれて制作を進める。


さういふ「民藝」における精神のありやうと軌を一にして、小西さんは、ご自身と楽団員たちが共に、音楽の「仏」「神」に導かれるやうな自由な(!)美しい精神のあり方を夢見てをられる。


そして、小西さんは、何かどこか遠くを目指すやうなものではなく、その場その場の人と人との集ひそのものをたいせつにしたい、さう語つてくれました。(大雑把な言ひ方でゴメンナサイ、小西さん😓)


わたしは、様々な刺激と気づき・目覚めをもらつたのです。


小西さんが昨年の六月に書いたブログの記事『柳宗悦「工藝の道」』に、柳の素晴らしい文章の抜粋が書き取られてゐます。最後に、その中から、ふたつの文節をここに載せさせてもらひます。


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「多」と離れることによって「孤」を守るべきではなく、「孤」を「多」の中に活かさねばならぬ。
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美しい工藝には、いつも協団的美が潜む。離叛と憎悪との社会から、美が現れる機縁はない。美の背後には何らかの意味で愛の血が通う。神への愛、人への愛、自然への愛、正義への愛、仕事への愛、物への愛、かかるものを抹殺して美の獲得はない。
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※写真は、ここ十年ほど、わたしが毎日こよなく愛用してゐる「出西窯」のマグカップ。「出西窯」は島根県出雲市にて、民藝運動の精神を受け継ぎ、70年以上、日々、暮らしの器を作り続けてゐます。掌に包む時の独特の暖かさ、唇に触れる時の人懐こい懐かしさ。このマグカップのお蔭でわたしは、毎朝、ほのかに、しかし確かに、幸せを感じてゐます。




アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

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2021年01月03日

恐怖から自由になり根本から考へる


松田政策研究所チャンネル『号外【ニュースを斬る!】上久保靖彦先生から国民及び菅政権へのメッセージ』



お正月、実家にゐると、テレビがついてゐて、それを観てますと、メディアや一部の政治家が「感染者数最多!」と毎日煽つてますね。


テレビを観てゐると、いつしか、そんな世間の雰囲気に知らず知らず呑まれてゐる。


わたしの姪(大学生)がコロナウイルス感染の疑ひありでPCR検査を受けたとのこと。結果は陰性だつたさうだけど、なんと、費用が2万円近くかかつたとのこと。ははあん、そりゃあ、これだけ「PCR検査やれやれ」といふのも何か裏があることを考へさせられるではありませんか。


煽りによる恐怖。


全体主義が人々を手玉に取らうとする、いつもの手です。


この26分の動画、気休めなどでは全くなく、精確な知見を基にしたものです。


煽りによる恐怖からこころを解き放つことが、まづ必要だと痛感しますね〜。


その安心こそが、ひとりひとりの免疫力を上げて行く底力になります👍


獲得された集団免疫を維持するために曝露(ばくろ)を続けることが大事であること。


過度に恐れる必要は全くないこと。


日本政府は、メディアによる煽りを信じることなく、大きな勇気をもって実際に日本を世界に開放するべきであり、さうすれば普通の生活に戻ることが可能になること。


これ以上、夢うつつでゐないで、目覚めることが必要だと思ふなあ。

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2021年01月02日

宇宙に拡がりゆく螺旋


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ルオー『ピエロ』


意識を持つ者にとつて、「ある」とは「なりゆく」ことであり、「なりゆく」とは「変はりゆく」ことであり、「変はりゆく」とは「稔りゆく」ことであり、「稔りゆく」とは「みづからを限りなく創りゆく」ことである。このことばは、昔どこかで読んだフランスの哲学者ベルクソンの書いたものだつたと思ひます。


「ある」「なる」「変はる」「稔る」「創る」といふこれらのことばは、ひとつの道の上にあり、その道は季節の巡りのやうにぐるぐると螺旋状に回りながら上昇していくやうです。


そして、その螺旋の道を超えて遥か遠くに、静かに鳴り響いてゐる、まうひとつのことばがかすかに聴こえるのです。


・・・「捧げる」・・・。



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2020年12月31日

令和二年を終へて


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秋の暮れの、和歌の浦の海


―――――
吾(あれ)、父のことよさしのまにまに
このたびこそ
海原(うなはら)しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸(さき)ははせむ


いくたび泣きいさちきか
いくたび青山枯らしきか
いくたび母を求めしか


さはあれ
このたびこそ
海原しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸(さき)ははせむ
―――――


これは、昨年の今日、書いたものなのですが、この一年、わたしはこの詩をずつとこころの奥で歌つて来たやうな気がします。


そして、お恥ずかしい話ですが、その甲斐あつてか、母を求めて泣きじゃくつてゐた、わたしの内なる「男の子」「スサノヲノミコト」はおほよそ一年かけて涙を流し切り、いまは、まう、陽の光を浴びて笑つてゐます。


そして、帆を上げて、新しい海原(うなはら)に向かつてゐます。行き先はどこだか分からないのですが、船は出たことを感じます。


昇つて来る朝日に向かふやうな感覚です。自分自身を信じて、拙いながらも我が仕事によつて、世が弥榮に榮へゆくことに少しでも仕へたい、といふ希みをどんどん自分の内側で育てて行きたいと思つてゐます。


八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


今年、お世話になつた皆様、本当に、こころよりお礼を申し上げます。どうも、ありがたうございました。




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2020年12月27日

2020年 立ち止まるといふこと



「ロックダウン」などといふ政策は、世の冷凍化、硬直化、そして分断を促したい悪の力によるものであり、そもそも、このウイルス「禍」は、その悪の力からの攻撃だとわたしは視てゐます。悪は実在してゐます。


しかし、さういつた悪の思惑が、逆に善を目覚めさせる可能性があるのですね。


今年、令和二年、2020年は、生活がこれまで通りにできなくなつた一年でした。

しかし、さうなることによつて、からだもこころも立ち止まらざるをえない。からだとこころが忙しく動き回ることをやめた時こそ、精神が登場する。精神の目覚めが生まれる。


それは、悪が目論んだことがいつも裏目に出ることの、ひとつの証左です。


からだとこころが立ち止まらざるをえなくなる時、それまで抱いてゐたこころの奥底にあつたもの、隠してゐたものが表側へと噴出してくる。恐怖に駆られる人もゐるでせうし、腹が座る人もゐるでせう。自死せざるをえなくなる人も出てくるでせう。


この精神の目覚めへの促しは、今年、全世界的に、強制的に、起こつたことですので、これは、まさに、人によつては天恵にもなりえるし、この上ない災難にもなりうるのです。


そんな中でも、いや、そんな中だからこそ、人が求めてゐる本当のものは何だらう、と問はざるをえないのです。


こころの強さ、ではないだらうか、とわたしは、いま、考へてゐます。こころの強さからこそ、生命の健やかさ、社会の健やかさ、健康が得られるのだから。


こころの強さとは、どんなことがあつても柔軟に精神(靈・ひ)に向かふ力ではないでせうか。それは、時に、からだを超える力です。それは、大変厳しい力です。しかし、精神(靈・ひ)こそが、生きていく意味と希望と意欲をもたらすものだとわたしは思ふ。


弱さを認めること(神が与へた人類普遍の女性性)と、強さを育むこと(神が与へた人類普遍の男性性)は、どちらも大切なことです。しかし、こころの強さを育むこと、生きることの意味を己れの内側で育てて行くことができること、精神(靈・ひ)に向かふことができること、それは、人類の文明を支える大きな礎です。


いま、文明が危機に瀕してゐることを明確に意識してゐる人は、少数かもしれません。しかし、その危機を乗り越えることがなされなければならないと考へ、ひとりひとりが何らかの仕事を意識的にして行けばこそ、若い世代へと何かが伝はります。


少なくとも、「若い世代の方が目覚めてゐる」などと、大人が言つてはならないと思ひます。大人ならば、先に深く明らかに目覚めてゐなければならないと、わたしは信じるのです。


令和二年・2020年、わたしはしつかりと立ち止まることができただらうか。そして、新しく目覚めることができただらうか。


さう言へば、今年読んだ文学は比較的、長編ものが多く、いずれも、世から押し寄せてくる困難や不条理を前にして、逃げ惑はずに立ち止まり、立ち向かひ、死生の境を超えて、精神(靈・ひ)の道を切り開いて行つた人の物語であり、評伝でありました。自分たちの時代ならではの観点を標準にせずに、物凄い人・精神の人が存在したのだといふことを知ることのできる文学でした。


最初から最後まで声を出して読んだ『平家物語』、シェイクスピアの四大悲劇、ゲーテの『ファウスト』、ノヴァーリス全集、盲目に陥つた本居春庭(宣長の子息)の評伝『やちまた』、トーマス・マンの『魔の山』、サマセット・モームの『月と六ペンス』・・・。


立ち止まり、考へるといふこと、自分にとつて本当に大切なことは何かと問ふこと、自力で答えを探し求めること、待つこと、精神(靈・ひ)に目覚めること。


これらのこころの力は、この混乱期を通して培ふことのできる大切なこころの力ではないでせうか。

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2020年12月25日

メリークリスマス



昨日、友から電話があり、不条理のまつただ中に彼が立たされてゐることを知らされた。


彼の話を聴きながら、そんなことがこの世にあつていいのか、と思つた。


どうして、生きて行く上に、こんな悲しみが訪れるのだらう。悲しみは、いつたい、何をわたしたちに教へてくれようとしてゐるのだらう。


電話の最後に、しかし、彼は「メリークリスマス」と言つた。


メリークリスマス。メリークリスマス。メリークリスマス。


静かで、聖き夜が訪れますやうに。

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2020年12月08日

星の世へとこころを繋ぐ



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窓の外は、お天気だけれども風が強く雪が積もつてゐます。三沢基地に離着陸する戦闘機の飛翔音がします。


青森の三沢市「三沢のみんなのお家」中川塾に住み込ませてもらひ、言語造形とオイリュトミーの稽古、生徒さんたちへのレッスンと講義、そして勉強に明け暮れてゐます。夜は語らひと笑ひと酒ですが((^^ゞ)・・・。


いま、人々を不安と疑心暗鬼の泥沼へといざなはうとしてゐる世界中のウイルス「騒ぎ」。大きな大きな政治的混乱。


そんな中、みんな疲れてゐます。


固くなつてしまつてゐる頭、冷たくなつてしまつてゐる胸、萎えてしまつてゐる手足。人は何かに縛られ、臆病に、幽霊のやうにあつちへ行つたり、こつちへ行つたりしてゐるやうです。


その疲れは、精神の世と繋がつてゐないことから来る疲れです。


わたしたちが、ここでしてゐる仕事は、ことばとオイリュトミーといふ動きの芸術をもつて、人と精神をしつかりと繋ぎ、精神からその人その人の生命を甦らせようとするものです。


精神的な生命は、憎しみや恐れや疑ひを燃やし尽くし、人のこころを再び星の世へと届けます。


ことば。


それは、そもそも、炎でした。精神の炎でした。邪悪なものを燃やし尽くし、人に目覚めを促す意欲的な創りなす力でした。


脈打つ血を通り、心臓を暖め、考へる力を活き活きと甦らせる。それが、ことばの働きなのです。


地の上を時に勇敢に、時に軽やかに歩み、腕と手を自由の領域へと羽ばたかせる、それが、ことばとオイリュトミーが精神から人へともたらすものです。


人々の疲れを根本的に癒し、ひとりひとりの人をその人の足で立たせようとする、ことばの創造力。


いま、その力が人には必要です。



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2020年11月25日

人のこころは何かを信じる必要がある



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19世紀の初頭に生きたスペインの作家、マリアーノ・ホセ・デ・ラーラ。彼は27歳の時、みづから死を選んでしまつたのですが、彼のエッセイ『1836年クリスマスイヴ』の中の一文を見て(執行草舟氏『脱人間論』から)、こころが揺さぶられ、考へてしまひました。

「人のこころは何かを信じる必要がある。信じるべきまことがない時、人は嘘を信じる」

信じる。それは、その人がその人であるためのぎりぎりの力じゃないだらうか。

信じることを諦めてしまはざるをえなくなつてしまつたこころは、己れをも世をも、共に失ふ悲惨を生きねばならない。

しかし、嘘でもいいから信じたい、と叫ぶこころは、やがて悲劇の中に突入していかなければならないのだけれども、それでも信じることを諦めずに己れと世との紐帯を繋ぎ止めてゐる。

たとへ、どれほど嘘が横行する世であつたとしても、世にはまことが、きつとある。さう信じる力はどこから来るのだらう。こころの奥底から、としか言ひやうがない。

信じる力は、考へる力よりも、もつと深い力。昔からの力。こころの底力。

自分が自分でありつづけるために、かつ、人と共に、世と共にありつづけるために、このこころの底力、信じる力を護り、育てる工夫を自分は毎日してゐるか。



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2020年11月23日

神代の手ぶり


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今日、11月23日は、新嘗祭(にひなめさい、より古くは「にひなへのまつり」)です。そもそも旧暦の11月23日に行はれてゐた祭。だから、今の暦・新暦だと、一年の終はりにあたり、冬至の祭でありました。思ひを再び昇りゆく太陽に向ける祭でありました。

コロナウイルス禍で社会が大混乱を起こしてゐる最中にも関はらず、宮中では、天皇陛下御みづから、今年の米の収穫を天恵として、神に感謝の念ひを粛々と捧げて下さつてゐる。高天原での神々の「手ぶり」をそのまま行つてをられる。神代の手ぶりとおきてをそのまま伝へるのが、我が国・瑞穂の国の祭です。

このことがいかなる精神的意味をいまだに持つてゐるかを子どもたちに教へることは、大切なことであると思ひます。

そして、全国各地の神社においても同様に祭が執り行はれてゐます。

ハイテク文明に支へられてゐる近代国家である日本は、この神代の手ぶりを何千年も(何万年も?)伝へ来つてゐます。このやうな国は近代国家群の中では、世界で唯一です。

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2020年11月17日

人と世を知るといふこと



いま、地上の世における大動乱のさなかにゐつつも、それがサイバー空間の中での出来事に思へて、「都構想」選挙が終はつた大阪にゐるわたしは呑気に過ごしがちだ。


しかし、ほんの少しでも想像力を働かせてみれば、これは大変なことであることにすぐに気づく。


アメリカにおいて、大統領選を通して、非常に危機的な状況が繰り広げられてをり、これまで闇に蠢いてゐたものが白日のもとに引きずり出されようとしてゐる。そして、この結果は、必ず、日本に激烈な影響を及ぼす。


そして、これは本当に不思議なことだが、おそらく、わたしだけでなく、多くも多くの人が、みづからの内面の闇にこれまで蠢いてゐたものに直面せずにはゐられなかつたのが、この2020年、令和二年といふ年なのではないだらうか。


隠されてゐたものが顕はになる。


むしろ、今年、己れの内なる「膿」を出さずにゐるとするならば、逆に後々、より大変なことになるのではないだらうか。


コロナウイルスによる脅威などでは全くなく、捏造されてゐるコロナウイルス「禍」による社会の大混乱によつて、実は、ひとりひとりの内なる闇、そしてなんと全世界にこれまで隠微にはびこり続けてきた巨大な闇が、白日の下に引きずり出されようとしてゐる。


この2020年、令和二年といふ年は、なんといふ年だらう!

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2020年11月14日

精神からの何か


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「BEAUTIFUL PLANET EARTH」から


先日、ある人と話しをしてゐるうちに、どんどんこちらのこころが晴れやかに、健やかになつて行くのを感じたのです。


その時、確かにわたしが持つたのは、精神から発せられることばと声を聴いてゐるといふ感覚でした。


ルサンチマン・恨みつらみからではなく、精神から発せられてゐるならば、たとへ、その発言が怒りから発せられてゐるとしても、その声とことばは、聴いてゐる人の深みに健やかに働きかける。


そのことをとても強く感じて、嬉しかつた。


発言のひとつひとつ、書くことのひとことひとことに、精神からの何かがあるのかないのか。


わたし自身、顧みることを常にしたいし、だんだんとリアルタイムで感じられるやうになりたい。


さう思ひます。


では、精神とは、何か。


それに対する答へではなく、その問ひそのもののリアリティーを見失はないことがたいせつなことであるとも感じられます。





posted by koji at 09:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月08日

世は美しい 〜国語教育のこれから〜



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晩秋の箕面山


「百人一首の歌をいまやつてるねん」と言ひながら、小学六年生の次女が、国語の教科書を持つてきました。


奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき 
猿丸大夫


秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔


嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
能因法師


鹿の鳴き声が悲しいといふこと。


雲からもれ出づる月の光をうち見るときの感覚を「さやけさ」といふことばで言ひ表すといふこと。


川面に落ちたたくさんのもみぢの葉の流れる様を「錦」と見立てること。


子どもにとつては、いまだ経験したことのない景色と感情かもしれません。


しかし、まづ、このやうに、日本人は、詩人によつて「選ばれたことば」で、世を観ることを習つてきたのです。


さうして、鳴く鹿の声は悲しく哀れだ、と感じてきたのです。


そのやうに詩に、歌に、ことばで誰かによつて言ひ表されてゐなければ、ただ、鹿が鳴いてゐるだけであり、ただ、月が出てゐるだけであり、ただ、川に葉っぱが流れてゐるだけとしか、人は感じられないはずです。


国語とは、価値観であり、世界観であり、人生観であり、歴史観です。


世は美しい。


その情を最も豊かに育むことができるのは、小学生のころ。


国語の風雅(みやび)を謳歌してゐる古い詩歌が、そんな教育を助けてくれます。


その時、その高い情は、決して先生や大人から押し付けられるのではなく、子どもひとりひとりの内側でおのづから生まれてくるのを待たれる情です。


しかし、その高い情を、大人がまづ真実、心底、感じてゐなければ話になりません。


そのやうな、子どものうちにことばの芸術を通して生まれてくる情を待つこと、それが国語教育です。決して、決まり切つた情、決めつけられた作者の意図などを教え込むことが国語教育ではありません。


作者の意図を汲み取らせることなど、特に小学校時代には意味がありません。知性で意図されたものなど、たかが知れてゐます。ことばといふものは、それを話す人、それを書く人にも、意識できないところを含んでゐて、その意識できないところに潜んでゐる豊かな世界を、それぞれひとりひとりの人が汲み上げて行く喜び。それこそが国語芸術の存在意義です。そのやうな含む所豊かな本物の文章しか、時代を超えて残りません。どんな小さな子にも本物を与えることが、大人に課せられてゐる課題です。


この世がどんな世であらうとも(いま!)、子どもたちのこころの根底に、「世は美しい」といふ情が脈々と流れ続けるやうに、わたしたちができることは何だらう。


そんなことを念ひます。





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2020年11月05日

文学の徳用(さきはひ)



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芸術、特に文学には親しんでおいた方がいいと思ふのです。


文学は、人といふものの複雑さ、怪奇さ、異常さ、怪しさ、崇高さ、美しさ、愛らしさ、駄目さ、情けなさ・・・といふやうなありとあらゆる人の内なるものを感じ、知ることのできるものだからです。


例へば、何かに対して極端に感情的な嫌悪を表す人は、その何かに対する羨望を密かに隠し持つてゐることなど。怪奇なことです。


具体的に挙げると、権力といふものに対して嫌悪を抱く人の内側には、密かに、権力を持つことへの欲望が隠れ潜んでゐたり、政治家の腐敗や芸能人のスキャンダルなどをやたらとバッシングする人の内側には、自分自身もできるならそのやうな酒池肉林の体験をしてみたいといふ隠れた欲望を持つてゐたり・・・。


そのやうに、自分自身が「正義」であることを振り回すことが、実は、無意識のジェラシー・嫉妬、そして恐怖からの振る舞ひであること、この社会では結構ありますよね。


「権力」といふものに対する欲望が自分自身の内にもあることや、自分自身も決して清廉潔白であり続けることなどできないことを認めることができてゐたり、または、人の世には「権力」といふものも必要な時と場があることをしつかりと認めることができてゐる人は、「権力」や「腐敗」に対してさほど感情的にもならないでせう。


そのやうな人の内をみて、自分自身を顧みる練習をするのには、文学がうつてつけです☺️


もちろん、文学、芸術には、人の崇高さ、偉大さ、美しさを描くといふ中心課題があるからこそ、それを精神の糧として取り込むことなしに、人は人として生きて行くことができないのです。


この二週間は、漱石の『行人』、三島由紀夫の『仮面の告白』、又吉直樹の『劇場』にどつぷりと浸かつてゐました。



posted by koji at 15:48 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月28日

ことばといふ世界



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ことば、といふものは、
人の世界観を形作るものです。


人はこの世に生まれて来て、
教育を受けなければ、
桜が美しいと感じるやうにはできてゐない。


さくら花 ちりぬる風の なごりには
水なきそらに 浪ぞたちける   紀貫之


このやうな、
先人によることばの美に触れるからこそ、
桜、ことにその散りゆく様に、
もののあはれを、美を、
感じるやうに人は教育されうるのです。


ことば、とは、そもそも、
美を伝へるものであります。
それゆゑ、情を育むものであります。
そして、「人の情(こころ)を知る」べく、
「もののあはれを知る」べく、
和歌が歌はれ、
ことばからことばへと文が編まれます。


「もののあはれを知る」
これこそが源氏物語の肝だと、
本居宣長は喝破しました。


王朝における精神生活の深まり。


それは、研ぎ澄まされたみづからの感覚を、
どうことばで言ひ定めることができるのか、
不定なこころの揺れ動きを、
どうことばに鋳直すことができるのか、
といふ現代人にも通ずる、
人生とことばの渡り合ひそのものです。
一千年以上前の王朝の人々、
とりわけ女性たちが、
その渡り合ひの深化を促しました。


文化の種を蒔くのは男性性かもしれませんが、
文化を文化として見いだし、
担保し、育むのは女性性ではないでせうか。


そのやうなひとりの人の内なる渡り合ひが、
また、男と女のひめやかな渡り合ひが、
王朝において日本精神文化の基盤を創り上げました。


日本人の育んできた世界観、
それは主にことばの美から、
創り上げられて来たのです。


ことば一語一語の用ゐ方、運用の仕方に、
ひとりの人のこころのすべてが賭けられてゐる。
そのやうな働きをする詩人たちの精神が、
過去にも現在にもあるからこそ、
ありきたりな言語生活を営んでしまひがちな、
わたしたち凡夫に、
目覚めを促してくれます。
「汝みづからを知れ」といふ目覚めを、です。


言語造形をするわたしは、
その目覚めへと人を促す詩人たちのことばを、
生き物として、声として、
空間に響かせることへと挑戦します。


詩人が意を注いだ、
一語一語、一音一音に耳を澄ませながら、
淀みない息の流れの中にことばを解き放つ。
さうして、あたらしい世界が、
ことばの響き、余韻から、生まれる。


そんな文化の誕生を、
いつも思つてゐます。



posted by koji at 18:43 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする