2021年09月18日

精神の教科書 詩集ソナタ/ソナチネ



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石村利勝氏の第一詩集が出版されました。


これほど出版を待つた本は、これまでになかつたことでした。


春、夏、秋、冬、四季の巡りに添つて「詞(ことば)」が綴られ、最後に「SONATINE」と題された一連の恋愛詩で構成された、一冊の詩集です。


いにしへにおいては、本を読むといふことが、晴れやかな日の晴れのことであつたこと。


第一頁を開き、まづはそのやうなことを想ひ起こしてしまふ、懐かしくも不思議な手触りを感じたのでした。


この混乱した世情のさなか、しかし、季節は確かに秋へと移りゆく、このとき、わたしは、この詩集の【秋の詞】ばかりを、手元に届いてからのこの三日間、ずつと、夜更けに訓み続けてゐます。


さうして訓むことで、こころの深みからなにがしかが引き出されて来るのをゆつくりと覚えるのです。


その覚えは、こころにありありと感覚されるそれで、しかし、ことばにできない、風の色のやうな、立ち上がり、舞い上がり、吹きすぎてゆくやうなおぼろな絵姿なのです。


それら様々な絵姿・イマジネーションは、我が胸の奥を突くやうにわたしに働きかけて来、情を揺さぶり、震はすのです。


さらには、我がこころから引き出されて来る、これらの力が、創造的、生産的な力であることも、いま、予感されてゐます。


まだ、秋の詞にしか接してゐないのですが、これらの作品が、この世の次元を超える遥かな過去をどこかわたしには感じさせるのにも関はらず、確かなリアリティーと共に、すべてがまことの人間性を湛へてゐると直感されるがゆゑに、この一冊は創造性と生産性をわたしに促す精神の教科書になつてゆく、そんな予感なのです。


この詩集には、著者が21歳(1990年)から27歳(1996年)までに書き記した最初期の作品が選ばれてゐます。


青年のこころと精神が織りなしたこれらの作品に、56歳の自分がこのやうに胸を衝かれるのは、どういふことなのだらうと、考へて続けてもゐるのです。


ひとりの人の、こころからの敬ひが注ぎ込まれた、日本の文学。


そして、著者の友であり、文芸評論家である小川榮太郎氏の真実の献身により、根底で支へられた日本の文学。


まづは、そのやうに、感じてゐます。



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2021年09月16日

我が内に潜む愛



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青森県平館の海



ああ、わたしたちは、なぜ、星の世からこの世へやつて来たのでせう。


その意味は、きつと、分からない、分かり切れないのでせう。


でも、わたしがこの世にかうしてやつて来たことは確かです。


そこに意味を見いだすことができるとしたら、それは、わたしがそのことを問ひ続けるからこそでせう。


この世にどんなことが起こり、どんな風に繰りなして行かうと、わたしがこの世に降りて来たことには意味がある。


その意味を探る、この人生です。


その意味は、外の世にはなく、ひたすら、我が内の世にあります、きつと。


我が内の世にどのやうなものが秘められてゐるか。楽しみだなあ。



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2021年09月10日

この世に生まれてきた意味に対する予感



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今日、中学校を休んでゐる(やめた?)次女と、ゆつくりと話をすることができました。


多くの同級生たちが、本当に自分が考へてゐることや感じてゐることを表現せず、彼ら、彼女らは、友だちに嫌はれず、先生や親に怒られないやうなキャラクター設定を自分でしてゐて、そのいくつかのキャラクターを上手にその都度その都度出してゐるだけだ、と。


だから、ずつと仲良くはやつて来たけれども、多くの同級生たちの喜びが、お腹の底から全く共有できない、と。


学校の先生方も皆一生懸命やつてをられるのだけれど、その授業にこころを動かされたことがない、と。


中学一年生の一学期まで学校に通ひ続けてゐたが、本当に辛かつた、と。


上辺の喜びでなく、こころの底からの喜びが学校ではひとつもなかつた、と。


次女が言はうとしてゐる「喜び」とは、きつと、この世に生まれてきた意味に触れる時に訪れる喜びなのですね。


誰かに褒められたり、好かれたりすることで得られるものとは、違ふやうです。


この世に生まれてきた意味に対する予感。


さう、わたし自身も、その予感に従つて、ここまで生きて来たやうに思ふ。


取り繕ふことなく、誤魔化すことなく、そして、焦ることなく、その意味を予感しながら、道を歩いて来たし、これからも歩いてゆく。


そんなわたしのことも話し、彼女もたつぷり話してくれて、午後のひとときが過ぎ、またそれぞれ、自分の部屋に戻つて本を読み始めました。


かうして同じ家の中で過ごすことも、後から思へばかけがへのない時間だつた、と想ひ起こすこともあるのかもしれません。



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2021年09月05日

奥入瀬川のほとりで



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青森の三沢駅から電車に乗り、下田駅で降り、まるつきり知らない町を歩かうと、おいらせ町の奥入瀬川のほとりまでたどり着きました。


なにせ、わたしはスマホを持たない、超現代人。


見渡す景色を頼りに、歩く、歩く。


ひとりでゐること、ひとりであることを、いま、学んでゐる。そんなことを奥入瀬川を見てゐて思ふのでした。


ひとりであることで、初めて、何か大いなるものに守られてゐる〈わたし〉に目覚めることができる。


〈わたし〉と世。


そのやうに分かれて見えてゐたふたつが、ひとつであることを知る旅。


〈わたし〉と世はひとつであることに目覚めることで、このからだを持つた小さなわたしが誰かに愛されようと愛されまいと、どちらでもよくなるやうな・・・。


〈わたし〉と世がひとつであること、それは、そのひとつであることそのものが愛する主体であつたことへの更なる目覚め。愛される客体としての小さなわたしでなく。


久しぶりに4〜5時間も歩いて、脚のいろんなところが痛くなつてしまひました😅




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2021年09月03日

これからの28年


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この人の世を健やかに生きて行くこと。


「あなたが生きて行く上での目標は」などと、たとへば、街頭アンケートで問はれたら、わたしは、たぶん、そのやうな答へをすると思ひます。


しかし、健やかに生きて行くこと、それは、並大抵のことではありませんよね。


人生の複雑怪奇さに通暁して行くためには、何かが必要だと感じます。


そして、探します。


そして、前の人生からのご縁で、その何かに出会ひます。


様々なものと人に出会ふことができましたが、わたしにとつて決定的だつたのは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーとの出会ひでした。28歳の時でした。


そして、いま、56歳です。


この28年間、わたしは、アントロポゾフィーといふ海の中に飛び込み、泳ぎ続けて来ました。


その海は、ルドルフ・シュタイナーといふひとりの人の「行ひ」と「ことば」と「考へ」から、生きて織りなされてゐます。


そして、すぐに気づかされることなのですが、それらの織りなしは、個人性を超えて、深く、深く、世と人類の始原、天地の初発(あめつちのはじめ)に届くものでした。


とにもかくにも、わたしは、その海を泳ぎ続けて来たのです。


そのやうな海の深さがあるのにも関わらず、わたしは水面近くをアップアップしながらの格好のよくない泳ぎ方でしたが、それでも、泳ぎ続けては来ました。


そして、56歳のいま、もし許されるなら、かすかすながらもこの海を泳いできた力をもつて、のちの人とのちの世に少しでも資する仕事をさせてもらひたい。


世と人が健やかになりうるやうな、アントロポゾフィーからの仕事をさせてもらひたい。


さう、こころに決めてゐます。


何ができるのか、本当に未知ではあります。しかし、これまでにして来たことの先に道は長く果てしなく延びてゐます。


アントロポゾフィーといふ精神の学の根源と言つてもいい、「ことばの教育・ことばの芸術」を礎(いしづえ)にした「子どもたちの教育、若者たちの教育、人の教育」を織りなす社(やしろ)造り。


それが、全く新しく、友と力を合はせながら織りなして行きたい仕事です。


たくさんの方々に教へを乞ひながら、これまで海を泳いで来た自身の力を注ぎ込みつつ、友と協力し合つて、やつて行きたい。


これからの28年をもつてです(😆)!




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2021年09月01日

風と光の津軽半島



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青森県津軽半島最北端に近い、平舘(たいらだて)に連れて行つてもらひ、こころの洗濯をすることができました!


大地に沈みこんでゐるわたしたちの先つ祖(さきつおや)の方々の血と涙に、足で触れさせてもらへた。そんな感覚です。


わたしたちの国、日の本の国の民もまた、神と共に生きてゐて、ことばには出さずとも、日々の暮らしの営み、四季の季節の巡り、一年一年(ひととせひととせ)に繰り返される恵みと艱難を通して、誇り高く、自分たちのライフスタイルを謳歌してゐた、そんな息吹きをいまだ感じさせてくれる土地。


それが、青森でした。


いまも、なほ、限りなく、限りなく、美しい空と海の青!


風と光のどこまでもすがすがしい精神!


足で踏む海辺の砂と石から沸き上がつて来る喜び!


本州の最北に位置するこの土地には、大都会にはない、どんな力が眠つてゐるのか、どのやうな四大(地水風火)の精神の方々の働きが盛んなのか、からだとこころと精神の感覚をフルに働かせて、この土地の方々と親しく交はりながら、わたしも生きて行きます。


ご案内して下さつた千葉さん、工藤さんに、感謝!

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2021年08月25日

朝の来ない夜はない



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人と会ひ、話しを交はすことの豊かさよ。東京、新宿、八王子と、中央線ラインを動いた二日間。アントロポゾフィーの仕事をどう根付かせ、芽吹かせ、花咲かせて行くことができるか。そのことに集中した二日間でした。


それにしましても、いま、東京の街は、何かのお化けに本当にがんじがらめになつてゐる、そんな印象です。(大阪もほとんど変はりありません)


普段全く観てゐないテレビなどを、ホテルの部屋で夜更けにつけてみると、わたしには、物凄い印象操作の連続に感じられて、これは観てゐてはあかん、となつて、すぐにスイッチオフ!


街を歩いてゐる人は、みんな、息苦しさうなのですが、それでも、それでも、きつと、夜明けが来る、さう念ひつつ、大阪に帰つて来ました。


肝心要のことは、人のこころにおける考へと情のありやうではないかと思ふ次第です。


何かを裁かうとする、そのときに、みづからのこころに「お鍋のお粥よ(考へよ、思ひよ)、止まつてけろ!」と言へるかどうか。(グリムメルヘン『おいしいお粥』より)


そんなことを実地で学ぶことのできる、いま、です。


ホテルの窓から外を望むと、新宿にも、朝陽は昇つて来ます😃!




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2021年08月12日

むすんでひらいて



するか、しないか。かうするか、ああするか。


人には、みづからのこころを決める力があります。


その、こころをみづから決める力は、しかし、育まなければ、いくつになつても得られないこと、自分自身のことと共に衝撃的に知ることにもなります。


これは、若いころからの練習に懸かつてゐるやうに思ひます。さらには、幼いころからの親や教師からの働きかけも大いに深く関はつてゐるやうです。


アントロポゾフィーからの子どもへの教育においては、次のやうに、はからひます。


その、こころを決める力が、外からではなく、やがて成長しつつ、ひとりひとりの子の、内も内から生まれて来るやうに。


その力の汲みだしを焦つて、小学生時代から子どもに判断をさせたり、こころを決めさせたりはしません。ゆつくりと、ゆつくりと、やがて思春期を経て二十歳前後にその判断する力、みづからこころを決める力が熟して行くことを促して行きます。


早産させず、かけるべき時間をかけて、待てばこそ、生まれて来るものは、健やかで力強いのです。


ちなみに、ドイツ語では、「こころを決める、みづからを決める」といふことばは、「sich erschließen」となります。


そして、「開けてくる」といふことばは、「sich entschließen」となります。


人は、みづから、こころを決めればこそ、初めて、ものごとも、また、みづからもが、開けてくるのですね。


「こころを決める、こころをむすぶ」と「こころがひらける、ものごとがひらける」とは、対になつてゐるやうです。


こころを決める時、ものごとがひらかれ、自分自身のこころがひらかれ、腹も座るのでせう。


大人であるわたしたちが、右往左往することから抜け出し、いま、みづからで、みづからの、こころを決める時を迎へてゐるやうに思はれてならないのです。



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2021年08月11日

論理とファンタジー


シュタイナーの本を読み始めて、何年になるのだらう・・・。とにかくも、ムズカシイ! しかし、その難しいものに、何度も何度も挑む意欲をわたしの内に育ててくれたのは、間違ひなくシュタイナーさん、その人なのです。


さうして、読み続けて来て、わたしがいちばん感じてゐるのは、その難しさの固い結び目は、必ず、解けるといふリアリティーなのです。その解けるといふこと、それは、分かる、といふことでもあります。


その「分かる」にいたるには、近道など決してなく、何度も何度も読み重ねることのみなのです。


さうして、頭における「分かる」から、心臓における「分かる」へ、そしてつひには腹と手足における「分かる」にいたる、そんな道筋が、このアントロポゾフィーの学びにはあります。「分かる」にも三つの次第があるのです。


その三つの次第を経るには、何日も、何週間も、何か月も、何年も、何十年も、もしくは、一生涯かかるのですね。時が必要なのです。


読書における、その時の積み重ねの内に、書かれてゐることをより論理的に辿ることができるやうになることと共に、一文一文、もしくは、一語一語に対して立ち上がつてくるファンタジーを感じられることも、読書の喜びなのです。


ファンタジーとは、目の前にないことを、目の前にあることから仕立ててゆくこころの力のことを言ひます。


それは、想像力とも訳されますが、創造力へと成長して行くものでもあるのです。


論理を見てとる力と創造力を掻き立ててゆく力。


このやうなご時世、そのふたつの力をますます育てて行きたい、さう念つてゐます。



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2021年08月10日

ことばには、氣をつけないと



たとへば、「平和」や「差別反対」や「自由・平等・愛」といふやうなことば。意味を汲めば、すこぶるいいことばです。


しかし、それらのことばが声高に語られるほど、そのことばを語つてゐる人、語り合つてゐる人の内から、そのことばと正反対のものが溢れ出して来ることがあることを、人生を生きてゐると体験するわけです。


わたしが携はつてゐるアントロポゾフィーにおいても、「神秘的な」とか、「経済の友愛」だとか、様々なことばを聞きます。


しかし、そのやうな「ことば」が、そのことばを発してゐるその人自身を裏切つてゐることがままあることを、人生の苦味として経験するのです。


ですので、江戸時代の国学者・本居宣長が、「死んだあとのことや、見えない世について、あれこれ沙汰することは愚かだ。さういふこころのありやうを、からごころと言ふのだ」と言ひ続けたことにも、わたしは納得するのです。


彼は、「死んだ人は、皆、黄泉の国に行く」とだけ言ひ、それ以上言はないことによつて、自分自身をはじめとして知性を駆使しようとするすべての人に、その「からごころ」が世に振り回されることを警戒させようと懸命にしてゐました。


なぜなら、人は、ややもすると、大切なことを余りにも安易にことばにしてしまふことで、そのことばが指し示さうとしてゐる精神を裏切ることになることを、彼はよく知つてゐたからだと思はれるのです。


わたしは、彼以上に、見えない世と神のことを、うやまひ、とうとび、親しみつつ、ことばの研究を重ねた人を、同時代に見いだすことは難しいです。彼は、いにしへのことばから、いにしへのものごとを知りゆき、さらに、いにしへのこころを、精神を知りゆくことを自分の生涯に課しました。ことばと、ことと、こころは、ひとつなり、と言ひました。


ことばを安易に使ふことから、できうる限り離れて、ことばに仕へるがごとく、ことばを大切に用ゐることによつて、そのことばの真意がことばそのものから語りだされるのを待つ、聴きとる、そのこころの作業に専心し、「からごころ」とは異種の「やまとごころ」を人に想ひ起こさせようとしてゐたのです。その「やまとごころ」は、何も過剰なナショナリズムを煽るやうなものではなく、人としての素直なこころを指します。


ですので、アントロポゾフィーにおいても、密(ひめ)やかな境に入り込まうとするゆゑに、ことばを大切に扱ふ、ことばに仕へる、その意識を育むことが、本当に重きをなすことだと思はずにはゐられないのです。


たしかに、人が、ことばを語ります。


しかし、ことばも、人を語るのです。


※「からごころ」とは、当時のいはゆる「グローバルスタンダード」としての中国からの文明・文化の文脈に則つた、もののの考へ方をしたがるこころのことです。



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2021年08月08日

片鱗と真髄



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この二十一年間、おもに、第二の七年期を生きてゐる小学生の年代の子どもに、ことばを話し、語り、謡ひ、演じる、言語造形といふ芸術を授けて来ました。それは、芸術といふ精神の滴を、その子その子に注ぐ営みであり、その子に芸術の片鱗を味はつてもらふ営みでした。


そして、その延長線上に大人の方々との言語造形の取り組みがありました。つまり、大人の方々にも、週に一回から月に一回のペースで、小学生の時のやうなこころもちに帰つてもらひ、芸術の片鱗に触れてもらふ営みをしてきました。


子どもも大人も、そのやうな芸術の片鱗に触れることが、いまの代には、欠かせません。


なぜなら、現代においては、ことばをはじめとしてすべてを、静止した、死んだ、決まり切つたものとして、扱ふ、処理する、軽んじる、そんな趣きが世を支配してゐるやうに感じるからです。


わたし自身、28歳でアントロポゾフィーと言語造形に出会ふまで、ことばを、生きたものとして、うやまひの念ひをもつて、ていねいに客として迎へ、響かせ、空へと送る、そんなことばとの付き合ひ方を、誰も教へてはくれなかつた。


自分自身と芸術とのそのやうな親しく密(ひめ)やかな関はりを育み始めるのには、乳歯が生へ変はり始める小学生の頃からが、うつてつけなのだといふアントロポゾフィーからの見識を活かして仕事をさせてもらつて来ました。そして、大人の方々にも、そのやうに、子どもの頃に帰つていただいて、その芸術の片鱗に触れる時間を盛んに設けさせてもらひました。


しかし、わたしも、人生の半ばを、きつと、とほに越してゐる今、考へ、感じてゐることがあります。


片鱗に触れていただくやうな機会を創り出して行くことはこれからも盛んにして行くのですが、さらに、より専門の、この芸術の「仕事」へのこころざしをもつ人との学びの場をも創つてゆくことです。


それは、わたしが師から長い年月を通して身をもつて教へていただいたこと、芸術の片鱗ではなく真髄に触れる、さういふ毎日の場を生み出すことです。


芸術の真髄に触れるとは、その人がその人の真髄に触れるといふことでもあります。それゆゑに、わたしの場合も、その作業は、必然的に、重く、深く、厳しいものでした。真髄に触れようとすると、必然的に、それに抵抗するかのやうに、手前勝手な感じ方、考へ方の癖や、好き嫌ひや、他者を責めるやうな思ひ込みが表面化して来ます。いはば、エゴが溢れ出て来るのです。


そこに向き合ひ、そこを認め、そこを赦し、そこを凌いで行くことは、生半可なことではない内なる作業です。


わたしも、大の大人であるのにもかかはらず、どれほど涙を流して、自分の技量のなさ、度量のなさに地団太を踏みながら悔しがつたことでせう。そこをくぐり抜けることが、一番大切なことだとわたしは確信してゐます。それなしには、世に仕へ、捧げるといふ仕事をする人にはなりえない、といふことを身をもつて教へてもらへたことが、師から授かつた本当に大切な宝物です。


そこで、いまのわたしが問ふべきは、自分自身はその真髄に触れてゐるのか、触れ続けてゐるのか、といふことです。


出来てゐるか、出来てゐないかではなく、そのことの大切さに目覚めてゐるか、ゐないか、といふことであり、その意識の道の上を歩いてゐるか、ゐないかといふことです。


人それぞれに、学びの道はあると思ふのです。


もちろん、この芸術の片鱗に触れていただく機会も、これまで以上に、どんどん創つて行きます。


ただ、そんな専門の、真髄に触れる、仕事としての芸術の道があるのだ、といふことをも、身をもつて提示して行くことができたら、そんなことを考へてゐます。






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2021年08月07日

たつたひとりから



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日本海上空の雲の上から望む、たつたひとりの富士山


とどのつまり、ひとりであること。それゆゑに、周りに支へられてゐることを知ることができる。感謝することができる。たつた、ひとりであること。それゆゑに、世に仕へることができる。捧げることができる。たつた、ひとりから、始めることができる。




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2021年08月02日

夏の東北の旅


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このたびも、青森に滞在しながらアントロポゾフィーの仕事をさせてもらつてゐるのですが、本当にこころ優しい方々が、読書と言語造形、オイリュトミーに没頭してゐるわたしと越中さんを自然の景観拡がる場所へと案内して下さるのでした。


小学生ふたりも加はり、車の中では、輪唱あり、ナゾナゾの掛け合ひあり、くすぐり合ひありの、まるでわたしたち大人も子どもに帰つたやうな、それはそれは抱腹絶倒の珍道中。


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青森の三戸から、縄文の息吹きいまだ漂ふ秋田の大湯環状列石へ、そして県境に夢のやうに碧く鎮まつてゐる十和田湖、さらには、新郷村にある伝説のキリストの墓へと・・・。


溢れ出る命のやうな山清水の甘さと清冽さも味はふことができました。


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祭祀の場として人々と神々とが集約的に生きてゐた縄文のときの余韻でせうか、大湯環状列石の遺跡へと向かふために小さな森をくぐり抜けて歩いてゐると、はや、霧のやうな白い精神の流れに包まれるのでした。


また、そこで初めてお会ひできた方が本当に素敵な方で、大湯環状列石についていろいろと教へて下さるのです!なんと嬉しいこと😇


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そして、見晴るかす大空と十和田湖の青い景色。


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旅の最後には、念願叶つて訪れることができたキリストの墓の前にしばし佇みました。ゴルゴダの丘の上で十字架の刑に処せられたのは、実は弟のイスキリであり、兄のイエスはその後ひそかに日本に落ち延びて、ここ青森の新郷村にて106歳にて人生を閉じたのだといふ伝説の真偽はともかくも、墓の上に立てられてゐる十字架の周りには、しきりに白い雲のやうな、光のやうなものが放射してゐて、わたしはここへ足を運ばせてもらへたその意味をみづからに問ふのでした。


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この美しい旅を丁寧にこころを籠めて計画し、朝早くから車を運転し続けて下さつた中村さん、そして、細やかにこころを配つて下さつた佐々木さん、夜にご自宅を開放して下さり、夕食までご用意下さつた中村さんのご主人様。こころよりお礼を申し上げます。ありがたうございました。






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2021年07月22日

ひとりから



電車に乗り、大阪の街を歩いてゐて、マスクをしてゐないのは、ほぼ、わたしのみ。電車の全車両の中では、おそらくわたしひとりのみ。しかし、ほんの、ときたま、歩いてゐて、してゐない方とすれ違ふ。でも、大体の感覚だけれども、五千人にひとり位の割合。大阪のこの酷暑の中で、このマスク装着率は凄まじいことだ。かうしてマスクをしないわたしのやうな人を見て、反感を感じる人もたくさんゐるだらう。戸惑ふ人もゐるだらう。でも、こころから、心臓から暖かい何かを発しながら、わたしがゐるならば、きつと、慰められ、励まされる人もゐるのではないかな。歩いてゐて、すれ違ふ子どもなどは、まぢまぢとわたしの顔を観る。わたしは、ニコつと笑ふ。こんな大人もゐるよといふことを感じてもらへれば・・・。それもわたしの勝手な思ひ込みかもしれないのだけれども。

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2021年07月15日

稲光と雷鳴と大雨



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今朝4時から5時過ぎまでの大阪の物凄い稲光と雷鳴と大雨。


真上の空を何十回とつんざくひつきりなしの稲光と怒涛のやうな雷鳴に、おそらく、多くの人は眠れなかつたと思ひます。


不安と恐怖と緊張。そんな情に包まれたのでした。これほどまでのものは、わたしはおそらく生まれて初めてでした。


それらの情を覚えると共に、布団の中で、次のやうなことに思ひが延びて行きました。


外の世では、いま、これまでの常識では測り知れないことが進行してゐる。


今朝のやうに、自然は時に、人に恐怖や畏怖の念ひを与へ、わたしたちに人智では太刀打ちできない無力感を味ははせるけれど、そのやうな無力感を人為的に人に植え付けようとしてゐる、ある種の悪しき働きがある。


この空からの雄叫びは、このいまの世のありやうの何らかの顕れのやうだ。


しかし、いま、内の世、すなはち、自分自身のこころにおいては、自由が息づく領域を稼がせてもらへてゐることが、本当にありがたいと思へる。


これからの激しく動く外の世と、釣り合ひを取るべく、安らかで確かな内の世(こころと精神の世)をしつかりと守り、育んで行かう。


それこそが、わたしにとつて、最もたいせつな仕事。


恐れと不安と無力感に、きつと、人は打ち勝つことができる。


それは、内なる安らかさの育みにかかつてゐる。



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2021年07月03日

お金を得ること以上のたいせつな何か



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先日は、自分がどれだけ他人様に支へられて生かしてもらつてゐるかを感じることができた、宝物のやうな一日でした。


長年、言語造形といふ芸術を、企業に勤めてをられる方々に紹介する仕事をさせてもらつてゐます。ひと月に二・三度づつしながら、もう二十年近くになると思ひます。


芸術ですので、ひたすらに、その人その人のことばの感官に働きかけ、感覚の育みを促すやうなスタイルで、ずつと、言語造形といふことばを話す芸術をその企業の方々と分かち合つて来たのです。


しかし、昨日は、ここ一年半のコロナウイルス禍による影響でなさざるをえないオンラインによる時間となつたのですが、そこで、古代ギリシャ時代に行はれてゐた五種の体育についての講義をさせてもらつたのです。


それは、からだの行為による無意識の領域にまで働きかける学びですので、その講義の質も、けだし、密(ひめ)やかな教へ、オクルトな教へにならざるをえないものでした。


それは、宙に浮いたやうなものではなく、徹底して、からだにまで降りるリアリティーのあることばで語られる必要のある事柄でした。


この状況下で、なんとか、企業における仕事に毎日勤しんでをられる方々が、このやうなことばをどう受け止めて下さるだらうか・・・。そんな危惧をわたしは勝手に抱いてゐたのでした。


わたしが語り終へた後、口々に皆さんが仰られたことばに、わたしはかなり驚きました。


この十数年間、やつてきた言語造形にこんな深みのある思想・精神が裏打ちされてゐたことを、今日、知ることができたと感じてゐる、嬉しい、と。


芸術に対するこのやうな信頼。精神に対するこのやうな開かれたこころ。


これは、かういふ場を創り続け、維持し続けるために、意識をもつて担当して来た方の、そして、社会の真っ只中を生きつつも、このやうな芸術的な営みにこころを開き続けて来られた方々のお蔭でしかありません。


人が、社会の中で、お金を得ること以外のたいせつな何かに長い年月の間、意を注ぎ続けることの難しさを思ひますと、わたしは、本当に、本当に、こころから感嘆の念ひに打たれ、そして、わたしも、また、その人と人との関はりの中で生かされていることを感じるのです。


また、写真のやうな日が戻つて来て、からだまるごとで、こころまるごとで、声を発することのできる日が来ることをこころから願ひます。



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2021年06月21日

父の役割・・・



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昨日、父の日だといふことで、娘たちからバラの花束をもらひました。


父であることを毎日させてもらつてゐまして、つくづく感じ、考へることなのですが、思春期以降の若者にとつて、父といふ存在は「精神」を示しうるものなんだな、といふことです。


あくまでも「示し『うる』」なのですが・・・😅


精神とは、現代において、その人が求めなければ、決してその人を訪れないもの、訪れられないものであるといふことです。


父親とは、思春期以降の子どもたち、若い人たちが、こころから父親を求める時にこそ、彼らの前に現れ、彼らの内に働きかけうる存在である、さう感じるのです。


だから、彼らが求めてゐない時には、出る幕無し😅


それでいいのだなあ、と惟ふのです。


精神とは、その人が求めればこそ、その人を訪れ、その人を自由にするべく、働きかけるものです。




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2021年06月10日

彩りを味はふ



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人は、北へ向かふとき、精神の緊張に向かふ。


南に向かふとき、精神の弛緩、リラクゼーションに戻る。


いや、そんなことはないよ、と思ふ方もゐるだらう。


しかし、日本においては、昔の人は、特に、西南の人は、さう、感じてゐたやうです。


松尾芭蕉も、精神の緊張を追ひ求めるがごとく、江戸を発ち、東北への奥の細道を歩き、また、母なる地、生まれ故郷である西南の地、近畿へと戻る、そんな旅をみづからに課しました。


イギリスなどでも、例へばスコットランドに向かふことは、日本における東北地方にこころを向けることに似てゐるのだらうか。どうだらうか・・・。


現代においては、北へ行つても、南へ行つても、街だとどこも同じ風景、同じ文化に埋め尽くされてゐる感がありますが、やはり、少し街から離れると、そこには、いまだ、その土地ならではの独自の濃厚な色があるやうに思ひました。


そして、このたび、東北へ旅して、静かだけれども深く思つたことは、意識的に、東西南北、ゆく道、帰る道、それぞれの趣きの違ひに目覚めること、それが、現代人のわたしたちにとつて、たいせつなことではないか、といふことでした。


グローバリズムといふ名の画一性、均一性、全体主義が蔓延らうとしてゐる今、独自性に満ちた、彩りの豊かさを、わたしたちひとりひとりが、みづから、意識し、生み出し、創り出して行く。


その土地、その場、そのとき、その人の、独自性を尊ぶことは、わたし自身を尊ぶことへと深いところで繋がつてゐるのですね。


世を知りたければ、あなたみづからをみよ。あなたみづからを知りたければ、世をみよ。


多面的に生きることが、確固たるものを育てる。


ひとりを生きることが、世の彩りの豊かさを味はふことへと繰りなしてゆく。


こころを破壊しようとする悪しき力が働いてゐる、今、わたしたちは、こころを守り、育ててゆかうとする精神の力を、世に贈らうとする者です。



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2021年05月21日

いまも飢ゑてゐる



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ザンジバルの家を訪ねて来た友人が持つてきた日本の雑誌を貪るやうに読んでゐる俺。



思ひ出すのですが、自分が27歳のとき、アフリカの各地をまる一年、転々としたあげく、インド洋に浮かぶザンジバル島で二ヶ月、独り暮らしをしたことがありました。


周りはスワヒリ語のみの毎日だつたのですが、そのとき、仮住まひをした一軒家に、なぜか、福沢諭吉の『文明論之概略』の文庫本が一冊置き去りになつてゐたのです。


以前に住んでゐた日本人が置いて行つたのでせう。


わたしは、とても、とても、日本語に飢ゑてゐましたから、その一冊を貪るやうに読みました。


そのときの感銘はとても衝撃的で、重層的で、わたしの何かを深く果てしなく満たしてくれたのでした。月並みな言ひ方ですが、乾いた喉に清水が流れ込むやうな感覚を覚え続けました。


あの、ザンジバル島での「福沢諭吉」読書体験が、日本語で生きていく上でのわたしにとつて決定的なものだつたと想ひ起こします。


そんな内なるアクティビティーを発動させるきつかけを与へてくれた若いころの旅。アフリカで、インド洋に浮かぶ島の上で、福沢諭吉といふのも、変な話ですが、仕合はせ(運命)を感じます。





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2021年05月15日

まるごとで、ひとつ




自由な精神を持つ人は、他者をも自由にする。


残念なことだけれども、不自由な精神を持つ者は、もつともらしいことを言ひながら、他者にも不自由を強いる。


しかし、すべてが、まるごとで、ひとつである。


posted by koji at 10:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする